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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(1) 

 彼は今でも時々その夢を見る。夢というよりは、現実にあった過去の出来事をなぞる、記憶回路の確認作業なのかもしれない。
 彼のように自らを律する力を培ってきた人間に、呑み込めない、あるいは克服できず、仕舞いこむ引き出しのないような出来事は、基本的にはあってはならないはずだった。だからこそ、彼はそれを自分以外の場所に、つまり外側に作り出した。
 それを覗かれることは彼には屈辱的なことだった。だからその場所の鍵は彼だけが持っていた。だが、彼は初めて、その鍵を他人に託した。いや、他人ではない。その男は彼にとって大事な、血縁と言ってもいいほど大事な人間になるはずだ。だからこそ、彼は決心してその鍵をその男に預けた。
 夢の中で、彼は佐渡にあるその建物の中に入り、地下に潜り、そしてまた更に一段下の地面に潜る。空気は薄くなり、息苦しくなっていく。海から浸み込む塩分を含んだ湿度が、足下からじっとりと上ってくる。彼は最後の扉を開ける。
 薄暗い電球の下で、狭い礼拝堂の中、苦悩に満ちたイエス・キリストの絶望の表情が浮かび上がった。


 彼、ジョルジョ・ヴォルテラは、生れ落ちて、まだ意志も何もない時に額に記された神の刻印を、恐らく、世の人間のうちで最も敬虔に受け止めている一人であることを自覚していた。それは、生まれた時には、出生届に記された両親からは捨てられる運命にあったジョルジョが、あの四月二十三日、ドラゴンを打ち倒した聖人の記念日、ヴォルテラの先代の当主がファシズムに抵抗して謀殺された日に生れ落ち、ヴァチカンの最高位にある教皇手ずからの祝福を受けた日から、彼の血の中に染み渡り、決して消すことができなくなった魂のあり方だった。
 年に一度、極めて個人的に、そして密やかに、教皇に謁見するのがヴォルテラの当主、そして次代当主の義務であり、権利でもあった。生れ落ちた時から、ローマを出奔する前年の十五の年まで、ジョルジョは教皇の祝福を受け続けてきた。現世に遣わされた神の御姿である教皇は、戦前そして大戦中、戦後を生き抜き祈り続けたローマ出身の教皇で、幼いジョルジョ・ヴォルテラに会うことを実に楽しみにしてくれていた。教皇だけに許された礼拝堂で、幼いジョルジョを膝に乗せて、教皇は、この子は特別な運命に導かれていると、何度もヴォルテラ当代当主のチェザーレに言ったという。神であり、人であり、そしてまた人と神の子であると。この子に与えられた運命は恐らく苦渋に充ち、彷徨い続けるものだろう、それが故に私はこの子が愛おしいと言葉を下された。
 神は自然にジョルジョ・ヴォルテラの体内に入り込み、染み渡り、ジョルジョが罪を犯すことを知りながらも、それを浄化する力や技、そして赦しを与え続けた。ジョルジョは神に遣わされ、清濁を併せ呑み、むしろ神の国の汚泥の部分を担うヴォルテラの当主としての役割が何であるのか、常に教え諭されながら幼少期を過ごした。どれほど手を穢そうとも、神の名のもとでは、ヴォルテラの当主にはそれが許されるということを知らされた。神の世界には調和があり、決して崩れることのない秩序があり、その調和と秩序を力でもって守るためにヴォルテラの家が存在し、あらゆる負を受け入れるが故に、かえって教皇よりも気高くあるのだと、教皇自らジョルジョに教えた。
 ジョルジョは神を信じ、神を受け入れ、そこから自分が零れることなど一切考えずに、神の兵士として、ただ忠実に生きることを考えていた。その中で、教皇という位の人間と対等に語り、つまり教皇という位の裏の顔を全て担う当代のヴォルテラの主人が、この場所でいかに力を持った存在であるのかということをしっかりと叩き込まれていた。当代の当主に逆らうことは、ジョルジョの中では全く考えられないことであり、それは神を裏切ることがないということと、まさに同義であり、染み渡った血の色合いでもあった。
 学校には行ったが、ほとんどの時間は当代当主チェザーレの腹心、選びぬかれた教育者たちが、次代当主を鍛え上げ、徹底的にあらゆる種類の世の中の真実と向かい合う勉学、帝王学を授けるために費やされた。夜中にはチェザーレ自らが教育の担い手になった。スポーツも芸術もゲームも例外ではなかった。ジョルジョは一通りの遊びを難なくこなす才能を要求され、最低でも十ヶ国語を流暢に話す言語力を要求され、多少の薬物にはびくともしない屈強な身体を要求された。その全てにジョルジョは幼くして既に、当代当主、そして教皇庁を含めた周りの人間たちの全てを納得させるだけの成果を挙げていた。
 だが、その者たちをもっとも満足させ、時には震え上がらせるほどに感動させるのは、この次代当主の天性の美しさだった。神は何を間違えて、この汚泥を担うヴォルテラの家にこれほど完璧に美しいものを落としてしまったのか、と誰もが思った。ジョルジョは自然に周囲の人間たちに纏わりつき、その愛らしさは彼に会う全ての人間を虜にし、時折勉強に疲れて眠ってしまっても、その無垢で美しい寝顔に誰もが暫くの時間を許してやろうと考えた。台所に平気で降りていき、使用人たちとも対等に口をきいた。それだけは誰がいくら注意しても直らなかった。料理番の女性の家に孫娘が生まれた時も、会いに行くといってきかなかった。ローマのヴォルテラの屋敷とは比べ物にならない小さな家にも当たり前のように飛び込んでいって、可愛らしい赤ん坊に対面すると、無邪気に、この子は僕のお嫁さんになってくれるかなぁ、と言った。大慌てをしたのは使用人たちだった。
 ヴォルテラ当代当主には別の一人息子がいた。リオナルドと名付けられたその息子は物静かで、内に鋼のような強靭な精神を培われ、天性のものとして穏やかに人を惹きつける何かを持っていた。全てに於いてバランスの取れた人物で、それは別の意味でチェザーレの確かな教育を受けていたからだった。リオナルドはひとつ年下の従弟のジョルジョを傍目からも分かるほどに愛していたようで、ジョルジョのほうもいつもリオナルドに甘えるように後ろをついて回っていた。リオナルドの性質を、王を支える腹心にこそ相応しいものであると、その父親は始めから見抜いていたようだった。
 だが、当代当主チェザーレが何故実の子どものリオナルドを差し置いて、不仲の双子の兄の子どもを、その『甥』が生れ落ちたその時から次代当主にと定めたのか、誰もその本当のわけを知らなかった。何より、これまでのヴォルテラの歴史の中で、赤ん坊のときから毎年、教皇との謁見を続けた次代当主は、他に例を見なかった。
 どれほど遊び疲れていても、チェザーレが帰宅するとジョルジョはチェザーレの部屋に行き、勉強の仕上げをして、そのままチェザーレの部屋で眠った。時々ジョルジョが夜中に目を覚ますと、チェザーレは大概はまだ机に就いて仕事をしていたが、時にはジョルジョの髪を愛しげに撫でてくれていることもあった。ジョルジョにはチェザーレが与えてくれる場所が全てだった。
 それが一体、いつ崩れたのか、ジョルジョ・ヴォルテラにははっきりとした自覚はない。
 少しずつ少しずつ、ジョルジョの体の中に呑み込めない澱のようなものが溜まってきていたのか、やはりあの時、あの瞬間に彼の内側に飛び込んできたものなのか。
 時々、ローマの屋敷を抜け出して廃墟のようになった教会、地下に残る古代ローマやエトルリアの遺跡に潜るのはジョルジョの唯一の息抜きのようなものだった。その程度の冒険を禁じるほど、チェザーレは了見の狭い人間ではなかったし、その冒険はある意味ではチェザーレの公認の遊びだった。ジョルジョは入口が塞がれた教会の跡地に潜り込み、こっそりと色々な美術品を見に行った。教会には、その場所が全盛期であったときに装飾に使われた様々の絵画、フレスコ画、モザイク、タペストリー、金銀細工、あらゆるものが残されていた。崩れて壊れかけた破片から蘇る古の香り、それはジョルジョをいつも甘美な気持ちにさせた。
 だが、その日、廃墟となった教会に潜り込んだはずのジョルジョの目に飛び込んできたのは、輝きを取り戻した礼拝堂の金銀、光を蘇らせた絵画、隙間を分からないまでに繋ぎ合わされたステンドグラス、擦れて色を失っていたはずの糸が立ち上がり、もう一度三次元の息吹を取り戻したタペストリーだった。
 そしてそこに、ジョルジョは明らかに降り注ぐ神の光を、何百年もの時を遡った彼方で祈りを捧げる人々の声を聞いた。光を取り戻した教会には、祈りと赦し、そして愛が満ち溢れ、ささやかなドームの天井からは天使が舞い降り、神を称える聖なる歌は、時空を超えて今まさにジョルジョを包み込んでいた。
「おい、小僧、そこを踏むんじゃない」
 突然、だみ声が頭の上から降ってきて、ジョルジョは柱の上の説教台へ上る螺旋階段を見上げた。半ば崩れかかった説教台まで届く梯子には、背を丸めた痩せた男がいて、黒く細長い塊のような身体から突き出た手を説教台の彫刻に残したまま、ジョルジョではなくその足下の床を見下ろしていた。ジョルジョがその男の視線を追いかけるように自分の足下に目を落すと、誰かの墓なのだろう、モザイクが崩れかけながらも祈りの言葉を囁きかけている。
 だみ声の主はひとこと言ったきり、あとはジョルジョに目を向けることもなく、黙々と仕事を続けた。
 ジョルジョは毎日のように屋敷を抜け出すようになった。男は見つけ出せる日もあれば、何日も姿を見せないこともあった。酒臭く、だみ声で話し、ぼさぼさの頭で浮浪者のような格好をして、身体中に薬品や油絵具のにおいを沁み込ませていた。あまりにもしつこくやってくる子どもに、その男は始め全く興味を向けてくれなかったが、そのうち仕事の手元を飽くことなく見つめ続ける目に、ようやく顔を上げた。
「お前もやってみるか」
 男が、ローマで、いやイタリアで随一と言われる修復師だと知ったのはずっと後のことだ。修復学校をトップの成績で卒業し、最高の工房で腕を揮いながら、はずみとは言え女を殺して何年か刑務所に入っていた。刑務所は古い城を改装してあって、その食堂のぼろぼろになったフレスコ画を、男は入所中に頼まれもしないのに修復し始めた。当時を知る元服役囚は、神が降りていたと語った。その姿を見た服役囚たちは、堀の外にいる家族や友人たちに援助を求め、ささやかながらも刑務所の中とは思えないほどの修復材料が集められたという。今では刑務所のその場所は観光地になっていた。
 修復師はエウジェニオという名前で、奇しくもジョルジョ・ヴォルテラを愛してくれた教皇の本名と同じだった。一匹狼で、半端ではない技術を持ち、噂では表に出せないあらゆる芸術品を修復しているらしいと言われていた。弟子を取ることなど全く考えてもおらず、飲んだくれでいい加減な男で、気が向かなければどれほどの金を積まれても仕事を断った。大金が入ると、場末で身体を売る女たちに全て振舞った。修復師が殺してしまった女もまた、身体を売って糊口を凌いでいたので、禊の気持ちだったのかもしれないが、修復師はそのことを誰かに説明したこともなかった。
 ジョルジョが初めて叔父に無断で外泊したのは十一の時だった。修復師は定まった家を持っておらず、その時はローマでも有名な東洋芸術の収集家の屋敷に泊まりこんでいた。収集家はまだ若い四十代の実業家で、ほとんどをアメリカで過ごしているのだと言った。背の高い、黒髪の、精悍な顔つきの男だった。
 いつも修復師が飲んだくれている酒場を突き止めていたジョルジョが、いつもの席で彼を見つけると、修復師は楽しそうに言った。
「坊主、いいものを見せてやろう」
 その時に初めて見た写楽の版画。
 ジョルジョは衝撃を受けた。背徳の絵だと思った。そう思ったのに、一枚一枚見るごとに惹き付けられ、目を離すことができなくなった。人間の顔と身体のバランス、指と顔のバランス、目と鼻と口のバランス、全てが出鱈目だった。こんなものは神が整えた秩序に基づいた人間の顔、身体ではなかった。それなのに、その絵にはジョルジョが知らない真実が埋め込まれ、吹き上がり、彼の体の中に確かに居場所を見出したようだった。
「坊主、世界には色んな神がいる。お前が見知っている世界にはない、とてつもないへんてこりんな真実がある。この絵を描いた画家の国にはな、八百万の神がいるらしいぞ。しかも悪魔まで神だ。神というのは『奇しきもの』ということだ。悪魔でも鬼でもみんな神、と呼ぶらしい。面白いだろう。世界は俺やお前が思っているよりも、ずっとでかい」
 その夜、ジョルジョは収集家が喜んで彼の前に広げてくれた東洋の日本という小国で生まれた芸術を、溢れんばかりの『奇しきもの』を飽くこともなく見続け、時間の概念も失い、魂をその小さな国に飛ばし続けた。
 収集家はさらに、ジョルジョに春画を見せてくれた。男と女が睦み合い、あられもなく晒された性器の描写には屈託もなく、女性器に挿しいれられた男性器の大きさなど現実のものとは思えず、しかしそこに施された色彩の細やかなこと、艶やかなこと、着物の模様のひとつひとつの精巧さ、鬢を描いた一本一本の線の踊るような流れ、版画としての技術の高さ、そして最高級の和紙の手触り、全てがジョルジョを魅了し興奮させた。男性同士が絡むものもあり、そのモチーフについてはギリシャの壷にもいくらでも描かれていたので驚きもしなかったが、やはりそこから立ち昇る健全な、あるいはあっけらかんとしたエロスからは、不思議な生命力を感じた。そこには背徳という言葉の付け入る隙など全くなかった。
「この春画という分野には、最高級の技術と素材が使われている。どの国でも助平な絵が一番高く売れる、だからいい材料を使う。分かるか、この手触り。奉書という最高級の和紙だ。百回重ね刷りをしても耐えるという話だ。日本の和紙があればフレスコ画の修復だって、もっと上手くいく」
 その日から数日、ジョルジョは屋敷に戻らなかった。二日目の夜、興奮を醒ますように、収集家の男に身体を任せた。それが背徳であるという概念が、その時なかった。もっとも、男のものを受け入れる準備はジョルジョにはなかったし、収集家もソドミアンというわけでもなかったようで、行為自体がうまくいったわけではなかった。だが誰かとベッドを共にし、性的な興奮を分かち合うという行為は初めての経験だった。ジョルジョと収集家は手と唇でお互いのものを満足させ、裸で抱きあって眠った。
 修復師はその夜も仕事をし続けていた。
 その収集家と、その時は二度と同じような事態に陥らなかった理由は簡単だった。叔父に見つかり、連れ戻され、その収集家にジョルジョが『ヴォルテラの次代当主』であることが知れたからだった。叔父は一度の外泊や火遊びなどで、次代当主を追い込むようなことは何も言わなかったし、しなかった。しかし、その一瞥だけで、収集家もジョルジョも縮み上がるような気持ちになった。『ヴォルテラの次代当主』というのは、まさに全ての理屈も欲望も黙らせる効果がある単語だった。
 だが、ジョルジョは修復師のところに通うことは辞めなかった。そのうち叔父、チェザーレが本当に怒り出すのは時間の問題だと思っていた。認めてもらうために、ジョルジョはこれまで以上に叔父の望む勉強をし、スポーツをこなし、その後で大概は夜中仕事をしている修復師のところに行った。
 真夜中の教会やアトリエに灯された明かりの中で修復をする男の横顔には、鬼気迫るものがあり、そこには確かに神が宿っていた。あるいは悪魔も魅せられていたのかもしれない。時折ジョルジョは、背を丸めて座り込み仕事をしている修復師の背後に、天使や悪魔、あらゆる聖獣や悪魔に従う穢れた獣たちまでもが、同じ空間を分け合うようにして修復師を取り囲み、彼に力を与え、一方ではその手から紡ぎだされるひとつの技にも溜め息を零して魅入っている姿を認めた。
 もっとも修復師はいつも仕事をしているわけではなく、時々は全く飲んだくれているだけの時もあったのだが、そんな時はジョルジョはその酒に付き合うようになった。修復師は酔うと必ず、自分が刑務所に入っている間に亡くなったという母親の話をした。それを聞きながらジョルジョは、修復師が刑務所のフレスコ画を修復していたのは、母親への贖罪と思慕の故だったのだろうと想像していた。ジョルジョも見に行った事があるその刑務所のフレスコ画は、受胎告知の場面だったのだ。
「チェザーレも頑固だが、お前も頑固だな」
 ドットーレ・ビテルリ、ヴォルテラのお抱え医師が頭を掻きながら言った。
「いい加減にしないと倒れるぞ。お前、ほとんど寝てないだろう」
 眠る時間は惜しかった。それにジョルジョはまだ、叔父の期待に応えたいと思っていた。それを疑ったことなど一度もなかった。
 東洋の芸術にも憧れたが、やはりルネサンス期の絵画はジョルジョを幸福にした。ある時、修復師についていった別の収集家の家で、彼はそのジョルジョーネに出会った。
 それは小さな絵だった。美しい天使には、あらゆる穢れのない聖なるものと、零れだすような背徳のエロスが鬩ぎ合い、その目のうちで生き生きと踊っていた。ジョルジョは天使に見惚れ、修復師のいない時もその収集家の家に通うようになった。一枚の絵がこれほどに人を惹きつけるのかと、自分自身ながら驚くような気持ちで絵を見つめ続けた。
 収集家は有名なソドミアンだった。しかし、そんなことはジョルジョーネに魅せられていたジョルジョの意識の中に全く入っていなかった。
「そんなに欲しいなら、その絵を君にあげようか」
 ジョルジョが驚いたように収集家を見ると、収集家は淡々と条件を突きつけてきた。週に二度、半年付き合ったらくれてやると言われた。
 この絵のためなら大した要求ではないと、そのときのジョルジョは思った。初めてその男に抱かれたとき、ジョルジョにはそれが神への背徳だという意識が、やはりあまりなかった。痛みに耐え、行為に慣れることで精一杯だったからかもしれない。それにジョルジョ自身はこれによって快楽を覚えたという記憶がなかった。ただ通り過ぎるのを待ち、男の欲望を満たしてやっただけだった。そんなことくらいでは、ジョルジョの気高い精神も身体も穢されることはなかった。
「君は、何て美しいんだ。この身体に私を埋めていると思うだけで幸福だよ」
 男は行為の間中、ジョルジョの耳の中へ囁き続けた。だが男は徐々に本性を現し始め、行為は激しく苦痛を強いるものへと変わっていった。男は器具を持ち出し、ジョルジョの身体には呑み込めないほどの大きなものを試し、あるいはジョルジョの身体を縛り尿道口に管を入れたり、石鹸水を腸に注ぎ込んだりするようになった。ジョルジョは二ヶ月で音を上げ、いつかその絵を力ずくで奪ってやると宣言して収集家と決別した。
 ちなみに、ローマを出奔する少し前に、ジョルジョは宣言どおりジョルジョーネの天使を戴きに行った。もちろん、力ずくだった。あとになって請求書が送られてきたが、しっかり二か月分は値切って払ってやった。
 そのソドミアンの収集家と決別した後、叔父は何も言わなかったが、ある日、綺麗に着飾った美しい女がジョルジョの部屋にやってきて、ジョルジョとベッドを共にした。豊満な身体とほっそりとした腕を持つ、まだ二十代の女性だった。女は高級娼婦でマリアと名乗り、時に上品に、時に淫らに、まだ少年であるジョルジョを導いた。三日三晩、ジョルジョは女に抱かれ、女を抱き、生まれて初めて性的な快楽を覚えた。女の身体は恐ろしいくらいに優雅で優しく、ジョルジョを締め付ける場所はきつく猥らで、その厚く小さめの口いっぱいにジョルジョを銜えると、若くて際限のない彼の欲望を全て満たしてくれた。
 その三日が過ぎると、突然、ジョルジョはフィレンツェの神学校に放り込まれた。恐ろしく戒律の厳しいところで、もちろん付き添ってきた叔父の腹心たちは、その間も教育の手を抜かなかった。性的な興奮を知ったジョルジョの身体は、実に地獄を見たような状態だった。貞操帯でも嵌めてくれたほうがまだましかもしれないと思うくらいで、眠る時に自慰をすることさえできないほどに疲れ果て、その分昼間、神の前でははしたない想像に苦しみ続けた。
 初めて、今度は快楽に溺れるという背徳の恐怖を味わう破目になり、ジョルジョは身体の芯まで染みとおっていた神の戒律に、自分がいかに忠実な僕であるのかを知った。祈りの場所でジョルジョは襲い来る悪魔と闘わなければならなかった。小さな洞窟のような一人きりの部屋で、何度女の幻を見て、何度自分のものに触れようとしたか分からない。それでもそれが背徳だという意識と戦い続けた。
 食事が咽喉を通らなくなったジョルジョを随分と心配してくれたのは、ジュリオ・カヴァリエーリという名前の二つ年上の修道士だった。穏やかな整った顔つきの、ナポリ出身のジュリオは、浅黒い肌に黒い目をしていて、実に滑らかに神の言葉を取り次いだ。低いバリトンの声で語られる神の言葉は、この若い修道士の将来を確かなものにしているように思えた。
 そんな中であっても、絵との出会いは、いつもジョルジョをあり得ないほど幸福な世界に導いた。疑うことなど考えられなかった神の戒律を追求し、断食の状態でジョルジョは幾つも教会を渡り歩き、祈りを捧げ続けた。
 そして、その日、ついに運命のイコンと出会ってしまった。
 正教の教会に足を踏み入れることは幾らかの躊躇いがあったが、やはりジョルジョは運命に導かれるようにその小さな教会に足を踏み入れた。
 教会、ではなかったのかもしれない。そこはその画家のアトリエだったのだろう。画家は板に鼻を押し付けるほどに引っ付いて、汗を垂らし、目を血走らせながらキリストを描いていた。一歩、画家の絵に近付き、そのキリストの目を見たとき、ジョルジョはこれまで何を見たときよりも驚き、心の臓を鷲摑みにされたような恐怖に奮え、そして己の運命さえ垣間見たような感覚に陥った。
 画家が描いていたのは、磔刑のキリストの表情で、その目には明らかに死の恐怖と神への不信と、彼を裏切った人間たちへの怒りと絶望が籠められていた。
 これこそ、背徳のイコンだった。
 写楽の絵、日本の春画を見たときの衝撃はもちろんだったが、それは異郷の神のもとで成立した芸術だった。だが、これはジョルジョと同じ国の人間が、ジョルジョと同じ神を持つ土壌で描いた絵だったのだ。
 その絵の中に明らかに燃え上がる背徳の火。それを目にした日が、ジョルジョ・ヴォルテラにとって、最後通牒を受け取った日だったのかもしれない。
 画家は振り返り、一瞬、ジョルジョを見て、また板のキャンバスに食いついた。
 そしてジョルジョはこの画家の絵の虜になった。
 少年に過ぎなかったジョルジョに、自分の感情や欲情をコントロールする術など何もなかった。始めのうち、ジョルジョに一瞥をくれるだけだった画家は、そのうちジョルジョをモデルに絵を描くようになった。全てキリストの顔だった。ジョルジョは画家の描いたキリストの苦しむ表情に、自分自身の苦悩を投影し、画家が自分の苦しみを感じ取ってくれているのだと理解し、そして幾度も涙を流した。画家の方もますます苦しみながら絵を描くようになり、ある時、ジョルジョは、それは画家が自分を求めているからだと知った。ジョルジョは己の苦しみを、その本質がただ女への欲情とは思えない、自己の存在における何か根本的な苦悩を、今から苦しみ抜かなければならないのだという事実に震えた。ひどく意地の悪い悪魔が身体のうちに湧き上がり、ジョルジョは画家に言った。
「触れたいなら、触れたらいいよ」
 手に触れさせ、怯える画家の手を肌に引き寄せた。唇を許したが、その次には拒んだ。画家の描くキリストはますます苦渋に満ち始め、ジョルジョは自分が恐ろしく興奮していることを感じた。もう女の身体のことは忘れてしまっていた。その時描かれた全てのイコンのキリストに、ジョルジョは興奮し続けていた。画家はどんどんやつれ始め、その目が精気を失っていくと、イコンの中のキリストの目は光を吸い込んで妖しく光り、苦悩に悶え、神を呪う言葉を吐き出しそうな唇が、今にも動くように思えた。
 画家が飢えた目でジョルジョを見つめていたある日、ジョルジョは画家に自分のものを触れさせた。画家はジョルジョを床に押し倒したが、その狂った目をジョルジョは恐れもなく見返した。
 画家がその少年を恐れた理由ははっきりしていた。高貴な、本来ならその画家の手に入るようなものではない血が、生れ落ちた瞬間には定められていた運命に従い、この世の神の王国の最高位にある教皇の祝福を受け続けた血が、ジョルジョの頬にも唇にも目にも浮かび上がっていたはずだった。画家は怯え、何もできないまま、その日から狂ったように彫刻を掘り始めた。
 ジョルジョが一週間以上も経ってからその画家のアトリエに行ったとき、画家はもうこれ以上彫れないと思うところに来たのか、未完成なのか完成なのかわからない磔刑のキリストの彫刻を抱いて死んでいた。
 ジョルジョは、その彫刻のキリストの顔に怯えた。
 そこには神を裏切り、神を信じきることができず、苦しみ喘いでいるジョルジョ・ヴォルテラ自身の顔が刻まれていた。それは刻印だった。キリストを装ったこの顔の人間が、この画家を背徳の道へ追い込み、悪魔の囁きを耳に吹きかけ、罪を犯させ、そしてこの画家を殺したのだという、ダイイングメッセージだった。この画家を何よりも恐ろしい罪に追いやり、死に至らしめた犯罪者の顔、その顔を憎しみを籠めて、画家はこの石に刻み込んだのだ。
 正気が保てず修道院に走り帰った。塀を乗り越え、気持ち悪くなり吐き戻してしまったところに、見回りに来ていたジュリオ・カヴァリエーリが通りかかった。
「ジョルジョ、どうしたんだ」
 ジュリオは彼の部屋にジョルジョを連れて行ってくれて、着替えさせ、ベッドに横たわらせてくれた。ジョルジョは震えるままジュリオに抱きつき、その唇に唇を重ね、必死で求めた。ジュリオは驚きもせずにジョルジョを抱きとめ、舌までも求めたジョルジョに抵抗なく応えてくれた。やがて少し落ち着いてジョルジョが離れると、ジュリオはその頭を優しく撫でて言った。
「眠るといい」
「何も聞かないの」
「何を? 君がここに帰ってきてくれたことが嬉しいよ」
 ジョルジョはベッドに横になり、ジュリオに背を向けたまま、修道院の冷たい石の壁を見つめた。
「ジュリオ」
 ジュリオは聞いてるよ、というように髪を撫でてくれる。その手の温もりを感じたとき、ジョルジョの視界からは、壁の染みも小さなひび割れも消え霞んだ。
「魂は、どうしたら救われるんだろう。僕はいつも、自分がどこか欠けているような気がしてならないんだ。どんなに学んでも、どんなに心や身体を鍛えようとしても、僕はいつもどこかが欠けている。時々すっかり空っぽになってしまったような気もしてしまう。その空っぽに悪魔が簡単に棲み付いてしまう」
 ジョルジョは震える声で話しかけた。ジュリオはまだ黙ったまま髪を撫でてくれている。
「本当は、どうやって神を愛したらいいのか分からない。人を愛したらいいのかも分からない。僕はずっと一人だ。神はいつも答えをくれない」
「ジョルジョ、君は多分、とんでもなく沢山のものを持って生まれてしまったんだね。自分で気が付いていないのかもしれないけれど、君は、外から見える姿も心の内も、本当に綺麗なんだよ。人々は自然に君を愛し、君を神の国から遣わされた確かなこの世の王と認めるだろう。それなのに、君はずっと怯えた顔をしている。神に答えを返さなければならないと思うからかい? 僕が知っている神は辛抱強いことが取り柄でね、君が答えに辿り着くまで、君の一生分だって待ってくれると思うよ。君の世界は光に満ち溢れている。君の道の先にはきっと、君の求めるものが待っているはずだよ。怯えないで」
 まさにジュリオ・カヴァリエーリは神に遣わされた僕だった。いつか本当にそんな日が来るのかどうか、ジョルジョには全く見当もつかないままだったが、ジュリオの言葉になら騙されてもいいのかもしれないと思った。
 だが、その日からジョルジョは魘されるようになり、一人になると、あの画家の魂が傍らに立っているように感じて気がふれそうになった。この街にいたらきっとおかしくなってしまうと思い、逃げ出すようにローマのヴォルテラの屋敷に帰った。チェザーレは、神学校を抜け出してしまったことについては何一つ追求せず、まるでジョルジョがずっとそこにいたかのように扱った。
 それからのジョルジョは全く問題行動も起こさず、叔父の与える課題を全て淡々とこなし、ただ本を読み続け、身体を鍛えた。光も何も見えなくなり、日々は諦念の気配に満ちてさえいた。
 ひとつ年上の従兄のリオナルドが、いつも心配そうにジョルジョに話しかけてくれた。大丈夫だと答えても、やはり信用していないのか、リオナルドは、夜中にこっそりチェザーレの部屋から最高級のコニャックやシャンパンを盗み出してはジョルジョのところに持ってきてくれて、二人は床に座り込み、身体を引っ付けるようにしてベッドの陰に隠れるように凭れ、何時間も歴史や古代の遺跡について、時にはサッカーの試合の結果を語り合い、そのまま互いに凭れるようにして眠った。リオナルドがいなかったら、ジョルジョは自分がおかしくなっていたかもしれないと思っていた。チェザーレの姿を見る限り、ヴォルテラの主人というのがいかに孤独な仕事であるのか、十分に感じられたからかもしれない。
 そのことを分かっていたからなのか、あの修復師のところに通うことだけは、チェザーレも咎めなかった。週に二、三度は会いに行き、修復技術の全てを学び、実際に助手として仕事をこなせるようになっていた。修復師はたまに仕事の手を止めて、ジョルジョの手を見つめ、それから何も言わずに元の作業に戻った。時には、言葉なく手を叩かれることもあった。その理由を言葉で教えてくれることはなく、ジョルジョが修復師の求める答えを察してやり直すと、修復師は何も言わず、褒めることもせずに、頷きながらまた自分の作業に専念した。

