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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

心機一転! カテゴリ追加 

拓

注:このカテゴリはBL・18禁要素が含まれます。苦手な方は引き返してくださいね。
  でも、あまり迫力?はありませんので、逆に期待もしないでください…(..)


彩色みおさん(BL作家に五里霧中!)ご企画のSSにチャレンジさせていただいて生まれた二人の物語を、独立カテゴリにしました。
きっかけは…な、なんと!
竜樹さんが拓(Hiraku)のイラストを描いてくださったんです!
それが上の素敵なイラスト。竜樹さんのご許可をいただきましたので、貼らせていただきました。
本当にありがとうございますm(__)m 竜樹さんのブログはこちら→萌えろ!不女子(click)

感謝感激雨嵐!です。
ちょっとびっくりして、で、興奮して、嬉しくて、でもどうしたらいいのかしら、と思いながらじたばたして。
取りあえず独立カテゴリにしよう!ということにしました。
そして、頑張って続きを書いて、お礼にしたいと思います。
(同窓会が終わったら…(>_<))
もう、妄想は2作先まで走っているのですが……実は、Hシーンがない…
あんまり得意ではないのですが、何とかねじ込みます!
お楽しみに!!

ちなみに本来はSSなのに、やたらと長くて、しょっぱなからSSではありませんm(__)m
かといって、あらすじ、というような上等なものもありません。
おおざっぱに言うと、高級菓子製造会社の社長・篠原宗輔(Shinohara Shusuke)とボクサー・葛城拓(Katsuragi Hiraku)の恋物語?
ということにしておこう。
第3作目からは、お茶の水博士と拓が呼ぶ、ロボット工学者・斎田アトムも登場予定。年寄りではなく、宗輔の親友。
気楽に、読み始めてやってください。

勢いで誕生したふたりですが、たまには私もHappy Endにしてやろうという親心を持ちました。
(キャンディ・キャンディの呪縛から逃れて…参考→【物語を遊ぼう】7
いえ、不幸にしてやろうなんて思っているわけではありません。
でも何だか苦しんでいる本編の二人を書いていると、たまには…ね。

ちなみに、葛城、という名字、本編にも出てきます。
葛城昇……新宿2丁目のゲイバーの妖艶な店長。竹流が信用している仕事仲間の一人。
ま、時代が違うのですが、もしかして、姪の子ども、程度の親戚だったりして。

一応BLの仲間に入れてください。
でも、正直、あまり恋愛度は高くないかも。
萌え度も低いかも。
18禁シーンなんて、本当に色気がないかも。

でも、変な萌えはあるかも?
(焼肉とエッチ、とか)

ということで【小ネタ出し】から引っ越ししました。
本編のようにのんべんだらりと長くならないよう、SSではないけど、MMくらいのサイズまでで、頑張りたと思います。
改めまして、よろしくお願いします(#^.^#)
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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【SS:バレンタイン、キス、氷】 Time to Say Goodbye 

【挑戦:このページはBL絡みの記事につき、苦手な方はご遠慮ください←とはいえ、読んでみたらそれほどでもない、と言われそう。18禁の要素は、逆に情けないことに…ありません(..)】

ブログに時々お邪魔させていただいている、彩色みおさんが出して下さったお題つきSSに挑戦してみました。
私にはちゃんとした?BLが書けないのですが、本当に生き生きと頑張っておられるBL作家志望さんたちの応援団(今のところ団員2人、かのうさん、ありがとうございます!)として頑張ろうと思います。
そう、昔、阪神ファンのファンという先輩がおりましたが、そんな感じです。

ところで、チャレンジしてみたけど、結果的に長すぎ→SSではない、Hシーンがないし甘々でもない→BLとは言い難い、ということで見事!玉砕しました。私、やっぱり書けません……
でも、それでも読んでやろうという奇特な方は、ぜひお願いします。
何でこんなことになっちゃったのかというと、ただ、キスひとつするのに、すごい理由が必要なんです……私の場合。で、ついつい、人物の背景をやたらと書き込みたがるんですね。
そんなのSSではどうでもいいだろ~と思うのに。

えっと、つまり、ボクシングが書きたかったんかい、と思わないでくださいね。
ま、否定はしないんですけど。
『ボックス!』に憧れてるんです。あんなのが書きたい~と。

もちろん、BGMはロッキーでお願いします(#^.^#)

あ、ところで、彩色みおさんの小説『ミッドナイト・ガバメント』が、某出版社さんの入賞作品Webにて公開されています。ちょっと今更何言ってんのよ、って感じですけど。
詳しくはみおさんのブログをぜひ訪ねてあげてください(下の「みおさんのブログ」をクリック)
みおさん、おめでとう!

みおさんのブログ





Time to Say Goodbye
拓medium (イラスト:竜樹さま)感謝m(__)m

 今日こそ全てと訣別する。
 葛城拓(ヒラク)は肩のザックを担ぎなおした。

 高校生の時、クラブの指導者だった赤沢には、もう話を通してある。挨拶に行った時の赤沢ジムの連中の顔には、逃げ出した人間に対する侮蔑の表情が張り付いていた。その中には、当時拓よりも弱かった奴の顔もあった。だが、わずかなファイトマネーだけでこの道に専念しているハングリーな目には、今では拓のはるか前方を歩いている自信が宿っていた。
『セレブ奥様の下の相手してるような奴が、今さらボクシングだなんて、笑わせるよな』
 明らかにそんな声が耳に届いた。
 赤沢も半分は信じていないだろう。口元には、まぁ1週間持つなら考えてやるけど無理だろな、という笑いが浮かんでいた。
『お前、高校のアマチュアの大会で優勝したからって、軽く考えんな。もう4年離れてるんだろ。今の仕事を辞めちまわない方がいいんじゃないか、いつでも戻れるようによ。辞めちまったらなかなか戻れないってのは、よく知ってるだろうが』
 そんなつもりはない。半端な気持ちではないのだ。赤沢は、自分でトレーニングして2か月後に来い、試合を見て考える、と言った。

 その期日が明後日だ。
 あの時だって、辞めたくて辞めたんじゃない、と拓は拳を握りしめた。
 必ず見返してやる。
 もう一度あの世界に戻るためだけに、この2ヶ月、ハードなトレーニングと食事コントロールで身体を作り直した。体重を52kg台後半から49kg台まで落とした。バンダム級の連中相手では戦えないことが分かっていたからだ。アマチュアの時とは階級分けが違うが、もとのフライ級でなければ、とても赤沢に認めさせる試合ができない。

 拓はセレブ御用達のスポーツジム『シャングリラ』の従業員専用入り口に、認証カードをかざした。
 2か月前のこの身体も、体脂肪は5%ほどだった。一般的には十分に引き締まった体で、ジムに通う奥様、会社役員、芸能人達からは素敵だと憧れてもらっていた。165センチメートルという、男としては比較的小柄な体格だが、小顔のために全体のバランスが極めていいと言われるのは、身体が資本の業界では必要な魅力だった。

 パトロンの矢田は、ベッドの上では、もう少し柔らかい体がいいと言ったが、それならもう少し肉付きのいい小姓を探したらいいのだと思う。
『どないしたんや』
 体脂肪率を4%を切るところまで落とした体を、矢田は撫でまわしながら怪訝そうに言った。拓の決心などには気が付いていないのか、それとも何かを感付いていながら知らぬふりをしているのか。

 そして、あの男も。
 拓は頭を振った。
 元々耳が隠れるほどに伸ばしていた髪を、昨日刈り上げるほどに切った。ピアスも2か月前からしていない。
 廊下の途中にある姿見で、拓は自分の顔を確かめた。
 元々目つきが怖い、野生的、などと言われていた顔だが、この2ヶ月でますますとっつきにくい顔になったのかもしれない。今まで営業スマイルを貫いてきたために隠れていた本来の顔が戻ってきたことには、拓自身は満足していた。

「おはようさん、髪、短すぎじゃないの」
 ジムのインストラクター仲間が肩を叩いていく。180センチはある長身で、赤く染めた髪に、エステで磨いている体は、インストラクターというよりもホストの様だ。赤沢ジムの連中が言っていたことはあながち間違いではない。
 セレブ達の下の世話、とまではいかなくても、恋愛ごっこの相手をしている。おかげで、身入りは悪くないし、中にはホストよろしく車やマンションを買ってもらったというインストラクターもいるらしいと聞く。
 拓に関しては、関西系の不動産会社社長がパトロンで、車もマンションもあてがってもらっている、という噂があるために、大きな贈り物をしようとするセレブはいないが、恋愛ごっこの相手は幾人か持っている。
 だが、それも今日で終わりだ。拓が1か月前に退職願を出していることを知っているのは、この『シャングリラ』の社長と銀座店の店長だけだ。何かと騒がれるのは真っ平だったし、店の方では拓の気が変わらないか、期待している節があった。

「明日はバレンタインですわね。お忙しいんでしょ」
「まさか。私は社長室に座っているだけですからね」
 着替えてトレーニングルームに出た途端に、よく響くバリトンの声が鼓膜を捉えた。
 このところ、ふわふわ食感のバームクーヘンで業績を伸ばしている製菓会社の社長、篠原宗輔(シュウスケ)だった。
 そもそもは小さな町の喫茶店で出していたケーキがあまりにも美味いというので話題になり、いくつかの一流ホテルに店を出すようになり、ネット販売を始めた時に日持ちのするバームクーヘンが大当たりしたのだ。もちろん、バレンタインが近くなれば、社長と秘書自ら現地に飛んで確かめたカカオだけで作っているという限定生産のチョコレートも大売れなのだろう。
 長身で、がっしりとした体格、誘うような低い声、甘いマスクにうねる様なウェーヴのかかった髪。毎週末にはジムに現れ、若い女性に囲まれる。元はその小さな喫茶店でケーキを焼いていた、いわゆるパティシエだったというが、確かに細くて綺麗な指をしている。もっとも今は金計算と書類に判を押すばかりで、その指でケーキ作りなどすることはないのだろう。あとは、拓の体を愛撫することくらいだ。いや、あるいはあのご婦人方の幾人かとも、同じようなことをしているに違いない。

 宗輔を取り囲んでいるのは、宝石商の女性社長とその娘、それにあれは某ホテルオーナーの奥様だ。少し離れて様子を見ているのは、この間デビューしたばかりのアイドルに違いない。
 今年32になると言っていた独身貴族の金持ちを、女たちが放っておくわけがない。
「私、クラブシノハラのトリュフを12ダース注文しましたわ。本当に、なかなか手に入らないんですから」
「それは申し訳ありません。うちは契約農場を持たないものですから、その年に基準を満たすカカオがどれだけ手に入るかわからないので、予約されても確約できないのですよ。契約しても、気候や土地の状態によって、その農場がその年に世界最高レベルのカカオを生産してくれる保証はありませんからね」
 ご立派なこだわりだと思うが、チョコレートひとつに千円近くも出すような世界とは、もう関係がない。たとえ、その男の手が先週末まで拓を抱いていたのだとしても。
「チョコレートではあなたの気を引けませんわね」

 ちらりと宗輔の切れ長の目が拓を捉えた。
 この甘い顔で、なかなかハードなセックスを要求する男なのだ。いや、ほとんど拷問に近いこともある。金曜日のレッスンの後、翌日の勤務開始時間が遅いことを知っているのか知らないのか、ほとんど立てなくなるまでやられる。
 まさにやられる、という言葉が適切だ。
 愛している、とか、可愛いよ、とかいう言葉かけは全くなしだ。キスさえも、滅多にしない。突っ込まれているときに興奮して求めることはあっても、愛おしむようなキスなど、もちろんしたことがないし、されたこともない。
 独身貴族を満喫する男だから、女と付き合ったら妊娠とか結婚とか、面倒くさいのだろうと拓は思っていた。
 で、欲望のはけ口が俺ってわけだ。
 そのハードなセックスがこの2ヶ月ほどの間にエスカレートしてきている。おかげでトレーニングに支障の出ることもあったが、この野郎、と思う気持ちが後押ししてくれるので、試合に向けて、気持ちはマックスだった。
 拓は大きく息をつき、わざとらしく目を逸らした。
 どれほど助平で鬼畜な野郎か、ご婦人方にばらしてやりたい。もっとも、ご婦人方の中にも大概な人がいるのだが。

 拓の受け持つスタジオトレーニングは格闘技を取り入れたシェイプアップのエクササイズだった。音楽に合わせながらシャドウを繰り返すような優雅なトレーニングとも今日でお別れだ。
 音楽の代わりに、ミットやサンドバッグを打つ激しく鋭い音が、すでに耳の中で反響している。あの熱い息遣い、飛び散る汗、そして血の匂いまでも、懐かしくてたまらなかった。
 ふと、ガラス張りのスタジオの向こうから視線を感じる。
 宗輔がランニングマシーンで軽快に走りながら、ただこっちを見つめていた。拓もしばらく、むしろ力を入れて見つめ返していた。

 スタジオレッスンの後、予約のあったプライベートレッスンを順番にこなしていきながら、拓は最後の名前にふとスケジュール表の上を滑らせていた指を止めた。
 一体、何の真似だ?
 宗輔は確かにもともと拓のプライベートレッスンの生徒だった。それが1年前、身体の関係を持つようになってからは、パブリックな場所での体の接触を避けたのか、予約を入れてくることはなくなった。別にそのことを宗輔に確かめたことはない。
「篠原さん、プライベートレッスンは久しぶりですね」
 他人の目があったので、何も言わないでトレーニングを始めると変に思われると感じて、当たり障りのないことを言った。
「そうかな」
 宗輔の返事はあっけなかった。
 いくつかのマシンを回る間も、目を合わせられなかった。がっしりとしたいい体格だが、ショルダープレスの時、少し右肩がひきつるように上がるのが癖だった。フランスに留学中、交通事故に遭って、右肩に大怪我を負ったらしく、大きな傷がある。腕を上げるとき、どうしても吊られるように肩が動いてしまう。
 その肩が上がらないように、彼の右肩に手を添えた瞬間、何とも言えない感情が襲いかかってきた。
 意外にも意識をしている自分に、今さらながらに驚く。
 もう決めたことだ。こいつとも今日を限りに別れる。
 ストレッチをする時には、その体に触れてももう何も感じなかった。少なくともそのようにふるまうことができていた、つもりだった。

「本当に辞めるのか」
 12時が過ぎ、ジムの掃除を終え、店長に挨拶に行くと、店長はため息をついて言った。
「はい。1か月前に言った通りです」
「結構、身入り良かったんじゃないの。そんなあてにならないファイトマネーだけで食っていけるのか」
「でも、今持っているのは俺の金じゃないですから」

 大阪の難波にある祖父の代から続いていた小さな喫茶店を受け継いだとき、母にのしかかってきたのは遺産ではなく借金だった。父親は元プロボクサーだったが、パンチドランカーになって認知障害、暴行を繰り返すようになった。母親がその父を刺し殺し、執行猶予が付いたとはいえ犯罪者になって、結果的に喫茶店は地上げ屋に持っていかれてしまった。高校を出て、大学でもボクシングを続けようとしていた拓に、辞めてほしいと泣いてすがった母は、不動産会社社長の矢田の愛人になっていたが、拓が高校を卒業する前に亡くなった。矢田の人脈のおかげで優秀な弁護士が付き、母の裁判が有利に進んだのだが、裁判で言われたような正当防衛などではなかったことを拓は知っていた。
 おそらく、矢田も知っていたのだろう。
 母が亡くなって、今度は拓が矢田の愛人になった。矢田の口利きで『シャングリラ』に勤めるようになり、矢田が満足している限りは、矢田が立て替えたはずの篠原家の借金のことは何も言われなかった。
 矢田は拓の交友関係には無頓着だった。拓に対して、特別に執着心があるわけではないのだろう。それでも、そこから抜け出せるのかどうかは、今もまだわからない。
「わかんないなぁ。何に餓えてんの? せっかくいい暮らししてんのに」
 その言葉を背に、拓は『シャングリラ』を後にした。

