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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【清明の雪】物語の背景とあらすじ 

京都にある架空のお寺の不動明王と龍にまつわるハートフル?ミステリー殺人はありません(室町時代の伝説は別にして)。ちょっと妖(あやかし)もどきが出てきますが、ファンタジーではありません。二時間ドラマの舞台になる京都の観光案内的要素も満載。メインの舞台になるお寺は架空ですが(白川~修学院にあるいくつかのお寺をモデルにしています)、登場人物たちが歩くいくつかの場面には実際のお寺などが出てきます。
BLではありませんが、同性の恋愛感情(というよりも正確には疑似親子の情愛?)が絡みますストーリーとしてはそれがメインではありませんが、そういう気持ちがベースにあって物語のエッセンスになっています。なお、この『清明の雪』には話の流れとしての性的な場面の回想(男女)がわずかにありますが、具体的な描写はなく、18禁の要素はありません。
・時代は高度成長期の終わりかけ、1970年代です。多分気にならないと思いますが…。なぜこの時代に設定されてしまっているのかは、この物語が親子四代にまで繋がっているからなのですが、それはまた後の話。
相川真(21)は保護者に断りなく大学を中退し、恋人とも別れて、流されるままに以前からアルバイトをしていた調査事務所で働いていた。両親のいない真の保護者・大和竹流(30、和名であるが実は外国人)は、それが気に入らない。美術品の修復師である竹流は、京都のある寺から、幽霊が描かれた掛け軸の紙を剥がして寺のどこかに隠されている不動明王を探してほしいという依頼を受けていた。寺では夜な夜な鈴が鳴って、小僧たちが怖がっているというのだが、鈴は不動明王が持っていて、寺の危機の時には鳴るという伝説があった。真は竹流に無理やり京都に連れ出され、不動明王探しの手伝いをすることに。実は竹流にはもう一つ目的があった。寺の広間の天井には龍が描かれていて、早春の早朝にだけ消えることがあるというので、その謎を解きたいと思っていたのである。不動明王と龍の伝説や、京都の水の物語に、室町時代の親子の悲しい物語が重なり、謎が解けた時、彼らの前に姿を現したのは…
・相川真は少し精神的に脆いところを持っています。今で言うところのパニック障害のようなものがあって、いささか不安定であります。原因の一つは、実の親、育ての親から捨てられたという過去があるからなのですが(親には親の事情があったのですが、それもまたいずれ)、それでも何とか自己処理しながら頑張っています。でも、時々ごねます。このお話では、高校生のころから複雑な感情を抱いている相手=保護者である大和竹流に対するいろいろな思い、思慕やら対抗意識やら独立したいという気持ちやら、その裏側にある不安がベースにあって、さらに親に捨てられた過去が絡み付いております。そんな中で、室町時代の親子の悲劇にまつわる物語が紐解かれていくと、不安がいささか増幅してしまったのですが……複数のエピソード・伏線が絡んでいますが、次作(すでに完結しています)にまで続くため、長い物語の一つの入り口としてお楽しみいただければ幸いです。もちろん、独立した一つの物語としてもお楽しみいただけます。
・長く住んでいた大好きな京都を舞台に、古い時代の出来事が絡んだミステリーを書きたくて、物語を紡いでみました。全20章です。よろしくお願いしますm(__)m

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Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄1 古い寺 龍の天井 幽霊の掛軸  

 不動明王を捜しに行こう。
 昨夜、新宿の歓楽街の一角にあるラブホテルのはす向かいで、いきなり腕を摑まれてそう言われた。いつものことだが、言葉の内容は優しい誘いなのに、語る調子は完全な強制だった。
 何故そんな意味不明の探索に付き合わなければならないんだろう。そう考えるのは、少なくとも十度目になる。緩やかな石段の途中で、真は早くも足が重くなり始めるのを感じた。
 その足元へぽつん、と秋の名残が落ちてきた。
 真の次の一歩を奪った小さな眠れる生命の欠片は、人がやっとすれ違うのに必要十分な幅しかない滑らかな石段の真ん中に落ちた。左右から覆い被さる木々のために薄暗いトンネルになっている石段は、十メートルほど続いていて、一段の長さは上手く人の歩幅に合わせてある。
 真は頭の上を振り仰いだ。
 ここ何日か、春の訪れを告げる嵐のような雨が断続的に降り続き、刺すような空気の中にも穏やかな温度が混じり、開き始めた蕾の匂いが感じられるようになっていた。それでも、頭のずっと上で空を遮って重なる細かな枝の天井には、まだ緑は見えない。
 編まれた枝の隙間から窺われる遥か彼方の天幕には、暮れ始めの曖昧な時間の霞が澱んでいる。
 真はもう一度足元を見た。季節外れの木の実は、精一杯この瞬間まで木にしがみついていたのか、たまたま枝のどこかに捕らわれていたものだろうか。あるいは妖の悪戯なのか。
 かすかに名残の雨の匂いがする。
「真」
 真をここに連れてきた男は、ずっと先、石段が途切れて直角に曲がる辺りで待っていた。ただ一言、名前を呼びかけるだけでも強制力のある声に、真は意識のうちでは屈んで拾い上げかけていた木の実を諦めた。
 その時、何か頼るものを探すようにジャケットのポケットの中に突っ込んだ左手は、出掛けに無意識に摑んだ小さなケースの存在を脳の片隅に伝えた。ケースに指が触れた瞬間、冷えた手の血管が更に縮まり、指先から急速に温度が失われていくのが分かる。
 慌てて左手をポケットから出して、真は男の大きな背中を追いかけた。
 京都駅に着いてからタクシーに乗って、半時間ばかりかかってここに着いた。町中の道は混雑していたが、四車線の大通りを東へ入ると、車の音は直ぐに山の壁に吸い込まれていった。
 彼らを降ろしたタクシーが走り去った後は、いっそうの静寂が辺りを包み込み、空を横切る枯葉の音までも聞こえてくるようだった。もうこれより先には舗装されていない細い坂を残すばかりとなった道は、畳み掛ける木々のために明るさを奪い取られ、突然に時間の感覚を失わせる。
 車一台が精一杯の坂道は、舗装された道が途切れる辺りに回転地を持ち、その奥に古い家の塀が見えていたが、やはり人の気配はなかった。
 回転地のはす向かいが、今真が登っている石段だった。両脇から天幕まで覆いつくすような木は、落ちてきた実からすると、樫の類なのだろう。大きな木の隙間を埋めるように、立派な枝振りの椿が続いている。日に何度も掃き清められるのか、石段の上には落ちた花のひとつとてない。
 白から始まった椿のトンネルは、赤、ピンクに変わる。やがて、もう一度白に戻った辺りで角になり、突然トンネルが途切れた。
 曇った空が開ける。
 先を歩いていた男は、真が角に辿り着いた時には、背を向けて傾斜の急な残りの五段ほどを登り始めていた。真は、頭の上に開けた白い空が、藍とも橙とも見える霞に染められようとしているのを見上げ、それから木の小さな門を屈んでくぐっていく男の後姿に目を向けた。
 その男の身長から考えると門は随分と小さく、外界からの侵入者を拒むようにも見えたが、男は吸い込まれるように滑らかに門を潜っていった。純和風の木の潜戸は異国人である彼には不釣合いのはずだが、真が感心するのは、この男が、浮き立つように目立つ外観の割には、どういう場所でも溶け込むのも早いという離れ業を持っていることだった。銀に近いくすんだ金の髪が、門の脇に植えられた寒桜のうす桃色の花弁と、輪郭を分け合った。
 男は左手に大きな銀色のアタッシュケースを持っていた。新幹線の棚に上げずに足元に置いていた様子からも、相当重そうだ。
 真が続いて木の潜戸を通り抜けると、水を含んだ踏石が左手に並び、その先に薄暗い入口が見えた。
 どこか、遥かとも思える先から、鹿威しの音が高く響いた。
 男は足元にアタッシュケースを置き、グレイの綿のコートを脱いで、ごめんください、と中に呼びかけた。
 直ぐに、頭を丸め作務衣を着た、二十歳になるかならないかの男が現れた。大きな体には似合わない丸い童顔で、目はまっすぐにこちらを見ようとはせず、男と真との間でさまよっていた。
「大和さんでしょうか」
 作務衣を着た若者は真の前に立つ異国人に確認し、彼が頷くと、視線を足元に落としたままで先を続けた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
 覚えたてのような丁寧な言葉を、丸め込むような京都のイントネーションと、真に何かを伝えるような振動とが包んだ。
 僅かな音の震えの中に、不安と不満と怯え、何にも屈したくないという強い抵抗を感じる。誰にも分かるものかという誇り、誰にも分かってもらいたくないという自尊心、誰かにわかってもらいたいという寂寥感、その全てが中途半端な分量で混じり合い、苦すぎて飲めない茶のようにただ強く香り立つ。このところ真が仕事の上で最も敏感に感じ取っている気配が、その若者からも伝わってきた。
 ふと若者の視線を感じたが、真が目を上げた瞬間に、彼は真の視線を避けた。
 かすかに白檀らしい線香の匂いと、古い木の匂い、畳に降り積もった年月の匂いが、雨後の空気の中に香った。
 不動明王を捜す、という暗号のような目的以外、どこへ行くのか何の説明も受けていないが、ここが寺であることだけは間違いがないようだ。それに、風貌とは明らかに違和感のある名前を口にして躊躇いがないことからも、この寺の人間はこの異国人がどういう人間であるかを知っていて、待っていたことが窺われた。
 玄関口は二畳ほどの土間になっていて、明かりを灯すほどの時間でもなかったが、足元はいささか不安な暗さだった。作務衣姿の若い男に言われるままに靴を脱ぐと、お履物はそのままで、と言われた。
 ふと顔を上げると、いつの間にか、三畳ほどの玄関の上がり口に小柄な老人が立っていた。姿格好からも明らかに僧侶の風情だ。この老人はここの住職で、若い男は寺の修行僧なのだろう。
 住職は黒い着物に紫の袈裟を身につけていて、目は細く、白くなった眉毛が随分と伸びていて、ほとんどその目を隠してしまうほどだった。背が曲がっているわけではないので、もともと小柄な人なのだろう。
 真は思わず幼い頃の幻の友人を思い出した。
「お待ちしておりました。どうぞ奥へ」
「すみません、予定外に連れがいます」
「どうぞどうぞ」
 予定外の連れという紹介に、真は多少引っ掛かった。
 いつものことだが真の意見など問わないまま、この男は真を仕事場から連れ出したのだ。もっとも、立場を思えば致し方ないという面もある。
 男は真と妹の保護者だった。
 真には実の両親ではなかったが、中学生の時に父親が失踪し、高校生の時には長く精神疾患で入院していた母親が亡くなった後では、法律上の立場はともかく、現実の生活の上で頼りになる大人はこの男しかいなかった。しかしもう真は二十一になった。今でもこの男に保護者然とされるのは、どこかで納得がいかない部分もあった。だが、自分が、年齢はともかく頼りない人間であることが、この男をいつまでも保護者気分でいさせているのだろう。そう考えると些か情けない気分になる。
 それに、口数がいつもより少ないことから、今日はこの男が怒っている気配を感じる。その理由には真もしっかりと思い当たる節があったが、新幹線の中でもお互いに核心に触れるような話を避けていた。
 薄暗い上がり口から一旦濡縁に出て、回り廊下をゆっくりと歩くと、板が軋んだ。その板の軋みを身体に感じた途端、真は足元から震えが上ってくるのを感じた。
 今、自分は世間的に褒められた仕事をしているわけではない。他人の最も敏感な部分に踏み込むような仕事は真の神経を磨り減らしていたし、何より雇い主は人遣いが異常に荒い。開始と終了がはっきりしない労働時間は肉体的に楽とは言いかねた。生活の軋みは容易に精神的な軋みに繋がった。そうなると、身体のあらゆる感覚器細胞に不用意な突起が幾つも現れ、現実だろうと幻だろうとお構いなしに情報として受け取り、その刺激を脳に伝達するようになる。決してこれを超能力だとは思わない。ただ現実と幻の区別がつかなくなってしまうのだ。
 目の前の保護者の大きな背中は、真のこの特殊な、あるいは特殊ではなくただ過剰であるのかもしれないが、いずれにしても真自身には処理しきれない感性を時に包み込み、時には完全に拒否をする。真は保護者に知られないように、もう一度自分を落ち着かせようと小さく息をついた。
 さっきからずっと、天井の板の隙間、襖の陰、廊下の隅の暗いところから自分たち、新しい侵入者を窺う気配を感じていた。脳と体中の神経細胞の働きが敏感になってしまった時に、古い歴史のある場所や特別な自然の景観の中に立つと、いつもそうなってしまう。それは良いものなのか悪いものなのか、いつでも真には区別がつかない。今も、現実には鹿威しの音しか聞こえていないはずなのに、喧しいくらいの話し声、走り回るような音、何かの羽音らしいものが、上下四方から真の頭の中に入り込んできていた。
 真は保護者の背中をもう一度確認した。どう言われどう扱われても、この背中を見ると安心するのも確かだった。この男の背中と言葉だけが、真と現実とをやっと繋ぎとめている。ただ、それを認めることを、どこかで辛く悔しく感じていた。
 縁側となった回り廊下を奥へ進むと、先は開けていて随分明るかった。入口は小さく感じたが、敷地自体はこの先がどこまでという境界が全くつかめないほど広いようだ。
 住職は奥の広間に客人を誘った。広間は、大人一人が何とか真っ直ぐ歩けるかどうかという、周囲の建具の大きさとは不釣合いなほど幅の狭い縁側に面している。縁側の向こうの枯山水の庭園は、緩やかな斜面になっているからか、遠近感もあり奥行きを感じさせた。石の配置も木々の高さも、視界に入った時には何の違和感もなく見る者の世界に収まり、時間を持たない絵画のように、ただ空間として浮かんでいるように見えた。
 中でも、庭のやや左手にある五葉の松の木は、その大きさからも姿形からも目を引いた。直立して天を指す本幹とは別に、根元の辺りから生え出た太い枝が、庭の中心に向かって横たわり、龍が臥す姿に見える。松の周囲の白い砂は、さながら海岸の松原を思わせ、ただ一本で無数の木々を、ただ僅かな砂で果てまで続く海辺の砂浜を描いていた。
 水に見立てられた白砂の向こうにある紅葉の枝には、仄かに丸みがある。あとしばらくもすると若い緑の葉が開き、光を跳ね返すのだろう。
 一瞬、説明しがたい違和感を覚えたが、あまりにも一気に沢山の情報が流れ込んできた頭の中は、その違和感を覆い隠すほどにいっぱいになった。
 目や耳から、あるいは皮膚や粘膜から入った情報のすべてを整理することは難しい。だから脳はうまく取捨選択して、不要な情報を切り捨てるのだろうが、真には時々それが全くできなくなってしまう。子どものころは、それが原因でしばしばパニックになっていたが、今では適当に脳のどこかに放り込んでしばらく放っておく、という芸当ができるようになっていた。だが、それは意識してやっていることであって、意識をしないでいると、やはり混乱して、現実と幻と過去の記憶とがごたごたになってしまう。しかも、適当に放り込んだ場所が悪くて、時々、不用意に目の前に脈絡のない記憶が飛び出してくる。
 真は今視覚が感じている違和感が、何かの拍子に全く因果関係なく飛び出してこないようにと願った。願ったところで、真の制御の範囲に収まっていることは、ほとんどないのだが。
 ふと、視界の中に何かが煌めいた。
 比較的大きな臼状の石の鉢が庭の入り口の隅にあって、まるで鏡のように光を跳ね返していた。その光が視界の隅で光ったのだ。丁度、手の長い大人が両手で丸を作ったくらいの大きさで、いっぱいに湛えられた水が、縁から零れ落ちている。
 狭い縁側に面しているのは、二十畳ほどの広間と、手前にある十畳ほどの続き部屋で、広間の奥のほうへとさらに暗い廊下が続いている。
 広間に足を踏み入れた途端に、明るい、と感じた。
 日本の伝統的な書院造りの建物に見えたが、天井は意外にも高かった。それに、表の門とは異なり、外国人で比較的長身の保護者が頭を下げることなく通れるので、障子も襖もかなりの高さに造られていることが窺われた。広間と次の間の境の欄間は波の文様で、広間を取り囲む襖には、生々流転の景色が描かれている。その大胆な墨の筆跡に、時折煌めくような光が跳ね返った。広間や次の間と縁側の廊下の間は雪見障子で、見上げればその上も下がり壁ではなく、天井の際まで障子が嵌め込まれていた。
 普通に見かける薄暗い寺の中とは違って、ずいぶんと光を取りこめるような造りになっていたが、広間が北を向いているので、そのような工夫がされているのかもしれない。
 何かに見つめられている気がするのだが、それがいつもの混乱の前兆のような気がして、あえて探さなかった。
 広間には小さいが凝った作りの床の間があって、違い棚には羽を広げた鳥が二羽、掘り出されている。掛軸には、不揃いに髭が飛び出したような、立派な筆致で文字が書かれていた。もっとも、立派過ぎて真には全く読めない。
 真の保護者のほうは、茶室に入る時のようにまずは床の間に一礼をし、その掛軸をさらりと読み下した。
「意踏毘盧頂寧、行拝童子足下(意は毘盧の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝す)」
 真が問いかけるような視線を向けたことに気が付いたのか、保護者はこれまで何年も幾度もそうしてきたように、教え諭すように真に解説した。
「気概は大毘盧遮那仏の頭を踏みつけるほどでありながら、行いは子どもの足下を礼拝するほどの謙虚さを持つ、という意味だ」
 傍らに納まりよく立っている住職は、何度か頷いた。
「さすがでございますな。大和竹流という和名を贈られた方も、まさかそこまでとは思われなかったことでございましょう」
 真がちらりと保護者を見遣ると、彼は表情を変えることもなく、まだ掛軸を見つめていた。
 大和竹流というのが保護者の和名だった。それが法律で認められた名前なのか、単なる通称なのか、真には全くわからない。第一、真の保護者は、真に自分の年齢を語ったこともなければ、本名を名乗ったこともない。もっとも、真は彼が生まれ育った街に一度だけ連れて行ってもらったことがあって、彼の実家がどのような家で、彼がそこでどのような名前で呼ばれていて、そして何よりも、その家が彼の帰りを待っていることは知っていた。年齢も誕生日も知らないが、日本に来たのは十九の時だと聞いている。それから数年のうちには真の伯父の手伝いをしていて、その時真は十一だったので、自分よりは十ほどは年上だろうとぼんやりと思っているだけだった。
 日本に来て十数年を経ているはずの彼の日本語は完璧だったし、仕事柄、日本の文化芸術には精通している。住職が驚くのも無理はなかった。
 それから、真の保護者、大和竹流は天井を見上げた。真もつられるように天井を仰ぎ、そこに思いがけなかったものを見出し、思わず呼吸を呑み込んだ。さっきから、何かにじっと見つめられているように感じていた理由はこれだったのだろうか。
「これですか」
「ええ、ええ」
 住職は頷いた。見上げたまま竹流はしばらく言葉も出なかったようだが、やがて溜め息をこぼして当たり前の一言を言った。
「見事な龍だ」
 真と違って言葉を自由に操る男にしても、それ以上の表現もなかったのだろう。
「脚立でもお持ちしましょう」
「誰か謎を解きましたか?」
 住職は、ほっほっと笑った。
「謎もまたよし、です。あなたが解かれると、ちょっと楽しみが薄れますかな」
「さあ、どうでしょう。謎が解けた後でこそ、尚更、美しいこともある」
 住職はその答えに満足そうに微笑んだ、ように見えた。目元が長い眉毛で隠されているので、表情はわかりにくい。常にゆったりと微笑んでいるようにも思える。
 真は改めて天井を見上げた。
 龍は床の間近くの天井に描かれていた。板から浮き立つように見えるのは、濃淡や影のためなのか、今にも頭に雷が落ちてくるようだ。
 見開いてこちらを睨みつける両眼、明確な意思で天を指す立派な角、意志の力で大きく孤を描き嵐にさえなびかぬ二本の長い髭、水を跳ね返し光を湛えた鱗、雲の内からたった今雷光と共に現れ出たような勢い。どの方向から見ていても、その見開いた目に睨みつけられているかのようで、身体の半分しか描かれていないながら、雲の向こうにまで続くうねりや鱗の濃淡までも感じられた。想像上の生き物のはずだが、目の前にいるのを見ながら描いたのではないかと思える。
 住職は若い僧が持ってきた一幅の掛軸を受け取って、それからその僧に、脚立を持ってくるよう言いつけた。玄関で会った若者とはまた別の僧で、痩せた身体に、鋭く荒んだ目をしていた。修行中の僧侶には似合わない目つきだ。口元に何か不満そうなニュアンスが浮かんでいる。真は睨まれたような気がして、思わず目を伏せた。
 その真の視線の先で、住職が大きな机の上に、若い僧から受け取った掛軸を広げた。竹流が机の前、掛軸の正面に座ったので、真も机の上に意識を移した。
 一瞬、真の目の前に白とも透明ともつかない、靄のようなものが立ち上がり、形を成すまでもなく消えた。
 古い掛軸は巻かれたまま、経る年月を閉じ込めていたのだろう。
 靄の下に現れたのは、髪の長いすらりとした女性で、脇に大木の半分ほどが描かれている。視界に飛び込んできたときには明瞭な姿に思えたが、実際には、全体にくすんだ緑と茶色の背景に、褪せた黒の筆の跡が潜んでいるような絵だった。
 女性の足は地面についているのかどうか、足元は背景に溶けている。つまり女性は、色あせた大木の脇に優雅に浮かんでいるわけだった。年月がそうさせたのか、女性の表情もはっきりせず、ぼんやりとした曖昧な姿だ。ただ、整えられず乱れた髪の具合からも、表から立ち上る気配からも、生きている女性には見えなかった。
 柳の下に浮かんでいれば一目で幽霊と断定できたが、一体柳と幽霊が結び付けられたのはいつの時代なのだろう。背景の大木は太い幹が掛軸の端を垂直に伸び、女性の上で豊かな枝を張っている。御神木か何か、謂れのある木のように見えた。
「この下ですか」
「はい」
 竹流はしばらく掛軸を横から見たり、表装の具合を確かめていた。その様子から、『下』と言ったのは、絵の下のことだろうと想像できたが、真は住職と竹流の会話の意味がまったく理解できなかった。
「剥したら、よからぬことが起こるとは思われませんか?」
「ほう、あなたはそういう迷信を信じなさいますか」
「この美しい幽霊は、秘密を守るために描かれたんでしょう?」
 やっぱり幽霊の絵なのだと納得する。聞いてしまうと、何やら空恐ろしい絵に見えるから不思議なものだ。
「そうでしょうな」
「では、何故?」
 住職がふと真の方を見た。もちろん、目は眉毛に隠れたままなので、微かに顔が真のほうに向けられただけだ。それでも、真は何か見抜かれている気がして、びくっとした。
「夜な夜な鳴るので、小僧たちが怖がりましてな」
「鳴る?」
「鈴のような音でしてな。昔、先々代の住職が、この寺のどこかに不動明王像が眠っていて、その不動明王が鈴を持っているらしいと、そんな話をしていたことがあります。寺には、不動明王の鈴が鳴るのは悪しき徴候である、という言い伝えがございましての。実際、私がこの寺に来てから、このようなことは初めてでしてな」
 竹流はずいぶん熱心に掛軸を見ていたが、やがて住職に言った。
「しばらく預からせて下さい。簡単なものならここで済ませようと、いくらか道具も持ってきましたが、これはちょっと手がかかりそうだ。急がれますか?」
「いやいや、急ぎはしません。小僧たちはしばらく怖がらせておきます」
 さっきの僧が脚立を持ってきた。ちらり、と竹流のほうに視線を投げる。口元の不屈の気配と異なり、目元にはやはり迎えに出てきた僧と同じ、不安のようなものが浮かんでいる。
 若い僧の竹流を見る視線には、何やら大いなる期待が籠められているように見えた。それはどうやら彼らが怖がっているという『不動明王の鈴』に関係しているようだ。つまり、今回、竹流の仕事の依頼主はこの住職で、若い修行僧たちはこの外国人が修復師で、『不動明王の鈴』事件を解決するためにここに来てくれたと知っているのだろう。
 それから暫くの間、竹流は幽霊の掛軸を調べていたが、やがて丁寧に巻き戻し、徐に天井を見上げると立ち上がった。若い僧が持ってきた脚立に登り、青とも黒ともつかない墨のような具材で描かれた龍を、長い間熱心に見つめる。
 真は下から立ったまま天井を見上げていた。ところどころ絵がきらめいているのは、宝石の屑でも貼り付けてあるのだろうか。
 ずいぶんたってから竹流は脚立を降りると、真にも見るように促した。
 脚立に登ってよく見ると、きらきらして見えたのは、薄く光る欠片のようなものが天井に多数貼られているからのようだった。
 その瞬間、真は視界のほんの隅、自分の右肩越しに小さな頭があって、それも一緒に龍を覗いていることに気がついた。
 ふ、と横を見て、真は自分の肩の上の『子ども』にびっくりして、思わず声をあげて脚立から落ちそうになった。
 子どもは、とん、と身軽に真の肩で反動をつけて飛び上がると、龍の上で逆さまに跳ねた。実際の子どもよりも随分小さな子どもで、そもそも『実際の子ども』ではなかった。
 真が呆然と天井の子どもを見ていると、住職が真に話しかけた。
「何か、居りますかな」
 真は思わず、上から住職を見おろした。
「私も昔はよう見えましたがな、あなたが見ているのは、小さな子どもですかな」
 竹流も顔を上げた。そして、真と目が合うと複雑な表情をした。この手の話題が彼の気に入らないことはわかっている。真は視線を逸らせた。
「この龍と何か関わりがあるのかもしれませんな」
 真と竹流の間の気まずさなど意に介さず、あるいは察してこそわざとなのか、住職は竹流にヒントを与えるように言った。
「子どもが、ですか?」
 複雑な表情のまま竹流が住職に尋ねている。
「私も、今までに何度か龍が消えたのを見ておりましてな、どういったわけか、この季節にしか消えませんが、その時、子どもの声を聞いたような気がしております。たまに、子どもが走っているのをここで見ることもありましたな。もう昔のことですがの」
 それって、いわゆる座敷童だろうか。真はもう一度龍を見上げたが、もう子どもの姿はなかった。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄2 五右衛門風呂 不動明王 消える龍 

 東京を出た時には昼を回っていたので、すでに夕方になっていた。
 この寺には若い僧が数人いるようだった。また別の僧が彼らを風呂に案内した。今度は随分と幼い子供のような風情で表情が乏しく、ただこれまで姿を見せた僧と、曖昧な不安の気配だけは共有している。その気配は真のどこかに引っ掛かる。
 竹流は何を考えているのか、一定線から出てこない。旅行先では旅館の仲居やレストランの給仕にやたらと話しかけ、食材や地域の情報を目一杯手に入れようとする、いつもの彼からすると珍しい気がした。
 寺では毎日風呂に入れるわけではないのだろうし、後で聞けば四と九のつく日にしか風呂は焚かないということだったので、その日は客人のためにわざわざ焚いたようだった。久しぶりに見る五右衛門風呂だった。
 一緒に入る必要はないけど、と真は思ったが、竹流は別々に入る必要もないだろうと言った。やはりさっきの『子ども』の話を気にしているのかもしれない。
 竹流は真の背を流してやると言ってきかなかったので、真は任せておいた。元から真の意見など聞いてくれる相手ではないし、真のほうでもこの保護者に逆らう気は始めからなかった。
 真にとって威圧的な存在には違いなかったが、簡単に崩れ落ちてしまう真自身の存在を根元で支えているのが、この男であることは分かっていた。
 何度かこうやって一緒に風呂に入ったことがある。父親代わりだった伯父の功が失踪する前、功は地方で学会があると、会期後のゴルフや他の付き合いもそこそこに、真と竹流を呼び出し、温泉に誘った。真が覚えている限りでは、異国人である竹流が裸と裸の付き合いに違和感を訴えたことは一度もない。
 あの頃、脳外科医だった功の個人的な秘書のような仕事をしていた竹流が、功に複雑な感情を持っていたことは何となく知っていた。功と竹流がどういう折り合いをつけたのか、あるいはつける必要がなくなったのか、真にはわからない。だが、今修復師として仕事をしているこの男が、大学医学部の研究室で手伝いをするに至った出発点が、功に対する敵意や疑惑であったことは確かだ。後で竹流は、誤解があったと説明しただけだった。功が失踪してから、残された功の娘と真の実質的な保護者を竹流が買って出てくれたのは、功に対する贖罪の気持ちだったのか、それ以外の何かだったのか、その辺りもやはりよく分からないままだ。
 伯父が何かと闘っている、という気配はずっと感じていた。
 功は温泉に行くと、真と竹流の背中を、今竹流がしてくれているように一生懸命力を込めて擦ってくれたのだ。目を閉じると、功がそこにいるような気がした。
 その自分自身の感傷を追い払うように、真は尋ねた。
「あの幽霊の掛軸は何なんだ?」
「一枚の紙を二枚、またはそれ以上に剥して、間に何か秘密の文書が記されているんだ。そこに、この寺の守護である不動明王像のありかが記されている、という言い伝えがあるらしい。誰も見たことのない不動明王像の在り処が、幽霊の下に記されているというわけだ」
「紙を、剥す?」
 相変わらず真には理解のできない仕事をしている竹流は、時々真には考えもつかない単語を並べる。
「そう、紙を薄く二枚に剥すことはかなり高等な技術だ。だが、そういう話は比較的どの国にも時代にもあってな、昔、紙が貴重品だったころには、上質の紙であればあるほど、そういう対象になった。特に日本の墨絵はもとの紙が薄いので、墨が紙の下まで染み込んでいる。それで、贋作作り、と言うよりは、もう一枚の真作を作りだすために、一枚の絵を二枚に剥いだりもしたわけだ。あの幽霊の掛軸は、紙を一度剥して、下の紙の方に何かを記して、もう一度貼り合わせてある。それをもう一度剥すのはかなり難しいし、下手をすると書かれた文字や絵だけでなく、紙そのものを傷つける」
「それができるのか」
 小気味良いリズムで竹流は真の背中を擦っていた。真はいつまで洗っているんだろうと思ったが、放っておいた。
「まぁな」
「不動明王像の何が問題なんだ? だって、今更その不動明王像のありかを探す必要なんてないんじゃないのか。ただの伝説かもしれないし、実際あったとしても、もう何百年か、そのままなんだろう。伝説に基づく興味本位の発掘なのか。それとも、鈴が鳴るっていうのが問題なのか?」
「和尚さんが、鈴が鳴るのは悪しき兆候だという言い伝えがあるって言ってただろう。俺が思うには、この話は卵城伝説だな」
「卵城伝説? ナポリの?」
 一瞬、背中の竹流の手が強くなった気がした。その瞬間、真のほうでも体に軽い電気でも流されたような緊張を覚えた。
 僅かに竹流の手が止まった気がして、交代するのかと場所を空けようとした途端、頭から湯をかけられた。何をするんだと思ったときには、今度はシャンプーが頭に降りかかってきた。
 思い出したくない過去というものがあって、竹流にとってあの旅がそうであるなら、仕方がないと考えていた。あの時は多分、二人とも箍が外れていて、その直し方も知らなかったのだ。
 頭の地肌をマッサージするように擦っている手が、そのまま性的な意味合いを含んでいるような錯覚に陥る。この大きな手はいつでも真を助けてくれるが、時々恐ろしく、時々どう扱うものか分からなくなり、そして時にはたまらなく官能的な色合いを帯びている。時に彼の手から薬品や油絵具の匂いがして、それが真を混乱させる。耳の後ろを洗う竹流の左手が、真の首を支えるように直接肌に触れると、気が遠くなるような感じがした。その肌の一部に、冷たい温度がはっきりと伝わる。竹流の左薬指に嵌められている指輪の感触だった。
 何とか身体の反応を鎮めていると、いきなり頭の上から湯をかけられた。
 真は代わって彼の背を洗った。
「お前に話したろう。前に、ナポリで」
 よく通る声は天井の高い風呂場に響いた。真は、竹流が話題を完全に避けなかったことにどこかでほっとした。
「城の基礎に卵が埋めてあって、その卵が割れるとき、城が滅びるって話だろう」
「あぁ」
「じゃあ、不動明王像の鈴が鳴っているのは」
「鈴が鳴るというのが普通では起こらないことで、もし本当に今この寺で鈴の音が聞こえているのだとしたら、多分、建物の基礎が傾くとか、何か不具合があると、不動明王像の立っている位置のバランスが崩れて、鈴が鳴る仕組みなんだろう」
「じゃあ、その像は下にあるのか」
「下とは限らない、上かもしれない」
「ていうか、それならこの建物は危ないってことだろう。不動明王像なんか探すより、建て替えたほうがいいんじゃないのか」
「そうは簡単にいかないんだ。何せ、府の文化財らしいからな。文化財ってのは厄介だ。保存はしなければならないが、金はない。それに、ただのネズミの悪戯かも知れない」
「だいたい、御先祖様は何だってご大層に、幽霊の下にその像の在りかを記したりしてるわけだ? このお寺にとってそんなに大事な話なら、堂々と本堂の正面の額にでも書いておけばいいのに」
「それは同感だ。だが、後世の人間を試しているのかもな。この世に、何百年先にも、彼らの挑戦を受けて立つ気概のある輩がいるかどうか」
 竹流はちょっと笑ったようで、肩が揺れた。真は精一杯の力を込めて、竹流の背中を擦っていた。
「まぁ、伝説だ。本当に幽霊の下に、不動明王像のありかが書いてあるかどうかはわからない。ただ、何かの音が聞こえて、住職いわく小僧たちが怖がっていて、その音の正体は、実際にあるかどうかも分からない伝説の不動明王が持っている鈴の音かもしれなくて、その不動明王の在り処は、伝説によると幽霊の掛軸の下に記されている。ちなみに、不動明王の鈴が鳴るのはこの寺が危機に瀕している時らしい、と。全部、伝説と『かもしれない』だ。だが、嘘にしても本当にしても、あの紙はもともとかなり立派な厚手の紙で、確かに何層かに裂かれているようだ。もしかすると不動明王の在り処なんかじゃなくて、秀吉の黄金とか、財宝の在り処が書いてあるかもしれないぞ。一説では、秀吉は息子のために、現代の一国の経済危機を救えるほどの財宝を隠したっていうじゃないか」
「不動明王像が黄金ってことか?」
 竹流は真の言葉にまともに感心したような声で答えた。
「それはいい発想だ。わくわくしてきたな。建て替えるための金銀財宝つきってわけか。それもありだな」
 何やら一人で納得しているらしい竹流の言葉を聞き流して、真は彼の頭から湯を掛けて、石鹸シャンプーを手にとった。それを竹流の頭の上で泡立てるように洗っていく。
 髪を洗ってあげるって、何だかとてもエロチックね。
 あまりそういう言葉を口にしなかった恋人が、照れたように小さな声で言ったのを思い出した。もっとも、正確にはもう恋人ではないのかもしれない。
 その時はあまり深く考えもしなかったが、こうして他人の髪を洗っていると、その意味合いがよく分かるような気がした。特別な相手だからそう思うのだろうか。そもそも特別の相手でなければ、床屋でもない限り他人の髪を洗うという行為には至らないかもしれない。
 細い銀糸は石鹸の白い泡と区別がつかない。真は一所懸命に竹流の髪を洗いながら、側頭葉が整理していたはずの記憶の引き出しが、ばらばらに開き始めているのを感じていた。
 目の前の保護者と、別れた恋人と、放り出してきた仕事と、その前に終止符を打った大学生活。自分自身を丸め込むような大学での三年間は、恋人との五年間と一緒に畳まれてしまった。その全ての原因と結果に、貼りつくようにこの男が存在している。
「お前、いつまで洗っている気だ?」
 風呂釜は、五右衛門風呂がふたつ並んでいた。どちらも小さくて、大人が一人やっと入れる大きさだった。真は右側の風呂に体を沈め、竹流は左の風呂に入った。予想外の温度に思わず声を上げそうになる熱い湯だったが、これも客人に対する心遣いかと思うと、有り難い気持ちになった。
 しばらくどちらも黙っていたが、遠くかすかに鹿威しの音が聞こえたのをきっかけに、竹流が聞いた。
「で、今度は何が見えたって?」
 真は、一瞬何を聞かれたのかわからずに、返す言葉を失って竹流を見つめた。湯気の向こうからでも、竹流の青灰色の目が、真の中の何かを見透かしているような気がした。
 整った目鼻立ちは、西洋人であるからという理由だけではないはずだった。それを差し引いても、優雅でいてしっかりとした頬から顎にかけてのラインも、ヨーロッパの南国の人間が持つ独特の意思を湛えた目の力も、母方の血であるという北の人種が持つ恵まれた体格も、それに何より、生まれの良さというものは滲み出るものなのだろう。初めて会ったときに何となく敵意を覚えてしまったのも、彼が功に対して向けていた悪意のようなものを感じ取ったからだけではなかった。
 真が接してきた世界には存在しなかった顔立ち。その向こうには、真自身が会ったこともない実の母親の姿が見えた。母親については、異国人との混血であるということ以外何も知らない。知りたいとも思わなかった。東京に出てきたその日まで、真の世界に存在していた人間は、朴訥な北海道海岸部の男たちと、かつては蝦夷と呼ばれていた老人だけだった。
 真は逃げ出すように視線を逸らせた。
 何より、霊媒師のように『彼ら』と交信したり、除霊できたりするわけではない。ただ、唐突に見えたり感じたりする。毎日というわけでもないし、自分の思うようにコントロールできるというものでもない。大体、これについては、精神科医から一応の医学的説明も受けていた。
 それでも、頭痛や腹痛の説明が難しいように、自分が感じている何かを他人に簡単にわかってもらうことはできない。同じように、長い時間をかけて心のうちに降り積もってきた重いものも、医学的に説明できる種類のものとは思えない。
「いや、何か、目の錯覚かな?」
 何を狼狽えてるんだろう、と真は思った。もう成人したのだし、自分の事は自分で責任を取れる立場であり、今でもこの保護者がいなければどうにも立ち行かないような頼りなさは消してしまいたいと、そう願っていたはずだった。
「何を言い訳しているんだ?」
「何か見えたとか言ったら、また怒るくせに」
「もうお前のその変な能力には慣れたつもりだったけど、久しぶりだし、今日はえらく新鮮な気がしたな。それに和尚も同じようなことを言ってたし、満更じゃないかもしれないぞ」
「怒らないのか?」
「怒ってはいない。気に入らないけどな」
 やっぱり怒っているのだと思うと、真は言葉を返せなくなった。『能力』という言葉自体、皮肉で言っているのだろう。
 真が時々この世にないものの気配を感じたり、それらと話したりする、というのを聞くと、あからさまに竹流は気分が悪いという顔をした。それはそういう能力や精神状態に対する気味の悪さではなく、それに縛られている心の弱さに対する憤りであろうということは、真もよく分かっていた。西洋人である彼には、精神は自己の抑制力で支配するものであり、それに振り回されるような弱さは克服すべき悪徳であると思えるのだろう。
 精神科医は、子どもの視覚の未熟性と人間の側頭葉の働きの混乱について、真や功、そしてこの保護者に説明して聞かせ、特に孤独な幼少期を過ごしたことが、真に妙な『錯覚』を植え付けたのだろうと説明した。それは恐らく大筋としては間違っていない。だから、真自身も自分に特別な能力があるとは思っていない。
 視覚や脳の処理能力の発達していない子どもが、網膜に映るものが理解できないために妖の類だと感じてしまうというような話だ。大人になれば処理能力が発達してきて、それが妖などではないと分かるようになる。その過程で、真はただ躓いてしまっただけなのだ。
 つまり、記憶が側頭葉に残される時に、寂しさや哀しさという脳にとってはショックな条件が加わって、情報の整理を間違えた、ということらしい。デ・ジャブにも同じようなメカニズムがあるという。説明を受けたとき、真は中学生になったばかりで、医者が何を言っているのか、ほとんど理解していなかった。後から分かりやすいように説明してくれたのは竹流だったはずだ。
 記憶の引き出しが無茶苦茶で、服を片付けたはずの引き出しに文房具が入っているようなものだ、引き出しに物を仕舞うときに、混乱するような出来事があって、ぼんやりとしているうちに違う引き出しを開けてしまった、そういう話だと。だから、後から開けてみたら、引き出しからまったく脈絡のないものが出てくる。いるはずのないものが見えるような気がするのは、情報処理を間違えてしまった脳の錯覚に過ぎないと。
 大人たちは真の様々な症状について、いちいち病名と説明を当てはめる。そして安心する。脳外科医だった功も、科学的証明を求めたのだろう。
 風呂の熱い湯の中でも、自分の手が冷たくなっていくような気がした。
 孤独な幼少期という説明に、全て納得しているわけではない。
 積み上げられた藁の中で目を覚ますと、いつも真を見つめている漆黒の瞳がある。名前を呼ぶ声に、背中に負われて厩舎を出ると、頭の上に広がる大宇宙、果ての地平線に流れ落ちる銀河が真を包み込む。馬たちの嘶きが震えるように鼓膜に届くと、いつもとても安心していられた。
 もしも本当に孤独だったというなら、それは単に人間社会との折り合いの問題だった。
 目も髪の色もどこか日本人離れしていた真は、小さいときから一緒に遊ぶ友だちも作ることができず、いつも犬たちや馬たちと一緒にいた。真が育ったのは、浦河の近くにある競走馬の牧場で、周りに同じ年くらいの子どもはいなかった。一番近い年齢のはとこでさえ、真が赤ん坊の時に既に中学生で、小さい子供と遊んでくれるような相手ではなかった。ひとり遊びの多かった真は、叔父の弘志が札幌の大学に出て行ってしまうと、ますます一人でいるようになり、話し相手だったアイヌ人の老人が亡くなってからは、伝説の住人と犬や馬たちだけが遊び相手になった。
 真に『蕗の下の人』を紹介されて慌てた弘志が東京の兄、すなわち功のところに駆け込んだのは、真が十になった年だったようだ。ほとんど北海道に帰ることがなかった功が、しばしば実家の牧場に顔を見せるようになった。容姿と言葉数が少ないことが災いして、小学校で静かな苛めにあっていた真は、ほとんど学校に通うことができずにいた。
 真を引き取っていた朴訥な祖父の長一郎は平気で学校教育を批判したので、それも結果的には足を引っ張ったことになる。幼稚園に至っては、ただの一週間でやめてしまった。
 原因は桃太郎だった。
 幼稚園で初めて桃太郎のお伽噺を聞かされた真が、長一郎に、桃太郎はどうして鬼が島に鬼を退治しに行ったの、鬼はどんな悪いことをしたの、と聞いたからだった。翌日、長一郎は幼稚園に怒鳴り込みに行った。
 桃太郎を教えるなぞ、教育者としてけしからぬ。教えるなら教えるで、ことの善悪を分かるように教えるべきである。そもそも桃太郎はけしからぬ。宝は鬼の大事にして、主は鬼であるのに、主のある宝をわけもなく取りに行くとは盗人の所業と、福沢諭吉も言っておる。子どもに教えるべき話ではない。あの手の物語が、強きもの、勝ったものこそが正しいという間違った道徳観念を幼少時に植え付けるのだ。
 古い蝦夷の文化をこよなく愛していた長一郎の教育は、確かにかなり偏っていたが、今思い出してもそれほど間違っていたとは思わない。長一郎には桃太郎の物語が、大和朝廷が闘ってきた日本先住民族への差別であるように思えていたのかもしれない。しかし、社会生活を送る上で、長一郎の教えてくれたことがプラスになるかというと、そういうわけではなかった。
 その偏りを立て直すように勉強を教えてくれたのは、他ならぬこの保護者だった。もっとも、桃太郎の逸話は大いに竹流の気に入ったようで、竹流は真の祖父を師の一人と言って憚らない。
 それでも、真は今でも蕗の下に、懐かしい友人たちの姿を感じる事がある。
「じゃあ、もう、何も見ない」
 竹流は返事をせずに、真の頭にちょっと手を置いて、五右衛門風呂から上がっていってしまった。真はしばらくひとり五右衛門風呂に残っていた。
 湯気の中に色々な気配が形になりそうでならない。目を閉じると、今度は首筋に竹流の冷たい指輪の感触が蘇った。筋肉が解れるはずの湯の中で、身体全体が緊張する。それを振り払うように、真は音をたてて湯から上がった。
 脱衣所に出ると、着替えの着物が置いてあった。一枚は浅葱色の江戸小紋で雨縞、もう一枚は柿渋染の色合いで、柄はよく見ると鶴のようだった。このような寺にあるまじき贅沢な着物に思えた。
 真は、金沢の芸妓の家に生まれた祖母の奏重に教えられて、自分で着物を着ることができるので、竹流の着付けを手伝った。
 真の祖母は何を間違えて金沢から朴訥な道産子のところに嫁いできたのか、そして華やかな世界を捨てて、牧場の女として土と藁にまみれて生きていくことに抵抗がなかったのか、真にはよく分からない。竹流は長一郎から色々と聞き出していたようで、感動の面持ち言ったものだ。
 お前の爺さんは北前船に乗って大恋愛をしたんだ。
 奏重が長一郎にとって最初の恋人で二番目の妻であったことは、伯父の功と真の父親とが腹違いの兄弟であったことから、事情を何となく察していた。時代も時代で、土地も土地だったから、彼らの結婚がそれなりに大変だったことはうかがえる。それでも、彼らは想いを成就したのだ。
 そういう強い血が、何故自分の中に受け継がれなかったのだろう。
 浅葱色の小紋は、竹流の身体に、髪や瞳にもしっくりと馴染むような色合いだった。帯を締める時に、ふと相手の身体に腕を回して真は緊張した。中学生がまるで初めて恋人に触れたように緊張したのだ。
 その気配を、竹流の方は感じたのかどうか、何も言わなかった。


 広間に戻ると、夕食の準備ができていた。折敷の上に簡素な塗り物の腕が並び、客人に気を使ったのか、精進料理ながらひとつひとつは比較的ボリュームがあった。彼らが座ると、熱い茶と味噌汁が運ばれた。
「お済みになられましたらお呼び下さい。隣の間にお布団をご用意致します」
 また別の若い僧が尊敬のまなざしで竹流を見て言った。今度の僧は顔つきには柔らかい気配を持っていて、どちらかといえば頼りなさそうに見えた。だが、やはり目だけは漠然とした不満か不安があるかのように、奥に不可解な光を持っている。
 しかし、彼らの竹流を見る視線には、共通のニュアンスがあった。それは、幽霊と鈴の音を何とかしてくれる人だという期待の表れなのかもしれない。
 あれと同じような視線を、真自身が長い間、竹流に向けていた。言葉に出すことはなく、態度ではむしろ反抗しながら、それでもできるだけ遠くへ離れないようにして、ずっとメッセージを送り続けていた。
 いや、今でもそうなのかもしれない。
「ここに泊まるのか」
 風呂まで入らせてもらって今更だが、真は一応尋ねた。
「そうだ。明日の朝、龍が消えているかどうか、楽しみだな」
「龍が消える?」
 それは、幽霊の掛軸と不動明王の話とは別件なのだろうか。真はずっと気になっていながらも見て見ぬふりをしてきたものに再び出食わしてしまった気がして、天井の龍を見上げた。もちろん消えてなどいないし、第一、消えるような儚い姿をしていない。
「それが楽しみでここに来たんだ。春になると、朝、消えることがあるんだそうだ」
 頭の上に、相変わらず憤怒の形相を湛えた龍の目がある。真はその龍の上(あるいは下?)で跳ねていた子どもを思い出した。
「それも、仕事で?」
「いや、幽霊の掛軸を剥がす報酬に、龍の絵の謎を解く権利を与えてくれと言ったんだ。何しろ、観光地ではない寺の宝を目にするチャンスはそうそうあるものじゃない。この寺の天井の龍は知る人ぞ知る『消える龍』なんだ。何故消えるのか誰も知らない。だから俺のところに掛軸の依頼が来たとき、真っ先に龍の事を考えた。俺に龍の謎を解かせてくれ、ってな」
 真が敵わないと思うのは、この男の単純で明晰な願望と、それを叶えるために傾ける情熱と意志の堅固さだった。やるとなると、どういうことでも全く手抜きをしない。彼の母国にはあるまじき丁寧さと用意周到さに思えたが、どうやら幼少時に受けてきた教育の賜のようだった。もっとも、真の見る限り、女性を口説くときにも発揮されているようだから、民族の特質はしっかり持っているのかもしれない。
「じゃあ、金は受け取らずか」
「大寺院はともかく、観光地にはならない小さな寺が、そうそう金を持っていると思うか? 大体、寂れた古寺から金銭を受け取るような悪趣味はない」
「それ、慈善事業なのか?」
「そうではない。ちゃんとした報酬を受け取っている」
「謎解きの権利が?」
「それだけではない。龍の絵を調べるのに、幾日か寺に泊めてもらうことにしている。タダ飯にタダ風呂だぞ。さすがに申し訳ないんで、宿泊代の足しに本堂の仏具をいくつか修復することにした。だが、あの龍を見せてもらっただけで俺は半分は満足だけどな。見たろう? あのブルーブラックの墨。深い瑠璃のような色合いだ。引き込まれるような気がしたよ」
 時々、この男は驚くほど無邪気にハイテンションになる。対象は勿論、世界中にあふれている芸術品だ。彼が生まれた南国の人間の多くがそうであるように、楽しみの半分は女性かもしれないが、その手は数多の美術品を、女に触れる時よりも大事に抱く。
 それにしても、大概お節介な人間だと思っていたが、しかも、他人が何か見えるとか言うと怒るくせに、自分はどこまでもロマンチストなのだ。
「第一、この精進料理。一宿一飯の恩義は何にも勝るさ。明日は忙しいぞ。仏具も直さないといけないしな」
 木綿豆腐となめこの八丁味噌汁、油揚げと蕨の煮浸し、酢蓮根、百合根の梅肉和え、茶筅茄子と獅子唐素揚げ、胡麻味噌、それに白飯に沢庵が添えられていた。二つの膳に並べられた食事は、質素な食材についても、どこにも全く手抜きをされた部分がない。
 真は思い切って箸を置いた。
「それで、その楽しい仕事に俺を連れてきた理由は何なんだ? 大体、俺はあんたのアシスタントなんてできないし、何より仕事中だったんだ」
 竹流は返事を後にして、蕨の煮浸しを口に入れた。真は辛抱強く待つしかなかった。
「まずは食え。寺の住人は朝が早いんだ。お前の夕飯が遅いと迷惑だ」
 時々この男は、もっともなことを敢えて口にする。言われた真は逆らう隙もない。だが、十年ばかりの付き合いの中で、真のほうもさすがにこの男の機嫌を損なわずに済む方法を学んでいた。あまり気合を入れて逆らったことがないので分からないが、多分逆らうと半端でなくおっかないのだろう。
 暫くの間、どちらも無言のまま、料理を片付けた。
 ようやく箸を置くと、竹流は急須から二杯めのほうじ茶を湯呑みに注いで、真の方にも淹れてくれた。それから縁側とは反対にある奥の襖を開けて、よく通る声で食事が終わったことを知らせた。直ぐに膳が下げられて、新しい急須と湯呑みが座敷机の上に残った。
「仕事中、か。一体、何を考えている? あんな思いをして大学に入ったのに、唐突に退学届を出して、揚げ句の果てに浮気調査の手伝いなどしている。ただのバイトならと思って目を瞑っていたけど、正式に雇われたっていうのはどういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
 竹流は大袈裟に溜息をついた。
「宇宙に飛ぶんじゃなかったのか」
 この男に分かるものかと思っていた。
 もちろん、竹流が今のように多少の名声を得て、望んだ仕事ができるようになるまで、どれほど努力をしてきたのか、それもある程度は知っていた。自分よりも遥かに年上の男が、自らの力で道を切り開き、ようやく自分の仕事に満足を感じるようになったからと言って、真の方に嫉む理由などないはずだった。それでも、現実には取り残されるようで不安になった。
 結局、真の方は何もかも上手くいかなかったのだ。大体、命さえも一度は失いかけた。そして、一番手に入れたかったものは、届きそうなところにあるのに届かない。
「真、俺はな、親父さんがいなくなって、何とかお前が身を立てていけるようにと思っていた。親父さんへの恩義を考えても、お前たちに対して責任のある立場だと思ってもいた。お前が学校で倒れることがなくなってからも、電車の中や人混みで辛い思いをしていたのは分かっている。だから、人と接触が少ない研究職に進むつもりだと聞いた時も納得した。お前がいつか宇宙に飛べるかなと言ったとき、手を貸してやろうと思った。もちろん、お前が簡単に何もかもを放り出してしまうような人間ではないと思いたい。俺が気に入らないのは、大学を辞める前にどうして俺に一言も言ってこなかったかということと、そんなに東京が辛かったならいっそ北海道に帰るという選択肢もあっただろうに、そのとんでもない仕事についても説明がなかったということだ。正直、保護者としては情けない気分だ」
 竹流の流暢な日本語の長い解説は、時々真を追い込んだ。
「ラブホテルの張り込みが悪いと決め付けるわけじゃないが、誰かが隠している顔を穿り返すような仕事をして欲しいとは思わないな」
「今日のはたまたまだ。前にも言ったけど、俺がしている仕事はほとんど失踪人調査だ。正確には、ガキの家出の面倒をみているだけだ。それに、俺はもう子どもじゃないし、いちいちあんたに許可を求める必要はないはずだ」
「いい大人は、物事の順序と他人への礼儀は弁えているはずだと思うけどな」
 説明できるくらいなら、こんなに何もかもが上手くいかないはずがない。
 真はしばらく顔を上げることもできずに、座敷机の木の模様の一点を見つめていた。第一、相談しようにも竹流はほとんど東京にいなかった。
 真が言い返す言葉もなく俯いていると、奥の廊下でほとほとと足音がして、こほん、という咳払いが聞こえた。竹流が立ち上がって、ようやく真は顔を上げた。
 やってきたのは住職で、袈裟の内からこっそり酒壜を取り出した。
「小僧たちは先に寝かせましたによって、心置きなく」
 真が拍子抜けしたように住職を見つめていると、住職はさらに袈裟の内からかわらけをふたつ取りだし、真の手を取ってひとつ持たせた。
「こちらに先にお注ぎしてよろしいですかな」
 住職は竹流にことわって、真の手の上の盃に酒を注いだ。続いて竹流にも盃を渡し、自ら注ぐと、あとはごゆっくり、と言って酒壜を置いて去っていった。
 まるで場の空気が固まるのを緩めるようなタイミングだった。竹流は気分を変えるようにひとつ息をつくと、一気に酒をあおって、これは美味いなと言った。そう言われて、取り敢えず真も後に続いた。日本酒というよりも濁酒のようで、かなりのアルコール度数のようだ。そもそも酒など飲みつけない真は、思わず顔をしかめた。
「寺で飲んでもいいのかな?」
 真が呟くように言うと、竹流は突然のありがたい振る舞いに機嫌を直したのか、さっきまでとは違う穏やかな声で答えた。
「昔からよく狂言や歌舞伎にあるじゃないか。水だと言って和尚がこっそり酒を置いている、なんて話がな。しかも、土器とは風流な」
 竹流が気に入ったのは酒だけではなく、素地のままのような色合いの酒盃もだろう。そう言われてみれば、土の手触りも心地よい土器を手に酒を飲んでいると、遥か古代の人と酌み交わしているような心地がした。
 その後は何か話すでもなく、縁側に出て月を見ながら、五合ほども入りそうな酒壜を空にしてしまった。もっとも、真はやっと数杯飲んだだけで、ほとんどは竹流が片付けた。日本人の真から見ると竹流の酒の飲み方は明らかに度を越しているように思えることがあるが、単に肝臓が持っている酵素量の民族的差異なのだろう。基本的には陽気な酒なので、住職が今ここに来てくれたことはありがたい限りだった。
 月はまだやっと、半月からわずかに丸みを帯びてきたところだった。酒の濁りが体に入り込んでいくと、少しずつ気分が透明に近付いていくような気がした。隣で竹流が何か呟いた。真が聞き返すと、竹流は最後の酒をかわらけに注ぎながら、よく通る声で答えた。
「何でもないよ。寝るか」
 竹流はかわらけを空にすると、次の間に入って、さっさと枕元の浴衣に着替え、敷かれた布団の一方に潜ってそのまま眠ってしまったようだった。
 真は、この酒壜どうしたらいいんだろうと思いながら、まあいいかと縁側に残したまま、自分も着替えて隣の布団に潜り込んだ。
 もう怒っていない、と言ってくれない限りは、やはり機嫌を直したわけではないのだろう。さしずめ、ご住職の計らいに免じて休戦、ということだ。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄3 美沙子 指輪 月の宴 

 退学届を書いている時に、電話が鳴った。
 妹が出るかと思って放っていたが、よく考えたら妹は今日から演奏会のための合宿に行っていて、家にはいなかった。真は煙草を揉み消し、一身上の都合という文字を見つめたまま、立ち上がった。
 電話で人と話すことが苦手だったこともあって、時々電話に出ないことがあった。さすがにバイトとは言え仕事をするようになって、社会常識的にはかかってきた電話にはちゃんと応対しなくてはならないということに気がついたのだが、何よりもこの電話が妹からかもしれないと思い至って、真は階段を駆け降りた。
 妹は自分が出かけるときは、真がちゃんと夕飯を食べているかどうか、必ず確認の電話をかけてきていた。この電話に出ないと、心配した妹にまた朝から叩き起こされる破目になる。そう思ったが、受話器を取り上げようと手を伸ばした途端に、呼び出し音は切れてしまった。
 真は息を吐き、そのままリビングのソファに腰を落とした。
 電話の音が消えてしまうと、自分以外に誰もいない家が突然、無意味にだだっ広く感じられ、世界から取り残されたように思える。
 大学を辞めてどうするという計画があるわけではなかった。ただ続けていくことは無理だと思った。とりあえず、調査事務所のバイトだけは続けながら、少し考えようと思っていた。無気力で何となく辞めるというのではなく、正当な理由があると思いたかったが、自分でもよくわからない。
 バイト先の唐沢調査事務所の唐沢所長は、真が大学を辞めると知ると、待ってましたとばかりに、社員にすると宣言した。もっとも、バイトと社員の違いは全く分からなかった。そもそもボーナスがあるわけでもないし、社会保障だの年金だの保険などもちゃんとなっているのかどうか、怪しい限りだ。ただ、いつものようによれよれのブルゾンを着た五十は過ぎているはずの唐沢が、酒臭い息を吐きかけながら、やはりいつものように二日酔いで剃り損なった無精髭の顔を真の肩越しに近づけて、よし、今日から社員だ、と言っただけだった。
 ただ、時にもよるが、給料は決して貧弱なものではなかった。基本給は大したものではないかもしれないが、出来高と言いながら上乗せしてくる額は、もしかして唐沢のギャンブルの結果に左右されるのかもしれないが、時にはボーナス並みの迫力のある金額だった。しかも、唐沢は時々真に上等のスーツを買ってくれることがある。仕事で必要と言えばそうなのだが、そういう時唐沢は奇妙に機嫌がよくて、真のほうは唐沢の愛人にでもなったような、変な気分になった。事務所の経営が赤字なのか黒字なのか、真には全く分からないし、事務をしている女の子も金銭管理はしていないようで、所長に任せておけばいいんじゃないのぉ、と呑気なものだった。しかし、古いビルとは言え、一応六本木の駅からの徒歩圏内で、家賃も安くはないと思える。唐沢と事務所の財布は、もともと薄い真の金銭感覚を狂わせていた。真の金銭感覚が薄いのは消費活動能力が低いからだが、唐沢の方はどう見ても派手な使い振りで、一方では驚くほどセコいこともある。
 妹が留守なのをいいことに、リビングのテーブルに放り出したままの煙草に手を伸ばし、一本引き抜いて銜えた。火をつけて深く吸い込む。
 調査事務所でバイトをするようになってから煙草が増えた。妹だけではなく、恋人からも嫌な顔をされていることは分かっていた。二人とも真のことを心配しているというが、妹はともかく、恋人の篁美沙子は、煙草を吸うという行為の後ろにある何かに気が付いていて、それが気に入らないのだろう。
 少し前までは、大学に残って研究を続け、いずれ日本国内の宇宙開発事業に携わるか、あるいは教授の口寄せで留学してさらに大きな世界に出ていくか、そういう選択肢があったはずだった。そもそも教授によればNASAにも話がついていたというのだが、美沙子がそういう輝かしい未来のある恋人を誇りに思っていることは、言葉の端々から何となく感じていた。もっとも、真は、自分にそんなチャンスが回ってくる裏事情を勘ぐらずにはおれなかったし、たとえそれが根拠のない思い込みであったのだとしても、退学届を書く理由になっていることは確かだった。だが、もしもこの届を出さなかったら、あるいは調査事務所でのバイトをしていなかったら、美沙子にもとりあえずはエリートの恋人、そしていずれは妻という立場を与えてやることができるのかもしれない。いや、すでに留学を断った時点で、教授とまともに話ができなくなっていた。今更、輝かしい未来へ続く道が残されているとは思えない。
 忙しいという言い訳を、美沙子が大学の事情だと思ってくれているのかどうか、少なくとも、大学での研究生活が忙しいということと、煙草が増えていることの間には、何ら因果関係がないことには気が付いているだろう。真が嵌まり込んでいる煙草臭い環境が大学とはまったく別の場所にあるということは、彼女も気が付いている。美沙子は真が説明するのを待っていたのか、あるいはもう諦めて最後の言葉を言い出す機会を待っていただけなのか、結果的には後者だったのだろう。
 高校生の時から付き合い始めたが、お互いの理解のために交わした会話は驚くほど少なかった。これだけ長く付き合っているのだから、それなりに何となくわかっているはずだと考えていた。
 だから、一年ほど前に美沙子が初めてコンドームをつけてと言ったとき、真は、彼女の不安や不満をちゃんと聞きだす努力をしなかった。もちろん、妊娠ということに無頓着で無知識だったわけではなかったし、セックスの最中は確かに夢中だったが、高校生の時にはそれなりに避妊には気を使っていたはずだった。大学生になってからは、以前ほどコンドームを使わなくなった。ゴムをつけている間に冷めてしまうのが怖かったし、愛情かどうかはともかく、そのままで彼女と繋がっていたかった。美沙子は自分のほうから避妊の話はしなかった。女性から言い出すことに抵抗があったのか、それとももしもそうなれば二人で、あるいは三人でやっていこうと考えていたのかもしれない。彼女のほうから避妊を言い出したころから、真は漠然とした距離を感じ始めていた。
 その時、もう一度電話が鳴った。真は咥えていた煙草を灰皿に落とした。
 受話器を取り上げると、相川くん? と、思ったよりも近いところから篁美沙子の声が聞こえた。距離を作ってきたのは、自分のほうだったのだとわかっていた。避妊についても、つまり二人の将来についても、ちゃんと話し合えばよかったはずだった。
「次の日曜日、会える?」
「バイト、行かないと」
 そう、と答えて、美沙子は暫く黙っていた。
 高校生のときは毎日のように顔を合わせた相手も、大学に進むと別々の時間軸を辿るようになり、お互いが何をしているのか見えづらくなった。もっとも、高校生の時もクラスメートとして教室で顔を合わせていた時間のほうが長く、恋人同士として共有していた時間が十分だったかどうかは疑わしい。
 真はちらっとカレンダーを見て、それから言った。
「来週木曜日、会えないか」
 美沙子は少し躊躇していた。今考えてみれば、その時点で気が付いてもよかったはずだったのだ。
「ゼミがあるから、遅くなるの」
「いいよ。家に迎えに行く」
 灰皿の横には小さな赤いケースがあった。前の週、真と同じように調査事務所でバイトをしている女の子に引きずられるように連れていかれ、最近開店したというジュエリーショップで買ったものだった。調査事務所に勤めているからなのか、単なる性格なのか、真の事情を根掘り葉掘り聞きだすのを得意にしているサクラという女の子だ。と言っても、真よりも幾つか年上のはずで、原宿の喫茶店でもバイトをしているという。真が自分の事をほとんど話さないのに、サクラはいつの間にか真についての情報を最も多く握っているひとりになっていた。
 五年も経つといわゆる倦怠期よねぇ。結婚するつもりがあるのぉ? あるんなら自分の『つもり』ってのをちゃんと示しとかないとぉ、女の子は愛想尽かしちゃうわよぉ。指輪とか、プレゼントしたことは? えーっ、ないのぉ? ありえなぁい。彼女の誕生日は? それって、再来週じゃなぁい。
 サクラは一人で散々喋った挙句、ニヤニヤしている唐沢に向かって言った。
 所長、ちょっとこの人連れて買物に行ってもいいですかぁ?
 サクラは、天井に上がるような間延びした語尾で話す。
 おぅ、ホテルでもどこでも行って来い。ただし、こいつにはおっかない彼氏もいるからな、修羅場になっても知らねぇぞ。
 例の如く、唐沢は真をからかったが、サクラのほうはあっさりとしたものだった。
 知ってますよぉ。そんなの、平安時代からあるんだから、珍しくないでしょ。でも結婚できない男の末路って、所長みたいなわけでしょお。それは拙いと思いまぁす。
 何が平安時代からあるのか、しかも何か根拠があるのかもわからないが、あの勢いに引きずられなかったら、指輪を贈るなどという発想は湧いてもこなかったし、何より買いに行く、という勇気も持てなかっただろう。
 結婚という言葉を聞いて、今までは具体的に考えもしなかったことだが、美沙子といずれは結婚するのだろうと漠然と思っている自分自身に行き当たった。だが、サクラに言わせると、そんな『ぼんやり』とした決意は優柔不断と親戚で、『しない』とは親子のようなものだ、ということらしい。
 だが、木曜日、すなわち美沙子の誕生日に、店を予約して家に迎えに行くと、彼女は部屋着のままで、出かける用意もしていなかった。あがって、と落ち着いた声で美沙子は言った。
「もう、おしまいにしたいの」
 始め、何を言われているのか分からなかった。
「大学、行ってないんでしょ。変なバイトして、どうかしちゃったの」
 そのことは君には関係ないと、喉まで出掛かった。
「いつだって私に事情を説明してくれたことなんてなかったけど、やっぱりあなたのこと、よくわからない。悩んでいても何も教えてくれない。あんな始まり方だったから仕方ないとも思ってたけど、でも、あなたが何に向かっていっているのか、私には本当に分からないの」
 紆余曲折があったにせよ、五年も付き合っていたのだ。よく分からない、などと言われること自体がよくわからなかった。
 美沙子は大学生になって化粧をするようになってから、少し顔の感じが変わった。もともとあまり輪郭のはっきりしないタイプの顔だったので、高校生の頃は人混みで見るとまぎれてしまいそうだった。どこにいても否応なしに人目を引いていた真とは対照的で、当時はつき合っていることを知っている同級生は少なかった。優等生の副級長と、ほとんど口もきかない異端者では、不釣合いだから想定外だったのだろう。
 だが、美沙子は大学生になると、どちらかというとぽっちゃりしていた体の線が変わり、少しダイエットしたためか、顔のラインもすっきりして、化粧を覚えると性格も明るくなったようだった。研究室に閉じ籠るようになった真とは対照的に、ニューヨークで育ったという履歴も含めて友人の輪の中に上手く納まるようになっていった。美沙子が真以外の人間たちとの付き合いを広げていったのも当然だった。
 高校生のとき、帰国子女だった美沙子はぽっちゃりとした容姿でコンプレックスを抱いていたようで、他の女の子から少し距離を置いて、一人でものを考えているような風情があった。それが真を安心させたのかもしれないが、彼女と付き合い始めた理由はそういうことではなかった。
 高校二年のとき、成り行きでセックスをした。
 成り行きという言い方は、もしかすると格好をつけただけかもしれない。実際はまとわりついてくる自称『親友』が時々疎ましかったからだった。友人、という存在の扱い方が分からない真は、相手との距離が上手く取れず、近付いてこられると自然に逃げ腰になった。自称『相川真の親友』の富山享志は貿易業を営む会社社長の御曹司で、勉強もできればバスケットも上手く、何より誰からも頼りにされる天性の明るいムードを持っていた。クラスの級長でもあった彼は、どうしても回りに溶け込めない、というよりも溶け込む努力をしない真に随分お節介を焼いてくれていた。時々享志と一緒にいるときに、美沙子の視線にぶつかった。美沙子が享志を好きだと気が付いていたのは多分真だけだっただろう。その享志は真の妹と付き合っていた。
 何となく気に入らなかった。もちろん、お節介な享志の人徳は十分理解しているし、ありがたいとも思っていたが、時々分からなくなった。大事な妹の恋人だと認めてやるのも、少しばかり癪に障る部分もあった。絡まった糸のような感情は、享志に暖かい視線を向けている美沙子への興味になった。
「あなたが留学するって聞いたから、いつかその話をしてくれるんだと思ってた。私も一緒に行けたらいいとも思ってた。でも、いつの間にか大学に行かなくなったって」
 漠然とした不安や不満は、初めて、美沙子の口から言葉になって真の前に突き出されていた。退学届は月曜日に出したところだった。
「ねぇ、相川くん、私の言ってることわかる? あなたは私に何の興味もないんだと思うの。だから、私に大事なことを話しても仕方がないと思ってる。あなたのことに、あなたの将来に、私は関係ないって思ってる。留学がどうとか言ってるんじゃないの。これからどうしようかって不安なときも、決心できない時も、私にもあるし、あなたにだってあるはずよね。でも、会ってもセックスをするだけで、ろくに会話もしない時だってある。話したくても、聞きたくても、きっかけがつかめない。あなたと私には共有する未来がないの」
 ポケットの中で、小箱の中の指輪がカタカタ鳴っていた。
 何を言われているのか分からなかった。彼女が描いていたはずのエリートの妻という未来を砕いたことが問題なのではないと、彼女は言っているのか。どうして話してくれなかったの、彼女はそう言っているのか。彼女とは一度も、二人の将来について意味のある会話をしてこなかったからなのか、理解する頭は働かなかった。
 ただ、一瞬に拒否の感情が噴き出し、そのまま美沙子を押し倒して、悲鳴を上げた彼女を押さえつけ下着の中に手を入れた。彼女が濡れてもいないことが腹立たしく、下着だけを引き下げて、半分は混乱した怒りで昂ぶった自分自身を無理やり彼女の中にねじ込んだ。
 考えてみれば、あの日真がしたことは強姦だったのだ。
 泣きながら、美沙子は言った。
「あなたを好きになりたくないの。あなたはいつだって、どこか、私には分からないところを見てる。私じゃない人の手を捜してる。あなたが北海道で崖から落ちたとき、意識が戻らなくてもう駄目だって聞かされて、混乱して目の前が真っ暗になった。でも、あなたと私は付き合ってるのかどうか、よく分からなかった。会いに行っていいのかどうか、よく分からなかったの。だって、あなたは家族を一度も私に紹介してくれたことはないし、好きだって言ってくれたこともなかった。でも、やっぱり側にいたかった。勇気を出して帯広の病院に行ったら、意識は戻ったけど記憶も混乱していて、周りの人間をよく分かっていないって聞かされた。……ただひとりの人を除いて。病室であなたは何かに怯えてパニックになっていて、あの人があなたを抱き締めていた。親鳥が雛を庇うみたいに」
 今でも、真はあの時美沙子が何を言っていたのか、理解できていなかった。


 だから、あなたが捜している手は、私の手じゃないの。
 ほんの耳元で、誰かが泣いている気がした。
 ぼんやりとした意識が実体を持ち始めると、眼瞼の内が明るく熱くなっている。まだ夢と現実の間くらいを彷徨っていた。どこか遠くのほうで、祭囃子のような賑やかな振動が伝わってくる。
 意識のスイッチがパチンと入ったような気がして、真はふと目を開けた。夢の続きなのか、それとも。
 ちょっとばかり嫌な予感がしたので、布団の奥に潜り込んだ。それでも一度目が覚めてしまうと、どうやらもう眠れそうになかった。仕方なく布団から顔を出すと、月明かりの漏れ来る縁側の方の障子に、何やら動き回る影のようなものが見えていた。
 狸かな、とぼんやりと思った。
 起き上がって竹流の方を窺ったが、よく眠っているようだった。
 というより、これは現実ではないかもと思った。外は妙に明るかったし、月明かりだけでその明るさなのだとしたら、満月でもない限りここまで明るくはないだろう。まだ月はようやく半月から丸みを帯び始めたところだったはずだ。
 真は起き上がって隣の広間に続く襖の前まで行き、一息ついて覚悟を決めると、一気に襖を開けた。その瞬間。
 ざっと、『彼ら』が真の方を見た。
 覚悟はしていたので、思っていたほど驚かなかった。
 比較的人間に近い形のもの(ただし一つ目だったり二つ口だったりしたが)、蛙のようなもの、妖精のように綺麗なお姉さん(でも、顔はなかったりする)、お椀のようなもの、行灯のようなもの、木のようなもの、芒のようなもの、大根のようなもの、人間と牛のあいのこのようなもの、どこかで見たことのある楽器のようなもの。
 それからあの子ども。
 おぅおぅ、まあ飲めや
 何やら誘い込まれるように彼らの輪の中に座った。白い薄衣を身に付けた顔のない綺麗なお姉さんが、さっき住職が出してくれたかわらけを真の手に持たせて、やはりさっき住職が持ってきてくれた酒壜から注いでくれた。
 さっき、空になっていたはずだけど。
 酒はなみなみと出てきた。
 丸い頭のぼんぼりのようなものが、真に飲むように促した。まぁ、これは現実ではないかも知れないし、酔わないんだろう。そう思ってとにかく飲んだ。綺麗なお姉さんは空いた土器に直ぐに酒を充たしてくれた。
 それでも数杯飲むと気分がよく、何だか楽しいような気持ちになってきた。何か悩んでいたような気がしたが、別の次元に滑り込んだ感じで、それはそれと放置した。
 それで、あんさんがたは、この子の珠を探しにきてくださっただか
 物知り顔の杖のようなもの(あるいは笛)が言った。もっとも顔がなかったので、どうして物知り顔と思ったのかは自分でもよくわからなかった。綺麗なお姉さんも、どうして綺麗と思ったのかよくわからなかった。もう一度顔を確かめようとお姉さんを見たら、酒の催促と思われたのか、お姉さんは微笑んで(微笑んだような気がした)かわらけに酒を注いでくれた。飲みながら、頭の中で物知り顔の杖の言葉を反芻した。
 たま?
 珠を落としてしまったんじゃよ
 もう一人(?)の物知り顔の、やはり顔のない行灯が言った。
 水晶の珠じゃ
 真は少し離れたところに座っている子どもの方を見た。着ているものから推測すると、男の子のようだ。
 水晶の珠? 君の?
 昼間に垣間見た子どもは、よく見ると顔がなかった。いや、顔がないわけでなく、薄いのかもしれなかった。まるで消えていきそうに見えた。子どもは無表情で、消えかかりそうな気配からは心は読み取れなかった。
 空の上から落としてしまったんじゃ
 龍に乗って、空から落としてしまったんじゃよ
 どこに?
 この下に飛び上がったときじゃ
 みんなが、うんうんと頷いた。
 下に飛び上がる? 
 妙な言葉遣いに引っ掛かって聞き返したが、彼らはそれを無視した。
 あれがないと困るんじゃ
 どうして?
 龍が空に翔べないんじゃよ
 龍が、翔ぶ?
 この子のお父さんの龍じゃ
 真は広間の天井に描かれた龍を見上げた。
 龍が、翔べない? お父さんの龍?
 真はぼんやりと言葉を頭の中で反芻した。
 水晶の珠がないと、龍が翔べない? 龍が翔ぶのには水晶が必要なのか? 確かに、絵の中や作り物の龍は、よく珠を足(もしかすると手なのか)に摑んでいるけど、あれは翔ぶために要るわけじゃないだろう。
 いずれにしても、この子は水晶の珠がないと困るのは間違いなさそうだ。
 なんだかちょっと消えそうに儚い子どもが、可哀想になってきた。



