【図書館の手紙】(1)清明の候、君を想う


【8月の転校生】に続く第2弾、中学生の富山享志が語る学園の七不思議シリーズ(掌編)です。
いつの間にシリーズになったのか……本当に七つ続くのか……全て行き当たりばったりです。
今回はよくある、本の間に手紙を挟んで恋文をやり取りするという、今じゃあり得ないロマンティックな恋物語の不思議を紐解きます。
実は、季節はただ今『清明』なのです。
いえ、実は今年の二十四節気の『清明』は4月5日。
桜の記事に舞い上がっていて、記事を出す日を間違えちゃいました。
しかも、毎年3月に京都の山奥にある志明院に行くのですが、今年はちょっと遅れそうです。
せっかくなので、境内に数多植えられた石楠花の季節に訪れてみようと画策中。
そう、毎年1度、【清明の雪】を宣伝する日になりました(*^_^*)
志明院はその【清明の雪】にも登場する京都の最果てのお寺。
折しも、春なのに寒波の来る今日。
京都に降る春の雪を背景に、古寺に伝わる消える龍の謎、鈴を鳴らす不動明王の謎に触れてみませんか?
→→【清明の雪】を始めから読む
……それはさておき、こちらでは天然ボケの級長・亨志が活躍する(かな?)掌編をお送りいたします。
全3回、2週間以内に終了の予定。ぜひ、お楽しみください。
ちなみに、完全に独立したストーリーなので、初めてさんでも大丈夫です。よろしくお願いします。
(前回同様、中身は大したことがありません^^;)
≪登場人物≫
富山享志:私立幹学院に通う中学生。責任感は強いが、面倒なことを押し付けられやすい級長。
相川真:中学2年生で幹学院に編入した帰国子女。一人でいるのが平気な元苛められっ子。
杉下萌衣:クラスの図書委員の女の子。急性虫垂炎で入院して、図書館の謎を亨志に託す。
-- 続きを読む --



どうしてそういう面倒なことを引き受けるんだ。
彼の目は明らかにそう言っていた。
僕だって別にそうしたいわけじゃないんだ。ただ、何かの仕事が降って湧いて、誰も手を挙げない時は、ついつい名乗り出てしまう。級長としては、ここで名乗りを挙げなかったら、卑怯だと思われそうだし。
そう、彼に出会うまでは、僕は明らかに体面を気にしていたと思う。高校生になってからは、上手くクラスの連中を「使う」ことを覚えたけれど、中学生の僕は、きっと皆にいい格好を見せたかったのだと思う。
ただし、その突然の面倒な仕事は一人では無理だろうと言われた時、級長の権限を発動したことは誰も知らない。
そう、彼に、協力を依頼したのだ。依頼というよりも、命令に近かったかもしれない。
彼はいつものように、表情一つ変えなかった。承諾したのかしていないのかも分からない顔だったけれど、少なくとも拒否はしていないことは確かだった。
だって、これでもう貴重な春休みの三日間、仕事自体は春休み前から始動していたので正確にはすでに一週間、彼は毎日午後から僕に付き合ってくれているのだから。
四月からは中学三年生になるという春休み。
夏にアメリカから帰国した彼、相川真は、その外見もあるけれど、人付き合いを全くしようとしない態度と性格も災いして、一緒につるむ友人はひとりも持たなかった。クラブにも在籍していなかったし、そもそも編入して半年たった今でも、「相川って日本語喋れないんだっけ?」という奴がいるくらい、多くの級友にとって彼が会話をしている姿は、ネッシーくらいに霧のベールに包まれたままだった。
だから、この春休みに友だちと遊ぶ予定は入っているわけがない。
「春休み、予定ある?」
「ないけど」
これで決まりだった。
僕らが通うこの学院は、中高一貫教育の私立校で、欧米の学校をモデルにしたクリスチャンスクールだ。
広い敷地内には、いわゆるパブリックスペースのようなものが数多点在している。
毎朝の礼拝のための講堂、その脇のチャペル、中央に小さな噴水を配し歴史感漂う洋館に囲まれた芝生の中庭、カフェテリアのような広い談話スペース、中身も充実した購買部、茶室と畳敷きの広間がある書院造の建物。
そして院内でも最も古い建物のひとつである図書館。
この図書館は通常、夕方六時まで開いている。司書が数人常在していて、教員は夜の八時まで使用可能だ。生徒でも、試験勉強や研究などで遅くまで使用したい場合は、保護者と学年主任の許可があれば使うことができる。
休みの日は、院外の人間も許可証があれば使用可能だ。創設者が無類の本コレクターで、貴重な古書が数多く収蔵されていて、研究のために許可申請をする大学の学者もいるという。
この出入りの多い休み期間の図書の整理には、クラスの図書委員とボランティアが駆り出される。この春休みは、新中学三年生と新高校一年生がその係だった。
面倒くさい仕事ではあるけれど、たまには貸出や閲覧が禁止されている貴重な本に触れることもできるので、好んで図書委員になる生徒もいる、というわけだった。
僕のクラスの図書係は、杉下という眼鏡の似合う小柄な女の子で、黙々と面倒な仕事をこなしてくれる、まさに縁の下の力持ちだった。
ところが、この春休みを前にして、杉下が突然虫垂炎で入院した。我慢強い彼女は、長期休み中の図書係の仕事を他人に押し付けられないと思って、腹膜炎一歩手前まで痛みに耐えていたようだった。
誰が代わりに休み中の図書整理係を引き受けるか、突然、クラスに大問題が降って湧いた。当たり前のことだが、休み中の予定は皆もう決まっていて、動かせないと主張する。
結局、終業式を数日後に控えたホームルームは、しばらく沈黙に支配された。
僕はこういう沈黙が苦手だった。だから、例のごとく言ってしまったのだ。
「じゃ、僕がやるよ」
実のところ、杉下から託された『秘密』があったのだ。
だから、どちらにしても毎日図書館には寄らなければならなかった。
相川はほとんど何も言わない。黙々と、書棚を整理し、返却された本を元の書棚に返すという単純業務を繰り返している。
僕らは午前中の補習を受けている。希望者だけ、英語と数学と国語の補習があるのだ。
相川は朝一番の英語の授業には来ない。帰国子女でもあり英語の家庭教師がついている彼には、まるで必要がないからだ。本当は数学だって必要ないんじゃないかと思うけれど、それは何故かじっと授業を聞いている。満点以外のテストを返されたことはないらしいのに。逆に国語は劣等生で、古典の教科書などはいっぱい書き込みがされている。ある時覗きこんでみたら、授業のノートではなく物理の何某かの計算式だった。つまり授業を聞いていないのだ。
僕は午後からバスケットボール部の練習に出る。午後一番から図書室の仕事を引き受けてくれている彼に合流するために、早めに練習を切り上げて図書室に向かう道のりでは、何となくデートに向かう少年の様に浮き立った気持ちになる。
相川はどちらかというと小柄なほうだ。僕らの多くがそうであるように、まだもう少しこれから伸びるのかもしれないし、あるいはかなり華奢な体つきなので、そう見えるだけなのかもしれない。
彼が何も言わないので本当のことは分からないけれど、異国の血が混じっていると思われる明るい髪の色に、左右の目の色が違う、いわゆるオッドアイの持ち主だ。
肌の色は白い方だけれど、決してひ弱な美少年には見えない。
それはその碧の目の印象のせいだった。
獲物を狙っている山猫。
図書館で図鑑を見るたびに相川を思い出して、僕は何となく息をついて夢想する。
なんて言うと、まるで僕が彼に恋をしているみたいだけれど、決して僕はそういう趣味があるわけじゃない。逆に、女の子に興味がないわけでもないけれど、今はクラブの男子とつるんでいる方が楽しい。背負ったことをいうわけじゃないけれど、級長としても、広くクラスの皆を気に掛ける立場にある。個人的に誰かと付き合ったり友人関係を結ぶということもあまり考えていなかった。
でも、何て言うのか、男女関係なく、憧れとか尊敬とか、そういう感情が恋愛とは別の次元で成立している年ごろなのだ。疑似恋愛のようなものかもしれないが、そこにはその先の気持ちなんてまるきりない。
僕が図書館に辿り着いて相川をさがすと、本棚の間をゆっくりと確認するように歩く彼を見つける。この仕事を効率よく果たすために、図書館のどの位置、本棚のどの位置にどのような本があるのか、その法則を確認しているのだという。
手元に仕事がない時は、物理学や天文学の本がある場所にいて、じっと背表紙を見つめている。
書棚の間から差し込む光に、彼の姿は影になってしまうのに、髪だけが淡く溶けてキラキラと光を返す。
僕が交替に現れたと知ると、相川は待っていたというようにその本棚から一冊を取り上げ、夕方まで図書室の片隅で一心に読んでいる。物理学の本だ。
「科学者になるの?」
いつも返事なんてしない相川が、その問いには答えた。
「多分」
と言っても、はっきりとした声じゃない。何となく頷いただけのような感じだった。
相川は閉館まで本を読んでいるので、結局、僕たちはいつも一緒に図書館を出ることになった。
彼が僕を待ってくれていたとは思わない。それでも、書棚に本を戻しながら、横目で図書館の隅に彼の姿を確認すると、何だかほっとした。
朝の冷えた空気が温められた後も、中庭に面した陰に残された清明の空気は一日中清浄なままだった。午後になって初めて光が届く場所は、何時間か後には傾いた赤い太陽に染められる。
窓の外の桜の木が、時々風に花びらを零していた。
相川の横顔にも夕陽が落ちている。一心不乱に本の世界に入り込んでいた彼が、何かに気が付いたようにふと顔を上げて窓の外を見ている。
もっとみんなと話したらいいのに。
僕はその横顔を見ながらいつもそう思っていた。
こうして時々彼の姿を視界の端に確認しながら、僕は図書館の業務を遂行する。
併せて、杉下から頼まれていた『秘密』を確認した。
その本は詩集のコーナーにあった。貴重な初版本も並んでいるが、字も本も古めかしく、研究者でなければ手に取ってみようとは思わないような古い詩集が並んでいる。
僕は、土井晩翠の『天地有情』を手に取った。明治三十二年に刊行された、晩翠の第一詩集だ。
え。
僕は思わず声を出してしまった。
昨日まではこの本に『秘密』は挟まれていなかった。
学院には『図書館の手紙』という不思議がある。
昔、家同士が結婚を認めなかった悲恋の恋人同士がこの学院に通っていた。詩が好きだった二人は、図書館にある詩集の本を利用して手紙のやり取りをしていたが、やがて学徒出陣で男子生徒が戦地に赴き、二人の恋は散ってしまったという。
結ばれなかった二人の想いが今も残っていて、その二人が交わしていた手紙が、時々、図書館の本に挟まれているのが見つかると伝えられていた。
だが、これまでは誰もその手紙を見た学生はいなかった。
本当のところ、僕は杉下に担がれているのかもしれないと思っていた。エイプリルフールの手の込んだ悪戯で、四月一日には「嘘だよ。この手紙は私が書いたの」とでも言われるかもしれないと思っていたのだ。
でも、杉下は今、入院中だ。昨日はここになかった手紙を、挟みにこれるわけじゃない。
僕は誰かに見られているような気がして、慌ててポケットに手紙を突っ込んだ。
帰り道、僕は知らずに雄弁になっていた。
「英語の草加先生、入院が長引きそうだから、四月から代行の先生が来るんだって」
「……」
「あの先生のブリティッシュな英語、好きなんだけど、若い先生ならアメリカ英語だよなぁ」
「……」
「そう言えば、草加先生ってさ、英語の先生なのに、何とかっていう詩の同人誌に投稿していて、結構有名なんだって、知ってた?」
「……」
「そういや、杉下の見舞いに行こうと思ったら、もう明後日退院なんだって」
「……」
「一週間くらいは自宅療養が必要だとしても、始業式に間に合うな。良かったよ」
「……」
「四月からクラブとか、入ってみない?」
「……」
「何だったら、バスケ、一緒にしないか?」
「……」
「あ、確か、剣道やってたんじゃなかったっけ? 剣道部、入らないの?」
「……」
会話になっていないかもしれないけれど、僕は結構これでも満足している。相川が少なくとも、僕と並んで歩くことを拒否していないからだ。
僕は何も話さない相川の反応を引き出したくて、あれこれと頭の中、鞄の中、ポケットの中にあるものを思い浮かべる。
相川の興味を引くものが何なのか、とにかく思いつくものを順番に口にしていきながら。
「あ、そう言えば」
ポケットの中のことを考えているうちに思いついた。
相川もこれに巻き込んでしまおう。
僕は立ち止まり、制服のポケットに突っこんだままの手紙を取り出した。
何も話さないままの彼が、同じように立ち止まり、僕の手を見る。
折り畳まれた一筆箋。少し黄ばんでいるものの、丁寧に端を合わせて折ってある。それなのに、くしゃりと握りしめたような跡が残っていた。
「持ってきちゃった」
彼はまだ不思議そうにその一筆箋を見つめている。
「手紙?」
彼の声を聞くのは久しぶりのような気がする。
僕は一筆箋を開いた。そこには、青い万年筆で丁寧な文字が書かれていた。
≪先日の東海沖での地震、新聞ではほとんど報道もされておりませんでしたが、諏訪市におります叔母からは疎開を受け入れられない旨の連絡が参りました。そのため、少なくともこの冬は東京に残ることになります。再びの空襲は恐ろしくもありますが、あなた様のお手紙を受け取れるかもしれないと思うと、心が慰められます。≫
女性から男性への手紙のようだが、宛名も署名もなかった。日付だけは昭和十九年十二月と読める。
「君は、その、僕がまた偽善者ぶってこの面倒な仕事を引き受けたと思ってるだろ。実はさ、杉下には心配していることがあったんだ。で、本当はどうしても彼女自身がこの手紙の謎を解きたいと思っていたはずなんだ。でも入院してしまって」
僕はじっと手紙を見つめ、彼、相川に提案した。
「明日、杉下のところに行ってみようよ。彼女にこれを見せなきゃ」
「謎って?」
実は僕は期待していなかったのだ。でも、彼が意外にも興味を引かれた様子なのに驚いた。
「手紙だよ」
僕はまず、学院に伝わる『図書館の手紙』という七不思議のひとつを説明した。
もっとも、学院に本当に七不思議が揃っているのか、よく知らない。
「杉下によると、彼女は今、四通の『図書館の手紙』を持っているんだ。だからこれは五通目になる。宛名も署名もない手紙。思い合った男女が心を通わせるために本に手紙を挟んでやり取りするとか、それを現代の人間が発見して謎解きをするなんて、ありがちな話だろ。でも、自分が遭遇することはなかなかないと思わないか?」
相川がちょっと笑ったような気がした。いや、それは既に暗くなった駅までの道に灯る、オレンジの街灯が見せた幻の笑顔だったかもしれないけれど。
幸い明日は僕たちの図書館出張は休みだった。僕たちは杉下の入院する病院に行くことを決めた。
学校外で相川と会うのは初めてだ。何だかデートみたいで嬉しくなっている自分自身に、僕はちょっと呆れた。
変な趣味はないんだ。でも、好きな友だちと出かけるのって、楽しい。
あ、好きって言うとやっぱり誤解されるかもしれない。ただ、あまりにも彼の方から何も言ってこないから、気になって仕方がないんだ。
まるで他人には興味がないみたいに思える彼が、この手紙には珍しく興味を示しているような気がした。
一緒に謎解きをする。
これって、友情の芽生える素晴らしいきっかけになると思わない?

今、気が付いた。実は亨志の一人称になっていた……(前回は一応、三人称)
次回もお楽しみに!

満開近い枝垂れもお楽しみに(*^_^*)



