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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨43] 第7章 父と子(1) 

第2節のスタートです。
第1節で起こったいくつかの出来事……同居人・大和竹流の怪我と失踪、彼のインタヴュー記事の波紋、彼の仲間や恋人たちの複雑な感情、そして真の恋人(一応)・深雪のパトロンである代議士・澤田顕一郎の接近、女刑事・添島麻子が特別な筋から受けている命令、そして深雪の恋人であったという3年半前に自殺した雑誌記者・新津圭一の死の真相は? また新津の死に疑問を抱いている女記者・楢崎志穂は澤田や深雪に疑念を抱いているようである。一方、姿を消した竹流も、新津圭一の自殺の記事を残していた。彼の失踪は新津の事件と関係があるのか? そして竹流と一緒に姿を消している寺崎という竹流の仲間。
第5章までのあらすじはこちらをご覧ください→[雨・番外]limeさんが描いてくださったイラストとあらすじ
そして、第6章。元傭兵でありジャズバーの店長・田安隆三が水死体で見つかる。真は田安が澤田の育ての親であることを聞かされたばかりであり、苦しかった時に『お前は優しい人間だ』と慰めてくれた田安の死にショックを受けていた。

では、第2節を始めたいと思います。
彼を探して旅に出る第2節……それは過去を思い出す旅でもあります。
色々な『謎』の解明は真に任せて、ご一緒に真の心の旅に付き合ってやってくださいませ(^^)
改めて、よろしくお願いいたしますm(__)m





 美和は事務所で新津圭一の事件を見直していたが、半分は上の空だった。
 今日は大学の授業に一時間だけ出てみたが身に入らず、途中で教室を出てしまった。あまりにも堂々と出ていくところを、呆れたように講師が見ていたのも何となく背中に感じたが、どうでもいい気分だった。
 さっきからずっと、添島刑事に呼び出されて行った真の後姿が、めくっている本の上をちらついていた。
 恋人の北条仁が勧めるので、遊びで寝ただけだと思いたかった。

 めくっている本は図書館で頼み込んで借りたもので、一九七六年の一月から二月の新聞記事を綴ったものだった。
 企業倒産件数一万二千六百六、戦後最多。一月二十六日、江夏豊が阪神から南海へ移籍、二月四日、ロッキード事件。
 そんなに大きな事件ではないのだろう。むしろ三面記事を見ることにして、ページを戻ると、不況の文字が躍っている。伊藤忠と安宅の合併の波紋、五百円紙幣を硬貨に変更することを決定。一月三十一日、鹿児島で五つ子誕生、更に戻ると、一月二十九日、昭和四十三年に盗まれたロートレックの『マルセル』を預かっていたと大阪府警へ会社員が届け出ている。
 一月二十七日にも、絵画に纏わる記事が出ている。
 不況の文字の中で、絵画の値段だけが浮いて見えていた。
 新潟の市内の旧家が県に寄贈したレンブラント、フェルメールについて、寄贈者は十九世紀末の優秀な贋作であると説明、鑑定者も数名、確認。全て本物なら数百億の価値。

 変な記事。
 美和はその小さな記事を読みかけていたが、電話が鳴ったので本を閉じた。
「もしもし、相川調査事務所です。……あ、こんにちは」
 添島麻子刑事だった。ちょっと嫌な気分になったが、それを押し込めて挨拶をすると、向こうは穏やかな調子で言葉を返してくる。
「少し前、お宅の所長をお返ししたけど、せっかくパトカーで送ってあげるって言ったのに電車に乗るって帰ったのよ。でもちょっと気分が悪いみたいだったし、気になって連絡したの。帰ったら休ませてあげてくれる?」
 そんなこと何であなたに言われなきゃならないのよ、と思いながらも美和は冷静な声を繕って質問していた。
「何かあったんですか?」
「彼の知り合いが水死体で上がったの。ちょっとショックだったみたいで」
「それって、まさか」
 美和の最悪の想像を一蹴した添島刑事の声は穏やかだった。
「そんなわけないでしょ。今横浜なの。さっき電車に乗ったところだと思うから」
 美和は暫く考えてから、質問した。
「ショックって、水死体がですか? それともその人が死んだから?」
 添島刑事は向こうで暫く間を取っていた。
「両方……かな。それとももっと別のことかも知れないけど」
「別の事?」
「相棒がいないことよ。気をつけてあげて」
 それで電話が切れた。

 美和は机に戻り、さっきの本を開きかけて直ぐにやめた。傘を二つ持って事務所に鍵をかける。宝田は北条の大親分に呼ばれて屋敷に出掛けているし、今日は賢二も姿を見せない。
 階段を下りて外に出ると、まだ雨は降り出していなかったが、泣きそうな空だった。
 美和はぶらぶらと歩いて、新宿駅の東口改札まで来ると、改札から吐き出されてくる人たちがそれぞれの目的地へ散り散りになっていく様子を、ぼんやりと見つめていた。

 まるで中学生の初恋のようだった。
 叶うことが目的でもなく、相手に知らせることが目的でもなく、ただ見つめているだけでよかった、そういう初恋と同じ気配だった。肌を合わせて求め合ってからこういう気持ちになるとは思ってもみなかった。
 相手がいつここに姿を見せるかもわからない、もしかすると現れないかも知れないのに、そんなことはどうでもよかった。ただ会いたい気持ちだけが、時間の長さも辺りの雑多な気配も、気温も音も何もかも消し去ってしまうように、膨れ上がっていた。

 一体、亡くなった人というのは誰なのだろう。大家さんではなさそうだけど、それほど先生がショックを受けるということは? それに相棒がいないからって、何に気をつければいいのだろう。
 何度も改札の前を行ったり来たり、柱に凭れたりしながら、美和は様々な想像と愛しい気持ちを持て余していた。

 今でも、初めて会った時の喫茶店での横顔を思い出す。
 私はいつ先生に恋をしただろう。あの喫茶店なのか、あるいは初めて抱かれたあの夜なのか。いや、そうではないのかもしれない。もっとずっと前、少年の日の彼の写真を見た時なのかもしれない。
 でも、これは片恋だ、と思った。
 どれほど真自身が否定しても、彼はただ一人の人を想っている。
 そう考えてみると、叶いそうにないところまでが初恋に似ている。それに、美和にも付き合っている男がいて、きっと簡単には別れられないだろう。新しい想い人ができても、その男と美和の間にある思いは、決してマイナスの気持ちではない。

 もう何度電車の到着があったのか、また急に膨れ上がった人間の波が押し寄せて、改札から吐き出される。その中に、まるで浮浪者のように生気のない真を見つけた。
 こんなにもたくさんの人が袋に入った米粒のようにひしめいているのに、その中からたった一人の人を見つけ出すことがこれほどに簡単なのは何故だろうと、美和は思った。ずっとその人を想って待っていると、視覚にも超能力が加わるのかもしれない。
 真は忙しげに通り過ぎる人に肩をぶつけられてふらついている。美和は思わず駆け寄りそうになったが、ふと足を止めた。
 何故、そんなにあの人を想っているのだろう。
 言葉で何を言われるよりも、夜中のリビングの真の姿は決定的な何かを美和に思い描かせた。冗談で妄想を核に作り上げた文章教室のトレーニング材料は、今では美和の中で立派なノンフィクションになっていた。
 どんなに追求しても、本人は肯定しないだろうけれど。

「先生」
 真はしばらく、話しかけたのが美和だとは分かっていないような顔をしていた。
「……どうしたんだ」
「迎えに来たの。雨、降りそうだったし」
「何時から、待ってた?」
「少し前。添島刑事が電話くれたの。大丈夫?」
 真は頷いて美和の手から傘を受け取った。
 その一瞬、二人の手が触れた。美和は自分の手の冷たさを感じたが、真の手はその美和の手よりもずっと冷たく、鋭利な氷の刃のようだった。

 傘を並べて歩いても、二つの傘の間から雫が零れ落ちた。その小さな隙間は、飛び越えられない次元のずれのように思えた。駅から事務所までの僅かの時間、真は口を開くこともなくただゆっくりと歩いている。美和は話しかける言葉を見つけられなかった。  
 事務所に戻ると、美和は温かいコーヒーを淹れて真に差し出した。真は机ではなく接客用のソファに座ってそれを受け取った。表情は硬くて何かを堪えている。だが、真はやはり何も言わなかった。
 真はコーヒーを飲み終わると、止める美和を振り切るようにして、名瀬弁護士の事務所に出掛けていった。幾つかの仕事を請け負って数時間後に帰ってきたので、美和はその仕事を取り上げて真を休ませようとした。しかし、真は休む間もなく少年院に出掛けて行ってしまった。

 帰ってきた宝田に事情を話し、真の後を追いかけさせて、一人になると、美和は机に座って一息ついた。
 何かをしていないと余計なことを考えてしまいそうだった。
 夕方になって、美和は新津圭一の姉の家に電話をした。当たり前だが、電話に出た相手の声は不審そうで硬かった。
「柏木美和と申します。実は私、新津さんと同じ出版社に勤めてたんですけど、三年近くニューヨークに行っておりまして、先日帰国して初めて亡くなられた事を知ったんです。大変お世話になりましたのに、不義理をしてしまって。それで、ぜひお墓参りをさせていただきたいのですが」
 姉夫婦は多摩川の傍に住んでいた。言葉は丁寧だが、墓参りの件は断られた。
「あ、千惠子ちゃん、どうされていますか。私たち、とても仲良くしていたんですけど」
 姉という人は向こうで暫く黙っていた。それから、父親の事は思い出させたくないので会わないで欲しいと言われた。そのまま電話は切れた。
 不名誉な死に方をした弟の事は忘れてしまいたいのだろう。井出の話では、新津の娘は姉夫婦や親戚に預けられたわけではなく、施設に引き取られたということだったし、姉夫婦はもちろん、世間の噂から切り離された生活を望んでいるということなのかもしれない。

 真は八時には帰ってきて、その電話の事を聞くと、淡々とした声で、そうか、とだけ言った。
「先生、ご飯どうする?」
 真からは、今日はいいという返事が返ってきた。いつもなら、ちゃんと食べないと駄目、と引きずってでもどこかに連れ出すところだが、今日ばかりは美和も力が入らなかった。
「家に送るよ」
 淡々と、美和に有無を言わせぬ気配で真は言った。
 真は美和を北条仁と同棲しているマンションまで送ってくれて、そのまま一人で竹流のマンションに戻ったようだった。言いたいことはいくらでもあったのに、一言も言えないまま、美和は部屋に入った。上着も脱がずに居間のソファの横の床に座りこむ。
 テーブルの上には、仁の残していった煙草の箱がそのまま残っていた。その濃い青の箱に、カーテン越しの鈍い光が僅かに反射している。窓の外からは、アスファルトの湿度をじっとりと抱き込んだタイヤの音が、遠く聞こえている。部屋の内側には、何もかもから切り離されたような静けさがぼんやりと漂っていた。
 傘を渡した瞬間に触れた真の手の、残酷なほどの冷たさを思い出して、気持ちは深く沈んだ。


          * * *

 竹流のマンションに帰りつくと、真はシャワーを浴び、奥のオーディオルームに入ってテレビをつけた。冷蔵庫から出した缶ビールのプルトップを上げながら床に座る。
 この部屋はプライベートな空間で、大きな画面のテレビとオーディオセットが一方の壁を占拠している。別の壁は、寝室への扉以外の場所をレコードとフィルムと本が埋め尽くしていた。他にトレーニング用の器具が幾つか置かれている以外は何もないが、多少雑多な感じがして、ある意味では寛げた。
 真はフロアソファに凭れてビールを一口飲み、髪をタオルで拭きながら、ただテレビ画面を占拠しているだけの漫才番組を眺めていた。

 よくここで映画を一緒に見た。
 どこでどう手に入れてくるのか、古い映画のフィルムで、映写機とスクリーン代わりの白い壁の間を繋ぐ白い光の帯に、真は不思議に穏やかに気持ちになって同居人の映画鑑賞に付き合っていた。たまにはただやたらと絵画や彫刻を映しているいるだけの無声のフィルムもあったのだが、退屈ではなく、心は穏やかでいられた。
 意外にも同居人は涙もろくて、つまらない恋愛映画でも時々感動している。たまには真が感動していると、自分の事は棚に上げて、今泣いてただろうと大騒ぎする。
 同居人のお気に入りは変わった国の映画ばかりで、トルコやソ連やギリシャの監督の作品には、何のことかわからないままつき合わされた。
 何度も見せられて台詞さえも覚えてしまいそうな映画はタルコフスキーの映画で、中でも『アンドレイ・ルブリョフ』は同居人のお気に入りだった。真も、理解できない部分も多くありながら、映画のラストシーンでモノクロがカラーになり、舐めるようにルブリョフのイコンを映すところでは、いつも口が利けないくらい入り込んでいく気がしていた。

 だが今は、しゃべり続ける漫才師のけたたましさの方が救いに思えた。
 腰にタオルを巻いただけだったので、不意に身体が芯から冷えてきた。真は寝室のクローゼットを開けて、竹流がいつも引っ掛けているガウン代わりの着物を、無意識に手に取った。それを着て襟元を掻き合わせるようにし、オーディオルームの床に座りなおす。真の祖母が竹流のために縫った着物は、勿論真には大きすぎるのだが、着心地は滅法良かった。
 しばらくテレビ画面を眺めていたが、映像も音声も光も、何もかもがただの記号であって、まるで意味を成していないことに気が付いた。真は思わず身震いした。 

 テレビを消した途端に襲い掛かってきた静寂に耐え切れず、ビールの空き缶を思い切り音を立ててゴミ箱に放り込み、寝室に戻ってベッドに潜り込んだ。
 眠ったら今日の出来事は忘れてしまおうと思った。何に対してそう思ったのかは自分でも分からなかった。
 目を閉じると、身体ごとベッドの底から深い彼方へ沈んでいくような、あの嫌な感じがする。静かで音は何もなく、誰の気配もない。

 ……水の中に四日間もいて、さぞ寒かったろう。
 突然そう思うと、身体は今まさにその冷たさを感じたように震えた。
 俺はろくな死に方をせん。お前さんは畳の上で死ねるように生きていくほうがいい。
 田安は時々神妙な顔でそう言った。
 水の中よりも火の中のほうがましだろうか。ふと竹流の背中の火傷を思い出してそう思った。
 辛かっただろうに、どうして自分が辛いときには何も言ってこないのか。
 真が辛いときには、何を察したのかずけずけとやって来て、いらないと言っても手を差し伸ばしてくる。恐ろしい夢を見た時には、何も聞かないが、身体を抱き締めてくれる。一種の精神安定剤のようなものだ。それなのに、彼自身がごたついているときには姿を消してしまって、真が手を差し伸べる隙さえ見せてくれない。
 ……今頃、どこで何をしているのだろう。


 真夜中に自分が泣いているので目が覚めた。
 死んだのは田安だ。竹流ではない。だが夢の中では、その区別はつかなかった。深い海の底へ彼の身体が沈んでいく、それを追いかけようとして覗き込んでも、暗いばかりで何も見えない。

 子どもの頃、ゼニガタアザラシを見ようと襟裳岬に連れてってもらい、何をどうしていたのか、足をとられて海で溺れかけた。水は冷たく、暗く、ただ恐ろしかった記憶しかない。以後、できる限り水には近付かないようにしていた。中学生のとき、伯父が失踪し、子どもだけで住んでいるのは良くないと竹流に言われた時、何があっても葉子は自分が守るから、祖父に何も言わないで欲しいと頼んだ。竹流のスパルタ教育はそれまでも大概だったが、そこから一段とエスカレートした。水泳に限らず、水からは逃げ回っていた真に、今度こそは逃げられないぞと脅してきた。何度も溺れかけながら、結局泳げるようになった。
 それでも、今でも水は時々恐ろしい。特に夜に海を見ると、大きな闇が全てを呑み込もうとしているように見える。

 その水は田安を呑み込んだのだ。
 思わず身体を起こした時、手の上に落ちた冷たい水滴に身体の芯から凍りついた。
 勘違いしたまま、会いに行けばよかった。
 信じられないことだが、ぼろぼろ涙が出てきた。こんなに声が出るほどに泣いているのを、もしも誰かに見られるような事があればどう思われるだろう。何よりも自分がどうなっているのか、わけが分からなかった。
 自分自身の嗚咽に重なるように電話の呼び出し音が鳴ったときも、耳の中で反響して、現実の音かどうかよく理解できなかった。ようやく我に返ったとき、電話は一旦切れた。

 呆然と枕もとの子機を見つめていると、しばらくしてもう一度呼び出し音が鳴った。この際、脅迫電話でもいいと思った。
「……先生?」
 電話に出ると、向こうも長い間黙っていたが、ようやく呼びかけてきた。美和だった。
「ごめんね。寝てた? ……気分悪そうだったし、ちょっと心配になって」
 不意に、傘を渡してくれたときに触れた美和の冷たい手を思い出した。美和は、多分随分長く改札口で真を待っていてくれたのだ。
 あの時、どうして抱き締めてしまわなかったのだろう。
 混乱してわけがわからなくなっていた。

「先生、ほんとに大丈夫?」
 何も答えないでいると、美和がもう一度問いかけた。いつもの景気のいい明るい声ではなかった。
「夢」
「え?」
 声が擦れて後半は言葉にならなかったので、美和が聞き返してきた。
「夢ばかり見て……」
 もうそれ以上は声にならなかった。
「行くわ。先生、風邪ひくから、ちゃんとあったかくしててね」
 そう言って慌てたように電話は切れた。真は暫く子機を握っていたが、やがてホルダーに戻した。

 少し落ち着くと美和が来る前に全て泣いてしまっておこうとまで思ったが、もう涙は出てこなかった。美和が来るということに安堵している俺は卑怯者かもしれないと思った。ただ、理屈もなく誰かに傍に居てほしかったのだ。
 ベッドから出て、着物の帯を締めなおし、それから居間に行ってカウンターの後ろの棚からコニャックを出した。グラスに注いでいると、いつの間にか手が震えているのに気がついた。
 とにかく一気にあおった。
 ぼんやりと突っ立っていると、また何が何だか分からなくなってきた。

 美和がやってきたのは思ったよりも早く、真は玄関で彼女を迎え入れたとき、そのソバージュの髪が濡れているのに気が付いた。
「雨、降ってたのか」
 聞くまでもなく、ドアの向こうからかなり派手な雨の音が聞こえていた。
「うん」
「夜中に、申し訳ない」
 幾分か冷静になっているつもりだった。
「ううん」
 美和は部屋に上がって、それから彼らは一緒にオーディオルームの床に座ってフロアソファに凭れた。一度抱き合ったといえ、そうは簡単にベッドには入れなかった。結局美和はフィルムを探して、当たり障りのないところでジョン・フォードの『我が谷は緑なりき』を出してきた。
 言葉もなく身体を寄せ合うようにして映画を見た。気丈な母親が炭坑夫の集会で自分の夫は炭坑主とつるんでなどいないと啖呵を切るシーン辺りで、真は美和の肩に思わず寄りかかった。眠れるとは思っていなかったが、そのふりをしてしまいたかった。
 美和は真の頭を黙って抱くようにしてくれた。





新宿東口。この小説にもちょっとした『聖地』(参照→物語を遊ぼう13:ロケハンと聖地巡礼)がありまして……
友人にこの新宿東口をその一つに数えていただき、大変うれしかったのです。
もう一つは、番外編(これは日の目を見ないかもしれませんが、何かのおまけにキー付きで出てくるかも)に登場の新宿ガード下。
時代が少し古いので、今の東口とは違うかもしれませんが、通った際には、美和と真の少し悲しい雨のシーンを思い出してやってください(*^_^*)

*コラムにありました【終わらない歌】のコーナーは別カテゴリに移動しました。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨44] 第7章 父と子(2) 

第7章(2)をお届けいたします。
さすがにこれだけ長いと真視点だけでは話が平たんになるので、時々他の視点が混ざりますが、その中で最も多いのが美和視点。書くほうとしては大変書きやすい視点ですが、この子には語り部としての役割があるし、インタビュワーの才能もあるし、ちょっとミーハーだし??(って表現が古すぎでしょうか)
でも、後半にむけては彼女も色々と悩みが出てきます。
しばらく、お茶目でちょっと乙女で、そして(慣れない朝ごはんを作ろうと)頑張っている美和の視点をお楽しみください。煮られてくたっとなっているワカメの気持ちで…??





 朝まで、眠ったのかどうかも分からなかった。
 真は例の如く朝になると冷静で、美和が朝食の用意をする横で、茶を淹れていた。美和は味噌汁を手渡しながら、真の顔を見た。
 昨夜は眠れなかった。多分真も眠っていないと思った。けれどもそのことを話題にするのも憚られた。真の表情には、美和の問いかけも慰めも拒否するような静けさだけが、風の流れも水の音も消えてしまった風景画のように凪いで、貼り付いているだけだった。

「今日は大学に行くだろう?」
 真のほうから美和に尋ねてきた。美和は言葉の中身がよく分からないままに、とにかく頷いた。
 朝は面倒なのでいつもパン食だった。北条仁もそんなことはとやかく言わない。それなのに私は何をいそいそと朝から味噌汁なんか作っているのだろうと思った。
 高遠賢二が以前ここに居候していた時、朝からちゃんと米を炊いてくれて、しっかり味噌汁もついて、おかずも五品は並んでいると言っていたので、多分対抗意識なのだろう。 

『それが朝から飯が美味くてさ、今日も頑張ろうって気になるわ。先生も大和さんも朝は結構強くてさ、先生なんか朝、時々どっかの寺まで稽古に行ってるし、俺も何回かつき合わされたけど、たまにはその寺で朝飯、食べさせてもらったりさ。寺の朝飯ってのが、これがまた美味いんだよ。なんか、人がたくさんいてさ』
 賢二がその寺で食べる朝食をおいしいと思うのには、食卓につく人数の問題もあるのだろうが、それにしても毎朝、幸せなご飯にありついている真に、この味噌汁でいいのかどうかと思うと、浮かんでいるわかめにも申し訳ない気がした。そもそも台所には、料亭並みの道具と調味料が揃っていて、その半分くらいは使い方が分からないし、残りの半分も、美和がこれまでに使ったことのないものだった。

 だいたい、どう対抗心を燃やしても、真の同居人が作るものより美味しい味噌汁というのは無理だ。開き直って、わかめには諦めてもらうことにした。
 真は、美味しいとも不味いとも言わなかったが、嫌な顔もせずに淡々と食べてくれた。この人は綺麗な箸の使い方をするな、と手元を見ながら改めて思った。美和も、一応は山口県ではそれなりの家で育ったこともあり、箸の使い方については祖父母が異様にうるさかった。だから他人の箸の使い方が妙に気になる。箸がまともに使えない男とは生活を共にできないと思ってしまう。そういう意味では、北条仁はヤクザだが、全く問題がなかった。

 真が伸びきったわかめを箸でつかんで、一瞬、妙な顔をしたように思った。
「煮ちゃった」
 美和が言うと、真は何を言われたのか分からないような顔になって、それから納得したように、くたくたに変色したわかめを口に入れた。

 大学まで真が車で送ってくれる。
それを見咎めた友人が声を掛けてきた。友人、と言ってもとても親しいというわけではない。ノートの貸し借りはするが、大学以外のところでの付き合いはないし、そういう付き合いは美和のほうが敢えてしようとは思っていなかった。
 人数合わせの合コンには何度か誘われたが、特別に面白いと思ったことはなかった。そんなところに行かなくても、美和の周囲の人間たちは十分面白い人間たちで、合コンに来る男たちは、美和の中ではランクが低くなっている。恋人を探すためなら行く必要はなかったし、せいぜい学校の授業の人物観察に役立つ程度だった。

「いつもの彼氏はどうしたの?」
 大学の友人たちは『いつもの彼氏』、つまり北条仁がヤクザであることは知らない。ちょっとくらいは危ない感じに見えていても、仁は傍目には、若くして財を成した事業家と言っても、誰も疑ったりはしない外見だった。
「今、バンコク。あの人はバイト先の上司」
「朝帰り?」
 そうか、そういうことになるな、と改めて思った。
「柏木さんもやるわね。ちょっといい男だったじゃない?」

 そりゃそうよ、私が今本気で惚れてるんだから。
 心の中でそう思ってから、そうなのだ、と自分の気持ちに気が付いた。
「独身? 彼氏じゃないなら紹介してよ」
 美和は何だか落ち着かない気分になった。自分の気持ちの中に不可解な違和感がある。
 本気で惚れている。誰かの目に触れさせたいなどとは思わない。
 確かにそう思うのに、本気で惚れるわけがない、そういうわけにはいかない、とも思う。しかも、それが美和自身の感情なのか、他の誰かの感情なのか、糸が絡み合ってしまって、わけが分からない。
「駄目よ。恋人がいるから」

 講義中も落ち着かない気持ちは続いていて、結局二講目は諦めた。
 大学門を出ようとすると、青い車にクラクションを鳴らされる。
「添島刑事」
 思わず呟くと、添島刑事は乗りなさい、と言うように助手席のドアを開けてくれた。
「事務所へ行ったら所長は出掛けてるし、秘書は大学だって言うし」
 車を走らせてから最初の信号で止まり、ようやく添島刑事は言った。美和はその言葉の尻尾に噛みつくように、声を被せた。
「何か御用ですか」

 昨日の電話から敵対する気持ちだけではなくなっていたが、警察という職種に対してはどうしても警戒心を抱いてしまう。考えてみれば私は極道の女なわけだし、と美和は自分で納得した。
「昨日、おたくの所長と話していて、彼がやたらと引っかかっていたから、気になったの。もしかして彼、新潟に行く気になったんじゃないかしら、と思って」
「新潟?」
「絵の事でね」
 不意に、昨日丁度この刑事の電話で中断された本の最後のページを思い出した。
「まさか、贋作」
「彼から聞いたの?」
 美和はえ? と思った。本当にあの記事の事なのか。贋作と新潟。そうそう重なるキーワードとは思えない。
「いえ、年譜みたいなやつで。でもそれがどうかしたんですか」

 青信号になったので、添島刑事はアクセルを踏んだ。発進はまるで暴走族のレディースのような潔さで、美和は驚いた。
「詳しいことは彼から聞きなさい。それから、あなたもついていってあげた方がいいわね」
「私?」
「今あの人、一人で放っておけないでしょ」
 美和は逆らうこともできず頷いた。
「彼を、好きになってしまった?」
 あっさり言われてどきどきした。

 やはりこれは恋なのかもしれない。
 尋ねた添島刑事の声は、美和の想像をはるかに超えて優しかった。考えてみれば、あの大和竹流が恋人にしている女だ。真と違って、女の趣味がいい男が選んだ女なのだ。
「……そうかもしれません」
「大変よ」
 美和は思わず運転する添島刑事の横顔を見つめた。
「刑事さんもそう思います?」
「えぇ」
 美和は何故かほっとした。

「初めて寝たときはそう思わなかったけど、昨日分かっちゃったんです。あの人を好きになるのは簡単だけど、好きでい続けようと思ったら、壁が立ちはだかってるっていうのか」
「随分大きい壁でしょうね」
 美和は急にこの刑事に親近感を覚えた。大学の友人たちよりよほど私の気持ちが分かる人だわ、と思った。
「分かります?」
「分かるわよ。その壁ときたら、温かく見守っているつもりで、外敵を蹴飛ばしてるものね」

「私は外敵かぁ」
 思わず本心から呟いた。添島刑事は声に出して笑った。
「いざそういう思いで見ると、彼の周りにはぐるりに高い壁が張り巡らされている。彼を好きでい続けようと思ったら、その壁を崩さないといけない、もしくはずっとその壁と付き合っていかないとならないものね。あなたは壁の向こうの人と愛し合わなければならない」
 美和はほっと息をついた。
「刑事さんって、大家さんの恋人……でしょ」
「生憎ね。向こうはそう思ってるのかどうか、ベッドの相手とは思っているでしょうけど」
 美和は少しの間黙っていた。そういう関係は大人びてかっこよく聞こえるが、ひどく寂しく感じた。自分はとても北条仁が言うような境地には立てない。

「それでいいんですか」
「何? 寝るだけの関係ってことが?」
「えぇ、その……」
 美和は言葉を継げなかった。
「それでいいのよ。ベッドの上でだけは二人きりで、あの人は私のことをちゃんと見てくれているし愛してくれるから。残念ながら、それ以外の彼を求めるのは無理だけど、それ以上のものを求めることのできない相手と分かって恋をしたわ」
 美和は溜息をこぼした。
「先生はいつもどこか遠くを見てる。ベッドの上でだって」
 暫く添島刑事は何も言わなかった。美和も自分が何を言いたいのかわからなくなった。
「それで、北条仁とは別れるつもり?」

 美和は返事をしなかった。
 不意にそう尋ねられて、そんなことを考えてもいなかった自分に改めて驚く。浮気をしたのに、元の彼と別れることなど思いもしない。自分だけはイマドキの女の子みたいなことをしないと思ってきたが、案外そうでもないのかもしれない。
 別れ際に添島刑事は大きな茶封筒と新潟までの切符を二枚渡してくれた。
「新潟に行ったら、弥彦に寄ってこの人を訪ねなさい。絵画には詳しいし、その贋作の鑑定をした一人だから。切符は私からのお餞別。車は置いていきなさいって伝えて」


 美和が事務所に入ると、宝田と賢二が神妙な顔で話をしていた。美和の顔を見ると、二人とも多少緊張し、それから宝田が美和に話しかけた。
「お帰りなさい。先生はまだ名瀬先生のところっすよ」
「うん」
 美和が気のない返事をすると、二人とも心配げに美和を見つめた。美和はそれに気が付いて、気を取り直して努めて明るく言った。
「明日からちょっと新潟に行ってくるから、先生と一緒に。だからちょっとの間お願いね」
「え? じゃあ、その、婚前何とかって言う……」

 言葉の使い方が間違っていると美和は思った。
「馬鹿。仕事よ」
 宝田が賢二と顔を見合わせて、それから美和の前にやって来た。幾分躊躇ってから、勢いをつけて言う。
「美和さん、先生はまだあの女と別れてないんですぜ」
「知ってるわよ。私だって仁さんと別れたわけじゃないもの。それに、そんな簡単な話じゃないの」
 宝田はまた賢二を見る。賢二は少し肩をすくめたが、あまり積極的に会話に参加したくはない、という風情で目を逸らした。仕方ないという顔をして、宝田が先を続ける。
「美和さん、俺、やっぱり無理やと思いやす」
「何の話?」
「先生には、その」

 美和は宝田と賢二の顔を交互に見た。全く、本当に二人とも、大学の友人よりよほど私の気持ちが分かるんだから、と思った。
「さぶちゃんは先生の想い人が誰だと思ってるわけ?」
 美和は、まともな学歴もなく、性格もはっきしりたところのない宝田が、かなりできの悪い男だろうという気持ちがないわけでもなかったが、時々宝田が見せる究極の突っ込みにたじろぐこともあった。
 北条仁との事もそうだった。
 美和が、他の男と寝てもいいって言われてるんだと冗談交じりに言った時、宝田は、でも美和さんはそうしたいんすか、と平然と聞いてきた。宝田相手なら、緊張したり言葉を繕ったりしなくてもいいのだと気楽に話しかけてきたが、相手が思ったよりも鋭い返事をすることで、その存在を改めて感じさせられる、宝田にはそういうところがあった。

「美和さん、その、相手が悪いっす」
 宝田は賢二に助けてくれという目配せをしたように見えた。
「私、大家さんに対抗しようなんて思ってないから」
 言い出しかねるというような宝田の気配に、ちょっとむっとして美和は言った。
 だいたい私には、ヤクザとはいえ、一応男がいるのだ。しかも何だってこんなに真面目な顔で、ちょっと寝ただけの男のことで、しかもその男の想い人が男だという話を聞かされなきゃならないのだ。
 そう思うとむかむかしてきたが、賢二の視線にぶつかると、急に頭の中が冷めた。

 賢二がちょっと心配そうに宝田を見た。その目の表情を読み取って、美和は二人が何かを話し合ってたんだな、と思って開き直った。
「それにね、大体何よ、二人ともモジモジしちゃって。私は確かに先生と寝たけど、仁さんが他の男と寝てみろって言うから、試しにそうしただけ。別に何とも思ってないから」

 実際には、言葉にしてしまうと急に悲しくなった。言葉の途中から涙が目の奥で熱くなるのを感じる。意外にも鋭い感性を持っている宝田にも賢二にも、気が付かれていないとは思わなかったが、ここで泣いてしまうのは癪だった。
「二人でそんな噂話をしてたわけ?」
「いや、その、賢二が一緒に住んでたときの話をしてて」
 宝田はその大きな体に似合わないモジモジとした態度のまま、改めて賢二の方に助け舟を求めた。

 確かに賢二は半年ばかりあのマンションに、真と竹流と一緒に住んでいた。少し考えてみたら、ずいぶん興味深い話なのだ。
 それに、涙を堪えたのを、たとえ知られているのだとしても誤魔化したくて、美和は強気に言った。
「へぇ、何の話? 私にも聞かせないさいよ」
 賢二は急に話を振られたからか、困った顔をした。
「いや、単に大和さんが言ってたことを思い出しただけだから」
「大家さんが、何て?」

 美和は何でも来い、という気分になっていた。
 本当は、今更だが、真のことならば何でも知っておきたいと思っていた。所長と秘書という関係も、年上の知り合いからまるで兄妹みたいと言われる関係も、悪くはない。だが、肌を合わせた仲ともなれば、その行きつく先が恋人という関係に落ち着かなくても、少しだけ入り込んで相手を知ってもいいはずだ。
 いや、深く知れば、初恋のようなこの不可解な不安定さやもどかしさから逃れられるに違いない。
 それとも、もっと苦しくなるものだろうか。

「あの人、よく俺の事連れ廻してくれてさ、先生は、その、女遊びに俺を連れて行ってくれたりなんかしないし、でもあの人はいい遊びから悪い遊びまで一通り教えてくれた。判断するのはお前で、そのためには多くのことを知っていたほうがいいって。それで、俺、先生にもそういうこと教えたのかって聞いたんだ」
 今年の始めに成人式の話をしていたから、賢二は美和よりひとつ年下のはずだった。背が高くて上から見下ろされている感じが少し癪に障るのだが、賢二自身は童顔で、普段は大人しい。ただ、気持ちを溜め込んでしまって、表に出る時に賢明な方法を取れなかったからこそ、父親を刺すという行動に出てしまったのだろう。それは賢二の幼少期の家庭環境によるものだが、賢二自身は真と一緒にいるようになって、少しずつ、自分の感じ方や行動を修正しようとしているように見えた。

 賢二は言葉を選びながら、美和の顔を確かめながら、話をしていたが、一旦間を置くと、次の言葉がなかなか出てこなかったようだった。
「それで?」
 それでも美和が強い言葉で聞きただすと、思ったよりもするりと答えた。
「いや、先生を女遊びするようなところに連れて行ったことはないって。あの人の遊び方見てて、絶対ホモでもバイでもないって思ったからさ、じゃあ、先生は何なんだって聞いたら、あの人、真顔で言ったんだ。賢、人を愛して身体を求めたらその先にあるのは何だと思う、って」
 美和はその言葉の意味を考えた。
「俺にも分からないんだって言ってたよ。俺、この人にも分からないことがあるんだ、ってその時は感心しただけだったんだけど」
 賢二はちょっと躊躇って、多分全てではないのだろうが、自分が竹流から聞いたことを美和に話してくれた。





さて、今回は特別に次回予告です。
高遠賢二。実は大手の会社の取締役の息子。父親からは暴力を受けて育っていて、父親の絶対支配下にある家の中では誰も味方がいなかった。で、思い余って父親を刺したため少年院に入っていたのですが、出てきたときにも家に帰ることを拒否。あれこれあって、竹流のマンションに預かられていたことがありました。
竹流にとってはもう一人の可愛い弟分。
で、つい、口が滑ったようです。
次回、竹流が高遠賢二に語ります。半分耳塞いで、聞いていただいたほうがいいかもしれません…^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨45] 第7章 父と子(3)/ カミングアウト? 

さて、今回お届けするエピソードは、一応、本編の流れの中で語られておりますが、独立したエピソードとしてもお読みいただけるものです。と言っても、ストーリー性のあるものではなく、単なるエピソードですし、人物の関係性を物語るものなので、ここだけ読んでも面白いというものではありません^^;
ただ少し、大和竹流の独白を聞いてやってくださいませ。
語りの相手は高遠賢二。父親を刺して少年院に入っていたのですが、出てきてから身元引受人になったのは家族ではなく大和竹流です。賢二は時々激昂する性質ではありますが、根は優しい奴です。
大海の言い訳・追記はお読みいただいてから、あとがきにて……





 その日、大和竹流は飲んで帰ってきて、やたらと上機嫌だった。酒が抜けるのがもったいないとか、わけのわからないことを言って、風呂にも入らないで、お土産に貰ったという青森県の日本酒を一人で飲んでいた。
 田酒。いい名前だろう。酒は米からできてるんだから、これは田んぼの賜物だ。
 賢二にそう説教しながら、自然と農家の人に感謝しながらお前も飲め、と言うので、真が未成年に何を言うんだと止めた。
 俺なんか十歳の時にはもう飲んでたぞ、と自慢げに竹流が言うのを、あんたの国とはわけが違うし遺伝学的にも肝臓の処理能力が違うと、真が強く否定する。

 一緒にここに住んでみて分かったことがある。
 この二人はこうして会話のテンポまでが微妙な距離を感じさせる。つまり、見ている周りの人間の目を引く。始めは大和竹流の外見が惹きつけているのかと思っていたが、どうやらそれだけではないのかもしれないと、賢二は思い始めていた。

「どこで飲んでたんだ」
「お祖父ちゃんがギャラリーに来てくれたんで、二人で飲みに行った」
 真が睨むように竹流を見た。
「ちょっと灯妙寺に用事があって来たんだって。気分良く飲んでたら、電車の時間になってしまって、帰ったよ」
 飛行機嫌いの真の祖父、長一郎はよほどでない限り、北海道から出てくるとき夜行を使ってくるという。
「何であんたがおじいちゃんと飲んでるんだ?」
「へぇ、わざわざ北海道から出てきて、実の孫を差し置いて俺と飲んでたのが気に入らないのか? そりゃあ、嫉妬だな」
 真が、態度はともかく祖父を尊敬しているのを知っているので、竹流はからかい口調で言ったようだった。賢二はその二人の様子を、やっぱり痴話喧嘩だなと思って見ていた。

 竹流は真に言われて、ようやく、しかし嫌々という顔で風呂に入りに行った。そして、風呂から上がってきた後、真が居間のソファで新聞を読んでいるのを見て、隣に座ったかと思うと、そのまま真の読んでいる新聞の存在を無視して、真の膝枕で寝転んだ。
 緩やかにカーブを描いて大きな乃の字のように並んでいるソファの反対側に座っていた賢二はびっくりした。まだ彼らと住み始めて一ヶ月も経たないときで、二人の遠慮のない距離感に慣れていなかったせいもあった。
「おい、何考えてるんだ」
「うるさい」
「向こうで寝ろよ」
「まだ怒ってるのか。お祖父ちゃんを独り占めしてて悪かったな」

 真の説明では、竹流と真の祖父長一郎は、二人ともが歴史好きで、語り始めたら止まらないのだという。長一郎夫婦が北海道から出てきて灯妙寺の離れを借りて住んでいた頃も、真の知らない間に、竹流は長一郎のところでしばしば飲み語っていたようだ。まるでどっちが本当の祖父と孫なのか分からないくらいだというし、実際に、真の叔父にあたる人が、長一郎は竹流のことをもう一人の息子か孫のように思っていると言っていたらしい。
 竹流曰く、その日は日露戦争から第二次世界大戦に至るまでの日本の世界情報収集能力について語り合っていたらしい。

「怒ってないからどけよ」
「賢がいるからって気にしてるのか」
「馬鹿言うな」
 賢二は突然話の矛先を向けられてどきどきした。
 だが結局酔っ払いは眠ってしまい、真は何だかんだと言いつつ竹流を押しのけようとはしなかった。賢二は風呂に入ってくると言ってそこを離れた。

 とは言え、風呂は二回目だった。と言うよりも、そのことに真が気が付かなかったことに、却って賢二は動揺した。まさか、やっぱり二人はできていて、自分が同居するようになったので困っているのではないかと思った。そういう気配は、思い返してみればあるような気もしたし、敢えて聞いたことはなかったが、赤の他人が一緒に住んでいるムードにしては親密だと思えた。
 仕方がないので賢二は洗面所側のドアからベランダに出てしばらく時間を潰し、結局五分ほどで台所側のドアから中に戻り、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。そこからはリビングは丸見えにはならないが、間に仕切りはないので、自分の部屋に移動する時に、不意に彼らの様子が目に入ってしまった。

 静かで何の音もなかった。
 新聞は畳まれてテーブルに投げ出してあった。
 そして、真は自分の膝で眠っている竹流の顔をただ黙って見つめていた。竹流は腕組みをしたまま顔を真の方に向けて眠っている。そのくすんだ金の髪は緩やかなライトの下で複雑な影を作っていた。

 真の手がふわっと持ち上がったように、賢二には見えた。
 数センチ先の現実を、空に浮いた手がなぞるように微かに動く。
 賢二は自分が唾を飲み込んだ音まで聞こえるのではないかと緊張した。
 賢二には空にとどまったままの指の僅かな震えが、たまらなくエロティックなものに見えた。
 結局、真は竹流の髪に触れることもなく、そのまま何もせず空で手を握った。その時、突然組んでいた腕を解いた竹流が、眠っていなかったのか、真の方へ手を差し伸ばしてその項を抱き寄せようとした、その瞬間に真は、竹流に触れるのを躊躇っていた手でその額を叩いた。

「ここで寝るな。風邪ひくぞ」
 竹流はそう言われて、結構な力で叩かれたらしい額を押さえながら、億劫そうに起き上がった。
 賢二は、知らないふりをするのもかえっておかしいと思い、お休みなさいと声を掛けて、ダイニングの方から反対の廊下へ出た。彼らの顔は見なかった。

 賢二を最も緊張させていたのは、割と開け広げな竹流の態度ではなく、真が黙って竹流を見つめていた、その表情だった。もしも竹流が目を開けて真の表情を見ていたら、と思うと、自分のことでもないのに緊張した。
 確かに、竹流が時々連れて行ってくれるクラブの女性たちも、みな艶やかで色っぽい。だが彼女たちと竹流との絡む様子を見ていても、こういう緊張感を覚えることはなかった。それは単なる性別の問題ではないような気がした。

 あるいは、こんなこともあった。
 少年院を出所したばかりの賢二には、定期的に保護司と名瀬弁護士に現状報告に行く義務があった。だがある時、何か事情があったのか、今回は身元引受人と一緒に来るようにという手紙を受け取った。しかし、賢二は忙しい『身元引受人』たちにそのことを言い出しかねていた。ただでさえ、縁もゆかりもないはずの自分を引き取ってくれているのだ。できるだけ迷惑をかけたくないという気持ちになるのも当然だった。
 その日は、福島の工事現場に出かけることになっていて、上野駅前集合は朝五時だった。四時に起きた賢二は、結局明け方に切羽詰って彼らの寝室をノックした。もしも黙っていたら最終的に困るのが彼らであるということを、さすがに賢二も学んでいたからだった。

 真は前の晩、遅くなるといって一緒に食事をしなかった。早くに寝てしまった賢二は、真が戻っているのかどうかも知らなかった。
 入れ、という声は竹流のものだった。
 賢二が寝室の扉を開けたとき、竹流はベッドで上半身を起こし、いつもの穏やかな声で、どうした、と尋ねた。
 フロアライトの緩やかな灯りで、部屋の様子は、暗いリビングよりもはっきりと目に入ってきた。賢二の目には、竹流のすぐ傍で、彼に抱きつくように真が布団に潜り込んで眠っているように見えた。
 促されて事情を話すと、竹流は手紙を読むと言って、サイドテーブルの明かりを灯した。
 ちょっと動けないから持って来い、と言われベッドサイドまで行ったが、どきどきして手が震えた。竹流は手紙を通してそれを感じただろうに、何も言わなかった。

「真、起きれるか? 大体お前、いつ帰ってきたんだ」
 手紙を読んでから、竹流は傍の真に声を掛けたが、もちろん賢二がそこにいることなど知らないはずの真は、珍しく爆睡していたようで、眠りを遮られたことに抵抗するように竹流の身体に腕を回してさらに強く抱きついた。……少なくとも賢二にはそう見えた。
「賢二が、話があるそうだぞ」

 それで初めて真は起き上がり、一瞬賢二を見て驚いたような顔をし、それからはいつもの真だった。黙って手紙を読み、俺が行こうかと言う竹流に、いや、自分が行くと答えていた。賢二は真がちゃんと服を着ていることに妙に安心する一方で、寝乱れた寝巻きの襟元から覗く首筋の筋肉の様子、鎖骨の張りに緊張した。

 それからしばらくの間、賢二は自分が真に対してよからぬ欲情を抱いているのではないかと思って、自分でパニックになっていた。
 少なくとも外で見る真は、冷静で大声で騒ぎ立てることもなく、賢二の目から見る限り、色恋沙汰には嵌まり込まないタイプに見えていた。少々の出来事には驚きもせず、あまり真正面から相手を睨み付けるようなこともしない。ただし、相手の話を、軽口ひとつも挟まず黙って聞く気配は、いかにも信用が置けそうだからか、クライアントたちは心の内をほとんど包み隠さず真に打ち明けているように見える。これは水商売の店では大正解で、本来なら客の話を聞く立場のホステスやホストたちが、逆に真に話を聞いてもらいたがるのだ。
 そういう姿にも、ある意味嫉妬を覚える時があった。真が誰か他の人間を気に掛け、心配し、真剣に話を聞いている様子が、時々賢二には気に食わない時があるのだ。
 それでも、その落ち着いた姿には特別『そそる』ような何かがあるようには思わない。

 だが、大和竹流のマンションで見る真は、全く別の側面をしばしば見せつける。真は時々完全に無防備で、時々無遠慮に相手を挑発しているのではないかと思えるような態度をとるのだ。ほんのたまに、明らかに相手を誘っているような目つきで竹流を見るような気がして、賢二はたまらくなって自分の部屋に逃げ出したこともある。
 竹流が面白がって買ってくれるエロ雑誌などオカズにしなくても、そういう日はあの目を思い出すだけで簡単に昇り詰めることができたし、その満足感は欲望を吐き出した後までも背中を登ってくるような気がした。
 竹流はそういう真の態度に慣れているのか、あっさりと受け流しているが、たまにはからかうように竹流のほうが真を引き寄せる。そうすると、真は言葉だけは怒って、相手をかわしている。
 できの悪い飼い猫みたいだろう、と竹流が言ったことがある。

 そんなことが色々あったので、ある時、竹流がオーナーをしているバーで飲んでいるとき、思わず聞いたのだ。
 ちなみに、賢二は未成年で、竹流は一応賢二の立場を考えて、自分の店であることをいいことにして控えめのアルコールを出してくれたようだが、そもそも根本的に二十歳未満の飲酒が何故いけないのかあまり分かっていない様子だった。

「先生をどうしようとしてるんだ」
 竹流は賢二を穏やかな表情で見ていた。
「どうって、セックスをする関係かどうか聞いているのか」
 あまりにもあっさりと核心を問い返されたので、賢二はたじろいでしまった。竹流は余裕のある笑みを見せる。
「セックスはしないことにしている」
 淡々と答えられると、そもそも性別の問題があることを忘れてしまいそうだった。

「でも先生は、どう思ってるんだよ」
 竹流は賢二が何を言っているのか、ちゃんと分かっているようだった。それどころか、賢二がたまに真をどういう目で見ているかも知っているような気がした。
「あいつが俺にしがみつくのは全くの無意識だ。色っぽい事情などない。動物の子どもが何かにひっついていると安心するのと同じだよ」
「じゃあ、あんたは?」
 喉の奥で何かが引っ掛かっている気がした。竹流は例の如く、女を簡単に落としてしまう極上の笑みを、賢二にも見せた。
「賢、他人を愛して身体を求めて、その先に何があると思う? 例えばお前が好きで好きでたまらない女がいて、相手に何を望む?」

 この男は、女をこうやって見つめるだけでその気にさせてしまうのだろう。その目には、極めて親密で個人的な興味を相手に抱いていると誤解させる、豊かな感情が溢れているように見える。
 賢二は竹流を見つめて、しばらくしてやっと口を開いた。
「そりゃあ、抱きたい、と思うかな」
 言ってからよからぬ想像を打ち消さなければならなかった。
「その女と、例えば百回寝たとする。それでも相手を好きでたまらない。じゃあ、どうなる?」
「え?」

 何を聞かれているのか分からなくて、賢二は聞き返した。
「セックスにも満足している、その人との会話にも一緒にいるそのことにも満たされている、けれどもその先はどうなるんだろうな。女性と話して、食事を振舞って、最上級のデザートと酒を楽しんでもらう、そのことが男を楽しませるのは、その先のベッドの上の事を思うからだ。だが、ベッドに入ってすっかり満足して、さらにその先を求めたら、何があるんだろうな」
 一言一言が、色々な想像を呼び起こした。
「俺、あなたが女性を口説いてるのを見てても、そんな先の事考えているようには見えないけど」

 本当は気になっていることは別のことだった。それでも、賢二はとにかく当たり障りのないことを口にした。竹流はブランディを口に含みながら、賢二の顔をまともに見て、また例の極上の笑みを見せた。
「女はいいものだ。可愛いくてただ本当に愛おしく思う。ベッドの上でもいくらでもいい気分にさせてやりたいと思う。女たちがいるから、男の感情も欲望も納まり所がある。だが、俺はどうやら相手にそれ以上、その先を求めていないかもしれないと、そう思うことがある」

 賢二は、今度は黙って相手を見つめていた。この人は珍しく酔っているんだろうか、それともしらふなんだろうか、と考えたが、その目を見ていてもわからない。
 竹流は賢二の顔を見て、それから懐かしそうに話し始めた。

「初めて会ったとき、あいつはまだ小学生だった。生意気で、人間社会に適応する術も持たず、ただ牙を剥いて相手を威嚇することしかできない、気の弱い野生の生き物のようだった。日本語も不自由してるし、こいつは馬鹿なんじゃないかと思ったよ。外国人の俺のほうが、よほどまともな日本語を知っているくらいだったからな。しかも学校で苛めにあってるのか何だか知らないが、一人前に登校拒否だし、ようやく行ったかと思ったら、ひっくり返って保健室で寝てるとかで、俺はあいつの父親の代わりに何度も学校に迎えに行った。時には学校から逃げ出して行方不明になってるし、腹が立って、何度も怒鳴ってやった。あいつの親父さんは恩人だったし、頼まれて断れなかったし、学校に行けないというので随分あいつの勉強の面倒も見てやった。日本の学校の教科書は面白そうではなかったし、俺も腹が立ってたんだろうな、歴史も古典も数学も科学も、とにかく吐き気がするだろうなと思うほど詰め込んでやった。あいつが理解しているかどうかなど気に掛けたこともなかった。だけど、ある時天文学を教えてて、俺が言ったことに対してあいつが何か反論したんだ」

 竹流はまた微笑むように賢二を見た。
「滅多に質問もしてこないのに、あまりにもその問いが核心をついていて、俺としたことが、狼狽えてしまった。それからは俺も教えるのを楽しんでたんだろうな。親父さんが失踪してからは、勉強だけではなく、喧嘩の仕方も護身術も、ついでに言うと相手の息の根を止める方法も、みんな教えた。あいつが妹を守りたいと言ったからだ」
 賢二はこの男が冗談でもなんでもなく、極めて真剣な話をしていることを感じ、その言葉の一つ一つを聞き漏らさないようにと思った。そして、自分が今までこんなにも真剣に誰かの話を聞いたことがあったろうかと考えた。

「後から、俺のその恩人は真の本当の父親ではないことを知った。真は自分の父親が誰だか知っているし、その人が自分をまだ赤ん坊のときに捨てていったことも知っている。生みの母親も同じだ。勿論、彼らが若くて、事情があって子どもを育てられなかったのは頭では分かっているだろうが、赤ん坊にとってはそんな事情は飲み込めない。お祖父さんが育ててくれたことにあいつはとても感謝しているし、彼を心から尊敬しているけれど、それでも親じゃない。俺の恩人は、あいつと血のつながりのある伯父だったが、色々複雑な事情と感情の中で真を育てていたようだし、あいつがあの幾らか日本人離れした外見も手伝って、子どもの頃から苛められて、でも自分を愛してくれる周りの大人たちを失望させたくないと思うばかりに、彼らの顔色を窺って生きてきたのだとしたら、それはそれで辛かったのかもしれない。それでも俺にはあいつの気持ちの全部は納得がいかなかったけれど」

 それから竹流は賢二を見て問いかけた。
「賢、お前、あいつが完全に無防備に笑ってるのを見たことがあるか?」
「え? ない、かな」
 竹流の手がカウンターの上のブランディグラスを揺らせた。綺麗で無駄のない手に、心地のいい照明が曖昧な濃淡の影を作っていた。

「この俺も、今まで二度ばかりしか見たことがないんだ。一度は、親父さんと一緒に北海道の牧場に連れて行ってもらった時のことだ。あの頃、あいつはほんとに可愛げのない、ほとんど口もきかない子どもで、北海道に着いて迎えのトラックで牧場に入ったときから外ばかり見ていて、ある馬を見かけると途中で車を止めさせて走り去っていった。あいつの叔父さんが、夜まで帰ってこないと言ったが、案の定夕食の時間になっても帰って来なかったよ。別に気にしていたつもりはなかったんだけど、それでも少しは心配していたのかもしれない。何となく寝付けなくて、何かに誘われたような気がして外に出た」

 この店には音楽も、騒がしい会話もない。上手く配置されたテーブルや椅子の向き、オブジェや植物のおかげで、隣の席の会話さえほとんど聞こえない。それでも、賢二は誰かが、この男が打ち明けようとする秘密を聞きとがめたりしないかと緊張していた。
 だが、竹流は、いつもならよく通るハイバリトンの声を荒げることもなく、穏やかな声のまま淡々と続けた。
 彼の声こそが音楽のように柔らかく空気を振動させていた。

「牧場はもう真っ暗闇で、何も見えないのに、自分の身体だけが浮き上がっていた。そこから命の温度がふわふわと湧き上がって天に昇っていくように思えて、見上げると、頭の上に広がっているのは魂ごと吸い上げられそうな宇宙だった。天然の満天のプラネタリウムだ。星明りとはこれほどに美しく明るいものなのかと思ったよ。目を閉じると自分以外にも命のざわめくような気配がある。牧場には十匹近い樺太犬の雑種やらハスキーが飼われてたんだが、ふと気が付くとその犬たちが群れになって走っていくんだ。あいつが帰ってきたことに犬たちはすぐに気が付いて、嬉しそうにじゃれ付いていた。あいつは、弘志兄ちゃんに怒られるからだめだ、って楽しそうな声で彼らを窘めながら声を出して笑ってたよ。俺に気が付いて途中で凍りついてたけどな」

 賢二はぼんやりとその光景を想像していた。
 真が賢二に、彼自身の過去を話したことはなかった。少年院上がりの賢二に自分の辛い過去を話して、俺もお前の気持ちが分かるよ、とでも言ってきてもよさそうだが、そういうことは一切なかった。もしも簡単にそんな言葉を投げかけられていたら、賢二は反抗していたに違いない。

「二度目は、あいつの大学受験が終わって、約束どおりイタリアに連れて行った時だった。色々あって、あの時はハネムーンみたいでな」
「ハネムーン?」
 その表現は何なんだ、と賢二は思った。竹流は賢二の心を見透かすように、まるではるか年下のライバルを蹴落とすような極上の笑みをまた浮かべる。

「まさに蜜月だったんだよ。セックスをするかどうかという問題ではなく、気持ちが完全に重なっていると誤解しきれる状態だったんだ。何てことはない、ピサの斜塔見て、あいつ、妙にはしゃいでて」
 まるで何かを思い出すように、竹流の顔は穏やかで幸せそうに見えた。
「それって、まさかと思うけど、傾いてたから?」

「そうなんだろうな。何回もぐるりを歩いて、上に昇ってから、俺が解説してやっているのを聞いてもいない。何も言わないのにひたすら傾いてるって顔中に書いてあったみたいだった。翌朝、ホテルで目を覚ました時も、あいつはもう起きていて窓から斜塔を見ているんだ。両脇に古い建物が並ぶ通りの先に、真っ白に輝く塔が、向こうからもこっちを覗くように傾いていた。あいつは傍に行った俺を見上げて、本当に僅かに微笑んで、塔のある街の景色がこんなに綺麗だなんて思わなかった、と言って、少しだけ俺に身を寄せるようにした。いや、俺のほうが抱き締めたかったのかもしれない。あぁ、こいつがいつもこれくらい感情のある顔をしてくれていたらって、そう思った。その旅行の間、あいつは笑っていなくても妙に素直で、俺は愛おしくてもう一歩で狂うんじゃないかと思うほど幸せな気分だった」

 一旦言葉を切ったとき、竹流は一瞬表情を変えた。賢二はもうグラスに手を掛けることさえしていなかった。
「だがそれはローマに帰るまでのことだった。ローマで、俺は自分の事でいっぱいで、自分の感情を持っていく先を他に見つけられなかった。あいつにさんざん暴力をふるって、嫌がることは何だってしたような気がする。殴りもしたし、思いつく限りの酷い言葉を投げつけて、嫌がるあいつに男との情事を細々と喋らせた。あいつは一切逆らわなかった。それが余計に腹立たしくて、酒を浴びるほど飲んでは、ボロボロになるまであいつをまた殴った。それどころか、挙句に扁桃腺を腫らせて寝込んでいたあいつを放り出して、逃げ出してしまった。女を抱いて、悪友たちと飲んでカードをしながら何日も過ごした。何日もたって、ふと、煙の向こうであいつがこっちを見ている気がしたんだ。いや、俺を見ていたのは実は馬の目だったのかな。北海道にはあいつを守っている化け物みたいな馬がいてな、もう死んでしまったけど、あの馬はいつでも俺を見張っているんだよ。誓いを違えたら許さないという黒い眼で俺を見る。たまらなくなって屋敷に戻り、まだ寝込んでいたあいつを連れてアッシジに逃げた。それなのに、あいつは」

 竹流は何か言いかけてそれを留めた。多分に酔っ払っているように見えていたが、最後の一線は踏みとどまった、そういう感じだった。
「お前に教えてやりたいけど、言えないな。俺はそのときアッシジの丘の上で、あいつから極上の告白を聞いたように思った。内容は不器用だったし、他の誰かが聞いても意味を解することはないだろうが、俺はそれまでも、今までだって、どんな女からもそれほど俺を有り難い幸福な気分にさせる、いや、心だけでなく身体まで昂ぶらせるような言葉を聞いたことがない。その夜、あいつを抱いたのが最後だ。以後、一切手を出していない」

 賢二は急に大変なことを聞いて、手元のグラスを倒しそうになった。
「あいつとセックスをするような関係にあったのは、たった一ヶ月ほどの間のことだ。それも七年も前の話で、大体ほんのちょっと箍が外れただけのことだった」
 賢二は心臓が口から出てきそうに思った。竹流は賢二を本当に弟分のように大事にしてくれていた。だからこそ話しても構わないと思ったのだろうが、やはり酔っ払っていただけなのかもしれない。

「その先に、何があるか考えたから?」
 竹流はあの深い青灰色の瞳で賢二を見つめた。男が見つめられても誤解しそうなほどの、魅力的で個人的な親近感を感じさせる瞳の色だった。
「いや、そういうつもりではなかったんだが、ただ、この手で叩き壊してしまいそうに思った。幸福で満たされていたのに、自分の本性も見てしまった気がした。俺はいつだってあいつの首を絞めることができるし、多分、俺が本当にあいつの首を絞めても、あいつが俺に逆らわないという自信がある。なぁ、賢、あいつは俺がしょっちゅう怒鳴りつけていた時だって、思い返してみれば一度も俺に逆らったことはない」

 内容とは裏腹の穏やかな声で竹流がそう言うので、賢二は思わず呟くように呼びかけた。
「大和さん」
「俺はいつだってあいつは俺のものだと思っている。どこかで、誰にも渡す気はないと、そう思っている。本当は今でも毎晩のように欲情しているし、毎晩それに耐える地獄を味わっている。耐えているのはあいつのためなんかじゃないし、寛容で優しい気持ちなど欠片もない。賢、これが愛するということの正体だと言っているわけじゃない。俺にも分からないんだ」






……すみません。アップしただけで何だか疲れてしまいました…^^;
以下、畳みます。
いつものコラムは1回休み。
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[雨46] 第7章 父と子(4)/ カミングアウトの余波 

ついに(?)、真の実の父親の登場です。ほとんど出てくることはありませんが、実は裏では?暗躍しております。
真とのかなり微妙な、というよりもはっきり言って遠すぎる距離感をお楽しみください。





 美和は賢二の話を黙って聞いていたが、やがて少しばかり大人ぶった表情を作って言ってやった。
「何だ、分かりきったことじゃない」
 賢二は彼らの関係について、一部分だけは美和に言葉では告げなかったようだった。しかし、美和は賢二の話し方から、何となく妄想は妄想ではなかったな、と思っていた。賢二は、彼自身が思っているほど嘘をつくのが上手ではなかった。

 宝田も神妙な顔で俯いていたが、彼らが三人で押し黙ってしまったとき、表のドアをノックする音が聞こえた。
 悪いことをしていたわけでもないのだが、彼らは皆一様に緊張して顔を見合わせ、結局宝田がドアを開けに行った。
 そこに立っていたのは四十を越えたかというくらいの年恰好の紳士で、上品な深いグレイのスーツを着こなし、いくらか白いものも混じっている髪は緩く波打って、優しげな印象だった。背は日本人の平均からして決して大柄ではなかったが、身体つきはがっしりしている。だがその目には普通の世界で生きている人間のものではない、底知れない何かが潜んでいるように見えた。

 一見の穏やかな風情の向こうに隠されている何かを嗅ぎ取ったのは、美和だけではなかったようだ。
「あー、あの、何のご、御用でしょうか」
 いくらか躓きながら宝田が相手に尋ねた。返ってきた声は、力強く明瞭で、是非を問うことのない確かな響きを持っていた。そして、どこか冷たく、重い響きが残る。
「真は留守ですか」
 美和は、ここの所長の事を『真』と呼び捨てにする人物は、竹流と、最近気を良くして彼を呼び捨てにしている自分の恋人の北条仁しか知らなかった。あとは、真の妹婿で親友の富山享志と、真の親戚くらいだろうか。
「……あ、は、はい」

 宝田が困ったように美和を振り返った。その男のムードには、立っているだけで相手を威圧するような気配がある。
「そうですか」
 男は当てが外れたようで、ちょっと考えたように見えた。
「あの、何かご伝言でしたら」
 美和は慌てて立ち上がり、尋ねた。
「いえ、出直します。仕事の合間に寄ったので」

 その向こうで階段を登ってくる足音が聞こえた。宝田がほっとしたように美和を振り返った。
「あぁ、帰ってきたようですね」
 紳士がすっとドアの脇に寄ったので、美和からも真の姿が見えた。真は紳士を見て、驚いたように足を止めた。

 その真の顔を見て、美和は尋常でないものを感じた。
 真の表情は一瞬で感情という感情を閉じ込めたように、いわゆる無表情というような種類のものに変わった。その石のように固まった表情のまま、いや、正確にはその後で無理やり表情を作ったような顔で、ゆっくりと階段の最後の一段を登りきり、その紳士の前まで来た。
「何度電話しても出ないから、心配したよ」
「何時日本へ?」

 真の声は、美和がこれまでに聞いたことのあるどの種類の声とも異なっていた。熱い何かを一瞬に凍らせたような声で、いくら愛想がない男だとはいえ、こういう真の顔も声も態度も、美和は全く見たことがなかった。
「一週間ほど前だ」
「そうですか。すみません、ずっと知人のところに居候していたので。入ってください」
 紳士はそれをそっと手だけで拒否した。
「いや、車を待たせているのでね。夕食の約束ができれば、と思って寄らせてもらったんだ。先約はあるか」
 真は暫く紳士を見つめていたようだった。その背中から立ち上る不信の気配に、美和は緊張した。
「いえ、今夜は別に」
「では、七時を少し回ると思うが、ここへ迎えを寄越そう。皆さんもぜひ御一緒に」

 紳士は美和や宝田、賢二にも声を掛けて、腕時計を見てからあっけなく立ち去った。美和は、暫く気圧されたようにその紳士の靴音を聞いていたが、真がドアを閉めて事務所に入っていたので、思わず聞いた。
「今の人、誰?」
 真は一瞬だが、何か躊躇するような顔を見せた。
「叔父だよ」
「おじさん? 先生の?」
 美和は幾らかの違和感を覚えて繰り返した。
「かっこいい人っすね。何をしてる人ですか」
 宝田が緊張したまま、しかし何か話していないと逆に緊張で壊れそうになるとでもいうかのように、言った。
「今はワシントンに住んでいる。半分はロンドンかな。まぁ、警察関係だ」

 それ以上真は何も言いたくないかのように話題を逸らせた。
「美和ちゃん、大学は?」
「やっぱり面白くないから帰ってきちゃった。あ、それで、これ添島刑事から」
 美和は机のほうに戻り、添島刑事から渡された茶封筒を真に手渡した。
「刑事さん、先生のこと心配してた。大学の門で待ち伏せ喰らっちゃった」
 真は受け取った茶封筒の中を出しながら、不可解そうに美和を見つめた。
「待ち伏せ?」
「うん、と、まぁ、あの人なりに先生を心配してるって感じだった、かな」

 美和は真が出している封筒の中身を覗いた。コピーの用紙が十枚ほど入っていて、例の贋作と言われているレンブラント、フェルメールの絵のコピーと解説も入っていた。
「これも」
 美和は机の上に忘れていたメモと旅行会社の封筒を思い出して、それも真に手渡した。あなたも一緒に、と言った添島刑事の声が耳に蘇ってくると、照れるべきなのか、あるいは覚悟を決めなければならないのか、よく分からなかった。
「これは?」
「絵に詳しい人だって。その贋作鑑定者の一人だとか言ってた」

 旅行会社の封筒には新潟までの往復切符二枚と二泊分のオークラホテル新潟ツインルームのクーポン券が入っていた。メモ書きに『美和さんも連れて行くこと』と書かれているのが、美和の目にも入った。真が急に顔を上げて美和を見たので、美和は思わず真を見つめていたままの視線を外すこともできなかった。
「明日、行く?」
「そうだな」