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❄4 竹流 空の酒壜 弥勒菩薩 

 縁側の障子から明るすぎるほどの光が様々な影を伴って、閉じたままのまぶたの上で踊っていた。身体がまるで動かないが、金縛りのような嫌な感覚ではなく、ふわふわと気分は良かった。
 まだ夜中なのか、あるいはもう夜が明けようとしているのか、幻の中にいるのか、現実なのか、まるで分らなかった。
 目を閉じたままなのだから見ているはずはないのだが、瞼の上で光の揺れを感じる。襖が開いたようだった。
 真の身体の上に影が落ちる。
 その瞬間、真を取り囲んでいた光が大きく揺らぎ、走った。波が引くように、天井の隅へ、障子の隙間へ、床の間の柱の陰に、そして天井の龍へ、吸い込まれていく。
 影は何かを躊躇い、揺れながら真の上で大きくなる。畳に触れている皮膚から、囁くような軋みが伝わってきた。
 月の光はまだ真の身体に残っているのか、ぼんやりと温かい。肩に誰かの手が触れた。
 その時、真の身体に、血のように何かが流れ込んできた。
 これは何だろう。誰かの想いなのか、あるいは願いなのか、触れた温度は全てを伝えるようにも思え、満たされない何かを隠しているようにも思える。ずっと誰かを待っていたような気がしていた、その誰かが今、襖を開けて真のそばに歩み寄り、肩に手を触れている。その姿を見つめ心を見たいと願うが、流れ込んでくる感情はただ穏やかで優しく、躊躇うような気配がある。
 耳元でとぷん、と音がした。温かい影が酒壜を振っている。小さな溜息と、穏やかな呼吸、そして不意に身体が浮き上がった。鼓膜に心臓の音が震えている。鼻をくすぐるのは、よく知っている白檀のような香木の香りだ。その香りはしばらくの間、真の身体を包み込んでいた。
 これも脳が作り出した幻覚なのだろう。
 十一で東京に出てきてから何年間か、しばしば満員電車や学校でパニックになるというので、真は精神科医のところに通っていた。功の友人の精神科医は幸い辛抱強い人で、もちろんそれが精神科医というものかもしれないが、真が何も話さずに座っていても、急かしたり問い詰めたりはしなかった。学校はどう、とか、友達はいるの、とか、聞かれたくないようなことは聞かなかった。たまに絵を描いてみるか、と勧められたりもしたが、そもそも真は絵が苦手だったので、実のなる木の絵とか、家の絵とか、人の絵などは描けなかった。たまに気が向いた時だけ、馬の絵や星雲の絵を描いた。それが心理検査であることは何となく知っていたが、何の意味があるのかはよく分からなかった。
 功が何とか真の障害を理解しようとして、色々と努力をしてくれたことは分かっていた。精神科医のところに通うのは頭のおかしい人間だけだと思っていたが、功が科学的に分析できることならきちんと確認して、一緒に乗り越えていこうとしてくれていたのが分かっていたので、嫌だとは言えなかった。解離性障害や転換性障害という難しい言葉を丁寧に説明してもくれた。ただ、自分の症状が、そのような病気だとは確信が持てなかった。
 もっとも嫌だったばかりではなく、時には自分のほうから進んで診察を受けに行ったこともあった。このまま社会と折り合っていけないのは拙いということが、何となく分かっていたからで、妹と二人きりになってからは尚更、上手くパニックにならないで生きていく必要性を感じていたからだった。
 だが、竹流は功とは違う考えだった。理屈をきちんと説明しないと気が済まないという共通点はあったが、撫でるように隠すように真に優しくしようとする功や周りの大人たちのやり方に対しては、竹流はいつも辛辣な批判をしていた。お前は可哀想で特別な子どもではない、一人の人間として強くあれと真を叱りつけ、生きるための言葉や意志を与えてくれた。正直なところ逃げ出したくなるくらいのスパルタだったが、身体を鍛え、苦手な分野の勉強を克服し、そして好きな世界を広げる手伝いをしてくれた。
 愛情などではなかっただろう。ただ弱さを逃げ道にしている真に腹を立てていたのに違いない。だが結果的には、功は竹流を信頼し、息子の教育の一切を彼に委ねるまでになっていた。
 お前が妙なものが見えるというのは、大きな括りでは『錯覚』というものだ。怖いと思えば、暗闇ではシーツも幽霊に見える。お前は現実の人間が怖いと言って、頭の中に錯覚の住処を与えてしまっている。現実の世界と折り合えないことに逃げ道を探して安心しようとする。だから競争の中に放り込まれると、すぐに逃げ出そうとしてしまう。時には他人を出し抜いてでも前に出ようとする気概がない。他人への思いやりが深い、というだけではない。ただ傷つくのが怖いからだ。だが、努力もせず、傷つくこともなく、何かを手に入れたり、誰かを守ったりすることはできない。
 いちいち尤もなことを言われるので、時には腹が立つこともあったが、彼のもとから逃げ出し何もできないと思われ続けるのは悔しいと思っていた。見返したい気持ちや、認めてもらいたい気持ちがあったし、それに、真に本当のことを突き付けてくる大人は、彼の他にはいなかったのだ。
 そしていつのころからか、時々竹流は怖いくらいに優しい顔を見せるようになった。ただ相手を威嚇して牙を剥くことしかできない気の弱い野生の生き物のようだった真に、教育を施し、それが実っているという満足もあったのだろう。実際、真のほうも自分が彼のよき教え子であることを自覚していた。
 だが、乗り越えたと思った今でも時々、満員電車の中で冷や汗が出てくることがある。何かきっかけがあるわけでもないが、吐き戻しそうになる。
 一度、一緒に乗った満員電車の中で、手を握りしめられたことがあった。手掌に冷たい汗をかいているのは自分でも分かっていた。電車の窓からは西日が射していて、見上げた竹流の顔に橙の影を作っていた。
 まだ怖いか、と聞かれた。
 時々、と答えた。
 お前は、生きているものがひとつひとつ、とてつもなく重い感情を持っていることを肌身で知っている。だから、それがかたまって沢山いるという状態の中に放り込まれると、それが重い感情のつまった箱の中のように感じる。感情は重いのに、風船のように簡単に破裂する。耳元や遠くで破裂する音が、お前には自分の身体の中で起こっていることと区別がつかないのだろう。
 真にとっては意外な言葉だった。ずっと高いところから真を教え諭してきた相手が、真の傍に降りてきて、そして困惑しているのは彼自身のほうだとでもいうような言葉を投げかけてくる。優しく、不安な温かさが、その握りしめた指から伝わってきていた。
 縋ろうとして指に力を入れた途端、確かだと思っていた手が、すり抜けて行った。竹流の手だったのか、美沙子の手だったのか、あるいは真が手に入れるはずだった未来なのか。
 幻を消すように、ふわりと肩に掛布団が、まさに羽のように落ちてくる。
 真はまたいつものように布団に潜り込んで、胎児のように体を丸めた。


 翌朝、真が目を覚ましたとき、竹流の姿は布団の中にはなかった。真は手を延ばして羽織を取ると、浴衣の上にはおって縁側に出た。
 すでに若者たちが掃き清めた後なのか、庭の枯山水の川は綺麗な白い流線を描いている。
 右手の臼状の水盤が東からの光を受けて、鏡のように反射して広間の方へ丸い光を投げ掛けていた。木々の緑はまだ芽吹くことを躊躇っているようで、重なる枝の隙から、幾重にも光を滑り込ませている。
 縁側にはもう酒壜もかわらけもなかった。内緒で持ってきたのだから、住職が早々に片づけたのだろう。
 広間の障子は開け放たれていた。竹流が濡縁のすぐ傍に立ち、庭からの光を微妙に取り込んでいる広間の天井を見上げていた。真も天井を覗き込んだ。
 もちろん、龍は消えてなどいなかった。どう考えても、そう簡単に消えるような儚い気配はないのだ。
 竹流が真に気が付き、おはよう、と言った。
「よく眠れたか?」
「あんたは?」
 竹流が少しばかり不思議そうに真を見つめ、穏やかな声で答えた。
「夢を見ていたな」
「夢?」
「お前が広間で誰かと酒を飲んでて、俺が見に行ったらお前は飲み過ぎて眠っていて、こっちの部屋に連れてきた、それだけの夢だったけど」
 真は幾分混乱して竹流を見た。
「それ、冗談?」
「どういう意味だ?」竹流はしばらく考えているような顔をした。「本当に飲んでいたのか?」
「いや、多分夢だと思う」
 ちょっと気持ち悪いが、夢が重なるということはないわけではない。あるいは、寝る前に飲んだ酒が、幻覚を引き起こしたのかもしれない。
 あれが夢でも、ひどく切ない想いだけが、胸の真ん中あたりに残っていた。この想いにはどこにも行きつく先がないのだとして、それが辛いのか悲しいのか、それとももう願うことさえ無駄なのか、それどころか自分が何を求めているのか、よく分からなくなっていた。
 美沙子と付き合い結婚する、大学を続けて留学し宇宙に飛ぶという夢を叶える、そういう確かな未来と幸福という足枷を無くした途端、自由がかなり居心地の悪いものだと知ったようなものだ。誰の目にも羨ましいと映るような輝かしい未来は自分に似合わない、などと格好のいいことを考えているつもりでもない。だが、気が付くと、ただ自分自身の感情に振り回されているばかりだった。
 若者の一人に洗面所に案内してもらい、顔を洗った。水は冷たくて、整理できない頭の中を覚ますようだった。それから、また別の若者が朝食を運んできた。朝食を終えると住職が現れて、竹流と真を本堂へ案内した。竹流は住職の説明を聞きながら、修理しなければならない小さな仏像や仏具を確認していた。
 竹流は本堂の脇廊になっている畳の上で、いくつかの道具を広げて仕事に取り掛かった。真は側に突っ立っていたが、結局することもなくて、竹流の側に座った。
「お前、暇だったら散歩でもしてきたらどうだ? 少し下れば曼殊院や詩仙堂、それからちょっと歩かないとならないが銀閣寺もある」
「うん」
 返事は一応したものの、真は動かなかった。
 竹流は小さな木の仏像から丁寧に背板を外し、中の朽ち具合を確認し始めた。
「それ、どうなるんだ?」
 何か話しかけていないと気まずい気がした。もしも夜中に見た光景が夢ではなかったのなら、本当に彼の手が触れ、この身体を抱き上げられたのだとしたら、あの時流れ込んできた記憶の断片は、竹流自身の記憶なのだろうか。あの西日の中に浮かび上がった姿が、怖いほどに美しく思い起こされる。
「これは一木造りの仏像だからな、ひび割れを防ぐためにこうやって背面から内部をかき取ってある。そこに蓋をするのに背板という板を嵌め込んであるんだ。和尚の話では、建物のどこかを補修改築したときに出てきたらしい。下になっていた部分がだいぶ腐ったようになっているので、そこを腐食止めして、あとは像の前面にまで及んだ腐食をどうするかだな」
 仏像を確かめる指先、そこにつながる関節の優雅な屈曲に、真は震えた。
「十世紀から十二世紀になるとほとんどが寄木造りになるから、これは平安時代前期くらいまでの作品なんだろう。作風からは奈良というより平安のものだな。一木造りは、ひとつの木から一気に失敗なく彫り上げないといけないから、その鑿の運びに気迫があって、こうしていても気圧されそうなときがある。こんなに朽ちていてもな」
「弥勒菩薩?」
 声が上ずっているようではしたないと思ったが、竹流は気が付かなかったようだった。
「よくわかったな」
「灯妙寺のとよく似ている」
 北海道から孫のために出てきた真の祖父母が、今東京の白山にある灯妙寺に住んでいる。寺の住職は、真の祖父の剣道仲間で、彼らはそこの離れを借りていた。
「灯妙寺の弥勒菩薩も禅定印を結んでいたな。奈良時代までは半跏思惟像が主流だったが、その後はむしろ立像や座像が多い。もったいないな。この瞑想に耽る尊顔は、この世の物とは思えない。保存状態がよければ国宝級の出来栄えだ」
 竹流は背板の裏を確かめる。真も一緒に覗き込んだ。木そのものがかなり痛んでいるので分かりづらいが、何か文字が書かれている。
「何?」
「年号だな。室町時代のものだ」
 竹流は目を細めるようにして背板の文字を確認しながら、先を続けた。
「だが、日本人というのは、何故かこういう朽ちたムードを好むからな。そういうムードを残しながら、如何に修復するかが問題だ。まぁ、修復という言葉の意味合いも、それに対する世の中の期待も、時代とともに変わっている。だが、西洋の聖堂にしても宮殿にしても、やはり東洋の寺院だって、建てられた当初は金銀極彩色の絢爛たる姿だった。それは財力や権力を示すためだけではなくて、天国や極楽というのは類稀なる美しさである、という人間の憧憬の気持ちから出ている。本当はキラキラにしてやりたいんだけどな」
 竹流は背板の裏の文字を目で追い続けていた。後半は独り言のようだった。

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これからお世話になります(相川真) 

相川 真
*この解説は次作『海に落ちる雨』の時代(相川真27歳)をベースに書かれています。というわけで宣言通り、ネタバレ多少あり。
生年月日:1952年11月17日(蠍座)。
父親は相川武史、母親はドイツ人とのハーフで真自身は会ったこともない(と思っている)。
育ての親は祖父母→伯父→大和竹流?
血液型:AB型
身体的特徴:身長は多分170cmくらい? あまり大柄ではない。意外に筋肉はあるはず。髪の色はかなり茶色に近い。目は右がかなり碧色、左は割と黒めで、いわゆるヘテロ。
出身地:生まれは東京。赤ん坊のとき祖父に引き取られ北海道の浦河へ。11歳の時に東京へ。
学歴:公立中学に行っていたが、苛めのため登校拒否。中学1年生で上級生に暴行されて相手を病院送りにしてしまったため、伯父の留学についてカリフォルニアで1年を過ごす。帰国後、私立聖幹学院へ編入。某国立大学工学部を2年で中退(ロケットを飛ばすつもりだったけど、やけになって辞めた?)。勉強を教えてくれたのは基本的に大和竹流。小学生の頃は多分アイヌ語が理解できていた。
職業:大学中退後、バイトをしていた縁で唐沢調査事務所で雇われていたが、所長が保険金詐欺で事務所を爆破してしまった。以後、唐沢の友人名瀬弁護士の事務所で働いていたが、エリート社会に馴染めず、すぐ脱落、結局仁道組(平たく言うとヤクザ)の持ちビルで調査事務所を経営している。浮気調査もするが、事務所の売りは失踪人調査。未成年の失踪事件は何故か鼻が利くので得意(犬猫探しも?)。
特技:裸馬に乗れる、犬や馬と喋れる、もののけ・あやかしの類が見える(その一部とは喋れる? 多分に子どもの頃の孤独が尾っぽを引いている)、祖父の手ほどきで太棹三味線を弾く(叩く)、星の名前をやたらと知っている、宇宙が舞台のテレビドラマ・映画・小説(SF)については薀蓄を語れるはずだが、人と話すのが苦手なので語らない。
趣味:というほどのものはない。時間があると灯妙寺という寺で剣道をしている。身体を壊すことが多かったので、反省して、健康のためやたら走っている。読書は正体不明の天文学・宇宙理論の本を、精神的安静のために読む事がある。数字の羅列を見ると安心するという(無限を感じる?)、どう考えてもアスペルガーか自閉症気味。
嗜好:酒は基本的にほとんど飲めないが、同居人(大和竹流です)がうわばみのため、多少は付き合うようになった程度。煙草は好きでもないのに吸っている(北海道に帰ると全く吸わないようです)。ヘビースモーカーではないが、気が付くとやたら吸っている時がある。食生活は比較的恵まれている(妹、同居人が料理好き)。
病歴:小学校の検診で心室性期外収縮・心室頻拍でひっかかるが放置している。扁桃腺を腫らせやすく、よく熱を出すが、切除はしていない。19の時、北海道で崖から落ちて死にかける(自殺・事故説あり)。身体・頭にはその時の手術創が残る。このとき脾臓破裂を起こしていて、切除している(ちょっと感染に弱い。最終的には肺炎球菌にやられちゃうので、ちょっとした伏線)。胃潰瘍で入院歴あり。北海道が恋しくて、東京で時々パニック障害になっている。多分、子どもの時は、調べたら半アスペルガーか自閉症に近かったはず。赤ん坊の時に、義理の母親に首を絞められて、PSTDの気配あり。つまり傷だらけなんだなぁ。記憶はくちゃくちゃだし、何より崖から落ちたときの記憶が一部飛んでるし(逆行性健忘)、脳の方は結構傷だらけだろうから、変なものが見えちゃったりするのかも。そういう傷を抱えてもやっていけている理由は、育ての親が良かったから、という以外の何物でもない。
女遍歴:高校時代の同級生、篁美沙子と身体の関係から入って、5年間付き合って振られた(原因は真の優柔不断と言われているが、本当は美沙子ちゃんに本心を見抜かれていた…「あなたが未来を共有したい相手は私じゃない」)。多分、一般的思春期の男の子そのままで、ただただやりたい、って時期があったんだと思う。でも優柔不断なりに真剣で、そのまま付き合っていたら結婚していたと本人は思っているし、指輪も買っていた(贈る前に振られた)。美沙子と付き合っているときは、多分大和竹流とも完全に精神的蜜月だったので、敏感な女性から見たら、何だよこの男、ってことになるわけだけど、本人は気が付いていない。美沙子に振られたあと、唐沢所長にやたらと女をけしかけられ、それなりに複数の女と関係を持つ。24のとき、妹の結婚式で知り合った小松崎りぃさと数ヶ月付き合ったが、りぃさは自殺。その後、銀座のバーのママ・香野深雪と身体の関係を続けている。初恋の相手は妹(正確には従妹)の葉子で、小学生の時に初めて会った時に、お伽噺のお姫様が目の前に現れたと思った(大袈裟ではなく本当に)ため、彼女をどこかで『女』とは見れなかった気配あり。『女』としての初恋の相手は、大和竹流の恋人の一人、室井涼子。これまでに一度だけ寝たことがあり、多分忘れていない。因みに真は結婚後、涼子と不倫関係になっている。どういう心境だったのかは後のお楽しみに。ついでの因みに、結婚後一度だけ美沙子と再会して、何度か逢瀬を重ねているものの、結局こっちはキス止まりだった(キスをしちゃった日に奥さんが流産したため、良心の呵責があったのかもしれない)。こんな男だが、奥さんのことは本当に愛していたと思うけど、この夫婦が心の中で想っていた相手は、実は同じ人だったんですねぇ。ちょっと切ない話ですが、これも後のお楽しみに。多分、この男と付き合える女は特殊な人間ばかりだろうと思うし、決して一般的な女にもてるタイプではない。興味は覚えられるかもしれないけど。
男遍歴:東京に出てきたとき、伯父の秘書のような仕事をしていた大和竹流が家庭教師で、師弟愛なのか親子愛なのか、本人もわからない微妙な感情を持っていた。もっとも高校生のときは、何度か本気で挑発しているから(その結果どういうことになるかは分かってないという、無神経と無計画な面がある)、多分相当本気だったかもしれないし、若気の至りだったかもしれない。思春期って同性に憧れるものですから…これが美沙子と付き合ってなかったら、その時点で暴走していた可能性はある。妹を嫁に出した後は、一人で生活ができないため(?)大和竹流のマンションに転がり込んで既に2年半。世間では「恋人」という噂もあるものの、実際は身体の関係は(昔のことは棚に上げて)ない。中学生の時、諸事情のため写真のモデルをしていたが、そのカメラマンと火遊びをしている。本人は全く愛だの恋だのという感覚はない。ちなみに色恋ではないが、年下の男(子どもも含めて)にはかなり好かれる傾向にある。結婚後に灯妙寺の離れに住んでいるが、剣道を教えたり、子どもに勉強を教えたりしている。平等感覚が強く、人を区別・差別しない(というより差が分からない?)から、居心地がいいのかもしれないが、じつは人間と犬・馬など動物とも区別がついていない可能性があるので、注意。同世代の男には、大概敬遠される(親友以外)。かなり年上の男の保護意欲を煽る傾向がある。特に一人でいるとまともに飯を食わない人間なので、何故か年上の男にご飯を奢ってもらうことになりやすい?
作者のひとこと:とにかく私にも未だに分からない人。私が小学生の時にはもうそこにいた。多分、彼に見えている『蕗の下の人(コロボックル)』は私にとっての真さんと同じ。ずっと友達で、ずっと私の代わりに考えてて、私の裏側にいたような人。時々、彼がどう感じているか、そのまま出てきちゃうこともある。それなのに、永遠に分からない人なんですね。

Category: ☆登場人物紹介・断片

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これからお世話になります(大和竹流) 

大和 竹流/ ジョルジョ・ヴォルテラ
生年月日:1943年4月23日(牡羊座)。
血縁関係ではないがヴォルテラの先代がファシズムの煽りを食らって謀殺されたその日に生まれている。誕生日はまさに聖ジョルジョ(ドラゴンを退治した英雄・聖人)の記念日。父親はその家系に教皇さえ出した名門貴族ロヴェーレ家の長男(ということになっている)、母親はスウェーデン貴族の女性。母親は生まれて直ぐに家出をしてしまい、ほとんど会ったことがない。記憶にないくらい小さい時に、ヴォルテラ家を継いでいた叔父チェザーレ(父とは一卵性双生児)に引き取られ、以後ヴォルテラ家の養子となっている。チェザーレにはもう一人息子がいるが(リオナルド。ジョルジョには従兄になる)、何故か始めからジョルジョに跡を継がせると決め付けていた。ちなみにリオナルドとジョルジョはものすごく愛し合っているかも(勿論、家族愛です。まさにイタリアのファミリーのイメージ。リオナルドは弁護士でイギリス人女性と結婚してロンドンに住んでいる。ジョルジョがヴォルテラ家に戻ってきたら、助けるためにローマに戻る気満々)。日本に来てから、詐欺?で元華族の大和顕彦の養子になり、結局乗っ取った形になっている。
血液型:B型
身体的特徴:180cmは超えているが、多分本人もまともに測ったことはないかも。髪はややくすんだ金で軽くウェーヴしていて、瞳は青と灰色の中間のような色。
出身地:生まれも育ちもローマ。人には言わないが、本当にローマの町を愛している。
学歴:小学校は普通に行っているかな? その後は叔父のスパルタ教育を受けていて、教師陣は各分野の第一人者が選ばれていた。まさにルネサンス時代のサロン並み。基本的に帝王学を学ばされているはずだが、特に歴史の知識は物凄い。一方で、ある修復師と出会ってから絵画・美術品にのめり込み、ジョルジョーネの絵が欲しくて、所有者である有名なソドミストと遊んだら怒られて、半年ばかり神学校に放り込まれていた時期がある 。ここで生涯の友・先輩になるジュリオ・カヴァリエーリと会っているので、悪いことばかりではなかったはず。
職業:美術品の修復師。叔父に隠れて(ばれてるけど)、イタリア随一の修復師のところに入り浸っていた。絵画・タペストリー・金細工、とにかく教会の中のものは何でも直すという凄腕の修復師で、ジョルジョを大変見込んで可愛がっていたが、ヴォルテラの跡継ぎであることをひどく嘆いていたらしい。ジョルジョがローマを飛び出したのは、この修復師が事故で(実は甥を取り戻すためのチェザーレの差し金だったという噂もある)手を使えなくなって、その後亡くなったことが原因。亡くなったとき、ジョルジョに貴重な古い修復の材料を全て遺している。日本に来てからは、日本画・障壁画・屏風絵・浮世絵の修復を学び、今ではその道でも知る人ぞ知る第一人者。裏の顔、とまではいかないが、トレジャーハンターっぽい仕事(というより趣味かも)もしている。そのお蔭で世界各国の美術館・博物館に顔が利く。彼自身はこの仕事を『泥棒』と呼んでいる。銀座のビルを譲り受け(女をたらしこんで)、画廊・レストラン・バーを経営している。画廊が儲かっているかどうかは不明だが、美術コンサルタント(特に企業や大富豪の財産管理という側面で)としてはかなり儲けているはず。レストランはイタリアンだが、これは実は物凄く儲かっているようです。しかし、本当の職業はジゴロではないかという噂も? 金を持って歩かなくても、どこにでも面倒を見てくれる人(女か年寄り?)がいるらしい。
特技:料理。とにかく食材にこだわる。5分で(というより見つめるだけで)女をその気にさせる。実はピアノが弾ける。年寄りに取り入ること(というより、単に腕に覚えのある年寄りと話すのが大好き)。人前で歌うことはほとんどないが、聞いた人によるとかなりの美声。真の祖父長一郎に教えられて江差追分が歌えるというので、作者も一度聞いてみたい。
財産・その他:屋敷は多摩の大和邸、港区のマンション、京都の岡崎にある東海林家。その他に隠れ家多数(年寄りの家?)。車は仕事で使うものは別にして、愛車はフェラーリ・テスタロッサ。フェラーリの会長の許可でエンジニアのトップが試用でヴォルテラの御曹司のためだけに作った特別仕様車。時計は多分こだわっている。靴・スーツは勿論国元からお取り寄せのテーラーメイド(多分お気に入りの仕立て屋がいるんだよ。町の片隅でやってるような、彼の身体の寸法なら1mm単位で知っている、みたいな。そういうのはチェザーレにも言えてる)。しかし、何故か寝巻きは、真の祖母・奏重の縫った着物。これが一番寝心地がいいとのこと。といいつつ、意外に普段マンションではラフな格好で過ごしているし、軽トラックに乗ってても似合うという、妙な一面を持つ。エプロンは真の妹・葉子の手縫いを大事にしている。つまり身につける物には妙なこだわりがあるのだけど、ちょっとずれてることもある。
趣味:仕事が趣味と実益を兼ねている。背中に火傷を負うまでは、やたらと泳いでいた。ロッククライミングを楽しむ(これもトレジャーハンターとしての実益込み)。
嗜好:煙草は吸わない。ただただ旨いものの味が分からなくなるのが許せないから。ただし、ヴォルテラ家の女中頭マリアの巻く葉巻だけは別で、たまに吸っている。酒はうわばみ。何でも飲むが、ナイトキャップはブランディ(コニャック)。ワインの話は何時までも薀蓄を語り続けるので、聞かないほうがいい。長一郎と語り合うときは日本酒だが、深酒になることが多く、このときばかりはかなり出来上がってしまう。
女遍歴:言うだけ無駄。女は口説かなければ失礼にあたる、と思っているのかどうかは分からないが、当たらずとも遠からず。しかも知ってか知らずか甘えん坊を演出するような男。ただし、生涯離さないと決めている女は実は京都の祇園に一人いる。基本的にやり手の年上の女が好きだけど、多分マザコンの裏返し(母親のことは全く覚えていないという話だが、イメージの中にいる母は父の後妻になった女性。優しい人だったようだが、ある時『女』の本性を見てしまい、多分母親というものにはいいイメージを持っていない。だから子どもを作りたくないと思っているらしい)。
男遍歴:基本的にはない、と言いたいが少年の頃は火遊びのひとつはしている。しかし、この人は基本的には態度は別にして、物凄くカトリックの教えに縛られていると思うし、意外に戒律に対してストイックな面がある。友人は多数で、かなり大事にして、されていると思う。仕事上パトロンと思しき年上の男は世界中にいるが、さすがにヴォルテラの跡継ぎとしての貫禄はあるし、手出しするような馬鹿はいなさそう(多分チェザーレに殺される)。
苦手なもの:子ども。無遠慮でうるさいから。でも、本気になるととことん付き合う人かも(それが真だったわけで)。親というものにいいイメージを持っておらず、自分は生涯子どもはいらないと思っている。
*実際は3人子供ができる。全て母親は違うし、若気の至りで、彼自身生まれたことさえ知らない子どもが1人いる。それが真のひ孫の父親であるということは、実は誰も知らない…真の子ども(慎一)は気が付いていただろうな。因みに、それを除くと、実際ちゃんと結婚したのは真のやしゃ孫(♀)と竹流のひ孫。あとはヴォルテラ家の正統後継者のアルベルト君(ただし母親は女中だった。ややこしい人だなぁ。結婚した女性とは親子ほど年が違ったんだけど、多分それなりにいい夫婦だったと思う)と結依という娘(母親は真の奥さんになった橘舞。本当にややこしい人だなぁ。でもこれはわけあり)。…このあたり、私の『源氏物語』への挑戦がものを言ってる。子どもは3人、という点までも。
作者のひとこと:隠れ主人公、と思っていましたが、もう今では隠れてもいない、という説もあり。実は先の物語では主役はこの人の方ですし。私がここまで苛めたくなるのがいい証拠。男前であらゆる意味でスマートな人だけど、心の中に鉛を抱えている、そういうところが美味しいのかもしれません。『一応主役』よりも長い解説がその証拠。簡単に言うと、愛おしいんです。真さんが現れて、遅れてこの人が出てきたわけですが、それでも無茶苦茶古いキャラ。その中でもっとも位置付けが変わったのはこの人かもしれない。

Category: ☆登場人物紹介・断片

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❄5 古文書 仏の道 迷悟 

 竹流が仕事を始めてからどのくらい時間がたったのか、真は出掛けることもなく側に座り込んでいた。時々、本堂の内陣の奥を見ると、細いながらも筋肉質なご本尊の腕の上で、光が落ち着く場所を替えている。やがて住職がやってきて、竹流の手元を見ながら感心したように頷いた。それから、真の方を見て問いかけた。
「退屈されておられるなら、私の仕事を手伝って頂けますかな」
 真は一瞬竹流の方を見たが、すぐに住職に向き直り頷いた。
「力仕事くらいしかできませんが」
「大いに結構」
 住職は竹流に向き直った。
「では、お連れさんをお借りしますぞ」
「十分こき使ってやって下さい」
 竹流は微笑むようにそう言うと、またすぐに手元に視線を戻した。
 住職は真を連れて冷えた長い廊下を奥へ進み、一旦建物を出ると、細長い中庭を通って二階建てほどの高さの古い蔵へ誘った。袖口から時代劇に出てきそうな古びた鍵を取り出し、蔵の重い扉を開ける。
 蔵の中から、渇いた重い空気と上方から落ちてくる煙った光が流れ出した。
 一瞬、色々なものが真の五感に触れていった。
「虫干しではありませんがな、時折こうやって開けてやらんと、古い気が籠って、どうなるものやら知れません。それに、私も年をとりましての、あの上に上るのはなかなか骨の折れることになりましての」
 住職は長い木の梯の上方を指した。さして大きくない蔵の中では、階段らしいものはなく、上方の棚へ手を延ばすには細い梯のみしか手段がなかった。棚、と言うよりもメゾネット式の中二階がさらに中三階まであるような造りだった。
「近々、近くの庵で茶会がありましてな、さて、どこに豊臣家から拝領の茶碗をしまったやら。忘れっぽくなって困りますな」
 真は、住職の不安げな記憶に従って、茶碗、茶杓、茶入、水指はもとより、香合や蓋置き、掛軸といったものを上方の棚から探した。しかし、住職の記憶は曖昧どころか、恐ろしいほど正確だった。
「お茶は嗜まれますかの?」
「祖母が、師範なので」
 それを聞いて、住職が茶碗の木箱を開けてくれた。
 豊臣家から拝領と言うので、さぞ派手やかな黄金の茶碗かと思いきや、漆黒の楽茶碗だった。持たせてもらうと、思ったよりも重く、しっくりと手に納まった。もったりとした土の質感が伝わるような茶碗で、濡れているわけではないのに湿度が感じられ、そのしっとりとした湿り気のためか手肌から離れてくれない。じっと見つめていると、蔵の高いところにある小さな明り取りの窓から差し込む光で、漆黒のはずの茶碗に仄かに桜色の光が浮き立った。
「せっかく久しぶりに出してやりましたからの、後で一服差し上げましょう」
 一通り必要なものを出し終えると、住職は真に言った。
「虫干しには随分早いですが、この機会に一度、掛軸と書物の棚を改めましょうかな」
 住職はそう言って、蔵の奥に真を誘った。真は言われるままに、書物の入った重い木箱をいくつか床へ降ろした。
 住職がその箱を開けると、重い空気とともに様々な想いが迸りでた。真は一瞬、一歩後ろへ下がった。何か抗しがたい畏敬の念が湧き起こり、そうせざるを得なかったのだ。
 ふと気が付くと、住職が小さな目で真を見つめていた。
「あなたは、何やら思い悩んでおられるようですな」
 そう言いながら、住職は木箱へ視線を戻し、中の書物を確認しつつ、木の台の上へ出していった。真は穏やかな小さな姿を見つめていた。
「あなたはお若い。これまでの自分、つまり自分に責任のない出自も含めた来し方ゆえに、行く末も決まってしまうように思ってらっしゃいますな。上手くいかないのは、自分の中の何かが悪いのだと思っておられる。起こったことに対して、自分の中に悪い理由を捜して、それに怯えてしまっている」
 真は住職の手元を見ていた。住職の手は大人のものとは思えないほど小さく、刻まれた皺は別の生き物のようにさえ見えた。その手が滑るように動き、書物を分別している。
「しかし、若いものも年老いたものも同じですがの、人間はこれから自分がなっていくものにしかなれんのです。それは、あなただけが決めることができる。自分の信じた通りに行きなされ。本当に間違った道ならば、逃げ道はありませんでしてな。だが、その時は自ずと分かるものでございますよ。それに、大概の場合、よく見れば仏は逃げ道を残しておいてくれております」
 住職の言葉は読経のように淡々と続いた。意味がよく分からない者にもニュアンスだけは汲み取れるほどのゆったりとした言葉は、真にも何かを届けるような気はしたが、理解はできなかった。
「何もかも上手くいかなかったのに、ある場所にはまり込んだ途端に、色々なことが歯車が噛み合ったように動き出すことがございます。仏の世界では、理解できないことは捨て置くことも修行でしてな、意味など自ずと湧き上がってくるまで考えんことです。人の人生というものは、その時その時が点で存在しているものではございません。生まれたときからの流れ、線がございましての、それをきちんと眺めてみれば、ないと思っていた道がちゃんとある。自然に浮き上がるように見えてくるのでございますよ。さて、そこからは歩く勇気が必要でございますがの。何しろ、見えた道が平坦とは限りませんでしてな」
 住職は真に語っているのか、それとも独り言を言っているのか、はっきりしないほどの穏やかな調子で続けた。
「あなたは優しいお人ですな。優しいお人にしか、あのものたちは見えませんでしてな、いや、あなたという人がわかって、あのものたちは姿を現したのでしょう」
 真はようやく息をすることを思い出したような気がした。
「僕は」何かが言葉になりかけて喉で閊えてしまった。「自分の心が、恐怖や悲しみや猜疑心が、形になって現れているだけではないかと思います。精神科医のところに通っていたこともあるし、つまり僕は思い込みの激しい人間で、木の中に顔が見えると言われれば、本当に見えてしまう」
 住職はほっほっと柔らかく笑った。
「猜疑心や恐怖では、あの子どもの姿はみえませんな」
 真は住職が何を言っているのか、結局よくわからなかった。
 住職は話しながらも、いくつかの書物と巻物を分けていっているように見えた。
「さて、全て目を通したわけではありませんでしてな、あの方が龍の話をなすったので、思い出しましたが、何やらそれにまつわる書物が色々とあったような」
 住職が選びだしたかなりの数の書物や巻物を、別の木の箱に移して、真はそれを広間まで運んだ。と言っても、この文書はどう見てもかなり古い書物で、この住職は外国人の彼がこんな古文書を読めると思っているのだろうかと、不思議に思った。
 だけど、あいつなら読むんだろう。
 床の間の掛軸もすらすら読んでいたし、実際、職業ゆえとは言え、竹流の言語や形態認識の才能は半端ではなかった。
 それは彼が真に勉強を教えてくれるときにも発揮されていた。文字を覚えることに幾らか困難があった真の前に、竹流はすらすらと見たこともない国の文字を幾つも、魔法の呪文のように書き並べて言った。
 文字だと思うと苦しければ、模様だと思えばいい。お前はものを覚えるときに写真を撮るように景色を頭に入れるという才能がある。だから文字を景色にしていまえばいい。意味など後から湧き出してくる。全ての言葉には意味がある。書き言葉と話し言葉の違いはあるが、お前が幼い頃聞いていたアイヌの言葉と同じだ。言葉を学ぶことは思考を学ぶことだ、そして思考を学ぶことで人は形が作られていく。良い言葉を学ぶことは、いつかきっとお前を助けてくれる。
 学校で教えられた言葉は全く意味をなさなかったのに、竹流が勉強を教えてくれるようになって、ルービックキューブの色が縦に横に並び始め、やがて面が出来上がった。だから今では、彼との会話には不自由を感じることはない。真にとっていいことも悪いことも、彼の言葉ならちゃんと理解できるし、真の方からも言葉を返すことができた。それが、他の人が相手だと、突然に意味が分からなくなることがある。
 昼ご飯の準備ができました、と若い僧が住職と真に声を掛けた。住職に言われて、真は竹流を呼びに行った。
 竹流は本堂の脇廊の畳の上で、まだ同じ姿勢で胡座をかいて座っていた。その側にはいくらか手直しの済んだものたちが置かれていて、彼がかなりのスピードで仕事をこなしていることがうかがわれた。その手の中に黄金に光る仏具があり、窓の障子から零れる淡い光を跳ね返し、真の目にまた錯覚を映した。
 住職の説明によると、ここの本尊は金剛界大日如来で、大きな像ではないが、周囲に五智如来の他の四如来を配し、智拳印を結ぶ手、頭に抱いた宝冠、薄い衣にも、古い時代の黄金の名残があった。江戸時代の作とのことで、その時代、すでに仏像製作は絶頂期を越えてはいたというが、それでもこの大日如来は、光明を宇宙全体にあまねく照らし出すようだった。
 その向こうに、竹流の姿が光に照らされて浮かび上がっていた。黄金の仏具に触れる指にはそのまま金が跳ね返り、光にけぶる金の髪、俯いた横顔の輪郭までも光の中に溶け込んで、まるで彼自身の身体から光明が発せられているように見えた。
 これは手の届かないものだと、そう思った。確かなものを握っている手も、正しい言葉を語る唇も、この世界の遍くものを映し出す光を宿した瞳も。
「飯だって」
 声は自分自身の喉を通ってきたものかどうか分からないほどに、耳の外側から響いてきた。
 竹流は一瞬の間を置いて真を見た。それから、手に持っていた黄金の仏具を、滑らかな手の動きで畳の上に広げられた布の上に置き、思いきり伸びをした。
「あー、身体が固まってしまったな」
 のめり込んでしまって、同じ姿勢のまま根が生えるような状態だったのだろう。
「何、手伝ってたんだ?」
 竹流は言いながら立ち上がろうとして、一瞬足が痺れていたのも気がつかなかったのか、多少バランスを崩した。真は思わず手を差し出して、彼の腕を摑んだ。
「大丈夫だ。根を詰めすぎたな」
 言いながら、竹流は真の腕に軽く触れ、そっと逃れた。
「和尚さんが、あんたに見せたいものがあるって」
 広間で食事をしながら、真は住職が出してきた書物の話をした。
「読めるか?」
「多分な。わからなかったら和尚さんに聞こう」
 暫く黙って箸を動かしていたが、そのうち竹流がふと手を止めた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
 真は竹流を見た。竹流がまだ怒っているのかどうか、よく分からなかった。
「落ちついたって?」
「気分がだよ」
 真は何とも返事をしなかった。
 午後からも、竹流は目一杯時間を使って修理修復作業に勤しんでいた。
 真は住職に奨められて、午後のお勤めに同席した。本堂の中で、住職の朗々たる読経の声だけが響いた。小さな体とは思えないほどに、彼の声はよく響く。時々、脇廊にいる竹流が手を止めて住職の姿を見つめているのが、真の視界の隅に入った。
 真は目を閉じた。
 緩やかに流れ去るように、本堂も京都も日本も地球も薄れて消えてゆき、宇宙空間に漂った。住職の読経の声と共に、突然に宇宙嵐のような大いなるものの意識の風が身体を吹き抜け、真の意識をはるか彼方へ翔ぶように運んだ。その有機の壮大なる空間の中に身体も意識も溶け出すと、DNAは物凄い勢いで螺旋を駆け戻り、真は自分が、宇宙の中でまだ小さなひとつの細胞だった時に戻るような感覚を覚えた。
 小さなただ一つの細胞が、太古の原始の海で漂っている。一人で孤独を暖めるように、そしてもう一つの小さな細胞を探している。
 あぁ、同じだ、と思った。
 思ったが、それが何と同じなのかよく思い出せなかった。ただ、読経の中に住職の言葉が蘇るようだった。
 人の人生というものは、その時その時が点で存在しているものではございません。生まれたときからの流れ、線がございましての、それをきちんと眺めてみれば、ないと思っていた道がちゃんとある。
 自分の遺伝子の中に残されている単細胞の時代からの記憶。それは途切れることなく、線として今の自分の位置にまで繋がっていることは、自然に了解できた。ただ、その先の道はまだ浮き上がってこない。真は目を閉じて、ただ心を空っぽにするように努めた。


 午後遅めの時間になって、蔵から出した茶道具を清め終え、炭を熾して湯を沸かし、住職がお茶を点ててくれた。
 身体の小さな住職は、炉の向こうにすっぽりと納まって見えた。
 しかし、お手前は優雅で、まるで神の舞を見るかのように、流れるような手で、大きく穏やかな気配に充ちていた。二帖ほどしかない茶室では、住職が茶を練り始めると、その匂いが立ち篭めるように薫った。
 今朝蔵から出されたばかりの茶碗は、どのような歴史を見つめてきたのだろう。歴史の渦に呑み込まれるような時代、茶室の中では様々な権力や欲望のやり取りが交されていたのだろう。そういうものを全て呑み込んで、茶はこの小さな空間で、今と変わらない震えるほどに心地よい薫りを放っていたのだろうか。
 竹流と並んで濃茶を頂き、服み終えた茶碗を拝見すると、黒地に茶の緑が染み入るような沈んだ耀きを見せる。茶碗を戻し、水指の蓋が閉まると、竹流が拝見を乞うた。三つ鳥居の蓋置きがすっと住職の手に吸い込まれるように片づけられ、茶入が清められて定めの位置に出され、続いて茶杓と仕覆も並んだ。
 茶入は美しい古瀬戸の文彬で、流れる釉薬の灰がかった茶が黒い面に優雅な文様を示していた。仕覆は古いもので、見たところ何かの宝尽くしのようだった。古渡という古い時代の舶載物で、釣石畳金襴と教えられた。
 茶杓は、恥ずかしながら、と住職が説明した。
「若いころ、私が自ら削りましての、その竹はまぁ、見事に美しい竹でございましたが、嵐で倒れましての、どうしても遺したくて削らせて頂きましたのじゃ。今見ても、あの時のしなやかに天に向かって立つ美しい姿が、蘇るようでございますよ」
「では、どのような銘を?」
 竹流が尋ねると、住職が答えた。
「迷悟、と」
 真は、少しの間漢字が思い浮かばずに、考えていた。
「この世にあるものは全て消えゆく定めにございます。その美しい姿を遺したいと思ったのは、やはり迷いの心でございましょう」
 竹流は茶杓を手に取り、しばらく何も言わずに見つめていた。真は、丁寧に茶杓を扱う竹流の手を見つめていた。優雅で綺麗な手は、修復作業を始めると職人の手になる。その手は古いものたちの匂いを沁みこませ、降り積もった年月の残骸は、幾日かは洗っても取れなくなる。
 真は竹流の左薬指に指輪がないことに気が付いた。修復の仕事の時以外は決して外すことのない指輪だ。茶室で指輪を外すという作法を、この異国人はちゃんと知っている。
 代わって薄茶が点てられた。濃茶を口にしたときは、茶の香りばかりが脳髄の奥まで浸み込むようだったが、今度はふと水の味が気になった。何と美味しい茶だろうかと思ったのだ。
「この水は?」
 真が尋ねると、名水点てではございませんが、と言って住職が別の茶碗を持ちだして、水指から水を汲んでくれた。
 口に含むと、身体に染み込み充たされるような霊水だった。
 真が尋ねるように住職を見ると、住職は微笑んだようだった。
「意外ではございましょうがの、広間の脇の水盤の底の水でしてな、朝一番に汲み置きますと、このように香り立つような水でございますのじゃ」
 真は両手に包み込むように持っている茶碗の中の水を、しばらく何とも言わずに見つめていた。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄6 龍の絵師 夜の鶴 もうひとつの指輪 

 夜になると、竹流は布団の上に胡座をかいて何冊もの書物にのめり込み始めた。
 真は竹流に言われて、先に布団に潜り込んで横になった。竹流は側に真がいることも忘れているのか、一心不乱に書物に向かっていて、時々、目印なのか栞のようなものを挟み込んでいた。
 途中で若い僧が手元の灯りを持ってきた。どうぞ、と灯りを勧める若い僧は、あの幾らか目つきの鋭い若者だった。その曖昧な白っぽい灯りが作る視界の中に、若者の手の甲が浮かび上がる。布団の中で半分身体を起こしかけていた真は、そこに幾つもの丸いひきつれや切り傷の瘢のようなものを認めた。思わず顔を上げると、若者の目が真を見てにっと笑った気がした。
 不遜なその目には見覚えがある。
 真が唐沢調査事務所と関わりを持つようになったきっかけは、伯父の功の失踪事件だった。功の同級生の内科医が、友人の弁護士を通して優秀な調査人を紹介してくれたのだ。
 始め唐沢を見て驚いた。どう見ても社会からの脱落者で、言動はいい加減、いつも酒臭く、女とギャンブルが好きで、他人の懐を狙っているような男だった。だが、周囲で聞く噂では、意外なことにこの調査事務所の仕事は業界でもトップの優秀さだという。確かに、唐沢の交流関係は真の想像の範囲を軽く地球一周分は飛び越えていた。あらゆる水商売、違法なものもゲイバーにも、あるいはヤクザ事務所、政治家事務所、大企業にも、唐沢は堂々たる様子で出入りをしている。真が感心したのは、そのどこへ行っても唐沢の態度が全く変わらないことだった。その人脈の裏に何があるのかは分からないままだが、極めて豊富な情報網を持っている唐沢のところへは、時々未成年の家出相談が持ち込まれる。
 真が初めて唐沢に会ったとき、唐沢は視線で嘗め回すように真を見て、にたり、と笑うと、お前、うちでバイトしねぇか、と誘った。唐沢が真の何を気に入ったのかはともかく、真がクライアントであることはいつの間にか忘れ去られ、今では真は唐沢調査事務所の未成年家出事件の担当、ということになっている。
 確かに、真の持っているある種の記憶力と、染めたわけではないが明るい髪の色と異質な目の色、それに社会的立場や上下関係を全く理解できないという『能力』は、社会や家庭からはみ出てしまった若者たちに警戒心を抱かせないという特質を伴っていた。
 その仕事の中で出会った、真とそれほど年も変わらない若者たちの目。それは、どうしても何ものとも折り合わないという決心を突きつけ、一方で不安に怯えながら自分自身を探して躓き、さらにそれを隠すように傷ついた羽根を大きく広げて相手を威嚇しようとする、そういう目だった。真自身が今でも時々そういう目をしていると、唐沢に言われることがある。
 真は若者の視線を避けるように、竹流の手元を見て、それからその手が何かを察したように自分の頭に載せられたのを感じた。寝ていろという意味なのか、何も気にしなくてもいいという意味なのか。若者が、真が避けた視界の隅でまた笑った気がしたが、直ぐに障子が閉められた。真は眠る努力をしようと布団に潜った。
 寒気がして夜中にふと目を覚ますと、竹流は布団に横になってはいたが、まだ本を読んでいた。その灯りに照らされた横顔が、いつか見たイコンに描かれた聖人のように思えた。
 そう言えば、彼の名前、日本名ではなく彼の本当の名前の由来が、ドラゴンを退治した聖人の名前からきていると聞いたことがあった。
 その聖人がドラゴンを探している。
 退治されるくらいだから、西洋の国々では龍は悪を意味することが多いのだろう。だが真の知る限り、中国や日本では龍は水や雨を操る神を表している。中国では皇帝の印でもあるという。もっとも同じ東洋でも、中国と日本では龍へのイメージは異なり、日本では龍は畏れの対象として、どちらかと言えば、ちょっとばかりおっかない存在と考えられていたようだ。
 もともと想像上の生き物なのだから、それをどう定義するのかはその国や土地の勝手なのだが、そういったものの見方の相違は、同じ人間がしていることだけに不思議な感じがした。想像には原型があって、龍の元の姿は蛇だというから、西洋の龍のイメージは楽園追放に関わった蛇と結び付けられているのだろうし、他の多くの多神教では、神の使いであったり化身であったりする蛇のイメージと関係しているのだろう。
 考えてみれば、竹流の日本名の方も大蛇、あるいは龍と関係がある。ヤマトタケルが倭姫命から授かった草薙剣、もしくは天叢雲剣とも言われるが、そもそもは素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した際に、その尾から現れた剣だと言われている。
 竹流にとって龍は、離れられない何かなのかもしれなかった。
 ふと身動きすると、竹流が真の方を見た。
「起こしたか?」
「いや」
 真はこの男の熱心さに改めて感心した。真に勉強を教えてくれていた時も、修復作業をしている時も、恐らくは女を口説いている時も、多分同じような熱心さでこなしていっているのだろう。
「何かわかったのか?」
「うん、これはあの龍を描いた絵師の日誌のようなものらしい」
「何が書いてあるんだ?」
 竹流は答えずに真を少しの間見つめ、ふと自分の布団をめくって、こっちに来いとでもいうようにした。真は一瞬、呆然と彼を見た。
「そこから覗いていたら寒いだろう。いいから、こっちに来い」
 真の躊躇いなどあっさりと無視されて、手を延ばしてきた竹流に彼の布団の内に引っ張り込まれた。
 竹流の体が持つ温度は、いつでも真の温度よりずっと暖かい。他人の温もりを感じると自分の体が冷え切っていることに気が付く。そういう時には、この体が現実のものかどうか不安になる。もしも道が見えたら、この体にも温度が戻ってくるのだろうか。
「しかし、お前、いい加減にその変温動物みたいな体温は何とかならないか。いや、日本家屋が寒いのかな」
 口ではそう言いながら、暖めてくれる手は時々驚くほどに優しい。この男の恋人たちが離れられなくなる気持ちは十分に理解できた。そう思うと、自分の中にまた不可解な感情を見つけてしまいそうになる。女みたいに何かを期待しているのだとしたら馬鹿みたいだと思い、振り払うように尋ねた。
「それで、何が書いてあるって?」
 竹流は子どもに絵本を読み聞かせるように話し始めた。
「この天井の龍を描いた人は、室町時代の絵師のようだな」
「室町?」
「この絵師は天皇家のかなり身近にいた人のようだ。もっとも、絵師というのは本業ではなくて、祭祀なんかを執り行う役職にあった人のようだな。日誌自体は、これまで読んだところでは、毎日の仕事のこととか、その日に見たこととか、そういうことばかり書いてある。それに、この絵師は大概、記録魔だったようだ。猿楽や茶の湯の話も書いてある。読んでいると、室町時代というのが、現代にまで伝わる日本独自の日常芸術や工芸の大いなる根幹が築かれた時代だった、ということが感じられる」
「日本独自の芸術の根幹」
 竹流の言葉でも、時々真には難しすぎて、一度は口に出して確かめてみなければならないこともある。
「この時代までの日本の芸術も工芸も、基本的には大陸からもたらされたものが主流だった。いや、それは間違いかな。客観的文献という意味では不十分かもしれないが、言葉に籠めた祈り、つまり言霊についてだけは、日本は万葉集に代表されるように、ものすごい芸術や歴史を持っているからな。そういう例外はあるものの、この室町の時代、いわゆる日本の中世の時代に、日本人の特性が大陸から切り離されて形作られたと言っても過言じゃない。政治的には渾沌を極め、将軍の後継者をくじ引きで選び、公も私も権力争いや確執を抱え、コネも賄賂も横行した。だから、戦国時代の素地はこの時代に完成していた」
 竹流は、ちょっと真の方を見た。
「これはお前のじいさんも言っていたが、今の社会の状態を歴史の中から学ぶなら、日本人が大好きな戦国時代よりも、室町時代の方が適しているだろうな」
 真は、民族も年齢も職業も何の共通点もない長一郎と竹流が妙に気が合って、いつも酒を飲んでは遅くまで話しているのを知っていたが、何を話しているのかは知らなかった。桃太郎についても、十分一晩は論議していそうだ。
「その一方で、芸術は大陸から渡ってきた文化を消化吸収し、依存関係を断ち切るように、侘寂といったような新しいスタイルを極めていった。各地で窯が作られ、日本独自の陶器が焼かれるようになり、茶も道として確立する素地ができて、次の時代の千利休につながった。庭園を作り楽しみ、そこに日本独特の風景を折り込んだ。猿楽、能、狂言といったものが生まれ流行し、様々な楽器も、この時代から日本独特の形態を作っていった。それから、書画、連歌、生け花、将棋。全てが、今の日本人が直接触れる事が可能で、外国人が羨むような伝統芸術や芸能に繋がっている。政治的には悪名高き時代だがな」
 竹流は本から目を上げて、真を見た。
「お前たち日本人は素晴らしい芸術や歴史を育んできた。いくらか反省材料もあるだろうけど、誇りに思うべきだ」
 真はしばらく竹流の顔を見つめていた。それから、その瞳から視線を外して、彼の手元の書物の文字を見た。竹流がそのように自分たち民族を愛してくれるのは、嬉しい気持ちもあったが、複雑な感じがした。それに、真自身は自分の民族や国民としての存在基盤があまりはっきりしない気持ちがしている。
「他の書物は?」
「当時の色んな風物の話とか、絵の歴史とか、伝承とか、それだけでも価値のあるものばかりだけどな。明日和尚さんに頼んで、何冊か貸してもらおう。特にこの猿楽の話は面白い。統治者の立場からも、庶民の立場からも、どういう意味があったのかよく解る」
 竹流は一旦書物に視線を移したが、すぐに真の方を改めて見て続けた。
「もう一つの特徴として、この時代に芸術は為政者だけのものから、民間のものへ移行していったということが言われている。庶民が断然強くなって、歴史の舞台に登場するのもこれ以降だ。そうして下克上が始まるわけだな。それに、この時代は平安時代以上に祟りや怨霊に振り回されていたみたいだ。室町時代という名前の由来になった足利義満が住んでいた邸宅、室町亭は当時有名な心霊スポットだったらしいぞ」
 意識していたわけではなかったが、真は思わず自分でも震えたのがわかった。話題を変えるように言った声が上ずってしまった。
「龍のことは?」
 竹流もちょっとばかりまずい話だったなと思ってくれたのか、話題を避けた真に追い打ちはかけてこなかった。
「この人が描いた絵のことがもっと解るといいんだが」
「巻物は見たのか」
「巻物?」
「和尚さんは巻物も選ってたけど」
 竹流は真の顔を見つめた。
「あのじいさん、ただ者じゃないな。本当は何もかも解ってるんじゃないか。龍の消える理由も、幽霊の下に書いてあることも。ちょっとおちょくられているような気がしてきた」
 真もそうかもしれないと思った。記憶が曖昧だと言いながら、茶道具はほとんどがどんぴしゃの位置にあったのだ。
「それに、俺の心の中もな」
 竹流は付け足すようにそうつぶやきながら布団から出て、木箱の中に残った巻物を三本、取り出した。どういう意味で言ったのか、真は聞き損った。
 真は竹流が巻物を紐解くのを見ていたが、自分も起き上がり、枕元の羽織を取って彼の肩にかけてやった。竹流がありがとうと言うのを耳の後ろのほうで聞きながら、真は自分も羽織を取って肩にかけた。
 巻物がざっと広がった。長い巻物ではなかったが、端から端まで箇条書きのように何かの名詞が並んでいて、最後に署名が残されている。
「何だろ」
「何かの目録だな」ざっと目を通して、竹流が言った。「どこかへの貢ぎ物の目録だろうか。さっきの話じゃないが、賄賂かな。貢ぎ主は、と」
 竹流がその難しい名前を読み上げた。
「誰?」
「知らん」
「何を貢いでるんだ?」
「田畑、米、剣、阿弥陀如来像、黄金、宋の国の掛軸、それに螺鈿かな、あとは、水晶の大珠」
「水晶?」
 竹流は、あれっという顔をした。
「何だ?」
「これは、それこそ二枚貼りあわせてあるな。下にまだ何か書いてある。あの幽霊よりはかなり仕事は荒く、いい加減だが。これくらいなら、明日和尚さんに断って剥がしてみよう」
 また別の巻物を広げた。
 それを見て、真は思わずあっと声を上げそうになり、竹流の顔を見た。
 それは隣の広間の天井に描かれた龍の下絵のようだった。荒い手であったが、一気に描き上げたというような見事に動きのある筆致は、まさにあの龍の作者の仕事と思われた。ただ、この巻物に描かれた龍は全身だった。完成品であるはずの天井の龍の方が、形の上では未完成品になっている。
『兼定』、最後の署名にはそうあった。
「絵師の名前かな」
「そうだな」
「どんな人だったんだろう」
「記録魔だ。さっきの日誌を見るとな」
「これは、何が書いてあるんだ?」
 龍の足元に薄墨で何か書かれていた。真が指摘すると、竹流は読み辛そうにそれを見ていたが、やがて音楽のように異国の言葉を呟いた。
「第三第四絃冷冷、夜鶴憶子籠中鳴」
 真には呪文のように聞こえた。
「何?」
「白楽天の詩だな」
「中国語? どういう意味だ?」
「無茶苦茶に寒い夜に、鶴は我が身を省みずに雛鳥を庇う」
 真はもう一度絵を見た。どう化けたのだとしても鶴には見えない。
「鶴? 龍の絵だけど」
「焼け野の雉子、夜の鶴。つまり、親というものは我が身を犠牲にして子を庇い、慈しむという意味だ」
 真は暫くの間、何も言わずにまだ巻物に見入っている竹流を見つめた。
 言葉は重く、辛くのしかかるようだった。巻物の方に視線を戻すと、龍の絵の上に重なる竹流の左手が目に入る。視界に入れたくなくて思わず目を閉じたが、直ぐに気を取り直した。
 竹流の左の薬指に嵌められた銀の指輪は、何かの拍子に真の感情を引っ掻き回すのだ。それを今は飲み込んだ。彼がこれを外すのは基本的には修復作業の時だけで、大切な美術品を傷つけないようにするためだった。
 真は竹流が読み上げた文字にもう一度意識を移した。
「これ、消えかかってるのか?」
「と言うより、薄墨で書いてあるんだろうな」
「薄墨? 誰か死んだのかな」
 竹流が顔を上げて真を見た。
「お前、時々ほんとに何気なく的を射たことを言うね」そう言いながら、竹流はもう一度巻物に視線を戻した。「子どもでも死んだのかな。それで、とにかく龍を描いてみた? どういう意味かな? 龍はインドの神話でも中国でも、雲や雨を支配する神のようなものだ。しかし、鶴の句を添えるなら、鶴の絵を描けばいいのに、龍だということに何か意味があるんだろうか」
 真は不意に夢の中の会話を思い出した。
「水晶の珠は?」
「水晶?」
「龍と何か関係ないのか? よく龍は珠を、足か手か知らないけど、摑んでるじゃないか」
「あれは宝だろう、あるいは仏法の象徴か」
「それがないと龍は空を翔べないのか?」
「そんなことはないだろう。どうしたんだ?」
 そう言われて、真は言葉を止めた。
「怒らない?」
 何を唐突に聞くのか、という顔で竹流は答えた。
「聞かないと分からないな」
「子供が水晶の珠を落としたって、それで龍が空を飛べないと」
「昨日広間で酒を飲んでいた連中が、そう言ってたのか?」
「だから、夢の中で、だよ」
 竹流はしばらく何も言わず真を見つめていたが、しばらくしてまたその龍の絵に視線を戻した。真も彼の視線を追いかけて、龍に意識を戻した。
 この龍は足にも手にも、何も摑んでいなかった。
「子ども、龍、水晶の珠。龍は雲と雨の使い手だ。水晶は真実を映し出し、病んだ心や体を癒すパワーストーン。しかし龍を翔ばすための水晶、っていうのは聞いたことがないな」
 やがて竹流は巻物をもう一度巻き戻した。
「よく分からないな。とにかく今日は寝よう。頭も働かなくなってきたし、このまま考えても埒が明かないような気がしてきた」
 さすがに丸一日根を詰めていたので、竹流は疲れた顔をしていた。しかし真はもう一本の紐解かれていない巻物が気になって尋ねた。
「でも、その三本目の巻物は広げてみたらどうだ?」
 それはそうだな、と竹流は言って、三本目を紐解いた。
 また解読困難なものが目に飛び込んできた。そこには、丸いものと刀らしい絵が描かれていて、何やら文章がひっついていたが、文字はほとんど消えかかっていた。
「水晶の珠、かな?」
「そうかもしれないな。この刀は何だろう。さっきの貢ぎ物目録に剣って書いてあったが」
 それから竹流は黙り込んでしばらく文字を判読しようとしていたようだが、やがて諦めたのか、寝よう、と真に声を掛けてきた。竹流が布団に潜り込むのを見届けてから、真も自分の布団に戻り、そのまま竹流に背を向けて目を閉じた。
 眼瞼を閉じても、蛍光灯の白い灯りを跳ね返した竹流の指輪が視界の隅に残っていた。複雑な紋章と荊の意匠が刻まれた指輪は、持ち主の立場を明確にするためのものだった。日本に住んでもう十年以上も経っているのに、今でも彼の運命は遠い異国に繋ぎとめられている。
 真の『三人目の父親』は、またいつでも真を捨てていくかもしれなかった。

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❄7 祠 雨降のご神体 不動明王と龍 

 夢の中で夢を見ていた。
 記憶の引き出しの奥深く、二度と目に入らないようにと幾重にも包んで奥の方においてあったのに、他の探し物をしているときにその引き出しを間違えて開けてしまった。何だろうと包みを開けてみると、思い出したくもなかった光景の中に立っている自分を見出した。
 明るい朝の光景だった。父は前の夜、戻ってこなかった。脳外科医である功が、急患や重症患者のために戻ってこないということは珍しいことではなかったが、精神状態の不安定な息子を家に残しているために、戻れない日には息子が心配しないようにと連絡をくれた。功自身でなくても、看護師や秘書が必ず連絡をくれていた。それが、その夜は初めて、連絡がなかった。
 私立の学校に転校してからは、何とか学校を休まずに通うことができていた。これまでの学校と違って、苛められることがなかったからだけではなく、院長が功の親友であり、功に『息子をよろしく』と頼まれた律儀な級長はお節介で、気を使ってもらっていることがわかっていたからだった。今度こそ、父の息子に対する失望を払拭し、期待に応えたいと考えていた。
 功の書斎は十二畳ほどの部屋だった。光が高い窓から射し込むと、部屋の隅の机の上にだけ照明が灯されたようになる。部屋の大部分は図書館並みの書棚の列だった。薄暗い書棚と書棚の間は、真の絶好の隠れ場で、功なりに定めた秩序に基づいて並べられた本は、いつも真を慰めて包み込んだ。
 書斎の机の上には、功が前の夜まで読んでいたらしい『宇宙力学論』が広げられていた。高い窓から射し込む陽は、部屋に舞う塵を光色に染めていた。真は広げられた本のページに挟み込まれた栞を黙って見つめていた。カリフォルニアに住んでいる時、アウタースクールの先生が、大切な人に手作りの贈り物をしましょう、と言って鉱石を薄く剥がす方法を教えてくれた。それで栞を作ったのだが、功はこんなものを大事に使ってくれていたのだ。雲母の欠片は窓から落ちる光を受けて、内側に密やかに持っている色彩を微かに放っている。
 その日、そのまま学校に行った。帰宅すると、書斎の机に『宇宙力学論』も栞もなく、そのまま功も戻らなかった。
 真は本が置かれていた場所に手で触れた。温度はなく指先に感触はなかった。そのまま陽は暮れて、書斎はゆっくりと光を失っていった。
 目を閉じると、どこか別の次元で微かに鈴が鳴っていた。
 卵城伝説の鈴の音だ。
 不意にそう思い、真はふと身体を起こした。東京の家の書斎ではなく、ここは確かに今いるはずの寺だった。空気はしん、と息を潜めるようで、その無音の空間にぽつんと座っている。部屋は真っ暗ではなく、あらゆる物が、自分自身も含めて、内に持っている光を微かに萌出しているために、ぼんやりと浮かび上がって見えている。
 自分以外の生きたものの気配がなく、孤独で、不安で、そして穏やかだった。こうして誰かの手をずっと待っていた。そして、ただ一人のままで、今も待ち続けている。
 しばらく座っていると、また庭の方から鈴の音が聞こえてきた。鈴、というよりも、何か硝子の玉のようなものが当たる音で、土鈴の響きを澄ませたような印象だった。
 その音以外、何も聞こえなかった。まだ夢の中なのだろうと思った。それで、何やら怖い気もしなかったので、そっと障子を開けて縁側に出た。
 今日も月が出ていた。形を見るとまだまん丸ではなかったが、まるで満月のように明るく、空に瞬くはずの他の星々の光を消してしまっていた。
 鈴の音にふと庭の先の方を見ると、さすがにそこばかりは暗く沈んでいくような枯山水の庭の奥の片隅が、ぼんやりと浮かび上がっているように見えた。魅かれるように縁側から庭に降り、草履を履いてその庭の奥へ歩いた。
 草履は誰かがたった今、真のために形を整え暖めていてくれたようで、足にしっくり馴染んだ。
 ぼんやりとした光は、近づくとだんだんとはっきりしなくなっていった。足が砂利を踏む感触はあったが、音もしなかったので、やはりこれは夢なのだろうと思った。
 そこには木々に隠れるように小さな祠があった。その向こうは、もう人の歩く余地のなさそうに木々が茂っていて、すぐに塀だった。塀の向こうは杉林のようだった。
 祠が光ってたんだろうか?
 ちょっとばかりそこに立ちすくんでいたが、もう鈴の音は聞こえなかった。


 朝真が目を覚ますと、竹流はもう起きていて、やはり隣で書物を広げていた。それは昨日の日誌の続きのようだった。
「寝てなかったのか?」
「いや、さっき起きたところだ」
 とは言うが、顔を見るとほとんど寝ていなかったようだった。普通の人間ならこの書物は睡眠薬以外の何ものでもないだろうに、竹流には逆に興奮剤のようだった。
「続き?」
「うん、室町時代ってのは、結構、災害も多かったんだな。雨が降って堤防が決壊したり、逆に日照りが続いたり。それにこの日誌、ぷつん、と終わっている感じだ」
「ぷつんと終わる?」
「これだけの記録魔なら、辞世の句まで書いてそうだけど、最後はここ数週間の日照りのために田が心配だというようなことと、あとは息子が五歳になったので馬を贈った、って話だけだ」
「ぷつん、と終わるってのは、その、急に何かあったってことか?」
「そうかもな」
「記録魔なら、いつどんな絵を描いただとか、書いてないのか」
「日誌を書いている間に描いた絵の事は、しつこいくらい詳しく記してある。龍の絵は息子が死んでから描いたんだろう。この日誌ではまだ息子は生きている。もっとも、息子が死んだのだと仮定して、だけど」
「馬を贈るってのは、結構裕福な家だったのかな」
 真がそう呟いたところへ、襖の向こうから、お目覚めですか、という声が聞こえた。
 彼らが朝食を食べていると、住職がやって来た。
「よく眠られましたかな」
「お陰様で」
 眠れませんでした、とまでは竹流は言わなかった。
「ところで、和尚、この寺の縁起を聞いていませんでしたね」
 朝食時の話題として竹流がたまたま言い出したのか、それとも何か確信があって言ったのか、真には区別がつかなかった。
「縁起、ですかの。実はあまりはっきりしておりませんのじゃ」
「普通、お寺にはそういう記録があるのでは?」
「言い伝えでは、定信という名の僧が龍に乗って何処からか現れて、この寺を開いたといいますがな。はっきりした記録が残っておらぬのは、言い伝えが多少おとぎ話のようだからですかな」
「ていしん、とはどういう字を?」
「定めるに信じると書きますのじゃ」
 真は急に気になって、和尚に尋ねた。
「この庭にある祠は?」
「さて、まぁ、よく祠に気がつかれましたな」
 確かに、縁側から見ただけでは、木々の向こうに隠れて、祠があるとは気がつかない位置だった。竹流が自分のほうを不可思議に見つめている視線を避けて、真は返事をしなかった。
「この寺の前身は神社だったと聞いております。今は小さな祠しか残っておりませんが、何でも平安時代には霊験あらたかな祈祷所であったとか。京都の東の守りですな。今の敷地よりもずっと広く、向こうの杉林まで続いておったそうで、それが火事で燃えたとか」
 住職は、詳しいことは分からないと言った。
「霊験あらたか、というと、どんな御利益が?」
「御神体は、剣と水晶の珠であったと聞いております」
 真は思わず竹流と顔を見合わせた。
「雨降劔(あめふらしのつるぎ)、雨降珠(あめふらしのたま)、と申しましてな、何でも、劔を鞘から抜けば水が迸り、珠は乍ち龍を呼ぶ、と伝えられていたとか」
 重ねて龍という言葉が出て、真は今一度竹流を見た。竹流は真の顔を見返しながら、住職に答えた。
「雨乞いの祈祷所、ですか。なるほど、それで龍とは繋がったわけだ。その御開祖が龍に乗ってきたという話も、偶然ではないのでしょうね」
「さて、そこまでは」
「で、今、その御神体は?」
「この寺のどこかに埋められているとも、伝えられてはおりますがな」
「でも、珠がなくなったのは比較的最近じゃないんですか?」
『彼ら』は、珠がなくなったので、龍が翔べなくなったと言っていた。
「はて、私もこの寺に来て何十年も過ぎますが、御神体らしきものなど見たことはございませんでしたがな」
住職の細い目の奥はよく見えなかった。