 12時を過ぎているから、もうバレンタインだ。
 拓はセレブしか住んでいないというマンションのコンシェルジェに挨拶をして、1012号室を呼び出してもらった。毎週の来客である拓には、すでにコンシェルジェも慣れてくれていた。
 とは言え、拓の背中の手製のサンドバッグと、ごみ袋にはいささか目を見開いている。しかし、さすがに、十分に金を払ってくれる住人の客に対して、失礼な言葉はかけてこなかった。
 そもそもどういう関係と思っているのだろう。ちょっと聞いてみたい気もしたが、それも今日までだから、もう今さらな気がした。

 1012号室の鍵は、例のごとくかかっていない。
 拓はドアを開け、サンドバッグとゴミ袋を担ぎ直す。だだっ広いリビングのドアを開けて、多分優雅にブランディグラスなどを揺らせているはずの宗輔にサンドバックを投げつけようと思ったら、宗輔はそこにはいなかった。
 ふわふわの白い絨毯、ゆったりとしたソファー、アクリルの低いテーブル、酒の棚、柔らかい音楽はサティだ。
 拍子抜けして、そのままリビングにサンドバッグにゴミ袋を放置して、キッチンの方へ移動する。何か、削るような音が小気味よく響いてきていた。

「遅かったな」
 宗輔はアイスピックで氷を丸く、それもかなり小さく丸く、形を整えているように見えた。宗輔の長い指が、器用に小さな氷を扱っている。
 十分いい男だけど、俺も別に男好きってわけでもないし、たとえ乱暴なセックスをする男でなくても、まぁこれが潮時だよな。
「何か飲むか?」
 へえ、そんなお優しい言葉は初めてだ、と拓は思った。
 いつも、こっちの準備ができてようといまいと、お構いなしに突っ込んでくるのだ。おかげで、さすがに拓の方も自分で準備をするという技を覚えた。今日も、『シャングリラ』のシャワールームでしっかり準備をしてきている。明後日の試合に響かせるわけにはいかない。もちろん、朝までやられるのは仕方がないとは思っているから、せめて被害を最小限に留める努力をしているわけだ。

「さっさとやろうぜ。前置きは面倒くさい」
 宗輔はからん、とアイスピックをキッチンテーブルに放り出した。拓の顔を見ないまま、息をひとつついたように見える。
 ご婦人方にはあんなにつらつらと滑らかにしゃべっているのに、拓に対してはまるでその話術が発揮されたためしがない。おかげで、拓の方もそれに慣れて、この男相手に会話など無駄だと思うようになっていた。
 テーブルの上には小さなグラスが置いてあって、宗輔はさっき削っていた氷を放り込むと、そのグラスを持って拓の方へやってきた。そしていきなり腕を摑むとリビングの方へ引っ張り込む。

 結局、いつも同じだよな。
 絨毯に押し倒された形になった拓は、諦め気分で不意にアクリルテーブルの上に宗輔が置いたグラスの光を見つめた。グラスの中に幾つかの氷が、不思議な光を跳ね返している。白、ピンク、オレンジ、琥珀色、そして。
 拓は自分からベルトを外し、ジーンズを下着ごと脱ぎ掛けた。こいつとやる時には、とりあえず下半身さえ脱いだらいいと、そう思っていた。
 その拓の手に、いきなり、宗輔の手が重なる。
 拓は宗輔が自分のものを弄ぶつもりなのだろうと、下半身に目をやったが、その手はただ拓の手を押さえただけだった。

 何だよ、と思って顔を上げた時、宗輔はグラスの中の氷をひとつ取り、ちょっと光にかざすように見つめていた。
 氷の中に、黒っぽいハートのようなものが見えている。
 何だ、と思ったとたん、宗輔がそれを自分の口に放り込み、そのまま拓にかぶさるようにキスをしてきた。
「何す……」
 唇に触れる熱は、宗輔の唇から零れる氷の温度で冷やされ、拓が唇を開きかけると、宗輔も唇をわずかに開いた。
 二人の熱の間に、氷が踊っている。
 溶け出す氷の雫が唇の端からこぼれる。時折、氷と一緒に宗輔の唇が触れる。冷たくて、温かい唇は、氷の先の拓の唇を探しているようにも思える。
 拓は唇と舌で互いを隔てる氷を転がしながら、その冷たさにたまらなくなった。
 その向こうの熱が欲しいと、宗輔の唇から氷を奪い取る。
 氷を自分の舌の上に受け取って、拓はそのまま宗輔の体を抱きしめて、熱い唇と舌と、そのさらに奥にあるものを求めた。
 まだるっこしかった。キスよりも、この身体が欲しい。

 宗輔の手を自分のものへ引き寄せようとしたとき。
「え?」
 口の中にいきなり甘みと、少しの苦みと、それから不思議な温度が広がった。
 その瞬間、拓は初めて宗輔のたまらないほどの笑顔を見た。
「何だよ」
 飲み込んでしまってから、悪態をついてみたが、遅かった。

「いや、久しぶりにクラブシノハラの初代天才パティシエが創作チョコレートを作ってみようかと思ったんだ。温度が難しい」
「温度?」
「チョコレートを氷の中に入るように凍らせて、それから氷の中でチョコレートが偏る位置になるように氷を削る。チョコレートが凍ったままじゃ、口の中で味が広がらないだろ。だから口の中で半分溶かして、それからお前に」
 解説なんかするな、と思って、拓はまた宗輔を引き寄せた。
 宗輔は始めこそ珍しく躊躇っていたようだが、やがて拓の体を強く抱きしめ、時には確かめるように、そして時には強く、そしてまた時に慈しむように唇を合わせ、舌を絡めてきた。
 舌の上に、まだチョコレートの味が甘く残っていた。
 これ、例の最高級のカカオなんだろうか。
 いや、そんなことはどうでもいいや。きっと宗輔が氷の中に閉じ込めた時に、このカカオは最高級のものになったのだろう。
 時折、宗輔の大きな手が拓の短く刈ってしまった髪を撫でる。
 拓は目を閉じた。
 キスの時、目を閉じたのは初めてだった。多分、相手を疑っていて、何をされるか警戒して、キスに溺れていたことがなかった。いや、そもそもキスなど、こんな風にまともにしたことはなかった。
 キスって結構いいものなんだ。
 そんなことを思ったのは初めてだった。大体男同士で愛し合うなんてのは、つまり欲望が満たされればいいわけで、愛だの恋などの感情は別のものだと思っていた。だからキスは余分な手順で、それこそ下半身だけで十分だと思っていたのだ。少なくとも、相手はそうなのだと思っていた。
 そんな無味乾燥な無茶苦茶なセックスをしてきたのに、今夜はただキスだけで十分だなんて、本当にどうかしている。
 聖バレンタインの気まぐれなのかもしれない。いや、どんなおっさんか知らないけど、まさか男同士の初本気キスを応援する破目になろうとは思っていなかったに違いない。

 そのまま絨毯に座って、何故か手をつないでソファに凭れていた。こんなふうに手に触れるのも初めてかもしれなかった。宗輔の手の大きさ、温度も、指の形も、今ようやくはっきりと確かめることができる。
「新手のチョコレートの渡し方だろ」
「意味わからん。なんで急に乙女チックなことするかな。それより、するならさっさとしようぜ」
 どう言えばいいのか分からなくて言ってみたが、さすがに迫力がなかった。
 宗輔にはしっかり照れ隠しに聞こえただろう。
「明後日、試合なんだろ」
 今日は一体、なんなんだ、と思った。
「何で知ってるんだ」
「矢田さんに聞いた」
「何で矢田が知ってるんだ。ていうか、何で矢田を知ってるんだ」
「有名だろ。お前が矢田さんの愛人だって」
「そうか……ってそれもよくわからないんだけど」

 結局、あれこれと空回りしているのは自分だけなのか。
「俺、世の中のことも、俺自身のことも、どうしようもない、仕方がないことばかりだと思ってたから」
「お前の様子がおかしいと思って、矢田さんに会いに行ったんだ。そうしたら、矢田さんが、あいつまたボクシングをやるつもりらしいと。お前が身体絞ってんの見て、気が付かないわけないだろ。親父がパンチドランカーでどうしようもなくなったのに、それだけは母親に頼まれてたのに、だが決心したなら仕方がないってさ」
「何で矢田に会いに行ったんだ」
「お前、無茶苦茶減量して、身体絞ってたからさ、目つきも変わってたから、心配で。いや、つまりお前のことがもっと知りたかったのと、必要なら矢田さんと決闘しようかとか、色々考えて」
「なんだ、それ。俺、別に矢田のものじゃないし。借金の分を体で払ってるくらいなもんで……でもそれも言いわけで、本当はただ、流されるままここまで来ただけだ」
「矢田さんは、お前をボクシングから遠ざけようとしてたんじゃないかな。あの人なりに、お前のことが心配で」
「どうだか。そんな善人じゃないぜ、あのおっさん。商売のやり方もあくどいし」
「そう、人はさ、良いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら良いことをするんだ」
「分かったようなことを言うんだな」
「そりゃ、お前より10年は余分に生きているからな」

 傍で宗輔が頭をソファに預けた。
「でも、多少長く生きてきたからって、どうしていいのか分からないこともあるんだ。この2ヶ月、どうやって切り出そうかと思っていた。ボクシングなんか辞めて、俺の愛人になれ、とか言ってみようかとか」
「で、あんなに乱暴だったのか。もうちょっとやり方考えろよ」
「やかましい。お前があまりにも何考えてるのか分からなかったからだ」
「それ、こっちの台詞だよ。あんた、何にも話さないし。だから、俺、嫌われてるのかと思ってた」
「お前が俺を嫌ってんたんじゃないのか」
「そうなのかな。今日は何が何だかもうよく分からない」
 混乱してしまっているのだ。
 でも、と拓は続けた。
「嫌いなら、ここに来てなかったんだろうな。あんなに酷い扱いされてたんだし」

 不意に、宗輔の腕が拓の頭を抱きしめた。強い、大きな手だった。
「やめろって言ったらやめるか」
「やめない」
「……だろうな」
「俺は優しい親父をあんなふうにしたボクシングに復讐してやりたいんだ……あんなになったからって親父を刺し殺した母親にも復讐してやりたい。そう思ってたんだけど……でも、何だか、今分かった気がする」
「何が」
「ボクシングが好きなんだ。サンドバックを叩く刺すような音、ストレートが相手をぶちのめすまでのわずかな時間に空を切る音、目が腫れちまって血の中で何にも見えなくなっても、相手の息遣いを追いかけながら、ゴングが鳴るまで闘い続けるのが。親父が試合に勝ったとき、俺を肩車してくれて、あの時リングの上から見たあの景色が」

 宗輔は長い時間、黙っていた。そして、今度はもう一度拓の頭を抱きしめ、それからそっと離した。
「わかった。じゃあ、俺はここから黙ってお前を見守っている」
「そこ、俺もまたパティシエとして新作にチャレンジするよ、とか言う場面じゃないのか」
「馬鹿、もう俺にはそんな若さも才能もないよ」
 顎で示された先、アクリルテーブルの上では、氷が溶けた水の中で、色々な種類のチョコレートが間の抜けた感じで沈んだり浮かんだりしている。
「それに、経営が面白いんだ。今にクラブシノハラをもっとでかくしてやる。そう思っている。ま、お前のためにまたしょうもないチョコレートの渡し方は考えてやってもいいけど。それより、お前、これ何なんだ」
 宗輔が絨毯の上に放り出されたサンドバッグとゴミ袋を指す。

 改めて見ると、何だか俺ってバカっぽい、と思った。
「え……っと、つまり、バレンタインプレゼントだ。菓子屋にチョコレート渡すの、バカだろ。その、普段の俺へのやり方見てて、あんたはサンドバッグが必要なのかと思って。俺と別れた後、殴るものがいるかな、と。で、殴っているうちに中の詰め物が減ってくるから、後から足す詰め物もいるかと……それ、矢田からもらった上等のコートとかスーツとか、切り刻んだぼろなんだ。もういらないし」
 宗輔が呆れたような顔になったが、意外にもまともなことを言った。
「サンドバッグ吊るための枠は? 頑丈なものがいるだろ」
 確かに、そこまでは考えていなかった。サンドバッグだけ渡されても、どうやってつりさげるかのほうがはるかに問題だ。
「じゃ、とりあえず、蹴っとけよ」
 宗輔は笑いをかみ殺すようにして、拓の短い髪になった頭を撫でた。
 こいつ、意外に笑うんだ。知らなかった。
「しばらくサンドバッグは使うことはないさ。プロになって賞金稼いで、いつかお前がこのごついサンドバッグの吊枠を買ってくれ。そのうち、俺にも本当に殴らずにはいられない時がくるかもしれないからな」
「自分で買えよ。金持ちのくせに」
「お前が責任とれ。俺の気持ちをさんざん惑わせたんだからな」

 どっちがだよ、と思ったけれど、何だか今夜は喧嘩を売っても買ってもらえないようだった。
 それに、今は何となく気分がよかった。いつの間にか二人の間にある距離が愛しくて、絨毯に置いた手に手が重なる。長い時間、手と手をただ重ね合わせ、重ね合わせていることを忘れるほど時を過ごした。
 時々、お互いの手の温もりを思い出すのだが、わざと忘れているかのように心を鎮め、いつか離さなければならない手だと知りながらも、この一瞬が続いてくれるようにと思った。
 もうどれくらいの時間がたったのかもわからなくなってから、宗輔がぽつりと言った。
「言いそびれてたけど、その髪、似合うよ」
 バリトンの声が耳に心地よかった。心地よいだけに、この声を聞いていてはいけないとも思った。

 トレーニングに入ったら、きっとしばらくは会えないだろう。
 いや、まずは明後日の試合に勝ちたい。赤沢とジムの連中に、葛城拓が本気であることを見せたい。
 そして4年間のブランクを埋めなければならない。誰かに甘えたらそこまでになってしまう。今までのように流されるのではなく、今度こそ自分の手で何かを掴み取りたい。
 そしてそれが分かっているに違いない宗輔は、ただ重ねた手をそのままに何も言わなかった。
 それでも、口の中に、あの冷たい氷の感触と、甘いチョコレートの味と、そして熱い宗輔の舌の感触が、いつまでもいつまでも残っていて、今はただそれを忘れたくないと願っていた。




あぁ、だめだ。私って、本当に、あまのじゃく。
これって別れ話なのかも……しかも、ますますこのブログのジャンルが不明になってきた…

しかも出来上がってみたら、ただのボクシング馬鹿の話。
書く前に頭ん中にあるときは、もう氷でキスのシーンがでーん、と。
で、出来上がったら、キスシーンはちーん、と、小さく収まっているだけ。
休みの日はこれに没頭する!と決心して(石旅行を断念し…ただ渋滞が嫌だっただけだけど)頑張ったのですが。

人生2作目のBLにするぞ、と思ったんですけど、ほんとに難しいなぁ。
(1作目は……友人の許可があれば、いつか、お目にかかるかも…でもそれを書いて、私は玉砕しました。私には無理だわ……と)

しかも、宗輔ときたら、まるでみおさんちの暁さんみたいなこと言ってるし。
お前のことが知りたいとか、何とかかんとか。
いけません、また直前に読んだお話に流されてしまった……
みおさん、ごめんなさい。
ついつい、みおさんと、ヘタレ攻め好きが似ていたために……

そういえば、昔、トルストイの『戦争と平和』を読んだとき、大変なことになっていました。
思えばあの時、ヴォルテラの家(ローマ教皇の背後組織)の仕組みが出来上がったのであった。
あのころの作品、ヨーロッパ風大河ドラマでしたから……

なお、本当にチョコレートでこんな氷詰ができるのか、確認していません。
キスでうまく溶けるのかも、もちろんわかりません(^^)
妄想ですから。

これを考えた時、ベースにあったのは、敬愛するO・ヘンリーの『賢者の贈り物』
でも、「相手を思うあまり、お互いに身を切る」まではいかなかった。
現代風にしたら、せいぜいこんなところでしょうか。
贈り物が割と役立たずってところだけ一緒^^;

ついでに、男が二人出てくると、どうしても組合せパターンがこうなってしまう。
ずいぶん年下のくせに生意気で一筋縄ではいかない、はっきり言って性格も可愛くない受け
態度は偉そうで社会的立場も立派だけど、どこか情けないところがある、いささかヘタレな攻め

という感じでしょうか。
BL書いたことないので、表現が正しいのかどうか、わかりませんが……

しかし、本当に、SSって難しいですね。
一体何をどこまで書けばいいのか。
これまで皆さんが書かれたSSは、余計なことをさらりと流して、それでも物語の完成度とか世界はちゃんとできていて、ものすごく勉強になったんですけど、いざ自分が書くと、学んだことが役立っていない……(>_<)
いや、なによりBLが難しい。
みおさんのBL論読ませていただいて、なるほど、そうなのか!と思って、目から鱗だったんですけど……

自分の書いているものの所属するジャンルが分からなくて、結構困ったりしていました。
で、帰属先を考えて、さまよったのですが……
はっきり言えているのは、『長い』『物語は何でもミステリーが信条』という2点のみ。

ということで、やはりジャンルは『長編小説』?
でも、ジャンル分けって本当に難しいですね。
この間も、どなた様かのブログを訪ねさせていただいて、みなさん、同じようなことで悩んでおられるんだなぁ、と。でも探すほうは、キーワードがないと探せないし……

かのうさまにも、男二人が出てきて、できてたらBLでいいんじゃないの、と爽やかに力強く言い切っていただきましたが、そういう意味では、うちの二人(真と竹流)はできている、とも言えるので、BL?
お伽噺(人魚姫)をベースにした大河風ミステリー的BL
でも、本筋が恋愛じゃないところが痛い。
しかも、最も問題なのは、女性と絡むほうがはるかに多い……
女性の登場人物もやたらと多い……(しかも、たいがい強い…?)

