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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

ようこそお越しくださいました(道先案内) 

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この記事は表紙として常にトップにあります。通常記事は次の記事からです。
こちらは、掲載している小説などのあらすじ・紹介リストです。
掌編から長編まで取り揃えています。
お時間がありましたら、ぜひ『続きを読む』をクリックして覗いてみてください(^^)
なお、左のカテゴリからクリックすると、物語を始めから読むことができます。

ねこ好きの方は……【迷探偵マコトの事件簿】で猫ブログ感を…
旅好きの方は……【石紀行】で巨石を巡る不思議な旅へ…
本格的な物語をという方は……【清明の雪】で京都ミステリーを…

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Category: 道先案内

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【雑記・徒然】切り取ったことば(言霊)たち~命を想う~ 

折々のことば
お盆・75年目の終戦記念日なので、それらしいことを書こうかとも思ったのですが、ぼんやりしていたら過ぎてしまったので、関係あるような無いようなことを。

朝日新聞の「折々のことば」を、気に入ったときに切り抜いておいてあります。
スクラップとか面倒くさいし、それが丁度、4つ入りの高級チョコの箱にぴったりなので、そこにストックしてあります。
順番とか考えずに入れてあるのですが、一応いつのものかは記事中に日付が書いてあるので分かります。一番古そうな日付は2015年になっているから、かれこれ5年くらいで2箱がいっぱいくらい。多いのか少ないのか、でも、その時々に気になる言葉がやっぱりあるのだなぁと思います。しみじみ見返すことは少ないけれど。
もうすぐ3箱目が要りそうだから、チョコレート買いに行かなくちゃ……((^∀^*))(ん?)

と言うわけで、最近、気になって切り抜いた言葉たちをご紹介。
あ、その前に、最近、ようやく読もうと思った葉室麟さん、そのガイド的な本からの言葉を。

「昔と現代を比較すると、多分、命の重さに違いがあるのでしょう。現代は人ひとりの命が重いという感覚がありますけれど、昔は、比べると今より軽いものだったように思います。死に対してもう少し馴染みがあったり、親しみがあったり、自分たちの生の延長上にあると思っていたのではないでしょうか。人は、それなりに働いて、最後に成仏していきます。つまり、ある種の役割を果たして、何者かになっていく過程の果てが”死”だったと僕は思います。
現代は”死”というものが疎外されて、自分たちから遠ざけられようとしています。若いということに価値を置いて、年を取るに従って価値はなくなり、その行く末である”死”は、無価値だという考え方をする人が増えているように思います。しかし、死ぬということは、生きていたという証。だから、自分自身が『ちゃんと生きてきた』といえるのであれば、『死もまた良し』です。私くらいの年齢になると、ふっとそう思うことがあります。『もう、このまま何もしないでいいのだ、すべての義務からも解放されるのだ』と考えるわけです。」


その葉室さんは66歳という若さで亡くなられたのですが、50を過ぎたら、こういうこと、言葉じゃなくても体感するんですよね。
命は重いけれど、ある程度の歳になると、そうでもないんじゃないかと思い始める。軽い、と言ったら、言葉尻を捉えてあれこれ言う人がいるから、言いにくいけれど、実感としてそうなのです。でも、ここで葉室さんが「軽い」という言葉にこめて仰っているのは(そして、私が言いたいのは)、命が大事じゃないってことじゃないのです。
ごく自然、生物学的に、生と死とはそういうものだという妙な達観がどこかに生まれてくる。

 もちろん、親しい人の病気や死は悲しいし辛いし怖い。でも、それは生命あるものとして生まれてきたからには、当たり前にあることだと思える。中には、理不尽な死もあるから、それについてはいつも納得できなくてウダウダ思うけれど、それは家族や社会という集団の中で生きているなら当たり前の気持ちですよね。
ゾウが死んでしまった仲間の死を悼むような行動を取るのは以前から知られていたけれど、最近、ゾウだけではなく、肉食動物も他の草食動物にも同じような行動が観察され始めているから(じっくり死を悼むには彼らの環境は過酷すぎる。人間がそんなシーンになかなか出逢えないだけなのでしょうね)、これは生命あるもの共通の感覚なんですね。

 話は逸れたけれど、つまり、悲しいけれど、避けられないものとは知っているのが「死」。どこかで途切れるのは「自然(じねん)の理」だと分かっている。自分については、どうなるのかなぁというのはあるし、死に方はあれこれ(痛いのはイヤだなぁとか)思うけれど、死後のことは「まぁ、いいか」って。きっと、多くの人はそうなんでしょう。怖いのは「死」ではなくて「死ぬ過程」についての不安なのではないかと思うのです。
そういうことを考え始めると、こうして「切り抜いておいておく言葉」にもそういう系統のものが増え始めたりする。

折々の言葉2

死の意識とは、死の日づけを本質的に知らないままに、死を絶えず繰り延べる意識である。
(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』から)
言葉に添えられた文章→「犬が逝った。彼女はやがて身に起こる事態がどういうものか知らないまま、従順に死の訪れに呑み込まれたように見えた。人は死を、いつか身に降りかかるものとして意識する。そういう形で、不在の未来を存在の内に組み入れ、死をまだないものして「遅らせる」ことで、時間という次元を開くのだと、20世紀のフランスの哲学者は言う。」

ある患者さんの家族の言葉。
「いつか来ると分かっていたけれど、そういう日(いつか来ると思い続ける日)がずっと続くのだと思っていた。それが今日だとは」
こどもの頃から病気があり、何回も手術を受け、そのたびに「こんなリスクがあって死ぬこともある」なんて話を聞かされていたら(でも医療者側からすると、話しておかないと後から「聞いてなかった」ということになるわけで、言わざるを得ないのが現代)、いつも死はそのドアの向こうに「在る」と感じる。手術室に入るたびにその「境」を越えるような気持ちになる。
それは、観念の中の「あちら側」ではなくて、地続きの「あちら側」なのですね。

そういえば、飛鳥でもエジプトでも、自分たちが住んでいる場所の続きに「この境界のむこうはあの世」という場所があった。エジプトではナイルの対岸、飛鳥ではある石のオブジェが区切る向こう。
それほどに、「いつか来る日」「あちら側」はごく身近にあったのです。今は、無理矢理遠ざけられて見えないようにされていることが多すぎないかと、そう思って逆に不安になったりします。

緩和医療というのが、もてはやされているけれど、そしてその結論のひとつは「死を意識することは、今生きている意味を問い直すこと」ということになるのだけれど、脳梗塞で自由が利かない超後期高齢者の父、その父を家で介護している母を見ていると、この時間・空間の続きに「あちら側」があるのだと、自然に納得は出来る。
でも、現実にその日が来たら言うのでしょうけれど。
「それが今日とは思わなかった」

ところで、この添え文の中の「彼女はやがて身に起こる事態がどういうものか知らないまま、従順に死の訪れに呑み込まれたように見えた。」というところ。
この感覚は、ものすごく理解できる気がする。これ、以前にも書いたように、『戦争と平和』のアンドレイ公爵の死のシーンが、高校生の私が死に対して抱いていた疑問に答えの一部をくれた、という内容にほぼ合致している気がします。『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーの死のシーンも同じようなイメージだった。
自分自身はその「身に起こる事態」を体験していないので、もしかすると完全な理解とは言えないかも知れないけれど、「逆の体験」はあるのです。それもものすごく明確に覚えている。
「逆の体験」の感覚が今も残っているから、反対にこちら側からあちら側に行くときには、その逆の現象が起こるのだろうと思っているのです。