 出掛けるとなると、それなりに済ませておかないといけない用事もあったので、彼らはそれから幾らか真面目に仕事の相談をした。出掛けている間、賢二と宝田に頼んでおかなければならないことが幾つかあった。
 そんなこんなで、あっという間に七時になりかけていた。誰もがそわそわと時計を気にし始めたが、真だけは冷静な顔をしているように見えた。
 美和が思うところでは、宝田は自分とは無関係な世界から来たような紳士に誘われて浮わついているように見え、賢二は誘ったのが真の関係者、しかも叔父という身近な人物だということに緊張し、美和自身は真の無愛想な気配に緊張していた。

 七時になって迎えが来たが、車を運転してきたのは真の叔父というその人本人だった。紳士は美和の為に自分で助手席の扉を開けてくれ、結局後ろに男三人が並んだ。
大きな宝田が乗っても、車には余裕があった。
 美和は心配になってバックミラーから真の顔を盗み見したが、真は端っこに座っていて、表情はよく見えなかった。
 車の中で皆が緊張していたのか、始めは誰も口をきかなかった。何か気の利いた会話でもと思ったが、何も思いつかず、美和も結局黙っていた。

「知人って、大和君のところか」
 ようやく、紳士、つまり真の叔父、相川武史がバックミラーに映っているはずの真の顔を確かめるように見て、問いかけた。冷めた声だった。とても友好的な叔父と甥の会話には思えない。
「そうです」
「調子は?」
「え?」
 真が何を聞かれたのか解らないというように聞き返す。
「身体だよ。前に入院していたって」
「いえ、大丈夫です」

 そもそも真は愛想がいいほうではない。しかし、これは全く感情を殺しているとしか思えなかった。しかも、叔父と甥という関係にしてはあまりにも淡々としている。だいたい、真が入院していたのは、事務所を独立する前で、二年半以上前のことではないのか。
 美和は自分の悩みなどすっかり吹っ飛んでしまって、忙しく、真の声と運転席の男の横顔とを観察していた。
「大和君は、元気にしているのかね」
「あなたが知らないとは思いませんが」
「何のことだ」
「河本さんのところで聞かれたんじゃないのですか」
 暫く武史は黙っていた。
「後で話そう」

 美和はちょっと緊張して、隣で運転する武史の横顔をちらりと盗み見た。どこかで見た顔つきだなと思いつつも、緊張がその考えを吹き消した。
 車は赤坂のテレビ局の辺りを狭い道に入って、いささか由緒ある、しかし表向きは普通の家のような一軒の料亭の前で停まった。武史が一旦エンジンを止め、皆を下ろして、それから玄関の呼び鈴を押すと、上品な和服姿の女将らしい人が出てきて、武史から車の鍵を預かった。直ぐに番当風の男が女将から鍵を受け取り、車をどこかに持っていったようだった。
 女将と武史は親しげな夫婦のような呼吸で話を交わしていたが、やがて女将自ら彼らを奥へ通した。美和は得意の観察眼で彼らを見ていたが、その距離は男と女の関係だと判断した。それについて、真が複雑な顔で彼らを見ていることに美和は気が付いた。真は美和と目が合うと、視線を中庭の方に逸らせた。

 坪庭のような中庭に向かって三つほどの部屋があるきりの、古い日本家屋だった。東京の真ん中とは思えないほど静かなところだ。塀に囲まれているからか、車の音も、耳を澄ませると聞こえないわけでもないのだが、どこか別次元のものに思える。代わりに、庭の小さな池を流れる水の音に、鹿脅しの音が高く重なった。
 ふと見ると、宝田がかちんこちんに緊張していた。美和はそれを見て思わず笑いがこぼれ、自分のほうは逆に落ち着いてきた。

 部屋に入ると、座席は掘り炬燵になっていて、宝田はやっと幾らかほっとしたようだった。
 直ぐにビールと付けあわせが運ばれて来て、彼らはとりあえずグラスを合わせた。真は武史に聞かれて、美和から順番に武史に紹介した。
 食事の間、武史は特に美和を気遣うように、大学の事や事務所で仕事をしている理由やらを尋ねてきた。緊張していても仕方がないと開き直って、美和が答えていると、武史は穏やかに微笑むように聞いてくれていた。

 いい男だな、と思った。身体つきもしっかりしていて、外見だけなら年齢関係なく女がほれ込んでしまうような男だ。煙草と、かすかにコロンのいい香りがしている。だが、それは何かを取り繕うためのもののようで、随分と取ってつけた匂いに思えた。
「一度、ワシントンに電話したんです」
 真が不意に言った。
「何時?」
「いえ、あなたはもう日本に来ていたようですから」
「お前が電話してくるなんて、珍しい。何かあったのか」
「ある人が、あなたのことを懐かしいと話していて、あなたはどうしているかと聞いていたので」
「ある人?」
「澤田顕一郎をご存知ですね」

 叔父に対して随分よそよそしい口のきき方だという点は置いても、何を性急に話してるのよ、と美和は思った。
「あぁ。しかし、それは奇妙な質問だね。彼には四日前に会ったところだが」
「会った?」
 美和は思わず手を握りしめた。ふと見ると、賢二も宝田も、わざと視線を逸らすかのように料理に集中している。本当に男はこういう時役に立たないと美和は思った。

 真は少し考えていたように見えた。
「すみません、今の言い方は正確ではなかった。澤田顕一郎は僕にあなたのことをよく知っていると言って、それから僕に彼のところで働かないかと言ったんです」
 武史はしばらく真の顔を見つめていた。驚いた顔でもなく、ただ淡々と見つめている。
「それはまた……、それで返事をしたのか?」
「断りました」
 武史は頷いた。
「それは正解だったね。お前をSPにでも雇うつもりだったのかな」
「澤田はあなたに何も言わなかったのですか。つまり、彼は僕のことでどこかに探りを入れていたと、ある人から聞きました。正確には僕の事ではなく、あなたのことです。あなたに行き着いたので、彼は僕と会う気になった」

 美和はどきどきしながら彼らの会話を聞いていた。
「穏やかに食事をさせてくれる気はないのか。お前の仲間と恋人も一緒だというのに」
「恋人じゃないです」
 美和は飛び上がりそうになって否定した。
「そうですか。あなたのような人がこの子の傍にいてくれて、安心だと思ったのですよ」
 武史が穏やかに言ったので、美和はどきん、と胸が鳴るのを感じた。

「はぐらかさないで下さい」
 真が淡々とした声で言うので、美和はまた緊張してきた。ヤクザと付き合っていてこういう緊張感には慣れているつもりだったが、今日はムードが違っている。
「真、何を焦っているのか知らないが、澤田が私に会おうとしたのは、日本に帰って警察庁のある部署で働く気はないかと聞くためだった、と理解している。お前のことをどうこう言われたわけではないし、私も断ってきた」
「立場があるからですか」
 武史はそれには答えず、真に日本酒を奨めた。真は強張った表情でそれを受けていた。

「それで、さっきお前は河本がどうのと言っていたが?」
 真はしばらく武史を見つめていた。それからゆっくりと確認するように問いかける。
「河本さんにも会ったのですか」
「いや」
「でもあの人を知っているんですね」
「仕事上のことだ。それで、お前が焦っているのは何故なんだ?」

 真は当てが外れて幾らか拍子抜けしたというような顔になった。美和は、真がもしかして目の前の叔父という人まで疑っているのかと思った。真はそのまま会話に興味を失ったかのように黙り込んでしまった。
「実は大家さんが事件に巻き込まれてて」
 美和は思わず口をはさんでいた。宝田までが身を乗り出す。
「そうなんす。先生は大和さんが心配で」
 美和は、宝田がそれでも真を守ろうとしているのだと思って、なんだか嬉しくなった。ちょっと情けないムードだったことは、許してあげようと思う。

「大家さん?」
 宝田の言葉を聞いてから武史は美和に聞き返した。頭が回っていなかったので、半分しどろもどろに返事をする。
「あ、つまり大和さんのことです。大家さんが死にそうな怪我して帰ってきて、それからまた病院からいなくなってしまったので。ちょうど澤田顕一郎が先生に急に接触してきたので、もしかして何か関係があるんじゃないかって」
「大和君が、怪我? どういう意味だね。それが澤田と関わっているというのは?」

 武史は知らないようだった。いや、知っていたとしても、それを表に見せるような男ではなさそうだった。美和は真の顔を見た。真は美和を少しの間見つめていたが、やがて決心したように言った。
「実は澤田がパトロンになっているという噂のある女が銀座にいるんですが」
「先生」
 美和が心配して遮ったのを、真はいいんだ、というように目で合図してきた。
「その女と一年以上前から懇意にしているもので」

 武史は暫く真と美和の顔を交互に見ていた。それからほっとしたように笑った。だがその笑顔にはひどく不自然なものがある。笑いなれていない人間の顔に思えた。あるいは、上手く笑っているが、心からは笑っていない。
「お前も男なんだし、そのくらいのことで非難されることもないだろう。それで、お前が一年も前からその女と懇意にしていて、それなのに急に最近澤田顕一郎がお前に接近してきた。それには何か理由があると思った。だが、まだわからないな。大和君が怪我をしたということと、それが何の関係が? 何より、大和君の怪我というのはどういうことなんだ?」

 真はまだしばらくの間、言葉を探すように黙っていた。美和には、真がそれでも用心しているように見えた。
「誰かに暴行されたようだ、と。酷い状態で、それでも本人は何も話そうとしない。挙句に病院から消えました。彼自身の意思か、さらわれたのか、今のところわかりません。ただ、澤田に関わりのある女が、ある事件の関係者ということがわかって、竹流自身もその事件に関わっていた」 
 武史のほうも頭を最大限に回転させているように美和には見えた。
「まず、食事を片付けよう」





一気に行こうかと思ったのですが、あまりにも長いので半分にしました。
えぇ、今から宣言しておきます。何げない登場をした人物が、本当に何気なく終わることもありますし、実は後でかなり重要な役割を果たしていたと分かる場合もあり、無茶苦茶怪しい癖に実はいい人だったり、無茶苦茶怪しくてやはり怪しかったり……
さて、このお父ちゃん、いったいどれでしょう……
答えは……ラストまで教えられません^m^

前回のことですが……カミングアウト、などと大仰なことをしなくても、別に良かったのかしらと思いつつも、皆様の暖かいコメントにちょっとうるうるしております。
コメントのお返事もう少しお待ちください。遅くなっていてごめんなさい。
嬉しいので?じっくりお返事させていただきます(?)

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨47] 第7章 父と子(5)/ 家系図 

前回あまりにも中途半端だったので、続きをアップします。
これで第7章は終了です。美和ちゃんの啖呵(?)をお楽しみください(^^)
啖呵というのか、心の声ですね。こういうシーンを見返すと、なんでこの二人、恋人に収まらなかったのだろうと思います。そこが面白いんでしょうけれど。





 武史はさりげなく宝田や賢二にも気を使って、それからは事務所の仕事のことや、事務所に勤めている馴れ初めのことなどを彼らに聞いたりしていた。
 その間に幾らか酒が入って、美和も少しずつ気分が良くなっていた。宝田と賢二も同様のようだった。ほぼ下戸のはずの宝田も、今日は逆らえないと思ったのか、意識を失ったほうが勝ちと思ったのか、多少飲んでいる。

 食事が終わると隣の部屋に席を替わって、上等のウィスキーを振舞われた。
 美和は、本筋の見えないムードに幾らかやけになってきて、とりあえず飲めるだけ飲もうかと思ったが、さりげなく武史が美和の飲んでいる水割りを薄くしていってくれているのが分かって、多少感動した。
 宝田は頑張っていたが、緊張から飲めないものを飲んでしまって、既に鼾をかいていた。女将が来て、宝田に布団を掛けてくれる。
 美和がちらりと見たとき、女将と武史は静かに視線を交わした。賢二はまだ緊張しながらも付き合っていたが、半時間後にはダウンしていた。

 真と武史は向かい合って暫く黙って飲んでいる。それから武史に奨められて、真は煙草に火をつけてもらっていた。美和が一旦トイレに立ってから戻ってきたとき、二人は同時に美和を振り向き、それからほとんど同じタイミングで煙草の灰を落とそうとした。

 美和は二人の横顔を同時に見て、そしてその瞬間、随分と前から大脳を刺激していたものが、あるべきところにピンと収まった。もう少しで声を出すところだった。

 だが、美和はそれを飲み込んで、真の隣に座った。
「大和君は一体何の事件に首を突っ込んでいるんだ?」
「絵のことかと」
「絵? それは彼には本職だろうが、澤田が絵に造詣が深いとは聞いた事がないが」
「でも絵画には金銭的価値もありますよね」
 武史は暫く真の顔を見ていた。

「例えばレンブラントやフェルメールなら?」
「まさか、どこかの美術館から盗み出したとでもいうのか」
「知られざる名画が埋もれていたとか」
「それは、特にレンブラントやフェルメールの場合大いにあり得るが、しかし一方で、それを本物か贋物か判定するのは実に困難だし金も時間もかかる。その『知られざる名画』に金銭的価値が付随する前に、個人なら破産しかねないね。特にフェルメールなどはこれまでにもさんざん贋作が現れ、あるいは同じ時代の他の画家のものが彼の作だとされて大騒ぎになった歴史があるので、既に皆が用心している。だがそれでも、もしもそれが『知られざる本物』だというなら、条件がある」

「条件?」
「簡単なことだ。その絵を本物と知っていること、つまり来歴がはっきりしているということだ。あるいはその持ち主にとって本物と思い込める何かがあること、そしてその持ち主が、金銭でもなんでもなくその絵そのものを他人の目に触れさせたくないほど愛しているということだ」
「澤田はそれには当てはまらないと」
「そうだね」
「では誰が」

 美和には、真が何かに縋り付きたいと思っている気配がよく分かった。そして、そのことを武史も気が付いていると思った。
「澤田自身に確認したのか」
「澤田は彼の話題には全く興味を示さなかったんです」
「だがお前は澤田が何かを知っていると思っている」
「そうです。澤田の秘書は事務所ではなく僕の自宅でもなく、竹流のマンションに電話を掛けてきた。僕が何も言わないのに、竹流のマンションに僕を送り届けた。それに、ある刑事が河本さんから、澤田と竹流と僕を見張るようにと指令を受けていた。その人の話では、澤田も竹流も同じ人物と関わっているようだ、と。僕はてっきりあなたもその件で日本に帰ってこられたのかと」

「真、私は河本に指令を受ける言われはない。帰ってきたのが休暇でも悪くはないだろう」
 武史は淡々とした口調でそう言った。その声が美和には酷く冷淡に聞こえた。
「それは、そうですが。でも、澤田には会われたんですよね」
 武史はそれには何も答えず、表情も変えなかった。真が武史の顔を見て更に何か言いたげにしたが、結局口をつぐんだのを見て、美和は武史に向き直った。

「先生は大家さんのことを心配してるんです。先生にとって大家さんは親や恋人も同様ですから」
「親や恋人?」
 武史が呟くようにして顔を上げ、美和を見た。
 美和はその深く強い、冷淡な視線に対抗するように、思わず次の句を継いでいた。
「先生は小さいときからずっと苛められてて、それは外見のせいもあるけど、でも一番悪いのは守ってくれる親がいなかったからです」

「美和ちゃん」
 真が思わず美和の腕を掴んだのを、美和は振り払った。本当のところはかなり酒が廻っていたし、さっきからずっと我慢していた感情が噴き出してしまった。
「大家さんが先生をずっと庇ってくれていた。勿論、人と人との間のことだから、始めから良好で親密な関係ではなかったにしても、大家さんは、先生が攫われてひどい目に遭った時だって、周囲構わず相手に戦争を仕掛けそうだった。そういうことは多分ただの恋人ならしない。自分の立場や相手の状況もかなぐり捨てて怒れるのは、本当なら親のすることだわ。その大家さんがあんな怪我をさせられて、その上行方不明で、正気でいられるわけがないです」
「美和ちゃん、いいから」
 真が止めるのを美和はもう一度無視した。
「あなたが先生の親なら、何とかしてあげようとは思わないわけ?」

「美和ちゃん」
 ついに真は美和を引き寄せて頭ごと抱えた。
「酔ってるんです。すみません」
 真の声も淡々と響いた。美和はその声を、頭を押し付けている真の胸を介したまま、乾いた振動として感じていた。武史の表情は見えなかったが、二人とも長い間黙っていた。
 真の心臓の音は随分と不規則に感じる。不安と混乱がその不安定なリズムの奥に見え隠れするのに、音質は単調でぱさぱさとしたものだった。その音を聞いている間に、美和は無理矢理、平静に戻されたような気がした。やがて真の腕の中から離れるようにして、真の顔を見る。真の表情は冷めたままで、そこには怒りも不安もなく、あるいは感情さえ窺うことができなかった。

「ごめんなさい、半分妄想です」
 そう言って恐る恐る見たが、武史も怒っているようではなかった。
「いや、隠しているつもりはない」
 武史は静かに抑えた口調で答えた。

 その強い意思で抑制された感情の奥を、美和は例の文章教室トレーニングの要領で更に妄想してしまった。本当はこの人も辛いのだろうと、大体そうでなかったら先生が可哀想と、そう思った。
 それでも、もしかしてこの人は、先生が自分の仕事のせいで間違えて危ない目にあったり殺されたりしても、この無表情を変えないのだろう。何かを深く感じるということを既に捨ててしまった人間の魂は、冷たく固まって、もう何一つ受け入れようとしないように思える。

 真も黙ったままなので、美和は居た堪れない気持ちになった。
「さっき、先生と叔父さん、向かい合って煙草吸ってたでしょ。あ、同じだと思ったの。仕草とかそんなんじゃなくて、顔や背格好の似ている、似ていないじゃなくて、その人が内側に持っているオーラみたいなもの、それが同じに見えた。ごめんなさい。気に障ることを言うつもりじゃなかったんです」

 武史も真も、しばらくの間何も言わなかった。女将が一度、氷を取り替えにやってきたが、何も言わずに直ぐに出て行った。真はもう一本煙草を引き出して銜えた。ライターの火で真の表情に幾らか翳りができ、一瞬強く燃え立った後では、闇は一層深くなったように見えた。
 やがて真は淡々と言った。
「別に、僕はあなたを恨んでいるわけではありません。今更、あなたにどうこうして欲しいと思っているわけでもない。ただ、竹流をあんな目にあわせてさらったやつがいるなら、そしてもしあなたがその相手を知っているなら、教えて欲しいと思っただけです」
「それで、お前はどうするつもりなんだ」
「知れたことです」
 武史は黙って息子の顔を見つめていた。美和は急に真のことも武史のこともおっかない気がした。
「それは、彼の『父親』に任せられないのか」
「イタリア人の力を借りたいとは思いません。挨拶もしてもらっていない。これは彼と僕自身の問題だと思っています」

 武史は息をつくようにして煙草を取り、火をつけた。美和は黙って武史と真の顔を窺っていた。どちらも自分の感情を最大限に堪えているように見えた。
「だが、あの男は使いようだ。もし相手が接触してきたら、迷わずに会いなさい。お前の協力者にはならないだろうが、あの男は自分の後継者のためなら国一つ滅ぼすくらいのことはする。それから、澤田が何を考えているのか、お前が直接聞くことだ。あの男はお前の力にはならないかもしれないが、利害は一致するかもしれない」
「河本さんは」
「真、お前も分かっているだろうが、あの男は表向きとは違う顔を持っている。お前が彼に協力を求めれば、その代償は高くつく」

 真はまだ暫く武史を黙って見つめていた。美和はその真を見ていたが、やがて真が淡々と言った言葉にいくらか動揺した。
「あなたは、本当は何が目的で日本に帰ってきたんですか」
 美和は真が自分の父親すら疑っていると思った。だが、それに答えた武史も、一線を越えてくることはなかった。
「休暇だ。それに河本の戯言を聞く必要もありそうだと思った」
 今度は武史もはっきりと、議論を打ち切るように断言した。

 暫くして女将がやって来て、彼らは相談して宝田と賢二をここで寝かせておくことにした。帰りがけに美和が武史に頭を下げると、武史は美和の腕を優しく叩いて、囁くような優しい声で言った。
「真を頼みます。あの子にはあなたのような人が必要でしょう」
 美和は思わず武史を真正面から見つめた。美和は一度呼吸を整え、それから堅い岩のように感情を押さえ込んだ男に、ひとつひとつの言葉を何とか響かせようと、ゆっくりと言った。

「さっきも言いましたけど、先生にとって、一番大事な人は大家さんなんです。大家さんが帰ってこなかったら、先生は」
 だが、これ以上は言葉にならなかった。
 武史は、今日美和が見た中では一番優しい表情を見せた。
「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」

 美和は真に今の言葉が聞こえていなければいいと思ったが、武史はむしろ真の耳に入ることを望んでいるように思えた。
 不意に、この男がコロンと煙草の臭いの向こうに隠している本当のにおいが鼻についた。それは美和の世界の中には本来なら存在していないにおいだったが、彼女の妄想はそれを嗅ぎ分けて認識した。





さて、次章、第8章は『ある代議士の事情』です。
真の心の中へ少しずつ、入っていってくださいませ。

以下、ちょっとコラム。
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[雨48] 第8章 ある代議士の事情(1)18R 

第7章 あらすじ
自分の父親の正体を知る元傭兵・ジャズバーの店長・代議士澤田顕一郎の育て親である田安隆三が水死体で発見された。彼の死体を見た真は、行方不明の竹流の身を案じながら、不安で押しつぶされそうになっていた。
一方、女刑事・添島麻子から、新潟の贋作鑑定事件というヒントを与えられた美和は、真と一緒に新潟に行くことを決めたが、事務所の仲間である宝田や賢二から、真と竹流の事情などを聞きながら気持ちが揺れ動いている。
そんな時、事務所に真の実の父親・相川武史が訪ねてくる。訪問の理由は明かさないまま、そして真との間にある深い溝を埋めようともせずに、ただ警告のような言葉だけを残していった。

「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」

さて、第8章を始めたいと思います。今度は、澤田顕一郎の事情に絡めながら、竹流を探す真を見守ってやってください。
内容などあまり気にせず、頑張って謎解きなんてしようとせず、登場人物の心の動きを追いかけていただければと思います。
この第2節は、真がやたらめったら過去を回想しています。そして美和との間にも、男女関係よりも少し深い気持ちが育っていっているのかもしれません





 武史に送られて竹流のマンションまで帰りつくと、真は美和と一緒に車を降りた。
 車の中では三人とも黙っていたが、気まずいという状況は通り越していて、むしろ淡々とした気配だった。真にしてみれば、もう既に語る言葉はないという距離感が父と自分の間にあることを、ただ確かめただけだった。歩み寄る手がかりさえも見出せないし、そもそも歩み寄りたいと思っているわけでもなかった。
 今更、父親に何も期待していない。期待どころか、その存在すら受け入れいていない。真の人生も生活も、全くその人と関わりのないところで成立していて、心を乱される要因にさえならないはずだった。

 マンションのエレベーターの中で二人きりになると、ずっと俯いたままだった美和がようやく真の顔を見た。
「ごめんなさい」
 真は美和が何を謝ったのか理解できなかったが、よく考えれば、彼女なりに言い過ぎたとでも思ったのだろう。
「何も謝ることはない」
「でも、叔父さん、気を悪くしたよね」
 真は美和が武史に言ってくれたことは、美和に対しては有り難いと思っても、謝られるようなことではないと思った。

「いや、あんなことくらいで気分を害したりするような人じゃない」
 武史にとって美和の感情など子供の戯言程度のものだろう。だから、残念ながら、美和の心配するように、武史が感情を乱されることはあり得ない。武史にとって真の事がそうであるように。
 美和は何を考えているのか、暫く黙っていた。

 部屋に入ってから、不意に美和の腕に触れようとしたが、するりと美和は真の手を逃れた。そしてかしこまったように真の前のソファに座って言った。
「私の妄想じゃないよね? 先生のお父さん、なんだよね。どうして叔父さんだって」
 真は上着を脱いで、それをソファの背凭れに掛けてから、美和の前に座った。
「あの人の言うとおり、誰も隠しているわけじゃない。ただ、戸籍ではあの人の籍に俺は入っていない。それだけのことだ」

 美和はただ心配そうに真を見つめていた。
「それで、先生はいいの? お父さんに甘えたいとか、何とかして欲しいとか思わないの? ううん、そうじゃなくて、腹が立ったりしないの? 親だったらあんな冷淡になれないよ。大家さんの事だって、いくら許されないって、ここにずっといられない人だなんて、わざと先生に聞こえるように言ったんでしょ」
 真は美和の顔を、心から、真正面に見つめた。彼女の気持ちは本当に有り難いと思った。
「美和ちゃん、そもそも大きな誤解がある。俺と竹流はそういう関係じゃないし、第一あいつは女としか寝ない。百歩讓って、確かに親か兄貴か教師か、そういうものには近いかもしれないが、そういう相手は一生一緒にいるものではない」

 自分の声が、他人のもののように淡々と響いた。武史の中の何かと自分の中の何かが呼応して、こんなふうに冷めた声が出せているのかもしれない。唐突に自分自身の感情に対して冷淡になることができるのも、やはり親から受け継いだ特質なのだろう。あるいは、誰かに殺意を持つような残虐性までも、あの男の遺伝子から受け継いだのかもしれない。
「それに、事実として、あいつのローマの家は次の当主が戻るのを待っている。それを覆したりすることは、多分誰にもできない。たとえ彼自身が望んでも、無理なことだ」

 自分の望みを断ち切るように、真は言い切った。
 言葉にすることで、自分に言い聞かせるしかなかった。
 必ず彼をローマに連れ戻す日が来ると、彼の叔父に宣言されている。あの穏やかで冷たい声の調子は、耳の底に溜まったままで、時折耳の中で唸るのだ。

「先生……」
 美和はその先に何かを言いかけて、飲み込んだようだった。
「とにかく、明日の準備をしよう」
 真はそう言いながら、スーツの上着の内ポケットの煙草を取り出し、火をつけた。美和はまだ黙っていたが、やがてバッグを持って立ち上がった。
「先生、心の奥にある本当の気持ちって、絶対に湧き出てくるのを押さえられないよ。大体、先生と大家さんの間の事を、身体の関係がどうとうか精神的な繫がりがどうとか、そんなことで量ったりなんかできないでしょ。賢が言ってた、大家さんは」

 美和は真がちゃんと聞いているのかどうか確かめるように、一度言葉を切った。その間に、真はテーブルの上に残していた視線を、ようやく美和に向けた。
「人を愛して心も身体も求めたら、その先にあるのは何だと思うって、賢にそう聞いたんだって。大家さんは先生がまだ小学生のときから先生のこと、ずっと見てたんだよ。先生が色んなことで苦しんでたときも、好きな女の子がいたときも、何もかもみんな。それを全部受け止めて大事に思うってことは、簡単にはできないよ。親だって、子供が自分の思い通りにならなかったら腹が立つのに、大家さんが先生に向けている愛はすごい愛なんだよ。私には届かないよ」

 美和の感情が直線的で、真はそれをまともに見つめていられない気がした。火をつけて吸わないまま手に持っていた煙草を、思い出したように咥えて、真は何か言葉を探したが、結局何も出てこなかった。
「先生、大家さん、ずっと前に先生と一緒にイタリアに行ったとき、もう一歩で狂うんじゃないかと思ったくらい幸福だったって、先生が言ってくれた言葉は、それが何だったのかは話してくれなかったみたいだけど、今まで誰からも、それほど有り難くて幸福な気持ちにさせる、心だけじゃなくて身体まで昂ぶらせるような言葉を聞いたことがないって、そう言ってたんだって。大家さんは、ずっとそう思ってるんだよ」

 真は思わず美和から視線を外した。
「先生、私、今日は帰るね。明日の朝、上野で待ち合わせようよ」
 そう言って、美和は部屋から出て行こうとした。真は彼女が部屋から出ようとドアを開けた瞬間、思わず声を掛けた。

「美和」
 無意識だったが、初めて彼女を呼び捨てにした。美和はびっくりしたように振り返った。
 自分の中の何かをこのまま抱えているのは無理だと思った。

 いつだってあの男が傍にいたのは分かっている。彼のほうではない、彼を求めていたのは自分のほうだということも分かっている。真がアッシジで彼に言った言葉は寸分も違わず、そのまま今の気持ちだった。引き離されるなどあり得ないと思いたかった。
 学校の勉強も、それ以上のあらゆる学問も、学ぶことの素晴らしさと一緒に教えてくれたのは彼だった。それどころか、他人と交わす言葉も、ただ日本語や英語というのではなく、語り合い求め合うための言葉自体を彼が教えてくれた。りぃさと同じように、この世に生きていることが罪悪のように思えていた時、あの崖から落ちた時、それでもこの世に帰ってこなければならないと思ったのは、彼の呼んでいる声が聞こえたような気がしたからだ。

 今生きている自分自身の意味が、ただあの時彼に呼ばれて戻ってきたからだと、もしかするとこれは仮の命で、それは自分の命ではなく彼の命だとそう思っている。
 自分の命の核は、自分の中ではなく、彼の中にあるのではないかと、そう感じている。
 それを認めることが苦しかった。今の現実も、これから来るであろう未来のほぼ確かな現実も、その男から引き離されている。

「帰るな」
 言葉はいつでも心を全て表すものではない。そしてそれが本当に言葉になるときは、一生のうちに恐らく数えるほどしかない。

 美和は半開きのドアに凭れるようにして突っ立っていた。真は煙草を灰皿に捨てて立ち上がり、美和をただ力任せに抱き締めた。美和は暫く真の腕の中で堅い棒のようになっていた。ぽとんとバッグが床に落ち、真の足にあたった。美和はしばらく動かなかったが、やがて真の胸に頭を寄せるようにした。
「先生、自分が結構卑怯だって分かってる?」

 美和は怒っているようではなく、その声は随分優しく真の耳に届いた。真は返事をしなかったが、その通りだと思った。けれども、何もかも、今はどうすることもできないような気持ちだった。
 ベッドに入り、ただ自然に求め合った。美和は嫌がっていたわけではないようだった。初めての時よりも真を簡単に受け入れると、美和は潤んだ目を開けて真を見つめた。
「何?」
 真が問いかけると、美和は小さく首を横に振った。

 美和を愛おしいと思う気持ちには全く偽りがなかった。それはりぃさを想っていた時よりも自然で、多分美沙子と別れた後に、彼女に対して本当はそう思っていたと感じた気持ちと同じようなものだと思った。あの時、付き合っている間は、そんな自分の気持ちに気が付くこともできなかったのに。
 そして、それ以上に自然に、他の誰かを想っている自分を感じた。それは美和の言うとおり、どうしようもないことだと思った。

「やっぱり一応避妊しよう」
 言葉はいつでも思う通りにはならない。
「もういいよ。先生は嫌なの?」
 美和は真がどこかで極めて冷静になっていることを感じていたのだろうが、怒り出すこともなく穏やかに尋ねてきた。
「そうじゃない。仁さんと決闘しなければならないのも分かってるけど、今はまだ子どもの親になる自信がない」
 もうできているなら仕方がないと思ったが、武史に会って自分の気持ちが中途半端に乱れたことを認めざるを得なかった。美和は暫く真の顔を見つめていたが、小さな声で、そうだね、と言った。
「君を、大事に思っていないわけじゃない」

 こんな状況で言い訳だけはする男としての自分を腑甲斐無いと感じたが、どうしても美和には言っておきたいと思った。そして、美和は可愛らしく微笑んで頷いた。
「先生の言いたいことは分かってる」
 そう言って彼女は一つ大きく息をついて起き上がった。そして真に避妊具を持ってこさせて、自分から率先してそれを真のものに着けてくれた。そうしている間に少しばかり真のものは小さくなっていたが、美和は愛しそうに手で扱いてくれて、躊躇することもなく脚を開いて真を誘った。

「何だか不思議」
 真は、そう呟いた美和の顔を見つめた。穏やかで暖かい表情は、救い主の死に寄り添っていた女たちの慈愛に満ちた気高い顔そのままだった。
「うん、何だかどうでもよくなっちゃった。仁さんに刺されても、大家さんが先生を愛してても、私がもしかしてまだ仁さんを好きでも、先生が大家さんを」
 真はそれ以上話を続けさせたくなくて、硬くなった自分自身を彼女の中に埋めた。
 美和の腕が真の首の後ろで重なり、優しく真を引き寄せた。


 イエス・キリストがラザロのためにしたことは、彼を死者の群から取り戻したことではなく、彼の死を友として涙したことだった。キリストが医術としてか奇跡としてか、あるいは偶然としてか、いずれにしろラザロを蘇らせたとして、キリストがもしラザロの死に涙を見せなかったら、一体結果としての蘇りにどれほどの価値があったのだろう。
 彼が自分にしてくれたことは、そういうことだと思っている。
 真が崖から落ちて命すらどうなるか分からなかった二週間。ようやく意識が戻ったとき、最初に目にしたのは、ただ自分を見つめてくれていたあの深い青灰色の瞳だった。滅多に感情を面に出さない祖父が、目に涙を浮かべて真に言った。
 大和君がずっとお前の傍に座っとった。お前が目を覚ますまで、ほとんど飲み食いもせず、ずっとお前の傍にな。
 だから祖父は、竹流が不義理をしたと頭を下げたときも、言ったのだ。
 わしは、真のことはあんたにやったと思っとる。あの子が東京に出て、馴染めん街で生きてこれたのは、何もかもあんたのお蔭だ。いや、北海道にいても同じことだったかも知れんと思っておる。あの子があの崖から落ちて、生きて帰ってきたのは奇跡だ。あんたがあの子をこの世に呼び戻してくれた。煮て食おうが焼いて食おうが、あんたの好きにしてもらったらええ。
 祖父が、自分たちの間の事を、仁のように恋愛関係として認めていたとは思いがたい。あの時は猫の子どもじゃないのだからやり取りするようなものじゃないと思ったが、その祖父の感覚はまさに正しいと今は思っている。


 眠ってしまった美和を見つめながら、いくらかうとうとしたようだったが、朝、真は美和の例の如く威勢のいい声で叩き起こされた。
「先生!」
「……何だ、大きな声で」
 思わず背を向けて布団に潜り込もうとした真の肩を美和はむんず、と摑んで彼女の方に向かせた。
「これ見て」
「何だよ」
「何だじゃないの」

 もしもこの子と結婚したら絶対尻に敷かれる、などと無責任なことを思いながら真は起き上がった。ちゃんと真面目に悩んでいるはずなのだが、美和の絶対的な明るさは天性のもので、真にはない彼女の最大の美徳だった。
 起き上がった真の目の前に美和が新聞の三面記事を突きつけた。
 真は思わず新聞を彼女の手からもぎ取った。

『澤田代議士、恩人の告別式の喪主を務める
 本日正午より澤田顕一郎代議士は品川区○×寺に於いて、氏の早逝した父の友人、田安隆三氏の葬儀を執り行う予定である。田安隆三氏は戦後より東南アジアでの開発事業に着手し成功を収め、現在も会長として事業を担う傍ら、芝浦でジャズ喫茶を経営していた。身寄りはなく、一人暮らし。六月二十七日早朝、横浜で水死体となって発見された。同日解剖の結果、死亡したのは六月二十三日、体内よりアルコールが検出され、酔って誤って海に転落したものと推定されている。同氏は澤田代議士の高校・大学時代の学費を出資し、政治家となった後も後援者として資金を提供していた一人と言われ、その孤独な死に澤田代議士はショックを隠しきれない様子である』

 記事の内容はざっとそういうところだった。美和と真は顔を見合わせた。
「その田安って人が、先生の知り合いだった人? 添島刑事に呼び出された」
「あぁ。しかし、まさか」
「何かおかしいの?」
「田安さんの経歴がかなり眉唾ものなのも事実だが、澤田がどうして? 下手すると政治家生命に関わる」
「それはつまり、田安さんって人が怪しいから?」
 真はもう一度記事を読み返した。
「にも関わらず葬儀をするって事は、何かのパフォーマンスかしら?」

 美和が真の視線の先を探るように、一緒に新聞を覗き込む。真はしばらくして顔を上げた。すかさず美和が聞く。
「お葬式、行く?」
「新潟に出るのが遅くなるだろう」
「でも、気になるでしょ」
 結局列車を夜行にして、ホテルも一日宿泊の予定をずらした。美和がてきぱきと予定を変更している間、真はまだベッドの上で座ったまま新聞を見ていた。 

 田安の死は事故で片付けられたのだろうか。ここには彼の店の爆発事故の事は触れられていない。田安が叩けば埃の出る人物であることは間違いがないし、警察のブラックリストにだって載っているはずだ。マスコミが何かを嗅ぎ付けたら、澤田にはマイナスになってもプラスになることは絶対にない。
 一体、澤田は何を考えているのか。これではまるで、澤田顕一郎ここにあり、と宣言するようなものだ。しかも叩けば埃の出る人間の関係者であることをあえて世間に晒して、自らの立場を危険に追い込む、この目的は何だろう。赤の他人のふりをし通すことだってできたはずだ。

「先生、早くシャワー浴びてきて」
 美和が寝室を覗き込んで声を掛けてきた。真はまだ新聞の記事に釘付けになっていた。頭の中で何かの符号が形になろうとしていたのに、ピースがいくつか足りない、そういう感じだった。
 真がシャワーを浴びて出てくると、美和が寝室の隣の部屋でテレビをつけていた。真が声を掛けようとした瞬間、美和があっと声を上げた。

 テレビの画面は、田安隆三の死亡のニュースと、澤田代議士がその葬儀をするというので、記者たちが彼にインタヴューをしているところだった。
「昨日、あんまりにも頭が興奮してて言うの忘れてたけど、ほら、先生がお父さん、じゃなくて叔父さん? どっちでもいいけど、あ、違う、どっちでもよくないんだ」
「何の話だ」

 美和の話はほとんど支離滅裂になっている。
「つまりその、先生とお父さんが向かい合って煙草吸ってたとき、絶対親子だって、つまりDNAがかなり近いって思った瞬間に、思い出したの。この間大家さんの所に面会に来てた男の人、どっかで会った気がするって、でもなんか変な感じで思い出せないって言ったでしょ。会ったような会ってないような、って。私、多分あの人のお父さんに会ってるの」
「何だって?」

 美和はテレビの中の澤田を指差した。澤田は後ろに何人かを従えて半分歩きながら、記者の質問に穏やかに答えていた。カメラのフラッシュの中で、彼は田安が自分の父親と親しく、父の死後は彼が自分の父親代わりだったと話していた。
「しかもまさにこういうシチュエーションだった。今このシーン見て思い出したの。その人、こんなふうに澤田の後ろに立ってた」

 美和が指したのは秘書の嵜山だった。
「君が澤田に会ったっていうのは、新幹線の土地買収の時」美和は頷いた。「澤田の秘書ってことか?」
「うん、同じ立ち位置ならそういうことよね。でもどうしてそういう人の息子が大家さんと一緒にいたんだろう?」
 美和は昨日の事はすっかり棚に上げて気分を一新して、例のよく動く瞳をくるくるさせて真を見つめていた。
 全く、田安が、こういうあっけらかんとしたタイプがお前に丁度いいと言ってくれていたのも頷ける気がした。
 真はもう一度テレビに視線を戻したが、ニュースは直ぐに別の話題に移った。

「ね、先生、その人のこと、調べてみていい?」
「そうしてくれ」
「先生、お葬式、一人で行ける? ついていった方がいい?」
 美和は、今度は真面目な顔をして聞いた。そんなに心配しなくても、と思った。
「大丈夫だ。で、列車はどうなったんだ」
「二十三時三分、上野発の出羽」
「じゃあ銀座で食事をしよう」





なんだかちょっと夫婦みたいなシーンになっていますね^^;
美和と真、本当にどうしてくっつかなかったんだろう???
作者のいじわる? いえいえ、これは神の配剤なのです……

イエス・キリストがラザロのためにしたことは……の下りは、もう20年も前に書いた文章のまんまです。
敢えて書いた自分が付け足すことなんて何もないはずなのですが、語りたいことのエッセンスみたいなものかもしれません。
大きな声では言えませんが、私、そのころ『イエス・キリストの生涯』を書き始めていたんですよ……
歴史に生きた革命家としてのイエス・キリストを書きたくて。
怒られそうですが、テーマは『ナザレの春』だった。
砂漠の荒涼とした土地の中で、美しい春の景色を見せていたというナザレの村で生まれたイエスの教えは、やっぱり生まれ変わる春・蘇る命(心)という、自然から得た印象・教えだったのではないだろうかと。
私はクリスチャンではないけれど(どころかめいっぱいアニミズム人間かつ浄土真宗)、このくだりを書いたときも今も、心からラザロの蘇りのシーンの本当の美しさは、ただの一文、「イエスは涙を流された」にあると思っています。いえ、多分、聖書の中で最も美しい一文に違いありません。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨49] 第8章 ある代議士の事情(2)/ ブログの文字数 

元傭兵・田安隆三の死に反応したのは、真だけではなかった。澤田顕一郎、与党の代議士である。
真の父親(相川武史:某国国家組織の雇われ暗殺者)の大学時代の先輩でもあったという澤田。真に、君の安全を保障してやりたいから自分のところで働かないかともちかけてきたのは、どういう理由があったのだろうか。
田安の葬儀の現場へ乗り込んでいった真はそこで……





 朝食を済ませると、真は一旦事務所に行ってから、久しぶりに自宅に戻り、喪服に着替えて田安の葬儀に出掛けた。
 梅雨の晴れ間というのか、空はすっきりと冴えて、青々としている。

 何ともしっくりいかない違和感を覚えたまま、葬儀の場に行くと、多少は予想していた通り、とても代議士が執り行っている葬儀とは思えない参列者の面々を目の当たりにした。参列者の数自体はそれほど多くはないが、一人一人の存在感を掛け合わせると数百人級の葬儀場の気配だった。その上、報道陣の数が半端ではない。
 町の中の比較的小さな寺の境内は、多分今日のこの時間の日本のどの場所よりも、異様な重力を持っているように思えた。

 真は特に報道関係者と思われる人間たちとは目を合わさないようにして、テントの下の受付に進んだ。受付にはいかにも事務的な顔をした男たちが三人並んでいて、真が香典を差し出そうとすると、それを丁重に辞退した。記帳だけは勧められたので、それを済ませて焼香に進んだ。
 淡々と進んでいく焼香の列はそれほど長くもなく、真の順番は直ぐにやって来た。読経の声は、空気の湿りを裏切るように乾いて淡々と響いていた。真正面に立って、白い菊の中に埋もれるような田安の遺影を目にしたとき、やはり何とも言えない違和感が襲ってきた。

 真は実のところ田安がどんな顔をしていたのか、はっきりとは思い出せずにいた。あの水死体があまりにも強い記憶を残したからなのか、遺影を見ていてもその人だという確信が持てない気がした。その上、哀しいのかどうかも分からなかった。
 実際に遺体を見たときは、苦しくて吐き続けていたのに、今は干からびた感情が筋のようになって残っているだけだった。

 焼香を済ませて、本来なら遺族が並んでいるところに来ると、澤田が会葬者に丁寧に頭を下げていた。威圧感があり堂々としたムードを持つ澤田が、そこまで丁寧にひとりひとりに頭を下げている姿自体も違和感があった。真はただ彼に一礼をしたが、澤田のほうも特に何の感情も見せずに、真に一礼を返してきた。
 何かを確かめに来たつもりだったが、確かめるどころか疑問だけを膨れ上がらせたようなものだった。早くここから抜け出してしまいたいのに、足は重くて思うように進めない。何かに足を引っ張られるような気がして、一度だけ振り返った。

 読経の声の中に不意に、パイプの煙の匂いと一緒に田安の声が混じって聞こえたようだった。
 お前は優しい人間だ。
 顔は思い出せないのに、あの時の声だけははっきりと耳に残っていた。その声のトーンも響きも、穏やかで慰めるような優しさも。

 だが、優しいということは何の力にもならないことがある。第一自分の本質が本当に『優しい』とも思えない。むしろ何に対しても、自分自身に対してさえ、執着し熱くなることは少ないし、時折自分が恐ろしく冷酷な人間であるような気がする時もある。その上、自分の力では何も超えられない弱さは、背中にぴったりと張り付いている。
 あの事故以来、ずっとそうだ。いや、あるいはもう、生れ落ち、両親に捨てられたその時から。

 視界の隅に澤田の姿が入った。澤田は後ろに立つ嵜山に何か耳打ちしているようだった。
『その人、こんなふうに澤田の後ろに立ってた』
 美和が言ったことが本当なら、何故澤田の関係者の息子と思しき人間が、今竹流と関わっているのだろう。澤田は誰を探しているのだろう。そして竹流は、どこでどうしているのか。

 いつの間にか視界の中央に澤田がいて、その中央から嵜山が真っ直ぐこっちに向かって歩いてきた。嵜山の視線の正面にいるのが自分であるということに気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
「ご会葬、有難うございます」
 真は反射的に頭を下げた。
「澤田から、今夜お食事を御一緒に、とのことです」
 真は嵜山を無遠慮に見つめた。
「いえ、今日は夜行で新潟に発つ予定ですので」
「では、五時半に事務所にお迎えに上がります」

 完全に真の言うことを無視して澤田の言葉を伝える義務をなし終えると、嵜山は引き返していった。真はその後姿を、呼び止めることもせずに見送ってしまった。あまりにも有無を言わせない気配に、人に仕えることに命を掛けている人間に共通の融通の利かなさを見た気がした。

 気が付くと、背後で何やらざわめきが起こっていた。振り返ると黒塗りの大きなベンツが数台連なっていて、門の前の狭い道で停まった。助手席のドアが開き、スーツ姿の男が一人出てきて、後部座席のドアを開けている。車から降りた和装の大柄な男を見て、さすがに真も驚いた。
 大東組という暴力団の三代目だった。年は七十を過ぎているようだが、未だに組を仕切って若い者を制している。三代目は堂々と歩いていって、札束のような香典袋を受付に出している。断ろうとした受付の男に全く有無も言わせず、そのまま記帳し焼香へ進んでいく。

 皆がその様子を言葉なく見守っていた。張り詰めた空気の中では、全ての音が凍りついている。焼香を済ませた三代目が澤田に会釈をすると、澤田は他の会葬者に対してと全く変わらない礼をした。そして、三代目の手に香典袋を返す。
 三代目が何かを言っているようだったが、澤田は落ち着いた表情を崩すこともなく、それに答えていた。だが、三代目が一度手元を離れたものをもう一度懐に戻すことなどあり得ないと真は思った。

 三代目は澤田に次の言葉の隙を与えずに、車のほうへ引き返してきた。真はまだ門の近くに突っ立っていたので、思わず一歩後ろへ下がったが、三代目と目が合ってしまった。
「あんたも来とったか」

 不意に静止画像が流れ始めたようだった。
 真は、この男が次の代までには解散すると宣言していて、それ以来内外から命を狙われているのを知っていた。関東のその系列の組では五本の指に入る大所帯で、ここが解散すればバランスは崩れて、いわゆる『失業者』が多く出る。時々真も、社会にはこういう吹き溜まりをやり過ごす場所が必要であると思う事がある。その澱み処には、もしかすると大東の三代目のような人間が必要なのかもしれない。
 それでもヤクザはヤクザだ。肯定する対象ではない。

 三代目を囲む五人ばかりの屈強な男たちの視線を受けながら、真は開き直るしかない、と諦めた。背中の報道陣の視線も痛い。
「えぇ」
「この間は、うちの若い者が世話になった」
「いえ、別に世話をしたわけでは」
 単に、犯罪に関わらないと分かったので、人捜しを手伝っただけだ。
 三代目は祭壇のある本堂の方を振り返った。
「田安の爺さんはこんな湿っぽい葬式なんぞ必要とはせん。流れ流れて、わし等、地獄の針の山に座って宴を楽しむさ。あんたは来ちゃいかん」
 笑いながら三代目は人々が避けて作った道を真っ直ぐ歩いて、車に戻った。

 とっさに長居しないほうがいいと思って、真は駅への道を戻ろうとしたが、ここぞとばかりに報道陣の一部に追われた。
「故人と澤田代議士の関係をご存知ですか。大東組との関係は?」
 真は返事をせずに、心持ち歩を速めた。
「あなたは故人のお知り合いですか? それとも澤田代議士と? 大東組の三代目とは?」
 真は、走り出したい気持ちをかろうじて踏みとどまらせて、できるだけ悠然とした態度で歩こうと思っていたが、実際には自然に足は速くなっていた。
「故人は、本当は何をしていた人か、御存じなのではありませんか」

 やはり冗談じゃない、と思って結局、歩を速めてみたが、相手は諦める気配もない。その途端、横からむんずと腕を摑まれた。何するんだ、と思ってその相手の顔を見た。
「井出ちゃん」
 新聞記者の井出がぼさぼさの天然パーマの頭に、例のごとく冴えないジャンパーとジーンズといういでたちで真の顔を覗き込んでいた。

「だめだねぇ、素人は」
 井出は真の耳元に小さな声で呟いて、後ろの報道陣には大きな声で言った。
「この人、追いかけても無駄だよ。同業だからね」
 井出はあっさりと後ろをかわすと、真の肩をぽんぽんと叩くように促して、一緒にどんどんと歩いてくれた。報道陣はさすがについてこなかった。

「あのね、真ちゃん、あんたは一応澤田の『愛人』の『愛人』なのよ。こんなとこに来ちゃ駄目でしょ」
「井出ちゃん、取材か」
 井出はあまり取材のふうでもなく、まるで通りかかっただけだという格好だ。もっとも、井出の格好はいつでも無頓着の極みのようなところがある。その服装の趣味の悪さと、天然パーマと幾分か出っ張った顎と無精髭を除けば、背もあるし、立ち姿などのシルエットは決して悪くない、というのが美和の見解だった。
「まぁね。それにしても、何で大東の親分と知り合いなのさ」
「知り合いなものか」
「大東さんがあんなふうに話しかけてくるなんて、あんたに一目置いてるってムードだったね。真ちゃんって、どっか危ないなぁ」
「冗談じゃない、こっちは何もしてないのに」
「それが危ないの」
 そう言ってから、井出は真の耳に囁きかけた。
「そこの公園で煙草でもどう?」

 新宿で生きていくためには、あの手の連中ともたまにはギブアンドテイクがあるというだけのことだと真は考えていた。
 それに、真に事務所を提供してくれているのは、そもそも寛和会という関東一円でシマを張っているヤクザの傘下にある仁道組の組長の息子だ。古い仁義を重んじる系統のヤクザで、最近ではむしろまっとうな処世を試みているのではないかという気配もなくはないのだが、組長の北条東吾は、義理と人情を絵に描いたような寛和会最大の春日組の親分から可愛がられていて、結局は盃を受けて組を持たせてもらうことになったと聞いている。そもそも北条家は華族で、戦時中零落れて闇市を仕切ることで生き延びたというのが、ヤクザ稼業に足を突っ込むきっかけだったという。
 確かに、真自身、北条東吾には公というより私の部分で随分可愛がられている。ヤクザに可愛がられているという事実について、本来、世間的には褒められたことではないはずだが、真の例の平等感覚はこういう時にろくでもない活躍を見せてしまう。

 ヤクザを肯定するつもりはない。麻薬を流したり、女を転がしたり、恐喝を働いたり、彼らのしのぎの道に共感できる部分はほとんどない。それでも、弱いものから金を掠め取るような仕事を、堅気が全くしていない、とは言えないのも事実だった。この大都会の中で、ヤクザよりも性質の悪い銀行や大企業の人間を、真はどれくらい見たかしれない。しかも、法律や日本の国が作り上げてきたシステムによって、そういう大っぴらな悪事に、一般の人間はむしろ気が付かないように上手く取り繕われている。いや、悪事は大きければれば大きいほど、一般人には気付き難いものとなるのかもしれない。
 もちろん、もしも大多数の人間が気が付いて何とかしようとしてしまったら、国は崩壊するだろう。あるいは人々も、それが分かっているから、行動を起こさないのかもしれない。

 そう考えると、何が正しいのか間違っているのか、真はいつも分からなくなってしまう。真のしていることは、結局は、大きな力に逆らいきれずに波に呑まれている哀れな男女が、あるいは子どもが、少しだけ波から顔を上げることができる時間を稼いでやっているだけのことなのだろう。

 道沿いの小さな公園には、近くの寺の葬儀の気配を感じてか、誰も出てきていなかった。大きな楡の木の下で光が斑に揺れている中に、年季の入った木のベンチが一つ、浮かんでいる。
 真は井出と一緒にベンチに座って、煙草の火をつけ合った。
「この間の、新津って雑誌記者の話」井出がひとつ吹かすか吹かさないうちに言った。「あの千惠子って娘のことだけど」
「施設に預けられたとかいう?」
「そうそう。あれから俺も気になってさ、ちょっと調べようと思って、その施設を捜してみたんだけど、地上げでなくなっててさ、当時十人ばかり子供がいたみたいだけど、みんなどこかへ引き取られたそうだ。もう今更分からないかもしれない」
 真は煙草を手に持ったまま、暫く考えていた。

「少なくとも姉夫婦が引き取ったんじゃないことだけは確かだけどな」
 井出が煙草の灰を落としながら、吐き捨てるように言った。
 井出の感情の中に、その姉夫婦への怒りや不信を見出すことは難しいことではない。真は、こういう井出の青臭い正義感が、この男を記者という仕事に繋ぎとめているのだろうと思っていた。人は、自尊心と自負心がなければ、誇りを持って仕事を続けていくことは難しい。もしも、その仕事を続ける上で最も大切なものが失われたら、人は、特に男は、どうやって命や人生を繋いで行くのだろう。

 それでも、その一方で、おそらくは弟の脅迫と自殺というスキャンダラスな事件のあおりを喰らった姉夫婦の不幸も、理解できなくはなかった。もうその件には触れて欲しくない、と思いながら、世界の片隅でひっそりと時間を潰している家族がいることは、どうしようもなく事実なのだろう。
 だが、取り残された子どもは、僅か八歳という心と身体をどうやってこの世に繋ぎとめているのか。それとも、すでに失われたものの重みを抱えきれずに道の半ばで倒れてしまっていないのだろうか。

「その施設、どこにあったんだ?」
「新潟」
 真は思わず井出の顔をじっと見つめた。
「新潟?」
「新津って記者は新潟の出身らしいよ。記者になって東京に出てくるまでは向こうに住んでたようだし」
 真はしばらく地面を見つめていた。蟻が忙しげに列を作ってどこかへ向かって進んでいる。この世界がどういう状況になっていようとも、蟻はただ彼らの世界の中で巣を造り、餌を運び、生命体の塊として子孫を育んでいる。
 低い空をヘリコプターの音らしい大きな飛行音が横切っていった。

「新潟に行くんだ」
「誰が?」
「美和ちゃんと、今日、夜行で」
 井出は不可解なものを見るように真を見つめていた。
「それって、名探偵の勘?」
「冗談だろ。竹流の件で、手がかりがありそうだから」
 井出は真を見つめて言った。
「もうちょっと手の内、見せてくれてもいいんじゃないの」

 真は暫く考えていた。それから徐に井出の方へ顔を上げた。
「協力してくれるか」
「もちろんよ」
 井出は明らかに面白いネタを見つけた記者の顔になる。
「取材と称して新潟県庁に入りたいんだ」
「県庁? 何だよ、それは」
「県庁の会議室に架かっている絵が見たい」
「絵?」

 井出はさすがに記者らしく、見返りは何かと聞いているように思えた。
「贋作だと鑑定された絵だ」
「真ちゃん、絵を見て贋作かどうか分かるのか」
「分かるわけないだろう。でも」
 真は次の言葉は飲み込んだ。新津圭一の脅迫事件でも自殺事件でもない、澤田や河本が関わっている大層な事件でもない、竹流の側から見れば絶対に絵以外の何の事件でもないはずだった。彼に繋がっていると思えるのは、今はそれしかない。
「大和さんとその絵に何かあるんだな」

 真は答えなかった。
「それが何で新津圭一と関係があるんだ?」
「わからない。竹流は、新津圭一の自殺の記事を俺に残していた。彼は新津圭一を知っている。新津圭一が自殺した頃、彼は新潟で贋作と言われている絵画のことで仕事をしていた。新津圭一が絵と関係があるかどうか分からないけど」
「真ちゃんが見ているのは、大和さん側の視点から、ってわけだ。彼が絡むということは、絶対に間に絵か、美術品が介在している、っていう」
 真は吸わないままの煙草をようやく咥えた。相変わらず、味を感じない。

「愛だねぇ」
 井出はしみじみと言った。真はどうとでも言ってくれ、と思っていた。自分の心の中にあるとてつもなく重いものを、他人が量れるとは思えない。
「真ちゃんは別に新津圭一の事件をひっくり返したいわけじゃない、単に大和さんを捜したいだけなんだよな。それってやっぱり愛だなぁ」
 二度繰り返して、井出は何かに納得したようだった。

「よし、俺も愛には協力するか。事務所に名刺、届けとくわ」
 そう言って去りかけた井出の後姿が、ふと停止した。井出には珍しく、たっぷり数秒は躊躇った後、真のほうを振り返った。
「あのな、口を利けなくなった新津圭一の娘のことだけどさ」さらに数秒、井出は時間をとった。「公表はされなかったけど、病院に運び込まれて、婦人科医の診察を受けたって、噂があったんだ」
「婦人科医?」

 井出は、真にはわからないか、という顔をして右手を上げるとそのまま去っていった。
 その言葉は、井出が何かを伝えようとしたのだろうが、真には半分解るようでわからなかった。考えていると嫌な汗が噴き出してくるようで、真は振り払うように歩き始めた。それから手元の煙草の吸殻を、そのまま律儀に駅の吸殻入れまで持っていって捨てた。

第7章 あらすじ
自分の父親の正体を知る元傭兵・ジャズバーの店長・代議士澤田顕一郎の育て親である田安隆三が水死体で発見された。彼の死体を見た真は、行方不明の竹流の身を案じながら、不安で押しつぶされそうになっていた。
一方、女刑事・添島麻子から、新潟の贋作鑑定事件というヒントを与えられた美和は、真と一緒に新潟に行くことを決めたが、事務所の仲間である宝田や賢二から、真と竹流の事情などを聞きながら気持ちが揺れ動いている。
そんな時、事務所に真の実の父親・相川武史が訪ねてくる。訪問の理由は明かさないまま、そして真との間にある深い溝を埋めようともせずに、ただ警告のような言葉だけを残していった。

「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」




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[雨50] 第8章 ある代議士の事情(3) 

代議士・澤田顕一郎が喪主となった元傭兵・田安隆三の葬儀に参列した真は、そこで飲み仲間でもある新聞記者・井出から、自殺した雑誌記者・新津圭一の娘が預けられていた新潟の施設が閉鎖され行方が分からなくなっていることを知らされる。葬儀にはヤクザまで参列しており、真は澤田の本心を疑う。自らの身を危うくしてでも田安の葬儀を行った本心はいったい?
一方、澤田は新津のことを知っているはずだし、新津が脅迫していた相手の中に澤田が含まれていた疑いもある。
澤田から食事の誘いを受けていて真は、彼の真意を確かめるために、再び澤田に会うことにした。

さて、竹流の失踪の大元には、新津圭一という雑誌記者の死が関係しているもよう。さらに、竹流は新津が自殺したころ、新潟の県庁の中にある絵にまつわる仕事をしていたようなのだ。新潟というキーワードの中にいく人もの人間が関わっている。
真は美和と一緒に新潟へと向かうことにした。
その前に、2回に分けて、澤田顕一郎との会話をお聞きくださいませ。
真実の一端が見えるでしょうか。





 嵜山は時間通り事務所に現れた。
 美和とは銀座で待ち合わせていたが、真は彼女が嵜山と鉢合わせなかったことに感謝した。また何かれと美和が心配するのは申し訳なく思っていた。

 その日は料亭ではなく、田園調布の澤田の私邸に連れて行かれた。豪邸ではなく、適当に恥ずかしくはない家という程度だが、落ち着いた静かな環境だった。
 嵜山は車を車庫に入れ、一度姿を消した。真を出迎えたのは四十代の上品な女性だった。澤田夫人かと思ったが、すぐにお手伝いの女性と知れた。
「妻が入院していてね」
 澤田の個人的な状況を聞いたのは、それが初めてだった。

 派手な飾りのひとつもない十畳ほどの座敷に通されて、勧められるままに座布団に座ると、先ほどの女性がビールを運んできた。床の間には、細い筆づかいの文字だけの掛軸と、姫百合と小紫陽花が活けられた花器が吊られている。静かな梅雨の景色が、この床の間に切り取られていた。
「無理を言って済まなかったね。田安さんのことを話す相手を、他に思いつかなかった」

 真は黙って女性がビールを注いでくれるのを受けた。彼女が出て行くと、真はビールに口はつけずに、座敷机の上にグラスを戻した。
 顔を上げると、澤田は真っ直ぐに真を見つめていた。
「故人を偲ぶ、というムードではないようだね」

 真は意を決したように口を開いた。
「香野深雪はあなたの何ですか?」
 澤田は黙ったまま真を見つめている。
「あなたは大和竹流をどこへ隠したんですか。それから、あなたは新津圭一という男を知っていますね」

 いきなり切り出すのは性急だったかもしれない。美和と待ち合わせた時間のこともあったが、何よりも今流れている時間そのものが惜しかった。真はどの名前で澤田が表情を変えるかと思って見ていたが、どれも裏切られた。
 澤田は淡々とした表情で真を見つめ返しているだけだった。

「深雪と私に、つまり世間の一部が噂するように、身体の関係があるかどうかを聞いているのかね」
「……それでも結構です」
 澤田は笑ったようだった。
「あれは君に惚れているんだよ」
「何のために彼女は僕に近づいてきたんです? それは僕が大和竹流と親しいからですか」
「それは、君と同居している男のことだね。一体、君は何を私に聞きたいのだ?」

 真はまだ注意深く澤田を見ていた。澤田は手にしたまま口をつけなかったグラスを、結局机に戻した。
「深雪と私の関係は、今はただビジネスのようなものだ。あれは世間が思っているよりも賢い女だし、何を考えているのか、私に手の内を全て見せることはないが、それでも誰を思っているかはよく分かる」

 真は注意深く澤田の表情を確かめた。澤田が深雪に対して抱いているのは、それほどにビジネスライクなものには思えなかった。深雪の気持ちも、どうだか分からない。
「それで、私が君の同居人をどうしたと言うのだね」
「あなたがさらったのではないのですか」
「さらう?」
 澤田が何を考えているのか、やはり表情からは掴み切れなかった。

「あなたの秘書は僕の実家でもなく事務所でもなく、大和竹流のマンションに電話をかけてきた。送り届けてもらったのも彼のマンションです」
「嵜山が自分の判断でしたことだろうが、一体君の同居人がどうしたというのだ」
「あなたと彼の接点は何ですか」
 澤田はまだ不可解に真を見つめているだけだった。
「君は、まるで恋人のように必死だね。その人がどうしたというのだね。私に分かるように話したまえ」
 澤田ではないのか、それともしらを切り通すつもりなのか、真はまだ暫く澤田を見つめていたが、やがて諦めた。
「あなたの秘書を呼んでください」

 澤田は手伝いの女性を呼んで、嵜山を呼ぶように言った。嵜山は直ぐにやって来た。
「お呼びでしょうか」
 その姿を見ると、今度は、澤田よりもこの男のほうが怪しく思えてくる。実直だが、その心の内を読めない、抜け目のない目つきだった。
「この人が君に聞きたいことがあるようだ」
 嵜山は背中の障子を閉めて、真のほうを向き直った。
「何でしょうか」

 淡々と押さえ込まれた声で嵜山が尋ねる。質問したのは澤田だった。
「彼の同居人のことを知っているかね」
「銀座にギャラリーとレストランをお持ちのイタリア人の方です。最近、雑誌でお顔を拝見しました。御一緒にお住まいということでしたので、そちらに御連絡いたしました」
 それもそうだ。あの雑誌で、真や竹流を知る人間だけでなく知らない人間も、『大和竹流』という男を認識したわけだ。真は自分からは口を挟まず、澤田が嵜山に質問している様子を見つめていた。

「その人のことを調べたかね」
「お住まいは、申し訳ありませんが、探させて頂きました」
「その人が今、どこにいるか知っているかね」
 嵜山はその質問の意味が飲み込めなかったようだった。
 澤田は真のほうを見て、他に何か聞きたいことはあるかと聞いた。

 本当のところは、ここまでは予想していた展開だった。実際、澤田は竹流の事は知らないのかもしれない。同じ人物と関わっているが、澤田と竹流自身に接点があるわけではないのかもしれない。
「新津圭一という雑誌記者をご存知ですか」
「新津?」
 嵜山は首を傾げた。
「三年半前、ロッキードの直前に自殺した……いえ、殺されました」

 不確定な話だが、インパクトのある表現を選んだ。嵜山はまだ考えているようだったが、逆に澤田が真の視界の端で多少不可解な表情をした。
 真はそれを見逃さなかった。澤田のほうを向き直ると、真は改めて聞いた。
「新津圭一をご存知ですね」
 しかし、代わりに答えたのは嵜山だった。
「それは、フロッピーに脅迫文を残して自殺した男ですね。殺人とは聞いておりません」
 真はそれには答えず、澤田の顔を見つめていた。

「君は何を調べているのだね」
 ようやく、澤田は関心を示したような気配を見せた。
「大和竹流を捜しています」
「その人が、新津圭一という男とどういう関係があるのだね」
「わかりません。あなたがご存知ではないかと思っていました」
 澤田は暫く真を見ていたが、やがてひとつ息をついた。

「その男が自殺したときに、検察が、脅迫されたことはないかと言ってきた。直後にロッキード事件があって、それとも絡めて随分としつこく聞かれた」
「あなたには、脅迫された事実があったのですか」
「いや」
 澤田は一言で否定したが、何か考えているように見えた。

「脅迫の内容をご存知ですか」
「ある企業から収賄があったのではないかと言われた」
「ある企業?」
「だが全く身に覚えのないことだった」
 雑誌記事には『IVMの件で、と脅迫文には書かれていた』と載っていた。検察も何かの企業名と思ったのだろう。もちろん、澤田が身に覚えがないと常套句を言ったところで、検察がそれを信じたかどうかは分からない。実際に澤田が収賄事件に関わっていた可能性もある。だが、真は澤田が金を受け取ったかどうかには興味がなかった。

「もう一つ教えてください。その頃も嵜山さんはあなたの秘書だったのですか」
 澤田は何を言うのか、という顔で真を見た。それから嵜山と視線を合わせる。
「そうです」
 返事をしたのは嵜山だった。
「では、四十年台の後半頃は?」

 明らかに、澤田は真に対する態度を、その身体の奥のほうで変えたように見えた。
「一体、君は何を嗅ぎ廻っている?」
「気になりますか? それなら、あなたももう少し手の内を見せてくださってもいいのではありませんか」
 食い下がるしかないと判断した。嵜山が澤田に何か命令を仰ぐような表情を見せたが、澤田は暫く考えるような顔をした後で、嵜山に下がっているようにと言った。 

