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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

心機一転! カテゴリ追加 

拓

注:このカテゴリはBL・18禁要素が含まれます。苦手な方は引き返してくださいね。
  でも、あまり迫力?はありませんので、逆に期待もしないでください…(..)


彩色みおさん(BL作家に五里霧中!)ご企画のSSにチャレンジさせていただいて生まれた二人の物語を、独立カテゴリにしました。
きっかけは…な、なんと!
竜樹さんが拓(Hiraku)のイラストを描いてくださったんです!
それが上の素敵なイラスト。竜樹さんのご許可をいただきましたので、貼らせていただきました。
本当にありがとうございますm(__)m 竜樹さんのブログはこちら→萌えろ!不女子(click)

感謝感激雨嵐!です。
ちょっとびっくりして、で、興奮して、嬉しくて、でもどうしたらいいのかしら、と思いながらじたばたして。
取りあえず独立カテゴリにしよう!ということにしました。
そして、頑張って続きを書いて、お礼にしたいと思います。
(同窓会が終わったら…(>_<))
もう、妄想は2作先まで走っているのですが……実は、Hシーンがない…
あんまり得意ではないのですが、何とかねじ込みます!
お楽しみに!!

ちなみに本来はSSなのに、やたらと長くて、しょっぱなからSSではありませんm(__)m
かといって、あらすじ、というような上等なものもありません。
おおざっぱに言うと、高級菓子製造会社の社長・篠原宗輔(Shinohara Shusuke)とボクサー・葛城拓(Katsuragi Hiraku)の恋物語?
ということにしておこう。
第3作目からは、お茶の水博士と拓が呼ぶ、ロボット工学者・斎田アトムも登場予定。年寄りではなく、宗輔の親友。
気楽に、読み始めてやってください。

勢いで誕生したふたりですが、たまには私もHappy Endにしてやろうという親心を持ちました。
(キャンディ・キャンディの呪縛から逃れて…参考→【物語を遊ぼう】7
いえ、不幸にしてやろうなんて思っているわけではありません。
でも何だか苦しんでいる本編の二人を書いていると、たまには…ね。

ちなみに、葛城、という名字、本編にも出てきます。
葛城昇……新宿2丁目のゲイバーの妖艶な店長。竹流が信用している仕事仲間の一人。
ま、時代が違うのですが、もしかして、姪の子ども、程度の親戚だったりして。

一応BLの仲間に入れてください。
でも、正直、あまり恋愛度は高くないかも。
萌え度も低いかも。
18禁シーンなんて、本当に色気がないかも。

でも、変な萌えはあるかも?
(焼肉とエッチ、とか)

ということで【小ネタ出し】から引っ越ししました。
本編のようにのんべんだらりと長くならないよう、SSではないけど、MMくらいのサイズまでで、頑張りたと思います。
改めまして、よろしくお願いします(#^.^#)
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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【SS:バレンタイン、キス、氷】 Time to Say Goodbye 

【挑戦:このページはBL絡みの記事につき、苦手な方はご遠慮ください←とはいえ、読んでみたらそれほどでもない、と言われそう。18禁の要素は、逆に情けないことに…ありません(..)】

ブログに時々お邪魔させていただいている、彩色みおさんが出して下さったお題つきSSに挑戦してみました。
私にはちゃんとした?BLが書けないのですが、本当に生き生きと頑張っておられるBL作家志望さんたちの応援団(今のところ団員2人、かのうさん、ありがとうございます!)として頑張ろうと思います。
そう、昔、阪神ファンのファンという先輩がおりましたが、そんな感じです。

ところで、チャレンジしてみたけど、結果的に長すぎ→SSではない、Hシーンがないし甘々でもない→BLとは言い難い、ということで見事!玉砕しました。私、やっぱり書けません……
でも、それでも読んでやろうという奇特な方は、ぜひお願いします。
何でこんなことになっちゃったのかというと、ただ、キスひとつするのに、すごい理由が必要なんです……私の場合。で、ついつい、人物の背景をやたらと書き込みたがるんですね。
そんなのSSではどうでもいいだろ~と思うのに。

えっと、つまり、ボクシングが書きたかったんかい、と思わないでくださいね。
ま、否定はしないんですけど。
『ボックス!』に憧れてるんです。あんなのが書きたい~と。

もちろん、BGMはロッキーでお願いします(#^.^#)

あ、ところで、彩色みおさんの小説『ミッドナイト・ガバメント』が、某出版社さんの入賞作品Webにて公開されています。ちょっと今更何言ってんのよ、って感じですけど。
詳しくはみおさんのブログをぜひ訪ねてあげてください(下の「みおさんのブログ」をクリック)
みおさん、おめでとう!

みおさんのブログ





Time to Say Goodbye
拓medium (イラスト:竜樹さま)感謝m(__)m

 今日こそ全てと訣別する。
 葛城拓(ヒラク)は肩のザックを担ぎなおした。

 高校生の時、クラブの指導者だった赤沢には、もう話を通してある。挨拶に行った時の赤沢ジムの連中の顔には、逃げ出した人間に対する侮蔑の表情が張り付いていた。その中には、当時拓よりも弱かった奴の顔もあった。だが、わずかなファイトマネーだけでこの道に専念しているハングリーな目には、今では拓のはるか前方を歩いている自信が宿っていた。
『セレブ奥様の下の相手してるような奴が、今さらボクシングだなんて、笑わせるよな』
 明らかにそんな声が耳に届いた。
 赤沢も半分は信じていないだろう。口元には、まぁ1週間持つなら考えてやるけど無理だろな、という笑いが浮かんでいた。
『お前、高校のアマチュアの大会で優勝したからって、軽く考えんな。もう4年離れてるんだろ。今の仕事を辞めちまわない方がいいんじゃないか、いつでも戻れるようによ。辞めちまったらなかなか戻れないってのは、よく知ってるだろうが』
 そんなつもりはない。半端な気持ちではないのだ。赤沢は、自分でトレーニングして2か月後に来い、試合を見て考える、と言った。

 その期日が明後日だ。
 あの時だって、辞めたくて辞めたんじゃない、と拓は拳を握りしめた。
 必ず見返してやる。
 もう一度あの世界に戻るためだけに、この2ヶ月、ハードなトレーニングと食事コントロールで身体を作り直した。体重を52kg台後半から49kg台まで落とした。バンダム級の連中相手では戦えないことが分かっていたからだ。アマチュアの時とは階級分けが違うが、もとのフライ級でなければ、とても赤沢に認めさせる試合ができない。

 拓はセレブ御用達のスポーツジム『シャングリラ』の従業員専用入り口に、認証カードをかざした。
 2か月前のこの身体も、体脂肪は5%ほどだった。一般的には十分に引き締まった体で、ジムに通う奥様、会社役員、芸能人達からは素敵だと憧れてもらっていた。165センチメートルという、男としては比較的小柄な体格だが、小顔のために全体のバランスが極めていいと言われるのは、身体が資本の業界では必要な魅力だった。

 パトロンの矢田は、ベッドの上では、もう少し柔らかい体がいいと言ったが、それならもう少し肉付きのいい小姓を探したらいいのだと思う。
『どないしたんや』
 体脂肪率を4%を切るところまで落とした体を、矢田は撫でまわしながら怪訝そうに言った。拓の決心などには気が付いていないのか、それとも何かを感付いていながら知らぬふりをしているのか。

 そして、あの男も。
 拓は頭を振った。
 元々耳が隠れるほどに伸ばしていた髪を、昨日刈り上げるほどに切った。ピアスも2か月前からしていない。
 廊下の途中にある姿見で、拓は自分の顔を確かめた。
 元々目つきが怖い、野生的、などと言われていた顔だが、この2ヶ月でますますとっつきにくい顔になったのかもしれない。今まで営業スマイルを貫いてきたために隠れていた本来の顔が戻ってきたことには、拓自身は満足していた。

「おはようさん、髪、短すぎじゃないの」
 ジムのインストラクター仲間が肩を叩いていく。180センチはある長身で、赤く染めた髪に、エステで磨いている体は、インストラクターというよりもホストの様だ。赤沢ジムの連中が言っていたことはあながち間違いではない。
 セレブ達の下の世話、とまではいかなくても、恋愛ごっこの相手をしている。おかげで、身入りは悪くないし、中にはホストよろしく車やマンションを買ってもらったというインストラクターもいるらしいと聞く。
 拓に関しては、関西系の不動産会社社長がパトロンで、車もマンションもあてがってもらっている、という噂があるために、大きな贈り物をしようとするセレブはいないが、恋愛ごっこの相手は幾人か持っている。
 だが、それも今日で終わりだ。拓が1か月前に退職願を出していることを知っているのは、この『シャングリラ』の社長と銀座店の店長だけだ。何かと騒がれるのは真っ平だったし、店の方では拓の気が変わらないか、期待している節があった。

「明日はバレンタインですわね。お忙しいんでしょ」
「まさか。私は社長室に座っているだけですからね」
 着替えてトレーニングルームに出た途端に、よく響くバリトンの声が鼓膜を捉えた。
 このところ、ふわふわ食感のバームクーヘンで業績を伸ばしている製菓会社の社長、篠原宗輔(シュウスケ)だった。
 そもそもは小さな町の喫茶店で出していたケーキがあまりにも美味いというので話題になり、いくつかの一流ホテルに店を出すようになり、ネット販売を始めた時に日持ちのするバームクーヘンが大当たりしたのだ。もちろん、バレンタインが近くなれば、社長と秘書自ら現地に飛んで確かめたカカオだけで作っているという限定生産のチョコレートも大売れなのだろう。
 長身で、がっしりとした体格、誘うような低い声、甘いマスクにうねる様なウェーヴのかかった髪。毎週末にはジムに現れ、若い女性に囲まれる。元はその小さな喫茶店でケーキを焼いていた、いわゆるパティシエだったというが、確かに細くて綺麗な指をしている。もっとも今は金計算と書類に判を押すばかりで、その指でケーキ作りなどすることはないのだろう。あとは、拓の体を愛撫することくらいだ。いや、あるいはあのご婦人方の幾人かとも、同じようなことをしているに違いない。

 宗輔を取り囲んでいるのは、宝石商の女性社長とその娘、それにあれは某ホテルオーナーの奥様だ。少し離れて様子を見ているのは、この間デビューしたばかりのアイドルに違いない。
 今年32になると言っていた独身貴族の金持ちを、女たちが放っておくわけがない。
「私、クラブシノハラのトリュフを12ダース注文しましたわ。本当に、なかなか手に入らないんですから」
「それは申し訳ありません。うちは契約農場を持たないものですから、その年に基準を満たすカカオがどれだけ手に入るかわからないので、予約されても確約できないのですよ。契約しても、気候や土地の状態によって、その農場がその年に世界最高レベルのカカオを生産してくれる保証はありませんからね」
 ご立派なこだわりだと思うが、チョコレートひとつに千円近くも出すような世界とは、もう関係がない。たとえ、その男の手が先週末まで拓を抱いていたのだとしても。
「チョコレートではあなたの気を引けませんわね」

 ちらりと宗輔の切れ長の目が拓を捉えた。
 この甘い顔で、なかなかハードなセックスを要求する男なのだ。いや、ほとんど拷問に近いこともある。金曜日のレッスンの後、翌日の勤務開始時間が遅いことを知っているのか知らないのか、ほとんど立てなくなるまでやられる。
 まさにやられる、という言葉が適切だ。
 愛している、とか、可愛いよ、とかいう言葉かけは全くなしだ。キスさえも、滅多にしない。突っ込まれているときに興奮して求めることはあっても、愛おしむようなキスなど、もちろんしたことがないし、されたこともない。
 独身貴族を満喫する男だから、女と付き合ったら妊娠とか結婚とか、面倒くさいのだろうと拓は思っていた。
 で、欲望のはけ口が俺ってわけだ。
 そのハードなセックスがこの2ヶ月ほどの間にエスカレートしてきている。おかげでトレーニングに支障の出ることもあったが、この野郎、と思う気持ちが後押ししてくれるので、試合に向けて、気持ちはマックスだった。
 拓は大きく息をつき、わざとらしく目を逸らした。
 どれほど助平で鬼畜な野郎か、ご婦人方にばらしてやりたい。もっとも、ご婦人方の中にも大概な人がいるのだが。

 拓の受け持つスタジオトレーニングは格闘技を取り入れたシェイプアップのエクササイズだった。音楽に合わせながらシャドウを繰り返すような優雅なトレーニングとも今日でお別れだ。
 音楽の代わりに、ミットやサンドバッグを打つ激しく鋭い音が、すでに耳の中で反響している。あの熱い息遣い、飛び散る汗、そして血の匂いまでも、懐かしくてたまらなかった。
 ふと、ガラス張りのスタジオの向こうから視線を感じる。
 宗輔がランニングマシーンで軽快に走りながら、ただこっちを見つめていた。拓もしばらく、むしろ力を入れて見つめ返していた。

 スタジオレッスンの後、予約のあったプライベートレッスンを順番にこなしていきながら、拓は最後の名前にふとスケジュール表の上を滑らせていた指を止めた。
 一体、何の真似だ?
 宗輔は確かにもともと拓のプライベートレッスンの生徒だった。それが1年前、身体の関係を持つようになってからは、パブリックな場所での体の接触を避けたのか、予約を入れてくることはなくなった。別にそのことを宗輔に確かめたことはない。
「篠原さん、プライベートレッスンは久しぶりですね」
 他人の目があったので、何も言わないでトレーニングを始めると変に思われると感じて、当たり障りのないことを言った。
「そうかな」
 宗輔の返事はあっけなかった。
 いくつかのマシンを回る間も、目を合わせられなかった。がっしりとしたいい体格だが、ショルダープレスの時、少し右肩がひきつるように上がるのが癖だった。フランスに留学中、交通事故に遭って、右肩に大怪我を負ったらしく、大きな傷がある。腕を上げるとき、どうしても吊られるように肩が動いてしまう。
 その肩が上がらないように、彼の右肩に手を添えた瞬間、何とも言えない感情が襲いかかってきた。
 意外にも意識をしている自分に、今さらながらに驚く。
 もう決めたことだ。こいつとも今日を限りに別れる。
 ストレッチをする時には、その体に触れてももう何も感じなかった。少なくともそのようにふるまうことができていた、つもりだった。

「本当に辞めるのか」
 12時が過ぎ、ジムの掃除を終え、店長に挨拶に行くと、店長はため息をついて言った。
「はい。1か月前に言った通りです」
「結構、身入り良かったんじゃないの。そんなあてにならないファイトマネーだけで食っていけるのか」
「でも、今持っているのは俺の金じゃないですから」

 大阪の難波にある祖父の代から続いていた小さな喫茶店を受け継いだとき、母にのしかかってきたのは遺産ではなく借金だった。父親は元プロボクサーだったが、パンチドランカーになって認知障害、暴行を繰り返すようになった。母親がその父を刺し殺し、執行猶予が付いたとはいえ犯罪者になって、結果的に喫茶店は地上げ屋に持っていかれてしまった。高校を出て、大学でもボクシングを続けようとしていた拓に、辞めてほしいと泣いてすがった母は、不動産会社社長の矢田の愛人になっていたが、拓が高校を卒業する前に亡くなった。矢田の人脈のおかげで優秀な弁護士が付き、母の裁判が有利に進んだのだが、裁判で言われたような正当防衛などではなかったことを拓は知っていた。
 おそらく、矢田も知っていたのだろう。
 母が亡くなって、今度は拓が矢田の愛人になった。矢田の口利きで『シャングリラ』に勤めるようになり、矢田が満足している限りは、矢田が立て替えたはずの篠原家の借金のことは何も言われなかった。
 矢田は拓の交友関係には無頓着だった。拓に対して、特別に執着心があるわけではないのだろう。それでも、そこから抜け出せるのかどうかは、今もまだわからない。
「わかんないなぁ。何に餓えてんの? せっかくいい暮らししてんのに」
 その言葉を背に、拓は『シャングリラ』を後にした。

 12時を過ぎているから、もうバレンタインだ。
 拓はセレブしか住んでいないというマンションのコンシェルジェに挨拶をして、1012号室を呼び出してもらった。毎週の来客である拓には、すでにコンシェルジェも慣れてくれていた。
 とは言え、拓の背中の手製のサンドバッグと、ごみ袋にはいささか目を見開いている。しかし、さすがに、十分に金を払ってくれる住人の客に対して、失礼な言葉はかけてこなかった。
 そもそもどういう関係と思っているのだろう。ちょっと聞いてみたい気もしたが、それも今日までだから、もう今さらな気がした。

 1012号室の鍵は、例のごとくかかっていない。
 拓はドアを開け、サンドバッグとゴミ袋を担ぎ直す。だだっ広いリビングのドアを開けて、多分優雅にブランディグラスなどを揺らせているはずの宗輔にサンドバックを投げつけようと思ったら、宗輔はそこにはいなかった。
 ふわふわの白い絨毯、ゆったりとしたソファー、アクリルの低いテーブル、酒の棚、柔らかい音楽はサティだ。
 拍子抜けして、そのままリビングにサンドバッグにゴミ袋を放置して、キッチンの方へ移動する。何か、削るような音が小気味よく響いてきていた。

「遅かったな」
 宗輔はアイスピックで氷を丸く、それもかなり小さく丸く、形を整えているように見えた。宗輔の長い指が、器用に小さな氷を扱っている。
 十分いい男だけど、俺も別に男好きってわけでもないし、たとえ乱暴なセックスをする男でなくても、まぁこれが潮時だよな。
「何か飲むか?」
 へえ、そんなお優しい言葉は初めてだ、と拓は思った。
 いつも、こっちの準備ができてようといまいと、お構いなしに突っ込んでくるのだ。おかげで、さすがに拓の方も自分で準備をするという技を覚えた。今日も、『シャングリラ』のシャワールームでしっかり準備をしてきている。明後日の試合に響かせるわけにはいかない。もちろん、朝までやられるのは仕方がないとは思っているから、せめて被害を最小限に留める努力をしているわけだ。

「さっさとやろうぜ。前置きは面倒くさい」
 宗輔はからん、とアイスピックをキッチンテーブルに放り出した。拓の顔を見ないまま、息をひとつついたように見える。
 ご婦人方にはあんなにつらつらと滑らかにしゃべっているのに、拓に対してはまるでその話術が発揮されたためしがない。おかげで、拓の方もそれに慣れて、この男相手に会話など無駄だと思うようになっていた。
 テーブルの上には小さなグラスが置いてあって、宗輔はさっき削っていた氷を放り込むと、そのグラスを持って拓の方へやってきた。そしていきなり腕を摑むとリビングの方へ引っ張り込む。

 結局、いつも同じだよな。
 絨毯に押し倒された形になった拓は、諦め気分で不意にアクリルテーブルの上に宗輔が置いたグラスの光を見つめた。グラスの中に幾つかの氷が、不思議な光を跳ね返している。白、ピンク、オレンジ、琥珀色、そして。
 拓は自分からベルトを外し、ジーンズを下着ごと脱ぎ掛けた。こいつとやる時には、とりあえず下半身さえ脱いだらいいと、そう思っていた。
 その拓の手に、いきなり、宗輔の手が重なる。
 拓は宗輔が自分のものを弄ぶつもりなのだろうと、下半身に目をやったが、その手はただ拓の手を押さえただけだった。

 何だよ、と思って顔を上げた時、宗輔はグラスの中の氷をひとつ取り、ちょっと光にかざすように見つめていた。
 氷の中に、黒っぽいハートのようなものが見えている。
 何だ、と思ったとたん、宗輔がそれを自分の口に放り込み、そのまま拓にかぶさるようにキスをしてきた。
「何す……」
 唇に触れる熱は、宗輔の唇から零れる氷の温度で冷やされ、拓が唇を開きかけると、宗輔も唇をわずかに開いた。
 二人の熱の間に、氷が踊っている。
 溶け出す氷の雫が唇の端からこぼれる。時折、氷と一緒に宗輔の唇が触れる。冷たくて、温かい唇は、氷の先の拓の唇を探しているようにも思える。
 拓は唇と舌で互いを隔てる氷を転がしながら、その冷たさにたまらなくなった。
 その向こうの熱が欲しいと、宗輔の唇から氷を奪い取る。
 氷を自分の舌の上に受け取って、拓はそのまま宗輔の体を抱きしめて、熱い唇と舌と、そのさらに奥にあるものを求めた。
 まだるっこしかった。キスよりも、この身体が欲しい。

 宗輔の手を自分のものへ引き寄せようとしたとき。
「え?」
 口の中にいきなり甘みと、少しの苦みと、それから不思議な温度が広がった。
 その瞬間、拓は初めて宗輔のたまらないほどの笑顔を見た。
「何だよ」
 飲み込んでしまってから、悪態をついてみたが、遅かった。

「いや、久しぶりにクラブシノハラの初代天才パティシエが創作チョコレートを作ってみようかと思ったんだ。温度が難しい」
「温度?」
「チョコレートを氷の中に入るように凍らせて、それから氷の中でチョコレートが偏る位置になるように氷を削る。チョコレートが凍ったままじゃ、口の中で味が広がらないだろ。だから口の中で半分溶かして、それからお前に」
 解説なんかするな、と思って、拓はまた宗輔を引き寄せた。
 宗輔は始めこそ珍しく躊躇っていたようだが、やがて拓の体を強く抱きしめ、時には確かめるように、そして時には強く、そしてまた時に慈しむように唇を合わせ、舌を絡めてきた。
 舌の上に、まだチョコレートの味が甘く残っていた。
 これ、例の最高級のカカオなんだろうか。
 いや、そんなことはどうでもいいや。きっと宗輔が氷の中に閉じ込めた時に、このカカオは最高級のものになったのだろう。
 時折、宗輔の大きな手が拓の短く刈ってしまった髪を撫でる。
 拓は目を閉じた。
 キスの時、目を閉じたのは初めてだった。多分、相手を疑っていて、何をされるか警戒して、キスに溺れていたことがなかった。いや、そもそもキスなど、こんな風にまともにしたことはなかった。
 キスって結構いいものなんだ。
 そんなことを思ったのは初めてだった。大体男同士で愛し合うなんてのは、つまり欲望が満たされればいいわけで、愛だの恋などの感情は別のものだと思っていた。だからキスは余分な手順で、それこそ下半身だけで十分だと思っていたのだ。少なくとも、相手はそうなのだと思っていた。
 そんな無味乾燥な無茶苦茶なセックスをしてきたのに、今夜はただキスだけで十分だなんて、本当にどうかしている。
 聖バレンタインの気まぐれなのかもしれない。いや、どんなおっさんか知らないけど、まさか男同士の初本気キスを応援する破目になろうとは思っていなかったに違いない。

 そのまま絨毯に座って、何故か手をつないでソファに凭れていた。こんなふうに手に触れるのも初めてかもしれなかった。宗輔の手の大きさ、温度も、指の形も、今ようやくはっきりと確かめることができる。
「新手のチョコレートの渡し方だろ」
「意味わからん。なんで急に乙女チックなことするかな。それより、するならさっさとしようぜ」
 どう言えばいいのか分からなくて言ってみたが、さすがに迫力がなかった。
 宗輔にはしっかり照れ隠しに聞こえただろう。
「明後日、試合なんだろ」
 今日は一体、なんなんだ、と思った。
「何で知ってるんだ」
「矢田さんに聞いた」
「何で矢田が知ってるんだ。ていうか、何で矢田を知ってるんだ」
「有名だろ。お前が矢田さんの愛人だって」
「そうか……ってそれもよくわからないんだけど」

 結局、あれこれと空回りしているのは自分だけなのか。
「俺、世の中のことも、俺自身のことも、どうしようもない、仕方がないことばかりだと思ってたから」
「お前の様子がおかしいと思って、矢田さんに会いに行ったんだ。そうしたら、矢田さんが、あいつまたボクシングをやるつもりらしいと。お前が身体絞ってんの見て、気が付かないわけないだろ。親父がパンチドランカーでどうしようもなくなったのに、それだけは母親に頼まれてたのに、だが決心したなら仕方がないってさ」
「何で矢田に会いに行ったんだ」
「お前、無茶苦茶減量して、身体絞ってたからさ、目つきも変わってたから、心配で。いや、つまりお前のことがもっと知りたかったのと、必要なら矢田さんと決闘しようかとか、色々考えて」
「なんだ、それ。俺、別に矢田のものじゃないし。借金の分を体で払ってるくらいなもんで……でもそれも言いわけで、本当はただ、流されるままここまで来ただけだ」
「矢田さんは、お前をボクシングから遠ざけようとしてたんじゃないかな。あの人なりに、お前のことが心配で」
「どうだか。そんな善人じゃないぜ、あのおっさん。商売のやり方もあくどいし」
「そう、人はさ、良いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら良いことをするんだ」
「分かったようなことを言うんだな」
「そりゃ、お前より10年は余分に生きているからな」

 傍で宗輔が頭をソファに預けた。
「でも、多少長く生きてきたからって、どうしていいのか分からないこともあるんだ。この2ヶ月、どうやって切り出そうかと思っていた。ボクシングなんか辞めて、俺の愛人になれ、とか言ってみようかとか」
「で、あんなに乱暴だったのか。もうちょっとやり方考えろよ」
「やかましい。お前があまりにも何考えてるのか分からなかったからだ」
「それ、こっちの台詞だよ。あんた、何にも話さないし。だから、俺、嫌われてるのかと思ってた」
「お前が俺を嫌ってんたんじゃないのか」
「そうなのかな。今日は何が何だかもうよく分からない」
 混乱してしまっているのだ。
 でも、と拓は続けた。
「嫌いなら、ここに来てなかったんだろうな。あんなに酷い扱いされてたんだし」

 不意に、宗輔の腕が拓の頭を抱きしめた。強い、大きな手だった。
「やめろって言ったらやめるか」
「やめない」
「……だろうな」
「俺は優しい親父をあんなふうにしたボクシングに復讐してやりたいんだ……あんなになったからって親父を刺し殺した母親にも復讐してやりたい。そう思ってたんだけど……でも、何だか、今分かった気がする」
「何が」
「ボクシングが好きなんだ。サンドバックを叩く刺すような音、ストレートが相手をぶちのめすまでのわずかな時間に空を切る音、目が腫れちまって血の中で何にも見えなくなっても、相手の息遣いを追いかけながら、ゴングが鳴るまで闘い続けるのが。親父が試合に勝ったとき、俺を肩車してくれて、あの時リングの上から見たあの景色が」

 宗輔は長い時間、黙っていた。そして、今度はもう一度拓の頭を抱きしめ、それからそっと離した。
「わかった。じゃあ、俺はここから黙ってお前を見守っている」
「そこ、俺もまたパティシエとして新作にチャレンジするよ、とか言う場面じゃないのか」
「馬鹿、もう俺にはそんな若さも才能もないよ」
 顎で示された先、アクリルテーブルの上では、氷が溶けた水の中で、色々な種類のチョコレートが間の抜けた感じで沈んだり浮かんだりしている。
「それに、経営が面白いんだ。今にクラブシノハラをもっとでかくしてやる。そう思っている。ま、お前のためにまたしょうもないチョコレートの渡し方は考えてやってもいいけど。それより、お前、これ何なんだ」
 宗輔が絨毯の上に放り出されたサンドバッグとゴミ袋を指す。

 改めて見ると、何だか俺ってバカっぽい、と思った。
「え……っと、つまり、バレンタインプレゼントだ。菓子屋にチョコレート渡すの、バカだろ。その、普段の俺へのやり方見てて、あんたはサンドバッグが必要なのかと思って。俺と別れた後、殴るものがいるかな、と。で、殴っているうちに中の詰め物が減ってくるから、後から足す詰め物もいるかと……それ、矢田からもらった上等のコートとかスーツとか、切り刻んだぼろなんだ。もういらないし」
 宗輔が呆れたような顔になったが、意外にもまともなことを言った。
「サンドバッグ吊るための枠は? 頑丈なものがいるだろ」
 確かに、そこまでは考えていなかった。サンドバッグだけ渡されても、どうやってつりさげるかのほうがはるかに問題だ。
「じゃ、とりあえず、蹴っとけよ」
 宗輔は笑いをかみ殺すようにして、拓の短い髪になった頭を撫でた。
 こいつ、意外に笑うんだ。知らなかった。
「しばらくサンドバッグは使うことはないさ。プロになって賞金稼いで、いつかお前がこのごついサンドバッグの吊枠を買ってくれ。そのうち、俺にも本当に殴らずにはいられない時がくるかもしれないからな」
「自分で買えよ。金持ちのくせに」
「お前が責任とれ。俺の気持ちをさんざん惑わせたんだからな」