どうしてそういう面倒なことを引き受けるんだ。
彼の目は明らかにそう言っていた。
僕だって別にそうしたいわけじゃないんだ。ただ、何かの仕事が降って湧いて、誰も手を挙げない時は、ついつい名乗り出てしまう。級長としては、ここで名乗りを挙げなかったら、卑怯だと思われそうだし。
そう、彼に出会うまでは、僕は明らかに体面を気にしていたと思う。高校生になってからは、上手くクラスの連中を「使う」ことを覚えたけれど、中学生の僕は、きっと皆にいい格好を見せたかったのだと思う。
ただし、その突然の面倒な仕事は一人では無理だろうと言われた時、級長の権限を発動したことは誰も知らない。
そう、彼に、協力を依頼したのだ。依頼というよりも、命令に近かったかもしれない。
彼はいつものように、表情一つ変えなかった。承諾したのかしていないのかも分からない顔だったけれど、少なくとも拒否はしていないことは確かだった。
だって、これでもう貴重な春休みの三日間、仕事自体は春休み前から始動していたので正確にはすでに一週間、彼は毎日午後から僕に付き合ってくれているのだから。
四月からは中学三年生になるという春休み。
夏にアメリカから帰国した彼、相川真は、その外見もあるけれど、人付き合いを全くしようとしない態度と性格も災いして、一緒につるむ友人はひとりも持たなかった。クラブにも在籍していなかったし、そもそも編入して半年たった今でも、「相川って日本語喋れないんだっけ?」という奴がいるくらい、多くの級友にとって彼が会話をしている姿は、ネッシーくらいに霧のベールに包まれたままだった。
だから、この春休みに友だちと遊ぶ予定は入っているわけがない。
「春休み、予定ある?」
「ないけど」
これで決まりだった。
僕らが通うこの学院は、中高一貫教育の私立校で、欧米の学校をモデルにしたクリスチャンスクールだ。
広い敷地内には、いわゆるパブリックスペースのようなものが数多点在している。
毎朝の礼拝のための講堂、その脇のチャペル、中央に小さな噴水を配し歴史感漂う洋館に囲まれた芝生の中庭、カフェテリアのような広い談話スペース、中身も充実した購買部、茶室と畳敷きの広間がある書院造の建物。
そして院内でも最も古い建物のひとつである図書館。
この図書館は通常、夕方六時まで開いている。司書が数人常在していて、教員は夜の八時まで使用可能だ。生徒でも、試験勉強や研究などで遅くまで使用したい場合は、保護者と学年主任の許可があれば使うことができる。
休みの日は、院外の人間も許可証があれば使用可能だ。創設者が無類の本コレクターで、貴重な古書が数多く収蔵されていて、研究のために許可申請をする大学の学者もいるという。
この出入りの多い休み期間の図書の整理には、クラスの図書委員とボランティアが駆り出される。この春休みは、新中学三年生と新高校一年生がその係だった。
面倒くさい仕事ではあるけれど、たまには貸出や閲覧が禁止されている貴重な本に触れることもできるので、好んで図書委員になる生徒もいる、というわけだった。
僕のクラスの図書係は、杉下という眼鏡の似合う小柄な女の子で、黙々と面倒な仕事をこなしてくれる、まさに縁の下の力持ちだった。
ところが、この春休みを前にして、杉下が突然虫垂炎で入院した。我慢強い彼女は、長期休み中の図書係の仕事を他人に押し付けられないと思って、腹膜炎一歩手前まで痛みに耐えていたようだった。
誰が代わりに休み中の図書整理係を引き受けるか、突然、クラスに大問題が降って湧いた。当たり前のことだが、休み中の予定は皆もう決まっていて、動かせないと主張する。
結局、終業式を数日後に控えたホームルームは、しばらく沈黙に支配された。
僕はこういう沈黙が苦手だった。だから、例のごとく言ってしまったのだ。
「じゃ、僕がやるよ」
実のところ、杉下から託された『秘密』があったのだ。
だから、どちらにしても毎日図書館には寄らなければならなかった。
相川はほとんど何も言わない。黙々と、書棚を整理し、返却された本を元の書棚に返すという単純業務を繰り返している。
僕らは午前中の補習を受けている。希望者だけ、英語と数学と国語の補習があるのだ。
相川は朝一番の英語の授業には来ない。帰国子女でもあり英語の家庭教師がついている彼には、まるで必要がないからだ。本当は数学だって必要ないんじゃないかと思うけれど、それは何故かじっと授業を聞いている。満点以外のテストを返されたことはないらしいのに。逆に国語は劣等生で、古典の教科書などはいっぱい書き込みがされている。ある時覗きこんでみたら、授業のノートではなく物理の何某かの計算式だった。つまり授業を聞いていないのだ。
僕は午後からバスケットボール部の練習に出る。午後一番から図書室の仕事を引き受けてくれている彼に合流するために、早めに練習を切り上げて図書室に向かう道のりでは、何となくデートに向かう少年の様に浮き立った気持ちになる。
相川はどちらかというと小柄なほうだ。僕らの多くがそうであるように、まだもう少しこれから伸びるのかもしれないし、あるいはかなり華奢な体つきなので、そう見えるだけなのかもしれない。
彼が何も言わないので本当のことは分からないけれど、異国の血が混じっていると思われる明るい髪の色に、左右の目の色が違う、いわゆるオッドアイの持ち主だ。
肌の色は白い方だけれど、決してひ弱な美少年には見えない。
それはその碧の目の印象のせいだった。
獲物を狙っている山猫。
図書館で図鑑を見るたびに相川を思い出して、僕は何となく息をついて夢想する。
なんて言うと、まるで僕が彼に恋をしているみたいだけれど、決して僕はそういう趣味があるわけじゃない。逆に、女の子に興味がないわけでもないけれど、今はクラブの男子とつるんでいる方が楽しい。背負ったことをいうわけじゃないけれど、級長としても、広くクラスの皆を気に掛ける立場にある。個人的に誰かと付き合ったり友人関係を結ぶということもあまり考えていなかった。
でも、何て言うのか、男女関係なく、憧れとか尊敬とか、そういう感情が恋愛とは別の次元で成立している年ごろなのだ。疑似恋愛のようなものかもしれないが、そこにはその先の気持ちなんてまるきりない。
僕が図書館に辿り着いて相川をさがすと、本棚の間をゆっくりと確認するように歩く彼を見つける。この仕事を効率よく果たすために、図書館のどの位置、本棚のどの位置にどのような本があるのか、その法則を確認しているのだという。
手元に仕事がない時は、物理学や天文学の本がある場所にいて、じっと背表紙を見つめている。
書棚の間から差し込む光に、彼の姿は影になってしまうのに、髪だけが淡く溶けてキラキラと光を返す。
僕が交替に現れたと知ると、相川は待っていたというようにその本棚から一冊を取り上げ、夕方まで図書室の片隅で一心に読んでいる。物理学の本だ。
「科学者になるの?」
いつも返事なんてしない相川が、その問いには答えた。
「多分」
と言っても、はっきりとした声じゃない。何となく頷いただけのような感じだった。
相川は閉館まで本を読んでいるので、結局、僕たちはいつも一緒に図書館を出ることになった。
彼が僕を待ってくれていたとは思わない。それでも、書棚に本を戻しながら、横目で図書館の隅に彼の姿を確認すると、何だかほっとした。
朝の冷えた空気が温められた後も、中庭に面した陰に残された清明の空気は一日中清浄なままだった。午後になって初めて光が届く場所は、何時間か後には傾いた赤い太陽に染められる。
窓の外の桜の木が、時々風に花びらを零していた。
相川の横顔にも夕陽が落ちている。一心不乱に本の世界に入り込んでいた彼が、何かに気が付いたようにふと顔を上げて窓の外を見ている。
もっとみんなと話したらいいのに。
僕はその横顔を見ながらいつもそう思っていた。
こうして時々彼の姿を視界の端に確認しながら、僕は図書館の業務を遂行する。
併せて、杉下から頼まれていた『秘密』を確認した。
その本は詩集のコーナーにあった。貴重な初版本も並んでいるが、字も本も古めかしく、研究者でなければ手に取ってみようとは思わないような古い詩集が並んでいる。
僕は、土井晩翠の『天地有情』を手に取った。明治三十二年に刊行された、晩翠の第一詩集だ。
え。
僕は思わず声を出してしまった。
昨日まではこの本に『秘密』は挟まれていなかった。
学院には『図書館の手紙』という不思議がある。
昔、家同士が結婚を認めなかった悲恋の恋人同士がこの学院に通っていた。詩が好きだった二人は、図書館にある詩集の本を利用して手紙のやり取りをしていたが、やがて学徒出陣で男子生徒が戦地に赴き、二人の恋は散ってしまったという。
結ばれなかった二人の想いが今も残っていて、その二人が交わしていた手紙が、時々、図書館の本に挟まれているのが見つかると伝えられていた。
だが、これまでは誰もその手紙を見た学生はいなかった。
本当のところ、僕は杉下に担がれているのかもしれないと思っていた。エイプリルフールの手の込んだ悪戯で、四月一日には「嘘だよ。この手紙は私が書いたの」とでも言われるかもしれないと思っていたのだ。
でも、杉下は今、入院中だ。昨日はここになかった手紙を、挟みにこれるわけじゃない。
僕は誰かに見られているような気がして、慌ててポケットに手紙を突っ込んだ。
帰り道、僕は知らずに雄弁になっていた。
「英語の草加先生、入院が長引きそうだから、四月から代行の先生が来るんだって」
「……」
「あの先生のブリティッシュな英語、好きなんだけど、若い先生ならアメリカ英語だよなぁ」
「……」
「そう言えば、草加先生ってさ、英語の先生なのに、何とかっていう詩の同人誌に投稿していて、結構有名なんだって、知ってた?」
「……」
「そういや、杉下の見舞いに行こうと思ったら、もう明後日退院なんだって」
「……」
「一週間くらいは自宅療養が必要だとしても、始業式に間に合うな。良かったよ」
「……」
「四月からクラブとか、入ってみない?」
「……」
「何だったら、バスケ、一緒にしないか?」
「……」
「あ、確か、剣道やってたんじゃなかったっけ? 剣道部、入らないの?」
「……」
会話になっていないかもしれないけれど、僕は結構これでも満足している。相川が少なくとも、僕と並んで歩くことを拒否していないからだ。
僕は何も話さない相川の反応を引き出したくて、あれこれと頭の中、鞄の中、ポケットの中にあるものを思い浮かべる。
相川の興味を引くものが何なのか、とにかく思いつくものを順番に口にしていきながら。
「あ、そう言えば」
ポケットの中のことを考えているうちに思いついた。
相川もこれに巻き込んでしまおう。
僕は立ち止まり、制服のポケットに突っこんだままの手紙を取り出した。
何も話さないままの彼が、同じように立ち止まり、僕の手を見る。
折り畳まれた一筆箋。少し黄ばんでいるものの、丁寧に端を合わせて折ってある。それなのに、くしゃりと握りしめたような跡が残っていた。
「持ってきちゃった」
彼はまだ不思議そうにその一筆箋を見つめている。
「手紙?」
彼の声を聞くのは久しぶりのような気がする。
僕は一筆箋を開いた。そこには、青い万年筆で丁寧な文字が書かれていた。
≪先日の東海沖での地震、新聞ではほとんど報道もされておりませんでしたが、諏訪市におります叔母からは疎開を受け入れられない旨の連絡が参りました。そのため、少なくともこの冬は東京に残ることになります。再びの空襲は恐ろしくもありますが、あなた様のお手紙を受け取れるかもしれないと思うと、心が慰められます。≫
女性から男性への手紙のようだが、宛名も署名もなかった。日付だけは昭和十九年十二月と読める。
「君は、その、僕がまた偽善者ぶってこの面倒な仕事を引き受けたと思ってるだろ。実はさ、杉下には心配していることがあったんだ。で、本当はどうしても彼女自身がこの手紙の謎を解きたいと思っていたはずなんだ。でも入院してしまって」
僕はじっと手紙を見つめ、彼、相川に提案した。
「明日、杉下のところに行ってみようよ。彼女にこれを見せなきゃ」
「謎って?」
実は僕は期待していなかったのだ。でも、彼が意外にも興味を引かれた様子なのに驚いた。
「手紙だよ」
僕はまず、学院に伝わる『図書館の手紙』という七不思議のひとつを説明した。
もっとも、学院に本当に七不思議が揃っているのか、よく知らない。
「杉下によると、彼女は今、四通の『図書館の手紙』を持っているんだ。だからこれは五通目になる。宛名も署名もない手紙。思い合った男女が心を通わせるために本に手紙を挟んでやり取りするとか、それを現代の人間が発見して謎解きをするなんて、ありがちな話だろ。でも、自分が遭遇することはなかなかないと思わないか?」
相川がちょっと笑ったような気がした。いや、それは既に暗くなった駅までの道に灯る、オレンジの街灯が見せた幻の笑顔だったかもしれないけれど。
幸い明日は僕たちの図書館出張は休みだった。僕たちは杉下の入院する病院に行くことを決めた。
学校外で相川と会うのは初めてだ。何だかデートみたいで嬉しくなっている自分自身に、僕はちょっと呆れた。
変な趣味はないんだ。でも、好きな友だちと出かけるのって、楽しい。
あ、好きって言うとやっぱり誤解されるかもしれない。ただ、あまりにも彼の方から何も言ってこないから、気になって仕方がないんだ。
まるで他人には興味がないみたいに思える彼が、この手紙には珍しく興味を示しているような気がした。
一緒に謎解きをする。
これって、友情の芽生える素晴らしいきっかけになると思わない?
今、気が付いた。実は亨志の一人称になっていた……(前回は一応、三人称)
次回もお楽しみに!

満開近い枝垂れもお楽しみに(*^_^*)
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Category: (2)図書館の手紙(完結)
【図書館の手紙】(2)流るゝ川に言葉あり


【図書館の手紙】その2です。
実は、この物語、リアルには1967年だったのですね。昭和42年!!
気になったので、曜日と天気を調べちゃいました。なぜならイースターの日付がポイントだったので。そうしたら、その年のイースターは3月26日、天気は23日から26日までは晴れ。
(なんでも調べちゃえる、便利な世の中になりましたね。)
もちろん、あまり年代は気にせず読んでいただいていいのですけれど、思えば学生運動とかが盛んな頃に大学に行っていた世代の人たちなのですね。
私にとってはちょっとアニキ先生たちの世代。
さて、今回のポイントは……
「相川って、二語文以上の日本語が喋れたんだ!」
(あまりにもひどい……)
何だか、喋らないハリーと、美人じゃないハーマイオニーと、心が広いロン、みたいになってきた3人組……
*写真は、満開間近、我が家の枝垂れ桜、でした。(よく見たら、虫が食ってる……)
-- 続きを読む --



先日頂いたお手紙を何度も拝読いたしました。あなたが好きだとおっしゃった土井晩翠先生の『希望』を何度も何度も声に出して読み返しております。人は愚かな生き物ですが、まだ希望を捨てたくはありません。ただひとえにご無事のお帰りをお待ちしております。
この国をきっと良い国にしよう。あの日の誓いは私の生きる力です。
昭和二十年三月一日
お勧めくださった伊良子清白先生の『孔雀船』を読みました。伊勢の景色が目に浮かぶようです。あなたは清白先生のような医師になりたいとおっしゃっていましたね。私は教師になり、子どもたちに希望を教えたい。そして、いつかあなたと一緒に、清白先生が見た景色を見ることができれば、どれほど嬉しいことでしょうか。この戦争が早く終わり、平穏な日が訪れることを願います。
昭和十九年四月六日
私もあの清明の頃、まだ桜色に染めあがる前の木の下で、あなたに出会った日のことを思い出します。シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』は好きではありません。私は彼らよりも賢明に、希望を持って、生きたいのです。
昭和十八年七月三十日
疎開と学徒動員を兼ねて、諏訪の叔母のところへ行くことになりそうです。けれども、両親の本音はあなたと私を引き離したいのです。このような非常時ですから、現実に逆らって生きることは難しいことも分かっております。いつ休校になるか、大変不安です。院長先生はどのような状況下でも、人は学ぶことができる、学ばねばならないとの意志を貫かれていますが、逮捕されたりしないか、心配でなりません。たとえ休校になっても、図書館には毎日通います。
昭和十九年十月二十六日
杉下萌衣は、病院の談話室のテーブルの上に、件の手紙を順番に並べた。図書館の詩集『天地有情』に挟んであったものだ。
木のテーブルの上には早春の光が落ちていて、角の取れた古い紙の染みを照らし出している。僕たちが生まれる前から今日にいたるまでの重い年月が、折り目の中に畳み込まれていた。
「そして最後がこれ」
一番右端に、僕が昨日見つけた手紙を置く。
杉下は都内の総合病院に入院していた。その日は土曜日で補習も休みだったので、相川と僕は昨日約束した通り、病院の近くの駅で待ち合わせた。
初デートみたいでドキドキして、僕は待ち合わせの駅に早く着きすぎてしまった。
どんなふうに待っていたら自然でいい感じに見えるか、あれこれポーズを考えていたけれど、よく考えたら相手は同性の同級生で、まるきり意味がないことだった。
しかも、いつの間にか、相川は改札口の反対の柱の傍に立っていて、周囲には目もくれずに本を読んでいたのだ。背筋をすっと伸ばして立っている彼は、何だか一枚の絵のように見えた。
相川は僕に気が付くと、無表情のまま短めのコートのポケットに本を仕舞った。
「もしかして、ずっとそこにいた?」
「うん」
「ごめん。気が付かなかった」
「うん」
相川は僕に気が付いていたんだろうか。気が付いて、話しかけるきっかけを探していたのか、あるいは、ぼくが気が付くのを待っていたのか。何となく、聞きそびれてしまった。
ジーンズに白いシャツ、それにモッズパーカー。制服を脱いだ彼は、思った以上に子どもっぽく見えた。
ちなみに、後で知ったことだけれど、彼がお洒落なのではなくて、彼の父親(実は伯父さんなんだ)と妹(つまり従妹)がお洒落だっただけなんだ。相川はむしろ、服装には無頓着な奴だった。
「う~ん」
五通の手紙を見ながら、僕は唸るだけだ。第一、これは『学院の七不思議』だったはずだ。こんなふうに目の前に実体として黄ばんだ手紙があるっていうのは、いまひとついただけない感じがする。
しかも五通も!
七不思議というくらいだから、あったはずの手紙が次に見たら消えちゃったりとかして、もう少しホラーっぽい要素があってもよさそうだけど……とても消えそうにはない。
杉下は唸ってばかりの僕じゃなく、じっと手紙を読んでいる相川の横顔を見つめている。
そりゃね、僕よりも余程鑑賞に値すると思うけれど、そんなに露骨に見るのはどうかなぁ。
「宛名も署名もないんじゃ、返すにしてもどうしようもないよなぁ」
「もう、富山くん、問題はそこ?」
「え? どこ?」
「問題は誰が何故、この手紙を挟んでいったかということよ」
「え? 手紙を書いた人に決まってる……なわけないか。二十年も前の手紙を今さら出しても仕方ないし」
「じゃなくて、手紙を書いた人は既にこの手紙を出してしまったんだから」
明日は退院だという杉下は、僕らが病室に入った時はまだパジャマ姿だった。
僕を見た時は「あ、富山くん」と言って何ともない顔だったのに、僕の後ろに相川を見つけた途端、談話室で待っててと僕たちを病室から追い出した。しばらくして点滴台を引っ張って現れた彼女は、態度こそいつも通りだったけれど、ちゃんと髪の毛をまとめて、きちんと薄紅色の上着を着ていた。
ま、ありがちなことだけれど。
理解が行き届いていない僕を助けるように、杉下が先を続ける。
「手紙の内容からはちゃんとやり取りがあったってことでしょ。つまり、相手からの返事があったはず。手紙を書いた人にとっては出してしまった手紙なんだから、挟んだのは受け取った側の人ってことにならない? 本人かどうかは別にして」
「自分が貰った手紙を出し直しているってこと? それも二十年も経ってから? 何のために?」
「それが分からないのよね。もちろん、全くの第三者ってこともあるけれど、それならどうやって手紙を手に入れたのかな」
相川はまだじっと手紙を見つめている。
僕らの会話、聞いてる? とちょっと心配になった時、彼が口を開いた。
「杉下さんがこの休み中の図書委員の仕事を、他の人に任せたくなかった理由は何?」
え? え? え~~~? そんなに長い文章、喋ってるの、初めて聞いた! 二語文以上の日本語、喋れるんだ。
あまりにも驚いた僕は、内容を全然聞いていなかった。
聞かれた杉下の方も、しばらくぽかんとした顔で相川を見ている。
仲良く並んだ杉下と僕の驚いた顔を見て、相川が少しむっとしたような顔をした。
ほら、またその山猫の目。どうしてそういう攻撃的な目で人を見るかなぁ。だから誤解されるんだよ。な、杉下……っと。
杉下はまだ呆然とした顔で相川を見ている。彼女はいつも冷静で、静かに本を読んでいることが多くて、でも要所では言うことはばしっと言う、聡明な女の子なんだ。
でも、もしかして眼鏡の奥のその目は、恋する乙女の目?
などとくだらないことを考えている僕を置き去りにして、二人は謎解きを楽しむ名探偵に早変わりしていた。
「腹膜炎になる手前まで頑張ってたって言うから」
それは彼女が責任感の強い子で、人に迷惑をかけられないと思っていたからじゃ……
「日曜日なの」
え?
「この手紙を初めて見つけたのは、冬休みの最後の日。毎週ってわけじゃなかったから、始めは気が付かなかったんだけど、カレンダーに印を入れてみたら、私がこの手紙を見つけるのはいつも日曜日の午後、もしくは月曜日の朝だった。だから、次はこの春休み中にくるんじゃないかって。次の手紙も、自分で見つけたかったし、もしかして手紙を挟みに来る人に遭遇できるチャンスが次の日曜日にくるかもしれないと思って」
「でも昨日は金曜日だよ……」
「うん……」
僕の言葉に、杉下はちょっとがっかりしたような顔をした。
過去からの不思議な手紙がやって来る日は日曜日、という法則性は成立しなくなってしまったからだろう。
「他の四通を見つけた正確な日を覚えてる?」
相川は淡々とした声で尋ねた。
「うん」
杉下は大事に持っていた小さな本を開いた。本、ではなくて日記のようだ。
一月八日日曜日、二月十二日月曜日、二月二十六日日曜日、三月十二日日曜日、そして三月二十四日金曜日。
僕はと言えば、まだ、相川が二語文以上の日本語を喋っていることに驚いていた。ちょっとイントネーションが微妙で、言葉を考えながらゆっくりと喋っているけれど、丁寧で優しい声じゃないか。
「土曜日に本を確認したことは?」
「土曜日には手紙はなかった。実は、始めの手紙を見つけた時は本に挟んだまま一か月くらい置いていたの。誰かが受け取りに来るのかもしれないと思ったから。でも手紙は一か月たってもそのままだった。古い本だから、誰も借りないとは思ったけれど、もしかして誰か他の人が持って行っちゃったら嫌だなと思ったり、これを見つけたのは何かの縁かもしれないと思ったりして、こっそり手紙を抜いちゃった。そうしたら、次の週に別の手紙が入ってたの」
「その後は、二週間ごとだね。君の図書委員の拘束時間は?」
「休みの日は二時から六時。三月の二回は、土曜日の八時までいて、帰りには本を確認して帰った」
「日曜日は開館と同時に本を見に行った?」
「うん。開館の準備のために二時少し前には行くんだけれど、もう手紙は挟まってた」
「で、名探偵諸君、これはどういう意味なの?」
「つまり、これを本に挟みに来る人は、土曜日の夜から日曜日の午前中、あるいは午後一番に来ている可能性が高いということね」
日曜日の午前中、学院の図書館は閉まっている。
そう、理由は単純だ。ここはクリスチャンスクールで、日曜日の午前中、僕たちも職員も、礼拝に行っていることになっている。院内のチャペルでも礼拝をしていて、熱心な卒業生などが礼拝に訪れている。
そういうわけで、日曜日に図書館が開くのは午後二時からだ。
「本当なら明日、三月二十六日の日曜日に手紙はやって来るはずだったんだ。でも金曜日にやって来た。どうしてだろう? もしかして杉下が日曜日の法則に気が付いて、手紙を挟みに来るところを見つかっちゃうかもしれないと思ったから、ずらしたのかもしれないなぁ」
僕はちらりと相川を見る。相川は考え事をしているのか、無言のまま、並べた手紙をもう一度吟味しているように見えた。
僕の推理は聞いてない、ね。
「日曜日に君よりも早く図書館に来るのは誰? あるいは土曜日、君より遅くに図書館を出る人」
「土曜日は司書の的崎さんと鍵を閉めて一緒に帰るから、いないと思う。日曜日は鍵を開ける時間には私、大抵図書館の入り口にいるから……」
「う~ん。じゃあ、誰かが夜中に忍び込んだってことかな?」
校舎に侵入する窓があるように、図書館にもどこかに抜け穴があるのかもしれない。あるいは地下通路とか。それとも。
「やっぱり過去からの手紙、もしかして幽霊とか?」
「どうしてばらばらなんだろう?」
相川は僕の言うことは聞いていなかったらしく、唐突にそう言った。
「ばらばらって何が?」
杉下は相川の言葉には反応している。
ま、いいか。こうしてクラスメイトが会話している姿を見るのは、しかも今までほとんど誰とも口をきいたことがないような相川が会話しているのを聞くのは、それだけでも気分がいいのだから。
「日付。どうして順番じゃないんだろう」
「そう言えばそうね」
二人が言っているのは、挟まれていた手紙の日付が時系列になっていなかったことだった。
それは、そんなに気になることなのかな? やっぱり幽霊の悪戯だからじゃないの?
「退院、明日?」
再び唐突に、相川は顔を上げて杉下を見た。
光の加減で右目の碧が際立って美しく見えた。それに、その碧のために、黒い左の目がより深く沈んで見える。心を見透かされるようなコントラストだった。
この目、本当に射抜かれちゃうよ。
「うん。今日で点滴も終わりだから」
杉下がちょっとトーンの違う声で答えた。確かに、相川が世間話を始めるなんて、びっくりするよな。じゃなくて、やっぱり恋する乙女の……
「いつから外出できるの?」
「う~ん、先生は退院しても数日は家にいろって言ってたけど。腹膜炎になりかけたお蔭で入院が長引いて、抜糸も済んじゃったし、来週には委員の仕事、できると思う」
「え? 無理しなくていいよ。僕と相川がするからさ」
「さっきの話だけど」
今度はいきなり相川が僕を見る。
「え? さっきのどの話?」
「どうして金曜日かってことは分からないけど、今回は日曜日じゃなかったことには、多分、理由があるよ」
「な、何?」
びっくりした。僕の話、聞いていたんだ。
「明日はイースターだ。だから図書館は休館だ」
「あ、そうだった。でも、幽霊だったら、図書館が閉まってても関係ないよな」
「幽霊じゃないよ。きっと理由をちゃんと説明できる人がいるはずだ」
僕と杉下は何となく顔を見合わせた。
僕と相川は明日の日曜日、学院のイースター礼拝に出席してみることにした。杉下も行きたがったけれど、さすがに退院した足で来るのは無理だ。だから月曜日に図書館で待ち合わせることにした。
「本当に七不思議じゃないのかな」
僕はちょっと残念な気がした。うら若い乙女の幽霊、もしくは優しい文学青年の幽霊が手紙を挟みに来ている方がずっと素敵だ。でも、相川には無視されてしまった。
もっとも、幽霊だったら、ちょっと怖いんだけど……
杉下はちょっと優しい顔で言った。
「七不思議じゃなくて、本当にあった出来事なのかもしれないのよ。その方が素敵」
「そうか。元ネタがあるはずなんだよな」
その時、杉下が、あ、と声をあげた。
「そうだ。英語の草加先生に聞いてみようよ」
「草加先生、入院してるんじゃ……」
あ、もしかして。
「この間、検査室でばったりお会いしたの。先生、うちの学院の生徒だったんでしょ。何かご存じかも」
もしかして具合が悪いんだったら、と心配する僕を他所に、杉下は病棟の詰所に行って断りを入れ、それから僕たちを別の階へと案内した。
相川はさりげなく杉下の点滴台に気を配っていた。へぇ、いいところあるじゃないか、と僕は何だか嬉しくなった。
草加先生。ちょっと小柄なおばあちゃん先生だ。マザーグースが専門で、奇妙な節回しのイギリス英語でハンプティ・ダンプティを歌ってくれる。
あの明るい先生が病気で入院しているところ、何だか想像できないんだ。

