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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【物語を遊ぼう】1. はじめまして:まずは自己紹介 

 大海彩洋と申します。一億総作家時代?とも言えるご時世に、例に漏れず小説ブログに参加してみることにしました。いったい誰がこのブログに辿り着いてくださるのだろう、という疑問を感じながら…

 そもそも、73年前に亡くなった私の祖父が作家志望で、家には手作りの和綴じ本に墨で超達筆な字で書かれた紀行文や雑記が残されていました。小説があったかどうかは定かではないのですが、すっかり本の魅力(それも装丁から自分で作るという)に魅せられた幼い私は、ちゃっかり小学校の卒業文集の将来の夢に「小説家・考古学者」と書いていました。今は全く違う仕事についていますが、まだまだどちらも可能性があるのでは、なんて思うこともしばしば。しかし、現実はそんなわけにはいきません。
 しかし小学校5年生の時にはすでにノートに何やら小説らしきものが…しかも、それは「明智君」なんて世界のお話でした。そう、江戸川乱歩からすべてが始まったと言っても過言ではありません。一方で、乙女チックな物語も結構好きで、若草物語の二番煎じものを書いたりもしていたものです。何故か当時書いた小説もどきの中に、侍ものがあるのは謎ですが…。ついでにお伽噺・童話・児童小説も大好き。あばれはっちゃく、王様シリーズなどは今でもバイブルです。でも一番のバイブルは『モチモチの木』。いつかラストであんなぱあっとした光が灯る物語が書きたいです。でもやっぱりおしっこの時はじいちゃんを起こしちゃう落ち付きで。
 中学に入ってからは、友人たちと一緒に沢山小説もどきを書きました。オリジナル一直線でしたが、中には二次小説のようなものも(主人公はツタンカーメンの奥さん、アンケセナーメンだったりしましたが)。本当に楽しかったなぁ。
 それからは、手書きノート、ワープロ(書院)の時代を経て、こっそり誰にも見せる予定のない小説を書いてきました。小説を読むのは大好きだけど、時々自分が面白く読める話は自分で書いた方がいいのか?などと思ったりしながら。
 しかし20年もたったある日、二次小説をいっぱい書いている中学時代からの友人に見つかり、オリジナルを読んでもらう機会を得ました。時々感想やらダメ出しをもらうようになり、それが結構励みになることに気が付き、さらに『ブログで小説』なんて時代が来たので、便乗するのも悪くない気がしてきました。
 この長きにわたる時間の中で、私の物語の主人公としてずっと居座っている人物がいます。世に出す、とまで格好のいいことは言いませんが、この二人の物語をやっぱり書いておこうと思う今日この頃です。
 それが、初めましての小説『清明の雪』の二人なのですが、実は主人公の片割れ相川真は、私が小学生の時から書いていた小説の主人公だった「明智君」の流転した姿。名前はその頃から相川真のまま。だから、職業も探偵でなくてはならないのだ!なんて具合に、設定は大きく変わっていません。しかもこの物語、父親の代からひ孫の代まで続いていて、すっかり大河ドラマです。相川家は父親はスパイだし、息子はピアニスト、孫は小説家でひ孫はロックンローラー、やしゃ孫は考古学者。主人公二人は男同士なのでさすがに結ばれるというわけにはいかないのですが(白状すると、少し恋愛感情は絡んでしまいます…でもBLとは言えないのが辛い)、このやしゃ孫の代にようやく2つの家系が、国も時代も乗り越えて結ばれる、気の遠くなるお話。まさに『われても末に逢わんとぞ思ふ』です。
 多分、私が生きている間には終わらないなぁ。他にあれこれ、書きたいこともあって。

 ちなみに『清明の雪』の二人の時代の底辺に流れている物語の原型は『人魚姫』なんです。お魚なのに人間の王子様に恋をするとややこしいことに…という話。そしてラストのやしゃ孫の物語の原型はオードリー・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』…やっぱり物語の王道はお伽噺、と今でも信じています。そしてさらに触発されたのは、映画では『ドクトルジバゴ』、小説ではトルストイの『戦争と平和』…大河になってしまったのはこの2つのせいですね。大河と言えば、今でも私のナンバーワンは『獅子の時代』。
 でもってミステリーが大好き。物語を考えると、なぜかミステリー風になっていきます。そう、あくまでも『風』ですけれど。どんな日常のこともミステリーだと思うんですね。『じっちゃんの名にかけて』謎解きをしていくのが物語。だから、私の書くものはみんな広義のミステリーであり、広義のお伽噺だと思っています。
 とはいえ、目指しているのは『鬼平犯科帳』だったりする? 無人島に行くときは『鬼平犯科帳』と決めています。そう、人情もの、時代物、大好きなんです。
 長くなったので、またいずれ。
 よろしければ、お付き合いくださいませ。よろしくお願いします(*^_^*)
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【物語を遊ぼう】2. あとがき(というより小ネタ出し)の効能 

 本を読むとき、ついついあとがきから読んでしまいます。多分そういう人はいっぱいいると思います。だからこそ、あとがきを書く人たちもネタバレしないように気を使うんですよね。
 ミステリー・推理小説で犯人が分かるのはどうかと思うけれど、ちょっとしたエピソードや会話、登場人物のイメージが分かるのは、かえって読む気になっていいのかも、と思ったりします。少なくとも私はあとがきに書かれた小説の中のエピソードが面白そうであれば、読む気になるタイプです。万が一犯人が分かってしまっても…。作品を妙に抽象的に分析したり、またやたらとこの作品はすばらしいとほめ過ぎてたり、あとがきを書いた人の個人的感想が長々と書いてあるよりも、エピソードの抜粋や登場人物のことが具体的に書いてあると、入り込みやすいからかもしれません。
 新聞の書評を真剣に読んで「読みたい」と思うより、本の帯に物語の印象的な会話が書かれているのに魅かれてしまうことの方が多いですよね……キャッチコピーに引っかかりやすいタイプかもしれませんけれど^^; で、作中にその台詞が出てくると、あぁこんなふうにこういう場面でこの会話が使われるんだ~みたいな感じになります。
 フィギュアスケートもそうですよね、4回転やトリプルアクセルを単発で飛んでいるのを見るより、流れの中でなるほどこんな風にこの曲の中でこの技を使うんだ~っていうのが面白い。私、津軽三味線をするんですけれど、じょんからの曲弾き(唄に入る前の前奏部分が独立したもの、弾き手によって違うので基本オリジナル)もある程度パターンが決まっている中で、技をどう織り込むかが大事なんですね。あ、この技、こんな流れの中で使うのか、すごいなぁみたいな。そう、小説も技、すなわち印象的なエピソードや会話、はたまたキャラクターが流れの中でどんなふうに使われているのかを読む、というのが楽しいのかもしれません。
 だから私は、あとがきにおける小ネタ出しは実は大歓迎、なんですが、皆様はいかがですか?

 学術書、論文などは始めにabstractすなわち要約があって、「諸言」から「結論」まで書いてある。結論は分かってるのにそれでも内容を読むわけですから、ミステリーで言うと犯人は分かっているけれど読むようなもの。つまり経緯が大事なんですよね。もちろんこの手法はミステリー作家さんも使われることはあるけれど(最初に「犯人」が登場するパターン)、そうなると多分作家さんの筆力が問われるんでしょうね…大変です。でも考えてみたら、舞台や落語もそうですよね。落ちを知ってるのに、何度見ても聞いても面白い……そうでない時もあるのが演じる人・演出家にとっては怖いんでしょうし、作家にとっても怖いことなのかもしれません。
 でも考えてみたら、日本人は結果が分かっているのに比較的面白がってしまう国民なのかも。水戸黄門なんて印籠が出てくる時間まで分かっているのに、必殺も主水さんが首巻き?して夜の道を歩く時間まで知っているのに、そこに行きつく経緯を楽しむことができるのかもしれませんね。もちろん、安定調和を好む国民だからかもしれませんが、今回の大黒屋とお代官様はどのパターンでくるか、ってあたりでも十分楽しんでしまう。だから二時間ドラマをついつい見てしまうのかも…大体途中で犯人が分かって、ラストの崖では「私の二時間を返して」っていつも思うのに。
 でも私、二時間ドラマ、かなり好きです。この話はまた別の機会に。

 さて、話はあとがきに戻りますが、作家さん自身があとがきを書いていらっしゃるときもありますよね。ちゃんとした本?では謝辞とかが多くてあまり内容には触れておられないんですが、読み手としては、もっとこの小説の舞台裏を語ってくれてもいいのになぁってことはありませんか?
 もちろん、商業作家さんは小説自体で勝負しておられるのだから、本文がパーフェクトであれば舞台裏なんて見せないのがいいのだという意見もあると思うのですが、でも有名画家の有名作品のスケッチが出てくるとニュースになるし、あるいは小説ならこの掌編からあの長編が生まれたなんて研究をするわけですから、実は読み手は舞台裏が大好き。1冊の漫画の最後に、おまけの4コマやキャラクターの思わぬ素顔が描かれていたり、作者さんの「実は…」とエピソードが書かれていたりすると楽しいですよね。
 そういう意味では、同人作家さんなどは自由に自分のキャラクターで遊んでおられて、読む方も実はそれが楽しい。書店に並んでいる本にも作者さん自身のそんなあとがきやらお遊びページがあったらもっと楽しいのにと思うわけです(お遊びで一冊の本になるのもあり。たまにありますよね)。ブログ小説、ネット小説ではそんなのがいくらでもできるのがいいですし、みなさんがそれをされているのを読むのが楽しい。私もバンバンやっていきたいと思っています。
 そう、作者さん自身の派手なあとがきを求む、小ネタ出し大歓迎、たまにはネタバレもいいじゃないか、って思ったりしています。
 昔ノートに小説を書いていた頃、本文の余白の部分には、書き手のちょっと一言(つまり、笑うところで笑ってほしいから「ここは笑ってね」って印をつけるようなものなのですが(^_^;))やらみんなの感想やらダメ出しやらが書き込まれていて、それが妙に楽しかった。さすがに小説本文の中でそれができなくても、あとがきならぬ作者自身の解説コーナー、作っていきたいと思います。
 あぁ、また長くなってしまった。
 よろしければ、今後ともお付き合いくださいませ。
 よろしくお願いします(*^_^*)

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【物語を遊ぼう】3. 作家買いをしますか? 

 ところで、皆さんは作家買いをされますか?
 私はYes 50%、No 50%です。1冊読んで面白かったら怒涛のようにしばらくその作家さんの作品を読みまくります。が、やっぱりどこかで息切れして、結果的にある作家さんの作品をすべて読みつくした、ということはありません。だから困るのは、どの作家さんのファンですか?という質問。
「○○さんです」と答えると、「あ、私もなんです。『△△』が一番好きなんです、面白いですよね」うーん、その作品、読んでないなぁ、ということがしばしば。『50%の作家買い』をしたときに、その作品まで行き着かずに終わってしまっていたわけですね。
 で、知りません、なんて言ってしまったら、本当にファンですか?ってことになるので、もうあまり言わないことにしています。その私が引け目なくファンと言えるのは池波正太郎さんだけですが、それにしても、今となってはすべての作品を覚えているかというと、いささか自信がありません。池波先生の絵を見るためだけに、東京の某ホテルに宿泊までしたのですが。
 いずれにしても、すべての作品を読んでいないからと言って、ファンでないとも言いきれないし、それぞれの作家さんにそれぞれお気に入りの作品がある、というのが普通じゃないかな、と思うことにしています。有名作品を読んでいないこともしばしばありますが、それはそれでいいことにしよう、と。
 ミステリー系・ハードボイルド系が好きで(あくまで『系』。本格的ミステリーと言っても何が本格なのか、よく分かっていないのです)、つい作家買いしてきたのは、一番古くは逢坂剛さんだったような気がします。萌えたのはもちろん百舌鳥シリーズ。他に結構作家買いしているのは宮部みゆきさん。いくつもの分野(系統)の小説を書いておられて、もちろんどの分野も素敵ですが、私は実は時代小説の短編集がとても好き。志水辰夫さんは文章が好きで、かなり嵌りました。……でも、アマゾンを眺めみると、どの作家さんの場合も読んでない作品の方が多いですね。本当に作家さんてすごいと思います。

 さて、ある時作家買いして、それからぽツンと読まなくなって、ある時その作家さんの別の作品を読んで、すごく強く引き付けられた本がありました。
 柴田よしきさんの『少女達がいた街』です。柴田さんと言えばやっぱりRIKOシリーズ、そこからスピンオフしていったいくつかのシリーズですね。腐女子にはなり切れない中途半端な私などは、例のごとく『聖なる黒夜』で山内氏にどっぷりと嵌ったものでしたが、他の単発ものをいくつか読ませていただいたあと、すっかり読まなくなっていました。で、なぜか偶然手に取ったのがこの作品。

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 何がよかったのかと言うと…すごい、時間の流れがある物語です。ミステリーであり、青春物語であり、人生の物語であり、本当に『物語』『ストーリー』を感じる1冊。実は全く期待せずに読み始め、あれ、私の中で好きなミステリー小説の10冊に入るかも、と思ったのでした。『聖なる黒夜』はどちらかというと、ストーリーよりもキャラクターで読んでしまったので(もちろん、ストーリーも良いのですが、キャラクターで読んでしまうときもあるんですよね…小説はストーリーかキャラクターかってテーマいつかもやりたいです。両方いいのに越したことはないけど)。
 例のごとく、あとがきから読んだんじゃないの?と言われそうですが、その通りです。でもあとがきに称えられていた以上の良い作品であると思います。この時代背景にも魅かれたのかもしれません。1970年代…私の青春よりは少し前なのですが、魅かれる時代です。この作品はさらに1990年代にもつながっていますが、何より時代、時間の流れを感じる物語というところが、私の琴線に触れたのかもしれません。
 作家買い、多分これからも『50%の作家買い』を続けると思いますが、自分にとっての良い作品を見逃さないようにアンテナを張らなくちゃ、と思いました。
 せっかくなので、王道も載せておきます。

聖なる黒夜〈上〉 (角川文庫)聖なる黒夜〈上〉 (角川文庫)
(2006/10)
柴田 よしき

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【物語を遊ぼう】4. 『京都殺人案内』:小道具の使い方 

さて、小道具の話などを。
中学生の頃、実は演劇部でした。もちろん、小道具から大道具から役者まで自前なのですが、時々芝居の中身以上に小道具に拘ってみたくなることも多々あったり。もちろん、安上がりの舞台ですから、大したお金をかけられないのですが、それだけに拘って作ってみたり。
小道具って、舞台上ではあまり見えないところにあったりしますが、事件解決の糸口になることもある。あるいはその人物の特性を表す手がかりになったりする。
シャーロック・ホームズはまさにそのあたりを生かしたミステリーですよね。

さっそく話はずれますが(もう開き直りつつあります、このブログでは横道・脇道は日常茶飯事、ということで^^;)、ホームズと言えば、これまで2作公開された映画のホームズ、結構面白いと思ってるんですが、いかがでしょうか?
ホームズのイメージをむしろ原作に近付けたんじゃないかと思っているのです。ただのインテリではなく、実は格闘家であったり、エキセントリックであったり。しかもちょっぴり(いや、かなり)ワトソン君にLOVEなため、ワトソン君の彼女に嫉妬し、微妙な距離感の色気もあったり(読み過ぎ、じゃないですよね、あれは明らかに狙ってますよね)。

私の大学時代~仕事を始めた頃は京都どっぷりでした。
そもそも京都に住んでいた理由は、『京都殺人案内』なのです。
あの藤田まことさん主演のドラマに完全に惚れこんで、京都に住むことを決心しました。思えばなんと単純な理由だったのでしょう。実際に住んでみたら、京都府警さんにお世話になることなんてもちろんないわけですが。
でも、ある時、ヤクザさんの事務所あるいはお住まいの裏に住んでいたことがあります。はじめは知らなかったのですが、伏見のあたりの床屋さんでお偉いさんが亡くなられたとき、仕事が遅くなった私は真夜中に道を歩いていて、京都府警さんたちがいっぱい(言い過ぎ)警備をしていらっしゃる場面に出会いました。
『気を付けて帰りなさいね』(ペッパー警部みたいですが…)
その時、初めて、ああそうか、京都ってこんな町だったんだ、古い町だし色々あるよね…と思ったのですが、何となく納得しただけで、怖いとも思わずに普通に暮らしておりました。
たまに遭遇することもありましたが、何事もなく、比較的長くその場所に住んでいましたが……

ちなみに、ある時、名前だけで『音川』という名前のついたマンションに住んでいたことがあります。
そう、音川音次郎というのが藤田まことさん演じる刑事の名前でした。
はぐれ刑事純情派とどう違うのか?
人物像は同じようなかんじでしょうか。でも、音川さん、結構おちゃめでした。課長(遠藤太津朗さん)とのやり取りが、水戸黄門の印籠並みのお決まりでした。出張をねだる音川さんに課長が、『しょうがないな、その代り、おとやん、わかってるやろな』『わかってますがな』というお決まりの会話。そしてラストでは、なぜか出張先からのかなりしょうもないお土産が課長のもとへ……
見ている私の立ち位置は、というと、気持ちは音川さんの娘、洋子さん(萬田久子さん)なのですね。長いシリーズの中では、結婚して出戻り、それなりに年を取ったお父ちゃんの面倒を見ながら暮らしていて、時々はるかに年下の男(音やんの部下)に言い寄られてみたり。
で、私は、この音川家の食事シーンがとても好き。鍋率、高いんですが。

そして、ようやく本筋です。
この音川さん、実は、雨の日でも晴れの日でも黒い折り畳み傘を持ち歩いています。
本当に、いつも持ち歩いている。
長いシリーズの中、もうこれ以上増えることのないシリーズの最後のお話まで、持ち歩いておられました。
監督さんやスタッフさんは、2時間ドラマですから、きっとしばしば変わったんだと思います。どなたのこだわりかは分かりませんが、ただ何作目になっても音やんは傘を持っているわけです。理由はいちいち説明はないし、多分私の記憶にある限り、それに対する台詞での説明はなかったように思います。あったとしてもたぶん初期のころに少しだけ。
でも、何作目か(比較的早い時期の作品:調べたら第4作でした)に答えはありました。
実は、音やんの奥さんは、ひき逃げで殺されているのですね。それも、音やんが傘を持たずに仕事に行った日、雨が降って、奥さんが駅まで迎えに来てくれた時に。
だから、音やんは、万が一にも洋子さんを雨の日に迎えに来させないために(という説明もないけど)、ずっと傘を持ち歩いているのですね。
見ている私は、何作目になっても音やんが傘を持っているのを見ては鳥肌が立ち、そして安心するのです。

小道具。
何かものに対する小さなこだわり。しかもそれがストーリーの要というわけでもなく、お題というわけでもなく、でもそれがなくてはその人の人となりを表すことができない何か。物語の底辺に流れている細い水脈みたいなもの。
そういうものを上手く出せたらいいなぁ、と思いながら書いています。
そういう意味では、拙作では、竹流の左薬指の指輪はそれかもしれません。
ヴォルテラというのは、ローマ教皇をお守りする(いろんな意味で)警護団というのか金庫番というのか、そういう組織ですが、そこの跡継ぎである印で、すでに結婚しているのと同じなわけで……いつも何かの折には、真がやたらめったら気にしているのですが、どうすることもできずにそこにあるもの。