参考までに
パンチドランカーというのは、頭を殴られたりしているうちに脳に障害が起こってしまった人で、頭痛を認めたり、認知障害、酷いときには人格障害を引き起こしてしまいます。
通っているボクシングジムでお会いした、あるプロ(っても色々な方がおられます)の人が言ってました……
本当にぼわーってしょっちゅう脳震盪みたいになるんだって。
それって、どうなんだろう。医学的には、本当はよくないですよね。
で、プロになれるのは32歳までと決まっています。
ちなみに突然の脳出血などは40歳代から増えます。
本当に、プロボクサーの方々には体を大事にして、頑張ってほしいです。

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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:2】2年目の贈り物(SS:バレンタイン、キス、氷)(18禁) 

【カテゴリ変更で再登場・中身は変わっていません(#^.^#)】

前回、彩色みおさんの企画してくださっているSSに初挑戦させていただき、玉砕したのに、また性懲りもなく思いついてしまいました。
懲りないやつだな、と思われるのを承知の上で、つい妄想が走ってしまい……

みおさんの魅力?魔力?のせいでしょうか。
なぜか想像力を掻き立てられるというのか……
これもみおさんのあったかい作品やブログから立ち上る仄かな色気、に惹きつけられたからに違いありません。
素敵なブログや作品は、他の人を力づけて前に進ませるのだなぁ、と思う今日この頃です。
みおさん、ありがとうございます。

そう、色気なんですね。
皆様のSSを拝読させていただいてわかったこと。
私の作品には色気がないわ、と。
チャーミングな色気、男らしい色気、優しい色気、妖艶な色気、いろんな色気があるけど、場の雰囲気を作る、立ち上るような色気。

それが私がBLを書けない理由でもあるのですが……ついついドキュメンタリーのようになってしまうのです。
だからHシーンが苦手。
困ったなぁ。
BLの醍醐味のわかっていない私ですが、無謀にもまた思いついてしまったので、恥を承知で載せてしまいます。
実は、ちょっと渋めのものを書いた後は、必ず茶化してみたくなる、関西人の悪い癖が出てしまったのです。
でも今度は4500字あまり。
少しはSSに近づいたかも?

あ、前回の長いSS(って、変な感じ。短い長期休暇、寸足らずのスカイツリー、みたい)にはタイトルがなかったことについさっき気が付きました。
そこで、付け焼刃的につけてみました。
Time to Say Goodbye
愛するIL DIVOの曲から取ってみました。
外交官黒田……なんでしたっけ、とりあえず、アンダルシアのテーマ曲、今はアルファードのCMで使われている名曲。
恋人との別れなのか、これまでの自分と決別して恋人ともに旅立つのか、どうとも取れる歌詞がちょっとイメージだったので。


さて、今回はあれから2年。
宗輔(シュウスケ)・拓(ヒラク)の二人はうまくやっているのか……
今度は宗輔視点で書いてみました。




『2年目の贈り物』
拓medium (イラスト:竜樹さま)感謝m(__)m

 恋人がぶちのめされて倒れる瞬間を見るのは、気分のいいものじゃない。
 当たり前のことだと思うが、実際に目にするまで、そのことに気が付かなかった。
 宗輔はリングの方へ駆け寄りたい気持ちを振り切って、試合会場を後にした。

 忙しかったこともあるが、これまで拓の試合を見に行ったことがなかった。拓の方から試合見に来てくれよと言ってきたこともない。
 本当に馬鹿みたいにがむしゃらに拓は闘っている。リングの上だけではない、多分彼の人生と、時々は命も賭けているようにさえ見える。
 プロテストに合格するまでには時間がかからなかったが、そこから先は決して順調とは言えなかったようだ。勝ってなんぼではなく、いわゆるファイトマネーで金を稼ぐわけだから、頼み込んででも試合に出させてもらいたいプロはいくらでもいる。時には八百長まがいのことを持ちかけられることもあるようだが、拓はそんなことを宗輔には言わない。

 聞き出したい気持ちがないわけじゃない。
 だが、聞けば拓の自尊心を傷つけることもあるだろう。
 宗輔も、自分の仕事の幾らか汚い部分を、拓に知られたいとも思わない。

 試合会場の外に出たら、雪が舞っていた。
 明後日は2年目のバレンタインだ。
 少しは気持ちが通じ合っていると思ったあの日から、二人で過ごした時間が十分あったとは言い難い。恋人、などとは誰がどこから見ても思わないだろう。
 それでも、今夜拓が宗輔のマンションにやって来ることだけは間違いがない。

『その日』は、いつも宗輔は上等の肉を2kgも買い込む。仕事中毒で、普段まったく休みを取らない宗輔が、1年に何度か取る、まる2日の休みのわけを、秘書も役員の誰もが知らない。

「くそっ」
 リビングのドアを開けた途端に倒れ込んだ拓が、誰にというのでもなく悪態をついた。
 ぼろぼろのザックは玄関に放り出したまま、かろうじてここまでたどり着いたような危ない足取りだ。リビングのソファで焼酎を飲んでいた宗輔は、拓を助け起こすのでもなく、そのままキッチンに行き、冷凍庫のアイスボックスから氷を幾つかつかみ出し、ビニール袋に入れて口を縛った。

「ほら、冷やしとけ」
 会場を去り際に見た対戦相手のカウンターは、ものの見事に拓の左こめかみあたりに突き刺さっていた。案の定何の手当もまともにしていない拓のこめかみには、申し訳程度の絆創膏が貼られていた。
 絆創膏はほとんど血まみれで、鼻に詰め込んだ止血剤の入ったスポンゼルまで赤く染まっている。目の周りも腫れていて、明日あたりはとんでもない顔になっているに違いない。
 唇の端も切れて、膨れ上がっている。
 色気も何もあったものじゃない。
 拓はしばらく頭がはっきりしていなかったのか、対戦相手と間違えているかのように恨めしげに宗輔を見て、それから氷の入った袋を払いのけた。

 払いのけた勢いのまま、宗輔の首の後ろに両腕を回し、血のにおいのする唇を押し当ててくる。
 このキスがたまらなかった。
 口の中にも、まだ鉄臭い味が残っている。それを宗輔は舌と唇とでもぎ取るように無茶苦茶に吸ってやる。血と唾液が交じり合ったキスは、身体の芯に火をつけた。互いに腕で相手を締め付け、息苦しくて意識が吹っ飛びそうになるまで、舌を絡め、引きちぎるほどに求める。
 鼻も塞がっている拓が意識を飛ばすのも構わずに求め、やがて背中に回した拓の手が、むやみに宗輔を殴る。
「肉」
 もうちょっと可愛らしい言い方があるだろうと思うのだが、この単語だけの要求が宗輔にはたまらない。本当は押し倒してこのまま犯したいが、肉を食らっている拓を見ること自体もたまらない快楽なのだ。

 減量のため、試合前には食欲も性欲も抑え込んでトレーニングをこなしている拓は、『その日』馬鹿みたいに肉を食う。野菜も炭水化物も、もちろんデザートにも全く興味を示さず、ひたすら宗輔の焼いた肉を、まるで草原で獲物を食らうライオンのように貪り食う。
 食べている姿とベッドの上の姿には共通項がある。
 どちらも我慢ならない欲求を満たす爆発のような行為だ。
 だからその姿に宗輔の体の温度は上昇し、欲望が芯から突きあがってくる。
 犯して、追い込みたい。
 始めは焼肉屋に連れて行ったのだが、すぐに外で食べることは危ないと気が付いた。
 店を出た時から、ほとんど身体を擦り付け合うように絡めあっていた。いや、食べている最中から、危なっかしかったのだ。
 そして車に乗り込んでドアを閉めた途端、拓は宗輔にむしゃぶりついてきた。もちろん、宗輔の方も同じだった。
 暗闇の中、焼肉屋の駐車場、色気とは程遠い大蒜の入った濃厚なタレや肉の臭いが身体にも服にも染みついたまま、他人目があるかも知れないのに、どうにも我慢ができず、体を繋げて貪りあった。

 だからそれ以来、肉は宗輔が準備して、マンションで焼いて食わせている。
 そして『その日』からまる2日、肉を食っては求めあい、部屋からは一歩も出ない。拓の傷や腫れはその2日の間に多少引くかどうかで、とても素敵な睦事とは言い難いが、会わない時間の方が長い二人にはそんなことはどうでもよかった。

「宗輔……、宗輔……」
 普段、拓は名前を忘れてしまったのではないかと思うくらい、宗輔のことをあんただとかお前だとかしか呼ばない。だがこの時だけはうわ言のように宗輔の名前を呼ぶ。
 声は嗄れて、喘いで漏れる息遣いがどんどんエスカレートしていく。
 拓の身体が宗輔を受け入れて狂うようになったのは、この1年ほどの間のことだ。それまでは男になすがままにされることに我慢していたのか、痛みが辛かったのか、まだ感じるということがどういうことなのか分かっていなかったのか、耐えているという気配の方が強かった。
 だが今は違う。
 拓は宗輔の上に跨って、腰を叩きつけるように振る。踊る、というよりも、まさにサンドバッグを叩くような勢いだ。拓の胸の筋肉のひとつひとつが汗で光る。宗輔は拓の引き締まった細い腰をさらに自分へと引き寄せる。突き上げる宗輔のものは拓の身体を引き裂く。
 拓の唇がしどけなく開いて、喘ぎ声と唾液が零れ落ち、汗が宗輔の腹の上に落ちる。
「拓」
 呼びかけると、うるさいと言わんがばかりに拓の尻の筋肉が宗輔を締め付ける。
 たまらない。
 いつの間にか狂わされているのは俺の方か。それとも、こいつが俺に狂ってくれているのか。

 ぎーっつ、ぎー、ぎーっ
 もうちょっと可愛らしい音が出るように改良しろと言わなけりゃな。どうせなら音楽が鳴るとか。いきものがかりのじょいふる、とか、チョコレートっぽくていいじゃないか。
 だが、まあ、でこぼこで足場の悪いベッドの上を歩くってのは大したものだ。
 宗輔は恋人が眠るベッド脇の椅子に座って、そいつのいささか不器用な歩行を見つめていた。
「お菓子をどうぞ」
 声はまずまずだな。
 拓はびくともしない。時々思い出して氷を当ててやっていた左目の腫れは少し引いてはいるものの、青染みはひどくなってきている。ちょっと痛々しくて、愛おしい。

「お菓子をどうぞ」
 そいつはもう一度言った。さっきよりボリュームアップしている。
 それでも拓はびくともしない。微かに肩が呼吸で上下する。練習と減量で自分を追い込んで、やっと8ラウンドの試合をさせてもらえるようになり、試合の後狂ったように肉を食い、宗輔を求める。そしてこうして眠り続ける。
「おりゃあ、ええ加減に起きんかい! いつまで寝くさっとんのじゃ」
 ついに、そいつは切れた。
 すごい。そいつはクラブシノハラの今年の新作チョコレートが載った盆を頭の上に持ち上げて、袴を穿いた足を器用に、倒れることもなく振り上げ、眠り続ける拓に蹴りを入れた。
 そいつが掲げた盆の上で、チョコレートがバウンドする。

 拓が跳ね起きた。
「さっさと食わんかい! 腕がだるいやないけ!」
 拓は呆然と目の前のからくり人形、いや、元からくり人形のロボットを見つめている。お坊ちゃん頭のからくり人形は、可愛らしい顔のまま、無駄に口をパクパク動かしている。口の動かし方に滑らかさがない。まだ改良の余地ありだ。
「われ、まさかわしの出したもん、食えん、ちゅうんけ!」
 拓はベッドの上で毛布を身体に巻きつけ、跳ね起きた姿勢のまま、しばらくロボットとにらみ合っていたが、突然正座して両手をついた。
「いただきます」
 そう言って、拓はロボットが掲げた盆の上に載ったチョコレートを口の中に入れる。
 やっぱりこいつは基本、大阪の人間だ。ロボットからの突然の突っ込みにもまともに対応する。
「うめぇ」
 宗輔に半分背中を向けたまま、拓は指についた溶けかけのチョコレートをそのまま舐めとった。
 こいつ、意外に可愛い。
 と思ったら、いきなり拓が振り向いた。

「あんた毎年、よくもまぁ、しょうもないチョコレートの渡し方、思いつくな」
 可愛いは撤回だ。そもそも、愛し合う二人の図柄なら、俺がお前の指を舐める場面だったはずだ。
「俺は菓子屋だ。お客様の手元に可愛いわが子らを届ける方法も、売るための演出もあれこれ考える」
 拓ははてなの貼りついた顔をしている。
 ま、からくり人形は会議で没になったコマーシャルの絵面だとは言いにくい。クラブシノハラの次のコンセプトは、家族でちゃぶ台を囲んで味わうスイーツなのだ。『もう一度家族を楽しもう』的な。

「去年は頭の上から、ラジコン飛行機でチョコレート、爆弾みたいにばら撒きやがって、今年はなんだ、こいつ」
 拓はからくり人形仕立てのロボットの鼻先に指を突きつけた。
 がぶっ
 途端に、盆を頭の上に掲げたままのロボットが口を開き、拓の指に噛みついた。

 こんなことまでできるのか。宗輔も驚いたが、拓もまわりが腫れた目をますます見開いて、かぶられたままの自分の指を見ている。
「俺の親友はロボット工学の研究者でな、しかも子供好きで、ちび達を喜ばせるアイディアをあれこれ考えてるんだ」
「俺がガキだってのか」
 左目の腫れはまだしばらく残るだろうし、その腫れが引く前にまたこいつはトレーニングを再開し、次の試合に全てを懸ける。いつも鋭い目できつい顔をして、餓えたライオンみたいに獲物を睨み付ける。
 だがそうして拗ねる顔は、結構いけている。
 闘っているお前も悪くないが、たまにはそんな顔を見せてくれ。

 まる二日、抱き合った身体をようやく洗い流した拓が、ソファで新聞を読んでいる宗輔のところへやってきた。宗輔の手から新聞を取り上げ、両脚の間に立ち、ソファに片膝を預ける。そのまま、まだいささか不細工なままの顔を近付けて宗輔の顎を掴んだ思ったら、目を閉じ、唇を重ねてきた。
 狂ったように求め合う時はともかく、キスは照れ臭いと言って、普段はこんな明るい光の中でキスをすることなどない。だから、多分今も同じなのだろう。舌を絡めるのでもなく、ただ唇で触れて、まるでどうしたらいいのか知らない中学生か高校生のように唇で唇を弄っている。
 拓の微かな息が宗輔の唇の上で震える。
 宗輔の唇に触れたまま、拓の唇が躊躇うように閉じられた。
 かすかに、二つの唇の間に距離ができて、吐息だけが絡まりあう。歯磨き粉のミントの香りが鼻先をくすぐっていた。
「どうしたんだ」
「俺、バレンタインとか忘れてて」
 額だけをくっつけたまま、珍しく情けない声で拓が言う。
 宗輔は拓の腰を抱き寄せた。拓は素直に凭れかかってくることはなく、ちょっと逆らうように、宗輔の両肩に手を突っぱねる。そして、ものすごく真剣な声で聞いてきた。
「なんか欲しいものあるか?」

 去年も拓は同じようなことを言っていた。
 だから、去年のホワイトデーには、拓がバイト先で貰ったという鉄材を使って、一昨年拓が持ってきたサンドバッグのために、はんだ付けの資格を持つ友人を連れてきて、一緒に鉄製の頑丈な吊枠を作った。
 拓はここに来たときには、感触を確かめるように叩いている。
 幸いなことに、今のところ、仕事でも、二人の関係でも、宗輔がサンドバッグを叩かなければやってられないような出来事は起こっていない。

 それだけで十分だった。進展もないけれど、壊れることもない。時々、お互いの存在を大事だと思いだす瞬間があったらいいと、今は思っている。
 氷でちゃんと冷やさずに抱き合っていたからちょっと不細工なままのボクサーが何だか妙に愛しくなって、宗輔は拓の頭に手を置いた。
 だから、今はこれだけでいいんだ。
「そうだな、来年のバレンタインも、その次の年も、俺にしょうもないチョコレートの渡し方を考えるチャンスをくれ」

~Fin~


おまけ
サンドバッグを殴りながら拓、ちょっと聞いてみた……
『ところで、あんたってホモだったのか?』
え? 今更聞く?
多分、そうじゃなかったら手出ししてないでしょうに。
拓は自覚なし、たぶん女でもよかったと思うけど、最初に男を経験してしまったので、そっちに流された系。
宗輔の返事など聞いているのかいなのか、ひたすら、矢田からもらった上等の服を切り刻んだぼろを詰め物にしたサンドバッグを打つべし、打つべし、打つべし!