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Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(2) 

「坊主、お前、ヴォルテラの跡継ぎだったのか」
 ある日、修復師はルネサンス期の絵画のワニスを確認しながら呟くように言った。とっくにそんなことは知っているのだと思っていたジョルジョは少しだけ驚いた。この修復師は本当に修復と酒のことしか考えていないのだと思った。ジョルジョがうん、と答えると、修復師はいきなり顔を上げた。その修復師がジョルジョの顔を真っ直ぐに見て話をしたのは、それが初めてだった。
「お前は修復師になれ。お前は世界一の修復師になれる。今世界一の俺が保証してやる。ヴォルテラにはもう一人息子がいただろう。俺にはお前しかいない。俺の跡を継げるのはお前しかいないんだ、坊主」
 そう言うと修復師はジョルジョの右の手を握った。しわがれた節くれ立った指には、薬品と絵具のにおいが沁み込んでいる。指の先は、古い金属の毒気で黒く染まっていた。
「この右手は俺と同じだ。神の手だ。俺はこれまで俺以上の手に出会ったことはなかった。学校でも工房でも、同業者の誰を見てもだ。だが坊主、お前の手は特別だ。俺は生まれて初めて、俺以上になる手を見た」
 ジョルジョは暫く呆然と修復師を見つめていた。
「お前の目には神が見えている。俺の知ってる神はヴァチカンにいる神じゃないけどな、画家や職人の手に一瞬だけ降りてくる芸術の神だよ。修復師の仕事はその神が見えないとできないんだ。それが何百年前の一瞬に降りてきた神であっても、お前の目には見えている。お前はヴォルテラなんか継いでいる場合じゃない。それこそ神への冒瀆だ。坊主よ、そうでなきゃ、お前の孤独は癒されることはねぇよ」
 ジョルジョはこの修復師が、ずっと自分の心にあいた穴を知っていてくれたのだと思った。それはきっとこの男にも同じ空洞があるからに違いなかった。
「お前の叔父に言えるか」
 ジョルジョは頷いた。
 だが、そんなことは全く許されるはずなどなかった。これまで少々羽目を外しても黙認してきたチェザーレが、烈火のごとく怒った。その怒鳴り声に驚いたリオナルドが飛び込んできて、たまたま当主の健康を気遣って訪ねてきていたドットーレ・ビテルリも、玄関から主人の居室に駆け上がってきたほどだった。
「何を騒いどるんだ、チェザーレ」
 チェザーレとジョルジョは睨み合って立っていた。
「騒いでなどいないよ、ドットーレ。あり得ない、と言っているだけだ」
 チェザーレの声は、これまでジョルジョが聞いたことがないほど冷たく低く、そして重かった。ドットーレ・ビテルリがジョルジョに向かって聞いた。
「お前、何を言ったんだ、ジョルジョ」
「ヴォルテラの跡は継がない、修復師になる」
 ドットーレは心底驚いたような顔をしてジョルジョを見た。チェザーレは断ち切るような声で低く言った。
「聞く耳は持たない。お前が修復の趣味を持つのは大いに結構だ。だがお前にこの家を継がないという選択肢はない。リオナルド、こいつを暫く家から出すな。お前が見張っていろ」
「父さん、いくら何でも、少しは話を聞いてやったら。頭ごなしに言うのは良くないよ」
「リオナルド、お前にはジョルジョの代わりはできない。それはお前が一番よく知っているだろう。ジョルジョ、もう話すことはない」
 ジョルジョにできたことは、リオナルドに懇願して屋敷を抜け出すことくらいだった。それでも、ジョルジョはまだ、叔父と話し合わないまま全てを捨てて出て行くつもりはなかった。だが、その日、場末の売春婦たちのところにしけこんでいた修復師を探し出すことはできなかった。
「エウジェニオかい? 今日はえらくご機嫌でさ、俺にもついに跡継ぎができたって。どっかで女でも孕ませたのかねぇ」
 一晩探し続けたが修復師は見つからなかった。
朝方に屋敷に戻ったとき、リオナルドはいなかった。不安になって使用人に聞くと、今朝早くに自家用機でロンドンに発ったという。留学だと聞かされた。リオナルドと引き離されたことは、ジョルジョを不安の連鎖の中に突き落とした。ジョルジョは部屋に閉じ込められ、全く屋敷から出られなくなった。二十四時間の監視はジョルジョを参らせ、その年の教皇との謁見が近づいたある日、幼いジョルジョを膝に抱いて慈しんでくれた教皇の崩御が伝えられた。
 教皇の死は、ジョルジョを完全に追い込んだ。チェザーレは、お前が仕えるべき新しい教皇の時代になった、と言ったが、ジョルジョには考えられないことだった。新しい教皇は前教皇の死の十七日後に即位し、チェザーレたちが慌しくなったある日の夜、ジョルジョはやっとのことで屋敷を抜け出した。
 居場所の定まらない修復師を探し出すのはいつもなら大概困難だった。だが、その日、ジョルジョが見知っているバールは、騒然とした雰囲気に包まれていた。もうもうと辺りを黒く包み込む煙と、吹き飛んだ窓ガラスと、行き交う人々の叫び。消防とレスキューがジョルジョの脇を通り抜け、ジョルジョはその後を追うように人だかりをかき分けながらバールに駆け込もうとして、女に止められた。
「あんた、危ないよ!」
「エウジェニオは」
 ジョルジョが叫んだと同時に、黒煙の中から浮かび上がるように担架で運び出された男の薄汚い衣服には、見覚えがあった。
「エウジェニオ!」
 修復師には意識がなかった。それは酒のせいだったかもしれないし、他の理由かもしれなかった。お前、身内か、と言われてがむしゃらに首を縦に振り、救急車に一緒に乗り込んだ。その瞬間、修復師の身体を見て、ジョルジョは狂ったように叫び、彼に摑みかかろうとした。救急隊員が、けが人に危害がないようにと、ジョルジョの身体を縛るように拘束した。ジョルジョは救急隊員の胸に身体をぶつけて、ただ泣き叫んだ。
 神の手は、肩から落ちかけていた。血が止め処なく流れ出て、もう一人の救急隊員が必死に止血を施していた。
「坊主」
 突然にはっきりとした声がジョルジョの耳に届いた。
「狼狽えるんじゃない。俺にはまだもう一本、お前の手があるんだ」
 修復師はその一週間後に病院で亡くなった。同じ名前の教皇が亡くなってから、丁度一ヶ月目だった。酒と自堕落な生活も災いして、敗血症と肝機能障害に打ち勝つことができなかったのだ。腕を無くしても、せめて生きていてくれたら、まだジョルジョの力になってくれたかもしれなかった。
 修復師には、刑務所に入って以来会わないでいたという娘が一人いた。娘は、今ではほとんど手に入らないような修復の材料を預かっていた。遺言状には『私と同じ神の手を持つ息子、ジョルジョに』と書かれていた。ジョルジョ・ヴォルテラに修復師が遺していた貴重な修復の材料は、それから何年も経ってからジョルジョの手元にやってくることになった。
 修復師が亡くなった夜、ジョルジョは屋敷に戻り、自室で仕事をしていたチェザーレにつかみかかった。
「あんたがやったのか」
「何のことだ」
「ふざけるな。あんたがエウジェニオを殺したんだ」
 その時、ジョルジョを見つめたチェザーレの、ジョルジョと全く同じ青灰色の瞳には、全ての答えが映し出されていた。
「そんなことをしてどうする。お前の怒りを煽っても、私には得になどならない。ジョルジョ、頭を冷やしなさい。ここのところ、お前は感情に走りすぎている。ヴォルテラの次代当主ともあろう者が、自分の感情をコントロールできないでどうするという」
 それがヴォルテラの当主になるということなのだ、というチェザーレの苦悩と逡巡、高貴さと誇り、そして何よりもジョルジョを慈しむ深い情愛、どこかグロテスクとも言える激しいほどの肉親への妄執を認めると、ジョルジョはもう何も、何ひとつ言うことができなかった。ジョルジョは自分が、ヴァチカンの聖なる楼閣の礎である深い泥沼のような地面を、自らを人柱として差し出すことで支えているヴォルテラの次代当主であり、そこから逃れることはできない、もし逃れたとしてもこの当代当主の深い情愛、幼い日に膝に抱いてくれた教皇の暖かな手からは逃れられないのだと知った。
 チェザーレのボディガードと秘書に連れられて、ジョルジョは自室に戻された。だが、その日は部屋に鍵がかけられることはなく、見張りもいなかった。逃げ出そうと思えば逃げ出せたのに、ジョルジョはもう動くこともできず、真っ暗な部屋のベッドに長い時間座っていて、それから何か空で音がしたような気がしてベランダに出た。
 あたりはただ静かで、見慣れた大きな庭園の景色は完全に闇に沈んでいた。ふと見上げると、天には星々が瞬き、天幕ごと降り落ちるように見えた。ジョルジョは最後に教皇に謁見したときの事を思い出していた。
『命の終わりが近付くと、色々なものがはっきりと見えてくるものだよ。ジョルジョ、私は君がこの世に生れ落ちたその時から君を見ていた。君は実に素晴らしい若者に育っている。チェザーレの教育がいいのだろうね。多くを悩み、苦しんでいるのがよく分かる。チェザーレが君に求めているものが分かるかい、ジョルジョ。それは答えではないのだよ、問い続けるということだ。それが君を特別な為政者に仕立て上げるだろう』
『答えは永遠に与えられないまま、僕はどこにも辿り着かないような気がします』
 教皇は震えながら苦しみを吐き出したジョルジョの右の手を取り、その手掌に口づけを分け与えた。
『この地球という星のどこかに、誰かが、あるいは何かが君のこの手を待っている。私に見えているのはそれだよ。もしかするとそれが答えなのかもしれないね。君がヴォルテラという器を離れるとチェザーレは苦しむだろうけれど、君はもっと広い世界を見る必要があるようだ。いつかここに戻りなさい。神の懐に。そのための長い道を、必然に導かれて君は歩き続けるのだろう。ジョルジョ、私は君に幸せでいてもらいたいのだ。そしてそれはチェザーレも同じなのだよ』
 その年、ジョルジョは十五で、教皇からヴォルテラの次代当主の証である指輪を与えられていた。
 ジョルジョはベランダに崩れ落ちるように座り込み、一人、自分の身体を抱き締めた。
 この地球のどこかに。
 それは幻想かもしれない。どこか欠けていると思い続けた何かが、この空洞を埋めてくれる何かが、この地球の上のどこかにあるというなら、今直ぐにその欠片でも見せて欲しいと願った。だが、神はいつものように沈黙したままで、ジョルジョは冷たいベランダの床に崩れたまま、このまま自分も冷たくなっていくのだと思っていた。
 意識は半分起きたままだった。大きな手がジョルジョの肩に触れた。ベッドに戻りなさいと言われて、ジョルジョはゆっくりと立ち上がり、もう何も考えずにベッドに潜り込んだ。一晩中、チェザーレはジョルジョの眠るベッドの傍に座り、時々髪を撫で、涙を指で拭ってくれていた。
 幼い頃、熱を出せば、チェザーレは全ての仕事を誰かに上手く任せてしまって、ずっとジョルジョの傍に座ってくれていた。ジョルジョは母も父もないことで苦しんだことも、辛いと思ったこともなかった。それが実は欠けているものの本質だとしても、思い起こせばいつも誰かがいて、例えばリオナルドであったり、料理番のマリアであったり、ジョルジョの世話をしてくれる使用人の誰かであったり、ドットーレ・ビテルリであったり、そしてヴォルテラの当主その人であったり、誰かがいつもジョルジョの傍にいた。子供の頃、勉強を済ませると、チェザーレはジョルジョを主人のベッドに一緒に入れてくれて、わくわくするような冒険の物語を聞かせてくれた。世界中の神話も、お伽噺も、聖書の物語も、全てチェザーレの声で覚えていた。アンデルセンの人魚姫の物語を聞いたとき、多分まだ学校に通う年でもなかったはずだが、ジョルジョはチェザーレに言った。
『僕が王子なら、人魚姫を泡になんかしない。ちゃんと選び間違えないようにするよ』
『だが、人間のお姫様の方も、王子を心から愛している優しい女性なんだよ。選べなかったら、どうする』
 わからない、とジョルジョは答えて急に不安になった。チェザーレはジョルジョの髪を撫で、落ち着いた柔らかい声で言った。
『それでも選ばなければならない時が来たら、選ばなくてはならないんだよ』
『人魚姫を泡にしないほうが、大事な仕事に思えるよ』
『それなら、それがお前の仕事だ。ジョルジョ、我々はずっと、何世紀にも渡って間違い続けてきた。お前が何を選んでいくのか、私は少し怖いんだよ』
 ジョルジョはあの日、そう呟きながら抱き締めてくれたチェザーレの温もりを今でもはっきりと思い出すことができた。母親の顔は知らず、一年のうち父親の家で過ごすのは僅かに数日に過ぎなかったジョルジョの幼い日々を支えたのは、明らかにチェザーレの手だった。ジョルジョは涙を流し、縋るような声で呟いた。
「父さん」
 チェザーレは黙ってジョルジョの髪を撫でていた。
「僕は人を殺してしまった。身体に刃を突き立てたのではなく、もっと残酷な方法で、本当の意味で、殺してしまった」
「ジョルジョ、お前が罪を犯したというなら、それは全て私が引き受けよう。だから、私の傍を離れるな」
 ジョルジョは目を閉じ、漸く眠りに落ちた。