そこまで何作目になろうとも気になる小道具、というのでなくても、小道具を使うのは結構好きです。
とは言え、意識しているというよりも、結果として拘ってたみたいなことが多いです。
いえ、意識しているけど、意識していないふりをして使う。
意識して使うと、使いすぎてしまう。
使いすぎると手垢がついてしまう。
お茶のお道具などは、良いものはたまに出す。良いものをいつも出してしまうと、目垢がつくと言います。
最後にさらりと、あ、そう言えばこの小道具、そういう事情で絡んでたのか、みたいなさりげなさで使いたいのですが……

実は、いずれ『わたしがBLを書けないわけ』なんて回をしようと思っておりますが、その私が一度だけ挑戦したことがあり(ブログとか見ていると、BL作家志望さんたちがとても楽しそうなので、ちょっと仲間に入りたくて…でも見事に散りましたが)、その時照れ隠しに?小道具で遊びました。
意外にも楽しかった。ライターと傘。ありがちな小道具ですけど。
もしかしたら、いつか期間限定・会員限定?で登場するかもしれませんが……テーマは『あなたの燃える手で私を抱きしめて』って感じです(題名ではありません)。

小道具をさりげなく使えるようになったら、きっとお話に花が添えられるのだろうな、と思いながら。
(新幹線の中で書いていたら、逆流性食道炎が悪化して、気持ち悪くなってしまいました…(@_@)

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【物語を遊ぼう】5.『ダーウィンが来た!』:自然界の壮大な物語 

あまり小説・物語とは関係ないのですが……
この番組を見ると、世界は本当に大きくて素晴らしい!と思います。
人間の世界って、この番組の1エピソードに過ぎないんだ、とか思ったり。
NHKの『ダーウィンが来た』
この番組から、何回見ても面白いエピソードをふたつ、ご紹介したいと思います。

まずはオーストラリアコウイカ(つまりイカ)のお話⇒巨大イカの恋
魚にはしばしばみられるように、繁殖期に効率よくカップルになって子孫を残すために、彼らは繁殖期に集まって、集団お見合い=メスの取り合いをするわけだけど、どういうオスが有利なんでしょうか。

そもそもこのイカ、敵から身を隠すとき、周囲にあるものの色や形を模すという特技があります。身体にあるナミナミの模様をうごめかせて化けるので、このナミナミを速く動かせるオスがメスへのアピール度では有利。そしてもちろん、バトルですから、身体の大きなオスが有利、なんだけど……
実はかなりの数の身体の小さなオスがいる。もちろん、オス同士の戦いになればどうあがいても不利で、やられてしまう。でも実は、彼らは交尾のシーンでただ不利かというと、そうでもないんですね。

なんと、この体の小さいオスたち、女装するのです。
コウイカのオスはメスより身体が大きめで、足?手?を広げながらメスを誘うのですが、メスは小さくて手足?が縮まっている。そこで身体の小さいオスは手足を思い切り縮めてメスのふりをして、オスの攻撃をかわし、メスにこっそり近づいて交尾をするわけです。
しかし、交尾の瞬間は手足を出さないといけないので、この瞬間にばれるから、ちょっくら命がけ。

面白い点が2つ。
①あまりにも女装がうまいと、本当にメスに間違われて、オスに襲われる^^; 
②メスの方は、身体の大きいオスばかりが好きというわけではない。肉体派のオスもいいけど、女装という頭脳プレーも好き。だから身体の小さいオスだって結構メスに好かれている。
蓼食う虫も好き好き? 好みは色々、ということなのでしょうね。
メスが交尾する相手の割合は、身体の大きいオス:小さい女装オス=6:4くらいとか。……こうして、オーストラリアコウイカは多様性(いろんな大きさのイカがいる)を保っているのでした。
いやはや、イカの世界も、なかなか大変ですね。

エピソードその2はアフリカウシガエル命がけの子育て
南アフリカ共和国の草原、夏の雨季になると、地面から出てくる、大きさはサッカーボールなみ。乾季は土の中で10か月もじっとしている。雨が降らなかったら、七年も出てこなかったという記録もあるとか。ちなみに寿命は40年以上?
地面から出てくるその姿は怪獣みたいで、実に可愛くない。ネズミとか、他の小さいカエルもひと飲み。でも、なぜか地元の人々の人気者。

そして、雨季に雨が降り続くと、乾いた草原に巨大な水たまりができます。
さぁ、恋の季節です。
このサッカーボールなみの巨大ガエルと巨大ガエルの雄同士のバトルがものすごく面白い。
技は基本的に、体当たり。頭や口から激突、空中大回転、顔面噛みつき、巨大な口に生えた下顎からの突き上げ(牙つき)、足に噛みついて抑え込み……イカと違って、やっぱり巨大なカエルが有利なのですね。

ぜひ、チャンスがあればこの映像を見てください。
言葉には尽くせない、カエルの迫力のK1バトル……結構格闘技好きの私も大満足でした。
そして、メスは隠れてバトルの観戦です。強い雄を見極めないといけませんからね!
やがてカップル成立。卵を産んだら……もうメスはいません。
そう、このカエル、子育ては雄の仕事。結構不細工なのにイクメンなのです。

ここからお父さんの大奮闘が始まります。雨季にできた水たまりの寿命はわずか1か月ほど。その間に、子供たちにはオタマジャクシからカエルになってもらわないといけません。
食って、食って、食いまくる数千匹のオタマジャクシたち。餌の多い方に、餌の多いほうに、1日100メートルほども移動。お父さん、必死で引率です。でも自分はたまたま見つけた虫程度しか食べられません。
放牧中の牛が近づいてきたり、時には象が近づいてきたりすると……子どもたちを守るために、得意技の体当たり! 蛇が襲ってきても、大きな口で噛みついて……食べちゃった!

そしてさらに、子どもたちを浅瀬に、浅瀬に集めます。そう、水温の高いところに集まらせて早く大きくなってもらうのです。
そんな忙しい子育てより、水のいっぱいある安全な池に住めばいいじゃないかという話もありますが、池には大鯰とか、天敵だらけなので、かえって危険なのですね。

さて、温度の高い浅瀬にいると、太陽の熱で干上がってしまうことも……子どもちゃんたち、大ピンチ!……でも、お父さん、あなたは本当にすごいです。
大きな水たまりに移動したお父さんは、子どもたちのいる孤立した浅瀬まで、後ろ足で土をかき分けかき分け……、何回も何回も往復し、水を引き込む……そう、灌漑工事を始めました。でも、あぁ、もう子どもちゃんたちは水が減ってぐったり……お父さんも炎天下で1時間半、だんだん動きが鈍くなって……がんばれ、お父さん!
そしてようやく水路が完成! 子どもちゃんたちのいるところまで水が流れ込みます。
いやはや、手に汗握る番組でした。科学・自然番組でこれほど興奮するとは…!?

この世界は本当に美しくて楽しい!と思える番組です。
この番組を作っていらっしゃるスタッフの方々にエールを送ります。


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【物語を遊ぼう】6. 食事シーンの魅力『仕掛人藤枝梅安』 

実は拙作にはよく食事のシーンが出てきます。
『清明の雪』では、龍の寺で2人が精進料理をいただいたり、最後の方で祇園の某料亭(モデルがあります……ってしかもほとんどまんまの名前で出ている……すみません。ちょっと手が出ないような料亭ですが)で夕食をいただくシーンがあったり。
『海に落ちる雨』では、代議士に呼ばれて食事、調査事務所の連中と食事、ヤクザの倅と食事、とにかくやたらと食事の場面があるのですね……

食事シーン。実は結構好きなんです。
先にも書きましたが、『京都殺人案内』の音川家の夕食(鍋率高し)、藤田まことさんつながりで言えば中村主水宅の食事シーン(必ず落ちに出てくる)、ついでに藤田まことさんつながりで言えば『剣客商売』の秋山氏が若―い嫁の作ったご飯を食べているシーン(こっちはついでに食材までそのあたりを走り回っているし)、ホームドラマには欠かせないシーン。

よしながふみさんは、ついに料理からごはんシーンまで漫画にされてしまったし(『きのう何食べた?』……ゲイカップルの日常を描いた漫画で、メインはご飯のレシピじゃないかと思える作品)。
食事中って、結構どうでもいい会話をしながら、でも人間関係がよく分かったり、ほろりと本音が出て登場人物が好きになったり、2時間ドラマでは堀越栄一郎さんが食事中の嫁(山村紅葉さん率高し)と娘の会話に解決の糸口を見つけたり。

その私にとって、最高の食事シーンが『仕掛人梅安』に出てきます。
私はこのシーンを読んで、本を読むのをやめて、夜にも拘らず、ねぎを買いに走りました。
例の、ヤクザさんの家or事務所の裏に住んでいた時です。
食べたくて仕方なくなり、読んでる場合じゃないわ、と思った。

そのシーンたら、たったの2行ほどだったと思います。
梅安宅に仕掛人仲間の彦次郎さんが訪ねてきて、ご飯、というより酒を飲むシーン。
『葱しかないねぇ』『じゃあそれで』みたいな淡々としたやり取り。
たしか焼いて食べるだけ。
それなのに、何だかその葱がものすごくおいしそうに感じたんですね。

『剣客商売』も『仕掛人』も池波先生の作品ですから、思えば、粋な江戸っ子、ダンディな池波先生、そして下町の味をこよなく愛した池波先生の食への想いが、たった数行のシーンからこぼれ出ていたのかもしれません。
それに、仕掛人という孤独で先行きは地獄と覚悟した仕事をしている二人。
友情、仲間意識と、そしてテレビの仕事人でも出てくる、たまにある敵対意識や憤り。
そんないろいろな思いを持っている二人の間にある葱。
物語や人物の背景を感じながらの食事シーンだからこそ、たった数行で私を夜のスーパーへ走らせたのでしょう。

そういえば、昔、今昔物語? 吾妻鏡? 平家物語? なんだったか忘れましたが、酒飲もうと思ったらアテがなくて、戸棚を開けたら皿にこびりついた味噌だけがあったので、それで飲んだ、ってなシーンがあったように思うのですが、その味噌がすごくおいしそうに思えました。

そう、本当に旨い、と感じさせる食事シーンは、1行でいいんですよね。
難しいですね。

こんなお話、いや食事シーンを書きたい。
読んでる人が、本を読むのをやめて、食材を買いに走るようなシーンを書きたい。
そう思いながら、今日も私は食事シーンについつい無謀な挑戦をしてしまうのであります。

参考までに。
葱の苦手な人もいると思うのですが、葱を焼くとき、切った葱を縦に置いて焼いてください。
甘みが増して美味しいのです。


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【物語を遊ぼう】7.竹宮恵子『ジルベスターの星から』 

私の漫画遍歴はどちらかというと貧弱なのですが、その中で竹宮恵子さんには大きな影響を受けたような気がします。
もちろん、あの時代(!)ですから、萩尾望都さん池田理代子さんなど、そうそうたる大作家さんがおられて、どの作家さんにも強い影響を受けているのですが……
そもそも私たちの世代、日本の歴史は大河ドラマ、世界の歴史は漫画で学んだわけですし。

それはともかく、思えば、事の起こりは『キャンディ・キャンディ』ですよ!
私の『そう簡単に物事はうまくいかない感覚』の根源は。
なかよし、なんて可愛らしい少女漫画の本に連載されていて、目もおっきくてキラキラ、いかにも少女漫画という顔をしていながら、中身と言えば、相手役の男の子はすぐ死んじゃうわ、喧嘩しながらもやっと気持ちの通じあった恋人は他の女にもっていかれるわ(しかもその女も結局は悪い人間じゃないところがつらい、しかもラストのほうで!)、結果的には老人と思っていたあしながおじさんが結構若かったという下りで、ま、いずれくっつくんだろうと予測されて終わるわけだけど……
読んでいる小学生はやっぱりテリーとのHappy Endを望んでいたはずなのに!
……幼心にびっくりした展開だった。
ただ、あの時、物語って面白い、と思ったのも事実。やられた!って感覚かもしれません。

そして、さらに追い打ちをかけたのが、マジンガーZ(アニメですが)。
最終回、負けて終わってしまった。
あれはいったい何だったのだろう。最後の最後に正義が勝つとは限らない!って話?
しかも、続きで出てきた新しい主人公がどうにもいけすかない。

今でこそ仮面ライダーもロボットものも複雑で、敵も味方もそれぞれ事情があるってのは当たり前になってるけど、あの頃、ちょっと子供心に傷ついたりしました。
でも、あの頃、確かに暗いアニメは多かった。
キャシャーン、デビルマン、などなど。でもそれは設定の暗さであって、最終回にいきなり負けるのはどうかと思う。

さて、また脇道でしたが、竹宮恵子さんのこと
実は、握手してもらったことがある唯一の漫画家さんなんです。
サイン会に行って、登場人物のマスコットを作って持って行って、けなげなファンでした。
だれのマスコットだったか……それは私の大好きな漫画『変奏曲』のエドアルドくんだったはず。

一番好きな作品は、と聞かれたら、二つで迷うけれど…『変奏曲』『地球へ…』と一応答えている。
もちろん、本当に好きなんですけど…
でも、最も好きな作品は多分、だれも知らない、あるいは覚えていないかもしれない短編なのです。

『風と木の歌』であの当時、漫画界に嵐を巻き起こしたと言っても過言じゃない竹宮さんですが、実は竹宮さんの本領が発揮されるのはコメディじゃないかと今も思っている。
それは、しばらく漫画から離れていた私が、ものすごく久しぶりに竹宮さんの漫画を手に取って、本当に面白いと思ったのは『私を月まで連れてって!』で、これを読んだとき、これこそ竹宮恵子さんだわ、と思った。
ユーモアのセンスが抜群。こじゃれたユーモア。
もしかして、私の中で『変奏曲』も『地球へ…』も抜いたかも、と思いました。
これは本当におすすめ。

さて、私の愛する短編をご紹介します。
この間、アマゾンで検索しました。
もう売ってないんじゃないかと。
そうしたら短編集の中にありました。

『ジルベスターの星から』
ジルベスター(これは私の持っている古い本)

演劇部だった私は、実はこれを何とか舞台でやりたいと思った。
(しかし実現しなかった。宇宙戦艦ヤマトと赤川次郎さんの作品はやったんだけど…それにしてもなんて画期的な中学生だったんでしょうか! 30年ほど前? え? いやはや、自由な学校だった)
でも、この世界がとても愛しく思えて、そのまま大事においておくことにした。

今でも、読むと、そこはかとなく心が温かくなる。

放射能で汚染され、ドームの外には出られない未来の地球。
宇宙パイロットになる夢を持った少年、アロウのもとに幽霊のような少女とも少年ともつかない子ども(ジル)が現れる。それは遠い星、ジルベスターから送られてきたテレパシーが作った映像。
その辺境にある星は、汚染された地球から移民団が移り住んだ星なのです。
ジルはアロウに、ジルベスターがどんなに素敵な星か、どれほど夢のある場所か、そしてラベンダーの空がどれほどに美しいか、話して聞かせる。
時には意見が合わないこともあったけれど、語り合いながら夢を紡いでいったのです。
いつかジルベスターを見たい、その気持ちがアロウを動かし、優秀なパイロットになった彼は、周囲が進めるエリートへの道を断ってでも辺境の星ジルベスターへ行きたいと願う。
しかしある時、依頼していた調査の返事が返ってくる。
ジルベスターでは宇宙線の影響で子どもが育たず、10歳前後で死んでしまう、移民は失敗だったと。
ジルはそこにいるのになぜ。
どうしてもこのままにしておくことはできない。この目で確かめなくては。
アロウは、恋人を置いて、ついに辺境の土地、ジルベスターへ旅立った!
そこでアロウが見たものは、荒廃した灰色の土地、まったく人の姿もない枯れた土地、白い墓碑。
いったいジルはどこに……
そして、アロウの恋人、ヴェガの驚きの行動とは!

古い漫画なのでネタバレしてもいいのかしら。
でも、読んでほしいです。たった50Pに込められた本当に深く美しい物語。
短い中に出てくる登場人物の魅力的なこと、そして何より、描かれた世界の美しさ。
物語って、美しいことが大事なんだと思わせてくれる。
『美しい』って使い古された言葉だけど、ある時、村下孝蔵さんの故郷を歌った『夕焼けの町』を聞いて、あぁ『美しい』ってなんて素晴らしい言葉かと思った。
素直に使うと、そして心を込めて語ると、本当に伝わる言葉だと。
修飾語で飾り立てなくても、心を込めて、そのまま言えばいい。

背景に流れているリルケの詩が心に触れます。

だれがわたしにいえるだろう
わたしのいのちがどこまで届くかを……


竹宮恵子さんは、私にクラシック音楽の素晴らしさを、そしてロルカやリルケ、ヴェルレーヌの詩の美しさを教えてくださった漫画家さんです。
この切り取られた詩の数行が、本当に物語の中を泳ぐように流れている。

もしかしていつかチャンスがあれば、やっぱり私はこの物語を三次元の映像で見たいと思うのです。
映画? あるいは舞台? それとももっと違う何か。
いえ、やっぱり私の心の中の世界に置いておくほうがいいのかしら。
私が物語を語るとき、いつも支えにしているいくつかの作品のひとつ。

竹宮恵子さんのもう一つ、素晴らしい作品は『ロンド・カプリチオーソ』です。
スケートの話ですが、兄弟の葛藤がたまらなくて。
おかげさまで、拙作にはやたらと兄弟葛藤が出てくるようになってしまいました。
そしていつも私は、弟の才能や自由さに嫉妬して苦しみながらも弟を愛する兄貴の味方なんですよね…
またいつかご紹介します。

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【物語を遊ぼう】8.引っ張る力?:東野圭吾『分身』 

東野圭吾さんの『分身』を読んだのですが……
『100万人が泣いた』と帯に書いてあったので、どんな泣ける話なのかと思ったけれど、泣くこともなく終わってしまいました。
(ちょっとネタバレ含むかもしれません…でも帯を見ただけで、すでにネタバレですよね)

函館生まれの女子大生・鞠子と東京に住むアマチュアバンドの歌手・双葉。東京に住むと北海道に住む二人の女性。そのうちの一人のテレビ出演をきっかけに周囲で不穏な動きが起こり始める。
体外受精、クローンといった科学と倫理の微妙なバランスの上に成立する物語。
二人の関係は始めから読者には見え見えなので、設定そのものは特別目新しいことにも思えないけど…

東野さんの作品をすべて読んだわけではないので、私が語れることは少ないのですが、確かに『読ませる』。
取り敢えず、最後まで引っ張る力を感じます。
今回の場合は、謎解きよりも、なかなか主人公の二人が出会わないので、ヤキモキしてしまうのだけど。
もちろん、周囲で人が亡くなったり、怪しい人が訪ねてきたり、そして追われたり。
やがて一人はある目的のために連れ去らわれてしまうんだけど、なぜか追い詰められ感が少ない。

そう、何か物足りないのはなぜなんだろう。

扱うテーマの重さに比べて、なんだか二人の女性の心情に緊迫感がなくて、ちょっと拍子抜けしてしまったのかもしれません。あるいは、そんな重大な問題の上に誕生した人間にしては普通すぎて、実在感がなかったからかもしれません。
冷静に考えて、普通に健やかに育つとは思えないので……『おとぎ話的緊迫感のなさ』が感じられたというのか。
最も存在感があって、納得できたのは、主人公二人の遺伝子的『親』ともいうべき女性の、『気味が悪い』という感情。
全体としては、設定が大きい分期待も大きかったからか、読んだ後力が入らず、『で!?』と思わずつぶやいてしまいました…

