08 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨78] 第16章 任侠の男(1) / R15 

人物紹介も無事に終わったので、【海に落ちる雨】第3節のスタートです。

失踪した真の同居人・大和竹流。彼の行方を追いかけると、3年半前に政財界の大物を脅迫して自殺したという雑誌記者・新津圭一の事件に行きついた。その男は、真の恋人(?)・深雪と、以前不倫関係にあった。
真は竹流のマンションに戻り、竹流と一緒に姿を消していた寺崎昂司に会う。彼は怪我をしていたが、傷つけたのは楢崎志穂。彼女は新津の後輩で、寺崎が自分の「姉を殺した」と思っているようだった。
志穂に誘われ、ホテルでいくらかの情報を知らされた真は、いきなりヤクザに襲われる……
寺崎昂司は何かを探しに竹流のマンションに現れたのか。もしかすると、室井涼子が竹流から預かっていたというビデオ? ビデオには新津圭一の自殺が他殺であった証拠とともに、新津の娘・千惠子が受けた残酷な出来事が録画されていた。
竹流はどこにいるのか? 自らの意志で姿を消したのか、あるいは何か良くない外力によるのか。
いよいよ、物語は解決編へ移っていきます。
(超いい加減なあらすじ……ものすごい端折り方となっていますが、あまり気にしなくても大丈夫です。まるで、2時間ドラマの最後の30分だけで筋が分かる、みたいな世界に……)

さて、第3節から、ついにあの人が出てきます。
真の事務所の秘書・柏木美和の恋人、仁道組組長の息子・北条仁。
どうぞお楽しみください。





 気が付いたのは、鋭い痛みが胸に走ったからだった。
 目を開けたはずだが、視野に広がるのは、輪郭が溶け合った複雑な幾何学模様だけだった。状況を把握しようと頭が回転し始めたところを、いきなり後ろからぐいと引っ張られる。今度は後頭部と首が引き剥がされるような、受動的で激烈な痛みが走った。

 首を上げた形になると、突然、曖昧だった視界のど真ん中に男のでかい顔が現れて、真を覗き込んでいた。顎から左頬にかけて大きな傷があって、それが男の顔を余計にでかく見せている。

 自分がどういう格好しているのか、頭がまともに働くまでは分からなかった。
 どうやら後ろ手に縛られて、中途半端に上半身が吊り上げられているようだ。足と手の感覚を確かめ、あちこちの痛みはともかく、どこも削り落とされてはいないことを、一つ一つの指を動かしながら確認した。恐怖を飲み込むための手段だった。

 もっとも動かしていると思っているだけで、実際はどのくらい動いていたのかは分らない。しかも、なくなったはずの足の感触はちゃんとあるのだと聞いたことがある。そんなことを一瞬のうちに考えるとは、断末魔という状態だからだろうか。
 動かそうとした指は硬く、痺れているようだった。

「気が付いたか」
 左右の頬骨と顎の間に指が喰い込んできた。顎が外れそうなほど強い力だ。しゃべっているのは、真の頬を掴んでいる男ではなさそうだった。目の前の傷のある男は、ただにやにやと笑っている。
「俺の言うことが聞こえるか」

 返事をしないでいると、いきなり横面を張り倒された。
 返事をしたくなくて答えなかったのではなく、顎を抑え込まれた形でしゃべれるわけがなかった。体が浮いたと思った途端、そのまま落下し、身体の左半分に骨まで到達するほどの激烈な衝撃が来た。
 
 床に叩き付けられた大きな音は、振動となって鼓膜から骨にひびいた届いた。椅子か何かに縛り付けられているようで、転がったのは自分の身体だけではないように感じる。動けない分、床からの衝撃は反動となって余計に大きく響いた。
 幸い、その衝撃で多少は視野がはっきりしたような気がした。
 だが、身体は奇妙な痺れを伴っていて、思うようにならない。

「ちゃんと返事しないと聞こえねえんだよ」
 返事をするもしないも、頭は重くはっきりせず、声を出すこともできなかった。そのまま、身体はもう一度元の位置に戻される。

 真の前には、もう一人、男がいた。顔に傷はないが、浅黒い肌で、目だけが異様に光って見えている。もっとも、自分の目が色を認識できているか、今一つわからない。
「ちょっと聞きたいことがあるんだがな」
 目の前の男の口が動いていた。

「ビデオはどこにある? 絵も、だ」
「何の、ことだ」
 やっと声が出た。だが、自分の声かどうか分らないほど、擦れて頼りがない。
「俺は気が短いんだ。怒らせないでくれよな」

 体がしっかりしない。どこかがはっきりしてくると、別の部分が曖昧になり、頭痛が激しくなった。はっきりしてきたと思った視野も、単に輪郭が分るようになっただけで、目の前の男の顔は二重にぶれている。
 何か薬を仕込まれたのだろうと、頭の半分で考えていたが、考えはすぐにかき混ぜられて、前後関係はぐちゃぐちゃになる。理屈を並べることは不可能だった。

「あの男から、何か預かっているはずだな」
 こいつらは何を言っているのか。何しろ、真には理解できないことばかりだったので、取り敢えず、意識を落とさないためだけに答えた。
「知らない」

 声ががらがらと咽で嫌な痛みを伴っていた。首筋に冷たいものを感じる。視界の隅に何かが光っている。ナイフのようだった。
「あーあ、また傷が増えるねえ。あと何本くらい傷がついたら死んじゃうのかね」
 後ろからナイフを首に当てている男が、ねっとりとした楽しむような声で言った。

「首は後にしろ」
 目の前の男が命令口調で言い、それを受けて真の耳元に気味の悪い声と息がかかった。
 言葉はよく理解できなかったが、そのまま冷たい感触は胸から腹へと滑ってくる。殴られたのか、単に薬のせいか、十分に目が開けられなかった。

「痛いのは辛いねぇ。どこから切る? 指にする? 耳がいいかな? それとも鼻?」
 ひたひたと、ナイフは単語を追いかけるように身体の部分に触れていく。

「お前ら、誰に頼まれたんだ?」
 途端に、いきなり腹を蹴り上げられた。かわすのは勿論無理だが、腹に力を入れる隙さえなかった。
 一気に、吐き気が胃から食道まで上がってくる。

「誰がお前に質問することを許したんだ? え?」
 もう一度髪の毛を摑まれて、後ろへ引っ張られる。
「お前が喋らなくてもな、お前のこんな姿を見たら、ベラベラ喋る奴がいるかもなあ」
 いかにも汚らわしい息が顔に吐きかけられた。

 真は一瞬に頭がカッとなったような気がした。
「彼は、どこだ」
 今までになく、はっきりとした声が出た気がした。それを聞いて、目の前にいる傷のない男がいやらしく笑った。

「会いたい、会いたいって身体が言ってんだろう」
 傷のあるほうが、首の辺りでいやらしい息遣いをしているのがわかった。唐突に、男の持つナイフが真のスラックスのベルトを裂いた。体にその振動が伝わり、ぐらつく。

「毎日抱かれてやってたのか? さぞかし、寂しいんだろうなあ、ここは」
 何をくだらないこと言ってるんだ、と思った途端、前にいる男が、真の股間に手を突っ込んで、いきなり真のものをぐっと掴んだ。あまりの痛みに真は一瞬叫びを上げた。
 加減を分かってやっているのか、彼の出せる力の限界なのか、あともう少し力が加わっていたら睾丸が潰されている。男が満足そうに笑った。

「こいつは、痛いのもよぉく知ってるだろうなぁ」
 目の前の男は、真の性器を握る指先に力を入れながら、後ろの男に顎で何かを命じたように見えた。
 ナイフは刃を下にして、胸をゆっくり舐めるように降りていく。刃は臍から下にくると、皮膚をゆっくりと裂いていた。

 恐怖というわけではないはずだ。自分に言い聞かせたが、じっとりと冷たい汗が噴き出している。代わりに喉の奥はカラカラになっていた。
「突っ込まれるだけならこいつはいらねぇな。切り取っておいてやろうか。後ろの穴さえ使えたら十分だろう?」

 不意に背中に寒気が走った。こいつらは酔狂で本当にやってしまう人種だ。そう思うと、腹の奥から吐き気がこみ上げてきた。何より、縛られた状況では、事態を好転させるきっかけが掴めない。
「ビデオや絵のことなど聞いていない。彼から預かったものも、何もない」

 案の定、声が掠れて情けなかった。だが、少なくとも口を動かしているうちは、最低限、強がっていられることに気が付いた。

「おまえの使い道はひとつじゃないと言ったろう?」
「だから、そのようにすればいい。つまらないことを抜かしていないで、お前らを雇ったやつのところに連れて行け」
「おまえ、自分の立場が分っていないようだな」

 言葉が終わらないうちに、また椅子ごと吹っ飛ばされた。腹に食い込んできた堅い靴の勢いに、思わず嘔吐した。血のにおいがしていた。

「やくざにもな、そういう手合いは多いんだよ。お前の身体をそいつらに預けてやってもいいんだぜ。シャブ漬けにされて、さんざんマワサれて、死ぬまでケツの穴に突っ込まれるぜ。あるいはソ連行きの船にでも乗せてやるか。あっちの連中のものはでかいぞ」
「お前さんの身体じゃあ、半日もつかねぇ」

 ひーっとどちらかの男が笑った。多分、傷のない下品な男の方だろう。もっとも、どっちも下品であることには変わりはない。
 こいつらが、腹が立てば理由などなくても他人を痛めつけることは知っていた。
 頭はようやく回り始めてきたが、まだこの事態から抜け出すための妙案は浮かばない。

 試しに、椅子に縛り付けられたままの手首を捻ってみたが、案の定、余計に喰い込んでくるだけだった。時間を稼いだところで何もできないと気が付くと、身体のあらゆる汗腺が冷たい汗を搾り出した。だが、口は恐怖を認めることを拒否している。

 これが彼に繋がる近道なら、それもいいと、考えを切り替えようと思った。
 しかし、男たちは全ての事情を一気に放り出す残酷さを持っていた。

 髪の毛をつかまれて顔を上げさせられると、真正面に傷のあるほうの男の目があった。口は笑っているように見えたが、目には感情がなかった。

 狂っている、と真は思った。傷のないほうの男の顔はその向こうにあったが、残忍な目つきは同じだった。傷のある男はナイフの刃を舐めて、それで真の頬をぺたぺたと音を立てて叩いた。

 実際には、この男たちにとって、真が絵やビデオの在り処を知っていようといまいと、どうでもよかったのかもしれない。
 ふと身体が浮いたように感じた途端、腹に堅いものが食い込んできて、そのまま床に叩きつけられた。
 背中に亀の甲羅のようにへばりついていた堅い拘束から剥がされたが、手は後ろで縛られたままだった。

 身体を折り曲げることができるようになると、何とか自分自身を庇えるようになったが、男たちの攻撃も容易になった。
 傷のない男が、いかにも改造しましたというような安物の玩具のような拳銃を、傷のあるほうの男に投げて寄越した。傷のある男はひっひっとひきつった蛙のような笑い声をあげてシリンダーを回す。

 中から幾つかの薬莢を抜き出して床に捨てる音が、ひとつ、ひとつ、まさに真の耳の傍で、獲物をいたぶるのを面白がるように、時間をかけて響いた。
 三つ、音がゆっくりと響いた後で、傷のない男の声が頭の上から降ってきた。静かなのに、奥底に残酷な興奮を秘めた声だった。

「映画じゃないからな、上手く弾のないところに当たるとは限らない」
 こいつらは薬をやっている、と気が付いたのはそのときだった。いや、傷のない男の方は、もしかしたら素なのかもしれない。

 撃鉄の上がる音が、いやな尾を引いて頭の中に伝わってきた。傷のある男は、弾を半分捨てた拳銃を傷のない男に渡して、気味の悪い声を立てながら真の頭を仰向けにして床に押さえつけた。

 目の前に銃口があった。口の中に血の臭いが湧きあがってきた。ゆっくりと、傷のない男は拳銃を持ったまま下がっていき、一見冷淡なだけの焦点の定まらないような目で、何の躊躇いもなく引金を引いた。
 思わず目を閉じた。

 左耳元に激しい音と痛みが走った。
 ひーっという高く息を吸い込む音と共に、真の頭を押さえている手が揺れた。
「二分の一は分が悪いねぇ」

 そう言って、ひっひっとまだ笑っている。
 真は息を吐き出した。胸が激しく上下しているのがわかる。
 まだ頭の中には、耳をかすった銃弾の振動が残っている。

「次はどうかな」
 またシリンダーの回る音が聞こえた。
「今度は耳じゃなくて、足にするか? それとも手か」
「あそこにしちゃえ」
 興奮した男の息が頭のすぐ上から降ってきた。

 手。
 耳に飛び込んできた短い単語は、真の頭の中を突き抜けた。

 こいつらなのか。こんなふうに面白がって竹流の右手を抉った下衆どもは。
 思わずかっとなって頭の上を睨み付けた途端、傷のある男が面白そうに笑った。下品な笑いだった。
「いい目だこと」

 そう言うと、男はがっしりと押さえたままの真の鼻を舐めた。吐き気が上がってきた。身体は痺れていて、舌からさえも上手く逃げることができない。何か言ってやろうした唇にも、男の舌が触れ、卑猥な音をたてて舐め始めた。

「この下衆ども」
 何か言わなければ気を失いそうだったのだが、真の言葉は男たちを興奮させただけだった。
 足下に立っていた男がいきなり真のスラックスを膝まで下げた。それから、真の目の前でもう一度シリンダーを回す。
 目は真を見ている。両端の上がった唇を、舌が舐めている。真は息を飲み込んだ。

 六分の三が六分の二になったのだから、分はいいはずだと言い聞かせる。命さえ助かれば、耳が片方吹っ飛んでも、片腕か片足になっても、這ってでも彼の所に行きついてやる。

 傷のない男が一旦、銃を構える。銃口がこんなにでかいとは思わなかったと、真正面の暗い穴を見つめる。
 男はゆっくりと屈み、銃口を真の口に突っ込む。真は観念して目を閉じる。
 せめて気が紛れるかと、手首に食い込む縄を捻ってみるが、やはり何の効果もなかった。
 叫びだしそうになっていたのに、もう声が出ない。

 だが、ついに撃つのかと思っていたのに、何の動きもなかった。
 目を開けると、傷のある男の目と口が笑っている。傷のない方の男はゆっくりと真の口から銃口を引き抜き、中から一発の薬莢を取り出す。
 真の視線を確かめながら、薬莢を開けて、中から火薬を出して手の平に載せた。

 ひーっと、また頭の上の傷のある男が笑った。
「少しにしないと死んじゃうよ」
 始め、傷のない男は真の鼻から火薬を吸わせようとしたが、思い立ったように笑って、真の下着を下げた。
 頭の上の男は面白そうに笑い転げるような声を上げた。

 何をする気かと思っていると、頭の上の傷のある男は真の理解不能の頭を助けるように、いかにも楽しそうに言った。
「ヤクよりもよっぽど効くんだよぉ。尻の穴に塗ってやるってよ。興奮して自分からケツを振りたくなるぜ。でも、ちょっとやりすぎると、死んじゃうんだよ」

 息が吸えなかった。傷のある男は今度は真の腰を抑え、傷のない男が真の足を広げさせて、指で尻に触れようとした。
 その途端、痺れて動かないと思っていた足が、この断末魔にようやく気が付いたとでもいうように、いきなり麻痺から解放された。
 火事場の馬鹿力とはまさにこのことだ。何の計画もなかったが、足は見事に男の身体を蹴り上げた。

「野郎」
 最も、得策だったとは限らない。男たちの興奮の火に油を注いだ可能性が高かった。
 彼らは、何かのきっかけを待っていたとでも言うように爆発した。

 いきなり、みぞおちが裂けたのではないかと思うほどの痛みが喰い込んできた。
 意識が飛びそうになる。
 それから何度も、堅く勢いのある攻撃が腹や背中に突き刺さった。蹴られているのだろうとは思ったが、もう目を開けて相手を見ることもできなかった。

 そのうち意識が朦朧とし始めた。相手が頭を殴り始めたら終わりだな、と考えていたが、解決方法は見当たらなかった。
 耳に激痛が走った。それが最後に感じた痛みだった。

 その後は痛みというよりも、身体も意識も膨れ上がるような感じだった。致命傷にならない程度に殴られてゆっくりと死ぬのはあまり気分のいいものじゃないなと考えていた。鼻と口の奥で鉄の臭いがしていた。意識が芝居の舞台のようなものならば、まさに緞帳が下りようとしている時だった。

 その時、突然、頭の後ろのほうで、異質な大きな音が響いた。大きい、と思ったのは、床から直接その振動を感じたからかもしれない。

「何だ、てめえ」
 突然男の怒鳴り声と、慌しい足音がいくつか交錯した。床についた耳の奥で、再び鼓膜が悲鳴を上げた。痛みが戻ってくる。

「そのまま」
 どすの利いた重い声は、聞き覚えがあった。しかし、身体を動かすこともできず、頭の上で起こっている出来事を確かめる術がなかった。ヤクザが他に何人いたのかはよくわからなかったが、今彼らが誰しも硬直しているのを感じる。突然に訪れた静寂は、しばらくの間、続いた。

 意識が定まらないまま、視界を確保する術もなかった。
 助かったのか、状況が悪くなったのかを確認する間もなく、真は誰かに身体を抱き起こされた。
「こうもと、さん」

 何を言うべきか、頭は意味のない回転を繰り返したが、結局何も出てこなかった。
『河本』が真を縛っている縄を手際よく解いた。

 多少視界が得られるようになったとき、さっきホテルで見かけた若いチンピラが、『河本』の背後から、震える手で銃を構えているのが視界の隅に入った。震えているのは自分のほうだったかもしれないが、今ひとつはっきりしなかった。

 しかし、真が叫びかけた瞬間には、チンピラの手から銃が吹き飛んでいた。
 チンピラは衝撃で後ろへ倒れた。すぐに、捜査員らしきスーツ姿の男が何人か、ヤクザを取り押える。

 真はチンピラの銃を弾き飛ばした何かが飛び出してきた方へ、視線を向けた。
 口の中で、お父さん、と言ったかもしれないが、声にはなっていなかったはずだと思った。父の視線は、真に厳しく突き刺さるようで、どこか淡々として、そして寂しげにも見えた。

スポンサーサイト

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨79] 第16章 任侠の男(2) 

【海に落ちる雨】第16章のその2です。
『河本』に助けられた真。なかなか自由に動けない現実があります。
何故か、竹流を探すことに対して、いちいち横やりが入るのです。多分、敵からも味方からも……
(今日は旅行記と2つ一緒にアップです(^^))





「息子さんに何も話してやらないつもりですか」
 始めに耳に届いた声は、まだ壁の向こうから聞こえているようだった。その問いかけには誰も答えない。
「あなたも、三十年も前の他人の失態の尻拭いを、喜んでしているわけではないでしょう。それとも八年ほど前のあなた自身の失態ですか。彼らが問題にしているのは、大きな金が動いていることですか。それとも戦時中に行われた『世界最大の非人間的実験』の報告書ですか」

 頭の上で語られている言葉の一つ一つが、意味を成していくのにはまだ時間が要りそうだった。
「現在起こっていることを話してやることができなくても、せめて過去の言い訳でもしてやったらどうですか。少なくとも、あなたの息子さんは、あなたにも母親にも捨てられたと思っているようですよ」

 話しているのが『河本』だということは何となく意識に入ってきた。返事をしないままの『河本』の話し相手の輪郭は、暈けたままだった。
「確かに、彼の母親は一時重い鉄のカーテンの向こうに連れ去られた。しかし、直ぐに壁のこちら側に戻って来ていた。何故、全てを捨てて迎えに行かなかったのですか。あなたにも、彼女にも、そして息子さんにも別の人生があったでしょうに。少なくとも、息子さんは因果な相手に出会うこともなく、こんな馬鹿な出来事に巻き込まれることもなかったはずです」

 淡々とした重い声がまだ続いていたが、もう一度意識が曖昧になり、言葉は遠のいて行った。何か大切なことを聞き逃したようで、ほんの少し焦りを覚えたが、頭が重くてどうしようもなかった。やがて、意識も身体もどろどろの海の中に沈んでいった。

 その次に正気を取り戻した時には、一気に眩しいほどの白い天井が視界に広がった。
 もっとも、焦点が合わない天井は、白い背景と、カーテンレールの鈍い銀が、暈けた輪郭で溶け合って、まともな形を網膜に結ばなかった。
 何よりも頭痛が堪えた。それに吐き気。身の置き所がないような浮遊感。焦点が定まり始めると、吐き気は倍増した。

「気分はどうですか」
『河本』の声が、低く落ち着き払って聞こえてきた。
「最低です」
 答えた真の声はガラガラで、ちゃんと音になっているのかどうかは不明だった。
「あなたには失望しました」
「あなたに認めてもらいたいなどとは思っていません」

 頭の中に、自分自身の物とは思えないくぐもった声が、不器用な反響を残した。やはり声が相手に届いていたかどうかわからない。
「どうするつもりだったのですか」
「放っておいて下されば、彼に会えた」

 真は目を閉じた。呆れたような『河本』の溜め息が耳に入りこんでくる。視覚はぼんやりしているのに、聴覚だけは随分とまともだ。
「しかし、その前に奴らはあなたを殺しかねませんでしたよ。それもひと思いになど殺してはくれない。死んだ方がましだと思うような方法で、とことんいたぶり尽くすというのが奴らのやり方です。そうでなくても、もう少し薬を仕込んで、あなたを面白いように扱う連中の中に放り込んでいたかもしれません。彼らに理屈がないのは知っているでしょうに。そうなれば、あなたは間違いなく生きてここにはいません」

 では、どうしろというのだ、と咽喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
 永遠にこの男とは利害が一致することはないのだ。何を言ってもまともに通じるわけがない。
「もう少しお休みください。どうせ、ろくなことは出来ません」

 だが、真が目を閉じた途端に、ドアの開く音がして、真は再び目を開けた。
 目つきの悪い男が入ってきた。ヤクザではなさそうだから、この手のタイプは警察関係だろう。
「困りますね、香月さん。これは警察の仕事だ」
「彼は被害者ですが」

『河本』は穏やかにやんわりと返した。刑事のほうはちらりと真を見て、それからどちらに、というわけでもなく言った。
「ひとつ間違えれば、女の死体の横で目が覚めたかも知れないんですよ」
 真はゆっくりと刑事の方へ首を回した。首を動かすと、頭の天辺から腰の辺りまで激烈な痛みが走り抜けたが、その痛みを表に出すことができなかった。神経と筋肉が繋がっていないような感覚だ。真はただ視界の中にぼんやりと刑事の顔を捉えていただけだった。

「おや、新宿の名探偵さんにも、推理できない不測の事態があるというわけですかな。女がね、あなたに暴行されたと言ってきたんですよ。証拠が必要なら、自分を調べてくれたら、あなたの精液が検出されるはずだと言いましてね」
 頭は回っていなかったが、女というのは楢崎志穂のことだ、というのは何故かすぐに理解できた。彼女と寝たことも覚えていた。志穂が本当にそう言ったのか、ヤクザがそう言ったのか、あるいは言わせたのか、既にどうでもいいような気分だった。

「まあ、もっとも、我々もヤクザの言うことを真に受けているわけではない。もちろん、マスコミなんぞはヤクザとべったり癒着していてもおかしくはない。あぁ、あの女が某雑誌社の記者だというのは知っていますからね。あるいは、女がヤクザに脅されていた可能性もあります。しかも、荒神組はあなたには恨みを持っているようでしたからね。しかし、これはあなたのためでもあるし、正直におっしゃってもらわないとね。女とは関係を持ったのですね。嘘をついても、女の言うとおりに調べればわかりますがね」

 ねっとりと執拗な言い回しに、真はひとつ息をついた。マスコミがヤクザと癒着している以上に、警察がヤクザと癒着しているということもある。
「認めます」
「合意の上で?」
 上から見下ろされると、あまり気分は良くないものだ。
「私の、勘違いでなければ、そのはずです」
「知り合ったばかりの女性と、いつもこのようにベッドを共にされるのですかな」

 皮肉の篭った嫌な口調だった。
「いいえ。それに、彼女とは初めて会ったわけでありません」
「それはそれは。いつもこのようにされているのだとしたら、ご忠告申し上げようと思っていましたが」
 刑事は、真にいずれ出頭してもらわなければならないと告げて、『河本』に一瞥の挨拶を投げかけて出て行った。今日のところは嫌味を言いに来ただけだったのかもしれない。

 そうか、あれは荒神組だったのか。確かに、そういうことなら納得もいく。
 彼らが経営するボッタクリバーの被害に遭った男が、何を間違えてか真の事務所に飛び込んできた事がある。場所を確認して、歌舞伎町警察の警官を連れて行った。そういうつまらないことでも、尾ひれ腹ひれ、ついでに背びれがつけば、真について面白くない感情も芽生えてくるのだろう。

 意外にも頭が回ってくるのを感じて、真はほっとした。殴られて零れ落ちてしまった記憶がないか、少しずつ確認する余裕もでてきた。しかし、記憶を辿るほどに、今度は感情の箍が緩み始めた。訳もなく、徐々に孤独感と悲壮感が襲ってくる。
 『河本』が側にいるのは分かっていたのに、いつの間にか天井の高さもカーテンレールの輪郭も失われていった。

「一瞬」
自分の口が何かを言いかけたのを感じて、真ははっとしたように口をつぐんだ。
「大和竹流の尻尾でも見えましたか?」
 真は皮肉を言っているのであろう『河本』の方を見た。だが、『河本』から感じたのは、むしろ慰めるような気配だった。

 そう思ったのはただの希望的観測だったかもしれない。やはり殴られてどこかおかしくなっているのだろう。『河本』はしばらく真の顔を見ていたが、やがて穏やかに言った。
「あなたは彼らが本当に彼の居場所を知っているとでも思ったのですか。知っていたとして、あなたの前に差し出してくれるとでも?」
『河本』の言うことがもっともだということは、漸く理解できた。無意識の行動のすべてが、何とか彼に繋がる道を探している。

「叔父は」
「私に遠慮することはありません。『お父上』はヤンキースです」
「何か、具合の悪いことが」
『河本』がさっき話をしていた相手は武史だろう。もっとも、先ほどの会話が現実のものか、夢の中のものか、本当のところははっきりしない。
「時候の挨拶でしょう。いずれにしてもあなたが気にすることではありません」

「あなたは、彼が本当は何をしに来たのか、御存じではないのですか?」
『河本』は感情のはっきりしない目を真のほうに向けた。
「彼とて、たまには息子の顔を見たいと思うこともあるでしょう」
「彼が時候の挨拶をしに来たとは思いません。僕の顔を見に来ることもあり得ない」
「お父上を疑っているのですか」

 真は暫く、その可能性について考えた。
 竹流は、誰も信じるな、と言った。誰も、と彼が言ったのは誰を指していたのだろう。もうすぐ竹流の叔父、彼を後継者にと思っている男がやってくる。あの男は、竹流をどう思っているのだろう。いつか必ず返してもらわなければならないと、そう言われていた。

 竹流の叔父の事を考えていると、急に不安になってきた。協力を拒んでいた竹流の仲間が、真に歩み寄りの姿勢を見せたのは、彼の叔父が出てきたと知ったからだ。彼らは、チェザーレ・ヴォルテラが一気に事をひっくり返す力を持っていることを知っている。

 真が身体を起こそうとすると、『河本』が真を支えた。
「まだ起き上がるのは無理でしょう」
「ここから出してください」
 そんなことを『河本』に頼むべきではないし、頼んでも仕方がないことは分かっていたのに、声に出してみたら、必死に懇願している自分に気が付いた。

「少なくとも数日は大人しくしていたほうがいい。これ以上痛めつけたら、身体が使いものにならなくなりますよ」
「構いません。彼を見つけたら」
 数日もこんなところでじっとしているわけにはいかない。
「彼の国のほうから『捜索隊』が出ているというではありませんか。任せたらどうなんですか」

 武史は、チェザーレが接触してきたら迷わずに会え、と言った。だが、それが良いこととは思えなかったし、何より、武史が会えと言った真意は、チェザーレが真の味方になるということとは、別のところにあるように思える。
「僕は、挨拶をしてもらっていません」
「私はあなたに貸しを作ったつもりですが」
 真は唇を噛みしめた。そうしなければ意識が飛びそうだった。
「分っています」
「これ以上、必要ですか」

 真は思わず『河本』を見つめた。一体、自分がどういう目で相手を見ていたのかは分らない。それについて、『河本』がどう思ったのかも分らない。しかし、『河本』は真を支えている腕に、幾分か力を込めた。
「仕方がありませんね。行き先をおっしゃってください。送らせましょう」
 そう言ってから、『河本』は僅かに溜息をついたように見えた。
「まったく、父親譲りの頑固さ、というのか、他人の忠告を聞き入れないというのか」
 その言葉に込められた気配にふと顔を上げたが、『河本』はいつもの淡々とした表情のままだった。

 真は『河本』に支えられて、何とか歩いて病室を出た。前に警察官が二人、立っている。
「相川真を本庁に連れて行くように頼まれている」
「では、私が」
 警察官の一人が手を貸そうとした。
「いや、いい。下で車を待って欲しい」

 二人の警察官は最敬礼をして、玄関のほうへ向かった。『河本』は真面目な顔のまま、真を支えてゆっくりと歩いていた。警察官の後姿が階段の方へ消えると、『河本』は玄関には遥かに遠いエレベーターの方へ向かった。
 エレベーターに乗り込むと、真を壁に凭れられるようにしてくれる。
「大丈夫ですか」
 真は頷き、改めて無表情の『河本』を見た。

「質問してもいいですか」
「どうぞ」
 エレベーターが下っていく振動が身体に伝わると、三半規管を介して嘔気がこみ上げてくる。真は酸っぱい胃液を飲み込みながら尋ねた。
「父とは、どういう知り合いなのですか」

『河本』は、例の一見一般人、という表情のまま答えた。
「彼は大学の二年上の先輩です。私が外交官として仕事をしていた時に、南米で再会しました」
 真は暫く『河本』を見つめていた。この男も澤田顕一郎と同じように、武史の過去を知る人間だったのか。
「では」
「あなたの母親と彼の経緯も知っています。しかし、同情するつもりはありません。相川武史は、もし本気であなたの母親を取り戻す気なら、それができたはずだと、そう思っています。一旦は手離したとしても」

『河本』は同情も哀れみも消し去った無表情のまま、淡々と続けた。
「彼には、確かに金も力もなかった。だがその気なら、あなたの母親が東から西ドイツに結婚という形で逃げてきたとき、さらえば済んだのです」
「結婚? その人は、西ドイツにいるのですか」
「相川武史は、彼女が結婚した相手を確認しているはずです。その男は随分と年上で、彼女を後妻にと迎えたようですが、何らかの政治的取引があったにしても、かの国では穏やかで人徳者であると言われていました。それを見て、彼女を失った勢いで、あのような世界に身を沈めた自分の選択を呪ったことでしょう。だが、引き返す道はあった」

 エレベーターの扉が開くと、『河本』は真を支えて一緒に降りた。
「しかし、結局相川武史は、彼女が選択した別の幸福を壊してでも奪い去る勇気を持たなかった。息子を側に置く勇気も」
『河本』の声には、相変わらず感情らしいものは込められていなかったが、武史に対する厭味の気配はなかった。

 母親を思い出し、会いたいと思う気持ちは湧いてこなかった。感情を持つための具体的なイメージを、全く描くことができなかったのだ。二人の悲恋に、どういう感情を当てはめればいいもかもわからなかった。
 だが、その結果である自分自身については、ただ惨めで哀れに思えた。どの時点からか、自分は、父にとっても母にとっても、存在を認識してもらえていなかったのだ。彼らが次の人生を選択する際に、息子の存在が鍵になることはなかった。
 それだけは確かなことに思えた。

 薬のせいなのか、怪我のせいなのか、足元が覚束ない。地面や床というものの感触が全くなかった。どこへ向かおうとしているのかも分らなくなっていた。しかし、じっと留まる場所とてない。

 病院の裏口では車が待っていた。雨に煙って視界は極めて悪かった。運転手は背の高いスーツ姿の、あまり特徴のないサラリーマン風の男で、車から降りてくると、迫り出した白い軒と黒い車の僅かな隙間から吹き込む雨を遮るために、大きな傘を広げた。
 真を後部座席に乗せると、『河本』は暫く運転手と何か話していたが、やがて病院の中に戻っていった。運転手は直ぐに運転席に座り、シートベルトを締めると、車をスタートさせた。

「どちらへお送りいたしましょうか」
 真は、身体を座席に預けた。
「河本さんは?」
「彼は後始末がありますので」

 真は、この足元もはっきりしない状況で一体誰を頼ればいいのか、懸命に考えていたが、何も思いつかない自分に焦りを感じた。いざとなった時、自分という人間はこんなにも頼る相手がいないのかと愕然とする。
「何時ですか?」
 外は、黒い雲と勢いのある雨に塗りつぶされて、朝なのか昼なのか、夕方なのか、少しも分らなかった。
「十一時です」
「朝の?」
 念のために確かめたくなるほどだった。だがこの視界の悪さは雲隠れするには丁度良さそうだった。電話がしたいというと、運転手が自動車電話を差し出した。真は素直に受け取った。

「先生、今どこだよ」
 事務所に電話をかけると、威勢のいい、しかしいくらか抑えたような賢二の声が飛び込んできた。『河本』の電話だから、事務所に掛けるのも安全だと思えた自分が奇妙だった。
「まだ誰か張りこんでいるのか」
「刑事か? 仕事になんないって追い出したよ。今も外にいるのかどうかは知らないけど。あのさ、北条さんが帰ってきて、直ぐにでも先生に会いたいって」

 北条仁。
 新宿に雑居ビルを幾つも持っている、表向き不動産会社の社長で、美和の恋人だ。簡単に言うとヤクザだが、本人の生まれは満州で、組長の北条東吾の実子ではない。北条仁の実の両親は満州で亡くなっている。父親は戦争中に亡くなり、母親は大戦直後、満州からの引き上げを待てずに病死した。満州で取り残された仁を、たまたま母親の看病をしていた中国人の看護師が助けてくれた。数年してから探しに来た北条東吾に見つけられなかったら、仁は中国人として生きていっていたかもしれない。北条東吾は、仁の父親の弟だった。東吾には息子はなく、娘は東京の空襲で亡くなっていた。

 ヤクザにしては性質が悪くないのは、北条一家に金があるからだった。その資金源は不動産と金融だが、もともと北条の一家は華族だったとも聞く。勿論、普通の不動産や金融で北条一家が悠々としていられるわけはないだろう。真もそこまでは追求したことはない。
 北条仁は現在、仕事でバンコクに行っていたはずだ。その間に美和と自分がどういうことになっていたのか、考えてみてさすがにちょっとぞっとしなくもなかった。

「田安さんの事で話があるって言えば分かるって」
 美和のことではないと分かって、どこかでほっとした。
「どこに連絡したらいい?」
「会社だって。番号言うぜ」
『河本』の電話に通話の記録が残ることについては、もう止むを得ないな、と思った。『河本』は真が仁道組などというヤクザと連絡を取り合っていたのを確認したら、どういう顔をするだろう。

 いや、あの顔のままだな、と真は一人納得した。それにそもそも、真の事務所は北条家の持ちビルにあるのだ。今更言い訳しても仕方がない。
 電話番号を聞いて、真は仁に連絡を入れた。右手で受話器を持っていることが辛くなって、左に変えた。
 北条仁は会社にいた。




次回、いよいよ、北条仁、初お目見えです。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨80] 第16章 任侠の男(3) 

*本日は、旅行記「鏝絵劇場」も一緒にアップしています(^^)

世界体操を見ていたら朝。途中寝ていたけれど……
美しいっていいですね。難しい技ができるということも大事だけれど、実は、倒立でぴしっと伸びた足先とか、力の入った腕の筋肉の力強さとか、躍動感とか、そういう端々に光るものを感じます。
内村くん、加藤くん、金・銀、おめでとう(*^_^*)
ちなみに私は腕の筋肉が好き(って何だか変態みたい……^^;)。
関係ないけれど、三味線でも、本当に上手い人は簡単な部分で本当に上手いんです。
(って、何だか分かりにくい表現だな)
実は、根本的に差がつくのは、難しい技の部分ではなくて、シンプルな基礎的な部分での完成度なのではないかと、確かに思います。

さて、【海に落ちる雨】第16章・その3です。
ちょっと痛めつけられてふらふらの真、頼る相手もいないと思っていたところに降ってわいたのが、事務所のあるビルのオーナー、北条仁。
すごく前ふりをしてしまったけれど、ご期待通りじゃなかったらごめんなさい^^;
そもそもこの話には「ただカッコいい男」は一人もいないので(女も同じですけれど)、半分目を閉じてもらった方がいいかもしれません……
そうそう、美和といちゃついていたことを忘れてませんよね、真くん。仁はそんなに甘い男ではありません。
真と仁のちょっと際どいやり取り、2人の関係や、周囲との事情が少し見えるようになっていると思います。
2回に分けてお届けいたします。

ちなみに、このシリーズの登場人物紹介はこちら→→【真シリーズ:登場人物紹介】





「お前、ややこしいことになってるらしいな」
 左耳が聞こえにくいことに、このとき初めて気が付いた。
「北条さん、いつバンコクから戻ったんですか?」
「昨日だ。お前、今どこにいる? 会えるか?」

 一体、この車でどこまで連れて行ってもらえばいいのか悩んだが、取り敢えず大久保町一丁目の交差点に運んでもらうことにした。電話はともかく、いくら何でも、ヤクザの家に横付けは拙いような気がしたのだ。
 それに今、北条仁は屋敷のある高円寺ではなく、事務所のある新宿にいるようだった。

 雨は一段と勢いを増してきた。同時に、身体が沈んでいくような重さに潰される。目を閉じると、意識が半分飛んだようになった。
 気が付くと、車は停まっていた。運転手が大きな傘を差し掛けて、真の座る後部座席のドアを開ける。ドアの側に仁が立っていた。

 朦朧とした真の意識の直ぐ先に、仁のしっかりとした長身の体躯が、雨の中でもくっきりと浮かび上がって見えていた。相変わらずヤクザには見えない色気のある目元だ。顎の張った厳つい顔は、仁がわざと作り上げてきたものだが、さすがに睨み付けられると、誰もが竦み上がるほどの迫力がある。

 仁は真を助けて、抱き起こすように車から降ろしてくれた。そのまま、運転手の差す傘を屋根にして、すぐ後ろに駐車している仁のボルボに移る。
 ボルボのドアが閉まっても、『河本』の運転手は仁が運転席に納まるまでそこに立っていた。ボルボが走り出して直ぐに、視界は全く怪しくなり、バックミラーの中の運転手も乗ってきた車も見えなくなった。

 身体は、倒してもらった助手席のシートで、わけも分からず壊れそうになっている。
「とにかく、親父のところに行こう。大変だったな」
「どうして?」
「馬鹿たれ。俺の耳に、荒神組の奴らがお前を締め上げるって噂が、届かなかったと思うか?」

 仁のいかつく大きな手が額にあたったとき、何故かほっとした。美和の事は、この件が終わるまで目を瞑っていてもらおうと思った。
 仁がさっきの車の件を何も聞かないのは、運転手と仁が何か会話を交わしたからなのか。確認しようと思ったが、半分どうでもいい気分だった。仁のほうが気にしていなければ、どっちでもいい。

「お前、熱があるんじゃないか。一体どんなハッパを吸わされたんだか」
 外の雨のせいで、声は途切れ途切れに耳に届くばかりだった。
「北条さん」
「何だ」
「少し休んだら、車を貸してください」
「どうするんだ」
「行かなければならないところが」
「どこだ?」
「新潟」
「にいがたあ?」
 仁が素っ頓狂な声を上げた。

「その体で新潟だと? 馬鹿を言うな」次の言葉を言いかけた真を仁が遮る。「どうせ行くと言ったらきかないのは分かってるからな。俺が連れて行ってやるから、とにかくまず親父のところで休め。どうせ安もんのハッパに決まっとる。荒神組の奴ら、けちだからな。性質が悪いぞ」
 本当のところ、そう言ってもらうことを期待していた。とても一人で動けるとは思えなかったし、仁という道連れは、望み得るうちで最高に有り難い存在だ。美和の事がなければもっといいのだが、それはもう止むを得ない。

 ボルボは高円寺に向かっていた。高円寺の屋敷に戻れば、仁は未だに坊ちゃんである。本人はそう呼ばれることを嫌っていて、あまり行きたがらないが、義理の父親である叔父の北条東吾を嫌っているわけではない。
 ボルボは大雨の中、大きな門を潜り、屋敷の玄関に横付けされた。さっと車のドアが開けられ、身長が二メートルはありそうな大男が、助手席の真を抱き上げた。

「これはこれは、荒神さんに可愛がられたってぇ」
 仁が直ぐに車から降りてきて、大男に真を預けたまま、自分は先に立って屋敷に入った。
 真は大男に担ぎ上げられるような形で、屋敷の中に入る。
「おかえりなせぇ」
 複数の若い衆の声が、躾けられたコーラスのように完璧に重なって、広い玄関ホールに響く。
 仁は頷いて、それから何やら手際よく命令をしていた。大男は真を抱えたまま玄関を上がる。
「酷え目におあいなすったね」
 労わるように大男は真の背をさすっている。
 ヤクザに労わられると、どうも見栄えが良くないが、大きな男の手は安心感を伝えてくる。

 北条東吾は、今日は出掛けているらしく、真はほっとした。
 東吾は昔気質のヤクザだ。どうやら真の事を可愛がってくれているようで、もしも今の真の姿を実際に見たら、荒神組にお礼参りをしないとも限らない。
 この世界では、面子を潰されることが最も怒りを買い、潰された面子をそのままに置くことは最も恥ずかしいことと考えられている。東吾にとっては、真は堅気とはいえ、店子のようなものだ。

 庭に面した長く広い廊下を通って、真を担ぎ上げたままの男は、奥の座敷まで進んだ。
 座敷では細面の役者のような顔をした若い衆が、布団を敷いていた。大男と役者面の若い衆は真を布団に寝かせると、自分たちの仕事は終わったというように部屋を出て行った。
 二十畳はある座敷のど真ん中に敷かれた布団の上で、立派な天井に横たわる梁を見上げて、真は場違いを感じながらも、もう抵抗する力もなく、目を閉じた。

 正直、限界だった。身体はこのまま自分のものではなくなっていくような気がした。それに、漸く落ち着くと、あちこち酷い痛みが襲ってきた。どこも自分の意思ではどうにもならないような気がした。
 後はほとんど朦朧状態だった。
 何度か人の出入りがあって、医者らしい男が自分を診察しているのと、誰かが着替えさせてくれたのは感じたが、夢か現実か分からない部分もあった。途中で怒鳴り声も聞こえていた。あの太い声は東吾だろう。

 朦朧とした頭は、それでもある部分だけが忙しく働いていた。例の側頭葉に残された映像の再編成能力だったのかもしれない。
 そこには新潟県庁で見た絵だけが、細部まで明瞭に浮かび上がっているようだった。
 レースを編んでいる女性の手元。繊細で想いのこもった作業。
 絵の中の女性のレースを編む手が、いつの間にか絵筆を握る手に変わっている。

 一筆に想いのたけを籠めるように、女の手がキャンバスに向かっている。その傍らに男が立っている。女の仕事を愛しむように、称え、褒め、そして女自身をも優しく包んでいる。女は男を振り返り、ご褒美をねだるように甘える。男は暖かい青灰色の瞳で女を見つめ、その肩に手を置き、優しい言葉を耳元で囁きかけ、そして求められるままに唇を寄せる。

 レースを編む女性が描かれたキャンバスに、重なる影が揺らいでいる。
 レースはベッドの天蓋から揺れていて、その中で男と女は愛しみ合う。男は女を慈しみ可愛がり、女はその思いに応えるようにキャンバスに筆を重ねる。

 額縁。
 丁寧な細工に濃淡が浮かび上がっている。
 十七世紀のオランダのものに相応しいと彼が言っていた額縁。彼はその額縁を、ルネサンス期の天使の絵画から外し、丁寧に磨いていた。彼が作業をする大きな机の上で、いつもは彼の左手の薬指に嵌められている指輪が光っている。
 女が彼の仕事を覗いている。その向こうで、他にも誰かがその作業を見守っている。

 何故、贋作なのだろう。寺崎昂司は「本物はない」と言った。それは、一体どういう意味なのだろう。しかも、絵は二度、日本にやって来た、と。
 竹流や御蔵皐月という女、寺崎昂司、江田島。彼らが関わっていたのは贋作だ。しかし、新津圭一や澤田顕一郎、村野耕治、それに『河本』や朝倉武史が関わっているのは別の何かだ。それが何かで絵に繋がっている。結びつけているキーワードは、地名だ。

 新潟。
 新津圭一の事件は、新潟を出発した何かから発せられているのだ。絵、フェルメールの贋作、贋作としてだけの値段では計れない何か。新津は記者だ。もしも彼が本当に金銭に困って強請りを働いたのだとしても、記者として真実を掴みたいという興奮や欲望に勝てただろうか。新津が欲しかったのは、金ではない、真実なのではないか。そして、そこに澤田や村野という政治畑が介入してくる。

 誰かが何かをすると、勝手に繋がるようになっている僅かな相関関係。それが物事を複雑に見せているだけだとしたら、それぞれにはそれぞれの、小さな理由があるのだ。
 新潟に行こう。やはりそこに答えがあるのだ。竹流は、あの記事から新潟というキーワードを期待したのだろう。しかも新津圭一は新潟の出身なのだ。
 そして、蓮生家のボケたという当主。蔵を焼いた理由は何だろう。彼は何かを知っていて、口をつぐんでいるのか。蓮生千草は、彼がボケたのは蔵が焼けてからだと言っていた。

 不意に唇に生暖かいものが触れた。そのまま、苦い液体が口の中に広がる。
「飲み込め」
 聞こえにくかった左耳のほうで声がしたので、認識するのに時間がかかった。
「なん、ですか」
 喋ったのかどうか自分でも分からなかった。しかし、喋ろうとした咽や口の動きで、苦い液体は食道の方へ流れ込んでいった。朦朧としたまま苦しくて咳き込むと、また暖かいものが唇に触れた。逆らう理由は何もなかった。
 隣の部屋からか、カスケーズの『悲しき雨音』が聞こえていた。

 北条仁に初めて会ったのは、オールディーズの曲を聴かせるライブバーだった。
 仁はヤクザの倅だが、大学を出ている。東吾はもともとヤクザ家業を終わらせるつもりで、義理の息子に教育を受けさせていた。
 東吾自身も戦後の混乱でヤクザ家業に身を落としたが、豪胆で武士道を貫くような性質で、当時関東一円でシマを張っていた大手のヤクザ組織の親分に可愛がられ、盃を受けて、良くも悪くも大成してしまった。

 大学生の頃、北条仁はライブバーでアルバイトをしていた。店の飲食の裏方から、バーテン、そして時には自慢の喉を披露して、そのライブバーを彼自身の経営学で大繁盛させていたという。店に来る女の子も、そして男も彼に夢中になっていた。芸能界からの誘いもあったと聞いている。

 仁が初めての待ち合わせにその店を選んだのは、真に警戒心を抱かせないためだったのだろう。この店に来るときは、女は抜きで来るのだと言っていた。美和を連れてきたこともない、と。
 それが北条仁から自分への誘いだということは、その部分で勘の鈍い真でも理解できた。
 真がその気はないことを告げると、仁はそれ以上しつこくは絡まなかった。

 だが、仁の話術はかなり巧みだった。豪快で、頭の回転の速い男で、豪胆な割には他人の感情を敏感に汲み取る鋭さを持っていて、時には鋭過ぎて相手に突き刺さることもあるのだろうが、周囲の人間が彼と話したがっている気配や視線を、しばしば感じた。
 音楽の趣味を聞かれて、洋楽はさっぱり分からないと言うと、音楽の半分以上を知らないと諭された。
 妹がクラシックをしているので、それは多少分かると言うと、延々とロックンロールやジャズ、ブルースの解説を聞くはめになった。何か楽器をするのかと聞かれて、祖父に指導を受けていて、太棹三味線を弾くというと、それにはえらく興味を示してきた。

 そういう流れのどこで騙されたのか、いつの間にか、仁の持つビルの一室で調査事務所をすることになっていた。
 北条仁が両刀だということは、事務所の開設準備の時には周りから伝わってきた。
 実際誘われたこともあって、真は驚きもしなかったが、別に不快にも思わなかった。そういう人種を目の前に見たのは初めてではなかったし、性の嗜好の問題のうちで、悪いほうに属しているとは思わなかった。
 多少心配したのは、美和のことだった。

 美和は、知ってる、と言っただけだった。男の子に泣きつかれているのを見たことがあるとも言っていたが、もともと自由恋愛、という形をとっている美和と仁の間に、例えばSM趣味があるとか言うわけでもなければ、足枷になる性の嗜好ではないのだろう。
 美和がどう思っているのかはともかく、北条仁はいい男だった。切れ味は鋭く、厳つさを持っているが、竹を叩き割ったような性質は、厭味な部分が少ない。身体も鍛えられていて、気持ちのいい逞しさを持っている。顎の張った厳つい顔つきは、この業界でやっていっているうちに出てきた特質で、飲んで陽気になるとむしろ人懐こい部分さえある。
 
 だが、あくまでヤクザだ。彼らの基準で許せないものは許せない。そこには融通などというものはない。
 一体どのくらい熱にうなされていたのか、目が覚めると、雨音は少し穏やかになっていた。あたりは静かで、音楽はただ雨の音だけになっている。

「気分は?」
 仁に覗き込まれて、真は何とか身体を起こそうとした。仁の手が真を支え、そのまま抱き締められるのではないかと思うくらいの力を感じる。実際には、真の身体がまともに動いていないだけのことだった。
「夜ですか」
「腹は空かないか」
 真は首を横に振った。
「ずっとここに?」
「いや、そうでもない。どうかしたか?」
 聞きかけてやめた。妙な自意識過剰だと自分でも思った。熱に浮かされていたのだろう。

 いつか唐沢に面会に行ったとき、唐沢が真に言った。
『北条仁には気をつけろよ。いつかお前を口説き落とす気だぞ。口説かれてその気になって、ってのなら、まぁ仕方がないけどな。お前の『彼氏』と血塗ろの争いになったら、お前さんだって困るだろ? もっとも、あぁ見えて、あの男は強姦をするタイプじゃないからな、それに酔っ払わせて襲うという手も使わない。何故なら、ちゃんと気持ちもモノにしないと納まらないタイプだからよ。お前さんの方から足を広げて誘うように、じわじわ攻めて来るんだよ』
 そういうことを、刑務所の面会で、方向は異なるが怪しいことにかけては北条仁にも引けを取らない唐沢に言われても、どう信じればいいのか、と思う。

「さて、夜のうちに抜け出すか。明日になって親父がお前に話を聞きたがる。聞いたら最後、お前を舎弟の一人のように思っている親父は報復に出る。そうなると、ややこしいからな。今から出れば、朝には新潟に着く」
 仁に助けられて立ち上がった。ふらついたが、支えてもらっていれば、何とか身体は動いていた。

 不思議に思うのだが、例えばこうして支えられて歩くときにも、仁には完全に身体を預けてしまえるような何かがある。ヤクザにそういうものを感じるのはどうかと思うが、唐沢が北条仁に気をつけろと言った意味が、こういう部分では納得がいくのだ。そういう相手の身体の反応を、恐らく仁は感触で嗅ぎ分けている。
 自分がしっかりしているときはいいが、こうやって弱っている時には、確かに危ない。

 玄関口では、あの大男が待っていた。
「お気をつけて」
「親父には上手く言っといてくれ」
「わかっとります」
 阿吽の呼吸で会話を交わすと、大男は仁にボルボの鍵を渡した。真は大男に支えられて、再び車に乗り込むことになった。




Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨81] 第16章 任侠の男(4) 

【海に落ちる雨】第16章・その4です。
前回その3と連続した場面・経緯なのですが、長いので2つに切ったところ、切り処を間違えて、前回は短め、今回は長めになっております。
でも、ここから先は一気に読んでいただいた方がよさそうなので、じっくりお楽しみください。

微妙に15禁くらい? 少しだけ色っぽいシーンが出てまいります。しかも登場人物は真と仁。
この系統が苦手な方は、素通りしてください。ただし、甘いシーンではありません。
忘れていなければ……柏木美和は北条仁の女です。真はその女と懇意にしてしまったわけですから。
本筋(澤田顕一郎と田安隆三)に関わる会話が一部含まれていますが、飛ばしたところで大筋に影響はないでしょう。





 北条の屋敷を出ると、わずかでも身体が緊張から解きほぐされたのを感じた。
 車は関越自動車道に入って、新潟へひた走った。カセットからはいい音で音楽が流れていた。ジョニー・ティロットソンの甘い声が聞こえていて、ほっとした。この名前も、仁が教えてくれたものだ。

 北条一家がヤクザではましなほうだと言われても、その屋敷が寛げる場所とは思えない。第一、今、真の身体がこの状態なのも、同じヤクザにやられたのだ。
 新宿で仕事をしていて、ヤクザに全く関わらないでいられるわけではない。知らないうちに慣れてしまっているのだが、怖くないといえば嘘になる。しかし、命にまで関わると思うことは滅多にない。それが、北条仁と大和竹流のお蔭であるということは、骨身に沁みて分かっている。

 だが、多少薬が抜けてくると、痛みが蘇ってくる。車の揺れで痛みが増幅した瞬間に、冷や汗が出ていた。思い出すと急に恐ろしくなってきた。
 奴らは殺す気だったのだ。万が一殺されなくても、奴らの言うとおり、薬漬けにされて下品な男たちの慰みものにされていただろう。本当に死ぬまで突っ込まれていたかもしれない。あるいは、耳か鼻でも削ぎ落とされていたか、あるいは睾丸を潰されていたか。

「どうしたんだ」
 真は首を横に振った。身体が震えているのを、隣の男に知られるのは拙いような気がした。
 だが、仁はあっさりと言った。
「怖かったんだろう」
 真は答えなかった。
「まあ、ヤクザとていつも殺す気があるわけじゃない。敵対する組のオヤジを殺るならともかく、特に素人を相手にすると、お勤めが長いだけじゃなく、素人に手を出す卑怯者というレッテルを貼られる。一生剥がすことのできないレッテルだ。二度とこの世界でやっていけなくなる。もちろん堅気にも戻れない。だがな、妙な嗜好を持っていると、そういう事情は吹っ飛ぶ。あるいは薬やなんかでラリっちまっている愚かな連中とかな。お前が気を付けなけりゃならないのは、まともな精神状態のヤクザじゃない。むしろ一般人だろうとヤクザだろうと、変態趣味を持った連中だ」
 仁の口から言われると、多少戸惑った。真は返事をせずに目を閉じた。

「車、停めようか」
「何故です?」
「暫く、抱いててやろうかって言ってるんだ」
 仁は運転したまま言った。どういう表情で言っているのかは分からなかった。
「遠慮します」
 仁は声に出して笑った。曲がプラターズの『ONLY YOU』に変わった。被った曲のムードにかき消されたが、どこかに冷めた湿度が残っていた。
「美和に告げ口するか」
 今、仁に美和の名前を口に出されるのは辛かった。仁が本気であの十六も年下の大学生に惚れているのは知っていた。仁が怖いというのもあるが、裏切るかと思うと恐ろしい気がした。

 サービスエリアに入ると、仁は車を停めたが、カセットの音楽はそのまま続いていた。
「田安さんのことだがな、バンコクで妙な噂を聞いたんだ。向こうのシンジケートのボスが、一流のプロを雇ったって、な」
「プロ?」
「そうだ。慌てて日本に電話をして、彼が死んだことを知った。タイのヤクザが日本のヤクザにお礼参りをしたという噂もある。お前が首を突っ込んでいることに関係があるのかどうかは知らんが、あっちの人間が日本で世話になったヤクザの代わりに、やりにくい仕事を片付けてくれるなんて話はよくある。そいつらが世話になったヤクザは、九州の小松って奴だ。小松は、澤田と関係がある」
「澤田顕一郎と?」

 澤田がヤクザを使って田安隆三を殺すわけはないので、それはどういう繋がりだろうと思った。
「正確には、あったというべきかな。だが、その辺の話は多少ガセが入っている。九州のヤクザと澤田の関係が表に出たとき、澤田は完全に否定しているし、ある方面からの情報では、澤田が嵌められたんだという話もあった。今回、タイ人は随分金をつぎ込んだと聞いている。雇われたのは『超一流』の男だともな。だが、商売勘定をしているタイ人が、いくら何でもお礼参りのためだけに大金をつぎ込むというのは不可解だ。裏で別の何かが動いているような気がする」

 真はぼんやりと聞いていた。頭の半分で、仁は何故タイから帰ってきたのだろうと考えていた。真にこの事を教えるために戻ってきたわけではないだろう。仁の出張は、数ヶ月はかかりそうだと、美和が言っていたことを思い出した。
 一旦緩やかになっていた雨は、また強くなりだした。

「コーヒーでも飲もうか?」
 この雨はいつまで続くのだろう。永遠に降り続いて、この身体も心も溶かしてしまうのではないかとさえ思えた。
 仁は動く気配はなかった。
 曲は、北条の屋敷で聞いた気がしたカスケーズの『悲しき雨音』になっていた。悲しさを、いくらかテンポのいいリズムで淡々と唄う曲は、どうすればいいのか分からない身体の苦痛を冗長させた。
 真は目を閉じた。何かをやり過ごさなくてはならないような気がしていた。

 不意に、この曲が合図だったとでもいうように、冷たい手に顎を捕まれた。目を開けたとき、予想していなかったわけではないが、強い意思を持った仁の鋭い目が真を捉えていた。
 唇が触れようとして、真は慌てて身体を引いた。仁の手が頬を撫でる。
 昨日のヤクザが首筋に当てていたナイフと同じ冷たさだった。

「誰かに操を立てないといけないのか」
 声は真剣だった。勿論、真を口説こうとして真剣なのではない。棘のある鋭い声だった。
 予想していなかったわけではない。地獄耳のこの男のことだ。この男がタイにいる間に美和と真がしていた事を、知っていながら知らせないような有難い人間は、宝田や賢二くらいだろう。開け広げと言っていいくらい、美和はあっさりと竹流のマンションに泊まりこんでいたし、夜行列車でも一緒に過ごしている。新潟でも、セックスをするかどうかはともかく、同じ部屋に泊まっている。美和を見張っている誰かにとっては、十分報告する価値のある出来事だっただろう。

 覚悟をしていたわけではないが、やむを得ないと思った。
 それでもやはり恐ろしかった。真が仁を見上げると、仁は表情のない鋭い目で真を見つめたまま、真が逃げないのを確認すると、強い力で顎を掴んだまま、上唇を音を立てて吸った。
 真の身体は感情の覚悟を超えて完全に固まっていた。逃げ所はなかったが、さすがに舌が差し込まれようとしたのは拒んだ。だが、その瞬間に、仁の手が首の後ろに回った。

「自由恋愛とやらを彼女に許したのはあなたでしょう」
「認めるのか」
「自分が嫌なら、彼女の気持ちも考えてやったらどうなんですか」
「あいつが何か言ったのか」
「あなたが他の誰かを抱きながら、自分の事を考えるかどうかって」
「いつも考えてるさ。あれは俺の女だ」
「じゃあ、他の男と寝てもいいなどと言わなければいい。彼女がそんなに好きなら、何故ちゃんと捕まえておいてやらないんですか」
「十六も年下の小娘に、北条仁が本気だなんて言えるか」
「言えば済むことです。あなたが恐れているのは、彼女が自分から離れていくことですか」

 仁は真の後ろに回した手の指にゆっくりと力を入れてきた。
 珍しく言葉は勝手に出てきたが、身体は震えていたのかもしれない。いや、美和に、決闘してでも責任を取れと言われてから、真は実際に仁と交わさなければならない会話を、少しばかりは準備していたのだ。でなければこんなにスムーズに言葉は出てこない。
「お前はあれを弄んだだけなのか」
「それは」
 だが結局、真は口をつぐんでしまった。

 美和がもしも妊娠していたらどういうことになっていたのだろう。北条仁と決闘すると言ったが、女の前で格好をつけただけだったのかもしれない。その時は、彼女と身体を合わせることに夢中で、後先を考えなかった。そう思うと、自分が随分と情けない男だと感じる。
「あいつが可愛いと思ったか?」
「そう思います」
「俺から奪おうと思ったか?」
「いいえ、それは」
「最初は酔っ払ってたのか? 次は?」真は答えなかった。「寂しかったのか? あの男がいなくて」
 真は黙って仁を見上げた。

 そうかもしれない。自分は今、どんな情けない顔をしていることだろう。親に悪戯を見つかった子どものようだ。美和も、こんな男の顔を見れば、情けなくて愛想も尽かすだろう。
 仁のほうも、視線を逸らすことなく真を見つめている。
 そのうちに、この男を怖いというよりも、裏切ったことが哀しいと思えてきた。自分のした事がただ哀しいと思った。
「口を開けろ」
 唐突に何を言われたのか、真は理解できなかった。仁はもう一度同じ命令を繰り返した。真は何か言いかけたつもりだが、声になる前に仁に口を塞がれてしまった。

 仁の手は首の後ろに回されたままで、もう真には逃げるところがなかった。仁の舌が巧みに真の口の中に入ってきて、逆らうことなど許さないという強さで絡み付いてきた。真は何とか仁を引き離そうとして肩に手を掛けたが、力は入らなかった。そのまま、仁のもう一方の手が真のスラックスのフックを外して中を弄ってきた。
 完全に力が抜けていた。その半分で硬直したようにもなっていた。肌は張り詰めたように緊張して、冷たい汗が零れた。

 そうしているうちに仁が本気ではないかと思った。本気でどうこうしようとしている、ということではなく、本気で真を慰めようとしているのではないかと思った。仁の手は、小さく強張って固まっている真を慰めるように、ゆっくりと局所を弄る。舌は時に緩やかに、時に激しく求めるように絡んでいる。やがて仁は手を真の足の間から深く後ろに差し入れて、真の身体の器官の中で、誰かを受け入れることができる場所のひとつを弄り始めた。仁の指が襞を擦ったとき、思わず真は身体を浮かした。

 身体に起こっている出来事は、単純に身体の反応を引き出す。真は、どこかで自分の身体がこの男を受け入れようとしているのではないかと怯えた。だが、心の内は恐怖と後悔と哀しさで震えていた。仁の舌はそのものが意思を持っているように、真の口の中だけではなく、その心のうちまで吸おうとしているようだった。
「美和にとって、お前が俺の代わりができるとは思えない。だが、俺にもあの男の代わりができるわけじゃない。あの男が帰ってきたら、お前は美和に泣きつく理由がなくなる」

 真は答えなかった。仁はひとつ息をついた。そして真の目を真正面から見つめた。ヤクザとは思えない、真っ直ぐで曲がったところのない目だった。
「お前はどう転んでも堅気だ。だが、俺はいつでも銃器不法所持罪が適応されるヤクザだ。連れて行って損はないぞ」
 仁が漸く真を放し、真のスラックスの中から手を出して、フックを止めた。

「美和は俺の女だ。だが、お前は俺の義兄弟だ。今の事は忘れろ。俺も、お前と美和の事は忘れる」
 真は勢いに押されて頷いた。多分、まだ真は情けない顔をしていたのだろう。仁は厳つい顔のまま微笑んだ。
「ただし、慰めて欲しいならそう言え。身体だけなら慰めてやれる。すぐにいかせてやるぞ。まあ、さすがに相愛の相手ほどには良くないだろうけどな」
 いつもの仁の顔だった。

「俺とあいつは別にそういうのでは」
「嘘をつくな。あいつの態度は、お前が、身体も心も命さえも自分のものだという自信に満ちている」
「あいつは、女しか抱きませんよ。あなたと違って」
 開放されたと思って安心したのか、ここでまた沈黙になっては気まずいと感じていたからか、真の口からはいつになく言葉が勝手に出てきた。

「一緒に住んでて何を言う。あいつのような男が、女と過ごす時間を潰してまでお前と一緒にいる。どうやって性
欲を処理するわけだ?」
「仁さんの計算はそういうのですか」
「お前だって香野深雪に会わない日の方が多いはずだ。自分で処理してるわけじゃないだろう。しかも、憎からず思う相手が同じベッドで眠っている。我慢はできんな」
「だから誤解です。あいつは俺を子どもだと思っている」
 もしくは、言うことをきかない飼い猫レベルだ。

 仁はようやく、いつものようにニヤニヤと笑った。
「あててみせようか。お前らは、お前がまだ小学生の時からの知り合いだ。いくら何でも小学生や中学生には手を出さない。だが、どこかで箍が外れる。ところがあいつはもともとノン気だからな、いざそうなってみると、どう落とし処を作ればいいのかわからないのさ。しかも、あいつは意外に素直な男だ。考えても見ろ、十代の半ばまでをカソリックの教えに縛られて過ごしている。自然、神様の罰は恐ろしいわけだ。だが、お前を心から大事に思う気持ちは止められない。何故なら、お前と一緒に」
 仁は少し言葉を止めた。カセットの曲が『Rock Around the Clock』になって、いきなり勢いづいたからかもしれない。
「真実の瞬間を見たからだ」

 真は何のことだろうと思って仁を見た。
「あいつが、何か言ったんですか」
「いや、飲んで口を割らそうと思っても、あの男、半端じゃないくらい酒に強いからな。なあ、真、人間は一生の間にそう何度も、ここぞという場面に出会わない。自分の生涯を決めるかもしれない瞬間だ。だが、何度かある。キャンディーズの歌にあるだろう。人は誰でも一度だけ全てを燃やす夜がくる、ってな。多分、お前とそういう夜を、夜とは限らんけど、過ごしている。もしかすると、瞬間かもしれないけどな」
「キャンディーズ?」
 さすがの真とてその有名な歌手のグループ名は知っていたが、どんな歌を歌っているのかまではよく知らなかった。
「お前が知るわけないか」