 それから半年の後、十六になった誕生日に、ジョルジョ・ヴォルテラはローマを出奔した。その日は天から銀の雫が降り注ぎ、すっかり短くなったジョルジョのくすんだ金の髪を濡らし続けていた。
 ヴァチカンの小さな教会にジュリオ・カヴァリエーリが見習い神父として着任していることは、受け取った手紙に記されていたのだが、一度も会いに行ったことがなかった。ローマを発つ数日前に、ジョルジョはあのソドミアンの収集家から奪ったジョルジョーネの天使の小さな絵だけを持って、ジュリオの教会を訪ねていた。ジュリオは驚き、そして再会を喜び、小さな教会の中庭で何時間も座って、これまでのことを尋ねた。だが、ジョルジョは多くを語ることはできなかった。
「ジュリオ、お願いがあるんだ」
 ジョルジョが髪を短くして欲しいと言ったとき、ジュリオは理由を尋ねなかった。真夜中、月の照る中庭に椅子を持ち出して、ジュリオはジョルジョの髪を短く刈ってくれた。軽くウェーヴして耳を覆い肩にも届きかけていたジョルジョのくすんだ金の髪は、月の雫を照り返しながら地面に落ちていった。
 ジュリオはもう何も聞かなかった。ただ、時々手紙をくれないか、と言った。ジョルジョはそうする、とだけ答えた。ジョルジョーネの天使はジュリオに預けた。
 その雨の日、ジョルジョは遠い港町の人足寄席場に行き、遠洋に出る漁船に乗り込んだ。これまで鍛えていた身体は決してみすぼらしいはずもなかったのに、屈強な船乗りたちに囲まれると貧弱で惨めだった。神の使いとしての美しい身体を他人に示すためには役には立ったとしても、一人で現実の荒波を越えていくためには何の助けにもならなかったのだ。だが潮と太陽の熱に焼かれ、嵐を乗り越え、海の上の仕事を一人前にこなせるようになると、始めは甘っちょろい小僧とさげすんでいた船乗りたちも、ジョルジョを一人前に扱ってくれるようになり、喧嘩、酒、賭け事の真剣勝負の相手になってくれた。
 時折、海には雨が降った。真夜中、星の下で、あるいは月だけの明りに浮かび上がる海面に落ちる雨は、静かに海に溶け入った。ジョルジョは一人甲板に立ち、月の明りを映した小さな雫が海に音もなく消えゆく様子を見つめながら、人間の運命とはこういうものだと、こういうものであるべきなのだと思った。ヴォルテラの次代当主という重い名前を捨てた今、ジョルジョもまた誰にも知られず海の上を彷徨う、名もないひとりの員数に過ぎなかった。果てなく孤独で、救われることもなかったが、一人静かに海に浮かび、いつかは泡として消え行く運命にあることを、是として受け取るべきなのだと考えていた。
 むしろ、名前を失うことは今、ジョルジョにとって心地よいことだった。
 船にはジョルジョとあまり年の変わらないアラブ人のアリという若者が乗っていて、事ある毎に喧嘩しているうちに一緒に悪さをするようにもなった。カソリックの教えと共にありながらも、ジョルジョはアラブの国々に親近感があった。チェザーレはカソリックの総本山に属しながら、ユダヤやイスラムの本山とは深い繋がりを持っていた。その理由まではジョルジョはまだ教えられなかったが、アラブ圏にはチェザーレの親しい友人が多くいて、ジョルジョは幼い頃から彼らを訪ねる旅に同行させられていたからだった。
 港ごとに船乗りたちは女を買いに出た。アリは誘われて出かけて行ったが、ジョルジョは一度も女を買いに行くことはなかった。
 港に船が着くと、ジョルジョは出航までの数日あるいは一週間を、その土地を歩き回ることに費やし、本で見た景色を確かめ、美術館や博物館があると一日そこに入り浸り、特に遺跡のある町に行くと、夜も古代からの息吹を残す場所で眠るようになった。遺跡の中で、ジョルジョは時には何千年という時間を遡り、古代の石工が築いた礎、今では欠片となった器や杯と語り、その場所で命を終えた幾万、幾十万もの魂を想った。
「あり得ねぇよ。お前は修行僧か。女を知らねぇんじゃないだろうな」
 アリには何度も馬鹿にされたが、女を抱くよりも、遺跡で夜を過ごすことのほうに興奮した。そのうちに港から遥かに離れた場所へも出かけたくなり、船の出航に間に合わないことに気が付くと、やっと慣れ始めた漁船を降り、次の船を紹介してもらいながら、旅を続けた。
 ある時、アルゼンチンの港でもう何隻目かになる次の船を待っていると、アリがそこに立っていて、言い訳がましく呟いた。
「どうもお前がいないと調子が狂うんだよな」
 南米大陸でインカ、マヤ、アステカを始めとするインディオの遺跡を案内してくれたのはアリだった。アリは奇妙な知識を随分持っていて、世界中の埋もれたお宝のことを異常なほどよく知っていた。アリの父親はトレジャーハンターで、アリは子どもの頃からその父親に連れられてあちこち出掛けていたからだった。
 南米の夜はジョルジョを苦しめた。いつものように遺跡に潜り込んで夜を過ごしていたジョルジョは、己のうちにある血と闘い続けなければならなかったのだ。それはまだ十歳にもならないうちにチェザーレに与えられた、スペイン人の宣教師が書いた、南米での白人によるインディオの虐殺の報告書を読んで以来、ジョルジョの身体の芯に燻っていた原罪のようなものだった。
『白人の遺伝子には支配したい、という塩基配列が組み込まれている。アメリカ大陸やアフリカ、アジアで白人がしてきたことを思い出しなさい。今もやはり、中東で同じ事が起こっている。相手が有色人種だと、それが遺伝的に劣っている別の生き物のように感じてしまうのだ。だから首に縄をかけて奴隷にし、逆らえば紙くずのように殺してきた。アフリカから黒人を連れて行く時も、あり得ない環境の船に押し込め、そのうちの何パーセントかが生き残ればいいと考えた。もしも相手に人格を認めれば、そんなことはできない。よく覚えておきなさい、有色人種には白人に対する降り積もった憎しみがある。お前がそれをどう自分のうちで処理をするか、それはおまえ自身が決めなさい』
 この土地に恨まれている、とジョルジョは思った。あるいはアリも、アラブの血の中にジョルジョとは相容れないものを抱いているのかもしれない。いや、人種の問題ではないのだろう。あのフィレンツェのイコン画家もまた、彼を誘惑し地獄へ誘おうとしたジョルジョを憎み、咽喉を締める機会を地獄から窺っているに違いない。
 そうだ、俺はあの画家を地獄の扉の前に連れて行き、扉を開けてやり、背中を押してしまったのだ。
 そしてあの男は、今地獄の底から立ち現れ、ジョルジョの足を摑み、果ての無い闇の中へ引きずり込もうとしている。
 メキシコの村で高熱を出したジョルジョを救ってくれたのは、インディオのシャーマンだった。シャーマンは古の憎しみなど今は何の関係もないというように、白人であるジョルジョの手を握り、薬草と祈りによってジョルジョを癒そうとしてくれた。
 ジョルジョはいつまでも下がらない熱に、自分は遠からず死んでしまうのかもしれないと思った。何故この苦しみの傍らにチェザーレが居てくれないのかと思い、ただチェザーレの手を求めて涙を流した。そして、生まれた国や愛しい家族からも引き離され、暗い船底に押し込められて見知らぬ国へ連れて行かれる途上、足元のない海の上で腐るように命を落とし、海へ投げ捨てられたであろう幾万もの命を思った。
 死において、名前を記されることも呼ばれることもなく、ただの員数であるということは、どれほどの絶望であったろうか。
 それをインディオたちに、あるいはアフリカの黒人たちに強いた白人の罪とはいかなるものであったのか。あるいはジョルジョの誕生の頃に終わったあの戦争の中で、大量の虐殺が行われ、あるいは捕虜となり、記録に残される時にはただ数となり、個人の名前を呼ばれることもなく死んでいった人々がいることを思った。そのことを考えた時、海に落ちる雨を見ながら、名前のないことを心地よいとまで思った自分が許せないような気持ちになった。人種の問題ではなく、人はみないつでも罪人になれる。無名となることは存在の否定だと、そのことを誰も他人に科してはいけないのだと、熱病に蝕まれながら、ジョルジョはからからになった咽喉の奥で、声にならない声を上げ続けていた。
 ジョルジョは苦しみのわけを消化できないまま、インディオの村を離れ、アリに負われるようにして、熱のこもる身体でニューヨークに辿り着いた。
 まだ熱が下がりきらないジョルジョに、アリはあてがあるのかと尋ねた。ジョルジョは大丈夫だと答え、心配するアリに摩天楼の一角に大きなオフィスを構える実業家のところまで送ってもらった。それはあの、幼いとも言える少年の日、東洋の芸術を目の前に広げてくれた、そして初めて性的な欲望を満たしあったレオという名前の収集家だった。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(3) 