「今度は君が脅迫者というわけか」
「あなたには脅迫される覚えがあるというわけですか。さっきから申し上げていますが、僕は大和竹流を返してくれと言っているのです。それ以外のものを要求するつもりはありません」
「その男は君の一体なんだね?」

 澤田が竹流をさらっていたぶったとは思っていない。しかし、この男は何かを知っていると思いたかった。今直接に竹流に近づくのは、この経路しかないように思ったのだ。
「僕のことで、叔父、いえ、父のことを調べたあなたが彼のことを知らないとは思いません。僕が香野深雪と付き合い始めたのはもう一年以上も前のことで、今更のようにあなたが僕に接触してきたのは、父のことを知ったからですね。僕と同居している男も、父以上にかなり特殊な事情を抱えた人間です。田安さんとあなたの関係を考えても、あなたが何も知らないとは思いません」

 澤田はようやく落ち着いた表情に戻って、冷めた声で机の上の料理を片付けるように言った。せっかく妙子が腕を振るっているのだから、と穏やかな声で続ける。
 真は有無を言わせぬ気配を感じて、逆らわずに食事に専念した。
 確かに、竹流ほどではないにしても、妙子という澤田家のお手伝いもかなりの料理の腕前に思えた。
 だが、美和の味噌汁の伸びたわかめが何となく愛おしく思い出されるのは不思議だった。

 食事の間に、澤田は、自分の妻が病気で長く入院していることを真に告げた。何の病気かと真が聞くまでもなく、心の病だと澤田のほうから言った。お子さんは、と何気なく聞いたが、澤田は、男の子が一人いたが小さい頃事故で死んだと、今まで以上に冷めた声で言っただけだった。

 食事の後で、澤田の書斎に通された。食事をしていた部屋は一階の和室だったが、二階は洋室が並んでいるようで、特に書斎は扉も厚く、外界との空気を完全に隔てるようになっていた。
「先程の話の続きをしなさい」
 澤田は小さめの一人掛けのソファが二つ向かい合っているところに、真を座らせた。大きなデスクはなく、真の伯父の書斎と同じように小さな机が隅に置いてあり、あとは書棚が図書室のように並んでいる。澤田顕一郎のお気に入りの空間とでも思える小さなスペースを、仄かに橙の明りが包み込んでいた。

 真は開き直ることに決めていた。今は手がかりもないのだ。
「あなたもご存知かもしれませんが、僕の同居人は、ギャラリーとレストランの経営者ですが、本職は絵画や美術品の修復師です。かなり胡散臭い仕事もしているかもしれませんが、仕事には情熱を持っている。彼が絡むとなると、間に絵画か何か美術品が介在しないわけがないと思っています。もう一つ、彼の実家はローマのヴォルテラという家です。表向きは銀行業とホテルチェーンを持っている事業家ですが、裏では情報の売り買いをしているし、何よりも随分大掛かりな警備にまつわる仕事をしていると聞いています。つまり特殊技能を持った兵士を雇っている。もともとはヴァチカンの法王庁を守るために作られた組織だと聞いています。田安さんがそういう事情を知らなかったとは思いません」

 澤田は顔色も変えずに聞いていた。
「彼が今何をしているのか、僕にはわかりませんが、あなたの関係者と一緒にいるのではないかと、そう疑っています」
「私の関係者?」
「昭和四十年台の後半、あなたの秘書だった誰か」
 澤田は真をじっと見つめた。初めて、真はこの男が強い興味を示したように思った。

「何故、その人物を知っている?」
「山口県の小郡辺りの土地を新幹線のために買い付ける仕事をされていた、その時、あなたと握手した女の子が、あなたの秘書の事を何となく覚えていた」
 澤田は暫く顎に手を掛けて考えていた。

「村野、という男だ。しかし彼は四十年代の後半に癌で亡くなっている。私の秘書を十年近く勤めてくれたが、秘書というよりも戦友のようなものだった。現在、君の同居人と行動を共にするのは不可能だが?」
「いえ、本人ではなく、その息子さんです」
「息子? 村野に子どもがいたとは聞いていないが。村野家が養子をもらっているなら別だが」
「いえ、血のつながりのある息子さんのはずです」
「どういうことだね?」
 美和の『親子』を見抜く勘だとも言えないな、と思った。澤田はまた、思い立ったように言った。

「もちろん、彼の晩年のことは私もよく知らないし、身辺に誰か女性がいたとしてもおかしくはない。だが、その『村野の息子』が君の同居人と一緒にいるとしても、私との接点にはならないと思うのだが?」
 それはその通りだ。真は思わず唇を噛み締めるように俯いた。
「それで、他に君が私について疑っているのは、何だね?」
「新津圭一をご存知ですね。検察から名前を聞いたわけではなく」

 澤田は溜息をついたようだった。
「その男は、深雪と付き合っていたからね」
 楢崎志穂の作り話ではなかったのか、と思った。
「だが、私と彼が直接関わるようなことは何もない」
「香野深雪のことで、嫌がらせをしたことも?」

 澤田はさすがに少しばかり笑ったようだった。
「私が君に嫌がらせをすると思っていたのかね?」
「いえ、そういうわけでは」
 痛いところをつかれたようには思うが、あまり表情に出さないほうがいいと思った。

「私から見れば、君は新津圭一より遥かに深雪には良い相手だと思える。少なくとも結婚していないというだけでもね。君も世間も、色々と誤解をしているようだが、私はただ深雪の幸せを見届ける義務があると思っているだけだ。だが、新津圭一がそういう意味で相応しくない相手だからと言って、私には彼を殺してしまうほどの理由はない。君の言うように、自殺でなく他殺だったとして」
 真は暫く澤田の顔を見つめていた。真の感情に引っ掛かったのは、思いも寄らない部分だった。
「幸せを見届ける義務?」

 澤田は一つ息をついて、ソファに凭れた。
「深雪の過去を聞いたことがあるかね?」
「いいえ」
 深雪とはそんな話をした事がない。澤田がどう思っているのかはともかく、自分と深雪はただ身体を重ねるだけの関係で、言葉を重ねてお互いの来し方を思い遣ったことなどなかった。
 よく考えてみれば酷い話だ。相手のことを十分に知ろうとしなかったのは、何に対しても責任を取ろうという気がなかったということだ。
「あれの両親は自殺している」
「自殺?」
 言葉を繰り返しただけで、しばらくそれ以上の反応ができなかった。
 
 もちろん、初めて聞く話だった。





深雪の過去…次回は、真が彼女から聞いたことのない過去を澤田が語ります。
澤田顕一郎と深雪の関係は、愛人関係なのかどうか?
そして、澤田はいったい何を考えているのか?
それぞれの人間たちの思いのどの狭間で、竹流はひっかかってしまったのか…
次回、第8章最終回です。
少し退屈ですが、お付き合いください。
第9章は……いよいよ(^^)『若葉のころ』……つまり、真、過去の思い出にどっぷり浸る章です。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨51] 第8章 ある代議士の事情(4) 

代議士・澤田顕一郎の告白の後半です。澤田と香野深雪の関係が明らかに。
そして、深雪にも、真と同じように、過去に空白があることが語られる。
逆行性健忘。強いショックのためにある出来事からさかのぼって一部の記憶が吹っ飛んでいる。
澤田の本心はいったい?
そして、美和と真は、手懸りを求めて新潟へ。





 深雪は最後に別れるとき、親の顔を知らないと言っていた。
「もっとも、彼女の記憶はその辺りで欠落しているところがあるだろう。病院、それから施設に預け、匿名で学費を出したのは私だ。あれが大学を出て店を持つ時に初めて会ったが、それまでのことは話していない。ただ援助を申し出た」
「何故あなたがそんなことを?」
 澤田はただ穏やかに真を見つめていた。
「あれの生まれた家は新潟の糸魚川の古い旅館でね、昔から硬玉翡翠の販売も手がけていた。いずれ新潟まで立派な交通網が整備されれば、糸魚川で大きなホテルを経営するつもりだったのだろう。今で言うリゾート地開発計画があって、県議員や地元の業者とかなり深い付き合いもあったようだ。私はその頃九州日報に勤めていてね、若くて社会に義憤を感じていた」

 真は澤田が淡々と物語る過去を、重く苦しく感じ始めている自分に気が付いていた。それが深雪の関わる事情だからなのかもしれない。
 あの女を愛しているから重いのか、あるいは愛していないから重いのか、分からなくなっていた。

「『歴史的にも大変価値のある』翡翠仏が、県議員を介して中央財界や政界に流れているという噂を耳にした。もちろん、非合法な政治献金として、だ。発信源は糸魚川で自殺した翡翠を加工するある作家でね、取材をして、その事件の裏で深雪の父親が関わっていることを知った」
「つまり、あなたが記事を書かれたんですか」
「そうだ。その記事の後、深雪の両親は亡くなった。自殺ということになっている。深雪はまともに両親がぶら下がっているところを見たんだよ」

 真は澤田の冷めた目を見つめた。澤田が感情を敢えて表に出すまいとしていることは、十分に感じた。
「それで、記憶が曖昧と?」
「逆行性健忘というそうだね。ショックでその前の記憶の一部が飛んでしまうという。今、深雪がそのことを思い出しているのかどうかも私にはわからない。だが、そういうことは明瞭な記憶でなくても、心に深い傷を残すものなのだろう。その事件で、深雪の親戚の誰も、あの子を引き取ることはしなかった。不名誉な死に方をした家の娘だからだろうな」

「新津圭一の家と同じだ」思わず真は呟いた。「それで、あなたは深雪に申し訳ないと思って、援助をしてきたのですか」
 澤田は少しの間、言葉を選んだようだった。まるで美談にしてしまうのが悔しいとでも思っているように見えた。
「まあ、そういうことだ」
「そのことを深雪は知っていて?」
「私が話したことはないが、誰かから聞いたのかも知れない」
「あなたは、そのことで香野深雪があなたを恨んでいると思っているのですか」
「さぁ、どうだろうね。直接彼女とそのような話をしたことはないからね」

 真はやっと息をついた。
「彼女に妹がいませんでしたか?」
「妹の方はまだ赤ん坊でね、誰かに引き取られたと聞いたが」
 本当に妹がいたのだ。では、やはり楢崎志穂は香野深雪の妹なのか。そして、楢崎志穂は澤田のことを両親の敵と思っているのか。だが、そうだとして、何故楢崎志穂はそのことを知っているのだろう。誰かが楢崎志穂に事件を教えたということか。

「さっきの話ですが、つまり翡翠仏のような美術品が政治献金になるということなんですね」
「あんなものは、君、値段があってないようなものだ」
「どういう意味ですか」
「君はある美術品を見て、それが一億か五億かの違いがわかるかね? それは君にとっては同じはずだ。ただやたらに高い、という程度の。しかしそこには明らかに四億の差がある。その四億がどこに流れるかということだ。そして、その美術品に値段をつけるのは、世間の流通の程度と熱心なコレクターの存在と、そして何よりそれが希少価値で滅多に手に入らないものだという情報だ。その情報が事実である必要はない」

 真は澤田の冷静な表情をもう一度改めて見つめた。
「古い絵も、同じですか? 例えば、十七世紀の海外の著名な画家の絵、とか」
「モナリザが盗まれたとき、確かに複数の『モナリザの本物』が出回ったというが、本物が本家本元になければ、どこかにある、もしかして目の前にあるこれかもしれないという理屈になる。それがその美術品の『値段を決める情報』なのだよ。だが、そんな有名な絵をしばしば引き合いに出すのはかなり困難だ。せいぜい一億になるかならない程度のものを企業が数倍の値で買い取り、差額が献金になるという仕組みだ。あくまでも絵は桁違いの金を動かすためのからくりに過ぎない。そのものの価値が云々されるようなものは足もつくし、面倒だ」

「さっき、歴史的価値のある翡翠仏、とおっしゃいましたが」
「実際に流れたのが本物か贋物か、誰にもわからない。だが、それを持つことによって、神代の時代から存在する特別な加護が与えられるとなると、人は何かにすがりたいと思うのだろうね。特に、政治家や企業家は、敵も多く、是か非かを決める瞬間も多い。君はふざけたことだと思うだろうが、そういう時は神に頼るんだ。よく当たるという噂の占いは、何も年端もゆかない少女たちのものだけではない。財産や権力を持つ人間が頼るときには、大きな金が動く。そういうことだ」

 真は妙な違和感を覚えた。竹流が贋作に命をかける図式が浮かばない。そんな政治献金に多少の美術品が利用されても、勝手にどうぞ、と言いそうに思える。それなのに、彼は何かに対して命がけでこの事件に関わっている。

「この際だから、聞きたいことは聞いておきなさい」
 澤田はある一線は越えてこないが、嘘をつこうとしているようには見えなかった。
「何故、田安さんのお葬式を? ただ親代わりというだけではありませんよね。それに、何故あの人が殺されたんですか」
「殺された? 事故だとは君は思っていないのかね」
「あなたは事故だと思っているわけではないでしょう。あんな派手なお葬式をして、しかもマスコミをわざと引き寄せた」
 澤田は曖昧に頷いた。
「あの人と私の父親は戦時中同じ部隊でね、田安さんは私の父親の部下だった。常に生命の危機を共にする間に彼らは約束を交わしたのだと言う。どちらかが死に、どちらかが生き残れば、残ったほうは死んだ方の家族の面倒をみよう、という約束だ。あの人は律儀にそれを守ってくれた」
「田安さんの仕事をご存知ですよね」
「傭兵という仕事かね?」
 真が頷くと、澤田は首を小さく何度か横に振った。

「君は自分の父親がどういう仕事をしているか知っているかね?」
「いえ、あまり詳しくは」
「知りたいと思うことは?」
 真は答えることができなかった。ただ無言で澤田を見つめていると、やがて澤田は微笑んだようだった。
「君の父上も、君に知られたいとは思っていないだろう。だが、その上でもし知ったら、君はどうする? 父親を理解し、あるいは協力するか、それとも無視するか。もし彼がそのことで危機にあるとすれば、君は助けたいと思うかね?」

 真はやはりどうとも返事ができなかった。武史に対して、そこまで明確な感情を抱いたことはなかったし、考えたこともなかった。
「あなたは、どうなんですか」
 澤田は返事をしなかった。真は俯いて暫く考えていた。
 澤田が何かをしようとしている。その気配だけが明確に伝わってくる。真は慎重に言葉を選んだ。

「あなたは僕を雇いたいと仰いましたけど、それはつまり父を、手に入れたいということですか」
「君の父上を雇うということは実質上は不可能だ。某国の国家組織も、またその対立国のアカデミーも彼を手放すことはないだろう。彼の能力のこともあるが、彼は手離せない武器のようなものだ。自分が使うかどうかはともかく、他人の手に渡ることだけは避けたいと考えている。今更、日本の一個人が彼を雇いたいと願っても、無理なことだよ」
「それで、僕を雇えば、少なくとも父への牽制になると、そういうことですか」
「私はただ、正当な値段で情報交換をしたいと思っているだけだ」
「情報?」
 頭の中では忙しく考えていたが、どうしてもパズルの絵柄は出来上がらない。
「田安さんの葬儀については君の思っているとおりだ。私はただ、パフォーマンスをしているだけだ」
「誰かが、何かのリアクションをしてくると?」
 その真の言葉には澤田は答えなかった。
 パフォーマンスといわれて、ふと真は竹流の雑誌のインタヴューを思い出した。
 あれも、何かに対するパフォーマンスではなかったのか。それなければ、彼があんなふうに人前に姿を晒す理由が見当たらない。

「私のほうからも質問しても構わないかね?」
 真は意識を飛ばしていたので、不意に問いかけられて驚いた。
「添島麻子という刑事を知っているかね」
「えぇ」
 突然だな、と思った。
「この頃私の周りをうろうろしている。君と何か関係があるのかね。田安さんの店の爆発事故にかこつけて一度会ったが、捜査一課としては越権の仕事だ」
「僕には関係がありません。多分あなたが想像している通りでは?」
「私の想像?」
「あなたは直接、内閣調査室長のところへ行かれた。始めからそこに何かあると思っていたのではないのですか」
「なるほど。君は思ったよりも物知りだ。香月君と知り合いなのかね」
「香月? 河本さんでは?」
「どちらも同じだ」

 河本、という名前は、その男のひとつの顔にしか過ぎないということなのだろう。真は一度、机の上のグラスに視線を落としてから、気になっていたことを聞いた。
「店の爆発事故は何だったのですか」
 澤田が少し難しい顔をした。
「もしものときは後始末をするようにと、田安さんに言われていたが、あれは私がしたことではない」
 澤田は注意深く言葉を選んだように見えた。確かに、あの地下の射撃場を含め、他人の目に触れるとまずいものがあるはずだった。その後のニュースを見ていても、何も特別な報道はないが、田安が水死体で上がったといって直ぐに『河本』の命令を受けている添島刑事が動いていることからも、そこから何かが出てきたという可能性は高そうだった。ただ世間には知らされていないだけで。

「君を雇うことは私には大変有用なことだと思えてきたよ。香月君は私に、君には手を出さないように、と言った。君を雇いたいと思っているのは私だけでない、とね」
「どういうことですか」
「つまり、彼も、君の父上と対等に話をしたいと思っているのだろう。君と同居人が特別な関係にあるとも言っていた」

 何のことだと思ったが、澤田は真面目だった。
「実際、君と彼は恋人同士という間柄なのかね」
「ホモセクシュアルの人間は雇えないということですか」
「そう言えば、君は喜んでその振りをするだろう」
 全く図星というのはこのことだ。
「あいにく、私にはそういう偏見はない。だが、その人を探して君は随分必死のようだし、世間にもそのように思わせておいて放っている」
「それは、そのお蔭で、そういう手の連中と外国人のヤクザが僕に手出しをしないからです。あの町では多少そういう隠れ蓑が必要な場合もあるので」

 その日、澤田と約束を交わしたのは、少なくとも知り得た情報については共有すること、澤田に雇われることについて真剣に考えること、そして来週もう一度一緒に食事をすることについてだった。
 澤田がもしかして単純に誰かと食事を共にしたいと思っているのかと感じて、真は少しばかり澤田の中の噛み合わないピースの欠片を見た気がした。


 美和と銀座で落ち合ったのは、竹流の所有するレストランだった。勿論、ここでは美和も真も、本人たちが望まなくても完全にフリーパスで、シェフのほうもオーナーに出す食事と同様の振る舞いをする。美和がそれを望んでいたわけでもないのだろうが、人に聞かれたくない話をするにはもってこいの場所でもあった。
 今は別に人に聞かれたくない話があるわけでもなかったが、少しでも竹流に関わった場所にいることで、どこかで安心していたい気持ちもあった。もしかしてあわよくば、彼がひょっこりここに現れないかと、今もそう思っていた。

 トラットリアの方のコンシェルジェに挨拶をすると、何も言わないままに奥の特別室に通された。いつものことなので今更驚く事でもないが、何もかもいつも通りなのに彼がいない事実が重く感じられる。
「お葬式、どうでした?」
 真は美和に聞かれて、葬儀の様子と井出に会ったことと、それから澤田や嵜山の様子を話した。大東組の三代目が弔問に来ていたことも話した。澤田に呼ばれたことは黙っていると、真の食事が進まないのを見て、美和が言った。

「どこかで食べてきたでしょ」
 本当に、食べ物が絡むと女は鋭い。
「うん、まぁ、ちょっと断りきれなくて」
「また澤田顕一郎?」
 真が何て鋭いんだ、と感心していると美和がふとパスタから顔を上げた。
「本当に澤田に会ってたんですか?」
「え?」
 真の方が改めて聞きなおしていた。暫く二人とも言葉なく見詰め合っていたが、何となく納得して料理に向かった。

「それで君のほうは?」
「その昔の秘書の人のこと、多少わかりましたよ。でも、澤田に会ったのなら聞いてきてもよかったのに」
 全く美和の勘の鋭さには感心する。しかし、余計なことは言わないでいると、美和が先を続けた。
「村野耕治。澤田の同郷ですって」
「同郷?」それは聞いていない。「ということは大分の出身か」
「ブンヤ時代からの仲間なんですって」
「九州日報の?」

 美和は頷いた。
「新潟から帰ったら、一度九州に行ってきますね。ついでに実家にも寄りたいし」
 それでふと思い出した。
「九州日報の古い記事がわかるだろうか」
「先生、九州日報って、もうないんだよ。どこかに吸収されたって話。古い記事のことがわかるかどうかは不明だけど、いつの何の記事ですか?」
「二十三年ほど前の記事、内容は翡翠仏」
「二十三年?」
 美和は素っ頓狂な声を上げた。自分が生まれる前だと言いたかったのだろう。
「先生、澤田と何の話をしたんですか」
「後でゆっくり話すよ。でも時間もないし、早く片付けたほうがいいみたいだぞ」

 それから食事を片付けて、コンシェルジェに挨拶をして、上野に向かった。コンシェルジェの上品な紳士は、オーナーの怪我を心配していたが、もう少しかかると思うけど直ぐに戻ってきますよと言うと、やっと安心したような顔を見せた。
 上野で目的の『出羽』に乗り込むと、彼らは直ぐに寝台車の座席を見つけた。
「個室って、お前」
 添島刑事の取ってくれた列車を変更したのは美和だった。二人用の個室が安い値段とは思えない。時々美和の金銭感覚は、やはり金持ちのそれだと思う時がある。

「何かワクワクしますよね。個室なんて始めて」
 他人の話は完全に聞いていない。真は諦めて美和と一緒に個室に納まった。そこには座席と二段ベッドが入っていて、彼らはその座席に座って、列車が出発するまでの間に真は澤田から聞いた話を美和に伝えた。澤田との取引の件は端折った。

 美和は深雪の過去について聞いた後、真の方をじっと見つめて言った。
「深雪さん、可哀想。先生、一年も付き合ってて、そういう昔話とか聞いてあげなかったの?」
 美和の感想はもっともだと思った。
「でも、ああいう仕事をしているんだ、話したくない過去もあるかもしれないし、あまり聞くことでもないだろう」
「だって、深雪さんにとって、先生は特別なんじゃないの?」
 美和がどうしてそんなふうに思っているのか、真にはわからなかった。真が黙っていると美和は真の肩に凭れるようにした。

「何か腹は立つけど、同情もしちゃう」
 その言葉にも、真には答えることができなかった。
 列車が出発すると、寝台車の二段ベッドの上下に納まらずに、真のほうが美和を誘うように一緒に下段のベッドに入った。
「かなり狭いけど」美和が楽しそうに抱き合ったまま言った。「エッチしてたら、絶対隣に聞こえるよね」
 真は何も返事をしないまま、その美和の唇に口づけた。
 キスをしている間に美和は眠くなったのか、真の腕の中で欠伸をしてその胸に顔を埋めた。温かくて心地よい気分で、真はただ彼女の身体を抱き締めた。

 美和が一緒にいてくれて良かったと、心からそう思っていた。
 目を閉じると、列車の揺れと車輪と線路の鉄同士が軋み合っている地鳴りのような振動が、身体に響いてきた。今出発した東京の町の光景と、この向かう先にある北の町の光景がだぶついていた。北といっても、真の故郷とは全く違う世界だ。それでも向かっている先は混乱して絡まっている感じがした。記憶が複雑な欠片になってばらばらで、それを鉄同士が軋む音がかき回している。

 それでも、この道は彼に繋がっているだろうか。
 目を閉じていると、腕の中にいる美和ではなく、別の誰かを想っていた。それを否定することは自分でももうできなかった。途切れ途切れの睡眠は夢と錯覚を運び込んでは直ぐに打ち消していく。その錯覚を失いたくなくて、目を開けることはできなかった。





さて、次回から第9章です。正直、飛ばしていただいても一向に構わない章です。
竹流がいなくなって、見かけよりもずっと落ち込んでいるはずの真の過去へ遡ります。
相川真15歳。いささか危ない年齢で、いささか無謀なことをしておりました。
教師、あるいは導き手というものは、本当に必要ですね。

『若葉のころ』
これは大好きなKinki Kidsの主演ドラマで、タイトルからはいったいどんな爽やかな話かと思われるかもしれませんが、恐ろしく『痛い』話でした。根津甚八さんがいけてないオヤジをやっていて、これがもうリアルに怖くて、剛くんは鑑別所に入ってしまうし、その間に友と思っていた光一くんに彼女を奪われるし、かと思ったら、あれこれ悩む光一くんは事故で寝たきりに……
まるで韓流ドラマのような、あり得ないことが次々起こる展開。

でも、タイトルを頂きましたが、そんな悲しいことは起こりません…
無茶なことをする若者の話、かな?

またお楽しみに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨52] 第9章 若葉のころ(1) 

少し間が空いてしまいました。
自分でも忘れそうなので更新しようと思ったら、この章は独立でも読める章なので、あまり記憶の維持には役立たないことに気が付きました。この長い物語、時々こうして独立の回想章が入っておりまして、これまでのお話をご存じない方にも読んでいただけるようになっております。
一部、かなり色っぽいorきわどい話が出てきますが、あまり具体的なシーンとは自分では思っておりませんので、18禁指定はしておりませんが、15歳未満の方はお気を付け下さい。
相川真、15の頃の出来事。
いささか引くようなエピソードがありますが、しれっと読み流してくださいませ。

なお、現在、真は竹流を探して、新潟行の夜行列車に美和と一緒に乗り込んでおります。
多分、列車の中で、あの頃のことを思い出していたのでしょう。





 あれは十年以上前の、やはり同じ季節だった。
 梅雨入り宣言はあったが、実際には雨はまだ少なく、それでも空気が少しずつ重くなり始めていた。その日は夜になって雨がぽつぽつと降り始めた。

 真は随分躊躇ってからレセプションの紳士に訪問の意を告げたが、訪問先からはロビーで待っていろと言われて、自分の格好を思わず考えた。このマンションはまるで豪華ホテルのロビーのようなエントランスを持っていて、とてもずぶ濡れで待っていられる場所ではなかった。レセプションの紳士は真の格好にもいやな顔をしなかったが、それはトレーニングの成果であって、実際には鬱陶しく思っているに違いなかった。
 どうせ竹流はいつものようにパトロンの女とベッドに入っているのだろう。

 一時間は待たされるかな、と思いながら、少しその辺りをうろうろしています、とレセプションに断って、真はもう一度雨の中に出た。小雨だと思っていた雨は、僅かの間に少し勢いを増したようだった。真は両腕を抱くように身体を震わせて、せめて歩いていればましかと雨の中に出た。とは言え、少し歩くと人とすれ違い、傘のない真を哀れむような不審がるような目を向けるので、思わずマンションの脇の茂みに隠れた。学校の制服のままだったし、その格好でずぶ濡れというのは、いかにも人目を引きそうだった。

 そのまま背中をマンションの外壁に預けて座り込んだ。
 まだ夜の雨は堪える季節だった。不意に、通りかかった車のテールランプを頼りに自分の手を見つめると、紅く染まって犯罪者の手のように冷たく穢れている気がした。

 泣いているつもりはなかったが、竹流にはそう見えたかもしれない。
「ロビーで待っていろと言ったが?」
 真は顔を上げて竹流を見た。

 後から竹流が冗談交じりに、あの時は本当にやばいなと思った、と話していた。
『お前、ほだされそうなくらい色っぽく見えたし、本当は誰かに頼りたいのに頼れないという強がりが男心をくすぐる、まさにそんな状況で、そのまま抱き締めて本気でキスしようかと思ったよ』
 いつものように戯言だと思っていた。

「何で、中で待たない?」
「ずぶ濡れだったし、中で待ちにくかっただけだ」
 そう返事をすると竹流も納得したようだった。エレベーターに乗り込むと、急に体から熱が奪われたように感じたが、竹流は自分の着ていた上着を脱いで、包むように真の身体に掛けてくれた。

「学校の帰りか」
 真は首を横に振った。竹流の手は暖かく感じたが、その声は冷めていた。
「また、あの男のところか」
 それには返事をしなかった。

 部屋に入ると竹流はタオルを取りに行ってくれて、玄関から直接風呂場に行くように言った。テラスに面した浴室の窓には、屋外の照明が映りこんでいて、ぼんやりとした丸い光の影が、雨のために幾度も辺縁の形を変えていた。
 真は馬鹿みたいに身体をこすって、それでもまだ足りない気がして、もう一度石鹸を泡立てた。

 自分は泣いているのかもしれないと思ったが、声を上げることもできなかった。もし泣いているのだとして、自分自身にも気付かれたくなかった。
 石鹸を絡みつかせた指を肛門の奥にまで入れて、身体の奥深くに放たれた残滓をかき出そうとしたが、かえって残り火に油を注いだようになった。真はシャワーを止めると、どうしても取れなかった穢れを感じたくなくて、そのまま湯船に身体を沈めた。
 まだ身体には這い回るような指や唇の感触が残っていた。何よりも、そういうものを自分自身が嫌だと思っているばかりではなく、受け入れてきたという現実に対して、どう始末をつければいいのかわからなかった。

 あの女に会う日にいつもしている行為には、性的な意味合いは無く、ただ排泄するための行為で、真にとっての意味合いは、自分の中の穢れを搾り出すことだった。あの女のために身を売った時も、性交渉とはそういうものだと疑ってもいなかった。
 だが、真にとって意外なことに、滝沢基という男は、ファインダーを間に挟んでいないときは極めて常識人で優しい人間だったような気がする。もっとも未成年を相手に性的な行為をすること自体が常識的とは言えないが、それは真が望んだからだと言えなくもない。滝沢基の腕の中で、あの男に教えられながら、身体は明らかにそれに応えるということを覚えていった。

 時々、もっと酷く扱われたいと願った。
 このままでは、目的を果たすことができないと感じたからだ。だが、滝沢基はベッドの中ではあくまでも真を優しく扱った。真が恐がらないように気を使い、感じることができるように彼の知っている限りのテクニックを使った。そして少しずつ、真の身体は快楽を覚えていった。滝沢基に対して愛や尊敬という概念は全く持っていない。だが、身体は別の答えを出そうとしていた。

 今日、仕事は終わったと言われたとき、真はもう会わないとだけ言った。滝沢はそのほうがいい、と答えた。テーブルの上に出された厚い茶封筒は、事件は解決ではなく迷宮入りになったことを語っているように思えた。

 真が風呂に入っている間に、竹流は濡れた服をどうにかしてくれようと思ったのだろう。真が風呂場から出てくると、竹流は脱衣所にいて、洗面台に置いてあった茶色の封筒を取り上げていた。
 半分は気が付いてくれたらいいと思っていた。意識してわざと分かりやすいように洗面台に放り出しておいたのだ。真は取り戻そうとして手を伸ばしたが、竹流は渡そうとはしなかった。

「これは何だ?」
 竹流の声は厳しかった。
「なんだっていいだろ。返せよ」
「一体、お前、何をやっているんだ」
「あんたには関係ない」
「関係ないって、高校生が持っているような金じゃないぞ」
「わかってるよ」
 真は竹流を睨んでいた目を伏せた。
「いいから、それ、しまっといて」

 意識して相手を誘うような表情をしたことを、真自身十分に自覚していた。もしも今、この未解決事件の始末をつける方法があるとすれば、その鍵を握っているのはこの男だと知っていた。
 真が風呂場からリビングに入ると、竹流はテーブルに札束を放り出して見つめていた。真を見上げると、厳しい表情で前に座るように手で示す。

「訳を話せ。これは、あの滝沢という男から受け取ったのか?」
 真は相手を見たまま返事はしなかった。
「ベッドの相手をした報酬か。それにしちゃあ、随分な金額だな」
「契約をした。仕事の報酬だ」
「仕事?」
「写真のモデルをしてた。ベッドの相手をした分も入ってるだろうけど」

 竹流はわざとらしい溜め息をついて、ソファに背を預けた。真は、一度も目を逸らそうとしない竹流にこれ以上言い訳する言葉も思いつかず、ついに目を伏せた。
「で、これをどうするつもりなんだ」
 真はうつむいたまま、今日泊めてほしいと言った。淡々とした声で、それは構わないと竹流は答えた。真は思い切って顔を上げ、聞いた。
「明日、時間ある?」
「デートの誘いか?」

 真は、相手が怒っていてこんなものの言い方をしていることを分かっていた。そして自分のほうも、相手を篭絡する気であるという自覚があった。もちろん、後から考えてみたら、余裕なんてこれっぽっちもなかったのだが。
「連れていって欲しいところがあるんだ」
「遊園地か、それともラブホテルか」
「何言ってるんだ」
「その滝沢とやらに頼めばいいだろう」
「彼とはもう会わない。今日、そう言ってきた」
「これを受け取ったからか?」

 真は返事をしなかった。竹流の青灰色の瞳は、怖いくらいに澄み渡り、その奥にある確固たる意志の存在と、精神の奥底に彼自身が培ってきた自尊心を、惜しげもなく見せ付けてくる。
 わざとらしい溜息をついて、竹流は硬い声の調子を変えることなく聞いた。
「で、どこに?」
「秩父」
「埼玉の? 何だってそんなところに」
「その」真は一瞬躊躇した。「お金を払いに」

 竹流は怪訝そうな顔をした。
「誰に?」
「病院。お金払うの、待っててもらってた」
「病院?」竹流は鸚鵡返しに言って、真をしげしげと見た。「静江さんのか」

 今度は真の方が驚いた。
「何で、知ってんだ?」
「親父さんから聞いていたんだ。彼がいなくなる前に、万が一お前が困ったら助けてやって欲しいとは言われたが、お前が何も言わなけりゃあ、放っておいて構わない、むしろ放っておいてくれ、と。で、何だって?」

 功がどれほどこの男を信用していたのかと思うと、心の奥深くに突き刺さっている棘の存在を否応なしに感じる。
「癌なんだ。もう助からないかもしれないけど、手術して、今薬を使ってる。できる限りの治療をして欲しいって言った。何だか知らないけど、認可されていない高い薬を頼んだんだ」
「入院費は功さんが残してたろう?」
 残してあったが、それはただ普通に入院していれば、という金額で、特別な時のための治療費ではなかった。それに実際は、真自身が自ら稼いだ金であの女のために何かを、それも命に関わる重大な何かをするということに意義があった。

 相川静江、すなわち真の義理の母ということになる女性は、精神を病んで秩父にある、昔の結核病院を改装したサナトリウムに長く入院していた。引き取った赤ん坊の首を絞めたり、娘を道連れに家に火を点けようとした女性は、今も精神のバランスを戻せないままだった。

 自己犠牲が必要だと思っていた。それだけが、唯一あの女を真の内側から追い出してしまう方法だと思えた。己の身体を傷つけた血で贖うことによって、あの女への恐怖も、憎しみも、そしてあの女に対して抱いてきた殺意も、帳消しにできるはずだった。

 だが、結局真は説明が面倒で、つまり竹流に何かを理解してもらえるとは思えずに、それ以上何も言わなかった。この男には陰という部分がない。だから真の中の恐ろしく穢らわしいものを分かってもらえるはずがない、少なくともその時の真はそう思っていた。
 竹流は首を何度か横に振ると、分かったからもう寝ろ、と言った。

 ベッドに真を寝かせた後、竹流はリビングに戻って行った。
 どうしても身体が疼いて眠れないまま、真は時々ソファに座って本を読む彼の様子を窺った。テーブルに広げられた分厚い本には、様々な紋章が並べられている。竹流は幾つかの本を比べながら、時々ノートに何かを書き出していた。その背中は大きく暖かく感じたが、同時に弱い心など跳ね返す厳しさを持っていた。
 真は、ぼんやりと、父親の背中というものはこういうものなのだろうと想像した。


 翌日、いつもバスを利用している真は病院の場所をよく分かっておらず、住所を頼りに人に聞きながらのドライブになったので、何とか病院にたどり着いたのは昼も回ってからだった。
 真は竹流に、ちょっと待ってて、と言ってひとりで病院の玄関に向かった。足は何とか前に進んでいたが、少しずつ重くなった。一瞬真は立ち止まり、竹流の方を振り返ったが、目を合わすことはできずに、すぐにまた玄関へ歩き始めた。

 竹流は、真が赤ん坊の時、静江に首を絞められたのを知っていたはずだった。

 それがただの育児ノイローゼだったのか、自分を捨てた恋人への復讐心からであったのか、実際にはわからなかったが、赤ん坊の記憶に残らない時期であったにも関わらず、真はしばしば首の回りに巻き付く何かの気配で目を覚ますことがあった。
 それが何なのか、子どものうちは全く分からなかったのに、彼女を初めて見たとき、明らかに記憶のパズルに何かがはまり込んだ。真にとって、彼女はどうしても克服しなければならない恐怖、あるいはどうしても消せない心の中の染みだった。

 伯父の功が失踪する前、功は初めて真に静江のことを打ち明けた。
 彼女が相川功と離婚したわけでもなく、亡くなったわけでもなく、そこに存在していて、精神の病を抱えたままもう長い時間、社会との関係を絶って病院に入院していることを。

 真は功がなぜあの時、静江のことを自分に打ち明けたのか、今でもよく分かっていなかった。
 あの頃、幾らか落ち着いたとは言え、真はやはり精神状態の不安定な子どもで、功に付き添われて月に一度は精神科医のところに通っていた。竹流は行く必要はない、と言ったが、真自身は自分の中の何かにまだ怯えていた。行っても大した話はしなかったが、眠れなくなったら来るようにといつも言われていた。薬はもらったが、飲んだことはなかった。

 そんな状況で功が静江の話を真に打ち明けたのは、やはり功が、自分の弟、すなわち真の実父が静江を捨てたことを許していないからだと考えた。
 もちろん、誰かが真にそう説明したわけではない。真が大人たちの気配から想像したに過ぎないが、功がいつも何かと闘っていると感じていた真は、その理由が自分の実父のせいだと思い込んだ。功は、真の存在を介して、何とか弟を許そうと葛藤しているのだろうと想像したのだ。そして一方で、静江の事については、息子である真も、実父の武史と一緒に責任を負うべきであると、功がそう考えているのだろうと感じた。

 真は、功が失踪してから、月に一度は静江に面会に行った。そうしろと言われたわけではない。そのことは竹流にも話したことはなかった。実父と功と静江との間に何があったのか、敢えて聞くこともなかった。

 静江に会いに行くと、彼女は、真を功と間違えているような言動をした。真はその女を抱き締め、求められるままに何度か功のふりをして、白い肌には不釣合いな紅い唇に口づけた。真が帰ろうとすると、静江は真にしがみつくようにして何処へも行かないで、と泣いた。この美しい義理の母親と、舌を絡めるような接吻をしたこともあった。そんな時は、静江は真を武史、つまり彼女を捨てた男と混同しているようだった。
 
 そういう日は、家に帰ると真は必ず自慰をした。いつもその女のことを考えていた。自分の体の中にとてつもなく穢らわしいものがある気がして、自分の性器を扱いて内に溜まったものを吐き出すと、後はただ虚しいばかりだった。

 静江の中では、色々なものや人、出来事が完全に混乱しているようだった。その彼女の混沌は、真を混乱させていたはずだが、一晩自慰をした後では、真は悪夢から少しだけ抜け出したような心地がして、翌日には何事もなかったように学校に行った。

 カリフォルニアから戻った後に通い始めた私立校は、校風も自由で、広々とした敷地はいつも明るい光に満ちていた。院長はすれ違うたびに笑顔で挨拶をしてくれた。お節介な級長は『相川真の親友』を自称し、いつも真のことを気に掛けてくれていて、つまらない日常の出来事を面白おかしく話す技術を持っていた。
 サナトリウムのことは、真にとって小さいが重い義務で、確かに静江に会いに行くことは恐ろしいことだったにも関わらず、会いに行かないことはもっと恐怖の原因になるように思えていた。ただ、それを浄化する場所が学校になるとは、真自身その時まで想像もしないことだった。

 その日、真が病室に入ると、静江は鎮痛剤が効いていて、よく眠っていた。白いベッドの上に、その白よりもまだ白く透き通るような肌の女が横たわっている。女は死んでしまっているかのように静かに横たわっているのに、唇だけが生きて存在を主張しているように紅く、微かに震えるように見えた。優しい看護婦が彼女にいつも紅を引いてくれていた。

 ガラスを通して降り注ぐ光は柔らかで暖かく、僅かに開いた窓からは鳥の声、木々の葉が触れ合う音、遠くに何かがはねる音が、少しずれた次元から空気の中の微粒子を僅かに震わせている。
 真は彼女の傍に座り、彼女の顔の上で透明な光の輪が踊っているのを見つめていた。自分自身が硬くなっていることに気が付いたが、何もしなかった。

 ただ静かだった。

 やがて真は立ち上がり、彼女の唇に接吻し、部屋を出た。
 一刻も早く恐怖から逃れるために、早足でその場を離れたかったのに、心とは裏腹に足はゆっくりとしか前に進まなかった。
 手洗いに入って鏡を見ると、唇が血を吸ったように赤かった。指で紅を拭い、狂ったようにその手を洗った。それから個室に入り、真は自分の性器を扱き、穢れたものを吐き出すようにしてから、紙で拭って流した。もう一度洗面台で手を洗っている時、鏡に映った自分自身は魂の抜けた紙人形のように薄っぺらで頼りがなかった。

 病院の玄関を出ると、竹流の赤いフェラーリが光の中に溶け出すように輝いていた。竹流は運転席のドアに凭れて、空を見上げていた。

 真も空を見上げた。晴れていたと思ったが、雨雲が低い空にたまり始めている。真に気が付くと、竹流は助手席のドアを開けてくれ、真が乗り込むのを見届けてからドアを閉めた。
 竹流は何も聞かなかった。






『若葉のころ』という章題には出典があります。
以下、興味のある方はどうぞ。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨53] 第9章 若葉のころ(2) 

義母の入院するサナトリウムを訪問した真と、仕方なく付き合ってくれている竹流。
真15歳の際どいエピソードその2です。
この頃は、多分、竹流の中での真の重みって、5%くらいだったのでは……良くて10%あるかないか。
それも、妹の葉子込みの存在価値、恩人の息子・娘への義理という形。
……時は流れているのですね。






 ようやくサナトリウムを離れたが、一時間もたたないうちに竹流の車はあまりいい状況ではなくなったようだった。
「迷子になってるのか?」
 真はそう聞いたものの、別に迷子になっていることなど、どうでもよかった。
「そうらしい」
 秩父の山の中である。その上、雨が降りだしていた。
「しかも、腹も減ったな」
「いのししでも探したら?」
 興味なく真は言った。

「そりゃあ名案だ」
 淡々とした声だった。ここで言い争いはしたくないとでもいうようだった。
 そのうち、本当にボタン鍋の登り旗を挙げた一軒の食事処を見つけたが、あいにく店仕舞の用意をしているところだった。ふと時計を見ると、もう五時を回っている。そこの主人が、この道の先に一軒宿があるから、そこでなら食事も宿泊もできると教えてくれた。

 行ってみると、大きな敷地に二階建ての古い、いかにも隠れ宿といった風情の旅館が建っていた。意外にも車が五台ばかり、この季節の平日にも泊りに来る人がいるようで、玄関脇の敷地に停められている。
 開き戸を開けると、小さな受付のようなフロントの奥から年配の男性が出てきた。
「お食事ですか。お泊まりですか」
 竹流は一瞬、真の方を見た。
 真は返事をせずに視線を逸らせた。勝手にしてくれたらいいと思っていた。

「泊まれますか」
 竹流が意を決してそう言ったように見えたので、真は一瞬緊張したが、それならそれでいいと思った。
 はい、と短く返事をして、男性はフロントの奥の方へ呼びかけた。しばらくして比較的若そうな地味な女性が出てきて、彼らを部屋に案内した。
「先に風呂をお使い下さい。その間にお部屋にお食事をご用意いたします」

 彼らが廊下を歩いて奥へ向かう時も、後ろの引き戸が開いて、食事の客がやって来た。まんざら怪しい旅館でもないらしい。
 風呂は旅館の規模にしては大きすぎるくらいの造りだった。内湯から外に出ると、川の流れを見ながらの露天風呂になっている。川の向こうは切り立った崖だった。彼らが入っていくと、ひとりの老人が露天風呂の方から中に戻ってきたところだった。老人は彼らに穏やかに会釈をした。

 以前から時折、功が海外に連れていってくれていたが、その時に、風呂というものをこんなふうに裸体を他人に晒して楽しむ習慣は日本人くらいしか持たないのだと聞かされたことがあった。特定の民族を除けば、不特定多数の赤の他人に裸体を晒す時点で、彼ら外国人は抵抗があるのだと聞いていたが、竹流は一切平気そうだった。郷に入っては郷に従えが彼のモットーらしかった。

 竹流の全裸の姿を見たのはそれが初めてではなかった。
 功は、この男を随分気に入っていたようで、葉子と真と一緒に北海道に帰るときには、いつも竹流を誘った。山中の川床に作られた、功のお気に入りの天然露天風呂があって、功はよく真と竹流を連れていってくれたのだが、その時もこの男を見て、これはまさに古代の彫刻から抜け出してきたような姿だと思った。綺麗で無駄のない神の造形そのものに思えたからだった。

 その日も竹流は何のためらいもなくあっさりと全裸になり、身体を洗ってそのまま外へ出ていく。真は何となく自分自身がみすぼらしい気がして、少し間をおいてから後を追った。
 竹流は露天風呂の湯に浸かって、背中にある岩に腕を広げるように凭れかかり、まだ雨の降り止まない空を仰ぐようにしていた。それから、竹流と離れたところで膝を抱えてぼんやりと湯に浸かっていた真の方を見た。
「お前、学校に休むって連絡したのか」
 保護者然として竹流は言った。真は返事をしなかった。

 風呂から上がって部屋に戻ると、食事の用意がされていた。
 突然の泊りにしては、豪勢な料理だった。
 時々見たことのないような山菜や川魚の料理などにぶつかると、竹流はいちいち興味深そうで仲居に根掘り葉掘り聞く。仲居もさすがによくは知らないらしく、次には年配の女性を連れてきて竹流の攻撃を躱した。本当に変わったやつだな、と真は思った。何でも興味を覚えるし、周囲を簡単に巻き込み、その中へ溶け込んでしまう。

 食事が終わると、仲居が布団を敷きにきた。仲居がごゆっくり、と言って部屋の扉を閉めたあと、真は窓辺の板間の椅子に座って夕刊を読んでいる竹流の前までいった。
「どうした?」
 真が黙っていると、竹流は真の方を見ようともしないまま尋ねた。
 とにかくここは躊躇っていても仕方がないと思っていた。相手がその気なのだから、下手に待つよりは自分のほうから行ったほうが気が楽だと思ったのだ。

 真が浴衣の帯を解くと、竹流がようやく新聞から顔を上げた。
「何の真似だ?」
「そういうつもりで、ここに泊まったんじゃないのか」
 竹流はしばらく真の顔を黙ったまま見ていた。
「なるほどね」

 真が十分に不安になるほどの時間を置いて、竹流はゆっくりと子どもに言い聞かせるように告げた。
「じゃあ、とにかく布団に入ろうか。だが、浴衣は着たままでいい。風邪をひくぞ」
 意を決した割にはあっけない返事に戸惑いながら、真は言われるままに浴衣の帯を結んだ。脱いでするよりも着たままのほうが扇情的で燃える、とかそういう話なのだろうと勝手に想像した。その腰を急に竹流が抱き寄せた。

 同じ布団に入ると、竹流はそのまま真の身体を抱き締めるようにした。大きな手が真の背中を撫でるようにして、僅かに開いた浴衣の裾に相手の足の温度を感じたとき、真は覚悟をして目を閉じた。実際には、この期に及んで覚悟が必要なことだったのかどうかはわからない。明らかに自分の方からこの男を誘ったのだという自覚が、真になかったわけではない。

 だが、竹流は真の耳の下、首筋にキスをして、耳元に囁いた。
「ちなみに、俺は女しか抱かない。だから、俺に対してそういう気遣いは無用だ」
 真が拍子抜けして竹流を見ると、竹流は、多分真がこれまで見たどんな人間の顔よりも綺麗に微笑んだ。
「抱かれないと不安なのか」
「どういう意味だ?」
「相手が何かを要求してこないのは、おかしいと思うのか、と聞いた」

 真は何とも答えなかった。確かに、無条件で自分に優しくするような人はいないと思っていた。世の中の人間は優しくする場合、何か見返りを求めてくるのだと考えていた。だからさっさと自分から差し出したつもりだった。
「まぁいい。じゃあ、こういうことにしようか。俺はお前の親父さんに恩義がある、だから彼がいない今、息子のお前にその恩義を返す気でいる、と」

 竹流が何を言っていて、真をどうしようとしているのか、その時の真にはまだよくわかっていなかった。第一、真自身どうしてこの男を頼ってしまったのか、自分の感情すら全く考えてみたこともなかった。だが、交通手段がないからと言っても、いつものようにバスで行けば済むのに、本当は誰かに、いや恐らくはこの男に一緒に来てもらいたかったのは事実だった。

 竹流は、黙って真を抱き締めてくれていた。
 家庭教師と生徒の関係にしてもそれほど親密でもなかったし、真はあまりいい生徒ではなく、良好な関係を築いているとは言いかねた。もちろん、優しい言葉をかけてもらったことは何度もある。しかし、それ以上に厳しい言葉を投げつけられる方が多かった。だが、嫌なことにぶつかるとヒステリー発作のようにパニックになって気を失ってしまう真に、何の遠慮もなく、本当のことをずけずけと言ったのは竹流だけだった。そういうことは、真の周囲の他の誰もしなかったことだった。
 竹流は真の置かれた事情というものを詳しくは知らなかったはずだし、知っていたとしても彼の判断基準からは情状酌量の余地はなかったようで、周りの大人が何故真をこうまで甘やかすのか、腫れ物を触るように扱うのか、見ていて苛々していたようだった。だから、真に対して腹が立っていたのだろう。

 尤も真は、それを自分でも意外なことに、真正面で受け止めた。たとえインディアンのシャーマンが運命だとか必然だとか言わなかったとしても、真は、この男が本音で自分に向かい合ってくれていることを肌身で感じていたし、嘘のない、掛け値なしに裏表のない人間であると認めていた。馬や犬の言葉はあんなにも簡単に理解できるのに、周囲の大人や周りの同世代の子供たちの言葉を全く理解できなかった真が、竹流の言葉だけは、自分にとってどんなに辛辣で嫌な言葉でもちゃんと理解できたのも、その言葉に裏表がなかったからだった。
 真は、竹流に叱られたり怒鳴られたりしてから、気を失うような事はなくなっていた。

 竹流の腕の中はただ暖かかった。それは、牧場の馬小屋の藁の中と同じだった。馬たちの呼吸の気配を接した身体から感じるとき、犬たちの毛の中に埋もれているときに感じるのと全く同じ温もりだった。それが一番自分を安心させ眠らせてくれる場所だと知っていた。そういう場所は、あの北の大地にしかないと思っていた。
 真はようやく目を閉じて、少し躊躇ってからさらに身体を竹流の方に寄せた。そして、本当に不思議なことに、いつも他人の傍では眠れたことなどなかったのに、この日はいつの間にか眠りに落ちていた。



 心地よいBGMのような川の流れの音で目を覚ました。尤もそれはせせらぎの音ではなく、昨日の雨で水かさを増した川のダイナミックな流れの音だった。ただ、天気は昨日と変わって晴れ渡っていて、朝の光が心地よくカーテンを通して真の眼瞼の上まで届いた。
 まだ夢の余韻があって、あたりに風が吹いているように思った。

 夢の中でずっと牧場の草原を歩いていた。他に誰もいなくて、馬たちも犬たちも姿を見せなかったが、寂しくも怖くもなく、他の誰かの気配を常に傍に感じていた。
 地平線は永遠の彼方にあって、これが真の知っているいつもの牧場なのかどうかもわからなかった。その草原に立っていると、大いなるものの意識の風が真の身体を吹き抜けていった。

 幸せ、という感覚がそういうものなのかどうかはわからない。ただ、自分の身体がこの大きな自然の中に溶け出して、周囲の全てのものと、細胞も核も分け合っていると思えるとき、真は本当に安心していられた。そのとき、真の目も耳も肌も、あらゆる自然界の神(カムイ)の目や耳、肌となり、高い空から森を見下ろして飛び、おのれの身体に光る鱗で川の水を跳ね返し、黒々とした毛の生えた足の裏で地面の息吹を踏みしめていた。
 これまでは、そういったものは、厩舎の藁の中、牧草地の土の上、大きな蕗の下、そして祖父の背中に負われて見上げる大宇宙の中だけにあったはずだった。

 ふと、何か自分を抱き締める重みを感じて、真は跳ね起きた。そして、傍に竹流が眠っているのに気がついて、自分でびっくりした。その気配に竹流が目を覚ます。
「おはよう」
 眠そうに竹流が片目だけ開けて言った。真はまだ半分記憶が混乱していて、事態を飲み込めていなかった。
「何時だ?」
 枕元の腕時計を見ると、六時前だった。
「早いな」

 そう言うと、竹流はまだぼんやりしている真を下から抱き寄せた。真はバランスを失って、竹流に倒れ込んだ。
「何だか、新婚初夜の翌朝って感じだな」
 何のこっちゃと思ったが、返事をしなかった。

 だが抱き寄せられて胸の音を聞いた時、不意にあの奇妙に穏やかな気分に包まれた。
 この腕の中は、厩舎の藁の中や、真を包み込む牧草地の上に広がる大宇宙と全く同じなのだ。真の身体の全ての細胞は、あの大自然の空気の中にいる時と同じように穏やかに呼吸し、やがて全てを周囲の光や空気やわずかな湿度と共有し、宇宙の空気を通し、太陽や星や月の放つ温度を受け入れる器のようになった。

 ふわり、と竹流の手が真の頭を抱いたように思った。真はぼんやりと、別に何をしたわけでもないのだから、何かの翌朝、とかいうのはどうなのだろうと思った。
 それから真は身体を起こして、上から竹流の綺麗な顔を見つめた。ややくすんだ金の髪に深い深い海の青、顔つきはどうやってこう配分すれば神に見紛うのかというような、南の国の意志の強そうな気配と、北の国の人間のもつ鋭い美しさを上手く組みあわせたように見えた。竹流は、その頃肩を越えるくらいに髪を伸ばしていて、時々多少伸びると自分で適当に切ったり結んだりしていた。

 真は、この男がどういう人間なのか、その頃は全然知らなかった。生まれた国も、確信のない功からイタリアだろうと聞かされただけで、はっきりとは知らない。日本に来た事情も詳しくは聞いたことが無かった。
 真が考えていると、竹流が下から真の頬に手で触れ、優しく撫でるようにした。その左手の薬指の指輪が頬に引っ掛かるように思った。
「結婚してるのか」
 何となく、気になって聞いてみた。

「結婚?」
 竹流は始め何のことか分からないようだったが、やがて自分の手の指輪に気がついたようだった。
「これか?」
 竹流はちらりとそこに掘られたイエス・キリストの棘と十字架に目をやった。
「結婚はしていない。これは契約の証だ。結婚よりもずっとタチの悪い契約だ」

 意味がよくわからなかったが、追及はしなかった。自分は他人の過去や事情を知るには、本来の年齢も心の成熟度もまだ十分ではないと思えたからだった。
 竹流はしばらく自分の薬指の指輪を見ていたが、やがて真の方へ視線を移した。真も、その視線に絡みとられるように竹流を見つめ返した。

 長い時間ただ見つめ合っていて、そのことにお互いに耐えられなくなったとき、不意に竹流の手が真の頬に触れ、どちらからというのでもなく、ただ自然に引き寄せられるように唇が触れた。
 だが、触れているだけで安心するという気持ちの延長に過ぎなかったキスは、真が僅かに相手の唇を強く吸った瞬間に意味合いを変えた。竹流は何を考えていたのか、真の唇に噛み付くようにしながら、やがて直ぐに真と入れ替わって自分が優位に立つと、何度も確かめるように真の顔を見つめ、強く舌を絡めてきた。

 身体が興奮していたわけではなかったが、真はしがみつくように竹流の背中に腕を回し、自分のほうも夢中になって相手の息を吸っていた。
 さっきの夢の続きなのか、風が吹き抜けるような感じがした。それからその風は天空へ、宇宙へ舞い上がった。大きな意識の風の中で、DNAは物凄い勢いで螺旋を駆け戻り、真は自分が宇宙の中でまだ小さなひとつの細胞だった頃に戻っていった。今まで感じたことのない気配だった。もちろん、滝沢に抱かれたりキスをされているときにも、こんな感覚はなかったから、セックスやキスがこういう状態を導くわけではないのだと思った。
 真は確かに、自分が今この男を求めているのだと感じた。
 心が震えていた。

 気がついたとき、竹流は真を抱いて子どもをあやすように頭を撫でてくれていた。
「風呂、行こうか」
 時計を見ると七時前だった。一時間もキスをしていたのかと思って、びっくりした。
「風呂?」
「日本人は温泉に来たら、一日何回も風呂に入るんだろ」
「え、そうかな」
 真もよく分かっていなかった。

 風呂場に行きながら、竹流が小さいがいい声で民謡を歌っている。
 会津磐梯山は宝の山よ
 何歌ってるんだ? と思ったら、歌いたいのはその先のフレーズだったらしい。
 小原庄助さん、何で身上つぶした、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで……
「それ、県が違うと思うけど」

 ここは福島ではなく、埼玉県である。それよりも何だってこの男はそんな日本の民謡を知ってるんだと思った。三味線を弾く祖父母の影響で、真は子どもにしては多くの民謡を知っていたし、祖母の唄の伴奏のために自分自身もいくらか三味線で弾けるものもあったが、外国人が覚えるような歌には思えなかった。
 それに、あんなふうに求め合うようなキスを交わした後で、会津磐梯山なんかどうでもいいじゃないか、と思っていた。するりとかわされて、感情を置き去りにされたようで、真は奇妙な寂寥感に押し包まれていた。

「日本の民謡はいいなぁ」
「何で」
「何でも歌になる、朝寝、朝酒、朝湯、って歌にすることでもないように思うけど、しかも身上を潰すなんてのも歌詞にはなりそうにないけど、歌ってみるといいもんだ」
 分かったような分からないような感想だが、何れにしてもこの男は日本の風習や歴史、民族を多いに気に入っているようだった。何となく幸福そうにしている顔を見ると、腹を立てても仕方がないと思える。

 その日、家まで送ってもらって車を降りたとき、竹流が真を呼び止めた。
「真、俺は何百万や何千万の金なら右から左へ動かせる人間だ。もう二度とこういうことはするな。困ったら必ず俺に頼ってこい。いいな」
 真は何とも返事をしなかったが、ただ彼を見つめていた。竹流は軽く手を上げると、愛車のフェラーリで走り去った。






次回は、真のバイトが学校にばれて、ちょっと事件になった下り。
竹流の啖呵をお楽しみください。
1回でアップするにはやや長いので、2回に分けます。
際どい話があれこれ書いてありますが、読後感は爽やか系です(^^)

ついでに、ここまで竹流は多分、長髪ではありませんが、やや長めの髪だったのです。
それを、真のために?バッサリ切ってしまい、多分以後は全く伸ばしていないと思います。

もう一つついでに、民謡には決まった歌詞というものがありません。
一応型はありますが、自由に歌っていい。
この会津磐梯山の歌詞は1例です。身上をつぶしてないバージョンもあります(^^)



以下、言い訳を畳んであります。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨54] 第9章 若葉のころ(3) 

回想の章となっている第9章の最終回となりました。
本当は2回に分けるつもりだったのですが、分けどころがうまく見つからず、一気にアップです。
かなり長いのですが、中身は比較的読みやすいと思いますので、お楽しみください。
今回の見どころは、竹流の啖呵です。





 それから半年もたたないうちに、真が滝沢基のモデルをしていた時の写真がポスターや吊広告になり、フィルム会社の宣伝として町中に貼られた。

 知らない顔をし通したが、さすがに誰も気が付かないというわけがなかった。電車の中では極力、顔を上げないようにしていたが、それでも写真を撮られた時からまだ一年と経っていないわけで、不意に誰かの視線を感じることが多くなっていた。
 その上、一度ならず痴漢にもあってしまった。男としては沽券に関わる気がして言い出せなかったが、ある時、何かの話のついでにそのことを竹流に話すと、自業自得だと取り合ってくれなかった。もう少し、可哀相に、という種類の言葉を期待していた真は、自分でもおかしいくらいに落胆した気分になった。
 それでも、竹流と一緒に満員電車に乗った時、彼が真を庇うように引き寄せてくれたのには、真もさすがにびっくりした。

 勿論、そんな微笑ましいエピソードで終わる話ではなかった。
 真にしてみれば、もう半年以上も前の出来事だったが、写真を見た者にとっては、それはまさに今の出来事だった。中でも、写真の中から世の中を篭絡してフィルムやカメラを買うように誘っている少年を預かっている学校にとっては、とんでもなく現実的な問題になるわけだった。

 具合の悪いことに、その写真は世間でもかなり話題になっているらしく、少年を探せ、というキャッチフレーズでマスコミが盛り上がったのもいけなかった。

 ある時、竹流が相川の家にやって来て、功の書斎で本を読んでいる真の顔を覗き込んで言った。
「停学だって?」
「保護者を連れてこいって、それまで学校に来るなって感じだっただけだ」
「どういう意味だ?」
「よく分からない」
「自主的にさぼってるんじゃないだろうな」
 真は返事をしなかった。

「で、保護者はどうするつもりだ? 北海道のおじいちゃんを呼ぶか?」
「冗談だろ。おじいちゃんが卒倒するか、こっちが殺されるよ」
 厳格な祖父に知られるのなど、恐ろしくて考えられなかった。
 祖父が世間に疎いことを、これほどにありがたいと感じたことはない。それに、叔父の弘志も、大伯父たちも、このことを知ったとして長一郎の耳に入れようなどとは思わないだろうから、その点でも真は救われていたようなものだ。

「斎藤先生は?」
 斎藤というのは功の親友で、真の不整脈の主治医だった。功の失踪後は真たちの保護者を自任してくれている一人でもある。
「電話くれたけど、大丈夫って言った」
「俺が行こうか?」
 真は不思議そうに竹流を見た。
「あんたが俺の保護者って、学校が信じると思うか?」
「そりゃあ行ってみないとわからん」

 ポスターも写真集も、モデルが誰であるかを一切公表しなかったし、事実カメラ会社もその点では写真家に一切を委ねていたので知らない、と突っぱねていた。一部の週刊誌では、毎日人々が目にして話題になっているだけに、面白おかしく書き立てて、更なる世間の注目を集めたが、当の写真家はすでに日本からトンズラしていて事実は闇の中だった。

 しかし、毎日真に会っている同級生には、それが真であることは明らかだったろう。
 ただ、真がもともと人を寄せ付けない人間だったので、誰も面と向かっては真に事情を追及してこなかった。天然ボケの級長でさえ、そのポスターを見て明らかに真だと気がついていたのだろうが、比較的いいとこのお坊ちゃんやお嬢ちゃんが多いこの学校では、あまりそういうことで同級生をからかったりするものではないというムードがあった。

 問題は写真集だった。
 誰が見ても、『破廉恥な写真』といってもいいものが含まれていたし、写真家が色々と噂のある人物であれば、モデルとの間に何か複雑な関係があったと思うのも当然だった。事実そういうことを示唆するようなベッドの上の写真もあり、同級生たちは、いつものように普通に授業を受けている真の方に、色々な複雑な視線を向けていた。しかも真があまりにもいつも通りなので、余計に彼らの視線は複雑になった。

 まわりが真に注目したのはこの時が初めてではなかったが、これまで知らなかった者までが真を知るようになった。事実、そういう趣味のあることを隠していたある種の者は、真に接触を試みようとしたりもしたようだった。


 結局、その写真集がある生徒の母親の目に留まった。もちろん、PTAを介して問題にならないわけがない。院長のところへ駆け込んできた立派な保護者達は、こんな子供をこの学校に通わせるのは教育現場としてあり得ないのではないかと院長に掛け合った。

 しかし、院長には始めから真を咎めるつもりがなかったようだった。そもそも真であるという確証は、本人がそうだと言わなければありもしないわけで、できればそっとしておきたいと彼女は思っていたようだった。だが、ことこうなってしまっては、保護者会と他の教師たちの手前、放っておくこともできず、院長は真を呼び出した。

「これは君なの?」
 真は写真集の方をちらりと見た。とは言え、写真を撮られたことは事実でも、その作品を見た訳でなかったし、契約金さえ支払ってもらえれば後のことは自分には関係がなかったので、何とも返事をしなかった。

「功くんは、いえ、君の父上は知ってるの?」
 真は院長の顔を真っ直ぐ見た。
 真はこの院長を嫌いではなかった。嘘をついたり、大人の事情で物事をねじ曲げたりしない人種であることを感じていたからでもあった。

「父は、今、日本にはいません」
「え?」院長は驚いたように真を見た。「どうしたの?」
「アメリカに」言いかけて真は言葉を切り、うつむいた。何を言おうとしたのだろうと自分で思ったのだった。「研究で」
「いつ帰ってくるの?」
「分かりません」

 院長に父が失踪しているなど言えなかった。学校から祖父母にそのことが伝われば、物事は叔父、つまり実の父親を巻き込んでややこしくなるのは目に見えていた。
 親戚一同の中では、真が次男の武史の子どもであることは、皆が知っているのに、口に出してはならないタブーのような気配があった。もっとも、それは真が子どもなりに察知したムードであって、事実はどうだか知らないが、実父の立場がかなり複雑で、そのことと功の失踪の間に因果関係を感じざるを得ないのは、何も真の想像ばかりではないはずだった。

「じゃあ、君たちは今、つまり妹と二人きりなの?」
「今までも父は忙しくてほとんど家にいなかったし、何も変わっていません」
「では、今の君たちの保護者は?」
「保護者を連れてこいということですか? 僕がその写真のモデルをしたからですか」
「モデルは君なの?」

 真はついに観念した。
「そうです」
「どうしてそんなことをしたの?」
 真は少し考えた。差しさわりのない答え、というものを何故か吟味したのだ。
「お金が必要だったので」
「お金? 今、困ってるの?」
「いえ」

 追求されると、子どもながらに考えた答えには多少の無理があることに気が付いた。院長は少し間を置いてから、子どもを怖がらせないように、とでもいうようにゆっくりと語りかけるように言った。
「とにかく、今、君たちの保護者になる人を連れてきなさい。もしも本当にお金に困るような事があるのなら、放ってはおけないでしょう?」

 責めるような調子ではなかった。しかも院長は、一部の保護者たちが最も問題にしていた『真がこの噂の写真家と身体の関係を持ったのかどうか』については何も聞かなかった。
 だが院長が好意的に解釈してくれても、そうは思わない教師たちも多かった。結局教頭からしばらく自宅にいるようにと言われ、その前から行く気もなかったので、言われたのをいいことに自宅に篭っていた。