 仁は完全にエンジンを切った。
「だがな、男は一度突っ込むと、その相手を自分の所有物だと思ってしまう。お前も誰かに対してはそう思うだろう?」だが、美和はもう無しだぞ、という視線を仁は送ってくる。「でも、あいつはお前をそういう相手にはしたくない。お前を育てたという自負もあるからだ。あいつはかなりややこしい男だぞ。奔放で自分の欲望に敏感なくせに、ある部分では修行僧並みに禁欲的だ」
 真はほっと息をついた。
「仁さんはよく分かるんですね」
 言ってから、いつの間にか仁のことを、名字でなくファーストネームで呼んでいることに気が付いた。

 ヤクザと親しい付き合いというのも拙いだろうと思うので、他人前で不用意に下の名前で呼ばないように、普段から名字で呼ぶように気を付けていた。それにそもそも、仁とは親しい、というわけではない。事務所のオーナーと雇われ所長という間柄で、たまに飲みに誘われることはあっても、あるいは父親の北条東吾の呼び出しで碁や将棋の相手をすることはあっても、親しいという間柄とは少し違っている。
 飲みに行くと、仁はそろそろ名前で呼び合う仲になりたいねぇ、などと言うので、その時間だけ、相手の機嫌を損なわないように下の名前で呼ぶようにしていただけだ。それでも、仁の方はすっかり真をファーストネームで呼ぶようになっている。そして、いつの間にか真の方も、頭の中では下の名前に慣れてしまっていたのかもしれない。いや、美和が仁と呼ぶので、耳に馴染みが深くなっているだけなのだろう。
 この際だから、もういいかと思った。

 仁はそれに気が付いているのかどうか、呼び方については何も突っ込んでこなかった。
「まぁな。俺はああいう無理をしている男が好きなんだ」
 真は思わず仁を見た。
「聞き捨てならないだろ? もっとも守備範囲は外れてるけどな」
 そう言って、仁は何を思ったのか、真の頭を撫でるようにした。
「気分はどうだ? あちこち痛むだろう」
 真は、一度息をついてから、頷いた。
「頭ははっきりしてきましたけど」
 仁の迫力で、脳が目を覚ましてしまった、というのが本当のところだった。
「コーヒーはどうだ? 飲めそうか?」
 真は一応頷いた。ヤクザに脅されるというのは、相手がどうあれ、内容がどうであれ、おっかないということに、後になって気が付く。ほっとしたら、どっと身体が重くなった気がした。

 仁は運転席のドアを開けかけて、ふと止まる。それから半分背を真に向けたままで言った。
「ところで、美和には何も言うなよ。俺がお前を責めたとなると、美和に何を言われるか分かったものじゃない」
「言いませんよ」
「だが、お前が次に彼女に誘われて断ったら、あいつは理由を聞くぞ」
「あなたが帰ってきたんだから、誘いませんよ」
 一瞬、沈黙があった。
「そうだといいけどな」
 そう言い捨てて、今度こそ仁は雨の中に出て行った。
 真はふと、北条仁も意外に自信がないところもあるんだな、と思って感心した。そう考えて、思わず仁に触れられた唇に薬指を当てた。

 真実の瞬間。
 闘牛士が最後に牛に止めを刺す瞬間をそう呼ぶ。牛と闘牛士の、生きるか死ぬかの瞬間だ。それと比べるのはどうかと思うが、仁の言うことは何となく分かる気がした。
 アッシジの夜。
 もうその先はなくてもいい、と思った。

 だが、思い返してみれば、大和竹流が自分にしてくれたことについては、ほとんど全ての『瞬間』を覚えていた。驚異的なスパルタで勉強を教えてくれていた時も、怒られて怒鳴られた時も、水が苦手な真に無理矢理泳ぎを教えてくれた時も、秩父の山奥の旅館で慰めるように抱き締めて眠ってくれた夜も、大和邸で過ごしたあの夜も、何もかも。
 そして何よりも、あの崖から落ちた日、その後の意識のなかった一週間、ずっと彼が側にいたのを感じていた。眼を覚ましたとき、最初に見たのは、あの青灰色の瞳だった。記憶の失われいる時間の中で、彼の存在だけは、はっきりと感じていたのだ。

 基本的にアヒルだな、と思った。生まれて初めて目にしたものを親と思っている。
 真も、生き返って初めに目にしたものを、やはり親と思っている。
 りぃさが亡くなった後、強い風の吹く大間の海岸で、一緒に住もうと言われた。覚悟をしたが、竹流は何もしようとしなかった。それから二年半、仁の言うような性欲を処理する気配など、真に向けられたことはない。昇にもいつも欲情していると言っていたらしいが、そういう対象にされた覚えは一度もない。今、仁に舌を差し込まれるようなキスをされて、不意に考えた。あんなふうにキスをしてくることもない。

 どう考えても、飯を作ってくれることと真の健康管理に使命を燃やしているとしか思えない節もある。
 あのアッシジの夜以来。
 そして、アッシジを離れローマに戻った後で泊まった修道院の、祭壇脇の礼拝堂に掛けられた絵を思い出した。

 竹流はあの時、神父に絵の洗浄を頼まれていた。十字架から降ろされる主イエスの傍らに、祈りを捧げるマリアが描かれていたようだが、何故か晩年になって画家自身により塗りつぶされ、代わりに、岩の傍らにひっそりと野の花が描かれた。修道院とその援助者たちの話し合いの結果、是非ともマリアを光の下に蘇らせたいということになったようだった。
 竹流は何日も、礼拝堂の床に降ろされた絵の前に座り込んでいた。気分転換と称しては、真を外に連れ出して、彼の愛するローマの街、路地、噴水、教会、森や丘を見せてくれたが、真が覚えている彼の姿は、ずっとあの絵の前に座り込んでいる。

 夜中にふと、隣に彼が眠っていないことに気が付く。礼拝堂からは小さな明かりが漏れている。振り返って真の姿を認めると、竹流は少し手を差し伸ばすように真を誘う。側に行くと、抱き寄せるようにして真を座らせた。
『洗浄?』
『絵を洗うんだ。年数で降り積もった塵だけではなく、上に置かれた不要な絵具も取り除くことができる』
『何が出てくるんだ?』
『マグダラのマリアだよ。昔の記録でも赤外線でも確認されている。マリアは宗教的にはイエスの弟子だが、歴史的には妻であったとも言われている。ここにマリアが描かれているのは、信仰と愛と悲しみの表現として、極めて当然のことだ』
『でも、迷ってるのか?』
 真が聞くと、竹流は少し微笑んだようだった。
『お前はどう思う?』

 真は、ひっそりと岩の陰に咲く小さな野の花を見つめた。本当に小さな花だった。そこには風さえも吹いているのが感じられ、花弁の内側から微かに立ち昇る温度までもが伝わってくる。温かい涙のような湿度は、土や岩さえも濡らしていた。
『マリアは、ここにちゃんと見えるけど』
 真が答えると、竹流は暫く真の顔を見つめ、それから真の頭を抱き寄せるようにして、額に口づけた。

 結局、竹流は表面の埃や塵を洗浄しただけで、マリアを絵具の下から掘り出してこなかった。神父は穏やかで賢明な人物で、竹流は真の言葉をそのまま神父に伝えたようだった。神父は真を祝福し、あなたには本当に神が見えている、と言った。
 だが、真の言った本当の意味を、神父は知っていただろうか。
 本当に見えていたのだ。見えるような気がしたわけではない。竹流の目が見ていた、画家の真実の思いが、ただ真に伝わっただけだった。

 あの男は神かもしれない。あるいは激しい暴君かもしれない。
 そういう思いが、真のどこかにある。どこまでも清く気高い精神と、故郷へ帰ることもなく東へと遠征を続けた大王の荒々しい神性の、どちらも彼の内を駆け巡っている。それが直接的に真に伝わってくる。
 ヴァチカンの礼拝堂で、真は過去のローマ教皇に出会った。もうこの世の人ではない教皇は、真の傍らに立ち、教皇だけに許された礼拝室に誘った。彼は真に告げた。何を迷っているのか、と。

 おのれの信じた道を往きなさい。答えはあなた自身なのだから。
 そう言って教皇が指した先で、あの男が座って祈りを続けていた。教皇の目は、穏やかに慈しむように竹流の姿を見つめていた。彼をローマに戻すようにと言われているように思ったが、それ以上の言葉はなかった。
 ローマの街が、彼を包み込む光の全てが、彼をあの場所へ戻したがっているように思えた。
 混乱していた。彼に対する感情が、あるいは彼の感情が、あれほどに聖なるものに包まれているのに、どこかで不可解な欲望が渦巻いている。自分にも彼の中にも。

 仁にコーヒーを手渡されるまで、真はぼんやりとしていた。
「休んでいくか?」
「行きましょう。仁さんが大丈夫なら」
 仁はしばらくの間、真の顔を見ていた。真が何だろうと思って仁を見ると、にやっと笑う。そのまま、空いた手で真の頭を撫でて引き寄せ、耳元に囁いた。
「いいねぇ。飲み屋以外でそんなふうにさりげなくファーストネームで呼ばれるのは」
 真は慌てて身体を引いた。気が付いていたのかと思って狼狽えたが、過剰に反応して相手の関心を引きたくなかったので、後はただフロントガラスの向こうのサービスエリアの店の明かりを睨み付けて、コーヒーを口につけた。
 その後はお互い黙ったまま、ゆっくりとコーヒーを飲み終えてから、仁が車をスタートさせた。




昔、オールディーズに凝っていたころがあります。
と言っても、私の場合、音楽を聴く時は、民謡と三味線以外は基本「ながら族」なので、知識として詳しいわけではありません。
でも、あの時代の雰囲気、映画で言うと、ハリソン・フォードも出演していた「アメリカン・グラフティ」の時代のイメージ、好きなんですよね。

北条仁と真のデート(語弊がありますね。単に待ち合わせをして会う、という意味のデート)は、基本このオールディーズを聴かせる店だったようです。
え? 結構、竹流とよりもいい雰囲気に見える? いいのか、竹流?って気がします?
いえいえ、竹流はこれっぽっちも慌てていません。
真は自分の所有物(飼い猫?)だと思っていますから。

飼い猫と言えば、limeさんが描かれた漫画(『凍える星』パロディ漫画:NAGI)の中に、タケルとマコトがお邪魔させていただいておりますが、2人、いや1人と1匹の間の微妙な距離が可笑しい……
マコトは腰が引けていたり、ちょっとタケルにビビっている??
それに比べて、ワトスンくんを取り囲む猫たちの近いこと!
この対比、limeさんは意識されたんでしょうか??
自然にこうなっちゃった??
多分、マコトはタケルからちょっと距離を置いて待ってたり、影ふみ遊びしたり、しっぽ鬼ごっこしたり、でもいざという時にはタケルの傍に逃げ込めるようにあまり離れすぎず、魚を待っていたはず(^^)

ちなみに、キャンディーズの『アン・ドゥ・トロワ』、実はものすごく好きなんです。

次回は第16章の最終回。短いです。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 5   

[雨82] 第16章 任侠の男(5) 

【海に落ちる雨】第16章最終話です。
竹流の足跡を求めて、新潟の豪農の館を再訪しようという真。
ヤクザに痛めつけられてすっかり身体はぼろぼろですが、頭のほうは冴えてきているようで……
少しは竹流に近づけるでしょうか。

最近、ちょっと真面目に小説ブログになっていますが……
たまには面白い事のひとつも書いてみたいけれど、なかなかネタもなく……
巨石紀行は今週末の三味線の大会が終わってからになるでしょうか。
あ、巨石紀行は別に面白くないのですけれど。しかも今回は、ほぼ蚊との戦い。
関係ないけれど、最近、ちょっと嬉しいこと。
トップ記事の拍手が地味に増えること……(*^_^*)





 夢の中だったのかも知れないが、『Unchained Melody』が流れていた。1955年以来何度もリバイバルヒットを飛ばしていて、映画の主題歌にも何度か使われている。竹流が珍しく歌っていた事がある曲だ。
 もっともカンツォーネなら何度か聞かされていたので、珍しいというのはアメリカの曲を歌っていたという点だが、その曲には竹流にも思い出があるようだった。詳しく聞いたことはないが、日本に来る前にニューヨークで一年ばかり世話になっていた人が、よく聞いていたのだという。
 竹流と音楽の繋がりはよく分からないが、彼が酔って陽気になると、調子のいいカンツォーネや、時には真の祖父母に教えられた日本の民謡を歌っていたのは事実だ。いい声で、女でなくても聴き惚れる。

 そうか、考えてみれば、あれは仁と一緒にあの店に行ったときだった。
 真が席を立っている間に、二人は何か賭け事をしていたようだった。何を賭けていたのかは、教えてもらえなかったので分からないが、その賭けは引き分けだったようだ。
 引き分けの結果、仁は明らかに射程範囲外の厳つい男を口説かされ、竹流は生バンドの前で歌った。ぞくっとするような唄声だった。身体に火をつけられるようなハイバリトンの声と共に、近くに座っていた年配の婦人たちのうっとりとした溜息を今も思いだす。

『負けたらどうなってたんだ?』
 返事をしたのは仁だった。
『俺が負けたら、美和を一晩貸すことにしていた。こいつが負けたら、お前を自由にしていいということになってたんだがな』
 こいつら何を賭けてたんだ、と思って竹流を見ると、ただ面白そうに笑っていただけだった。

 もっとも、仁が負けていたとして、実際美和を竹流に任せるなどあり得ないと思うし、万が一そうだとして、竹流が美和をベッドに誘うとは思わなかった。美和は葉子と同じで、可愛い妹みたいなものだ。それに、基本的に年上のやり手の女が好みの竹流の守備範囲からは、多少外れているように思う。
 もっとも、女は誰でも大事にするのが当たり前と思っている男だ。実際目の前に餌をぶら下げられたらどうなるかはわからない。
 反対の場合はどうだったのだろう。竹流は、真を仁に委ねるようなことはないと思いたいが、何とも言えない気がした。だが、仁は真が拒否すれば、無茶なことはしないだろう。
 いや、それ以前に、真も美和も、物でも猫の子どもでもないのだし、この男たちが自由にしていいわけがない。

 ナポリの港で竹流が歌っていた、恋人の窓辺で歌う甘い恋の歌。耳元で囁くような声。それが頭の中で『Unchained Melody』に重なっている。歌いながら、一瞬彼が自分を見たように思ったが、次の瞬間には一番前の席に座っていた髪の長い美人と視線を交わしていた。歌い終わった後にも、少しの間、彼女と何か話していた。女は男と来ていたが、あのカップルは多分あの日、揉めたことだろう。

 泣いているなどとは、自分でも思わなかった。
 不意に冷たい手が頬に触れて、真は驚いて跳ね起きた。
「可愛い奴だな、お前」
 車は停まっていた。ガラスの外を見ると、まだ雨は止んでいなかったが、空は幾分か明るくなっていた。駅前のロータリーのようだった。
「寝ながら泣けるってのは才能だな。かかってた曲が悪かったか」

 夢ではなかったのだ。レス・バクスターが歌っているという違いはあるけれど。
 車の時計を見ると、七時前だった。朝飯を食べることになって、駅前の喫茶店に入る。和食中心の朝定食屋で、仁はしっかり鮭定食を平らげたが、真は雑炊を何とか半分程度胃に流し込んだだけだった。
 まだ気持ちが悪くて、水分以外は胃の中で暴れまわるような気がした。
 仁がコーヒーはどうだ、と尋ねたが、さすがに限界だった。
 仁のコーヒーを待つ間、真は出された暖かいお茶の入る湯呑みを触りながら、ふと顔を上げた。

「タイ人はプロを雇ったと言いましたよね」
「あぁ」
「それは所謂、スナイパーですか?」
「そう聞いてるが」
「でも、田安さんは溺死したんですよ。少なくとも弾傷なんてのはなかった」
 仁は煙草の灰を落とした。
「じゃあ、ガセだったのか。それとも、別のプロが雇われたのかな」

 真はどこかで武史を疑っていたことに今、自分で気が付いた。だから、頭の中で田安が溺死だったことを確認して、どこかでほっとしていた。
 朝倉武史は優秀な工作員かもしれないが、所謂抜群の腕を持つスナイパーの一人だと聞いていた。もっとも、武史の仕事を本当のところはよく知らない。知りたいとも思っていなかった。

「しかしな、こういう世界じゃ、名の知れた誰かが死んだり殺されたとき、そいつを始末したのは自分だと名告りを上げることで、自分の存在を示す、所謂売名行為ってのがあるからな。そのタイのヤクザは新進気鋭、と言えば聞こえはいいが、かなりヤバい橋も渡ろうっていう連中だ。タヤスってのは、内戦なんかで雇われる傭兵の中じゃ伝説の男だからな。自分たちが殺った、しかも一流のプロを雇った、ってのは、つまり金と勢いがあるってことを示すいい宣伝だったわけだよ」
「でも、そうだとして、そのタイ人たちはどうして田安さんが死んだことを知ったんですか。かつては名の知れた傭兵だったとして、いまでは東京の片隅で暮らしている一介の老人ですよね」

「さて、そこだな。本当に、一流のプロを、誰かが動かしたのだとしたら。そして、誰かが、本当の目的を世間的にも知られたくなかったのだとしたら、誰かさんとヤクザの利害は一致する。でもな、真、お前は知らんかもしれんが、田安隆三はただの老人じゃない。さんざん人の恨みも買ってるだろうし、今でもあの人を頼る若手は多いと聞くし、傭兵の斡旋や所謂内戦国における情報の売り買いの中継地点みたいな役割は今でも十分果たしているんだよ。ただの傭兵上がりのおっさんってわけじゃないさ。お前さんに対して気の好い老人の顔を見せていたんだとしても、それは一面に過ぎんよ。お前が朝起きてマンションを出て事務所に辿り着くまでの間に、田安隆三が死んだってニュースが東京からタイの山奥に飛んだって別におかしくはないさ。なんせ、東京って街は、犯罪者にとっても安全で居心地のいいところらしいぜ。情報の中継地点になっていても、住民も政治勢力も、誰も気が付かない」

 真はしばらく、仁の指先の煙草の煙を見つめていたが、やがて息をついた。
 そうだ、誰も、信じるに値する顔だけを持って生きているわけではない。

 下の蓮生の主人に会うためには、蓮生千草に仲介をしてもらうのが一番良さそうだった。あの下蓮生の若旦那に会って頼むのは、ちょっとばかりぞっとする。
 その件を仁に告げると、既に仁は浮き浮きしているように見えた。美和ちゃんに言いつけますよ、と言うと、じゃあ口封じに襲うぞ、と巻き返された。どこまで本気でどこまで冗談なのか、時々分からないのが仁の不可思議なところだった。

 荒川に向かいながら、仁に蓮生の歴史について話した。仁は時々短い質問を挟んできた。
「何ともすさまじい話だね。その高貴なロシア人女性は、つまり遊女のようにされていたんだろう? そりゃあ、恨みも籠もって、跡継ぎもいなくなるかもなあ」
 真が『河本』が言ったことを伝える前に、仁はそう言った。やはり北条仁はただ者ではない。真には全く持てない視点だった。

「大方、その下の蓮生の当主が焼き捨てたかったのは、蓮生の負の歴史なんだろうよ。俺にはよく分からんが」
 仁はさすがに教養があるヤクザだ、などと感心している場合ではないが、視点を変えれば見えてくるものもあるのかもしれない。

「日露戦争で日本は形の上では勝利を納めましたが、賠償金は得られなかった。あの戦争はイメージ戦争という側面があります。実際の戦い以上に、メディアが大きく動いた時代だった。詩を始めとした芸術も、宣伝という意味での新聞の普及も、国際社会にイメージを売る手段も、ある意味娯楽に近いものがあった。否が応でも民族意識は高められて、次の戦争に走っていく土台を作ったわけです。しかも、あの戦争では胡散臭い美談が随分作られている。ロシア人捕虜に手を貸す日本人の話とか、処刑する前に敬意を示して握手を交わした、とか、敵味方なく援助する看護師の話とか。その陰でどんなことがなされていたのかは、誰も知らない。勿論、どういった事情で絵や女性が連れてこられたのかは分かりませんが、結果的にロシアはそのまま革命に突入してしまって、うやむやになったことも多いのだと思います」

「そりゃ、あいつの講義か?」
 北条仁は、真の中学高校時代の勉強のほとんどを見てくれていたのが、大和竹流であることを知っている。
「それと、うちの祖父さんと。あの二人は酔っ払っては一晩中歴史論議をしていますから」
「お前は、ぐれてた割にはいい教師に恵まれてたわけだ」

 仁の感想については、全くその通りだと思った。
 父と母には捨てられても、祖父は本当に大事に自分を育ててくれたと思っている。伯父の功には複雑な事情はあったかもしれないが、彼は『父親』になろうと懸命になってくれていた。叔父の弘志もそうだった。真が子どもの頃、まだ高校生だった弘志は、ぐれては家出を繰り返していたが、少し離れたところでいつも守ってくれていたのは知っていた。好奇の目で見られ、苛めにもあっていた子どもの頃、世界は神と人とあらゆる生き物との共存で成り立っていることを教えてくれたのは、アイヌの老人だった。そして、この世界で現実に生きていく方法を全て教えてくれたのは竹流だった。世界が美しく、学ぶべき事で満たされていることを教えてくれたのも、彼だった。

「さて、何が出てくるのかね」
 仁は半分楽しそうに呟いた。真としては楽しむ要素など微塵もなかったが、仁の好奇心を止めるのは無理な相談だった。
 荒川の上蓮生家に着くと、道路に何台もの車が停まっていて、客人もあるのか、仕出し屋の車らしきものまで見られた。近くにボルボを停めて見ていると、仁が口笛を吹いた。
「あれがお前の言う美人か」

 真よりも先に、仁が蓮生千草を認めたようだった。千草は青っぽい色合いの小紋を着て、仕出し屋と女中のやり取りに何やら口を挟んでいるようだった。小雨が降っているので、彼らは門の屋根の下に立って話している。
「法事か何かかな?」
「そのようですね」
 仁がボルボを降りたので、真も助手席のドアを開けた。車を出ようとして一瞬ふらついたのを、仁の手が支えてくれる。てっきり美人に見とれているのかと思えば、いつの間にか側にいる。北条仁が危ないのはこういうところなのだろう。

 車を出ると、途端に千草と目が合った。思わず会釈すると、千草は仕出し屋に声を掛けて、傘を広げると真っ直ぐボルボのほうにやって来た。
 こうしてみると、蓮生千草は背も高く、着物姿で見栄えのいい女性だが、日本人離れして颯爽として見える。仁の好みというよりも、竹流の好みに近い。
「きっともう一度いらっしゃると思っていましたわ。今日はお連れの方が違いますのね」

 その言葉を受けて、仁は千草に挨拶をした。
「関東寛和会仁道組組長代理、北条仁と申します。以後、お見知りおきを」
 さすがに真はびっくりした。いくら何でも初対面の女性に、ヤクザだと名乗る馬鹿がどこにいるのだろう。しかも、それにも増して驚くのは、千草の応対だった。
「上蓮生の主、蓮生千草と申します。こちらこそ、どうぞよろしく」
 肝が据わっているというよりも、ほとんど無謀に近い。千草は顔色ひとつ変えていない。

 口を挟むチャンスもなかった真の代わりに、仁が続けて聞いた。
「法事ですか?」
「いえ、親族会議ですわ」
 一旦、意味深な視線を屋敷に向けてから、千草は真と仁に向き直った。
「あなたは丁度良い日に来られましたわ。蓮生の家の者は、今日は皆ここに居りますから、邪魔が入らないでしょう。下蓮生の主人は、今一人です。近所の手伝いの女性が来ていますが、甘いものが好きですの。千草が言ったと伝えて下されば、問題はありません」

 どうして下蓮生の主人に会いにきたと分かったのだろうと、真は思ったが、千草は人の嘘も見分けられると言っていた。彼女なりの判断の結果なのだろうし、そう考えてみれば、仁が肩書きを偽っても直ぐに分かってしまったかもしれない。
「会議が終われば、下蓮生に連絡を入れます。こちらにいらして下さい」

 ボルボに戻ると、仁は、菓子だけじゃなくて薔薇も添えるか、と呟いた。真は仁に問いかけた。
「いくら何でも、いきなり名乗りますか」
「それもそうだな。けど、目が合っちまったんだよ。嘘言っても無駄ですよ、って目だ」
 確かに仁の外見からして、一般人とはかけ離れている。
「それに、同衾したら直ぐ分かっちまうからな」
「同衾、って」
 仁はボルボを発進させた。
「あなたって人は、懲りない人ですね」
 先を言いかけて、真は留まった。美和の名前を出すのは、多少気が引けたからだ。美和が俺の女だと言った舌の根も乾かないうちに、もう他の女に目をつけているわけだ。しかも、どう考えても口説く気でいる。





さて、竹流が辿った場所にようやく近づくことができそうです。
ボケた老人から、彼について何か聞きだすことができるのか。
次回から第17章『豪農の館の事情』です。
そして、仁の毒舌全開?
2人寄れば文殊の知恵(3人いないの……^^;)、2人の会話から出来事を整理していくと、何が起こっていたのか、見えてくるかもしれません。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨83] 第17章 豪農の館の事情(1) 

DSCN2697_convert_20131026022147.jpg
【海に落ちる雨】第17章です。
フェルメールの贋作を巡って行方が分からなくなっている同居人、大和竹流を探してたどり着いた新潟。
問題の贋作が蔵から見つかったという豪農の館には、複雑な歴史もあったようです。
さて、この章ではその歴史を紐解いていきます。
このあたりから、前半のエピソードを拾って行きます(=謎解き篇。謎というようなものはでてきていませんが)。
前半を読むのが面倒くさいときは、ここから入ってくださっても、意外にいけたりするかもしれません。
前回から、真の旅に付き合ってくれている任侠の男・北条仁の毒舌、全開です(次くらいから?)。

写真の解説。
IL DIVOと嵐の新譜と一緒に並んでいるのは、この物語を書きあげるのに力になってくれた本たち。
内容とは関係ありませんが、頑張って最後まで書こうと思わせてくれた、そんな勇気をくれた本。
『雨月物語』はたまたま並んでいるだけです^^;
この中の『菊花の契り』をテーマに【百鬼夜行に遅刻しました】第3話(秋物語:菊)を書くつもりだったのですが、結局、今、お能の『菊慈童』をテーマに書いています。Stella/11月号に間に合うはず……





 村上まで降りると、駅前で花屋と洋菓子屋を見つけて、薔薇とケーキを買った。意外にも甘党の仁は、ケーキの注文ひとつでさえうるさいほどだった。
 こういう妙なこだわり方は、確かに女がこだわるより男のほうがしつこいこともある。
 同居人の料理全般へのこだわりも同じだ。

 賢二を引き取っていた頃、晩秋にマグロがあがったと大間から連絡があって、早朝から叩き起こされて車に乗せられた。賢二は一体この男は何なんだ、と思ったようだ。
『うるせえオヤジだ』
 思わず呟いた賢二には、真も同感だと思う面もある。

 同居人に言わせれば、食材にはその時、というものがある。それを逃したら本当に旨い物は食べられない。だから、万難を排してその場所に食べに行く、というわけだ。
 うるさいオヤジだと言っていた賢二は、大間で生マグロを口に入れた瞬間から、態度を変えた。一気に尊敬の念が湧き起こった、と言う。

 いくら何でもそれは大袈裟だと思ったが、家族の愛情に恵まれなかった賢二は、本当に旨いものを、つまり心の籠もった旨いものを食べたことがなかったのかもしれない。竹流は、他人を口説くときはまず胃袋を抑えろ、という信念を賢二に対しても実行したわけだ。

 千草から連絡が入っていたらしく、お手伝いの年配の女性は、何の疑問も持たずに真と仁を下蓮生の屋敷に招き入れてくれた。
 門を入るときに改めて周囲を見渡したが、どこに元々蔵が建っていたのか、今となっては分からない。
 空を見上げると、鈍い色の空から細かな雨の粒が降り落ちる。身体が熱っぽいのは仕方がないとしても、それを冷やしてくれるほどの効果はなさそうな曖昧な温度で、ただねっとりと纏わりつく湿度に、身体が一層重くなる気がした。

 お手伝いの女性は仁の差し出したプレゼントに感激したようで、いやに愛想よく、そのまま主の眠る部屋まで案内してくれた。
「しかし、ごっつい家だな」
仁は玄関を入ってすぐの土間から天井の梁を見上げて呟いた。
「こりゃあ、ろくなことはしてねえな」

 耳元に囁かれて真は、え、と思った。仁が不思議そうに真を見る。
「どうした?」
「いや、左耳、聞こえにくくて」
「お前、だいぶ殴られたりしたんだろ。鼓膜でもやられてるんじゃないのか」
 そうかもしれない。
 さりげなく、仁が真の右側に回った。

 お手伝いの女性は、仁と真を蓮生の当主の部屋に通した。家の南の端で、サンルームのような広く明るい部屋だったが、生憎の雨では太陽の恩恵も感じられなかった。
 当主はその部屋の大きな寝椅子に横になっていた。七十と言えばそうかも知れず、八十と言われればそうかもしれない。十分に戦争は二つ、彼の生涯に起こっていただろう。

「旦那様、上の千草さんのご紹介で、お見舞いに見えられたですよ」
 主人の耳元で大きな声を出して、お手伝いの女性は言った。当主はお手伝いの女性の方に顔を向け、それから仁と真に曖昧な視線を向けた。

 真は仁につつかれるように、前に出た。
「私は向こうにいますからね。御用があったらお呼びください」
 女性は真と仁に愛想のいい笑みを見せて、出て行った。せっかく美味しいお菓子を貰ったのだ。ここに長居する理由もなかったのだろう。

 暫く、誰も何も喋らなかった。
 小雨が縁側のガラスの向こうで、穏やかな音を重ねていた。小降りだからか、雀の鳴く声も混じって聞こえてくる。軒下から滴る水音だけが、時々大きく反響した。
「千草の奴め」
 ぼそり、と当主が呟いた。真は思わず仁と顔を見合わせた。
「もっとこっちに来るだ」

 恐らく、蓮生千草は真と美和と話をしてから、この当主が本当はぼけていないことを確認しに来たのだろう。
 その時に、千草とこの当主の間でどんな会話が交わされたのだろう。
 真と仁が側に寄ると、当主は脇の椅子に座れというように、僅かに右手を上げた。取り敢えず言われるままに真は座り、仁は多少離れて真の後ろに立った。

「お前は何で首さ、突っ込むだ」
「友人を探しています。彼はこの家から見つかった絵のことで、行方不明になっています。あなたが何かご存知なら、教えて頂きたいんです」
 暫くの間、当主は視線を宙に浮かせていた。その沈黙の間に、やはりこの人はボケている、と言われたらそうかもしれないと思い始める。

「絵か。あれがみんな悪さをしとる」
「誰が絵を欲しがっているんですか。本物か、もしくはそれに近いものが?」
「本物? あれらはみんな贋物だ。そう言われてわしの親父が預かったんだ。今更、本物かどうかは知らん」
 仁が落ち着けというように、真の肩に手を置いた。

「あなたのお父上に預けたのは誰なんですか」
「わしは子どもだったし、よう知らん」
「ロシア人の女性も、ですか」
 下蓮生の当主は皺に埋もれた目を開けた。

「わしもよくは知らね。ロシアで革命が起こった時に、国から逃げ出さなければならなかった人間もおったんだろ。下にも置かない扱いだったんだ。けど、約束の日が過ぎても迎えは来んかった。蓮生には預かり物がそのまま残ったんだ」
「他にもロシア人がいたのか?」
 質問したのは仁だった。

「あぁ。戦争の後、暫くして、どういう種類かは分からんが、大層偉そうな人間が出入りするようになった。連れて行かれた人もようけおった。捕虜や処刑された者もおったかもしれん。女は残されたけんど、扱いに困ってそのうち蔵で生活するようになった。あれは座敷牢みたいなもんだった。綺麗な顔して、綺麗な服を着ておった。時々」
 当主は何かを言いかけて留まり、絡んだ痰を吐き出すような咳をした。そして一息ついて、続けた。

「その頃から、蔵にまた預かりもんが増えだした。女は時々妙な歌を歌うようになったり、急に泣き出したりするようになって、ある時から姿を見んようになった。それから、昭和になって蓮生の血筋の男子は、次々に死んでしもうた。呪いだ、皆、そう言っとるべ」
 呪い、と言われて、なるほど、とはさすがに思えなかった。

「預かり物の中に、絵があったんですね」
 当主は暫く口の中でもそもそ言っていたが、暫くして多少はっきりした声で言った。
「絵だけではなかった。けど、十年ほど前、絵を見せてくれと言ってきた男がいた。どこで聞いてきたのかはわからんけんど、しばらく絵を調べてから、売ってくれないかと言いよった。売ると言っても、親父も亡くなっとるし、元は誰のものかも分からん、それは無理な相談だと言った。けんど、七年くらい前から県の文化教育課だの、どっかの大学の先生だのがやって来るようになった。新潟の古いものを集めて美術館を作るだの、どこかに寄付できるものはねぇかだの、煩くなった。そうしたらまた、蔵で夜になると女が泣き始めた。恐ろしいなって、火を点けることにした」

 当主は疲れたのか、一旦黙り込んだ。
「けども、全部は燃えんかった。幸い日誌やらは皆燃えてしまっていたし、もうあん頃のことを知っとるのはわしだけだ。例え何か見つかってもうちの者は知らんかったことで済む。それでええと思った」
「その、十年ほど前に絵を売って欲しいとおっしゃった方は、幾つくらいで、何を売って欲しいと言ってこられたんですか」
「若い、あんたよりももう少し年を食ったくらいの、三十になるかならんかの男だった。絵は、詳しくは分からんけど、オランダの何とか言う画家の絵が欲しいと言うとった」

「フェルメール」
 真がその名前を出しても、当主は首を横に振っただけだった。違う、というようではなく、分からないという様子だった。
 当主はうつらうつらとし始めたように見えた。ボケているというのが芝居であっても、年齢を考えれば十分に現世と夢の世界を行き来してもおかしくない。
 真は、まだ何か大事なことを聞き出せていないような気がしたものの、どう切り出していいのか分からなかった。

「ところで、爺さん、あんたわざわざボケたふりまでして隠し通そうとしたものを、何でまた急にしゃべる気になったんだ?」
 突然、仁が強い語気で言った。真は思わず振り返って仁を見上げる。
 当主は目を開け、それからまた閉じた。一瞬、笑ったようにも見えた。
「墓場に持って行くだけじゃあ、面白くないと思ったわけか?」

 仁の更なる突っ込みに、当主はもう一度目を開けた。
「千草は言いよった。もう家には継ぐものもいねえ。村から若い者は皆都会に出て行く。蓮生の家では跡継ぎの男子はもう、時政んとこの倅しかいねぇ。千草は時政んとこの倅を養子にするつもりだったけど、それはなんねぇと言いにきよった。千草はわし等に恨みを持っとる。蓮生が滅びたほうがええ、と思っとるんじゃ」

「千草さんは御結婚されていないのですか」
「千草の婿は死んでしもうたんだ」
 真はほんの少し息をついた。
 実のところは息苦しくなってきていた。身体が熱っぽく、脈が速くなっていた。仁がその気配を察知しているように、真を支えるように直ぐ後ろに移動してきた。

「お前さんが探しとる、いうのはどんな人だ」
 蓮生の当主の質問は、奇妙に優しげに聞こえた。真は思わず身体を乗り出した。
「美術品の修復師です。日本人ではありませんが、主に屏風絵や浮世絵、それに宗教画を扱っている」
 暫くの時間を置いて、当主は真の方を見た。

「半年ほど前、背の高い綺麗な青い目をした男が訪ねて来たべ。その男が来たのは二度目だった」
「二度目?」
「始めに来たのは、三年か四年ほど前だ。お前さんが今言った、なんとか言う画家の絵を元の持ち主に返したいと言ってきよった」
「元の持ち主に返したい?」
 そういうことだろうと思っていた言葉が投げ掛けられて、真は何故かほっとした。

「ソ連のどこぞかに住む爺さんが死に掛けとって、絵をもう一度見たいと言っとると、そう聞いた。けんど、火事の後で、結局うちの馬鹿息子が蔵の中のものを処分した後だった。ほとんどは上手く丸め込まれて寄付したり、二束三文でどこぞかの蒐集家に売っ払ってしもうとった」
「その絵は、県に寄付された絵だったのですか」
「何処へ行ってしもうたかはわしも知らん。そのように言ってやった」
「それで、何故もう一度、彼は訪ねて来たのですか? 何と言って?」

 当主は更に躊躇ったようだったが、漸く決心したように尋ねた。
「その人は、あんたの何だ?」
「何、とは」
「あんたは警察でもないのに、何故その男を探しとる」
 真はどう答えていいものか、考えた。だが、その返事は仁が横から掠め取るようにして、強い語気で答えた。

「その男はこいつの親兄弟も同然だ。この世のどんな絆より深い縁で結ばれてんのさ。だから、ヤクザに無謀に突っ込んでいって、身体は傷だらけ、薬で頭は朦朧としてる。爺さんが協力しないんなら、下手すると、どっかに化けて出るかもしれん。そうなったら、あんたもあの世でも寝覚めが悪いだろうよ。なんせ、こいつは霊感が強くて、小さい頃の遊び相手は伝説の小人ときてる」
「仁さん」
 何故仁がそんなことを知っているのだろうと思った。大体、竹流にもそんな話をしたことがない。その理由の一部は、竹流がオカルトや幽霊の類を嫌っているし、信じてもいないからだ。

 仁の言葉は相手をおちょくっているようで、半分は脅しに近い。だが、意外にも効果は覿面だった。
「もう一枚、同じような絵があるはずだと言ってきよった。それは、第二次大戦の前後で、蓮上が預かったはずだ、と」
「同じような絵?」
 この話は、寺崎の言っていたことと一致する。絵は、二度日本にやって来た、と。だが、もう一枚、とはどういうことだろう。同じ絵が二度、海を渡ったという意味ではなかったのか。
「同じオランダの画家の絵だと言っておった。知らんと、答えた」

 真は何となく引っ掛かっていた事に漸く自分で気が付いた。
「あなたは、その時にはもう、ボケたふりをしていたんじゃないんですか? 彼とは話をしたということですか? 何故?」
 当主は少し、引きつったような顔をしたが、答えなかった。迷っているのか、何かが引っかかったのか、目を閉じて真の質問をやり過ごしたように見えた。

 だが、真の後ろに立っていた仁が、断定的に言った。
「青い目に金の髪を持っていたからだな」
 真は思わず仁を振り返った。振り返るなどという余計な動作をすると、身体がふらつく。その真の肩に仁の手が触れた。
「俺は絵の事はよく分からんが、どうもその女の事が気になる。あんたの話を聞いてると、俺と同じで絵の事はよく分からん、けど女の話は随分具体的だ。何というか、あんたが気にしていたのが分かる。そのロシアの女は、大方金髪碧眼、つまりこいつの探している男と同じ髪と目の色をしていた。あんたは、その目の前では、ボケたふりをし通せなかった」

 当主は長い息をついた。
「呪いを解きたきゃ、事実を話すことだな」
 仁と一緒に来てよかった、と思うのは不謹慎かもしれないが、自分ではここまで威圧的にはなれないだろう。真はそう思って、仁に倣って暫く黙っていた。
 仁の手が肩に乗って、僅かに真を支えるようにしてくれている。
「女が埋められるところでも見たか?」

 真の肩の上に置かれた仁の手に力が入った。真はびくっとして、思わず老いた当主の目の奥を見つめた。
「爺さん、世の中そうそう呪いなんてあるわけがない。けど、あんたはそう思っている。理由があるはずだな。それもかなりインパクトのある理由がな」
「呪いを解く方法が分かるべ」
 当主の力のない言葉に、思わず真は彼の長年の苦悩を払ってやりたいと思った。

「蓮生さん、昭和になって男子が亡くなって、跡継ぎがいなくなったとおっしゃいましたけど、大きな戦争の時代です。呪いでなくても、多くの男性が戦争で亡くなっている。しかも残された子どもや老人も、衛生状態の悪い状況の中で、病気になることも多かったはずです。蓮生家に限ったことではありません。それにあなたの言うとおり、生活のために古い田舎の家を捨てた人もいたのでは?」
 それから下蓮生の当主は長い間黙っていた。

 再び雨足が強くなった。真の脈は、自分ではっきりと感じるほどに速くなってきた。身体が熱く、震えていた。やがて下蓮生の当主は、ゆっくりと語り始めた。

「わしは子どもだったで、その女に何が起こっとたのかは、よう分からんかった。時々、大きな見たこともねぇ車で人がやってくると、奥の部屋が騒がしくなっとった。それから急に静かになって、皆が薄暗いところで話し合っていたりもした。暫くすると声が聞こえてくるんだ。女が泣くような、叫ぶような声だ。何人もの男が女を取り囲んでいた。暗うて小さい明かりの中で、女の髪の毛がきらきら光っとった。見たのは一度きりだが、何やら恐ろしゅうて、あとは分からねぇ。何年かそんなことが続いとった。ある時、夜中に便所に起きたら、蔵の中から明かりが漏れとったんだ、覗いたら、穴を掘っとった。黒い布団みてえなものから、きらきらした髪が見えとった。次の戦争のときには、わしの親父も、上蓮生の伯父も、みんな死んでしもうた。蔵にはいつも女がいたんだ。年も取らず、いっつも娘のようだった」

 真は古い家の歴史を背負ってしまった当主の、薄く白くなった髪の毛を見ていた。子どもの頃に見た正体のはっきりしない幻影。それに縛られたまま大人になり、老人になり、常に恐れて生き、そしてこのまま亡くなっていくのだ。自分の一族が高貴なロシア人女性を慰み者にしていた羞恥に満ちた歴史を、背負ったまま。
「大方、呪いを成就する秘密の儀式でもあったんだろうな。実際、女の死体が蔵の下に埋まってる可能性はあるだろう。掘り出して供養してやったら祟らないだろうよ」

 真は思わず仁を睨んだ。言い過ぎだと思った。しかし、仁は真に意味深な視線を送っただけだった。それから、聞きたいことを聞けよ、という顔をした。
「第二次大戦の前後にもう一度絵を預かったときの事を、何か覚えていませんか。あなたは戦争へは行かなかったのですか?」
「結核を患っとって、家から離れておったから、その間のことはわからんべ。親父がもう老いて、家に残っとったから、どうにかしたかもしれねぇ」

 仁が椅子を引っ張ってきて、どん、と音を立てて座った。
「おい、爺さん、本当のことを言ってやれよ。お前さんの見た幻の話で十分だけどな」
 隣に座った仁が、さりげなく真の腕を握っていた。身体が辛いのは分かっている、というようだった。
 暫くの沈黙の間、雨の音が何かを訴えかけるように天から落ち、地面に沁み入り、深い地中で何か得体の知れないものを育てていた。真は思わず込み上げてきた嘔気を飲み込んだ。

「わしが子どもの頃までは、蓮生の家の子どもは、本家も分家も皆、本家で暮らしとった。わしは体が弱くて病気ばかりしとったんで、よう分家の離れに閉じ込められとった。昭和の戦争の時、結核で出征できんかったわしは、その時も離れに隔離されとったんじゃ。家のものはみな、わしのことを長くはもたねえと思っとったろう。寝込んでたわしのところに親父が見舞いに来て、そん時、親父が布に包まれた四角いもんを持っていたのは覚えとる」
「四角いもの? 中はご覧になったのですか?」
 当主は、宙を見ていたが答えなかった。真は、その目に一瞬、怯えのようなものが走ったのを認めた。

「その時も、蔵には女がいたのか?」
 仁が畳み掛けるように聞いた。
「いっつも女はあそこにおったんだべ」
 現実と妄想がない交ぜになっている話は、半分は差し引かねばならないだろうと思ったが、宙を見つめたままの当主の目は、彼にとっての真実だけを語っていたのだろう。

 不意に、その宙を彷徨っていた目が、真の方に向けられた。
「あんたが探しとる男は、綺麗な目をしとった。これだけの歴史を背負った家を守るのは大層なことだろうと、わしの手を握ってくれよった。だが、国も文明も家も、滅ぶべきときに滅ぶもんだと、そう言っておった。あんたはロシアから来たんかと聞いたら、そうじゃない、南の国だと。けど、自分には北の血が混じっているんだと、だからどこにいても中途半端なんだと、そう話しておった。みな誰もが、自分の居場所を求めてさまよっているんだと。わしはついぞそんなものは見たことがなかったけども、天使か綺麗な悪魔か、もしかすると神かも知れねえ、そう思ったんだ。だが、よく使われたえぇ手をしておった。昔、蓮生の家に出入りしとった大工と同じ、誇りを持った職人の手じゃった」

 真は黙ったまま、膝の上の手を握りしめた。
「何故、絵を探してるのかと聞いたら、一度目に来たときは、哀れな老人のためだとそう言っとった。二度目に来たときは、絵のためじゃと」
「絵のため?」
「どんな絵にも、そこに描かれた理由があり、魂があるんだと。この世に現れた理由がちゃんとあるんだと、だからその魂の還る先を見つけてやらにゃあならないと、そう言っとった」
 竹流らしい、と思った。
「あんたにとって大事な人だったんだべ」真はただ頷いた。「早く見つかるとええな」
 厭味ではなく出た言葉に思えた。



Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 10   

[雨84] 第17節 豪農の館の事情(2) 

DSCN2496_convert_20131027161612.jpg
さて、仁の毒舌、いよいよ全開です。
いささか色っぽい内容も、仁が言うと、なぜかスポーツみたいに聞こえてしまう、この人はそういう人なんですね。
先のことはさておき、この『海に落ちる雨』では清涼剤。時には助け励まし、時には厳しいことをずけずけ言い、時には真っ先に駆けつけて助けてくれる。そんな彼も、美和のことになると、自分をちょっとばかり見失う……というのか、自分でどうしていいのか分からないのかもしれません。
真相手なら、余裕綽々なんですけれど。

さて、余裕綽々なので、とんでもないことを言っていますね。
5年で落とす……いいのか、そんなこと言って。
あの人が化けて出るよ?(あ、まだ生きているはず……)




 お手伝いの女性が覗きに来て、お茶が入ったと告げた。
 当主は目を閉じて、今度こそ中途半端な眠りにつこうとしていた。
 真は、女性の案内で、仁と一緒に玄関近くの土間脇の囲炉裏端に座った。よく磨かれた床には、天井の梁が映ってさえいる。

「千草さんが、連絡するまでここでお待ちいただくように、と言っていましたよ」
 そう言って、女性はどこかの料亭から届られたようなお膳を並べた。
「お姉さん」仁は年配の女性に優しく呼びかけた。「お名前を教えて頂かないと、呼びにくいなぁ」
 仁の贈り物に気を良くしている女性は、まさか仁がヤクザだとは思っていないだろう。
「吉川といいますだ」
「下の名前だよ」

 何を言うの、というように手を振って照れながら、女性は弥生、という垢抜けた名前を名乗った。
「弥生さん、ちょっとこいつを横にならせてやってくれないか」
 吉川弥生という麗しい名前のお手伝いは、事情を確認して、真のために簡単な敷物と掛け布団を運んできた。
 遠慮しようとしたが、仁の強引さに負けた。仁は仁で、真を自分の側に寝かせると、やっと安心したような顔をした。

「ところで、弥生さん、蓮生家とは長い付き合いなのか」
 仁の向かいに座った、こじんまりとした姿形の女性は頷いた。
「そりゃあもう、うちは、古い時代から蓮生の本家の番頭でしたんで」
「番頭?」
「へぇ。蓮生の家が北前船を扱こうとった時代からです」
「じゃあ、親戚じゃないわけか」仁の声が、床を通して耳の骨に直接響いてくる。「今日は何やら親族会議らしいが、何か揉めてるのか」

 投げやりな言葉遣いなのに、親密さがある仁の声は、年配の女性にも警戒心を抱かせていないようだ。
「そりゃあなた、千草さんには子どもがないんで、跡継ぎを決める会議ですよ」
「蓮生千草、ってのは独り身なのか」
「旦那さんはおったですがね、結婚して直ぐに亡くなられました。その後、婿に入る者がおりませんでしたからね」
「あれだけの美人だ、引く手数多に思えるがな」
「あん人は、異人の子だ言うて、気味悪がる男が多かったですから。お可哀相ですけどね。ここの若旦那に比べたら、ずっと立派な当主だと思いますけんど、上手くいかないもんですね」
「異人の子?」

 真が横になったまま気配を窺っていると、吉川弥生は少し仁と真のほうへ膝を進めたようだった。聞き耳を立てる人などいないだろうに、秘密の話をするような、少しトーンを落とした声で話す。
「昔、蓮生の家が預かった異国の娘さんが産み落とした子どもの、そのまた子どもってわけですよ。噂ですけんどね」
「へぇ、そりゃあまあ、えらく込み入った話のようだな。で、誰がその美人の養子になるんだ?」
「時政さんとこの倅ですだ」

「時政?」
「ここの旦那さんの脇腹の子どもなんですよ。県庁に勤めてましてね、病弱なんはここの旦那さんの血ですかね、また呪いで死んでしまうんじゃないかって、ここじゃ皆心配してますよ」
 跡を継いだだけで死んでしまうのでは、割が合わない。だがいずれにしても、呪いにはやはり根拠はなさそうだった。
「それにね、ここだけの話ですけんど、女の人に興味がないんだって、噂なんですよ」

「そりゃ、つまりあっちの趣味があるってことか?」
「東京の大学で美術の勉強してたそうですけどね、芸術家っていうのはそういう人が多いそうですね」
「芸術家だけじゃない、ヤクザにも警察官にも自衛隊にも多いんだぜ。昔は寺の坊主どももそうだったって言うじゃないか」
「あら、そうなんですか」
 仁の巧みな話術にすっかり嵌まり込んだ吉川弥生は、蓮生家のあれこれを洗い浚い話してくれそうだった。恐らくこの界隈では、蓮生の家はゴシップの格好の対象なのだろう。

「寺じゃ女色は御法度だが、男色は構わなかったのよ。寺小姓ってのはその相手をするためにいたっていうからな。男ばっかりの環境じゃあ、自然師弟愛が高まるって事もある。ギリシャでもそうだ。年上の男が教育を含めて年下の男の身体を可愛がるってぇのは公認の愛の形だったんだ。それに男ってのは支配欲が強いからな、相手を組み敷くときにはそいつの身体も精神も、ものにしている満足感に浸りたいんだよ。それにあっちの方は、一度味わってしまうと、女では味わえないような気持ちよさなんだ。する方もされる方もな。女のあそこより締まりがいいし、されるほうは前立腺を刺激されるともう狂ったように気持ちがよくなる。もとから男ってのは穴があれば何でも突っ込みたいって性根なんだ、それが半端なく気持ちいいとなりゃあ、嵌っちまってもしかたがないだろう? 根っからのホモじゃなくても身体の方でたまらなくなっちまう。しかしまあ、そういうのは恥ずかしい話でも何でもないんだ。それは単なる嗜好の問題で、どういう交合いが気持ちいいかってのは、人それぞれだからな」

「いやですよ」
 吉川弥生は満更でもないように話に乗ってきていた。仁は、ちょっとした秘密を共有する印象を、弥生の頭に植え付けたのだ。
 それにしても、自分を棚に上げて、よくもそんな事を話しているものだと思った。この女性は、仁もそういう人種の端くれと知ったらどう思うだろう。もっとも、仁の場合はバイセクシュアルだが。

「で、その時政の倅には相手がいるのか」
 すっかり仁の話術に引っかかっているらしい吉川弥生は、ひと膝、仁の方へ寄った。
「そうなんですよ。それが、うちの息子が見たんだってえ。弥彦に住んでる人だそうですよ。随分年上の人みたいですけどね。何でも、フランスに留学してたことのある人だそうで。フランスにもそういう人、多いんですよねえ」
 思わず真は跳ね起きた。仁が驚いた顔をしている。

「それって、まさか」
「何だ、お前知ってるのか」
「弥彦の江田島、という人じゃ」
「名前までは知りませんけどね」
 吉川弥生は、有意義な情報を提供できないのが悔しいとでも言うように、少し残念そうに答えた。

 真は仁に布団に押し戻された。そうしながら、仁は弥生を刺激するように、わざとらしく声音を作ってみせる。
「うーん、しかし、そう聞くと、確かに呪いという気がしてきたな。うん、確かに、呪われとる。女の怨みは怖そうだ」
 真剣な表情で仁が分析する様を見ながら、吉川弥生は楽しそうに笑った。
「蓮生には女の幽霊がついてるって噂ですからねえ。私が娘の頃に、そういう地元の噂話を集めた雑誌が出てましたよ」
「弥生さんが娘の頃っていうと」
「もう二十年以上前のことです。いやですよ」
 吉川弥生は照れたように手を振る。

「地元の噂話ってのは面白そうだな。ちょっと聞かせてくれよ。他にどんな話があったんだ?」
 仁もますます身を乗り出すようにしている。仁が単純に興味を示しているのか、弥生をその気にさせて何かを聞き出そうとしてるのか、真にはさっぱり分からなかった。
 多分、どちらも本当なのだろう。
「蓮上に関係していると皆が噂していたのは、ロシアから連れてこられたお姫様の話でしたよ。足を切られて蔵に閉じ込められてるって。あとは、佐渡のどこかから古い翡翠の仏様が掘り出されて、それが家の戸口に立ったら家が繁栄するとか、どこかの祠に秘密をひとつ書いて置いておくと、その秘密と引き換えに鉄やら金やらが貰えるとか」
「傘地蔵か何かみたいな話だな」

 確かに、座敷わらしや蘇民招来伝説みたいに、よくある民話のステレオタイプの物語に聞こえる。だが、民話や噂話に紛れさせて、本当のことを残しておくというのはありがちなことだ。それはある意味では、悪質なできごとへの抑止力、もしくは脅迫に使えるからだ。
 足を切られるというのは、ある意味、恐ろしく現実的な内容だ。

「それで、弥生さんよ、本家の血筋はもう途絶えたって聞いたけど、屋敷はどこにあったんだ?」
「ご先祖はもともとは奥州藤原氏と関係があったとか、源義経の子孫だとか、言われてますけどね。鎌倉幕府の追っ手から逃れて羽黒山で山伏になったとかいう話もありましたっけねえ。江戸時代には村上に大きな屋敷を構えてて、座敷には金屏風を立てまわして、蔵も四十八、いろは蔵って言ったそうですよ。その頃には荒川の土地はほとんど蓮生の持ち物でしたからね、村上に分家を残して、いつの頃か関川に移ったそうですよ」

 そんな民謡があったな、と真は思いながら聞いていた。まさに、よくある眉唾の歴史だ。
 だが、百の嘘っぽい話の中に、ひとつだけ真実が混じっていることだってある。
 今、まさにその一つを手繰り寄せようとしている。どれが本当の話なのか、どれが贋作ではなく本物の絵なのか、あるいは全て嘘と偽物ばかりなのか、何の手がかりも与えられないままで。

 暫くすると、吉川弥生ははっと気が付いたように席を立った。
 自分の家の昼の仕度に戻らなければならないという。小一時間で戻るので、ゆっくり食事をして欲しいと言って、吉川弥生は少しの間の暇を告げた。仁と話すのが楽しかったのか、明らかに残念そうな顔だった。

 彼女が去ると、仁が伸びをして、真の顔を覗き込んだ。
「お前、何か食えるか?」
 真が首を横に振ると、仁は納得して自分は食事を始めた。
「仁さんには感心します」
「何がだ?」
 真が黙っていると、仁は刺身を口に放り込んだ後で、にやりと笑った。
「連れてきてよかったろ? 俺には絵がどうだの、戦争の歴史的背景だのはわからんからな。代わりに、人間の欲望には敏感なだけさ」

 仁の一刀両断的な話の切り取り方には、時々無茶だろうと思う面もあるが、逆にそういう割り切りが真実に近いと思う時もある。
「世の中、男と女が乳繰り合うので成り立ってるんだ。例えばな、さっきの爺さんの話もそうだ。蔵の中で男どもが綺麗な異国の女を慰み者にしてたってのも、蓮生家の呪い、って面白い話を刷り込まれた爺さんが、子どもの頃に見た僅かばかりの記憶から物語を作り上げただけかもしれないぞ。実際は、女の方も満更じゃなくて、ただ乳繰り合ってただけかもしれない。まだ子どもだった爺さんには、女が苛められて泣いたり叫んだりしていたように見えたかもしれないけどな、気持ちよくても泣いたり叫んだりするわけだ。爺さんはその後、潜在的に蔵や奥の部屋がおっかなくなって、何が起こってもそれに結び付けてしまうようになる。お前の同居人が来たときも、爺さんは『お使い』が来たんじゃないかと思ったろうよ。それでボケてるふりができなかった、って気がしないか?」

 確かに、子どもの頃に見た瞬間の場面が意識の底に残って、それを核に現実と僅かにずれただけの物語が作られてしまうことはある。それについては、真自身もそういう物語に取り込まれてしまっているのかもしれない。
 こうしてあっさりと面白そうに語る仁にも、あるいは満州での深い記憶の傷があるのかもしれない。

「それに何ですか、女じゃ味わえないような気持ちよさだとかって」
 思わず呟くと、仁がにやりと笑った。厳つい顔つきなのに、こういう笑い方をすると、この男は本当に色気がある。
「試してみるか」
「だから、遠慮しますって。俺が言っているのは、そういうことを女性に言いますか、ってことです」
「お前も本当はそう思ってるってことだな」
「何も言ってません」
「いや、あの男はノン気だからな。ちゃんとやり方を知っているとは思えん。どうせそういう場面になれば、ひたすらがっついてくるんだろう。相手の身体が女と同じだと勘違いしてやがる。俺なら大事に、痛くも苦しくもないように、ただただ気持ちよくなるように抱いてやるぞ」

 真が仁を睨んでいると、仁は面白そうに笑って、寝転がったままの真の頭を撫でた。半分はからかっているだけだと思うものの、あとの半分はそれだけではないようで、それが恐ろしい。
「お前、本当に大丈夫か」
 突然、仁が心配そうに尋ねてきた。真は頷いて、それから身体を起こそうとしたが、仁に止められた。
「悪いことは言わん。できるだけ横になってろ」

 真はそう言われて、目を閉じた。
 今いる場所が、自分自身との関わりの中で、何故かひどく不安定なものに思える。足下が覚束ないからだとはわかっていても、この土地に来るたびに感情が大きく揺れ動かされているような気がする。
 色々な出来事が、この新潟で重なっているのだ。

 何度も繰り返される地名。
 竹流が残していた唯一の手がかりは新津圭一の事件の記事だった。その事件の頃、竹流は新潟で仕事をしていた。新津圭一の残したフロッピーにはIVM、竹流の残した額縁は十七世紀のオランダのものに相応しいもので、実際には新潟県庁の会議室のフェルメールの贋作に使われていた。その絵が出たのは、蓮生家の蔵からだった。
 新津圭一は新潟の出身だ。彼自身の出身地で起こっていた事件、記者であった彼が掴んだ某かの証拠。彼は記者倫理を侵し、情報を強請りのネタに使って自殺したことになっている。
 新津圭一の愛人だった香野深雪、彼女もまた新潟の出身だ。彼女の両親は糸魚川で古い時代の収賄事件に絡んで自殺している。
 もう一人、新潟に関係のある人物がいる。村野耕治だ。

 言葉遊びのようなものだ。何から何を連想するか、赤いのはりんご、白いのは兎、そういった程度の曖昧な連想。
 他にも、この北陸の地名をどこかで聞いている。
 竹流が火傷を負ったのは佐渡だった、と聞いている。寺崎昂司を庇ったという火傷だ。だが誰も『そう聞いている』という次元の話で、現場に居合わせたわけではないので、竹流の言葉をそのまま繰り返しているという印象を受ける。竹流と寺崎昂司の間だけにある何か、それを他の仲間たちは決して面白いとは思っていない気配がある。
 佐渡にあるという竹流の隠れ家。その存在が真をある意味では傷つけている。

 何となく引っ掛かっている中に、どこかでもう一度北陸の話を聞いた気がしたが、思いだせなかった。
 キーワードになっている地名はひとつではないのかもしれない。
 もうひとつの地名、それは異国だ。

 ソ連のキエフ。ロシアの皇帝の血族の生き残り。今の体制の中では息を潜めて暮らしている。貴族という特権階級は、崩れてしまった過去の遺物でしかない。しかし、その老人が死を前に儚い夢に縋りついても罪にはならない。竹流は、死に瀕した老人に絵を返してやって欲しいと、そう蓮生の主に言ったようだった。竹流自身もまた、貴族の血統だ。イタリアの貴族、しかも以前聞いた話では、母親はスウェーデン貴族の出身だという。
 その老人からの依頼を受けた時点では、竹流の仕事はいつも通り『楽しい』仕事だったはずだった。ところが、彼がウクライナに行くたびに、事情が変わっていったという。

 でも、何故、死にかけた老人は、贋作などを返して欲しいと言ったのだろう。寺崎の言っていた、特別な贋作、とはどういう意味だったのか。
 楢崎志穂の友人、御蔵皐月は絵の勉強をしにソ連に行ったという。しかし、何故ソ連なのだろう。絵の勉強をしに行くのにメジャーな場所とは思えない。勿論、美の殿堂のひとつ、エルミタージュがあるわけで、おかしいとは思わないが、選択した理由はなんだろう。そして、彼女は『お父さん』つまり村野耕治の息子に会ったといった。
 御蔵皐月は、村野に才能を見込まれて、絵の勉強をしていた。パリに留学していた、と。
 パリに留学して絵の勉強していた人間が他にもいる。江田島道比古。フランスはフェルメールとも関わりがないわけではない。十九世紀にフェルメールを一躍有名人にしたのはトレ・ビュルガー、フランスの批評家兼美術商だ。

 だが、事件は日本国内で起こっている。竹流は、遠くへは行かないと言っていた。つまり、異国に行くわけではない、という意味だったのだろう。きっかけがソ連にあったとしても、今、事態が動いているのは日本の国の中、しかもこの新潟の地に思える。
 とすれば、竹流はここにいるのではないのか。
 それはあまりにも短絡思考だろうか。
 新潟に向かう夜行の中でも、新潟のホテルでも、ずっと彼の夢を見ていた。自分の霊感が役に立つなどと言うつもりはないが、少しばかり他人より強いという気もする。何より、彼の事に関しては、妙な勘が働くという自負もある。
 勿論、単に自分を慰めているだけなのかもしれない。少しでも彼に近づいていると思いたいだけなのだ。

 ふわりと大きな暖かい手が頭に置かれた。錯覚を捨てたくなくて、目を開けなかった。
「抱いてやろうか?」
 北条仁が、いい気分を一気に吹き飛ばす強引さを持っていることを、忘れていた。
「遠慮します」
 目を開けてそう言った瞬間、仁に抱き起こされた。そのまま抱き締められて、真は思わず抗う瞬間を逃してしまった。
「仁さん」
「心配すんな。何もしないよ」
 だが、仁の腕の力は強かった。
「だったら、放してください」
 何か言葉を継いでいないと自分自身まで流されてしまう気がする。
 仁は腕の力を緩めないまま耳元で囁く。幾分かだみ声がかった低い響きが、直接胸から伝わってきた。
「何か、急に愛しくなっただけだ」

 危ない男だ。仁がいい人間か悪い人間かは未だに判断がつきかねる。唐沢の言うように、じわじわ攻めてくる、というのはあながち間違いでもない。今日は何もしないけれど、いつかは、という根深い強引さも、仁は持っている。
「離してください」
「お前、俺に借りを作ってるはずだろ」
「分かってますけど、それとこれとは別でしょう?」
 仁は暫く黙っていた。何を考えているのだろうと思った時、真の頭を強く抱いた仁が耳元で囁いた。
「五年でお前を落とす」
「何を」

 真は漸くそれだけ言った。真剣で怖い声だった。真の身体には抗う力が残っていなかった。
「お前が今弱ってんのを知ってて、つけ込んでるんだ。恐ろしく不安で寂しい、万が一にもあいつが帰ってこなかったらどうなるか、考えたくなくても身体の奥で渦を巻く恐怖がある。それを俺にぶつけてもいいぞ?」
 そう言って、仁は真の顔を両手で包みこむように覗き込んだ。真剣で怖い目だと思った途端、仁がにやりと笑った。
「深刻に聞いてるな。いい兆候だ」
 そう言ったなり、仁は面白そうに笑った。冗談なのか、と思う反面、恐ろしい気もした。
 仁は真を抱きとめて支えたまま、頭を撫でるようにしている。
「さあ、名探偵、ちょっと謎解きの一端を聞かせてくれないか?」




あれあれ。
仁には気をつけましょう。本当に、いつか口説き落されます。
次回で第17章は終わりです。割と短かったですね……(私にしては)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 6   

[雨85] 第17章 豪農の館の事情(3) 

【海に落ちる雨】第17章(3)です。
一部15Rに相当する言葉が出ておりますので、ご注意ください。

今回で第17章は終了です。
真が事件の一部を紐解いています。仁と一緒に話を聞いてみましょう。

ただ今、石紀行も並列して連載中です。佐賀の巨石パークへご案内しております。
よろしければご鑑賞ください。





「さあ、名探偵、ちょっと謎解きの一端を聞かせてくれないか?」
「なんですか、それは」
「だって、お前、推理小説なんかでは、名探偵の謎解きのコーナーがあるだろ?」
「それは大概、物語の終わりでしょう? まだ何も見えちゃいない」
「何、俺の見たところ、この件は簡単には解決しない類の事件だ。そうだろ? だから、謎解きは最後じゃなくていいのさ」

