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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【幻の猫】(1) 黒い尻尾/ limeさんのイラストお礼ストーリー 

真500
やっぱり表紙をつけさせていただきました(*^_^*) limeさんに捧げる短編の幕開けですから。
そう、limeさんが描いてくださった真の絵のお礼に、ちょっとしたハートフルストーリーをお送りいたします。
そのイラストのページはこちらです→limeさんのブログ:小説ブログ「DOOR」

と言っても、そんなに凝ったつくりではないので、あまり期待なさらず、ちょこっとお付き合いください。
相川真18歳。大学受験を頑張ったご褒美に、家庭教師(いい加減な表現ですみません^^;)の大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラの故郷・イタリアへの旅行をねだります。ギリシャから入ってクルーザーでアドリア海クルーズの間は、空は青いし海も青いし、二人きりだし…(あ。別にエッチな話ではありませんので、ご安心を!)
なのに陸(パレルモ)に降り立ってからは、竹流はあれこれ会わなければならない人もいて、時々真は放り出されてしまう。もちろん竹流は優しいのだけれど、人々は彼を真の知らない名前で呼び、ハネムーン(言い過ぎ)という噂もある楽しい旅行のはずが、ちょっと不安を感じるようになります。
パレルモ→アマルフィ→ナポリ→(ローマ素通り)→ピサ→そしていまシエナにたどり着きました。
世界中で一番美しい広場を持つシエナの町を舞台に、猫と少女の優しい物語にしばしお付き合いくださいませ。

全5回でお送りいたします。
limeさんが描いてくださったイラストのシーン、しょっぱなから登場です。
そして、いつもお世話になっている夕さん(夕さんのブログ:scribo ergo sum)の小説みたいにヨーロッパの香りが出せたらいいのですが…(^^)
さらに、切なさはakoさんの詩から頂きました(え?何の話って…2013/5/21の【その瞳の先】をお読みください。勝手にうちの二人だわとか思っていた大海^^;→akoの落書き帳(2013/5/21))。




 あ、いた。
 真は靴を脱いだ。ついでに靴下も脱いでしまう。
 裸足の方が警戒されないかも、と単純に考えただけだった。
 オリーブの木の陰から黒い尻尾の先だけが見えている。アンテナのようにぴんと立てた先っぽで、後ろから追いかける真の気配を感じ取ろうとしているようにも見える。
 その尻尾が微かに震えたと思ったら、すいっと木の陰に消えた。

 真は慌てて追いかけた。
 足の裏に冷たい草の命の気配と、その下から漂ってくる土の湿度。一歩一歩踏みしめる短い時間にも、地面から地球の温度が湧き上がってくる。
 尻尾が消えたオリーブの木まで近づいたと思った途端に、足がぐらりと傾いた。

 あれ、と思った時には身体が回転しているような浮遊感に襲い掛かられる。何となく視界が暗いのは穴に落ちているから? いや、そんなはずはない。でもオリーブ畑の中でこけたのなら、身体は地面とオリーブの木にはぶつかっても、こんなふうにどこかに落ちていくような感じにはならないはずだけど。
 これじゃあまるで、不思議の国のアリスだ、って穴があったんだっけ?

 などなど、短い時間にあれこれ考えている自分が滑稽になる。断末魔に時間の流れが遅くなるというのは本当かも知れない。
 最後にゴツン、と頭を何かにぶつけた。
 脳震盪を起こしたのか、一瞬ブラックアウトしてしまい、記憶がふっとんだ。

シエナホテル
 一昨日の夕方、シエナに着いて、教会を改築したこのホテルに投宿した。夕陽がオリーブ畑の向こうに沈んでいく様子を見ながら、テラスで夕食前のアペリティーヴォを飲んでいた時、向かいでゆったりとテラスのソファに座り、夕陽を眺めている竹流の肩越しにあの黒い尻尾を見かけた。

 猫、だと思う。
 何故『思う』なのかというと、いつも尻尾しか見えないのだ。
 始めはまた変なものが見えているのかもと思っていた。この国の歴史は重い。しかも古い時代の街の上に新しい街を積み重ねるというやり方で、今自分が立っている地面の下に歴史が層状に重なっている。だから、不意に何かを感じることが多くなっていたのだ。

 だが、昨日の朝、洗濯物を干している大きな女性、そう、まさにイタリアのマンマという感じの女性の足元にその尻尾が見えていて、実のところ光の加減で全体はよく見えなかったのだが、女性が向きを変えた途端にそいつを蹴ったようだった。何か唸るような声が聞こえたような気がしたら、女性がScusamiと言ったのだ。
 多分、猫を蹴ったので思わず言ったのだろうから、その尻尾の持ち主は幻やあやかしではなくて、実体のある生き物ということになると思うのだけれど。
 もちろん、あのいかにも実体という感じの力強いマンマに、真と同じような霊感もどきがある可能性もなくはないのだが。

シエナ
 昨日は一日、竹流は真を連れて、シエナの町を案内してくれた。宿泊しているホテルは町から幾分離れたところにあって、町の中心部に出るためにはバスで十五分ばかりかかる。石畳の路地を歩き、光と影で区切られた建物の間を抜けるとき、竹流が、俺の腕に捕まってちょっと目を瞑っていろと言った。
 目を閉じたまま歩くと、微かな喧噪、吹き抜ける風、高い空の気配、グラスの当たるような音が、耳ではなく体全体に直接伝わってきた。
 狭い路地を抜け、大きな空間に出たことが、肌でわかる。
 竹流の足が止まる。そして真も足を止めた。
「世界中で一番美しい広場へ、ようこそ」

シエナ
 目を開けた時、真が立っていたのは、なだらかなスロープが下って行く、そのてっぺんだった。少しずつ色を違えるレンガ色の広場は、貝殻の形をしている。真正面には高い塔、市庁舎、広場を取り囲むいくつもの建物が作る影が、広場のレンガ色をさらに多彩に染め分けている。人々は歩き、あるいは座り、語らいながら、朝のひと時を過ごしていた。

 彼らもまた、広場に座ってひと時、何もせずに時間の上を漂った。
 塔に登り見下ろした広場の美しい造形、その上に明瞭な境界を引く光と影、遠く見晴らせばトスカナのなだらかな緑の丘陵地を吹き抜ける風、市庁舎の大きな窓から硬質な床に差し込む光、一歩陰に踏み込めば身体に沁み込んで来る歴史の闇。

シエナ
 光が強ければ強いほど、影もまた色濃い。
 光の温度や湿度、周囲にあるものの色彩によって、光にも影にも無数の色があるはずなのに、この国では光があまりにも艶やかで、何もかもが真っ白に染められ、そしてその対極にはあまりにも暗い闇がある。
 真が不安な顔を見せると、竹流はまるで子供にするように髪に手を触れ、撫でてくる。子ども扱いが嫌で逃れると、やっと気が付いたように手を真の肩に落として軽く、慰めるように二度ほど叩く。
 

 不安でたまらないとは言い出せない。
 幸福ではないのかと聞かれると困るからだ。
 それに、女みたいなことを言いたくない。
 幸せ、とか、怖い、とか、寂しい、とか、そんなことを言って甘える自分が許せない気がする。ほんのちょっと、男としてのプライドが許さないのだ。
 それでも、幸福と不安はぴったりとはりついている。その二つを割くことなど、まるきりできない。幸福であればあるほど、不安は大きく膨らんでくる。

 夜は尚更だった。時々、まったく胃が食べ物を受け付けなくなる。竹流はオリーブオイルが合わないのかと心配している。たまには胃に休憩が必要みたいだと言うと、納得してくれる。本当は、そこでもう一言、聞いて欲しいと思うのに。いや、そんなことを考えること自体、女々しい気がする。
 ほとんど眠れないまま、夜中にダブルベッドの中で目を覚ます。
 隣で眠っている竹流は本当に静かだった。これほど傍にいるのに、真の知らない名前で呼ばれる彼は、まるで真とは別の次元に存在しているような気さえする。

シエナホテル
 するりと彼の腕を逃れ、裸足のまま部屋を出た。
 ホテルには真四角切り取られた石畳の中庭があり、井戸だけが隅にあって、他には何もない。その一面はフロントのある棟、また別の一面はレストランのある棟、また別の一面は教会に面している。別の一面は奥へ抜けていく通路に繋がっていた。
 四角く切り取られた空、闇に浮かび上がる教会の塔。見上げていると、この世界の中で生きているものが自分一人のような気がした。


シエナホテル
 いて。
 気を失っていたのが一瞬だったのか、それとも長い時間だったのか、うつ伏せに倒れていた真は頭と足の両方に痛みを覚えながら、地面を両腕で押すようにして起き上がった。
 走馬灯のように、一瞬の間に昨日からの出来事を脳が反芻したらしい。その時の感情もそのままに。

 目を開けてみた。
 視界は土と草、そして……影?
 真以外の影が地面に落ちている。

 まだ頭がはっきりしなくて、一度真は首を振った。
 その瞬間に、影は大きく動き、空気が揺らめいた。真は両膝、両手をついたまま、首を動かそうとしたが、頭の痛みが強烈になって、一瞬ぐらりと身体が揺れる。気を取り直して何とか顔を上げた時、オリーブ畑の向こうへ駆けていく後姿のようなものを見た気がした。
 猫より明らかに大きい影だ。足元は光で見えないが、少し長めの髪にうす紫色のリボン、ふわりとした光色のカーデガン。

 女の子?
 素早く起き上れば追いかけられると思ったものの、立とうとしてずきん、と右の足首が悲鳴を上げた。

 倒れていた地面の視界の端に石の塊がある。そこに身体を持ち上げるようにして縋りつき、凭れた。
 頭を打った上に、足を挫いてしまったのかもしれない。

 何だか今日はついていない。というより出だしから最悪だった。朝食を終えた後、竹流がちょっと野暮用で出かけるから、お前は良かったら一人で町にでも出かけたらいい、と言って、地図とバスの番号を書いた紙、ホテルのカード、お金、そしてちょっと躊躇ってから、左の薬指から銀の指輪を抜いて渡してくれた。
 万が一の時は、この指輪を教会かどこかの店で見せれば、必ず何とかしてくれるはずだと言って。

 一人で町を歩いてもつまらない。絵画や彫刻は、解説してくれる人がいなければ何のことか分からない。ついでに、また変なものが現れても困る。
 と言うわけで、幻の黒い尻尾探索を今日のスケジュールにしたのだが……

 ため息をついた途端、視界の隅に尻尾が登場した。
 ジョルジョ!
 と呼びかけた途端、にゃあ、と声が聞こえた。もちろん、勝手に名前をつけたのだ。自分が永遠に呼ぶことのない彼の名前を、幻の猫につけて何が悪い。

 幻?
 いや、猫はきっちりそこにいた。垂れ下がったドレープのようなものと誰かの足の間に。
 真っ黒の身体にゴールデンアイ。そして首にはその目と同じ、黄金の首輪。

 足?
 いちいち反応が遅い今日の真は、垂れ下がったドレープを見上げた。
 ドレープではなくて、羽根だ。
 
 真はその石の塊、つまり彫刻に手を付きながら、何とか立ち上がった。ひょこっと右足を庇いながらほんの少し離れて見ると、台座に突っ伏すようにして天使が泣き崩れていた。
 真はもう一度周囲を、そして猫よりも大きな影が消えて行った辺りを見た。低いオリーブの木が見えているだけで、風がその隙間を吹き抜けるが、誰かの気配が残っているわけではなかった。

 幻の猫が実態になったと思ったら、今度は女の子の幻が現れたということなのか。
 にゃあ。
 ジョルジョが何かを訴えるように鳴いた。




猫にジョルジョと呼びかけること程度しかできない、意外に小心者な真。
さて、次回は竹流は何をしているのか、探りに行きましょう。

なお、このホテルは実在します。そしてそのホテルの写真を載せさせていただきました。
もちろん、景色は多少アレンジしております(^^)
嘆きの天使、というのはlimeさんが描いてくださったイラストの天使の彫刻なのですが、似たようなのがいくつかあるようで、limeさんはサンフランシスコの墓地のものをご覧になったそうですが(実物?写真?)、ローマにも同じようなものがあるそうです。
シエナには……多分ないでしょう^^;


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Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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【幻の猫】(2) 失われた少女 

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表紙の目印には、やっぱり嬉しくて、いちいちlimeさんのイラストをのっけております(^^)
アップバージョンの小さい版にしてみました。
さて、真を放り出して、竹流は女のところに……探偵気分で、竹流の行動を見張りましょう!
まずは物語をお楽しみください(^^)




シエナ

「いいえ、そんなはずはないわ。そんな馬鹿なこと……」
 竹流が通りに面した門を叩き、大きな扉を開けて現れた取次の女性に名前を告げた後、ほとんど待つこともなく、奥からそんな言葉と共に少し年を取った女性が現れた。小柄で、ほっそりとした印象を受ける上品な女性だが、声がよく通る。
 そして女性は、竹流の姿を見ると、目を見開き、大きく開けた口を両手で覆うようにして、そのまま固まってしまった。

「ベルナデッタ、やっと会えた」
 竹流が呼びかけると、女性は感極まったように涙を流した。
「あぁ、その声は確かにジョルジョ坊ちゃま。私は夢を見ているのかしら」
「まさか。長年の無礼を詫びに来たんだ」
 ベルナデッタは、ヴォルテラの屋敷に仕えていた女中だった。そして、大和竹流、すなわちジョルジョ・ヴォルテラがロヴェーレ家から養子に出されたとき、始めにジョルジョの世話をしてくれた女中であり、日常のあれこれの教育係かつ相談相手でもあった。

 ヴォルテラの屋敷に仕える者たちは、大概何代にもわたって仕えてきたものばかりであったし、ベルナデッタの家系もそのひとつだった。しかし、ベルナデッタ自身は、ジョルジョが神学校に入った年に血液の腫瘍であることが分かり、療養のために職を辞した。
 この時、当主のチェザーレ・ヴォルテラは彼女の病気治療のために、当時としては最先端の医療を受けさせるべく奔走した。そのかいあってか、ベルナデッタは寛解し、今も検査は必要であるもののこうして生きながらえている。
 ひとつの大きな不幸を抱えながら。

「何を仰いますのやら。いつも手紙や贈り物をしてくださって」
 竹流はベルナデッタに歩み寄り、その手を取り、まるで貴婦人相手にするように口づけた。ベルナデッタは慌てて手を引っ込めた。
「まぁ、いけません。坊ちゃま。私のようなものを相手に、そんなことを」
 そう言ってから、ベルナデッタはほうと息をついた。
「坊ちゃまは本当にお変わりではありませんのね。あの頃も、私たち使用人とあまりにも対等にお話し下さるので、立場を弁えるようにと随分と怒られていなさった。それなのに、よくこっそり私たちのところにやって来られては、下々の者たちの戯言話に付き合っておられて」

「ベルナデッタ、俺はもう坊ちゃまじゃないんだ。手紙にそう書いただろう?」
 とんでもないとベルナデッタは首を横に振った。
 ベルナデッタは中庭に面したテラスに竹流を誘い、先ほど取り次いだ女性に頼んでカプチーノを用意させた。

 高い建物に四方を囲まれた中庭には、午前中の光は十分には届いていなかったが、半分だけ真っ白に明るく染められていた。その中に、心穏やかな朝食のために用意されている比較的大きめのテーブルがある。
 中庭の半分はまだ太陽の恩恵が届かず、闇に沈んでいる。
 竹流はその陰の中に、木の椅子に座ってぼんやりと四角い空を眺めている老いた女性を見出した。椅子の肘掛には杖がひっかけてある。

「あぁ、グローリア、あなたもご一緒にいかが」
 ベルナデッタの声に、グローリアと呼ばれた女性がゆっくりと竹流とベルナデッタを振り返った。

 魂の籠っていないような無機質な瞳だった。あるいは大事な何かを失ったために、感情を一緒に持ち去られたような瞳だった。まるで人形のように静かで、そして乾いた様子で、彼女は闇の中に座っていた。
 綺麗に撫でつけられ結われた髪には飾りのひとつもなく、暗い影の中に沈んだブラウスとスカートのもとの色合いは分からなかった。首には古い石の入ったネックレスが、ようやく光の足掛かりになろうと揺らめいていたが、照らす光源がなくては輝く術もないようだった。

 竹流が気を利かせて、足の悪い女性がこちらのテーブルへ移るのを助けようと、一歩踏み出したとき、ベルナデッタがやんわりと止めた。
「明るい所を嫌がっておられるんですよ。私たちがあちらの小さいテーブルに参りましょう」
 そしてベルナデッタは、グローリアとは少し距離を取って、何も話さず、ただ優しい表情を浮かべて彼女を見守りながら、そして時折竹流に日本の話を聞きながら、短い午前中の時間を演出した。
 グローリアのいる闇に目が慣れてくると、その女性がそれほど歳をとっているわけではないことが分かった。何か悲しい出来事のために、髪も白くなり、身体も心も間違えて歳をとり急いでしまったかのように見える。

 その時、微かに、視界の端で何かがきらめいた。
「おや、ジョルジョ、お前、どこに行っていたの?」
 竹流は自分の名前が呼ばれたのかと思って、驚いてベルナデッタの視線の先を追う。

くろねこ
 猫だった。
 真っ黒で、尻尾の長い猫が、ゆったりと歩いている。首には金の首輪。すらりとしたしなやかな体つきは、小さな黒い豹のようにも見える。
「あぁ、坊ちゃま、ごめんなさい。この子はグローリアの猫なんですよ。その、坊ちゃまと名前が一緒なのは偶然で……」
 ちらり、と猫が竹流を見上げる。ゴールデンアイの、吸い込まれるような瞳は、光を失った飼い主の代わりに、世の中を見つめているかのようだった。
 やがてジョルジョ、つまり真っ黒の猫は、グローリアの足元に頭を摺り寄せ、グローリアはようやく何かから解き放たれたように猫を抱き上げた。

 カプチーノを飲み終えると、ベルナデッタは竹流を建物の中に誘った。
 建物の奥にはいくつかの個室があって、それはこの『協会』の目的のために使われていた。教会付属の婦人団体である『片羽根の天使協会』は、不思議な団体で、言ってみればご婦人方のネットワークを生かした人探しを主な仕事にしている。依頼人は女性に限るのだが、行方不明の人、探して欲しい人がいる場合、この協会が力になってくれるし、もしもの時には『慰め』をも仕事のひとつにしている。各地に支部があり、ここシエナの責任者がベルナデッタだった。依頼人は時には居場所のないものや遠くから来たものであったりするので、彼らが宿泊できるように小さな部屋がいくつも用意されている。
 全て教会への寄付から成り立っている完全なボランティア組織であり、健康も心も不安定となったベルナデッタを支えてきたのは、人のために何かをしているという充足感なのだろう。

 部屋のひとつがベルナデッタと幾人かの女性が共同で使っている事務所だった。机が四つと、真ん中に小さなソファ、それぞれの机の上には書類が積み上げられている。機能的とは言い難いが、彼女たちはその中のどこに何があるのか、完璧に記憶している。
 それぞれの机には、持ち主が誰であるのかがわかる写真が置かれている。どれもそれぞれ、ここで働いている女性の家族の写真だ。ベルナデッタの写真にも、小さな痩せた女の子と、まだ治療のためにやつれた顔をしていた頃のベルナデッタが写っていた。
 今日ここで仕事をしているのはベルナデッタ一人のようだった。

「あの方はね、ミラノからいらしたんですよ。二番目の娘さんが連れていらしたんです。お気の毒に、ちょうど一年前にシエナに五歳になるお孫さんと旅行に来られたんですが、そのお孫さんが行方不明になってしまわれて。彼女は自分がお孫さんの手を放してしまったことで、行方を見失ってしまったと言って、自分を責めておられるんですよ。警察にも直ぐに届けて、ずいぶん探されたんですけどね、結局何の手がかりもないまま時間だけが過ぎて、一時は精神的にも随分危ない状態になっておられたんですの……いえ、今もまだ心はここにはなくていらっしゃるのですわ」
「それは……気の毒だね。彼女はその時からずっとこの協会に?」
「いいえ、ミラノに二番目の娘さんと暮らしておられるのですけれど、丁度一年前の今日がお孫さんがいなくなった日ですから、もしかしてと藁にもすがるような思いで、一週間前にこちらに来られたんですよ」

 常識的に、一年も行方不明の子どもが、その丁度一年目だからと言って、ここで今見つかるとは思えない。哀れだが、子どもが無事である可能性は低いだろう。
「その子どもの母親は?」
「それが、家を出てしまわれたとか」
「なぜ」
 ベルナデッタは首を横に振った。
 事情を知っているのか知らないのか、あるいは知っていても部外者に話すことを躊躇ったのかもしれない。ヴォルテラの力は知っているだろうに、チェザーレやその息子には頼るわけにはいかない、という彼女の気持ちも分からなくはない。

「ベルナデッタ、もしかして少し手伝えることがあるかもしれないよ。もちろん、子どもが無事であるかどうかは保証できないけれど、少なくとも、いささか胡散臭い連中に事情を聞くことはできる」
 まるで感情を失ってしまったようなグローリアの瞳と、戦いを挑むような黒い猫の金の瞳が竹流の中で二重写しになっていた。
 旅行中に手を放してしまったために孫は行方不明、その母親も家を出て行ったというグローリアが気の毒だったし、それにもしかしてその子どもが犯罪にでも巻き込まれたというなら、自分にもいささか情報網の心当たりがなくもない。今更、探し当てられる自信はないが。

「結果的に、彼女に辛い事実を突きつけることになるかもしれないけれど、でもどこにいるのか分からないままでいるよりは、事実を受け入れる方が救いになるかもしれない」
 それから竹流はベルナデッタの手を握りしめた。ベルナデッタは俯いていたが、自分を握りしめた竹流の手を逆に両の掌で包み返した。
「坊ちゃま、確かにその通りです。時々、旦那様が何か協力できることがあるだろうと言って訪ねてくださるのですけれど、犯罪に絡むようなことは恐ろしくて調べることはできません。調べた結果は大概悲しく辛いものですから、知らないまま、もしかしてどこかで幸せに暮らしているかもしれないと信じている方が、救いになるかもしれない。そう思って、依頼人の方にはただ心穏やかでいて下さるように祈るしかなかったのです」

 竹流はベルナデッタの肩を抱くようにして、ソファに一緒に座った。叔父、チェザーレ・ヴォルテラが今でも一介の使用人であったベルナデッタの生活に気を配っていることを聞くと、何故か背中がうずくような気がした。いや、竹流はずっとその男に育てられてきたのだ。どれほどの悪事に手を染めていても、大事に思う人間の一人をも漏らさぬように思いやる、ヴォルテラの当主としての義務を叩き込まれてきた。
「ベルナデッタ、あなたはきっと他人の悲しみに自分の悲しみを重ねて、優しくなりすぎるんだ。大事な人を失った辛さは、あなたは誰よりも知っているのだから」

 もしかしてもうこの世にいないかもしれないが、その少女の足掛かりを探してやろう。長い間ベルナデッタに何もしてやれなかったことの償いにでもなれば。
「それなら、坊ちゃま、私の代わりに説明できる人がここにもうすぐ来られますわ。話だけでも聞いてあげてくだされば、幾らかでも救いになるでしょう」

シエナ
 やってきたのは、グローリアの娘だった。クラリッサという名前の艶やかな女性は、赤い髪に見事なグリーンの瞳を持っており、大学で地質学を教えているのだと言った。ベルナデッタが竹流を紹介する間、その賢明で揺るぎのない瞳で竹流を見つめていた。
 何かを訴えるような、力強い瞳だ。
 やがてクラリッサは挑むような目をふと緩ませて、話し始めた。

「そうですか。もう今さら、誰かに話して辛いとも恥ずかしいとも思わなくなりましたから、打ち明けますわ。いなくなったのは姉の娘で、フィオレンツァと言いました。その時、五歳だったのですが、ここシエナに来たのは、両親が不仲で随分と酷い喧嘩をしていましたので、私たちの母、グローリアがフィオレンツァを不憫に思って連れ出したのです。その結果あんなことになって、姉はそれから余計に夫と上手くいかなくなって、少しおかしくなっていたのかもしれませんが、家を出てしまったのです」
 竹流は思わずベルナデッタを見た。哀れな打ち明け話を聞かされるのだと思っていたのだが、あまりにも淡々とクラリッサが話すので、違和感を覚えたというのが正解だ。いや、彼女自身のことではないのだから当たり前なのかもしれない。 

「失礼ですが、不仲の理由は」
「よくある夫の異性関係ですわ」
「それで、あなたの姪御さん、フィオレンツァがいなくなったのはこのシエナのどこです?」
 竹流はクラリッサから目を離さなかった。いつも女性を口説くときには意識してその目を見つめる。まさに今も、この女性をベッドに誘い込むほどのつもりで見つめていた。そうしているうちに、この女性が本音を零してくれないかと思った。

「母はあのような状態なので、はっきりしたことは分かりかねます」
「あなたはその時、ご一緒ではなかったのですね」
「えぇ。失礼ですけれど、シニョール・ヴォルテラ、私は母に自分自身を取り戻してほしいと思っておりますが、フィオレンツァのことは正直諦めています。もう一年も前のことなのですよ」
 彼女の言葉に竹流は同意した。

 その時、かりかりとドアをひっかく音が聞こえた。
 ベルナデッタが扉を開けると、黒い塊のようなものが飛び込んできて、竹流の足元に来ると、ふんふんと匂いを嗅いだ。それから何か納得したように座り、竹流をそのゴールデンアイで見上げて、にゃん、と何かを訴えかけるように鳴いた。




さて、女のところにおりましたが、別に色っぽい理由ではなかったようですね(^^)
そうなんです、竹流は、あちこちにこういう老人(とまではいかない年の人もおりますが…男女問わず)がおりまして、決して礼を欠かさない。本当に老人に好かれる人でして。
本人も職人ですから、腕に覚えのある年寄りは特に好き。

でも、登場した妙齢の女性はちょっとヤバそうですね。
みんなでしっかり見張りましょう!って、何のことやら。

さて、limeさんの【白昼夢】を読まれた皆様はちょっとあれっと思われたかもしれません。
いえ、ぜんぜん関係ないとも言えますが、ちょっとだけもじってしまいました^^;
(limeさんへのお礼ストーリーですから!)
OEA(片目を閉じた天使)…という組織の裏バージョンみたいで…片羽根の天使協会。
しかもイタリア版おばちゃん探偵団!
何だかシリーズものが書けそうに思いますが……もちろん、書きません^^;

猫の写真は、イタリアで撮ったものですが、町はタルクィニアというところ。
エトルリア時代の墓を見に行ったのです。
丁度、黒猫!と思ってここに載せてみました。

さて、次回は(多分)いじけている真に会いに行きましょう!