3回で終わるのかな? いささか不安^^;
(「またなのね」と思っておられる方も多いと思いますが。)
このたびのこの掌編、ある詩をご紹介する目的もあって書いております。
タイトルに出ていますけれど……また次回に。

もう間もなく満開です。
次回もお楽しみに!



先日頂いたお手紙を何度も拝読いたしました。あなたが好きだとおっしゃった土井晩翠先生の『希望』を何度も何度も声に出して読み返しております。人は愚かな生き物ですが、まだ希望を捨てたくはありません。ただひとえにご無事のお帰りをお待ちしております。
この国をきっと良い国にしよう。あの日の誓いは私の生きる力です。
昭和二十年三月一日
お勧めくださった伊良子清白先生の『孔雀船』を読みました。伊勢の景色が目に浮かぶようです。あなたは清白先生のような医師になりたいとおっしゃっていましたね。私は教師になり、子どもたちに希望を教えたい。そして、いつかあなたと一緒に、清白先生が見た景色を見ることができれば、どれほど嬉しいことでしょうか。この戦争が早く終わり、平穏な日が訪れることを願います。
昭和十九年四月六日
私もあの清明の頃、まだ桜色に染めあがる前の木の下で、あなたに出会った日のことを思い出します。シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』は好きではありません。私は彼らよりも賢明に、希望を持って、生きたいのです。
昭和十八年七月三十日
疎開と学徒動員を兼ねて、諏訪の叔母のところへ行くことになりそうです。けれども、両親の本音はあなたと私を引き離したいのです。このような非常時ですから、現実に逆らって生きることは難しいことも分かっております。いつ休校になるか、大変不安です。院長先生はどのような状況下でも、人は学ぶことができる、学ばねばならないとの意志を貫かれていますが、逮捕されたりしないか、心配でなりません。たとえ休校になっても、図書館には毎日通います。
昭和十九年十月二十六日
杉下萌衣は、病院の談話室のテーブルの上に、件の手紙を順番に並べた。図書館の詩集『天地有情』に挟んであったものだ。
木のテーブルの上には早春の光が落ちていて、角の取れた古い紙の染みを照らし出している。僕たちが生まれる前から今日にいたるまでの重い年月が、折り目の中に畳み込まれていた。
「そして最後がこれ」
一番右端に、僕が昨日見つけた手紙を置く。
杉下は都内の総合病院に入院していた。その日は土曜日で補習も休みだったので、相川と僕は昨日約束した通り、病院の近くの駅で待ち合わせた。
初デートみたいでドキドキして、僕は待ち合わせの駅に早く着きすぎてしまった。
どんなふうに待っていたら自然でいい感じに見えるか、あれこれポーズを考えていたけれど、よく考えたら相手は同性の同級生で、まるきり意味がないことだった。
しかも、いつの間にか、相川は改札口の反対の柱の傍に立っていて、周囲には目もくれずに本を読んでいたのだ。背筋をすっと伸ばして立っている彼は、何だか一枚の絵のように見えた。
相川は僕に気が付くと、無表情のまま短めのコートのポケットに本を仕舞った。
「もしかして、ずっとそこにいた?」
「うん」
「ごめん。気が付かなかった」
「うん」
相川は僕に気が付いていたんだろうか。気が付いて、話しかけるきっかけを探していたのか、あるいは、ぼくが気が付くのを待っていたのか。何となく、聞きそびれてしまった。
ジーンズに白いシャツ、それにモッズパーカー。制服を脱いだ彼は、思った以上に子どもっぽく見えた。
ちなみに、後で知ったことだけれど、彼がお洒落なのではなくて、彼の父親(実は伯父さんなんだ)と妹(つまり従妹)がお洒落だっただけなんだ。相川はむしろ、服装には無頓着な奴だった。
「う~ん」
五通の手紙を見ながら、僕は唸るだけだ。第一、これは『学院の七不思議』だったはずだ。こんなふうに目の前に実体として黄ばんだ手紙があるっていうのは、いまひとついただけない感じがする。
しかも五通も!
七不思議というくらいだから、あったはずの手紙が次に見たら消えちゃったりとかして、もう少しホラーっぽい要素があってもよさそうだけど……とても消えそうにはない。
杉下は唸ってばかりの僕じゃなく、じっと手紙を読んでいる相川の横顔を見つめている。
そりゃね、僕よりも余程鑑賞に値すると思うけれど、そんなに露骨に見るのはどうかなぁ。
「宛名も署名もないんじゃ、返すにしてもどうしようもないよなぁ」
「もう、富山くん、問題はそこ?」
「え? どこ?」
「問題は誰が何故、この手紙を挟んでいったかということよ」
「え? 手紙を書いた人に決まってる……なわけないか。二十年も前の手紙を今さら出しても仕方ないし」
「じゃなくて、手紙を書いた人は既にこの手紙を出してしまったんだから」
明日は退院だという杉下は、僕らが病室に入った時はまだパジャマ姿だった。
僕を見た時は「あ、富山くん」と言って何ともない顔だったのに、僕の後ろに相川を見つけた途端、談話室で待っててと僕たちを病室から追い出した。しばらくして点滴台を引っ張って現れた彼女は、態度こそいつも通りだったけれど、ちゃんと髪の毛をまとめて、きちんと薄紅色の上着を着ていた。
ま、ありがちなことだけれど。
理解が行き届いていない僕を助けるように、杉下が先を続ける。
「手紙の内容からはちゃんとやり取りがあったってことでしょ。つまり、相手からの返事があったはず。手紙を書いた人にとっては出してしまった手紙なんだから、挟んだのは受け取った側の人ってことにならない? 本人かどうかは別にして」
「自分が貰った手紙を出し直しているってこと? それも二十年も経ってから? 何のために?」
「それが分からないのよね。もちろん、全くの第三者ってこともあるけれど、それならどうやって手紙を手に入れたのかな」
相川はまだじっと手紙を見つめている。
僕らの会話、聞いてる? とちょっと心配になった時、彼が口を開いた。
「杉下さんがこの休み中の図書委員の仕事を、他の人に任せたくなかった理由は何?」
え? え? え~~~? そんなに長い文章、喋ってるの、初めて聞いた! 二語文以上の日本語、喋れるんだ。
あまりにも驚いた僕は、内容を全然聞いていなかった。
聞かれた杉下の方も、しばらくぽかんとした顔で相川を見ている。
仲良く並んだ杉下と僕の驚いた顔を見て、相川が少しむっとしたような顔をした。
ほら、またその山猫の目。どうしてそういう攻撃的な目で人を見るかなぁ。だから誤解されるんだよ。な、杉下……っと。
杉下はまだ呆然とした顔で相川を見ている。彼女はいつも冷静で、静かに本を読んでいることが多くて、でも要所では言うことはばしっと言う、聡明な女の子なんだ。
でも、もしかして眼鏡の奥のその目は、恋する乙女の目?
などとくだらないことを考えている僕を置き去りにして、二人は謎解きを楽しむ名探偵に早変わりしていた。
「腹膜炎になる手前まで頑張ってたって言うから」
それは彼女が責任感の強い子で、人に迷惑をかけられないと思っていたからじゃ……
「日曜日なの」
え?
「この手紙を初めて見つけたのは、冬休みの最後の日。毎週ってわけじゃなかったから、始めは気が付かなかったんだけど、カレンダーに印を入れてみたら、私がこの手紙を見つけるのはいつも日曜日の午後、もしくは月曜日の朝だった。だから、次はこの春休み中にくるんじゃないかって。次の手紙も、自分で見つけたかったし、もしかして手紙を挟みに来る人に遭遇できるチャンスが次の日曜日にくるかもしれないと思って」
「でも昨日は金曜日だよ……」
「うん……」
僕の言葉に、杉下はちょっとがっかりしたような顔をした。
過去からの不思議な手紙がやって来る日は日曜日、という法則性は成立しなくなってしまったからだろう。
「他の四通を見つけた正確な日を覚えてる?」
相川は淡々とした声で尋ねた。
「うん」
杉下は大事に持っていた小さな本を開いた。本、ではなくて日記のようだ。
一月八日日曜日、二月十二日月曜日、二月二十六日日曜日、三月十二日日曜日、そして三月二十四日金曜日。
僕はと言えば、まだ、相川が二語文以上の日本語を喋っていることに驚いていた。ちょっとイントネーションが微妙で、言葉を考えながらゆっくりと喋っているけれど、丁寧で優しい声じゃないか。
「土曜日に本を確認したことは?」
「土曜日には手紙はなかった。実は、始めの手紙を見つけた時は本に挟んだまま一か月くらい置いていたの。誰かが受け取りに来るのかもしれないと思ったから。でも手紙は一か月たってもそのままだった。古い本だから、誰も借りないとは思ったけれど、もしかして誰か他の人が持って行っちゃったら嫌だなと思ったり、これを見つけたのは何かの縁かもしれないと思ったりして、こっそり手紙を抜いちゃった。そうしたら、次の週に別の手紙が入ってたの」
「その後は、二週間ごとだね。君の図書委員の拘束時間は?」
「休みの日は二時から六時。三月の二回は、土曜日の八時までいて、帰りには本を確認して帰った」
「日曜日は開館と同時に本を見に行った?」
「うん。開館の準備のために二時少し前には行くんだけれど、もう手紙は挟まってた」
「で、名探偵諸君、これはどういう意味なの?」
「つまり、これを本に挟みに来る人は、土曜日の夜から日曜日の午前中、あるいは午後一番に来ている可能性が高いということね」
日曜日の午前中、学院の図書館は閉まっている。
そう、理由は単純だ。ここはクリスチャンスクールで、日曜日の午前中、僕たちも職員も、礼拝に行っていることになっている。院内のチャペルでも礼拝をしていて、熱心な卒業生などが礼拝に訪れている。
そういうわけで、日曜日に図書館が開くのは午後二時からだ。
「本当なら明日、三月二十六日の日曜日に手紙はやって来るはずだったんだ。でも金曜日にやって来た。どうしてだろう? もしかして杉下が日曜日の法則に気が付いて、手紙を挟みに来るところを見つかっちゃうかもしれないと思ったから、ずらしたのかもしれないなぁ」
僕はちらりと相川を見る。相川は考え事をしているのか、無言のまま、並べた手紙をもう一度吟味しているように見えた。
僕の推理は聞いてない、ね。
「日曜日に君よりも早く図書館に来るのは誰? あるいは土曜日、君より遅くに図書館を出る人」
「土曜日は司書の的崎さんと鍵を閉めて一緒に帰るから、いないと思う。日曜日は鍵を開ける時間には私、大抵図書館の入り口にいるから……」
「う~ん。じゃあ、誰かが夜中に忍び込んだってことかな?」
校舎に侵入する窓があるように、図書館にもどこかに抜け穴があるのかもしれない。あるいは地下通路とか。それとも。
「やっぱり過去からの手紙、もしかして幽霊とか?」
「どうしてばらばらなんだろう?」
相川は僕の言うことは聞いていなかったらしく、唐突にそう言った。
「ばらばらって何が?」
杉下は相川の言葉には反応している。
ま、いいか。こうしてクラスメイトが会話している姿を見るのは、しかも今までほとんど誰とも口をきいたことがないような相川が会話しているのを聞くのは、それだけでも気分がいいのだから。
「日付。どうして順番じゃないんだろう」
「そう言えばそうね」
二人が言っているのは、挟まれていた手紙の日付が時系列になっていなかったことだった。
それは、そんなに気になることなのかな? やっぱり幽霊の悪戯だからじゃないの?
「退院、明日?」
再び唐突に、相川は顔を上げて杉下を見た。
光の加減で右目の碧が際立って美しく見えた。それに、その碧のために、黒い左の目がより深く沈んで見える。心を見透かされるようなコントラストだった。
この目、本当に射抜かれちゃうよ。
「うん。今日で点滴も終わりだから」
杉下がちょっとトーンの違う声で答えた。確かに、相川が世間話を始めるなんて、びっくりするよな。じゃなくて、やっぱり恋する乙女の……
「いつから外出できるの?」
「う~ん、先生は退院しても数日は家にいろって言ってたけど。腹膜炎になりかけたお蔭で入院が長引いて、抜糸も済んじゃったし、来週には委員の仕事、できると思う」
「え? 無理しなくていいよ。僕と相川がするからさ」
「さっきの話だけど」
今度はいきなり相川が僕を見る。
「え? さっきのどの話?」
「どうして金曜日かってことは分からないけど、今回は日曜日じゃなかったことには、多分、理由があるよ」
「な、何?」
びっくりした。僕の話、聞いていたんだ。
「明日はイースターだ。だから図書館は休館だ」
「あ、そうだった。でも、幽霊だったら、図書館が閉まってても関係ないよな」
「幽霊じゃないよ。きっと理由をちゃんと説明できる人がいるはずだ」
僕と杉下は何となく顔を見合わせた。
僕と相川は明日の日曜日、学院のイースター礼拝に出席してみることにした。杉下も行きたがったけれど、さすがに退院した足で来るのは無理だ。だから月曜日に図書館で待ち合わせることにした。
「本当に七不思議じゃないのかな」
僕はちょっと残念な気がした。うら若い乙女の幽霊、もしくは優しい文学青年の幽霊が手紙を挟みに来ている方がずっと素敵だ。でも、相川には無視されてしまった。
もっとも、幽霊だったら、ちょっと怖いんだけど……
杉下はちょっと優しい顔で言った。
「七不思議じゃなくて、本当にあった出来事なのかもしれないのよ。その方が素敵」
「そうか。元ネタがあるはずなんだよな」
その時、杉下が、あ、と声をあげた。
「そうだ。英語の草加先生に聞いてみようよ」
「草加先生、入院してるんじゃ……」
あ、もしかして。
「この間、検査室でばったりお会いしたの。先生、うちの学院の生徒だったんでしょ。何かご存じかも」
もしかして具合が悪いんだったら、と心配する僕を他所に、杉下は病棟の詰所に行って断りを入れ、それから僕たちを別の階へと案内した。
相川はさりげなく杉下の点滴台に気を配っていた。へぇ、いいところあるじゃないか、と僕は何だか嬉しくなった。
草加先生。ちょっと小柄なおばあちゃん先生だ。マザーグースが専門で、奇妙な節回しのイギリス英語でハンプティ・ダンプティを歌ってくれる。
あの明るい先生が病気で入院しているところ、何だか想像できないんだ。
3回で終わるのかな? いささか不安^^;
(「またなのね」と思っておられる方も多いと思いますが。)
このたびのこの掌編、ある詩をご紹介する目的もあって書いております。
タイトルに出ていますけれど……また次回に。

もう間もなく満開です。
次回もお楽しみに!
Category: (2)図書館の手紙(完結)
【図書館の手紙】(3)空行く雲に啓示あり
【図書館の手紙】その(3)です。
図書館の本の間に挟まれている手紙。
それは『学院の七不思議』に語られる、結ばれなかった恋人たちの秘密の手紙だったのか?
20年も前に交わされたはずの手紙が、なぜまた図書館の本に挟まれているのか?
一方通行で、日付もばらばらの手紙の意味は?
(1)(2)を合わせても短いお話ですので、よろしければ始めから読んでやってくださいませ。
(1)清明の候、君を想う
(2)流るゝ川に言葉あり
≪登場人物≫
富山享志:私立幹学院に通う中学生。責任感は強いが、面倒なことを押し付けられやすい級長。
相川真:中学2年生で幹学院に編入した帰国子女。一人でいるのが平気な元苛められっ子。
杉下萌衣:クラスの図書委員の女の子。急性虫垂炎で入院して、図書館の謎を亨志に託す。
草加先生:学院の英語の先生。病気で入院中のおばあちゃん先生。詩人でもある。
図書館の本の間に挟まれている手紙。
それは『学院の七不思議』に語られる、結ばれなかった恋人たちの秘密の手紙だったのか?
20年も前に交わされたはずの手紙が、なぜまた図書館の本に挟まれているのか?
一方通行で、日付もばらばらの手紙の意味は?
(1)(2)を合わせても短いお話ですので、よろしければ始めから読んでやってくださいませ。


