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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠 

八少女夕さん企画【scriviamo!】参加作品です。

ブログ『scribo ergo sum』の管理人さん、八少女夕さんは、素晴らしい「物書き」さんです。
流れるような読みやすい文章の中に、奥深いものが潜んでいる。そんな豊かな物語の世界に私たちを引き込んでくださる魔法使いかもしれません。その情景描写は素晴らしく、読後しばらく目を閉じて、じっくりと物語世界を楽しみたくなります。……なんて解説はもう不要でしょうね(*^_^*)
しかも! 精力的に作品を発表される傍ら、交流を積極的に奨められる夕さん。scriviamo!は、私たちの作品に夕さんが返歌を下さるという(しかもあり得ないスピードで!)、信じられない企画です。
やはり夕さんはスーパーマン、じゃなくてスーパーウーマンですね!

小説で参加するのも何だか自分の中ではありきたりだし、ちょっとイラストでも描いてみようかと思ったけれど、見事に座礁し、岩場であっぷあっぷするお魚さんのようになりながら、何とか発表に至りました。
が! もう今回ほど「産みの苦しみ」に喘いだことはありませんでした。
絶対に『龍王様の呪い』だと思われます。
お前、そんな簡単に龍王と『龍の媾合(みとあたい)』に手を出すな、と……

ごめんなさい、龍王様。本当に反省しています。
でも、この物語は、私が初めて拝読した夕さんの作品で、深く感銘を受けたものでしたので……
官能的というので夕さんが別館に仕舞っておられるのですけれど、この『龍の媾合』のイメージはかなり強烈で、素晴らしく神秘的で、創作とは思えない迫力がありました。

イメージしりとりは以下の通り。
『樋水龍神縁起』→龍王様→樋水川→翡翠→出雲大社の翡翠の勾玉→新潟・糸魚川の翡翠→→貴石→『奇跡を売る店』

こうして、【奇跡を売る店】の蓮と凌雲が登場しました。
夕さんのところからお借りしたのは、登場人物ではなく、樋水川や龍王の池のイメージと『龍の媾合(みとあたい)』という神秘的なできごと……これについては『Dum Spiro Spero』のこの回が分かりやすいでしょうか?→こんな感じ?

そして、『古事記』に書かれた、出雲と糸魚川を結ぶ伝説(検証ではあれこれ疑わしい点もあるようですが)。
こちらの翡翠の勾玉は、奥出雲の龍王のもの、あるいは龍王に嫁いだ姫のもの。『古事記』の伝説どおりではありませんが、奥出雲の樋水川に翡翠と共に嫁いだ越の国の奴奈川姫(布川)をイメージして、へたっぴぃなイラストを描きました。
このイラストから書き起こし物語、というよりも、ワンエピソード。
よろしければ、少し『翡翠(樋水)』の世界を覗いてみてくださいませ。

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【奇跡を売る店】シリーズを初めて読まれる方にも分かりにくくないように、登場人物たちを少し説明しすぎているかもしれません。ご容赦ください。と言っても、今まで1作しか作品はありません^^; (『サンタクロース殺人事件』)
釈迦堂蓮:釈迦堂探偵事務所の留守番探偵、ゲイバー(ショウパブ)のホールをしながら、事情があって6歳の女の子を育てている。
大和凌雲:京都・大原の庵に住む仏師。蓮の元家庭教師。
玉櫛:『奇跡屋』という貴石を売る店の怪しい婆さん。玉櫛はその昔、売れっ子芸妓だったころの名前。
和子(にこ):蓮が育ていてる6歳の女の子。心臓の病気がある。蓮とはほとんど口も利かない。





 古い木枠が、冷たく荒い風に慄き、がたがたと鳴き震えている。薄く固い敷布団の下、板敷きの底からも、風の唸りが伝わってくる。土と冷たい床の間に、暗く何もない無限の宇宙空間がある。
 風の音と、地面の下に流れる水の気配。水は時に溢れだすように大きく渦巻き、時には凪いで静かに息をひそめている。

 京都の町を大きく外れた大原は、四神相の守りの外側だ。邪ならずとも、あらゆる気が、守りを失った瞬間にはあの街の内側へ襲い掛からんと待ち構えて、潜んでいる。
 それでも凌雲の庵の中だけは、清浄な空気が満ちていて、邪な気はここに入り込むことを拒まれている、はずだった。
 それなのに、今宵、部屋の隅には誰かが息をひそめて、じっと相手の隙を窺っている。

 蓮は眠っていた。そのはずだった。だが、身体がじっとりと熱を上げていくのが、眠りながらでもはっきりと分かった。
 どこまでも澄んだ霊気を漂わせる、静かな深い森。蓮は見知らぬその地を歩いている。神社らしき建物が見える。夢なのか幻なのか、それにしては足の裏には、草や木の湿気をしっとりと含んだ確かな地面を感じる。木々の奥へ引き込まれるように進んでいくと、これまでに見たことのない、光に包まれた池があった。

 池は蒼く、また碧だった。池の縁まで歩み寄って覗き込んでみると、遥かに深く透明度が高い。その底から、星のような淡い光が昇ってくる。光の中に何かが蠢いている。黄金に輝いて、ゆらゆらとゆらめいている。ゆらめくごとに、水面に届いた光は虹色となり、黄金の砂が月に吸い取られるように輝いて、空へ立ち上って行った。

 その時、蓮は水底からじっと自分を見つめる目に射抜かれた。
 激しい突風が身体を貫いた。何かが明らかに蓮の身体を通り抜けていったのだ。
 身体中の細胞が痛みに呻き始めた。脳の中身の温度は、一気に沸点に達した。細胞と細胞を繋ぐ全てのブリッジが悲鳴を上げて軋んでいる。軋みは身体を巡る神経のネットワークによって指や爪、髪の先にまでも伝播する。身体中が熱い。内側から細胞が沸騰して壊れるのではないかと思った。

 直ぐに身体が何かに縛り付けられたように硬直し、血管の内側を巡る血液までが熱を帯び始めた。血液が激流となり、内側から血管壁を痛めつけながら身体を走り抜ける。
 一体何が起こっているのか分からないまま、ふつふつと欲情が立ち上ってくる。
 蓮にとっては何よりも恐ろしいことだった。

「蓮」
 呼びかけられた時、蓮は思わず相手の腕を引き寄せていた。
 突然の激情だった。頭で拒否する行為を、身体が勝手に求めようとする。その反発する力で身体が千切れそうになった。頭の中は激烈に痛んだ。割れる、というよりも爆竹が破裂し、その破片が内側から骨に幾片も突き刺さったような痛みだった。
 身体の中心に熱が集まってくる。誰でもいい。誰かこの熱を受け止め、このまま共に狂って欲しいと願う。

「どうしたんだ」
 耳に滑り込んできた声は、身体の神経の全てを突っ走った。蓮は引き寄せた相手を、同じ頭の中の別の意志に支配され反発する強い力で突き飛ばした。
「俺に触るな!」
 自分の声で我に返った。

 凌雲は不意打ちを食らったようだが、蓮の力が思ったほどに強くなかったのか、倒れはしなかった。いや、実際には蓮の身体がまともに動いていなかったのだ。蓮の手首を掴んだままの凌雲は、しばらくの間、驚いたように蓮の顔を見つめ、それからそっと背後を振り返った。



 仏師である凌雲の庵に蓮が訪ねるのは、月に大体一度ほどだった。
 大概は凌雲への、あるいは凌雲からの頼まれものを届けに行くだけで、夕方までには帰途につく。泊まるのは正月の三日間だけと決めていたのだが、まだ正月が明けて間もない今日、やむを得ない事情で泊まることになった。

 蓮は、昼間は失踪した叔父・釈迦堂魁の探偵事務所で留守番探偵として暇を持て余しながら退屈という仕事をこなし、夜になると四条大橋の近くにあるショウパブのホール係として、昼間とは打って変わって相当に忙しく働いている。
 その間に、保育園に預けている被保護者、六歳の和子(にこ)を送って行ったり迎えに行ったりで、住まいである西陣と四条河原町を一日に二往復していた。
 交通手段は専ら自転車だ。

 大原まで行く時も、バスよりも自転車が好ましい。いつもは和子を乗せるためにママチャリなのだが、大原に行く時だけはマウンテンバイクを動かしてやる。
 その日は古本を数冊、それから何やら書簡の束のようなものを届けに来た。
 古本と書簡の持ち主は、『奇跡屋』という胡散臭い名前の貴石を売る店の婆さんだった。釈迦堂探偵事務所は『奇跡屋』の二階にあり、古い町屋の入口を共有している。

「何を調べているんだ?」
 束ねられた書簡と和綴じの古本には年号がふってある。明治、大正、昭和の百年以上をまたぐ期間のものだ。
 凌雲はいつもの作務衣姿で玄関兼用の土間に立ったまま、書簡を確認していた。
 凌雲は背の高い外国人だが、日本画や浮世絵、仏像の修復師としてその名を知られている。さらに仏師としての号を持ち、今ではすっかり日本人以上に作務衣姿が板についている。

 凌雲はふと手を止め、そのどこまでも暗く深い青灰色の瞳で蓮を見つめた。
「お前は、呪いの何とか、って話を信じるか?」
「呪い?」
「たとえば、有名な『ホープ・ダイヤモンド』。九世紀にインドで発見されて、ルイ十四世がこのダイヤを所有したことによりフランス王家は衰退への道を転がり始めたとか、その後の所有者が次々と不慮の死を遂げたり離婚したりしたのだとか。今は元の大きさよりも随分小さくなって、博物館に収蔵されている」

「ただの都市伝説だろう? 大体、そのダイヤを持っていなくても、死ぬことも離婚することもあるだろうに」
「ダイヤを売名行為に使ったという噂もあったな。シャーロック・ホームズは『ただの炭素の塊』と言ったが」
「それで、日本にも似たような話があったとでも? どうせ、婆さんが妙な噂話を振り撒いているんだろう」
「どうだろう。だが、玉櫛さんは、神のものは神に返せと言われたんだ」
「神のもの?」

 そんなやり取りの後、土間と続きの板敷の間に上がり、囲炉裏を挟んで向かい合って凌雲の淹れたお茶を飲み、和子のことや、蓮が居候している寺の人たちの近況を言葉少なに話し、帰ろうと思ったら、突然氷のように冷たい大雨に襲われた。

 この辺りは、少し日が暮れると真っ暗になる。そこに襲い来た冬の大雨は、朝の天気予報からは大きく外れていた。もちろん、蓮は大雨の中を帰る手段を用意していなかった。
 そのうちに止むだろうと二人で軒下に立ち、しばらく空を見上げていたが、空なのか、ひっくり返った川なのか、暗闇の中ではもう分からない。蓮は帰ることを諦めた。

 正月にはそれなりに準備をしている凌雲だが、普段の食事はつましいものだった。近所の老人たちから貰う野菜や米、それに干した魚、味噌汁の中には豆腐と葱。それでも蓮にとっては何よりのごちそうだった。

 板間の部屋の暗い隅に、見たことのない五十センチメートルくらいの高さの木彫りの像が置いてあることに気が付いたのは、食事を終えて、囲炉裏の火を落としている時だった。
 蓮が問いかけるように凌雲を見たのは、木彫りの背後に緑の光のようなものが立っているような気がしたからだ。
 だが、蓮は言葉を呑み込んだ。何か抗しがたい力が、その内側から湧き上がっていたからだ。触れることも、語ることもならぬという強い力が、ぞの像の内側で渦を巻いている。

 朽ちかけた像の元の形はよく分からなかった。まるでもう一度ただの枯れ木に戻ろうとしている途中のように見えた。名もなく、意味もなく、ただ自然のままに生まれ出た場所にあった時のように。
 蓮が隣の間で眠りについた時も、凌雲はまだ石屋の婆から受け取った資料を調べていた。



 凌雲は蓮の腕をしっかりと抱きとるようにしたまま、部屋の隅を見つめていた。
 もう鑿の痕もはっきりとは分からないほどに朽ちているその木彫りの像は、凌雲がある人から預かったものだった。

 その像の本当の名前を誰も知らない。何故なら、この像はもともとどんな形で何を表したものなのか、あるいは始めから実は形を成していなかったのかさえ、分からないのだ。作者も作られた時期もはっきりしない。
 その上、凌雲にこれを預けた人は、すでにこの世の人ではなかった。政財界に顔がきく人物だったが、像を手に入れて間もなく、突然自宅で亡くなっているところを発見された。