お目汚しで、すみません。
結構、宗輔がいいやつで自分でもびっくりしました。
もう少し、いじわるかと思っていたんですが。

きっと七夕に毛が生えた程度しか会っていないとは思うのですが、無事に続いているようですね。
矢田氏とはどうなっているのか、わかりませんが……
それなりに幸せでよかった……

次回予告(があるってどういうこと?)
クラブシノハラ 意外な転換劇の裏側に密着?
高級菓子を売りにしてきたクラブシノハラが大きく客層を変える戦略。
篠原宗輔氏『やっぱりお菓子は子どもたちのもの』
親友のロボット工学者が語る『宗輔、お前、変わったな。いや、昔のお前に戻ったってのか』
……その後ろに、ちょっとお子ちゃまな恋人ボクサーの影ありか?
なんちゃって。


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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(前)(18禁) 

注:18禁シーン(BL)を含みます。

二人の関係を前に進めようと思い、新作を書いてみました。竜樹さん(萌えろ! 不女子)にイラストを描いていただいたお礼は、お話を書いてお返ししなければ、とちょっと一生懸命…頑張ったよ!
もともとSSだったのに、引き伸ばされてどこまで行くのかはわかりませんが、もう少しHappy Endとわかるところまで、持っていきたいと思います。

とは言え、今回は少し深刻なお話……かも。
宗輔の過去は、拓以上にややこしかったようで。
でも、未来へとつながっていくためのお話なので、よろしければお付き合いください。

前篇は、宗輔視点。そして後篇は拓視点です。
今回は前篇をお届けします。
すごい勢いで書いているので、推敲しながらの掲載です。
時々手直しが入って、変わっているかもしれません。
ついでに、誤字脱字、その他、これはあかんやろ~というところはご指摘ください。

もうサービス精神いっぱいで?あまり上手ではない18禁シーンも織り込みました。
SSから始まったストーリーなので、できるだけコンパクトにしていくつもりですが、今回も8400字。
そして、今回の要は、例のロボット博士・斎田アトム氏の登場です。




炎の記憶・海の記憶(前篇)


 その日の帰り、宗輔は思わぬ場面に遭遇した。

 社長業とは言え、一代限りの成り上がりという気持ちがあって、会社の行き帰りに運転手を雇うほど自分がお偉い人間とは思えなかったので、公の業務ではない場合には自ら車を運転している。
 その十五年来の愛車、アルファロメオが今朝方、入院した。
 宗輔にとっては、まさに唯一の家族が入院した、という心地だった。もうそろそろ買い替えを、と既に五年以上前から言われていたのだが、どうにもそんな気にならないままここまで来た。この十五年の間には数えきれないほどのモデルチェンジがあったし、今さら宗輔のハートをぐっと掴むようなちょっとレトロなアルファロメオには出会えそうにない。

 ま、もう一回くらいは直してみせますけどね。

 宗輔が頼りにしているメカニックは、幸いなことに仕事馬鹿でプライドが人一倍なので、新しい車を売りつけようとする自社の営業の視線を背中にしても、動じる様子はない。宗輔にとってはありがたいことだが、もう一回というこの台詞は何度聞いたことか。
 宗輔は後ろ髪引かれる思いで入院を宣言されたアルファロメオに背を向けて、タクシーに乗り込んだ。

 思えば、帰りもタクシーを使えば良かったのだ。あるいは会社の車を使っても、誰一人宗輔に文句を言わなかっただろう。大体、運転手や秘書は、宗輔が自分の車を自分で運転することに対して、あまりいい顔をしていない。事故にでも遭ったらどうするのだ、社長らしく堂々と会社の車と運転手を使え、というのだ。そのたびに、宗輔はそのうちに、と曖昧に答えている。
 そしてその日、久しぶりに電車に乗ってみようと思ったのがいけなかった。
 
 駅から自宅のマンションまで、結構な距離がある。
 そもそも高級住宅街に住むような人間は車移動を基本とするのだろうし、駅前のごちゃごちゃした雰囲気を好まないもののようで、いささか交通が不自由なことなど気にしていない。たまに電車を使うとその不自由さに直面するのだが、考え事をするには悪くない時間だ。

 ちなみに、電車で宗輔のところにやってくる『一応恋人』の葛城拓にとっては、ロードワークの一環にすぎないだろうし、それどころか駅からだけでは物足りなくて、ジムから1時間以上かけて走ってきているかもしれないという気もする。
 確かめたことがないので、今度聞いてみよう。
 とは言え、今度会うのがいつになるのか、まったく予測不可能の恋人なので、それまで覚えているかどうか。
 離れている時間がやたらと長くて、その間には拓に見せたいものや話したいことを山のように思いつくのに、いざ会えば、ほとんど会話にならない。短い時間を惜しむように抱き合っているからというのもあるのだが、何を話したらいいのか、言葉が簡単に出てこないのだ。

 十も年下の生来野生児のような拓は、宗輔以上に自分の感情を言葉にしてこない。そもそも誰かと分かり合うための会話が得意ではないのだろう。だからかもしれないが、拓の生い立ちやこれまで置かれていた環境を考えても、随分と辛いことがあっただろうに、そういうことを宗輔にぶつけてくることはない。
 お互いにもうちょっと相手のことを知ろうという努力をしてもいいのにと、これもまた離れているときには思うのだが、実際に会うと言葉がいかに不自由なものか、思い知らされる。
 それに、会う時間だって、もっと作ろうと思えば作れるはずなのだ。会うのが難しいのなら、もしかして一緒に住むという選択肢だって考えられなくもない。
 だが、拓は、宗輔の住むような高級マンションには住みたがらないだろう。
 今はハングリーでないとだめだ、という強い信念が拓にはある。何も言わないが、拓の目がそう語っている。
 だから、宗輔は拓があの世界から足を洗う日が来たらと、その日を何年でも待つつもりでいた。もちろん、拓が結果的に女の子と巡り合って結婚して、ということになるのなら、その時は潔く身を引くつもりだった。十も年上の男として、嫉妬したり、失恋で狂おしくなるようなみっともないことにはなりたくない。
 あるいは、そういう結末があるかもしれないと覚悟を決めているので、宗輔自身もまた、もっと会いたいなどという通常の恋人同士のような言葉を投げかけられないでいるのかもしれない。
 いつか、そういうことを拓と話す日が来るのだろうか。
 それとも、もしかして『今度結婚することになったから、クラブシノハラの菓子、引き出物に使ってやるんで、安くしろよ』とかいう一言で終わってしまうのだろうか。

 電車の中で家路をたどるサラリーマンたちや、いかにもカップルというような男女を見ながら、そんなことを考えていたら、電車を乗り過ごしそうになった。
 慌てて降りながら、多分この慌てて人をかき分けて扉へ急ぐ男が、『恋のお返しのお手伝い』というホワイトデーの宣伝を送り込んでいるクラブシノハラの取締役社長だとは、誰も気が付かないだろう、と思ったらちょっと可笑しくなった。
 そうか、明日はホワイトデーだ。
 そして、明後日は、宗輔にとって一年で一番辛い日だ。

 改札を出て、一度立ち止まり、駅から四方へ散らばっていく人の流れを見つめ、やがて誰も待たない部屋に向かって歩き始める。
 駅前からまだ数百メートル歩いたばかりだった。
 線路沿いの道の角々にある少し洒落たレストランや店、たまにいかにも大衆飲み屋的な店の並びが切れると、すぐにオフィスなどが入る低いビルが続き、角を覗くと小さなマンションや住宅が見える辺りで、宗輔は足を止めた。

 いや、正確には足が竦んだ。
 その瞬間、鼻先をかすめた臭いに、あの時と同じように、目の前が真っ赤に染まった。
 耳元ではじける、何かが爆発するような音。鼻と口の中に容赦なく襲いかかってくる煙の臭い。宗輔の視界を舐めあがるように昇る赤い炎が周囲を取り囲む。耳も目も咽喉までもその炎を捉えているのに、肌だけはまったく温度を感じていないような記憶が残っていた。ふらふらと炎の真ん中へ近づこうとする宗輔の腕を誰かが掴んだ。
 宗輔!
 耳元に叫ぶ声が聞こえる。
「火事だ!」
 身動きもできないまま立ちすくんでいる宗輔の脇を駆け抜けていく幾人かの足音、やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 野次馬の集まる路地の入口から宗輔が抜け出したのは、そのすぐ後だったのか、ずいぶん経ってからだったのか、記憶は全くない。
 ただ、マンションの灯りが見え、表の植込みの影の中、数段の階段に足を投げ出すようにして座る人影を見つけた時、宗輔は年甲斐もなく走り寄っていた。
「よぉ」
 立ち上がりザックを肩に担ごうと持ち上げかけた拓を、宗輔は力任せに抱き締めた。
「おい、何だよ……」
 言いかけた拓が、あまりの宗輔の強い力に言葉を飲み込んだ気配があった。
「宗輔?」
 遠慮がちに聞く声が随分と幼く、愛しく聞こえる。

 そのまま引きずるように部屋に連れ上がり、まだ何が何だかわかっていないような顔のままの拓を寝室のベッドに投げ込むようにして、いきなり求めた。
「どうしたんだよ」
 一度だけ、拓は拒むように事情を確認しようとした。だがすぐに諦めたようだった。
 宗輔は鬱陶しい背広を脱ぎ棄て、上半身はジャンパーさえ脱がさないままの拓のジーンズを下着ごと下げた。自分もスラックスを脱ぎ捨て、もちろんまだその気配さえない拓の身体の反応を無視して、乱暴に足を開かせ、いきなり後ろに突き入れようとすると、さすがに強い抵抗にあう。

 イライラしていた。とにかく、自分の何かを誰かに預けたかった。
 もどかしさに狂いそうになりながらベッドサイドの引き出しからローションを取り出し、自分の熱く火照ったものとまだ固いままの拓のその場所に垂らし、解してやることもせずに突き立てた。
 実際には拓も、まったく準備をしていなかったわけではないのだろう。ここに来るときにはそれなりの覚悟をしているはずで、入口の強い抵抗は先端が入ってしまうまでで、その先からはすんなりと宗輔を受け入れた。

 一瞬、脈絡なく暗い思いが宗輔を押し包んだ。
 こいつはまだ矢田と会って、あのいやらしいおっさんに身体を預けたりしているのだろうか。だからこんなふうに、簡単に男を銜え込んだりできるのじゃないか。
 そう思ったら、我慢などできなかった。
 初めてのバレンタインの日まで、宗輔はいつも強姦でもするような勢いで拓を抱いていた。気持ちが通じ合ってからは(少なくともそう思えるようになってからは)、拓が求めるのでなければ、それほど無茶を要求したことはなかった。
 だが、今日はもうどうでもいい気持だった。突き立てた自分の雄がぎちぎちに拓の身体を押し広げ、逆に拓の粘膜が強い筋肉のように局所を締め付ける気配に、宗輔は相手を気持ちよくさせてやろうという余裕など完全に失った。
「宗輔!」
 宗輔が容赦なく動くと、一度だけ拓が悲鳴のように宗輔を呼んだ。
 拓の身体が宗輔を受け入れているのかどうかもわからなかった。この一年ほどは確かに、拓のその場所は宗輔を認め、宗輔の身体に合わせて快楽をむさぼる気配も伝わってきていたのに、今日は何もわからないまま、宗輔は拓を責めた。
 拓が宗輔の背中に爪を立てる。何かに縋るように、耐えるように、宗輔にしがみ付いてくる。噛みしめる唇が赤く色を変えていた。苦しいほどの勢いで腹の奥に己を打ち込みながら、その拓の唇の両端を押さえ、開かせる。息を飲み込めない拓が、喘ぎ声と一緒に唾液を零す。腰の勢いを緩めないまま、唇でそれを吸い取る。拓が首を振って逃れようとするのを、背中ごと強く抱きしめ、ますます体の奥を擦った。
 拓の大腿の裏から尻にあたる宗輔自身の下腹が、そのまま拓を壊そうとしている、自分でもそう錯覚した。異様に気持ちが良かった。恐ろしいほどの快楽が背中を這っていて、拓をこのまま取り殺してしまいそうになっていた。

 翌朝、目が覚めたのは鳥や犬の声が聞こえてきたからだった。
 宗輔は跳ね起きた。
 一体いつ眠ったのか、いや眠ってなどいなかったのか、思い出せなかった。
 頭が痛い。そう思って傍らを見ると、拓が身体を丸めるようにして眠っていた。こいつはいつも身体を丸めて寝るんだなと改めて確認して、不思議な気持ちになった。
 拓の睫毛は、僅かな空気の動きを受け取るように震えている。相変わらず短く刈られた髪が、光の加減で淡く輝いて見えていた。もともと綺麗な形の耳をしていたが、殴られて出血したり腫れあがったりしているうちに、すっかり変形したように見える。そのひとつひとつが妙に愛しかった。

 時計を見ると、まだ慌てれば十分に間に合うことは分かったものの、とてもそんな気分にはならなかった。ベッドに起き上がり、枕元の電話の子機を取って秘書に連絡を入れると、宗輔の嗄れた声に何を察してくれたのか、何も言い訳を聞いてこなかった。午前中は特に重要な会議もないし、どうでもいいアポイントメントは変更しておくと、向こうから宣言してくれる。
 もっとも、ここの所、宗輔がクラブシノハラの経営方針について、高級菓子からもう少し家族や子供が楽しめる菓子を作りたいというコンセプトを提案してから、会議はしばしば荒れている。秘書は宗輔のその提案について、今の経営方針は十分上手くいっていて、それをむやみに変更することは他の重役の反感を買うばかりで、宗輔にとって得なことは何もないと言っている。彼が宗輔を心配してくれていることも分かっているが、その本心は分からない。
 いずれにしてもホワイトデー戦線は昨日で終わっているのだから、少なくとも今日ばかりは、社長が自ら何かをすることなどほとんどない。
 プライベートの恋人のお返しを待つ以外には。
 そう考えてから、なぜ拓がここにいるのかと、今さらのように思った。そして、あるいはバレンタインのお返しに来てくれたのかもしれないと思い、それをあんなふうに無茶苦茶に求めて悪かったと、この期に及んで幾らか申し訳なく思った。