 どっちがだよ、と思ったけれど、何だか今夜は喧嘩を売っても買ってもらえないようだった。
 それに、今は何となく気分がよかった。いつの間にか二人の間にある距離が愛しくて、絨毯に置いた手に手が重なる。長い時間、手と手をただ重ね合わせ、重ね合わせていることを忘れるほど時を過ごした。
 時々、お互いの手の温もりを思い出すのだが、わざと忘れているかのように心を鎮め、いつか離さなければならない手だと知りながらも、この一瞬が続いてくれるようにと思った。
 もうどれくらいの時間がたったのかもわからなくなってから、宗輔がぽつりと言った。
「言いそびれてたけど、その髪、似合うよ」
 バリトンの声が耳に心地よかった。心地よいだけに、この声を聞いていてはいけないとも思った。

 トレーニングに入ったら、きっとしばらくは会えないだろう。
 いや、まずは明後日の試合に勝ちたい。赤沢とジムの連中に、葛城拓が本気であることを見せたい。
 そして4年間のブランクを埋めなければならない。誰かに甘えたらそこまでになってしまう。今までのように流されるのではなく、今度こそ自分の手で何かを掴み取りたい。
 そしてそれが分かっているに違いない宗輔は、ただ重ねた手をそのままに何も言わなかった。
 それでも、口の中に、あの冷たい氷の感触と、甘いチョコレートの味と、そして熱い宗輔の舌の感触が、いつまでもいつまでも残っていて、今はただそれを忘れたくないと願っていた。




あぁ、だめだ。私って、本当に、あまのじゃく。
これって別れ話なのかも……しかも、ますますこのブログのジャンルが不明になってきた…

しかも出来上がってみたら、ただのボクシング馬鹿の話。
書く前に頭ん中にあるときは、もう氷でキスのシーンがでーん、と。
で、出来上がったら、キスシーンはちーん、と、小さく収まっているだけ。
休みの日はこれに没頭する!と決心して(石旅行を断念し…ただ渋滞が嫌だっただけだけど)頑張ったのですが。

人生2作目のBLにするぞ、と思ったんですけど、ほんとに難しいなぁ。
(1作目は……友人の許可があれば、いつか、お目にかかるかも…でもそれを書いて、私は玉砕しました。私には無理だわ……と)

しかも、宗輔ときたら、まるでみおさんちの暁さんみたいなこと言ってるし。
お前のことが知りたいとか、何とかかんとか。
いけません、また直前に読んだお話に流されてしまった……
みおさん、ごめんなさい。
ついつい、みおさんと、ヘタレ攻め好きが似ていたために……

そういえば、昔、トルストイの『戦争と平和』を読んだとき、大変なことになっていました。
思えばあの時、ヴォルテラの家(ローマ教皇の背後組織)の仕組みが出来上がったのであった。
あのころの作品、ヨーロッパ風大河ドラマでしたから……

なお、本当にチョコレートでこんな氷詰ができるのか、確認していません。
キスでうまく溶けるのかも、もちろんわかりません(^^)
妄想ですから。

これを考えた時、ベースにあったのは、敬愛するO・ヘンリーの『賢者の贈り物』
でも、「相手を思うあまり、お互いに身を切る」まではいかなかった。
現代風にしたら、せいぜいこんなところでしょうか。
贈り物が割と役立たずってところだけ一緒^^;

ついでに、男が二人出てくると、どうしても組合せパターンがこうなってしまう。
ずいぶん年下のくせに生意気で一筋縄ではいかない、はっきり言って性格も可愛くない受け
態度は偉そうで社会的立場も立派だけど、どこか情けないところがある、いささかヘタレな攻め

という感じでしょうか。
BL書いたことないので、表現が正しいのかどうか、わかりませんが……

しかし、本当に、SSって難しいですね。
一体何をどこまで書けばいいのか。
これまで皆さんが書かれたSSは、余計なことをさらりと流して、それでも物語の完成度とか世界はちゃんとできていて、ものすごく勉強になったんですけど、いざ自分が書くと、学んだことが役立っていない……(>_<)
いや、なによりBLが難しい。
みおさんのBL論読ませていただいて、なるほど、そうなのか!と思って、目から鱗だったんですけど……

自分の書いているものの所属するジャンルが分からなくて、結構困ったりしていました。
で、帰属先を考えて、さまよったのですが……
はっきり言えているのは、『長い』『物語は何でもミステリーが信条』という2点のみ。

ということで、やはりジャンルは『長編小説』?
でも、ジャンル分けって本当に難しいですね。
この間も、どなた様かのブログを訪ねさせていただいて、みなさん、同じようなことで悩んでおられるんだなぁ、と。でも探すほうは、キーワードがないと探せないし……

かのうさまにも、男二人が出てきて、できてたらBLでいいんじゃないの、と爽やかに力強く言い切っていただきましたが、そういう意味では、うちの二人(真と竹流)はできている、とも言えるので、BL?
お伽噺(人魚姫)をベースにした大河風ミステリー的BL
でも、本筋が恋愛じゃないところが痛い。
しかも、最も問題なのは、女性と絡むほうがはるかに多い……
女性の登場人物もやたらと多い……(しかも、たいがい強い…?)

参考までに
パンチドランカーというのは、頭を殴られたりしているうちに脳に障害が起こってしまった人で、頭痛を認めたり、認知障害、酷いときには人格障害を引き起こしてしまいます。
通っているボクシングジムでお会いした、あるプロ(っても色々な方がおられます)の人が言ってました……
本当にぼわーってしょっちゅう脳震盪みたいになるんだって。
それって、どうなんだろう。医学的には、本当はよくないですよね。
で、プロになれるのは32歳までと決まっています。
ちなみに突然の脳出血などは40歳代から増えます。
本当に、プロボクサーの方々には体を大事にして、頑張ってほしいです。

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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:2】2年目の贈り物(SS:バレンタイン、キス、氷)(18禁) 

【カテゴリ変更で再登場・中身は変わっていません(#^.^#)】

前回、彩色みおさんの企画してくださっているSSに初挑戦させていただき、玉砕したのに、また性懲りもなく思いついてしまいました。
懲りないやつだな、と思われるのを承知の上で、つい妄想が走ってしまい……

みおさんの魅力?魔力?のせいでしょうか。
なぜか想像力を掻き立てられるというのか……
これもみおさんのあったかい作品やブログから立ち上る仄かな色気、に惹きつけられたからに違いありません。
素敵なブログや作品は、他の人を力づけて前に進ませるのだなぁ、と思う今日この頃です。
みおさん、ありがとうございます。

そう、色気なんですね。
皆様のSSを拝読させていただいてわかったこと。
私の作品には色気がないわ、と。
チャーミングな色気、男らしい色気、優しい色気、妖艶な色気、いろんな色気があるけど、場の雰囲気を作る、立ち上るような色気。

それが私がBLを書けない理由でもあるのですが……ついついドキュメンタリーのようになってしまうのです。
だからHシーンが苦手。
困ったなぁ。
BLの醍醐味のわかっていない私ですが、無謀にもまた思いついてしまったので、恥を承知で載せてしまいます。
実は、ちょっと渋めのものを書いた後は、必ず茶化してみたくなる、関西人の悪い癖が出てしまったのです。
でも今度は4500字あまり。
少しはSSに近づいたかも?

あ、前回の長いSS(って、変な感じ。短い長期休暇、寸足らずのスカイツリー、みたい)にはタイトルがなかったことについさっき気が付きました。
そこで、付け焼刃的につけてみました。
Time to Say Goodbye
愛するIL DIVOの曲から取ってみました。
外交官黒田……なんでしたっけ、とりあえず、アンダルシアのテーマ曲、今はアルファードのCMで使われている名曲。
恋人との別れなのか、これまでの自分と決別して恋人ともに旅立つのか、どうとも取れる歌詞がちょっとイメージだったので。


さて、今回はあれから2年。
宗輔(シュウスケ)・拓(ヒラク)の二人はうまくやっているのか……
今度は宗輔視点で書いてみました。




『2年目の贈り物』
拓medium (イラスト:竜樹さま)感謝m(__)m

 恋人がぶちのめされて倒れる瞬間を見るのは、気分のいいものじゃない。
 当たり前のことだと思うが、実際に目にするまで、そのことに気が付かなかった。
 宗輔はリングの方へ駆け寄りたい気持ちを振り切って、試合会場を後にした。

 忙しかったこともあるが、これまで拓の試合を見に行ったことがなかった。拓の方から試合見に来てくれよと言ってきたこともない。
 本当に馬鹿みたいにがむしゃらに拓は闘っている。リングの上だけではない、多分彼の人生と、時々は命も賭けているようにさえ見える。
 プロテストに合格するまでには時間がかからなかったが、そこから先は決して順調とは言えなかったようだ。勝ってなんぼではなく、いわゆるファイトマネーで金を稼ぐわけだから、頼み込んででも試合に出させてもらいたいプロはいくらでもいる。時には八百長まがいのことを持ちかけられることもあるようだが、拓はそんなことを宗輔には言わない。

 聞き出したい気持ちがないわけじゃない。
 だが、聞けば拓の自尊心を傷つけることもあるだろう。
 宗輔も、自分の仕事の幾らか汚い部分を、拓に知られたいとも思わない。

 試合会場の外に出たら、雪が舞っていた。
 明後日は2年目のバレンタインだ。
 少しは気持ちが通じ合っていると思ったあの日から、二人で過ごした時間が十分あったとは言い難い。恋人、などとは誰がどこから見ても思わないだろう。
 それでも、今夜拓が宗輔のマンションにやって来ることだけは間違いがない。

『その日』は、いつも宗輔は上等の肉を2kgも買い込む。仕事中毒で、普段まったく休みを取らない宗輔が、1年に何度か取る、まる2日の休みのわけを、秘書も役員の誰もが知らない。

「くそっ」
 リビングのドアを開けた途端に倒れ込んだ拓が、誰にというのでもなく悪態をついた。
 ぼろぼろのザックは玄関に放り出したまま、かろうじてここまでたどり着いたような危ない足取りだ。リビングのソファで焼酎を飲んでいた宗輔は、拓を助け起こすのでもなく、そのままキッチンに行き、冷凍庫のアイスボックスから氷を幾つかつかみ出し、ビニール袋に入れて口を縛った。

「ほら、冷やしとけ」
 会場を去り際に見た対戦相手のカウンターは、ものの見事に拓の左こめかみあたりに突き刺さっていた。案の定何の手当もまともにしていない拓のこめかみには、申し訳程度の絆創膏が貼られていた。
 絆創膏はほとんど血まみれで、鼻に詰め込んだ止血剤の入ったスポンゼルまで赤く染まっている。目の周りも腫れていて、明日あたりはとんでもない顔になっているに違いない。
 唇の端も切れて、膨れ上がっている。
 色気も何もあったものじゃない。
 拓はしばらく頭がはっきりしていなかったのか、対戦相手と間違えているかのように恨めしげに宗輔を見て、それから氷の入った袋を払いのけた。

 払いのけた勢いのまま、宗輔の首の後ろに両腕を回し、血のにおいのする唇を押し当ててくる。
 このキスがたまらなかった。
 口の中にも、まだ鉄臭い味が残っている。それを宗輔は舌と唇とでもぎ取るように無茶苦茶に吸ってやる。血と唾液が交じり合ったキスは、身体の芯に火をつけた。互いに腕で相手を締め付け、息苦しくて意識が吹っ飛びそうになるまで、舌を絡め、引きちぎるほどに求める。
 鼻も塞がっている拓が意識を飛ばすのも構わずに求め、やがて背中に回した拓の手が、むやみに宗輔を殴る。
「肉」
 もうちょっと可愛らしい言い方があるだろうと思うのだが、この単語だけの要求が宗輔にはたまらない。本当は押し倒してこのまま犯したいが、肉を食らっている拓を見ること自体もたまらない快楽なのだ。

 減量のため、試合前には食欲も性欲も抑え込んでトレーニングをこなしている拓は、『その日』馬鹿みたいに肉を食う。野菜も炭水化物も、もちろんデザートにも全く興味を示さず、ひたすら宗輔の焼いた肉を、まるで草原で獲物を食らうライオンのように貪り食う。
 食べている姿とベッドの上の姿には共通項がある。
 どちらも我慢ならない欲求を満たす爆発のような行為だ。
 だからその姿に宗輔の体の温度は上昇し、欲望が芯から突きあがってくる。
 犯して、追い込みたい。
 始めは焼肉屋に連れて行ったのだが、すぐに外で食べることは危ないと気が付いた。
 店を出た時から、ほとんど身体を擦り付け合うように絡めあっていた。いや、食べている最中から、危なっかしかったのだ。
 そして車に乗り込んでドアを閉めた途端、拓は宗輔にむしゃぶりついてきた。もちろん、宗輔の方も同じだった。
 暗闇の中、焼肉屋の駐車場、色気とは程遠い大蒜の入った濃厚なタレや肉の臭いが身体にも服にも染みついたまま、他人目があるかも知れないのに、どうにも我慢ができず、体を繋げて貪りあった。

 だからそれ以来、肉は宗輔が準備して、マンションで焼いて食わせている。
 そして『その日』からまる2日、肉を食っては求めあい、部屋からは一歩も出ない。拓の傷や腫れはその2日の間に多少引くかどうかで、とても素敵な睦事とは言い難いが、会わない時間の方が長い二人にはそんなことはどうでもよかった。

「宗輔……、宗輔……」
 普段、拓は名前を忘れてしまったのではないかと思うくらい、宗輔のことをあんただとかお前だとかしか呼ばない。だがこの時だけはうわ言のように宗輔の名前を呼ぶ。
 声は嗄れて、喘いで漏れる息遣いがどんどんエスカレートしていく。
 拓の身体が宗輔を受け入れて狂うようになったのは、この1年ほどの間のことだ。それまでは男になすがままにされることに我慢していたのか、痛みが辛かったのか、まだ感じるということがどういうことなのか分かっていなかったのか、耐えているという気配の方が強かった。
 だが今は違う。
 拓は宗輔の上に跨って、腰を叩きつけるように振る。踊る、というよりも、まさにサンドバッグを叩くような勢いだ。拓の胸の筋肉のひとつひとつが汗で光る。宗輔は拓の引き締まった細い腰をさらに自分へと引き寄せる。突き上げる宗輔のものは拓の身体を引き裂く。
 拓の唇がしどけなく開いて、喘ぎ声と唾液が零れ落ち、汗が宗輔の腹の上に落ちる。
「拓」
 呼びかけると、うるさいと言わんがばかりに拓の尻の筋肉が宗輔を締め付ける。
 たまらない。
 いつの間にか狂わされているのは俺の方か。それとも、こいつが俺に狂ってくれているのか。

 ぎーっつ、ぎー、ぎーっ
 もうちょっと可愛らしい音が出るように改良しろと言わなけりゃな。どうせなら音楽が鳴るとか。いきものがかりのじょいふる、とか、チョコレートっぽくていいじゃないか。
 だが、まあ、でこぼこで足場の悪いベッドの上を歩くってのは大したものだ。
 宗輔は恋人が眠るベッド脇の椅子に座って、そいつのいささか不器用な歩行を見つめていた。
「お菓子をどうぞ」
 声はまずまずだな。
 拓はびくともしない。時々思い出して氷を当ててやっていた左目の腫れは少し引いてはいるものの、青染みはひどくなってきている。ちょっと痛々しくて、愛おしい。

「お菓子をどうぞ」
 そいつはもう一度言った。さっきよりボリュームアップしている。
 それでも拓はびくともしない。微かに肩が呼吸で上下する。練習と減量で自分を追い込んで、やっと8ラウンドの試合をさせてもらえるようになり、試合の後狂ったように肉を食い、宗輔を求める。そしてこうして眠り続ける。
「おりゃあ、ええ加減に起きんかい! いつまで寝くさっとんのじゃ」
 ついに、そいつは切れた。
 すごい。そいつはクラブシノハラの今年の新作チョコレートが載った盆を頭の上に持ち上げて、袴を穿いた足を器用に、倒れることもなく振り上げ、眠り続ける拓に蹴りを入れた。
 そいつが掲げた盆の上で、チョコレートがバウンドする。

 拓が跳ね起きた。
「さっさと食わんかい! 腕がだるいやないけ!」
 拓は呆然と目の前のからくり人形、いや、元からくり人形のロボットを見つめている。お坊ちゃん頭のからくり人形は、可愛らしい顔のまま、無駄に口をパクパク動かしている。口の動かし方に滑らかさがない。まだ改良の余地ありだ。
「われ、まさかわしの出したもん、食えん、ちゅうんけ!」
 拓はベッドの上で毛布を身体に巻きつけ、跳ね起きた姿勢のまま、しばらくロボットとにらみ合っていたが、突然正座して両手をついた。
「いただきます」
 そう言って、拓はロボットが掲げた盆の上に載ったチョコレートを口の中に入れる。
 やっぱりこいつは基本、大阪の人間だ。ロボットからの突然の突っ込みにもまともに対応する。
「うめぇ」
 宗輔に半分背中を向けたまま、拓は指についた溶けかけのチョコレートをそのまま舐めとった。
 こいつ、意外に可愛い。
 と思ったら、いきなり拓が振り向いた。

「あんた毎年、よくもまぁ、しょうもないチョコレートの渡し方、思いつくな」
 可愛いは撤回だ。そもそも、愛し合う二人の図柄なら、俺がお前の指を舐める場面だったはずだ。
「俺は菓子屋だ。お客様の手元に可愛いわが子らを届ける方法も、売るための演出もあれこれ考える」
 拓ははてなの貼りついた顔をしている。
 ま、からくり人形は会議で没になったコマーシャルの絵面だとは言いにくい。クラブシノハラの次のコンセプトは、家族でちゃぶ台を囲んで味わうスイーツなのだ。『もう一度家族を楽しもう』的な。

「去年は頭の上から、ラジコン飛行機でチョコレート、爆弾みたいにばら撒きやがって、今年はなんだ、こいつ」
 拓はからくり人形仕立てのロボットの鼻先に指を突きつけた。
 がぶっ
 途端に、盆を頭の上に掲げたままのロボットが口を開き、拓の指に噛みついた。

 こんなことまでできるのか。宗輔も驚いたが、拓もまわりが腫れた目をますます見開いて、かぶられたままの自分の指を見ている。
「俺の親友はロボット工学の研究者でな、しかも子供好きで、ちび達を喜ばせるアイディアをあれこれ考えてるんだ」
「俺がガキだってのか」
 左目の腫れはまだしばらく残るだろうし、その腫れが引く前にまたこいつはトレーニングを再開し、次の試合に全てを懸ける。いつも鋭い目できつい顔をして、餓えたライオンみたいに獲物を睨み付ける。
 だがそうして拗ねる顔は、結構いけている。
 闘っているお前も悪くないが、たまにはそんな顔を見せてくれ。

 まる二日、抱き合った身体をようやく洗い流した拓が、ソファで新聞を読んでいる宗輔のところへやってきた。宗輔の手から新聞を取り上げ、両脚の間に立ち、ソファに片膝を預ける。そのまま、まだいささか不細工なままの顔を近付けて宗輔の顎を掴んだ思ったら、目を閉じ、唇を重ねてきた。
 狂ったように求め合う時はともかく、キスは照れ臭いと言って、普段はこんな明るい光の中でキスをすることなどない。だから、多分今も同じなのだろう。舌を絡めるのでもなく、ただ唇で触れて、まるでどうしたらいいのか知らない中学生か高校生のように唇で唇を弄っている。
 拓の微かな息が宗輔の唇の上で震える。
 宗輔の唇に触れたまま、拓の唇が躊躇うように閉じられた。
 かすかに、二つの唇の間に距離ができて、吐息だけが絡まりあう。歯磨き粉のミントの香りが鼻先をくすぐっていた。
「どうしたんだ」
「俺、バレンタインとか忘れてて」
 額だけをくっつけたまま、珍しく情けない声で拓が言う。
 宗輔は拓の腰を抱き寄せた。拓は素直に凭れかかってくることはなく、ちょっと逆らうように、宗輔の両肩に手を突っぱねる。そして、ものすごく真剣な声で聞いてきた。
「なんか欲しいものあるか?」

 去年も拓は同じようなことを言っていた。
 だから、去年のホワイトデーには、拓がバイト先で貰ったという鉄材を使って、一昨年拓が持ってきたサンドバッグのために、はんだ付けの資格を持つ友人を連れてきて、一緒に鉄製の頑丈な吊枠を作った。
 拓はここに来たときには、感触を確かめるように叩いている。
 幸いなことに、今のところ、仕事でも、二人の関係でも、宗輔がサンドバッグを叩かなければやってられないような出来事は起こっていない。

 それだけで十分だった。進展もないけれど、壊れることもない。時々、お互いの存在を大事だと思いだす瞬間があったらいいと、今は思っている。
 氷でちゃんと冷やさずに抱き合っていたからちょっと不細工なままのボクサーが何だか妙に愛しくなって、宗輔は拓の頭に手を置いた。
 だから、今はこれだけでいいんだ。
「そうだな、来年のバレンタインも、その次の年も、俺にしょうもないチョコレートの渡し方を考えるチャンスをくれ」

~Fin~


おまけ
サンドバッグを殴りながら拓、ちょっと聞いてみた……
『ところで、あんたってホモだったのか?』
え? 今更聞く?
多分、そうじゃなかったら手出ししてないでしょうに。
拓は自覚なし、たぶん女でもよかったと思うけど、最初に男を経験してしまったので、そっちに流された系。
宗輔の返事など聞いているのかいなのか、ひたすら、矢田からもらった上等の服を切り刻んだぼろを詰め物にしたサンドバッグを打つべし、打つべし、打つべし!


お目汚しで、すみません。
結構、宗輔がいいやつで自分でもびっくりしました。
もう少し、いじわるかと思っていたんですが。

きっと七夕に毛が生えた程度しか会っていないとは思うのですが、無事に続いているようですね。
矢田氏とはどうなっているのか、わかりませんが……
それなりに幸せでよかった……

次回予告(があるってどういうこと?)
クラブシノハラ 意外な転換劇の裏側に密着?
高級菓子を売りにしてきたクラブシノハラが大きく客層を変える戦略。
篠原宗輔氏『やっぱりお菓子は子どもたちのもの』
親友のロボット工学者が語る『宗輔、お前、変わったな。いや、昔のお前に戻ったってのか』
……その後ろに、ちょっとお子ちゃまな恋人ボクサーの影ありか?
なんちゃって。


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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(前)(18禁) 

注:18禁シーン(BL)を含みます。

二人の関係を前に進めようと思い、新作を書いてみました。竜樹さん(萌えろ! 不女子)にイラストを描いていただいたお礼は、お話を書いてお返ししなければ、とちょっと一生懸命…頑張ったよ!
もともとSSだったのに、引き伸ばされてどこまで行くのかはわかりませんが、もう少しHappy Endとわかるところまで、持っていきたいと思います。

とは言え、今回は少し深刻なお話……かも。
宗輔の過去は、拓以上にややこしかったようで。
でも、未来へとつながっていくためのお話なので、よろしければお付き合いください。

前篇は、宗輔視点。そして後篇は拓視点です。
今回は前篇をお届けします。
すごい勢いで書いているので、推敲しながらの掲載です。
時々手直しが入って、変わっているかもしれません。
ついでに、誤字脱字、その他、これはあかんやろ~というところはご指摘ください。

もうサービス精神いっぱいで?あまり上手ではない18禁シーンも織り込みました。
SSから始まったストーリーなので、できるだけコンパクトにしていくつもりですが、今回も8400字。
そして、今回の要は、例のロボット博士・斎田アトム氏の登場です。




炎の記憶・海の記憶(前篇)


 その日の帰り、宗輔は思わぬ場面に遭遇した。

 社長業とは言え、一代限りの成り上がりという気持ちがあって、会社の行き帰りに運転手を雇うほど自分がお偉い人間とは思えなかったので、公の業務ではない場合には自ら車を運転している。
 その十五年来の愛車、アルファロメオが今朝方、入院した。
 宗輔にとっては、まさに唯一の家族が入院した、という心地だった。もうそろそろ買い替えを、と既に五年以上前から言われていたのだが、どうにもそんな気にならないままここまで来た。この十五年の間には数えきれないほどのモデルチェンジがあったし、今さら宗輔のハートをぐっと掴むようなちょっとレトロなアルファロメオには出会えそうにない。

 ま、もう一回くらいは直してみせますけどね。

 宗輔が頼りにしているメカニックは、幸いなことに仕事馬鹿でプライドが人一倍なので、新しい車を売りつけようとする自社の営業の視線を背中にしても、動じる様子はない。宗輔にとってはありがたいことだが、もう一回というこの台詞は何度聞いたことか。
 宗輔は後ろ髪引かれる思いで入院を宣言されたアルファロメオに背を向けて、タクシーに乗り込んだ。

 思えば、帰りもタクシーを使えば良かったのだ。あるいは会社の車を使っても、誰一人宗輔に文句を言わなかっただろう。大体、運転手や秘書は、宗輔が自分の車を自分で運転することに対して、あまりいい顔をしていない。事故にでも遭ったらどうするのだ、社長らしく堂々と会社の車と運転手を使え、というのだ。そのたびに、宗輔はそのうちに、と曖昧に答えている。
 そしてその日、久しぶりに電車に乗ってみようと思ったのがいけなかった。
 
 駅から自宅のマンションまで、結構な距離がある。
 そもそも高級住宅街に住むような人間は車移動を基本とするのだろうし、駅前のごちゃごちゃした雰囲気を好まないもののようで、いささか交通が不自由なことなど気にしていない。たまに電車を使うとその不自由さに直面するのだが、考え事をするには悪くない時間だ。

 ちなみに、電車で宗輔のところにやってくる『一応恋人』の葛城拓にとっては、ロードワークの一環にすぎないだろうし、それどころか駅からだけでは物足りなくて、ジムから1時間以上かけて走ってきているかもしれないという気もする。
 確かめたことがないので、今度聞いてみよう。
 とは言え、今度会うのがいつになるのか、まったく予測不可能の恋人なので、それまで覚えているかどうか。
 離れている時間がやたらと長くて、その間には拓に見せたいものや話したいことを山のように思いつくのに、いざ会えば、ほとんど会話にならない。短い時間を惜しむように抱き合っているからというのもあるのだが、何を話したらいいのか、言葉が簡単に出てこないのだ。

 十も年下の生来野生児のような拓は、宗輔以上に自分の感情を言葉にしてこない。そもそも誰かと分かり合うための会話が得意ではないのだろう。だからかもしれないが、拓の生い立ちやこれまで置かれていた環境を考えても、随分と辛いことがあっただろうに、そういうことを宗輔にぶつけてくることはない。
 お互いにもうちょっと相手のことを知ろうという努力をしてもいいのにと、これもまた離れているときには思うのだが、実際に会うと言葉がいかに不自由なものか、思い知らされる。
 それに、会う時間だって、もっと作ろうと思えば作れるはずなのだ。会うのが難しいのなら、もしかして一緒に住むという選択肢だって考えられなくもない。
 だが、拓は、宗輔の住むような高級マンションには住みたがらないだろう。
 今はハングリーでないとだめだ、という強い信念が拓にはある。何も言わないが、拓の目がそう語っている。
 だから、宗輔は拓があの世界から足を洗う日が来たらと、その日を何年でも待つつもりでいた。もちろん、拓が結果的に女の子と巡り合って結婚して、ということになるのなら、その時は潔く身を引くつもりだった。十も年上の男として、嫉妬したり、失恋で狂おしくなるようなみっともないことにはなりたくない。
 あるいは、そういう結末があるかもしれないと覚悟を決めているので、宗輔自身もまた、もっと会いたいなどという通常の恋人同士のような言葉を投げかけられないでいるのかもしれない。
 いつか、そういうことを拓と話す日が来るのだろうか。
 それとも、もしかして『今度結婚することになったから、クラブシノハラの菓子、引き出物に使ってやるんで、安くしろよ』とかいう一言で終わってしまうのだろうか。