 何のことか分からないまま、真は仁から離れようとした。しかし、仁は離そうとしない。
「仁さん」
「誰も見てねぇよ。それに、お前、自力で座ってんのもしんどいんだろ」
 真は答えることもできず、結局は仁の肩に頭を預けたままだった。

「謎解きって言われても」
「何か分からんけど、ややこしい話みたいだからな。けど、どこか一か所が解れたら、全部ばらけてひとつひとつ明らかになるような場合もあるんじゃないか? ある鍵穴に鍵が入りゃあ、一気に城が崩れる」
「そんなに単純だったらいいですけど」
「後に残るのは、人の欲だけだ」
「人の欲」
 真はぼんやりとその言葉を反芻した。

「そうよ。愛でもいい、執着でもいい、そういう類のな。そういうのは単純じゃないし、ほっとくしかないからな。永遠に解決できねぇ。例えば、俺だって、一番愛してるのは美和だと言い切れるけど、それだけじゃ収まらない。そういう欲求はどうしようもないわけだ。物事を複雑に見せるのは、人間の欲だけだよ。お前が謎解きの説明をしてくれたら、俺が最後の鍵穴に突っ込む鍵を見つけてやれるかもしれないぞ」
 真はついに諦めて仁に身体を預けた。

 そうかもしれない。どれほど意地を張っても、今は身体が思い通りに動かない。こうして体重を預けてしまうのも、欲だというなら、そうかもしれない。
 仁は真が重みを預けたのを感じたのか、黙って抱く腕に力を入れてきた。

「十年前、恐らくヨーロッパのどこかの国で、誰かがフェルメールの『貴重な本物』がある絵の下に塗り込められていると聞いたんですよ。竹流の仲間は、それが『特別な贋作』と言ってたけど、それは表が贋作だからです。特別である理由は、下に何かがあるからだ」
「そりゃ、本当か?」

「僕の妄想です。竹流はいつも、絵の修復は半分以上、洗浄作業だと言っていた。絵の下から色んなものが出てくる、と。でも、美術に対する特別な思いを持っている人間、歎美家が執着するとしたら、『貴重な本物』でしかあり得ない。美和ちゃんが言ったんですよ」
「美和が、何を?」

「その人物は、わざとフェルメールを貶めて言ってるみたいだって。まるで好きな女の子を苛めるみたいだって。彼がどこでその話を聞いたのかは分かりませんが、今世紀始めのフェルメール狩りで取り残されたフェルメールの本物の噂が、ロシア帝政時代の皇族と繋がった。しかも、故郷の新潟に、ソ連から、正確には当時のロシアから、大量の贋作が持ち込まれていた。彼は、始めから贋作を捜していたんでしょう。しかし、それを預かったとされる蓮生家の主は、あなたの言うとおり、呪いを恐れていて、絵など持ち出されたくなかった。ロシアから預かった絵の存在は、ロシアからのもうひとつの預かりもの、すなわち高貴な女性の秘密を暴くヒントになるかもしれない。蓮生の主は固辞した。だから、その男はあの手この手で蓮生に揺さぶりをかけた」

「それが、あの旦那の言ってた、何年か前から色んな人間がやって来た、って話か」
「そう、旦那はともかく、若旦那のほうは現世の欲、つまり金に対する明確な意思を持っていた。だから、蔵からお宝を掘り出して、売れるものは売り、どうにもならないものは寄付したり、処分したりした。どうにもならないもの、とはつまり贋作です。絵が表に出れば、真贋は問題になります。鑑定を請け負ったのは弥彦の江田島道比古」
「さっきの、蓮生の跡目相続の話に出てきた病弱な男のイロか」

 真は頷いた。仁の手はまだ真の頭を抱いていた。
「その人は、長くパリに留学していて、こんな田舎町に帰ってくるつもりなんてなかった。それが家の事情で帰ってこなければならなくなった。帰ってからまさか、こんなところにこんな話が転がっているとは思わなかった。きっと、退屈な役所仕事の蔭で興奮したことでしょうね」
「耽美家の血が黙っちゃいないわけだな。蓮生家に取り入る手段の一つに、ホモセクシュアルの跡目候補者を利用したわけだ。ある程度絵の知識のある人間、しかも親戚から言われれば、あの主はともかく、田舎の人間はそうかな、って思うだろうな。でも、絵を鑑定したってのは? これ、本物です、って世間にばれたら困るだろ。取り上げられちまう」

「フェルメールの贋物は一点だけじゃなかったんですよ。どれが、その貴重な本物かは分からない」
「じゃあ、鑑定に関与した人間はぐるだったってわけか」
「こんな新潟の一豪農の家の蔵から見つかった絵を、本物と鑑定するわけにはいかなかった、とも言っていました。いや、絵の真贋を云々するのは本当はとても難しいことだそうですね。第一、同じ画家が生涯同じタッチで絵を描き続けるとは限らない。時には驚くほど駄作を描いている可能性もある。そうなると絵の真贋を決めるのに一番重要なことは、絵の出所だと聞きました」

「なるほどね、決め手は由緒正しいかどうか、ということか。こんなところにこんなものはあるはずがない、だから贋作だ」
「東京の偉い先生も」
言いかけて真ははた、と止まった。
「どうした?」
「東京の先生の鑑定もあった、と言っていました。こんな田舎では絵の真贋を鑑定する技術が簡単に提供されるとは思えない。とすると、絵は東京に運ばれた」

「それが何か問題なのか?」
「絵を運ぶのはそれなりに大変です。専門の運送業者が必要ですし」
 竹流も、運送にかかる手間ひま、費用、それに技術を問題にして、今は自分でそれを行っている。そして、寺崎昂司が日本での彼の仕事の手伝いをしているのは、逃がし屋としてだけではなく、運送屋としてだ。

 運送屋。もうひとつのどこかで聞いた北陸の地名は、寺崎昂司の父親のことだったのだ。
 以前は北陸の運送屋だった、と。しかも寺崎昂司に仕事のノウハウを提供したのは、好き嫌いはともかく、父親だったのだ。とすると、寺崎昂司の父親は、美術品の運搬をしているということなのか。
 関連付け過ぎなのかな、と思ったが、気になると止まらなくなった。

 それに、あのビデオ。
 寺崎昂司の父親の会社が北陸から関西に場所替えをしたのは、昔の禊だ、と昇が言っていた。まだ大人になっていない子どもを性的に苛めたりするフィルムを作っていた、と。あの新津圭一の吊り下げられたビデオ、あれは新津の自殺が本当は他殺だったという証拠として撮られたものではなく、ぶら下がった死体の、しかも父親の死体の下で犯される幼い少女、というかなり猟奇的で変態趣味の悪質な内容のビデオだったのではないか。

 もちろん、あのビデオが寺崎昂司の父親の関係のものとは限らない。しかし、あまりにも特異なものが、特異な事態と偶然に重なることは難しい。新潟と美術品の運送と、変態趣味のビデオ、三つが重なる人間が他にもいる可能性があるだろうか。
 それに、ああいうものを作っていた人間が、何年かたって更生するとは思えない。

 寺崎昂司は、「新津圭一の自殺が他殺だった証拠が見つかった」とは言わなかった。「証拠が出た」と言った。『出た』というのはかなり微妙なニュアンスを感じる。世の中に、それがどのくらいの広さの世の中かは別として、流出、もしくは晒されたというニュアンス。
 ビデオはマニアの間に流出した、ということか。撮影しておいて、表に出したかったのに、事情があって出せなかった面白いビデオ。年月がたって出したくなったもの。

 真は仁から体を離した。
「仁さん、変なビデオを作っている組織とか、人のことは分かりませんか?」
「変なビデオ? スケベビデオか?」
「もっと悪質なビデオです」
 思い出して、多少嘔気がこみ上げてきたが、何とか耐えた。
「悪質? 人が死ぬところを映してるとか、そういうやつか?」

 真は思わず仁を見つめた。
「悪質と言うと、一番はそういうやつだからな。所謂行き過ぎたサドマゾ系のビデオだ。薬でらりってるのを映したり、拷問してるとこやら、そうしながらやりまくる、それも死ぬまで、な。あとは、幼い子どもを対象にした変態ビデオだな。そりゃ、調べれば簡単に分かる。蛇の道は蛇ってな」
「東京に戻ったら、見て欲しいビデオがあるんです」

 仁が真の顔を覗き込むようにした。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
 真はただ頷いた。そのままもう一度、仁に抱き締められる形になったが、直ぐに仁は真を離し、敷物に横にさせた。
「やっぱり横になってろ」
 仁は真を横にさせると、煙草に火をつけた。それから意味もなく火箸で囲炉裏の灰をかき混ぜている。

「絵の次はビデオか。まったく、お前もあいつも何に足を突っ込んでんだか」
 仁は溜息をついた。
「絵はカムフラージュで、実際に動いていたのはビデオってことか」
「そういうわけではないと思います。つまり、絵に絡んだ事件の裏を探っていた記者が、悪質なビデオの犠牲になったというのか。絵も悪質なビデオも裏で金を動かしている連中には、大きな資金源だったんでしょうし」
 火箸の先が意味のない丸をいくつも灰の上に描いている。

「確かに、戦前からブルーフィルムってエロ映像は富裕層の間では流通していたんだがな、一般庶民には手の届かない娯楽だった。庶民には写真という静止画で楽しむのが精いっぱいってわけだ。それんな時代でも悪質な類じゃあ、本気の強姦だの輪姦だのってのがあったがな。ところがやっぱり楽しむんなら動画でなきゃ、ってんで、七十年代にはいってユーマチックやらが出だして、ついに数年前からは長時間再生用のビデオがでて、俄然活気づいたわけだ。マニアや金持ちが最初に楽しむのはもちろん、エロい映像だ。多少の金を注ぎ込んでも屁とも思わない連中が高い機材を買い込む。次に求めるのは刺激的な映像ってわけだ。世の中に出しても構わない可愛らしい作り物エロビデオは、世の中に浸透していくんだろうが、表には出せないえげつないものは闇に潜る。もちろん、映像じゃなく本番を、暗い場所で十分に楽しんでいやがるような連中だが、あまりにも残虐なものを求めたら、他人と一緒に楽しむわけにはいかない。だが、映像なら一人でだって楽しめるわけだしな。そういう連中は簡単にエスカレートする。普通にエロいだけじゃ、もうイケないんだよ。だからもっと刺激的なものを求める。そして、それを提供して儲ける連中がでてくる」

 仁は何かを確かめるように独り言のように話し続けていた。真は黙ったまま、火箸の先が描く線を、そして盛り上がっては崩れていく灰の小さな山を見つめいていた。
「俺が見た最悪の映像は、拷問しながら輪姦しまくって、更に死体を犯し続けていたやつだった」
 真は息を継いだ。その場面を頭に、文字としてだけ留めていた。画になると吐いてしまいそうだった。
 それでも、心拍数は上がり、じっとりと汗が脇を湿らせていた。

「それで、お前の相棒を苛めたのは、その弥彦の江田島ってやつなのか?」
 仁が何をどう結び付けて竹流のことを尋ねたのか、聞き返す気にはなれなかった。
「それはわかりません。第一、その人はフェルメールに固執して竹流を出し抜きたいと思ってはいても、彼をあんなふうにいたぶる動機はない」

 だが、物事をややこしくした可能性はある。もしかすると、竹流が一旦持ち出した絵を戻さなければならなかった理由がそこにあるのではないか。
「彼の手をあんなにするのには、相当の嫉妬心がなければできない」
「手?」
「あいつは修復師です。所謂職人だ。そいつは彼を普通にいたぶっただけではなくて、手を使い物にならないようにしたかった。勿論、それだけで彼の生業の全てが不可能になるわけではないし、レストランもクラブもギャラリーの経営も、十分に成功している。でもあいつの根幹を支えているのは、修復師であるという自尊心です。あいつの根幹を崩したいと思うのは、余程の憎しみか嫉妬の気持ちか、そういう得体の知れないものとしか思えない」

「嫉妬か。そりゃ、ややこしいな。で、それが江田島って男じゃないとすると、誰なんだ?」
 それだけはよく分からなかった。彼の修復師としての仕事によって利のある人物はいても、不利益になる人間はいないように思える。同業の人間がいて、彼の仕事を不可能にすれば自分に仕事が回ってくるというような単純な仕事にも思えない。
 だが、ただ彼の大事なものを奪いたいという種類の嫉妬なら、あり得る。そうなると、容疑者の数は膨れ上がってしまう。逆に、やくざのような理屈のない連中にやられた可能性もあるし、そういうことなら怪しくない人間を探すほうが難しくなる。

「それで、さしあたっては、その江田島って奴は何らかの罪に相当するのか?」
「絵を掠め取っていない限りはなりませんね」
「そうだろうな。しかし、今から蓮生を乗っ取ろうとしてるみたいだぜ?」
「蓮生にまだ絵が残っているなら、可能性はありますけど、少なくとも女性との結婚でない限り相続の権利は生まれませんよ」
「だが、贈与は可能だな。新しい当主からの好意で」
「絵が出たのは、下蓮生ですよ。上蓮生の当主を篭絡しても意味がないのでは?」
「そりゃそうか。お前の話では、下蓮生の若旦那はいやらしいおっさんで、死にそうにはないんだったな」

 そこまで露骨に言ったつもりはないが、当らずとも遠からずだ。
 丁度そのとき、吉川弥生が戻ってきた。そして、程なく上蓮生の千草から、親族会議が終わったので上蓮生に来て欲しい、との連絡があった。





次回から、第18章『その道の先に』です。
真の過去の物語に少し入り込みます。
真の告白あれこれがありますが、さらりと聞き流してやってあげてください。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 6   

[雨86] 第18章 その道の先に(1) 

【海に落ちる雨】第18章です。
蓮生千草とのシーンですが、彼女はまだ事件の核心に触れてくれるわけではないようです。
しばらく謎解きをお休みして、古い一族の終焉を迎える、異国の血が混じった女のイメージをお楽しみください。

この次からは、真の長い回想コーナーです(多分3回に分けてお送りします)。
まともな文芸作品ならやってはいけないことをあれこれ、好き勝手にやっております。
ブログのありがたみを感じます。
回想コーナー、特に人物の来し方を感じられるようなエピソードはとても好きなのですが、本筋から離れるので鬱陶しいと思われる方もいるだろうと思います。
でも、この話は過去のあれこれの感情が今に繋がっているので、開き直って回想シーンを入れているのです。
そう、以前お断りした、ちょっと公開しにくいシーン(の一部)なのですが、引かないでやって頂けたら嬉しいです。
(あ、次回予告になっている)




 上蓮生家に着いて、門を潜りながら、真はふと屋敷の全景を見渡した。勿論、広すぎて見渡せるわけではないのだが、下蓮生家よりも敷地も広く、庭も大きい。ただ、手入れの行き届いた下蓮生と異なり、自然の風景、植物を生かしたままの姿が目立っている印象があって、英国の庭園を彷彿させる。

 建物と門だけは純和風だが、屋敷内は比較的垢抜けて洋風だった。
 当主の千草の好みなのかもしれない。調度は古いが、全体には機能的で現代的なインテリアも目立つ。
 千草が真と仁を招き入れたのは、以前に真と美和が案内された洋風の応接室だった。

 ソファを勧めるなり、千草が言った。
「お顔の色が優れませんわね」
「いえ、大丈夫です」
 真が返事をすると、千草は少し微笑んでみせた。信じていない、という顔だった。

「それで、親族会議とやらはどうなったんだ? あんたとこの跡目を決める会議だったんだろ」
 仁が遠慮なく聞いた。相変わらず、今日出会ったばかりの他人と交わす会話に相応しい口調ではないが、厭味でない印象は一体どこで身に付けてきたのだろう。
 千草は驚いた顔もせずに、僅かに唇の端を吊り上げるようにして笑ったように見える。
 誰が何を知っていても、何を言おうとも、彼女の存在は揺るがないというような凛とした気配が漂っていた。

「ま、部外者に話すことでもないだろうけど、あんたとこの絵のせいで、こいつにとって大事な人間が行方不明だ。少しはそっちにも責任がある話だからな」
「別に構いませんわ。弥生さんから何か聞きだされたのでしょう? 蓮生には時政の息子以外、他に親戚の男子はおりません。女子はおりますが、嫁いでいるか、あるいはまだ小さい子どもだけです。蓮生家の血を曲がりなりにも繋いでいくためには、時政の息子でなければならないと、一族の者はそういう考えなのですわ。でも、時政の息子が特殊な性の嗜好を持っていることを認めさせました。だから、養子にはできない、と」

 もっとも、千草は言外に、それは口実なのだという気配を漂わせていた。本当は性の嗜好など、彼女にとってどうでもいい理屈なのかもしれない。
 千草は仁に煙草を勧め、真にも差し出した。真はさすがに断った。千草は自分でも一本、煙草を咥えて火を点ける。
「しかし、そうなると、千草さんの後は誰もこの家を継がないのですか」

 千草は穏やかに微笑んだ。
「今では上蓮生に残るものはこの土地くらいなものです。でも、こんな田舎では二束三文ですわ。大した生業もありません。この家の歴史が終わるのも時間の問題でしょう。それが今であっても、問題にはなりません。もっとも、下蓮生にはあのろくでもない男がおりますし、今この時に、蓮生家が全て終わってしまうというわけではありません。好きに食いつぶして恥を晒していけばいいかもしれません」
「あなたは、蓮生家が滅びることを希望しているのですか」
 千草は煙草を吹かして、それから赤く艶のある唇で微笑んだ。

 大きな窓と濃い緑色のビロードのソファを背景にした異国の血を引く女性は、和装のままだったが、この世のものとも思えない空気を背負っている。もっとも、それは儚さからではなく、逆に、この世のうたかたを思えば、強く確かな根拠を持って存在しているように見えた。存在の確かさというものは、実在しているか幻であるかということを超えたところに、その根拠があるようだ。
「いいえ、私が希望しているのは、正しい生き残り方ができるかどうか、ですわ。あるいは正しい終わり方と言うべきかもしれません」
 この女性は実に誇り高い人間なのだと思えた。

「下蓮生のご主人にも、そう仰ったのですか」
「そうね、そのようなことを言ったかもしれません。あの男はボケたふりをしていますけど、なかなか強かな男です。蓮生の男は、ああいうタイプが多いのかもしれません」
 千草はそう言って、煙草の灰を落とす。微かに俯いた時、はらりと頬に髪が落ちた。
 和装に煙草。上層の人間には似合わない姿だが、何もかも千草の手にかかると悠然とした絵になる。

 その時、不意に、蓮生千草が北条仁に向けた視線に、真の方がどきっとした。明らかに女が男を誘う目だと思った。しかも、仁のほうもそれを受け止めている気配がある。
 美和は自分の女だと真に凄んでおいて、平気で別の女とこういう視線を交わす。それどころか、真にも五年で落とす、などと言いながら、その目の前でこういう露骨な態度を示す。やはり北条仁はわからないし、恐ろしい面がある。
 一緒に来てもらったのが正解なのか、不正解なのか、分からなくなってきた。

 応接室は決して狭いわけでもなかったのに、仁と千草が吸っている煙草の煙で気分が悪くなってきていた。自分も煙草を吸うのに、今はその煙が気持ち悪い。
 幾らか意識が曖昧になっているのは感じていたが、それをここで晒していいものかどうか、辛うじて保っている思考は、警鐘を鳴らしているようだった。

 千草がお手伝いの女性を呼んで、シャンパンを用意させていた。酒、という時点で、千草が今日真たちをここに泊める気であることを示しているのだろうが、それをどう考えるべきかわからなかった。
もしかして本当に蓮生千草のほうも、北条仁との一夜を求めているのだろうか。
「お食事、食べられますか?」
 穏やかな年配の女性が真の横から、心配そうに語りかけた。
「あ、いえ」
 どう答えるか、躊躇っていると、仁が口当たりのよい果物か何かないか聞いてくれた。

 まだ夕方になるかならないかだが、食事の準備ができたと言われて、座敷に誘われた。千草も一緒に席を暖め、いつの間にか日本酒を振舞われていた。
 仁と千草は、この場にそぐわないほどの朗らかな笑いを交えながら、世間話を淡々と続けている。真は何とか苺や甜瓜を口にして、あとは半分朦朧とした意識のままで何とか座っていた。

 話題は蓮生家の起源の話になり、源義経説や奥州藤原氏説や羽黒山山伏説が紐解かれていった。眉唾なのが面白い、と仁は笑っている。富山の薬売りとも交流が深く、色々な薬類が伝わっている、しかも薬の材料を大陸から仕入れて大もうけをした時代もあったようだという。龍の鱗とか、麒麟の鬣とか、河童のミイラとか、とにかくあり得ない薬の材料が蔵に眠っていた、とも。
「そう言えば、蓮生に古くから伝わる薬湯があって、万病の回復に効きますのよ」
 時々、仁が真の具合を気に掛けるからか、千草はそう勧めた。

 湯飲みに入った薬湯は、確かに身体には良さそうだが、口当たりは極めて具合が悪い代物だった。それを飲んだら精力がつくのか、と仁が千草に聞いている。そのようですわね、と千草が答えると、仁が、俺も貰おうかなと呟いている。あなたの場合は精力がつきすぎたら何をするか分からないからだめだ、と真が言うと、千草がくすくすと笑っている。
 千草にも、寛いで穏やかになっている気配があった。

 親族会議からも、固執していた蓮生家の存続問題からも切り離されて、あるいは蓮生千草は久しぶりに一人の女として会話を楽しんでいるのではないかと、そう思えた。それを作っているのは、話術もムード作りも満点の北条仁だった。この男はヤクザでなければ、水商売にしっかり向いている。新宿でも、北条仁と寝たいと思っている女も男も数多いると聞いている。しかも、一度で捨てられてもいいから寝てみたい、というような話だ。

 世の中間違っていると思うが、そう思う人間がいるのは分からなくない。蓮生千草も、仁から特別なムードを感じ取っているのだろうか。それとも、本当にただ、久しぶりに土地のものではない人間と、しかも会話のテンポが非常に心地よい男と話して、打ち解けて癒されているのだろうか。

 真は勧められて風呂を使わせてもらった。仁が一緒に入ろうか、と言ったが、断った。今、仁が蓮生千草を口説くのに一生懸命で、自分に手出しをしないと思っても、仁と一緒に風呂に入るのはやはり困るような気がした。
 風呂場に行って、自分の選択が正しかったことを確認する。

 所謂、五右衛門風呂だった。狭いし、一緒に入るような場所でもない。真は、風呂の広さとは不釣合いな広い脱衣所で服を脱ぎ、全裸になってから改めて自分の身体を見た。
 薄暗い裸電球の脱衣所は、ゆうにそれだけで六畳はある。雨の日の物干しも兼ねているのだろうが、機能の割に広すぎる空間は薄ら寒い気がした。

 身体にはあちこちに痣がひどく残っていた。赤味がかった色が青く変わってきているが、まだ腹や足に腫れが残っているところもあった。あまり真剣に見ないほうがいいと思いながら、タオルを一枚手に洗い場に入る。
 風呂の中は一段と暗かった。桶に汲んだ湯を体にかけると、本当に飛び上がるほど傷が痛んだ。身体を洗って、試しに少しだけ湯舟に身体を沈める。

 あまりの痛みに強烈な熱さを感じたが、暫くするとそれも去っていった。思ったほど湯は熱くなかった。
 深い湯舟でぼんやりしていると溺れてしまいそうだな、と思い、何か気が紛れることを考えようとしたが、思いつかなかった。ふと、今日仁に触れられた自分のものを軽く握ってみた。軽く扱きかけて、何を馬鹿やってんだろうと思った。気が紛れるわけでもない。やはりあの薬湯くらいで本当に精力がつくわけでもないらしい。それどころか、逆に気だるい気分になってきた。溺れる前に上がったほうがいいと思って、立ち上がった。

 案の定立ちくらみがして、思わず湯舟の縁につかまる。それから、ゆっくりと洗い場に出て、固く絞ったタオルで身体を拭いた。
 脱衣所に出ると、バスタオルと浴衣が置かれていた。
 もう一度身体をバスタオルで軽く拭いて、浴衣を手馴れたように着ていると、お手伝いの女性が入ってきた。

 御手伝いしなくてもお上手に着る、と彼女は感心してくれた。祖母に教えられて、着物は一人で着ることができると言うと、お若いのに感心、と褒められた。
そのままその女性が離れに案内してくれる。

 離れは母屋からは少し歩かなければならなかった。母屋から渡り廊下が続き、一旦履物を履いて、飛び石を辿る。数十メートルは離れているようで、母屋の気配は何ひとつ伝わってこない場所だった。
 玄関と思われる扉の上に明かりが点っている。
 扉は引き戸で、小柄な年配の女性は力を込めて開けた。ごろごろという重いものを引きずる音がする。玄関のたたきは思ったよりも広く一間はありそうだった。そのままの広さの廊下が続き、右手に襖が並んでいる。

「随分重そうな扉ですね」
「へぇ、何でも昔は蔵だったそうです。蓮生にはいろは蔵があったと言いますからねぇ」
「四十八の蔵ですか」
「そうです、ご存知ですか」
「民謡にそういうのがあります」
「あら、本当にお若いのに」
 年配者にそう言って褒めてもらうのは悪い気がしない。多分、自分がお茶のお手前ができることや三味線まで弾くことを知ったら、この女性はもっと感心してくれるのだろう。

 廊下の板敷きの先には手洗いがあると教えてもらった。その先が右手に折れて、階段になっている。
 先は真っ暗だった。廊下の手洗いの側だけ、出入りができるように勝手口あるいは掃き出し口になっているようで、引き戸になっていた。ガラス張りで一応外が見えているようだが、暗くて景色までは分からない。
 廊下には腰の高さよりやや低いところから頭の上までの程度の窓が並んでいて、外側に向けて、重い壁がそのまま切り抜かれた扉のような雨戸が開かれている。
「蔵でしたんで、二階に上がれるようになっているんですけどね、お蔵は空っぽだってことですよ。おっかなくて、誰も確かめませんけどね」

 案内された部屋は、蔵が改造されたにしてはきちんとした造りの和室だった。
 部屋には穏やかに電気が点っていて、暗くはなかったが、しっとりと沈むような色合いに見える。布団が二組敷かれていて、頭の方に寄せられた座敷机にポットのお茶と湯呑みが用意されていた。床の間もあり、きちんと季節の花が生けられているし、松の掛け軸も下がっている。

「ごゆっくりお休みください。枕ものとの電話はインターホンですから、御用があればお呼びください」
 旅館みたいだな、と思いながら、さすがに疲れていた真は直ぐに横になった。布団の中はヒヤリとして冷たく、気持ちがよかった。
 仁はここで寝ないだろうな、と思いつつ、隣の布団を見た。千草と仁が今夜をどのように過ごしても勝手なわけだが、何となく納得がいかない気もした。
 何より、仁は美和のことで真を随分脅したわけだし、その日のうちに他の女を真の目の前で口説いて寝るというのは、ひどい話に思える。

 美和は今頃どうしているのだろう。仁が帰ってきたことはまだ知らないだろうし、九州から帰ってきたかどうかも分からない。三上のところに連絡を入れていないことが気になったが、事務所に電話したときに美和が帰っていたなら賢二がそう言うだろう。
 考えてみれば、自分と美和の間の事は、決してけりがついたわけではない。仁に何と話そうとも、美和自身と話さない限りは、はっきりとこれからのことが決まったわけではないはずだった。美和はまた、犬猫じゃないから勝手に持ち主を決めるな、と言いそうだ。

 身体が重いのに、眠れない。本当に精力のつく薬湯だったのかも知れない。何度か寝返りを打った。だるいのに眠れないというより、だるすぎて眠れないという嫌な感じがする。アドレナリンが過剰分泌されているのだろう。
 電気を消そうかな、と思ったが、昔の癖で何となく天井の染みを見つめていたくなって、消さなかった。板の天井には染みはなかったが、木目の文様が水の流れのように、始点も終点もはっきりしないまま泳いでいる。

 彼がいなくなって一体何日経つのだろう。それほど経っていないのか、随分経ったのか、数えられない。何日、というレベルの話だろうに、もう次元が切り離されたくらい遠く感じる。それと同時に深くなっていく、この自分自身の存在の危うさは一体何だろう。
 あの男に支えられていた相川真の命は、支えがなくてもこの世に存在し続けられるほど堅固なものではない。彼が生きていなかったら、自分も消えてしまうような気がしていたが、離れているだけでも自分自身の姿がこの世から薄くなっていく。

 そう、明らかに、自分は一度死んだ身なのだ、と思った。





次回からの回想シーンは、真が大学の受験を控えていた時のエピソードです。
多分、予想されていてることだとは思いますが、主人公二人には特別な関係があります。
でも、よくあるその道のカップルのような、つまり男女関係に置き換えられるような関係ではありません。
それを言葉で説明するのは難しいです。

美和曰く、「2人の関係を兄弟か親子か恋人かと聞かれたら、一番近いのは親子」という部分もあり、それ以外の感情ももちろんあり、ついでに言えば、敵対の気持ちさえもある。
したがって、ラブストーリーは期待しないでくださいませ。


*詳細はこちらの回の『追記』をご覧ください→カミングアウト

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 6   

[雨87] 第18章 その道の先に(2) 

【海に落ちる雨】第18章その2です。
しばらく本筋を離れるように見えるかもしれませんが、真の感情を支配している出来事のひとつをお伝えして、今後、真がどういう感情に陥っていくのか、その追いつめられる状況を説明できればと思います。

とは言え、ここから3回分、全く独立した話として読んでいただいても差し支えありません。
よろしければ、少し心に問題を抱えた高校生の複雑な恋(ということにしておこうっと)をお楽しみください。
尚、まともにシーンは描写しておりませんが、同性の恋愛(もどき)が書かれていますので、不快に思う方は避けてください。でも決して、ラブラブな恋愛ものを想定してはいけません。
と言っても、今更、この二人がただの愛だの恋だのという関係でないことは、ある程度分かっていただいていると信じて……






 大学受験を前に恐ろしく緊張していた。
 その理由が何だったのかは今一つ分からないが、今は妹の夫になっている友人に誘われて、模試会場に行ったその日がきっかけだった。

 もともと人混みが苦手だった。
 小学校の後半からほとんど学校に行けなくなっていたが、中学一年生の時に起きた暴行事件から完全に不登校になった後、伯父である功の留学のため、一年をカリフォルニアで過ごした。
 幸い、帰国して編入した中高一貫教育の私立校は、自由な校風で、特殊な外見を持っているというだけで苛められることはなかった。海外に姉妹校を持つ学校で、交換留学生がいたこともあり、多少髪や目の色が違うだけでは苛める理由にならなかったのだろう。
 勿論、その時までには立派に協調性という資質を失っていた真は、他の生徒と打ち解けることはなかったが、学校にはそれなりに通うことができるようになった。

 難関は電車通学だった。しばしば頭痛と吐き気、時には胸痛で電車に乗っていられなくなった。妹が同じ学校に通うようになって、多少はましになったが、何かの拍子に手足の先から痺れるほど冷たくなってくることがあった。
 精神科の医者に言わせると、田舎育ちで人混みに慣れていないだけだから、あまり深刻に考え過ぎると良くない、という程度の話なのだが、不本意な環境下になると精神のバランスが保てなくなるのは、社会生活上きわめて不自由だった。勿論、その根底に苛めを受け続けてきた過去があるわけで、人間に対して根本的に恐怖を持っているために、不特定多数の人間がいる場所でパニックになり、それが身体に表れる、というのが精神科医の説明だった。
 実際、酷いときには各駅停車の全ての駅でホームに降りなくてはならず、トイレで吐いたことも一度や二度ではなかった。弱い精神安定剤を勧められたこともあったが、受診を勧めた脳外科医の功も、まだ未成年の、しかも自分の息子にそういう薬を飲ませることには抵抗があったようだった。

 それでも、功が失踪してからも勉強や生活の面倒を見てくれていた竹流のお蔭で、少しずつパニックにならない方法が分かってきて、気持ちを切り替える状況を自分なりに作り出すことができるようになっていった。
 何より、ほとんどスパルタに近い竹流の教育を受けていたわけで、それを受けて立つには無茶苦茶な量の読書を必要とした。電車の中で本を読むことに集中していれば、何とかその時間をやり過ごせることが分かったのだ。

 それが模試会場で吹っ飛んだ、というのは言い過ぎかもしれないが、人が多く集まって広い同じ部屋でひたすら机に向かっている会場に入った瞬間に、ざっと血の気が引くのが分かった。何かにとり憑かれたような会場の空気、真に向けられた目が、転校した日の同級生たちの好奇の目と重なってしまった。

 分かっていたのか、分かっていなかったのかは知らないが、竹流は塾にも行かない真のために、あの頃無茶苦茶に忙しかったはずだろうに、真の受験する大学の過去問題を徹底的に研究していたらしい。元々どんなことでも中途半端が大嫌いな男で、やるとなれば全く手を抜かなかった。

 そういう実際の勉強の対策は良くても、試験会場という特異な空間の圧迫感に真が潰れるとは思ってもいなかっただろう。真のほうも、それを竹流に知られるのが怖くて、何も言わなかった。
 これまでもさんざん怒鳴られてきたので、今更怒られることが恐ろしいわけではなかったが、人混み恐怖症の再発は、竹流を呆れさせ、失望させるのではないかと思った。まるで彼の子どもであるかのように、真は竹流にがっかりされるのが辛かったのだ。

 入試の一週間前、一体誰が何を言って、竹流がそういう行動に出たのかは分からない。
 竹流が灯妙寺の離れにやって来た日、煮詰まっていた真は朝からひたすら太棹三味線を叩いていた。
 あの頃、自分の存在が竹流にとって何だったのか、彼の仕事や、女たちの存在と比較しても、決して優位にあったとは思えない。あの頃の竹流は真を一個の人格として、彼自身と同等の存在として、認めていたようではなかった。

 太棹を叩き続けているうちに、既に無意識の世界に入り込んでいた。
 冷えた空気の中では、犬の皮も絹の糸も鋭く張り詰め、まるで生命の残響を叫び続けているように思える。一の糸に戻った左手の薬指は棹を高音の勘所までなめらかに滑り降り、叩き続ける右の手は、もう自分自身のものかどうかさえ分からなくなっていた。
 一瞬、真は撥の当たり具合を気にして、目を開けた。自分の手元を見てから、何気なく顔を上げたとき、離れたところで立ったままの竹流の姿を認めた。

 その瞬間、心臓が掴まれるような痛みに襲われた。
 これまで経験したことのない痛みは、一瞬、真の意識をふっ飛ばしそうになったが、それを留めたのは痛みの原因を持ってきたはずの男の、北の海と同じ色の瞳だった。
 真はゆっくりと撥を止めて、太棹を縁側に置いた。
 受験などというつまらないことで緊張しているのを知られたくなくて、竹流と目を合わせることはできなかった。

 竹流は祖父母に挨拶をしに行き、長一郎と座敷で話しこんでいた。
「いや、随分向こうからじょんからのいい節が聞こえていて、てっきりあなたが叩いているのかと思いましたよ」
 耳の良い竹流が長一郎に何気なく言った言葉が、長一郎をどれほど喜ばせたかは、真にも直ぐに分った。長一郎が昼間から酒を用意させて、どういう話の脈絡だったのかは知らないが、江差追分を唄い始めたからだ。

 祖母はもともと金沢の芸妓の家に生まれているため、唄も三味線も子どもの頃から親しんでいた。養女に出された先が民謡を生業とする家で、北海道に嫁いだ後も半ばプロのようにして活動もしている。長一郎は太棹三味線こそ玄人はだしだが、唄のほうは滅多に唄わない。その長一郎が唄うのは、かなり気分のいいときだけだった。
 長一郎の江差追分には胸を掴まれる何かがある。
 祖父と竹流の気配を隣の部屋から感じながら、真は何となく逃げ出したくなってきた。試験前なので病院行っとく、と祖母に断って灯妙寺を出る。
 もともと結構な不整脈で、薬を飲むほどではなかったが、三・四連発までの心室性期外収縮が一日の脈拍の十から十五パーセントほど出ている。主治医の斎藤は功の同級生で、ある企業が作った有名病院の循環器内科部長だった。

 驚いたことに、斎藤の部屋を尋ねると、竹流が来ていた。
「おばあちゃんが、お前が病院に行ったっていうから、慌てて追いかけたのに、何で俺の方が早く着くわけだ?」
 心配してくれていたのだとまでは、その時思い至らなかった。
 心電図をとって斎藤の部屋に戻ると、竹流と斎藤が久しぶりで嬉しかったのか、話し込んでいた。斎藤は真に、功と同じように医者にならないかと勧めたことがあったが、それを聞いて真だけでなく竹流までも、それは患者も災難だ、と言って一蹴した。

「それで、結局理工か。それもいい選択だな」
 竹流が笑って付け足した。
「いつか、宇宙に飛ぶそうで」
 真は思わず竹流を睨んだ。確かにそう言ったのは真自身だが、甘ったるい夢で斎藤に馬鹿にされると思ったのだ。だが、斎藤はむしろ嬉しそうに笑った。
「相川と同じことを言ったな。あいつが理学部からの転向だったのは知ってるだろ? 天文学をやるつもりだったらしいぞ。何処でどう間違って医学部に変わったのか知らないが、ロケットを飛ばすつもりだったと言ってたよ」

 その話は、真も功から聞いた事があった。何故、その夢を捨てて医学部に移ったのかは知らないが、宇宙の話をするとき、功はいつも本当に楽しそうだった。真が登校拒否で苦しんでいたときも、功自作のプラネタリウムや、自慢の宇宙ものの映画やドラマのコレクションは、学校に行けなかった真の慰めだった。
「どうあっても、君にとって相川功は父親だったわけだ」
 真は、本当は調教師になるつもりだったけど、葉子を一人にできないから諦めた、と答えておいた。功を慕っているとか、父親に甘えたい気持ちがあるとか、そういう話はごめんだと思ったからだった。

「お前に人間の言うことをきく馬など育てられないだろう。好き勝手させるに決まってる」
 保護者二人はあっさりと真の反論を放置した。
 斎藤は笑いながら、真から心電図を受け取り、それをめくって、それから真の方を見た。
「意識がふっとんだり、手足が痺れるようなことはないか?」
「意識は飛ばない。何となく、たまに痺れる感じはあるけど、大丈夫、と思います」
 竹流の気配を横目で窺って、結局強がってしまった。
「痺れがあるのか?」
 真はどう答えるか考えた。軟弱者と言われそうだな、と思ったが、覚悟を決めて言った。
「分からない。ちょっと手足が冷たくなるような感じがするだけ」
 その真の言葉をどう解したのか、竹流はその日から入試までの一週間、真を大和邸で預かった。竹流の有無を言わせぬ気配に負けて、真には拒否する隙もなかった。

 その日からの出来事について、竹流は、後からほとんど言い訳をしなかったが、一度だけ酔っていたときにローマで言った。
『あの日、灯妙寺の縁側で、何かに憑かれたように三味線を叩いていたお前の、神懸かりのような表情と、腹の底に直接響いてくる三味の、あの一の糸の音が俺を狂わせたな』
『単に、気の迷いだったって意味か?』
 幾らか非難めいた声で言うと、竹流はいつものように、柔らかい想いのこもった瞳を真に向けて答えた。
『そうじゃない。今まで俺の感情が誰に対しても極めて淡白だったということを思い知らされたんだよ。初めておじいちゃんの江差追分を聞いた時も、背中から刺されたような気がしたけど、それにも増して、魂のどこかを抉られたような気分だった。それまで、俺は他人に自分の固有の時間を邪魔されるのなど、あり得ないと思っていた。けど、考えてみれば、滝沢基が撮ったお前の写真が街中に貼られていたときから、時々お前の顔が作業中の絵の上にも、報告書の数字の上にもちらついていた。これは恋かな、と真剣に思ってしまったよ』
 そう言った竹流は、そのまま飲み続けてすっかり陽気になり、バールの親父たちと歌ったり飲んだりで、結局どこまで本気の話だったのかつかめなかった。

 その日、一時間ほど車を走らせて着いたのは、立派な洋館だった。
「大和の家だ」
 事態の飲み込めない真に、竹流が自分の家だと言った。
 それまで、彼の氏名が何かの冗談でつけたニックネームのようなものだと思っていた真は、かなり驚いた。
 随分後になるまで真は、彼が形式上、大和顕彦という男の養子になっていることを知らなかった。いずれにしても、マンションに住むためにも複数の金持ちマダムと関係を持っている(と真が思い込んでいた)竹流が、銀座の一等地のビルを所有した上に、更にこんなところに立派な家屋敷を持っていることは、怪しい以外の何ものでもなかった。

 玄関は、主人の帰りを待っていたように開いた。現れたのは、初老、いやまだ中年の域の、落ち着いた厳しいムードの男だった。
 竹流はその男に、一週間ほど篭もる、と告げた。男は心得たようにただ頷いて、それから竹流がコートを脱ぐのを当たり前のような仕草で手伝って、さらに真のコートも脱がせてくれようとした。真は慌てて、自分でします、と言ったが、それを完全に無視された。男は、大和家に仕えている執事の高瀬と名乗った。

 大和邸は立派な屋敷だった。多分明治の頃に華族の住居、あるいは別荘として建てられた屋敷なのだろう。廊下も階段も広く、磨きぬかれた床は大理石のようで、高い天井にはレトロなシャンデリアが並んでいる。
 そのまま、二間続きの主人の居室に案内された。豪華な廊下に比べると、室内の調度はむしろシンプルだった。奥は寝室で、手前の部屋は主人のためのリビングなのだろう。居心地の良さそうな皮のソファと、大理石のテーブル、それに大きな窓の近くには木枠にビロードが張られたカウチと、小振りな木のテーブルがある。さらに寝室に近い壁には、ぎっしりと本の並んだ書棚と机があった。
 後に案内された図書室は、伯父の書斎も及ばないほどの規模で、試験勉強の息抜きに本を見ようと思っても、日本語の本はごく一部で、しかも大方は古文書のようだった。

 真は、その日からこの屋敷で、入試の最後の追い込みに入ることになった。竹流は、自分もここで仕事があって、奥の部屋に篭っているから邪魔するな、と真に告げた。
 緊張して参っている気配を察知されていたんだと思った。
 竹流が仕事をセーブして自分のためにこうしてくれたのかと思うと、有難いと思うべきだったのかもしれないが、素直に感謝はできなかった。弱みを見せていることについてはもう今更どうしようもなかったが、子どもを宥め賺すように扱われていると思うと複雑だったのだ。

 それでも、竹流は日に何時間かは真の勉強の相手をしてくれた。竹流の手からは、油か化学薬品のような複雑なにおいがした。疲れると真は大概ソファで眠ったが、目が覚めるとベッドの中だったりした。そして、いつも定期的にきっちりと食事に呼ばれた。竹流の方は、朝以外はほとんど一緒に食事をしなかった。

 さすがに試験まであと二日となると、眠れそうになくなってきた。その日はソファではなく寝室のベッドに潜り込んでみたが、何度も寝返りをうって、結局諦めた。
 ベッドから出て素足のままスリッパを履くと、思った以上に冷たくて、思わず身を縮めた。
 広い廊下に出て、一度も足を踏み入れなかった奥の方へ廊下を歩く。
 奥の部屋からは一筋灯りが漏れていた。

 多少は躊躇ってからドアを開けた。
 部屋はかなり広かったが、中は雑然としていた。もともとは接客のためのホールだったのではないかと思われるが、そこに所狭しとイーゼルや大小の机や椅子が置かれて、部屋中にあの不思議な油や薬品のにおいが充ちていた。竹流はその真ん中で、目の前のイーゼルに置かれた板に顔を近づけるようにして、ルーペで何かを確認したり、時に傍に置かれた板のパレットの上で絵具の色を確かめたりしていた。

 あの日、真は生まれて初めてイコンというものを見た。真が問いかけたわけではなかったが、黙って後ろに立っていると、竹流は、ギリシャ正教やロシア正教の聖堂にある宗教画だ、と淡々とした声で説明した。

 竹流の手元に置かれていたイコンには、イエス・キリストの正面を向いた顔が描かれていた。
 だが、真はそのキリストの目を見て、背筋が冷たいもので撫でられたような、恐怖とも感動ともつかないものに襲われた。
 それは信仰の対象として描かれた神の子の絵姿ではなかった。

 その内に秘められているのは、何とも言えない不安で猛々しいものだ。こちらを向いた目だけは、異常なほどはっきりと、見るものの胸に食い込んできて、宗教画にあるまじき不調和の迫力だった。
 本来なら神の威光を表すはずの絵が、事もあろうに神の子自身の、不安と強烈な失望と恐怖により捻じ曲げられている。これを描いた人間の底知れぬ恐怖は抑えようもなく、そしてその恐怖を越えて悟りに達するための、根源的かつ盲目的な信仰心は完全に抜け落ちていた。

 だが、あくまでも聖画の形態は崩していなかった。それだけ強烈な印象を残すのは、その目のゆえなのだろう。それとも、また例の如く真の異常な感性が、得体の知れない何かを読み取ってしまったのだろうか。あるいは、今このイコンに向かい合っている修復師の感情が、真に何かを見せてしまっただけなのか。
 目以外の部分は随分と煤けて霞んでいるように見えた。
 随分と後になって他のイコンを見たとき、真は、あの日竹流の前に置かれていたイコンがやはり特異なものであったことを知った。あれはイコンであってイコンではないもの、画家が自分の思いを吐き出した底のない沼のような絵だった。それが誰の絵で、何故竹流がそれを直しているのか、真はそれ以降も聞いたことがなかった。

 眠れないのかと聞かれて、仕事の邪魔なら部屋に戻る、と答えた時、何の気なしに竹流が絵具を調合している机の上を見た。
 その瞬間、体がカッと燃えたように思った。
 真の注意を引いたもの、それは、いつもは竹流の左薬指に嵌められている指輪だった。
 竹流はその指輪のことを契約だと言った。契約というのは人間同士の間にあることなのか、神と人の間に交されたものなのか。冷たい渇いた響きだった。

 もしあの時、あのイコンの内にあった激しい熱情のようなものを見なければ、そして竹流が指輪を外しているのを見なければ、真はあんなふうに彼を挑発しなかったかもしれない。
 怒られると思いつつも、思わず竹流の昔を掘り返すような質問をした。竹流は冷めた声で、自分がまともに習ったのは絵画の修復作業だけだった、と言った。学校で習ったのかと聞くと、学校にはほとんど行っていない、と答えた。

「まともに行ったのはいわゆる小学校の半分くらいと、あとは十四の時に放り込まれた神学校だけだ。もっとも、立派な聖職者に許された仕事だったんで、そこでも修復技術を教わってたが、すぐに逃げ出した」
 真は意外に思った。環境も国も違うので同列には言えないことだが、彼が自分と同じようにまともに学校に行っていなかったというのは驚きだった。何しろ登校拒否の真を散々怒鳴りつけていたのだ。

 どうして神学校に行ってたのかと聞くと、竹流は微かに笑ったように見えた。
「悪さをして叔父に放り込まれたんだ」
「悪さって?」
「男に身を売ったんだ。もちろん、取引としてだが」
 竹流が真に示したのは、真には『身を売る』ほどのものには見えなかったが、天使の絵だった。
 田園と東屋と天使。金の巻き毛がくるくると踊るように頭を輝かせ、碧い瞳でこちらを見つめる天使は、無垢で優しく心に触れるような気配だった。しかし、神聖というよりは、人間的で温かい肉感的な表現は、ある部分官能的にすら思える。
 竹流の前にあるイコンのイエス・キリストとは全く異なる、神の存在も溢れる加護に対しても疑いのかけらもない、子どもの姿をした穏やかで無垢な天使。同時にその内側に人間としてのしなやかで強い生命力を輝かせている。背景には静かな田園風景が描かれていた。遠くに愛を語り合う男女の小さな姿がある。

「ジョルジョーネだ。そうだと思っているだけかもしれないが。その絵の持ち主は有名なソドミストでな、半年付き合ったらその絵をくれると言われた。始めは多少興味もあって付き合っていたけど、金は持っているものの、あっちのほうではとんでもなく下品な男だった。半年どころか、二ヶ月の内にこんな男がこの絵を所有していることが許せなくなった。それで盗ってきたんだ。もっとも、向こうも俺が盗ったのは知っているんだがな。屋敷の庭に十頭ばかりもドーベルマンを放ってあって、ものすごいセキュリティの中だった。奴は逆に俺をつり上げていたぶって遊ぶつもりだったんだろう。随分後になって請求書が送られてきたよ。二か月分は値切って払ったけどな」

 竹流が自分の過去について真に話すことは、これまで全くといっていいほどないことだった。あの大和邸で過ごした一週間は、そういう意味でもかなり特別な時間だった。
 あるいは竹流のほうでは、誰かに昔話をしていることが本意ではなかったのかもしれない。竹流の態度や言葉には怒っているような気配がないわけではなかったし、恐らく入試のせいで真が馬鹿みたいに緊張して、彼の気に障るような質問を繰り返していると思っていただろう。

 本当はどうだったのか、自分でもよくわからない。だが、誤解はそのままにしようと思った。
 実際に、何がきっかけでそういうことになったのか、思い出そうとしても記憶が混乱している。竹流に聞くのも妙な話なので、そのままになっている。
 ただ、大和邸の主人の寝室のベッドの上に広げられたサテンのシーツの手触りと、あの一瞬、鼻の中で広がった油絵具の匂いと、そして微かに竹流のキスから匂った強い葉巻の香りで、一瞬にして頭の中は真っ白になった。





恥ずかしくなると、字が詰まってくる……^^;
読み返したら、表現があちこち上手くないなぁ、と思ってがっかりしますが、もうそのままアップしています。
この先何が? いえ、大丈夫です。18禁に相当するような色っぽい表現は……あるような、ないような。シーンはあるのですけれど。
真の記憶ですから、極めていい加減なのです。
また明日

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨88] 第18章 その道の先に(3)/ 18禁 

【海に落ちる雨】第18章(3)です。
大したことはないのですけれど、一応18禁にしておきます。
あまり真正面な描写があるわけではありませんが、いささか官能的ではありますので。

さて、今回、竹流の親友、トニーが出てきます。
どんないい男かって? はい、いい男です。
……猫ですけれど。
いずれ、【猫の事件】シリーズにも、マコトのアニキ猫として登場する予定です。
(マコトは箱入り過ぎるので、ちょっと鍛えてやろうと思いまして^^;)
トニーの独白はこちらをどうぞ→→『吾輩は猫なのである
マコトではなく、真すらも弟と思っている、どんとこい系のアニキ猫です。

まずは、お楽しみください。(18歳以上の人に限る^^;)


注:BLとは言えませんが、同性の恋愛に嫌悪感がある方は引き返してください。



 真は無意識に指を絡ませた竹流の左の薬指から指輪を抜こうとしたが、彼の指に長年馴染んだ指輪はそんなに簡単には外れなかった。
 竹流は、真が何をしようとしたのかに気がついて、多少不思議そうに真を見ていたが、しばらくして上半身を起こし、自分で指輪を外した。
 これが気になるか。
 竹流は確かにそう聞いた。何か答えたかもしれないし、そうでないかもしれないし、やはり記憶になかった。ただ、真はその指輪が自分と彼の間の大きな障害であることを、本能的に感じていただけだった。その指輪が肌に触れると、皮膚も神経も血管も一度に収縮して、わけも分からない恐怖に駆られるのだ。

 指輪を渡されたとき、真はしばらくの間ただそれを見つめていた。暗がりでもイエス・キリストは浮かび上がって見えた。実際にキリストが彫られていたわけではないが、荊がその人を表していることはわかっていた。
 あのイコンの中のキリストの熱情。
 それが何だったのか、やはり分らないままだった。
 真が指輪をベッドの下に落としたとき、竹流は何も言わなかった。真は目を閉じた。

 誘ったのは、無意識だったかもしれないが明らかに自分の方だと思っていた。
 竹流は何度か滝沢基の名前を出した。それが彼なりの予防線だったのか、やはり真に対して何か憤りがあったのか、それもわからない。自分のほうから誘惑した自覚があったにも関わらず、何の準備もできていなかった身体の奥に、彼を受け入れた瞬間から、真の意識はこの次元から彼方へ飛ばされてしまった。
「爪をたてるな」
 かすかに覚えているのは竹流がそう言った声だけだった。あの確かなハイバリトンの声が、一瞬だけ真を現実に引き戻す。だが、その先の記憶はやはり曖昧だった。ただ、心地よく暖かく穏やかで、たまらなく官能的で興奮しきっていて、そしてまた対処しきれないほどの不安や孤独と闘っていた。

 ただキスを繰り返していたときには、あるいは抱き締められているだけの時には、穏やかで不安もなかったのに、頭の先まで痺れるような感覚と共に、体の芯が深く鈍い痛みを受け入れている今は、正も負も、あらゆる種類の感情が真を包み込み、心と身体の内側で沸騰し、その全てが真を揺さぶった。
 これが正しいことだとか、正しくないことだとかいう感覚は一切なかった。身体の隅々まで、全ての細胞がこの男のものだという印を刻みつけられているようで、真はただその現実を痛みと共にそのままで受け入れた。
 この痛みは、自分がこの男のものであるということを誓うための儀式のようなものだと思っていた。
 いつか竹流が、お前は身体で感じたことがあっても心で感じたことがないのだと言っていた。単語は理解できても、その深い意味は分っていなかった。

 あの時、初めてそれが分った、というほどの確証もない。だが、心の中にも身体の中にも、自分という境界の中には彼しかいなかった。いや、既に境界すら何もなくなっていた。そういうことはそれまでに一度もないことだった。
 そうした行為の最中に真はいつもどこかで、他の誰かの唇の感触や愛撫してくれる手を求めていた。
 それが、あの時は他に一切、何も求める必要がなかった。

 痛みにはいつの間にか慣れてしまう。人間の身体とはいい加減なものだと思った。その後に押し寄せてきたのは、腹の奥からこみ上げてくるような震えだった。その震えが快感だと気が付くまでには随分時間がかかっていた。初めてではなかったし、滝沢基に抱かれていた時にも、ちゃんと快楽だと分かっていたはずなのに、それとは全く種類の異なる身体の反応が、この男に擦られている入口ではなく、もっと深いところから湧き上ってくるような気がした。一晩中、わけも分からずむせび泣いていたのか、あるいは叫んでいたのか、気を失った記憶はないが、逆にずっと失神していたのかもしれない。

 一体何年、この瞬間を待ち望んでいただろうかと思った。初めて相川の家にこの男が訪ねてきたときか、それともサンタフェから連れて行かれたインディアンの居住区にこの男が迎えに来たときなのか、あるいは出会う前、浦河の家の屋根裏で曽祖父の残した『人魚姫』の物語を読んだときからなのか、あるいは生まれる前からなのか、ただずっとこの時を待っていたのだということだけは分かっていた。何故これまで抱き締めたりキスをしたりすることだけで我慢できていたのか、信じられないような気がした。

 その夜、朝まで竹流は真を離そうとしなかった。後から思い出そうとしても、もしかして夢だったのではないかと思うくらい、真はものごとの順序は全く覚えてもいない。いや、一晩だけでなく、入試の前日の記憶まで混乱していた。
 身体の中心には、その男をそれ以上吐き出す欲望が一切なくなるまで受け入れていた記憶がちゃんと刻まれていたのに、例の頭の中の記憶の引き出しは無茶苦茶だった。服を仕舞っていたはずの引き出し、文房具を仕舞っていた引き出し、ついでにタオルも台所の鍋釜まで、どの引き出しに何を仕舞っていいのか分からなくなって、適当に放り込んだ。後で絶対に混乱することは分かっていたが、その時はどうしようもなかった。

 霞がかった記憶の中で、後朝の光景だけが奇妙に現実的に思い出される。
 眼瞼の上で遊ぶ朝の光で目が覚めると、ベッドには真一人だった。起き上がろうとすると、身体中が痛む。ようやく身体をずらすようにしてベッドから出ると、床に足をついた刺激でまた鈍い痛みを感じた。足に力が入らないまま、床に崩れるようにへたり込む。その途端に、足の間にねっとりと湿ったものが伝い落ちる気配を感じて、体が震えた。
 だがそれは、苦しさや後悔とは何の関りもない、むしろ深い安堵と満足感に近いものだった。そして同時に、どこかに恐ろしいほどの不安と恐怖を抱えることにもなった。

 へたり込んだまま、ベッドの脇に落ちたままのガウンに手を伸ばしたとき、床に落ちたままの竹流の銀の指輪を見つけた。拾い上げて、そこに彫られた荊と遠い異国の血筋の紋章を見つめると、身体の痛みとその聖なるものの間には、長い距離と深い淵が横たわっているように思えた。
 それでも何とか起き上がって廊下まで出ると、コーヒーの香りがふわりと暖かく、咽元から胃や肺に入り込んでくる。足は地についていない気がしたが、惹きつけられるように階段の手摺りにしがみついたままゆっくりと途中まで降りていくと、台所の扉は開いたままで、竹流が高瀬と何かを話しながら、朝食の準備をしているのが見えた。

 ああ、そうか、二人きりではなかったんだ、と思って思わず緊張したが、先に高瀬と目が合った。その高瀬の表情の変化に竹流が気がついて、真の方を見る。
 後朝に初めて交わす視線には、もっと特別なものがあるのだろうと思っていたが、意外なほど感情の付け入る隙間はなかった。ただ事実があるのみに思えた。

 竹流は昨夜あったことを、執事に隠し立てするような気配は全くなかった。まさに起き抜けの例の色気ある風情で、盆にコーヒーと簡単な朝食を載せようとしていたところだった。
「大丈夫か。起きれないかと思って、寝室まで運ぼうとしていたところだ」
 その口調は、いつもの強気の彼の調子ではない、不思議な色合いがあった。真は返事をしなかった。
 というよりも、本当のところ、身体が震え、足には力が入っておらず、今にも膝から砕けそうになっていた。

 竹流は何かに気が付いたのか、高瀬に盆を頼んで、自分は真のところまでやってくると、そのまま真を抱き上げた。その瞬間、ふわっと石鹸の香りがしたような気がした。
「歩けないだろうに」
 そう言って、竹流は二階の寝室まで真を抱いたまま戻ってくれた。
 お姫様じゃないんだから下ろせ、この野郎、と頭の中で単語を思い浮かべていたが、混乱していたつもりはなかったのに、現実に言葉にはならなかった。

 寝室まで戻り、扉を開けかけたとき、足元でにゃあ、と何かが鳴いた。
「トニー、久しぶりだな。何処行ってたんだ」
 真は、竹流の足元に、ぴんと立った綺麗な黄金の縞々の尻尾を見つけた。
「先、入れ」
 竹流はまるで人間の友人に話しかけるように猫にそう言うと、部屋に入って、大きなカウチに真を降ろした。そこへ猫が一緒に飛び乗って、真の膝に上がり、まじまじと真を見つめる。
 綺麗な黄金の瞳だった。
「トニー、お前、俺の親友だからって、いちいち俺の仲間や恋人を値踏みするんじゃない」

 しかし、猫はしばらく真の顔の近くでふんふんとにおいを嗅いでいたかと思うと、唐突に真の膝に丸まった。
 竹流は少し肩を竦めた。
「お前は合格だそうだ」
「トニーっていうの?」
 しゃべってみて、真は思わず喉を押さえた。声はがらがらで、全く音になっていないようだった。真自身も自分の声に狼狽えたが、それ以上に竹流が驚いたような顔をして、それから真の頭を撫でた。
「フルネームはトニー・ハーケンというんだ」

 綺麗な縞模様で、立派な黄金のとら猫だった。真は猫の背を撫でようとして、自分の手の中の指輪を思い出した。手を広げてその指輪を竹流の方に差し出すと、竹流は無表情のまま黙ってそれを受け取った。
 指輪を左の薬指に戻そうとして、一瞬竹流は動きを止める。
「これが気になるか?」
 真は首を横に振った。
 トニーは真の膝で丸まったまま黄金の目で、ちらり、と竹流を見上げたように見えた。

 すぐに高瀬がやってきて、カウチのそばのローテーブルに盆を置き、コーヒーをカップに注ぎ分けた。さすがに気恥ずかしい気がしたが、高瀬はいつもの無表情のままだった。
 それを見つめながら、真はふとさっきの竹流の言葉にひっかかった。
 自分は彼の仲間ではない、ということは、彼は『親友』のトニーに真を恋人だと言ったのかと思った。
 もっとも、猫がそれを理解していたはずもないのだが、ふと膝の上のトニーを見ると、何となく何もかも分かっている猫のような気がしてならない。

 訳もなく急に不安になり、真が俯いたところ、竹流もカウチに腰掛けて、それから高瀬にもトニーにも構わず真を抱き寄せた。
「悪かったな。優しく扱う術を知らない。お前は随分きつかっただろう」
 暖かい陽の匂いが、竹流のガウンから香っていた。
「しかし、ひどい声だな。熱はなさそうだけど」
 竹流は真の額に手を置いた。入試前に真が扁桃腺の熱を出すことを心配したようだった。
「ずっと泣き叫んでたからかな。それならいいんだが」
 竹流が妙なところでいつもより饒舌なのは、彼も不安だからなのかもしれない。
「叫んでた?」
「覚えてないのか?」
 真は竹流の顔を見て、それから首を横に振った。
「正確には、ずっと泣いてたんだよ。辛かったんだろう」
 竹流は一旦言葉を切り、何やら思い詰めた顔でひとつ息をついた。そして直ぐに何かを振り切るように、真の身体を抱き締めた。
「もうちょっと俺に余裕があったら良かったのにな」

 その日は午前中ずっと、どうにも治まりようのない腹具合と闘うのが精一杯だった。腹の少し奥のほうは、まだそこに何かが入ったままであるように痙攣して、時折ぐっと突き上げるような重みを感じる。
 体裁を取り繕う余裕もなく、真がカウチと手洗いを往復する様子を見ながら、竹流が心配そうにしていた。
 そういう状況にあっても、しかも入試直前という切羽詰ったタイミングであっても、鏡に写った真自身の顔は、自分でも驚くぐらいに落ち着いて穏やかに見えた。
 男同士の行為に手馴れていた滝沢は、決して真をこういう状況に追い込むことはなかったし、ただ一度を除いて、真の身体の中に出すときはコンドームを使っていた。大事に扱われたという記憶は確かにある。
 だが、昨夜の曖昧な記憶の中に明らかに残っている、ただがむしゃらに求められたのだという感覚に、今は震えるような心地だった。

 午後になって幾らか落ち着いてくると、どうせ勉強に身は入らないだろうと思ったようで、竹流はドライブに連れて行ってくれた。フェラーリに乗り込むのとまるで同じ優雅さで軽トラックの運転席に納まった竹流の手が、心配そうに真の頭に置かれる。
 山奥に向かって走り続ける軽トラックは、地面の形をそのまま振動として身体に伝えてくる。その度に、僅かに芯に残っていた昨夜の痛みは増幅されて、真の身体いっぱいに押し広がってきた。
 意識が時々曖昧になる。
 目を開けると、フロントガラスの向こうに光が踊りながら、木々を背景に揺らめく水面のような光景を編み出していた。

 辿り着いたのは川の上流の滝だった。
「いつかお前が、宇宙に飛べるかな、って言ってたろう。俺も、十を越えたころにはあんな目をしてたんだろうな。いつか修復師になろうと思っていた。尊敬する親父がいてな、教会の中にあるものは何でも修復していた。絵も、聖堂の中のあらゆる黄金や錦の宝物も、彼の手にかかると、それが昨日描かれ造られたように蘇った。そこで祈りを捧げた人びとの声までも、気配までも、蘇るようだった。俺には神様だった。いつか、あの聖堂に見た宇宙を、俺自身の手で作り上げるのだと思っていた。だが、今は日の目を見れないものしか、俺の前にはやって来ない。それに、運命というものは簡単に思うままにさせてくれないようでね」
 魚の鱗が水面近くで光を煌めかせ、また深い水底へ戻って行った。

 あの頃、竹流が何と葛藤していたのか、真は具体的には知らない。だが、今彼が手に入れている全ては、その葛藤の中から彼が自分の力で掴んできたものだということだけは分かっていた。
「試験終わったら、あんたの国に連れてって欲しい」
 ご褒美をねだったつもりではなかったし、真は竹流が怒るかと思っていた。
 竹流の口から一度も出たことがない故郷の話。それを思えば、真が導火線に火を点けたことは間違いなかった。竹流は長い時間、黙っていた。黙ったまま真を抱いていたが、真の体が強張って、冷たくなっているのを知ったからか、暫く体中を解すように愛撫しマッサージしてくれた。

「頭の方がどうなっていようとちゃんと身体が動くのは、人間が赤ん坊の時から訓練されているからだ。だが、お前は多少そうでないところがある。だから、出来ないことで無理をすることはないし、開き直ることだな」
 そう言って竹流は、一瞬躊躇した。それから、真を綺麗な青灰色の瞳で見つめた。
「明日が過ぎたら、飛行機の切符を取りに行こう。お前の望むように、俺の生まれた国に行って、美味いものを食って、昔から人々が造ってきた沢山の美しいもの、聖堂や広場、噴水のある石畳の街並み、小麦や葡萄の畑、火山や城の見える港、そういうものを見て、神様のいる場所に行ってお祈りをして、自分がちゃんと感動できる人間だとわかったら、きっと随分楽になる。だから、いまはそのことだけを考えていろ」

 そんな言葉と手の暖かさだけで、脚や手、肩の痺れはゆっくりと消えていった。それはまるで魔法のようだった。斎藤医師がいつか言っていたことがある。
 薬よりも、お前にとっては彼の言葉の方が利くらしい、と。
 身体中が濡れて、甘い水に浸っていく。そのまま有機の海の中へ解け出して、小さな細胞に戻るようだった。ここからここまでが自分の身体であるという境界が崩れていく。自分が個体としてはまだ存在していない昔に、宇宙のチリやほんのひとつの細胞であったことを感じた。