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【幻の猫】(3) 嘆きの天使 

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さて、いじけているはずの真はいったい何をしているのでしょう?
ちょっとホテルに戻って、覗いてみましょう。
共演者は、真っ黒の猫と、そしていかにもイタリアのマンマ風おばさん!





 足は見事に挫いたらしいが、何とかゆっくり数歩は歩くことはできた。とりあえずフロントに行って、湿布薬でももらおう。確か、英語の話せる女性が一人いた。
 ホテルの横手は丘陵地になっている。今真がいるオリーブ畑が隣接していて、なだらかな登りの傾斜の上に、ホテル内の教会の塔が見えていた。
 何か身体を支えるような杖でもあれば楽なんだけど、と思ったが、都合よく棒切れか何かが落ちているわけでもない。
 この傾斜を登れるだろうか。
シエナホテル
 真はため息をついた。やっぱり今日はついていない。
 ちょっとくらいごねれば良かったかもしれない。そうしたら今日出かけることを考え直してくれただろうか。いや、そんな女々しいことを言っている場合じゃない。何より、ホテルの敷地内で遭難なんて、冗談じゃない。

 不意に、足元に温かいものが触れた。まるで真の挫いた足を庇うように横に寄り添っているのは、真っ黒でしなやかな背中と長くぴんと立った尻尾をもつ猫だ。黄金の首輪がきらりと光る。真はちょっと屈んで、そっと背中を撫でてやった。猫は真の足に絡み付くように身体を擦り付けてくる。
 触れられると、何だかあまり痛くないような気がしてきた。

 やがて、ジョルジョ、と真が勝手に名前を付けた猫は、俺についてきな、とでも言うように黄金の目で真を振り返り、にゃあと一声鳴いた。
 何とか登れそうな気がする。真は足を引きずりながら、オリーブの木の間をゆっくりと進んだ。時々温かいものが足に触れるように絡み付く。見下ろすと、そばをぴったりとジョルジョが付いてきてくれている。
 
 オリーブの木は育って高木になるが、ここにあるのはまだあまり大きくはなっていない木ばかりで、幹を頼りにするにはいささか気が引けるような大きさだったが、それでも何もないよりはましだった。

 ある程度登ってから、ある場所でふと身体が軽くなった。突然、夢の世界から帰ってきたような、そう、時々感じるあの奇妙な帰還の感触だ。真は電流が流れたような気がして、不意に足を止めた。
 結界を飛び越えるあの奇妙な感じ。真は思わず足元のジョルジョを見た。

 風が吹いている。
 ジョルジョは、つまり真が勝手にそう呼んでいる猫は、突然何かを思い出したかのように一瞬立ち止まり、すぐに、真を庇うことを忘れたかのように、振り返ることもなく走り去っていった。

 気が付くと、足は何ともなくなっていて、ちょっと跳ねてみたが痛みはほとんどない。少し離れたところに脱いだ靴が転がっている。真はごく普通に歩けることを確認しながら、靴のところまで行ってみて、あれ、と思った。
 慌てて振り返る。
 
 一体どの部分で何に躓いて転んだのだろう。そもそも落ちるような段差などないし、落ちて頭をぶつけるような彫刻など見当たらない。なだらかな斜面の下まで、オリーブ畑が続いているだけだ。
 ま、時々あることだし、しかも頭打ったし、そういうことなんだろう。
 足は痛くないけれど、頭は何となくぼんやりしている部分がある。というよりも、はっきり言って痛い。あやかしたちのテリトリーで起こったことが現実の世界へ持ち込まれることは多くはないけれど、ないわけでもない。頭をぶつけたあの彫刻は幻かも知れないのに。
シエナホテル

 妙に納得して、靴下と靴を履いてホテルの方へ戻ると、あのいかにも実体のマンマ、つまりこのホテルの従業員らしい大きな体のおばさんが洗濯物を干していた。ここはホテルの裏手になっている。
 おばさんが真に気が付き、何か呼びかけてきた。無茶苦茶早口のイタリア語で何かを一生懸命話している。申し訳ないけれど、ちっともわからない。

 おばさんはようやく真が言葉を理解していないことに気が付いたようで、肩をすくめた。
 やがて洗濯物を干す手を止めて、真を手招きする。
 おばさんは真の後ろのオリーブ畑を指差し、何かを言っている。入っちゃいけないとか、そういうことだろうか。確かに柵をひとつ乗り越えたけれど。

 真がきょとんしたままなのを見ると、今度は真の服を指差し、両手で自分の髪の毛の上で丸を二つ描く。それから自分の後ろを振り返り、また何かを探していたようだが、やがて真に何も伝わっていないことを悟ったのか、屈んで地面に何かを描きはじめた。
 真といい勝負の下手くそな絵だったが、スカートを穿いた人形、いや、女の子の絵だ。頭の上にリボンを描いている。そして、リボンを指差し、すぐに真の服を指差す。
 リボンの色を示しているようだ。
 今日、真は薄い紫色のような色合いのロングTシャツを着ていた。

 おばさんの描いた少女の絵は上手ではなかったけれど、スカートのふわふわ感には見覚えがあった。
 え?
 よく聞き取れなかったが、tua amicaだけが耳に残る。

 真は慌てて振り返った。
 後ろにはもちろん、誰もいないし、気配もない。いや、色々なものの気配はあの場所を境に消えている。真が改めておばさんを見ると、おばさんは再び肩をすくめ、それから真を手招きした。

シエナホテル
 おばさんについて行くと、すたすたと教会やフロントに面した四角形の中庭を通り抜け、おばさんはホテルの小さなフロントに呼びかける。
 すぐに、アドリアーナと呼ばれたメガネをかけた若い女性が机に向かって書きものをしていた手を止め、真とおばさんの方へ歩いてきた。すらりとしたメガネ美人で、利発そうに明るい声で話す女性だ。気にくわないのは、いささか竹流に話しかける声に艶がある、ような気がすることだ。
 
 おばさんはアドリアーナに何かを説明している。やがて、アドリアーナは綺麗な英語で真に尋ねる。
「あなたが一緒に遊んでいた女の子、知り合いなの?」
 真は呆然とアドリアーナの顔を見ていたに違いない。アドリアーナがどういうことかしら、というようにおばさんを見る。おばさんが再びアドリアーナに何かを話している。アドリアーナは再び真に聞き直す。
「一緒に歩いていた?」

 僕は女の子と一緒に遊んでもいないし、歩いてもいません、と言いかけて、真はおばさんの後ろの方、井戸の方を見て息を飲み込んだ。
 しっぽ!
 真っ黒の尻尾が井戸の後ろにすいと隠れた。ジョルジョ?

 いや、あの場所で見かけたジョルジョとはいささか雰囲気が違うのだ。いや、正確にはあの見えない結界を越える前後で、猫は別の猫に変わってしまったような気がする。そして、今、井戸の陰に隠れたのは明らかに真のジョルジョだ。
 井戸の後ろならもう逃げるところはない、と思って、アドリアーナとおばさんを放って、中庭を走って横切った。中庭の半分、つまり井戸のある側はまだ影になっている。中庭は井戸の方向に向けて少しだけ高くなっていた。
シエナホテル

 真が影の部分に走り込み、その井戸の後ろに回り込んだとき、黒い影は中庭の影の部分をものすごい速さで突っ切ってしまい、光のある半分へ飛び込んだ。真が目で追いかけた時には、影は、つまり尻尾の持ち主は光の中でもう形にはなっていなかった。
 その光のある半分で、アドリアーナとおばさんが少しずつ浮かび上がってくる。

「どうしたの?」
 真はぼんやりと光の中の二人が現実に戻っていくのを見ていた。
「猫がいたような気がして……」
 フロントの傍まで戻ってから、真はアドリアーナに言った。猫がいたくらいで大騒ぎするのも変な話だと思いながら。
「さっきオリーブ畑の下の方で、天使の彫刻のところにいた猫とそっくりで……」

 あれ? 彫刻、そう言えば、後で上から見た時には見えなくなっていた。木の陰になっていたから?
 アドリアーナは変な顔をした。そしておばさんに何か話をして、それから真の方を見てもう一度肩をすくめてフロントへ戻っていった。ちょっと変な子だと思われたらしい。
 この子ね、猫とか天使の彫刻とか、変なこと言うのよ……とかなんとか言っているに違いない。

 一方のおばさんは、アドリアーナが話す途中から首を横に振り、天を仰いでいわゆるオーマイガッ!のポーズをしたと思ったら、いきなり真の手を掴み、真を引きずってずんずんと歩いて行く。
 真はおばさんに引っ張られる形で、中庭を突っ切り、建物の中に入り、暗い廊下を進んで、始めにこのホテルに着いたときに案内されたある部屋へ辿り着いた。
シエナホテル図書館
 小さな図書館だ。真ん中に赤い天蓋のようなものが釣り下がり、同じく赤いテーブル、その上に載せられたいくつかのゲーム、小さなビリヤード台、そして壁に作りつけられた本棚。
 おばさんは本棚をしばらく手と目で探し、やがてあるコーナーに辿り着くと、そこから取り出したのは何かアルバムのようなものだった。入口で突っ立ったままの真を手招きする。
 弾丸のようにしゃべるので、おっかないおばさんだと思っていたが、こうして目をじっと見ると何とも愛嬌のあるおばさんだ。

 手招きされて真はおばさんの傍に行った。そしてアルバムに貼られたいくつかの写真の中、おばさんが指差した先を見て、真はまたもや驚いた。
 おばさんを見上げ、何だかわからないけれど、うんうんと頷く。
 おばさんはまた弾丸のようにしゃべり始めて、それから真がイタリア語を理解していないことをすぐに思い出したようで、急に話を辞めて、今度はアルバムを持ったまま、真の手を掴んで、図書館を出た。

 おばさんが指差した写真には、あの天使の彫刻が写っていた。

 今度は、おばさんは真を連れてオリーブ畑の方へ向かっていた。真はおばさんに腕を取られていたものの、すでに引っ張られているというよりも、一緒になっておばさんと急いで歩いていた。
 柵の手前で手を放したおばさんが、うんとこと重い身体で柵を越えようとする。先に真はひらりと乗り越えて、おばさんからアルバムを預かり、彼女が乗り越えるのを手伝った。確か向こうの方に、扉になった部分があったと思うのだが、かなり遠回りになるので、ここで乗り越えることにしたようだ。おばさんも早く真に何かを説明したかったように思えた。

 柵を乗り越えると、やっとおばさんはにっこり笑い、真を抱きしめ、いい子いい子と頭を撫でた。一体いくつに見られているのだろう、と思ったが、パレルモでも竹流の知り合いの十六歳の少年に年下と見られたくらいだから、日本人はかなり実年齢よりも幼く見えるらしい。
 やがておばさんは先に立って歩きはじめ、真が、確かにそこがあの『境界』だったと感じたあたりをすたすたと越えてなだらかな斜面を下って行き、幾らか平坦になった辺りで歩を止めた。

 真はおばさんの傍に立ち、そしてふわりと何か優しい空気に包まれたような気がした。
 アルバムを真から受け取ったおばさんは、まず天使の彫刻の写真を指差し、自分の立っている地面を指差す。
 Questo, qui
 おばさんの言葉の一部に、真に理解のできる単語が含まれていた。
 これはここにあったんだよ。

 真は呆然とおばさんを見つめていた。
 つまりさっきはタイムスリップした、ということ?
 そして何よりも、それを見たという真を、おばさんが変な子だと思っていないことにも驚いた。やっぱりこのおばさんは、真と同じように霊感もどき持ちなのかもしれない。じゃあ、おばさんが蹴った猫、というより尻尾もやっぱり?
 などという難しいことは聞けそうにもない。

 それからおばさんは別のページを繰り、新たな写真を指差す。
 それほど広くはないが、明らかに墓地のような写真だった。
 おばさんはそれを指差した後、両手を広げて、くるりと一回転した。
 え?
 真はおばさんを見つめた。

 つまり、ここは墓地だったということ?

 真が目だけで問いかけると、おばさんはまるで真の声が聞こえたかのように、力強く頷いた。そして、丁度彫刻のあったという地面をもう一度、というよりも何度も指差し、再びアルバムを抱えて斜面を登り始めた。真はついて行きながら、おばさんの手からアルバムをもらって、自分が代わりに持つ。めくってごらんとでもいうようにおばさんがアルバムを指差すので、歩きながらページを繰っていくと、このアルバムはどうやらこのホテルと教会の沿革を記録したもののようだった。
 ホテルに改築したものの、そもそも教会だったのだから墓地が隣接していたとしても不思議ではない。日本のように、ホテルの傍に墓地があるというのが縁起が悪いとかいう感覚はないのかもしれないが、何か事情があって墓地を移設したのかもしれない。

 もう一度おばさんが柵を越えるのを手伝い、一緒におばさんの用務室のようになっている小部屋へ行くと、おばさんが棚の隅から小さな白い封筒を取り出した。

 中には一枚の写真と薄紫の小さなリボンが入っていた。いや、あるいはもとはもう少し明るい、ライラックのような紫だったのかもしれない。年月で焼けて、色あせた紫になっているようだった。
 写真には、少し顔色の悪いやつれた女性と、小さな女の子が写っていた。写真はセピア色になっていたがカラー写真ではなく、小さな女の子の頭の上にあるリボンの色は分からなかったが、それは今ここにあるこの小さな髪飾りのリボンなのだろう。

 おばさんはもう一度天使の彫刻を指差した。つまり、この写真とリボンは、あの彫刻のところにあったということなのだ。
 台座に突っ伏し、嘆き悲しむ天使の傍に。





さぁ、物語はいよいよ佳境へ?
次回は竹流のほうへもどってみましょう。
あの女性といちゃついていなければいいのですが……



Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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【幻の猫】(4) 街の光と影 

真250kuroneko250
さて、今度は竹流の様子を見に行きましょう(^^)
どうやら、あの妙齢の女性、クラリッサと一緒のようです(行方不明の少女・フィオレンツァの叔母)。
浮気現場を押さえるまで、探偵は目を離してはいけません。
証拠を掴んだら、言いつけてやりましょう!?

などとふざけている場合じゃありませんでした。
ほのぼのとした話を考えていたのに、だんだん雲行きが怪しいですね…
ついに、真実がおよそ見えてきます。まずはお読み戴けると嬉しいです。

そうそう、このお話、もしかして初めてこのブログにたどり着いてくださった方がいたら、なんのこっちゃと思われたかもしれません。

主人公の二人を改めてご紹介。

相川真:この時点では大学受験を終えたばかりの18歳。ちょっとした霊感もどきありの、理系っこ、将来の夢は宇宙に飛ぶこと(ロケットを飛ばすこと)。でも3年先には大学を中退して調査事務所の雇われ探偵。上のlimeさんによるイラストの彼が真です。
大和竹流:その家庭教師だった男、絵画修復師、27歳。実はイタリア人(名前はジョルジョ)で、このたび11年ぶりに、帰るつもりではなかったお国に帰ってきました。実はローマ教皇庁の裏番的存在・ヴォルテラの御曹司。
受験頑張ったご褒美に、竹流の故郷・イタリアを旅行中の二人のある1日に、ちょっとしたミステリーが。
舞台はシエナ。世界中で最も美しい広場(と私が勝手に思っている)・カンポ広場を取り巻きながら、ちょっと悲しくて優しい物語をお楽しみください。

ちなみに……ジョルジョがもう一人…いや、一匹(上の写真の黒猫がイメージ)。
霊感坊や・真は一人で取り残されたホテルの敷地内で、今はもうない天使の彫刻と、不思議な猫と、少女の幻を見る。一方、野暮用で出かけている竹流は昔の使用人・ベルナデッタを訪問中。彼女は『片羽根の天使協会』という行方不明者を探してくれるイタリア版教会附属婦人探偵団みたいな組織のメンバー。そこに逗留中の女性・グローリアの5歳(当時)の孫・フィオレンツァがちょうど1年前このシエナの街で姿を消したという。
さて、その真実は。そして関わる人々は、どうやって魂を開放していくのか…
どうぞお楽しみください。




シエナ
 竹流はクラリッサと一緒に町のはずれを歩いていた。
 大きなワインセラーがある、古い城の跡地の一角を路地の方に入っていく。
 古い街には何某か、こういう影の部分がある。町も人も、世界は何もかも光と影が織り込まれたタペストリーのようなものだ。そして、光と影の距離は、あまりにも近い。

 指輪を置いてきてしまった。自分を『ヴォルテラの後継者』だと示すものが何もないのは、正直心許ない気がするのだが、考えてみれば頼るものが自分しかいないのに一人で放り出されている真は、もっと心許ない気持ちでいることだろう。指輪を渡してやったのは、どれほど想ってやっているのかということを示すことでもあったが、何しろちょっと頼りない顔をされたので、その瞬間、ただ哀れで愛おしく思えたのだ。

 それならなぜ、一緒にいてやらなかったのだろう。考えてみれば、ここに一緒に来ても良かったはずだ。
 イタリアに戻ったのは十一年ぶりだった。試験が終わったらあんたの国に連れて行ってほしい、と真が言ったとき、竹流は受け流すつもりだった。
 だがどこかで気が変わった。

 永遠に帰るつもりがないのか、と聞かれたら、それはあり得ないと心から思う。この国を、あのローマの街を愛している。多分、どこの誰よりもだ。逆らえない郷愁に取りつかれて、そして真が言い出したからだという言い訳を利用して、十一年間一度も足を踏み入れなかったこの場所へ戻ってきた。
 ここに戻れば、突然、日本が遠くなった。生まれ育った国の空気は、長い期間の離別などまるきりなかったように、竹流の肌を完全な形で包み込んだ。ふと気が付くと、この懐かしい故郷の苦しいほどに眩い光の影に隠れて、あの国で狂うほどに愛しいと思ったことまでが夢か幻ではなかったかと思えてしまう。

 真はおそらく、その竹流の心の動きを、言葉や行動ではなく気配で、あるいは重ねた手や肌の微かな温度から、つながった心や身体のどのような部分からも、敏感に察知していることだろう。海から上がってきてからは、真は少しずつ、口数が少なくなってきている。彼にはあり得ないほどに素直で無邪気な顔を見せる瞬間もあるが、見ていないところでは不安な表情をしている時の方が多くなってきていた。それに気が付いていないふりをし通している。
 今朝も、一人で町でも歩いたらどうだと言ってやった時、何か言いかけて口をつぐんでしまった。その時の表情が、網膜の上から消えてくれない。
siena

「シニョール・ヴォルテラ?」
「え? あぁ、失礼。ちょっと考え事を……」
 クラリッサ、失われた少女の叔母にあたる女性の、燃えるような赤い髪が竹流の腕に触れていた。そしてはっきりと光を宿す緑の瞳が、竹流を捕えている。いや、それでも、彼女の中にもやはり、小さな不安と不信の影が見える。
「聞いておられなかったんでしょうね」
「えぇ、すみません、シニョーラ。何か?」
「なぜ私を連れ出したのかとお尋ねしたんです」

 竹流はクラリッサをしばらく真正面から見つめていた。
 二人が歩いていた路地は、すでに最後の扉を残して行き止まりになっている。狭い路地には、午前中の最後の時間、あともう少しで天蓋の頂上に太陽が昇り詰めるまでの時間では、まだ朝を迎えていないのと同じ闇が残っていた。
 扉には重く黒い鉄のノッカーが付いていて、暗がりの中では悪魔の顔のように見える。

「グローリアやベルナデッタのいるところでは、話しにくいことがあるのではないかと思ったのです」
 クラリッサは答えなかったが、竹流の目をまともに見返している。強い分だけ脆くもある女が、鎧の内側を垣間見せる時、竹流はいつも女たちを本当に愛おしく思うのだ。
「なぜ、そんなことを?」

「始めから少しだけ疑問があった。行方不明の女の子を探す家族がすることは、悲しむことじゃない。気がふれるのは、確実にその子に残酷な運命が訪れたと知ってからでいいはずです。そして、何故、一年なんです? つまりもしもその子が行方不明なら、時間が経てば経つほど、探すのは難しくなる。時間との闘いのはずだ。だが、あなたたちは、彼女がいなくなって『丁度一年だから』と言ってやってきた」
 クラリッサはまだ強い瞳で、睨み付けるように竹流を見つめていたが、やがて肩を落とし、息をついた。
「あなたは怖い人だわ」
 そう言って、路地の行き止まりにある扉へ視線を移す。