 電車の中で家路をたどるサラリーマンたちや、いかにもカップルというような男女を見ながら、そんなことを考えていたら、電車を乗り過ごしそうになった。
 慌てて降りながら、多分この慌てて人をかき分けて扉へ急ぐ男が、『恋のお返しのお手伝い』というホワイトデーの宣伝を送り込んでいるクラブシノハラの取締役社長だとは、誰も気が付かないだろう、と思ったらちょっと可笑しくなった。
 そうか、明日はホワイトデーだ。
 そして、明後日は、宗輔にとって一年で一番辛い日だ。

 改札を出て、一度立ち止まり、駅から四方へ散らばっていく人の流れを見つめ、やがて誰も待たない部屋に向かって歩き始める。
 駅前からまだ数百メートル歩いたばかりだった。
 線路沿いの道の角々にある少し洒落たレストランや店、たまにいかにも大衆飲み屋的な店の並びが切れると、すぐにオフィスなどが入る低いビルが続き、角を覗くと小さなマンションや住宅が見える辺りで、宗輔は足を止めた。

 いや、正確には足が竦んだ。
 その瞬間、鼻先をかすめた臭いに、あの時と同じように、目の前が真っ赤に染まった。
 耳元ではじける、何かが爆発するような音。鼻と口の中に容赦なく襲いかかってくる煙の臭い。宗輔の視界を舐めあがるように昇る赤い炎が周囲を取り囲む。耳も目も咽喉までもその炎を捉えているのに、肌だけはまったく温度を感じていないような記憶が残っていた。ふらふらと炎の真ん中へ近づこうとする宗輔の腕を誰かが掴んだ。
 宗輔!
 耳元に叫ぶ声が聞こえる。
「火事だ!」
 身動きもできないまま立ちすくんでいる宗輔の脇を駆け抜けていく幾人かの足音、やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 野次馬の集まる路地の入口から宗輔が抜け出したのは、そのすぐ後だったのか、ずいぶん経ってからだったのか、記憶は全くない。
 ただ、マンションの灯りが見え、表の植込みの影の中、数段の階段に足を投げ出すようにして座る人影を見つけた時、宗輔は年甲斐もなく走り寄っていた。
「よぉ」
 立ち上がりザックを肩に担ごうと持ち上げかけた拓を、宗輔は力任せに抱き締めた。
「おい、何だよ……」
 言いかけた拓が、あまりの宗輔の強い力に言葉を飲み込んだ気配があった。
「宗輔?」
 遠慮がちに聞く声が随分と幼く、愛しく聞こえる。

 そのまま引きずるように部屋に連れ上がり、まだ何が何だかわかっていないような顔のままの拓を寝室のベッドに投げ込むようにして、いきなり求めた。
「どうしたんだよ」
 一度だけ、拓は拒むように事情を確認しようとした。だがすぐに諦めたようだった。
 宗輔は鬱陶しい背広を脱ぎ棄て、上半身はジャンパーさえ脱がさないままの拓のジーンズを下着ごと下げた。自分もスラックスを脱ぎ捨て、もちろんまだその気配さえない拓の身体の反応を無視して、乱暴に足を開かせ、いきなり後ろに突き入れようとすると、さすがに強い抵抗にあう。

 イライラしていた。とにかく、自分の何かを誰かに預けたかった。
 もどかしさに狂いそうになりながらベッドサイドの引き出しからローションを取り出し、自分の熱く火照ったものとまだ固いままの拓のその場所に垂らし、解してやることもせずに突き立てた。
 実際には拓も、まったく準備をしていなかったわけではないのだろう。ここに来るときにはそれなりの覚悟をしているはずで、入口の強い抵抗は先端が入ってしまうまでで、その先からはすんなりと宗輔を受け入れた。

 一瞬、脈絡なく暗い思いが宗輔を押し包んだ。
 こいつはまだ矢田と会って、あのいやらしいおっさんに身体を預けたりしているのだろうか。だからこんなふうに、簡単に男を銜え込んだりできるのじゃないか。
 そう思ったら、我慢などできなかった。
 初めてのバレンタインの日まで、宗輔はいつも強姦でもするような勢いで拓を抱いていた。気持ちが通じ合ってからは(少なくともそう思えるようになってからは)、拓が求めるのでなければ、それほど無茶を要求したことはなかった。
 だが、今日はもうどうでもいい気持だった。突き立てた自分の雄がぎちぎちに拓の身体を押し広げ、逆に拓の粘膜が強い筋肉のように局所を締め付ける気配に、宗輔は相手を気持ちよくさせてやろうという余裕など完全に失った。
「宗輔!」
 宗輔が容赦なく動くと、一度だけ拓が悲鳴のように宗輔を呼んだ。
 拓の身体が宗輔を受け入れているのかどうかもわからなかった。この一年ほどは確かに、拓のその場所は宗輔を認め、宗輔の身体に合わせて快楽をむさぼる気配も伝わってきていたのに、今日は何もわからないまま、宗輔は拓を責めた。
 拓が宗輔の背中に爪を立てる。何かに縋るように、耐えるように、宗輔にしがみ付いてくる。噛みしめる唇が赤く色を変えていた。苦しいほどの勢いで腹の奥に己を打ち込みながら、その拓の唇の両端を押さえ、開かせる。息を飲み込めない拓が、喘ぎ声と一緒に唾液を零す。腰の勢いを緩めないまま、唇でそれを吸い取る。拓が首を振って逃れようとするのを、背中ごと強く抱きしめ、ますます体の奥を擦った。
 拓の大腿の裏から尻にあたる宗輔自身の下腹が、そのまま拓を壊そうとしている、自分でもそう錯覚した。異様に気持ちが良かった。恐ろしいほどの快楽が背中を這っていて、拓をこのまま取り殺してしまいそうになっていた。

 翌朝、目が覚めたのは鳥や犬の声が聞こえてきたからだった。
 宗輔は跳ね起きた。
 一体いつ眠ったのか、いや眠ってなどいなかったのか、思い出せなかった。
 頭が痛い。そう思って傍らを見ると、拓が身体を丸めるようにして眠っていた。こいつはいつも身体を丸めて寝るんだなと改めて確認して、不思議な気持ちになった。
 拓の睫毛は、僅かな空気の動きを受け取るように震えている。相変わらず短く刈られた髪が、光の加減で淡く輝いて見えていた。もともと綺麗な形の耳をしていたが、殴られて出血したり腫れあがったりしているうちに、すっかり変形したように見える。そのひとつひとつが妙に愛しかった。

 時計を見ると、まだ慌てれば十分に間に合うことは分かったものの、とてもそんな気分にはならなかった。ベッドに起き上がり、枕元の電話の子機を取って秘書に連絡を入れると、宗輔の嗄れた声に何を察してくれたのか、何も言い訳を聞いてこなかった。午前中は特に重要な会議もないし、どうでもいいアポイントメントは変更しておくと、向こうから宣言してくれる。
 もっとも、ここの所、宗輔がクラブシノハラの経営方針について、高級菓子からもう少し家族や子供が楽しめる菓子を作りたいというコンセプトを提案してから、会議はしばしば荒れている。秘書は宗輔のその提案について、今の経営方針は十分上手くいっていて、それをむやみに変更することは他の重役の反感を買うばかりで、宗輔にとって得なことは何もないと言っている。彼が宗輔を心配してくれていることも分かっているが、その本心は分からない。
 いずれにしてもホワイトデー戦線は昨日で終わっているのだから、少なくとも今日ばかりは、社長が自ら何かをすることなどほとんどない。
 プライベートの恋人のお返しを待つ以外には。
 そう考えてから、なぜ拓がここにいるのかと、今さらのように思った。そして、あるいはバレンタインのお返しに来てくれたのかもしれないと思い、それをあんなふうに無茶苦茶に求めて悪かったと、この期に及んで幾らか申し訳なく思った。

 受話器を置いて、ふと振り返ると、拓が目を開けて宗輔を見ている。こいつの目は本当に純粋で、恐れのない目だ。
「大丈夫か?」
 同じ言葉を言おうとした瞬間、拓の方から聞いてきた。
「どういう意味だ?」
 拓は首の後ろを押さえながら起き上った。細っこい身体のくせに、バランスよく鍛えられた胸の筋肉が、気持ちのいいほどに滑らかに動く。
「魘されてたからさ」
「うなされてた?」
 宗輔は、俯いて目を逸らした拓を見つめたまま、言葉を確かめるように繰り返した。

 頭の隅に、昨日路地の隙間から見た火事の光景が巣食っていた。足が竦んで、何もできなかった、叫び声さえあげることのできなかった自分の身体を走り抜ける、不可解な感情を思い出す。頭痛の原因はそれなのかもしれない。
「うん。その……、俺、ホワイトデーにお返しも買えないし、下手なドラマみたいに、プレゼントはオレ、あんたの好きにしてくれって気持ちで来たから、なにされても良かったんだけど」
 拓は怒っていないことを伝えようとしたのか、拙いことを聞いたとでも思ったのか、ちょっと宗輔を盗み見するようにして、うやむやにして言葉を切った。
「そうか」
 宗輔は拓に背を向けてベッドから起き出した。拓にどう言えばいいのかわからなかった。
「ちょっと昔の嫌なことを思い出したんだ。飯にしよう。シャワー浴びて来い」
 ホワイトデーでなかったら、こいつはここに来なかったのだろう。そして俺もまた、こいつをこんなふうに追い込まなくてもよかったのだろう。
 そんなふうに思ったら、明日という日を迎えるのがまた一段と辛くなった。


 宗輔が階段の上で右手を軽く上げると、階段を上りがけにため息ひとつつくために立ち止まり上を見上げた黒縁メガネの男も、右手を上げて挨拶してきた。
 相変わらず風采の上がらない、何年前から同じものを着ているのかというような、よれよれのコート姿の男は、以前切ったのはいつなのか不明のぼさぼさの髪を掻きながら、だらだらと駅の階段を上ってきた。
「すまんな。お前が気にしてるんじゃないかって、こっちから電話するつもりだったんだけど」
 斎田アトム、ロボット工学博士、嫁なし子なしで研究一辺倒、そして製菓会社社長取締役・篠原宗輔の唯一無二の親友だった。
「いや、こっちこそ、いつも付き合わせて申し訳ない。しかも、今年はこんなタイミングでアルファロメオがいかれちまって」
 斎田はポン、と宗輔の腕を叩いた。
「馬鹿言うんじゃないよ。俺にも関係のあることなんだから」

 都心を離れて、千葉の方へ向かう電車移動の間、隣に座った斎田からはかろうじて風呂だけは入ってきました、という安物の石鹸の匂いがしていた。ちゃんとすれば、こいつだってそれなりにいい男のはずなのだが、まったく服装にも周囲の目にも無頓着だ。今も頭の半分はロボットの設計図で埋まっているはずだ。そんな斎田の存在を有難いと心から思いながら、宗輔は半分後ろを振り返り、流れていく景色を見る。

 毎年車を運転して行くので、景色を見る余裕はない。だがこうして電車に揺られていると、下手に時間があるだけに、景色の中に色々なものを見てしまう。
 家々の佇まい、その一軒一軒に灯りを届けている電線、その上にとまっている雀たち、脇の道を通るワゴンカー、中には家族連れの姿が見えている。道を歩く親子連れ、何かをねだって母親の腕を引っ張る子ども、犬を連れて歩いている老夫婦。
 何かを置き忘れてきたような寂寥感と、何とかしなければいけないような焦りが同居している。

「お、ところで、蘭丸くんはどうだった?」
 いきなり隣の斎田が尋ねてきた。
「蘭丸くん?」
「ほら、あのお茶運びからくり人形改良ロボットだよ。バレンタインの前にプレゼントしてやったろ」
 そんな名前がついていたのか。
「いや、あれはなかなかよくできてた。歩くのも蹴りを入れるのも実にバランスがいい」
「そうか、それは良かった。片足で立った瞬間にバランスを計算させるのがなかなか難しかったんだが、人間の三半規管の機能を応用してだな……」
 解説が長くなるのを避けて、宗輔は被せるように言った。
「それに、いきなりかぶりついたし。あれはすごかった」
「え?」
 斎田が黒縁メガネを落としそうな勢いで、宗輔を見た。
「何だよ」
「かぶったのか?」
 電車の中にも関わらず、斎田は大きな声で宗輔に迫らんばかりの勢いで顔を近付ける。
「あ、あぁ。何だよ、一体」
「どうやって、何をして、どうなってかぶった?」
「えっと」
 確か、拓がこいつは何なんだととか言って『蘭丸くん』の鼻先を指差して、指に噛みつかれたのだ。それを「誰が」という部分を省略して伝えると、斎田は唸るように考え込んだ。この男にとっては、研究室も公衆の面前も、滅多に帰らない自宅も、ロボットのために全てを捧げる場所なのだ。
「何だよ」
「いや、確かにそういう機能は組み込んだんだが、何回試してもうまく作動しなかったんだ」
 斎田はいきなり宗輔の指を捕まえて、この指先から特殊な光線でも出ているのではないかとでもいうように、じっくり眺める。いくら宗輔がホモセクシュアルの嗜好があるからと言って、電車の中で指を見つめられるのは、いささか面映ゆい。もっとも、車内の他の乗客は、斎田のことを怪しい変人にしか思っていないだろう。
「おまえ、今度、蘭丸くんを持って来て、同じようにやってみてくれよ」
「指差したのは俺じゃないぞ」
「お、そうか。お前の恋人だな。バレンタインはラブラブだったわけだ。よし、彼女に協力を要請してくれ」
 声がでかい、と思うのだが、斎田にそんなことは通じない。それに、『彼女』じゃないのだともこんな公衆の面前では言えない。
 斎田は親友だが、今まで色恋の話をあれこれする相手ではなかった。従ってカミングアウトする機会がなかったのだ。もちろん、斎田に隠したいと思っているわけではないし、よく考えたら他の誰に対しても、宗輔が自分の恋人を紹介する機会も必要もなかった。
 斎田はまだ考え込んでいる。その『うまく作動しなかった機能』について検討しているのだろう。宗輔はあの時、拓がロボットにかぶられた自分の指を見たまま、びっくりして固まっている姿を思い出して、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。
 小さな時間しか積み重ねていないのに、そのひとつひとつが抱きしめたいほどに愛おしい。

 この坂道を上る宗輔の足が軽かったことは一度もない。隣を斎田が歩いてくれなければ上ることもできないだろう。
 海風を受ける坂の上にあるのは老人介護施設で、精神に問題のある老人、痴呆やアルツハイマーを抱えた人、さらに身体の病気を患っている場合でも預かってくれるという施設だった。もちろん、費用は半端ないのだが、家の中にそういう病の家族を置いておけない金持ちにとっては、有難いところだった。

 ここに、宗輔の母親が入所していた。
 あの日以来、宗輔と会話を交わすこともできなくなった母親だ。そして宗輔にとっては、憐れみと憎しみと混乱の対象となっている母親でもあった。宗輔が頼んでいるので、施設からは毎月母親の状態については報告が来るが、実際に宗輔がここを訪れるのは年に一度、宗輔がすべてを失った日だけだった。
 放置して会いに行かないこともできるのかもしれない。だがそれはやはりできなかった。後ろめたさを抱え込んで、まだ先になるだろう死の報告だけを待つのは、古く懐かしく優しくもある記憶が許さなかった。かと言って、自主的に、事あるごとに会いに来ることもできなかった。

 それを察したのか、斎田がこの日になると宗輔を誘って、ここに来るようになった。
 あの日、火事で燃えた宗輔の家に居合わせた斎田は、このことを彼自身の義務とも思ってくれているようだった。
 二人は一緒に面会の受付を済ませ、職員の案内で、不安なほどに明るい廊下を進む。時には、彼らを息子と間違える老人に話しかけられることもある。始めは驚いたが、そのうちにそれを否定せず、やんわりとやり過ごすこともできるようになった。
 窓の向こうには海が見えている。
 そしていつものサンルームに彼女は座っていた。

 半分火傷の痕の残っていた顔は、その必要性について疑問を投げかける形成外科の医師を説得して皮膚移植をしてもらい、何とか見れるようになっていたが、年を経るとアンバランスな皺のよりかたで違和感を覚えざるを得ないようになっていた。高温の煙で焼かれた咽喉は声が出なかったし、食べ物は胃婁からしか受け付けなかった。
 それに、母には宗輔が息子であることが分からないままだった。
 それでも、宗輔の届ける好物の甘い菓子と、斎田の持ってくる小さなおもちゃのようなからくり人形やロボットには、彼女は声を出して笑ってくれた。
「宗輔さんとアトムさんですよ」
 母は昨年よりもいっそう小さくなっていた。まだ六十にならないというのに、八十の老人と言ってもいいように見えた。母は顔を上げたが、目は宗輔を見ているようではなかった。母の座る前に、折鶴が散らばっている。折り紙の端っこを上手く合わせられないので、いびつな形をしている。
 宗輔は隣に座り、こんにちはと挨拶をした。
 母は宗輔を見ないまま、不安そうに小さく頷いた。

                            (前篇・了)



《予告》

強くて大人で、困ったことも辛いことも何もないと思っていた十歳も年上の恋人・宗輔が魘される姿を見てしまった拓。
ジムでもうまくいかないことがあって、赤沢(ジムの会長)にしばらくリングに上がるなと言われる。
むしゃくしゃして矢田のところに行く拓は、そこで衝撃的な雑誌を目にする。
【クラブシノハラの青年社長が隠す過去、母親を姥捨山に置き去りにしたあの日】
拓はたまらずに宗輔のマンションに飛んでいくのだが、張り込みの記者たちがいて近づけない。
うろうろしていると、黒縁メガネの冴えない男が声をかけてきた。
そして、宗輔が姿を消してしまう……

…宗輔はどこに?
宗輔の過去に何があったのか?
拓は宗輔の思いを支えることができるのか?
そして拓自身の将来は?
(後篇は拓視点です)

(予告って、なんだかかっこいいなぁ…^^;)

それにしても、この二人の関係はやっぱり、メイン本編の竹流・真とかぶってるなぁ、と反省。
年齢差(竹流と真は9歳違い)が似たり寄ったりだから、かしら。発展のない私……
しかし、向こうはもっと力関係が大きいし、そもそも恋人というには語弊がある。
関係がないとは言いませんが^^;
キリスト的存在の竹流と野生のヤマネコ的真の関係も、宗輔と拓くらいすっきりしていたらよかったのになぁ。
どちらもがんばろっと。

Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後1)(18禁) 

宗輔
竜樹さま(萌えろ!不女子)から頂いた宗輔(しゅうすけ)です。
本当にありがとうです。三つ揃いのスーツを着せてくださいとか、ちょっと髪は巻き毛気味ですとか、描写らしい描写もなかったのに、どうしてこんな風だとわかっていただけたのでしょうか。
不思議です。
イラストを描かれる方の感性って不思議ですね……そして素晴らしい。
とにかく感謝です。この『炎の記憶・海の記憶』は竜樹さんに捧げる…という気持ちで書いています。

BLとはもう言えない話になってきていますが、逆に言えば、ちょっとシーンに抵抗がなければどなたでも読んでいただける(と言っても、大したシーンじゃありませんし。所詮私には色気のある描写はできないので、ただのハードボイルド系)、ただし18歳以上で、という感じです。

ということで、後篇(拓視点)をお届けいたします。
と言っても、実は長いので、多分2回…もしかして3回になるかもしれません。
一応頭の中では2回なのですが。
それではよろしくお願いします。





「おい、拓、ちょっと来い!」
 赤沢のどすの利いた罵声が、拓のもつれかかった足に絡み付いた。
 丁度3分のゴングが鳴ったところだった。拓はスパーリングの相手をしてくれていた格上のボクサーに最後のカウンターを打ち込もうとしていた。
 カウンターは相手に届く前に行先を失う。
 拓は自分の勢いの反動を食らって前のめりになり、相手の肩に身体をぶつけた。相手はグローブで軽く躱し、舌打ちしてリングを出て行った。
 目に汗が沁みて、視界が曖昧になる。
 ぶち壊したいと思った悪魔のような影が急に消えてなくなってしまい、拓自身も行き場を失ったような気がした。
 1分のインターバルの間、身体をほぐすように軽く跳ねている足音が複数、絡まり合って拓の耳元に届く。リングから出ようとロープを潜りかけて、足元がふらつくのが分かった。足元に落ちる汗の輪郭がぼやけている。

 赤沢はジムの隅にあるデスクの前の丸椅子に足を広げて座っていた。その足は床を叩くように貧乏ゆすりをしている。彼は明らかにイラついていた。
 赤沢が何を言おうとしているのか、半分は分かっていた。
「拓、おまえ、しばらくリングに上がんな」
 拓はグローブを外しながら、赤沢から目を背けていた。
「俺が何を言おうとしてんのか、分かってるだろ。お前の闘争心は買ってやってる。だが、がむしゃらなのと無茶苦茶なのは全く違うぞ」
 拓は息を吐き出した。3分間、息もしていなかったような錯覚がして、今になって必死に呼吸の仕方を思い出している、そんな気がした。
「相手を憎んでぶちのめすくらいの気概がないとだめだ、同情心は捨てろ、餓えた猛獣になれ、そういうのがないと勝ち上がれん、と昔お前に言ったのは俺だがな、この期に及んでも足元と目の前が見えていないような奴をリングに上がらせるわけにはいかん」

 必死だった。4年のブランクを埋めるために、ほとんどのものを犠牲にしていた。気が付けば拓よりもずっと若い、体力も気力も充実した新人が入ってきて、瞬く間に力をつけていった。トレーニングの量やハングリーな気持ちだけでは乗り越えられない何かがそこにはあった。分かっていただけに、焦ると結果が余計に遠くなった。
 リングに上がる時、恐怖心が全くなくなっている。そのことを赤沢に咎められたのは、つい1か月ほど前だった。
 恐怖心を克服することは大事だが、無くすことは良いことではない。最低限の危険回避のルールがある。そのために必要な恐怖心は持ってリングに上がらなければならない。ただの喧嘩になってしまうぞ。
 赤沢の言っていることはよく分かっていた。
「殺し合いをしてるんじゃないんだ。命を懸けるなんて、あしたのジョーじゃないんだからな」
 赤沢は吐き捨てるように言ってから、ふいに息をついて口調を変えた。

「なぁ、拓、俺はお前の親父さんのことが好きだったさ。あの人はいいボクサーだった。他人への気遣いもできる、一方で闘う気力も充実していた。でもあんなことになっちまって……、俺はお前がいったんボクシングをやめた時、正直ほっとしたんだ」
 赤沢は拓の父親の後輩だった。
「しばらく試合に出んな。俺の言わんとしてることはわかるな。今のお前は怖い。お前が高校生ならまぁいいさ。けど、これからはちゃんと考えていかなきゃならん。どんな形にしても、試合に出れなくなってからの人生の方が長いぞ」

 いつもロードワークで走っている河川敷は、嫌味なほど明るく見えた。
 家賃の安さに魅かれたのと、1時間かけてでも走って行き帰りをこなすくらい自分を追い込みたくて、東京都内ではあるが郊外を選んで住んでいた。早朝から走って、ジムに練習に行き、筋トレをこなし、こんな真昼間には寝ているか、バイトをしているかのどちらかだった。夜にまた別のバイトに行くこともあるし、そうでなければハードなトレーニングをこなす。
 負けたくない、自分にも、他の誰かにも。
 そんな思いだけで突っ走っていた。
 だが、限界は自分の方が知っている。タイトルを取れるようなボクサーはほんの一握りだ。はなからタイトルを目指している奴でなければ、つまり高い目標を持っている奴でなければ、結局は潰れていってしまう。
 俺はタイトルを目指しているのか、あるいは壊れてしまいたいだけなのか。
 届かないタイトルを見ないようにして、ただ目の前の化け物にがむしゃらに挑んでいるだけなのか。

 ようやく空気の冷たさは和んできたものの、まだ春には遠い丈の短い草地にザックを放り出し、斜面に横になった。
 ボクシングが好きだった。離れているときには、たまらない思いを何度もした。
 そして再びその中に飛び込んだとき、まるきり届かない何かを目指しているような恐怖に襲いかかられた。タイトルになど永遠に届かないという宣告を今は受けたくない、お前には始めからそんな資格はないと言われるのが怖くて、誰かが口を開いて自分を批判する隙を与えないように、耳を塞いだまま、ただ無茶苦茶に走り続けた。
 空は春の霞で曖昧な白だった。高いというよりも、先が見えない、そんな色合いだった。低いのか高いのか分からない、頭上の中途半端な場所を鳥が横切った。遠くで野球の白球を追いかける声が聞こえている。鳴き交わす犬の声、水の音、子どもたちの高い笑い声。
 自分の周りに広がる世界、その中に自分が属していないような孤独と焦燥。
 宗輔……
 拓は目を閉じた。その途端に、何か懐かしいような、不安な気持ちがよみがえった。

 恋人、家族、心の還る場所、そういうものを持ちたくない。だから必要以上に入り込まないようにと思っていた。相手は十歳も年上で、拓が心配したり気にかけてやる必要もない大人で、拓の方がこの関係に義務を果たさなければならないような部分がなく、そして同性であるということで、いつかこの関係が終わってしまうことに、世間も自分たちも納得がいくに違いないという奇妙な安心感があった。少なくとも、そうだと思い込んでいた。
 ただ気が向いたときにセックスすればいい。ちょっとむしゃくしゃしている時や、欲望が吹き出しそうなときとか、そういう時に身体を触れ合わせぶつけ合い、痛みとか苦しさの中に全てを吐き出してしまう、そういう関係でいいと思っていた。
 正直なところ、セックスが気持ちいいものだとは、少しも思っていなかった。少なくとも1年ほど前まではただ苦しいだけだった。自分がマゾヒストだという自覚はなかったし、そもそも殴り合うのが当たり前の世界にいるような人間は、いささかマゾっ気がないとやっていけないのかもしれないが、今でも相手を受け入れるときはただ苦しくて仕方がない。
 それなのに、宗輔に会いに行ってしまうのは何故なんだろう。
 それでも宗輔の肌に慣れ、唇の熱さに慣れ、彼のものを受け入れることに慣れ、いつの間にかセックスの途中からとは言え、痺れるような震えが腹の奥で湧き出すようになっていた。
 それがいわゆる快感だということは、拓にも分かっている。このまま繋がっていたいと思うこともある。ただそれでも、今はまだリングの上で殴り合い、意識が吹っ飛ぶような瞬間を越えるほどの快楽にはなっていなかった。
 いや、そうではないのかもしれない。
 時々、宗輔の名前を呼びながら、意識を手放しそうになる。ただ気持ち良くて、自分の身体が自分でコントロールできなくなる。それを認めるのが怖いだけかもしれない。

 宗輔には言えないことがひとつあった。
 今でも、時々矢田のところに行く。そして矢田の気分によっては、抱かれることもある。いや、拓の方は矢田に抱かれるために行っている。これは借金を返せと言わせないための口封じ的仕事だと割り切っているが、矢田の方は金を返せなどとは言ってこない。つまりは拓の一方的な都合で、後ろめたさをちゃらにするための義務だった。
 矢田に抱かれるのも、少しも気持ちいいとは思っていない。我慢するということ自体に意味があるような気がしていた。
 金なら稼いで返せばいいのかもしれない。そもそも借金の額など聞いたこともないし、矢田も言わない。喫茶店を営んでいた拓の祖父が残した借金、それを返せなかった母親はパチドランカーになって暴行を繰り返した父親を刺殺した。母親の裁判の結果は正当防衛として罪が軽くなったものの、その費用も全て母の愛人だった矢田が出している。庇ってくれる肉親を失った拓の面倒を全てみてくれたのも矢田だった。
 だからこれは仕方がないと、今も思っている。
 それとも、俺って、やっぱりホモなんだろうか。それを認めたくないから、仕方がないとか思いこんでいるだけなのだろうか。