 竹流はその日もものすごい勢いで仕事をしていた。真は、彼の邪魔にならないようにその辺を散歩してこようと思ったが、ここはそもそも千年の昔には魑魅魍魎が当たり前に闊歩していたという古都だ。ひとりで道を歩いていて変なものに出くわしても困るな、と思って、取り敢えず昨日夢の中で見た祠に行ってみることにした。
 枯山水の庭の奥に歩くと、昨日の景色がそのまま現実に存在した。そして、やはり夢のままに、祠がそこにあった。祠は苔むした石の上に据えられ、大人の腕が目一杯で抱えられるかどうかの大きさで、小さいが流れ造りを模してあった。随分古いもののようだが、とても平安時代や室町時代からあるものとも思えなかった。
 真はしばらく前に立ってじっと見つめていたが、意を決して、祠の扉を開いた。
 とたん、ふわっと何かの気配がしたが、すぐに消えた。中には石の器か台のようなものがあるだけで、御神体の代わりも何もなかった。しかし、その向こうで何かがきらりと光った。何だろうと思って、祠の奥に手を延ばして、その光るものを取り上げた。
 それは、小指の爪ほどの光る薄い石の欠片のようだった。ちょっと考えたが、それをポケットに忍ばせて祠の扉を締めた。それからさらに奥の浅い林の方に足を向けた。林と言っても綺麗に手が入れられていて、うっそうと繁るというような感じではない。
 塀は真の背丈ほどの高さで、向こうの杉林から、風が時折舞い込んだ。
 雨乞い、か。きっと、当時は大変な問題だったろうし、この寺の前身だったという神社が霊験あらたかなら、さぞかし信仰を集めていたことだろう。
 雨降劔、雨降珠。その雨乞いの祈祷のためのご神体は何処かにあるんだろうか。子どもが落としてしまったという水晶の珠は、そのご神体と何か関係があるのか。
「どうかなさいましたかな」
 真が立ちすくんでいるところに、声がかかった。真は慌てて振り返った。
 住職が例の穏やかな小さな目を真に向けて立っていた。
「いえ、昔は、どんなところだったのだろう、と」
「昔と言いますと?」
「このお寺が建つ前、さぞかし立派な神社が建っていたんでしょうね」
「そうでしょうな。平安時代は、魑魅魍魎と人間とが混在して生きていた時代ですからの。天災も多く、人びとの不安はどれほどのものだったでしょう」
「応仁の乱で燃えたのですか?」
「さて、昔のことゆえ、どのようなことだったのやら」
「御神体は何処へ行ったのでしょうか?」
「あなたはどうお考えですかな」
「このお寺のどこかにあるのでは。あなたは、本当は御存知なのではありませんか?」
 住職は小さな目で真を見上げた。
「いやいや、知っていれば目の前にお出ししましょう。しかし、あなたにお見せしたいものがある」
 住職は真をもう一度蔵へ案内した。彼は、昨日見た書物の棚の桐の箱をしばらくごそごそと探していたが、掛軸をひとつ、引っ張り出した。そして、蔵の天井近くの高い窓から落ちる光の中でそれを広げた。
「これは」
 真は息を飲んだ。
 竹流は始めにこう言った。不動明王を捜しに行こう、と。しかし、彼が言っていたものが、ここに描かれている絵なのかどうか、それはわからなかった。
「不動明王でしょうかな。普通の姿とはやや異なりますが」
 古い掛軸のようだ。しかも、よく見ると普通の不動明王とはどこか違っている。しかし、背には迦楼羅炎が描かれていて、まだ紅の色を失ってはいなかった。
「表に激しい忿怒を、そして内には慈悲のこころを抱く姿です」
 真はしばらくその不動明王像を見つめていた。そして、ふと、その右手に握られた剣を目に留めた。
 確かにこの不動明王は常とは異なる姿だった。剣を持つ手とは逆の手には普通は繩を持っているものだが、この不動明王はその手の平の上に宝塔、あるいは函のようなものを持っていた。
 真は住職を見た。
「雨降劔?」
「そして、雨降珠」
 真はもう一度絵を見つめた。
「珠? この宝塔の中ですか?」
 左手にあるものは、丸いものではなく四角い。住職はその問いには答えなかった。
「仏像は様々な持物を手にしておりましてな、不動明王は普通、剣と繩を手にしておりますのじゃ。このような宝塔を持っているのは、弥勒菩薩が禅定印を結んでいる手の上か、または多聞天、つまり毘沙門天ですな。宝塔の中には通常、仏舎利、つまり釈迦の骨が納められていると言いますが」
 真はしばらく不動明王を見つめていた。心を見透かすような忿怒の形相、しかし、内には深い慈悲を持つという。
「この不動明王像は、この寺の縁起よりも古いものだと、伝え聞いておりますのじゃ」
 真は住職に、この掛軸を借りてもいいか尋ねた。
「無論ですとも」
 真は礼を言って、掛軸を丸めてもらって受け取り、竹流が仕事をしている本堂に行った。竹流は相も変わらず、熱心に仕事をしていた。
 本当は龍のことを調べたいのだろうが、目の前の自分の仕事をこなさずにはおれないのだろう。何処までも律義な男だった。
「少し、休めないのか」
 竹流は顔を上げた。
「もう昼か?」
「いや、まだだけど。見せたいものがあるんだ」
 真は竹流の前に不動明王の掛軸を広げた。竹流はそれを見て、それから真の方に顔を向けた。
「これ、どうしたんだ」
「和尚さんが出してくれた」
「伝説の不動明王の写しかな」
 しばらく竹流はその掛軸を見つめていた。それから、急に何を思い立ったのか、ちょっと電話を掛けてくると言って立ち上がった。ずいぶんたって戻って来たかと思うと、真に告げた。
「今日の夜、福井に行こう」
「福井?」
「幽霊の下を覗かせてもらったほうが早いかもしれん。不動明王も龍も、もしかしたら同じ出所かもしれない。ついでにあの巻物も、下を見てみよう」
 竹流はそう言って、畳の上に胡座をかいて座り、改めて掛軸の不動明王を見つめた。
「不思議な持物だな。普通、不動明王は剣と繩を持っているものだが、しかも和尚の話では、伝説では鈴を持っているという話だったが、これは宝塔みたいに見えるな。宝塔は弥勒菩薩が持っていることもあるが、通常は毘沙門天の持ち物だ。鈴というから、てっきり五大明王繋がりで金剛夜叉明王の金剛鈴かと思っていたが、四天王とはどういう関係だろうか。しかも、普通、抜いた剣を持っているが、これはどう見ても鞘に納まっている」
 そうか、何となく感じた違和感は剣の方にもあったのだろう。この不動明王は、抜かれた剣ではなく、鞘に収まったままの剣を突き上げて持っているのだ。
「和尚さんは、この不動明王は寺の縁起よりも古い、って言ってたけど」
「案外、簡単な理由かもしれないな」
「簡単?」
 竹流はご飯に呼びに来た小僧に返事をしてから、掛軸を丁寧に巻いた。
「忿怒の形相さ。何を連想する?」
 彼らは昼食を頂くために、奥の広間に移動した。
 広間に入ってすぐに、真の目には天井の龍が飛び込んできた。
「龍」
 竹流は座敷机の前に座って、龍の絵を見上げている真に語りかけた。
「表には忿怒、しかし心に慈悲を抱く。龍が実際どうかは知らないが、仏教では龍は仏法を守る聖獣で、少なくともその絵を描いた御仁は、龍が我が子を守ると思っていた。だから、下絵みたいな巻物には雛鳥を守る鶴の句が添えられていた」
 真は、取り敢えず彼の向かいに座り、ご飯の入った茶碗を小僧から受け取った。
「何か、分かったような分からないような」
「この寺の縁起のコンセプトさ。今の御本尊は大日如来だが、あの仏像は江戸時代のものだ。もともとはもう少し違うコンセプトがあったんだろう」
「縁起のコンセプト?」
 竹流が味噌汁の蓋を開けた。白味噌仕立で里芋と人参、結蒟蒻に絹さやが入っている。真も味噌汁の蓋を取った。科学の道を選んでいた真にも、こういう料理は丁寧で緻密な計算の元に成立していることが分かる。その日の気温や湿度に微妙に左右される結果を、過程の中で掴み取り、アレンジする能力が必要なのだ。その全てを放り出してしまった自分とは違い、この料理を作った僧は雑念のない心で、業のひとつとして米を炊き、里芋の皮を剥き、だしの味を調えたのだろう。
 蕗と梅の信田巻に添えられた蓬蓮草の緑も鮮やかだった。
「ところで、お前、いつ祠があるなんて気がついたんだ?」
「祠?」
 鸚鵡返しに言ってから、また怒らせるな、と思った。
「また、夢の中か?」
 真は返事をしなかった。
「まぁいいけどな。つまり、この寺の敷地はもともと神社だった。それもかなり立派な、霊験あらたかな神社だ。御神体は劔と水晶の珠。剣を抜けば乍ち水が迸り、水晶の珠は龍を呼ぶ。事情はともかく神社は焼失し、何故か再建されずにその上にこの寺が建った。祠だけが残っているというわけだな。この寺は、もはや世の中のために、剣を抜くことも龍を呼ぶこともしない」
 竹流は雀皿に盛られた大根の浅漬けを食べて、これは甘くて美味いな、と呟いた。
「この寺を起こしたという、龍に乗ってきた定信という僧、誰だったと思ってる?」
「あの記録魔の絵師?」
「そうだろうな。兼定、一文字重なって定信。つまり、あの絵の龍は、この寺の本当の御本尊かもしれないぞ。寺を建立する際に、もともとの御神体は不動明王の持ち物になった。もう雨を降らせる必要もない、剣は鞘に納められ、水晶の珠は仏舎利、いや愛する息子の骨と共に宝塔に納められた。もしかしたら、神社を焼いたのは不動明王の怒りの炎だったかもしれないな。つまり、不動明王も龍も、同じコンセプトのもとに描かれ作られたんだろう。幽霊の掛軸の下に記された不動明王の在り処と、消える龍の謎は、もしかしたらある同じキーワードで繋がっているかもしれない」
 少し間を置いて、竹流は続けた。
「怒り、という感情だ。呪い、とでも言ったほうが正しいかな?」
 真はしばらく竹流を見つめていた。
「何か、出てきたのか?」
 真が突っ込むと、竹流は満足そうに笑った。
「相変わらず勘だけはいいな。昨日の弥勒菩薩、背板に墨で書き込みがあったんだ。それが、板が半分腐っていてよく読めないんだが、読める文字からだけ判断すると、かなりひどい旱魃があって、この神社は雨降の祈祷をしていた。日誌によると、あの記録魔の絵師は、その旱魃対策の幕府もしくは天皇家の責任者だったようだ。ところが珠が砕け、子どもが殺された」
 真は驚いて竹流を見た。住職の話では、その弥勒菩薩はどこかを補修したときに掘り出されたという。怨念を込めて土中に埋めたということなのか。
「それしか書いてない。と言うか、それ以上は読めない。あの弥勒菩薩自体は平安初期のもののようだが、背板の板は後に嵌め替えられているようだった。弥勒菩薩の背板に書き込んだってところが、何かを物語っている気がするな」
「どういう意味だ?」
「弥勒菩薩は釈迦の次に仏位につくと約束された菩薩だ。仏滅後五十六億七千万年後にこの世に下生して、釈迦の時代に救済から漏れた人々を救うと言われている。殺された子どもの救済を、次の世の仏に託したのかもしれない」
 真はしばらく黙って竹流を見つめていた。箸を持っていた指先から、血の気が引いて痺れるような感じになっていた。
「何で、殺されたんだ?」
「さぁな。だが、子どもを殺すんだ、山賊の仕業でもなければ、ある程度身分のありそうな家の子どもを殺すのには、それなりのわけがあるんだろう。あるいは、室町時代に流行った家同士の確執で、敵方の子孫を根絶やしにするためかしかもしれないけどな。しかし、父親が生き残って龍の絵を描いているんだから、そういう話ではないか。でもいずれにしても、それは記録魔の絵師が日誌をぷっつりとやめるほどの出来事だった」
「珠が砕けた、と言うのは?」
「例えば、悪戯だったかもしれない」
「子どもの?」
「うん、子どもは父がちっとも帰ってこないので淋しかった。父は旱魃対策委員として忙しかったしな。日誌から伺い知るには、大概子煩悩な父親だったようだ。たまたま、何かの事情で珠が割れたか、壊れたか、神社に父を探しに来た子どもが誤って壊してしまったか。雨乞いが続けられている深刻な状況だぞ。珠が割れたら、子どもの命でも生け贄に捧げるか。橋を架けるときに、橋が流されないように、龍神に生娘を捧げるようなものだな。人柱と逆の発想だ。龍神を誘い出し、雨を降らせるために、活きのいい男児を差し出したか」
 真は竹流の顔を見ていられなくて、机の上のどこでもないところに視線を落とした。指先に感覚がなく、箸を持っている感じがなかった。嫌な言葉が耳に入ると、耳鳴が響いて何も聞こえなくしようとするのもいつものことだった。それでも、よく通る竹流の声は雑音の中でも、まるで違う周波数を持って真の脳の内にまでちゃんと届いてしまう。
「お前が親なら、どうする?」
 自分の親は、自分の危機にどうしてくれることもないと思った。生まれて直ぐ真を捨てていった実の両親も、赤ん坊の首を絞めた育ての母親も、失踪してしまった育ての父親も。
「あんたは?」
 真の問い掛けに、竹流は穏やかな表情のまま答えた。
「俺か? 俺は子どもなど持つ気もないしな。しかも、俺の親は俺が死んだらこれ幸いと思うだけだろう」
 真は黙って竹流を見つめた。竹流の家の事情はあまりよく知らなかったが、彼自身が子供の頃に叔父の家に引き取られていることを思えば、彼の家庭事情も決して真より良いというわけではないのかもしれない。
「だが、想像してみることはできるな。たとえば、俺にとって大事な人間が殺されて、この世からいなくなったら」
 竹流は言葉を切った。真は自分に向けられた深い青灰色の瞳に、惹き付けられるように見つめ返した。
「この世を焼き捨ててやろうと思うかもしれないな。大事な人間以外の他のものは、在っても無くても同じだ。雨も降らなくていい、旱魃で誰が死のうと最早構わない。逆に降るなら、この世の全てを押し流し、病と餓えをもたらし、人の一人も残らないまでに滅び尽くしてしまえばいい。神社を焼き捨て、怒りをどこかに封じ込め、そしてその上に座して沈黙するか、いや、いっそ自分もその炎で焼け死んで、末代まで祟ってやるって思うか」
 真は黙って俯いてしまった。そのような激しさは自分にはないものだと思ったし、そういう直接的な感情は真を怯えさせた。

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❄8 結界 願いごと 光の欠片 

 午後からも、竹流は一心不乱に仕事を続けていた。
 昼食の後、竹流は住職に、今日の夜行で北陸に行くことを伝えていた。早く幽霊の掛軸の下を見たいと思っていること、そのために協力してくれる人が福井にいること、夜行は十二時三分の京都駅発で、それまでできる限り修復作業をしておきたいことを、手短に住職に話した。
 真は、竹流が仕事に勤しんでいる間に、寺を出て裏手の杉林の中に行ってみた。寺の勝手口のような潜り戸を出ればすぐに裏に出ることができる、と住職に言われて行ってみると、果たして、潜り戸を開けるともう杉林だった。潜り戸から踏みしだかれた硬い地面が、小高く盛り上がった杉林の奥へと繋がっていた。
 ゆっくりとその道を辿った。
 さっき竹流は真の目を見つめたまま、淡々と語った。
 最早誰が旱魃で死のうと構わない、逆に降るなら、この世の全てを押し流し、病と餓えをもたらし、人の一人も残らないまでに滅び尽くしてしまえばいい。
 声の調子はむしろ穏やかだった。彼は何を語っていたのだろう。あるいは、真が二年前に死にかけたことを思い出したのだろうか。
 本当に、この世の全てを滅び尽くしてとまで思ってくれていたのだろうか。それともそれは真の自惚れなのだろうか。ただ、あれは殺されようとしたわけではなく、事故だった。
 大和君がな、ずっとお前の横に坐っとった。何も食わずに、何日もな。
 あまり表情を変えない祖父の長一郎が、目に涙を浮かべてそう言っていたのを思い出す。思えば長一郎の竹流への信頼は、まさにあの事故の時に永久不滅のものになった気がする。
 それならば、何故ずっと側にいてくれないのだろう。何故、実家とあんなに喧嘩をしながらも、あの家との契約の印だという指輪を捨ててしまわないのだろう。
 頼りない子どものように、そう思った。
 大学を辞めるとき、なんの迷いもなかったといえば嘘になる。研究は自分の性格に向いていると思ったからだけではなく、実際に面白かったのだ。以前に竹流が言っていた通り、学問というものは、自分の力で考え答えを出そうとして、始めて意味のあるものになった。いつか宇宙へ飛ぶ飛行船のエネルギーを自分の力で作りだす、それは人生を賭けるに値しそうなことだった。
 それなのに、時々現実とテレビドラマの夢物語の距離に呆然とし、科学の発達は人間が越えてはならない別の領域への侵入と感じることが多くなった。それでも、時に湧き上がる疑問を抱えながらも、一年は迷いつつ大学を続けた。
 だが、研究室に残された事故報告書が、真の疑問に一瞬で答えを出してしまった。
 東西冷戦は否応なしに軍事目的としての宇宙開発に金と人知を注ぎ込んでいた。まさに巨大な映画のセット作りのようなものだった。互いの力を示すために推し進められる開発は、人の制御の枠を越えていた。だから事故に対しては誰も、予測することも対処することもできない。それでも研究者は宇宙にロケットを飛ばし、夢見がちな飛行士たちは、明らかに現実のものではない疑似空間の中で行われる訓練を信じ、空に飛び立ち、帰らぬ人となった。死亡したのはわずかに三人。交通事故に比べたら数のうちではないが、命の重さは測り知れない。
 未来という言葉や、開発という希望を信じるべきだとは思っていた。科学はその希望を支える礎だと信じた。それでも、何かの拍子に、空気が失われる帰還カプセルの中に自分が閉じ込められているような夢を見る。
 もしも、竹流がずっと近くにいてくれたら、そして、どうしようもなくなった恐怖を慰めてくれたら、あのまま大学を続けていくことができたのだろうか。あるいは、何か他の方法や道を、彼が考えてくれたのだろうか。
 俺、何を甘えてるんかな。
 口では二十歳を越えたと言っている。けれども、不安や恐怖への対応能力は小学生の時とほとんど変わっていない。むしろ高校生の頃のほうがずっと人生の先を考えていたかもしれない。少なくとも、不安が見えないほどの希望を抱き、答えを求めて前を見ていた。側で語りかけてくれていた人がいたからだった。
 それなのに、大学に入った年に突然放り出された。蜜月のような時間があったことがかえって真を苦しめた。
 自分は結局、彼に頼りきっていれば安心していられたのだ。どこかで、いつも彼が助けてくれると思っていた。
 大学に入ったとき、これからはひとりでやっていけるだろうと言われた。
 道はちゃんと前に繋がっていたはずだった。彼が側にいて、語るための言葉を教えてくれた。歴史の中にも世界の様々な現象の中にも学ぶべき多くのことがあり、世界はそれまで真が思っていたよりもずっと素敵なことで満たされていると、道を教え示してくれた。その道を外れないように歩こうと思ったのに、一度踏み外すと元に戻りにくくなっていた。宇宙に飛びたいと思ったのは嘘ではなかった。だが支えてくれる手がなくては、飛び立つ土台がわからない。混乱して空を見上げても、東京からは宇宙が見えなかった。
 北海道の牧場に帰った後からの記憶がない。逆行性健忘というものだと後で説明を受けた。自分の人生の中にはっきりしない時間がある。だから時々、自分自身の過去と現在の連続性が失われているような気がする。その不確かな自分には、行き場所がない。
 あの事故の後から、時々、学業や研究に差し支えるほどの頭痛に悩まされた。美沙子と抱き合っている時間とバイトをしている時間だけは、その不可解な恐怖から解き放たれたが、紙の上で宇宙ロケットの推力を計算しながら、じっとりと手掌に汗をかいていることが多くなっていた。
 そして、教授の部屋で文献を探していた時、ソ連で起こった事故報告書を見つけたのだ。写真入りの報告書だった。
 真は二日間吐き続けた。妹には消化管の風邪みたいだとごまかした。言い訳ができるという点では、以前よりも大人になったのかもしれない。
 幼いころにアンデルセンの人魚姫を読んだときも、幾日か吐き続けた。真の曽祖父はもともと帯広の人間ではなく、クリスチャンであり、国内外の蔵書をずいぶん多く残していた。装丁の美しい本ばかりで、それが曽祖父の唯一の道楽だったと聞いている。幼い真はその格調高い背表紙に惹かれて手に取ったのだろう。内容をよく理解できていたわけではなかったはずだが、その物語は真を怯えさせた。出された食事を吐き出し、そのまま水分も受け付けなくなった。
 あの時は何が恐ろしかったのか、今でもよく分からない。だが、愛するもののため、美しい声と穏やかな海の底での暮らしを捨てて人間の姿を手に入れながらも、やがては愛を成就できずに海の泡となってしまう物語の哀しい残虐性を、真は自分の運命のように受け止めてしまった。幾晩もその物語が頭の中を巡って眠れず、怯えて夢の中でも泣きじゃくっている子供を、長一郎も奏重もどうしたものか持て余していたのだろう。
 親しい友人であったアイヌの老人が訪ねてきてくれた。それから彼とどんな話をしたのか、真自身は覚えていないが、彼は暫くの間真の側にいてくれた。だが、彼が帰っていく日に言った言葉だけは、今も耳の奥に残っている。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真は口の中で、今でもその言葉を正確に発音することができた。
 自分はこれからどこへ行こうとしているのだろう。渡しそこなった指輪を美沙子に届け、あの日のことを謝り、やり直そうと言えばいいのか。あるいは、退学届を取り消してもらってもう一度宇宙への夢を繋ぎ止めたいのか。今更何ができるだろう。自分の願いは何なのだろう。もしも願いをかなえてくれるランプの精が現れたら、一体何を願うだろう。
 知らずに随分歩いたようだった。今は杉林となっているが、この小高い山のような姿は、あるいは神の宿る場所として祭礼に用いられていたものかもしれない。
 実際に小山を登りきると、木が幾分か切られていて開けた平地になっていた。もともとは立派な杜だったのだろう。杜も社も怒りの炎で焼かれて、いつの間にか雑木林のようになっている。
 その多少開けた場所には、低い石の囲いが四角に地面を区切ってあり、四隅に植えられた細い木に、やはり四角く注連縄が掛けられていた。注連縄は真の頭を少し越えるくらいの高さだった。囲いの内側は周囲の地面より僅かに高くなっていて、端には低い草が生えていたが、中心部は地面がむき出しで焦げたような跡が残っている。
 古いものではない。今でも、誰かがここを祈りの場としているような気配だった。
 ここに来てよかったのだろうか。ふ、と注連縄で囲まれた結界に足を踏み入れようとして、足を止めた。
 結界というものは、何かを封じ込めるために作られたものだ。それは聖なるものでもあるし、場合によっては祟りをなすものであったりもする。いずれにしても、人が立ち入ることを拒む禁足地だ。注連縄はそこから続く異界との境界線のはずだ。
 もちろん冷静に考えてみれば、この注連縄の中に入ったからといって、すぐに祟りに触れたりするわけではないはずだった。それでも、ここには入ってはいけないような気がした。
 俺、今敏感になっているからな、と思った。
 そこから向こうでは丘は下っていて、樫や椎の木が茂っていた。
 ここに着いたときは夕方でよく見えなかったが、昼間に見ると僅かに拓き始めた芽吹きが木々を輝かせていた。この世にある限りの緑の種類を織り込んだタペストリーのように木々が輝く光景は、意識をしなくても畏怖の念を湧き起こさせた。自然の美しさの中に神を見いだしてきた民族の末裔である真も、その畏怖の念の中で、既にここが神の宿るところ、本来人間が足を踏み入れてはならないところだということに気がついていた。
 結界を避けても同じだったな。
 ぴったりと身体に霊気が纏わりついてきた。その霊気に縛られるように、道なき道を歩いていた。杉林の登りにあったような踏みしだかれた道ではなかった。人のためではない、霊魂の通る道だ。そう考えながらも、足は止まらなかった。木々の枝、湿り気を含んだ地面を踏みながら歩いていくと、向こうに洞窟のようなものが見えた。
 ここ、東山の北の端かな。本当にこんなところがあるんだろうか。それとも既に異界に迷い込んでいるのだろうか。
 引き寄せられるように洞窟の入口に立った。洞窟は真の背丈の何倍もの高さがあって、内側から湿度の高い、冷えた空気が流れ出していた。朽ちかけた二重の鳥居が、それぞれの右端と左端を重ねるように入口に立っている。近付くと木にかすかに朱の色合いが残っているのがわかったが、木は半ば腐りかけて、地震でもあれば簡単に崩れてしまいそうに見える。その上を見ると、やはり注連繩が渡されていた。
 なぜ、鳥居は中心部を重ねているのだろう。あたかも外界からの侵入を拒むようだ。そう考えると、ふと、いつか竹流が教えてくれた高名な歴史学者の法隆寺論を思い出した。建物の門の中心に柱を立てるのは、外界から入り込むことを拒むのではなく、中から怨霊が出て行こうとするのを止めるためである、と。
 周囲を見渡すと、足下の岩のあちこちに、まるで賽の河原のように小さな石が積み重ねられていた。
 ひとりで来るのではなかったと思ったが、もう遅かった。どこからか強い風が吹いて、真の背中を押した。
 魅せられたように二つの鳥居をくぐっていた。一歩、窟の中へ踏み込むと、周囲から急速に明るさが失われる。足元はもちろん、自分の進む先も定かではない。視覚は全く役に立たないのに、冷たく湿った空気の流れが、行く先を示すように体を引っ張り込んでいく。
 意志の力は消えてしまっていた。
 どれほど歩いたのかしれなかった。あるいは歩いてもいないのに引き込まれているのか、真はいつの間にか窟の奥へと入り込んでいるようだった。現実感のない足の下で、時々何かが壊れたような感触があった。体に様々な意思が触れ、取り囲み、纏わりつき、そして完全に真を呑み込んでいる。視野には何もなかった。記憶の中にあるどのようなものも、ここには存在していない。ただ漆黒だった。真の体の周囲にあるものは、善悪ではなく、感情でもなく、ただ古い時代からこの土地の空気に滲みこんでいる念だけだった。
 いつか、アイヌ人の年老いた友人が言っていた。
 たとえ月のない夜であっても、完全な闇ではない。木々はわずかな星明りをはね返し、足元の草は、昼間のうちに溜め込んでいた太陽の温度をかすかに放っている。頭の上の木から梟の鳴き声、彼方に高く舞い上がる馬たちの微かな嘶き、それはお前を守り導くカムイの声だ。だから森の中でも山の中でも、お前は何も恐れることはない。だが、ただひとつ、完全な闇が存在する場所がある。それは人の心のうちなのだ。
 人の心のうち。今自分は、肉を失った骸の洞穴のような眼窩を覗き込んでいるのか。あるいはその瞳のない黒い内側に吸い込まれているのか。真の視野をいっぱいにしているのは、その真っ暗な眼窩なのか。
 窟というのは、時間空間を問わない異界への入口だというが、この異界はすでに現実のものかどうかよくわからなかった。微かに薄い白いぼんやりとしたものが二つ、真の前に浮いている。揺れているのか、浮かんでいるのか、輪郭も距離感もはっきりしない。少しずつ、薄い光は溶け出すように広がっていき、追いかけていくと輪郭が僅かに浮かび上がる。暗闇の中の黒い輪郭だった。そこだけ、空気の温度や湿度が異なっている。
 真の体は冷たく、血管は血液を流すことをやめてしまったように縮んでいた。
 何かに体をはね返されたような気配で、一瞬、真はぞくっとして足を止めた。いや、はね返されたのではない。息ができない。
 体に何かが巻きついていた。首にも体にも顔自体にも、長く太く、締め付けるほどの強さでもなく、ただ真の呼吸だけを止めるかのように、ぐるりを取り囲んでいる。何とか息を吸おうとすると、口の中、鼻の中の粘膜に嫌な味がしみこんできた。何か、得体の知れないものを吸い込んだ気がした。吐き出すにも吐き出せず、骨格のない寄生虫のようなずるりとしたものは、じっくりと確かめるように真の肺の中、胃の中へ侵入し、そして神経の束をねっとりと螺旋状に辿り、脳の内側へ入り込んでいく。
 自分自身の眼窩の奥、網膜の内側で火花が散った。
 フラッシュに焚きつけられた光景が蘇る。
 白く翻る薄い衣。シャン、という音が頭の上を過ぎる。燃やされている木々。注連縄を巡らせた地面の上に祭壇が浮かぶ。祭壇の上には炎をはね返した劔と水晶の珠。襲い掛かる津波のような詔。
 突然、馬の嘶きが詔を裂いた。
 幾つもの目が真の意識のほうへ向けられる。黒い、瞳のない落ち窪んだ目だ。脳の内側に黒い目が現れてはひとつずつ網膜に貼り付き、やがて頭の中のスクリーンは真っ黒になった。馬の嘶きは真の手を離れて結界を破り、踏み荒らされた祭壇から水晶の珠は放り出され、脳の中で大反響を放って、割れ落ちた。
 劔が、そのものが意思を持ったかのように視界の限界から飛び込んでくる。あらゆる光を吸い込んで、真の二つの目の間にゆっくりと迫り来る。体は全く動かなかった。永遠なのか、一瞬なのか、劔は目の間を裂いて頭の内を通り抜け、ずん、という衝撃は頭のはるか後ろにまで響いた。だっと垂れ幕が落ちてきたように全てが赤く染まった。
 その赤の背景の中に黒々とした塊が浮き上がってきた。現れたのは、ほとんど原形を留めていないような荒ぶる神の顔だった。手には剣を握り、目を閉じたまま座している。
 突然、神はかっと目を見開いた。
 二つの眼は黒々と光を放ち、途端に髪は逆立つ。口が大きく開かれた。口の内側は、何かを食い殺したように真っ赤に染められている。
 振り乱したような忿怒の形相は、不動明王にもあの龍にも通じるものだった。しかし、そこには内に秘められた慈悲の心など片鱗もない。血が滴る口の奥からは、生臭い臭気と黒い煙が這い出してくる。これは人間が掘り出した神の像なのか。だとすれば、このような顔を創造し鑿で掘り出す人間の頭のうちには、これと同じ臭気を放つ怒りと哀しみのエネルギーがあるということか。
 脳の内側には、さっき侵入してきた寄生虫のようなものが這いずり回り、真の頭の中で急速に増殖し細胞を食い荒らし始めていた。急に意識が定まらなくなり、体は痙攣を起こしたように固くなった。途端に突風が吹き、目を開けるとさっきの杉林の中の結界に戻されていた。もう、これが現実なのか幻なのか、分からなくなっていた。
 辺りは薄暗く、松明の明りだけが不安げな陰影を作っていた。声のような声でないような詔が、辺りに振動として響いていた。耳からではなく、体に直接響いてくる。
 自分が立っている位置の周囲に、茣蓙のようなものがいくつも敷かれて、その上に幾人もの白装束の男たちが座っていた。顔は靄がかかっているのか、何か布のようなもので覆われているのか、それとも存在していないのか、数十人はいるはずなのに表情がわからない。四角く注連縄で囲われた結界の中には、祭壇が設けられ、奥に劔が置かれていて、その前に捧げ物と思しき野菜や魚、酒や餅といったものが、ある秩序のもとに並べられていた。
 それら捧げ物の前に白木の小さな唐櫃が置かれている。
 真は全身の毛が逆立つような不快感を覚えた。
 唐櫃の底から、地面に血が滴っている。
 色彩のない景色の中で、その赤だけが生き物のように立体感を持ち、蠕き、広がり、やがて真の足元まで這ってこようとしている。闇の中で蛆が屍体を食うような音ばかりが、しゃかしゃかと響いている。
 赤い軟体動物のような血はやがて真の足元に辿り着き、そのまま足を這い上がり、真の体を血色に染めていく。身体は全く動かなかった。やがてそれは首を這い上がり、目に到達すると、ずるり、と目の内側に入り込んだ。
 視界に劔を振り上げた男の顔が浮かび上がる。それはまさにさっき目にした荒ぶる神の顔だった。真の目から脳の内側に入り込んだ子どもの神経細胞は、最後に彼が見たはずの光景を真の網膜に浮かび上がらせた。
 ちち様。
 真の頭の中で、子どもの口が動いていた。
 思わず声を上げて、何か叫んだような気がした。
 その瞬間、真に一切構わずに祈祷を続けていた影のような男たちが、本来ならば次元の違うところにいるはずの真を認めたようだった。男たちは何十もの顔を真に向けたが、顔があるべきはずのところは暗い穴蔵のようで、目はさらに黒く、光の欠片も認めなかった。
 あ、と思ったときには、目に見えない繩のようなもので身体を縛りあげられていた。まさに、一瞬の出来事だった。
 目に見えない縄はじりりと体に食い込んでくる。真を取り囲む男たちはほとんど動かず、ただ目の位置だけが穴蔵の底へ引き込むように感情もなくより黒く、沈み込んでいる。その目が幾つも重なりながら真に近付いてくる。
 何もない闇に吸い込まれる。完全な闇。
 このまま無になっていく、と思ったその瞬間。
 頭上から突風と共に何か大きな黒いものが真の身体に迫ってきた。風に掴まれ、体が浮き上がる。
 次の瞬間には、さっきまでいた地面は足下のずっと下だった。
 浮いている。
 真の身体を掴んでいるのは、鱗と鋭い爪のある大きな手のようだった。見上げると、僅かな光を跳ね返す巨大な身体がうねっている。瑞々しく、同時に生臭く重い空気が真の身体を撫でていた。
 空は一瞬に暗くなり、雷鳴が轟いた。
 龍?
 真は、自分の身体を掴んで遠くへ運ぼうとしている巨大な手と、黒く光る鱗を持つ大きなうねる身体を呆然と見ていた。
 そして、何が何だかよく解らないうちに、次の瞬間には落下する空気の動きを感じたが、もうその時には意識はなかった。


 揺り起こされたのは、どのくらい後だったのか分からない。
「和尚さん」
 住職の手に触れられて、身体が金縛りから解かれたように動いた。
「戻られないので心配になりましてな」
 真は支えられて立ち上がった。小柄な住職は、思ったよりも力があった。
「大丈夫ですかな」
 頷いて起き上がると、そこはあの注連縄が張られた結界の中だった。
 避けたように思ったが、実際には中に入り込んでいたのかと思った。真は住職の手に摑まれるようにして、その結界から出た。まるで何か特別な仕掛けでもあるように、身体がふわりと一旦浮き上がり、また沈んだ。沈んだときには結界から出ていた。
 ふと、登りきった杉林の先を見やると、向こうは急に下った切り立った斜面で、ほんの少し下は車の通る道路だった。頭の上を渡っていく風の音、鳥の声、幾つもの森を通り抜け山にぶつかって跳ね返っている微かな車の音。耳が現実の音を認識し始めた。
「どうかなさいましたかな」
 真は首を横に振った。
 竹流が妙なことを言ったので、夢を見たのだろうと思った。
 考えごとをしながら歩いていたのでわからなかったが、帰りの道を辿りながら、それほど遠い道ではなかったことに気がついた。
 妙なことを考えていたので、また心に隙があって、変な気に取り憑かれたのだろうと思った。
 ふ、とポケットに手を入れると、その手が何かを掴んだ。取り出してみると、祠の中で見つけた光る欠片だった。住職に見つからないようにと、すぐにポケットに戻した。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄9 失物 幽霊 雨はいつか降る 

 夕食時になって問題が起こった。
 幽霊の掛軸と貢ぎ物が綴られた巻物を持って福井に発つ準備は整っていたはずだったが、肝心の幽霊の掛軸が忽然と消えていた。
 住職が夕食を済ませたばかりの彼らのところにやって来て、そのことを話した。
「掛軸が消えた? どういうことですか?」
「さて」住職は分からない、というように首を傾げた。「まぁ、急いで探しますので、お待ち下さい」
 真と竹流は、住職の去った後、呆然と互いを見ていた。
 大体、そんなものを盗んで、得をする人間がいるようにも思えなかった。しかも、この寺に外から人が入り込んだとして、金目のものならともかく、幽霊の掛軸だけを選んで盗っていく理由がなかった。宝のありかでも書いてあると思ったのだろうか。
「だけど」竹流が真を見た。その目には子どもっぽい悪戯好きの輝きが浮かんでいる。「これは内部犯行だな。な? 名探偵どの」
 からかわれたのには、真は睨み返しただけだった。
「俺なら、もっと金目のものを盗んで行くけどな。何で、幽霊の掛軸なんかわざわざ持っていったわけだ?」
「あんたに不動明王を探し当てて欲しくない誰かがいるってことだろう」
「そういうことらしいな」
「それとも、不動明王が本当に金でできていて、欲しくなったとか」
「誰も見たことのない、あるかどうかも分からない像だ。そりゃないだろう、多分」
 一昨日は自分でそのような事を言っておきながら、竹流は無邪気に否定した。
 取り敢えず今日の夜行で発つことは断念し、今日はもうここで寝ることにして、先に風呂に入りに行った。
 昨日は、いつもなら十日に二度ほどしか風呂に入らない寺の住人に悪いと思って遠慮したが、今日は掛軸の事を悪いとでも思ったのか、若い僧たちが風呂を沸かしてくれたので、遠慮なく湯を頂いた。真は、子どもじゃあるまいしと言って、別々に風呂に入ろうとしたが、そう言った矢先からちょっと不安な気分になった。どうしたのかとも竹流は聞かなかった。楽しそうに、そう言わずに一緒に入ろう、と言っただけだった。
 脱衣所で服を脱いでいるとき、ふと竹流が言った。
「おまえ、その脇の痣、どうしたんだ?」
 え? と思って見ると、事故の時に脾臓を取った左脇の手術創の横に、巨大な爪が食い込んだように赤くなっているところが、二ヵ所ばかりあった。思わず竹流の顔を見た。
 夢だと思っていた。
「ぶつけたの、かな?」
 いいかげんな事を言ってみたが、通用するはずもなかった。竹流は真の側に寄り、腕を上げさせて、その脇の痣を調べるようにした。
「何かに摑まれたみたいな痕だな」
「こけて、倒れたときにぶつけたんだろう。石かなんかに」
「いつ、どこで転んだんだ?」
「昼間、外の杉林で」
「寺を出ていたのか?」
「散歩してこいって言ったのは、あんただろ」
「何をむきになってる?」
 むきになっているつもりではなかった。変な体験をしたことをいちいち竹流に言うと、また怒られそうな気がしただけだった。だが、考えてみれば怒られる筋合いはない。それに、痛いとも何とも思わなかったのに、現実に瘢を見ると痛いような気がしてくるから妙なものだった。
「痛くないのか?」
 思わず優しげに聞かれて、真は怯んだ。
「でかい爪の瘢みたいだけど」さらりとそう言って、竹流は真を見上げた。「また、何か出たのか」
 冗談で言ったのか、真剣だったのか分からなかった。真は、複雑な気持ちをどう表していいのか分からないまま頷いた。
「龍にでも摑まれたか」
「そう、みたいだけど」
 そう言われて、その状況を思い出してみると、どうやらあの時は龍に救われたような気がする。もっとも龍の方では、美味そうな獲物がいたので、空から捕まえに来ただけかもしれない。
 もうこうなると黙っていても仕方ないので、素直に見たことを話した。
 風呂の中で竹流は黙ってその話を聞いていたが、それについての感想は言わなかった。五右衛門風呂の湯を両手ですくい、顔を洗うようにしてから、ただ、こう言った。
「俺の側から離れるな。この寺の中でも、一人でうろうろするんじゃない」
 真は返事をしないで、湯気の中でぼんやりとその言葉を反芻していた。


 それにしても、誰が掛軸を盗んだんだろう。
 不動明王が見つかって困る人間なんて、そうそういるとも思えない。しかも、外部から入り込んだ誰かがそれを盗んで得をする理由も見つからない。和尚は竹流に仕事を依頼してきたのだし、自分から掛軸をどこかにやってしまう理由がない。謎を解きたくなければ、依頼などしないはずだ。
 とすると、小僧の誰か?
 何でそんなことをする必要があったんだろう。だいたい小僧たちはあの鈴の音とやらを怖がっているのだし、さっさとこの事件を解決して欲しいと思っているはずだった。
 そう思いながらも、複雑なものをそれぞれに隠し持っているような若い僧たちの、敵意とも不安とも取れる目つきをひとつひとつ思い出した。怖がっている、と言ったのは住職だけだ。あの不遜な目を思い出すと、鈴の音くらいを怖がっているとも思えなくなってきた。
 竹流はさっきからまた昨日の書物の山の中に埋没していた。
 布団に入るまで一悶着だった。真は自分の布団に寝るつもりだったのに、強引に竹流の布団に引きずり込まれた。結局、掛け布団を二重にして、更に上から毛布を掛けてしっかり暖まるようにし、その中で寝るようにと強要された。
 竹流が過剰に心配しているのは分かっていたが、同じ布団で寝ていたからと言って、夢を見るのも意識が勝手に飛んでいくのも止められない。
 そう言いかけて、やめた。
 竹流は二年ほど前、何か得体の知れないもの、具体的には既にこの世のものではなかった飛龍という名前の馬が、あの世から真を迎えに来たと、今でもそう思っているのかもしれない。少なくとも、あの事故が真の病的な精神状態のせいで起こったのだとしても、その精神状態を引き起こしたのが、亡くなった馬かもしれないと考えていたのだろう。超常現象など絶対に信じないと言っている男が、唯一あの件だけは別だとでも言うように、過剰反応をするように真には思えた。もっとも、竹流自身、飛龍が化けて出るほど霊力のある馬だと信じたわけではなく、真が簡単にありもしない幻影に感情を取り込まれてしまうことを心配しているのだろう。手を緩めるとまた同じことが起こるとでもいうようだった。
 突き放しておきながら、時々異常なほど過保護になる、そのギャップが真を混乱させる。
 真は目を閉じた。
 でも今は、あの世から自分を迎えに来る飛龍の夢を見たりしているわけではない。馬ではなく、龍の夢だ。
 そう言えば、飛龍の名前はまさに『飛ぶ龍』だ。実際、あの馬は走っているというより、翔んでいるようだった。そのまま天空まで翔ぶような気がした。真が東京に出ていってからも、北海道に戻ると真っ先に姿を見せてくれていたのだ。
 確かに、あの馬の死が真の不安に纏わりついている。あるいは真の不安ではなく、竹流のほうの不安かもしれない。
 真が少し寝返りをうつようにして動くと、竹流とふと視線があった。
「寒いか?」
「いや」真は書物に視線を戻した竹流を見つめた。「熱心だな」
「うん。この伝承はよく読むと意味深でおっかないな、と思ってな」
 竹流は真を抱き寄せるようにして、真にもその書物が見えるようにしてくれた。
「伝承って、何処の国でも結構おっかない話が多いけど、例えばこれもそうだ。童子が神社の神聖なる木に小便を引っ掛けて、荒ぶる神の成敗を受けたって話だが、その童子の死によって涙を流した豊玉姫の霊力で、日照りの田に雨が降り、童子は神として祀られた。どこかで聞いた話だと思わないか?」
 真はしばらく竹流の顔を見つめていた。
 子どもは幾日も帰らない父親を探していたのだろうか。誕生日に贈られたという馬を曳いて、そして何かに驚いて馬は暴れだしたのだろう。水晶の珠は落ちて割れ、雨乞いの儀式は遮られた。子どもの眉間に振り下ろされた劔は、儀式を遮り不成功に終わらせた悪戯への成敗だったのか。一体誰がそれを命じたのか。
 振り下ろされた劔の向こうに子どもが最後に見たのは、父親の憤怒に満ちた顔だったのだ。優しい神様が子どもを哀れに思ってくれただろうか。子どもの怨念がこの世に残り、祟りをなさないようにと、魂を鎮めるために建てられた社。側頭葉の一番隅っこにある記憶の引き出しが少し開いている。そこから、僅かに光が漏れ出していた。
「神社も寺も、呪いや恨みを封じるために建てられたって話は珍しいことじゃない。例えば上御霊神社は、平安京に遷都した桓武天皇の弟御、早良親王の祟りを鎮めるためだし、北野天満宮も菅原道真公の祟りを、法隆寺は聖徳太子の祟りを、という具合だ。いや、むしろ日本人の宗教観は、全て祟りを恐れ、その厄災が我が身に降りかからないように祈り祀ることに繋がっているという気もする。平安時代以前の神を祀る場所、つまり神社というのは、全て祟りを鎮めるために建てられたものだったという説もある。日本で最大の神社のひとつ、出雲神社とて、現実の政から遠ざけられた大国主神の幽閉の場だった、とも言われている。祟りそうなものを祀る教会がその辺に溢れているなんてのは、西洋ではあり得ない話だけどな。伝承も、後ろめたい事があったときに、いや、実はこうだったんだ、と言い訳するのに便利だ。誰かの恨みを吸収するいい手段だったんだろう。全国各地に残る蘇民将来伝説もそうだろう」
「そみんしょうらい?」
「何処の家でも相手にしてもらえなかった汚い格好の旅人を、可哀想に思って招き入れた家が裕福になるって話さ。その旅人は実は偉いお坊さんだったとか、実は仏様の化身だったとか、そういうことになっている。もともとの故事はこういう話だ。素戔嗚尊が旅の途中に一夜の宿を求めたとき、裕福な弟の巨旦将来は迎え入れなかったが、貧しい兄の蘇民将来は、貧しいながら精一杯もてなした。それで、素戔嗚尊は蘇民将来に名乗りを上げて、今後疫病流行の折には、お前たちの子孫は腰に茅輪をつけて『吾は蘇民将来の子孫である』と名乗りなさい、必ず疫病を避けることができるだろう、と言ったそうだ。似たような話は日本のあちこちにあるが、実際には旅人から金品を巻き上げて殺していたという事実の裏返しだ、という説がある。祟りませんように、ってやつだ。もっとも、その当時は日本に限らず世界中どのような部族を見ても、それぞれが生きていくために外部からの侵入者を殺すなどということは当たり前のことだった。むしろそれを晴れがましい儀式として行っている部族もある。そう思うと日本人古来の感覚は不思議だよ。祟るかもしれないものに対して、神社やお寺に祀ったり伝承に残したりして、いつまでも忘れませんから、どうぞ安らかにお眠り下さい、っていうのが、日本の宗教の根底にある」
 真は竹流を見つめた。
「その、子どもは神として祀られたのか? どこに?」
「さぁ、伝承だからな。どこに、なんて具体的なことは書いてないな」
「でも、伝承通りなら、その子が死んで、雨は降ったんだ」
 竹流は、時々何かの拍子に見せる、たまらないほどの優しい微笑みを見せた。
「雨は、いつかは降るものさ」
 真は目を閉じた。
 子どもの魂が救われていればいいのに、と思った。
 でも、子どもの顔は消えそうに儚かった。それは、自分の眉間に突き立てられた劔の向こうに、信じていた父親の怒りに満ちた顔を断末魔に見たからなのか。子どもは壊してしまった珠が見つからなくて、やはり困っているのだろう。もしも珠が元に戻ったら、父親は子どもを許し、子どもは救われるだろうか。
 それとも真はただ幻を見ただけなのか。真自身のうちにある、父親という種類の生き物への不信、恐怖、そういったものがあんな不可解な幻を見せただけなのか。
「掛軸、どうするんだ?」
「まぁ、そのうち出てくるだろう。別に俺も龍が消えるのを見たくて切羽詰まってるわけじゃない。もしも本当にこの話が卵城伝説で、『城』が崩れるんなら、それは急いでやりたい気はするけどな」
 寝ようか、と言って竹流は布団を引き寄せた。その手で枕元の明りを消す。
 それからしばらくの間、真は緊張していた。だが、竹流はさすがに昨夜の頑張りが堪えているのか、欠伸をして、それから真の頭を撫でて、お休み、と言った。
 子ども扱いだなと思ってむっとしたが、何も言わなかった。竹流はすぐに眠ってしまったようで、規則正しい寝息を立て始めた。
 真はようやくほっとして息を吸い込んだ。微かに、風呂の湯気の匂いと体臭と、何か古いものの匂いとが交じり合って、鼻の粘膜の襞の中に入り込んだ。そのうちに、寄生虫のように体に入り込んでいた異質な念がぱらぱらと壊れていく。自分の身体の中の免疫細胞が活性化されて、アメーバのようにうごめき、その粉を取り込み浄化していくように感じた。


 そうして、真はやはり夢を見た。
 かなり過敏になっていることはよく分かった。誰かが夢を見せているのだとしても、身体に瘢を刻み込むほどに強烈な思念であっても、自分の方に受け入れる素地があるからこうなっていることは、よく分かっていた。
 その日は誰かに揺り起こされた。
 この部屋まで誰かが侵入してきたのは初めてだなと思った。
 彼らは竹流を恐れている、と思う。
 それは、竹流にはつけ入る隙がないからだということは分かっていた。この男が実は恐ろしく純粋で、物に魂や尊い美が宿ることを知っていて、それを尊び、決してないがしろにしない、高潔な魂の持ち主であることを、彼らはよく知っているのだ。竹流が信じていないのは、そういうものが形になって目に見える、ということであって、彼が抱いている尊い美に対しての畏敬の念は、他の誰よりもずっと強いものだった。しかも、この男にはドラゴンを退治した強力な守護聖人がついていて、いつも護られている。
 だから、竹流がそばにいるこの部屋にまで侵入してくるというのは、よほど相手の気が強いか、あるいは真がだいぶとち狂ってきていて、惹き付けているのかのどちらかだ。
 覚悟を決めて目を開けると、そこにいたのはあの子どもだった。
 どうしたの?
 子どもは返事をせずに、すっと部屋から出ていった。障子はさすがに開けなかった。やっぱり幽霊のようなもの、もしくは妖怪か物の怪の類なわけだから、と自分を納得させて真は起き上がった。
 子どもは前よりいっそうぼんやりとして見えて、顔の表情はますますよくわからなくなっていた。姿はかき消えそうなのに、その霊気のようなものは強くなっているのだろうか? それとも本当に切羽詰っているのだろうか。
 障子を開けて、縁側に出た。
 音はなく、静かな庭の景色が薄ぼんやりと浮かんでいる。
 その日は月明かりがほとんど見えなかった。ただ、もうこの庭は見慣れてしまったので、明りがほとんど無くても、木や岩の輪郭はわかるような気がした。あるいは、アイヌの老人が言っていたように、木も石も草も、昼間に取り込んだ光を微かに夜気の中に放出しているのかもしれない。
 枯山水の庭の奥のあの祠の辺りが、またぼんやりと光で浮かび上がっているように見えた。ふと見ると、もうほとんど薄暗い明りのようになっているばかりの子どもが、その祠の方へ飛ぶように駈けて行くのが見えた。そして、ふいに祠の手前でかき消えた。
 真はゆっくりと縁側から庭に降り、祠の方に歩いた。祠の辺りには、まだ導くような穏やかな光があった。
 祠が見えるところまで来ると、ぼんやりとした光の正体が分かった。
 それは、あの掛軸に描かれた幽霊だった。
 幽霊は絵のままの優雅な無表情でこちらを見ていた。絵で見るよりも美しい人だ。長い髪、切れ長の目、口元には紅の気配もないのにうっすらと赤く、細い身体の輪郭は白くぼやけて闇の中に落ちている。
 この絵の作者もあの絵師なんだろうか。とすると、この美しい幽霊は誰なんだろう。そういえば、子どもの母親はその時どうしていて、それからどうなったんだろう。
 考えているうちに、ふと幽霊がかき消えた。

 
 急に息苦しいような気がして真はそのまま目を閉じ、次の瞬間には布団の中で目を覚ました。
 首筋、腋の下にじっとりと冷たい汗をかいていた。目を開けた瞬間に、首に巻きついていた長いものがするりと抜けていったような気配がした。真は狭くなった気道を押し広げるように数回、咳をした。
 息ができないという夢は何度も見る。赤ん坊の時の記憶かも知れないし、あの窒息死したクルーたちの写真のせいかもしれない。夢の中身も比較的はっきりとした景色を伴っている。あまりにもはっきりとした景色だからか、かえって現実ではないような気がする。夕日のために橙に染められた窓枠に凭れた美しい女の夢は、その黒髪の色、窓枠のオレンジがあまりにも鮮明で、絵画のようでさえある。クルーたちの写真はセピアの色に染まっていて、恐ろしいはずなのに、夢の中の真は魅入られたようにその写真を見つめている。夢を見ている真は、夢の中の自分に必死で呼びかけている。そんな死体の写真を見てはだめだ。頭がおかしくなってしまう。だが夢の中の真は宇宙から帰還するはずだったクルーたちの死に恍惚としている。
 いつも目を覚ますと、身体が冷たくなっている。汗のせいですっかり体温が下がってしまったのだろう。目を覚ましてもしばらくの間は夢と現実の区別がつかず、まだ夢を咽喉の奥で味わっている。苦い、血のような甘く錆びた味が、咽から胃へと流れ込んでいった。
 今もまた、まだ夢の中なのかどうか区別がつかなかった。真は身体を起こし、呼吸を整えるように深い息をした。
 側で竹流は身じろぎもせず眠っていた。あまりにも静かなので、生きているのかどうか不安になり、あるいはこれはまだ夢の中なのかもしれないと思った。
 額にかかるくすんだ金の髪は、わずかな月の明かりを照り返している。頬には穏やかな光が宿り、その皮膚の内側に流れる血の色まで見えるようだった。その穏やかな光を見つめていると、昼間、大日如来の向こうに見えていた、神々しいまでのこの男の姿を思い出した。
 真の伯父、功が失踪したのは真が十四の時だった。その後、功の手伝いをしていただけのこの男がどう思って自分たち兄妹の保護者を買って出てくれたのか、その理由も気持ちも、真は敢えて確かめたことはない。真実を確かめ、それがもしも自分の望むようなものでなかったら、その事実に耐えられるのかどうか、自信がなかった。
 真は、もう一度息を整えるように吐き出した。手で首を確かめると、耳の下にあてた手は自分自身のものとは思えないほど冷たかった。この首だけが覚えている記憶は、本当の出来事なのか、混乱した引き出しの間違いなのか、もうよくわからなくなっていた。
 最初にけちのついた人生は、それから先も上手くいっていることなどほとんどなかったような気がした。
 人生のごく始めに実の両親に捨てられた。半分外国人だったという母親の記憶など何もない。思い出す素材がない。父親は今ワシントンに住んでいて、何か複雑な仕事をしているらしいが、誰も真に彼を会わせてくれようとはしない。祖父はやっとの思いで結ばれた恋人との最初の子どもである真の父を、まだ生きているうちから抹殺したように思える。父親自身ほとんど日本に帰ることはないようだし、帰っていたとしても真のところを訪ねてくることはない。彼の人生選択の岐路では、息子の存在は何の検討項目にもならなかったということなのだろう。
 捨てられた赤ん坊をやむを得ず引き取ってくれたのは、実父の腹違いの兄にあたる功だった。ただ、功は医師として忙しく、実際に引き取った子どもの面倒を見る破目になったのは功の妻だった。
 真にはその義理の母親に纏わる記憶に大きな染みがあった。赤ん坊の頃に、その女性に首を絞められたことがある。もちろん、記憶になど残らないはずの時期の出来事だが、これがいわゆる精神科医が言うところの、側頭葉が作り上げた間違った記憶の回路なのかもしれない。
 義理の母親がいわゆる育児ノイローゼで、自分の子どもでもない真を育てることについて随分と苦労したのだ、ということは何となく人の話から察することができた。自分が赤ん坊の頃、かんの強い子どもであったことは、今の精神状態から想像に難くない。それに実の父親と伯父と義理の母親の間には何か複雑な感情のもつれがあったようで、そのことが義理の母の精神状態を最悪の状況に追い込んだのだろう。真が北海道に引き取られた後も、彼女はその精神疾患と闘い続けていたらしく、自分の娘を道連れに家に火をつけたという。
 直情的な祖父の長一郎は後先も考えずに孫を北海道に引き取った。親戚一同で経営していた牧場の中で、決して不幸なばかりの子どもではなかったはずなのに、真はいつも何かに怯えていた。周囲の人間は朴訥で口は悪かったが、暖かい人たちだった。だが、両親のいない子供は真だけだったのだ。
 実の母親の血のために、真の髪の色はかなり明るい色が混じっている。年齢が高くなれば問題にならなくなったが、田舎町の小学生にはあるまじき髪の色だった。忙しい合間に、祖父母は真の面倒をよくみてくれたが、孫を教育する専門家ではなかった。それに子供の頃体の弱かった真は、しばしば扁桃腺を腫らして熱を出しては学校を休んだ。友達もいなかったので、学校の勉強からは遅れ始めた。長一郎の教育方針から、家にテレビは置かれていなかったし、世間の子どもたちがどんな遊びをして成長するのか、全く知らなかった。
 異質な子どもは学校からはじき出された。子供の頃の話し相手は、やはり社会からはみ出して暮らしていたアイヌ人の老人だけで、時々意識していないと、今でも日本語でない言葉が真の頭に浮かぶ。言語に混乱があり、他人と言葉でコミュニケーションを取り辛くなった。
 伯父の功は取り残された真を何とか庇おうとしてくれた。自分の妻が入院し、仕事も忙しかったはずなのに、既に学校という社会から弾き出されていた真を何とかしてくれようと東京に引き取ってくれた。功が優しい人だったという記憶はちゃんとある。一方で、彼が精神的に不安定な甥を持て余していると感じることもあった。真は結局、学校とも東京とも、ごく身近な人間以外の誰とも、いやある意味ではたった一人の人間を除いて、折り合うことはできなかった。
 真にとっての唯一の日本語は、周囲の大人たちが話す北海道弁だった。北海道内陸の言葉は標準語に近いが、真の住んでいた地域の住人たちは、海岸部の方言、つまりむしろ東北の言葉に近いイントネーションを持っていた。功に引き取られて東京に出てきてからは、その北海道弁が学校と真の障害になった。
 真は始めのうち、自分は東京の言葉が理解できないのだと思っていた。そのうち、早口でまくし立てる同級生の言葉だけでなく、学校で教師が何を言っているのかも分からなくなった。
 言葉がわからなくなると、学校にはほとんど通えなくなった。義務教育というのは有り難いもので、そういう状態でも自然に小学校を卒業していた。
 小学生の時には真自身が周りの状態を理解できず、ただ自分がそこに存在していることで精一杯だったが、さすがに中学生になり多少は知恵もついてくると、初めて苛めという状況を認識した。それは、精神的な圧迫だけではなく、体の成長と共に暴力という別の側面が顔を出してきたからだった。苛める側の体格は常に、どちらかと言えば小柄な真より遥かに大きく、彼らは思春期独特の残酷な一面で、性的な衝動や興味までも満たそうとした。
 体格も大きく力のある上級生に何度も呼び付けられて殴られた。彼らが自分の何を気に入らなかったのかはわからないが、真は小学生の時から苛められていたのと同じ理由だろうと思っていた。自分の髪と瞳の色が他の子供たちと少し異なっていたことと、もともと他人と話すのが苦手だった上に、東京に出てきてから言葉が上手く理解できなくなっていて、あまり他人と口を利いたり打ち解けたりしないので、生意気だと思われていたせいだろうと、そう考えていた。本当なら、長一郎が教えてくれた剣道が武器になるかもしれなかったが、人一倍厳しい長一郎は、喧嘩に使うことなど勿論許さないはずだった。もし殺されても相手に手を出すなと言いそうだった。それに真自身、子供の頃から唯一信頼し尊敬していた大人を失望させたくはなかった。
 だが、ある時我慢と恐怖の限界を越えてしまった。
 相手はいつも複数だったが、その時はいつもより人数も多く、何か新しい苛め方を思いついたのか、にたにたと笑っていた。コンテナのような造りのクラブの部室に連れ込まれて、あっという間に押さえつけられて裸にされた。
 日本人ではないようだから身体の隅々まで違いをよく調べてやると言って、彼らは真の足を開かせて前と肛門まで懐中電灯で照らして写真を撮り、真の身体に落書きを始めた。彼らの笑い声が卑猥で汚らわしく、内臓のあちこちで震え上がるような拒否の感情が湧き出し、真の身体を硬直させた。力強い幾人もの手で押さえつけられて、口だけは猿轡をかまされていたので、叫ぶことも噛み付くこともできなかった。
 もちろん、自由であったとしても声など出なかっただろう。
 女のものと一緒だ、と大笑いをしながら誰かが言った。そういう落書きを後ろの孔の周りにしていたようだった。それから、腹ばいにされて頭を床に押し付けられ、腰を抱えられて、いきなり何か硬いものを肛門に突っ込まれた。激痛と恐怖と屈辱と、そしてついに怒りとが一気に吹き上がった。突っ込まれたのは大人のための玩具だったようだが、彼らがそれを動かしながら何か卑猥な言葉を投げつけてきた間に、僅かに身体が自由になった。
 その瞬間、思い切り暴れて、手の届くところにあった長い棒を掴んだ。それが何だったのかはもう記憶にない。
 彼らを棒で何度も殴りつけたとき、殺しても平気だと思った。殺さなければ殺されるような気がした。あの時、もしも手に触れたのが野球のバットで、もしも給食の車が通りかからなければ、きっとそのまま殺してしまっていた。
 結局その事件で学校には行けなくなった。功は相手の親が何か言ってきたと学校から呼び出されたが、逆に完全に切れて、ようやく息子を苛めていたやつの正体が分かった、徹底的にそいつらと学校の責任を追及すると言って、知り合いの有名弁護士の名前を出して全面対決の構えを見せた。学校が事件を隠そうという姿勢に変わった時には、功は丁度アメリカに留学する話があったのに飛びついて、子どもたちを連れてカリフォルニアに移った。
 功は真を赤児のように抱き締めて一緒に泣いてくれていた。一年後日本に戻ったときは、結婚するつもりだったという昔の恋人が経営している私立の学校に真を編入させてくれた。そこからは、環境は随分と変わった。
 それでも時々、手の中にあの時彼らを叩き続けた感触が蘇った。被害者として殴られていた痛みを思い出しても震えるほどの恐怖がこみ上げてくるが、加害者として殴っていた時の感触はそれにも増して忘れようのないものだった。
 あの時、殴っている間に身体の芯から湧き上がってきたのは、赤ん坊の時の不気味な記憶だった。覚えのないアパートの部屋で、美しい女性が赤ん坊を抱いていたが、泣き出した赤ん坊を見ると、その人は形相を変えて小さな首を絞めた。
 今でも、あの狂気に満ちた目を記憶の引き出しにしまい込んでいる。どうしても捨てられないのだ。
 これまでも、夢の中で食い込んでくる指の気配で、何度も目を覚ましたことがある。
 それが本当の記憶なのか、誰かがそのような昔話をしているのを聞いて、自分の中で作り上げた幻想なのか、今となってははっきりしない。だが、殺さなければ殺されるという感情を真の中に残したのは事実だった。
 赤ん坊の時はどうすることもできなかった。だが、今は闘えるのだ、だから相手を殺してしまわなければならないと、手は別の生き物のように自分を庇い、相手を叩きのめそうとしていた。
 あの頃、功はよく宇宙の話を真にしてくれた。もともと理学部から医学部に転向した功は、学生の頃にはロケットを飛ばすつもりだったという。功が好んだ、異なる国や星の人類、いや人類と言えない生物までもが同じ宇宙船に乗って、遥か彼方の宇宙、人類に残された最後のフロンティアに探検に出る物語は、あり得ないと思いながらも、ちょっとばかり真の気に入っていた。
 帰国して転校してからずいぶん楽になったのは、転入した私立の学校が自由な校風で、交換留学生もいたため、真の外見についてとやかく言う人間がいなかったからだった。
 混乱した真の言葉を整理し、勉強の面倒を全て見てくれたのは竹流だった。ようやく、一人だけだったが、話のできる友人も持てた。普通の高校生になれるように、精一杯努力していたつもりだった。だから恋人もいた。北海道に、あるいは闘い続けなくても済むどこかに、帰りたい気持ちを抑えるように、東京の大学を受験した。功の果たせなかった夢を追って、宇宙に飛びたいと思っていた。
 しかし、結局は大学を続けられなかった。恋人からは別れを切り出された。何とか失ったものを取り戻そうと闘ってきたつもりだったのに、手元には何も残っていなかった。
 最後に会ったとき、無理矢理に美沙子を抱いた。自分の内側に潜む残虐性が、時折迸り出てしまって、それを抑えることができないということを思うと、恐ろしかった。普段押さえつけるだけ押え付けている感情が、予想もできないところで自分自身、手に負えなくなる。
 真は、静かに眠る竹流の髪に触れかけた手を、そのまま握りしめた。
 もしもこの男がいなかったら自分はどういう人間になっていたか、考えると空恐ろしい気がした。犯罪者にはならなかったかもしれないが、育ての母親と同じように精神を病んで病院に入っていたかもしれない。
 ふいに、自分の手を開いて見つめた。
 その皮膚の奥に残る、上級生を叩きのめした感触が蘇って、犯罪者にならなかったとも限らないと思い直した。竹流がいなかったら、今ごろはまともな社会生活など送れてはいないだろう。
 真が混乱しているとき、竹流はまるでどこかからそれを見ていたかのように、龍のように空から急に現れてあの高みへ真を連れ出し、そこからこの世界を見せようとしてくれる。
 人間の歴史などとるに足りない、だから、この世界が自分たちのものだなどとは思ってはいけない。ここには様々の生命が宿り、様々の想いが充ち、我々はその構成要素のただひとつにしか過ぎない。ここには善いものも悪いものも渾然と存在し、それが世界を構成している。いや、この世に善いものも悪いものもないのだ。それはそこにある。ただそれだけのことだ。存在していること、生きていることに哲学的な意味など求めるのは間違っているのかもしれない。だが、だからと言って、自分には価値がないなどと勘違いして、絶望してはならない。もう何十億年も前から、まだ小さな一個の細胞であった時から、生命の連鎖は綿々と繋がっている。お前もその螺旋の鎖の切れてはならない一部なのだということを、よく憶えておくことだ。存在するということ自体には、人間が望むほどの意味はないのかもしれないが、誇りを持っていなさい。
 真の勉強をみてくれていた時、竹流が本当に教えてくれたのはそういうことだった。この男の言葉にはいつも力があった。意味もわからないながら納得させられるような勢いで、それが時には恐ろしい気もしたが、もしこの男が悪いものでも、自分はこの男に魅かれただろうと、そう思った。
 この男を愛していると、腹の底から湧き出すように思った。
 それが恋愛感情かどうかは分からなかった。親に対する思慕といえばそうかもしれなかった。ただ、心の多くの部分を彼が占めていて、胸が締め付けられるような感覚だった。それでも、特に社会的な意味で、その気持ちを口に出すことは憚られた。しかも、自分の心の中でも、異性ではなく同性である相手に魅かれていることを、いや、そういうことではなく、誰かに対して、もしその人が側にいてくれなかったら、自分が自分でいられなくなるくらい不安だということを、認めることが苦しかった。
 そして何よりも、自分の心が相手を求めるほどに、相手が自分を思ってくれているか、それが自分が期待するほどでないときに、充たされない不満に潰されてしまうかもしれないと思った。
 ランプの精が現れたら、何を願うだろう。
 三つも願い事はない。ただ、もしもその時が来たら、この男と一緒に殺して下さい、とそう願うだろう。離れていることが、本当は不安で孤独でたまらないのだ。
 ふと俯いたとき、布団の端を握りしめていた手の甲に水滴が落ちて広がった。視界はぼやけて遠近感が失われた。それから、こういうことではまたどこかにつけ入る隙を与えてしまうなと思った。
 ただどこにも居場所が無く、自分がかき消えてしまうような心地だった。


 もう一度目を覚ましたとき、まだ辺りは薄暗かった。それでも、朝の早い寺の中では既に空気の動きが始まっていた。真は竹流が横で眠っているのを確かめて、身体を起こした。それから枕元の羽織を取って肩にかけ、袖を通して布団から出た。
 障子を開けると、まだ空気は冷たく、薄い藍の空には淡い光を漂わせた星も残っていた。
 縁側から沓脱石の上の履物に足を降ろすと、現実の草履は氷のように冷たかった。枯山水の庭を奥の方へ歩き、石の小さな橋を渡って、木々の陰になった祠まで歩いた。
 さて、祠の扉を開けたものかどうか、と躊躇っていると、ふと後ろに砂利を踏む足音が聞こえて、慌てて振り返った。
「これが祠か?」
 竹流が立っていて、興味深そうに祠を見つめていた。
「起きたのか?」
「お前が出ていったんで追いかけてきた。一人でうろうろするな、って言わなかったか?」
 自分の感情を持て余している真には、何とも返事のできない問いかけだった。
「で、今度は何だ?」
「幽霊が」
 真は言いかけて、俺、だいぶ危ないと思われるな、と思った。
「祠へお前を導いた、というわけか。全く、お前、その霊感をコントロールできたら、今の仕事やめて霊媒師になったら儲かるだろうに」
「そういうの、コントロールできて商売してるやつって怪しいんじゃないのか。そんなに都合よく出てくるわけじゃないし、こんなの毎日だったら、生活できない。それに、霊感ってわけじゃない」
「さもありなん、だな」竹流は祠を見つめていた。「もっとも、そんな仕事をさせるわけにはいかないけどな」
 それから竹流は、苔むした石の台の上に載せられた、大人の一抱えほどの大きさの木の祠のぐるりを廻り、しばらく何やら観察していた。
「さて、南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経ってところか。いや違うな、祓い給え清め給えの方か」
 竹流は呟いて、祠の扉に手を掛け、真を見た。
「開けても祟らないんだろう?」
 真は、こいつは何を言ってるんだと思った。竹流はちょっと笑んで、さっと祠の扉を開けた。
 そして、石の器、というよりも内の方がやや窪んだだけの古い石の台の上に載せられた掛軸を、丁寧に押し頂くように取り上げた。
 その時、奥の林の方で、がさりと音がして、慌てて走り去っていく足音が聞こえた。
 真は追いかけようとしたが、竹流の手がそれを留めた。
「放っておけ。本当は怖かったんだよ。でなければ、こんなふうに丁寧に、まるでお供えでもするように祠の中には置かない。ちゃんと畏怖の気持ちがあるってことだ。それでいいじゃないか」
 例のごとく、ロマンチストのこの男はそう言って、戻ってきた幽霊の掛軸を愛おしそうに見つめた。


 掛軸が見つかったので、朝食を済ませると京都駅に向かった。
 住職も小僧たちも、寺の入り口の石段の前で、タクシーに乗る真と竹流を見送っていた。真がふと振り返ると、ひとりの背の高い年長の小僧がまるで手を合わせるようにして、自分たちのほうを拝んでいるように見えた。隣に座る男に何か言おうと思ったが、やめた。
 何か訳でもあったのだろう。それに、もしかしてただの悪戯に過ぎないかもしれない。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄10 紙を剥ぐ 古い地図 末代まで 

 福井駅からはタクシーは街を外れて海岸の方へ向かった。道の脇の防風林、時々二車線から車線が消える真っ直ぐな道、所々に低い家しか見えない海の近くの風景は、どの町でも同じように見える。懐かしい浦河の海岸部の道が重なった。
 進行方向に日本海が見えていた。そしてタクシーは一軒のトタン屋根の比較的大きな建物の前で止まった。敷地は十分に広そうだが、工場のような平屋の建物は人気もなく寂れている。
 車を降りると、日本海からの風が身体を刺すようだった。四月の始めとは言え、ここはまだまだ春には遠いように思えた。
 すぐに建物の開き戸が軋みながら重々しく開いた。
「待っとったぞ」
 厳つい親父が顔を出した。とは言え、厳ついのは顔だけで、体つきはお寺の住職と同じで小さかった。皺を顔いっぱいに刻み、無精髭を中途半端に伸ばし、髪にも白いものが混じっているこの厳つい顔の親父に、竹流は嬉しそうに抱きついた。親父はこの外国人風挨拶にまだ慣れないのか、その厳つい顔のまま、いくらか照れたように見えた。
「さっそくかかるか」
 竹流は頷いた。彼らは建物の中に入った。
 古い工場のような場所だった。空気は冴えていて、風が凌げるだけで、気温は外と変わらないようだった。親父は漁師のような黒い厚手の長いエプロンをしていた。
「連れは手伝いか?」
「いや、訳ありでして」
「こんな寒いところは何だから、おれの娘んとこに行ってるか」
 事情を聞くと、真は寒くてもいいからここにいると答えた。親父はちょっと妙な顔をしたが、何も言わなかった。無言のまま、休憩に使っているらしい奥の六畳ほどの畳の間に、石油ストーブをたいてくれた。それでも、結局真は、親父の貸してくれたドテラを肩に掛けて、作業場に座って彼らの仕事を見ていた。
 作業場には大きな紙漉きの道具がいくつもいくつも並んでいた。真には何が何なのかよくわからなかったが、これは相当な体力のいる仕事だろうと思った。
 竹流と親父は、奥の台の上で何回も何回も掛軸を確かめ、話し合っていた。こうしてみると、厳つい顔の小さい親父まで神々しく見えた。
「しかし、まぁ、御丁寧な仕事だな」
「だから、あなたの手がどうしても必要だったんです」
 竹流が相手を立ててそう言っていることが伝わってきた。親父は顔にこそ出さなかったが、竹流の腕を叩いて、信頼の感情を示そうとしているように見えた。
「巻かれていた分、傷みも不均一だし、しかももとの紙は随分上等だな」
「生漉奉書」
「ふん、どんどん見る目だけは確かになってきおって。それでわしんとこに来たか」
「えぇ。でもこの紙はピカソも使っていた。あなたの受け売りですが」
「何枚に剥いどるんだ?」
「二枚なら、その場でも剥そうかと思ったんですが、どうやらそうではないらしい」
 親父は幽霊の掛軸を検分している。紙とは、そういう方向からも見ることができるのか、と真が感心するくらいの熱心さだった。
「らしいな」
「しかも、紙は立派だが、後で貼り合わせた糊が問題で、多少不安だったものですから」
 真には何の事かわからない会話はしばらく続いていたが、すぐに彼らは作業に取り掛かり、あとはほとんど沈黙していた。真も黙ってその作業を見ていた。
 何かと分かって見ていたのではなかったが、飽きることもなかった。二人の職人の手は、小気味いいほどのスピードで進んでいたし、手元を見ているだけでも飽きなかった。どこにも無駄がない手は、彼らの作業の意味がわからない者にも、その正確さや丁寧さ、そして技術の高さを伝えてくる。真は、自分自身の仕事に熱意と自信を持っている男たちの姿を見つめながら、心地いい気分に浸っていた。
 夜も更けてくると、作業場はどんどん冷え込んだ。じっとしている真には随分寒いところだったが、あまり気にもならなかった。安定の悪い木の長椅子に膝を立てて座って、真はいつの間にかうとうとしていた。
 ここでは妙な気配もなく、眠れそうだった。
 眠気が襲ってくる中で、誰かが、多分親父なのだろうが、毛布を掛けてくれた。ふわふわと暖かく心地よかった。
「済みません」
 少し離れたところから竹流の声が聞こえてきた。
「離れとるのが不安なのか?」
「俺の方が、です」
「まあ、織田信長も三島由紀夫もそうだったというし、だいたいあちこちのお寺にゃ、いわゆる寺小姓というのがいたし、つい近年まで日本では衆道というのは恥ずかしいことでもなんでもなかった。お前さんの国辺りでも、アレキサンダー大王とやらも、ダ・ヴィンチやミケランジェロもそうだったというじゃないか、わしは驚かんが」
「おやっさんの博識には恐れ入りますが、そういうんじゃないんです。いや、いっそそういうことなら、簡単でいいかもしれない」
 一体何の話だろうと頭の隅っこで考えていたが、よく分からなかった。


 真が目を覚ますと、作業場ではなく、奥の和室の布団の中だった。石油ストーブの上ではヤカンがしゅんしゅんと湯気を上げていて、真は薄い古ぼけた布団の中で暫くその音を聞いていた。古い黴と埃の入り混じった懐かしい重い匂いが辺りに漂っている。
 身体を起こして周囲を見渡し、真はほっと息をついた。六畳ほどの畳の部屋には炬燵と、真が眠っていた布団と、背の低い棚、それに石油ストーブが置いてある。背の低い棚は木で作られていて、色々な紙が雑然と放り込んであった。
 暖かく、気分は良かった。
 汗や埃や年月の臭いが滲みついた親父のドテラを肩にかけ、建て付けの悪いガラス障子を開けて作業場に降りると、そこには誰もいなかった。作業場の古い木の台の上の天井や周囲の壁から、いくつかの紐が渡されていて、何枚かの紙がそこに吊られている。
 作業台の間の通路の向こうに外への扉がある。扉が開いていて光が差し込んでいるのを見て、真は土間を光の方へ歩き、まだ寒い外に出た。
 親父と竹流は、建物の短い軒下の木の長椅子に腰掛けて煙草を吹かしていた。その向こうには、空き地のような広い土地に薄い緑が芽吹き始めていた。時々、低い草の芽を撫でるように風が吹く。潮の匂いが体を包み込む。
 煙草の煙も一緒に、風に取り込まれた。
「起きたか?」
 真は頷いて、親父とも目で挨拶を交した。
「お前も、どうだ?」
 そう言って差し出された煙草を、真は一本もらった。
「煙草、珍しいね」
 酒はよく飲むが、竹流が煙草を吸っている姿を見ることはほとんどなかった。仕事の上で臭いや煙が気になるのかもしれない。
「ひと仕事の後の一服は格別だからな」
 それからしばらくの間、三人で黙って煙草を吹かしていた。
 静かな時間だった。仕事を終えた男たちは、随分と清々しく見えた。自分の腕と技に確かな自信を持っている男たちの匂いと息遣いが、冷えた朝の空気の中で光の輪郭に縁取られていた。親父は小柄ながらも、太い腕と大きな背中を持っていた。竹流の背中も大きく、大きな手を持っている人には珍しく器用だった。
 あれ、と思った。竹流の左手の薬指に指輪がなかった。
 そうか、仕事だから外したのだろうと思い、半分ほっとして半分辛くなった。
 一服して作業場に戻ると、紐に吊るされていた紙が作業台の上に降ろされた。真はそこに、幽霊と、今初めて見る二枚の見取り図のようなものと、それから貢ぎ物目録と何か手紙のようなものを認めた。
「この幽霊はどうするんだ?」
 親父が竹流に確認するように聞いた。
「親父さんの奉書を頂けますか? 掛軸に戻してやりたい」
 親父は自分の漉いた奉書を裏打ちにして、自ら作業をしてくれた。その器用な作業を見ながら、竹流が真に囁いた。
「終わったら、奥さんの手料理をご馳走になろうな」
「結局それが楽しみで来とるな」
 親父が顔も上げずに言った。ふと作業台の上を見ると、銀の指輪が外されたままぽつんと光っていた。拾い上げて竹流に手渡すと、竹流は少しの間真の顔を見つめていたが、やがて指輪を受け取り、また左の薬指に戻した。
 作業が終わって、幽霊は掛軸へ、初めて見る二枚の見取り図のようなものは奉書で裏打ちされた和紙の上へ、巻物の貢ぎ物リストもその裏にあった手紙も、それぞれ納まる形に納まった。
 そこへ軽トラックで親父の奥さんが現れて、親父は助手席に、真と竹流は荷台に乗り込んで、親父の家に行った。軽トラックは左手に松林とその向こうの日本海を見ながら、まっすぐの道を随分と走った。
 竹流はさすがに疲れたのか、トラックの荷台で揺られながら、そのまま真にもたれ掛かってきた。
「帰りに東尋坊に連れてってやろう。先に、ちょっと寝てからな」
 そう言っている間にも、もう竹流の意識は半分落ちかけていた。真は自分の胸の辺りに預けられた彼の頭を、何となく抱くようにした。
 顔を上げると、かすかに潮の匂いが香っている。