「ここに何があるの?」
「多分、あなた方が思い出したくない真実が」
 竹流はクラリッサを見つめたまま、ノッカーに手をかけた。クラリッサが何か拒否的なことを言う、もしくは真実を告白するのかと思ったが、彼女は意外な表情を見せた。
 ほっとしたような、張りつめたものが緩んだような顔だった。
「いいわ。一緒に真実を見ましょう」

シエナ
 扉の向こうには、すっかり白くなった前髪で目を半分隠し、鷲鼻の下にある乾いた唇を厚い舌で何度も舐めている男が待っていた。小柄な体を革の上下で包み、杖をつき、足を引き摺りながら、竹流とクラリッサが立つ扉にやって来る。
「あんたがヴォルテラの御曹司だと、どうして信じる?」
 だみ声で、男はせせら笑うように聞いた。竹流はこの土地の言葉で答えた。

「事情があって指輪を置いてきた。信じてもらうしかない」
 竹流が言った途端に、男は杖を振り上げ、地面を突き刺していた端を竹流の咽喉元に突きつけた。
 クラリッサが息をのんだのが分かる。

 刃の切っ先が微かに咽喉を切った。ほんの少し、血の匂いがしていた。だが竹流は、まったく動じなかった。
男はそのまま杖を戻し、唇だけを動かして答えた。
「なるほど、騙ったところで得をするわけでもないことに命を懸ける馬鹿はおるまい。御曹司、こっちへ来い」
 男が足を引き摺り、杖が地面を痛めつける音が鈍く、両側から圧迫する壁に木霊する。もう一つの扉を開けると、その先に小部屋がある。竹流はクラリッサと共に男について行った。

 小部屋はぼんやりとした照明が灯されているが、明るいというわけではなかった。男はもう一度竹流の顔に目を近付ける。そして改めてチェザーレと同じと言われる青灰色の目を見つめ、がさがさの節くれだった手で頬や鼻、唇を撫で回し、最後に耳を確認し、いいだろうと言った。
「確かにチェザーレの息子だ。何が聞きたい?」
「この女性の母親が、丁度一年前の今日、五歳になる孫娘と一緒にこの街にやってきた。孫娘はここで行方不明になったという」

「ふん」
 妙な声を出して、男は今度はクラリッサをじろじろと見つめた。さすがにクラリッサは顔をしかめたが、怯んだ様子はなかった。
「それで、この街の誰かが娘を掻っ攫って、幼い子どもの身体を欲しがる悪趣味な金持ちの老人に売ったとでもいうのか」
「そういうことなら、あんたたちの目や耳に入らないことは絶対にないはずだ」
 男はくくく、と笑った。

「そんな話は聞いたこともない。一年前にばあさんが娘がいなくなったと大騒ぎしていたのは知っている。異常に騒いでいたからだ。だが、俺たちは知っている。ばあさんは一人でこの街にやってきた。娘っこなんぞ連れて来ていない」
 竹流はクラリッサの反応を見ていた。クラリッサはやはり怯む気配なく男を見返していたが、ほっと息をついた。
「そう、あなたのおかげでようやくパズルが嵌ったわ」

シエナシエナ
「ここに来るのを言い出したのはあなたですか? それとも母上?」
 竹流が扉を閉めて直ぐに、内側から施錠する重い音が聞こえた。丁度天頂に上がった太陽が、今この路地を僅か数分だけ、光の箱の中のように真っ白に染めていた。
 竹流の質問にクラリッサは質問を返した。
「その前に、いつ、母の話を疑ったの?」

「始めは、可愛そうな女性だと思っていた。だが、私が疑ったのは、あなたのお母さんではなく、ベルナデッタです。彼女なら、子どもを失う悲しみは誰よりもよく知っている。そして、私の叔父の力を借りれば、この国で分からないままになることなどほとんどないことも知っている。もしも彼女が、本気でグローリアのためにフィオレンツァを探す気なら、躊躇わずに叔父の所に相談に行ったはずなのです。だが彼女はそうしなかった。考えられる理由はひとつだけだ。ベルナデッタが何かを知っていて、誰かを、おそらくはあなたの母上を庇っている、つまり真実に目を瞑ることにしたのではないかということです」

「ベルナデッタは私たちに良くしてくださったわ。何も聞かずに、ただ母を見守ってくれている」
 クラリッサは少し考えさせて、と言って、ようやく光に満ち溢れた路地から先に出て行った。竹流は黙って後を追った。

シエナ
 路地から出て大きな通りへ戻ると、街は賑やかになっていた。そう言えば今日は日曜日なのだ。あちこちの暗がりから町の人々や観光客が吐き出され、ところどころでかたまって、当てのない今日の予定を生み出そうとしている。ドゥオーモの近くまで戻ると、空気の色合いまで華やかなものへと変わっていった。

『片羽根の天使協会』へ戻り、ベルナデッタの部屋をノックしたが、留守だった。取次の女性が、ジョルジョとクラリッサを見かけて声をかけてきた。
「ベルナデッタなら広場に出かけたんじゃないですかね。この時間はいつも広場のバールだから」
「母は?」
「あら、御一緒ですよ」

 竹流はベルナデッタの机に歩み寄り、彼女の家族の写真が入ったフレームを手に取った。
 ま新しいフレームだ。今朝これを見た時、違和感を覚えたのは、写真が古い割にはフレームが新しいものだったからかもしれない。
 竹流は何かが気になって後ろの留め金を外し、写真の裏を見た。

 ベルナデッタとアウローラ、エドアルドより。

 アウローラは病気のために五歳で短い一生を終えた。ベルナデッタは、それを自分のせいだと手紙に書いていた。抗癌剤の影響の残る身体で恋をして、子どもを宿した。この子を諦めたら、年齢からももう子供を産むことはないだろうと思ったので、無理を承知で出産したのだと。相手は妻子ある男性で、ベルナデッタの主治医だった。
「去年、写真をみんな捨ててしまわれたんですよ。辛いからと言って。その写真は、最近アウローラの父親にあたる人が亡くなって、その家族が遺品から出てきたと送ってきたんですよ。さんざん嫌味な手紙つきでね。ベルナデッタは、これも何かの思し召しなのだろうって、また写真を飾るようになって」

 アウローラは頭の上でライラック色のリボンを結んでいた。見覚えのあるこのリボンは、竹流が日本から贈ったものだった。ベルナデッタからの手紙には、足長おじさんからのプレゼントだと言って、アウローラがとても喜んでいると書かれていた。
 竹流は丁寧に写真をフレームの中に戻した。
 
 傍らで、写真にいるもう一人の失われた少女を見つめいていたクラリッサが、写真を見つめたまま、意外にもはっきりとした声で言った。
「お話した通り、行方不明なのは、フィオレンツァだけではなく私の姉も、なのです。姉の夫は異性関係がだらしなくて、姉はそのことで不安定になっていて、フィオレンツァを虐待していた。私は一年前のあの日、母と姉とフィオレンツァに何があったのかは知らないのです。ただ、私は、本当のことを知るのがずっと怖かった。このまま見て見ぬふりをしようとも思っていました。けれど……このところ、ジョルジョが落ち着かなくなって、奇妙な鳴き方をするようになったのです。ジョルジョはフィオレンツァが可愛がっていた猫でしたから」

 竹流はクラリッサの腕をそっと支えた。気丈に話しているが、彼女の声が震えているような気がしたからだ。
「それは、あなたも辛かっただろうに」
 そう言った途端に、クラリッサの身体から力が抜けたようになり、竹流に凭れかかってきた。竹流はクラリッサの身体を柔らかく抱きとめ、しばらくの間抱きしめてやっていた。燃えるような赤い髪はしっとりと沈んでいたが、優しい香りがした。もしかしたら重大な真実を隠しているかもしれない母親に付き添ってきて、ずっと心が不安でいっぱいだったのだろう。頬を零れ落ちる涙にそっと唇で触れ、どちらからというのでもなく、唇にも触れかかった時だった。

黒猫200
 いきなり真っ黒な塊のようなものが、ベルナデッタの机に飛び上がり、フィオレンツァとアウローラの写真立てを倒した。
 驚いて見下ろすと、猫のジョルジョの黄金の目が、同じ名前の浮気者の顔をじっと見つめている。
 クラリッサがようやく少し微笑んだ。
「だめみたいね」
「確かに、猫の祟りは怖いからね」
 ジョルジョはとん、と軽く机から飛び降りた。そして部屋を出ていきかけて立ち止まり、ついて来いというように、扉の所で振り返る。
「行こうか。ジョルジョと一緒に、真実を確かめに」
「えぇ、そして母とベルナデッタを救いに」



浮気はもう一人(一匹)のジョルジョが許しまへん^m^

次回、一応物語は解決いたします。
そして、ちょっと色々な人がカンポ広場を行き交います。
なだれ込みでエピローグがありますので、また併せてお楽しみください。



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【幻の猫】(5) ライラック色のリボン 

真250kuroneko250

……誰だ? 次回最終回って言ったのは??
それは私。以下、私の心の中の葛藤。

始めから、絶対5回で終わらないって分かってたよね?
…うん、まぁ。
なのにどうして次回最終回とか書いたの?
いや、もしかして~とか思って……
limeさんを見習って、ちゃんと下書きを書こうとか思わないわけ?
…うん……取りあえず、考えとく。

さ、気を取り直して、いよいよ終わりが見えなくなった(嘘です)【幻の猫】第5回を始めましょう(^^)






 おばさんはホテルの洗濯や掃除の全てを仕切っているようで、さすがに忙しそうだった。真を連れまわした後は、仕事に戻らなければならなかったようで、少し残念そうに真の頭をよしよしすると、真にリボンと写真を託すように手渡して、真の両手を包み込んでうんうん頷いた。

ホテル
 言葉は全く伝わらないのに、おばさんの言いたいことは分かった。
 それは多分、真にあの天使の彫刻が見えたからなのだ。
 おばさんに霊感があるのかどうか、ということはこの際問題にはならない。多分、おばさんは見えていても気にしないタイプなのだろう。そして、真が『特別な能力』を利用して、この写真の持ち主を探してくれるのではないかと期待したのだろう。

 渡された封筒の一枚は、どうやら土に埋まっていたもののようで、表はおばさんの手で拭き取ったようだが泥が沁み込んで茶色くなっていた。しかし、油をしみ込ませた内張りの紙のおかげで写真とリボンを少しだけ守っていたようだ。もう一枚はおばさんがこれらを何かの偶然で土から掘り起し、大事に仕舞っていたもののようだっだ。

 とは言え。
 言葉も分からない異国で真にできることなどほとんど何もない。真は託されたリボンと写真、そして一緒に渡された二枚の封筒をチノパンツの後ろポケットに突っこんで、自分にできることをあれこれ考えた。
 この写真の持ち主はこの街に住んでいるのだろうか。もしもここがもともと墓地だったのなら、ここに死者を弔う人は、この近くに住んでいるのが普通なのだろうか。墓地が別の場所に移されたのだとしたら、ここに眠っていた人たちはどうしたのだろう。

 竹流がいたら簡単に解決しそうな問題だという気もした。でも、彼は今どこにいるのか分からない。女のところだという可能性も否定できないし、邪魔をして鬱陶しがられるのも、何だか嫌な感じだ。
 真はポケットから彼の指輪を取り出した。
 これが何かのパワーを持っていたら助かるんだけど。

 フロントの女性は英語は通じるけれど、冷たい感じで、しかも新しく雇われた人なのか、墓地のこととか天使の彫刻のこととかを知っている気配はなかった。

シエナ
 フロント脇の中庭に戻って、もう一度井戸の後ろを覗き込んでみたが、真が勝手にジョルジョと名付けた猫の気配も尻尾も見えない。もう太陽は随分高くに上がっていて、真の影はすっかり短くなっていた。
 その時、教会の扉が開いて、中から人々が出てきた。そうか、今日は日曜日なのだ。真が知らないうちに教会ではミサが行われ、今それが終わったのだろう。

 おばさんはいいのかなぁ。仕事があるから、また別の時間にお祈りをするのかもしれない。
 人々は固まって出てきたわけではなく、ばらばらに、一人、二人、あるいは家族連れというように、間を置いて出てくる。皆が黒い正装で、急ぐわけでもなく、ただ静かに真の前を通り過ぎていく。
 扉に目を向けると、開け放たれた向こうから、ステンドグラスに染められた光の気配がわずかに漏れだしてきている。

 真は、何かに魅かれるように扉の方へ歩いた。
 教会の一番後ろから見ると、長椅子が二列に並んでいる、シンプルな印象の聖堂だった。ほとんど単色に近い薄いブルーやイエローのステンドグラスは、中庭のほうから入る光を受けて、脇廊に短い四角の光を並べている。脇廊以外の場所は薄暗く、少しの間気が付かなかった。

 薄暗くなった椅子に、まだ人が一人だけ残っている。
 女の人だ。
 やがて黒いベールをかぶったままの女性は、ゆっくりと立ち上がり、静かに椅子と椅子の間を滑るように歩いてきた。顔も見えなかったが、それほど歳をとった人ではないようだ。真に気が付いたようでもなく、そのまま扉から出て行く。

 代わりに教会の中に一人残された真は、脇廊の後ろから祭壇を見つめた。祭壇には、塔の上の方から光が降り落ちてきている。まるでそこだけ、特別な光を集めたように真っ白に染められ、そしてその周囲に、小さな闇がうごめいて見えていた。
 光の後ろには影がある。きっとあれは、真の心の中にも巣食っている、不安の種だ。
 真は振り切るように視線の先を変え、中庭に出た。

kuroneko250
 あ。
 今、確かにジョルジョの尻尾が見えた。尻尾は裏庭に繋がっている建物の中へ消えて行った。真は慌てて追いかけた。もしかしたらジョルジョが何か教えてくれるかも、と都合のいいことを考えながら。

 でもジョルジョはどうして尻尾だけなんだろう?
 そう考えながら、暗い廊下を行き過ぎて、また明るい外に出る。さっきおばさんと歩いた、元墓地への道だ。見失ったジョルジョの尻尾を探して見回していると、オリーブ畑の木の影に、人の後姿が見えた。

 さっきの女の人だ。元墓地の方へ歩いて行く。
 結果的に真はその人を追いかけていた。ひらりと柵を乗り越えたとき、微かにずきんと右足が痛んだ。そして無意識に踏んだ『境界』に蹴躓いて、真は再び穴に落ちるような感覚に捕らわれた。
 空中を転がっている、というのか回転して落ちていくような無重力感が途切れても、まだ身体は重力を半分くらいしか感じなかった。足が地面についているのかどうか、定かではない。


 いて。
 今度は頭を打ったわけではなかったようだが、ずきずきと側頭部が痛んだ。吐き気がするほどの痛みで、目がちかちかして開けていられない。
 やっぱり今日は最悪だと思いながら、身体を引き摺るようにして縋りつくものを探したら、案の定、あの天使の羽根に触れた。

 どうしてこちらの世界に踏み込むとこんなに苦痛なんだろう。
 台座に座り込み、頭を天使の羽根に預ける。
 何となく辺りは明るく、まぶたの内側にまで光が侵入して、目が痛い。
 その時、影がふわりと天使から落ちてきたような気配があって、まぶしいほどの光を遮った。真は心地よい影の中で、ようやく目を開けた。

 幽霊じゃなかったんだ。いや、幽霊か。足があるかどうかは幽霊かどうかの絶対条件じゃないし、そもそも西洋の幽霊には足があったんだっけ?
『やぁ、会えたね』
 というのは妙な挨拶だと思ったが、それが正直なところだった。

 痩せた女の子は、おばさんが持っていた写真の中にいた子どもだった。幾つくらいだろう。身体は痩せていたが、目は大きくて、人形のように睫毛が長く、青い透き通るような目をしていた。小さな体なのに、女の子は少しも小さく見えなかった。不思議なオーラのようなものを纏っているからだ。
 女の子は真の後ろを覗き込むようにする。
 真がそれに気が付いて、女の子の目の先を追うと、その視線は真のチノパンツの後ろポケットの上に止まっている。真はポケットから封筒と写真、リボンを取り出した。

『これ、君のなんだね』
 女の子は頷いた、ように見えた。女の子の髪の毛に、よく似たライラック色のリボンが光に溶けている。改めてリボンの手触りを確かめると、しっとりとした絹のリボンで、微かに花の絵が描かれていた。
 これ、日本の着物の端切れだ。
 懐かしく優しい手触りが、まるで今しがた、誰かの手で縫い込まれたように、手の中で沈み込むように重くなる。

 言葉ではっきりと聞けたらいろんなことがわかるのに、中途半端な霊感だと、言葉も交わせないのかと残念だった。もっと言葉を聞くことができたり、過去の記憶とかが見えたらいいのだが、そんな便利な霊感が備わっているわけではなかった。
『君の名前を教えてもらえたらいいのに』
 女の子は大きな瞳で瞬きをして、ちょっと困ったように首をかしげた。
『これは、君とお母さん?』

 真が尋ねると、女の子は頷いたが、それよりも急いでいることがあるようで、真の腕を引っ張った。質量は感じないのに、確かに触れている実感がある。引っ張られて立ち上がったが、足が痛くてうまく歩けない。
 女の子はそれに気が付いて直ぐに引っ張るのを辞めた。
 そして真の前にしゃがみこみ、両手で真の足を包み込むようにする。
 温かくほわほわしたものが、痛んでいた真の足首の周りを取り囲んでいる。足が確かに軽くなっていた。

『ありがとう。僕は、君に何をしてあげたらいいいんだろう』
 女の子はやはり答えなかった。ただ真の手を引っ張る。
 女の子は天使の彫刻の後ろ側に真を連れて行った。そして地面を悲しそうに見つめる。悲しそうに見つめたまま、涙を落とし、そしてまた真を見上げた。

 この地面の下。
『君はここにいるの?』
 女の子は首を横に振った。そして真が握りしめたままの写真に視線を向ける。 
『まさか、君のお母さん?』
 女の子は首を横に振った。そしてゆっくり顔を上げて、少し遠くの空を見る。

 真が見上げても、自分たちのいる空間の頭の上はまっ白で、空も何もわからない、光の雲に覆われていた。
 女の子が視線を戻し、再び真の手の中にある写真を見る。少し首をかしげるようにして、まるで裏を覗き込むようだ。
 真はふとその視線に誘われるように、写真の裏を返した。

 幼い文字で、何かが書いてある。
 真の目は消えかかった文字に釘付けになっていた。

 その時、微かに音が聞こえてきた。
 真は目を閉じ、耳を澄ませた。
 鐘の音だ。
 正午の知らせる鐘の音は、少し離れたシエナの街から聞こえてくる。
 真が吹き抜ける風の気配に目を開けた時、女の子も、彫刻も、全て掻き消えていた。


 さっき見かけた女の人の影もない。風が舞っていて、まだ鐘の音だけが聞こえている。真は昨日竹流が連れて行ってくれたシエナの街の光景を思い描いた。あの町のどこかにあの子が逢いたい人がいるのだ。
 写真の裏に書かれていたのは、幼い、字を覚えたばかりの子どもが書いたような文字。
 MAMMA, TI AMO. AURORA.

シエナ
 そして。
 真は辺りを見回した。地面を掘れるようなものは何もない。
 この下にいるのは誰だというのだろう。それとも、単に大事なものが何か埋まっているのだろうか。真は近くのオリーブの枝を折った。頼りにならないが、手で掘るのは難しそうだ。ないよりはましだと思った。
 地面は思ったより固くはなかった。やがて、オリーブの枝は、何か固いものに当たった。真は手で湿った土を払いのけ、その下にあるものに触れた。

 そのごく一部にしか触れなかったが、指先は、かつて生きていた人の気配を、真の身体に電流のように流し込んだ。
 真は思わず土を元に戻した。全てを見る勇気はなかった。

 その時、顔を上げた真は、自分を見つめる視線とまともに向き合った。オリーブの木の影に、さっき教会から最後に出て行った女性が立っていた。女性は真と目が合うと、一歩後ろに下がり、そのまましばらく真を見つめていたが、やがて背を向けて慌てるようでもなくゆっくりと歩き去って行った。
 その目には、恐怖と言った種類のものはなく、ただ諦念と、そして安堵のような不可解な感情だけが浮かんでいた。

 その視線の意味を掴みかねて、真は追いかけようとすることもできなかった。
 何か、とんでもないものを掘り起こそうとしている、それは恐怖ではなく、悲しみだった。誰かの悲しみがこの土の下に埋められていて、愛する誰かの手を待っていた。

シエナ
 今、光の中をゆっくりと黒い尻尾が真の前を歩いていた。
 真は誘われるままに、ホテルの前からバスに乗り、シエナの街を目指した。バスのフロントガラスの前の道は、打ち水がされているように蜃気楼が煌めき、その中に黒い尻尾がバスを導くように走っている。
シエナ
 シエナの街に着いて、バスを降りた後、尻尾を探すと、バスの発着場になっている小さな広場から続く階段に、揺れながら上って行く尻尾の影が見えた。尻尾は階段の先の路地に入っていく。
 追いかけて路地に入り、いくつか小さな道を曲がり、方向感覚が分からなくなった頃、いきなり路地から出て行った尻尾が消えた。追いかけた真が路地を出ると、目の前にあの貝殻の美しい広場が、いきなり扇を広げたように視界全体を覆った。





さて、次回は第6回は、もうハチャメチャな回に見えるかもしれません(^^)
本当にすみません(先に謝ればいいってものでもないけれど)m(__)m
御出演いただくのは、以下のメンバーです。


探偵事務所【ラビット・ドットコム】の皆様
Artistas callejerosの皆様
そして吟遊詩人(?)・愛心さん


詳しくは次号を待て!…じゃなくて、次回の冒頭でご紹介(*^_^*)


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【幻の猫】(6) 世界で一番美しい広場/ Grazie mille!  