 拓は目を閉じ、寝転んだまま、頭を振った。
 色々な思いが去就する中で、今日赤沢に怒鳴られる前に頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでいた不安と恐怖の種が、また頭をもたげてきた。
 頭の隅に巣食っているもの、今日リングの中で拓がずっと払いのけぶち壊したいと思っていたもの、それは魘される宗輔の姿だった。
 あの時、起こそうと思ったのに、何故か手が動かなかった。
 何してるんだ、かあさん。
 宗輔のうわ言のような声が、拓の耳や頭のどこかに突き刺さり、抜けなくなった。
 何かが宗輔を苦しめている。そしてそれは、あるいは拓自身にも通じる何かなのかもしれない。その気配が拓を締め付ける。
 宗輔と付き合ってきたのは、宗輔が拓に頼る必要のない大人だったからだ。そもそも身体の関係が一番で、お互いに深入りする必要がないからだ。途中から少しばかり恋人気分にもなっていたけれど、結果的に失っても怖くないと思っているからだ。
 それなのに息が苦しい。これまで避けてきた宗輔の本当の姿に触れるのも、深入りしていくのも。何よりも、拓の方が宗輔に頼りたくなってしまうのが怖い。
 そして失ってしまうことが。

 今日は始めから矢田に会いに行くつもりだった。何も考えず、今日の予定をこなすべきだと思い、ふと目を開けて、拓は驚いた。
 小学3年生か4年生くらいの子どもが、上から拓を覗き込んでいる。
 白くかすんだ空を背景に、子どもの顔だけが明瞭に浮かんでいる。
 少し膨れたような頬、唇は子供っぽく赤くて厚く、目は少し小さめ、髪はストレートで、その体はちょっとぽっちゃり気味だ。典型的ないじめられっこタイプに見える子どもは、急に拓が目を開けたことで、逆にびっくりしたようだった。

 この子どもはいつもこの辺りで見かけていた。
 ロードワーク中に周囲のことなどほとんど目に入っていない拓がその子どもに気が付いていたのは、子どもの方が拓をいつも見ていたからだ。見ていた、というよりもほとんどガン見に近かった。これで中学生なら、喧嘩でも売ろうってのかと掴みかかりたくなるくらいだった。子どもはいつも母親に手を引かれていて、振り返りながら、走ったりシャドウをする拓を見ていたのだ。
 母親はどうしたのだろうと思った途端、高い声が子どもを呼んだようだった。
「アラタ!」
 子どもはちょっとびくっとした。それからちょっとだけ後ろを振り返り、そして直ぐにもう一度拓を見た。
 しばらく子どもは拓を見たまま動かない。もう一度母親の呼ぶ声がした。
 拓は上半身を起こした。
「お前、呼ばれてるんじゃないのか」
 子どもは名残惜しそうな顔をした。名残惜しい、というのが適当なのかどうかわからないが、まさにそういう顔だった。
 何か言いたげで言えないというようなもどかしさが伝わってきて、もしかして口がきけないのか、と拓が思った途端、小さい低い声で言った。低く聞こえたのは、子どもの不安や躊躇いのせいだったのかもしれない。
「だいじょうぶか」
 その声に母親の呼ぶ声が再度、重なった。ついに子どもは諦めたのか、拓のもとを離れていった。


 久しぶりに矢田はその気だった。
 ここ数度、矢田は拓に食事をさせるだけで、身体を求めてくることはなかった。矢田が年を取ったのか、それとも仕事が忙しくてそれどころではなかったのか、あるいは拓に飽きたのか、興味もなかったので聞かなかった。
 矢田の行きつけの店のひとつで寿司をつまんだり鍋をつついたりした後で、矢田が拓を抱くのは、いつも決まって安いビジネスホテルの一室だった。多分相手が女なら、高級なシティホテルとかを使うのだろうが、拓ならこんな程度で十分だと思っているのだろう。ナニワ出身のじじいだから、そのあたりの計算はしっかりしているに違いないと思う。
 拓は、行為の最中にはいつも、矢田の大きくて重い体の質量をそのまま感じながら、箱のような部屋の真っ白な天井を睨んでいた。押しつぶされそうな重さと強さ、挿いってくるものが拓の身体をこじ開けようとする痛み、矢田の強い体臭、そういったものに完全に取り込まれて身体を許している間中、拓はいつもこのまま壊して欲しいと思っていた。身体を割かれてもう立ち上がれないようにされてしまって、もしかして意識もはっきりしなくなってしまいたいような、そんな心持ちだった。
 矢田が入り込んでくる時の苦しさは、宗輔が挿いってくる時とは別の苦しさがあった。入ってくるものの大きさのせいだと始めは思っていた。あるいは多少なりとも愛情の有無が影響しているのかもしれないが、それについては確信がなかった。
 だが、今まさに受け入れようとした瞬間、身体が固くなって一気に冷たくなった気がして、拓は目を強く閉じた。もう十分に肌を撫で回され、その場所も解されて、受け入れる物理的な準備は整っていたのに、腹が何かを拒否して固まってしまったようだった。
 矢田はしばらく頑張っていた。
 正直なところ、拓も受け入れようと努力していた。
 だが結局、行為は成り立たなかった。

 矢田が怒るかもしれないと思った時だった。
 いきなり矢田が笑い出した。首を絞められたり殴られたり、あるいは良くて嫌味を言われるか、マイナスのことだけを考えていた拓は、呆然と矢田を見た。
「拓、お前、いい加減はっきりと、もうやめてくれとか言えや」
 相変わらずの安いビジネスホテルの窓枠は、外の騒音のせいか、風が叩きつけるのか震えていた。
「いや、頭より体は正直なもんやな」
 身体を起こしたものの、まだ拓はぼんやりと、笑う矢田を見ている。
「この1年ほど、お前がいつ別れてくれ、て言い出すんかと待っとったんや。それがいつまで経っても言い出しよらん。わしもタイミングを掴みかねてもうたわ」
「何のこと……」
 矢田は浴衣を羽織って簡単に帯を結ぶと、素っ裸のままの拓の肩に浴衣を掛けてくれた。安いホテルの浴衣は、いたずらに糊が利いていて、それでいて沁みついた幾人もの人間の体臭が完全には取れていないような、くすぶった臭いがしていた。
「まぁ、拒否しとるくせに、結局は受け入れるお前も可愛かったさかいな、わしもちょっと手放しにくうて引き延ばしてしもたけどな」
 言いながら太い指で煙草に火をつける。その手元を拓は黙って見ていた。
「そろそろ、ちゃんと考えた方がええんとちゃうんか」
「だから何のことだよ」
「篠原宗輔と付きあっとるんやろ。向こうがお前に本気なんは、あいつがわしんとこに来よったさかい、何となく分かっとったけどな、まぁ、お前がその気かどうかは分からんかったし、ほってたんや。お前を抱いとっても別に違和感なかったしな。けど、この1年は違うたで。ここがな」
 矢田はまだ笑いをかみ殺したような顔をしたまま、煙草を挟んだ手で拓の胸のあたりをつついた。
「違うことを考えとんのが見え見えやった。あそこも、篠原宗輔のことを考えて震えてとったんやろ。それでもお前がボクシングをやっていくのに、幾らかわしも助けになるんかと思うて来たさかいな、これまで通り知らん顔してやってたけど」
 拓は矢田から目を逸らした。
 いつか、拓をその太いもので貫きながら矢田が耳元で聞いてきた。苦しくて吐き戻しそうになりながらも、その息が耳の中に注ぎ込まれるとき、拓は異様に興奮するのを感じた。殴られてリングの上に倒れる時の恍惚と同じだった。
 わしに何をして欲しいんや。
 その瞬間、拓の頭は不意に冷めた。
 俺が親父みたいになったら、殺してくれよ。誰かを傷つける前に。
 矢田なら殺してくれる。疑いもなくそう思った。矢田は拓が宗輔と関係を持っていることを知っていたし、その中でなぜ矢田とも関係を続けているのか、そこに拓にとっての何のメリットがあるのか確認したのだと思った。矢田がええで、と言ったとき、拓は無意識に矢田を締め付けた。矢田と寝て、あれほどに感じたのは初めてだった。
 ボクシングが好きな反面、恐怖はいつも付きまとっていた。
 離れられないのに、怖かった。
 いつか親父のようになったらどうしようか。
 あんなに優しい父親だったのに、母親を、そして拓を殴るようになり、壊れていった。自分もいつか壊れるかもしれない。そうなったとしても、宗輔は拓を殺してくれないだろう。もしかしたら面倒を見ようなどと思ってくれるかもしれない。だが相手が誰だかわからなくなった拓は、宗輔を傷つけるかもしれない。
 矢田ならやってくれる。殺し屋でも雇って、頭がおかしくなった拓を殺してくれる。そう思っていたから、矢田との関係を切らずにここまで来た。
「ほんまにええんか」
 拓が答えないままでいると、矢田はそう言いながら狭いライティングデスクから持ち込んだ雑誌を取り上げ、拓に投げて寄越した。乱れたシーツの上で、薄い衣服で股を広げ胸の谷間をくっきりと見せつける女性の横に踊る表紙の文字に、拓の目は釘付けになる。

 クラブシノハラの青年社長が隠す衝撃の過去!
 姥捨山に実母を置き去りにしたあの日!

 拓は顔を上げた。
「篠原宗輔も正念場やな。出る杭は打たれる、ゆうてな、世間様は黙って儲けさせてはくれへんのや。ここで潰れる人間もおるさかいな、せいぜい首括らんように見張っといたった方がええんとちゃうんか」
 矢田は椅子にどっしりと腰を下ろす。
「ま、お前のことかて、ばれたらスキャンダルかもしれへんけど、そっちは今時、珍しい話でもないさかいな」
 矢田は声を落とした。
「なぁ、拓、お前もそろそろ自分に優しいなったれ。どうするのが正解か、人生終ってみんことには分からんやろけどな、自分を可愛がらんでどないすんのや。わしなんぞ、自分が可愛いてしょうがないわ。お前を離しとうなかったんも、自分が可愛かったからや。安喜子を思い出してええ気分やった」
 理解ができずに矢田を見ると、矢田は、顔は厭らしいナニワのおっさんのまま、目には妙な穏やかさを湛えて笑っていた。
「わしはな、ほんまに安喜子が好きやったんや。愛人の一人やて、軽う思てたんとちゃう。まぁ、こんなことお前に言うてもしょうがないから、言わんかったけどな」
「俺を、借金の形に抱いてたんじゃ……」
「借金?」
 矢田は拓を見てしばらく呆然としていたが、やがて大きな声で笑い出した。
「あほか。お前んちの借金なんぞ、お前の親父と安喜子の保険金でチャラになっとるわ。わしはお前が可愛いて抱いとったんや。車も服も、マンションも、お前を抱く代償に出してやっとったんや。安喜子にしてやれんかったことも含めてな。もっとも、お前は車もマンションも結局突き返しよったし、服は刻んでサンドバッグに詰め込みよったらしいけどな」
 なんでそんなこと知ってるんだろう、と思ったが、それよりも他の驚きの方が大きくて、拓はまだぽかんとしたままだった。
「はよ、篠原宗輔のところに行ったれ。もっとも、マンションに入れるかどうか知らんけどな」
「え?」
「こんなもん書かれてみ、今頃あいつのマンションは記者どもに囲まれとるやろ」

 矢田との関係、矢田とのこれまでのこと、矢田と母親のこと、あれもこれも検証する余裕はなかった。矢田は、ほなわしは寝ていくわ、と拓を箱のようなホテルの部屋から追い出した。もっと上等な部屋に泊まればいいのに、と言ったら、あほくさい、誰が東京の馬鹿高いホテルに金なんぞ落としてやるか、と答えた。もしかしたら、拓のことをいい加減に扱っていたのではなく、矢田が金を出す価値があると判断する基準によっていただけなのかもしれない。
 そして、矢田の言った通り、宗輔のマンションの周りには、それらしい人影がうろうろしていた。ちょっとでも近づこうとすると、さっと自分を見咎める視線が突き刺さる。何度か意を決して近づこうとしたが、そのたびに足が止まった。
 そのうち、うろうろする小汚いザックを担いだ若者に対する連中の興味に火をつけてしまったら大変なことになるかもしれないと思い始めた。もう一つのスキャンダルの火種に自分がならないという保証がない。
 しかも、俺、宗輔の電話番号知らないんだ。
 そのことに初めて気が付いた。携帯電話には赤沢ジムといくつかのバイト先、矢田の電話番号しか入っていない。
 さんざん遠巻きにうろうろして、強行突破を考え始めた時、誰かに腕をがっしり掴まれた。拓はしまった、と思いながら、恐る恐る振り返った。
「君、さっきからうろうろしてるけど、もしかして宗輔の知り合い?」
 そこに立っているのは、拓に負けずとも劣らぬ安っぽい古い服を着た、黒縁メガネの冴えないぼさぼさ頭の男だった。年寄かと思ったが、よく見ると肌の艶はまだまだ若々しい。となると、年は宗輔と変わらないくらいなのだろうか。
「だったら何だよ」
 いや、こんな感じの記者もいるかもしれない。そう思って言葉を飲み込んだ。
 冴えない男はしっと口に指をあてて、周囲を窺い、拓をマンションからは見えない陰に引っ張っていった。
「どうやら強行突破は難しそうだ。電話は留守電のままだし、携帯にも出んし、仕方がないのでマンションのベランダにぴぃちゃんを送り込んだが、返事がない」
「ぴぃちゃん?」
 なんだ、この変な男は……
「鳥型ロボット……まぁ、伝書鳩みたいなもんだ。ベランダで変な音を鳴らすんで、窓を開けたくなっちまうはずなんだが」
「あんた、もしかして、お茶の水博士!」
 拓の中で、宗輔の友人で変なロボットを作っている男の名前は、勝手にお茶の水博士になっていた。
 状況を忘れて大きな声を出したら、冴えない黒縁メガネ=お茶の水博士に口を塞がれた。掌は思ったよりも大きくて、焦げたような臭いがしていた。
「声がでかいぞ。ん?」そう言ってから、黒縁メガネはじっくりと拓の顔を見た。「何でおれを知っている?」
 お茶の水博士、の部分に突っ込みはないまま、黒縁メガネ男は拓をしみじみと眺めた。
「とりあえず、この囲いを突破したいと思っている仲間であることは確かのようだ。君、一緒に作戦を練ろう」
 何が何だか分からないままに、拓はお茶の水博士に引きずられて、いったんマンションを離れた。離れ際にもう一度見上げた宗輔の部屋は、厚くカーテンが引かれたまま、遠くからでも人気がないことが分かるようで、寂しく悲しく拓の目に映った。
 宗輔……
 叫びだしたいような何かが喉の奥に閊えていた。

(【炎の記憶・海の記憶】後篇-1 了)


 しかし…蘭丸くんにぴぃちゃん…どんな命名なんでしょうか、アトムさん…

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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後2) 

炎の記憶・海の記憶(後篇-2)をお届けいたします。
今回はもう全く、18禁の欠片もない、BLでもなくなって、悩める青年の物語になっておりますが……
悩みながらもうまく飛び立ってほしい、拓も宗輔も、アラタくんも。
アトム氏はどうかって? 彼はもう、はなから自由ですから。





 さっきからお茶の水博士は納得がいかない様子で拓を見つめている。すでに日が落ちていて、車や駅の照明の加減で無精ひげが翳ったり、照らされたりしている。
 駅前のドーナツ屋の店内には、さすがに高級住宅街の近くだけあって、馬鹿みたいに走り回る行儀の悪い子どもはあまりいないようだった。その分静かで、自分の言葉に恥ずかしくもなってくる。
「だからさ、ちょっと話があって……」
 お茶の水博士、いや、さっき名前を聞いたところによると斎田アトム氏が納得がいかないのは、拓と宗輔の関係と訪問の理由のようだった。一応、宗輔が通っているスポーツジムのインストラクターという数年前の職業を言ってみたのだが、そのあたりからアトムは何かが引っかかるようで、表情が微妙になって、ただ探るように拓の顔を見ているのだ。
「つまりその、そう、えっと、サンドバッグの……手入れが……」

 この男は確かに宗輔の友人だと聞いているし、悪い人物ではないと思うのだが、宗輔が拓との関係を打ち明けているかどうかは分からない。そもそも、恋人が同性であるということについて、つまり宗輔がホモセクシュアルであるということについて、この男が知っているかどうかも分からない。だから探るような言い方をしてしまったことで、何らかの疑いを抱かれてしまったようだ。
 そもそも拓は、あの高級マンションに似合う格好ではない。それを言うと、アトムも随分よれよれの服を着ているし、似たようなものなのだが、もしかしてスクープ狙いの記者とかカメラ小僧と思われているかもしれない。
 どうしようかと思っていると、アトムが徐に口を開いた。
「宗輔はもう二年も前にジムは辞めているはずなんだが」
 え? と思ってから、改めてアトムの顔を見る。

 ロボット馬鹿とは聞いていたものの、さすがに親友のことはよく知っているらしいし、心配もしているのだろう。時が時だけに、万が一にも変な奴を宗輔に近付けるわけにはいかないと用心している気配も感じる。
 それに、宗輔が『シャングリラ』をやめたというのは初耳だった。やはり、自分は宗輔のことを何も知らないのだ。
「えっと、だから……個人的に……」
 自信を持って堂々と始めから嘘を言っていれば良かったのかもしれないが、嘘をつくとどうしても辻褄が合わなくなるし、しどろもどろになる。『シャングリラ』に勤めているときは、あんなに歯が浮くような適当な褒め言葉を並べることができたのに、そういう虚飾の世界を離れた途端、取り繕うための器用さまで失ってしまったようだ。
 本当は、宗輔の電話番号を教えてくれとか、他に行きそうなところを知らないかとか、さっさと聞いてしまいたいのに、今の状況では逆に怪しいと思われて疑いを大きくするばかりのように思える。
「で、もう一度聞くけど、何で宗輔を訪ねてきたんだっけ?」
 このおっさん、結構意地悪なんじゃないのか、と思う。いや、結局は試されているのかもしれない。
「だから、ちょっと話が……」
「あの週刊誌を読んだからか」
 拓は息をついた。宗輔に聞いておくんだった。親友にカミングアウトしているのか、と。
「そうだよ。もしかして首でも括ってたら大変だと思って」
「首を括る?」
「自殺……とか……」

 しばらくアトムは不可解なものを見るように拓を見ていたが、何か思いついたように、にやっと笑った。英語の教科書で見た、何とかいう猫みたいだった。
「あのな、宗輔はそんなタマじゃない。高校の時、横暴で暴力的な先公がいた。そいつにいつもターゲットにされていた気の弱い大人しい生徒がいてな、他の生徒はそいつがいるおかげで自分は攻撃から逃れられるってんで助けてやろうともしなかったんだが、宗輔の奴は違っていた。ある時、その先公の横暴を録画して授業中に視聴覚室で放映しやがった。怒り狂う先公に言い放ったもんだ。これをもっと公の場に出すことだってできるんだ、ここで収めた方がほうがいいんじゃないかってな。脅しだよ。で、今度は、その気の弱いやられっ放しの生徒が宗輔に子分にしてくれと言ってきた。徒党を組むのが嫌いなあいつは、そいつに言った。俺は友人は選ぶ、子分が欲しいわけじゃない、頼ってばかりいないで自分の力で何とかしようとするところを見せろってさ。ちなみに、そいつは今若くして市会議員だ。いいか、あいつは不条理とは闘う男だ。ただし、とことんまで追い込まないように計算する頭も持っている。こんなバカげたことで首を括ったりはしない」

 不意に、宗輔のことを何でも知っているこの男に無性に嫉妬した。
 そんな宗輔の昔のことなど何も知らない。どんな学生時代を送り、どんなふうにしてパティシエの道に進み、会社を興し、そして何故あんなふうに魘されていたのか。週刊誌に書かれていたことが本当なのかどうかも知らないし、宗輔が行きそうな場所の心当たりのひとつもない。そもそも、宗輔とこれまでどれくらいの時間を共有してきたというのだろう。身体を繋げて、お互いの距離がゼロになるまで近づいた相手だからといって、そのことが何になったというのだろう。
 拓は唐突に立ち上がり、しばらく何か言おうとアトムを睨み付けていたが、何故か急に泣きそうになってしまい、慌ててザックを担いで店を出た。
「おい、君」
 ドアの閉まる音とアトムの声が被さり、ついでに店に入りかけた男にぶつかって悪態をつかれた声も重なって、しばらくの間訳がわからなかった。

 安アパートに帰ってからも、気持ちが落ち着かなかった。玄関で素っ裸になって、脱ぎ捨てた服をそのまま放置して、狭いユニットバスでシャワーを捻った。いきなり冷水を浴びて、ガスの点火をしていなかったことに気が付いた。冷たい水で濡れた頭も馬鹿みたいで情けなく、シャワーを止めると、そのままバスタブにしゃがみこんでしまった。
 声を出して泣いたのは、久しぶりだった。
 泣き方を忘れていたのでないかと思うくらい長い間、泣いたことがなかった。
 しばらくはリングにも立てない。何より立てるような気がしない。宗輔にも会えない。第一、連絡先も分からない。矢田も、もうこれからは一人の力で答えを出せと言っていたのだろう。
 でも、一体、いま俺の手に何が残っている?
 

 河川敷は今日も馬鹿みたいに明るい。
 結局、昨夜はあのまま毛布に包まって眠ってしまった。寒くて凍えそうでも、人間は意外に頑丈で、鍛えた身体は簡単に風邪などひいてくれない。風邪でも引いて熱が出て、寝込んでいたら何となくかっこいい気がしたが、上手くはいかないものだ。朝になって身体を起こしたら、妙にすっきりしていて、逆に腹が立った。それなりに腹がすいていることに、また馬鹿馬鹿しくなった。
 お茶の水博士の言う通りだ。
 宗輔は大人で、一人で何でもできる。目の前に転がっている問題を解決するなんてことは当たり前のことだ。拓が心配したり、手を貸したり、少なくとも自殺するんじゃないかと心配することなど何もないのだ。
 起き上がり、熱いシャワーを浴びて、コンビニに寄って菓子パンと牛乳を買い、ぶらぶらと歩いてここまで来た。
 今日は休日なのかもしれない。
 河川敷の向こう岸の小さなグラウンドで、少年野球の練習をしている声が、ここにまで響いてくる。犬をのんびりと散歩させている家族連れ、下手な管楽器の練習をしている数人の若者、ジョギングをする若い男女。川面には光が飛び跳ねている。
 何曜日かということも分からないなんて、本当に世間ずれしている。

「なんで、はしらないんだ」
 いきなり声を掛けられて、拓はパンを咽喉に詰まらせそうになった。咳き込みながら振り返ると、昨日声をかけてきたあのアラタと呼ばれていた少年が立っていた。
 ちょっと太めの身体を、緑のセーターと赤茶色のぼてっとしたズボンでくるんだという感じの格好で、少しぷっくりした頬は風に当たったせいなのか、赤く寒そうに見える。
 周囲を見回したが、今日はあの母親の姿がない。
 ぼんやりしていたからか、何を聞かれたのか分からなくて、しばらく頭の中でばらばらの文字を転がしていたが、ようやく何故トレーニングをしていないのかと聞かれたのだと気が付いた。
「今日はいいんだ」
 ふーん、と言いながらアラタは拓が食べかけていたパンを見ている。腹をすかしているのだろうか。
「食うか?」
 少年はびっくりしたような顔になり首を横に振った。
「じゃあ、座れよ」
 何だか横に立たれて見下ろされていると、相手が子どもでも気分のいいものではなかった。今度はアラタは素直に横に座った。
「今日はお母さんは一緒じゃないのか」
 うん、とアラタは頷く。一人で出歩いてもいい年なのかどうか、拓には判断が付かない。どの辺りに住んでいるのかもわからないが、少なくともそう遠くではないのだろう。

「なんで、いつも走ってるんだ」
「え?」
 あまりにも単純な問いかけに、拓はまた意味が呑み込めずにしばらくぼんやりとアラタを見ていた。何で、などと考えたこともなかった。強いて言えば、トレーニングだから、としか言えないのだが。
「おもしろいからか」
 なるほど、そう言われてみれば、そんな気もする。
 走って身体を鍛える。時に立ち止まり、シャドウをしながら、風と闘ってみる。馬鹿みたいに単調な繰り返しだけれど、嫌だと思ったことはない。
 突然、アラタが両拳を握りしめ、しゅっしゅっと小さな声を出して左ジャブと右ストレートを打った。ちょっと太った体で、決してシャープで機敏な動きではなかったし、どちらかと言うと無様なところもあったのだが、技の特徴的なところはよく掴んでいた。
 その動きを数度繰り返し、さらにダッキングやウィービングといったディフェンスの技も真似てから、アラタが拓を見る。
「これ、なにやってるんだ」
 なるほど、アラタはいつも拓を見ていたのだ。あれだけガン見していたのだから、いつの間にかボクシングのパンチの出し方を自然に覚えてしまっていたのだろう。それにしても、何だか分からないままで、随分と正確に真似たものだ。
「ボクシングだよ」
「ボクシング?」
「うん……とまぁ、殴り合うスポーツだ」
「なぐる? 誰と?」
「だから対戦相手とだよ」
「テキ?」
「うーん、まぁ、敵かな」
 興味があるのだろうか。
「やってみるか?」

 そう言って拓が立ち上がると、頷いたアラタも立ち上がった。簡単にステップとジャブ、ストレート、フック、ダッキングとウィービングを教えた。不器用ながらに一生懸命やっているのが、ほほえましい気がした。
 へぇ、面白いものだな、と思いながら、懐かしい光景を思い出した。
 父親が現役だったころ、こんなふうによく拓にボクシングを教えてくれた。ロープを飛ぶ回数を数えたり、飛び方を色々教えてもらったり、パンチもディフェンスもあれこれ教わった。将来何になるのと人に聞かれたら、必ずお父さんと一緒、と答えていた。
 拓ちゃんはお父さんが好きなのねぇ、といつも大人たちに言われた。
 母親は、ボクシングなんてお父さんだけで十分と言いながら笑っていた。まさか自分の夫があんなふうに変わってしまうとは思っていなかった頃のことだ。
 アラタの一生懸命な顔を見ていたら、幼かった自分の影が重なって、懐かしく、くすぐったくて、そしてまたひどく切ない気持ちになった。それでも、いつの間にか拓の方が教えることに一生懸命になっていた。

 そんなふうに半時間ほどアラタと一緒に遊びながらシャドウをし、河川敷を走っていたら、向こうの方から泣き叫ぶような女の声が聞こえた。
「アラタ! 何やってるの!」
 アラタは突然、ネジが止まった人形のようにがくん、となった。それから一瞬、拓の後ろに隠れるようにしたが、無駄だと分かっていたのか、すぐに母親が走り寄ってくる方へ歩き始めた。
「勝手にいなくなって! 心配するじゃないの」
 何も言わずに出てきたということだったのだろう。母親は拓に気が付くと、すみません、と言うように頭を下げた。拓も頭を下げた。アラタがバイバイ、というように手を振った。


 そして次の日、何もすることがない拓が同じ時間に河川敷に行くと、アラタが待っていた。その次の日も同じだった。
 まる二日、ろくにトレーニングもしなかったが、アラタと遊びのような時間を過ごすことでストレスの発散になっていた。よく考えてみたら春休みなのだ。気になってアラタに宿題はないのか、とか、また母親に黙ってきたんじゃないのか、とかいろいろ聞いてみたが、アラタはうんなのかううんなのか、よく分からない首の振り方をするので、結局わからないままだった。
 あれ以来アラタの母親とは会っていないので、アラタがちゃんと母親に行先を告げてやって来るようになったからなのか、それともきっかり半時間で帰っていくところを見ると、母親がここにたどり着くまでの時間を上手く計算しているのか、拓には分からないままだった。

 少しずつ足元に春の気配が膨らみ始めていたが、まだ風は肌に冷たかった。
 あれから何度か宗輔のマンションの前を通ってみたが、数は減ったものの、相変わらずちらちらと誰かの影が見え隠れしていた。見上げると、窓には常にカーテンが引かれたままで、電話番号も知らない拓にはなす術はなかった。それに、もしかして宗輔のほうが拓を訪ねてきてくれたりしないかと、ほんの少し期待もしたのだが、そもそも宗輔が自分のアパートを知っているのかどうかもよく分からなかった。
 この二日間で、体重が必要以上に落ちた。他のことでは変わらない生活をしていたが、食事だけは極端に減っていたからだろう。腹もすくものだと思っていたが、それも朝だけで、昼からは全く食欲がなくなった。危ないと思って、意味があるのかどうかわからないが、コンビニでプロテインだけは買って飲んでいた。
 三日目には拓はトレーニングを再開した。朝、鏡を見て筋肉が落ちていることを感じたら、何となくおっかなくなったのだ。何度かジムの前までは行ってみたのだが、まだ赤沢の前に顔を出す勇気はなかった。何と言えばいいのか、心が決まっていない。