 多分、その男は、名前を失った自分を分からないだろうとジョルジョは思っていた。だが、ぼろぼろの格好でやってきたジョルジョに、咎める秘書を押しのけるようにして近付き、頬を両の手で包むようにしてじっと目を見つめ、レオはジョルジョを思い切り抱き締めた。
「本当に君か、見違えたよ」
 レオは多分もう五十に手が届くという歳のはずだったが、あまり変わっていないように見えた。もともと背が高く、黒髪が艶やかで、精悍な顔つきの男だったが、今でも身体に張りがあり、黒髪には白いものが混じっていたが、以前のままの精悍な顔は若々しさを保っていた。気が良さそうな、それでいて、仕事から得たものであろう自信が漲っている顔だった。
 ニューヨークの街を見下ろすレオの部屋に連れて行かれ、ガラス張りの浴室で月の光を浴びながら、ジョルジョはゆっくりと大きなバスタブに身体を伸ばし、不思議な違和感を覚えながら目を閉じた。
 広々とした部屋、金に糸目もつけずに手に入れたお気に入りの絵画、そんなものがこの空間にあることに違和感を覚えることのない調度、宇宙さえ自分のものだと主張しているような高みに住み、地面を歩く人々を別の種類の生き物のように感じる。こんな生活を、何も疑うことなく、ジョルジョ自身も営んでいた。だがこの一年近く、アフリカや太平洋、南米、北極圏を旅する間に、ジョルジョ自身はそういった世界から遠くに離れてしまったのだろうか、あるいはどれほど流離っても結局は帰る世界はあの場所しかないのか、レオの献身とも言える暖かさに触れながら、ジョルジョはまだ熱病に魘されたままで目を閉じた。
「他人と一緒に住むことを考えていなかったんだ」
 レオはベッドがひとつしかないことについて言い訳をしたが、ジョルジョはレオと同じベッドに眠ることに全く抵抗はなかった。それどころか、無一文で何も持たない自分にはそういう選択肢しかないのだろうと思っていた。だが、レオは自分はソドミアンではないし、その必要はないのだと言った。
「君が僕を頼ってくれた、それがただ嬉しいんだよ」
 レオとはベッドの中で色々な話をした。レオはコンピューターの基礎を作っている大企業の社長で、たまに仕事の話もしたが、話の中心はやはりレオの収集している東洋の絵画についてだった。
「日本に行ったことがあるの?」
「あぁ、何度もね。そうだ、ジョルジョ、今度長い休みが取れたら、君を連れて行ってやろう。君はきっとあの国を気に入るよ」
 それから二人はあの修復師、エウジェニオの思い出を語り合った。レオは何か言いたそうにしながら、結局黙った。ジョルジョが気にすると、レオは顔を上げて決心したように言った。
「ジョルジョ、私と一緒にこの街で暮らさないか。私には妻も子供もいないし、いずれはこの会社を君に譲ってもいい」
 ジョルジョは何を言われているのかさっぱりわからないまま、考えておくよ、と言った。
 レオの帰りが遅い日、ジョルジョは一人ガラス張りの部屋から地上の星々を見下ろし、一年足らずの海の上の生活、中東や北欧、アフリカや南米を巡った船の旅を思い、魂の在り処を求めた。その何処にも居場所を見出せないままで、ジョルジョはまだ答えを受け取っていないのだと思った。
 ニューヨークの摩天楼、降り注ぐ星の光よりも遥かに数が多いとも思われる地上の星々、その高みから見下ろす世界。ガラス張りの窓から外を見つめていると、そのガラスの向こうにあのイコン画家が立っていた。
 ガラスの向こうの暗闇から、画家の空洞のような目がジョルジョを見つめている。地獄の悪魔に食い千切られたのか、その節くれ立った指には肉の一片もなく、骨ばかりになりながら、ジョルジョのほうへ手を差し伸べる。お前はこの地獄へ共に落ちなければならないと言われているような気がした。地獄の苦しみから救ってくれたはずの、同じ名を持った教皇も修復師も、もうジョルジョの傍にはいない。
 元気のなくなったジョルジョを心配したのか、レオは様々なところへジョルジョを連れ廻してくれるようになった。オフ・ブロードウェーの女優はアンジェリーナという名前のレオの二回りも年下の従妹で、生命力に輝いた女性だった。
「レオはつまりインポなのよ。あなたはゲイってわけじゃないんでしょ」
 あまりにもあっけらかんと扱われる性は、ジョルジョを幾らか戸惑わせながらも、別の世界があることを教えてくれた。アンジェリーナとのセックスは単純に楽しかった。彼女と寝ながら、ジョルジョは日本の春画の開け広げな逞しい性の表現を思い出していた。いつかはブロードウェーに上り詰めるのが彼女の夢だった。そしてジョルジョはこの女性がきっとそうなるだろうと思っていた。アンジェリーナとセックスをしながら、ジョルジョは少しずつ、快楽を追い求める性の営みが、人間として正しい行為のひとつなのだと思えるようになった。
 レオがコンサートやオペラに連れて行ってくれると、ジョルジョは婦人たちの熱い視線を自然に受け入れるようになった。彼女たちは駆け引きを楽しむことを教えてくれ、ジョルジョは女性との会話や視線のやり取り、疑似恋愛のルールを身につけていった。その先には明らかにベッドの上での睦みごとがあったが、ジョルジョは特別な事情がない限り、彼女たちの誘いを断らなかった。セックスが神への背徳ではないということを確かめる作業のような気がしていた。
 だが、戻ってくると、レオのベッドの上でジョルジョはよく魘された。苦痛に塗れた快楽に弄られて身体の芯が疼き、真夜中に目を開けると、あのイコン画家が身体に乗ってジョルジョの肌を愛撫していた。ジョルジョの性器は勃ち上がり、先から背徳の雫を零し、張り詰めた肌には鳥肌が立ち、女性との幸福なセックスでは味わえない禁断の悦びに身体の芯が震えた。ジョルジョは冷や汗をかきながら、恐ろしい快楽をやり過ごさなければならなかった。
「ジョルジョ」
 レオは忙しいときには仕事場のソファで眠っていることがよくあったが、時々寝室にやってきては、ジョルジョを悪夢から救ってくれた。ジョルジョは目を閉じてレオの手を感じながら、それでも自分はこの手がチェザーレの手だったら、と思っていることに気が付いて、不意に身体を震わせた。
 今もまだ、ジョルジョは、ヴォルテラの名前がなくても生きていける確かな力を持った一人の正しい人間となり、その上でチェザーレと向かい合いたいと願っていた。
 そしてその日、待ち合わせた女性とホテルで抱き合った後、少し涼みたいからとタクシーを断り、真夜中のニューヨークの街を歩いていたとき、ある浮浪者の視線をまともに感じて振り返り、ジョルジョは震えた。
 そこに立っていたのは、確かにあのイコン画家だった。
 黒い影は狭い路地の間でふわりと浮き上がっていた。影は動かなかったはずなのに、ジョルジョを手招きしているように見えた。ジョルジョは足が全く動かないことに気が付いた。影は悪魔の弟子を従えていた。路地に引きずり込まれ、白いシャツをたくし上げられ、スラックスの上から性器を弄られたとき、ジョルジョは無様なほど必死に暴れて、這うようにその場から逃げ出した。
 その場所が、ゲイの溜まり場であることを知ったのはずっと後のことだったが、ジョルジョはレオの部屋に逃げ帰り、風呂場に行って身体を狂ったように擦って洗い、たまたま戻ってきたレオに何事かと聞かれても答えられなかった。
 全て罰だということがわかっていた。ジョルジョは素っ裸のままレオのところに行き、レオをベッドに誘い、跪いてレオの性器を口に銜えた。始めこそ辞めなさいと言っていたレオが、性器を硬くして息を荒げ、震える手でジョルジョの頭を押さえてその咽喉の奥に精液を送り込んだとき、ジョルジョは躊躇いもなくそれを飲み、唾液と精液で濡れたままの唇でレオの性器を舐め続けた。そしてもっと早くにこうするべきだったのだと思った。
 だが、レオは崩れるように床に座り、ジョルジョを抱き締めた。
「そんなことをしないでくれ、ジョルジョ。そんなことをしなくても、私は君に全て捧げるつもりなんだ」
「僕はもうヴォルテラの名前も何もかも全て捨ててきた。何も持たない。こんなことくらいでは、あなたが僕を助けてくれたお返しにもならない」
「君にヴォルテラの名前がなくても構わない。いや、そうじゃない。私は君に謝らなければならない。チェザーレ・ヴォルテラに言われて、ずっと君を探していたんだ。君がローマを出奔した後、チェザーレが狂ったように君を探していたのを、君は知らないだろう。あの屈することのない王のような男が、まさに恥も外聞もないほどに苦しんでいるのを見て、誰だって彼のために何かがしたいと思った。君が僕のところに来たことも、チェザーレはみんな知っている。アリと君が出会ったのが唯一の偶然だ。アリは君が最初の船を降りた後で、君がジョルジョ・ヴォルテラであることを知って、君を探し続けていたんだ。アリは君を騙したんじゃない。あいつもしょっちゅう親父に逆らって家出ばかりしているから、君に同情もしたんだろう。アリの親父とチェザーレは盟友だ。南米で熱を出した君を、アリが僕のところまで送ってきたのも偶然じゃない。許してくれ」
 ああ、そうなのか、とジョルジョは納得した。不思議と、怒りも絶望も感じなかった。それどころか、チェザーレがずっと自分を見守っていてくれたことを知って、喜びと安堵すら感じる自分が情けなかった。
 それから数日、ジョルジョはレオの収集した絵画や版画に埋もれて時を過ごした。レオは少し離れたところからジョルジョを見守ってくれていたようだが、ある日、付き合わないか、と言って真夜中のニューヨークの町にジョルジョを連れ出した。飲みにでも行くのかと思っていると、着いた先は美の殿堂、メトロポリタン美術館だった。ジョルジョが何事かとレオを見ると、レオはまるで何か決心をした後であるかのような強い意思を持った顔でジョルジョを見つめ、優しく微笑み、それから警備員に親しげに話しかけた。
 夜中の美術館はまるきり別世界だった。闇の中で蠕く絵画の中の人物、静物でさえ、命の微かな迸りをジョルジョに投げ掛けた。彫刻はもうそこに立っていることさえ苦痛であるかのように静かに鼓動し、ヴィーナスは髪を洗い、天使は美術館の高い天井の宇宙に舞い上がった。
 ジョルジョはそこに確かに神を見た。修復師のエウジェニオが語っていた『神』が確かにそこにいた。神は静かに銀色の雫を天から零していた。ジョルジョは目を閉じ、この世界にこれらの数多の芸術品が遺されていることに、心から感謝し、悦びに震えた。幾百年も前の芸術家たちが遺した作品には、彼らの手にその瞬間に宿った神の足跡が確かに標されていた。ジョルジョは歯が噛み合わなくなっていることに気が付いて、思わず自分の腕を抱き締めていた。
 レオは夜通し仕事をしている友人を呼び出し、ジョルジョを紹介した。
 その日からジョルジョはメトロポリタンに通い詰めた。数週間が経った頃、メトロポリタンの修復責任者がレオのオフィスに駆け込んできた。
「レオ、あの子は何なんだ」
 興奮のままに叫んでから、責任者はレオの傍にいるジョルジョに驚いた顔をしたが、直ぐに気を取り直したようだった。
「何って、エウジェニオ・ブランコを知ってるだろう」
「伝説の修復師だ」
「そのエウジェニオの最初で最後の弟子、唯一の弟子だよ。エウジェニオは息子だと言った。神の手を持っていた男が認めた、自分以上になる手だと」
「いや、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、メットで雇わせてくれ」
 ジョルジョはしばらくレオの顔を見つめていたが、結局、返事は保留した。
「即答するべき申し出じゃないかな」
 レオは決心したような強く優しい声で諭すように言ったが、ジョルジョは首を横に振った。
「知ってるかもしれないけど、叔父は僕が修復師になりたいと言った時、初めて無茶苦茶に怒ったんだ。レオがそれを僕に薦めたんだと知れたら、レオはきっと殺されちゃうよ」
「それでもいいさ、ジョルジョ。でも、多分それは君の誤解だよ。チェザーレは、君が修復師になることに怒ったわけじゃない。君がヴォルテラを継がないと言ったことに怒ったんだと聞いている」
「同じことだよ」
 レオはジョルジョをソファに座らせて、自分も座った。
「ジョルジョ、もう一人のエウジェニオの話をしないといけないようだね。チェザーレは前教皇が亡くなる前、言われたそうだよ。ジョルジョを少し自由にさせてやらないか、と。教皇はね、エウジェニオという名前の一人の人間として、君の幸福を願う一人の人間として、チェザーレに話をしてくれたんだと思うよ。このままではあの子の心にある空洞は埋められない、修復師になることでそれが癒されるなら、それもあの子と神の対話のひとつなのだろう、と。君と離れて辛いのはむしろチェザーレの方だと、教皇はよく知っていたんだよ。教皇はチェザーレを慰めて、こうも言ったそうだ。ジョルジョが仕える教皇は私より三代先の北の異国の教皇だ、と」
 ジョルジョはその予言に、身体の芯が震えるような気がした。
「そんな予言はさすがに信じられないけどね、でもジョルジョ、二人のエウジェニオがどれほど君を愛したか、そしてチェザーレがどれほど君を愛しているのか、それだけは確かだと思うんだよ」
 それから一年ばかり、ジョルジョは返事を保留したままメトロポリタンに通い詰めた。アリだけでなく、トレジャーハンターという種類のとてつもなく怪しい職業の男たちとも知り合いになり、しばしば『お宝探し』に同行するようになった。メトロポリタンとは雇用契約書を交わさなかったので、給料はなけなしのバイト料だけだった。修復責任者は申し訳ないから契約させてくれと何度も言ったが、ジョルジョはむしろ縛られることを恐れた。ジョルジョは相変わらずほとんど無一文に近かったが、不自由のない暮らしはレオのお蔭で保たれていた。
 心の片隅に、ずっと密かな音楽を奏でている東洋の神が描いた世界は、何故か大事に仕舞われたまま、ジョルジョはその場所だけを避けていたのかもしれない。誰もいなくなった真夜中のメトロポリタンで、ジョルジョは何時間も日本の画家たちが描いたものと向かい合っていた。この絵画の中にある不思議な質感、それは密やかに天から落ちる湿度、肌に纏わりつくような空気、ジョルジョがこれまでに見た世界にはない、何か別の神の恩寵のようだった。
 ジョルジョはその思いをジュリオ・カヴァリエーリに何度か手紙で書いた。ジュリオはいつも優しい手紙をくれた。
『君がそこを避けるのは何故だろう。そこに君が本当に求めるものがあるということを、君は本能的に察しているからかもしれないね。それなら、君は是非ともそこに行くべきだ。いずれ必然に引かれて君はその場所に辿り着くのだろうけれど。もしも日本に行くことがあれば、僕の姉を訪ねてくれないか。姉は東京の大学で脳神経科学の勉強をしているはずだが、家を飛び出してしまったので、今は連絡がなく、心配しているんだ』
 何かがあって決心したわけではない。ただ静かに降り積もっていた想いが、もうこれ以上は受け止められなくなっただけかもしれない。
 十八の誕生日に、ジョルジョは、有名ホテルのフロアを貸し切ってパーティをしてくれるというレオの申し出を断った。アンジェリーナに怒られるよ、と言って不思議そうにするレオに、ジョルジョは二人だけで過ごしたいのだと言った。
 その日、ジョルジョがローマを出奔した日と同じように、静かに雨が降っていた。ジョルジョはゆっくりと風呂に浸かり、浴槽からガラスに降りしきる雨を、雨にけぶる街の明りを見つめていた。レオが、彼自身は着衣のまま、ジョルジョの髪を洗ってくれた。そう言えばローマを出るときは、ジュリオが髪を切ってくれたっけ、とジョルジョは考えていた。身体に染み渡るようなジュリオのバリトンの声を思うと、何故かやはり神は信じるに値するものだと思えてくる。
「誰か、他の人のことを考えているね」
 レオの指が髪の間で地肌に触れていると、自然に興奮してくるような気がした。
「神学校の上級生のことだよ。優しい人だった。ローマを出るとき、髪を切ってもらった」
「好きだったのか」
「どうして? 彼は神に仕える人だよ。僕がキスをねだったら応えてくれたけど、それは神の仕事としてだ」
 レオは答えなかった。髪を洗い終わると、シャンパンを飲もうか、と言って浴室から出て行った。
 ジョルジョは浴槽から出て、ガラスの前に素っ裸のまま立ち、やはりここは決して自分の居場所ではないと思った。ガラスの向こうに映るジョルジョ自身の立ち姿は街の天空に浮かび、その顔はあのイコン画家の顔のままだった。背徳の悲しみで、画家の顔には雨が涙のように降りしきっていた。
 レオはバスタオルを持ってきて、ジョルジョの身体を抱き締めるようにして拭いてくれた。その手を止めて、ジョルジョは振り返り、摩天楼の街を見下ろす場所でレオの唇を求めた。ジョルジョはまだ着衣のままだったレオを浴槽に引きずり込み、それから漸く服を脱がせて、レオの身体を隅々まで洗い、素っ裸のまま一緒にシャンパンを飲んだ。そして、自然にベッドに行き、自然に求め合った。アンジェリーナがレオは不能だと言っていたのは、あながち嘘でもなかったのだろうが、その日レオは自然に興奮して、ジョルジョの身体を慈しんでくれた。
「君の身体からは不思議な匂いがするね」レオは軽く喘ぎながらジョルジョの耳元に囁いた。「君が興奮している時なんだろうか。そうなら嬉しいけどね。何というのか、とてもオリエンタルな香りだ。白檀かな」
「レオ」
 ジョルジョは身体が興奮するに任せて、その名前を敬意と愛情と感謝を籠めて呼んだ。そして、その名を呼ぶ自分の感情にはやはり欠けているところがあるのだと、大切な、まだ呼んでいない名前があるのだと思った。
 そうなのだ。人には名前がなくてはならない。こうやって心を籠めてその名を呼び、呼ばれ、そうして死のときには誰かが悲しみと愛情を籠めてその名前を呼ばなくてはならない。ただ員数としてしか数えられなかった、墓碑銘に名前もなく数のうちに押し込められた過去の戦争や病気や虜囚の犠牲者たちが受けた苦しみや悲しみを、人は決してもう誰に対しても与えてはいけないのだ。
 レオを受け入れながら、ジョルジョは、本当に愛する人と肌を合わせるということはどういうことなのかと考えていた。レオを尊敬し、ある意味では愛していると思ったが、それが心の空洞から突き上げるように求めるものとは思えなかった。
「生涯」レオはジョルジョの身体の内に彼自身を埋めて、ジョルジョの耳元で囁いた。「君に仕えるよ。私の生涯は君のためにある。君がエウジェニオに連れられてローマの私の家に来たときから、私はずっと君の僕だった」
 レオの心はありがたかった。だが、やはりそれはジョルジョの空洞を埋めるものにはならなかった。
「レオ」何だ、とレオは優しくキスをくれる。「お金を貸してくれないか」
「私のものは全て君のものだ。貸すなんて言うんじゃないよ。何か特別な事業でも始める気になったのかい」
「貸して欲しいんだ。日本までの片道の飛行機代だけでいい。ちゃんと返すよ」
「冗談だろう。私が連れて行くよ」
「一人で行きたいんだ。お願いだから」
 レオが持たせてくれようとした大金のほとんどをジョルジョは残し、本当に飛行機代だけを手に、マルコ・ポーロが黄金の国と言った東洋の果ての国に辿り着いたのは、やはり雨の日だった。


 ローマを離れても、ニューヨークを離れても、あのイコン画家の魂が追いかけてきているような気がしていた。悪夢を振り切るように着の身着のままで旅を続け、神社や寺に泊まり、頼み込むようにして仏具や寺宝を修復し、辛うじて糊口を凌いでいるうちに、静かに彼の存在は知れるようになっていた。その彼には名前がなかった。
 元華族の大和高顕に拾われたのは、ある寺からの紹介で大和家のコレクションを整理しに行った時だった。大和高顕は狡猾な男だったが、人間を見る目だけはあったのかもしれない。その男と決別するまでの約一年の間は、ジョルジョにとって地獄のような時間と果てなく昂ぶる心を慰め天にも昇るような時間を与えてくれた。ジョルジョは『大和竹流』という名前を与えられ、そしてその名前は表に出せない宝を隠し持つ収集家、高貴な血を受け継ぐ名家の間に知れるようになり、高顕に利用されていることを知りながらも、ジョルジョは目の前に現れる、焦がれ続けた神の宿る作品を前に、ただ休むことなく興奮し続けていた。
 激しい熱情を秘めた大和家の娘、青花はまだ十六と聞いていたが、ジョルジョは、絵画や版画、日本が生み出したあらゆる職人の技に触れる時に感じる興奮との区別がつかないまま、その熱情にほだされて、恋に落ちた。少なくとも恋だと思い込んでいた。
 大和高顕と決別した後、ジョルジョは満たされない身体の空洞が、いつも内側から自分を苦しめているのだと改めて思った。ジョルジョは魘される原因を身体の外に放り出すために、身体を提供する相手となっていた宝石商の女主人に金を借りて、フィレンツェからあのイコン画家の残したものを全て買い取り、取り寄せた。特に画家が残した最後の彫刻は、ジョルジョがその画家を殺したという罪を告発するものであり、どうしても隠し通さなければならなかった。そして、それを鬼の棲む島に閉じ込めようと思った。時々、その場所を訪れ、その礼拝堂に閉じ籠るときだけ、ジョルジョはまさしく自分自身である悪魔と対峙し、吐くほどに苦しみ、そしてそこから出れば全てを忘れるようにした。
 ある夜、佐渡から戻るフェリーの甲板から、ジョルジョは、いやその時は既に大和竹流という名前を自らの手で選び取っていたのだが、古い時代の俳人が残した句のままに、天の川が佐渡に横たわる宇宙を見上げ、ふと、ジュリオの手紙を思い出した。そして、まるで救いを求めるように、敬愛する上級生の姉を捜し求めた。
 その女性を訪ねて辿り着いた先は、脳外科医の相川功の家だった。
 ジュリオの姉は自殺していて、身元引受人のいない外国人のまま処理されていたが、その人を丁寧に葬ってくれたという男がいることを知った。相川功という男とジュリオの姉の間に何があったのか、それは恐らく女性のほうの満たされぬ恋情だったのだと思われたが、ジョルジョは相川功自身の口から事実を聞きださねばならないような気がしていた。だが、後から考えてみれば、それはただの糸口だったのだろう。ジュリオが、かねてからずっと日本に行くことを勧めてくれていたのは、神の宣託だったのかもしれない。
 相川功の家を訪ねたとき、その家の扉は、まるでジョルジョを待っていたように開いた。玄関から飛び出してきたものは、まるで獣のように俊敏な動作で脇をすり抜けかけたが、後ろから追いかけてきた声に驚いて、つんのめるようにジョルジョの腕の中に崩れ落ちた。
 冗談ではなく、南米の森の中の光景を思い出した。
 それはまさに、突然に襲い来る野生動物の気配だった。だが、その野生の生き物はむしろジョルジョを恐れ怯むように、彼の腕の中で意識を失った。その一瞬、ジョルジョを見上げた目、その右目は深い森の碧を写し取り、左の目は暗い夜の闇を写し取っていた。髪は黒くも見えたが、光に透けるとほとんど金に近い照り返しで、身体は痩せて儚くも思えたのに、その筋肉や肌の内に生命の迸るような躍動を感じた。
 運命を感じたといえば嘘になる。しかしジョルジョは、その一瞬、明らかに光を見た。暗い聖堂の扉を開けたとき、突然開かれた世界に満ち溢れた、日の光だった。
「まこと」
 追いかけてきた声の主は、ジョルジョの顔を見て足を止めた。その相川功の顔を見、声を聞いた瞬間に、ジョルジョは既にこの男には何の咎もないと気が付いていた。だが何故か、今この手の中に抱いている不思議な、そして不安な生き物を離したくない、もう一度この目と手で確かめたいという思いが、幼い頃からずっと身体の外に追い出すこともできなかった空洞の内側から湧き上がってきた。ジョルジョ・ヴォルテラの心の内に巣くっていた空洞が内側から音をたてたのは、恐らく初めてのことだった。
「行くところがないんです。私を雇っていただけませんか」
 一体、何を相川功は思っただろう。そのときには、相川功もこの異国人があの女性の関係者であることを悟っていたはずだった。功は一度、ジョルジョの腕の中に抱かれたままの子どもを見つめて、それから静かに顔を上げた。
「入りなさい」
 教皇が予言したとおり、必然に導かれてジョルジョ・ヴォルテラはこの場所へやって来た。その時、彼は二十歳で、腕の中に飛び込んできた子どもは十一だった。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(1) 