 その老人は遺言を残すつもりだっただろうか。それとも、永遠に手元に置きたいと願っていただろうか。遺族は、この像を受け取ることを拒否した。そんな薄気味悪いものを持っていたなどとは知らなかった、噂では持ち主に不運をもたらす呪いの像だというのだから、と。

 老人は凌雲に、この像を壊さずに中に入っている何かを取り出せないかと言ってきたのだ。手で触れるだけでも崩れてしまいそうな像を揺り動かすと、確かに微かな音が聞こえていた。
 老人の死に途方に暮れて、その人を紹介してくれた『奇跡屋』の玉櫛に相談した。
「あんたに預けて死んだんだ。それはもうあんたが好きにしたらいいのさ」
 ただし、と玉櫛は言った。
「扱いを間違えたら大変なことになるよ」

 実際には、その時、玉櫛も事情を知らなかったのだろう。
 後になって資料を揃えたという連絡が来て、今日、蓮が古本や書簡の束を言付かって大原まで持って来てくれたのだ。

 噂では、所有者を次々と不幸に陥れてきたという像。
 書簡や報告書らしいものには、この像にまつわる秘話が綴られていた。持ち主の多くが突然色恋や博打に狂って不慮の死を遂げたり、事業に失敗したりしているのだという。もとの形は、まるで龍が何かに、多分人に、巻きついているような姿をしていたという記述もある。また、かつて『龍の媾合(みとあたい)』と呼ばれていたこともある、と。

 宝は生まれた場所を離れ、人々の欲望を吸い上げ、この世を彷徨い歩いている。吸い上げた欲望が、所有者の心に邪な矢を放つ。衝動は時に人を死へと導く。本来ならば神が持つべきものが、間違えて人の手に渡ってしまった。人は神から宝を奪い、神の目から隠すために像の中に閉じ込めた。

 凌雲がまだその像を振り返っているうちに、するり、と蓮が凌雲の腕を離れた。まるで何かに操られたかのように、気配も少なく立ち上がり、像に近付いていく。
 凌雲は像から緑色の光が立ち上がっているのを見た。光が絡まりながら湧き出している。

 その時、蓮はいきなり像を掴み上げたかと思うと、そのまま土間に叩きつけた。
 朽ちかけていた木は、自らの運命を知っていたように、あるいはそれを始めから望んでいたかのように、ほとんど抵抗なく粉々の木屑となった。
 凌雲もまた、その像の運命を知っていたような気がした。

 朽ちた木の中で蠢いていたものが、今長い時を経てようやく光を取り戻そうとしているのだ。
 凌雲は静かに蓮の傍へ歩み寄り、足元に転がった小さな石を拾い上げた。
 蓮の目には正気が戻っていた。
「大丈夫か?」
 蓮はうなずいた。そして、凌雲が作務衣の裾で埃を拭った石を見つめた。

「翡翠?」
 微かな壁際の灯りの下でも、その内なる光は特別であることがよく分かった。勾玉の形に整えられた翡翠は、ゆらゆらと揺らめきながら、悠久の時を生きていた。
「蓮、お前、何日か仕事を休んで、俺に付き合ってくれないか?」
「なぜ?」
「この石があるべき場所、奥出雲の川の神に返したいんだ」

 いつの間にか、雨は止んでいた。



「それから?」
 和子の質問は三歳の子どものように他愛ない時もあるし、やはり六歳かと思われるような年齢相応のものであることもあり、また、まるで大人のような物わかりの良さを感じさせるときもある。
 身体も心もでこぼこに伸びている、そんな歪みと、それでも前に向かおうとする強い命の力を感じさせた。

 重い心臓の病気で、生まれて間もなく手術を受け、それからまた数か月で二度目の手術、そして一歳になる前と二歳になる前と、合計四度の命に関わるような手術を受けてきた。その度に、健常の子どもであれば坂道をまっすぐに上がるような体力や精神の発達を阻害され、何度も心の成長のやり直しを余儀なくされてきたのだ。同じ年の子どもと上手くやって行けという方がどうかしていると、いつも玉櫛は思っていた。

 玉櫛、いやそれは、昔の艶やかな時代の名前だ。今はただ石屋の婆と呼ばれることの方が多い。
 この世の中は、とにかくも、社会の仕組みや技術の発達の中でどんどん弱者を作り出す癖に、その弱者を庇う優しさを失っていっている。

 和子は今日、保育園の後、『奇跡屋』にやって来た。いつも迎えに来るはずの蓮は玉櫛の使いで大原の凌雲のところに行っているので、和子のことは、蓮と和子が居候をしている寺の奥さんが迎えに来るはずだった。

 和子には両親はいない。どちらも生きてはいるが、和子の傍にはいないのだ。捨てられた和子を、当時主治医をしていた蓮が引き取った。蓮は和子を引き取った時、医者を辞めている。だから和子にとって頼りになる大人は、今は蓮だけだ。
 だが、和子はどうしても蓮とはまともに口をきこうとしない。蓮もまた、和子にどのように接したらいいのか分からないようだ。

 和子の膝にある本は、『古事記』だ。もちろん、和子にほとんど漢字ばかりの文字が読めるわけはない。だが、和子は比較的正確に言葉を反芻することはできる。
 玉櫛は和子に『古事記』に書かれたある伝説を話してやっている。

 出雲の大国主命は、越の国に奴奈川姫(ヌナカワヒメ)という賢く美しい姫がいるという噂を聞き、求婚するために越の国に訪ねてゆく。奴奈川姫は大国主命と歌を贈答したが、すぐには求婚に応じず、一日後に受け入れ、結婚したという。
「二人の間には子どもが生まれた。諏訪の国の神・建御名方命(タケミナカタノミコト)だ」
「へんな名前」
「神様の名前だからね」

「にこもへんな名前だって言われる」
「お前の親はバカだったと思うが、娘にはいい名前をつけた。ちっとも変じゃないね。名前は『呪(しゅ)』だ。人をその人であらしめる魔法のようなものだよ」
 和子はふ~ん、という顔をして、また膝に置いた本を見る。玉櫛は和子が分かっていてもいなくても、大人に対するように話しかける。

「この結婚話は、出雲族と奴奈川族との同盟をあらわすものだと言われる。遠くにある二つの国が仲良くしたんだよ。結婚後、奴奈川姫は大国主命と能登国、つまりに全く別の場所に行って住んだが、仲が悪くなって別れてしまった。お前んちの母親と父親と同じだ」
「ふ~ん」

「夫である大国主命には嫉妬深い嫁がいた。奴奈川姫はふるさとに逃げ帰って、悲しみのあまり、皆の前から姿を消した。いなくなってしまったんだよ」
『天津神社並奴奈川神社』の伝説では、越の国に戻った姫は自殺したともいう。

「もっともこの話は別の姫さまの話をいっしょくたにして間違えているって説もある。かぐや姫がお城の舞踏会に行ってガラスの靴を落としてきました、ってなわけだ」
 石屋の婆さんは、店の中をするすると歩き、古びた棚いっぱいに並んでいる石の中から一つを持ってきた。

「ごらん。これは越の国の糸魚川という川で採れた石、翡翠だ。翡翠は今から四千年以上も前、縄文時代の宝だった。糸魚川にはその頃の翡翠工場の遺跡が見つかっている。だが、大和朝廷の時代には糸魚川も翡翠も歴史書から姿を消しているのさ。翡翠が採れなくなったのか、翡翠はもう宝ではなくなったのか定かじゃない。糸魚川の翡翠のことが再発見されて取り沙汰されたのはずっと後、昭和になってからだ。だが、出雲大社本殿の裏の真名井遺跡から、最高品質の翡翠の勾玉が、銅戈とともに見つかった。本当はどこで作られたものか、分かっていないが、今では糸魚川の翡翠だと言われている。少なくとも、出雲と糸魚川には深いつながりがあったんだろうね」

 玉櫛が光に石をかざすと、石はあらゆる種類の緑色の光を跳ね返した。
「人間はね、昔のことをどうやっても知ることはできない。だが、馬鹿な人間は、今のことだって知ろうとはしない。難しいことじゃないさ。ただ想うだけでいい。想いには光の羽根がある。この石たちと同じように。想いは知識を呼ぶ。知識は人を少しだけ賢明にする。賢明になれば、愚かなことに惑わない。だが、想いのないガラクタのような知識はだめだ」  

 和子は何のことか分かっているのかいないのか、じっと翡翠を見ている。石屋の婆はいつも和子にこうして話しかける。和子の目には疑問がない。
「翡翠は神の石だ。遠い国から出雲の神様のところへ嫁いできた。神様というのは川のことだ。奴奈川姫というのは、遠い国の川の神様だったんだよ。この翡翠は川の賜物だ。だから姫神様の石なんだよ。神のものは神に、人のものは人に返すべきなんだ」

「故郷に帰るの? それともお嫁に行ったお家に帰るの?」
「石が決めるさ。にこ、お前もだよ。蓮はできそこないの医者で、男としても最低のことをしてしまったが、ひとつだけ正しい選択をした。にこ、お前を選んだことさ。だからお前も、今はそんな切羽詰ったことにはなっていなくても、いつか、選ぶ時が来たら正しいものを選べるように、心を決めておくんだね」

 石屋の婆、いや玉櫛は、和子の胸を指差した。
 幼くして幾度も厳しい場面を乗り越えなければならない宿命を抱え、もしかするとこれからも多くの試練が待ち構えているかもしれない和子の心臓の上で、和子の石、蓮が磨いたラピスラズリの入った小さなお守り袋が、和子の鼓動を受け取るように蒼く静かに震えていた。





お粗末さまでした。
蓮は性的な衝動について、ものすごく罪悪感をもっておりますので、このような体験については半ばパニックだったと思います。本物の『龍の媾合』は9年に1度の神秘的な出来事(夕さんは怪奇現象と説明しておられました^^;)で樋水村でしか体験できません(変な解説……)。でも、姫の翡翠の勾玉には樋水川の霊力の一部が閉じ込められていたようで……
というのをイメージしました^^;

もうひとつのテーマは……「神のものは神に」という聖書の言葉。
宗教は違っても同じで、この短い言葉の中には色々なことが籠められていると思うのです。
石も、和子の命も……神のもの。あるいは蓮の重荷も神のものかも。
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Category: 奇跡を売る店・短編集

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【20000Hit御礼掌編】君に届け、愛の唄 

20000Hit御礼掌編は【奇跡を売る店】シリーズ掌編です。
舞台は京都、奇跡ではなく奇石(貴石)を売る怪しい店の婆さん・玉櫛と、その2階を間借りしている探偵事務所の留守番探偵・蓮を中心に巻き起こる事件の数々(になる予定^^;)を綴る物語をお届けしています。
実は設定の一部を忘れているところもありまして、【サンタクロース殺人事件】を読み返してみたら、結構面白いやん、と自分で楽しんじゃってました。事件よりも人間関係が面白いかも、なんてね(いけません、自己満足は身を滅ぼす)。
さて、今回はあのオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』の連中が、また変なイベントを考えてついたようです。巻き込まれた皆様、あれこれとお許しあれ。結構読み返して確認したつもりだったのですが、何か設定上不味い部分があったかもしれません。ご指摘くださいね!

【登場人物】
リナ・グレーディグ(八少女夕さん【リナ姉ちゃんのいた頃】より)スイスからの交換留学生。超美形の高校生だが、いささかぶっ飛んでいる? 趣味のひとつは意外な買い物。
エス(サキさん【物書きエスの気まぐれプロット】より)パートナーと友人たちに支えられながら、物語の断片をブログで発表している、少し引っ込み思案の女性。
星河智之(TOM-Fさん【あの日、星空の下で】より)京都の某高校の教師で天文研究会の顧問。何故か押しの強い連中に囲まれやすい。
田島祥吾(けいさん【夢叶】より)人気バンド『スクランプシャス』のヴォーカリスト。実は友人以上恋人未満の女性がいる!(くっついちゃえ同盟はまだ解散していません)
リク(limeさん【RIKU】他より)絵描き、かつ幽霊の媒体になりやすい不思議青年。いつの間にかヤバいものに引き寄せられてしまう体質。
釈迦堂蓮もと小児科医、今はオカマショウパブのホールで釈迦堂探偵事務所の留守番探偵。昭光寺というお寺に居候している。
玉櫛『奇跡屋』の女主人。魔女のように怪しい婆さんだが、元は祇園の売れっ子芸妓。
和子(にこ)蓮の元患者。事情があって蓮が引き取って育てている。蓮に懐かない。
大和凌雲大原に住む仏師。蓮の元家庭教師。
シンシア・ミッキー『ヴィーナスの溜息』のおかまさんたち。

【登場する場所】
ヴィーナスの溜息蓮が勤めるオカマショウパブ。
奇跡屋玉櫛が経営する奇石・貴石を売る店。
昭光寺蓮が居候している寺。
龍泉寺【清明の雪】に登場する寺。大広間の天井の絵は知る人ぞ知る『消える龍』。和尚は物の怪遣いという噂あり。

TOM-Fさん、高校生のリナ姉ちゃんがこのツアーに参加するために智之さんにはすでに高校教師になってもらっちゃいました。えっと、不都合があったらお知らせくださいね。どこかでそんな話もあったのかどうか、思い出せなくて。
limeさん、玉ちゃんはしょっちゅう入院してたり病気になっていたような気がしますが、虫垂炎はなかったかしら? 一応ちらちらと確認したのですが、もし既に切っていたら、病名変更します!