 親父の家に着くと、彼らが来ることを知っていたのだろう、魚料理を含め、朝食とは思えない豪勢な料理が並んでいた。米は美味く、みそ汁のわかめも何か特別なもののように海の匂いが香った。
 それから竹流は、親父の家の狭い座敷で横になって、二時間ばかり爆睡していた。
 その横で、真は竹流から渡された数枚の紙を、座敷机の上に並べて見つめていた。
 洗浄を終えた後では幽霊はより鮮やかに美しく見えた。幽霊に鮮やかも妙なものだが、すらりとした体つきに憂いのある面長の瓜実顔で、上品な幽霊だった。目は細く涼やかで、唇には優しげな笑みさえ浮かべているが、どこか淋しげにも見えた。
 紙が洗われる前に比べると、随分おどろおどろしさも消えて、足があれば幽霊というよりも美人画だ。それは、やはりあの祠の前で見た美しい女性に生き写しだった。
 それから真は、幽霊の下から出てきた二枚の見取り図のようなものを確認した。
 本当に宝の地図が出てくるとは、と真は思っていた。
 しかし、ちょっとばかり問題があるようだった。その見取り図はどう見ても、今の寺のものではなかった。
 それにこの『宝の地図』には、ここにお宝がありますよ、という印がなかった。しかも、全体に薄い墨で描かれ、その中でも濃淡の激しい、読みにくい見取り図だった。
 真はもう一枚の見取り図を、というよりもこちらは地図のようだったが、見つめた。それをぼんやりと見つめていると、何か引っ掛かるものがあった。
 そうか、これはもともとの神社の敷地全体の地図、のようだ。
 見ると、手前の方に本社があって、その先に奥宮があるようだったし、その奥宮が、自分が一昨日行ってみていた杉林の上の注連縄の囲いの辺りだとすると、その地図の上では、奥宮の先にまだ別の鳥居のマークがあった。
 幻の中で見たあの窟かもしれない。昔はやはりあの場所にあったのだろうか。
 ただ、その鳥居のマークは見取り図の中ではそれだけ浮き上がっているように見え、マークを起点にして不思議な線が描かれており、地図の両端を弧を描いて、本殿の辺りまで伸びていた。
 だがそうやってみると、今の寺が建っているところは、丁度本堂の辺りが元々の拝殿で、今自分たちが寝泊りしているところが本殿の辺りになりそうだった。本殿の廻りには瑞垣があって、その内部にはそもそも神職の者しか入れないと言われているが、あの広間と自分たちの寝起きしているところ、それから枯山水の庭が大体本殿の部分になるようだった。つまり、自分たちが寝泊まりしているのは、まさにもともとは禁足地なのだ。
 祠のある位置は、満更いい加減な位置ではないのだろう。
 もともとの本殿の中心なのかもしれない。
 それから改めてもう一枚の見取り図を見た。
 確かにそれは元の神社の拝殿と本殿の見取り図のようにも見えるが、これが今の寺とどうやって重ねればいいものやら、分かりかねた。
 真はぼんやりと見取り図を見つめながら、ふと龍のことを考えた。
 龍のことを考えていると、何やら不思議な感じがしてきた。住職は初めに、この寺が、あるいは元の神社が、京の東の守りだと言っていた。そのことを不意に思い出した。
 そう言えば、京都自体、桓武天皇が平安京を創建したとき、怨霊から京を護るための巨大な陰陽道の呪術装置だったと聞いたことがあった。京都の東北、つまり鬼門には比叡山延暦寺が、北方には鞍馬寺が置かれている。あの寺はもとの大内裏からすると、丁度比叡山の方向になるのだろう。
 それに、伝説の守護獣がいる。確か、東に青龍、北に玄武、西に白虎、南に朱雀。
 そうか、丁度東だから、お寺のある位置は青龍の方向。どれもおっかない顔をしてたっけな? 玄武なんか、亀かと思えば蛇までひっついているし、まぁ、朱雀はそうでもないけど。
 それからぼんやりと見取り図を見ていると、このシンメトリックな図の中にいくつかの違和感を憶えた。瑞垣の中にいくつかの細かい絵が書かれているし、何となく濃淡もあって、見にくい図だ。古いからなのだろうか。だが、竹流が洗浄したその紙は、むしろ汚れを排除して元の姿を現しているはずだった。
 その細かい絵の中でひときわ目立つのは、ひとつは拝殿脇にある東側の丸、それからやはり拝殿の西脇の棒のようなもの。
 何だろう、これ。剣と、珠?
 よく分からないが、形はそんなふうに見える。そしてその模様の直ぐ脇を、鳥居からの不思議な線が通っている。
 真が熱心に見入っていると、竹流が起きだしたようだった。
「どうした?」
 竹流は身体を起こして、机の上に広げられた見取り図を見、それから真の顔を覗くようにした。寝起きで幾らか癖がついたくすんだ金の髪が、真のすぐ側でわずかな光を跳ね返した。
「どう思う?」
「もとの神社の見取り図じゃないかと思うんだ」
 真は自分の声が擦れて頼りない気がした。竹流は真の顔を見た。
「なるほど、そうかもしれないな」
「何で二枚も?」
「わからん。だが、その全体図を見る限り、立派な神社だったんだな」
「この印、何だろう?」
 真は丸い印と線のような印を指した。
「不動明王の印か?」
「いや、何か、丸と棒。珠と、剣?」
 竹流はそれを確認するように見つめている。
「それに、ばらばらの二ヵ所になっているし。不動明王がバラバラってのも妙じゃないか」
「今の寺の位置からすると、何処になるんだろうな」
 真は、杉林の位置が奥宮になるとすると、祠の辺りから自分たちが寝泊りしている広間と次の間が以前の本殿、現在の本堂のあたりが拝殿になるんじゃないかと言った。
「すると、この丸は? 庭の端か、廻り廊下の隅辺りか。丸いものなんてあったか?」
 竹流は顔を上げて真の方を見た。疲れた顔だったが、目にはまた精気が蘇っている。
「丸いといえば、古い水盤があったけど」
 真は呟いた。そう言えば、メインになっている庭は枯山水の庭で水の気配はなかったが、その水盤にだけは水が張ってあった。
「あれ、どうなってたっけな?」
「水が湧いてたのかな? 和尚さんがお茶を点ててくれたとき、朝一番に底の水を汲むって言ってた」
「じゃあ、この棒の位置は?」
「広間より随分西だし、あっちは行ってみてないけど。本堂はもっと南の西だろう?」
 二人とも、またしばらく地図を黙って見ていた。
 すぐ傍に、竹流の温度と体臭がある。体臭と言っても、この男の身体からは香木のようなかすかに甘い香りがしていた。香水をつけているようではなかったから、この男自身の匂いなのだろう。
 学生の頃、勉強を教えてもらっていた時にも、こんなふうに、すぐ傍にこの男がいた。二人の間にある数式や記号が、世界の全てだった。懐かしく、苦しかった。
 真は息を整える。
「それに、何だか不思議な感じがするんだ」真は呟くように言った。「昔、あんたが教えてくれなかったっけ? 京都は陰陽道の何かによると、天然の怨霊防御要塞みたいなものだって。東に青龍、北に玄武、西に白虎、南に朱雀。それぞれ何かの景観の象徴だったよな」
「青龍は、すなわち川、京都で言えば鴨川だ。玄武は山、京都では山というほどの高さではないが、船岡山。西の白虎は大きな街道、京都からは山陰道が延びている。南の朱雀は窪地あるいは湖畔を指している、今はもう埋め立てられているが、伏見の辺りの巨椋池だ。でも、それがどうかしたのか?」
 真は、古い神社の見取り図と思われる図を示した。
「この寺の建っている土地は、北側が小高い山みたいになっている。どっちに向いているのがより自然景観的にいいのかわからないけど、建物の開口部が南に面している、つまり庭が南にあるように造るのが普通じゃないないかと思うんだ。でも、この寺の庭園はわざわざ北の山の方を向いている。この庭で、少なくとも外からわかるように水があるのは、東の水盤だけ。この寺の入り口は西側で、外への道が出ている」
 竹流は、真の顔をじっと見た。
「お前、その才能がありながら、何で美術品の良し悪しがわからないのか、それが不思議だ」
「そんなの関係ないだろう」
「いや、昔言った通り、お前には一瞬目に写ったイメージを、写真のように脳に焼き付ける才能があるんだ」
 別に褒め言葉とも思わなかったので、真はそれを無視した。
「南に窪地か池があると辻褄があう。ちょっと気になるのは、東にあるのが川じゃないってことだけど、逆に南に窪地があれば、この寺自体が京都の町の縮小図か、さもなければこの寺自体も陰陽道の怨霊退散システムってことだろう? ただ、今の本堂や広間を含めた建物が建っている位置は、確かに北側よりは低いけど、窪地ってほどじゃない」
「だけど、窪地があるはずだ、と言いたいんだな」
 それから竹流はその地図をもう一度眺め、地図の上方に描かれた、鳥居から伸びている左右二本の弧のような線を指した。
「この線は? 川みたいにも見えるが」
「水脈、かな?」
 竹流は地図を見ながら、ちょっと考えていたが、真を促して立ち上がった。
「東尋坊はやめとこう。よく考えたら自殺の名所だし、これ以上何か変なものにも取り憑かれても困る。京都に帰るか」
 親父と奥さんに礼を言って、彼らは慌ただしく駅に向かった。


 京都に向かう雷鳥の中で、竹流は貢ぎ物リストの裏から出てきたという文を真に見せた。小学校で使った半紙ほどの大きさの紙にわずかに三行、墨は薄いが文字には力が篭り、何かが浮き出てくるように見える。最後に記された署名にはまだかすかに赤みが残っていた。
「これ……」
 真が言葉を呑み込むと、竹流は真の手からその紙を取り上げ、ゆったりと巻いた。
「初っぱなからえらいことが書いてある。どうやらその貢ぎ物の主は、子どもの母親の実家のようだな」
「何て?」
「簡単に言うと、祟ってやる、と書いてある。しかも、墨ではなく、血だ」
 真は淡々と語る竹流の顔を見つめた。
「貢ぎ物、というよりもそれは取り上げられたもののリストなんだろう。子どもが死んで、尚且つ実家から相当のものが時の権力者へいっている。その田畑の面積など只ならぬものがあるしな。戦国時代を経ると、日本の家もほぼ男系になっていくが、このころは女の実家の方もかなりの権力を持っていたりする。家を存続させようと必死だったのか、何とか生き延びようと必死だったのか、ある意味将軍家を含めて、色んな家が一族内の内紛を繰り返した時代だからな、貢ぎ物か賄賂か、取り上げられたのか。その記録魔の絵師は、どっちかというと、嫁の家の婿養子のような立場だったようだ。子どもが亡くなって、母親も死んでいるようだし、それが病死か自殺か、はたまた殺されたのかは分からないが」
 真の頭の中に、どちらかといえば短めの文章の中に浮き出すような『怨』という文字が浮かび上がった。
「末代まで祟るって?」
「末代、どころか、国を滅ぼす勢いだな」
 真は思わず自分の手に力が入るような気がして、握りしめた。それに気が付いたのか、竹流はいつものように、子どもにするように真の頭に手を置いた。
「まぁ、そんなに祟りが溢れていては、この国は道も歩けない。それにその時代からもう六百年近くも過ぎようっていうんだ。もし本気で国を滅ぼす祟りだったのなら、太平洋戦争の時に日本は米国の属国になってたよ」
 今は、祟りが怖いと思ったわけではなかった。
 その心が、哀しいと思った。

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❄11 涸れない泉 四神相 水の道 

 寺に戻ると、住職は二人の帰りが予定より早いことには何ら驚きもせず、広間に真と竹流を招き入れ、さっそく一緒に見取り図を検分した。
「間違いなく、これは以前の神社のものですな」
「寺が建てられたとき、神社のもので残されたのは」
「確かに、あの水盤は古くからあるようでしたな。果たして神社の時からあったのかどうかはわかりませんがの」
「あれは、どうなってるんです?」
「多くはありませんが、水が湧きだしています。底の穴から水が水盤に入り込み、そこからこぼれた水は周囲の砂利の中へ落ち込んでまた地面に吸収されているようですが、はて、美味い水だと伝え聞いていて、茶を点てるときに汲んではおりましたが、詳しく調べたことも考えたこともございませなんだ」
「つまり涸れない水盤、というわけですか」
「水量の多少はあるようですが、完全に涸れることはございません」
 枯山水の庭の脇に涸れない水源がある。何とも不思議な組み合わせだった。
「地下に水が流れている、ということでしょうか? 川のように?」
「確かに、庭の先はやや小高い杉林です。その向こうから流れ出てきているのだとしたら、地下に水脈があってしかるべきでしょうな」
 では、敷地の両端に水脈があるのかもしれない。この鳥居から伸びているように見える線は水脈の印なのか。
「で、この剣の印のところは?」
 住職はしばらくそれを見ていたが、やがて顔を上げ庭の奥の方を見やって、言った。
「それは、地蔵堂のあたりですな」
「地蔵堂?」
「明日、明るくなれば御案内致しましょう。渡り廊下の先の階段を登ると、小さな地蔵堂がございます。その辺りになりそうですな」
「問題の不動明王ですが、この剣の印がその位置を表しているといいんですが」
 その後、住職は竹流から、例の貢ぎ物リストの裏から出てきた祟りの文章を受け取り、それをしばらく読んでいたが、丁寧に拝むようにした。
「そういうことでしたか。これは本堂に上げて、毎日お鎮め致しましょう」
 夕食と風呂を済ませて、真も竹流も早くに寝床に潜った。風が強く、今日は渡り廊下の雨戸も閉められた。雨が降りそうな気配だった。
「地蔵堂では、話が合わないな」布団の中で竹流が呟いた。「不動明王の鈴が鳴るのは、この本堂のある建物自体の問題でないと、地蔵堂ひとつではそこまでダイナミックな仕掛けを作る意味合いがないだろう。卵城伝説にこだわるわけじゃないけどな」
 真はしばらく竹流の言葉の意味を考えていた。それから気になっていたことを聞いた。
「剥いだ後、紙は洗うのか?」
「表面の汚れは洗浄してある。十分とは言えないかもしれないが、糊も取り除いた。おかげで幽霊も美人になっただろう。日本の和紙と糊は素晴らしい材料で、これを扱えるようになると西洋の絵画の修復も随分楽だし、いい仕事ができる」
「十分立派な仕事をしているように見えるよ」
「そりゃどうも」
 竹流は、今日は絶対にひとりで寝る、と言った真の言う通りにしてくれていた。
「でも、その洗浄のお蔭で、きっと紙は元の状態に近づいているんだろう?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ、あの奇妙な濃淡は、始めからって事だよな?」何かが引っ掛かっているのだが、上手く表現できなくてまだるっこしい。真は天井を見つめたままだった。「もし、地蔵堂に不動明王が無かったら、何処にあるんだろう? それとも不動明王の在り処を示すものじゃなかったのかな」
「うん、どうかな。ただ、剥いでいるときに、何か引っ掛かったんだがな。何だろう?」
 竹流のほうにも何か気になることがあるようで、少しの間黙って考えていた。疲れているだろうから今日はもう何も考えないで寝たら、と真が声を掛けようとしたとき、竹流が思い当たったように言った。
「そうか。親父と奉書の話をしてるときだった」
「奉書?」
「紙ってのは二世紀に中国で発明された。何らかの線維を溶かして、その水の中で漉き枠を揺り動かして、あの工場で見たろう? その枠の中に少しずつ紙の層ができる。それを乾燥させて、出来上がりだ。言うのは簡単だが、これを人力で行う行程はなかなか大変だ。最近では原料は短線維で機械で漉くようになって、滲みを防ぐためにミョウバンを使ったり、木材パルプを使うようになって、紙の寿命は短くなった。だが、日本の手漉き和紙は違う。楮、三椏、雁皮、麻といった木の線維が使われていて、耐久性も他の紙の比ではない。その中でも生漉奉書は日本でとれた楮百パーセントの和紙だ。版画や巻物に使われて、木版画の場合、三百回重ね刷りしても耐えるという」
時々、この男の解説は回りくどく長い。
「で? その長い話のキーワードは?」
「重ねる、だ」
 真は竹流を見つめた。
「丁度紙を剥いでいるときに、重ねる話をしてたんで、妙な気分になって、ふと引っ掛かったんだ。そうか」
 竹流は起きだして、部屋の隅の机の上に置いた三枚の紙を並べた。
「しまったな、裏打ちしてくるんじゃなかった。まぁ、これなら簡単に剥せるが」
 竹流はアタッシュケースの中から美濃紙と刷毛などを取りだし、ポットに残されたお湯を素焼きの器に取ると、外にでて雨戸を少し開け、水盤から湧き出した清らかな水を加え、ぬるま湯にした。美濃紙を貼り付け、湯を刷毛で延ばして、そうしてもう一度、地図になっている二枚の紙の裏打ちを剥いだ。水気と糊を和紙で吸い取ると、しばらく置いてから、彼は枕元の蛍光燈を引き寄せた。
 真も側に寄って、それを見つめた。
 一番厚手の幽霊の絵の上に、薄く剥いだ状態の他の二枚の紙を重ねて光で透かすと、そこに浮かび上がったのは、こちらを見つめる龍、あるいは忿怒の形相をした不動明王自身の顔だった。だから、この見取り図は妙に濃淡があって、見にくかったのかと思った。やはり、古いせいではなく、意味があったのだ。
 そしてその忿怒の顔が浮かび上がったのは、神社の形からは本殿辺りになっていて、水盤の位置から考えると、まさに今自分たちのいる部屋の隣、広間のあたりだった。
「やったな」
「じゃあ、この剣は?」
「もう一つキーワードが必要だな」真は呟いた竹流の横顔を見つめた。竹流は顔を真に向けて言った。「水だ」
「水?」
 竹流は簡単に辺りを片づけると、寒いから布団に入ろうと言った。
「卵城伝説の意味が違っていたのかも知れない。考えてみればこの見取り図も、どうして今の寺が書かれていないんだ? この地図が書かれたときには、既に燃えて無くなっていたはずの古い神社の見取り図だ。そして、それと分かるように書かれていたのは、剣と丸、つまり劔と珠を探していたら、始めに目に付く印だろう。その丸のところには、涸れない泉がある」
「じゃあ、剣のところにも?」
「地形で年月を経て変わらないものがあるとしたら? 建物も、庭の形も、山の形も、いずれ原形を留めないほどに変わるかもしれない。わざわざもう存在しない神社の地図を下敷きにしたのは、変わりゆくものと変わらないものがあるということを、伝えたかったのかもしれない。つまり、宝を埋めるときには地面の適当なところには埋めないものだ。埋蔵金伝説の基本も『何百年かは変わらないはずの目印』だ。今回の場合、その目印は?」
「水の湧き出るところ。もっとも涸れなければ、だけど」
「多分、どんぴしゃだな。恐らく、その湧き水はひどい旱魃の時にも涸れなかったんだろう。和尚も言ってた、決して涸れない、と。だから、『その人』はこの湧き水に運命を託したんだ。旱魃のために子どもを失ったという気持ちもあったろうしな」
 それから、竹流はもう一度側に地図を引き寄せて、検分した。
「さらに、地図を読むときに、それが実際の地形と合致しているかどうかを示すために必要なものは何か? 地図上と実際の場所の三点が合致すれば申し分ないけど、何百年後まで残るかどうかわからない。この寺には運命を託された湧き水のある場所は二点、あとは東西南北を合わせれば、場所は確定される。お前の言う通り、この寺の東西南北は四神相に合わせてある。まるで京都の縮小図のように」
 そこまで勢いのある調子で言ってから、竹流は少し言葉を切って、鎮かな口調で続けた。
「まぁ、全て、これ以上意地悪をしない人であれば、だけどな」
 真も少しの間黙ったが、その竹流の言葉に同感した。
「じゃあ、不動明王の鈴が鳴るのは?」
「お前ここに来てから、鈴の音など聞いたか?」
「夢の中で、だけだ」
「自分で卵城伝説の話なんかして、自分で混乱していたよ。京都の街の下には巨大な地下水盤があると聞いたことがある。つまり、京都自体が地下の巨大な古代湖の上の街だと言われている。この寺の中にも水の湧き出るところがあるが、他にも京都にはそういう場所が多くある。ほとんど涸れることはないというが、どこか天皇家縁の家の庭の池は、地下の『古代湖』の水が減ると水位が下がり、涸れることもあると聞いた。危機に瀕しているのは寺の建物じゃなくて、京都の水なのかもしれん」
「湿気か何かで、鳴るとか鳴らないとか決まるのか?」
「今年の冬、雪は少なかったし、えらく乾燥してたろう? 俺たちがここに来る前になって、何日も雨が降った。だから、小僧たちは怖がっていたが、俺たちがここに来てからは鈴は鳴っていない。まぁ、古代の科学については明日のお楽しみにしよう」
「上か下か、分からないっていってたろ? 土中の湿気が絡むとなると、十中八九、下ってことか。広間の下、掘るのか?」
「そうなりゃ、明日は力仕事だな。やっぱり寝よう」
 竹流はそう言って、あっさりと眠ってしまった。真は、目が冴えてきて眠れなくなってしまった。
 ふと、怨念を込めた血の筆の跡を思いだしていた。それは、怖いというよりも哀しく見えた。その哀しみの気配が真には重くのしかかった。子どもが亡くなって、母親はどれほど悲嘆にくれたことだろう。それとも、何か別の感情があっただろうか。真には理解できない複雑に入り組んだ感情。それは真の首を絞めた育ての母親の感情に重なった。
 意地を張るんじゃなかったと思った。一人でいる布団の中が急に冷え込んだように思えた。彼の腕の中がどれほど心地いいところか、真はよく知っていた。それはまさに、幼いころ真を抱いて眠らせてくれた馬たちの足下の藁の中や、犬たちの温もりや、目に見えないはずのもののけたちの子守歌と、同じだった。
 だが、彼にずっと甘えているわけにはいかなかった。ひとりで生きることができるようにならなければ、と思った。
 その日はどのくらい眠れずにいたのか、結局眠ってからは夢も見なかった。

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❄12 許されてある 広間の下 無音の響 

 翌朝、彼らは住職に案内されて、まず地蔵堂へ行ってみた。
 昨夜、知らぬ間に雨が降ったらしく、木々は瑞々しく空気は幾分か冷たく思えた。
「地蔵堂、というところがそれらしいな」
「どういう意味だ?」
 地蔵堂への道を住職の後ろを歩きながら、竹流が真に例の如く長い説明を始めていた。
「もともと日本の宗教の中には不思議な感性があって、西洋のどんな神という概念とも異なっている。西洋の神々は、例え多神教でも、結局は神に序列があり、命に序列があり、中心に何かを据え、唯一絶対の何かを求めようとする。だが、日本人の持っている感覚は全く違う。命は全てが平等であり、そのことに対して畏怖や畏敬の念がある。面白いのは、善くても悪くてもそれを神と呼ぶことだ。命そのものを神と呼んでいる」
 住職が、竹流の言葉を引き継いだ。
「西洋では神様は人間の外に居りましょう。この国では、人間の中に居りますし、動物にも、植物にも、岩にも山にも居ります。あなたが知らずに目にしているのは、それらの命の迸る姿でしょうな」
 真は、住職の顔を見つめ、それから話し始めた竹流の言葉に注意を向けた。
「本居宣長が古事記伝で書いていた。何であっても、稀であったり尋常ならぬすぐれた徳のある畏こきものは、全て迦微(神)という、とな。『すぐれたること、というのは、尊きこと善きこと、功しきことなどの優れたるのみをいうに非ず、悪しきもの奇しきものなども、よにすぐれて畏きをば、神というなり』と。怨みのこもった人間でも神として祀られてきた。しかも珍しい話じゃない。西洋ではそれは滅ぼすべき悪魔であって、悪魔を崇拝するのは邪教だ。日本のこの感性は、実はものすごく古い時代の人類の感性そのものだった。例えば、ネイティブアメリカンがもっている宗教観も似たようなところがある。逆に、ギリシャ神話では多くの神々が登場するが、まあ、多少とんでもない神様もいるが、それでもあれにはゼウスという絶対神がいる。そんなふうに、西洋の多くの文明が絶対である何かにすがりながら、人間こそ絶対であると、神に選ばれた唯一正しい生命であるという道を歩いてきたのとは大きな違いだ。この人間本来の感性は、何だって取り込む。だから、日本では神社もお寺もすぐに習合してしまう。西洋ではあり得ない現象だ」
「それで、地蔵菩薩は?」
「地蔵菩薩というのは、仏教の仏様の中でも、民間信仰のもっとも強い存在なんだ。神道の場合、普通の人間でも稀なる働きをしたら神と呼ばれる、あるいはただの御先祖様だって時には神として祀られたりもする、その神が僧となり修業を積み、仏に帰依した姿がお地蔵さんってわけだ。ここに地蔵堂があるのも、意味深じゃないか?」
 住職がほっほっと笑った。
「恐れ入りましたな。異国人のあなたがそこまで日本を深く知っておられる」
「こいつのお祖父さんは私の師匠なんです。随分教えられます」
 そんなことは真は全然知らなかった。いつも酒を飲みながら、竹流と長一郎が何を話しているのか気にも留めなかったが、そんなことを話していたのだ。てっきり、長一郎が敬愛する榎本武揚が蝦夷に別の国を造ろうとしていたという話を、竹流が一方的にくどくどと聞かされているのかと思っていた。とはいえ、どちらにしても酒を飲みながらのその歴史談義に、真は加われそうにない。
 地蔵堂は本堂からいくらか上りになったところにあった。彼らは地蔵堂の地蔵菩薩に手を合わせて、それから裏へ廻った。水の湧き出しているところは見当たらなかったが、確かにここは空気が湿っぽかった。地面の苔も湿気をしっかり含んでいる。
「この地蔵堂は、江戸時代に建てられたと聞いております」
 住職が手を合わせながら言った。
「この下かもしれませんね。しかし、このお堂を除けるわけにもいかないし」
 そう言いながら、竹流は住職に断って、地蔵堂の扉を開けた。静かで、古びた空気が漂っていた。真は地蔵堂の建てられている地面にかがみ込んで、耳を大地につけてみた。子どもの頃、よくそうやって大地の声を聞いた。それはアイヌの老人が教えてくれた事だった。反対側の耳が竹流の声を捕まえた。
「何か聞こえるか?」
「水の音。下っている」
 本堂の脇へ下る道は年月で堅く踏み固められていた。彼らはそれを辿り、南の方へ移動した。本堂自体は江戸時代に再建され、その北側、つまり地蔵堂寄りに、本堂からの続きで、大きくはないが比較的新しい建物が建っていた。
「庫裡です。僧が寝泊まりするところや台所、つまり私どもの住まいのようなところで、先代の住職の時に作られたものですが」
 小僧の一人に懐中電灯を持ってきてもらい、その建物の縁の下をのぞき込んでみた。確かにそこにも随分湿っぽい空気が漂っていた。暫く調べてから、竹流は立ち上がって住職に言った。
「不動明王とは関係がないかもしれませんが、この下の柱を確かめたほうがいいですね。あの地蔵堂辺りからの湧き水が、浅い地面の下で流れていたのでしょう。本来ならどこかへ流れ落ちていたのかもしれませんが、ここに建物ができたことで水の道が塞き止められて、逆に地表を湿らせて、多少柱を傷めているかもしれません」
「そのようですな」
 住職は一緒に縁の下をのぞき込んでいた。
 その時突然、彼らの前に、さっき懐中電灯を持ってきてくれた小僧が走り込んできて、住職の前に土下座をした。
「和尚さん、申し訳ございません」
 それは、あの時見送ったタクシーに手を合わせていた、年長の背の高い小僧だった。
「床の下に隠してたんです。それで、お不動さんを探したら、見つかってしまうかもしれないと思って」小僧はもう一度地面に頭をこすりつけるようにした。「済みません。私のせいで、お不動さんが怒って、鈴を鳴らしたんです」
 住職は彼の前にかがみ込んだ。
「はて、何を隠しておったのかな」
 小僧は住職を見上げ、情けない声で言った。
「お酒と煙草です」
「はて、この寺にそんなものがありましたかな」
 小僧はきょとんとした顔で住職を見た。竹流はちょっとほほ笑ましい顔で、真を見た。
「すみません」
 小僧が小さな掠れた声で続けたが、住職はぼけたような振りで、考える顔をしただけだった。
「しかし、お前のお蔭で鈴が鳴ったとしたら、この柱の危機を知らせるようにという、お不動様のお導きですな。有り難いことだ」
 住職は小僧に仕事に戻るようにと言った。
「わたしなどは、あの年にはもっと色々隠しておりましたわな」
 小僧が去ると、住職はそう言って、またほっほっと笑った。
「未成年に見えるけど?」
 真は竹流に囁いた。
「俺など、学校に上がる前から飲んでたけどな。いずれにしても豪気なことだ」
 真は竹流を見上げた。
「小僧も、和尚さんもさ」
 それを耳に留めたからか、住職がまたほっほっと笑った。
「いやいや、あの若者は、もうああいうことを何度も繰り返しておるのですよ」
「繰り返す?」
 聞き返したのは竹流だった。
「どこかに酒やら煙草を隠すのですな。なかなか見つかりにくいこともありますがの、知らんふりをしておりますと、あぁやって自分から名乗りを挙げるわけです」
 真は一体どういうことかと住職を見たが、それに気が付いたのか、住職は真の方に顔を向けた。住職の目はやはり長い睫の奥に篭っていて、よく見えなかった。
「大和どのはお気づきでしょうがの、ここにいる若者たちは修行僧ではございません。少年院から出て引き取り手がない者やら、一癖二癖もあり親元で暮らせないものたちでしての、放っておくと犯罪に走ったり、あるいは繰り返すともしれんので、親や社会がここに放り込むわけでしての」住職の言葉には切羽詰った印象はなかった。「どうにかして私を怒らそうと、あるいはここから追い出されようとして、あれこれやってみるものもおるわけです。あの程度はまだ可愛らしいものでございますよ」
「怒らないのですか? つまりキリスト教的に言えば、敵に打たれようとも、七を七十倍するまでは許せ、というわけですか」
 竹流が尋ねると、住職は頷くように首を振った。
「いやいや、わたしとしても怒ることもございますがの、ここでは許すという行為はございません」
「許すという行為がない?」
「許すのは私の仕事ではございませんでしての。つまり、ここには許されておるという状態があるのでございますよ。仏の世界では既に許されておりましてな、更に私が許すという行為を付け加える必要などございません」
 真はぼんやりと住職の言葉を頭の中で反芻していた。半分分かったような、わからないような内容だった。
「でも、逃げ出すものもあるでしょう」
 住職は今までで一番トーンの高い声で、ほっほっと笑った。
「この寺は、道が見えぬものが出て行こうとすると、迷うようにできておるようでしての。もしも出て行っても、気が付くと戻っておるのですな。道が見えたものだけが、その先に何が見えようとも真っ直ぐここをでていくのでございますよ」
 やはりこの住職は、あのオカルトもどき達を飼いならしているのではないかと、ふとそう思った。逃げようとすると長い手が伸びてきて、いつの間にか襟口を捕まえられるのかもしれない。
「もしも見えた道が、正しくなかったとしたら?」
 不意に真の耳に入ってきた竹流の声は、彼には珍しく不安そうな響きが含まれていた。
「正しいかどうかは問題にはなっておりませんでしての。そもそも正しいとは誰に決めることができるのでしょうかな。誰かにとって正しいことが、他の者にとっては正しくはない。今正しいと思われておることが、百年先には大きな間違いでありましょう。しかし、いずれにしても道を歩き出したものは、自ら責任を取るのでございます。大和どの、人は、人とも物とも、出会うべき運命というものがあるわけではございません。出会ってからこそ、運命も拓けるのでございます。この本堂の仏具たちも、あなたに出会い、あなたの手により修復という運命を得たのでございますよ。運命には善いも悪いもございません。善くもあり悪くもある、正しくもあり、間違いでもある」
 煙に巻かれるような禅問答を残して、さて、広間に戻りましょうかな、と住職は歩き始めた。
 真は住職の後ろ姿を見つめ、それから竹流のほうを振り返った。竹流も住職を見送っていたようだが、真のほうを見て言った。
「やっぱり、豪気なものだ。敵わないな」


 彼らは広間に戻った。広間で竹流は自分たちの足下の畳を見ながら、しばらく何も言わずに考え込んでいた。
「さて、どうするか」
 竹流が自分の足下を見つめたまま呟いた。
「取り敢えず、畳を上げますかな」
 住職の一言で若者たちが呼ばれて、広間の二十畳ほどある畳の中心の八畳ばかりが上げられた。住職の話を聞いてから彼らの顔をひとつひとつ見ていると、確かにひとつひとつの意味合いがあった。それでも彼らが許されてあるのだと、それについては羨ましいような気さえした。
 さすがに古い時代の畳は重そうだった。畳が上げられると、埃や土、藺草の屑が舞い上がり、板敷きの上に再び舞い積もった。
 真は咳こんだ。竹流が軽く背中をさするようにしてくれながら、住職に尋ねた。
「縁の下に潜ったことは?」
「いやいや、庭の方から多少はありますが、このようなところまでは」
 どこか外せるかな、と竹流は呟いて、板敷きのあちこちを叩いて調べていたが、よく分からなかったようだった。住職は若者たちに言いつけて、さらに四枚ほどの畳を上げさせた。端の方で多少板が浮き上がったところがあったので、結局強引に板を上げることになった。何枚かの板を外すと、縁の下に潜り込めるスペースができた。
 若者のひとりが竹流に雪駄と懐中電灯を渡した。竹流はそこから縁の下に潜り込み、しばらく懐中電灯で調べていたが、もう一度広間に上がり畳の淵に腰掛けると、例の見取り図を真に持ってこさせて、しばらく位置を確認していた。
「一緒に来るか?」
 竹流が真にそう言ったので、また別の若者が真にも雪駄をくれた。
 かなり強力な懐中電灯だったので、それなりに状況は見渡せたが、それでも奥の方は光も吸収されるような闇だった。とは言え、特別な縁の下の風景ではなかった。普通に台座が組まれ、柱が立っているように見えただけで、特に変わったこともなさそうだ。
 真は半分闇に飲み込まれている竹流の後姿を見失わないようについていった。彼らは纏わりつく蜘蛛の巣や埃を払いながら、地図が示すと思われる場所まで移動した。ほとんど這うように移動しているので、かなり不自由で、場所の特定などはできそうにもない。
「この辺りかな」
 竹流が止まったのは、およそ広間の中心辺りになりそうだった。
 真はちょっと地面に耳をくっつけてみた。何かあるとも思わなかったが、他にどうともしようがないような気がしたのだ。
 だが、何も期待しなかった真の耳に、不思議な空間の無音の響きが木霊するようだった。もし、『音がない』ということが『響く』のであれば、だが。
 真は顔をあげて竹流を見た。懐中電灯の明りしか頼るものがなかったので、相手の表情は測りかねた。
「何か聞こえるか?」
「というのか、何だか不思議な感じだ」
 竹流も地面に耳をつけ、暫くしてから真の方を見たようだった。
「何を感じる?」
 真は言葉を探してから返事をした。
「広い空洞に空気の充ちた感じ。空気と、水?」
「これは、もしかして、えらいものの上にいるのかもしれないぞ。お前の言う通り、窪地が本当にあるのかも知れない。てっきり、四神相が成立しないときにはよくあることで、何かの見立てだろうと思っていたんだが」
 もう一度地面に耳をつけてみると、今度は明らかに、何かの音が響いた。
 真はびっくりして顔を上げた。その気配が竹流に伝わったようだ。
「何だ?」
「水琴窟、だっけ? 地面の下に壺か何か埋めてあって、水が滴って時々音が響くやつ」
 竹流ももう一度地面に耳をつけた。そして、真の言った意味が分かったようだった。
 水の音。大きな空洞に響き渡る、澄んだ天国の楽器のような音。
 竹流は下から住職たちに合図を送り、結局その場所の板敷きを外した。畳二畳分ほど板敷きを外すと、作業は随分楽になった。
 それから、スコップを持ってきてもらい掘り始めたが、半メートルほども掘らないうちに堅い岩盤にあたった。
「何?」
「岩盤、だな」
 竹流は住職を見た。
「どうしますか。下がどうなってるのか分からないし、万が一にも建物の土台を崩すわけにもいかないし」
「あなた方は、これを探してここまで来られたのですから、お心のままになさるのがよろしい」
 竹流はしばらく住職を見つめていたが、それから真の方を見、改めて足下を見つめた。
 随分長い間竹流はそこに突っ立っていたが、やがて縁の下の底から畳の上に上がった。どうするとも言わず、彼は縁側に出て、しばらく水盤の涸れない泉を見つめていた。真はずっと竹流の姿を目で追っていた。
 それから竹流は住職に、ちょっと出かけてきます、と伝えた。

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❄13 雨乞いの聖地 水の源 鳴神 

 真は竹流に連れられて寺を出た。白川通りに出ると、すぐにタクシーはつかまった。タクシーに乗りかけて、真は後ろを振り返った。
 長い手が追いかけてくる気配はなかった。
 車は今出川通を西に向かい、その後堀川通を南下し、二条城の近くまで来た。そして、二条城の南の東西の通りで彼らを降ろした。
「ここは?」
 小さな門の前で、神泉苑と書かれていた。右手に平屋の住まいがあって、砂利道の右に暖簾のかかった食事処が、左手には木々に取り囲まれるように池があった。その池と料理屋らしい建物のわずかのすき間のような道を南に下がると、右手にお堂が、左手に池に架かる小さな橋があった。
 彼らが入った北側の入り口は、裏にあたるようだった。
「源義経が白拍子の静御前を見初めた場所らしい。彼女は雨乞いの舞を踊っていたというが」
 彼らは池の橋の前に立った。橋は緩やかな弧を描いて、向こうの、小さな舞台付の社がある島に繋がっていた。橋の袂には、願い事をしながら橋を渡るとそれが叶う、ただしひとつだけ、と書かれていた。三つ叶えてくれるというランプの精よりも気前がよくない、と思った。
「せっかくだから、何か願い事をしながら渡ったほうがいいぞ」
「中学生や高校生の女の子じゃあるまいし」
「願うのはタダだからな」
 そう言いながら竹流は橋を渡り始めた。弧の天辺で彼は立ち止まり、池の方を見つめた。池はそんなに大きなものでもなく、彼らの立っている橋の南側にも続いていたが、すぐに途切れて石の鳥居があり、その南には車が行き交う通りがもうそこに見えていた。
「考えごとをするには、あんまり適した場所に思えないけど」
 すぐ北隣には、江戸幕府が京都所司代を置いていた二条城があり、ここはその真南になった。神泉苑自体はその南北を比較的広い二車線の道路に挟まれているが、大した奥行もなく、どちらからも車の音が聞こえていた。
「それもそうだ」
 彼らは橋を渡りきり、法成就池の南の善女龍王社にお参りをした。この小さく区切られた聖域では、躑躅も他の常緑樹もようやく厳しい冬を越えて、葉の色合いを重々しい緑から色鮮やかなものに変えようとしていた。楓も、新しい芽吹きを拓き始め、桜は小さな蕾をピンク色に変える準備を始めていた。
 竹流が社に向かって当たり前に二礼二拍手一礼のお参りをするので、真もそれに習った。竹流の国は敬虔なカソリックの国で、彼自身が熱心なクリスチャンとは思わなかったが、それでも竹流が何の抵抗もなく神社仏閣に手を合わせるのは、多少不思議な感じがした。
 それから、社の前の小さな錆びたベンチに腰掛けて、しばらく時間を過ごした。
「隣の二条城は、江戸時代に徳川将軍家によって整備されて今の形になった。その時に、この池は北の部分のほとんどを削られて、水は二条城の堀に利用された。もともと池泉は、この十倍、二十倍の大きさはあったらしい。平安京が造られたとき、ここは大内裏の南で、自然の池や沼、森を利用して造られた禁苑で、貴族の遊宴の場になっていたということだ。その後、弘法大師が雨乞いの法を行って善女龍王を呼び寄せてから、雨乞いの霊地になった。そもそも神泉苑という名前は、常に清き水の湧き出す神泉がある、ということからついた名前だそうだ」
 そう説明してから、竹流は真に聞いた。
「何か願い事、したか?」
 真は、一瞬心を見透かされたようでどきっとした。
 ランプの精にお願いするとしたら、願い事はひとつだけだった。何日か前、そんなことを考えていたことを思い出していたが、実際に願うのは憚られる気がして、今日は何も考えずに橋を渡った。
「あんたは?」
「不動明王が見つかりますように、と一応言っておいた。だが、心の中の本当の願いは」竹流は、一瞬言葉を続けることを躊躇ったようだった。「実際に言葉に出さなくても、たとえ心の中であっても、唱えられないこともある。その願いに、どこかに他人の不幸が含まれていたり、その内容が重すぎる時には、な」
 そう言いながら、彼はもう立ち上がっていた。
「行こうか」
「戻るのか?」
「いや、龍と水の事を考えていたら、ここを見たくなった。ここに来たら、やっぱり水の源を見たくなった」
「水の源?」
「とにかく行こう」


 京都の碁盤の目の中を流れる鴨川は、さかのぼると大原や鞍馬にまで至る高野川、上賀茂神社の方へさかのぼる賀茂川が合流したものだ。この賀茂川は、更にさかのぼって地図の上では再び鴨川と名前を変え、さらに中津川、祖父谷川、雲ケ畑岩屋川といった源流に至る。鴨川の名前(尤も、鴨川か賀茂川かは、単なる地図上の便宜に過ぎない)に戻る辺りでは、もうすっかり町ではなく山の景色になって、山岳信仰の霊地の様相を現す。
 道はそれでもバスが通るらしく、時々バス停を見かけたが、一日に五台ほどしかないというバスを見かける事はなかった。
 雲ケ畑という集落はこの山の中にしては比較的大きな集落で、小学校もあった。道に面して切りそろえられた杉の木が積まれている。
 平城京からこの京都へ遷都された際に、種々の技術集団が天皇家に従って来たという。そのうち御所を始めとする建造物の木材を伐採する一団が、この雲ケ畑に土地を得た。彼らは年貢使役を免除された代わりに、材木を納めていて、大変誇り高い集団であったと伝えられていた。
 二条城で捕まえたタクシーの運転手は話好きで、市街から遥かに外れた山奥までのドライブの間、そのような地理と歴史を真と竹流に話して聞かせてくれた。
 バス停がついに終点を示した後、常にタクシーの通る道を並走していた川に架かる短い石の橋を渡って、そこからは道の舗装の様相も変わった。両脇はうっそうと繁る杉林で、タクシーは最後の細い山道を登りきった。
 橋も注連縄と同じで、結界の入口と言われている。実際、その短い橋を渡ってから、怪奇に充ちた霊気が漂い始めていた。
 タクシーは急な階段の前に開けた広場のような駐車場に止まった。他に車が一台止まっているきりで、人の気配を感じるのはそれだけだった。竹流は運転手にしばらく待っていてくれるように交渉していた。
 真はタクシーを降り、高い杉の木の間に開けた白い空を見上げた。空気が町の中とは全く異なっている。
 岩屋山志明院。
 案内の冊子によると、ここは六百五十年、役行者によって創設された霊峰であるという。その後、八百二十九年に弘法大師が、淳和天皇の御叡願により再興したと伝えられる。本尊は弘法大師の直作と伝えられる不動明王で、この地がその後皇室御崇敬を賜ったのは、ここが鴨川の水源地のひとつであり、京の清浄なる水を産み出す霊地であったからだった。
 その空気を一息吸ったときから、真には、形にならないまでも魑魅魍魎の気配がまとわりついた。もっとも、ここにある魑魅魍魎は真にとって悪意のあるものではなかった。霊気はそこにある全てのものをそのままの形で受け入れて、無垢清浄の気配に充ちていた。
 それでも、生物のひとつとしての人間をも含めた圧倒的な自然の尊厳に、真は自分の足下を見失いそうになった。感情の纏まりがほころびたまま竹流を見ると、彼はそれを分かっていたのか、真の肩を抱くようにしてくれた。鳥の声も水の音も吸い込まれるような空気だった。
 急な自然石の階段を登ると右手に本坊があり、寺の奥さんらしい小柄な女性が、車の音を聞いたのか、出てきてくれていた。
 思い立ったにしては準備のいいことに、竹流は上着の内側から、綺麗な越前和紙に包んだ志納金を彼女に手渡し、案内を乞うた。女性は、この外国人が流暢な日本語を話すのにほんの少しほっとしたような顔をして、案内の冊子に描かれた見取り図を指して、何かを彼に説明していた。
 真は少し彼らから離れて、参籠所の脇の椿の大木の横から、すぐ下の細い川を覗き込んだ。
 多くはなかったが、水が自然の地形のまま流れ落ちていた。向かいはすぐに山の斜面で、木々のすき間から光がこぼれだすようだった。
「樹齢四百年の椿だそうだ」
 真は改めて椿を見上げた。とても椿とも思えない大きな木だった。
「今年の冬の雪で、そこの割と大きな枝が折れてしまって、可哀想なことになりましたけど」奥さんが彼らに話しかけた。確かに、枝が折れた痕が残っていた。「私が可哀想だ申しますと、うちの人は、四百年の間には、もっと色んな事があったはずだ、そういう出来事全て含めて四百年だと、そう申しまして」
 真は、奥さんの小さな体と瞳を見つめ、それから改めて椿を見た。
 住職は修行だとしても、奥さんはこの山の奥で、もう何十年か、どう考えても不自由な暮らしをしてきているのだろう。大体一見しただけでも、水は湧き出しているとしても電気やガスはどうか、買い物はどうするのか、心配になるような場所だった。
 だが、そういうものを全て飲み込んで、奥さんは今ここに立っているのだろう。住職の言うとおり、善くもあり悪くもある運命の中で。
 椿の幹に触れてみた。この椿は、四百年、何を見て何を感じてきただろう。それでも、奥さんの時間も椿の時間も、この山全体にとってはほんの一瞬のような時間だ。
 椿のさらに山門側には、石楠花の大きな木が並んでいた。この寺は石楠花で有名で、奥さんは、その花の時期以外には誰も来ないことで有名なお寺だと言った。確かに、彼らと奥さん以外の誰の気配もなかった。
 二人は奥さんに会釈をして、山門の方に向かった。
 少し階段を登ると、岩屋山の文字の入った小野道風筆の額を掲げた山門で、門を潜ると、本堂まで多少長めの石の階段が続いた。周囲の背の高い木々が両脇から締め付けてくるように思える。
「青山峨々とそびえ、白雲峰嶺を隠し、冷泉の流れ清うして、邪見の心魂まさに和らぐと、世尊も既に説きたまう。微妙の心耳を澄まし、常住満の栄花より、はるかにまさるこの山岳。はて、絶景の霊地じゃよなぁ」
「鳴神?」
「よく知ってるな」
 よく知っているのはそっちのほうだと思った。もっとも、真も歌舞伎の台詞を覚えているわけではなかった。その響きと、言葉の持つ力が、どこか頭の隅に残っていただけだった。
「ついこの間、おじいちゃんが風邪で行けなくなったからって、おばあちゃんに新春歌舞伎につき合わされたんだ」
「話の内容、わかったか?」
「鳴神上人が、約束を守ってくれない帝に腹を立てて、世界中の龍神をどっかに閉じこめて雨が降らないようにしていたけど、帝に遣わされた美女の色香に迷って、ついに龍神たちを開放する秘密をしゃべってしまうって話だろ」
「そうそう、何とも不可思議な、ある意味ユーモラスな話だろう? 美女の名前は雲の絶間姫、いかにも雨が降りそうな名前だしな。上人に秘密をしゃべらせるのに、夫が死んだとか言って、その夫との艶っぽい想い出を悩殺パフォーマンスで語り、揚げ句、癪を起こして倒れた姫を上人が介抱する下りでは、上人は生まれて初めて女の肌に触れてのぼせ上がってしまう。結果、とち狂って祝言をあげることになり、酒で酔っぱらって秘密を語ってしまうわけだ。姫が滝つぼの注連縄を切って龍神が開放されると、雷鳴轟いて雨が降り、使命を果たした姫は都に逃げ帰る。騙されたと知った上人は、怒りのあまり悪鬼に変わって、姫を追っかけていく。如何に立派なお坊さんも、女の色香に迷うってわけだ。生まれて初めて女の懐中に手を入れてみれば、あじなものが手に触った、こりゃ何じゃ、ってな」
「あんたが言うと、どうも妙に生臭くって、よくない」
「極めてリアルな話さ。それに、鳴神上人ってのは純粋な男だと思わないか? 滑稽でちょっとばかり悲哀を感じるけど、男の純情の物語だ。彼を騙した朝廷も、色仕掛けでたらし込んだ姫も悪人に思えるくらいだ」
 そういう解釈もあるのか、と真は思ったが、この話の脈絡がつかめなかった。
「で、それが何の関係があるんだ?」
「まさにここが、その歌舞伎十八番の一の舞台だ」
「ここ?」
 歌舞伎の舞台からは、もう少し平坦な土地を想像していたが、ここは完全に山の斜面だった。
 彼らは重く古い木で作られた大きくはない本堂にお参りをし、それからその脇の道を回って水子地蔵の前を通り、本堂の横手にある小さな滝の前に立った。
「飛龍大権現。弘法大師が一顆の玉を授けると、忽ち龍に化けて、滝壷に飛び込んだという話が伝わっているらしい」
 玉を捧げると龍に化けるのか。龍と玉はやはり切っても切れない関係のようだ。
 洞穴を持った岩の上に小さな祠があり、その下から突き出した苔むした石の水路から水が放流され、岩場の脇からも山中から染み出す清水が集められ、小さな滝となって流れ落ちていた。途中の岩の上には、青銅の龍が蝋燭のような棒状のものに巻き付いていた。
 竹流は、そこからかろうじて見える上の方の、暗い岩場を指した。
「あれがそうだな」
 彼らは本堂の裏手の粗い階段をさらに登って、護摩洞窟までたどり着いた。
「鳴神上人が龍を封じ込めていた洞窟だ」
 洞窟の奥は、大きな岩と岩の隙間が細くなっていき、その先は吸い込まれるような闇だった。ここに立って、聞こえるはずのないものの音や声を聞いたという人は、数多いるらしいが、洞窟に反響するただの風の音なのか、本当にこの向こうに続く異界からの声なのか、定かではなかった。
「何を見に来たんだ? 歌舞伎の話をしに来たんじゃないんだろう?」
 それには竹流は答えなかった。しばらく洞窟を、そしてこの志明院のある岩屋山の地面を見つめていた。
 真は一緒になって洞窟を見つめていたが、ついにぞくっときた。気を失っている間に見たあの洞窟を思い出したのだ。
 洞窟というのは、異界への入口だと信じられている。この山にあれば、全てが魔物の棲む異界に通じているように思えてしまうが、恐ろしくなって身体が震えたのではなかった。何やら尊い畏怖の念に覆い尽くされるような、そんな気がした。
 真が自分の身体をふと抱くようにしたのに竹流は気がついてくれたようだった。真の頭に、いつものように慰めるように大きな手を置き、さらに険しい石段へと促した。
「この山は名前通り、巨石や巨岩でできている。つまり全体がごつごつした山で、あちこちに洞窟がある。古代、京都盆地は大阪湾に繋がっていて、そもそも断層で陥没した巨大な湖だったそうだ。その古代地図では、湖の北の端は丁度この山の麓あたり、東の端は俺たちが泊まっているお寺の辺りだ。そういう古代の地形を思うと、自分たちが今立っている足場が本来はどういうものだったのか、不思議な感じもするな」
 真は、粗い造りの石の階段の上の舞台作りの堂を見上げた。堂は岩から湧き出すような形に作られ、錆びた鉄の、人一人がようやく通ることができる階段を登ると舞台の上に出るようになっていた。
 真は暫く竹流の言葉の意味を考えていたが、やがて隣の男の顔を見た。
「その、つまり、あの岩盤を掘ってもいいかどうか、考えてるのか?」
「というよりも、どこかに入口がないかと考えている」
「入口? 洞窟の?」

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❄14 修行僧 逆打ち いつかあなたに会いたい 

 二人が黙って堂の舞台の下に立っていると、どこから現れたのか、後ろをひとりの僧が通りかかった。随分古びた袈裟を着た僧は、笠をふと斜めに上げ、彼らと目が合ったので挨拶をしてくれた。傘の下の顔は、思ったよりずっと若かった。整った顔つきだったが、後から思い出してもどんな顔だったのか思い描くことができない。ただ、目だけは強い意思の力が漲るように輝いていた。
 その目を見た時、真は一瞬、今自分たちのいる歴史の中の時間を疑った。
「御旅行ですか」
 若い僧は当たり前のように日本語で話しかけた。明らかに異国人と分かる竹流と、半分以下だが異国の血の混じっている真に対して、日本語が通じるかどうか、確認する気配はなかった。
「えぇ、まぁ」
「このようなところまで、お珍しい」
「先ほど神泉苑で池の水を見ていましたら、何となく京都の水の源を見たくなって」
 若い僧は、穏やかに二人を見つめていた。
 真はどこかでこのような姿の僧の像を見たなと思った。いや、それは像だったのだろうか。それとも。
 丁度僧が光のよく当たる場所に立っていたので、まるで光輪を背負っているように見えたのだろう。それに、自分はともかく、今は竹流が話しているのだから、死んでいる人でも幻でも魑魅魍魎の化けた姿でもないはずだ。
「それは奇遇です。私もこの水源地を見に参りました。龍の伝説を調べておりまして、神泉苑にも行ってきたところです。あそこの伝説は御存知ですか」
「弘法大師が雨乞いをした、ということしか」
 若い僧は笠をまた斜めに上げながら、自分も根本中院の舞台作りの上の方を見上げるようにした。
「弘仁十五年、淳和天皇の御代でございました。平安京が造営された当初、京都は左右対称の形でしたので、今残っている東寺と対に、西寺という立派なお寺も建っておりました。東寺には空海が、西寺には守敏大徳がおられ、厳しい旱魃の際に法力比べが行われたわけです。まず守敏大徳が雨乞いを執り行いましたが、七日の後までも雨は降らず、諦めました。空海は九日間、請雨経法を行い、北天竺の大雪山の善女龍王を招くことができたわけでございます。その時、五尺ばかりの金色の龍王が蛇に乗って現れ、池に入ると乍ち大雨となりました」
 龍が蛇に乗ってくる?
 一瞬妙な感じがしたが、五尺といえば確かに龍としてはそれほど大きくないのかもしれないし、蛇にだって乗れるのかもしれない。そんな小さな龍もいるのか、いや、やはり伝説の生き物だから何でもありなのだろう。
 真は黙ったまま、竹流と若い僧を交互に見つめた。
「この地にもやはり龍の伝説がございます。古来より龍は水を司る神、水は人間だけではなく、あらゆる生命の源、この地はその源の源でございます。京都の地は太古の昔には巨大な湖であったとも言われております」
「それは聞いたことがあります。今でも京都の街の下には巨大な地底の湖、つまり水の貯留層があって、この街のあちこちから湧き出る水の源泉は、その古代の湖の水なのだと。そのために京都は夏はおそろしく蒸し暑く、冬は底冷えのきつい気候をもっていると」
 僧は見かけの若さとは比較にならないほどの、智と厳格さと思慮深さに充ちた瞳を持っていた。
「地底の湖とは多少大袈裟にも聞こえますが、確かに、古代の湖は多くの水脈として伏流し、この京都の全ての水、川も苑も湧き水も全て、そこから生じたものだと言われております」
「あなたは、何故龍の伝説を調べておられるのですか」
 この若い僧に対して竹流が随分と丁寧なものの言い方をしていることに、真は気がついた。泊まっている寺の住職に話すよりも、むしろ遜ったような言葉の響きがあって、妙な感じを覚えたのだ。
「水には龍がつきものですから。このところ、京都の多くの湧き水は涸れてきております。つい何十年か前までは、どんな場所でも三メートルも掘れば井戸水が湧き出ておりました。京都の豆腐、生麩、湯葉、茶の湯、酒、あるいは友禅までも、全て湧き出す水の賜でございました。私は大学で水について勉強をしておりまして、時間があればこうして歩き、見て回っております。善きもの、善き水、善き心、そういうものがついに湖の底をつくように、消えていこうとしているように思えてなりません」
 竹流は、一度ちらっと真の方を見た。真は一瞬、彼が何を自分に確かめたのかと思って、どきっとした。
「この根本中院は大巖に寄り掛かるように建てられておりますが、この神降窟の洞窟内に湧き出る水は、あらゆる難病を癒す霊水と言われております。命の水です。天からの水は山に染み入り、湧き出し、やがて人里へ下り、文化を、命を育む」
 そうか、山に降った雨は地下に潜り、この山の至るところから湧き出て集まり、川となって下り、ついには鴨川に、そしてやがては海に至るのだろう。さっき登ってきた道を並走していた川は、この染み出し湧き出したあらゆる霊水の束のようなものだ。同じように地下にも多くの水脈があり、高い位置から、つまり北から南の窪地へ下っていく。その途中で町の家々の井戸を潤し、人びとの暮らしを支えてきた。
 しかし近年、多くの新しい建物が、つまりこの町にしては高層の建物が建ち、その分地下は掘り下げられ、あるいは地下鉄が掘られ、地下に伏流していた水の道は断たれていった。
 あの寺の地蔵堂の湧き水も同じだ。新しい建物のために、本来の水の道を断ち切られていた。あるいは杉山の向こうに見えていた道路も。
 この町の水は、竹流の言った通り、本当に危機に瀕しているのだろうか。
「さて、我々はどこへいくのでございましょう」
 そう言って、若い僧は軽く頭を下げるようにして、根本中院の脇道をさらに山中へと登っていった。ここは修験道の霊峰であり、この奥にもまだ行場があるので、彼はそこへ向かったのだろう。一般の人間は登ることを赦されていない山である。
「弘法大師が呼び寄せた善女龍王はあの神泉苑の池に棲みついて、その後あの苑は歴史上長く祈雨所として祀られた。ここも、やはり弘法大師が入山したとき、この岩屋山の守護神が龍に姿を変えて滝壷に入ったと伝えられている」
 竹流はしばらく若い僧が登っていった道を見つめていた。
「ところで、生きている人だったか?」
 唐突に竹流が聞いた。
「え?」
 真は竹流の顔を見た。
「あの僧侶、今はもう存在しない西寺の僧の名前には、大徳と立派な敬称をつけたのに、東寺の僧の名前は空海、と呼び捨てた」
 そう言われて少しの間呆然とした。もしも誰かの名前を呼び捨てにするとすれば、憎い敵か、あるいは極めて親しい者か、あるいは。
「空海が弘法大師の称号を与えられるのは、死後八十年以上経ってからだし、生きている間はずっと空海という名前だ。だが、現代の人間なら普通、尊敬の気持ちを込めて弘法大師と呼びそうなものだが」
 それから細い鉄の手すりを頼りに舞台の上に登り、根本中院にも手を合わせ、神降窟の前に立った。ここには菅原道真作と伝えられる眼力不動明王が祀られている。目を閉じても、それとわかる水音は聞こえない。それでもどこか岩の奥で水が湧き出している気配が、足元から湿度として上ってきていた。
 やはりふと気を緩めると引き込まれそうな異界だった。半分は恐ろしく、半分は懐かしいような、尊い気配が漂っている。
 振り返り舞台の端まで行くと、高い木々の枝が間近だった。ここは京都の随分北になるのでまだ木の芽は堅そうに見えたが、近づいて見ると、拓く時を待つ新しい命の迸りを感じる。
 数日前まで降り続いた雨が、まだ匂いを残している。目を閉じると、高い空、低い枝のどこかで鳥の声が横切り、水の流れる音がその声を支えていた。地の表を流れる水の音と一緒に、深い地中を下る穏やかな振動が足元から体に伝わってくる。風はまだ冷たいが、冬にはない様々な匂いを孕んでいる。
 彼らはそれからゆっくりと岩場を降り始めた。気を抜くと滑り落ちてしまいそうな石段を降りながら、真はずっと黙っていたが、本堂の裏まで戻ってくると、やっと何かから解放された気がして竹流に言った。
「俺に、現実か幻か区別がつくと思うか? 第一、あんたがしゃべってたんだから、生きている人だろう?」
 真の言葉をしばらく考えていたのか、少し間を置いてから竹流は真の顔を見た。
「俺も、だいぶとち狂ってきてるな」
 真は、ちょっとばかり疲れたような顔をした彼を見つめ返した。
 それから彼らはもう一度飛龍権現のところまで戻ってきて、あらゆる岩や土から湧き出して、やがては束となり、ここで勢いよく流れ出す水を見つめた。
 真はまた長い間黙っていたが、少し言葉を考えてから、話し始めた。
「俺、物心ついたときには北海道にいて、親戚やおじいちゃんもおばあちゃんもいて、俺のことを可愛がってくれていた、と思う。でも俺は捻くれた子どもで、何か上手くいかないことがあったら、自分だけに親がいないからだと思うようになっていた。おじいちゃんたちが俺を大事にしてくれているのは、俺には親がいないし、目も髪も日本人離れしてて変だし、可哀想だと思っているからだと考えた。アイヌの伝説の『蕗の下の人』が見えるのは、世の中で自分だけが可哀想だからだと思っていた。時々落ち着いて考えてみたら、ただ寂しい気持ちが形になって見えるはずのないものがいるように思い込んでいるだけだと分かっていたような気がする。馬や犬たちの言葉がわかるのも、寂しさを紛らわせるためにひとり遊びをしているのだと、早く目が覚めた方がいいと、自分に言いきかせたこともあった」
 竹流は、何も返事をせずにそれを聞いてくれていた。
 もしかすると、こんなふうに自分から自分自身の事を話すのは初めてかもしれない。自分でも分かっていたが、他人からすればもどかしいくらいに言葉数の少ない真は、大概それで人に誤解を与えていたし、ましてや、他人に解ってもらおうとして自分の事を誰かに説明するなどということは、不可能に近かった。
 美沙子があなたは分からないと言ったのも、無理はないと思える。
「あんたも知っている通り、精神科医に診てもらった時にも、そういうものが見えるのは、寂しい気持ちがあり得ないものを形にしてしまうからだと言われた。その通りだと思っていたから、だんだんおかしなものが見えることはなくなっていった」
 二人はさらに本堂の正面の階段のところまで戻った。竹流に促されて、真も一緒に階段の一番上の段に座る。
 目の前に、彼らが登ってきた山門から本堂までの長い階段がある。石段は苔むしていて、両脇を背の高い杉の木々に挟まれている。この山全体から湧き出る湿った空気、大地から湧き出す目に見えないエネルギーが、時折山門を潜って彼らの意識にまで吹き込むように思えた。この長い階段も、大地のエネルギー、思念が通る道なのだろう。
「だけど、父さんが学会で高知に連れていってくれた時、俺は、何て言うのか、やっぱり自分はおかしいと思った。町の中にいるときは何も感じない。でも山に入っていくと、もうそこから先には家もないし誰もいないはずなのに、たくさんの人が俺のことを見ながら歩いている。時々、一緒に行こうと誘ってくる。他の人には見えていないんだ」真は座ったままの姿勢で、片方の足を抱え込むようにした。「いつだって俺には、生きている人か死んでいる人かの区別はつかなかった。生きているはずの人だって、俺にとっては死んでいるとの同じような時もあったし、死んでいるはずの人や馬が、やっぱり生きているのと同じようなことも」
 竹流は、長い間黙っていたが、やがて諭すような穏やかな口調で言った。
「四国は別名、死の国と書いて死国と言うんだという人がいる。悪い意味じゃない。あそこは、四国は全体が霊地だ。生きているものも亡くなったものも、同じように存在しているんだろう」
 それから、真に聞いた。
「お前はそれが怖いか?」
 真は足元の苔の上で光る水滴を見つめていた。
「わからない」
「怖いという気持ちはとても大切だ。怖いから、畏れ、謙り、称え、大切にもする。生きているものも、死んでいるものたちも、神にも、善いものも悪いものもある。いや、和尚さんの言うとおり、ひとつの心の中に善いところも悪いところも抱えていて、あるいは善いわけでも悪いわけでもないのかもしれない。そういう複雑さは怖くて当然だ。だが、怖れがなくなったときのほうがずっと恐ろしい。怖れがなくなった時、人間は暴走する。そういう遺伝子を抱えている。日本人の宗教感には、良くも悪くも根底に畏れというものがあるし、多少過剰と思わないでもないが、お前がそういう感覚を持っていることは、まともなことだと思うよ」それから、何かに思い当たったように真に言った。「逆打ち、って知ってるか?」
「逆打ち?」
「四国に八十八ヵ所のお寺があるだろう。普通一番から八十八番に向かって廻るじゃないか? それを逆に廻るんだ」
「八十八から一番に向かって?」真が確かめると、竹流は頷いた。「それで、何かいいことがあるのか?」
「お遍路さんの笠に、同行二人って書いてあるだろう? あれは、弘法大師と常に一緒だという意味だ。お遍路として歩いているとき、弘法大師が常に自分の前を歩いてくださっているということだ」
 さっき通ってきた山門は、本堂の方から見下ろすと遥か遠くにあるように見える。この場所に二人きりで現実の世界から切り離されて座っていることが、とても心地よく感じられた。
「だが、それではどれほど行っても弘法大師にお会いすることはできない。だから、ある人が逆に廻ることを思いついたわけだ。いつか弘法大師にお会いできるように」
 真はしばらく、頭の中に描いた四国の地図の中でそれを考えていた。
「それで、会えたのか?」
「さぁ、どうだろうな。でも、お前そこで、もしかして気がつかなかったかもしれないけれど、その人に会っていたかもしれないぞ」
 真は竹流を見つめた。
 その時不意に、さっきの若い僧侶の姿が、いつか遠い昔の山の中で出会った誰かに重なったような気もした。それとも、もっと別の記憶かもしれない。
「弘法大師は日本で最も信仰されている聖だろう。沢山の伝説があって、そのうち水にまつわる伝説だけでも二千以上あると言われている。ほとんどはこういう話だ。旅の途中で、弘法大師は咽が渇いて村人に水を所望する。そうすると老婆が、随分遠くまで行って水を汲んできて差し上げる。弘法大師は水が少ない土地の人に同情して、杖で地面を叩いたら水が湧き出した」
 一瞬、風が階段の下から吹き上げて通り抜けた。大いなるものの意識の風のようだった。
「そういったところから湧き出した水は弘法水と呼ばれて、北海道と沖縄以外の日本全国にある。しかも、ある人が調べると、そういった話は雨量も少なく地下水も十分にない地域に多くて、湧き出す水の量は多くはないけれど、決して涸れないという共通点がある」
「決して、涸れない?」
「これも、どっかで聞いた話だろ?」
 それから、二人ともしばらく黙りあっていた。
 飛龍大権現の小さな滝の水音だけが、この巨大な反響空間に響き渡るようだった。
「あのさ、さっきの話だけど、もし入口があるなら、普通俺だったら地図には入口を書くけど」
 長い沈黙の後、真はずっと考えていたことを言った。竹流はしばらく話の脈絡が飲み込めないという顔で、真を見ていたが、あ、という表情を浮かべた。
「岩盤を割らなくても、どっか入口があるんなら、だけど。だいたい地図にたどり着くまでにあんなにまわりくどい、しかも多分あんたと福井の親父さんじゃなければ剥すこともできなかったと思われる難しいことをしておいたら、知恵比べにしても後世の人間を試すにしても、もう十分だろう? これ以上小難しいことを要求されるとは思わないけど。それに本当のところ、その時代の人たちは、紙に対する知識も技術も今よりずっとすごかったかもしれないって、剥ぐのも再利用するのも珍しいことじゃないって、あんたが言ってたんじゃなかったっけ? 相手はそんなに特別なことをしたつもりじゃなかったのかもしれないし」
 自分でも珍しいと思うくらい長々としゃべってから、真はちょっと言葉を切って、しばらく山門の後ろ姿を見つめた。そして、改めて竹流の方を見てその先を言いかけたが、結局何も言わなかった。
 本当にその絵師が子どもを愛していたのなら、きっと意地悪をしたりはしないだろうと、そう言いかけたのだ。
 竹流の言う通り、日本人は祟りや呪いを恐れ、それらを鎮めるための社や寺を建て、祀るという宗教感を持っているのは確かだろう。その人が幽霊の下に大事な地図を貼り付けたのは、幽霊なら後世の人間も皆祟りを畏れて、捨てたり燃やしたりせずに、大事にこの寺に置いて鎮めようとするのではないかと、そう思ったからではないのだろうか。そしていつまでも彼の子どもと妻の魂を、後世の誰かが慰めて祈りを捧げてくれるだろうと、そう信じていたからではないのだろうか。
 父親である絵師の想いが、その子どもに対して、事件が起こるまでと同じような優しい愛情に満ちているものなら、きっとそう考えただろうと信じたかった。
 けれども確信のない話だった。
 それに、それを口にするのは、自分自身の儚い願望をむやみに表に出すようで軽々しく思えたし、あるいは、口に出すことで願いは効力を失ってしまうのではないかと、そうも思えた。
 第一、自分の身に置き換えてみても、『父親』というものがその子どもに対して、本当にどれくらい、後の世にまでその想いが伝わるくらいに愛情をもっているのか、やはり信じられないような気持ちだった。
 何より、もしも洞窟で見た光景が幻ではないなら、子どもは実の父親の手で成敗されたかもしれないのだ。それは儀式を穢し、多くの民を旱魃の被害に晒し続ける結果を招いた子どもの不注意への怒りだったのか、あるいは時の為政者の誰かの命令、あるいは儀式の決まりとしての成敗だったのか、いずれにしても子どもの目に最後に残ったのは、父親の怒りと絶望に満ちた暗い目だった。子どもは父に愛されていないと思い、今も魂は彷徨っているのかもしれない。父親は自分の憤怒を、あの天井の龍の内に畳み込み、鎮めようとしたのかもしれない。
 あの寺に預けられていた若者たちも、家族からも社会からも憎まれ、放り出されたのだ。幼く可愛いらしい少年なら多少の罪も我が儘も受け入れられたのかもしれないが、もう半分いい大人なのに、今でも社会に出て行くための服がない。
 真も、実の父親に、そして次には信じていた二人目の父親にも捨てられた。彼らの事情は知らない。子どもには分からない大変な訳があったのかもしれない。だが、住職の言うような『許されてある』という言葉は、やはり理解できない。
 二人目の父親だった功の失踪のショックは、七年経った今でも、真にあらゆる物事を自分の感情にとって良い方向へ考える余裕を失わせている。功が自分たちを捨ててしまったのは、やはり自分が彼にとって実の子どもではないからだと、心のどこかでは憎んでいたからだと、そう思えてしまった。
 だから真には、この絵師が父親としてどのような人だったのか、その感情をただ良いほうへと考えることはできなかった。いつまでも子どものことを愛してくれていたのならいいと思ったが、それは叶わない願いのようで、もしも裏切られたなら、きっと願った分だけ哀しく辛いだろうと思った。少なくともこれまでのところ、その絵師が残したものから感じるのは怒りのエネルギーだけだった。それは自分の子どもを殺した相手に対してだけではなく、遥かな時間の中ですっかり歪められ、この世に生きる全ての生命に対して向けられているかのように思えた。
 あの子どもも、寺の若者たちも、自分も、親たちから置き去りにされ否定されて、一歩も前に歩けないでいるような気がした。
 そして今、もしここで心の内の願いを口にしたら、想いは霊力を失い、もう一人の父親までも姿を消してしまうのではないかと、怯えた。
 竹流は真の言葉よりも表情から何かを察したのか、それともただいつもの癖で何となくそうしたのか、真の頭に手を置いて一瞬慰めるような仕草をした。
「寺に帰ろうか」
 彼らは立ち上がって階段を下り、奥さんに礼を言って、待たせているタクシーに戻った。

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❄15 汝の足元を深く掘れ、そこに泉あり 

 住職はしばらく竹流の言葉を聞いていたが、やがて自分でも地図を熱心に見つめ、それから徐に口を開いた。
「それらしい印はありませんがの」
 竹流も黙っていたが、真は小さな声で言った。
「印は三つあるんです。不動明王と、水の湧き出るところ」竹流が自分の顔を見た気配を感じながら、真は続けた。「地蔵堂のほうは途中に新しい建物が建って、水の道が変わってしまっている。もしかしてどちらも入口だったかもしれないけれど、今は無理では?」
「残っているのは水盤か」
 竹流は呟くように言って、住職の顔を見つめた。
「水盤の下、という意味ですかな?」
 住職もしばらく考えていた。
「確かに、高いほうから低いほうへ流れる水の摂理からは、上方へ水が湧き出すには、それなりの理由があるのでしょうな」
「動かしたことは?」
「無論、ございません」
 皆で水盤のところまで行ってみた。
 水盤は縁側のすぐ傍、庇が丁度途切れる辺りにあった。角度によっては鏡のように光を跳ね返し、風の揺らめきによっては、いくつもの光の輪を縁側と広間の床の間の辺りに投げ掛けた。
 大きさは昔の餅つきの石臼をひと回りほど大きくしたような程度で、ほぼ円に近い形をしていて、緩やかな斜面のためかやや斜めに傾いていた。その日は、昨夜の雨のせいか、水盤にはいっぱいの水が溜まっていた。よく見ると、水面は風のせいだけではなく揺らめいているようだった。下から湧き出す水のために、緩やかに揺れているように見えるのだろう。
 試しに水盤が動くかどうか力を入れてみると、確かに固定されているわけではないようだった。
 彼らはしばらく、水盤がどう動くものか、押したり廻したりしていたが、ずらすように左右に廻すたびに、土中に埋まっている部分の土との間に、隙間がうまく作られることに気がついた。
 丁度、大きな昔の挽き臼のような状態に思えた。
 住職に断って水盤の周りを掘ってみると、三十センチほど掘ったところで大体の輪郭が掴めた。水盤は土に埋まった部分から底へ向かってはやや小さくなっていて、底は丸く、ぴったりと合わされた受け皿の役目をする石が、南側の多少低くなった半周だけに認められた。
 住職と彼らはしばらく相談していたが、若者たちを呼んで、結局水盤の周りを掘った。水盤を持ち上げるのは大概骨が折れたが、北側は何とか隙間ができたので、梃子のように板を挟んで浮き上がらせることができた。水盤を除け、人の身長のほぼ半分まで掘り進むと、受け皿になった石の下の方は四角くなっていて、その下方にまだ石が見えていた。
 水は、北側の土から染み出していて、土を除けると大小の石や岩が土中に見られた。
 若者たちは、綺麗に削り込まれ形を整えられた、靴を入れる箱ほどの大きさの石、または小さなみかん箱ほどの大きさの石を、いくつか土中から掘り出していった。みかん箱になるとさすがに普通には持ち上げられず、皆が手を貸し、てこの原理などを相談しながら持ち上げた。石は古い時代の石工の見事な技術で、隙間もないほどにぴったりと合わされ、水はそのままでは土中を南へ流れていかないようになっていた。一旦水盤に湧き上がり溢れ出た水が、その石の南側、地面の低いほうへ落ちて土中に染み込み、そこからさらに下方へ流れていっているようだ。
 力仕事を始めると、得手不得手もあるようだが、若者たちは一様に汗を掻きながら目の前の艱難を克服していくように見えた。ばらばらに見えていた彼らの顔が、紙漉きの工房で仕事をしていた親父の顔、そして仏具を直していた竹流の横顔に重なっていく。
 真も手伝おうと近付くと、あの一番目つきの鋭い若者が、石にかけた真の手を摑んだ。思わずその顔を見ると、若者はにっと笑った。若者は何も言わなかったが、言葉よりもよほど正確に真に伝わった。
 ここは、俺らに任せとけよ。力を持て余してたんだ。
 ふと住職を見ると、長く白い眉毛の向こうの目が、静かに微笑んでいる気がした。
 そして、土中の石の壁をいくつか取り除くと、人が体を滑り込ませることのできる下方への穴が開いた。
 ついに、異界への入口が口を開けた。
 彼らは、竹流と真も、住職も若者たちも、無言で視線を交しあった。若者たちの顔を見ると、期待と不安が窺われた。彼らの表情からは、ただ純粋にこの出来事への興味だけではなく、やはりあの鈴の音に秘められた、今では理解不能の古い時代の出来事に対する畏れの感情が窺われた。それでも、皆がそれぞれに自分自身のうちの暗い部分と向き合い、そして闘っているのだろう。
 真は彼らから竹流のほうへ視線を移した。竹流は穴の奥を覗き込んでいた。
 穴の向こうから水滴の落ちる音が、間断の長い音楽のように響いてきた。穴の向こうは全くの暗闇で、音と湿った空気以外は何も伝わってこなかった。
 今、ここに長い時を経て、外界との気の交わりを得、この暗闇の向こうではどのような異変が起こったのだろう。
 その古い時代の気、人の心が何かを閉じこめていた念が穴の奥から湧き上がってくるように感じると、真は強い力に呑み込まれそうになっていた。昔、嫌なことや怖いことがあるとしばしば気を失っていたが、その前兆でいつも指先が痺れていた。気が付くと今もまた、あの時と同じように指先が冷たくなっている。
 竹流が住職に頼んだので、若者の一人が強力な照明を持ってきてくれた。電気コードが広間の奥から引っ張られて、その明りが入口に準備される。
「嫌なら、ここにいろ」
 竹流にそう言われて、真は思わず住職の顔を見た。住職は真をあの小さな目で見つめ、そして少し微笑んだ。何も言わなかったが、その目は、あなただけが決めることができると、もう一度語っているような気がした。
「一緒に行く」
 真は珍しくはっきりと意思表示をした。それには竹流は何も言わなかった。
 竹流は人間一人がやっと身体を滑り込ませることのできる穴に、照明を入れた。少なくとも、この通路の下が足もつくことのできない落し穴のようになっていないかどうかだけは、確かめておこうと思ったのだろう。覗き込んだ真にもよく分からなかったが、とりあえず斜めに何メートルか通路が下っていることは確かのようだった。
 それ以上は分からなかった。覚悟を決めたのか、竹流は足から通路に入った。彼の頭が斜め方向に見えなくなると、直ぐに思ったより近いところから、地面に降り立ったような音がした。
 照明を降ろしてくれ、と竹流の声がした。向こうは思ったよりも大きな空洞なのか、竹流の声は反響して幾重にも重なるように聞こえた。その後暫くは何の気配もなかった。通路の向こうがかすかに明るい。
「降りてこい。和尚さんも御一緒に」
 やがて竹流の声がもう一度穴の奥から響いて、真はその深い井戸の底から聞こえてくるような声に住職の顔を見た。真が何かを躊躇っていると思ったのか、住職は先に小さな体を簡単に穴に滑り込ませた。とても年齢相応の行動とは思えない、軽い身のこなしだった。
 真は住職が下に着いた気配を聞いて、自分も覚悟を決めてその穴に滑り込んだ。入り込む前に、一番幼そうな若者と目が合った。その視線の中にはどんな種類の悪意も、全く感じられなかった。