 受話器を置いて、ふと振り返ると、拓が目を開けて宗輔を見ている。こいつの目は本当に純粋で、恐れのない目だ。
「大丈夫か?」
 同じ言葉を言おうとした瞬間、拓の方から聞いてきた。
「どういう意味だ?」
 拓は首の後ろを押さえながら起き上った。細っこい身体のくせに、バランスよく鍛えられた胸の筋肉が、気持ちのいいほどに滑らかに動く。
「魘されてたからさ」
「うなされてた?」
 宗輔は、俯いて目を逸らした拓を見つめたまま、言葉を確かめるように繰り返した。

 頭の隅に、昨日路地の隙間から見た火事の光景が巣食っていた。足が竦んで、何もできなかった、叫び声さえあげることのできなかった自分の身体を走り抜ける、不可解な感情を思い出す。頭痛の原因はそれなのかもしれない。
「うん。その……、俺、ホワイトデーにお返しも買えないし、下手なドラマみたいに、プレゼントはオレ、あんたの好きにしてくれって気持ちで来たから、なにされても良かったんだけど」
 拓は怒っていないことを伝えようとしたのか、拙いことを聞いたとでも思ったのか、ちょっと宗輔を盗み見するようにして、うやむやにして言葉を切った。
「そうか」
 宗輔は拓に背を向けてベッドから起き出した。拓にどう言えばいいのかわからなかった。
「ちょっと昔の嫌なことを思い出したんだ。飯にしよう。シャワー浴びて来い」
 ホワイトデーでなかったら、こいつはここに来なかったのだろう。そして俺もまた、こいつをこんなふうに追い込まなくてもよかったのだろう。
 そんなふうに思ったら、明日という日を迎えるのがまた一段と辛くなった。


 宗輔が階段の上で右手を軽く上げると、階段を上りがけにため息ひとつつくために立ち止まり上を見上げた黒縁メガネの男も、右手を上げて挨拶してきた。
 相変わらず風采の上がらない、何年前から同じものを着ているのかというような、よれよれのコート姿の男は、以前切ったのはいつなのか不明のぼさぼさの髪を掻きながら、だらだらと駅の階段を上ってきた。
「すまんな。お前が気にしてるんじゃないかって、こっちから電話するつもりだったんだけど」
 斎田アトム、ロボット工学博士、嫁なし子なしで研究一辺倒、そして製菓会社社長取締役・篠原宗輔の唯一無二の親友だった。
「いや、こっちこそ、いつも付き合わせて申し訳ない。しかも、今年はこんなタイミングでアルファロメオがいかれちまって」
 斎田はポン、と宗輔の腕を叩いた。
「馬鹿言うんじゃないよ。俺にも関係のあることなんだから」

 都心を離れて、千葉の方へ向かう電車移動の間、隣に座った斎田からはかろうじて風呂だけは入ってきました、という安物の石鹸の匂いがしていた。ちゃんとすれば、こいつだってそれなりにいい男のはずなのだが、まったく服装にも周囲の目にも無頓着だ。今も頭の半分はロボットの設計図で埋まっているはずだ。そんな斎田の存在を有難いと心から思いながら、宗輔は半分後ろを振り返り、流れていく景色を見る。

 毎年車を運転して行くので、景色を見る余裕はない。だがこうして電車に揺られていると、下手に時間があるだけに、景色の中に色々なものを見てしまう。
 家々の佇まい、その一軒一軒に灯りを届けている電線、その上にとまっている雀たち、脇の道を通るワゴンカー、中には家族連れの姿が見えている。道を歩く親子連れ、何かをねだって母親の腕を引っ張る子ども、犬を連れて歩いている老夫婦。
 何かを置き忘れてきたような寂寥感と、何とかしなければいけないような焦りが同居している。

「お、ところで、蘭丸くんはどうだった?」
 いきなり隣の斎田が尋ねてきた。
「蘭丸くん?」
「ほら、あのお茶運びからくり人形改良ロボットだよ。バレンタインの前にプレゼントしてやったろ」
 そんな名前がついていたのか。
「いや、あれはなかなかよくできてた。歩くのも蹴りを入れるのも実にバランスがいい」
「そうか、それは良かった。片足で立った瞬間にバランスを計算させるのがなかなか難しかったんだが、人間の三半規管の機能を応用してだな……」
 解説が長くなるのを避けて、宗輔は被せるように言った。
「それに、いきなりかぶりついたし。あれはすごかった」
「え?」
 斎田が黒縁メガネを落としそうな勢いで、宗輔を見た。
「何だよ」
「かぶったのか?」
 電車の中にも関わらず、斎田は大きな声で宗輔に迫らんばかりの勢いで顔を近付ける。
「あ、あぁ。何だよ、一体」
「どうやって、何をして、どうなってかぶった?」
「えっと」
 確か、拓がこいつは何なんだととか言って『蘭丸くん』の鼻先を指差して、指に噛みつかれたのだ。それを「誰が」という部分を省略して伝えると、斎田は唸るように考え込んだ。この男にとっては、研究室も公衆の面前も、滅多に帰らない自宅も、ロボットのために全てを捧げる場所なのだ。
「何だよ」
「いや、確かにそういう機能は組み込んだんだが、何回試してもうまく作動しなかったんだ」
 斎田はいきなり宗輔の指を捕まえて、この指先から特殊な光線でも出ているのではないかとでもいうように、じっくり眺める。いくら宗輔がホモセクシュアルの嗜好があるからと言って、電車の中で指を見つめられるのは、いささか面映ゆい。もっとも、車内の他の乗客は、斎田のことを怪しい変人にしか思っていないだろう。
「おまえ、今度、蘭丸くんを持って来て、同じようにやってみてくれよ」
「指差したのは俺じゃないぞ」
「お、そうか。お前の恋人だな。バレンタインはラブラブだったわけだ。よし、彼女に協力を要請してくれ」
 声がでかい、と思うのだが、斎田にそんなことは通じない。それに、『彼女』じゃないのだともこんな公衆の面前では言えない。
 斎田は親友だが、今まで色恋の話をあれこれする相手ではなかった。従ってカミングアウトする機会がなかったのだ。もちろん、斎田に隠したいと思っているわけではないし、よく考えたら他の誰に対しても、宗輔が自分の恋人を紹介する機会も必要もなかった。
 斎田はまだ考え込んでいる。その『うまく作動しなかった機能』について検討しているのだろう。宗輔はあの時、拓がロボットにかぶられた自分の指を見たまま、びっくりして固まっている姿を思い出して、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。
 小さな時間しか積み重ねていないのに、そのひとつひとつが抱きしめたいほどに愛おしい。

 この坂道を上る宗輔の足が軽かったことは一度もない。隣を斎田が歩いてくれなければ上ることもできないだろう。
 海風を受ける坂の上にあるのは老人介護施設で、精神に問題のある老人、痴呆やアルツハイマーを抱えた人、さらに身体の病気を患っている場合でも預かってくれるという施設だった。もちろん、費用は半端ないのだが、家の中にそういう病の家族を置いておけない金持ちにとっては、有難いところだった。

 ここに、宗輔の母親が入所していた。
 あの日以来、宗輔と会話を交わすこともできなくなった母親だ。そして宗輔にとっては、憐れみと憎しみと混乱の対象となっている母親でもあった。宗輔が頼んでいるので、施設からは毎月母親の状態については報告が来るが、実際に宗輔がここを訪れるのは年に一度、宗輔がすべてを失った日だけだった。
 放置して会いに行かないこともできるのかもしれない。だがそれはやはりできなかった。後ろめたさを抱え込んで、まだ先になるだろう死の報告だけを待つのは、古く懐かしく優しくもある記憶が許さなかった。かと言って、自主的に、事あるごとに会いに来ることもできなかった。

 それを察したのか、斎田がこの日になると宗輔を誘って、ここに来るようになった。
 あの日、火事で燃えた宗輔の家に居合わせた斎田は、このことを彼自身の義務とも思ってくれているようだった。
 二人は一緒に面会の受付を済ませ、職員の案内で、不安なほどに明るい廊下を進む。時には、彼らを息子と間違える老人に話しかけられることもある。始めは驚いたが、そのうちにそれを否定せず、やんわりとやり過ごすこともできるようになった。
 窓の向こうには海が見えている。
 そしていつものサンルームに彼女は座っていた。

 半分火傷の痕の残っていた顔は、その必要性について疑問を投げかける形成外科の医師を説得して皮膚移植をしてもらい、何とか見れるようになっていたが、年を経るとアンバランスな皺のよりかたで違和感を覚えざるを得ないようになっていた。高温の煙で焼かれた咽喉は声が出なかったし、食べ物は胃婁からしか受け付けなかった。
 それに、母には宗輔が息子であることが分からないままだった。
 それでも、宗輔の届ける好物の甘い菓子と、斎田の持ってくる小さなおもちゃのようなからくり人形やロボットには、彼女は声を出して笑ってくれた。
「宗輔さんとアトムさんですよ」
 母は昨年よりもいっそう小さくなっていた。まだ六十にならないというのに、八十の老人と言ってもいいように見えた。母は顔を上げたが、目は宗輔を見ているようではなかった。母の座る前に、折鶴が散らばっている。折り紙の端っこを上手く合わせられないので、いびつな形をしている。
 宗輔は隣に座り、こんにちはと挨拶をした。
 母は宗輔を見ないまま、不安そうに小さく頷いた。

                            (前篇・了)



《予告》

強くて大人で、困ったことも辛いことも何もないと思っていた十歳も年上の恋人・宗輔が魘される姿を見てしまった拓。
ジムでもうまくいかないことがあって、赤沢(ジムの会長)にしばらくリングに上がるなと言われる。
むしゃくしゃして矢田のところに行く拓は、そこで衝撃的な雑誌を目にする。
【クラブシノハラの青年社長が隠す過去、母親を姥捨山に置き去りにしたあの日】
拓はたまらずに宗輔のマンションに飛んでいくのだが、張り込みの記者たちがいて近づけない。
うろうろしていると、黒縁メガネの冴えない男が声をかけてきた。
そして、宗輔が姿を消してしまう……

…宗輔はどこに?
宗輔の過去に何があったのか?
拓は宗輔の思いを支えることができるのか?
そして拓自身の将来は?
(後篇は拓視点です)

(予告って、なんだかかっこいいなぁ…^^;)

それにしても、この二人の関係はやっぱり、メイン本編の竹流・真とかぶってるなぁ、と反省。
年齢差(竹流と真は9歳違い)が似たり寄ったりだから、かしら。発展のない私……
しかし、向こうはもっと力関係が大きいし、そもそも恋人というには語弊がある。
関係がないとは言いませんが^^;
キリスト的存在の竹流と野生のヤマネコ的真の関係も、宗輔と拓くらいすっきりしていたらよかったのになぁ。
どちらもがんばろっと。

Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後1)(18禁) 

宗輔
竜樹さま(萌えろ!不女子)から頂いた宗輔(しゅうすけ)です。
本当にありがとうです。三つ揃いのスーツを着せてくださいとか、ちょっと髪は巻き毛気味ですとか、描写らしい描写もなかったのに、どうしてこんな風だとわかっていただけたのでしょうか。
不思議です。
イラストを描かれる方の感性って不思議ですね……そして素晴らしい。
とにかく感謝です。この『炎の記憶・海の記憶』は竜樹さんに捧げる…という気持ちで書いています。

BLとはもう言えない話になってきていますが、逆に言えば、ちょっとシーンに抵抗がなければどなたでも読んでいただける(と言っても、大したシーンじゃありませんし。所詮私には色気のある描写はできないので、ただのハードボイルド系)、ただし18歳以上で、という感じです。

ということで、後篇(拓視点)をお届けいたします。
と言っても、実は長いので、多分2回…もしかして3回になるかもしれません。
一応頭の中では2回なのですが。
それではよろしくお願いします。





「おい、拓、ちょっと来い!」
 赤沢のどすの利いた罵声が、拓のもつれかかった足に絡み付いた。
 丁度3分のゴングが鳴ったところだった。拓はスパーリングの相手をしてくれていた格上のボクサーに最後のカウンターを打ち込もうとしていた。
 カウンターは相手に届く前に行先を失う。
 拓は自分の勢いの反動を食らって前のめりになり、相手の肩に身体をぶつけた。相手はグローブで軽く躱し、舌打ちしてリングを出て行った。
 目に汗が沁みて、視界が曖昧になる。
 ぶち壊したいと思った悪魔のような影が急に消えてなくなってしまい、拓自身も行き場を失ったような気がした。
 1分のインターバルの間、身体をほぐすように軽く跳ねている足音が複数、絡まり合って拓の耳元に届く。リングから出ようとロープを潜りかけて、足元がふらつくのが分かった。足元に落ちる汗の輪郭がぼやけている。

 赤沢はジムの隅にあるデスクの前の丸椅子に足を広げて座っていた。その足は床を叩くように貧乏ゆすりをしている。彼は明らかにイラついていた。
 赤沢が何を言おうとしているのか、半分は分かっていた。
「拓、おまえ、しばらくリングに上がんな」
 拓はグローブを外しながら、赤沢から目を背けていた。
「俺が何を言おうとしてんのか、分かってるだろ。お前の闘争心は買ってやってる。だが、がむしゃらなのと無茶苦茶なのは全く違うぞ」
 拓は息を吐き出した。3分間、息もしていなかったような錯覚がして、今になって必死に呼吸の仕方を思い出している、そんな気がした。
「相手を憎んでぶちのめすくらいの気概がないとだめだ、同情心は捨てろ、餓えた猛獣になれ、そういうのがないと勝ち上がれん、と昔お前に言ったのは俺だがな、この期に及んでも足元と目の前が見えていないような奴をリングに上がらせるわけにはいかん」

 必死だった。4年のブランクを埋めるために、ほとんどのものを犠牲にしていた。気が付けば拓よりもずっと若い、体力も気力も充実した新人が入ってきて、瞬く間に力をつけていった。トレーニングの量やハングリーな気持ちだけでは乗り越えられない何かがそこにはあった。分かっていただけに、焦ると結果が余計に遠くなった。
 リングに上がる時、恐怖心が全くなくなっている。そのことを赤沢に咎められたのは、つい1か月ほど前だった。
 恐怖心を克服することは大事だが、無くすことは良いことではない。最低限の危険回避のルールがある。そのために必要な恐怖心は持ってリングに上がらなければならない。ただの喧嘩になってしまうぞ。
 赤沢の言っていることはよく分かっていた。
「殺し合いをしてるんじゃないんだ。命を懸けるなんて、あしたのジョーじゃないんだからな」
 赤沢は吐き捨てるように言ってから、ふいに息をついて口調を変えた。

「なぁ、拓、俺はお前の親父さんのことが好きだったさ。あの人はいいボクサーだった。他人への気遣いもできる、一方で闘う気力も充実していた。でもあんなことになっちまって……、俺はお前がいったんボクシングをやめた時、正直ほっとしたんだ」
 赤沢は拓の父親の後輩だった。
「しばらく試合に出んな。俺の言わんとしてることはわかるな。今のお前は怖い。お前が高校生ならまぁいいさ。けど、これからはちゃんと考えていかなきゃならん。どんな形にしても、試合に出れなくなってからの人生の方が長いぞ」

 いつもロードワークで走っている河川敷は、嫌味なほど明るく見えた。
 家賃の安さに魅かれたのと、1時間かけてでも走って行き帰りをこなすくらい自分を追い込みたくて、東京都内ではあるが郊外を選んで住んでいた。早朝から走って、ジムに練習に行き、筋トレをこなし、こんな真昼間には寝ているか、バイトをしているかのどちらかだった。夜にまた別のバイトに行くこともあるし、そうでなければハードなトレーニングをこなす。
 負けたくない、自分にも、他の誰かにも。
 そんな思いだけで突っ走っていた。
 だが、限界は自分の方が知っている。タイトルを取れるようなボクサーはほんの一握りだ。はなからタイトルを目指している奴でなければ、つまり高い目標を持っている奴でなければ、結局は潰れていってしまう。
 俺はタイトルを目指しているのか、あるいは壊れてしまいたいだけなのか。
 届かないタイトルを見ないようにして、ただ目の前の化け物にがむしゃらに挑んでいるだけなのか。