自分の皮膚の壁を感じた-私は私なのだ、と。あの石ころは石ころなのだ、と。
(シルヴィア・プラス「オーシャン1212-W」から)
言葉に添えられた文章→「母と自然。その『心優しい宇宙の中心』であった少女はある日、”第三者”になる。弟の誕生。それが私と世界の一体感を裂いて、私を『除け者』に、『悲しい海胆(ウニ)』にしたと、米国の詩人は回想する。人は世界が自分とは別のものとしてあるという事実に傷つくことから、その生を始める。」

実は私は、全然傷ついてはいなかったので(弟が生まれても、そんなふうには思わなかったので)、それは悲しいとか傷つくとかいう体験ではなかったのですが、「その日」のことは、明瞭に覚えているのです。
当時、私は幼稚園くらいだったのか、祖父母や両親・弟・叔母たちと一緒に暮らしていた「母屋」と、そこから歩いて10分ほどの(子どもにはもっとかかる)の場所にある両親の「仕事場」(温室、当時7つくらいあったかなぁ)とを往復して生活していました。弟は「跡取り息子」なので、ずっと母屋で暮らしていましたけれど(拗ねてはいない(*^_^*) それはそれで面白かったから。父に雪兎を作ってもらって、ウサギさん寒いからと言って、温室に入れちゃったりね。「ウサギさん、いなくなった~(つД`)ノ」って。そりゃそうだ)。

夜は温室の管理があるので、両親と一緒に仕事場に戻って、事務所兼小屋のような建物に寝ていたのです(ちなみに、トイレは家の外の、くら~いこわ~い林の脇にあって、とてもひとりでは行けない。もちろんくみ取り(*^_^*) あ、母屋もくみ取り+五右衛門風呂でしたけどね~)。
ある日の夜、父は出かけていて、母とふたり「小屋」にいたのですが、母が何かを取りに母屋に行かなければならなくなりました。「一緒に行こう」と言われたのですが、何かに夢中になっていた私はひとりで待っておくことにしたのです。
ところが、母が出かけてから、突然不安になったのですね。何しろ、当時は周辺はほぼ田畑で、夜ともなると、暗くて人気もない場所。雉も歩いていたようなところです。
母を追いかけようと小屋を出て、心細い街灯しかない闇の中、毎日幼稚園に行くにも、お菓子を買いに行くにも、母屋に行くにも通る、登り慣れた坂道を上がっているとき、急に、世界が「私から離れた」のです。

その時のことは今でも鮮明に覚えていて(同時期の記憶など他にはほとんどないのに)、これを言葉で言い表わすのはすごく難しいのですが、まさに「皮膚感覚」だったかも。
この世界にある全てのもの、周囲の人々、それだけではなく、母屋の暗い廊下を曲がった先にある「何か」とか、屋根裏に積まれた藁の影にいる「何か」とか、トイレの隅っこに積まれたちり紙(たまに新聞紙^^;)の影にいる「なにか」とか、そういうものでさえ、私とつながった一部だったのに、いえ、私がその大きな世界の中に取り込まれている一部だったのに、急にそこから放り出されて、それらと自分は別物だという感覚になった。自分の皮膚で、世界とは「境」されていると理解したのですね。
こういうのは、よく、母親の子宮から出てへその緒を切られたときのこととしてたとえられますが、その追体験みたいなものだったのでしょうか。

その坂は、今でもしばしば登りますが、あの時と同じような坂に見えることはありません。子どもの目線からの坂は、巨大なものでしたが、大人になってみたら、視点が変わってしまったからかも知れません。
そういえば、この坂はその後、夢の中にも何回も出てくるのですけれど、夢が記憶の整理なのだとしたら、やはり、あの場所に私にとっての「境」があったのかも。その時が、自分自身の「誕生」の時だったのでしょうか。
そして、ふと思うのです。「死」は、今度は自分の外の世界、町や建物や植物たち、そういうものだけではなく、目に見えない「陰に居る何か」も含めて、この世界の全ての構成要素と、こんどは境がなくなっていってつながっていく、もう一度切り離される前のところへ戻っていく、取り込まれていくことなのかもしれないと。
そうであれば、葉室さんの仰るとおり、「死もまた、良し」といえるのかもしれないな、と少し思ったりするのでした。


もうひとつ、この時期にはいつも境の向こうへ行ってしまった人たちを思うと同時に、血縁があろうがなかろうが、この今へ「何か」を繋いでくれた人たちを思います。
私が初めて「ひめゆりの塔」を訪れたとき、そこに語りべの方がおられて、当時のお話をしてくださいました。
その時、私が真っ先に思ったこと。
「生きていてくださってありがとう」
これは頭を使って言葉になったのではなく、どこから湧き出すように感じた想いなのでした。

君という美しい命は、未曾有の戦災をかろうじてくぐり抜けた人、その人を守り支えた誰かの先に、偶然のように灯された一閃の光だ
(「暮しの手帖」編集長・澤田康彦)
言葉に添えられた文章→「暮しの手帖社が一昨年(2018年)、戦争体験の手記を募り、編んだ『戦中・戦後の暮らしの記録』の序文から。戦死者や被災面積の『数』ではなく、出征した肉親への祈り、教師の鉄拳の硬さ、機銃掃射の恐怖、戦争孤児の思い。それらを生き抜いた人がいるから今を生きる人もある。この本には戦争体験者の『遺言状にさえ似た』言葉が連なる。」


長くなってきたので、最後に、私がすごく気に入っている言葉をひとつ。
2017年11月27日の折々のことばから。

「君ハドコノネコデスカ」
「カドノ湯屋の玉デス、ドウゾ、ヨロシク」

(大佛次郎、随筆集『猫のいる日々』から)
言葉に添えられた文章→「猫を人の家に放り込んで去る輩がいる。可哀想と引き取ってとうとう14匹に。それに匿名のお願いの手紙が付いていたりすると、その偽善に腹が立つ。よく庭に遊びに来る小猫にある日、『君ハドコノ……』と荷札に書いて付けたら、次に遊びに来た時、荷札にきちんと返事が書いてあった。『この世に生きる人間の作法、かくありたい』と作家は記す。」

時々、訪問するお気に入りの猫ブログさんがあるのですが、その動画がすごくいいんです。
何が良いって、飼い主家族さんたちの声が入っているのですけれど「わ~、なにそれ~、もう、ほんと可愛い~」って(*^_^*) 5匹くらい飼っておられるのかな。もう全然ふてぶてしいくらい大きくなった猫さんたちもいますが、いちいち、家族みんなが猫の行動に大はしゃぎされているのです。

猫は何にも囚われずにそこにいて、好きなことをして、好きなところへ行くのだけれど、リアルには出会わない人同士が共有する感情の橋渡しをする。その時、この飼い主さんが、猫さんをどれくらい大事に思っているか、それが伝わってくることが嬉しいのです。
荷札の返事からは、この子がそちらにお邪魔しているようですがかわいがってやってね、という飼い主さんの愛情の片鱗が感じられます。「作法」とは、思いやりであって、想像力なのでしょうね。乱暴なことばや、想いのないことばは、顔が見えないだけに、慎まなければならない、そう思うのでした。


 「切り取った言葉たち」シリーズ。またいつか。

Category: あれこれ

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【雑記・映画】「だが、今日ではない!」~『ロード・オブ・ザ・リング』のこと~ 

「皆、とどまれ! ゴンドールの息子よ、ローハンの子らよ! わが同胞よ! 諸君の目の中に恐れが見える。恐れは私とて同じだ。何時の日か、人の勇気が失われ、友を棄て、あらゆる絆を断つ日が来るかも知れぬ。だが、今日ではない! オオカミの日が来たり、盾が砕け、人の時代は終わりを迎えるかも知れぬ。だが、今日ではない! 恐れず戦おう。この大地に、皆の大切に思うもの全てにかけて、戦ってくれ! 西方の勇者たちよ!」

Hold your ground, hold your ground! Sons of Gondor, of Rohan, my brothers! I see in your eyes the same fear that would take the heart of me. A day may come when the courage of men fails, when we forsake our friends and break all bonds of fellowship, but it is not this day. An hour of wolves and shattered shields, when the age of men comes crashing down! But it is not this day! This day we fight! By all that you hold dear on this good Earth, I bid you stand, Men of the West!