 足が地面についたとき、真は自分が外界からの明りが届かない大きな窟の隅に立っているらしいことを知った。
 重い、古い空気がぴったりと身体にまとわりついた。
 強力な照明だったが、それでも窟全体を照らし出すまではいかなかった。足下はごつごつした岩場で、所々小さな水溜まりになっていた。窟の中央の地面は大きく窪んで、ちょっとした池のようだ。窟のあちこちから水が湧き出ているのか、水の落ちる気配が響き渡る。
 縁の下で地面に耳をつけて聞いていたのは、この空気の気配、水の気配だったのだ。
 ここは湧き出した水の貯留池なのだろう。空洞の高さは所により違っているようで、入口の近くはやっと立てるかどうかくらい、一番高いところでは三、四メートル程はあるのだろうか、暗く陰が折り重なるので、本当のところはわからない。広さは上の広間の倍くらいなのだろうか、やはり全体が見渡せないので、本来の大きさは測りかねたし、実際以上に大きく見えるのかもしれなかった。
 真は自分でも思っていた以上に静かな気持ちで、窪地の中心を見つめた。
 照明が届くぎりぎりのところ、中央の池の真ん中辺りに島のように大きな岩があって、その上に座った人型が明りの中に真っ黒な塊として浮かび上がった。
 彼らはゆっくりと、その像に近づいた。
 これはあの結界の中の夢で見た窟だ。真は引き込まれるように足を進めていた。
 照明を近づけると、そこに照らし出されたのは不動明王ではなく、荒ぶる忿怒の表情を湛えた神像だった。その神の像は、右の手に鞘を被った劔を持っていたが、左の手の平には何もなかった。その掌はもともと上を向いていたのだろうが、朽ちかけて指がそろっておらず、やや斜めに傾いていた。
 住職は黙ってその神の像に手を合わせ、さらに近づいていく。恐らく水が満ちていれば、像に近づくことは叶わないのだろうが、一番深いところでも膝まで濡れる程度で、その神のすぐ側まで近づくことができた。
「大丈夫か?」
 竹流の声が耳のすぐ側で聞こえた。真は頷いた。
 住職、竹流に続いて真も像の正面まで近づいた。半ば朽ちたようになりながらも、目だけは異様に耀いて、その像はこちらをしっかりと睨め付けていた。古の時代から今日まで、この神は怒気をこの空間に満たしてきていたのだろうか。そう思うと、また恐ろしいというよりも哀しい気持ちが込み上げた。
「珠が、ございませんな」
「宝塔、でしたよね?」
 真の引っ掻き回された感情を冷ますような、住職と竹流の穏やかな会話が耳に入った。さっきから踝の真ん中辺りまで水に浸かっている足の周りで、何かつかみ処のない気配が蠕いている気がして、真は思わず竹流の腕をつかみ、もう一方の手で自分たちの足を吸い込んでいる水の面を指した。
 竹流は照明を真に預けて、足下の水の中を探り始めた。
 ほんのしばらくの後、竹流は何かを掴んで水の中から引き上げた。
 それは小さな匳の形をした入れ物だった。宝塔というよりもただの匳に見える。蓋は半開きで、中に水と一緒に入っていたのは、きらきらと光る何かの屑のようだった。竹流はそれを住職に預けて、もう一度水の底を探り、結局いくつかの欠片を集めた。
 その時突然、この窟の中に、水音以外の別の音が木霊するように響いた。
「鈴の音、ですか?」
「そのようですな」
 その音はどこか哀しく、しかし美しく響いた。
「これだな」
 真が見ると、竹流の足の近くに丸い物が浮いていて、彼が屈んでいたときにその玉に触れたようだった。竹流がもう一度玉を動かすと、やはりもう一度鈴の音が響いた。小さく揺れただけでも音は反響して大きくなるようだ。
 地上で若者たちが何か騒いでいるのが聞こえた。
「どうやら彼らを怖がらせたようですね。あるいは面白がらせているのか」
 住職はほっほっと笑った。
 その陶器のようなものでできた薄い玉は、浮き玉のように水に浮かんでいて、細く編んだ革紐が何重にも結びつけてあった。玉は池の中に作られた柵のようなものに囲まれていて、でこぼこの柵の隙間から革紐がどこか闇の中に続いているようだった。
 革紐をたぐっていく竹流にはぐれないように真はついていった。革紐は、朽ちてしまわないようにということなのか、幾重にもよられ、随分と頑丈に作られていた。
 紐の反対の端がある場所は、窟の壁面で、まるで仏像を納める空間のように彫られた小さな凹みになっていた。くぼみは側面も底も丸みを帯び、手前が少し高まっていて、革ひもはその高まりに開けられた穴を通して、くぼみの底に置かれたやはり小さな丸いものに結びつけられていた。
 竹流は、まだ神像の前で立っている住職に呼びかけた。
 住職は水の中をゆっくりと歩いてきた。
「ほう、これは珍しいものですな」
「土鈴、しかも縄文時代の球形土鈴みたいに見えますが?」
「鈴の音にしては、あまり金属的ではないとは思っておりましたが」
「縄文時代の土鈴?」
 真は確かめるように竹流に問い返した。
 返事をする代わりに、竹流はその丸いものを振ってみせた。シャラシャラともコロコロともつかない、低いが美しい音が響いた。
「鈴なのか?」
「うん、縄文中期の土鈴はこういう密閉構造で、中に土玉や小石が複数個入っていて、振ると音がする。現代の鈴のように開放構造でつまみの部分があって紐を通す穴が開けられるのは、古墳時代以降だと言われている。祭礼に使われていたという説もあるが、出土する数も少ないし、よくはわかっていないようだ。しかし、まぁ、これは土の質からしても、その縄文時代の土鈴を模して作ったものなんだろうな。本当に縄文時代のものなら、もっと土を焼く温度も低いから、脆くて、こんなに湿気のあるところでは鈴の役割を果たせない。もっと鈍い音がするだけだろうからな」
 住職も珍しそうにその土鈴を見つめていた。
「それに、何よりもすごいのはこの共鳴装置だな。湿気が多いので多少効果はいまいちだが、マルタ島の遺跡に、これと同じような古代のマイクロフォンがある。壁の窪みに向かって小さな声で囁いても、空洞全体に声が響き渡るような仕組みだ」
 試しに竹流がその窪みに向かって囁くと、その声は窟全体に響き渡るようになった。
「これって、水面が下がると紐が引っ張られて、鈴が鳴るようになっているのか」
 真は竹流に問いかけた。
「そのようだな。ある程度の水面を保っていれば、向こうの浮き玉がこの紐を引っ張ることはない。ある程度以下になると紐が引っ張られて、鳴るんだろう。単純な装置だが、面白い仕掛けだ」
「持っていきますか?」
 住職が問うと、竹流が答えた。
「いや、この土鈴はこのままにしましょう。原因がわかれば、若い者たちも納得するのでは? せっかく古の人が我々に遺したメッセージの音だ。ここに置いておくのがいいでしょう。朽ちる時も、運命のままに任せるのがいいのかもしれません」
 彼らは神像のところに戻り、しばらく話し合っていたが、やはり御神体は検めようということになって、その荒ぶる神に手を合わせ、手から劔を預かった。
 真が空洞の中から手を上げて上にいる若者の手を借りたとき、ふと振り返ると、竹流がもう一度神像に手を合わせていた。


 三人が地上に戻ると、待っていた若者たちは一様にほっとした顔をした。そして、鈴のわけを聞くと、それぞれの顔で頷いた。
「それで、お不動様はいたのか?」
 教えられた丁寧な言葉で話す若者もいれば、以前のまま乱暴な言葉を話すものもいる。それでも『お不動様』と言うんだな、と真は不思議な気持ちで、尋ねた若者の顔を見た。みな一様に頭を剃っているが、その中でもこの若者の髪の毛は長いほうだ。
「いらっしゃいましたよ」
「怒っていたんですか」
 そう尋ねたのは、酒と煙草を隠していた若者だ。
「さて、怒っておられたのか、そうでもないのか、祟ろうとなさっていたのか、あるいは守ろうとなさっていたのか。そのどれでもあり、どれでもありませんな」
 それに不動明王ではなく、神の像なのだ。だが、どうでもいいことなのかもしれない。住職の言うように、全て許されてあるのだとしたら、神でも仏でも構わないはずだった。決めているのは人間のほうだ。
 縁側に、小匳と水の底から集めてきた破片と、そして鞘に納められた劔を置いて、竹流はそれをしばらく見つめていた。修復にかかる前に、いつも彼はこうやって相手をじっと長い時間見つめている。まるで対話をするように、ただ相手からの言葉を聞きだすかのように、そして時にはそれが数日になることもある。
 真は不安と期待が半分ずつの気持ちで竹流を見つめた。だが、砕けた珠の欠片を見る限りでは、期待など持てそうになかった。
「その匳の中に水晶の珠が入っていたのか?」
「そのようだな」
「つまり、その、割れてるのか?」
「そういうことだな」
 竹流の声は、冷たいほどに淡々としていた。
「水が減ったことと、何か関係があるのか?」
「さぁ、それはよくわからない。像が朽ちてきたのでその手から落ちたのかも知れないし、地震のせいかもしれないし、ただの偶然かもしれない」
「あんたなら何だって直せるんだろう?」
 竹流の深い青灰色の瞳は真っ直ぐに真を見つめていた。どう見ても元に戻せそうにないことは、真にも解っていたが、何かにすがりたいような気持ちだった。
 だが返ってきた竹流の声は、冷たいとも思える響きを伴っていた。
「壊れたものを元に戻すことはできない。修復と修理は違うものだ。いや、古い時代に作られたもの、描かれた絵を修復するということは、それを元に戻すことでもない。どんなものでも、全く元に戻すことはできないんだ。だが、せめてそれが作られた時代の何かを、例えば色や形や、それを大事にしていた人の心を蘇らせることができれば、それだけで大変素晴らしいことだ。だが、この『壊れた』珠を修復することはできない」
 いつものように、分かりきったことを淡々と竹流は口にした。
「じゃあ、子どもはもう龍を呼べないのか?」
 小さな声で真は呟いた。分かっていても、慰めてくれたらいいと、そう思っていた。
「もしも、そのために『この』珠が必要なら、そういうことだな」
 真は黙って俯いた。さらに重々しい音が耳に届く。真が顔を上げると、竹流がもう一つの御神体、いわゆる雨降劔を手に取っていた。
 竹流はしばらく剣の鞘を調べていたが、どうしようもないと思ったのか、多少力を入れて剣を鞘から抜こうとした。だが、それが困難だとわかったようで、今度は鞘を左手に握り、何度も場所を変えて左手の手首を右の拳で叩いた。
 かなりの時間をかけて、ようやく剣は鞘から抜けた。
 一瞬、高いところを鳥か何かが横切ったのか、影とも光ともつかないものが視覚中枢の描いた世界に瞬いた。真は自分の頭の後ろのほうで、何かが叫びを上げたような気がした。
 錆の屑は光ることもなく、縁側と白い地面に細かくばら撒かれた。
 竹流の手に残った剣は、細長いという以外刀や剣の類との共通点はなく、とても御神体とは思えなかった。もちろん、伝承のように、鞘から抜けば忽ち水が迸るような立派なものには見えなかった。
 真は錆びて朽ち果てようとするような劔を見て、今度こそ、もう駄目なのだと思った。
「真、御神体と言えども、伝承というのはこういうものだ。本当に霊験あらたかなら、今でも錆びてなどいないはずだろう? これは、神から賜ったものでも、神代の時代から伝わるものでも、あるいは龍の尾から出てきたものでも何でもない。人間が作り、神に捧げたものだ。錆びることも壊れることもある。そうなれば、誰の手でも元に戻すことなどできない」
 真は俯いたまま返事をしなかった。竹流は慰めてくれる気配もない。
 会話の少なかった中学生の頃はともかく、高校生の頃は、竹流は真が混乱しているとどう気配を察知するのか、子どもをあやすように慰めてくれていた。自分を貶めてまでも手に入れた金で義理の母親の手術代を払った日も、入院していたサナトリウムで彼女が亡くなった日も、模試の教室の異様な空気に久しくおさまっていた解離性障害を起こしかけた日も、いつもこの大きな手が真を支えてくれた。もっとも、勉強の面倒をみてくれているときは、半端ではないくらいスパルタで、あまりの厳しさに泣きそうになったこともある。幼い頃襟裳岬の近くで海に落ちて溺れて以来、水が苦手だった真に、無理矢理泳ぎを教えてくれた時もそうだった。それでも、その手が最後の最後に助けてくれる。そう信じて疑っていなかった。
 不意に腕を捕まれて真は顔を上げた。泣いていたつもりはなかったが、竹流の顔はよく見えなかった。息もできず、唇が震えた。指先が痺れてくるのがわかった。身体は硬直して、温度が失われていく。耳の奥で何かを引っ掻くような音が頭を半分に割るように響き、一瞬にして視力が奪われた。

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❄16 砕けた珠 錆びた劔 幸せな後日談 

 真は食事もとらずに布団に潜り込んだ。住職が睡眠薬代わりに少しの酒を持ってきてくれていたが、それを飲んでも、昂ぶった神経を鎮めることはできなかった。
 竹流が傍に座っている気配だけは背中に感じていたが、何も話したくなかった。
「眠られましたかの」
 住職の声が低く、穏やかに、背中から直接響いてきた。竹流が何かを答えたのかどうかはわからなかった。
 静かで何の音もなかった。この体の下に、あの恐ろしい場所があるなどとは考えたくもなかった。真はただ息を潜めていた。理解する脳の機能は停止していたのかもしれないが、昂ぶったままの神経は活発で、耳から入る僅かな音までもが増幅されて頭の中で唸っていた。
 気分が悪かった。
「随分と、お厳しいですの」
 住職の声は低いところから身体に直接響いてきていた。竹流は長い時間黙っていた。やがて微かに息をつき、低い声で答えた。
「優しくしたところで、それがまやかしなら、いつかは崩れてしまう、そうではありませんか。あなた方が信じる仏も、真実を覆うことはしない。悪人ならそのままを受け入れろという。人は、本当は自分の悪しきところなど見たくはないのに、仏の下に行くときは悪人のままだ」
「キリストは悔い改めろ、と言いますからの。悔い改めて罪をなかったことにすれば、確かに人は穏やかになるものかもしれません。だが、人も仏も神も、十割の善はございません。ならば善悪ある身を愛おしんで悪いことはございますまい。あなたは、ご自分にお厳しい。他人に対しても十割の善を、十割の感情を求めておられるのですかな」
 竹流の息遣いは静かで、沈黙は長かった。
 閉じたままの真の瞼の上で、闇と光が混じり合い、踊っていた。あのもののけたちの気配や子どもの幻の気配が懐かしく、消えてしまったことが痛ましかった。その場所へ、真自身も一緒に消えていってしまえたらと思った。
「十九の時に日本に来ました。何をしていても、自分がどこか欠けているような気持ちから逃れることができなかった。着の身着のままで、修復の仕事をしながら、というよりもほとんど押し売りでしたが、寺社に泊まり歩いて、この国が私を救ってくれることを願っていた」
 竹流は一度言葉を切った。そして不意に真の髪に触れた。真は深く身体を沈めた。
「雨の東寺の講堂でした。私の生まれ育った街にはない湿潤な空気、それを吸い込んだ重い木々が組み上げられた講堂の中に、どこからか僅かに光が漏れてきていた。湿りを含んだ細かな屑があたりに漂っていて、その中に穏やかで厳しい表情の仏が並んでいた。あなたの言うとおり、それは是でも非でもなかった。全てがそこに存在して当たり前であるという何か、古い木の微かな軋みと、時代の塵を吸い込んだ匂い、その中に私自身が取り込まれているという感覚は、物事の善悪を迫ってくる硬質な石の世界にはないものでした。大日如来の顔を見たとき、一瞬にしてわかったと思えた。今でも、何が解ったのかはわかりません。ただ、それでよい、と言われた気がした。だがそれでも、私の中の血が納得しない。確かに私ははっきりとした善悪の答えを求めているのかもしれません。神にとっての悪を犯すことを恐れている」
「あなたのその正しさを、フジムラの女将さんは心から心配されているようでしたな。正しくあるということは辛いことですからの」
「やはり、お母さんがあなたに私を紹介してくださったのですか」
「いやいや、あなたを推薦してくれたのはとある名のある古刹の御住職です。祇園甲武の芸妓さんか、あるいはフジムラの女将さんを通せば、あなたに連絡がつくと教えてくれましての」
 竹流が息をついたのがわかる。
「そうですか」
「妻帯しても悟りは得られると親鸞さんが証明したというのだから、もう少し、タエちゃんを大事にしてくらはったらええのに、何やら難しい生き方を目指したはるんか、見てるほうも落ち着きまへんと」
 真は微かに身動ぎした。
 竹流には、真の知らない過去や人との繋がりがある。それが真や妹のことよりも大切だという可能性については、いつでも考えなくはない。だからこそ、あの時彼は、これからは一人でやっていけるだろうと真の手を放したのだろう。
 聞きたくはないが、知りたい気もした。だが、竹流は住職の誘い水には乗らなかった。住職も何かを察したのか、それ以上その話題を続けなかった。
「明日、お暇します。もうこれ以上、あの壊れた珠や錆びた劔に何かができるとは思えない。こいつにも必要以上に期待させることはない」
 しばらく、いや、それは随分と長い沈黙だった。地下の空間に風が吹き抜けたような音が、身体に伝わってくる。
「しかし、私にはあなたのほうが納得しておられぬように見えますがの」
 住職の声に被せられた竹流の声は、震えているように聞こえた。それとも、ただ真の鼓膜がおかしくなっていただけなのかもしれない。
「せっかく伝説の『不動明王』を見つけだして、御神体に辿り着いても、実際には壊れた珠は元には戻らないし、子どもは龍とともに空に昇ることもできないのでしょう。錆びついた劔にはもう雨を降らす霊力もなく、川やこの町の地下に水を満たして欲しいという祈りを聞き遂げることもない。鈴の鳴るわけが解って、ここにいる若者たちも納得して、私自身の好奇心も幾らか満たされはしましたが、一体このことが何になったんでしょうか。子どもの父親が残した神像は怒りに満ち、今でもこの世を祟ってやるとでもいうようだった。珠が割れてしまって嘆く子どもの悲しみなど、もう構ってもいないように思えます。いや、始めから子どもを愛してなどいなかったのかもしれない」
 だが、その声の昂ぶりを鎮めるように、住職の声が柔らかく被せられた。
「そうですな、捨て置くのもまたよろしい」
 微かに、衣擦れの音がした。
「もう少し、酒でもお持ちしましょうかの」
「いえ」
 竹流は何を考えているのか、それから長い時間、何も言わなかった。やがて静かに、小さな身体が立ち上がる気配がした。
「和尚さん」竹流が呼び止める。「私が納得していないのは、こいつの感情ではなくて、自分自身の感情です」
 するりと、再び住職の小さな身体が、この空間の何処かに納まる気配を感じる。
 住職は何も言わなかった。竹流もずっと黙っていたが、やがて事実を違えないように、言葉を確認するように、ゆっくりと話し始めた。
「私がこの子の父親に初めて会った頃、彼はちょうどこの子を北海道の牧場から引き取ったところだった。初めて会ったとき、野生の生き物が目の前にいるのかと思ったんですよ。都会をも人間たちをも警戒し、常に自分自身を必死で守っているようで、大人たちはこの子を腫れ物を触るように扱い、可哀相な子どもだと言って慰め暖めていた。だから、かえってこの子は全く馴れずに、何もかもを拒否するように学校ではしばしば気を失い、それを迎えに行くのが私の仕事のようになっていました。勉強ができないという次元の問題ではなく、言葉さえまともに理解していないような様子だった。行動を見ていると、全く解っていないわけではなさそうだったけれど、時々、訳のわからない呪文のような言葉を呟いていた。後で知ったんですが、それは帯広辺りのアイヌの言葉だったんです。私には理解できない生き物だと思った。自分の世界に閉じこもり、辛いことには目を瞑り耳を塞いでうずくまっていれば通り過ぎるものだと考えている、その不甲斐なさに腹が立って何度も怒鳴りつけました。この子の父親に頼まれて勉強を教えていましたが、理解しているのかどうか確かめようともせずに、詰め込むだけ詰め込んでやろうと畳み掛けるように教えていた。だが、ある日天文学を教えていた時に、こいつが突然反論したんです」
 また、髪に手が触れた。しかしそれは幻の手だったのかもしれない。
「初めて、こいつは馬鹿じゃない、物事の理屈を教えられないまま、あるいは理解しているのかきちんと対話で確かめられないまま放置されていたのだと思った。何よりも、私の言葉を理解しようとして懸命に聞いていたのだろうと思ったら、自分でも意外なことに幾らか感動さえした。考えてみれば、あれほど嫌なものを見聞きするだけで気を失っていたのに、私が怒鳴りつけても一度もそのことで気を失ったことはなかったんです。それからは、私自身が教えることを楽しむようになっていました。この子の周りの大人たちは、精神科医も、私がこの子にとっての癒やし手であると言って、私の『治療』の腕を褒め称えてくれた。確かに、このわけの判らない子どもを目の前にしたとき、修復作業前に情報を集めるように、数え切れないほどの精神・心理学の本を読みあさりました。だが、結果としてはそれが参考になったとは思わない。こいつは今でもしばしばパニックになるし、いつだって何かを怖がっている。思い通りにならないんですよ。人と人との間は、親子であろうが、男女であろうが、友人であろうが、思い通りにはならないのは分かっています。相手が真実考えていること、願っていることなど、永遠に分かろうはずがない。ただ歯がゆい。私は子育てをしていたわけでも、精神疾患の治療をしていたわけでもない」
 かたかたと窓枠が震えていた。
「こいつは二度も父親に捨てられているんです。生まれて間もなく実の父親に捨てられ、十四の時に頼りにしていた伯父が失踪した。だから、古い文書に残された室町時代の親子の悲劇に、自分自身の感情の脆いところを刺激されたのかもしれません。もちろん、それをただ哀れだとか可哀相だとか思っているわけではありません。そんな子どもはこいつひとりではない。もっと強くなれと、まだ足りない、もっと闘えと、そう言ってやればよかったんでしょうか」
 これは夢の中なのかもしれない。真は息をずっと止めているのだから。竹流の感情を、真自身に向けられた感情を、聞くことは恐ろしかった。この先は一人で歩きなさいと、手を離されるのが怖かった。だから夢であってほしいと願っていた。真は拳を握りしめた。
 その気配を察したかのように、住職の声が、まるで真に話しかけるように耳元で鼓膜を震わせる。
「もう十分に、あなたもこの方も闘っておられる。この先を行くために必要なものは、ただ目を開けることだけでございましょう」
 いや、あの春の日、確かに彼は一度真の手を離し、これから先はお前ひとりの道だと告げたのだ。いつまでも子どものように甘えていてはいけない、俺はお前の父親ではないし、人は一人で道を歩いていくものだと、そう告げられた。目の前には真っ直ぐな道が、はるか未来に向けて伸びていたのだろうか。真にはただ、自分の目の高さよりもずっと高い草が果てなく茂っている光景が見えていただけだ。どこに向かっているのか分からないまま、ただ闇雲に歩いた。気が付いたとき、あの崖の前に立っていたのだ。
 そして、あの時、真は確かにあの崖から飛んだ。
 不意に、窓枠の軋みが止まった。
「あなたは、この方の三人目の父親になろうとされていたのですかな」
 竹流はまた長い時間沈黙していた。窓枠の震えが再び始まった。
「わかりません。ただ、確かにわかっていることは」
 わずかな沈黙の間、真は息を止めたまま身体が闇に沈んでいくような心地でいた。竹流は重い声で先を続けた。
「失いたくないということだけだ」
 そしてまた、何の音も聞こえなくなった。その無の空間に竹流の声だけが、沈みながらも激しく響く。
「ずっと傍にいて抱き締め、励ましてやることなどできません。家族であればそうしてやれるかもしれないが、それでもすべての時間を共に過ごすことはできない。いざという時に守ってやれるのは、わずかに自分の手が届く半径三メートルほどの傍にいる時だけです。兄弟でも恋人でも親子でも同じことだ。私がこいつにしてやれることは、一人で闘い、生きていく術を教えてやることだけでした。だが結局そんなものは何の役にも立たなかった。僅かに手や目を離したときに、失ってしまったら何にもならない。命を失ってしまったら、その先には何もなくなってしまう」
 竹流の声は悲痛ともいえる響きを伴っていた。そして真は、自分が今生きてこの世に残されている理由を理解した。あの浦河の町のはずれ、迷い歩いた道の終着点の崖から落ちた身体が、今もこの世に生きながらえているのは、この男の悲痛な声を聞きたくなかったからなのだ。
「人の世も命も儚い。それ故に心は重く、祈りは深くあるのでございましょうな。あなたはまだ何一つ、捨てるわけにはいきますまい」
「この、指輪のことを仰っているのですか」
 住職はほっほっと優しく笑った。
「茶室では外しておられましたの。結婚指輪というわけではなさそうですな」
 住職は何かを確かめるように、あるいは真に真実を聞かせるためとでも言うように、はっきりとした声で尋ねた。竹流は随分と長い時間、答えなかったが、やがて意外にはっきりとした声で答えた。
「この指輪は契約の印です。いつか神の家の鎖に繋がれる印です。キリストが十字架の運命を定められていたのと同じように、避けられない運命です」
 もう、声以外の何の音もしなくなっていた。
 竹流が修復作業の時以外には外すことのないその指輪は、彼の左の薬指に絡みつくような茨の紋様だった。キリストに仕えよという運命を示す指輪の冷たい感触を、真は自分の身体に刻まれた痛みのように覚えていた。竹流はその指輪を外すとき、身を切るような仕草で抜く。真はいつも、何ひとつ問いただすことができなかった。知れば、彼を何処かへ返さなくてはならないような気がしていたからかもしれない。
「あなたがタエさんに結婚はできないと仰ったのは、その指輪のためですかの。フジムラの女将さんはあなたとタエさんのお気持ちを聞かれて、もうお二人に何を言うても無駄やろうと思いきられたそうですがの、それでも後から随分と迷われたそうで」
 竹流が小さく息をついた。真は握りしめたままの手にまた力を込めた。
 例えば、大事な家族を他の誰かが連れ去っていく時、きっとこんな気持ちなのだろうと考えていた。北海道を出てきてからずっとこの男の手しか頼るものがなかったのだから、その手が他の誰かを気遣い、他の誰かを大事にするために真の手を離したことを、ただ心細く感じていただけなのだ。
 何を聞いても何が起こっても、自分は大丈夫だと証明したい。そう強く願うのに、現実には声を出すことも、彼の目を見て話を聞くこともできない。消え行ってしまいそうなこの身が情けなかった。
「タエは私の恩人です。若くて無茶ばかりしていたころ、彼女には幾度も助けられました。彼女には恩義があるし、愛おしいと思っている。だが、結婚はできない。彼女はそれを知っています。彼女に他に見合う男性が現れた時、身を引くつもりでした」
「あの方には、幾度もそのような話があったようですがの」
「彼女はそれでいい、と。結婚は望んでいないので、私とずっと一緒でありたいと、そう言ってくれました。私は卑怯な人間です。彼女に自由を認めると言いながら、彼女の気持ちを知っていた。そして結局、彼女を手離すつもりもない。それが愛情かどうか自分では解りません。私には人を愛するということと、思い通りに支配するということの区別がつかない」
 竹流が言葉を区切る。住職は、まるでそこに存在しないかのように、静かに気配を殺している。真も緊張したまま、竹流の言葉が続くのを待っていた。あるいは、永遠に話を区切ったままでいて欲しいとも思っていた。
「幼いころから、叔父からそういう教育を受けてきたからかもしれません。帝王学と言えば格好はいいですが、つまり他人を支配するための教育だった。この世に思い通りにならないことなどない、あるのならば克服するためにあらゆる努力を惜しむな、と。私の家の先代の当主はファシズムに抵抗して、雇っていたユダヤ人たちを匿っていて謀殺されました。愛を示すのは人心を支配するためで、そのためには命さえも惜しむなという教えを体現するためです。今こうして国を離れていても、時々わからなくなる。私はあの場所から逃れたのか、それとも、放蕩息子のようにただ長い家出をしているだけで、いつかは帰ることが定められているのか、そして私自身、あの場所に帰ることを願っているのか。だからタエを愛しても、それが確かな自分の願いなのか、あるいは何かから逃れたくてただ欲望のままに求めただけなのか、分からなかった。タエが私を拒否すれば、それはそれで仕方のないことだと思っている。誰かの感情を変えたいと願うほどに深く求めることもない。私にとっては愛も友情もそういうもので、嫉妬することも知らなかったし、そういう状況になることもなかった。全ては、私の本当の居場所から離れた、夢の中の出来事に過ぎないと知っているからかもしれません」
 やはりこれは夢なのだと真は思っていた。竹流に複数の女性がいることは知っていたし、竹流の実家のこともいくらかは分かっていた。それでも、これほどに明瞭に竹流の言葉を、直接に彼の事情を聞くことなどなかった。聞いてしまえば、真には処理のできない感情と恐怖が押し寄せてくる。
 今はその明瞭さのゆえに、真はこれが夢だと思った。
「でも、ある時はっきりと、こいつを全て自分の思うとおりにしたいと思っている事に気がついた。他の誰に対しても、タエに対してさえ、そんなことは考えたこともなかったのに。そしてそう気がついた瞬間に、この子が生きて何かを考え、私に語りかけている、自分と対等の存在であることを了解した。親が自分の所有物、付属物だと思っていた子どもに、まったく別の人格があることに気が付くようなものです。だが、了解したからといって対処できるわけではない。もしも、いつかこの子が自分の思い通りにならないことを知ったら、自分がどうするかと思うと恐ろしいのかもしれません」
「そもそも人は、愛すると言いながら相手の心を支配したいと思っておりましょう。愛とはグロテスクな側面を持っているものですからの」
 竹流がふと溜息をついたのが分かる。
「それに本当のところは、どんなに逆らおうとしても、私の身体にも心にもキリスト教の善悪に対する価値観が染み込んでいるんでしょう。どこかで、最後に下される審判を畏れている。それに、相手を叩きのめして支配しようという遺伝子が白人にはあるそうです」
「しかし、この方はあなたを、誰よりも信頼していらっしゃるように見えますがの」
「私を絶対に信用しろと言い続けてきましたから、素直にそう思っているんでしょう。アヒルが最初に見た動くものを親と思うのと変わらない」
 住職のほっほっと穏やかに笑う声が聞こえた。
「いくらそのような言葉だけを投げ掛けられても、そこに実が無ければ、人は他人を信じたりはしないものです。タエさんにしても、他の男性を断り、結婚もできないと断言したあなたについていこうとされたのは、たとえそうであっても、あなたを信じるに値すると認めたからですの。花街の女性は人間の真実を見抜く力を持っておりますからな」
 竹流の感情が、空気の震えとして伝わってきそうになる。真は身体を固くしてそれを避けた。とても自分には抱えきれないものだと思った。
 しかし、その先に聞こえてきた住職の声は、穏やかにすべてを丸め込むようだった。
「ところで、歌舞伎の鳴神には後日談があるのを御存知ですかな?」
「後日談?」
 どうして住職は鳴神の話など言い出したのだろう。真はぼんやりと志明院の長い石段を吹き抜ける風を思い出していた。もしかして、あの場所に住職も一緒に出掛けたのだったろうかと錯覚さえした。
「雲の絶間姫には、そもそも恋慕う男がいて、上人を騙して龍神を解放できたなら褒美にその男と結婚させてやろうと、帝から言われていたわけですな。帝の命令通り、上人を騙し雨を降らせた後、雲の絶間姫は都に戻りましたがの、彼女が褒美に得られるはずだった男は、他の女性と結婚してしまっていた。姫は、帝に騙され、いいように利用されたと知ったのですな。彼女は悲しみにくれるうちに、ふと上人の純情や愛情を思い出し、山に戻って上人と結ばれた、という話があるのですじゃ。後からの作り話でしょうがの、あり得そうな話じゃありませんかの」
 竹流の声が和む。
「確かに、そういうどんでん返しは悪くないし、男の純情だと上人に同情している私としては、そうであって欲しいようなハッピーエンドに思えます。そういう後日談を作った人も、上人の純情に心をうたれていたのでしょう。でも、少なくとも能や歌舞伎のラストシーンでは、上人はもう悪鬼の姿に変わってしまっています」
「では、今度こそ真実の愛で、雲の絶間姫が上人の心を溶かすのでしょうな」
 わずかな間の後で答えた竹流の声は厳しい響きを持っていた。
「私はいやらしい人間です。タエにも、こいつにも、いい顔をしていたいだけだ」
 語尾は聞き取れないほどに沈んでいった。感情の起伏の少ない男だと思っていたが、それは真の思い違いだったのかもしれないし、大きな年の差がそのように見せていただけなのかもしれない。だが、答えた住職の声は、朗々と華やかだった。
「ほう、それは奇遇。私と同じですな。私も、仏にも神にもいい顔をしていたいんでございますよ」
 それからしばらく静かだった。竹流は住職の言葉を、その奥深い意味を考えていたのだろうか。あるいはただ、自分の心を鎮めていたのかもしれない。
 竹流が次に何を言おうとするのか、もしかして真が眠ってなどいないことを知っているのか、真は緊張したまま固く目を閉じた。
 だが、やがて真の耳に届いた竹流の声は、低く、自ら何かを確かめるように強く深く、どこか弾んでいるようにも聞こえた。
「修復はできなくても、修理はできるかもしれない」
 答える住職の声までも、どこか清々しくさえ聞こえる。住職は始めから、この答えを待っていたかのようだった。
「修理、と言われますと?」
「修復はパーツを新しくすることを嫌いますが、修理なら壊れたところを新しくすればいい。昔の人たちは、そうやって古い道具を何年も、何十年も使ってきた。神宝も神社社殿の造替では新調され社殿に納められたし、神様をこちらにお迎えする際には、常に新しいものを準備して、大切な客人として遇してきた。そもそも御神体というのは、畏くも有り難いものならば何でもありうるわけです。ものではなく、三輪山や白山、岩木山といった山のこともあれば、草薙剣、八咫鏡といった物のこともある。神とは、そもそも森羅万象全てに宿るもので、具体的な形を持つものではない。だが、それでは何処に向かって祈ればいいのかわからない。だから、神籬としての榊や磐座としての石や木の柱といった依代を設けて、祈るようになった。そして、神という目に見えない何かの仮の姿として、この劔や珠といった御神体に観念して、それを祀る社を作った。あくまでも依代であって、実際の神ではない。だから、御神宝は、それが依代としての御神体であっても、新しくされることがあった」
「おっしゃる通りですの。いつの時代も、常に当代随一と言われる名工が、技と意を尽くして神宝を新たに作り、祈りを捧げてきました。それはあくまでも形代、依代であって、神のそのものではございません」
「あの錆びた劔にも、それが通用すればいいですが」竹流は少し考える間を置いたようだった。「あまり太刀には詳しくはないのですが、しかも、古いものであればあるほど、あるいは御神体や御神宝というものであれば尚更、人目に触れることを嫌いますから、よほどの専門家でもない限り、例え刀袋の上からでも触れることは叶わない。だが、聞くところによると、御神体の剣は、時には竹であったり、薄い鋼であったりしたといいます。別に用途を足すためのものではないわけですから、刀剣として役立たなくてもよかった」
「雨を降らしてくれたらいいわけですからな」
「おっしゃる通りです。切れなくてもいいわけだ」
「どうなさるおつもりですかな?」
「復元はできます。全く新しいものに。造りだすにはかなり時間がいるでしょうし、私ひとりの手にはおえません。ただあの劔と同じように上質の玉鋼を使えば、どれほど腐食止めをしても、あそこに置いて錆びつかないようにするのは難しいでしょうけど。どうせなら、切れなくてもいいわけだし、現代には錆びない金属もある。あの錆びた劔は、多少は形が変わるかもしれませんが、何とか錆を落として腐食止めをして、またあそこに戻してもいい。もしも、このまま多少は保存環境の良いところに置いておけば、博物資料としては役に立つかもしれませんけれど」
「そういうものを研究しておられる方には意味のあるものでしょうが、私にはこれを遺すことの価値が解りかねますな。それよりも、今、この方にいいようにして差し上げて欲しいと思いますがの」住職は声を落として続けた。「それに、あなたはそうしたいと思っておられる」
 住職は一旦、言葉を切った。そして、まったく別の人物のような声音で続ける。
「さて、何か必要なものがございますかの」
 竹流が考えていた時間は僅かだった。話しながら答えは出ていたのかもしれない。真は今度こそ、意識を鎮めた。
「もしも梅酢があれば、少し頂けますか。他の酢でも構いません。あと、スポンジか晒、下が汚れると困るので、新聞紙か何か。それと水の入ったボウルを」
「お持ちしましょう」
 住職が立ち上がる気配がした。するすると滑るように開く襖の音と同時に、住職の謡うような声が、頭の中に直接響いてくる。
 それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。
 その響きは頭の中で、古の尊い僧の後姿から放たれるように感じた。
 それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。
 竹流が住職の呟きを繰り返した。そして、その先を噛みしめるように続ける。
 真如、外に非ず、身を棄てて何くんか求めん。迷悟、我に在れば、すなわち発心すれば、すなわち到る。明暗、他に非ざれば、すなわち信修すれば、忽ちに証す。
「迷悟」
 竹流が思わず繰り返した言葉が、真の身体に響いた。
 住職が自ら削ったという茶杓の銘の印象的な響きは、耳の奥底にずっと残っていた。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄17 新しい水晶の珠 龍の宝 鏝絵 

 まだ陽は昇っていなかったが、あたりはうっすらと白み始めていた。
 真は何のせいでという訳でもなく目を覚ました。ずっと隣の広間で人の声がしていた気がした。住職と竹流が劔と龍について何かを確かめ合っていたのか、時々単語の切れ端が、夢になって真の頭の中に囁きかけていた。
 一瞬、ここがどこで自分がどうしてここにいるのか、思い出せなかった。もしかしたら、ただずっと夢を見ていたのかもしれない。
 確かなことなど何もないと思ったが、ふと哀しい気分だけが蘇った。
 それから身体を起こし、隣の布団に人が眠っていた気配がないのを確かめた。その布団の上で、隣の広間からの明かりが、薄く開けられた襖の隙間を通して美しい光の剣のように空間を仕切っていた。
 その明かりの中で、竹流が一心不乱に手元で小さな作業を続けていた。
 真は布団の上で起き上がった姿勢のまま、隙間から見える竹流の姿を見つめていた。
 竹流の手の中に何か光るものを認めたような気がして、何だろうと思った。それから、その光が竹流の頭の上の天井に投げ掛けた光の連鎖を見上げた。天井のすぐ下で何かが極彩色の光を返し、それがまた、神々しいまでの竹流の姿を包み込んでいた。
 彼の仕事を邪魔できないと思い、着物の襟元を合わせて起き上がると、縁側とは反対の襖を開けて薄暗く寒い廊下に出た。冷たい廊下に素足は堪えたが、そのまま洗面所の方へ歩いた。
 清らかに冷えた朝の水で顔を洗い、それから何かに惹き付けられるように本堂の方へ歩いた。
 本堂からは穏やかな灯りが漏れてきていた。人の声とも仏の声ともつかない、あるいは声でもない何かの祈りを、耳からとも足下からの響きともつかず、空間のゆったりとした振動として感じる。
 本堂に面した細い回廊を回ると、その正面の扉は開いていて、薄暗い本堂の中で穏やかな暖かい灯火が揺れていた。
 住職が、いつものような朗々とした読経の声ではなく、心の中に囁くような鎮かな声で祈りを詠えていた。住職が座っているのは脇廊の方で、その前には本尊の大日如来ではなく、何日か前に竹流が直していた弥勒菩薩が祀られていた。弥勒菩薩の前には、あの幽霊の掛軸と、巻物の裏から見つかった恐ろしくも哀しい呪いの言葉が記された紙が供えられていた。
 真は何かに惹かれるように本堂の中に入り、住職の後ろに座った。板敷の床からも冷やりと朝の温度が滲みて来た。
 住職の後ろ姿は、光の中の竹流の姿と同じように尊く暖かく見えた。
 住職の鎮かな祈りは、それから随分長く続いた。やがてそれが途切れると、しばらくの間を置いて住職は立ち上がり、弥勒菩薩の後ろから何かの匳を取り出し、それを持って無言のまま真の前に座った。
 真は黙ったまま住職の小さな目を見つめた。そして、半分は眉毛に隠された目に促されるように、漆塗りの美しい小匳を開け、中から蘇芳色の布に包まれたものを取り出した。蘇芳の色は愛情深く、穏やかに沈み、心の最も深いところまで届くような色だった。
 布を解くと水晶の美しい珠があった。
 真は驚いて住職を見た。
「それは私の母が残したものでしての。私の母は、昭和の始めに亡くなりましたが、京都のある神社の巫女をしておりましてな、占い師のようなもので、当時の事業家に多くの顧客をもっておりましたのじゃ。随分と金を稼いでおりましての、人に恨まれたり嫉まれたりして、結局は全ての財産を失い、私は母と離されてあるお寺に預けられましたのじゃ。何度も寺を逃げ出し、転々として、ここにたどり着いたのは二十頃でございましたかの、それから半世紀近くもここで過ごしております」
 真は住職の言葉を水晶を抱いたまま聞いていた。言葉が読経のように、しかし今は意味を帯びて真の脳に届いていた。
「いや、しかし、ここ来てからも、前の住職には何度も迷惑をかけましての、この身は収まるところがございませなんだ。ところが住職が病に倒れ、ここを継ぐようにと死の床で遺言されたのでございますよ。さて、面白いことでしての、まさにその瞬間からは私の人生は落ち着きどころを得ましてな、未だに悟り尽くしたとは申せませんし、道は曲がりっぱなしですがの、ただ足元が見えるようになっております。さて、母の事ですがの、亡くなったと風の便りに聞かされたのは、ここに来て間もないころでございました。私が母と最後に会うたのは十二の時でしてな、その時に母は、もう私に遺すものがないからと、この珠をくれましたのじゃ」
 真は黙って珠を見つめた。水晶自体は、購入しても決して高価なものではない。しかし、人々はこの石に大地の気が宿ると信じていた。
 その水晶の珠には、奥に何かが入っているようだった。
「水晶の中には、そのようによく不純物が混じっているようでしてな。他の鉱物や、時には石油や水が含まれることもあると聞いております。その水色のものも何か鉱物の一種なのでしょうがの。母はこの水晶で占っておりまして、よく当たると評判の占い師でした。吉と出る時には、その奥に宿る水色の鉱物に光が吸い込まれるのだとか、申していたことがございます。さて、まぁ、占いなど信じるに値するものかどうかはわかりませんがの、それも人の心が決めるものでございましょう」
 丸い水晶の奥に見えているのは、水色の美しい塊だった。
「それで、これを?」
 真はようやく口を開いた。
「あなたの手から、あの方に渡して頂けると有り難いと思いましてな」
 真はまたもう一度手の中の水晶の珠を見つめた。
「でも、これは大事なものでは?」
「さて、大事というのは、どういうものを言われましたかの」
「和尚さんのお母上の形見、ですよね」
 住職は穏やかに厳しく、しかしどこか優しくゆっくりと真に話しかけた。
「どのようなものであれ、ただそこにあるだけでは意味がございません。珠も剣も、人の心が、魂がそれを琢いてこそ、霊験あらたかな御神体というものになるのでございましょう。形が大切なわけではございません」
 真はしばらくその言葉の意味を考えていたが、やはり考えは上手くまとまらなかった。
「人には様々な顔がございます。今あなたが見ている顔が全てではない。良い顔もあれば、悪い顔もございましょう。あなたが望むような顔もあれば、見たくない顔もある。心もまた、同じでしょうの。しかし、それが人というものでございます。あなたが新しく知った顔が、あなたの望むものと違っていたとして、あなたは失望なさいますかの」
 真は焦点の定まらないままに、住職の顔のあたりに視線を彷徨わせていた。弥勒菩薩の前を線香の煙が漂い、ふわりと白檀が香った。
「しかし、たとえどのような顔を持っていようとも、たとえどのように流転したのだとしても、心の芯の所には本当に大事なものが残っておるものです。気が付かれないほどに小さなものであったとしても」
 住職の目は、やはり長く白い眉毛に隠れて見えないままだった。声は厳しく、深く、重く響いた。やがて真はどうとも答えないまま、水晶を持って立ち上がった。本来なら礼を言うべきなのかもしれなかったが、どう言っていいのかわからず、ただ住職の目を見つめ返した。
「あの方が劔を琢いているのは、ただあなたのためです。そのお気持ちを、決して疑ったり、履き違えたりしてはなりません」
 真はまだ住職を見つめていた。言葉は何も出てこなかった。続く住職の言葉は穏やかだった。
「御自分のお気持ちを大事になさいませ。そうして初めて、人の心も解るものでございましょう」
 真は手元の水晶を蘇芳の布で包み、黙ってそれを両手で抱くようにした。
 廊下に出ると、外はもう随分と明るくなっていた。
 手の中で蘇芳の布に包まれた水晶が暖かく感じられた。何か不思議な感じがして、その蘇芳の布を開いた。
 その時、水晶が辺りの光を吸い込んだように見え、吸い込まれた光は奥の水色の塊に引き込まれていったようだった。
 目の錯覚かと、もう一度水晶を見つめたが、光を屈折させた透明の奥、手の届かない所で、水色の美しい光が柔らかく揺れているだけだった。


 広間に戻ると、随分と明るくなった空間で竹流が親指で劔をこするようにしていた。竹流の手の中で、縁側の障子から差し込んだ柔らかな光を受けて劔が赤く光り、さらにその光が天井に淡い半透明の桃色の波をいくつも作っていた。
 竹流は真が入ってきたことに気がつくと、右の親指から何かの欠片を取って、机の上に広げた紙の上に置いた。小さな月の破片のようだった。
「何?」
「内曇砥という砥石を薄くして和紙で裏打ちしたもので、刀を研ぐ時、仕上げに使うものだ。随分と見られるようにはなっただろう? とは言っても、もとの美しい鉄の輝きを取り戻せるわけでもないけどな。基本的に全体が錆びついているし、地鉄もすっかり赤黒い色になっている。まぁ、腐食した錆を取っただけでもよしとしよう。鞘の長さからすると、もとの半分くらいの長さなんだろうな。古刀の時代のものだが、随分とよく鍛えられている。そうでなければ、錆の屑になってしまっていただろう。もっともこうした遺物をだめにしてしまうのは、湿気だけではない。古代の物が現代まで残るのは、偶然の条件が重なってのことだという」
 竹流の手はすっかり錆色に染まっていた。
 その手を見つめながら、真は言った。
「でも、明るいところで見ると、光を跳ね返して輝いているようだった」
 竹流はしばらく真の顔を黙って見つめていた。それから、ほっとしたように息をついて、広げた和紙の上に置かれた鞘を見た。
「だが、その鞘の方は随分と良さそうだろう。そいつは黒漆でできていて水にも強い。金具はだめになってしまっているが、螺鈿や石は琢けばその通りだ。漆も、塗られた色の深みまでは戻せないが、それを作った職人の手は本当に素晴らしいものだ。もう千年も前の仕事なのにな」
 机の上には、いつも竹流が修復の記録をとっている冊子が広げられていた。丁寧なスケッチには、鞘や劔の寸法や素材が細かに書き込まれ、開かれたページには隙間もないほどだった。そのインクの跡がひどく愛おしく感じられて、真は思わず目を逸らした。
 竹流は穏やかな声で語り始める。
「琢きながら考えていたんだけどな、もしかしたら、水にも熱にも強い漆は、直射日光を浴びていないあの洞窟の中では守られていたのかもしれない。何百年、いや千年に近い時間を経たにしては、よく保たれている。黒漆の深い色合いはさすがに失われているが、多少の歪みはともかく、色の深みも蘇るように思った。この劔は棟区や刃区から察するに鎬造りで、最低八世紀は下らない。はばきがついているからやはり八世紀以降のもので、ただ反りも少ないし、湾刀というより直刀に近い。そうすると、平安時代か鎌倉時代か、少なくとも室町時代よりはずっと古いものだ。それに、刀剣を長期に保存するためには、鞘は白鞘という木地のもので、抜くときに万が一にも中の刀剣を傷つけないように、ふたつに割れるように造ってあるものなんだ。錆びてでもいたら、これのようにとんでもないことになる。だから、『刀剣を抜く』のではなく『鞘を割る』んだが、こんなふうに上質の鞘は、そもそもが保存のためにあるわけではない。だからこの劔ももともとは、御神体などではなかったんだろう。平安時代か鎌倉時代に作られ室町時代にまで残されたこの劔が、その姿の美しさのゆえにたまたまご神体か神宝として捧げられたものかもしれない。いつから雨を降らすなどという伝承がひっついたのかは知れないが、いずれにしても何かの儀式に大切に使われてきたのか、恐らくはその時代の技術を惜しみなくつぎ込んだものだったからこそ、人々が願いを込めて霊験あらたかという神社に奉納したのに違いない」
 竹流が柔らかい笑みを見せた。
「美しい拵えだろう。つまりな、それをあの怒れる神に供えた人も、この美しさを称えたんじゃないかと思うんだ。金具の類はいずれも錆びて原形も留めていないし、柄の鮫皮も剥がれた部分がほとんどだが、鋲や目貫の周囲には多少残っている。鋲も目貫も金属の部分は崩れているが、宝玉は幾らか輝きを残していた。黒漆の鞘の本体にも、梨子地や螺鈿の飾りが残っている。もともと水晶や瑪瑙、琥珀、瑠璃といった宝玉、吹玉が、見事に面を飾っていたんだろう。残った石のひとつひとつを水で洗って、なめし皮で琢いていったら、小さな光を蘇らせてきた。汚れを拭って磨きながら、この仕事をした職人の手の気配までもが感じられるようだった」
 竹流はそっと鞘を持ち上げ、真の手に載せた。手に受け止めた途端、思ったより軽い気もしたし、想像をはるかに超えた重みを感じたような気もした。
「修復の仕事は、時に何百年、何千年の時間の流れさえも飛び越えさせることがある。今お前の手の中にあるのは、技術と誇りとを込めてこれを造りだした古の職人の手の温度だ。あの美しい龍を描いた絵師もこの美しい仕事を讚えたことだろう。彼に理解できなかったわけがない」
 それでも、この劔は保管にはもっとも不適な場所に置かれていたのではなかったか。
 雨を降らす霊力を持つと当時の人びとが信じた珠と劔を、珠はともかく、金属のものをあれだけ湿気のあるところに置いておけば、何でも錆びて朽ちることは、もちろんあれをあそこに置いた人間は知っていたはずだ。本来なら、珠も劔も錦の袋に入れて美しい箱にでも納めて、特に金属のものがもっとも嫌うという湿気は避けて、保管されるべきではなかったか。
 だが、敢えてそうはされなかったのだ。
 雨などもう降らなくても構わない、御神体などこの程度のものだという、誰かの深い哀しみと怒りが、その錆びついた劔と壊れた珠から立ち上っていたのだと思えた。
「漆は水にも熱にも、酸やアルカリにさえ強い。むしろ乾燥に弱く、水分を抜くためにも湿気さえ必要なほどだ。残念ながらこの場合、中の劔を守るためには役立たなかったろうが、漆の下の木地にも十分油が沁ませてあった。あるいは、この劔をあそこに置いた人は、雨降劔の霊力を減じようとして湿気の中に置いたわけではないのかもしれない。それでも、この劔の霊力を信じていたのかもしれない。その人が、何百年という先の未来の、この劔の存在を想像したと思うか。彼にとっての遥かな未来に存在する俺たちでさえ、今から何百年先の事など想定の範囲外だ。彼の生きた時代よりは、遥かに未来を思い描くことは容易なはずの現代でさえ」
 真はしばらく竹流の顔を見つめていた。竹流は穏やかな表情をしていて、昨夜、真が頭の後ろの方で聞いていたような激しいものがこの男のどこに隠されているのかを探り当てることは、今はできなかった。
「いや、現代もやはり、何百年先の未来は思い描けるものでもないのかもしれないな。ただわずか数年先までを思い、今この時が幸福であるならば、それが永遠に続くことを祈るだけだ。今この時が苦しいのであれば、少し先の未来ではその苦しみを抜け出し、歩いている道の次の曲がり角に幸福が待っていることを願う。そうして、今という時をひたすらに積み重ねている。その人も、その時その時を祈って過ごしていたんだろう」
 それから、竹流は真の手の中にある蘇芳色の包みに気がついたようだった。
「それは?」
 真は包みに視線を戻し、ゆっくりとそれを開いた。現れた水晶の珠を見つめて、竹流はしばらくの間驚いたような顔をしていたが、やがて呟くように言った。
「パライバ・クォーツか」
「え?」
「水晶の中にジラライトという銅の珪酸塩化合物が含まれているものだ。水晶はしばしば中に不純物を持っていることがあるんだ。何たって大地から湧き出したものだ。虫が入っていることもあるし、自然のものを何だって取り込んでいる。この水色っぽい色合いからはそのように見えるんだが、普通もっと小さなジラライトが多数入っていることが多い。いや、あるいはフローライトかな。結構大きな塊だものな。いずれにしても日本で手に入るもののようには見えないが。これ、どうしたんだ?」
「和尚さんのお母さんの形見だそうだ。和尚さんがあんたに渡すようにって」
 竹流は、どうしたらいいのかという顔で、真を見つめていた。
「どういうことだろう?」
「好きに使っていいって、そういう感じだったけど」
 竹流は水晶を受け取ろうとして、自分の手が錆に染まっていることに気がついたようで、真に言った。
「手、洗ってくるよ」
 そう言って竹流は立ち上がった。真は彼に襖を開けてやった。すぐに竹流は戻って来て、もう一度机の前に座った。真は水晶を布ごと手渡した。
「珠も剣も、人の心が琢いてこそ御神体になるって、そうおっしゃってた」
 竹流はしばらく水晶を検分していたが、ゆっくりと顔を上げ真の顔を見て言った。
「その通りだ。壊れてしまったものを元に戻すことはできないが、壊れた部分を修理したり、新しく作り直すことはできる。真、昔から人々は、神様にはいつだって真新しいものを捧げてきた。新しく紡がれた着物、その年に採れた米、新鮮な魚、その時代の最高の匠が作った品物。御神体といっても、神様そのものではない。神様には姿がないから、あの遠くのどこかから来ていただいて、この世の依代としてそこに身を移していただく、そのためのただのよすがだ。劔も、珠もな」
 それから、竹流は水晶をもう一度手で包み込むようにした。
「ちょっとの間、このちんちくりんの劔で我慢していただこう。きちんと油をひいておけば、あと何年かは、あるいは十年か百年単位でも、錆びて屑になってしまうこともないだろう。鞘も、記録を取ったから、新しいものを作ることもできる。それから、和尚さんの御好意に甘えて、この水晶は頂いて使わせてもらおう。本当に綺麗な水晶だ。光を放っているというよりも、光を吸い込んでいくようだな。珠の奥に水を持っているようだ。それに、暖かい」
 竹流は水晶を真の手に戻した。確かに石とは思えないような温もりがあった。さっき廊下で感じたのは、気のせいではなかったのだ。
「寝て、ないんだろう?」
 竹流は真を見つめ返した。そしてしばらく黙って真の顔を見ていたが、何か言いたいことを飲み込んだようにも見えた。
「大丈夫だ。それよりも、これを早く神様にお返ししよう」
 若者がやってきて、朝食の準備をしてくれた。竹流は朝食を済ませると、丁子油を分けてもらいに、知り合いの一人である研師のところに若者の一人を使いにやった。自分が行きますと自ら名乗りをあげたのは、あの縁の下に隠しものをしていた若者だった。
 少しの間でもまだ敷かれたままの布団で眠ったほうがいいと、真は竹流に勧めたが、使いが思ったより早くに戻ってくると、竹流は直ぐに起き上がった。そしてさっそく、短くなった劔に丁子油をひく作業を始めた。
 太陽の暖かな光が東から入り、彼の手元の劔で光を跳ね返した。いや、錆びついた劔なのだから、幻だったのかもしれない。
 真はしばらくその光を見つめていた。
 あれから子どもを見かけていない。少しずつ顔も、表情がわからないほどに消えていきそうになっていたし、もしかして本当に消えてしまったのかもしれない。
 時すでに遅しで、彼を助けることはできなかったのだろう。哀しい気がしたが、もう哀しみを真正面から見つめることは辛かった。ただこの暖かい光の中で暫く浸っていたい気持ちがした。
 光が劔の鞘の上で新しい光に生まれ変わり、広間の壁や天井で乱反射した。鞘を飾っていた玉の、緑や桜色、青、そしてあらゆる光の色が、広間の至る所で跳ねていた。
 真はぼんやりと光の行く末を追っていたが、天井のところどころ星がきらめくような光を認めた。
 そう言えばここに来た日に、脚立に上って見た天井の龍の周りに、何かきらきらと宝石の破片のようなものがあったことを思い出した。
 それから、あ、と思って、次の間に戻り、衣桁に吊ってあった上着のポケットに手を入れた。始めに掴んだのは、美沙子に渡すはずだった指輪の入ったケースだった。真は思わず手を引っ込め、ひとつ息をついてから反対のポケットに手を入れた。
 そして、あの祠の中に見つけた小さな破片を取り出した。
「これでいいだろう」竹流は呟いて、次の間から広間に戻った真の方を見、話し掛けてきた。「お前はどうする? 下に行くのが怖ければ、俺が一人で行ってくるけど」
 そう言ってから、竹流は真の指が掴んでいる小さな光を認めたようだった。
「それは?」
 真は黙って竹流の傍まで行き、それを彼に手渡した。
「螺鈿だな」
「螺鈿? 貝?」
「あぁ。お前、誰かにもらったにしても、次から次へと手品師みたいにあれやこれや出してくるな。これは、どうしたんだ」
「拾ったんだ」
「どこで?」
「祠の中」
「祠? 庭の奥の?」
 真は頷いた。竹流はしばらくそれを見つめていたが、やがて天井を見上げた。
「天井に、これと同じようなものがいくつも貼り付けてある。どうして祠の中なんかに落ちているんだろう?」
 竹流は少し考えていたが、そこに住職と若者がやってきたので、とにかくもう一度下に降りて、あの神像にこの御神体をお返しすることについて話し合った。
 結局、住職が一緒に行くと言ったので、真も引っ込みがつかない気がして、一緒に行くと答えた。
 彼らはまた照明を引っ張ってきて、地下の洞窟の中に入った。
 洞窟の中はやはり別世界だった。外の明るさなど、一切届かない闇の中は、入り込んだ一瞬から、外界の全てをシャットアウトするようだった。
 彼らはまた膝近くまで水に浸かりながら池の中央まで歩いていって、神像の前まで来ると、その右の手に劔を戻した。それから、水晶を包んだ蘇芳の布ごと、神像の足下に置いた。神像はかなりの部分が崩れていたし、特に突き出した左の手は、上にものを載せられるような状態ではなかった。
「本当によろしいのですか?」
 竹流の声はもともとよく通るが、ここではそれが増幅されるように響いた。答えた住職の声は深く低く、ふらふらしている真の感情を、どこか底のほうで支えてくれているようにも思えた。
「はて、どういうことでしょうかな?」
「あなたのお母上の形見だと」
「確かにそうですが、これも私が小匳に仕舞って持っていても、役に立つことはございますまい。いや、あるいはこの水晶を持っていたからこそ、五十年前、私はここへ導かれたのかもしれませんの。それに、あるいは母はこの水晶の運命を知っていたのかもしれません。よく当たると評判の占い師でしたからの。それにもう、私がこれを持っている時間も短い」
 水晶は住職の母親から半世紀も前に手渡され、長い年月を飛び越えて、しかし、決して思いもよらぬ形で脈絡なく現れたのではなく、何かの必然に引かれるようにここに存在している。全ての出来事は点ではないと、住職の声がまた蘇るような気がする。
 それから彼らは黙って神像に手を合わせた。
 その時、外界と今彼らのいる異界とを繋いでいた糸が、急に見えない力に引っ張られた。
 一瞬にして光の向きが変わり、周辺は暗闇になった。
 龍穴の外で、若者たちの騒いでいる声が聞こえた。何かで照明のコードが引っ張られたのだろう。
 真は光を目で追い、窟の遥か天蓋を見上げ、息を飲んだ。
 意識なく竹流の腕を掴んでいた。竹流は足下さえ覚束ないような闇の中で、真の身体を抱き寄せてくれたが、その暖かな感触は一瞬の先には零れていきそうだった。
 照明は今、この洞穴の天井を照らしていた。とは言え、上の二十畳の広間の倍の広さ、そして人の身長の倍はありそうな高さの天井の全景を映し出すことは不可能だった。光は一部では吸収され、一部でははね返され、ごつごつした天井の岩の濃淡を浮かび上がらせていた。
 真が竹流の腕の中で見上げていたのは、洞窟の天井の暗がりに浮かびあがった龍の顔だった。
 天井の、黒々とした闇の龍。それは、まさに頭の真上でこちらを睨みつけ、その体は天井全体に大きくうねりながら横たわっている。
 自然の形の岩がたまたまあのような龍に見えているのか、とても人の手が加わったようなものには見えなかったが、あの黒い天から今にもここに降りて摑みかかるように見えた。
 鴨川の源流を祀るものとして、志明院とは別に貴船神社があるが、あの本殿の奥には龍穴があると言われている。洞窟や地面に開いた穴は、エネルギーの吹き出るところで、その奥には大地の気が溢れている。
 この洞窟には長い年月溜め込まれた人の怨みのエネルギーが充ちていて、今、自分たちがそこから地表に通じる穴を開けてしまったのだ。人の手に負えないものをこの世界に放つことは、罪悪以外の何物でもない。
 しばらく誰も声を出さなかった。やはりここには、自分たちがどうすることもできない人の心の闇、怨みや哀しみや、そういったものが、息苦しいほどのエネルギーになって圧縮されているのだ。もう既に、それはあの父親だけのものでもない。
 やがて住職の声が、あの読経のままの穏やかな調子で響いた。
「出ましょうかな。ここは、我々にどうすることもできない禁足地でございましょう。人には近づけない神の領域というものがございます。珠と劔はお返ししたのですから、よろしいでしょうとも」
 真の頭に大きな手の感触が伝わった。
「上に上がろう。歩けるか?」
 真は答えなかったが、摑んでいたままの竹流の腕を離した。


 地上に戻ると、暖かい光が真を包み込んだ。言葉の悪い若者が心配そうに真を見ている視線にぶつかった。真は、何かにやっと支えられたような状態で縁側に座った。
 竹流が真の顔を覗き込むようにして、大きな手を真の手に添えた。竹流の手の暖かさに、真は始めて自分の手が異常に冷たくなっていることに気が付いた。
「大丈夫か?」
 真は少し間を置いて頷いた。
 それから、午前中ずっと真は縁側に座っていた。
 水盤の下の通路は、改めて石の水盤を嵌め戻し、完全に封がされた。もしかして封印のためには何かまじないの言葉が必要だったのかもしれないが、とにかく今はまた、この地面の下は封じられた闇の異界に戻っていた。人間の手が触れるべきではないものがあると言った住職の言葉通り、己の英知や勇敢を頼りすぎて、神の領域に土足で踏み入ることは許されないのかもしれない。
 水盤には、いつの間にか新しい湧き水が底から溜ってきて、光をきらきらとはね返した。それは、この下にあのような道があることも忘れさせるほどに、暖かい光だった。
 若者たちが入れ替わり立ち代わりやってきては、お茶や砂糖菓子、干し柿を置いていった。酒と煙草を隠していた若者、乱暴な言葉を話す若者、自信なく不安そうに視線を泳がせる若者、ここにいることを納得していない乱暴者、まだ幼い顔の若者。そのどの表情にも、鏡の中で出会ったことがある。
 幼い頃は鏡に映る自分が怖かった。明らかに髪の色は周囲の子どもたちよりも薄く、夏の朝は洗面所に光が差し込むと、光って輪郭がぼやけてしまった。目の色も、よく見ると真っ黒ではなく、特に右の目は暗い碧に近かった。その顔はいつも怯えていて頼りなげだった。それなのに、時々押さえつけていたものが噴き出すように、残酷な塊が迸り出てしまうような気がする。
「干し柿、食えよ」
 いきなり話しかけられて、真はびくっとした。言葉が乱暴なその若者は、もう社会で立派にやっていっているはずの年齢に見えた。
「うちのばあさんが作ったんだ。先月死んだ。死ぬまで、干し柿、馬鹿みたいに作ってたんだ。美味くもないのによ」
 真は言葉の勢いに押されるように、大きな干し柿をひとつ手にとった。かじると、ほんのりと甘い。干し柿の中は、意外にも水分が多く、乾燥させた外側とのギャップが旨みを引き出す。干してこの大きさなのだとしたら、もともとはかなり大きな柿だったのだろう。凍らせて保存されていたためか、甘さが内側により凝縮されているように思える。
 真が柿を食べたのを見届けて、やっと納得したのか、若者は去っていった。その後姿を見届けてから、真はほっと息をついた。彼はきっとお祖母さんを好きだったのだろう。柿の味がそう思わせているだけかもしれないが、食べた後から口に広がる甘さのように、その人は彼を大事にしていたのだろう。
 誰も一人で生きているわけではないし、一人ではいられない。たとえ今は一人でも、どこかで何かに支えられているから、こうして存在している。
 真の祖母の奏重が茶を点てながら言っていた。和菓子というのは、干し柿の甘さを目指しているのだと。目指している、ということは、到達しがたい目標なのだろう。
 真はポケットから螺鈿の破片を取り出した。
 そこにも暖かい光がいくつも宿っていた。
 不意に洞窟の天井に浮かび上がった龍を思い、視界が曇った。
 あの子どもの父親の、あるいは母親の怒りと哀しみが、自分の喉元を締め上げているような気がする一方で、その怒りを哀れだと思った。怖いという気持ちの双極で、哀れに思えてならなかった。今は地下になっているあの洞穴も、本当は自然が造りだしたただの窪地で、あの窟の天井の龍もただ自然が作り出した岩の形に過ぎないのだろう。
 けれども、そこに人が念を込め祈った時点で、それはもうただの洞穴でも岩でもなくなってしまっていた。
 そこには、哀しい想いだけが充ちているように思えた。
 子どもはもう気配も感じなかった。恐ろしい洞穴の中でさえ、哀しみの渦のような気配を感じただけで、それは既に何かを為し得る力強いエネルギーではなかった。入口を塞いでいた石を取り除き異界の封印を解いた時点で、そのエネルギーはあの場所から飛びだして、もはや散逸して何を為す力もなくなってしまっているのだろうか。
 自分たちは遅かったのかもしれない。
 子どもを助けてあげられなかった。
 竹流は住職と何かを話していたが、昼時が近くなっても真が座り込んだままだったからか、やがて側にやって来て横に座り、暫くは黙っていた。それから、真の指先が摘んだままの螺鈿に手をのばしてきた。
「これ、祠の中で見つけたって言ってたな」
 真は竹流を見つめ、頷いた。
 竹流はふと広間の方を振り返った。真が目で追うと、竹流はしばらく広間の天井を見ていたが、急に何かに思い当たったような顔になって、もう一度真の方を見た。そして、ずっと封印されていたものが開放されたように、笑みを見せ、弾んだ声で言った。
「お前の言う通り、珠は龍の宝だ。きっと、本当は持っていたんだろう」
 何の話かと思って、真は彼を見つめた。
「この天井の龍さ。彼にも珠を探しだしてやらんと、な」
「探しだすって?」
「天井の話さ。行こう」
「どこへ?」
 竹流はそれには返事をしなかった。一旦広間の床の間横の違い棚に行って、棚から懐中電灯を取って戻ってくると、縁側から庭に降りていく。真はわけもわからず、とにかくついていった。
 竹流は庭を奥の方に進み、例の祠の前で立ち止まり、しばらく祠を周囲から観察していた。それから徐に祠の扉を開け、手に持っていた懐中電灯で中を照らした。
 真は黙って竹流を見ていたが、彼が自分の方を振り返り促すようにしたので、自分も中を覗き込んだ。
「これは」それ以上言葉にならずに呑み込んだ。
「こういうところに置いてあるにしては、保存状態は悪くはないな。この祠がいつの時代のものかはよくわからないが、室町時代からあるようには思えない。後世の誰かがこうしたのかもしれないが、この内張の板だけは間違いなく古そうだ。あるいは、この祠はこの板を祀っていたのかもしれない」
 そう言いながら、竹流は懐中電灯を真に手渡し、自分は祠の屋根に手を掛け、しばらく力加減を確認していた。
「どうするんだ?」
 真が話し掛けたとたん、屋根は軋みとともに外れた。真は竹流の顔を見つめた。
「昨夜、劔の錆と汚れを落として研ぎながら、時々天井の龍とにらめっこをしていた。ずっと、どうしてこんなに中途半端に描いたんだろうと思っていたんだ。相国寺の龍も高台寺の龍も見事に全身が描かれている。横山大観の龍は雲間から現れたように描かれていて、確かに全身ではないが、雲間から顔と手を突き出して、その向こうに全体の気配を感じさせる。大体この絵の下書きは明らかに全身だったのに、完成品のはずの天井の龍のほうが随分と部分的だ。天井はあんなにも広いんだから、もっと堂々と真ん中に描けば良かったのに。そう考えたら、この龍は、もともともっと大きかったのではないかと思えてきたんだ。確かに迫力があるが、構図としても中途半端だ。せめて手くらい描いておいたほうが、いかにもそれらしい。俺が絵師だったら、こんな半端な仕事は納得がいかない。で、和尚さんに聞いたら、以前の神社の建物は応仁の乱よりも遥か以前に焼け落ちたらしいし、寺がその上に建立されたのも戦の前らしいという。もっとも、当時は京都の町の中心は現在よりも随分西の方にあったとういうから、こんな東山の端の方は、魑魅魍魎の棲む深い山の中だったに違いない。しかも、四神相の端っこは東の青龍、すなわち鴨川なのだから、ここは怨霊退散の札が貼られた区域よりも外だ。こんなところにひっそりと建てられた寺が、いったいどういう変遷で現代に至ったのかもわからないが、長い歴史の中では何度も手が入れられたことだろう。いつの時代にどのようにしたのかまでは、全て記録に残っているわけではないそうだが、和尚さんが屋根を修理した時に、以前には、畳一畳分は建物が大きかったようではないかと、出入りの大工に言われたとおっしゃってた。なぜ削ったのかはわからないが、つまり、あの天井の龍には『続き』があったんだ。今、中を見るまでは半信半疑だったが、お前がその螺鈿の欠片を祠の中で見つけたと言うから」
 そう言って、竹流は屋根を足下に置いた。屋根は小さいながらも綺麗な流れ造りの形を模して、桧皮葺にしてあった。それも、屋根の大きさにしては随分厚いものだった。
 祠の外壁の板は厚みがあり、さらにその板の内には中を保護するように厚い板壁の囲いがあり、祠の内側に面した一番内側に嵌め込むように三面、その板があった。その時点では、屋根を外された祠の内側は、長い年月から解き放たれて、外の光に照らされていた。
 光は、真の位置から見ると乱反射して、内側に描かれたその姿をよく確認することはできなかった。ただ、祠のうちに光が充たされて、きらきらと跳ね返っているように見えた。
 その情景を黙って見ていると、竹流が真を促すようにしたので、もう一歩祠の側に寄った。
 そうして初めて、その内に描かれた龍の体の一部がよく確認できた。
 ここに、龍が居たのだ。だから螺鈿が落ちていたのか。これは龍の鱗だったのだ。
 何だか、当たり前のことのを当たり前のように思い、真はもう一度、手の内の螺鈿を見つめた。
 板に描かれた龍の体の一部には手も含まれていて、その手にはしっかりと珠が掴まれていた。
 小さな祠ではあったが、全体の造りはかなりしっかりしていて、まるで内側の内壁を守るかのように見えていた。その中で、龍は解き放たれる時を待っていたのかもしれない。
「これ、貼り付けられるのか?」
「それは簡単だ。だがいずれにしても、この内板を取り外してもいいものかどうか、和尚さんに聞いてみないとな」
「取り外す?」
「これはあの天井の龍のものだ。返してやりたいとは思わないか?」
 真は黙って彼を見つめた。
「それで、お前が願っていたことが充たされるのかどうかはわからないけど」
「願っていたこと?」
「子どもが珠を失くしてしまって、龍が飛べなくなったんだろう?」
 真はまだ竹流を見つめていた。
「じゃあ、あんたの願っていたことは?」
「俺が願っていたこと? 不動明王ならもう見つかったぞ。実際は神像だったけど」
「龍が消える訳を知りたいって、それでここに来たんだろう?」
 今度は竹流の方が、真を見つめ返した。
「和尚さんの依頼は無事に果たせたわけだ。もちろん、まだ、あの神像のために新しい劔を造りたいとは思っているがな。いずれにしても仕事は終えたよ。あとは龍に珠を返してやることだけだ」
 そこへ砂利を踏む音が近づいた。二人がその方を見ると、住職が彼らの側にまで来ていた。
「よくそこに龍がいることに気がつかれましたな」
 竹流は少し頷いた。
「こいつがこの中で螺鈿を拾ったと言ったので。しかも、あなたが仏にも神にもいい顔をしたいとおっしゃった。この祠はよく手入れされている」
 住職は頷き、静かに語り始めた。
「私が前の住職からここを任された時に、この祠を大切にするようにと言われましたのじゃ。もう何百年も、この祠は代々の住職に大事にされてきた。私も、理由など考えもせずに護ってまいりましての、とは言え、その龍をどうしてやればいいものか、考えあぐねておりましたのじゃ」
「この下の洞窟の龍には、あなたのおかげで珠を返すことができた。もう遅いのかもしれませんが、あの広間の天井の龍にも珠を返しましょう。子どもの魂は救われるかもしれない。もしも、この寺が五百年も前に、子どもの魂を慰めるためだけに作られたのだとしたら、それがきっと必要なことなのでしょう」
「広間の天井と屋根をどうにかするのですかな」
「そんな必要はありません。この板を脇の壁の方へ嵌め込んでみれば、おそらく上手くいくでしょう」
 彼らは祠の内から、龍の天井画の板を外し、祠を元どおりにした。そして、もう一度祠に手を合わせてから、広間の方に戻った。真は龍の体の一部が描かれた板を運びながら、その一番上になっている珠を持った龍の手を見つめていた。
 どうしてこんな中途半端に龍はばらばらにされたのだろう。さっき竹流は、もともと広間の天井がもう少し大きかったのじゃないかと大工が言っていた、という話をしていた。あの天井に龍が描かれているのは、床の間の前、縁側の側だけだ。始めからもっと部屋の真ん中の方に描いたら、龍もばらばらにされることもなかっただろうに。
 真は、竹流と住職が話しながら天井の龍とその下のわずかな壁の状態を確認している姿を、縁側に座ってぼんやりと見つめていた。
 それから改めて、縁側の向こうの枯山水の庭、そして、さっきまで地下への通路になっていた水盤を見つめた。水盤だけがこの庭の中で鏡のようにきらきらと輝いて見えた。それから、何となくここに来たときから感じていた違和感を、今また感じた。
 それが何なのか、実はここで過ごすうちに気にならなくなっていた。
 真は立ち上がり、縁側を東側へ歩いた。自分たちが初めてこの寺にやって来た時に、この庭を初めて見た瞬間の記憶を辿るように、真は縁側を玄関へと続く方向へ回り、もう一度そこから広間の前の縁側に向かって戻ってきた。
 そして庭を見た瞬間、あぁ、そうか、と思った。
 それはある意味どうでもいいことのようだったが、この庭、というよりも敷地の塀は東側が低く、西側が高く作られていた。庭の北側は傾斜になって高くなっているのに、東の方は塀も低いが、その向こうは東山と空が見えていて、近くに景観を遮る高い木も何もなかった。
 あの時、それが本で読んだどこかの寺の庭の塀と同じだと思って、一瞬で納得し、その後忘れてしまっていた。造園の時に用いられる手法としての遠近法だと思って、そのまま納得したのだろう。
 そして、もう一つの違和感の理由も解った。それはこの縁側だった。天井を短くし、それだけではなく、本来もう少し深くてもいいはずの縁側は、建物や広間の大きさから考えると、バランスが悪いくらいの幅しかなかった。つまり、広間は、建物を造った後でわざと外の庭に近くになるように直されたように見えた。
 それから、住職と竹流の方を見つめた。彼らが三枚の板をどのように戻せば立体的に龍が違和感なく見えるのかを確認している姿を見ながら、その龍の板をもう一度見つめた。
 その時、真の位置からはその板の龍が見えなかった。
 あ、と思った。
 さっき祠の屋根が外されたとき、真の目には一瞬、龍は見えなかった。それは、外界から差し込んだ光のために龍が光って見えなかったのだ。
 いや、龍が光ったのはこの螺鈿のせいだ。
 竹流は、何故かこの季節の朝にしか龍は消えないと言った。
 塀は東側が低い。そこには遮ることがなく空がある。そして、外の光を上手く取り込むためにわざと短くなった天井と縁側。東山のせいで、太陽があの空に現れる時間はかなり遅いだろうとは思ったが、何かマジックの種があれば、それは十分あり得ると思った。
 真は振り返り、広間の中を見つめた。そして、竹流と視線が合った。
「真、その螺鈿を板に戻そう」
 真は竹流の所まで行って、螺鈿を手渡した。竹流は祠から取りだした三枚の板を随分検討したようで、真から螺鈿を受け取ると、恐らく元の位置だと思われるところに螺鈿を置いてみて、納得すると、自分のアタッシュケースから何やらチューブを取り出して、透明の液体をほんの少したらして螺鈿につけると、それを板に貼り付けた。
 それから、住職は寺に出入りの左官屋を呼んで、午後の時間をいっぱいに使って龍の板を壁に上手く嵌め込んでもらった。
 でき上がると、その龍は床の間の脇から天井に向かって昇るような姿になり、ますますの迫力で迫ってくるように見えた。
 真は左官屋の鮮やかな手付きを黙って見つめていた。それから、改めて広間の畳の縁と四隅の柱と襖を見回した。
 畳の縁には、こういう寺の畳とは思えぬくらい、モダンで明るい銀糸が折り込んであった。明りをつけると広間が何となく全体に明るく思えるのは、この鏡のような役割をしている銀糸のためだった。襖にも、墨で描かれた生々流転の上に、銀の色を使った模様が施されている。簡素を求める禅寺にはあるまじき光の贅沢だ。
 真は、自分の横で左官屋の仕事を見ている竹流を見つめ、自分の推理があっているかどうか確かめようと思ったが、何となく何も言えなかった。
 実際には、そんなに簡単に光の魔法が天井の龍を消してしまうとは思えなかった。この広間が光で充たされでもしない限り、あの龍を消してしまうのは無理そうだった。
 竹流がいつも自分のためにしてくれている事のお返しに、彼が望んでいた龍の消えるわけを、いや、何よりも龍の消えるところを見せてやりたいと思った。けれども、ここに長く住んでいる住職でさえ、何度か見たことがある、と言っただけだ。きっと、かなり特殊な状況がない限り、龍は消えてくれないのだろう。
 左官屋の仕事は見事で、壁の塗りまでも、龍の体がその壁の雲から湧き出したように変えてくれた。
「見事ですね」
「知ってはるかどうか知らんけど、鏝絵というのがあって、昔の職人は漆喰の中から、風景や人や動物の姿を浮かび上がらせたんですわ。今では、そんな技術を持っている職人はめったにおりまへんし、持っていても使う場所もないですけどなぁ」
「こてえ?」
 真は不思議な響きのその言葉を繰り返した。
「鏝で漆喰に絵を描くようなものだ。漆喰の濃淡、厚みだけで絵が浮かび上がる。兵庫県のどこかに、そんな町か美術館か何かがあったな」
「私の親父も結構な名人でしてね。飲んだくれて死にましたが」
 左官屋は後片づけをして、住職が代金を支払おうとしたのを断った。
「こんなのは仕事のうちには入りませんわな。趣味で絵を描かせてもろうたようなもんで」
 そう言って左官屋は帰っていった。
 彼らはしばらく、見事な龍の姿を見つめていたが、やがて竹流が荷物をまとめるように、真に言った。
「東京に戻るのか?」
「いや、今日は他に泊まろう。いつまでもここでタダ飯を食わしてもらっているわけにもいかないし、それに精進料理にも飽きたろう? 美味い京料理でも食べよう」