 ようやく空気の冷たさは和んできたものの、まだ春には遠い丈の短い草地にザックを放り出し、斜面に横になった。
 ボクシングが好きだった。離れているときには、たまらない思いを何度もした。
 そして再びその中に飛び込んだとき、まるきり届かない何かを目指しているような恐怖に襲いかかられた。タイトルになど永遠に届かないという宣告を今は受けたくない、お前には始めからそんな資格はないと言われるのが怖くて、誰かが口を開いて自分を批判する隙を与えないように、耳を塞いだまま、ただ無茶苦茶に走り続けた。
 空は春の霞で曖昧な白だった。高いというよりも、先が見えない、そんな色合いだった。低いのか高いのか分からない、頭上の中途半端な場所を鳥が横切った。遠くで野球の白球を追いかける声が聞こえている。鳴き交わす犬の声、水の音、子どもたちの高い笑い声。
 自分の周りに広がる世界、その中に自分が属していないような孤独と焦燥。
 宗輔……
 拓は目を閉じた。その途端に、何か懐かしいような、不安な気持ちがよみがえった。

 恋人、家族、心の還る場所、そういうものを持ちたくない。だから必要以上に入り込まないようにと思っていた。相手は十歳も年上で、拓が心配したり気にかけてやる必要もない大人で、拓の方がこの関係に義務を果たさなければならないような部分がなく、そして同性であるということで、いつかこの関係が終わってしまうことに、世間も自分たちも納得がいくに違いないという奇妙な安心感があった。少なくとも、そうだと思い込んでいた。
 ただ気が向いたときにセックスすればいい。ちょっとむしゃくしゃしている時や、欲望が吹き出しそうなときとか、そういう時に身体を触れ合わせぶつけ合い、痛みとか苦しさの中に全てを吐き出してしまう、そういう関係でいいと思っていた。
 正直なところ、セックスが気持ちいいものだとは、少しも思っていなかった。少なくとも1年ほど前まではただ苦しいだけだった。自分がマゾヒストだという自覚はなかったし、そもそも殴り合うのが当たり前の世界にいるような人間は、いささかマゾっ気がないとやっていけないのかもしれないが、今でも相手を受け入れるときはただ苦しくて仕方がない。
 それなのに、宗輔に会いに行ってしまうのは何故なんだろう。
 それでも宗輔の肌に慣れ、唇の熱さに慣れ、彼のものを受け入れることに慣れ、いつの間にかセックスの途中からとは言え、痺れるような震えが腹の奥で湧き出すようになっていた。
 それがいわゆる快感だということは、拓にも分かっている。このまま繋がっていたいと思うこともある。ただそれでも、今はまだリングの上で殴り合い、意識が吹っ飛ぶような瞬間を越えるほどの快楽にはなっていなかった。
 いや、そうではないのかもしれない。
 時々、宗輔の名前を呼びながら、意識を手放しそうになる。ただ気持ち良くて、自分の身体が自分でコントロールできなくなる。それを認めるのが怖いだけかもしれない。

 宗輔には言えないことがひとつあった。
 今でも、時々矢田のところに行く。そして矢田の気分によっては、抱かれることもある。いや、拓の方は矢田に抱かれるために行っている。これは借金を返せと言わせないための口封じ的仕事だと割り切っているが、矢田の方は金を返せなどとは言ってこない。つまりは拓の一方的な都合で、後ろめたさをちゃらにするための義務だった。
 矢田に抱かれるのも、少しも気持ちいいとは思っていない。我慢するということ自体に意味があるような気がしていた。
 金なら稼いで返せばいいのかもしれない。そもそも借金の額など聞いたこともないし、矢田も言わない。喫茶店を営んでいた拓の祖父が残した借金、それを返せなかった母親はパチドランカーになって暴行を繰り返した父親を刺殺した。母親の裁判の結果は正当防衛として罪が軽くなったものの、その費用も全て母の愛人だった矢田が出している。庇ってくれる肉親を失った拓の面倒を全てみてくれたのも矢田だった。
 だからこれは仕方がないと、今も思っている。
 それとも、俺って、やっぱりホモなんだろうか。それを認めたくないから、仕方がないとか思いこんでいるだけなのだろうか。

 拓は目を閉じ、寝転んだまま、頭を振った。
 色々な思いが去就する中で、今日赤沢に怒鳴られる前に頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでいた不安と恐怖の種が、また頭をもたげてきた。
 頭の隅に巣食っているもの、今日リングの中で拓がずっと払いのけぶち壊したいと思っていたもの、それは魘される宗輔の姿だった。
 あの時、起こそうと思ったのに、何故か手が動かなかった。
 何してるんだ、かあさん。
 宗輔のうわ言のような声が、拓の耳や頭のどこかに突き刺さり、抜けなくなった。
 何かが宗輔を苦しめている。そしてそれは、あるいは拓自身にも通じる何かなのかもしれない。その気配が拓を締め付ける。
 宗輔と付き合ってきたのは、宗輔が拓に頼る必要のない大人だったからだ。そもそも身体の関係が一番で、お互いに深入りする必要がないからだ。途中から少しばかり恋人気分にもなっていたけれど、結果的に失っても怖くないと思っているからだ。
 それなのに息が苦しい。これまで避けてきた宗輔の本当の姿に触れるのも、深入りしていくのも。何よりも、拓の方が宗輔に頼りたくなってしまうのが怖い。
 そして失ってしまうことが。

 今日は始めから矢田に会いに行くつもりだった。何も考えず、今日の予定をこなすべきだと思い、ふと目を開けて、拓は驚いた。
 小学3年生か4年生くらいの子どもが、上から拓を覗き込んでいる。
 白くかすんだ空を背景に、子どもの顔だけが明瞭に浮かんでいる。
 少し膨れたような頬、唇は子供っぽく赤くて厚く、目は少し小さめ、髪はストレートで、その体はちょっとぽっちゃり気味だ。典型的ないじめられっこタイプに見える子どもは、急に拓が目を開けたことで、逆にびっくりしたようだった。

 この子どもはいつもこの辺りで見かけていた。
 ロードワーク中に周囲のことなどほとんど目に入っていない拓がその子どもに気が付いていたのは、子どもの方が拓をいつも見ていたからだ。見ていた、というよりもほとんどガン見に近かった。これで中学生なら、喧嘩でも売ろうってのかと掴みかかりたくなるくらいだった。子どもはいつも母親に手を引かれていて、振り返りながら、走ったりシャドウをする拓を見ていたのだ。
 母親はどうしたのだろうと思った途端、高い声が子どもを呼んだようだった。
「アラタ!」
 子どもはちょっとびくっとした。それからちょっとだけ後ろを振り返り、そして直ぐにもう一度拓を見た。
 しばらく子どもは拓を見たまま動かない。もう一度母親の呼ぶ声がした。
 拓は上半身を起こした。
「お前、呼ばれてるんじゃないのか」
 子どもは名残惜しそうな顔をした。名残惜しい、というのが適当なのかどうかわからないが、まさにそういう顔だった。
 何か言いたげで言えないというようなもどかしさが伝わってきて、もしかして口がきけないのか、と拓が思った途端、小さい低い声で言った。低く聞こえたのは、子どもの不安や躊躇いのせいだったのかもしれない。
「だいじょうぶか」
 その声に母親の呼ぶ声が再度、重なった。ついに子どもは諦めたのか、拓のもとを離れていった。


 久しぶりに矢田はその気だった。
 ここ数度、矢田は拓に食事をさせるだけで、身体を求めてくることはなかった。矢田が年を取ったのか、それとも仕事が忙しくてそれどころではなかったのか、あるいは拓に飽きたのか、興味もなかったので聞かなかった。
 矢田の行きつけの店のひとつで寿司をつまんだり鍋をつついたりした後で、矢田が拓を抱くのは、いつも決まって安いビジネスホテルの一室だった。多分相手が女なら、高級なシティホテルとかを使うのだろうが、拓ならこんな程度で十分だと思っているのだろう。ナニワ出身のじじいだから、そのあたりの計算はしっかりしているに違いないと思う。
 拓は、行為の最中にはいつも、矢田の大きくて重い体の質量をそのまま感じながら、箱のような部屋の真っ白な天井を睨んでいた。押しつぶされそうな重さと強さ、挿いってくるものが拓の身体をこじ開けようとする痛み、矢田の強い体臭、そういったものに完全に取り込まれて身体を許している間中、拓はいつもこのまま壊して欲しいと思っていた。身体を割かれてもう立ち上がれないようにされてしまって、もしかして意識もはっきりしなくなってしまいたいような、そんな心持ちだった。
 矢田が入り込んでくる時の苦しさは、宗輔が挿いってくる時とは別の苦しさがあった。入ってくるものの大きさのせいだと始めは思っていた。あるいは多少なりとも愛情の有無が影響しているのかもしれないが、それについては確信がなかった。
 だが、今まさに受け入れようとした瞬間、身体が固くなって一気に冷たくなった気がして、拓は目を強く閉じた。もう十分に肌を撫で回され、その場所も解されて、受け入れる物理的な準備は整っていたのに、腹が何かを拒否して固まってしまったようだった。
 矢田はしばらく頑張っていた。
 正直なところ、拓も受け入れようと努力していた。
 だが結局、行為は成り立たなかった。

 矢田が怒るかもしれないと思った時だった。
 いきなり矢田が笑い出した。首を絞められたり殴られたり、あるいは良くて嫌味を言われるか、マイナスのことだけを考えていた拓は、呆然と矢田を見た。
「拓、お前、いい加減はっきりと、もうやめてくれとか言えや」
 相変わらずの安いビジネスホテルの窓枠は、外の騒音のせいか、風が叩きつけるのか震えていた。
「いや、頭より体は正直なもんやな」
 身体を起こしたものの、まだ拓はぼんやりと、笑う矢田を見ている。
「この1年ほど、お前がいつ別れてくれ、て言い出すんかと待っとったんや。それがいつまで経っても言い出しよらん。わしもタイミングを掴みかねてもうたわ」
「何のこと……」
 矢田は浴衣を羽織って簡単に帯を結ぶと、素っ裸のままの拓の肩に浴衣を掛けてくれた。安いホテルの浴衣は、いたずらに糊が利いていて、それでいて沁みついた幾人もの人間の体臭が完全には取れていないような、くすぶった臭いがしていた。
「まぁ、拒否しとるくせに、結局は受け入れるお前も可愛かったさかいな、わしもちょっと手放しにくうて引き延ばしてしもたけどな」
 言いながら太い指で煙草に火をつける。その手元を拓は黙って見ていた。
「そろそろ、ちゃんと考えた方がええんとちゃうんか」
「だから何のことだよ」
「篠原宗輔と付きあっとるんやろ。向こうがお前に本気なんは、あいつがわしんとこに来よったさかい、何となく分かっとったけどな、まぁ、お前がその気かどうかは分からんかったし、ほってたんや。お前を抱いとっても別に違和感なかったしな。けど、この1年は違うたで。ここがな」
 矢田はまだ笑いをかみ殺したような顔をしたまま、煙草を挟んだ手で拓の胸のあたりをつついた。
「違うことを考えとんのが見え見えやった。あそこも、篠原宗輔のことを考えて震えてとったんやろ。それでもお前がボクシングをやっていくのに、幾らかわしも助けになるんかと思うて来たさかいな、これまで通り知らん顔してやってたけど」
 拓は矢田から目を逸らした。
 いつか、拓をその太いもので貫きながら矢田が耳元で聞いてきた。苦しくて吐き戻しそうになりながらも、その息が耳の中に注ぎ込まれるとき、拓は異様に興奮するのを感じた。殴られてリングの上に倒れる時の恍惚と同じだった。
 わしに何をして欲しいんや。
 その瞬間、拓の頭は不意に冷めた。
 俺が親父みたいになったら、殺してくれよ。誰かを傷つける前に。
 矢田なら殺してくれる。疑いもなくそう思った。矢田は拓が宗輔と関係を持っていることを知っていたし、その中でなぜ矢田とも関係を続けているのか、そこに拓にとっての何のメリットがあるのか確認したのだと思った。矢田がええで、と言ったとき、拓は無意識に矢田を締め付けた。矢田と寝て、あれほどに感じたのは初めてだった。
 ボクシングが好きな反面、恐怖はいつも付きまとっていた。
 離れられないのに、怖かった。
 いつか親父のようになったらどうしようか。
 あんなに優しい父親だったのに、母親を、そして拓を殴るようになり、壊れていった。自分もいつか壊れるかもしれない。そうなったとしても、宗輔は拓を殺してくれないだろう。もしかしたら面倒を見ようなどと思ってくれるかもしれない。だが相手が誰だかわからなくなった拓は、宗輔を傷つけるかもしれない。
 矢田ならやってくれる。殺し屋でも雇って、頭がおかしくなった拓を殺してくれる。そう思っていたから、矢田との関係を切らずにここまで来た。
「ほんまにええんか」
 拓が答えないままでいると、矢田はそう言いながら狭いライティングデスクから持ち込んだ雑誌を取り上げ、拓に投げて寄越した。乱れたシーツの上で、薄い衣服で股を広げ胸の谷間をくっきりと見せつける女性の横に踊る表紙の文字に、拓の目は釘付けになる。

 クラブシノハラの青年社長が隠す衝撃の過去!
 姥捨山に実母を置き去りにしたあの日!

 拓は顔を上げた。
「篠原宗輔も正念場やな。出る杭は打たれる、ゆうてな、世間様は黙って儲けさせてはくれへんのや。ここで潰れる人間もおるさかいな、せいぜい首括らんように見張っといたった方がええんとちゃうんか」
 矢田は椅子にどっしりと腰を下ろす。
「ま、お前のことかて、ばれたらスキャンダルかもしれへんけど、そっちは今時、珍しい話でもないさかいな」
 矢田は声を落とした。
「なぁ、拓、お前もそろそろ自分に優しいなったれ。どうするのが正解か、人生終ってみんことには分からんやろけどな、自分を可愛がらんでどないすんのや。わしなんぞ、自分が可愛いてしょうがないわ。お前を離しとうなかったんも、自分が可愛かったからや。安喜子を思い出してええ気分やった」
 理解ができずに矢田を見ると、矢田は、顔は厭らしいナニワのおっさんのまま、目には妙な穏やかさを湛えて笑っていた。
「わしはな、ほんまに安喜子が好きやったんや。愛人の一人やて、軽う思てたんとちゃう。まぁ、こんなことお前に言うてもしょうがないから、言わんかったけどな」
「俺を、借金の形に抱いてたんじゃ……」
「借金?」
 矢田は拓を見てしばらく呆然としていたが、やがて大きな声で笑い出した。
「あほか。お前んちの借金なんぞ、お前の親父と安喜子の保険金でチャラになっとるわ。わしはお前が可愛いて抱いとったんや。車も服も、マンションも、お前を抱く代償に出してやっとったんや。安喜子にしてやれんかったことも含めてな。もっとも、お前は車もマンションも結局突き返しよったし、服は刻んでサンドバッグに詰め込みよったらしいけどな」
 なんでそんなこと知ってるんだろう、と思ったが、それよりも他の驚きの方が大きくて、拓はまだぽかんとしたままだった。
「はよ、篠原宗輔のところに行ったれ。もっとも、マンションに入れるかどうか知らんけどな」
「え?」
「こんなもん書かれてみ、今頃あいつのマンションは記者どもに囲まれとるやろ」