 本当のところは、少しばかり学校を気に入り始めていたところだった。ただ、自分自身が撒いた種だっただけに、どうすることもできなかったのだ。

 竹流は結局、学校へ真を連れて出かけた。
 院長室には、うるさ型の教頭も幾人かの教師も一緒にいた。真は興味のない顔を装ったまま、竹流の後ろにくっついていた。

 その時のために髪をばっさりと切った竹流は、手触りも見た目も明らかに高級なスーツを身に着け、頭の先から足の先まで、どこにも一点の陰もないほどに完璧な堂々たる態度で、大和邸の執事に運転させたベンツの後部座席から降りて、学校の門の前に立った。
 その姿はいかにも上品で、そこに立っているだけで周囲を威圧するほどの威厳に充ちて見え、恵まれた体格と、優雅で美しいとまで言える品位のある顔立ちは、ある意味神々しくさえあった。
 それはヨーロッパの貴族という人種が持つ何百年もの伝統や血統から滲み出る気配で、どれほど努力をしても俄かには身に付けることのできない種類の品格だった。

 おそらく、教師という人種に対してはかなり効果的だったのだろう。いや、竹流がその部屋に入った時点で、すでに物事は決着がついていたのだ。

「父親は」
 教頭は目の前に立っている竹流の姿に圧倒されたことを隠すように、咽を鳴らして聞いたが、竹流は彼や周囲の誰も彼をも睥睨するような、それでいて実に優しい笑みを見せて、優雅に少し頷くようにして説明した。

「私が、この子の父親の秘書をしていましたので、彼がいない間のことを頼まれておりました。今アメリカにおりますが、特殊な研究で居場所も定まらないようですので、直ぐには連絡もとれませんしここには戻って来ることができません。その間に真がしたことが、私の監督不行き届きであったことは認めます。しかも」
 竹流は真の方を少し見た。
「真のほうは、私を含め周りの大人に頼ることを良しとは思っていなかったようですし、ましてや他人である私に遠慮もしていたようですから、自分で解決したかった問題だったのでしょう」

「自分で解決する問題?」
「子供とは言え、目の前に沸いて出た問題を自らの力で解決したいという気持ちは持っています。私などが言わなくとも、あなた方教育者はもちろんよく御存知の事だと思いますが」

 外国人の竹流が、あまりにも流暢な日本語でつらつらと話すので、聞いているほうも丸め込まれるような勢いだった。しかも幾らか失礼なほど断定的な言い方をしているのに、まるで気にならないのは、やはり端から勝負がついていたということなのだろう。

「それは、どういう種類の問題だね? 第一君は何であんな破廉恥な写真のモデルになどなったのだ?」
 それでも何とか冷静を保とうとしていた教頭が、院長が何も言わないので自分の仕事だとでも言うように真を責め始めた。もちろん、彼は自分の仕事に忠実な、優秀な教師だった。

「破廉恥? 教頭先生はあれをご覧になられたのですね? それならもちろん、美の何たるかをご理解しておられる先生は当然お分かりだと思いますが、あれは芸術作品です。私も美術品を扱う仕事をしておりますし、メトロポリタン始めいくつかの美術館で修復師の仕事もしてまいりましたのでよくわかるつもりですが、物事の出方がああでなければ、皆が芸術と認めたはずです。教頭先生にも、ここにいる皆さんにも、世間に対して大人になろうと足掻いた子ども時代があったでしょうが、まさにあれはそういう時期の子どもの不安定な輝ける一瞬を残そうとした芸術です。モデルがこの子でなければ駄目だったわけではないでしょうが、あの時でなければならなかったし、それにこの子が見かけだけをとってもそれに値するのは、皆さんも認めるところでしょう」

 教頭は返す言葉に詰まったように見えた。それから、この異国人相手ではやり込められると気が付いたのか、真のほうに話しかけた。
「しかし、つまり君はあのカメラマンと、その」
「身体の関係があったかということですか」
 あまりにもずばっと竹流が先を続けたので、教頭がたじろいだ。

「そうなのか?」
 竹流は真の方を見て語気強く問いただしたが、言葉ではなく視線ではっきりと、否定しろ、と強要していた。真は黙って竹流を見ていたが、その勢いに中途半端に首を横に振った。
 それを見届けると、竹流はさっさと次の言葉を継いだ。

「本人は否定していますが? あなた方は何を根拠にそうおっしゃるのですか?」
 冷静に考えれば、確かに根拠はないはずだった。
「あのカメラマンは、随分危ない破廉恥な写真ばかり撮っているそうじゃないか。しかも、モデルとそういう関係になることも再三あるらしいし、相手が女だけではないことも知られているとか」

「それでは、先生方は憶測だけで真がそのカメラマンと身体の関係を持ったと仰るわけですか。それはあまりにも子どもの感情を傷つける言い分です。子どもの言葉を信じないとは、教育者にはあるまじきことと思いますが」
 急に声のトーンを厳しくして竹流が言い切った。まるで、神が雷を振り下ろすような力強さだった。
 真は呆気に取られて竹流を見つめていた。

 嘘もここまで強く主張すると、事実などどうでもよくなるのだということかもしれないが、この男の言葉にいかに力が篭っているかを見せ付けられたように思った。
 不意に、真は竹流が聞かせてくれたヒトラーの演説の調子を思い出したくらいだ。

 教頭は言葉に詰まって、それから話を別の方向へ向けた。言葉の勢いは霞んでいた。
「しかし、何より何故モデルになろうとしたんだね?」
「別にそれは問題ではないでしょう。してはいけないこと、ではないのですから」
「しかし、バイトとして、というなら、中学生には禁止しているはずだ」
「この子は、自分の力で何とかしようとしただけです」
「何をだね?」

 竹流は、静江の事をこれ以上隠すのは真にとって精神的にも負担になる、真がひとりで抱えるには問題が大きすぎるし、いっそ周りの大人に知らせたほうが、真も救われると思っていたようだった。
「この子の母親が長期に入院をしています。手術を受けることになって、費用が必要だったのでしょう」
 真は、何を言うんだ、と思って竹流を見た。

「誰か相談する相手がいなかったのかね」
「ですから、私の監督不行き届き、と申し上げました。真は、父親が留守の間、自分がひとりで何もかも対処しなくてはならないと気が張っていたのですから、自分の力で何とかしたかったのでしょう。責めを負う者がいるとすれば、むしろこの私であって、この子を責めるようなことではありません」
 教頭はまた言葉を飲み込んだようだった。

「もちろん、これより先は私がこの子達のことはきちんと監督を致します。もしも、何か皆さまにお気に沿わないことがありましたら、私にお話しいただけたらと思いますが」
 結局、竹流の立板に水の話しぶりで、大方は煙に巻かれてしまい、処分のことはさておいて真はしばらく家にいるようにと言われた。


 他の教師が出ていってから、院長が二人に話しかけた。
「あなたのことは功くんから聞いていたわ。真にとって、親よりも頼りになりそうな人間だって」
「それは光栄です」
 真は院長が父のことを功くん、と呼んだのにひっかかった。
 そういう意識の上へ、次の言葉が降りかかってきた。
「お父さんは静江さんと離婚したのではなかったの?」

 真はさすがに驚いて院長を見た。院長は二人にソファを奨め、三人ともようやく座った。
「ごめんね、功くんが君にどこまで話しているのか分からなかったし、立場上ここで私が保護者然としてしゃしゃり出るわけにもいかなかったから、君に何も説明しなかったけど、私も一度は功くんから君の母親候補に声を掛けられた人間だから、気にはしているのよ。もちろん、もう時効になった話だけれど」

 真は意味がわからずに院長を見つめていたが、竹流の方が、何かに思い当たったようだった。
「じゃあ、あなたが先生の昔の恋人だったんですね」
 院長は、年を経ても凛とした姿を保っている宝塚の男役スターのように、爽やかに笑った。
「聞いていたの」
 僅かにはにかむような響きが心地いいほどだった。

「ええ、時々先生は昔話をしていましたから。ちゃんとつきあった恋人はひとりだけだと。その人に真の母親になってくれないかと頼んだことがあると、そうおっしゃっていました」
 真は院長と竹流を交互に見つめた。功が、自分を疑い殺しに来たような勢いの竹流に対して、自分の過去の恋愛事情を話していたというのは驚きでもあった。

 それから、母親候補に、ということは、静江が真の母親でないことをこの院長は知っているし、もしかして功が真の実の父親ではないことも了解していて、しかも、本当の父親のことも知っているのかもしれないと思った。
 もしもこの人が母親になってくれていたら、自分の生涯は変わっていたかもしれない。

「でも保護者の押し売りをする気はないのよ。それに、功くんは頼りになる人がいるって話していたのだから。ただ、彼は静江さんとは別れたような事を言ってたけど」
「この子たちに、母親が精神疾患で入院していることを話したくなかったし、世間の耳にも入れたくなかったんだと思います。真は既に知っているので、今はもう隠すことでもないのですが、世間の子どもたちへの視線を心配したのでしょう。ただ、私は先生の考えにそこだけは反対で、むしろこれまでのように隠し続けることは真の気持ちの上でも良くないことだと思っています」
「そうね、そういうことはあなた一人の肩には重すぎるわ」

 院長は真の方に向いて言った。
「もし、何か力になれることがあれば言ってちょうだい。たまには周りに頼りになる大人もいるって知っておいて欲しいわ」

 院長は言葉を切ってから、竹流に向き直った。
「あなたを頼りにしていた功くんだから、私はこれ以上知らないことにするけど、本当のところ、彼はどうしているの?」
「とは?」
「連絡がつかないって事はないでしょう? この子のことをあんなに心配していたのに」
 竹流は初めて了解を取り付けるような表情で真を見た。そして院長に向き直り、ゆっくりと噛み砕くように言った。
「色々事情はあるようなので、これ以上は話せませんが、確かに今は連絡がとれません」
「それは、武史君と何か関係が?」

 真は顔を上げた。
「叔父を、知っているんですか?」
「ええ、彼は剣道部の後輩だったし、学部の後輩でもあったからね」
 そう言ってから、院長は真の実の父親の話だったことに気が付いたように、優しく微笑んで続けた。

「いい男だったわよ。強くて賢くて、骨太で男っぽくて、功くんとは全然タイプが違ったけれど、大学では剣道部の暴れ駒だって名を馳せていたわ。実際には功くんの方がちょっとばかり強かったけどね。そうね、彼は強がりだったけど随分お兄ちゃん子だったのよ。東京に出てきたのも功くんを追いかけてだった。今は外国にいるとは聞いているけど、危ない仕事をしているんじゃないかと、功くんが随分心配していたのよ」

 真は竹流の方を見た。竹流は真の腕を少し掴んで、心配するなというようにした。
「今、騒ぎ立てることはできないのです。蜂の巣をつついてしまって、この子たちに危害が加わるのは困りますから。警察も、いや日本の警察ではこの件では全く力が及ばないことなので、何も言っていません。あなたも、今はできれば聞かなかったことにして放っておいて欲しいんです」

 竹流が何をどこまで功から聞いていて、そして功の事情について何を調べたのか、真には一切わからなかった。
 それでも、今、現実の中で既に失われてしまっている幻を追う気はなかった。それよりも、目の前にある光だけは、見失いたくないと思っていた。

 院長は多少複雑な顔をしたが、それ以上は何も追及しなかった。彼女の第一の使命は子どもたちを守ることであると、そういう行動を、彼女がいちいち大脳で確かめなくても反射のように、疑いもなく選び取ってきたということなのだろう。
「とにかく、もうちょっと自宅で大人しくしていて頂戴。すぐに学校に戻すから。で、提案だけど、この間剣道部の主将が私のところに来て、君に剣道部に入ってくれるよう説得してくれって言ってたわ。こういう噂はすぐに止むでしょうから、できれば部活でもしてくれたら嬉しいけど。君が強いのはみんな知ってるのよ。それに仲間を持つのは悪いことではないわ」


 真が竹流と一緒に院長室を出たのは丁度昼休みの終わりかけだった。二人が並んで校舎を出ていくのを、窓から生徒たちが見ていた。真が誰かと一緒に学校に来ていたという噂は、昼休みの短い時間の間にほぼ全校に広まっていたようだった。
 この日から、真の保護者として現れた『白馬に乗った王子様』のような男に、女の子達が大騒ぎになった。彼女達が最初に真の味方になり、結局真が学校に復帰した後では、例の写真のことでとやかく言う者はなかった。その代わりに、彼女達が真に問い掛けたのは、あの王子様は誰なの、ということだった。

 竹流はその後、保護者を自任して、時には学校にかなりの寄付をしていたようだった。その上、学校でのイベントにも来ることがあったが、そこら中が盗撮の舞台になっていた。真は何かの拍子に彼がいつものように何気なく自分の身体を抱き寄せたりしないかとドキドキしたりした。そんなことをしたら、例の写真家と寝ていたかもしれない、という話は信憑性を帯びてしまうに違いなかった。

 その後の竹流のファンクラブの女の子達のやっかみの対象は、中学部の葉子に集中した。実際、真はあまりにも愛想がないし、同級生の篁美沙子と付き合っているという噂もあって、真に興味を持っても黄色い声で騒ぐ対象にはならなかったようだが、剣道部で一番強いという噂の真には隠れファンが多くいたようだった。そんな兄を持ち、あの素敵な王子様にお姫さまのような扱いを受け、揚げ句の果てに、学年でいつもトップクラスの、天然ボケと『いい人』過ぎることさえ除けば結構『いけている男』の富山享志とつきあっているという羨ましいような女の子が、葉子だったわけだ。


 何れにしても、真のこの事件は大人たちが思っているほど深刻な悪影響を子供たちに与えずに過ぎ去っていった。
 その後の二週間ほどの自宅謹慎の間、竹流は毎日のように相川家にやって来た。真の保護者を買って出ていたからでもあろうが、放っておいてまた登校拒否に拍車がかかっても困ると思ったのか、ずっと勉強を教えてくれていた。

 学校から、明日から来るようにと連絡が入ったとき、じゃあ明日からは真面目に学校に通え、と言われて真は竹流に言った。
「学校で授業に出るより、あんたが教えてくれる方がずっと面白い」

 竹流はしばらく真の顔をじっと見つめていた。これまで何年も勉強を教えてもらってきていたのに、これほど素直に真が感想なり感謝なりの言葉を口にしたのは初めてだった。真は言ってしまってから、竹流の幾らか驚いたような顔を見て、初めてそのことに気が付いた。

 竹流は、不思議な、いかにも幸福であるというような笑みを浮かべて、子どもに対してするように真の頭に大きな暖かい手を置いて言った。
「真、これはまたいつでもどこでも、お前が勉強したいと思えばできることだ。それに、俺が教えていることは今までの先人がつかみ取ってきた歴史であって、俺だって自分に教えてくれた教授陣の受け売りをしゃべっているに過ぎない。地球にも宇宙にも、まだまだ人間の知らない真実があって、もしもお前がそれを知りたければ、いつか自分で研究し考えて、真実の欠片でも掴み取って、それを自分の言葉で話せるようにならなければいけない。そしてそれは今でなくてもいいはずだ。だがな、俺はまともに通わなかったら知らないが、学校には大人や教師から教えられることだけではない何かがあるはずだな。あの心配して毎日のようにここに来る級長にしても、ただ級長としての仕事をするだけならそんなに一生懸命通ってくる必要はないはずだ。そういうことは俺が教えていても、決して手に入らないことだ」

 確かに、転校してきて以来、あの級長のおせっかいは度を越している。始めはただ与えられた義務に対して忠実なだけなのかと思っていたし、いささか鬱陶しいとも思っていたが、この頃、それが少しだけ嫌ではなくなっている。相川真の親友を自称する彼が毎日ここに来るのは、純粋に友人を心配しているからなのだ。そういうふうに接してもらうことに慣れていない真は、大概数回のコンタクトで相手から引かれてしまっていたが、あの級長だけは全く怯む様子がない。
 もっとも、彼の相川家への訪問理由の半分は、妹の葉子を気に入ってるからなのだと思うが、三人で、時には竹流も一緒に四人で囲むテーブルは、そんなに悪いものではなかった。

 それでもちょっと不満な顔をした真に、竹流はもう一つ付け加えた。
「それから、院長が言っていた部活のことも考えてみろ。お前は確かにこれまでひとりの自分のために、まあ多少は葉子ちゃんのためもあったと思うが、強くあろうとしてきた。だがな、そういう戦い方とは違った闘い方もあるんじゃないか」
 
 真は考えるように俯いた。それを竹流が子どもをあやすように頭を撫でたので、気に入らなかった。
「しばらくは学校でもいい子にしてろ。鬱陶しい連中もいるだろうけど、みんなそれぞれ何かいいところを持っているものだ。相手を認めることは必要なことだぞ。あの教頭もな」
 と言っている本人が気に入らなかったのだろう。真は顔には出さなかったが、やっと少し心の内で笑った。


 あの頭の上に載った大きな手の感触、そして何よりもあの旅館で抱き締められた身体の温もり、彼のキスには生命の源に還るための道標があるようにさえ思っていた。
今でも、その手の気配と温度と唇に触れる感触は、どれほど離れていても、身体にずっと残っている。






さて、次回は、新潟です。
竹流が2年半前『盗みに行こうとしていた贋作』…その絵にまつわる物語を少し紐解いていきます。
ちなみに、この『贋作』(の一枚)を持って、遠い未来、真のやしゃ孫の詩織がローマのヴォルテラの長男(家を出ていますが)のところに嫁入りするという、いわくつきの絵画なのです。

えぇ、鬼も笑う話ですけれど……(いつやねん)^^;

以下、雑談です。
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[雨:中休み] テーマ曲をご紹介 

ただ今、メイン小説として更新中の【海に落ちる雨】ですが、時には休憩を挟まないと、息切れしそうに長いので、Scribo ergo sumの夕さんや、小説ブログ「DOOR」のlimeさんが記事にしておられたことのある、イメージソングについて少し書いてみようかと思います。

実は最初の『はじめに』にも書いたように、始章の二つの『邂逅』にはそれぞれイメージがありました。
竹流のほうはレナード・コーエンのアレルヤ。もっとも、私がイメージしたのは、この曲をIL DIVOが歌ったもの。真のほうは、アイヌ神謡集の謡。こちらは詩なので、今回は置いといて、竹流のほうのアレルヤをここにご紹介したいと思います。
実は記事にYou Tubeを張り付けるのは初めて。上手くいくかな。


消えてしまった時のために→You Tube-Hallelujah-IL DIVO
IL DIVOはフランス、アメリカ、スペイン、スイスから4人のアーティストが集まって作られた男性ヴォーカルグループ。これまでに3度、生で聴かせていただきましたが、至福のひと時を分けてもらいました。本当にいい声。4人の全く違う個性・声が見事にハーモニーになっているのです。
私の贔屓は、アレルヤ…の部分を歌っているスイス人のウルス。声にやられました。もちろん、いかにもスペイン人!というオペラ歌手(バリトン)のカルロスも、最近よくCMで耳にするTime to Say Goodbyeの曲でいい声を聴かせているディヴィッドもいいし、この中で唯一ポップス歌手出身のセブもいい感じで…なかでもセブは、このグループに参加して一番声が伸びた人、これまでは独学だったというから、逆にすごい。
実はロックンローラーの真(初代真の曾孫)が一時、こういう感じのヴォーカルグループの活動をしているのですが、これはもう完全に彼らに触発されたのですね^^; もちろん、彼の立ち位置はセブ。

それはさておき、この歌詞はスペイン語。様々な苦しみや悲しみの先、幸福を感じるひと時、神の恩恵を感じるひと時について、簡素な言葉で語っています。大好きな曲。


一方、こちらは元の曲、レナード・コーエンのアレルヤです。
ブルースの名曲。語るように歌う渋い声がたまりません。
歌詞の内容は全然違います。こちらは恋愛に敗れた男が歌っている感じ、でもアレルヤ、なんですよね。
そして全てが間違っていたんだとしても、アレルヤだけを口に携えて歌の神の前に立つ、というそういう歌。

この曲は、多くのアーティストがカバーしていて、どれもそれぞれ素敵だとは思うのですが、私にはこの2曲。
残念ながら、【海に落ちる雨】の時代にはまだこの歌は世に出ていませんので、竹流や真が聞いたわけではないのですが…

竹流の人生は、確かにキリストの教えにかなり縛られていたとは思うけれど、ブルースが結構似合っているのかもしれません。ちなみに、津軽/三味線、ブルースのようだといわれることがあります。


そして、夢の世界で、この物語が映画化されるなら、ラストの竹流の言葉に被って……

(You Tube-Calling-B'z)
これしかもう考えられません。
前奏のギターはちょっと置いといて、この稲葉さんの歌を、竹流の台詞に被せて欲しい…(^^)

このYou Tube、肝心の大好きな歌詞の部分が省かれてるんだけど、水も滴るいい男の稲葉さんがかっこいいので、フルバージョンじゃないのを選びました。
その私にとって肝心な歌詞は以下…

どれだけ離れ 顔が見えなくても 互いに忘れないのは
必要とし 必要とされていること それがすべて 他には何もない

ここが決め手です。
今年も9月のライブでこの曲を聴きたいわ。
ちなみに、私は彼らの熱狂的なファンではないのですが、今回のBestも買いました。
かなりの回数、ライブにも行っています。稲葉さんの声は最高だと思っています。
友人がファンで、いつもチケットを取って誘ってくれるのです…ありがたく、恩恵に預かっています。
Motelはいつか物語にしたい曲。

え? ラストの竹流の言葉はなんだ、って?
それは、今は言えません……(^^)
この一言を言わせるためだけに、私は38章+始章を費やしました。

ちなみに妄想映画では、この曲が終わり、エンドロールが終わったら、もうワンシーンあるのです。
それはちょっと怖いシーン、かな。真も竹流も知らない、裏側の真実。

……なんて、もうすっかり監督状態。

妄想ですから、ね。
Hallelujahに始まり、Callingで終わるこの物語。

実は、後半では挿入歌?もいくつか出てきます。
時代が微妙に過去なので、歌でイメージを引っ張ったりもしている。
もちろん、その歌をリアルタイムで知らない世代の人にも、何となくイメージを思い描いてもらえたらいいなぁ、という感じです。
だって、リアルタイムにみゆきさんの『時代』とか、チャゲあすさんの『恋花』ですから。

映像にできない物語、せめて曲だけでも、イメージをふくらますアイテムになったらいいなぁ。



以下に、Hallelujahの訳詩を畳んでいます。
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[雨55] 第10章 県庁の絵(1) 

しばらく、淡々と絵の話になります。
興味のない方にはいささか辛いかもしれませんが、絵の真贋について、考えてみませんか?

失踪した大和竹流が残していった新聞記事。それは真の愛人である香野深雪のかつての恋人・新津圭一の自殺を報じた記事だった。その後発売された雑誌の記事によれば、新津は、『IVMの件で』政治家などを脅迫していて逆に追い詰められて自殺したとされている。伏字が多い記事の中で、IVMと明瞭に書かれたのは、何かの企業名のもじり?
そして、竹流とこの記事の間に何の関係が?
3年半前、まだ同居する前に竹流が関わっていたという新潟の県庁にある絵画。それはある豪農の蔵から出たもので、県に寄付されていた。
今回、ひとつ謎が解ける、かな?
真が竹流に近づくための手掛かりになればいいのですが……

関係ないけど、『県庁の星』みたいだなぁ^^;





 翌朝八時十四分に新潟駅に着いた。
 列車を降りてから雨が降った跡に気が付いた。
 夢の中の音だと思っていた。身体にも深い想いの跡が残っているように思ったのに、目が覚めてみるとそこには何もない。

 雲の切れ間から日が射していて、濡れた地面を光らせている。美和がカメラケースと旅行鞄を足元に置き、光の中で伸びをした。
「先生、朝御飯を食べてから県庁に行きましょうね」
 昨夜あれだけ食べておいて、美和はもう食べる話をしている。真の方はさすがに食欲がなかったが、駅前の喫茶店に入ることは問題がなさそうだった。美和がパンに野菜、目玉焼き、牛乳の豪華なモーニングセットとデザートまで注文する横で、真はコーヒーだけを頼んだ。

「先生、ちゃんと食べないと駄目ですよ」
「列車に酔ったみたいだ」
 言い訳をすると、美和は察したのかどうか、それ以上は何も言わなかった。
 一晩中断片的な夢を見ていて眠れなかった、とは言い辛かった。

 食事が終わる頃に九時になった。昨日、井出が新潟県庁に雑誌社からの取材申し入れをしてくれていて、そのために美和は趣味のカメラを持ってきている。真にはよくわからないが、井出が言うにはかなり上等のカメラらしく、美和の腕の方も結構本格的らしい。もっとも、そもそも写真家志望なのだから、それなりに勉強もしているのだろう。

 身体に残る古い想い出の気配を、まだ忘れられないでいる。そのことが気持ちを興奮させていた。それでも、コーヒーの温度が逆に気持ちを冷ますようだった。
 今から問題の絵を見に行く。そのことにただ緊張していると思いたかった。絵については、同居人のテリトリーではあるが、真には知識がないことで、取材と称して乗り込むのは随分と勇気がいる。不意に遠くに感じる何かの距離が、ただ絵の知識に関係することなら有り難い。

「先生、大丈夫?」
「え?」
 覗き込むように問いかけられて、真は顔を上げた。
「急に黙っちゃうんだもん」
 美和が色々な気持ちをどのように処理して、今こんなふうに明るく話しているのか、真には分からなかったし、まねのできない芸当だと思えた。
 その美和には何も答えず、真は行こうか、と言ってレシートを取り上げて席を立った。


 駅前からタクシーに乗り、信濃川に沿うように三キロばかり南西に行くと、県庁が建っている。途中、川の向こうを見ていた美和が、川のある町っていいね、と呟いた。
 県庁に入ってからもさっきから感じていた妙な距離感はずっと続いていた。まるで自分自身が、遠くからここを見つめていて、ここにいる自分の身体と一体化していないような変な感覚だった。

 真は井出から借りた偽物の名刺を受付に出して、案内を頼んだ。受付の越後美人が少々お待ちくださいと言って、館内用のインターホンで来客の旨を誰かに告げた。間もなく広報課の係長という人物が現れて、真の出した名刺を受け取った。

 もう定年も間近に見える係長は、広河と名乗った。
「『歴史紀行』ですか。日本の歴史を扱っておられるんですねぇ。レンブラントやフェルメールに何の関係が?」
 歩きながら広河は真に尋ねた。疑っているというよりも、単なる挨拶の延長のようだった。
「新潟は鎖国時代に最初に開港した都市のひとつですよね。しかも古い時代から、日本海に面した北陸、東北、北海道の都市は常に大陸との交易が盛んであったと聞きます。鎖国時代にもその海岸は大陸に開かれていたとも。その中でここにこういう絵画があるというのも、古い交易の歴史を物語るものだと考えています。今回の特集ではそういう日本海の交易の歴史にスポットを当てていますので」

 適当に祖父からの受売りを喋っていると、美和と目が合ってしまった。美和はにっこり笑ってウィンクを寄越す。
 最初に井出から出された名刺は『美術界』のものだったが、真は、これは困るといって代えてもらった。まともに美術関係の雑誌の記者になりきるのは無理だと思ったし、歴史関係なら絵画の知識が浅いのも許してもらえるかと思った。

「しかしここにあるのは偽物だってぇ、聞いてますがね」
 広河はやはり世間話をするかのように、のんびりとした声で言った。
「えぇ。今回の特集では、特に贋物に焦点をあてて、歴史が本物だけではなく贋物との共存関係で成立してきたということを結論付けていきたいと思っています。贋作とは言え、描かれた当初は、そのつもりでなっかったものもあったでしょうし、歴史の中で意味合いが変えられてきたのだとしたら、大変興味深いと思うのです」

 広河は分かったような分からないような顔をしていたが、とにかく真と美和を二階の会議室に案内した。これ以上面倒な言い訳を続けないといけないかと思って困っていると、いきなり大きな扉の向こうの正面の壁に、目的の絵画が構えていた。

 その絵画が、生きて何かを叫んでいるような錯覚を覚えて、真は一瞬、息を飲んだ。
 それに応えるように、身体中の細胞がざわめき始める。総毛立つというのは、まさにこういう状況なのだろう。
「偽物とは言え、よくできているそうです。触らないように頼みます。今、こいつに詳しいものを寄越しますんで」

 訛りのある響きを残して、広河は会議室を出て行った。扉が閉まると美和が笑い出した。
「先生って、詐欺師になったほうがいいんじゃない?」
「大きな声で笑うなって」
「だって」
 まだ笑っている美和を放っておいて、真はまずふと惹かれたフェルメールの方へ歩み寄った。

 自分を一瞬強烈に惹きつけたものが何だったのか、直ぐに了解できた。
 勿論、これらの絵の写真は添島刑事が準備してくれた資料で見ていたので、どのような絵かは分かっていたのだが、写真は白黒だったので、その微妙な色合いの美しさは分からなかった。フェルメールの絵にありがちなことだが、実際の絵は想像よりも遥かに小さく、僅かに五十センチ四方程度のキャンバスに描かれたものだった。真とて一応は基礎知識を入れてきたつもりだったが、彼の作品の中では最高傑作と言われている『レースを編む女』にどこか似通った絵だった。

 添島刑事の情報でも、この絵は当初その習作の一つとして、ヨーロッパ市場を流れていたことがあるという。新潟のさる旧家が手に入れたときには既に贋作の烙印が押されていたが、何しろ当の持ち主がそんなものが蔵に眠っているとは知らなかったと言っているので、どこまでが本当の話かわからない。
 あの本物より荒削りな印象があるが、その針仕事をする女性の手元は随分と丹念に描かれている。女の衣装は黄色ではなく、ややぼけた青色だったが、これがあのフェルメールの名作の習作だと言われればそうかもしれないと納得する深みもあった。

 しかし、更に近づいてみて、自分を惹きつけたのが、絵そのものではないことが直ぐに分かった。
 それは、絵画を納めている額縁の方だった。
 その時、今まで感じていた不可解な距離が、急に小さくなった。
 この額縁を自分は知っている。何故知っているのだろう。

 だが、その疑問を解決するのはあまりにも簡単だった。何しろ、絵画も額縁も真の生活の中ではある部分にしか存在しないものだった。
「何見てるんですか?」
 美和が後ろから話しかけてきた。
「額縁?」
 それを見た場所は限定されるとしても、何故こんなにも印象深く覚えているのだろう。いや、それはともかく、どうしてそれがここにあるのだろう。

 真は、やはり竹流は真がここに行きつくことを期待していたのだと思った。しかし、竹流が執事の高瀬の手に残してくれたあの新津圭一の新聞記事のどこに、ここに至る要素があったのか。真がここに来たのは、添島刑事が三年前の事件のことを話してくれたからだ。しかし、竹流はあの新聞記事から真がここに来ることを信じたのだ。
 あの新聞記事の日付だけでここに至るのは難しい。事件を調べるとしても、絵画と結びつく要素が分からない。新潟という地名すら入っていない。だが、新津圭一というキーワードをつつき回せば、やはり新潟につながっているのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、不意にこの額縁のことをある光景と一緒に思い出した。
 葉子の結婚の祝いに、彼女があの富豪の家に持っていってもいいような絵を一枚、竹流に依頼した。竹流はイタリアに戻って、ルネサンス期の美しい聖母像を手に入れてきた。それがこの額縁に収まっていたのだ。
 竹流は銀座のギャラリーで真にこれを見せて、絵の値段はお前が決めろと言った。名も知られていない画家のものであろうとも、それがとんでもない価値のあるものだということだけは分かった。
 それから竹流は、この額縁はルネサンス期のものには相応しくないので取り替えておくと言った。これは十七世紀のオランダの画家のものにこそ相応しいと言って。詳しい内容は忘れてしまったが、絵の代金に何を支払ったかは覚えている。

 その時、お待たせしましたという、男にしては高めの声と共に扉が開いた。
 現れたのは、人のよさそうな、まだ背広が身体にしっくりいかないような初々しい若者だった。広報課の一番の若手で、時政と名乗った。
「あの、私がこの絵のことをご説明するんですが、どういったことをお話すればいいんでしょうか」
 取材と聞いて明らかに緊張しているようだった。何とか言葉遣いは標準語になっていたが、イントネーションは見事に訛っているので、それが却って彼の純粋な人柄を際立たせるように見えた。

「この絵がここに贈られた経緯などから」
 時政は会議室の一角の椅子を、真と美和に薦めて、自分もその斜め向かいに座った。
「実は、私がこの絵に詳しいのは、これが私の親戚の家の蔵から出たからで、従兄から、おめぇ、絵に詳しいべ、ちょっくら見てくれんかって話があったんです。従兄も伯父さんも、こんなものが蔵にあるなんて知らなかった、と言っていましたし、随分昔のことだろうけれど、多分ソ連から手に入れたもんだろうて言ってました。それで、私が見たところ、手法なんかはフェルメールやレンブラントのものですが、素人目にはよく分からないので、弥彦の江田島さんに相談しました。色々調べてもらって、やっぱり贋作だってことでしたけど、こうしてなかなかいい絵でもあるんで、県庁に寄付するって話になったんです」

「弥彦の江田島さん、というのは?」
 それは添島刑事が絵画に詳しい人だからとメモしてくれていた人物だった。
「新潟じゃあ、一番絵に詳しい人です。昔はパリに留学なんかもしてたそうです。苦労して金を貯めたって話です。でもお父さんが病気になってしまって、弥彦に帰ってきて、それからずっと村役場に勤めておられます。一度お会いになったらどうでしょうか。私が連絡しておきます」

 時政の言葉に熱が籠もっているように感じる。絵のことになると、必死であるという風情にも見えるが、何かもっと別のものに対する情熱のようにも思える。
「ぜひお願いします。後で詳しいことを教えてください。ところで、その親戚のお家というのは」
 時政はいくらか胸を張るように答えた。

「伯父さんとこは昔の豪農で新潟では一、二を争っていたそうです。昔の母屋なんかは一般公開されてます。伯父さんは今、村上に住んでいますが、昔は荒川に住んでたんです。れんじょうって、村上で聞いてもらったら直ぐに分かります。漢字は蓮に生きる、と書きます。あ、でも私が従兄に知らせておきます。行かれますか?」
 真は頷いた。

 豪農と言われてもピンとこなかったが、時政の話では、天明の頃には三千坪の敷地に五百坪の母屋が建っていたといい、使用人だけでも七十人を越えたというし、他にも山林や水田を合わせて二千坪の所有地があったらしい。
「フェルメールやレンブラントというのは贋作が随分出回っていると聞きますが、これらもその一つということですか」
 絵の来歴や自分の親戚の事などどうでもいいのか、絵そのものの話になると、やはり時政の目が輝いた。

「少しずつニュアンスは違いますけんど、まずフェルメールは驚くほどその生涯は謎に包まれてるんで、いつどんな絵を描いていたかもよく分かっていないんです。しかも彼の絵というのはパトロンにあたるごく一部の人たちが買い占めてたんで、市場に流れなかったし、十九世紀にやっとあるフランスの共和主義者の評論家の目に留まって有名になるまで、全く知られていなかったわけで、贋作なんかも作りやすい画家だってことです。レンブラントは工房を持っていましたから、彼の弟子の作品もみんなレンブラントの署名があって、どれが本当に彼自身の真筆か、全部は解明されてないと思います。当時は絵画を工房で生産するというのは珍しいことではなかったですし。贋作ってのが時代を反映してる、歴史を作ってるって言っておられたそうですね。私もそう思います」
 時政は人懐こく真に言った。

「贋作のことに詳しいんですか」
「この素晴らしい絵が贋作だって聞いて、勉強しましたです」
 時政は立ち上がって、真と美和をまずフェルメールの絵のほうに誘った。
「その作品の作者を決めるには、まんず署名を見ます。画家はどこにでもサインをするので、ぱっと見たのでは分からないことも多いもんです。フェルメールは分かりやすいほうです」

 そして、時政は絵の一点を指差した。
「この絵は『レースを編む女』と同じ、この後ろの壁のとこにあるので、見つけやすいです。読めますか?」
 白地の壁に背景に溶け込みそうな薄い茶で、Mの真ん中から一本の棒が縦に突き出した形の文字と、小文字のeerが続いている。

「フェルメールの本名は、ヤン・フェルメールっていいます。アルファベットで言うと、JAN VER-MEER、オランダ語ではJじゃなくてIになるんで、IVMeerってサインになるんです。だからこのMの上に棒が突き出たみたいなのは、Iと、それからMのこの真ん中の谷はVに見立てて、それでIVMeer、ヤン・フェルメールってわけです」

 真は声に出ないほど驚いていた。そうか、ここにIVMがあったのだ。企業の名前の省略などではない、画家の名前だったのだ。

 ヤン・フェルメール、絵、額縁。それなら竹流が事件に関わっても納得がいく。新津圭一の脅迫と絵が繋がってきた。新津圭一はIVMの件で、誰かを脅迫していたというのだから。
 竹流は、真が新聞記事を読んで、あのSという署名の入った雑誌の記事を見るだろうと思ったのだ。そしてその中の具体的なIVMという三文字に、その文字が意味するものにたどり着くと信じてくれたのだろう。

 この額縁の意味することはひとつだ。この絵は確かに一度竹流の手元にあったのだろう。そう考えると、急にこの絵が何かを語りかけている気がした。
 改めて絵を見ると、これが本当に贋作であったとしても、この作者はフェルメールという画家を、またその描かれた世界を本当に愛していたと思われた。この絵の内にある空間にも、描かれた人物にも、切り取られて止められた時間と場所にも、絵の中に入り込もうとする柔な精神を拒否する何かがあった。

 ここには入り込めない、絵と見る者の間に永遠の隔絶があって、その距離感が逆に真を安心させた。不用意に心の中に入り込んでくる、場合によっては狂気を孕んだ絵を前にすると、ひどく不安になるが、この絵にはそういうものはなかった。不安な絵は、自分の中にもある同じようにゆがんだ何かを、大衆の前に露見しているように感じられて、いても立ってもいられなくなるのだ。

 フェルメールの絵の中の世界は、一向にこちらに近づいて来ず、またこちらが近づくことも拒否するので、それぞれが大切にしている、他人と共有はできない何かを敢えて隠す必要もない。それは優しさではない。この針仕事をする娘の緊張感、張り詰めた空気が、他人が近づくことを拒否しているのだ。

「この絵が盗難にあったことはありませんか?」
「盗難?」
 時政は、いきなりこの男は何を言うのだ、という顔をして真を見た。
 この絵が『大和竹流』と関わっているなら、それしか考えられない。しかし、時政は難しい顔をしただけだった。真は話題を変えた。

「贋作の確認について、もう一度聞かせてください。最初に署名を確認するとおっしゃいましたね」
 時政はいくらか真を警戒し始めたように見えた。

「署名は、まず絵の帰属を決めるのに最初に確認するものです。非常に目立つところに署名をする画家もいれば、敢えて分かりにくいところに署名をする画家もいます。例えば家具とか絵の中に描かれた絵画の中とか、探されることを敢えて意識しているんです。しかし、場合によっては全く別の人間の名前が署名されていることもあります。画家は絵を売らなくてはなりません。今は何億という値がついていても、生きているときには全く売れなかった画家もいます。だから、署名が大切といっても、画家自ら署名を偽ることもあったんです。フェルメールの場合、自分の絵を売るために、同時代のピーテル・デ・ホーホやヘラルト・テル・ボルヒ、エフロン・ファン・デル・ネール、ハブリール・メツーの名前が引っ付いていてもおかしくはないわけです」

 時政は目の前のIVMeerを指した。
「これは十九世紀にトレ・ビュルガーというフランスの批評家がファン・デル・メールというデルフトの画家を論文の中で有名にしてから描かれた贋作でしょう。だからこんなふうに自然に堂々と彼本人の署名がされています」

「フェルメールの贋作というのは、当時随分描かれたのですか?」
「二十世紀の始めの数十年間でフェルメール探しに躍起になった人々が、まずは同時代のデ・ホーホやメツーらに帰属させられていた絵を彼の名前に戻し、それから今度は熱心にやりすぎて他の画家の絵までもフェルメールのものにしてしまいました。今では彼の絵と真実確認されているのは僅かに三十五点です。あと、かろうじて疑われるものを含めてもたったの四十点余りです。しかし、当時の批評家も愛好家も彼を非常に愛しましたので、これが皮肉にも多くの贋作を生む土台になったわけです。この絵が贋作と分かっても何か心が惹きつけられるのも、この作者が彼をとても愛したからだと思えます」

 真は贋作者にそのような良心があるとは思わなかったが、ただこの絵が贋作を描くつもりではなく、ただ自分がフェルメールを愛する気持ちだけに忠実に描いたものだと言われればそうかもしれないと思った。これが贋作に仕立て上げられたのは、この絵に署名が入れられたその時からだ。誰の手によるものかはともかくとして。

「他に贋作を確認する手段として、絵を描いた素材があります。それがその画家が生きていた時代にあったものか、またその人が活躍していた場所で手に入るかどうかということです。こういったことは現代科学の得意分野ですから、今では何の困難もなくやり遂げます。それから、絵の描かれた時代に実際に使われていた手法、技術が使われているかどうかです。これも客観的に判断できるので簡単です。問題はこれらをクリアしても、最後にはその画家の作風が確かに本人のものであるかどうかを云々しなくてはなりません。これが大変難しくて、意見も別れるところですが、これをクリアしなくてはその作家の絵だとは世間に認めさせることができないのです」

「この絵は、どこが合格しなかったのですか」
「顔料がたった一つか二つ、その時代になかったものでした。贋作者は非常に注意深くやったと思いますよ」
 真は時政の言葉がかなり標準語になっていることに気が付いた。彼が自分を疑って注意深くなっていることの結果だろうと思った。

「失礼ですが、私が当時の新聞記事で見たところでは、これは十九世紀の優秀な贋作だということでしたが、その時代には無論、今あなたがおっしゃったような素材を確認する科学技術はなかったんでしょうね」
「それは勿論です」
 時政は、これまでの人懐こい顔ではなかった。不利になると明らかに激昂する人間がいるが、そういうタイプなのかもしれない。ただ若いのかもしれないが。

「では、贋作者も自分の使ったものが適切なものかどうかはわからなかったのではありませんか。それが今後科学の力で解明されるなどとも思っていなかったでしょう。その人の時代には、彼がさしあたって絵をフェルメールとして、あるいは他の誰かの絵として偽って売るために、その顔料が完璧にフェルメールの時代のものである必要はなかったし、そんなことなど思いつきもしなかったのではないでしょうか。もしこの作者が『注意深くやった』のだとしたら、その作者は極めて今日に近い時代の人間であるはずです」

 時政は今度はまじまじと真を見つめていた。それは敵意というよりも驚きの表情に近かった。
「あなたは一体何を調べに来たのですか」
「一枚の絵からどれほどの歴史的真実が解明されるかということです」
 真はしらっと言い切った。自分が今冷静でいられるのは、この額縁の力に支えられているからだと思った。
「あるいは、この贋作が描かれたのは二十世紀、しかも極めて最近と改める必要があるのかもしれませんね」

 三年半前、竹流は新潟で仕事をしていた。この絵はそのときの彼の仕事に関わっていたことは間違いがなさそうだった。真はそのことを確信すると、いくらかは安堵した気持ちになった。
「しかし、立派な額縁です」
 時政が何かを押し隠すように言った。
「十九世紀の?」
「いえ、あの十七世紀のオランダの」

 時政は自分で言って、あ、と気が付いたようだった。彼が何かに動揺しているのは明らかだった。
「贋作者は額縁を選ぶ必要はあったでしょう。この額縁は大変立派なものに思えます。この作者はいずれにしても大変上手くやったのでしょうね」
 美和が心配そうに自分を見ているのに気が付いたが、真は自分の中の何かかが急速に彼女から離れていっているのを感じざるを得なかった。この町に着いた瞬間に覚えた不思議な距離感を、一気にこの額縁が縮めてしまった、その距離が自分自身への距離だったのか、他の何かへの距離だったのか、今となってはそれは同じことのように思えた。






贋作騒動で最も面白い事件は、やはり一時失われた『モナ・リザ』でしょうか。
その時、世界のあちこちの闇の世界で、『本物のモナ・リザ』が出回っていたと言います。
本家本元に『モナ・リザ』がない、それならどこかにある、これかもしれない!

この理屈によって、闇の世界をうごめいた偽物と多額の金。
そもそも『モナ・リザ』の盗難は、大きな金を動かすためのショーだったという説も。

さて、ほとぼりが冷めて、金もうけをする人が十分儲けた後で、返ってきた『モナ・リザ』
本物でしょうか? それとも。
某美術館が本物と言って飾っていて、『偽物と違うん?』なんて思いませんよね。

絵画の真贋。
正直、何が決め手なのか、難しいですよね。

真作とわかったのが、キャンバスの布地が、その画家の他の作品のキャンバスの布地の目と、ぴったり繋がることから判明したというのもありましたね。
でも、両方とも、極めて近い時代の、別の作家のものだったら?
どうやって、分かるんでしょうね。

フェルメールにしても、絵を描いていたころはちっとも売れなかった。
同じ時代の売れっ子の作家の真似をして描いて、売ろうとしていたことも。

そう言えば、福岡の博物館に展示されている倭の那の国の王の印。
きんきらで美しいのですが…本物?
とか疑って何回も戻ってじろじろ見ていたら、怪しい奴と思われたのか、見張りの人に遠目で見張られてしまいました。

さて、自分の目を信じますか?
権威を信じますか?

We can't touch, but can feel.



Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨56] 第10章 県庁の絵(2) 

絵画の話はまだまだ続きますが、今回は少し読みやすいかも……
真と葛城昇(ゲイバーの妖艶な店長かつ竹流の仲間)とのやり取り(実は恋敵同士??)、美和と真の痴話喧嘩(かなり本気)をお楽しみください。






 何か大きな力が介在しているのだろうか。
 高瀬が言っていたことが確かなら、事は国際問題だ。
 彼は『日露戦争の頃、ソ連から運び込まれた美術品のことで』竹流が三年半前何かを調べていたと言った。それが『新潟にある』、と。
 運び込まれたというのは、貿易ではあるまい。略奪か、何かと交換されたのか、いずれにしても日の当たる理由ではなさそうだ。

 勿論、戦争に略奪はつきもので、今、大国が美術館に所有している多くの絵画が、戦争の時代に敵国から持ち出されたものであることは周知の事実であるのに、それを敢えて責めるものはいない。
 それでも、誰か個人が金を積んで絵を買うと、経済力にものを言わせた略奪だと言われる。絵画は崇高なものであり、価値の分からない者が手にするのは冒涜であるかのように。
 これがたとえ最大の略奪が行われた第二次世界大戦以前の日露戦争と言えども、日本軍が『略奪』に絡んでいたとなると、何を言われるかわかったものではない。だが、一方では、金に糸目をつけなかった熱心なコレクターのおかげで、埋もれることなく今日まで永らえ、人々の目を楽しませることになった絵画もあることだろう。

「急に、びっくりするじゃないか」
 電話の向こうで相手が寝起きらしい不機嫌な声で言った。その声で、彼も竹流を捜していて眠れぬ夜を過ごしているらしいことは十分わかった。
「どこで番号、聞いたのさ」
「高瀬さんです」

 電話の向こうで葛城昇は口笛を鳴らした。
「あの爺さん、あんたには優しいんだな」
 真はその言葉は無視した。
「絵を調べて欲しいんです」
「絵?」
「フェルメールの『レースを編む女』の習作の贋作。それは竹流の手元にあったはずです。見たことはありませんか?」

「フェルメールねぇ。贋作なんか相手にしないと思うけど」
 昇はまだ寝起きの不機嫌な声のままだった。
「じゃあ、贋作じゃないのかもしれない」
「どういうことだ?」
 ようやく昇の声から不機嫌の色が消えた。

「盗んだ人間にも、盗まれた人間にも、それが本物としての価値があったということです。実は贋作か本物かということはどっちでもいい、要するにそれだけ人の心が動けばいい」
 電話の向こうの昇の気配は、随分と遠くに感じられた。
「知っているのか知らないのか分からんけど、あいつの専門の中に十七世紀のオランダなんてのは入っていない」
「捜してみて欲しいんです。彼が持っている筈だ」

 また昇は随分と間を置いた。真がいらいらしているのを試すような気配だった。
「それが、あいつの失踪と何か関係があるのか」
「多分」
「だが、あいつが俺たちに何も言わずにやった仕事だ。俺たちに分かるところにそれがあるとは思えないけど」
 昇が多少は竹流に対して腹を立てていることは想像できた。それは、彼らの大事なボスが、仲間を信頼し打ち明けてくれなかったからなのだろう。真は感情的な言葉を言いかけてやめた。

「それから、彼のために贋作を描く人間はいませんか」
「贋作? フェルメールの絵か?」
「そうです」
 昇は、今度は何か考えるような気配で暫く黙った。
「贋作作家は何人もいる。皆一流だ。フェルメールを描けてもおかしくない人間はいるにはいるが」
「その人に会いたい」

 今度こそ、昇の言葉に緊張があった。
「今は行方知れずだ」
「まさか、例の男?」
 寺崎という男は『逃がし屋』だとは聞いたが、他にもそういう特殊能力を持っているのかもしれない。
「女だ」
「女?」真は思わず聞き返した。「あんたたちの仲間ですか?」
「いや、そういうわけではないが」

 昇はまた暫く黙っていた。何か思い当たる節があるのだろうと、真は思った。辛抱強く昇の言葉を待つと、漸く昇は決心したのか、一言一言丁寧に言った。
「その女は昔、竹流の恋人だった。恋人の一人、というべきか。だが、ある時、いわゆる三角関係ってやつでごたついて、姿を消した。その三角関係のもう一つの頂点は、最後に竹流と仕事をしていたと思われる、例の消えてしまった男だ」

「寺崎昂司」
 真がその名前を呟いたので、向こうで昇が緊張したように思えた。真はゆっくりと質問の言葉を投げかけた。
「それ、いつのことです?」
「確か、三年前、いや、もう少し前かな。冬だったから」
「一九七六年の一月ごろ?」
「その通りだ。お前、何を嗅ぎつけたんだ」

 真は受話器を握りなおした。
「漸く少しだけ分かってきただけです。あいつの背中の火傷のことを知ってますね。それは、寺崎昂司と何か関係があるんですか」
「電話でする話じゃないぞ」
 向こうで、昇が抑えた悲鳴のような声を上げた。

「時間が惜しいんです。三年半前、何があったんですか」
「俺も詳しいことはわからない。彼が仕事でウクライナに行ったときに、そこで何か仕事を請け負ったんだと思う」
「ロシア帝国時代の貴族の末裔から、過去に日本軍に『略奪』された絵画を取り戻して欲しいと頼まれた」
「多分」
「本物が混じっていた可能性は?」
「ある。大いに、ある」昇は興奮気味に繰り返した。「それがフェルメールかどうかは分からないけど」
「しかし、関わっていた人間は、それが本物である可能性が実に高いことを知っていたはずです」
「その通りだ。彼に仕事を託したのは、皇帝の血筋だったはずだ」

 真はいつの間にか自分の手を握りしめていた。まさに武史が言ったとおり、『来歴がはっきりしている』のだ。
電話ボックスの中はあまりにも狭い空間だからか、湿度が篭り酸素も足りないようで、息苦しく思えた。
「彼の火傷は、その女とも関係があるんですか」

 昇はもう隠し事をするのを諦めたようだった。
「女は自分が描いた絵、つまり贋作が何に利用されるのかを知っていて、多分その本物のほうを、少なくとも本物かもしれないものを手に入れようとしたんだろう。寺崎は彼女に惚れたかもしれないが、まさか彼女が竹流を裏切るとは思っていなかったと思う。女は自分が描いた贋作を持って消えた。それから佐渡の隠れ家で爆発事故があって、寺崎は死ぬところだった。竹流が彼を助けに行かなかったら。いや、なんか色々あって俺も記憶が混乱してるかもしれない。竹流が言った言葉を信じているだけなんだ」
「その女は、本当に行方不明なんですか」
「竹流は捜すなと言った。あいつは女を責めるのが嫌いだからな」

 ふと電話ボックスの外に凭れる美和の気配を感じて、真は漸く彼女を見た。美和は心配そうにこっちを見つめていた。昇は、真の連絡先を確認すると、何か分かったら知らせると言った。今度こそ、協力できないという気配はなかった。


 真が電話ボックスから出ると、美和は早速問い詰めてきた。
「誰ですか?」
 真は答えなかった。もしかして、ここでこんなことをしていて、美和にも危険が及ぶことはないのだろうか。もしもこの一連の出来事の中で田安が殺されたのだとしたら、相手は相当狡猾な人物だと思える。
「どうするんですか」
 先の予定を美和は聞いたようだった。

「レンタカーを借りて、とりあえず村上に行こう。蓮生という家を見たい」
 駅前に戻ってレンタカーを借りると、彼らは村上への道を辿った。真は頭の中で色々な出来事を整理するのに懸命で、隣の美和の気配を確認しそこなっていた。
「先生、何か隠し事、してるでしょ」

 この娘は何を言い出すのかと思った。だが一方で、真が今同居人の足跡を辿るのに懸命で、美和の存在を忘れているという事実に、彼女が気が付いているのだろうと感じた。
 美和は、真が電話を切った後、その内容についても今後の予定についても明確なことは何も言わず黙っていることについて、気に入らないと思っているだろう。そのうち彼女が怒り出すことは十分想像できた。ここまで一緒にこの事に関わっていたのに、急に真が秘密を持ったように思えたに違いない。

 だが、頭の中で整理できたことからして、話の内容は随分突飛な気がしていた。竹流は随分思い切った詐欺をしていたのではないかと、そう思えたのだ。ただの贋作なら彼は動かなかっただろう。彼の手元に『本物』がある。内容は別にしても、真はそれが特別な本物だろうと確信していた。

 スタート地点。
 それがどこにあるのだろう。
 誰かその本物を手に入れたくて仕方がない狂信的なコレクターがいるのか。

 そもそもは、ウクライナの皇帝の末裔が、竹流に『それ』を取り戻して欲しいと頼んだ。高瀬や昇の話を総合すれば、三年半ほど前、竹流はソ連から日本に渡った絵画の件で、寺崎と一緒に新潟で仕事をしていた。その時彼は決して嫌な仕事とは思っていなかったのだ。それがどこかの時点で、嫌な仕事にすり替わった。

 竹流は、フェルメールの贋作を描くことができる女に仕事をさせていた。どの絵画が本物かは、その皇帝の末裔から聞いていただろう。竹流は新潟に渡ってしまった本物を贋作とすり替えて、その人に返すつもりだったのではないだろうか。
 しかし、それらの絵は幾人もの人間が間違いなく贋作であると証明したと言う。その時点では既に絵画は本物から贋作にすり替わっていたのだろうか。いや、昇は『女が自分の描いた贋作を持って消えた』と言った。では、まだ本物はまだ自分たちの目には入ってこずに、どこかに隠れているのか。

 だが、額縁は間違いなくあの絵だった。竹流は、真があの額縁を知っていることをわかっていたはずだ。だから、問題の絵画はあの絵なのだ。では、誰かが、本物を贋作だと言って、嘘の証明をしたのか。添島刑事は複数の人間が証明したと言っていた。しかも時政の話では、その手法も随分と科学的だったという。あるいは証明された時だけ、絵は贋作とすり替わっていたのか。
 そうではないとすれば、絵は始めから贋作なのか。とすれば、竹流が必要としていたのは『本物の贋作』ではないのか。『贋作の贋作』を必要とするなどということがあるだろうか。

 それに第一、誰かが竹流を捕まえて、あんなにもひどい目にあわせる理由がどこにも見あたらない。誰か極めて狂信的なコレクターがいて、どうしてもそれを手に入れたいと思っていて、竹流を捕まえて本物がどこにあるかを喋らせようとしたのか。
 だが、それにしてもあんなやり方をするだろうか。
 手が砕けるほどのことを?
 そのコレクターは絵に執着はしていても、竹流をあんなふうにいたぶる必要はないはずだ。

 しかも、この話のどの辺りから、新津圭一が絡んでくるのだろう。そんなに前の事件を今になって、竹流や寺崎が改めてカタをつけなければならなくなった理由は何だろう。しかも竹流はそのために、澤田の秘書だった男の息子と思われる人物の手を借りているようだ。政治に絡んだ金の動きだろうか。

 真は赤信号で思わず急ブレーキを踏んだ。『誰か』の最終目的は絵ではないのか。
「先生」
 急ブレーキに前につんのめりそうになった美和が不満の声を出した。横断歩道を渡っていた女性が、運転席を睨みつけてくる。
「明日、東京へ帰れ」

 美和は不可解なものを見るように真を見つめた。
「何の話?」
 真は返事をせずに暫く前方を見つめていた。町を少し離れたところで、車の通りはそれなりにあったが、歩行者はさっき真を睨みつけた女性以外にはいなかった。東京と違って建物は低く、穏やかな景色に思える。
 信号が変わったので、ゆっくりと車を発進させた。美和が自分を見つめている視線が突き刺さるようだった。

「北条さんに連絡を取って、帰ってきてもらうんだ。彼と一緒にいたほうがいい」
「だから何の話よ」
 美和の声が混乱を通り越して、いらつきと怒りに変わっていた。
 だが、誰が何をしたにしても、竹流があんな目にあったことだけは事実だ。しかも、この件に田安も関わっていたのだとしたら。もちろん、田安が同じ事件に関わっていたという証拠は何もないし、全く偶然の出来事である可能性もあるのだが、田安も竹流も、澤田を挟んで新津圭一と関わっている。

 だが、事情がどうあれ、美和に危険が及ぶことになれば、きっと真はとんでもなく後悔することになる。
「彼らが竹流をあの程度で済ませたのは、彼が切り札を握っているからだ。そうではない人間はあっさりと消されている。新津圭一も、田安隆三も。美和ちゃん、田安という人は何十年も傭兵をやっていた、戦争のプロだ。その人でさえ、あんなふうに殺されてしまった」
「でもそれは事故だったのかも知れないんでしょ。それに、もしそうなら、先生だって危ないじゃない」

 美和の感想はそっちのほうへ行ってしまった。
「君の心配をしてる」
「私だって、敵の一人や二人、やっつけられると思うわ。先生一人よりずっといいはずよ」
「君を守っている余裕がない。北条さんのところなら安全だろう。もしも君に何かあったら、北条さんに顔向けできない」

 美和は完全にむっとしたようだった。
「仁さんは今、関係ないでしょ」
「彼から君を預かっているんだ」
 思わずこぼれだした本心だった。

「預かるって、私は物じゃないのよ。それに大体もう遅いわよ。今ならまだ顔向けできるとでも言うわけ? 決闘してでも責任取るって言ったじゃない」
 真は、あの額縁が縮めた何かと自分の距離と、逆に遠ざけてしまった美和と自分の距離を、今埋め合わせることができないと感じていた。
「とにかく、今は北条さんのところにいてくれ」

 強い調子で真が言ったのに対して、美和は噛み付くように答えた。
「今更仁さんのところに帰れって、酷いんじゃないの。結局責任とる気がないんでしょ。先生って最低。エッチするときだけよければいいの?」
「運転中は黙ってろ」
 美和の言葉に急にイラついてしまい、真は堂々巡りの話を切り上げようとした。真が話を切ってしまおうとしたので、美和は完全に怒り出したようだった。

「じゃあ車を止めなさいよ。でなきゃ、飛び降りるわよ」
 美和が本当にシートベルトを外したので、真は溜息をこぼして車を脇に寄せた。
「君は、信じられないことを言うんだな」
「先生のほうが信じられない。今更なかったことにしようって言うわけ? 仁さんが他の人と寝てもいいって言うような人だから、弄べるって思ったわけ?」
「馬鹿を言うな」
「じゃあ、仁さんのことなんて持ち出さないでよ。先生と私には関係ないでしょ」

 暫く睨み合っていたが、どちらかといえば美和のほうが正論だった。真はハンドルに手を掛けて、暫く前方の真っ直ぐな道を見つめていた。美和が自分を見つめている視線が、これほどに痛いとは思っていなかった。
 真は煙草を一本抜いて、火をつけた。

 どこかで、今ならまだなかったことにできるかもしれないと思っている。事がこうなって、美和を守る義務感が面倒になっていることも事実かもしれなかった。自分ひとりの身さえ、感情さえ持て余しそうになっている。昨夜の夢が、自分の心も身体も、どこかへ戻してしまった。それを確かなものにするかのように、あの額縁が一気に感情を支配しようとしている。
 美和が自分を見つめている視線が、怒りから失望へ変わっていくのを、身体の左半分は痛いように感じていた。

「先生は、大家さんを助けたいんでしょ。私だって」
「これは、彼と俺の問題で、君には関係がない」
「何よ、それは」
「君が巻き込まれるのは、困る」
 美和は真から視線を外した。

「大家さんがいないと、夜も眠れないから?」
 怒り出すかと思っていたのに、美和の声は不安と孤独の中で随分と優しく聞こえたように思った。昨夜、夜行列車の中で美和を抱き締めながら心が違う夢を追いかけていたのを、美和はその身体ごとで感じていたのかもしれない。

「彼は、大事な友人なんだ」
 そんな言葉では言い表せないことを、美和も知っているはずだった。
「知ってる。でも、先生も、私や賢ちゃんやさぶちゃんにとって大事な人だわ」
 そう言われて、真は思わず美和を見つめた。美和の言葉は、真の感情を覆うように大きなものに思えた。
 真は煙草を灰皿に捨てた。それからゆっくりと車を車道に戻して走り始めた。暫くして美和は漸くシートベルトを締めた。






さて、もう少しだけ、絵の話、そしてその絵を持っていた豪農の家の事情にお付き合いください。
第11章は再び、『若葉のころ』です。
その前に、猫の最終回があります。それからコンビバトンをやろうかな。

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[雨57] 第10章 県庁の絵(3) 

竹流が残していた新聞記事には雑誌記者・新津圭一の死が報じられていた。
新津圭一は、真が付き合っている女・香野深雪の昔の男で、不倫の関係だった。
新津圭一が脅迫していた相手は、政経済界の名のある人物たちで、その内容は『IVMの件で』だったというのだが、そのIVMがフェルメールの署名であることが判明。
フェルメールが絡んでいるのなら、大和竹流とつながってくる。
竹流は三年半前、新潟の豪農の家から出たという大量の偽物の絵画と関わっていた。真と美和はその豪農の屋敷を訪れる。

2回に分けて、新潟・村上~荒川の豪農の屋敷を訪れてみます。






 村上までは国道三四五号を約六十キロ、日本海沿いに走る。内陸から国道七号を走る道もあったのだが、距離的には大差もないし、海岸沿いの景色が多少は自分たちの感情を宥めてくれるように思えた。雨が上がった後の冷めた海の色を見つめていると、重いはずの日本海の海も、光に満ちているものだと思えた。

 美和はもう何も言わなかった。真も何も話さなかった。
 彼女が自分の女でなくても、大事な存在であることは変わらなかった。それに、本当はむくれられているほうが辛かった。機嫌を直してくれればいいと思っているのも事実だった。

 村上市が近づくと、海岸沿いにホテルや旅館がちらほら見えてきた。右手に山、左手に海を見ながら、そのうち国道は内陸に入っていった。更に旅館やホテルが続き、暫く走ると駅が見えてくる。線路を越えて、時政が書いてくれた地図を頼りに、新多久という料理屋を目指した。

 村上といえば漆と鮭。どちらも歴史が古く、鮭は市内の三面川で平安時代から漁が行われていたという。残念ながらシーズンは鮭が川に戻ってくる十月中旬から十二月だが、それぞれの季節料理も美味いというので、時政が予約を入れておいてくれた店だった。

 料理が運ばれてくると、美和も機嫌を直してくれたようだった。いくら何でもこんなところで放り出すわけにもいかないし、美和の方もそう思ったのだろう。相変わらず食欲だけは旺盛で、鮭が彼女を元気にしてくれるように見えた。

 時政の伯父、蓮生の家は山のほうに向かった羽黒町にあった。山を背景に屋敷が建っているので、まるでその山ごと敷地に含まれているように見える。屋敷の規模は想像していたほどでもなかったが、庭園は想像よりずっと大きい。

 表門は新しい木と瓦でできていた。呼び鈴を押すと、随分とたってから御手伝いと思しき四十台くらいの女性が出てきて、門の横の潜り戸から顔を出した。
「『歴史紀行』の相川と申します。時政さんに御紹介いただきまして……」
「はい、伺っております。どうぞ」

 潜り戸の向こうは、家の玄関まで実に立派な枝振りの松が幾本も植えられていた。玄関までかなり歩いて辿り着くと、建物の中はそのまま土間で、囲炉裏の間がまず正面にあった。土間は入り組んで奥まで続いている。思わず天井を見上げると、その立派な梁に驚かされた。重々しく黒々とした欅の梁だった。

「どうぞ、お上がりください。今若主人が参ります」
 女のイントネーションは綺麗な標準語だった。真と美和は薦められるままに上がって、囲炉裏の側に並べられた座布団に座った。

 程なく『若旦那』が現れたが、既に五十歳は越えているだろう中年の男だった。背は高くなく、ガッチリした肥え方だった。身体つきのしっかりした感じとは不釣り合いにも、顔つきはどこか自信のないイヌ科の動物のようだった。
「絵の事で何か聞きてえことがあるというのは、あんたか」
 幾分か横柄な態度で若旦那は切り出した。囲炉裏の向こうにどっしりと腰を下ろす。真は例の偽の名刺を差し出した。

「『歴史紀行』では今度『贋作の歴史』という内容で記事を書くことになりました。ここからフェルメールやレンブラントの絵画の贋作が見つかったとお聞きしましたので、時政さんにご紹介いただきました」
「何でああいうものがうちから見つかったか、っつうのが聞きたかったんだべ」
「えぇ、それが歴史的にどういう意味づけになるのかを考えていきたいと思っています」

 若旦那は真を頭から足までとっぷりと見て、次に美和にその視線を移した。自信のないイヌ科の動物のような顔つきだったが、目だけは執拗で、見られた後まで身体に残るような視線だった。ある意味では性的な興奮に繋がるような視線で、人間の中の不可解な反応を引き起こすような何かがあった。
 美和が横でほんの少し身震いしたように思った。

「あれがうちにやって来た経緯は、わしには分からん。うちのじっさんは知っとるだろうが、あいにくボケちまって話になんねぇ」
 真は身体にまとわりつく若旦那の視線を受けながら、それを振り払うように尋ねた。
「色々と噂もあったようですが」

「日露戦争の頃のことだべ。そういうことがあったかもしれんし、なかったかもしれん。わしらはご先祖様が何をなさったか、よくは知らん」
 若旦那はそう言って天井の梁を見上げた。
「これだけの屋敷を維持していくだけでも大変なもんだて、財産も少しばかりは食いつぶしていかねばなるめぇて、蔵の中からいくらか売ったんだ。その時にあれが見つかった。わしらにはあれがどういうものか分からんべ、時政の倅に任せたんだ。贋物かどうかはなんてぇのは、わしらにはどうでもえぇ」

「時政さんはこちらとはご親戚だそうですね」
「あれはわしの腹違ぇの弟の倅だ」
 話しながらも若旦那の視線はいよいよ執拗に真に絡み付いてきた。相手を値踏みしているようだが、それは相手の中身を探るというよりも、衣服の下の身体を確認するような視線だ。居た堪れないような気分になってくる。

「こちらは昔、荒川にお住まいだったとか」
「うちは下蓮生といって、荒川の蓮生の分家になるんだ。荒川には今、上蓮生って家があるけんど、それも分家だ。本家は昭和の始めに跡を継ぐものがなくなって、途絶えてしもうた。屋敷は一般公開されとる」

「本家が途絶える? 分家から跡継ぎを出せば済んだのでは?」
「なに、あと継ぎは何人も出した。皆、一年とたたねぇうちに死んでしまったんで、誰も寄り付かなくなった。今、上蓮生を継いでるのも女だ。男は皆死んでしもうた。男で生き残ったのはわしと弟の時政だけだべ」
「皆? 何か病気でも?」
 若旦那は表情を変えなかったが、笑ったような気がした。

「呪いだ、皆、そう言うとる」
「呪い?」
 話の収拾がつかなくなってきたような感じだった。ちらりと美和を見ると、もう帰ろうよ、というような視線を真に向けていた。

「噂はともかく、ロシアと取引をしていたというようなことは?」
 帰りたいのは山々だが、聞くことだけは聞いておかないと、と思った。
「そりゃあ、あったかも知れねぇ。じっさんはロシア語ができる。だが、日露戦争なんてぇのはじっさんの親父の頃の話だ、誰ももう知っちゃいねぇ」

「下の家と、本家や上の家は随分離れていますが」
「下蓮生がここに移ったのは、もう江戸の終わりのころだ。何故なんてぇのはわしらには分からん」
「何か海外との取引や貿易に有利だったからでは? 何かそういう記録はないのですか」
「ふん」
 若旦那はまた、真を嘗めるように見た。
「門を入って来たべ」

「え?」
 真は何を聞かれたのか分からなくて、聞き返した。
「門を見たべ?」
「えぇ、それがどうか?」
「門と蔵の一つが火事に遭うた。四年ほども前のことだ。だから門はまだ新しいんだ。じっさんがボケたのはその火事を見てからだ。焼けた蔵には書物があったべ、あんたの言う記録なんてぇのもそこにあったかも知れねぇが、わしは見たことがねぇて、分からん」
「それはどこから出火したのですか」

 さきほどの女性がお茶と和菓子を運んできた。遅くなりまして、と彼女は上品な声で挨拶をした。
「放火かもしんねぇと言われた。蔵はその頃門の脇にあって、蔵の脇から火が出たってぇ話だったべ。それが原因で蔵を皆片付けて、あの絵も見つかったてぇわけだ」
「犯人は?」
「さぁねぇ」
 自分の家の事なのに、若旦那は興味のないような返事だった。代わりにお手伝いの女性にあのねっとりした視線を向けていた。

「絵は、あの県庁に寄贈した絵だけではなかったんですね」
「あぁ、何十枚かあった。わしには何やら分からんべ、時政の倅に任せて、弥彦の何とかってぇ人に鑑定とやらを頼んである」
「弥彦、というと、江田島さんという方ですか」
「あぁ、そんな名前だったかな」
 若旦那の話し方はのらりくらりとしてきた。彼が真たちを警戒しているからというよりも、無関心の故のようだった。雑誌記者というから、どんな楽しい取材が待っているのかと思えば、興味のない話だった、というような感じなのだろう。

 その家を出ると、美和が思わず身震いした。
「何か気持ち悪い目つきの人だったですね。っていうか、私より先生にやたら変な視線を向けてた気がする」

 真は車の鍵を開けて、助手席側に立つ美和の顔を見た。そう言われてみれば、確かに執拗な視線の気配が身体に残っているような気がしてきた。頭の中は、聞いておかねばならないことでいっぱいで、それを受け流そうとしていたのかもしれない。

 美和は荒川へ行くことを提案した。真がその気なのが分かっていて、一人で行かないように釘を刺してきたのかもしれない。真はもう美和を置いていく気持ちはなかった。考え事をしていると悪い方向ばかりに考えてしまうだけで、実際に美和や真に危険が迫っているというわけでもないのだ。一人でいると、その悪い考えに足を摑まれてしまう。美和がいてくれると、少なくとも幻想に怯えなくて済むだろう。

 荒川峡は村上から国道七号線を新潟方面へ戻り、荒川町で内陸へ入っていく。国道はすぐに荒川にぶつかって、その川を左手に見ながら道を辿った。
 関川村役場の向かいに蓮生邸があった。周囲に堀が巡らされ、敷地は三千坪、母屋だけでも五百坪という壮大な家屋敷だった。村役場の駐車場に車を停めて、その屋敷を見学することにした。

 美和は写真を撮りながら、真に感想を求めた。
「農家ってイメージじゃありませんよね。この土地の歴史そのものって気がしません?」
「うん」
 真は曖昧に返事をして、先に土間に入った。梁を見上げるとどれも見事な欅で、歴史の重みが黒く染み込んでいる。土間は脇の部屋をぐるりと囲むように続いていて、板間の上がり口も総欅だった。茶の間と台所だけでも広大に過ぎる。

 これが天明の頃に新潟に富を築いた豪農の館だった。歴史の中で彼らが果たしてきた役割の計り知れない部分は、恐らく日本の大きな歴史の中では十分に明らかにはされていないのだろう。

 受付の女性に上蓮生家について聞くと、すぐにその家を教えてくれた。歩いても行ける距離だったので、車を村役場の駐車場に残していった。
 美和は散歩を楽しむような様子で先を歩いている。村上に行く前の言い争いを忘れているわけではないのだろうが、今それを考えても仕方がないと思っているのだろう。






さて、私が新潟を訪れたのは、多分もう20年以上前。
それでもこの物語よりは未来になってしまいます。
でも日本の田舎の景色は、何十年も変わりませんね。
都会だけがものすごい勢いで変化している。
次に訪れたら、もう同じものがそこにない。
自分だけが変わらずにそこに立っている。

でも、新潟や青森、日本海側の海岸線は、太古の昔から大陸に向かって開かれていたのです。
北前船もこの日本海を通っていたのです。
その時代の大きな港町の遺跡、豪商たちの館の跡が残る町。
そう言えば、私の愛する民謡、江差追分もその時代の名残の唄です。

次回、蓮上家のもう一軒を訪れます。
この蓮上……ちょっと意味深な名前なんです。
蓮の上に生きるある一家の物語が、本編の物語と少し絡みながら進みます。
歴史の隅に生きる人々の、少し哀愁漂う物語もお楽しみください。


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[雨58] 第10章 県庁の絵(4) 

第10章『県庁の絵』最終回です。竹流とつながった事件。
しかし、彼の足跡はやはりわからないままだった。新潟のどこかに彼がいるのか、それとも。
失われた同居人とつながる何かを必死で思い出し、足跡を探す真。
豪農の館に眠っているのは、過去の亡霊たち…?