人物の実在感という意味では、よく似た印象だけど、『プラチナデータ』のほうが上な感じ。
科学ものとしては『ブルータスの心臓』のほうが面白かった記憶があります。
例のごとく、50%の作家買いなので(しかも多分東野圭吾さんに関しては50%以下)、あまり語れないけれど。

ただ、『白夜行』は面白かった気がします。
登場人物に力があったからかも……際立ったキャラクターだった上に実在感があった。
だから、長さが苦にならなかった。
あ、でも、結構電車で読むことが多いので、本の分厚さは、持ち歩くのに苦はあったかな。

それにしても、本当に多くのテーマを扱っておられて、読み終わった後に何か残るかどうかはともかく、最後まで勢いで読ませる、そういう力がものすごく強い作品が多いと思うのです。
会話と地の文のバランスの絶妙さとか、説明の過不足とかに抜かりがないから、読みやすいのだろうな、と思います。

ただ、読んだ後も本棚に置いておこうと思った本は、今のところまだ『白夜行』(とついでの『幻夜』)だけ。
まだ、イチオシという作品に出会っていないだけなのかもしれないのですが。
お勧めがありましたら、教えてください。

ちなみに設定負けって自分で考えているときにもよくあります。
すごく面白い設定を考えても、お話の中身が伴わないまま、自分の中で消えていった設定の多いこと。
あ、いえ、自分をプロ作家さんと同じレベルで語っているみたいでいけませんね。そういう意味ではなくて、ただ、物語を語り終えるのは大変、ということでして。
設定が独り歩きしてもいけないし、どれほど流れが良くても設定がつまらなければ、それもだめだし。
やはり全てはバランスなんですね。

それにしても、とにかく、最後のページまで読ませてしまう力って、すごいものがあるなぁと思うのでした。

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【物語を遊ぼう】9.短編は難しい… 

さて、今日は起承転結の話でも。
この間やってみたバトンにもありましたが、文体・文章で最も影響を受けている作家さんは?という質問……実は、かなり答えるのが難しくて、結局はその時読んでいた本に左右されることが多いというのが答えかなぁ、と思ったのですが……そう、まるで、『好きなタイプは?』『その時付き合ってる人』って感じですね。
でも、短編について語るなら、この大先生を置いて、他にはありません。

O・ヘンリ大先生。新潮文庫の『O・ヘンリ短編集』全3巻は私のバイブルでもあります。時々、行き詰ったら読む。短い話ばかりなので、どれかを適当に選んで読んでいるわけですが、何だかリフレッシュします。
たまに、昭和に浸りたいときは、松本清張さんの短編集ですが。

バトンにも書きましたが、まともにプロットを書かない私ではありますが、プロットを作らないわけではありません。頭の中では、ものすごい勢いで話が流れています。特に長編はその勢いで書くので、確かに何が何だかってことは多いのですが、もう妄想をぶつけてるって感じになります。
こんないい加減な人間なので、短編が下手。
短編が書けない奴に長編は書けない、とか言われそうですが、それはもう、重々承知していますので、あしからず。

そう、短編こそ、正確なプロットが必要と思うのです。短編は怖い、といつも思っている。短編こそ、起承転結がはっきりしてないと、読み終わって何も残らない。短いから、登場人物に入れ込む間もないわけで、純粋にストーリーの面白さが問われる。
もちろん、長編があってのおまけ的短編なら、つまり知っている登場人物が活躍するのなら、筋立てはいい加減でもいいのかもしれませんが……それはエピソードであって、短編とは言わないのではないか?と思ったりするのですね。
世間で、作家の○○氏の短編がよいと言われて読んでも、なんだろ?と思ってしまったことはいく度もあり、すぐに読むのをやめてしまった。結局、基本中の基本、起承転結が見えないと嫌になってしまうようです。もちろん、起承転結の考え方は人それぞれで、たまたま私の琴線に触れなかっただけなのかもしれません……

O・ヘンリと言えば、『賢者の贈り物』『最後の一葉』ですね。この『起承転結』は、皆さんよく御存じなので、あえてここでは書きませんが、どちらも、しっかりと起承転結があります。
で、今日は、もう私が好きで好きで、何回読んだかしら、という短編をご紹介いたします。
『黄金の神と恋の射手』
……文学なので、ネタバレはいいと思いますから、ストーリーをご紹介します。

登場人物は、金持ちの爺さん(もしかして思っているより若いのかも?)とその息子、そして息子が思いを寄せる女性、金持ちの爺さんの妹、そして……

金持ちの爺さんは金で解決できないことなどないと主張しています。その息子は生真面目で奥手の悩める若者。彼は恋をしていますが、その女性に言い寄ることはできない。告白するチャンスも、二人きりになるチャンスもないまま、彼女はヨーロッパへ旅立って何年も帰ってこない、という状況に。金持ちの爺さんは、息子のその奥手さ加減が歯がゆい。お前はものすごい金を持っているのだから、金で何とでもできるはずだ、と。でも奥手の真面目な青年は、『お父さん、金では解決できないこともあるんですよ』と。

時代も時代で、女性に交際を申し込むには社交界の色々な掟もあり、やっと二人きりになれるのは、彼女がヨーロッパへ旅立ってしまう前に親戚と舞台を楽しむ劇場までの馬車の中のほんの4・5分。駅にいる彼女を迎えに行き、劇場まで送るという許可を、ようやくもらったのです。でも、そんな短い時間で、これまでちゃんと話をしたこともなかった彼女のハートをつかむことは到底無理と、青年は諦めています。
青年の叔母は、青年の母親の形見の品である『愛をもたらしてくれる指輪』を青年に渡します。叔母もまた、金で解決できないことがあると思っているものの、時間がたっぷりあればともかく、今となっては、甥が心を奪われた女性と結婚するのは難しいだろうと思っている。

そして、彼女を迎えに駅へ行き、ようやく二人きりになった馬車で……青年は、母の形見の指輪を落としてしまったことに気が付きます。青年は馬車を止め、彼女に断って、1分で戻ってくるので、と言って指輪を探しに行って戻ってくると……
その1分の間に彼らの馬車の前に電車が止まっていて、馭者がすり抜けようとすると荷物配達車に行く手を阻まれ……そこへトラックやら二頭立て馬車やらも絡まって……ふと見ると、彼らが進むべき広小路は大渋滞です。
始めはお芝居に間に合わないと言ってイライラしていた彼女も、とても進めそうにないことに気が付いて、諦めたようです。『僕が指輪さえ落とさなかったら…』と謝る青年。彼女は、『いいえ、どうせお芝居だってつまらないんだわ』

さぁ、どうなったと思いますか?
2人は婚約しました! 叔母は兄の金持ち爺さんのところにやってきて、『指輪を落としたおかげで、結局2時間も大渋滞に巻き込まれたんですよ。その時間にゆっくり話ができて…ほら、真実の愛を象徴する指輪が二人を結びつけたんですよ』と。

この話、これで終わったら、『で?』ってことですが。
翌日、金持ち老人のところに男が訪ねてきます。金持ち老人『だいぶ上首尾だったようじゃな』、男『足が出てしまいました。荷物配達車や辻馬車は5ドルで話が付いたが、トラックや電車は10ドル……しめて5300ドルかかった』と。
皆まで言いますまい…と言いたいところですが、つまり2時間の大渋滞、爺さんが金にものを言わせて作り出したものだったんですね。
金持ち爺さんは男に尋ねます。『ところで、太った裸んぼの小僧が、しきりに矢をはなっていたのを見なかったか?』と。『そんな小僧がいたら、ポリ公にふんじばらてますぜ』
『わしもそうだと思っとった』……爺さんは満足であった……

これこそ起承転結というものだわ、と思って、読むたびに満足な短編 (面白さは色々ですが^^;)ばかりです。
さて、皆さんはいかがですか?
私は、SSでも一生懸命、起承転結を作ろうと思いながら書いているのですが、とても難しい。でも、一生懸命さが伝わるといいなぁ、と思うこの頃です。
短編の先生をご紹介しました。是非、一度読んでみてください。落語と一緒で、落ちが分かっていても面白いですし、学ぶ姿勢で読むともっといい。そういう目でみると、すっかり手垢が付いたような有名な話である『最後の一葉』も『賢者の贈り物』も味わい深いですしね。


ちなみにこの話があまりにも気に入った大海は、相川真シリーズの4代先、大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラのひ孫(もろもろややこしい家の跡継ぎ・やや優柔不断)がヴォルテラの家を捨てて、相川真のやしゃ孫(繊細だけど言いたいことは言う、でも自分の気持ちにはなかなか素直になれない考古学者ちゃん)と結ばれる話の最後に、このシーンを頂きました(#^.^#)
ヴォルテラの力を持ってしたら、誤解したまま東京に帰ろうとする彼女を引き留めるために空港ひとつ塞ぐくらい、なんてことないはず!(やったのは優柔不断な兄貴にイライラしていた弟だけど…そう、『麗しのサブリナ』の本歌取りさせていただきますので(#^.^#))
でも、私がたまたまその空港に居合わせたら、怒るけどね!

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【物語を遊ぼう】9.短編って難しい…その2 

ちょっと続きを。
ウゾさん、limeさんからのコメントへのお返事を、記事にしてしまいました。
というよりも、私自身が、短編・中編・長編の違いをあんまり判らずに書いていたことに気が付きまして……ググってみました。

しかし、結論はよく分からない…原稿用紙換算の枚数にしても、色々違っていて、何やら明確な定義があるものではなかったようです。
でも、大筋としては……
長編は、それだけで1冊の本になる長さ、原稿用紙では300枚以上くらい。
短編は100枚未満、本当の意味での短編は70~80枚以下。
中編は100~250枚程度(単純に短編と言うには長く、長編と言うには短い、といった意味合い)。
ちなみに掌編は30枚以下。10枚以下、という説も。
というあたりで落ち着きそうです。
文学賞などで規定されている枚数からも、大体こんなあたりだろうとのこと。

となると、短編って、思ったより長いんじゃないの?という気がしたんですけど。
100枚と言ったら40000字。
『百鬼夜行に遅刻しました』で7481文字。これはまぁ、掌編ということにしていたのですが、短編と呼ぶにはせめて倍はいるってことになるのですかね。
連作短編に、と思っていたけれど、連作掌編ってことになるのか……

あぁ、ややこしい。
結局、もうこれでいいことにしよう!
短いのは短編。長いのは長編。その間が中編。線引きはその時の気分で!
でも短編も意外に長いものもありのようだし、書かなきゃいけないことはちゃんと書かないといけないんだ!
登場人物の人となりも、物語の背景も、起承転結も。
50枚=20000字あったら、結構書けるぞ!
ただ、短い話は、どの視点で、どの場面を切り取るか、ってのは勝負どころなんだろうな。それはよく吟味しないと。
……そういうことにしとこう。

物語って、長さだけで決まるものではないと思うけれど、組み立てていくときには長さのイメージは必要ですよね。自分の言いたいこと、書きたいことがどの長さに収まっていれば、一番読んでいる人に届きやすいのか……原稿用紙の枚数は結果論でもあるけれど、究極17文字に魂を籠める日本人としては、ちょっと枚数(文字数)にこだわってみたくもなるのだろうなぁ。
長さに関わらず、丁寧に、そして時には大胆に、素敵な物語を紡いでいけたらいいですね。

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【物語を遊ぼう】10.私のバイブル:『鬼平犯科帳』 

一昨日だったか、久しぶりに早く帰ることができたので、夜『鬼平犯科帳』を見ることができました。で、思っていたのとは違う順番で、この記事を書くことに。

今日は私のバイブル、鬼平犯科帳。
シリーズの最後は池波正太郎先生のご逝去で未完のままだけど、いつまでも終わらないでいて欲しいというファンの気持ちと相まって、未完は未完で良いような気はしている。
あの世に行ったら、まず池波先生をお探しして、語っていただかなければ、と思っているのです。

そう、テレビをつけてみたら『正月四日の客』だったのです。
私はなぜか、この話が大好きで。しかも、なぜかテレビの放送で偶然何回も見てしまう、不思議な縁のあるエピソード。

ある蕎麦屋に正月四日に客がやってくる。
正月四日は信州出身の蕎麦屋の女将さん=山田五十鈴の両親の命日で、早じまいをするのだけど、仕舞いかけにやって来た男も信州出身というので、真田蕎麦を挟んで故郷を共有する女将と客の間に、何となく心の縁ができる。
ある年、とある屋敷に強盗が押し込み、女を犯して殺すというむごい事件が起こっている。
実はこの蕎麦屋を訪ねてくる男は、盗賊のかしらで、用心深く、犯さず殺さず貧しきからは奪わず…という盗賊の掟を守っていたのだけれど、年も取ってきて、人手が足りなかったばっかりに流れの盗賊を雇ってしまい、その連中がむごい殺しをしてしまっていた。
それをきっかけに足を洗うことにしたが、その場合は仲間に支度金を渡さなくてはならず、このために最後のお勤めをすることに決めた。

正月四日。
蕎麦屋を訪れた盗賊のかしらは、この押し込みの準備のために、来年の正月四日はこれないが、再来年は来て、おかみさんに自分のことを話すつもりだと告げる(もちろん、理由は言わないけど)。
鬼平は、先の押し込みの下手人を探していたわけだけど、この蕎麦屋の女将がある時人相書きから引き込みの男を見つける。その時、その盗賊のかしらには腕に亀の彫り物があると聞かされた女将は驚く。
正月四日の客の腕には亀の彫り物がある。
そして、この盗賊が、今までは盗人の掟通りの綺麗な仕事をしていたのに、今回はむごい殺しをしたということも聞く。
女将の両親は、実は、女将が6歳の時に押し込み強盗に殺され、母親は犯されていた。

女将は鬼平のところに行き、何も質問しないでくれと断ったうえで、その盗賊のかしらが来年(ちょっと時間が経っている)正月四日に真田蕎麦を食べにくる、と告げる。
そして、その日。
盗賊のかしらはお縄になる。
『おかみさん、私をお売りなさったね』
女将さんは、どこかでこの盗賊の良心を感じ、期待していたのかもしれない。
『真田蕎麦の味を忘れないでおくんなさいませよ』
『ねぇ、おかみさん、人の顔はひつとじゃありませんよ。顔が一つなのは女将さんくれぇなものだ』
そして悪人らしく、引き立てられていく…
『あたしだって、顔がひとつというわけじゃありませんよ。もしかしたら黙って見逃していたかもしれない』と鬼平に告げるおかみさん。
もしも、自分に6歳の時の辛い体験がなかったら、そしてもしもその盗賊が、たまたまむごい殺しをしないままの盗賊であったなら、鬼平に黙っていたかもしれないと。
鬼平はそんな告白はさもありなんって顔で、『牢にいるうちに真田蕎麦を差し入れてやんな。人の心と食い物の結びつきは、思うように解けねぇってことよ』

役者がうまい。この亀の小五郎(だったかな、盗賊のおかしらの名前)の役者さん、真田蕎麦を食べている時は、善人顔をしていて、最後に女将さんに捨て台詞を吐くときは悪人顔なのです。
山田五十鈴もいい。静かで、人の心を顔だけで表す。
人の顔が本当にひとつじゃないということを、台詞以上に雄弁に語っている。

さらに、この『正月四日の客』は短い45分ほどの番組の中で、ものすごく時間の流れがあって(正月四日という日付で時間が一点に絞られながらもつながっていく感じ)、人の一生があって、それを結び付けているのが真田蕎麦という、登場人物にとってふるさとの味、その人の心を決めている食べ物。
蕎麦という些細なテーマを、あるいは小道具を使いながらも、スケールの大きな話で、まるで屏風絵だわと思うのです。
一本の木を描いてその向こうに森を、わずかな水の気配を描いてその先の大河を思わせる手法。

そして、いつも鬼平が言う言葉。
人は悪いことをしながらいいことをし、いいことをしながら悪いことをする。
そういう人の心の問題・闇と光は、理屈で解けることではないという、このシリーズの底辺に流れている世界観が大好き。
そんな中で、生きている人々、悪人も善人も、そのどちらでもある人たちも、市井の人々も盗賊も、そして盗賊改めやイヌと呼ばれる元盗賊で鬼平の配下になっている人々も、なんだかすべて愛おしく思える。

やっぱり無人島に行くときは『鬼平犯科帳』。
実は海外に行くときは、絶対何冊か持って行っています。

ところで、偶然見ると言うので思い出しましたが、実は私、一昔前(いや、かなり前かも)、何故かやたらアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』のラストシーンに遭遇したことがありまして。
それも本当に、太陽がまぶしい~のシーンだけ。
貧乏な男が、死んだ金持ちの友人になりすませて、財産も恋人も何もかも手に入れて(なんでばれなかったんだ?う~ん、覚えていないけど、一生懸命筆跡をまねしているシーンが鮮烈だったな)、ついにばれて……ばれたことを知らないまま浜辺でリゾート?していて、そこへ刑事がやってくる…やたら海辺の景色がまぶしくて…で歩いてくる刑事を見て、ばれたことを悟る?のかな。
それで終わり、捕まるシーンまではなかったはず。
細かいことを覚えていないけど、その太陽がまぶしい!シーンが強烈だった印象はある。

あれはよくできたラストシーンだけどそこだけ見ても…ねぇ……

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【物語を遊ぼう】10.『鬼平犯科帳』追記:小説と映像 

前回記事を書いたとき、随分らりっていて?ちょっと混同して書いてしましました。
『鬼平犯科帳』
そもそも小説のことを書くつもりだったのに、たまたまテレビで『正月四日の客』を見てしまったので、引きずられてしまって、半分混同して番組のことを書いてしまったのですね。

ただ、このシリーズに関しては、小説とテレビ番組はもう、本当に切っても切れない…じゃありませんが、番組は小説を逸脱しないように作ってあって、派手なことは何もせず、淡々と語る姿勢を貫いているので、どちらの話をしても違和感がないのではないかと思ったりもします。少なくとも私の中では、ちょっと混乱するくらい、世界は重なっている。

もちろん、原点は池波正太郎先生の小説で、私が心酔しているのは、もともとはそちらなのですが、この番組はベストな役者を選んだと思います。きっちゃんの鬼平から、レギュラー陣、1回きりの盗賊や市井の人々まで。そしてベストな語り方をしてくれている。

実は私、多岐川/裕美さんが苦手だったのですが、『むかしの男』で小説のまんまの捨て台詞『あんな男、あなた様に比べたら塵芥も同然』(ちょっと言葉が違ったかも…すみません、私の頭の中ではこんな台詞。当たらずとも遠からずのはず)と、あの派手やかなお顔でぴしゃりと言い切られたとき、おぉ、なんとまさに久栄さんだわ、と感心しました。

…これは鬼平の奥さんは実は昔男に弄ばれて捨てられて、傷物の娘を誰も嫁にもらってくれないと嘆く久栄の父親に、鬼平が『よし、もらってやる』ということがあったのですね。で、その昔の男が盗賊になって現れて、鬼平との対峙で盗賊が『久栄を女にしたのは俺だ』って言うんだけど、鬼平は『本当に女にしたのは俺だよ』ってあっさり受け流し。で、ラストで、久栄さんが言ったのが、『ちりあくた』です。

いやはや、女って、怖いものなのですよ。ろくでもない男なんて、たとえ初めての男であっても、切り捨てごめんってことですね。やっぱり男の方が、『初めて』に幻想を抱いたりもするんですかね。よく『男は初めてにこだわり、女は最後にこだわる』と申しますし(18/禁^^;)。

さて、盗賊改めの密偵(イヌ)の中に、梶/芽衣子さん演じるおまさがいるのですが、おまさは鬼平が好きなんですね。鬼平は察しているけれど、身分も立場も違う、ましてや盗賊改めと密偵ですから、きっちり誤解のないように一線を引いている。おまさもそれが分かっていて、決してあるラインから出ない。