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄18 祇園 春の夕餉 空気のないカプセル 

 住職に礼を言って、真は竹流に連れられて寺を出た。
 竹流は何も言わなかったが、恐らく、真があの地下の洞窟を見たからには、この寺にいること自体よくないだろうと考えたに違いなかった。それに実際、住職の依頼は果たされたわけで、竹流自身が消える龍の謎にさえ拘らなければ、あの寺にも京都にもいる理由もなかったのだろう。
 タクシーは白川通を下がり、丸太町で西へ向かい、さらに東大路を南へ下がると、道がかなり混んできた。真はぼんやりと外の光景を見つめていた。やがて車は大きな神社の鳥居の前を右折し、しばらく行くと狭い路地に入った。
 車が止まったのは、一軒の家の玄関戸の前だった。
 通りには犬矢来や出格子を伴った同じような作りの建物が軒を並べていた。人通りも少なかったが、家々の軒先には都踊りの赤い提灯が提げられていて、暖かなムードが辺りを包んでいた。そこに立つだけで、今までいた寺とは包み込む空気が全く違うことがわかる。
 ふと竹流を見ると、ほっとしたように息をついたのがわかった。
 竹流は玄関の呼び鈴を押した。玄関は、この通りに並んでいなければ、まったく普通の家のもののようだった。よく磨かれた木の表札には、『藤むら』と出ている。人の家にしては何で平仮名なんだろうと漠然と思ったが、あまり深くも考えなかった。
「どちらんさんどすか」
 呼び鈴の小さなインターフォンから、女性の穏やかな声がした。
「大和です」
「へぇ、ただいま」
 落ち着いた女性の声のトーンがやや上がって途切れると、しばらくして玄関の戸が開いた。
「ようおこしやす」
 玄関から零れだす花のように出てきたのは若い娘で、細かな橘桜文の鮮やかなピンクの小紋を着て、髪を綺麗に結っていた。その張りのある声は、インターフォンの声とは別のものだった。竹流がちょっと驚いたように声をかけた。
「ミネちゃん」
「お兄いはん、お久しぶりどす」
「どうしたんだ」
「さっき電話くらはったとき、ここにおったんや。お母はんに聞いたら、今日はここに泊まらはるゆうから、待っとったんどす」
 その娘は勝ち気な美しい顔つきをしていた。真と目が合うと、彼女はほんの少し会釈をした。真も会釈を返した。小さな顔に大きな目、唇は少し厚めでたっぷりと水を含んでいる。まだ少女のような顔つきなのに、どこかに女性の色香をちゃんと持っている。
「ミネコ、あんた、まだ着替えもせんと何しとるん。お座敷に間に合わへんかったらどないするんや。はよ、仕度しよし」
「わかってるがな」
 唇が少しむくれたように尖るのを、真は不思議な気持ちで見つめていた。
 寺の中にあった世界とは違う、この華やかで暖かな、生き生きとした世界。女性という生き物は本当に不思議な力を持っている。この目の前の女性よりもずっと控えめで目立たない美沙子でさえも、男には持ちようのない命の弾力を底に持っていた。もしかして真が惹かれていた美沙子の中の何かは、そういう生命の弾み、女性の性としての華やぎだったのかもしれない。
 ふと竹流を見ると、彼もまた優しい穏やかな顔をしているように見えた。
 最初にインターフォンから聞いた声と一緒に出てきたのは、落ち着いた淡い黄緑地の紬の着物にさざ波文様の染め帯を締めた、幾分か年配の女性だった。紬とは思えないほどに深い色合いの染めの色は、薄暗い玄関口にも穏やかな春の光を灯したように見える。優しい、しかし意志のはっきりした表情を湛えた女性だった。
 彼女の言葉で、ミネコと呼ばれた若い娘は奥へ去っていった。
「ほんまに、いつまでも子どもみたいに」
 言いながら、その年配の女性は竹流に上がるように促した。
「タエちゃんとこ、泊まらんでええんどすか」
 竹流が、その女性の責めるような言葉を遮るように止めた。真は耳に入った女性の名前を頭の隅に畳み込んだ。昨日の話が夢の中ではなかったということを、確かめたくなどなかった。
「連れがいるんで」
 今度は予定外、とは言われなかった。
 女将らしい年配の女性は幾らか意味深な表情で真を見、それから竹流に言った。
「ほな、離れの一階でかましまへんな」
「雨風が凌げるならどこでも」
 真も促されるままに玄関に上がった。
「ミネちゃん、どうしたんです?」
「急にお座敷が入ったんどす。まあ、いずれにしても、よう来てくらはりましたな」
 女将は背を向けたままそう言ってから、不意に肩を落とした。そして開き直ったように振り返り、真にも優しく微笑みかけてくれた。
「お食事は? いつものようにワクさんとこどすか」
「ここしばらく精進料理で過ごしてきたんだ。本当は血の滴るような肉、といきたいところだけど胃がびっくりしそうだ」
「何を言わはるやら」
 彼らは玄関からの狭い廊下を通り、一旦中庭に降りると、下駄履きで奥に進み、そこからさらに奥の入口に入り、土間を通って一番奥の戸を開けた。入り口とは別の棟の建物があるようだった。そこからまだ廊下を行くと、小さな池のある中庭に面した部屋の濡縁から障子を開けた。入口からは考えられない奥行と広さだった。
 部屋は広くはないが、床の間と脇床までしつらえてあって、何よりも、小さいながら落ち着いた中庭の様子が楽しめた。丸く形を整えられた躑躅、まだ春の芳しい匂いを放つ梅の木、手水鉢の脇には石蕗と葉蘭が添えられている。
「お湯使わはってから、お食事にしはりますやろ」
「そうしよう」
 荷物を置かせてもらってから、お茶だけは一服頂いて、そんな話をしている濡縁の方から、さっきのミネコと呼ばれた娘が綺麗に着物を着替えて覗き込んでいた。
「お兄はん、後でな」
 その声を聞きつけて、女将が嗜めるように言った。
「ミネコ、何ゆうてるんや」
「ええやないの。お座敷終わったら、うちもここに泊まるわ」
「あほなこと言わんと、ちゃんとお座敷、勤めや」
「わかってるて」
 言いながら、彼女は華やかに紅を引いた唇で笑みを見せてから出かけていった。
 風呂を借りてこざっぱりすると、着物を借りて着替える。
 女将が準備してくれたのは鮫柄の小紋で、聞けばこの置屋は幾代か前には薩摩島津家の御贔屓に預かっていたという。女将は、瞳の色に合わせるように竹流には藍を基調に重ね染したものを、真には緑茶系の渋味のある色に染めたものを準備してくれた。真が当たり前に自分で着付けていくので、女将も竹流の手伝いをしながら、感心したようだった。
 女将が慣れた手つきで着付けていく。その手の艶やかさに、真は見とれていた。竹流は女将に任せて、静かに微笑んでいるように見える。この男はやはりこういう華やいだ世界が似合う。あの寺のように男ばかりで過ごしている世界は淡々としてストイックで、それはそれで悪くはないのだろうが、女という生き物の手にかかると、一気に世界は塗り替えられ色づく。その色を、この男は楽しんでいるのだろう。
 竹流があの寺を離れたがったのは無理もないことだと真は思った。少しばかり、あの単色の世界に飽きてきていたのかもしれない。女性の顔を見、その匂いを感じ、女たちが作る艶やかな空気に酔う。男には、生理的にそういう場所が必要なのだということは、真にも理解できる。
 着替えが済むと、並んでゆっくりと町を歩いた。静かな夕暮れで、下駄履きで歩いていても、なんの違和感もない佇まいだった。
「知り合いなのか?」
「いわゆる芸妓や舞妓の置屋だ。本当は男子禁制なんだがな、案内された棟は元々あの人の旦那さんが住んでいたところで、間の仕切りを取り払ったんだ。あの人は、まぁ、俺の京都の母親みたいなものかな」
 竹流はそれ以上あまり説明しなかった。女絡みなので言いたくないのだろうと真は思っていた。住職の言うように、人には色々な顔がある。真が知ることができるのは、そのほんの一面に過ぎない。
 料亭はどう考えても普通には入りづらいような佇まいだった。あっさりとした古い木の看板に『和久』と崩した文字が浮かんでいる。
「ようおこしやす」
 仲居がすぐに女将を呼びに行った。
「いや、まぁ、お久しぶりどすなぁ。お待ちしとりました」
 女将自ら奥に彼らを案内し、二人にしては広すぎる座敷に通されると、緩やかな灯りに包まれた部屋の真ん中に低い机があって、真ん中は囲炉裏にくり貫かれていた。囲炉裏には炭が盛られ、鉄瓶が掛けられて湯気を上げていた。
「旦那はんのお電話のすぐ後で、藤むらはんのお母はんから電話をもろうたんどす。多分、今日はそっちで食べはるえ、て。いや、さっきお電話がありましたわ、ゆうて話しとったんどすえ。ほんで、またさっき電話がありましたわ。今、歩いて出はったゆうて」
 女はどうしてどうでもいいことを長々と話すのだろう、と真は思っていた。だがこの他愛のない言葉が、世界を艶やかに染め、心を穏やかにする魔法の種かもしれない。
 席についたところへ、すぐに先付が運ばれてきた。
 女たちは、さりげなく竹流のしそうなことを予測して先回りし、彼が心地よく過ごせるように気を配っている。その包まれるような暖かさが十分に感じられる。
 先付と一緒に竹筒に入った酒も運ばれてきた。緑も鮮やかな竹の盃を渡されて、女将自ら酒を振る舞ってくれた。
 蕗、山菜、茗荷など、春の苦味を堪能した後で、大振りの蛤のしゃぶしゃぶが出てきた。それから、料理人が現れて、囲炉裏の炭を直して、網を変えると、蟹が並べられた。蟹の甲羅には新しい蟹味噌と、さらに一年も寝かせた蟹味噌が酒とともに盛られ、泡立つほどに何とも言えない匂いが漂った。
「ええ蟹があって、よろしおしたな」
 料理人は黙々と蟹を焼き、最後に蟹の脚から身を外したものを、酒に入れて、蟹酒として出してくれた。どうせ不器用だろうとでも思ったのか、竹流が箸で簡単に蟹の身を外して、皿に盛ってくれた。
「今年はまだ蟹を食べ損なってたからな。無理言って用意してもらったんだ。どうせ、お前も最近ろくなもの食ってなかったろ。しかも、ここ何日か精進料理だったし」
 竹流が調子のいい声で言ったが、その表情は一切の問い掛けを拒むようで、何となく色々な事を聞き損なった。それに、精進料理と言っても、真には十分ごちそうだった。
「蟹の旬は冬とは限りませんのや。ものを選んだら夏でもびっくりしはるくらいええ味を楽しめますさかい」
 女将は料理の介助をしながら優しい声で話した。
 竹流も、料理の説明をしてくれたり、時に女将や仲居と何やら会話を交わしていたが、今回は何の仕事かと女将に聞かれても、龍のこともあの寺のことも話さなかった。
 食事が終わりかけて、仲居が水菓に苺を運んできて、それからさらに竹酒も運んでくれた。女将が来て、あとは幾らでもゆっくりしていっておくれやす、と言って出ていってから、ようやく竹流は言った。
「ちょうど京都にご神体の劔に詳しい人がいる。明日、その人に会ってスケッチを見てもらいたいんだ。あの劔がいつの時代のものか分かるだろう。それから観光でもして、東京に戻ろう」
 真は竹流を見つめた。竹流は蟹に集中している。
「いいのか」
「何が?」
「龍は?」
「あんまりあそこにいると、また妙なものにつけ入られるかもしれないだろ?」
 半分冗談のように竹流は言った。
「別に、怖い訳じゃないけど」
 一応強がってみたが、声は少しばかり上ずっていた。それに気が付いたのかどうか、竹流は真剣な顔で真の顔を見つめて聞いた。
「お前はあの神像を見て、龍を見て、どう思うわけだ?」
「どうって?」
「怖いか? それとも、哀しいか?」
 真は黙って竹流を見ていた。
「哀しいと、お前はそう思っているだろう。だがこれ以上何かをしてやれるわけじゃない。子どもにも龍にも、その父親や母親の怨みや哀しみにも。和尚さんは全て呑み込んで、ちゃんと彼らを供養してくださるだろう。古い昔の悲しい話だ。もう誰にもどうすることもできない。あの洞窟だって同じだ」
 真は俯いて、その言葉をしばらく考えていた。
「大したことはできなかったが、珠だけは返してやれた。そう思って、多少寝覚めが悪くても忘れてしまうことだ」
 言いながら、竹流は竹筒から真の小さな竹の盃に酒を注いだ。
 それから、二人ともしばらく黙って飲んでいた。真も、いつもならまず飲めない、と思うほどの酒をいつの間にか口にしていた。
 竹流が今考えていることはよく分かっていた。妙なものに取り憑かれても困る、といったのは本気だろう。そういったものに真が感情を強く刺激されていると思い、例の如く異常な過保護を発揮し始めたに違いない。時々撫でるように可愛がるかと思えば、やたらと厳しく諭されることもあり、あるいは、存在を忘れてしまったのではないかと思うくらい近付いてこないこともあり、それに、今まではただ一度のことだったが、感情がエスカレートすると暴力という形で相手を押さえ込もうとすることもある。
 ただ、今となっては、真にとってはそのどれもが、了解できない感情ではなかった。
 この男も、何かと闘っている。
「ずっと聞こうと思ってたんだがな」
 随分してから、竹流が言った。真は蟹から顔を上げた。
「どうして、彼女と別れたんだ?」
 真はまたしばらく竹流を見つめていた。竹流は真の返事を待っているのか、手酌で酒を自分の杯に注いでゆっくりと飲んでいる。
 杯に添えられた左薬指の指輪が真の視界の真ん中にあった。
「別れたって、俺、振られたんだけど」
「振られた?」
「よく解らないけど、彼女には我慢できないところが俺にあったんだと思う。共有する未来がないって、そう言われた」
 竹流は何も答えなかった。真は小さく息をついて、それからもう一口酒を飲んだ。
「彼女は俺が何を考えてるのかわからないって、そう言った」
「頭も良くて感じのいい娘だったし、お前には勿体無いくらいだったけど、上手くやっているんじゃないかと思っていた」
「だから、俺なんかと付き合っててもどうしようもないって、気がついたのかもしれない」
 竹流はそれから、もう一杯、真に注いでくれた。
 あの日、部屋を出るときに、美沙子の啜り上げるような声を背中で聞いていた。別れることに泣いていたのか、それとも真がした暴力的な行為に泣いていたのか、よくわからなかった。だが、それを確かめることはもうできないような気がしていた。零れてしまった水はもう土にしみこんで、今更元に戻すことはかなわない。
 思えば、五年という歳月はそれなりに長い時間だった。美沙子と過ごした時間がその年月のどれだけの部分を占めていたかは別にしても、真にしてみれば、ようやく少しずつでも彼女と何かを積み上げていっているような気持ちになってきたところだった。第一、真には、目の前のこの男以外の誰かと長々と会話を交すことなど、ほとんどできなかった。そんな中でようやく積み上げてきたものの、崩れる時間の何と短いことか。
 だが、美沙子はまた別のことを言っていた。真と別れたい本当の理由は、別なことなのだとでも言うように。
 竹流はまた酒を杯に注いでいる。その目は真のほうに向けられず、ただ唇だけが無声映画のように静かに動いた。
「二月の始め」
 何を突然二ヶ月近く前のことを言い出したのかと思った。
「一体、何があった?」
「何って?」
「お前は二日ほど吐き続けていて、食事もしなかったそうだな。それから、いきなり大学を辞めて、女と別れてしまった」
 突然、側頭葉の一番端の引き出しが音を立てて開いた。旋光が迸り、頭の中で何かが炸裂したようだった。真は座敷机から浮き上がりかけていた杯を倒した。
 竹流は黙ったまま零れた酒を手拭で拭い、真を待っているようだった。この男には笑われるだろう、と真は思った。
「大学で何かあったのか? 女と何かがあったわけじゃないんだろう」
 真は顔を上げた。上手く説明する自信などなかった。
「以前、祖父さんが言ってたな。お前が子供の頃、アンデルセンの本を読んで、その後から数日吐き続けていたって。お前を慰めるのに、アイヌ人の友人が魔法の言葉を残していった、と。俺には魔法の言葉を掛けてやることはできないけどな、せめて訳を話せ」
 祖父は真が何の本を読んでいたのか、知っていたのだ。だが、祖父は強く逞しい男だ。真が何に怯えてしまったのかは理解しようもなく、ただその気持ちの脆さを情けなく思ったことだろう。竹流も、真などとは比べようもなく強くしなやかな思考と、誰にも負けはしないという手の技術を持っている。いつまでも、真には届かないものだった。
 ただ、恐ろしかったのだ。理解されずに一人で泡となって消えていく運命も、粉々に砕け散ってしまう夢も。
「あんたにはわからない」
 真は乾いた喉からやっと声を絞り出した。
 人魚姫は、どれほど王子に語りかけたかっただろう。あなたを助けたのは私なのだ、と。その時喉の奥で形にならない声はどんな絶望を彼女に背負わせたのだろう。今、声を出すことのできる自分は、彼女よりはずっと良い運命の上を歩いているはずだった。なのに、それでも、説明する言葉に届かない。
 ただ漠然とした不安なのだ。形のはっきりしない不安なら、それを突き詰め、正体を確かめて、克服するための努力をしろと、この男は言うに違いない。もしもあの死者の顔が恐ろしいなら、その事故の本質を突き止め、二度と起こらないように解決策を講じればいいだけだ、それが科学者のあるべき姿である、と。その正しさに対して、闘う術を見つけられない。
 竹流は黙って真を見つめていた。やがて、静かに酒を飲み、机に戻した竹の杯を見つめたまま尋ねた。
「何故そう思う?」
「あんたは正しくて、力があって、何でも自分の手で克服してきた。闘って、望みを叶えてきた。だから、負けて逃げ出した人間の気持なんかわからない。求めて与えられなかった人間の気持もわからない」
 竹流は顔を上げた。その整った顔の上には、珍しく表情がなかった。いや、あったのかもしれないが、怒りや悲しみや呆れなどのはっきりした感情がなかった。あまりにも静かな気配に、かえって真は逆上し、溜め込んでいたものを吐き出さざるを得なかった。
「あの浦河の崖から落ちた事故から、ずっと体のどこかがおかしい感じがしていた。脾臓とか、肺の一部とか、失った部分があるからだと思っていた。頭も打ったし、記憶にもはっきりしないところがあって、いつも漠然と不安だった。あんたは、少しずつ元の生活に戻れば大丈夫だと言った。あんたの言うとおり、大学にも行って、研究も続けたし、美沙子とも元通り付き合った。時々、元の自分が思い出せない気がして、辻褄が合わないこともあったけど、仕事とか結婚とか、これからの生活のこととか、ちゃんと考えているうちに、いつかは抜け出せると思っていた。前の晩、指輪を買いに行って、その日はずっと美沙子のことを考えていた。どんなふうにこれを渡そうか、何を言おうか、そのことで頭はいっぱいだった。でも、頼まれて教授の部屋に文献を取りに行った。机の上に」
 真は一度言葉を切った。胃から何かが突き上げてきそうだった。
「手紙があった。俺の留学のためのものだった。教授は俺の将来に期待していると言っていた。もちろん、葉子のことを考えても留学なんて現実的じゃなかったけど、そう言われて気分がよくなかったわけじゃない。でも、そこにあったのは推薦状じゃなかった。始めから向こうは俺を指名してきていたんだ。理由なんて考えたくもなかった。一緒にNASAからの報告書が届いていた。二年前のソユーズ十一号の事故の写真だった。カプセルの中で窒息死していた三人のクルーの写真と、事故の原因になったバルブと、クルーが必死にバルブを閉めようとして椅子を外した形跡のある船内の写真だった。ソ連の事故で、正確な情報や、ましてや写真なんかが手に入ってくるなんて考えられなかった。でも、報告書によればそれは人為的な事故だった。バルブの欠陥と、異常が生じた際に対処する方法を講じていなかったことと、何よりソユーズ十号の失敗で、船外活動でシステムを点検するべきだということに気が付いていたのに、クルー候補たちが船外活動の訓練を受けていなかったというだけで却下されていたんだ。そのまま、何の対策も講じないまま、三人の人間の命を、何かあったら完全に手の届かない場所に送り出した。その時、宇宙船を飛ばした研究者たちは何をしていたんだと思う? クルーたちが窒息したわずか数十秒の間に。宇宙に行くために莫大な金をつぎ込んで、人類の未来のためだと大きなことを言って、でも実際にはこれは形を変えた戦争だ。事故が起こった時に、自分たちでは対処のできないことを知っていて、ただ紙の上に計算式を並べていた。科学は、もしも間違っていたら、人間の手ではどうすることもできないところまで行ってしまうのに。でも、俺も、頭の半分で女のことを考えながら、煙草を吸いながら次の日の実験の計算をしている。教授は、俺をダシにして特別な資料と何らかの便宜を受け取っている。百キロ以上の上空で、人が死んでいるのに」
 息をまともにできないほどの勢いで、真は一気にまくしたてた。竹流は相変わらず一言も発することなく、ただ深い青灰色の瞳を真に向けたままだった。
 未来に続く道の半ばで命が失われ、衝撃的な情報はうまく隠蔽され、ましてや真自身の行く先さえ、手の届かない力によって操作されている。
 自分が関わろうとしていることで、誰かの命が簡単に捻り潰されてしまう。そしてそれが決して人々の幸福につながらないことを、あの死者たちの写真から貫かれるようにして感じたのだ。そして、アメリカもソ連も日本も、それでもこの事業を推し進めるであろうことを、この道が人類に等しく分配される幸福な未来になど続いていないことを知ったのだ。
 あの死者たちを思うたびに身体が震えて、吐き戻しそうになった。
 ただ、もう逃げ出したかった。
「怖かったんだ。誰かが計算し設計して、誰かが組み立てて、もしかして笑いながら楽しみながら、時には煙草を吸ったり酒を飲みながら談笑しながら夢を語って、そして誰か他人の命を宇宙船に詰め込んで、それが一瞬で砕ける。他人の命を握りつぶしてしまうなんて。自分がこの世に生み出したものが、誰かの運命を、命を左右するなんて事は耐えられない。その中に誰かの重い命と運命を放り込んで、目をそむけるなんてことは」
 呼吸が倍の速さになった気がした。
「なのに、俺を捨てていった人たちは、捨てるくらいならどうして子どもをこの世に生み出したりしたんだ。捨てるつもりなら、どうあっても傍にいて愛していく気がないんなら、子どもをこの世に送り出さなければよかった。それどころか、どうして今頃になって、あの男は俺を呼び寄せようとするんだろう。どうして父さんは、宇宙への夢を捨てて医者になって、どうして他に好きな人がいたのに頭のいかれた女と結婚して、頭のいかれた子どもを引き取ったんだ。どうせいつかは捨ててしまうなら、始めから引き取ったりしなければよかった。頭のいかれた女は、俺の首を絞めたけど、それでもまだましだった。俺はあの女が早く死んでしまえばいいって思ってたけど、でも俺を騙さなかったのはあの女だけだった。あんただって」
 一瞬、竹流が手を伸ばして真の頬に触れた。真は驚いて息を呑み込んだ。混乱して、意味不明のことを言っていることは分かっていた。歯車がかみ合わなくなると、すべてが自分に悪意のあることに思えてしまう。ただそれだけのことだとは、わかっている。
 だが、竹流はゆっくりと噛み砕くように真に話しかけた。
「お前の実の両親の事は知らん。だが、功さんは、頭のいかれた子どもをいやいや引き取ったわけじゃない。その子どもと運命を共にしようと、そう願っていた。ただ、その方法が途中からわからなくなっただけだ」
 真は少しの間、言葉を理解するのに手間取った。
「その子どもが、思った以上に頭がいかれてたから?」
「馬鹿を言うな。功さん自身、色々なものを抱えてたんだよ。お前の言うとおり、人の感情も命も重い。それをこの地球上の全ての生き物が抱えている。多分、お前の両親も、功さんも、それにあの龍を描いた絵師も、子どもに理解を求めることができない重い荷物を背負っていたんだ。だがな、確かに命も心も重いが、決して重すぎることはない。お前が誰かの運命や命の責任を全て負う必要はない」
 真は視線を避けて俯いた。どう返事をしたらいいのか、わからなかった。
「真、俺はな、お前が生きていてくれて良かったと思っている。お前があの事故の時、何か一部を無くしたんだとしても、こうしてここにいてくれているだけでいい。お前が崖から落ちて、命も意識も戻らないかもしれないと聞いたとき、初めて人間には絶対に耐えられない苦しみがあるということを知った。功さんにとっても、あの絵師にとっても、そしてお前の親にとっても、子どもの命も運命も重くて苦しかっただろう」
 あの人があなたを抱き締めていた。親鳥が雛を庇うみたいに。
 突然に湧き上がったような美沙子の言葉が、今真の中で意味を帯び始めた。


 藤むらに帰ると、彼らが案内された部屋にはすでに布団が敷かれていた。十センチほどの高さのマットレスは、柔らかすぎもせず堅すぎもせず、横になった時はようやくほっとした。狭い部屋では布団を離して置くスペースもなかったのか、二組の布団はしっかりくっついて敷かれていたが、竹流は何も言わなかった。
 着替えの浴衣が置かれていて、彼らはそれに着替えると、取り敢えず布団に潜り込んだ。竹流が一本だけは許そうと言ってくれたので、真も一緒に煙草を吸って、ちょっとの間黙りあっていた。随分経ってから竹流は、寝煙草は良くないな、と言っただけだった。
 彼自身は、仕事のためなのか、ほとんど煙草を吸わなかった。けれども、こうして吸っているのを見ると、その姿も気配も、何をしていても自然で絵になる男だった。
 煙草を消して目を閉じると、本当に疲れていることに気がついた。酒のせいもあってか、随分どんよりとした眠気が襲ってきた。少し酔っていたのだろう。一時爆発したような感情は再びどこかに畳み込まれて、今は何かを考えなければならないような気もしていたが、それが何なのかも分からなくなった。いつもなら、真が物事を整理できるように突きつめてくるはずの竹流が、今日はあれ以上、何も言わなかった。酒のせいにしてくれているのなら、それはそれでいいと思った。
 龍のことも子どものことも、あの地下の洞窟の神像のことも、そのものたちが抱えていた哀しい思いも、遠いことのように思えた。過去に自分自身に起こった出来事さえも、また引き出しに仕舞い込まれた。頭の中の引き出しを間違えると、いつか混乱する気がしたが、もう仕舞った場所はわからなくなった。多分、一つ二つ、引き出しを間違えたかも知れないが、確認するほど意識は明瞭ではなかった。両親のことも、育ての親たちのことも、自分と切り離して遠くにやってしまいたかった。
 どこかで、あの場所を離れたことにほっとしていたのも事実だった。
 あれらの感情は、自分には消化しきれないものだ。竹流があそこを離れたのは正解なのだろう。そう思って感情を今再び畳み込んだ。
 畳み込んだのは、別の感情も一緒だった。俺はいつまでたっても赤子のようだと気が付いた。この男の手がなければ、どうして呼吸をして、どうして言葉を繋ぎ、どうして道を探せばいいのかもわからない。その竹流の口から、美沙子のことを尋ねられた時に、胸の奥を捻られたような痛みが走った。だから、あれやこれやと理屈を探した。大学を辞めたことなど、本当は大したことではなかったのかもしれない。
 言いたかったことは、ただ一つだけだったはずなのに、言葉にもならなかった。
 だが本当に、俺はお前の三人目の父親だが、他の二人の親とは違って、お前を捨てる気はない、とでも言ってもらえたら、安心できたのだろうか。竹流は、真がすっかり大人になって、自分の力で乗り越えることができるようになっていると考えているのだろうか。
 それでも途切れ途切れには眠っていたのだろう。ふと目を開けた時、隣の布団に竹流の姿はなかった。
 障子の向こうに人の影が揺れていた。月明りで揺らめく影はぼんやりと優しく、震えて見えた。
 その影がたまらなく恋しく、もういっそ全部吐き出してしまおうかと思った。本当は、昔のようにただ抱きしめて欲しかった。お前の不安は全部幻だと言って欲しかった。この心も身体もすべて彼に帰属しているのだと言って欲しかった。そうすればどれほど安心できるだろう。答えのないままに何かを待ち続けるのは、ただ苦しかった。
 だが、真が思いきれないうちに、板の軋みが、横たわっている畳の床から直接、伝わってきた。
「忍んで行こうかと思てたとこやった」
 突然の声に真は緊張した。
「何したはんの?」
 影は緩やかに優しく揺れている。その影にもう一つの影が寄り添う。
「月を見てた」
「タエねえさんのこと、考えてはったんやろ」
 不安は静かに澱のように、身体の底に積もっていった。
 女の声は明るく弾むようで、この世界に色を添える。寺にいる時は世界はモノトーンに思えていたが、祇園に来てみると、世界にはこんなに色があったのかと改めて気が付いた。女性のいる世界は色が溢れている。華やかで、柔らかく、優しく、男を包み込もうとする。女たちがいなければ男の世界は続いていくことはできない。未来に命を伸ばそうとする強い欲望が、女性の遺伝子の中にだけ刻まれているかのようだった。だが、それは子孫の問題だけではない。女たちの存在が、男の心を包み込まなければ、男は旅を続けていくことができないのだろう。
「なんでねえさんのところに泊まらはれへんの?」
「たまにはお母さんの顔も見ないとな」
「嘘ばっかり」
「ミネちゃん、少しの間に随分綺麗になったな」
「いや、口説いてくれたはんの」
「そうじゃない。ただ本当の事を言ってる」
 この男は、女にはこんなに優しい声で話すのかと気が付いた。真に向ける言葉の調子とは、まったく違った声だった。
「うちも、もう大人やもん。ねえさんよりずーっと若いし、ええ女やと思わん?」
「若いだけじゃ、ええ女とは思わないけどな」
「そりゃあ、ねえさんは優しいし、綺麗やし、落ち着いてて大人やし、芸事も一流やし、うちが知ってるどの女よりええ女やわ。うちがねえさんに勝てるのは、若いことくらいや」
「そんなことはない。ミネちゃんは素直で、ちょっと強がりだけどそういうところも可愛いし、それによく頑張っているのも知ってるよ」
 影が大きく揺れた。
「なあ、お兄いはん、ちょっとだけキスしてみてくれへん?」
 竹流の声が密やかに揺れている。
「それは、ちょっと難しい相談だな」
「何でやの。タエねえさんにばれると困るから?」
「そうだ」
「いややわ。ねえさんのこと、怖いのん?」
「そうじゃない。彼女を傷つけたくないんだ」
 竹流が痛っ、と声を上げたのに、真のほうが布団の中で引きつっていた。
「いやな男はんやわ」
「どうして」
「女が誘ってるのに、他の女のことをそんな愛おしげに言うもんやないわ」
 少しの間、まるで真が起きていないか確かめるように、あたりが静まり返った。やがて、低い声が、まるで真の耳元に囁かれたように、震えて響いてきた。それが正確にどういう言葉だったのか、あるいは真の想像だったのかははっきりしない。
「タエに黙っててくれるんなら」
「言うわけないわ。うちかて、ねえさんに嫌われたくないもの」
 見ようと思ったわけでもなかった。だが、真は思わず布団の中で寝返りを打つように向きを変えた。もしも気づいてくれたら、と思っていた。だが、二人の影は抱きあうように絡みあったままだった。
「妹にするみたいなのは嫌」
 竹流の返事はなかった。
「絶対、ねえさんには言わへん」
 微かに水の跳ねるような音がした。
「奥の部屋、行こうなぁ」

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄19 龍と子ども 螺鈿の欠片 見返りの阿弥陀仏 

 手に入らないものに対して、どうという想いを持っても、仕方のないことだ。
 真は布団の中で冷たい石のように固まっていた。彼らが今抱きあっているのだと分かっていたが、それを考えないようにと思った。
 こんなことには、慣れている。
 今の自分の気持ちが、嫉妬だとかそういう種類のものかどうかも分からなかった。自分の複雑な感情をこれ以上突きつめたいとも思わなかった。これが倫理的におかしい感情だとしたら、ずっと抱えていくのは苦しい。それなら、ただそのまましまい込んでしまおうと思った。何より、彼を親や兄のように頼っていること自体、情けない気がしていた。大学を辞めてしまった今、この先のことを考えて心許ないゆえに、何かに縋ろうとしているだけなのだろう。
 真はようやく布団の上に身体を起こし、ぼんやりと障子の外の明るい気配を見つめた。そして立ち上がると、障子を開けて縁側に出た。
 明るい月だった。もうほとんど満月だったが、よく見ると、隅がほんの少し暗く翳って見える。
 真は狭くて短い濡縁に座り、それから長い間、小さな池の面で揺れている月を見つめていた。水面の揺れが収まると月は丸くなり、また風で揺れると輪郭が乱れた。祖父の長一郎が唄う江差追分に、そんな歌詞があった。喉の奥で祖父の声をまねて追いかけてみた。乱れながらも丸くなるその月は、水の表で、まるで慰めるように揺れ動いていた。
 俺はいつまでも子どもみたいで情けない、と思った。思ったが、それを認めたくないような気もした。
 不意に、水面の月に黒い影が重なったように思って、天空の月を見上げた。
 月は冷えた光を放って、真の頭上の清らかな藍の天空の中にあった。北海道で見ていた月や星ほどに美しいものはないと思っていたが、今日の月は格別に見えた。そう思いながら見つめていると、月の面に太陽の黒点のような小さな黒い点があるように思った。
 別に何とも考えずに、しばらくその点を見つめていた。
 そして、よく見てみたいと思ったことに応えるように、その点は大きくなってくるような気がした。よく見たいと願ったからだな、とぼんやり思った。
 思ってから、真が状況を判断するまでもなく、月の面の黒い点はみるみる大きくなっていった。そして、そのうちそれが点ではなく、棒のように長いものであることに気がついた。
 その時点で、真は初めて何だろうと思った。
 そう思った時には、黒い棒は直線でもなく、形を時々変化させる曲線に変わっていた。そして真が事態を飲み込む時には、月よりもはるかに巨大なものになって、いや、正確にはそれは距離の問題で、真の頭上すぐ近くまで迫ってきていた。
「うわっ」
 思わず叫んでいた。
 巨大な曲線は、今やはっきりと、うねった身体の鱗を月の光で反射させながら、あるところから一気に急降下し、目の前の池に飛び込んだのだ。その水しぶきに、真は叫びを上げて後ろに倒れそうになった。
 今真の目の前に現れたのは、立派な龍だった。
 真は一度池に飛び込んだ龍が、水面に身体の半分を持ち上げ、自分の方を見つめた鋭い目にしばらく言葉も出なかった。
 怖いのではなかった。忿怒の形相のはずだが、その二つの眼には悪意も善意もなく、ただ生物としての尊厳ある光を宿し、二本の真っ直ぐな角と風に揺らめくような髭は、生命そのものが持つべき誇り高い気配を宿していた。その鱗は、黒とも白とも七色ともつかず、ただ月の光を宿して輝いていた。
 美しい龍だった。
 そして真は、龍の頭のすぐ後ろにあの子どもを見つけた。
 子どもは今や輪郭もはっきりとして、その顔立ちもよく見えた。幼いがきりりとした目鼻立ちで、丸い可愛らしい表情だったが、生まれの良さを思わせる高貴な顔つきだった。
 子どもは白い着物を着ていたが、光をまとっているようにも見えた。
 それに何よりも、子どもは楽しそうだった。
 ここにお池があって良かったね
 鈴のように軽やかな声が頭のどこかに響いてきた。それは、子どもが龍に話し掛けた言葉のようだった。
 そうか、龍は水のあるところにはどこにでも行けるんだ、と奇妙に冷静なことを考えていた。
 あのね、明日、もう一度お寺に泊まりにおいでね
 真は子どもを見つめた。子どもの口は動いているようには見えなかったが、言葉ははっきりと真の頭の中に聞こえてきた。
 あの人も一緒にね
 そう言葉を残して、何かはずみをつけたと思ったら、龍は子どもを背に乗せたまま今度は一気に天空へ駆け上がった。真は呆然と龍を見送った。彼らが去ってから、水しぶきなど自分に掛かっていなかったことに気がついた。
 一瞬の出来事だった。あるいは夢か幻だったのかもしれない。真は頭を何度か振った。それから、ゆっくりと立ち上がりかけたところへ、廊下の奥から竹流が出てきた。
「どうした?」
 突然話し掛けられて、今度はそれに驚いた。
「あ、いや、何も」
 そう言ったとき、竹流の後ろにあの勝ち気な顔つきの娘を認め、彼女と目が合った。だが、ほんのりと頬を上気させたその娘の顔を、まともに見つめることはできなかった。
「ちょっと、足が滑って、転んだ」
 何を狼狽えたのか、思わず言い訳が口をついて出た。その娘の視線が何かを勘付くのではないか、と思って怯んでいた。竹流の、例のごとく情事の後の凄絶に色っぽい気配にも、まともに彼を見ていられない気がした。
 真は部屋の中に戻り、後ろ手で障子を閉めた。
 まだ心臓がどきどきしていた。龍にも子どもにも、それから竹流と彼女にもどきどきしていたのだ。ふと気がつくと、手が冷たくなって震えていた。
 俺、やっぱりどうかしている。
「変わったお人やなぁ」
 真に聞こえるように言っているのだろう。若い声は軽やかで自信に満ちていた。だが、その声は少し後では随分色合いを変えた。
「ねえさんに言いつけてやるわ」
 真はまだどきどきを鎮めることができなかった。竹流の低い声が耳のすぐ側のように感じた。
「何を言ってる?」
「嘘つき」
「言わないと約束したろう」
「そのことやあらへん。黙ってて欲しかったら、も一回抱いて」
 甘えるような声に、さすがに真は布団に潜り込んだ。
「だめだよ。これ以上一緒にいると、離したくなくなってしまうからな」
「嫌らしいの。やっぱり、絶対ねえさんに言ってやるわ」
「何を?」
「自分の胸に聞かはったらええわ」
 足音がひとつ遠ざかって行った。直ぐに潜戸を開け閉めする音が重なった。真は身体が震えるのを止められなかった。
 竹流の影は縁側に座ったまま、真の所には戻ってこなかった。影は何かを拾い上げるように揺らめき、光が射した。天空に月が浮かんでいるのだろう。
 そっと音を忍ばせるように障子が開く。真が眠っているのか確かめるようにしばらく動かなかった竹流は、やがてまた障子を閉めた。ぎしっと古い板の軋む音が真の身体に伝わった。
 真は自分が泣いていることに、今初めて気が付いた。


 朝、寝返りを打った拍子に目を覚ました。そのまま、隣の布団で眠っている竹流の顔を見つめると、またひどく落ち着かない気分になった。
 怒るようなことでもない、自分の勝手な思いだという気持ちはあったが、口を開くことができないまま、新しい一日が始まった。
 朝飯だぞと声を掛けられたのにも答えないでいると、竹流は仕方がないな、という顔のまま、彼のほうからも真に話しかけてこなくなった。
 女将に付き合って買い物に出かけていた竹流が戻ってきたとき、真は一人で縁側に座って、ぼんやりとしていた。母屋のほうから潜り戸を抜けてきた竹流が足を止め、真のほうを見つめている。真が目を合わせると、やっと竹流もほっとしたような顔をした。
「昼飯を食いに行こう」
 狭い通りを複雑に歩きながら、竹流は時々真の方を振り返った。
 真は竹流と目が合うと、避けるように足元に視線を落とした。
 町屋の並びの中に小さな豆腐屋があって、竹流はその前で立ち止まり、真が追いついくのを待っている。真が追いつくと、竹流が豆腐屋の婦人に話しかけた。
「味見させてもらえますか?」
 婦人は中に入って、食べやすい大きさに切った豆腐を皿に入れて持ってきた。竹流は先にひとつ豆腐を口に入れて、真にも渡した。口に含むと、まるで大豆から作ったのもはっきりと分かるような、ほのかな豆の香りまでするような豆腐だった。
 空腹の胃に何かが入ってくると、とがっていた神経が窘められる。
「地下水の賜だ。水道の水では、こんな豆腐の味は出せない。醤油も何もいらないだろう?」
 竹流がそう言うのを聞いていた豆腐屋の婦人は、少し頷くようにして言った。
「ちょっと前までは、ここらの町屋の井戸からは、いくらでも地下水が汲み上げられておりましたけど、水量も随分少なくなりましてね」
 竹流は婦人に礼を言って、そのまま産寧坂の方へ歩き始める。真は一定の距離を保ったままついていく。竹流は立ち止まり、彼のほうから歩幅を合わせてきた。
「豆腐も、湯葉や生麩も、全て京都の地下水が育んだ食材だ。お茶の文化が花開いたのも、数多くの名水があったからだ。それから友禅や和紙もそうだ。全てが、美しい水があって始めて生まれ、ここまで受け継がれてきた」
 清水寺への道はさすがに観光地だけあって、人通りは多かった。冬が行き、もう間もなく桜の季節で、人々が外に出かけるようになっていたからだろう。
「だが、あの豆腐屋のおかみさんも言ってたように、高いビルが建てられ、地下鉄が掘られ、京都の地下水は年々減って、姿を変えていっている。あの志明院で出会った僧侶も、そう言ってたろう?」
 石畳の道に緩やかな風が吹き抜けて行った。
「その一方で、水は時には人間を、あるいは自然をも呑み込むような勢いで襲いかかってくることもある。あの龍の絵師が生きていた時代は日誌からは十四世紀の後半、足利家は義満から義持の時代のようだが、その後にくる十五世紀というのは、ものすごく洪水の多く冷涼な気候で、飢饉のために何万もの人が死んだという話だ」
 清水の舞台の上から、楓と桜が折り重なる木々の海を見つめた。右手の方を見ると、京都の町並みが霞んだ空気の中に浮かんで見えていた。
 真はやはり黙ったままだった。竹流の方もどうしようもなさそうに、しばしば黙り込んだが、真の関心を引くものを探すかのように言葉を繋いでいる。
「水は世界のあらゆる場所で命を育み、生活を支え、美しいものを生みだしてきた。しかし一方では、洪水となり、時には病気の温床ともなり、人間を脅かす。けれど、水そのものは悪いものでの善いものでもない。ただそこにある。それをどう捉え、どう使うのかは、全て我々の方にかかっている。龍も、同じだ」
 龍の話に、真は初めて竹流の顔をまともに見た。竹流は一瞬面食らったような顔をしたが、やがて納得したような表情になり、清水の舞台の端から街並みに目を上げた。
「広間の天井の龍も、洞窟の天井の龍も、どちらもただの龍だ。けれど、一方を見て、それが憎しみや怨みの象徴のように思えてしまう、それは、ただ板に描かれた絵に対する、あるいはただの岩に過ぎない自然の造形に対する、人間の心の反映だろう。お前は自分でそうだと分かってるんだろう?」
 真はまだ竹流を見つめていた。
 頭の中に昨夜の龍と子どもが残っていた。子どもの声が、耳の中にそのままで震えている。何か大事なことを言葉にしようとして、どう言えばいいのか分からず飲み込んだ。
「まぁ、人間の気持ちは複雑だ。自分の心でさえ、分からないしな」
 真が言葉を飲み込んだのと同じように、竹流も何かを飲み込んだように見えた。女といちゃついていたことで気まずいのかもしれないと、真は思っていた。
 もうそのことはいいと思った。第一、自分が同性の相手に恋愛感情として興味を抱いているとしたら、それはいささか拙いことだと思える。時々、感情が昂ぶって吹き出しそうになるものの、冷静になってみれば、恋にしてもただの不安にしても、その相手の目の前に突き出すようなものではないのだろう。
 舞台から下に降りていくと、桜の花はまだようやく一分ほどの開きで、もちろん少し離れてみても木は茶色に見えるだけで、桜色の大きな玉のようになる日までには、まだ幾日かかかりそうだった。
 だが、花が開くずっと前、冬が終わるか終わらないかのうちから、桜の木は、木の全体でピンク色になろうとしているように見えた。その一見茶色の木肌から香り立つのは、その色の向こうにあるピンク色の沸き立つ命の力のようだった。
 この色を、桜の木はたったの数日のために一年をかけて準備している。咲いてしまえば、その木の幹からはピンクの色合いは消えていってしまう。表面からは、今を盛りと咲いている時がもっとも美しいようなのに、ひと花ひと花咲くたびに、その心は既に消え始めているように思えた。
 だから、桜の木がもっとも美しいのは、それがただの枯木にしか見えない、花が開く前の何週間かではないかと思える。人の心も同じだ。表に出てきたときは、それはもう既に己の身体のうちで本当の心が熟した後のことなのだろう。
 それからは暫く何も話さないまま、道を八坂神社の方に降りて、知恩院の前を通って、やがて琵琶湖疏水にぶつかった。
「現実に今、京都の人たちの生活を支えていている水は、地下水ではなく、この琵琶湖疏水の水だ。人間の信念と努力の賜のようなものだな」
 彼らは疏水にぶつかると、道を東へ辿った。
「それまでの京都の飲料水は全て地下水に頼っていた。琵琶湖から水を引くことは、渇水の怖れや病気との戦いから考えても、東京に首都を持っていかれて活気を失っていた明治の京都の人びとの悲願だった。どう考えても、鴨川や桂川の水だけでは、渇水期にはどうすることもできない。京都の山、地下にどれほどの水が眠っていようとも、人間が利用できる水とは限らないんだ。だから、色々な悲劇もあったろう」
 今ではどんな事情で子どもが命を落としたのか、もはや知ることはできない。けれども、それが水に、恐らくは渇水にまつわる悲劇であったことは間違いがないようだ。この町の水は静かに危機を迎え、人間にはもうなす術がないのだろうか。
 われわれはどこへ行くのでございましょう。
 若い僧侶がふと零した言葉が耳のすぐ傍で蘇った。
「二十キロはある長い疏水だ。人知の底知れぬ力を感じるな。この水は、飲料水だけではない、工業や発電、防火にも使われているし、京都のいくつもの庭園や寺院の景観を支える水にもなっている。平安神宮には、本家本元では外来種に駆逐されて姿を消しそうな琵琶湖本来の魚まで見られるそうだ」
 疎水の向こうを見た竹流は息をつき、真を東へ誘い、南禅寺の方へ足を向けた。
 湯豆腐を遅めの昼食にしてから、彼らは南禅寺の三門に上がった。上層の五鳳楼の中には、釈迦座像を中心に十六羅漢、低い天井には狩野探幽の描いた天人と鳳凰、そして須弥壇の極彩色の背景。ここに立つと、天空の極楽に上がったような心地がした。
 深い歴史と確かな信念に基づいて培われてきた町、そこには苦難もあったろうが、やはり半分以上は日本の中心としての輝かしい伝統と文化、歴史だった。居並ぶ有り難い仏像にも、その深い歴史は重々しく刻み込まれ、見るものを圧倒していた。
 その裏側で怨霊に怯え、祈りを捧げ続けた人びとの声は、地下に押し込められ、時々面に現れては来るものの、今の町の風景からは失われている。
 まるで栄華の日々の残像のように美しく、そして人知の計り知れない偉業により近代化を遂げてきた町。その中で、地下の水脈の道が断たれるような小さな異変が音も知れず起こっていても、誰も知ることはないのだろう。
 三門を降りると、そのまま右手奥の水路閣に足を向けた。
「ローマと同じ水道橋だ。さっき歩いてきた疏水に繋がっている。今でも琵琶湖からの水を運んでいる」
 寺の境内に赤レンガで作られた西洋式の水道橋などとんでもないと、当時大反対を受けたこの水路が、今も京都の人びとに水を運び、観光名所ともなっていた。
「よくテレビドラマじゃ、夜中にここに呼び出されて、殺されたりしてるけど」
 真は何を言う気だ、と思いながら竹流を見た。
「そんな時間にこんなところに呼び出されたら、俺だったら絶対に来ないけどな。いかにも殺してくださいっていうようなものだ」
 笑うとこなんだろうかと思ったが、頭がまわらなかった。竹流は困ったな、という顔をしたままだった。
 南禅寺を出て少し上がると永観堂禅林寺だった。彼らは短い階段となだらかな坂を登って、寺の入口まで来た。
 靴を脱いで中に入り、暗い廊下を歩いて奥の阿弥陀堂に辿り着いた。阿弥陀堂の廻り廊下を表へ廻ると、手前の庭で紅葉が膨らみ始めた芽で光を跳ね返し、まるで光をそのまま身にまとっているように立ち並んでいた。
 阿弥陀堂の中には清浄な空気が充ちている。
 中に入り、厨子の中の小さすぎるほどの阿弥陀如来像の前に立ったとき、真は身体から力がすべて落ちていくような気がした。阿弥陀像は、御身体は真正面を向いているが、御顔は後ろを振り返っていて、後ろの者に何かを語りかけていた。
 遅れてきたものを振り返り待って下さっている、という説明が古びた紙の上に書かれている。文字は視界の中で曇り始めていた。
「ここは禅林寺というのが本当の名前だが、平安時代の住職、永観に因んで永観堂と呼ばれている。偉いお坊さんでな、寺の中には施療所を、つまり昔の病院みたいなものを建てて病人や貧しい人の救済に一生を捧げたそうだ。この阿弥陀像は、永観が東大寺から預かってきたものだと伝えられている。後から東大寺の僧たちが取り戻そうと追いかけてきたが、阿弥陀像は永観の背中に取りすがって離れなかったという。それから二月のある時、彼が堂内を念仏を称えながら廻るという厳しい行をしているとき、この像が須弥壇から降りてきて、彼の前を歩いて導いたそうだ。永観が驚いて立ち止まると、阿弥陀如来は振り返って、『永観、遅し』と言ったのだとか。その時の振り返った御姿らしい」
 ふと息が苦しくなった。まるで周囲に漂う気配に押されるように、その誰のものともつかない感情が真自身の感情を取り込んでしまったように思えた。
 人は誰も測り知れない深い思いをその心のうちに抱えている。そしてその感情は、他の誰かにとって耐え難いほどに愛おしく苦しいものなのだ。
 真が崖から落ちた時のことを、耐え難い苦しみがあるのだと知ったと、そう言ってくれた。
 それだけで十分だと思った。何も望まない。ただ想うだけでこれほどに苦しいのなら、願いが届かないことはもっと苦しいはずだと思った。ならば、ただ淡々と日々を重ねていくしかない。
「大丈夫か?」
 問い掛けられたとき、真は初めて自分が泣いていたことに気がついた。真は竹流の顔をしばらく見つめていたが、そのまま俯いた。
 竹流は真の腕を優しく摑み、須弥壇の脇に連れて行ってくれる。見返りの阿弥陀像を脇から見つめると、ふっくらとした優しいお顔がもっとよくわかった。僅か七十七センチの像は、柔らかで穏やかな慈愛に充ちた御顔で、遅れてきた人びとを振り返っている。
 お堂を裏に廻ると、印象的な木の階段が開山堂へ登っている。
 その曲線を描いて登っていく階段には、ふと足を止め息を飲むような美しさがある。『形』というものがただそこにあるだけで美しいと思える、そういう魔法がかかっているかのようだ。
「臥龍廊だ。龍が眠って臥している姿のようだという」
 真はその階段を、竹流の側でただ長い間見つめていた。階段の形は、龍が眠っているというよりも、美しい曲線を描いて天に昇る姿に見えた。
 あのね、明日もう一度お寺に泊まりにおいでね
 階段の龍の背に小さな子どもの影が見えるような気がする。楽しそうな声が耳の奥で鈴のように鳴っていた。龍の目を思い出した。善も悪もない、澄んだその目は鏡だった。神の姿を決めていたのは、真自身の心だったのかもしれない。
「どうした?」
 真はまだ階段を見ていたが、やがて喉の奥で一度確かめてから、聞きなおした竹流の顔を見つめて言った。
「もう一度、あの龍の寺に戻りたい」
 竹流のほうも真を見つめたまま、何も言わなかった。
 その一言を、どうして言えなかったのか、自分でもわからない。感情が絡まりすぎて、今前に一歩踏み出すために何からすればいいのか、混乱して見えなくなっていただけかもしれない。考えてみれば、簡単な望みだったのに。
 だが、見返りの阿弥陀仏を見て、今ここで木の美しいカーブを見たとき、身体の内から零れ出るように言葉が出た。いや、本当は昨夜、あの龍に見つめられた時から、ずっと心は決まっていたのだろう。
 だが、竹流の答えは、真が想像していたどんな言葉とも異なっていた。
「龍が、来たのか?」
 今度は真の方が理解できずに竹流を見つめた。竹流は一歩、真の方に近づき、ポケットから何かを取り出した。
 そしてその瞬間、竹流の指の先で、小さな欠片が周囲の光を一瞬に吸い込んだように見えた。
 螺鈿の欠片は、解決できないもろもろの感情を包み込み、たった今海から様々な想いと一緒に現れたように、極彩色の光をはじき返した。真は竹流の目を見つめ返した。
「俺たちが寝ていた部屋の前に落ちていた」
 真はその欠片を渡されて、しばらくどうとも言えずに手のひらに載せていた。
「お前がそうしたいと言うのなら、寺に戻ろう。けど、怖くないのか?」
 それはよく解らなかった。怖いような気もしたが、それでも帰らなければならないように思った。自分のためかもしれなかったが、本当はこの男のためにそうしたいと、今、身体の奥から湧き出すような想いが上ってきた。
 真がその小さな螺鈿を返そうとすると、竹流が言った。
「お前が持っていたらいい」
 真は首を横に振って、それを竹流の手に返した。
「彼らはあんたに持っていて欲しいんだ」
「彼ら?」
 真は返事をしなかった。竹流は螺鈿を見つめて言った。
「でも俺には、龍も子どもも、見えないけどな」
 そう言って竹流はしばらく考えていたようだが、言われるままに螺鈿をポケットに戻した。
 そして、彼らはそのまま永観堂を出ると、哲学の道を上がっていった。あの寺まで歩くには結構な距離でもあったが、気にもならなかった。
 疏水脇の狭い道には、想いを内に湛えたまま、温度や光を計りつつ、今はまだ花開くことを躊躇っているような桜の木々が並んでいた。木々の隙間からちららちと足下に落ちる小さな光の輪は、どこにも行き着くことのない心の重さを吸い込んで、現れては消えていく。時々、どこか路地の向こうから子どもたちの声が聞こえていた。
 この狭い道を、恋人同士であれば身体を寄せ合って歩けたのだろうが、そうするわけにもいかなかった。
 真は歩道の下の琵琶湖疏水の水を覗き込みながら、あるいは、歩道の桜の木に触れながら、時々歩を緩めた。先に立って歩いていた竹流は、その気配を察するのかどうか、時々後ろを振り返って真を待ち、また歩き出す。竹流が歩きだすと、真は少しの間その後ろ姿を見つめ、それから自分もゆっくりと後を追う。
 弘法大師が常に前を歩いて下さっている、と竹流が言っていた。
 もしかすると、気が付かなかったかも知れないけど、お前、そこでその人に会っていたかもしれないぞ。
 耳元で感じる声は、水音に重なり、京の町を潤し、やがては川となり海に下っていく。

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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❄20 同行二人 清明の雪 天の鶴群 

 昨日まで泊まっていた寺の前まで来ると、竹流の足が止まった。
 あの縁側の下に酒と煙草を隠していた若者が小さな門のところに立っていて、彼らを見ると、あ、と言って、中に駆け込んでいった。
「和尚さま」
 門の向こうで若者が住職を呼ぶ声が、鳥の声に重なるように聞こえた。それから少しの間を置いて、また彼は戻ってきて、竹流と真を迎え入れると門を閉めた。
 門を閉める時間だったのだろうが、どういうわけか彼らを待っていたようだった。
 住職は風呂と料理の準備をさせていた。それは、まるで二人が帰ってくることを知っていたかのようだった。長い手に捕まれて引き戻されたんだな、と真は思った。道が見えていないものは帰ってくる、と。
 竹流は『藤むら』の女将に電話をして、荷物を預かっておいて欲しいことだけを伝えていた。それから風呂を借りて、あの広間で夕食を頂いた。左官屋が見事に仕上げた龍は、この時間に見ても生き生きと、今にも動き出すかのように見えた。いや、昨夜、この龍は明らかに祇園の庭の小さな池に、子どもと一緒に来てくれたのだ。
 住職は、今日は堂々と酒を持ってきた。
「伏水から作られた酒でございます。私の義理の弟が、杜氏をしておりましてな」
「伏水?」
「伏見の水でございますよ。桃山山陵から流れ落ちた地下水の、柔らかくて強い、名水にございます」
 奨められて、今日は真っ白な磁器の盃で頂くと、口当たりもまろやかな糀の匂いも沸き立つような酒だった。
 酒の苦味、甘味、酸っぱさ、辛さや渋みといったものが、極上のバランスで口の中に広がり、舌の上に乗せている時間のうちにも、味に深みと幅が増すようだった。
「近年は酒造りも大変なようでしてな」
 竹流が自分の盃を空けて、それを住職に渡すと、住職は返杯を断らなかった。
「義理の弟さん、というと」
「私の父は早くに亡くなりましてな、母はまだ赤ん坊の私を連れて、伏見の杜氏のところに身を寄せておりました。母は、以前にもお話しましたかな、巫女をしておりまして、結局その人とは結婚しませなんだ。その杜氏は当時他の女性と結婚しておりましたが、その女性は男の子を生んで直ぐに亡くなられましての。母は後添えにと望まれたようですが、色々と嫌なことを言う者も多くありましての、結局その家を出て行きました。事情はよう知りませんが、母が出て行った後も私はそこに預けられたままで、結局寺に預けられるまでの間、しばらくは杜氏の息子と兄弟のように育ちましたのじゃ。有り難いことに、今でも、弟は私を兄と思うてくれているようです。随分悪さをして、迷惑をかけましたがの」
 真は、しばらく住職の穏やかな小さな瞳を、彼がゆっくりと盃を空けるのを、見つめた。
 人には、それぞれに人生の形、生命の形がある。点ではなく線であると、住職はもう一度真に告げているのかもしれない。
「昭和の始めに、奈良電鉄が京都と奈良の間に鉄道敷設を計画しましてな、陸軍の命令で地上ではなく地下鉄工事を、ということになったようですが、地下鉄など敷いては地下水が涸れるというので、それを高架式に変えさせました。そのように、伏見の地下水は何度も危機に晒されてきた。今も、高層の建物が建つたびに、より深い杭を地下に打ち込むわけでございますからの、これから何十年先にも、これほどに美味い酒が飲めるかどうかはわかりませんの」
 真は今度は手元を見つめ、そして味わうように酒を口に含んだ。
 彼らは、その後も夜更けまで静かに酒を呑んでいた。空気は四月にあるまじき冷たさで、冷え渡るような気配だったが、命の水が彼らの身体を暖めた。あの遠い天空から、何かの大いなる意識がここへ雨となって降りそそぎ、その水滴に湛えられた命の連鎖そのものを頂いているような、そのような酒だった。
 竹流は遠い天を見つめたまま、ゆったりと酒を口に含んでいた。その横顔に真はようやくほっとした。
 外では満月が冴え渡るような光を庭に落とし、龍が臥す姿のような松の幹にも、光の滴を降り積もらせていた。
 寒さも忘れて全ての障子を開け放ち、それからはもうほとんど無言のまま、盃を交し合い、庭の光景を眺めていた。月の光はあの水盤にも跳ね返り、穏やかな風で揺れ動く水面は、光の糸をこの空間の四方へ放つ鏡のように見えた。


 朝、次の間で眠っていた真は、寒さのあまりに目を覚ました。隣の布団を見ると、まだ竹流は眠っていたが、真が起き出すと彼も目を覚ました。
「ずいぶん冷えるな」
 障子からの気配で、外は不思議な光に充ちているように見えた。彼らは羽織を着ると、次の間からそのまま縁側の廊下に出た。
 障子を開けた瞬間、彼らは外の光景に目を疑った。
「雪?」
 二十四節気では清明と言われる四月の始めだというのに、外は桜がくしの雪だった。雪は、まるで清浄明潔なる春の到来を喜ぶかのように、舞い狂っていた。
 真は言葉もなく、その白い光に充たされた光景を見つめた。傍らで竹流も白く輝くような空を見上げている。
 それは東から差し入ったばかりの清新な春の光と、凍えた季節の最後の名残の雪の、思いもかけない共演だった。
 朝日は低く東の開けた空から庭に差し込み、水盤に光をはね返していた。その光は、この庭に舞い落ちる雪の乱舞で数多の方向へ反射し、見る者の目に不思議な残像を残した。
 時折、春の強い風が大いなるものの意識を乗せて天空から吹き下ろし、庭に舞い込み、光を攪乱した。光となった雪の乱舞は、螺鈿の屑が舞い踊っているように見えた。
 明るい春の雪は天空から季節を運び、過去でも未来でもない、まさに今のこの瞬間を光色に染めていた。
 風の音の中に、かすかに楽しそうな笑い声が混じる。声は、時に風の音にかき消され、時に彼らに近づき、さらに遥か上空へ舞い上がった。
 その声と共に、強い風に煽られて、光の束がある方向へ一気に流れ、そしてまた方向を変え、時に宇宙へ舞い上がり、時に彼らの脇をすり抜けた。
 光の束は、臥龍廊のように美しい曲線を描き、うねるような音をあげた。
 真は息をするのも忘れて、雪と光の乱舞を見つめていた。
「お前には、これが龍に見えるのか」
 竹流がその光景を見つめたまま、呟くように言った。
 真は竹流を見つめた。
 そして、これが龍に見えているのは彼の方ではないのか、と思った。
 真の目にも、昨夜祇園の小さな庭の池に飛び込んできたような、龍の鮮明なそのままの姿は見えていなかった。ただ、清浄な風に舞う雪の流れは、時には舞い散り、時にうねりを作り、彼らの傍を幾度もすり抜けた。
 雪は完全に開け放たれた広間の中にも無遠慮に舞い込み、広間の中のあらゆる銀や金のもので反射し、広間そのものを光の充ちた世界に変えていた。
 真は雪と光の束を追うように縁側から広間の方に少しだけ移動し、何気なく広間のうちを見た。
 その瞬間、真は、広間の天井から龍が姿を消していることに気がついた。
 そこには光が充ちているだけで、あの龍は姿も形もなかった。いや、天井から解き放たれて、今やあの宇宙へ自由に飛び上がったのだと、そう思えた。
 側で呆然と竹流は龍のいたはずの天井を見上げている。見えないものを見つめている横顔には、畏敬の心が光となり、煌めいていた。
 二人並ぶ隙間を縫うように、風となった光が、軽やかな鈴のような音を伴い、すり抜ける。再び光の束と笑い声を目で追い、真は三度我が目を疑った。
 真は竹流の腕を掴んだ。真の視線を追いかけた竹流が側で息を飲んだのが分かった。
 今、彼らの目の前、天井いっぱいに浮かび上がっているのは、光り輝く鶴の群だった。
 あの無造作に天井に貼り付けられていたような螺鈿の欠片は、光を受けて浮かび上がる魔法の仕掛けだったのだ。
 鶴は、広間の宇宙を群なして飛び、極楽があるという西へ向かっていた。
 真は、おそらく竹流も、この庭と広間いっぱいを舞台に古の芸術家が仕掛けた魔法に、息をすることも忘れていた。そしてこの時間が永遠であってくれたらと願った。
 子どもを失ってからの長い年月、絵師はこの天井に想いを込めて、小さな螺鈿を貼り重ねてきたのだ。高価な螺鈿をどうやって手に入れたのかは分からない。貢物を奪い返したのかもしれない。だが、彼はそうすることで、憎しみを、苦しみを昇華しようとしたのだろう。
 大切なものを失い、心が崩れていく時間の何と短いことか、そして、その想いを再び紡ぎ、積み上げていく時間の何と遠大なことか。その想いの深さを乗せて、鶴は西方へ雄大に羽ばたいていた。
 そして、次の一瞬、真は自分の足下で服を引っ張るような気配を感じた。
 本当は光でよく見えなかった。しかし、小さな手と楽しそうな丸い顔が浮かぶような気がした、その次の瞬間、すり抜ける風が小さな体を掬い上げるようにして、外の光の中へ連れ出した。風は雪を様々な形に見せ、衣をたなびかせた顔のない天女や、蛙、四角い行灯、細長い杖(それとも笛?)、丸い南京も、楽しげな声を上げながら飛び抜けていった。
 その光の流れを目で追い、そのまま傍らに立っている、敬愛する父とも兄とも、あるいは心から信じる友人とも、もしかするとこの世で誰よりも愛している恋人かもしれない男を見ると、彼の方も自分を見つめていた。
 言葉を掛け合うことも忘れて、しばらく黙って見つめ合っていたが、やがて嵐のような清明の雪が止んで、朝日だけが静かに庭に差し込む光景に、二人ともが庭に視線を移した。
 それから彼らは、ずいぶんと長い時間、縁側に腰掛けて庭を眺めていた。いつの間にか、それはもとの枯山水の庭に戻っていた。
「古の時代の誰かが、室町時代の絵師が仕掛けたこの魔法に気が付いたんだな。だから広間を改修した。だけど、それは偶然が重ならないと見られない。一生に何度かやってくるご褒美みたいなもので、多分俺たちは、古人にも龍にも、そうは嫌われてなかったということだろう。それともこれが魔法のスイッチだったのかな」
 竹流は羽織の裏ポケットから、祇園の縁側に龍が落としていった螺鈿を摘み出し、見つめる。真はもしかしてこの男は気恥ずかしいのかも、と思った。
「あんたが珠を見つけてくれたからだよ」
 竹流は解説なんてするべきじゃなかったという顔をして、雪の消えた白く光る空を見上げている。真は足元を見下ろした。枯山水の白い砂の下、目に見えない水が地下を下り、あの洞窟に水滴を降らせている。一滴一滴の力は儚いほどに頼りない。それでもいつか、あの空間を水で満たし、この世界を潤し、誰かの悲しみが消えていくこともあるのかもしれない。
「悪かったな」
「何が?」
「女といちゃついてたりして」
 真は思わず竹流を見つめたが、竹流は穏やかな顔のまま、まだ空を見ている。
「俺に謝られても……」
「でも、拗ねてたろう?」
「何とも思ってない」
 竹流は答えなかった。
 静かだった。だが、目を閉じてみれば、様々な音が鼓膜を震わせる。時折吹き下ろす微かな風、風が震わせた枝の立てる音、水盤の底から澄んだ水が湧き起こる音、そして上空に残る雪の気配や、地下に眠る洞窟の天井から落ちる水の音までも、真の耳の中で震えていた。そこに重なるように、謡うような竹流の声が、真の思うよりも遥かに近くで、真の心や身体のすぐそばから、伝わってきた。
「旅びとの 宿りせむ野に 霜降らば
 吾が子羽含め あま鶴群たづむら
 竹流が呟いた言葉を、真は聞き返した。
「龍の巻物に、句が添えられてあっただろう?」
「白楽天の?」
「同じような歌が、万葉集にあったのを思い出したよ。遣唐使人の母が、もう二度と会うことがないかもしれない我が子の旅路を思って歌った歌だ。もしも、旅の空で我が子が寒さで震えているのなら、空を飛ぶ鶴よ、どうかその羽で彼を暖めてやって欲しい、と」
 竹流は徐に真の方を見つめた。
「鶴はそういう鳥だと聞いている。だから諺にもある。焼け野の雉子も、夜の鶴も、親鳥は我が子を、我が身捨てて守ろうとする。しかも、鶴は一方が死んでしまわない限りは、一度夫婦になった契を違えることはないという」それから、竹流はまた庭の方を見た。「そう考えれば、人間は勝手な生き物だな。だから絵師は、一方では龍に、そしてまた鶴に想いを託したんだろう」
「鶴は、春になって北へ戻っていく、いわゆる北帰行の時、飛び立つ直前に西の方を向いて鳴き交わすんだ。それに、もしも、さあ、という時になって、子どもが上手く飛べなかったり、家族が傷ついて飛べなかったりすると、群れごと旅立ちの日を諦めることもある。彼らが飛び立つには、上昇気流を掴まえないといけないから、いつでも飛べるとは限らないのに」
 俯いたままの真の頭に、竹流の大きな手が慰めるように載せられた。鶴は傷ついた子どもを捨てて行ったりはしない、と言った自分の言葉が竹流の哀れみを誘ったと思うと、突然情けなく恥ずかしい気持ちになったが、竹流はまだ記憶の中で舞い散っている雪を追うような視線を庭に向けたまま、静かに言った。
「なあ、和尚さんの茶杓の名前、憶えているか」
 すぐ傍に、覗き込むように真を見つめる青灰色の瞳があった。
「迷悟?」
 竹流は頷く。
「それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。真如、外に非ず、身を棄てて何くんか求めん。迷悟、我に在れば、すなわち発心すれば、すなわち到る。弘法大師の言葉だ」
 真は竹流の顔を見つめたままだった。竹流が劔と鞘を磨いていたあの夜、住職が何か呟きながら部屋を出て行った、その耳に残る声を思い出した。
「和尚さんは美しい竹の姿を残したいという迷いの心からそう名付けたと言ったけど、迷悟、というのは、迷いだけではなく悟りも自分の中にあるということだ。仏の教え、悟りの世界は決して遥か彼方にあるものではなく、自分の傍にある、善も悪も、光も闇も、全て自分の中にある、と」
 あの茶杓の銘には、迷いだけではなく悟りも含まれていたのだ。真は自分の手を見つめた。この手にあの茶杓の重みが蘇るようだった。
 真の髪に触れている竹流の手は暖かく優しく、やがてその手は頭ではなく真の肩に降りて、二度ばかり軽く叩くと、すっと離れていった。
 ひらり、と名残の雪が落ちてきた。手で受けると、薄くて温度もなく、真の手の平の上ですっと溶けた。竹流がその真の手を見つめたまま、囁きかけるような声で言った。
「これからどうするんだ? 研究を続ける気はないのか?」
「大学?」
「大学でなくても、もしも続けるんなら、俺が何とかしてやるぞ」
「もういいんだ」
 投げやりではなく、心から、振り返るまいと思った。
 今は先が見えなくても、まだ道は続いているのだろう。
 竹流は何とも言わなかった。言わなかったが、思い切ったような顔で、また羽織の内ポケットから何かを取り出した。真はちらりと彼の掌の上を見て、声をのみ込んだ。
 竹流の掌の上には赤いケースが載せられていた。一体いつの間に真の上着のポケットから盗み出したのだろう。
 真が何も言えないでいる間に、竹流は無言のままケースを開け、真が美沙子に贈るはずだった指輪を手に取った。
 そして真の顔を見ることもせず、いきなり大きく肩を引いたと思ったら、庭の彼方に向けて放り投げた。
 真には声を上げる隙も、止める術もなかった。
 指輪は大きく光の孤を描き、最後に旋光を放ったかと思うと、そのまま空で消えた。
 その瞬間、真は突き刺されたような痛みを覚えた。痛みは真の頭の中の特別な引き出しを音を立てて開け、中から飛び出した光の束は、辺りを真っ白に染めた。
 その時真は、もしもこの男に反対されても、辛うじて今自分に残された仕事を続けようと、そのわずかな手応えを見失わないようにしようと、意味はまだ分からなかったが、点を線にしようと、そう思った。そして、いつかは竹流の左の薬指から指輪を抜いて、ここに捨てに来てやろうと、そう願った。

                                                 (了)

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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【清明の雪】あとがきとこれから 

 読んでくださってありがとうございます。
 勢いで最後までアップしてしまいました。およそ179000字です。何度も何度も推敲してるのに(それも一体何年かけているのやら)、いくらでも粗が目につきます。思い込みで書いていることやら、誤字脱字、文章の癖、視点(一応三人称を借りた真視点で書いています)の誤り……拙いお話でお恥ずかしい限りですが、どうしてもこれはあかんやろ~と思うことがございましたら、ぜひご指摘ください。よろしくお願いいたします。
 多分自分の好きな世界を盛り込めるだけ盛り込んだ気がします。
 殺人のない謎解き、歴史の中の出来事、伝承、神社やお寺(しかも私の心の隠れ家を出してしまいました。1年に数度訪れる、京都の普通の観光地図からはみ出ているお寺です)、あやかしが普通に存在すること、人と人との密接な心の触れ合い、恋しいという気持ち(それは性別関係なく)、そして大好きな登場人物たち。
 カテゴリーを書けと言われて、とても困りました。
 ミステリーというにはおこがましい、推理小説でもない、ファンタジーのような部分もあるけどファンタジーでもない、恋愛小説とも言えなくもない、ちょっぴりBLっぽくもあるけどあんなに真剣に愛の物語一直線でもない、現代の世相を語るわけでもない。
 でも私の中ではお伽噺風ミステリー。物語は何でもミステリー、というスタンスでこれからも頑張りたいです。

 さて、この続き『海に落ちる雨』はいささかハードボイルド系です。
 大変申し訳ございませんが、18禁です。すでに完成はしていますが、やたらと長く、やたらと複雑で、やたらと人がたくさん出てきます。何とも解説しにくいので、もしもよろしければまたお付き合い下さいませ。

 その他、以下のような物語をいずれアップしたいと思います。
・高校生の真が修学旅行をさぼって、竹流とトレジャーハンター仲間のアラブ人アリと3人で伝説の砂漠の民の遺した黄金の剣を探しに行く物語。全く恋愛も18禁もなく、ほとんどインディジョーンズ。
・『海に落ちる雨』の続編『雪原の星月夜』を現在執筆中です。なかなか進んでいませんが……。お目にかかるのはいつのことやら。
・その他、いつか書くはずのお話:子どもを亡くして妻と別れた医師が青森の僻地に就職し、そこで出会ったフィリピン人女性(子持ち、夫は日本人で失踪中)やその姑(例のごとくじょっぱり)と触れ合いながら、亡くした子どもの冥婚の日まで頑張って生きていこうと誓うお話。織田信長に薬草園を任されていた娘が伴天連たちの陰謀と戦う話(これは必ずいつかお目にかかります。日本医療史~鎌倉から現代まで~が私の一つのテーマ)。
・真・竹流の物語があまりHappy Endではないので、自分の小説を二次小説にするのは変だけど、Happy End versionを京都を舞台に変えて書こうとしています。これは真その2(医者崩れ、ゲイバーと探偵事務所でバイト中)が病気の子ども(和と書いてにこ、という名前)を預かりながら頑張る話。竹流は?というと庵に住んで仏像を彫っている、まるで修行僧として登場します。それってやっぱりHappy Endにならない?