20000Hit君に届け、愛の唄

 どうして待ち合わせが京都駅じゃないわけ?
 京都に着いた途端にリナ・グレーディグは思わず悪態をついた。いや、タクシーに乗れば済むのだから、移動の問題はどうでもいい。京都の碁盤の目の中では、バス、タクシー、もしくは自転車さえあればどこへでも行けると聞いている。
問題はこの気温と湿気だ。噂には聞いていたが、本当にひどい。ここは人間の住むところじゃないわ、と思いながら、リナは迷わずタクシーを選択した。

 外国人観光客には慣れているのか、それともホットパンツから伸びるすらりとした脚に目を止めたからか、嫌な顔一つせずに乗せてくれたタクシーの運転手は、リナの渡したメモを見てすぐに車をスタートさせた。とは言え、タクシープールから出るだけでも赤信号につかまっている。さすが国際観光都市・京都。車も人も半端ない。
 シャネルの新作のバッグの中でiPhoneが震えた。三貴からだ。

「無事に着いた?」
「着いたよ。暑くて気持ち悪い」
「どんなに暑くてもタンクトップ一枚になっちゃだめだよ。泊まりはお寺なんだから」
「これってシュギョウって言うんだよね?」
「何言ってるの。網タイツも駄目だよ。まさかホットパンツで行ってないよね?」
 そのまさかだ。網タイツは、蝶と王冠で迷って、結局蝶にした。そもそも、案内書の注意書きに「ホットパンツと網タイツはご遠慮ください」なんて書いてなかったけど?

「リナ姉ちゃん、それは『日本の常識』ってやつなんだよ!」
 沈黙の間を三貴は正確に理解したようだ。
「それから、変な漢字を書いたTシャツとか半被とか、ぺらぺらの着物とか、そんなのは買ってこなくていいからね!」
 え? それこそみんなが喜びそうなのに。
「忍者」とか「侍」とか「天下統一」とか。でも「寿司」に決めてたんだけどな。
 でもどう考えてもこれは、革のホットパンツに網タイツの私を求めているとしか思えないわ。
 リナは改めてチラシを確認した。華やかなショーのワンシーンの写真が掲載されている。一度行ってみたかったのよね。でも未成年だけじゃ行けないじゃない。

 このツアーに問い合わせの電話をしてみたら、向こうで「きゃ~、ガイジンからデンワよ~」という声がして、その後、かなり流暢な英語を話す男性が電話口に出た。
『ええ、六感で味わう京都がコンセプトですから、言語なんてお気になさらずご参加ください。もちろん、私もおりますのでガイドさせていただきます。あ、私、ミッキーと言います』
 リナは電話の向こうの人物に、「犬を飼っている、耳の大きな、世界で一番有名なネズミ」の姿を当てはめた。
『私、高校生なんですけど、一人でも参加できます?』
『え? 未成年ですか? いや、どなたか成人の方がご一緒なら……』
『何とかします。えっと、和菓子も食べれます?』
『もちろん、高級和菓子から抹茶のソフトクリームにチーズケーキ、葛きり、八つ橋、さらに京料理の粋を極めたランチに懐石まで、京都の味を目いっぱい味わっていただきます』
 ひゃっほう。
 アヤノ姉ちゃんに電話して誰か紹介してもらおうっと。確か、キョウトには知り合いの高校教師がいるって言ってたわ。
 そういうわけで、勢いだけで難なく『付添いの成人』をゲットしたリナは、相手が誰かも知らずに単なる興味でこの京都に乗り込んできたのだった。
 そう、Shall We Dance? よ。


 不安な気持ちは分かるけど、一度ロケハンってのに行って、自分の五感全部使って感じた世界を書いてみない?
 コハクの言葉に乗せられてやって来たものの、駅に降り立ったとたんにエスは少しだけ後悔した。やっぱりダイスケに一緒に来てもらうんだった。知らず知らずに手に持ったiPhoneを握る手に力が入った。
 そのエスの傍らを伽羅の匂いが通り過ぎていく。淡い紫色の小紋を着た年配の女性は、改札口の混雑の隙間を泳ぐように抜けていった。結い上げた髪と年齢を疑うような白いうなじ、すらりと伸びた背中をしばらく見送っていたエスは、自分も背を張り一歩を踏み出した。

 京都のイメージをひっくり返すような近代的な駅の建物を出るとバスターミナルだ。蝋燭をモチーフにした京都タワーだけは昔の姿のまま、中途半端にモダンな駅と、不安と期待が半分ずつのエスを見下ろしている。
 iPhoneが震える。
「大丈夫? やっぱりついて行った方がよかったかなぁって、ちょっと心配になってたとこ」
「うん、何だか大丈夫みたい」
「4番と14番はだめだよ。四条通りを通るから」
「コハク、大丈夫だよ。17番か205番に乗るね。調べて来たから」
「とにかく、私とダイスケに定時連絡は入れるのよ」

 結局みんな優しいんだからと思ってエスはバスを待ちながら、もう一度ツアー行程表を確認した。
 それにしても、どうしてこんな変なところで待ち合わせなのかな。
 そう思ったところへ205番のバスがやって来た。知らない町ではないけれど、一人で歩くとなると緊張する。それよりも知らない人たちと一緒だというのが一番の問題だ。でも、コハクがこれを勧めてくれたのには理由がある。

 エスがダイスケと一緒に『現代の仏像作家』という展覧会に行ったときのことだ。その仏像は会場の一番端の目立たない場所にひっそりと佇んでいた。
『へぇ、円空仏みたいだね』
 確かに、円空の仏のように鑿の痕が残る小さな仏像だった。だが、円空仏よりもずっと繊細で控えめな鑿の痕だった。まるでその痕のひとつひとつに祈りが刻み込まれているような気がした。
 作家のプロフィールには何も書かれていなかった。ただ『大和凌雲、大原在住』とだけ。

 その話をいつかコハクにしたのかもしれない。コハクが見せてくれたチラシには『大原に住む仏師・大和凌雲の庵』と書かれていたのだ。
 だから思い切って出かけることにした。あの仏像を彫った人に会えるかもしれない。エスはきゅっと吊り革を握りしめた。
たかがブログに載せる小説だけれど、私にとってはとても大事なものだ。誰もが見ているようで見ていない世界を、私だけが知っている言葉で綴りたい。そして、読んでくれた誰かが静かに心を震わせてくれたら、それはとても幸せなことだ。
 コハクとダイスケが私の背中をいつもそっと押してくれる。


 今日も暑い。まだ6月だというのに、これから梅雨の時期を挟んで彼岸までこの暑さは容赦なくまとわりついてくる。それが京都の夏だ。
 星河智之はワンルームマンションの窓を閉めた。開けても閉めても暑いことには変わりがない。とにかく出かけよう。

 希望通りに高校の教員になったものの、就職先をどこにするかはかなり迷った。できれば星空の綺麗な所で、と思ったが、特に子どもの人口の少ない県などは新任教員の募集人数も限られてくる。それに始めは色んな経験をして自分を高めたいと思った。結果的に、教育実習でも世話になった京都市内の私立高校に教員の席を得た。天文研究部があったというのが一番の理由だ。

 6月、生徒たちは期末試験の追い込みに入っている。部活動は休みだし、既に試験問題を提出してしまった智之は、この土日にマウンテンバイクで大原の方へ出かけてみようと思っていたが、そんな時、新婚ほやほやの大学時代の先輩が飲みに誘ってくれて、奇妙なチラシを見せてくれたのだ。
『星河、なんか悩みでもないか? たとえば、どの子にしようか迷ってるとか』
『僕はいつも悩みだらけですけど、どの子にしようか迷ってるわけじゃないです。でも、なんですか、これ?』
『実はさ、俺の弟、家を出てったって話したろ。それがあまり人に言えたことやなくて、つまりマイナーセクシャリティなんや。それで親と決定的な喧嘩しちゃってさ』
『はぁ』
『でも俺だけはあいつの味方をしてやろうって思ってるんや。時々様子を見に行ってやりたいんやけど、何せ、俺も嫁さんの手前、あんまり夜に出歩けなくてさ。実はこれ、弟の勤めてる店が主催のツアー案内なんや。お前、暇やったらちょっと行って、様子見て来てくれへんか』

 そこで、なんで僕が? と言えないのが智之だった。京都市内で行われるツアーに、京都在住の自分が参加しても何も面白くない。その言葉を呑み込んでしまった途端に、まだ智之が何とも返事をしないうちに、じゃ、俺が申しこんどくからと、先輩が話を決めてしまった。

 しかもこの話はここで終わりではなかった。やっぱり断ろうかとスマホを取り出したその瞬間、ニューヨークにいる幼馴染の綾乃から電話があったのだ。
『あのね、私の知り合いの高校生の女の子、今日本に留学中なんだけど、京都でやってる面白いツアーに参加したいんだって。それで、成人の同行者が必要なのよ。あ、詳細は後でPCに送っとくから、頼んだよ』
 どうやら智之の未来予定表には「このツアーに参加する」ことが定められていたらしい。

 叡山電鉄・修学院の駅から出町柳に出て、京阪電鉄に乗り換える。ふと時計を見たら時間が早すぎることに気が付いて、七条まで乗り過ごした。二駅分歩いて四条まで戻ることにしたのだ。
 たまには街の景色を写真に撮りながら、それに、新しい小説のイメージを練りながら、見慣れた京都の町を歩くのも悪くない。それにこのツアー、後でチラシをじっくり見てみたら、何とも奇妙なツアーなのだ。もしかすると期待していない何かを見ることができるかもしれない。


 京都に来るのは久しぶりだ。成ちゃんを訪ねていったことがあるけれど、それからもう何年経つのだろう。今、スクランプシャスは上昇気流に乗っている。将来に対して何の心配もないと言えば嘘になるけれど、仲間と一緒なら何でも乗り越えていけるような気がしているし、実際のところそうなっていっている。スクランプシャスの四人(瞬も入れたら五人)だけでなく、その周りで支えてくれる友人たちも、今ではスクランプシャスのメンバーと言ってもいい。

 その「メンバー」たちの顔を思い浮かべながら、祥吾は溜息をついた。
『そろそろはっきりさせた方がいいんじゃないの?』
 成ちゃんは人の気持ちを置き去りにして身勝手なことを言う人じゃない。だからこそ、その言葉には重みがあった。
 久しぶりの2日間の休みを何に使うかと言っても、次のアルバムの曲作りの準備をしなくちゃと思っていたので、出かける予定も何も入れていなかった。でも今の状態では迷うばかりかもしれない。

 そこに、まるで「待ってました!」とばかりにあるチラシが目に入ったのだ。
『成ちゃん、これどうしたの?』
『あぁ、それ兄貴が送って来たんだ。最近、変な店に行きつけていて、そこのママから貰ったらしいけど、ま、単に、たまには帰って来いっていうことかなぁ』
 その日付けは、まるで誂えたように、祥吾の2日間の休みに当てはまっていた。

 祥吾は今、鴨川の河原を北に向かって歩いている。集合時間よりもかなり早く着いたので、京都駅から四条河原町まで歩くことにしたのだ。
 体力には自信があったが、これまで歩いた場所とは比べ物にならない熱と湿度が足元から昇ってくる。歩き始めて少しだけ後悔したけれど、鴨川を吹き抜けていく風が少しだけ慰めだ。
 そう言えば、最近、全く未知のものに触れるって経験、なかったかもなぁ。