≪登場人物≫
富山享志:私立幹学院に通う中学生。責任感は強いが、面倒なことを押し付けられやすい級長。
相川真:中学2年生で幹学院に編入した帰国子女。一人でいるのが平気な元苛められっ子。
杉下萌衣:クラスの図書委員の女の子。急性虫垂炎で入院して、図書館の謎を亨志に託す。
草加先生:学院の英語の先生。病気で入院中のおばあちゃん先生。詩人でもある。
-- 続きを読む --



「あらまぁ、これはどういう組み合わせなのかしら」
草加先生は、ベッドに座ったまま、にこやかな笑顔で迎えてくれた。
髪は薄くすっかり白くなっていたけれど、背中は授業中と同じようにしゃんと伸ばして、小柄な体を少し赤みのある浴衣で包んでいた。
青い模様は顔色が悪く見えるでしょ、だから赤にしたのよ、と杉下に語っていたらしい。
病名は聞かされていないけれど、軽い病気ではないことは、教壇に復帰できないという話から明らかだ。けれど、思ったよりも顔色は良くて、唇にはちゃんと紅をさしておられた。そう、ちょっと可愛いお洒落な感じの先生だ。
そう言えば、実家は某財閥で、お嬢様育ちだったと聞いたことがある。穏やかで、それでいて無邪気な優しさを持ったおばあちゃん先生なんだ。
「私が入院している間、図書委員の仕事を、富山くんが引き受けてくれたんです」
杉下はさっきと違って、僕をちゃんと持ち上げてくれる。
「まぁ、級長の仕事もクラブもあるのに、あなたは本当に、損な役回りを引き受けてしまうわね」
「いえ、級長の仕事は、春休み中はお休みですし。クラブは後半は自主練習で、しかも僕がクラブに出ている間は彼が手伝ってくれているんです」
同意を求めて相川を見たけれど、相川はちょっと目を逸らしていた。
先生と目を合わせるのは相変わらず苦手なんだ。いや、先生に限らない。人間全般が苦手、って感じに見える。その割には、猫とか犬とかとはまるで会話しているように、目と目でコンタクトを取っているから不思議だ。
「そうなのね。相川君、ありがとう。クラスの仲間のために手伝ってくれて嬉しいわ。杉下さんも、こんな頼もしいナイトたちがいて、心強いわね」
僕は思わず照れちゃったけれど、隣で相川は無表情のままだった。
ほんと、彼ってどうやったら笑うんだろう?
「先生、実は私たち、『図書館の手紙』のことを調べているんです」
少しだけ学校の近況を話してから、杉下が唐突に切り出した。
「図書館の手紙?」
「学院の七不思議ってご存知ですか?」
草加先生の顔には「?」がくっついていた。
学院出身で、長く教師を勤めてきたからって、七不思議のことを知っているとは限らない。そもそも七不思議なんて都市伝説みたいなもの、いつから言われ始めたんだろう。最近、ネタのなくなった新聞部が勝手にでっち上げたものかもしれない。
杉下は草加先生に『図書館の手紙』について説明した。先生は始め、杉下の話を頷きながら聞いていた。杉下はさすが図書委員だけあって、説明は要領を得ていて分かりやすい。
などと感心しているうちに、相川が僕のジャケットの袖を引っ張った。
相川はじっと草加先生の顔を見ている。向こうが見ていなければ平気なんだな。
「それで」
草加先生は僕たち三人の顔を見回した。
「その七不思議のお話が一体どうしたの?」
相川がもう一度僕のジャケットの袖を引っ張った。
何で自分で言わないんだろう、ほんとに。
「先生、お疲れじゃありませんか」
相川がさっきから僕のジャケットを引っ張っていたのは、先生の顔色が悪いことを教えるためだった。人を見ていないようでいて、ちゃんと見ている。でも自分では言えないんだよな。
ほんと、相川って不思議な奴だ。
先生は大丈夫よと言ったけれど、杉下が手伝って、先生には横になってもらった。長い時間座っているのも辛いんだろうな、と思うと何だか切なくなった。教室中を歩き回りながらマザー・グースを教えてくれた先生なのに。
「あの、先生、お休みになってください。私たち、また改めて来ますから」
「いいえ、いいのよ。退屈していたのだから」
ベッドに横になって、少しリクライニングの頭を上げて、草加先生は僕たちに説明を求めた。
杉下は僕たちの顔をもう一度見てから、ガウンのポケットに入れてあった手紙を草加先生に見せた。
先生は丁寧に一筆箋の手紙を一枚一枚確認していた。
顔色はあまり良くなかったけれど、学院の中でひっそりと交されていたロマンスを確かめる視線は真剣だった。
始めは唇の紅だけが少し赤く見えていた。でも、手紙を読み進めるたびに、先生の頬に少し赤みが戻ってくる。
まるで、先生が恋をしている乙女みたいに見えた。
もしかして、なんてことを考えてしまう。
先生は、まるで慈しむように手紙の文字にそっと指で触れた。
杉下が不安そうに僕を見る。僕は相川を見る。相川はじっと、何かを確かめるように先生の手を見つめている。先生の手は少し震えているように見えた。
先生の右手の中指には、細い指に似合わないペンだこがある。窓から漏れてくる光のせいで、そこに深い影が落ちて見えていた。
「素敵な恋だったのね」
やがて先生はそっと呟いた。
「風薫る 窓辺にひとり 佇みて 煉瓦に落ちる 君の影見ゆ」
僕たちは顔を見合わせた。草加先生は杉下に手紙を返した。
「その手紙が挟まっていた詩集は『天地有情』だったと言ったかしら?」
「はい」
先生は相川を見た。
「相川君は知っている?」
草加先生は英語の先生で、相川が英語が得意なのは知っている。でも多分、彼が国語が苦手なことも知っているはずだ。
案の定、尋ねられた相川は一瞬びっくりしたような顔をして、それから首を横に振った。
でも実は、僕も『天地有情』が『荒城の月』の作詞者、土井晩翠の詩集だということくらいは知っているものの、残念ながら中身までは知らない。
「港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり」
相川はじっと先生の顔を見ていた。遅い午後、傾き始めた陽が、彼の横顔に深い影を落としていた。
本当に、綺麗な顔をしていると思った。美少年というのではないけれど、あまり多くの言葉を語らない分、深い想いと願いを胸に抱きしめているように、僕には感じられた。
僕は彼の足りない言葉の代わりになれたらいいのに、と願っていた。
「これはこの手紙に書かれた『希望』という詩の最後の部分。ゆっくりと噛みしめて読んで御覧なさい。国語は苦手と聞いていたけれど、一語一語大切に綴られた言葉は生きているの。その時に意味が分からなくても、繰り返し読むことで、自分の中にすとんと納まる時が来るわ。あなたはきっと大丈夫」
そう、英語の先生だけれど、草加先生は詩人でもあった。
杉下と僕は顔を見合わせた。
先生はもちろん、相川が前の学校で苛めにあっていたことや、何か事情があって父親が留学の際に息子を連れて行ったことを知っていて、だから相川がいつも学校で他の誰の顔も真っ直ぐに見ようとしないことを心配していたのだと思う。
「手紙を見せてくれてありがとう。あなたたち名探偵がその謎を解いたら、きっとその答えを教えてちょうだいね」
先生はさすがに少しお疲れのようだった。
だから僕たちは先生にお礼を言って、病室を辞した。
僕たちは談話室に戻る間も、戻ってしばらく向かい合って座っている間も、だんまりだった。相川が何を考えているかはいつも分からないけれど、杉下まで無言のままで、表情も硬くて何を考えているか分からないとなると、ちょっと不安になった。
「もしかして、先生がその手紙の主だったりして……」
僕はさっきから考えていたことを口にしてみた。
「それは一瞬私も頭をよぎったけど」
あれ、そうなんだ。僕は杉下が同意してくれるとは思わなかったので少し驚いた。
「先生が手紙の文字にそっと触れた時。大事なものに触れるみたいだったから。でも、その手紙が書かれた頃、先生は学生じゃなくて、もうこの学校のベテランの先生だったはず」
「学生同士の恋じゃなくて、先生同士の恋だったのかな?」
「それはないかなぁ。だって文面が若いもの」
文章が若いかどうかは僕にはわからない。杉下の女の勘ってやつ?
「イースターの礼拝に何か答えがあると思う?」
杉下は相川に向かって尋ねた。やっぱりね。相川の方が頼りになるように見えるのかな。
いや、僕だってそれなりに普段はみんなに頼られていると自負はしているのだけれど。でも、頼られているのか、便利に使われているのかはちょっと疑問だなぁ。
「タマゴに答えが書いてあるかも知れない」
え?
杉下も僕も、一瞬豆鉄砲を食らったような気がした。
あの……相川君、それ、もしかして冗談?
二度目の僕たちのダブル豆鉄砲視線を食らって、相川はまたむっとした表情をした。
以後、口をきいてくれない。
後から聞いたことだけれど、彼は自分のイントネーションが北国言葉なので、うまく聞きとってもらっていない、あるいは馬鹿にされていると思っていたようだ。
さすがに英語で喋られたら困るけれど、一応日本語だし、それにそんなに酷く訛っているわけでもないんだけれど。
いや、まぁ、少しは訛っている気はしなくもないけれど。
その端正な顔に北国訛りは、逆にイカしてる、と思うよ、僕は。うん。

翌日、相川と僕は制服姿でイースターの礼拝に臨んだ。
礼拝は十時から。こういう祭事的な礼拝の場合には、学内だけでなく学外からも列席者が集まる。学外からの参列希望者は申込制になっているけれど、学院の生徒の場合は当日参加も許可されている。
講堂は千人近くが入ることができる規模だけれど、祭事の場合はいつも満席だった。
僕が学校に着いた時には既に相川は学校にいて、講堂の外、人混みを避けた場所に、小さな紙袋を持って立っていた。
講堂のロビーには、作り物の木に卵が沢山ぶら下げられている。美術の時間に僕たち学生が作った色とりどりの作り物の卵だ。作り物の木は講堂の扉の間を埋め尽くすくらいに大きくて複雑な枝ぶりで、ぶら下げられた色とりどりの卵は、まるで木に咲いた花のようだ。
入口には兎のオブジェも飾られている。
毎年三月にコンテストがあって、今年は美術部の高校二年生の学生が作った兎が飾られていた。学内の庭には、コンテストの入選を果たせなかった兎たちも潜んでいる。
学外からの出席者として、近所の教会に通う小学生も招待されていた。彼らのために、庭園の中にもたくさんの卵が隠されている。
厳かに礼拝が進み、最後の祈りが捧げられ、参列者が弾かれたように庭に出ていく。卵探しの時間なのだ。
講堂を出た相川がふと空を見上げた。
春の風が時々うねるように空から吹き降ろす。風と共に春の匂いが降りてくる。草木の匂い、そして温んだ水の匂い、命を甦らせた土の匂い。
相川は、低木の中、岩の陰、花の下の土の中、木に掛けられた巣箱の中、あちこちを一生懸命に探している子どもたちを見つめている。
見つけても手柄を子どもたちに譲りながら、大人たちもまた無邪気に卵を探している。
彼らと一緒に庭園の中を歩きながら、相川もまた何かを探しているようだった。
僕は相川のすぐ後を追いかけていく。やがて、彼は足を止めた。
どこかで見たことのある眼鏡をかけた若い女性が、小学校に入る前くらいの男の子に、ピンクの兎の絵が描かれたカラフルな模様の卵を手渡していた。
あの兎は……
「廣原さん?」
女性が顔を上げる。相川が呼びかけたその女性は図書館で働く司書の一人だった。
相川は僕が学院に着く前に、忘れ物をしたと言って、警備員に図書館に入れてもらっていた。そこで職員名簿を確認して、司書の名前を確認していたようだ。併せて、警備員に、「日曜日に早めに図書館に来る司書」について質問していたのだという。
警備員は青森の出身で、相川の言葉のイントネーションから同郷意識を感じたようで、優しく答えてくれたらしい。
「こんにちは」
相川は屈んで男の子に声を掛けた。
その横顔を見て僕ははっとした。
そうだ。一度だけこんな顔を見たことがある。
あれは駅に捨てられていた猫を誰かが拾ってきたとき、その猫に向けた顔だ。
人間に対しては滅多に向けることのないその顔を、相川は特別な誰かに対してだけは向けるのだ。
あの時、再び捨てられそうになった猫を、相川は引き取って行った。後で聞いたら、剣道を習っているお寺に預けたと言っていた。
……たまには、僕らにもその顔を見せて欲しいと願うのは、贅沢なのかなぁ。
男の子に話しかけた相川が、彼の持つ卵を見てちょっとだけ妙な顔をした。何というのか、気まずい、って感じの表情だった。
う。
僕は必死で笑いを呑み込んだ。
まともに見てしまった。何回見ても面白すぎる。
卵に描かれたピンクの兎。耳が長いから兎だと分かるけれど、まるで宇宙からやって来た新種の生物みたいだ。目の位置がおかしいし、その鼻は兎じゃない。ひげの位置もおかしいと思うし、そもそも耳の長さが左右違いすぎる。
その破壊的なデフォルメにはある種の才能さえ感じるけれど、少なくとも中学生が描いた絵とは思えない。大人がわざと下手に描いた絵でもない。
……改めて見ると、本当に下手だ。
それを僕の隣の席で描いた本人は、ちらっと僕を睨んでから男の子に話しかけた。
「お名前を教えてくれる?」
男の子は司書の廣原さんを見上げ、それから「みさきゆうじ」と答えた。
あれ、廣原さんの子どもじゃないんだ。
「一緒に卵を探そうか。その……もうちょっと可愛い兎が描いてあるのを」
男の子の顔がちょっと明るくなった。
そうだよね。君ももうちょっと可愛い兎がいいよね。
でも、子どもって面白い。
僕たちは一緒になって卵を探して、全部で六個の卵を見つけた。
ゆうじくんは廣原さんと僕たちにもひとつずつ卵を分けてくれて、残りの三つをおじいちゃんのとお母さんのと自分のだと言った。その三つの中に例のピンク兎も混じっている。
「どれが君の?」
僕はまさかと思って聞いてみた。
ゆうじくんが指差したのは、何と、相川が描いた超絶デフォルメ兎の卵だった。
「だって、これがいちばん面白いから」
もう我慢ができずに笑い出した僕は、相川の冷たい山猫の目に射抜かれることになった。
卵探しで仲良くなった僕たちは、ベンチに座って、廣原さんが持ってきたクッキーを食べた。
食べ終わると、相川はずっと手元に持っていた小さな紙袋から本を取り出して、ゆうじくんに渡した。
え? その本、もしかして。
廣原さんも「あ」という顔をした。
土井晩翠『天地有情』。
背表紙には図書館のラベルが貼ってある。
「済みません。明日、ちゃんと貸出しカードを出します」
って、勝手に持ち出したのか。
「これ、君のお祖父ちゃんに渡してくれる?」
ゆうじくんは目を丸くして相川を見つめ、それからじっと本を見つめた。
無断持ち出しの上に又貸しは、だめなんじゃないの。
でも、廣原さんは何も言わなかった。
本当は家族の誰かと一緒にイースターの礼拝に来るはずだったのに、ゆうじくんのお祖父ちゃんもお母さんも訳あって来ることができなくなった。司書の廣原さんが、金曜日にそのことを聞いて可哀相に思い、一緒に来てあげたのだという。
僕たちは、ゆうじくんを送って行くと言う廣原さんと駅で別れた。
彼らの乗った電車を、向かいのホームで見送ってから、僕はむすっとして相川に言った。
「勝手に謎解きしちゃうなんて、ひどいよ」
「謎解きはこれからだよ。今揃っているのは状況証拠だけなんだ」
そう言ってから、相川は例のごとくあまり感情の籠っていない目で僕を見た。
「明日の杉下さんとの待ち合わせ場所、図書館じゃなくて病院に変更しておいてくれる? 時間は同じ、二時で」
僕はちょっと面白くなかった。
相川が何かを掴んでいるのに、僕には全部を教えてくれないことに。
いや、本当は僕が気が付いていないだけ?
でも勝手に朝早めに来て、警備員から情報を引き出していたんだろう?
もしかして、僕が一緒にいたら、勝手に本を持ち出すことを止めていたとでも思ったのかな。
あの本には何か、魔法でもかけてあるのだろうか。
やっぱり何だか面白くない。
僕は吊革につかまり、落ちていく夕陽を見つめる相川の横顔を見る。
……でも、まぁ、相川が二語文以上の日本語を喋れることが分かっただけでも良かった、ということにしよう。
それに、あの兎。相川にも弱点があることが確認できたのだから。
僕はまた笑い出しそうになるのをこらえた。
そうだ、僕はワトソン君でいいや。
明日きっと、名探偵ホームズが謎を解いてくれるに違いないから。

やっぱり4回になってしまったけれど、次回はちゃんと終わります^^;
図書館の手紙の理由、ぜひお楽しみください。
あ、その前に。
土井晩翠……かの有名な『荒城の月』の詩を書いた詩人。
漢詩的なリズムの詩は、口にすると心地いいです。
ちなみに、本当は「つちい」ですが、世人が「どい」と読むので「どい」でもいいことにしたのだとか。
長女・長男を病気で失った晩年は「心霊科学」などにも傾倒していたようで。
取りあえず、詩集『天地有情』から『希望』を。

『希望』
沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。
ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。
嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー
港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。