 いつまで頑張れるかわかりませんが、しかも私の書くものはブログ小説にはあるまじき長さと体裁になっておりますが(するりと読めないですよね……すみません)、よろしくお付き合い下さいませ(__)
 ついでに、ブログ初心者につき、まだあれこれと手探りです。ハッキリ言うと、正直ちんぷんかんぷんです。お作法も悪く反応が鈍いかもしれません。お気づきのことがございましたら、ご指導くださいませ。

 それから沢山拍手をくださった方、お礼申し上げます。
 お時間がございましたら、コメントなど残していただけましたら、とっても嬉しいです<(_ _)>

朝日

 お礼に、高千穂国見ケ丘からみた朝日です。
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☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(1) 

 彼は今でも時々その夢を見る。夢というよりは、現実にあった過去の出来事をなぞる、記憶回路の確認作業なのかもしれない。
 彼のように自らを律する力を培ってきた人間に、呑み込めない、あるいは克服できず、仕舞いこむ引き出しのないような出来事は、基本的にはあってはならないはずだった。だからこそ、彼はそれを自分以外の場所に、つまり外側に作り出した。
 それを覗かれることは彼には屈辱的なことだった。だからその場所の鍵は彼だけが持っていた。だが、彼は初めて、その鍵を他人に託した。いや、他人ではない。その男は彼にとって大事な、血縁と言ってもいいほど大事な人間になるはずだ。だからこそ、彼は決心してその鍵をその男に預けた。
 夢の中で、彼は佐渡にあるその建物の中に入り、地下に潜り、そしてまた更に一段下の地面に潜る。空気は薄くなり、息苦しくなっていく。海から浸み込む塩分を含んだ湿度が、足下からじっとりと上ってくる。彼は最後の扉を開ける。
 薄暗い電球の下で、狭い礼拝堂の中、苦悩に満ちたイエス・キリストの絶望の表情が浮かび上がった。


 彼、ジョルジョ・ヴォルテラは、生れ落ちて、まだ意志も何もない時に額に記された神の刻印を、恐らく、世の人間のうちで最も敬虔に受け止めている一人であることを自覚していた。それは、生まれた時には、出生届に記された両親からは捨てられる運命にあったジョルジョが、あの四月二十三日、ドラゴンを打ち倒した聖人の記念日、ヴォルテラの先代の当主がファシズムに抵抗して謀殺された日に生れ落ち、ヴァチカンの最高位にある教皇手ずからの祝福を受けた日から、彼の血の中に染み渡り、決して消すことができなくなった魂のあり方だった。
 年に一度、極めて個人的に、そして密やかに、教皇に謁見するのがヴォルテラの当主、そして次代当主の義務であり、権利でもあった。生れ落ちた時から、ローマを出奔する前年の十五の年まで、ジョルジョは教皇の祝福を受け続けてきた。現世に遣わされた神の御姿である教皇は、戦前そして大戦中、戦後を生き抜き祈り続けたローマ出身の教皇で、幼いジョルジョ・ヴォルテラに会うことを実に楽しみにしてくれていた。教皇だけに許された礼拝堂で、幼いジョルジョを膝に乗せて、教皇は、この子は特別な運命に導かれていると、何度もヴォルテラ当代当主のチェザーレに言ったという。神であり、人であり、そしてまた人と神の子であると。この子に与えられた運命は恐らく苦渋に充ち、彷徨い続けるものだろう、それが故に私はこの子が愛おしいと言葉を下された。
 神は自然にジョルジョ・ヴォルテラの体内に入り込み、染み渡り、ジョルジョが罪を犯すことを知りながらも、それを浄化する力や技、そして赦しを与え続けた。ジョルジョは神に遣わされ、清濁を併せ呑み、むしろ神の国の汚泥の部分を担うヴォルテラの当主としての役割が何であるのか、常に教え諭されながら幼少期を過ごした。どれほど手を穢そうとも、神の名のもとでは、ヴォルテラの当主にはそれが許されるということを知らされた。神の世界には調和があり、決して崩れることのない秩序があり、その調和と秩序を力でもって守るためにヴォルテラの家が存在し、あらゆる負を受け入れるが故に、かえって教皇よりも気高くあるのだと、教皇自らジョルジョに教えた。
 ジョルジョは神を信じ、神を受け入れ、そこから自分が零れることなど一切考えずに、神の兵士として、ただ忠実に生きることを考えていた。その中で、教皇という位の人間と対等に語り、つまり教皇という位の裏の顔を全て担う当代のヴォルテラの主人が、この場所でいかに力を持った存在であるのかということをしっかりと叩き込まれていた。当代の当主に逆らうことは、ジョルジョの中では全く考えられないことであり、それは神を裏切ることがないということと、まさに同義であり、染み渡った血の色合いでもあった。
 学校には行ったが、ほとんどの時間は当代当主チェザーレの腹心、選びぬかれた教育者たちが、次代当主を鍛え上げ、徹底的にあらゆる種類の世の中の真実と向かい合う勉学、帝王学を授けるために費やされた。夜中にはチェザーレ自らが教育の担い手になった。スポーツも芸術もゲームも例外ではなかった。ジョルジョは一通りの遊びを難なくこなす才能を要求され、最低でも十ヶ国語を流暢に話す言語力を要求され、多少の薬物にはびくともしない屈強な身体を要求された。その全てにジョルジョは幼くして既に、当代当主、そして教皇庁を含めた周りの人間たちの全てを納得させるだけの成果を挙げていた。
 だが、その者たちをもっとも満足させ、時には震え上がらせるほどに感動させるのは、この次代当主の天性の美しさだった。神は何を間違えて、この汚泥を担うヴォルテラの家にこれほど完璧に美しいものを落としてしまったのか、と誰もが思った。ジョルジョは自然に周囲の人間たちに纏わりつき、その愛らしさは彼に会う全ての人間を虜にし、時折勉強に疲れて眠ってしまっても、その無垢で美しい寝顔に誰もが暫くの時間を許してやろうと考えた。台所に平気で降りていき、使用人たちとも対等に口をきいた。それだけは誰がいくら注意しても直らなかった。料理番の女性の家に孫娘が生まれた時も、会いに行くといってきかなかった。ローマのヴォルテラの屋敷とは比べ物にならない小さな家にも当たり前のように飛び込んでいって、可愛らしい赤ん坊に対面すると、無邪気に、この子は僕のお嫁さんになってくれるかなぁ、と言った。大慌てをしたのは使用人たちだった。
 ヴォルテラ当代当主には別の一人息子がいた。リオナルドと名付けられたその息子は物静かで、内に鋼のような強靭な精神を培われ、天性のものとして穏やかに人を惹きつける何かを持っていた。全てに於いてバランスの取れた人物で、それは別の意味でチェザーレの確かな教育を受けていたからだった。リオナルドはひとつ年下の従弟のジョルジョを傍目からも分かるほどに愛していたようで、ジョルジョのほうもいつもリオナルドに甘えるように後ろをついて回っていた。リオナルドの性質を、王を支える腹心にこそ相応しいものであると、その父親は始めから見抜いていたようだった。
 だが、当代当主チェザーレが何故実の子どものリオナルドを差し置いて、不仲の双子の兄の子どもを、その『甥』が生れ落ちたその時から次代当主にと定めたのか、誰もその本当のわけを知らなかった。何より、これまでのヴォルテラの歴史の中で、赤ん坊のときから毎年、教皇との謁見を続けた次代当主は、他に例を見なかった。
 どれほど遊び疲れていても、チェザーレが帰宅するとジョルジョはチェザーレの部屋に行き、勉強の仕上げをして、そのままチェザーレの部屋で眠った。時々ジョルジョが夜中に目を覚ますと、チェザーレは大概はまだ机に就いて仕事をしていたが、時にはジョルジョの髪を愛しげに撫でてくれていることもあった。ジョルジョにはチェザーレが与えてくれる場所が全てだった。
 それが一体、いつ崩れたのか、ジョルジョ・ヴォルテラにははっきりとした自覚はない。
 少しずつ少しずつ、ジョルジョの体の中に呑み込めない澱のようなものが溜まってきていたのか、やはりあの時、あの瞬間に彼の内側に飛び込んできたものなのか。
 時々、ローマの屋敷を抜け出して廃墟のようになった教会、地下に残る古代ローマやエトルリアの遺跡に潜るのはジョルジョの唯一の息抜きのようなものだった。その程度の冒険を禁じるほど、チェザーレは了見の狭い人間ではなかったし、その冒険はある意味ではチェザーレの公認の遊びだった。ジョルジョは入口が塞がれた教会の跡地に潜り込み、こっそりと色々な美術品を見に行った。教会には、その場所が全盛期であったときに装飾に使われた様々の絵画、フレスコ画、モザイク、タペストリー、金銀細工、あらゆるものが残されていた。崩れて壊れかけた破片から蘇る古の香り、それはジョルジョをいつも甘美な気持ちにさせた。
 だが、その日、廃墟となった教会に潜り込んだはずのジョルジョの目に飛び込んできたのは、輝きを取り戻した礼拝堂の金銀、光を蘇らせた絵画、隙間を分からないまでに繋ぎ合わされたステンドグラス、擦れて色を失っていたはずの糸が立ち上がり、もう一度三次元の息吹を取り戻したタペストリーだった。
 そしてそこに、ジョルジョは明らかに降り注ぐ神の光を、何百年もの時を遡った彼方で祈りを捧げる人々の声を聞いた。光を取り戻した教会には、祈りと赦し、そして愛が満ち溢れ、ささやかなドームの天井からは天使が舞い降り、神を称える聖なる歌は、時空を超えて今まさにジョルジョを包み込んでいた。
「おい、小僧、そこを踏むんじゃない」
 突然、だみ声が頭の上から降ってきて、ジョルジョは柱の上の説教台へ上る螺旋階段を見上げた。半ば崩れかかった説教台まで届く梯子には、背を丸めた痩せた男がいて、黒く細長い塊のような身体から突き出た手を説教台の彫刻に残したまま、ジョルジョではなくその足下の床を見下ろしていた。ジョルジョがその男の視線を追いかけるように自分の足下に目を落すと、誰かの墓なのだろう、モザイクが崩れかけながらも祈りの言葉を囁きかけている。
 だみ声の主はひとこと言ったきり、あとはジョルジョに目を向けることもなく、黙々と仕事を続けた。
 ジョルジョは毎日のように屋敷を抜け出すようになった。男は見つけ出せる日もあれば、何日も姿を見せないこともあった。酒臭く、だみ声で話し、ぼさぼさの頭で浮浪者のような格好をして、身体中に薬品や油絵具のにおいを沁み込ませていた。あまりにもしつこくやってくる子どもに、その男は始め全く興味を向けてくれなかったが、そのうち仕事の手元を飽くことなく見つめ続ける目に、ようやく顔を上げた。
「お前もやってみるか」
 男が、ローマで、いやイタリアで随一と言われる修復師だと知ったのはずっと後のことだ。修復学校をトップの成績で卒業し、最高の工房で腕を揮いながら、はずみとは言え女を殺して何年か刑務所に入っていた。刑務所は古い城を改装してあって、その食堂のぼろぼろになったフレスコ画を、男は入所中に頼まれもしないのに修復し始めた。当時を知る元服役囚は、神が降りていたと語った。その姿を見た服役囚たちは、堀の外にいる家族や友人たちに援助を求め、ささやかながらも刑務所の中とは思えないほどの修復材料が集められたという。今では刑務所のその場所は観光地になっていた。
 修復師はエウジェニオという名前で、奇しくもジョルジョ・ヴォルテラを愛してくれた教皇の本名と同じだった。一匹狼で、半端ではない技術を持ち、噂では表に出せないあらゆる芸術品を修復しているらしいと言われていた。弟子を取ることなど全く考えてもおらず、飲んだくれでいい加減な男で、気が向かなければどれほどの金を積まれても仕事を断った。大金が入ると、場末で身体を売る女たちに全て振舞った。修復師が殺してしまった女もまた、身体を売って糊口を凌いでいたので、禊の気持ちだったのかもしれないが、修復師はそのことを誰かに説明したこともなかった。
 ジョルジョが初めて叔父に無断で外泊したのは十一の時だった。修復師は定まった家を持っておらず、その時はローマでも有名な東洋芸術の収集家の屋敷に泊まりこんでいた。収集家はまだ若い四十代の実業家で、ほとんどをアメリカで過ごしているのだと言った。背の高い、黒髪の、精悍な顔つきの男だった。
 いつも修復師が飲んだくれている酒場を突き止めていたジョルジョが、いつもの席で彼を見つけると、修復師は楽しそうに言った。
「坊主、いいものを見せてやろう」
 その時に初めて見た写楽の版画。
 ジョルジョは衝撃を受けた。背徳の絵だと思った。そう思ったのに、一枚一枚見るごとに惹き付けられ、目を離すことができなくなった。人間の顔と身体のバランス、指と顔のバランス、目と鼻と口のバランス、全てが出鱈目だった。こんなものは神が整えた秩序に基づいた人間の顔、身体ではなかった。それなのに、その絵にはジョルジョが知らない真実が埋め込まれ、吹き上がり、彼の体の中に確かに居場所を見出したようだった。
「坊主、世界には色んな神がいる。お前が見知っている世界にはない、とてつもないへんてこりんな真実がある。この絵を描いた画家の国にはな、八百万の神がいるらしいぞ。しかも悪魔まで神だ。神というのは『奇しきもの』ということだ。悪魔でも鬼でもみんな神、と呼ぶらしい。面白いだろう。世界は俺やお前が思っているよりも、ずっとでかい」
 その夜、ジョルジョは収集家が喜んで彼の前に広げてくれた東洋の日本という小国で生まれた芸術を、溢れんばかりの『奇しきもの』を飽くこともなく見続け、時間の概念も失い、魂をその小さな国に飛ばし続けた。
 収集家はさらに、ジョルジョに春画を見せてくれた。男と女が睦み合い、あられもなく晒された性器の描写には屈託もなく、女性器に挿しいれられた男性器の大きさなど現実のものとは思えず、しかしそこに施された色彩の細やかなこと、艶やかなこと、着物の模様のひとつひとつの精巧さ、鬢を描いた一本一本の線の踊るような流れ、版画としての技術の高さ、そして最高級の和紙の手触り、全てがジョルジョを魅了し興奮させた。男性同士が絡むものもあり、そのモチーフについてはギリシャの壷にもいくらでも描かれていたので驚きもしなかったが、やはりそこから立ち昇る健全な、あるいはあっけらかんとしたエロスからは、不思議な生命力を感じた。そこには背徳という言葉の付け入る隙など全くなかった。
「この春画という分野には、最高級の技術と素材が使われている。どの国でも助平な絵が一番高く売れる、だからいい材料を使う。分かるか、この手触り。奉書という最高級の和紙だ。百回重ね刷りをしても耐えるという話だ。日本の和紙があればフレスコ画の修復だって、もっと上手くいく」
 その日から数日、ジョルジョは屋敷に戻らなかった。二日目の夜、興奮を醒ますように、収集家の男に身体を任せた。それが背徳であるという概念が、その時なかった。もっとも、男のものを受け入れる準備はジョルジョにはなかったし、収集家もソドミアンというわけでもなかったようで、行為自体がうまくいったわけではなかった。だが誰かとベッドを共にし、性的な興奮を分かち合うという行為は初めての経験だった。ジョルジョと収集家は手と唇でお互いのものを満足させ、裸で抱きあって眠った。
 修復師はその夜も仕事をし続けていた。
 その収集家と、その時は二度と同じような事態に陥らなかった理由は簡単だった。叔父に見つかり、連れ戻され、その収集家にジョルジョが『ヴォルテラの次代当主』であることが知れたからだった。叔父は一度の外泊や火遊びなどで、次代当主を追い込むようなことは何も言わなかったし、しなかった。しかし、その一瞥だけで、収集家もジョルジョも縮み上がるような気持ちになった。『ヴォルテラの次代当主』というのは、まさに全ての理屈も欲望も黙らせる効果がある単語だった。
 だが、ジョルジョは修復師のところに通うことは辞めなかった。そのうち叔父、チェザーレが本当に怒り出すのは時間の問題だと思っていた。認めてもらうために、ジョルジョはこれまで以上に叔父の望む勉強をし、スポーツをこなし、その後で大概は夜中仕事をしている修復師のところに行った。
 真夜中の教会やアトリエに灯された明かりの中で修復をする男の横顔には、鬼気迫るものがあり、そこには確かに神が宿っていた。あるいは悪魔も魅せられていたのかもしれない。時折ジョルジョは、背を丸めて座り込み仕事をしている修復師の背後に、天使や悪魔、あらゆる聖獣や悪魔に従う穢れた獣たちまでもが、同じ空間を分け合うようにして修復師を取り囲み、彼に力を与え、一方ではその手から紡ぎだされるひとつの技にも溜め息を零して魅入っている姿を認めた。
 もっとも修復師はいつも仕事をしているわけではなく、時々は全く飲んだくれているだけの時もあったのだが、そんな時はジョルジョはその酒に付き合うようになった。修復師は酔うと必ず、自分が刑務所に入っている間に亡くなったという母親の話をした。それを聞きながらジョルジョは、修復師が刑務所のフレスコ画を修復していたのは、母親への贖罪と思慕の故だったのだろうと想像していた。ジョルジョも見に行った事があるその刑務所のフレスコ画は、受胎告知の場面だったのだ。
「チェザーレも頑固だが、お前も頑固だな」
 ドットーレ・ビテルリ、ヴォルテラのお抱え医師が頭を掻きながら言った。
「いい加減にしないと倒れるぞ。お前、ほとんど寝てないだろう」
 眠る時間は惜しかった。それにジョルジョはまだ、叔父の期待に応えたいと思っていた。それを疑ったことなど一度もなかった。
 東洋の芸術にも憧れたが、やはりルネサンス期の絵画はジョルジョを幸福にした。ある時、修復師についていった別の収集家の家で、彼はそのジョルジョーネに出会った。
 それは小さな絵だった。美しい天使には、あらゆる穢れのない聖なるものと、零れだすような背徳のエロスが鬩ぎ合い、その目のうちで生き生きと踊っていた。ジョルジョは天使に見惚れ、修復師のいない時もその収集家の家に通うようになった。一枚の絵がこれほどに人を惹きつけるのかと、自分自身ながら驚くような気持ちで絵を見つめ続けた。
 収集家は有名なソドミアンだった。しかし、そんなことはジョルジョーネに魅せられていたジョルジョの意識の中に全く入っていなかった。
「そんなに欲しいなら、その絵を君にあげようか」
 ジョルジョが驚いたように収集家を見ると、収集家は淡々と条件を突きつけてきた。週に二度、半年付き合ったらくれてやると言われた。
 この絵のためなら大した要求ではないと、そのときのジョルジョは思った。初めてその男に抱かれたとき、ジョルジョにはそれが神への背徳だという意識が、やはりあまりなかった。痛みに耐え、行為に慣れることで精一杯だったからかもしれない。それにジョルジョ自身はこれによって快楽を覚えたという記憶がなかった。ただ通り過ぎるのを待ち、男の欲望を満たしてやっただけだった。そんなことくらいでは、ジョルジョの気高い精神も身体も穢されることはなかった。
「君は、何て美しいんだ。この身体に私を埋めていると思うだけで幸福だよ」
 男は行為の間中、ジョルジョの耳の中へ囁き続けた。だが男は徐々に本性を現し始め、行為は激しく苦痛を強いるものへと変わっていった。男は器具を持ち出し、ジョルジョの身体には呑み込めないほどの大きなものを試し、あるいはジョルジョの身体を縛り尿道口に管を入れたり、石鹸水を腸に注ぎ込んだりするようになった。ジョルジョは二ヶ月で音を上げ、いつかその絵を力ずくで奪ってやると宣言して収集家と決別した。
 ちなみに、ローマを出奔する少し前に、ジョルジョは宣言どおりジョルジョーネの天使を戴きに行った。もちろん、力ずくだった。あとになって請求書が送られてきたが、しっかり二か月分は値切って払ってやった。
 そのソドミアンの収集家と決別した後、叔父は何も言わなかったが、ある日、綺麗に着飾った美しい女がジョルジョの部屋にやってきて、ジョルジョとベッドを共にした。豊満な身体とほっそりとした腕を持つ、まだ二十代の女性だった。女は高級娼婦でマリアと名乗り、時に上品に、時に淫らに、まだ少年であるジョルジョを導いた。三日三晩、ジョルジョは女に抱かれ、女を抱き、生まれて初めて性的な快楽を覚えた。女の身体は恐ろしいくらいに優雅で優しく、ジョルジョを締め付ける場所はきつく猥らで、その厚く小さめの口いっぱいにジョルジョを銜えると、若くて際限のない彼の欲望を全て満たしてくれた。
 その三日が過ぎると、突然、ジョルジョはフィレンツェの神学校に放り込まれた。恐ろしく戒律の厳しいところで、もちろん付き添ってきた叔父の腹心たちは、その間も教育の手を抜かなかった。性的な興奮を知ったジョルジョの身体は、実に地獄を見たような状態だった。貞操帯でも嵌めてくれたほうがまだましかもしれないと思うくらいで、眠る時に自慰をすることさえできないほどに疲れ果て、その分昼間、神の前でははしたない想像に苦しみ続けた。
 初めて、今度は快楽に溺れるという背徳の恐怖を味わう破目になり、ジョルジョは身体の芯まで染みとおっていた神の戒律に、自分がいかに忠実な僕であるのかを知った。祈りの場所でジョルジョは襲い来る悪魔と闘わなければならなかった。小さな洞窟のような一人きりの部屋で、何度女の幻を見て、何度自分のものに触れようとしたか分からない。それでもそれが背徳だという意識と戦い続けた。
 食事が咽喉を通らなくなったジョルジョを随分と心配してくれたのは、ジュリオ・カヴァリエーリという名前の二つ年上の修道士だった。穏やかな整った顔つきの、ナポリ出身のジュリオは、浅黒い肌に黒い目をしていて、実に滑らかに神の言葉を取り次いだ。低いバリトンの声で語られる神の言葉は、この若い修道士の将来を確かなものにしているように思えた。
 そんな中であっても、絵との出会いは、いつもジョルジョをあり得ないほど幸福な世界に導いた。疑うことなど考えられなかった神の戒律を追求し、断食の状態でジョルジョは幾つも教会を渡り歩き、祈りを捧げ続けた。
 そして、その日、ついに運命のイコンと出会ってしまった。
 正教の教会に足を踏み入れることは幾らかの躊躇いがあったが、やはりジョルジョは運命に導かれるようにその小さな教会に足を踏み入れた。
 教会、ではなかったのかもしれない。そこはその画家のアトリエだったのだろう。画家は板に鼻を押し付けるほどに引っ付いて、汗を垂らし、目を血走らせながらキリストを描いていた。一歩、画家の絵に近付き、そのキリストの目を見たとき、ジョルジョはこれまで何を見たときよりも驚き、心の臓を鷲摑みにされたような恐怖に奮え、そして己の運命さえ垣間見たような感覚に陥った。
 画家が描いていたのは、磔刑のキリストの表情で、その目には明らかに死の恐怖と神への不信と、彼を裏切った人間たちへの怒りと絶望が籠められていた。
 これこそ、背徳のイコンだった。
 写楽の絵、日本の春画を見たときの衝撃はもちろんだったが、それは異郷の神のもとで成立した芸術だった。だが、これはジョルジョと同じ国の人間が、ジョルジョと同じ神を持つ土壌で描いた絵だったのだ。
 その絵の中に明らかに燃え上がる背徳の火。それを目にした日が、ジョルジョ・ヴォルテラにとって、最後通牒を受け取った日だったのかもしれない。
 画家は振り返り、一瞬、ジョルジョを見て、また板のキャンバスに食いついた。
 そしてジョルジョはこの画家の絵の虜になった。
 少年に過ぎなかったジョルジョに、自分の感情や欲情をコントロールする術など何もなかった。始めのうち、ジョルジョに一瞥をくれるだけだった画家は、そのうちジョルジョをモデルに絵を描くようになった。全てキリストの顔だった。ジョルジョは画家の描いたキリストの苦しむ表情に、自分自身の苦悩を投影し、画家が自分の苦しみを感じ取ってくれているのだと理解し、そして幾度も涙を流した。画家の方もますます苦しみながら絵を描くようになり、ある時、ジョルジョは、それは画家が自分を求めているからだと知った。ジョルジョは己の苦しみを、その本質がただ女への欲情とは思えない、自己の存在における何か根本的な苦悩を、今から苦しみ抜かなければならないのだという事実に震えた。ひどく意地の悪い悪魔が身体のうちに湧き上がり、ジョルジョは画家に言った。
「触れたいなら、触れたらいいよ」
 手に触れさせ、怯える画家の手を肌に引き寄せた。唇を許したが、その次には拒んだ。画家の描くキリストはますます苦渋に満ち始め、ジョルジョは自分が恐ろしく興奮していることを感じた。もう女の身体のことは忘れてしまっていた。その時描かれた全てのイコンのキリストに、ジョルジョは興奮し続けていた。画家はどんどんやつれ始め、その目が精気を失っていくと、イコンの中のキリストの目は光を吸い込んで妖しく光り、苦悩に悶え、神を呪う言葉を吐き出しそうな唇が、今にも動くように思えた。
 画家が飢えた目でジョルジョを見つめていたある日、ジョルジョは画家に自分のものを触れさせた。画家はジョルジョを床に押し倒したが、その狂った目をジョルジョは恐れもなく見返した。
 画家がその少年を恐れた理由ははっきりしていた。高貴な、本来ならその画家の手に入るようなものではない血が、生れ落ちた瞬間には定められていた運命に従い、この世の神の王国の最高位にある教皇の祝福を受け続けた血が、ジョルジョの頬にも唇にも目にも浮かび上がっていたはずだった。画家は怯え、何もできないまま、その日から狂ったように彫刻を掘り始めた。
 ジョルジョが一週間以上も経ってからその画家のアトリエに行ったとき、画家はもうこれ以上彫れないと思うところに来たのか、未完成なのか完成なのかわからない磔刑のキリストの彫刻を抱いて死んでいた。
 ジョルジョは、その彫刻のキリストの顔に怯えた。
 そこには神を裏切り、神を信じきることができず、苦しみ喘いでいるジョルジョ・ヴォルテラ自身の顔が刻まれていた。それは刻印だった。キリストを装ったこの顔の人間が、この画家を背徳の道へ追い込み、悪魔の囁きを耳に吹きかけ、罪を犯させ、そしてこの画家を殺したのだという、ダイイングメッセージだった。この画家を何よりも恐ろしい罪に追いやり、死に至らしめた犯罪者の顔、その顔を憎しみを籠めて、画家はこの石に刻み込んだのだ。
 正気が保てず修道院に走り帰った。塀を乗り越え、気持ち悪くなり吐き戻してしまったところに、見回りに来ていたジュリオ・カヴァリエーリが通りかかった。
「ジョルジョ、どうしたんだ」
 ジュリオは彼の部屋にジョルジョを連れて行ってくれて、着替えさせ、ベッドに横たわらせてくれた。ジョルジョは震えるままジュリオに抱きつき、その唇に唇を重ね、必死で求めた。ジュリオは驚きもせずにジョルジョを抱きとめ、舌までも求めたジョルジョに抵抗なく応えてくれた。やがて少し落ち着いてジョルジョが離れると、ジュリオはその頭を優しく撫でて言った。
「眠るといい」
「何も聞かないの」
「何を? 君がここに帰ってきてくれたことが嬉しいよ」
 ジョルジョはベッドに横になり、ジュリオに背を向けたまま、修道院の冷たい石の壁を見つめた。
「ジュリオ」
 ジュリオは聞いてるよ、というように髪を撫でてくれる。その手の温もりを感じたとき、ジョルジョの視界からは、壁の染みも小さなひび割れも消え霞んだ。
「魂は、どうしたら救われるんだろう。僕はいつも、自分がどこか欠けているような気がしてならないんだ。どんなに学んでも、どんなに心や身体を鍛えようとしても、僕はいつもどこかが欠けている。時々すっかり空っぽになってしまったような気もしてしまう。その空っぽに悪魔が簡単に棲み付いてしまう」
 ジョルジョは震える声で話しかけた。ジュリオはまだ黙ったまま髪を撫でてくれている。
「本当は、どうやって神を愛したらいいのか分からない。人を愛したらいいのかも分からない。僕はずっと一人だ。神はいつも答えをくれない」
「ジョルジョ、君は多分、とんでもなく沢山のものを持って生まれてしまったんだね。自分で気が付いていないのかもしれないけれど、君は、外から見える姿も心の内も、本当に綺麗なんだよ。人々は自然に君を愛し、君を神の国から遣わされた確かなこの世の王と認めるだろう。それなのに、君はずっと怯えた顔をしている。神に答えを返さなければならないと思うからかい? 僕が知っている神は辛抱強いことが取り柄でね、君が答えに辿り着くまで、君の一生分だって待ってくれると思うよ。君の世界は光に満ち溢れている。君の道の先にはきっと、君の求めるものが待っているはずだよ。怯えないで」
 まさにジュリオ・カヴァリエーリは神に遣わされた僕だった。いつか本当にそんな日が来るのかどうか、ジョルジョには全く見当もつかないままだったが、ジュリオの言葉になら騙されてもいいのかもしれないと思った。
 だが、その日からジョルジョは魘されるようになり、一人になると、あの画家の魂が傍らに立っているように感じて気がふれそうになった。この街にいたらきっとおかしくなってしまうと思い、逃げ出すようにローマのヴォルテラの屋敷に帰った。チェザーレは、神学校を抜け出してしまったことについては何一つ追求せず、まるでジョルジョがずっとそこにいたかのように扱った。
 それからのジョルジョは全く問題行動も起こさず、叔父の与える課題を全て淡々とこなし、ただ本を読み続け、身体を鍛えた。光も何も見えなくなり、日々は諦念の気配に満ちてさえいた。
 ひとつ年上の従兄のリオナルドが、いつも心配そうにジョルジョに話しかけてくれた。大丈夫だと答えても、やはり信用していないのか、リオナルドは、夜中にこっそりチェザーレの部屋から最高級のコニャックやシャンパンを盗み出してはジョルジョのところに持ってきてくれて、二人は床に座り込み、身体を引っ付けるようにしてベッドの陰に隠れるように凭れ、何時間も歴史や古代の遺跡について、時にはサッカーの試合の結果を語り合い、そのまま互いに凭れるようにして眠った。リオナルドがいなかったら、ジョルジョは自分がおかしくなっていたかもしれないと思っていた。チェザーレの姿を見る限り、ヴォルテラの主人というのがいかに孤独な仕事であるのか、十分に感じられたからかもしれない。
 そのことを分かっていたからなのか、あの修復師のところに通うことだけは、チェザーレも咎めなかった。週に二、三度は会いに行き、修復技術の全てを学び、実際に助手として仕事をこなせるようになっていた。修復師はたまに仕事の手を止めて、ジョルジョの手を見つめ、それから何も言わずに元の作業に戻った。時には、言葉なく手を叩かれることもあった。その理由を言葉で教えてくれることはなく、ジョルジョが修復師の求める答えを察してやり直すと、修復師は何も言わず、褒めることもせずに、頷きながらまた自分の作業に専念した。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(2) 

「坊主、お前、ヴォルテラの跡継ぎだったのか」
 ある日、修復師はルネサンス期の絵画のワニスを確認しながら呟くように言った。とっくにそんなことは知っているのだと思っていたジョルジョは少しだけ驚いた。この修復師は本当に修復と酒のことしか考えていないのだと思った。ジョルジョがうん、と答えると、修復師はいきなり顔を上げた。その修復師がジョルジョの顔を真っ直ぐに見て話をしたのは、それが初めてだった。
「お前は修復師になれ。お前は世界一の修復師になれる。今世界一の俺が保証してやる。ヴォルテラにはもう一人息子がいただろう。俺にはお前しかいない。俺の跡を継げるのはお前しかいないんだ、坊主」
 そう言うと修復師はジョルジョの右の手を握った。しわがれた節くれ立った指には、薬品と絵具のにおいが沁み込んでいる。指の先は、古い金属の毒気で黒く染まっていた。
「この右手は俺と同じだ。神の手だ。俺はこれまで俺以上の手に出会ったことはなかった。学校でも工房でも、同業者の誰を見てもだ。だが坊主、お前の手は特別だ。俺は生まれて初めて、俺以上になる手を見た」
 ジョルジョは暫く呆然と修復師を見つめていた。
「お前の目には神が見えている。俺の知ってる神はヴァチカンにいる神じゃないけどな、画家や職人の手に一瞬だけ降りてくる芸術の神だよ。修復師の仕事はその神が見えないとできないんだ。それが何百年前の一瞬に降りてきた神であっても、お前の目には見えている。お前はヴォルテラなんか継いでいる場合じゃない。それこそ神への冒瀆だ。坊主よ、そうでなきゃ、お前の孤独は癒されることはねぇよ」
 ジョルジョはこの修復師が、ずっと自分の心にあいた穴を知っていてくれたのだと思った。それはきっとこの男にも同じ空洞があるからに違いなかった。
「お前の叔父に言えるか」
 ジョルジョは頷いた。
 だが、そんなことは全く許されるはずなどなかった。これまで少々羽目を外しても黙認してきたチェザーレが、烈火のごとく怒った。その怒鳴り声に驚いたリオナルドが飛び込んできて、たまたま当主の健康を気遣って訪ねてきていたドットーレ・ビテルリも、玄関から主人の居室に駆け上がってきたほどだった。
「何を騒いどるんだ、チェザーレ」
 チェザーレとジョルジョは睨み合って立っていた。
「騒いでなどいないよ、ドットーレ。あり得ない、と言っているだけだ」
 チェザーレの声は、これまでジョルジョが聞いたことがないほど冷たく低く、そして重かった。ドットーレ・ビテルリがジョルジョに向かって聞いた。
「お前、何を言ったんだ、ジョルジョ」
「ヴォルテラの跡は継がない、修復師になる」
 ドットーレは心底驚いたような顔をしてジョルジョを見た。チェザーレは断ち切るような声で低く言った。
「聞く耳は持たない。お前が修復の趣味を持つのは大いに結構だ。だがお前にこの家を継がないという選択肢はない。リオナルド、こいつを暫く家から出すな。お前が見張っていろ」
「父さん、いくら何でも、少しは話を聞いてやったら。頭ごなしに言うのは良くないよ」
「リオナルド、お前にはジョルジョの代わりはできない。それはお前が一番よく知っているだろう。ジョルジョ、もう話すことはない」
 ジョルジョにできたことは、リオナルドに懇願して屋敷を抜け出すことくらいだった。それでも、ジョルジョはまだ、叔父と話し合わないまま全てを捨てて出て行くつもりはなかった。だが、その日、場末の売春婦たちのところにしけこんでいた修復師を探し出すことはできなかった。
「エウジェニオかい? 今日はえらくご機嫌でさ、俺にもついに跡継ぎができたって。どっかで女でも孕ませたのかねぇ」
 一晩探し続けたが修復師は見つからなかった。
朝方に屋敷に戻ったとき、リオナルドはいなかった。不安になって使用人に聞くと、今朝早くに自家用機でロンドンに発ったという。留学だと聞かされた。リオナルドと引き離されたことは、ジョルジョを不安の連鎖の中に突き落とした。ジョルジョは部屋に閉じ込められ、全く屋敷から出られなくなった。二十四時間の監視はジョルジョを参らせ、その年の教皇との謁見が近づいたある日、幼いジョルジョを膝に抱いて慈しんでくれた教皇の崩御が伝えられた。
 教皇の死は、ジョルジョを完全に追い込んだ。チェザーレは、お前が仕えるべき新しい教皇の時代になった、と言ったが、ジョルジョには考えられないことだった。新しい教皇は前教皇の死の十七日後に即位し、チェザーレたちが慌しくなったある日の夜、ジョルジョはやっとのことで屋敷を抜け出した。
 居場所の定まらない修復師を探し出すのはいつもなら大概困難だった。だが、その日、ジョルジョが見知っているバールは、騒然とした雰囲気に包まれていた。もうもうと辺りを黒く包み込む煙と、吹き飛んだ窓ガラスと、行き交う人々の叫び。消防とレスキューがジョルジョの脇を通り抜け、ジョルジョはその後を追うように人だかりをかき分けながらバールに駆け込もうとして、女に止められた。
「あんた、危ないよ!」
「エウジェニオは」
 ジョルジョが叫んだと同時に、黒煙の中から浮かび上がるように担架で運び出された男の薄汚い衣服には、見覚えがあった。
「エウジェニオ!」
 修復師には意識がなかった。それは酒のせいだったかもしれないし、他の理由かもしれなかった。お前、身内か、と言われてがむしゃらに首を縦に振り、救急車に一緒に乗り込んだ。その瞬間、修復師の身体を見て、ジョルジョは狂ったように叫び、彼に摑みかかろうとした。救急隊員が、けが人に危害がないようにと、ジョルジョの身体を縛るように拘束した。ジョルジョは救急隊員の胸に身体をぶつけて、ただ泣き叫んだ。
 神の手は、肩から落ちかけていた。血が止め処なく流れ出て、もう一人の救急隊員が必死に止血を施していた。
「坊主」
 突然にはっきりとした声がジョルジョの耳に届いた。
「狼狽えるんじゃない。俺にはまだもう一本、お前の手があるんだ」
 修復師はその一週間後に病院で亡くなった。同じ名前の教皇が亡くなってから、丁度一ヶ月目だった。酒と自堕落な生活も災いして、敗血症と肝機能障害に打ち勝つことができなかったのだ。腕を無くしても、せめて生きていてくれたら、まだジョルジョの力になってくれたかもしれなかった。
 修復師には、刑務所に入って以来会わないでいたという娘が一人いた。娘は、今ではほとんど手に入らないような修復の材料を預かっていた。遺言状には『私と同じ神の手を持つ息子、ジョルジョに』と書かれていた。ジョルジョ・ヴォルテラに修復師が遺していた貴重な修復の材料は、それから何年も経ってからジョルジョの手元にやってくることになった。
 修復師が亡くなった夜、ジョルジョは屋敷に戻り、自室で仕事をしていたチェザーレにつかみかかった。
「あんたがやったのか」
「何のことだ」
「ふざけるな。あんたがエウジェニオを殺したんだ」
 その時、ジョルジョを見つめたチェザーレの、ジョルジョと全く同じ青灰色の瞳には、全ての答えが映し出されていた。
「そんなことをしてどうする。お前の怒りを煽っても、私には得になどならない。ジョルジョ、頭を冷やしなさい。ここのところ、お前は感情に走りすぎている。ヴォルテラの次代当主ともあろう者が、自分の感情をコントロールできないでどうするという」
 それがヴォルテラの当主になるということなのだ、というチェザーレの苦悩と逡巡、高貴さと誇り、そして何よりもジョルジョを慈しむ深い情愛、どこかグロテスクとも言える激しいほどの肉親への妄執を認めると、ジョルジョはもう何も、何ひとつ言うことができなかった。ジョルジョは自分が、ヴァチカンの聖なる楼閣の礎である深い泥沼のような地面を、自らを人柱として差し出すことで支えているヴォルテラの次代当主であり、そこから逃れることはできない、もし逃れたとしてもこの当代当主の深い情愛、幼い日に膝に抱いてくれた教皇の暖かな手からは逃れられないのだと知った。
 チェザーレのボディガードと秘書に連れられて、ジョルジョは自室に戻された。だが、その日は部屋に鍵がかけられることはなく、見張りもいなかった。逃げ出そうと思えば逃げ出せたのに、ジョルジョはもう動くこともできず、真っ暗な部屋のベッドに長い時間座っていて、それから何か空で音がしたような気がしてベランダに出た。
 あたりはただ静かで、見慣れた大きな庭園の景色は完全に闇に沈んでいた。ふと見上げると、天には星々が瞬き、天幕ごと降り落ちるように見えた。ジョルジョは最後に教皇に謁見したときの事を思い出していた。
『命の終わりが近付くと、色々なものがはっきりと見えてくるものだよ。ジョルジョ、私は君がこの世に生れ落ちたその時から君を見ていた。君は実に素晴らしい若者に育っている。チェザーレの教育がいいのだろうね。多くを悩み、苦しんでいるのがよく分かる。チェザーレが君に求めているものが分かるかい、ジョルジョ。それは答えではないのだよ、問い続けるということだ。それが君を特別な為政者に仕立て上げるだろう』
『答えは永遠に与えられないまま、僕はどこにも辿り着かないような気がします』
 教皇は震えながら苦しみを吐き出したジョルジョの右の手を取り、その手掌に口づけを分け与えた。
『この地球という星のどこかに、誰かが、あるいは何かが君のこの手を待っている。私に見えているのはそれだよ。もしかするとそれが答えなのかもしれないね。君がヴォルテラという器を離れるとチェザーレは苦しむだろうけれど、君はもっと広い世界を見る必要があるようだ。いつかここに戻りなさい。神の懐に。そのための長い道を、必然に導かれて君は歩き続けるのだろう。ジョルジョ、私は君に幸せでいてもらいたいのだ。そしてそれはチェザーレも同じなのだよ』
 その年、ジョルジョは十五で、教皇からヴォルテラの次代当主の証である指輪を与えられていた。
 ジョルジョはベランダに崩れ落ちるように座り込み、一人、自分の身体を抱き締めた。
 この地球のどこかに。
 それは幻想かもしれない。どこか欠けていると思い続けた何かが、この空洞を埋めてくれる何かが、この地球の上のどこかにあるというなら、今直ぐにその欠片でも見せて欲しいと願った。だが、神はいつものように沈黙したままで、ジョルジョは冷たいベランダの床に崩れたまま、このまま自分も冷たくなっていくのだと思っていた。
 意識は半分起きたままだった。大きな手がジョルジョの肩に触れた。ベッドに戻りなさいと言われて、ジョルジョはゆっくりと立ち上がり、もう何も考えずにベッドに潜り込んだ。一晩中、チェザーレはジョルジョの眠るベッドの傍に座り、時々髪を撫で、涙を指で拭ってくれていた。
 幼い頃、熱を出せば、チェザーレは全ての仕事を誰かに上手く任せてしまって、ずっとジョルジョの傍に座ってくれていた。ジョルジョは母も父もないことで苦しんだことも、辛いと思ったこともなかった。それが実は欠けているものの本質だとしても、思い起こせばいつも誰かがいて、例えばリオナルドであったり、料理番のマリアであったり、ジョルジョの世話をしてくれる使用人の誰かであったり、ドットーレ・ビテルリであったり、そしてヴォルテラの当主その人であったり、誰かがいつもジョルジョの傍にいた。子供の頃、勉強を済ませると、チェザーレはジョルジョを主人のベッドに一緒に入れてくれて、わくわくするような冒険の物語を聞かせてくれた。世界中の神話も、お伽噺も、聖書の物語も、全てチェザーレの声で覚えていた。アンデルセンの人魚姫の物語を聞いたとき、多分まだ学校に通う年でもなかったはずだが、ジョルジョはチェザーレに言った。
『僕が王子なら、人魚姫を泡になんかしない。ちゃんと選び間違えないようにするよ』
『だが、人間のお姫様の方も、王子を心から愛している優しい女性なんだよ。選べなかったら、どうする』
 わからない、とジョルジョは答えて急に不安になった。チェザーレはジョルジョの髪を撫で、落ち着いた柔らかい声で言った。
『それでも選ばなければならない時が来たら、選ばなくてはならないんだよ』
『人魚姫を泡にしないほうが、大事な仕事に思えるよ』
『それなら、それがお前の仕事だ。ジョルジョ、我々はずっと、何世紀にも渡って間違い続けてきた。お前が何を選んでいくのか、私は少し怖いんだよ』
 ジョルジョはあの日、そう呟きながら抱き締めてくれたチェザーレの温もりを今でもはっきりと思い出すことができた。母親の顔は知らず、一年のうち父親の家で過ごすのは僅かに数日に過ぎなかったジョルジョの幼い日々を支えたのは、明らかにチェザーレの手だった。ジョルジョは涙を流し、縋るような声で呟いた。
「父さん」
 チェザーレは黙ってジョルジョの髪を撫でていた。
「僕は人を殺してしまった。身体に刃を突き立てたのではなく、もっと残酷な方法で、本当の意味で、殺してしまった」
「ジョルジョ、お前が罪を犯したというなら、それは全て私が引き受けよう。だから、私の傍を離れるな」
 ジョルジョは目を閉じ、漸く眠りに落ちた。


 それから半年の後、十六になった誕生日に、ジョルジョ・ヴォルテラはローマを出奔した。その日は天から銀の雫が降り注ぎ、すっかり短くなったジョルジョのくすんだ金の髪を濡らし続けていた。
 ヴァチカンの小さな教会にジュリオ・カヴァリエーリが見習い神父として着任していることは、受け取った手紙に記されていたのだが、一度も会いに行ったことがなかった。ローマを発つ数日前に、ジョルジョはあのソドミアンの収集家から奪ったジョルジョーネの天使の小さな絵だけを持って、ジュリオの教会を訪ねていた。ジュリオは驚き、そして再会を喜び、小さな教会の中庭で何時間も座って、これまでのことを尋ねた。だが、ジョルジョは多くを語ることはできなかった。
「ジュリオ、お願いがあるんだ」
 ジョルジョが髪を短くして欲しいと言ったとき、ジュリオは理由を尋ねなかった。真夜中、月の照る中庭に椅子を持ち出して、ジュリオはジョルジョの髪を短く刈ってくれた。軽くウェーヴして耳を覆い肩にも届きかけていたジョルジョのくすんだ金の髪は、月の雫を照り返しながら地面に落ちていった。
 ジュリオはもう何も聞かなかった。ただ、時々手紙をくれないか、と言った。ジョルジョはそうする、とだけ答えた。ジョルジョーネの天使はジュリオに預けた。
 その雨の日、ジョルジョは遠い港町の人足寄席場に行き、遠洋に出る漁船に乗り込んだ。これまで鍛えていた身体は決してみすぼらしいはずもなかったのに、屈強な船乗りたちに囲まれると貧弱で惨めだった。神の使いとしての美しい身体を他人に示すためには役には立ったとしても、一人で現実の荒波を越えていくためには何の助けにもならなかったのだ。だが潮と太陽の熱に焼かれ、嵐を乗り越え、海の上の仕事を一人前にこなせるようになると、始めは甘っちょろい小僧とさげすんでいた船乗りたちも、ジョルジョを一人前に扱ってくれるようになり、喧嘩、酒、賭け事の真剣勝負の相手になってくれた。
 時折、海には雨が降った。真夜中、星の下で、あるいは月だけの明りに浮かび上がる海面に落ちる雨は、静かに海に溶け入った。ジョルジョは一人甲板に立ち、月の明りを映した小さな雫が海に音もなく消えゆく様子を見つめながら、人間の運命とはこういうものだと、こういうものであるべきなのだと思った。ヴォルテラの次代当主という重い名前を捨てた今、ジョルジョもまた誰にも知られず海の上を彷徨う、名もないひとりの員数に過ぎなかった。果てなく孤独で、救われることもなかったが、一人静かに海に浮かび、いつかは泡として消え行く運命にあることを、是として受け取るべきなのだと考えていた。
 むしろ、名前を失うことは今、ジョルジョにとって心地よいことだった。
 船にはジョルジョとあまり年の変わらないアラブ人のアリという若者が乗っていて、事ある毎に喧嘩しているうちに一緒に悪さをするようにもなった。カソリックの教えと共にありながらも、ジョルジョはアラブの国々に親近感があった。チェザーレはカソリックの総本山に属しながら、ユダヤやイスラムの本山とは深い繋がりを持っていた。その理由まではジョルジョはまだ教えられなかったが、アラブ圏にはチェザーレの親しい友人が多くいて、ジョルジョは幼い頃から彼らを訪ねる旅に同行させられていたからだった。
 港ごとに船乗りたちは女を買いに出た。アリは誘われて出かけて行ったが、ジョルジョは一度も女を買いに行くことはなかった。
 港に船が着くと、ジョルジョは出航までの数日あるいは一週間を、その土地を歩き回ることに費やし、本で見た景色を確かめ、美術館や博物館があると一日そこに入り浸り、特に遺跡のある町に行くと、夜も古代からの息吹を残す場所で眠るようになった。遺跡の中で、ジョルジョは時には何千年という時間を遡り、古代の石工が築いた礎、今では欠片となった器や杯と語り、その場所で命を終えた幾万、幾十万もの魂を想った。
「あり得ねぇよ。お前は修行僧か。女を知らねぇんじゃないだろうな」
 アリには何度も馬鹿にされたが、女を抱くよりも、遺跡で夜を過ごすことのほうに興奮した。そのうちに港から遥かに離れた場所へも出かけたくなり、船の出航に間に合わないことに気が付くと、やっと慣れ始めた漁船を降り、次の船を紹介してもらいながら、旅を続けた。
 ある時、アルゼンチンの港でもう何隻目かになる次の船を待っていると、アリがそこに立っていて、言い訳がましく呟いた。
「どうもお前がいないと調子が狂うんだよな」
 南米大陸でインカ、マヤ、アステカを始めとするインディオの遺跡を案内してくれたのはアリだった。アリは奇妙な知識を随分持っていて、世界中の埋もれたお宝のことを異常なほどよく知っていた。アリの父親はトレジャーハンターで、アリは子どもの頃からその父親に連れられてあちこち出掛けていたからだった。
 南米の夜はジョルジョを苦しめた。いつものように遺跡に潜り込んで夜を過ごしていたジョルジョは、己のうちにある血と闘い続けなければならなかったのだ。それはまだ十歳にもならないうちにチェザーレに与えられた、スペイン人の宣教師が書いた、南米での白人によるインディオの虐殺の報告書を読んで以来、ジョルジョの身体の芯に燻っていた原罪のようなものだった。
『白人の遺伝子には支配したい、という塩基配列が組み込まれている。アメリカ大陸やアフリカ、アジアで白人がしてきたことを思い出しなさい。今もやはり、中東で同じ事が起こっている。相手が有色人種だと、それが遺伝的に劣っている別の生き物のように感じてしまうのだ。だから首に縄をかけて奴隷にし、逆らえば紙くずのように殺してきた。アフリカから黒人を連れて行く時も、あり得ない環境の船に押し込め、そのうちの何パーセントかが生き残ればいいと考えた。もしも相手に人格を認めれば、そんなことはできない。よく覚えておきなさい、有色人種には白人に対する降り積もった憎しみがある。お前がそれをどう自分のうちで処理をするか、それはおまえ自身が決めなさい』
 この土地に恨まれている、とジョルジョは思った。あるいはアリも、アラブの血の中にジョルジョとは相容れないものを抱いているのかもしれない。いや、人種の問題ではないのだろう。あのフィレンツェのイコン画家もまた、彼を誘惑し地獄へ誘おうとしたジョルジョを憎み、咽喉を締める機会を地獄から窺っているに違いない。
 そうだ、俺はあの画家を地獄の扉の前に連れて行き、扉を開けてやり、背中を押してしまったのだ。
 そしてあの男は、今地獄の底から立ち現れ、ジョルジョの足を摑み、果ての無い闇の中へ引きずり込もうとしている。
 メキシコの村で高熱を出したジョルジョを救ってくれたのは、インディオのシャーマンだった。シャーマンは古の憎しみなど今は何の関係もないというように、白人であるジョルジョの手を握り、薬草と祈りによってジョルジョを癒そうとしてくれた。
 ジョルジョはいつまでも下がらない熱に、自分は遠からず死んでしまうのかもしれないと思った。何故この苦しみの傍らにチェザーレが居てくれないのかと思い、ただチェザーレの手を求めて涙を流した。そして、生まれた国や愛しい家族からも引き離され、暗い船底に押し込められて見知らぬ国へ連れて行かれる途上、足元のない海の上で腐るように命を落とし、海へ投げ捨てられたであろう幾万もの命を思った。
 死において、名前を記されることも呼ばれることもなく、ただの員数であるということは、どれほどの絶望であったろうか。
 それをインディオたちに、あるいはアフリカの黒人たちに強いた白人の罪とはいかなるものであったのか。あるいはジョルジョの誕生の頃に終わったあの戦争の中で、大量の虐殺が行われ、あるいは捕虜となり、記録に残される時にはただ数となり、個人の名前を呼ばれることもなく死んでいった人々がいることを思った。そのことを考えた時、海に落ちる雨を見ながら、名前のないことを心地よいとまで思った自分が許せないような気持ちになった。人種の問題ではなく、人はみないつでも罪人になれる。無名となることは存在の否定だと、そのことを誰も他人に科してはいけないのだと、熱病に蝕まれながら、ジョルジョはからからになった咽喉の奥で、声にならない声を上げ続けていた。
 ジョルジョは苦しみのわけを消化できないまま、インディオの村を離れ、アリに負われるようにして、熱のこもる身体でニューヨークに辿り着いた。
 まだ熱が下がりきらないジョルジョに、アリはあてがあるのかと尋ねた。ジョルジョは大丈夫だと答え、心配するアリに摩天楼の一角に大きなオフィスを構える実業家のところまで送ってもらった。それはあの、幼いとも言える少年の日、東洋の芸術を目の前に広げてくれた、そして初めて性的な欲望を満たしあったレオという名前の収集家だった。

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☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(3) 

 多分、その男は、名前を失った自分を分からないだろうとジョルジョは思っていた。だが、ぼろぼろの格好でやってきたジョルジョに、咎める秘書を押しのけるようにして近付き、頬を両の手で包むようにしてじっと目を見つめ、レオはジョルジョを思い切り抱き締めた。
「本当に君か、見違えたよ」
 レオは多分もう五十に手が届くという歳のはずだったが、あまり変わっていないように見えた。もともと背が高く、黒髪が艶やかで、精悍な顔つきの男だったが、今でも身体に張りがあり、黒髪には白いものが混じっていたが、以前のままの精悍な顔は若々しさを保っていた。気が良さそうな、それでいて、仕事から得たものであろう自信が漲っている顔だった。
 ニューヨークの街を見下ろすレオの部屋に連れて行かれ、ガラス張りの浴室で月の光を浴びながら、ジョルジョはゆっくりと大きなバスタブに身体を伸ばし、不思議な違和感を覚えながら目を閉じた。
 広々とした部屋、金に糸目もつけずに手に入れたお気に入りの絵画、そんなものがこの空間にあることに違和感を覚えることのない調度、宇宙さえ自分のものだと主張しているような高みに住み、地面を歩く人々を別の種類の生き物のように感じる。こんな生活を、何も疑うことなく、ジョルジョ自身も営んでいた。だがこの一年近く、アフリカや太平洋、南米、北極圏を旅する間に、ジョルジョ自身はそういった世界から遠くに離れてしまったのだろうか、あるいはどれほど流離っても結局は帰る世界はあの場所しかないのか、レオの献身とも言える暖かさに触れながら、ジョルジョはまだ熱病に魘されたままで目を閉じた。
「他人と一緒に住むことを考えていなかったんだ」
 レオはベッドがひとつしかないことについて言い訳をしたが、ジョルジョはレオと同じベッドに眠ることに全く抵抗はなかった。それどころか、無一文で何も持たない自分にはそういう選択肢しかないのだろうと思っていた。だが、レオは自分はソドミアンではないし、その必要はないのだと言った。
「君が僕を頼ってくれた、それがただ嬉しいんだよ」
 レオとはベッドの中で色々な話をした。レオはコンピューターの基礎を作っている大企業の社長で、たまに仕事の話もしたが、話の中心はやはりレオの収集している東洋の絵画についてだった。
「日本に行ったことがあるの?」
「あぁ、何度もね。そうだ、ジョルジョ、今度長い休みが取れたら、君を連れて行ってやろう。君はきっとあの国を気に入るよ」
 それから二人はあの修復師、エウジェニオの思い出を語り合った。レオは何か言いたそうにしながら、結局黙った。ジョルジョが気にすると、レオは顔を上げて決心したように言った。
「ジョルジョ、私と一緒にこの街で暮らさないか。私には妻も子供もいないし、いずれはこの会社を君に譲ってもいい」
 ジョルジョは何を言われているのかさっぱりわからないまま、考えておくよ、と言った。
 レオの帰りが遅い日、ジョルジョは一人ガラス張りの部屋から地上の星々を見下ろし、一年足らずの海の上の生活、中東や北欧、アフリカや南米を巡った船の旅を思い、魂の在り処を求めた。その何処にも居場所を見出せないままで、ジョルジョはまだ答えを受け取っていないのだと思った。
 ニューヨークの摩天楼、降り注ぐ星の光よりも遥かに数が多いとも思われる地上の星々、その高みから見下ろす世界。ガラス張りの窓から外を見つめていると、そのガラスの向こうにあのイコン画家が立っていた。
 ガラスの向こうの暗闇から、画家の空洞のような目がジョルジョを見つめている。地獄の悪魔に食い千切られたのか、その節くれ立った指には肉の一片もなく、骨ばかりになりながら、ジョルジョのほうへ手を差し伸べる。お前はこの地獄へ共に落ちなければならないと言われているような気がした。地獄の苦しみから救ってくれたはずの、同じ名を持った教皇も修復師も、もうジョルジョの傍にはいない。
 元気のなくなったジョルジョを心配したのか、レオは様々なところへジョルジョを連れ廻してくれるようになった。オフ・ブロードウェーの女優はアンジェリーナという名前のレオの二回りも年下の従妹で、生命力に輝いた女性だった。
「レオはつまりインポなのよ。あなたはゲイってわけじゃないんでしょ」
 あまりにもあっけらかんと扱われる性は、ジョルジョを幾らか戸惑わせながらも、別の世界があることを教えてくれた。アンジェリーナとのセックスは単純に楽しかった。彼女と寝ながら、ジョルジョは日本の春画の開け広げな逞しい性の表現を思い出していた。いつかはブロードウェーに上り詰めるのが彼女の夢だった。そしてジョルジョはこの女性がきっとそうなるだろうと思っていた。アンジェリーナとセックスをしながら、ジョルジョは少しずつ、快楽を追い求める性の営みが、人間として正しい行為のひとつなのだと思えるようになった。
 レオがコンサートやオペラに連れて行ってくれると、ジョルジョは婦人たちの熱い視線を自然に受け入れるようになった。彼女たちは駆け引きを楽しむことを教えてくれ、ジョルジョは女性との会話や視線のやり取り、疑似恋愛のルールを身につけていった。その先には明らかにベッドの上での睦みごとがあったが、ジョルジョは特別な事情がない限り、彼女たちの誘いを断らなかった。セックスが神への背徳ではないということを確かめる作業のような気がしていた。
 だが、戻ってくると、レオのベッドの上でジョルジョはよく魘された。苦痛に塗れた快楽に弄られて身体の芯が疼き、真夜中に目を開けると、あのイコン画家が身体に乗ってジョルジョの肌を愛撫していた。ジョルジョの性器は勃ち上がり、先から背徳の雫を零し、張り詰めた肌には鳥肌が立ち、女性との幸福なセックスでは味わえない禁断の悦びに身体の芯が震えた。ジョルジョは冷や汗をかきながら、恐ろしい快楽をやり過ごさなければならなかった。
「ジョルジョ」
 レオは忙しいときには仕事場のソファで眠っていることがよくあったが、時々寝室にやってきては、ジョルジョを悪夢から救ってくれた。ジョルジョは目を閉じてレオの手を感じながら、それでも自分はこの手がチェザーレの手だったら、と思っていることに気が付いて、不意に身体を震わせた。
 今もまだ、ジョルジョは、ヴォルテラの名前がなくても生きていける確かな力を持った一人の正しい人間となり、その上でチェザーレと向かい合いたいと願っていた。
 そしてその日、待ち合わせた女性とホテルで抱き合った後、少し涼みたいからとタクシーを断り、真夜中のニューヨークの街を歩いていたとき、ある浮浪者の視線をまともに感じて振り返り、ジョルジョは震えた。
 そこに立っていたのは、確かにあのイコン画家だった。
 黒い影は狭い路地の間でふわりと浮き上がっていた。影は動かなかったはずなのに、ジョルジョを手招きしているように見えた。ジョルジョは足が全く動かないことに気が付いた。影は悪魔の弟子を従えていた。路地に引きずり込まれ、白いシャツをたくし上げられ、スラックスの上から性器を弄られたとき、ジョルジョは無様なほど必死に暴れて、這うようにその場から逃げ出した。
 その場所が、ゲイの溜まり場であることを知ったのはずっと後のことだったが、ジョルジョはレオの部屋に逃げ帰り、風呂場に行って身体を狂ったように擦って洗い、たまたま戻ってきたレオに何事かと聞かれても答えられなかった。
 全て罰だということがわかっていた。ジョルジョは素っ裸のままレオのところに行き、レオをベッドに誘い、跪いてレオの性器を口に銜えた。始めこそ辞めなさいと言っていたレオが、性器を硬くして息を荒げ、震える手でジョルジョの頭を押さえてその咽喉の奥に精液を送り込んだとき、ジョルジョは躊躇いもなくそれを飲み、唾液と精液で濡れたままの唇でレオの性器を舐め続けた。そしてもっと早くにこうするべきだったのだと思った。
 だが、レオは崩れるように床に座り、ジョルジョを抱き締めた。
「そんなことをしないでくれ、ジョルジョ。そんなことをしなくても、私は君に全て捧げるつもりなんだ」
「僕はもうヴォルテラの名前も何もかも全て捨ててきた。何も持たない。こんなことくらいでは、あなたが僕を助けてくれたお返しにもならない」
「君にヴォルテラの名前がなくても構わない。いや、そうじゃない。私は君に謝らなければならない。チェザーレ・ヴォルテラに言われて、ずっと君を探していたんだ。君がローマを出奔した後、チェザーレが狂ったように君を探していたのを、君は知らないだろう。あの屈することのない王のような男が、まさに恥も外聞もないほどに苦しんでいるのを見て、誰だって彼のために何かがしたいと思った。君が僕のところに来たことも、チェザーレはみんな知っている。アリと君が出会ったのが唯一の偶然だ。アリは君が最初の船を降りた後で、君がジョルジョ・ヴォルテラであることを知って、君を探し続けていたんだ。アリは君を騙したんじゃない。あいつもしょっちゅう親父に逆らって家出ばかりしているから、君に同情もしたんだろう。アリの親父とチェザーレは盟友だ。南米で熱を出した君を、アリが僕のところまで送ってきたのも偶然じゃない。許してくれ」
 ああ、そうなのか、とジョルジョは納得した。不思議と、怒りも絶望も感じなかった。それどころか、チェザーレがずっと自分を見守っていてくれたことを知って、喜びと安堵すら感じる自分が情けなかった。
 それから数日、ジョルジョはレオの収集した絵画や版画に埋もれて時を過ごした。レオは少し離れたところからジョルジョを見守ってくれていたようだが、ある日、付き合わないか、と言って真夜中のニューヨークの町にジョルジョを連れ出した。飲みにでも行くのかと思っていると、着いた先は美の殿堂、メトロポリタン美術館だった。ジョルジョが何事かとレオを見ると、レオはまるで何か決心をした後であるかのような強い意思を持った顔でジョルジョを見つめ、優しく微笑み、それから警備員に親しげに話しかけた。
 夜中の美術館はまるきり別世界だった。闇の中で蠕く絵画の中の人物、静物でさえ、命の微かな迸りをジョルジョに投げ掛けた。彫刻はもうそこに立っていることさえ苦痛であるかのように静かに鼓動し、ヴィーナスは髪を洗い、天使は美術館の高い天井の宇宙に舞い上がった。
 ジョルジョはそこに確かに神を見た。修復師のエウジェニオが語っていた『神』が確かにそこにいた。神は静かに銀色の雫を天から零していた。ジョルジョは目を閉じ、この世界にこれらの数多の芸術品が遺されていることに、心から感謝し、悦びに震えた。幾百年も前の芸術家たちが遺した作品には、彼らの手にその瞬間に宿った神の足跡が確かに標されていた。ジョルジョは歯が噛み合わなくなっていることに気が付いて、思わず自分の腕を抱き締めていた。
 レオは夜通し仕事をしている友人を呼び出し、ジョルジョを紹介した。
 その日からジョルジョはメトロポリタンに通い詰めた。数週間が経った頃、メトロポリタンの修復責任者がレオのオフィスに駆け込んできた。
「レオ、あの子は何なんだ」
 興奮のままに叫んでから、責任者はレオの傍にいるジョルジョに驚いた顔をしたが、直ぐに気を取り直したようだった。
「何って、エウジェニオ・ブランコを知ってるだろう」
「伝説の修復師だ」
「そのエウジェニオの最初で最後の弟子、唯一の弟子だよ。エウジェニオは息子だと言った。神の手を持っていた男が認めた、自分以上になる手だと」
「いや、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、メットで雇わせてくれ」
 ジョルジョはしばらくレオの顔を見つめていたが、結局、返事は保留した。
「即答するべき申し出じゃないかな」
 レオは決心したような強く優しい声で諭すように言ったが、ジョルジョは首を横に振った。
「知ってるかもしれないけど、叔父は僕が修復師になりたいと言った時、初めて無茶苦茶に怒ったんだ。レオがそれを僕に薦めたんだと知れたら、レオはきっと殺されちゃうよ」
「それでもいいさ、ジョルジョ。でも、多分それは君の誤解だよ。チェザーレは、君が修復師になることに怒ったわけじゃない。君がヴォルテラを継がないと言ったことに怒ったんだと聞いている」
「同じことだよ」
 レオはジョルジョをソファに座らせて、自分も座った。
「ジョルジョ、もう一人のエウジェニオの話をしないといけないようだね。チェザーレは前教皇が亡くなる前、言われたそうだよ。ジョルジョを少し自由にさせてやらないか、と。教皇はね、エウジェニオという名前の一人の人間として、君の幸福を願う一人の人間として、チェザーレに話をしてくれたんだと思うよ。このままではあの子の心にある空洞は埋められない、修復師になることでそれが癒されるなら、それもあの子と神の対話のひとつなのだろう、と。君と離れて辛いのはむしろチェザーレの方だと、教皇はよく知っていたんだよ。教皇はチェザーレを慰めて、こうも言ったそうだ。ジョルジョが仕える教皇は私より三代先の北の異国の教皇だ、と」
 ジョルジョはその予言に、身体の芯が震えるような気がした。
「そんな予言はさすがに信じられないけどね、でもジョルジョ、二人のエウジェニオがどれほど君を愛したか、そしてチェザーレがどれほど君を愛しているのか、それだけは確かだと思うんだよ」
 それから一年ばかり、ジョルジョは返事を保留したままメトロポリタンに通い詰めた。アリだけでなく、トレジャーハンターという種類のとてつもなく怪しい職業の男たちとも知り合いになり、しばしば『お宝探し』に同行するようになった。メトロポリタンとは雇用契約書を交わさなかったので、給料はなけなしのバイト料だけだった。修復責任者は申し訳ないから契約させてくれと何度も言ったが、ジョルジョはむしろ縛られることを恐れた。ジョルジョは相変わらずほとんど無一文に近かったが、不自由のない暮らしはレオのお蔭で保たれていた。
 心の片隅に、ずっと密かな音楽を奏でている東洋の神が描いた世界は、何故か大事に仕舞われたまま、ジョルジョはその場所だけを避けていたのかもしれない。誰もいなくなった真夜中のメトロポリタンで、ジョルジョは何時間も日本の画家たちが描いたものと向かい合っていた。この絵画の中にある不思議な質感、それは密やかに天から落ちる湿度、肌に纏わりつくような空気、ジョルジョがこれまでに見た世界にはない、何か別の神の恩寵のようだった。
 ジョルジョはその思いをジュリオ・カヴァリエーリに何度か手紙で書いた。ジュリオはいつも優しい手紙をくれた。
『君がそこを避けるのは何故だろう。そこに君が本当に求めるものがあるということを、君は本能的に察しているからかもしれないね。それなら、君は是非ともそこに行くべきだ。いずれ必然に引かれて君はその場所に辿り着くのだろうけれど。もしも日本に行くことがあれば、僕の姉を訪ねてくれないか。姉は東京の大学で脳神経科学の勉強をしているはずだが、家を飛び出してしまったので、今は連絡がなく、心配しているんだ』
 何かがあって決心したわけではない。ただ静かに降り積もっていた想いが、もうこれ以上は受け止められなくなっただけかもしれない。
 十八の誕生日に、ジョルジョは、有名ホテルのフロアを貸し切ってパーティをしてくれるというレオの申し出を断った。アンジェリーナに怒られるよ、と言って不思議そうにするレオに、ジョルジョは二人だけで過ごしたいのだと言った。
 その日、ジョルジョがローマを出奔した日と同じように、静かに雨が降っていた。ジョルジョはゆっくりと風呂に浸かり、浴槽からガラスに降りしきる雨を、雨にけぶる街の明りを見つめていた。レオが、彼自身は着衣のまま、ジョルジョの髪を洗ってくれた。そう言えばローマを出るときは、ジュリオが髪を切ってくれたっけ、とジョルジョは考えていた。身体に染み渡るようなジュリオのバリトンの声を思うと、何故かやはり神は信じるに値するものだと思えてくる。
「誰か、他の人のことを考えているね」
 レオの指が髪の間で地肌に触れていると、自然に興奮してくるような気がした。
「神学校の上級生のことだよ。優しい人だった。ローマを出るとき、髪を切ってもらった」
「好きだったのか」
「どうして? 彼は神に仕える人だよ。僕がキスをねだったら応えてくれたけど、それは神の仕事としてだ」
 レオは答えなかった。髪を洗い終わると、シャンパンを飲もうか、と言って浴室から出て行った。
 ジョルジョは浴槽から出て、ガラスの前に素っ裸のまま立ち、やはりここは決して自分の居場所ではないと思った。ガラスの向こうに映るジョルジョ自身の立ち姿は街の天空に浮かび、その顔はあのイコン画家の顔のままだった。背徳の悲しみで、画家の顔には雨が涙のように降りしきっていた。
 レオはバスタオルを持ってきて、ジョルジョの身体を抱き締めるようにして拭いてくれた。その手を止めて、ジョルジョは振り返り、摩天楼の街を見下ろす場所でレオの唇を求めた。ジョルジョはまだ着衣のままだったレオを浴槽に引きずり込み、それから漸く服を脱がせて、レオの身体を隅々まで洗い、素っ裸のまま一緒にシャンパンを飲んだ。そして、自然にベッドに行き、自然に求め合った。アンジェリーナがレオは不能だと言っていたのは、あながち嘘でもなかったのだろうが、その日レオは自然に興奮して、ジョルジョの身体を慈しんでくれた。
「君の身体からは不思議な匂いがするね」レオは軽く喘ぎながらジョルジョの耳元に囁いた。「君が興奮している時なんだろうか。そうなら嬉しいけどね。何というのか、とてもオリエンタルな香りだ。白檀かな」
「レオ」
 ジョルジョは身体が興奮するに任せて、その名前を敬意と愛情と感謝を籠めて呼んだ。そして、その名を呼ぶ自分の感情にはやはり欠けているところがあるのだと、大切な、まだ呼んでいない名前があるのだと思った。
 そうなのだ。人には名前がなくてはならない。こうやって心を籠めてその名を呼び、呼ばれ、そうして死のときには誰かが悲しみと愛情を籠めてその名前を呼ばなくてはならない。ただ員数としてしか数えられなかった、墓碑銘に名前もなく数のうちに押し込められた過去の戦争や病気や虜囚の犠牲者たちが受けた苦しみや悲しみを、人は決してもう誰に対しても与えてはいけないのだ。
 レオを受け入れながら、ジョルジョは、本当に愛する人と肌を合わせるということはどういうことなのかと考えていた。レオを尊敬し、ある意味では愛していると思ったが、それが心の空洞から突き上げるように求めるものとは思えなかった。
「生涯」レオはジョルジョの身体の内に彼自身を埋めて、ジョルジョの耳元で囁いた。「君に仕えるよ。私の生涯は君のためにある。君がエウジェニオに連れられてローマの私の家に来たときから、私はずっと君の僕だった」
 レオの心はありがたかった。だが、やはりそれはジョルジョの空洞を埋めるものにはならなかった。
「レオ」何だ、とレオは優しくキスをくれる。「お金を貸してくれないか」
「私のものは全て君のものだ。貸すなんて言うんじゃないよ。何か特別な事業でも始める気になったのかい」
「貸して欲しいんだ。日本までの片道の飛行機代だけでいい。ちゃんと返すよ」
「冗談だろう。私が連れて行くよ」
「一人で行きたいんだ。お願いだから」
 レオが持たせてくれようとした大金のほとんどをジョルジョは残し、本当に飛行機代だけを手に、マルコ・ポーロが黄金の国と言った東洋の果ての国に辿り着いたのは、やはり雨の日だった。