 上蓮生家は下蓮生家よりもこじんまりとした造りだった。あの壮大な本家の建物を見た後なので、そう思えたのかも知れないが、入母屋造りで、明治の初期に造られた日本瓦葺の家だった。呼び鈴を押すと、凛とした冴えた表情の女が現れて、真が訪問の趣旨を告げると、あっさりと通してくれた。

 応接室は洋風のインテリアで、革のソファに座って待つと、かなり年配の女性が紅茶を運んできた。それから直ぐにこの家の女主人が現れたが、それはさっき真と美和をここへ案内した女性だった。女性は髪を結い上げていて、上品なグレイのスーツ姿に着替えていた。

「東京の雑誌社の方ですのね。時政から伺っております」
 真と美和は顔を見合わせた。手回しがいいように思えたからだった。
「実はたまたま蓮生邸を見に来たものですから」

 それには何とも答えずに、女主人は真に灰皿を薦めて、自分も煙草を取り出した。年は四十にはなっているだろうが、肌の艶も表情の張りも、十分現役の美人と言えた。
「本当に雑誌社の方?」
 真を正面から見て、彼女は問うた。真は思わず返事も忘れて彼女を見つめ返した。
「絵が盗難にあったのじゃないかとお疑いだったとか」
「いえ、それはちょっと弾みで」

 女主人は余裕のある笑みを見せた。
「自己紹介が遅れましたわね。私、上蓮生の主で千草と申します。あなたも、本当の目的と身分をおっしゃってください」
 真は美和ともう一度視線を合わせた。
「私、嘘をおっしゃる方は直ぐに見分けられますの」

 蓮生千草は不思議な笑みを見せた。真はひとつ息をついて、名刺を差し出した。千草は真から視線を逸らさないまま、その名刺をテーブルから取り上げた。
「調査事務所って、すなわち探偵さん?」
 真はとりあえず頷いた。千草はその名刺をテーブルに戻して尋ねた。

「何をお調べですの?」
「絵のことです」
「絵の、何を?」
「あの絵がどういうルートでここにあるのか、ということです」
「それは、どなたかから依頼を受けて?」
 真は暫く用心深く千草を見つめていたが、今更嘘が通用するとも思わなかった。

「いいえ。実はその絵に関係して私の友人が失踪してしまったので、彼の行方を捜しています」
 千草は暫くの間、真を真っ直ぐに見つめたままだった。
 この女には旧家の主という誇りが感じられた。さっきの下蓮生の若旦那とは全く違う、高貴で優雅な誇りだった。

「その方があの絵とどういう関係が?」
「それは多分、あの絵の出所と関係があるのではないかと思っています」
「蔵から見つかる前はどこにあったか、つまり、下蓮生があれをどうやって手に入れたのか、ということをおっしゃっているのですね」
 真は頷いた。千草はまだ真を見つめていたが、やがて煙草を一つ吹かすと、ふと天井のほうを見上げ、また真に視線を戻した。

「下蓮生の主にお会いになったかしら?」
「というと、若旦那さんではなく?」
 千草は煙草の灰を落とした。
「あぁ、あれは駄目な男よ。もっとも、ああいう男だから生き延びたのかもしれませんけど」
「生き延びた?」
 美和がその言葉を繰り返した。
「お聞きになりませんでしたかしら。呪われた蓮生の話」
「本家の跡継ぎが皆、亡くなられたという話ですか」

 千草は何とも言えない不思議な笑みをこぼしたように見えた。それはそういう伝承が馬鹿らしいと思っているが、こういう旧家の者としては伝承も馬鹿にはできないのだ、少なくとそれを信じる人間が周りに多ければ、対応はしなくてはならないのだ、という自嘲のように真には思えた。千草はまた一つ煙草を吹かした。彼女の細い綺麗な指には血の色のようなルビーの指輪が嵌められていた。
「下蓮生のご主人は、その」
 真が言いよどんだのを千草が引き取った。

「ボケたって聞いたのでしょう? あの人がボケたのは、門と蔵が焼けてからよ」
「放火だとか? 犯人は分からないのですか」
 すかさず、真は問いかけた。
「犯人は分かっているのよ。何故って、状況から言って明白ですから」
「明白?」

 千草は脚を組みなおした。綺麗な脚で、思わず視線がいってしまった。美和がそれに気が付いて、真をちょっと睨んだように見えた。
「灯油を撒いて火をつけたのよ。下蓮生の主人がその現場に突っ立っていて、灯油の匂いをさせていたんです。これは私の勘だけど、彼はボケた振りをしているのじゃないかと思っていますわ。本当のことを話したくないからでしょうね」
「本当のこと……」

 その言葉を真はただ繰り返した。千草の視線は痛いほどに突き刺さってきた。それはまるで身体の芯を燃やされるような視線だった。内容は全く異なるのに、この蓮生の家の人間は特異な視線を持っているという共通点があるように思えた。見つめられていると、身体がそれに反応してしまうような。
 思わずさっきまで受けていた、下蓮生の若旦那のねっとりとした目つきを思い出した。

「私が子供の頃には奇妙な鞠つき唄があって、子供たちがそれを歌っていました。母は本家の脇腹の子でしたが、私がこの唄を耳にすることを拒みましたから、何か蓮生に関係のあるものかもしれません。異国から女の子がやって来て蔵に閉じ込められてしまった、夜になるとお国が恋しくて泣いていると」
「女の子?」
「何かの比喩かも知れませんわね。絵が略奪されてきたことかもしれませんし」

 真は、千草がそういった様々な過去からの連鎖を全て飲み込んで、この強い視線を送ってきているのだと思った。
「あなたは、その絵をご覧になりましたか」
「えぇ。弥彦の江田島さんの鑑定に立ち会いました。更に詳しい鑑定が必要だというので東京にも行きました。正直言って、本物でも贋物でもどちらでも構わないと思いましたわ」
「絵は火事の後、蔵の整理をして見つかったと聞きましたが、その後はどこに保管されていたのですか」
「見つかった当初から県に寄贈することになっていました。本物なら美術館に行くところだったんでしょうけど、偽物と分かって、それでもそれなりにはいい絵だというので、県庁にでも飾ることにしたんでしょう」

 千草は興味深げに真の目を見つめている。それは悪意でも善意でもないように思える。
「あの二枚だけではありませんでしたよね。他にも、レンブラントやデューラーの作品があったと聞いています」
「そうね、専門家が科学的に分析して贋作だと鑑定した絵ばかりでしたけど」
「本物が混じっていた可能性はありませんか」

 千草は面白そうに笑った。
「誰かが悪意を持って、偽の鑑定をしたということかしら? それとも偽の鑑定をするように私たちが仕組んだのかしら?」
「あなた方にその気がなくても、悪意のある人間はいるかもしれません」
「さすがに、そこまでは責任が持てませんわね」

 千草は何かの合図のように、細い煙草を灰皿で揉み消した。
 絵が見つかったのが偶然だとしても、利用価値を見出した人間にはいつでも必然に転じる機会があったはずだと、そう思った。だが、それ以上、何かを千草に確認するきっかけはなかった。真は礼を言って、上蓮生家を辞した。

 新潟に戻ってホテルにチェックインすると、疲れきって出掛ける気もしなかったので、ホテルの中で簡単に食事を済ませた。珍しく美和が少食だったので気になったが、昼間の言い合いがまだ美和の気に障っているのかもしれないと、そう思った。
 だが、聞きただすことはできなかった。

 何よりも、万代橋の夜景でも見ながら言葉を尽くして美和を慰めてやるほどに、自分の感情が熟していないことを、真はよく分かっていた。それでも、責任のある立場としては何かの行動を起こすべきはずだったが、それもできないままに、美和がシャワーを浴びている間に真はさっさとベッドに潜った。

 水音が止まって、美和がバスルームから出てきたのを背中で感じながらも、真は身動きもしなかった。美和の気配は背中に突き刺さるようだったが、どうしても声を掛けることができなかった。
 竹流が病院から消えてまだ何日も経っていないのに、その日の事が随分昔のように感じられる。一秒一秒が彼と自分の間を引き裂いているようでたまらなかった。今日、あの額縁を見たとたんに、自分自身の感情の中の何かが否応無しに反応してしまった。それを美和にどう説明していいものか、分からなかった。

 高校生の頃から、どこかでそういう自分自身の心の向かう先を自覚していたかもしれないが、何となく認められなかった。ちゃんと女の子と付き合っていたし、それについて不自然な自分を感じたこともない。自分が特別な性に対する嗜好を持っているとも思わない。大体、そういうことを公言して憚らない北条仁のような人種と一緒いても、仕事で出会うその手の連中に誘われても、特別自分の中の何かが刺激されると思ったことはない。唐沢風に言えば、相手は誰でもいいから尻を差し出して突っ込んでもらいたい、などとは全くもって思ったこともない。

 そういう行為自体は女の子とするものだと思っていたし、それにちゃんと興奮している。美和のことも、心から愛おしいと思っている。それなのに、どうしてもそれだけでは満たされないでいる。美沙子と付き合っていたときもそうだった。確かに彼女を好きだったと思うのに、彼女と会って、別れ際に離れたくないと思ったことがなかった。葉子の手を握りしめることができなかったのも、ただの優柔不断と言ってしまえばそれだけのことだったが、どこかでやはり迷っていたのだ。

 それが恋や愛だとは思わない。むしろ、それは生存のために絶対に必要な何かだった。
 そう思うと、俺は、親を捜して彷徨っているアヒルの子と変わらないな、と感じた。それならば、やはり武史に会ったことが自分の感情を刺激したのかもしれない。
 あの人が親だとはどうしても認められない。母親に至っては顔も知らないし、生きているのかどうかも知らない。

「眠れないの?」
 何度も真が寝返りをうっていたので、美和が気にしたようだった。
「すまない」
 美和は少しの間黙っていたが、小さな声で言った。
「大家さんのこと、心配で?」

 彼女に説明してやる言葉がなかった。心配というのは頭を使ってすることだ。だが、実際は頭以外の部分であの男の不在を嘆いていた。いや、それはむしろ恐怖に近かった。彼が留守のことなど珍しいことでもなかったのに、無理矢理にもぎ取られたことが深く堪えているに違いなかった。

 真には幾つかの恐怖の種があって、時々予告もなしにそれが芽吹くことがある。自分がこの世に存在しているのが、何かの間違いだったと思っているからかもしれない。
 子どもをその手に抱いて間もなく引き裂かれた両親が、どういう経緯であっさりと子どもを諦め、捨てていったのか、澤田の言うように、彼らが真が生まれてくるのを本当に待ち望んでいたのだとしたら、何故簡単に捨ててしまえたのか、理屈で何を説明されても、真の頭は理解できないような気がしている。

 父親に対して何の感情もないと思い続けてきたのに、実際に会えば、わけのわからない心のうちの暗い塊が増幅して渦巻いているような感じがする。

 母親というものについては、全く想像さえできない。唯一想像されるものは、自分の首を絞めた人だけだった。その人を自分の母親として認識しているのではないが、心の底に女という生き物に対する恐怖があるのだろうか。
 いつか、ゲイバーのチーママの桜が言っていたことは、真にもあてはまるのかもしれない。彼(彼女?)は子どもの頃母親に虐待されていて、女に対する潜在的恐怖があってホモセクシュアルになったのだと、精神科医に言われて治療に通っていた事があるらしい。女性に対する曖昧な不安や恐怖が、性の嗜好に影響しているという理論だ。しかし、桜はそういう時期を乗り越えて、今や逞しい『オカマ』に成長した、と本人が語っている。

『あたしの場合はねぇ、本当にただ男が好きなのよ。それを医者が理屈付けしたから却って悩んじゃったのよね。女と寝たこともあるけど、あんまり良くなかったのよ。認めちゃったら、何だ、それだけのこと、って、そういう感じ』

 桜の場合とは違って、自分は女性との行為には身体はちゃんと感じているが、ただ感情の中では、心から彼女たちを信じていないのかもしれない。葉子の手を握りしめることができなかったのは、それでもやはり、彼女が自分の首を絞めた女の血を引いているという、恐怖の黒い塊が心の底で渦巻いていたからなのかもしれない。
 だが、桜と違って、自分は父親という種類の生き物に対しても、どこかで恐怖を抱いているのだ。だから、そういう性癖に走らなかっただけかもしれない。

 結局は、自分は存在の始めに、待ち望んでいたはずの両親から否定されたのだと、そう思っているのだろう。だから、足元が崩れてしまっていて、何よりも人間を恐怖している。それでも、懸命に何かを信じたいと思う気持ちが、具体的な対象を求めて彷徨っているのだろうか。子どもの頃は、それが馬や犬たちやこの世にはいないあやかしたちで、ある時からそれが別のものになっただけなのだろうか。

 自分自身の中の黒い何かが咽元を締め上げるように思う時はいつでも、あの男が黙ったまま抱き締めて慰めていてくれた。そして、今ほど不安で堪らない時はないのに、彼がいないのだ。
 それを頭ではなく、心と身体で感じている。





さて、次回は再びの『若葉のころ』です。
真、高校生、剣道部に入部して、ちょっと青春しています。
こちらもまた独立した回想の回ですので、本編の流れとは関係なく読むことができます。
よろしければどうぞ、お楽しみください。





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[雨59] 第11章 再び、若葉のころ(1) 

【海に落ちる雨】第11章です。
第9章『若葉のころ』の続きになります。独立したエピソードですので、これまでの本編を読んでいなくても、読めてしまいます(^^)
よろしければ、本編を無視して読み進んでくださいませ。
でも、もしよろしければ、この章の前編になる第9章『若葉のころ』だけでも……
第9章 若葉のころ
真がまだ初々しい高校生の頃のお話です。多分、一生の中で真が一番可愛らしかった頃かもしれません。

さて、本編のほうは、こんなお話。
新宿の調査事務所所長・相川真の同居人・修復師の大和竹流は、大けがをして入院してた病院から失踪。
怪我の理由も、失踪の理由も分からないまま、真の手に残されたのはある新聞記事。
3年半前、雑誌記者の新津圭一は(ある雑誌記事によると)政財界の名の知られた人物を脅迫して、その後自殺してた。一方、竹流はそのころ、新潟の豪農・蓮上家から見つかったフェルメールやレンブラントの贋作に関係する仕事をしていたようだった。
一体、竹流の失踪にはどういう事情があるのか。
彼の足跡を探して、事務所の秘書・美和と新潟にやって来た真は、蓮上家を訪ねた。






 高校二年生の年の終わりに、長くサナトリウムに入院していた母親が亡くなった。

 母親、と言っても真自身には血の繋がりはない。
 相川の家に電話がかかってきたとき、それを受けたのは葉子だった。葉子は何かを問いただすような顔で真に受話器を渡したが、真は彼女の視線を避けて、無言のまま電話の相手の言葉を聞いた。

 ご危篤です、直ぐにいらしてください。

 短い言葉だった。直ぐに、と言われても、その時は手段が思いつかなかった。おそらく完全にとち狂っていたのだろう。電車で一番近い駅まで行って、さすがに駅からはタクシーに乗った。タクシーといっても、駅の案内所で呼びだしてもらわなければならなかった。

 本当は急ぎたくなかった。できれば死に目になど遭いたくもなかった。それでも、その女が最後の息を吐き出すのには間に合ってしまった。
 真が、看護師に勧められて女の手を握ると、女はゆっくりと目を開けて真っ白な天井を見た。死にゆく女の手よりも、真の手のほうが余程冷たく乾いていた。その女の目が、ゆっくりと真のほうを見て、そして恐ろしいほどに綺麗な微笑を浮かべた。その唇が何かを呟いている。思わず耳を近づけたが、実際に言葉を聞き取れたような気はしなかった。むしろ、真の目は、女の動く唇を記憶した。

 そして、目を閉じた女は、そのまま眠るように息を引き取った。

 混乱して、医師や看護師たちの言葉にも答えられなかった。どういう経緯があったのか全くわからないままに、気が付くと病室の外のベンチに座っていた。あとで考えると、功は、静江が亡くなった場合の連絡先は、幾つも残していたのだろう。
 遺体は明日引き取ります、という言葉に真が我に返った時、傍に竹流がいて、そのまま東京に連れて帰ってくれた。竹流はその日、相川の家に泊まり、ゆっくりと優しい声で葉子に事情を説明していた。葉子は唇を引き結び、じっと竹流の目を見つめながら話を聞いていた。葉子は、真よりもよほどしっかりと事態を受け止めているようにみえた。

 遺された子供たちの母親ということになっている静江の両親は既に亡くなっていたし、他の親戚は、確かに葉子のことはたまに気にしていたようだったが、現実に何らかの働きかけをしてきた気配もなく、精神を病んでいた静江のことをどう思っていたのか、事情を理解していたのか、真にはよくわからなかった。結局、密葬という形で葬儀が済まされ、その他のあらゆる手続きは、真の傍をすり抜けるように進んでいった。

 女を荼毘にふした日の記憶は、もっと混乱している。最後に花に囲まれた女の顔を見ると、まるで少女のように幼く可憐に思えたが、その唇だけは死化粧にもかかわらず、異様に紅く、まだ生きていて、最後の言葉を幾度も繰り返し囁いているような気がした。

 何があったのか、よく覚えていない。目を開けたとき、一人で大きなベッドの中にいた。
 女の唇が最後に動いた情景を、夢が何度も繰り返していた。苦しくて、腹の中のものを全て吐き出さなければならないと思った。
 真はベッドの中でうずくまり、耳を塞いだ。塞いでも、女の声はもう耳の中に入り込んでしまっていて、煩い羽虫のようにざわめいて鼓膜を刺激していた。

 たけしさん。

 女の唇は、最後に真の父親の名前を呼んだ。せめて、それが彼女の夫の名前だったら、いくらか真は救われたはずだった。功の言葉が耳の奥に蘇った。妻は弟を愛していた、多分今でも、と。
 たけしさん。
 耳の中から頭の全ての聴覚と視覚をつかさどる部分が、真の父親の名前を繰り返した。
 壊れる、と思った。

 どれほどの声を出したのか、わからない。まるで、赤ん坊が初めて泣いた瞬間のように、真は、記憶にある限りでは、生まれて初めて泣き叫んだ。
 長い間、赤ん坊の首を絞める細く美しい手の夢を見続けてきた。苦しくて目を覚ました時、いつも考えた。もしもあの時泣き声さえ上げなければ、あの女は赤ん坊の首に手をかけようとは思わなかったはずだ。真は声を押し殺して生きていかなければならないのだと思い続けてきた。

 そしてその時、身体という限られた器の中に無理矢理押し込めてきた全てを、真は苦しさのあまりに吐き出した。頭を何度もベッドに打ち付けて、髪を引き毟るほどにつかんだ手を、誰かの暖かく大きな手が包み取り、そして真を、赤児を取り上げるような手つきで抱きとめた。その手は一晩中真を抱いてくれていた。

 北海道の祖父母は、長男の功が結婚式も挙げずに一緒になっていたその女性とは離婚したと聞いていたので、彼女が亡くなったら届けられるようになっていた長男の手紙から事情を知って、大層驚いたようだった。それどころか、この時点で初めて長男が失踪していることを知って、しかもそれが二年以上も前のことだと聞いて、祖父母を始め親戚はみな半分パニックになっていた。しかし、真が状況を説明もできずに唇を噛んで俯いたままなのを、珍しく祖父は叱らなかった。

 自分の父親が本当は誰だか知っている。その事が功の失踪と関係があるかもしれないとも思っている。父を恋しいなどとは思わない。けれども、祖父母があからさまに実父の非を責めるのも聞きたくはなかった。ただ、自分の中の悪い血が、彼らの手元に残された自慢の息子をもう一人までもこの世から消し去ってしまったのだ、という気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。

 それを、祖父は恐らく言葉にしなくても察してくれたのだろうと思っている。それどころか、あまりにも心配した祖母の頼みで、祖父も住み慣れた北海道をしばらく離れることを決めたようだった。もちろん、夏には牧場の仕事が多いのでほとんど北海道に戻っていたが、葉子が大学に入るまで彼らが北海道との二重生活をしてくれたことは、その時期の真の心には大きな支えになった。

 そういった家族の存在もあって、その時期、真は東京に来てから初めて、比較的まともな生活をしていた。部活もしていたし、勉強もしていたし、つきあっている女の子もいた。
 皮肉なことに、真がこの世で最も恐れていたはずの女が、死という形で真に平穏な時間を与えてくれたのだ。もちろん、その恐怖は、女が死んでしまったからといって消えてしまうほど生易しいものではなかったが、それを庇って余りあるほどに、周囲の人間たちが、まるで真がまだ赤ん坊であることに始めて気が付いたとでもいうように、それほど露骨ではなかったが、いつも近くにいて支えてくれるようになった。

 誰よりも大きく存在の意味を変えたのは竹流だった。妙に優しく気遣ってくれるようになったが、その一番大きな変化は、スキンシップの度合いだった。
 もっとも、それは恋人同士のものではなく、どう考えても親が子どもに対するような類のもので、育児の本に、こうしてやれば赤ん坊は泣き止むと書いてあったのではないかと思うくらいだった。
 勿論、彼の他の仕事が許す範囲のことだったが、これまで以上に相川の家にも泊まりに来るようになり、食事に連れ出した日は葉子と真をマンションに連れ帰ることも多くなった。竹流は、時には全く遠慮もなしに誘われるままに、祖父母が借りていた灯妙寺の離れに泊まりに来たりもした。

 小学校五年生の真が北海道を離れる時に頑強に反対した祖父は、真が東京に馴染めずに苛めにあったり登校拒否になって、時々ヒステリー発作のように倒れていたのを知って、真を北海道に連れ戻す気で、何度か東京まで出てきたこともあった。
 だが、ある時功から、実は最近真が気を失わなくなった、この私の秘書のお蔭だ、と竹流を紹介されて以来、決して人当たりがいいとは言い難い祖父にしては珍しく、赤の他人の竹流に好意を示した。

 人懐こいようでいて、その実は相手を冷静に判断している竹流の方も、何故か長一郎にはあっさりと屈服したとでもいうように好意を示し、全ての事柄をゲームのように軽快にこなしてしまうこの男にしては珍しく本気で囲碁の相手を喜んでしていたし、しばしば長一郎の昔語りの相手にもなった。
 民俗学的視野を持ち歴史好きの祖父が、同じく歴史を学ぶことをほとんど趣味のようにしている竹流と話が合うのも道理で、彼らは真の知らないところでもしばしば二人で飲んでは語り合っていたようだった。

 竹流の興味を引いたのは、長一郎が、北海道という中央からずっと離れた場所から、日本古代からの歴史をひとつの流れとして見ていて、学校で教えている歴史は大和朝廷中心の西の歴史に過ぎないと、様々な証拠を挙げて語るところだったのだろう。
 竹流が長一郎のどういった部分を気に入ったのか、言葉で表すことは難しいが、まるで前世から親友であったとでもいうようで、酒の相手としてだけでなく、人生の師の一人として大事に思っていたようだ。

 長一郎の方も、年の離れたこの異国人を大層気に入って信頼していたようで、それについては、長一郎の三男の弘志がことって話していたことがある。
 親父はあんたのことを、もう一人の息子か孫のように思っとる。
 竹流はそう言われたことを、後で本当に嬉しそうに真に語った。

 そう考えれば、竹流と相川の家の間には、真に限ったことではなく、そもそも深いつながりがあったのかもしれない。随分後になって、真は、弘志とアイヌ人の女性の間に生まれた従妹から、あの人とこの家には何か切ることのできない深い因縁があるような気がすると言われて、不思議に有難い気持ちになった。

 あの頃は葉子と真も、週に何日かは灯妙寺に泊りにいっていて、週末は部活の時間を除いてほとんど欠かさずそこで過ごした。その頃には葉子は真の親友と自称する富山享志と付き合っていたが、まだ高校生の恋人同士にとっては、二人きりで週末に時間を作って出かけることなどはたまの事だった。むしろ彼女はお兄ちゃんと一緒にいたがったし、真の方も、つきあっている女の子と週末にデートをすることなど、せいぜい月に一度くらいだったので、部活に行っていなければ、灯妙寺の道場で、剣道に勤しんでいた。

 祖父は相も変わらず真が可愛くて仕方がない分だけ厳しく、真が来れば直ぐに道場に連れて行っていたし、それが終われば次は三味線の稽古をつけてくれた。真自身の希望など確認もせずに、傍で見ていれば剣道や三味線を飯の種にするわけでもないのに厳しすぎるのでないか、と思われるほどだったが、孫と離れる時間を惜しんでいるように見えていた。
 不器用な祖父が、孫を側に置いてただ語り合ったり励ましたりしてくれるはずはなく、彼はただ武道や音楽といった行為でのみ、孫との時間を共有する方法を見出していたのだろう。

 ただ学校での勉強については、祖父母には面倒を見てくれる方法はなく、そもそも塾に通うような発想もなかったし、結局は功がいたころと同じように竹流がみてくれた。
 と言っても、授業のようで授業でない彼の講義は常に中学生や高校生の枠を越えていたので、勉強といっても学校で教えられるものとは全く異なっていた。第一、竹流は恐ろしくスパルタだった。世界史などはどこまで広がる話なのか、尽きるところがなかった。いきなり教科書の初っぱなから、彼はあり得ない、と言った。

「その頃の世界に四大文明しかなかったわけがないだろう。インダス、メソポタミア、エジプト、黄河、揚子江、イラク、イスラエル、マリ、メコン……世界の至るところで、文明の萌芽があった。知られているだけでも二十は下らない。いや、萌芽などという表現は適切ではないのかもしれない。我々が追いかけることのできない遥か古い過去から、文明は自然発生的に世界中のあらゆる土地で湧き起こって、しかも我々が思っている以上に豊かで交易範囲も広かった。ある意味では、その頃の文明は今よりもはるかに高い次元にあったかもしれないんだ。因みに、文明とは何だと、お前は思う?」
 そういう具合で先史時代の話だけでも延々と続いた。

 時々何を思ったのか、講義は日本語ではなく英語のこともあって、真も、時々一緒につきあっている葉子も、彼の歴史の講義と一緒に英語の授業も受けているようなものだった。葉子も真も、父の留学の際にカリフォルニアで住んでいたこともあって基本的な理解はできていたはずだが、言語は話さなければ記憶から消えていくものなので、竹流は敢えてそうしたのかもしれなかった。
 彼は、物語のような歴史は、つまり絵本を読み解くようなものは英語で話したし、多少複雑な歴史は日本語で語り聞かせていた。アレキサンダー大王の遠征の物語も、チンギス・ハーンやナポレオンの物語も、フランスやロシアの革命も、彼の言葉で語られると、まるで映画のスクリーンに広がるように面白かった。

 あるとき真は広間の座敷机で一生懸命数学の問題を解いていて、三十分で考えられるところまで考えてみろと言った竹流は、その傍の畳の上で横になって眠っていた。
 ノートの数式の上に、ふわふわと漂う影が通り過ぎていく。庭先から迷い込んだ白い蝶は、光に吸い寄せられるように竹流の金の髪の上でしばらく漂っていたが、そのうち何かに気が付いたように縁側へ戻って行った。
 真は蝶を追うのを辞めて、ふと竹流に視線を戻し、そのまま彼を長い間見つめていた。縁側に蝶ではなく、確かに祖母の奏重の気配を感じたが、それはそれで構わないと思った。

 それ以来、他人に自分の感情を説明しない真が、どこかでこの男のことを好きなのではないかと祖母は思っていたようだった。常識を逸しているはずの感情に対して、祖母がどういう感想を抱いているのか、真は結局確かめたことはなかったが、気風のよさで知られる芸妓の家の出身である女の腹のくくり方は、真にマイナスの感情を植え付けることはなかった。

 お寺では盆踊り、隣同士になった神社では桜祭りや秋祭りがあって、奏重がいつも浴衣や着物を縫ってくれた。彼女は竹流にも必ず着物を用意して、彼がいつ来てもいいように準備をしてくれていた。
 高校二年生のときだったか、隣の神社の春の祭りの日、葉子に誘われてやってきた富山享志が、まるで相川家に許されたとでもいうように嬉しそうな顔をしているのを見て、真は正直気分がよくなかった。

 三人で一緒に行こうよ、という葉子の誘いは断り、真は離れの縁側にひとり残って、隣から聞こえるお囃子の音を聞いていた。恋人同士のデートにのこのことついていくのも間抜けだし、仲良くしている葉子と享志を見るのもあまり楽しそうではない気がした。

 色々な感情が処理できないことが分かるのか、ここのところ和尚にも祖父にも、剣道ではこてんぱんにやられている。中学生の時のほうが余程勝てる気がしていたのに、明らかに技術が伸びているはずの今のほうが、分が悪くなっている。攻撃のタイミングが甘いのかもしれないと思うが、質問しても和尚は面白そうに笑うだけで、勝てる算段がついたらいつでもかかって来い、奇襲でもいいぞ、と言った。

 遅い時間になってから、もう今年は来ないと思っていた竹流が訪ねて来て、しばらく奏重と何か話していたが、縁側で三味線の糸を張り替えていた真のところにやって来た。竹流は奏重に浴衣を着付けてもらっていて、すっかり祭りに行くつもりだったようで、真に着替えて来い、と言った。真は糸巻きを合わせながら返事をしなかった。

「お前、何を拗ねてるんだ」
 拗ねてなんかいるものか、と真は思った。だが奏重に呼ばれると拒否することもできず、素直に浴衣に着替えると、結局一緒に出かけることになった。

 竹流は自分が目立つということを全く意識に入れていない。一緒に歩くと時々平気で腰を抱いてくる。肩ならまだいいが、腰となると、いかにも親密であるということを示すようで、真は最初の頃随分と戸惑ったものだった。
 何より他人に触れられるということ自体が苦手な真にとって、それはあり得ない形のスキンシップだったのだが、慣れというのはある意味恐ろしいものだ。いつの間にか警戒するとか嫌だとかいう意識は消えてしまっていた。

 祭りの人混みで身体を引っ付け合っていてもそれほど目立つわけでもないはずだが、一緒にいるのが長身で、やはりどう見ても男前の外国人となると、目立たずにはおれない。しかもすっかり日本の風俗・習慣に慣れた竹流は、神社でのお祈りの作法まで日本人以上にさりげない仕草で、かえって目を引いている。

 竹流が挨拶に行くと、神主が微笑ましい恵比寿のような顔で出てくる。
 この神社の由縁は鎌倉時代に遡るため、それなりの由緒正しい宝物も持っているようで、その管理や修復を竹流は請け負っているようだった。
 真を放ってしばらく神主と話をしてから、竹流は実に楽しそうに真を人混みの中に連れて行く。真には狐の面をつけさせ、自分はひょっとこの面をつける。どうやら、祭りの時に面をつけるというのが必須であると勘違いしているように思える。

 金魚すくいでその器用さを見せ付けると、ギャラリーの喝采を浴びるのも楽しいようで、結局十匹ばかりの金魚をもらって、綿菓子を買い、例の如く当たり前のように真の身体を抱いてきた。真は周囲を幾らか気にしながらも、もうどうでもいいか、と思い始める。葉子が、真と竹流を見つけて嬉しそうに手を振ってくる。

 葉子は屈託のない笑顔で享志を竹流に紹介し、享志もお噂はかねがね、とまるで大人のような挨拶をしている。不機嫌にしているつもりはなかったが、ぼんやりと視線を逸らしていると、何を察したのか、わざとのように竹流が真を抱き寄せた。
「あんまりひっつくなって」
 神社の本殿から奥の院へ階段を上りながら真が言うと、竹流はその訴えを完全に無視して言った。
「やっぱり拗ねてるんだろう」

 拗ねてなんかいない、と言って真は彼の手を振り払い、階段を上った。
 奥の院にも疎らながら人影がある。賽銭をあげてお参りを済ませると、さらに点々と散らばるお稲荷、山の神にもお参りをして、何故か神社に同居している薬師堂に辿り着く。
 ここまで来るとさすがにほとんど人影はなかった。大きな楠が薬師堂の裏手に覆いかぶさるように繁っていて、夕方ともなると薄暗く、お堂の中の明かりだけがふわりと浮き上がって見えている。

 竹流はお参りを済ませて、楠を見上げながら裏手にまわっていく。真がいくらか後れてついてくと、竹流は薬師堂の裏の縁に腰掛けて楠を見上げていた。
「まさに神の宿る木だな」

 そう言って天を覆うような楠に向かって手を合わす。真は傍に腰掛け、手を合わせて目を閉じている男の横顔を見た。ひょっとこの面を頭につけて祈っていてもおかしな風情にはみえない。そう思った途端、竹流の手が真の肩を抱き寄せ、髪に触れ、目尻に口づけ、それから唇に触れてきた。

 咄嗟のことで驚いたのは一瞬だった。目を閉じると、楠から風が吹き下りてきて狐の面を被った髪に触れ、頬に接する。真の冷えた唇に触れる唇は温かく柔らかで、抱かれている身体はふわりと浮き上がるような心地がした。
 性的な興奮を覚えたような記憶はない。竹流がその頃何を考えていたのかも知らない。だが、キスそのものは決して触れるだけのキスではなかった。唇を随分と長い時間確かめるように吸い、啄ばみ、やがて静かに唇を割って、更に求めてくる。真がまだ歯を合わせたままでぼんやりと竹流の顔を確かめると、竹流が少しだけ唇を離し、薄闇の中でも柔らかく光を残したままの青灰色の瞳で真を見つめている。

「目を閉じて、口を開けろ」
 言葉は優しく、真は逆らうこともせず、言われるままに目を閉じる。もう一度触れた唇は真の唇を割り、舌が絡み付いてくる。さっき食べた綿菓子の味がそのまま甘く舌に残っていた。竹流の手は更に求めるように真の身体を強く抱き、首筋を撫でながら肩や背中にまで触れている。真は自分のほうからも竹流の舌を吸い、絡めて、時々息を継ぐようにする瞬間にも身体が離れないようにしがみついていた。

 それでも、それはまだ性的な興奮には繋がらなかった。竹流の方は、むしろ身体を抱き締めたり、頭を撫でたりすることが大事で、そのついでにキスをしている、という感じで、単に親が子どもの面倒をみる一つの方法論としてのスキンシップを、ちょっと間違えて実行してしまった、というふうに見えていた。
 真のほうも、滝沢基に男同士のセックスを教えられたことがあるにも拘らず、竹流に対しての感情はひどく透明で、まるきりセックスというものに繋がっていなかった。

 時々、この男とこんなふうにキスをした。けれども更にその先をと考えたことはなかった。
 竹流がキスをしてくるときは、何かしら真の方に感情の僅かな波がある時が多かったように思うが、あまり関係なく、ただ竹流のほうが気分が乗っている時だったのかもしれない。いつも一度触れると、何時間でもキスをしていたような気がする。それでも切羽詰った感情にならなかったのは、それ以上を望むべくもないと、その先はないものだと思い込んでいたからかもしれない。

「で、何を拗ねてる?」
「しつこいな。拗ねてないよ」
「でも、気にしていることがあるだろう」
 真は息をついた。
「どうしても、ここんとこ一本も取れない」
「和尚さんにか」
「おじいちゃんも。攻撃に移る一瞬、全部の手の内を読まれているような感じがする。おじいちゃんは特に、『気』を完全に殺しちゃえる人だから、隙が全く見つからない」
 竹流は突然、真を抱き締めた。

「何するんだ」
「お前も、人並みになったってことだな」
「どういう意味だよ」
「感情があるから乱れる。そういうことだろう。恋をしたり、腹を立てたり、色んな嫉妬心で苦しんだり、だからそれが竹刀の先に出て、相手に読まれる。お前はずっと悔しいとか、勝ちたいとかいう強い気持ちとは無縁だっただろうから、無邪気に強かったんだよ。それが欲が出てきたってことだ。悪くない」
「よくないよ」
 竹流は真を少し離して、暗がりの中で真の頬を両の手で包んだ。

「キスしているとき、何を考えている?」
「何って、別に何も」
「ちゃんと言葉で言ってみな」
 真はぼんやりと浮かぶ竹流の髪の光を見ていた。
「細胞に戻る感じがする。深い、宇宙みたいなところで」
「こんど和尚さんと立ち会った時に、俺とキスしている時のことを思い出してみろ」
「そんなの、絶対負けるよ」
「そりゃあわからんぞ。ものは試しだ」もう一度竹流は真を抱き寄せた。「守るものがない捨て身の人間が強いというのは嘘だ。何かを守りたいと思ったとき、本当に人間は強くなる。負けられないからこそ、最後の最後まで喰らいつく」
「俺が何であんたを守らないといけないんだ」
「そういうこともあるかもしれないだろう」

 この男と話していると、時々問題の次元が急に高みに引き上げられ、あるいは逆に低いところに引き降ろされて、少しの間意味が分からなくなる。そしてずっと後になって、得心することがいくつもあった。
 
 灯妙寺の離れに帰ると、どこ行ってたの、探したのに、という葉子の声に迎えられた。多分一時間はあの薬師堂の裏で二人きりでいたのだ。神社にも姿がなく、家にも帰っていないというので葉子は心配していたようだが、奏重は全く意に介していないように見えた。
 享志は既に長一郎と夕食の席についていて、真を見てほっとしたようだった。さすがに人当たりのいい享志でも、この年齢で長一郎の相手は難しいのだろうと思える。竹流は長一郎に挨拶をすると、もう既に飲む気満々で、その一瞬に真とのキスを忘れてしまったように見えた。
 
 ほんの少し、切ない、という感情を覚えたが、それは幼い子どもが欲しいものが手に入らないと駄々をこねるのと何ら変らないものだと思える。それに真は小さい頃から、欲しいものをねだる、ということ自体が得意ではなかったし、ほとんど自分の主張を押し通したことさえなかった。
 だから、欲しいものが手に入らない切なさは、十分に考えてみたことがない。欲しいと思う前に考えないようにするというのが、真の対処の方法だった。

 竹流の生活について真が知っていることはわずかだった。勉強をみてくれたり、様子を気に掛けてくれて、大概は一週間に一度くらいは真と葉子のところに来てくれたが、時には月単位で姿を見せないこともあった。
 彼の仕事については、本当のところはよく分からないままだったが、祖父母は竹流の言った通り、叔父の貿易関係の仕事を手伝っているという言葉を鵜呑みにした。多分、まったくの嘘でもないのだろうし、竹流が持ってくる世界各国の土産物は祖父母をかなり喜ばせた。
 それ以上のことを、真も聞かなかったし、竹流も自分から話すことはなかった。






さて、青春時代の真です。
それにしても、多分、竹流はかなり勘違いしていますよね……
この人は、真はスキンシップの欠落によって難しい性格になっていると思っているんですね。
で、この難しい子どもを何とか育てようとして、あれこれ育児書を読んでいる。
心理の本も読んだと思うけれど、多分、育児書が一番役に立ったはず。
でも、スキンシップの方法がなんか間違っているような???

大体、この男にはちゃんと「妻とも呼ぶべき女」がいるんですよ。
これって、真はもてあそばれているだけ……?
いや、そんな彼の本音は、ずいぶん先ですが、第4節で。

受け所は、「祭りにお面は必須」^^;
カーニバルじゃないんだから、ね。

次回は、真のクラブ活動(#^.^#)

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨60] 第11章 再び、若葉のころ(2) 

青春小説の片鱗を書いてみたくて、高校時代の真のクラブ活動をちょっとばかり紹介。
剣道部でして。臭いので、胴着は自分で洗っていたと思います(さすがに妹にはさせられない)。
思えば、高校時代が一番、年齢相応で可愛らしかったような気がします。というわけで、目いっぱい可愛らしい?真を楽しんでいただければと思います。
ちなみにここに出てくる、同じクラブの主将の前原と対戦校の主将(古塚と言います、ここに名前は出てこないけれど)は将来、警察官になります。調査事務所所長になった真とちょっと絡むこともあり。
先の話ですけれど(*^_^*)





 その春の高校対抗の剣道大会の時、多分南アメリカに行っていて帰ってこないようなことを言っていた竹流が、何を思ったのか、途中で仕事を放りだして応援に戻ってきた。そのことは、葉子や真を随分驚かせた。

 だがあの時、多分竹流は、真がいつになく緊張しているのではないかと思ったのだろう。
 それまで真は自分ひとりのために戦ってきたのであって、決して誰かと苦楽を共にしたり励ましあったりするような戦い方はしてこなかった。それがこのとき初めてクラブなどという集団に属して、仲間と一緒に戦うことになり、剣道を始めて以来、これほど真剣に練習したことはないというほど頑張っていた。

 もともと勝負など時の運だと思っていたし、これまで自分が負けたところで誰も困ることはなかったので、勝負の行き先にこだわりも感慨もあまりなかった。強いて言えば、祖父に褒めてもらうことだけが目標だったかもしれない。怖いもののなかった真は、気楽に剣道を楽しんでいたし、ある程度までは強かった。
 しかし、このとき初めて真は必ず勝ちたいと思い、負けることを怖いと思った。仲間のためでもあり、後輩たちのためでもあり、そして何より、自分のためでもあった。

 準決勝の前に昼休憩になって、選手は応援席に戻った。
 剣道部の他の部員も享志のように真剣に友人を応援に来た他の部の者たちも、それからただひやかしの応援に来た学校の連中も、励ましの言葉を掛けてくれた。

 真は、葉子が弁当を高々とあげて自分に合図をくれたので、彼女の方を見て、初めて竹流がいることに気がついた。葉子と付き合っている享志も、今日は周囲への遠慮もあったのか、葉子とは離れて他の同級生達と一緒だった。この秋から真と微妙な関係になっている副級長の篁美沙子も、享志たちと一緒にいた。
 真は何となく気恥ずかしくて、彼女から目を逸らした。

 真はまっすぐに葉子の所へ行き、祖父と灯妙寺住職の妙元和尚に挨拶をして、一瞬躊躇ってから竹流の横に座った。
 何となく印象が違って見えたのは、髭のせいだ。金と銀の合いの子のような色合いだから、遠くからはわからなかったのだ。整えた髭ではなかったので、完全に無精髭の状態に見える。

「とりあえず、順調のようだな」
 真は頷いた。葉子が特製の『絶対勝つぞおにぎり』を手渡してくれた。
「でも、次の対戦高に、前に大会の決勝で立ち会った奴がいる」
 真ははす向かいの応援席の垂れ幕を見つめたままそう言ってから、ふと竹流の方を見た。

「どっか、行ってたんじゃなかったのか」
「ペルーにな」
「仕事?」
「あぁ、まぁそんなものかな」
 真はそれ以上追求しなかった。竹流が話をごまかそうとしたのが、放りだして帰ってきたからだとは思ってもみなかった。
「そいつは強いのか?」
「うん、強かったし、実際負けたし」
「怖いのか?」

 真は少し竹流の方を見ただけで何も答えず、葉子のおにぎりをかぶろうと手元を見た。
 それにしてもでかすぎる。幸いなことに、竹流から直接指導を受けている葉子の料理の腕は確かなのだが、その感性は時々ぶっ飛んでいる。
 周りの連中も賑やかに昼食を楽しんでいる。真はその様子を見ながら、独り言のように呟いた。

「怖い、かな。よく分からない。負けたくないだけだ」
「じゃあ、勝ってこい」あっさりと竹流は言った。「俺を守ってくれるだろう」
 真は呆れたような顔で竹流を見たが、竹流はちょっとからかうように笑った。
「いつか、そんなこともあるかもしれないからな」

 その言葉を聞いたとき、真は自分の中に誰かに勝ちたい、負けたくないという思いがあることを、そしてその思いはもしかすると決して他人よりも弱いのではなく、強く確かな欲求として存在しているのだということを、明らかに感じた。

 真はおにぎりを食べて、それから葉子に美味しかったと言って、祖父と和尚にもう一度挨拶をしてから、何か言おうと思って竹流の方に視線を向けたが、結局何も言わずに仲間たちのところへ戻った。
 言葉にはならなかったが、見えない何かに背中を押されるような気配でもあったし、後ろに誰かがいるという安心感があるような、不思議に甘ったるい気持ちだった。

 主将の前原が真に、次の試合の打ち合わせのために話しかけてきた。真はただ黙って頷いていた。短い昼休憩が終わると、選手たちはまた下に降りた。
 ちらり、と見上げると竹流と葉子が自分の方に視線を向けたまま、何か話している様子が目に入った。竹流の視線は一旦、観客席の享志や美沙子がいるほうへ投げ掛けられ、竹流は葉子に何か言葉をかけていた。葉子はちらっと向かいの観客席を見て、少しむくれたような顔になった。

 準決勝の開始の合図があり、先鋒の名前が呼ばれた。
 今、目の前には、準決勝の相手校がいた。昨年の優勝校で、真が立ち会ったことがあると言っていたのは相手方の主将だった。
 向こうも真に気がついているようだった。

 実は前原は、勉強のことはともかくとして、こと剣道に関しては理論派だった。
 この準決勝までは自分が大将を務めてきたが、この昼休みの間に真に、次だけはお前が大将だと登録してある、と囁いてきた。真は耳を疑った。
 前原は、真が以前相手高の主将と立ち会っていて、かなり相手を意識していることを知っていたようだ。その真の表には出さない闘志に期待したし、それは次期主将候補のひとりである中堅の宮城と、そういう意味では全く闘争心のない真を、自分が引退の時には競わせたい気持ちもあったようだった。
 本来なら部の主将である前原自身が試合の大将を勤めるべきだったが、どうしても前原はその計画を譲らなかった。これは彼のプロファイリングの結果だった。この運びを見て、相手の主将はちょっと緊張した顔で、真に意味あり気な視線を送ってきた。

 先鋒の芝田が勝って、そのあと次鋒、中堅がいい勝負をしながらも負けた。副将は前原で、その相手も三年生だ。以前も個人戦で何度か三位には入っていた選手で、強いことは間違いがなかった。前原は自分が負けるわけにはいかないというので、さすがに緊張していたようだが、いつもの数倍の粘りを見せた。
 そして勝負は大将に持ち込まれた。

 真は、いつもなら冷静に試合の成り行きを見ているもうひとりの自分が、今日はいないな、と思っていた。
 今日は自分はひとりだった。つまり、一人として完全な姿だった。そして、仲間のために勝つべきであることを知っていた。こんな闘いは生まれて初めてだった。面をつける前に相手を見据えると、相手が威圧するように真を睨み返した。一度目を閉じて、それから何気なく応援席に視線を向けた。

 最初に祖父の顔が見えた。
 真が小さいころは、身体も弱くて何度も熱を出しては、祖父母に孫息子を北海道に連れてきたことを後悔させていて、彼らはこの子供がまともに育たないのではないかと心配していた。二親とも一緒に暮らすこともできず、引き取った育ての親には首を絞められ、行く当てもないような頼りない子供を引き取った祖父母は、何とかこの子を育てようと必死になってくれていた。

 当時は牧場の敷地内に、いくつかの家族(何れも親戚だが)が家をそれぞれ建てて住んでいて、祖父母は年が離れてできた三男の弘志と一緒にひとつの家に住んでいた。
 弘志はその頃高校生で、田舎の悪坊主で知られていて、遊び歩いて悪さをしては何度か補導もされていたが、それも優秀な兄二人への反発もあったようだった。しかも次男の武史の子供が家に入り込んできて、ずいぶん戸惑ったのだろう。結局、弘志は短い家出を繰り返し、結局すったもんだの末に、しばらく長一郎の兄の家に住んでいた。

 とは言いながらも、真のことは密かに可愛いと思っていたらしく(弘志にとって、真も自分もある意味では同じはみ出し者であるという気がしていたのだろう)、あるときよちよち歩きの真が疾走する馬の群れに巻き込まれたとき、最初に危険を省みずすっ飛んできたのは弘志だった。もっとも、馬たちは自分たちのボスである羅王が立って真を足元に庇っていたので、それを上手く避けて走り去っていき、真には怪我ひとつなかったのだが、このことが弘志を更生させるきっかけになった。

 弘志は札幌の大学の農学部に入ってそれなりに真面目に四年間を過ごし、結局従兄弟たち三人で牧場を継ぐことになった。札幌では大学のマドンナと付き合っていたようだが、その後、何を思ったのかアイヌ人の娘を結婚相手に連れ帰った。もちろん、彼女への愛情は確かだったろうが、その根底には、東京で寂しい思いをしているはずの真を、自分が結婚した暁には養子として引き取ろうという気持ちがあったようだ。その女性なら、真を受け入れてくれるという確信があったからなのだろう。勿論、その結婚が簡単な話ではなかったことは、真も微かに記憶がある。

 特に弘志が家を出ている間に、祖父母の真への愛情はエスカレートした。
 とは言っても、祖父は可愛いと思う分だけ、傍で見ていてもそこまで厳しくしなくても、というくらい厳しかったようだ。この弱い子供を育てるには、厳しくしなければならないと思ったのか、ほんの幼稚園の時から竹刀を握らせて剣道を教え、馬や犬たちの世話も自分で責任を持ってするように、と押し付けた。

 真は実際この頃から、祖父に誉められたいと思って一生懸命に剣道の稽古をし、その後も何かの大会に出れば祖父が応援に来てくれるので、喜んで試合にも出た。試合でよほどの情けない負け方をしない限り祖父は怒らなかったが、その後の練習は悪いところを徹底的に直された。逆に勝っても、よし、と言うだけで、ものすごく喜んでくれた記憶がない。だから、真はいつも祖父に喜んでもらいたいし誉めてもらいたいと思っていた。

 ついでに言えば、祖父は、友人である津軽三味線の名人の手ほどきで三味線や民謡を趣味にしていたが、実際はほとんど玄人で、レコード会社から話を持ち込まれたこともあるようだった。民謡ではタイトルこそなかったが、祖父の江差追分を聴きに、遠くから人がやってきたこともある。
 だが、子どもの誰にもそれを教えることができなかったので、唄はともかくも三味線に関しては孫の真を唯一の弟子にして、趣味とは思えない熱心さで教えてくれていた。村の盆踊りでも祖父母と何人かの仲間が演奏に借り出されると、必ず真を連れ出して一緒に櫓に登らせてくれた。
 もっとも、剣道があまりにも厳しかったので、真はこっちは厳しくないと思っていたのだが、周りからすると礼儀作法に厳しい祖父は、三味線の件でも真に無茶苦茶厳しいと思われていたようだった。

 そうしたわけで、子供の頃の真にとって、祖父は唯一無二の尊敬できる大人であって、この人に褒められることが真の大きな目標でもあった。

 その祖父と目が合ったのかどうか、確信はなかった。
 今はただ、真は姿勢を正し息を吐き出した。
 面をつける前に、もう一度応援席を見たとき、一生懸命に応援してくれている同級生の中に享志と美沙子を、それから葉子を見つけ、その葉子の横に竹流の明るい髪を見いだした。ただ黙って自分に向けられた視線に、真は一瞬、時間が止まったような気がした。

 もしも試合で緊張している場面でさえなければ、真は自分の感情を考えたかもしれなかったが、その時は事実それどころではなかった。

 面を付け、合図で立ち上がったとき、真はこれまでとは違う何かが見えたような気がした。
 自分が戦うことで、勝つことで、他の誰かのためになるなどとは思ったことがなかったのに、今日は自分が、冷静に物事を見据えているもうひとりの自分と分裂しているのではなく、ちゃんとひとつの自分であって、そのひとりの自分の周りに多くの人がいることを感じた。

 立ち会いは、ほとんどの時間が相手の隙を窺う緊迫したものだった。相手もなかなか打ち込んでこなかった。
 相手の大将も真に一度は勝っているものの、真が強いことを知っていて、普通に打ち込んだのでは躱されると思い、慎重に構えているようだった。真はじりりと右へ動いた。相手も間合いを変えないために同じ方向へ動いた。

 会場は静まり返っていた。
 瞬間、向こうから胴へ打ち込んできて、真は跳ねるようにそれを躱し、一瞬の突きで相手の小手を狙ったが、僅かに届かなかった。その後さらにもう一度長いにらみ合いがあった。
 葉子も竹流も、そして多分それ以上に長一郎が、自分の拳を握りしめ歯をくいしばるようにして真と相手の動きを見つめているような気がしていた。

 本来なら技を仕掛けるようにという指導が入りそうなものだったが、あまりにも緊迫したムードが伝わったのか、一度主審が主宰のところに相談に行って試合を中断したが、そのまま試合は続行された。
 それでも、後半は指導を気にした相手が何度も仕掛けてきた。鍔迫り合いでも相手の気迫は嫌というほどに伝わってきた。一瞬、怯みそうになる気持ちを真は畳み込み、跳ね下がった。下がる時にはもう次の攻撃の準備をしている。

 灯妙寺の和尚が、真のこの左足を褒めてくれたことがある。もっとも、これも全て、祖父の容赦のない打ち込みをかわし続けた結果、真自身の身体に染み付いた技術に過ぎない。下がる時にも、次の攻撃の準備をしていないと、かわすこともできないのだ。身長が自分よりも遥かに高い大人の相手をしてきたお蔭で、真は大きな相手に対しても怯むということがなかった。

 それから何度か激しい打ち合いになったが、旗は上がらなかった。そのあと、また長いにらみ合いになった。四分がこれほどに長いと思ったことはなかったが、ある意味では気持ちのいい時間だったのかもしれない。力が互角の相手と、真正面から対峙している。

 もうこれ以上は我慢がならないほどのにらみ合いの後、軽く仕掛けて相手が突きに入ったその瞬間から、真の目には全てがスローモーションのように動き始めた。
 その時、相手の突きをかわしながら、飛び込むような得意の面が入った。

 試合時間の四分いっぱいだった。
 一瞬の静寂の後、歓声が応援席と後ろの仲間から上がった。前原が飛び出しかけて、自身を制し、真と相手の挨拶が終わると、今度は皆が飛び出してきた。
 真は面を外す間もなくくちゃくちゃにされて、それから面を外したところを思いきり前原に抱き締められた。

 実際は決勝が残っていたが、こちらはむしろ楽勝だった。準決勝の相手よりも弱かったし、自分たちの勢いもあった。真が先鋒に入り、次鋒の芝田、中堅の宮城で勝負がついてしまった。
 表彰式があり、皆と並んで賞状やトロフィーやメダルをもらったとき、生まれて初めて、勝って本当に嬉しいと思った。
 こういうことは初めてだった。本当はものすごく嬉しかったはずだが、後からクラブの連中が、お前もうちょっとにこっりしたらどうなんだ、と言ってきたので、多分いつもの如く全く表情には出せていなかったのだろう。だが、前原だけは、いや、こいつはすごく嬉しそうだったよ、思わず抱き締めちゃったもん、と言った。

 武道館を出たところで、応援団の出迎えを受け、取り囲まれた。初優勝だったし、皆が興奮していた。新聞部の取材に主将の前原が照れながら答えている横顔が何だか嬉しかった。
 享志も美沙子も、暇なのでつられて来ていただけだった同級生も、それから享志に引っ張られて上級生の中に加わっていた葉子も、勝者たちを取り囲んでいて、真はその中に院長の姿を見つけた。

 院長のウィンクを受けて、ようやくしみじみと勝ったんだと思い、自分がどれほど緊張していたのか、気が付いた。それから、ふと、本当にこの人が自分の母親になってくれていたら、と思った。そして、少し離れたところに、祖父と和尚と竹流が一緒に立っているのが見えて、真は皆をかき分けるように祖父のところへ行った。
 もしもあの人が母親になってくれていたら、などと思うのは、こんなにも一生懸命に自分を育ててくれた祖父に対して何て申し訳のないことだろうと感じた。自分はいつも彼を目標にしてきたのだ。

 祖父の前に立つと、一瞬緊張した。きっといつものように、よし、と言ってくれるだけだろうが、それでもその言葉を聞きたいと思った。
 だが、意外なことに祖父は真の頭に手を置いて、無言のまま何度も何度も頭を撫で、そしてようやく一言言った。
「よくやった」

 初めて祖父に褒められたのが、自分でも驚くほど嬉しく、顔にこそ出さなかったが、真は言葉に詰まってようやく頷いただけだった。これもまた長一郎に負けず劣らず頑固でおっかなく、褒めることの少ない妙元和尚も、真によくやったと言ってくれた。竹流はその様子を見ていただけで、その時は何も言わなかった。

 皆のところへ戻るとき、真はちらりと竹流の方を見た。長一郎に髭のことで何か言われたのだろう、顎を慣れない手つきで撫でながら、事情を説明しているように見える。何か声を掛けてくれてもいいのに、と思ったが全く真の方を気にしてくれている気配はなく、それがちょっと引っ掛かったものの、その時はそれ以上何も言えなかった。

 その日は、真も葉子も祖父の家に泊まることになっていた。解散になった後、祖父のところに電話をすると、葉子が出た。何の目的で自分が電話をしたのか、どういうつもりなのかわからなくなって、勢いで今日は友達のところに泊まる、と伝言した。
 葉子はちょっと黙った後で、言っとく、と言っただけで、どこ、とも聞かなかった。真に、家に泊まりに行くくらい親しい友人がいるとは思っていなかっただろうから、それがどこであるのは、彼女も察しているだろうと思った。
 そして、真はほとんど無意識に、竹流のマンションを訪ねていた。





真の高校時代の物語。
あまり書くことはなくて、こうして回想的に出てくるだけなのですが、ひとつだけ、簡単なお話を考えています。
語り手は、相川真の自称親友・富山享志。
彼らが通っているのはクリスチャンスクールなのですが、学校によくある七不思議に名探偵の卵・真が挑むってありきたりな話。実現の可能性は30%くらい?(低っ!)