何回見ても、このシーン、かっこいいんだけれど、次のシーンでフロドがぐずぐずしているのを見て、いらっとするのは私だけではないはず。この話、だいたいフロドは何をしたんだ? かっこよかったのはサムじゃないか?
「俺に指輪は運べないけど、フロド様は運べます」
って、そこまでもしてもらって、土壇場で棄てられないで、まだぐずぐずしとる。
き~っ
しかも、指輪も自力で棄てたんじゃなくて、不可抗力で落っこちただけやん。
みんな、「フロドのために!」って言って、むっちゃ戦ってんのに!

最初から最後まで私はアラゴルンだけど、それにしても。

このラストのほうで、アラゴルンが人間の王になって、ちっこいホビットたちの前に跪いて頭を下げ、それに続いて居合わせた全ての人が彼らに頭を下げるという感動的なシーンがあるんだけれど(これってディズニーの『ムーラン』にも同じようなシーンがありますね)、まぁ、そこに至る経過はともかく、やっぱり泣いちゃうんですね。

「我が友よ。そなたたちは誰にも頭を下げる必要などない」
My friends. You bow to no one.

 そう、今日の話題はワーグナーの指輪ではなく、トールキンの『指輪物語』です。
話題と言うよりも、つぶやき、ですけれど。
あ、正確には、映画の『ロード・オブ・ザ・リング』
と言っても実は、原作を読んだことがありません。映画は何回かみておりまして、この期に及んで原作を読もうかなと思わなくもないけれど、現実問題として、もうこんな長いの、そうそう読めないかな。
実は映画はDVDも持っている。でも最近、J:COMのあるチャンネルでしばしばやっているので、そのたびに見ちゃう(というより、大体見ているからBGM状態。時々「あれ? こんなシーンあったっけ?」)。で、アマゾンで原作本をポチりかけて、「はて? 今の私に読む時間があるか?」と立ち止まったところ。

『守り人シリーズ』は、NHKの力作ドラマで映像を先に見て、すごく面白かったので(なんだかんだ言う人もいるかもだけれど、綾瀬はるかは結構嵌まってたと思う)、この期に及んで原作を全部読んでしまったけれど、だんだん長い小説を読む根性がなくなってきているなぁと思うこの頃。

一番長編小説を読んだのは、中学から大学生にかけてだったけれど、文学・小説というものは「読む時」ってのがあるんだなぁと思ったりするのです(特に長編はね)。
私にとっての「その時」に読んだもので一番長かったのは、なんと言っても山岡荘八の『徳川家康』だったかも? 
選んだ長編小説の類いは、その頃の自分を形作ったかもなぁと思います。
私の場合は、ロシア文学(ドストエフスキー、トルストイ)に始まり、ロマン・ロランなど外国小説と、日本の時代小説(司馬遼太郎、少し遅れて池波正太郎)だったかなぁ。そして、就職してから、ほぼ夜勤の待機時間に読み切ったのが『銀河英雄伝説』。

長編小説といっても、連作ものはまだ良いのですが、この『指輪物語』、一連の物語で10巻くらいもあるんね。
こういうものは、きっと若いときに読まなくちゃならないんだろうな。読むのに適した年齢ってあるかなって思ったり。そもそも、まとまった時間が持てるのは若い者の特権。
あるいは、定年になったら、読めるのかな。
もしくは、アラゴルンで読み切れるのか。
あ、でも、考えてみたら『ハリー・ポッター』はなんだかんだ言いつつ、読んだわ……別に、ハリーにではなく、私のお気に入りはこれも最初から一貫してセブルス・スネイプ先生。もう、あんなに物語的においしいキャラはいないでしょ。

 『Lord of the Ring』(これって、カタカナで見てたら『Road』かと思っていたら、指輪の主人(持ち主)ってことなのね。深い)にかこつけて、色んなことを思うんだけれど、そのひとつが、長い原作をこの期に及んで読めるかなぁ(人生もう第3楽章の終わりくらいにさしかかってるからね)、ということ。
そしてもうひとつが、この主人公(なんだよね、一応)の謎。

映画を観ていると、なぜかフロドのシーンでちょっと「いらっ」とする。
もちろん、ヘタレ主人公の話なんてざらにあるんだけれど、普通は冒険ものって、主人公は最初ヘタレでも旅の中で成長していくもんだよね? あのアムロでさえもそこそこ成長した。
なのに、このフロドときたら、見ている人をずっといらいらさせている。

でも、それはなんでだろう? って考えちゃう。
物語は虚構だから、物語の中だけでもカッコイイ主人公やキャラたちを見ていたい、と思う面もある。ダメなやつでも、何か良いところや入り込める部分を見つけて共感しながら読みたい・見たい。
が。このフロドにいらっとするのは、なんかもう、どこかにいるであろう「卑怯な自分」をずっと見ているような気になるからなのかなぁ。

 最後の『王の帰還』では、フロドはサム(フロドの家の庭師で親友)とスメアゴル(指輪を付け狙っている悪しき者、だけど、彼の中にも葛藤がある。全ては指輪の魔力?)といっしょに、ひたすら指輪を破壊するために旅をしているんだけれど、しばしば自分が指輪の持ち主になり、生きるもの全てを支配する邪悪な力を持ちたい(というよりも、指輪自体がこの世にはびこりたいという悪の権化=サウロンの象徴となっている)という欲望と戦わなければならない。というよりも、ほぼ負けている。
要するに、敵は外ではない、内にいるってことね。つまり、人って、果たさなければならない責務に対して、良心(=サム)と悪しき心(=スメアゴル)を常に両方持ちながら、旅をして戦っている、という構図なんでしょうかね。
でも、戦ってるのか? ほぼ他力本願、とか、不可抗力、なんだけど。
ううん(*´~`*)?

これは別にフロドが主人公ってことじゃなくて、いわゆる群像劇様に見たらいいのかな。

最後、エルフの船に乗ってフロドが去って行くのも、つまりは「死」のイメージの具体化で、この旅を始める前の自分にはもう戻れないという諦念が彼にある。そこはまぁ、納得なんだけれど……
なんかすっきりしないわぁ。
もちろん、もやっと感が残る小説・映画・物語、嫌いじゃないのです。いわゆるハッピーエンドは期待していません。主人公がヘタレでもいい。でもなんだかなぁ。
最近、たまにJ:COMで『水戸黄門』見ると、ほっとするのはなんでだろ? 予定調和に弱い日本人だからかな。


 で、話は冒頭に戻る。
「お前がいてくれてよかったよ、サム。」
ほんとだ! まったく、ぬけぬけと……私がサムなら、さっさと放って帰ってるわ。
原作を読んだら、何か新しい納得が得られるのかしら。
しかし、この物語、そもそも書かれたのは第二次世界大戦のころなんですね。思えばすごい。根強いファンがいて、映画化にあれこれ口を挟むのも分かる気もするけれど、個人的にはいい映画だと思う。役者は上手く揃えたな~。なんというのか、みんな顔がそれっぽい。映画しか観ていないから、分かんないけど。

あ、関係ないけれど、オーランド・ブルームは見事にエルフでしたね。海賊よりはいいや。
って、この映画、なんだかんだ言って、最後のが2003年だから、もう17年も前なのね(その後に、前日譚にあたる『ホビットの冒険』が2013年前後に公開されている)。
ううむ。