 矢田との関係、矢田とのこれまでのこと、矢田と母親のこと、あれもこれも検証する余裕はなかった。矢田は、ほなわしは寝ていくわ、と拓を箱のようなホテルの部屋から追い出した。もっと上等な部屋に泊まればいいのに、と言ったら、あほくさい、誰が東京の馬鹿高いホテルに金なんぞ落としてやるか、と答えた。もしかしたら、拓のことをいい加減に扱っていたのではなく、矢田が金を出す価値があると判断する基準によっていただけなのかもしれない。
 そして、矢田の言った通り、宗輔のマンションの周りには、それらしい人影がうろうろしていた。ちょっとでも近づこうとすると、さっと自分を見咎める視線が突き刺さる。何度か意を決して近づこうとしたが、そのたびに足が止まった。
 そのうち、うろうろする小汚いザックを担いだ若者に対する連中の興味に火をつけてしまったら大変なことになるかもしれないと思い始めた。もう一つのスキャンダルの火種に自分がならないという保証がない。
 しかも、俺、宗輔の電話番号知らないんだ。
 そのことに初めて気が付いた。携帯電話には赤沢ジムといくつかのバイト先、矢田の電話番号しか入っていない。
 さんざん遠巻きにうろうろして、強行突破を考え始めた時、誰かに腕をがっしり掴まれた。拓はしまった、と思いながら、恐る恐る振り返った。
「君、さっきからうろうろしてるけど、もしかして宗輔の知り合い?」
 そこに立っているのは、拓に負けずとも劣らぬ安っぽい古い服を着た、黒縁メガネの冴えないぼさぼさ頭の男だった。年寄かと思ったが、よく見ると肌の艶はまだまだ若々しい。となると、年は宗輔と変わらないくらいなのだろうか。
「だったら何だよ」
 いや、こんな感じの記者もいるかもしれない。そう思って言葉を飲み込んだ。
 冴えない男はしっと口に指をあてて、周囲を窺い、拓をマンションからは見えない陰に引っ張っていった。
「どうやら強行突破は難しそうだ。電話は留守電のままだし、携帯にも出んし、仕方がないのでマンションのベランダにぴぃちゃんを送り込んだが、返事がない」
「ぴぃちゃん?」
 なんだ、この変な男は……
「鳥型ロボット……まぁ、伝書鳩みたいなもんだ。ベランダで変な音を鳴らすんで、窓を開けたくなっちまうはずなんだが」
「あんた、もしかして、お茶の水博士!」
 拓の中で、宗輔の友人で変なロボットを作っている男の名前は、勝手にお茶の水博士になっていた。
 状況を忘れて大きな声を出したら、冴えない黒縁メガネ=お茶の水博士に口を塞がれた。掌は思ったよりも大きくて、焦げたような臭いがしていた。
「声がでかいぞ。ん?」そう言ってから、黒縁メガネはじっくりと拓の顔を見た。「何でおれを知っている?」
 お茶の水博士、の部分に突っ込みはないまま、黒縁メガネ男は拓をしみじみと眺めた。
「とりあえず、この囲いを突破したいと思っている仲間であることは確かのようだ。君、一緒に作戦を練ろう」
 何が何だか分からないままに、拓はお茶の水博士に引きずられて、いったんマンションを離れた。離れ際にもう一度見上げた宗輔の部屋は、厚くカーテンが引かれたまま、遠くからでも人気がないことが分かるようで、寂しく悲しく拓の目に映った。
 宗輔……
 叫びだしたいような何かが喉の奥に閊えていた。

(【炎の記憶・海の記憶】後篇-1 了)


 しかし…蘭丸くんにぴぃちゃん…どんな命名なんでしょうか、アトムさん…

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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後2) 

炎の記憶・海の記憶(後篇-2)をお届けいたします。
今回はもう全く、18禁の欠片もない、BLでもなくなって、悩める青年の物語になっておりますが……
悩みながらもうまく飛び立ってほしい、拓も宗輔も、アラタくんも。
アトム氏はどうかって? 彼はもう、はなから自由ですから。





 さっきからお茶の水博士は納得がいかない様子で拓を見つめている。すでに日が落ちていて、車や駅の照明の加減で無精ひげが翳ったり、照らされたりしている。
 駅前のドーナツ屋の店内には、さすがに高級住宅街の近くだけあって、馬鹿みたいに走り回る行儀の悪い子どもはあまりいないようだった。その分静かで、自分の言葉に恥ずかしくもなってくる。
「だからさ、ちょっと話があって……」
 お茶の水博士、いや、さっき名前を聞いたところによると斎田アトム氏が納得がいかないのは、拓と宗輔の関係と訪問の理由のようだった。一応、宗輔が通っているスポーツジムのインストラクターという数年前の職業を言ってみたのだが、そのあたりからアトムは何かが引っかかるようで、表情が微妙になって、ただ探るように拓の顔を見ているのだ。
「つまりその、そう、えっと、サンドバッグの……手入れが……」

 この男は確かに宗輔の友人だと聞いているし、悪い人物ではないと思うのだが、宗輔が拓との関係を打ち明けているかどうかは分からない。そもそも、恋人が同性であるということについて、つまり宗輔がホモセクシュアルであるということについて、この男が知っているかどうかも分からない。だから探るような言い方をしてしまったことで、何らかの疑いを抱かれてしまったようだ。
 そもそも拓は、あの高級マンションに似合う格好ではない。それを言うと、アトムも随分よれよれの服を着ているし、似たようなものなのだが、もしかしてスクープ狙いの記者とかカメラ小僧と思われているかもしれない。
 どうしようかと思っていると、アトムが徐に口を開いた。
「宗輔はもう二年も前にジムは辞めているはずなんだが」
 え? と思ってから、改めてアトムの顔を見る。

 ロボット馬鹿とは聞いていたものの、さすがに親友のことはよく知っているらしいし、心配もしているのだろう。時が時だけに、万が一にも変な奴を宗輔に近付けるわけにはいかないと用心している気配も感じる。
 それに、宗輔が『シャングリラ』をやめたというのは初耳だった。やはり、自分は宗輔のことを何も知らないのだ。
「えっと、だから……個人的に……」
 自信を持って堂々と始めから嘘を言っていれば良かったのかもしれないが、嘘をつくとどうしても辻褄が合わなくなるし、しどろもどろになる。『シャングリラ』に勤めているときは、あんなに歯が浮くような適当な褒め言葉を並べることができたのに、そういう虚飾の世界を離れた途端、取り繕うための器用さまで失ってしまったようだ。
 本当は、宗輔の電話番号を教えてくれとか、他に行きそうなところを知らないかとか、さっさと聞いてしまいたいのに、今の状況では逆に怪しいと思われて疑いを大きくするばかりのように思える。
「で、もう一度聞くけど、何で宗輔を訪ねてきたんだっけ?」
 このおっさん、結構意地悪なんじゃないのか、と思う。いや、結局は試されているのかもしれない。
「だから、ちょっと話が……」
「あの週刊誌を読んだからか」
 拓は息をついた。宗輔に聞いておくんだった。親友にカミングアウトしているのか、と。
「そうだよ。もしかして首でも括ってたら大変だと思って」
「首を括る?」
「自殺……とか……」

 しばらくアトムは不可解なものを見るように拓を見ていたが、何か思いついたように、にやっと笑った。英語の教科書で見た、何とかいう猫みたいだった。
「あのな、宗輔はそんなタマじゃない。高校の時、横暴で暴力的な先公がいた。そいつにいつもターゲットにされていた気の弱い大人しい生徒がいてな、他の生徒はそいつがいるおかげで自分は攻撃から逃れられるってんで助けてやろうともしなかったんだが、宗輔の奴は違っていた。ある時、その先公の横暴を録画して授業中に視聴覚室で放映しやがった。怒り狂う先公に言い放ったもんだ。これをもっと公の場に出すことだってできるんだ、ここで収めた方がほうがいいんじゃないかってな。脅しだよ。で、今度は、その気の弱いやられっ放しの生徒が宗輔に子分にしてくれと言ってきた。徒党を組むのが嫌いなあいつは、そいつに言った。俺は友人は選ぶ、子分が欲しいわけじゃない、頼ってばかりいないで自分の力で何とかしようとするところを見せろってさ。ちなみに、そいつは今若くして市会議員だ。いいか、あいつは不条理とは闘う男だ。ただし、とことんまで追い込まないように計算する頭も持っている。こんなバカげたことで首を括ったりはしない」

 不意に、宗輔のことを何でも知っているこの男に無性に嫉妬した。
 そんな宗輔の昔のことなど何も知らない。どんな学生時代を送り、どんなふうにしてパティシエの道に進み、会社を興し、そして何故あんなふうに魘されていたのか。週刊誌に書かれていたことが本当なのかどうかも知らないし、宗輔が行きそうな場所の心当たりのひとつもない。そもそも、宗輔とこれまでどれくらいの時間を共有してきたというのだろう。身体を繋げて、お互いの距離がゼロになるまで近づいた相手だからといって、そのことが何になったというのだろう。
 拓は唐突に立ち上がり、しばらく何か言おうとアトムを睨み付けていたが、何故か急に泣きそうになってしまい、慌ててザックを担いで店を出た。
「おい、君」
 ドアの閉まる音とアトムの声が被さり、ついでに店に入りかけた男にぶつかって悪態をつかれた声も重なって、しばらくの間訳がわからなかった。

 安アパートに帰ってからも、気持ちが落ち着かなかった。玄関で素っ裸になって、脱ぎ捨てた服をそのまま放置して、狭いユニットバスでシャワーを捻った。いきなり冷水を浴びて、ガスの点火をしていなかったことに気が付いた。冷たい水で濡れた頭も馬鹿みたいで情けなく、シャワーを止めると、そのままバスタブにしゃがみこんでしまった。
 声を出して泣いたのは、久しぶりだった。
 泣き方を忘れていたのでないかと思うくらい長い間、泣いたことがなかった。
 しばらくはリングにも立てない。何より立てるような気がしない。宗輔にも会えない。第一、連絡先も分からない。矢田も、もうこれからは一人の力で答えを出せと言っていたのだろう。
 でも、一体、いま俺の手に何が残っている?
 

 河川敷は今日も馬鹿みたいに明るい。
 結局、昨夜はあのまま毛布に包まって眠ってしまった。寒くて凍えそうでも、人間は意外に頑丈で、鍛えた身体は簡単に風邪などひいてくれない。風邪でも引いて熱が出て、寝込んでいたら何となくかっこいい気がしたが、上手くはいかないものだ。朝になって身体を起こしたら、妙にすっきりしていて、逆に腹が立った。それなりに腹がすいていることに、また馬鹿馬鹿しくなった。
 お茶の水博士の言う通りだ。
 宗輔は大人で、一人で何でもできる。目の前に転がっている問題を解決するなんてことは当たり前のことだ。拓が心配したり、手を貸したり、少なくとも自殺するんじゃないかと心配することなど何もないのだ。
 起き上がり、熱いシャワーを浴びて、コンビニに寄って菓子パンと牛乳を買い、ぶらぶらと歩いてここまで来た。
 今日は休日なのかもしれない。
 河川敷の向こう岸の小さなグラウンドで、少年野球の練習をしている声が、ここにまで響いてくる。犬をのんびりと散歩させている家族連れ、下手な管楽器の練習をしている数人の若者、ジョギングをする若い男女。川面には光が飛び跳ねている。
 何曜日かということも分からないなんて、本当に世間ずれしている。

「なんで、はしらないんだ」
 いきなり声を掛けられて、拓はパンを咽喉に詰まらせそうになった。咳き込みながら振り返ると、昨日声をかけてきたあのアラタと呼ばれていた少年が立っていた。
 ちょっと太めの身体を、緑のセーターと赤茶色のぼてっとしたズボンでくるんだという感じの格好で、少しぷっくりした頬は風に当たったせいなのか、赤く寒そうに見える。
 周囲を見回したが、今日はあの母親の姿がない。
 ぼんやりしていたからか、何を聞かれたのか分からなくて、しばらく頭の中でばらばらの文字を転がしていたが、ようやく何故トレーニングをしていないのかと聞かれたのだと気が付いた。
「今日はいいんだ」
 ふーん、と言いながらアラタは拓が食べかけていたパンを見ている。腹をすかしているのだろうか。
「食うか?」
 少年はびっくりしたような顔になり首を横に振った。
「じゃあ、座れよ」
 何だか横に立たれて見下ろされていると、相手が子どもでも気分のいいものではなかった。今度はアラタは素直に横に座った。
「今日はお母さんは一緒じゃないのか」
 うん、とアラタは頷く。一人で出歩いてもいい年なのかどうか、拓には判断が付かない。どの辺りに住んでいるのかもわからないが、少なくともそう遠くではないのだろう。

「なんで、いつも走ってるんだ」
「え?」
 あまりにも単純な問いかけに、拓はまた意味が呑み込めずにしばらくぼんやりとアラタを見ていた。何で、などと考えたこともなかった。強いて言えば、トレーニングだから、としか言えないのだが。
「おもしろいからか」
 なるほど、そう言われてみれば、そんな気もする。
 走って身体を鍛える。時に立ち止まり、シャドウをしながら、風と闘ってみる。馬鹿みたいに単調な繰り返しだけれど、嫌だと思ったことはない。
 突然、アラタが両拳を握りしめ、しゅっしゅっと小さな声を出して左ジャブと右ストレートを打った。ちょっと太った体で、決してシャープで機敏な動きではなかったし、どちらかと言うと無様なところもあったのだが、技の特徴的なところはよく掴んでいた。
 その動きを数度繰り返し、さらにダッキングやウィービングといったディフェンスの技も真似てから、アラタが拓を見る。
「これ、なにやってるんだ」
 なるほど、アラタはいつも拓を見ていたのだ。あれだけガン見していたのだから、いつの間にかボクシングのパンチの出し方を自然に覚えてしまっていたのだろう。それにしても、何だか分からないままで、随分と正確に真似たものだ。
「ボクシングだよ」
「ボクシング?」
「うん……とまぁ、殴り合うスポーツだ」
「なぐる? 誰と?」
「だから対戦相手とだよ」
「テキ?」
「うーん、まぁ、敵かな」
 興味があるのだろうか。
「やってみるか?」

 そう言って拓が立ち上がると、頷いたアラタも立ち上がった。簡単にステップとジャブ、ストレート、フック、ダッキングとウィービングを教えた。不器用ながらに一生懸命やっているのが、ほほえましい気がした。
 へぇ、面白いものだな、と思いながら、懐かしい光景を思い出した。
 父親が現役だったころ、こんなふうによく拓にボクシングを教えてくれた。ロープを飛ぶ回数を数えたり、飛び方を色々教えてもらったり、パンチもディフェンスもあれこれ教わった。将来何になるのと人に聞かれたら、必ずお父さんと一緒、と答えていた。
 拓ちゃんはお父さんが好きなのねぇ、といつも大人たちに言われた。
 母親は、ボクシングなんてお父さんだけで十分と言いながら笑っていた。まさか自分の夫があんなふうに変わってしまうとは思っていなかった頃のことだ。
 アラタの一生懸命な顔を見ていたら、幼かった自分の影が重なって、懐かしく、くすぐったくて、そしてまたひどく切ない気持ちになった。それでも、いつの間にか拓の方が教えることに一生懸命になっていた。

 そんなふうに半時間ほどアラタと一緒に遊びながらシャドウをし、河川敷を走っていたら、向こうの方から泣き叫ぶような女の声が聞こえた。
「アラタ! 何やってるの!」
 アラタは突然、ネジが止まった人形のようにがくん、となった。それから一瞬、拓の後ろに隠れるようにしたが、無駄だと分かっていたのか、すぐに母親が走り寄ってくる方へ歩き始めた。
「勝手にいなくなって! 心配するじゃないの」
 何も言わずに出てきたということだったのだろう。母親は拓に気が付くと、すみません、と言うように頭を下げた。拓も頭を下げた。アラタがバイバイ、というように手を振った。


 そして次の日、何もすることがない拓が同じ時間に河川敷に行くと、アラタが待っていた。その次の日も同じだった。
 まる二日、ろくにトレーニングもしなかったが、アラタと遊びのような時間を過ごすことでストレスの発散になっていた。よく考えてみたら春休みなのだ。気になってアラタに宿題はないのか、とか、また母親に黙ってきたんじゃないのか、とかいろいろ聞いてみたが、アラタはうんなのかううんなのか、よく分からない首の振り方をするので、結局わからないままだった。
 あれ以来アラタの母親とは会っていないので、アラタがちゃんと母親に行先を告げてやって来るようになったからなのか、それともきっかり半時間で帰っていくところを見ると、母親がここにたどり着くまでの時間を上手く計算しているのか、拓には分からないままだった。