で、この久栄VSおまさのシーン(多岐川/裕美VS梶/芽衣子)はもう、女の私が見るからか緊迫感があって、小説以上に生々しく見えない火花が出ていて、すごい役者さんたちだわと思うのです。久栄さんは、女の勘でおまさの気持ちを知っている、でも知っていてどうこうなるものでもないので、凛とした態度で臨む。そこには上位にいる女の優越感や傲慢や横柄もちょっとあるんですね。だって『殿様は…』と鬼平のことを語る時、私は殿様のことをこんなに知っているし、愛しているのよってのが台詞ににじみ出ていて、それをさりげなく出しながら、一方では鬼平のために命がけで働いてくれている女への感謝も持っていて、優しく言葉をかける。おまさ役の梶さんも、色々分かっていて押さえて演技をしている。…この二人のシーンだけは、小説では出せない『女の戦い』みたいな気がして、映像の勝利かも、と思う。

えーっと、例に漏れず私は伊三次さんファン。でも、大滝の五郎蔵(おまさと結婚)さんも結構好き。何より、昔から、『理想の人は?』『(ためらいなく)長谷川平蔵』と答えてましたから……


余談ですが、フェリーニの『そして船は行く』という映画があります。第一次世界大戦前夜、偉大な歌手の葬儀のためにナポリから出航した豪華客船を舞台にした群像劇。漂流から救出された難民が詰め込まれている最下層のデッキ、上層にいる芸術家、オペラ歌手、貴族、亡命中の皇太子……そしてなぜか船底にいる不眠症のカバ……何だかわけのわからない作品なのですが、これがもう本当に驚くほど人の顔がいい。
確か、フェリーニはこの役者をそろえるのに、かなり気合の入ったオーディションをして、演技の上手い下手じゃなく(何より、演技がどうと言う映画ではなかったような…)、ただ『その当時(第一次世界大戦頃)の人々の顔をした役者』をそろえたのだとか。顔だけでいい、という荒業?だったらしいです。
役者の顔って、本当に大事ですよね。


で、こちら、鬼平の方は、顔だけで演技できなきゃ困るんですが、役者はよく選んでいると思う。だから、ここぞというときは大物の本当にすごい役者さんを使っているし、そうでなくても吟味した気配を感じる。
本当に原作を読んでいる人が違和感なく入れる番組を、よくぞ作ってくださったと思うわけで、これはひとえに製作者さんの池波作品への敬意、この世界を壊さないという繊細な配慮の賜物だったろうと思います。

同じことは、『剣客商売』にも言えるけれど、『鬼平』の方が上かな? 藤田まことさんはあの秋山小兵衛そのものに見えますけど。やっぱり藤田まことさんは、最高に雰囲気のある役者さんのおひとりです。
(関係ないけど、昔、京都の南座に『必殺』の舞台を見に行きました。第2部に藤田まこと歌謡ショーがあったんですが、必殺シリーズの歌もたくさん!で全て知っている自分らにびっくり。大盛り上がりでした)
『仕事人』は全く『仕掛人』から派生した別物だけど、これはこれで別物ってニュアンスを言葉から変えてしまってはっきりさせているので○。『仕掛人』梅安の小林/桂樹さんは良かったけど、映画の萬屋錦之介さんも良かったなぁ。あぁ、古い……


小説と映画/テレビ番組…って難しいですよね。原作のイメージを壊さないでという、原作ファンの声もあるし、たまには原作を越えちゃう映像もあるし。
でもこの話は、あまりにも遠大なテーマなので、またいずれ。

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【物語を遊ぼう】11.つかず離れずが萌え 

『つかず離れず』
この言葉ほど、書いている時にも読んでいる時にも萌えるものはありません。
言い換えれば、物語というのは、この『つかず離れず』で成り立っているといっても過言ではないかもしれませんね……手が届きそうで手が届かない、真実が分かりそうで分からない、そして人と人の間も理解できそうで理解できない、その狭間のようなものの中に、無限の物語があるのです。
今回は、この『つかず離れず』で私が萌えまくった二組のカップル(カップルではないとも言えるけど…それがまた萌え)をご紹介します(*^_^*)


究極の『つかず離れず』ケーススタディ(^^)

【ケース1】Xファイル:モルダーとスカリー

有名な海外ドラマですが、少し古いので一応解説。FBIの奇怪な現象を扱う部署、X-FILE課。そのメンバーは2人で、妹を地球外生命体に誘拐されたという過去を持つ変人のモルダーと、モルダーの見張り役として配属されたいかにもキャリアウーマンという印象のスカリー(でも実は大変敬虔な女性)。
始めはUFOだの謎の生命体だの信じていなかったスカリーだが、奇怪な事件に遭遇するたびに、暴走するモルダーを止めながらも、認めざるを得なくなっていく。

…そしてこの二人、恋人?ということにはなかなかならないのですが、ともに事件を解決していく(というよりも大概事件は解決していない? 振り返ったら変な生き物がまだ生きている…って感じの終わり方ばかり^^;)過程で、信じ合う存在、互いになくてはならない存在だと認識していくのですね。そう、単なる恋人とは少し違う、運命共同体の様な存在。そうこうしていると、スカリーが宇宙人に誘拐されたり、モルダーが行方不明になったり(もちろん宇宙人がらみ)、物理的にも距離があったり…(#^.^#)

でも、気が付いたらいつの間にか、ミレニアム(2000年のNEW YEAR)ではキスしてるし、でもそれまでそんな気配あったっけ? 本当はどうだったの、この二人? いつの間にキスするような関係だったの? みたいな萌え。とは言えその後も、あのキスは実は挨拶代りだったのかと思うくらい発展していないようにみえるし、謎に包まれたまま…
その後、宇宙人の介入でスカリーが妊娠するんだけどどうやら実際の相手はモルダーっぽかったり……そしてラスト、二人きりで逃避行しながら、何だかもう完全に運命を共にする世界へ……この件だけ取り上げると、いかにも『くっつきました』って聞こえますが、とにかく延々とつかず離れずだし、これからだって本当にどうなるのという感じで終わったのです。

恋人同士の域を遥かに超えている深い人間関係(危機的な環境下では恋に陥りやすいから?)、くっつかないまま長々と時間がかかり、くっついたように見えてもちょっと離れて見える…大好きな関係性です。
ちなみに私は、スキナーとドゲットが好きでした(*^_^*)

でも、こうやってあらすじにしちゃうとバカっぽいことに気が付きました。この話、番組を見ると、本当にそんなこともあるかも、と思えるのですが、私の解説能力では『宇宙人?誘拐?ちゃんちゃらおかしいわ』ってことにしか見えない^^; 実は宇宙人と取引しているのはアメリカの政府絡みという裏があって、このFBIの上司たちや政府関係者の胡散臭さがたまらないのですね……このドラマが『アメリカで受けた』のは、曰く、アメリカ国民が自分たちの政府は本当にこんなことをしてそう、と政府を懐疑的に思っているからだとか。確かに、一度エノラ・ゲイ(原爆を制作していたという区域)のそばを通ったことがあるのですが、何とも口では説明しがたい『あるかも』な雰囲気でした。一般人の知らないところで起こっているこわーい事実。

【ケース2】スタートレックヴォイジャー:ジェインウェイ艦長とチャコティ副長

スター・トレックシリーズ(正確には最初のシリーズ『宇宙大作戦』)はもう私の青春そのもの、みたいなドラマでして、スポック博士に乙女心を鷲掴みにされ、ドクター・マッコイの何でも治しちゃう(…って、まぁ、何してるわけでもなく治るのがすごい)技術にうっとりし、カーク船長を含めた、ちょっと中途半端な男三人の友情にほだされ……
でも、今回挙げさせていただくのは、スタートレック・ヴォイジャー。シリーズの中では唯一の女性艦長で、しかも通常の世界/次元から切り離され、宇宙の異次元ともいえる世界に入り込んでしまって、何とか地球に戻ろうとするんだけど異世界から戻る手段が分からないまま流離うという、ちょっと異色の話なのです。
噂では、最初のシリーズ・宇宙大作戦(カーク船長)の頃への回帰のために制作されたともいわれるこのシリーズ(つまり、宇宙大作戦は、地球から宇宙へ出て行った人類が新たなフロンティアを求めて旅するという話だったのが、新スタートレック、ディープスペースナインになって艦隊戦などが登場してきて、宇宙戦争ものみたいになったのが気に入らなかったスタッフがいたのかも)、本当にもう萌えどころ満載でした。

ジェインウェイ艦長はストイックでかっこいい女性艦長なんだけど、どこかに少し女性の弱さを持っている、でも普段はそんなことはおくびにも出さない。地球には夫が待っている。そして副長のチャコティ。インディアンの血を引く、もと反政府軍のメンバー。言わないけどね、時々ぶつかりながらも(結構好き勝手言っていたかな…)艦長を尊敬し、実はちょっといい雰囲気までいってるんだけど……しかも地球にいるジェインウェイ艦長の夫は、もう妻の宇宙船は行方不明で帰ってこないと聞かされていて他に女性ができていたりするんだけど(たまに次元が交錯するんですね…でも地球に帰還するまでは信じたくないのでしょう…というようなエピソードがあったと思うのですが、私の妄想?)……くっつきそうでくっつかない。

不倫はだめという意識(番組制作上の…)や上官と下官の恋(それはまぁ、有名な映画もありましたよね)という垣根がありながら、チャコティは途中から絶対艦長を女として見てると思うんだけど、あぁ、もうどうなの、どうせ地球には帰れないわよ、くっついちゃって!と思ういちファンを無視して、何故か全く別の女が登場。

実は、この異次元には『ボーグ』という全体意識の一部として生きている種族がいます。つまり個としての意識を捨てて、全体意識に同化され、集団のためだけに生きているわけですが(これは結構怖い話で、昆虫の世界、宗教の世界みたいな…)、その中のひとりにセブンという、元地球人で幼いころに両親と共にこのボーグに同化した女性が出てくるのです。色々あってこの女性はボーグから切り離され、大人になってから突然『個』として生きていく運命を背負わされる。でも『個』として生きてきたことがないので、人格自体が真っ白。ここで、人類・『個』としての彼女を教育したのが艦長なんですね。そしていつしかセブン(⇒人間としての名前はアニカ)とチャコティが恋に落ちる。

というよりもアニカは艦長なんですよね……教育を受けていく中でアニカの中に艦長の思い、思考過程や人柄までもが移っていく、チャコティは艦長の代わりにアニカを愛するようになったのか……
う~ん、でもファンはもう何だか不完全燃焼。セブンはいい子なんだけどね。


……こうして、実ったのか実ってないのか分からない、恋のような恋でないような二人のイライラするくらい長い関係。くっつかないのは寂しいけれど、くっつきすぎても欲しくない、いっそこのままの方が、と思ったりもする。このどっちなのか分からないうちが結構良かったりもする。
そんなところに萌えるのは、きっと私だけじゃないですよね。
もちろん、ハッピーエンドになってくれてもいいのですが、多くの場合、くっついたようなそうでもないようなまま終わっていく、製作者の心理は一体何なのでしょう??
(私が睨んだところでは、みんな、つかず離れず関係に萌えているから!のはず(^^))


長くなったので二つだけにしてみましたが…他にも今市子さんの漫画、『幻月楼奇譚』の鶴来升一郎と与三郎なんかも、いいなぁと思っているのですが。

皆さんのご存じのつかず離れずの萌え物語、ぜひ教えてください。

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【物語を遊ぼう】12.本の装幀は芸術:夏目漱石初版本 

今回は、本というものが芸術であるというお話。

本の装幀のお話です。
最近は文庫本になるのを待って買うようになってしまったけれど、以前は単行本の時に装幀を楽しんで買っていたこともあったんですが……しかも、もう最近では電子図書なんて時代になって、装幀という概念自体がなくなってしまうのかもしれないと思うと、寂しいですね。

ブログで小説を発表していますが、そもそも書いた小説を確認するとき、やっぱり一度ならず印刷して、紙ベースで、しかも縦書きで確認するのが常です。
ついでに、とじ太くんという有難い簡易製本グッズで本にしてみたりもしています。もちろん味気ない姿ではありますが。
やっぱり紙がいいですよね。同人誌さんなどは、本当に良いと思います。
時々、うちの祖父がやっていたように、本を作ってみようかなと思う時もあるんですが……

うちにある本の中で最も私が大事にしているのが、夏目漱石の初版本の復刻版です。
もう20年以上前に、アルバイトと仕送りで生活していた大学時代に、月々3000円くらい、何年間かかけて購入しました。もうこれから先、こういう本職人はいなくなるから、と聞いて、無理してでも買いたいと思ったものです。

言葉よりも、今回は写真、ですね。
ほとんど語りのないまま、写真が並びます。すみません。本当は全巻、お見せしたいのですが。
草合
草合
まずは『草合』です。包む形の紙箱に覆ってあるその下から出てくるのは……
これはツワブキのようですが、この黒い部分、漆なんです。
本の装丁に漆。本当にこれは芸術のたまものに見えます。
夏目漱石
こちらは『道草』。左は箱ですが麻の布が貼られていて、表紙は紙ですが、絵が綺麗。

そして一番凝っているのが、この『吾輩は猫である』でしょうか。
夏目漱石は始めからこれをこんなに長編で書くつもりはなかったそうですが、あまりにも人気が出てしまったので長編になった。その読者や出版社の愛着が、こういう形になったのでしょうか。
吾輩猫2
上はまず、一番表のカバー、そしてそのカバーを取っても下のようにおしゃれな表紙が出てきます。
前・中・後編と3冊とも、それぞれ異なっていて面白い。
吾輩猫
もっと素敵なのは、この背表紙です。右がカバー、左が表紙のものです。表紙の背表紙(って変な言い方)がいいと思いませんか? 猫→ネズミ→魚、というのが素敵です。
吾輩猫
そしてこれはなんと、アンカット製本なのです。
(すみません、カット本ではなく、アンカット。カットして読むと覚えていた私の勘違いでした。)
下の写真のように、下半分の袋とじ状態です。これをペーパーナイフで切って読むのですね。いつか切りたいと思うけれど、もったいないのでそのままです。年取ったら、ちみちみと楽しみたいですね。
*追記:しかも天が繋がっているアンカット製本が多くて、地が繋がっているのは珍しいとか。この本は地が繋がっていて、天は切りそろえられていて金箔が施してあります。
吾輩猫1
本を開くと、こんな風に物語の世界に入り込んでいくことができます。挿絵も素敵ですよ。
吾輩猫
吾輩猫
しっかり文章を書きたいと思っていたのに、この本の前では何も言葉が無くなりますね。
ブログに文章を書きつけてはいますが、本の世界にはやっぱり心が躍ります。

最後に少し個人的な本を。
おじいちゃん
おじいちゃん
上の写真、表紙に出ている文字は決して本の題名ではありません。多分、何かの箱に書かれていた絵と文字がそのまま本の装幀みたいだったので、このように使ったものだと思います。そして薄い半紙に墨で書かれた文字と絵。祖父の直筆です。
この世に1冊しかない、世界中で私にとって最も大事な本かもしれません。


次回、『小説はストーリーかキャラか』……またご一緒に物語を遊んでください。

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【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼:前篇 

【物語を遊ぼう】のちょっぴり息抜きバージョン。前後編でお届けします。
もしかすると、旅のおすすめ、みたいな回かもしれません。

旅の目的・テーマを決めるとき、物書きならやっぱりロケハンをテーマにしてはどうかしら、と。
旅と言っても、別にすごく遠くに行くばかりとは限りません。

最近ちょっとマイブームのロケハン。
映画やドラマの舞台を探すlocation huntingの真似事ですが、ただ町をぶらぶらするのではなく、あれこれ具体的妄想を頭に描きつつ歩くと、ごみ箱一つでさえも意味があるように思えてしまうのです。
私は関西在住ですが、真の事務所は新宿。
で、たまに友人の小説とちょっとコラボをしていて(これはいつか登場するのかどうかは不明です^^;)、じゃあ舞台をきちんと探していこう…ということになったのです。

そして始まった東京町散歩。
えっと、自分自身のロケハンなので、うちの小説の登場人物の例で失礼いたします(^^)

新宿二丁目、歌舞伎町、新宿西口…に始まったのですが(この辺りは複数回散策)、特に歌舞伎町はちょっと怖いので休日の朝歩くという…まだ昨夜の興奮?冷めやらぬ街の景色は、何だか独特のムードがありまして。
もちろん、真の時代は少し古いのですが、新宿歴史博物館もきっちり押さえ、本も購入。
真の事務所の場所も、真が時々行っていたバーも、ある人と雨宿りしたガード下も…
【雨】に登場するゲイバー『葵』(葛城昇の店)も、何かで出てくるに違いないコマ通りも(^^)
全部チェックしました。

真の祖父母が東京の定宿にしていたのが、白山のお寺。
ここに真は結婚後住んでいるのですが、隣に神社という描写があって、まさに白山神社。
白山~神楽坂あたりは、彼が犬の散歩およびランニングをしていたに違いない場所。
ランニング中に神楽坂をテリトリーにしている誰かさんと鉢合わせとか、あるかなぁ?
よし、歩いて確認! みたいなのがロケハンの醍醐味。
おみせ
これは白山から少し歩いたところにあるお店(食事処)。
多分、歴史が古そうなので、真の生きていたころにもあったはず。
嫁とご飯食べに来たりもしたはず。で、誰かさんと鉢合わせ?
どんな顔するかな?…などなど、走る妄想。

竹流のマンションは築地の近く。もちろんレストランのための実益兼ねてこの立地。
彼のギャラリーとレストランは銀座なので、徒歩圏内。
同棲していた頃、真は多分川沿いをランニングしていたはず。

【雨】第5節には助平なおっちゃん(裏社会と表社会の繋ぎ目くらいにいる元警察関係者)が出てきますが、そのおっちゃんの事務所は帝劇の裏、とか、アパートは川口アパートメントだよねとか言いながら歩く。
などなど……

ついでに、真の故郷、浦河や牧場のあるあたりにも時々行ったりしています。特に四季の差が激しい地方は、いい季節だけを見ても意味ないし、と。
唯一、確認できていないのが冬の襟裳岬。
どなたか北海道の方に教えていただきたいと思うこの頃です。


思い起こせば、私のロケハンの第一歩はローマの町でした。
そう、ジョルジョ・ヴォルテラの町…でも、実はその時書いていたのが、真の息子・慎一(ピアニスト)の話で、このため(だけではないけれど)に私はザルツブルグ~ウィーン~ローマを見て歩いたのでした。
(今は流行らないのかもしれませんが、バックパッカーというやつですね)
でもあの頃、カメラはデジタルではなかったし、記録のように写真を撮るということはできず、記録より記憶と印象で勝負、だったような。


そしてそれから……最近は旅をしたから舞台に選ぶのか、舞台に選んだから旅をするのかは、微妙なときもあるけれど、テーマのある旅って結構楽しい。
結果的には、好きだから行く⇒ますます好きになってどうしても書きたくなる(私の場合は志明院がまさにそうです)ってことになる場合も。
もう一つ、シエナがありました。
シエナも、好きすぎて、ふたりに歩かせました。
【石紀行番外編】か何かでまたご紹介したいと思うのですが、我慢できないので?ここでちら見を(^^)

「世界中で最も美しい広場へようこそ」
イタリアに来てから時々不安がっている、まだ可愛かった頃の^^;真に、竹流が路地を抜けた瞬間に言った言葉。
シエナ
あの路地を2人は抜けてきて…そして塔の上からこの景色を…
(そのためにはかなり気合入れて塔を登らねばなりませんが)
カンポ広場
そう、貝殻型/扇型で、緩やかな斜面になっている広場なのです。
で、座り込んで、日長一日、人間ウォッチング……を何度やったことか。
他にあちこち行けばいいのに、なぜかリピーターになる私でした。
ここで町同士で馬に乗って騎馬戦みたいなお祭りで争ったりもする。
本当に、世界で最も美しい広場と思っています…もっとも、見た広場はごく一部だけれども。

こうやって、大好きな場所を舞台に使う…舞台に使うために、再びその目で見ると、また違う町の顔が見えてくる。道のごみひとつ、看板ひとつも、何もかも、物語の世界を構成するために新しい顔を見せてくれる。


ひとつ言えていること。
物書きにとって、ロケハンは楽しい!