でもやっぱり、アラゴルンがかっこいいから、許す。
「だが、今日ではない!」
そうだ、なにはともあれ、その言葉を胸に、まだまだ頑張るぞ。

そう、物語には、脇役でも良いからカッコイイ誰かさんと、カッコイイ台詞があってほしい。
もちろん、カッコイイの基準は人それぞれだけれどね。
だから、もしかしたら、私がいらっとするフロドに(それでも指輪を運んでいる。まるでゴルゴダの丘を登るみたいに。もしかしたら、これはそのイメージで、死に向かって歩いている、そういう寓話なのかも)かっこよさを見いだす人もいるのかもしれないと思い直すのであった。
そういや、物語のどこかで「フロドは死ぬ(運命にある)」ってガンダルフ(魔法使い、でも中つ国では魔法はそんなには使えない。だから最後の闘いのシーンでみんなと一緒に走ってる姿を見てちょっと萌える)が言っていたような。
いや、それは「ハリーは死ぬ」って校長が言ったんだっけ? やっぱりなんか、パターンがあるのね。

ここのところ立て続けに何回か見たので(なぜ?)、ちょっとつぶやいてみました(#^.^#)

Category: 本(ご紹介・感想)

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【雑記・本】疫病退散の願い~Master KEATONを読もう!~ 

Masterキートン表紙
私がバイブルとしている作品(漫画であろうと小説であろうと)のひとつがこの『Master KEATON』
今回のCOVID-19流行に限らず、感染症のことを考えるたびに、医学の歴史についての本を読み直しますが、その中になぜかこの『Master KEATON』もいつも含まれているのです。
ビッグヒストリーの中では今回のCOVIDも意外な流行ではないし、人間は自分たちと科学を過信してはいけないということは自明のこと。もちろん、科学こそ光明でもある。科学というのは、発見・進歩だけではなく、検証の学問なので、常に過去と現在の出来事を分析する冷静さが必要ですね。

この『Master KEATON』の中には、2つの感染流行についての物語があって、なぜかものすごく心に残っているのです。
キートン博士は考古学者であるけれど、それでは食っていけなかったり、色々思うところがあって英国の特殊部隊でサバイバル術を身に着け、保険会社の調査員をしている。彼のテーマは大陸のケルト文明もしくはその前にあった巨石文化を築いた文明の発掘だったり、あれこれ私のツボにはまるところが多くて、時々読み返しては色々考えさせられています。
ハーメルンから来た男
まずひとつは、第5巻の『ハーメルンから来た男』
当時、阿部謹也氏の『ハーメルンの笛吹き男』が愛読書のひとつであった私は、このエピソードにものすごく惹かれたわけですが、物語は現在に近いところに舞台を置きながら、過去の出来事の謎にも迫るという作られ方をしているので、常に2重の謎を追い掛けているという仕組み。これはナチスによるジプシー(シンティ・ロマ)虐殺事件と、ハーメルン伝説の二重の謎を解き明かしていくのですが、ハーメルンの笛吹き男がシンティ・ロマの医師もしくは知恵者で、当時大流行していた天然痘の免疫を持った子供たちを連れて、各地に天然痘の免疫を広めて旅をしたという落ちになっています。ハーメルンの笛吹き男の話は、天然痘ではなく、黒死病(ペスト)のほうと結びついていますが、当時は天然痘も黒死病の一種と考えられていたので、あり得ない話ではありません。
祈りのタペストリー
もうひとつは、第10巻の『祈りのタペストリー』
スペインの古城持ちの老人が、自分の城を日本の観光業者に高く売りつけたいと思いながら、日本にやって来た。
実はこの城の教会にはあるタペストリーがあって、飢饉で食料を求める人々に城の上から石を落として追い払っているという場面が描かれていて、この老人はそれを自分の先祖の暗い歴史だと思っているのです。このタペストリーはもともと対になっていて、もう一方がどうやら売り払われて日本にあるらしい、そこにどんな暗い歴史が描かれていても、揃っていたらあと1億は高く売れるだろうともくろんでいる。そこで祇園祭です。
祇園祭というのはご存知のように「疫病退散」を祈るまつり。疫病に対する予防も分からず治療法もなかった時代、人々は祈るしかなかったのですね。キートンと山車の側面のタペストリーを見た老人、自分の城にあるタペストリーの隅っこに描かれたネズミをヒントに、もともと自分の城にあったタペストリーに対面しました。
そこには、領主夫妻と領地の民衆が城の中で仲良く平和に暮らしている絵が描かれていた。城の外の病人をどうすることも出来ないけれど、自分の領民を守るために隔離政策をとり、ネズミを追い出しているという図だったわけです。
科学としての医学が確立していたわけではないけれど、黒死病がネズミと関係していること、隔離政策が一定の効果があることは知られていたのですね。
老人は、自分の祖先が決して悪魔のような人間ではなかったと知って、城を売るのをやめたという話でした。

科学は完璧ではない。感染症に対して100%の治療策・対応策をまだ人類は手に入れていないし、今後も手に入れられないかも知れない、何しろ、敵は人類よりもしたたかな生命体だから。
そのなかで、人々がどう生きて、どのように他人を思いやるか、それをその都度試されているのかもしれないと思うのでした。
災害もまた然り。できることなら、太平洋高気圧と大陸高気圧の位置を変えたいけれど、出来ないから、今できる最善の策を考えていかなければなりませんね。今だけを見てはいけない。ビッグヒストリーがはやるのも、そういうことなのでしょう。そこに必要なのは、分析する能力だけではなく、未来に対する想像力、他人の立場・状態を思いやる想像力、かもしれません。

『Master KEATON』、持っている方は読み返してみてください。読んだことがない方は、この機会に是非!
(全18巻+1)

ところで、祇園祭。
疫病退散のお祭りを取りやめるのは、仕方がないとは言え、なんだかつらいですね。
もしかして、ちまきの通販とかしてくれないかな。いつもは手に入らない長刀鉾のちまきが買えるかも?
牛頭天王
・・・・・・牛頭天王に怒られるかしら。

Category: 本(ご紹介・感想)

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【雑記・近況】表現するということ 

うつぎ
COVID-19のために、以前よりもはるかに余裕ある時間を過ごしているのに、ブログの更新が滞っている大海です。
余裕、というのは語弊があるかも知れません。この期に及んで、実はこれまで結構しんどかったんだなぁと気がついた次第でして。
これまで、週に1回は車で片道1時間はかかる出張先に出かけていたのですが、出張に行くという行動自体のしんどさもさることながら、出張しようと思ったら、その時間分の仕事を片付けておかなければならないから、前日の帰りが必然的にかなり遅くなって、よれよれだったのですね。いや、よれよれといっても、その渦中にあるときには気がついていないのです。
現在、出張停止命令が出ているために、「片付けておかなければならない仕事」を本来の出張日に残しておけるようになったので、時間も身体も大いに楽。それを最も物語っているのが、チリテレ2号くんの走行距離ですね。こうして、毎日普通に職場に行ったらいいというだけが、こんなに楽とは! なわけです(って、職場が近くないけど、道が空いてるし)。

さらに、普段の日常業務も明らかに減っていて(同僚いわく「実はこれくらいが丁度良いんじゃないか?」)、帰宅時間もやや早め。お陰様で、お弁当作る時間があるので、なんかちょっと健康的。日常の仕事は、雑になっていたところが減って、後回しになっていたことも結構片付いて、自分で余裕があるのが分かる。それに、何より、土日の学会・研究会が全中止状態というのが大きい。
でもなぜか、睡眠時間は相変わらず4-5時間なのはなぜ? 余計なことせずに寝たら良いのになぁ。

それはともかく、これであまり困っていないってことは、これまで結構無駄なことが多かったんじゃないかって、そういうことなのかなと思ったり。

これって、いつか揺り戻しがくるのかしら。もう身体がなまってついて行けないかも(;_;)
でも、やっぱり日本人、働き過ぎだったんじゃないか? と思ったり。
一方で、今回のことで、お仕事を失った人も多い中、仕事を続けていられるってことは有り難いんだって思ったり。
with COVIDがどんな展開になるのか分からないので、柔軟な考え方が求められているってところなんでしょうね。