 実は、先日発売された週刊誌に、祥吾の古くからの友人であり、仕事仲間でもあり(つまり『スクランプシャス』のメンバーと言ってもいい)、そしてとても気になる存在である葦埜御堂奏と、ある大物ミュージシャンの密会、なんて記事がすっぱ抜かれたのだ。いや、もちろん奏は「一般人」ということになっているから、名前は伏せてあったけれど、有名人である奏の兄貴の名前が出ていたのだから伏せたところで意味がない。その兄貴は冷静に否定していたから、多分記事自体はガセなのだろう。けれども、その記事が祥吾の気持ちを波立たせていることは否定できない。

 そんな最中だったから、何かの勢いでこの『京都ミステリーツアー』に申し込んでしまったのだ。
 祥吾はナップザックを背負い直し、気を取り直して歩き始めた。
 その先で、一人の青年が立ち止まってはデジカメで写真を撮りながら歩いている。
 随分と距離が近付いた時、青年のポケットからチラシが落ちて、風に飛ばされて祥吾の足元に絡まった。

「あ、すみません」
 爽やかな声で青年は走り寄って来た。
 祥吾は青年とチラシを見比べながら、しばらくその偶然を噛みしめる。既に『ミステリーツアー』は始まっているらしい。
「もしかして、このツアーの参加者の方ですか?」
「はい。ってことは、あなたも?」
 青年は少しほっとしたような顔をして、慌てて汗を拭いてから手を差しだした。
「良かった。あれこれ事情があって断れなかったんですけれど、変な参加者ばかりだったらどうしようかと思っていたんです。えっと、星河智之です」
 祥吾の方もほっとした。感じのいい青年だ。
「田島祥吾です」
「え。って、あの、まさかスクランプシャスの?」
 何気なく握手を交わしてから、青年は改めて驚いたように祥吾を見た。


『間合いが悪い』を具現化した絵を描いて欲しいという依頼が来たら、玉ちゃんの顔を描けばいい、とリクは思った。
 そもそも、言い出したのは玉城だった。
『リク、非公開寺の天井の龍の絵を見に行かない?』
『玉ちゃんがそんなものに興味があるなんて、意外だね』
『違うんだ。長谷川さん命令で、今度はドラゴン特集の記事を書けっていうからさ。日光東照宮の鳴き龍も見に行って、京都の天龍寺、妙心寺、建仁寺、相国寺、東福寺と見に行って、あ、もちろん、取材費は『グリッド』持ちだったんだけどさ、で、原稿を送ったら、なんかありきたりなんだよね~って言われちゃって。そうじゃなくて、こっそり誰にも見せることなく守られてきた龍はいないのか、なんかぐっと心に響くような記事を書けよって。あの人、無茶言うんだからさ。そもそも日本画自体が俺のテリトリーじゃないっての。で、そこにこれだよ』

 そう言って、玉城は如何にも胡散臭さが漂うチラシを出してきた。何が胡散臭いって、そもそもサブタイトルが胡散臭い。『あなたの悩み、石が解決します』。
『でもさ、ちょっと胡散臭いだろ。だから、一緒に行ってほしいんだ』
 あ、それは気が付いているんだ、とリクは玉城の真剣な顔を見て少しだけ笑った。
『玉ちゃん、胡散臭いものに好かれるものね』
『そりゃリクの方だろ』

 と言って、一緒に申し込んだのに、前日の夜になって情けない声で電話がかかってきたのだ。
『リク~、ごめん~、行けなくなった~。入院しちゃったんだ~』
 あまりの腹痛に病院に駆けこんだら虫垂炎で、緊急手術は必要ではないけれど放っておくと腹膜炎になりかねないから、明日、手術だというのだ。じゃ、僕もキャンセルして付き添ってあげるよと言ったら、付き添いもお見舞もいいから、できれば行ってその龍を見て来て欲しいと頼まれた。
『リクの目で見て感じたことを教えて欲しいんだ。でないと、記事、間に合わないよ』
 玉城の泣き落としに仕方なく一人で奇妙なツアーに参加することになった。

 そうなったらそうなったで、手術前の玉城から鬱陶しいくらいメールが来るのだ。
<< リク、大丈夫? やっぱり心細かったら、止めてもいいよ。
<< 平気。玉ちゃんこそ、大丈夫?
<< (;_:)(;_:)
 似たようなやり取りが何回か繰り返される。そのうち、リクは鬱陶しくなってカバンに放り込んだ携帯の存在を忘れてしまった。いや、忘れるくらい、何かの強い力に支配されてしまったのだ。

 チラシに書かれた集合場所は『奇跡屋』。四条河原町を東に少し入った、高瀬川の川沿いにある、奇石(貴石)を扱う店らしい。
 四条通りの人混みの中をふわふわと歩くリクの脇をすれ違う人々が、皆振り返る。苦手な人混みだが、そんなことよりも今まさに感じている力の出所を確かめたくて仕方がなくなっている。案内のチラシなど見なくても、引き寄せるエネルギーでその場所は直ぐに分かった。

 もっと暗いイメージかと思って近付くと、パワーは恐ろしく強いものの、意外にも陰湿な気配はなかった。重そうな木の扉の前に、リクよりは少し背の高い青年が立っている。マウンテンバイクを脇に立てかけて、ポケットから鍵を取り出したところで、青年はリクの気配に気が付いて振り返った。
「もしかして、ツアーの参加者の方ですか?」
「はい。すみません。早く着きすぎちゃって。主催者の方ですか?」
「関係者ではありますが、主催者ではありません。どうぞ。中に入ってお待ちください」

 リクが一瞬躊躇うような気配を示すと、青年は直ぐにその理由をくみ取ったように見えた。リクには驚きだった。この人は、リクの中の何かを察しているのだ。
「そうですね。この店の中は『気』が強すぎる。中にいられない人もいる。もし暑いのが気にならなければ、鴨川を散歩していてください。僕が後で迎えに行きますから」
 そう言ってから、ふとリクの方に近付いてきた。
 感じのいい人だな、とリクは思った。背丈はリクよりも少し高く、短く刈った髪のために精悍な印象がある。目は微かにグリーンがかった黒だった。

「あの、もしかして躊躇っているなら、今からでもキャセンルしたっていいんですよ。きっと魔女のような婆さんに高い金を吹っかけられて、奇妙な石を買わされたり、変なショウパブで一緒に踊らされたりする可能性が……」
 青年がまるでリクの身を案じるかのように近づいてきたところへ、後ろからよく通る声が飛んできた。
「レン、お前はまたあたしの商売を邪魔する気だね。さっさと鍵を開けな」

 そう言ったのはまさに「魔女のような婆さん」だ。小柄な体に、暑さをものともせずに黒いローブのような服を着ている。リクに狙いを定めたように鋭い目を向けてきたが、青年がまるでリクを救い出すように、リクの肩を抱いて四条通りへ連れていってくれた。
「この先に大きな橋があります。その脇から河原に降りることができますので。本当に、気が変わってキャンセルしたくなったら連絡してください」
 そう言って渡された名刺には『釈迦堂探偵事務所 釈迦堂蓮』という名前と携帯電話の番号が書かれていた。


 全く。一体誰がこんなものを考えたのだろう。いや、分かっている。オカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』が季節ごとにぶちかますイベントのひとつだ。
 こうして目の前に集まっている参加者の顔を一通り見てから、改めてツアー案内のチラシに目を遣り、蓮は溜息をついた。
 とは言え、この参加者たちの身を守るのは自分の役目であると自負もしている。
 とにかく、まずは石屋の婆さんが『あんたは何か悩んでるね』『この石を持っていたらあんたの悩みはたちどころに解決するさ』なんて言いながら、市場価格よりも高値で石を売ることを阻止しなければならない。

 しかもうちの昭光寺の和尚の紹介としか思えないが、今からあの『消える龍』で知る人ぞ知る非公開寺の龍泉寺でお茶をするというのだ。お茶と言っても、あの寺は、住んでいる人間の数よりも物の怪の数の方が何十倍も多いといういわくつきの寺だ。ティータイムから物の怪どもと宴会など、その時点でおかしいだろう? 
『物の怪とパーティ』ってまんまじゃないか。
 だが夕食の和久傳さん。これは大いにいいとしよう。俺だって、和久傳さんなんかで一度くらい夕食を楽しんでみたいよ。

 でも、この後はどうだ? そのまま『ヴィーナスの溜息』でどんちゃん騒ぎに入るわけだ。もちろん、『ヴィーナスの溜息』での飛び入りショーに無理矢理参加させられる犠牲者を守るべきだ。いや、中には喜んで参加したいって人もいるかもしれない。『あなたもオカマたちとショータイム!』なんて、どういう呼び込みなんだ?
 いや、それよりもさっきの青年だ。何よりも彼をあの店に集まる狼どもから守ってやらなければ。『ヴィーナスの溜息』は比較的健全で(あくまでも比較的、だ)ショーの質も高いし、男女問わず純粋にショーを楽しみたい客がやって来るが、中にはホンモノのゲイだっている。

 だが、何よりも問題は、泊りがうちの寺ってどういうことなんだ? しかも明日は凌雲先生の庵でランチ? あり得ない。よくも凌雲がOKしたものだ。いや、彼は意外に人嫌いというわけでもないし、それに『ヴィーナスの溜息』の頭脳派・シンシアとは個人的に付き合いもあるようだから、頼まれたのかもしれない。
 それにしても、よくもまぁ、こんなバラエティ豊かな面々が集まったものだ。蓮は自己紹介を終え四人をざっと見渡した。

 この中で一番ぶっ飛んでいるのは、リナ・グレーディグと名乗った高校生だ。いや、高校生には見えない超絶美人だが、さっきどう見ても初対面と思しき高校教師に向かって不遜な笑みを見せていた。その笑顔がチェシャ猫に見えたので「不遜」と感じたのもかもしれない。ツアー参加希望理由のところには「日本のオカマショウパブで踊りたい。日本で一番おいしい和菓子と和食を食べたい。土産にペラペラの着物をいっぱい買いたい」と書いてあった。
 この子は、少なくとも自分が守らなくてもよさそうだ。網タイツのダイナマイトバディにうちの和尚が鼻血を出さないか、あるいはそのあおりを喰らって、明日朝の稽古に力が入りすぎてコテンパンにやられないか(そもそもやられるのは蓮なのだ)、それはいささか問題ではあるが。

 そして、その隣で不安そうに他の参加者に時折目を配っている女性。本名を呼ばないで欲しいと書かれていたので、希望通り「エス」と呼ぶことにする。彼女こそは石屋の婆さんの餌食になりかねないので、何としても守り通さなければと思う。だが、意外に芯のところはしっかりした女性なのかもしれない。参加希望理由のところには「大和凌雲先生の作品が作り出される場所を見たい」と一言だけ書かれていた。
 凌雲の作品を目にする機会など、普通にはないのだと思っていたが、それにしても審美眼の高い女性なのだと思った。一人旅は初めてだと言っていたので、蓮は特に彼女のことは気に掛けることにした。時折不安そうに周囲を見つめる目が誰かに似ていると思ってたが、それが自分の最も身近にいる人間の目だと気が付いて、蓮は不思議な感覚を覚えた。
 今日、和子(にこ)は舟が連れ出している。舟と和子が一緒に出掛けるというと、コースは大体決まっている。鴨川の河原、それから糺の森で遊んで、大原の凌雲のところだ。

 それから男性が二人。もう一人のリクという名前の青年は、後から蓮が鴨川に迎えに行くことになっている。
 一人は京都在住の高校の教師だという星河智之。よくよく事情を確認すると、リナという高校生の付き添いらしい。どう見ても二人は初対面のようだが、まわり回って断れなかったというところか。押しの強い女性が多くなった昨今、草食系の男子にはなかなか住みにくい世の中になっている。いや、肉食・草食という区別さえ、逞しき女性たちが勝手に男たちにレッテルを貼っているに過ぎない。
 でも、人もよさそうだが、頭もよさそうな、好感度の高い男性だ、教師としても人気があるんだろうなと思った。さっそくリナに絡みまくられて困っているようだが、ミッキーや蓮が手助けをしなくても通訳の役割は果たしてくれるようだ。