 遥か地平線まで深い緑がうねる。緑はずっしりと湿度を湛え、その足下に無数の命を孕んでいる。
 広げた羽根は吹き上がる風で膨らみ、身体は重力の支配から解き放たれた。
 宇宙(そら)から銀の雫が降る。金の雫が降る。光の雫はうねる緑の上で雨になる。地平線に連なる天の縁には、柔らかな藍が染み出している。太陽はまだあの地平線の下、地球の裏側なのだ。
 天をまたいで、砂浜の粒のような無数の星が煌めき、薄い絹を投げ上げたように川を描く。緑の畝の隙間を縫って、地にも川が映し取られる。
 銀の雫が降る。宇宙の微かな光は、雨になって地球の川に降りしきる。川はやがて大海に届く。その海にも銀の雫が降りしきる。
 シロカニペ ランラン ピシュカン コンカニペ ランラン ピシュカン
 雨は川に落ち、海に落ち、誰にも気が付かれることなく地球の一滴になる。大海原に呑み込まれながら、確かな生命の一滴となる。
 雨の気配に目を覚ました。


          * * *

 遥か遠い空に大鷲のカムイがゆったりと舞っている。真は珍しく高く澄み渡る東京の空を、寝転がったまま見つめていた。暫くの間意識を失っていたのかもしれず、今でもぼんやりと定まらない自分自身は、半分はあの高みに持ち去られたままになっていた。頭の上の方で背の高い草が、川を渡ってくる風にかき回されて、ざわめいている。背中に接した地面はじっとりと水を含んでいた。
 詰襟の制服のボタンは幾つか引きちぎられ、シャツは泥にまみれて胸の辺りまでたくし上げられている。ベルトは両手首に巻きつけられて、自由を奪っていた。ズボンと下着は膝辺りまで下げられ、むき出しになった下半身から徐々に身体の熱が奪われていく。真はもう何時間こうしていたのだろうと思い、身体の熱を取り返すように身震いし、それからようやく身体を起こした。手首のベルトは、何度か手を捻ると簡単に外れた。下着とズボンを腰に引き上げ、シャツを戻そうとして、シャツのボタンも幾つか飛んでいることに気が付いた。見回して鞄を見つけると、泥を掃い、歩こうとすると身体のあちこちが痛んだ。鞄の中の教科書は無茶苦茶に引っ掻き回されていて、財布は案の定見当たらなかった。大した額が入っていたわけではなかったが、バスにも乗れないなと思い、結局また座り込んだ。妹の葉子が最近マスコット作りに嵌っていて、仕上げてくれたばかりのフェルト製のサラブレッドは、引きちぎられて泥の中に落ちていた。拾い上げる力もなく、真はまた身震いした。
 辺りが暗くなってから漸く泥だらけの重い身体を立たせて、サラブレッドを拾い上げ、ズボンのポケットに仕舞うと、歩けば小一時間はかかる道を歩き始めた。家に帰っても、脳外科医の父はまだ帰っていないだろうし、妹の葉子はピアノのレッスンに行っている時間だった。真とて、今日は灯妙寺に剣道の稽古に行く予定だったのだ。無断で休んだことを和尚は怒るだろうかと考えたが、どうでもいいような気持ちだった。
 案の定、家は真っ暗で、真は門を開けて中に入り、玄関に上がる前に泥だらけの全ての服を脱いでから、鞄の奥から鍵を探し出して玄関の扉を開けた。
 始めのうちは惨めだと思っていたことも、ここまで慢性的になるとどうでもいいような気がしてきて、真はいつものように風呂場で制服の泥を落とすと洗濯機を回して、それから葉子の作ったサラブレッドと一緒にシャワーを被った。浴室の鏡で顔を確認して、一見ではそれほどひどい怪我をしていないことだけを確認した。茶色い髪は暗めの浴室の照明の下でも明るく、左右の色が違う目の色も隠し遂せるものでもなく、真は自分の顔から目を逸らした。ふと身体に目を向けると、蹴られたのか殴られたのか、腹のあたりに幾つも痣ができていた。痛いのかどうかさえもよくわからなくなっている。
 中学生になり、弄ぶように真を苛める上級生たちの体力は格段に上がっていて、まだ成長期を十分に迎えていない真とは、身体の大きさそのものからして差が開くばかりだった。同級生たちと比べても真は決して大柄なほうではなく、少しばかり日本人離れした目の色と髪の色、それに顔つきもどこか普通と違って見えるらしく、その上、北海道弁を隠すためにあまり口を開かないことも手伝って、全く打ち解けない性格のいけ好かない奴だと思われているらしかった。
 北海道弁といっても、札幌のような内陸部とは違って、真が育った浦河の沿岸部では男たちは皆、独特の北の国の言葉を話した。どれほど注意していても、話せばイントネーションも語尾も、時には単語でさえ、全く東京の言葉と違っている。小学生の終わりに東京に出てきてから、真は言葉が自分と周囲の人間の間の大きな障害になることを嫌と言うほどに思い知らされ、結局口を開かないことで自分を防御するしかなくなった。もともと人とコミュニケーションを取ることは苦手だった。苦手どころか、全くうまくいかなかった。それを敢えて頑張って乗り越えるほどには、真は強い性質を持っていなかったし、笑いで誤魔化すような明るい性格でもなかった。
 中学生になって少しずつ背は伸び始めたが、まだ大人の身体にはなりきっていなかった。今日は殴られながら、下半身を剥かれ、やっぱりまだ生えてないな、と言われて弄ばれた。勃たせたことあるか、と擦られたとき、狂ったように暴れたために、更に殴られたような気がする。上級生たちは、顔を殴らない、ということでは狡猾な面を見せていて、身体の見えないところばかりを狙って殴ってきた。
 真はシャワーを止め、身体を拭いて、まだ長袖を着るには暑い季節だったにも拘らず、長袖のシャツを着て、ジーンズを穿いた。それからフェルトのサラブレッドを絞って、リビングに戻った。低いテーブルにサラブレッドを置くと、急に惨めなように気がしてきたが、先のことや未来のことなど何も考えないようにと思った。
 誰も戻ってこない。今日、あの男は葉子をピアノの先生のところに迎えに行って、その後で灯妙寺に寄って真を拾うはずだったのだ。灯妙寺に真が来ていないことを知ったら、彼は父に電話をするだろうか。もしかして父の仕事が終わっていたら、父を病院に迎えに行くつもりだろうから、きっと電話を掛けるだろう。何て言い訳をしようかと考えて、熱が出たことにしようかと思い、せめて灯妙寺の和尚に電話をしておいたほうがいいのかもしれないと考えた。だが、言い訳するということ自体が面倒だった。
 真は暫くの間、電話の前に突っ立っていたが、本当に熱っぽい気がして身体を震わせ、もう眠ってしまおうと思ったところだった。
 突然鳴り始めた電話に真はびくっと震えた。父か、葉子か、それともあの男か、あるいは灯妙寺の和尚か。真は言い訳の言葉を用意していなかったことを少しだけ後悔しながら、受話器を取り上げた。
 真も、電話の相手も、暫くの間何も言わなかった。ただ、電話線から果てしなく遠い距離を感じた。じーと何かの機械音なのか、あるいは遥か深い海の底のケーブルを渡る時間の歪みなのか、沈黙する時間さえどこかずれているようにさえ思える。
 もしもし、と電話の向こうから声が聞こえる。果てしなく遠いのに、しっかりと胸に響くような重い声だった。
「真か」
 真は上ずった声で、はい、と答えた。少しの間の沈黙が、相手の逡巡なのか、あるいはただ電話線の距離なのか、真には摑みかねた。
「兄貴はまだ戻らないのか」
 病院に電話をしたら、今日は早めに出たと言われたから、と電話の向こうの男は言った。
「戻っていません」
「また、遅めの時間に電話する」
 伝言を聞いたが、電話があったことだけを伝えてくれたらいい、と言われ、あっさりと電話は切れた。そのひどく冷淡で抑揚が全くないような声に、真は受話器を置いた途端、足から力が抜けるような気がして、思わずへたり込んでいた。
 一瞬、息をするのを忘れていたのかもしれない。真は急に身体に溜まった二酸化炭素を吐き出そうと速まった呼吸のコントロールを失い、突然過換気の発作に見舞われた。その結果として今度は身体から失われてしまった二酸化炭素は呼吸を著しく混乱させ、唇が痺れ、目の前はちかちかし始めた。ひどく胸が痛み、筋肉が痙攣する。前兆なく襲い掛かってきたパニックは、突然鳴り出した電話の音でますます勢いを増し、目の前はぐらぐらし始めた。電話は随分と長い時間鳴っていたが、真には身体を動かすことはできなかった。
 一旦途切れた呼び出し音は、一分も経たないうちに再び鳴り始め、真は痺れた手を電話に伸ばし、何とか摑みかけたが、受話器を取り損なってしまった。電話台から滑り落ちぶら下がった受話器から、遠くにもしもし、という声が聞こえている。
 真、いるのか、どうしたんだ。
 父の、正確には伯父の声だった。切羽詰ったような、心配して荒げられた、感情のある声に真は身体から力が抜けてしまい、返事ができずにそのまま意識を失った。


「私が泊まりましょうか」
「うん、いや、とりあえず病院に電話して、問題がなければ当直に任せるよ」
 真は頭の上で交わされている会話を、意識の深い霧の中でぼんやりと聞いていた。眠ったふりをしていたわけではないが、ただ身体が全く動かなかった。痺れはもう消えていたが、頭はまだぼんやりとしている。
 伯父は今日、早めに手術が終わったのだろう、時々そういうことがあって、その時は病院から直接灯妙寺に行って、真と一緒に稽古をする。大概は一緒に灯妙寺で夕食を頂いた後、病院に患者の容態を見に帰る。そういう伯父のいつもの忙しいながらも平穏な行動パターンを、真はいつも壊してしまうのだ。そう考えると、自分が腑甲斐無く情けなく感じてしまう。この家族の中の生活の決まりごとを、真だけが上手く繋いでいくことができない。
 葉子は戻っているのだろうか。今日は彼女が月に一度、『大先生』のところにピアノのレッスンに行く日だった。大先生は都心を少し離れたところに住んでいるので、その送り迎えは、伯父の個人的な『秘書』の仕事だった。
 秘書、というわけではないのかもしれない。週に二、三度、その男は伯父の研究の手伝いをしに大学病院に行っているらしいが、半分は真と葉子の家庭教師のようなものだった。仕事が忙しく、家にいる時間の少ない脳外科医の相川功が、母親のいない家で二人の子どもの面倒をみるのは実質不可能だった。週のうち半分は伯父が雇ったお手伝いのおばさんが子どもたちの食事の面倒をみてくれる。おばさんは朝に一度やって来て洗濯と掃除をし、夕方に買物に行って夕食を用意していってくれるが、週の残り半分はその秘書の男が料理をして、ついでに子どもたちの勉強の面倒をみてくれるようになっていた。恐ろしく仕事の手が早く、物覚えがよく、料理も、申し訳ないが、おばさんが作るものよりずっと美味しかった。葉子はまだ小学五年生だが、その男に料理を教えてもらうのが楽しみで、彼がやってくる日には遊びにも行かずに待っている。外国人とは思えない流暢な日本語を話し、長身で、くすんだ金の髪と青く暗い海の色のような瞳を持ったこの男は、事情は知らないが『大和』という日本の苗字を名乗っていた。伯父の功も、この男の出自をよく知らないらしく、かろうじて出身地がイタリアのローマだということを知っているだけのようだった。あるいは知っていも、真に話すようなことでもなかったのかもしれない。
「扁桃腺をよく腫らすんだ。北海道にいた頃も、しょっちゅう高熱を出していたらしい。切ったほうがいいのかもしれないな」
 伯父の声が心配そうに優しく聞こえていた。
「そんなことよりも、この身体の痣のほうが問題なのでは」
 伯父の『秘書』は、あの身体の底から響くような綺麗なハイバリトンの声で伯父に話しかけている。
「こんなことは一度や二度ではないのでしょう。苛めにしても度が過ぎている」
「本人は転んだ、としか言わないからな。苛めているやつらの事は何も言わない」
「この子は性質が弱すぎます。剣道をしている姿を見る限り、決して弱いわけでもないのに、自分の身体に加えられる理不尽に対してあまりにも無抵抗すぎる。ろくに口もきかないし、このままだと社会でちゃんと生きていけませんよ。両親に捨てられた甥が可哀相なのは分からないでもありませんが、いつまでもあなたや、あるいは北海道の親戚が、守ってくれるわけではないでしょう」
 真は息を潜めたまま、その会話を聞いていた。この男は本当に辛辣だと思っていた。
「苛めの事だけじゃない。未だに時々わけの分からない言葉を呟いたり、学校でもパニックになってしばしば気を失ったり、吐いたりしている。一年のうちまともに学校に行った日が何日あるんです? 他人に打ち解けることを全くしない、理解も求めない、放っておいたらずっと一人でいて、自分の世界に閉じ籠りすぎる、それにいつまでも幻の友人と離れようとしない。北海道に帰れば、馬の神様や、梟や大鷲の神様がいて、いるはずもない背の低い民話の生き物がいて、自分を守ってくれると思っている。それをいつまでも過保護に優しくしてやっても、いずれ困るのはこの子自身ですよ」
「だが、君が勉強を教えてくれるのは、楽しいと思っているようだ」
「だからこそです。この子はそれほど馬鹿じゃない。むしろある分野に関してはとび抜けた才能を持っている。だけど、この子自身がちゃんと前を向いて生きていこうとしない限り、どうすることもできないでしょう」
 そんなに簡単じゃない、と真は思った。自分は少しおかしいのだ。
 小さい頃、どうして髪の色も目の色も他の子どもたちと違うのか、全く理解できなかった。祖父母はその点では徹底的に孫を守る姿勢を貫いたし、親戚たちも真を大事にしてくれていた。真が苛められると、祖父は相手の子どもの家に何度も怒鳴り込みに行った。そのことがかえって子どもを孤立させるとは考えていなかったようだった。真は自分の力で闘って勝ち取ることを覚える、という人生の手続きを、幼小時に学ぶことができなかったのかもしれない。
 長い間、真には友達がおらず、馬と犬と、近くの森の奥に一人で住んでいたアイヌ人の老人、そして幻の友人たちだけが友達だった。真は全く他の世界を知らずに、浦河の牧場で、高い空と果てなく広がる牧草地の風に守られて育ってきた。
 一度だけ、叔父の弘志に連れられて札幌に行ったことがある。小学校二年生の時だったと記憶している。
 弘志は真にとって、アイヌ人の老人を除けば、唯一の人間の友人であり兄のようなものだった。まさに田舎の悪ガキで、無免許の車でかろうじて都会といえる町に悪い友達と出掛けては補導されて戻ってくるような叔父だったが、真には優しかった。特別に遊んでもらった記憶があったわけでもないし、弘志自身、自分の周囲のことで忙しく、真に構ってくれる時間はなかったのだろうが、いつも少し離れたところで真を見守ってくれていたような気がする。その弘志が北海道大学に入り、札幌で一人暮らしを始めたとき、真は北海道弁とはいえ日本語で会話する相手を失ったようなものだった。
 無口で頑固な祖父は、真を可愛がってくれたが、言葉で真とコミュニケーションを取るようなタイプではなった。孫との会話は、剣道であり、太棹三味線であり、馬たちの世話だった。真は就学してほとんどすぐに、小学校で教えられる多くのことについていけなくなっていた。そもそもが、ほんの一ヶ月だけ行った幼稚園で、桃太郎の話を聞かされて以来、国語が理解できない。何故、桃太郎が鬼退治に行ったのかが理解できなかったために、ついでに言うと、その物語自体が福沢諭吉の言うとおり理不尽であると嫌っていた祖父が幼稚園に怒鳴り込みに行ったために、世間一般の常識という範疇から零れてしまった。真は桃太郎が鬼ガ島に鬼を退治しに行った理由が全くわからないまま、そしてそれを「説明不要な前提」として納得することができなかったために、学校教育というものを受け入れる素地が失われてしまったのかもしれない。唯一、算数と理科だけは、説明不要な前提がなかったために、自然に身体に入ってきた。
 それでも全く物語を受け付けなかったわけではなかった。クリスチャンであった相川の曽祖父は、屋根裏に異国で書かれた物語の翻訳本を多く遺していた。真は時々そこに忍び込み、幻の友人たちと一緒に本の世界に入り込んだ。もっとも字をちゃんと読めていたはずもないので、多くの挿絵が理解を、あるいは誤解だったのかもしれないが、助けてくれたのかもしれない。
 だが、アンデルセンの『人魚姫』の物語は真を怖がらせた。真実の愛と信じたもののために穏やかな海の底での暮らしを捨てて人間の世界に飛び込み、痛む足に耐え、愛の成就を望みながら叶えられず、やがては海の泡となって消えてしまう人魚姫の運命に、自分の運命を重ねてしまったのかもしれない。その残酷な結末を、なす術もなく見守る海の世界の住人たちの挿絵に怯えて、真はその日から何日も吐き続け、夜も眠れずに震えていた。何を察したのか、祖父がアイヌ人の老人を呼んでくれ、真はその友人の言葉にようやく慰められて目を閉じた。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真はどうしようもない時には、いつもその呪文のような言葉を呟き、眠るようになった。
 そのアイヌの老人が亡くなってから、真はほとんど喋らない子どもになった。弘志がいなくなってからは、一人で本を読み、一人で遊んだ。馬と犬たちはいつでも真の友人だったが、彼らとのコミュニケーションに会話は不要だった。
 札幌に出て行って初めの夏は牧場に戻ってこなかった弘志が、二年目の夏に浦河に帰ってきたとき、真は弘志に近付くことができずに、遠くからその姿を見ているばかりだった。一年見ない間に、弘志は随分と垢抜けして、格好良く逞しい男になっていた。弘志は久しぶりの帰郷で友人たちと遊び歩くのに忙しく、それでも父親の長一郎から、真がずっとお前を待っていた、と聞かされては急に真がかわいそうに思ったようだった。一緒に札幌に行こうか、と言われて、真はただ弘志と一緒にいられることだけを喜んで、初めての大都会に足を踏み入れた。
 そこは全く想像を絶する世界だった。何より、人の数、そして車、バイク、立ち並ぶ家やビル、全てが完全に真の想像の蚊帳の外にあったものが動いていて、目の前に洪水のように押し寄せたのだ。
 そこには真を守ってくれていた馬たちも犬たちも、そしてカムイたちもいなかった。人々は言葉を話し、それによって社会を営んでいた。社会は大きな歯車を回していて、それを回すために人々は働き、語り合い、忙しく動き回っていた。
 初めて札幌で過ごした夜、真はかろうじて胃に納めてあった夕食を吐き出してしまい、不安がる真を抱いて眠ってくれた弘志の布団でおねしょをしてしまった。弘志は怒ることはなかったが、真は叔父が呆れているのだろうと思い、弘志の顔をまともに見られなくなっていた。連れて行ってもらった大学でも、ラグビー部の花形選手になっていた弘志が仲間たちと逞しく走り廻り、真が見た事も無い天女のような女性に騒がれている姿を見て、自分の居場所が見つからなくなった。そのときの良い思い出といえば、真が馬のにおいに誘われて迷い込んだ厩舎で、後に弘志の妻になった女性と会ったことくらいだ。
 浦河に帰ってから、真は夜な夜なおねしょをするようになり、布団に潜って震えるようになった。祖父は弘志を責めたが、真は弘志に申し訳ないやら、説明できない自分が情けないやらでどうすることもできないまま、森の中に逃げ込んでは、高い草の中に埋もれて泣いていた。そこに行けば、幻の小さな友人たちがこっそり現れて、真に、人間には通れないはずの道を開けてくれた。
 子どもの頃、身体はどちらかといえば小さかったし、やせっぽっちで、他人と闘う力などなかった真のあまりの情けなさを辛うじて救ってくれたのは、無口な祖父が授けてくれた剣道と太棹三味線、他人が見れば驚くらしい、裸馬にも乗れる乗馬の才能だった。それらと対峙している時だけは、真は情けない子どもではなかったし、むしろ自分もいっぱしの男のような気持ちになれた。特に剣道は、面をつけることで真の大きな欠点を覆い隠してくれた。それは髪の色と目の色だったし、面をつけるということが全くの別人に変われるような気分にさせてくれたからかもしれない。
 東京に来てから、それらの武器が役に立ったことはない。馬はもちろんいなかったし、太棹三味線を叩く子どもが才能を発揮する機会など盆踊りでもない限りあり得なかったし、剣道については別の意味で武器にはできなかった。これを使えば真は苛める上級生たちに簡単に勝てるはずだった。だが、もしこれを喧嘩に使えば、祖父がどれほど怒るかということは簡単に想像ができた。祖父を失望させることは、真には考えられないことだった。それに大体、苛めの現場に都合よく竹刀かその類のものが落ちているわけではなかった。
 全ての武器を使えない環境の中で、真は何も闘うすべがなく戦場に放り込まれたようなものだった。実際に必要な武器は、逆境であろうとも闘い生き抜こうとする強い精神力だけだったに違いないが、それが真には全く備わっていなかった。少なくとも、真はそう思い込んでいた。祖父以外の親戚たちは、真が小学生の高学年になって背が伸び、半分ドイツ人である母親の血のために外見の整った子どもに育つにつれて、他人の誰にも打ち解けず、馬や犬たちとしかまともに会話もしない、未だに人間でないものが見えるようなことを言っているままではいけないと思ったのだろう。
 まず、父親と母親がいないことが悪いのだろうと誰もが考えた。母親を作り出すのは難しかったが、父親なら東京にいる伯父にあたる功のところにやるのがいいだろうと、特に強く心配した弘志が功に掛け合った。功は功で、自分が脳外科医として忙しく、一人娘に寂しい思いをさせていることについて不憫に思っているところだった。何より、弟、武史が見捨てていき、一度は自分が育てようと考えたこともある子どもを、弟への複雑な感情を飲み込んで引き取ることについて、功なりに義務を感じたようだった。
 真は、功に連れられた従妹の葉子が浦河に初めてやって来たとき、祖父に隠れてこっそり読んでいた曽祖父の蔵書にある外国の童話に出てくるお姫様が、天から降ってきたのだと思った。姫君を守る使命が自分に与えられたと思い、子どもなりに、このままではいけない、男としては強い人間にならなければならないという、生物的な雄の本能を刺激もされて、先を考えずに東京にやって来てしまった。
 東京は、真にとってまさに地獄だった。アスファルトの地面は靴がなければ歩くこともできず、真は人にも車にも、あらゆる動いているものに過剰に反応し、少し高いビルが並ぶ街を歩くと、大概家に帰って吐き戻していた。こんなものが地面の上に建っているということに、それは地球の地面に、カムイたちの土地に深い傷を負わせているように感じて、真は震えて眠れない夜を幾つも数えた。勉強など手に付くはずもなかった。早口でまくし立てられる東京の言葉は全く理解できなかった。
 多分、少し落ち着いてみれば、何とかなることばかりだったのだろう。だが、嵌まり込んだ蟻地獄はどんどん深くなり、そこから抜け出せない自分に真は失望し、諦め、心配した功が精神科医に相談するにあたって、自分はおかしいと思い始めていた。
「浦河に帰したほうがいいのだろうか」
「あり得ませんよ。そんなことをしたら、こいつは一生逃げ続けるだけです。世の中が辛いんだったら辛いなりに、睨み付けてでも生きて行けるように鍛えなおしてやったほうがいい」
「君は強いな。国を出てきて、一人で生きて行こうとしている。この子にはそういうことを教えてくれる大人が必要なんだろう」
「あなただって、浦河から出てきて一人で生きてきたんじゃありませんか。何だってそんなに臆病になるんです。あなたたちはこの子が傷つくことを恐れて、過保護にしすぎて、余計にこの世の中に居場所を見つけられないようにしてしまっている」
「怖いんだよ」
 功が搾り出すように言った言葉が、真を震えさせた。
「怖い?」
「弟が姿を消したときの事を思い出す。この子の父親だ。強くて逞しく、自分で道を切り開くというなら、あいつのような人間を言うのだろう。弟は親父によく似ていた。親父もクリスチャンだった祖父に馴染めず、家を出て、アイヌやマタギと暮らしたり、一人で三味線片手に旅に出て、随分破天荒な生き方をしてきた。祖父が死んで、浦河に戻って俺のお袋と結婚したが、お袋が亡くなって直ぐに、恋仲だったのに諦めていた金沢の芸妓の家に女を掻っ攫いに行った。弟二人の母親だ。あの人たちの強い血を引いているのに、真はどうしてこんなに脆いのか、もしかしてこの子は、始めからこの世に生まれ出るはずではなかった、別の世界の住人なんじゃないかと思ってしまう時がある」
「冗談でしょう」
 溜め息をつくようにして、伯父の秘書である大和竹流が吐き出すように呟いた。真は、そうなのだ、だから俺はおかしいのかもしれない、と思った。
「弟は、下宿屋の娘と恋仲になっていたのに、異国から来た女性に一目惚れしてしまった。大学では、弟は本当に優秀な研究者になるだろうと言われていたんだよ。私が捨ててしまった宇宙ロケットを作るという夢を、まさに現実のものにすると思っていた。それなのに、大学も恋人も捨てて、異国の女性と駆け落ちした。その女性と生きていくためにがむしゃらに働いているらしいと風の便りには聞いたきりで、いつでも私の後ろばかり追いかけていたのに、あの時、あいつは一度も私を頼ってこなかった。私は今でも忘れられないんだ。その女性が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、私を頼ってきたときの事を。雪の降る年末だった。この子を預かって欲しい、と言われた。武史はどうしたんだ、と聞いたが、その女性は首を横に振るばかりだった。それから長い間、弟からは何の音沙汰もなかった」
 伯父の優しい手が真の布団を掛けなおしてくれる。真は、ようやく自分が寝かされているのが客間になっている座敷だと認識できた。小さな濡れ縁に密やかに雨が落ちる気配が、床を伝って真の身体に響いている。
 都会に降る雨は寂しいと思った。浦河なら、天から落ちた雨は緑の木々を潤し、大地に沁み入り、深い土の中で次の春のための命を育む金や銀の雫になった。東京に降る雨は一体どこに行くのだろう。
「赤ん坊を育てることなど、考えられなかった。直ぐに祖父に預けようと思ったが、この子を見ていると、何だか私が守らなければならないように気がして、一度は真剣に育てることを考えたよ。当時付き合っていた女性に、赤ん坊の母親になってくれないか、って言ったんだけどね、返事をもらう前にのっぴきならないことになって、結局、弟が捨てた下宿屋の娘と結婚した。もともと彼女に恋をしていた私が、血迷ってしまったのかもしれない。妻は一生懸命赤ん坊を育てようとしてくれたよ。だが、この子は両親に捨てられたことが分かっていたのかもしれないな。やたらとかんの強い子どもで、本当によく泣いた。赤ん坊の髪の色など大して問題にはならなかっただろうが、目の色は明らかに左右が違っていて、半分は異国の色に染められていた。その目で不安そうに私と妻を見た。妻は、自分を捨てた男の子どもであることを知っていたんだろう、徐々におかしくなって、オシメを換えることもミルクを与えることもできなくなって、ついには赤ん坊の首を絞めた。あの日、もしも私が予定通り当直をしていたら、もうこの子はこの世にいない。妻を責めることはできない。元はといえば、弟が彼女を捨てた。そして私が、身勝手な仏心で、精神が不安定になっていた彼女を救うつもりで結婚した。いや、私はやはりどこかで彼女を諦めていなかったんだ。私や弟と永遠に関わりのないところで生きていけば、彼女の傷もやがて癒えたのかもしれないのに、彼女は、弟と弟を奪った女の面影を宿した子どもを育てる破目になって、さらに病んでいった。結局、赤ん坊は浦河に預けるしか、私にはどうしようもなかった」
 真は半分朦朧とした意識の中で、蘇ってくる悪夢のわけを理解した。
 小さい頃から、幾度となく恐ろしい夢を見た。いつも決まって西日の射し込む古いアパートの部屋で、美しい女性が赤ん坊を抱いてあやしていた。女性は赤ん坊を抱き締めて慈しんでいるが、突然赤ん坊が泣き始める。女性の顔が一瞬にして変わり、それは仮面を付け替えた能の鬼のようで、西日に赤く血のように染められた顔を歪めて、か細い赤ん坊の首を絞め始めるのだ。
 あまりの恐ろしさに何度も夜中に目を覚まし、真は眠れない夜を幾つも過ごしてきた。今、その理由を知って、それが現実だったのだと知っても、逆に今さらこれ以上恐ろしいと思う理由にはならなかった。
「過去のことはともかく、今は先のことを考えるべきです。たとえ死に掛かった事があるのだとしても、この子は今、現実にちゃんと生きていて、これからだって生きていかなくてはならない。それなら生きる術を教えてやるのがあなたの仕事でしょう。それに、もしもその時この子が運命によって生き延びたのだとしたら、それは悲運どころか幸運と言うべきです」
 真は電話を思い出していた。今日、意識をなくす前、父親と会話をした。その冷たく乾いた声を思い出した。本当なら、伯父ではなくあの父親が真を育ててくれるべきではなかったか。なぜ捨てられたのか、真には全く分からなかった。
「この子が可愛いと思うのに、時々混乱する。弟を愛しいと思っていたのに、やはり許せないと思っているからかもしれない。妻は、ずっと弟を愛していた。多分、今もだ」
 真は思わずびくりと身体を震わせた。それに気が付いたのか、会話が途切れる。どちらかが促したのか、暫くすると真が眠っているのを確かめるように髪を撫でて、伯父と大和竹流は出て行った。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(2) 