ただ、オンライン会議は増えてるから、資料に目を通したり、アイコンタクトで終われないから確認事項が増えたり、なので、パソコンに向かっている時間が増えたせいか、ものすごく目が疲れるんですね。
たまに森を見なくちゃって思ったら(緑を見るため)、まぁ、うちの家の庭のジャングル化が進んでおりますわな。遠くの屋久島より、近くのジャングル?
時間があるなら庭掃除しろって思うのに、出来ないのはなぜかしら。外出しないなら断捨離活動したら良いのに、やっぱり出来ない。創作活動にいそしめば良いのに、なんか料理したり、本棚あさったり(片付いてはいない)、ドツボにはまってピアノ弾き続けたり。

ねこさん
というわけで(前置き、長すぎ!)、今日はそのピアノのこと
この頃、ピアノを弾きながら、ふと我に返る時がありまして。
これって、どこに向かっているんだろう? って。

小説書くのって、私の中では(ほぼ)完全なオリジナルな世界なので、まだ私が表現することには意味があると言ってもいいかなと思う。でも、音楽、とくに競技人口の多い種目?であるピアノって、まぁ、どうなのって思うわけです。いや、三味線や民謡だってどうよって話ですけれど、私、和物に関しては自分なりに「日本の伝統を守る」自負心のようなのものはあるのです。
この間、胡弓に手を出したときも、この胡弓を作る職人さんの手からこの楽器を譲り受けたという強い気持ちがありまして。しかも、胡弓なんて、見たこともない人も多いでしょうし。いや、三味線だって触ってことのない人の方が多いかも。

でも、ピアノって、ものすごくポピュラーで、プロは別にしても、驚くようなアマチュアがごまんといるわけです。
さらにクラシックの世界で言うと、オリジナルを弾いているわけじゃなくて、まぁ、モーツァルトとかベートーヴェンとかショパンとか、あれこれあれこれ、世界中でみんなが同じ曲を弾いているわけです。もちろん、プロの演奏でなくても、100人弾いたら、100人とも違う演奏、個性が表れると言いますが、いやいや、そりゃ、高いレベルの話ならそうでしょうとも。

でも、「私が」ピアノを弾く、しかもこの時間をかけてこの曲を弾いているわけは何だ? もう若くもないし、頑張ったからってあと何年続けられるか分からないのに、なにを目指しているの? 
このリビングで存在感半端ないグランドピアノといい、1曲弾くために費やする時間の膨大さといい、この私が、コロナでちょっと余裕が出来たとは言え、まぁ、そこそこ忙しい仕事をしている私が、これを持ってして一体どこへ向かって何を主張しているのか?

私のピアノ歴といえば、まずは幼稚園からヤマハ音楽教室に行き、オルガン習う。小学校2年生(多分)から近所のピアノの先生に習う。中学生になって、学校が遠かったのとクラブが忙しくて辞める。多分純粋ピアノ歴6年足らず。一応、ソナタアルバムの1冊目に突入したくらいで、最後にモーツァルトのトルコ行進曲、弾いてましたわ。
そう、バッハも、ショパンも弾いたことがなかったのです。

そして、2018年8月、何を思ったか、40年?ぶりに再開。
まぁ、今更、指が動くわけでもなく、右手も左手も、パソコン打つときくらいしか活躍してなかった小指も薬指も「この期に及んで何をさせるねん」と思っていることでしょう。しかも記憶力の減退(暗譜が大変)、目も悪い(オタマジャクシが小さい)。
うちに弾かずにおいてあったピアノが可哀想だからと再開したのが、思わぬ深みに。

三味線仲間にピアノの先生がいるのですが、その人はピアノも三味線も教えていて、いわく「極めるための奥深さは置いといて、とりあえず1曲弾けるようになるまでに掛かる時間を考えると、ピアノは生徒さんの満足度がおそろしく低い」。
あ~わかるわ。まぁ、三味線の奥深さは十分分かった上で言いますが、「単旋律」を弾く三味線と比べると、ピアノって、両手と足(ペダルの恐ろしさを今更に知る)、しかも手も指10本、フル稼働なわけです。指使いひとつ間違えたらもう弾けません。スケール弾いていて、あれ? 指1本足りない! なんてことはざらにありまして。
基礎が足りていないので、指の弱さとか、届かない9度とか、ペダルの使い方とか、もう必死。

先生が弾くと、スケール弾く(ドレミファソラシド~って順番に弾く)だけで音楽なんですね。
再開して2年10か月の私、まだスケールさえ、まともに音楽に出来ません(いや、スケールとアルペジオと和音を音楽に出来たら、どんな曲でも弾けると言われますが)。
これで何かを「表現」できる時が来るのだろうか? 
そもそも表現するってなんだろう? 何を、何のためにどこへ向かって?
ここで私が一生懸命練習してても、どこへ向かっていくのか分からない私のピアノ。

数あるブログを拝見すると、1曲仕上げる時間の早さといい、そのクオリティの高さといい、すごい人たちがいっぱい居る。
こんなふうに弾けるようになるまで、私って譜読み時間も半端なく長く、えっちらおっちら弾けるまでも長く、なんか少しだけ自分のもの出来たかなと思うまでも長く……と思ったらすぐに弾けなくなり……果てしない

でも、私と同じような大人再開組(といっても、1回辞めるまでのピアノ歴がかなりの人たちも多い)もいるけれど、皆さん、真剣なんだな。飯の種になるわけでもなく、どうなるわけじゃなくても、夢中になる何かがそこにあるとしか言えない。
何より、グランドピアノの弦を張ってある中を見るだけで、わくわくするのはなぜかしら。
88鍵、230本ほどの弦。ここから出る音は宇宙。

小説の場合は、やっぱり自分が作り出している世界という気持ちはあるから、自負心が勝るかな。
まぁ、たまに「あぁ、ここまで描かれちゃったか。もう私、これ以上のことは書けないわ」という作品に出逢うことはあるけれど(一番最近の衝撃は、やっぱり『女城主直虎』の政次だなぁ)、どちらかと言うと、色んな作品から刺激を受けて、私も自分の世界を描きたいと思う、あるいは思える。
あるいは、そう思えるくらいに付き合いが長いんでしょうね。酸いも甘いも知り尽くした関係?

ピアノに関しては、森に迷い込んだところ、まだまだ右も左もコントロール不能、ということかも。
いずれ、私の表現したい世界はこうなのだという自負心が生まれてくるものかしら。
まだ決めつけるのは早い。
10年目にかっこよくベートーヴェンのソナタを弾いている自分の姿をイメージして、あれこれやりくりしながら頑張ってみるかな。自分なりの基準でかっこよく。
悲愴とレッスンノート
(だんだん書き込みが増えて見にくくなる楽譜とレッスンノート←ボケ防止?)