 真が試験会場という異様な空間に飲み込まれずに済んだのは、間違いなく、あの二日間のお蔭だった。
 会場で席に着いたとき、やはり手足の先から力が抜けていくように思って焦ったが、目を閉じて、彼の手や唇の感触を思い出した。それはなかなか効果的だった。それだけで手の先まで血が流れるようだった。
 試験自体は思ったよりも難しいとは思わなかった。というよりも、いつものあのスパルタに比べたら、たいした事ではないように思えた。それでも、休み時間の度に、真は気持ち悪くてトイレに駆け込みそうになるのを抑えた。まるで、呼吸する空気の成分が異なる異次元に、頼る手もなく放り込まれたような感じだった。
 それでも、あらゆる意味で、自分にしては百二十パーセントの力を出した日だった。

 大和邸までの長い帰り道、通勤ラッシュの人混みに巻き込まれた。手足は魔法が切れるように痺れ、徐々に体温が上がってくるのを感じる。バスに乗り換えた時には、身体が動かず、異常な浮遊感に包まれていた。胃は内容物を食道へ押し上げ、唇が痺れてくると、もうバスには乗っていられなくなった。
 いざバスを降りてみると、吐こうとしても、何も吐けなかった。しゃがみこんだまま、意識は徐々に自分の体から抜け落ちていく。
 不意に車の急ブレーキの音が耳の奥に木霊し、すぐに誰かに抱き上げられたようだった。
 もう一度ぼんやりと意識が戻ったとき、ふわりとしたサテンのシーツに包みこまれる感触と額に触れる冷たいタオルと誰かの暖かい手を感じた。
 どれほどの時間だったのかは全く分らない。いつもの扁桃腺の熱なら三日から一週間は続くが、後から考えれば一晩きりの高熱だったようだ。本当に、いわゆる知恵熱というやつだったのかもしれない。

 もしも真が熱を出さなかったら、その後の夢のような時間はなかったのだろうか。竹流は熱に浮かされたような二日間の間に交わされた約束など、その気が無ければ反古にしてしまってもよかったはずだった。今更、真のほうも約束が守られるとは思っていなかった。
 だが、試験の二日後には、飛行機は古の都に向かって飛んでいた。





トニー・ハーケン、にまさか反応したあなた!(なんて、おられないと思いますが……)
この名前は、かのロボット・アニメ『ダンガードA』に出てきた敵役、なぜかこの手のアニメに一人は出てくる庇髪のキャラです。友人がファンだったので、猫の名前に頂いてしまいました。
トニーハーケン
ただ、実はこのエピソードの時には、『ダンガードA』はまだやっていなかったかも。

さて、次回は少し長くなりますが、イタリア旅行(噂によるとハネムーン?)~その後の顛末。
イタリア旅行中の物語は→→『幻の猫

また明日

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨89] 第18章 その道の先に(4) 

【海に落ちる雨】第18章(4)です。今回で第18章が終了です。
イタリア旅行、そして帰国後の真が囚われた闇……この答えはまだまだ先になりますが、光に満ちた古の都で、降り積もっていく真の不安を覗いてやってください。
光が強ければ、また闇も深いのです。その狭間で、人は生きているのかもしれません






 降り立った街から見たアドリア海の光、方向も分からない海上でぽつんと二人きりだという穏やかな気分、クルーザーが後ろへ引いていた波の軌跡。
 あれほど水が怖かったのに、揺られていることが心地よく、海の匂いに安堵さえした。
 小さなデッキに寝転んで、星を数えた。天の全ての星に名前があるわけではなかったが、その名前を呼んでいくと、自分が星々のすぐ傍にいるように思えた。竹流は真が数えている星の名前をずっと何も言わずに聞いていた。
 記号のような無機質なアルファベットと数字で構成されているものまでも含めて、何かの名前がひとつずつ愛おしいと思えることは、自分が今どれほどに満たされているかということと、まさに完全な比例関係にあると思えた。
 ふと、空から星が消えたと思ったとき、唇に暖かいものが触れ、身体ごと心ごと抱き締められていた。

 パレルモに着いて、イスラム教とキリスト教の溶け合った教会に入る。
 見上げると天井は青い宇宙のような色彩だった。祭壇の前に人々が集い、その宇宙の下で赤ん坊の洗礼式が行われている。小さな子どもはこの世に生まれ出て、今、神の祝福と両親を中心とした血縁の者たちの愛情を、一身に集めていた。
 微笑ましく、辛い光景だった。俯くと、不意に頭を抱き寄せられた。大きく暖かい両の手は真の頭を包み込み、神や両親の替わりに真の額に祝福をくれる。何の抵抗もなく、真は抱き締められるのに任せていた。誰の視線も気にならなかった。

 それから辿った街で、竹流はどれもこれも愛おしくてたまらないというように真に教会を、塔を、噴水を、広場を、そして絵や彫刻を、時には街角の小さな石を指し、物語を語った。
 時折、不安になった。自分たちだけと星だけなら何も遮るものはなかったのに、街の中にはその男と関わりのある数多のものがひしめき、その命と存在を支えていた。時折竹流の左の薬指の指輪が目に入ると、恐ろしい焦燥感と孤独感に襲い掛かられた。
 指輪はこの国の光を吸い込むと、その存在を誇らしげに主張しているように見えた。
 真が黙り込むと、竹流はふと真のほうを見つめ、優しく抱き寄せ暖めてくれる。真は孤独も焦燥も心の奥深くに畳み込んだ。

 サン・マルティーノ修道院から宝石箱のようなナポリの港を見下ろしたときには、周囲に夕焼けを楽しむ幾組かのカップルがいて、その大胆な愛情表現に真は思わず視線を逸らせた。
 竹流はいつものようにからかったりはせず、真の頭を抱き寄せると、イタリア語で愛しているというのはTi Amoというのだと言った。ずっと以前に言葉を教えてくれたときのように、竹流は繰り返すように言って、真がその言葉を繰り返すと、何か真には解らない言葉を耳元に囁いて、全く周囲を気にせずに真の頭を抱き寄せた。
 その帰り道、卵城近くの港を歩きながら、竹流は恋人に囁くようなカンツォーネを歌ってくれた。
 歌は港の堤防に打ちつける波音をベースにして、身体の内に沁みこんでくる。耳に残る声は体の芯に火をつけるようでもあり、穏やかに包み込むようでもあり、半分で真をたまらなく幸福にし、また半分でたまらなく不安に陥れた。

 ピサの塔が緑の芝の中に白く輝きを放つのを見たとき、真はぼんやりと目のうちが温かくなるのを感じた。
 竹流がこの国をどれほど愛し、この国を懐かしみ、そして離れがたいものから離れて生活しているのかということを、嫌というほどに感じたのだ。
 真が触れてきた北海道の大きな空気とは全く異質の、人間が積み上げてきた軌跡を、真はただ美しいと思った。朝日の中で輝く斜塔をホテルの窓から覗いたとき、通りの建物の間から斜塔のほうもこちらを覗くように優しく傾いていた。
 ごめんね、と言われているような気がした。

 竹流が最も愛している街のひとつがシエナだった。その茶色の町並みを抜けて路地に立つと、竹流は、世界中でもっとも美しい広場にようこそ、と真を誘った。
 広場に踏み込んで初めて、それが優雅に扇を広げたような形だとわかる。
 鐘楼から見たトスカーナの緑の田園ははるか地平線まで続き、翌日には土の緑と空の蒼の間の優雅なラインをバスで走っていた。織り重ねられたタペストリーのような地平線が視界いっぱいに広がり、道や畑の境界に木が立ち並び、光は低い山と田園を翠や藍、黄金に染め分けた。バスに乗っている人々はおしゃべりと手元の作業に忙しく、真と竹流もそこへ巻き込まれていく。差し出されたりんごは酸っぱくて、甘かった。

 何度もサン・ガルガーノという言葉が真の耳を刺激した。そして、ついに乗客たちは、窓の向こう、丘の上を指し、合唱のようにサン・ガルガーノと叫んだ。竹流は礼を言って、真を連れてバスを降りる。乗客たちは、まるで旅行者をこの尊い聖なる地へ運んだのが自分たちの手柄であるかのように誇り高い満足げな顔をして、真と竹流を見送った。

 教会には壁は残っているものの、屋根がすっかりなかった。天井は蒼天で、白い雲が浮かび、鳥が横切った。
 真が不思議な光景に圧倒されながら空を見つめていると、教会は金がなくて屋根を売っぱらったのだと竹流は言った。随分現実的な理由なのに、年月を経て残る屋根を失った教会はロマンチックだろう、と竹流も青い空となった天井を見上げる。
 教会の裏手の草地には風が吹きぬけ、持って来たワインを開け、パンとハムを切って、少し固い桃をむいて食事を済ますと、竹流は気持ち良さそうに草地に寝転んだ。猫が食べかすをねだってくるので、残ったハムをやると、猫も真のすぐ傍で丸くなった。
 竹流があまりにもあっさりと眠ってしまったのでつまらなくなって、悪戯をしたくなった。眠っている竹流の腹の上にその猫を置くと、猫は伸びをしてもう一度丸くなった。
 竹流は目を開けなかったが、真の頭を撫でた。

 恐ろしく幸せな時間は、花の都の美術館の、光溢れるテラスで終わった。

 それまで真の特殊能力が発揮されたのは、唯一モンレアレのカタコンベの中だけだった。
 それがローマに入ると、ひっきりなしに襲ってくるようになった。ただでさえ、古い時代の建造物の上に、次々と新しい時代の営みを積み上げてきた街だ。その上、その歴史は半端ではなく古く、しかも目を覆うような悲劇も多々繰り返された。
 そういう一切を飲み込んで、今ふと歩いている足元でさえ、数千年の昔の水や空気を吸い込んだまま、誰かの想いや記憶が層状に積み重なっている。
 石畳の上の一歩一歩が重くなった。

 今まで傍らにいて幸せな空気しか感じなかった男の、ただ二十七年ばかりの人生にも、その数千年と同じ複雑な層が重なっていた。
 ローマの屋敷で人々が彼を呼ぶ名前は、その日までは誰かが口にしても重みをもって迫ってくるものではなかった。
 しかし、その日から、その名前は深く飛び越えられない溝を、真の前に見せるようになった。

 竹流が、別の一面を真に見せたのは、ローマの屋敷の、穏やかな風が吹き抜ける光に溢れた部屋の中だった。
 解説も理解を求めるような気配もなく、繰り返される暴行。

 一体、彼の中の何が、そこまで彼を追い詰めているのか理解できないまま、真は考える頭まで奪われてしまった。殴られることには他人以上には慣れていたと思うが、殴る人間が彼であるという事実を、あの時真自身どうやって納得したのか、あるいは納得する余裕もなく晒されていたのか、今でもよく分らない。
 大和竹流、いや、ジョルジョ・ヴォルテラという人間の中に溜め込まれていた重い鉛のような塊、それがあの街のあの屋敷で、あるいは彼に本当の意味で影響を及ぼすことのできる唯一の人物の側で、行き場を失って真の方へぶつかってきたのだ。

 僅かな口答えでも殴られ、少しの説明を求めても打ち据えられ、他の男との情事を、その細部まで、そして自分がどんなふうに感じたのか、言葉にしろと強要された。今更思い出す気もなかったのに、あえて聞かれると辛くて悲しかった。
 泣きながら、滝沢は優しかったと言うと、狂ったように殴ってきた。幾夜も眠らせてもらえず、食事の合間も浴室でも、あるいは明らかに他人の気配がある時でも、逆らうことを許されなかった。
 しかも、真の身体が完全に破綻するような気配を見せると、彼は真を一人残して逃げ出してしまった。
 扁桃腺炎の高熱は例の如く三日続いた。

 意識が朦朧としていてよく分らなかったが、屋敷の住人は、料理人も世話係らしい女中も、出入りする医師も、あるいは屋敷の主人でさえ、真に対してはむしろ同情的で、追い込むような人間たちではなかった。それでも、執拗な暴力の後の放任に、真の方は、彼への信頼も生まれ始めた愛情のようなものも、完全に失ってしまってもよかったはずだった。

『あの坊主は、本当に都合が悪くなると逃げ出すからなぁ』
 頭を掻きながら、ヴォルテラのお抱え医師は呟いた。
『結局、偉そうにしてもお子ちゃんなんだな。あれは、ちっこい頃からどうにも愛くるしい子どもでなぁ、まぁ、実家の親からは見捨てられたようなものだから、余計にこっちの家の者は、親分以外はべたべたに可愛がったんだ。第一、親分のあのスパルタを見てると、可愛がってやりたくもなるわけだ。だから、あいつは、結局は自分の思い通りにならないことなんてないと思っとる。まぁ、そのための努力も人一倍、どころか十倍はする男だけどな』
 医師は自分の息子の事を話すように語り、本当は自慢の息子なのだ、と言いたげだった。  
『坊主、あいつは完璧な支配者になるように育てられた男だ。ストイックで努力家の面もあるが、同時に別の面も持っている。あんな暴力に耐えて優しくしていると、どこまでもつけあがるぞ』
 そう言って、医師は真の頭を撫でて、冷たい水で絞ったタオルを額にあててくれた。

 日本にいる間の竹流を見ている限り、卑怯な面など持たない男だと思えていた。だが、真は自分自身の身体の状態から、あの男のマイナスの側面を知っても、あまり狼狽えていないことを感じた。
 どれほどの暴行を受けていても、身体が痺れてくることも、目の前のものを見聞きするのが嫌で意識を失ってしまうこともなかったのだ。耳が聞こえなくなるようなヒステリー発作も起こらなかった。あの電車通学の人混みの中、試験会場の異様な空気に晒されたときのような吐き気も頭痛も、かけらも湧き上がってこなかった。
 熱に浮かされている間、真が唯一理解できたのは、今起こっている、傍から見れば明らかに理不尽な状況を、自分が完全に受け入れているということだけだった。

 真の熱が漸く三十八度台の前半に落ち始めた夜中、竹流は怖い顔をしたまま戻ってきて、真を連れてアッシジに逃げた。
 ここがどこで、彼がどんなふうでも、これまで彼が自分にしてくれた事をなかったことにできるほどの出来事があるはずもなかった。
 竹流が自身の二面性をそのまま抱え込んでいた内なる矛盾をさらけ出したあの国で、話してくれた街や国の歴史、ある意味では人間そのものの来し方、単に地名であっても言葉の持つ不思議なニュアンスや力。
 彼の言葉には、魂が篭っていた。小学生の頃には、特に東京に出てきてから、周りの同級生や教師の言葉が全く意味の成さない記号のようになり、理解できなくなっていた真に、その魂の篭る言葉は直接理解できる唯一の言語だった。
 だから、真は彼が語った言葉は、教会の名前でさえも、ひとつとして忘れなかったのだ。

 竹流にそのことが上手く伝わっていたとは思えないが、アッシジでの彼は、あるいはその後もう一度戻ったローマでさえも、異様なほど優しかった。
 医者に壊すなと言われたからな、しばらくは我慢することにした。
 そう言いながら、抱きしめてくれていた大きな手の感触。絵の下に眠っていたマリアを、敢えて掘り出すことはないと、真の言葉を受け取り、ただ丁寧に絵を洗浄していた手。ボケた振りをする老人から職人の手だと言われた、あの右の手。

 世間の常識も、倫理に対する後ろめたさも、全て捨てる準備はできていた。何となく気配を察知している祖母や葉子に対してはともかく、祖父にも、たとえ失望されようとも、必要があればきちんと話す気もあった。
 しかし、竹流は成田に向かう飛行機の中で、やはりあの手で真の頭を撫でるようにして言った。
「お前は研究者としていい素質を持っているから、大学に入ったら、とにかく一生懸命勉強しろ。俺も色々忙しいんであまり構ってやれないが、これからは一人でもやっていけるだろう。それから、彼女も長い間放っていたんじゃないか? 帰ったら直ぐに連絡して、デートのひとつもしないとな」

 突然に放り出されたような感覚は、暴行を受けていた時には全く感じなかった眩暈を引き起こし、意識に穴をあけたようだった。
 東京での生活の再開は、真が思い描いていたものとは全く異なっていた。時間は淡々と流れ、視力がどうかなったのではないかと思うくらい、景色は色を無くした。あの国で、何があっても失われることのなかった光の温度も、感じなくなっていた。
 真は、目と耳を塞ぎ、ただ静かに時をやり過ごさなければならなかった。

 大学に入って一月もしないうちに、真はある筋では有名な研究者である芦原教授の教室に出入りするようになった。せめて宇宙の事を考えている間は、光を感じるような気がした。
 灯妙寺にも淡々と通った。祖父は、顔にも態度にも出さなかったが、孫がいそいそと剣道や三味線の稽古に通ってくることを喜んでいたようで、土曜日の夕方になると自分で買いものに出掛けることもあったようだった。
 篁美沙子とは、週に一度は会うようにしていた。時には二週に一度のペースになることもあったが、これは義務だと思って習慣にしたほうが問題を起こさないことが分っていた。
 あまり会話をせず、ただ会ってホテルに行って抱き合うだけの日もあった。もともと無口で、自分の感情を説明しない真には、美沙子も慣れているはずだと思っていた。彼女との付き合いの中で、好きとか愛しているとかいう言葉を口にしたことは一度もなかった。どのように処理していいのか分からない感情は、他人に説明できるものでもなかったし、もしかして将来を共にするかもしれない女性に対して、敢えてくどくどと解説する気にはならなかった。
 彼女との行為に身体はちゃんと反応していた。けれども、狂うほどに相手を求めるような激情も、溶け出すほどに甘い気分も、自分の細胞の一つ一つがざわめくように興奮して太古の昔に戻るようなあの感覚も、一切戻ってくることはなかった。それでも、あの時はまだ、いつかは美沙子に結婚を求めるのだろうと、ぼんやりと思っていた。

 そんなある時、失踪した相川功の行方を確認するために、アメリカから私立探偵と思われる二人連れがやって来た。何も知らないと答えたが、気味が悪く、万が一葉子の身に何かあれば困ると思い、斎藤医師に相談した。
 斎藤は知り合いの弁護士のところに真を連れて行き、その弁護士が、海外にも伝が多いという唐沢を紹介してくれた。
 弁護士のほうは、有名企業の顧問弁護士をいくつか兼任しているし、最近は少年事件でも名を上げ始めたきちんとした男だったが、唐沢はどこからどう見ても、一歩間違えれば浮浪者かチンピラに近いムードの男だった。
 言葉も乱暴で、生活などいい加減の極みのようで、やることなすことちゃらんぽらん、常に酒臭く、博打好きで、女好きだった。呆れ果てたが、意外なことに、周囲で聞く噂では、この調査事務所の仕事は極めて優秀だった。

 初めて会った日、唐沢は真を上から下までじっくりと見て、身体を撫で回すように確認し、にたにた笑って言った。
「お前、うちでバイトしねぇか?」
 結局、アメリカからやって来た男たちは二度と現れなかった。もしかすると嵌められたのではないかと思うくらい、まんまと唐沢の術中に嵌って、真は研究室と灯妙寺以外の生活の場所を、唐沢調査事務所に置くことになった。
 唐沢は、真のこれまでの人生のどこにも存在しなかったタイプの人間だった。刑務所にいる現在でも、結局のところ悪い人間なのか良い人間なのか全く分らない。いや、多分良い人間ではないのだろう。ただ、悪い人間の範疇に入るということでもなさそうだった。

 唐沢は真を気に入ったのか、どこに行くにも連れて歩いた。サービスの程度は様々だがあらゆる種類の女の子のいる店、あるいはゲイバーなどの飲み屋だけでなく、驚くような有名企業にまで出入りし、一方ではどこから見てもヤクザだろうと思える事務所にも顔を出していた。真が感心したのは、そのどこに行っても唐沢の態度や言葉遣いは全く同じだということだった。
 時には、真に目が飛び出るほど高いスーツを買ってくれて、唐沢自身も上等のスーツを着込んで、明らかに秘密めいたにおいを持つ社交場へ真を誘った。参加しているのはほとんどが外国人で、会話は英語、時々スペイン語かポルトガル語のような言葉も混じっていた。そこで感じた、自分を値踏みするような視線。唐沢はまるで真を値段を吊り上げるための商品のように見せ歩いていた。

 それが何だったのか、今でも分らない。
 三上がそのことでひどく唐沢に絡んでいるのを聞いたこともある。
 後になって、唐沢が一度だけ、お前、男と寝るか、と聞いてきたことがあるので、もしかすると、そういう場所だったのかもしれないが、明らかに性的な交流を目的にした人間の集まりには思えない空気があった。
 そういう趣味はありません、と真が答えると、唐沢は意味深に笑って、まぁ、操を立てないといけない相手もいるわな、と言った。
 それ以上何かを強要されることはなかった。

 唐沢の博打の中には、幾分か詐欺や強請りの要素が入っていたのだろう。
 もしかすると、唐沢に紹介された田安隆三が彼に何か意見してくれたのかもしれない。田安に会ってからは、唐沢が真をあの怪しい社交場に連れて行くことはなくなった。
 そう考えると、自分に向けられた視線の意味も、自ずとわかる部分もある。
 唐沢は、相川真が朝倉武史の息子であることを知っていたのだろう。三上も、唐沢は大事な詐欺の材料を他人に委ねることはない、と言っていたので、せいぜい自分の手元で真の値段を吊り上げていた可能性はある。

 しかし、唐沢は結局、真を誰かに売り渡すことも、詐欺の片棒を担がせることもなかった。調査事務所でのあらゆる仕事のノウハウを教えてくれたのは唐沢だったし、美沙子と別れた後、女に不自由しているだろうと、さんざん女の子を紹介してくれたり、こき使う割には真の健康を時々心配してくれたりと、意外なことに感謝するべき材料のほうが多く見つかるくらいだった。
 何よりも、真に、問題のある少年少女や社会のアウトローの気持ちを引き寄せる何かがあるということを見抜き、失踪人調査の才能があると煽てて、名瀬弁護士に売り込んだのも唐沢だった。

 だが、いずれにしても、何に対してもある一定線以上の感情を引き出されることのなかったあの当時の真には、興味のないことだった。
 その頃、性を商売にする幾人もの男女と知り合った。仕事がらみだったが、同性愛者たちの集まる店にも足を運んだ。彼らは性の嗜好に対して開けっ広げな一面もあれば、ひどく臆病な気配を示すこともあった。その嗜好を店で満たしながら、普通に結婚生活を営んで、家族を愛していると当然のように言う男もいた。
 そういう連中から、真は本質的にホモセクシャルの嗜好があると断言されたこともある。一度ちゃんと体験してみれば自分で納得できることだと、誘われることも一度や二度ではなかったが、一度として自分のほうからそういった連中の誰かと寝たいと思ったことはなかった。

 一方で、唐沢の勧めるままに女たちとは随分関係を持った。唐沢が真を商売の道具にしていた気配は、なんとなくわかるようになっていた。彼が真に服を買ったり食事に連れ出すのは、その代金の一部なのだということがわかっても、不快だという気持ちにはならなかった。
 唐沢の紹介する女たちは、一癖も二癖もある女が多かったが、どの女も総じていい女だった。女たちと肌を合わせているとき、美沙子と寝ているときほどに夢中になることはなかったが、身体の芯のどこかで、自分は結婚したら平気で妻を裏切るかもしれないと考えていた。

 葉子は、最近お兄ちゃん、おっさんくさくなった、と不満そうに言った。煙草が増え、銘柄もきつくなり、どこからどこまでが一日か分からないような日々だった。
 そして、だんだんと自分自身が薄くなっていっているような気がした。
 生活がいっぱいいっぱいなので、睡眠時間を削らざるを得ないのだと思っていたが、時間があっても眠れなくなった。自分で自分の首を絞めるように、時間を埋め尽くした結果だった。

 もともと眠りの浅かった真は、その秋にはほとんど起きている時間と寝ている時間の区別がつかないほど、意識が曖昧になっていた。眠っていると、ほとんど現実と区別のつかない夢を見るようになった。そしてある時から、明らかに夢の中なのに温度を感じ、触覚も臭覚も働くようになっていた。二十四時間、交感神経が活動し、アドレナリンが出ている状態だったのだろう。逆に起きている時間、確かに現実の道を歩き、階段を登り、人とすれ違ったりぶつかったりしているのに、足に感覚はなく、ぶつかった人も自分に気が付いていないのではないかと思うようになった。
 周囲の人間がどれほど心配していたかは、その時の真には分からなかった。

 ある日、薄暗い研究棟の人気のない長い廊下で、真は遥かに続く真っ直ぐな線の向こうから、風が吹いてくるのを感じた。薄暗い廊下の彼方の光の中に、自分を見つめる暖かく哀しい目があった。
 微かな嘶きと体温、生命のにおい。
 そうか、自分は死ぬのだろう、とその時理解した。恐ろしいとは思わず、むしろ安堵したような記憶がある。もう、人混みにもややこしい人間たちの感情にも心を乱されることはない、何より自分の堪えられない心の重さとも無縁になれるということは、悪いことではないような気がした。

 だが、一度だけ、彼の声を聞きたいと思った。
 廊下のみすぼらしい台の上の赤い公衆電話の受話器を取り上げたとき、指は、もう忘れてしまっていると思った番号を、滑らかに回していた。指の向こうに電話器の文字が透けて見えるほど、自分が頼りなかった。
「どうしたんだ? 久しぶりだな。お前が電話してくるなんて、これまでにあったかな」
しかし、そんな真の気配など微塵も感じないように、竹流は明るい声で電話に出た。
 気が抜けるほどあっさりとしたやり取りだった。

 成田に降り立ったあの日から、一度も会わなかった。灯妙寺に戻った際に彼の車を見かけることはあったが、逃げるようにその場を離れていた。
「女は抜きにしておくから、マンションに寄れよ」
 何を察したのか、ただ気が向いただけなのか、竹流はそう言った。
 だが、実際に顔を合わせたときの竹流の表情は、それほど状況を理解していないというものではなかった。葉子か祖父母が何か言ったとしか思えないが、ただそれほどとは思っていなかった、という顔だった。
「ちょっと不眠症気味なんだ」
 本当は、何かを説明するつもりだった。だが、結局言葉を見つけられなかった。

 自分はもう半分、この世界から消えかかっている。それが、簡単に言ってしまえば、彼と自分の間にある距離の長さに因っているということを、当の本人には説明することができなかったからだった。
 しかし、マンションの扉を開けた瞬間から、竹流は事態をどう受け止めたのか、一気にその距離を飛び越えてきた。彼なりにその理由を北海道の牧場に見出し、アイヌの老人が真の守り神だと告げた野生馬の死と関わっていると思ったようで、真を引っ張って浦河に飛んだ。

 牧場の暗い闇の中、天空に遥かに広がる大宇宙の下で、竹流はもうそこにいないはずの野生馬に告げた。
「飛龍、そいつは俺にとって大切な人間だ。頼むから、連れて行かないでくれ」
 霊魂も幽霊も信じないといっていた男が、亡くなったはずの野生馬に放った心の底から搾り出すような言葉は、真を突然の現実に突き戻し、混乱させた。
 だが、その時にはもう歯車は回り始めていたのだろう。

 止められない運命に従い、真は崖から落ちて、恐らくあの日、一度は死んでしまったはずだった。





次回から第19章 同居人の足跡 です。
真の身に迫る危機、ついに竹流の痕跡が……しかし、そこには!
(なんちゃって)

読んで下さる方々に心から感謝申し上げます m(__)m

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨90] 第19章 同居人の足跡(1) 

【海に落ちる雨】第19章です。
失踪した同居人の足跡を求めて、新潟の豪農の屋敷にやって来た真。
旅の道連れは仁道組の跡取り息子・北条仁。
豪農の末裔・上蓮生家の女主、千草に勧められるままに屋敷に宿泊することになった真と仁。
仁は千草と一夜を共にする気配。ひとり蔵を改築した部屋に泊まる真の身に危機が……
そしてついに、同居人の影が見え隠れする。





 真はゆっくりと身体を起こした。
 やはり電気を消した方がいいようだ。天井の隅を見つめていると、どこかに魂を持っていかれるような気がする。立ちくらみがしないようにゆっくりと起き上がり、天井からぶら下がる蛍光燈の紐を引っ張ろうとした。
 その時、家鳴りがした。
 怖いとかいう気持ちはなかったが、思わず天井を見上げた。

 誰も確かめたことがないという蔵の二階。
 蔵のように頑丈な造りでも家鳴りがするんだな、と思いながら、ふと見回すと、床の間の横の棚にインターホンと一緒に懐中電灯が置かれていた。電気があったかどうか確かめなかったので、念のため持っていたほうがいいだろうと思った。
 魂を持っていかれると言っても、まさか飛龍ほどの念力を自分に対して示す霊魂もいないだろう、と何となく高をくくった。生死に関する場面になれば、あの亡くなった馬が自分を必ず導いてくれる。真は根拠もなく、そう確信していた。

 懐中電灯が点くかどうかを確かめると、電池が切れ掛かっているのか、弱々しい光だった。それでもないよりはましだろうと思い、廊下に出る。廊下の床は、元が蔵だけに、じんと冷え込んでいた。後から造りつけたものだけに、軋みがひどい。
 不意に気になって後ろを振り返ったが、勿論誰もいるわけがない。
 仁はやはり千草と一緒にいて、今夜はここに眠ることはないのだろう。

 真っ暗な廊下を奥に進み、突き当たると右手がそのまま階段になっている。半間よりやや狭い幅で、左の壁を探ると、電気のスイッチが触れた。ほっとしてスイッチを押したが、掠るような音だけで、電気が点く気配はなかった。何度かカチカチやってみても同じことだった。
 階段の上は吸い込まれるような漆黒だった。
 大袈裟に溜息をついて、懐中電灯の明かりを灯す。せいぜい階段の数段上までを浮かび上がらせるばかりの明かりは、輪郭が曖昧な弱々しいオレンジの光の輪を、足元に作った。

 階段は、いかにも造りつけ、というように大きく軋む。一段上がる毎に、不安な梯子のように揺れる気配さえある。せいぜい二段ほど上までしか見えないので、一体どのくらい続くのかも分からない。一段一段はしっかり足を上げなければならない程度には高さがある。
 冷やりとした空気が降りてきた。
 階段には手すりもないので、辛うじて左の壁に手をついて身体を持ち上げる。階段を上がるのって、こんなに重労働だっけ、と思っていると、もう一段あると思っていた段がなく、幻の一段を踏み外したように身体が前につんのめった。
 懐中電灯の明かりが、奇妙な影を作っていて、錯覚したようだった。

 スイッチがないか壁を確認しようとして、懐中電灯を上に向けた途端、電気が点かなくなった。
 突然の完全な暗闇に、身体中の皮膚や粘膜の受動器が働き始める気配を感じる。
 黴た湿り気のある、冷たい空気が体にまとわりつく。
 思わず懐中電灯を振ると、辛うじてまた明かりが点った。
 足元は板張りで、やはり階段と同じように軋んだ。とてもこの懐中電灯では二階の全体は見えない。何とか目が慣れるまで待とうと思って、その間に壁を探ったが、スイッチらしいものはなかった。

 辛うじて目が捉えたのは、蔵の玄関の真上にあたる壁の上方にある、小さな四角い窓だった。元々の蔵の明り取りらしいが、外の暗さと蔵の内の暗さのコントラストが何となく分かるだけで、光を投げ掛けてくれるわけでもない。
 それでも、最後の力を振り絞っている懐中電灯で見渡した限りでは、何もない、がらんどうの空間だった。
時々、足元にひゅっと空気が走るので、そのたびにびくっとする。生き物がいる気配はないので、どこかの隙間から風でも吹き込むのかもしれない。

 突然、空気が耳にも切り込んできた。慌てて耳に手をやって払い除けるが、勿論何もいるわけではなかった。
 いっそ消してみようと懐中電灯を諦めると、何とか暗い空の切り取られた窓の輪郭がはっきりしてきた。雨のときはどうなるんだろうと思いながら見上げていると、どうやらそこから微かな自然の明るさが零れて、床に小さな、わずかに光を感じられる程度の四角を切り取っていた。
 何を反射して光ったのかは分からないが、床の四角の中の微かな光が目を貫いた。真はゆっくりとその四角に近付き、屈んだ。懐中電灯を灯すと、さっきよりは多少ましな程度の明かりが、足元を照らす。

 光の中で探すと、僅かな光はかえって見えなかった。埃の降り積もる床は、ただぼんやりとしている。
 諦めかけて立ち上がろうとしたとき、やはり目の隅で何かが光った気がした。そのまま見下ろすと、本当に微かな光を放つものが見える。
 もう一度じっくりと床を見ると、細く弱々しいものが白っぽく浮かんでいる。指で摘むにも摘めないほどのそれは、爪と爪の隙間で微かに引っ掛かる程度だった。
 途端に、懐中電灯は光を失った。

 真はしばらく動けずに固まっていたが、少し落ち着いてくると、立ち上がって振り返った。そうしてみると、階下の座敷の明かりが辛うじて階段の位置を教えてくれる程度には、ここまで届いている。
 ひとつだけ溜息をついて、階段まで歩き始めたとき、突然足が重くなり動かなくなった。
 暗い闇の中で、何かが真の足にしがみついている。背筋が冷たくなり、足元を見たが、暗いばかりで何かが見えるわけでもない。
 足元で幾種類かの黒が渦を巻くように見えた。

 妙なものが見えることはあっても、取り憑かれたりすることはめったにない。所謂錯覚といっていい程度のものだ。それが足までも重いということは、かなり拙いんだろうか。
 しかし、考えてみれば、荒神組のヤクザに盛られた薬のせいで、今身体の自由は完全ではない。
 思い切って大きく息を吸い込むと、急に足が楽になった気がした。怖がっていただけだな、と思い一歩前に出すと、馬鹿馬鹿しいくらい簡単に足が動いた。

 階段を降り切ると、空気は元の色に戻った。不意に気になって自分の足の裏を見ると、薄暗がりでも分かる程度に黒くなっている。階段の向かいにある手洗いの隣に、作りつけの勝手口があった。内側からかかっている木の閂を外すと、厚い木の扉自体は重いが、意外にも滑らかに開いた。外には手水鉢があって、水が張ってあった。
 その水で足の裏を洗い、手洗いの脇に掛けられてあった手拭いで拭くと、真は座敷に戻った。

 その時初めて、自分の奇妙に不自由な左手に気が付いた。
 親指と人差し指は何かを摘んだまま、固まったようになっていて、自分でもその奇妙な格好に気が付いていなかった。余程怖がっていたのかと思い、ますます馬鹿馬鹿しくなった。
 明かりの元で見ると、人差し指の爪の隙間に挟まるように、細い糸のようなものが絡んでいた。いつの間にかその物質が意識を持って、人差し指に絡み付いているように見える。

 予想していなかったわけではないが、それは細く白っぽい髪の毛の一筋だった。
 もとは金だったのかもしれない、と思ったとき、一瞬背筋が寒くなった。考えてみれば、黒い髪の人間でも白髪になることはあるわけで、これが元々金だった確証は何もない。しかし、指に絡みつくような猫毛のような細い髪質は、まさに真が見知っている男のものと同じだった。
 ここに、埃を被って彼の髪が落ちているわけはない。
 だから、これが別の人間のものであることは間違いがないと思ったが、気が付けば指は冷たくなっていた。思わず、布団に座り込んだ。
 幾らか落ち着くと、どう扱っていいものか分からなくなり、真はその髪の毛のなれの果てを床の間に置き、改めて電気を消した。


 もう妙な夢を見るのは御免だな、と思っていたが、案の定、夢に足を摑まれた。
 パチパチと何か弾けるような音が頭の上で聞こえていたような気がした。
 いや、頭の上に誰かが座っている。何とか重い目を開けても、気配だけで、身体を動かせないのでは誰とも確かめることはできなかった。

 その人は、床の間の前に座っている。
 黒い塊のように動かずに、顔も上げずに目も使わずに、真を見ている。長い髪は、色までは分からなかった。
 ず、と何かを引きずる音。
 暗い部屋の中に輪郭の定まらない、闇よりも黒いものがある、それしか確認ができない。
 ず、とまた音がした。

 真は目を閉じて、息を吐き出した。所謂金縛りというやつだな、と思いながらも、頭はそれなりに冷静だった。
 随分と長い時間、静かだった。少しだけ身体が軽い気がして、目を開けた。途端に、金に光る二つの目が視界の中心に浮き上がった。
 目の前に、真を覗き込む顔があった。

 その顔を確認できたわけではない。目が合ったことだけは確かだが、次の瞬間には、何かが首に巻きついて息ができなくなった。冷たく黒い手、真の顔にかかる髪。
 突然の呼吸苦が、頭の中の記憶の引き出しをこじ開けた。
 真はまだ赤ん坊だった。無防備で、無邪気で、善い事も悪い事も区別のつかない、塊のような生き物だった。まだ人格というものもない。その細い首に巻きつく冷たい手。

 苦しい。
 口の中で呟いたが、身体は動かない。金縛りのためなのか、布団は鉄の板のように身体に圧し掛かっている。首にかかる手は、少しずつ力が強くなってくる。
 身体に重くのしかかってくるのは、大きく得体の知れない黒い塊だった。塊はその触指の一部を真の首に絡めて締め付け、別の手で真の身体を愛撫するように撫でまわしている。そのぬっとりとした重い手からは媚薬が零れだすようで、皮膚を通して身体の血管に入り込んでくる。
 苦しくてたまらないのに、身体は少しずつ興奮していくような気がした。やがてぬっとりとした感触は重く深く、下腹部の方へ移動し、真の身体の中心を弄った。鼻と口からも黒く重い煙のようなものが、粘膜を確かめるようにずるずると気管、消化管を下って身体の内側へ移動し、やがて内側からも細胞のひとつひとつを壊していく。真の消化管の終点からも黒いぬめぬめした塊が入り込み、ずるずると腹の内側を移動していた。身体が興奮し、意識は曖昧になっていく気がした。重く、苦しい。

 意識が朦朧とし、もう一歩で途切れようとしたとき、不意に首にかかった重苦しい手が緩んだ。
 途端に真は咳き込んで、目を覚ました。
 部屋が明るい。朝になったのかと思い、周囲を見渡して愕然とした。
 パチパチという音は、夢の中でも幻聴でもなかったのだ。

 燃えている。
 咳き込んで苦しかったのは煙のせいだ、と思った途端に跳ね起きた。だが、頭の上の方は既に黒い煙が充満していた。何が起こっているのか、理解する時間などなかった。部屋中がほとんど煙に包まれ、炎は次に燃やすものを舐めるように探していた。思えばほとんど閉ざされた空間だ。

 そう思った途端に、命の危機を感じた。
 こんなところで、焼かれて死ぬわけにはいかない。彼を見つけ出すまでは。
 頭は出口を探していた。この蔵には可能性のある出口は一か所しかない。玄関は重い扉だし、厚い壁に取り囲まれている廊下の窓は小さく、体を潜らせることは不可能だ。唯一の可能性はあの木の勝手口だ。

 そう思ったときには身体は勝手に動いていた。煙を吸い込まないように口を塞ぐものはなかった。せめて身体を低くして、這い出すしかないようだった。冷静になってみれば、玄関側は燃えているが、勝手口のほうはまだ炎が少なく見える。

「まことっ」
 ごーん、という炎の音の中に混じって、誰かの叫ぶ声が聞こえていた。
 一瞬、彼の声と錯覚したが、よく考えてみればそんなはずもない。
「仁さん」
 声に出したつもりが、煙を吸い込みそうになり、慌てて口を塞いだ。声は明らかに勝手口側から聞こえている。その方向へ這い出していくと、突然、ばん、と大きな爆発音のようなものが聞こえた。
 勝手口の方が、炎と一緒に崩れたような振動もあった。

 やばい、と思ったとき、襖を蹴破るように仁が飛び込んできた。仁は何か大声で叫んでいるが、煙を吸い込んでしまうことに気が付いたのか、あとは無言のまま、真の身体を抱きかかえんばかりの力で摑んだ。
 訳の分からないまま、真は仁に蔵から引きずり出された。とにかく苦しくて、激しく咳込み、朦朧とする頭が重くて、身体はまっすぐ立っていられなかった。力の入らないままの身体を仁が支えてくれているのだろう、まともに周囲の状況を理解できたときには、浮き上がるような状態で、辛うじて蔵の外で炎を見つめていた。

「大丈夫か」
 話しかけた仁は頭から水を被っていたが、それでも半分乾き始めていた。仁はまさに素っ裸で、その逞しい裸体は燃え上がる蔵の前で異様な迫力を見せていた。
 次の瞬間、真は仁に思い切り強く抱き締められた。筋肉の一つ一つの名前を身体の表面からも確認できるほどの鍛え上げられた身体は、今弱っている真など一捻りにできるほどの気力と精力に満ちている。あまりにも強く仁に抱かれていて、却って息苦しい思いがしたとき、仁が真を放した。
「一人にして、悪かったな」

 遠くの方でサイレンの音が聞こえていた。
 仁に促されて、少し蔵から離れた。不意に母屋のほうへ視線を向けると、千草が立っていた。始めから知っていたのか、それとも今気が付いたのか、仁は真を残して千草のほうへ歩いていく。
 後姿に、立派な龍が燃え盛る炎で影を作り、浮かんで揺らめき、目を光らせていた。
「こいつを焼き殺してどうするつもりだったんだ」
 仁の声が耳に届いた瞬間に、ばん、と何かが崩れ落ちる音がした。

 千草が何かを答えている様子はなかった。
「警察と消防にはあんたが訳を話せ。悪いが消えさせてもらうぞ」
 千草は、仁と真の服を手に持っていた。彼女は穏やかな表情のまま、それを仁に手渡し、その上に鍵を載せた。仁は素っ裸のまま真のところに戻ってくると、呆然と突っ立ったままの真の手を摑んだ。
「行くぞ」
 何を言われているのか、事態さえつかめないまま、真は仁に引きずられていった。サイレンの音は、明らかに近付いてきている。
 ふと振り返ったとき、炎の傍らに立つ千草の姿が浮かび上がって、現実のものか幻のものか、区別がつかなかった。浴衣姿の千草は髪を下ろしていて、その黒いはずの髪は燃え上がる炎のために黄金に光り輝いて見えた。
 伝説に語られる女神というものは、そういう姿をしているのだろうと、場違いなのにそう思った。





いよいよ、物語は動き始めます。
絡んでいた人間たちの事情、その心のうち、少しずつ紐解いて行けたらと思います。
少しずつきつい話になっていきますが、ゆっきりおつきあいくださいませm(__)m

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨91] 第19章 同居人の足跡(2) 

【海に落ちる雨】第19章 その2です。
火事の最中、蓮生家から逃げ出した真と仁。
あれ? 仁は素っ裸だったのでは? と気にしてくださっていた方。
そうなんですよ。纏っていたのは彫り物の龍のみ。
どうなったか、続きをお楽しみください。
深刻なのに滑稽なシーンになっておりますが、それもまたよし、ということで。
今回は、真と仁の会話をお楽しみください。





「仁さん、服、着たほうがいいんじゃ」
 上蓮生家から上手く車を出して、警察や消防とすれ違わないようにスモールランプだけで田舎道を逃げると、火事の気配が分かるか分からないかの辺りでやっと仁は車を止めた。
 振り返ると、空が明るくなっている一部が、蓮生家の辺りなのだろう。まだ鎮火しているようではない。
 仁は無言のままで突然真を抱き寄せた。思わず逃げようとしたが、次の瞬間には更に強く締め付けられるように抱かれていた。汗や煙の臭いと一緒に、情事の気配を窺わせる複雑なすえたにおいも混じっていた。

「仁さん」
「怪我はないな?」
 真は勢いに押されて頷いた。
「煙、吸い込んでないか? 頭、痛かったりしないか?」
「多分」
 ようやく仁は落ち着いたのか、改めて車を走らせ始めた。

「服、着たほうがいいですよ」
「できるだけ離れるほうが先だ」
 確かにその通りだが、素っ裸で刺青だけを纏ったヤクザと浴衣姿の探偵とが、夜中の田舎道を火事現場から逃走している状況は、どう考えても妙だ。そう考えていると、ただ滑稽な気分になって、笑えないながらも少し落ち着いてきた。
 落ち着いてくると、仁の姿から思わず目を逸らしたが、窓ガラスにも仁の横顔と逞しい腕が映っていた。

 意外にも闇にくっきりと映り込んだ腕を思わず見つめる。
 美和のことを考えていた。北条仁と美和とがどのような時間を共有しているのか、どうにも気になった。
 美和は都内に実家の両親が購入したという分譲マンションを持っているが、そこには週に一日居ればいいほうだった。さすがにその部屋に男を住まわせているとなると、両親に知られる可能性もあり、彼女は仁のマンションに半ば住んでいるような状態だった。北条仁も、さすがに跡取り息子であり、高円寺の北条家に全く居ないわけにもいかず、マンションと北条の屋敷を半々で過ごしているように思える。

 意外に幼かった美和の身体を思い出していた。仁の普段の振る舞いを見ていると、何となく美和との生活も相当なものに思っていたが、実際はどうなのだろう。他人の性生活を覗き見るような悪趣味はないつもりだったが、美和の事となればいくらか気になってきた。
 確かに悪趣味だ。
 そう考えて、打ち消した。

 目を閉じると、喉がごそごそした感じが気になってきた。多少は煙を吸い込んでいたのかもしれない。一体、あれは何だったのかと改めて考えると、ようやく自分は殺されかけたのか、と思い至った。
 だが、誰に?
 正当な疑問だが、見当がつかなかった。蓮生千草が自分を焼き殺すだろうか? その理由は?
 もしも、千草が蓮生家の恥部を世間に晒したくないという理由で、幾分かの秘密を知ってしまった真を殺したいとしても、北条仁がそれを知っている。女が愛情を理由に男に加減をしたとして、今日会ったばかりの仁に千草が手心を加える必要はないはずだ。

 今更どこかからヤクザが追いかけてきて相川真を何とかしたいとしても、わざわざ蓮生家で焼き殺す必要もなさそうだし、面倒すぎる。この新潟という場所で、状況を理解していて、今自分を殺したい人間?
 そういう人間はいそうになかった。それに、焼き殺すというのは、かなり不確実な殺人の方法だ。致命傷にならなくても起き上がれないようなダメージを与えておかなければ、必ず死んでくれるとは限らない。
 いや、俺は何か妙なものを口にしなかったか? 蓮生に伝わる薬湯? やはり千草が俺を殺そうとした?
 どうにも腑に落ちない。

 エンジン音が止まって、真は目を開けた。海辺の道路沿いの僅かなパーキングエリアのようなところだった。海は凪いでいて、波音も静かだった。暗いとは言え、幾分か明るささえ感じる海と空の番。
「お前も着替えたほうがいいぞ」
 そう言われて、車を降り、浴衣を脱いで着替えた。北条仁も漸く、素っ裸からスーツ姿に戻った。
 生の肌に龍の彫り物だけを纏っていても、スーツを着ていても、北条仁は普通の人間には見えない。
 しかも、こんなところでいそいそと衣服を身に付けているところを他人が見たら、いかにも車でやってました、というように思われるだろう。

 そう考えると、また何となく可笑しくなった。同じ事を仁も考えていたようだ。
「情事の後、まだ余韻の残る身体に服を着る、っていう色っぽい場面に見えんこともねぇのにな。実際は火事場から逃げ出した私立探偵とヤクザだ。どうにも間抜けでいけないねぇ」
 仁が運転席側から真の側に回ってきた。ひょいと煙草を一本渡してくれる。
「きついか?」
「いえ、有り難いです」

 咥えると、仁が火をつけてくれた。
 暫く言葉も交わさず、暗い海を見ながら煙草を吸った。薬やら煙やらを吸い込んだ身体も咽も、新たな侵入物に悲鳴を上げるのかと思えば、紫煙は随分と心地よく肺にも胃にもおさまってくれた。
「お前を焼き殺すつもりだったんだろうか? いくらやりたいからって、俺だけ見逃すとは思えんが」
 真は仁を見た。
「千草さんが僕を焼き殺してまで、守りたいものがあるようには思えませんでしたけど」
「あの女、日本人じゃねぇな」
「え?」

 幻覚のような千草の姿から想像していた何かは、ぼんやりとイメージを形にしていった。
「お前も、姿成りは日本人だが、目の色も髪の色も、それに全体のバランスも、どこか微妙にズレたところがある。あの女もそうだ。弥生ちゃんが言ってたのは噂でも嘘でもない。本当に異人の血が混じってる身体だ。彼女の場合は目や髪の色にはあまり表れてないけどな」
 弥生ちゃんって誰だっけ、と思ってから、仁の屈託のなさに幾分か呆れた。

「ハーフか、クォーター?」
「お前は? クォーターか?」
「多分。母親の事はよく知らないので」
「じゃあ、まあ、あの女もそんなところだろ。蓮生の屋敷にロシア人の女性がいたのは事実だろう。それが蓮生の男どもの子どもを産んだっておかしくない。あるいは、誰か他の男にあてがわれた結果の子どもかもしれないけどな」
 海は凪いでいたが、海鳴りは遠く響くようだった。
「じゃあ、千草さんは、もしかすると蓮生家を恨んでいる?」
「それは、有りだな。終わり方がどうのと言ってたろ」
「でも、僕を焼き殺す理由にはなりませんけど」
「それもそうだ」

 煙草を吸い終わると、仁に促されて車に戻った。
「ちょっと眠っとくか」
 運転席に戻ると、仁は呟いた。
「車で眠れるか? 何ならラブホテルでも探すか」
「車で結構です」
 思わず即答すると、仁は笑いながら座席を倒した。真もそれに倣う。

 目を閉じると、海の音が遠く深く、身体に振動のように伝わってくるのを感じた。眠れるとは思えなかったが、横になっているだけでも少しは楽な気がする。
 やはり美和のことが気になっていた。
 仁がどういうつもりなのか、千草についてはたまたま気に入ったタイプの女だから寝てみたかったのか。あまりにも美和がかわいそうな気もしたが、他に気に入った相手がいたら寝ても構わないと、仁は美和に言っていたという。それなのに真と美和のことは気に入らないということは、やはり他の男と寝てもいいという言葉は、北条仁のパフォーマンスに過ぎないからだろう。本当は美和の浮気などありえないと思っているのだ。

 それほどに、美和を愛しているということなのだろうか。
 よく分からないと思った。仁はタイから帰ってきて、美和にすぐに会おうとは思わなかったのだろうか。
 美和が九州から帰っているのかどうか気になったが、仁に聞けそうになかった。
 いや、北条仁も、意外に純粋なのかもしれない。好きでたまらない女には、距離を置いてしまう。そう考えれば、美和と仁の間に、身体の関係という意味では遠慮や羞恥があってもおかしくはない。

 実際、あの彫り物だ。美和がいくら肝が据わっているとは言え、まだ二十歳を越えたばかりの女子大生で、彼の背中の彫り物を見て平気でいられるとも思わない。
 いつか、北条東吾が酒を飲みながら、呟いていた。
 わしが、仁の身体に消えねぇ傷を負わせてしまった、と。
 北条東吾は組を畳むつもりだったのだ。だから、仁を大学に通わせていた。

「車で結構です、っていうのは、車でやってもいいってことか?」
 ぼんやりとした頭に仁の声が入り込んできた。内容を理解できず、何度か反芻した後で真は漸く目を開けた。
「何言ってるんですか」
 からかっているのだろうと思って仁のほうを見ると、仁は目を閉じたまま静かに仰向けになっていた。
「千草さんと十分楽しんだんじゃないんですか」
 少し考えるような時間を置いてから、仁は答えた。
「まぁな。かえってくすぶっちまったな」

 仁は目を閉じたままだった。仁が美和以外の誰かと寝たいと思うのは、美和に対して好き勝手に振舞えないからなのかもしれない。
「仁さん」
「何だ?」仁は目を閉じたままだ。
「仁さんは、寂しいと思うことはないんですか」
「何に対して?」
 仁は淡々と答えている。
「北条の親父さんは本当の父親ではないでしょう?」
「それが何だ? この年になって、今更乙女チックな感情なんかねぇな」
「昔の事を、思い出したりはしないんですか?」

 仁は暫く黙っていた。真は自分が何を聞きたいのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ美和のことを気にしていただけだった。
 だが、仁のほうでは何かを察したのか、ゆっくりと穏やかな声で言った。
「満州のことか? 戦争が終わった直後は、俺もまだ右も左も分からないチビだったし、はっきりとした記憶はないな。親父が亡くなったのも覚えていない。お袋が死んだときの事は何となく覚えているが、感情も記憶も絡まっちまってて、よく分からん。お袋を看病してくれていた中国人の看護婦が優しい人で、子どもが戦争で亡くなっちまって、日本人に恨みもあっただろうに、当局の目を恐れずに俺を息子だと主張して面倒を見てくれた。その人の事はよく覚えてるよ」

「満州に残ろうとは思わなかったんですか?」
 仁は笑ったようだった。
「なぁ、俺は東吾の親父が俺を探しに来てくれたとき、本当に感動したんだぜ? 親父には感謝してるよ。本当の親だろうが、そうじゃなかろうが、どうでもいいことだ」
 それが北条仁にとって『真実の瞬間』のひとつだったのだろうか。
「でもヤクザにならなくて済んだかも」

 不意に仁が起き上がった。真はびくっとした。
「お前、何か勘違いしてるだろ。あんな時代だ。満州に取り残された日本人の子どもが、運よく良心的な中国人に拾われたとして、必ずしもまともに暮らしていけるとも限らない。捕虜になって、死んじまった日本人の方が多いんだ。だが中国人だって、みんなが貧しく苦しい時代だった。東吾の親父だって、華族が没落して地面に叩きつけられたような時代を、頭と腕だけで乗り越えてきた。俺に堅気として生きていけるように教育もしてくれた。だが、親父が店を畳みたくても、これだけの所帯だ。誰かがしょっていかなけりゃならない。俺は自分から望んで彫り物を入れたんだよ。親父のほうが泣きやがった。けどな、これが俺の親父への覚悟の示し方だったんだ」

 そう言って、仁は真に背を向けた。真はその背中を見つめていた。
「美和ちゃんに会って、後悔しなかったんですか?」
 仁からの返事はなかった。真は自分が嫌な質問をしていることを感じて、息をついた。
「だが、お前に美和は幸せにできねぇな。だから、お前に美和はやれない」
 そんなことは分かっていた。美和に、美沙子と同じ事を言われるのは目に見えている。
「すみません。ちょっと気が立っているだけです」
 そう言って目を閉じると、少しだけほっとした。僅かな言葉の隅に、仁の美和への想いが嘘ではないことを感じ取ったからだった。

「お前は、遠慮してるのかと思えば、時々怖いくらいずけずけと本当のことを聞くんだな」
 不意に、仁の声が直ぐ側で聞こえた。といっても、聞こえづらい左耳は微妙な反響を伴っていて、現実感を失わせている。
「本当に、ここで襲われたいか?」
「仁さんにはそんなことはできません」
 多分、唐沢が言っていたのは本当のことだ。北条仁は、相手のほうから足を開かない限り、無理矢理などという彼の美意識に反することは、プライドに賭けて絶対にしない。

「どういう意味だ?」
「唐沢が言ってたんです。北条仁はじわじわ攻めてくるけど、強姦はしないって」
 仁は決まり悪そうに舌打ちをした。
「あのおっさん、刑務所に入っても減らず口は変わらんな。まぁ、俺とお前のキューピッドだから悪口ばっかりも言えんけどな」
 笑いを溜息の中に零して、仁は真の頭に手を置いた。
「眠れないんだろ。蔵ごと焼き殺されそうになったわけだしな」
 真はほっとして、首を横に振った。

「一回、抜いてやろうか? そうしたら眠れるかもしれんぞ」
 その仁の冗談を無視して、真は思わず仁を見つめた。仁が不思議そうな顔になる。
「今、何て?」
「だから、一回抜いてやろうか、って。指くらいなら入れても構わんだろう。気持ちよくさせてやるよ。この憎たらしいことをいうお前の口から、もっとって喘ぐ声を聞きたいねぇ」
 そのからかいは完全に無視した。
「その前ですよ」
「前?」

 仁はせっかく楽しい話を始めたのに、どうでもいい話をぶり返すんじゃないよというようなつまらなそうな顔になり、それでも一応真面目に考えてくれたようだった。
「唐沢のオヤジのことか? いや、蔵ごと焼き殺されそうになった?」
 真はまだ暫く仁を見つめていた。

 蔵ごと、焼き殺そうとした。
 以前、下蓮生家の主は蔵を焼こうとした。それは蔵に隠しておきたいものがあったからだ。だが、実際には蔵は燃えきらず、絵は残っていた。何だかすっきりしないのは、下蓮生の当主がもうかなりの老人で、曖昧な記憶の話だったからではない。
 下蓮生の当主が焼きたかったのは絵ではない。床下に埋められていると信じていた、ロシア人女性の幻だった。そして、その幻を裏打ちしているのは、子ども時代の記憶だ。

「仁さん」
「ん?」
「下蓮生の当主は、蓮生の子どもはみんな小さいうちは本家で育つって言ってませんでしたか? 北前船を扱っていた時代は村上に屋敷があったけど、いつからか荒川に移ったって。彼が病気がちでよく過ごしていたのは、村上の蓮生家ではなく、荒川の蓮生家だったんですよ。だから彼がロシア人女性を見たのは、荒川の上蓮生家のはずです」

 仁は暫く真の顔を見つめていた。
「じゃあ、何か。爺さんは間違いに気が付いて、改めて荒川にある問題の蔵を焼こうとしたってのか? お前がいることを知らずに? いや、知っていて? しかし、どっちにしてもあの爺さんが一人で身軽に村上から荒川に移動できるとは思えないけどな」
「仮にも彼は蓮生家の最長老ですよ。こんな田舎のことですから、親族が集まるといえば、ボケていても基本は全員、じゃないでしょうか。しかも、千草さんは会議の前には、老人がぼけていないことを知っていた。仁さん、ずっと千草さんと一緒でしたか?」

「うーん、途中で寝ちまった覚えはないな。けど、まぁ、親族会議が何時から行われていてどのくらい続いていたのか、俺たちには分からんし、実際、爺さんと別れた後だって、俺たちが下蓮生で飯食ったりして過ごしていた間に、立派な勝手口から爺さんを連れ出してても分からないわけだ」
 そう言ってから、仁は暫く考えていた。
「その辺の事情は、弥生ちゃんに聞くのが一番良さそうだな」
「と言って、ふらふらと村上に戻るのも拙いですよね。僕たちが上蓮生に泊まっていたのを知っているのは」
「蓮生家のお手伝いくらいかな。そうなると弥生ちゃんもその一人か。まぁ、蓮生千草がうまく言い繕ってくれているだろうけど。いずれにしても、明日の朝まで待とう。火事について、何か情報が入ってからだな」

 真は不思議に思って仁を見た。仁は、蓮生千草が警察に『怪しい二人組』の話をしない、もしくはしたとしても火事とは関係がないと言い繕ってくれると思っているのだ。
 真の視線の意味を、仁は解したようだった。
「蓮生千草は、火をつけてお前を殺そうとしたかも知れんが、俺たちを警察に売ることはないさ。その必要はないし、俺たちが警察にベラベラ余計なことを喋って困るのは蓮生家のほうだ。まぁ、俺たちの言い分を警察が信じるかどうかは問題だが」

 確かに、ヤクザとそのヤクザがオーナーである調査事務所の人間の言い分を、警察が信じるとも思えないし、考えてみれば、今でも警察に追われていることには変わりがない。
 いずれにしても、誰かは真を殺そうとしたのではなく、蔵を焼こうとした可能性があるのではないか。そして、その誰かは、蓮生家の関係者である可能性が高そうだ。

 下蓮生の当主は、今まで誰にも話したことのない昔の蓮上家の闇の部分を、今日仁と真に話したのだ。ボケていないとは言え、あの年齢の老人のことだ。記憶は曖昧な部分もあるのだろう。何年か前に下蓮生の蔵に火をつけた時も、まともな精神状態ではなかっただろうし、自分の記憶を再確認できるような精神状態なら、火をつけたりはしなかっただろう。
 だが、今日、異質な侵入者が蓮生家の歴史を掘り返し、それに返事をする形で老人は改めて自分の記憶を明瞭にしなければならなくなった。封印していたものが、他者と話すことで解かれたのだろう。そして、自分の過去の勘違いに気が付いた。

 たまたまその日だったのだ。親族会議も、真が蔵に泊まったのも。
 真を焼き殺すつもりだったわけではないのだろうが、その日しかチャンスはなかったのかもしれない。
 だが。
 本当に蔵が焼け落ちてしまったら、却って床下を掘り返されることにならないのだろうか。今まで、誰も気が付かなかったし、これからも掘り返される可能性が極めて低かった秘密を、火をつけることで敢えて世間に晒すことになるのではないか。

 何だかよく分からなくなってきた。確かに、問題の蔵は荒川の上蓮生家の蔵なのだろう。そして、当主は間違いに気が付いたのだ。だが、今になって蔵を焼く理由はなんだろう。
 いや、死期が近くなって、老人は過去の全てを焼いてしまいたかったのかもしれない。そんなことをしても、事実は消せないということを知りながらも、記録に残らない歴史の裏側は、いつか人々の記憶から消えていってしまうことを望んで。
 誰も振り返らなくなれば、その歴史的事実はこの世界から消え去ってしまう。

 幾分か空は白み始めていた。波音は強くなってきている。それを見てから、さすがに疲れが身体を押し包み、いつの間にか短い眠りに落ちていた。





新潟で途方に暮れている真。
しかしそこに思わぬ助っ人登場。もちろん、素直に味方だとは言えませんけれど……
次回、彼らと一緒にキーポイントとなる佐渡島へ参りましょう。

ややこしい物語にお付き合いくださってありがとうございますm(__)m

ところで、もう少しすると【海に落ちる雨】100回目というキリがやってきます(*^_^*)
いえ、何か企画を考えているわけではないのですが、何だかちょっと嬉しい……(*^_^*)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 6   

[雨92] 第19章 同居人の足跡(3) 

【海に落ちる雨】第19章その3です。
火事場から逃げ出した真と仁。新潟港の近くである人物と行きあいます。
そして初めて、竹流の足跡の手掛かりが……





 僅かな時間だったようだが、深く眠ったのかもしれない。
 頭の上の方で波音が揺り籠のように身体のバランスを取っている。時々、脇の道を車が通るのか、揺れの周波数が変わる以外、静かで心地いいほどだった。

 だが、その揺れは、突然異質な物音に遮られた。
 真は跳ね起きた。隣で仁は眠ったままだった。
 辺りは白んできていたが、まだ夜は開けきっていない。
 真は思わず、ドアを開けた。その音で、仁も目を覚ました。

「おはようさん。車内であっちの趣味のあるヤクザと二人っきりってのは、いただけないね」
「昇さん。一体、どうして」
 立っていたのは、襟のない蒼いシャツにグレイの上着を着た葛城昇だった。
「お前さんのベルトとライターに、悪いけど発信機を附けといたんだ。ま、わざわざお迎えにあがる必要はなかったんだけどな」
 道路の隅に昇のカマロではなく、白のカローラが停められていた。

「誰だ?」
 仁が怪訝そうに真に尋ねた。
「寛和会仁道組の次期組長さんだろう?」
 葛城昇は喧嘩でも挑むような気配にも見えたが、声は落ち着いていた。
「あんたは」
「二丁目の葵って店の店長だ。以後、お見知りおきを」
 仁は既に興味深い視線を送っている。
「どういう知り合いだ?」
 仁はもう一度真に尋ねた。
「竹流の仲間ですよ」

 へぇ、と感心したように仁が声を上げた。
 昇がその手の趣味のある男からすれば、かなり魅力的な人物であることは間違いがない。真は思わず仁を睨んだ。二丁目と聞いて、それなりに気配は察知しただろう。それに、あるいは昇の店が、ある世界では特殊な意味を込めて『有名』である可能性は高く、北条仁がそのことを知っていてもおかしくはない。
「心配するな。喧嘩も手出しもしねぇよ。今はあの男とは揉めたくないからな」
 そう真に告げて、仁は昇に話しかけた。
「で、早朝からこんな新潟の海っぺりを、偶然通りかかったわけじゃないんだろう? しかも、こいつをつけてきたわけでもなさそうだ」

 昇は優雅に笑った。
 真はふとその昇の目を見てぞくっとした。葛城昇の顔は明らかに男を誘っているように見えた。女が見せる媚とは全く違うが、ある種の男はこれにくらいつくかもしれない。
「ちょっと事情があってやって来た。本当のところ、発信機のことは忘れてたんだ。お前が東京から出て行ったのは分かってたんだが、何せその発信機、せいぜい二キロメートル程度しか確認できない。この近くに来てから反応したんで驚いたのさ。まぁ、ここまで来てるんだったら無視するのも何だし、連れて行ってやろうかと思ったのよ」
「連れて行く?」

 昇は仁を見つめたまま、真に話しかけた。
「連れをどうするかは、いささか問題だがな」
「今はこいつの保護者代理でね、悪いが俺もついていくしかないようだ。何故、ここに来たのか説明してもらおうか?」
 明瞭な声で話す仁の顔を見つめたまま、昇は、仕方ないなという表情で言った。
「鍵だよ」

「鍵? テスタロッサの?」
 真は昇に問い返した。昇は何のことだ、という顔をしていた。
「お前が絵を探せと言ってたんで、洗い浚い探したつもりだったんだが、一ヶ所忘れてたんだよ。もう何年も使ってないし、鍵も預けっぱなしだったしな。思い出して連絡したら、鍵を預かってるばあさんが、竹流が来たって」
 真は昇の顔を見つめたまま、息を飲み込んだ。
「来たって、いつ? どこに?」

 思わず喰いついてしまった真を、昇は幾分か宥めるような顔で見る。
「ばあさん、もうだいぶボケが入ってるからな。五日だの一週間だの、結局分からない、とか言うんだが、正確な日付はともかく、いずれにしても病院から失踪して、そう遠くないうちにそこに行ってるんだ。佐渡の宿根木ってとこだ」
「一人で?」
「ばあさんはそう言ってるけどな」