 そしてもう一人。後から『ヴィーナスの溜息』のメンバーがキャーキャー言っていたので知ったのだが、彼は有名なバンド・スクランプシャスのヴォーカリスト、田島祥吾だった。もっとも、そんな有名人らしい気配はまるでなく、まわりに気を遣いながら、それにすんなりと誰とでも打ち解ける、芸能人とは思えない人懐こい人物だった。時折、ふと溜息をついて遠くを見ている時は、次の仕事のことでも考えているのだろうか。
 確かにこれは人気があるのも頷ける、と蓮は思った。女性ロックバンド『華恋』の笙子もそうだが、道を歩いている時には本当に普通の人なのだ。それがある場面になると一気に天からオーラの波が降ってきて、ステージの上ではそれを身に纏う。

 男性二人は参加希望理由のところに「何となく」と書いてあった。『ヴィーナスの溜息』でさんざん飲み食い踊り歌った後、昭光寺に辿り着いて布団を敷いてから、何故か智之、祥吾と蓮は三人でゆっくりと飲み直すことになった。リクは一人で縁側に座り、庭を眺めている。あまり宴会の輪には入りたがらないようだ。リナはダイナマイトバディで踊り疲れて早々に眠ったらしいし、エスはやはり今日のダイナマイト級の行程に疲れてしまったようだった。

「いや、本当に不思議な一日でしたね」
「一体あのお寺はどういう縁起なんですか? 京都には結構長いこと住んでいますが、初めて知りました」
「僕もよく知らないのです。ただ、あの寺、時々この道だったかと歩いていても、辿り着けない時があるんですよ」
「昼間っから酒を飲んでしまったせいでしょうか、あるいはあのどぶろぐ、何だか妙なものでも入っていたんでしょうかね。何だかこの世のものならざるものと大騒ぎをしてしまったような」
「いや、それもね……あの和尚が既に物の怪の域に入っているという話もありますから」
「それにしても、智之さんのお連れのリナさん、すごいパフォーマンスでしたね」
「『ヴィーナス』のメンバーもタジタジでしたからね」
「いや、連れじゃなくて、ごり押しなんですけど、これからもまた連れて行けって話になったらどうしましょう。一応高校生なので、あまりああいう店は……でも、日本でのいい思い出になったでしょうかね」
 考えてみたら、龍泉寺であの世の物の怪たちとどんちゃん騒ぎをして、『ヴィーナスの溜息』でこの世の物の怪とどんちゃん騒ぎをしたようなものだ。だが、思えばどちらも可愛い物の怪たちなのだ。……個人的な意見だが。
 そう、石屋の婆さんに比べたら……

「そう言えば、祥吾さんは世界のあちこちを歩き回っておられたんですよね。日本なんてちっこくて狭い国だなって感じませんか?」
「うん……正直、そんなふうに感じることもあります。でも今日の方が体験的にはすごかったかも。世界を股にかけたというよりも、あの世とこの世を股にかけたという気がしましたから。何だか、人生って何とかなるんだな、と変に大きな気持ちになりましたよ」
 確かに、どこまでがこの世か分からないものが京都には蠢いている。


 朝方、ほとんど眠れなかった蓮が庭に出てみたら、エスが和子と遊んでいた。一緒に何かを探しているようだ。虫か花か。エスが蓮に気が付いて頭を下げて挨拶をくれる。蓮も頭を下げた。それに気が付いた和子が蓮の方をちらっと見たが、いつものようにぷいと横を向いてしまった。
 何となくどこか似ていると思ったのは間違いでもなかったようだ。二人はずっと昔からの知り合いのように、自分たちが見つけ出した何かを見せ合っている。
 優しい人なんだろうと蓮は思った。

 その景色を、かの不思議な青年、リクがスケッチしていた。
 蓮はリクの傍に近付き、おはようございますと挨拶をする。リクはぺこりと頭を下げた。
 ちらっとスケッチをのぞきこむと、そこには庭の景色と和子の姿が描かれている。色は付いてないものの、まるで鉛筆の濃淡から緑の背景と、和子のスカートの赤が浮き上がってくるようだった。この青年には和子の何かが分かるのかと思って、思わずまじまじと覗き込んでいたら、リクはそのスケッチを蓮に差し出した。
「どうぞ」
「え、あ、ありがとう」
 蓮は絵の中の和子を見つめる。微かに蓮に向かって微笑んでいるように見えるのは、やっぱり気のせいだろうな。彼女はエスに対して微笑んでいたのだ。

 和子の絵の下のページには、昨日龍泉寺で見たあの天井龍が描かれていた。
「龍を見に来たんですね」
 リクは顔を上げた。綺麗な目だと蓮は思った。
「消えるんだそうですね」
 リクの唇が動く様を、蓮はふしぎな気持ちで見つめていた。まるで動かないはずの幻が語っているようだ。
「えぇ。でも早春の一時期、しかも運が重ならないと見られないそうです。それよりも、あの寺自体が本当にこの世に存在するのかどうか……」

 リクは顔を上げて微かな笑みを浮かべた。
「いつもは大概マイナスのエネルギーを感じるんです。でもあの場所は、マイナスのエネルギーは上手く封じ込められて、上にプラスのエネルギーが充ちていた。原因はあの妙な和尚さん、でしょうか。陰陽の全てを丸め込んでいる」
「タヌキ和尚ですね。うちのキツネ和尚とは親戚なんですよ」
 リクは目を丸くして、それから面白そうに笑い、龍の絵に視線を落とした。
「京都、また来たいな。今度は玉ちゃんと一緒に」
 独り言のようだった。

「凌雲先生の庵も、きっと気に入りますよ」
 蓮は少しだけ残念だと思っていた。あの場所に誰か他人が入ってくることに幾分か抵抗があるのだ。もちろん、蓮の知らないところで多くの人間があの場所に出入りしているはずなのだが。
 何かを感じたのか、リクがじっと蓮を見つめ、それからまた庭で遊ぶエスと和子に視線を戻した。

 道場に行ったら、キツネ和尚の前には何とリナがいた。
「あ~、レンさん、オショウサンにケンドー、教えてるヨ」
 って、日本語喋れるんじゃないか。いや、教えてるんじゃなくて、教えて貰ってるんだけど。でもさすがに網タイツじゃないな、って当たり前か。「ケンドー」がすっかり気に入ったのか、「め~ん」「こて~」「どう!」の掛け声も堂に入っている。
 蓮も相手になったが、結構すばしこくて筋がいい。へぇ、あのダイナマイト級の踊りも伊達じゃないな。

 何よりも、蓮は久しぶりにキツネ和尚の餌食にならずにすんだことについては、リナに心から感謝した。無茶苦茶に強い和尚が蓮には本気でかかって来るので、容赦がないのだ。それが今日はリナのお蔭で何となく鼻の下が伸びている。
 でも、今日ももちろん、網タイツで出かけるんだろうな。
 凌雲がリナの網タイツ足に目を奪われないことを願う。


「さてと」
 石屋の婆さんこと玉櫛は、参加メンバーの石を並べながらニタニタしていた。
 まずはリナ・グレーディグの石。八月の誕生石、ペリドットはマグネシウムと鉄を主成分とする珪酸塩鉱物だ。今目の前にある石は緑色が美しい結晶で、マグネシウムと鉄の存在比が4:1程度、微量のニッケルが含まれている。
 かつてエジプト王家に献上された石はトパーズとされていたが、その石が採れたとされる島ではトパーズが採石されたことはなく、実はそれがペリドットではなかったかと言われている。ペリドットは生命力、希望、発展を象徴する。闇を消し去り、悪魔を追い払い、精神を安定させる効能もある。
 ふん、あの娘には出来過ぎた石だが、これはなかなかいい石だ。いつかこの石に相応しい娘になるといい。

 そしてエスという娘の石。三月の誕生石はアクアマリンが有名だが、彼女にはこっちの石が相応しい。ブラッドストーン。細かい粒の石英の結晶が集まった碧玉(ジャスパー)の一種で、鉄に起因する赤色や赤褐色の斑点がある。古代エジプト・バビロニアの時代から護符や印章として利用され、赤い斑点はキリストの血が落ちてできたという伝説もある。困難を乗り越え、勇気や生命力を与えてくれる石だ。 
 さて、越えることが可能かどうかは、本人次第だ。石は勇気をくれるが、未来を切り開くのはあくまでも自分自身なのだ。

 そして田島祥吾の石。あの若者は有名人だという。有名人らしさのない感じのいい青年だが、それだけではこの世間を渡って行けまい。あの男には今、心から支えてくれるパートナーが必要だ。
 九月の誕生石はサファイア。アルミニウムと酸素で構成されているコランダムという鉱物で、不純物として鉄とチタンが含まれているため青くなる。人の意思や組織の礎などを固め、目標を貫徹する意思を持ように支えてくれる石だ。直観力を高め、その時に必要なチャンスを掴む助けになる。
 さて、チャンスはぼんやりしていたらその手からすり抜けていくものだ。目の前にある大事なものを掴みとれるかどうか、お前次第だよ。

 そして星河智之の石。十二月生まれ。十二月の誕生石と言われているものには三種類ある。ラピスラズリ、トルコ石、タンザナイト。だが今の彼に相応しいのはこの石だ。
 玉櫛はタンザナイトを取り上げた。タンザニアの夕暮れ時の空を写し取ったような神秘的なブルー。鉱物的には青色をしたゾイサイトで、ネガティブなエネルギーをポジティブなものに変換する力がある。過去の自分や周囲のしがらみに縛られずに、自分自身の良い部分を高め、新しい力を生み出していく、創造的なエネルギーを持つ石だ。
 もっとも、石はその人間の持つ根源的なパワーに反応するものだ。石だけでは何も変わらない。さて、あの男はどこへ向かうのか、まだ先は長そうだ。

 最後がリクという青年の石。絵描きだと言っていた。
 二月の誕生石はアメジストだ。アメジストは水晶だが、水晶を構成するケイ素の一部が鉄に入れ代わり、鉄を取り囲む酸素の1つの電子が天然放射線によって損失しているために紫色になっている。欠けている部分があるということが、もっとも高貴で神聖なる石の美しい色を生み出しているというのは不思議だ。『愛の守護石』『真実の愛を守りぬく石』は、神話では美少女の生まれ変わりだとされている。
 美少女とはよく言ったものだ。
 この石には、特別に愛よりも癒しの力を願っておいてやろう。あの青年には、自分を守る癒しの力が必要だ。

 そして。
 蓮の奴、私がこの石たちを彼らにタダで渡してやろうとしていることに驚くだろうさ。お前が想像するすべてを覆してやるのが、私の一番の楽しみなのだからね。
 そもそも一部の石を除けば、こうした石たちは決して驚くほど高いものではない。だが、石は持つ者を選ぶ。
 玉櫛は「蓮の石」を机の上に転がした。誕生石とは異なっているが、この石は蓮と引き合っている。
 お前は受け取らないだろう。だがこの石はいつもここでお前を見守っている。

 深いエメラルドグリーンの翡翠が、周囲に漂う光を内側に集めてゆらりと瞬いた。



実は短いお話の予定だったのですが、何故か長くなって今日1日を費やしちゃった。
お楽しみに頂けたなら何よりです。

そう、今回出てきましたが、蓮の石は翡翠なのです。だから前回の短編で翡翠に妙に反応していたのですね。
凌雲は? 翡翠が似合いそうですが、実は彼はやっぱり宝石の王・ダイヤモンドなのですよ。隠しても隠し切れない何かが~?(でも凌雲には裏の石がある)

それはさておき。
相変わらず更新も遅くて、来てくださる方も少ない地味なブログですが、気長にお付き合いくださる皆様に心からお礼申し上げます。支えてもらって続いているんだなぁとしみじみこれを書きながら考えていました。
そして、こちらを書くために、ご参加いただいた5人の皆様が書かれた関連する記事をざっと見渡して改めてびっくり。皆様、すごいパワーで書いていらっしゃっるんだなぁ。
こんな素敵な人たちに構ってもらえて、幸せだな~と改めてしみじみ思いました。

今回ご参加いただいた皆様も、今回は遠慮したけれど次回は寄せて!と言ってくださる方も、静かに見守って下さる方も、これからもよろしくお付き合いくださいませ。
え? 次回? 今度はどんなツアーが? えっと、その場合には皆様、今回は描写を省いた『ヴィーナスの溜息』でのショータイムにバニーちゃんで登場する覚悟をしてきてくださいね!