来週は発表会
ピアノの森? 羊と鋼の森? 深い森の中におりますが、自分なりの『悲愴第2楽章』の世界、描くことができたらいいな。
でも考えてみたら、再開したとき、ショパン弾いたり、ベートーヴェンのピアノソナタに手を出そうなんて、思える状況でもなかったんだから、進歩してるのかな。
もう来年の発表会の曲もほぼ決定しているし……次々と何かを求めているうちは、幸せなお付き合いが出来ているんだろうな。
先生からお勧めされているのはショパンのノクターン13番。
ショパンコンクールの1st stageでソンジンくんが弾いてた……
他にも候補があったけれど、感情を載せやすい気がしたのでした(言ってみてるだけ)。
そう、自分を表すってこと、どこかでちょっと考えているのだな(できないけど)。

来世では目指すか、ショパンコンクール
あ、だめだ、『ダーウィンが来た!』の撮影隊になるんだった

『私のピアノは、今が一番よい音を奏でていると思います。つらいこともたくさんあった人生が全部詰まっているから。
人生って、うまくいかなくても、そんな人生の方が素敵じゃないかしら。幸せって雲の彼方にはない。自分で作るものだから。でも、それは歳をとって分かったこと。この絵日記を読むと思い出します。白い雲を眺めながら、憧れ、ときめき、夢見たその時間を。
歳を重ねていくって、あっという間。でも、気持ちは歳をとらない。だから、演奏会の前や好きな人に会う前は、いまもドキドキするのです。』

(フジ子・ヘミング)
*絵日記:14歳の時に書いた夏休みの絵日記。

フジコさんのようなつらい人生なんてことはなかったけれど、それなりに、つらいことや悲しいことはあって、泣いたり、ちょっと危ないこともあったり(生命危機?)、仕事を2週間もさぼったり(あまりにも人の生死がつらくて)だったけれど、誰でもなく自分がここに至るまでの紆余曲折はやっぱり、どこかで自分を表現する形になっているのかも。
仕事でも、小説でも、こうして書いているものでも、ピアノの音にでも。
三味線は……逆に手が少なすぎて、音に表すのが難しい(それはかなり高度だ)。
となると、10本の指を使わざるをえないピアノは、実は、何かを表すのに向いている楽器なのかも。

うまくいかなくてもいい。
夢見て、泣いて、ドキドキして。
それが全部よい音になる。
人生も。ピアノも。

(暮しの手帖社『発見!フジコ・ヘミングさん14歳夏休みの絵日記』より)

らっきょうとシャクヤク
 おまけ:うちで漬けてるらっきょう。3年もの、2年もの、1週間前。
 トップの写真はうちのウツギ。切っても切っても道路にはみ出てご迷惑を…

Category: あれこれ

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【雑記・本】ブックカバーチャレンジ第2弾~教科書って偉大だった~ 

最近、あることに嵌まっています。
というのか、ちょっとテレビっ子していて、お気に入りの番組がいくつか。
とくに、『岩合光昭の世界ネコ歩きでは、妙な遊び?をして楽しんでいます。
それは「勝手にナレーション」
岩合さんがネコに話しかけながら撮影をしているのですが、岩合さんの声の他にナレーションが入るのです。以前、番組の中でこのナレーションについて舞台裏の話が出ていたのですが、台本があるわけじゃなくて、ナレーション担当の俳優さんとかが自分の好きに言葉をあてはめているんですって。映像見ながら練習もするらしい。
これって、ある有名な司会者さんが、競馬だったか何かの中継の練習を、古い映像見ながらやってたのと一緒や!
で、なぜか自分で「勝手に世界ネコ歩きナレーション」練習中なのでした。

え? いつか、私に『世界ネコ歩き』ナレーションの仕事が降ってこないか、狙ってる? 
いやいや、人生、何があるか分かりませんからね。備えあれば憂いなし? 幸運は準備した者の上に降ってくるとも言いますから(そんなわけはない)。
でもこれって、やたらめったら言葉を入れたら良いというものでもないのですね。書き物といっしょ。端的にうるさくない程度に、でも、ネコへの愛をたっぷり込めて、観る人に心地よく番組を楽しんでもらう必要があるのです。うん。
(って、ここで力説してもしょうがないけど)

生まれ変わったら『ダーウィンが来た!』の撮影隊になろうと決めているけど(なんでやねん)、世界ネコ歩き、ただの旅行番組と違って、ネコを通して見た色んな街の日常の景色、人々の暮らしが垣間見えて、とてもお気に入りです

さらに、以前、休みの日に『マルモのおきて』を一気見してしまって、泣きまくっていたのですが、このGW中にJ:COMで『流星ワゴン』を一気見してしまって、またも大泣き。リアルタイムでは見ていなかったのですが、もう、子どもを出すのは反則やわ~と思いつつ、見切ってしまったやん。
メインは子どもじゃなくて、香川照之と西島秀俊の、もうすでに可愛くない年齢の親子の話なんだけれど、二人とも可愛く見えるという、名優のすごさを感じる、大人のお伽噺でした(原作:重松清)。


話はタイトルの件に戻って。
前回の記事【7日間ブックカバーチャレンジ】には幾人かの方に乗っかっていただき、すごく面白かったです。
いや、もの書きの人たちの挙げる本は、世界観が独特で、その人が書いているもの・世界、時にはその人の生き方・感じ方に影響しているのがそのまま表われているようで、興味深かったです。思わず、プラナリアを想像してしまいました。あの生き物、食事シーンはけっこうえぐいですが、赤いものを食べたら赤くなるというあたり、似てません?
なんだか物書きの正体見たり、な感じがしました(良い意味でね)

で、今回、本を選んでいる中で、この「私にとってとっておきの7冊」には入らなかったけれど、もしこれがあと7冊なら入れてたかも、って本は結構あったのですね。でも、これも言い出したら切りがないので、ある基準でまた新たに選択してみました。

題して『教科書は偉大だった』
って、何のことや? なんですが、私の場合、小学生の時の読書って、そんなに種類は多くなくて、メインは子ども向けの少年探偵団とホームズとルパン、だったのですよね。
でも、それこそ本が壊れるくらい読んだのは『3匹荒野を行く』と『狼王ロボ(シートン動物記)』でした。何回も読んで、何回も泣くという(;_;) その頃から、『ダーウィンが来た!』につながるものがあったのですね。
ちなみに、あとは『リラの花咲く家』(『若草物語』と同じ作者なのになぜこっち?)と『石の花』(ロシアのウラル地方の民話、なんでそんなに好きだっんだろう?)、『誰も知らない小さな国』(思えばこれも真のふるさとが北海道になった理由だ)、そして、こども向けの百科事典。うちの家にあった私の本はそんなくらい。
(以前ご紹介した、じいちゃんの直筆本の方が、多かったくらい)

そういえば、この間、録画した『ダーウィンが来た!』を見返していたら、狼の回が残っていて、狼って一度番いになると、一生添い遂げるから、一方が死んじゃったら、その相手も群れの中で居場所を失って、一緒に死んじゃったりするんだって、あぁ、そうか、あのロボの話はまさにそういう習性だったのかと、思い出してちょっとべそをかいておりましたとも。

あ、話が逸れております。
要するに、うちの家はそんなハイソな家庭でもなく文化的環境でもなく、普通に農家系だったので、家には本の類はあまりなくて、友達の家で世界の名作全集的なものを読ませてもらったり、学校の図書館の本を読んでいたのですが。
そんな中で、中学校に入って、学校の授業で習ういわゆる「文学」に新鮮な感動を与えられたのでした。
どうやら当時、私は結構素直なこどもだったらしい。

その中のひとつが夏目漱石『こころ』なのですね。
教科書だけではなく、先生(予備校の先生含む)から教えてもらったり、授業でちょっと話題に上ったものを色々つなぎ合わせて、読書の幅は広がったなぁと思うのです。
そうした学校や予備校で知った世界を少しだけ思い出してみました。


1.『ワインズバーグ・オハイオ』……シャーウッド・アンダーソン
ワインズバーグ
確か、高校生の時に英語の授業でこの中の何編かを読んだのです。なぜか妙に嵌まってしまって、アメリカ文学への道を開いてくれました。結局、マーク・トウェーンもヘミングウェイもいくつか読んだけれど、何故か最後まで記憶に残ったのはこの『ワインズバーグ・オハイオ』。全部英語で読むのはしんどかったので、すぐに訳本を買い(写真左)、本棚にずっと残っていたのですが、カオスな本棚のどこかに埋もれちゃって、で、つい数年前、急にまた読みたくなって、新版を買ったら(写真右)、後から昔の本が出てきたという。
字のサイズ
ちなみに字の大きさはこんなに違う^^;
後から気がついたのですけれど、これもワインズバーグという架空の街の群像劇的物語。前回おまけに挙げた『星々の舟』や『霧笛荘夜話』に通じるものがあるようで、そういう書き方が好きなのかもしれません。