 五日目、拓は河川敷をいつものように走っていた。
 その日は曇っていて、風もきつかったし、冬のような寒さに戻っていた。開き始めていた桜の花は、いったん休むかのように風に身を縮めているように見えた。
 さすがに今日はアラタは来ないかな、と思ったら、ちょっと寂しいと感じた。そして住んでいる場所も、苗字も知らない子どもに対して、寂しいと思っている自分の感情に驚いた。気が付くと、いつの間にかちょっと太っちょのアラタの姿を探している。
 その時、ふと河川敷に立っている女性に気が付いた。
 拓は足を止め、相手が頭を下げたので、自分も頭を下げた。

 アラタの母親だった。
 傍にアラタの姿はない。
 どう反応していいのかわからないまま、拓が立ち止まっていると、アラタの母親の方から拓に近付いてきた。少なくとも、いつもアラタの遊び相手をしてくださってありがとうという言葉が期待できるような友好的なムードではないことだけは確かのようだった。
「スエナガと申します」
 硬い声だった。どう返事するものか分からず、拓はとりあえず頷いた。アラタの母親は強張った顔のまま、風で揺れるカラスノエンドウやホトケノザを見ていたが、やがて顔を上げた。
「アラタに妙なことを教えるのは辞めてください」
 精一杯、押さえた声だった。
「妙なことって……」
「あなたは、アラタのことを何もご存じないのに、余計なことをしないで欲しいんです」
 何を言われているのかよく分からなかったが、要するに、ボクシングを教えたことがよくなかったということなのか。
「僕は別に……」
 アラタの母親はまだ何か言いたいことがありそうだったが、もちろん拓に対して怒りをぶつけるのは間違っているということを知っているとでもいうようで、拓に伝えるべき最低限の言葉だけを決めてきたふうに見えていた。

 拓が事情を確認しようと口を開きかけた時、彼女は深く頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。何かを解決しようと思っていたのに、それがどうにもならないことに気が付いて、諦めたかのように見えた。
「ちょっと待ってください。何か、僕が悪かったのなら謝ります。でも……せめて、何が悪かったのか教えてください」
 しばらく、アラタの母親は拓に背を向けたまま立ち止まっていた。肩が微かに震えているように見えて、拓は思わず緊張した。
 吹き付ける強い風が、拓とアラタの母親の間を割くような気がした。
 そして拓は、ぐっと拳を握りしめた。
 風の音が拓の耳を塞いでいる。

 あの時も、そうだった。
 窓ガラスを割るかと思うほどの強い風が吹き付けていた。だが、凄まじい破壊音は現実のものだった。何かを怒鳴っている父親の声、床で砕け散っていた皿や茶碗の欠片、座り込んでいる母親の額からは血が流れて床にしたたっていた。拓は半分寝ぼけたままで台所の入り口に立っていた。ママ、と呼びかけた時、恐ろしい顔のままで父親が拓の方にやってきた。拓の目には立ち上がった母親の背中が見えていた。
 その肩が震えていた。
 振り返った母親がどんな顔をしていたのか、もしかすると拓はそれを見たのかもしれないが、記憶から追い出してしまっている。子どもながらに知りたくないことがあって、無理やり忘れてしまったのかもしれない。覚えている光景の中、拓の視線の先には、母親の手と暗い電球の光を鈍く跳ね返した刃があっただけだった。

「あなたは、何も知らないでアラタにあんなことを教えて。あの子は、良いことと悪いことの区別もつかないような子なんです」
 振り返ったアラタの母親の目は奇妙に冷たく、悲しく見えた。
 拓には言葉の意味が呑み込めなかった。
「お前は敵だと言っていきなりクラスの子を殴って、怪我をさせたんですよ。今までは、かっとして死ねとか言うようなことはあっても、手なんか出さなかったのに。こんなことになるのを恐れてたんです。だから、嫌われたりのけ者にされたりするのは仕方がないけど、加害者だけにはならないように何回も言い聞かせて、何とかやってきていたのに……学校からはもっとちゃんと病院で診てもらわないからだと言われて……何度も普通学級ではやっていけないと言ったはずだって」
「アラタは、病気なんですか?」
 目を開けていることが苦痛なほどの強風の中で、拓の声に被せたアラタの母親の声は、叩きつけるように強く大きくなった。
「変わった子だ、ちゃんと話ができない、頭がおかしいって思われてるんです。本当にゆっくり、何度も何度も言って聞かても、周りのこと、先生や友達の言っていることがちゃんと理解できないの! それでも、何とか頑張ってみんなと同じようにやってきたのに、あなたのせいでこれまで積み上げてきたことが無茶苦茶になったのよ。ただでさえ、友だちもいないのに、こんなことになって、あんな子、もう誰も分かろうとはしてくれないわ!」
 その瞬間、拓の中の何かが切れた。
 あんな子?
思わず一歩踏み出して、握りしめていたままだった拳を突き出しかけた、その時。


「ちょーっと待て!」
 声よりも、すごい勢いで飛び込んできた肩に、拓の中途半端な右手は簡単にブロッキングされた。もっとも、本気で殴ろうとした訳ではなかったし、自分でもまずいと思って足を引きかけたので、それほどの威力はなかったはずだ。しかも、そもそもこの距離ではアラタの母親には届かないはずで、さすがに拓も頭の隅でそれは計算していたつもりだった。だから、飛び込んできた肩は、距離の分だけいささか痛い思いをしたに違いなかった。
「いいか、相手は女性で、お前よりずっと弱いんだ。それに君はそんなことに拳を使っちゃいかん、絶対にいかん」
 髪の毛が、風のせいなのか、いつも以上にぐちゃぐちゃになっているお茶の水博士、もとい斎田アトムは、拓の両腕を掴んで、必死でそう訴えている。瞬間に沸騰したものの、次の瞬間には冷めていた拓は、むしろアトムの勢いの方に驚いていた。

 一方のアトムはすぐにアラタの母親の方に向き直り、その両手を取って握りしめている。アラタの母親も、拓に殴られそうになったことよりも、アトムの唐突な行動の方に驚いているように見えた。
「お母さん、お察しします。多分、私の母親も随分悩んだと思いますが、ひとまず私もこうしてそれなりに仕事をして、多少は社会の役にも立つようになっています。ご存じとは思いますが、アインシュタインもエジソンもスピルバーグも、おそらく坂本龍馬も、大事を成す人間はどこかしら、そういう社会的には障害を持っているとみなされてきたわけですが、それはあくまでも協調性の問題でして、要するに誰かよき理解者が一人いれば良いだけのことです。それに、意外にもこんな変人を気に入ってくれる奴ってのもいるもんでして、私もこれでそれなりにいい友人にも巡り会えました。もちろん、あなたが本気でおっしゃったのではないことくらい、私にはわかりますが、それは亀の甲よりも年の功ってやつでして、この真っ直ぐで言葉の裏を深読みできない少年にはちょっと難しかったようです。いや、つまりですね、この少年はアラタ君のことを気に入ってるんですね。でもって、アラタ君もですね、きっとこの少年を気に入っているわけです。ちょっと間違った方向に行ったかもしれませんが、そんなことは我々が皆で知恵を出し合えば解決できる問題であるわけですよ」
 早口でそこまでまくしたてたアトムに、アラタの母親は完全に毒気を抜かれた状態になっていた。それから突然、彼女は草地にへたり込んだ。風が彼女の髪を掻き乱れさせ、それからいつしか慰めるように穏やかになった。
「ごめんなさい。あなたのせいじゃないのに。誰にも、わかってもらえなくて」

 こんなところでは風邪をひくからと、アトムに促されて、拓も一緒に近くの住宅街の中にある喫茶店に入った。どういう顔をしていいのか分からなくて、拓は押し黙ったままついて行った。
店内にはほかに客はなく、背の高いちょっと男前の中年男性が、客に必要以上に絡まずに静かにコーヒーを淹れてくれた。ブラジルサウダージという名前の濃いめのコーヒーの匂いと、聞いたことのない控えめな異国の音楽にほっとした。
 ぽつりぽつりとアラタの母親は言葉を綴った。
 アラタがアスペルガー症候群という発達障害だと言われていること、コミュニケーションがうまくできないことや行間を読めないことが特徴である発達障害で、感情のコントロールが難しいために他人との間にトラブルが多く、かっとして攻撃的になることもあるらしいこと、病院にちゃんと行けと言われたが自分の子どもがそういう結論を下されることが怖くて行っていないこと、夫は全く相談に乗ってくれず一人で悩んでいること、姑からはお前の育て方が悪いと言われていること、アラタはいつものけ者にされているが、本人が苛められているという意識が乏しいので学校には行っていて、それが却って可哀そうであること……

 それに対して、どうやら自分もそうだという自覚があるらしい斎田アトムは、かっとして攻撃的になるのはアスペルガーという病気のせいだと決めつけられていいものではない、むしろ子どもなんて大概そういうもので、世の中の男の半分以上はマザコンでコミュニケーションが下手で行間が読めない、病気だというならみんな病気だ、と説明していた。そして、大事なのは誰か信じてくれる人がいるということなのだ、と。
 アラタの母親が話を聞いてくださってありがとうと言って立ち上がった時、拓も思わず立ち上がっていた。
「あの、アラタとあなたが良かったら、今度はちゃんとボクシングを教えてあげてもいいですか。その……人を殴るための技ということじゃなくて、自分自身を鍛えたり励ましたり、自信を持って生きていくための技なんだってことを……」
 アラタの母親はしばらく答えずに拓を見つめていたが、少しだけ微笑んで頭を下げ、アトムにも礼を言って、店を出て行った。店の外で、彼女はもう一度頭を下げていた。拓の申し出をどのように感じたのかは分からなかった。あの人はまだこれから、目の前にある色々なことを悩み、アラタもまた、色々な問題を乗り越えていかなければならないのだろう。


「さてと、少年」
「俺は少年って歳じゃない、お茶の水博士。だいたい、あんなタイミングよく現れたってのはどういうことだよ。まさか、あんた……」
「俺も博士ってほど偉くない。君の想像通り、この何日か君をストーキングしていた。どうしても君のことが気になってね。いや、まったく、ロボットよりも面白い人間が宗輔以外にもいるとは思わなかった。葛城拓くん、赤沢ジム所属、やたらと攻撃的で野生的なフライ級のプロボクサー、このところ悩みがあるようで、俺がストーキングしていることにも気が付いていなかった。ただ少なくとも宗輔を嵌めようとしている記者でもカメラマンでもない。本人は気が付いていないらしいが、子どもは嫌いじゃないし、それに結構おせっかいで、火が付きやすい。ただ今ひとつよく分からないのは、君は宗輔とどういう知り合いかってことだ。ひょっとして宗輔のストーカーなのか」

 確かに、この斎田アトムは行間を読めないし、適切なコミュニケーションを目指して人の心を読むってことはできない人間らしい。もちろん、拓にも同じようなところがある。いや、人は多かれ少なかれ、そういうところを持っている。人と人が分かり合うために、ただ見つめ合っただけでいいというのは理想かも知れないが、本当はやはり言葉が大切だ。宗輔との間に欠けていたのは、お互いを知るための努力だったかもしれない。たとえ不器用でも、不器用なりに言葉を尽くせば、一歩ずつでも前に進むことができるはずなのに。
「あのさ、人のこと付け回してて、よく言えるよな。言っとくけど、俺はストーカーじゃないからな。宗輔にだって、親友のあんたにも言えないことがいっぱいあるんだ」
 アトムはしばらく拓の顔を見つめていたが、やがて何か勝手に納得したような顔で頷いた。
「俺は宗輔のことは結構知っているが、何もかもを知る必要はないとも思っている。けど、宗輔がいなければ俺は困るし、宗輔も俺がいなければ困る、そういう関係だ」
 俺だって、と言いかけた言葉は、咽喉元に引っかかってしまった。

 何だよ、知っているということや、信じ合っているということがそんなに大事なのかよ。いや、大事なのはわかってる。でも、ちょっとばかり宗輔のことを知ってるからって、色々悩んでる俺に対して自慢しなくてもいいだろう。
「あんたって、やっぱりやな奴。変なロボットで俺の頭にチョコレート爆弾落としたり、蹴り入れたり、指かぶったり……次から次へとしょうもないもの考えやがって」
 言いかけて、拓はしまった、と思った。案の定、アトムは少しの間、彼にとっては難しいという裏読みを試みているような顔をしていた。
「君、まさか、蘭丸くんに指をかぶられたのか? いや、つまり……」
「蘭丸くん?」
 まさか、あの変なおかっぱ頭の態度の悪いロボットの名前か?
「そう、お茶運びからくり人形改良型、チョコレート食わなきゃキックするぞプログラムを組み込んだ、人呼んで……」
 あぁ、もう面倒くさい。
「そうだよ。言っとくけど、あれはやり過ぎだ。はっきり言って、むちゃ痛かったんだ。もうちょっと力加減ってものがあるだろ。ロボット作る時は考えろよ」

 途端に、アトムが食いつくようにテーブルに載せたままの拓の手を掴みとり、息がかかるほど近くに引きよせてまじまじと見つめた。
「何だよ!」
「そうか、君か。君だったのか。いや、君、ぜひとも俺の研究に力を貸してくれ」
 えーっと、これって肝心なことが伝わってるのか、と疑問には思ったものの、アトムの中の拓への疑いはめでたく晴れたようだった。
 拓の手を放したアトムは、やがて真面目な顔になって、ふと視線を喫茶店の隅に向け、立ち上がった。そして積まれた雑誌から一冊を取り上げ、戻ってくるとテーブルの上に置いた。
 拓は表紙を黙って見つめ、それから顔を上げた。
「君が宗輔の大事な人だということが分かった。つまり、あいつが俺に特別なロボットを注文したのは初めてだった。それも、バレンタインのための、しかも二年続けて。あとは、君がどうしたいか、なのだが」
 ぼさぼさ頭の冴えない風体の男が、きわめて真面目な顔で拓を見下ろしている。拓はもう一度雑誌の表紙に目を向けた。表紙には、『クラブシノハラの青年社長、真実を語らないまま失踪か!?』という見出しと、硬い表情の宗輔の写真が、まるで悪人を断罪するようなムードで貼り付けられていた。
 何だか悔しくてたまらなかった。こいつらは宗輔の何を知っていて、こんなことを書いているのか。殴り合うボクシングよりも、よほど下品でたちが悪いと思った。

「驚かないのか?」
 馬鹿げた文字を見つめたまま、拓は尋ねた。
「何に? 宗輔の恋人が君だってことにか? いや、宗輔がそういう人種だってことにか?」
「知ってたのか?」
「いや、そんな話を宗輔から聞かされたことはない。だが、それは俺にとって大きな問題じゃない。そんなことで俺の中の宗輔の存在の意味も形も変わらないからな。今、俺にとって問題なのは、君があいつの苦しみや抱えているものを聞いて、その上であいつを支えたいと思うかどうか、なんだ」
 そう言いながら、アトムはもう一度拓の前に座った。
「俺は宗輔の友人だが、運命共同体ってわけじゃない。いつでも傍にいて宗輔を支えるという存在でもない」
「俺だって、女みたいに宗輔と一緒にいたいわけじゃない」
「そりゃそうだ。でも、宗輔だって片羽根じゃ思うところへ飛んでいけないさ。そうだろ?」
 拓はようやく顔を上げた。

(【炎の記憶・海の記憶】(後篇-2)了)


次回、最終回です。宗輔と拓、ちゃんといいところへランディングさせてあげたいです。
アラタくんのことも含めて、拓が自分の道を歩けるようにもしてあげたいです(^^)

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【天の川で恋をして】(1) 天野が原・雨の七夕 

予告しておりました乙女な話【天の川で恋をして】をスタートします。
と言っても、かなり短い話ですので、5回以内で終わる予定。
とか言って、【幻の猫】みたいになったら困るので、あえて何回とは書きません^^;

ところで、七夕って終わったんじゃないの?という方もおられるでしょう。
いえいえ、行事とは本来旧暦でするもの。
旧暦なら、今年の七夕は8月13日です。

ファンタジーでもミステリーでもありません。恋愛小説。
え? 大海が恋愛小説?
いえ、本人が一番驚いていますから、そのあたりはさらりと流してくださいませ。
幽霊が出てくるかどうかはわかりませんが、この話、実は下敷きになったホラー映画があります。
でも、その話はあとがきで。

本日はただのプロローグ。さらりと読み流していただければ幸いです。
特に捻ってありませんので、疑いを抱かず?お読みくださいませ。
なお、本来は1回でアップしてしまいたいお話なので、本日夜にはさっそく第2話が登場予定。
ちなみに、【海に落ちる雨】13章もアップされるやも??





「ほら、もう窓を閉めて。雨が入るから」
 少女はまだ諦めきれないように開け放した窓から外を見ていた。

 引っ越しのトラックはもうこの町を出て行ってしまっていた。雨が降り始めたら面倒だからと、早朝からやって来た引っ越し業者は、多くはない家財道具を一時間足らずで小さなトラックに詰め込んでしまった。
 祖父の軽自動車が少女とその母親を迎えに来たとき、雨は降り始めていた。

 両親が離婚し、少女は母の実家である丹波の山の中に引っ越すことになった。
 天野川よりもっと綺麗な川があって、山は緑豊かで、野菜は美味しいし、星がいっぱい見えるのよ、と母親は言った。でも、その場所には七夕の伝説はないだろう。

 数年前、幼稚園で演じた織姫様。あの時からすでに両親は上手くいっていなかったのに、父親は優しい顔で舞台の上の娘の晴れ姿をビデオに撮っていた。
 七夕の度に両親に手を繋がれてお参りした機物(はたもの)神社。参道の両脇に立てられた大きな笹に下げられた沢山の色とりどりの願い事。
 七夕の日にこの町を去ることになったのは偶然だが、それは巡り合わせだったのかもしれない。

 軽自動車に乗ってから、少女はずっと俯いていた。車は機物神社の傍を通った。短冊に願い事を書いてからこの町を出ようかと、母親が言った。
 少女はようやく顔を上げた。そして赤い短冊に願い事を書いた。

 お父さんとお母さんがなかなおりできますように。

 母親が見せてと言ったが、後ろに隠し、社務所の前に置かれた箱の中にそっと入れた。
 降り始めた雨で色とりどりの短冊が濡れていた。

 お金持ちになれますように。宝くじが当たりますように。おじいちゃんの病気が治りますように。お母さんが牛になりますように。仮面ライダーになりたい。アンパンマンのあんこになりたい。東大に合格できますように。世界が平和でありますように。髪の毛がこれ以上抜けませんように。阪神が何かの間違いで優勝しますように。彼と一生幸せに暮らせますように。
 少女にはどれが実現可能な願いで、どれが不可能な願いなのか、区別はつかなかった。

 母親と一緒に車に戻り、乗ろうとしたとき、足元に一枚の短冊が落ちていることに気が付いた。
 短冊の淡い碧色は晴れた空の色だった。そこに綺麗な字でまるで手紙のようにたくさんの言葉が書かれていた。少女にはもちろん、読めない文字がたくさん綴られていた。

 雨が少しだけ強くなった。
 今年もまた織姫様と彦星様は会えないのかしら。
「早く乗って」
 母親の声に急かされて思わずその碧い短冊を拾い上げ、そのまま車に乗り込んだ。

 短冊には吊るすための紙縒りも糸もついていなかった。神社に持っていく前に落としてしまったのだろうか。
 一度だけ、少女は前の席に座る母親に声をかけようかと思った。祖父でもよかった。神社に戻って、この短冊を神社の笹に吊るしてあげたかった。だが二人の重く悲しそうな気配に言葉を飲み込んだ。

 代わりに窓を開けて外を見た。降り落ちる雨と、濡れていく町。いつも友達と一緒に遊んだ天野川の川原。全てが雨の向こうに掻き消えていく。
 少女は何かに縋るように碧い短冊を握りしめた。

 一号線に入る交差点を曲がって、天野川が見えなくなってから、もう一度母親が窓を閉めるように言った。少女はようやく窓を閉め、視線を上げた。

 もしも、いつか交野と枚方に跨る天野が原と呼ばれるこの土地、七夕伝説の発祥の地に戻ってくる日があったら、今日書いた願い事がかなう日なのかもしれない。
 けれど、それはきっと叶わない方の願いなのだ。

 幼い心にもそのことだけははっきりと分かっていた。
 七夕に降る雨。今の暦では七月七日は梅雨の真っ最中だ。織姫と彦星は引き裂かれたまま、かささぎは雨の中で羽根を連ねて橋を作ってあげることもできず、同じようにどこかの木の陰で濡れているのだろう。





絵馬と違って、七夕の短冊に書かれている願い事は縦横無尽といいますか、それはないやろうと思うものがいっぱい。多分、書く人の年齢層の問題もあるのだろうけど、面白すぎる。
何か嫌なことがあったら、「七夕 願い事」で検索してみてください。
しばらく苦しいくらい笑えます。多分免疫力も上がり、いやなことも吹き飛ぶでしょう。
そのオリジナリティはここでそのまま頂いちゃうと、著作権に触れるのではないかと思うくらいです。
ここに載せたものは、小説に使えそうな範囲ですが、本当はこの10倍は面白いです。
それにしても、人の願いって、本当に何でもありだなぁ。




Category: 天の川で恋をして(恋愛)

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【天の川で恋をして】(2) 天野が原・七夕の招待状 

天野川=天の川という川は、一級河川で、大阪府交野(かたの)市~枚方(ひらかた)市に本当にあります。
そしてかの七夕伝説の発祥地とも言われています。在原業平が歌を詠んでいたりもします。

時々、所用で出かける枚方。一号線が天野川と交わる交差点の名前は「天の川」。
ロマンチックだなぁと思い、この題名が先に降ってきたのですが、中身はなかった。
それがいつの間にか中身ができて、このたびちょっと書いてみることにしました。
さっそくのその(2)、ごゆっくりお楽しみください。
ちなみに、この(1)と(2)、どちらを先に読んでも全く問題のない内容です^^;





 緑の色が濃くなった葦などの背の高い草が、川面に覆いかぶさるように繁っている。川面はその陰から見え隠れし、流れのままに光を跳ね返し、時折、夏海の目を射た。
 七夕の日が晴れそうなのは珍しい。きっと明日結婚式を挙げる二人を、天が祝福しているのだろう。

 夏海は河原に降りて、水の上で煌めく光を追いかけた。この流れは十年前から変わらない。いや、二十年前、幼稚園の時、初めてゆうちゃんとさえちゃんに会った時から、何も変わらないままだ。

 交野の倉治に夏海の家があった。両親と歳の離れた弟、そして寝たきりだった祖母と一緒に住んでいた家は、父親の東京単身赴任、祖母の死、そして夏海の大学受験をきっかけに売りに出した。
 今はどんな人が住んでいるのか、何よりまだあの場所に家があるのかさえも分からない。見に行ってみたい気もしたが、足が向かなかった。

 足が向かない。
 そんな簡単な言葉では表現できない。

 そもそもこの天野が原に帰ってくることなど、考えもしなかった。
 もしもこの招待状が届かなかったら、この場所は思い出の隅っこに苦しさと悲しさと後悔と共に残るだけで、これから先、生きていかねばならない夏海の人生の中ではまるきり無関係な場所となったはずだった。

 いや、無関係ということはあり得ないのは分かっている。
 けれども忘れてしまいたい。
 アルバムも、押し入れの奥に仕舞われたまま、見返してみたこともない。
 それなのにどうして戻ってきてしまったのだろう。

 きっと、決着をつけたかったからなのだ。送られてきた点野家長男と仁和家長女の結婚式の招待状は、そろそろ思い切るようにと告げていたようだった。

 送り主は長女の叶恵が新婦となる仁和家だった。
 すごく仲が良かったという覚えはない。
 だが、合唱部のリーダーだった叶恵は姉御肌で、よく気が付き、人望もあって、勉強もできたし、高校生にしては可愛いというより美人という表現がぴったりの女の子だった。仁和家は母屋・分家が何軒もある地元でも大きな古い家だから、きっと立派な結婚式なのだろう。だから高校の合唱部の子はみな呼ばれたに違いない。

 そして、相手の点野家も、同じように母屋や分家が何軒かある、同じように大きな家だった。お似合いの、祝福された結婚だ。

 叶恵からはあらかじめメールがあった。

 夏海、元気してる? 十年ぶりでびっくりさせてごめんね。実は結婚することになったの。七月七日。大安じゃないのが親たちは気に入らないみたいなんだけど、七夕伝説発祥の地に相応しい日でしょ。しかも一年に一度しか会えない伝説の日に結婚なんて縁起でもないとも言われたけれど、ベタベタし過ぎて仕事をサボらないようにという戒めになるからいいんじゃないのって言ったら、それもそうだな、だって。久しぶりに夏海の顔を見たいし、遠くて悪いんだけど交通費持つから、きっと来て。あ、メルアドはみっちゃんに教えてもらったんだ。勝手してごめんね。

 みっちゃんというのは、夏海の従妹だった。同じ高校の合唱部の後輩で、茨木に住んでいる。大学が叶恵と同じ京都の大学だったから、交流があったのだろう。
 そのメールには、結婚する相手の名前は書かれていなかった。

 連絡有難う。叶恵のハートを射止めた人ってどんな人なんだろう。幸せになってね。

 迷いながら、出席するともしないとも分からない、曖昧な返事を返していた。
 招待状に叶恵の結婚相手の名前を見た時、夏海は息を飲み込んだ。
 そして何度も読み返し、ぎりぎりまで考えていた。

 叶恵は私たちのこと知ってたっけ? 

 最後にペンを握った時も欠席に丸をするつもりだったが、母親の目に留まった。さしたる理由もなく結婚式に呼ばれて断るのは、幸福に水を差すようでいけないというのだ。
 そろそろ思い切らなきゃだめだ。

 その時、携帯が震えた。受信したメールは、先日交際を申し込まれた会社の先輩からだった。

 今度の日曜日、空いてたら『図書館戦争』、見に行かないか?