 それから、少しの間は眠ったのかもしれない。真は遠くに電話の音を聞いたような気がして、ふと身体を起こした。誰の気配もなく、もう雨の気配も止んでいる。そっと襖を少しだけ開けると、薄暗い居間で伯父が受話器を取り上げていた。
「武史か」
 声は、しっかりと真の耳に届いていた。
「いや、まだ決まってはいないんだ。行くとしたらカリフォルニアだな」
 真は息を潜めて、襖の陰にそっと座り込んだ。細い微かな光が座敷を裂くように、真の視界の真ん中に伸びて、向かいの障子から天井へかすんでいっている。
「どうして会えない? 俺は、少しの間でもお前が真と暮らしてくれたら、と思ってるよ。何を言ってるんだ。俺の留学はお前とは関係がないだろう。来るなってのはどういうことだ。馬鹿を言うな、行くとしたら子どもたちを置いていくつもりはないよ。特に真は」伯父は少し間を置いて続けた。「このまま東京の学校でやって行けるとは思えないんだ。精神科医か心理の専門家の助けが必要な状態だよ。浦河? あそこにいたら、あの子はずっと自分に閉じ籠るばかりだ。武史、お前に親父を批判する権利はないよ。親父は一生懸命にあの子を育てたさ。あの子は、親父に褒められたくて仕方がないし、だから辛うじてここでも頑張ってるよ。だが、このままだと破綻するのは目に見えている。あの子に必要なのは父親だよ。本当の意味での父親だ。お前にも親の責任ってものがあるだろう」
 真は膝をたてたまま、頭を抱え込んだ。果てしなく遠い時と距離のこちら側で伯父が黙っている空白の時間、電話線の向こうで、あの父親の感情を伴わない冷めた声が何かを話しているのだ。真について、真にとっては何か重大なことを。そしてあの父親にとっては、どうでもいい我が子のことを。
「なぁ、武史、お前、なんか危ない仕事をしてるんじゃないだろうな。お前が下宿を出た後で一緒に住んでたアメリカ人、軍人だったよな。それも随分大層な身分の男だったと聞いている。真の母親だって、あの時、大学でも噂になっていた。東ドイツの政府高官の孫娘らしいってな。平たく言えばスパイだ。俺は脅してるんじゃないよ。ただ、真を心配している。どんな事情があるにしても、お前が真を見捨てていいという理由にはならない。親父とも和解する気もないのか」
 また少しの間、伯父は相手の言うことを聞いているようだった。真は頭を何度か膝に打ち付けた。
「真? 電話に出たのか? いや、俺が帰ってきたら倒れてたんだ。扁桃腺炎で三十九度五分もあったし。今も寝てるよ。なぁ、武史、あの子は必要以上に過敏な子だ。誰かが傍にいて守ってやらなければ、現実にこの世界で生きていけるような子じゃない。お前が父親としてしなければならないことは沢山あると思うんだ。俺では、どうしたってあの子の強い父親にはなれない。可哀相で仕方がないばかりだ。親父だってそうだ。弘志が、真を養子にしたいって言い出したんだ。結婚するんだよ、アイヌ人の娘だ。子どもができたら辛い思いをするのはその子だと言われて、弘志のやつ、それなら真を子どもにするって言うんだよ。あぁ、弘志は確かにいい親父になるだろうさ。馬鹿言うんじゃない、おまえ、これ以上弘志に何を押し付ける気だ。あいつは真が生まれたとき、まだ中学生だったんだぞ。武史、頼む、もう一度、真に会ってやってくれ」
 真は震えた。
 その時、襖が急に開いて、そっと閉じられた。入ってきた男は、真を促して立ち上がらせ、布団に戻らせた。真は男が示すままに布団に潜り、額にあてられた大きな手に思わず目を閉じた。男は何も言わなかった。真は息を潜め、唇を噛み締めて涙を流した。
 不意に、暖かい唇が目尻に触れて、真は思わず息を吐き出した。
「熱のせいで夢を見てるんだ。お休み。大丈夫、ここにいるから」
 静かな、暖かいハイバリトンの声は、その言葉を発した唇の形がわかるほどに近くにあって、ただ優しく真の額に触れ、軽く唇にも触れて、大きな確かな手は真の髪を撫でた。