真250kuroneko250
さて、今回はまさにフィエスタ…お祭りです。
その名も、日本祭り。って、勝手に作りました^^;
シエナのカンポ広場、世界中で最も美しい広場と大海が信じて疑わない、素敵なこの場所で、行き交う人々に巻き込まれる真。
心は揺れ動く中、出会ったのは、あの人たち。

まずは物語をお楽しみください。
快くこの作品の中でご自身の愛おしい子どもたち(人物や詩)を使わせていただく/登場いただくことを許可してくださった3人のブログのお友達への謝辞はラストで(^^)
なお、作中では全体の印象を壊さないために、出典を敢えて控えております。
記事の最後をぜひ、ご覧ください。

少し字が多くなってすみません。
その分、エンターテイメント度は高いと……いいなぁ^^;





 真は広場を見回した。尻尾はもうどこにもいない。
 小さい声でジョルジョ、と呼びかけてみたが、そもそもそんな名前かどうかも分からない。何より、あの猫が自分だけに見えている可能性もあるのだから、尻尾だけの猫、見ませんでしたか? とも聞けない。

 いずれにしても、賑やかに行きかう人々の中で尻尾を見つけることはとても難しそうだった。それほど大きな広場でもないのに、この中でたった一人、たった一匹を見つけることがこれほどに難しいのは何故なのだろう。
 そこに探し当てたい人がいるのかどうかも分からない。いたとしても、この中で何を探せばいいのか分からない。

 心許なくなって、足元を見つめる。
 もしかしたら、何もかも夢かもしれない。

カンポ広場
 真はゆっくりと広場に足を踏み入れた。広場の上部、貝殻が広がった側の店が、広場に張り出すようにしてテーブルや椅子を並べていた。昼を少し過ぎているはずだが、まだ店には多くの客がランチを楽しんでいた。忙しさのあまり小難しい顔をした給仕が、店のテーブルの間を行き来する。子どもが、露天の店でシエナの街のいくつかある地区の旗を買ってもらって、身体に巻きつけるようにして広場を走っている。犬が興味深そうに真を見上げながら通り過ぎていく。
 老夫婦、若者の集団、家族連れ、そして幾組ものカップルが、広場の中で人生のひと時を分け合っていた。
カンポ広場

 真は今、ぼんやりと視線の少し先の路地から出たところに立つそのカップルを見つめていた。
 背の高い男の金の髪と、華やかで惹きつけるような顔立ちの女性の燃えるような赤い髪が、光の中で輝いていて、否応なしに目を引いたのだ。
 思わず目を伏せ、視線を避けて、考える間もなく引き返した。

 二人は誰の目から見ても、お似合いのカップルに見えた。他人の目を惹きつける華やかなカップルだ。男性の手は、傍らに立つ女性の腕を抱き寄せるようにしていた。少なくとも真の目にはそう見えた。
 このまま消えてなくなりたいような不安な気持ちになり、貝殻の隅っこにまで逃げ戻った。

 大学の試験の前から今まで、ほとんど夢の中を歩いていたような気がしていた。竹流は試験とか勉強のことでは無茶苦茶に厳しかったし、手を抜くことは全くと言っていいほどなかった。
 だがあの日以来、異様なほどに優しく、まるで世界の中には真だけしかいないように扱ってくれた。
 そして今、この国の陸地に上がり、彼を取り巻いていた多くの人や物が現実化していくと、それらが彼の心を正気に還していっているということなのだろう。

 それは致し方のないことだ。
 自分は影の部分にいる。そして彼は、あのように光の中に立っている。女性の肩を抱き、耳元に愛の言葉を囁きかけ、この先の未来へ歩いて行く。
 暗い部屋の中で、どれほど求め合っていても、その先に行くことはできない。

 それなら、自分はここから消えてしまいたい。でも、どうやって彼を振り切り、自分が元いた場所に戻ればいいのだろう。それとも帰るべきその場所はもうなくなってしまっているのだろうか。
 もう何も考えずに、ホテルに戻って、布団を被ってうずくまってしまいたい。
 どうして尻尾なんか追いかけて、こんな華やかな場所に来てしまったのだろう。きっとあの尻尾は幻なのに。

 広場の扇の横に当たる部分にも、いくつか小さな店があった。
 そのまま広場から出て行こうとしたとき、ふと、その一軒の店先に飾られた写真が目に留まった。いや、正確には、その写真に重ねられた文字に。
 ……日本語だ。
 真はショウウィンドウに近付いた。

 ショウウィンドウの向こうには棚があり、温かい色合いの雑貨が並ぶディスプレイになっていた。
 そのガラスの棚から、写真に添えられた詩が、優しく語りかけていた。
 写真には、真っ白な、少しだけ傷ついたマーガレットの花弁が、それでも懸命に腕を広げるようにして咲いていた。

『強風に煽られて
 ふりだしに戻ったように見えても。

 きっとそこは
 もといたスタート地点じゃない。

 傷ついた羽の分だけ
 次はもっと高く飛べるはずだから。

 どんなに羽が傷ついたとしても。

 翼は折れたりしない。

 何度でも羽ばたいてゆく。』



 視界は半分溶けていた。そのまま、いきなり目の奥が熱くなり、鼻の奥から何かが込み上げてきそうになっていた。


「ねぇねぇ、君、その詩のこと知ってるの?」
 その時、いきなり頭の後ろから日本語が覆いかぶさってきた。
 これは決して大仰ではなく、まさに覆いかぶさってきたのだ。なぜなら、言葉と同時に誰かの温かい手と心地よい重みが、真の身体を包み込んだからだ。

「ちょ、ちょっと、リリコさん、知らない人に、なんてことするんですか」
 真はまだ自分を後ろから抱きしめたままの手の持ち主を、恐る恐る振り返った。
 振り返った途端、真の真正面にあったのは、ちょっとばかり色気のある、そして何より茶目っ気のある瞳だった。

「だって、好みのタイプだったんだもん」
「いや、そういう問題じゃなくて、ですね」
 目の前にいるのは、教会に入る時にはきっとスカーフか何かで腰を捲かなければ入れてもらえないに違いない、短いスカートを穿いた女性と、そして彼女の突飛な行動を止めてあたふたしている人のよさそうな青年、さらにその後ろに長身のちょっとおっとりとした感じの、ただし突っ込んだらぼけ返すに違いなさそうな年上の青年の三人組だった。

 しかも、今さらのように気が付いたが、日本語だ。
 いや、日本人っぽいから、当たり前か。
 そうか、日本語だ。もう一度そう思ったら、急に力が抜けた。

 足元が崩れそうになったとき、長身の青年が、リリコと呼ばれた女性ごと真を支えた。
「わぁ、ちょっと、大丈夫ですか? ほら、リリコさんがいきなり抱きつくから」
 意識が飛んだわけではない。慌てている青年と、そして比較的冷静に真の様子を観察している年上の青年、さらに自分が招いた結果に見かけよりはきっと慌てている、そして見かけよりはきっととても優しくて可愛らしい印象の女性は、とにかくみんなで真を守るようにして広場の日の当たる場所へ移動した。

カンポ広場
 座り込んでしまった真に、いかにも人が好さそうな青年が、自分の持っていた瓶入りの生ぬるい水を差しだしてくれる。でも飲みさしだしなぁ、しかもガス入りだしなぁ、と困っている。ガス入りの水は彼の口に合わないのだろう。こんなものをもらっても真が困るに違いないと思っているようだ。
 真は顔を上げて大丈夫です、と答えた。

「あぁ、良かった。日本人、ですよね。言葉が通じなかったらどうしようかと。あの、決して怪しいものではありませんから」
 クォーターである真が、一見では日本人かどうか、分からなかったのかもしれない。
 一生懸命話しかけてくれる気の好い青年は稲葉と名乗り、後ろにいる背の高い青年を宇佐美、そして真に抱きついた女性を李々子、と紹介した。

 緊張のピークにいきなり攻撃を食らったので、交感神経の糸が切れてしまった、それだけのことだったので、かえって申し訳ない気がした。
「ごめんね。びっくりさせるつもりじゃなかったんだけど」
 そこまで言って、李々子さんは口をつぐんだ。もちろん、好みのタイプだったからではないのだ。彼女は君が泣き出しそうだったから、という言葉を飲み込んでくれたみたいだった。宇佐美さんが引き取って、真を追い込まないように気遣ってくれる。

「じっとあの詩を見てたから、もしかして知ってるかなって思ったんだよな」
 宇佐美さんがまとめ役のようだった。真が聞き返すと、宇佐美さんが説明しようとしてくれたようだったが、それを李々子さんが遮った。
「ねぇねぇ、もう始まっちゃうから行こうよ。ゆっくりお店で話したらいいじゃない。あ、シロちゃん、先にお店に行って四人になりましたって言っといて」

 李々子さんが言い終わらないうちに、確か稲葉さんと名乗ったはずの『シロちゃん』が、使い走りのように駈け出していく。まるで素直な飼いウサギみたいだ。あれ? それを言うなら飼い犬か。何でウサギだって思ったんだろう。
 と考えていたら、すかさず宇佐美さんが真に向き合う。

「あ、君ね、断るんなら今だよ。李々子は君を気に入ったみたいだから、取って食われるかも」
「何言ってるのよ。この子が食われるんじゃなくて、食うの。あ、そうだ、君、一人? ご飯、まだよね」
 今さら聞く? という気もしたが、それにこっちの都合を聞いているようで聞いていなみたいだと思ったが、何だか勢いで頷いてしまった。
 感じのいい三人組で、好き勝手なことをお互いに言っているけれど、信頼し合っていなければ生まれない間合いがあった。

 ここから見えなくなってしまうならどこでもいいと思っていた。そう考えている真を、宇佐美さんがまるで心を見透かしているような、だが何も言わずに見守ろうとでもいうような目で見ている。と思ったら、ふわんと視線を広場の遠くへやってしまった。まるで、心を読んでしまったことを、真に気が付かれたら困るとでもいうような戸惑いの表情で。
 優しい人なんだろうと思った。

 だが何より、初対面の人に心を読まれてしまうほどに、今の自分は明け透けになっていて、いけていないということなのだ。感情が零れ出してしまいそうになっている。
 気が付いてみたら、もう数週間、まともに話す相手が竹流だけという状況だったのだ。しかも、今はお互いに口数も少なくなっている。身体と身体の距離が近づく分だけ、心は遠くに離れそうに脆くなっている。

カンポ広場
 宇佐美さんと李々子さんに連れて行かれたのは、お洒落なリストランテというよりも気さくなトラットリアという感じの店だった。広場に面していて、入口は広くないが、奥行きは随分ある。中に小さな舞台が設えてあって、生演奏を聞かせることもあるようだ。
 店内はほとんど満席で、随分にぎわっていた。
 生ハム、チーズ、パスタを始めとして、あれこれと頼み、飲み食いしながらあれこれ話が弾む。いや、ほとんど李々子さんと稲葉さんの間で弾んでいる。目の前の食べ物批評だけで延々と続く弾丸トークを真は感心して見守っていた。同じものを目の前にしても、これだけの会話が出てくるのが不思議だった。

 ところでウサギと思ったのはあながち間違いではなかった。宇佐美さんの名刺を受取って、真は顔を上げた。
 探偵事務所『ラビット・ドットコム』。

「あの詩を書いた人は、あこさん、愛の心と書いて、あこさん、という女流詩人なんだけどね、今居場所が分からないんだ。鋼鐵業界の大きな会社の社長さんのお嬢さんなんだけど、家出をしてしまって。それで僕たちが頼まれて探しているんだ。パスポートが一緒に消えいていて、パリ行の飛行機に乗ったことまでは分かったんだけどね。そうしたらフィレンツェ周辺で、彼女の詩がこうやってあちこちの店に飾られているのが分かって、で彼女の詩を飾っている店で、聞き込みをしているというわけ」
「ね、お金持ちってすごいでしょ。探偵を三人も海外に送り出す、必要経費は前払いでどっさり、成功報酬は……」
「李々子さん」
 稲葉さんが止める。
「あら、シロちゃんだって、忙しい学年末に休んじゃって。あ、この人、学校のせんせーなの」
「担任じゃないからいいんです。春休みの前借ですし」

 二人の言い合いを完全に無視して、宇佐美さんが真をじっと見つめる。
「ね、君はどう思う? その愛心さんのこと」
 どう思う? まるで真の心をさりげなく確かめるように聞く。

「……きっと、大事な人がいて、その人に自分の言葉をどうしても伝えたいんじゃないでしょうか。どこかにいるはずの、一番大事な人に」
 宇佐美さんは黙ったまま、まだ真を見つめていたが、やがてうん、と頷いた。言い合っていた二人も、うん、と同時に頷く。

 その時、紳士淑女の皆さん、と大きな声を張り上げて、店のオーナーが口上を述べ始めた。もちろん、何を言っているのか分からない。
「今日からちょうど、ラ・フィエスタ・ジャポネーゼ、つまり日本祭りなんだ。ここ、日本人の語学留学生が結構いてね、日本の文化とか料理とかを、町の色んな店で紹介している。美術館も小さいスペースだけど、浮世絵とか展示するらしいよ。で、今日はこの店で、いわゆる大道芸人の人たちがパフォーマンスをしてくれるんだ。四人組で、うち二人が日本人」
 この人、イタリア語が分かるんだろうかと真が呆然と宇佐美さんを見ていると、稲葉さんが解説した。
「昨日、たまたま店でその人たちと会ったんですよ。で、一緒に大騒ぎになっちゃって。今日はここで演奏するから聴きに来たらって誘われたんです。で、特等席」

 先頭になって舞台に現れたのは、腰まで届く黒髪の、しかも女の魅力に敏感だとは言いかねる真にも美人だと分かる、印象的な日本人の女性だった。いや、日本人が二人いると聞いていなかったら、ちょっと迷ったかもしれない。ステージ衣装なのかどうか、それほど凝った服装でもないのに、華やかで艶やかで、ちょっとスリットが深く入った長めのスカートから覗く足が、恐ろしいくらいに魅力的だ。
 そして、その後ろに現れた男性もやはり日本人で、こちらはすぐに日本人と分かるように袴を穿いている。真は目を見張った。持っているのは三味線だ。
 さらに二人、こちらは西洋人のようだ。一人は茶色い巻き毛にひょろ長い手足、メガネをかけていて、いささか自信なさげな風体だった。もう一人は四人の中では一番背の高い、金髪碧眼の整った顔立ちの男だが、表情が読めない。

 そして李々子さんがはしゃいでみんなに手を振っている。茶色い巻き毛がちょっと照れたように目を伏せる。きつい顔をした日本人美人女性がちょっと季々子さんを見たが、睨むのかと思ったら、なんだ貴女なの、しょうがないわねという顔だった。
 それだけで、昨日の騒ぎっぷりが目に浮かぶようだ。多分、まったく気が合わないように見える女同士だが、酒を飲めば話は別ということになってしまったのだろう。

 始まったパフォーマンスは一級だった。金髪碧眼は、整っていることが却って芸のマイナスになるのじゃないかと思うような顔立ちなのだが、パントマイムを始めると、嫌味なほどの男前が気にならなくなった。
 美人がフルートを演奏し始めた途端、騒がしかった店内が水を打ったように静かになった。その調べに合わせて、パントマイムが始まる。

 誰かに恋をしている。そして実らぬ恋の相手に贈り物をしようと思う。占い師を訪ねていく。あの自信なさそうだった茶色い巻き毛氏が、魔法のようにカードを取り出して見せ、見事なカード捌きを見せた。真には意味が分からなかったが、それはタロットカードのようで、恋をする青年は良い結果を得られなかったようで、何度もカードをねだる。その過程の中で、巻き毛氏は見事な手品を披露した。客席からため息のような声と拍手。
 やがて花を贈ることに決めた恋する青年のために、バラの花が次々と巻き毛氏の手から生み出され、客席の女性に配られていく。
 もちろん、一番にもらったのは李々子さんだった。李々子さんがちょっと自慢げに宇佐美さんに見せる。宇佐美さんはわざとらしく知らん顔だった。

 フルートが気持ちを高ぶらせていく中で、後ろであの三味線を持っていた青年が、今は三味線ではなくギターでその感情を支えるように合わせている。
 やがて、青年の恋は破れたのだろう。言葉もなく大げさな振る舞いもないのに、表情だけで、その悲しみが胸を抉るように伝わってくる。隣で李々子さんが泣いていた。気が付くと、店内のあちこちからぐすぐすと鼻をすする音が聞こえてくる。

 しかし、青年はその時、恐らくは恋した彼女がいたはずの高い幻の窓を見上げ、不思議と幸せそうに笑った。
 恋は破れたのだと分かるが、何かが青年の心を満たしているのだ。
 それが何か、語られることはない。
 だが、その表情が真の心を射ぬいた。

 最後の瞬間、青年の胸の前で、魔法のようにバラの花束が溢れて、咲いた。

 店内は拍手喝采だった。
 二つ目は日本をモチーフにしたパントマイムだった。曲はよく知らないが、多分、マダムバタフライをテーマにしているのだろう。今度は薔薇ではなくて蝶々が手品師の手から出てくるのかと思ったら、さすがに生き物ではなくて薄い和紙で作られた色とりどりの切り絵のような綺麗な紙の蝶だった。また女性たちに配られていく。今や手品師は店内の女性たちの気持ちを完全に惹きつけていた。

 フルートが艶やかだった。あの綺麗な人はね、蝶子さんっていうのよ、と李々子さんが真に耳打ちした。今度の演奏はフルートと三味線の組み合わせだった。
 いつの間にか、店の外からも店内に入りきれない人々が覗き込んでいた。広場のにぎわいがそのまま店内に持ち込まれたようになっている。

 そして本当に自然に、蝶々夫人の曲調がじょんからに変わっていた。フルートを吹き止めた蝶子さんが、形のいい眉をくっと吊り上げるようにして皆を、店の中の様子を見ている。フルートに続いた三味線は、パフォーマンスなのだから派手やかな曲弾きをするのかと思ったら、旧節の唄の伴奏部分だった。伴奏とは言え、華やかな印象のある旧節は、祖母もよく唄っていた。いつの間にか、唇が動き、唄を口ずさんでいた。
 その瞬間、蝶子さんという美人とがっちり目が合った。

 パフォーマンスが一通り終わると、砕けた調子で演奏が始まり、昼間にも拘らず、客も巻き込んで踊ったり、カード手品を目の前で披露してもらったり、パントマイムの挨拶が客席を巡ったりした。その時、蝶子さんが他には目もくれずにまっすぐ真のところにやってきた。
「あなた、三味線弾けるんでしょ?」

 何故そう思ったのかは分からない。女の目は何でも見抜くということなのか。考える間もなく、三味線弾きの若者のところに引っ張って行かれて、彼がギターを、蝶子さんがフルートを、そしてあまりの勢いに逆らえないままの真が三味線を持って、即興のじょんから変奏曲が始まった。
 再び店内は一瞬静まり返り、その後は大盛り上がりだった。殊に、李々子さんが大はしゃぎだった。

 蝶子さんのフルートは芸術などというものの域を越えていた。和のリズムに完璧に合わせることができる洋楽器の演奏家などというものに、いまだかつて真は会ったことがなかった。和のリズムには、楽譜に書き起こせない、口で伝えることもできない『間』があって、それを難なく取り入れながら三味線についてくる蝶子さんの技術に驚いた。蝶子さんがソロの部分を吹き切って、満足したようにギターに譲ると、ギターの若者は、ギターで完全なじょんから節のリズムを弾いた。真はあっけにとられて彼の手を見つめていた。懐かしくて、気持ちがざわめいた。いや、津軽風に、じゃわめぐ、というのが適当だ。

 挑戦するような袴の若者のじょんからに煽られて、真も久しぶりに気持ちが高ぶっていた。ソロパートを譲り受けて、一の糸を思い切り叩いた。

 しがらみや苦しさや、世間の苦さを、全て断ち切るのが一の糸だ。糸合わせで叩いた第一音でその奏者のレベルが分かると言う。それを知っているに違いない袴の青年が、真を見てにっと笑った。二の糸は、表に出せない心の声だ。そして三の糸は、あらゆる人生の場面を、豊かに、時に激しく、時に哀しく、また優しく語る。
 じょんからを叩くとき、真の心の中には北海道の冬の景色があった。津軽人に言わせると、お前の三味線はチーズ臭いということなのだが、それは仕方がない。それに実際には、きわめて津軽に近いリズムだと自負してもいる。

 泣きの十六、と演歌にも唄われる十六のツボに指が滑り降りたとき、真は目を閉じた。そして、十六で駒を押さえて音を落とした時には、騒がしかった店内は完全に真っ白に静まり返っていた。
 真にはそれが実際の店内の光景だったのか、ただ自分の心の光景だったのか、はっきりと覚えがない。閉じた目を開けた時、初めて店内の全ての目が自分に注がれていることを知った。

 そしてその中の一点に真の目は吸い寄せられた。
 十六のさわりが身体全体に、そしてこの店全体に響き渡る。
 今、竹流の青灰色の瞳が、まっすぐに真を見つめていた。

カンポ広場





もともとlimeさんの描いてくださった素敵なイラストに物語をくっつけようと思って書き始めたこの物語。
そのlimeさんに捧げるお話なのですが、いっそお祭りにしてしまおうと。
きっとlimeさんも喜んでくださるはず、と勝手に思い込み、いつも私がお世話になっている、そしてブログをとても楽しく読ませていただいている他のお二方からも、お許しを頂きましたので、この回の物語が完成いたしました(^^)
自分では書いていて、こんなに緊張して、こんなに楽しい回はなかったわ、というくらい楽しく書きました。

まずはその、本当に素敵なブロガーさんを……
もちろん、みなさんがご存知の、かの有名なブログさんばかりなんです。
それを、ブログ初心者の大海の『使わせてください!』に快くOKを下さり、本当に本当にありがとうございました。100万回くらい、お礼を申し上げたいです。


登場順に…
akoさん→ akoの落書き帳
limeさん→ 小説ブログ「DOOR」
八少女夕さん→ scribo ergo sum
です。
いまさらですが、ここに使わせていただいた作品と登場人物の著作権は全てそれぞれの作家さんのものです。


実は、え?こんな使い方されちゃ困るわ、というお叱りの声も聞こえてきそうで、今回の公開は恐る恐るです。
一応、大海なりの解説を。


まずはakoさん
実はakoさんには【死者の恋】で詩人の愛心さんとして、詩集の登場をお願いしておりまして、あの生意気な女子高生が実は愛心さんのファンという下りで、詩を使わせていただきたいとお願いしていたのです。
で、その愛心さんの若かりし頃(【死者の恋】は真が26歳なので、このお話から8年後)のエピソード(家出していた^^;)として今回は登場。
真が読んで泣く、というシーンを書きたくて、こんな形で使わせていただきました。
候補にしていた詩はいくつもあったのですが、今日アップされていたこの新しい詩を読んで、なんとまるでこの話に呼応するようだわ、と勝手に思い込み、使わせていただきました。
他にも好きな詩・ことばがいっぱいあるのですが、今のこの真の心に寄り添うみたいで、拝読して本当に嬉しくなってしまった。
本当はお写真ごと載せたいのですが、お写真は別の方のもの。
即、akoさんのブログに飛んで、綺麗なお写真とともにご覧くださいませ。
akoさん、【死者の恋】でもよろしくお願いいたしますねm(__)m

そして、limeさんちからお越しいただいたのは、探偵事務所、ラビット・ドットコムのお三方。
李々子さん、稲葉くん、宇佐美さん。
このお三方の会話がもう楽しくてたまらない【ラビット・ドットコム】、もちろん知らない人はいないのでは、と思いますが、その魅力をぜひ、再度limeさんのブログを訪れて、改めてお読みくださいませ!
もちろん、会話だけでなく、三人の関係性、お互いを思いやる気持ち、そしてそれぞれしっかりとキラキラ生きている素敵な登場人物たちです。limeさんの物語は本当に、発想も内容も豊かで、何よりエンターテイメント性に充ち溢れています。その中で生き生きと動く人物たちの魅力的なこと!
会話や台詞、それっぽく書けていたでしょうか。limeさんや皆様のイメージを壊していないかだけがものすごく心配。りりこさんの一見おきゃんだけど(江戸の町娘か!って言われそう)心根のすごく優しいところとか、シロちゃんの一生懸命さとか、ちょっとぼーっとしているようで的確に観察している宇佐美さんの優しさとか。
limeさんのお話は、ココロにまで食い込むようなお話が多いのですが、このラビットたちは、もちろんココロにぐっとくるのだけれど、爽やかに読ませてもらえる、極上のエンターテイメント作品です。
私は深夜の30分番組でこれを観たいです。

さぁ、そして、夕さんちからお越しいただいたのは、大道芸人Artistas callejerosのメンバーの皆さんです。夕さんのお話の登場人物も、本当に個性豊かで、いえもう、夕さんこそ書き分けの天才です。
私は夕さんの書かれる女性が大好き(特に2人^^;)。生き生きしていて、自分に嘘はつかない、たくましさと白黒はっきりさせる力強さと、意外に本人にとってあり得ない環境になじむ強靭さと。すべて憧れです。
そして、今回、蝶子さん、稔さん(名前を出さなくてすみません…チャンスがなくて)と真をぜひ、共演させたかった。本当はこの後で、稔の三味線で真が唄うシーンまで考えていたんですが(もちろん小原節)、先に竹流と目が合ってしまいました^^;
また何かのチャンスに書かせていただきたいですね。
そして、実は彼らのパフォーマンスの光景をぜひ、この広場に重ねたかったのです(あ、建物の中ですが…いや、なんか、あの広場、何回か行っているのですが、大道芸をしているのを見たことがなくて、規制でもあるのかなぁと思って、店の中にしました)。
パフォーマンス描写がメインになってしまったのですが、ここに(→ 大道芸人たち・キャラ設定)キャラの具体的説明がなされていますので、ぜひぜひ改めてお読みいただいて、大海、この辺の描写は違うんじゃないかとご指摘くださいませ。でも、こんな詳細も、夕さんの人物の魅力なんですよね……
あ、実はまだ読み切っていないのです。でも、残っていることが実はとても楽しみな大海です。

自己満足ですが、ちょっとヴィルのパフォーマンスを書きながら、真の気持ちになって、自分でうるっとしてしまったのは、お恥ずかしい話です…。
時代がこの歌の登場より古いので、敢えて書きませんでしたが、もちろんモチーフは『百万本のバラ』です。
貧しい絵描きは 孤独な日々を送った
けれどバラの思い出は 心に消えなかった…んですね。

泣きの十六
十六というのは、かなり高いツボです。
ここで、ちりちり…と糸を撥で軽く叩いて掬って、また左の薬指で糸を弾くのです。
津軽には、他の三味線にない『さわり』というのがあって、ツボがきちんと押さえられると、わ~~ん、と3本の糸が共鳴します。
ずれると、さわりが起こりません。
これが響いたとき、本当に泣きそうに気分がいいです。

そして、旧節
唄われた時代によって、じょんからには旧節・中節・新節があります。
印象ですが、旧節は少し華やかな感じがします。中節はシンプルで、三枚撥(リズムがよされっぽい)のような感じです。新節は耳に馴染みやすい。
敢えて、ここでは旧節を弾いてもらいました。
なぜ? 稔は玄人ですからね。


あぁ、また本文より長いと疑われるあとがきを書いてしまいましたが、ここは仕方ないですよね(^^)
夕さんのおっしゃるscriviamo!(一緒に書こうぜ!)の世界を楽しむことができました(^^)(^^)


お三方でも、他の方でも、これはダメだよ、○○はこんなこと言わないよ/しないよ、ということがございましたら、ぜひお叱りください。いくらでも書き直します!!