 ちょっと岡田准一に似ていると言われている先輩は、それを自慢したりはしないが、ちょっとだけ気にしているようで、照れる様子が可笑しかった。
 まだ、返事をしていない。でも、遠からずイエスの返事をするような気がしていた。心に引っ掛かりさえなかったら、今すぐにでも映画の返事と一緒に、オーケーの返事をするのに。

 何かが背中を押した。夏海は目を閉じるようにして、出席に丸をした。

 裕道長男裕貴 信孝長女叶恵 の婚約相整い結婚式を挙げることになりました つきましては幾久しく……

 涙は零れなかった。ただ苦しかった。

 私はやっぱりひとりでは前に進めないよ。
 ゆうちゃん
 ……さえちゃん



「なつみぃ~」
 天野川の対岸は枚方市だった。
 今、夏海が立っているのは、機物神社、つまり織姫を祀る神社がある交野市倉治。
 そして対岸の枚方市香里団地の中山観音寺跡には、牽牛石と呼ばれる石がある。
 在原業平が歌に詠んでいたというのだから、それくらい古い時代、この伝説にあやかって、天野川を天の銀河に見立て、両岸に縁のものを配置した古代人のロマンにほろりとする。

 その対岸から、背中にリュックを背負ってマウンテンバイクに跨った背の高い男が、大きく手を振っていた。

 いつもグラウンドの反対側からでも聞こえていた彼の声は、十年たった今でも聞き違えることはなかった。
 合唱部の部室から見えていた白いユニフォームの眩しさ、白球が空高くかっ飛んでいく爽快さ、声を掛け合いながらその一球を追う汗の煌めき。

 目が合ったかと思ったら、彼は地面を蹴っていた。まるで夏海が逃げないようにと慌てるようにして、マウンテンバイクのペダルを漕いでいる。

 風が天野川を渡ってくる。
 ハンドルを握る、逞しく日焼けした腕。確か消防署に勤めていて、救急救命士の資格も取ったのだと聞いていた。

 逃げ出したかったのに、今、夏海は自分に向かって走ってくる彼の姿から目を離せなかった。きゅっと、小気味よくブレーキがかかり、タイヤが地面を擦る音が時間の流れを変える。
「帰ってきてくれたんだ。ありがとうな」

 あまりにも爽やかに、彼は言った。明るい、屈託のない性質は誰からも愛されていたから、きっと今も変わらないのだろう。
 その目を見ると、夏海は心臓が跳ねて、しどろもどろになってしまった。それでも、なつみ、と親しく呼びかけられた時点から、時は少しだけ巻き戻されていて、するりと子どもの頃からの呼びかけが口をついていた。

「ゆうちゃん、また背伸びたみたいね」
 彼はちょっとだけ、何を言い出すの、という顔をしたが、すぐにいつものあの最高の笑顔を見せた。

「毎日牛乳飲んでるからな、って、何言わせるかな。もう誰かに会った?」
 夏海は首を横に振った。会わなければならない誰かが思い浮かばなかった。連絡先が分かるのは、そもそも十年ぶりにメールをくれた明日の花嫁だけなのだ。

「よく分かったね。十年も会ってないのに」
「え? そんなに? いやぁ、すぐ分かったけどなぁ」
 十年前までは、ほとんど毎日顔を合わせていたのだ。時が隔てたものは大きいはずなのに、顔を見てしまえばその時間は吹き飛んでしまう。だが、招待状という現実が隔てた距離は遠い。

「ゆうちゃん、忙しいんじゃないの」
「うん、まぁ。今から明日の打ち合わせなんだ。あ、夏海、もちろん、二次会も来てくれるよな」
「え……」

 そこまでは考えていなかった。月曜日は元気に仕事をする自信がなくて、休みを取っていた。
 忙しい時に、と上司はちょっと嫌な顔をしたが、その代りお盆の当番を引き受けたら、あっさりと、もう数日休みを取ってもいいよと言いだした。
 泊めてくれる予定の従妹のみっちゃんが、せっかく休みなんだったらと、明後日の月曜日はユニバーサルスタジオに行こうと言い出した。美容師の彼女は月曜日が休みだ。

 ゆうちゃんが時計を見た。日焼けした腕に銀の腕時計は眩しかった。
「あ、いけね。行かなきゃ。また明日な、夏海。良かった、会えて。顔見たら、ほっとしたよ。二次会、絶対来てくれよ」
 ゆうちゃんは右手を上げて、マウンテンバイクのハンドルを握り、地面を蹴りかける。

 今、お祝いの言葉を言ってしまおう。そうしたら、今日のうちに泣いてしまえる。
「おめでとう」
「え? あ、うん」
 ちょっと戸惑ったような、照れたような顔をした明日の花婿は、もう一度右手を上げて、天野川の向こうへ走り去った。




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【天の川で恋をして】(3) 七夕の朝 

やってしまった…という気持ちです。
引っ張ってしまった。短く終わるつもりだったのに、最低でもあと3話ありそうです。
どうしてこうなるのかなぁ。筋を決めて、書き出したら長くなる。
やっぱりね、と思っている方々もいらっしゃるかと思いますが……^^;
取りあえず、華燭の宴の朝を迎えました。

始めから読んでくださる方は、左のカラムのカテゴリの【天の川で恋をして】をクリックしてくださいませね。
間違えて他のをクリックしたら、それもついでに読んでいただけると嬉しいけれど……長いです^^;
でも、おひとついかがですか?
さて、大海初の恋愛小説の行方は……(大海の行方は??)






 ゆうちゃんが去った後の河原の草地から、昼間に照りつけた太陽の熱が上がってくる。風が凪ぐと一気に夏海の周囲の空気の温度が上がった。
 水の流れる音は聞こえないのに、通り過ぎていく車のエンジンの音だけが大きくなる。耳が遠くなって、つーんと鼻の奥が苦しくなった。

 なんか気持ち悪い。
 しゃがみこみかけた時、さっきゆうちゃんが手を振っていた対岸のその場所に、翻る碧いスカートの裾がふわりと浮かび上がって視界を横切った。スカートと白いブラウスと、長い髪。
 夏海は座り込んだ。

 ……さえちゃん!

 何か言いたくても、夏海の身体の真ん中の空洞に吸い込まれていくように、声が出てこなくなった。
 夏海の身体の中には、あの日からずっと空洞がある。
 真っ黒な空洞。そこに一番大事なものが落ちてしまって、覗き込んでも何も見えない。大事なものを拾い上げようとしても、形も分からないし、何が本当に大事だったのかも分からなくなっていた。

 きっと時間が経ったら忘れられる。
 ずっとそう思っていた。

 でも、忘れてしまったのは、その大事なものが何だったのかということだけで、大事なものを無くしてしまったというそのことは忘れていない。
 何かが欠けているのに、欠けている何かが分からないまま、ずっと「何かが足りない」という思いだけが空回りしていた。

 あの日から、一歩が踏み出せないまま、十年たっても私は同じ場所にいるみたいだ。

 東京の大学を受験すると決めた時、単身赴任中の父親は喜んだ。母親はこの町が好きだったから、しばらくの間渋い顔をしていた。もしかしたら音楽で身を立てるかも、なんて若者にありがちな野望を抱いていたらしい弟は、俺も一緒に行くと言い出した。
 結局、石津家は、夏海の祖母の死を見届けて、交野を離れた。

 そして夏海は東京の外大の学生になり、英語とフランス語を専攻した。大手ではないが堅実な仕事をしている貿易会社に就職し、紅茶や菓子を輸入する部門に配属された。
 夏海には覚えるべきことが山のようにあり、現場では毎日が充実していて、楽しく仕事をしている同僚や先輩たちを尊敬することができた。
 化粧の仕方を覚えて、自分で服も買うようになった。お洒落も買い物も、同僚に誘われて行く映画や舞台も、会社の飲み会も嫌いではなかった。
 
 私は少しずつ前に進んでいる。

 だが、ふと我に返る。
 一人になると夏海は誰かに話しかけている。

 違うの。本当はちっとも楽しくなんかない。お洒落なんかしなくてもいいし、新しい服だって欲しいわけじゃないの。流行の店でランチを食べても別に美味しいわけでもない。どんなに面白い映画だって、見終わった後は何も心に残っていない。

 時々、何もないのに涙が出てくる。
 高層ビルのエレベーターに一人で乗っている時でも、多くの人が行き来する駅のホームに立っている時でも、白熱した会議の途中でも、自分の部屋で一人、明日の仕事の調べものをしている時でも、不意にその時が訪れる。

 鬱病や慢性疲労症候群の簡易診断をやってみると、どれも当てはまるような気がするし、あてはまらないような気もする。
 だが、それ以外はごく普通に暮らしている。何かが足りないのは私だけじゃない。そういうふうに考える余裕だってある。頑張っているのも、時々辛いことがあるのも、泣けてくることがあるのも、本当の友達は今ここにいないと思うのも、私だけじゃない。

 夏海、あんたってさ、すごくちゃんとしてるのに、なんかすごく幼いとこあるよね。
 ある時、ふとしたことで喧嘩になった大学の友人に言われたことがある。

 君って、なんか、掴みどころないんだよな。他に好きな人いるの?
 二、三度デートした人にはそう言われて、すぐに自然消滅した。付き合ったというほどのことは何もない。

 時々聞かれる。
 楽しくないの? 何か不満?
 楽しくなくはない。不満なわけでもない。でも、ずっと心の底のところでは、やっぱり楽しくないのかもしれない。
 この間、『図書館戦争』を見た後、先輩にも言われた。
 楽しくないの?
 そんなことはないとすぐに否定した。
 あれから少しだけ、先輩からのメールは減っている。
 私が早く返事をしないからだ。誰だって、こんなふうに答えをお預けされたら、嫌になってしまうだろう。
 でも、この空回りする気持ちをうまく説明できない。


「振袖とか着たらいいのに。路の、貸そうか。着付けも髪の毛もやってあげるし」
 みっちゃんこと、従妹の路は修行中の美容師だ。
「いいよ。あんまり目立ちたくないし」

「友達の結婚式ってのはさ、男を並べて比べて、よりいいのを捕まえる千載一遇のチャンスなんだよ。こっちもその気で支度しなくちゃだめだよ。それに、数年もしたら、いいのが売れてしまって残ってない」
 かく言うみっちゃんは、この間、三人目の彼氏と別れたばかりだった。

「着物なんか着たら、気ばかり使わないといけないし」
「う~ん、じゃあ、せめて髪の毛と顔は私に預けなさい」

 夏海の顔は特別不美人でもないが、美人とは言い難い。そこそこ可愛い方だと思うこともあれば、今日はどうにもイマイチという日もあるし、時々自分で変な顔をしてみては、ブスだなぁと思うこともある。
 世間的には可もなく不可もなく、と言ったところなのかもしれない。自分の容姿にも顔にも、これと言って自信を持ったことはない。

 ところが、何年かぶりに晴れた七夕の朝、夏海はみっちゃんの魔法の手にかかり、見事な変身を遂げていた。弟子とは言え、魔法使いの腕映えは大したものだった。
「どう?」
 みっちゃんは何かを仕掛ける悪戯ミッキーのような顔をして、鏡の中の不安顔の夏海に向けて、どや顔をしてみせた。

 みっちゃんが化粧をしてくれて、肩までの中途半端な髪をふわふわにカールしてくれると、自分ではないような女性が鏡の中に現れた。

 いや、この顔はどこかで見たことがある……

「うん。こんな感じだった」
 満足そうにみっちゃんが言った。みっちゃんがしてくれた化粧は華やかで明るく、頬にさした紅も光を吸い込んだようで、アイシャドウもアイラインも、目元をくっきりと浮かび上がらせた。

「昔のなっちゃんはこんな感じだったよ」
 鏡の中のみっちゃんは満足そうだ。

「どういう意味?」
「う~んとね、何て言ったらいいのか、こんな感じ。美人じゃないけど、笑顔が素敵で、明るくて、おひさんみたいな感じかな。男はすぐには振り向かないけど、一緒にいたらなっちゃんを好きになる。女の子もね」

 そうだったっけ?
 今は自分の何にも自信がないし、心のどこかで笑ったらだめなんじゃないかと思っている。
 でも、みっちゃんの言うとおり、ずっと前、私はもっと笑ってたな。
 昔もやっぱり、自信なんて何もなかったけれど、それにたまには無理もしていたけれど。

 持ってきた服は地味だというのでみっちゃんに却下された。みっちゃんは自分の服の中からラメが織り込まれたように光る藤色のドレスを出してきた。
「肩、出し過ぎじゃない?」
「こういう時しか着れないじゃない」

 やり過ぎじゃないかなと不安になった。それでもみっちゃんが、なっちゃん、綺麗だよ、と言って送り出してくれた時、夏海はやっと顔を上げた。

 これはきっとチャンスなのだ。
 ゆうちゃんが他の人と結婚したら、きっとそこからが私のスタートなのだ。そのためにここに来たのだから。

 式場は、地元の旧家同士の結婚式らしく、由緒正しい結婚式場である太閤園、そして二次会は地元の枚方に点野家の親戚が最近開いたというレストランを貸し切っていると聞いていた。
 JR茨木駅から電車に乗り、流れていく景色を見つめる。
 天野川が流れ込む淀川を渡った時、夏海はドアのガラスに映る、少しだけ見慣れない自分自身を見つめて、ドアの手すりをぎゅっと握った。

 今日でもう、ゆうちゃんは永遠に私のものじゃなくなるのだから、私はこれきり、心の中でも夢の中でも、ゆうちゃんの彼女になることはない。
 だからもういいよね。これで許してくれるよね。さえちゃん。





結局……いつもの癖が抜けません。
あれこれ、説明してしまう→長くなる。
そこは読んでいる方にお任せ、ってしてしまえばいいのに、あれこれと設定してしまう、悪い癖ですね。
それでも、私にしては、ものすごく説明が少ないほうですけれど……

でも、とりあえず「変身して」結婚式場へ向かいました。
待っているのは「逆・卒業」か、それとも、ただ涙?
岡田准一似の先輩の出番は今後あるのか?(いや、ないな)

次回は、いよいよ『華燭の宴』です。
ちなみに、このお話のクライマックスというのか、筋立てのメインはそこではありません(^^)
だって、ほら、まだホラーじゃないでしょ^m^
って、でるのか、やっぱり。

あ、お絵かきエディタを使ったら、一番小さいのにしたのに、予定外にでかい^^;
すみません、いきなりこれを見た方。
ホラーではありません^^;
ゴーストバスターズでもありません^^;
いや、幽霊払いはあるのか^^;



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【天の川で恋をして】(4) 華燭の宴・転回 

リアル仕事が忙しくて、更新が遅くなっております。
週末はいいんだけど。そして予約投稿しておけばいいのに、記事を出すタイミングとかを、何だかうまくコントロールできなくて。
さて、【天の川】(4)をお届けいたします。少し長くなります。披露宴と二次会。
なんじゃ、それ、っておっしゃらないでね^^;





 うじうじしている自分は嫌い。
 いつもそう思うけれど、いつだって誰かの気持ちや視線を気にしている。振り切ってしまえばいいのに、どんどん抱えるものが増えて重くなっていく。私が気にしているほどには、他人は私を気にしていない。そんなことは知っているけれど。

 昔の私はもっと笑ってた?
 そうだったのかな。もうよく思い出せない。

 七夕の日に結婚式を挙げるカップルは何組かあるようだった。
 その中でも点野家と仁和家の式場は最も大きいものだった。どちらもやたらと親戚が多く、町会議員とか学校の先生とか、お寺のお坊さんとか、あれこれ地元の有力者と言われる人が連なっていたはずだ。

 結構面倒くさいんだよ。親戚の中のルールみたいなのが色々あって。大人はさぁ、集まって昔話や世間話で楽しそうだけど、子どもは小さいうちはいいけど、中学生にもなったら面倒くさいだけなんだ。
 ゆうちゃんはよくそんなことを言っていた。

 そう言えば、叶恵も同じようなことを言っていた。
 うちってイベント多いのよね。クリスマスとかバレンタインとか、そういうのならいいんだけど、法事とか誰それの還暦祝いとか、そういうの。顔を出さなきゃうるさいし。今時、どこにある、そんな家。

 そういう家同士なら、きっとお互いのことも分かり合うことができて、価値観とかも同じで、上手くやっていくことができるのだろう。

 ここまで来て、うじうじと考えるのは止そう。
 もう時計は巻き戻せないのだから。

 廊下の向こうに、友だちと話しているタキシード姿が見えた。
 すらりとした背丈は遠目にもかっこよくて、いつになくしゃんと背を伸ばして談笑する横顔が、光で真っ白に溶けていた。
 介添人に付き添われた真っ白のウェディングドレス姿の叶恵も見えた。彼女も女性にしては背が高いので、二人が並ぶとまるで芸能人のカップルみたいだ。

 夏海のいる場所からは遠くて、二人の表情は見えない。ただ、ほほえましい気配だけが伝わってくる。夏海は紅の絨毯に視線を落とす。

 二人が並んで近付いてきたら、笑わなくちゃ。
 私、こんなふうに着飾って、全然似合っていないんじゃないかな。浮いてないよね。
 急に自分が不安になったりもした。

 記名のための列の一番後ろのついた時も、夏海は何となく俯いたままだった。十年ぶりの高校時代の友人がいたとして、名前と顔を一致させる自信がなかった。
 隣の列には、花婿の関係者が並んでいる。

「ヒロタカ、歌うって? 昨日一緒に練習したんだろ? 式の前日に、よくやるよ」
「え? 二次会だろ? 披露宴で歌ったら、さすがに、親戚一同、引くんじゃないの?」
 ぼんやりとその名前に聞き覚えがあったような気がした。

 点野家の本家筋の男子は、みんな「裕」の字をつけられるのだとゆうちゃんが言っていた。
 何でも、明治時代に天皇家から受勲のあった人がいたとかで、その人の名前が裕文と言ったらしい。その後、因習として、男子が生まれたら本家の「長老」が名前を付けることになっているというのだが、そもそもやたらと親戚の多い家系で、バリエーションも尽きかけているのだとかなんと言っていたことがあった。

「確かに、お色直しで花婿が女装はまずいよな」
 あれ?
 不意に夏海は顔を上げた。

 ずっと、ゆうちゃんと呼んでいたけれど、よもや「ゆうき」の漢字を勘違いしていたことがあるだろうか。何度も読み返した招待状の新郎の名前、「裕道長男裕貴」……ヒロタカ。 
 お色直しで花婿が女装、花婿はヒロタカ?

「夏海、ありがとう。遠いとこ、ごめんね~」
 突然目の前に現れた花嫁は、夏海の記憶の中にある叶恵の十倍は綺麗だった。
 合唱部でてきぱきと男勝りに後輩を指導し、先輩に物申し、仲間をまとめ上げていた女傑ともいうべき叶恵は、今日はまさにお姫様だった。

 そして、隣に立っている新郎は。

 しばらく夏海は、活動しない頭のままで、タキシード姿の花婿の顔を見ていた。
 確かにゆうちゃんによく似ているが、ゆうちゃんではない。
 ゆうちゃんと同じように背が高くて、笑顔が素敵だけれど、少しばかり落ち着いた印象がある。

「君がなっちゃん?」
 新郎はなるほど、と頷き、何やら花嫁と目配せしている。

 夏海はしどろもどろに、今日はおめでとうございます、叶恵、綺麗だね、とありきたりの言葉を一生懸命頭の中から引きずり出していた。

 まだ、頭が働かない。
 どころか、披露宴の間中、夏海はぼんやりしていた。
 そもそも同学年の合唱部の子は、夏海以外には一人しか呼ばれていなかった。新郎側も新婦側も一番多いのは親戚筋で、友人はほとんど大学や職場絡みの人ばかりだった。

 どうして私、呼ばれたんだろう?
 あまりにも放心していて、友人代表というより親戚代表でゆうちゃんが立ち上がるまで、そこにゆうちゃんがいることにも気が付かないほどだった。

 ゆうちゃんはいつになくあがっているようだった。
「えーと。新郎・ヒロタカの従弟というより、無二の親友であり、弟分でもあるユウキです。ご存じのとおり、点野家はよく似た名前の人間がごろごろとおりまして、今回は親戚の中にも、僕が結婚するのかと勘違いした者が幾人もおります。親戚一同が集まることの多い点野家ですが、未だにヒロタカと僕を取り違えている者もおります。僕としましては、兄弟と言ってもいいヒロタカの結婚は自分のことのように嬉しくて、代わりにおめでとうと言われても、何の違和感もないのですが……」
 
 ゆうちゃんの名前、「裕」の字は使っているけれど、他の男子がみんな「ひろ」と読むのに、自分だけ「ゆう」なんだと言っていたことがあった。名前の由来とか、詳しく聞いたことはなかったし、仲のいい従兄がいることは知っていたけれど、そんなこと、いちいち覚えてなどいなかった。

 夏海は勘違いして一人泣いていた自分が馬鹿らしくなって、誰も自分の勘違いを知らないのに、恥ずかしくなった。

 叶恵が結婚する人はゆうちゃんじゃないんだ。

 挨拶を続けるゆうちゃんが何を言っているのか、もうよく分からなかった。
 視界がぼけている。自分でもよく分からなくなって、頭の中はぼわんとしたままだった。
 驚いたのと、馬鹿馬鹿しいのと、そして少しだけ嬉しいのと。

 ゆうちゃんじゃない。

 でも、やっぱり喜んじゃいけない。自分にチャンスがまだあるなんて、思っちゃだめだ。
 俯いたままでいると、ぽとんと、ハンカチを握りしめた手の甲に涙が落ちた。

 ゆうちゃんが好き。
 今でも、ずっとゆうちゃんが好き。

 夏海の時間は十年前から止まっている。




 二次会の会場までは、バスが貸切られいてた。大阪城の近くの披露宴会場から枚方の少し駅から離れたレストランまでのアクセスが悪いからだということだった。
 並んでいる新郎新婦と両家のご両親に挨拶をする時、改めて叶恵ががっしりと夏海の手を握り、絶対に二次会に来てね、と言うので、その勢いに巻かれるようにバスに乗り込んでいた。

「あぁ、やっとバカ騒ぎができるな。肩凝ったぁ」
「着いたらさっそく支度せんとあかんぞ」

 確かに、地元の有力者が多くいるお家同士の披露宴は、半分以上は親族の引き合わせの側面があって、挨拶も硬め、よくあるように新郎の友人の一部が馬鹿話をするとかスライドショーがあるとか、そんな楽しい要素はまるきりなかった。

「てか、ブーケトス、なかったよね」
「え、今どき、あれってくじ引きみたいに紐引っ張るんじゃなかったっけ?」
 バスの中は、幼稚園バスみたいに賑やかだった。

 披露宴の席で隣同士だった元合唱部の同級生は、夏海のような隅っこにいた部員ではなく、その後音楽部の声楽家に行ったという本格派で、披露宴では素晴らしい歌声を聞かせてくれた。
 それに比べると、夏海にはこれと言って何の特技もない。

 二次会の会場は、まだ新しいレストランで、簡単なパーティができるようにオープンな作りになっていた。天野川沿いの、畑と人家が入り混じるところに建っている。

 日曜日ということもあって、遠方から来た人のため、二次会は四時という早めのスタートだった。花嫁と花婿は大変だろうと思うが、バイタリティ溢れる叶恵は、明るいオレンジ色のドレスで、疲れた顔ひとつ見せずに、来客皆に挨拶をして回っている。

「え~、ようやく、無礼講の宴会の始まりです。紳士淑女諸君、適当にグラスを取って」
 新郎の友人代表の軽快なDJのような語りでパーティは始まった。
「それでは、点野ヒロタカくんと仁和カナエ、おっと、もう点野カナエさんでしたぁ。実は政略結婚かと思うくらい豪勢な組み合わせになりました二人の前途を思い切り祝っちゃいましょう! ちなみに政略結婚ではなく、ただのバカップルです! かんぱ~い」

 嵐のOne Love、大塚愛のさくらんぼ、ET-KINGの愛しい人へ、とお約束の歌が何曲かあり、漫才風やり取りがあり、まるでショーのような二次会は新郎新婦も企画参加しているらしく、かなりの気合を入れたと思われた。
 お決まりのスライドショーもあったが、何故かお笑い系にまとめられていた。
 そもそも結婚式のスライドショーは何故か、笑えるように、ついでに泣かせるように作ってある。
 
 誰の人生でもドラマになって、ヒーローとヒロインになれるのだという一生に一度の(たまに複数回の人もいるけれど)チャンスかもしれないが、今回の新しいカップルの場合は、生い立ちの映像からして豪勢だった。

 突然、スライドにゆうちゃんが登場する。

 ややこしい二人、とタイトルが付いた数枚のスライドは、誰が作ったのか、点野家の「長老」と思しき人物まで登場している。
 1985年、点野裕道長男誕生。
 長老の吹き出し。命名は裕貴(ヒロタカ)じゃあ~。
 1986年、点野裕嗣長男誕生。
 長老の吹き出し。命名は裕貴(ヒロタカ)じゃあ~。

 どうやらご高齢の長老はいささか物覚えが悪くなっていたらしい。
 先年、同じ名前を付けたことを忘れていたのだ。いやそれは、と周りが言い出すと、年を取ってぼけていると言われたのだと思って(大筋そう言うことだとは思うのだが)、長老は切れた。困った裕嗣は、息子の名前を届ける時、勝手に字を変えようと思ったものの、あれこれ姓名判断をした後だろうし何か祟ってはまずいと思い、勢いでそのまま「ゆうき」と読ませて届け出たらしい。
 だから、漢字で書かれた従兄弟の名前は、その父親の名前で区別するしかなかったということなのだ。
 ロシア人の名前なら、そういうことは易しいのだろうけれど。

 この話は点野家では語り草らしいが、学年が違うことと、ヒロタカのほうが中学から私学に行ったおかげで、点野家の外ではあまり問題にならなかったようだ。

 結果的に同じ名前を分け合ったいとこ同士は、妙に仲が良かったらしい。
 幼馴染のことでも、結構知らないことがあるのだと、夏海はぼんやり長老の顔を見ていたが、よく見ると伊藤博文だ。

 皆がスライドショーで盛り上がったところで、暗がりを背景に、突然色とりどりの光が交錯する。
 聞きなれた音楽がかかる。
 AKB48の『ヘビーローテーション』だ。

 短いスカートを穿いて登場したのは、なんと新郎の友人一同と、一部いとこ。
 まだぼーっとしていた夏海は、センターが新郎自身だとは気が付かなかった。その後ろに、変な鬘をつけて並んでいる、あまり見目がいいとは言いづらい女装軍団は、それでもよほど練習したのか、踊りは完璧だった。

 会場は大盛り上がりだった。
 I want you~、I need you~、I love you~では新郎が、司会者から差し出された一本の赤い薔薇の花を、一番前に座っている花嫁に駆け寄り、跪いて差し出す。花を受け取りながら、華やかに笑っている叶恵の横顔がまぶしかった。

 新郎が踊りの輪の中に戻っていくと、少しずつお互いを押すように移動しながら、女装軍団は会場を巡り始める。徐々に踊りが夏海に近付いてくる。
 会場中が揺れるような喝采と笑い、一緒に歌う声。

 その時。
 新郎が、斜め後ろでかなり気合の入った踊りを見せていた従弟を押し出し、踊りを追いかけていた司会者が、その背の高い踊り手に真っ白な薔薇のブーケを手渡した。
 そのまま、まるで踊りに押し付けられるように、ゆうちゃんが夏海の前にやって来る。

 夏海は驚いて立ち上がった。
 勢いにのまれたようなゆうちゃんの方も、あまり可愛くない女装と化粧で、手渡されたブーケを持ったまま、茫然としている。

 二度目のサビが巡ってくる。
 I want you~、I need you~
 はじかれたようにゆうちゃんが夏海の前に跪いた。
 I love you~は会場の大歓声で聞こえなかった。

 ……いや。

 夏海の心臓はぎゅっと掴まれて悲鳴を上げた。
 ……だめだよ。

 気がついた時、夏海の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。音楽はまさにヘビーローテンションしていた。泣き出した夏海に驚いたゆうちゃんが手を伸ばしてくる。
 ……いや!
 夏海はその手を振り払った。真っ白なブーケが床に転がった。ゆうちゃんが戸惑うように床に散った花びらを見ている。
「なつみっ!」
 叶恵の声と同時に、夏海は走り出していた。




あれ、なかなかくっつきませんね^^;
ハッピーエンドの予定なんですけれど。
夏海の気持ちは、いま、いわゆるジェットコースター現象です。
あがったり、下がったり。
結果的に今、下がってます…ね……




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【天の川で恋をして】(5) 天野川・想い 

第5回にしてようやく、主人公を書くことに慣れてきた気がしますが、そうすると終わりも近くなる。
真のように長年書いているキャラクターではないので、つかみどころがなくて、少し手探りでした。
今回、叶恵とヒロタカがいい奴カップルなのか、実は有難迷惑なのか、皆様の判定が??
従兄弟設定は気に入ったので、『ユウキとヒロタカ』でコメディ書こうかしら、と思ったりして。
それから、もしかして1111を踏んでくださった方、リクエストを受け付けるほどのネタもありませんが、何かしら記念を…(明日くらいかな?)。でも、2p漫画とかは無理よ^^;
もちろん、きっちりでなくても、周辺の方、お声をかけてくださいませ……
(唐辛子を切った手で鼻を触ってしまい、ちょっとつらい大海でした)





「ごめんね、夏海」
 トイレに逃げ込んだ夏海を、すかさず追いかけてきてくれたのは、今日の主役の叶恵だった。
 夏海は自分でも何をしてしまったのか、とりあえずとんでもないことをしてしまったことだけは分かって、パニックになっていた。
 叶恵の顔を見た途端、もっと悲しくなって涙が止まらなくなった。