 事件は冬の訪れと共に起こった。
 真はその日、柔道部の部室に連れ込まれ、何人もの上級生に押さえつけられて、いきなり真っ裸にされた。日本人じゃないようだからよく調べてやらないとな、と言われ、口の中に布切れを押し込まれた。思春期の真っ只中にいる彼らが思いついた新しい苛めは、性的な興味を満たすことに繋がったようだった。真は腹ばいにさせられて、いきなり尻を突き出すような格好を強いられ、マジックで身体に落書きをされた。女のものと一緒だ、と言う声が耳に突き刺さった。ゴムとゼリー、つけたほうがいいよな、という上ずった声が彼らの興奮を伝えている。何が起こっているのか全くわからないまま、いきなり肛門に硬いものを突っ込まれた。突然のことで反応もできず、ただ痛みが身体の中心を突きあがり、あまりの圧迫感に腹が苦しくなって、呻いた。
 髪をつかまれて顔を上げさせられると、目の前に卑猥な写真が突き出される。
「これ、ホモのセックスの写真なんだよ。お前、絶対にこういうの似合うよ。ほら、男と男ってどうやってやるのか知ってるか。ケツの穴だよ。使ってるうちに直ぐ慣れるんだってよ。しかも女のあそこより締まりがいいし、やられる方もやる方も辞められなくなるんだってさ。突っ込まれてるとこ、写真撮ってやるからな。ばら撒いてやるよ」
 後ろに突っ込まれたものが何であるのか、そのときの真には分からなかったが、やがてそれは低い音をたてて振動し始めた。真は腹が抉られたように歪むのを感じて、暴れようとしたが、全く動くこともできなかった。
 彼らが真を弄んでいる間に、性的な興味を更に膨れ上がらせたことは間違いがなかった。
「あぁ、俺、たまんなくなってきた」
 低い声が興奮した響きを伴い、誰かの突っ込んでやれよという言葉と共に、真の頭は床に押し付けられて、両手と両足は更に強く拘束された。後ろに突っ込まれていた大人の玩具が抜き取られたとき、その異様な感触に真は頭が真っ白になった。ゴム、つけろよ、という声、そして間もなく、何かの先端が真の肛門を突き、侵入しようとした。
 その時、手を押さえていた誰かが、興味のあまり後ろを覗き込み、多少手の力を緩めたようだった。
 その瞬間、真は狂ったように暴れた。一体、何を摑んだのかは覚えていない。長さのあるパイプのようなものだった。真はただ己の身を守るために、手当たりしだいに上級生たちを打ちのめした。始めこそ暴れる獲物と闘おうとしていた上級生たちも、真が一人の肩を思い切り打ち、反動で後ろの一人を突き倒したとき、怯えたような表情を浮かべた。
 真は摑んでいる棒を振るった。重く空気を叩く音に、誰かが悲鳴を上げた。
 その悲鳴を聞いた時、真はこいつらを殺してやろうと思った。このままではいつか殺される。殴られたり蹴られたりし続けた腹の奥が痛み、突っ込まれた玩具の感触がまだ足の間で唸っているような気がした。
 多分、真は恐ろしい顔をしていたのだろう。慌てた上級生たちの顔が可笑しくて、真は残忍な血に目覚めたような気がした。彼らは自分たちが真を脅すために掛けた鍵のために直ぐに逃げ出すことができず、真が狂ったように暴れて、いや、正確には真の頭の中は随分と冷静だったのだが、握りしめた棒で彼らの身体を血に染める間、逃げ惑って大声で喚き散らしていた。
 ようやく開いた扉から誰かが駆け出し、表に停まる給食の車が見えたとき、真は突然我に返った。
 それから何がどうなったのか、全く覚えていない。いつものように気を失ったのかもしれないし、ただ起こったことを思い出したくなくて記憶から消してしまったのかもしれない。我に返ったのは、怒りに震える功の声のためだった。
「冗談じゃない、俺の息子が加害者だと言うのか。この子はいつも身体に痣をつけて帰ってきた。明らかにこの子が被害者だ。息子には自分の身を守る権利がある、これは正当防衛だ」
 複数の声が畳み掛けている。功は、いつもの彼にはあり得ないような大きな声で怒鳴った。
「黙れ! これでようやく息子を苛めていた奴の正体が分かった。言っとくが俺は容赦する気はない。徹底的に加害者であるてめぇらの息子どもと、学校の責任を追求する。俺には優秀な弁護士の友人もいる、覚悟しろよ」
 功の声とは思えなかった。考えてみれば、伯父は一見物静かだが、灯妙寺の和尚や祖父が、本気の功には簡単には勝てないと言うほどに剣道も強かった。
 病院から家に帰り、玄関を入ると、功が、震えて呆然と涙を流している真を抱き締め、一緒になって泣き、何度も真に謝った。真は功が何故自分に謝るのだろうと思っていた。帰ってきた妹の葉子が驚いて、何があったのかも聞かず、ただ機転を利かせて秘書の男を呼び、抱き合って泣き続けている二人を見守っていた。
 功は闘うつもりだったようだが、功が名前を挙げた弁護士の権威は相当なものだったからか、急に学校が手のひらを返したように謝罪し、事件を隠そうとし始めた。真を苛めていた連中の親も同様だった。功は、念のためにこれまでの様々の出来事を綿密に文書にしてその弁護士に預け、それから留学の話を、ものすごい勢いで進めた。これ以上真を日本に居させることはできないと思ったようだった。
 そのために真は中学一年生の一月に、功と葉子と一緒にカリフォルニアに渡り、ようやく学校に通うことができるようになった。英語のほうが、東京の言葉よりもずっと理解しやすく、問題のある子どもを学ばせるシステムの出来上がっているアメリカの学校教育が、真の助けになった。何もかもがうまくいったというわけではない。真は誰かと打ち解けることはできなかったし、必要最低限のことしか話さなかったが、その国では必要最低限の言葉が、日本で暮らしていたときよりも遥かに多かった。真についてくれた教師は、登校拒否児の教育に長けた年かさの女性で、真を追い込むこともなく、言葉を丁寧に扱った。
「コウ、あなたの息子は素晴らしいわ。特に科学と数学は、トップレベルの研究者にだってなれると思うわ。言葉は、つまり文学的な意味でだけど、いささか理解に苦しんでいるけど、発音も綺麗だし、文字を覚えるのは少し苦手みたいだけど、形態認識能力は低くないし、多少混乱しやすいけど記憶力がいいから、必ず克服するわよ。誰かが英語を教えたの? 発音がブリティッシュだけどね。どうかしら、科学は大学の授業を受けさせてみたら? かなり高い素地があるみたいだし」
 たまに、功の秘書をしていた大和竹流がカリフォルニアの家にも訪ねてきた。功が興奮したように、君のお蔭だ、教師が真を褒めていた、こんなことは日本にいたら考えられないことだったよ、と竹流に感謝の言葉を伝えていた。
 真は、確かに自分が大和竹流のよい生徒であったろうと思った。竹流はいつも、どう考えても小学生や中学生に教えるレベルではなさそうなことを教えてくれたが、そこにはちゃんと理屈があり、因果関係があり、決して理解不可能な前提を押し付けてこなかった。竹流が口癖のように言っていることがある。
 アイヌには文字がないんだな、ケルトと同じだ、と竹流は呟き、文字を覚えることに幾らか困難があった真の前に、すらすらと見たこともない国の文字を幾つも、古代の文字も含めて、魔法の呪文のように書き並べて言った。
「文字だと思うと苦しければ、模様か記号だと思えばいい。お前はものを覚えるときに写真を撮るように景色を頭に入れるという才能がある。だから文字を景色にしていまえばいい。意味など後から湧き出してくる。そう、全ての文字、全ての言葉に意味があるんだ。書き言葉と話し言葉の違いはあるが、お前が幼い頃聞いていたアイヌの言葉と同じだよ。言葉を学ぶことは思考を学ぶことだ。そして思考を学ぶことで人は形が作られていく。良い言葉を学ぶことは、いつかきっとお前を助けてくれる」
 言われたその時には意味が分からなくても、あとで必ずそれは真に良い形で跳ね返ってきた。真が学校で倒れたり、逃げ出してさぼっていると、しばしば怒鳴りつけるような男だったが、勉強を教えるときは実に辛抱強く、真が理解する時間と考える時間を十分に与えてくれた。勉強が面白いと思わせてくれたのは、まさにこの家庭教師だった。
 カリフォルニアに住んで三ヶ月が過ぎると、功の研究生活も軌道に乗り始め、実際に日本にいるときよりも遥かに子どもたちと過ごしてくれる時間が多く取れるようになっていた。ある時、功が数日どこかへ出かけると言うので、竹流を呼び寄せ、子どもたちのことを頼んでいった。
 竹流は功のいない間に、グランドキャニオンに連れて行ってくれて、はしゃぐ葉子にせがまれて、自分でセスナを操縦して、空からのグランドキャニオンの雄大な景色を見せてくれた。その時、プライベートエアポートの支配人がまるで傅くような態度で竹流を迎えたことに真は緊張し、初めてこの男は何者だろうと思ったが、追求する気持ちになったわけではなかった。
 それよりも葉子が楽しそうなのが嬉しかった。葉子は、真が東京にいる間に少しずつ参ってしまっていた姿を見て、多分、随分と心配していたのだろう。よく笑っていた姫君は、少しずつ不安そうな顔になっていたが、この国に来て、やっとほっとしたように見えた。その葉子を見つめている真の頭を、竹流が撫でて、お姫様のご機嫌も直ったようだしお前もちょっとは笑うってことを覚えたほうがいいぞ、と言った。お姫様のナイトはもっと微笑ましい顔をしているものだ、と言い、葉子に笑いかけ、葉子も竹流に楽しそうに話しかけている。振り返って真に手を振った葉子は、耳元に竹流が何かを囁いた後で、弾けるような笑顔になった。
 三日後の夜遅くに戻ってきた功は、一人ではなかった。
 アパートにその男が入ってきたとき、葉子は真の後ろに隠れるようにし、真は思わず竹流の後ろに半身を隠した。目を合わせることはできなかった。背は功よりも低いが、がっしりとした身体つきは、一見で普通の職業ではないことが窺えるものだった。身体に染み付いた煙草の臭いと何かすえたにおいが混じりあい、所々に銀の入った黒い髪と輪郭のはっきりした意志の強そうな、屈強な兵士を思わせる顔の造りは、真に似ているようには見えなかった。
 その男、つまり真の実の父親である相川武史に初めて会ったのは、真が東京に来て間もなくのことだった。あの時、武史は真を見て、功に何のつもりだと低い声で聞いた。親父のところから引き取ったんだ、と功は答え、この子はここにいるから、せめて一年に一度くらいは会いに帰ってきてやってくれ、と言った。武史は何の感情も感じ取ることのできない冷めた表情で真を見ていた。
 あれから、武史が東京の相川家を訪ねて来たことは一度もなかった。
 武史は竹流の顔を見て、それから確かめるように竹流の左の薬指の指輪を見、一瞬不可解な顔をした。功はその武史の表情に気が付いたのかどうか、自然な態度で竹流を紹介した。
「日本で俺の研究を手伝ってくれてたんだ。実際は子どもたちの家庭教師のほうが大事な仕事だったんだけどな」
 功が借りていたアパートには、リビングダイニングと三つのベッドルームがあって、普段は功と真、葉子が別々に使っていたが、竹流が泊まりに来ると、真と葉子は同じ部屋で眠った。多少幼い感情を持ったままの兄妹はまだ男女を意識する年齢でもなかったし、何より葉子は真と話しながら眠ることを好んでいた。
 だが、その日、兄妹と竹流は同じ部屋に閉じこもって、暫くの間無言で過ごしていたが、葉子が眠ってしまうと、竹流は真を促して普段真が使っているもうひとつの部屋に移った。ベッドに真を座らせると、竹流はいきなり真を引き寄せた。真は突然のことに驚いて竹流を見上げた。
「お前の親父か」
 真は暫く、竹流を見つめていたが、返事をせずに俯いた。
「どういう事情でこっちに住んでるんだ」
「知らない。会うのも二度目だし」
 真は緊張した。武史が普通ではない仕事をしているのではないかということは、功の電話で何となく感じてはいた。だが、真には想像すらできないことだった。
 結局竹流はそれ以上は何も聞かなかった。
 真はその日、初めてこの男の傍らで眠った。いや、実際には眠れたわけではない。遅くまで、リビングからは功と武史の途切れ途切れの話し声が聞こえてきていた。声は荒げられることもなく、淡々と続いているような気がした。
 朝方だったのか、まだ辺りは完全に真っ暗だったが、一度だけ誰かが部屋に入ってきた。
 その気配は明らかに殺気だった。真はぞくりと身体が凍りついたような気がして、目を醒ましたが、動くことはできなかった。
 その時、傍らに横になっていた竹流が身体を起こした。
「チェザーレ・ヴォルテラの息子だな」武史の自然な調子の英語が、低く重く響く。「こんなところで何をしている」
「息子じゃない、甥だ。初対面のはずのあんたが俺をその名前で知っているなんてのは、あんたもまともな人間じゃないってことだな」
 竹流は一瞬、はっとしたように言葉を止め、何かを躊躇ったような気配を示したが、すぐに真の頭を撫でて、眠ってろと言った。武史がこの部屋を出るように促したが、竹流は意地の悪そうな声で答える。
「息子に聞かれたくない話でもあるのか」
 武史は日本語で答えた。
「そうではない。お前のほうこそ、困るんじゃないのか」
「俺は別に困ることなんかない。何故ここにいるのかという質問への答えは簡単だ。あんたの兄貴に頼まれて、この子どもたちの家庭教師をしている」
「では、何故兄貴に近付いた」
「他意はない。もっとも、誤解はしていたが、今はただあんたの兄貴を頼り、敬愛している。ぼろぼろだった俺を救ってくれた。どちらにしてもヴォルテラの家に関係のあることではない。何より、俺はあの家を出てきた」
「指輪をしたままだな。ローマ教皇から授けられるというヴォルテラの紋章だ」
「捨てたのは家だ。血縁を切ったつもりはない。あんたと同じで、義理とはいえ、特に兄貴とはな」
 竹流は少しの間、躊躇っていたような気配を示したが、結局その先をあえてはっきりとした言葉で続けた。
「硝煙の臭いは、煙草の臭いごときでは消せないな。それも半端じゃない。あんた、一体」
「その子に手出しをするな」
「手出し? どういう意味だ」
「それ以上近付くな、と言っている」
「悪いが、俺の勝手だ。あんたが何者か興味はないが、あんたに命令される筋合いはない」
 武史は暫く何も言わずにそこに立っていたようだが、そのまま部屋を出て行った。真はドアの閉まる気配に身体を震わせた。竹流が真の頭を撫で、それから耳元に口づけるようにして言った。
「お前の親父は間違いなく功さんだよ。それだけは俺が断言してやる」
 何も知る必要はない、という意味だと思った。あるいは知ってはならない、という意味かもしれなかった。そのとき既に真の頭の中には、いつの間にか、この男の言葉を一切そのまま信じるという回路が出来上がっていたのかもしれない。
 だが、硝煙の臭い、という言葉が何を意味するのか、真にも全く理解できないというわけでもなかった。自分の父親はまともな仕事をしている人間ではない、だからその男は日本に帰ってくることもできず、真を引き取ることもできず、父親であるということさえ、否定するわけではないが認めようともしていない、そのように感じた。
 どういったわけか、その時、真はとてつもなく苦しい夢を見た。夢なのか現実なのかも分からなかった。
 あの日、上級生たちを叩きのめした手の感触がまざまざと思い出され、真は手のひらにひどく汗をかいた。真を蹴ったり殴ったりしていた上級生たちが血に染まっている姿が網膜に蘇り、真は改めて彼らを殺した、と思った。殺したかったのではない、明らかに殺したのだ。何故かそう確信して、震えるのでもなく、ただそれを冷めた頭で受け止めた。
 身体の芯のどこかに、誰かを、許せない誰かをずっと殺したかったという思いが湧き上がってきて、真は冷静に、自分はどこかおかしいのだと思った。それは恐らく赤ん坊の真の首を絞めた女であり、その女を追い込んだ自分の父親であり、その女を狂わせるために父親の前に現れ、赤ん坊を捨てて遠い国に戻ってしまい一度も会いに来ない母親でもあった。その感情は真の身体の奥にずっと燻っていて、あの日あの上級生たちに対してたまたま爆発してしまっただけなのだろう。
 そう、あの男だったのだ。あの男が、真の体の中に残した遺伝子が、内側で既に軋んだ音を立て始めている。それはとんでもない闇だと真は思った。それをこれからずっと押し込めて隠し遂せなくてはならない。隠せなくなったとき、自分は恐ろしい人間になって地獄に堕ち、果てなく続く罰を受けるのだ。
 朝になってリビングに行くと、功がソファに座って、珍しく煙草を吸っていた。武史の姿はなかった。功は疲れたような顔で真を見つめ、それから僅かに微笑んで、真を傍に座らせた。
「武史を許してやってくれ。お前が憎いわけじゃない。何かやむを得ない事情があるんだ。いつか時間が経てば、あいつにも少し余裕ができるんだろう。それまで、私では足りないかもしれないが、お前の父親のつもりでいる」
 功は真の頭を抱き寄せ、それからずっと長い時間黙っていた。真にはそれが功の優しさでもあり、同時に苦悩でもあるように思われた。
 その日、真は明らかに父親に捨てられたと思った。震えながら、捨てられて良かったのだとも思った。

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(3) 

 アメリカ人の教師は真に対して熱心だった。夏にはマサチューセッツの大学のサイエンスプログラムへの出席を薦めてくれたが、真は西海岸を離れることを怖がった。武史が住んでいるワシントンDCに近付くことを本能的に恐れたのかもしれない。その真の気配に尋常ではないものを感じたのか、教師はそれ以上強く言わずに、それなら自分の友人がやっているサンタフェのサマースクールに行ってみないかと話した。
 功と離れて、葉子と二人でアルバカーキの空港に降り立った日、迎えに来てくれたのは、年をとってはいるものの、随分と明るい色のワンピースを着たお婆ちゃん先生で、この女性は兄妹を見るなり、プリンセスとナイトね、と言った。
 この女性は、真を何日かずっと温かい目で見つめてくれていたような気がする。
 武史に会ったあの日から、真は夜はよく眠れず、昼間もたまにふわふわと浮いているような事があった。自分の中の何かが定まらず、時々幻想の中で誰かを叩きのめしているような手の気配が蘇り、じっとりと手掌に汗をかき、息苦しくて目を覚ますと、自分の首を自分で締めていることもあった。勉強している間だけは救われるような気持ちだった。辛いのか苦しいのかもよく分からなくなっていた。
「あなたは私の友だちの助けが必要なようね」
 そう言われて連れて行かれたのは、サンタフェの町で最も年配のヒーラーのところだった。そのヒーラーの女性は魔女のような目でじっと真を見て、私では手に負えないと言い、真を連れて、草木のほとんど見えない荒涼とした土地の真ん中に果てしなく続く道を、案内の男性に運転させた車でほとんど丸一日かけて行き、辿り着いたのがインディアンの居住区だった。
 その長老に会ったとき、真はあの亡くなったアイヌの老人が帰ってきたのだと思った。長老も何かを思ったのか、真に歩み寄り、友人が戻ってきた、と拙い英語で言った。
 それから何日がそこで過ぎたのか、真には全く時間の感覚がなかった。大地に寝転び、果てしなく高い空を見上げ、空を舞う鳥を見た。特別な儀式の場所に行き、草を燻した煙の中で、幾日も夢を見続けた。常に馬たちや犬たち、それに小さな友人たちが真の周りにいて、彼らはずっと真に話しかけていた。内容は全く分からないのに、真は納得し、暖められ、それから美しい馬の姿を見つけた。飛龍、やっぱりお前だ、と真は話しかけた。飛龍は首を震わせて高く鼻を上げ、嘶いた。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真はアイヌの老人の言葉を呟いた。そのアイヌの大切な教えは、今明らかに魂の響きを伴って、真の上に降ってきた。
 ああ、世界はこれほどまでに平和だったのだと真は思った。大地には幾枚もの葉が敷き詰められ、真は自然のうちにある全てのものからエネルギーを得た。自らの体の下から湧き上がってくる命の声があった。ただ気分が良く、穏やかにどこかを彷徨っているような心地だった。
 そしてふと目を開けたとき、真は大宇宙に囲まれていた。星々は何億光年もの音楽を奏で、真の頭上に光を届け、何かの破片が砕けるような澄んだ音が降り注いだ。
 その大きな宇宙のドームの中で、真は孤独だった。たった一人きりでこの世界に投げ出され、今たった一人で大地の上にいた。父も母も不要だった。ここは穏やかで是非もない、と思った。
 身体の芯が密やかに興奮し震えている。まだ夢精をしたことさえなかったが、その時真は初めて自分の身体の中に溜め込まれた宇宙のエネルギーを感じ、そして何十億年もの遺伝子の旅を想った。静かにやってきた波は、その後も長い間引くことがなく、ずっと身体の中心に留まり、真は自分の胸を弄るようにして震えた。真の目は大宇宙の中を彷徨っていた。そして真は明らかにその宇宙と性交をしているのだと感じ、身体のうちを駆け上ってくる興奮に身を任せて唇を僅かに開いて声を漏らし、生まれて初めて射精した。
 それからも長い時間、緩やかな波は真の身体を揺らしていた。身体はぐったりと重くなり、地球の内側に沈みこみ、深いところに暫く留まっていたが、やがてゆっくりと浮上していく時には再び軽くなっていた。浮き上がるような気持ちで身体を起こしたとき、真は目の前に不思議なものを見た。
 その男はそこに立っていた。
 神が何かは知らなかったが、真は神の子だと思った。神の子どもは暗い宇宙の下でも光を纏い、不思議な海の色を湛えた瞳で真を見つめていた。
「出会うべき運命があるわけではない。出会ってしまったがために運命は拓かれたのだ。運命という言葉が間違っているなら、必然と言い換えてもよい。拓かれた必然には、誰も逆らうことはできない」
 長老はそう言って、真と傍らに不可解な顔で立っている男をただ見つめ、もう行きなさい、と告げた。
「どうして」
「知らん。功さんに言われてサンタフェに来たら、いきなり拉致されるみたいにしてここに連れてこられたんだ。お前を迎えに来いって長老が言ってるって。一体、何のおまじないだ?」
 真はさぁ、と答えて、帰りの車の後部座席でずっと大和竹流に靠れ掛かっていた。竹流は何を察したのか真の頭を抱いていて、何も、本当に何も話さなかった。
 だが、その日、運命の歯車は、長老が言うとおりなら必然の歯車なのかもしれないが、回り始めていたのかもしれない。