続きは、いちゃいちゃの竹流と真です。
あ、単に、竹流が真をおちょくっているだけですので、危ないシーンではありません。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨61] 第11章 再び、若葉のころ(3) 

さて、高校生の真を書いた【続・若葉のころ】、最終回です。
真が少しだけ、竹流の仕事の片鱗を知る、そういう部分になるでしょうか。
というよりも、彼の本音は「この男が人殺しでも多分平気」といったところなのかもしれません。
ある意味、恐ろしいことかもしれませんが、実際にはこれがこの本編の中の真の感覚に繋がっていっているのかもしれません。ここでは善悪は問いませんが、この本編の第4節に出てくるイタリアのゴッドファーザー、じゃなくて竹流の叔父をどう感じるか、皆様のご意見をいずれまたお聞きしたいです。
ひとまずここは、可愛らしい真を楽しむ最後のチャンスかも!
髭を武器に?真をおちょくって遊んでいる竹流をお楽しみください(二度とないシーンですから)(^^)





 あまり躊躇いもせずに、マンションのレセプションで名乗って501号室を呼び出してもらおうとすると、来ることが分かっていて言付けてあったということなのか、レセプションの上品な紳士が呆気なく通してくれた。

 しかし、部屋に上がると、そこには竹流の恋人で、マンションの上の部屋に住んでいる室井涼子が来ていた。
 いつも綺麗にしている大人の女性は、その当時の真には眩しい限りで、言葉もでないまま頭を下げて挨拶をした。彼女が何をしにここに来ているのかもわかっていたし、それはそれで緊張の一因にもなった。
 涼子が、あの頃自分たちの逢瀬の邪魔になる真に対してどう思っていたのかは分からない。しかし、まさかこの高校生がいずれ自分の恋愛の差支えになるなどとは思ってもみなかっただろう。

「帰るわ」
 竹流は、あぁ、とだけ言った。それから真に奥へ行ってろ、と言って、涼子を玄関まで送りに行った。
 その玄関まで行く間も、竹流は涼子の肩を愛おしげに抱いて、今にも口づけそうなくらい近くで彼女に何か話しかけていた。涼子は髭にくすぐったそうな顔をして微笑んでいる。
 真はちらっとその様子を見てから、台所奥のリビングダイニングの方へ行った。

 淡い辛子色のソファに座ると、何だかぐったり疲れてしまい、直ぐに眠気に襲われた。人の気配がひとつ、マンションの部屋から消えていく。その空気をぼんやりと頭の後ろのほうで感じながらも、ふわふわするような心地で意識が遠くなりかかっていたのを、急に身体ごと浮き上がったようになって目を覚ました。

 竹流の顔が間近だった。その青灰色の目は、びっくりするほど優しく真を見つめていて、真は頭の中がひっくり返ったような気がした。いや、何よりもこの髭がいけない。見慣れたはずの顔が、知らない誰かのようで、顔を見るたびに照れてしまうのだ。真は目を逸らして訴えた。
「降ろせって」
「何で?」
「何でって……」
 真は言葉に詰まった。
「今日はいい日だから、いいじゃないか」

 髭だけではない。少し見ない間に竹流は随分日焼けしていて、いちだんと逞しく大人に見えた。
 いや、もちろん初めて会った時から十分に大人だったのだが、ここにいる彼はさらに素晴らしく惚れ惚れとするようないい男だった。同性の相手に惚れ惚れする、というのも妙だが、それが不自然でもないのが不思議だった。

「しばらく帰ってこないんじゃなかったのか」
「そのつもりだったんだけどな、ペルーの山の上で寝ていたら、神のお告げがあって、東京でお前が待っているので帰りなさい、と言うんだ」
「何、馬鹿言ってんだ」
「本当は、お前の顔がちらついて寝られなかったんだけどな」
「嘘つけ」
 真は言ってから、竹流の手から逃れようとした。
「降ろせって」
「うるさいぞ」
 竹流は、かわいい子どもにするように、その頬に頬をくっつけた。
「髭、嫌だって」

 逃れようとすると、余計に面白くなるのか、わざとらしくすり寄せてくる。
「くすぐったいんだって。なんでそんな伸ばしたままにしてるんだ」
「森の中に入ってたからな、剃ってる余裕がなかったんだ」
「帰ってきたら剃りゃあいいじゃないか」
「俺は飛行場から武道館に直行したんだぞ」
 竹流は真を抱いたまま、少し距離を取って、むくれたような顔を作った。真が今の言葉の意味を考えているうちに、竹流の顔が優しい笑顔に変わっていく。

「しかし、今日は良かったな。何よりも、おじいちゃんに褒められて嬉しかったろ」
「何で?」
「何で? 俺のところじゃなくて、おじいちゃんのところにすっ飛んで来たくせに」
 え? と思って竹流の顔を改めて見た。そんなことを考えていたのか、と思って驚いた。
「俺が仕事を放りだして地球の反対側から帰ってきたのに、おじいちゃんのところに飛んでいくような薄情な奴だが、今日、ここに来たから許してやろう」

 何を言われているのかよく分からなくなってきて、真はとりあえず言葉だけは足掻いた。
「とにかく降ろせって。しかも俺、汗臭いし」
「だめだな」
「それに、そう言いながらあの人といちゃついてたくせに」
 何気なく出てしまった自分の言葉にも驚いたが、真は自分をまともに見つめる竹流の視線に心臓が打つ速度が速まったように感じて、更に驚いた。

「妬いてるのか」
「なんで? 女しか抱かないんだろ。降ろせよ」
 半分焦って脈絡なく真は言った。それを聞いて、竹流はいつもの、可愛いものを見るとからかわずにおれないという悪い虫が出てきたようで、真をようやくソファに降ろしたと思ったら、そのまま真を抱き締めた。またしつこく頬をすり寄せてくる。
「宗旨替えしてもいいな」
「馬鹿言ってるんじゃないって」

 すかさず言ったものの、竹流には全く相手にされていなかったようだ。
 真は自分の耳朶に竹流の唇の感触を覚え、思わず首を縮めた。しばらく触れるか触れないかの距離が保たれたままだったが、やがてその耳の奥の鼓膜に、いやあるいは耳の軟骨を通じて直接三つの小さな骨に伝導するように、竹流の声が穏やかに優しく響いた。

「とにかく、今日は勝てて良かった。意味のある勝ちだった。おじいちゃんも、だから喜んだんだろう。お前が打ち込んだ瞬間、おじいちゃん、跳上がるみたいに立ち上がったからな」
 抱き締められてそう言われると、何だかほっとした。長一郎がそんなふうに自分の闘いを、まるで自身が闘っているかのように見ていてくれたのだと思うと、嬉しかった。

 それに、他人と触れていて、こんなにも穏やかな気持ちになることは他にはない。
 尤も、今日は幾らか勝手が違っている。髭を見てしまうと、見慣れないからか、やはり幾分か緊張するのだ。それは竹流にも伝わっているようで、彼の方は面白そうに、視線を避ける真の目の前に顔を寄せてくる。
 しつこいぞと言いかけて、相手との距離にぞくっとした。相手があまりにも近くにいるので、ますます自分の汗の臭いが気になった。女みたいな気のしかただなと思うと恥ずかしかった。

「シャワー借りてもいいか」
「一緒に入ろう」
「馬鹿言うなって」
 拒否したにも関わらず無視されて、結局一緒に風呂に入った。
 背中を流してもらいながら、真はその日何度目かでほっとしたように思った。

 そうか、勝ったんだと思って、じわじわと嬉しかった。ひとりで闘って勝ったときは、それはその場だけのことだった。それが今日は、仲間たちの顔を一人一人思い出し、立ち合ったライバルの面の向こうの顔を思い出し、何度考えても嬉しかった。
 嬉しいという気持ちを感じるためには、多分心の余裕が必要なのだろうが、それが実際ここで提供されているからなのだろう。

「お前、ここんとこだいぶ打ち込んでたな」真の背中や腕を力いっぱい擦りながら、竹流が話しかけてきた。「筋肉の具合が違う。いい感じだ」
 真は何で自分が照れているのかと思った。
 それから、交代で竹流の背を流している時、彼の脇腹の痣や腕のいくつかのかすり傷の跡に気がついた。いや、かすり傷というほど単純なものには見えなかった。何かがかすっていった跡のようだったが、何、というのもある程度想像の範囲にあった。
 ただ、自分が今までそんなものを見たことがないだけで。

「どうしたんだ」
 真の質問の意味を察したのか、竹流はあっさりと返事をした。
「まぁ、いろいろある。鉄砲玉が飛んできたり、崖から滑ったり」
「鉄砲玉? 何やってたんだ」

 今度は、竹流は返事をしなかった。真は黙ってその背中を洗っていた。
 多少の傷はともかくとして、綺麗な整った逞しい身体だった。筋肉の張りは皮膚の表面からも窺われるようで、その腕に触れると、この腕でどれほどの女を楽しませているのだろうと考え、複雑な気持ちになった。
 真の保護者として学校に行って以来、竹流は髪を短くしたままで、優雅さを保ったまま、太陽の光で焼けたしっかりとした首筋を後ろから見ると、不意にたまらない感覚が襲ってくるような気がした。

 広い湯船に向かい合って一緒に浸かりながら、竹流はちょっとの間、真を随分優しい目で見つめていた。真は思わず視線を湯の面に落とした。
「あんたが、」真はちょっと考えて言葉を切った。「何やら危なっかしい仕事をしてるのは分かってるつもり、だけど」
「何を言ってる? 俺がやってるのは、仕事じゃなくて趣味だ」
「趣味? 鉄砲玉が飛んでくるようなのが趣味なのか?」

 顔を上げて言うと、竹流が少しばかり、しまったな、という顔をした気がした。
「まぁな」
「何やってるのか教えろよ。何千万の金を動かせるって言ってたけど、普通じゃない」
 今度は竹流は真剣な目で真を見つめていた。
「知ってどうする?」
「どうって、別にどうもしないけど」
「知ったら俺から離れられないぞ。いや、お前を離さないかもしれないぞ」
 真は黙って相手を見ていた。

「しかし、今日は特別、お前の活躍に免じて許しておこう。俺がしているのは泥棒と詐欺だ。たまには怪我もする」
「泥棒?」
「いや、正確には何でもありだな。手を出さないのは、法外なクスリと武器くらいだ。時には今回みたいにトレジャーハンターと未開の土地みたいなところにも出かけることがある。人類の尊い財産をかっぱらったりするわけだ」
 真はまだ呆然と相手を見ていた。
「たまには人ん家から絵画や宝石を盗んでくることもある。別に自分のものにするわけじゃない、もとの持ち主に返すためにな」

 少しだけ言葉を切って、竹流は両手で湯を掬い、顔を洗った。
「ちなみに、人殺しはしない。物については、あるべきところにあるべきだと思っているだけだ。さぁ、これで俺と離れられなくなったわけだ、どうする?」
「どうって」真はちょっと下を向いた。「それ、俺をおちょくってるのか」
「いや、本当のことだ。もしも、お前が」
 竹流は言いかけて、今度は本当にそこで止まり、上がろう、と言って先に風呂から出た。

 真が浴室から出ると、脱衣場で竹流は何故か真にタオルを渡そうとはせず、真の身体を拭いてくれた。
 真は逆らう隙も伺うことができず、ただ任せていた。
 上半身だけでなく下半身まで丁寧に拭かれて、真は思わず自分のものが反応しないかと緊張したが、さすがに緊張の方が強かったのか、心の奮えとは裏腹にそこは大人しくしてくれていた。
 だが、竹流の方は何も言わず、真の顔も見ないまま、真が恥ずかしくなるくらいじっくりと時間をかけて、いや、むしろ真の身体の隅々まで確認するように丁寧に拭いている。足の間、そして後ろのその場所まで来たとき、真は頭の半分で、これは口封じとかいう理由で自分をどうにかしようとしているのだろうか、とも思ったが、女しか抱かないと言っていたし、多分そういうことではないのだろうと、気を取り直した。

 とは言え、緊張から逃れようと語りかけた自分の声は上ずっているようで嫌らしく感じた。
「それって、命に関わったりしないのか」
「そういうこともあるかもな」
 それ以上はその話題は続かなかった。竹流がタオルを洗濯機の上に放り投げたとき、真はやっと緊張から解放された。
 別に竹流の仕事についてどうこう言おうとは思っていなかったし、予想していた以上にひどい話というわけでもなかった。
 むしろ、人殺しだと言われなくてよかったと思った。

 翌日、真が起きた時には、竹流はもう髭を剃り落としていた。一晩で髭面に慣れ始めていたので、また無くなってしまうと、逆にちょっと驚いた。その真の顔を見て、竹流は面白そうに笑った。
「髭も良かったろ。惚れ直したんじゃないのか」
「惚れ直すってのは、もともと惚れてるってことだから、言葉の使い方が変だ」
「惚れてるだろ」
「意味わかんないよ」
 真は話を切り上げたが、竹流はまだおかしそうに笑っている。

 一緒に灯妙寺の離れに行くと、祖父の手料理が待っていた。釣りをする剣道の生徒からもらった新鮮な魚の刺身に、祖母の手作りの幾種類もの佃煮、季節の野菜の天麩羅、その他シンプルながら豪勢な食事が並んだ。
 前日の試合の話も含めて話題は尽きることなく、長一郎と竹流は気分よく酒を飲み続けていた。年齢も民族も性質も違うこのふたりが、一体どうしてこんなに馬が合うのかは謎だった。
 祖母の奏重は、お酒につき合うことのできない未成年の子供たちに、いつまでも待ってても埒が空かないから、先に寝るように言った。葉子は直ぐに、そうする、と言って部屋に上がった。真は一瞬どうしようかと思ったが、確かに待っていてもする事も無いので、奏重の言う通りに二階の部屋に上がろうとした。

「竹流さんと寝るでしょ」
 勿論、同じ部屋で、という意味で祖母は言ったに違いないが、真は一瞬びくっとした。それから、自分が何を狼狽えたのかと思った。
「もうそろそろあっちも切り上げさせないとね。長一郎さん、明日も早朝練習の生徒さんが来るのに」

 真は耳が熱くなったような気がして俯いた。
 祖母が今でも夫のことを名前で呼ぶことに、真はずっと何の違和感もなかったが、ある時、日本の夫婦では珍しいと聞いてから、奏重が夫の名前を呼ぶたびに、真も意識するようになっていた。そのことは少し自慢でもあったのだが、何故意識をするようになったのかと思うと、少し気恥ずかしかった。

 時計を見ると、もう一時を回っている。
 部屋に入ると、布団がふたつ並んでいて、真は心なしか二組の布団がひっつき過ぎかな、と思った。それが祖母の微妙な感情の結果であるような気がして、後ろ暗く不安な気もしたし、あるいは自分の考えすぎかとも思ったりした。
 とにかく、一方の布団に潜り込んで、ややこしいので竹流が上がってくる前に寝ようとしたが、どういったわけか眠れなかった。

 しかし、それほど時間も置かずに竹流が部屋に入ってきて、酔っぱらっていたせいもあってか、空いているほうの布団ではなく真の寝ている布団の方に潜り込んできた。真はびっくりして跳ね起きようとしたが、そのまま後ろから抱き締められた。
「酔ってるのか」
「うん、日本酒は気分がいいとついつい飲み過ぎて、しかもよく回る」

 酒にべらぼうに強く、もちろん幼少の頃から色んな意味で鍛えられているので、酒くらいではめったに酔わない竹流が、長一郎と飲んでいると気分がいいのか、時々こうやってかなりでき上がってしまうことがある。
「あっちで寝ろって」
「うるさい」
 そう言って、また抱き締める手に力を入れてくる。その抱き締めてくる手が、真の下腹部に触れそうな位置にあって、真は思わずぎくっとした。
「朝、片一方の布団で寝た気配が無かったら、おばあちゃんがびっくりするよ」
「そうかな。多分納得するだろ」
「何を?」

 しばらく何ともいえない間があって、それから竹流は寝ぼけたようなもにょもにょとした声で、真の背中から肩越しに言った。
「おばあちゃんは、何か理解してくれている気がする」

 何をこいつは言ってるんだ、と思ったが、その後は全く反応がなかった。
 結局そのまま竹流が寝てしまったので、真はどうしようもなくなってしまった。この腕から逃れて、別の布団に入ろうとも思ったが、あまりにもしっかり抱き締められていて離してくれなかったので、諦めた。
 それから、少しの間自分でも定まらないことをあれこれと考えていたが、何ひとつ収まりがつかなかった。

 子どもの運動会やお稽古事の発表会に、親が忙しい仕事の都合をつけて、何としてでも来てくれる、というような経験のない真にとっては、それがどれほど子どもにとって大事なのかということについて、何の根拠も感慨も持てなかった。
 もちろん、祖母はいつも来てくれたし、時々は祖父や大叔父たちも来てくれたが、他の子どもたちが若い両親に囲まれているのを見ると、心臓の真ん中にぽっかりと穴が開いたようになってしまうので、自分だけが違うということをまともに考えないようにしてきた。

 自分には親がいないということをいじける理由にする前に、真は諦めてしまっていたのだ。
 だから昨日、竹流の姿を応援席に見つけた時、真は嬉しいという感情に初めて出会ったような気がして、すっかり混乱してしまっていたのだろう。だが、親のようだと決めつけてしまうには、自分の気持ちはもっと透明で、もっとどろどろしていて、もっと複雑な色合いをしていた。

 真は竹流の腕の中で向きを変え、その胸に自分の方からしっかりひっつくようにした。そうすると、竹流は起きたわけではなかったのだろうが、逞しい腕で真の背中と頭を抱き締めるようにした。
 この男が詐欺と泥棒を働いていも、もしかして人殺しでも構わないと思っている。
 俺、やっぱりちょっとおかしいのかな、と思った。

 これが恋愛感情だとは思わなかった。もちろんつき合っている篁美沙子に対しての感情も、恋愛感情かどうか定かではないところがあったし、そういうものが自分の中できちんと区分けされて分類できるという気もしなかった。
 しかし、美沙子と会って別れ際に離れたくないと強く思うことはなかったのに、この男といると、不思議と離れたくないと思った。別に特別な行為をするわけでもないのに、どうしてそうなのか、わからなかった。


 この自分の中にある何か特別な感情を、あの頃真は持て余していた。まだ自分自身というものを掴み所なく頼りなく思っていた年代の真にとって、自分が異性ではなく同性の相手に興味を抱いていること自体が不可解で不安だった。もちろん、女性に興味がないわけではなかった。涼子を見て時々は自分が熱くなるような気もしていたし、美沙子と会えばいつでも夢中でセックスをした。

 ただ、考えてみれば、異性同性関係なく、人間そのものと深く関わることをどこかで怖がっていたのも事実で、美沙子とも身体を重ねるだけで、心から向き合えていなかったのかもしれない。もしも、心で求めるような深い感情があれば、彼女は離れていったりはしなかっただろう。
 だとすれば、やはり特別な感情を、もしかすれば北条仁が言うような特別な恋愛感情に近いものを、彼に対して抱いていたのだと言われても、否定する根拠もなかった。

 ただ、ひとつだけはっきりと自覚していることがある。
 あの頃、真は自分が恐ろしく幸せだったと、今でもちゃんとわかっているのだ。






この【海に落ちる雨】にはあともうひとつ、完全に独立した章(過去)があります。
第3節に出てくるのは、『わかってください』という章題の同居に至る過程。
もちろん、あの名曲、涙で文字がにじんでいたなら、分かってください~ってやつです。

高校を卒業する前に、いささか箍が外れてしまったこの二人ですが、イタリア旅行の後(そう、【幻の猫】のあとフィレンツェ→ローマ→アッシジとちょっとややこしいことに……)、いったん会わなくなります。
そして、大学1年生の秋、真が浦河の崖から落ちて死にかかって(実は死んじゃって、後は幽霊じゃないかという一部のうわさもあり??)、以後はつかず離れず……
その頃の話が【清明の雪】です。(真、大学3年生、ちょうど中退する時です)
それから何とか頑張っていた真が、妹の結婚を機に、ちょっと壊れそうになる。
付き合った相手が悪かったんでしょうか。妹の結婚相手、そして親友である富山享志の従姉と恋愛関係になり、自殺未遂の一歩手前までいくようになり、体を壊して入院。
それから大和竹流と同居に至るまでの過程を書いています。

またお楽しみに。

次回から、新潟の贋作事件に戻ります。
どんどん怪しい奴が出てきますが、真と一緒に竹流につながるヒントを探してやってください。
どの糸が彼に繋がっているのか……

次回、第12章『絵と女の来歴』です。


Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨62] 第12章 絵と女の来歴(1) 

さて、12章『絵と女の来歴』をお届けいたします。
女とは、ここでは表向きは真の恋人である、銀座のバーのママ・深雪のことになります。
しかし、問題となっている「贋作と烙印を押された絵」に絡む女たちがいまして、ひとりはすでに登場の上蓮上家の女主、そしてもう一人は、まだ出てきていませんが少しだけ片鱗がちらちらでている女です。
絵の方は……どうやら遠いソ連からやって来たようですが。
さて、多分絶対怪しい男、新潟の弥彦の村役場に勤める、昔フランスに留学して画家を目指していたこともあるらしい、しかし挫折してるらしい江田島という男を訪ねてみましょう。

*失踪した同居人・大和竹流の行方を探す調査事務所所長の相川真。彼の残した新聞記事には新津圭一という雑誌記者が自殺した件が書かれていた。調べてみると、その自殺はどうやら怪しいらしく、殺されたという疑惑もある。一方、彼が誰かを脅迫していたという後追い記事があり、その脅迫の内容は「IVMの件で」
それが企業の名前ではなく、フェルメールのことだと分かった真は、やはり同居人(修復師)の竹流の関与を確信するのだが……


*切り処がなくて、少し長いです。しかも長々と贋作云々話をしています。ご容赦ください。ご興味のある方はじっくりと、あまり贋作話に興味のない方は読み流してくださって、江田島の怪しさを探っていただければと思います(^^)





 翌朝、顔を洗った後、美和がまだ起き出さないのを確認して、サイドテーブルにロビーにいるというメモを置いて、そっと部屋を出た。煙草を吸いたかったし、何となく二人きりの部屋で美和と顔を合わせる気持ちになれなかった。
 少しは眠ったのかどうか、自分でもわからなかった。このところ、ほとんどずっと夢を見ている気がする。中学生や高校生の頃の夢だ。自分の感情はあの頃からずっと止まったままのような気もした。

 新聞を読みながらコーヒー一杯を、たっぶり時間をかけて飲んで、それから二本目の煙草を吸い終わる頃、美和が降りてきた。
 向かいに座ると、美和はちょっと躊躇ってから言った。
「先生、眠れた?」
 そう言われて彼女を見ると、本当に心配そうな視線にぶつかった。単純で真っ直ぐな彼女の感情には、嘘や演技ではなく、本当に心配している色合いがあった。
 そういう表情を見ていると、やはり女の子は愛おしいと思える。
「大丈夫だよ。何か食べるか?」
 美和は一呼吸置いてから、うん、と頷いた。

 ホテルを出ると、予め連絡を入れてあった弥彦の江田島という男に会いに出掛けた。
 電話での対応は真面目な印象だった。新潟に着いてからずっと心が現実と過去と夢の間を行き来しているのは、漠然と、不安の対象がそこにあるからだと思っていた。
 もしかするとその根源がこの江田島という男ではないかと感じていたので、電話の声を聞いて意外な気がしたのだ。勿論、ここにきてようやく例の絵に直接関わり、知識を持った人間が初めて現れた、というただそれだけのことかもしれない。

 弥彦までは国道四〇二号線を走った。
 海岸沿いの越後七浦シーサイドラインとも呼ばれる道で、日本海の荒波が作り出す様々の景観を楽しみながら走ることができる。
 美和はずっと海の景色を気にしていて、いちいち車を止めて、とはしゃいでみせる。奇岩も港も個性的で飽きさせず、美和のカメラの腕も鳴るのかもしれない。
 それでも、真は、美和が必要以上にはしゃいで見せていることを感じないではいられなかった。カメラを構える後姿の裏側で、彼女がどんな表情をしているのかは見えない。

 そのまま弥彦スカイラインに入り、弥彦山へ登った。急なカーブがいくつも続き、二輪車の乗り入れは禁じられている危険な道は、そのうち山頂に至る。
「晴れててよかったですね」
 別に観光に来ているわけではないので、天気などどうでもいいのだが、これで雨でも降っていたら、気分は余計に滅入っていたかもしれない。美和は真の横で、カメラを構えながら、とってつけたように言った。
「佐渡が見えるんだ」

 改めて言うほどのことでもないのに、敢えて美和は言ったようだった。彼女がその後黙ってしまったので、真は眼下の町や向こうの佐渡から、思わず美和のほうを見た。
 美和は遠い佐渡を見つめたままだった。彼女が泣いているのではないかと思ったが、何も聞けなかった。
「昨日は、ごめんなさい」
 不意に、美和は小さな声で言った。
「何が?」
「だだをこねたでしょ」
 別に美和に非があるとは思わなかった。混乱しているのは真の方だった。
「いや、俺のほうが悪かった」
 こうして互いに謝ることで、その関係は却って恋人という範疇から外れていくような気がした。

 車だと遠回りになるので、山頂の駐車場に車を置いて、ロープウェイで弥彦の町に降りた。
 山麓駅で降りて三百メートルも行くと、弥彦神社に着く。周囲は鬱そうと木々が生い茂り、背後には今下りてきた弥彦山がそびえる。
 広い境内を、時間を持て余しているようにゆっくりと歩いた。美和は真の少し前を歩きながら、時々大きな樹にファインダーを向けている。途中で、赤い袴姿の巫女さんが通りかかった。古い社に不釣合いなほどの鮮やかな朱は、美和の気持ちをひきつけたようだった。

 若くて健康的な笑顔を向けられて、美和は彼女の方に寄っていくと、写真を撮っていいかと交渉していたようだった。巫女の若い女性は快く承諾して、さりげなく歩いている風景となった。
 何枚か写真を撮ってから、美和は女性に礼を言って暫く何かを話していたが、女性は笑顔で首を横に振って、会釈をして向こうへ去っていった。
 笑顔の口元は美人にありがちな形なのかもしれないが、誰かに似ているようも思った。印象的で、はっきりと美人と言える顔立ちだった。

「越後って美人が多いわね」
 美和が、カメラのレンズに蓋をしながら、まだ彼女を視線で見送っていた真に話しかけてきた。
「うん、そうだな」
「先生でも見惚れることがあるんだ」
「いや、どこかで見た顔だと思って」
「あ、そう。女を口説くときに男の人がよく使う台詞よね」
 そう言われて美和を見ると、いつもの彼女だった。何かほっとして、真は何となく頷いて、そのまま本殿のほうに足を向けた。


 弥彦村役場を尋ねると、直ぐに狭い応接室に案内されて、程なく江田島が現れた。
 真は、例の『歴史紀行』の名刺を差し出した。江田島はじっと名刺を見て、声に出して真の名前を読んだ。それから自分のほうも名刺を差し出した。
 弥彦村役場経理課課長 江田島道比古
「お話は県庁の時政さんから伺っています」

 真は、半分拍子抜けしたような気分だった。江田島は特に印象深い顔でもなく、格別に美男子というわけではないが、真面目で人の良さそうな人物で、一見して好印象を与える男だった。背も日本人としては平均的で、威圧感もなく、穏やかそうに見える。話し方ははきはきとしているが、きつい感じではなく、頭の良さそうな落ち着いた印象だった。
「例の、絵のことでお見えだとか」
「はい、贋作について、色々と教えていただけないかと思ってやってまいりました」
 江田島は真と美和に、ソファに座るようにと手で促した。

「絵をご覧になられましたか?」
「はい」
「あれらが贋作であっても、初めてあの絵を見たときには、大変感動したのを覚えています。何と言うのか、そこにこめられた作家の感動が、明確に伝わってくるのですね。ですから、あれらは贋作であっても価値のあるものだと、蓮生さんにはお話いたしました」
 江田島の言葉はほとんど標準語だった。若い頃から絵の勉強をしたくて苦労をしていたというこの男は、長い年月故郷を離れて、自分の生まれた土地の言葉をぬりかえてしまったのだろう。

「贋作とわかったのは、顔料が幾つか、その時代にないものと判明したからだと、時政さんからお伺いしました」
「その通りです。東京の大学にフランス留学中に知り合った教授がおられたので、最終的に科学的検査を依頼しました。私は、贋作者が実に巧妙にこの仕事をやり遂げたことを確信しています。素材はフェルメールのものに近く、印象的な女性が描かれています。実際、絵を見るときに最も大切なことは、全体の印象です。私たちは何も始めから科学的分析に頼るわけではありません。勿論、描かれている素材が、その時代や場所に適切なものであり、またその当時実際に使われていた技術が用いられているか、そういうことは確認の上でのことです。その後に、絵から迫ってくるものは、全体の印象であって、それはある意味では科学的分析に勝っているかもしれません。例えば、フェルメールの絵の場合、光に溢れていますが、同時に光と微妙に分けられた影も存在している。つまり影の気配を描くことによって光を、光を描くことによって影を描いているのです。基本的に彼の絵にはポワンティエと呼ばれる点々、つまり色彩を光に置き換えた点が散りばめられている。しかし、誰か別の画家がただその点々を同じように描いても、それはフェルメールにはならない。画家が、自分の技巧や素材に対して何らかの確信を持たなければ、それらのものが『本物』として見えてこないのです。だから、どれほど上手く真似たとしても、そこに画家本人が盲目的な確信を持って描いた何かが感じられなければ、私たちはそれを本物と感じることができないのです。しかし、あの絵にはその確信のようなものがありました。その絵がフェルメールであることに迷いがないように感じられたのです。贋作者がつい一筆塗ってしまったような不要な部分、贋作者の一瞬の迷いから生じた彼自身の内なるもの、フェルメールであることを迷った跡がありません。ただ、あまりにも完璧に過ぎて、却って疑いを感じてしまった。つまり」
 江田島はやっと一旦息をついて、言葉を捜したようだった。
「絵には、出所というものが大切です」

「たかが新潟の豪農の分家から出たものでは、話にならないということですか」
江田島は穏やかで真剣な視線を、真に向けた。
「そういうことです」
「逆に言えば、新潟の豪農の分家などから、フェルメールが出るような事情があってはいけなかった。そこから出たものを、本物と証明するわけにはいかなかったと、そういうことですか」

 さすがに江田島は、複雑な表情をした。真自身、この一瞬、自分が何を言っているのか、冷静でいるのかどうかもわからなくなっていた。美和が真の腕をつつかなかったら、このまま不可解な突っ込みを続けて、江田島の警戒心を更に煽っていたかもしれない。
「あなたは、あれが本物ではなかったのか、と、そう思っているのですか?」
「いや、つまり、そういう可能性もあったのではないかと」

 真は自分が何を焦っているのかと思った。江田島の第一印象に対する意外な感じを拭えないまま、どこかでこの男の怪しさを引き出そうと躍起になっていたのか。だが、どう見ても、江田島は紳士に思えた。

「まぁ、聞いてください。あの絵にはかなり巧妙な技巧がこらされていました。いえ、つまり一見のところ、本物といってもいいような証拠がちらついていました。しかし、実際のところ、意外なところから意外な有名画家の絵が見つかるケースはあって、そうした場合むしろ、あなたが仰るように、絵が『本物ではあり得ない、本物らしくない』故に、否定されたり、誤って贋作という鑑定をされていたこともあるのです。画家によっては、ある時期に大変素晴らしい絵を描いていても、また別の時期には信じられない駄作を生み出していることもある。実際、フェルメール自身の絵も、晩年の作品などは最盛期の絵とは比べ物にならない雑な印象を受けます。現在ではあまり高く評価されていない同時代の作家の作品のほうが、遥かに完成度の高いものもある。そういった全ての真贋を定めるのは大変困難で、特にフェルメールのように神話になってしまったような画家の場合、駄作を生み出したなどということを認めるには忍びないという、評論家や一般人の気持ちが誤った歴史を作り出してきたことは多いのです。だから、あれらの絵が、新潟などから出たとして、もっとまずい絵なら却って本物らしく見えたかもしれない。しかし、実際はあまりにも素晴らしい絵だったので、却って疑う余地ができてしまったのかもしれません。皆が、慎重になり得たということです」

「それだけ巧妙な贋作を作るとしたら、その作家はかなり科学の知識にも長けていなければなりませんね」
「その通りです。しかし、逆に本当に古い絵ということもあります。一番われわれを手こずらせる贋作は、その画家の時代に極めて近い時代または同時代に、近い場所で描かれたもので、後の時代に誤って、または故意に作者の名前が書き換えられたものです。実際、フェルメールの活躍していた十七世紀のオランダの社会情勢、当時の画家たちの置かれた環境を考えても、似たような絵があったのは当然で、今でこそもったいぶって美術館に飾られているものも、ある程度の値段でオランダの市民が買うことのできるものだったわけです。フェルメールの絵が、当時の絵画界で極めて独創的だったわけがありません。実際、良く似た構図の絵でフェルメール以前に描かれた作品は幾つか確認されています。つまり、フェルメールもその時代の影響を強く受け、オランダ市民に買ってもらうために当時のブームに乗った絵を描いていたわけです。しかも、高く売るために、作家自身が、他の有名作家の名前を騙ることさえあった。贋物といっても、本物以上の価値のある物だってあるし、逆に本物でも贋物より絵画としての価値が低いものもある」

「つまり、あなたがおっしゃっているのは、あれはいずれも古い時代の贋作だったということでしょうか。発表された当時の話では、十九世紀末となっていましたが、今のお話では、もっと古い、あるいは十七世紀のオランダのものかもしれないということですか」
 江田島は穏やかな表情で真を見つめ返した。

「いいえ、あれは多少の誤差はあっても、科学的に言うと十九世紀の末頃のものでしょう。勿論、科学が証明しうるのは最後の僅かな部分でしかありませんが。一八六六年にフランスのトレ=ビュルガーの論文がフェルメールの名前を二百年ぶりに再発見したなどと言われていますが、実際十九世紀の半ばには既にフランスではフェルメールの名前はかなり知られ始めていたのです。ただ、オランダという国は、いわゆる芸術の擁護者、パトロンは、一般の市民であることが多く、フェルメールの絵は美術館よりも個人の所有になっているものが多かった。だから、多くの人の目に、特に他国の人間の目に触れる機会はなかったのです。しかし、テオフィール・トレ、すなわちトレ=ビュルガーは社会活動のため亡命を余儀なくされていましたので、他のフランス人と違い、実際にオランダ国内で絵の所有者たちに会い、絵を見る機会に恵まれた。彼の言葉を人々が信じた所以です。しかも、彼は画商としての一面も持っていた。わかりますか、絵を高く売るために彼がした『パフォーマンス』が、フェルメール再発見と言われる論文なのです。あの絵は、それ以降に作られた贋作でしょう。実際、二十世紀にフェルメールの名前を世界に押し上げ神話にまでしてしまったのも、有名な贋作事件でした」

「レンブラントの絵のほうもですか?」
「あれは、工房の作品と考えています。レンブラントは生涯に、明らかになっているだけでも三百五十点以上の作品を残しています。彼は工房を持っていましたし、かなりの浪費家で債務を賄わなければならないために、一年に十点は作品を生み出さねばならなかったのでしょう。工房で作られたもので明らかに彼の真筆でないと思われるものにも、彼はサインを入れています」

 真はいよいよ決心をして一番核心に触れた質問へ移っていった。
「他にも絵が、蓮生さんの家から見つかったようですね」
 江田島はゆったりと頷いた。
「そうですね。色々です。非常に価値のあるものから、そうでないものまで。日本画でないものは、贋作か、あまり有名でない作家のものばかりでしたが」
「入手経路については、どうお考えですか」
「さぁ、どうでしょうか」
 江田島は、先程出所が大事、と言ったことを忘れたかのように、興味なさそうに曖昧な表情をした。

 真は続けて質問した。
「あなたは、蓮生家とは縁戚のご関係ですか」
「いいえ」
 一体何の話か、というように江田島は真を見た。
「では、このようなことをお聞きしても失礼にはならないかと思いますが、日露戦争もしくは第一次大戦の頃にでも、ロシア皇帝の縁戚に当るある貴族の元から略奪された絵画が存在しているというような話を、お聞きになったことはありませんか」

 江田島は、感情のはっきりしない、落ち着いた、というよりも無関心と思われるような表情で真を見つめていた。それからゆっくりと、真をたしなめ、諭すような口調で言った。
「そういう噂が、どこかで流れているということですか」
「えぇ、そうだとしたら?」
「それで、貴方は、あれの出所を気にしておられるのですか」
 真が頷くと、江田島は少しの間目を閉じて何か考えていた。

「相川さん、でしたね。そんなことは、今のこの時点で追求するべきことではありません。それが貴方の取材の目的ならば、私はお答えするべきではなかった」
「何故です?」
「そうした古い歴史の中で行われたことに対して、今更私たちが何かを暴いて、誰かを攻撃することは決して良いことではありません」
「そうでしょうか。自分たちの先達が、それに引き続いて今自分たちが、犯しているかもしれない略奪行為に対しては、過ちと気づいた時点でそれを認めて謝罪するべきではないでしょうか」

「相川さん、それを言い出しては、現在大国が大きな美術館に所有している作品の多くについて、どこも謝罪をしなくてはならないことになる。例えばヒットラーの時代はその顕著な例でしょう。中には過去の過ちとして戻されたものもありますが、行方不明になっている美術品もあります。こういうことはお互い言いっこなし、という面があります。それがあるいはその時代の略奪行為であったとしても、もう今更、誰も元の持ち主に返したりはしません」
「それではまるで貴方が、あれらの絵を、あるいはそのどれかを本物と知りながら、故意に戻さないために偽った声明をしたように聞こえます」

 美和が、びっくりしたように自分のほうを見たのを、真は身体の左側で感じた。自分でも、そんなつもりはなかったのに、ついに突っ掛かってしまった。
「あれらは本物ではありません。それは私が、いや東京の名誉ある大学の科学的分析能力にかけて、証明いたします。世界のどこに持っていっても間違いがありません。それに、蓮生家が分家して、古い時代に荒川から村上に出たのは、交易のためです。昔は、大きな百姓の次男や三男を、その家の更なる発展のために、特に当時は北海道の松前などへ出したといいます。われわれが知っている以上に、古い時代から、鎖国の時代でさえ、日本海は大国へ開かれていた。略奪ではなく交易だとはお考えにはなれませんか」

 そう語っている江田島の目は、田舎の村役場の経理課課長の持つべき従順で善良な目ではないように思えた。まるで無知な人間を絶対的な弁論で説得し窘めるように見えた。

「ありがとうございます。もう十分です」
 美和が急に真の腕を掴み、江田島に言った。それから、彼女は真に、もう帰ろう、と小さな声で言った。その様子を見ながら、江田島がゆっくりとした口調で話しかけてきた。
「貴方がこの事を調べているのは、何か特殊な事情があるからではありませんか。取材でも、正義のためでもないでしょう」
「では、貴方が弁明する理由は?」
「弁明しているわけではありません。事実を曲げられるのは困る」
「貴方が納得のいかない事実だってあるでしょう」
 江田島は悠然とした、しかし真摯な態度で真の疑問に答えるように、言った。
「そうかもしれません。実際、私は絵画のこと以外には暗い人間です」

 そう言って、江田島は真の名刺をもう一度見つめた。
「しかし、何か新しい発見があればお話いたしましょう。この編集社の電話でよろしいのですか」
「えぇ、結構です。しかし、私が直ぐには捕まらないこともありますので」
 真が言いかけると、江田島は穏やかに笑んだ。
「本当の名刺を」
 このまま白をきり通す事もできた。井出の計らいで、その編集社に真宛の連絡があれば、回してもらえるように話はついている。しかし、既に蓮生千草のところにも素性はばれている。

 真は調査事務所の名刺を差し出した。
「新宿ですか。一体、何の調査を?」
「行方不明の人間を捜しています」
「行方不明? それがあの絵とどういう関係が?」
「一人は銀座でギャラリーを経営している私の友人です。修復師としても名を知られている。あの絵か、さもなければその周辺の絵のことを調べていたようですが、今は行方がわかりません。もう一人は十歳くらいの女の子です。父親が三年半ほど前に、『IVM』のことで誰かに脅迫文を残して自殺しました」

 一瞬たりとも、真は江田島から目を逸らさなかった。しかし、江田島は特殊な反応を見せなかった。
「IVMというとフェルメールの署名ですね。それで貴方はあれが本物ではないかと疑われたわけだ」
 納得したように江田島は真のほうを見つめた。

「大和竹流、行方不明というのは彼ですか」
 真は素直に頷いた。同じ世界に生きているのだ、名前を知っている可能性は十分にあるし、大体あの雑誌以来、誰が彼の名前を口にしてもおかしくはないわけだ。
「そうですか。随分、怪しげなお仕事もされているのではないかと、この世界でも有名な方です。貴方がどれほどその方の事を理解されているかはわかりませんが、ある意味、誰かの恨みを買ってもおかしくはないお仕事ですよ。確かに、日本画や仏像、仏具の修復では右に出るものがいないとも言われています。正教の聖画、すなわちイコンについては、世界中捜しても彼ほど造詣の深い人間はいないとも言われている。彼の師匠がイタリアでは屈指の修復師で、ルネサンス期の絵画についても、恐らくは誰にもできない修復の技法と材料を持っているとも聞いています。しかし、十七世紀のオランダとは、意外ですね。彼は、むしろダイナミズムを作品に求めるタイプの芸術家だと思っていましたが、十七世紀のオランダの作品は、彼には小さすぎるでしょう」

「でも、イコンも十分小さな宇宙です」
 美術など全く自分の範疇にない真の、呟きにも近い言葉に、ふと江田島が顔を上げた。
「宇宙?」
「彼はいつも、宇宙を蘇らせるのだと言っていました。作品の大きさなど、関係はないと思います。彼が日本画に、特に障壁画に魅せられたのは、確かにあれらは作品としては小さくはありませんが、実際の大きさ以上の宇宙があったからだと、雨の音や鳥の声、梅の香り、そういったものまで感じるからだと、そう話していました。フェルメールの絵の宇宙に、彼がそれを見たとしても、不思議ではありません」
「フェルメールの宇宙ですか。多少、誇張が過ぎる気もしますね。彼の絵は、王家や教会が金を出せなかったオランダという国の社会情勢から出ています。市民の生活という、小さすぎる宇宙ですよ。大和さんの得意とする世界は、もう少し物語性の、あるいは自然界のダイナミズムに支えられているように思えますが」






あぁ、長かったですね。お疲れ様でした。多分、全編で二番目に長い解説シーン。一番があるのかって?
はい、あるんですね。謎解きあたりに。いえ、別に謎解きというほどでもないのですが、一応「犯人」の言い訳は聞かないとね。
え? 犯人がいるのかって?
それはもう、うじゃうじゃと……(あ、言ってはいけない????)

次回は、真、糸魚川でセンチメンタルに浸る、です。
まるで浅見〇彦氏のように警察に捕まるおバカなシーンを……^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨63] 第12章 絵と女の来歴(2) 

弥彦の役場に勤める江田島という男。
一見物腰の柔らかそうな、しかし融通の利かなさそうな男。
怪しいと言えば怪しいし、そうでもないと言えばそうでもない。竹流のことを知っているようではあるけれど、美術界で名前を知っているという程度のニュアンスのようでもある。
さて、手掛かりになったのかどうか。
美和の推理は直感的ですが、意外に役立つ女の直感。
では、糸魚川へ参りましょう。





「あの人に掛かると、有名な画家も『なんだ、それだけのもの』って感じですね。でも、ちょっとフェルメールを、なんて言うのか、わざと下げて言っているみたいな」
 村役場を出た途端の美和の感想は、真の足を止めさせた。
「下げる?」
「好きな女を苛める、みたいな感じかな?」

 真は美和の観察眼にまた多少驚いた。
「そういうものか?」
「仁さんみたいに、すぐ恋愛モードで測っちゃうのかな?」
 そう呟いて、美和自身、あ、と小さく口の中で呟いて黙ってしまった。
 真は聞かなかった振りをした。美和の心の中で、仁の存在が消せるわけはない。そのことは真も、誰よりも美和自身がわかっているはずだった。
「でも、大家さんの事、芸術家って言ってたね。日本では修復師の地位は低いって、大家さん言ってたけど、その道の人にはその道の見え方があるんだ」

 真はレンタカーの鍵を開けて、美和に乗るように促した。
 小さな村役場には不似合いなほどの広い駐車場には、停まっている車の数も少なかった。広い空間に、広い空、そして遠くはない海の向こうに、確かに江田島の言うように大国がある。
「でも、下げるっていうのはどういうことだろう?」
 運転席と助手席に収まってから、真は美和に問いかけた。

「つまり、好きだって事を知られたくないってことじゃないの? あの人、努めて穏やかそうに話してたけど、きっと内面は激しい人なのよ。自分は田舎の村役場なんかに納まっている人間じゃないって。だって苦労してお金貯めて、フランスにだって留学してたんでしょ。それなのに、家の事情でこんな田舎町に帰ってこなければならなかった」
 真は美和の顔を見つめた。
「それも、文章教室のトレーニングの一環か?」
 美和は、やっと少し微笑んだ。
「そうね。ちょっと深読みしすぎかな」
「いや、いい線を行ってるかもしれない」

 しかし、だからと言って、彼が竹流をさらっていたぶっただろうか。修復師としての、芸術家としての彼の才能や、努力して手に入れたものに嫉妬した、などという事があるだろうか。男の仕事に対する嫉妬は凄まじいものがあるとも思うが、そこまでするのはよほどの事だ。江田島には竹流に対して暴行をするような、ある種の狂気の気配が感じられない。

「これからどうするんですか」
「糸魚川に行こうかと思ってる」
 美和はロードマップを広げて小さな悲鳴を上げた。
「糸魚川ってずっと端のほうじゃない」
「新潟まで送るから、先に東京に帰っていて構わない」
 美和は少し黙っていた。それから、一息ついて言った。
「また追い返す気ね」
「そうじゃない。大分に行ってくれるんだろう。先に戻って調べを進めておいてもらえると有り難い」

「私を一緒に行かせたくない理由は何?」
「別にない」
 美和は、今度は心配そうに真を見つめていた。考えてみれば、真を一人にしないようにと添島刑事に言われて、美和はここまでついて来たのだ。誰が敵か分からない中で、さっきのように相手に警戒心を抱かせるようなことを言ってしまうのは、何かの瞬間に、真の中で歯止めの利かない感情が膨れ上がるからだろう。それを、美和は心配しているのだ。

「深雪の、生まれ故郷なんだ」
 美和は、さすがに驚いたような顔で真のほうを見た。
「もっとも、彼女が記憶しているかどうかはわからない。それに、彼女に妹がいたというのも、本当かどうか確認したい。昔のことを知っている人間がいるかもしれない」
 美和は暫く黙っていたが、それからまた小さく溜息をついた。
「無理しないでね」
「君も」

 小さな間の後で、美和は助手席から少し身体を乗り出すように、真の肩に自分の頭を乗せ掛けた。真も少しの間をおいて、彼女の頭を抱き寄せた。
 もしも、美和が妹か従妹か、せめてそういう関係ならば、今こんなに愛おしいと思う存在はないだろうと思った。そう思えば、妹というのは真には必要な言い訳だったのだ。
あんなに愛おしいと思えた葉子の手を、握りしめられなかったのではない。妹という言い訳に安心して、握りしめようとはしていなかったのだ。


 真にとって、この道は遠い道だった。
 真は、自分が深雪の事をどこかで諦めていないことを感じていた。それが愛情の度合いを測るものではなく、ただその身体に対する執着の表れかと思うと、自分ながら浅ましい気がした。
 目一杯の言い訳を探してみれば、ただの欲望の捌け口を求めているなら、その時々の行きずりの相手でも良かったわけだし、美和と寝るまでは、ここ何年も彼女以外の女と寝たこともないのも事実だった。勿論、ただ身体の相性の話をすれば、これまでにも彼女ほどに自分を喜ばせてくれる女が他にいたわけではない。

 それでも、結局、それだけにしてしまいたくない自分がいて、その自分は彼女との関係に対して理屈付けを求めていた。りぃさがあんな形で亡くなってから、誰かの心のうちに深く入ることに恐怖を感じていたのも事実だったので、深雪の心の奥にあるものを知るのが怖かったのかもしれない。
 深雪のうちにある哀しい魂が、時々真自身の中の何かに反応しようとすると、それを見つめてはいけないような気持ちになっていた。それでも、二年近くも彼女と、内容はともかく付き合ってきた。その相手に対して何の感情も持っていないわけではない。

 澤田と深雪の愛人関係は、政敵や世間が作り上げたでまかせであろうと思っている。そんな政治家を許すほど世相も甘くはない。だが、彼らの間に何の感情もないとは思えない。
 そしてまた、真の気持ちを乱したものの中に、新津圭一の名前があった。

 深雪の恋人だったというその男が、実際に深雪とどのような時間を共有し、思いを語り合い、そして抱き合ったのだろうと思うと、不意に眩暈のような感覚が襲ってくる。それが嫉妬なのかどうかはわからないが、自分にも関係のあることのように思えてならなかった。

 もちろん、香野深雪が相川真を愛していると思うのは、真の思い上がりに過ぎない。
 だが、彼女が何かのサインを真に向けて送っていたかもしれず、それに真は気が付いていなかったのかもしれないのだ。彼女の身体も美しい顔も思い出せるのに、彼女自身である何か大事なものを、どうしても思い描くことができない。深雪の過去も何も知ろうとしなかったし、彼女の心の声に気持ちを向けることもなかった。
 それは、今まで真にその動機を与えてくれるものがなかったからだった。一番あり得た動機は、愛だった。だが、それが真の中になかったのだ。
 深雪の生まれた町に行って、それから彼女にもう一度会いたいと思った。


 糸魚川に着くと、まず市役所に向かった。
 そろそろ今日の仕事を切り上げようかという時間帯で、真以外の一般人は数人を数えるのみだった。人を捜している旨を伝えると、背の低い人懐こそうな男が、真を雑然とした奥の方へ誘って、低い小さいテーブルの前のソファを勧めた。
 市役所というよりは、村役場といった穏やかな気配に包まれた空間だった。人々は机の上の書類と向かい合っているが、本当に忙しいのかよくわからない。時々、ちらちらと自分の方を窺っているのがわかる。東京では面倒くさそうにされるような用件でも、こうやって丁寧に相手をしてくれるのは有り難い気がした。

「お待たせいたしました。人を捜しておられるとか」
 今度は身体の大きい男が現れて、真の前に腰掛けた。人工革張りのソファは軋んだ音を立てた。身体の割には目の小さい男で、熊のような印象を与える。
「実は」真は素直に調査事務所の名刺を差し出した。「ある女性から依頼を受けて、彼女の両親を捜しています」
「はぁ」
 意味のない声を発して、男は頷いた。胸元の名札には、寺島とある。
「彼女のご両親は、この糸魚川で旅館をされていたと聞きます。実は自殺なさったようで、そのことは彼女も知っているのですが、ぜひ詳しく両親の事を知りたいとおっしゃるのです」

「自殺を」
 寺島は確認するように、しかし抑揚無く、その言葉を繰り返した。
「古い旅館で、硬玉翡翠の販売も手がけておられたということですが、何やら事件に巻き込まれて二十三年前に自殺なさったらしいということでした」
「二十三年前、ですか。旅館というなら、調べればわかりますが、自殺の事まではわかるかどうか。まぁ、待っとってください」

 寺島は席を立って、少し離れた席に座っているかなり年配の男のところに行って、何やら話しかけていた。年配の男は真のほうに一瞥をくれて、それから寺島に何か話すと、寺島は頷いて奥のドアへ消えた。
 年配の男は直ぐに立ち上がって、真のところへやって来た。
「私、庶務課の江崎と申します」
 そう言って、彼は名刺を差し出した。真も名刺を出そうとしたが、江崎は寺島から聞いたと言って受け取らなかった。それから、妙にゆっくりとした間を取って、椅子に腰掛けた。その上で、じっくりと真の顔を見て切り出した。

「ここ二年ばかりの間に、同じ質問をしに何人かの方がここへ訪れています」
 それには、真のほうが言葉を失った。
「何が起こっとるのか知りませんが、事と次第によっては警察にも知らせんといかんです。一体、どういう理由ですか」
「何故、警察に知らせないといけないのですか」
 江崎は胡散臭そうに真を見ていた。
「そんな昔の事を、今更何人もの人間が掘り出そうとするのはおかしいことです。その娘さんは一体何人の探偵を雇ったのかは知りませんが、妙な話です」
「私は嘘を言っているわけではありません」
「では、その『娘さん』とやらを捕まえなければなりません」
「何故です?」
「そりゃ、あなた、怪しいからです」

 何が怪しいのかもわからないが、真はこの男が取っている妙な間が気になった。本当に警察を呼んでいるのかもしれない。冗談じゃないと思ったが、今更逃げるわけにもいかない。第一、名刺を出してしまっている。
 諦めて座っていると、先程寺島が出て行った奥のドアが開いて、まずは寺島が、それから私服の刑事らしい男が二人現れた。すぐ横に暇な警察があるのだろうか。刑事やその類は、人相と身体つきで直ぐにわかる。
「この名刺は、本物か」
 訛りのある言葉で凄まれると、やはり迫力があった。
「そうですが」
「ちょっと話を聞かせてもらおうか」

 ふと気が付くと、フロアの職員は皆手を休めていて、こちらを注視していた。真は黙って立ち上がると、二人の男について、奥のドアから出た。そこは廊下で、そのまま裏口から出られるようになっていた。
 横は本当に警察署だった。
 警察署といっても驚くほど小さな造りで、このくらいのほうが可愛げがあっていい、と真がくだらないことを考えている間に、二階に上がる狭い階段を、前後を挟まれるようにして上がらされ、二つ目のドアの中に案内された。
 事務的な机と椅子があるだけの狭い部屋は、いかにも取調室という部屋だった。

 二人のうち一人がパイプ椅子を引いて、真に座るように促した。もう一人の年配のほうの男が、向かいに腰掛けて、真の顔を覗き込んだ。
「若いのに、探偵さんかい。それとも、悪い女に騙されて追いかけているチンピラか」
 何の話だ、と思った。
「名刺の住所に問い合わせて下さっているんでしょう」
「あたりめえだ」
「じゃあ、待ちます」
「なんだ、そのふてぶてしい態度は」

 前の事務所で働いていたときから、所長の唐沢に付き合って何度も警察と渡り合ったし、対処も学んでいたので、さすがにこんなことで怯むのでもなかったが、その凄み方をみると、こうやって冤罪事件は出来上がるのだろうと思えた。
「正真正銘、私は調査事務所の人間で、市役所でお話した通り、依頼を受けて仕事をしているんです。私が来る前に、何人の人間が同じ事を聞きに来たかは知りませんが、そんなことは私の知ったことではありません」

 直ぐに若い男が入ってきて、目の前に座っている男に何か長い耳打ちをしていた。真は黙って座っていた。賢二や宝田のことだから、上手くかわしてくれているだろうと思った。話を聞き終えると、男は真のほうに身を乗り出した。
「あんた、いくつだ」
「何がですか」
「年に決まってるべ」
「二十七です。それがどうか」
「随分若いのに、調査事務所の所長さんかい」
 何か悪いことをしているに違いないという口調だった。
「それがどうかしたのですか」
「何で、そんな大昔の事件を探りにきてるんだ」
「事件?」
 真は自分のほうから身を乗り出した。刑事のほうが一瞬、怯んだ。

「何だ」
「私はただ、依頼人の両親の自殺について聞きに来たただけです。事件とはどういう意味ですか」
 刑事はまた威圧するように、自分も身を乗り出した。
「あんたの前に、何人もの人間が同じ事を聞きに来とる。市役所の江崎が気味が悪いちゅうて、今度来よったら連絡するといって寄越した。何で、同じ事を、それも『ただの自殺』について聞きに来るべ」
「それはこっちが聞きたいですね」
「ふてぶてしい態度はよくねぇ。何なら、泊まっていってもらってもいい」
「何の罪状で?」
「そんなものは何でもかまわん。御託を並べとらんで、さっさと事実を話すんだ。今まで聞きに来たやつらとの関係は? 一体何が起こっとるんだ」

 真はふと興味を引かれて、多少丁寧に刑事に質問した。
「その、今まで聞きに来た、という者たちの人相書きとかはないのですか。見せていただいたら、関係のある者もいるかもしれません」
 刑事は真の顔をじっと見て、それから部屋に残っていた若い男に、何か持ってくるように言いつけた。
「自殺については調べられたんですか」
 刑事は真の方をちらりと見て、椅子に深く座りなおし、背凭れにもたれた。

「あぁ。確かに二十二年前、旅館の主人夫婦が自殺しとるべ。娘が二人いて、姉の方は施設に預けられて、赤ん坊だった妹は、弥彦のほうにもらわれて行ったと聞いとる」
 話の内容は、これまで聞いてきたことと大筋は違っていない。
「自殺の原因は?」
 刑事は真を睨んだ。
「質問しとるのはこっちだ」
「答えようにも、こちらにはなにも情報がありません」

 真は、ふと以前勤めていた調査事務所の所長、唐沢を思い出していた。
 今刑務所に入っているその男は、警察に絡まれても大概ふてぶてしい態度でやりあっていた。いつもちゃらんぽらんで、やけくそのような態度だったが、多感な少年時代を戦争と共に生き、大戦後は傭兵として主に中南米の戦場を潜り抜けてきたという、悲惨でもあり逞しくもある過去を持つ、不思議な男だった。基本的には胡散臭いことには変わりはないのだが、警察でのあの態度は、ある意味では頼りになるとさえ思われた。

「あんたに依頼したという女のことを話すべ」
「依頼人の事は、たとえ警察であってもお話できません」
「そんな悠長に構えとられる立場じゃないだろう」
 何の立場だ、と思った。あまりにも理不尽だと思っていると、そこへ先程の若い方の刑事が戻ってきて、座っている年配のほうの刑事に書類の束を渡した。刑事はそれに目を通してから、真の前の机にやや乱暴に置いた。






次回はちょっとポイントになるかも?
絡んでいる人間の数が少しだけ数えられるかもしれません。
(でも、まだいるのですね……いや、すでに出てきてはいるのですが表舞台には上がっていない?)
そして、いよいよ、【清明の雪】から持ち越してきたこの物語全体のキーワードのひとつである言葉の意味が出てきます。
引き続き、お楽しみください。

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[雨64] 第12章 絵と女の来歴(3) 

カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
真が辛い時にはいつも呪文のように唱えていた言葉。
子どもの頃の唯一の友人であったアイヌ人の老人が真に遺した言葉です。
【清明の雪】からもったいぶってずっと意味を書かずに来ておりました。
いえ、もったいぶっていたわけではないのですが、結果的に今になってしまったのですね。

この回はギュッと、あれこれ絡んでいる人間たちの横顔のシルエットくらいが並んでいそうです。
そしてまたいささかセンチメンタルな真にお付き合いください。
この人、実際にセンチメンタルかどうかは不明ですが。




 何年何月頃、どういう人物が尋ねてきたかを、後から聞いてまとめた調書のようだった。真は刑事を一応睨んでおいてから、書類に目を向けた。
 一行目から、真は驚かされた。表情に出なかったかと思って、思わず間を置いてから刑事の顔を見たが、向こうは気が付かなかったようだった。

『昭和五十一年五月頃、男、外国人、身長百八十センチ、くすんだ金髪、年齢三十歳から三十五歳、保険の調査員』

 たったこれだけの説明で竹流だと決め付けるのもどうかと思ったが、この事件に似たような外国人がそうそう絡むわけがなかった。どれほど前のことであったとしても、彼の痕跡を見つけて、少しだけ落ち着いたのも事実だった。
 真は調書を取り上げて目を通した。

『昭和五十一年六月頃、男、日本人、身長百八十センチ、年齢三十歳から三十五歳、質実剛健、保険の調査員』

 竹流と似たようなイメージで日本人の男となると、今行方が知れないという寺崎のことだろうか。竹流と別々に来たということは、やはり何か複雑な事情があったのだろうか。

『昭和五十二年三月頃、女、日本人、身長百六十センチ、年齢三十歳前後、両親を探していると説明』

 こうしてわずかな単語の羅列の中に、自分と関りのある人物の表情や気配が浮かび上がると、意外にも自分が何かの真実に近づいているような気がしてきた。そうという確信はないはずなのに、深雪の顔が浮かんでいた。

『昭和五十二年十月頃、女、日本人、身長百六十五センチ、年齢二十台後半、新聞記者、両親は糸魚川の出身で自殺しているはずだと説明』

 人間は、完全な嘘をなかなかつき通せない。あの気の強そうな気配の楢崎志穂も、記者という部分ではいい加減なことを言えなかったのだろう。それともそれが彼女の誇りだったのか。新津圭一を尊敬していた、というのは、恐らく心からそう思っていたのだろう。
 だが、彼女はどうやって自分の過去を知ったのだろう。

『昭和五十三年四月、女、日本人、身長百六十センチ、年齢三十歳から三十五歳、法律事務所調査員、依頼人の両親について調べていると説明』

 この辺りから、かなり怪しいと思い始めたのか、似顔絵がついていた。知らない顔つきの女だった。しかし、かなりの美人で、右目の下の黒子が妙な色気を醸し出しているように見える。強い印象を残したのか、モンタージュ写真にあるような曖昧なムードはどこにもなく、似顔絵は妙にはっきりとした顔つきに仕上がっていた。

『昭和五十三年五月、男、日本人、身長百六十五センチ、年齢四十歳前後、公務員、義理の娘の両親とその祖父母について調べていると説明』

 これも知らない顔だった。曖昧な印象が伝わってくる、特徴の少ない顔だが、どこか気配を消したがっている人間たちに共通のムードを感じる。目つきだろうか、あるいはわずかな口元の気配なのだろうか。似顔絵を作成した誰かが、顔の特徴よりもそういった気配を写し取る技法に慣れているのだとして、だが。

 だが、確かにこれだけの数の人間が来ていれば、警察にも知らせたくもなるだろう。
「どうだ。知ってる人間はいるべ」
「いえ、これだけでは何とも言えません。それより」
 話を二十二年前に向けようとすると、刑事は机をばん、と叩いた。
「ちゃんと見るべ」
「見ました。しかし、はっきりと私が知っていると思われる人物はおりません」
「あんたの依頼人は、いるんじゃないのか」
「ですから、依頼人の事は言えません」

 結局は堂々巡りだった。真のほうもだんだん腹が立ってきて、刑事もいらいらしてきたのか、いささか小競り合いのようになり、ちょっとした言葉のやり取りが胸倉を掴まれた途端に不意に身体の接触になり、まるで待っていたようにいちゃもんをつけられた。
 いわく、公務執行妨害、らしい。険悪なムードのまま、留置場泊りが決定した。
 逃げる気もないので、どこかホテルにでも泊まらせろと言ったが、そのうち、そこまで言うならこっちから泊まってやる、くらいの気分になっていた。
 いや、どうあっても帰すつもりがないのはありありと伝わってきていた。
 
 明日こそ突き止めてやる、とどっちが刑事かわからないような決心をして、取調室よりも狭い留置場の、文字通り煎餅のような布団に横になった。文字通りのものを見るのは久しぶりだった。幸い、食事にはありつけた。あまりにもありがちなことに、ただの丼だったが、カツは入っていなかった。

 不自由なのは煙草だけだな、と思いながら天井を見つめていると、その隅の黒いシミが気になった。古い建物なのだろう。
 美和は今夜のうちに夜行で九州に行くと言っていた。
 別れ際に彼女は、先生、ちゃんと来たから安心してね、と言った。生理の話だった。

 確かに、安心したというのが本音だった。責任をとる能力の問題よりも、やはり自信がないのだろうと思った。
 彼女には親になる自信がないと言ったが、それは格好良すぎる言い訳だった。本当はもっと単純なことに、北条仁と決闘する自信がないのだ。勝てる、勝てないというよりも、可能不可能の問題であるような気がした。
 そういう意味では、一時の気の迷いとしてお互い忘れてしまうことができる、という状況が、彼女の生理と一緒にやってきたというのは、好ましいことのようだった。

 俺は、実際のところ、卑怯な男だと思った。経済的にそれほど裕福でないにしても、女と子どもくらい養っていけないわけではない。だから、恐らくは女を幸せにするつもりがないのだろう。
 それでも、このあまり清潔でない布団の上では、最後に触れた彼女の髪の匂いや感触が、まだ手や鼻に残っているような気がして、それはそれで悪い気はしなかった。

 そう思いながら天井のシミを見つめた。だんだん薄暗くなっていく時間の闇に、そのままシミも消えるように溶け入っていく。子供の頃から、自然の闇が訪れるこの時間に、ある一点を見つめているのは、好きだった。小さな頃は、それはいつも牧場の厩舎の藁の中から見る天井だった。

 草食動物である馬たちは、立ったまま極めて短いスパンの睡眠を繰り返している。彼らと一緒にいる時間が長かったからか、真もいつの間にかそういう睡眠のくせがついていた。
 いつも彼らは自分を守ってくれていて、時々その鼻先で真のいのちの気配を確かめてくれているような気がしていた。夏であれば祖父母はそのまま放っておいてくれることもあったが、大概は真夜中に起こされて部屋に連れ戻された。

 祖父の背中に負われて厩舎から出た瞬間に見上げていた、更に高い天井に散りばめられた大天界の星。
 あの星々を思い起こすと、どうして自分はあの穏やかな世界を捨ててきてしまったのだろうと思う。最後にあそこへ帰るチャンスを捨てたあの時を、今もどこかで後悔しているのだろうか。

 ふと、小さな頃に曽祖父の残した蔵書のアンデルセンの物語をこっそり読んだ日の、言われもない恐怖を思い出した。
 真を育ててくれた祖父母は、格調高い海外の文学などは異次元の物語と思っていたのか、真への子守唄代わりは、あくまでも民話と民謡だった。

 相川の一族は、歴史を辿ると高知の坂本龍馬の甥である直寛が北海道の地に入植した際には主従関係であったようだった。その後どういう事情か行動を別にして、今の浦河に落ち着いた。
 曽祖父は直寛と同じクリスチャンだったが、その子供たち三人は、真の祖父の長一郎を含めて誰も洗礼を受けなかった。特に祖父は、若い頃に蝦夷の歴史やアイヌの風俗に傾倒し、東北や北海道の風土をこよなく愛した。
 三男の弘志がアイヌ人の娘を嫁にしたいと言ったとき、長一郎が周囲の反対を理解しながらもその結婚を受け入れたのは、彼自身の思想や理想に感情が横槍を入れることをよしとしなかったからなのだろう。

『あなたは先住民族との共存という理想を語りながらも、いざ結婚となると、それは話が違う、というわけか』
 そのアイヌ人の長老の言葉に、祖父は意地でも応えたかったに違いない。

 ただ、真が混血といういうことで受けてきた孤立感を傍で見ていた祖父母が、それなりに苦しんでいたことは、真も、弘志もよくわかっていた。
 それでも、真は弘志の嫁になった女性を好きだったし、側で見ていて彼らが幸せになろうと懸命に闘っている姿には憧れの気持ちを抱いていた。
 だが、一方では、自分の両親が何故、叔父夫婦のように、息子も含めた幸せに対して貪欲に希望を抱いてくれなかったのか、それを思うと孤独感が募ることも事実だった。
 祖父は、三男夫婦が真を養子にしたいと望んでいると聞いたとき、真に決めさせろ、と言ったという。

 複雑な祖父の感情は、とりあえず海外の文学などもってのほか、というような教育方針となって幼少期の真に降りかかっていた。真自身も、近くに住むアイヌ人の老人のところが唯一の遊び場となり、今自分が生きている周囲の世界をありのままに受け入れること、そして生物にも無生物にも、この世にある全てのものには神が宿っていることを学んだ。

 だがその一方で、曽祖父の蔵書の背表紙の格調高い香りは、ほんの少し憧れにも似た気分を起こさせた。
 あの時、自分は一体いくつだったのだろう。あの本は絵本ではなかったから、それが読めたということは、小学生にはなっていたはずだ。だが、イメージの中に浮き上がった自分自身は、随分幼かった。

 明らかに子供向けの本ではなかったので、内容をよく理解できていたわけではなかった。
 しかし、人魚姫の物語を読んだ時、恐ろしくて震えてしまい、その日は出された食事まで吐き出してしまった。
 愛する者の為、美しい声と穏やかな海の底での暮らしを捨てて、人間の姿となりながら、やがては愛を成就できずに海の泡となってしまう物語の、哀しい残虐性を、真は敏感すぎるほど敏感に汲み取った。
 その本には挿絵があって、最後のページには、泡となって消えていく妹を、哀しげに見遣る人魚たちの儚い後姿が海に浮かんでいた。