Category: 奇跡を売る店・短編集

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【scriviamo!参加作品】しあわせについて~懺悔の値打ちもない~ 

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いつも多彩で素晴らしい作品を書き続け、さらに文字通り「みんなで書こうよ!」と素敵な企画を投げかけてくださる八少女夕さん(scribo ergo sum)が今年もscriviamo!を開催されました。もう本当に意味もなく申し訳なくなるくらいの凄い勢いで打ち込まれる無理難題球をレシーブしまくり、時にはスマッシュを決め、名作を連発中でいらっしゃいますが……そろそろピークも過ぎたような感じなので、お疲れのところトドメを刺すように(ひどい……)もう1セット、お相手いただこうと遅ればせながら参上仕りました。

しかも手抜きの手抜きで、666666Hit記念企画にも被せちゃって、一気に二つ分の宿題を片付けようという魂胆で書いていたら……
まぁ、6つじゃ寂しいから、全部のワードの半分くらいを使おうかな、なんて考えているうちに深みに嵌り、相当無理矢理に全ワード使ってみました。もちろん、わざとらしさ満開の無理矢理感炸裂ですが、大目に見ていただきましょう! ね!

与えられたワードは……
「テディーベア」「天才」「禁煙」「ピラミッド」「バンコク」「中国」 「飛行船 グラーク ツェッペリン」「桃の缶詰」「名探偵」「蚤の市」「赤い月」 「マロングラッセ」「エリカ」(花)「オクトーバーフェスト」「ロマンティック街道」「ピアノ協奏曲」「アルファロメオ」 「進化論」「彗星」「野良犬」「マフラー」「博物館」「遊園地」 「羽」「いろはうた」「鏡」「シャープ」(#)「にんじん」「モンサンミッシェル」 「ガラス細工」「楓」「金魚鉢」「古書」「WEB」「モンブラン」

そして夕さんちから、ヒルシュベルガー教授とヤオトメ・ユウ女史をお借りしました(*^_^*)
いや、センスの無さを暴露する無理矢理な展開ですが、読んでいただけると嬉しく思います。
舞台は京都のオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』……今宵、あなたをめくるめく官能と笑いの世界へ誘います(*^_^*)


【奇跡を売る店・番外】しあわせについて~懺悔の値打ちもない~


「今日は賑やかですね」
「庚申の日ですから」
 蓮はカウンターに座る年配の男に、新しいグラスで山崎の水割りを出してやった。氷の透明と琥珀が光の加減で揺らめいている。
 カウンターの客は、一か月ほど前から不定期に週に数度ばかりこの店にやってくるようになった。誰かの紹介ですかと聞いたが、いや、何となく、と答えただけで、それ以上は三宅という名字と千葉から来たという以外、何も話さなかった。
 もうすぐ本来の閉店時間がやって来るが、常連客達は帰る様子もない。今日は年に六度ほどしか巡ってこない特別な日だからだ。

「こうしん?」
 カウンターの客が聞き返したタイミングで、ようやくママが戻ってきた。マルボロを引き抜いてふぅと息を吐くと、蓮、あたしも薄いのでいいから作ってよ、と低くてよく通る声で言う。
 ジムで鍛えたママの身体は、もう還暦が近い五十代のものとは思えなかったが、去年前立腺癌の手術をしてからは随分と痩せてしまった。しかし、この業界で長く生き残ってきただけあって、転んでもただで起きるような人ではない。言った言葉が「あたし、子宮癌だったのよ~」である。

 ママは引き抜いたマルボロを、先にカウンターの客に差し出した。客は嬉しそうに受け取った。そう言えば、最近はどこへ行っても禁煙でスモーカーは肩身が狭いと、初めて来た日に嘆いていたっけ。
「つまり、『かのえさる』の日よ」
 月曜日は定休日なのだが、三宅はやはり何気なくふらりとやって来て、受付でコートとマフラーを預け、今日は冷えるねと挨拶をしてから、いつものようにカウンターの隅に座った。
 彼は、すでに水割りを三杯飲み終えた今も、今日が本来定休日だとは気が付いていないだろう。

 三宅がカウンター奥の隅の席を気に入っているのには理由があるようだ。
 その席の側の壁には、色褪せた飛行船の写真が額に入れて飾ってある。昭和四年にドイツの巨大飛行船グラーフ・ツェッペリン号が東京上空を飛び茨城の霞ヶ浦に着陸した。その様子を撮影した写真で、当時、海軍省の関係者だったママのお祖父さんにあたる人が撮ったものだという。
 ママは「印刷じゃないの?」とあっけなかったが、この写真を飾っているところを見ると、祖父に対しては特別な敬愛の気持ちがあるようだ。

 初めて来た時、三宅はこの写真を目に止めて、懐かしそうに言った。
「ツェッペリン伯号ですね。若いころ少しの間だけ教職についていたことがありましてね。その中学校の視聴覚室に同じような写真が飾ってありました」
 三宅は千葉から来たと言っていたから、ツェッペリン伯号の着陸地はそれほど遠くないところだったのだろう。もちろん三宅の生まれるずっと前の話だろうが、彼は何かを懐かしむような顔をした。

 ここはオカマショーパブ『ヴィーナスの溜息』だ。京都四条川端の角から幾つか路地を入ったところにあって、なかなかクオリティの高い踊りと音楽、お笑いと手品のショーを見せることで知られている。料金もこの業界ではかなり良心的で、若い世代にも人気があるし、ママの人生相談や占いを目当てにやって来る客もいる。
「かのえさる……十干十二支の庚申の日。つまり今日は庚申待もしくは庚申講というわけですか」

 普段の会話の調子や内容からも、三宅がそれなりの学のある人だということは分かる。
 上品なツィードの背広を着て、こざっぱりと髪を撫でつけてある。痩せてもおらず、かといって中年期に余計な贅肉を身に付けることもなかったようで、体格にはこれと言った特徴的な所はない。顔にも特に目立つ部分はないが、若い頃はそれなりにモテただろうと思わせる渋みのある作りだ。

 定年退職後に暇を持て余して古書店巡りでもしているのか、よく愛想のない小さな茶色い紙袋に入れた数冊の本を持っているので、スタッフの間では、どこかの大学の先生かしら、というような話になっていたこともある。
 ある時、ちらりと覗いた紙袋の中の本の背表紙には、『進化論』と名のついた本が数冊入っていたので、もしかするとそういう方面の研究者なのかもしれない。と思ったら、次の時には『ロマンチック街道』や『モンサンミシェル』といった海外の街の写真集が何冊か入っていたりした。どこかの博物館の展覧会の古いカタログが入っていたこともある。

 三宅は店の「女の子たち」がつこうとしても、穏やかな仕草でそれを断り、カウンターで蓮が出す酒を黙って飲んでいる。ショーが始まると、特に大袈裟に拍手をすることもなく、じっとステージを見つめている。そしてあまり誰とも話さないまま、閉店の半時間前には帰っていく。
 この店のコンセプトからは大いに外れた客であることは間違いがない。少なくともここは、静かに酒を飲みたい年配の男性向きの店でないことは確かだ。
 とは言え、ママのほうも、何も言いださない客からあれこれ聞き出すような野暮なことはしない。ただこの空間を黙って楽しんでくれているのならそれもいいじゃない、と思っているのだ。

「若い頃は必死だったから、定休日なんてなくてね。でも、いくら若くても、二カ月に一度くらいは休まないともたないじゃない。で、不定期休日の前日にはあたしが店の子たちに労いをするって意味で、店がはねた後、スタッフで夜通し飲んだり食べたり、それからほら、しっぽりと昔話なんかして過ごすようになったのよ。あたしらの人生、あれこれ後悔だらけ、懺悔することも多くてね、いつの間にか夜通し懺悔大会になったりして。そのうち誰が言い出したのか、庚申講みたいだってので、六十日に一度、庚申の日にやるようになったってわけ」
 蓮はグラスを磨きながら、ママの話を頷きながら聞いている三宅の顔を見た。やはり何か目的があってこの店に来ているのではないか、蓮にはそう見える。

 蓮はこの店のホール係で、酒を運んだり、時にはカウンターの内で水割りや、最近ではカクテルを作ったりしている。
 この店で「ホステス」役以外の仕事をしているのは、蓮と、料理人兼カクテル担当の鈴木と、受付兼ガードマンの笹原だけだ。元々は全てママが自分でやっていたのだが、さすがに客が増えて店の規模が大きくなってくると、そういうわけにもいかなくなった。
 そのおかげで蓮も雇ってもらえたし、蓮のような一風変わった経歴の持ち主を雇ってくれるような店は他になく、そういう意味でも蓮はママに感謝している。
 最初の頃は野良犬みたいな食えない目をしていると言われた蓮も、飼い犬のようには懐かないながらも、今では随分と落ち着いた目になったと言われる。確かにの中の自分を見ても、顔つきが少し変わったかもしれないと思うことはある。

 蓮には他にも顔がある。失踪した伯父がやっていた釈迦堂探偵事務所の留守番探偵なのだ。客は滅多に来ないので、ほぼ開店休業状態なのだが、最近ではこのショーパブが依頼の仲介役になってくれることもある。だが、「オシャカちゃん(蓮のことだ)は名探偵なのよ」などと紹介されると面映ゆいし、そもそも蓮は探偵事務所が流行って欲しいとはこれっぽっちも思っていない。
 本来、人の事情に首を突っ込むことは避けたいのだが、もともと他人の気配をうかがうのは得意だった。いや、他人を観察したくてしているのではないが、子どもの頃に両親とも失って一人取り残された蓮は、自然に人の気配や思いに敏感になっていた。

 だから、客をついつい観察してしまうのだが、どう見ても、三宅がただオカマショーパブに興味を持ってやって来ている客には見えなかった。
「でも、もともとはあくまでもお店がはねた後のスタッフだけの恒例行事だったわけ。それがいつの間にか常連客が居座るようになっちゃって。だから、三宅さんも別にいてくれてもいいのよ。但し、スタッフもデューティーを外れてるから、気が向いたらおつまみや酒くらい出すけど、サービスは期待しないでね。それから」
 ママはカウンターに少し乗り出すようにして三宅の顔を覗き込むようにした。
「庚申講だから、もし閉店時間後もここに残るなら、今夜は寝ちゃだめ。それから、あなたもひとつくらいは懺悔をしなくちゃだめよ」

「懺悔か……」
 三宅は呟いた。
「確かに、この歳になると、懺悔をしなくてはならないことのひとつやふたつ、なくはないですね」
「あら、あたしなんて、毎回庚申の日までに十くらいは懺悔をしなくちゃならないことが湧き出すわよ。だから三尸の虫が閻魔大王のところへあたしの悪行をチクリに行けないように、絶対にこの日は寝てやるもんかって決めてるのよ。それでも子宮癌になったりしてね、ほんとに、あいつら侮れないわ」
 三宅は「子宮癌」に不思議そうな顔をしたが、あえて追及はしてこなかった。

 人は誰しも身体の中に三尸の虫という三匹の虫を住まわせているという。この虫はどうやら人間の味方というわけではなく、庚申の日になると、人が眠っている間に身体から抜け出して天帝、つまり閻魔大王のところに行き、その人の悪行を告げ口するのだという。天帝はその罪科を聞いて、それに応じてその人に科す病気や寿命を決めるらしい。だから、庚申の日には眠っている間に虫たちが抜け出さないように、徹夜をするという習わしが生まれた。それが変化して、皆で懺悔しあって罪を逃れようという風習になったところもあるし、ただどんちゃん騒ぎをしているようなところもあるようだ。

「でもまぁ、三宅さんは若い時、さぞかしいい男だったでしょうから、女の一人や二人泣かせてるんでしょうねぇ」
 三宅はグラスをわずかに傾けた。からんと遠慮がちな音が転がり、琥珀が揺れた。
「泣かせたのはただ一人です。いや、多分、泣いてくれてたろうと思いますが……どうでしょうか」
「あら、どういう意味?」
 客の話を聞いていても、求められない限りは敢えて聞いていないふりをする、そういうことにも慣れてきた。蓮はテーブル席から注文されたカクテルを作り始めた。

 最近は鈴木が蓮にカクテルの作り方を教えてくれている。今作っているのは、「赤い月」という名前のこの店のオリジナルのカクテルで、カシスリキュールとウォッカとオレンジリキュール、レモンジュースあるいはグレープフルーツジュースにキャロットジュースを少し、それにホイップした生クリームを乗せて、その上にグレナデンシロップで赤い月を描いてある。もうひとつ、店にはオリジナルカクテルがある。「彗星」と名付けられたそれは、スカイシトラスにブルーキュラソー、レモンなどを入れて、スターフルーツをあしらう。
 どちらも最近では蓮の担当になっていた。