ちなみに、時代のずれは全くもって無視してくださいませ(*^_^*)


さて次回、ようやく最終回(ホンマやろな、大海、とか突っ込まないでくださいね。いささか自信がない…^^;)。
そして、エピローグにはサンガルガノ教会をご紹介したいと思います。



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【幻の猫】(7) 真実の一歩手前 

真250kuroneko250
えーっと、ですね。そうなんです。また長くなってしまいまして、どうしてなのか自分でもわからなくなっちゃいました(?_?)
やけくそでこんな題名をつけてしまった…
もう次回最終回とか言うの、やめようかなぁ。

つまり、前回までのお話で、すごい竹流が悪人になっているので(いや、悪人ですが)、ちょっと言い訳させてやろうと思ったら、長くなってしまって。
今回のラストシーンは、もともとこの第7話のファーストシーンだったのに^^;

いえ、もう言い訳は終わりにします。まずは、竹流の言い訳を、聞いてやってください。
ついでに、プリンター/スキャナーのWiFiまで馬鹿になっておりまして、おろおろ…の大海でした。





 竹流はクラリッサと一緒に、ゆっくりと歩くジョルジョの黒い背中と長い尻尾を追いかけていた。猫は時々彼らを待つ。そしてまた、時々人や車の陰に隠れて見えなくなる。そんな時でも、尻尾だけが視界に残っている。
 幻を追いかけているような気がする。

 幻。

 パレルモで陸に上がってから、昔からヴォルテラの家に出入りをしていた幾人もの人たちに会った。彼らのいる場所を選んで通っていたわけではなかったが、逆にこの国の中では、ヴォルテラにゆかりの人のいない場所を探す方が難しかった。クルーザーを預かってもらったり、長年の無礼を詫びる必要もあったし、自分が日本にいる間にも、直接『息子』に何も言わないチェザーレの代わりに、何彼と連絡をしてくれようとした人もあったのだ。

 その懐かしい人々の顔を見て話をすれば、里心もつくというものかもしれない。
 あれほど苦しい思いをしてこの国を出たのに、帰ってきてしまえばすべてが愛おしい。
 日本の湿度を帯びた緩やかな気候、四季の花々の豊かな香り、古の人々が愛でたあらゆる品物、芸術的なものも、ただ日常の生活で大事にされていたものも、そして愛しい女の肌や声、それらが完全に自分を満たしてくれたと思っていたのに、まだ何かが足りないというのだろうか。

 あんたの国に連れて行ってほしいと真に言われたとき、この国に戻ればこんな思いを抱くことを予想していたのではなかったか。それなのに、ほとんど何もわかっていない真をダシにして、ここへ戻ってしまった。

 一緒にいれば、全てが満たされるのだと思っていた。たとえ世の中の全てが、神までもが敵であっても、二人ならばこの世界を渡って行けるのかもしれないと考えた時もあった。それは、確かに彼が、竹流が幼いころから抱えてきた誰にも何にも埋めることができなかった空洞を埋める唯一のものだと、そう感じていたからだ。
 それは今でも決して思い違いではないと思う。だが、何か間違っていたのだろうか。
 方法が?
 それとも人間というものは、完全に満たされるということは幻想にすぎないのだろうか。

 今、幻に溺れそうになっている。

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 カンポ広場に入って行ったジョルジョの尻尾が、ふいと光の中に消えた。
 おや、と思ってクラリッサを見ると、彼女も不思議そうに竹流を見上げた。黒猫なのに、光の中に見失うなんてことがあるのだろうか。

 日曜日の広場のにぎわいは予想以上だった。
 多くの人々が、カップルや友人同士、家族で輪を作り、あるいは歩き、あるいは座りこみ、子どもたちはまるで足元も見ずに走っている。クラリッサの方へ走り寄る子どもに気が付いて、彼女の腕を抱き寄せると、クラリッサがふいに竹流を見て言った。

「ベルナデッタは教会へは行かなかったのかしら」
 竹流はクラリッサを見つめた。
 確かに、彼女は大変信心深い人だった。今日は日曜日だし、出かけるとしたら教会だろうに、バールとはどういうことだろう。『片羽根の天使協会』に残っていた女性は、いつものことだからと言ったが、曜日を勘違いしていたのだろうか。

マンジャの塔
 聞いていたバールは広場の片隅にあったが、訪ねていくと、主人は忙しそうにカプチーノを淹れながら首を横に振った。今日は祭りの初日だから、イベントの行われる店に行ってみないかとベルナデッタに勧めたのだという。バールの主人は家族のために予約を入れていたようだが、急な用事で行けなくなったらしい。ベルナデッタに連れの女性がいなかったかと聞くと、彼は首をかしげた。

カンポ広場
 広場を横切り、探し当てた店の入り口には、中に入りきれない人々が覗き込んでいた。表には、ラ・フィエスタ・ジャポネーゼ、と町のあちこちで見かけたのと同じ看板の上に、、四人組の大道芸人たちを撮った芸術的な写真が貼られていた。怖いような美人のフルート奏者と、袴を穿き三味線を持った日本人男性が背中合わせに立ち、二人の西洋人らしい男が向かい合わせで座っている。

 店の中では、写真の大道芸人たちがパフォーマンスをしていた。パントマイムと手品、そして哀愁の漂うフルートとギターの調べ。席はほとんどが埋まっている。

 入口からはそれほど奥に入っていない席に、ベルナデッタの背中を見つけた。痩せた背中を少し丸めるようにして、舞台の方を見つめている。
 竹流は一度クラリッサと顔を見合わせてから、狭い通路を通ってベルナデッタの座る席に行き、そっと呼びかけた。しっと誰かの窘めるような音が聞こえる。二人は、ベルナデッタの他には誰も座っていないテーブルの席についた。ベルナデッタは何も言わずに舞台を見つめたままだった。

薔薇
 舞台のほうを見ると、そのパフォーマンスは大詰めのようだった。美しく悲しい顔をした青年がふと高い場所を見上げ、静かに微笑む。
 青年の胸のあたりに、真紅の薔薇の花束が咲いたとき、ふとベルナデッタを見ると、声も出さずに涙を流していた。
 周囲の拍手と声援の中で、竹流はベルナデッタの手をそっと握った。
「ベルナデッタ」
 呼びかけた時、ベルナデッタは小さな声で、舞台を見つめたまま答えた。
「もうしばらく、このままここにいさせて」
 ざわめきの中で、よく通る彼女の声は竹流の鼓膜に振動のように届いた。

 竹流もさすがに何も感じないわけではなかった。あるいは、握りしめた彼女の手から直接、何かが流れ込んできたのかもしれない。
 クラリッサが不安そうに竹流を見つめている。だが、何も答えてやることはできなかった。

 たとえばベルナデッタが誰かの罪を何もかも知っていて、それを誰にも告げることなく黙っていたら、それはやはり罪になるのだろうか。もちろん、法律としてはそうなのだろう。けれども、彼女の思いの中にあるものを責めることができるほどに正しい人間が、果たしてこの世にいるのだろうか。

 次に始まったパフォーマンスは『蝶々夫人』をモチーフにしているらしく、パントマイムを演じる青年は、特別女装のようなことはしていないのに、人物そのものと言うよりも、裏切られながらも信じようとする女性の細やかな感情を、僅かな動きの中で表現しているように見える。ヴェルディの国の人間にとっては、『友よ、見つけて』や『ある晴れた日に』、『さらば、愛の巣』などの曲想を聴いただけで、物語の芯にあるものを理解するので、大仰に表現する必要がないのだろう。

 だがただ裏切られて悲しいと言うのではなく、生きて恥を晒すよりは死を選ぶというのは、あまりにも激しい想いだ。そこに重なる三味線の音が、ヴェルディの西洋的な音をかき消していく。いや、死を越えて、どこか遥かな場所へ行こうとする想いの鮮烈さが、後半の曲の中に、まさに情念のように籠められていた。

 随分と思い切ったモチーフを選択するグループだと思った。舞台の上で艶やかで激しい、そして情念を見事に浮かび上がらせているのは、まさにあのフルートの女性の立ち姿だ。だがその女性は、パフォーマンスが一段落し、レヴューのように明るいショウタイムに変わると、舞台の雰囲気を一変させた。大道芸とは言え、恐ろしい完成度だ。

 竹流はベルナデッタの手を握ったままだった。
 どこかのタイミングで話を切り出すべきなのか、あるいはこのまま、静かに彼女を見守っているべきなのか。
 だが、見事なパフォーマンスに感心したりベルナデッタを思いやっている余裕が失われたのは、まさにその直後だった。


 真?
 その瞬間、竹流は思わずベルナデッタの手を離していた。そして、逆にベルナデッタが驚いたように竹流を見た。
三味線
 フルートもギターも、西洋の楽器であることを忘れてしまうような、見事な和のリズムを刻んだ。それに煽られたように続いて三味線を叩く真は、いつものようにその外見は静かなままだった。そしてやはりいつものように、一の糸から二の糸、三の糸へ指を移すと、静かに目を閉じる。あまり大柄ではないが、背をすっと伸ばして目を閉じている姿は、人の目を惹く。微かに唇と頬が震えているように見えるのは、照明のせいかもしれない。

 このところ、言葉数がいつもよりも減っている真は、言いたいことも半分以上、あるいは大事なことはすべて飲み込んでしまっているように思えた。
 だが、こいつの三味線は雄弁だ。言葉ではなく、直接、心を貫くような思いをぶつけてくる。元から言葉があまり自由ではなかった真にとって、思いを乗せるのはこの糸の上、そして叩きつける撥の上にしかなかったのだろう。

 そして自分も、何か大事なことを言ってやっていない。

 完全に店内は静まり返っていた。日本よりもずっと乾いた空気を湛えるこの空間は、三味線のさわりを増幅していた。十六のツボの、雪が降りしきるような、鈴虫が鳴くような、鳥がさえずるような響きが、ここにある全てのものを震わせている。
 やがて、少しずつ、少しずつ音が強く、激しくなっていき、それと同時に黙り込んでいた聴衆も耐え切れないとでもいうように手を叩き、そして真は、もうこれ以上音も感情も溜め込めない所へ来たというように、目を開けた。

 その瞬間、何かに導かれたように、真はまっすぐに竹流を見ていた。
 竹流も、ただ真を見ていた。

 声も言葉もないまま、そして目は竹流を見つめたまま、最後の三、四のツボへ指が滑って行く。
 もう三味の音は竹流の頭の中から消え去っていた。

 飛び入りの演奏者と、その演奏者を見出し舞台へ引き上げ自らも見事な演奏を聞かせた美しい女性、そしてその演奏者の隠れた力や想いを挑発という形で誘い出した素晴らしいテクニックのギター奏者に対する惜しみない拍手は、スタンディングオベーションという形でしばらく鳴りやまなかった。

 突然の周囲の状況に気が付き、戸惑ったような顔をした真は、三味線をギターの青年に渡し、撥と指摺りを返すと、そのまま何をどうしたらいいのか分からないという様子で、何かに押し出されるような気配で、まっすぐに竹流のいる席の方へ歩いてきた。

 いや、それは竹流に近付いてきたというよりも、ただこの店から出て行こうとしたようで、たまたまその通路わきに竹流が座っている席があったのだが、一瞬、竹流のテーブルの近くで歩を緩め、目を合わせた途端、逃げるように店を飛び出していった。
 もちろん、店の中の人々は呆然とその後ろ姿を見送ったが、すぐに興味は舞台の上に戻ったらしく、また大道芸人たちにアンコールを強請り始めた。

 だが、竹流のすることは一つだけだった。
 自然と椅子を蹴るように立ち上がり、幾らか驚いた顔をしているベルナデッタとクラリッサを置いて、真を追いかけた。

 真は何が何だかわからずに混乱しているようで、走るというよりも惑うように早足で広場へ飛び出し、斜面を下りかけている。後姿はまるで子どものように頼りなく、儚く見える。何が何だかわからないのは竹流の方も同じだった。
 放っておくと何もかもが崩れ落ちてしまう、という思いが胸を締め付ける。

カンポ広場
 その思いが結集するように、黒い塊がどこかから湧き出し、真の足元に絡み付いた。金の首輪がきらりと光りを跳ね返す。
 ジョルジョ。
 不意に真が足を止めたのと、竹流が真の腕を捕まえたのは同時だった。

 引き寄せ振り向かせた真は、何かに驚いたように竹流の顔を見ている。
「どうしたんだ?」
 その表情に思わず問いかけた時、いきなり真が竹流の腕を掴み返し、逆に竹流を引き摺るようにして、広場の斜面を元の店へ引き返し始めた。
「真」
 名前を呼ぶのが精一杯だった。
 賑わう店の中へ、人をかき分けるように、竹流を引っ張って急いだ真は、ベルナデッタとクラリッサが座る席の前でぴたりと足を止めた。
 そして、ようやく竹流の手を離すと、ベルナデッタをまっすぐに見つめて絞り出すような声で言った。

「アウローラの、お母さん?」

 何が起こっているのか分からずに、竹流は呆然と真の横顔を見つめていた。
 足元に、一緒についてきたらしいジョルジョが座っていて、竹流を見上げ、にゃあ、と一声鳴いた。どこか切羽詰ったような声だった。




何も言いますまい。
だって、何だか、終わるのが寂しくて…(嘘です)

あ、途中の写真のマンジャの塔、朝と夕方のを並べてみました。
光によって、こんなに違うんですね。
それから、三味線の上に載っているのは、撥と、そして指擦り。
左手の親指と人差し指に引っ掛けます。
これがないと、竿で指を滑らせることができません……

次回こそは、2時間ドラマの最後の20分です。
第8話『そして、天使が降りてくる』……絶対終わらせる、末広がりの8だし、という意気込みでこの題名。

さあ、みんなで、崖に参りましょう!!

ところで、なぜ2時間ドラマでは崖に行くかご存知でしたか?
松本清張さんの『ゼロの焦点』のラストシーン以来、定番になったそうですよ。
って、今更なのは私だけ?



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【幻の猫】(8) 想いを届けて 

真250kuroneko250


お察しのことが起こっております…
末広がりの8、なんて書かなければよかった…
広がるってことは……(;_:)
しかも長いです。1章ずつ、真と竹流の場面を交互に書いてまいりましたが、交錯し始めました。
字ばっかりでごめんなさい。
内容が伸びているわけではありません…(;_:)






 広場に出てから足を止めたのは、不意に足元から電流のように何かが流れ込んできて、それがさっき店を飛び出す寸前に見た映像と重なったからだった。

 ジョルジョ、と真が勝手に名付けてしまっていた黒い猫が、真の足に絡み付くように身体を摺り寄せている。
 店を飛び出す寸前に見た映像は、今ようやく網膜から情報として後頭部に伝わった。まるで不意に足に触れた黒い猫の温もりが映像を運んできたかのように。

 竹流と一緒の席に座っていた女性たち。一人はあの広場で見かけた、竹流が腕を抱き寄せていた赤い髪の女性、そしてもう一人は。
 あの写真の中、ライラック色のリボンの少女と一緒に写っていた痩せた女性だった。


 少女の名前がアウローラだというのは、写真の後ろに書かれた署名の名前で知った。そして、頭の中は混乱していたが、つまりどうしてその人が竹流と一緒にいるのか、というのが理解できなかったが、今ここで必要なことが何かということは分かっていた。
 女性は、もちろん真の言った日本語は理解できなかったはずだ。だが、アウローラという名前は、この賑やかな店内でも聞こえたはずだった。

 老いた方の女性、つまりアウローラの母親と思われる女性は、黙って真を見つめ、それから足元の猫を見て、最後に竹流の方を見た。

 真はポケットから、あのホテルのいかにもイタリアのマンマおばさんが渡してくれた封筒を出した。
 そして、白い封筒の中から、土の汚れが沁み込んだもう一枚の封筒と、褪せたライラック色の絹のリボンと、アウローラとその母親が写っている写真を取り出した。それをそっと、木のテーブルの上に置く。
 しばらく、誰も何も言わなかった。

 店内では、アンコールを受けたあの黒髪の美人が、『荒城の月』をアレンジした優しい調べを奏でている。遠くから、心配そうな視線を感じた。きっと李々子さんたち、ラビット探偵社の人に違いない。他の客たちがちらちらと自分たちを気にしているのが分かる。
 その中で、アウローラの母親はピクリとも動かず、写真とライラック色のリボンを見つめていた。
 もう一人の赤い髪の女性は、混乱を隠せない表情で竹流を見上げている。
 竹流も、何が起こっているのか分からないというように真を見ている、その気配を感じて、真は彼の方へ目を向けた。

 実際には、真も何が何だか分かっていなかった。
 ここに揃う者たちと、ここにいない人たちとがどういう繋がりがあるのか、唯一真が感じていることは、この黒い猫、あるいは尻尾の持ち主だけがこの間を繋ぐキーであるということだった。

「外へ出よう」
 ようやく竹流が女性二人と真を促した。

 だが、その瞬間、不意に足元の猫が毛を逆立てるようにして、ふーっと唸った。まるで何か恐ろしいものでも見たかのように背中を丸める。背中から尻尾まで、真っ黒な毛がまるで漫画のように逆立っている。
 そして、そのゴールデンアイで訴えるように真を見上げた途端に、いきなり店の外へと駈け出して行った。
 真は竹流の顔を見て、それから慌てて猫の後を追いかけた。

カンポ広場
 二度目に飛び込んだ広場は、半分は影に、半分は光に彩られ、その境は悲しいほどに明確に区切られていた。見上げた空は青く、マンジャの塔は傾きかけた太陽でより濃くオレンジに染まっている。
 猫はどこにもいなかった。忽然と消えてしまっている。

 真はしばらく、大事なものを無くして混乱している子どものように、広場を無茶苦茶な方向に走り、突然に立ち止まった。その腕を、追いかけてきた竹流に捉えられる。
「一体、何がどうなっているんだ? お前がどうして」
 竹流が混乱したように言うのを真は遮った。
「ホテルへ帰ろう。急いで」
「何を言っている?」
 真は竹流の腕を掴みかえした。
「猫はあそこへ戻ったんだ」
「何だって?」

 何だかわからないが、ひどく身体が熱くなってきた。
 時々、見えるものや見えないものがぐちゃぐちゃになって、頭の中が燃えそうになる、あの感じがした。突然、視界がちかちかし始め、熱いのに汗も出なくなり、あらゆる皮膚の下できりきりと何かが血管を締め上げている。
 体中が痛い。氷と熱が同時に肌を焼いているみたいで、おかしくなりそうだ。
 猫を見失っちゃだめだ。アウローラのお母さんも一緒に、早く。
 叫ぼうと思うのに声が出なくなっていた。真は咽喉を押さえた。咽喉も焼け爛れたように腫れあがって、痛くてたまらない。
 息が苦しい。唇が痺れて、歯がかみ合わなくなった。
 間に合わない。
 頭の中に次々と言葉が浮かぶのに、ひとつも咽喉の奥から出てこない。
 気持ち悪い。
 下手をするとぶっ倒れる、そう思った時だった。

 いきなり竹流が、真を抱き締めた。
 まるで、もういい、心配するな、というように。
 黙って真を見ていた竹流に、何が伝わったのかは分からない。ただ、彼の身体から、あの穏やかな白檀のような香りがしていて、真を落ち着かせ、慰め、安心させた。 
 真は三度ばかり荒い呼吸を吐き出して、それから完全に力が入らなくなった全身の筋肉をそのまま竹流に預けた。全て預けてしまうと、ようやくまともに息を吸うことができるようになった。

 竹流は力を入れて真の頭を彼の胸に引き寄せていたが、しばらくすると真が幾らか落ち着いたのを感じたようで、少し真を離して両手で肩を掴み、目をしっかりと見つめて言った。
「待ってろ」
 真は焦点が合わないまま彼の顔をぼんやり見ていたが、やっと、視界の中心に青灰色の目を捕えると、小さく頷いた。まだ唇は震えていたが、急に足には力が戻ってきたような気がした。

シエナ
 広場の地面の感触が分かる。
 それから竹流の方が慌てたように元の店の方へ戻り、その前で呆然と立っている二人の女性に何かを説明し始めた。真っ赤な髪の女性が頷いて、すぐに走って広場を出て行った。