 幾晩もその物語が頭の中を巡って眠れず、怯えて夢の中でも泣きじゃくっている子供を、祖父母はどうしたものか持て余していたのだろう。彼らが呼んでくれたのか、アイヌ人の老人が訪ねてきてくれた。それから彼とどんな話をしたのか、真自身は覚えていないが、彼は暫くの間真の側にいてくれた。

 だが、彼が帰っていく日に言った言葉だけは、今も耳の奥に残っている。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム

 彼は、飛龍がお前を守ってくれる、とそう言った。彼が亡くなったのはそれから間もなくのことだった。
 それなのに、飛龍が迎えに来てくれた時、真はついていかなかった。自分を守ってくれると予言されたものを拒み、別の手を取ったのだ。
 あの瞬間から、運命は人魚姫の物語のように残虐な結末へ向かって転がり始めたのかもしれない。今更、どうしても元には戻れない。

 そして今は、その別の手さえ、ここから失われようとしている。
 三年半前。竹流はこの新潟で何をしていたのだろう。その前の年、確かに彼はソ連に出掛けていた、そしてイコンを追いかけて、ウクライナで何かがあって、彼は新潟にやって来た。

 深雪の過去だけではなく、竹流自身の過去も、真はすっかりは知らなかった。一緒に住んでいる今も、彼の生業の半分も知らないのではないかと思う。確かに、竹流の実家に連れて行かれたことはある。田安から彼の実家の事情を教えてもらったこともある。しかし、実感のない話だった。
 どれほど竹流の実家が複雑な事情を抱えた立派な家であろうとも、それが今の彼をどのように定義づけているのか、彼にとってそういった事情や仕事と、そして沢山の仲間や女たちはどういう意味を持っていて、その中で自分は、一体彼にとってどういう存在なのか、言葉で確かめたことは一度もない。

 せめて、背中の火傷のことくらい、知っていてもよかった。

 天井のシミはもう闇の中へ消え入っていた。
 真も短い眠りに落ち込んでいった。

 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 それは、天から役目なしに降ろされたものはひとつもない、というアイヌの言葉だった。






言ってしまえば簡単な言葉ですが、大切な大切なアイヌの教えです。
だから彼らはイヨマンテでクマを天に送り、自然のもの全てに神を見出し、自分たちもまたその一部であると考えるのでしょう。
全ての生きとし生けるもの、あるいは物であっても、意味があってこの世に天から降ろされたのです。
アイヌの老人は真に、お前もそのひとり(ひとつ)であると告げていたのです。

次回は、竹流の恋人(のひとり)、添島麻子刑事と真のやり取りです。
お楽しみに。

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[雨65] 第12章 絵と女の来歴(4) 

第12章『絵と女の来歴』最終回です。少しずつ過去の出来事と現在が繋がっていきます。




 短い眠りを繋いで、いつの間にか朝を迎えた。
 真がぼんやりと、天井の染みが形を明らかにしていくのを見つめていると、足音と鍵を開ける音が続いた。また取調室へ連れて行かれるのかと思うと、署長の部屋に案内された。何かもっと具合の悪いことでもあったのかと思って、隣の制服の警察官の顔を見たが、何かを問いかける隙もなく、彼は所長室のドアをノックした。
 中から入れと声が聞こえてくる。

 ドアが開けられた瞬間、真は、これは事態が好転したのか、もっと悪くなったのか、どちらだろうと思った。
「ご迷惑をおかけしました」
 署長に頭を下げたのは、添島麻子刑事だった。
「いえいえ、特別な任務とあれば、予めお知らせくだされば、こんなご迷惑もおかけしなかったのですが」
 署長は、多少嫌味の篭った気配でそう言った。

 添島刑事は、ぼんやりとしたまま事態を飲み込んでいない真の腕を引っつかむと、さっさと部屋を出た。真は引きずり出されて、どうとも返事もできないまま、彼女に従った。
 外は明るく晴れていて、気分のいい空気だった。

 警察署の駐車場には、添島刑事の青いベンツが停まっていた。
「馬鹿」
 彼女は助手席の扉を開けると、真に乗るように促した。真は逆らうこともできず、素直に乗り込んだ。
「一体どうしてここへ」
 真は運転席に乗りこんだ添島刑事に、やっとの事で当たり前の質問をした。
「こっちが聞きたいわよ。まさか糸魚川まで来る気だとは思わなかったわ」

 添島刑事はベンツを発進させた。これは彼女のプライベートな車だろうから、彼女がここに来たのはあくまでも『私用』ということだ。
「どこへ」
「東京に帰るに決まってるでしょ。世話を焼かせないで」
「どうしてここに」
「私だって来る気はなかったわよ」

 添島刑事は赤信号で停まると、やっと真のほうを見た。
「どうしてそんな無茶を思いつくの?」
「無茶をしたわけではありません」
「そうかしら。もうちょっと上手く逃げ出せる方法はあったんじゃないの?」
 それはそうかもしれない。
「レンタカーを借りたままだ」
 情勢が悪くなりそうなので、話の向きを変えてみたが、あっさりと返事を返された。
「返しておいたわ」
「それは、どうも」

 添島刑事は無言のままアクセルを踏んだ。糸魚川から一刻も早く出たいような気配で、アクセルの踏み込み方は警察官というより暴走族のようだった。
「ここまで車で?」
「歩いてきたように見える?」
「見えないけど」
 ここまで車で四時間半、彼女は朝一番から叩き起こされて何か言われたのだろう。機嫌が悪くて当然とも思えた。
「それで、どうしてここに?」
 この当たり前の質問の繰り返しが、彼女を怒らせるような気はしたものの、一応聞いてみる。沈黙のほうが気まずいせいもあった。

「昨日、美和さん一人東京に帰したでしょ。彼女から電話があって、事情があって九州へ行くけど、あなたのことをよろしくって言われたの。放っておこうと思ったら、昨日のうちに、あなたの前科やら仕事について糸魚川署から問い合わせがあって、取り調べられているって言うじゃない。大体、美和さんと一緒にいなさいって言ったのに、勝手なことをするからだわ、と思って無視していたら、今度は早朝から総監にお呼び出しを食らったのよ」

 真は添島刑事の横顔を見て、やっぱり怒っているな、と思いつつも聞いた。
「澤田代議士が、何か」
「あなた、澤田が自分を助けてくれたと思ったの?」
 運転を続けたまま、彼女がちらりと自分を見た。
「まさか」それ以上は言葉にならなかった。「申し訳ない」
「何が」
「だから、つまりあなたはここへ来るように命じられて、不本意ながらやって来た」
「その通りよ」

 添島刑事はぶっきらぼうな声でそう返事をしてから、暫く間を置いた。それから一つ溜息をつくようにして、先を続けた。
「でも、もっとショックだったのは、朝倉武史が昔と違って見えたこと」
 やはり、彼女にここへ来るように仕向けたのは、父だったのかと思った。
「どういう意味ですか」

「ICPOにいた頃、ロンドンで一度だけあなたの父上に会ったわ。張り詰めた、氷のような男だった。仕事を冷徹にこなし、一人で戦っている男だった。噂も、会った本人も、そういう男が尊敬できるとか格好いいとかいうレベルじゃなくて、こういう男は遠くから見ているだけでいい、と思った。ところが、今日会った男は、相変わらず冷たい表情をしているのに、何だか随分老いたように見えた。氷のような塊を胸のうちに持っている男だと思っていたのに、そこから滲み出ているのは、何だか息子が愛おしい、っていう、父親っぽい情愛に見えた。あんな人種には、随分安っぽい感情でしょ。そんなものを持った途端に、身を滅ぼす世界に生きているのよ。合法にしても非合法にしてもヤクザのような組織に属している人間が、そういう感情を持った途端に、後ろからドスンってやられる場面を何度も見たわ。何だか哀しい気分になって、こんなところまで来る破目になったのよ」

 真は焦点の定まらない前方を見たまま、今の添島刑事の言葉を頭の中で反芻していた。
 父親の情愛? まさか、あの人にそんなものがあるとは思えなかった。
 彼女が見たものは間違いだろうと思った。そして、間違いであって欲しいと思った。何故、間違いであって欲しいと思ったのか、それは自分でもよく分からなかった。

「少し眠ったら? どうせ、留置場の汚い布団の上じゃあ、よく眠れなかったでしょ」
「いや、途中で運転替わります」
「冗談。寝不足の人に自分の車を任す勇気はないわ」
 それもそうだ。愛車というものを持つ人は、自分の車を他人に運転させない。竹流も、何台かある車のうち、テスタロッサだけは絶対にキィを他人に渡さない。

 真は暫くの沈黙の間に、後ろめたい気持ちを押し込めようと努力をしてみたが、無駄だと思った。
「あの」
「何?」
「寄って欲しいところがあるんだ」
 添島刑事は暫くそのまま運転していたが、そのうち車を左に寄せて停めた。川べりで、遠くのほうで電車の音が聞こえていた。
「あなたのセンチメンタルな気分につき合って来いとは言われてないわ」
「分かってます」
 行き先など知れているだろうと思った。糸魚川に関係して、真が行きたい場所などひとつしかないのは、添島刑事も分かっているだろう。

 河川敷を体操服姿の学生の集団が、掛け声と共に走り去った。
 添島刑事は大げさに溜息をつくと、また暴走族なみの気風の良さで、車を反転させた。
 添島刑事もここに来て、その場所を聞いていたのかもしれない。あるいは、始めから真が行きたがることを分かっていたのかもしれない。気恥ずかしくて、聞く気にも礼を言う気にもなれなかったが、心のうちでは有り難いと思っていた。彼女が竹流の女だから、真に優しいのかどうかは分からない。だが、これは彼女の性質なのだろう。いかにも、竹流が好みそうな気の回り方だった。

 辿り着いたその場所は、公園になっていた。
 公園といっても、ただ木が繁っている散歩道といった場所だった。犬を伴った老夫婦が見えた。田舎だし、犬などその辺で走り廻っていても良さそうだが、ああやって夫婦の会話を楽しんでいるのかもしれない。
 二十三年前に、まだ決して老いてはいなかったはずの夫婦が、死を選んだ場所には見えなかった。

 車を降りて、真は暫く道の反対側の木々を見つめていた。添島刑事は車の中に残っていたが、暫くするとエンジンが止まる気配がして、彼女が後ろから声をかけてきた。
「缶コーヒーでも買ってくるわ。あなたも飲むでしょ」
 そう言って、真の返事を待たずに添島刑事は歩き去っていった。買うと言っても周辺に店など見当たらなかったし、彼女も当てがあったわけでもないようだった。彼女なりの気遣いだと思うと、更に有り難いと思う半分で、ますますこの女を恋人にした男の好みが現れているようで、複雑な気分になった。

 真は道路を渡って、その敷地に入った。
 敷地は、もと旅館だっただけあって、一見ではどのくらいの広さなのか分からなかった。隣の敷地は畑で、さらに隣には古い家屋が建っていた。公園の反対隣は舗装のされていない道が奥へ伸びている。敷地を囲むように、古い竹の柵が巡らされていた。それでも、二十三年前のものとは思えない。

 ここで、小さな頃の深雪はどんなふうに育っていたのだろう。深雪の顔立ちからも、多分上品で美しい娘だったのだろう。その娘に突然に襲い掛かった両親の犯罪と自殺。それを招いた新聞記事。
 もしも深雪が、それを書いたのが澤田だと知っていたら、澤田に復讐をしたいと思っただろうか。そして、自分と同じような境遇の、かつての恋人の娘に対してはどんな思いでいるのだろう。

 ふと見上げると、木々は枝を重ねて、その隙間から暖かい光が降り注いでいた。梅雨の季節だったが、ここは東京とはまた違った気温と天気を持っているのだろう。鳥の声と、向こうで犬の吠えている声、目を閉じると風が木々の葉を震わせる音が幾重にも重なり、真の感情ごと包み込んでいる気配がした。
 深雪を、もっと知っておけばよかったと、心から思った。
 美和に申し訳ないと思う気持ちも、一緒に沸き起こった。
 そして、自分の腹の奥のほうにある欲望にも気付かざるを得なかった。深雪でも、美和でもない。今何故これほどに飢えているのか、その核が何なのか、木々の隙間から降りおりてくるような気さえした。

 生きている彼に会いたかった。そして彼自身の口から、一体何故こんなことに巻き込まれたのか、自分自身を犠牲にしてまでも何を守りたいと思っていたのか、聞きたかった。

「どうぞ」
 どれほどの時間が過ぎていたのか、真は添島刑事のよく通る声で我に返った。
 添島刑事を見た瞬間に、真自身とは何の関係もないはずの彼女の声と存在に、安堵している自分に気が付いた。真は添島刑事から缶コーヒーを受け取り、一緒に少し歩いて公園の中の朽ちかけた色合いのベンチに座った。
 コーヒーは甘ったるく、冷えてはいなかった。それでも、胃に染み渡るとほっとした。

「あなたを練馬インターの近くで降ろすわ。彼の仲間のところに行って、一緒にいなさい。くれぐれも彼のマンションやギャラリーに近づいちゃ駄目よ」
 真は思わず添島刑事を見つめた。
「俺を連れて来いと、言われているんじゃないんですか」
「だから、逃がすと言ってるのよ」
「あなたが困るのでは?」
「本当は河本だって、あなたを総監に渡すのは本意ではないのよ。糸魚川から余計な報告があって、あなたの父親や河本が口を出したので、総監も何事かと思ったみたいだけど、煙に巻いてしまいたいのは河本も同じよ」

 真はもう一口コーヒーを飲んでから、尋ねた。
「何故急に警察が動き出したんですか。俺が糸魚川で留置場に入れられていただけではないですよね。竹流のマンションに近づくなって」
 添島刑事もコーヒーを飲んでから一つ息をついて、先を続けた。
「数年前の事件の証拠物件が盗まれて、その事件で死んだ男の娘が誘拐されたのよ」
 真はまた無遠慮に添島刑事を見つめた。
「それは、新津圭一のことですか」
 添島刑事はコーヒーを飲み干して、頷いた。

「娘が、見つかったんですか」
「どういう意味?」
「そもそも新津圭一が自殺した当初に、その千惠子という娘が預けられていた施設は地上げでなくなっているって」
 よく知ってるわね、という顔で添島刑事は真を見つめ、それから気を取り直したように説明した。
「その後、新津千惠子がどういう経緯で今の施設に預けられたのかは分からないけど、その施設からその子がいなくなった」
「でも、それでどうして竹流が関係するんです? 彼のマンションに近づかないほうがいいっていうのは」
「寺崎昂司が容疑者なのよ」

 真は混乱して添島刑事をまた見つめた。
「警察が聞き込んだら、寺崎が運送屋として大和竹流のギャラリーに出入りしているのがわかった。それで関係者として大和竹流に事情を聞こうとしたら、本人も行方不明、しかも病院から失踪している。その上、大和竹流が外国人で、六本木や新宿界隈の外国人の元締めに突っ込みを入れたら、そいつらが一様に彼を庇う気配を見せた。こいつもとんでもない悪党だな、そういえばキナ臭い噂もあるじゃないかってわけでしょ。その上、つい最近、寺崎を大和竹流のマンションの近くで見たという目撃証言まで出たのよ」

 真は事の展開についていっていないな、と思った。だがそれは、添島刑事自身も同じようだった。
「今夜、どこかで会いましょう。車を換えてくるから」
「車を換える?」
 添島刑事はちょっと息をついて立ち上がった。
「一旦総監にも河本に会わなければならないし、あんまり帰りが遅いと向こうも勘繰るでしょ。それに私の車は目立つし、何よりどこに盗聴器があるとも知れないし」
「総監があなたを疑っている、という意味ですか」
「そうじゃないわ。河本が私を信用していないのよ。大和竹流の女だから」

 真もコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「事務所も危険よ。分かってるわね」
 赤坂の近くの国道でピックアップしてもらう約束をして、彼らは車に戻った。

 添島刑事は無言で運転を続けていた。高速の車の流れは極めて順調で、真は外の景色を眺めながら、時々は目を閉じ、時には不意に添島刑事の横顔をちらりと見たりした。
 確かに、竹流の趣味はかなりいいと思う。自分にはあり得ないタイプの女ばかりだが、世間からはかなり羨ましがられるような女ばかりだ。他にあと何人くらい恋人がいるのだろう。彼女たちは皆、自分が何分の一であるかを知っているのだろうか。

 真は、一度納まってしまうとなかなか体勢を変えづらいシートで少しだけ外のほうへ身体を向けて、目を閉じた。
 それでも、想いを等しくしている人間の側は、決して居心地が悪いわけではなかった。
 自分だけではない、彼女もまた、彼が置かれている状況をより深く知っているだけに、今直ぐにでも彼に会いたいと強く願っているのだろう。






次回から第13章『街の色』です。
糸魚川から東京へ戻った真は、以前勤めていた調査事務所があった六本木へ。
そこで竹流を探す外国人の動きを知り、元締めを訪ねる。その男たちとは過去に因縁があった。
さらに、添島刑事からは新しい情報が。
そして竹流の仲間であり、彼を想うゲイバーのママ・葛城昇と複雑な感情のやり取り。

事件の渦の中に少しずつ巻き込まれていく真。
遠巻きにしていた真実が近づいてくる。

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[雨66] 第13章 街の色(1) 

【海に落ちる雨】第13章のスタートです。
竹流の失踪から時間だけが経過していく。新潟の県庁にあるフェルメールの贋作は、新潟の豪農が日露戦争の頃にソ連のもと貴族から預かったものらしいという。その絵に竹流が絡んでいた理由はまだ判然としない。
そして、恋人の深雪の過去。糸魚川で、確かに彼女の両親が自殺していたことが分かった。そして、その深雪の過去を幾人もの人間が確認しに来ている。それぞれの人間は、それぞれの事情でここに来ていたのだろうが、その中には竹流と思われる男もいた。
それぞれの人間の思惑。掴み切れないそれぞれの事情。
どの糸が彼につながっているのか、まだその糸の端にさえ触れることができないままの真は、徐々に焦りをかくせなくなっていた。






 新宿はいつもの賑わいの中だった。
 どういう目的で歩いているのか、行き交う人々にはそれぞれ複雑な事情が絡み合っていて、その足の向かう先も一定方向を示さない。いつも他人とぶつかっては悪態をつく誰かを見かける。

 そんな雑多で複雑な感情の交錯を見ていると、どこかでほっとしているのを感じる。
 以前に勤めていた調査事務所は六本木にあった。そこでは大学に在学中も含めると五年近く働いたことになる。だが、大学生のような金のない若者に対してははっきりとけじめをつける六本木の街は、どこか居心地の悪い側面があった。

 そのせいか、今でも六本木に戻ると何だか落ち着かない。北海道から見れば、六本木も新宿も雑多な都会にはかわりがないのに、新宿の街では、自分の中の何かを隠しておけるような気がするからかもしれない。

 北海道から出てきて以来、東京に馴染んだことなど全くなかった真に、意外にも街の中にいてそれほど居心地の悪い気分を起こさせなかったのが、この複雑な街だった。北海道にいたときよりも酷い苛めにあったのも、唯一真の知る母親という種類の人間が亡くなったのも、初めて女の子と付き合ったのも、初めて友人と呼べる人間に出会ったのも、そして初めて自分には全く理解のできない他者という世界があるということを知ったのも、この東京の街だったにも関わらず、真は永遠にここには馴染めないような気がしていた。そんなふうに言葉も外見も明らかに都会にそぐわないはずの真が、初めて気の合った都会の街が、この新宿だったのだ。

 ある意味では、北海道と全く正反対の姿を持つ街が、いつの間にか真を庇ってくれる唯一の都会の街になっている。

 とは言え、今日この見慣れた街には、真や同居人にとってありがたくない連中がどこかに潜んでいるのかもしれない。真は知り合いに会いそうな場所は避けて通って、駅から少し離れた公衆電話を見つけると、ポケットの小銭を探った。

 相手は直ぐには電話に出なかった。十何回かコールして諦めかけた頃に、ようやく受話器をとってくれた。
「はい」
 ぶっきらぼうな声だった。いかにも、今起きたという感じだ。
「相川です」
「なんだ、お前か。例の絵のことなら調べているところだが、芳しい結果は望めそうにないぞ。あいつが高瀬のおっさんに任せたんだとしたら、お手上げだからな」
「厄介なことになっているみたいだ」
「何が」
「あなたたちの仲間を二人、警察が捜している」
「なんだ、それは」

 向こうで葛城昇は一旦黙り込み、それから慎重な声で聞き返してきた。
「寺崎のことか。もう一人というのは、まさか」
「竹流の場合は、あくまでも重要参考人ってことでしょうけど。あなたたちの仲間は仕事以外で、つまり裏稼業以外でも接点はあるんですか」
「寺崎が運送屋をしているっていう話か? あいつの場合は特殊なんだ。普通は、俺も、他の連中も普段は別に竹流と接点があるわけじゃない。それで? お前も重要参考人の参考人か」
「そのようです。今、警察と絡みたくはない。八方塞がりにはなりたくないんです」

 たまに昇が年上であることを思い出して、真は敬語に戻る。自分は随分いきり立っているらしい。それを察するからなのか、昇が幾らか柔らかい声で尋ねてきた。
「新潟で何か分かったのか」
「糸魚川で留置場に突っ込まれました」
「糸魚川? またなぜそんな所まで」
「ある女の素性を探りに。そうしたら、竹流も三年半前に来ていることがわかりました」
「何しに?」
「同じ目的で」
「へぇ」
 電話の向こうで、昇は曖昧な声を上げた。

「それで、どうする?」
 暫く間を置いて、更に昇は尋ねてきた。
「どう、とは?」
「八方塞がりなのはお互い様だ。お前が堅気をやめるっていうのなら、俺たちの間に垣根はない。東道や他の連中もあんたを認める。仕事もしやすい」
「でも、俺は」
「まあ、東道もそうだが、お前の存在自体を危なっかしいと思っているのは確かだけどな、下手に堅気でいられるよりはいいかもしれない」
 真はどうとも返事ができず黙っていた。
「店の更ける頃に寄ってくれ。かくまってやる」
 昇は最後にそう言った。

 同じ場所にいるのは人目につくような気がして、別の場所に移動してまた事務所に電話をした。
 出たのは賢二だった。
「すみません、あいにく所長は留守でして」
 賢二の声には緊張が漂っていた。誰か有難くない連中が近くにいるのだろうと思った。
「大丈夫か、お前たちは」
「はい。その件は三上さんに一任したそうですから、そちらのほうに連絡していただけますか」
「ありがとう。後のことは頼んだよ」
「承知いたしました。所長にも伝えます」

 賢二のやつ、慣れない言葉遣いでさぞ肩が凝ったことだろう。それに、宝田はもっと窮屈な思いをしているに違いない。考えると、申し訳ないが、おかしい気がした。
 そう思うと、多少落ち着いてきた。いつの間にか、彼らの存在自体が自分にとって必要なものになっている。そんな気がした。


 真はそのまま近くを通りかかったタクシーに乗った。行き先は銀座のホテルだった
 今、深雪がそこにいるのかどうかわからなかったが、心当たりはそこしかなかった。
 思わずタクシーの中で身を低くしていると、運転手の怪訝そうな顔がバックミラーに映っていた。真は目を逸らせた。何をそんなに警戒しているのだろう。自意識過剰になっているようだった。

 空は今日もあまり気分を盛り上げてくれるような色ではないが、窓の外はいつもと変わらない雑多で賑やかな街の姿だった。ふと自分の手を見ると、その暗い肌の色は青に、また赤に、やがて完全に黒く沈んだかと思うと、不意に存在を突き付けるように明るくなり、青く血管を浮き立たせた。

 ホテルに着くと、足を運びなれたホテルの部屋に向かって、エレベーターで十四階に上がった。エレベーターの中では自分ひとりだったのでほっとしたが、エレベーターホールから廊下を曲がったところで、真は足を止めた。
向こうもこちらに気が付いたようだった。

 逃げるべきかどうか迷ったが、階段がどこにあるのかよく知らなかった。しかも、エレベーターの扉は全部閉まっている。まさか、いきなり引っ捕まるとは思ってもいなかった、と考えながら立っていると、目が合った二人組の男が近づいてきた。

「相川真さんですか」
「そうです」
 刑事にしては上品だな、と思っていると、彼らはいつも真が深雪と会っている部屋に真を通した。奥のリビングにいたのは、澤田顕一郎だった。

「ここは今の君にとってあまり安全とは言いがたいはずだが、君は必ずここに来るだろうと思っていたよ」
 真は促されるままに、澤田に向かい合って、テーブルセットのソファに座った。
「深雪は?」
「店には今日は休むと連絡があったらしい。ここにも、マンションにもいない」
 彼女自身の住まいがあること自体知らなかったと思って、真は思わず複雑な気分になった。確かに、このホテルがそのまま彼女の住まいというわけではないだろう。

「昨日の夜から飲まず食わずじゃないのかね」
「いえ、一応留置場ではご馳走になりましたから」
 澤田は少し笑ったように見えた。
「何か頼もう。断ろうなどとは考えないほうがいい。食べられるうちに食べておくのは、戦争中の鉄則だ」

 今日澤田と一緒にいるのは嵜山ではなかった。さっき廊下で会った男の一人に、適当にルームサービスを頼むように言って、澤田は真に向き直った。
「それから、ひと風呂、浴びてきたらどうだね」

 逆らっても仕方がないと思い、真は言われる通りに、使い慣れたシャワールームに入った。シャワーを浴びているうちに、外で待っているのがいつものように深雪であるような錯覚に陥った。
 そう思うと、それでもまだ彼女の事を諦めていない自分が、やはり浅ましい人間であるような気がした。こうなってもまだ、彼女を抱きたいと思っているのだろうか。自分でもよくわからないが、どこまでも満たされない何かが、咽元まで上がってくるようだ。

 シャワーを使って出てくると、バスローブと一緒に着替えの下着まで用意されていて、澤田の妙な心遣いに有り難いような気恥ずかしいような気分になった。
 澤田は真が出てくると、テーブルに出したグラスにワインを注いだ。
「あまり飲まないほうがいいだろうが」
 それでも少しばかりの酒は有り難い気がした。

 そう待たないうちに、ルームサービスの食事が運ばれてきて、真は薦められるままにその前に座った。
「食事をしながら、事務的な話をしよう」
「はい」
 澤田が敵にしても味方にしても、契約を交わした相手には違いなかった。

「新潟に行って何かわかったかね」
「いえ、ただ絵の事が多少」
「君の同居人の行方は」
「分かりません」
「警察が捜しているらしいが」
 真はただ頷いた。それから、徐に辿り着いた絵についての情報を話した。

「あなたがおっしゃっていたIVMの件ですが」
「例の、フロッピーに入っていた脅迫文のことかね。それが盗まれたと聞いたが」
「そのようですね。それで、その三文字は、フェルメールの署名なんだそうです」
 真はかいつまんで新潟県庁で見た絵の事、それに続いて会った江田島や蓮生の家のことを話した。額縁の件は端折っておいた。

 真はずっと澤田の顔を窺っていたが、澤田は感情を一切表に出さなかった。
「新潟の豪農か」
「蔵からそんな美術品が出てくるのは普通ではないのでは」
「まぁ、金貸しでもしていたとなると、借金のかたに取り上げた財産でもあるのかもしれないね」
 澤田はそう言いながら、多少何かを考えているような気配だった。

 澤田の記憶や思考の隙間に入り込んだものが蓮生の家のことだと思ったが、それ以上確認もできなかった。考えてみれば、澤田は新潟の事情には詳しいだろう。その彼の頭の中のパズルに何かがはまり込んだとして、彼が真に何もかも話してくれるとは思えなかった。

 食事を済ませると、どこかへ出掛けていた男たちが戻ってきて、真に着替えを渡した。澤田が、服を替えていったほうがいいだろうと言ってくれたので、それもそうだと思い、有り難く好意に甘えた。
 スラックスのポケットに入っていた財布は、新しい服に移されていて、何やら嵩張ると思って見ると、随分と分厚くなっていた。ついでに困ったら使うようにと、この部屋の合鍵まで渡してくれた。

 鍵を手渡された瞬間、澤田の手が、鍵を介して真に何かを語りかけたような気がした。真は思わず顔を上げて澤田を見た。

 それが真の思い違いでなければ、澤田はその時、こう言っていたような気がした。
 深雪を、頼む、と。

 真は暫く澤田と向かい合って立っていたが、やがて促されてその部屋を出た。背中でパタンと閉まった扉の向こうで、澤田が何を考え何をしようとしているのか、真は振り返るべきかどうか考えながら、結局前へ進むほうを選んだ。
 それは、たとえ目的を同じくしても、想いを共有することはないという、澤田から発せられたメッセージを感じたからだった。


 新宿に近づくのもどうかと思い、何となく六本木に向かった。こういう場合には慣れた場所にいるほうが、いざというときに助かると思った。匿ってくれる連中の居場所も分かっているし、動きがとりやすい。
 少し時間を潰せば、添島刑事との約束の時間になりそうだった。

 向かったのは三上と一緒によく通った店で、酒のあまり飲めない真に最初に街での酒の飲み方を教えてくれた店だった。三上は、竹流ほどではないが、結構な酒豪で、真を無理矢理つき合わせては始末に終えない酔っ払いをこしらえて喜んでいた。
 その店は半会員制の店で、顔馴染みでなければ入っても美味い酒が飲めるという保障はない。雑居ビルの三階にあるその店に入ると、マスターがカウンターの向こうでグラスを磨いていた。比較的長めのカウンターには十席ほどの高い椅子が並んでいて、テーブル席は四人掛で三つあるのみの細長い店だ。まだ客は誰もいなかった。

 マスターは恰幅のいい、顎鬚を持った五十代の元山男で、遭難した際に凍傷になった左足の指が何本か無いそうで、足を引きずっていた。それでも、この店には今でも山好きの連中が集まってくる。
「真ちゃんじゃないか。珍しいね。もう六本木には愛想を尽かしたのかと思ってたよ」
 真は軽く挨拶を交わして、カウンターに座った。
「早いね。仕事の途中?」
「えぇ、まあ」
 適当にごまかして、真はビールを一杯注文した。

「この間はありがとうございます」
 真が新宿で仕事をするようになってからも、一本釣りの客に関しては、ほとんどこういう飲み屋が媒介になってくれていた。

 真の仕事が、調査事務所としては比較的順調にやってこられたのは、個人的な依頼主ではなく、ほとんどが名瀬法律事務所を介してやってくる仕事のお蔭だった。名瀬は真には才能があると言って気に掛けてくれていて、何度か唐沢に真を自分のところで雇いたいと申し入れてくれていたようだった。もっとも、実際にそうなってみると、窮屈で逃げ出したのは真のほうだった。
 名瀬の機嫌を損なったのかと思っていたが、彼は今でも真を下請けにうまく使っていて、お蔭で独立してからも真のほうもそれなりに仕事をやっていけている。そうして噂が後押しをしてくれると、こういった店の客からの情報で、新しい仕事が入ってくることも多くなった。

「って? ああ、あの客、真ちゃんとこに行ったんだ。まあ、真ちゃんには随分世話になったからね、思い出したくはないかもしれないけど、唐沢のおっさんにもね」
 真は返事をしなかった。
 思い出したくない、などということはない。けれども三上の事を考えると、どうとも答えられなかった。

「いつ刑務所から出てくるんだっけ?」
「あと二年……かな」
「三上ちゃん、それでも迎えに行くんだろうな」

 マスターはグラスを拭き終えて、煙草を咥えた。真はやはり返事をしなかった。
 三上が下半身不随になったのは唐沢のせいだった。それでも、三上とっての唐沢は、どんなにどうしようもない人間でも捨てられない親のようなものだと、以前葛城昇が言っていたことがある。
「あ、それはそうと」
 マスターは思い出したように真のほうに身をかがめた。

「数日前さ、ビッグ・ジョーの下っ端が来たよ」
「何しに?」
「人捜してるって」

 どうもビッグ・ジョーの名前が出ると身構えてしまうのは、不意にあの時の事を思い出すからなのだろう。記憶は曖昧だし、身体のほうも何をされたのかあまり明確な意識がないのだが、身体の芯のほうで痛みが走る感じがする。ビッグ・ジョー自身、身体のごつい男で、素手でライオンを絞め殺せるという噂も流れていた。平和な日本ではあまり説得力のない噂だが。

「それがさ、一度真ちゃんが連れてきた男のことじゃないかな」
「俺が連れてきた男?」
「あの、背の高い金髪の外人」
 真はマスターをまともに見た。

「いつのことです?」
「あの男前が来たのが?」
「違う、ビッグ・ジョーの使いが来たのが」
「一昨日かな、確か。それがどうかしたのか」
「どんな感じでしたか? 焦ってるようだったか、何か聞かれたか」
「焦っているようではなかったけど、虱潰しに聞きまわっているようだった」

 一体、ビッグ・ジョーが動いているとはどういうことだろう。
「捜しているのはその金髪外人だけでしたか。もう一人、男を捜していなかった?」
「あぁ、よく知ってるね。そうそう、もう一人捜してた」
「それは日本人で、背が高いって言ってませんでしたか」
「うん、百八十はあるって言ってたかな。名前がたしか」
 考えたマスターの言葉の先を、真は続けた。
「寺崎」
「そうそう、さすがは名人」

 真は礼を言って、ついでにチップもはずんで、店を出た。どこへ行けばビッグ・ジョーとコンタクトを取ってもらえるのかは知っていた。知っていたが、今までは近づきたくないと思っていた。だが、そんなことは言っていられないと思った。
 添島刑事との約束の時間まで二時間ばかりあった。それに遅れるわけにはいかないが、今寺崎や竹流の行方について、何か手がかりがあるのなら何でもしがみつきたい気分だった。






さて、少しずつ、物語の展開が早くなっていきます。
まずは、澤田顕一郎の動き。
そして、竹流を探すほかの連中。
絡み付いてくる連中のそれぞれの事情。
真は彼に近づくことができるのでしょうか。

失った過去の父親との絆。
そして、3人目の父親とも言える男の影を探し当てることができるのか。
一体、彼の身に何が。
第3節にあれこれの事情の糸の切れ端が潜んでいます。
その第3節まであと3章。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨67] 第13章 街の色(2) 

自分でも忘れてしまいそうなので、ちょっと間が空きましたが、更新します。
【海に落ちる雨】…長い話で、なかなか入りにくいように思われるかもしれませんが、逆に長いので、どこからでも途中参加してくださいませ。

ダイジェストは→第5章までのあらすじ
これ以降もまた、あらすじのアップをいたしますが、実は、なぞなぞはこの5章までに大体出揃っていて、後は、行方不明の同居人を主人公が探してうろうろ、という状態です。

そして今、今度は六本木の飲み屋で、竹流の行方を捜しているらしい外国人ヤクザの情報が耳に入った。
これまで、新潟の豪農の屋敷から出てきた絵画、政治家絡みの収賄・脅迫事件、内閣調査室の絡みなど、物事が少し高い次元にあるような気がしていたのに、いきなりヤクザが絡む理由は……?
外国人ヤクザと、ちょっとわけあり関係がありそうな真の会話の緊張感をお楽しみください(いずれ、理由は出てきます)。
真、六本木を走っています。





 六本木の街は走りにくくできている。単純に、走っている人間が目立つからだが、それでも、真は今日は走った。人の視線も気にならなかった。
 行き先は狭い路地の地下にあるディスコだった。階段を駆け下りてドアを開けた途端、悲鳴のような音楽が耳を劈いた。身体ごと吹き飛ばされるような振動だ。

 背の高い黒人がさっと前に立ちふさがった。真からすれば岩のような体つきの男だった。
「ビッグ・ジョーに会いたい」
 黒人は怪訝な顔で真を睨み付けた。
「彼に言ってくれ。相川真が会いたいと」

 その名前に黒服の黒人が何かを思い当たったとは思えないが、彼は暫く無表情に真を見下ろしてから、受付のカウンターの内に戻り、手元の電話を取った。
 もしも、ビッグ・ジョーが竹流を探しているのなら、相川真の名前には反応するはずだ。
 真も黒人もお互いから視線を逸らさなかった。相手の行動を無意識に警戒している。

 直ぐに男は電話を置いて言った。
「ビッグ・ジョーがお会いになるそうです」
 ビンゴだ。

 迎えを待つ間、中にいるように促されたが、この店内に落ち着いて座っていられる気はしなかった。もっとも、それについてどう言えばいいものか分からなかったので、黙ったまま突っ立っていると、半ば強引に店の中に連れて行かれた。
 入り口に立っていると邪魔だという意味なのだろう。さっきの店とは違って、早い時間にも関わらず、店の中はもうかなりの人出だった。

 暗い店内で、ナイフのような光線が絡み合うように空間を切り刻む。浮かび上がる人間は、皆外国人ばかりで、身体つきも真よりひとまわり、あるいはふたまわりも大きい。広いディスコラウンジの周りにテーブル席が秩序無く並べられて、酒と一緒に何やら怪しげな臭いも混じっていた。

 真は緊張したまま、周囲を用心深く見張っていた。ラウンジからもテーブル席からも、値踏みするような興味深い視線が自分に向けられているのを感じる。男も女も、今日の相手を探しているのだ。
 音と光線が炸裂する爆弾のように、身体の深くに突き刺さる。不意に、目が合った大柄な男が立ち上がった。真は思わずびくっとした。
 男は真のほうに歩いてきながらポケットの中を探っていた。どこかへ飛んで行っている目で真を見ている。

 思わず咽が引きつったようになり、冷や汗が出てきた途端、肩にずん、と何かが乗った。振り向くと、大きな黒い手だった。
「どうぞ」
 さっきの黒服の黒人が、真を店の表に連れ出した。

 店のドアが閉まってから、ようやく息をつく。呼吸を忘れていたような気がした。
 俺は何を怖がっていたのか。こんなことで怯えていては先が思いやられる、と思ったとき、黒服は立ち止まり、通りに路駐している大きな白い車の後部座席のドアを開けた。

 真は一瞬躊躇したものの、ここまで来ては乗るしかないと諦めた。後部座席に納まってバックミラーの中の運転手を見ると、深くニットの帽子をかぶった黒人と目が合ったような気がした。暗くて表情や人相まではわからない。

 その瞬間、まさに既視感に襲われた。
 あの時も依頼主に呼び出されて、こうして迎えの車に乗った。
 ニットの帽子を被った黒人が運転手だった。
 勿論、この運転手だったという確証があるわけではなかった。だが、車の中の微妙な臭い、汗と体臭と芳香剤の微妙なブレンドが、あの時の思い出したくない記憶を彼方から引き摺り下ろしてきた。
 においが記憶と最も強い結びつきがあるというのは、生物がかなり昔の種から保存してきた特性だ。

 ビッグ・ジョーが何故自分に会う気になったか、相川真という名前が彼の気に入ったわけではないのはわかっている。本来なら、向こうも自分に会いたくないのではないかと思っていた。
 そう、ビッグ・ジョーの方でも、あの時に受けた報復については思い出したくはないだろう。

 彼は自分の持っていた香港やバンコクからのルートを幾つか潰されて、その上、店はほとんど全て手入れを受けた。うち三割は営業停止になったと聞いている。
 ビッグ・ジョーに屈辱的な報復を下したイタリア人の怒りは半端ではなかったし、あるいはビッグ・ジョー自身もその男が仕掛けた戦争に乗ってもいいくらいに怒っていたかも知れないのだ。その程度で済んだのは、誰かが『仲裁』に入ったからだ。

 だが、真にとっては一切知らされず伏せられた出来事で、勿論思い出したくも聞きたくもないので、それ以上のことはわからない。
 覚えているのは身体の芯に残る鈍く重い痛みだけだった。それがどういう種類の痛みなのか、具体的に考えたくはなかった。ただ、はっきりしていることは、あれが実際にあった痛みだということだ。

 精神的苦痛ならいくらでも受けてきた気がしていた。子供の頃の苛めにしても、心の深くに潜めているこの重い感情も、いつか帰れるはずだった穏やかな銀の宇宙も、全て心の痛みを伴う何かだったが、あれは明らかに身体の痛みだった。

 崖から落ちて死にかかったときでも、身体が痛いと思う余裕さえなかったのか、『痛い』という思い出はない。だがあの記憶は、心ではなく、明らかに身体に刻み込まれている。
 心の痛みのほうが辛いだろうと思っていたが、意外にも下腹部に錘を打ち込まれた重い痛みは、今まさに蘇ってきた。
 じっとりと冷や汗が吹き出してきた。あの時、もしも怪しい薬を仕込まれていなかったら、もっと明確な記憶が残されていたのかもしれない。

 野良犬に咬まれたようなものだ。忘れろ。
 竹流は一言、そう言っただけだった。怒っているのか、以来一切その話題を口にしない。怒っているのだとして、それが何に対してなのかもよくわからない。ビッグ・ジョーに対してなのか、怒りを途中で放棄させた外力に対してなのか、無防備に誘いに乗って車に乗り込んだ真に対してなのか。

 まさに、今の自分は無防備だ。武器もない、誰も相川真がビッグ・ジョーに会いにいこうとしていることを知らない、あの時助けてくれた竹流も寺崎もいない。
 突発的に行動してしまった。もう少し待てば添島刑事に会うことになっていたのに、彼女が助けてくれたかもしれないのに、考えもなしに何をしているのか。

 焦っているのだ。それは自分でもわかっていた。

 ビッグ・ジョーは都内にいくつものマンションを持っていて、そのどこにいるのかはわからない。今日はたまたま近くのマンションにいたのだろう、それほど離れたところまで連れて行かれたわけではなかった。
 地下の駐車場に入るにも、カード式の身分証明が必要なマンションだった。停められている車は外車ばかり、住んでいる人間も、多分とんでもない人間達なのだろう。その上、何もなくやってきたのではホールにさえ入れない造りで、運転手は自動車電話で連絡を取り合って、ホールのドアがやっと開いた。

 エレベーターで十四階に上がって、二つしかないドアの一つを運転手がノックした。
 少しの間を置いてドアが開けられると、運転手は挨拶だけを交わして、真を別の男に預け、自分は黙って後ろで立っていた。
 ドアを開けたのは、大柄な黒人で上品な白いシャツを着てはいたが、その長袖のシャツの向こうの腕の筋肉の厚さは十分に感じられた。片手でも真の顔ぐらい潰せてしまうほどの大きな手と腕だ。

 後悔しても仕方がない。
 真はその男について、広い部屋を横切り、次の間に入った。
 次の間にも男が待っていた。一人はやはり黒人で、もう一人は小柄なアジア人のようだった。国まではわからない。

 広く明るいリビングルームのような部屋で、中央に大きな黒い革張りのソファが置かれていて、ビッグ・ジョーがそこに座っていた。ごつい身体は三人掛けのソファも小さく見えるほどだった。
「久しぶり、だ」
 ビッグ・ジョーが言った。低い、海の底から響くような声だった。真は何とも答えなかった。

「私が、あんたの連れを捜しているのを知って、来たのか」
 一言一言を区切って重々しい声で話す。ビッグ・ジョーの日本語は、新宿のボス、ゴッドと呼ばれている男の日本語に比べると遥かに聞き取りやすい。
「そうです」
「あんたは何か知っているのか。数日、いなかったな。ゴッドがあんたを捜していた」
「意外です。珍しくゴッドと仲良くしているのですか」

 ビッグ・ジョーは一瞬不快な表情をした。
「これはビジネスだ」
「あなたの取引の相手は、警察関係ですか? あるいは公安」
「警察?」ビッグ・ジョーはさらに怪訝な顔をした。「馬鹿な。取引をしたのは、イタリア人とだ」
「イタリア人」思わず反復して、真は息を飲み込んだ。「彼を、捜せと?」
「そうだ」

 高瀬は国元への最も太いパイプだと、昇が言っていた。その高瀬が幾日か留守をしていて、あっさりと協力的になった。彼は上からの命令がなければ動かない種類の人間だ。竹流が行方不明で、その身に何か良くないことが起こる可能性があるとわかった時点で、高瀬の取るべき行動はただ一つだ。
 軍隊の命令系統のようなものだ。彼が単独で判断して行動することは許されない。
 イタリア人は身内が受けた傷に対して、それ以上の傷を相手に要求するだろう。

「もう一人、捜していますね」
 ビッグ・ジョーは頷いた。
「二人を捜せ、といわれた」
「寺崎昂司、ですね。写真でもあれば、見せて欲しい」
 ビッグ・ジョーは側に立っていたアジア人に何か命じた。直ぐに男は隣室に消えた。

「寺崎昂司は、運送屋の息子。京都の運送屋。父親、関西では名の知られた男。自分の私生児、何をしていても、庇うだけの力と金、ある。寺崎の息子は、美術品専門の運送会社、しているね。半分商売になっていない。彼、金ある。気にしないね。私の友達も助けてもらったこと、ある。女も、彼が好きだ」
 真は、ビッグ・ジョーが寺崎昂司に対しては好印象を持っていることを知った。

「イタリア人と、もう一度、取引をしたのは、友達が受けた恩義のためも、ある。昂司はあんたに私たちがしたこと、怒っていた。それは、悪かった、と思っている」
「もう一度?」
 真は妙なところで引っ掛かって、それを反芻した。
「イタリア人と、取引をするのは二度目、だ」

 真だけではない。ビッグ・ジョーもまた、あの時の事は思い出したくなかったのだろう。
「あの時、仲裁に入ったのは、チェザーレ・ヴォルテラだったのですか?」
「仲裁?」
 ビッグ・ジョーは繰り返した。言葉の意味が分らなかったようではなかった。しばらく真の顔を、大きな身体と顔の割には小さめの目で見つめていた。

「あの時、イタリア人、自分の息子が何をしようとしているか、知っていた。何より、彼が判断能力に、欠けていたということ、を。イタリア人はそう言って、私に別の提案、した。私はそれ、呑んだ。それだけのことだ」 
 隣の部屋からアジア人の男が戻ってきて、写真をビッグ・ジョーに見せ、それから真のところに持ってきた。
「寺崎昂司。いい男だ」

 真は暫く写真に釘付けになっていた。
 写真には寺崎昂司の斜め向かいからの顔が写っていた。
 本人は写真を撮られたことに気が付いていない様子だった。筋の通った額から唇までの鼻のライン、ややしっかりした顎の角度、切れ長で男らしい色気のある目、薄いが意思の強そうな唇、ややウェーブのかかった髪。やや太目ながら色気のある首と、しっかりした肩を持っている。

 この男なら知っている。竹流のギャラリーで何度か見かけたことがあった。あの時、自分を助けてくれたのが彼だという確信はなかったが。
「あんた、知っている男かと、思っていた」
「ええ」真は曖昧に返事をして、写真を返した。「何か手がかりがあったのですか」
「分からない。消えてしまった」

「彼の父親は?」
 チェザーレ・ヴォルテラが『息子』を心配したように、寺崎の父親も庶子とは言え、息子を心配しているだろう。普通ならば。
「寺崎の父親には、会っていない。今は、必要、ない」
「寺崎昂司は、隠れ場所として父親を頼りませんか」
「隠れ場所?」

 ビッグ・ジョーは暫く、黒い肌に囲まれたやはり黒い目を真に向けたまま、黙っていた。やがて、重い静かな声で言った。
「寺崎と父親、絶縁状態、だ」
「絶縁? でも、あなたはさっき、息子がなにをしていようと庇うだけの金と力がある、と」
 ビッグ・ジョーは真から目を逸らさなかった。あの時も、こうやって自分を見ていた。
 だが、今日の目つきは獲物を見る目ではなかった。

「昂司に仕事のやり方、教えたのは父親。もし、昂司が捕まれば、父親にも被害、ある。『芋づる』だ。父親、昂司が捕まるの、困る。だが、良い息子、とは思っていない。それに、昂司は後継者、ではない」
「後継者ではない?」
「チェザーレ・ヴォルテラが息子、大事にするのは、後継者だからだ。彼は、それを阻止するもの、全て抹殺する、ね」
 真は思わず息を飲み込んだ。

 阻止するもの。それは何もジョルジョ・ヴォルテラの敵とは限らないのだろう。
 そう考えれば、最も邪魔な人間は、あるいは自分かもしれない。もしも今、彼が極めて危険な状況にあるとあの男が思っているなら、もうこれをタイムリミットと考えてもおかしくはない。

「チェザーレ・ヴォルテラが来ているのですか」
 思わず、自分の声が上ずったように思った。そのことをビッグ・ジョーに知られるのはまずいように思ったが、どうしようもなかった。

 ビッグ・ジョーは返事をしなかった。真は答えがないので、思わず顔を上げてビッグ・ジョーを見た。
 その時、ビッグ・ジョーが真に向けていた目は、敵意ではなく、まるで同情か憐憫のように見えた。

「昂司の父親、息子が死ねば、それでもいい。いや、その方がいい。そう、思っている、かもしれない。いや、そうでもないのかも、しれない」
 ビッグ・ジョーは慎重に最後に自分の想像であることを強調したように見えた。それとも、何か他の事情でもあるかのような口ぶりだ。

「手を、組もう」
 真は顔を上げて、もう一度ビッグ・ジョーを真正面から見た。
「イタリア人は、何をしてくれると言ったのですか」
「それは、言えない。あんたは、堅気、だ」
「では、手を組めません。しかし、彼らを見つけた手柄を、あなたが立てるのは邪魔しません」

 真が帰ろうという素振りを見せると、ビッグ・ジョーは部下に何か目配せしたようだった。
 一瞬、無傷でここを出ていけるのかと緊張したが、杞憂だった。

 帰り際に、ビッグ・ジョーは真を見つめて、ゆっくりと言った。
「昂司の父親、大した男でない。金はある、が、人物としては小物、だ。それに、変な趣味、持っている。良い息子、持っているような男には、見えない。残念、だ」
「変な趣味?」

 真は暫く、今の彼の言葉の意味を考えていた。それを自分に教える意味はなんだろう。
「ワタシは、あんたに警告、している」
 そういう意味か、と思った。自分たちも大概変態のくせに、よく言ったものだ、と思ったが、勿論口にも態度にも出さなかった。






変な趣味って何?とか突っ込まないでくださいね。でも、話の大筋には関わってきますので、いずれまた。
このお話、1980年前後なので、少し風俗の内容など時代がかっています。
さらりと読み流してくださいませ。
え? 政治家とか絵画とか、高尚な話じゃなかったの? ということろですが、真もかなり翻弄されています。
次回、添島刑事も同じ疑問を持って、彼女の知っていることを真に語ってくれます。
大和竹流の女の一人である彼女。立場は微妙です。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨68] 第13章 街の色(3) 

【海に落ちる雨】第13章の3話目です。
あちこちに大和竹流と彼の親しい友人・寺崎昂司を探す者たちがいます。
彼らが関わっているのは、3年半前に自殺した雑誌記者・新津圭一の自殺。
新津はIVMすなわちフェルメールの件で誰かを脅迫していたが、自殺したとされていました。
贋作と言われた絵画には何が隠されているのか。
新津圭一は本当に自殺だったのか。
そして、大和竹流は今どこに……
(という話でしたが)
今回は、大和竹流の恋人の一人である女刑事・添島麻子と真のやり取りです。
内閣調査室の河本という男に預けられている添島刑事。自分が大和竹流への牽制に使われていることを察知していて、身の振り方をあれこれ考えてもいる。聡明な女性ですが、やはり女。でも…多分、真の味方をするつもりになってくれていると…思うのですが。





 添島刑事との約束の時間が近づいていた。送ってやろうというビッグ・ジョーの「有難い」申し出は断って、表に出ると、タクシーを拾った。
 澤田が満たしておいてくれた財布のお蔭で不自由がない。ただ有り難かった。

 タクシーを降りて、添島刑事と待ち合わせた国道の坂道をゆっくりと上っていると、後ろからすっと車が近づいてきて、真の少し前で止まった。目立たない白い車で、ナンバーからはレンタカーのようだった。
 真はガードレールを飛び越えて、その車の運転手を確かめると、助手席に納まった。
 添島刑事の顔を見て、本当にほっとした。半時間ほど前まで、もしかしてそのまま戻れないかもしれない場所にいたとは思えなかった。

「大丈夫でしたか」
 添島刑事からは珍しい印象がした。
「逃げられたって言ったら、多分信じていなかったでしょうけど、別に何も。まあ、あなたは参考人の参考人程度だから」
「それにしては、事務所に警察が張りこんでる。どういう圧力をどこからかけているのかは知りませんが」
「それは私も知らない。ただ、あなたの相棒が現れそうなところを虱潰しに見張らせているのよ。それがすなわち、寺崎昂司の現れそうな場所だと思ってるのかしらね。よほど手がかりがないんでしょう。最後にどこが手柄を手にするのかは見ものだけれど」

 添島刑事は自分の所属する組織を、屑籠に捨てるような調子で言い切った。
 女のくせにと言われ続け、本人ははっきりとは言わないが性的なものまで含めて嫌がらせをさんざん受けてきたのだろう。だから、いざとなったら、つまり男が作ってきた組織がろくなものではないと見限ったら、あっさりと裏切ることも厭わないかも知れない。
 もっとも、どの時代にも男を叩きのめすほどに鍛えた女はいるものだ。一度だけ竹流が、絶対にあの女に喧嘩をふっかけない方がいいぞ、と冗談交じりに言っていたことがあった。大和竹流相手でなかったら、もしかすると女とは見られていないのかもしれない。

 信号でゆっくりと車を停めると、添島刑事は真の顔を見て、少しだけほっとしたような顔で笑った。
「ちょっとすっきりしたじゃない。朝は随分むさくるしかったけど」
 真は頷いた。まさか、澤田顕一郎に御飯を食べさせてもらって、服まで面倒をみてもらった、とは言えなかった。

 真正面から添島刑事の顔を見て、さっき感じた珍しい印象が何なのか、わかった。
 いつもきちんと化粧をして、きつすぎるようなイメージの赤い口紅を引いている女性が、今日は薄化粧だった。口紅も薄いリップクリームのようだ。素顔に近い彼女は、真のイメージの中にあるよりは、若く純粋な気配を持っていた。
 これが、いつもベッドの中で竹流が見ている顔なのかもしれない。そう思って、感情と身体のどこかを刺激されたような気分になった。

「食事は?」
「大丈夫です」
 真は無遠慮に添島刑事を見つめていたことにようやく気が付いて、視線を逸らせた。
 添島刑事は前方に視線を戻して、一旦間を取った。何か重大なことを伝えようとする、前置きのようだった。

「私が知っていることを話すわ」
 自分自身に何かを確かめるような口調だった。彼女にしてみれば、これは職業倫理に関わることだろう。
 信号が青になる。添島刑事は車をスタートさせた。車が地面を擦る音で、言葉が誰かに聞かれるのを紛れさせようとしているようにも見えた。

「まず、ある男がひき逃げされた。新潟出身のあの大物政治家の秘書だった。それから入院していたある男が突然死亡した。肝炎で、死んでもおかしくない状態だったので、疑問はなかったみたいだけど。ただ、これがその政治家に大いに関わっていたフィクサーだった。秘書のひき逃げのほうは、実は密かに容疑者が挙がっているんだけど、手が出せない」
「それも、大物だからですか?」
 添島刑事はゆっくりと車を走らせていた。
「ひき逃げをした車を、警邏中の警官が見ていたのよ」
 真は、思わず添島刑事の横顔を見た。
「澤田顕一郎の奥さんの車だった。でも、運転していたのは男だった」
「まさか、澤田顕一郎を疑っているのですか」
「本人じゃなくても、その周辺の人物って事は間違いがないでしょ。この二つの出来事をきっかけに、河本が何やら内偵を始めたわけなの」

 真はすっかり暗くなった道の先を見つめた。前の車のテールランプがぼやけてかすんでいる。
 澤田顕一郎が何かとんでもないことを目論んでいるということなのか、あるいは逆に澤田にまつわる悪い噂が誰かの思惟であると含んでいるのか。
「澤田顕一郎の奥さんは、確か」
「山口県の某元首相の縁戚の人。今は病気で郷里に帰ってるわ」
 澤田は『心の病』と言っていた。
「その、大物政治家というのは、澤田、あるいは現首相と敵対しているのですか?」
「お互い触らぬ神に崇りなし、って感じかしらね。でも、自分たちの立場を守るのに、ひき逃げとか殺人とかいう小賢しい悪さをするような人物ではないことだけは確かね。少なくともそう願うわ」

 添島刑事は一つ、息をついた。
「ずっと疑問に思ってた。河本が絡む、政治家が絡む、あなたの父親まで出てくる。妙に大物が動く割には、起こっていることが小さい。ひき逃げにあった秘書、病死したフィクサー、恐喝を企んで自殺した記者、溺死した元傭兵、贋作だと言われる絵。あなたの同居人だって、大怪我はしたけど、国家絡みの大事件に首を突っ込んでいるような気配じゃなかった。それなのに、誰も『本当のこと』を言わない。河本も、澤田顕一郎も、朝倉武史も、それに大和竹流も」

「どういう意味ですか?」
「あなただって、そんな国家絡みの大事件に首を突っ込んでいる気はしないでしょ? でも、あなたにとってはこれは大事件には違いない。大和竹流の怪我と失踪、元気で死にそうになんかない老人の溺死。大和竹流にとっても、自分が関係している贋作を調べていただけだった。彼にとっては、当たり前の仕事だった」
 添島刑事はまた言葉を切った。

「でも、河本さんは『誰か』を追いかけている、ってあなたはおっしゃっていましたよね」
 添島刑事は真の言葉をしばらく反芻しているように見えた。それから、思い切ったように口を開く。
「確証はないけれど、私が思っていることを言うわ。聞き流しなさい。河本は」添島刑事はしばらく前方を見つめたまま、言葉を選んでいるように見えた。「本当にそれが誰だかわかってないんじゃないか、と思うの。確かに、誰かを追いかけている。でも、それが確信のある人物じゃないんじゃないかって。つまり、ものすごく取り留めのないことをしている。澤田も、大和竹流も同じよ。自分が何をしているのか、わかってないんじゃないかって」

「どういう意味だか、よく分りません」
「河本は私に、澤田と大和竹流とあなたを見張っているように、と言った。何故あなたたちなの?」
 真は思わず添島刑事の横顔を見つめた。
「河本が、自分のしていることに確信を持っているなら、もっと確信的な人物を見張れって言うんじゃないかしら。澤田は確かにそこそこ大物だけど、国家を敵に回した大事件を企んでなんかいない。あなたもそう思うでしょ」
 真は自分の手に視線を落とす。
 右手。彼の右手だ。まさに自分が動いているのは、あの右手に対する個人的な恨みだ。

「河本が何故私に目をつけたのか。それは私が大和竹流の女だから。でも、河本は別に大和竹流本人に何か疑いを持っているわけじゃない。よく分らないのよ。だけど、本当は誰も、河本自身も、よくわかってないんじゃないかって、そういう気がしてならないの」
 添島刑事の声は、最後のほうでは苛立ちを含んでいた。真は何と返事をしていいのか分らず黙っていた。
「それなのに、実際にあの人はあんなに痛めつけられて、行方もわからない。今、生きてるのか死んじゃってるのかもわからない」
 真は思わず添島刑事を見た。静かに感情を押し殺した横顔だった。

「何を、言ってるんですか」
「みんな、何だか分らないけど、それぞれにそれっぽい理由で死んでしまう。あの人も明日には東京湾に浮いているかもしれない」
 田安の水死体を見て、想像に怯えていたのは自分だけではなかったのだと思った。冷静で聡明な添島刑事の、震えるような声は、よく通る声だけに、真の胸のうちの深いところに突き刺さった。

「でも、彼を暴行したのは、手足のある人間だ。ろくなことを考えていないにしても、多分、頭だってついている」
 答えた真の声は、車のエンジン音にかき消される小さな呟きだった。
 それでも、それは添島刑事に届いたようだ。

「本当は、あなたが嫌いなのよ」
 添島刑事が車を走らせ続けている理由は分かるような気がした。停まって、じっくりと話したくはないのだろう。
「彼の恋人は、仲間も、誰一人だってあなたのことを好きじゃない。あのふざけた雑誌のインタヴューを読んで、誰がいい気分になったと思う? だけど、彼が何故あんなパフォーマンスをしたのかは、分かってる」
 真は手の平がじっとりと冷たくなってくるのを感じた。

「あの雑誌の発行社には、ヨーロッパに系列社があるのよ。同じ記事がその系列社の雑誌にも掲載される。遠いアジアの経済と芸術の情報は、一般のヨーロッパ人にとってもちょっと興味をそそられる話題なのよ」
 真は、一瞬頭が真っ白になったような気がした。
「でも、そんなことくらいでチェザーレ・ヴォルテラは動じたりしないでしょう」
 冷静に言ったつもりだったが、声は上ずっていた。

「ジョルジョが個人的にチェザーレ・ヴォルテラに逆らうだけなら、誰もそのことを知らない。せいぜい噂の程度だわ。でも、文字になって記事になった。ヴォルテラの後継者に後を継ぐつもりがないことが世間にばら撒かれたのよ。チェザーレのファミリーも敵もそのことを知った。それがどういうことだか分からないほど、あなたも馬鹿じゃないわよね。しかも、ヴォルテラはヴァチカンの裏のネットワークを支えている大きな組織よ。その後継者が、事もあろうに日本人の男性に、事実や内容はともかくも恋愛対象であることを仄めかした」
 真は呆然としたままだった。
「事実なんてどうでもいいのよ。文字になって世間に晒されたことが問題なの。それについて誰がどう思うか、その感情に歯止めは利かないわ。だから、誰もあなたの味方なんかになれない」

 手が震えだした。どう返事をしていいのか分からなかった。勿論、竹流の関係者の誰にも自分がいい感情で迎えられていないことは、分かっているつもりだった。
 父の言うとおりだ。あの時、美和に囁くようなふりをして、父が自分に警告したのは、単なる気まぐれではなかったのだろう。
「でも、あなたの気持ちも、多分みんなよくわかっている」
 添島刑事の声は、まるで彼女自身を説得しているようだった。

 真は何も言えずに黙っていた。竹流の事に関して、自分に味方がいないというのは何となく分かっていた。誰も、相川真にはいい感情を持っていない。大和竹流に対する気持ちを共有していると勝手に考えて、添島刑事に親近感を覚えていたが、それが自分の一方的な思い込みだということは了解できた。
 添島刑事は暫く黙っていたが、信号のある四つ角を曲がると、数十メートル進んでから、車を左脇に寄せて停めた。
 暗くなった道の両脇には幾つかビルが並んでいて、それなりに人通りもあったが、賑やかな通りとは言いかねた。

「内閣調査室から盗まれたフロッピーの話だけど」
 真はゆっくりと話し始めた添島刑事の言葉を、何度か頭の中で反芻しなければならなかった。
「内調から盗まれた? 検察が保管していたのではないのですか」
「色々事情があって、最終的には内調に保管されていた。たかが一記者の恐喝事件だったし、ロッキードという大事件の陰で、事実関係もろくに調査されずに放置されていた」
「でも、それがどうして寺崎昂司が盗んだと分かったんです?」
「たれ込みがあったみたいよ。寺崎昂司の恋人、と名乗る女から。彼がフロッピーを盗み女の子を誘拐する気だって」
「女の子? 新津千惠子のことですか」
 父親の新津圭一が残したフロッピー、そしてその娘が見たかもしれない父親の自殺の真相。

「そう、それで警察が確認したら、ある施設から女の子が確かに連れ出されていた。ただ、その施設では誘拐だとは思われていなかった。何でも数年前に、彼女の父親の友人という男が現れて、誕生日やクリスマスにプレゼントを持ってくるようになったそうよ。施設にも幾らかの寄付をしてくれるようになって、そこの従業員たちもすっかり彼を信頼していた。その日、外泊願いがあって、誰も何の疑問も感じずに、その男に新津千惠子を預けた」
「それが、寺崎昂司だと?」
「写真で、間違いがないって」
 寺崎を見間違えるのは難しいだろう。日本人離れした体格だし、美男子というわけではないが、人を惹きつけるいい男だ。

「寺崎昂司はその子を連れ出したのは危険だと思ったから? 千恵子という娘は、自殺した父親の、つまり第一発見者ということですよね」
「そうね。危険だと思う理由は、自殺には裏があるということになるんでしょうね」
「でもその子は口がきけないって……」
「父親の死体を見てからね。新津千恵子は大人の男を怖がっていて、最初は寺崎昂司に対しても怯えていたようだったけど、そのうち少しずつ打ち解けるようになったみたい。寺崎昂司が彼女を連れ出したのがはっきりしたので、その垂れ込みの信憑性もでてきた。それで調べたら、フロッピーは確かに保管場所から消えていた」

 添島刑事は一度息をついた。
「ただ、その保管場所はもう随分と前から開けられた形跡はなかった。つまり、既にフロッピーはもっと以前に別の場所に移されていたみたいだった。あるいは、とっくに盗まれていたのか、あるいは始めからそんなものがなかったのか。つまり、誰も何も言わなければ、いえ、もっとはっきり言えば、寺崎昂司と大和竹流が動かなければ、誰も『何かが封印されたこと』に気が付かなかったかもしれない」
 添島刑事はちらりと時計を見て、エンジンをかけた。
「その女性を特定できますか」
「寺崎昂司の恋人?」

 真は頷いた。
「糸魚川に深雪の両親の自殺について確認に来ていたのは六人。竹流と寺崎昂司と、深雪と楢崎志穂。あと二人は知らない人間だったけど、モンタージュ写真がついていた。一人は女性で、もう一人は男性だった」
「楢崎志穂を知っているの?」
「えぇ。田安さんのところに出入りしていましたから。彼女は、自分が香野深雪の妹だと言っている。確かに、糸魚川で自殺した旅館経営者夫婦には女の子が二人いた」

 サイドミラーを確認しながら、添島刑事は車を発進させた。真は続けた。
「楢崎志穂も、澤田顕一郎のもと秘書の息子らしい男をつけていた。あなたもご存知かもしれませんが、その男は大和竹流と接触していた。楢崎志穂は澤田を恨んでいると言っていた」
「楢崎志穂は、新津圭一の後輩だった。随分と彼に熱をあげていたと、当時の同輩が言ってたわ。彼女は新津圭一が亡くなった後、そのライバル社に移って、あの事件についてスッパ抜きのような記事を書いた」

 真は驚いて添島刑事を見た。
 そう言えば、井出が見せてくれた記事の最後のイニシャルは『S』だった。志穂、そうか、彼女だったのか。では、彼女はあのフロッピーを見たのだろうか。でなければ、あれほど詳しい内容は書けないはずだ。それとも、彼女は記者として、正しいと信じたことを文字にしたのだろうか。
「あなたたちは、彼女をマークしてはいなかったのですか」
「さあ、河本は彼女を見張れとは言っていなかったけど」