 ローマを離れても、ニューヨークを離れても、あのイコン画家の魂が追いかけてきているような気がしていた。悪夢を振り切るように着の身着のままで旅を続け、神社や寺に泊まり、頼み込むようにして仏具や寺宝を修復し、辛うじて糊口を凌いでいるうちに、静かに彼の存在は知れるようになっていた。その彼には名前がなかった。
 元華族の大和高顕に拾われたのは、ある寺からの紹介で大和家のコレクションを整理しに行った時だった。大和高顕は狡猾な男だったが、人間を見る目だけはあったのかもしれない。その男と決別するまでの約一年の間は、ジョルジョにとって地獄のような時間と果てなく昂ぶる心を慰め天にも昇るような時間を与えてくれた。ジョルジョは『大和竹流』という名前を与えられ、そしてその名前は表に出せない宝を隠し持つ収集家、高貴な血を受け継ぐ名家の間に知れるようになり、高顕に利用されていることを知りながらも、ジョルジョは目の前に現れる、焦がれ続けた神の宿る作品を前に、ただ休むことなく興奮し続けていた。
 激しい熱情を秘めた大和家の娘、青花はまだ十六と聞いていたが、ジョルジョは、絵画や版画、日本が生み出したあらゆる職人の技に触れる時に感じる興奮との区別がつかないまま、その熱情にほだされて、恋に落ちた。少なくとも恋だと思い込んでいた。
 大和高顕と決別した後、ジョルジョは満たされない身体の空洞が、いつも内側から自分を苦しめているのだと改めて思った。ジョルジョは魘される原因を身体の外に放り出すために、身体を提供する相手となっていた宝石商の女主人に金を借りて、フィレンツェからあのイコン画家の残したものを全て買い取り、取り寄せた。特に画家が残した最後の彫刻は、ジョルジョがその画家を殺したという罪を告発するものであり、どうしても隠し通さなければならなかった。そして、それを鬼の棲む島に閉じ込めようと思った。時々、その場所を訪れ、その礼拝堂に閉じ籠るときだけ、ジョルジョはまさしく自分自身である悪魔と対峙し、吐くほどに苦しみ、そしてそこから出れば全てを忘れるようにした。
 ある夜、佐渡から戻るフェリーの甲板から、ジョルジョは、いやその時は既に大和竹流という名前を自らの手で選び取っていたのだが、古い時代の俳人が残した句のままに、天の川が佐渡に横たわる宇宙を見上げ、ふと、ジュリオの手紙を思い出した。そして、まるで救いを求めるように、敬愛する上級生の姉を捜し求めた。
 その女性を訪ねて辿り着いた先は、脳外科医の相川功の家だった。
 ジュリオの姉は自殺していて、身元引受人のいない外国人のまま処理されていたが、その人を丁寧に葬ってくれたという男がいることを知った。相川功という男とジュリオの姉の間に何があったのか、それは恐らく女性のほうの満たされぬ恋情だったのだと思われたが、ジョルジョは相川功自身の口から事実を聞きださねばならないような気がしていた。だが、後から考えてみれば、それはただの糸口だったのだろう。ジュリオが、かねてからずっと日本に行くことを勧めてくれていたのは、神の宣託だったのかもしれない。
 相川功の家を訪ねたとき、その家の扉は、まるでジョルジョを待っていたように開いた。玄関から飛び出してきたものは、まるで獣のように俊敏な動作で脇をすり抜けかけたが、後ろから追いかけてきた声に驚いて、つんのめるようにジョルジョの腕の中に崩れ落ちた。
 冗談ではなく、南米の森の中の光景を思い出した。
 それはまさに、突然に襲い来る野生動物の気配だった。だが、その野生の生き物はむしろジョルジョを恐れ怯むように、彼の腕の中で意識を失った。その一瞬、ジョルジョを見上げた目、その右目は深い森の碧を写し取り、左の目は暗い夜の闇を写し取っていた。髪は黒くも見えたが、光に透けるとほとんど金に近い照り返しで、身体は痩せて儚くも思えたのに、その筋肉や肌の内に生命の迸るような躍動を感じた。
 運命を感じたといえば嘘になる。しかしジョルジョは、その一瞬、明らかに光を見た。暗い聖堂の扉を開けたとき、突然開かれた世界に満ち溢れた、日の光だった。
「まこと」
 追いかけてきた声の主は、ジョルジョの顔を見て足を止めた。その相川功の顔を見、声を聞いた瞬間に、ジョルジョは既にこの男には何の咎もないと気が付いていた。だが何故か、今この手の中に抱いている不思議な、そして不安な生き物を離したくない、もう一度この目と手で確かめたいという思いが、幼い頃からずっと身体の外に追い出すこともできなかった空洞の内側から湧き上がってきた。ジョルジョ・ヴォルテラの心の内に巣くっていた空洞が内側から音をたてたのは、恐らく初めてのことだった。
「行くところがないんです。私を雇っていただけませんか」
 一体、何を相川功は思っただろう。そのときには、相川功もこの異国人があの女性の関係者であることを悟っていたはずだった。功は一度、ジョルジョの腕の中に抱かれたままの子どもを見つめて、それから静かに顔を上げた。
「入りなさい」
 教皇が予言したとおり、必然に導かれてジョルジョ・ヴォルテラはこの場所へやって来た。その時、彼は二十歳で、腕の中に飛び込んできた子どもは十一だった。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(1) 

 遥か地平線まで深い緑がうねる。緑はずっしりと湿度を湛え、その足下に無数の命を孕んでいる。
 広げた羽根は吹き上がる風で膨らみ、身体は重力の支配から解き放たれた。
 宇宙(そら)から銀の雫が降る。金の雫が降る。光の雫はうねる緑の上で雨になる。地平線に連なる天の縁には、柔らかな藍が染み出している。太陽はまだあの地平線の下、地球の裏側なのだ。
 天をまたいで、砂浜の粒のような無数の星が煌めき、薄い絹を投げ上げたように川を描く。緑の畝の隙間を縫って、地にも川が映し取られる。
 銀の雫が降る。宇宙の微かな光は、雨になって地球の川に降りしきる。川はやがて大海に届く。その海にも銀の雫が降りしきる。
 シロカニペ ランラン ピシュカン コンカニペ ランラン ピシュカン
 雨は川に落ち、海に落ち、誰にも気が付かれることなく地球の一滴になる。大海原に呑み込まれながら、確かな生命の一滴となる。
 雨の気配に目を覚ました。


          * * *

 遥か遠い空に大鷲のカムイがゆったりと舞っている。真は珍しく高く澄み渡る東京の空を、寝転がったまま見つめていた。暫くの間意識を失っていたのかもしれず、今でもぼんやりと定まらない自分自身は、半分はあの高みに持ち去られたままになっていた。頭の上の方で背の高い草が、川を渡ってくる風にかき回されて、ざわめいている。背中に接した地面はじっとりと水を含んでいた。
 詰襟の制服のボタンは幾つか引きちぎられ、シャツは泥にまみれて胸の辺りまでたくし上げられている。ベルトは両手首に巻きつけられて、自由を奪っていた。ズボンと下着は膝辺りまで下げられ、むき出しになった下半身から徐々に身体の熱が奪われていく。真はもう何時間こうしていたのだろうと思い、身体の熱を取り返すように身震いし、それからようやく身体を起こした。手首のベルトは、何度か手を捻ると簡単に外れた。下着とズボンを腰に引き上げ、シャツを戻そうとして、シャツのボタンも幾つか飛んでいることに気が付いた。見回して鞄を見つけると、泥を掃い、歩こうとすると身体のあちこちが痛んだ。鞄の中の教科書は無茶苦茶に引っ掻き回されていて、財布は案の定見当たらなかった。大した額が入っていたわけではなかったが、バスにも乗れないなと思い、結局また座り込んだ。妹の葉子が最近マスコット作りに嵌っていて、仕上げてくれたばかりのフェルト製のサラブレッドは、引きちぎられて泥の中に落ちていた。拾い上げる力もなく、真はまた身震いした。
 辺りが暗くなってから漸く泥だらけの重い身体を立たせて、サラブレッドを拾い上げ、ズボンのポケットに仕舞うと、歩けば小一時間はかかる道を歩き始めた。家に帰っても、脳外科医の父はまだ帰っていないだろうし、妹の葉子はピアノのレッスンに行っている時間だった。真とて、今日は灯妙寺に剣道の稽古に行く予定だったのだ。無断で休んだことを和尚は怒るだろうかと考えたが、どうでもいいような気持ちだった。
 案の定、家は真っ暗で、真は門を開けて中に入り、玄関に上がる前に泥だらけの全ての服を脱いでから、鞄の奥から鍵を探し出して玄関の扉を開けた。
 始めのうちは惨めだと思っていたことも、ここまで慢性的になるとどうでもいいような気がしてきて、真はいつものように風呂場で制服の泥を落とすと洗濯機を回して、それから葉子の作ったサラブレッドと一緒にシャワーを被った。浴室の鏡で顔を確認して、一見ではそれほどひどい怪我をしていないことだけを確認した。茶色い髪は暗めの浴室の照明の下でも明るく、左右の色が違う目の色も隠し遂せるものでもなく、真は自分の顔から目を逸らした。ふと身体に目を向けると、蹴られたのか殴られたのか、腹のあたりに幾つも痣ができていた。痛いのかどうかさえもよくわからなくなっている。
 中学生になり、弄ぶように真を苛める上級生たちの体力は格段に上がっていて、まだ成長期を十分に迎えていない真とは、身体の大きさそのものからして差が開くばかりだった。同級生たちと比べても真は決して大柄なほうではなく、少しばかり日本人離れした目の色と髪の色、それに顔つきもどこか普通と違って見えるらしく、その上、北海道弁を隠すためにあまり口を開かないことも手伝って、全く打ち解けない性格のいけ好かない奴だと思われているらしかった。
 北海道弁といっても、札幌のような内陸部とは違って、真が育った浦河の沿岸部では男たちは皆、独特の北の国の言葉を話した。どれほど注意していても、話せばイントネーションも語尾も、時には単語でさえ、全く東京の言葉と違っている。小学生の終わりに東京に出てきてから、真は言葉が自分と周囲の人間の間の大きな障害になることを嫌と言うほどに思い知らされ、結局口を開かないことで自分を防御するしかなくなった。もともと人とコミュニケーションを取ることは苦手だった。苦手どころか、全くうまくいかなかった。それを敢えて頑張って乗り越えるほどには、真は強い性質を持っていなかったし、笑いで誤魔化すような明るい性格でもなかった。
 中学生になって少しずつ背は伸び始めたが、まだ大人の身体にはなりきっていなかった。今日は殴られながら、下半身を剥かれ、やっぱりまだ生えてないな、と言われて弄ばれた。勃たせたことあるか、と擦られたとき、狂ったように暴れたために、更に殴られたような気がする。上級生たちは、顔を殴らない、ということでは狡猾な面を見せていて、身体の見えないところばかりを狙って殴ってきた。
 真はシャワーを止め、身体を拭いて、まだ長袖を着るには暑い季節だったにも拘らず、長袖のシャツを着て、ジーンズを穿いた。それからフェルトのサラブレッドを絞って、リビングに戻った。低いテーブルにサラブレッドを置くと、急に惨めなように気がしてきたが、先のことや未来のことなど何も考えないようにと思った。
 誰も戻ってこない。今日、あの男は葉子をピアノの先生のところに迎えに行って、その後で灯妙寺に寄って真を拾うはずだったのだ。灯妙寺に真が来ていないことを知ったら、彼は父に電話をするだろうか。もしかして父の仕事が終わっていたら、父を病院に迎えに行くつもりだろうから、きっと電話を掛けるだろう。何て言い訳をしようかと考えて、熱が出たことにしようかと思い、せめて灯妙寺の和尚に電話をしておいたほうがいいのかもしれないと考えた。だが、言い訳するということ自体が面倒だった。
 真は暫くの間、電話の前に突っ立っていたが、本当に熱っぽい気がして身体を震わせ、もう眠ってしまおうと思ったところだった。
 突然鳴り始めた電話に真はびくっと震えた。父か、葉子か、それともあの男か、あるいは灯妙寺の和尚か。真は言い訳の言葉を用意していなかったことを少しだけ後悔しながら、受話器を取り上げた。
 真も、電話の相手も、暫くの間何も言わなかった。ただ、電話線から果てしなく遠い距離を感じた。じーと何かの機械音なのか、あるいは遥か深い海の底のケーブルを渡る時間の歪みなのか、沈黙する時間さえどこかずれているようにさえ思える。
 もしもし、と電話の向こうから声が聞こえる。果てしなく遠いのに、しっかりと胸に響くような重い声だった。
「真か」
 真は上ずった声で、はい、と答えた。少しの間の沈黙が、相手の逡巡なのか、あるいはただ電話線の距離なのか、真には摑みかねた。
「兄貴はまだ戻らないのか」
 病院に電話をしたら、今日は早めに出たと言われたから、と電話の向こうの男は言った。
「戻っていません」
「また、遅めの時間に電話する」
 伝言を聞いたが、電話があったことだけを伝えてくれたらいい、と言われ、あっさりと電話は切れた。そのひどく冷淡で抑揚が全くないような声に、真は受話器を置いた途端、足から力が抜けるような気がして、思わずへたり込んでいた。
 一瞬、息をするのを忘れていたのかもしれない。真は急に身体に溜まった二酸化炭素を吐き出そうと速まった呼吸のコントロールを失い、突然過換気の発作に見舞われた。その結果として今度は身体から失われてしまった二酸化炭素は呼吸を著しく混乱させ、唇が痺れ、目の前はちかちかし始めた。ひどく胸が痛み、筋肉が痙攣する。前兆なく襲い掛かってきたパニックは、突然鳴り出した電話の音でますます勢いを増し、目の前はぐらぐらし始めた。電話は随分と長い時間鳴っていたが、真には身体を動かすことはできなかった。
 一旦途切れた呼び出し音は、一分も経たないうちに再び鳴り始め、真は痺れた手を電話に伸ばし、何とか摑みかけたが、受話器を取り損なってしまった。電話台から滑り落ちぶら下がった受話器から、遠くにもしもし、という声が聞こえている。
 真、いるのか、どうしたんだ。
 父の、正確には伯父の声だった。切羽詰ったような、心配して荒げられた、感情のある声に真は身体から力が抜けてしまい、返事ができずにそのまま意識を失った。


「私が泊まりましょうか」
「うん、いや、とりあえず病院に電話して、問題がなければ当直に任せるよ」
 真は頭の上で交わされている会話を、意識の深い霧の中でぼんやりと聞いていた。眠ったふりをしていたわけではないが、ただ身体が全く動かなかった。痺れはもう消えていたが、頭はまだぼんやりとしている。
 伯父は今日、早めに手術が終わったのだろう、時々そういうことがあって、その時は病院から直接灯妙寺に行って、真と一緒に稽古をする。大概は一緒に灯妙寺で夕食を頂いた後、病院に患者の容態を見に帰る。そういう伯父のいつもの忙しいながらも平穏な行動パターンを、真はいつも壊してしまうのだ。そう考えると、自分が腑甲斐無く情けなく感じてしまう。この家族の中の生活の決まりごとを、真だけが上手く繋いでいくことができない。
 葉子は戻っているのだろうか。今日は彼女が月に一度、『大先生』のところにピアノのレッスンに行く日だった。大先生は都心を少し離れたところに住んでいるので、その送り迎えは、伯父の個人的な『秘書』の仕事だった。
 秘書、というわけではないのかもしれない。週に二、三度、その男は伯父の研究の手伝いをしに大学病院に行っているらしいが、半分は真と葉子の家庭教師のようなものだった。仕事が忙しく、家にいる時間の少ない脳外科医の相川功が、母親のいない家で二人の子どもの面倒をみるのは実質不可能だった。週のうち半分は伯父が雇ったお手伝いのおばさんが子どもたちの食事の面倒をみてくれる。おばさんは朝に一度やって来て洗濯と掃除をし、夕方に買物に行って夕食を用意していってくれるが、週の残り半分はその秘書の男が料理をして、ついでに子どもたちの勉強の面倒をみてくれるようになっていた。恐ろしく仕事の手が早く、物覚えがよく、料理も、申し訳ないが、おばさんが作るものよりずっと美味しかった。葉子はまだ小学五年生だが、その男に料理を教えてもらうのが楽しみで、彼がやってくる日には遊びにも行かずに待っている。外国人とは思えない流暢な日本語を話し、長身で、くすんだ金の髪と青く暗い海の色のような瞳を持ったこの男は、事情は知らないが『大和』という日本の苗字を名乗っていた。伯父の功も、この男の出自をよく知らないらしく、かろうじて出身地がイタリアのローマだということを知っているだけのようだった。あるいは知っていも、真に話すようなことでもなかったのかもしれない。
「扁桃腺をよく腫らすんだ。北海道にいた頃も、しょっちゅう高熱を出していたらしい。切ったほうがいいのかもしれないな」
 伯父の声が心配そうに優しく聞こえていた。
「そんなことよりも、この身体の痣のほうが問題なのでは」
 伯父の『秘書』は、あの身体の底から響くような綺麗なハイバリトンの声で伯父に話しかけている。
「こんなことは一度や二度ではないのでしょう。苛めにしても度が過ぎている」
「本人は転んだ、としか言わないからな。苛めているやつらの事は何も言わない」
「この子は性質が弱すぎます。剣道をしている姿を見る限り、決して弱いわけでもないのに、自分の身体に加えられる理不尽に対してあまりにも無抵抗すぎる。ろくに口もきかないし、このままだと社会でちゃんと生きていけませんよ。両親に捨てられた甥が可哀相なのは分からないでもありませんが、いつまでもあなたや、あるいは北海道の親戚が、守ってくれるわけではないでしょう」
 真は息を潜めたまま、その会話を聞いていた。この男は本当に辛辣だと思っていた。
「苛めの事だけじゃない。未だに時々わけの分からない言葉を呟いたり、学校でもパニックになってしばしば気を失ったり、吐いたりしている。一年のうちまともに学校に行った日が何日あるんです? 他人に打ち解けることを全くしない、理解も求めない、放っておいたらずっと一人でいて、自分の世界に閉じ籠りすぎる、それにいつまでも幻の友人と離れようとしない。北海道に帰れば、馬の神様や、梟や大鷲の神様がいて、いるはずもない背の低い民話の生き物がいて、自分を守ってくれると思っている。それをいつまでも過保護に優しくしてやっても、いずれ困るのはこの子自身ですよ」
「だが、君が勉強を教えてくれるのは、楽しいと思っているようだ」
「だからこそです。この子はそれほど馬鹿じゃない。むしろある分野に関してはとび抜けた才能を持っている。だけど、この子自身がちゃんと前を向いて生きていこうとしない限り、どうすることもできないでしょう」
 そんなに簡単じゃない、と真は思った。自分は少しおかしいのだ。
 小さい頃、どうして髪の色も目の色も他の子どもたちと違うのか、全く理解できなかった。祖父母はその点では徹底的に孫を守る姿勢を貫いたし、親戚たちも真を大事にしてくれていた。真が苛められると、祖父は相手の子どもの家に何度も怒鳴り込みに行った。そのことがかえって子どもを孤立させるとは考えていなかったようだった。真は自分の力で闘って勝ち取ることを覚える、という人生の手続きを、幼小時に学ぶことができなかったのかもしれない。
 長い間、真には友達がおらず、馬と犬と、近くの森の奥に一人で住んでいたアイヌ人の老人、そして幻の友人たちだけが友達だった。真は全く他の世界を知らずに、浦河の牧場で、高い空と果てなく広がる牧草地の風に守られて育ってきた。
 一度だけ、叔父の弘志に連れられて札幌に行ったことがある。小学校二年生の時だったと記憶している。
 弘志は真にとって、アイヌ人の老人を除けば、唯一の人間の友人であり兄のようなものだった。まさに田舎の悪ガキで、無免許の車でかろうじて都会といえる町に悪い友達と出掛けては補導されて戻ってくるような叔父だったが、真には優しかった。特別に遊んでもらった記憶があったわけでもないし、弘志自身、自分の周囲のことで忙しく、真に構ってくれる時間はなかったのだろうが、いつも少し離れたところで真を見守ってくれていたような気がする。その弘志が北海道大学に入り、札幌で一人暮らしを始めたとき、真は北海道弁とはいえ日本語で会話する相手を失ったようなものだった。
 無口で頑固な祖父は、真を可愛がってくれたが、言葉で真とコミュニケーションを取るようなタイプではなった。孫との会話は、剣道であり、太棹三味線であり、馬たちの世話だった。真は就学してほとんどすぐに、小学校で教えられる多くのことについていけなくなっていた。そもそもが、ほんの一ヶ月だけ行った幼稚園で、桃太郎の話を聞かされて以来、国語が理解できない。何故、桃太郎が鬼退治に行ったのかが理解できなかったために、ついでに言うと、その物語自体が福沢諭吉の言うとおり理不尽であると嫌っていた祖父が幼稚園に怒鳴り込みに行ったために、世間一般の常識という範疇から零れてしまった。真は桃太郎が鬼ガ島に鬼を退治しに行った理由が全くわからないまま、そしてそれを「説明不要な前提」として納得することができなかったために、学校教育というものを受け入れる素地が失われてしまったのかもしれない。唯一、算数と理科だけは、説明不要な前提がなかったために、自然に身体に入ってきた。
 それでも全く物語を受け付けなかったわけではなかった。クリスチャンであった相川の曽祖父は、屋根裏に異国で書かれた物語の翻訳本を多く遺していた。真は時々そこに忍び込み、幻の友人たちと一緒に本の世界に入り込んだ。もっとも字をちゃんと読めていたはずもないので、多くの挿絵が理解を、あるいは誤解だったのかもしれないが、助けてくれたのかもしれない。
 だが、アンデルセンの『人魚姫』の物語は真を怖がらせた。真実の愛と信じたもののために穏やかな海の底での暮らしを捨てて人間の世界に飛び込み、痛む足に耐え、愛の成就を望みながら叶えられず、やがては海の泡となって消えてしまう人魚姫の運命に、自分の運命を重ねてしまったのかもしれない。その残酷な結末を、なす術もなく見守る海の世界の住人たちの挿絵に怯えて、真はその日から何日も吐き続け、夜も眠れずに震えていた。何を察したのか、祖父がアイヌ人の老人を呼んでくれ、真はその友人の言葉にようやく慰められて目を閉じた。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真はどうしようもない時には、いつもその呪文のような言葉を呟き、眠るようになった。
 そのアイヌの老人が亡くなってから、真はほとんど喋らない子どもになった。弘志がいなくなってからは、一人で本を読み、一人で遊んだ。馬と犬たちはいつでも真の友人だったが、彼らとのコミュニケーションに会話は不要だった。
 札幌に出て行って初めの夏は牧場に戻ってこなかった弘志が、二年目の夏に浦河に帰ってきたとき、真は弘志に近付くことができずに、遠くからその姿を見ているばかりだった。一年見ない間に、弘志は随分と垢抜けして、格好良く逞しい男になっていた。弘志は久しぶりの帰郷で友人たちと遊び歩くのに忙しく、それでも父親の長一郎から、真がずっとお前を待っていた、と聞かされては急に真がかわいそうに思ったようだった。一緒に札幌に行こうか、と言われて、真はただ弘志と一緒にいられることだけを喜んで、初めての大都会に足を踏み入れた。
 そこは全く想像を絶する世界だった。何より、人の数、そして車、バイク、立ち並ぶ家やビル、全てが完全に真の想像の蚊帳の外にあったものが動いていて、目の前に洪水のように押し寄せたのだ。
 そこには真を守ってくれていた馬たちも犬たちも、そしてカムイたちもいなかった。人々は言葉を話し、それによって社会を営んでいた。社会は大きな歯車を回していて、それを回すために人々は働き、語り合い、忙しく動き回っていた。
 初めて札幌で過ごした夜、真はかろうじて胃に納めてあった夕食を吐き出してしまい、不安がる真を抱いて眠ってくれた弘志の布団でおねしょをしてしまった。弘志は怒ることはなかったが、真は叔父が呆れているのだろうと思い、弘志の顔をまともに見られなくなっていた。連れて行ってもらった大学でも、ラグビー部の花形選手になっていた弘志が仲間たちと逞しく走り廻り、真が見た事も無い天女のような女性に騒がれている姿を見て、自分の居場所が見つからなくなった。そのときの良い思い出といえば、真が馬のにおいに誘われて迷い込んだ厩舎で、後に弘志の妻になった女性と会ったことくらいだ。
 浦河に帰ってから、真は夜な夜なおねしょをするようになり、布団に潜って震えるようになった。祖父は弘志を責めたが、真は弘志に申し訳ないやら、説明できない自分が情けないやらでどうすることもできないまま、森の中に逃げ込んでは、高い草の中に埋もれて泣いていた。そこに行けば、幻の小さな友人たちがこっそり現れて、真に、人間には通れないはずの道を開けてくれた。
 子どもの頃、身体はどちらかといえば小さかったし、やせっぽっちで、他人と闘う力などなかった真のあまりの情けなさを辛うじて救ってくれたのは、無口な祖父が授けてくれた剣道と太棹三味線、他人が見れば驚くらしい、裸馬にも乗れる乗馬の才能だった。それらと対峙している時だけは、真は情けない子どもではなかったし、むしろ自分もいっぱしの男のような気持ちになれた。特に剣道は、面をつけることで真の大きな欠点を覆い隠してくれた。それは髪の色と目の色だったし、面をつけるということが全くの別人に変われるような気分にさせてくれたからかもしれない。
 東京に来てから、それらの武器が役に立ったことはない。馬はもちろんいなかったし、太棹三味線を叩く子どもが才能を発揮する機会など盆踊りでもない限りあり得なかったし、剣道については別の意味で武器にはできなかった。これを使えば真は苛める上級生たちに簡単に勝てるはずだった。だが、もしこれを喧嘩に使えば、祖父がどれほど怒るかということは簡単に想像ができた。祖父を失望させることは、真には考えられないことだった。それに大体、苛めの現場に都合よく竹刀かその類のものが落ちているわけではなかった。
 全ての武器を使えない環境の中で、真は何も闘うすべがなく戦場に放り込まれたようなものだった。実際に必要な武器は、逆境であろうとも闘い生き抜こうとする強い精神力だけだったに違いないが、それが真には全く備わっていなかった。少なくとも、真はそう思い込んでいた。祖父以外の親戚たちは、真が小学生の高学年になって背が伸び、半分ドイツ人である母親の血のために外見の整った子どもに育つにつれて、他人の誰にも打ち解けず、馬や犬たちとしかまともに会話もしない、未だに人間でないものが見えるようなことを言っているままではいけないと思ったのだろう。
 まず、父親と母親がいないことが悪いのだろうと誰もが考えた。母親を作り出すのは難しかったが、父親なら東京にいる伯父にあたる功のところにやるのがいいだろうと、特に強く心配した弘志が功に掛け合った。功は功で、自分が脳外科医として忙しく、一人娘に寂しい思いをさせていることについて不憫に思っているところだった。何より、弟、武史が見捨てていき、一度は自分が育てようと考えたこともある子どもを、弟への複雑な感情を飲み込んで引き取ることについて、功なりに義務を感じたようだった。
 真は、功に連れられた従妹の葉子が浦河に初めてやって来たとき、祖父に隠れてこっそり読んでいた曽祖父の蔵書にある外国の童話に出てくるお姫様が、天から降ってきたのだと思った。姫君を守る使命が自分に与えられたと思い、子どもなりに、このままではいけない、男としては強い人間にならなければならないという、生物的な雄の本能を刺激もされて、先を考えずに東京にやって来てしまった。
 東京は、真にとってまさに地獄だった。アスファルトの地面は靴がなければ歩くこともできず、真は人にも車にも、あらゆる動いているものに過剰に反応し、少し高いビルが並ぶ街を歩くと、大概家に帰って吐き戻していた。こんなものが地面の上に建っているということに、それは地球の地面に、カムイたちの土地に深い傷を負わせているように感じて、真は震えて眠れない夜を幾つも数えた。勉強など手に付くはずもなかった。早口でまくし立てられる東京の言葉は全く理解できなかった。
 多分、少し落ち着いてみれば、何とかなることばかりだったのだろう。だが、嵌まり込んだ蟻地獄はどんどん深くなり、そこから抜け出せない自分に真は失望し、諦め、心配した功が精神科医に相談するにあたって、自分はおかしいと思い始めていた。
「浦河に帰したほうがいいのだろうか」
「あり得ませんよ。そんなことをしたら、こいつは一生逃げ続けるだけです。世の中が辛いんだったら辛いなりに、睨み付けてでも生きて行けるように鍛えなおしてやったほうがいい」
「君は強いな。国を出てきて、一人で生きて行こうとしている。この子にはそういうことを教えてくれる大人が必要なんだろう」
「あなただって、浦河から出てきて一人で生きてきたんじゃありませんか。何だってそんなに臆病になるんです。あなたたちはこの子が傷つくことを恐れて、過保護にしすぎて、余計にこの世の中に居場所を見つけられないようにしてしまっている」
「怖いんだよ」
 功が搾り出すように言った言葉が、真を震えさせた。
「怖い?」
「弟が姿を消したときの事を思い出す。この子の父親だ。強くて逞しく、自分で道を切り開くというなら、あいつのような人間を言うのだろう。弟は親父によく似ていた。親父もクリスチャンだった祖父に馴染めず、家を出て、アイヌやマタギと暮らしたり、一人で三味線片手に旅に出て、随分破天荒な生き方をしてきた。祖父が死んで、浦河に戻って俺のお袋と結婚したが、お袋が亡くなって直ぐに、恋仲だったのに諦めていた金沢の芸妓の家に女を掻っ攫いに行った。弟二人の母親だ。あの人たちの強い血を引いているのに、真はどうしてこんなに脆いのか、もしかしてこの子は、始めからこの世に生まれ出るはずではなかった、別の世界の住人なんじゃないかと思ってしまう時がある」
「冗談でしょう」
 溜め息をつくようにして、伯父の秘書である大和竹流が吐き出すように呟いた。真は、そうなのだ、だから俺はおかしいのかもしれない、と思った。
「弟は、下宿屋の娘と恋仲になっていたのに、異国から来た女性に一目惚れしてしまった。大学では、弟は本当に優秀な研究者になるだろうと言われていたんだよ。私が捨ててしまった宇宙ロケットを作るという夢を、まさに現実のものにすると思っていた。それなのに、大学も恋人も捨てて、異国の女性と駆け落ちした。その女性と生きていくためにがむしゃらに働いているらしいと風の便りには聞いたきりで、いつでも私の後ろばかり追いかけていたのに、あの時、あいつは一度も私を頼ってこなかった。私は今でも忘れられないんだ。その女性が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、私を頼ってきたときの事を。雪の降る年末だった。この子を預かって欲しい、と言われた。武史はどうしたんだ、と聞いたが、その女性は首を横に振るばかりだった。それから長い間、弟からは何の音沙汰もなかった」
 伯父の優しい手が真の布団を掛けなおしてくれる。真は、ようやく自分が寝かされているのが客間になっている座敷だと認識できた。小さな濡れ縁に密やかに雨が落ちる気配が、床を伝って真の身体に響いている。
 都会に降る雨は寂しいと思った。浦河なら、天から落ちた雨は緑の木々を潤し、大地に沁み入り、深い土の中で次の春のための命を育む金や銀の雫になった。東京に降る雨は一体どこに行くのだろう。
「赤ん坊を育てることなど、考えられなかった。直ぐに祖父に預けようと思ったが、この子を見ていると、何だか私が守らなければならないように気がして、一度は真剣に育てることを考えたよ。当時付き合っていた女性に、赤ん坊の母親になってくれないか、って言ったんだけどね、返事をもらう前にのっぴきならないことになって、結局、弟が捨てた下宿屋の娘と結婚した。もともと彼女に恋をしていた私が、血迷ってしまったのかもしれない。妻は一生懸命赤ん坊を育てようとしてくれたよ。だが、この子は両親に捨てられたことが分かっていたのかもしれないな。やたらとかんの強い子どもで、本当によく泣いた。赤ん坊の髪の色など大して問題にはならなかっただろうが、目の色は明らかに左右が違っていて、半分は異国の色に染められていた。その目で不安そうに私と妻を見た。妻は、自分を捨てた男の子どもであることを知っていたんだろう、徐々におかしくなって、オシメを換えることもミルクを与えることもできなくなって、ついには赤ん坊の首を絞めた。あの日、もしも私が予定通り当直をしていたら、もうこの子はこの世にいない。妻を責めることはできない。元はといえば、弟が彼女を捨てた。そして私が、身勝手な仏心で、精神が不安定になっていた彼女を救うつもりで結婚した。いや、私はやはりどこかで彼女を諦めていなかったんだ。私や弟と永遠に関わりのないところで生きていけば、彼女の傷もやがて癒えたのかもしれないのに、彼女は、弟と弟を奪った女の面影を宿した子どもを育てる破目になって、さらに病んでいった。結局、赤ん坊は浦河に預けるしか、私にはどうしようもなかった」
 真は半分朦朧とした意識の中で、蘇ってくる悪夢のわけを理解した。
 小さい頃から、幾度となく恐ろしい夢を見た。いつも決まって西日の射し込む古いアパートの部屋で、美しい女性が赤ん坊を抱いてあやしていた。女性は赤ん坊を抱き締めて慈しんでいるが、突然赤ん坊が泣き始める。女性の顔が一瞬にして変わり、それは仮面を付け替えた能の鬼のようで、西日に赤く血のように染められた顔を歪めて、か細い赤ん坊の首を絞め始めるのだ。
 あまりの恐ろしさに何度も夜中に目を覚まし、真は眠れない夜を幾つも過ごしてきた。今、その理由を知って、それが現実だったのだと知っても、逆に今さらこれ以上恐ろしいと思う理由にはならなかった。
「過去のことはともかく、今は先のことを考えるべきです。たとえ死に掛かった事があるのだとしても、この子は今、現実にちゃんと生きていて、これからだって生きていかなくてはならない。それなら生きる術を教えてやるのがあなたの仕事でしょう。それに、もしもその時この子が運命によって生き延びたのだとしたら、それは悲運どころか幸運と言うべきです」
 真は電話を思い出していた。今日、意識をなくす前、父親と会話をした。その冷たく乾いた声を思い出した。本当なら、伯父ではなくあの父親が真を育ててくれるべきではなかったか。なぜ捨てられたのか、真には全く分からなかった。
「この子が可愛いと思うのに、時々混乱する。弟を愛しいと思っていたのに、やはり許せないと思っているからかもしれない。妻は、ずっと弟を愛していた。多分、今もだ」
 真は思わずびくりと身体を震わせた。それに気が付いたのか、会話が途切れる。どちらかが促したのか、暫くすると真が眠っているのを確かめるように髪を撫でて、伯父と大和竹流は出て行った。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(2) 

 それから、少しの間は眠ったのかもしれない。真は遠くに電話の音を聞いたような気がして、ふと身体を起こした。誰の気配もなく、もう雨の気配も止んでいる。そっと襖を少しだけ開けると、薄暗い居間で伯父が受話器を取り上げていた。
「武史か」
 声は、しっかりと真の耳に届いていた。
「いや、まだ決まってはいないんだ。行くとしたらカリフォルニアだな」
 真は息を潜めて、襖の陰にそっと座り込んだ。細い微かな光が座敷を裂くように、真の視界の真ん中に伸びて、向かいの障子から天井へかすんでいっている。
「どうして会えない? 俺は、少しの間でもお前が真と暮らしてくれたら、と思ってるよ。何を言ってるんだ。俺の留学はお前とは関係がないだろう。来るなってのはどういうことだ。馬鹿を言うな、行くとしたら子どもたちを置いていくつもりはないよ。特に真は」伯父は少し間を置いて続けた。「このまま東京の学校でやって行けるとは思えないんだ。精神科医か心理の専門家の助けが必要な状態だよ。浦河? あそこにいたら、あの子はずっと自分に閉じ籠るばかりだ。武史、お前に親父を批判する権利はないよ。親父は一生懸命にあの子を育てたさ。あの子は、親父に褒められたくて仕方がないし、だから辛うじてここでも頑張ってるよ。だが、このままだと破綻するのは目に見えている。あの子に必要なのは父親だよ。本当の意味での父親だ。お前にも親の責任ってものがあるだろう」
 真は膝をたてたまま、頭を抱え込んだ。果てしなく遠い時と距離のこちら側で伯父が黙っている空白の時間、電話線の向こうで、あの父親の感情を伴わない冷めた声が何かを話しているのだ。真について、真にとっては何か重大なことを。そしてあの父親にとっては、どうでもいい我が子のことを。
「なぁ、武史、お前、なんか危ない仕事をしてるんじゃないだろうな。お前が下宿を出た後で一緒に住んでたアメリカ人、軍人だったよな。それも随分大層な身分の男だったと聞いている。真の母親だって、あの時、大学でも噂になっていた。東ドイツの政府高官の孫娘らしいってな。平たく言えばスパイだ。俺は脅してるんじゃないよ。ただ、真を心配している。どんな事情があるにしても、お前が真を見捨てていいという理由にはならない。親父とも和解する気もないのか」
 また少しの間、伯父は相手の言うことを聞いているようだった。真は頭を何度か膝に打ち付けた。
「真? 電話に出たのか? いや、俺が帰ってきたら倒れてたんだ。扁桃腺炎で三十九度五分もあったし。今も寝てるよ。なぁ、武史、あの子は必要以上に過敏な子だ。誰かが傍にいて守ってやらなければ、現実にこの世界で生きていけるような子じゃない。お前が父親としてしなければならないことは沢山あると思うんだ。俺では、どうしたってあの子の強い父親にはなれない。可哀相で仕方がないばかりだ。親父だってそうだ。弘志が、真を養子にしたいって言い出したんだ。結婚するんだよ、アイヌ人の娘だ。子どもができたら辛い思いをするのはその子だと言われて、弘志のやつ、それなら真を子どもにするって言うんだよ。あぁ、弘志は確かにいい親父になるだろうさ。馬鹿言うんじゃない、おまえ、これ以上弘志に何を押し付ける気だ。あいつは真が生まれたとき、まだ中学生だったんだぞ。武史、頼む、もう一度、真に会ってやってくれ」
 真は震えた。
 その時、襖が急に開いて、そっと閉じられた。入ってきた男は、真を促して立ち上がらせ、布団に戻らせた。真は男が示すままに布団に潜り、額にあてられた大きな手に思わず目を閉じた。男は何も言わなかった。真は息を潜め、唇を噛み締めて涙を流した。
 不意に、暖かい唇が目尻に触れて、真は思わず息を吐き出した。
「熱のせいで夢を見てるんだ。お休み。大丈夫、ここにいるから」
 静かな、暖かいハイバリトンの声は、その言葉を発した唇の形がわかるほどに近くにあって、ただ優しく真の額に触れ、軽く唇にも触れて、大きな確かな手は真の髪を撫でた。


 事件は冬の訪れと共に起こった。
 真はその日、柔道部の部室に連れ込まれ、何人もの上級生に押さえつけられて、いきなり真っ裸にされた。日本人じゃないようだからよく調べてやらないとな、と言われ、口の中に布切れを押し込まれた。思春期の真っ只中にいる彼らが思いついた新しい苛めは、性的な興味を満たすことに繋がったようだった。真は腹ばいにさせられて、いきなり尻を突き出すような格好を強いられ、マジックで身体に落書きをされた。女のものと一緒だ、と言う声が耳に突き刺さった。ゴムとゼリー、つけたほうがいいよな、という上ずった声が彼らの興奮を伝えている。何が起こっているのか全くわからないまま、いきなり肛門に硬いものを突っ込まれた。突然のことで反応もできず、ただ痛みが身体の中心を突きあがり、あまりの圧迫感に腹が苦しくなって、呻いた。
 髪をつかまれて顔を上げさせられると、目の前に卑猥な写真が突き出される。
「これ、ホモのセックスの写真なんだよ。お前、絶対にこういうの似合うよ。ほら、男と男ってどうやってやるのか知ってるか。ケツの穴だよ。使ってるうちに直ぐ慣れるんだってよ。しかも女のあそこより締まりがいいし、やられる方もやる方も辞められなくなるんだってさ。突っ込まれてるとこ、写真撮ってやるからな。ばら撒いてやるよ」
 後ろに突っ込まれたものが何であるのか、そのときの真には分からなかったが、やがてそれは低い音をたてて振動し始めた。真は腹が抉られたように歪むのを感じて、暴れようとしたが、全く動くこともできなかった。
 彼らが真を弄んでいる間に、性的な興味を更に膨れ上がらせたことは間違いがなかった。
「あぁ、俺、たまんなくなってきた」
 低い声が興奮した響きを伴い、誰かの突っ込んでやれよという言葉と共に、真の頭は床に押し付けられて、両手と両足は更に強く拘束された。後ろに突っ込まれていた大人の玩具が抜き取られたとき、その異様な感触に真は頭が真っ白になった。ゴム、つけろよ、という声、そして間もなく、何かの先端が真の肛門を突き、侵入しようとした。
 その時、手を押さえていた誰かが、興味のあまり後ろを覗き込み、多少手の力を緩めたようだった。
 その瞬間、真は狂ったように暴れた。一体、何を摑んだのかは覚えていない。長さのあるパイプのようなものだった。真はただ己の身を守るために、手当たりしだいに上級生たちを打ちのめした。始めこそ暴れる獲物と闘おうとしていた上級生たちも、真が一人の肩を思い切り打ち、反動で後ろの一人を突き倒したとき、怯えたような表情を浮かべた。
 真は摑んでいる棒を振るった。重く空気を叩く音に、誰かが悲鳴を上げた。
 その悲鳴を聞いた時、真はこいつらを殺してやろうと思った。このままではいつか殺される。殴られたり蹴られたりし続けた腹の奥が痛み、突っ込まれた玩具の感触がまだ足の間で唸っているような気がした。
 多分、真は恐ろしい顔をしていたのだろう。慌てた上級生たちの顔が可笑しくて、真は残忍な血に目覚めたような気がした。彼らは自分たちが真を脅すために掛けた鍵のために直ぐに逃げ出すことができず、真が狂ったように暴れて、いや、正確には真の頭の中は随分と冷静だったのだが、握りしめた棒で彼らの身体を血に染める間、逃げ惑って大声で喚き散らしていた。
 ようやく開いた扉から誰かが駆け出し、表に停まる給食の車が見えたとき、真は突然我に返った。
 それから何がどうなったのか、全く覚えていない。いつものように気を失ったのかもしれないし、ただ起こったことを思い出したくなくて記憶から消してしまったのかもしれない。我に返ったのは、怒りに震える功の声のためだった。
「冗談じゃない、俺の息子が加害者だと言うのか。この子はいつも身体に痣をつけて帰ってきた。明らかにこの子が被害者だ。息子には自分の身を守る権利がある、これは正当防衛だ」
 複数の声が畳み掛けている。功は、いつもの彼にはあり得ないような大きな声で怒鳴った。
「黙れ! これでようやく息子を苛めていた奴の正体が分かった。言っとくが俺は容赦する気はない。徹底的に加害者であるてめぇらの息子どもと、学校の責任を追求する。俺には優秀な弁護士の友人もいる、覚悟しろよ」
 功の声とは思えなかった。考えてみれば、伯父は一見物静かだが、灯妙寺の和尚や祖父が、本気の功には簡単には勝てないと言うほどに剣道も強かった。
 病院から家に帰り、玄関を入ると、功が、震えて呆然と涙を流している真を抱き締め、一緒になって泣き、何度も真に謝った。真は功が何故自分に謝るのだろうと思っていた。帰ってきた妹の葉子が驚いて、何があったのかも聞かず、ただ機転を利かせて秘書の男を呼び、抱き合って泣き続けている二人を見守っていた。
 功は闘うつもりだったようだが、功が名前を挙げた弁護士の権威は相当なものだったからか、急に学校が手のひらを返したように謝罪し、事件を隠そうとし始めた。真を苛めていた連中の親も同様だった。功は、念のためにこれまでの様々の出来事を綿密に文書にしてその弁護士に預け、それから留学の話を、ものすごい勢いで進めた。これ以上真を日本に居させることはできないと思ったようだった。
 そのために真は中学一年生の一月に、功と葉子と一緒にカリフォルニアに渡り、ようやく学校に通うことができるようになった。英語のほうが、東京の言葉よりもずっと理解しやすく、問題のある子どもを学ばせるシステムの出来上がっているアメリカの学校教育が、真の助けになった。何もかもがうまくいったというわけではない。真は誰かと打ち解けることはできなかったし、必要最低限のことしか話さなかったが、その国では必要最低限の言葉が、日本で暮らしていたときよりも遥かに多かった。真についてくれた教師は、登校拒否児の教育に長けた年かさの女性で、真を追い込むこともなく、言葉を丁寧に扱った。
「コウ、あなたの息子は素晴らしいわ。特に科学と数学は、トップレベルの研究者にだってなれると思うわ。言葉は、つまり文学的な意味でだけど、いささか理解に苦しんでいるけど、発音も綺麗だし、文字を覚えるのは少し苦手みたいだけど、形態認識能力は低くないし、多少混乱しやすいけど記憶力がいいから、必ず克服するわよ。誰かが英語を教えたの? 発音がブリティッシュだけどね。どうかしら、科学は大学の授業を受けさせてみたら? かなり高い素地があるみたいだし」
 たまに、功の秘書をしていた大和竹流がカリフォルニアの家にも訪ねてきた。功が興奮したように、君のお蔭だ、教師が真を褒めていた、こんなことは日本にいたら考えられないことだったよ、と竹流に感謝の言葉を伝えていた。
 真は、確かに自分が大和竹流のよい生徒であったろうと思った。竹流はいつも、どう考えても小学生や中学生に教えるレベルではなさそうなことを教えてくれたが、そこにはちゃんと理屈があり、因果関係があり、決して理解不可能な前提を押し付けてこなかった。竹流が口癖のように言っていることがある。
 アイヌには文字がないんだな、ケルトと同じだ、と竹流は呟き、文字を覚えることに幾らか困難があった真の前に、すらすらと見たこともない国の文字を幾つも、古代の文字も含めて、魔法の呪文のように書き並べて言った。
「文字だと思うと苦しければ、模様か記号だと思えばいい。お前はものを覚えるときに写真を撮るように景色を頭に入れるという才能がある。だから文字を景色にしていまえばいい。意味など後から湧き出してくる。そう、全ての文字、全ての言葉に意味があるんだ。書き言葉と話し言葉の違いはあるが、お前が幼い頃聞いていたアイヌの言葉と同じだよ。言葉を学ぶことは思考を学ぶことだ。そして思考を学ぶことで人は形が作られていく。良い言葉を学ぶことは、いつかきっとお前を助けてくれる」
 言われたその時には意味が分からなくても、あとで必ずそれは真に良い形で跳ね返ってきた。真が学校で倒れたり、逃げ出してさぼっていると、しばしば怒鳴りつけるような男だったが、勉強を教えるときは実に辛抱強く、真が理解する時間と考える時間を十分に与えてくれた。勉強が面白いと思わせてくれたのは、まさにこの家庭教師だった。
 カリフォルニアに住んで三ヶ月が過ぎると、功の研究生活も軌道に乗り始め、実際に日本にいるときよりも遥かに子どもたちと過ごしてくれる時間が多く取れるようになっていた。ある時、功が数日どこかへ出かけると言うので、竹流を呼び寄せ、子どもたちのことを頼んでいった。
 竹流は功のいない間に、グランドキャニオンに連れて行ってくれて、はしゃぐ葉子にせがまれて、自分でセスナを操縦して、空からのグランドキャニオンの雄大な景色を見せてくれた。その時、プライベートエアポートの支配人がまるで傅くような態度で竹流を迎えたことに真は緊張し、初めてこの男は何者だろうと思ったが、追求する気持ちになったわけではなかった。
 それよりも葉子が楽しそうなのが嬉しかった。葉子は、真が東京にいる間に少しずつ参ってしまっていた姿を見て、多分、随分と心配していたのだろう。よく笑っていた姫君は、少しずつ不安そうな顔になっていたが、この国に来て、やっとほっとしたように見えた。その葉子を見つめている真の頭を、竹流が撫でて、お姫様のご機嫌も直ったようだしお前もちょっとは笑うってことを覚えたほうがいいぞ、と言った。お姫様のナイトはもっと微笑ましい顔をしているものだ、と言い、葉子に笑いかけ、葉子も竹流に楽しそうに話しかけている。振り返って真に手を振った葉子は、耳元に竹流が何かを囁いた後で、弾けるような笑顔になった。
 三日後の夜遅くに戻ってきた功は、一人ではなかった。
 アパートにその男が入ってきたとき、葉子は真の後ろに隠れるようにし、真は思わず竹流の後ろに半身を隠した。目を合わせることはできなかった。背は功よりも低いが、がっしりとした身体つきは、一見で普通の職業ではないことが窺えるものだった。身体に染み付いた煙草の臭いと何かすえたにおいが混じりあい、所々に銀の入った黒い髪と輪郭のはっきりした意志の強そうな、屈強な兵士を思わせる顔の造りは、真に似ているようには見えなかった。
 その男、つまり真の実の父親である相川武史に初めて会ったのは、真が東京に来て間もなくのことだった。あの時、武史は真を見て、功に何のつもりだと低い声で聞いた。親父のところから引き取ったんだ、と功は答え、この子はここにいるから、せめて一年に一度くらいは会いに帰ってきてやってくれ、と言った。武史は何の感情も感じ取ることのできない冷めた表情で真を見ていた。
 あれから、武史が東京の相川家を訪ねて来たことは一度もなかった。
 武史は竹流の顔を見て、それから確かめるように竹流の左の薬指の指輪を見、一瞬不可解な顔をした。功はその武史の表情に気が付いたのかどうか、自然な態度で竹流を紹介した。
「日本で俺の研究を手伝ってくれてたんだ。実際は子どもたちの家庭教師のほうが大事な仕事だったんだけどな」
 功が借りていたアパートには、リビングダイニングと三つのベッドルームがあって、普段は功と真、葉子が別々に使っていたが、竹流が泊まりに来ると、真と葉子は同じ部屋で眠った。多少幼い感情を持ったままの兄妹はまだ男女を意識する年齢でもなかったし、何より葉子は真と話しながら眠ることを好んでいた。
 だが、その日、兄妹と竹流は同じ部屋に閉じこもって、暫くの間無言で過ごしていたが、葉子が眠ってしまうと、竹流は真を促して普段真が使っているもうひとつの部屋に移った。ベッドに真を座らせると、竹流はいきなり真を引き寄せた。真は突然のことに驚いて竹流を見上げた。
「お前の親父か」
 真は暫く、竹流を見つめていたが、返事をせずに俯いた。
「どういう事情でこっちに住んでるんだ」
「知らない。会うのも二度目だし」
 真は緊張した。武史が普通ではない仕事をしているのではないかということは、功の電話で何となく感じてはいた。だが、真には想像すらできないことだった。
 結局竹流はそれ以上は何も聞かなかった。
 真はその日、初めてこの男の傍らで眠った。いや、実際には眠れたわけではない。遅くまで、リビングからは功と武史の途切れ途切れの話し声が聞こえてきていた。声は荒げられることもなく、淡々と続いているような気がした。
 朝方だったのか、まだ辺りは完全に真っ暗だったが、一度だけ誰かが部屋に入ってきた。
 その気配は明らかに殺気だった。真はぞくりと身体が凍りついたような気がして、目を醒ましたが、動くことはできなかった。
 その時、傍らに横になっていた竹流が身体を起こした。
「チェザーレ・ヴォルテラの息子だな」武史の自然な調子の英語が、低く重く響く。「こんなところで何をしている」
「息子じゃない、甥だ。初対面のはずのあんたが俺をその名前で知っているなんてのは、あんたもまともな人間じゃないってことだな」
 竹流は一瞬、はっとしたように言葉を止め、何かを躊躇ったような気配を示したが、すぐに真の頭を撫でて、眠ってろと言った。武史がこの部屋を出るように促したが、竹流は意地の悪そうな声で答える。
「息子に聞かれたくない話でもあるのか」
 武史は日本語で答えた。
「そうではない。お前のほうこそ、困るんじゃないのか」
「俺は別に困ることなんかない。何故ここにいるのかという質問への答えは簡単だ。あんたの兄貴に頼まれて、この子どもたちの家庭教師をしている」
「では、何故兄貴に近付いた」
「他意はない。もっとも、誤解はしていたが、今はただあんたの兄貴を頼り、敬愛している。ぼろぼろだった俺を救ってくれた。どちらにしてもヴォルテラの家に関係のあることではない。何より、俺はあの家を出てきた」
「指輪をしたままだな。ローマ教皇から授けられるというヴォルテラの紋章だ」
「捨てたのは家だ。血縁を切ったつもりはない。あんたと同じで、義理とはいえ、特に兄貴とはな」
 竹流は少しの間、躊躇っていたような気配を示したが、結局その先をあえてはっきりとした言葉で続けた。
「硝煙の臭いは、煙草の臭いごときでは消せないな。それも半端じゃない。あんた、一体」
「その子に手出しをするな」
「手出し? どういう意味だ」
「それ以上近付くな、と言っている」
「悪いが、俺の勝手だ。あんたが何者か興味はないが、あんたに命令される筋合いはない」
 武史は暫く何も言わずにそこに立っていたようだが、そのまま部屋を出て行った。真はドアの閉まる気配に身体を震わせた。竹流が真の頭を撫で、それから耳元に口づけるようにして言った。
「お前の親父は間違いなく功さんだよ。それだけは俺が断言してやる」
 何も知る必要はない、という意味だと思った。あるいは知ってはならない、という意味かもしれなかった。そのとき既に真の頭の中には、いつの間にか、この男の言葉を一切そのまま信じるという回路が出来上がっていたのかもしれない。
 だが、硝煙の臭い、という言葉が何を意味するのか、真にも全く理解できないというわけでもなかった。自分の父親はまともな仕事をしている人間ではない、だからその男は日本に帰ってくることもできず、真を引き取ることもできず、父親であるということさえ、否定するわけではないが認めようともしていない、そのように感じた。
 どういったわけか、その時、真はとてつもなく苦しい夢を見た。夢なのか現実なのかも分からなかった。
 あの日、上級生たちを叩きのめした手の感触がまざまざと思い出され、真は手のひらにひどく汗をかいた。真を蹴ったり殴ったりしていた上級生たちが血に染まっている姿が網膜に蘇り、真は改めて彼らを殺した、と思った。殺したかったのではない、明らかに殺したのだ。何故かそう確信して、震えるのでもなく、ただそれを冷めた頭で受け止めた。
 身体の芯のどこかに、誰かを、許せない誰かをずっと殺したかったという思いが湧き上がってきて、真は冷静に、自分はどこかおかしいのだと思った。それは恐らく赤ん坊の真の首を絞めた女であり、その女を追い込んだ自分の父親であり、その女を狂わせるために父親の前に現れ、赤ん坊を捨てて遠い国に戻ってしまい一度も会いに来ない母親でもあった。その感情は真の身体の奥にずっと燻っていて、あの日あの上級生たちに対してたまたま爆発してしまっただけなのだろう。
 そう、あの男だったのだ。あの男が、真の体の中に残した遺伝子が、内側で既に軋んだ音を立て始めている。それはとんでもない闇だと真は思った。それをこれからずっと押し込めて隠し遂せなくてはならない。隠せなくなったとき、自分は恐ろしい人間になって地獄に堕ち、果てなく続く罰を受けるのだ。
 朝になってリビングに行くと、功がソファに座って、珍しく煙草を吸っていた。武史の姿はなかった。功は疲れたような顔で真を見つめ、それから僅かに微笑んで、真を傍に座らせた。
「武史を許してやってくれ。お前が憎いわけじゃない。何かやむを得ない事情があるんだ。いつか時間が経てば、あいつにも少し余裕ができるんだろう。それまで、私では足りないかもしれないが、お前の父親のつもりでいる」
 功は真の頭を抱き寄せ、それからずっと長い時間黙っていた。真にはそれが功の優しさでもあり、同時に苦悩でもあるように思われた。
 その日、真は明らかに父親に捨てられたと思った。震えながら、捨てられて良かったのだとも思った。

Category: ☂海に落ちる雨 始章

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☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(3) 

 アメリカ人の教師は真に対して熱心だった。夏にはマサチューセッツの大学のサイエンスプログラムへの出席を薦めてくれたが、真は西海岸を離れることを怖がった。武史が住んでいるワシントンDCに近付くことを本能的に恐れたのかもしれない。その真の気配に尋常ではないものを感じたのか、教師はそれ以上強く言わずに、それなら自分の友人がやっているサンタフェのサマースクールに行ってみないかと話した。
 功と離れて、葉子と二人でアルバカーキの空港に降り立った日、迎えに来てくれたのは、年をとってはいるものの、随分と明るい色のワンピースを着たお婆ちゃん先生で、この女性は兄妹を見るなり、プリンセスとナイトね、と言った。
 この女性は、真を何日かずっと温かい目で見つめてくれていたような気がする。
 武史に会ったあの日から、真は夜はよく眠れず、昼間もたまにふわふわと浮いているような事があった。自分の中の何かが定まらず、時々幻想の中で誰かを叩きのめしているような手の気配が蘇り、じっとりと手掌に汗をかき、息苦しくて目を覚ますと、自分の首を自分で締めていることもあった。勉強している間だけは救われるような気持ちだった。辛いのか苦しいのかもよく分からなくなっていた。
「あなたは私の友だちの助けが必要なようね」
 そう言われて連れて行かれたのは、サンタフェの町で最も年配のヒーラーのところだった。そのヒーラーの女性は魔女のような目でじっと真を見て、私では手に負えないと言い、真を連れて、草木のほとんど見えない荒涼とした土地の真ん中に果てしなく続く道を、案内の男性に運転させた車でほとんど丸一日かけて行き、辿り着いたのがインディアンの居住区だった。
 その長老に会ったとき、真はあの亡くなったアイヌの老人が帰ってきたのだと思った。長老も何かを思ったのか、真に歩み寄り、友人が戻ってきた、と拙い英語で言った。
 それから何日がそこで過ぎたのか、真には全く時間の感覚がなかった。大地に寝転び、果てしなく高い空を見上げ、空を舞う鳥を見た。特別な儀式の場所に行き、草を燻した煙の中で、幾日も夢を見続けた。常に馬たちや犬たち、それに小さな友人たちが真の周りにいて、彼らはずっと真に話しかけていた。内容は全く分からないのに、真は納得し、暖められ、それから美しい馬の姿を見つけた。飛龍、やっぱりお前だ、と真は話しかけた。飛龍は首を震わせて高く鼻を上げ、嘶いた。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真はアイヌの老人の言葉を呟いた。そのアイヌの大切な教えは、今明らかに魂の響きを伴って、真の上に降ってきた。
 ああ、世界はこれほどまでに平和だったのだと真は思った。大地には幾枚もの葉が敷き詰められ、真は自然のうちにある全てのものからエネルギーを得た。自らの体の下から湧き上がってくる命の声があった。ただ気分が良く、穏やかにどこかを彷徨っているような心地だった。
 そしてふと目を開けたとき、真は大宇宙に囲まれていた。星々は何億光年もの音楽を奏で、真の頭上に光を届け、何かの破片が砕けるような澄んだ音が降り注いだ。
 その大きな宇宙のドームの中で、真は孤独だった。たった一人きりでこの世界に投げ出され、今たった一人で大地の上にいた。父も母も不要だった。ここは穏やかで是非もない、と思った。
 身体の芯が密やかに興奮し震えている。まだ夢精をしたことさえなかったが、その時真は初めて自分の身体の中に溜め込まれた宇宙のエネルギーを感じ、そして何十億年もの遺伝子の旅を想った。静かにやってきた波は、その後も長い間引くことがなく、ずっと身体の中心に留まり、真は自分の胸を弄るようにして震えた。真の目は大宇宙の中を彷徨っていた。そして真は明らかにその宇宙と性交をしているのだと感じ、身体のうちを駆け上ってくる興奮に身を任せて唇を僅かに開いて声を漏らし、生まれて初めて射精した。
 それからも長い時間、緩やかな波は真の身体を揺らしていた。身体はぐったりと重くなり、地球の内側に沈みこみ、深いところに暫く留まっていたが、やがてゆっくりと浮上していく時には再び軽くなっていた。浮き上がるような気持ちで身体を起こしたとき、真は目の前に不思議なものを見た。
 その男はそこに立っていた。
 神が何かは知らなかったが、真は神の子だと思った。神の子どもは暗い宇宙の下でも光を纏い、不思議な海の色を湛えた瞳で真を見つめていた。
「出会うべき運命があるわけではない。出会ってしまったがために運命は拓かれたのだ。運命という言葉が間違っているなら、必然と言い換えてもよい。拓かれた必然には、誰も逆らうことはできない」
 長老はそう言って、真と傍らに不可解な顔で立っている男をただ見つめ、もう行きなさい、と告げた。
「どうして」
「知らん。功さんに言われてサンタフェに来たら、いきなり拉致されるみたいにしてここに連れてこられたんだ。お前を迎えに来いって長老が言ってるって。一体、何のおまじないだ?」
 真はさぁ、と答えて、帰りの車の後部座席でずっと大和竹流に靠れ掛かっていた。竹流は何を察したのか真の頭を抱いていて、何も、本当に何も話さなかった。
 だが、その日、運命の歯車は、長老が言うとおりなら必然の歯車なのかもしれないが、回り始めていたのかもしれない。


 カリフォルニアから帰国して僅か半年後に、相川功は失踪し、戻らなかった。
 真の記憶にあるのは、明るい朝の光景だった。功は前の夜、家に帰ってこなかった。脳外科医である功が、急患や重症患者のために帰らないということは珍しいことではなかったが、精神状態の不安定な息子を家に残しているために、戻れない日には息子が心配しないようにと必ず連絡をくれていた。それが、その夜は初めて、連絡がなかった。
 カリフォルニアから戻り、私立の学校に転校してからは、何とか学校を休まずに通うことができていた。これまでの公立校と違って、交換留学生や帰国子女を積極的に受け入れている学校で、髪や目の色程度のことでは苛められる理由にならなかったからだけではなく、院長が功の親友であり、功に『息子をよろしく』と頼まれた律儀な級長はお節介で、気を使ってもらっていることがわかっていたからだった。真は、今度こそ、息子と言ってくれた功の自分に対する失望を払拭し、期待に応えたいと考えていた。
 功の書斎は十二畳ほどの部屋で、扉は観音開きだった。光が高い窓から射し込むと、部屋の隅の机の上にだけ照明が灯されたようになる。部屋の大部分は図書館並みの書棚の列だった。薄暗い書棚と書棚の間は、真の絶好の隠れ場で、功なりに定めた秩序に基づいて並べられた本は、いつも真を慰めて包み込んだ。
 書斎の机の上には、功が前の夜まで読んでいたらしい『宇宙力学論』が広げられていた。高い窓から射し込む陽は部屋に舞う塵を光色に染める。真は広げられた本のページに挟み込まれた栞を黙って見つめていた。カリフォルニアに住んでいる時、アウタースクールの先生が、大切な人に手作りの贈り物をしましょう、と言って鉱石を薄く剥がす方法を教えてくれた。それで栞を作ったのだが、功はこんなものを大事に使ってくれていたのだ。雲母の欠片は窓から落ちる光のために、内側に密やかに隠し持っている色彩を微かに放っている。
 その日、そのまま学校に行った。帰宅すると、書斎の机に『宇宙力学論』も栞もなく、そのまま功も戻らなかった。真は本が置かれていた場所を手で触れた。温度はなく、指先に感触はなかった。そのまま陽は暮れて、書斎の中はゆっくりと光を失っていった。
 そして、真は、二度父親に捨てられ、その後姿を見失ったことになった。
 功の失踪の事情は何も分からなかった。大学病院へは一身上の都合、という退職願が出されていた。子どもたちが成人まで困らない程度の財産は残されていた。
 思い起こせば、妙なことは幾つかあった。ある日、功が真だけに学校を休ませて、秩父へ車を走らせた。着いたのは昔の結核病院を改装したサナトリウムで、そこで初めて真はその女が現実に存在していることを知った。
「私の妻だ」
 功はただそう言った。その女、相川静江は亡くなったのだと聞かされていた。いや、もしかすると、真がそう思い込んでいただけなのかもしれない。葉子がいるのだから、相川功には以前に妻がいたはずで、その人と今一緒に暮らしていない理由は死別だと勝手に考えていただけなのかもしれない。その女が実在して生きているという可能性について、真は一度たりとも考えたことなどなかった。
 功は、その女と自分たち兄弟の間にあったことを真に説明などしなかった。ただ、もしも私が事情があって来ることができないときは、お前がたまにこの人を見舞ってくれないか、と言った。
 女は功が誰なのか、真が誰なのか、ほとんど分かっていないように見えた。あの人は大事な人を待っているんだよ、と別の患者が呟いたのを聞いて、真は震えた。
 これは罰だと真は思った。功が弟の武史を愛し心配する傍らで、複雑な感情を抱いていることは感じ取っていた。武史の息子である真に対しても同じだった。私がお前の父親だと言って慰め励ましてくれたことも、真を苛めていた連中やその親、学校に対して怒りを露わにし、闘おうとしてくれたことも真実だったが、その一方で、真が、功の妻の心の中に今でも棲み付いている武史の息子であり、少し頭がおかしくてまともに学校にも行けない子どもであることを辛いと思っていることも、また真実だっただろう。
 功が夜中に声を潜めるようにして電話で誰かと話していることも多くなっていた。やり取りは英語であることが多く、聞き取りにくかったが、何度か繰り返された『アサクラタケシ』という名前に真は戦慄し、何かとんでもないものを耳にしたような気がしていた。
 功が失踪したという事実について、真はどうにもできなかった。竹流は何かを知っているのか、それともただ功から、暫くは子どもたちを頼むと言われていたのか、まず真に向かって尋ねた。
「お前はどうしたい」
 真は真っ直ぐに竹流の顔を見つめて言った。
「葉子は俺が守るから、おじいちゃんには言わないで欲しい」
 もしも祖父にこのことが知れたら、武史について何かとんでもないことが分かってしまうのではないかということに、真は潜在的な恐怖を感じていた。真が唯一心から穏やかに過ごすことのできる北海道のあの場所に住む人々に、武史が何者であるかが知れたら、真はこの世から居場所を失ってしまうような、そんな気がした。
「本当にそう思っているのか」真が少し躊躇ってから頷くと、竹流は厳しい声で言った。「それなら、お前はもっと、本当の意味で強くならなければならない。生きていくには理不尽なんかいくらでもある。お前には納得できないことでも、お前がその繊細な精神で敏感に汲み取るのは大いに結構だが、いつまでも赤ん坊みたいに震えたり泣いたりしても始まらない。馬や犬や、他人には見えない物の怪の類に甘えるようなことは辞めろ。多少辛い事があっても、気を失ってしまえばいいなどと決して思うな。この街が恐ろしいなら、睨み付けて、取り込んでしまえるほどに強くなれ。言っている事が分かるか」
 真は自分の手を握っている大きな強い力に、改めて頷いた。
 その日から、勉強は一段とスパルタになり、喧嘩を含めたあらゆる格闘技、真が逃げ回っていた苦手な水泳の特訓も始まってしまった。竹流にはどこから湧いて出るのかわからない友人がごまんといて、その誰もが某かの分野ではいっぱしの人間で、真への教育の手伝いを担い始めた。竹流は一切、容赦しなかったが、真も音を上げることはなかった。傍で見ている葉子が何事かと思ったようだが、彼女は彼女で一段と優しくなった王子様に満足していたようで、竹流は葉子にあの絶品の料理の腕前を存分に伝授した。
 もちろん、兄思いで、ある部分では自分の方こそ兄を守っているとさえ思っている姫君は、時々竹流に文句を言っていたようだ。真が週末にはボクシングジムで意識を失うまでのしごきを受けていることについて、ある時ぼろぼろの真を連れ帰った竹流に、摑みかからんばかりの勢いで怒っていた。
「お兄ちゃんは特殊金属でできたロボットじゃないんだからね。死んじゃったらどうするのよ。大体、お兄ちゃんは剣道では凄く強いんだから。なんでそんな野蛮なことしなきゃいけないの」
 竹流は、まだ幼いともいえるこの姫君にも、ちゃんと理屈を通す。葉子を一人前の大人の女のように扱い、頭ごなしに主張を押し付けることは絶対にない。もっとも、葉子は葉子なりに、普通の家庭で育ったお嬢さんにはあり得ないほどの葛藤をどこかに抱えていて、真の想像もできない部分で何かと戦い、乗り越えて成長してきたのだ。娘を道連れに心中を図り精神の病を持つ母親と、ほとんど家にはいない脳外科医の父親、そして精神的に不安定で登校拒否の兄、そういうものと向かい合った中で、葉子が同じ年頃の女の子の感性からは幾分か逸れてしまい、生意気な言葉を覚え、早熟な面を持ったのだとしても致し方ない。
「剣道では駄目なんだ。竹刀を介して相手を殴ったんでは、自分の手に本当の痛みが残らない。己の拳で誰かを殴るということは、自分も苦しくて痛いんだということを覚えなくてはならない。真は君を守りたいんだ。男が女を守るということは、無理をするってことだ。だから痛みを覚えて、耐えて、苦しんで乗り越えていく。君は兄貴がどういう想いかということをちゃんと受け止められる女だ。だから君も、自分にできることで兄貴を守ってやれ。男が本当に苦しい時に最大の味方になってやれるような、そんな女になってくれ」
 葉子の料理に気合が入ってきたのは、そういう竹流の言葉と大いに関係があるのかもしれない。
 時々、大和竹流は真と葉子を彼のマンションに泊めた。豪奢なマンションで、真は一体この男は何をしてこれだけの金を稼いでいるのかと思った。葉子は単純に、竹流さんはお金持ちなの、と聞いた。竹流は例の王子様スマイルを浮かべて、そうだよ、と答えた。
 もっともその態度には不自然さは全くなかった。ロビーにコンシェルジェが常在しているようなマンションで、そのコンシェルジェと語る態度も、明らかに昨日今日の成り上がり者にはない気品があった。竹流は、俺は詐欺師だからなと言ったが、ただの一瞬にも卑屈さを感じないその態度からは、この男の血の色がそこら辺の人間とは違うのだと思わせる何かが湧き上がってくるようだった。
 ついでに言うと、葉子の前では決して見せない顔だったが、真が一人でそのマンションに行くとしばしば女と鉢合わせた。少なくとも彼が真や葉子の家庭教師をして食いつながなければならないような事情はなさそうで、複数の女たちが競うように竹流に貢いでいる気配を、真は自分に向けられる視線のうちにも感じ取った。
「女と寝るのが商売なのか」
 竹流は真の言葉に、面白そうに笑った。
「寝るけど、それで商売をしているつもりはない」
「父さんに近付いたのは、やっぱり復讐のためなのか」
「復讐? それは違うな。誤解をしていたのは認めるけど、ただ事情を知りたかったんだ。俺の大切な友人のお姉さんが自殺した理由を」
「父さんが死なせたと思ったのか?」
 竹流は真の腕を摑んだ。
「真、男と女のことだ、誰かのせいなんて簡単には言えない。どれほど激しい想いでも、恋なんてものは散るためにあるようなものだ。そういう想いの絶頂で死んでしまう人間がいたとして、それはもしかすると幸せなことで、誰かが一方的に悪いなどとは思わない。だが、いつかお前にも分かる時が来るよ。誰かを思って苦しくてたまらないような想いをして、その感情の嵐が去った後で、ふと我に返ったときにも命をかけてもいいと思えるようなら、それはきっととんでもなく幸福なことだろう」
 真はその男の強い手の力を受け止めていた。
「あんたは、そういうことがあったのか」
「いや、残念ながらないな。そういう想いは、一生に一度すれば十分なんだろう」
 この男の言葉にはいつも魂が宿っている。真はそれを十分に感じられるようになったことに、心の深いところで感謝し始めていた。
 功が失踪してから変わったことがもうひとつあった。
 相川武史が残された子どもたちのところへたまに電話をかけてくるようになった。消息を確認し、特に健康については必ず確認し、困っていることはないかと尋ねてきた。相変わらず、その声は遥かな電話線を経由する間に冷たく重くなっているようだったが、どこかにひどく不安な気配を纏うようになった。
 何かあったのだと真は思った。功はもしかしてもうこの世にはいない、そしてそのことを武史は知っている、あるいは武史こそ功をこの世から失わせた原因であるのだと直感した。
 武史は何度か東京にやって来た。学校の校門で真が出てくるのを待ち、真を車に乗せ、どうしているかと聞いた。真は竹流に言われた通り、自分をコントロールする術を身に付けていた。淡々とその男との時間を過ごし、そして別れた。
 もう父親などという人種は、自分には必要がないと思っていた。

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