後編は聖地巡礼です。

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【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼:後篇 

さて、後編は聖地巡礼です。
予定外に長いです(タルコフスキーで盛り上がりすぎて…^^;)。ごめんなさいm(__)m

聖地と言えば、ドラマや映画、小説の舞台・ロケ地のこと。そこに行くというのが聖地巡礼なのですね。
韓流ドラマに嵌って、雪だるまでチュウのあの公園に行った方も多いに違いない……
ファンにとってはたまらない場所、そしてその特別な場所で過ごす時間は至福のひと時、であります。
日本では『東京ラブストーリー』愛媛県のどこかの駅(すみません、よく知らないんです…)とか、でしょうか。

私たちがまだ若いころ、『南京路に花吹雪』という漫画がありまして、大いに嵌った私たち、何年もたって上海に行く機会があった時、友人が「南京路で花吹雪(=紙吹雪?)やりたい~」と叫んでいました。
本当にやったら、『当局』につかまっていたと思われます。
(当時、上海はまさにバブル夜明け状態で、町をきれいにしようキャンペーン中。道に唾を吐かない、ごみを捨てない、ごみ箱でおしっこしない(子供は股割れパンツ穿いてましたからね)、などなど7か条の条例ができて、破ったら罰金か禁固だった…今も?)


さて、私にとっての聖地巡礼。
それはタルコフスキーが映画を撮った舞台を見に行くことでした。
多分、あんなところまで行った日本人は多くはないだろうし、もしかしていらっしゃったら、語り合いたいくらいです。

と、その前に、アンドレイ・タルコフスキー
生涯にたった8本の映画を残して、亡命先のパリで亡くなったロシアの映画監督。エキセントリックな監督で、『鏡』では自分の母親の思い出を撮るのに、故郷の景色を再現するために麦畑を一から植えたり(しかし、これはすごいシーンだった。女性=母親が家にいて、医者だったか男が帰っていく、目の前に一面の麦畑、風がだだっ広い麦の畑をザーッと撫でていくんです。あの時私は、映画の画面から風が吹いてきたと感じて…これは神の息吹だと思った。今思い出しても鳥肌の立つシーン)、『サクリファイス』ではセットの家をラストで燃やしているんだけれど、カメラが回ってなくてもう一度きちんと建て直させて、また燃やしたり(ちゃちなセットでは許せないと)、『ノスタルギア』(邦題ではカタカナでは『ノスタルジア』ですが、タルコフスキーがロシア語で『ノスタルギア』と呼んでほしいと言っていたというので)ではろうそくの火を消さないようにして、ある場所(バーニョ、つまり風呂なんですね。古い公衆浴場=温泉の水を抜いたところ)を端から端まで歩く、消さずに歩けたら世界を救うことができるみたいな話で…その気の遠くなる長時間の撮影にしても、正直、周囲の人間は迷惑だったろうな、と思うエピソードばかりです。黒沢明が大好きで、日本も好きで、首都高をワンシーンに使ったり。
ある映画評論家に、自分が死んだら「回想録にどうしようもない暴君の監督だったって書くなよ。生きているうちにそれはさんざん言われたから」とか言ってみたり。
『芸術至上主義』で、多分近くにいたらかなり迷惑な監督だったかもしれないけれど。
でも、残された映像は、ある意味鬼気迫るものがあって、本当に素晴らしい。

「僕と君たちの間には秘密がなくてはならない。君たちに何もかも分かってしまってはいけない。君たちは不明な状態にいなくてはならない。すべては意外で、予測できず、興味を引くものでなければならない。君たちはちょうど恋をしているようでなくっちゃね。最後の場面で死ぬということが最初の場面から分かっていて、どうやってまともに演じることができる? つまり最初のシーンと最後のシーンとの間に起こることは全て嘘になってしまうだろう」
タルコフスキーが役者たちに語った言葉。
これって、映画監督と観るものの間にも成立することだし、書き手と読み手の間にも成立することですね。

あるいは彼の父親、詩人のアルセイニー・タルコフスキーの『最初の出会い』
『出会いの一瞬一瞬を
 神の出現のように祝った……』
タルコフスキーの映画は、まるで父の詩を映像に刻み込んでいるみたいです。
そう、彼は映画を『刻みこむ』と言う表現で語っていました。

あぁ、タルコフスキーの話をすると、際限がなくなり、人を退屈させるので、このあたりで。
私の本棚のタルコフスキーコーナーでお察しください…^^;
タルコフスキーコーナー


『ノスタルギア』『サクリファイス』はやはり彼の最高峰だったと思うけれど、個人的には『アンドレイ・ルブリョフ』が一番好き。あの、ラストでイコンがカラーになる瞬間、何度見ても背筋がぞわぞわするのです。
そう言えば、大和竹流(修復家)がイコンに造詣が深いのは、もう完全にこの映画の影響です。


さて、そのタルコフスキーの『ノスタルギア』のファーストシーンで使われた礼拝堂と、ラストシーンで使われた教会に行ってきたのです。
言うのは簡単ですが、もちろん観光案内書には載っていない。タルコフスキーの本で町の名前を確認し、本の中に載っていた車で行ったという人のコラム(当時はネットなんてありませんでしたから)を読んで、イタリアの細かい地図を取り寄せて鉄道が走っているかどうか確認し、調べたけれど、結局わかったのは町の名前と路線図だけ。そもそもイタリアは駅から町まで遠いことが多くて、しかも彼が映画を撮った町自体には列車は通っていない。とにかく、地図上の最寄り駅で降りることにした。
分からんけど、とりあえず行ってみようと。きっと行けばわかるだろうと…あの頃、本当に無謀だった私。

ファーストシーンで使われた礼拝堂は、フィレンツェからローマに向かう列車を途中下車し、ローカル線に乗り換えて、ある駅で降りて、駅員さんに聞いて、結局目的の町・トゥスカニアは古い町と新興住宅地が並んでいて、その新興住宅地に向けてバスが通っていることが判明。
駅から半時間(もっと?)ほどバスで移動。移動中には道路を横断する羊さんの群れ(むろん、羊優先)やら、耕された土が湿った茶色や乾いた灰色になっていたり、緑の牧草地があったり、の私の大好きなイタリアの田舎の景色。

あ、そう言えば、私この電車移動中に帰りの航空券を落としまして…もうイタリアに住めってことか?とか思ったけれど、本当に田舎町の駅員さんは優しかった!
何と、あちこち電話をかけて、ローマに向かって行ってしまっていた列車の中を探してもらってくださり…私は無事に日本に生還したのでした。
その時、言われた、忘れられない単語。
Domani, tirare(多分、辞書を引っ張り出した私が、動詞の活用を分かっていないと気が付かれたからか、原型でおっしゃられた)…その後、真面目にイタリア語を勉強し始めた時、この単語は心の灯りみたいだった。
『明日、引き取りにおいで』
special thanks2
その時の駅員さんたち。きっとこの方々は、私が今でもものすごーく感謝していることを、ご存じないだろうなぁ。

忘れられないのはバスの中。珍しい乗客にバスの中は騒然…『どっから来たの?』『日本』『何歳?』『○○歳』『どこ行くの?』『バジリカ・サン・ピエトロ』…そして、随分走った時…バス中の乗客がみんな、窓の外を指差して『バジリカ・サン・ピエトロ!!!』と大合唱。
丘の上に建つ寺院と、笑顔いっぱいで見知らぬ異邦人にあれがそうだよ、と教えてくれた人々に大感謝でした。

ついでに、行くまでホテルがあるかどうかも分からなかったのですが、何とか発見。と言うより、ほぼ開店休業の宿が1軒のみ。え?客?と、明らかに戸惑っている様子。
ぼろぼろのホテルでした…長期にわたり客を泊めた気配がない^^; 取りあえず雨風がしのげる、でもシャワーしたらバスルームどころか、部屋全体の床が水浸し…でも映画みたい~(タルコフスキーの映画にはやたら水のシーンが多い。これはもう神の配剤?)とか言ってはしゃいでいた私…今だったら絶対怒るに違いない^^;

2泊して、本当に何回も礼拝堂に通いました。
この地下の礼拝堂、歩くと柱が移動していくみたいなのです。静謐で、何もなくて、ただ柱が並んでいる。
バジリカサンピエトロ
バジリカサンピエトロ
日付を見ただけでも、びっくりすると思いますが、なんと3日間も通っていた私…
学生って本当に、金はないけど暇はあった…宿泊はぼろホテルか修道院、電車はユーレイルパス。
懐かしい。

映画で使われた時はこのシーン。懐妊を望む女性のための祈祷が行われていた。実際には、タルコフスキーは祭壇の絵は別の教会から借り受けて使っていました。その教会は、たしか北イタリアのどこかにあったはず。
タルコフスキー

教会はいつも扉が閉まっていて、門番のおばちゃんがいて、鍵を開けてもらうんです。
1日に2回も行ったりしていたので…最終日はもう、別れがつらくて。
『Io, qui』おばちゃんの言葉…私はここにいるからね、と。またおいでね、と。
special thanks
結果的には再訪できていないし、この方ももういらっしゃらないかもしれないけれど……私が本当はもう一度お顔を見たいなぁと、今でも思っていることを、この方もご存じないだろうなぁ…

多分、どうでもいい人にはどうでもいい場所なんだろうなぁ……(と、いきなりしみじみ)^^;
でも聖地って、そんなものですよね。

ラストシーンの教会はサン・ガルガーノ。
こちらはシエナから1日数本しかないバスに揺られて1時間ばかり…だったかな。
帰りのバスも1本か2本しかなくて、まぁ、よく行ったものだと。海外で運転に自信がある人は、レンタカーをお勧めします^^;
ただ、こちらはきっと、写真などで見た方もあると思います。

サンガルガノ
サンガルガノ
いやもう、素晴らしい。屋根のない教会です。金がなかったので、売っぱらったとか言う話。
バスの本数があまりにも少ないので、朝着いたら、あとは夕方のバスの時間まで、何もない教会で1日過ごしました。
(あ、びっくりするトイレの話。またいずれ)
長くいると、太陽の加減でこんなにも写真が違っている……

そして映画ではこんなシーン。
タルコフスキー
イタリアの景色(教会だけど、屋根のない廃墟…実はちゃんと修道院として機能している)の中に、ロシアの風景。
亡命したタルコフスキー自身のノスタルギアを感じるシーンなのです。

実はあまりにも感動して、これはイタリア旅行の真と竹流(真18歳、高校卒業から大学入学までの間の1か月のハネムーンですね…いえ、まぁ、そんなこともあったと^^;)に、この地に立っていただきました。聖地巡礼かつ、結果的にロケハンということに…(いずれ【雨】の回想シーンで登場)
その時彼らが寝転がっていたのが、この教会の裏手。
サンガルガノものすごく小さく、うちの母が座っています(^^)

ちなみに、滅多に見かけない旅行者を見ると確認したくなるんでしょうね…
必ず田舎のバスでは乗客の皆さんから質問攻め:『どこ行くの?』
で、私は答える。『サン・ガルガーノ』…着いたら教えてくださいとバスの運転手さんに言ってあるんだけれど、結果的に必要はないんですね。
だって、乗客のみなさん、私の行先をしっかりチェックしていて、近づいたら口々に(この時は輪唱のようでした)『サン・ガルガーノ!』『サン・ガルガーノ!』
…え?と戸惑っていると、窓まで引っ張って行かれて、指差してくれる。
バス道の車道からは、遥か彼方にちっこく見える寺院。

トスカナの田舎は私にとってベストな場所(精神安定という意味で…)。人為と自然が程よく入り混じり、緑の丘が重なり合って続き、その空と地の境界をバスで走って行く……風の匂いも、空と小麦畑やブドウ畑の色も、果てない地平線の向こうも…何もかも。

この旅の話、話せば長いことながら、なので、またそのうちに。
聖地と思っているからか、その地で出会う人はみんな優しく、私はこの場所に好かれている、私もこんなに恋焦がれてやってきたのだから、とご都合主義的に思っちゃうのでした…(^^)



考えてみれば、観光地の多くは歴史的背景のある場所で、ある意味、普通に観光地に行けば聖地巡礼ともいえるわけですが……

私の場合、他に訪ねたことのあるマニアックなところは、『オルフェウスの窓』のレーゲンスブルグ……これはウィーンから一人、てぽてぽと電車に乗って、本当に大丈夫かなと思いながら行きました。もう、どこにあの音楽学校が~という感じで、少年合唱団(ウィーンとは違って声変わりしても歌える)の歌に感動したりしながら。

他には坂本龍馬脱藩の道(諸説あり、2か所ほど行きました)でしょうか。こちら、檮原は何度も行っているのです。でも、これは歴史上の人物なので、今回はちょっと話の筋から外れるかな。実は龍馬友の会の幽霊部員?の私…^^;
あ、鬼平の舞台は歩きましたよ、もちろんです(^^)
池波先生のお気に入りのお店も、そして山の上ホテルにも泊まりました…でも、これはマニアックというほどのこともなく、鬼平ファンなら誰でもやりたくなりますよね、うん(^^)


そして、ロケハンと聖地巡礼の旅はまだまだ続くのであった……(*^_^*)

自分なりのこだわりの聖地、皆さんはどんなところに行かれましたか? あるいは行きたいですか?

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【物語を遊ぼう】14.物語はストーリーかキャラか 

本棚

このネタはもう少し熟してからと思ったのですが、よく考えたら、意外に浅い内容なのではないかと思い始めまして、ちょっと書いてしまおうと。なぜ浅いと思ったのか、というと、自分の記憶力の問題が大きいのではないかと思ったりしたのですね。

物語を読む時、ストーリー重視かキャラ重視か。
もちろん、両方いいに越したことはないのですけれど、そんな100点満点の120点みたいなお話にはなかなか出会いません。
ちなみに私は書くときには絶対ストーリーテラーでありたいと願ってしまう。そして当然、玉砕するのですが。
ストーリーテラーの作家さんの書くものは『起承転結(+転)』という感じでしょうか。この最後の括弧内は、それ自体を『結』と考えることもできるのでカッコつきですが、最後に何か一捻りしてあって、いいところへ落として、楽しませくれる。
読んでいる間は本当に面白くて、まさにページをめくる手が止まらない。
多くのミステリーはまさにこの範疇に入ります。

でも、最近分かったのです。自分の記憶力のなさが……。
たくさん読んだミステリーの内容をほとんどを覚えていない^^; 気が付かずに二度目に読んで、途中で私この犯人知ってるわ…ってなことがしばしば。確かに面白いんだけど、何故か読んだ先から忘れていく。
複数回読めば忘れないかもしれない。あるいは小学生以来していないけれど、読書感想文でも書けばいいかもしれない。多くのブログさんで、小説感想などを載せていらっしゃるけれど、あれはもしかして忘れないため? 

だけど。
魅力的な人物(キャラ)、大好きな人物が何をして、何を言ったか、全部ではないけれど、覚えている。その人の人生が鮮烈であれば、そのことは覚えている。しかも一度きりしか読んでいなくて、それがたとえ20年前であっても。
そうか、記憶に残るのは『人』なんだ。と、わが身を顧みて思った。

今でも私の書きたい気持ちを支えているかの【戦争と平和】(トルストイ)にしても、ナポレオンの時代だということは覚えていても、下手すると舞台の背景さえ何も覚えていないのに、アンドレイ侯爵の死のシーンだけは鮮烈に覚えている。彼がナターシャに惹かれていく場面も、彼の人生がどう動いたかも、話すことができる。ナターシャは、私が読んだ小説の中でも相当魅力的な女性で、彼女の人生や言葉も、読んだのは20年以上前だけど、まだ覚えている。

【銀河英雄伝説】(田中芳樹)で、どんな戦闘があったのかは全然覚えていないけれど、ヤンの人生がどんなので、彼がどんなことをして、どんなことを話し、どうやって死んじゃったかはやっぱり覚えている。
(でもこの話は、男女で読み方が大きく違うんだろうなぁ。男の人は戦闘シーン、絶対面白いんでしょうね。いや、かく言う格闘シーン好きの私も、意外に楽しみましたが……(^^))

ちょっと身近な物語にしてみると、【新宿鮫】(大沢在昌)がすごいのは、警察小説としてかなりリアルであろうということもあるのだろうけれど、晶の存在が大きい。鮫島が一人で何やっていても、ひとつのよくできた警察小説で終わってしまったかもしれないけれど、彼女がいることで記憶に残った……ような気がする。

……枚挙にいとまがない。ちなみに、ここに挙げた小説は、特に私が好きで好きでたまらないというわけではなくて、記憶という意味で挙げています。
最近読んだものは、20年後の自分がおぼえているかどうかで、自分の中での価値が分かるのかな? もっとも、年々記憶力は磨滅しているので、自信はあまりないけれど。

本棚
本棚
というわけで、ストーリーは、現在進行形で読んでいる時には大事なんだけど、世の中にこれだけたくさんの小説が溢れていると、よくできた話だな、と感心することはあっても、複数回読まなければきっと覚えていられない。
しかも複数回読むことは、間違ってもう一度読んじゃった場合を除いて、まずはないと思う。

既に神話の時代から、物語は語りつくされたとまで言われている。よく似た物語やモチーフがたくさんあるし、もう斬新なストーリーなんてものは存在しないかもしれない、とまで言われることも。だから、書き手さんは、新鮮さを求めて一生懸命書き方を工夫されるけれど、新しいと言われる手法も、読んだその時はへ~面白いな~、で、やっぱり忘れちゃう(ごめんなさい)。どれほど手法をいじくられても、文学的に面白くても、読み手の記憶に残るかどうかはかなり微妙です。
以前『短編は難しい』で書いたO・ヘンリーの話などは、半分は勉強のつもりで、何度も読んでいるから覚えていられるのですが、一度きり読んだ『面白いストーリー』を10年後に覚えているか、と言われると、私の場合、まったく自信がありません。

大海、お前の記憶力は本当にニワトリくらいしかないのか(3歩歩いたら忘れる)、自分なんて読んだストーリーはきちんと覚えているし、書き手ならば当たり前だろう、と言われるだろうな、と思うけれど……

だって、忘れるのだから仕方がない。
でも、この記憶力の悪い私を物語に惹きつけ、側頭葉にきちんと居場所を作ってしまうのは、やっぱり魅力的な人物なのだと、最近は開き直っております。
心魅かれた人物は……ストーリーの細かい所は覚えていなくても、心にその人の存在が刻まれて、多分忘れないのです。

一読者としてみれば、とにかく魅力的な人物を、私が10年後も覚えている人物を、その人の言葉やその人の生き様を、私に語ってください、と書き手さんに願う。
一アマチュア書き手としてみれば、どれだけ魅力的な人物を書ききるか、そのことがすごく大事かもしれない、と思う。
だからこつこつと、『その人』のことを、今日も心を籠めて綴るのです。