 普通に、感情を大きく乱されることなく生活をしていた。
 東京での生活は嫌いでも好きでもなく、ただ人生は普通に、当たり前に流れていた。
 家族は、揉め事がないわけでもないけれど、どこの家庭にもある「よくある話」程度のことで、ドラマのような劇的な出来事はなにもなかった。大学時代は、合唱を続けることもなく、何となく変わったことをしてみたくて弓道部に入った。大会で団体入賞することはあったが、大きな人生の転機になることもなく、普通に部活を終えた。就職してからも、それなりに満足して仕事をしている。
 
 昔のことは思い出すことがあっても、心をかき乱されるような特別な出来事には繋がらなかった。静かに心の奥底に潜めて、誰にも、自分にも気が付かれないようにしまっておいた。
 今日、夏海は、多分高校生の時以来、初めて大きく心を揺さぶられていた。

「本当にごめん」
「なんで……叶恵が謝るの……」
 声が途切れ途切れになる。夏海は叶恵に聞こえないように、そっと鼻をすすりあげた。
「私、せっかくもらったブーケを……幸せに水を刺すようなことを……」

 叶恵はふうっと息をついて、夏海の肩を抱いた。
「そんなの、こっちが説明不足だったんだから、びっくりさせて、こっちこそごめん」
 ちょっと言い訳させてね、と言われて、叶恵は夏海をガーデンテラスの、誰もいないところへ誘った。木のベンチに並んで座る。
 叶恵のオレンジのドレスが、ガーデンライトに照らされて夏海の傍で煌めいていた。

「パーティの主役がいないとまずいよ。……それに、しらけさせちゃってごめん」
「大丈夫よ。ヒロタカとまっちゃん、あ、司会の子ね、ちゃんと仕切ってるから。何が起こっても、笑いに変える技があるのよ、あいつら。ま、ゆうちゃんはショックだったかもね」
 夏海はうなだれてしまった。
 気持ちを伝えるのは難しくて、言葉がひとつも出てこなかった。

「あのさ、夏海はどうして招待状が来たのかな、十年も会ってないのに、ってちょっと思ったでしょ。実はね、原因はゆうちゃんなのよ」
 夏海は俯いたまま、耳を疑って視線だけ上げた。
「ヒロタカとゆうちゃん、兄弟みたいな感じじゃない。大学の時も就職してからも、ヒロタカったら、合コンとかパーティとか結構仕切ってて、ゆうちゃんにもしょっちゅう女の子紹介してたのよ。ゆうちゃんって、あのルックスだし、ま、ヒロタカと違って頭脳派じゃなくて肉体派だけど、爽やかな感じで、女より野球って感じの硬派イメージも悪くないし、今は消防士でしょ。結構女の子にももてるし、告白されてもあんまり断ってる気配がないから、付き合った女の子は結構いるはずなのに、何故か一か月も持たないのよ。しかも告白した女の方からふってるんだよね。で、女の子に聞いたら、自分のこと好きじゃないみたいだし、大事にしてくれている感じがしないし、つまんないって」

 叶恵はふふっと笑った。
「で、ヒロタカは探りを入れ始めたわけ。私とヒロタカはしょっちゅう一緒に遊んでたけど、本格的に付き合い始めたのって一年ほど前なのよ。その頃から、ヒロタカは自分が結婚するときにはユウキも一緒に結婚して、同じ名前でダブル結婚式がしたいとか、わけわかんないこと言ってて。ほんと、企画好きな奴でさ、最近の結婚式はありきたりでつまらん、とか何とか。でも、ゆうちゃんは一向に恋が実る気配がないしね。で、私らの方は事情があって式の日を決めちゃってから、あ、オメデタじゃないんだけどね、ある時、石津夏海って合唱部でお前と一緒だった子じゃないか、今どうしてるか知ってるかってヒロタカに聞かれたわけ」

 夏海は初めて叶恵の顔をまともに見た。
 化粧がはげたまま、変な顔をしているかもしれないと思ったが、すでに忘れていた。

「ゆうちゃんと夏海、仲良かったじゃない? 塾の帰りはいつも一緒だったし、よく考えたら、ゆうちゃん、家は反対方向だったのに、いつも夏海を送って行ってたんだよね。そうか、それか、と思い込んだらヒロタカはもう作戦開始してたわけ。ゆうちゃんに探りを入れていたら、ゆうちゃんが夏海の話するときだけ楽しそうだって気が付いたんだって、それだけのことだよ。私はみっちゃんに、夏海に今彼氏がいるのかどうかとか確認して、で、みっちゃんにどう思う? って聞いたら、あ~、それはあるある、どうでもいいけどくっつけちゃえって。あの子は男前の兄貴分ができるのが嬉しいとかわけ分かんないこと言って協力してくれたの。だからね、私たちの勝手だったんだ。計画しているうちに、勝手にもう絶対夏海はゆうちゃんのことが好きで、ゆうちゃんは夏海のことが好きで、って暗示にかかっちゃってて、自分たちが善良なるキューピッドだって思い込んでたかもね。ほんと、ゆうちゃんも、夏海も、迷惑だったよね」

 叶恵はちょっと大きくふうと息をついた。
「でもなぁ、みっちゃんも言ってたけど、お似合いのカップルだと思ったんだけどなぁ。というのか、本当のとこ、どう? ゆうちゃん、いいやつだと思うんだけど。優柔不断が玉にキズだけど、誠実ってのか」

 そう、ゆうちゃんはいい奴だった。
 言われたら断れない。
 小学校の時は校区が別だったので、学校でのことは夏海はよく知らないが、クラスの面倒な当番は結局ゆうちゃんがする羽目になっていたらしい。それも、押し付けられたりするのではなく、誰も手を挙げないので、ムカついて勢いで手を挙げてしまっていたのだという。中学生になると告白してくる女の子も出てきて、断りきれないゆうちゃんは野球に打ち込んだ。ゆうちゃんは野球が恋人なので告白しても無駄、というイメージが出来上がり、告白してきた女の子を断るという彼にとっての苦痛もしくは災難を避けて通ってきた。
 ただ一人の女の子を除いて。

「ごめんね。私……」
 叶恵にはお礼を言うべきだと思った。もっと謝るべきだとも思った。
 でも、声が引っかかって出てこない。

 その時、少し離れたところで辺りを見回している背の高い影が目に入った。夏海と叶恵に気が付くと、その影は走り寄ってきた。
 先に叶恵が立ち上がる。そして、立ち止まったゆうちゃんに頭を下げた。
 ゆうちゃんが困った顔をしている。
「ごめんね、ゆうちゃん」
「いいんだ。どうせヒロタカが言い出したんだろ」
 それは怒っている声ではなかった。ゆうちゃんは、座ったまま動けないでいる夏海に向き直った。

「夏海、ちょっと話したいんだ」
 夏海はぼやっとゆうちゃんの顔を見ていた。
 ゆうちゃんは昔から何も変わらない。曲がったことが嫌いで、ちょっと融通が利かない。でも優しくて、それが仇になって、時々空回りする。勉強ができた方ではなかったけれど、野球をやりたくて受験勉強を頑張っていた。

 夏海、あのさ。
 ずっと昔、ゆうちゃんが何かを言いかけた時、夏海は話をはぐらかした。
 一度は照れ臭くて。二度目は、友情を壊したくなくて。

 ずっと我慢していたことが零れてしまいそうになる。叶恵が夏海の肩にそっと手を置く。
「わたし……」
 もしかして、ゆうちゃんは本当に私を想ってくれていた? それとも、ただノリで、周りの勢いに合わせてブーケをくれようとしただけ?
 夏海は混乱していた。今、何かを打ち明けられても、自分でも思いがけないことを言ってしまいそうで怖かった。
 もしかして、本当にゆうちゃんが私を想ってくれていても、私は今、なんて返事をしたらいいのか分からない。

 ガーデンテラスには天野川を越え、田んぼを渡った風が吹いている。それは懐かしい匂いだった。ずっと昔、一緒に歩いた天野川の河原。叶恵が言う通り、塾の帰り、ゆうちゃんはわざわざ私の家まで遠回りしてくれた。一応夏海は女の子だからさ、とちょっと失礼なことを言って。

 次の言葉が出ないままで俯いてしまったとき、膝に置いたままのバッグの中で、携帯が震えた。夏海は何かに救われたように立ち上がった。
「ごめん」
 この場所から逃げ出す理由ができたことに夏海はほっとした。
 ゆうちゃんと叶恵から背を向け、少し離れたところでバッグに手を入れて、振動を探る。
 みんなにスマホに変えないの? と言われながらも、夏海は今もガラケーと言われる形の携帯を使っている。仕事の利便を考えてもスマホに変えた方がいいのは分かっているのだが、まだ何となく、新しいものに手を出せずにいた。

 先輩……
 電話をかけてきたのは、告白してくれたのに夏海が返事をそのままにしている、岡田准一似の会社の先輩だった。
『石津、今、いいか?』
 夏海ははい、と答えた。答えながら、少しずつゆうちゃんと叶恵から離れていく。
『いや、あのさ、本当は会って話した方がいいかって迷ってたんだけど』
 先輩は言葉を切り、しばらく沈黙していた。

 電話の向こうは賑やかだった。どこか、街の中にいるのだろうか。多くの人が行きかい、恋もたくさん生まれて、たくさん消えていく、毎日何かが生まれて次の瞬間には動いている、素敵だなと思ったものは次の日には目の前から消えている、そういうことが当たり前のあの街のどこかの中に、先輩はいる。
 そして今、夏海は、懐かしい風の匂いのする、まったく別の遠い場所にいる。恋は恋と気が付くまでにも時間がかかり、恋人たちが気が付かないまま通り過ぎようとすることもある。それでもその気持ちはずっとそこにとどまり、緩やかに大きな川にたどり着くまで静かに河原を歩く速度で心の中で育っていく。幼すぎて、解決する方法を間違えながら、苦しくて悲しい想いも巻き込みながら、風と共に吹き渡り、また舞い戻ってくる。

 東京の街の中にいる夏海と、この町にいる夏海は、まるで別の人間のように重ならない。
 いい先輩だった。仕事では厳しいけれど、部下思いで、いつでも相談に乗ってくれる。
 もしも、この町で生まれ育ったのでなければ、夏海には何の迷いもなかっただろう。
『明後日、職場で会って、普通に話したいから、今言っておこうと思ったんだ』
 はい、ともう一度夏海は答えた。
『その、この間さ、言ってただろ。もう少し時間が必要なんだって』

 夏海は涙をこらえていた。こらえながら歩き続け、ゆうちゃんからも遠ざかっていた。
 先輩とはあれから数度、デートらしきことはした。映画を見に行き、食事に行って、飲みに行ったり、ドライブもした。海外からの輸入雑貨を扱っている他の店をリサーチするという半分仕事がらみのようなデートも併せれば、もう少し回数は多くなる。

 横浜までドライブに行き、店を何軒か見て回り、食事をした後で、少しだけ港を見ながら話した。話の内容は仕事のことだったけれど、海の風が気持ちよくて、少し気分は酔っていた。
 先輩と不意に腕があたって、そのまま軽く抱き寄せられようとした。
 夏海は少しだけ身体を返すようにしてかわしてしまった。
 先輩は返事を急いでいるんじゃないんだ、ごめん、と言った。私は面倒くさい女だと夏海は思った。さっさと答えてしまったらよかったのに。どちらの答えでも。そうすれば、ただ前に進むだけだった。

 だから、この過去への旅が終わったら、先輩にイエスと言うつもりだった。ゆうちゃんが結婚するのだからと。これで何もかも、物事は収まるところへ収まる日が来たのだと、神様が前へ進めと言ってくれているのだと、そう思えたから。
 なのに、今、思いもかけないことが起こって、夏海は引っ掻き回されている。
『でも』
 電話を切ってしまいたかった。どんな否定の言葉も、今は聞きたくなかった。
『俺、お前に必要なのは時間じゃないと思う。だから、もう返事はいいよ。困らせてごめんな』

 気がついた時、夏海は何も言わずに電話を切っていた。
 あの街では、こんなふうに風は吹かない。
 夏海は電話を切った後も歩き続けていた。このまま背を向けて歩いていたら何もかも失ってしまうのは分かっていた。でも、今、自分に何ができるのだろう。

 なっちゃん、私ね、ゆうちゃんとやり直したいの。協力してくれるよね?

 ごめんね、さえちゃん。きっと、さえちゃんが怒ってるんだよね。
 川の流れる音が耳の中でこだましていた。



次回、過去の物語を紐解き、最終回に向かってお話が収束します。
大きな目から見たら、バカップルの誕生となるのでしょうね……
えーっと、大海がいじわる心をおこさなければ。
そうそう、今日の野菜ジュースは〇でした。皆様からの御意見で、レモンを加えてみました。



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【天の川で恋をして】(6) 天野川・過去(1) 

ようやく、夏海の心の内側に入ることになりました。
過去に何があったのでしょうか。天野川の恋物語、いよいよクライマックスの一歩前。
過去の出来事は長めになってしまったのですが、章を切りたくなかったので、2回に分けました。
まずは、物語をお楽しみください。もしかしたら、明日まとめ読みした方がいいかも!
じれったくて、いらっとするかもしれませんので……^^;





「本当に行くの?」
 もういい加減にしてほしいと思ったが、ここで喧嘩をして、この旅行を取りやめにされたら大変だ。一泊分の着替えと最小限の必要なものをリュックに入れて、靴を履いてから答えた。
「お母さんには他人でも、私にとっては血の繋がったお父さんなんだから、お墓参りくらいいいでしょ」

 母親はまだ納得がいかないというように玄関から動かない。
 そもそも父親が亡くなったことを教えてくれなかったのは母親の勝手だ。離婚したのも両親の都合で、まったく身勝手の重ね塗りだと思った。

 丁度、あのことにタイムリミットが近づいているような気がしていたから、一週間前、父親の死を知らせる数年前の消印が押された葉書を箪笥の引き出しで見つけたのは、まさにあの人の導きだったのだと思えた。
 来てほしい、と言っている。天野川に来て、助けてほしいと言っている。

 七月七日が近付くと、毎年、妙な言い方になるかもしれないが、誰かが夢枕に立つのだ。
 小学生の頃は変な夢を見るなぁと思っていただけだった。怖いという気持ちはなく、これは一年に一度のイベントの日が、自分にとっても意味のある日、あの懐かしい天野が原を離れた日だったから、その日が近づくと気持ちが昂るのだと思っていた。

 霊感があるということについてはあまり自覚していなかったが、この数年で自分が見えている世界が少しだけ他の人が見えている世界と違うときがあるということに気が付いていた。
 そして、ある時から、たまに亡くなった人が見えることにも気が付いた。何かその人が残した強い想いが関係している物を手にした時に限るので、その辺を幽霊が歩いているのに出くわす、というわけではないのだが。

 この数年、その七月七日の幽霊は、だんだん姿がはっきりしてきていた。何かが言いたいのだと思ったが、言葉が聞こえるほど明確な霊能力があるわけでもない。
 だが、父親の死を知った日の夜中、ふと目を覚ますと、その人は黙って机の前に立っていた。
 真っ黒の長い髪、真っ黒の瞳、白い肌と悲しそうな顔。今やその人は影ではなく、明らかな実体だった。
 彼女は机の引き出しをじっと見つめていた。

 翌朝、引き出しを開けた。
 そうなんだ。これを返さなくちゃ。
 天野が原に戻らなくちゃ。それも七月七日でなければならない。

 七月七日は日曜日だ。幸い、翌日の月曜日は創立記念日で休みなのだ。これは何かの巡り合わせに違いない。
 七夕の夜七時に短冊のお祓いと祈願の神事がある。それに何としてでも間に合わなければ、何か大事なものを取りこぼしてしまう気がした。
 一年に一度の、織姫と彦星が愛を確かめ合うほんのわずかなチャンスを、私の手で壊すわけにはいかない。
 七月七日の早朝、靴ひもをしっかり結んでリュックを背負い、結果的には娘の放つ異様なほどの高貴なオーラのようなものに気圧された母親に送られて、バスに乗り込んだ。



 さえちゃん、こと御村紗瑛子はもともと京都のどこかに住んでいた子だった。
 幼稚園の時、一年間だけこの町にいて、それから一度は京都に戻って行った。それからまた小学校の五年生の時にこの天野が原に帰ってきた。

 御村というのはさえちゃんの母親の実家の苗字で、京都のどこかの神社で陰陽道のお祓いをしている家だと聞いていた。
 さえちゃんの父親は御村家に養子に入った人で、妻の実家との関係はあまりうまくなかったようで、離婚も考えて一人でこの町にやって来た。さえちゃんとさえちゃんの母親は一度は京都の実家を出て父親と一緒にここに住んだものの、一年間で京都に戻った。
 父親が女を作っていただの、実は病気だっただの、さえちゃんの母親の実家が何か呪をかけていただの、嘘か本当か分からない噂話は色々あったが、誰も御村家の詳しい事情を知っていたものはなかった。

 その後、さえちゃんの母親は実家といろいろあって、結果的にこの天野が原に戻ってきた。
 長く別居状態であったものの離婚をしていたわけではないさえちゃんの両親は、しばらく一緒に住んでいたが、仲のいい夫婦だったという気配は感じられなかった。
 
 それからすぐに、さえちゃんの父親は亡くなってしまった。
 陰陽道の呪いだとかなんとか、町の人たちは噂していたが、当時の夏海には周囲の大人や他の同級生が騒いでいる理由がよく分からなかった。

 さえちゃんは、同性で子どもの夏海が言うのも変だが、すごく綺麗な子だった。
 幼稚園の時も、立っているだけで、誰もが一度は振り返るような子どもで、御村の家ことを誰も知らなかった時は、みんながちやほやしていた記憶がある。
 アーモンド形の黒い目と長いストレートの黒髪、表情は少し大人びていて、もしも梅田とかを歩いていたら、きっとお子さんをモデルにしませんかと声でもかかりそうな、そんな子だった。
 それがいつの間にか少しずつ、さえちゃんとさえちゃんの家族は周囲の世界から切り離されていった。

 夏海が通っていたのは近所のお寺が経営している幼稚園で、そこは朝のお勤めがあることを除けば、ごく普通の幼稚園だった。
 自分で言うのも何だけれど、幼稚園の時の写真を見たら、夏海だって、さえちゃんには全く敵わないものの、そこそこ可愛らしい女の子だった気がする。
 それは顔のつくりがどうというのではなく、いつも笑っていたからかもしれない。

 夏海ちゃんはいつも楽しそうね、とよく言われた。
 多分、本当に楽しかったのだ。世の中のことは何もかも、世界中が目新しいものばかりで、それは小学校に行っても、中学校に行っても、高校に行っても同じだった。

 ゆうちゃんは活発でごんたばかりしている、きわめてやんちゃな男の子だった。幼稚園では毎日何か悪戯をしていて、先生に追い回されていた。
 園長先生はいつも笑って見ていたが、一度だけ、ゆうちゃんが嘘をついた時だけは怒った。

 本当のことを言うと、ゆうちゃんだけが悪いわけではなかった。みんなで本堂で走り回っていて、何か壊してしまったのだ。なぜ本堂で走り回っていたのか、何を壊したのかはもう覚えていない。
 ゆうちゃんは、始めから壊れていたと言い訳をして、園長先生に怒られた。
 壊したことは仕方がないけれど、嘘はいけないと怒られたのだ。

 見つかった時には、一緒に悪戯をしていた子たちはみんな逃げてしまっていた。ゆうちゃんはこけてしまったさえちゃんを助けようとして、逃げ遅れたのだ。
 ゆうちゃんが怒られたのを見て、夏海は怖くなってしまった。
 でも、気がついた時、足が一歩前に出ていた。引っ込みがつかなくなっていた。
 
 ゆうちゃんがこわしたんじゃないよ。たけちゃんとふみくんが……。
 でも、なつみもきわちゃんもさえちゃんも、みんなが一緒にいた、という言葉までは続かなかった。言いつけたみたいで嫌になってしまったのだ。

 正義感ではなくて、ゆうちゃんだけが悪者になるのが何だか悔しかった。でも自分も悪かったとまでは言えなかった。大きな声で言ってから、涙が出てきた。
 誰が壊したのかを聞いているのじゃないよと、園長先生は言った。

 でも、それ以来、ゆうちゃんは夏海を気にしてくれるようになった。園長先生に言いつけたと、たけちゃんやふみくんにいじめられた時も、ゆうちゃんが助けてくれた。
 幼稚園児なので、いじめた方も苛められた方も、すぐに忘れてしまって、それからはたけちゃんやふみくんとも遊んでいた記憶があるけれど、昔のことで、その後彼らがどうしているのか、今は知らない。

 そうだ。あの時はさえちゃんが天野が原にいた一年間だった。
 確か、誰かがさえちゃんに何か意地悪なことを言ったのだ。お寺の幼稚園なのに、おんみょうじの子どもが来ているのはおかしいとか何とか、それから、呪いがどうのとか。
 どこからそんな難しいことを覚えてきたのか分からないが、ひどくさえちゃんが傷ついた顔をしていたのを思い出した。

 それから、夏海は何となく、さえちゃんを守るのが自分の義務のような気持ちになっていた。
 それはさえちゃんを庇ったゆうちゃんがかっこよかったからだ。さえちゃんは有難うも何も言わなかったけれど、夏海とゆうちゃんのことを信頼してくれているのが分かって、夏海は満足だった。

 それから、さえちゃんが京都に戻り、川ひとつ隔てて違う市に住んでいたゆうちゃんは、小学校・中学校とも夏海とは別の校区になった。それでもゆうちゃんが少年野球に夢中になるまでは、幼稚園のあったお寺の習字・そろばん教室に通っていたので、その帰りによく一緒に遊んでいた。

 小学校五年生の時、さえちゃんが京都から天野が原に戻ってきた。
 さえちゃんは前よりもっと綺麗な子になっていた。

 母親の実家のことで色々と噂の絶えないのは仕方がないのだろうが、全くそんなことに動じない凛とした顔立ちが綺麗で、苛めようにも苛められないムードを身にまとっていた。というよりも、周りの子たちは、苛めたら呪われると言って、近づかなかった。ある意味、その無視の仕方が十分に苛めだったのだろうが、さえちゃんはすっかり大人の対応のできるかっこいい女になっていた。
 つまり、周囲の雑音など無視していたのだ。少なくとも夏海にはそう見えていた。

 夏海は普段は他の子と遊んでいたが、習字とそろばんを習い始めたさえちゃんとは、お寺で会うようになった。学校でも自然に話すようになった。六年生になって、そろばんと習字は辞めて、新しく始まった英語の教室に顔を出すようになったときも、一緒に英語教室に替わった。

 少年野球に夢中で習字とそろばんは辞めてしまったけれど、ゆうちゃんは英語教室の帰りの時間には外で待っていてくれた。丁度野球の練習の終わる時間で帰り道だからと言っていたが、本当なのかどうかは知らない。
 いつもさえちゃんと夏海を家まで送ってくれた。

「どうしてさえちゃんと話すの? あの子の家、呪いの家なのに」
 よく他の友達に言われたが、夏海は別に、と言って態度を変えなかった。夏海とさえちゃんは二人とも大事な友達だと言っているゆうちゃんの手前、格好の悪いこと、つまり苛めるとか無視するとか、家のことで悪口を言うとか、そういう仲間に入るわけにはいかなかった。
 ゆうちゃんはきっと怒るだろうと思ったのだ。

 だからと言って夏海までもが苛められるというようなことは、幸い起こらなかった。その頃、夏海はピアノに一生懸命になっていて、英語も、ピアノも、学校以外にしなければならないことが多くあったので、正直なところ、もしかしていじめられても苛めに気が付かないほどに、小学生なりに忙しかったのだ。

「なっちゃんは友達がいっぱいいていいね」
 さえちゃんに見つめられながらそう言われると、ドキドキした。
「そんなことないよ。もちろん、さえちゃんも友達だよ」

 中学生で合唱部に入っていた夏海は、部活に多くの時間を取られるようになっていた。さえちゃんはクラブには入らず、いつも図書室で本を読んでいた。勉強はすごくよくできて、いつも一番だった。
 さえちゃんは夏海がいなくても一人で外を見つめていだが、夏海が話しかけると、笑ってくれた。その笑顔はやはり素敵だった。

 一度だけさえちゃんの家に呼ばれたことがあった。
 その時にはもうさえちゃんの父親は亡くなっていたが、家の周りで幽霊を見かけた人がいるとか、変な噂が流れていた。陰陽師の術で死んだ人を甦らせることができるのだとかなんとか、あるいは家には結界が張ってあって入ったら出られないとか、家の中には何か特別な部屋があって呪いとか悪魔封じとかの祈祷をしているのだとか、噂している同級生もいた。

 夏海はそんなことを信じていたわけではなかったが、それでもちょっと怖かった。
 さえちゃんの家は、古い貸家の平屋だったが、玄関は普通だった。迎えてくれたさえちゃんのお母さんは、思ったよりも歳を取って見えたが、呪いとか悪魔祓いをしているような人には見えなかった。

 居間に通され、さえちゃんの部屋も見せてもらった。本がたくさんあって、絵も描いているようで、夏海が見たことのない画材道具が、嫌味な程度でなく散らかっている、ごく普通の中学生の部屋だった。
 イーゼルに置かれた絵は風景画で、おとぎの国のように優しい色が踊っていた。ベッドカバーとかカーテンの色が、もっと大人の雰囲気なのかと思っていたら、可愛らしい花柄だったことにも、夏海はほっとした。

 小さな家には他に台所と洗面や風呂の水回りがある以外に、もう一つ部屋があった。きっちりとドアを閉じられたその部屋は、さえちゃんの母親の部屋だったのだろう。
 帰りにその部屋のドアが少しだけ開いていた。

 覗こうと思ったわけではない。何かお葬式の祭壇のようなものが見えた。そして暗い中に何かが光ったような気がして、夏海は慌てて目を逸らせた。
 部屋の中から、線香のような、あるいはお香のような匂いが流れ出していた。

 後から考えれば、彼女の夫の供養のための何かがあっただけなのだ。
 だが、夏海は少しだけ怖くなっていた。
 それでも、ゆうちゃんが相変わらず英語教室の帰りに二人を送ってくれることが続いていて、その不思議な関係性は変わることがなかった。
 三人で遠回りをして天野川の土手を歩くこともあった。話はクラブのこととか、さえちゃんの読んでいる本のこととか、試験の結果とか、他愛のないことばかりだった。

 だが、中学二年の時、小さな予兆のような変化があった。




微妙なところで切ってすみません。細かいことはまた今度。
でも、ようやく、話のムードが大海っぽくなってきたと思ってくださった方。
ありがとうございます(*^_^*)
あと2回です。


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【天の川で恋をして】(6) 天野川・過去(2) 

第6章の後半です。大きく、過去の物語が動きます。
そして、夏海の逡巡、心に押し込めていたものの正体が見えると思います。





 ある時、いつもならゆうちゃんは先にさえちゃんを送って、その後夏海を送ってくれていたのだが、その順番が逆になった。もちろん、その方がゆうちゃんの家まで遠回りにならなくて済むのだが、夏海には二人が少しだけ何か秘密を持ったように見えた。

 さえちゃんがある時、休み時間に呟くように言った。
 気持ちのいい風が吹く季節だった。
「なっちゃんは何でも持っていていいね」
「え?」
「お父さんもお母さんもいるし、弟もいるでしょ。クラブも楽しそうだし、ピアノも」
「でも、さえちゃんみたいに綺麗じゃないし、賢くもないよ」

 それは本音だった。さえちゃんはそうかな、というような顔で微笑んだ後、少し顔を曇らせて俯いてしまった。綺麗で何事にも動じないさえちゃんの、そんな顔は初めて見た。
「夏海はさえちゃんが友達でいてくれるのがすごく嬉しいよ」

 何だか脈絡もないのに、慌てて言った。さえちゃんを悲しませてはいけないと思った。中学生になって、夏海にもある程度さえちゃんの家の大変な事情が分かってきていたし、さえちゃんの家を怖がったりしたことへの申し訳なさもあった。

 不意にさえちゃんが夏海の顔を見て、尋ねたこともあった。
「ねぇ、なっちゃん、ゆうちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうって……幼馴染で、友だちだよ」
「そう、友だちなんだ」
 ふと視線を逸らせて、さえちゃんが大人っぽい顔で窓の外を見た。
 夏海はドキドキが止まらなくなった。