 少しずつ、意識がまともに戻っていく。そこに、店から、無茶苦茶に心配した顔の李々子さんと、何故かあの際立った美人の蝶子さんまで出てきて、真を見ていた。真は少しだけ頭を下げた。ただ行き違っただけの相手なのに、彼らの思いやりが直接胸に響いてきた。多分、店に残る宇佐美さんと稲葉さん、それにあの三味線の青年も心配してくれているのだろう。騒ぎを大きくしないようにと気遣ってくれている。
 大丈夫です、ごめんなさい、ありがとう。
 それが伝わったのかどうかは分からない。竹流が二人の視線が真に向いていることに気が付いたようで、一言二言彼らにも声をかけていた。
 
 やがて竹流は、アウローラの母親の身体を抱き寄せるようにして真を振り返り、さっき真っ赤な髪の女性が向かった方へ行くように指差した。
 広場の小さな噴水のところで彼らは歩調を合わせた。
カンポ広場

「紹介するよ。彼女はベルナデッタ。俺の母親代わりだった人だ」
 竹流は歩きながら、よく通るハイバリトンの声をいささか潜めるように言った。真は顔を上げて竹流を見た。竹流はアウローラのお母さん、つまりベルナデッタにも真を紹介している。
 それは、この国に来てから何度か聞いたイタリア語だった。
 ベルナデッタは一度立ち止まり、何も受け入れようとしていなかった悲しい瞳に、ようやく真をしっかりと映し、そして精一杯の笑顔を作ったようだった。
 やがて俯き、握りしめていた封筒を胸に抱き寄せる。

 Grazie, Makoto.
 そして、竹流の母親代わりだったという女性は、息子のように可愛がっていた男が『この世界で最も大事な人』と紹介した異国の子どもを、その細い身体で、やはりもう一人の息子だとでもいうように抱きしめてくれた。

「このリボン、俺が日本から送ったものだ」
 歩き続けたまま、真は、ベルナデッタを支えながら隣を歩く竹流を見る。
「ベルナデッタの娘、アウローラはとても小さくて、心臓に病気を持って生まれてきた。原因はよく分からないが、生まれつきしっかりと心臓が動いていなかったんだ。ベルナデッタも大きな病気をしていてね、彼女は自分が血液の腫瘍に対する治療を受けている中で妊娠してしまって、意地になってアウローラを生んでしまったことをとても後悔していた。自分のせいでアウローラは生まれつきの病気を持ってしまって、苦しくてしんどい思いばかりしなければならなかったと。アウローラは七歳になる前に亡くなった。最後の一年はほとんど病院だった。俺はそのことを何も知らなくて、ただアウローラにいつも手紙と小さなプレゼントを贈っていた。これもその一つで、それが最後の贈り物になった。彼女はやっと文章を書けるようになっていて、とても嬉しいと、手紙をくれていた」
「あんたが、自分で縫ったのか」

 竹流と真の会話が分からないはずなのに、ベルナデッタは自分の手から真にリボンを触るようにと差し出した。袋状に綴じられたリボンの隅っこを指す。
 触れると、何か小さな固いものが入っているのが分かる。竹流がため息をついた。
「小さなブルームーンストーンだ。何の役にも立たなかったけれど」
 小さな優しい心遣いと手紙。アウローラはこの男を足長おじさんのように思っていたのだろう。あるいはいつか迎えに来てくれる王子様のように思っていたかもしれない。

 あ。
 真はポケットから指輪を出した。
「これ」
 ヴォルテラの後継者である印として教皇から授けられるという指輪。これはこの世でも、天からでも、この男がまさにその人であるということを見分ける印のようなものだった。

 アウローラは、もしかしたら間違えて真の前に現れたのかもしれない。この指輪を持っていたから、真を竹流と取り違えたのだ。竹流なら、もっとちゃんと彼女の言いたいことを聞くことができて、ベルナデッタに大事な言葉を伝えることができたかもしれないのに。
 竹流は、今ようやくその存在を思いだしたかのように指輪を受け取り、左の薬指に戻した。

 光が、彼の指に戻ってくる。真はその光からそっと視線を逸らした。

シエナ
 広場から路地に入り、次の通りに抜けると、そこは石畳の続きだが、車も通れる道で、少し歩くと向こうから車がクラクションを鳴らした。運転席にいたのはあの燃えるような赤い髪の女性だった。車を取りに行ってくれていたようだった。

シエナ
 竹流は運転席の彼女を助手席に移らせて、真とベルナデッタを後部座席に乗せると、真の気持ちを汲んでいるかのように、ホテルへの道をできる限り急いでくれた。それでも古い街の中は、車が出入りできるところばかりではなく、通行の優先権があるわけでもなかった。気持ちが焦っているのにどうしようもない。街の造りがそのようになっている。
 古い街の門を出て、ようやく車がスピードを上げる。しかし坂道はかなり狭く、ホテルまでの僅か十分か十五分ほどの時間が永遠に感じられた。

 竹流と赤い髪の女性は、何か言葉を交わし合っている。もちろん、イタリア語は分からない。だがやがて彼女が振り返り、自分の名前をクラリッサと名乗って、真に英語で話しかけた。
「私の母を見かけなかった?」
 真は一瞬、バックミラーの中の竹流と視線を合わせ、それから彼女に向き直った。
「いいえ、会ったのは……女の子だけで」

 そこまで言ってから、真ははっとした。そして改めてクラリッサの強いグリーンの瞳を見つめた。この瞳は、確かに、アウローラの幻と話した後、彼女が見つめていた地面を掘り返しかけた時に、オリーブの木の陰から恐ろしいものを見るように真を見つめていたあの瞳と同じだった。

 肌にある全ての感覚器に、痛みの刺激が襲い掛かってきた。
 唇が震え出し、血が逆流するような異常な感触が身体の内を駆け巡る。
 何も事情を知らないのに、何かとてつもない苦しい思いだけが胃の中を暴れまわっていた。理解し合うための言葉を持たないアウローラと真の間で、行き来していた感情と切羽詰った願い。今それが、突然明瞭な言葉になって、真の脳の言語野に文字を綴った。

 アウローラは真に、ここに来て、この地面の下で泣いている子を助けてあげて、と言っていたのだ。そして、それは今日、今でなければならないのだ。
 もっと早く! と思うのに、現実の真と、現実の車には、空間や時間、次元を飛び越える能力など欠片もなかった。
 指先から温度が失われていく。

 その時、不意に、膝の上にのせた真の冷たい手の上に、絹のような優しい温もりが触れた。真は自分の手を見下ろした。
 それは隣に座っていたベルナデッタの手だった。
 ふとバックミラーに目を向けると、竹流が後ろを何度も気遣ってくれているのが分かった。気遣いながら、道を急いでくれている。だが、漫画のようには走り抜けることができない古い道は、ほんのわずかの距離なのに、永遠に続くような錯覚さえした。



シエナ

 フィアットの小さな車がホテルの前に止まるよりもわずかに早く、真が待っていられないというようにドアを開け、車から転がり出た。文字通り脱兎のごとくホテルの門をくぐって、中庭へ走り込んでいく。
 竹流はクラリッサにベルナデッタを頼み、驚いて出てくるフロントのメガネの女性に車のキーを預け、真を追いかけた。真の姿は既に中庭を左手へ走り抜け、裏庭へ抜ける通路へ消えていこうとしている。

 急いで追いかけ、いったん暗い建物の廊下へ走り込み、そこを抜けると、突然視界が開ける。整備された裏庭にはオリーブの鉢植えと、剪定された低い木々、そしてその向こうにまで広がる丘陵地の景色。真の姿が見えない。
 光が隠してしまったように視界から失われた真の幻に気を取られている時、いきなり誰かとぶつかった。

「すみません」
「あぁ、あなた。あの子はどうしたんだろう」
 このホテルに長年勤めているといっていた女性だった。掃除と洗濯の係りのようで、体も大きく、一見おっかなそうに見えるのに優しい、いかにもイタリアのマンマを感じさせる女性だ。
「その子、どっちへ行きましたか?」
 急いて聞いたので、何事かと思ったようだった。女性は裏庭の先、オリーブ畑の方を指した。
「あの子にリボンを預けたんだよ。あの子は……」
「後で」

 竹流はそれだけ言うと、真の後姿を追って斜面を駆け下りた。光と、オリーブの木々が真の影を隠してしまう。竹流は見失わないようにと必死で追いかけた。

 今追いかけなければ永遠に失ってしまう。
 真の姿は光とオリーブの影の中に見え隠れする。竹流は柵を飛び越え、さらに追いかけた。名前を叫んだが、声が届いている気がしなかった。風が吹いているのか、あるいは次元が違っているのか。近付いているはずなのに、一向に真の姿が大きくなってこない。

 あいつ、一体どこにいるんだ?

 オリーブの枝、オリーブの葉が時折、頬や腕を打つ。
 確かにこれは現実だ。頬や腕に当たるオリーブの感触は確かだ。痛みも感じる。走っている地面の感触もある。
 それなのに、真の姿だけがベールの向こうにあるようで、無茶苦茶に遠い。
 竹流は突然に不安に駆られて、気が付いたときには狂ったように真の名前を呼んでいた。耳の中に自分の声が反響する。
 違う。これは誰の声だ?

「止めて! その子は待ってただけなんだ!」

 霞んではっきりしないままの真の姿、その前に黒い塊が見えている。いや、塊ではない。人だ。一人ではない。もう一人の誰かともみ合っている。そこへ真が飛び込んでいく。
 真は何かを必死で叫び続けている。
 白い靄のような光の中で、天から刺した光で何かが光った。

 ナイフだ。
 真!
 竹流はもう一度叫んだ。それが耳に届いたのか、真が竹流を振り返ったような気がした。
 その瞬間。
 視界を真っ赤な筋が横切った。同時に黒い小さな塊が飛び込んでくる。
 ギャッという声。
 真の目が何かを訴えるように見開き、次の瞬間、靄のかかったままの地面に崩れた。

 真!
 最後に叫んだ時、いきなり現実の世界と幻の間のぶれが、消え去った。





探さないでください。おおみ。 


…出典:RIKU最終話(作limeさん)→(click)
せいいっぱいで、これだけ書きました(;_:)


次回は、(9)そして、天使が降りてくる、です。
(今度こそ)

ブルームーンストーン
 恋人たちの石とも、母性の石とも言われます。心を静め、霊的能力を活性化させる石。


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【幻の猫】(9) そして、天使が降りてくる 

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少し間が空いてしまってすみません。前回、崖に向かっていたのに、崖で風が強くて、なかなか声が聞こえなくて?
今日、すべての謎が解けるはずです。
ちょっとだけ前回を振り返りたい方は、こちらをどうぞ→幻の猫(8)想いを届けて


相川真:霊感坊や。高校卒業し、大学受験頑張ったご褒美旅行中。
 家庭教師の大和竹流の故郷・イタリアにおります。
大和竹流(ジョルジョ・ヴォルテラ):真の家庭教師。実はローマの某組織の御曹司。
ベルナデッタ:竹流が育ったヴォルテラの家に以前勤めていた女中かつ竹流の教育係の一人。
 病気に倒れ、不倫の結果、娘を生んだが、この娘を病で亡くしている。
アウローラ:その娘。
グローリア:1年前、旅行中に孫娘が突然姿を消し、探しに来たという年配の女性。
クラリッサ:グローリアの次女。母親が何かを隠していると思っている。美人なので竹流がちょっと浮気を?
フィオレンツァ:行方不明になっている少女。
黒い礼服の女性:?
ジョルジョ:真が勝手に竹流の本名をつけていた猫(実は本当にジョルジョ)。
 フィオレンツァの飼い猫だったらしいが、時々尻尾だけになる?


どこまでが現実で、どこからが幻だったのか、結局線が引ける、でしょうか。
では、最終回・『そして、天使が降りてくる』、お楽しみください。





「真!」
 ようやく自分の声が現実のものとして周囲に響き渡ったことを確認できた途端に、竹流が目にしたのは、そこだけ彩色されて鮮やかに明瞭となった赤い滲みだった。

 他のものはすべて暗く、辺縁がぼやけていて、現実に戻った今でも、竹流にとっては幻のように感じられた。
 滲みはじわじわと大きさを増している。よく見れば真の着ていた薄紫の上衣が切り裂かれて、赤い滲みが広がり、地面に滴り落ちている。

 一瞬動転したが、真の顔は、多分竹流が自分で感じている彼自身よりも、ずっと落ち着いているようだった。だが、頬は白く、色を失っている。それでも唇に微かな赤みが残り、少しずつ色を取り戻していくようだった。
「違うんだ。分かってあげて」
 真がそう言って、竹流の方へ助けを求めるような顔をした。

シエナ

 今、竹流の前には、自らの腕を犠牲にしてここで起ころうとしていた惨状を辛うじて食い止めた真と、『片羽根の天使協会』の中庭で会ったグローリアという老いた女性、そしてもう一人、黒い礼装に身を包んだ女性がいた。
 さらに地面に倒れている黒い塊、それは真の危機にいち早く反応した猫、失われたフィオレンツァのジョルジョだった。ジョルジョの黄金の首輪が、赤く染まって光を失っている。

 竹流が見知らぬ黒い礼服の女性は、震えるまま、暗いグリーンの瞳を真の腕から流れ落ちる血に向けている。髪の色は燃えるような赤ではなかったが、その瞳には確かに見覚えがあった。
 いや、髪も、もしかしたら本当は明るい、燃えるようなレッドなのかもしれなかった。

 その女性とグローリアが怯えたように見つめる視線の先で、真は自分の右腕を押さえている左手が真っ赤に染まっていることなど、まるきり気が付いていないようだった。
 竹流はその腕を確認し、傷が思ったよりも浅いことを見ると、それでも少なくはない出血を放っておくことはできず、とは言え、手元にはハンカチやタオルなどの気の利いたものがなかったので、自分の上着を脱いでしまうと、袖の部分を引きちぎって真の腕に巻いた。

 真はしばらくの間、ぼんやりとされるがままになっていたが、ようやく周囲を確認する余裕ができたのか、地面に倒れているジョルジョに気が付いて、息を飲み込むような小さな悲鳴を上げ、急に力が抜けたように、竹流の腕にそのまま崩れ落ちた。

 慌てて抱き止めてやってから、竹流は二人の女性に順番に目を向けた。
「どうやら、我々は事情をお伺いする権利があるようですね。彼の傷の手当てもしなければならないし、猫も。向こうへ戻りましょう」

 竹流が促した時、グローリアが切羽詰ったような声で訴えた。
「お願い。先にこの子を、この暗い場所から出してあげてください」
 黒い礼服の女性は、その言葉を聞いて、力が抜けたようにその場所へ座り込んだ。

 そこへ、ホテルの従業員の女性が、クラリッサとベルナデッタを伴って現れた。ベルナデッタはグローリアに歩み寄り、老いた女性はお互いを抱き締めあった。
「ごめんなさい。あなたを止めるのが私の仕事だったのに」
 ベルナデッタの言葉に、失われた少女フィオレンツァの祖母、グローリアは今はただ涙で答えるしかなかったようだった。
 燃えるような赤い髪のクラリッサは、同じ赤い髪をその辛苦によって半ば白く染められてしまった黒い礼服の女性の傍に座り、その肩を抱き寄せた。


シエナホテル

 真が、その少女の遺体を見なくても済んだことは、せめてもの救いだった。
 いかにもイタリアのマンマという従業員の女性は、すぐに男手を呼んで、真を部屋に連れて行くように頼み、まるである程度このことを予想していたのかのように、落ち着いた態度で警察に任せるべきではないのかと竹流に確認した。
 竹流が後のことは任せてもらっていいので、この女性たちの望むようにしてやりたいと言うと、しばらくじっと竹流の目を見つめて、納得したのか、男たちに少女の遺体を掘り出してやるように言った。

「あんたたちは、同じような目をしてるね」
「あんたたち?」
「あの優しい坊やだよ。嘆きの天使が見えると言っていた」
「嘆きの天使?」

「ここはほんの少し前まで墓地だったんだ。このホテルはもともと修道院だったし、今でも礼拝堂だけは残っているけど、墓地をどうするかは少し問題だった。ここは斜面だし、ホテルの窓からの景色が墓地ってのもね。近くの良い場所に新しい墓地ができて、ほとんどの家が墓所をそっちへ移していたし、結局残された墓も向こうへ移して、何もなくなったのが一年ほど前だった。墓地には泣き伏した天使の大きな彫刻があったんだけどね、最後の墓所が移された後で、気が付いたときには天使はひどく傷つけられていて、運ぼうとしたら崩れてしまったんだ」

 嘆きの天使像ならローマの墓地にもある。同じようなものだろうと想像したが、だが曲がりなりにも石像だ。そんなにかなたんに崩れてしまうとは思えない。事情を確認しようと彼女の目を見たら、太く力強い肩をできるだけ小さくして、さぁねという顔をした。

「この場所での自分の役割を終えたと思ったんだろうかね。いや、私もここのことは誰よりもよく知っているつもりだけれど、その時のことはよく知らないんだ。どうせ、新しい墓所にはあんな古い壊れかけた像よりも、新しい綺麗なものを置こうとした連中が、壊してしまったんだよ」
「そうでしょうね。天使の欠片はどうしたんです?」
「その辺の石垣に交じってるよ。だから、あの天使はまだここにいるんだ。あの子にはそれが見えたんだね」

「あなたはさっきリボンのことを仰っておられましたね」
 女性は何かを思い出すような遠い目をして、それからふぅと息をついた。
「時々ね、まだ誰かがここに残っているような気がして、祈りに来ていたんだ。そうしたら、紙の端みたいなのが地面から出ていて、あの封筒を見つけたんだよ。写真が入っていたから、誰かの大事なものだろうとは思ったんだけど」
「その通りです。あなたのおかげで、何人かの魂が救われたかもしれません」


シエナ

 ホテルの教会の中に彼らは座っていた。
 警察よりも先に呼ばれた神父が、きっちり一年間、土の下に埋められていて、その適度な湿気に守られて完全には白骨化していない少女の遺体を小さな箱に入れてやり、祭壇の前に花を飾り、祈りの言葉を捧げた。

 すっかり力が抜けたように座り込んでいる少女の祖母、グローリアは、身体を半分以上ベルナデッタに預けていた。小さなベルナデッタの身体が、高いステンドグラスから差し込む光で、オーラに包まれたように染め上げられ、浮かび上がって見えていた。

 マリエッラと名乗った黒い礼服の女性は、今はもう落ち着いているようだった。フィオレンツァの母親であることを、罪を確認し、あるいは罰しあるいは赦すために現れたジョルジョに告げ、実の妹であるクラリッサに支えられて、哀れなフィオレンツァの棺の前に佇み、過ちとは言え自ら手をかけてしまった娘の変わり果てた手を握りしめた。
 彼女にとっては、今もまだその手は小さく優しいふわふわの天使の手だったろう。

 おそらく、ヴォルテラの力をもってすれば、世間にとって無名の少女の死、誤って娘を死なせてしまった母親の罪、そしてそれを隠匿した祖母の罪などすべてもみ消してしまえるはずだった。グローリアは罪を償うにはあまりにも衰弱した姿であったし、それはこの一年、罪の意識に苛まれてこの国の暗い場所を彷徨っていたマリエッラにしても同じだった。

 竹流がそのことを考えたのは一瞬だった。だが、瞬時にその考えを打ち消した。少女は世の中の他の誰にとっても無名であったが、祖母のグローリア、母親のマリエッラ、叔母のクラリッサ、そして擦れ違いであったとは言え関わることになった竹流や真にとっても、あるいはあのホテルの従業員の女性にとっても、名も無き者ではなかった。誰よりも、罪びとたちがそのことを望まないだろう。

 だが、竹流は唯、ベルナデッタのことを案じた。

シエナ

 竹流はベルナデッタを礼拝堂から誘い出し、二人は真の様子を見に、彼らが宿泊している部屋へ行った。
 傷は思ったよりも浅かったものの出血は少なくなく、医師は四針縫って、明日もう一度様子を見に来るからといって帰って行った。真はいささか興奮していたようで、面倒に思った医師が処方した鎮静剤を飲まされて眠っていた。

 彼らが部屋に入ると、真と一緒に手当を受けた猫のジョルジョが、毛を逆立てるようにして唸った。
 猫の方は浅い傷ではなかった。この町には獣医師はいたが、あいにく長い旅行に出ていた。だが、獣医師でなくても、猫の傷があまりいい状態ではないことは分かっただろう。もしかして長くは持たないかもしれないと医師は告げ、一応傷は縫って、人間の赤ん坊が飲むくらいの量の抗生物質を処方したものの、興奮して噛みつことうした猫に、薬局から届けられた薬を飲ませることはできなかった。

 真は苦しいのに声を出すことができないというように、額に汗を滲ませて歯を食いしばるような表情で眠っていた。ベルナデッタがその汗をタオルでそっと拭い、頬に手を触れ、ごめんなさいねとつぶやいた。真はその声が聞こえたのかどうか、いくらか身体から力を抜いたように見えた。

 ベルナデッタは猫のジョルジョにも触れようとしたが、猫はうぅと唸り、動かない身体を思い切り引いて警戒したので、諦めた。竹流はベルナデッタの肩を抱き、窓際のソファに誘い、二人は隣り合って座った。竹流は彼女の手を握りしめた。
「今日は日曜日だ。あなたが教会に行かなくなったのはこのことが原因だったんだね」

 ベルナデッタはほっとしたように大きな息をついた。
「人伝にあの人、エルアルドが病気になって、勤めていた病院を辞めたのだと聞いたんです。会いたくて会いたくてたまりませんでしたけど、私たちの関係は神への冒涜以外の何物でもなかった。それでも会いたいと思う自分がおぞましくて、そう考えたら、私たちの罪の結果であるアウローラまでもが疎ましい気持ちになって、机の上に飾ったアウローラの写真を見るのも辛くて、あの子のものをすべて燃やしてしまいました。でも坊ちゃま、あなたが下さったリボンと、ずっと机の上に飾っていた写真だけは燃やせなかった。だから、あの子のお墓のあったあの場所に埋めたんです」

シエナ

「墓所は別の場所に移ったんだったね」
 ベルナデッタは頷き、鉄格子のはまった窓の外へ視線を向け、懐かしむように答えた。
「私はあの場所が好きだったんです。あの嘆きの天使を見ると、私の代わりに苦しみ嘆いてくれているのだと思えて、私の悲しみを吸い取ってくれていると感じることができたのです。天使の傍に座っていると、いつの間にか心が穏やかになっていた。そうしたら、あの子が一緒に傍に座っているような気がして、時には、病気でずっとベッドの上だったあの子が、あのオリーブの木々の間を走り回っているような気もして、あの子の笑う声が聞こえるような気がして」

 ベルナデッタは涙ぐんでいた。竹流は強く彼女の手を握りしめた。
 既に猫のジョルジョは静かになっていて、その体を目一杯使って大きな精一杯の呼吸をしていた。命が永らえてくれることを願うものの、今できることは何もないように思えた。
「墓所は、母の墓があるローマに移したんです。この街の新しい墓所にはあの子は馴染めないような気がして。だから、せめてあの子の好きだったリボンと残った一枚の写真だけはここに埋めておこうと、あの嘆きの天使の傍に」

「ベルナデッタ、僕はどうしてそのことを知らずに、その時あなたの傍にいてやれなかったんだろう」
 ベルナデッタは首を横に振った。
「それでも坊ちゃまのお手紙は嬉しかった」
「自分のことしか書いていなかったのに」
「いいえ、坊ちゃまが遠い異国で、どのようなものを見て、どのような暮らしをして、どのようなことを感じて、そしてどんな人を愛して、そんな手紙の中の言葉のひとつひとつが、私には宝物だったのですよ。私は嘘ばっかり書いていたのに、いつも私やアウローラのことを気遣って優しい言葉を添えてくださっていて」