…ちなみに、ストーリーかキャラか、優劣をつけるつもりの記事ではありませぬ(..)
もちろん、どちらも素晴らしいに越したことはないのですが……
あくまでも、私の場合(記憶力の問題?)ということで・・・
何より、時間を忘れさせてくれる、そして心にちょっと光を灯してくれる、そんな物語であれば、何でも素晴らしいと感じます。
現実の波は厳しいけれど、ひと時、物語の世界に遊びたいと思うのです。
だから、本音を言えば、その場所へ連れて行ってくれる作家さんは、プロでもアマチュアさんでも、関係なく有り難い存在です。


(以下、蛇足)
ちなみに、本棚の片隅に、バイブルのように置いてある本は、浅田次郎さんの『霧笛荘夜話』と村山由佳さんの『星々の舟』。
いつか私もこんなふうな物語を綴りたいと思っている、憧れの物語の『形』なのです……

あ、別格の【鬼平犯科帳】は神棚です(*^_^*)

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【物語を遊ぼう】15.名シーンを書きたい:北の国から'98時代 

キンケイギク

名シーン、と言われたら、皆さんはどんなシーンを思い浮かべますか?
実は、この季節、ある花が道のわきに、どこにもかしこにも咲き競っています。
黄色い花。金鶏菊という花です。
この花を見るといつも思い出すのが、【北の国から】のあるシーン。
そして先日、拙作【幻の猫】にご登場いただいた八少女夕さんちの大道芸人さんたち。彼らに演じていただいたパフォーマンスのテーマが『百万本のバラ』だったのは、ひとえにこの花のせいなのです。


【北の国から】は1981-2002年にフジテレビ系列で放映されたテレビドラマ、もちろん、知らない人はいらっしゃらない・・・でしょうね。一人の役者、特に子役からずっと大人になるまで、長い年月をかけて役者を変えずに撮り続けた倉本聰氏の発想はすごいと思うけれど、なかなか大変だったろうな、と思います。
(おかげで、途中からわが愛する?正吉君は姿を消し……役者さんが一般社会人になったので…)

このドラマにはもちろん、あれこれ名シーンや名セリフはあるのですが、『'98時代』で不倫相手の子どもを身ごもっていて、一人で生んで育てるという蛍に、幼馴染の正吉がプロポーズするためにオオハンゴンソウを刈っているシーンは秀逸です。
ワンカットで秀逸、と言えるシーンが切り取られている。

正吉にとっては、蛍や純は家族同然、五郎は父親とも思っている、家族が困っている時に助けるのも当然。
そこへ兄貴分の草太の追い討ち。「正吉、お前蛍が嫌いか?」「そんなことないけど」「そうだべ、好きだベ、ほんとは惚れとったべ」…そう、ほんとはずっと好きだったんだよね、もちろん妹のようでもあるし、恋人のようであるし、家族と言っていい。ま、草太のほとんど思い込み的押しもすごいけれど。

決心してプロポーズしたけれど、蛍も簡単にはうんと言わない。正吉は、離れて暮らしている母親・みどり(水商売)の店に行って、『百万本のバラ』の歌を聞く。
お前も男なら押しまくれ…とかなんとか言われたんじゃなかったっけ? いや、みどりさんは五郎に申し訳が立たないことをしてきたと思っていたから、馬鹿言うんじゃないよ、とか言ったんだっけ?(記憶が曖昧)

計算したら、100万本のバラを買ったら4億?5億?……計算器を投げ捨てる正吉。
けれど…心に残ったんでしょうね。ある時、仕事中に丘一面に咲き乱れるこの黄色い花(彼は名前は知らない)を見て、これなら自分にも何とかなる、と。
そして、仕事の後、休み時間に、ひたすらオオハンゴンソウを刈りまくり、刈った先から蛍に送り届ける。周りの人間(含む・純)が何をやっているのかと不思議に思って尋ねると、「俺の趣味だべ」(この返事がいい!)
蛍の部屋はもうまっ黄色になるほど花に埋もれている。花粉症にならないかしらと心配するくらい。だって、部屋はバケツから何から水を入れられるものには全て水を入れて、花を生けて、身の置き所もないくらい。
蛍ちゃんもまぁ、捨てないんだなぁ、と感心してしまう…^^;


そして……蛍ちゃんの押され負けですね。
おなかにいるのは自分の子だと、五郎に宣言し、結婚の許可を受ける正吉はやっぱりかっこいい!!

さて、この一生懸命オオハンゴンソウを刈っている正吉が、ふと夕陽の中で手を止め、夕陽で黄金に染まった空を見るシーンがあります。
夕陽に照らされた丘、咲き乱れる黄色い花がその夕陽に照りかえり、あたりは黄金の世界となっている。そして本当に自然に、彼はその世界に向かって、手を合わせるのです。
何を思っていたか、蛍のこと、彼自身の血のつながりのある家族・血のつながりはないけれど大事な家族、将来のこと。でも、きっとそんなのではない。ただ、この世界が美しいと、体の芯から、心の奥深くから感じて、湧き出すような想いに突き動かされて、ただ自然に手を合わせたのだと思えます。

まさにミレーの晩鐘のシーンです。


小説は分が悪いですね。
ドラマや映画は映像だから、いくらでも名シーンを思い浮かべられる。
映画のラストシーンなんて、心に残るように作ってありますものね。キスの嵐の『ニューシネマパラダイス』や、いきなりセピアの映像がカラーになってイコンを舐めるように映す『アンドレイルブリョフ』とか、もう反則だとか思う。
視覚というのはやはり強烈です。
小説は文字だから、そこに読者の想像にお任せ、という高いハードルがある。
文字で記憶に残るシーンを書きたくて、描写しても、描写しても、なかなか自分の描きたい感動を伝えられない。
でも、だからこそ、果敢に、心こめて闘うのですね。
ちなみに、力が入ると、文章が短くなるのって、不思議ですね。
一応頑張った私の名シーンならぬ、迷シーン、【海に落ちる雨】や【清明の雪】【雪原の星月夜(まだ仮題)】でお目にかけることができれば嬉しいですが。


キンケイギク

さて、振り出しに帰って。
え? オオハンゴンソウ? キンケイギクって言わなかった?

そうなんです。
実はうちの近くにはオオハンゴンソウがないのです。オオハンゴンソウ自体はもともと北米の花。日本に帰化し、北海道から沖縄まで自生している花で、あまりにも邪魔なので外来生物として引っこ抜かれたりもしている、どこでもよく見かけるのに、何故か近隣にはないのです。
ちなみに、オオハンゴンソウの写真はあちこちにいっぱい出ているので、見てみてください。
花は真中の芯の部分が全然違うし、葉も、そもそも種類も別物なんですけど…

で、『黄色くて、群生してたくさん咲いている(そこだけ一緒^^;)』花をみて、違うんだけど、『見立て』て楽しんでいる大海なのでした。
日本人だから、見立てが好きなのです(^^)
もちろん、毎日『百万本のバラ』を口ずさみながら。
季節もちょっと早いけれど。


名シーン、挙げたらきりがないけれど、心に残るシーンをふと思い出すとき、なんだかとても暖かい気持ちになりますね。
あんなシーンを書きたくて、頑張っている、と思うから。

おまけ。
ねこ
…キンケイギクの写真を撮っている時、目が合ったねこさん。
男前? 若猫を2匹連れていたから、お母さんかな。

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【物語を遊ぼう】16.名作を書き換えよう 



「このお手てにちょうどいい手袋を下さい」
すると帽子屋さんは、おやおやと思いました。狐の手です。狐の手が手袋をくれと言うのです。これはきっと木の葉で買いに来たんだなと思いました。そこで、「先にお金を下さい」と言いました。子狐は素直に持ってきた白銅貨を二つ帽子屋さんに渡しました。帽子やさんはそれを人差し指の先にのっけて、カチ合わせてみました。
しかし、白銅貨からは何の音も聞こえません。やはり木の葉のお金でした。

子狐が手袋を買いに帽子屋さんにやってくるシーンです。
最後の一文だけは、原作通りではありません。
私ったら、何で狐が本物の白銅貨を持っていたんだろ? って天邪鬼な疑問を抱いておりまして。

さぁ、この先をどうしましょう?


久しぶりに『物語を遊ぼう」シリーズの記事を書くことにしました。
物語を練っている時、行き詰まることってありますよね。あるいは書きたいけれど、ストーリーが全く思い浮かばなくて焦っちゃう。
そんな時に難しい「小説の書き方」のノウハウを考えて思いつめると、ゴルフで言うところのイップス、つまり固まってしまって手が動かなくなってしまうことがありますよね。
実は私もノウハウ本を結構読んでみたことがあるのです。一度は文章教室に行ってみたことも(ひやかしだったので、たった半年しか続かなかったけれど^^;)。
確かにそれが全部できたらすごい小説が書けるよなぁ~っていつも思っていましたが、実際にはノウハウ本を読んだら余計に書けなくなってしまいました……ダメな私。物書きのプロになるような人は、このノウハウをきちんとできる人、なんでしょうね。
そう、高みを目指す人は、この「筋トレ」に耐えなければなりません!(小説を書くのは筋トレ、というのも先生の名言)

でも、そんな高みを目指しているわけではない、一介のアマチュア物書きにも、スランプ、あるいは、書く気が全くしない時もあるのです。


そういう時は気分転換にこういう遊びをしてみてはいかがでしょうか。
いえ、実はこれ、文章教室で教えてもらったのです。あれこれやった中で一番面白かった授業でした。
もっとも、その時に使った「名作」はもっとお堅いものでした。聞いたこともないような、日本純文学で、そもそも元のラストを知らないという作品だったり。

ここで言う書き換えは、登場人物の名前や設定を借りて自由な物語を展開するというタイプの二次創作とは違って、基本的にストーリーの途中まではもとのままで、途中~ラストを変えてしまうというものです。
一応ルールがあって、基本的には物語の途中までは原文のままで設定は変えない(自由枠アリ)、物語の流れに違和感がないようにする(原文の部分~改変部分の継ぎ目に違和感がないように)、などなど、いくつか決まりがありました。
だから自由度は思ったより低かったんですけれど。

でも、ここでは遊びですから、自分が気になっている「あの有名な」物語をいじくってみるのが一番いいですね。
悲劇が気に入らなければハッピーエンドに変えちゃう。
『ごんぎつね』なんて、それにぴったりじゃありませんか。
ごんが死んじゃうなんて! ってきっと皆さまも一度は思ったはず。
逆に、ご都合主義は気に入らないというのなら、「いつまでも幸せには暮せませんでした。なぜなら三年目には王子が浮気を……」ってことにすればいい。(そして昼メロへ……、いや、昼顔? あ、あれは浮気するのは奥さんの方か……)

そういう意味で大きく自由枠を広げて考えると……
「書き換えの名作」と言えば、ディズニーの『リトルマーメイド』ではないでしょうか。
私自身、『人魚姫』の物語については語りたいことがいっぱいあったりしますが……(なぜなら、真シリーズは(『人魚姫』+『源氏物語』)÷2なのです。ちなみに、息子の慎一の時代はロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、ラストのシリーズになるやしゃ孫の時代は映画の『麗しのサブリナ』)
それはさておき、海の中に暮らす人魚たちの世界という素敵な設定に目をつけたディズニー、でも悲劇的結末は夢の国にとってはNG。それならハッピーエンドにしちゃえ。
実に大胆な書き換えですよね。しかも大成功。楽曲の力も大きいですけれど。
ただ、ラストを大きく変えるときは、少し設定も変更・追加しなければならないことが多いようです。


実はこれ、scribo ergo sumの八少女夕さんが時々提案される企画(神話でタイトル、とか、地名でタイトルとか)に加えていただけないかしら、なんて思ったりもして。
書き換え部分だけでいい、あるいはアイディアだけでもいい、もちろん期限なし、って遊びです。
行き詰まった時にはぜひ、物語で遊んでみてください。


さて、冒頭の『手袋を買いに』の続きを書き換えてみましょう。


帽子屋さんは木の葉のお金と、寒さで震えている子狐の小さな手を交互に見つめました。
今日、帽子屋さんの家には小さな孫が遊びに来ていました。雪遊びで冷たくなってしまった孫の手に、新しい手袋をはめてあげた時のかわいらしい笑顔を思いだしたのです。これから大きくなっていく小さな孫の手は、どんな未来をつかんでいくのでしょう。
それはこの子狐の小さな手も同じです。
帽子屋さんは棚から子供用の毛絲の手袋を取り出してきて子狐の手に持たせてやりました。

やれやれ。
孫に新しい靴を買ってやろうと思っていたのに、しばらくはお預けです。
帽子屋さんは、明日には木の葉に戻ってしまっているに違いない音のしない白銅貨を、亡くなった奥さんの仏壇の前に置きました。
お前、今日は子狐が手袋を買いに来たよ。小さなかわいい手がすっかり冷たくなっていたから、つい新しい手袋をやってしまった。仕方ない、また明日、新しい手袋を編もうかね。
写真の中の帽子屋さんの奥さんはにこにこと笑っていました。

次の朝。
帽子屋さんは仏壇の前を見て驚きました。
何と、昨日子狐が持ってきた白銅貨を置いた場所にあったのは、木の葉ではなく、春を告げる白い花だったのです。
帽子屋さんはお店を開けました。夜のうちに雪は止んでいたのでしょう。もう子狐の足跡はありませんでしたが、向こうの山から子狐とお母さん狐のこーん、こーんと啼く声が聞こえていました。

さあ、新しい手袋を編まなくては。
こうしてまた、帽子屋さんの忙しい一日が始まりました。
春はもうすぐそこまで来ているようです。
(おわり)


あれ? このお話は、どうしてもハッピーエンドになりますね(*^_^*)
春告草=スノードロップ、です。でも、春になったら手袋要らないじゃん、って突っ込まないでね^^;
来年に備えるのです(#^.^#)
本当は「ありがとう」という花言葉の花を思ったのですけれど、カーネーションとかダリアとか、季節も何もかもおかしいし……冬のお話だけど、早春はあり、ということで。

ちなみにちゃんとした「筋トレ」としてやってみる場合には、文体や表現も元の物語に合わせて書くのです。どこから書き換えたのか、分からないくらいに。そうすると、表現なども工夫するようになって、文章のいいトレーニングになります。
ちなみに私、「こころ」でこれをやろうとして玉砕しました^^;

何はともあれ、物語は楽しまなくちゃ! 読むときも、書く時もね。
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この本(ダースベイターの子育て本)は……少し違いますけれど^^;

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【物語を遊ぼう】17.もう一度見たい、あのドラマ~『人間・失格』と『ダイヤモンドの恋』~ 

近頃は古い作品もあれこれDVD化されて、懐かしいドラマや映画を見ることができるようになっていますね。You Tubeなんかでも思わぬ作品がアップされていたりして。
実は、ある週末、急に思い立って『人間・失格~たとえばぼくが死んだら~』(1994)全12話を観てしまったのです。
人間失格
1990年代と言えば、丁度私がKinKi Kidsのふたりに嵌ったころ。彼らはまだ10代の初々しい盛りで、特に剛くんの演技には泣かされまくっていました。ちなみに私、特別にJさんチームに嵌っているわけではないのですが(いえ、某5人組のリーダーには惚れておりますが、これは結果論……たまたま惚れ込んだ人がJさんだった、ってのはありますが)。

実は私、もともとテレビっ子ではありませんでして、有名なドラマのほとんどを知りません。小さい頃、好きなアニメとか仮面ライダー、松竹新喜劇(寛美さん(*^_^*))などは一生懸命見たけれど、学生の頃はテレビから離れていたのですね。
それがある時、何の拍子かKinKi Kidsのふたりが出演していた『若葉のころ』(1996 ) を見て、「なんだ、この初々しいキラキラの少年たちは……しかもこのやるせない、胸を締め付けるようなドラマ展開は何なの?」とすっ転び、逆もどりする感じで『人間・失格』を見た記憶があります。


最近物議をかもした(といっても見ていないのでよく分かっていない)『明日ママがいない』の野島伸司さんの作品で、いじめ、自殺、倒錯愛、復讐、というどろどろのストーリー。
登場人物はイケていない人ばかり。赤井英和さん演じるお父さんは、貧しいながら必死で息子を有名男子校に入れて、教室まで入ってきて「息子を頼みます~」なんて生徒たちの前でやっちゃうKY盲目親爺。息子を信じられなくなったり仲直りしたり、そして自殺した息子の死に疑問を抱き、ついに体罰と苛めの事実を知ると復讐に駆られてしまう(煽る奴がいるからですが)。
櫻井幸子さん演じる新米教師は、自分のクラスに苛めがあるとは思わず、生徒の言動に流され、挙句に仮面の奥に非道な狂気を宿した社会科教師に恋をして、生徒が大変なことになっているのに仕事よりも恋に揺れている。
加勢大周さん演じる写真部の顧問であり社会科教師は、生い立ち故の孤独から歪んだ性癖を持ち、同じく孤独な生徒・留加(光一くん)への想いを愛情と思い込み、留加が赤井さんの息子・誠(剛くん)との友情を深めようとすることに危機感を抱いて、彼を追いこんでいく(その策略の結果、生徒たちに追い込まれて、誠は屋上から飛び降りる)。
留加の母親は、高校生の時に留加を産んだものの自分では育てず、今は妻子ある男性の世話になっている少女のように可憐で弱い女(を演じているのかも)。中学生の留加を引き取った後もどう扱えばいいのか分からず、留加の孤独を理解できない。
留加は積極的にずっと苛めに加担しているわけではないけれど、誰か(自分?)を傷つけずにはいられない、一方で友情を求めてもいるのにどう表していいのか分からない。
生徒たちは、いじめられる側がいじめる側になったり、無視したり、残酷にもなる一方で、犯した罪には震え、親の期待に応えたいと思ったり親を守ろうとしたり、傷つきやすく脆い。教師たちは自分の都合を優先し、どこかで言い訳をし続けている。

そう、誰に感情移入したらいいのか分からないくらい、残念な人たちばかりなのだけれど、それはもしかすると、その残念な人物たちの一人一人の中に「もしかして自分も似たようなところがあるのかも」という曖昧な不安を感じさせられるからなのかも。いや、社会科教師はかなりおかしいけれど……それでも、おかしい奴も含めて全ての登場人物の「事情」をここまで書かれちゃうと、感情移入はともかく、妙に納得して、逆に居心地が悪い……


昔のドラマって、今放映したら怒られそうな「そこまで言っちゃうか……」という話が結構あったような気がします。臭いものに蓋をしなければならなくなった昨今の社会情勢、残念な内容・人物を反面教師として自分なりに善いものを選び取り判断する能力(想像力)が失われた現代においては、番組を作る人たちも大変ですよね。

逆に妙にエキセントリックな人物をわざと描くドラマが多くみられますが(しかも何か能力が高くて、ある意味ではスーパーマン。現実にはそんなスーパーマン、いないけれどね)、内容にドロドロ感はあまりなくて、それがまるで「痛快」と感じさせるような作りになっている。現実感がない、というのが今の時代のドラマや映画のキーワードなのかも。
それを考えると、賛否両論あるものの、この作品は現実感がありすぎて怖いドラマです。

でもね、この情けない新米教師が、学校を「寿退職」という名の解雇に追い込まれた時、挨拶する壇上から訴えるラストは、やっぱり泣けちゃいますね。自分を含めたここにいる全ての心無い人間が誠を殺したのだ、みんなは他者を傷つけることで生きている実感を持とうとしているのではないか、そして、みんなかけがえのない命なのだから、自分をもっと愛して、自分を愛するように友達を愛して、と。当たり前のことを言っているのに、空々しく聞こえないのは、それまでの部分があまりにも重いから。教師たちは刺激的な演説?に生徒たちを講堂から帰そうとするけれど、最後まで逆らってその場に残り話を聞こうとした10人余りの生徒たちに、微かに希望が残るのです。


「もう一度見たいあのドラマ」というタイトルにしましたが、「もう一度見るにはしんどいドラマ」という副題をつけておかなければならない気がしてきました。しんどいのは、どこか身につまされるから。こんなこと言われたって、じゃあどうしたらいいのか答えもでなくて、見ていると苦しい。でも、いつまでもどこか片隅に残っていて、ふと思い出しては気になって仕方がない。

そんな行き詰ったものよりも、現実感の薄い痛快さが好まれる昨今、逆にその非現実感が現実の残酷な事件へ繋がっていっているのじゃないかと思うこともあります。そして、スーパーマンではない残念な人物が足掻いているドラマの中に「希望」を探す力が求められているのかもしれない、と思ったりしたのでした。

とは言え、痛快・非現実ドラマ(ストーリー)は頭の休憩にはもってこいなんですよね。あまりにもリアルに残念な人物を見ていると、悲しくなって疲れちゃう、ってのも事実。
本当は『若葉のころ』も見たいけれど、12話分見たら、また悲しくなっちゃうので(これもまた、残念な連中がいっぱい登場)、しばらくは休憩です。
いやしかし! 赤井さんとKinKiのふたりの銭湯入浴シーンは萌えますよ!(夕さん、limeさん、TOM-Fさん……あれ、TOM-Fさんはそっち系はないか…・・って、どっち系?)