「あらまぁ、これはどういう組み合わせなのかしら」
草加先生は、ベッドに座ったまま、にこやかな笑顔で迎えてくれた。
髪は薄くすっかり白くなっていたけれど、背中は授業中と同じようにしゃんと伸ばして、小柄な体を少し赤みのある浴衣で包んでいた。
青い模様は顔色が悪く見えるでしょ、だから赤にしたのよ、と杉下に語っていたらしい。
病名は聞かされていないけれど、軽い病気ではないことは、教壇に復帰できないという話から明らかだ。けれど、思ったよりも顔色は良くて、唇にはちゃんと紅をさしておられた。そう、ちょっと可愛いお洒落な感じの先生だ。
そう言えば、実家は某財閥で、お嬢様育ちだったと聞いたことがある。穏やかで、それでいて無邪気な優しさを持ったおばあちゃん先生なんだ。
「私が入院している間、図書委員の仕事を、富山くんが引き受けてくれたんです」
杉下はさっきと違って、僕をちゃんと持ち上げてくれる。
「まぁ、級長の仕事もクラブもあるのに、あなたは本当に、損な役回りを引き受けてしまうわね」
「いえ、級長の仕事は、春休み中はお休みですし。クラブは後半は自主練習で、しかも僕がクラブに出ている間は彼が手伝ってくれているんです」
同意を求めて相川を見たけれど、相川はちょっと目を逸らしていた。
先生と目を合わせるのは相変わらず苦手なんだ。いや、先生に限らない。人間全般が苦手、って感じに見える。その割には、猫とか犬とかとはまるで会話しているように、目と目でコンタクトを取っているから不思議だ。
「そうなのね。相川君、ありがとう。クラスの仲間のために手伝ってくれて嬉しいわ。杉下さんも、こんな頼もしいナイトたちがいて、心強いわね」
僕は思わず照れちゃったけれど、隣で相川は無表情のままだった。
ほんと、彼ってどうやったら笑うんだろう?
「先生、実は私たち、『図書館の手紙』のことを調べているんです」
少しだけ学校の近況を話してから、杉下が唐突に切り出した。
「図書館の手紙?」
「学院の七不思議ってご存知ですか?」
草加先生の顔には「?」がくっついていた。
学院出身で、長く教師を勤めてきたからって、七不思議のことを知っているとは限らない。そもそも七不思議なんて都市伝説みたいなもの、いつから言われ始めたんだろう。最近、ネタのなくなった新聞部が勝手にでっち上げたものかもしれない。
杉下は草加先生に『図書館の手紙』について説明した。先生は始め、杉下の話を頷きながら聞いていた。杉下はさすが図書委員だけあって、説明は要領を得ていて分かりやすい。
などと感心しているうちに、相川が僕のジャケットの袖を引っ張った。
相川はじっと草加先生の顔を見ている。向こうが見ていなければ平気なんだな。
「それで」
草加先生は僕たち三人の顔を見回した。
「その七不思議のお話が一体どうしたの?」
相川がもう一度僕のジャケットの袖を引っ張った。
何で自分で言わないんだろう、ほんとに。
「先生、お疲れじゃありませんか」
相川がさっきから僕のジャケットを引っ張っていたのは、先生の顔色が悪いことを教えるためだった。人を見ていないようでいて、ちゃんと見ている。でも自分では言えないんだよな。
ほんと、相川って不思議な奴だ。
先生は大丈夫よと言ったけれど、杉下が手伝って、先生には横になってもらった。長い時間座っているのも辛いんだろうな、と思うと何だか切なくなった。教室中を歩き回りながらマザー・グースを教えてくれた先生なのに。
「あの、先生、お休みになってください。私たち、また改めて来ますから」
「いいえ、いいのよ。退屈していたのだから」
ベッドに横になって、少しリクライニングの頭を上げて、草加先生は僕たちに説明を求めた。
杉下は僕たちの顔をもう一度見てから、ガウンのポケットに入れてあった手紙を草加先生に見せた。
先生は丁寧に一筆箋の手紙を一枚一枚確認していた。
顔色はあまり良くなかったけれど、学院の中でひっそりと交されていたロマンスを確かめる視線は真剣だった。
始めは唇の紅だけが少し赤く見えていた。でも、手紙を読み進めるたびに、先生の頬に少し赤みが戻ってくる。
まるで、先生が恋をしている乙女みたいに見えた。
もしかして、なんてことを考えてしまう。
先生は、まるで慈しむように手紙の文字にそっと指で触れた。
杉下が不安そうに僕を見る。僕は相川を見る。相川はじっと、何かを確かめるように先生の手を見つめている。先生の手は少し震えているように見えた。
先生の右手の中指には、細い指に似合わないペンだこがある。窓から漏れてくる光のせいで、そこに深い影が落ちて見えていた。
「素敵な恋だったのね」
やがて先生はそっと呟いた。
「風薫る 窓辺にひとり 佇みて 煉瓦に落ちる 君の影見ゆ」
僕たちは顔を見合わせた。草加先生は杉下に手紙を返した。
「その手紙が挟まっていた詩集は『天地有情』だったと言ったかしら?」
「はい」
先生は相川を見た。
「相川君は知っている?」
草加先生は英語の先生で、相川が英語が得意なのは知っている。でも多分、彼が国語が苦手なことも知っているはずだ。
案の定、尋ねられた相川は一瞬びっくりしたような顔をして、それから首を横に振った。
でも実は、僕も『天地有情』が『荒城の月』の作詞者、土井晩翠の詩集だということくらいは知っているものの、残念ながら中身までは知らない。
「港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり」
相川はじっと先生の顔を見ていた。遅い午後、傾き始めた陽が、彼の横顔に深い影を落としていた。
本当に、綺麗な顔をしていると思った。美少年というのではないけれど、あまり多くの言葉を語らない分、深い想いと願いを胸に抱きしめているように、僕には感じられた。
僕は彼の足りない言葉の代わりになれたらいいのに、と願っていた。
「これはこの手紙に書かれた『希望』という詩の最後の部分。ゆっくりと噛みしめて読んで御覧なさい。国語は苦手と聞いていたけれど、一語一語大切に綴られた言葉は生きているの。その時に意味が分からなくても、繰り返し読むことで、自分の中にすとんと納まる時が来るわ。あなたはきっと大丈夫」
そう、英語の先生だけれど、草加先生は詩人でもあった。
杉下と僕は顔を見合わせた。
先生はもちろん、相川が前の学校で苛めにあっていたことや、何か事情があって父親が留学の際に息子を連れて行ったことを知っていて、だから相川がいつも学校で他の誰の顔も真っ直ぐに見ようとしないことを心配していたのだと思う。
「手紙を見せてくれてありがとう。あなたたち名探偵がその謎を解いたら、きっとその答えを教えてちょうだいね」
先生はさすがに少しお疲れのようだった。
だから僕たちは先生にお礼を言って、病室を辞した。
僕たちは談話室に戻る間も、戻ってしばらく向かい合って座っている間も、だんまりだった。相川が何を考えているかはいつも分からないけれど、杉下まで無言のままで、表情も硬くて何を考えているか分からないとなると、ちょっと不安になった。
「もしかして、先生がその手紙の主だったりして……」
僕はさっきから考えていたことを口にしてみた。
「それは一瞬私も頭をよぎったけど」
あれ、そうなんだ。僕は杉下が同意してくれるとは思わなかったので少し驚いた。
「先生が手紙の文字にそっと触れた時。大事なものに触れるみたいだったから。でも、その手紙が書かれた頃、先生は学生じゃなくて、もうこの学校のベテランの先生だったはず」
「学生同士の恋じゃなくて、先生同士の恋だったのかな?」
「それはないかなぁ。だって文面が若いもの」
文章が若いかどうかは僕にはわからない。杉下の女の勘ってやつ?
「イースターの礼拝に何か答えがあると思う?」
杉下は相川に向かって尋ねた。やっぱりね。相川の方が頼りになるように見えるのかな。
いや、僕だってそれなりに普段はみんなに頼られていると自負はしているのだけれど。でも、頼られているのか、便利に使われているのかはちょっと疑問だなぁ。
「タマゴに答えが書いてあるかも知れない」
え?
杉下も僕も、一瞬豆鉄砲を食らったような気がした。
あの……相川君、それ、もしかして冗談?
二度目の僕たちのダブル豆鉄砲視線を食らって、相川はまたむっとした表情をした。
以後、口をきいてくれない。
後から聞いたことだけれど、彼は自分のイントネーションが北国言葉なので、うまく聞きとってもらっていない、あるいは馬鹿にされていると思っていたようだ。
さすがに英語で喋られたら困るけれど、一応日本語だし、それにそんなに酷く訛っているわけでもないんだけれど。
いや、まぁ、少しは訛っている気はしなくもないけれど。
その端正な顔に北国訛りは、逆にイカしてる、と思うよ、僕は。うん。

翌日、相川と僕は制服姿でイースターの礼拝に臨んだ。
礼拝は十時から。こういう祭事的な礼拝の場合には、学内だけでなく学外からも列席者が集まる。学外からの参列希望者は申込制になっているけれど、学院の生徒の場合は当日参加も許可されている。
講堂は千人近くが入ることができる規模だけれど、祭事の場合はいつも満席だった。
僕が学校に着いた時には既に相川は学校にいて、講堂の外、人混みを避けた場所に、小さな紙袋を持って立っていた。
講堂のロビーには、作り物の木に卵が沢山ぶら下げられている。美術の時間に僕たち学生が作った色とりどりの作り物の卵だ。作り物の木は講堂の扉の間を埋め尽くすくらいに大きくて複雑な枝ぶりで、ぶら下げられた色とりどりの卵は、まるで木に咲いた花のようだ。
入口には兎のオブジェも飾られている。
毎年三月にコンテストがあって、今年は美術部の高校二年生の学生が作った兎が飾られていた。学内の庭には、コンテストの入選を果たせなかった兎たちも潜んでいる。
学外からの出席者として、近所の教会に通う小学生も招待されていた。彼らのために、庭園の中にもたくさんの卵が隠されている。
厳かに礼拝が進み、最後の祈りが捧げられ、参列者が弾かれたように庭に出ていく。卵探しの時間なのだ。
講堂を出た相川がふと空を見上げた。
春の風が時々うねるように空から吹き降ろす。風と共に春の匂いが降りてくる。草木の匂い、そして温んだ水の匂い、命を甦らせた土の匂い。
相川は、低木の中、岩の陰、花の下の土の中、木に掛けられた巣箱の中、あちこちを一生懸命に探している子どもたちを見つめている。
見つけても手柄を子どもたちに譲りながら、大人たちもまた無邪気に卵を探している。
彼らと一緒に庭園の中を歩きながら、相川もまた何かを探しているようだった。
僕は相川のすぐ後を追いかけていく。やがて、彼は足を止めた。
どこかで見たことのある眼鏡をかけた若い女性が、小学校に入る前くらいの男の子に、ピンクの兎の絵が描かれたカラフルな模様の卵を手渡していた。
あの兎は……
「廣原さん?」
女性が顔を上げる。相川が呼びかけたその女性は図書館で働く司書の一人だった。
相川は僕が学院に着く前に、忘れ物をしたと言って、警備員に図書館に入れてもらっていた。そこで職員名簿を確認して、司書の名前を確認していたようだ。併せて、警備員に、「日曜日に早めに図書館に来る司書」について質問していたのだという。
警備員は青森の出身で、相川の言葉のイントネーションから同郷意識を感じたようで、優しく答えてくれたらしい。
「こんにちは」
相川は屈んで男の子に声を掛けた。
その横顔を見て僕ははっとした。
そうだ。一度だけこんな顔を見たことがある。
あれは駅に捨てられていた猫を誰かが拾ってきたとき、その猫に向けた顔だ。
人間に対しては滅多に向けることのないその顔を、相川は特別な誰かに対してだけは向けるのだ。
あの時、再び捨てられそうになった猫を、相川は引き取って行った。後で聞いたら、剣道を習っているお寺に預けたと言っていた。
……たまには、僕らにもその顔を見せて欲しいと願うのは、贅沢なのかなぁ。
男の子に話しかけた相川が、彼の持つ卵を見てちょっとだけ妙な顔をした。何というのか、気まずい、って感じの表情だった。
う。
僕は必死で笑いを呑み込んだ。
まともに見てしまった。何回見ても面白すぎる。
卵に描かれたピンクの兎。耳が長いから兎だと分かるけれど、まるで宇宙からやって来た新種の生物みたいだ。目の位置がおかしいし、その鼻は兎じゃない。ひげの位置もおかしいと思うし、そもそも耳の長さが左右違いすぎる。
その破壊的なデフォルメにはある種の才能さえ感じるけれど、少なくとも中学生が描いた絵とは思えない。大人がわざと下手に描いた絵でもない。
……改めて見ると、本当に下手だ。
それを僕の隣の席で描いた本人は、ちらっと僕を睨んでから男の子に話しかけた。
「お名前を教えてくれる?」
男の子は司書の廣原さんを見上げ、それから「みさきゆうじ」と答えた。
あれ、廣原さんの子どもじゃないんだ。
「一緒に卵を探そうか。その……もうちょっと可愛い兎が描いてあるのを」
男の子の顔がちょっと明るくなった。
そうだよね。君ももうちょっと可愛い兎がいいよね。
でも、子どもって面白い。
僕たちは一緒になって卵を探して、全部で六個の卵を見つけた。
ゆうじくんは廣原さんと僕たちにもひとつずつ卵を分けてくれて、残りの三つをおじいちゃんのとお母さんのと自分のだと言った。その三つの中に例のピンク兎も混じっている。
「どれが君の?」
僕はまさかと思って聞いてみた。
ゆうじくんが指差したのは、何と、相川が描いた超絶デフォルメ兎の卵だった。
「だって、これがいちばん面白いから」
もう我慢ができずに笑い出した僕は、相川の冷たい山猫の目に射抜かれることになった。
卵探しで仲良くなった僕たちは、ベンチに座って、廣原さんが持ってきたクッキーを食べた。
食べ終わると、相川はずっと手元に持っていた小さな紙袋から本を取り出して、ゆうじくんに渡した。
え? その本、もしかして。
廣原さんも「あ」という顔をした。
土井晩翠『天地有情』。
背表紙には図書館のラベルが貼ってある。
「済みません。明日、ちゃんと貸出しカードを出します」
って、勝手に持ち出したのか。
「これ、君のお祖父ちゃんに渡してくれる?」
ゆうじくんは目を丸くして相川を見つめ、それからじっと本を見つめた。
無断持ち出しの上に又貸しは、だめなんじゃないの。
でも、廣原さんは何も言わなかった。
本当は家族の誰かと一緒にイースターの礼拝に来るはずだったのに、ゆうじくんのお祖父ちゃんもお母さんも訳あって来ることができなくなった。司書の廣原さんが、金曜日にそのことを聞いて可哀相に思い、一緒に来てあげたのだという。
僕たちは、ゆうじくんを送って行くと言う廣原さんと駅で別れた。
彼らの乗った電車を、向かいのホームで見送ってから、僕はむすっとして相川に言った。
「勝手に謎解きしちゃうなんて、ひどいよ」
「謎解きはこれからだよ。今揃っているのは状況証拠だけなんだ」
そう言ってから、相川は例のごとくあまり感情の籠っていない目で僕を見た。
「明日の杉下さんとの待ち合わせ場所、図書館じゃなくて病院に変更しておいてくれる? 時間は同じ、二時で」
僕はちょっと面白くなかった。
相川が何かを掴んでいるのに、僕には全部を教えてくれないことに。
いや、本当は僕が気が付いていないだけ?
でも勝手に朝早めに来て、警備員から情報を引き出していたんだろう?
もしかして、僕が一緒にいたら、勝手に本を持ち出すことを止めていたとでも思ったのかな。
あの本には何か、魔法でもかけてあるのだろうか。
やっぱり何だか面白くない。
僕は吊革につかまり、落ちていく夕陽を見つめる相川の横顔を見る。
……でも、まぁ、相川が二語文以上の日本語を喋れることが分かっただけでも良かった、ということにしよう。
それに、あの兎。相川にも弱点があることが確認できたのだから。
僕はまた笑い出しそうになるのをこらえた。
そうだ、僕はワトソン君でいいや。
明日きっと、名探偵ホームズが謎を解いてくれるに違いないから。
やっぱり4回になってしまったけれど、次回はちゃんと終わります^^;
図書館の手紙の理由、ぜひお楽しみください。
あ、その前に。
土井晩翠……かの有名な『荒城の月』の詩を書いた詩人。
漢詩的なリズムの詩は、口にすると心地いいです。
ちなみに、本当は「つちい」ですが、世人が「どい」と読むので「どい」でもいいことにしたのだとか。
長女・長男を病気で失った晩年は「心霊科学」などにも傾倒していたようで。
取りあえず、詩集『天地有情』から『希望』を。

『希望』
沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。
ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。
嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー
港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。
Category: (2)図書館の手紙(完結)
【図書館の手紙】(4)人の心に希望あり(完結)
【図書館の手紙】その(4)、大団円です。
図書館の本の間に挟まれている手紙。
それは『学院の七不思議』に語られる、結ばれなかった恋人たちの秘密の手紙だったのか?
20年も前に交わされたはずの手紙が、なぜまた図書館の本に挟まれているのか?
一方通行で、日付もばらばらの手紙の意味は?
日曜日に限って早めに図書館に来る司書、イースターの礼拝にやって来た子ども。
彼らが謎のキーパーソンなのか?
予定以上に長くなってしまいました。
でもあと1回で終わると宣言したので、長いけれどアップします。
何時も長くてごめんなさい。
う~ん。何とかしなくちゃ。
≪登場人物≫
富山享志:私立幹学院に通う中学生。責任感は強いが、面倒なことを押し付けられやすい級長。
相川真:中学2年生で幹学院に編入した帰国子女。一人でいるのが平気な元苛められっ子。
杉下萌衣:クラスの図書委員の女の子。急性虫垂炎で入院して、図書館の謎を亨志に託す。
草加先生:学院の英語の先生。病気で入院中のおばあちゃん先生。詩人でもある。
ゆうじくん:イースターの礼拝にやって来た子ども。
廣原さん:図書館の司書。日曜日に早めに図書館にやって来る。
図書館の本の間に挟まれている手紙。
それは『学院の七不思議』に語られる、結ばれなかった恋人たちの秘密の手紙だったのか?
20年も前に交わされたはずの手紙が、なぜまた図書館の本に挟まれているのか?
一方通行で、日付もばらばらの手紙の意味は?
日曜日に限って早めに図書館に来る司書、イースターの礼拝にやって来た子ども。
彼らが謎のキーパーソンなのか?
予定以上に長くなってしまいました。
でもあと1回で終わると宣言したので、長いけれどアップします。
何時も長くてごめんなさい。
う~ん。何とかしなくちゃ。
≪登場人物≫
富山享志:私立幹学院に通う中学生。責任感は強いが、面倒なことを押し付けられやすい級長。
相川真:中学2年生で幹学院に編入した帰国子女。一人でいるのが平気な元苛められっ子。
杉下萌衣:クラスの図書委員の女の子。急性虫垂炎で入院して、図書館の謎を亨志に託す。
草加先生:学院の英語の先生。病気で入院中のおばあちゃん先生。詩人でもある。
ゆうじくん:イースターの礼拝にやって来た子ども。
廣原さん:図書館の司書。日曜日に早めに図書館にやって来る。
-- 続きを読む --



翌日、僕と相川は草加先生が入院している病院近くの駅で待ち合わせた。
この駅で待ち合わせるのは二度目だ。前に相川が立っていた柱のところに陣取って、半時間も前から待っていたら、彼は約束の時間の十分前に改札口を出てきた。
一昨日と同じモッズパーカーを着て、周囲の人と目を合わさないように、自分のジーンズの足元だけを見つめながら歩いてくる。

これも後から聞いたことだけれど、電車に乗ると吐き気がして、実際に何度か倒れたこともあるらしいんだ。帰国してからは少しだけましになったと言っていたけれど、それは対処方法を覚えたからだ、とも。
だから本を読んでいるんだって。
本に集中していたら、周りを気にしてなくて済むからだって。
でもその本ときたら……何だか分からない数字と計算式が並んでいるだけ!
相川は足を見てすぐに僕だって分かったのか、突然に立ち止まって顔を上げた。
「やぁ」
何だか変な挨拶になってしまった。相川はうん、と頷いてすぐに歩き始めた。
僕は慌てて後を追う。本当に愛想がないんだけれど、だんだんこのペースにも慣れてきた。
僕って、マゾヒストの気があるのかも。
「あのさ。草加先生に用事なんだろう? でも、草加先生はあの手紙を書いた人じゃないんだよね。杉下さんも文面が若すぎるって言ってたし」
僕が話しかけても相川は無視して歩き続けている。
横顔を見ると、真剣な表情だった。考え事をしているようにも見える。
「君だけが知っていることがあるのって、何だかフェアじゃないなぁ。もしかして君と杉下さんだけが……。昨日の電話、何だったんだよ」
思わず僕が呟くと、相川はいきなり足を止めた。
そう、昨日帰った後で、いきなり相川から電話があった。相川から電話なんて初めてのことで、僕はびっくりした。
杉下さんの電話番号を教えて欲しいという内容だったのだ。
ちなみに、何かの時のためにと、担任の先生が相川に、僕の家の電話番号だけは知らせてくれていた。もちろん、今までは一度だって電話はなかったけれど。
相川はじっと僕の顔を見ていた。
そうか。人と話すときには彼はこうして顔を見るんだ。
もっとも、滅多に話さないから、滅多に人の顔を見ていないように見えるんだけど。
「僕が知っていて級長が知らないことは二つだけだよ。……正確には一つ半だけ」
相川はそれだけ言って、また歩き始めた。僕は追いかける。
「警備員さんから聞きだしたこと?」
相川は頷く。
「それって、司書の廣原さんが日曜日に早めに図書館に来るってことだろ? それは聞いたよ」
相川はまた頷いた。僕はちょっと頭を捻った。
「そうか。それって、何か理由があったんだ。……って、え? 廣原さんが手紙を挟んだの?」
「廣原さんだったら、日曜日じゃなくても、早く来なくても、幾らでも手紙を挟むチャンスはある」
「……だよね」
それはそうだ。図書館の司書なんだから。