2.『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』……J.D.サリンジャー
シーモア
これも、高校生の頃に英語の授業で出てきたのだと思うのですけれど、少なくとも自主的に手に取った本ではない。
そして、やっぱり嵌まりました。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』も読んだと思うけれど、何の記憶もない。
でも、このグラース家の一連の物語には、なんだか強烈に惹き付けるものがありまして。
本当なら、この横に『フラニーとゾーイー』『ナインストーリーズ』の2冊が並ぶはずんだけれど、カオスな本棚が……(以下略)
思えば、このシリーズも、一家の物語という意味では共通の手法なんですね(入れ子方式、というの?)。
幸福の絶頂にあったはずの長兄のシーモアの自殺にまつわるもろもろを、次男の(サリンジャー自身とも言われる)バディが語っていくという、なんで、こういう手の話に嵌まるんかなぁ……多感な中学・高校生あるあるですね。
でも、今、改めて読むか?と思うと「?」かもしれません。

3.『アカシアの大連』……清岡卓行
カオスな本棚が……(以下略)
そのため、ブックカバーの写真は撮れませんでしたが、清岡卓行は学校の授業で詩が出てきて(何の詩だったか記憶にない)、詩集を図書館で借りて、そしてこの『アカシアの大連』に行き着いたのでした。
当時、森川久美さんの漫画で『南京路に花吹雪』が大好きで、なんとなく中国ノスタルジックな気持ちになっていたのでしょうか。
戦後まだ35年ほど?、まだ「語れないこと」が多くあった時期、多感な少女だった私(ということにしておきます)は、あれこれ過去に思いを馳せていたらしい。

4.『背教者ユリアヌス』……辻邦生
カオスな本棚が……(以下略)
もしかすると、実家に置いたままかも知れないのですが、いや、これはもう、私一人で嵌まったのではなく、当時の友人全員で嵌まりまくったというバイブル的小説でした。実は、小説そのものを授業で習ったわけではないのです。うちはクリスチャンスクールでしたので、ユリアヌスはまさに歴史的には「背教者」ですから、聖書か世界史か何かの授業で出てきた時に、おそらく先生からこの小説の存在を知らされたのだと思います。もちろん、キリスト教の学校でこの本は禁書である、なんてせせこましい話はなかったと思います。だって、みんなで読んだのですから。
この本は、当時の私たちにとって、ガンダムと同じくらい、すごい影響力だった(比べるのが変?)。
でも、あの時のテンションで今読めるかどうかはちょっとアヤシイので、まだ文庫本は買い直していません。私の読んでいた本は、ハードカバーで、上下2段の文字がびっしりと詰まった重たい辞書のような本でしたしね~。
この勢いで『春の戴冠』を読み、頭の中でヴォルテラ家のイメージが完成したのであった(要するにメディチ家だったのね)。

5.『安乗の稚児』……伊良子清白(詩)
こちらは、予備校の授業で出てきた詩。多分、ほとんどの人が知らないと思いますが……
この『安乗の稚児』を初めて読んだとき、まさに雷に打たれたような衝撃でした。
う~ん、もう、これは私のなんとなくの原風景です(これは、藤原新也氏のある写真にもつながっている)。
貧しい村なので父ちゃんも母ちゃんも仕事に出ていっていて、稚児一人、小籠に座って恐れも知らずほほえんで海を見ている、って情景。しかも「反響(こだま)する心と心」……側に居ない両親との心の繋がりと教えられた気がしますが、今は、こどもは海と心を通わせていて、一人この世界に産み落とされて、やはり一人大自然と対峙しているという、そういう印象で読んでいます。
この詩のシーンを見たくて、安乗まで行ってきましたよ。
そして、後からこの詩人は先輩であると知って、またもや、背中がぞわ~っとしました。

6.『隠された十字架』……梅原猛
隠された十字架
これが授業で聞いたものかどうかは、実は定かではないのですが、私が寺社巡りを始めたきっかけになった本。
そして、今、文字になって残っている歴史は疑え、という視点を教えてくれた、これこそバイブルかも。歴史を一方向(後に権力を得た者が作った歴史)からだけ見てはいけないという考えは、まさに後に網野史学に嵌まった根っこを作ったかも。

7.寺田寅彦随筆集
寺田寅彦
こちらは古い随筆集がどこかにいっちゃって、新しく買い直しました。
これも多分、予備校の国語で出てきたんだと思います。ほんとに、昔の理系人間って、文学にも精通していたんだよなぁとしみじみ思います。短いエッセイばかりなので、時々拾い読みしている。

実はこの後に、私が一時真面目に何かを掴もうとして読んでいた、謎の哲学書類を挙げようと思ったのですが、なんか、もう今となっては海馬のヒダの奥深くに挟まってそのまま腐ってるみたいで、内容も何にも覚えていないので、この辺で置いておきます。
予備校の英語の先生が、学生運動やってた人で、哲学好きで、すごく影響を受けたんですね。もう一人、言語学を得意分野にしている英語の先生もいて、なぜかジャック・デリダを英語で読まされていたという。それ、受験に役に立ったのか?って話ですが、いや、何の役にも立たなかったけれど、個人的には、人生の一コマにすごく重い駒を残したかもなぁ。

代わりに、見つけましたよ!
COSMOS.jpg
伝説の映像作品、COSMOSの豪華本。しかもこちらのセーガン博士、ジュピターがガス惑星であるという解説をされているところ。
宇宙から人体の不思議まで、本当に世界を広げてくれた番組でした。
そして、なぜか、この本を見つけた同じ箱の中に入っていた、竹宮恵子さんの豪華本。
けーこたん
なんと直筆サイン入り。サイン会に行ってもらったんですよね~。
そうそう、やっぱり自分の創作の原点の数十パーセントはけーこたんから来てるのかもなぁ。
そうするとやはり、漫画シリーズもしないといけないかしら? 敢えて外したミステリーとSFも膨大な数だけど^^;
ちなみに本棚を探ってみたら、すごい数だけど、内容覚えてない話も多いのがミステリー。途中まで読んで、「あ! 私この犯人知ってるわ!」ってこともしょっちゅうある^^; 
余談ですが、SFは、ほぼ全部読んだのはロバート・ハインライン。『月は無慈悲な夜の女王』が大好きで。でも、友人たちと一緒に嵌まったのは『デューン砂の惑星』でした。これ、私らにとっては古典だけど、わりと最近?映画になってましたよね。砂虫がえぐかったような記憶が。
カオスの本棚
おまけのカオスな本棚。
え? 綺麗ですか? それはね、下半分が写ってないからよ
3面のうち2面のそれぞれ半分しか写っていないけれど、これ、本が2重になってて、奥に何の本があるのかもう分からない。このミニ書庫には小説はありません。
寝室とミニ書斎にも大きな作り付け本棚がありますが、そっちも大概なカオス。小説や漫画や、ちょっとだけ仕事に絡んだ本も。
仕事の本は基本、職場にあるので、あまり家にはないのでした。

というわけで? 第2弾、おしまいです。
読んでくださってありがとうございます。

Category: 本(ご紹介・感想)

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【雑記・本】7日間ブックカバーチャレンジ~ars longa, vita' brevis~ 

今、Stay Homeのために、ネット上では色んなイベント?が行われていますね。
その中でFace Book?で「7日間ブックカバーチャレンジ」というのをやっているようです(私はFace BookもSNSもしていないので、ブログで見かけただけなんですが)。
面白そうだなと思って、便乗することにしました。
ただ、そのルールは「7日間、好きな本を1日1冊、投稿する。ただし、ブックカバー(表紙画像)のみ、内容説明なし。その都度、誰かをこの企画に誘う」というもののようです。7冊という縛りはないみたい。