 真は暫く昇を見つめたままだった。海からの冷たく塩辛い風が触れると、唇は勝手に次の言葉を紡いでいた。
「テスタロッサがなかった」
 真が呟くように言うと、昇が真の顔を見つめ返す。仁が確認するように問い返した。
「テスタロッサ?」
 昇が後を引き取って説明する。
「あいつのフェラーリの愛称だよ。フェラーリの会長の許可で、本社のエンジニアのトップが試用のために、いや、正確には竹流のために作った車だ。イタリア語で真っ赤な頭。あいつが付けた愛称だ。噂じゃフェラーリはその名前で新しいモデルを売り出す予定らしい」

 希望の色を聞かれて、竹流は真っ赤にしてくれと即答したと聞いている。デザインについても色々と注文をつけたらしいが、実験的な機能のあれこれには、エンジニアのこだわりや趣味が関係している。
「ここのところ車でマンションに出入りしなかったし、いつからないのか、わからない。でもあいつが入院している間は停まっていたように思う」
「じゃあ、間違いないな。フェラーリでここに来たんだろう」
「自分で?」
「そりゃそうだ。あの車はあいつにしか運転できないようになってる」
 真が問いかけるような顔を昇に向けると、昇は頷きながら答えた。
「指紋か血管か、何かを認識しなければ、エンジンがかからないようになっているんだ。他にも、妙な機能があれこれついているけどな。飛んだり宇宙に行ったりはできないけど」

 それは、ある意味では喜ばしい情報に思えた。
 少なくとも、病院を出て行ったとき、竹流には意識もあったし、身体を動かせる状況だったということだ。もっとも、車を出したのが、彼の自由意志であったかどうかについては、何の保証もない。
「で、今から佐渡に行くのか?」
 仁が尋ねると、昇は頷いた。漸く余裕が出てきた真が、昇の乗ってきたカローラを見ると、運転席には仏頂面のイワン・東道が座っていた。
「フェリーが動くまでにはまだ時間があるけどな」

 結局、カローラとボルボの二台を連ねて、新潟港のフェリー乗り場の駐車場まで行って始発を待つことになった。昇が自動販売機で缶コーヒーを買ってきてくれた。
 空はもう随分と明るく、日本海からの風は心地よい程度に涼やかだった。波音が、崩れそうになっている身体のリズムを、整えてくれようとしている。苦手なはずの缶コーヒーの砂糖の甘さが心地よいのは、打ちのめされた身体が何とか回復しようとしているからなのだろう。

 フェリー乗り場の自動車誘導係の三十代の男が、正確には八日前、六月二十八日の最終便で赤いフェラーリを目撃していた。憧れの車だったから、と男は興奮気味に言った。
「運転していたのは、背の高い外国人でしたよ。金髪で、さすがにかっこいいなあ、と思いましたからね。もう一人、車に乗ってたけんど、いや顔は見てねぇ。男だったべ。横に美人でも乗ってりゃあ、絵になったのにねぇ」

 朝一番の両津港行きのフェリーに乗ると、風に当たろうとデッキに出た。仁はさすがに疲れたのか、客席に座って腕組みをしたまま目を閉じていた。離れた席で、東道が相変わらず無表情で座っている。
 間もなく、フェリーは動き始めた。
 手擦りに身体を預けていると、側に昇がやってきた。
「ヤクザが、お前を見張ってろって言うんでね」
 何のことかと思って昇を見ると、昇は真に煙草を差し出した。
「あんまり無防備に乗り出すんじゃないぞ。誰かに突き落とされんとも限らない」

 真は頷いて有難く煙草を受け取った。昇が優雅な手つきで火をつけてくれる。
「北条仁はお前さんを本当に心配してるな。気をつけろよ」
「何を?」
「口説かれないようにしろって言ってるんだよ」
 真は素直に頷いた。
 病院から姿を消した竹流の足跡が、初めてここに見つかった。自然に身体が興奮しているのがわかる。何度も何度も、さっきの目撃談を頭の中で繰り返している。煙草を持つ手が武者震いのように震えているのを、昇に気付かれないかと思って緊張した。

「会いたくてたまらない」
 思わず、真は昇を見つめた。昇はにっと笑った。
「煙が動揺している」
 からかわれたのだということは、直ぐにわかった。
 だが、それは昇も同じだろうと真は思った。
 結局、真は海を見つめたまま、昇は手擦りに背中を預けたまま、暫く会話なく煙草を吸っていた。

 本当のところは、多少引っ掛かっていることがあった。竹流が病院から失踪したのは、六月二十五日、正確には十一日前なのだ。佐渡に行くまでの三日間のブランク、彼はその間どうしていたのだろう。核心になるものが佐渡にあるなら、真っ直ぐに向かえばいいものを、身体の調子が悪いとは言え、三日もかかる距離ではない。
 それでも、空白の十一日間の、僅かな時間でも確認できたということは、ゼロからすれば大きな飛躍だった。しかも、少なくともその三日間、彼が運転できるくらいの体の状態であったということだ。

「車が目立つのは、ある意味有難いことだな」
「でも、佐渡から新潟へ戻る便で目撃はされていない」
「たった一日数便のフェリーだからな。もっとも、直江津に戻った可能性もあるから、向こうで確認しよう。それとも、佐渡からまだ出ていないか」
 昇の言葉にはすがり付きたいような気持ちになった。それなら、この道は彼に繋がっているのだ。八日前の彼ではなく、今現在の彼のところに。
 確かに、煙が動揺しているな、と思った。

「体、大丈夫か」
 真はとりあえず頷いておいた。まだあちこち痛むが、それも徐々にましになってきている。薬のせいでふらふらしていた気分の悪さは、ほとんど感じなくなっていた。ただ興奮しているだけなのかもしれない。
 何よりも、自分の身体のことなど、今はどうでも良かった。

 両津港に着くと、一気に西南端の宿根木まで走った。
 仁のボルボは新潟港の駐車場に残してきており、カローラ一台で一時間あまり、決して良好な関係を築いているとは言い難い人間同士が、狭い空間の中で黙りあっているのは、それなりに異様な空気だった。
 しかも、空の色は冴えない鈍色で、降り出すほどではないが湿度も高そうだった。
 宿根木に着くと、村の中には全く車は入れず、適当に海の近くにカローラを置くと、昇の先導で石畳の道に徒歩で入った。全ての道が石畳の路地裏のようで、人と人がかろうじてすれ違える程度の幅だった。その細い石畳の脇を、細い水路が海に向かっている。

 石畳は濡れていて、ぼんやりしていると滑りそうだった。
 黒い板で作られた外壁は質素ではあるが、存在感を漂わせる。一軒一軒は大きくもなく、路地の形に合わせるように入り組んで、全体像を摑み切れない。いずれも二階建てのようで、まさにこのまま船として動かすことができるのではないかと思われるような外観だった。
「ここは江戸時代には港町で、千石船と船大工の町として随分栄えたそうだよ。家の外壁には船板が打ち付けられてある。もっとも、中は結構豪勢な家もあるみたいだけどな。竹流のお気に入りの避難所だ」
 昇が淡々と解説をする。仁が確認するように聞き返した。

「避難所?」
「どうもあいつは、女といるより年寄りと一緒にいるのが好きなんじゃないかと思う時があるからなぁ」
 それには思い当たる節があった。青森県の大間にも、黙って泊めてくれるような漁師がいる。まるで親戚の人間でもあるかのように、相手の生活の中に潜り込み、外観とはかけ離れて溶け込んでしまう男だ。何より、真の祖父母が完全に竹流の虜になっている。
 寂しい年寄りにつけ込んで詐欺を働くような人間なら、とんでもないことになるところだ。しかも何が問題といって、あの男は詐欺を働く人間に必要な、最大の長所をしっかり持っている。つまり『まめさ』というものだ。相手がどれほどの年齢でも、女性ならば、誕生日には確実に花束を、それももしかして部屋が埋まるのではないかと思うくらいの真っ赤な薔薇を贈っているに違いない。

 昇は人が一人歩くといっぱいの路地の石畳を、確認するように辿り、やがて一軒の家の前で立ち止まった。僅かな庇の下の玄関の引き戸は、やはり船板を加工して作られていた。
 呼び鈴もないその家の扉をノックすると、暫くの間を置いて、腰も曲がってはいないが、顔からは少なくとも七十にはなっているであろう女性が出てきた。
「ばあさん、いきなり悪かったな」
 あまり愛想の良くない老人は、黙って家の中に戻った。昇は、拒否しないのは了承という状況をわきまえているのか、後ろの三人に先立って家の中に入っていった。





このシーンは続きます。
佐渡の宿根木、不思議な町です。良ければググってみてください。
写真が見つかれば、次回載せたいと思うのですが……もう20年くらいは前の写真だし^^;

実はこの、フェリーの甲板で煙草を吸う真と昇のシーンは、結構好きなのです。
描写はあっさりになっちゃいましたが、「煙が動揺している」、がね。
煙だからね、揺らいで当たり前なんだけれど、真が見事に反応している辺りが^^;

次回、第19章最終回です。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨93] 第19章 同居人の足跡(4) 

【海に落ちる雨】第19章最終回です。
ついに見つけた同居人の足跡、それは決して真の心を安堵させるものではありませんでした。
ヤクザの息子をして「ぞっとするような目をしている」と言わせるほどに真を豹変させたものとは。
佐渡の隠れ家と言われた場所で、大きく事態が動きます。




宿根木2螳ソ譬ケ譛ィ1_convert_20131203212542


 大きく作られた玄関土間の奥は、そのまま台所になっている。右手には囲炉裏のある板間があり、思ったよりも中は広かった。外からは二階建てのように思えていたが、実際には二階まで吹き抜けになっていて、上下二段の窓から差し込む明かりが空間を大きく明るく見せていた。床は漆を塗られたように光っている。立派な船箪笥が据えられ、入った居間への戸口の上には豪勢な神棚が供えられていた。
 相変わらず無言のまま、老いた女主人はお茶を入れてくれて、板敷きの床に座った四人の前に出した。

「竹流のやつ、一人で来たのか?」
「いつものこったべ。鍵を受け取って、珍しく茶の一杯も飲まんと行ったけどもな」
 昇の質問に、明らかに突然四人もの人間が押しかけてきたことに戸惑いを隠せないように、老人は答えた。
「鍵を戻しに来るときは、いっつもここで何時間か話していきよるが、今度は、何日か仕事することになるし、夜中になるかもしれないから、用が済んだら鍵は玄関に放り込んでおくと言っとった」

 思わず彼女と目が合った真は、自分の不安を悟られたのだろうと思わずにはいられなかった。
「鍵は? まだ戻ってないのか」
 老人は頷いた。
「何を慌てとるんだ」
 さすがに昇も、竹流の信望者であるはずの老いた女性の不安を煽り立てる気持ちにはなれなかったのだろう。
「いや、えらく長く篭ってるから、様子を見に来たんだ。それで、竹流のやつ、何か他に言ってなかったか?」
「別に何も。直ぐに行ってしもたからの」
 あまり焦っている気配を見せないほうがいいと、真も思った。老人に不安を感じさせないように、寛いでいるふうを装い暫く時間を潰してから、彼らは挨拶をして辞した。

「鍵って?」
 濡れた路地を足早に歩きながら、真は昇に確認した。
「佐渡の家の鍵だ。隠れ家というのか、倉庫というのか」
「そこに絵が?」
「爆発事故以来、使ってないはずなんだがな。まぁ、絵を置いとくような環境じゃないんだが、誰もあんなところまでは探さない、という意味では安全ではある」
 竹流が背中に火傷を負ったという爆発事故。
 昇の話では、ガス漏れの爆発事故として報告されているということだが、その場にいたのは竹流と寺崎だけだったようで、竹流もあまり詳しいことを仲間の誰にも話していないようだった。

 その場所に行くまでの間に、小木港、赤泊港を通る。
 フェラーリやあるいは背の高い外国人を見かけなかったかと確認をしたが、消息は掴めなかった。
 本州に面した海岸線を上がって、日蓮や世阿弥の上陸の地、松ヶ崎を経て、赤玉にいたる。
 日本三大名石のひとつ、佐渡赤玉石の産地で、竹流の銀座のビルに以前宝石店が入っていたとき、石の美術品としていくつか扱っていたこともあるという。
 その赤玉から両津に向かう山道の途中、悪路を通りながら久知川ダムに至るまでの途中にその建物があった。

 辿り着いたときには、既に陽は低くなっていた。
 一体何を考えてこんなに不自由なところに隠れ家を作る気になったのかはわからないが、しかも、鍵を両津ではなくわざわざ南西の端の宿根木に預けているのも不明だが、たまには、あの老女だけを語り相手にして、誰も近づかないどこかに隠れていたい時もあるのかもしれない。
 私道らしい舗装されていない道を入ると、幾つかの弯曲を越えて、コンクリートの平屋造りの四角い建物がその道の先に建っている。建坪だけで百坪ほどはありそうだ。コンクリートの外壁は幾分か黒ずんでいて、雨の瘢とも風の瘢とも思われた。

 最後の弯曲を回って、車を停めかけた時、彼らの誰もが赤い美しいフォルムを目撃した。
 建物の単調な色合い、周辺の木々の緑と茶のコントラストの中に、その赤は巨大な玉石のように浮き上がって見える。
 カローラが停まるよりも早くにドアを開けた真は、真っ直ぐにテスタロッサに駆け寄った。

 勿論、中には人影はなかった。ドアは鍵が掛かっていて、開けることはできない。車体は雨と泥が跡を残して、指で触れるとその部分だけ車体の赤が鮮明になった。少なくとも何日もそこに放置されていたように見える。
 後ろに昇が近付いてきて、暫く彼は車の周囲を調べていた。やがて諦めたように真を促して、コンクリートの建物に向かう。既に、仁と東道は入り口の近くにいた。
「車はどうだった?」
 すぐに仁が昇に尋ねた。
「いや、あの車、有り難迷惑なほど頑丈だからな。中にドライビングレコードがあるから、取り出せたら何かわかるかもしれないが」
「ドライビングレコード?」
「飛行機のフライトレコーダーみたいなものが入ってるんだ。ここに来るまでの経路は分かるだろうけど、ぶっ壊すわけにもいかないしな」

 建物の屋根は部分的に色が変わったトタンで、一部が新しいのは爆発事故後に修理したためかもしれない。コンクリートの外壁もよく見ると手直しされている部分もあった。
 入り口の扉は頑丈そうな鉄製だったが、幾分か躊躇ってドアノブに手をかけた東道が、直ぐに妙な顔をした。
「開いてるぞ」
 皆が顔を見合わせた。

 ドアを開けると、中は薄暗く、湿った臭いが篭っていた。
 とても絵を保管できる環境じゃないな、と真は思った。何年も使っていないというのは本当かもしれない。昇も東道も、この隠れ家の使い道については、尋ねても答えの歯切れが悪い。
 昇が壁際のスイッチを探ったが、電気は切れているようだった。まだ周囲は暗くなっていないのだが、鬱そうと木々に囲まれた建物には十分な光は届かない。

 東道がカローラに引き返して、大きな懐中電灯を取ってきた。
 まず足元を確認する。入ったところは土間のようになっていて、十畳分ばかりの広さがあった。
 床はコンクリートの打ちっぱなしで、足跡は確かに見られるが、足跡なのかそれ以外の何かの跡なのか、明瞭ではない。古いものとも新しいものともつかない。
 右手の奥は土間の高さのまま別の部屋に繋がっていて、仕切りの半分から上はガラスだった。
 向こうの部屋は事務所として使っていたようで、スチールの本棚と机が置かれている。スチールの本棚は変形しているが、一旦散乱していたものを片付けたあとのようで、ダンボールに色々なものが詰め込まれて、積み上げられていた。

 土間から左は、入り口側は廊下状に奥へ細くコンクリートの打ちっぱなしが続いている。何十センチか高くなった大きな一角は、本来靴を脱いで上がるようになっていたのだろうが、靴脱ぎ石のような上がり台があって、二ヶ所に扉がついていた。
 木製の扉を開けると、奥の方は畳敷きの和室に、手前は作業場のようになっている。畳は上げられていて、焼けた瘢が残っていた。更に奥には別の部屋があって水回りがあったようだが、その部分はものが散乱して、原型がはっきりしなかった。
 一応、全ての部屋を確認して、昇は左手の廊下を奥に進んだ。東道も当たり前のようについていく。仁が真を促すので、真も後に続いた。

 昇が一番奥で足元の何かを確認していたが、一段高い作業場の内窓を開けて壁面をごそごそしていたかと思うと、急にガクンというような音がした。
 昇は東道から懐中電灯を受け取り、身体を半分、床よりも下に落とした。
 足元の床が一部開いていて、下に続く階段が見えた。東道は無言のまま、昇に続いて降りていく。
 またも仁に促されて、真も後に続いた。幸い、昇が明かりを灯したのか、地下の道の廊下らしき通路だけは浮かび上がって見えていた。

 まるで防空壕の地下道のように入り組んだ狭い廊下は、人一人の幅でいっぱいだった。所々天井も低く、ぼんやりしていると頭を打ち付ける。廊下は幾つも折れ曲がって、交錯し、所々に一段高くに上がる階段が数段あり、小部屋が見える。小部屋の中は照明がないのか、暗かった。
 と思うと、急に全体が明るくなる。

 もっとも明るいといっても、オレンジの鈍い明かりが周囲を何とか見せているだけだ。
 どの小部屋も三畳から四畳半まで程度の大きさで、何もない部屋、木箱が積まれた部屋、机だけの部屋と、それぞれ何かの役割があったようだが、今では廃墟のように沈んで見えた。
 東道がどこかでメインスイッチを入れたようだった。
 静かで、自分たち以外に人の気配があるようにも思えない。

 それよりもこの違和感はなんだろう。真はこの場所に来てからずっと付きまとっている妙な感覚を、どのように分析していいものか考えていた。東道も昇も口数が少ない。
「いずれにしても、絵を置いておくような環境には見えんな」
 仁が呟いたとき、ああそうか、と思った。

 竹流の持ち物とは思えない。
 そういう単純な感覚だ。隠れ家という言葉はまずまず言い得ているようだが、どちらかというと要塞にも見えた。何とも竹流の美意識とは掛け離れた存在だ。
「ここは、要するに武器庫だ」
 ついに昇は諦めたように言った。
「武器庫?」
 真は問いかけたのか、納得したのか、自分でも分からずに呟いていた。

「三年前には立派な武器庫だったよ。まあ、いざとなれば小さな戦争のひとつくらいできるような。あの事故のとき、寺崎はここに入っていた。事情はよく分からない。もともとここに在る武器類は、竹流が使うつもりで置いてあったものじゃないし、あいつはやむを得ず流れてきたものを、誰かの手に渡るよりも封印しておこうとでも思っていたんだろう。俺たちにあまり説明はしなかったけど、ここにあるものが使われたことは一度もない」
「本当に、事故だったのか」

 昇は敢えて無表情を装っているように見えた。
「どうだろうな。ただひとつ言えていることは、あの宿根木のばあさんが鍵を渡すとすれば、竹流か寺崎しかないし、何より鍵がばあさんのところにあるのを知っているのも、その二人だけだった。爆発事故の後に、竹流が俺と東道にはその鍵の件を話してくれたが、その時に中のものを他へ移したんだ。正確には処分したというのか」
「じゃあ、残っている木箱の中は空か?」
「と、思うけどな」

 そうは言っても確認する必要はありそうだった。しかし、昇の言葉の通り、どの木箱も完全に空だった。蟻の巣のような小部屋を一通り確認しても、何も見つからなかった。
 もうそれきりかと思ったとき、昇がひとつの小部屋に入り、また壁面を探っていたかと思うと、一瞬地面がどん、と音を立てたように思った。
 体がバランスを崩しそうになるのを留める。
 見ると、また小部屋の端の地面が底への扉を開けていた。

 地下二階というよりも、半階分ほどだけ低くなっているようだ。
 いきなり、びりびりしてくるのが分かって、真は総毛立った。その底から上がってくる冷えた空気が、身体を硬直させる。
 昇が真を見て、大丈夫かと声をかけてきた。自分がどんな顔をしてるのか、真には分からなかった。
「まだ下があるのか。ベトコンの隠れ家みたいだな」
 仁が感心したように呟くと、昇が答えた。
「いや、この下は俺も知らないんだ。ここから他に武器類を移したとき、竹流がこの下に暫く入っていたからな。もともと鍵が掛かっていたんだが、壊したんだろう。俺が聞いたとき、この下は放っておいてくれ、と言ってたが」

 同じような階段が下へと降りていっていたが、天井は更に低かった。竹流の背丈では立ってぎりぎりあるいは屈まなければならなかっただろう。
 いっそう湿った空気が体に覆い被さってきた。
 真は先に進むように促されたが、どうしても足が固まって動かなかった。
 何か、特別な臭いを嗅いだような気がした。
「真?」

 仁に腕を摑まれて、真は思わず自分でも分かるほど震えた。聞こえにくいと思っていた左耳の中で、何かがガンガンと音を立てていた。
「大丈夫か、お前」
 身体が冷たくなっていた。既に下に下りた昇と東道が、階段の半ばで足を止めてしまった真を振り返っている。真は仁に支えられるように下まで降りたが、身体は完全に硬直していた。

 これは気を失う前兆だった。だが、何が自分に迫っているのか、理解できなかった。
 昇が懐中電灯で照らし出した空間は、思ったよりもずっと狭かった。
 そしてその空間は、思った姿とは異なっていた。
 天井を照らした懐中電灯は、壁に散りばめられた宝石のような小さな光を跳ね返し、また吸い込んで、懐中電灯の光を外してもまだ暫く光っていた。

 真も、他の三人も、思わず息を呑んだ。
 正面に台座のように地面から突き出た岩があり、周囲のものから察すると、祭壇か供物台のように見えた。
 彼らの神経に突き刺さったもの、それは、その真上の壁面に十字架に架けられたイエス・キリストだった。

 イエス・キリストの両脇には、同じく石でできた幾つかの彫像、レリーフが脈絡なく置かれていた。どれも途中で放置されたような感じで、完成品には見えなかった。
 そういう意味では、正面のイエス・キリストも、十字架と一体化したような腕をしており、荊と髪の区別も曖昧で、まさに十字架と同化したキリストだった。
 未完成なのか、これ以上はどうしても彫り進められなかったのか、それだけに無残な姿に思える。

 真は自分を支えていた仁の腕を離れ、思わずイエス・キリストに歩み寄った。
 見たことがある。
 この狂気に満ちた表現。十字架の上のキリストの顔は丁度真正面にあり、その目は天を仰ぎ、その表情は苦痛にゆがんでいた。

 神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。
 それは信仰ではなく、明らかに失望の顔だった。

 これと同じ熱情、失望、狂気を、イエス・キリストの顔の中に見たことがある。
 それは、大和邸に置かれていたあのイコンだった。
 あの日、真自身の身体の奥の芯に火をつけた何か。
 いや、何よりもこの顔は、真もよく見知っている男の顔だった。まるでその男のデスマスクのように刻み付けられた表情は、ここで何が行われたのかを示すかのように苦渋に満ちている。通った鼻筋も頬の形も、薄く開けられて今にも神への不信を叫びそうな唇のバランスも、まさにその男のものだった。

 不意に、下から昇ってくる臭いに、真は目を台座の上に向けた。
 その瞬間、総毛立った理由は明瞭になった。
 衝撃は真の身体を突き上がった。真は冷たく湿った石の台座の上に手を載せ、乾ききらない液体と固体の中間のような、どろりとしたものを指の先に感じた。
 手は、もう震えてはいなかった。震えを通り越して、固まってしまったようでもあった。

 その時、真に向けられた懐中電灯の明かりは、真の指を、それから台座を照らした。
 他の三人の息を飲むような気配と声にはならない悲鳴を感じると、真は手を握りしめた。

 血の跡。
 岩でできた台座に沁み入ることができず、この湿った空気の中で完全には乾くことができず、まるで今しがた供物をここで屠ったようにさえ見えた。そして、今度こそ明らかに、彼のものと分かる金の髪が、まるで犠牲者の最後の苦痛を知らしめるように散らばっていた。

 仁の手が真の腕を摑んだとき、真は仁の表情の中に、恐ろしい苦痛と恐怖を見た。
 それは、仁の目の中に写る真自身の目だった。

 更にその瞬間。
 ドン、という地響きが起こった。
 東道が先頭に、仁に引っ張られた真がその後に続き、最後に足元を確認しながら、昇が地下二階分を駆け上がった。
 プロボクサーだった東道の足は、あっという間に真たちを引き離したが、真たちが追いついた時、地上階の廊下の窓から外を見たまま、東道は立ち止まっていた。足元には窓ガラスが砕けて散らばっている。
 後に続いた真も仁も、更に昇も、窓の外を見て、それから建物を飛び出していく東道に続いた。
 既に薄暗くなった空き地に、テスタロッサの残骸が燃えていたが、爆発と同時に自動的に消火する機能を持つ車は、周囲に火の粉を振りかける前に鎮火し始めていた。





竹流の身に良くないことが起こっている。
その事実を突き付けられた真は、ついにあの男のもとへ……
次回から、第20章 ローマから来た男 です。

竹流の叔父、チェザーレ・ヴォルテラがやってきます。
そして真は彼から様々な事実を知らされます。
一体、どれが事実なのか、真は騙されているのか、そしていったいこれから何に巻き込まれていくのか。
事件のひとつの事実が明白になります。
お楽しみに。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨94] 第20章 ローマから来た男(1) 

【海に落ちる雨】第20章です。
ついに、ローマからあの男、竹流の叔父であるヴォルテラの当主がやってきました。
竹流の身にとんでもないことが起きている、それを目の当たりにした真は、チェザーレ・ヴォルテラとどのように渡り合うのでしょうか。相手は、教皇庁の裏組織とも言うべき家の主。
でもその前に、九州にいる美和の行動を追いかけてみます。美和は大分に行って、澤田代議士と村野という亡くなった秘書のことを調べています。

少し長い章ですので、全6回でお送りします。
前半は美和の視点、後半は真の視点です。





「あぁ、それそれ、その椅子たい」
 美和をその古い建物の二階に案内してくれた男は、すっかり錆びかけて傾いたキャビネットが壁際に放置されたままの廊下で、やはり投げ出されたままの木製のベンチを指した。
 ベンチには、黒っぽいビニールの雨合羽かシートのようなもの、セーターのような布の塊、それに新聞紙か雑誌の束が放り投げられたままだった。
 狭い廊下には窓がほとんどなく、天井を見れば、蛍光灯が外れたままの長い電気フードが所在なく吊られているだけで、昼間でも夕方のように暗い。板の床には埃が降り積もり、元の色は分からなくなっていた。

「しかし、東京の学生さんとや? なしてまた、博多っとね」
「私、実家は山口なんです。高校生の時、時々博多には遊びに来てて、憧れの町だったんですよね」
 美和はいかにも田舎の中高生の行動範囲からは考えられそうなことを答えた。何のために使われていたのか分からない、足元のアルミ製の板のようなものを飛び越える。
「それに、澤田代議士のファンで」

 五十は出ていると思われる男は、豪快に笑った。恰幅がいいといえば聞こえはいいが、とにかく腹がしっかり出ていて、髪の毛は大方剥げかけている。
「若い時から、女心を摑むんは上手かったけん。ばってん、こんな若い娘さんさい、たらしこむたぁ、やっぱり澤田さんは隅に置けんばい」

 博多駅からまっすぐ伸びた大通りを一筋入って、九州日報が入っていた古い五階建てのビルに美和を案内してくれた男は、陸井と名乗った。
 戦後のジャーナリズムを研究している学生で、博多を卒論のテーマにしているのだと言って、図書館や役所で協力を求めたら、さすがに大手の地方新聞社だっただけあって、資料だけは山のように出て来た。いちいち礼を言いながら、とにかくもともと新聞社のあった場所に行ってみたいと言ったら、地図を出してきて説明してくれた。

 そのビルと隣り合った古いマンションの管理人が陸井と言って、もともと九州日報で働いていた男で、もうすぐ取り壊しになるビルの鍵も預かっているはずだという。
 やけにスムーズに答えが出てくると思ったら、その辺り一帯が再開発の対象になっていて、役所でも調査中だったらしく、陸井とも何度か会っていた人がいたようだった。

「ばってん、こうして見っと、この椅子にあの子が座っていた日のこつが昨日のことように思い出さるぅばい。その先のことはともかく、あん頃は、可愛らしい、いっつも涙さい溜めたぁ目ぇして、澤田さんの帰りを待っとったけん」
 美和は木製のベンチに降り積もった塵や埃を手で払った。窓から射した光が、美和の手が舞いあがらせた塵を乱反射させ、やがてまた沈んでいった。
「澤田さんは精力的に仕事をしてなさったけん。取材で飛び回ってて、恋人ばほったらかし、まぁ、あの子も寂しさに耐えられんかって、村野さんに靡いたんごたぁね。村野さんは大金持ちだったけん」

 澤田顕一郎にも若いころ日々があり、恋があり、そして苦しい思いをいくつも乗り越えて来たはずだ。そしてその恋人にも、若さゆえの情熱や、我慢のならない寂しさやらがあったのだろう。
 過去のどこかでは、その重さがこの木のベンチの上に載っていたのかもしれないが、今ここに降り積もるのは、払えば浮き上がる軽い塵だけだった。
 今、街頭や記者の前、国会で力強く質問し演説する澤田顕一郎が、このベンチで彼を待っていた若い恋人を思い出すことがあるだろうか。

「そうそう、名簿たい」
 陸井は美和を隣のビルに案内してくれた。
 ビルの階段に向かって一歩足を進めた時、ふと何かが視界の隅で光ったような気がした。
 美和は思わず視線を向けたが、駅に伸びる道の上にある雑多なもののうちの何に関心を向ければいいのか、結局わからなかった。陸井が促すように、階段の途中で足を止めている。

 一階はコーヒー専門店とラーメン屋、薬屋が敷地を分け合っていて、特にラーメン屋は賑わっていた。三階から上が1DKの部屋が並ぶ住居で、二階には貸事務所が幾つか並んでいる。
 陸井が管理人室兼事務所を構えているのはその一部屋で、隣は空いていて、その向こうには名前からだけでは何の事務所かわからない部屋が幾つか並んでいた。人の気配はない。

 事務所と言っても、陸井以外の従業員はいないようだった。
 陸井は、本棚に並べられることもなく段ボールの中に仕舞い込まれたままの、今は無き新聞社の遺物を探し始めた。そして、美和が思うより早くに陸井は目的の冊子を取り出してきた。もしかして陸井の中では、九州日報のことは昨日のことのように明瞭なままなのかもしれない。

 美和は手渡された冊子の黄ばんだページをめくった。
 名簿はあいうえお順ではなく、入社した年ごとに名前が並んでいて、住所と電話番号、生年月日、最終学歴と出身地が記されていた。
 澤田顕一郎の華々しい最終学歴の下に、控えめに地方高校の名前が記されている。その行を辿っていくと、村野耕治の名前があった。

「あれ」
 美和が声を上げると、陸井が覗き込んできた。
「澤田さんとこの人、同じ村の出身ですか。この人って確か澤田さんの秘書をしてらしたんじゃ」
「あぁ、村野さん」
 陸井はちょっと微妙な表情をしたように見えた。美和の思い違いかもしれない。陸井は段ボールの発掘に戻り、アルバムを探し出して、そこから一枚の写真を取り出してきた。
「これがその同期の連中の入社んときの写真たい」

 若く理想に燃えた男たちが八人、並んで写っている。少し黄ばんだ白黒写真のどの顔も緊張気味に見えたが、その中でも澤田顕一郎はやはり目を引いた。
 もう何十年もたっているのに、今美和が見ても男ぶりがいい。しっかり七三に分けられた短い髪も、切れ長でやや大きな目も、くっきりと顔にインパクトを与えている眉も、引き結ばれた意志の強そううな唇も、どのパーツを取っても明確な印象を植え付ける。

 その横に美和は、ずっと昔、子どもの頃に澤田顕一郎と握手をした時、澤田の後ろに立っていた地味な顔の男を認めた。
「こん人ばい。村野さん。澤田さんの横に立っとうと目立たんばい。ばってん、大金持ちやったい、九州日報の大株主で、澤田さんの後援会の会長で、そのまま秘書になったてぇ人たい。優しいものの言い方する人やったばってん、なんとなし何考えとうのか分からんとこがあったばい。ばってん、金の力はすごかね、女もいつの間にやら澤田さんから村野さんに乗り換えとったばい」

 この写真を少し借りれないかと聞くと、陸井は気前よく了承してくれた。怪しまれないように、卒論用として他にも幾つかの資料を借りて、できるだけ早く送り返すと約束したが、陸井は別に用がないからいつでも構わないと言った。
 陸井と別れてから、美和は博多駅に戻り、時刻表とにらめっこをしてみたが、どう知恵を絞っても今日中に澤田顕一郎と村野耕治の出身地である国東半島の村に辿り着くのは無理そうだった。何しろ、博多駅から列車を乗り継ぎ、ついでにバスを二本ばかり乗り継がなければ辿り着けない場所だという事が判明したわけで、その段階で美和は諦め、今日のところは駅前のシティホテルに泊まることにした。

 最近ようやく、ビジネスホテルの狭いベッドとユニットバスに慣れてきたところだった。
 美和の実家は博物館にでもしたくなるような古い日本家屋だったので、建物が古いことには何の抵抗もないのだが、狭い場所が苦手だった。
 だが、真と一緒に仕事に出ると、いつも大概はビジネスホテルに泊まることになり、もちろん部屋は別々なのだが、窓を開けても隣の建物の壁しか見えないということに、始めのころはもの凄い圧迫感で参ってしまっていた。
 北海道育ちの真も同じはずだと思って、窮屈に感じないのかと聞いたら、馬小屋の中と思えば気にならないと言われたので、変に納得した。結局、美和の方もいつの間にか慣れてしまったのだが、今日は何となく狭苦しいところに入りたくなくて、贅沢にツインの部屋を頼み、そのまま部屋にこもった。

 いつもの美和なら、一人でも駅前の居酒屋に入って、若い女の子が一人でカウンターで堂々と飲んで食べるという姿を好奇の目で見る他の客たちを背に、いつの間にかカウンターの中のマスターと楽しく会話を交わしているはずだった。
 真に、危なっかしいからそういうことはやめた方がいいと説教されたこともある。まったくあの人は本当に煩い兄貴だと思うが、酔っぱらった自分については確かに多少自信のないこともあって、一人の時は酒の量だけは減らすことにしていた。

 それでも今日は飲む気にもなれず、鞄を隣のベッドに放り投げ、ベッドカバーを外さないままのベッドにぱたんと倒れ込んだ。後で、ルームサービスくらいは頼もうと思ったが、今は電話も億劫だった。
 あれから真は糸魚川に行って、香野深雪の生まれた場所に立ったのだろうか。
 嫉妬しているつもりではなかったが、何だか落ち着かなかった。大和竹流が相手では、分が悪いことは分かっている。だから諦めたつもりでいる。

 しかし、真が深雪の故郷だから一人で行きたいと言ったとき、失恋を認めたはずの心がかき回されたような気がした。真はやはり、どこかで香野深雪を大事に思っているのだ。
 それが悔しいと思うのは、まだ真のことを諦め切れないからなのか、それともただ、恋愛ではないと断言しておきながら、真のはっきりしない態度が許せないからなのか。
 やっぱり何だか悔しい。
 美和はうつ伏せになり、そのまま目を閉じた。

 目が覚めたのは明け方で、結局、ベッドカバーも取らないベッドの上で意識を失って一晩が過ぎてしまった。今更だが、取り敢えず服を脱いで、チェストに入っていた浴衣をひっかけて、一度もベッドに入らないのはもったいないという理屈で、シーツの中に潜り込んだ。二度寝を試みたが、結局はよく眠れなかった。

 六時にはシャワーを浴び、駅に向かった。
 それでも、大きな町を出て、脇から倒れ込むような木や草の枝に車体が当たりながら進まなければならない田舎道に入り込み、目的の村に着いた時には、昼はとっくに回っていた。
 集落と言っても、バス停から見回す限りでは家が並んでいるというわけではない。バス停のある場所は少し開けていて、道路脇に朽ちかけた舞台がある。奥に社が見えているのだが、どうやら廃寺のようで人の気配はなかった。

 どの方向に歩くのかは賭けのようなもので、いささか冒険かもしれない。バス停の雨よけになっている木枠の屋根付きベンチに鞄を置いて、ため息をつく。
 タクシーで来るなどして帰りの手段を確保しておかなかったことを美和が後悔し始めた時、目の前を自転車に乗った、中年というには申し訳ないくらいの年齢の女性が通り過ぎた。目が合ったものの、話しかける瞬間を摑み損ねてしまい、さてどうしようかと思ったとき、自転車の女性が戻ってきた。

 旅行者が来るところではないのに、いかにも異邦人、という顔つきで立っている若い娘が気になったようだった。
「誰かを訪ねていらしたの?」
 綺麗な標準語だった。
 美和は救われたような気持になり、卒論の研究で、という嘘をここでも繰り返した。気が向いて澤田顕一郎の生家のある村を訪ねてみようと思ったんですけど、というと女性はいかにも楽しそうに笑った。
「こんな何にもないところに放り出されるとは思ってもみなかったでしょう」

 女性は村役場の職員で、敷島清美と名乗った。一人暮らしの老人の様子を見に行った帰りだという。
「そう、澤田先生のファンなのね」
 うふふ、と含むように笑った女性は、化粧をしていなかったが、少し飾れば都会にいても十分通用する顔立ちに見えた。
「実は私、澤田先生の選挙事務所を何年もお手伝いしてたの。あなたと同じ、澤田先生のファンで」

 女というのは総じておしゃべりが好きなものだが、共通の興味や疑似恋愛対象があると会話の温度は断然高くなる。美和が、私は小さいころ澤田顕一郎と握手したことがあって、それ以来のファンなのだと言うと、敷島清美は自転車を降りて、美和と連れ立つように村役場へ歩き始めた。
 お茶くらい出すわ、という言葉に、美和は素直について行った。

 敷島清美は、東京生まれの東京育ちだというが、高校生の時に母親が離婚して出身地のこの村に戻ったので、一緒にここについて来たのだという。だが、田舎を嫌って東京の大学に進学し、それなりに苦学生でもあったらしく、アルバイトを幾つか掛け持ちしている中に、母親と同郷の澤田顕一郎の事務所での選挙活動手伝いがあったようだ。もちろん、大分に戻ってのアルバイトだったわけだが、その事情の中には母親の病気もあったという。
 東京でも澤田の事務所の手伝いをしていた時期もあったが、結局は母親の介護のためにこの村に戻り、その後村役場の職員として勤めていた時に同僚と結婚したという。もともと政治を学ぶつもりで東京の大学に進学した時には、女性とはいえ、それなりの野心もあったのだと語った。

「理想が追い続けれらなかったことに対するちょっとした悔しさみたいなものはあるけど、何より、今はもう若い時ほど体力がないのね。こんなものかな、こんな人生も悪くないな、という気持ちかしら」
 あなたはジャーナリズムの世界を目ざしてるのね、と聞かれて、美和は一応頷いた。
「仕事を続けるって、女には難しいことですか」
「うん、どうかしらね。女って興味が多いし、もしも家庭や出産・育児というものが絡んできたら時間的制約も受けるし、大変ではあるけど、続け方の問題じゃないのかしら。もちろん、金を稼ぐっていう切羽詰まった事情のある女性もいるでしょうけど、金銭的目的については男性ほど切羽詰まった人は多くない気はする。切り替えは上手だし、なにより社会的地位を強く求める人も少ないし、忍耐というのか継続力はあるし。続けていけば何とかなるって思うわよ」

 私の場合はそういう問題じゃないな、とふと美和は気が付いた。
 仕事における女性の権利とか義務とかいう問題以前の問題があるんです、実は恋人がヤクザの跡継ぎで、などとはさすがに言えないが、一般論としては先人の話は聞いておく意味がある。
 それに、敷島清美は、美和の人生相談相手という立場が、いささか気に入ったようだった。

 敷島清美の東京での住まいが、美和の女子大の近くだったこともあり、話をしながら村役場まで歩いている間に打ち解けてきた。酒好きだというところまで一緒だというので盛り上がってくると、いつの間にか敷島家に泊まる話になっていた。
 清美の方も、この村のでの淡々とした暮らしの中に飛び込んできた異邦人を、多少の嘘の入った話をどこまで信用していたのかは分からないが、歓迎していたことだけは間違いがなかった。

 敷島家は夫婦と中学生になる娘、来年小学生になるという息子、清美の夫の母親が一緒に住んでいた。清美は美和について、大学の後輩で澤田代議士の事務所の後輩でもあり、フィールドワークに来ていたが今日帰る足が無くなってしまったので泊めてあげたい、と皆に説明した。誰一人、異を唱える者はいなかった。
 皆が寝床に入ってからも、清美と美和は酒を飲みながら居間で話し込んでいた。地酒のお蔭もあったのかもしれないが、意外にも話すことは沢山あった。年は二十以上も違うのにね、と二人は笑い合った。





酒があれば誰とでも打ち解ける美和ちゃん。
澤田と村野の関係を聞きだし、そして二人と三角関係にあった女の話を聞きだします。

ところで、いまでこそ「おひとり様」の女性は珍しくありませんが、この時代はまだまだ物珍しかったでしょう。
この元気印の美和ちゃん、発展的というよりは、何で女一人で飲んでちゃだめなの?という単純な気持ち。
本当に、いつもいつも思う。真はどうしてこの子と結婚しなかったんだろう??

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨95] 第20章 ローマから来た男(2) 

【海に落ちる雨】第20章その2です。
美和は、代議士・澤田顕一郎の故郷、大分・国東半島にいます。
澤田と、その秘書・村野の過去・人間関係にはずいぶんと複雑なものがあったようで……
そんな話を聞いて、村野家の墓を見に行った美和。そこである男に会い、警告されます。
「首を突っ込むな」
さて、お楽しみください。





「ね、澤田先生の名前を出したら、誰も何も言わないでしょ」
 確かに、地元では澤田の名前は絶対の武器みたいなものらしい。
「若い芸術家を古い温泉地に住んでもらって村興しを提案したりしてね。何しろ、若い人が出て行くようでは駄目だって、私もそう思うのよね。ほら、フランスの南西部の古い村も、誰も住まなくなった家を若いアーティストに安く貸して、芸術の村みたいにしてたりするんだけど、ああいうイメージなのかしら。確かに日本は地方の色がもっと残ってもいいはずよね。東京に偏り過ぎなのよ。まぁ、仕事もないんだけど」

 家族と話しているときは、地元の言葉で話している清美も、美和と二人になるとほっとしたように方言を使わなくなった。そもそも東京で生まれ育ったのだから、むしろ方言の方が後で身につけなければならなかった言葉なのだろう。もっとも、方言と言っても、根本的なイントネーションはその土地で生まれた者と同じようにはならない。
「時々私も、ずっと村にいた人間じゃないから、お前には分からない、なんて言われることもあってむっとするのよね」

「澤田代議士も、そういう意味では若いころからずっとこっちにいた人じゃないですよね」
「そうなのよ。でもあの人はバランスのいい人だと思うの。考え方がスマートっていうのかしら。拘りがないわけじゃないし、理不尽は許せないってところもあるけど、人の話はよく聞く人だし、揉めてたら双方の言い分を聞くタイプ。さすがに元記者ってのあるわよね。情報収集の時にはプラスの話とマイナスの話をバランスよく集めてくるってのかしら」

「やっぱり昔からモテたんでしょうね」
 清美は炬燵机に身を乗り出してきた。
「興味ある?」
 美和も身を乗り出す。
「もちろんですよ。ご結婚は遅かったそうですし、若いころは色々あったのかなぁって。九州日報の元記者さんに昔の写真を見せてもらったんですけど、いい男だし、女性がほっとかなかったでしょうね」

「それがねぇ、意外に堅い人なのよ」
 少し声を潜めるようにして清美が言った。
「こんな小さい村だから、みんな他人の家の事情もよく知ってるんだけど、多分うちの夫や姑に聞いても、地の人は言わないと思うわ。言いたくないってのでもないけど、お前には関係ないだろうって感じかしら」
 清美は更に美和のお猪口に地酒をなみなみと注いでくれた。何でも、清美の母親の親戚にあたる家が地酒の杜氏だという。おいしいです、と本気で美和が褒め称えると、本当に嬉しそうに次々に純米、吟醸、大吟醸と格が上がっていった。

「澤田先生、若いころに失恋して、今の奥さんと結婚するまで仕事一筋って感じだったのね。その失恋の相手ってのが、そもそもこの村の人でね。ま、狭い村だから顔と名前くらいはお互い小さいころから知ってたんだろうけど、親しく話をする間ではなかったみたい。その女の子、村でも評判の美人で、それが隣村だかもっと町のほうだか知らないけど、どこかから噂を聞きつけて来た若者に乱暴されそうになって、助けたのが澤田先生だったんだって。澤田先生が高校生で、その女の子が中学生。淡い恋の物語よね。でも、澤田先生はやっぱり男子たるもの身を立てなければ、って人で、大学は東京に出ていったでしょ。遠距離恋愛になったけど、それでもちゃんと関係は続いていたみたいよ」

「でも、澤田先生は卒業されてからは博多にいらしたんですよね」
「そうなの。一旦東京の出版社に勤めて、しばらくしてから九州日報に入社されたのよね。それから記者としての仕事は、まさに油に乗り切ってたから、本当に日本全国飛び回ってらしたでしょ。残された恋人は寂しかったんでしょうね。で、彼女はこの村の別の男と結婚したわけ」

「澤田先生、ショックだったんでしょうね」
「自業自得なんだって、おっしゃってたわよ。彼女をほっぽり出して仕事に夢中だったって。で、私たち事務員やアルバイトの若い連中を飲みにつれて行って下さると、人生って短いんだから、この人と思ったら迷わずに飛び込んで、できる限り手を離すんじゃないって、おっしゃってらしたわね。もちろん、その若いころの失恋話を引きずってるなんて話はされなかったけど、私たちの間ではそういうことなのかなぁって。でも、もちろん、奥さんの事はちゃんと愛してらしたと思うのよ。これは私の願望だけど」
「澤田先生には愛妻家であって欲しいという?」

「そう。私たちのヒーローだからね。でも、私もだんだん歳を取ってきて、やっぱり澤田先生は奥さんよりその人を愛していたんじゃないかって思うようになってきた。自分のそれなりに人生経験を重ねて、そう言う複雑な愛の在り方が不快じゃないってのか、人生ってそういうこともあるのよね、って思えるようになったのね。ま、奥さんは元首相の親戚の人でしょ、悪いように考えたら、澤田先生の野心の表れって感じがするから、逆に奥さんとの間がちゃんと恋愛であって欲しいって思ってたのよね」
「わかります」
 美和がすかさず相槌を打つと、清美は頷いて、また自分と美和のお猪口に酒を注ぎ足した。

「その女の人は今もこの村に住んでらっしゃるんですか」
 ちょっと顔でも見ておこうかと思って聞いたら、清美は少しの間聞き耳を立てるかのように黙って、目だけで周囲を気遣い、また美和の方に身を寄せた。
「九州日報で何か聞かなかったの?」
「もしかして、村野さんって人の話ですか? やっぱりこの村の出身で、九州日報の大株主で、澤田先生の後援会の会長だった人」

 清美は頷いた。
「余所から来た人に言う話じゃないって、うちの人たちは言うだろうなぁ。別に村の誰かが好ましい人物じゃないからって、村の責任でもないのに、って私は思うわけなの。でも村って、やっぱり閉鎖的だからね」
「わかりますよ。うちも山口県なんですけど、昔からの人はやっぱりかなり閉鎖的です。いい意味でも悪い意味でも」
 お猪口を傾けながら、清美は少し遠い目をした。

「澤田先生の家と村野さんの家は元々親戚なのね。古い時代の話はお年寄りも言わないから細かいことは分からないけど、どうやら澤田先生のお父さんと村野さんのお父さんの間で、女の人を間に挟んで揉め事があったみたいで、村野さんはまだ小さい時に父親と一緒に一度村を出て行ったの。村野さんにはお姉さんがいたんだけど、まだ若かったのに自殺か事故かで亡くなって、そのすぐ後らしいわ。後から聞いた話では、村を出てから新潟にいたんだってことだけど、村野さんが高校生の時に村に戻ってきた。それも大金持ちになってね。村野さんのお父さんが戦争中からやっていた事業が大当たりしたんですって。福岡あたりの不動産も随分所有していたらしいし、大分の村の土地も、澤田家の土地も含めてあっさりと即金で買い叩いたわけなの。もちろんその時には、澤田先生の家はすっかり零落してたから、お金が手に入っただけでも良かったのかも知れないし、二束三文にもならないような土地にボランティア的にお金を出してくれたみたいだから、村にとっても有難いというわけなんだけど、何だか嫌味っぽいでしょ」
「それって、つまり、自分たちを追いだした澤田先生の家や村に復讐した気分ってことでしょうか。あ、追い出したってのは私の想像ですけど」

「多分想像通りよ。でもね、村野さんって、私が澤田先生の事務所でアルバイトし始めたころはまだ秘書をされてたんだけど、何だか不思議なムードの人だったわ。表面的にはあんまり自分の主張を押し通したりするようなことはなくて、言い方も優しいし、人をよく見ていて結構フォローが上手くて、時々自分は損をしている、って感じの人だったの。でも、なんてのか、何を考えているのか分からないところがあって、人の話はよく聞くけど、実はあんまり興味はないみたいにも見えた。それに、ちょっとややこしいことが起こると、ふと気が付いたら村野さんの思うようになってるってのか。裏で結構お金が動いているんじゃないかっていう噂もあったわね。でも、澤田先生の傍は離れなかった。だから、事務所の事務員やアルバイトの間では、村野さんはすごい澤田先生のシンパなんだってことになってたわけ。ほら、代議士と秘書って、ちょっと女には言いにくい言葉だけど酔ってるからいいことにしてね、先生のケツを拭けるくらいの間柄でないとって言うじゃない。比喩であっても、言葉通りであっても。そういう意味では、澤田先生と村野さんって、家同士の確執や愛憎を乗り越えて、傍目には恋愛関係じゃないかって思えるくらいの仲だったのよ。それが高じてなのかどうか、澤田先生の元恋人と村野さんが結婚したのかしらって」

 男と女の三角関係というものは、どれも似たり寄ったりなのかもしれない。結局、最後に女が何を望むかという事なのだろうか。ふと真の顔を思い浮かべ、それから少し遠くに離れている仁を思う。
「その女の人は何を考えてたのかしら。お金に惹かれたってこと?」
「どうかしらねえ。でも、村野さんと結婚してから、その人、すぐに失踪しちゃったのよ」
「失踪?」
「でも、ここからはミステリーよ。その人のお墓はあるわけ。失踪って格好悪いからお墓だけは作ったのかしらね」
「戸籍は? もともと村の人ですよね」
「それがね、母親と二人きりで、そもそもは親子でどこかから流れて来たらしいのよ。当時は戦争直後で戸籍なんてしっちゃかめっちゃかだったらしいし、母親はどこかの金持の二号さんか長崎の花街の人だったとかで。噂だけど」

 清美はふっと息を吐いた。
「でもまぁ、色々あったわね。時々、澤田先生は妙に落ち込んでらっしゃる時があったのね。そうしたらいつも村野さんが何時間も話を聞いてお酒の相手をしてあげたりしてて、で、しばらくしたら心配事の種が消えてなくなってたりするようなこともあって。なんてのか、村野さんあっての澤田先生って印象を周りの人間に植え付けてたってのか。ヤクザとの関係を詮索されたときだって、澤田先生は小松組の幹部だって知らずに少しの間付き合ってらしたと思うのよ。でもあの時は、ちょっと私たちの間で、あれって村野さんが澤田先生を嵌めたんじゃないかって噂になってた。そのうち、澤田先生を追い込んで、自分が後を継ぐつもりなんじゃないかとか。そうなってたとしても、うちの村の人は、誰も村野さんには投票しなかったと思うけどね。でも、お金がものを言ったら分からないかな」

 また清美はふっと息をついた。酔いと睡魔が適当に襲ってきているらしい。
「確かに、村野さんの個人的な支援がなかったら、澤田先生は代議士になってもいなかったし、続けてもこれなかったし、って面はあるのよ。でも、澤田先生は、もし代議士じゃなくても何某かの世界でちゃんと輝く人だったと思うから、だからこそ、村野さんが亡くなった後でも、以前に増して立派に仕事をされてるわけだしね」

「村野さんって癌で亡くなられたんですよね」
「うん、秘書を辞めてこの村に戻ってきた。介護婦兼家政婦として雇った女性と、一応戸籍上は結婚したみたいだけど、でも村の人は誰もあの家に近づかなかったから最後の方の事情はよく分からないのね。他にも若い女が出入りしていたって話も聞いたけど。結局最後は村野の家は火事で焼けて、焼死したのか、病死してから焼けたのか、よく分からないみたいね。事件性はないってことで、あまり調べた気配もなかったし」
 もう寝ましょうか、と言われて、美和は素直に頷いた。


 翌朝、美和は敷島家の人々に何度も礼を言って、駅まで送って行こうという申し出を何度も断って、ちょっと辺りを歩いてから帰りたいのだと告げた。バスの時間を確認してから、昨夜寝る前に清美に聞いていた村の墓地に出かけた。夜のうちに雨が降っていたらしく、水を含んだ空気も、木々の葉も、照り輝いて見えている。
 墓は村の山手に幾つかかたまっていて、おそらく集落の何軒か分の墓が集まっていたのだろう。美和が墓地に辿り着いたときも、山手の深い森からは雨の香りが強く匂っていた。足下の地面もたっぷりと水を含んでいる。木の葉で足を滑らせながら、美和はその墓石にに辿り着いた。

 墓石に刻まれた『村野家之墓』という文字はくっきりとは浮かび上がらず、土埃を吸い込んでくぐもっているように見えた。美和は墓石の側面に回り、文字を確かめた。年齢から村野の両親と思われる人物と、幸という村野の姉らしい人の名前と、村野自身と、それに小さく花、と書かれているのが村野の妻の名前だったのだろう。村野の姉らしい人は、十四で亡くなっていた。墓にはもう訪れる人もいないのか、供えられる花の影もなく、墓石はひびが入っていた。

 村野耕治の亡くなった日付は彫られていなかった。名前だけが記されている。誰も供養する人がいなくて、日付さえ彫ってもらえなかったのか。それにしては名前だけは彫り込まれている。あるいは墓に入れるべき骨がなかったのか。これがミステリーなら、あるいは実は生きているのか。

 美和がその名前を見ている時、背後に湿った地面を踏む重い音が聞こえた。
 美和は慌てて振り返った。
 そこに立っていたのは、大和竹流の病室で見かけて跡をつけていった男だった。
 つまり、村野耕治の息子だ。
 これは危険な状況で大声で叫んだ方がいいのか、いや、ここはすごい田舎でもはやどうしようもないのか、とりあえず考えがまとまらないまま美和は突っ立っていた。

 男は最初にわざとらしい溜息をついた。古いコートを着て、幾分か髪に白いものが混じっているが、機敏そうな身体つきは、まだ男がそれほどの年齢ではないことを物語っている。
「あんたもしつこいな。忠告したはずだぞ」
 男は厳しい声で言った。しかし、ここで引き下がるわけにはいかないと思い、思わず胸を張ってしまった。
「残念でした。そうは簡単に引き下がれないのよ。私たち、大家さんが帰ってこないと困るの」

 美和がそう言うと、男は小さめの頭を振った。さすがに極道の女だな、と呟いて、男は地面に唾を吐き出した。
「大家さんがどこに居るのか知ってるんでしょ。大体あなた、何でこんなところをうろうろしてるわけ?」
 男は面白そうに笑った。
「あんたんところの先生も大概しつこいみたいだが、あんたも得にならないことに首を突っ込んで何が面白いわけだ? そのうち本当に危ない目に遭うぞ」
「面白くてやってんじゃないわ。大家さんを返しなさい」

 美和が息巻いて言うと、男はもうひとしきり笑った後で、美和に名刺を差し出した。青い艶のある紙に、歌舞伎町『シャッフルズ』という店の名前が書かれてあった。
「相川真に渡してやれ。その気になったら来い、ってな」
 え、と思って何か言いかけた時には、男はもう美和に背を向けていた。
 墓地を出ると、きらきらと光っていた朝の地面も、随分艶を失っていた。時計を見て、バスの時間が近いことを確認すると、今度は早く真の顔が見たくなって、歩いても十分に間に合うはずなのに、走ってしまった。

 それでも博多に戻ると、もう一泊して図書館に籠り、澤田と村野の関係が分かるような記事をできるだけ探した。だが、核心に触れるような記事はほとんど発見できなかった。
 実家に寄る気分にはなれなかった。だが、電話をしてあったし、母親は料理を作って待っているだろう。弟にも約束していた時計を届けてやらなければならない。
 墓地で受け取った名刺を取り出して見つめていると気持ちは焦ってくるのだが、ヤクザと暮らしていることを気取られないようにするためにも、時々は家族の顔を見てさりげない会話を交わしておく必要があるのだと思っていた。

「遅かったね」
 母親の声を聞くとほっとして、手料理を食べると、急に東京が遠くなった。弟二人と馬鹿話をして、半年前の喧嘩の続きをして、それでも時計を出すと彼らの態度はコロッと変わった。下の弟が空手の県大会で二位になったというので褒めてやると、上の弟は強豪校のテニス部のレギュラーになったことを自慢した。どっちが偉いのかで揉める二人を宥めるのではなく、更に火をつけて遊ぶのが美和の楽しみだった。

 やっぱりほっとする、と思う。思うのだが、何かが足りない気もする。
 真と仁にこんな場所があるのだろうかと考える。そしてふと、真にとってはやはり大和竹流の傍らこそ、その場所なのだと思った。
 じゃあ、私にとってすべてを満たしてくれる場所はどこなのだろう。それともそんな場所があると思うのは、幻想にすぎないのだろうか。





さて、美和は東京へ戻ります。
そして、仁と再会。そこに待っていたものは……
お楽しみに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 0   

[雨96] 第20章 ローマから来た男(3) 

【海に落ちる雨】第20章その3です。
東京に戻った美和は仁と再会します。果たして仁は何を美和に告げるのか。
美和と仁の心は、真を挟んで少し複雑になっています。
そして、仁が美和に告げた真の現状。いったい真はどうなってしまったのでしょうか。





 美和が東京に戻ったとき、マンションには既に仁が帰ってきた気配があった。
 新潟から一度東京に帰ってきた時とは、仁の残していった服が違っていたし、タイに行くときに持って出た旅行鞄が玄関脇の小部屋に放り込まれていた。
 美和はひとつ息をついた。

 九州と山口という、ここから随分離れた場所であった色々なことが、突然遠くにすっ飛ばされた気がした。ここに美和にとっての確かな現実がある。
 真が仁と決闘するとは思っていなかった。仁が怖いというよりも、仁への仁義があってできないということは、分かっていることだった。結局は美和自身がどう判断するかなのだろう。
 美和は吊り下げられた仁の服を見つめた。
 答えならもしかしたら出ているのかもしれないのに、声に出すことができない。

 ダイニングに入り、テーブルの上を見ると、仁の癖のある字がメモに残っていた。
『ホテルニューオータニ 一一〇一号室』
 それだけだったが、ここに来いというメモであることは直ぐに分かった。
 仁に真との事が漏れていないなどという虫のいいことは思ってもいなかった。多少開け広げだったことは認めるし、北条の誰かに見咎められた可能性は十二分にあった。
 開き直るしかない。それは始めから覚悟していたことだ、と思い、そのまま出掛けることにした。ここで座ったりすれば、二度と立ち上がる勇気が湧いてこないだろう。

 帰りの電車の中で思い切り寝ようと思っていたのに、ほとんど起きていた。頭の中では、何度も仁と真の事が行ったり来たりしていた。
 それは二人の男の間で揺れ動く女心というものとは少し違っている。愛している人は一人だと思うのに、飛び込めない何かがどこかで引っ掛かっているのだ。それに本当は自分の心だってよく分からない。仁とのこれまでのことを全てなかったことにして、真のところへ行くつもりはやはりないのだ。恋をしたという感覚はあるのに、簡単に崩れ落ちてしまった、その理由が納得できていないだけなのかもしれない。

 マンションを出て、電車に乗る気にはなれなかったので、結局タクシーに乗った。久しぶりに見る東京の夜景は目に沁み入るようだった。
 でも、言い訳はしない。
 そう決めていた。

 だが、ホテルに着いてフロントの側のソファに北条仁の姿を認めたとき、美和に襲い掛かってきた感情は、美和自身にも予測できなかった感情だった。
 仁に会わなかったのはたったの一ヶ月足らずだ。その顔を見るまで予想もできなかった自分自身の感情に美和は少しだけ驚いた。
 仁は珍しくスーツ姿だった。上背のある身体つきは、グレイのスーツの上からも威圧的で、確かに通りかかる人がちらりと仁を振り返るのも納得がいく。足を組みソファにもたれて、どこか少し先を睨みつけている目は、ヤクザとは思われないとしても、普通の職業の人間には見えないはずだ。

 仁は煙草に火を点けかけて、ふと美和と目が合うとライターを閉じ、咥えていた煙草をケースに戻した。ライターが閉じた時の尾を引くような音は、美和の耳ではなく、どこか別のところに直接入り込んできた。
 仁がゆっくりと立ち上がったときには、美和は音に惹かれるように、もうそのソファの向かいにまで来ていた。
 暫くの間、言葉もなく見詰め合っていた。仁の目の中には、想像していたような怒りの感情は見えなかった。

 ばれていないとは思っていない。強がりを言えば、半分はばれてもいいと思っていた。そして仁はそれを聞いていたとして、どう思っただろうか。怒っていたか、自分が言い出したことだから仕方ないと思っていたか。
 だが、仁の目の中にあるのは、何かもっと別のもののようだ。怒りがあったのだとしてもそれを越えて静かになった男の目の中には、何かに対して強い決意が宿っているように見える。
 仁に促されて、美和は向かいに座った。

「危ないことはなかったか?」
 美和は頷いた。
「お前がマンションを出たと、お節介な野郎から連絡があってな、待ってたんだ」
 美和の行動の全てではないだろうが、舎弟の誰かがこうして見張っているのだ。勿論、悪意ではないだろう。
「仁さん」
 呼びかけた美和を、仁の大きな手が制した。
「美和」その声は、美和の想像を超えた何か特殊な響きを持っていた。「あいつは上の部屋にいる。暫く、あいつから目を離すな」

 事態が飲み込めず、美和は仁の顔を見つめていた。仁はもう一度煙草を取り出して火をつけた。
「何かあったの?」
 仁がひとつ吹かすのを待って、美和は尋ねた。
「化けやがった」
「え?」
 何のことか分からず、美和は暫く煙草を吸っている仁の方から話し出すのを待った。
「ヤクザの俺がビビるような、おっかない目をしていやがる。あいつを人殺しにしたくなかったら、あいつを見張ってろ」
「どういう意味?」
 仁の目の中に、複雑な色合いが見て取れた。

「大和竹流の足跡がほんの少しばかり見つかった。佐渡のあいつらの隠れ家だったところだ。御大層に地下の礼拝堂の祭壇の上で、生贄を捧げる儀式でもしたんだろう」
 美和は自分の咽の奥で何かが鳴ったように思った。
「大家さん、どうしたの?」
「わからん。病院から失踪して、佐渡に行ったことは間違いがない。その先の事は分からないが、そこで更に痛めつけられたことだけは確かだ」
「まさか」
「生きている保証はないな。相当の出血の痕だった」

 頭がぼーんと音を立てような気がした。耳に入ってこないままだった周囲の音が急に辺りに溢れ返り、まともな聴覚と平衡感覚を破壊して、息苦しくなった。
「先生は?」
「今、宝田と高遠に見張らせている。見たところ、至って平静だ。一言も口を利かない。眠りもせず、時々煙草を吸って、座っていやがる」
 そう言うと、仁は立ち上がった。
「仁さん、どこ行くの?」
 慌てて美和も立ち上がる。仁は低い声で言った。
「ちょっとばかり用事を片付けなきゃならない。あいつの事はお前らに任せたよ。とにかく、ここから出すな。一歩もだ」

 歩き去っていく仁の後姿を見つめて、美和は暫く突っ立っていた。自分が留守の間に、何かとんでもない事態になっているのだ。それは、仁にとって、美和と真の間の事などどうでもよくなるくらいの出来事なのか。
 それはそのまま、真にも言えることだろうと思った。
 万が一、大和竹流が死んだら。
 それは考えるも恐ろしい想像だった。
 先生はきっと狂ってしまうだろう。いや、もう既にどこか常人ではない状況なのだ。それは、修羅場を潜ってきているはずの仁を怯えさせるほどなのか。

 美和は、ひとつ息を急いでつくと、エレベーターまで走った。十一階のボタンを押し、扉が閉まる時間がもどかしくなった。
 だが、扉が閉まって一人きりになると、突然涙が零れてきた。
 さっき、仁の顔を見た瞬間、美和に襲い掛かってきた感情、それは本当に単純な思いだった。

 アイタカッタ
 本当は殴って、どういうつもりだと問い詰めて欲しかったのだ。

 もう少し泣いてしまっておきたかったのに、そういうときに限ってエレベーターはいつもより早く目的階に着いてしまった。扉が開き、角をひとつ曲がると、直ぐに一一〇一号室だった。
 もう一度息をひとつつき、ドアホンを押すと、思ったより早くにドアが開いた。立っていたのは宝田だった。
「美和さん」
 宝田の情けなさそうな顔を見ていると、急にしょぼくれている場合じゃない、と思えた。
「先生は?」
「それが、さっき出てったんす」
「どうして? 見張ってたんじゃないの?」
「いや、っていうのか、大和さんのとこの執事って人が来て、連れてったというのか」