僕たちは草加先生が入院している、つまり昨日まで杉下が入院していた病院の見えるところまでやって来た。
街路樹の間を風が通り抜けていく。病院の脇の公園で、咲き始めていた桜の木が、あかりを灯したように浮かび上がって見えていた。
横断歩道で立ち止まった僕たちは、しばらく黙って並んでいた。
ちらりと相川を見たタイミングで、不意に相川も僕を見た。
僕は思わずびっくりして視線を外してしまった。
もう一度ちらっと見たら、相川の方も視線をまた道路の向かいに戻していた。
「どうして日曜日なのかってこと。つまり日曜日しか、その人は図書館に来ないんだ」
「あ、そうか」
そうだ。学院の図書館は休みの日だけ一般の人にも開放されている。
つまり、「その人」は学院外の人だったんだ。
あれ、でも最後は金曜日だったけど。
いや、金曜日だったけれど、もう春休みに入っていた。あの日は、春休みに入って始めの金曜日だったのだ。相川の言った通り、日曜日はイースターで図書館は休みだった。
だからその人は代わりに前の金曜日にやって来たんだ。
「でも、何で廣原さんは早めに図書館に来なくちゃならなかったんだ? 休みの日に図書館に来る人は、開館時間に来るだろう?」
「考えられる理由は一つだけだよ。その人は他の理由で、図書館の開館時間よりも早く学院に来るんだ」
「他の理由?」
日曜日に学院に来る外部の人。その理由は……
「そうか、礼拝だ。その人は正午からの礼拝に来て、そのまま図書館に寄るのか。え、っと、でも最後は金曜日だったから……」
「あの日はイースターの直前の金曜日だ」
「あ」
そうか。イエス・キリストの受難の日。つまり、金曜日だけれど礼拝があったんだ。
「でも、廣原さんは何故、わざわざそんな便宜をはかってあげるんだろう? ……えーっと、日曜日の学院礼拝に参列する外部の人は、卒業生かその関係者だけど。もしかして偉い人だとか?」
確かにうちの学院は私立でもそこそこの偏差値で、世の中に名を知られた人物も排出している。
歩行者信号が青になった。僕たちは歩き出す。
「そうだね、ある意味では『特別な人』なんだ」
勿体ぶらないで教えてくれよ。僕が心の中でぶつぶつ言った途端、相川が足を止めた。
「廣原さんはフェアな人だと思う」
唐突に何を言うのかと思ったら、相川は真剣だった。
「だから偉い人だからという理由で便宜を図ったんじゃないんだ」
相川が一生懸命に見えたので、僕は勢いでうんと頷いた。
「廣原さんは、ある大学の教授が、礼拝に参列した後、いつも本を返して、代わりの本を借りていくって仰っていた」
「じゃ、その人が手紙の犯人?」
「違うんだ。その人はいつも、ちゃんと開館時間まで待っていた。でも去年の暮から来ることができなくなった。入院してしまったからだ。それで、いつも礼拝に一緒に来ていたその人の家族が、代わりに本を返して、次に借りたい本のリストを廣原さんに渡していた」
「じゃ、廣原さんは、その人の家族が礼拝の後、早めに帰ることができるように、開館時間より早めに図書館に来ていたってわけか。去年の暮って……最初の手紙が本に挟まれていたのは、今年の始めからだから……じゃ、その家族の誰かが、廣原さんが貸し出す本を揃えている間にでも、手紙をこっそり挟んでいたんだ。……って、それが誰かももう分かってるの?」
「うん」
先を言いかけた相川を、僕は止めた。
「あ、いや、待って、それは今、何だか聞きたくない感じ」
相川はどうして? という顔で僕を見た。
「何だか、今知ってしまうのがもったいない感じがするんだ」
隣で俯いた相川が、ちょっと笑ったような気がした。気のせいかな。
「でも、手紙を挟んだ理由は分からない。それは今日、病院に来てくれる人が教えてくれると思う」
「それって、ゆうじくんのおじいちゃん? 『天地有情』を又貸ししただろ?」
僕たちはまた歩き始める。
僕はちらっと相川の横顔を見る。今でも何を考えているのか分からないけれど、初めて会った頃からしたら、少しは穏やかな顔になった気がする。

「で、そのもう一つ、じゃなくて半分は?」
「草加先生」
え? もう本当にどうしてあっちこっちに飛んじゃうんだ?
相川の頭のなかって、あれこれごっちゃになっている感じがする。
と思っていたら、唐突に相川が質問する。
「君も杉下さんも、草加先生がその手紙を書いたんじゃないかって思ったんだ。それはどうして?」
「え~っと、どうしてだっけ?」
僕は、手紙の文字にそっと触れた草加先生の手を思い出した。
「そうだ、先生はすごく優しく手紙に触れて……だから僕はてっきり先生が書いたのかと……」
「それを見た二人が、どちらも同じように感じたってことは、そんなに外れていないってことじゃないかな」
え?
僕は驚いて相川を見た。でも文面が若いって……? あれ?
「先生はあの時、歌を口にした」
「そう言えば……なんだっけ、煉瓦どうのとかいう?」
「杉下さんに電話をしたのは、その歌のことだ。図書委員の彼女なら知っているかと思って」
相川からの電話に僕がびっくりした以上に、杉下はびっくりしたことだろう。
「彼女は知らなかったんだね」
僕が言うと、相川はちょっとびっくりしたように僕を見た。何だか少し嬉しい。
「だって、半分って言ったろ? つまり、彼女はその歌のことを知らないけれど、調べておくって言った。違う?」
自慢げに推論を述べると、相川はただ納得したような顔をした。
なんだ、もうちょっとリアクションしてくれてもいいのに。

病院のロビーで杉下は待っていた。
制服の彼女とパジャマ姿の彼女しか知らないから、僕は一瞬見違えてしまった。
若草色のワンピースとピンク色のカーディガンは、小柄な彼女をより可愛らしく見せている。髪の毛はポニーテールにして、ピンクのリボンで束ねている。
へえ、女の子って、やっぱりお洒落なんだな。
ちらっと相川を見たけれど、無反応。
可愛いとか言ってやったらいいのに、と思ったけれど……それはないか。
多分、杉下もそんな言葉は期待していないだろう。
「相川君、大当たりだった」
開口一番、杉下は言った。
「何? 大当たりって」
杉下は肩にかけた鞄から薄い本を取り出した。
『煉瓦通り』というタイトルのついた本は、古い同人誌のようだった。

「あのタイミングで無関係の歌を口ずさむってことはないだろうから、何か関係があるのかもって」
相川がそう言ったらしい。
「でも少なくとも有名な詩じゃないよね、って話になって。そう言えば草加先生は詩の同人にも参加してたんじゃなかったっけって相川君が言うから、村上先生に電話したの」
村上先生は、杉下が妙に懐いている国語の先生だ。男の先生だけれど、上品で物腰が柔らかくて、それに本当にいろんなことを知っている。しかも、渋みのあるいい男なのだ。
「そうしたら、村上先生も誘われてその同人に参加してるんだって。で、今朝、村上先生のところに行って、バックナンバーを借りてきたの」
杉下って、びっくりするくらい行動力があるんだな。いつも本を読んでいる、ちょっと堅物な女の子の印象しかなかったけれど。
こうして、僕はまたクラスメートの新たな一面を発見した。
「でも相川君、草加先生が詩の同人やっているって、よく知ってたね」
「級長がそう言ってたから」
え? 僕?
……そうだったっけ? そう言えばそんなことを言ったような、言わなかったような。
ま、確かに、相川があんまりにも何も話さないから、勝手にべらべらしゃべっていたことはあったかも。
……でも、僕の話していたこと、ちゃんと聞いていてくれたんだ。
「え? これ……」
僕は開かれたページを見て、もう一度驚いた。
草加先生は同人誌のその号に、十篇の連作の歌を投稿していた。
その冒頭に書かれたタイトルに僕は声を上げたのだ。
『亡き娘をしのぶ歌』
その中にあの時先生が口ずさんだ歌があった。
『風薫る 窓辺にひとり 佇みて 煉瓦に落ちる 君の影見ゆ』
歌の奥付けには、こんなふうに書かれていた。
『図書館の煉瓦の壁にあなたの影が落ちている。夕陽に長く伸びたあなたの影は、今日もまた叶わぬ恋に震えて泣いている。私はずっとその影を見つめていたのに、あの風の薫る春の日に、何故あなたたちの恋を認めてやれなかったのでしょう。若者が儚く命を散らしたあの時代に、何故せめてその命を贖う恋を成就させてやらなかったのでしょうか。』
『君』というのは草加先生が亡くした娘さんのことだったのだ。

その時、病院の正面玄関の扉が開いた。
現れたのは、車椅子を押した廣原さんと、ピンクの超絶デフォルメ兎の卵を持ち帰ったゆうじくん。
そして、膝に置いた『天地有情』の本に手を添えて車椅子に座っていたのは、ゆうじくんのおじいちゃんだった。
長身で上品な感じのおじいちゃんは、若いころさぞかし偉丈夫でモテたんだろうな、と思わせる渋みのある男前だった。
「君たちが手紙をくれたんですね」
おじいちゃんが僕たちに言った。おじいちゃんは、きょとんとしている杉下と僕を見て、それから相川に視線を移した。隣で相川が、頷くでもなく突っ立っている。
まるで自分が何をしたのかよく分かっていない、そんな顔だった。
あのさ、君の手柄だと思うんだけれど、もう少し愛想を良くした方が……
でも、ゆうじくんのおじいちゃんはそんなことはどうでも良かったのか、優しい笑顔で僕たち三人の顔を一人一人確かめるように見ながら言った。
「ありがとう。この手紙とこの子が私に勇気をくれた。この『希望』の中にあるように、魂を導く神の声が聞こえたのです。愛しい子どもたちを失った後では取り返しのつかないことと諦めていたのだが、どのようなことでも遅すぎるということはないのだと気が付きました。私や小夜子さんに残された時間はもう短い。死の直前であっても、やり直すのに遅すぎるということはないのだと、君たちが知らせてくれました」
おじいちゃんは本の表紙をそっと撫でた。彼の膝にはもう一冊、本が重ねられていた。
僕たちは杉下の先導で草加先生の病棟まで行き、案の定、看護婦さんに止められた。
そりゃそうだよね。この大人数で面会に行くのはやっぱり無理みたいだった。
相川はあっさりと、僕たちは待っています、と言った。
僕たち三人は、病室に入っていくゆうじくんとお祖父ちゃん、廣原さんを見送った。
それから談話室に座り、しばらく黙ったまま俯いていた。
でも、長い沈黙が苦手な僕は、やっぱり最初に口を開いた。
「何だか、全然読めないんだけど」
「私も」
杉下の同意にはちょっと驚く。
あれ、杉下は相川と情報を共有しているわけじゃないのか。
結局、杉下と僕は二人して相川を恨めしい顔で見つめた。
俯いていた相川がその気配に顔を上げた。ちょっと引くような気配があった。
「……状況証拠だけだって」
「その状況証拠がすでに分からない。おじいちゃんが言ってた手紙って何だよ」
相川は上手く説明できないとでも言うように、何度か口を開きかけて留まるような気配を見せた。
そうだ。相川は自分からあれこれまとめて話すのが決して上手じゃない。質問には答えるけれど。
それでも質問の内容はあらかじめ想定していたのか、彼はモッズパーカーのポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。

草加小夜子先生が○○病院に入院しています。
手紙を発見。来てください
この本に心当たりがあれば。
図書館の手紙
明日、午後二時。病院のロビー。
昭和二十年頃の手紙。
杉下と僕はきょとんとした顔を見合わせた。これは、つまり手紙の下書き?
ていうのか、要旨が不明すぎる。
「えーっと、つまり、まとめると、この本と手紙に心当たりがあれば、今日二時に草加先生の入院する病院に来てください、ってことを書いたのね」
杉下は単語の羅列のような下書きを見て、端的に纏め上げた。
相川はあまり表情なく頷いた。
君が国語を苦手としている訳が分かったよ。要するに「てにをは」と関係文の問題なんだ。
ま、これは下書きなんだろうけれど、おじいちゃん、分かったのかなぁ?
「で、昨日、その手紙を『天地有情』に挟んでゆうじくんに預けたのか。え? でも、いつ手紙書いたの?」
「昨日、イースターの礼拝の前に、警備員さんに図書館に忘れ物したって入れてもらった時」
「ゆうじくんのことを知ってたのか?」
「その時は知らない。でも、『日曜日に早めに図書館に来る司書さん』に本を託したら、『図書館に早めに来る人』、つまり手紙を挟んだ人に渡してくれるんじゃないかって思ったんだ。でも、ゆうじくんに会って、謎がひとつ解けた」
「えーっと、手紙を挟んだのはおじいちゃんじゃなくて……」
「そう、手紙を挟んだのはゆうじくんだ。もちろん、彼は理由を知らないだろうけれど」
杉下と僕はまた疑問符が顔に貼りついたまま、相川を見つめた。
「司書の廣原さんは『図書館の手紙』のことを知ってたのか?」
「多分知らない。だって、秘密の手紙なんだ。ゆうじくんは、誰にも見つからないように挟んだと思う」
相川はそう言って、ちょっと息をついた。
「廣原さんはゆうじくんがイースターの礼拝に来たがっていたのに、家族が連れて来れなくなったのをかわいそうに思って、自分が付き添ってあげることにしたって言ってたよね。だから、手紙のことを知らないにしても、ゆうじくんの家族のことはよく知っているはずだと思った」
そう、廣原さんは『おじいちゃんのために本を返して借りに来る子ども』のために、図書館を早く開けるという便宜を図ってあげていたんだ。
相川は、極めて珍しいことに、一生懸命に話しているように見えた。
何か大事なことを僕たちに伝えたい、とでもいうように。
「最初の疑問は、どうして手紙がばらばらなのかということだった」
「日付のこと?」
そう言えば、相川は日付がばらばらなことを気にしていた。
「もしも君たちがその手紙を本に挟むとしたら、順番はどうする?」
杉下は事情が呑み込めたようだった。
「そうか、相川君の言いたいことは分かった。時系列じゃないと、気持ち悪いかも」
相川は頷いた。
「普通の大人が手紙を本に挟んだとしたら、きっとこんなにばらばらにはならない。だって、手紙をわざわざ本に挟むんだから、意図があるなら時系列に手紙を挟むと思う」
「でも、そういうことに頓着しないのは……」
まるで僕にクイズを出すかのように、杉下が僕の顔を見た。
「え? と、つまり……文字が読めないとか、まるきり気にならない、とか。……そうか! つまり子どもだ」
「ゆうじくんは多分漢数字が読めなかったと思うし、手紙の順番なんて気にしていなかったのね。でも、手紙を『天地有情』に挟むってことだけは知っていた。で、手紙を挟んだら、ある日、その手紙が無くなってた。私が抜いたんだけれど。だから『誰か』に手紙が届いたんだと思った。で、次の手紙を持ってきた。でも、日付のことはよく分からなかったから、順番は適当だった。それに、確かにこの本、子どもでも手の届く高さの書棚にあったわ」
そう。相川は「手紙を挟んだ犯人」は子どもだと推理していた。
そこへ「日曜日に早めに図書館に来る」司書の廣原さんが、自分の子どもではない子どもを連れて現れた。
聞けば、事情があって家族が連れてきてやれないから、代わりに連れてきたのだという。
そしてゆうじくんは、廣原さんに随分となれていた。つまり、彼は以前から廣原さんとは知り合いだったのだ。
そして、もうひとり。
手紙を見せた草加先生が「特別な反応を見せた」。
草加先生はもう一方の関係者である可能性がある。
確かに、状況証拠だけだったんだ。
だから相川は、手紙を書いたのか。動機を確認するために。
「でもどうしてゆうじくんは手紙を挟んだんだ? 悪戯?」

「いいえ」
何時の間にか傍に司書の廣原さんが立っていた。
「草加先生が看護婦さんの許可を取ってくれたの。どうしてもみんなに話したいことがあるからって」
僕たちは顔を見合わせ、それから草加先生の病室に向かった。
杉下はすたすたと廣原さんについて行く。ついこの間、盲腸の手術をしたとは思えない、元気な歩きっぷりだ。
ちなみに後で聞いたら、本当は痛いのだけれど、それどころじゃなかったというのだ。
好奇心は猫も殺す、じゃなくて、痛みも殺すわけだ。
相川は僕の後ろをずいぶん遅れてついてくる。
謎解きそのものに興味がある、というわけでもなかったみたいだ。
逆に、今から告げられる『真実』に怯えている子どもみたいに見えた。

病室に入ると、先日よりまた少し痩せたように見える小柄な草加先生の手を、ゆうじくんのおじいちゃんがしっかりと握りしめていた。
そのおじいちゃんの手にも皺とシミが随分とあって、随分と苦労を重ねてきたに違いないのだと思った。
でも、二人の顔は、何て言うのか、ようやく心の重荷が降りたような穏やかさに満ちていた。そう、例えば、このまま並んで座っている姿を絵に描いたら、きっと家族の肖像だと僕たちは疑いもなく思うだろう。
ゆうじくんは退屈そうに別の椅子に座って、あの超絶デフォルメ兎の卵を小さなテーブルの上で転がしていた。

しまった。また兎と目が合っちゃった。
……僕は笑いを噛み殺すのに必死になった。
隣で、相川がまた気まずい顔で視線を逸らす。
でも、ゆうじくんはあの兎のこと、ものすごく気に入っているんだと思うと、ちょっと僕は嬉しかった。
ゆうじくんのおじいちゃんは僕たちの学院の古い卒業生で、歴史学を専門にしている別の大学の教授だった。毎週日曜日に学院の図書館に来ていたけれど、去年の終わりに癌で入院してしまったのだという。
それでも彼は病室で研究を続けていた。だから本が必要だったのだ。
外出が難しくなったおじいちゃんのために、いつも一緒に礼拝に来ていたゆうじくんが、本を届ける係になった。
ゆうじくんは本当なら図書館には入れない年齢だけど、おじいちゃんと一緒ならというので、それまでもくっついて図書館に入っていた。
いつも『天地有情』の本を手に取り、想いに耽るおじいちゃんを見て、ゆうじくんはこれが大事な本だということを知っていたのだ。
「私がゆうじに戦死した息子のことを話したのです。ゆうじの叔父にあたります。息子には大事な人がいて、その人と秘密の手紙の交換をしていた、この本が郵便屋さんだったのだよと。ゆうじが意味を理解していたとは思ってもいませんでしたが、息子の日記や彼に届いた手紙を見せたこともありました。おじいちゃんは、彼にしてあげることができなかったことがいっぱいあるんだとも話しました。だからせめて、この天国から来た秘密の手紙は、いつか天国にいる息子に届けたいんだ、とも」
ゆうじくんは、大人たちの様子から、大好きな祖父の病状があまり良くないことを察していたようだった。だから自分がおじいちゃんの代わりに『郵便屋さんに手紙を届ける仕事』をしてあげようと思ったのだ。
その手紙が『天国にいる叔父さん』に届くと信じて。
子どもって、物事の詳細は分からなくても、芯のところはちゃんと理解している。
大人が心を込めて言った言葉なら、それを解する力がちゃんとあるのだ。
だから、毎週礼拝の後、母親を講堂の前に待たせて、ゆうじくんは『自分の仕事』と決めたことを自分の力でやり遂げようとした。