「気づかないままだった自分が恨めしいよ。だけど、今はこうしてあなたを抱き締めることもできる。十年以上のあなたの苦しみを癒すことはできないけれど、せめて僕がどれほどあなたを大事に思っているか、それだけはわかって欲しいんだ」
 竹流はベルナデッタを抱き締め、そして本来の年よりもすっかり老いて小さくなった身体をこのまま温めてやりたいと願った。

「そう、丁度坊ちゃまのお手紙を受け取ったんですよ。一年前の今日」
 竹流はベルナデッタの腕を両手で抱くようにしながら、そっと彼女を離した。
「幸せそうなお手紙だった。恩人の子どもたちの面倒を見ているんだって。女の子の方はちょっと変わっているお姫様で、きかん気が強くて坊ちゃまに言いたいことを言う。男のこの方は野生の猫みたいで、どうにも思うようにいかないって」

「そんなことを書いていたっけ」
「えぇ。あぁ、坊ちゃまは大事な人を見つけたんだと思ったんです。神でもなく、自分自身のためでもなく。それなのに私は大事なアウローラを、私が罪の子だと言ってしまったら誰にも救われないあの子を、死んでしまってなお、見捨てようとしてしまった。もうあの子は私を許してくれないかもしれないけれど、せめて坊ちゃまのリボンとあの子の写真を傍に置いておくべきだったと、夜になって、いても立ってもいられない気持ちで、それらを埋めたあの場所へ行ったのです」

 ベルナデッタは目を一度伏せ、息をついた。言葉を継ぐことを躊躇っているような気配だった。竹流は言いにくい言葉を敢えて彼の方から継いでやった。
「そこで、グローリアに会ったんだね。いや、ただ見てしまったんだね」
 ベルナデッタはほっとしたようにうなずいた。

「あの人は嘆きの天使の傍に何かを埋めていました。埋めた後も、随分長くそこに留まっていて、手を合わせて泣いておられた。それから苦しさのあまり天使の像を何かで打ちのめして、急に静かになったと思ったら、そのまま町の方へ戻って行かれたのです。何か恐ろしいものを見てしまったと分かって、傍に近付くことはできませんでした。これはアウローラが私に与えた罰なのだと思いました。もうここへは来ないでくれ、私の大事な場所を汚さないでくれ、写真もリボンにももう触れないでと言っているのだと。そのまま街に戻って、翌日、旅行に来ていた女性が、孫娘の行方が分からなくなったと大騒ぎしていることを、協会の人から聞きました。あの嘆きの天使の傍で見た女性でした」

「いつ、グローリアの嘘に気が付いたの?」

「今年、あの方は丁度この日にこの街にやって来た。あの時は随分大騒ぎしておられたけれど、それから一年間、一度もここへはいらっしゃらなかった。なぜ、いなくなった孫娘を探しに何度も来られないのだろうと思っていました。

 丁度先月、エドアルドが亡くなって、彼の遺品の中からアウローラの写真が、私が苦しくて手放してしまったのと同じ写真、愛するエドアルドが撮って、それからずっと自分の机の中にそっとしまっておいてくださったあの写真が、私の手元に戻ってきた。そうしたらあの方、グローリアが来られたんです。もしかしたら一年前のことで娘のアウローラが私に何か伝えたいことがあるから、写真となって私のところに戻ってきてくれたような気がしていました。

 だから恐ろしかったけれどグローリアに事実を話して欲しい、力になりたいから、と言ったのです。彼女はただ、今日一日だけ黙って待ってほしいと言われました。一年前彼女が埋めていたものは何なのか、なぜ孫がいなくなったと嘘をつかなければならなかったのか、そして何故一年後の今日、ここに戻って来たのか。なぜ今日でなければならなかったのか。彼女の本当に辛そうな顔を見ていると、もうそれ以上は何も聞けませんでした。

 目を瞑るべきかどうか迷っていた。でも、まさにその時、坊ちゃまが尋ねて来てくださって、あぁ、アウローラが、あるいは神が何かを私に訴えているのかもしれない、でも反面ではグローリアの思う通りにしてあげたい、でももしかして坊ちゃまが気が付いて下さったら、すべて任せてしまおう、これを神の決められたことだと思おうと」


 ふと気が付くと、真が目を開けていた。真はしばらく天井をみていたが、やがてゆっくりと首を動かして彼らの方を見た。ベルナデッタがそれに気が付いて、ほっとした顔をした。竹流は一度ベルナデッタの手を強く握ってからその手を離して、ベッドの端に座って真の髪に手を触れた。
「痛くないか?」
 真は頷いた。
「ジョルジョは?」
「ジョルジョ? 猫のことか?」

 それが聞こえたのか、ジョルジョがうぅと唸る。真は何かに打たれたように跳ね起き、薬の影響かぐらりと身体を揺らせた。倒れそうになる身体を抱き止めた竹流を、ふらふらしながらも跳ね除けるようにして、ベッドから降りようとする。竹流は身体を支えてやって、猫の傍に屈む真を助けた。
「ジョルジョ」

 真が触れるのを猫は嫌がらなかった。頭を撫で、そして腹の傷に巻かれた包帯にそっと触れた真の手を、身体を懸命に捻るようにして舐めようとする。真にも猫の状態があまり良くないことは感じられたのだろう。しばらくなす術もないように身体を震わせていたが、ふと何かに気が付いたように顔を上げ、視線を部屋の隅に固定した。

「真?」
「しっぽ!」
「え?」
 真は突然ジョルジョを抱き上げ、ふらつく身体で何かを追いかけるように歩き始めた。そのままベッドの足元を回り、ふらふらと扉の方へ歩いて行く。
 竹流はベルナデッタと顔を見合わせてから、慌てて真を追いかけた。部屋を出ていく前に捕まえ、ふらつく身体を支えるようにして、半分抱くように一緒に歩いてやる。猫を代わりに抱いてやろうとしたが、猫は真にしか触れさせないだろうと思ってやめた。

シエナホテル
 真はどうやらあのオリーブ畑の方へ向かっているようだった。
 ベルナデッタは時々気遣うように真を見て、一緒についてきている。
 やがて何度も倒れそうになりながら、あの嘆きの天使のあった場所にまで戻ってきた。

 丁度夕陽がオリーブの木々の間から差し込んで、少し開けたその場所を照らしていた。そこだけ、この世とは違う場所のように光の色が異なっていた。

 真は猫をその光の輪の中に置いた。
 その途端にほっとしたのか、青い顔をして肩で息をしていた真が、唐突に竹流に凭れかかってきた。足元から崩れそうになっている。竹流は思わず両手で真を抱きしめた。

 その時だった。
 息も絶え絶えだったような猫が、突然顔を上げた。
 いや、夕陽の加減でその首輪が黄金に輝いたのかもしれない。猫は突然すくっと立ち上がり、にゃあ、と誰かに呼びかけるように鳴いた。

 ベルナデッタが傍で両手で口を押さえ、驚いたように声を上げた。
「アウローラ」
 明らかに彼女はそう言った。

 竹流には黄金の光が見えているだけだった。光は辺りを染め、いきなり周囲が真っ白に輝き、竹流の目を射た。竹流は目を伏せ、ただ腕の中の真を抱き締めていた。目を伏せた時、視界の中に、まるで怪我などなかったかのように立ち上がっていた猫のジョルジョが、一度真の足にまとわりつくように甘え、それから顔を上げて光の方へ走って行くのが見えた。


 それは多分、一瞬の出来事だったのだろう。
 夕陽が何かに反射して、辺りが黄金と光の色に染まっただけなのだ。だが、猫はもうそこにいなかった。
 真が腕の中で微かに身動ぎする。抱き締めていた腕の力を抜くと、ようやく正気に戻ったような顔で、真は今度はベルナデッタに向き合った。

「写真を見てあげてください。写真の後ろを。そしてそのことを、あの人たちにも伝えてあげて」
 竹流がそのまま、真の言葉を伝えると、ベルナデッタはポケットから、自分がかつて土に埋めてしまった封筒を取り出し、その中から写真を出した。
 そして、しばらくじっと表の二人を見つめる。

 痩せて疲れた顔をしているが幸福だったベルナデッタ自身と、幼くして病気を持ちながら幸せを求めて微笑む優しい少女。そしておそらく彼女の目には、その二人を罪と知りながらも愛したのであろう、ファインダーの手前にいた医師の姿も、見えていたに違いない。

 ベルナデッタはそっと写真を裏返した。
 彼女の手は動かなかった。
 夕日が沈みゆく最後の光を、彼女の手元に惜しげもなく注いだ。
 ベルナデッタの目から落ちた涙は、夕陽の光を吸い込んで、煌めきながら足元の土に落ち、静かに大地にしみ込んだ。そして、そこにかつて眠っていた魂を清め、慰め、母の無償の愛で温めた。


 Mamma, ti amo. Aurora
 Anche IO! Fiorenza



 
シエナ


ジョルジョ坊ちゃま

 そちらにも春が訪れているでしょうか。
 少し長い手紙になります。

 あれからまた一年が経ち、今日この日に、クラリッサがグローリアと一緒に訪ねて来てくれました。フィオレンツァの眠っていた場所に花を供えるために。グローリアもマリエッラも、罪を認めるチャンスと更生の機会を与えられ、また一方で旦那様の保釈金のおかげで辛い暮らしをせずに済みました。マリエッラは修道院に入り、心穏やかに過ごしているそうです。

 あの子はお元気ですか。あの日、彼が彼らの間に入ってくれなかったら、マリエッラはフィオレンツァの心の声を知らないまま自分を罰し、神のもとへ行くことができなくなっていたでしょう。自分に暴力をふるっていた夫への恐怖や憎しみから、娘のフィオレンツァを虐待するようになってしまい、誤って死なせてしまったように、今度は止めに来たグローリアを、また誤って殺めてしまっていたかもしれないと顧み、心から彼に感謝していると話していたそうです。

 グローリアも祈りの日々を送っています。ようやく落ち着いたと言って、あの二年前のことを、彼女から話してくれました。娘のマリエッラが孫娘を殺してしまったと知った時、彼女は、娘を傷つけ苦しめた男の娘でもあるフィオレンツァのことよりも、哀れな娘のマリエッラを庇いたい一心で、あんな芝居を打ってしまったのだそうです。娘を逃がし、ミラノの郊外から必死に車を運転して、誰も知る人がいないあの場所まで孫娘を埋めに来たそうです。
 でも、もうすぐ一年になるというとき、娘から連絡があって、花を捧げたいからフィオレンツァの遺体をどこに埋めたのか教えてほしいと聞かれ、思わず答えてしまったものの、電話を切ってからもしや自殺しようとしているのではないかと思ったそうです。
 彼女の勘は正しかったのですが、足を悪くしていたグローリアは、自分の力でここまで来ることができず、結局、母親と姉のことを疑いつつも心配していたクラリッサの手を借りて、あの日この街に来られたのだそうです。フィオレンツァには寂しい想いをさせたと心から嘆き、可愛そうな孫娘にしてやれなかったことの代わりにと、孤児たちを支えるボランティアを始めたそうです。

 クラリッサは相変わらず綺麗で、言い寄る男性も多いようですが、何もかも跳ね除けて、グローリアの面倒を見ながら仕事一筋に生きているようです。良い方が現れるといいのですが。

 坊ちゃま、あの日、夕陽の中で、私は確かにアウローラを見ました。懐かしくて、愛おしくて、あの瞬間に全ての幸せを思い出しました。娘を愛していたことを、一度に何もかも思い出したのです。

 結局、あの日から消えてしまったものが二つあります。猫のジョルジョと、確かにあの時見た写真の裏の文字の半分。アウローラの書いた文字は残っているのですが、フィオレンツァのサインの入った文字は消えてしまったのです。

 でも、新しく見つかったものもあります。家のあちこちから、アウローラからの短い手紙が出てくるのです。X(キス)だけのこともありますけれど。
 それも、とても面白いことに、リボンを部屋に置くようになってから、時々窓辺や部屋の隅に、猫の黒い尻尾のようなものが見えるような気がして、そんなときに限ってアウローラの手紙が見つかるのです。ソファの下とか、食器棚の隙間とか、棚の裏側、本のページの間とかに。
 そしてもっと素敵なことに、同じことがグローリアの家でも起こっているようなのです。彼らのところには、もちろんフィオレンツァからの手紙が。まるで天国で、アウローラがフィオレンツァに手紙の書き方を教えてあげて、一緒に悪戯をしかけてくれているようです。そして、あの子たちは、猫の尻尾になって私たちの周りに時々様子を見に来てくれているような気がします。

 私はまた教会に通うようになりました。神様の光の下で目を閉じて考えています。あの日、あなたとあの子がこの街に来られたのは、やはり神の思し召しとしか思えません。あなた方がいつも幸せでありますように。
 あなた方にたくさんのキスを贈ります。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


追伸
 それから、あの日、坊ちゃまがおっしゃって下さったけれど、協会の名前はあのままです。覚えておられますか? 坊ちゃまは、協会の名前は変えた方がいい、片羽根じゃ飛べないし、いっそ両羽根の天使協会にするか、さもなければ天使をやめてしまって、ただのオバサン探偵団に名前を変えて、この世界を地べたから愛したらいいって。でもね、坊ちゃま、考えたのですが、片羽根の二人が一緒に力を合わせたら、飛べるかもしれませんわ。






謎が少しだけ残っています。
物語は終わりますが、エピローグがあります。
真視点の本当の大団円、舞台をシエナからバスに揺られて一時間ほど?のあの屋根のない教会、サン・がルガノへ移して、もう少しトスカナの風に吹かれてみませんか。
あ、バス停で、あの人たちにも会うかもしれませんよ。

それから、新しい敵に挑むマコトのおまけもついています。
というわけで、もう少しだけ、お付き合いくださいませ。
次回
エピローグ 鳥と虫の棲む教会+マコト、新たな敵に挑む・ビヨンド

本当の最終回を見逃すな!(なんちゃって)

あ、子どもたちの手紙の和訳、いらないかもしれませんが、念のため。

ママ、愛してる、アウローラ
私も! フィオレンツァ

Xはイタリア語でキスの略。

こどもたちはいつだって、ママが大好きなんです。
親が、少し間違えることがあっても。
mama

 



Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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【幻の猫】号外:limeさんが竹流を描いてくださいました…!! 

竹流
まさかの第2弾!?
な、なんと、なんと、真に続いて竹流です。
limeさん…(;_:)、本当にありがとうございます!!!!!!!(*^_^*)
カテゴリをどこに入れたらいいのか分からず、猫絡みでここに置きました(また整理するかもしれません)。

limeさんからのお言葉、一部。
私としてのポイントは、笑っているようで笑ってない竹流の口元と、ちょっと腰の引けてるマコトです。忍び足・・・w
竹流と真のツーショットは、恐れ多くて描けないので><茶トラのマコトくんにしました^^


さて、竹流は20歳くらいのイメージかな、と思い、考えてみたら、20歳と言えば、竹流が真と初めて会った歳。
というわけで、まさに翌日、相川家を訪ねて初めて真に会う前日の竹流を書きおろしてみました。

元華族の大和家に拾われている竹流。
【海に落ちる雨】始章のアレルヤで、竹流の生い立ちを書きましたが、ローマ→ニューヨークを出て日本に来て、大和家に拾われている間のことは書き飛ばしてしまったのです。だからちょっと一部だけでもお目にかけましょう、と……
猫は『マコト』ではなく、名無しの飼い猫さんになってしまっています。
次は(次があるのか!?)、竹流とマコトの話にしようかな。


以下、書き下ろしで、何の起承転結もありませんが、15Rくらいでお願いします。




【運命の輪:前夜】

 竹流はふと顔を上げた。
 今夜は風が強い。雨戸を叩く音が不規則に、薄暗い部屋全体を震わせている。スタンドの灯りは時々唸るような音を立てて、その度に微かに震えるように明度が変わる。傍らに置いてある古い地球儀がその変化に応えて、まるで遥かな歴史を語るように揺れている。

 眠る前にこれだけは片づけておこうと、日誌を書いていた。
 今日、パトロンであり、養父でもある大和髙顕が会わせてくれた相手は、日本でも有数の大きな寺の寺宝管理責任者だった。権力の側に立つ人間を滅多に信用しない竹流だったが、今日は珍しく気分よく話を聞き、次の約束まで交わして帰ってきた。彼が話してくれたことのいくつかを忘れたくなかった。

 本来右利きだが、字を書くときには、昔からのくせで時々左手を使う。トレーニングのようなもので、万が一、右手を怪我しても、最低限のことは左でできるようにと幼少のころから教えられていたのだ。

 幼い時、多感な年ごろを過ごした祖国を離れて、今、一人、遠い異国にいる。
 この地球儀の上を何周したことだろう。

 日本に辿り着き、この国のあらゆる美術品を見て、触れ、修復にまつわるあらゆる技術を見聞きし、実際に仕事として多くのことができるまでになっていた。各地の神社仏閣を歩き、仕事を手伝いながら、時に修復の仕事を任されながら、ほとんど着の身着のままでこの国を彷徨っていた時、竹流を拾い上げたのは大和高顕だったが、彼から引き出せるものは全て引き出した今、高顕は既に竹流にとって不要なものとなっている。

 この家に何ひとつ、惜しいものはない。ただ一人の人間を除いて。
 それに、あの男の下半身の事情にこれ以上付き合うのも真っ平だった。奇妙な性癖のある男で、自分の情事を誰かに見せたがった。
 華族の誇りなど何も残らず、一方誇りを捨ててでも現世を渡って行こうという鋼のような精神も持たず、ただ崩れていく幻の城に幽霊のような住まっている男だ。それなのに、奇妙に悪知恵が働く。

 既に布石は打ってあった。高顕が竹流の技術・才能を、竹流の知らないところで(少なくとも高顕はそう思っているところで)どんなふうに使っているのか、よく分かっていた。高顕のような男に利用されたままでいるつもりはない。あの男をこの国から追い出すつもりだった。
 極めて冷淡な気持ちで、竹流は物事を進めていた。心躍るようなことは何ひとつない。後ろ暗いところはないが、色もなく光の気配もない。穏やかで、静かな心地だった。

 だが、今日のこの昂揚感は何だろう。
 嵐が来るからなのか。
 いや、明日、都内に出る用事のついでに、ある人を訪ねようとしているからなのかもしれない。

 この家の娘、そして恋人でもある青花が、ふざけてタロット占いをする。今日、運命の輪が正位置で出た。信じる気持ちはないが、それなら明日、その場所へ行ってみようと思い立った。
 嵐は今日中に東京の空を行き過ぎるだろう。

 やがて、雨戸を叩いていると思っていた音が、妙に規則正しいことに気が付いた。自然の音ではない。
 竹流は立ち上がり、それほど広くはないが、本と資料で埋め尽くされたような部屋のドアを開けた。
「どうなさったのです?」
「何だか怖くて」
 竹流はしばらくドアを開けたまま突っ立っていたが、やがて大和夫人を部屋に入れてやった。

 夫人は小さな人で、大柄でどっしりとした印象の高顕と並ぶと、影に隠れて見えなくなるほどだった。病弱で、高顕の夜の相手ができない夫人は、夫の愛人たちの世話をさせられていることさえあった。肌の色は抜けるように白く、瞳は黒く、ストレートの髪は漆黒だった。
 夫人は白いレースのネグリジェにガウンを引っ掛けただけの姿だった。少なくとも、義理の息子とは言え男性の部屋を深夜に訪れる格好ではない。

 娘の青花が、母親を評する言葉は辛辣だった。
 あの女狐は弱いふりをして兄さんを狙っているのよ。
 初めて夜を共にした日、青花はそう言った。青花の情熱は、十六にして既に咲き誇り蜜を滴らせる大輪の花として開いていた。求められるままにほだされ、恋をしていると思ったが、どこかで冷めている自分がいた。
 抜け出せなくなる前に、手を引くつもりだった。

 夫人は青花のように言葉にはしない。だが、こうして深夜に義理の息子の部屋を訪れ、見つめた後でふと目を伏せて誘う。
 応じたことはないし、応じるつもりもない。
 この家の人間たちは、やはりどこかおかしい。

「嵐が来ているんですよ。夜のうちに通り過ぎます」
 俯いていた夫人が顔を上げた。
「どこにもお行きにならないで」
 女という生き物は、一体どういうことから何を察するのだろう。
 計画が高顕に気付かれているとは思わない。青花にも知られているとは思わない。だが、この女だけは別だった。

「行きませんよ。少し強めのお酒をご用意しますから、召し上がったらお休みなさい」
 竹流が背を向けた時、夫人が後ろから手を回し、竹流の身体を抱き締めてきた。その華奢な体のどこに、それだけの力があるのかと思うような強さだった。
 竹流は黙っていた。

 形は違えども、引き留め、何とかして竹流を跪かせようとする人間たち。
 この嵐は、まさにそのすべてを持ち去ろうとしてくれているのかもしれない。

 竹流は、自分の腰に回された夫人の白い手に、優しく自分の手を重ね、一度強く握りしめた後で、そっと手を添えてその手を引き離した。
 そしてブランディをグラスに入れて、夫人に差し出す。
 夫人は黙ったまま、濡れているような漆黒の瞳で竹流を見つめ、淡く紅を引いた唇を動かした。

「グラスから頂いたのでは咽喉が焼けてしまいます」
 だからなんだと言ってしまいそうになる。だが、夫人には同情に値するところもある。あのような夫を持たなければ、もう少し幸せな人生もあっただろうに。
 竹流はブランディを口に含んだ。そして、そっと夫人の柔らかな白い頬に手を触れ、軽く顎を上げさせると、僅かに屈むようにして口づけた。

 震えるような唇の隙間へブランディを流し込む。
 夫人の咽喉が震える。
 その細い首を、いっそ絞めてやったら、この人は楽になるのかもしれない。
 夫人がそのまま何かを呟いたように思った。聞きたくなくて、彼女の唇を割り、舌を絡めた。

 嵐が窓を不規則に叩いていた。
 やがて、竹流は夫人の肩を抱き、そっと、しかし決然と引き離した。
「部屋へお戻りください。きっと神の水のおかげで眠れますよ」
 有無を言わせぬ口調に、夫人の表情が微かに揺れた。それは不安定なスタンドの灯りが見せた震えに過ぎなかったのかもしれない。
 やがてそっと目を伏せ、夫人はガウンをかき寄せるようにして、ゆっくりと部屋を出て行った。


 竹流はデスクに戻り、再びペンを取り上げた。
 一緒に連れて行って、と震えた夫人の声帯から送り出された息が、まだ口の中に苦く残っているような気がした。だが、憐憫は愛情に繋がることはなく、今、運命が別の方向へ向かっていることを止めることは、もう誰にもできないはずだった。

 夫人の残した息を吐き出して、竹流は一度目を閉じた。
 そこへそっと忍び寄る影がある。
「やぁ、お前」
 猫が一瞬怯んだように腰を落とした。

 夫人が飼っている猫だった。一緒について入ってきて、出そこなったのだろう。茶色のトラ猫で、いつも不思議な黄金の目で竹流を見ている。
 竹流はそっとその頭を撫でた。
「お前はどう思う? 運命の輪を信じるか?」
 猫は首を傾げたように見えた。
 窓を叩く雨と風の音が強くなった。

 竹流の心は今、不思議と昂っていた。
 そうか、俺は今、何かを信じているのかもしれない。
 あした廻るかもしれない運命の輪を。

(廻るよ、明日ね…(*^_^*) by 彩洋)




limeさん、本当にありがとうございます!!
繊細で素敵な絵、さすがlimeさんです。

それに背景や全体のムードが、すでに物語ですよね!!