 嫌な感じがした。美和は思わずエレベーターに走り戻り、フロントまで降りたが、真の姿はなかった。タクシー乗り場に走り、真らしい人を見かけなかったかと聞いたが、見かけていないという。次は駐車場に走ったが、広い駐車場で何を目標に探せばいいのか分からず、ただ闇雲に走った。駐車場の出口に行き、出ていく車を暫く見張っていたが、やはり真は見つからなかった。
 事務所、マンションに電話を掛けてみたが、勿論誰も出るはずがなかった。大和邸の場所は知らなかったが、もしかして添島刑事が知っているのではないかと思い、警視庁まで連絡してみたが、出張でいないと言われた。

 美和は覚悟を決めて高円寺に向かった。
 宝田から聞いたことからも、確かに真を連れて行ったのは大和竹流の関係者だろう。真は相手を知っているようだったと、宝田も賢二も言っている。真の身に危険が及ぶことはないかもしれないが、大和竹流の周りにいるのは、彼のためなら命など平気で投げ出すような人間ばかりだ。真に人殺しの片棒を担がせないとは限らない。

 高円寺の北条家に顔を出すのは初めてだった。
 仁と同棲していることは、北条の舎弟も親分も知っているはずだが、仁がここに美和を連れてこないのには、仁なりの思いがあるからだろうと思っている。美和に覚悟がないことなど、仁には十分分かっているはずだった。いや、もしかして、覚悟をする必要などないと、そういう意味なのかもしれない。
 門の隅に、これでもかというくらい高く三角錐に盛り上げられた塩を見つめながら、美和は息を大きく吸いこんで、声を上げた。

「ごめんください」
 声が終わるか終わらないうちに、門が開いた。出迎えたのは、大きな身体の男だった。その背中の向こう、玄関までは随分な距離がある。美和は思わず胸を張っていた。
 大男は恐ろしいというよりも、無表情だった。
「ええ度胸ですな。ついにここまで来なすった。お入りになりやすか?」
 美和は男の顔を見据えて、頷いた。

 広い玄関には、真夜中にも関わらず若い者たちが並んで出迎えた。
「姐さん、お待ちしとりました」
 美和はとにかくまた頷いておいた。こんなことでびくついている場合ではないと思った。
「若はまだお帰りじゃありませんがね、どうぞ奥で」
 美和が通された部屋は、開け放てば六十畳くらいはあるのではいかという和室の並びのひとつだった。
 部屋の床の間には、金がふんだんに使われた狩野派の絵と思われる掛け軸が下がり、立派な刀が二振飾られ、壷やら香炉やらが並んでいた。もっとけばけばしているのかと思っていたが、噂に聞くほどには成金ムードではない。恐らく、北条東吾自身が多少は華族の自尊心を失っていなかったのだろう。

 五メートル以上はある黒檀の座敷机の一方に、分厚い座布団を外して座り、美和は背筋を伸ばして目を閉じた。
 暫くすると襖がさっと開いて、閉じる音がした。目を開けると、恰幅のよい大柄な、和服姿の紳士が立っていた。美和は暫く相手を見据えていたが、一歩下がり、頭を下げた。
「柏木美和と申します。仁さんには大変お世話になっています」
 紳士は返事なく美和の前に座った。
 ここまで来てうじうじ思っていても仕方がない。
 美和が意を決して顔を上げると、紳士は恐ろしげな顔を急に崩して笑った。
 そのギャップに美和のほうが面食らう。

「さすがに仁が惚れただけのことはある。だが無理をすることはない。その気なら、仁と一緒に堅気になってくれてもいいんだ」
 美和がきょとんとしているうちに、失礼します、という声で障子が開き、行儀の良さそうな若者がお茶を運んできた。
「仁は戻ってきたか?」
「はい。先ほど」
 北条東吾はそれを聞くと、野暮をしていると仁に嫌われるな、と言い残して部屋を出て行った。拍子抜けした顔で美和が座っていると、直ぐに仁が入ってきた。

 スーツ姿の仁は、黙って美和の前に座った。怒っているようではなく、幾分か驚いたような表情だった。
 美和はホテルのロビーで仁を見たときの自分の感情を確かめていた。
 今でも、真に対して恋という感情を持っていることは確かだと思えた。しかし、仁の顔を見たときに湧き上がってきた感情は、決して真との間には持ち得ないものだ。それは何と表現すればいいものだろう。
 大体、相手はヤクザだ。家族を思うような感情を持てるとも思えないのに。

「ごめんなさい。あの後、部屋に上がったときには、先生はもういなかったの。探したけど、わからない。先生を連れ出したのは、大家さんとこの人だったみたい」
 それには答えず、仁は黙って美和を見つめていた。
 美和も仁を見つめ返していた。やがて仁はほっと息をついた。
「マンションに送ろう」
 美和はやはり答えることができなかった。仁は立ち上がり、障子の外で待つ舎弟に車を回すように伝えた。

「美和」背中を向けたまま、仁が呼びかけた。「お前が本気なら、今なら目を瞑る」
 美和は仁の背中を見つめていた。この言葉が仁の口から出ることを、美和は知っていたような気がした。
 大きく逞しい背中は、遠く見えた。
「今だけだ」
 返事のできないまま、美和は俯いた。

 やがて促されて北条の家を出た後も、その玄関口を振り返ることはできなかった。
 こうして仁は北条の家に残り、美和は一人でマンションに戻った。
 美和は暗い部屋の中で長い時間、つりさげられた仁の背広を見ていた。窓から漏れてくる微かな光で波打つような濃淡が浮かび上がっていた。
 傍に行って抱きしめたい気がしたのに、足は一歩も動かなかった。





美和と仁、これからも二人の恋の行く末を見守ってやってください。
さて、次回からは第20章後半です。真はついにチェザーレ・ヴォルテラと対峙します。
一体、ローマから来た男は真に何を求めるでしょうか。
そして、真の知りたくなかった真実がひとつ、零れ落ちます。


Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨97] 第20章 ローマから来た男(4) 

【海に落ちる雨】第20章、続きです。
竹流の行方を捜して佐渡に行った真は、竹流のものと思われる血の跡と、竹流の愛車・フェラーリの爆破を目撃してしまいます。彼の身によからぬことが起こっていることだけは確かだと思い、焦りと怒りに取りつかれている真。
真の事務所のオーナーである仁道組の跡取り息子・北条仁は「(真が)危なっかしい、おっかない目をしている」と美和に告げます。
真はついに、ローマから竹流を奪還しに来た彼の叔父、チェザーレ・ヴォルテラと対峙します。
さて、チェザーレの話を注意して聞いてみてください。もしくは、話半分に聞いてください。
頭から言っていることを信じてはいけません。
多分、真面目に読むと騙されます。この男は、真を値踏みしているのです。
ただ、言葉の端々に、この事件の糸口は見え隠れしています。
「cell」はある意味、物語全体の仕組みを解くキーワードかもしれません。





 真は帝国ホテルの最上階の部屋で、黙って座っていた。
 リビングのソファには真以外の誰も居らず、さっきから遠くのほうで何かの機械音が響いているだけだった。部屋の窓は少しだけ開いていた。風が吹き込んで、時々頬に当たる。
 目を閉じると、心の中は空っぽだった。

 昨夜、高瀬がホテルニューオータニにやって来た。用件はひとつだけだった。
 ローマから、チェザーレ・ヴォルテラが来た、と。そして、相手は躊躇うことなく、真に会うことを選択した。
 とにかく、一晩は眠るようにと言われ、高瀬が差し出した薬を抵抗なく飲んだ。眠りは泥の中を這い回るようで、一晩中生と死の間の僅かな隙間を彷徨っている感覚だった。足は既に死神に掴まれているのか、それとも自分が死神を捕まえているのか。体は重く、全ての細胞が、暗い色の水を含んで重量を増している。

 本当は外の世界は随分と明るいのだろう。しかし、今真のいる場所には、色も光も上手く届かない。
 テーブルの上には、ルームサービスで運ばれてきた朝食がそのままだった。何も口に入れる気がしなかった。
 やがて、真は立ち上がった。さっきから異様な緊張感で、実際に鼓膜には何の音も届いていないのに、ドアの外の気配までも分かるほどだった。
真はドアを開けて、外に立つ男を迎え入れた。


 チェザーレ・ヴォルテラ。
 以前会ったときは熱に魘されていたからなのか、真にしては珍しく、その人の顔をはっきりと記憶していない。本心とは思えないが、竹流が会いたくないと言っていた彼の叔父は、ローマで熱を出していた真に対して、むしろ心配そうな気配さえ示してくれた。真は予想外の暖かく親密な気配に戸惑った。

 しかし、真は全く別の気配も覚えていた。
 東京に戻る前、竹流は教皇との面会に呼び出された。一緒にサン・ピエトロ寺院に行き、小さな礼拝室で竹流を待っていたとき、隣に座った男の気配は重く苦しかった。真は顔を上げることもできず、静か過ぎる礼拝堂の冷えた空気に怯えた。周囲の人々の囁くような会話、潜めるような足音は、もうすっかり別の次元のものとなり、真の周囲からは消え霞んだ。覚えているのは、あの時見つめていた自分自身の手と、左の耳に残る穏やかで是非を問わない声だけだった。
 今はあなたに預けますが、いずれはここに戻します。

 それ以上関わったわけではないので、どういう人物なのかは想像と噂話でしかない。
 時々夜中に、マンションに電話が掛かってくる。竹流はその電話を決して寝室では取らない。リビングで交わされる会話は、真には半分しか聞こえないが、しばしば熱を帯びている。そのうち相手と揉めているのがはっきりと分かる。イタリア語の言葉の勢いのせいもあるのだろうと思っていたが、電話を切った後、ほとんど煙草を吸わない竹流がいつも葉巻を吸っている。ベッドに戻ってきた彼から、葉巻の強い香りがする。

 その同じ香りが、今チェザーレから香っていた。
 頑強な身体、竹流よりは幾分か背は低く、緩やかにウェーヴのかかった髪は灰色だったが、意思の強そうな眼は、全く同じ青灰色をしていた。
 この男が彼を愛している、それは叔父が甥に向ける以上のもので、まさにわが子を思い遣るような愛情だった。

 そのことを竹流自身は知らないのだろうか。傍が見れば明らかに分かる同じ面影、惹きつけられるような整った顔立ち、そして人間的なよく使われた手。何気なく目に入った左手の薬指に、竹流と全く同じ指輪が嵌められていた。
 もし年齢が近ければ、そして見ているだけならば、真はこの手と彼の手の区別がつかないかもしれないと思った。もちろん、触れてみればきっと彼の手は分かると思いたかったが、正直自信がなかった。それほどまでに、血の繋がりは明確だ。

 だが、その手を見つめているうちに、身体の震えは収まっていた。カッとするような熱さえも、体の奥深く押し込められて冷たく固まっていた。
 リビングのソファに向かい合って座ると、チェザーレは真が全く手をつけていないテーブルの上のコーヒーのポットに手を触れ、直ぐに立ち上がった。デスクの上の受話器を上げ、綺麗なクィーンズイングリッシュでコーヒーと暖かいミルクを注文している。
 竹流が話すイントネーションと全く同じだった。

「手を引くつもりはありませんか」
 注文を終えてソファに戻ると、チェザーレは穏やかな、そして艶やかな声で真に話しかけた。血の繋がりというものは、これほどまでに残酷なものなのか、と真は思った。
 目を閉じると、聞き違えるかと思うほどの声。
「ありません」
 そして、自分の話す英語も、竹流が教えてくれたものだ。チェザーレは真の言葉の調子にそのことを感じたのか、少し頬を緩ませたように見えた。
「それならば、覚悟が必要です」
「覚悟なら、十分にしています」

 チェザーレは真を見つめている。同じ青灰色の、吸い込まれそうな瞳だった。
「これはあなたの今いる場所とは違う次元で起こっている。私が覚悟と言ったのは、あなたが場合によっては一生、こういうものと付き合っていく覚悟があるかと聞いたのです」
 真は返事をせずにチェザーレを見つめ返した。
 二度と堅気の世界には戻れませんよ、と言われているわけか、と単純に理解した。武史も、仁も、どこかでこういう一線を越えたのだ。

 チェザーレはほっと息をつき、深くソファに凭れた。
「あれの事はよく分かっています。自分の身は自分だけのものだと思って、こうして無茶をする。あれがいつまでもこんなことをして、自分の命を危険に晒すようであれば、いつまでも遊ばせておくわけにはいきません。言っている意味はお分かりですね」
 真は暫くの間を置いてから頷いた。
「あなたが覚悟していると言うなら、私に異存はありません。あれがどうしてもあなたを必要と言うなら、あなたの身は私が引き受けます」

 さすがにそれには真は驚いた。自分がこの男に受け入れられることは絶対にないと思っていた。
 この男と自分が竹流を間に挟んで、相容れることなど不可能だ。だが、それをこの男は簡単に乗り越えてくる。あの破廉恥な雑誌の記事でさえ、それをカトリックの総本山を後ろで支えている大きな組織のトップが、事も無げに受け入れるのか。
 義理や人情などというもののために命を掛ける、そういうことに目的を見出すタイプの人間。『河本』がチェザーレに対して語った言葉だ。

「どちらにしても、予言に従えばもうタイムリミットですし、私の中でもあなたのことは以前から覚悟ができていたことです。あなたのお父上はこれで完全に私の敵になってしまうでしょうが、やむを得ませんね。彼とて、愛するもののため、馬鹿げた世界に身を投げ出した。しかもその結果として、愛するものを取り戻せたわけではない。アイカワさん、ここは酷く孤独な世界です」
 真はそれには答えを返した。
「僕は、ただ彼を見つけたい。それだけです」
 暫くの間、チェザーレは何も言わなかった。

 呼び鈴の音がして、チェザーレは真を見つめたまま立ち上がった。ドアの方へ向かい、短い会話を交わしている。直ぐにホテルの従業員がミルクとコーヒー、ブランディを持って入ってきた。
 二人きりになると、チェザーレは温かいミルクにブランディを零し、真に勧めた。真が動かないでいると無理矢理手に持たせてくれる。
「食事が咽を通らないなどと、子どものようなことを仰られては困ります。あなたは戦場に行こうとしている。鉄則は、食えるときに食う、眠れるときに眠る、です」
 息をひとつついて、真はミルクを飲んだ。ブランディの香りが鼻腔を刺激した。
 穏やかに暖かい言葉なのに、有無を言わせぬ調子。真の同居人が持っているリズムと同じものだった。

 暖かいものが食道から胃に落ちていくのがわかった。竹流の最後の消息を確かめてから、初めて口にしたものだった。
 途端に、手が震え、視界が曖昧になった。身体の中では怒りと焦りが黒く重い渦を巻いていた。握り締めているカップでさえ、手の中で壊れそうなほどに突き抜けてくる感情。それを目の前の男に悟られるのは、とんでもなく拙いことだと思えた。
 しかし、気が付いたとき、真は隣に座った男に頭を抱き締められていた。その身体からやはり強い葉巻の香りがした。
「あなたが彼の姿を見たら、そんなに平静ではいられない」
「今も十分に私も平静ではありません。そいつらの体を生きたまま割くつもりです」

 残酷な言葉を男は淡々と、当然の権利というように言い切った。
 もうこの世にいないかもしれないとは、到底口にできなかった。そして、それはお互い同じ感情なのだと理解できた。あなたにもそれができますか、と問われている気がしたが、答えなど簡単だった。
 やがてチェザーレはその大きな手で真の頭を包み込み、額に口づけた。
 それはいつか、ローマの教会で穏やかな神父が、あなたには神が見えていると言って祝福してくれたのと同じ口づけだった。
 真は、今、自分が神に捕まったのだと、そう思った。

「さあ、とにかくミルクを飲んで、温まりなさい」
 真がミルクを飲みきり、チェザーレはコーヒーを飲んで、少し落ち着くと、チェザーレは懐から葉巻を取り出し、自ら端をカットして真にも一本勧めた。真は有難く受け取り、火をつけてもらった。
 チェザーレはひとつ大きく吹かし、息をつく。
「スィーニャヤ クローフィ」
 真は顔を上げた。呪文のような言葉だった。

「帝政ロシア時代の皇帝の親衛隊から生まれた秘密結社です。今でも活動を続けているのかどうかはわかりませんが、世界中に溢れている懐古趣味の秘密結社のひとつです。言葉の意味はロシア語で『青い血』、つまり高貴な血を持つ人間という意味です。こういう手の秘密結社でもっとも有名なものはナチスだ。つまり私が言いたいのは、そういう馬鹿げたことを本気で考えている連中がいるということです」
「それが、何の関係が」
「最近、中東や南米の戦争にソ連製、またはその改造品と思われる武器が大量に出回っています。彼らが本気で、高貴な血を持つ人間だけの国を作り上げようとしているのかどうかは知りませんが、世界各地の紛争に喜んで武器を提供している。勿論、世界の大国にもそうやって金儲けをしている国や組織はありますが、その秘密結社は実際、下品な血を持った人間たちが殺し合って滅ぶことを望んでいるのだとか」
 チェザーレはまた言葉を切って、暫く葉巻を吸っていた。

「そして、そういう組織には資金繰りと、異質ではあるが何らかの形で役に立つ協力者が必要です。資金繰りに日本人が一人、絡んでいるという噂がありました」
「日本人? 青い血を持っていなくても構わない、ということですか」
「金を持っているものは別です。協力者には特別な加護があるという話になります。もっとも日独同盟のとき、ナチスは随分回りくどい説明で、日本人はゲルマンの民族と血の友であると証明していたようですから、理屈などいくらでも作られるのでしょう。それにこういう組織の多くは、中東のテロ組織と同じ仕組みを持っている」
 淡々と話すチェザーレのいう言葉は、まるで異次元の物語だった。
「同じ仕組み?」

「cellという概念をご存知ですか? 少人数のグループがあり、その中の者同士はお互いを知っている。しかし、隣のグループの構成員の顔は知らない。グループのリーダー同士は両隣のリーダーのみを知っている。そういうふうに組織が層状に積み重なっていて、ある部分が露呈しても、それが上層部まで及ばない仕組みになっている。被害を最小限に留めるのです。だが、こういう組織には弱点もある。組織を長く持たせるには良い方法ですが、統制がとれない。命令が行渡るのには時間がかかるし、もしかして組織そのものが瓦解していても、下の方の構成員はそれを知らない可能性もある。戦争が終わっていることを知らずに、ジャングルの中で銃を撃ち続けているかもしれないのです。だから、こういう組織には、絶対に揺るがない理念と符号が必要だ」

「理念と符号」
 真は言葉の意味を履き違えないように、ゆっくりと繰り返した。
「つまり、それを見れば、それが組織にとって重要なものであるとわかる記号、もしくは暗号です。以前ロシア全体主義の時代に活躍した作曲家の音楽の一節が、その記号になっているという噂がありましたが」
 真はしばらくチェザーレの顔を見つめていた。頭の中に無残にばら撒かれたパズルのピースが、ところどころで上手く数ピースずつ形を作る。けれども全体像は全くわからない。目指すものがどのような完成図なのか、青写真を与えられていない。だが、部分的に合わさったパズルには、見たことのある光景が浮かび上がる。

「符号」
 もう一度真が繰り返したとき、チェザーレは葉巻の灰を落とした。
「時代を超えても価値があるとわかる符合です。もしもそれが多くの文書や情報の中に埋もれても、残されるべきであると考えられるもの」
「絵、ですか」
 真は言葉にしてから、咽がからからになるのを感じた。チェザーレはゆったりと答えた。
「その可能性があります」
「あなたは、それがどのようなものかご存知なのですか?」
 チェザーレは、おや、という顔をした。
「私は、あなたに教えてもらえると思って来たのですが。あれがどのような絵を探していたか、ご存知ですね」





さて、次回もチェザーレの話にもう少し付き合ってください。
頭にも書きましたが、そう「話半分に」聞いた方がいいと思いますが……^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 2   

[雨98] 第20章 ローマから来た男(5) 

【海に落ちる雨】第20章(5)です。まだまだ続きます、チェザーレ・ヴォルテラの与太話……^^;
真はどこで巻き返すことができるでしょうか。

ちなみに、少し間が空いてしまっているので、登場人物確認は以下のページで……
→→真シリーズ・登場人物紹介





「つまり、その絵に何か特別なことが記されているというわけですか」
「さぁ。具体的にはわかりません。しかし、ロシア帝国の秘宝、本来ソ連邦が受け継ぐべきだと考えられていた宝、大戦のときに行方不明になったあらゆる貴重な財産。行方のわからないものが多すぎる。世界にはそういうものを咽から手が出るほど欲しがっている連中がいる。どれほどの金を積んでも、手に入れたいと願っている。一方では、自分たちの理念を貫くために、現実の世界でもっとも確かなものを求めている連中がいる。そういう利害は簡単に一致するのでしょう」

「現実の世界で最も確かなもの? その連中が欲しがっているものは金ですか」
「金は、彼らの理想を実現するための手段に過ぎない。しかし、勘違いしないで下さい。私が話しているのは、それが現実に進行している陰謀だという話ではありません。裏に偉大な力を持つ黒幕がいて、そいつが全ての糸を操っているというような、世界征服物語を語っているつもりもありません。どれほど偉大な力を持つ黒幕でも、不死の体を手に入れることはできていないはずですから。もしも、最初の球が転がり始めたら、あとは僅かな動力だけでいい。符号が一人歩きしていても、もう誰もそのことをわかりません。知らずに動力に油を注ぐ手伝いをしている。だが、私はそんなものに興味はない。それに対してセンチメンタルな感情を抱く気もありません。そういうcellのひとつひとつを潰していくような暇潰しをするつもりもありません。私がここに来た理由はひとつだけです。私の後継者を取り戻すために来た。彼に僅かな傷でも負わせた者には、それ以上の傷と倍以上の苦しみで贖ってもらわなければなりません」

 真はその言葉に全く同感した。その時、自分自身がどれほどの残虐な感情を抱いていたか、全く気にもならなかった。どこかで警鐘を鳴らしているはずの、親切で思い遣り深い平和主義者は、自分の中のどこにも見出せないように思った。
 そう考えてみれば、優秀な兵士やテロリストを作り上げるのは簡単なことだ。どうしても揺るぐことのない信念を、つまり復讐の確固たる意思を確認すればいいだけのことだ。美しい世界を作ろうなどという絵に描いた理想ではない。自らの命を差し出し燃やし尽くすための狂気は、理想ではなく、ただ呪いと復讐、憎しみの感情だけによって支えられる。

「絵は、二度日本にやって来た、と聞きました。つまり、同じ絵が来たのではなく、同じ意味を持つ符号としての絵がやって来たと、そういうことだったんですね。符号の裏に、何かが隠されている」
 竹流は絵を調べているうちに何かに気が付いたのだ。だから、絵をどこかに隠した。そしてすり替えるための絵を描いていた御蔵皐月も何かに気が付いたのだ。

「でも、もしもあなたのおっしゃるとおり、その秘密結社だか何だかが絵を取り戻そうとしているとして、この現実の世の中で一体何ができるというのですか。本気でスラブ民族純血種の国を作ろうとしているわけではないでしょう。すでにナチスが同じようなことで失敗したのに、もっと上手くやる算段でもあるのでしょうか」
「きっかけとなる欲望など、ほんのちょっとした事でよいはずです。あなたにも、私にもそれがあるように。物事が複雑に見えるのは、それぞれのcellが既に一人歩きしているからでしょう」

「絵の後ろには」真はしばらく注意深くチェザーレの顔を見つめていた。「宝の地図が隠されている、ということですか。そして、それを複数の人間が、それぞれの目的ゆえに求めて、探している」
 ついにチェザーレはスーツの上着のうちポケットから三枚の写真を取り出し、テーブルの上に広げた。真はその写真を見て、やはりそういうことなのか、と思った。その三枚の写真には、全て同じ絵が描かれていた。
「あなたはこれをどこで?」
「一枚はレニングラードの蒐集家の手元に、別の一枚は南アメリカの某国の革命家の遺族の手元に、もう一枚はスイスの資産家の手元にあります」

「そして、さらに二枚が日本に、しかも同じ新潟に? 竹流は、いえ、あなたの後継者は同じ絵が何枚もあることに気が付いた。そしてそのうちの一枚、もしくは複数枚の後ろに何かが隠されていることを知った。多分、御蔵皐月という贋作者もそのことに気が付いたんです。恐らく、レニングラードで。だから、絵をすり替えて仕事が終わる、という種類の話ではなくなってしまった。ただ、それでも僕にはまだ納得がいきません。その秘密があなたの言うとおり一人歩きしてしまっているのなら、竹流を捕まえて命までどうこうしようという連中の目的はなんですか」

 暫くチェザーレ・ヴォルテラは真の目を真っ直ぐに見つめたままだった。その青灰色の目のうちに自分の姿を認め、真は更にその目のうちにチェザーレの姿を認めた。
「あれの母親はスウェーデンの王族の血を受け継いでいます。ロヴェーレ、すなわち私と兄の生まれた家は、没落していますが、ローマ皇帝の末裔の血筋だと言い伝えられています。ローマ教皇、また枢機卿も幾人も輩出している。勿論、そんなものは眉唾ものですが、貴重な血であると思う人間はいるかもしれません」

 真は理解のできない話を、どう收めるべきか、少なくともたっぷり一分は考えなければならなかった。
「命ではなく、血を欲していると、そういう意味ですか」
「絵の秘密を握った程度で殺さなければならないほどの秘密ではないと、あなたが言うのなら、他に理由を探さなくてはならない。あなたの言うとおり、敵を出し抜きたいような秘密が隠されているかもしれないが、殺す必要はないかもしれません。他にあれの価値を考えるとすると、そういうことしか思い当たりません。もっとも、今のはあなたをからかっただけです。命に値する秘密であると、相手は思っているかもしれません」

 からかったようには思えなかった。だが、チェザーレは淡々と事実を話すだけで、そこに感情をこめていなかった。
 真が黙り込んでいる間、チェザーレが辛抱強く待っているような気がした。混乱していることを、今相手に知られたくないと思っていた。真はしばらく自分の手を見つめ、皮膚の奥に隠された血の流れが見えないものかと目を凝らしていた。
 そして、もしかしてこの男が自分を試しているだけなのではないかと考え始めた。
「あなたが僕に会おうとされた本当の理由を聞かせてください。あなたが手の内を十分に尽くせば、僕の力など必要ではないはずだ」

 チェザーレを見返すことができず、真は視線を自分の手の上から動かさなかった。あれほど殴られたり蹴られたりしたのに、手だけは幸いにも無事だった。その無傷の手を見ていると、この手を切り取って彼に差し出してもいいと思えた。
「始めに言いませんでしたか。私はどうあってもあれを連れ戻す気で来ている。あれがあなたを必要と言うなら、あなたも一緒に来てもらわなければなりません」
「だが、それは彼を取り戻してからでもいいはずです」
 真は漸く少し顔を上げて、やっとチェザーレの手元を見た。
 チェザーレは組んだ脚の上に左手を載せて、右手には葉巻を持ったままだった。左手の薬指に嵌められた指輪の輪郭は、目を瞑っても浮かび上がるほど鮮明な光を纏っていた。

「なるほど、あなたは妙に勘が働くのですね。おっしゃるとおり、その秘密結社が現在も活動していてあれを傷つけたいと思っている、などと非現実的なことは考えてもいません。それはただ符号のひとつに過ぎなかったのですから。ただ、その組織の重要な人物の一人であった男が、もう死に掛けているのに、どうやらまだ世界を動かせるかもしれないと妄想を抱いているのかもしれません。だからあれに絵を取り戻して欲しいと、死ぬ前に『フェルメールのマリア』に一目会いたいとでも言ったのでしょう。あの馬鹿者はそう言われてみれば純粋にその気持ちに応えてやりたいと思うような人間です。だが、その絵は日露戦争以来、旅をする間に、色々な人間の欲望を煽り立ててしまったのでしょう。そう、同じような絵は幾つもある。この符号は、決して絵が抹消されないためのマークです。絵の下には、宝の地図が隠されているのですから」

 真は漸く顔を上げてチェザーレの顔をまっすぐに見て、もう一度、言葉を確かめるように繰り返した。
「あなたの、本当の要求を教えてください。僕に会おうとされた理由です。あなたは僕に奇妙な秘密結社の話をしたいわけでも、フェルメールの絵の話をしたいわけでもないはずだ」
 チェザーレは実に小気味いいというような顔をした。
「さすがに、くだらない『お話』にはごまかされない、ということですね。気に入りました。私があなたにお願いしたいのは一つ、あなたの父上にワシントンに帰るように説得してください。残念ながら、これ以上彼に獲物を差し上げるわけにはいかない」
「どういう、意味ですか」

 チェザーレは葉巻を灰皿へ落とした。その間、彼は真から目を逸らさなかった。
「あなたは彼が何をしに来ているのか、知っていますか?」
「いいえ。あなたがそれを知っていると?」
 チェザーレはその答えを、直接的には避けたように見えた。

「第二次大戦の直後、実に多くの美術品が闇に消えた。多くはナチス絡みですが、連合軍がそのうちどれほどのものを持ち去ったか、今となってはわかりません。だが、消えたのは美術品ばかりではない。ずさんな管理の元に置かれたままの貴重なエネルギーの原料、武器の類、さらには科学者たちまでも姿を消している。あなたの父上は戦後間もない頃に、東京で戦後処理に当っていたアメリカ軍の将校と接触している。正確には友人付き合いだったようですが、その後その将校の誘いで渡米している。だが真っ直ぐにアメリカに下ったわけではない。長い間、ソ連の科学アカデミーにも在籍していたのです。彼が優秀な科学者であったことは、誰もが認めている。そして、彼がその後米ソのどちらからも貴重な存在として扱われていた事実をどう解釈すればいいのかは分かりませんが、ある意味公認の二重スパイのようなものだったと理解しています。アメリカ側は戦後、明らかになっては困る事実を隠匿するために彼の腕を欲した。特に朝鮮戦争の時、彼が生業としてその腕前を十分に披露をした事を、この世界のものは皆知っています。ベトナム戦争の時には戦争を引き止める力を挫くような仕事もしている。はっきりしていることは、その戦争のどちらについても、米ソは自分たちの国力を完全に削ぐことのないように努力していることです。ソ連はアメリカが彼の使い方を間違えない限りは放任した。ソ連側が彼を放置したのは、彼に負い目もしくは恩義があるからでしょう。アカデミーの中での動きについては、むしろソ連側に有利になるように動いていた節もある。恐らくはそれぞれの天秤の調整をさせられていたのでしょう。更に、南米での革命・内戦の際にもかなり際どい仕事をされている。あの頃、あなたの父上は随分際どい、言葉はよくありませんが、ある意味卑怯とも言える仕事を幾つもこなしておられるのです。まるで何かに憑かれているようにね」

 真はその言葉の間、チェザーレから目を逸らさずにいた。父の生業について、自分に意見や異議があるわけもなかった。国家の事情が優先すれば、卑怯だとも際どいだとも表現されるような仕事もあるだろう。
 だが、チェザーレ・ヴォルテラという男にはそれがない。
「ある事件が、戦後間もなく起こった。アメリカから貴重な実験結果がソ連に持ち出されるという事件です。もっとも、それについて責任があるのはあなたの父上ではなく、あなたの父上のパートナーだった工作員です。だが結局その尻拭いをしたのはあなたの父上だった。正確に言えば、あなたの父上はソ連と某かの取引をして、その実験結果を公表しないという約束を取り付けたと思っています。だが、随分後になってからそこに何か横槍が入った」

 真はチェザーレを黙って見つめていた。感情をできる限り排除しようとしている目だったが、チェザーレが相川真という人間を見定めようとしていることは伝わってきた。
 真はこの事件に関わってから、全ての人間が自分を相川武史にくっついているおまけのように見なしていることを感じていた。
 だが妙なことに、チェザーレだけは真自身を値踏みしている節があった。
 もっとも、それは彼の後継者の側にいる人間として相応しいかどうかという値踏みに違いない。

「その横槍を入れたのが、あなたが先ほどおっしゃった妙な秘密結社ですか」
「そのようです。しかもその当時彼らと協力関係にあった日本人がいました」
「資金繰りに関与していたという日本人ですか? そこに日本人が関与した必然性は何ですか。いや、戦後間もなくということは、それが日本にも関係した『貴重な実験結果』ということだったのですか」
「そうでしょう。その実験はある面から見れば日本人のためにもなったのでしょうが、当時の時勢では米国に対する憎しみを煽り立てることになる可能性もあった。いえ、はっきり言えば、ナチスにも匹敵する行為だと思われたことでしょう。国際的な問題とされれば、困る事態にもなり得た」

 真は息を吸い込まなければならなかった。
「原爆ですか」
 そもそも戦争を終結さるために原爆は必要だったのかという議論はしばしばなされる。そして、米国人医師たちによる膨大な被爆者たちのカルテが物語る、ある「実験」の噂は、真実はともかく、まことしやかに語られることがある。
 だが、チェザーレは思いを巡らす真を、淡々と見つめていただけだった。
「その日本人は国家を相手に大掛かりな恐喝を思いついたわけですか。バックに奇妙な秘密結社を得て、ソ連と米国を相手に。だが一旦は片付いたかに見えていた問題が、再度浮上してきた。ソ連が絡んでいる可能性のある武器が出回るようになった。だから父は、いえ朝倉武史は事情を確認しにきたというわけですか。あるいは明確にその人物が誰であるか分かっていて、止めを刺しにきた、と」

 チェザーレはまだ黙っている。葉巻は灰皿の上であの刺激的でいて、かつ精神を宥めるような強い香りを漂わせていた。
「いや、一旦は片付いたように見えたのは、その恐喝者が亡くなったからですね。ところが、まるでその人物が生きているのではないかと思われるような事態が浮上した。恐喝者は村野耕治という男だったのですね」
 ようやくチェザーレは満足そうに笑みを浮かべた。
「ムラノ、というのは私が随分昔にその秘密結社を調べていた頃、よく耳にした名前です。秘密結社のほうは先ほども言ったように、確かに組織として存在しているのかどうかはわかりません。だがcellの構造を持っていることだけはわかった。ムラノという男は、原爆だけでなく、戦時中の麻薬使用についても、大国の軍部を恐喝していた気配があります。私が受けた報告でも、ムラノという人物は確かに癌で亡くなっています。だが今でも、ソ連は社会主義国家としての弱体化の種を内に抱えていることをあまり表には出したくないでしょう」

「妙な秘密結社や宗教団体なら、米国にもいくらでもあるのでは」
「米国は自由主義国家ですから、そういうものも含めて米国という国を支える礎のひとつです。要は自由主義・民主主義という理念が立っていればよいのです。だが、ソ連邦はそうはいかない。国家として成立するためには、異分子は潰す必要があるのです」
「では何故、その可能性のあるキエフの元貴族を消してしまわないのですか。貴族の隠匿財産など、国家の名の下に召し上げてしまうことは可能でしょうに」
「それが目の前に示すことのできるお宝、もしくは金銭であるならば、その通りでしょう。だが、そうではない」

「つまり、ソ連の国家組織は、『符号』が何かを知らない、ということですか」
「そういうことでしょう。しかもソ連邦にとって、その人物が異分子であるとは限らないのです。彼らは賢明だ。お互いに生き延びるためには、身体の半分につけた同じ色の側だけを見せながら話をする。他の場所に行けば、また別の色の面を見せる」
 真は暫くチェザーレの言葉を頭の中で確認していたが、結局そのことが竹流の居場所を知るために確かに必要な情報なのかどうか、よくわからなかった。





頑張れ、真。まだ続くのか、与太話……^^;
いえいえ、次回で終わりのようです。
字が多くて誠に申し訳ございません(>_<)

狐と狸の化かし合い。次回はタヌキも登場です。
次回で第20章は終了です。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 0   

[雨99] 第20章 ローマから来た男(6) 

【海に落ちる雨】第20章(6)です。今回で第20章が終わります。
チェザーレの与太話から、一転、真もようやく巻き返しに成功したようです。
と思ったら、今度はタヌキも登場。真の周りには、物事をややこしくしてけむに巻く悪い大人が沢山いるようです。

さて、今回、【海に落ちる雨】はなんと99話目なのです。
ということは次回が100話目!
栄えある100話目から第21章『わかって下さい』がスタートです。
こちら、この物語最後の回想章。本編を読んでおられなくても無関係に読めます。
でも、まずは真の巻き返し、お楽しみください。





「あなたは、彼の居場所について何か心当たりがあるのですか」
「先ほど言ったとおりです。私はあなたに教えてもらえると思って来たのです。私が知っているのは、あれの立場と知識と血を欲しがっている人間の事だけです。だがあれの値打ちはヴォルテラの跡を継いでこそ意味があるものです。今、あれをどうにかしようとしている人間が、その人物自身とは思っていません」
「では、全く心当たりもないと?」

 失望というよりも微妙な違和感を覚えながら、真は確認した。チェザーレは黙ったまま、真を見つめている。まるで、話すのは真のほうの仕事だとでも言うように。
「幾つかの国家組織が戦争の尻拭いのために、それぞれの立場を正当化するために動いているということは分かりました。そして、宝や宝の地図を埋め込んだ絵の何枚かが、新潟のどこかに埋もれてしまうことを危惧している秘密結社の亡霊がいるということも分かりました。でも」
 そんなものが今、現実に竹流をどうこうする理由は思い至らない。本気なら、その人物はチェザーレ・ヴォルテラを、もしくは教皇庁を恐喝するのが筋というものだ。

「アイカワさん、戦争には正しいものなどありません。それは起こってしまえば、誰にも正当性を裁くことなどできない化け物になってしまうのです。あの戦争に参加した全ての国に、お互いを裁くだけの正義も権利もない。兵士たちは組織に逆らうことはできません。よい兵士というものは命令に従うものです。誰も自分の道徳観念に従うことは許されない。彼らに大局は見えません。ただ目の前の作り上げられた敵と、殺せという命令があるだけです」
「大局を知っている誰かが、動かしているということですか」
 チェザーレは笑ったようだった。

「大局を知るものなど、いないでしょう。戦争に参加する軍の上層部ですか? それとも命じた政治家か。彼らの誰もが大局など分かっていません。そこにあるのは、漠然とした大きなムードなのですよ。そしてそこから生まれた残酷な環境は、人の精神を壊します。もはや、敵の兵士だけを撃つような冷静さはありません。相手が一般人であろうが、女子どもであろうが、見境などなくなる」
 真はしばらくの間、チェザーレの目を見つめていた。そしてこの男が語ったことを、始めから思い出し、確認した。
「ムラノ、という男は死んでいると」
「そうです」
「符号が一人歩きをする、と?」
 チェザーレは微かに頷いた。
「戦争が終わったことを知らずに、ジャングルの中で銃を撃っている」真は呟いて、自分の手を見つめた。「流れ弾を受けてしまう人もいる。死者にはもう命令を下すことも、辺りに飛び火した小さな燻りを消すこともできない」

 添島刑事が言っていたことを思い出した。大物が絡んでくる割には起こっていることが小さい、と。それは全く真実だったのかもしれない。つまり、起こっていることは全て小さな連鎖に過ぎないのかもしれない。
 絡まった糸に騙されてはいけない。
 そうだったのか。大きな人間が動きすぎていたので、すっかり騙されていたのだ。代議士、代議士の秘書であり戦争中に麻薬・阿片で大儲けをしていた黒幕、米国の国家組織のスナイパー、内閣調査室の人間、そして何かを知っているかもしれない元傭兵の老人。そして誰よりも、教皇庁を支える裏組織の後継者。

 大物が動く理由はそれぞれにあったのかもしれない。だが、始めから違和感があったのだ。
 大物が動く割には起こっていることが小さい。
 添島刑事は始めからこの違和感を持っていたのだ。
「あなたが、ビッグ・ジョーなどと組んだのは、つまり……ケチな日本のヤクザが絡んでいると思ったからですか。やはり、あなたは、竹流がどこに囚われているのか、見当がついているんですね。その上で、どうして僕の父がここにいることが困るのですか」
 チェザーレは小気味よく笑ったように見えた。そして、ようやく満足そうに、すっかり寛いだような顔でソファに凭れた。
「やはりあなたは私の見込み通りでした。結構です。前置きはおしまいにしましょう。これでようやく、私の打った布石も役に立ちます」

 真には何のことかさっぱり分からなかった。黙ってチェザーレの顔を見ていると、チェザーレは厳しい顔で先を続けた。
「アサクラタケシは誰かの尻拭いをしに来ただけではないのでしょう。たとえ大きな戦争の傷跡でも、当事者にとっては大問題であっても、その当事者たちはあと数十年ほど我慢すればこの世の人ではなくなってしまう。記憶は失われていくのです。そして国家としては、ただ『その時』を待っていればいい。問題を解決する気など誰にもありません。あるいは、国家間には解決しないまま宙に浮かせておくほうがいい、そんな問題が山のようにあるのです。ですから、アサクラタケシが今更、この国で尻拭いのために貴重な腕前を披露する必要などありません。彼が周囲に、大きな仕事をしに日本に来たように思わせているのは、本当の仕事をやりやすくしているだけでしょう。あるいは、偶然が重なって、周囲が彼の仕事を誤解したか」
「本当の仕事?」
「そうです」
「父は……何をしに来た、と?」
「私が、あなたを手に入れると思っている。もちろん、私はそのつもりですが」
 真はそれでも何を言われているのか分からずに、チェザーレをただ見つめていた。

「あの馬鹿者は、わざと雑誌のインタヴューに応じたんですよ。どういう意味かお分かりですね。あの雑誌はヨーロッパに姉妹社があり、日本で発売されるよりも前に同じ内容の記事がヨーロッパ中で売り出される。これは些細なことではありません。あなたを愛しているなどと馬鹿げたことを言ったことは大目に見るとしても、ヴォルテラを継ぐつもりはないと、こんな形で宣言することは許されません。あれの一言が、ヴォルテラの内にも外にもどれほどの波紋を投げ掛けたか、想像したことがありますか。もちろん、あの馬鹿者はそれを狙ったのでしょうが。そして、あなたの父上は、私が次に出る行動を読んだのです」
 真は歯が噛み合わなくなっているような感じを覚えた。
 今、この目の前の男は何を言っている?
 自分は蚊帳の外だと思っていた真に、お前こそ、事件の核心にいる人物だと告げているのか。

「でも、父は、あなたが来たら会うようにと、僕に言いました」
「えぇ。そして私があなたに、これまで話したような、まるで国家を動かすような壮大かつ馬鹿げたドラマを語り、そしてあなたがヴォルテラの置かれている状況を理解した上で、賢明に判断し、この状況から身を引くと、そう考えたのでしょう。だが、私は、どうあってもあれを取り戻すつもりで来ています。私には勝算がある。あなたは、あれの傍に居ざるを得ない。あれと離れることはできないはずです。私の勝ちですよ。あなたの父上は、あなたの気持ちを知らないが、私は私の息子の心の内をよく知っています」

 真はしばらく黙ってチェザーレの言葉を頭の中で転がしていたが、ひとつの言葉が頭の中に重く残ると、やがて顔を上げ、勤めて冷静に言った。
「よろしいのですか。僕に、ジョーカーを見せるようなことを仰って。僕は、あなた方の弱味を握ったと、そう考える人間かもしれませんよ」
「構いません。真実を知っているのは、私と、あれの母親と、ヴォルテラの医者と私のもう一人の息子だけです。そこにあなたが加わっても何の問題もない」
 だがあくまでも竹流はこの男のことを「叔父」だと言っていた。つまり彼は、自分は直系の血の繋がりのないヴォルテラ家の養子なのだと、そう信じている。

「竹流は……彼は知らないのですか」
「知りません。話すつもりもありません」
「あなたの国では、このことはスキャンダルでしょう」
「そうかもしれません。しかし、今更誰がそれを証明できますか」
 確かにその通りだ。会ったことはないが、竹流の父親、少なくとも竹流がそう思っている男と、チェザーレ・ヴォルテラは、一卵性双生児だと聞いている。
「なぜ、僕に」
 チェザーレはようやく穏やかに笑った。
「息子があなたをどう思っているか、私はよく知っています。あなたの父上はあなたを繋いでおく鎖を持っていませんが、私はあなたを繋いでおく方法を知っています。あなたは、私が打ち明けた真実を、きちんと担保として預かってくださるでしょう」

「あなたは父に会われたのですか?」
「いいえ。だが、私の協力者を既に抹殺した。それが答えだと思っています」
 真は驚いてチェザーレを見つめた。
「何の、話ですか」
「聞く勇気がありますか?」
 真は浮き上がりかけた上半身をソファに戻した。
 灰皿から葉巻の煙がゆるりと立ち上っている。その向こうでチェザーレはしばらく黙ったままだった。彼が何を言っているのか、真にはすっかり理解ができていた。
「それとも、父上から直接、聞かれますか」
 真は首を横に振った。いつの間にか視界が覚束なくなっていた。

「田安隆三は、あなたの協力者だった、と」
「そうです。あなたに銃の使い方を教えるようにタヤスに言ったのは私です。私は、あなたを私の息子の夜伽の相手に雇うつもりはない。馬鹿息子ですが、いずれあなたがあれの盾にさえなってくれることを期待して、そのように頼んだのです。あなたの父上はそれが気に入らなかったのでしょう」
「田安さんは、溺死だったと……」
 真は最後の藁にすがる気持ちで呟いた。
「アサクラタケシはこの世界でも十本の指に入る優秀なスナイパーですが、五本の指に入る立派な暗殺者です。何も銃だけが彼の武器ではない。彼は彼なりに、私に忠告をしたのでしょう」
 真は唇が震えてくるのを、チェザーレの前で隠すこともできなかった。

 だから、チェザーレ・ヴォルテラはここにやって来たのだ。息子を探し出すためだけではない。後継者を傷つけた者を二度と立ち上がれないまでに叩き潰し、自分の意にそぐわない状況を覆すために。そして、彼の言葉によれば、アサクラタケシの息子を手に入れ、後継者の忠実かつ確実な盾とするために。
 このような世界に足を踏み入れることが、本当に自分にできるのか、と思った。そして父は、それでも息子にこの世界に足を踏み入れて欲しくないと、そう願っていたのだろうと思った。だが、その親心を表すために、田安隆三を抹殺するような理屈が成立していいものではない。
「あなたから父上に、黙ってワシントンに帰るように話してください。ご自身のお気持ちも」
「僕は、竹流を取り戻したいと思っていますが、あなたに協力するとは言っていません」
「えぇ。だが、私の息子を救ってくれるのは、あなたではありませんか」

 真は初めて、このチェザーレ・ヴォルテラという男の恐ろしさを知った。
 この男は、まともなことを言っているのだ。筋を通し、ただ事実だけを正面から話している。事実を隠蔽し曲げ、騙すようなことは、この男には考えられないのだろう。そしてその直線的で直情的な事実を通すためには犠牲を厭わない。もっともなことを力を持って言われると、それが正しくても間違っていても、もう逆らう隙を見出すことができない。
 そういう一面を、折に触れて竹流もまた見せることがある。

「父に、報復をしなくてもいいのですか」
「タヤスのことで? という意味ですか」
「あなた方の世界では、それが必要なのでしょう」
「おっしゃるとおりです。ここで私が協力者のために何もしてやらないということになれば、私の協力者たちは皆不安に思うことでしょう。示しがつきません。だが、これはあなたへの契約金にしましょう。黙ってワシントンに帰ってもらえれば、私はそれで納得します。幸い、タヤスの死がアサクラタケシの仕事だと思っている者はないでしょう。まさかアサクラタケシが自分の息子を守るために個人的な仕事をするような人間であるとは、誰も思わないでしょうから」
 真はもう逆らうのは無理だろうと思っていた。
 この男の声を聞き、瞳の色を見ているうちに、ただ無性に同じ声と瞳を持つ男に会いたいと思った。それがこの世の地獄でも、あの世の闇でも構わなかった。


 ホテルのロビーから真は電話を掛けた。
 高い天井からは煌びやかな灯りが降り注ぎ、日常を抜け出した人々が優雅な時間を楽しんでいる。そのロビーの隅の電話ボックスは小さな闇に見えた。
 いつものように一旦切った電話が鳴り始めるのに、数分とかからなかった。
「父の居場所を教えてください」
 相手はしばらく黙っていた。真も、次の言葉はなかったので、黙っていた。
「どうなさるおつもりですか」
「会って確かめたいことがあるだけです」

 また、どうすることもできない間があった。やがて電話の相手はいつものように淡々とした声で言った。
「チェザーレ・ヴォルテラに会ったのですね。何を言われたか知りませんが、頭を冷やしてください。相手はあなたの弱味をよく知っているのですよ。どうせあなたを煙に巻くようなことを話して、あなたの反応を窺っていたのではありませんか」
「どういう意味ですか」
「あの男のやり方です。相手を値踏みする時に、百ほどもありそうな話を並べて、一体相手が何に反応するかを見ている。ヴォルテラが欲しがっているのは、数ばかりが売りで勢いを士気と勘違いしているような、どこぞかの国の軍隊のような有象無象の集団ではない。どんな状況下でも要となる真実だけを見抜き、敵の心臓部だけを直接に狙えるような精鋭を、そして守るべき相手のためなら、躊躇わずに自らの身体を盾として差しだし、敵の攻撃を受け止めるような忠実な僕を求めているのです。もちろん、あの男は相手を騙そうなどとは微塵も思っていない。ただ真実だけを真正面から話している。嘘偽りがないだけに、逆に本当に大事なことを見抜くのは難しい。あなたについては特に慎重に値踏みしていることでしょう。もしかすると将来、大事な跡取りの親衛隊の要になる人物かもしれないのですから」

『河本』は一旦言葉を切り、わざとらしく間を置いた。そして、子どもを諭すようにゆっくりとした口調で続けた。
「ご存知と思いますが、チェザーレ・ヴォルテラは真っ向勝負で来るタイプの人間ですが、彼の後継者のためなら、同じ理屈で卑怯にもなる男です。あなたを利用するなど、赤ん坊の手を捻るようなものですよ」
『河本』は淡々とそれだけ言うと、またしばらく間を取った。それから僅かに声のトーンを変えたようだった。
「相川さん、馬鹿なことを考えるのはおやめなさい。あなたがヴォルテラの元に身を寄せるということは、あなたの将来を決して良い形にはしません。もちろん、あの男が話したことには嘘偽りは入っていないのでしょう。しかも、あの男はもしも相手を認めたら、その相手のために自らを危険に晒すことも平気でする。彼が選んだ精鋭のためなら、彼自身の命でさえ差し出すのです。それがイタリア人の恐ろしいところだ。そして本当に手に入れたいものがあれば、一番大事な手の内を、つまり自分の弱みを簡単に見せるのですよ。それが、自分たちの懐に相手を引き込むという彼らのやり方だ。だが、理屈や感傷は差し引いて考えるべきです。結局のところ、あの男はあなたを自分の後継者の盾にしようとしているだけです」

「あなたにしても同じ事を僕に提案されましたよね」
「ヴォルテラは決して合法的な組織ではありません。たとえヴァチカンと表裏一体の関係にあっても、です」
「あなたたちの組織は合法的だというわけですか」
 次の間合いは、とてつもなく長く感じた。
「そうです。大和竹流の捜索はチェザーレ・ヴォルテラに任せて、少し休まれてはいかがですか。身体がまいっていると、ろくな考えが浮かばないものです。そのように他人の言葉に簡単に踊らされたりします。全て忘れることも、あなた次第で可能なことのはずです。あなたが決心されるのなら、あなたの立場を守ることは、私には簡単なことです。元の生活に、ただし、大和竹流のいない生活にお戻りください」

『河本』の返事は、それ以上の問いかけを全て拒んでいた。真は息を吐き出した。『河本』と父の間に何某かの取引があったことは間違いがないのだろう。
 簡単な話だった。竹流が言った通りなのだ。誰も信じてはいけない。
「では、そうさせてもらいます。ただ、ひとつお願いがあります」
「なんでしょうか」
 電話の声が幾らか遠くなった気がした。
「せめて、すぐにでも事務所に戻れるようにしてください。このままでは日常に戻るにも、仕事にならない。警察とあなたの関係が良好でないのはわかりますが、あなたの力ならそのくらいのことは簡単なはずですね」
 心は冷たく固まっているような気がした。
「わかりました。一晩、お待ちください」

「それから」真はついでだ、と思って付け加えた。「刑務所に面会に行きたいのですが、手間を省けるようにしてください」
「唐沢正顕ですか。あのろくでもない男にどのような御用が?」
 真はしばらく黙り、それから息を吸い込んだ。
「それでも、私の恩人です」
『河本』は少し間を置いて、わかりました、と答え、そのまま電話を切った。真はしばらく受話器を握ったままだった。
どこに行けば答があるのか分からないまま、突然、今、道が途絶えたような気がした。





第20章、長い章にお付き合いいただきまして、ありがとうございます(*^_^*)
さて、次回は少しお休みの回想章。
彼らが同棲に至った過程をお楽しみください。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨100] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(1) 

1周年を迎えたブログの再スタートは、やはりこれ。
【海に落ちる雨】もついに100話目になりました。
記念すべき第100話目に、第21章『わかって下さい』を始めることになりました。
行方不明の同居人・もと家庭教師の大和竹流を探している真。二人の間の微妙な関係を紐解く回想章第3弾。
まずは、妹(従妹)・葉子の結婚から、真がトンデモ女のりぃさと恋に堕ちる過程を3回に分けてお送りいたします。
途中、一部18禁がありますが(次回~)、さらりと流してください。

本編を読まれない方でも、ほぼ問題なく読んでいただけると思います。
よろしければお付き合いくださいませ。
1970年代の懐かしい名曲がバックに流れたら、昭和後期のあの不思議なムードが蘇るかもしれません。

なお、登場人物紹介はこちらです。
→→【真シリーズ・登場人物紹介】を読む




 今でも真は時々、三上司朗が唐沢調査事務所の窓から吹き飛ばされた光景を夢に見ることがある。
 その時の事は、今になっても誰に責任を求めるべきか分からない。事務所を吹き飛ばした唐沢の責任はあるにしても、自分もまた、三上の不自由に対して責任があるような気がしている。
 もちろん、一言でもそんなことを言えば、三上は怒るだろう。自惚れるな、と言われそうだ。
 だが、真はどうしても唐沢を憎み切れなかった。当の三上司朗が誰よりも唐沢を庇っていたということもあったが、唐沢に関してだけは、今でも複雑な感情の整理がつかない。

 あの時真は、事務所のあるビルから表通りに出たところだった。その時、二階の事務所の窓から三上が呼びかけてきたので、振り返ったのだ。三上は何かの書類の束を振りかざすようにして、口を開きかけた途端だった。
 その一瞬、爆発音が先だったのか、後方を振り返った三上がその窓から吹き飛ばされた場面を目撃したのが先だったのか、あるいは何かの閃光のようなものが視界を翳めたのが先だったのか、後から思い出しても、ただ記憶が混乱しているばかりだった。
 夢を見ているのではないかと思った。
 次の瞬間には、六本木の路地の一角は、煙と騒然とした気配に包まれた。救急車、と誰かが叫んだ声と、周囲から交錯して襲いかかってくるクラクションの音、意味をなさない複数の悲鳴が、映画の場面のように畳み掛けた。



 富山享志が妹の葉子にプロポーズしたと聞いたとき、来るべきときが来たな、と思ったのが正直なところだった。
 既に気持ちはすっかり冷静になっていたはずだったが、葉子が嫁ぐ前の日、本当はお兄ちゃんのお嫁さんになりたかった、と言ったときだけは、男としてどうともやるせない気分になった。一番幸せになって欲しい人を、しかも決して自分にも権利がなかったわけではないのに、自分の手で幸せにできないという腑甲斐無さは、その場面になってみると、思った以上に辛いものだったのだ。

 真は情けないと思う自分自身を振り切るように立ち上がった。玄関を出てポーチに座り、煙草に火をつける。星が見えたら、と思って空を見上げたが、曇っているのか、あるいは都会の空気のせいか、何も見えなかった。
 明日は晴れるといいのに、と思った。葉子の二十三歳の誕生日で、結婚式だった。

 ひとつ吹かした時、車のドアが開く音と、続いて閉まる音がして、人影が門の向こうに浮かび上がった。真はその気配をただ眺めていた。人影は門の向こうから手を伸ばし、鉄製の門扉を開ける。
 挨拶もないまま、その男は真の横に座った。
「何だよ」
「いや、お前が泣いてないかと思って心配になっただけだ」
 真は答えなかった。
「俺にも一本寄越せ」

 真は黙って煙草を差し出した。竹流が一本抜いて咥えると、真は無言のままライターの灯をともした。竹流は煙草を咥えたまま、真のつけたライターの火に顔を寄せる。
 その瞬間に、驚くほど近くに感じた相手の存在に、真は一瞬感情を突き動かされそうになった。
 竹流はひとつ煙草を吹かして、明日は天気だといいのにな、と言った。

「いつからそこに居たんだ?」
「そろそろ寝込みを襲いに入ろうかと思ってたところだった」
 それから暫くはどちらも黙ったままだった。煙草を一本ずつ吸いきると、間が持たないような気がして、真はちょっと相手に何か言いかけたが、やめた。その気配を察したのか、竹流が神妙な声で言った。
「花嫁が目が真っ赤ってのは微笑ましいが、花嫁の兄貴が目が真っ赤ってのは洒落にならんぞ。何なら一緒に寝て子守唄でも唄ってやろうか」

 声のトーンの真剣さと内容が釣り合わない。全くそんな気はないくせに、と真は思った。もう六年前になるのか、ローマから戻って以来、一度も素面で抱き締めてくれたこともキスをしてくれた事もなく、酔っ払っているときにでもどこかで一線を引いている竹流が、冗談でもそういう言葉を投げかけてくるのは多少癪に障った。
「じゃあ、そうしてくれよ」
 落ち着かない気分になったのと、何となく腹が立ったので、そう言ってみた。竹流は思わぬ反応に少し怯んだように見えた。

「本当に、これでいいのか?」
「何が?」
「今夜のうちに花嫁をかっさらわなくていいのか。今ならまだ間に合うぞ」
 真は、自分は何を苛立っているのだろうと思った。明日の朝起きられなかったら困るし、結婚式で酔いが残っているとまずいだろうと思って、夕食の時にアルコールを一滴も飲まなかったが、やはりビールの一杯くらい引っ掛けておくんだった。
 何処にもこの中途半端な感情をぶつける先がないので、仕方なく煙草をもう一本引き抜いて咥えた。
「まあ、もう十分、今更か」

 竹流はそう言って、真が咥えた煙草を取ってしまった。真が、何をするんだと言いかけたとき、唇に一瞬軽く相手の息遣いが感じられた。真は突然の事に反応もできず、呆然と竹流を見つめていた。
「子守唄は割愛する」
「何のまねだ」
「眠れるおまじない。本当に寝ないと花嫁のエスコートができないぞ。掻っ攫う気がないなら、少なくとも義務はきちんと果たすべきだ」
 言われてみれば、確かにそれは正論だと思った。真は暫く黙ったままで、竹流も何も言わずに座っていた。

 風の音だけが頭の上で舞っている。そうしているうちに少しだけ落ち着いてきた。
 もうここまで来たのだ。今更何をどうしようというのか。いつまでも、妹に面倒を見てもらっているわけにはいかないのだから。
「車に乗るか」
「何で」
「子どもは車に乗ってると寝るからな。少しドライブに行こう。鍵掛けてこい」
 いつものように真が反論する間もなく、竹流は車に戻った。真はしばらく座り込んだままだったが、結局立ち上がり、家の中に戻った。

 座敷の襖を開けると、葉子は横になったままだった。眠っているのかどうか、確かめるのは怖いような気がした。しばらく寝息を数えてから、縁側の雨戸が閉まっていることを確かめて、真は座敷を出た。居間のテーブルの上から鍵の束を取ると、それでも暫く躊躇っていたが、ひとつ息をつく。その時始めて自分が寝巻きだったことに気が付いて、ジーンズとシャツに着替えると、玄関を出て鍵を閉めた。
 真が門を出ると、竹流はテスタロッサのエンジンをスタートさせた。特別仕様のこの車は、エンジンのスタートは淋しいくらいに静かだった。

 高速に乗っている間中、二人とも口をきかなかった。真夜中にも関わらず、相当の車が走っている。前の車のテールランプの散らばりを見つめていると、現実なのか、いつか映画で見たシーンなのか、よく判らなくなってきた。
 深夜ラジオの時間帯で、一昨年レコード大賞を取った『津軽海峡冬景色』が流れていた。春なのに、どういう選曲だろうと思ったが、誰かこういう気持ちの人がリクエストしたのかもしれない。こんな時間にラジオを聴いているのだから、トラックの運転手とか、深夜に仕事をしている人たちだろう。演歌にはどうしても冬が似合う。

 この一週間、仕事も忙しかったし、気持ちもこんな状態であまり眠れていないのは事実だった。竹流がそれを知っていたのかどうか、車に乗っていたら眠れる、というのは本当かもしれない。
『津軽海峡冬景色』が『襟裳岬』に替わったときには、真は半分うとうとしていた。襟裳の春は、真の無意識の心を、北海道の牧場にまで運んでいった。

 北海道の冬。決して何もない冬でも春でもない。
 冬にはどこまでも真っ白な大地、遥かな白い地平線まで続くウサギやキタキツネ、エゾシカの足跡。その後ろに続く真自身の足跡は儚く消え行くように見えた。馬たちの嘶きが冷えた空気の中に震え、吐き出す息の白が雪の白に重なっていく。そこには呼吸をしているもの達が持つ生命の温もりがあった。
 春には少し穏やかになった海を越えてくる風、牧場の上を渡っていく雪解けの音、冬眠から覚めた動物たちの足跡、そして一度に咲き始める花たち。

 それなのに時々、自分の手には温度が無いような気がする。
 あの秋の日。牧場の先の丘まで、昴に乗って走っていた。何かに導かれるように走っていたところまでは意識はあったのに、どこからか記憶が無い。
 気が付いた時、病院のベッドの上で、今隣にいる男の哀しい瞳が真を見つめていた。
 あの目を見た時、この世に帰らなければ、と思った。

 今でも時々不安になる。もしかして目を覚ましたのは夢で、やはり自分はあの時死んでしまっていたのではないか。その証拠に、時々自分の身体が冷え切って温度がなくなってしまっているような気がする。それに、以前から必要以上に敏感で、いるはずのないものが見えたりしていたが、あの事故以来、余計にひどくなったような気がする。
 葉子の結婚は真自身が望んでいたことだった。それは、本当ならばあの時死んでしまっていて、もしかして今の自分は仮の命を生きているだけかもしれない、そういう自分の命の不確実さを思うと、誰か確実な人間に葉子を預けてしまえるからだった。

 ふと目を覚ましたときの感情は、まるであの日、帯広の病院のベッドの上で目を覚ました時の再現のようだった。
 この男のためだけにこの世に帰ってきたと思っていた。抱き締めてくれる身体の温もりは、既に体温が失われてしまっている真とは違って、確かにこの世に生きているものだった。
 ずっと心は変わっていなかった。アッシジでこの男に伝えた時のまま、何も変わっていなかった。

 竹流が耳元で何かを囁いたように思ったが、聞き取れなかった。その言葉の語尾から思うと、日本語ではなかったのかもしれない。
 誰よりも愛しているとどこかで確信し始めていた。
 それが、恋人への思いなのか、家族への思いなのか、それ自体はよく分からなかった。けれども、離れていることをこれほど不安に思わせる相手は他にいなかった。この男がこの世からもしも居なくなったら、あるいは永久に会えないほど遠くに行ってしまったら、自分はどうなるのだろうと不安でたまらなかった。初めて東京に出てきたときと同じように、人間の言葉も、生きていくために知っておかねばならないこの世界の仕組みも、何もかも分からなくなってしまうのではないかと、心細かった。真に生きるための全てを教え諭してくれたのは、この男だったからだ。

 あの頃、竹流が彼自身に科している重荷を理解するほどには、真は成熟した精神を持っていなかった。ただ、自分の感情だけで精一杯だった。
「起きたか?」
 真の気配に気が付いたのか、竹流が少しだけ身体を離した。それでも目の傍に相手の呼吸がはっきりと感じられる距離だった。
「何処?」
「横浜」
 深夜ラジオのリクエスト番組はまだ続いていて、その連続性が時間の感覚を失わせていた。カーラジオから流れる哀愁を帯びた歌声が心に突き刺さるようだった。
 なぜ抱いてくれないのかと、喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。あるいは、なぜいっそ殺してくれないのかとまで思った。それはどちらも同じことだった。

 古い物語の男女は、この世で一緒になれないのならばと、共に死ぬことを選んだ。今の世の中で、それほどまでに結ばれない身分違いの恋など珍しいかもしれないが、むしろどれほど一緒にいても、相手と完全に一体になれないことに絶望することはあるのかもしれない。いっそこの世で結ばれないほうが、幻想の中、あるいはあの世では、心で結ばれ続けると信じられたのだろうか。
 人は自由になった途端に、その場所が意外に居心地が悪いことに気が付く。
「少しは眠れたか」
 真は返事をしなかった。ふと、車のデジタル表示の時計を見ると、もうほとんど四時だった。それでも数時間は眠っていたらしい。
「帰ろうか」
 すっと身体を離して竹流がエンジンをかけた。
 真は答えないまま、突然に手をすり抜けた何かの尻尾を捕まえそこなった。ラジオの古い歌謡曲が心を締め付けるようだった。

 これから寂しい秋です 時折手紙を書きます
 涙で文字が にじんでいたなら わかって下さい





因幡晃さんの『わかって下さい』
……名曲だなぁ、やっぱり。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨101] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(2) 

【海に落ちる雨】第21章の(2)……久しぶりの18禁です。
大海の18禁は大したことがないのですけれど……18歳以下の方はご遠慮くださいませ。
妹(従妹)の結婚式で出会った女性、小松崎りぃさと「恋」におちる真。この恋はまがい物?
何だかムラカミハルキワールドに出てきそうな女性ですが、皆様の評価は……ちょっと気になります。
(この女性との関係は、実は第4節の竹流の「罪の告白」まで持ち越されます。)
さて、どんな女性か。ちょっと覗いてみてください。