「私は学院の卒業生でしたが、当時はまだ学院も少し大きな寺子屋のようなもので、学費などはほとんど必要なかった。貧しいものでも志さえあれば学ぶことができました。しかし私の息子の時代にはある程度の学費を支払わなければならないようになっていて、息子は奨学金で通っていたのです。そして草加先生の家は……」
「私の家は元華族で、爵位制度が廃止された後も、百貨店の経営を軌道に乗せて、財閥のひとつと数えられていたの。私も娘も草加家の一人娘で、貧しい奨学生との結婚は認められないと言われたのよ。いえ、私は自分が親に言われたことを、娘にも強いてしまった。そう、本当に愚かな時代で、愚かな親だったの」
草加先生とゆうじくんのおじいちゃんは目を見合わせた。
「いや、私に勇気があれば、小夜子さんと一緒に人生を送ることもできたでしょう。あなたの一生懸命さを、自分の卑屈さゆえに受け止めることができずに、あの日、あなたを裏切ったのは私だ。私の息子があなたの娘さんを恋したのが運命のいたずらだとしても、あなたが私の息子を絶対に受け入れられないと思ったのも無理はない」
え、ということは……草加先生とおじいちゃん、そして草加先生の亡くなった娘さんとゆうじくんの叔父さん、結ばれなかった恋人は二組いた、それも親子二代だったってことなんだ。
僕がぽかんとしていたので、杉下が僕をこついた。
富山くん、顔が馬鹿になってるよ、と言われて、思わず我に返る。

「いいえ。娘は私よりも遥かに賢明だった。あなたの息子さんの戦死を知り、生涯結婚はしない、教師になり子どもたちに未来を教えたいと言ったのです。しかし、家を出た娘は、事故でほどなく亡くなってしまった」
それから草加先生は僕たち三人の方を見た。
「私はずっと、娘が叶わぬ恋ゆえにいつも泣いていたのだと思っていたの。だから、娘を亡くした時に私が書いた歌は、娘の本当の姿をちゃんと見ていない、自分の身を嘆いただけの歌だった。でも、一昨日、この子たちが娘の手紙を持って来てくれた。その娘の手紙を見て、ようやく知ったのです。自分たちの充たされない想いゆえに、子どもたちの未来を閉ざしてしまった愚かな親に背を向けて、あの子たちは真っ直ぐに立ち、未来を見ていた。それは他国との戦争や事故という不条理に断ち切られてしまったけれど、それでも、彼らの前には道があったのね」
娘が受け取った手紙は空襲で焼けてしまったのだと、草加先生は悲しそうに言った。
ゆうじくんのおじいちゃんは、一番大事な手紙が残されていると言って、『天地有情』と共に一緒に持っていたもう一冊の本を開いた。
それはおじいちゃんの息子さんの日記だった。
おじいちゃんは最後のページを開いて、草加先生に見せた。
「戦地に赴く時、彼は死を覚悟していたのでしょう。息子の死後、この日記の遺言を見つけてやることができなくて、気がついた時にはあなたの娘さんも亡くなっていた。もう取り返しはつかないのだと、私は諦めていましたが、それは間違いだったようだ」

草加先生は涙をこぼした。ゆうじくんのおじいちゃんは、草加先生の手をもっと強く握りしめた。退屈していたゆうじくんは不思議そうに草加先生とおじいちゃんを見ていた。廣原さんはそっとゆうじくんの傍に寄り添っていた。
ゆうじくんの叔父さんが遺した日記と手紙が、僕たちの手元にも回ってきた。
ゆうじくんは、いつの間にか、広告の裏に、退屈しのぎに持ってきていたらしいクレヨンで絵を書き始めていた。

『僕が死んだら、図書館の『天地有情』にこの手紙を届けてください。
必ず、『希望』の詩のページに、これを挟んでください。
僕はそれでも、この国の未来を信じています。』
笑いたかったのに笑えなかった。
相川の絵を凌ぐ、超超絶デフォルメ兎だったのに。
いや、それは、お気に入りの相川の絵を真似したかったんだよね。
何だか号泣してしまった僕の背中を杉下が優しく撫でてくれて、冷たいけれど暖かい相川の手が、僕の手にそっと触れた。
おじいちゃんの息子さんが遺した最後の手紙には、崇徳院の歌が流麗な文字で綴られていた。
『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』



それから数か月後、僅かに一週間の時間差だけで、草加先生とゆうじくんのおじいちゃんは亡くなった。二人とも同じ癌だった。
ゆうじくんは、おじいちゃんの余命が長くないことを告げる医師の言葉を聞いていた。
そして、何かできることはないかと聞く母に医師が答えた言葉を、正確に理解したのだ。
「喜びや幸せ、希望を感じることで免疫が高まり、余命が長くなるといいます」
だからゆうじくんは、おじいちゃんのために『手紙を出しに』行ったのだ。
おじいちゃんが幸せと希望を感じられるように。
おじいちゃんが少しでも長く生きられるように。
ゆうじくんが届けた手紙のお蔭で、若い命を散らせた恋人たちだけではなくて、それよりもずっと以前に結ばれないまま心を閉ざしていた恋人たちもまた、想いをひとつに合わせたのかもしれない。
そう、本当に、分かれた川が、またひとつの流れになったんだ。
司書の廣原さんから、草加先生のことを教えてもらった。
先生は「お嬢さん」で、学生時代も卒業してからも職業婦人とは無縁だった。もちろん、家訓により英語だけは得意だったという素地はあったそうだけれど、教師を目指していた娘さんを亡くしてから、一生懸命に勉強をして教師の資格を取ったのだという。
「野口英世のお母さんみたい」
杉下が言った。僕と相川は目が点。
「シカさん。文字も書けない人だったのに、息子が医師として世界に飛び出していってから、一生懸命勉強して産婆さんになったんだよね。それからものすごい数の赤ちゃんを取り上げた。息子のために、恥ずかしくない母親でいたいって」
ゆうじくんのおじいちゃんもまた、息子を戦争で失ったことから、戦争の歴史を研究していた。
過ちを繰り返さないためにはどうすればいいのか、人はどうあるべきなのか、いつも一生懸命に考えていた。
あれから、ゆうじくんは、大きくなったら何になりたいの、という大人からの質問に、いつもこう答えているそうだ。
ぼく、おいしゃさんになるんだ。
それは、戦死したゆうじくんの叔父さんの夢だった。

杉下さんは相変わらず堅物図書委員で、いつも溌剌と図書館で働いている。
相川は、相変わらずクラスの誰にも馴染もうとしない。
僕は相変わらず、みんなにあれこれ面倒を押し付けられてしまう軟弱級長だ。
でも、僕たちは何となく図書館でよく顔を合わすようになった。
夏休みを前にした期末テストが終わった日、僕は図書館で、向かいに座る相川に言ってみた。
相変わらず、彼の前には謎の数式が並んだ本が広げられている。
「あのさ、ちょっと提案があるんだけど」
相川は面倒くさそうに本から視線を上げた。
「名前で呼び合わない?」
その時の豆鉄砲を食らったみたいな相川の顔が忘れられない。
「なんで?」
「だって、親友になりたいから」
一瞬先には、相川は無表情だった。
でも僕はもう知っている。それはかなりパニックになっている顔だよね。
「あ、夏休みの間に考えといてくれたらいいから」
何だか照れちゃった僕は、そう言い残して先に席を立った。
後から盗み聞きしていたらしい杉下に言われた。
「富山くん、あれはプロポーズの時に言う言葉よ」
「あれって?」
「考えといてくれ、返事は待つから」
……え? そうなの?

ゆうじくんが届けた手紙は、確かに天国とこの世を繋ぐ手紙だった。
そして、僕たちの間に、ちょっとした友情の種を零していってくれた。
そうだ。夏休みにゆうじくんを誘って動物園に兎を見に行こうって、相川に言ってみよう。
ゆうじくんに「正しいウサギ」を見せてあげなきゃ。
あれ? 動物園に兎っていたっけ?
(【図書館の手紙】了)

最後にもう一度、土井晩翠『希望』を載せておきます。
この詩は、いつかこれに合わせて物語を書きたいとずっと思っていた詩。
この物語と共に、皆様にご紹介できたことも、とても嬉しいと思います。
ついでに崇徳院の歌を載せたら、『はいからさんが通る』みたいになっちゃった。
……古い? す、すみません^^;
謎解きというようなものは何もなくてごめんなさい。
何せ、視点が亨志なので、情報を仕入れた真以上に何も分かっていなくて、ミステリーの体裁も何も整いませんが、楽しい学園ものとして楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
今回のポイントは『超絶デフォルメ兎』?
なお、今の幼稚園児は漢数字くらい読むかもしれませんが、時代が古いので、ゆうじくんは漢字は読めません。
そして、この時代の若者は…・・夢を持つことができた時代、だったかもしれませんね。


沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。
ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。
嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー
港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。



翌日、僕と相川は草加先生が入院している病院近くの駅で待ち合わせた。
この駅で待ち合わせるのは二度目だ。前に相川が立っていた柱のところに陣取って、半時間も前から待っていたら、彼は約束の時間の十分前に改札口を出てきた。
一昨日と同じモッズパーカーを着て、周囲の人と目を合わさないように、自分のジーンズの足元だけを見つめながら歩いてくる。

これも後から聞いたことだけれど、電車に乗ると吐き気がして、実際に何度か倒れたこともあるらしいんだ。帰国してからは少しだけましになったと言っていたけれど、それは対処方法を覚えたからだ、とも。
だから本を読んでいるんだって。
本に集中していたら、周りを気にしてなくて済むからだって。
でもその本ときたら……何だか分からない数字と計算式が並んでいるだけ!
相川は足を見てすぐに僕だって分かったのか、突然に立ち止まって顔を上げた。
「やぁ」
何だか変な挨拶になってしまった。相川はうん、と頷いてすぐに歩き始めた。
僕は慌てて後を追う。本当に愛想がないんだけれど、だんだんこのペースにも慣れてきた。
僕って、マゾヒストの気があるのかも。
「あのさ。草加先生に用事なんだろう? でも、草加先生はあの手紙を書いた人じゃないんだよね。杉下さんも文面が若すぎるって言ってたし」
僕が話しかけても相川は無視して歩き続けている。
横顔を見ると、真剣な表情だった。考え事をしているようにも見える。
「君だけが知っていることがあるのって、何だかフェアじゃないなぁ。もしかして君と杉下さんだけが……。昨日の電話、何だったんだよ」
思わず僕が呟くと、相川はいきなり足を止めた。
そう、昨日帰った後で、いきなり相川から電話があった。相川から電話なんて初めてのことで、僕はびっくりした。
杉下さんの電話番号を教えて欲しいという内容だったのだ。
ちなみに、何かの時のためにと、担任の先生が相川に、僕の家の電話番号だけは知らせてくれていた。もちろん、今までは一度だって電話はなかったけれど。
相川はじっと僕の顔を見ていた。
そうか。人と話すときには彼はこうして顔を見るんだ。
もっとも、滅多に話さないから、滅多に人の顔を見ていないように見えるんだけど。
「僕が知っていて級長が知らないことは二つだけだよ。……正確には一つ半だけ」
相川はそれだけ言って、また歩き始めた。僕は追いかける。
「警備員さんから聞きだしたこと?」
相川は頷く。
「それって、司書の廣原さんが日曜日に早めに図書館に来るってことだろ? それは聞いたよ」
相川はまた頷いた。僕はちょっと頭を捻った。
「そうか。それって、何か理由があったんだ。……って、え? 廣原さんが手紙を挟んだの?」
「廣原さんだったら、日曜日じゃなくても、早く来なくても、幾らでも手紙を挟むチャンスはある」
「……だよね」
それはそうだ。図書館の司書なんだから。

僕たちは草加先生が入院している、つまり昨日まで杉下が入院していた病院の見えるところまでやって来た。
街路樹の間を風が通り抜けていく。病院の脇の公園で、咲き始めていた桜の木が、あかりを灯したように浮かび上がって見えていた。
横断歩道で立ち止まった僕たちは、しばらく黙って並んでいた。
ちらりと相川を見たタイミングで、不意に相川も僕を見た。
僕は思わずびっくりして視線を外してしまった。
もう一度ちらっと見たら、相川の方も視線をまた道路の向かいに戻していた。
「どうして日曜日なのかってこと。つまり日曜日しか、その人は図書館に来ないんだ」
「あ、そうか」
そうだ。学院の図書館は休みの日だけ一般の人にも開放されている。
つまり、「その人」は学院外の人だったんだ。
あれ、でも最後は金曜日だったけど。
いや、金曜日だったけれど、もう春休みに入っていた。あの日は、春休みに入って始めの金曜日だったのだ。相川の言った通り、日曜日はイースターで図書館は休みだった。
だからその人は代わりに前の金曜日にやって来たんだ。
「でも、何で廣原さんは早めに図書館に来なくちゃならなかったんだ? 休みの日に図書館に来る人は、開館時間に来るだろう?」
「考えられる理由は一つだけだよ。その人は他の理由で、図書館の開館時間よりも早く学院に来るんだ」
「他の理由?」
日曜日に学院に来る外部の人。その理由は……
「そうか、礼拝だ。その人は正午からの礼拝に来て、そのまま図書館に寄るのか。え、っと、でも最後は金曜日だったから……」
「あの日はイースターの直前の金曜日だ」
「あ」
そうか。イエス・キリストの受難の日。つまり、金曜日だけれど礼拝があったんだ。
「でも、廣原さんは何故、わざわざそんな便宜をはかってあげるんだろう? ……えーっと、日曜日の学院礼拝に参列する外部の人は、卒業生かその関係者だけど。もしかして偉い人だとか?」
確かにうちの学院は私立でもそこそこの偏差値で、世の中に名を知られた人物も排出している。
歩行者信号が青になった。僕たちは歩き出す。
「そうだね、ある意味では『特別な人』なんだ」
勿体ぶらないで教えてくれよ。僕が心の中でぶつぶつ言った途端、相川が足を止めた。
「廣原さんはフェアな人だと思う」
唐突に何を言うのかと思ったら、相川は真剣だった。
「だから偉い人だからという理由で便宜を図ったんじゃないんだ」
相川が一生懸命に見えたので、僕は勢いでうんと頷いた。
「廣原さんは、ある大学の教授が、礼拝に参列した後、いつも本を返して、代わりの本を借りていくって仰っていた」
「じゃ、その人が手紙の犯人?」
「違うんだ。その人はいつも、ちゃんと開館時間まで待っていた。でも去年の暮から来ることができなくなった。入院してしまったからだ。それで、いつも礼拝に一緒に来ていたその人の家族が、代わりに本を返して、次に借りたい本のリストを廣原さんに渡していた」
「じゃ、廣原さんは、その人の家族が礼拝の後、早めに帰ることができるように、開館時間より早めに図書館に来ていたってわけか。去年の暮って……最初の手紙が本に挟まれていたのは、今年の始めからだから……じゃ、その家族の誰かが、廣原さんが貸し出す本を揃えている間にでも、手紙をこっそり挟んでいたんだ。……って、それが誰かももう分かってるの?」
「うん」
先を言いかけた相川を、僕は止めた。
「あ、いや、待って、それは今、何だか聞きたくない感じ」
相川はどうして? という顔で僕を見た。
「何だか、今知ってしまうのがもったいない感じがするんだ」
隣で俯いた相川が、ちょっと笑ったような気がした。気のせいかな。
「でも、手紙を挟んだ理由は分からない。それは今日、病院に来てくれる人が教えてくれると思う」
「それって、ゆうじくんのおじいちゃん? 『天地有情』を又貸ししただろ?」
僕たちはまた歩き始める。
僕はちらっと相川の横顔を見る。今でも何を考えているのか分からないけれど、初めて会った頃からしたら、少しは穏やかな顔になった気がする。

「で、そのもう一つ、じゃなくて半分は?」
「草加先生」
え? もう本当にどうしてあっちこっちに飛んじゃうんだ?
相川の頭のなかって、あれこれごっちゃになっている感じがする。
と思っていたら、唐突に相川が質問する。
「君も杉下さんも、草加先生がその手紙を書いたんじゃないかって思ったんだ。それはどうして?」
「え~っと、どうしてだっけ?」
僕は、手紙の文字にそっと触れた草加先生の手を思い出した。
「そうだ、先生はすごく優しく手紙に触れて……だから僕はてっきり先生が書いたのかと……」
「それを見た二人が、どちらも同じように感じたってことは、そんなに外れていないってことじゃないかな」
え?
僕は驚いて相川を見た。でも文面が若いって……? あれ?
「先生はあの時、歌を口にした」
「そう言えば……なんだっけ、煉瓦どうのとかいう?」
「杉下さんに電話をしたのは、その歌のことだ。図書委員の彼女なら知っているかと思って」
相川からの電話に僕がびっくりした以上に、杉下はびっくりしたことだろう。
「彼女は知らなかったんだね」
僕が言うと、相川はちょっとびっくりしたように僕を見た。何だか少し嬉しい。
「だって、半分って言ったろ? つまり、彼女はその歌のことを知らないけれど、調べておくって言った。違う?」
自慢げに推論を述べると、相川はただ納得したような顔をした。
なんだ、もうちょっとリアクションしてくれてもいいのに。

病院のロビーで杉下は待っていた。
制服の彼女とパジャマ姿の彼女しか知らないから、僕は一瞬見違えてしまった。
若草色のワンピースとピンク色のカーディガンは、小柄な彼女をより可愛らしく見せている。髪の毛はポニーテールにして、ピンクのリボンで束ねている。
へえ、女の子って、やっぱりお洒落なんだな。
ちらっと相川を見たけれど、無反応。
可愛いとか言ってやったらいいのに、と思ったけれど……それはないか。
多分、杉下もそんな言葉は期待していないだろう。
「相川君、大当たりだった」
開口一番、杉下は言った。
「何? 大当たりって」
杉下は肩にかけた鞄から薄い本を取り出した。
『煉瓦通り』というタイトルのついた本は、古い同人誌のようだった。

「あのタイミングで無関係の歌を口ずさむってことはないだろうから、何か関係があるのかもって」
相川がそう言ったらしい。
「でも少なくとも有名な詩じゃないよね、って話になって。そう言えば草加先生は詩の同人にも参加してたんじゃなかったっけって相川君が言うから、村上先生に電話したの」
村上先生は、杉下が妙に懐いている国語の先生だ。男の先生だけれど、上品で物腰が柔らかくて、それに本当にいろんなことを知っている。しかも、渋みのあるいい男なのだ。
「そうしたら、村上先生も誘われてその同人に参加してるんだって。で、今朝、村上先生のところに行って、バックナンバーを借りてきたの」
杉下って、びっくりするくらい行動力があるんだな。いつも本を読んでいる、ちょっと堅物な女の子の印象しかなかったけれど。
こうして、僕はまたクラスメートの新たな一面を発見した。
「でも相川君、草加先生が詩の同人やっているって、よく知ってたね」
「級長がそう言ってたから」
え? 僕?
……そうだったっけ? そう言えばそんなことを言ったような、言わなかったような。
ま、確かに、相川があんまりにも何も話さないから、勝手にべらべらしゃべっていたことはあったかも。
……でも、僕の話していたこと、ちゃんと聞いていてくれたんだ。
「え? これ……」
僕は開かれたページを見て、もう一度驚いた。
草加先生は同人誌のその号に、十篇の連作の歌を投稿していた。
その冒頭に書かれたタイトルに僕は声を上げたのだ。
『亡き娘をしのぶ歌』
その中にあの時先生が口ずさんだ歌があった。
『風薫る 窓辺にひとり 佇みて 煉瓦に落ちる 君の影見ゆ』
歌の奥付けには、こんなふうに書かれていた。
『図書館の煉瓦の壁にあなたの影が落ちている。夕陽に長く伸びたあなたの影は、今日もまた叶わぬ恋に震えて泣いている。私はずっとその影を見つめていたのに、あの風の薫る春の日に、何故あなたたちの恋を認めてやれなかったのでしょう。若者が儚く命を散らしたあの時代に、何故せめてその命を贖う恋を成就させてやらなかったのでしょうか。』
『君』というのは草加先生が亡くした娘さんのことだったのだ。