こんなふうに、もう一度見たいけれど、その内容の重さゆえに(DVDなど)見る手段はあるけれど見るのが辛いドラマもありますが、見たいのにどうしても見ることができないドラマもあるのですね。


そう、本当に見たいのです。でも、ビデオ化もDVD化もされていないし、その予定もないそうです。実は先日、VHSを整理していたら、そのドラマの一部(録画していた)が出てきて、思わずビデオデッキを繋いじゃいました。あぁ、全部残っていたら良かったのに……

2005年にNHKで夜に放映されていたドラマで、確か25分くらいの番組を平日毎日やっていて、数週間で終わり、というやつじゃなかったかと思うのです。同じころにやっていた『ロッカーのハナコさん』はDVD化されているのですけれど、放映が終わって5年以上経っても番組の掲示板がオープンになっていて、DVD化を望むって声が出ていました。確か、その時のNHKの人のお返事は、NHKの地方局(奈良?)の版権なので、勝手にDVD化できない、というようなニュアンスだったような。

内容は地味だったのですけれど、見ているうちにボディブローのように効いてくる。あ、ドロドロ系ではなく、超爽やか系です。
『ダイヤモンドの恋』というドラマで、浅野温子さん主演。
ダイヤモンドの恋
41歳のジュエリーデザイナー(離婚歴あり)で、仕事も年下の男との恋も娘との生活も順調だったキャリアウーマンが、更年期障害をきっかけに仕事が上手く行かなくなり、恋人の裏切りにも遭い、解雇に追いやられてしまう。それでも更年期障害だなんて認めたくない……故郷の奈良(桜井市)で父親(宍戸錠さん)が経営する旅館に戻り、地元の遺跡発掘の手伝いをすることになって、以前カルチャーセンターの講師に来ていた考古学者(吉田栄作さん)と再会。奈良の美しい景色を舞台に、ゆっくりと恋を育てていく物語なのです。
別れた元亭主、海外に住んでいたのに突然帰国してきた娘、考古学者の婚約者?との恋のバトル、診療所の女医などとのエピソードも語られて、少しずつ前を向いていく姿が描かれています。古の土器やら発掘物のスケッチをしながら、デザイナーとして再生していく過程もあり、そして、東京に一時戻った主人公と奈良にいる考古学者が同じ月を見ながら電話で話すシーンが何とも……王道過ぎて……ほろりとしてしまうのです。

今やアラフォーの恋物語は珍しくなくなったけれど、当時はそんな題材はなかったんですよね。更年期障害の女性の物語、というのは相当の冒険だと思ったけれど、テーマ曲の『しあわせ』を聞くと、爽やかな空を見上げているような気持ちになりました。

最後の部分。しあわせ 永遠はないということ 続かないと気付くこと その分だけ自分を懸けて愛せること……にはっとさせられます。


そう、実は、拙作『ローマのセレンディピティ』の主人公・詩織がジュエリーデザイナーで考古学教室にも出入りしている、というのはここからのパクリです。だって、再放送してくれないし、DVDも出してくれないんだもん。

あぁ、本当に琴線に触れる物語って、見ることが叶わなくても、いつまでも心の中で輝いているのですね。いえ、時には、輝いているわけではないのに、ずしんと腹の底に残るものもある。
拙作では、『清明の雪』は暗闇から這い出した時に見る晴れ渡る空のような輝きを、『海に落ちる雨』は腹の底に重く残る忘れられない暗い真実と最後に残る一筋の光明を、目指していたような気がします(一応ね^^; 目指していただけかもしれませんが……)。

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【物語を遊ぼう】18-1.今更ながら考える、キャラの魅力 

ミステリーとキャラの関係についてちょっと考えていたら、最近は「キャラミステリー」なんて呼び方もされる分野があるそうで……でも、よく見てみたら、単に本の表紙がイラスト付きで本屋で手に取ってもらいやすい、一見ライトノベルっぽいミステリーのこと……(なのかな?)
いわゆるライトノベルにおける「萌え系」「仮想世界もの」とは少し違っている、軽めのミステリーというもののようですが。

でも、よく考えてみたら、古くからミステリー界(探偵界?)には魅力的なキャラが沢山いたし(ポアロ、コロンボ、ホームズ、明智小五郎、金田一耕助……)、ちょっと渋みがある独特なキャラたちだけれど、ある年代の者にとっては十分に「萌え系」かつ「キャラミステリー(私の中では「キャラを楽しむミステリー」という意味合い)だったのですね。

なぜこんなことを考えているのかというと。
ミステリーって筋立てが一番で、上手い組み立てのミステリーを読むと惚れ惚れするなぁと思うのですが、ものすごく後から読み返したときに、どんな話だったか、犯人は誰だったか、ちっとも覚えていないということがあったり(酷い時は、途中まで読んでから、あれ、これ、前にも読んだわ、ってことが……。もしかすると、私の記憶力がひどすぎるだけ?)。

一方で、どこかに引っかかるキャラが登場しているとそれはしっかり覚えていたりします。ストーリーかキャラか、って以前にも記事に書いたことがありますが(【物語を遊ぼう】14.物語はストーリーかキャラか)、結局忘れられないのは「キャラ」なんですよね。

もちろん、読み手によって、感動のポイント、記憶の回路に違いがあると思うので、皆が皆、同じとは思いませんが、私はどうもキャラで記憶する、という回路なんだなぁと。
書き手としては、ストーリーテラーでありたい、と思うのだけれど。

キャラが立っている、という言葉はあまり好きではないので、素直に魅力的と表現したいと思いますが、魅力的なキャラってどんなものか、ちょっとググっただけでもいっぱい出てきます。
大筋をまとめると。

・完璧な人間ではなく、欠点があること。逆に、普段はダメダメでも何か1つすごい能力があって、最後にすごい力を発揮する。(ちなみに、その能力は「そんなんありか~?」という超人的・意外性のあるものがいい。ありきたりではインパクトがなさすぎるし、読んだときの爽快感がない。そしてその「そんなんありか?」の違和感を感じさせないための裏付けを書けるかどうかが作者の力量?)
・「萌える」要素があること。男性だと「メイド」「妹」「巫女」? 女性だと「王子様」「美少年」「一匹狼」?、状況設定では「ツンデレ」「幼馴染」「同窓会」「同性愛要素(友情でもいい)」……?
・ギャップがあること。例えば、外見と中身にギャップがある。または「凡人」(読者が親近感を覚える部分)と「超人」(読者が理想とする何かがあること)の部分を併せ持っている。この「隙間」に物語が生まれ、葛藤が描かれる。
・読み手が、キャラとの間に人間関係を築いていけるような人物、つまり「成長」「変化」ののりしろが必要。

いずれも「さもありなん」ですが、ここで心配なのは、あまりにもステレオタイプだと「またか」ってことにならないのかってことですよね。すごい能力をもっている人物が欠点・不幸な病気を背負っている、とか、ドジで平凡な女の子(でも眼鏡を外したらけっこう可愛い)が健気に頑張る、なんて、何だか食傷気味になってしまわないかしら、と。
でも、以前、逆に「徹底的に嫌われる人間を主人公にする」という挑戦をしたとしか思えない小説を読んだことがありますが、やっぱりその人物には全く魅力を感じず、感情移入もできず、読後感もいまひとつだった。

う~ん。あまりにも突飛なことを考えず、ステレオタイプも悪くないのかも。
凄い美形でなくても書き手にとって「美」の要素があって、悩みは多いけれど健気に頑張っていて、ちょっとツンデレで感情はあまり表に出さないけれど想いは深くて、時々熱血漢になったりして、ついでにどこかに水戸黄門の印籠要素を持っている。
あるいは、もう「とにかく可愛いから許しちゃえ!」キャラを書きたいときは、人間だと腹が立つだけだから、猫にしちゃうとか。
……そんなキャラでいいよね。

結局は、記憶に残っているキャラ=お気に入りのキャラも、そんなに突飛な人物ではなくて、「(性格は別にして?)健気に頑張っている」ステレオタイプのキャラなんですよね。
やっぱり、書いている自分が「萌える」ことができるキャラでないと、ね。

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【物語を遊ぼう】18-2.キャラの魅力~探偵役の造形~ 

前回の記事【今更ながら考える、キャラの魅力】の続きです。
今回はこのミス大賞作品「さよならドビュッシー」のシリーズをヒントに考えてみます。

そもそも記事を書きながら考えていたのは、探偵役のキャラの造形だったのです。
いわゆる成長もののキャラ(主人公)は、前回の記事に載せたような「やっぱりこれが王道」という造形であるべきで、物語の最初と終わりでは、何かが変わっている(「成長している」)べきである、というのを読んだことがあります。
確かに、それに逆らう挑戦的なキャラ(どう考えても嫌われるような凄い悪人とか、逆にどこにも欠点がない完璧な人物とか)が主人公になっても、いまひとつ入り込めないと思うのですが、さて、問題の探偵役。

前回頂いたコメントにもありましたが(色々コメントありがとうございます(*^_^*))、探偵役は「謎解き」という仕事をしなければならないので、キャラとして個性はあるとしても、事件の前後であまり「成長する」ものではないのかもしれません。
しかも、謎解きの導き手としてスマートな推理能力が要求されるので、頭が悪いけれど推理力は抜群、なんてのはなし。たまにちょっと間違えることはあるけれど、「俺たちはとんでもない勘違いをしていたのかもしれない」! 作者の目論み通り、読み手をミスリードしつつ、最後は正しい方向に導いてくれるのが「探偵役」。

一方で、ミステリの中では、1本もの、つまり「続編」を考えないものもありますから(結果的に続編ができることはあるとしても)、主人公が事件に巻き込まれて(自分の身が危ないとか)、やむにやまれず探偵役をするというパターンもあります。この場合は「ドキドキ感」が大事で、読み手は主人公目線で事件に巻き込まれる、わけですね。
これ、時々、ダメだなぁと思うものに出会うことはありませんか? このタイプで主人公目線に立てなかったら(例えば、主人公が事件に巻き込まれる理由が「そんなん自分のせいやん」とか「そんなことあり得ない」とかで、初っ端からシラケられたらおしまいですね)、ミステリの構成としてよくできていても、何だかなぁで終わっちゃったり。
でも、今回はこのパターンについては、ちょっと置いといて。

「謎解き」役の探偵。
事件に巻き込まれているわけではなく、少し上から全体を見渡しながら(けいさんの仰るように「俯瞰して」)、読者に事件を紹介し、一緒に謎解きをしてくれる役割(だから、謎解きの時に「実はこっそりあの時こんなものを見つけていたんですよ」って後出しはなしよ! 時々あるけれど卑怯だ~)。いちいち感情や人生における立場まで事件に振り回されない、という立場です。
彼らの存在は、水戸黄門の印籠。
最後に「この紋所が目に入らぬか~」って、事件を解決してくれるんですよね。実はこの「お決まり」があるからこそ、面白いのであって、読むときにはそこに変則を求めているわけじゃないのですけれど、一味違う何かが欲しいのは書き手の欲ってものでしょうか。

最近のライトミステリというものでも、探偵役の属性には本屋、考古学者、霊能者、聖職者、教師、医者、あれこれあれこれ、何でもありって感じですよね。
で、ふと考えたわけです。うちの真、一応職業も探偵なのですけれど、どんな立ち位置になるのかしら、と。
彼の造形、と言えば。

某アメリカスパイ組織のスナイパー(日本人)と某東側国家政治家の大物の孫娘(ドイツ人とのハーフ)という禁断の恋の結果として出生。育ての親は北海道の競走馬牧場経営者の祖父と東京在住の脳外科医の伯父。
(周辺事情はややこしい。でも本人は結構普通の子ども)
小さい頃は外見のせいもあっていじめられっこで、友だちはコロボックルと馬と犬しかいないという不思議っ子。
(でも、両親がいない分、他の家族からは結構大事にされていた)

成長して、工学部の学生となったものの、あれこれあってバイトをしていた探偵事務所に雇われて、その後、バイト先の所長が事件を起こして服役したため独立、探偵事務所を経営するに至る。
伯父は失踪していて(多分死んでいる)、実の父親には色々な疑いと嫌悪を抱いている。
もと家庭教師で現在の同居人、伯父の失踪後親代わりでもあった男(大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラ)は、絵画修復師でレストランの経営者だけれど、元を正せばヴァチカンの警護組織の由緒正しき家系の御曹司。彼との間には複雑な関係がある(いや、恋愛ではないはず)。

外見。あまり大柄ではないと書いていますが、多分170程度(岡田君と同じくらいか。え?)。クォーターですから髪は明るめの黒茶(って?)。目は左は黒くて(茶黒?)、右は碧(みどり)。すごいイケメンではないけれど、野生のヤマネコみたいに印象的な顔をしている。じっと見てたら食い付かれそう?
病気。ちょっとばかりアスペルガーちっくな部分あり(でも、男の子って多かれ少なかれそんなものなんですけれどね)。できることとできないことに差がありすぎるし、社会性は低い。19の時、崖から落ちて意識不明の重体になっている。脾破裂で脾臓摘出後。頭の方は逆行性健忘を抱えている。

お話ですからね、少しだけ「かっこよく」書いているのです。
全然かっこよくない、ものすごく平凡な探偵のお話を読んでいたって、何だか楽しくないじゃないですか。少なくとも、生理的に受け付けないキャラが主人公だと絶対に読まない。できるならちょっと「美形」の方がいい。もちろん、小説なので見た目は読み手の想像だから、想像の中で自分の美意識の最低ラインはクリアしていなきゃ。そしてやっぱり、どこか「謎めいた部分」「かなりエキセントリックな部分」も欲しいじゃないですか。

つまり。
あり得ないほど複雑な出生の問題を抱えていて、あり得ないほど複雑な相手と絡んでいる。この辺は「物語」だなぁという感じ。凡人にはあんまりすごい事件は起こらないし……
でも、書いている時は、単に父親との親子葛藤に悩み、社会的には落伍者(いじめられっこ、変なものが見える、大学中退、あげく「探偵」などという胡散臭い仕事をしている)、精神的にはかなり過敏な部分があり、恋愛についても問題が大いにあり。
何もすごいことはなくて、結構みんなそんなもんじゃないの? という感じのキャラなんです。

特殊なスーパー能力は何もない……コロボックルや幽霊が見えたって、それで事件を解決できるわけじゃない(幽霊が「私を殺した犯人はあの人なの!」って教えてくれる話なんて読みたくないですよね)。馬と犬の扱いは天下一品だけれど、馬は東京のその辺をうろついていないし、犬がワンワン吠えて犯人を教えてくれる話を書いているわけじゃない。写真のように風景を覚える能力はあるけれど、それで一発事件解決にはならない。
けれど、ちょっとだけ剣道が強くて、シニカルなムードを漂わせつつも、実は精神的に事件には一生懸命のめり込む(ただのツンデレ、もしくは感情を表に出すことが苦手なだけ)。
なぜ事件に首を突っ込むか。「真実を知りたいから」(これもよくある台詞。でも、何であんたが知りたがるのよ! と思うこともある)なんてカッコいいことは全く思っていなくて、真の場合は「仕事だから」。

つまり、彼の場合。
事件に対しては基本は「探偵役」に徹したいけれど、どういうわけか、気が付いたら気持ちが入り込んでしまっている(親子葛藤に敏感だから?→【清明の雪】)、もしくは、実は自分が事件に巻き込まれている(【海に落ちる雨】)。自身の抱える問題(逆行性健忘)については、実はちょっとした「事件」があって、これについては次作【雪原の星月夜】で語られる。
そう、事件の探偵役もするけれど、実は自分自身も事件の輪を思い切り引っ掻き回している、そんな立ち位置。

あ、いっこだけ、特殊技能があった! 三味線が弾ける!(地味だ……)
いいのかなぁ、こんな探偵で……

そんな中、先日、このミス大賞にもなった「さよならドビュッシー」とそれに続く「おやすみラフマニノフ」「いつまでもショパン」を読みました。
さよならドビュッシー
結果的には自分の中では3作目の「いつまでもショパン」が一番面白かったのですが、それは1作目の「さよならドビュッシー」の「どんでん返し」に最初の部分(火事)で気が付いちゃったからですね。
普通はシリーズものって1作目が一番面白くて(たまに2作目ってこともあるけれど)、だんだんマンネリ化していくのですが(でも、そのお約束展開に安心するのは、私が吉本新喜劇世代だから、かしら。お約束ギャグを待っているのよ)……
ちなみに私、シリーズものは1作目を無事に読み切ったら(1作目の途中で飽きちゃったものもあるので)、大体3作は読んでいます。その後続くかどうかは……だけど。

1作目。「どんでん返し」って何やねん、と興味津々で読み始めたわけでもないのですが、ついつい書き手の立場で読んでしまった。私ならこの書き出し・設定ならこの先の展開はこうする、と思っていたら、内容が大体見えて、そうなると読みながら伏線が出てくるたびに「そうそう」とか思っちゃって。
つくづく、ミステリは読み手に徹しないと面白くないと感じました。しかも3作とも、最初から犯人~裏事情まで読めちゃってたのですが、これは作者さんと私の思考回路が同じ方向性だったから、なのかしら。いや、それはあまりにもおこがましいのだけれど。

3作目はね、スケールが大きかったのです。しかも私の大好きなコンクールという背景で。コンクールのノンフィクションは、すごい昔に中村紘子さんの「チャイコフスキーコンクール」を拝読して以来、なんて面白いんだ! と思っていたのですが、物語にその面白さが生かされていました。
スケールが大きいもの(ハチャメチャじゃなくて)はやっぱり面白いんだなぁと思った次第。
あ、でも、「あとがき」にあるように音楽の分析・描写はすごいのですけれど、ちょっとくどいかなぁと思ったのは私だけ? 申し訳ないけれど、途中から結構飛ばして読んでいました。