 車は大きな通りに戻った。
「それで、あなたは寺崎昂司の恋人が、その糸魚川に行ったもう一人の女じゃないかと言いたいの?」
「その女は、寺崎昂司の恋人だったわけじゃない」
 添島刑事が隣で息をついたのがわかった。
「そうよ。寺崎昂司の恋人じゃなくて、大和竹流の恋人だった。正確には三角関係ってやつになっていた。もっとも、大和竹流は別に積極的に三角関係に参加したいと思うような男じゃなかった。その女を心から愛していたわけじゃないでしょうから」
「あなたは、その女の顔を知っているのでは?」
「つまり、私がそのモンタージュを見れば、それが彼女かどうか分かるのではないかと言いたいの?」

 真は返事をしなかった。女同士のことだ。それなりに嫉妬の感情が絡まってもおかしくはないと思った。添島刑事は少し時間を置いてから続けた。
「見たわ。あなたの言うとおり、その女だった。彼女が大和竹流のところで仕事をしていた芸術家の一人だということは知っていた。彼の女たちにいちいち嫉妬していたら身が持たないから、見て見ぬふりをしてたけど、その女がジョルジョを、いえ、大和竹流を独占したいと思っていたことは知ってたわ」

 真はぼんやりと添島刑事の言葉を聞いていた。
 結局はあの男がやたらと女に手を出すからややこしいのだ。そう思いながらも、女たちが彼に入れ揚げる理由も分かるような気がした。あの男は、そうとも思わずに女をその気にさせてしまう。分別のある女でも、嫉妬という感情は計り知れない。
「でもそれ以上のことは知らない。大和竹流は、その女が自分のところから去っても、追うことはしなかったし、責める事もなかった。彼女は多分、追って欲しかったし責めて欲しかったんでしょうけど」

 ふと気が付くと、歌舞伎町の見慣れた交差点の近くだった。雑多な人の群れが行き交う歩道に、いつものように客引きの姿が見えていた。誰しもが華やかで、薄っぺらく見えた。
 その女への大和竹流の愛情に嘘偽りがあったわけではないのだろう。だが、竹流はその女を愛して大事にしても、執着などしなかったのだ。もちろん、女が苦しんでいれば彼は何を置いてでも助けに行くだろう。それでも、大和竹流の心を完全に支配することも繋ぎとめることもできない。
 そしてこの女刑事は、自分もまた、その女と同じような立場にあることを知っている。
 
 真は、真っ直ぐに前を見つめている添島刑事の横顔を見た。意志の強い横顔、時折見せる女らしい優しさ、そして。
 そうだ、その女と添島麻子は、何かが根本的に違っている。
 添島刑事は車を停めた。
「降りなさい」
 真は素直に助手席の扉を開けた。降りようとしたその瞬間、添島刑事の手が真の腕を捕まえた。その手は冷たく、だが力強かった。
「気をつけて」
 真は添島刑事を振り返り、頷いた。
「あなたは失踪人調査は得意よね。彼を、見つけて」
 この女は、本当に彼を愛しているのだろうと思った。真は今度は頷く代わりに黙って添島刑事を見つめ、そのまま車を降りた。






街に戻ってきました。
さて、次回は第13章の第4話:真、今度は大和竹流の仲間(そして竹流を想っている)ゲイバーのママ・葛城昇と対戦?
主人公って、もう少し周りの人間から好かれていてもいいんじゃないかと思うけれど、今のところ結構いろんな人からけちょんけちょんの真でした。これもすべて、竹流が悪いんですね、きっと。
少し色っぽいシーンも出てきますが、18禁とは言えないので、そのまま出します。
何しろ、バーの店内ですから。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨69] 第13章 街の色(4) 15R 

【海に落ちる雨】第13章最終話です。長いので、2回に分けようと思ったのですが、会話の切り処も上手くないのと、これを読んでくださっている奇特な方は、多分ブチブチ切れるよりいいと思ってくださるだろうと勝手に思って、ワンシーンですので、一気にアップしています。
特別ものすごいシーンがあるわけではありませんが、さすがに中学生はダメかな、と思うので、
15R でお願いします。

真と、竹流の仲間であるゲイバーのママ(もちろん男性)・葛城昇の対戦? 竹流の仲間のうちではまだ真に好意的な彼ですが、感情は複雑です。でもこの物語で、最後まで絡みます。ちなみに、この次作になる【雪原の星月夜】ではのっけから冷戦です。
私の話の中では、珍しく妖艶な男性。BL風なものを書いても、大体男はみんな骨太になるのですが、この人は例外だなぁ。





「お帰り。無事だったか」
 葛城昇はカウンターの客にグラスを差し出しながら、少しばかり感情のこもった声で言った。
 もちろん、真に対しての感情ではないはずだ。
 その声に刺激されたのか、カウンターの客がグラスを受け取り、そのまま昇の手を握った。昇は窘めるような笑いを浮かべて、その客の手を握り返した。

 昇の店『葵』の八つあるカウンター席には、カップルが二組と昇の手を握った男がひとりで座っていた。
 後ろのテーブル席は全ては見通せないようになっているので、奥の方は分からないが、気配からはほとんど埋まっているようだった。
 相変わらず羽振りのいい店だ。

 男と言えばそうだが、女性的なところがあるといえばそのようにも見える、中性的なムードを持つ昇は、それはそれで魅力的に見えた。
 だが、少し付き合ってみれば、この男の本当の魅力が、外見の問題ではないことが直ぐに分かる。

 ベッドの上では相手に合わせて何でも言うことをきくのだという。だが、それはビジネスだからだ。一歩そこから出れば、甘えや優しなど欠片も見せない。
 そして、そこから先に、相手が本当に葛城昇に心酔してしまう理由がある。

 どのような話題にも聡明な答えを返し、時には色仕掛けではなく協力者に橋渡しをし、相手のビジネスに花を持たせることなど、昇には朝飯前なのだ。
 だからこそ、昇の一言にほだされて動く大物が、幾らでもいるという噂だった。
 そして、そのすべてを、昇は一部は自分のビジネスとして、そしてあとの半分以上は大和竹流のためにやっている。

 真がカウンターに近づくと、昇は、店が更けるまでもう少し待つように言って、真に上の部屋の鍵を一つくれた。勧められるまま、真は鍵を受け取り、二階の部屋の一つに入った。
 小さな密室だ。窓はきっちりと閉められ、はめ込まれたような大きなベッドと、小さなテーブルと向かい合った一人掛けのソファが二つ、そしてシャワー室とトイレというシンプルな部屋だった。
 用途は言うまでもないが、ここを使えるということだけでも、客にとってはステイタスでもあるらしい。

 真は上着を脱いでソファに放り出し、そのままベッドに倒れこんだ。
 不意に、どっと疲れが湧き出したような気がした。

 添島刑事の言うとおり、葛城昇にとっても真は面白くない存在だろう。誰も、味方になんかならない。
 その通りだと思った。

 暫くするとドアがノックされて、店の男の子がソルティドッグを運んできた。
 ありがたく受けとって、真は小さなアクリルのテーブルにグラスを置き、改めてソファに座った。薄く黄金に染まる液体が、氷が乱反射する光で揺れていた。

 俺は女でもないし、竹流の女たちと同じような扱いはされたくもない。
 そう思いながらも、自分の気持ちが女のようかもしれないと思うと、嫌な気分だった。

 ソファの背にかけた上着のポケットを探ったが、煙草は入っていなかった。仕方がないので、下の店に降りていくと、不意にカウンターの一番端に座っているカップルが、キスを交わしているのが目に入った。
 濃厚なキスだった。
 昇はそれは見ぬふりをして、自分の手元の煙草に火をつけている。

 真に気が付くと、昇は目でちらりとキスを交わすカップルの様子を見て、それから真に聞いた。
「どうした」
「いや、煙草を」

 カウンターの端のカップルは、二人ともが明らかに鍛えていると分かる逞しい身体つきの男だった。
 彼らは一瞬真のほうを見たが、意に介さぬふうでそのまま互いの大腿や胸を弄りながらキスを続けていた。暗い照明の下で、男たちの厚い舌が、そのものが意思を持つ生き物のようにぬめり、お互いに吸い付きあっている。

 昇は棚からショートホープの箱をひとつ取って、真のほうに投げて寄越した。
 偶然ではなく、真が吸っている煙草を知っているのだ。

 二階の部屋に戻ると、ソファに座ってライターで煙草に火をつけ、やっとゆっくり吸い込んだ。
 男女が絡み合っている姿も、それがビデオであっても、何となく見ていられない気がする。ましてや、自分が誰かと抱き合っているところなど、本来なら他人に見られたいとは思わない。
 だが、世の中には色んな人間がいる。男同士で抱き合い、それを他人に見られても何とも思わない、どころか、それを楽しむカップルもいるわけだ。

 そんなことができたら、人生はもう少し気楽かもしれない。
 真は煙草を一本ゆっくりと吸って、ソルティドッグのグラスの縁の塩を舐め、ウォッカのアルコールの成分がはっきり分かる濃い液体を胃に流し込んだ。何も考えないように努めていた。

 アルコールもなくなると、煙草をもう一本吸う気にはなれず、ベッドに寝転んだ。
 添島刑事の声がまだ耳の奥に残っていた。彼女の声はよく通るだけに、いつまでも耳の中で反響する。

 誰かに好かれたいとか嫌われたくないとか、そういうことはできるだけ考えないようにと思ってきたが、竹流に関係のある人間から言われると、それはかなり堪えた。

 竹流が女と抱き合っているところを直接見たことはない。
 真が中学生の頃、あのマンションには竹流のパトロンと思しき複数の女性が通ってきていたし、彼が明らかにその女性たちとセックスをしている痕跡を感じたことはあった。

 あの頃、竹流は情事の後、あのリビングでよく葉巻を吸っていた。その凄絶なほどの男の色気に、ぞくっとしたことも一度や二度ではない。
 ガウンから覗く力強い鎖骨の張りにも、首筋の筋肉にも、見つめてしまったら引き込まれてしまいそうな青灰色の瞳にも、さっきまで女を楽しませていたはずの葉巻を咥えている唇にも、中学生の真は目のやり場がないような気持ちになっていた。

 それを知っていてか知らずか、竹流はたまに真をからかってはふざけてキスをした。女とキスをするときはこうしろと講義をするようだった。基本的に、真の反応を見て楽しんでいるだけだったのだろう。
 だからといって、彼が直接真に女をけしかけたりしたことは一度もない。
 賢二のことはよく連れ廻して、女の口説き方を教えていたと言っていたが、真に対しては一度としてそういうことはなかった。

 何も考えないように、と思うのに、頭の中では色んなものがぐちゃぐちゃになっていた。
 身体は簡単に想像に反応する。
 自分は厭らしい人間だと思うが、その反応を止めるのは難しかった。

 今でもたまに自慰をすることはある。勿論、マンションのベッドの上では難しいので、大概はシャワーを浴びている時か、出張で一人ホテルに泊まっているときで、とは言え実際にはほんのたまのことだ。
 だが考えてみれば、その時自分が考えているのは、たった一人の相手のことだけだ。
 正確には、その相手とのセックスを思い出していたのだ。 

 今まで、そのことを考えたことがなかった。相手のあるセックスではなく、自慰が異常に気持ちがいいと思える場合があるのは、自分にとっての最高のセックスを想像して行うからだと誰かが言っていたような気がした。

 真はベッドの上で跳ね起きて、思わずテーブルの上のホープに手を伸ばした。
 煙草を咥えたまま、ソファに移り、靴を脱いで膝を上げる。身体がすっぽりとソファに納まると、ようやく息がつけるような気がした。

 煙草に火をつけ、一つ吹かして自分の手で頭を抱える。一本吸い切ると、やっと落ち着いて目を閉じた。
 身体の反応はかろうじて踏みとどまっている。

 いくらかうとうとしたのか、人の気配で目を覚ますと、目の前に昇が立っていた。
「ノックしたのに返事がないからさ。大丈夫か?」
 真は頷いた。時計を見ると、店を閉めるには早かった。放っておくわけにはいかないと思ってくれたのかもしれない。店は他の子がやってくれるから大丈夫だ、と昇は言った。 


 昇の南青山のマンションまで、彼のカマロに乗った。
 部屋は3LDKの広々とした造りで、至る所に観葉植物が置かれ、エッチングや水彩画が壁に掛けられていた。真には分からないが、恐らく趣味のいいものなのだろう。

 アクリルのテーブルを取り囲むソファは、意外にも大人しいシナモン色だった。全体にシンプルで嫌みのない部屋で、硬質な印象ではなく柔らかい色合いにまとめられていた。
 片付いているのは、昇が自分で掃除をしているからなのだろうか。観葉植物もきちんと手入れがされている。

 ただ一つ片付かないものであるかのように、テーブルの上に雑誌が投げ出されていた。
 竹流のインタヴュー記事が載った、あのプレデンシャルという雑誌だ。

 表紙には、きっちりと三つ揃いのスーツを着て座っている竹流の腰から上、やや斜め方向からの写真が使われている。
 ギリシャ彫刻から抜け出してきたような均整のとれた体格は、服の上からでもその匂い立つような気配が窺われる。そして、誰一人としてこの雑誌の横を、立ち止まらずに歩き去ることはかなわなかっただろうと思える整った顔つき。
 その中で、彼の表情をただ絵に描かれた美ではなく、現実に存在し、もしかすると手の届くとこにいるのではないかと勘違いさせるほどに魅力的にさせているのは、その目だった。青灰色の語りかけるような目は、それを見るものを、彼が自分のためだけに存在しているような気持ちにさせる。

「心配するな。誰かと一緒には住んでいない」
 昇は気が付いているのかいないのか、極めて抑揚のない声で言いながら、廊下へ戻って行った。
 部屋を見回してみても、確かに他人の気配はない。恋人を部屋に上げることはあるが、一緒に住む相手はいないようだった。

「それでも、俺は、竹流みたいにあんたをベッドに入れてやるわけにはいかないからな。ソファで寝てくれ」
 昇は掛け布団と枕を運んできて、それらをリビングのソファに投げ出した。
「どういう意味です」
 何故突っかかるのか自分でもわからなかった。昇は意味ありげに笑って、ダイニングの方へ行った。

「深い意味はないよ。でも、一緒に寝てるんだろ。あのマンションにベッドが一つしかないのは知ってる」
 昇も、添島刑事と同じなのだ。本当は相川真の存在を認めたくない。
 そう思うとやはり居た堪れない気分になった。

 昇は直ぐにブランディをグラスに注いで持ってきた。突っ立ったままの真に手渡し、自分のためのグラスに口をつけながら、ソファの向かいに座った。
「あいつは、俺のことを子どもだと思っている。それだけだ」

 真は促されてソファに座った。
 昇は、真のその呟きには答えようとはせずに、言った。
「俺たちの利害について考えれば、今のところ見事に一致している。だが、どうもすんなり協力し合えない」
「俺は協力を求めた。断ったのはあんたたちです」

 真の言葉に、昇は何度か頷いた。
「みんな、いきり立ってるからな。俺たちのボスだから、俺たちが助け出す。お前の力など必要ないと思っている。悪気があるわけじゃないが、それだけに余計に始末が悪い」
「誰が助け出すとか、そういう問題じゃないはずだ」
「それはわかってるさ」

 昇はグラスの中を飲み干した。
「ついに、国の親分が出てきたよ」
 真は頷いた。
「知ってます。ビッグ・ジョーがそう言っていた」

 昇は眉を吊り上げた。
「ビッグ・ジョーに会ったのか?」
 真が緊張した顔のまま頷くと、昇はとんと背中をソファに預けた。

「どういうつもりかは知らないけど、絶対に竹流に言うなよ。下手をすると、殺されるぞ。ビッグ・ジョーか、お前かは分からないけれど。あいつの中であの件が片が付いているとは思えないからな」
「あの時」真にはほとんどその出来事の記憶がない。半分は想像で補っている。「仲裁に入ったのはチェザーレ・ヴォルテラだったのですね」

「仲裁? 竹流にとっては、逆らうことなど全く適わない命令だったろうさ。五分五分で引き分けにしてもらえたなどと思ってもいない。あいつは誰が傷つこうが、何が犠牲になろうが、ビッグ・ジョーとその組織を徹底的にぶっ潰すつもりだったんだ。それを天から伸びてきた手で、突然に阻止されたんだよ。俺たちが何を言っても全く聞く耳のなかったあいつが、急に沈黙した」

 真には返事のしようもなかった。昇は、しばらく、真にもわかるほどにはっきりと、雑誌の表紙で微笑む竹流の顔を見ていた。
 複雑な感情が昇の表情の上で揺れていた。

「お遊びは終わりだ、そう言われる日がついに来たのかもな。考えてみれば、今誰があいつをさらっていってるにしても、いつか帰ってくるかもしれないが、国の親分があいつを連れて行ったら、もう二度と返してはくれないんだろうな。そう考えると、そっちのほうがタチが悪い」
 真は返事をせずに、雑誌からは目を逸らして、グラスの中身を一気に空けた。

「お前が言ってた絵の事だが、やっぱりどこにもない。大和邸のアトリエにも、ギャラリーにも。幾つかの隠れ家の倉庫も洗いざらい見たけどな。絵を置いておくとなるとそれなりの環境だろうから、どこでもってわけにはいかないし」
 空のグラスを手の中で転がしながら、真はただ頷いた。

「それから、ウクライナの例のロシア皇帝の縁戚の爺の件だけど、あっちにいる仲間の話では、そんな依頼をした覚えはないと抜かしたらしい。確かに、イコンのことで竹流が訪ねてきて、正当な値段で取引をしたことは認めたらしいけど、日本人に略奪された絵などないと、そう言ってたそうだ」
「嘘を言っている?」
「警察かKGBと間違えられたかもしれない、と言ってたよ」
「だが、向こうは古書や古美術の類の取引は禁止されているはずですよね。イコンのことは認めたと?」
「しっかり握らされたそうだ」
「それは、どう考えればいいんだろう」

 昇は首を横に振った。
「どうかな。爺さんの言うとおり、本当にイコンの取引をしただけなのか、どうしても言えない理由があるのか」
「言えない理由? 革命の時に生き抜いた貴族の末裔が多少の隠匿財産を持っていても、大して問題にはならないのでは」
「多少の古美術品ならな」
「どういう意味です?」

 昇はテーブルの上に置いてあったマルボロを一本、引き抜いた。
「絵そのものの価値じゃなくて、他の、つまり今明らかになると自分たちの首を差し出さなければならないような何かが引っ付いていたら、どうだろうな。まあ、そのうち向こうから何か知らせがあるだろう」

 真はまた空のグラスを揺らせた。食道から胃にかけて、まだブランディの熱さが残っていた。
 俯いたままの真の耳に、確かめるような昇の言葉が続いた。
「俺たちは基本的に泥棒集団だからな。人探しはお前の専門だ」
 真は暫くその言葉の意味を考えてから、顔を上げた。
「俺に協力すると、あんたは仲間に恨まれるんじゃないんですか」

「言ったろう。国の親分が出てきた。ここであの男に先を越されたら、もうあいつは二度と俺たちのところには帰って来ない。お前、それは分かってるんだろうな」
 分かっていた。だが、自分たちの力だけで彼を探し出せるかどうか、確信もなかった。
「それに、本当のところは、そんなことを言ってられない気もしている」
 昇は呟くように、力なく言った。

「お前の言うとおり、どこかに絵があるかもしれない。ウクライナの爺は何か隠しているようだと、向こうの仲間が言っていた。それに、その爺だけじゃない。誰かが絵を欲しがっている。肝心の絵はどこにもないのにな」
 真は黙ったまま昇を見つめていた。昇はマルボロをやっと咥えて火をつけた。

「あいつがどれほどお前を大事にしているのか、俺たちはよく分かっている。だが、お前があいつを大事に思っているかどうか、それが俺たちに伝わらなかった。まあ、今やお前も警察に追われている。その辺じゃ、東道も他の連中もちょっとはお前を信用する気になっているかもしれない」
 昇は一つ、煙草を吹かした。その様子は、男にしては色気のある気配だった。

「寺崎昂司と竹流は、どこか似ているところがあった。考え方や行動の基準、自分自身に課したルールのようなものがさ。仲間内では何となく、普段の生活では極力会わないようにしていたのに、寺崎だけは違っていた。ただ、寺崎が特別な存在だということについては、皆それなりに納得していたと思う」
 昇は細い脚をソファに上げた。そして深く溜息をつく。

「竹流の奴は、誰に対しても、仲間に対しても女に対しても、自分と対等だと示したがる。だが俺たちにとってはやはり彼はボスであり、自分より高い場所にいる特別な存在だ。もっとも、俺はあいつに惚れた弱みってのがあるから、その時点でどうしたって対等というわけじゃないけどさ。その中で寺崎だけが、あいつにとって本当の意味で対等になりうる相手だったのかもしれない。あいつは寺崎には何でも相談していたような気がする。だから、寺崎はあいつの気持ちの本当のところをよく知っていたに違いない。二人はよく一緒に出掛けていたし、もちろん遊びも楽しんだろうけど、何より、竹流は寺崎に、ギャラリーの経営のことは少しずつ任せていこうとしてたんじゃないかと思う。もちろん寺崎の運送会社や裏の逃がし屋稼業も十分うまくやって行けてたんだろうけど、竹流は寺崎を、表の世界で自分の片腕だと宣言しようとしていたような、そんな感じだった。だが、女のことで事態は変わった。竹流がそのことでひどい火傷を負ってからは、皆が寺崎を警戒し始めた。東道のところに情報を落としていくようになったのも、それがきっかけだ」

 昇は、煙草を持たないほうの左手で髪を上げた。綺麗な指だった。
「竹流が消える前、お前を仲間に加えたいと言ったらどうする、と聞かれた」
 真は思わず昇から視線を逸らせた。

 仲間という意味合いは竹流にとって単純なニュアンスだ。自分の弱みを含めて、そしてヴォルテラの事情を含めて、全て竹流が信頼して打ち明ける相手ということだ。竹流の表の稼業だけではない、裏稼業までも含めて、一蓮托生であるということだ。

 一体どうしてそんなことを言いだしたのか、何となく真には思い当たる節があった。
 奈落の底まで、俺に付き合う気があるか。
 返事をし損ねたあの問いが、頭の中に浮かんでいる。

「寺崎の事が頭を翳めた。同じ事を繰り返すのか、と。竹流のやつ、相手がどういう人間でも、その時々には最大限にそいつのために尽くすような人間だ。勝手に手足が動くんだろうよ。感情の内では多分冷めたところがあるんだろうに、行動に出ると自然に熱くなるタイプの人間だからな。それでも、あいつが自分だけじゃなく周りのものを犠牲にしてもいいと思うほど、そのことでどんな罪を負うことになってもいいと思うほど、人間に惚れ込むことは滅多にあることじゃない。それがわかっているから、皆、お前を警戒している。お前に何かあれば、あいつがすることは、俺たちには止め切れない。寺崎の比ではないと分かっている」

「あんたたちのボスだって万能人間じゃない。人を見誤ることもある」
 昇は笑ったように見えた。
「あいつはいつだって人を見誤ってるさ。何だかんだと言って、結局他人を甘く見てるんだ。あれで結局いいとこのお坊ちゃんだからな、最後はみんな自分の味方だと思ってるんだろう。だからこんなことになる」
 真はまだ手の中で弄んでいた空のグラスを握りしめた。

 暫くどちらも黙ったままだった。
 その通りかもしれない。だから女たちは、結局期待しているのだ。あいつは上手くあしらっているようなことを言っていたが、女たちは期待しないわけがない。しかも始末の悪いことに、彼女たちは竹流には刃の先を向けたりはしない。結局恨まれるのはこっちのほうだということだ。

「お前を仲間に加えるのは反対だ。その意見は変わらない。だが、今度の件だけは別だ」
 真はやっと顔を上げた。
「その、寺崎さんの件だけど、彼がどうしても逃げ場が必要な場合、父親を頼ったりはしないでしょうか」

 昇は暫く、真の顔を驚いたように見ていた。
「どういう意味で言ってる?」
「つまり、八方塞りの時の逃げ場として。いくら寺崎さんでも、小さな女の子を連れて隠れ続けることは難しいのでは」
「あそこは絶縁状態のはずだ。そりゃあ、運送屋だけにネットワークはどこにでもあるだろうけど、寺崎が今更あの父親を頼ったりはしないと思うけどな。しかも、小さい女の子を連れて逃げ込むことだけは、絶対にないな。それに大体、寺崎は逃がし屋だ。いくらでも隠れるところを持っていると思うけど」

 真は頷いた。世の中には一体どれほどに父親と相容れない息子たちがいることか。どれほどの危機に直面していても、結局そこだけは頼るまいとしているのか。
 昇は真の反応が鈍すぎると思ったようで、仕方がないな、という顔をして付け足した。

「あの親父は変態だからな」
 そう言えば、ビッグ・ジョーも同じ事を言っていた。
「どういうことです」
「今は関西中心の運送屋だが、昔は北陸から関東を走ってたんだ。場所替えをしたのは昔のことを知っている人間から逃げるためだったとか」

 昇はそう言って、明らかに気分が悪くなるようなものを飲み込んでしまった顔をした。
「運送屋をしながら、いかがわしいフィルムを作ってたんだ。今その趣味はどうなってるのかは知らないけど。つまり、まだ大人にならないような子供や言うことをきかない高慢な男女を性的に苛めたり、拷問したり、死体ぬまで犯ったり、そういうフィルムだよ。警察に捕まっていないだけで、裏世界じゃ、皆、そのことを知っている。そのフィルムのお蔭でどれくらい儲けたかということもな。それに、よく知らないが、自分の子どもまで出演させてたっていうからな」

 真は暫く言葉の意味が飲み込めなかった。
「自分の子どもって」
「寺崎昂司が最初に逃げ出したのは、父親のところからだって、噂だけどな。もっとも、寺崎が仕事を始めたとき、父親はそれなりの協力をしている。いや、協力なのか、寺崎の方から脅し取ったのかは知らないけど」

 気分が悪くなった。もしかして、世の中には『良い父親』などいないのではないかとさえ思えた。
「でも、もしそうなら、その人は寺崎さんが隠れる可能性のある場所を知っているかもしれないのでは。あなたたちが本気で寺崎さんの行方を捜していることについては疑ってません。それなら尚更、あなたたちが思いもよらないようなところに隠れているかもしれない」

「馬鹿言うなって。一体どれくらい絶縁状態になってると思ってるんだ。それに、お前さん、会いに行こうなどと思わないほうがいいぞ。お前みたいなタイプは、子どもじゃなくても危ない。つまり、生意気で言うことをきかないような綺麗な顔をした子どもをお仕置きして泣かせて、最後は何だって言う事を聞くように調教するってのが、その手のビデオの筋書きと決まってる。だから、とにかく、寺崎が小さい子どもを連れて逃げ込むことは、東と西がひっくり返っても、ない」

 真は漸くグラスをテーブルに置いた。昇がそのように断言するのは、昇自身が寺崎昂司のことをよく知っているのからなのか、あるいは竹流が寺崎昂司を信じているからなのかと考えていた。
 昇は、寺崎昂司を、竹流の背中に火傷を負わせた人間として警戒していながら、それでも信頼するボスのために懸命に信じようといているような、少なくとも信じようとしてきた、そんな気がする。

 アクリルのテーブルの上に置かれた雑誌の表紙で、竹流が穏やかに微笑んでいる。
 一体、今頃、どこでどうしているのか。せめてどこかに髪の毛一本でも残していてくれたら。
 その視線の先を昇が見つめている。

「お前さ、そのインタビューを読んで、どう思った?」
 突然尋ねられて、真は上手く反応ができなかった。
「そういう形のパフォーマンスをするような男じゃないのは、お前も知っているだろう? リストランテもトラットリアも十分に成功しているし、今さら宣伝する必要はない。ギャラリーだって同じだ。修復の仕事も順調で、彼の名前はその世界の者なら誰でも知っている。そんなふうに大衆の面前に面を出す必要なんて、仕事のためだったら全くないんだ」

 じゃあ、あんたには分かるのか、と咽喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。喧嘩腰になっても仕方がない。もしかして昇には分かることでも、真には分からない。

 昇はわざとらしくため息をついて、立ち上がりながら聞いた。
「明日からどうする」
「とりあえず、心当たりを捜してみるつもりです」
「まだ心当たりがあるのか」
「あなたが言うとおり、『国の親分』が出てきたからには、悠長な話じゃなくなった。多少不利になっても、結局会わなければならない相手もいます」
 思い出したように丁寧語になる真に、昇はふん、と鼻で笑った。

 昇は仕切りのないダイニングに戻って、棚の上の方に手を伸ばし、両手で箱を下ろした。それを開けて、薬瓶を取り出している。蓋を開けて錠剤を手のひらに受けると、水と一緒に真のところに運んできた。
「お前、ちょっとぐっすり寝たほうがいい。心配するな。入眠剤だから、そんなに長くは効かないが、少しは深く眠れる。俺の言うことは聞いとくほうがいい」

 有無も言わさぬ気配で、昇は真に錠剤二つと水の入ったグラスを手渡した。
 真は暫く考えていたが、それもそうかもしれないと思って、結局飲んだ。確かに眠るのは不安で、ここのところ夢ばかり見て、よく眠れていなかったのも事実だった。
 真が薬を飲んでしまうと、昇が空のグラスを片付けてくれた。

「電気、消すぞ」
 真がソファに横になって掛け布団を引っ張ると、昇が電気を消した。
 暫く、何の気配も感じなかったが、少し眠気に襲われてきたところで、離れたところから昇の声が聞こえてきた。

「お前、何で寝てやらないんだ?」
 真は何を言われたのか分からなくて、目を何とか開けた。薄暗いばかりで、ものの輪郭はよく分からなかった。

「何が、です」
「あいつ、いつでも欲情してるんだって言ってたよ。何でやっちまわないんだと言ってやったら、相手が子どもだからな、と言う。勿論、言い訳だ。あいつはお前が拒否すると思っている。お前から誘ってやれば済む話だ」

 真はもう半分以上、相手の言葉を理解できなかった。
「今日、店でカウンターのカップルのキスを見てて感じたろ? お前、そんな顔してたよ。常識が邪魔するのか? つまり偏見があるのか?」
「女しか抱けないと言ったのは、あいつのほうだ。俺は、あいつが一緒に住もうと言った時、そういうつもりなのかと思って、覚悟してた……」
 でも、あいつは同居してから一度も、俺に手を触れたことはないよ。多分、俺は、どこかで分かってて、いつもあいつを挑発してた。

 後半は声になっていたのかどうかわからなかったし、自分でも本気で言っているのかどうか分からなかった。
「そりゃお前、あの時みたいに、女に入れ揚げて死にかかられちゃ、あいつじゃなくても面倒見なきゃ、って気にはなるさ。お前、あの時は本当に死神に取り憑かれてたよ。その上、事務所の爆破事件だって、お前は自分で自分の感情をどうすることもできないでいた。吐き出してしまえば済むことを、全て抱え込んで、内側に溜め込んでしまう。今でも、三上って男に罪悪感を持っている。お前のせいでもなく責任の取りようもないことについて、自分を追い込んでいる。竹流はお前をそんな場所から救い出したかったんだ。分かってんのか」

 俺は、女に入れ揚げていたわけじゃない。それに、分かっていないのは向こうの方だ。
 説明する義務などないと思った。添島刑事や昇に追い詰められる理由などないはずだった。だがもう頭は朦朧として、思考や言語はままならなかった。


 フロアライトがぼんやりとテーブルの上の雑誌を照らしている。

 そうだ。あれは恋文だ。
 大事な誰かに宛てた、長い別れの手紙。
 もしも個人的に送ったならば、相手は、これまでそうしてきたように、簡単にそれを破棄しただろう。
 だから、彼は手紙を公開した。たった一人の相手に向けて。今度は戯言ではなく、本気なのだと示すために。
 そして、その手紙を受け取った相手は、その意味を知っているからこそ、慌ててここへやって来るのだ。






やっぱり長いなぁ。すみません。
次回からは第14章『連絡を絶っていた男』です。
ついに寺崎昂司氏が登場です。あ、その前に、内閣調査室の男・河本との対戦があった。
真はいつも臨戦状態。彼に平安が訪れるのはいつでしょうか。

なお、この間に、【死と乙女】開始です。真の息子、慎一のお話。
夕さんリクエストにお応えして、お送りいたします。某指揮者の若かりし日。
次のぞろ目は2222……それまでには終わりたい!

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨70] 第14章 連絡を絶っていた男(1) 

【海に落ちる雨】第14章です。
「妙に大物が絡む割には起こっていることが小さい」……代議士が動き、その名前が出れば世間を揺るがすような大物を「IVMの件」で脅迫していた雑誌記者(新津圭一)が自殺(殺された?)している。
「IVM」に絡んで姿を消している大和竹流にも、何か事情がある様子。
事の起こりは海の向こうにありました。ジョルジョ・ヴォルテラ=大和竹流を愛してくれた教皇が予言した、新しい教皇の就任。

同居人はその時、食い入るように新聞を読んでいた。真が傍に行ったのも気が付かずに新聞を読んでいることなど、後にも先にもあの時しか記憶にない。真が声を掛けると、同居人は慌てたように新聞を畳んだ。後で確かめた、同居人の視線の先にあった新聞記事には、つい先月に指名された教皇が急死し、新しい教皇が誕生したと書かれていた。ヴァチカン始まって以来のスラブ人教皇は1978年10月22日に、戴冠式を行わず教皇就任式を執り行っていた。(……第1章より)

これが、大和竹流にあることを決心させた理由だったのです。
この異国の教皇こそ、幼い時、いずれはジョルジョが仕えることになると予言された教皇。

さて、大和竹流を探す真の周囲にも、色んな人間の影が見え隠れしています。
まずは、内閣調査室の男『河本』が出てきたようです。
シーンが長いので、2回に切っています。
皆があのインタヴュー記事に振り回されている……ようですね。





 翌朝の目覚めは意外にも悪くはなかった。昇は、自分は朝飯を食べないので何もないと言いつつ、美味いコーヒーを淹れてくれた。十分すぎるもてなしだった。

 コーヒーを飲み終えてから、電話を借りて、三上のところに連絡を入れた。裕子、つまり三上の奥さんが電話に出て、あなた大丈夫なの、といきなり心配そうな声を上げた。
「今、三上に替わるから」

 裕子は姉さん女房だった。
 三上が唐沢調査事務所の爆破事件で下半身不随になったとき入院していた病院の看護婦で、ヘビースモーカーの三上が煙草を完全にやめてまで口説き落とした。
 三上が下半身不随であるだけならともかく、彼のこれまでの犯罪歴を知ってまでも、彼女がこの結婚に踏み切った勇気には感動さえする。勿論、三上が戦争孤児で、施設で育ったことや、彼の母親が米国人相手に売春をしていたために苛めにあっていた過去を鑑みれば、その犯罪歴も情状酌量の余地のあるところだろう。それでも、一般の家庭の女性が、敢えて選ばなければならない相手ではなかったはずだ。

 だが、裕子の選択は多分正しい。社会的・一般的な常識を重んじるのでなければ、三上は恐らく一緒に生活していて楽しい相手だろう。
 それに、彼らは傍で見る限り、似合いのカップルだった。

「お前、一体どこで何してる?」
 下半身不随になっても、三上の声の調子は変わらない。どこか剽軽で、力強くさえ感じる。この声の向こうに、どんな感情が潜んでいるのか、それとも、過去の悲惨な経験が彼を必要以上に強くして、そんなものは簡単に乗り越えてしまったのか。

「知人のところです。昨日事務所に電話をしたら、賢二が、三上さんに連絡するようにと言ったので」
「そうさ。事務所にはサツが張り込んでるって言うし、じゃあ、俺んところに連絡させろって言ったんだ。お前、一体何に首を突っ込んでるんだ?」

 三上の声を聞いていると、思わず受話器を握る手に力が入ってきた。
 大学の頃、唐沢調査事務所でバイトを始めて、右も左も分らない中で、良い兄貴分になってくれたのが三上だった。勿論仕事の上でのことだけではなかった。三上が真を随分可愛がってくれたことは、今でも感謝の気持ちと共に思い出す。

 けれども、三上の今の身体の状態を思うと、じっとりと冷や汗が出てくる。不幸を背負っているのは三上であって、真ではない。だが、あの時、あの一瞬、自分に何かができていたはずだという気持ちは、薄ら寒い記憶となって、真の頭の一部に張り付いていた。
 罪悪感といえばそうとも言えるが、何に対してなのか、よく分らなかった。

「首を突っ込んだのは、僕じゃなくて、同居人の方なんです」
「大和さんが、何だって?」
 不意に、竹流も三上と同じように、身体の一部に不自由を抱えて生きていくことになるのか、ということに思い当たった。
 あの右手。医師に動くようになるかどうか分からないと言われた手。
 いや、今となっては、右手だけの問題ではなかった。彼の生命そのものが、どうなっているのか、何もわからないのだ。

「僕もよく分からないんです」
 どう表現していいものか分からず、漸くそれだけ言った。三上は電話の向こうで少しの間黙っていたが、やがて重い声で言った。
「田安さんのこと、聞いたよ」
 真は答えなかった。
「それと何か関係があるのか? お前のところの若い衆の説明は、どうもよく分からん」

 宝田と賢二が事情を分かっているわけもないし、それでなくても特に宝田は脈絡のないことを言いそうだと思った。
「まあ、敵の多い爺さんだろうからな。唐沢は、知ってるんだろうか」
 真が何も言わないので、三上は言葉を繋いでいたのかもしれないが、三上の口から唐沢の名前があまりにもあっさりと語られることには、違和感を覚えずにはいられなかった。

 本当に三上は、自分の身体をあのようにした唐沢に、何も恨みを抱いていないのだろうか。
 三上が事故にあった後で、葛城昇が竹流に頼まれて、三上と唐沢の事情を調べてくれたことがあった。

 三上も唐沢も戦争孤児で、同じ施設の出身だった。
 三上の母親は米軍人相手に売春をしていた女で、三上は随分ひどい苛めにもあっていたという。唐沢はその頃中学生で、三上はまだ小学校にもならない年だったようだが、唐沢はよく三上の面倒を見ていたらしい。戦後の唐沢が米国の特殊部隊にいたという噂が本当なら、施設を出た後の三上には頼る相手もいなかったのだろう。

 彼らが離れ離れになっていた間、三上の生活がかなり困窮していたのは、彼の犯罪歴からも窺い知れた。
 三上は傷害事件やら窃盗やらで何度か拘置所に入っていたが、最終的に刑務所に入っていたのを迎えに行ったのは唐沢だった。
 その後、唐沢は三上と一緒に調査事務所を始めている。唐沢は三上をいいようにこき使っていたように思えた。もっとも三上は、唐沢は人使いが荒いよなあ、とよく真に零していたが、本気でぼやいていたわけではないように思える。

『三上にとって唐沢ってのは、どんなにどうしようもない人間でも、捨てられない親のようなものだ』
 葛城昇はそう言った。

「俺に何かできるか?」
 三上が優しい声で語りかけてきた。真は漸く我に返った。
「事務所の秘書が大分に行っているんです。彼女が帰ってきたら連絡を取りたいのですが」
「美和ちゃん、だっけ? 北条の御曹司の彼女だとか言ってたな。事務所には時々探りを入れとくよ。お前、せめて一日に一度はここに連絡を寄越せ。説明はよく分からなかったけど、お前の部下が深刻だったのは事実だ」
「すみません」
 何となく謝ると、三上はいつもの太い声で言った。

「何、こんな俺でも役に立つことがあるってのはいいことだ」一旦言葉を切って、三上は低い声のまま続けた。「で、大和さんの行方は、何か手がかりがあったのか?」
「何に首を突っ込んでいたのかは何となく分かってきたんですが、今どうしているのかは……」

 真はどう言葉を続けていいのか分からなくなり、そのまま黙った。三上は、真の気配をよく分かってくれているような気がした。
「あの人のことだ。どんな危ない状態でも、何とか切り抜けてるさ」
 相槌をうとうと思ったのに、何も言葉が出てこなかった。

 受話器を置いて振り返ると、昇が出掛ける準備をしていた。
 真は、街の適当なところで降ろしてもらうと、小さな喫茶店に入った。コーヒーを注文して、店の主人に断って電話を借りる。公衆電話と店の電話を兼ねているものだった。
 昇のところから電話をするのは拙いと思っていた。勿論、そんなことはお見通しかもしれないが、敢えて知らせることはない。

 連絡する相手は今は一人しか考えられなかった。その人物が協力者にはならないことは分かっていたが、どうせいつかは会わなければならない相手なら、さっさと懐に飛び込んでしまうほうが良さそうだった。
 添島刑事が言っていた『特別な番号』を回すと、一度の呼び出し音だけで向こうが受話器を取った。

「はい、株式会社東洋です」
 親切そうな声の女性が、以前と同じ会社の名前を名乗った。
「相川真と申します。河本さんと連絡が取りたいのですが」
「そのまま少しお待ちください」
 澱みのない声の後に、オルゴールの曲が流れてきた。サティのジムノペディだった。一分ばかりたって女性が再び親近感のある声で言った。
「お待たせいたしました。一度切ってお待ちください」

 そのまま電話は切れた。受話器を置いて間もなく電話が鳴る。もう一度受話器を取り上げると、久しぶりに聞く温和な低い声が伝わってきた。
「お久しぶりですね。遠からず連絡があるものと思っていました。お会いしてお話がしたいが、よろしいでしょうか」
「はい」
「では、二十分後に、その店の前でピックアップします」

 無駄話のひとつもなく、電話は切れた。彼にとって、かかってきた電話番号を知るのも一瞬なら、その番号から住所を確認するのにさえ、数十秒もかからないはずだった。
 真はテーブル席に戻り、ゆっくり煙草を一本吸って、コーヒーを飲んだ。
 ぼんやりと、次はいつこんなものを飲めるのだろう、と思った。

 二十分後きっかりに喫茶店を出た途端に、目の前に白いカローラがすっと停まった。真が後部座席に乗り込むと、直ぐに車は動き出した。
 隣の男は、数年前に会ったときと、体格も年までも、変わっていないように見えた。
 一見どこにでもいる普通の会社員といったムードの、頼りなげなおじさんにしか見えない。眼鏡をかけているが、度は入っていないように思える。顔を造るための手段なのだろう。小柄ではあるが、少し大きめのスーツを着て筋肉質の身体を隠しているのも、気配で感じる。年齢は五十歳をいくらも越えていないだろう。

「無駄話はよしましょう。あなたの要求は?」
「まず、教えてください。何故、あなたのところの誰かがフロッピーディスクを持っていたのですか。しかも、それがどこかへ移されていたというのは」
「移されていた? 盗難にあったのですが?」

 穏やかだが抜け目のない表情だ。真はそれについては追求しなかった。はぐらかされるに決まっていると思った。それで、質問を変えた。
「寺崎昂司が盗み出したというのは本当ですか」
『河本』は真正面を見つめたままだった。
「そういうことにしてあります」
「そういうことにしている?」
 真は思わず『河本』の顔を見た。

「あなたの言うとおり、移されていた、という言葉が正しいでしょう。先程の質問にお答えします。フロッピーをこちらで保管するように指示したのは私です。副室長の管理にしてありました。垂れ込みがあるまで、紛失していることには気が付かなかったと、報告を受けています」
「何故、保管するように命じたのですか」
「いずれ必要になるかもしれないと思っていたからです」
「必要になる?」
「切り札として、です」
『河本』はそう言って真のほうを見た。

 どこにでもいる会社員のような風情だが、目は笑っていない。言葉を荒げたり、泣いたり喚いたりもしたことがないように見える。このような人物は、家庭でどんな夫で、どんな父親を演じているのだろう。
「お話を続ける前に、ひとつ言っておかなければならないことがあります」
 予想していた言葉だった。
「何でしょうか」
「もしもあなたが一介の調査事務所の人間というだけなら、私が会う必要などなかった、ということは承知いただけますね」
 それはそうだろう。
「父のことですか」
「そう、あなたは察しが良いので、話が早くていい」

 真は一呼吸おいて、言った。
「あなたに父の事を頼まれても、私には協力できないと思います」
「何故そう思うのですか」
 真は目を閉じた。指先が冷たくなっていくような嫌な感じがしていた。
「私が何か言っても、彼がそれに応えてくれるとは思いません。彼があなたに協力するとも思いません」
 隣で『河本』は笑ったような気配がした。

「あなたは、拗ねているのですか?」
「拗ねる?」
『河本』が発したとは思えない不思議な響きの言葉に、真は思わず相手を見た。
「父親に捨てられたと思っている」
『河本』の唇が動くのを、真は見つめた。それは本当に不思議な感じだった。『河本』は真を哀れに思っているのだろうか。

「拗ねているわけではありません。あの人が父親であるという実感が、全く持てないだけです」
『河本』はまた前方に視線を移した。
「彼が赤ん坊のあなたを置いていった時、永久に捨てていくつもりだったとは思いません。いずれ、母親と三人で暮らすつもりだったと思いますよ。しかし、あの時、重い鉄のカーテンの向こうに連れ戻されたあなたの母親を取り戻すのに、ただ若いだけの、力も金も持たない彼に、何ができたと思いますか。そして、今となっては、むしろ巻き込まないようにするのが、あなたへの愛情と考えている」

 それは、いわゆる大人の理論だと思った。理屈ではそんなことは分かっている。けれども、何としてでも子どもを守ってくれる気なら、他にやりようがあったはずだ。
「でなければ、上に圧力をかけて、糸魚川署であなたを釈放させるようにしたりはしません。新潟県警と県庁はピリピリしているはずですから、下手をすれば妙な容疑を被せられたとも限りません。昔の事件とはいえ、香野深雪の両親が関わっていたのは、汚職事件です。誰かの罪が暴かれたとしたら、昔のことであっても、それに連なる現在の人脈に傷がつく」

 真は返事をしなかった。『河本』は構わずに先を続けた。
「私は、『朝倉武史』という男を、冷戦の混乱の中で上手く使ってきた国々から取り戻したいのですよ。勿論、彼が自分の知っていることを、私たちに話すなどとは思っていませんし、彼が何もかもを知らされていたとも思いません。しかし、彼は、持っているだけでいい武器のようなものです」
 それは、そのまま錆付かせていずれは捨てる、という意味にも聞こえた。

「それから、もうひとつ。あなたにも、私の元に来て欲しい」
 さすがに真は驚いて顔を上げた。
「私があなたに協力し、情報提供するのはそのためだと思ってください」
 ほんの僅かに、『河本』の目が笑ったような気がした。
「不思議だとお思いですか?」
「私が、『朝倉武史』の息子だからですか」
「それは一番の理由ではありません」
「では、何」

 言いかけて、真は今度こそ相手の顔を真正面から見つめた。
 もしも、あの雑誌があんなインタビューを掲載しなければ、一体誰がここまで彼と自分の関係を真剣に受け止めただろう。彼が本気であることを、つまり本気でヴォルテラの後継者が、家を捨てる気であることを、今や不特定多数の人間が知っているのだ。そして、その根元にある感情の底に、相川真がいると、文面からはそう読み取ったのだ。

「イタリア人と取引をするのは、悪いことではないと思っています。あの男は、ヴァチカンのネットワークを支え、中東の情報に通じている。冷戦が終われば、世界の目は中東に行きます。布石は打っておいてもいいでしょう」
 真は、『河本』の表情から何かを読み取ろうと思ったが、やはり無理なことだった。

「添島刑事を取り込もうと思われたのは、彼女が大和竹流の女だからですか」
「彼女は私に手の内を見られていることを知っています。その上であそこまで堂々としているのは、大した才能です」
「あなたが大和竹流をどこかに隠したのですか?」

 ようやく、真は一番聞きたかったことを尋ねた。『河本』は無表情のまま答えた。
「それは確かに考えうるシナリオです。しかし、隠しておいて、イタリア人の前に勿体ぶって差し出し、ご褒美を貰おうなどという、どこかの外国人のヤクザと同じようなことは考えていません。残念ながら彼の行方は知りません。しかも、それはあなたの仕事だ」

 真は視線を自分の手に落とした。
 これが添島刑事の言っていた、相川真につけられた値段、というわけなのだ。それは真自身ではない、大きな箱と包装紙で飾られたおかげで中身も立派な商品だと誤解されている、しかもその商品の値打ちのほとんどは、当るか当らないかもわからないおまけのほうだ。

「私を雇ったところで、イタリア人と取引ができるわけではないと思います」
「先程言いましたね。布石を打っておくのだと」
「布石? まだ大和竹流、いえ、ジョルジョ・ヴォルテラがあとを継ぐとは決まっていない。それに」

『河本』は続けようとした真の言葉を穏やかに遮った。
「チェザーレ・ヴォルテラは了見の狭い人物ではありません。それに、彼が後継者と定めたものを諦めることなどあり得ません。あなたを利用してでも、後継者を取り戻すでしょう」
「万が一、彼があとを継いだとしても、私には何の関わりもないことです」

「そうでしょうか。私には、あれはジョルジョ・ヴォルテラの覚悟に思えましたが。あの男はチェザーレ・ヴォルテラとよく似ている。冷静で用意周到に見えて、その実は激情に動かされやすい。義理や人情など、こういう世界では当てにならないことを知っているのに、そこにロマンと目標を見出すタイプの人間です。チェザーレ・ヴォルテラがそれでも上手くやっているのは、良い参謀や実戦部隊を持っていることと、彼に長い経験とカリスマ性があるからです」

『河本』は一息ついた。この男は、自分は全く違うタイプの人間であると、そう真に伝えたかったのだろうか。
「私の要求は以上の二つだけです。納得していただいた上でお話を進めたいと思いますが、いかがですか」
 二つだけとは言え、随分重い要求だ。武史が言っていた通り、高くつく。だが、今の時点では力のあるものにしがみついているしかなさそうだった。竹流が戻ってくるまでの辛抱だ。そうしたら全て踏み倒すだけのことだ。

「結構です」
『河本』は微笑んだ。この男に『微笑む』という芸当ができるとは思わなかった。
「あなたという人は正直ですね。同居人が帰ってくるまでは仕方がないと思っている。借金を踏み倒すおつもりだ。もっとも、必ずいつかお考えを変えてくださると思っています」
 真はその言葉を頭の半分だけで聞いていた。






ここに登場する三上というのは、真が唐沢調査事務所で働いていた時の兄貴分です。
事務所の爆破事故(唐沢の保険金詐欺、ということになっている)で下半身不随になりました。
真はこの事故現場の、まさに爆発するところを、そして三上が窓から落ちるところを目撃していて、実はものすごくトラウマになっています。
その事情はまた、第3節の少し長い過去物語に出てきます。

登場シーンは少ないのですが、この三上夫婦、社会的にはどう思われるか分かりませんが、真にとっては実にいい夫婦でして、短いシーンでも、彼らの人生の見えるシーン・エピソードを書くようにといつも思っています。

この物語にはこうした「チョイ役」があちこちで小さな歯車を回しています。
そう、この物語のイメージは、この装置なのです……
ボストン科学博物館にある、ピタゴラスイッチの親玉みたいな装置。
同じようなものが、神戸のハーバーランドにもあります。
他にもあちこちに見かけるかもしれません。
この物語を書いている時、いつも頭の中にあったイメージ。
皆がどこかで小さく、あるいは大きく関わり、玉は転がり続けている……

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あ、でかすぎて、何かわからない……要するにでっかいピタゴラスイッチです(^^)
それも、永遠に終わらないピタゴラスイッチ。
転がり始めたら、あちこちに影響しながら、されながら、永遠に転がり続ける玉……
人生って……みたいな?

第3節が始まったら、人物紹介を出します。それもお楽しみに(^^)
あと2章です。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨71] 第14章 連絡を絶っていた男(2) 

【海に落ちる雨】第14章(2)です。
ちょっとした出来事をきっかけに、過去のあれこれが探られると、ボロが出る。そうなったら大変困る人がいる。
2時間ドラマなんかでよく出てくる話ですね。
でも、それですぐ殺人ってのもね、短絡的なのですけれど。
こちらではそんなに単純ではないのですが、澤田も竹流も、そしてもうすぐ登場の寺崎氏も、あれこれ動き回って見えぬ敵に恨まれているのかもしれませんね。
けれども、あの転がり続ける玉の道は、そんなに単純ではありません。

前回から続く、内閣調査室の男『河本』と真の会話、そして、竹流の女の一人・室井涼子との対峙です。
真、相変わらず、味方がいませんね……





 車は当てもなく走り続けているようだった。外の景色はガラスの黒さで、現実味がなかった。運転手の顔も見えない。

「澤田顕一郎と田町元首相はある意味、政敵ではありますが、それは澤田が、田町とは別の派閥から出た首相の時代に運輸次官に返り咲いて羽振りが良くなった、そのために作り上げられた噂話に過ぎません。逆に、彼らが繋がっているという確信もない。しかし、彼らに共通の敵対者がいるという可能性は否定できません」

「それが、あなた方が追いかけている人物ですか」
 添島刑事は、『河本』も本当は誰だか分かっていないのでは、と疑っていた。
「その人物が田町と直接面識があるのかどうかはわかりません。会っているとは思いますが、繋がりは出てこない。しかし、当時の大きな汚職事件で十分に解明されなかった、右翼ルートで流れた金の大元締めはそこだったのではないかと考えています」

 真は、漸く落ち着いてきて、『河本』の顔を見つめた。やはりどこから見ても、善良な小市民に見えた。
「二十二年前、彼が翡翠仏を介して、政界に妙な迷信と金をばら撒いていた事は、調べがついています。その後、彼が絡んでいた可能性がある金の流れは、いくつかあります。彼は多くの情報とあちこちから搾り取った資金を持っていた。その出発点は戦時中の阿片の売買だともいわれています。他にも、何となく彼が絡んでいたと思われる事件、大きなものもあれば小さなものもありますが、それはわかっているものの、証拠が不十分で起訴に至ったものはひとつもない」

「一体、何者ですか」
 真は、『河本』が使った、彼には似つかわしくない『何となく』という言葉に引っ掛かりを覚えながら尋ねた。
「その男は、既に亡くなっているのです」
「亡くなっている?」

「ところが、金も動いている、それに関係しているのかいないのかはともかく、それらしい人の動きもある。つまり、盗難や殺人、行方不明者、という。田町の秘書やフィクサーが亡くなったのも、関わりがあるのではないかと思っています」
「誰かが、その男の仕事を『継いでいる』ということですか」

『河本』は真を見たが、相変わらず何も読み取れない表情だった。
「その男は大分の出身で、幼少の頃に新潟に移り、その後大分に戻って、九州日報で働いていたということは分かっています」

 真は驚いて、思わず唾を飲み、呟くようにその名を言った。
「澤田顕一郎の秘書だった、村野耕治」
『河本』はいくらか満足そうな顔をした。大したヒントもない中で、真がその名前に辿り着いていたことに対するものかもしれない。
 尤も、それは全て美和の直感の所以だ。

「七年前に癌で亡くなっています。しかも闘病生活も長かった」
「まさか、あなた方は、澤田がそれに関係していると思っているのですか」
「可能性があれば疑わねばならない。それが我々の仕事です。もっとも、澤田には村野の仕事を継ぐ動機がありません」
「金や権力、裏世界を牛耳る面白味、何だって動機としてはあり得る、そういうことですか」

 少なくとこの男は、そう考えるのだろう。しかし、隣の男は、まっすぐ前を見つめたまま、表情を変えなかった。
「あなたが見たところ、澤田顕一郎はそういうタイプの人間ですか?」
 逆にそう尋ねられて、真は、『河本』が澤田をどう考えているのか、わからなくなった。
「澤田は、自分の秘書がそのような男だったということを、知らないと思いますよ」

「では何故、あなたは澤田顕一郎を見張らせているのですか。しかも、大和竹流も」
『河本』は穏やかな表情を崩したわけではなかったが、真に何か興味を惹かれたような気配を見せた。

「大和竹流は、彼のほうから関わってきたのです。澤田顕一郎は、何を思ってか、二十二年前の翡翠仏事件を再調査させていた。澤田が何に問題を感じたのかはわかりませんが、あの記事をスッパ抜いたのは澤田自身ですから」
 一旦言葉を切って、『河本』はゆっくりと座席に凭れた。真は、不意にこの男は疲れているのではないかと思った。

「あなたはこんなことを考えたことはありませんか。例えば、何か事件が起こる。その事件が次の事件を引き起こす。そしてまた、別の誰かがそれに刺激されて、また別の事件が起こる。ボストンの科学博物館にそういう装置がありました。よく、あれを思い出す。ところがそのうちのワンシーンだけを見ても、全体像は全く分からない。どこからそれが繋がってきたのか、これからどうなるのか。最初の球が転がり始めたら、あとは手を加えてやる必要などない」

 真は頭の中で、『河本』の言葉を三度ばかり反芻した。
「村野耕治が亡くなっていても構わないということですか。しかし、架空の人物であれ、転がった玉であれ、私の同居人を暴行したのは明らかに手足のある人間です。私には、その一部分だって構わない。しかし、澤田顕一郎が捜している人物も、同じところに繋がっていると思えます。でなければ、澤田が私に近づいてきた理由がわからない。もっとも、あなたが関わっている大きさから比べたら、小さいところかもしれませんが」

『河本』は暫く黙っていた。相変わらず、何を考えているのか、全く掴みきれなかった。
「澤田は、愚かな男に思えます」
「どういう意味ですか」
「仕事も結婚も、立派な経歴を持ちながら、随分小さなことに足元を掬われようとしている。ジョルジョ・ヴォルテラも同じです」

「あなたのような人から見れば、随分小さなことでしょうけど」
 思わず突っかかりそうになってから、真はその感情を押し留めた。それから、『河本』が澤田と竹流を同列に感じていることに気が付いた。
 竹流はともかく、澤田顕一郎を動かしているものが、それほど小さなことなのか。政治とは関わりのない、私情という意味なのか。

「澤田は、その最初の球を捜しているのではないかと、そうおっしゃるのですか」
「相川さん、球は転がり始めているのです。恐らく、二十二年も前に。今更最初の球を捜したところで、止まることなどない。澤田もそれは知っているはずです。それに、半世紀以上、あるいは一世紀も前に、その球の核は造られていたかもしれません」

 半世紀以上前?
 一体何のことだと思い始めて、真は不意にフェルメールの額縁を思い出した。
「蓮生、という新潟の豪農と、村野耕治にも関係があるということですか」
「村野は、人の心の弱いところを握る天才だったと思っています。蓮生には、あるいは蓮生に関わっていた人々には、世間には晒されたくない歴史があったかもしれません」
「日露戦争の頃に、ソ連から略奪した絵画があった、ということですか」

『河本』は僅かな間を置いて、冷めた声で答えた。
「絵画ならまだ良いかもしれませんよ」
 真は、蓮生千草の言葉を思い出していた。
「まさか」

 蔵に女の子が閉じ込められていて、夜になるとお国が恋しくて泣いている。
 そういう内容の、奇妙な鞠つき唄があったと言っていた。伝承や民話の類は、出来事を婉曲に伝えているようでいて、実際は事実そのものを語っていることも多い。

「日露戦争に負けて、ロシアは革命への道を突き進むことになった。高貴な女性が日本に連れてこられたという噂もあります。当時のロシアから日本への入り口のひとつが新潟でした。蓮生がそういうお宝を匿う役目を引き受けた可能性は、十分にあるでしょう。しかし、蓮生にそれを命じたのが誰だったのか、今となっては分かりません。しかもその役割が、友好のためだったのか、ただ略奪だったのかも分からない。そのあとに続いた幾つかの戦争が全てを不鮮明にしてしまった。しかし、もしも公になれば、例え責任者の全てがすでにこの世の人間でなくても、誰かが国家として頭を下げなければならないこともあります」
 真はあまりの痛ましい話に、これ以上聞きたくないと思った。

「しかし、相川さん、蓮上家のことは氷山の一角です。澤田顕一郎が妙なことをつつきまわして、痛くない腹を探られるものが出てくるかもしれません。静かに時が過ぎるのを待っていれば、何ら問題にならないことを、あえて掘り出して誰が得をするというのです? あなたも、よく考えて行動していただきたいものです」
『河本』も、これ以上は真が条件を呑んでから、と思ったのか、何も話さなくなった。

 真実に蓋をする、ということなのか。
 この男に限らず、今ある秩序を守ろうとする者は、いつもそういうやり方をする。

 車はいつの間にか、竹流のマンションの地下駐車場に当たり前に滑り込んでいて、見慣れたエレベーターの前で停まった。住人以外は入ることのできない駐車場のはずだが、『河本』のような人間に、どうしてそんなことができるのかを聞くのは、あまりにも馬鹿げていると思った。

「危ないと思ったら、直ぐに連絡をください。かろうじてあなたの安全を保証できるのは、私たちだけだということを、よく覚えておいて欲しいのです。もっとも、あなたが敢えて危険に身を晒すということを繰り返さなければ、それで済む話かもしれませんが」
 真は何を言い返していいのか分らず、返事もせずに車を降りた。


 真がドアを閉めると、一瞬の隙もなく、車は走り去ってしまった。
 駐車場の出口に向かう角を曲がる時に、ブレーキランプが何かの合図のように何度か点滅した。それを見送ってから、真はエレベーターを振り返り、思わずスラックスのポケットを探った。鍵を持っているか、不安に思ったのだ。

 改めて鍵の束を見つめると、多少なりともほっとした。少なくとも、マンションに入れる状況は有り難いと思った。
 だが、エレベーターのボタンを押して待つ間に、真は背後に別の住人の高い靴音と香水の匂いを感じた。その匂いは、一瞬にして真を甘酸っぱく懐かしい気持ちに落とし込むようだった。

「真」
 背後からかけられた声に、真は一瞬の間をおいて、振り返った。
「あなた、無事だったの」
 涼子には会いたくないと思っていた。少なくとも、竹流と関わっている女たちが自分にいい感情を抱いてはいない、ということを思い知った今では、彼女たちの視線が真の中の大事なものを凍らせてしまうように感じる。

 涼子は趣味のいい淡いクリーム色のスーツを着て、今日は肩より幾分か長い髪を纏めずにそのままにしていた。耳には控えめな大きさのピアスが、微かな紫色の光をたたえている。
「警察がしつこく竹流の行方を聞きに来ていて、今朝はあなたの行方まで確かめに来たから」

 頭の中ですばやく、涼子がどれくらい状況を理解しているかと考えたが、よく分からなかった。少なくとも竹流が随分な怪我をしていたことは知っているものの、その背後の事情を了解しているとは思えなかった。
 警察が何も言っていなければ、だ。

 そう考えている間に、エレベーターの扉が開いた。
 真は先に乗り込み、涼子が乗ってくるのを待った。駐車場側に向きを変えた瞬間に、何かの違和感が襲い掛かったが、それが何かはそのとき分からなかった。
 真は何も言わずに五階と六階のボタンを押した。涼子は何かを言いかけてやめてしまった。

 しかし、五階で真が降りると、閉まりかけた扉が再度開く気配がして、涼子がエレベーターから降りてきた。結局、湿っぽい空気が充満した短い廊下で、涼子と向かい合うことになった。

「一体、何がどうなってるの? あの人は怪我の理由など一言も言わなかったけど、今度はどうして病院からいなくなったりしたの? その上、どうしてあの人を警察が捜してるの? あなた、一体何してるの?」
 矢継ぎ早にそれだけ聞くと、涼子はやっと少し息を吸い込んだ。

「警察は、何て?」
 真は涼子が多少落ち着く時間を待ってから尋ねた。
「怪我の理由だとか、彼から何か預かってないか、とか聞かれたわ。それに、寺崎という男を知っているか、って」
「預かっている?」
「フロッピーディスクか鍵か、何かそういうものを」

 真は涼子にそれを尋ねたのがどういう相手なのか考えた。本当に警察なのか、別の関係者なのか。
 だが、いずれにしても、相手は竹流が何かを持っていると思っているのだ。
 本当に警察なら、彼らが捜しているのは寺崎昂司だ。彼らは寺崎がフロッピーを持っていると思っている。新津圭一の残したフロッピーを。そして、それを竹流に預けたと思っているのか。

 多分、それぞれがそれぞれ、事情が分からないまま、与えられた仕事をしている。それも、体面のためであって、真実を見極めているからではない。事情の分からない「未解決事件」のひとつとして、ファイルに残されるだけで、後から誰も振り返らない事件になるだけなのだろう。

「お願い、一体何をしているのか教えて」
 涼子は涼子で必死なのだろう。竹流の置かれている危機的な状況を理解しているとは思えなかったが、彼が失踪している事実は彼女にも分かってるはずだった。
「よく分からないんです。とにかく、彼を捜しているから」

 涼子は真を責めるような目で見つめていた。
「何か犯罪に関わっているの?」
 そうだとして、真自身には何の非もないということは、涼子にも分かっているはずだった。
「いや、多分、巻き込まれているだけだと思います。あいつの仕事は、時々そういうことに関わったりもすると思うし。本人の意思じゃなくても」

 涼子は不安で不満そうだった。真はポケットの鍵を探り、もう部屋に入りたいような素振りを見せた。
「それで、あんな怪我を?」
 真が答えないでいると、涼子は真に更に詰め寄ってきた。
「あなた、一緒に住んでて、一体何をやっているのよ」
「何って」
「彼と同じベッドで抱いてもらってるだけなの? せめてあの人があんな状態なら、それに巻き込まれないようにするとか、何かおかしいと思ったら、病院についていてあげるとか、できたんじゃないの?」

 真は、あなたが彼についていたじゃないかと言いかけて、それは竹流が失踪する前のことだと思い直した。涼子は、竹流にもうついていなくても大丈夫だと言われて引き下がったことを、後悔しているだろう。
 だが、涼子の怒りの半分はそういうことから出ているのではない。真をいかに傷つけようかと考えているように思えた。涼子は、たとえ自分の感情を整理するためとは言え、真に一度でも身体を許したあの夜に、嫌悪を感じているのだろう。

「汚らわしい」
 涼子が思わず言った言葉よりも、その表情の方が真を傷つけた。完全な拒否、相手の存在を認めないという視線だった。
「俺は、彼のベッドの相手をしているわけじゃない。それに、彼の仕事仲間でもない。あなたの言っていることは、まったくの筋違いだ」
 これ以上話したくないと思った。真はそのままポケットから鍵を出して、もう振り返りもせずにドアを開け、中に入った。





24時間テレビに疲れました。
ARASHIのO氏ファンの私とは言え、仕事もあってずっと見ていたわけではないのですが…
今年はそれなりに結構見たかも。
ドラマのO氏に泣かされ、他にもあれこれ泣かされ……
お涙ちょうだいは嫌なんだけど、最近涙腺が緩いのかなぁ。
でも、一方ではまた大変な水害。どうしてこんな降り方になるのかなぁ……
平和に24時間テレビを見ている場合じゃないんですよね。
被災された方にお見舞い申し上げます。

第14章はあと2回です。
竹流と一緒に姿を消していた男、竹流が唯一心を許していたという男・寺崎昂司氏が次回、登場いたします。
竹流がなぜ暴行を受けたか、カギを握る人物のはずですが……
少しでも竹流のいるところに近づけるでしょうか。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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