う~ん、本当に嬉しい(^^)
喜びを表すべく、お送りいたしました(^^)


Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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【幻の猫】エピローグ:鳥と虫の棲む教会 

真250竹流330

【幻の猫】ついに大団円です。エピローグ(そして本当の意味での最終回)『鳥と虫の棲む教会』をお送りいたします。limeさんから頂いたイラストから始まったこの物語。ついに最終回を迎えることができました。
ちょっと感無量です。ブログを始めてから書き始めた物語で、(limeさんの大好きな)Endマークを入れたのは初めてかも……
さて、まずは物語をお楽しみください。
あの人たちも出てきますよ(*^_^*)
え? トップのイラスト/絵の猫のジョルジョは追いやられたのかって?
はい。新登場の竹流が迫力ありすぎて^^;





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 その瞬間は痛みなど何も感じなかった。だが、部屋のベッドに寝かされて、一人でじっと天井を見つめていると、痛みは腕の一部から身体という器を駆け巡り、頭を上げることができなくなった。

 竹流は昨日の夜からほとんど部屋に戻ってくることはなかった。
 警察の取り調べに付き合い、ベルナデッタやグローリアの足りない言葉を補ってやっていたようだった。当たり前のことだが、女たちは警察などという威圧的な存在と向き合うことには慣れていないだろうし、竹流の存在はどうしても必要だったのだろう。

 だから、今日、真は一人でベッドの上で、このどうしようもない痛みと軽い発熱と闘っていた。
 解熱剤を飲んだ後少しだけ楽になったので、一度だけ、あの『嘆きの天使』があった場所に行ってみたが、身体が思うように動かなくてしゃがみこんでしまった。実況見分に付き合っていた竹流に気が付かれて、すぐに部屋に戻るようにと言われた。

 しゃがみこむ瞬間、ふとオリーブの木の陰に、黒い尻尾が見えた。
 追いかけたかったが、どうしても身体が動かない。
 にゃあ。
 声だけは耳元に聞こえたが、もう一度顔を上げた時には猫の影はなかった。

 竹流が仕方がないな、という顔をして、警官に何かを告げて、しゃがみこんだ真のところまでやって来た。
「歩けるか?」
 支えられて立ち上がった時、猫の尻尾が消えたあたりにあの少女の影を見つけた。

 アウローラ。
 唇の動きだけで呼びかけてみたが、竹流が真の視線を追いかけて不思議そうに振り返った時、光の加減が変わったのか、少女の影は見えなくなった。

 心の動きに身体がついて行っていないだけで、このまま心穏やかにしていられる気がしなかったが、竹流に部屋に連れ戻された後は、もう部屋を一人で出る気はしなかった。
 時々、あのいかにもイタリアのマンマ風おばさんが様子を見に来てくれて、熱を測ったり、氷枕を取り換えてくれたり、食事を持って来てくれたりした。とは言え、ベッドの上に一人座ってリゾットを眺めていても食欲がわいてくるわけではなかった。
 仕方なくベッドに横になり、目を閉じると、不意に光の中に吸い込まれたような気がした。


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 アウローラ。
 呼びかけた時、光のせいで真っ白だった世界が急に色づいた。
 ライラック色の空気が広がり、吹き抜けた風が色を集めたようになって、少女の髪の上に止まった。しっとりとした絹の手触りが伝わるように、そこだけクローズアップされて真の視界の中で重くなる。
 竹流が少女のために古い日本の着物の端切れから作ったというリボンだった。

 写真を見たからなのか、それとも真の意識が比較的鮮明に物事を捕えられるようになっていたからなのか、少女の顔はくっきりと見えた。病弱だったという痩せた少女の頬は、以前見た時よりも少しふっくらして見えていた。

「良かった。話したかったんだ」
 真が話しかけると、アウローラは首を少し傾げるようにして微笑んだ。
 ふと、少女の手を見ると、誰かの手を握っていた。
 可愛らしいもう一つの手を見つめていたら、少しずつ光がまた溶け出してゆき、そこにアウローラよりも少し小さな女の子が立っていた。

「フィオレンツァだね」
 少女たちは顔を見合わせて、微笑んだ。
「ジョルジョは大丈夫?」
 尋ねた途端、足元に絡み付く気配を感じた。黒い猫が真の足に擦り寄り、甘えている。真は少し屈んで、猫の背中を撫でてやった。温度は何も感じなかったが、滑らかで優しい手触りだった。

 もう帰らなくちゃ。
 少女たちはそう言った。真は頷いた。
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 夜遅くになって、ようやく竹流が部屋に戻ってきた。
 真は夢と現実を半分ずつ行き来しながらうとうとしていたが、ベッドの軋みが身体に響いたので、目を開けた。
 正直なところ、昼を過ぎた頃から薬のお蔭か痛みは薄らいでいて、どちらかというと身体を休めすぎてだるいほどになっていた。いや、一度あの場所に行ってから、そして夢の中でアウローラたちと話してから、傷自体の痛みは取れていたような気がする。

「起こしたな」
 頭に触れた竹流の手が髪を撫でた。
「もう済んだのか?」
 竹流は頷いた。
「ベルナデッタは大丈夫?」
 竹流はもう一度頷いてから尋ねた。

「痛みは?」
「もうあんまり痛くないんだ」
 薬のお蔭かもしれないが、もしかするとあの猫のお蔭なのかもしれないと思っていた。
 竹流が心配そうに包帯を外して真の腕の傷を確認し、思わず舌打ちするようにつぶやいた。
「あの藪医者、縫わなくても良かったんじゃないのか」
 やっぱりそうなのだ。真は自分の傷の治り具合を見て確信した。
「ジョルジョのお蔭だよ。きっと」

 真が思わずつぶやくと、竹流がふと顔を上げた。
「お前、どうして猫の名前を知ってたんだ?」
「え?」
 しばらく竹流は不思議そうな顔をしていたが、霊感だとでも思ってくれたのか、まぁいいかと呟いた。
 まさか、放っておかれて悔しかったから、適当にあんたの名前をつけといた、とは言えなかった。そしてそれから、頭がくるりと回転したような気がした。

 じゃあ、本当にあの猫はジョルジョという名前だったのか。
 偶然といえば驚くけれど、世の中には不思議なことがあるものだ。

 竹流は疲れたな、と呟いて、そのまま服を脱ぎ捨て、タオル地のガウンを引っ掛けてそのままベッドにもぐりこんできた。彼の体臭、穏やかな木の香りにも似たエキゾチックな匂いに包み込まれて、真は目を閉じた。
 それからゆっくりと、竹流は事情を説明してくれた。

 一年前、行方不明になったと言われていた少女、フィオレンツァは、その母親のマリエッラが誤って死なせてしまったこと、マリエッラは夫の暴力に耐えかねて、逆に娘のフィオレンツァに手を上げるようになっていたこと、娘婿が暴力をふるい娘を苦しめていると思っていたグローリアは、娘を助けたい一心で彼女を逃がし、自分がフィオレンツァを旅行に連れて行っている間に見失ってしまったと嘘を言っていたこと、フィオレンツァを以前は墓地だったあの場所に埋めたこと、そして一年が経ち、フィオレンツァの死に苦しんでいた母親のマリエッラは自殺するつもりでグローリアに少女を埋めた場所を尋ねたこと、真があの場所にたどり着いたとき、自殺しようとしたマリエッラを止めようとしたグローリアともみ合いになっていたことなどを、ゆっくりと真に話して聞かせた。

 真は最後まで聞いてから、ただ頷いた。
 そして竹流の胸に頭を押し付けた。
 ボタンは少し掛け違えられただけなのだ。誰も憎しみを感じてなどいなかった。だから少女たちは決して誰かを恨んだりしていたわけではなかったのだ。

「ベルナデッタは偶然、グローリアがフィオレンツァを埋めるのを見てしまったんだ。彼女は娘のアウローラを生んだことも失ったこともとても辛くて、自分を責めていて、あの写真とリボンを傍に置いておくことはできなかった。だから嘆きの天使の傍に埋めていたんだけれど、その日、やはりたまらなくなってそれを取りに行った。グローリアのしたことを見ていたベルナデッタは、きっとこれは自分に科せられた罰なのだと思ったんだそうだ。アウローラの写真もリボンも、掘り出して取り戻すことを諦めてしまった」
 そして一年、俯いて暮らしていたベルナデッタのところへ、グローリアがやってきて、そして今、事実が明らかになった。

「アウローラは、ベルナデッタに写真の後ろに書いた言葉を読んで欲しかったんだな」
 竹流がぎゅっと真の頭を抱き締めてきた。
「アウローラは、ベルナデッタが迎えに来るまであの場所を出ることができなかったんだ。ベルナデッタがあの場所にアウローラを、つまり写真とリボンと思い出を埋めてしまったから。だからアウローラは自分ではあの場所から出ることはできなくて、お母さんを待つしかなかった。でも、自分と同じように少女がここに取り残されたのを見て、何とかしたかったんだと思う」
 真はそれだけ言って、静かに目を閉じた。

 猫は『魂の使い』だという。猫のジョルジョはこの町に来て、フィオレンツァを見つけたのだろう。アウローラはそれに気が付いた。だから、猫と一緒にみんなに訴えていたのだろう。
 ここに来て。違うんだよ、この子は決してお母さんを恨んだりしていないよ、と。
 私たちの言葉を聞いて。誰か伝えて、と。

 アウローラは、ジョルジョがいる時は猫に乗って町にも来ることができたかもしれないが、ジョルジョがいない時には精一杯で『しっぽ』だったのかもしれない。真にしっぽしか見えない時があったのは、そのためだったのだろう。
 そして、ベルナデッタが写真とリボンを抱いたときから、アウローラの魂はあの場所から解き放たれたのだろう。きっと今、彼女はベルナデッタの傍に帰ったのだろう。そしてフィオレンツァも、母親と祖母の魂の傍に帰ることができたに違いない。
 嘆きの天使は、もう涙を流さなくてもいい。穏やかな夜があの場所に降りて、世界を包み込んでいる。

 竹流は昨夜からずっと女性たちのために動き回っていて、彼女たちの気持ちを聞いてやり、代弁したり、事務的な手続きを手伝ったりして眠れなかったのだろう。ベッドに潜り込んでようやくほっとしたのか、真を抱き締めたまま眠ってしまった。

 真はしばらくどうしようもなくその胸の動きを耳で感じていたが、やがてそっと彼の身体に腕を回し、抱き締めた。
 アウローラは、足長おじさんに恋をしていたと思うよ。だから病気でも、一生懸命素敵な手紙を書いたんだ。あんたに辛いこととか苦しいこととか、気が付かれないように。
 真はそれだけ呟いて、自分も目を閉じた。
 竹流の手がもう一度強く、真の頭を抱き締めた。


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「やっぱり藪医者だったな。糸を抜くだけ無駄だ」
「違うよ、ジョルジョのお蔭だって」
 朝からこの会話はもう三度目だった。
「猫をジョルジョって呼ぶな」
「何で」
「うるさい」
 ついでにこれも揉めている。

 シエナにはバスターミナルがある。トスカナの地方の小さな村へ行くバスがここを拠点にしてあちこちへ出ていっている。賑やかにチケットを求める人の列、アナウンスの声、そして開け放たれた窓から吹き込む早春の風。
 自分たちの番が来て、バスの切符を買っている時、いきなり真は誰かに後ろから抱きつかれた。というよりも目隠しをされた。

 この感触は!
「だーれだ?」
「李々子さん」
「え~、どうしてわかっちゃうの~?」
「いや、それは分かりますって。ねぇ」
 シロちゃんこと稲葉さんが真にとも、傍に立っている宇佐美にともつかず言った。見れば、その後ろに例の大道芸人さんたちも一緒にいる。

 竹流が窓口に支払いを済ませて振り返った。
 最初に竹流と目が合ったのは、どうやら蝶子さんだったようだ。それはそうだ。こうして朝の光の中で立っていても怖いくらいに綺麗な女性だった。グローリアの娘、クラリッサのことは真の誤解だったとしても(いや、それも疑わしいのだが)、今明るい陽の中で交わされた二人の一瞬の視線に、真は思わず殴ってやろうかと思ったりもした。

 蝶子さんも意味ありげにふと笑みを浮かべる。
 これは断言してもいいが、もしも真がいなければ、この視線を交わした男女は間違いなく、今夜の約束をするはずだ。いや、今夜まで待つかどうかも分からない。

 でも。
 真はちらっと竹流を見上げた。
 たまには信じようか。

「どちらへ行かれるんですか」
 竹流が、背の高さの関係上、一番視線が合いやすい宇佐美さんに向かって聞いた。
「フィレンツェです。我々の探し人がどうやらフィレンツェにいるんじゃないかという情報が入ったので。駅までバスに乗ろうと思ったら、あなた方が見えたので、李々子が……」
「最初に見つけたのは諒じゃない。ねぇ」
 と李々子さんが言いかけた時、急いでいるらしい数人の男たちが駆け込んできていて、真にぶつかりそうになったのを、竹流が抱き寄せた。李々子さんは、竹流の顔を見ていたようだったが、急にちょっとほっとしたような顔になった。

「あなた方もフィレンツェに?」
 竹流が蝶子さんに尋ねる。
「えぇ。今夜から、フィレンツェの店でしばらく厄介になるの」
「ではまたお会いすることがあるかもしれませんね」
「あら、あなた方もフィレンツェに?」
「えぇ、この町の次に……」

 と言いかけた竹流の方へいきなり李々子さんが倒れかかった。というよりも、彼の足を思い切り踏んづけたようだった。
「あ~、ごめんなさい!」
 横で宇佐美さんと稲葉さんはもう笑いを噛み殺している。蝶子さんまでが何かを察したように微笑み、後ろで大道芸人仲間たちはちょっと見なかったことにしようとでも言うように目を逸らしている。

 竹流はと言えば、しれっとした顔で、いいえ、シニョーラ、と微笑んでみせる。
 別れ際に李々子さんが耳元に囁いてくれた。
「仲良くね」
 竹流には蝶子さんが近づいた。そして明らかに真にも聞こえるように、よく通る爽やかな声で言った。
「泣かさないようにね」
 そう言いながらも、じゃ、またフィレンツェで、と言って微笑んだ。

 最後に稔と名乗った、ギターと三味線を弾く日本人の彼が真に近付き、何か言いかけて、上手く言葉が見つからなかったのか、結局思い切ったように手を差し出した。真はしばらくその手を見つめていたが、少しだけほわっと温かい気持ちになってその手を握り返した。
「何て言うのか、津軽の心を思い出した。腹の中に残ってるあの節を。ありがとうな」
 真は強く握り返された手をしばらく見つめていたが、自分も思い切り手を握り返した。
「僕の方こそ」

 本当はもっと言葉を言いたかった。だが、もともと言葉が苦手な真にはそれ以上何も言えなかった。だが多分、稔さんも同じだろう。そしてそれで十分だった。
 あの時、この手から三味線を渡された瞬間、心に火が付いた。それは多分、この竿に触れ撥を握った者同士にしか分からないものだ。
「日本に帰ったら、今度は二丁で叩き合おうな」
 どこに行けば会えるかと聞かれたので、祖父母が出入りしている民謡酒場の名前を言った。稔さんはぽんぽんと真の腕を叩いて、そして先に歩いて去っていく仲間を追いかけた。
 向こうから李々子さんが大きく手を振ってくれ、最後に皆が振り返って、照れ臭いほど一生懸命に手を振ってくれた。


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 シエナから四十キロ、バスは空と地の境界をゆったりと走る。
 蒼い空とベルベットのように滑らかな緑の大地、向こうに立ち並ぶ木々、風は開け放った窓から吹き込み、頬を撫で、また通り過ぎていく。乗り合わせた人々は自分の手元の仕事とおしゃべりに忙しいものの、見慣れない旅行者には敏感だった。

 真にも何とかわかる言葉で、彼らは行先を尋ね、竹流はそれに答えている。それ以外の会話は真には全く分からないが、その音楽のような言葉の響きは耳の中に心地よい余韻を残す。
 やがて、人々が口々に同じ言葉を叫ぶ。きょとんとしている真の腕をおばさんが掴み、窓から向こうを覗くように示し、おばさんを見上げた真ににっこりと微笑んで見せた。

 サン・ガルガノ。
 緑の短い草が生えそろう平地の先、並木の向こうに、他に何もない孤高の場所に立つ建物はバス道から見ると、まだ随分小さく見えていた。

 バスが停まる。
 竹流は真の手を引っ張って、皆に礼を言ってバスを降りる。降りてバスが走り出すと、窓から顔を出して皆が手を振っている。竹流も手を振りかえしているので、真も何となく手を振り返した。
 バス停から修道院まではそれなりの距離があった。竹流はバスの中で真の手を取ったまま離そうとせず、何を思っているのか、引っ張るように一生懸命歩いている。
「手、もういいって」
 真が訴えると、竹流はようやく気が付いたようだった。あ、そうか、というように手を離し、それからはゆっくりと一緒に歩いた。風が足元に吹き付け、一度舞い、それから並木を撫でていく。

 坂を登ると修道院だった。
 中に入って驚いた。
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 屋根がない。
 真は蒼天を見上げた。
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 蒼い空、雲は白く流れゆき、風が空を渡り、鳥が漂うように行き過ぎた。天は抜けた屋根の形に切り取られ、この大地となった床から見上げている異教徒にも、神の光を降り注いだ。
 ここに来るまで見上げたどの教会の天井からも直接感じることがなかった、自然という名前の芸術を越えた大いなるものの存在。それはキリスト教とは何ら縁のない真にも、直接的に何かを語りかけているようでもあった。

 真は首が痛くなるのも気が付かないまま見上げ、目を閉じ、光と風を頬に感じ、そして高い空を舞う鳥の声を聴いた。それからふと足元の大地を見下ろし、短い草が風に揺れ、小さな虫が羽音を震わせている気配を感じた。

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 真が言葉もなくゆっくりと教会の中心を、今はもう名残の石しかない祭壇へ歩いて行くのを、竹流は黙ってついてくる。言葉は何もなくても、ここは何て暖かいのだろうと思った。

 脇廊、ファザードの高い窓にもガラスの名残さえない。そこからは直接光が入り込み、向かいの壁に光の帯を映し出す。真は正面の丸い窓の痕を見つめ、壁のレンガ色が少しずつ色合いを変えているのを見た。
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「十二世紀の後半に建てられたシトー派の修道院だ。シトー派は十一世紀にフランスで生まれた修道会で、清貧、貞潔、服従がモットーだった。祈りと生活の場だった修道院はこうやって俗世の喧騒から離れた山の中に建てられている。百年ばかりは栄えたが、やがて衰退して、貧しさのあまり屋根を売り払った。屋根に鉛が入っていたからだ。十七世紀にこの姿になって、後は放置されたという」

 竹流が傍らで空を見上げた。
「屋根を売り払った理由は極めて現実的なのに、残された教会は随分とロマンチックだろう?」
 真はしばらく神がこの世に落とした芸術の賜物のようにさえ見える男の横顔を見つめていたが、やがて一緒に空を見上げた。

 神様というのは、こんなにも優しい。
 鳥も虫も一緒に、神の家である教会に棲むことができるよう、屋根を外したのだ。
 真はもう一度目を閉じた。

 この国の小さな町で起こった小さな事件。それを覆うように天が光を降らせている。あの上から、少女たちは時々ここへ降りてきて、愛らしい声で囁く。

 Mamma, Ti amo.

 母のない真にも、同じ光が降り注いでいる。
 そっと髪に触れる手は大きくて暖かかった。

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 修道院の外側へ回って、草地に座った。向こうまで果てなく広がる緑の草地から風が渡って、枠だけ残された窓を通り抜けていく。あの空と陸の境に永遠が宿っている。

 持ってきたバッグから、出がけにホテルのレストランで貰ってきたワインとグラスを二つ取り出し、パンとハムとチーズ、オレンジを草のテーブルクロスに並べる。ワインオープナーを回す音がきゅっきゅっと耳に心地よく響く。グラスに注がれる音、爽やかに白と透明と琥珀を掛け合わせたような光がグラスを満たす。
 真がグラスを取り上げるのを躊躇っていると、竹流が自分のグラスを取り、大地に残ったままの真のグラスに勝手に乾杯をすると、自分は先に飲み始める。真は彼が風に向かいながらワインを傾ける横顔を改めて見つめ、それから自分もグラスを取り上げた。

 匂いをいっぱいに吸い込んで、それから神の手でこの世に授けられた命の水を口に含んだ。
 それからナイフでパンを切り、チーズとハムを挟む。硬いパンだったのに、昨日一人で口にした暖かいリゾットよりもずっと美味しかった。多分、風も一緒に胃に入れているからなのだ。そして、傍にいる男は、自分の母親代わりだったという人に、真をこの世界で最も大事な人と紹介してくれていた。
 オレンジも食べてしまうと、竹流が気持ちよさそうに草地に寝転んで目を閉じだ。

 真は隣に座ったまま、少しずつワインを舐めていた。
 ふと気が付くと、傍に猫がいて、ハムとチーズの匂いを嗅いでいる。キジトラの猫はちょっと真に遠慮していたようだが、あげるよという顔で見つめると納得したようにしばらく残り物を味わって、それから真の足に頭を摺り寄せた。やがてころんと寝転び、毛づくろいをしてから目を閉じる。その頭を撫でながら、ふと思う。

 ジョルジョが来てくれたらいいのに。
 竹流はもう完全に眠っている。何だかつまらなくなって、猫を腹の上に置いてやると、竹流は一瞬微かに動き、それから目を閉じたまま腹の上の猫を撫で、その手で真の膝に触れた。

 ちょっと言いたいことがあったような気もしたが、まぁいいか、と思った。
 ワイングラスを置いて、隣に寝転び、高い空を見上げる。鳥が羽を広げて漂いながら視界を横切った。
 多分、今、幸せなのだ。このまま世界が壊れてしまわないように抱きしめてしまいたい。
 真はこの大きな宇宙の中で目を閉じた。
 今、こうして瞼の裏の星を数え、世界の音を聞き、そして果てのない命の連鎖を魂で感じている。

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 大きな時間の流れの中で、この今の瞬間、高い空から屋根のない教会へ吹き降ろす風は、緑の草地に寝転ぶ小さな二つの影を捕えた。
 風は鳥を空へ送り上げ、虫たちを伴いながら地上へ降りて、彼らを優しく包み込む。
 その傍には黒い猫が座っていた。
 猫は気持ちよさそうに目を閉じ、風の匂いを嗅いでいる。
 やがて猫がそっと目を開ける。
 少女が二人、草の影から顔を出して、愛らしい仕草で猫に合図を送る。
 猫は少し名残惜しそうに傍らに眠る男と少年を見つめ、やがて立ち上がり、少女たちの方へ歩いて行き、途中で一度振り返った。
 そして風を見上げた後、黒い猫はその風を身体に取り込んだように少女たちの方へ駆けて行き、光の中へ飛び込んで、消えた。

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 【幻の猫】 了


以下、あとがき?は追記に。
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