 少しずつ足元に春の気配が膨らみ始めていたが、まだ風は肌に冷たかった。
 あれから何度か宗輔のマンションの前を通ってみたが、数は減ったものの、相変わらずちらちらと誰かの影が見え隠れしていた。見上げると、窓には常にカーテンが引かれたままで、電話番号も知らない拓にはなす術はなかった。それに、もしかして宗輔のほうが拓を訪ねてきてくれたりしないかと、ほんの少し期待もしたのだが、そもそも宗輔が自分のアパートを知っているのかどうかもよく分からなかった。
 この二日間で、体重が必要以上に落ちた。他のことでは変わらない生活をしていたが、食事だけは極端に減っていたからだろう。腹もすくものだと思っていたが、それも朝だけで、昼からは全く食欲がなくなった。危ないと思って、意味があるのかどうかわからないが、コンビニでプロテインだけは買って飲んでいた。
 三日目には拓はトレーニングを再開した。朝、鏡を見て筋肉が落ちていることを感じたら、何となくおっかなくなったのだ。何度かジムの前までは行ってみたのだが、まだ赤沢の前に顔を出す勇気はなかった。何と言えばいいのか、心が決まっていない。

 五日目、拓は河川敷をいつものように走っていた。
 その日は曇っていて、風もきつかったし、冬のような寒さに戻っていた。開き始めていた桜の花は、いったん休むかのように風に身を縮めているように見えた。
 さすがに今日はアラタは来ないかな、と思ったら、ちょっと寂しいと感じた。そして住んでいる場所も、苗字も知らない子どもに対して、寂しいと思っている自分の感情に驚いた。気が付くと、いつの間にかちょっと太っちょのアラタの姿を探している。
 その時、ふと河川敷に立っている女性に気が付いた。
 拓は足を止め、相手が頭を下げたので、自分も頭を下げた。

 アラタの母親だった。
 傍にアラタの姿はない。
 どう反応していいのかわからないまま、拓が立ち止まっていると、アラタの母親の方から拓に近付いてきた。少なくとも、いつもアラタの遊び相手をしてくださってありがとうという言葉が期待できるような友好的なムードではないことだけは確かのようだった。
「スエナガと申します」
 硬い声だった。どう返事するものか分からず、拓はとりあえず頷いた。アラタの母親は強張った顔のまま、風で揺れるカラスノエンドウやホトケノザを見ていたが、やがて顔を上げた。
「アラタに妙なことを教えるのは辞めてください」
 精一杯、押さえた声だった。
「妙なことって……」
「あなたは、アラタのことを何もご存じないのに、余計なことをしないで欲しいんです」
 何を言われているのかよく分からなかったが、要するに、ボクシングを教えたことがよくなかったということなのか。
「僕は別に……」
 アラタの母親はまだ何か言いたいことがありそうだったが、もちろん拓に対して怒りをぶつけるのは間違っているということを知っているとでもいうようで、拓に伝えるべき最低限の言葉だけを決めてきたふうに見えていた。

 拓が事情を確認しようと口を開きかけた時、彼女は深く頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。何かを解決しようと思っていたのに、それがどうにもならないことに気が付いて、諦めたかのように見えた。
「ちょっと待ってください。何か、僕が悪かったのなら謝ります。でも……せめて、何が悪かったのか教えてください」
 しばらく、アラタの母親は拓に背を向けたまま立ち止まっていた。肩が微かに震えているように見えて、拓は思わず緊張した。
 吹き付ける強い風が、拓とアラタの母親の間を割くような気がした。
 そして拓は、ぐっと拳を握りしめた。
 風の音が拓の耳を塞いでいる。

 あの時も、そうだった。
 窓ガラスを割るかと思うほどの強い風が吹き付けていた。だが、凄まじい破壊音は現実のものだった。何かを怒鳴っている父親の声、床で砕け散っていた皿や茶碗の欠片、座り込んでいる母親の額からは血が流れて床にしたたっていた。拓は半分寝ぼけたままで台所の入り口に立っていた。ママ、と呼びかけた時、恐ろしい顔のままで父親が拓の方にやってきた。拓の目には立ち上がった母親の背中が見えていた。
 その肩が震えていた。
 振り返った母親がどんな顔をしていたのか、もしかすると拓はそれを見たのかもしれないが、記憶から追い出してしまっている。子どもながらに知りたくないことがあって、無理やり忘れてしまったのかもしれない。覚えている光景の中、拓の視線の先には、母親の手と暗い電球の光を鈍く跳ね返した刃があっただけだった。

「あなたは、何も知らないでアラタにあんなことを教えて。あの子は、良いことと悪いことの区別もつかないような子なんです」
 振り返ったアラタの母親の目は奇妙に冷たく、悲しく見えた。
 拓には言葉の意味が呑み込めなかった。
「お前は敵だと言っていきなりクラスの子を殴って、怪我をさせたんですよ。今までは、かっとして死ねとか言うようなことはあっても、手なんか出さなかったのに。こんなことになるのを恐れてたんです。だから、嫌われたりのけ者にされたりするのは仕方がないけど、加害者だけにはならないように何回も言い聞かせて、何とかやってきていたのに……学校からはもっとちゃんと病院で診てもらわないからだと言われて……何度も普通学級ではやっていけないと言ったはずだって」
「アラタは、病気なんですか?」
 目を開けていることが苦痛なほどの強風の中で、拓の声に被せたアラタの母親の声は、叩きつけるように強く大きくなった。
「変わった子だ、ちゃんと話ができない、頭がおかしいって思われてるんです。本当にゆっくり、何度も何度も言って聞かても、周りのこと、先生や友達の言っていることがちゃんと理解できないの! それでも、何とか頑張ってみんなと同じようにやってきたのに、あなたのせいでこれまで積み上げてきたことが無茶苦茶になったのよ。ただでさえ、友だちもいないのに、こんなことになって、あんな子、もう誰も分かろうとはしてくれないわ!」
 その瞬間、拓の中の何かが切れた。
 あんな子?
思わず一歩踏み出して、握りしめていたままだった拳を突き出しかけた、その時。


「ちょーっと待て!」
 声よりも、すごい勢いで飛び込んできた肩に、拓の中途半端な右手は簡単にブロッキングされた。もっとも、本気で殴ろうとした訳ではなかったし、自分でもまずいと思って足を引きかけたので、それほどの威力はなかったはずだ。しかも、そもそもこの距離ではアラタの母親には届かないはずで、さすがに拓も頭の隅でそれは計算していたつもりだった。だから、飛び込んできた肩は、距離の分だけいささか痛い思いをしたに違いなかった。
「いいか、相手は女性で、お前よりずっと弱いんだ。それに君はそんなことに拳を使っちゃいかん、絶対にいかん」
 髪の毛が、風のせいなのか、いつも以上にぐちゃぐちゃになっているお茶の水博士、もとい斎田アトムは、拓の両腕を掴んで、必死でそう訴えている。瞬間に沸騰したものの、次の瞬間には冷めていた拓は、むしろアトムの勢いの方に驚いていた。

 一方のアトムはすぐにアラタの母親の方に向き直り、その両手を取って握りしめている。アラタの母親も、拓に殴られそうになったことよりも、アトムの唐突な行動の方に驚いているように見えた。
「お母さん、お察しします。多分、私の母親も随分悩んだと思いますが、ひとまず私もこうしてそれなりに仕事をして、多少は社会の役にも立つようになっています。ご存じとは思いますが、アインシュタインもエジソンもスピルバーグも、おそらく坂本龍馬も、大事を成す人間はどこかしら、そういう社会的には障害を持っているとみなされてきたわけですが、それはあくまでも協調性の問題でして、要するに誰かよき理解者が一人いれば良いだけのことです。それに、意外にもこんな変人を気に入ってくれる奴ってのもいるもんでして、私もこれでそれなりにいい友人にも巡り会えました。もちろん、あなたが本気でおっしゃったのではないことくらい、私にはわかりますが、それは亀の甲よりも年の功ってやつでして、この真っ直ぐで言葉の裏を深読みできない少年にはちょっと難しかったようです。いや、つまりですね、この少年はアラタ君のことを気に入ってるんですね。でもって、アラタ君もですね、きっとこの少年を気に入っているわけです。ちょっと間違った方向に行ったかもしれませんが、そんなことは我々が皆で知恵を出し合えば解決できる問題であるわけですよ」
 早口でそこまでまくしたてたアトムに、アラタの母親は完全に毒気を抜かれた状態になっていた。それから突然、彼女は草地にへたり込んだ。風が彼女の髪を掻き乱れさせ、それからいつしか慰めるように穏やかになった。
「ごめんなさい。あなたのせいじゃないのに。誰にも、わかってもらえなくて」

 こんなところでは風邪をひくからと、アトムに促されて、拓も一緒に近くの住宅街の中にある喫茶店に入った。どういう顔をしていいのか分からなくて、拓は押し黙ったままついて行った。
店内にはほかに客はなく、背の高いちょっと男前の中年男性が、客に必要以上に絡まずに静かにコーヒーを淹れてくれた。ブラジルサウダージという名前の濃いめのコーヒーの匂いと、聞いたことのない控えめな異国の音楽にほっとした。
 ぽつりぽつりとアラタの母親は言葉を綴った。
 アラタがアスペルガー症候群という発達障害だと言われていること、コミュニケーションがうまくできないことや行間を読めないことが特徴である発達障害で、感情のコントロールが難しいために他人との間にトラブルが多く、かっとして攻撃的になることもあるらしいこと、病院にちゃんと行けと言われたが自分の子どもがそういう結論を下されることが怖くて行っていないこと、夫は全く相談に乗ってくれず一人で悩んでいること、姑からはお前の育て方が悪いと言われていること、アラタはいつものけ者にされているが、本人が苛められているという意識が乏しいので学校には行っていて、それが却って可哀そうであること……

 それに対して、どうやら自分もそうだという自覚があるらしい斎田アトムは、かっとして攻撃的になるのはアスペルガーという病気のせいだと決めつけられていいものではない、むしろ子どもなんて大概そういうもので、世の中の男の半分以上はマザコンでコミュニケーションが下手で行間が読めない、病気だというならみんな病気だ、と説明していた。そして、大事なのは誰か信じてくれる人がいるということなのだ、と。
 アラタの母親が話を聞いてくださってありがとうと言って立ち上がった時、拓も思わず立ち上がっていた。
「あの、アラタとあなたが良かったら、今度はちゃんとボクシングを教えてあげてもいいですか。その……人を殴るための技ということじゃなくて、自分自身を鍛えたり励ましたり、自信を持って生きていくための技なんだってことを……」
 アラタの母親はしばらく答えずに拓を見つめていたが、少しだけ微笑んで頭を下げ、アトムにも礼を言って、店を出て行った。店の外で、彼女はもう一度頭を下げていた。拓の申し出をどのように感じたのかは分からなかった。あの人はまだこれから、目の前にある色々なことを悩み、アラタもまた、色々な問題を乗り越えていかなければならないのだろう。


「さてと、少年」
「俺は少年って歳じゃない、お茶の水博士。だいたい、あんなタイミングよく現れたってのはどういうことだよ。まさか、あんた……」
「俺も博士ってほど偉くない。君の想像通り、この何日か君をストーキングしていた。どうしても君のことが気になってね。いや、まったく、ロボットよりも面白い人間が宗輔以外にもいるとは思わなかった。葛城拓くん、赤沢ジム所属、やたらと攻撃的で野生的なフライ級のプロボクサー、このところ悩みがあるようで、俺がストーキングしていることにも気が付いていなかった。ただ少なくとも宗輔を嵌めようとしている記者でもカメラマンでもない。本人は気が付いていないらしいが、子どもは嫌いじゃないし、それに結構おせっかいで、火が付きやすい。ただ今ひとつよく分からないのは、君は宗輔とどういう知り合いかってことだ。ひょっとして宗輔のストーカーなのか」

 確かに、この斎田アトムは行間を読めないし、適切なコミュニケーションを目指して人の心を読むってことはできない人間らしい。もちろん、拓にも同じようなところがある。いや、人は多かれ少なかれ、そういうところを持っている。人と人が分かり合うために、ただ見つめ合っただけでいいというのは理想かも知れないが、本当はやはり言葉が大切だ。宗輔との間に欠けていたのは、お互いを知るための努力だったかもしれない。たとえ不器用でも、不器用なりに言葉を尽くせば、一歩ずつでも前に進むことができるはずなのに。
「あのさ、人のこと付け回してて、よく言えるよな。言っとくけど、俺はストーカーじゃないからな。宗輔にだって、親友のあんたにも言えないことがいっぱいあるんだ」
 アトムはしばらく拓の顔を見つめていたが、やがて何か勝手に納得したような顔で頷いた。
「俺は宗輔のことは結構知っているが、何もかもを知る必要はないとも思っている。けど、宗輔がいなければ俺は困るし、宗輔も俺がいなければ困る、そういう関係だ」
 俺だって、と言いかけた言葉は、咽喉元に引っかかってしまった。

 何だよ、知っているということや、信じ合っているということがそんなに大事なのかよ。いや、大事なのはわかってる。でも、ちょっとばかり宗輔のことを知ってるからって、色々悩んでる俺に対して自慢しなくてもいいだろう。
「あんたって、やっぱりやな奴。変なロボットで俺の頭にチョコレート爆弾落としたり、蹴り入れたり、指かぶったり……次から次へとしょうもないもの考えやがって」
 言いかけて、拓はしまった、と思った。案の定、アトムは少しの間、彼にとっては難しいという裏読みを試みているような顔をしていた。
「君、まさか、蘭丸くんに指をかぶられたのか? いや、つまり……」
「蘭丸くん?」
 まさか、あの変なおかっぱ頭の態度の悪いロボットの名前か?
「そう、お茶運びからくり人形改良型、チョコレート食わなきゃキックするぞプログラムを組み込んだ、人呼んで……」
 あぁ、もう面倒くさい。
「そうだよ。言っとくけど、あれはやり過ぎだ。はっきり言って、むちゃ痛かったんだ。もうちょっと力加減ってものがあるだろ。ロボット作る時は考えろよ」

 途端に、アトムが食いつくようにテーブルに載せたままの拓の手を掴みとり、息がかかるほど近くに引きよせてまじまじと見つめた。
「何だよ!」
「そうか、君か。君だったのか。いや、君、ぜひとも俺の研究に力を貸してくれ」
 えーっと、これって肝心なことが伝わってるのか、と疑問には思ったものの、アトムの中の拓への疑いはめでたく晴れたようだった。
 拓の手を放したアトムは、やがて真面目な顔になって、ふと視線を喫茶店の隅に向け、立ち上がった。そして積まれた雑誌から一冊を取り上げ、戻ってくるとテーブルの上に置いた。
 拓は表紙を黙って見つめ、それから顔を上げた。
「君が宗輔の大事な人だということが分かった。つまり、あいつが俺に特別なロボットを注文したのは初めてだった。それも、バレンタインのための、しかも二年続けて。あとは、君がどうしたいか、なのだが」
 ぼさぼさ頭の冴えない風体の男が、きわめて真面目な顔で拓を見下ろしている。拓はもう一度雑誌の表紙に目を向けた。表紙には、『クラブシノハラの青年社長、真実を語らないまま失踪か!?』という見出しと、硬い表情の宗輔の写真が、まるで悪人を断罪するようなムードで貼り付けられていた。
 何だか悔しくてたまらなかった。こいつらは宗輔の何を知っていて、こんなことを書いているのか。殴り合うボクシングよりも、よほど下品でたちが悪いと思った。

「驚かないのか?」
 馬鹿げた文字を見つめたまま、拓は尋ねた。
「何に? 宗輔の恋人が君だってことにか? いや、宗輔がそういう人種だってことにか?」
「知ってたのか?」
「いや、そんな話を宗輔から聞かされたことはない。だが、それは俺にとって大きな問題じゃない。そんなことで俺の中の宗輔の存在の意味も形も変わらないからな。今、俺にとって問題なのは、君があいつの苦しみや抱えているものを聞いて、その上であいつを支えたいと思うかどうか、なんだ」
 そう言いながら、アトムはもう一度拓の前に座った。
「俺は宗輔の友人だが、運命共同体ってわけじゃない。いつでも傍にいて宗輔を支えるという存在でもない」
「俺だって、女みたいに宗輔と一緒にいたいわけじゃない」
「そりゃそうだ。でも、宗輔だって片羽根じゃ思うところへ飛んでいけないさ。そうだろ?」
 拓はようやく顔を上げた。

(【炎の記憶・海の記憶】(後篇-2)了)


次回、最終回です。宗輔と拓、ちゃんといいところへランディングさせてあげたいです。
アラタくんのことも含めて、拓が自分の道を歩けるようにもしてあげたいです(^^)

Category: Time to Say Goodbye(BL)

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