でも、いくつか記事を見せて頂いたら、「説明なし」でアップしてる人なんてほとんどいません。
みんな自分の好きな本に関しては一言、言いたいんですね。
というわけで、わたしもやってみようと思いました。
でも、7日間も毎日投稿するの面倒だし、一気にまとめていっちゃいます。
内容説明は極力なしにします。ミステリーはきりがないので選択肢から外しました。
そして、できるだけ自分の一番深いところで大事にしている本をピックアップしてみました。
ひとつに決められなかったので、全集でアップしちゃったものもあるけれど。


1.『鬼平犯科帳』…池波正太郎
鬼平犯科帳
『剣客商売』と迷いました。でも、やっぱり鬼平かな。昔から、海外旅行に行くときは数冊必ず持って行っていました。
でも、年を取ったのか、最近は『剣客商売』の小兵衛の渋みが心にしみるようになっています。
池波先生の本は、小難しいことを書かずに、さらっと小気味に要を付いてくる。やっぱり江戸っ子ですね。


2.『こころ』…夏目漱石
こころ
やっぱりこれは外せないかな。右は普段読んでいるもの。読み返す度に付箋が増える。
左は初版本の復刻版の表紙。もちろん中までそのまま復刻されているので、夏目漱石の「つぶやき」のような前書きとか、おもしろいんです。昔は本そのものが芸術品だったのですね。
こころ中表紙
この「こころ」初版本の中表紙には『ars longa, vita' brevis』なる版が印字されています。芸術(の達成には)は長く(時間がかかり)人生は短い……漱石自身が選んだ言葉でしょうか。
『こころ』と『それから』は私のバイブル。


3.『ジャン・クリストフ』…ロマン・ロラン
ジャンクリストフ
私をクラシック音楽に縛り付けた?本といってもいいかも。
これを読んで『Eroica』(ブログでは未発表のジョルジョ・ヴォルテラと相川慎一の親子葛藤…親子じゃないけど…の物語)を書き、私が最も愛するピアノ曲がベートーヴェンの『熱情』になったのでした。何しろ読んでいる間中、アドレナリンが出まくるという、なんかすごいテンション高く読んだ本でした。
しかし、今本を開いたら、このびっしりした文字に目眩が……


4.『戦争と平和』…トルストイ
戦争と平和
こっちのほうが字のつまり方が半端ない
実は、ものすごく夢中になって読んだのに、相変わらず最後の何ページかは読んでいないという。トルストイの説教? 歴史論? がちょっと面倒くさくなって^^; 何しろ、アンドレイ公爵が3巻の終わりで死んじゃって、4巻はけっこう読むのがしんどかったのもあります(『銀河英雄伝説』もヤン・ウェンリーが死んじゃったところから読むのが苦痛でした(@_@))。
この当時、映画の『ドクトル・ジバゴ』を見てロシアに夢中になっていたのでした。


5.『The Damon-Haunted World』…Carl Sagan
カールセーガン
セーガン博士の著作は、1冊だけ選ぶのはとても難しいので並べてみましたが、どれか選ぶならこれかな。
訳本では『人はなぜエセ科学に騙されるのか』という色気のないタイトルになっているけれど、科学の限界とその中にある希望、人類の来し方行く末について、考えさせるものでした。英語のタイトルの副題が気に入っています……Science as a Candle in the Dark……そうあって欲しい。
今ではこういう科学関係の本はあふれかえっていて、この当時よりもずっと情報も知識も増え進んでいるので、もう古典のような本かもしれませんけれど、そこに書かれた「(当時の)事実」よりももっと大きな「教え」がこうした本の中にありますね。
(以前は、科学者であり哲学者とか、2足のわらじ系の理系人間がもっといたように思うのですよね。)
たまに、ダーウィンの『種の起源』とかシュリーマンの『古代への情熱』(竹流の愛読書のひとつ。あ、そういえばこの人のもうひとつの愛読書が『鬼平犯科帳』だ^^;)を読み返したくなるのはそういうことだ。


6.ピアニストが語る!…焦 元溥
ピアニストが語る!
ピアニストへのインタビューの本。これを読むと、音楽が歴史とともにあったことがよく分かるのです。まさに事実は小説より奇なり、です。とくに、アジアのピアニストがヨーロッパ勢とはまるで違う環境下でどんなふうにクラシック音楽を学んでいったのか、そこにはまだ記憶に新しい戦争が絡んでいたりするんですね。亡命の話とか、本当に音楽の話じゃなくて、歴史の話ですものね。藝術はその時代の社会に大きく影響される。だからこそ、重みがあるのでしょうね。
そう言えば、これに関連して最近読んだ小説で面白かったもの。
革命前夜
私が亡命ピアニストをちょっと書いてみようと思ったネタ本。
これは、ドイツに留学してバッハを学ぼうという日本人の青年の物語でした。


7.網野善彦(全集)
網野善彦
私が全集で持っているのは夏目漱石(初版本復刻版)と網野善彦だけです。あ、メトロポリタン美術館全集もあるけど。
日本の歴史を通史として見直した歴史学者。歴史学と民俗学を分かつことなく語る視点が面白くて、嵌まりました。
日本の歴史を
文庫本などになっているのでは、これが一番読みやすいかな。


番外にちょっとだけ、小説を。
8.『星々の舟』…村山由佳、『霧笛荘夜話』…浅田次郎
霧笛荘と星々の舟
別にまとめて載せる意味はないんだけれど、スペースの都合上。
共通点があるとすると、どちらも関係性のある人物を順番に描いていくというパターン。ひとつは家族、ひとつは同じアパートに住む人々。こういうふうに人物を重ねながら物語を紡いでいくのって、ちょっと憧れていたりするのでした。
しかし、この作者さんのどちらも、私は別にすごいファンでもなく、他の本をほとんど読んでいないという(何冊かは読んだけど)。でもこの2冊は、私の本棚の特別コーナーに置かれている。


選びきれないので、このへんで。
えっと、他の人を招待するというルールはもう、おまかせで。
久しぶりに懐かしい本を手にとって、楽しかったです(o^^o)


チョ・ソンジンさんのライブが始まっちゃった(You Tubeで)ので、お開きです~(o^^o)←4/26(日)23:00
シューベルト『さすらい人幻想曲』中(o^^o) ライブと思うと嬉しい。このひと時を彼と共有しているのね。
5月の私のソンジンウィーク(年休とりまくってコンサート5つ行くつもりだった^^;)はCOVIDのせいで吹っ飛んだので(一部は12月に持ち越し)、楽しみます
ついにスマホの壁紙?もソンジンくんになっちゃった
(と思ったら、すぐ終っちゃった。くすん。もう1回聴こう! You Tubeっていいなぁ)
ソンジンくん、ベルリンから
ドイツグラモフォンの力か? You Tubeにしては音がむっちゃいい。そして、いつ見ても、見惚れる美しい手。やっぱりドイツグラモフォンの撮影技術か、ピアニストのあらゆる姿を余すことなく撮影? 横から前から上から、そして表情アップ、指アップ。いや~、全てに見惚れる。
ピアニストの手ってほんとに、美しすぎる。彼の『さすらい人幻想曲』、ほんとに素敵。一度ご覧くださいませ。

おまけに、といっても、元の曲知らないと楽しめないかもしれないですが(いや、そうでもないかも)、堂本光一くんの『家のかたまり』が素晴らしくて。
堂本光一くん『家のかたまり』
もとはすごくロマンチックなラブソング(『愛のかたまり』:作詞・堂本剛、作曲・堂本光一)なんだけど。
……うん、自粛しよう。ちなみにこの動画、光ちゃん、自分で録音・編集・文字入れしたらしい^^;

Category: 本(ご紹介・感想)

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