 カリフォルニアから帰国して僅か半年後に、相川功は失踪し、戻らなかった。
 真の記憶にあるのは、明るい朝の光景だった。功は前の夜、家に帰ってこなかった。脳外科医である功が、急患や重症患者のために帰らないということは珍しいことではなかったが、精神状態の不安定な息子を家に残しているために、戻れない日には息子が心配しないようにと必ず連絡をくれていた。それが、その夜は初めて、連絡がなかった。
 カリフォルニアから戻り、私立の学校に転校してからは、何とか学校を休まずに通うことができていた。これまでの公立校と違って、交換留学生や帰国子女を積極的に受け入れている学校で、髪や目の色程度のことでは苛められる理由にならなかったからだけではなく、院長が功の親友であり、功に『息子をよろしく』と頼まれた律儀な級長はお節介で、気を使ってもらっていることがわかっていたからだった。真は、今度こそ、息子と言ってくれた功の自分に対する失望を払拭し、期待に応えたいと考えていた。
 功の書斎は十二畳ほどの部屋で、扉は観音開きだった。光が高い窓から射し込むと、部屋の隅の机の上にだけ照明が灯されたようになる。部屋の大部分は図書館並みの書棚の列だった。薄暗い書棚と書棚の間は、真の絶好の隠れ場で、功なりに定めた秩序に基づいて並べられた本は、いつも真を慰めて包み込んだ。
 書斎の机の上には、功が前の夜まで読んでいたらしい『宇宙力学論』が広げられていた。高い窓から射し込む陽は部屋に舞う塵を光色に染める。真は広げられた本のページに挟み込まれた栞を黙って見つめていた。カリフォルニアに住んでいる時、アウタースクールの先生が、大切な人に手作りの贈り物をしましょう、と言って鉱石を薄く剥がす方法を教えてくれた。それで栞を作ったのだが、功はこんなものを大事に使ってくれていたのだ。雲母の欠片は窓から落ちる光のために、内側に密やかに隠し持っている色彩を微かに放っている。
 その日、そのまま学校に行った。帰宅すると、書斎の机に『宇宙力学論』も栞もなく、そのまま功も戻らなかった。真は本が置かれていた場所を手で触れた。温度はなく、指先に感触はなかった。そのまま陽は暮れて、書斎の中はゆっくりと光を失っていった。
 そして、真は、二度父親に捨てられ、その後姿を見失ったことになった。
 功の失踪の事情は何も分からなかった。大学病院へは一身上の都合、という退職願が出されていた。子どもたちが成人まで困らない程度の財産は残されていた。
 思い起こせば、妙なことは幾つかあった。ある日、功が真だけに学校を休ませて、秩父へ車を走らせた。着いたのは昔の結核病院を改装したサナトリウムで、そこで初めて真はその女が現実に存在していることを知った。
「私の妻だ」
 功はただそう言った。その女、相川静江は亡くなったのだと聞かされていた。いや、もしかすると、真がそう思い込んでいただけなのかもしれない。葉子がいるのだから、相川功には以前に妻がいたはずで、その人と今一緒に暮らしていない理由は死別だと勝手に考えていただけなのかもしれない。その女が実在して生きているという可能性について、真は一度たりとも考えたことなどなかった。
 功は、その女と自分たち兄弟の間にあったことを真に説明などしなかった。ただ、もしも私が事情があって来ることができないときは、お前がたまにこの人を見舞ってくれないか、と言った。
 女は功が誰なのか、真が誰なのか、ほとんど分かっていないように見えた。あの人は大事な人を待っているんだよ、と別の患者が呟いたのを聞いて、真は震えた。
 これは罰だと真は思った。功が弟の武史を愛し心配する傍らで、複雑な感情を抱いていることは感じ取っていた。武史の息子である真に対しても同じだった。私がお前の父親だと言って慰め励ましてくれたことも、真を苛めていた連中やその親、学校に対して怒りを露わにし、闘おうとしてくれたことも真実だったが、その一方で、真が、功の妻の心の中に今でも棲み付いている武史の息子であり、少し頭がおかしくてまともに学校にも行けない子どもであることを辛いと思っていることも、また真実だっただろう。
 功が夜中に声を潜めるようにして電話で誰かと話していることも多くなっていた。やり取りは英語であることが多く、聞き取りにくかったが、何度か繰り返された『アサクラタケシ』という名前に真は戦慄し、何かとんでもないものを耳にしたような気がしていた。
 功が失踪したという事実について、真はどうにもできなかった。竹流は何かを知っているのか、それともただ功から、暫くは子どもたちを頼むと言われていたのか、まず真に向かって尋ねた。
「お前はどうしたい」
 真は真っ直ぐに竹流の顔を見つめて言った。
「葉子は俺が守るから、おじいちゃんには言わないで欲しい」
 もしも祖父にこのことが知れたら、武史について何かとんでもないことが分かってしまうのではないかということに、真は潜在的な恐怖を感じていた。真が唯一心から穏やかに過ごすことのできる北海道のあの場所に住む人々に、武史が何者であるかが知れたら、真はこの世から居場所を失ってしまうような、そんな気がした。
「本当にそう思っているのか」真が少し躊躇ってから頷くと、竹流は厳しい声で言った。「それなら、お前はもっと、本当の意味で強くならなければならない。生きていくには理不尽なんかいくらでもある。お前には納得できないことでも、お前がその繊細な精神で敏感に汲み取るのは大いに結構だが、いつまでも赤ん坊みたいに震えたり泣いたりしても始まらない。馬や犬や、他人には見えない物の怪の類に甘えるようなことは辞めろ。多少辛い事があっても、気を失ってしまえばいいなどと決して思うな。この街が恐ろしいなら、睨み付けて、取り込んでしまえるほどに強くなれ。言っている事が分かるか」
 真は自分の手を握っている大きな強い力に、改めて頷いた。
 その日から、勉強は一段とスパルタになり、喧嘩を含めたあらゆる格闘技、真が逃げ回っていた苦手な水泳の特訓も始まってしまった。竹流にはどこから湧いて出るのかわからない友人がごまんといて、その誰もが某かの分野ではいっぱしの人間で、真への教育の手伝いを担い始めた。竹流は一切、容赦しなかったが、真も音を上げることはなかった。傍で見ている葉子が何事かと思ったようだが、彼女は彼女で一段と優しくなった王子様に満足していたようで、竹流は葉子にあの絶品の料理の腕前を存分に伝授した。
 もちろん、兄思いで、ある部分では自分の方こそ兄を守っているとさえ思っている姫君は、時々竹流に文句を言っていたようだ。真が週末にはボクシングジムで意識を失うまでのしごきを受けていることについて、ある時ぼろぼろの真を連れ帰った竹流に、摑みかからんばかりの勢いで怒っていた。
「お兄ちゃんは特殊金属でできたロボットじゃないんだからね。死んじゃったらどうするのよ。大体、お兄ちゃんは剣道では凄く強いんだから。なんでそんな野蛮なことしなきゃいけないの」
 竹流は、まだ幼いともいえるこの姫君にも、ちゃんと理屈を通す。葉子を一人前の大人の女のように扱い、頭ごなしに主張を押し付けることは絶対にない。もっとも、葉子は葉子なりに、普通の家庭で育ったお嬢さんにはあり得ないほどの葛藤をどこかに抱えていて、真の想像もできない部分で何かと戦い、乗り越えて成長してきたのだ。娘を道連れに心中を図り精神の病を持つ母親と、ほとんど家にはいない脳外科医の父親、そして精神的に不安定で登校拒否の兄、そういうものと向かい合った中で、葉子が同じ年頃の女の子の感性からは幾分か逸れてしまい、生意気な言葉を覚え、早熟な面を持ったのだとしても致し方ない。
「剣道では駄目なんだ。竹刀を介して相手を殴ったんでは、自分の手に本当の痛みが残らない。己の拳で誰かを殴るということは、自分も苦しくて痛いんだということを覚えなくてはならない。真は君を守りたいんだ。男が女を守るということは、無理をするってことだ。だから痛みを覚えて、耐えて、苦しんで乗り越えていく。君は兄貴がどういう想いかということをちゃんと受け止められる女だ。だから君も、自分にできることで兄貴を守ってやれ。男が本当に苦しい時に最大の味方になってやれるような、そんな女になってくれ」
 葉子の料理に気合が入ってきたのは、そういう竹流の言葉と大いに関係があるのかもしれない。
 時々、大和竹流は真と葉子を彼のマンションに泊めた。豪奢なマンションで、真は一体この男は何をしてこれだけの金を稼いでいるのかと思った。葉子は単純に、竹流さんはお金持ちなの、と聞いた。竹流は例の王子様スマイルを浮かべて、そうだよ、と答えた。
 もっともその態度には不自然さは全くなかった。ロビーにコンシェルジェが常在しているようなマンションで、そのコンシェルジェと語る態度も、明らかに昨日今日の成り上がり者にはない気品があった。竹流は、俺は詐欺師だからなと言ったが、ただの一瞬にも卑屈さを感じないその態度からは、この男の血の色がそこら辺の人間とは違うのだと思わせる何かが湧き上がってくるようだった。
 ついでに言うと、葉子の前では決して見せない顔だったが、真が一人でそのマンションに行くとしばしば女と鉢合わせた。少なくとも彼が真や葉子の家庭教師をして食いつながなければならないような事情はなさそうで、複数の女たちが競うように竹流に貢いでいる気配を、真は自分に向けられる視線のうちにも感じ取った。
「女と寝るのが商売なのか」
 竹流は真の言葉に、面白そうに笑った。
「寝るけど、それで商売をしているつもりはない」
「父さんに近付いたのは、やっぱり復讐のためなのか」
「復讐? それは違うな。誤解をしていたのは認めるけど、ただ事情を知りたかったんだ。俺の大切な友人のお姉さんが自殺した理由を」
「父さんが死なせたと思ったのか?」
 竹流は真の腕を摑んだ。
「真、男と女のことだ、誰かのせいなんて簡単には言えない。どれほど激しい想いでも、恋なんてものは散るためにあるようなものだ。そういう想いの絶頂で死んでしまう人間がいたとして、それはもしかすると幸せなことで、誰かが一方的に悪いなどとは思わない。だが、いつかお前にも分かる時が来るよ。誰かを思って苦しくてたまらないような想いをして、その感情の嵐が去った後で、ふと我に返ったときにも命をかけてもいいと思えるようなら、それはきっととんでもなく幸福なことだろう」
 真はその男の強い手の力を受け止めていた。
「あんたは、そういうことがあったのか」
「いや、残念ながらないな。そういう想いは、一生に一度すれば十分なんだろう」
 この男の言葉にはいつも魂が宿っている。真はそれを十分に感じられるようになったことに、心の深いところで感謝し始めていた。
 功が失踪してから変わったことがもうひとつあった。
 相川武史が残された子どもたちのところへたまに電話をかけてくるようになった。消息を確認し、特に健康については必ず確認し、困っていることはないかと尋ねてきた。相変わらず、その声は遥かな電話線を経由する間に冷たく重くなっているようだったが、どこかにひどく不安な気配を纏うようになった。
 何かあったのだと真は思った。功はもしかしてもうこの世にはいない、そしてそのことを武史は知っている、あるいは武史こそ功をこの世から失わせた原因であるのだと直感した。
 武史は何度か東京にやって来た。学校の校門で真が出てくるのを待ち、真を車に乗せ、どうしているかと聞いた。真は竹流に言われた通り、自分をコントロールする術を身に付けていた。淡々とその男との時間を過ごし、そして別れた。
 もう父親などという人種は、自分には必要がないと思っていた。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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【海に落ちる雨】物語のはじめに←先にお読みください 

相川真を主人公としたシリーズの要になる第2作目。ハードボイルドもしくはハーフボイルド風ミステリーもどき兼大河風壮大なるお伽噺…ただし内容は比較的ハードです。そのため、あちこちに休憩があります。第4節から先には休憩はありません。ものすごい勢いで突っ走ります
*ハーフボイルド:東直己さんススキノ探偵シリーズのスピンオフ(かな?)、ハーフボイルドシリーズから
・第1作とテイストは全く異なり、ファンタジー度は低め(それでも出てくる物の怪くんたち)。本当に同じ人が書いたの?とは言わないでください。本当はハートフルものが好きです。死体もあまり転がしたくありません。痛いシーンも好きではありません。格闘シーンは好きです。18禁シーンは書くけど上手ではありません。

性描写についてご注意願います(18禁):物語の流れ上、そしていささか本筋に関わる事情で、性描写のシーンが複数回(登場回数?は少なくないと思われますが、全体での%は低い)出てまいります。テーマの中心が恋愛ではありませんので、物語全体が18禁というわけではありませんが、18歳未満の方が読まれるにはいささか問題があるシーンが含まれますので、ご注意ください。
各章の見出しに18禁注意の印をつけさせていただいております。と言っても、そこまで来て読むなと言われても…という場合には、18歳になってからお楽しみいただければと思います。また、特に後半では多少暴力(暴行)シーン、格闘シーンなども出てまいります。同様に章題見出しに注意を貼っておきます。18歳以上の方でも、苦手な方は基本的には自己責任で回避いただければと思います。一部物語の本筋に関わる事情で、具体的な描写はなくとも想起させる表現が出てくることもあります。ご了承ください。
・上記について追記:ちなみに、18禁シーンのエロ/色気度は低めです。友人より、私の書くHシーンは実況中継もしくはドキュメンタリーと言われています。本来Hシーンは昼メロであるべきだと思うのですが、淡々と書いてしまうので、逆に期待なさらないでください。なお、格闘シーンは、得意ではありませんが、好きなもので力が入っています。

あらすじ(というよりも事件の発端):以前付き合っていた女性、小松崎りぃさの自殺以降、相川真(27歳)は、保護者である大和竹流(36歳)と同居するようになり、すでに2年半の月日が流れていた。世間では「恋人」疑惑もあるものの、微妙な距離を保ちつつの同居であったが、ある日仕事に出て行った竹流が大けがをして戻ってくる。しかもその後病院から失踪。竹流の周囲に真の知らない男がうろつき、一癖も二癖もある竹流の仕事仲間たちも絡んでくる。一方、真の恋人(というより体の関係)であるバーのママ・深雪まで姿を消し、真の実の父親のことを知っているジャズバーの店長(元傭兵)が水死体で見つかった失踪した同居人・大和竹流、事故死か他殺かわからない元傭兵の死、フェルメールの失われた絵画、ある雑誌記者の死の真相、新潟のある豪農の歴史、大和竹流のインタビュー記事の波紋……事件は糸が絡まりあって簡単には解けない。一体、何がこれらの出来事の中心にあるのか、そして真は同居人を取り戻すことができるのか。

複雑怪奇な?登場人物多数:相川調査事務所のメンバー登場(気の弱いヤクザ志望の若者、元気な大学生の秘書、少年院上がりの若者、他)、バーのママ(真の恋人?)、竹流の恋人の一人である女刑事、元傭兵のジャズバーの店長、謎の事件記者、ヤクザ(調査事務所の秘書の恋人、ただし真に言い寄っている?)、代議士(真のパパ候補?)、竹流の仕事仲間たち、真の実の父親、内閣調査室関係者、真の友人である新聞記者やおかまバーのチーママ、そして竹流の恋人・芸妓の珠恵(タエ)、裏社会の実力者たち、次々と出てくる年齢・性別・個性ばらばらの登場人物たちもお楽しみください。あまりにも多いので、ある程度出そろったら、途中で人物案内が出てきます。

視点:あまりの長さに、真視点だけでは物語を回せませんでした。そこでほとんど真視点で進みながら、3分の1くらいを美和(調査事務所の秘書)視点、そして時々竹流視点を入れて(失踪中ですから)、時々別視点が入ります。よく言えば厚みを持たせたつもりですが、悪く言うと、ちょっと遊び過ぎたかもしれません。でも、たまに真を外から見ると、という遊びをしてみたくなったわけです(海上保安庁のおじさん視点、とか、第5節の『自称親友』富山享志視点とか)。小説の技法上、視点移動はあまり良くないことと文章教室で言われましたが、逆にそれを楽しんでしまえ、という開き直りの小説運びです。美和視点が一番書きやすかったのは、中学高校生の頃の自分たちに近いからかもしれません。

・『清明の雪』の物語の答え合わせみたいなエピソードも出てきます(第4節以降ですが)。ただ、あの時の真は21でしたが、随分可愛かった…それがあれやこれやあって、27の今、あまり可愛くないかもしれません……その場合は、回想シーンの高校生の真でお楽しみください(かなり可愛いです)。ちょっと繰り返しになるエピソードも入っているのですが、改めて、新しい物語の中で鑑賞していただけると幸いです。

伏線張りまくりで、自分でもエピソードを全部拾いきったのかどうかわからなくなっております。もしも「これ、どうなってる?」というようなことがございましたら、ご指摘くださいませ。

・やはりあまりの長さに、途中作者の息切れ防止の回想章が挟まっています。これも小説ではあまりやってはいけないことですが、コーヒーブレイクとしてお楽しみください。分かりやすいので飛ばして読んでいただくという方法もあります。ただ、主人公2人が積み上げてきた時間・軌跡が、この物語の大きなテーマですので、決して無駄な章ではないと思っています。
・同様に、始章邂逅『アレルヤ』『銀の雫、降る』は飛ばしていただいても何ら問題はありません。主人公2人の幼少期、邂逅を書いたものです。先を読んでいただいて、2人に興味を持っていただいた時点で引き返していただいて、エピソードとして読んでいただいても構いません。

始章について
・『アレルヤ』は『清明の雪』での大和竹流の躊躇がなんだったのか、答えの一部が分かっていただけるような幼少期のエピソードであろうと思います。章題はレナード・コーエンの歌『アレルヤ』から取りました。ブルースの名曲ですが、ただ、発売時期はこの『雨』よりもずっと後。その後、色んな人が色んな歌詞、言語で歌っています。レナード・コーエンは渋い声(だみ声?)で、歌というより詩を詠むように語るのですが、これが何とも言えません。単なるハレルヤではなく、暗さと含みと、そして微かな希望の光、という感じの曲です。実に色んなバージョンがあるので、歌詞も、まるで日本の民謡と同じで、決まった歌詞がなくバリエーションに富んでいて、恋愛だったり、世界についてだったり、要するに、「みんな、思うことを語れよ」って感じなのかもしれません。お勧めは、声も併せて聴いてほしい大好きなIL DIVOのスペイン語の曲です。私の愛聴CDです。
モア・ベスト・オブ・レナード・コーエンモア・ベスト・オブ・レナード・コーエン
(1997/11/01)
レナード・コーエン

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プロミスプロミス
(2008/11/26)
イル・ディーヴォ

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・『銀の雫、降る』は『アイヌ神謡集(知里幸恵)』から取りました。愛読書のひとつです。
「シロカニペ ランラン ピシュカン コンカニペ ランラン ピシュカン」=「銀の雫 降る降る まわりに 金の雫 降る降る まわりに」(梟の神の自ら歌った謡より)
アイヌ神謡集 (岩波文庫)アイヌ神謡集 (岩波文庫)
(1978/08/16)
知里 幸恵

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・友人の勧めで、「それぞれの親との関係がよく分かるように」ということを目的に書いています。実はこの物語の底辺に流れているのが、親と子の葛藤でもあります。『アレルヤ』に出てくる教皇さまはピウス12世がモデルです。本名は本当です。そして予言された『三代後の異国の教皇』は、私の中で最初で最後の(つまりローマ教皇という存在が私の中で意味がある最初で最後の)教皇がヨハネ・パウロ2世。正確には4代後なんですが、1世は教皇になってすぐお亡くなりになっておられるので。実は私、わざわざヨハネ・パウロ2世のお墓にお参りするためだけに、ローマに行ったことがあります(目的地はマルタ。巨大な石の神殿、地下の石の遺跡を見るために。その帰りにわざわざローマに寄りました…^^;)。
・真の方は極めて単純です。書いちゃうとただのよくある苛められっ子の話なので、あんまり書きたくなかったのですが…。実の父親がスパイ、という話については、あの戦争直後の時代では『ありうる』話に過ぎなかったという私の認識です。例えば『スパイ』の物語が同人誌に書かれちゃったりするようなことは、事実東洋のマタハリと言われた川島さんの話でもあったわけで、割とオープンだったと思われます。ただ、真にとって子どものときから実の父親は『わからない』=『怖い』存在だったというのが伝われば、と思いました。
萌えシーンを暴露:竹流=ジョルジョがローマを出奔するとき、慕っていた上級生に、教会の中庭で髪を切ってもらうシーン。実は友人が『ニューヨーク恋物語』で髪を洗うシーンが色っぽいという話をしていたのです(古い…ほとんどの人がついてこれないのでは??)。髪を触る行為は色気があっていい、というので気に入って時々使っています。『清明の雪』にも主人公二人が髪を洗いあいっこするシーンが出てきます。


第1節について
この『海に落ちる雨』はヨハネ・パウロ2世が即位して直後(半年位)の話です(これは後で気がついたのですが)。つまり竹流は『予言』が成就されるなら、ローマに帰って教皇にお仕えするタイミングなわけです。そういったことも少し、底辺に流れています。
萌えシーンその2:真と竹流の夜中の電話。自分で書いてて萌えました。山場?は竹流の「そっちが切れよ」…君らは中学生か高校生か?って感じの、このラブラブ電話。そう、恋しくて恋しくて電話が切れない、だからそっちから切ってくれ、ってシーンでした。このシーンの醍醐味は、実は第三者が見ていたってことでもあるのですが…本編でお楽しみください。色々な台詞を書いても、本当に力の入ったセリフって、実はとっても短くなるんですね。
ただ一言「そっちが切れよ」…

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