 泣きたいのか、どうしたいのか分からないまま目を閉じると、きらびやかな結婚式場の明かりが眼瞼の中でも踊っていた。
 結婚式の全ては、まるで雲の上を踏んでいるような心持ちだった。
 後で、竹流だけではなく友人たち(と言っても真には自覚はなく、享志の友人だと思えた)からも、お前の結婚式じゃないんだから、とからかわれた。確かに、自分は葬式みたいに浮かない顔をしていたかもしれない。

 葉子のウェディングドレス姿は、兄の真から見ても眩しいほどに美しくて、彼女の友人一同にとっては結婚式第一号であったことも手伝って、さらに花婿の友人たちにとっては羨望の結果として、溜息の的になっていた。
 少なくとも、富山家の親戚にしてみても、花嫁の『素性』はともかく、若くて飛び切り愛らしい娘で、それだけのものを準備できる親戚か後ろ盾がいることだけはアピールしたようだった。

 室井涼子の名前はその頃雑誌で紹介されてもいたし、その新進気鋭のデザイナーのウェディングドレスを注文できるという人脈が、親戚中の自慢のお坊ちゃまに相応しいとはとても思えない身分の花嫁にあるということは確かだ。さらに、竹流が加賀友禅の有名作家に特別に作らせた披露宴の打掛の見事さは、式場の着付け係のベテラン女性を唸らせた。少なくともそのことは、富山家の親戚一同の満足の足しにはなったようだった。

 しかもこの日、竹流は何を思ったのか、本名のジョルジョ・ヴォルテラを名乗っていて、堂々としたヨーロッパ貴族のネームヴァリューと風格で回りを圧倒していた。その彼が花嫁の親戚のテーブルに座り、花嫁の祖父と親しげに会話している様は、その名前の意味を知っている富山の取引先会社のそうそうたる面々を、相当威圧していたようだった。
 もっとも、実際には竹流に「特別な名前」など必要がなかったかもしれない。きちんとスーツを着て立っているだけで、ただ者ではないことは誰の目にも明らかだったのだから。

 二次会に出席する気はさらさらなかったが、竹流につかまって、いかにもこの結婚に不満があるように人に思わせるな、と言われて、真は仕方なく会場に足を向けた。
 二次会は有名な作詞家の経営するレストランを貸切っていて、出席者は結婚式を上回るほどだったが、堅苦しい大人たちは一人もいなかったので、打ち解けて華やかなパーティだった。
 葉子は、やはり涼子がデザインした優しいムードの淡い桜色のドレスを着て、まるで映画から抜け出した姫君のようで、特に彼女に初めて会った享志の友人たちを目一杯羨ましがらせた。
 
 葉子がこういう場所で自分の役割をきちんと認識していて、周囲に気を使いながらも、十分にお姫様の役割を演じきっていることを、真はよくわかっていた。勿論、花嫁は今日の主役なのだから当たり前なのだが、若い娘にありがちな無知の横柄さも愛嬌で覆いながら、客を迎えるホストの立場をきちんと果たしている。
 葉子には、無邪気で愛らしい外観からは想像しがたい、どこかで冷めた計算をしているところがある。世の中から脱落してしまいそうな兄を助け、これ以上家族が失われてしまわないように闘ってきたのだ。それは多分、真の親友との結婚を決めた時も、この結婚式当日にも、変わっていない。

 ドレスに合わせた桜色の口紅は光に輝くようだ。真はただの一度もどうしてあの唇に触れなかったのだろうと、さすがに勿体なく思って、男としての単純な自分の感情に新鮮な気分にさえなった。
 ほんのたまに、葉子は伏目がちにちらりと真の方を窺っている。兄が帰ってしまわないか、本当のところ、彼女も心細いのだろう。
 小学生の時から、父を失い、家庭教師に助けられながら、時には祖父母の手も借りながらにしても、ほとんどずっと二人で生きてきたのだ。明日から別の場所で暮らすというを、今もまだ真も信じられないでいる。

 そのうち、高校の剣道部で一緒だった同級生が、真を見つけて声をかけてきた。
「ずっと可愛いとは思ってたけど、お前の妹、本当に嫁に行っちまうんだな」
 そう言って、真のグラスにビールを注いでくれた。
「お前、どうしてこんな隅っこに座ってんだ。まあ、昔っからこういう華やかな場所は苦手だったもんな」
 真は相手にもビールを注いでやった。同級生は興味津々という顔で身を乗り出してくる。
「大学、途中で辞めたんだって?」
「ああ」
「留学の話を断って、教授とやりあったんだって聞いたよ」
 そんな噂になってるのかと思った。
「しかも、えらく突拍子もない仕事してるそうじゃないか」
「そうでもないけど」

 突拍子もない仕事。
 そう言われて、享志の友人たちに限らず、ここに集まっている人間は全て、社会で真っ当に生きている人間たちだと気が付いた。
 中高時代は、真にしても登校拒否は別にして、あるいは東京に馴染めなかったことは別にして、決して社会からはみ出して生きていたわけではなかった。複雑な両親の事は別にしても、育ててくれていた伯父の職業は医者で、通っていた学校も上流の人間が通うようなところで、衣食住全般に困ったことなどない、そういう中で暮らしていた。
 だが、今は違っている。

 今、自分がもともと属していた真っ当な社会からは既にはみ出しているのだということに、突然思い至った。少なくとも、あのまま大学を続けて、研究生活を送り、もしかして高校時代からの同級生だった美沙子と結婚していたら、自分もその真っ当な社会の一員でいられたのだ。そして、その真っ当な社会との唯一の架け橋だった妹を送り出したら、後には何が残るのだろう。
 突拍子もない仕事と、まともではない心の奥の感情だけだ。

 真が何も話さなくなったので、声をかけた同級生は幾らか気まずそうな顔になっていた。そのうち、別の友人に声を掛けられると、ほっとしたように席を立った。
 そのとき、葉子がついに我慢ができないかのように、あるいは一人で飲んでいる兄を気遣ったのか、真のほうに寄ってこようとした。真は葉子のその気配を察して、目が合った瞬間に首を横に振った。
 葉子は直ぐに立ち止まる。そこへ、葉子の音大の友人が数人、彼女を取り囲み、写真を撮ろうというようにカメラを示していた。葉子は弾かれたように幸せいっぱいの笑顔を作って、享志を手招きしている。

 その今日の主役たちの笑顔を中心に置いた真の視界の隅に、不意に異質な気配が入り込んで来た。
 真は視線を動かし、自分と同じように一人で座って飲んでいる隣のテーブルの女性に気が付いた。
 つまらなそうに周囲を見ている彼女は、肩を露にした紫のドレスを着ていて、髪を何色かのマニキュアで染めていた。大人っぽい外観とは釣り合わない子どもっぽい手つきで爪を噛んでいて、その視線の先には今日の主役の二人の華やいだ姿があった。

 見つめているうちに彼女から目を離せなくなった。
 そのうち、彼女が真の無遠慮な視線に気が付いた。
 彼女は爪を噛むのをやめて、微笑んだような怒ったような、どちらともつかない曖昧な表情を真に向けた。目は猫のように光を跳ね返し、少し吊り上げ気味に描いた細い眉と綺麗なコントラストを作っている。細い鼻と、少し上を向いた上唇には、パールの混じる紫がかった色合いの口紅をつけていた。
 似合わない、と真は思った。

「あなた、花嫁のお兄さん? それとも、元彼?」
 それが彼女の第一声だった。印象に残ったのは、その一見派手な外観からは程遠い、澄んだ天女のような透明な声だった。
「そんなふうに花嫁と視線で会話すると、勘ぐっちゃうわ」
「あなたは?」
 彼女はくすくすと笑った。笑ったのかどうか、それは真の思い込みだったかもしれない。
「あなた、なんて」
 自分に似つかわしくないとでも言いたげに彼女は捨てるように言った。それからグラスに残った赤いワインを飲み干す。
「花婿の従姉。それとも元彼女だったりして」

 不思議な女だと真は思った。どう不思議なのか、ただバランスの悪さが、真自身の心に重なって気になったのかもしれない。
 気が付いた時、今日の主役である花婿が目の前に立っていた。
「りぃさ」
 花婿は彼女に呼びかけた。
「おめでとう、御曹司」
 りぃさと呼ばれた女性は、花婿の享志に他人行儀な声で挨拶をした。
「どうして結婚式に来なかったんだ」
「だって、あなたの母親の顔を見たくなかったんだもの」
「親父が心配してた」
「私が結婚式を引っ掻き回すことを?」
「馬鹿言うなって」

 りぃさはすっと立ち上がった。時々『猫のような仕草』という表現を見かけるが、まさに寸分違わず猫の動きだった。享志が慌てたような声でりぃさを呼び止める。
「何処行くんだ」
「ワインのお替り貰うだけよ」
 彼女の後姿を暫く享志は見送っていた。その横顔には、真が見たことのない表情が張り付いていたが、やがて花婿は気を取り直したように真の隣に座った。
「従姉?」
「うん、母方のね。あの通り、破天荒なところがあって、母とは折り合いが悪くて」
 享志は珍しく歯切れが悪く、それ以上は言わないまま、真にビールを注いだ。

「あっちでみんなと飲まないのか」
「勘弁してくれ。ここに来ただけでも、自分じゃ精一杯だ」
 享志も、それはそうだと思ったようだった。
「もうちょっとしたら帰るよ」
 真があっさりと言うと、享志は珍しく複雑な顔をした。
「葉子が寂しがるよ」
 夫婦になったから当たり前のことなのだが、享志が妹を呼び捨てにすることには、まだ納得がいっていない自分に気が付くと、真はたまらなく情けない気分になった。未練を感じるなど、ずうずうしいもいいところだ。

「ずっと一緒にいるわけにもいかない」
 真が時々、他人がびっくりするくらいストレートな言葉を口にするのは、婉曲とかいう表現が苦手なせいもあった。享志はそれを受け止めたのか、しばらく黙っていた。
 随分長い沈黙の後、享志が何か言おうとしたようで顔を上げたが、酔っ払った友人の集団が目の前に迫っていて、その言葉を飲み込んだようだった。
「なーに辛気臭く二人で座ってんだ。あっちで飲むぞ」
 そう言って集団は花婿を連れ去ってしまった。真は暫くそれを見送っていたが、煙草を一本だけ吸って、両のこめかみを指で押さえた。
 飲みすぎたかもしれないと思った。

 煙草を揉み消すと、真は立ち上がった。
 最後に葉子のピンクのドレス姿が目に留まったが、昨夜の彼女が自分を見つめた美しい瞳をまた思い出してしまって、視線を逸らせた。
 これは、自分が選択した結果だと知っていた。

 会場を出掛けに、手洗いの脇で煙草を吸っている女性と目が合った。
 りぃさ。
 不思議な響きの名前が耳の中に残っていた。女性というよりも女の子のように不安な気配を背負った彼女は、真の今の感情の何かに触れるようだった。
 りぃさは真と視線が合うと、体育館の裏で煙草を吸っているところを見つかった女子高生のように慌てて煙草を消した。
「帰るの? 元彼さん」
 真は否定もせずに頷いた。
「じゃあ、送って」
 りぃさは真の腕をとって、自分のほうから歩き始めた。

 明らかに多少酔っていたのだ。勿論、それは言い訳だったかもしれない。
 向かったのは彼女の家ではなく、会場から一番近いラブホテルの一室だった。
 部屋に入った途端、玄関口で狂うように彼女を求めた。
「靴、脱がなきゃ」
 りぃさの声はどこか無邪気な響きがあって、少女のような幼さが真の気持ちに火をつけた。肩紐を外すと、紫のドレスの下に彼女はブラジャーもつけていなかった。一気に感情がエスカレートした。背中のファスナーを引きちぎるように下ろして、ドレスを床に落とすと、ベッドにもつれるように倒れこむ。
「ね、先にシャワーしないの? 私、汗かいちゃったし、臭うかも」

 言っている言葉には猥褻な内容があったのに、彼女の声は鈴のように軽やかだった。真は彼女の抵抗など簡単に無視して、パンティの紐を外して彼女の茂みの中に手を突っ込み、濡れていることを確認すると、すぐに舌で這うようにかき回した。汗と尿の臭いが入り混じって篭っていた。
 自分の何もかもを、どこかに捨ててしまいたいような衝動だった。

 ちゃんと二次会に行って、その後で気が向いたらマンションに来い。
 そう言った竹流が、花嫁の着付けの手伝いも兼ねて招待されていた涼子と去っていった後姿が、自分の感情を狂わせていると知っていた。竹流が、その後涼子とどのような時間を過ごしているかという事は、まるでその現場でそれを見ているかのように明瞭な出来事として感じた。
 あの唇で涼子の身体を慈しみ、あの指で涼子の秘部に触れ、彼自身を涼子の中に埋めて優雅に優しく、時には激しく打ちつけ、時にはあの親しげで身体の芯まで震えさせるような声で、涼子の耳元に愛を囁いているのだ。
 マンションに行って、涼子と抱き合った後の彼の姿を見る勇気はなかった。今は、狂ってしまいそうだと思った。

 普段身に付けることのない真っ白のネクタイも、焦っていて結び目が解きにくくて苛ついた。葉子のためを思って自分はこの結婚に賛同していたと理性では分かっていたはずなのに、このネクタイの色の意味合いを感じて、更にたまらない気分になった。
 りぃさは少し笑ったように見えた。細い指を真の手に重ね、優しくネクタイを解き、それから真のシャツのボタンをゆっくりと外していった。

 露わになった真の身体を見て、りぃさは少なからず驚いたようだった。
「怪我したの?」
「崖から落ちて死に掛かった時の手術の痕。頭にもある」
 りぃさは少しの間、真の顔を見つめていた。怪我したの、と聞いたときとは既に違う、不思議な意味合いをもった顔つきだった。
 りぃさの指は愛おしそうに真の傷をなぞっている。それから、りぃさは真の上になって、傷をひとつひとつ舌で確かめるように舐めていった。どこか羨ましそうな、恍惚とした表情にも見えた。そしてそのままスーツのズボンのファスナーを下げると、熱く硬くなっている真のものを、あの涼やかな声を出す唇で包み込むように咥えた。

 慣れた舌の使い方だとその時は思ったが、一瞬のことだった。
 あっという間に我慢ができなくなって、りぃさを組み敷いてその中へ分け入った。彼女の方も同じだったのか、その中は熱く溢れるように湿っていて、包み込まれる気配に自分が何をしているかの判別もつかなくなった。
「ピル飲んでるし、中に出していいよ」
 もっとも、そんなことを考えている余裕はなかった。まるで初めての経験の時のように、何度か腰を動かしただけで真は簡単に昇り詰めてしまった。
 そもそも慈しむ必要はなかったのだ。ただ体と心の内に溜め込んでいた欲情を処理してしまえばよかったのだから、相手の反応を確認さえしなかった。

 真が仰向けになったまま天井を見つめているうちに、りぃさはするりとベッドを抜け出してバスルームの方に行った。しなやかで軽く、まるで人間の気配を感じさせない動きに、真は一瞬彼女の存在を忘れてしまうほどだった。りぃさは暫くすると戻ってきて、真の上に身体を重ねた。
「ね、一緒にお風呂、入ろ」
 真は少しの間、りぃさを見つめていた。結婚式に参加するにはやや薄すぎるような化粧だったが、目は大きく猫のように潤んで、見るものを惹き入れてしまうようだった。この部屋に入ってから、初めて彼女の顔をしっかりと見たような気がした。

 こうなってもまだ自分の感情がよく分からないままだった。
 真はりぃさの頬に手をやって引き寄せ、それから随分と長い間口付けを交し合った。身体はもう一度反応していた。手で彼女の中心を弄ると溢れるように湿っていて、さっき自分が彼女の中に出したものも一緒になって混沌とした感情をかき回すようで、その中に指を入れていくと濃くねっとりとした粘液が絡みついた。彼女のほうもまた自分を求めていると思った。
 りぃさは上になったまま、上手く彼女の中に真を導いた。ピルを飲んでいるということは、それなりに経験も多いのだろうと、真は漸く冷静になってきた頭の中で考えていた。りぃさの腰を強く自分の方に引き寄せ、自分も強く彼女の方へ突き上げた。

 喘ぐような声は一切出すことなく、りぃさは身体を仰け反らせていた。真は彼女の腰を強く抱いたまま上半身を起こし、今度は座ったままの姿勢で彼女を求め続けた。りぃさは深く腰を落とし、真が突き上げる度に踊り狂った。
 自分自身があまりにも猛々しく興奮しているので、このままか細いこの女を殺してしまうのではないかと思ったが、止める気はまるでなかった。目の前にある彼女の両の乳房は硬く、幼くさえ感じる。それでも、真が唇でその突起を捕まえると、つんと突き立った。たまらなくなってその乳首にむしゃぶりつき、壊すほどの強さで豊かとは言い難い乳房を揉み、りぃさの背中をベッドに押し付けると何度も腰を強く打ちつけた。
 最後は後ろから彼女の腰を抱き、身体の芯から痙攣するように彼女の中にもう一度自分自身を吐き出すと、真は誘われるままに一緒にバスルームへ行った。

 湯船に向かい合って浸かると、りぃさは真の顔をうるんだ瞳で見つめた。
「どうして崖から落ちたの?」
 りぃさは、抱き合ったことよりも、まるで真が崖から落ちたことのほうに興味があるようだった。
「覚えてないんだ。馬に乗って走ってたことしか」
「死にかかるって、どんな感じ?」
「さぁ」

 初めて会ったばかりの女性と交わす会話の内容には思えなかった。しかも、真の周りの人間はこの話題を避けていて、誰かとあの事故の話をすることなどなかった。
 誰よりも、竹流はこの話題を決して口にしなかった。それが辛い思いを引き起こすからだろうと、真は単純に考えていた。
「三途の川とか、お花畑とか?」
 真は少しの間、りぃさを見つめていた。随分子どもっぽい発想だと思えた。
 真面目に答える必要はないはずなのに、何故か嘘はつけないような気がした。
「銀、かな」
「銀?」
 りぃさは身を乗り出すようにして聞き返してきた。抱き合ったことよりも、遥かに自分の身に関係のあることだとでも言うようだった。

「海か、宇宙か、すごく懐かしいイメージ。風景とかではなくて、イメージに包まれている。気分が良くて、苦しいことから全て解放されていた」
 それは嘘ではなかった。ぽっかりと宇宙空間のようなところに浮かんでいて、寒くもなく苦痛でもなく、穏やかで安心だった。これでよかったと、心も身体も感じていたはずだった。りぃさはそれを感じたのか、不思議そうに問いかけてきた。
「じゃあ、どうしてこの世なんかに戻ってきたの?」
 確かに、あのままあの世界を漂っていたなら、こんふうに胸を締め付ける苦悶を味わうことはなかったはずだ。それなのにどうして戻って来たのか。答えは単純だった。
「呼ばれたから、かな」
「誰に?」

 だが、それには真は返事をしなかった。
「元彼女?」
「そうじゃない」
 自分でも意外なほど早く、強く返事をしていた。りぃさは不思議そうな顔で暫く真を見つめていた。そして、表情を変えないまま、鈴のように軽やかな声で続けた。
「呼んでくれる人がいていいわね。それとも、そんなものは無いほうが幸せだったと思うことはない?」
 確かに、あの時竹流の声を聞かなければ、懐かしいその銀のイメージに抱かれたまま、この世には帰って来なかっただろう。
 あの時、飛龍が迎えに来てくれていたのだ。あのイメージは暖かくて平和で、もしもあの時あそこに行ってしまっていたら、おそらく、真はこんなふうに己の腹のうちにある分類不能の感情に身を焼かれることもなく、今頃すっかり穏やかな世界に包まれていたはずだった。

 やはり、自分はあの時に死んでしまっているのかもしれない。それなのに、彼の悲しい瞳を見てしまって、この世に帰って来ざるを得なくなった。そして誰にも、誰よりも竹流自身に、もうこの世のものではない自分の本当の姿を説明できないでいる。
 りぃさは、真が本当は死んでしまっていることを知っている、この世の唯一の証人のように思えた。





さぁ、イケナイ女に捕まってしまいました。
これからちょっと、真は堕ちていきます……

少し余談ですが。
実はこの頃、竹流は一歩引いた形で真を見守っていたのですね。
高校生の時猫可愛がりしすぎて(そう、まるでマコトみたいに?)、大学受験前に道を踏み外してしまいました。
その頃、竹流には祇園に「生涯この人を不幸にしない」と誓った芸妓・珠恵がいて、気持ちを確かめ合ったばかり。
なのに、真を大事に(ちょっと違うかな)思う気持ちが暴走していたりもして。
でも、イタリア旅行中にはっと我に返って、しばらく(年単位で)放置していたら、マコトが、じゃない! 真が(どうしても「マコト」に変換される^^; マコトウィルス)ある日、北海道で崖から落ちるという事故が。
(実は自殺未遂という噂もあるけれど、それこそ「この事故の話はタブー」ムードがある。)
生死の境から戻ってきた真に、竹流はまた関係を作り直し、微妙な距離を保ちながら、つかず離れず、でも離れすぎないように、いつも見守れる距離で、ただし引っ付きすぎたらまた精神的にのめり込んで泥沼になるも不味いので、ある程度距離は保って……
という時期に、ついに葉子が結婚。物語と関係性が次の段階に行かざるを得なくなります。
そう、これは実は「葉子の策略」という声もある……私がいたら、いつまでもこの二人、収拾がつかないわ??
ある意味、最も素っ頓狂な女とも言える、不思議ちゃんの妹です。

さて、このお話、もしかして壮大なお伽噺かもしれないと思っているのです。
そう、最後の部分にあるように、「真はあの事故の時、本当はもう死んでしまっているのかもしれない」……
それを竹流があの世にまで行って奪い返してきた、という説が。

オルフェウスの物語か、イサナギ・イザナミの神話か。
もしかしたら腐って不細工かも知れない^^;
あれ、でもちゃんと生きているから、いいことにしようっと。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨102] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(3) 

【海に落ちる雨】第21章(回想の章)その(3)(18禁)です。
前回の続きで、心も体も堕ちていく真ですが……りぃさという女性の存在の意味を少し掘り下げる回になっています。
彼女の言っていることは、少しばかり胸に迫るものがあるのですが、でも真にとっては危険な誘い。
この時彼は、心中するくらいの気持ちだったと思いますが……さて。




 二度目に会ったのが、偶然だったのか、真のほうがりぃさを探したからか、彼女が真を捜したからなのか、経緯ははっきりしない。
 それは、りぃさと初めてベッドを共にしたわずかに二日後だった。覚えているのは、唐沢調査事務所のビルの前で、変わった仕事してるのねと言った、りぃさの涼しげで感情の薄い声だけだった。

 りぃさが誘ったのか、それとも自分がそうしたいと思ったのか、あるいは成り行きなのか、その日は彼女の部屋で求め合った。
 りぃさの部屋は、あまり綺麗とは言いがたい細い川の側、坂道の登り際に建つ古い一軒家だった。表札には向谷と出ていたが、かなり年季の入った板は、もう文字が消えかかっていた。真がそれを見ていると、りぃさが言った。
「その人が誰だか知らない」
 つまり、この家の持ち主が誰だか知らないという意味のようだった。

 その日は特に差し迫った仕事があるわけでもなかった。真が引き受けていた仕事に最適の時間は夜だったし、昼間は好きにしていていいぞと所長の唐沢に言われていた。
 遠くのほうで、電話の呼び出し音と、子どもたちの叫ぶような声が混乱して聞こえていた。
 引き戸を開けて狭い玄関に入ると、左手に下駄箱らしいものがあって、その側に二階への階段があった。玄関の右側は一階の廊下で、暗くてその先のことはよく見えなかった。

「一人なのか」
 りぃさは真を見つめたが、何とも答えなかった。知らないのか、興味がないのか、まるで自分までもそこに住んでいるわけではないと言いたそうに思える。その後は、真のほうからも二度と同じ質問をしなかった。後で思い出してみれば、恐らくそこは貸家で一階と二階を別々に貸しているようだったが、ついに一階の住人には会わなかった。

 しかも、りぃさは全く鍵を掛けている気配もなかった。
 表の玄関は共有だからだとしても、階段を上がった彼女の部屋に通じる押し戸にも、入ってくる他人を拒む何ものも存在しなかった。もっとも、泥棒も遠慮しそうな古い建物だ。
 半畳ほどのたたきにはパンプスや運動靴、男物の革靴、それに赤ん坊の布製の靴までが、浜辺にうち捨てられた難破船の残骸の隅に溜まった廃棄物のように折り重なり、それぞれの相方を見つけるのは難しいし、第一そのどれもが何年も誰の足とも縁がなかったように投げ出されていた。埃や土は遺跡に降り積もる年月のように重く、引き戸を閉めて息を吸い込むと、かすかに乾燥した菌類の臭いがした。

 改めてよく見ると、右手にある一階の奥へ続く廊下も、左手にある階段も、太った人なら体を斜めにしてやっと通れる幅しかない。りぃさは面白そうに、建設会社は別の惑星からやってきた小柄な宇宙人に頼まれてこのアパートを造ったのだと言った。一階の廊下の天井には魂を抜き取られた骸のように電燈の笠だけが丸く残っていて、時折、特殊な宇宙波を受けて気配なく揺れる。
 二階へ上がるというのに、いつの間にか地底に下りて、果てしなく地球の核に近付いていくような感覚だった。二階の空気は湿って重く、身体を締め付けた。

 ふと、どこかから複雑な香りがした。白檀の煙とむせ返るような花の匂いだった。何の花なのか、高級菓子と香水が混じったような重く甘い匂いが鼻からも口からも入り込んできて、気管も食道も満たした。息苦しいほどの強く芳しい香りだった。
 二階には部屋が二部屋あって、恐らくはりぃさが一人でどちらも使えるのだろうが、彼女は一方の部屋だけを利用しているようだった。廊下の左手は壁と窓だけで、低い板の天井に薄暗い電球が一つきり、灯っている。

 襖を開けると、六畳の畳の間で、低いマットだけを敷いたようなベッドが左に、頭を窓側に向けて置いてあった。正面には小さな低いテーブルに座布団がひとつ、右手には隣の部屋への襖があった。その半分をパイプのハンガー掛けが塞いでいる。服の数も女の子にしては少なかった。台所があるのかどうかさえ分からない。もっともあったところで、彼女が料理をするようには思えなかった。手洗いだけは廊下の突き当たりにあった。風呂はないようで、彼女は銭湯を利用しているらしかった。

 学生ではないようだし、働いているようでもなかったが、住んでいる環境はともかくとして、それほど金に困っているようには見えなかった。少なくとも、あの富山一族の曲がりなりにも親戚なのだから、どこからか手に入る金もあるのだろう。
 窓だけは大きめで、膝あたりから頭の少し上くらいの高さまであった。カーテンというよりも大きな布地を目隠しにしているようで、アジアのどこかの町で知り合いが買ってきた布だとりぃさは説明した。赤を基調とした薄い布地は、窓の向こうの光をステンドグラスのように赤く染めて、古い畳やベッドの上に複雑な物語を紡いでいた。

 そこはりぃさを包む繭だったのだろう。
 真が仕事に戻る時間を確認すると、りぃさは直ぐにストッキングを脱いで、そのまま躊躇いもなくパンティも脱ぎ捨てた。スカートは履いたまま、彼女はベッドの上に横になって足を開き、あの綺麗な声で真を呼んだ。
「ね、来て」
 りぃさが真を受け入れようとするその場所は、光で赤と黒の色彩をない交ぜにしていて、深い洞窟の奥に誘い込むように見える。真は簡単に自分が反応するのを感じた。  

 どこか遠くの方で、車輪が転がるような音が聞こえていた。彼女の顔の上にも、聖なる光を宿した赤い模様が揺れていた。
 りぃさと一緒にいても、食事をしたり、買物に行ったり、映画を見たり、つまり普通に恋人同士のようなデートをすることは一切なかった。ただ彼女の部屋に行って、ただ求め合うだけだった。時々、映りの悪いテレビをつけたまま抱き合っていると、彼女は呟くように言った。
「地球って、だんだん暖かくなっているんですって。そのうち、北極の氷とかも溶けちゃうのよね。人間が二酸化炭素を出しすぎてるの」
 ある時、重なり合ってもう今にも絶頂にいきそうになった瞬間に、りぃさが言った。

「南極ではペンギン達が話し合ってるかもね。人間って増えすぎてるよな、なんとかしなくちゃならないな、って。人間は少し減ったほうがいいわ。特に、いわゆる先進国っていう国の人間が。だって、生きていれば当然、車に乗っちゃうこともあるし、物も使っちゃうし、今更止められないものね。毎年、ちょっとずつ間引きするの。私とあなたが最初に間引されるんだわ。みんなが笑いながら見てる。だからその瞬間まで、私はこうやってあなたのものを銜えてるの」
 その言葉を聞きながらも、真は彼女の中で動きを止めなかった。上になっている彼女の中心に向かって何度も突き上げながら、頭の片隅でその通りだと思っていた。

 時にはりぃさが集めているという写真を見ながら畳の上で抱き合った。写真はいわゆるセックスを写したものか、地球環境や生物の出てくるもののどちらかだった。
「ガラパゴス諸島はもはや秘境ではなく、観光客を迎えるリゾート地になろうとしています。周囲から隔絶されていたために保存されてきた種は、持ち込まれる外来種によって遠からず絶滅の危機を迎えることでしょう」
 写真に添えられた説明文を、もうすっかり暗記しているのか、りぃさが天使のように朗らかな声で読み上げる。それを聞きながら、真はりぃさの腟を指で弄り、りぃさは真の性器を扱き、時には後ろの孔までほぐしてくれた。その奥をりぃさに弄られると、身体がぶるぶると震え、真は狂ったように何度も射精した。

「人類だって、いずれ絶滅種になるわ。だって地球の歴史の中で、ずっと種が存続した生命なんて、ごく稀でしょう」
 りいさが微笑みながら言う。そのうちお互いの頭と足が逆になるように向かい合い、互いの欲望を舌と唇で吸う。くしゅん、とりぃさがくしゃみをする。酔っ払うと彼女はくしゃみが止まらなくなった。地球アレルギーなのだと彼女は説明する。視界の中にぼんやりと浮かぶ写真の上では、進化の別の枝を、亀がのったりと歩いていた。

 セックスの写真は普通に男と女が絡み合うようなものではなかった。りぃさはそれを真に見るように強制などしなかった。ただ目の前に広げられるだけだったが、五感のどこかはちゃんとそれを意識に届けている。縛られ、踏まれ、吊り下げられながら蹂躙され、時には複数の男に後ろからも前からも攻められているようなものばかりだった。時々、頭の隅で、陵辱されて悶えるその女がりぃさだと認識していた。男同士が絡み合うものもあった。
「経験、ある?」
 たまに並んで見ていると、りぃさは聞いた。まともなセックスの写真はなかったので、そういう特殊なセックスをしたことがあるのか、という問いかけだったが、特別に興味があって聞いているようではなかった。彼女自身は何でもやったことがあるように見えた。

「男の人とも、経験あるの?」
 それだけは真正面から聞かれたので、真はただ頷いた。痛かったか、と聞かれたが、返事はしなかった。りぃさは重ねて、じゃあ気持ちよかったの、と聞いた。そもそもよく覚えていなかった。全く初めての時も、愛されていると思った時も、完全にぶっ飛んでいた。私は結構好き、とりぃさは言った。アナルセックスのことを言っているようだった。望まれるままに、何度か試した。

 写真の中の陵辱行為は少しずつ、現実になっていった。
 りぃさは、低いベッドの隅に手を伸ばして、長く赤い紐のようなものを手繰り寄せた。本当に赤かったのか、それとも光のせいで赤く見えているだけなのかは、よく覚えていない。真には彼女の少し上を向いた上唇だけが、より赤く見えていた。
 微笑んでいるのか、泣いているのか、あるいはそのどちらでもないのか、やはりよくわからなかった。彼女はゆっくりと真の首にその赤い紐を掛けて、今にも昇り詰めようとしていた真の首をゆっくりと締めてきた。

 そういう自殺ごっこのような、あるいはSMごっこのような遊びは、徐々にエスカレートした。
 りぃさはどこから手に入れてきたのか、真に『気持ちよくなる薬』を薦めて、自分も一緒に使った。彼女の説明では、法律に触れるぎりぎりだけどセーフ、ということだったが、本当のところはよく分からなかった。確かに、その薬を使うようになって、セックスの感じ方は明らかにたまらなく良くなり、かろうじて最後に残っていた羞恥を完全に剥がし去った。
 りぃさは下半身で真を締め付けながら、真の首をも絞めてくる。それが脳の中に麻薬を撒き散らしているのではないかと思うくらいの快感だった。酸素が不足して意識が途切れる一歩手前の状態が、脳の中に特別な物質を分泌して、快楽と繋がっているのかもしれない。

 時々、りぃさは真にマスターベーションをするように命令した。羞恥の欠片もなかった。真が昇り詰めそうになると、りぃさは自分の中をかき回して濃い粘液を絡みつかせた玩具を真の肛門に挿入した。玩具で昇り詰めることができる、というわけではなかった。りぃさがあの猫のような目で見つめていることでたまらなく興奮していた。多分、薬のせいもあったのだろうが、言い訳だったかもしれない。りぃさは長い時間真の反応を確かめた後で、彼女自身は真の勃ち上がったものを自分の中に迎え入れ、一緒に昇り詰めていくようだった。自分の後ろの粘膜が玩具を締め付ける異常な興奮が、そのままりぃさの中にいる自分自身を狂わせていた。

「入れるのと入れられるのと、どっちが気持ちいいの?」
 時々、挑戦するような目をしてりぃさは聞いた。考えたこともなかった。
「じゃあ、死ぬのと、どっちが気持ちいいの?」
 死ぬのとどっちが気持ちいいか、という問いかけは、真が絶頂に達しかけたとき、しばしば繰り返された。答えたことはないが、比べるようなものには思えなかった。

 仕事には行っていたが、どこまでが仕事の時間だったのか、どこからが彼女と過ごしている時間だったのか、少しずつ分からなくなった。家に戻るのは風呂を使う時と、着替えをするときだけだった。彼女のところに泊まってくるわけではなく、セックスと薬を楽しむと、そこから眠らないまま事務所に行くか、どこか町の中で居場所を探し出していた。
「大丈夫か?」
 ある時三上が、心配そうに声を掛けてきた。
「お前、ちゃんと飯食ってるのか? えらく痩せちまって、顔色も悪いぞ」
 ちょっと不眠症みたいで、と適当な事を言っておいた。三上や唐沢が自分のその状況に気が付いていないとは思わなかったが、彼らは敢えて干渉してくることはなかった。第一、そういう付き合い方が人の目に留まらないかどうか、真はそれを気にする余裕もなかった。

 ある日、真が出張から戻ってりぃさの部屋に行くと、彼女は全裸のままベッドに横たわって、恍惚とした表情で空を見つめていた。その彼女の身体に、波打った不思議な幾何学模様が赤くゆらゆらと揺れていた。
 それがどういう状況かは一目瞭然だった。りぃさの細い両足の間のシーツは、白く濃い液体でぐっしょりと濡れていた。真は一瞬何かにかっとなって、人形のように横たわるりぃさを揺り動かしてみようとしたが、思い直したようにベッドの傍の畳に座った。

 考えてみれば恋人になろうと約束したわけでもないのだ。誰か他に付き合っている男がいても、自分にどうという権利もないと思った。
 唐沢が一度だけ、ありゃあ娼婦だぞ、金持ちの連中相手のエロビデオにも出てる女だ、と言ったことがあったし、彼女の行為は慣れた女のものだった。写真の中の女性がやはりりぃさだとわかっても、驚くこともなかったはずだった。

 第一、自分のほうこそ卑怯でとんでもないと解っていた。
 りぃさの寂しさを愛おしく狂おしく思う半分で、真は自分のしていることが葉子や享志への、そして誰よりもあの男への当て付けではないかと思っていた。しかし、思っていても、それを自分の感情に確かめることはできなかった。
 出張で仙台にいる間中、ほとんど眠れていなかった。もっとも、これまでもよく眠れていたわけではなかったが、りぃさと離れていることはたまらなく不安だった。自分がいない間にりぃさが一人で死んでしまったりなどしないかと思うと、焦りのような感情が湧き起こった。自分がやりたいと思っていることを、誰かに先を越されてしまった時の焦りに似ていた。それが死へ向かう行為だという内容についての疑念は消え去っていた。焦りは眠りを遠ざけた。
三上が何度も、休んでいろと言ってくれたが、そんな気分にもなれなかった。

 真はゆっくりと立ち上がり、部屋を出ようとした。
「真? 帰っちゃうの?」
 りぃさの声は、異国の伝説に語られているように、舟を漕ぐ人を波の底へと誘い込む、聞いてはいけない甘い囁きだった。
「明日、また来るよ」
 振り返ってりぃさを見つめる前にそう言ってしまわなければならなかった。
「ここにいて」
 だが、りぃさの言葉を拒否できるわけはなかった。結局、真は彼女の悲しい瞳を見つめてしまった。

 彼女のベッドの中で、何か懐かしい匂いがしていたような気がした。その匂いは思わぬ錯覚を真の脳の中に引き起こした。側頭葉の記憶の引き出しの混乱なのか、不意に、髪から項に降りてきたりぃさの指が、冷たい銀色の金属の感触を持っているような気がした。りぃさが指輪をしていないことは分かっていたが、違和感を覚えなかった。
 その瞬間に、自分の心が、他の誰かの手や唇の感触を探していることを思い出したのに、手は何も掴むことはできなかった。真は大事な何かをすっかり諦めた。

「私を、愛してる?」
 身体を重ねても相手の心が解るわけでもなかった。本当にひとつになれるわけでもなかった。真はただ頷いて、りぃさをさらに強く抱いた。
「ちゃんと聞かせて」
「愛してる」
「もっと強くして。そのまま殺して。あの人がしてくれたみたいに」

 一瞬、何をりぃさが言ったのか解らなかった。解らなかったが、真の感情を混乱させて引っ掻き回したことだけは確かだった。真はりぃさの両膝を抱えるようにして、彼女の最も深いところまで何度も乱暴に突き、かき回した。りぃさがこんなに激しく声を上げて悶えたことは一度もなかった。
 ふいにりぃさの両の手が真の首に伸びてきて、細い指からは想像もできないほどの力で真の首を絞めてきた。真は、それに応えるように何度もさらに強く腰を打ちつけた。
 真がりぃさの中に自分自身を吐き出してしまっても、彼女は真を離そうとしなかった。それから真を自分の中に迎え入れたまま上になると、もう一度真のものが硬くなるのを待っているようだった。りぃさは腟を痙攣させるようにして真を締め付け、真はすぐにまた反応した。

 その途端に、りぃさは真の首に赤い紐を巻きつけてきた。そして、獲物を捕らえた後ではゆっくりといたぶるように、時間をかけて交差した紐を締めていった。下半身と首とを締め付けられて、真はゆっくりと意識をさらわれていった。
 ただ、そこには、何度彼女が彼を殺そうとしてくれても、あの岩棚から落ちたときのような懐かしい銀のイメージはなかった。そこはただ何もない、暗い闇だった。
 これは、そこに行ってはいけないという飛龍の合図なのだろう。りぃさの言うとおり、人間が生きて増殖していることが罪悪だとして、もしも間引きされる人間の候補が自分だとして、それでも、自分が本当にもう一度ちゃんと死んでしまえるチャンスがめぐってきたら、きっとあの馬は自分を迎えに来てくれると真は信じていた。

「ひりゅう」
 絞められた首で、笛のように言葉が引きつった。飛龍の名前を呼んだのか、ただの咽喉の唸りだったのか、真にもわからなかったが、その瞬間に首を締める力が緩んだ。
 途端に一気に必要以上の空気を吸い込んでしまい、むせこんだ。
 咳が治まると、真はりぃさを見つめたが、りぃさは感情のない表情で真をただ見おろしていた。あたりは静かで、遠くから子どもを叱りつけるような女の甲高い声と泣き叫ぶ子どもの声が聞こえている。
 咳き込んでいる真は、まだ生きようとしている、彼女とは別の次元にいる生き物のようにりぃさには思えただろう。

「りぃさ」呼びかけてから、初めてたまらなくこの女が愛おしいと思えた。「ごめん」
 まだ、りぃさは真より少しばかり遠いところを見ているようだった。
「ずっと一緒にいるよ」
 りぃさはやっと真に焦点を合わせた。
 それからずっと真は彼女を抱き締め、その髪を撫でていた。りぃさは眠ったのか、真の腕の中でことりとも動かなかった。

 愛しさの陰で、真は自分の言った言葉の中に、嘘を見出していた。
 どれほど愛おしいと思っても、半分は嘘だった。りぃさを抱き締めながら、真は何度も、心を病んだまま病院で死んでしまったあの女を思い出していた。
 りぃさの身体を抱きながら、ずっと意識の中では自分はあの女を犯していたのだと思った。そして真がりぃさの中に、穢らわしい欲望を吐き出してきた行為が、いつも病院の手洗いの個室や、帰ってから自分の部屋の布団の中でしていた行為と、何ら変わらないことだったのだと思った。その行為は、相手を愛おしいと思う行為ではなかった。ただ穢らわしい自分の中の血を吐き出すためだけの、排泄に近い行為だった。だからそこには相手はいなかったのだ。あの女もりぃさもそこには存在していないのと同じだった。

 そして、心ごと感じるまでに相手と向かい合い、愛し愛されたいと望み、身体も心も溶けるまでにひとつになろうとする欲望は、全く別の相手に向けられていたのだと、そういう行為はまったく別のものなのだと、嫌でも思い知らされような気がした。
 その夜真は、自分の感情がどこに向かっているのか、あまりにもはっきりと解ってしまったように思った。それが、りぃさの死への憧れとは全く違う次元で自分を生かしていることにも。

 それでも、あの夜、飛龍は真をこの世に残したのだ。
 北海道の牧場の暗い闇の中で、真を見つめていた飛龍の穏やかで哀しい濡れた漆黒の瞳。あの時真が選んだものを、飛龍は了解したのだろう。
 美しい声と命とを差し出して愛しい人を救った人魚姫の犠牲のように、お前にこれから起こる全ての悲しみと重荷に耐える勇気と覚悟があるのなら、いくらかの時間をお前に残してやろうと、あの瞳はそう語っていた。それはりぃさのために死を選ぶことを許容しているわけではなかったのだろう。

 誰かを愛するということは、その誰かの不在がたまらなく苦しいということと同義だった。りぃさをを愛おしく思っても、その不在を耐えられないということにはなっていないことを、真は叩きのめされるような気持ちの中で見出してしまった。
 それでも、そんな一方で、自分の卑怯な感情を許せない気もした。もしもりぃさが望めば、一緒に死んでやってもいいと、この今でも思っていた。何より、この女を救えないという事実を認めることが苦しかった。矛盾した感情は、混乱した真の中では、不安定な均衡を保ったまま両立していた。
 生きていたいと思ったわけではなかった。ただ、りぃさの存在で増殖してしまった真自身の不安は、行き場のない渦のようになって、どこかへ彼自身を飲み込んでつぶしてしまいそうになっていた。






さて、次回からは真がここから抜け出していく過程です。
この裏で進行していたことは、第4節の最後、竹流の独白までお預けになります。
今はただ、時間の流れの中で何が起こっていたのか、お楽しみいただければと思います。

りぃさ、という女性は、多分このお話の中でもちょっと特殊なキャラだと思います。
好き嫌いも分かれるだろうし……書いている私は、実は「無感情」です。
彼女には何の感情も湧いてこない、というべきなのか、警戒して何も思わないようにしながら書いているのか。
いずれにしても、透明というのか真っ白な気持ちで書いています。
ただ、真の心の中に「何か」を残してしまったのは確かのようですね。

崩れているマコトの心を、じゃなくて、真の心を取り戻すのは、もちろん、あの人の仕事です。
(気を許すと? 「マコト」に変換される……^^;)
あの人、「もう大人なんだから、過保護にしてちゃいけない」と突き放す方針にしていたのですけれど、あれだけ過保護にしておいて、今更突き放してもねぇ……
さて、この章には、主人公以外のキーパーソンが幾人か登場しますが、次回からは、素敵なロシア人女性・サーシャの登場です。一気に、明るい方へと物語は動きます。
……心には何かを残したままで……

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 11   

[雨103] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(4) 

【海に落ちる雨】第21章の(4)、「死にたくてたまらない(でも一人では寂しいので誰かを巻き込みたい)」という病に侵されている女性・りぃさに巻き込まれていく真でしたが、身体は悲鳴を上げていたようです。
18禁で読みたくないわと思っていた方も、ここからは回復過程なので、ご安心ください。
ちょっとイケナイ女に引っかかっていた真が、病気をきっかけに、色々な人の助けで立ち直っていきます。

まずは、ロシア人女性・自称冒険家のサーシャです。
彼女の物語を絡めながら、竹流と真の同居(同棲ではなく同居)までの経緯をお楽しみください。





 久しぶりに家に戻ると、幾日か前の山のような吸殻がそのまま灰皿に残っていた。
 葉子がいなくなって、この家は真にとって、何も入っていない箱のような空間になってしまった。真はダイニングのテーブルに置いてあったプラネタリウムの玩具のスイッチを入れた。

 それは、真が小学生の時、登校拒否で学校に行けなかったときに、功が作ってくれたものの一つだった。葉子が結婚して何日かしたときに、たまたま功の書斎で見つけた。配線のどこかの接触が悪くなっていたのを直すと、今でも十分に小さな星の群れを楽しむことができた。
 真は部屋の電気を消した。部屋中の壁と天井に無数の星々が映し出された。天の川が天井を横たわり、そこに何億光年もの大宇宙を描き出した。だが、この宇宙を共に見上げ、共に星を数えた『父』はもういなかった。この星々の下で、今真は一人きりだった。

 椅子を引いて腰掛けると、テーブルの上に投げ出された煙草の箱を取った。
 星など、北海道なら降るほどにあの天に広がっていた。天の川は何時でも真をその高みへ連れて行き、星々はいつも無数の物語を真に語った。真は一人ではなく、その宇宙とひとつだった。真の身体は空へ突き抜ける筒のようなもので、細胞のすべては遺伝子や原子のレベルまであの宇宙と共有していた。星は真の内側に流れ込み、内側からまた天上へ溢れ出し、世界を包みながら真をあの高みに導いた。
 あの土地を離れたのも、葉子を嫁に出したのも、全部自分が選んできたことだ。それなのに、この恐ろしい不安と孤独はどうすればいいのだろう。

 火をつけて煙草をひとつ吹かした途端、急に吐き気がこみ上げてきた。
 思わず洗面台まで走ったが、空えづきだけで、空っぽの胃からは何も出てこなかった。唾だけを吐いて、蛇口をひねったが、水を口に含むのは気分が悪くてできなかった。
 身体が熱いし咽も痛いし、多分風邪をひいたんだろうと思った。
 何とか居間まで戻ると、ソファに横になった。酷い胸痛と腹痛が襲い掛かり、脂汗が出てきたが、動くこともできなかった。

 意識は途切れ途切れになりながら、朝まで続いた。苦しくて何かをずっと呻いていた気がしたが、一人きりの空洞に響くようで、その声はどこへも届いているようではなかった。苦しいのは呼吸なのか、腹の内側が際限なく痛むからなのか、自分自身の身体とは思えないほど熱く苦しく、どこかが辛くなるたびにその部分を切り離してしまいたいと思っていた。プラネタリウム、消さないと、と思ったが身体が動かなかった。朝方だったのか、電話の音を聞いたように思ったが、夢の中との区別がつかなかった。

 生活は無茶苦茶で、食事もいい加減だった。酒は飲んで煙草も吸うのに、ろくな栄養もとっていなかった。そんな状態で何か月過ごしたのだろう。りぃさの勧めるままに妙な薬を飲んだり吸ったりもしていた。今更、後悔をするような話でもなかったが、一気に押し寄せなくても、と思った。
 いつの間にか朝になっていたのか、あたりはほんのりと明るく感じた。プラネタリウムの星は白い壁や天井から、彼方の天へ溶けて消えてしまっていた。光と地球の生き物が奏でている微かな音が苦しかった。あまりに辛い腹痛で、何とかトイレに行くと、身体から出てきたのは褐色に鮮血の混じったタールのような便だった。

 驚いたのと、急な眩暈とで身体が立たなかった。何とか下着を上げたが、スラックスのフックを止める力はなかった。トイレのドアを開けた途端に足元が回ったように思った。
「真」
 気持ち悪い、と思った瞬間に抱き上げてくれた相手の懐に吐いていた。
「おい、大丈夫か」
 誰かが真が吐いたものをその手に受け止めて、それから冷たくなった身体を抱き上げられたような気がした。耳は鼓膜ごと中途半端な反響を繰り返していて、その誰かが何かを話している気配は分かったが、何を言っているのかは分からなかった。
 次に明らかに意識できたのは、自分の手を握りしめたその強さだった。自分の身体を血の臭いと酸い臭いが取り囲んでいた。
「俺の手を握ってろ。意識を失くしたら承知しないぞ」


 それから救急車に乗ったことは何となく覚えていた。竹流が傍にいることもわかっていた。それでも、どこかから記憶は飛んでいた。
 目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
「傷が増えなくて良かったな」
「まだわからんよ」
 どちらも聞き覚えのある声だった。
「最低一か月は入院だな」
 それは困る、と言いかけて、竹流の怒ったような視線に、まともな意識がよみがえった。もう一人の見知っている年配の男は、溜息混じりに言った。

「大体、いい大人がヘモグロビン六台ってのはふざけてるぞ。ただでさえ無茶苦茶な脈は、いつにも増して酷いし、ちゃんと検診にもこないからだ。一日待って、まだ貧血が進むんなら、輸血して手術だ。わかったな」
 病人には優しく、という言葉は、今どうやらダブルで怒っている二人の保護者には通用しそうにはなかった。下血したことは何となく覚えていたが、その先のはっきりした記憶はなかった。竹流が傍にいてくれたことと、その自分の手を握りしめていた強い力だけは、何となく覚えていた。
「もう少し眠ってろ」

 その手が頭にそっと触れたとき、もう何も考えたくないし、考えられないと思った。
 不規則なモニターの音が、真の命のリズムだった。それを鼓膜に受け止めながら、真は目を閉じた。
 あの時、とんでもない痛みと下血と何かを吐き出した苦しさの中で、自分の身体が生きて悲鳴を上げているのを感じた。心が死へと向かうのを留めるように、これがお前の身体で、こんなふうに痛みを感じ苦しいのだから明らかにこの世に存在しているのだと、もう死んでしまっているなどという馬鹿げた考えは捨てるようにと言われている気がした。


 夢だったのかもしれないが、ずっと竹流が傍にいてくれたように思っていた。しかし、真が比較的まともな意識をもって状況を理解できたときには、彼はそこにいなかった。
「あら、目が覚めたわね。気分は?」
 威勢のいい訛った日本語に、真は遠いところから急に今のこの現場へ連れ戻された気がした。目の前にいたのは、竹流と同じ蒼い、しかし彼のものより幾分か濃い光をたたえた瞳を持った、異国人の女性だった。ヘーゼル色の髪は後ろで束ねて巻き上げられていて、彼女は少しばかり太り気味の身体をもてあます事も無く目一杯利用して、その力強い声を響かせている。

「もう幾日か絶食ですってよ。本当に、それで病気になるわね」
「あなたは」
 女性はにっこりと笑って、筋肉も脂肪も立派についた力強い腕で、真の頭を持ち上げると、氷枕を換えてくれた。五十に届くか届かないか、という年回りだろうが、北の海に突然に射した光のように、晴れやかで明るい雰囲気の女性だった。
「本当に、あの子ったら、私が頼んだ仕事の報酬はいらないから、自分が帰ってくるまで、子どもの面倒を見てくれないかって言ったのよ。病気になったから放っておけないし、そうでなければ一人で遊ばせておくんだけど、って。子どもっていうから、どんなおチビさんかと思ってたら」
「子ども?」
 自分のことか、と気が付いたのは随分間をおいてからだった。

「竹流の、知り合いですか」
「ええ、そうよ。まあ、でも、あの子が、子どもなんかを拾ったにしても間違えてどこかでできちゃったんだとしても、引き取って育ててるなんてびっくりしたけど、別に拾ってきたわけでもなさそうね」
 竹流の女にしては歳が行き過ぎている気もするが、あの男なら母親くらい年の離れた恋人がいてもおかしくはない。女と見れば誰にでも、相手がはっきりと誤解するくらい優しくするし、女性というものはそういう対象だと思っているふしがある。
「竹流は?」
「ソ連に行ったの。私が仕事を頼んだから。でも、おチビさんがこんな状態なのを放って行かせて悪かったわね」
 おチビさんって一体どういう呼び方やら、と思ったが、彼女はこの呼び方が気に入ったらしかった。

 彼が傍にいてくれると思っていたのが、ソ連などという、またもやわけの分からない所に行ってしまっていると聞いて、妙に寂しい気分に襲われた。その自分の感情に気が付いて、真は自分はどうしようもないなと思った。まるで親からはぐれまいとしているアヒルの子どものようだ。情けないのか馬鹿馬鹿しいのかわからなくなって、真は優しい手に背を向けて布団に潜り込んだ。

 斎藤医師が夕方病室にやってきて、貧血は昨日から進んでいるわけではないので、とりあえず保存的に様子を見るから、と説明した。低栄養とストレス、全てが悪いほうに働いているし、この貧血で期外収縮と心室頻拍はいつもよりも酷いし、ただし、いつものことだから薬を使わずに様子をみるから意識が遠のきそうになったり胸が苦しいというようなことがあれば言うように、それから熱があるのは軽い肺炎を起こしているからで、大体お前は脾臓も取ってるんだから免疫状態は悪いし、低栄養で免疫機能の落ち込みに手を貸すようなことをするな、等々、くどくどと説明した。
 一緒にやってきた年配の消化器内科の医師は、胃と十二指腸潰瘍の状況と見通しとをさらに詳しく話して、何を聞いたのか、仕事のことも女のことも全て暫く忘れるようにと言った。

「病気の説明を聞くと、余計具合悪くなりそうだわね」
 真は彼女の感想に、それもそうだ、と納得した。医師たちは困ったような呆れたような顔をしていた。彼女は真にそっと目配せをくれて、医者たちが去ると、鼻歌を歌いながらベッドのリクライニングの頭を上げてくれた。ポップな明るいアレンジで気が付かなかったが、聞いたことのあるロシア民謡だった。
「後で身体を拭いてあげるわね」
「いや、それは」
 言いよどんで、彼女の力強い明るい瞳を見ると、それ以上否定も拒否もできなくなった。
「何言ってんの。こんなおばあちゃん相手に恥ずかしいとか思ってるんじゃないでしょうね。若くって綺麗な看護婦さんにしてもらうほうが、余っ程恥ずかしいでしょうに。もちろん、その方が嬉しいって言うなら別だけど」
「はぁ」
 彼女の明るいウィンクと勢いに押されて、思わず相槌を打ってしまった。
「でも僕は、おチビさんと言われるほど、子どもではないですし」

 彼女は、ぽん、と勢いをつけて真の肩を叩いた。彼女の力強い手には、自分の痩せてしまった肩はどれほど頼りなく感じられるのだろうと思った。
「恥ずかしがってもらえるほどには私もまだ魅力的ってことね。ありがとう、おチビさん。でも、もうすぐ六十になろうって年だからね」
「え?」
 しっかりびっくりした。とても六十歳になるような人には思えなかった。
「竹流の、恋人じゃないんですか」
「え?」
 今度は彼女のほうが驚いて、すぐに大笑いを始めた。
 その笑いの勢いは、ここしばらくりぃさの哀しそうな曖昧な笑みしか見てこなかった真に、恐ろしく新鮮な気分を吹き込んだ。あの涼やかで綺麗な声の不安なほどの細さは、この女性には縁遠いもののようだった。

「その誤解は光栄ね。でも、さすがに私もあんな若い恋人を持つほど精力的でもないのよ。あの子の数多いる恋人たちに太刀打ちする気合もないしね。第一、あの子は私の子どもといってもおかしくない年よ。生憎私には子どもはいないけれど、ただ、あの子が自分の子どもだったら楽しかったでしょうし、きっと目一杯可愛がっていたわね」
「どっちかというと、女癖を窘めたほうがいいような」
 真の呟きに、彼女はまともに感心してくれた。
「それもそうね。でもあれは多分マザコンの裏返しよ」
「マザコン?」

 それは竹流に最も似合いそうにない言葉だったので、思わず鸚鵡返しに呟いた。婦人は真の傍に椅子を引っ張ってきて座った。
「母親の愛を知らないのよ。あの子の付き合っている女はことごとく、頭のいい、気の強い、でも本音の優しい女でしょ。しかも、ほとんど年上」
 言われてみれば、確かにそうだと思った。
「あの子の母親は、それは綺麗な人だったわよ。スエーデン貴族の出身で、私は彼女とロンドンの大学で知り合いだったの。いつも取り巻きの男性に囲まれていて、気高くて、気が強くて、どんな場所にいても女王様だったわ。でも卒業して、国に帰りたくなかったのね、ローマに行って、そこで駆け落ち同然に結婚したのよ。すぐに家出したそうだけど」
「竹流を、残して?」
「そうみたいね。あの子はあなたには何も?」
「一度ローマに連れて行かれたので、彼が叔父さんの家に引き取られてたってのは知っていますけど、それ以上はなにも。彼は、自分のことはあまり話さないし」

 自分が少しばかり拗ねたような顔に見えたのかもしれないと、真は思った。婦人は、真の寂しげな表情を見逃さなかったようだ。
「喧嘩でもしてるの?」
「喧嘩?」
 真は婦人のヘーゼルの瞳を見つめた。その瞳はゆったりと大きく真を包み込もうとでも言うように、真の碧のかかった瞳を見つめ返していた。

「あなたには異国の血が混じってるのね。ハーフ?」
「いいえ、クォーターです。多分」
「そうなの。私もクォーターなのよ。四分の三がロシア人、あとの一が日本人。でも、多分ってのは?」
「母のことは、よく知りません」
 婦人は飛び切りの、遠慮のない優しい瞳で真を見つめたままだった。
「お母さん、小さい頃に亡くなったの?」
「分かりません。誰も母のことは教えてくれないので。ドイツ人とのハーフだったみたいですけど、どうしたのか、今どうしているのかも」
「お父さんは?」
「父とも、ほとんど会うことはありません。ワシントンかロンドンか、あるいはモスクワにいることが多いみたいですけど、会いに行くこともありませんし、帰ってもきません」

「あなたを育ててくれたのは?」
「育てる?」
 その言葉の意味にいささか引っかかってしまったが、婦人は特別な意味を込めたわけでもなさそうだった。
「初めは祖父母が、それから、伯父が」
「それと、ジョルジョね」
 真は、彼女が勝手に納得したらしい断定的な声と内容に、驚いた。
「どうして?」
「だって、あの子はあなたのこと、子ども、子ども、って。あの子のああいう顔を見たのは初めてよ」

 真は恐らく、理解不能という顔で彼女を見つめていたのだろう。彼女はにっこりと笑った。
「上手く言えないけど、誰かのことを話すとき、あんな顔をしたことは今までなかったわね。どんな顔を言われたら、上手く言えないけれど。それに、あなたをローマに連れて行ったなんて、どういうつもりにしても、ものすごいことね」理解できないまま彼女を見つめると、彼女はにっこりと微笑んだ。「それは、あの叔父さんの独裁政権への宣戦布告でしょうに。日本にいるのは理由がある、ローマに帰る気はない、っていう」

 徐々に頭の中の理解の回路が回り始めていた。
「あの子の世界に、本当の意味で存在しているのは叔父さん一人だったのよ。どんなに沢山の恋人がいても、世界中にどれほどの友人がいても、彼にとっての意味はほとんどなかった。今まではね」真は、まだ彼女を見つめたままだった。「良かったわ。あの子が、一生、本心からは誰も愛さないのかと心配してたのよ」
 真は理解の回路をどう扱えばいいのか、よく分からなくなって首を横に振った。

「疲れるとまた具合悪くなるわね。少しお休みなさい」
 婦人はベッドのリクライニングをゆっくりと倒してくれた。そして、真の顔を覗き込むように話しかけた。
「あの子には世界中に恋人も、友人も、パトロンも大勢いる。それなのに、どうして日本の東京なんかに住んでるのって聞いたら、一番大事な人間がいるからだって、そう言ってたわね。冗談でも言ってるのかと思って聞き流していたけど、今日、その謎が解けたわ」

 真は婦人に言われて、目を閉じた。
 考えてみれば、さっき会ったばかりの婦人と、こんなにも会話を交わしている自分も不思議だった。それも、お天気の挨拶ではない。
 それから、婦人が何を言いたかったのか、考えようとしたが、またぼんやりと眠くなってきた。何も考えなくてもいいよというように、婦人の暖かい大きな手が、真の頭を撫でてくれた。そうされていると、昨日の夜、やはり同じように暖かい手が自分の髪に触れていたことを、思い出した。

 りぃさと一緒に死んでもいいと思っていた。彼女の手やあの赤い紐で首を絞められながら昇りつめる度に、身体からは魂も一緒に抜け出していくように思っていた。どうせ一度死んでしまった身体だと思っていた。
 それなのに、この胃の痛みと、ベッドに横たわっていると明らかに感じる脈の不整は、まるでお前は生きている、ということを示す警鐘のようだった。病気の痛みや苦しさが、自分が生きていることを教えてくれるなどとは、思ってもみなかった。
 そうなのだ。飛龍は、お前はまだここで死ぬわけにはいかないはずだと、お前が願ったロスタイムを了解したのはここで死なせるためではない、その身体の痛みをよく味わっておけと、とそう言っているのかもしれない。





りぃさのところから帰ってきた真が、功(脳外科医、育ての親で伯父)の作ってくれたプラネタリウムを灯すというエピソードは、お気に入りです。
気に入ったので、次作の『雪原の星月夜』ではこのプラネタリウムが小道具として幅をきかせています。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨104] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(5) 

【海に落ちる雨】第21章その(5)、サーシャの下りの続きです。
逞しい還暦間近のロシア人女性サーシャの言葉が、真を引き上げていきます。
少しだけ語られるサーシャの恋物語、この先、竹流がソ連から素敵なものを持ち帰り、また一つ、彼女の物語のページが増えていきます。
全編中で、私が結構好きなシーンのひとつですが、その部分は次回に。

そう、好きなシーンって、「書くぞ!」と意気込んで書く時もあるけれど、こうして自然に流れの中で出てきて、後から読み返して、好きかもって思うシーンもあります。どちらにしても自己満足なのですけれど。
【清明の雪】ではラストのキラキラシーンが前者、2人が哲学の道をお寺まで歩いて戻るシーン(『同行二人』シーンと勝手に呼んでいる(^^))が後者。
この章の、真とプラネタリウムのシーン、そしてサーシャの旦那さんの絵のシーンは、どちらも後者です。






 目を覚ましたとき、もう辺りは暗く、ぼんやりと読書灯だけが病室の気配を浮かび上がらせていた。
 少し離れたソファで、あのロシア人の婦人が、いかにも彼女らしい大胆な姿で眠っていた。

 風邪をひかないかな、と思った。
 そう思ってから、自分の身体だけではなく、他人のことを心配したのはどれほどぶりなのか、と思った。
 何とか身体を起こすと点滴台を頼りに立ち上がり、それを支えにしたまま、彼女の傍まで行って、床に落ちている毛布を拾い、彼女に掛けてやろうとした。少し屈むと、鳩尾がずん、と重く痛む。
 途端にバランスを崩して倒れかけた。何とかソファの背もたれに手をついて身体を支えたが、点滴台がひっくり返りそうになる。あわてて手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 かなり迷惑な物音を立てて、点滴台が壁にぶつかり床に倒れた。
 跳ね起きた婦人と眼が合った。
「大丈夫?」
「すみません」
 婦人は大きな身体には不釣合いな、軽い身のこなしで真を支え、点滴台を立てた。それから、真をソファに座らせて、点滴の具合を確かめた。立派な看護師か介護士のように見えた。
「毛布を掛けてくれたの? 寝相が悪くってごめんなさいね。大体、まともなところで寝た事が無いのよ」
 婦人は、真をベッドに戻らせて、自分も真のベッドの傍に来てくれた。

 物音を聞きつけて、看護婦が大丈夫ですか、と覗きに来てくれる。点滴台を倒したことを言うと、点滴台と点滴の具合を確認して、それから出て行った。
 看護婦を見送ってから、婦人が真の顔を覗き込むようにして話しかけた。
「夕方に三上さんって人が来てくれたわよ。あなたの寝顔を見て、ほっとした顔をしてた。また来るって言ってたけど、明日にでも電話してあげなさいね」
 真は頷いた。
 三上にも随分と心配をかけてきた。こうしてベッドに縛り付けられて、ようやく周囲の人たちの顔がひとつひとつ確認できるようになった気がした。

「明るい時間に寝ていたから、一度目が覚めると眠りにくいでしょうけど、今は身体を休めないとね。あなたがどう思っていても、あなたの身体は生身のものだから、こんな病気になるってのは、休ませてくれって悲鳴を上げているのよ」
 こうした当たり前のことを、これまで真は聞かないふりをしてきていた。今になってみると、当たり前の言葉には確かな説得力があると思い知らされる。
 あるいは、サーシャの声が魔法の唇から発せられているからなのかもしれない。

 その声を聞きながら、竹流はきっとこの婦人を本当に大事に思っているのだろうと感じた。それは、ただ仕事のクライアントとしてではないはずだ。
「子守唄代わりに、何かお話をしてあげたほうがいい?」
「あなたの名前もまだ伺っていません」
「そうだったわね。じゃあ、スターシャって呼んでちょうだい」
「それって、イスカンダルの女の人の名前」
 その真の反応の早さには、彼女は楽しそうに笑った。
「冗談よ。でも、その妹の名前と同じなの」
「サーシャ」
「意外に物知りね」