その時、病院の正面玄関の扉が開いた。
現れたのは、車椅子を押した廣原さんと、ピンクの超絶デフォルメ兎の卵を持ち帰ったゆうじくん。
そして、膝に置いた『天地有情』の本に手を添えて車椅子に座っていたのは、ゆうじくんのおじいちゃんだった。
長身で上品な感じのおじいちゃんは、若いころさぞかし偉丈夫でモテたんだろうな、と思わせる渋みのある男前だった。
「君たちが手紙をくれたんですね」
おじいちゃんが僕たちに言った。おじいちゃんは、きょとんとしている杉下と僕を見て、それから相川に視線を移した。隣で相川が、頷くでもなく突っ立っている。
まるで自分が何をしたのかよく分かっていない、そんな顔だった。
あのさ、君の手柄だと思うんだけれど、もう少し愛想を良くした方が……
でも、ゆうじくんのおじいちゃんはそんなことはどうでも良かったのか、優しい笑顔で僕たち三人の顔を一人一人確かめるように見ながら言った。
「ありがとう。この手紙とこの子が私に勇気をくれた。この『希望』の中にあるように、魂を導く神の声が聞こえたのです。愛しい子どもたちを失った後では取り返しのつかないことと諦めていたのだが、どのようなことでも遅すぎるということはないのだと気が付きました。私や小夜子さんに残された時間はもう短い。死の直前であっても、やり直すのに遅すぎるということはないのだと、君たちが知らせてくれました」
おじいちゃんは本の表紙をそっと撫でた。彼の膝にはもう一冊、本が重ねられていた。
僕たちは杉下の先導で草加先生の病棟まで行き、案の定、看護婦さんに止められた。
そりゃそうだよね。この大人数で面会に行くのはやっぱり無理みたいだった。
相川はあっさりと、僕たちは待っています、と言った。
僕たち三人は、病室に入っていくゆうじくんとお祖父ちゃん、廣原さんを見送った。
それから談話室に座り、しばらく黙ったまま俯いていた。
でも、長い沈黙が苦手な僕は、やっぱり最初に口を開いた。
「何だか、全然読めないんだけど」
「私も」
杉下の同意にはちょっと驚く。
あれ、杉下は相川と情報を共有しているわけじゃないのか。
結局、杉下と僕は二人して相川を恨めしい顔で見つめた。
俯いていた相川がその気配に顔を上げた。ちょっと引くような気配があった。
「……状況証拠だけだって」
「その状況証拠がすでに分からない。おじいちゃんが言ってた手紙って何だよ」
相川は上手く説明できないとでも言うように、何度か口を開きかけて留まるような気配を見せた。
そうだ。相川は自分からあれこれまとめて話すのが決して上手じゃない。質問には答えるけれど。
それでも質問の内容はあらかじめ想定していたのか、彼はモッズパーカーのポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。

草加小夜子先生が○○病院に入院しています。
手紙を発見。来てください

この本に心当たりがあれば。
図書館の手紙

明日、午後二時。病院のロビー。
昭和二十年頃の手紙。
杉下と僕はきょとんとした顔を見合わせた。これは、つまり手紙の下書き?
ていうのか、要旨が不明すぎる。
「えーっと、つまり、まとめると、この本と手紙に心当たりがあれば、今日二時に草加先生の入院する病院に来てください、ってことを書いたのね」
杉下は単語の羅列のような下書きを見て、端的に纏め上げた。
相川はあまり表情なく頷いた。
君が国語を苦手としている訳が分かったよ。要するに「てにをは」と関係文の問題なんだ。
ま、これは下書きなんだろうけれど、おじいちゃん、分かったのかなぁ?
「で、昨日、その手紙を『天地有情』に挟んでゆうじくんに預けたのか。え? でも、いつ手紙書いたの?」
「昨日、イースターの礼拝の前に、警備員さんに図書館に忘れ物したって入れてもらった時」
「ゆうじくんのことを知ってたのか?」
「その時は知らない。でも、『日曜日に早めに図書館に来る司書さん』に本を託したら、『図書館に早めに来る人』、つまり手紙を挟んだ人に渡してくれるんじゃないかって思ったんだ。でも、ゆうじくんに会って、謎がひとつ解けた」
「えーっと、手紙を挟んだのはおじいちゃんじゃなくて……」
「そう、手紙を挟んだのはゆうじくんだ。もちろん、彼は理由を知らないだろうけれど」
杉下と僕はまた疑問符が顔に貼りついたまま、相川を見つめた。
「司書の廣原さんは『図書館の手紙』のことを知ってたのか?」
「多分知らない。だって、秘密の手紙なんだ。ゆうじくんは、誰にも見つからないように挟んだと思う」
相川はそう言って、ちょっと息をついた。
「廣原さんはゆうじくんがイースターの礼拝に来たがっていたのに、家族が連れて来れなくなったのをかわいそうに思って、自分が付き添ってあげることにしたって言ってたよね。だから、手紙のことを知らないにしても、ゆうじくんの家族のことはよく知っているはずだと思った」
そう、廣原さんは『おじいちゃんのために本を返して借りに来る子ども』のために、図書館を早く開けるという便宜を図ってあげていたんだ。
相川は、極めて珍しいことに、一生懸命に話しているように見えた。
何か大事なことを僕たちに伝えたい、とでもいうように。
「最初の疑問は、どうして手紙がばらばらなのかということだった」
「日付のこと?」
そう言えば、相川は日付がばらばらなことを気にしていた。
「もしも君たちがその手紙を本に挟むとしたら、順番はどうする?」
杉下は事情が呑み込めたようだった。
「そうか、相川君の言いたいことは分かった。時系列じゃないと、気持ち悪いかも」
相川は頷いた。
「普通の大人が手紙を本に挟んだとしたら、きっとこんなにばらばらにはならない。だって、手紙をわざわざ本に挟むんだから、意図があるなら時系列に手紙を挟むと思う」
「でも、そういうことに頓着しないのは……」
まるで僕にクイズを出すかのように、杉下が僕の顔を見た。
「え? と、つまり……文字が読めないとか、まるきり気にならない、とか。……そうか! つまり子どもだ」
「ゆうじくんは多分漢数字が読めなかったと思うし、手紙の順番なんて気にしていなかったのね。でも、手紙を『天地有情』に挟むってことだけは知っていた。で、手紙を挟んだら、ある日、その手紙が無くなってた。私が抜いたんだけれど。だから『誰か』に手紙が届いたんだと思った。で、次の手紙を持ってきた。でも、日付のことはよく分からなかったから、順番は適当だった。それに、確かにこの本、子どもでも手の届く高さの書棚にあったわ」
そう。相川は「手紙を挟んだ犯人」は子どもだと推理していた。
そこへ「日曜日に早めに図書館に来る」司書の廣原さんが、自分の子どもではない子どもを連れて現れた。
聞けば、事情があって家族が連れてきてやれないから、代わりに連れてきたのだという。
そしてゆうじくんは、廣原さんに随分となれていた。つまり、彼は以前から廣原さんとは知り合いだったのだ。
そして、もうひとり。
手紙を見せた草加先生が「特別な反応を見せた」。
草加先生はもう一方の関係者である可能性がある。
確かに、状況証拠だけだったんだ。
だから相川は、手紙を書いたのか。動機を確認するために。
「でもどうしてゆうじくんは手紙を挟んだんだ? 悪戯?」

「いいえ」
何時の間にか傍に司書の廣原さんが立っていた。
「草加先生が看護婦さんの許可を取ってくれたの。どうしてもみんなに話したいことがあるからって」
僕たちは顔を見合わせ、それから草加先生の病室に向かった。
杉下はすたすたと廣原さんについて行く。ついこの間、盲腸の手術をしたとは思えない、元気な歩きっぷりだ。
ちなみに後で聞いたら、本当は痛いのだけれど、それどころじゃなかったというのだ。
好奇心は猫も殺す、じゃなくて、痛みも殺すわけだ。
相川は僕の後ろをずいぶん遅れてついてくる。
謎解きそのものに興味がある、というわけでもなかったみたいだ。
逆に、今から告げられる『真実』に怯えている子どもみたいに見えた。

病室に入ると、先日よりまた少し痩せたように見える小柄な草加先生の手を、ゆうじくんのおじいちゃんがしっかりと握りしめていた。
そのおじいちゃんの手にも皺とシミが随分とあって、随分と苦労を重ねてきたに違いないのだと思った。
でも、二人の顔は、何て言うのか、ようやく心の重荷が降りたような穏やかさに満ちていた。そう、例えば、このまま並んで座っている姿を絵に描いたら、きっと家族の肖像だと僕たちは疑いもなく思うだろう。
ゆうじくんは退屈そうに別の椅子に座って、あの超絶デフォルメ兎の卵を小さなテーブルの上で転がしていた。

しまった。また兎と目が合っちゃった。
……僕は笑いを噛み殺すのに必死になった。
隣で、相川がまた気まずい顔で視線を逸らす。
でも、ゆうじくんはあの兎のこと、ものすごく気に入っているんだと思うと、ちょっと僕は嬉しかった。
ゆうじくんのおじいちゃんは僕たちの学院の古い卒業生で、歴史学を専門にしている別の大学の教授だった。毎週日曜日に学院の図書館に来ていたけれど、去年の終わりに癌で入院してしまったのだという。
それでも彼は病室で研究を続けていた。だから本が必要だったのだ。
外出が難しくなったおじいちゃんのために、いつも一緒に礼拝に来ていたゆうじくんが、本を届ける係になった。
ゆうじくんは本当なら図書館には入れない年齢だけど、おじいちゃんと一緒ならというので、それまでもくっついて図書館に入っていた。
いつも『天地有情』の本を手に取り、想いに耽るおじいちゃんを見て、ゆうじくんはこれが大事な本だということを知っていたのだ。
「私がゆうじに戦死した息子のことを話したのです。ゆうじの叔父にあたります。息子には大事な人がいて、その人と秘密の手紙の交換をしていた、この本が郵便屋さんだったのだよと。ゆうじが意味を理解していたとは思ってもいませんでしたが、息子の日記や彼に届いた手紙を見せたこともありました。おじいちゃんは、彼にしてあげることができなかったことがいっぱいあるんだとも話しました。だからせめて、この天国から来た秘密の手紙は、いつか天国にいる息子に届けたいんだ、とも」
ゆうじくんは、大人たちの様子から、大好きな祖父の病状があまり良くないことを察していたようだった。だから自分がおじいちゃんの代わりに『郵便屋さんに手紙を届ける仕事』をしてあげようと思ったのだ。
その手紙が『天国にいる叔父さん』に届くと信じて。
子どもって、物事の詳細は分からなくても、芯のところはちゃんと理解している。
大人が心を込めて言った言葉なら、それを解する力がちゃんとあるのだ。
だから、毎週礼拝の後、母親を講堂の前に待たせて、ゆうじくんは『自分の仕事』と決めたことを自分の力でやり遂げようとした。

「私は学院の卒業生でしたが、当時はまだ学院も少し大きな寺子屋のようなもので、学費などはほとんど必要なかった。貧しいものでも志さえあれば学ぶことができました。しかし私の息子の時代にはある程度の学費を支払わなければならないようになっていて、息子は奨学金で通っていたのです。そして草加先生の家は……」
「私の家は元華族で、爵位制度が廃止された後も、百貨店の経営を軌道に乗せて、財閥のひとつと数えられていたの。私も娘も草加家の一人娘で、貧しい奨学生との結婚は認められないと言われたのよ。いえ、私は自分が親に言われたことを、娘にも強いてしまった。そう、本当に愚かな時代で、愚かな親だったの」
草加先生とゆうじくんのおじいちゃんは目を見合わせた。
「いや、私に勇気があれば、小夜子さんと一緒に人生を送ることもできたでしょう。あなたの一生懸命さを、自分の卑屈さゆえに受け止めることができずに、あの日、あなたを裏切ったのは私だ。私の息子があなたの娘さんを恋したのが運命のいたずらだとしても、あなたが私の息子を絶対に受け入れられないと思ったのも無理はない」
え、ということは……草加先生とおじいちゃん、そして草加先生の亡くなった娘さんとゆうじくんの叔父さん、結ばれなかった恋人は二組いた、それも親子二代だったってことなんだ。
僕がぽかんとしていたので、杉下が僕をこついた。
富山くん、顔が馬鹿になってるよ、と言われて、思わず我に返る。

「いいえ。娘は私よりも遥かに賢明だった。あなたの息子さんの戦死を知り、生涯結婚はしない、教師になり子どもたちに未来を教えたいと言ったのです。しかし、家を出た娘は、事故でほどなく亡くなってしまった」
それから草加先生は僕たち三人の方を見た。
「私はずっと、娘が叶わぬ恋ゆえにいつも泣いていたのだと思っていたの。だから、娘を亡くした時に私が書いた歌は、娘の本当の姿をちゃんと見ていない、自分の身を嘆いただけの歌だった。でも、一昨日、この子たちが娘の手紙を持って来てくれた。その娘の手紙を見て、ようやく知ったのです。自分たちの充たされない想いゆえに、子どもたちの未来を閉ざしてしまった愚かな親に背を向けて、あの子たちは真っ直ぐに立ち、未来を見ていた。それは他国との戦争や事故という不条理に断ち切られてしまったけれど、それでも、彼らの前には道があったのね」
娘が受け取った手紙は空襲で焼けてしまったのだと、草加先生は悲しそうに言った。
ゆうじくんのおじいちゃんは、一番大事な手紙が残されていると言って、『天地有情』と共に一緒に持っていたもう一冊の本を開いた。
それはおじいちゃんの息子さんの日記だった。
おじいちゃんは最後のページを開いて、草加先生に見せた。
「戦地に赴く時、彼は死を覚悟していたのでしょう。息子の死後、この日記の遺言を見つけてやることができなくて、気がついた時にはあなたの娘さんも亡くなっていた。もう取り返しはつかないのだと、私は諦めていましたが、それは間違いだったようだ」

草加先生は涙をこぼした。ゆうじくんのおじいちゃんは、草加先生の手をもっと強く握りしめた。退屈していたゆうじくんは不思議そうに草加先生とおじいちゃんを見ていた。廣原さんはそっとゆうじくんの傍に寄り添っていた。
ゆうじくんの叔父さんが遺した日記と手紙が、僕たちの手元にも回ってきた。
ゆうじくんは、いつの間にか、広告の裏に、退屈しのぎに持ってきていたらしいクレヨンで絵を書き始めていた。

『僕が死んだら、図書館の『天地有情』にこの手紙を届けてください。
必ず、『希望』の詩のページに、これを挟んでください。
僕はそれでも、この国の未来を信じています。』
笑いたかったのに笑えなかった。
相川の絵を凌ぐ、超超絶デフォルメ兎だったのに。
いや、それは、お気に入りの相川の絵を真似したかったんだよね。
何だか号泣してしまった僕の背中を杉下が優しく撫でてくれて、冷たいけれど暖かい相川の手が、僕の手にそっと触れた。
おじいちゃんの息子さんが遺した最後の手紙には、崇徳院の歌が流麗な文字で綴られていた。
『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』



それから数か月後、僅かに一週間の時間差だけで、草加先生とゆうじくんのおじいちゃんは亡くなった。二人とも同じ癌だった。
ゆうじくんは、おじいちゃんの余命が長くないことを告げる医師の言葉を聞いていた。
そして、何かできることはないかと聞く母に医師が答えた言葉を、正確に理解したのだ。
「喜びや幸せ、希望を感じることで免疫が高まり、余命が長くなるといいます」
だからゆうじくんは、おじいちゃんのために『手紙を出しに』行ったのだ。
おじいちゃんが幸せと希望を感じられるように。
おじいちゃんが少しでも長く生きられるように。
ゆうじくんが届けた手紙のお蔭で、若い命を散らせた恋人たちだけではなくて、それよりもずっと以前に結ばれないまま心を閉ざしていた恋人たちもまた、想いをひとつに合わせたのかもしれない。
そう、本当に、分かれた川が、またひとつの流れになったんだ。
司書の廣原さんから、草加先生のことを教えてもらった。
先生は「お嬢さん」で、学生時代も卒業してからも職業婦人とは無縁だった。もちろん、家訓により英語だけは得意だったという素地はあったそうだけれど、教師を目指していた娘さんを亡くしてから、一生懸命に勉強をして教師の資格を取ったのだという。
「野口英世のお母さんみたい」
杉下が言った。僕と相川は目が点。
「シカさん。文字も書けない人だったのに、息子が医師として世界に飛び出していってから、一生懸命勉強して産婆さんになったんだよね。それからものすごい数の赤ちゃんを取り上げた。息子のために、恥ずかしくない母親でいたいって」
ゆうじくんのおじいちゃんもまた、息子を戦争で失ったことから、戦争の歴史を研究していた。
過ちを繰り返さないためにはどうすればいいのか、人はどうあるべきなのか、いつも一生懸命に考えていた。
あれから、ゆうじくんは、大きくなったら何になりたいの、という大人からの質問に、いつもこう答えているそうだ。
ぼく、おいしゃさんになるんだ。
それは、戦死したゆうじくんの叔父さんの夢だった。

杉下さんは相変わらず堅物図書委員で、いつも溌剌と図書館で働いている。
相川は、相変わらずクラスの誰にも馴染もうとしない。
僕は相変わらず、みんなにあれこれ面倒を押し付けられてしまう軟弱級長だ。
でも、僕たちは何となく図書館でよく顔を合わすようになった。
夏休みを前にした期末テストが終わった日、僕は図書館で、向かいに座る相川に言ってみた。
相変わらず、彼の前には謎の数式が並んだ本が広げられている。
「あのさ、ちょっと提案があるんだけど」
相川は面倒くさそうに本から視線を上げた。
「名前で呼び合わない?」
その時の豆鉄砲を食らったみたいな相川の顔が忘れられない。
「なんで?」
「だって、親友になりたいから」
一瞬先には、相川は無表情だった。
でも僕はもう知っている。それはかなりパニックになっている顔だよね。
「あ、夏休みの間に考えといてくれたらいいから」
何だか照れちゃった僕は、そう言い残して先に席を立った。
後から盗み聞きしていたらしい杉下に言われた。
「富山くん、あれはプロポーズの時に言う言葉よ」
「あれって?」
「考えといてくれ、返事は待つから」
……え? そうなの?

ゆうじくんが届けた手紙は、確かに天国とこの世を繋ぐ手紙だった。
そして、僕たちの間に、ちょっとした友情の種を零していってくれた。
そうだ。夏休みにゆうじくんを誘って動物園に兎を見に行こうって、相川に言ってみよう。
ゆうじくんに「正しいウサギ」を見せてあげなきゃ。
あれ? 動物園に兎っていたっけ?
(【図書館の手紙】了)
最後にもう一度、土井晩翠『希望』を載せておきます。
この詩は、いつかこれに合わせて物語を書きたいとずっと思っていた詩。
この物語と共に、皆様にご紹介できたことも、とても嬉しいと思います。
ついでに崇徳院の歌を載せたら、『はいからさんが通る』みたいになっちゃった。
……古い? す、すみません^^;
謎解きというようなものは何もなくてごめんなさい。
何せ、視点が亨志なので、情報を仕入れた真以上に何も分かっていなくて、ミステリーの体裁も何も整いませんが、楽しい学園ものとして楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
今回のポイントは『超絶デフォルメ兎』?
なお、今の幼稚園児は漢数字くらい読むかもしれませんが、時代が古いので、ゆうじくんは漢字は読めません。
そして、この時代の若者は…・・夢を持つことができた時代、だったかもしれませんね。


沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。
ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。
嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー
港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。
Category: (2)図書館の手紙(完結)
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