でも、結構3作とも色んな意味で面白く拝読したのです。ちなみに、探偵役はピアニスト。
で、ちょっと面白いと思ったのは、毎回(3作とも)、語り手は「探偵」ではないのですよ。
語り手、つまり視点は、別の音楽家(もしくは音楽部の生徒、3作とも別の人物)。
だから探偵の造形はその「別の視点」から描かれていて、探偵役の「スーパーぶり」が鼻につかないようになっているんですね。そう、主人公視点がもしこの探偵にあったら、結構嫌味な感じになるかも、と思う部分が、上手くオブラートに包まれている。
実は、この探偵にもハンデがあるのですけれど、それは欠点というよりも、あくまでも「ハンデ」。ある病気を抱えているのですね。

でも病気の類が小説で書かれると、その人物の欠点ではなくて、書きようによっては美点にしかならない(乗り越えようとする姿が美しい、という)。残念ながら現実の世界では美点というわけにはいかないことの方が多いのですが、物語の中では(物語の中だからこそ)、むしろその姿は更なるスーパーぶりに見えて、ち、なんだよ、かっこいいだけじゃん、って思ってしまうかもしれません。
もし、この探偵役視点で物語が書かれていたら、ちょっとイラッとする部分があったかも……どうせあなたはスーパーマンよね、って(何しろピアニストなのに、ある事情で司法関係にむっちゃ詳しい)。

そう、探偵役って、時々俯瞰の立場に立ちすぎて、自分は何も「手を汚さず」、かっこいいことだけ言って、しかもその能力ときたら妙にピカピカ光る……そんな探偵に感情移入はできない、というより、何だかイラッとする、ってことになったりするんですよね。……いや、そもそも探偵って感情移入されるものではないのでしょう。
そこで必要なのが、ワトソン君なのですよね!
いや、ホームズのワトソンは「道化役」ではなくて、あれはあれでかっこいい役回りですけれど。
(私は最近の映画のワトソン君の立ち位置が結構気に入っています。エキセントリックなホームズも)

こちらのシリーズでは、主人公(視点)は探偵以外の音楽家で、音楽の部分では悩んでいたり、それぞれ色んな立場で事件に巻き込まれて困っていたり。つまり、事件以外の部分では、音楽とも真剣に向かい合わなければならなくて、その分音楽の描写に無茶苦茶力が入っているのです(いや、ちょっと入り過ぎで全部読んでいられないのですけれど)。
ある意味では青春スポ根(いや音楽根か)、語り手のキャラ=主人公にとっては成長もの、と言えるのかもしれません。
そう、彼らが立派にワトソン役を務めているのです。

つまり。
「職業的に刑事でも探偵でもない人物が、行く先々でそんなに事件に巻き込まれるものか」という点はさておいて、ミステリ+青春音楽物語、という図式で何かを補い合っている作品、と言えるのかもしれません。
いわゆる多重構造ですね。一見別々のものをコラボさせる。どんな業界でもこの「コラボ」「化学反応」が今はブームなのかも。組み合わせの妙ですね。

じゃ、うちのは。
ミステリもどき(えぇ、あくまでも「なんちゃってミステリ」です)+主人公の人生物語、この2つがコラボする話、かな。むしろ真の人生の中に、彼がたまたま探偵なので事件が絡むだけ、なのかもしれません。
そういう意味では、まったく同じ作りの【奇跡を売る店】シリーズ。血の繋がらない(しかも性格も可愛くない)病気の子どもを育てている主人公。もともと小児科医で、患者の親とできちゃったため婚約者と別れて、医者もやめて、寺に居候しながら元患者の子どもを育てているというへんちくりんな人生。ショウパブのホールをしているけれど、ついでに昼間はたまたま失踪した叔父が残した探偵事務所で留守番をしているから、事件が持ち込まれる(いや、あれは石屋の婆さんのせいか……)。

考えてみれば、ミステリ・探偵ものは、事件が起こってそれを解決する(それはどんな物語も同じなのかもしれませんが)、というお約束があるので、どこかでステレオタイプになってしまいそう。
ステレオタイプ・王道って、実はやっぱり面白いし、笑えるし、泣けるんですよね。捻っても捻っても、王道には勝てない。だから、本当はステレオタイプでいいのだけれど、書いている方としてはどうしても捻りが欲しい。
だから書き手は一生懸命考えるのかも。「オリジナリティが欲しい!」と。でも、それさえもステレオタイプになっていく今日この頃、実は突飛なことを書くよりも、真面目にわが愛する「探偵」を書きこんでいく、物語の中で動かしていくことが一番大事なんですよね。動いてこそ、周囲の人間にもまれてこそ、キャラは生きていく。

……こうして、感情移入相手ではない探偵役に厚みを持たせる試みは、果てしなく続くのであった。

Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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【物語を遊ぼう】19.果てしない物語~『もののけ姫』に学ぶ解決できない謎~ 

今回のテーマは、宮崎駿監督の一言から始めます。
『もののけ姫』のメイキングの番組の中で、だったと思います。既に『もののけ姫』は公開されていたのですが、そのインタビューの中で「自分が何を作ったのか、まだ総括できていない」と仰ったのです。

その時、妙に安心したのを覚えています。そう言えば、宮崎監督はプロットも立てずに書き始めるのだとか。しかも『もののけ姫』では、書き終わっても何を書いたのか(作ったのか)よく分からんと。
宮崎駿作品(ジブリ作品)は、多かれ少なかれハッピーエンドとは言えない要素を含んでいるような気がするのですが、それでも、多くの作品は、起こった事件・出来事の解決はついて、主人公たちは新たな一歩を踏み出していく、または平和な日常を取り戻すという形にまとめられていると思うのです。

でも『もののけ姫』は作られた監督もよく分からんくらいだから、見る方も、何だかモヤモヤが残ったまま観終わった。
私の友人は「怖いから見たくない」と。(ん? 乙事主様が?)
でも、このモヤモヤ=嫌い、ではなくて、「もう1回観たい」「ものすごく気になる」「いや、ものすごく好きかも」「私もこういうことを常々感じている」「私が頭の中に描いている世界はこれと一緒だ」……だったのです。

ジブリの作品はそれぞれに世界があってかなり良いと思うのですが、以前にも書いたように私が一番好きなのは『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』。
『ナウシカ』は漫画の方もいいのだけれど(というのか、漫画の方はどこか『もののけ姫』に繋がっていく世界を感じる)、映画として切り取った部分はよくできていて、しかも映画館で宮崎アニメを観た最初の作品だったので、衝撃が強かったというのがあります。え、と、映画館で馬鹿笑いした後(犬のホームズの話と2本立てだったのです)、馬鹿泣きしていたことは以前にも書きましたっけ。多感な年頃だったので、本当にものすごく感動したのです。多分、台詞を空で言えるくらい何度も観た。最高に好きなシーンは、ナウシカが腐海のお化けカビの胞子を集めて研究している部屋。

一方の『もののけ姫』はかなりトウが立ってから観た作品。でも、先ほども書きましたが、「ものすごく好きかも」なのです。
これについては、先日アップしたミステリー・探偵ものとは真逆の「物語の造り」だなぁと思うわけです。

ミステリーは解決してなんぼです。それがお約束であり、最低限のルールです。もしも探偵自身が犯人であっても(これも実は反則技だと思うけれど……これについては、どんでん返しというよりも、何だか後味が悪い、と思うのは私だけ?)、まだ許そうと思うけれど、探偵もしくは探偵役が「この事件解決できませんでした!」って終わったら、コメントを下さった八少女夕さんの仰る通り、私も暴れます。2時間ドラマならちゃぶ台ひっくり返して、「私の2時間を返せ!」です。

でも『もののけ姫』は「解決できない」「解決には何の興味もない」物語なのです。
ただ、「救いがない」とはちょっと違う。「世界の構造とはこういうものだ」「神とは善悪でも是非でもない、そこにある」という、すごく当たり前のことを描いているように思う。これが救いがないということだ、と言われたらそれまでだけど、最近流行の「ありのまま」の世界は「救い」とかとは無縁だとも思うのです。
キリストの神様は善悪と罪に対する悔い改めを求めます。それが宗教の当たり前の命題です。悔い改めないと救われない、ということになっているようです。
でもこの世界は「自然(じねん)」なのです。日本に一神教が入ってきたとき、Godを神と訳しちゃったので混乱しているような気がしますが、西洋的「神」と原始的「カミ」は別物ですよね。
そもそも日本だけでなく多くの国々に原始からあった「世界の成り立ち」についての考えは「ただそこにある」、です。

(追記)
本居宣長いわく。
「さて凡て迦微(カミ)とは、
古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、
其(ソ)を祀(マツ)れる社に坐(ス)御(ミ)霊(タマ)をも申し、
又人はさらにも云(ハ)ず、
鳥(トリ)獣(ケモノ)木草のたぐひ海山など、
其余何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、
可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云なり」

広辞苑でも、神の定義については
「①人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることの できぬ能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖 し、また信仰の対象とするもの。
②日本の神話に登場する人格神。
③最高の支配者。天皇。
④神社などに奉祀される霊。
⑤人間に危害を及ぼし、怖れられているもの。
 イ、雷。なるかみ。
 ロ、虎・狼・蛇など。
⑥キリスト教で、宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者。上帝。」
キリスト教の「神」は⑥なのですね。
(追記終わり)

例えば、エボシの「神殺し」。何でそんな罰当たりなことをするんだ、だから腕を喰われちゃったんだ、と思うかもしれませんが、多分作り手の宮崎監督はその「神殺し」という行為を「悪」とは位置づけていないはず。
身を守る手段を持たない「人間」が、自然という大きな存在と闘う、ある意味では必死の行為だったかもしれません。観るほうがここに善悪を意味づけたら、きっとこの物語の値打ちは無くなってしまう。

シシ神の造形がまた素晴らしい。神は生であり死であり、善とか悪とは無縁だという感覚。人間にとっては(あるいはあの物語の中では他のあらゆる生き物にとっては)、ある側面からは(ある立場からは)「善きもの」であるし、また別の立場からは「悪しきもの」であるし、正直なところ、善悪や白黒はどうでもいい、という感じ。
まさに「奇しきもの」「稀なる力を持つもの」は全て「神」と呼んどこう、と。

日本を始め、様々な国の原始的な宗教は、「(一応)善きもの」と共に、同じくらい大切に「(一応)悪しきもの」を祀っているのですよね。祟りを成すものもちゃんとお祀りするのです。
その根源には梅原猛先生が『隠された十字架』で示されたように「祟りませんように~」ってのがあるとしても、「悪しきもの、災いをもたらすもの、でも何だか分からないけれどすごい力を持つもの、自分にとっては有難くないものだけれど、でもやっぱりすごいパワーを感じるから、取りあえずお祀りしておこうっと!」
津波がやってきてもまた海に出ていく、それは海が「怖いもの」であると同時に「豊かなものをもたらしてくれるから」。そこに善悪の感覚はないですよね。恐ろしい面も恵みをもたらしてくれる面も「有難い」。この両面性、多面性、複雑な同居が「かみ」なのでしょう。
だから、解決はないのです。
どこまで行っても、ただ「あるがままにある」。

「自然(じねん)」「あるがまま」の世界ではありますが、私はエボシの最後の一言、「みんな始めからやり直しだ。ここをいい村にしよう」は微かな光明、救いだと思いました。わが敬愛するカール・セーガン博士の『Science is a candle in the dark, demon-haunted world.』という言葉と同じ。
カールセーガン本

え。救いは求めていないんじゃなかったんだっけ?
いえ、救いはやっぱり物語としては欲しいのですけれど、「救い」としてはっきりしていなくてもいいかな。いや、救われなくても仕方ないかなという気もするし、でもやっぱり最後は救われる物語を書きたいとも思うし、書き手のそういう二面性自体が「解決できない」んです。

というわけで?、私にとっての真シリーズはまさしく『もののけ姫』。
いえ、真がサンと同じように「丸まって寝る」からではありません^^;(丸まって寝るけれどね。これは自然に「身を守る」体勢をとっているから)
そもそも、何も解決しない物語なのです。東洋的自然(じねん)の権化=真と、西洋的キリスト教的良心の権化=ジョルジョ(竹流)とは、あれほどにお互いを求め合っても、最後は相容れない立ち位置であることを暴露して終わっちゃいますし(いや、求め合う心は否定していません、それどころか、一方の命が失われるだけで、彼らの想いはハッピーエンドだったのかもしれません)、わたし的にはハッピーでもアンハッピーでもない、其々の人生を精一杯生きた、というイメージしかありません。

『もののけ姫』でもサンは「アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない」と言っているし、アシタカは「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう」と言ってるし、それでいいんだか、なんだか、分かったような分からんような。結局は相容れないのね、とも取れるけれど、ただ「命ある限りそれぞれの生を、それぞれの場所で生きるしかない」ということのなのかも。

ちなみに真シリーズは『人魚姫』の焼き直しなのです。
人魚姫には一言物申したい。「お魚の王子はおらんかったんか(身の程、身の丈の恋もあったんじゃないの)」って……同じことを真にも言いたい。で、結果的に、無理しちゃって、恋にも破れて、泡になっちゃう。
彼女が幸せだったのかどうか、そこには何の答えもない。でもアンデルセンの原作の最後には「神様に召されて幸せだった」的なラストがくっついている。え~? そうなの~?
いや、でも何かにチャレンジした人生は、ある意味「確かに生きた」のかも。

もうひとつ、大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラの人生なんて、『源氏物語』の焼き直し。
あの物語も、華やかなりし人生の後半の落ちぶれようが(現実の権勢はあっても)何とも言えず、私のツボなんです。そんな物語をモデルにされちゃった竹流=ジョルジョが幸せだったかどうかは分からないけれど、何はともあれ、すごい人生だったと褒めてあげたい。

結局彼らの人生は、探偵物語のようには謎を解決できず、果てしない物語なのです。

ということで……【清明の雪】の和尚さんに最後は任せましょうか。
「正しいかどうかは問題にはなっておりませんでしての。そもそも正しいとは誰に決めることができるのでしょうかな。誰かにとって正しいことが、他の者にとっては正しくはない。今正しいと思われておることが、百年先には大きな間違いでありましょう。しかし、いずれにしても道を歩き出したものは、自ら責任を取るのでございます。大和どの、人は、人とも物とも、出会うべき運命というものがあるわけではございません。出会ってからこそ、運命も拓けるのでございます。この本堂の仏具たちも、あなたに出会い、あなたの手により修復という運命を得たのでございますよ。運命には善いも悪いもございません。善くもあり悪くもある、正しくもあり、間違いでもある」

あるいは、長谷川平蔵に任せましょうか。
鬼平
「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふ、ふふ・・・・・これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」
(池波先生、私、あの世に行ったあかつきには、絶対先生をお探しします。鬼平の最終話の続きを聞かせてくださいね!)

おこがましいけれど、私も【海に落ちる雨】を書き終えた時、まさしく「私って何を書いちゃったんだろ?」と思いました。だから一言。
「何を書こうとしているのか、書いても書いても総括できそうにありません」
(えっと、単に計画性がないのと、総括する能力がないだけなんじゃ……(@_@))

Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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【物語を遊ぼう】18-3.探偵役の造形~探偵は風~ 

【物語を遊ぼう】18-2.キャラの魅力~探偵役の造形~に続く話題。
そうそう、もうカテゴリ【雑記・小説】と【物語を遊ぼう】の違いが自分でもわからなくなってきちゃいました。なので、本当に適当です。小説についてのいろんな話題がどちらにもあれこれ詰まっていますので、よろしければカテゴリからお楽しみくださいね。

今回、探偵役の造形について、その2を書くに至ったきっかけは……ケーブルテレビで市川昆監督・石坂浩二主演の横溝正史シリーズをずっとやっていまして、ことごとく見てしまったのですね。そこで石坂浩二さんのインタビューコーナーがあって、探偵役(つまりここでは金田一耕助)のキャラ像について語られていたのです。

原作を読んだのはもう○十年前。そこに描かれていた金田一耕助像についてはちょっと記憶が曖昧で、その後に見た映画やドラマのイメージに引きずられちゃっているかもしれません。そもそも石坂浩二さんは7代目くらいの金田一耕助で、それまでは結構二枚目で、あんなマントにぼさぼさ頭の金田一ではなかったそうで。
そこで石坂浩二さんが金田一のキャライメージについて市川昆監督に尋ねたところ、「金田一耕助は風なんだよ」。

風? つまり探偵役は事件のドロドロに染まらず、通り過ぎるだけという立ち位置、って意味のようです。金田一は物語の主人公ではなく、主人公はあくまでもドロドロを生み出したり、どろどろに巻き込まれている○○家の人々。だから彼の立ち位置は(外見はともかく)「風」なんです。

そもそも、金田一は桃さん(桃太郎侍)よろしく「しまった!」ってな感じで、全然事件を未然に防げていないし、大概犯人は毒をあおったり飛び下りたりあれこれで死んじゃうし。職業的には探偵としては役に立っていないみたいに見えることもあります。もちろん、物語の最後に謎解きはしてくるので小説的には十分役にたっていますが、大体主要人物は死んじゃっていますしね。
でも、彼が主人公ではないと言われると、あ、そうか、と納得です。

金田一は○○家の人たちに感情移入をすることなく、むしろ事件の成り行きの方に興味を覚えているようで、自分が事件に巻き込まれたり「誰かを守らなければ!」というヒーロー的義務も持たない。まるで読者と同じ立場ですよね。そういう立ち位置で、最後は風のように去っていくのです。
市川昆監督の映画の最後では、いつも金田一は経費だけを受け取り(謝礼は断る)、見送りの人を躱して(見送りされるのは苦手なので)、列車にこっそり飛び乗って去っていってしまう。「不思議な人だったね」と周りの人に好印象を残して……

あ、そうか。探偵小説における探偵の役割はやっぱり「事件の語り部」であり、自分は「事件に振り回されない」ってことなんだな、としみじみ。いや、前回の結論とは少し違う方向ではありますが。
そもそも○○家の事情なんて、もうそんな事情の家がどこにあるんだろってくらいすごい世界だけれど、そのどろどろを見せられた後でも映画の印象が陰湿ではないのは、金田一の「風」的存在感のおかげ、なんだろな。

この○○家。これは日本の映画ならではのドロドロぶりだそうで、海外の映画ではどちらかというとつながりは「横」。恋人とか職場関係とか、家族にしてもせいぜい2世代ほどの世界。でもこの百年単位の怨念渦巻く血族の「縦」のドロドロは、さすが日本映画というおどろおどろしさなのだと……海外の映画でも血脈ドロドロは無いわけではないと思うけれど、そうなると大体○○王家みたいな話になるのかな? やっぱり歴史のあるところにドロドロが生まれるのか……

で、わが身を振り返る。うちの探偵、事件に巻き込まれ過ぎだなぁ……気がついたら渦中も渦中、自分が事件の引き金だったり、感情的にも巻き込まれまくり。猫の迷探偵に至っては、自分で事件を作ったりしてるし^^;
ふむ、探偵小説って難しいものです。

ところで、昔の映画って、本当によく首が転がるので、「制作者の意図により敢えて当時の作品のまま放送いたします」ってコメントが出るのですけれど、確かに、現実とファンタジーの区別がつかない子どもらには見せられんなぁ~と思った次第。何しろ最近は映像にリアリズムを求めすぎていますから。ただあそこまで「作り物」って印象が強いと、それほど「見ちゃいけない!」感は強くなくて、それでも作品が浮き上がらないのは、人の心の描写部分にはちゃんとリアルがあるからなのかもしれません。

Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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