 伯父の功は、アニメにしても小説やドラマにしても人形劇にしても、宇宙ものは一通り押さえていた。一緒にテレビを見ていた真が、知らないわけはない。
 真は少しだけ笑みを浮かべてから、あれ、俺は笑ったかもしれないと思って自分で驚いた。
「あなたの事を」
「いいわよ。何から話そうかしら?」
「仕事は何を?」
「冒険家よ」
「冒険?」
「自称だけど。すごい辺境に行って、写真を撮っているのよ。そう、写真を撮るのは、この世界に何かを残したいからなのかしらね。カメラの向こうの世界が生きている証、そしてカメラのこっちにいる私が生きている証。私には子どもがいないでしょ。だから他の形で、何かを残さなきゃ、って思っているのね。でも、本当は、写真は生業としてやっているだけかもしれないわ。ただ世界を見たかった。見たこともないような花が咲いていて、初めて見る生きものたちが空を駆け、聞いたことのない水の音や鳥の声を聴くの」

 竹流がいない間、サーシャが話してくれた真の知らない土地や民族の物語は、真を生き返らせる魔法だった。
 物語は母の口から語られ、子どもに夢と生きる力を授けた。子どもは母親の物語に目を輝かせて聞き入り、先をせがんだ。母親のいない真には、何もかも生まれて初めてのことだった。

 サーシャは竹流と同じように、話し上手だった。
 中高校生の頃、母もなく、忙しい父の代わりに自分たち兄妹の勉強を見てくれていたのは、竹流だった。彼はいつも歴史や科学を物語のように語った。数式も、彼の言葉によって音楽になり、ストーリーが広がった。学校では少しも面白くなかった歴史の場面は、彼の言葉で語られると、まるで映画のスクリーンに広がるように面白かった。

 サーシャの話の中でも、アラスカの熊の物語は真を随分楽しませた。本当のことを言うと、熊の話なら、真のほうもいささか薀蓄を語ることができた。彼女のほうも真の子ども時代の話を聞きたがった。真が小さい頃、アイヌの老人から聞かされ教えられたこと、その世界の仕組み、歌や音楽の意味、全てが彼女には興味深いようだった。
 この時はまだ、サーシャが秘境の民族や自然の生き物を撮っている有名な写真家であるということを、真は全く知らなかった。

「結婚はされなかったのですか」
「夫はいたわよ。それも私が勝手に夫にしていたの。ね、聞きたい?」
 真はまた勢いに押されて頷いた。
 まるで女子学生が友人にのろけ話を聞いて欲しがっているような楽しげな気配だった。
 サーシャの瞳は、北国の海に気紛れに射した夏の閃光のように明るい色をしていた。そして、語る時には、星々を包むオーロラのように輝いた。

「実はね、結婚できなかったのは、彼が聖職者だったからなのよ。だから無理矢理、駆け落ちしたの。駆け落ちまでさせちゃったのに、私ったらこんなので、ひとつ処にじっとしてないじゃない? あの人はがっかりしたでしょうね」
 秘密の物語のはずだろうに、ちっとも構っていないようだった。まるでワクワクドキドキの冒険談のようにサーシャは話した。
「ロシア正教の聖職者でね、イコン画家だったのよ。それが私ったら、おかしなことに始めはあの人の絵のキリストに恋をしたのよ。恋をして通い詰めて、押しかけ女房さながらに俗世間に引き摺り下ろしちゃって、駆け落ちまでしたのに、最後の最後にあの人の傍にいてあげなかった。あの人は一人で死んじまったのよ」

 真は思わず唇を噛んでいた。だが、サーシャは自分の哀しみには構っていないようだった。真の気配を察したのか、そっと真の頬に手を当ててくれる。大きくて柔らかい手は、暖かくて平和だった。
「おチビさん、人の生き死には運命なの。運命という言葉は少し難しく考えられ過ぎちゃってるわね。そうあるべき姿に過ぎないのよ。私たちは淡々と生まれ、淡々と生き、そしてそれぞれに与えられた場所で、そうあるべき時期に死んでいくわ。人も、あらゆる動物も、花や木もみんな同じ。特別なことではないのよ」
 そしてぽんぽんと、真の頬を軽く二度、優しく叩いた。

「イコンって分かる? あら、そうね、ジョルジョの専門分野でもあるから、知ってるわね」
 サーシャが無意識に呼んだのは、竹流の日本名ではなく、本名の方だった。
 いや、サーシャが竹流のことを「真の決して呼ぶことのない名前」で呼ぶのは自然なことだ。この人は彼を子どもの頃から知っているのだから。真の知らないジョルジョ・ヴォルテラという男を知っていて、彼の仕事のことも知っていて、真が聞いたことのない彼の多くの交友関係のことも知っている。
「専門分野……」
 サーシャは、あら? という顔をした。

「あなた、絵は分かる?」
「すみません、さっぱりです」
「あら、そうなのね。でもちっとも謝ることじゃないわよ。私だって、夫がイコン画家でなかったら、きっと何の興味もなかったでしょうから」
 そう言ってにっこりと笑顔を見せてくれる。
「イコンというのは、正教における宗教画ね。正教の教会の中に入ると、聖堂全体が絵で覆われている。それは単なる偶像だけど、神が宿る聖なる絵なのよ。イコンはこのように描く、というパターンがほとんど決まっていて、それから外れないように描かなければいけなくて、そうね、日本では仏像とか写経みたいなものかしら。これを描くことは聖職者の重要な仕事のひとつなのよ。勿論、本来、お金を得るために描くものでもないしね」

 サーシャは少し遠くを懐かしむような顔をした。
「あの人が描いたイコンも、形はやっぱり決まりごとにとどまっていて、でもとても美しい絵だったの。聖女はどこまでも澄んだ心を持っていて、聖人はどこまでも清く正しかった。本当の人間はなかなかそうはいかないけどね」
 サーシャは言葉を切って、真にウィンクで目配せをした。
「でも、あの人が生きている間は、どうしてそんな決まりごとに縛られた絵を描くのが楽しいのかしら、と思っていたわ。聖人の姿はありがたいけど、これは人間の本当じゃないわよって、よく噛みついたものだった。聖職者に向かって何を言うって感じでしょ。でも、あの人はそれには答えずに、微笑みながらただ描き続けてた。その背中や横顔がとても好きだったの」

 それからサーシャはまた少し遠いところを見たようだった。
「あの人を愛していて、あの人のことを知りたくて、あの人の全てが欲しくて駆け落ちまでさせたのに、あの人を一人で死なせてしまった。結局人は一人で死んでいくもので、どんなに愛しても愛しても、そんなものじゃ埋められないものがあるのね。抱き合っても、一緒のお墓に入っても、相手とひとつに溶け合えるわけでもないから」
 真はサーシャを見つめた。力強く逞しい彼女の中にも、りぃさと同じ、不安と孤独の片鱗があることを知って、その欠片を見つめていた。

 しかし、サーシャはりぃさとはまるで違う本質を持っていた。サーシャはすぐに真にあの明るい瞳を向けた。
 この人は、決して何も苦悩していないわけではない。ただ、それを力に変える魔法を知っている。
「それで、あなたがそんな病気になってまで救ってあげたかった人は?」
 真は首を横に振った。そして、サーシャの言葉に引き出されるように、たどたどしいながらも、気持ちは言葉になった。
 誰かに気持ちを言葉にして打ち明けるなどということを、真はほとんどしたことがなかった。だから今、語りながらも、この言葉を他人が理解してくれるのかと疑問に思っていた。

「救ってあげられるわけじゃなかった。一緒に死んでもいいと思ってたのに。彼女を分かってあげられるのは、一度死んでしまったことのある自分だけだと思っていた。でも、あなたの言うように、抱き合ってもどうしても、本当にはひとつになんかなれない。彼女が泣かないで笑っていられる世界は、この世の中になかった」
 サーシャは不思議そうな顔をした。
「あなたは自分が一度死んでしまったと思っているの?」

 この女性には、真の言葉がわかるのだ。真はほっとして先を続けていた。
「子どもの頃から、時々僕には他の人には見えない変なものが見えたし、それらと話すこともできた。そういうものが本当はこの世にいないものだとは分からなかった。ある時、自分が死ぬことがはっきりと分かったんです」
 そう言ってから、真は、さすがに頭のおかしい人間だと思われたかもしれないと考えた。しかしサーシャは、真の考えていた次元とは違うところで、真の言葉を正確に理解してくれたようで、まともに返事をしてくれた。
「でも、あなたは生きてここにいるわ。ちゃんと病気になれるくらい、生身の身体としてね」

 だから、誰にも打ち明けられなかった心は、自然に言葉になってしまったのかもしれない。
「死んでしまった僕をこの世に呼び戻したのは竹流です。それなのに彼の心も気持ちも、何もわからない。彼の何も知らない。彼の母親のことも、彼の子どもの頃のことも、どうして日本に来たのかも、本当の仕事が何なのか、あなたに何を頼まれてどんな仕事をしにいったのか、イコンのことも何も。それどころか、彼の本当の名前を呼ぶこともない」

 サーシャは堰を切ったように気持ちの中の何かを吐き出した真を、少しの間黙って見つめていた。やがて、彼女は噛み砕くようにゆっくりと、しかし強い響きのある声で真に尋ねた。
「あなたは彼のことを知りたいの? それとも、彼に傍にいて欲しいの?」
 真は、ぽーんと何かに弾かれたような気がした。

「私はね、今になって、あの人に傍にいて欲しいだけだったって気が付いたのよ。ちょっと遅かったけどね。だから、今はあの人が描いた絵を探しているの。私の夫が最後まで手元に置いていたスケッチブックが日本にあったのよ。それがどういうわけか他の重要な絵と一緒にソ連政府に引き取られることになって、ジョルジョはそれをかっぱらいに行ってくれたの。シベリア鉄道に乗っている間がチャンスだからって。一度あの国の倉庫に入っちゃうと、もう二度とお日様の下には出てこないから」

 サーシャは微笑んだ。
「ジョルジョはあなたには大人でいたいのよ。今はそうさせてあげなさいな。多分、あなたを思い通りにしてしまう欲望と戦ってるのね」
 そう言いながら、彼女は楽しそうに笑った。
「変な意味じゃないわよ。親ってのは、子どもが思い通りにならないと、大概、無茶苦茶腹が立つみたいだから。それに、前にも言ったでしょ。あの子のあんな顔を見たのは初めてよ。あなたに大事な仕事の話もしない、自分の得意分野の絵の話もしない、自分の生い立ちも話さない、あなたに自分の本名を呼ばせる事もない、でもあなたをローマに連れて行った、どこに住んでもいいはずなのに東京に留まっている、子どもなんか大嫌いだと思っている人間が、あなたを子どもだって呼んでる。それは、彼が他の誰に対してもしないことよ」

 サーシャは真が横になっているベッドの上に頬杖をつくようにして、真に微笑みかけた。
「その、あなたが一緒に死んであげたいって思った女の子のこと、あなたにはやっぱり何もしてあげられないでしょうけど、でもその子が泣かないでいられる世界があったらいいって、そう思っているあなたの気持ちは捨てては駄目よ。もしかしたら、いつか彼女にも現れるかもしれないでしょ、信じられる誰か、本当に傍にいて欲しい誰かが。残念ながら彼女にとってのそれはあなたじゃないんでしょうけど、でも、あなたには本当に傍にいて欲しい人がいるでしょ。あなたは、彼がどんな名前で、どんな仕事をしていて、どんな世界に生きていようとも、もしかして顔や声が変わってしまっても、彼が分かるでしょう?」

 真は答えずに、サーシャの力強い瞳を見つめ返していた。返事をしなかったのに、彼女は言った。
「私もよ。どんなに型に嵌った絵でも、私にはきっとあの人の絵が分かるわ」


 それはもしかすると、サーシャのかけた魔法のお蔭だったのかもしれないが、真の回復は意外にも早かった。一週間後にはあまりおいしくはない食事はできるようになっていて、斎藤も、保護者が帰ってきたら自宅療養の相談をしてもいいか、と言ってくれた。ロシア人の婦人、サーシャは私が面倒を見るわよと言ってくれたが、さすがに少しばかり元気になると、理性がうるさくなった。

 彼女の勧めるままに三上に電話をすると、三上は今ちょっと忙しいから、手が空いたらまた見舞いに行くよ、と言ってくれた。自分が病欠しているからだと思って、申し訳ないと思ったが、三上は、とにかく早く良くなれと言ってくれた。
 それでも、夜になると不安は襲い掛かってくる。それを察知していたのか、やっと飲めるようになった薬の中に斎藤は入眠剤を加えてくれていた。

 サーシャの存在は精神安定剤並みの効果を発揮はしていたが、普段から他人が傍にいると眠れない真の習性を変えるまでには至らなかった。りぃさと幾夜を共にしてもそこに泊まらなかったのは、その習性のせいだった。高校生の時から五年間も付き合っていた美沙子の場合も、それほどの時間を共にしても習性は変わらなかった。

 ただ一人、その人の傍にいるときだけは、自分でも有り得ないと思うくらい心地よくて全てを忘れた。
 サーシャがつまらないことを意に介さない人でよかったと思っていた。少しばかり冷静になってみれば、変に気を使われても困るだけの状況だった。斎藤が何を思って眠れるように薬を処方してくれていたのかはわからないが、有り難いことだと思った。






サーシャの台詞、「彼がどんな名前で、どんな仕事をしていて、どんな世界に生きていようとも、もしかして顔や声が変わってしまっても、彼が分かるでしょう」というのを書いた後で、『うる星やつら』の映画版『ラム・ザ・フォーエバー』を見て、赤い糸を手繰りながらラムちゃんが、恐竜の時代とかでもあたるに出会っているみたいな走馬灯シーンがあって、この言葉とあのシーンはぴったりだわ、と思いながらニコニコしていました。
『うる星』の映画版はどれも、私のバイブルです。

次回、久しぶりの竹流視点で出てきます。
竹流視点は、この物語でも時々登場してきましたが、短いものばかり。
今回も短いのですけれど、第4節では怒涛のように出てきます。
いずれ、お楽しみに(*^_^*)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 6   

[雨105] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(6) 

【海に落ちる雨】第21章その6です。
自殺願望のある女性・りぃさとの恋愛(?)に溺れていた真は、ついにぶっ倒れて胃潰瘍で入院中。
竹流は知人であるロシア人女性・サーシャの依頼でソ連に仕事でお出かけ中……
でも、ようやく帰って来たようです。

*ただ今出張で浜松です。すごい雪には遭わずにおりますが……ニュースでは大変そう。
帰ったらまた皆様のブログをご訪問したいと思います(*^_^*)




 真が入院して一週間目の夜に、竹流はソ連から戻った。夕方に主治医の斎藤のところに行き、真の病状を確認して、それから病室に行って外からそっとサーシャを呼ぶ。
 サーシャと頬と頬で挨拶を交わした後、竹流は彼女の肩越しに病室の中を見た。
 サーシャは竹流の視線の先を確かめて、小さな声で答えた。
「今眠ったところよ」
「じゃあ、丁度良かった」

 サーシャは呆れたような顔をした。
 それはそうだ。顔を合わせて言い訳をするのが面倒なのかと思われたに違いない。
 竹流はようやく眠っている真の傍に行き、随分長い間その顔をただ見つめた。サーシャはそっと病室を離れていった。
 竹流は扉が閉まる音を背中で確認してから、ひとつ息をつき、傍のパイプ椅子に座った。

 色々な思いが行き過ぎる。
 大事と言えば大事な存在だ。大事などという言葉では尽くせない。いつでも心配で、気にかかる。竹流にとっては生徒であり友人でもあり、ある意味では息子のようでもあり、弟のようでもある。だがその一方で、竹流にとって負の感情と大きく関わってもいる。支配しようとする感情、思い通りにしようという欲望、そして失う可能性への恐怖。
 そんな自分自身を見たくないから、その手を握る力を緩めてきた。
 これからどうするのか。いつも惑っている。

 竹流はやがて立ち上がり、一週間前よりはずっと見栄えの良くなった真の髪に触れ、恋人にするように目尻に口づけて、布団をかけ直してやった。
 竹流がロビーに行くと、サーシャがソファに座ったまま舟を漕いでいた。
「サーシャ」
 呼びかけると、彼女はすぐに目を覚ました。
「私はベビーシッターから解放されるのかしら」
「これを」

 竹流は、抱えていた厚い包みを彼女の膝の上に載せた。サーシャの顔がほころび、唇の形をひとつひとつ確かめるように言葉が零れてくる。
「ありがとう」
「それと、もう一つ、キャンバスに描かれた彩色画があったんだけど」
「スケッチブックだけじゃなかったの?」
 竹流は頷いた。その絵に描かれたものを説明をしようとして、思いとどまる。

「かなり傷んでいるんで、不用意に持ち歩けない。もし良かったら、あともう少しベビーシッターをしてくれるんなら、修復したいんだ」
「それはいいけど、でも、あの子の傍にいてあげなくていいの?」
「いや、今はちょっと」
 サーシャは暫く竹流の顔を見つめていた。その顔が少しばかり厳しげになっている。

「何をしたの?」
「ちょっと昔覚えたまじないを」
「まじない?」
「暗示をかけたんだ。かかるとは思ってなかった。いや、そんなことはないな。十分本気でかけた暗示だ。暫く禊のために籠もるよ」
 また連絡するからと言って、竹流はサーシャと別れた。


 悪いときには悪いことが重なるものらしい。
 竹流は、大和邸のアトリエに篭り切って二週間、ほとんど水分と野菜と果物程度の食事しかしなかった。
 本人が言ったとおり、禊のつもりだったかもしれないが、普段は楽しんでいる血の滴るような肉や、飛び切りの新鮮な魚も食べる気にはならなかった。
 竹流がスケッチブックと一緒に持ち帰った彩色画は、分類するならばイコン、すなわち聖像画だった。修復のほとんどは洗浄作業だったが、始めてみると思ったとおり最低でも一か月はかかる仕事だと思われた。

 布のキャンバスに描かれた絵画であろうとも、板に描かれたものであろうとも、たとえフレスコ画であっても、竹流には自分の技術において疑うところなどなかった。しかもイコンという分野において描かれる世界、製造過程や時代背景、地域による差異についても、この世界に自分ほどの知識や材料を持った者はおらず、他のどんな修復師も自分ほどに上手く早く仕事をこなせるとも思えなかった。

 だが、これは聖像画の顔をした別物だった。
 布のキャンバスの上に描かれた聖母マリア。
 聖像画の形状の多くは板絵だが、フレスコ画、写本挿絵、モザイク画も含まれる。教会に属するものであるために、このような布キャンバスに描かれることはほぼないだろう。
 イコン画家は神に属する。イコン制作はそれ自体が修道の道であり、世俗や肉体への執着を断ち切った場所で描かれる。イコン画家は自分の名前を絵に記すことはない。その絵は神のものであり、彼らは神の栄光のために働いている。
 このようにわが身に属する物として持ち歩くために描かれた絵は特異だった。

 大和邸執事の高瀬が、竹流が例のごとく根を詰めているのを見て、彼にしては珍しく心配を表情に出していた。
 普段なら滅多に感情を表情に浮かべることのない男だ。それに、主人に意見をせずに従う男だったが、どうやら何か特別な気配を感じてしまったらしい。
 珍しく、仕事中に声を掛けてきた。
「旦那様、少しお休みになられませんと」
「うん」
 竹流は顔も上げなかった。もっとも、竹流が自分の仕事において高瀬の意見など聞くわけもなく、高瀬のほうも聞いてくれるとも思っていないはずだった。

「トニー、帰ってきたか?」
 そう言えば、もう一人、いや、もう一匹、こんなふうに閉じこもる竹流を心配して目を光らせているものがいる。竹流にとっては親友と言ってもいい猫だった。
「昼間見かけましたが、またどこかへ行ったようです」
 竹流は目の前の彩色画に気持ちを戻した。

 その時突然、遠くのほうで電話の音が響いた。集中し始めた瞬間だったので、不快なものに邪魔されたような気になったが、一瞬のことだった。竹流は直ぐにまた絵に意識を戻した。
 高瀬は無表情のままアトリエを出た。

 電話をかけてきたのは、新宿でゲイバーを経営している葛城昇だった。
 昇は、竹流が篭っている時には電話にも出ないことを知っているが、その日は高瀬としばらく問答があったようだった。
 やがて高瀬はアトリエに戻ってきて、昇様から坊主の危機だと言え、と言われましたが、と電話を取り次いだ。
 昇が坊主と呼ぶのは真のことだ。

 竹流はふと手を止め、顔を上げた。結局竹流は、仕事の手を止めて電話に出た。
「テレビくらい置いとけ。六本木で爆発事故だ」
「爆発事故?」
「坊主の事務所だ」
「何だって?」
 竹流は聞きなおした。
「いや、でも、あいつは入院してると思うけど」
「いつの話だ」

 そう言われてみれば二週間も前のことだ。
 一度も連絡していないが、元気になっていたら、退院しているか、あるいは外泊しているかも知れない。
 真のことだから、そうなるとすぐにも事務所に行きそうだった。三上に申し訳ないと思って。
「少なくとも、誰か救急車で運ばれたみたいだぞ」
 竹流は受話器を置くと、真の入院しているはずの病院に連絡をしたが、数日前に退院したと言われた。サーシャがついているはずだと思ったが、竹流は彼女に連絡先も言わなかった。多少なりとも元気になった真が、サーシャにもう大丈夫だと言っていたら、彼女も納得して真から離れているかもしれない。

 とにかく六本木に走るしかなかった。そういう時に限って間合いも悪く、夕方の混雑の時間帯だった。
 竹流が真の姿を見ることができたのは、もうすっかり暗くなってからだった。
 事故のときは、大抵情報は混乱するもので、現場に行ってすっかり吹っ飛んだ事務所の光景は無残だったし、現場検証をしている捜査官達も救急車の向かった先までは把握していなかった。
 結局、消防署に問い合わせて、状況が分かったのは小一時間もたってからで、運ばれたのが真でないことだけは分かった。
 年齢や格好の情報からすると、怪我をしたのは三上のようだった。

 竹流はやっとの事でマンションに電話を入れるところにまで頭が回った。。
 マンションにはサーシャがいて、真が数日前に退院してから昨日と今日は仕事に行っていることがわかった。
「何かあったの?」
「いや、大丈夫。真はまだ帰ってない?」
「ええ」
「また連絡する」
 それだけ言うと、相川の家にも電話をしたが、当然のことだが誰も出なかった。
 三上について病院に行った可能性はある。そう思ってとにかく三上が運ばれたらしい病院に向かった。


 その時、竹流は病院の廊下の向こうのほうで、膝の上に拳を作った両手を載せて、古いソファに固まったように座っている真を見つけた。その姿を見て、もしかして、本人が怪我をしているよりも具合の悪い事態かもしれないと思った。
 竹流は真の横に座り、その固まった手に自分の手を添えて、真の手が氷のように冷たいのを知った。
 途端に、思わずその身体を抱き締めていた。

 真は意識があるような、半分心が身体から抜け出しているような状態で、身体を小刻みに震わせていた。触れた頬も耳も、生きている人間なのかと思うくらいに冷たい。竹流は思わずその耳に唇を触れ、頭を更に抱き寄せた。
 真は竹流の手の中で、意思も意識もない空洞のように固まっていた。

「失礼、相川真さんですね」
 そこへ話しかけてきたのは、ヤクザでなければ、どう見ても刑事と思われる類の人間だった。
「少しお話を聞かせていただきたいのですがね」
 竹流は反応のない真の代わりに、二人組の男を睨み付けておいた。
 抱き締めている手を緩めることもないまま、刑事に向かって言う。
「今は聞けそうにないことくらいお分かりになるでしょう」
「いえね、彼がその瞬間を目撃しているはずでしてね」

 真の身体が微かに反応する。竹流は、大丈夫から心配するなというように、そのまま真を抱く手に力を込めた。
「出直してください。どうせ今は何も聞けない」
「こういう事件は初動捜査が大事でしてね」
「だったら、さっさと現場に戻っては?」
「彼が関係者であることは間違いがありませんからね。疑うのは関係者からってのが、常道で」
 
 更に何かを言いかけた竹流の気配を、腕の中の真が、微かな身動ぎで制した。真は頭を上げて、それから竹流を見ないまま、刑事のほうを振り返った。
 冷めた、感情を読み取りにくい瞳だった。
「事務所を出て下の道を駅のほうへ歩きかけた時に、窓から三上さんに呼びかけられました。振り返って、途端に爆音がして、後はよく覚えていません」

 あまりにも淡々と真が話したので、刑事はいかにも怪しい人間を見つけだしたような顔をした。真の声は硬く、まるで書かれた文字をそのまま意味も分からずに読み上げているようだった。
「出て行く前に事務所で三上司朗とどのような話をされましたか。できれば、署まで御同行頂けると有り難いですが」
「三上さんの状態がはっきりしたら行きます」
 若い方の刑事が何か言いかけたのを、さっきから話している年配の刑事の方が制した。
「わかりました」

 刑事が去ったあと、竹流は真の無表情な横顔を見つめた。
「大丈夫か」
 その声でようやく真は竹流のほうを見た。頬には血の気がなく、唇の色も薄かった。右だけは碧を帯びている目だけが色を主張しているのに、そこには表情がない。
「三上さんはどうなんだ?」
 他の事はともかく、こいつにはそれが問題なのだろうと思った。
「処置室に入って、あとは分からない」
「意識は?」
「救急車に乗るまではあったと思う。話を、したと思うし」
 真自身が混乱しているのは仕方がなかった。
「他にけが人は?」
「分からない。所長も出掛けてたし、女の子は昨日から休みだったし」
「お前は?」
「怪我はしてない」

 真の声は冷たく無機質に響いた。こいつがこういう状態になっているのは、あまり歓迎できることではないと竹流は思った。極限になると、感情の域値を届かないほど遠いところへ上げてしまう。
「何があった?」
 真は首を横に振っただけだった。

 意地を張らずに傍に居てやればよかったと思ったが、やはり後悔は後でするものだった。しかも、いつもなら、後悔しないように善処することはできると言っている竹流のほうが、善処をせずに逃げていた。
 いや、これは予想外の出来事だと自分自身に言い訳した。
 それから随分と長い間、並んで何も話さずに廊下のソファに座っていた。
 処置室の扉はここからは見えず、真がどうして少し離れた場所に座っているのかは、何となく理解できた。生暖かく不快な空気が身体を押し包む。息苦しい。だが、真はまるで隣で息もしていないように静かだった。

 随分としてから、看護婦が廊下の曲がり角を曲がってきて、やっと真を見つけて、ほっとしたような顔をした。
「済みません、三上さんのお知り合いの方ですね」
 真は顔を上げた。
「ご家族の方と連絡はつきませんか?」
 真は一瞬、竹流のほうを見て、それから首を横に振った。
「こちらは?」
 看護婦は新たに登場した関係者に期待の目を向けた。
「家族ではありませんが、友人です」
 看護婦は困ったような顔をしたが、仕方ないと思ったようだった。

「意識は?」
「今は眠っておられます。もう少ししたらまたお呼びします」
 竹流はふと、真のほうを見た。
 真は看護婦が去って取り残されたような廊下を見つめたままだった。

「俺は、この何か月も女のところに入り浸ってて、事務所のことを何も分かっていなかった。三上さんが病院に運ばれて、住所を聞かれても、家族の事を聞かれても、あの人のことを何も知らない。あんなに心配してもらってたのに」
 竹流は、自分が横に居ても簡単には寄りかかってこない真に、少しばかり歯がゆい気分を覚えた。
 だが、真の気持ちは十分分かっていた。もう今となっては、高校生の頃のように頭を撫でて慰めてやるわけにもいかない。

 だが、少しばかり有り難いと思った。
 三上には申し訳ないが、この事件が真からりぃさの事を遠ざけてくれるきっかけになると思った。
 真はいつも、どうやってこの世に存在しようかと、その方法を探しているように見えた。
 いや、それは正確ではない。命としてなら生きていく意志も能力もあるのだ。だが、社会という場所、特にこの大きな街の中では、時々呼吸の仕方さえ忘れてしまうように見える。
 俺のしていることは、こいつを助けているのか?
 時々自らに確かめてみるが、いつも答えは出ない。

 アッシジで、真が風に紛れるように囁いた声。真にとってはおそらく最上級の告白を、俺はいい形で受け止めてやってはいないのだろう。
 あの小さな声は、今でも強い響きで竹流の耳の中に残っていた。
 医師が廊下を曲がってきて、彼らの方に視線を向けたとき、竹流は一瞬躊躇する真の腕をつかんで、促すように立ち上がらせた。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 8   

[雨106] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(7) 

ソチ五輪も素晴らしい思い出を残して終わりましたね。
でも、今後冬のオリンピックはどうなっていくのでしょうか……
会場・設備投資費は半端ないそうで、しかもその会場を後で何かに利用できるとも限らないようで、開催国・都市の負担は大きいのだそうですね……
テレビで見ている分にはいいのですけれど。

オリンピックの裏側では、隣国ウクライナでの革命やら、日本でも大雪で孤立する集落があったり、世界も気候も大きく揺れ動く2月……時が過ぎていくのが速いですね。
私も日々のお仕事に忙殺されています。

さて、【海に落ちる雨】第21章(7)です。
勤めていた調査事務所の爆発事故で、先輩調査員の三上司朗が大怪我を負います。
真は、りぃさとの自虐的な恋愛にのめり込んでいる間に起こっていたであろう様々な事柄に、何も注意を払ってこなかった自分が許せないような気持ちになっています。
一方で、胃潰瘍で入院していた身体の方は、精神的な負担やらあれこれ積み重なってあまり本調子ではありません。
何かをきっかけに絡み付いたあれこれを振り切ることができるのでしょうか。
(この章は、真が25歳の頃の回想章になっています。今回を含め、あと5回分くらいあります^^;)

ちなみに、次回はちょっと掌編をアップしようと思っています(*^_^*)





 三上の怪我の状態がはっきりしたのは数日後だった。
 脊髄損傷の可能性は事故の当日に聞かされていたが、医師のあまり有り難くない予想通り、下半身不随という残酷な現実が、これからの三上司朗の生涯についてくることになった。

 真は警察署に出頭はしたが、あくまでも参考人としてであり、真本人には特に不明な点もなかったのか、比較的早くに解放された。取り調べ自体は主に事務所内の人間関係や仕事上のトラブルについてだった。
 警察からも用がないとなると、仕事場を無くし、状況的に女のところに行くような気持ちにもなれず、妹の居なくなった家に帰る気も起こらず、どこにも居場所のなくなった真は、何ができるわけでなくても、三上の入院する病院に顔を出すくらいしか思いつかなかった。
 しかし、つい先日まで五体満足だった男がある瞬間に失ったものの大きさは、結局、三上の顔を見る勇気さえ真から奪ってしまった。

 サーシャの提案で、彼女と竹流と真は、大和邸で一緒に生活していた。事態を飲み込んだサーシャが、真の危なっかしさを誰かが見張っている必要があると考えたからだった。
 真が三上の見舞いに行くときには、サーシャがさりげなく理由を作ってはついてきた。見舞いと言っても、真はただ三上の病棟の近くまで行って、そのまま帰るだけのことが多かった。真自身も、退院したとは言え完全回復とは言いかねたので、自分の通院が必要な日もあった。
 竹流のほうは、サーシャの夫のイコン画修復に相も変わらずのめりこんでいた。真を気遣っている気配は表に出さず、微妙な距離を置いたままだった。結果として、同じ屋根の下にいながら、真とはめったに顔を合せなかった。

 警察署に呼び出された時の話の内容から、真には彼らが何に的を絞って捜査を進めているのか、およその見当はついていた。だから、探偵事務所の調査員でありながら、そして本来なら、恩人である三上をあんな目に遭わせた誰かを探し出すのは自分の義務であると考えるような性質であったが、今回だけは事務所の爆破事件の事情について自ら調べる事を放棄した。
 真実を知るのは怖かった。

 ある日大和邸に竹流の仲間であるゲイバーの店長、葛城昇が尋ねてきて、応接室で暫くの間竹流と話し込んでいた。
 しばらくして、真は彼らに呼ばれた。
 窓際の床に木漏れ日がいくつも重なって揺れていた。窓の向こうでは、錦の色に染められた木々が時折小さく震えている。窓で切り取られた光の世界と、壁で囲われた応接室は対照的だった。大正時代のものだという柱時計の振り子だけが、時間と空間を刻んでいる。

 竹流は大理石のテーブルを囲むソファの一方に座り、昇は別の一人掛けのソファに座っていた。自分を見た二人の気配に、真はついに向かい合うべきものが目の前に突き出されたことを察した。
「警察は、お前に何を言ったんだ?」
 真はドアの所から動かなかった。竹流も昇も厳しい顔つきだった。
「どうする? このまま関わらずに終わるか?」

 随分と長い時間、真はその場に突っ立っていた。やがて逃れられないことを知って観念した草食動物のように大人しく、竹流の向かいのソファに座った。
 一呼吸だけ置いて、自分でも滑稽なほどはっきりとした声で答える。
「事件の後から、所長が姿を消している、行先に心当たりはないか、と聞かれた」
「それで、お前には心当たりがあるのか?」
「わからない」
 真はそう言ったきり、ただ俯いた。

「お前はどうしたいんだ?」
 昇がいきなり切り込むように尋ねる。真はただじっとテーブルの上で跳ねる光を見ていたが、ようやく長い時間を置いてから顔を上げた。

「事件の前の日、三上さんが、事務所を辞めて名瀬先生のところに勤めを変わる気はないかと聞いてきた。理由を聞いたけど、名瀬先生が俺を欲しがっているからだと、それだけだった。でも、その話は以前にも言われたことがあって、その時にはっきり断っていたし、何故また同じことを言い出したのか分からなかった。事件の日、事務所で三上さんとちょっと言い合った。俺が入院している間に三上さんが何か言おうとしていることは感じていたんだ。それなのに、聞き損ねていたからだ。でも結局、もう済んだことだからって何も話してくれなかった。最後に、事務所を閉めることになるだろうから、今後のことを考えておくようにって言われた。それから、名瀬先生のところに使いを頼まれて、出掛けようとしたとき、二階から呼び止められて、瞬間に爆音が起こった」

 自分の声が身体の外から聞こえているようだった。真はそこまで淡々と話してから、また俯いた。
「でも、今となっては、三上さんに何も聞けない」
 今初めて、声が震え出した。自分の声と感情がようやく重なっていく。
「三上さんの事は聞いてない。お前はどうする?」
 今度は竹流が同じ事を聞いた。重く深く響く声だった。

「所長が三上さんを殺そうとしたかもしれない、って、警察に話せっていうのか」
「根拠があるのか」
「根拠なんてないよ。でも今考えてみれば、このところ二人はずっと言い争ってた。だけど、殺すほどの理由なんて」
「お前は女にうつつを抜かして、知ろうともしていなかったわけだ。だから、言い訳をしたいだけだろう」

 竹流の声が思ったよりも冷淡に聞こえたからか、さすがに昇も少しばかり真に同情してくれたようだった。
「そりゃちょっと言い過ぎじゃないかなぁ。本当のことって、はっきり言ってしまうと身も蓋もないんだからさ。こいつが一番よくわかってるよ」
 昇はそう言って竹流を制すると、真に向き直る。

「警察は重要参考人というよりも、容疑者扱いでお前んちの所長を探してるぞ。お前、心当たりがあるんじゃないのか」
 真は昇のほうを見た。竹流が本気で怒っているわけではないのは分かっていたが、彼の顔を真正面から見つめることはできなかった。
「野垂れ死んでなければ、もしかして田安さんが知ってるかもしれない。でも、三上さんが黙ってるのに、俺には何も言えるわけがない」
「三上ってやつは所長を売ったりはしないだろうな」
「わかってます。だけど、三上さんがどうしてそこまで所長を庇うのか、俺にはわからない」

 しばらくの沈黙の間中、昇の視線を痛いように感じた。
 やがて、一旦天井を仰ぐようにしてから、昇は徐に口を開く。
「もしも、竹流が人殺しだったら、お前、警察に売ったりするか?」
 意味が呑み込めなかった。竹流も同じだったのか、不思議そうに昇を見ている。
「もっとも、こいつも超一流の泥棒稼業には違いないけど。つまりさ、三上って野郎は、天と地がひっくり返っても唐沢の側という立場を変えないだろうよ」

「それは、三上さんが所長に恩義があるってこと、ですか?」
「へえ? お前が竹流に感じているのは、恩義なんていう程度のものなのか?」
 真は一瞬竹流の顔を見た。竹流は無表情に見えた。
「絶対離れられないってのは、理屈とは違うものだからな。お前だって、万が一、この男に殺されることになっても、黙って殺されるんじゃないのか」

 昇が何を言おうとしているのか、真は半分ほども理解していなかった。ただ、三上にとって唐沢という人間が、どうしようもなく離れがたい存在だということは、真にも分かっていた。
「三上さんの事を調べたんですか?」
「お前はちゃんと知っているのか?」
 真は思わず目を伏せた。病院で看護婦に三上のことについて尋ねられても、何も答えられなかったのだ。
 三上はこれまで何ひとつ、真に彼自身の人生や生活について語ったことはない。
「いいえ。何も」
 昇はちょっと肩をすくめたように見えたが、意外とも思わなかったようで、淡々と事実だけを羅列した。

「二人とも戦争孤児で、同じ施設の出身だったよ。三上の母親は米軍人相手に売春をしていた女で、三上はその事で随分苛めにもあっていたらしい。彼の父親もどういう素性の人間か定かじゃない。唐沢の父親の方は、身分のある軍人だったようだが、大戦の早い時期に亡くなっている。施設にいたのは、唐沢が中学生、三上はまだ小学校に上がる前で、どういう因果なのか唐沢はよく三上の面倒を見ていたようだ。その頃の三上にとって、頼れる相手は唐沢だけだったってわけだ。十六で唐沢が施設を出てからは、随分長い間離れ離れだったようが、どこでどう人生がもう一度交錯したのか、三上が傷害事件やら窃盗やらで刑務所に入っていたのを迎えに行ったのは、唐沢だったらしい。唐沢は大戦の終了と同時にアメリカに行って、特殊部隊に入っていたという噂もある。長い間傭兵をしていたのは本当のようだ。日本に戻ってきて三上を捜したのが気紛れだったのかどうかは分からないが、それからはずっと唐沢は三上の面倒を見続けている。今でこそあんなに従順だが、三上は刑務所を出た後も、何度も堀の中に逆戻りしかけたことがあるらしいし」

 昇はふっと竹流を見た。真はその時、竹流を見た昇の視線に心臓の上に何かが圧し掛かるような痛みを覚えた。竹流は黙って真の顔を見ている。
 昇の華奢な首筋が妙に色っぽく見えて、真は大理石のテーブルに視線を落とした。
「唐沢がどういうつもりだったのかはよく分からない。あの男が損得勘定抜きで誰かの面倒を見るとは思えないからな。それでも、この広い世の中で、三上を気にかけてやるのは唐沢だけだったんだ。だから三上にとって唐沢ってのは、どんなにどうしようもない人間でも捨てられない親のようなものだ」

 大理石の白の中にひび割れのような茶色の線が、濃淡を躍らせて複雑に絡み合っていた。
 今の三上からは、傷害だの窃盗などという気配は想像もできなかった。
 真は大概、愛想のない相棒だったと思うが、三上はいつも真のことを弟分のように気にかけてくれていた。人は何かのきっかけで変わることもあるのだろうし、あるいは三上の本来の性質は真っ当なもので、戦争がなければまるきり違った人生が彼にも開けていたのかもしれない。
 それに、人と人との間の事は、他の誰にも分からないものだ。唐沢所長と三上の間の事は、彼ら自身にしかわからない。

「それだったら、尚のこと、所長を探せない。三上さんにその気がないのに」
「それは三上の都合で、お前の事情じゃない。俺も竹流も、お前がどうしたいのか、知りたいだけだ」
 真は結局口をつぐんでしまった。
 昇は経営しているゲイバーの開店の時間だと言って、ほどなく帰って行った。

 その後も、真と竹流は同じ場所に座ったままだった。
 サーシャが心配して覗きに来てくれたときも、すっかり日が傾いて暗くなった部屋で、二人とも口を利かないまま座っていた。サーシャは腰に手を当てて大袈裟にため息をついた。
「ご飯にしましょう。あなた、ちゃんと食べないとまた具合がわるくなるわよ。ジョルジョも、ここのところあなたまでろくなものを食べてないでしょ」
 サーシャの勇ましい掛け声も、その日の彼らには上手く届かなかった。

 食事のあと、竹流はアトリエに篭ったままだったし、真はリビングのソファに座ったままレコードを聴いていた。
「マーラーね。好きなの?」
 サーシャが真の向かいに座りながら聞いた。
 そういうわけでもなかった。一番手近にあったレコードをかけてみただけだったし、それがマーラーだとも気が付いていなかった。意識すると、五番のアダージェットがそのまま力強く最終楽章に移る瞬間だった。
「というわけでもなさそうね。一体、あなたたちの微妙な距離は何なのかしらね。素直に甘えるとか、頼るとか、あるんじゃないの。邪魔してるのは何? プライド? 意地?」

 真はしばらく考えていたが、少ししてサーシャを見た。
「貴女は? 旦那さんに素直に甘えてた?」
 サーシャは、いきなりの真の巻き返しに少しばかり驚いたような顔をして、それから明るく笑い飛ばした。
「言うわね、おチビさん。そうね、簡単には甘えられないわね。でも、愛してるってことはちゃんと言葉で伝えたわよ」

 真はしばらくサーシャを見つめていた。愛している、という言葉はどこか安っぽい気もしたのに、彼女が言うと力強く心が籠もって響いた。
「でも、あの人はどうだったかしらね。私は自分の気持ちに夢中であの人の気持ちを聞いたことがなかったわ。あなたが恐れているのは彼の気持ちを知ること? それが自分の気持ち以上のものでないかもしれないということ?」
 真はこの人は何を知っているのだろうと不思議に思った。


 大和邸の主人の寝室のベッドはダブルベッドだ。おかげで、一人で眠っていると空白の空間は妙に大きく感じられる。無駄に広いというのは考えものだ。真は何度もその上で寝返りを打って、しまいには完全に目が覚めてしまった。
 真とサーシャがここに来てからも、竹流はずっとアトリエに篭りきりだった。おそらくあの部屋のソファで仮眠しているだけで、まともに眠ってなどいないのだろう。修復作業に入ると憑りつかれたようになって、食事も睡眠も、ついでに普段はそこそこ盛んな性欲までもどうでもよくなるらしい。

 本人は、修復作業というものは科学的で理性的な仕事で、芸術家の仕事とは内容が違うと言い切っている。もちろんその通りだろう。だが、あの魂の入れ込みようは、芸術家のそれと同じだった。本人曰、作家が訴えてくるので応えざるを得ない、ということらしい。
 あれこれ一人で考えていても落ち着かず、結局、真は起き上がった。
 仕事でもそうでないときでも、アトリエに他人が入ってくることを好まないのは知っていたが、それでもあれだけ根を詰めてしまわれると心配にもなった。

 アトリエにはいつものように、あの不可思議な気持ちに真を誘い込む油絵具の匂いが満ちていた。真が部屋に入った時、竹流はソファで仰向けに寝転んでいた。眠っているのかどうか、腕で目を覆っていて分からない。
 ソファの背に掛けられたタオルケットを取って掛けてやろうとしたら、竹流は寝ていたわけではなかったらしく、突然に真の腕をつかまえた。
「起きてたのか」
 真の腕をつかんでいる竹流の手は強く、何かを訴えかけるようだったが、その形のいい唇は閉じられたままで、青灰色の目がただ真を見つめている。真は頭の中を巡っている幾つもの言葉の中から、やっとのことで適切と思われる単語を並べた。

「こんなとこで寝てたら、身体に悪いよ」
「人に言う前に、自分の身体のことを考えろ」
 真はそれには返事をしなかった。竹流は真から視線を逸らさない。真はいつものように、その視線に絡み取られたまま、逃げ出すことなど到底できなくなっていた。逃げ通せる話題ではないのだから言葉にして確かめるべきだと、その視線は語っている。
「あんたが、あの人に三上さんの事を調べてくれるように頼んでくれたのか」
 竹流は、真が思っていたよりもずっと優しい表情をした。
「余計な御世話だったな」
「そんなことはないけど」
「どうすることにした?」
「所長のことか」

 竹流は黙って真を見つめている。真は自分が何を望んでいるのか、それが少しだけ世間常識からは外れていることも、よく分かっていた。
「三上さんがそう望んでいるのなら、このまま逃げ果せて欲しいけど、会って話はしたい」
「会ってどうする?」
「三上さんを、どうするつもりだったのか聞きたい」
「もしも、殺す気だったという返事だったら?」
 真は少しの間、黙っていた。やがて呟くように言う。
「俺、そういう、人の気持ちをどうしたらいいのかなんて分からない。所長の気持ちも、三上さんの気持ちも。三上さんが所長に殺されたっていいと思っていたんだとしたら、尚更だ」

 竹流はソファの上で身体を起こし、真が座るスペースを作ってくれた。真は、少し間を置いて、少しだけ距離を残して彼の隣に座った。
「三上さんの過去の事なんて何も知らなかった。とても、そんな人には見えないし」
「あの人は強い人だ、少なくともお前よりはずっと。お前が心配してやらなければならないようなことはないんだよ。けれども、人の内なる世界には、外見からは計り知れない激しさや暗がりや真実が隠されているのかもしれない。残念ながら、三上さんはお前にそれを見せたいとも知られたいとも思っていないだろうがな」
「あんたも」
 そうなのか、と聞きかけて、真は言葉を止めた。





この爆発事故(事件)の真相は書く気もなく、そのままになっています。
大方、怪しい所長・唐沢が何かを隠ぺいするために、あるいはむしゃくしゃして、あるいはいささか精神に異常をきたしていて、やってしまったのだろうと思います……世間的には保険金詐欺を狙ったことになっていますけれど。
唐沢の人生を書く気になったら、真面目に追及するかもしれませんが。
……元傭兵ですからね。時代も時代で。戦争から離れられなかった、中毒みたいな状態だったのかと思います。
三上と唐沢の間のことも分からないことが多いのですが、関係性は竹流と真とも似ている部分があります。
(他人には理解できない、入り込めない、って感じ?)

さて、次回はいよいよサーシャのエピソード最終回です。
サーシャの次に登場するのは、青森県は大間のマグロ漁師。
竹流って、実は、女よりも腕に覚えのある老人が好きなんですよね。
また、お楽しみに(*^_^*)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4   

[雨107] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(8) 

【海に落ちる雨】回想章、第21章のその8です。

<あらすじ(第21章)>
もともと馬と犬としか話せないような子どもだった真は、11の時に北海道から出てきて、全く都会の生活に馴染めず、学校にも行けず、周りの子どもたちだけでなく大人ともほとんど意思の疎通をできないでいた。
そんな真に、勉強を、なによりも人間と話すための言葉を、そして人として生きていくための何もかもを教えてくれたのは、当時真の伯父(真を引き取って育てていた)の秘書のような仕事をしていた大和竹流(ジョルジョ・ヴォルテラ)。

伯父の失踪により、実際の生活上でも精神的にも完全に竹流に頼りきっていたが、親子のような、兄弟のような、教師と教え子のような、親密な友人のような関係性は複雑。真は自分でも感情を持て余していた。
そんな時、19の秋に北海道で崖から転落。逆行性健忘と自分自身の中に潜む不可解な感情、そして社会での生活に馴染み切れないまま、大学を中退し、今は詐欺師のような男・唐沢が経営する探偵事務所に勤めている。

その真が妹(従妹)の結婚式で出会ったのは、人生を投げている自殺願望のある女性、りぃさ。
彼女と自殺ごっこを繰り返すような危ない恋に堕ちてしまった真は、胃潰瘍と栄養失調でぶっ倒れて入院。
介抱してくれたのは、ロシア人女性・自称冒険家のサーシャ。
つかず離れず真を支えているものの、ある程度距離を保ったままの竹流(実は修復師、かつギャラリーの経営者)は、彼女の依頼で、彼女の夫(イコン画家)の絵を取り戻しにソ連へ行っていた。

そんな時、真の勤める事務所は爆破事故に遭い(というよりも所長の唐沢の狂言?)、先輩探偵の三上が下半身不随になるという事態に。
真はりぃさとの恋愛に疲れ果て、自分自身の不可解な感情に疲れ、しかも自分が恋愛に溺れてさえいなければ事務所の事故も防げたかもしれないという思いで、ふらふらの状態。
それでも一歩離れたままの竹流は、サーシャの夫の絵の修復に一生懸命。

そんな中、持ち帰ったサーシャの夫の絵・清楚なマリアが描かれたイコン風の絵画が、少しずつ真の心を溶かしていく……(かな?)





 翌朝、竹流はサーシャと真に、一緒に銀座のギャラリーに来て欲しいと言った。
 彼らは朝食を済ませると、竹流の運転するクラウンでギャラリーに向かい、店番の若い男に迎え入れられて、二階のアトリエに入った。

 竹流が大事に抱えていたのは、ようやく搬送に耐えられるようになった、サーシャの夫のイコン画だった。いや、イコンになぞらえた宗教画というべきなのか。
 竹流は、作業台の前の椅子に真とサーシャを座らせた。そのまま淡々と、作業台の上に置いた包みを開く。今はこれが精一杯だというような修復の痕を見て、サーシャが嘆くように呟く。
「随分、酷い状態だったのね」
「サーシャ、ちょっと相談があるんだ」
「ええ?」

 二人の会話を他所に、真は描かれた女性の姿を見つめていた。
 マグダラのマリアだろうか。平面的な画だが、清らかな色使いはまだ残っていた。
 確かに、芸術的というものではなく、宗教のための絵面という感じは拭えない。マリアは清楚だが無機質な瞳で、どこかあらぬところを見つめている。座った姿勢で膝の上に骸骨を載せ、その上に己の手を添えて、祈りと静寂の中で神の世界について沈思していた。蒼い衣は彼女の心のままに清く澄んでいる。

「貴女がよければ、赤外線をかけてみたいんだけど」
「どういう意味?」
「洗浄していて、ちょっと妙な気がしたんだ」
 真は二人の会話を耳だけで聞いていたが、やっと顔を上げた。
「画に負担をかけることになるし、あるいは貴女が見たいとも思わないかもしれないし」
「つまり、下に何か描かれているってこと?」
「多分」

 真がサーシャを見た時、サーシャの方も真をじっと見つめていた。まるで真の心の中に答えがあるかのようだった。
 やがて、改めて竹流を向き直り、尋ねる。
「貴方がためらう理由は?」
「画家が下の絵を塗りつぶしてしまうということは、その下の絵を失敗だと思っていたり、あるいは見られたくないと思っていたり、つまり負の感情を持っていた可能性が高い。勿論、単にキャンバスになるものが無かったからだけかもしれないけど、少なくとも自分が残そうと思ったものなら塗りつぶしてしまうことはない。貴女のご主人が本当は人に見られたくないと思っているものを、暴くようなことになるかもしれないし」

「随分と慎重ね?」
 そう言ったサーシャの顔は、竹流の心の内を読み取っているようだった。
「いいわよ、夫の秘密を暴きましょうよ。もう死んでしまった人だし、時効でしょ?」
「貴女にとって有り難くないものかもしれないけど」
「私と駆け落ちしたことを後悔しているような何かが出てくるかもしれない、ってこと? もしもそうだとしても、それを受け止めてあげなくちゃね。それがあの人の心の声ならば」

 会話を聞いているうちに、真は不安になってきた。夫の思いがサーシャの願うようなものでなかったら、サーシャはがっかりするだろう。
 だが、真の視線に気が付いたサーシャは、例の明るい瞳を片方瞑ってみせた。
「おチビさん、あなたがそんなに神妙になることはないわよ。真実はそれだけで十分美しいわ」
 竹流はわざとなのか、真のほうを見なかった。
 竹流はそれでもまだ躊躇しているような表情をしていたが、ようやく決心したのかアトリエの奥の部屋に彼らを誘った。

 赤外線にかけてみるということは、現実の作業としては簡単なことだった。だが竹流は、絵を動かすにも、ひとつひとつの作業に意味があるようにゆっくりと行っていた。まるで儀式のようだと真は思った。
 真はちらりとサーシャのほうを見たが、彼女はただじっと竹流の手元を見つめているだけだった。相変わらず力強い風情を変えていなかったが、真は彼女が緊張しているのではないかと思った。
 竹流は多分、画の下にどういう類のものが隠されているのか、分かっているのだ。その上で竹流が躊躇っているのだとしたら、本当にサーシャが知りたくないようなことなのだろうか。

 いつか、画の下にどういうものが隠されているのかを見るために、何らかの光線をあててみるという説明を聞いたことがあった。その時に、画を洗浄するだけでもかなりの事が分かるというような話をしていた。
 竹流は淡々と仕事を続けている。赤外線をあてる瞬間だけ、竹流は一瞬の間を置いたようだったが、すぐに画をその光線の中に晒した。

 その瞬間、描かれた美しい蒼い衣の向こうに、女性の美しい裸体が浮かんだ。
 真はサーシャの表情を確認するでもなく、竹流の気配を伺うでもなく、まさに引き込まれるようにその画に見入っていた。
 どこかに淫らな気配さえ持った裸体のマリアの美しさは、それを隠す衣服の下でも匂い立つようだった。
 その姿は赤外線の下であっても、意外に明瞭な姿で真の心に入り込んできた。光線の魔法で消えてしまった首まで覆うような衣服の下では、彼女は多少両脚を開き気味にしている。艶やかな大粒の宝石をつけたネックレスだけが、裸の胸を飾っていた。
 彼女の表情は生き生きとして、この画を描いている画家のほうを見つめていた。

 随分間をおいて、ほとんど同時に竹流と真はサーシャのほうを見た。
 彼女は暫く何も言わなかったが、すぐに顔を上げて例のごとく明るい表情で言った。
「若い素敵な男性二人に見つめられると緊張しちゃうわ。でも、若い頃の私は魅力的だったと思わない?」
 サーシャはそう言って彼らに片目を瞑って見せた。
「貴女は今でも十分魅力的だよ」
 竹流は真顔でそう言って、それから赤外線を切った。
「上の絵の具を全て落とすこともできるけど、どうしますか?」

 マリアは再び蒼い衣をまとい、清楚な表の顔に戻っていた。サーシャは無表情のマリアを見つめたままだったが、静かな穏やかな声で答えた。
「いいえ、このままがいいわ。あの人がこうして絵の具を重ねておいた気持ちも、そのままにして持っていたいの」
 その翌日、サーシャはインドに旅立っていった。スケッチブックは問題がなかったが、マリアの画はそのまま持っていくわけにはいかなかったので、後から竹流が彼の持っている輸送ルートで、彼女のスイスの自宅へ送り届けることになった。

 竹流と真は、サーシャを空港まで見送りに行った。去り際に彼女は竹流に耳打ちするように言った。勿論、彼女らしく、耳打ちといっても十分に傍にいた真に聞こえるくらいの、はっきりした自信に満ちた力強い声だった。
「ねぇ、それでもあの人は、あの画を死の時まで傍に置いていてくれたのね。でも、画としてなら裏に潜む姿を隠して持つこともできるでしょうけれど、人の心はそのまま隠すには重すぎるわよ」
 サーシャはそう言って、真に向かって片目を瞑り、搭乗ゲートに向かって行った。彼女は最後に振り返って大きく手を振ったかと思うと、大袈裟なゼスチャーで投げキッスを寄越してくれた。


 聖職者であったサーシャの夫の心の中には、生身の魅力的な、そのままの彼女が生きていたのだろう。イコンの無表情な清楚な瞳の向こうで、いつも画家のほうを見つめていた生気に満ちた瞳を輝かせて。
 その一方で、どうしても自分に科した重い心の規律を緩められなかったのだろうか。
 亡くなってしまった人の感情を掘り起こしても、ただ想像するだけに過ぎない。今となっては誰にも、その感情の奥に潜めた真実を突き止めることなどできないはずだった。

 そんなことを考えながら、彼らは築地のマンションへ戻った。
 風呂と夕食を済ませてから、真は言われるままに早めにベッドに入った。すっかり回復したつもりだったが、竹流の言うように病み上がりには違いないし、つまらないことで逆らって面倒なことになるのも避けたかった。
 竹流はマンションで仕事をすることはほとんどなかったが、その日は古本屋から買い取ってきた何冊かの本を抱えていて、真を寝室に行かせてからも、長い間居間で本を広げていた。

 ひとりベッドに入った真は何度も寝返りをうったが、だいたいまだ十時前だったし、そんなには簡単に眠れるはずもなかった。結局、身体を起こしてベッドを出ると、竹流のいる居間に戻った。
「眠れないのか?」
 真は返事をしなかった。竹流の手元を見ると、彼は古い本やら日記やらをテーブルにいくつも広げていて、確認しながら、いつものようにノートに細々と書きつけていた。

「戦争画だ。太平洋戦争の時に戦意高揚のために描かれた画だよ。多くはアメリカに没収されて、酷い扱いでろくな状態ではない」
「それを修復するのか」
「こういう画は写真を元に描かれているから、かなり克明だ。人物の特定ができるものまで含まれている。戦争で写真が失われて画だけが残っている場合、遺族の人に頼まれることがある」
 竹流は手にしていた本を閉じた。本の上に手を乗せて一呼吸おく。

「明日、一緒に田安さんのところに行こう。三上さんがどう思っていようとも、所長とこのまま話をしないわけにはいかないだろう。少なくとも、三上さんがあの状態で生きている限り、しかも身内がいない限りは、誰かが彼の今後を購わなけりゃならない」
 真は黙って頷いた。

 しかし、彼らが行動を起こすまでもなく、翌朝彼らは警察からの電話でたたき起こされた。唐沢が警察に捕まり、あっさりと事情を話しているのだという。事実関係の確認に真に署まで来て欲しいという話だった。ついていこうかという竹流の申し出を断って、真は一人で出掛けた。
 真が戻ったのは夕方で、どう思ったのか、竹流はその日一日中マンションにいた。例の戦争名画展の図録を確認しながら、随分と手の込んだだしを取った料理を作っていて、真が帰ってきたときには、玄関を開けたときからいい香りがしていた。

 竹流は普段あまり飲まないビールを届けてもらって、真が帰ってくると早速ビンの栓を抜いた。
「新宿で野宿をしている浮浪者の中に隠れていたんだ。そこで喧嘩して、職務質問を受けて、あっさりと捕まって事情を聞かれ、しかもあっさりと犯行を認めたらしい」
 真は淡々と言った。
「で、何か事情が分かったのか?」
「三上さんの生命保険の受取人は所長になっていたそうだ。勿論、事務所自体の保険金も」
「保険金目当てってことか?」

 ろくな人間には思えなかったが、そこまでセコい小悪党にも思えなかった。
「理由は言わないらしいけど、博打で相当借金はあったようだ」
「しかし、あの男は博打の借金なら博打で返そうとしそうだけどな。たとえ、追い詰められて身動きが取れなくなったんだとしても」
「俺もそう思う。でも、どういう理由にしても、所長が三上さんを」真は一瞬言葉を継ぐのを躊躇ったが、一呼吸おいて続けた。「殺そうとしたのは事実だ」
「許せないのか」

 真はうつむいたままで、その質問には答えなかった。ただ、顔を上げて竹流を見つめ、その瞳に促されるようにゆっくりと言った。
「でも、どうせ逃げるんならもっと遠くに逃げてくれていたら良かったのに、新宿にいたなんて」
 竹流は黙ったままだった。
「それに、俺が許せないとか許すとかいうような話じゃないと、思ってる。三上さんに会いに行ったら、彼は笑ってた。所長も魔がさしたんだろうって。そんな簡単な話じゃないと思うけど」

「三上さんはお前に同情して欲しくないし、所長と自分との間の事に関わって欲しくもないんだろう」
「それは分かってる」
 俯いていても、竹流の視線を痛いほどに感じた。やがて竹流は徐に箸を置いて、真に言い聞かせるように言った。
「落ち着いたら所長に会いに行ってやれ。どうあっても、あの男はお前を気に入って可愛がってくれてたと、俺はそう思うけどもな」

 食事の後で少しだけ酒を飲み、真は昨日よりも早くにベッドに入った。うとうとはしたものの、ふいに耳がつんとするような嫌な感じで目を覚まし、身体を起こした。
 あのときの爆音が耳の鼓膜を震わせた、その感触だった。

 居間に続く扉から明かりが漏れていた。竹流がわざと少し扉を開けておいたのだろうと思った。ぼんやりとその明かりを見つめていると、明かりの筋はすうっと広がり、光の中に人の影が浮かんだ。
 人影はゆっくりと大きくなり、そのうち光を飲み込んでしまい、やがて扉が閉じて明かりは失われた。
 真は黙ったままベッドの端で身体を起こしていた。それから暫く空気は冴え渡って静かで、物音も感情も気配がないほどに澄んでいた。

 やがて、黒い人影はゆっくりとベッドに近づいてその端に座り、真の身体を抱き締めた。
 その身体は温かく、その手は真の頭を優しく包み込むように抱き、真は逆らうこともせず、その手に任せていた。
「お前の親友の従姉が亡くなった。もう何日か前のことだが、自殺だったそうだ」

 竹流の腕の中で真は震えた。あるいは震えていたのは竹流の方だったのかもしれない。
その震えを押し込めるように、竹流の腕はただ強く真を抱き締めていた。そこから、何かの感情が飛び出すのではないかと思うほどの力だった。
 真はそのまま石のように固まっていた。竹流の腕の中にいても、体温まで失っていくように感じた。

 だが、この時、真の感情は恐ろしく不可解な一面を持っていた。
 何よりも、自分をこの男から遠ざけようとする力が、今この現実に消え去ったことに安堵した。そして、他人の死に安堵する自分自身に怯えて震えた。今、真は気が付いたのだ。遠い昔、真の首を絞めた母の死を願っていた。確かに願っていたのだ。そして今もまた。
 りぃさを愛していたのに、同時に彼女の死も願っていたのか、それとも彼女を愛していなかったのか。今となっては、どちらも同じ事のように思えた。もしもこの世から他の全てが消え去っても、今感じているこの温もりさえ残っていたら、それで十分だと思えた。

 哀しいと思いたかった。だが、自分の中のどこを探しても、かろうじて見つかったのは彼女を哀れだと思う気持ちだけだった。せめて、愛おしいと思っていたことだけは、事実であって欲しいと願った。
 その夜、その後どうしていて、いつの間に眠ったのか、後からいくら思い出そうとしても思い出せなかった。

 朝起きると、あたりは暖かく穏やかな小春日和で、その優しい空気の中にコーヒーのいい香りが漂ってきて、不思議と幸せな気分だった。
 誰かの死によってもたらされる幸福がこれほど優しいのは何故なのか。それともこれは、ここから見る半面だけが幸福なのか。後ろから見れば不幸の暗闇がどこまでも広がっているかもしれない。平和をもたらす為の戦争など存在しないということと同じくらい、自明のことだ。それは必ず誰かの屍の上にあるのだから。
 そして、真は誰かの死の上で軽く寝返りし、暖かい光を享受した。

 ゆっくりと意識はどこか別の次元から現れて、体の中に納まっていくような感じがした。まるで身体と精神は別のもので、眠っている間は肉体から離れていた精神が、生まれ変わって昇る太陽と共にこの世に戻ってきて、新しい時間を紡いでいくように思えた。
 竹流が以前、古代エジプト人の死生観について教えてくれたことがあった。今、真が感じているのは、まさに古代の異国の人々が思い描いてきた新しい人生の瞬間なのかもしれない。他人の死によって感じる新しい光、その残酷さに震えながらも、真は不思議と静かな心でいた。

 廊下側の扉が開いて、竹流がコーヒーを盆に載せて運んできた。真は起き上がりもせずにそれを見つめていたが、竹流がサイドテーブルに盆を置くと、ゆっくりと身体を起こした。身体は自分の意志よりもずっと軽く動くような気がした。
「コーヒーを飲んだら出掛けよう」
「何処に?」
「大間」
 真は暫く相手の言うことが理解できずにぼんやりとしていた。それから、頭にその単語の実質が入り込んできて、生まれ変わって初めて、感情が蘇ってきたような気がした。
「大間?」
 鸚鵡返しに聞いてはみたものの、竹流は何も言わなかった。

 そのわずか一時間後には、竹流のフェラーリは東北自動車道を北に向かって走っていた。必要なこと以外の何の会話も交わさないまま、古川から先は一般道となり、青森の北の果てにたどり着いた時には、もう夜になっていた。
 竹流は明かりもほとんど見えないような海沿いの道に出てから、またいくらか走って、やがて少しばかり内陸の方に入り車を止めた。

 道があるようなないようなところで、明かりは一軒の掘建て小屋のような小さな建物から漏れてくるものだけだった。それほど遠くもないところで波の音が聞こえていて、潮の匂いと湿った空気が漂っていた。
 竹流が無遠慮にその小屋の戸を叩くと、随分と間を置いてから、返事もないままにその戸が開いた。

 そこに立っていたのは、無精髭を伸ばし、髪の毛は無造作に刈ってばさばさのまま、古いどてらを肩にかけた小柄な老人だった。いや、おそらくは実際の年よりも老けて見えているのだろう、日に焼けた肌の皺は思ったより多くはなかった。それでも、十分に半世紀は過ぎている顔だった。
「遅くにすみません」
 男は怒っているようでもなかったが、大概無愛想だった。彼らを招き入れると、黙ったままくすんだグラスに一升瓶から日本酒を注いで、竹流の方に差し出した。竹流は黙ってそれを受け取り、一気に飲み干して、それから男にグラスを返した。






さて、ようやく大間のマグロ漁師、頑固爺さんの登場です。
少しずつ、人間に慣れていく??真をご期待ください^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

tb 0 : cm 4