 三宅は、カクテルを作る蓮の手つきと、月と彗星の色を見つめたまま、静かに口を開いた。
「ある女性と駆け落ちの約束をしていたのですよ。でも、親に気づかれて泣きつかれて、私は結局待ち合わせの場所に行かなかった」
 思わず蓮は顔を上げた。ママがマルボロを指に挟んだまま取り上げた薄い水割りのグラスを、口に運ばないままカウンターに戻し、その縁を指ではじいた。
「行けなかったんでしょ」

「いや、理由はどうあれ、行かなかったんですよ。結局、私は親を捨てることができなかった。彼女よりも親と家を選んだのです。その後、私は親の決めた許嫁と結婚し、三人の子どもに恵まれ、事業も継いで二代目としてはそれなりに成功もしたと思いますが、この歳になってふと振り返ってみると、私の人生に繋がらない亀裂のようなものがあるような気がしてしまうのです。もう昔のことで、今更と思われるでしょうけれど」
 ママはふうとマルボロの煙を吐き出した。
「その方、今どうしているの? その後、捜してあげなかったの?」

 その人はもっと辛かったんじゃないの、とか、裏切った男が今更過去を悔いても仕方がないじゃない、いっそ堂々と前を向いて生きていきなさいよ、とか、きっと弱者の目線に立つことの多いママなら少しは思っているだろう。でもママは、捨てる方も辛かったと思うわと、そんなふうに考える人でもある。
 三宅は静かに首を横に振り、背後の賑やかなテーブルの方をそっと振り返った。
「もう昔のことですよ。今更するべき話でもありませんでしたね」
「いいのよ、今日はそういう日だから。三宅さんがその時彼女を裏切った方が罪なのか、それともその人を選んで親を捨てていたとしたら、その方がより重い罪だったのか、その判断は天帝にお任せするしかないわね」

 ママは新しい水割りを作って、そっと三宅の前に置いた。
 途切れた会話を取り繕うように、店の中にソノコさんの声が響く。
「さぁ、本日の営業はおしまいよぉ。はい、みんなお会計は済ませてね。ここからは六十日に一度の不眠の日、店に居残るんだったら、閻魔大王には耳をふさいでもらっとくから、ピラミッドから飛び降りる気持ちで懺悔なさいな~」
 ソノコさんはショーの一番の人気者だ。大柄でダイナミック、空手の有段者でものまねも上手い、常に場を仕切ってくれて、それでいて細かいところによく気が付く。

「ソノコさん、それを言うなら、ピラミッドじゃなくて、清水の舞台よ」
「何言ってんのよ。今日はワールドワイドなお客様がいらっしゃるんだからね、でっかく行くわよ~」
 ソノコさんが伝票をヒラヒラさせてテーブルを回っていく。勘定を支払って帰る客は帰るし、居残る客は居残る。ぎりぎりに受けた注文のカクテルやビールを運んでいる蓮に、ソノコさんがそっと声を掛けてくれた。
「あんた、にこちゃん、放っておいていいの?」
 蓮は大丈夫と頷いた。
「今回はただのカテーテル検査入院だし、それに入院してくれている方が安心です。明日の朝、顔を見に行きますから」

 蓮のもう一つの顔は、和子(にこ)という6歳の娘の父親だということだ。いや、正確には義理の父親で、少し変わっていることがあるとすると、彼女は蓮の元患者だった。今の主治医は蓮の元婚約者の如月海だ。蓮は二年前に医者を辞めていた。
 和子は今でも蓮には懐かない。退院したら遊園地に行こうかと言っても、ぷいと横を向いていたし、入院頑張っているからと買ってやったテディーベアも、病室のベッドの足元にひっくり返っていた。多分、鬱憤を晴らす道具としては役立っているのだろうから、それはそれでいいことにするしかない。

「ソノコさんこそ、将太くんは?」
「今日は母親んところよ。お互い、男やもめは大変よね~」
 庚申の日。懺悔をすることならいくらでもある。
 俺の三尸の虫はどれから告げ口しようか、六十日に一度はさぞかしそわそわしていることだろう。


「蓮くん、定時も過ぎたことですし、そろそろ仕事を置きませんか。私の友人を紹介させてください」
 蓮がテーブルを片づけて回っていると、右京が声を掛けてきた。
 常連客の一人、出雲右京は国立大学の理学部地球惑星科学講座の准教授だ。空気を読めない独特のムードの持ち主だが、お家柄も華族か宮家の縁戚らしく、どこかおっとりしていて、あさましく他人を攻撃したり揶揄したりすることがないので、この店でもスタッフからの人気が高かった。
 NASAに勤めるアメリカ人女性と事実婚の間柄で、蓮の母親のことを初恋の相手だったという。趣味は教授の資格も持っている茶道と車。茶道は裏千家だけでなく、紅茶マイスターの資格と中国茶の専門家でもあり、車に関しては愛車のアルファロメオの他にも数台の車を持っている。

 その出雲が、今日は、あるシンポジウムにやって来たというスイス人の教授を連れて来ていた。
 彼はチューリヒにある大学の生理学の教授で、クリストフ・ヒルシュベルガーと名乗った。その隣に、彼の秘書でヤオトメ・ユウという日本人女性が座っている。東京出身だが、スイス人と結婚してカンポ・ルドゥンツという村に住んでいるという。
 本当に、色々な人生があるものだ。

 彼女の通訳によると、ヒルシュベルガー教授はもう「普通の京都」は飽きたので(以前一乗寺界隈にある龍泉寺という寺で、プライベートに精進料理を頂いた時は大満足だったというが)、どこか変わった所へ連れて行ってほしいとのリクエストがあり、ここに辿り着いたらしい。
 変わった所って、何もオカマショーパブに来なくても、と思うのだが、まぁ、楽しんでもらっているようだからいいのだろう。

 しかし大学の教授・准教授といっても、生理学と地球惑星科学では随分と分野が異なっている。その繋がりは何なんだ、と思ったが、今の彼らの興味は別のところにあるらしい。
 彼らの前には、右京が今日の庚申の日のお土産にと持ち込んできた、京都中のスィーツが並べられている。

 嘯月や聚洸といった老舗名店の和菓子、出町ふたばの豆餅、北野天満宮の長五郎餅、川端道喜の羊羹ちまき、かざりやのあぶり餅、ぎおん徳屋の本わらび餅、鍵屋良房のくずきり、などなど誰でも知っているような有名処の和菓子はもちろん、右京や石屋・奇跡屋の女主人の伝手があってこそ手に入るような、店頭販売をしていない特別な和菓子もひとつやふたつではない。
 さらに、開店して数時間内にショーケースの中が空になるという話題の店のケーキまで、甘いものがそれほど好きではない蓮には、見ているだけでも胃が凭れるラインナップが、まさにテーブルの天板が見えないくらいにずらりと並んでいるのだ。

 ケーキの名前など、蓮はショートケーキとモンブランくらいしか知らないが、客の中には小難しいお洒落な名前を全て知っている者もいて、ユウを通じてヒルシュベルガー教授にあれこれ説明してくれている。今回のスィーツラインナップにも協力してくれた小夏ちゃんという大学生だ。
 教授は口髭を撫でながら感心したように聴き入っているが、それよりも早く食べさせろと言いたそうだ。
 右京が野点セット(といってもお家元の銘の入ったお道具尽くしだ)で薄茶をたててくれて、ようやく特別仕立てのスィーツバイキングのスタートとなった。

「おぉ、これは美味い。マロングラッセかな」
「栗阿彌(りつあみ)という栗和菓子です。こちらの焼き栗きんとんも美味しいんですよ」
「こっちは雪だるま、それに椿、鬼もいますね。蜜柑もすてき」
「その蜜柑、むいてみてください」
 何と、剥いてもちゃんと蜜柑なのだ。

「和菓子はこうして目で見ることで季節を感じることができるんですよ。春の桜や秋の紅葉なんかは、毎週少しずつ変えてあって、蕾から開くまで和菓子の方でも少しずつ開花していくし、の色合いも変わっていくんですよ。但し実際の桜や紅葉よりも少し時期を先取りします。本物に勝てないのは分かっているので、先回りするってのが鉄則です。夏は夏で涼しげな寒天菓子が登場します。有名なのは幸楽屋さんの『金魚鉢』ですね。ちゃんと中に金魚が泳いでいるんですよ」

 ほら、と言って、小夏ちゃんがスマホで和菓子の「金魚鉢」を教授に見せている。お預け状態から解放された教授も、いつになく機嫌が良さそうにスマホの写真をのぞきこんだ。
「なんと、ガラス細工のようだね。食べものとは思えない」
 ユウは通訳に忙しそうだったが、ちゃっかり全ての和菓子に手を伸ばしている。その様子を見て、蓮は思わず口元を綻ばせた。ヒルシュベルガー教授もユウも、それに右京も、美味しいものを本当に美味しそうに食べる。そういう姿は蓮には大変好ましく映った。

「センセ、この普通に見える桃の缶詰、何ですか?」
 ヒースが右京に尋ねる。
 ヒースはここに勤め始めて一年、ようやくショーにも出るようになった一番の若手で、女装はしているが、まだ「男」だ。小柄で元々可愛らしい顔をしているから、そのままでも十分だと蓮は思う。どこか愛嬌があり、最近店の雰囲気に慣れてきて、少しばかりお世辞なども上手くなって、人気も出てきた。

 某音大を卒業していて、真面目にピアノの勉強をしていたこともあるらしく、卒業時にはショパンのピアノ協奏曲第一番を地元のオーケストラと共演したとかいう話だ。
 そんな人がなぜこの道に、などという愚かな質問は誰もしないが、それを聞いてママは以前から懸案のひとつだった、店のアップライトピアノの買い替えに踏み切った。
 国産だが、店にグランドピアノがあることで、ちょっと高級な店になったような気がするから不思議だ。ヒースの伴奏でニューハーフのシンシアが唄うジャズは、ショーとショーの合間の名物のひとつになりつつあるし、ヴォーカロイドが唄う『千本桜』や『いろは唄』を見事なアレンジで披露してくれる。

 どうしてヒースって源氏名にしたの、と聞かれて、某有名ヴィジュアル系ロックバンドのファンだったからとか、荒野ってイメージに憧れるからとか言っていたが、いつも言うことが違っているので、他に何か理由があるのだろう。
 ヒースは時々ふっと遠い目をするが、蓮と目が合うと、にこっと笑う。大丈夫ですよ、蓮さん、そういう感じで。

「普通じゃありませんよ。清水白桃と言って、岡山の有名な白桃で、缶詰でも1個入りで1600円ほどします。お歳暮にもらったので、持ってきたのですよ」
「一個1600円!」
「全く、日本人は果物になぜこのような繊細な甘さを追及するのだろうね。味も半端ないが、値段も半端ない」
「あら、教授が値段のことを仰るなんて意外ですね」

「いや、フラウ・ヤオトメ、私は食に対する日本人の繊細さを称賛しているのだよ。食べるのは一瞬だというのに、それだけの値段に見合うだけの手間暇を惜しまない。調理をする時だけではない、食材を選ぶ時から、また食材を獲ったり育てたりする時から、すでに皿の上に料理として出す時のことを考えているのだからね。店頭に並ぶ百円程度の菓子でも、夏と冬では味付けを変えているというではないか。しかもそれを世の中の人がみんな気が付いているわけでもなく、あえて知らせようともしない。全く不思議な民族だ」

 ユウが会話を訳してくれるのを聞いて、ちょっといいように脚色してくれているのかと思ったが、ユウ曰く、かなり正確にニュアンスを伝えているつもりだという。民族論にまで高められるとちょっと困ってしまうが、あれこれ思い巡らせながらこの国の食文化を楽しんでもらえるのは有難いことだ。スィーツに行きつく前も、料理人・鈴木のカレーとおでんをさんざん平らげていた。
 この店はそもそもパブなので本格的な料理は出さないのだが、料理担当の鈴木は、以前にインドのデリーやタイのバンコクに長期滞在していたことがあり、カレーについてはこだわりがあるらしい。そんな彼が日本人向けカレーを作ることに情熱を傾けた結果、酒を飲まずにカレーを食べにくる客まで来るようになってしまった。もちろん、それでは困るので、テーブルチャージとワンドリンク分は必ず徴収するようにしている。

「ところで、出雲先生、一体何のシンポジウムなんですか? ヒルシュベルガー教授は生理学、出雲先生は地球惑星科学、いささか分野が異なるような気がするのですが」
「いやいや、今回のは別に我々の専門というわけではないのですが、全ての学問に共通する問題です。人類にとって幸福とは何か、あらゆる分野の有志が集まって考える、『幸福学』のシンポジウムですよ。蓮くんもちょっと覗きに来ませんか?」
「『幸福学』?」

 何かヤバい宗教じゃないのかと思ったのが顔に出たのか、ユウが「あなたもそう思うでしょ?」という笑みを蓮に向けた。
「つまり、幸福というのを科学的、論理的に解き明かそうというものです。今回は、京都という土地柄、『言霊の幸福』がテーマでしてね」
 全く、右京は常識のレベルがぶっ飛んでいる面があるので、時々言っていることが蓮には意味不明だ。しかし、隣で頷いているヒルシュベルガー教授も、多分かなり意味不明の部分がある人物に違いない。って、この教授、日本語は全く分からないんだよな? 適当に頷いているのか、それとも、いわゆる天才同士、右京とは以心伝心なのか。
 と思ったら、右京が英語で自分が蓮に説明したことをかいつまんで教授に説明し、それから蓮に英語で教授と話しましょう、と言った。

「ひとつの言葉を考えてみてください。そしてその言葉の不幸の側面と幸福の側面を考えてみるわけです。例えば、そうですね、教授、何か例を挙げてみてください」
「ではウキョウ、ノミノイチはどうだね」
「ノミノイチ?」
 何の英語かと思ったら、日本語ではないか。右京が笑った。
「これはやられました。そうそう、教授は以前から東寺の弘法市に行きたいと言っておられましてね、それがなかなか日程が合わず、今回も行けなかったのですよ。次回はぜひ」

「そういうウキョウ、君もミュンヘンのオクトーバーフェストに行きたいと言っていたが、まだ果たせていないね。その後で一緒にドイツの美食巡りをする約束ではないか。だが、確かに、まだできていないことを常に後に残しておくことも大切なのだ。未来への期待を引き延ばすことができる」
「そうですよ、教授。翌日立ち上がれないまでにビールを飲み、語り、騒ぐ。今からその時が実に楽しみです。さて、話を戻しましょう。蚤の市。いいお題です。蓮くん、この不幸の側面は?」

「蚤の市の不幸の側面? たとえば、掘り出しものと信じて大金をはたいたのに、真っ赤な贋物を掴まされた、というような話ですか?」
「そう、つまり詐欺ですね。中には悪質なものもあります。では幸福の側面は?」
「蚤の市でただに近い値段で売っているものを手に入れたら、それがたまたまものすごく高価なものだった」
 ヒルシュベルガー教授が、口髭についた和三盆の粉を手で拭いながら否定した。
「いやいや、それは違うよ。蚤の市で掘り出し物と信じて買ったものが、実は贋物なのだが、本物だと信じてそれを生涯大事にして満足して一生を終えること、なのだよ」

 蓮がよく分からん、という顔をしていたからか、ユウがくすっと笑った。
「蓮さん、いいんですよ。この人たちのいう幸福の科学をものすごく一生懸命理解する必要なんてないんです。要するに、物は考えようってことを小難しそうに言っているだけなんですから」
「いやいや、言葉には魂が宿っているということですよ」
 右京が真剣な面持ちで言った。確かに、嘘か本当か室町時代から続く家の出身者が言うと、それらしいから恐ろしいのだが。

「人生には知らない方が幸福ということもある。それに、受け入れがたい現実の中に幸運の穂先を見つけるためには、ある程度のトレーニングも必要だからね」
「へぇ、教授はそれで幸運の穂先を摘み過ぎて、畑を荒らしてしまっているのですね」
 この秘書の女性は、本当に好き勝手に言っているが、それもこれも彼らの間に信頼があってこその言葉だ。
 いつか蓮と和子にもそんな時が来るのか、今は全く謎だった。

「ほらほら、続きはWEBで、じゃないけど、ひとまず切り上げて、まずはそちらの教授も今日のしきたりに従って懺悔いただきましょうか」
 真正ゲイのミッキーが綺麗な発音の英語で言い、庚申のイベントの謂れを説明した。ヒルシュベルガー教授はふむ、と考え込んだ。
「教授には懺悔することなんてありませんか?」
「いいえ、この方は懺悔することが多すぎて、どれから言えばいいか分からないだけですわ」
 すかさずユウが突っ込んだ。

その時、隣のテーブルからヒースが立ち上がった。
「あら、ヒースのピアノね。聴きながら、過去を想いましょうか。そして明日からはまた新しい気持ちで新しい時間を過ごすとしましょう」
 ピアノの前に座った小柄なヒースがすっと背を伸ばすと、まるで彼の方がピアノを包み込むように見えた。男性にしておくのは勿体ないと誰かが言った綺麗な横顔は、冷たい冬の風に晒されても凛と冴え渡る小さな花のようにも見えた。
 ヒースというのは、あの冬の花の異称じゃなかったか。
 ヒースの、女性のように白い指が、鍵盤の白と黒に重なった。


 三宅はそっと席を立ち、受付の笹原に軽く挨拶をして店を出た。
 やはり似ている。彼は彼女にそっくりだ。
 そして、この曲は彼からのメッセージなのか。彼の指先が奏でる音は、はまるで記憶の底にある彼女の音と同じだ。
 ショパンの『別れの曲』。そもそも別れとは何の関係もない曲なのだが、映画の影響でその名が冠された。旋律の美しさというのは別離の哀しさに繋がっているのかもしれない。

 三宅は彼女を想った。秋の日の音楽室。開け放たれた窓から流れてくるショパン。足を止めて聴き入ると、黄や赤に染められた木々のざわめきがベースのようなり、詩情豊かなピアノを歌わせている。枯葉は風に巻かれて、子犬のように足元に纏わりつく。落ちた木の実を啄む鳥たちは冬支度でを膨らませていた。
 歳を経るごとに、昔の景色はいっそう色鮮やかになり、三宅の心を震わせる。

 手に入らなかったものに対する感傷だ。彼のピアノはそう語っていた。
 彼女は臨時の音楽教師だった。その時はまだ教職に就くことを諦めきれず、小さな町の中学校で英語教師をしていた三宅は、彼女と出会い、恋に落ちた。
 木造校舎の二階の隅にあった音楽室は、それまで縁もなく暗い場所だと思っていた。それが一度に光に満ちた場所へと変わった。ピアノの譜面台に置かれた楽譜を覗きこんだ三宅は、思わず繰り返し言ってしまった。

「僕には楽譜は読めないな。冒頭にこのシャープが四つもついているのを見た時点で、頭が思考を止めてしまうよ」
 ホ長調、と彼女は教えてくれた。この楽譜という記号だらけの暗号が、彼女の指が鍵盤に乗せられると同時に、音楽の神となってその白い指先から零れ出した。
 あの白い指。あの時は手をのばせばそこにあったあの細い指。

 三宅は、この一か月ばかり通い詰めていた古書店の前で足を止めた。この時間だから、当然扉は固く閉ざされ、明かりも人の気配もなかった。古い引き戸の前には、プランターや鉢に植えられた植物が、風に震えていた。
 花をつけているのは一鉢だけだった。

 古書店は『ヴィーナスの溜息』から路地を幾つか曲がるだけで、ほんの目と鼻の先だった。
 店番にひとり座っているのは、三宅と同じだけ歳をとった小柄な女性だった。足元に座った盲導犬がいつもじっと三宅を見つめていた。黒く悲しく、美しい目だった。

 彼女は気が付いていただろうか。この一か月、この店に通い続けた男が、本当なら必要もない本を買い続けていたことを。盲目の彼女が丁寧に本を扱い、小さな紙袋に入れてくれる、その不器用な手をじっと見つめていたことを。値段を示す点字をなぞる指を、本を手渡す時に触れそうになる指を、何度握ろうと思ったかを。
 三宅は、軒下で寒さに震えるピンクの花を見つめた。震えながらも、誰にも寄りかからず、確かに花を咲かせていた。

エリカの花です。祖母が好きなので。寒い冬に、精一杯の花を咲かせるからと」
 知っている。彼女の好きな花だった。だから君はヒースと名乗っているのか。
「君は、その……」
「三宅さん、僕はあなたの孫ではありません。祖母は千葉からこの町に辿り着いて、僕の祖父と知り合いました。事故で視力を失いピアニストと教職の夢は諦めましたが、僕にピアノを教えてくれました。昔のことは、あなたにも祖母にも既に終わった出来事です。どうか祖母には会わずに、このままこの町を行き過ぎてやってください」

 風の音に振り返ると、そこには誰もいなかった。小さな影がするりと三宅の背中を通り過ぎ、店の脇の路地を入っていったように感じた。
 三宅は四条通りに出て、横断歩道を渡った。鴨川を北から吹き降りてくる冬の風が一層冷たく感じられ、三宅はコートの襟を立てた。振り返らずに行こうと思うと、足は余計に重くなる。あのチューリヒから来たという教授は言っていなかったか。
 人生には知らない方が良いこともある。
 幸福というのは裏表に違う色を塗った薄い紙をひっくり返すようなものかもしれない。どちらがより幸福かということは、誰にもわからない。裏の色など知らない方がいいのかもしれない。

 四条大橋を渡り始めたところで、携帯が震えた。
< おじいちゃん、いつ帰って来るの?
 高校生の孫からのメールだった。
< まだ起きているのか? 早く寝なさい。
< だって試験なんだも~ん((+_+))
 だからもっと普段から勉強するように言ってあるのに。
 一度畳んで仕舞った携帯がまた震えた。開いて確かめてから、三宅はふと微笑んだ。

 橋の真ん中まで来てから立ち止まり、三宅はポケットから歪んだ小さな箱を取り出した。リボンはもうとっくに失われていた。三宅はその箱をしばらくじっと見つめていたが、やがて鴨川に向かって差し出すようにして、そっと手を離した。
 川面に届く光はなく、小さな古い箱は直ぐに闇に吸い込まれて、音も立てずに落ちて行った。
 ふと見上げると、街の灯りがゆらゆらと冬の空気を揺らしていた。その小さなひとつひとつの灯りに、幾千、幾万の魂が揺れさざめいているように見えた。

< 八つ橋、忘れないでね。桃味のやつだよ(*^_^*) 絵梨花

(【奇跡を売る店・番外編】しあわせについて~懺悔の値打ちもない~ 了)


今年の最初の庚申の日は2月8日でした。う~、爆睡してたな。きっと奴ら、天帝に「大海の奴、最近怠けてますぜ」とかチクったにちがいない。
庚申、庚申講……ググったら色んな風習が出てきます。また機会がありましたら(*^_^*)

「にんじん」が「キャロット」になっているのは大目に見てやってください。全くジャンルの違うこれだけの言葉を散りばめるとなると、やっぱり無理矢理感は否めませんが、一応35個、コンプリートいたしました(よね?)。
幸楽屋の『金魚鉢』など和菓子はググるといくらでも画像が出てきますので、お楽しみくださいませ。1600円の清水白桃の缶詰もね!
始めはこの怪しい『幸福シンポジウム』で書きだしていたのですが、やっぱり『ヴィーナスの溜息』の面々に久しぶりに会いたくなって、大幅に書き直しました。
えと、最後に三宅と会話をしたヒースは本物かどうか? どうでしょうね……猫かも??

「しあわせについて」はさだまさしさんの大好きな曲からタイトルをお借りしました。もっともあちらはこんな恋愛がどうとかってテーマではなくて、もっと大きな愛を歌ったものですけれど……
どうぞ あやまちは二度と繰り返さずに あなたは必ず しあわせになってください……

「懺悔の値打ちもない」はその裏表の意味合いでくっつけました……こちらは北原ミレイさんが歌う名曲。個人的には「石狩挽歌」の方が好きなんだけれど、この「ざんげの値打ちもない」の底知れない感じは(だって、最後は刑務所の中!)……実は【海に落ちる雨】の村野花はこの歌から生まれた……
あぁ、昭和。

ということで……お付き合いいただきありがとうございました!
夕さん、おいら、頑張ったよ!

(追記)夕さん、失礼いたしました! オクトーバーフェストに引きずられちゃって、何だかドイツ人になってた! チューリヒの大学って書いてあるのに! ということで訂正しました!!
(追記2)実は、桃味って、夏しか売っていないらしい。この季節なら苺かしら? でも桃の缶詰つながりで……三宅には翌日、京都駅で「桃味がない!」って慌てていただきましょう。

Category: 奇跡を売る店・短編集

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