 その頃だったか、ゆうちゃんが一度だけ校門の前で夏海を待っていたことがあった。
 他校の制服を着たゆうちゃんは、その頃背が伸び始めていて、野球で真っ黒に焼けた顔は、ちょっと眩しいくらいだった。

 ゆうちゃんは何か言いかけては止まり、野球の話をして、また何か言いかけては止まり、試験の話をして、また何か言いかけて止まり、夏海の合唱部のことを聞いた。夏海の家が近づいたとき、最後の曲がり角の手前でゆうちゃんは立ち止まり、ようやく意を決したような顔をした。
「夏海、あのさ、俺」

 その顔を見た時、何かまずいことが起こっているような気がした。ゆうちゃんの目は真剣で、見つめているとどこか照れくさくなったりもした。
 それから、ゆうちゃんが何を言ったとしても、聞いてしまったら不安になるような気がした。何故だか、三人で歩く天野川の河原の色が変わり、崩れていくような音が聞こえた。

「あ、ゆうちゃん、いつもありがとうね。私、ゆうちゃんがずっと友だちでいてくれて嬉しいよ。でも、もう別に送ってくれなくても大丈夫だから。ゆうちゃん、クラブもあるし、勉強もしないとだめでしょ」
 私、なにを素っ頓狂なこと言っているんだろう、と思ったが、言ってしまってから訳が分からなくなった。
 じゃあ、ここでいいよ、と言って家に向かって走る。
 その日は夕食を食べられなかった。

 次の日、黒板にちょっとした落書きがあった。ゆうちゃんと夏海が並んで帰るのを見た誰かが、からかって書いたようだった。
 夏海が何かする前に、カタン、と席を立って、無表情のまま黒板の落書きを消したのはさえちゃんだった。皆が何かを恐れるようにさえちゃんを見ていた。

 ゆうちゃんは英語教室に迎えに来なくなった。夏海はさえちゃんと二人で帰るようになった。会話は少なくなっていた。
 中学二年生の秋、合唱コンクールの練習で帰りが遅くなる日が続いていた。その頃、夏海はゆうちゃんにもほとんど会うことがなかったし、さえちゃんとも教室で顔を合わせる程度になっていた。
 ピアノも、本格的にやるなら新しく上の先生にもつかなければならないと言われていたが、それはさすがに家の経済状況からは難しいと思っていた。英語を好きだったし、そっちを頑張ろうと思い始めた。

「ねぇ、なつみ、確か幼馴染の男子がいたでしょ」
 クラブの帰りに同級生にいきなり切り出された。
「ゆうちゃんのこと?」
「うん、名前は知らないけど、一中の子。御村さんと付き合ってるの? この間、葛葉で一緒に歩いてるのを見たんだ。他にも、見た子がいてさ。私ら、夏海の彼氏なんかと思ってたのに」
 夏海は一瞬に襲ってきた何かをお腹の底に押し込めた。
「え~、私ら中二だよ。まだ付き合うとか、ないもん。クラブのほうが大事だし」
 大人びたさえちゃんの顔を思い出した。

 さえちゃんとゆうちゃんが本当に付き合っていたのかどうかはよく知らなかったけれど、もしそうだったとしても、それはきっと半年ばかりのことだろうと思う。
 受験勉強が本格化する中学三年生の夏休み以降、さえちゃんにもゆうちゃんにも塾で会うようになったが、何となく関係は前に戻っていて、また三人で天野川の河原を歩くようになった。
 ゆうちゃんは野球を続ける気なら最低でも四条畷か茨木の普通、と父親から言われて必死だった。さえちゃんは北野にだって行けると思うけれど、そして教師からは随分と説得されていたけれど、結局三人とも同じ高校を受けることに何となく決めていた。
 河原での会話は受験のことばかりになったけれど、夏海はかえってほっとしていた。

 そして、同じ高校に通うようになった。
 合唱部は中学以上に活動が活発だった。ゆうちゃんは野球部で相変わらず真っ黒だったが、将来のことを考え始めていた。体力と運動神経を生かせる仕事に、と思っていたようだった。さえちゃんは相変わらず集団に属することはなく、一人で図書室で本を読んでいた。成績は相変わらずトップだった。

 図書室からも、合唱部の練習場所になっている音楽室からも、グラウンドが見えた。
 白球を追いかけるゆうちゃんの声も聞こえていた。どの声がゆうちゃんなのか、夏海には簡単に聞き分けることができた。多分、さえちゃんも同じだっただろう。
 心なしか、さえちゃんが前よりずっと大人っぽくなったような気がして、時々顔をまともに見つめられなくなっていた。

「今日、部活が終わったら一緒に帰ってくれる? 図書室で待ってるから」
 久しぶりにさえちゃんから言われたのは、高校二年の五月の終わりのことだった。
 一年生の時は三人とも偶然同じクラスだった。二年生になり、今度は別々のクラスになったので、何となく目が合ったら一緒に帰る、などというチャンスはなくなっていた。

 何か話があるのだと思って、気になり始めると、声がでなくなった。
 学年の取りまとめ役だった叶恵がすぐに気が付いて、夏海、風邪ひいてるの? と聞いてきた。そうかも、と言ってクラブを早退した。

 図書室に入った時、グラウンドの見える窓際にさえちゃんの姿を見つけた。夕陽の中で野球部はまだ白球を追っていた。
 夕陽に照らされたさえちゃんの横顔は怖いくらいに綺麗だった。さえちゃんは窓の外を見つめていて、何故か泣いているように見えた。
「さえちゃん?」
 さえちゃんは大事なものから引き離されたくないとでも言うような、静かな躊躇いの時間を置いてから、夏海を振り返った。

 その時、さえちゃんから渡されたのは、京都の美術館で開催される、高校生美術コンクールの入賞作品展示会の招待状だった。
 すごいねぇ、入賞したの、と夏海が言うと、さえちゃんは俯いた。一緒に行こうと言ったら、さえちゃんは恥ずかしいから、と言った。じゃあ、誰か他の子と行こうかなと言うと、さえちゃんはじっと夏海の目を見たまま言った。
「なっちゃん、できれば一人で見に行ってほしいの」

 それは衝撃的な絵だった。
 入賞作品の筆頭に挙げられていたのは、白球を追う少年の横顔だった。青春の情熱をぶつけたような赤と青と黄、命をも懸けたような一瞬の迸り、汗と涙と、目の光。
 いつかさえちゃんの家で見た優しく柔らかい色遣いの絵ではなかった。
 その色の奥には、どこかで切れそうになる若い命を、必死で繋ぎとめている危うさと共に、見ている者を惹きつけて離さない痛みが潜んでいた。絵に描かれた心はさえちゃんのものだったが、その少年の一瞬を切り取った横顔は、明らかにゆうちゃんだった。
 いつも静かで、何も語らないさえちゃんの心が見えて、夏海はパニックになっていた。
 その夜、夏海はまた食事もできずにベッドに潜り込み、いつの間にか零れた涙が止まらなくなった。

 次の日、さえちゃんから電話がかかってきた。
「ごめんね、電話で。なっちゃんの顔を見て話す勇気がなかったの。なっちゃん、私、やっぱりゆうちゃんが好き。ゆうちゃんとやり直したいの。協力してくれるよね?」

 やり直したい、という言葉は、夏海には心に突き刺さる針のようだった。以前、ゆうちゃんとさえちゃんの間に何があったのかは分からない。それでも二人が夏海には言えない秘密を共有していることがたまらなかった。
 私だって、と思う気持ちが混乱して絡まった。
「ゆうちゃんは私と二人では会わないようにしてる気がするの。夏海が一緒でなきゃ。夏海は今でもゆうちゃんと何でも話せるでしょ。だからゆうちゃんに、私の気持ちを伝えてほしいの。なっちゃんは何でも持ってるじゃない。だから、ゆうちゃんは取らないで。でないと私、苦しくて死んじゃいそうなの」

 今まで通りに戻ったと思っていたのは夏海だけだったのだ。さえちゃんは本当に苦しそうだった。
 夏海はその時、迂闊にも言ってしまった。
「だめだよ、死ぬとか言っちゃ。大丈夫、私が何とか伝えてあげるから」
 口に出してしまった言葉は、取り戻すことができなかった。

 六月になってさえちゃんから手紙を預かった。そして上手く伝えてほしいと言われた。
 夏海はあれこれ理由をつけて、ゆうちゃんと二人きりになるチャンスを作らなかった。そもそもゆうちゃんはクラブが忙しそうだったし、それ以外にも将来のことを真剣に考えているようで、どこかに見学に行くのだとか、話を聞きに行くのだとかで、放課後も顔を合わせにくくなっていた。それに、期末テストも間近に迫っていた。
 廊下ですれ違っても、さえちゃんとも目を合わせられなかった。

 何度も預かった手紙を読んでしまいそうになった。でもさすがに、封を開けることはできなかった。あの苦しそうな絵とは違って、穏やかで優しいピンク色の封筒だった。表に宛名はなく、裏にも名前はなかった。
 一度だけ、ゆうちゃんが夏海の合唱部の練習が終わるのを待っていたことがある。

 天野川の河原を、自転車を押しながら、久しぶりに二人きりで歩いた。
 あのさ、夏海。
 ゆうちゃんはいつかのように、何かを言いかけては止まり、野球の話をして、何かを言いかけては止まり、ちょっと将来のことを話し始めて、それからしばらく沈黙してしまった。
 夏海は何だか怖くなった。ゆうちゃんは何かを話したいのだと思った。
 中学二年の時、さえちゃんと付き合ってたこと? もしかしたら、ゆうちゃんもさえちゃんのことが好き? それとも。

 どんなことをゆうちゃんが話しても、それは今までのことを壊してしまうような何かに思えた。それに、どんな話になっても、さえちゃんの手紙のことを話さなければならなくなってしまう。
 さえちゃんの悲しそうな声が耳から離れない。ゆうちゃんがさえちゃんを振ってくれたらと願う気持ちもある。でも、さえちゃんのあの絵に籠められた叫びのような想いは、夏海を苦しめる。さえちゃんの家は陰陽師の家で呪うこともできる、とみんなが話していたことを脈絡なく思い出した。そんなことは信じていないけれど、夏海にはない力をさえちゃんが持っているような気がした。

「夏海」
 意を決したようにゆうちゃんが立ち止まった時、夏海は反射的にさっきまで頭の中にもなかった言葉を口にしていた。
「あ、帰りに買い物頼まれてたんだ。ごめん、ゆうちゃん。ありがとう。またね」

 それから、夏海はクラブを休みがちになった。時々、お腹が痛いと言って学校に遅れて行くこともあった。休むまでできないのは小心だったからだ。
 そして、あの七月六日、機物神社の宵宮の夜。

 ゆうちゃんから電話がかかってきた。
「宵宮、行く? 俺さ、夏海に紹介したい奴がいるんだ」
 少しだけ気が遠くなった。クラブを休みがちになっているのをゆうちゃんは知っていたと思う。だから、きっと夏海を励ましてくれようといていたのだ。多分、友だちとして。そして、あの時、ゆうちゃんが言いかけた何かを聞こうとしなかったことに、少なくとも落胆しているのだと思えた。
 誰に何を紹介すると言うのだろう。

 もうこれ以上こんがらがるのはいや。
 夏海はさえちゃんに手紙を返すことに決めた。
 自分でゆうちゃんに渡してと、私もゆうちゃんのことが好きで、私の恋は実らないと思うけれど、それでもこれだけは許してと、ちゃんと言葉で言おう。
 雨が降り始めていた。今日は少し降りながらも持ちこたえるけれど明日は本格的に降ると、天気予報は言っていた。今年の七夕も雨なのだ。どうして新しい暦で七夕の日を決めてしまったのだろう。本当なら、真夏のもっと晴れた日が七夕だったはずなのに。

 夏海はさえちゃんから預かった手紙を握りしめて、機物神社のにぎわいを避けるように天野川の方へ歩いていた。
 なつみっ!
 その時、声が聞こえたような気がした。

 振り返ると、雨に濡れた道で車が行き交い、ヘッドライトが地面の照り返しで増幅して、夏海の目を射た。夏海は目に飛び込もうとした何かを避けるように腕をかざした。
 トラックが雨の地面を擦りつける音が、爆音のように耳元をかすめた。

 持ちこたえると言っていた雨は、本降りになっていた。
 びしょ濡れになった夏海は、ふらふらと天野川の河原を歩いていた。握りしめていたさえちゃんの手紙は濡れてくちゃくちゃになり、破れかかっていた。夏海は手を開き、しばらく何かの亡骸のような封筒を見つめていた。
 何かがダメになってしまった気がした。雨のせいだと思いながら、そのままその雨に隠れ、肩を震わせてしゃくりあげるように泣きながら、夏海は手紙を引き裂いた。
 引き裂いてしまってから、夏海は地面に座り込み、川の流れと雨の音で声が誰にも聞こえないと信じて、馬鹿みたいに大声を上げて泣いた。
 手紙は色を無くし、ばらばらになって天野川を流れていった。


 そして翌朝、雨の中にいたせいで熱を出してベッドに潜り込んでいた夏海に、思わぬ人から電話がかかってきた。
 さえちゃんのお母さんだった。
 さえちゃんは、昨日の夜、あの雨の中でトラックに轢かれて亡くなったのだと告げられた。




もしかして、映画を見た人がいたら、これが何のホラーを下敷きにしているか、気が付かれた方もいるかもしれませんが、何せ、14年も前の映画なので……
思い出しても怖い……(;_:)
さて、次回は最終回。
ユウキ! 男なら何とかしろ! と思いながら書いております(^^)




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【天の川で恋をして】(7) 天の川・かささぎの橋を越えて 

【天の川で恋をして】最終回です。少し長くなってしまいましたが、切るところがないので、このままお楽しみください。これで、すべての謎の始末がついているはずですが…(あ、まだ一つ残っているかも)
それにしましても、まだPCが恐ろしく不調です。写真の縮小化やアップができません…(・・?
したがって今日も文字ばっかり^^;
楽しい記事が書きたいのに…(;_:)





 聞かれたくない電話であるようなふりをして、叶恵とゆうちゃんの側を離れた夏海は、あの日のようにどこに行けばいいのか分からずに、見覚えのあるようで、ところどころすっかり姿を変えてしまった景色の中を歩いていた。

 団地や家は、東京と違って低く、天野川の川近くにはまだ広い畑も残り、東京よりもずっと広い空が見えていた。その間を比較的交通量の多い道路が縫うように走り、大きな道路脇では歩道も整備され、家も新しくなっていた。それでも、少し古い町の中へ入ると道路は車がすれ違えないほど細くなり、古い民家が入り組んで建っている。随分と古くからある何かの工場、営業しているのかどうかわからない寿司屋やお好み焼屋の看板、錆びて傾いたような道路標識。民家の脇に置かれた鉢には、紫陽花の小さな花弁が揺れる心を映すように、青とピンクの間を行き来している。

 ごめんねも、ありがとうも、ちゃんと叶恵に言えなかった。
 ゆうちゃんの目をちゃんと見て話すこともできなかった。
 何より、あの日、さえちゃんに言いたかった言葉を、この身体の内側に押し込めたまま、さえちゃんに伝えることができずに、今日まで来てしまった。

 私はやっぱり駄目な子だ。みっちゃんは、私がいつも笑っていたと言っていたけれど、本当に言いたいことを言えないから笑ってごまかしていただけだ。今日で、この十年にけりをつけるつもりだったのに、何ひとつ前に進めない。

 お前に必要なのは時間じゃない。
 先輩は知っていたんだ。私の本当に駄目なところを。

 十年前、さえちゃんの死を聞かされてから、怖くなってお葬式にも行けなかった。雨の中をうろうろしていたために熱が出ていたのをいいことに、さえちゃんをちゃんと送ってあげることもせずに、何日も学校を休んだ。
 一週間後に学校に行ったら、何事もなかったような日常が待っていた。
 まるで、さえちゃんは始めからいなかったような、そんな日常だった。

 みんな、あまりさえちゃんのことは話さなかった。そもそも、夏海以外に誰もさえちゃんと特に親しくしていたわけではなかったのだから、思い出を語られることもなく、たださえちゃんがいつも座っていた図書室の窓辺の席だけが、いつまでもやって来ない主を待ち焦がれて、静かに光の中で悲しんでいた。
 そしてそのまま、夏海が風邪をこじらせて一週間学校を休んでいただけで、その短い期間の授業のブランクがそのままさえちゃんのいた六年間だったかのように、追いついた授業のノートとその先へ続いていった新しい生活が記憶を上塗りしていった。

 ほんの少しだけ、色合いを変えた夏海の学校生活の意味を、誰も気が付かないままだったろう。
 夏海は合唱部には復帰したが、歌うことができなくなった。もともと伴奏を手伝っていたので、誰が言い出したのか分からないが、自然に夏海はピアノ伴奏の係になっていた。
 両親に、将来のことを考えて大きな英語の塾に行きたいと言って、週末には京都に通った。大学受験は東京の外大を目指すと言って、予備校にも通い始めた。
 三年生になっても、夏海とゆうちゃんは別々のクラスで、顔を合わせることも少なくなり、一緒に河原を歩くこともなくなった。

 忙しくなっていったのは夏海だけではなく、周囲の皆も同じだった。周囲の皆も、ゆうちゃんも、将来のために忙しくなり、さえちゃんの不在はもう、不在という事実さえ消えていくようだった。
 たまに、理由も分からず悲しくなり、泣いている時がある。
 だが、その次の日にはまた当たり前の日常が巡ってきた。さえちゃんがいなくても、夏海の毎日は続いていて、当たり前に学校に行き、当たり前に家に帰り、当たり前にお風呂にも入って、時々は家族と笑いながら外食もした。

 一度だけ、ゆうちゃんとどこかで話したような記憶がある。
 東京の大学を受けることに決めた、とそれだけ言ったような覚えがある。
 その時、ゆうちゃんはどんな顔をしていただろう。何か言っただろうか。夏海には記憶がなかった。
 ただ思い出したくないだけなのかもしれない。

 交野駅はどっちだったろう。
 このまま、京阪に乗って京都に出てしまえば、もしかして最終の新幹線に間に合うだろうか。荷物はみっちゃんに送ってもらったらいい。休みは返上して、明日から普通に働いて、先輩とも以前のような普通の関係に戻って話をしたらいい。
 そしてまた、ゆうちゃんのこともさえちゃんのことも、この天野川のことも、忘れてしまっても、きっと生きていける。

 夕陽の名残の温度を含んだ風が、頬に触れていった。懐かしい景色は徐々に色褪せていく。
 十年前のように馬鹿みたいに泣くことはできなかったけれど、目の奥が痛くて、鼻が詰まって息苦しかった。
 久しぶりに履いた高いヒールで痛む足が、こんなにも悲しい理由だと思った。




 この町を離れた時は五歳だった。
 それでも、この機物神社の七夕祭りの宵宮あるいは本宮のにぎわいを肌が覚えていた。
 薄闇に染まる空を背景に、高く掲げられた笹の葉に揺れる五色の短冊、提灯や星、天の川や笹を象った色紙の飾り、浴衣姿の子どもたち、母親の手を借りて願い事を書く小さな手、露店で売られている林檎飴やチョコレートの甘い匂い。
 風が吹くと一斉に重なり合うざわめきのような音楽を奏でる笹の葉は、高い空から何かを語りかけてくるようだ。

 できるだけ高いところにこの短冊を飾ってあげたい。
 夜になれば神事で笹のお祓いがあり、夜遅くには人々の願いは天の川に流される。それに乗せて天に還してあげよう。

 この町を離れた十年前のあの日、車に乗り込む時に拾ったこの短冊には、大事な人へのメッセージが綴られていた。昨夜、小さな穴をあけて紙縒りを通し、もう一度言葉をかみしめてみた。あの悲しそうな長い髪の七月七日の幽霊は、この短冊と一緒に天野川に戻り、今日、空の天の川に帰ることができればいいのだけれど。
 この十年間、父親がいない中で頑張ってこれたのはこの短冊のお蔭だったかもしれない。

 笹のできるだけ高い位置に短冊を結びつけようと背伸びをした。
 もう少し高い所に。
 そう思った時、誰かの手がすっと短冊に触れた。
「できるだけ上の方がいいですよね」
「すみません」

 短冊を受け取ったその人は、あまりにも古い紙を不思議に思ったのかもしれない。ふと、手を止めたと同時に、呼吸を飲み込んだように見えた。
「あの」
 その人は黙って短冊に書かれた文字を読んでいた。

 背の高い、スーツ姿の青年だった。優しそうな顔立ちと、短く刈り揃えられた髪、しっかりとした身体つきはスポーツマンのように見えた。
 その人の表情が少しずつ変わっていく。悲しさと喜びと、苦しさと愛しさと、そして命や想いの不思議を噛みしめたような、色々なものを全部取り込んだような顔だった。
「あの」
 呼びかけると、青年は顔を上げた。
「すみません。これを、どこで」
 その瞬間、この人はこの短冊の幽霊を知っているのだと分かった。
「十年前の今日、雨の日に、この近くで拾ったんです。丁度この町を離れる時で、車に乗り込もうとしていた時に」

 私はまだ五歳で、ここに書かれた文字を読むこともできず、ただ短冊の美しい碧い色が濡れていくのが悲しくて、文字も泣いているように見えて、拾い上げて今日まで大事に持っていた。七月七日が近づくと、誰かが悲しそうに立っている気配を感じていたけれど、自分が幼くてこの言葉の意味を十分に汲んであげることができなかった。その気配は、始めはちゃんとした姿ではなかったけれど、今年現れたその人は、髪の長いとても綺麗な人で、私は今年こそ、ここに返しに来なければならないのだと思った。
 そう告げると、青年はしばらくの間じっと短冊を見つめ、やがて顔を上げて微笑んだ。
「僕たち三人はこれを待っていたんだ。ありがとう」
 



 足が痛くなって、もう歩けなかった。
 駅に向かおうとしていたのか、そもそも駅がどこなのか、こんなヒールで歩けるのか、混乱した記憶と流れた時間の長さで変わっていた街並みが、夏海を混乱させていた。
 どこに帰ったらいいのか分からない。
 夏海は橋のたもとでしゃがみ込んだ。
 ヘッドライトを灯し始めた車の流れが夏海の視界の隅をかすめていく。

 その時、アスファルトを擦るタイヤの音の中に、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
 なつみっ。
 あの時、雨の中で聞いた声は、さえちゃんだったんだ。
 ごめんね、さえちゃん。あの時、もっと早くにさえちゃんを探していたら。
 夏海は両手で耳を塞いだ。
 ごめんね、さえちゃん。

「夏海」
 その時、奇妙なほどしっかりとした声が、頭のすぐ上から聞こえた。夢の声でも幻の声でもなく、確かに鼓膜に届く振動と同時に、耳を覆う夏海の両手を包み込んだのは、大きな暖かい手だった。
「夏海」
 顔を上げた時、周囲の景色に先に焦点が合った。
 歩道の橋の両側に笹の葉が立てられ、色とりどりの短冊が風に揺れている。
 そしてその真ん中に、ゆうちゃんの顔があった。真剣で優しい目だった。

「今日は、ちゃんと話を聞いて欲しいんだ」
 ゆうちゃんはそう言った。夏海は、化粧も剥げているし、気持ちもくちゃくちゃで、きっと今私はぶさいくだ、と思った。思ったけれど、どうすることもできなくて、ただ頷いた。

 ゆうちゃんは、足が痛いことにはすぐ気が付いてくれた。
「良かった。今日は荷物があったから、ツーリングバイクだったんだ」
 そう言って、ゆうちゃんはスーツの上着を脱いで、荷台のクッションにすると、夏海を支えるようにして立ち上がらせ、荷台に横座りにさせてくれた。そして自分は器用にバイクを支えながらサドルに跨る。
 くらりと揺れた時、すかさず、腰につかまって、と言う声が聞こえた。

 その時、ようやくここが逢合橋だと気が付いた。織姫と彦星が一年に一度出会い愛し合う場所という適当な伝説がくっついている橋だ。
 ゆうちゃんは川沿いの道をゆっくり、ツーリングバイクを漕いでいく。今年は蒸し暑くて息苦しいような七月の始めだが、こうしていると、吹き抜ける風が心地よかった。
 夏海はきゅっと、ゆうちゃんにしがみ付いた手に力を入れた。
 二人で、あるいは三人でよく川沿いを歩いたけれど、こんなふうにゆうちゃんの背中を感じたのは初めてだった。

 やがて、ゆうちゃんが軽くブレーキをかけ、ツーリングバイクが停まる。ゆうちゃんの片方の足が、地面を力強く支えていた。
 夏海は慌ててゆうちゃんから手を離そうとした。その時、ゆうちゃんの一方の手が、夏海に触れた。
「そのままで聞いて」
 夏海はゆうちゃんの腰に回した手を握り直した。ゆうちゃんがもう一度、夏海の手に重ねた手に力を入れた。
 向こう岸から風が渡ってくる。まるで誰かの想いを運んでくるようだった。

「中二の時、さえちゃんに、これからは先に夏海を送って欲しいって言われたんだ。俺、あんまり頭が回る方じゃなかったけれど、さすがにその意味は分かってた。さえちゃんも、さえちゃんのお母さんも周囲から色々言われてて可哀相だって、俺、何だか同情みたいな気持ちがあって。悩みとか、困っていることとか、色々聞いているうちに、俺もだんだん情が移ったってのか、それから何となく、手をつないだりキスしたりもするようになった」
 夏海は思わず手を離しそうになった。ゆうちゃんは、このまま聞いてと言うようにもう一度手に力を入れた。

「一度だけ、夏海にちゃんと説明した方がいいとか思ったんだ。けど、夏海は俺のこと友だちだって言ったろ? 夏海にそう言われてから、逆に自分の気持ちが分からなくなった。さえちゃんは頭がいいし、すぐに何か感じたみたいで、ゆうちゃんは優しいから私のこと可哀相だって思って付き合ってくれているんだよね、って。それから何となく、本当に自然に、前みたいに友だちに戻って行って、もう恋人同士みたいなことはしなくなった。それで良かったような、悲しいような、変な気持ちだった。夏海、俺、その時の自分の気持ちにはあんまり自信がない。さえちゃんのことが本当に好きだったような気もするし、本当はただの同情だったような気もするし」
 俺、何言ってんのかな、とゆうちゃんは呟いた。

「さえちゃんが交通事故に遭う少し前、彼女と話したんだ。ゆうちゃんはずっとなっちゃんのことが好きだったんでしょ、気持ちってちゃんと言葉にしなきゃだめだよって、そう言われた。俺は何だかまたよく分からなくなって、夏海のこともさえちゃんのことも大事だという気持ちもあったし。でもひとつは友情で、ひとつは違う意味だってことも分かってた」

「ゆうちゃんは分かってないよ。さえちゃんはずっとゆうちゃんのこと好きで、もう一度やり直したいって、それが言えなくてつらかったんだよ」
 思わずさえちゃんの描いた絵を思い出した。詳細は記憶の彼方に消えているのに、さえちゃんの想いだけは鮮明に蘇る。
 私がちゃんと手紙を渡していたら、二人は恋人同士に戻って、幸せにやっていけたかもしれないのに。分かってないのは私だ。ひどいことをしたのは私だけだ。

「夏海、俺、さえちゃんの気持ちはちゃんと知ってた。知ってたけど、どうすることもできないことも分かってた。だから俺、代わりにちゃんとした大人になって、人のためになる仕事をして、それで夏海ともさえちゃんともきちんと話したいって思ったんだ。今になって思えば、そんな優柔不断なこと考えている時間はなかったんだよな」
 少しだけゆうちゃんの声が厳しくなる。それからしばらくの間、ゆうちゃんは暗くなり行く空を見上げていた。星の伝説が多く残るこの町だが、都会の明かりは空の天の川を消してしまう。
 それでも、この町を流れる地上の川は、人の思いを乗せて、やがては海へ流れ着く。

「なんかうまく言えないけど、俺、いつだって夏海に何か話したかったんだ。二人きりになったら、全然どうでもいいことばっかり話してたけど、それで良かったんだ。さえちゃんが亡くなった後も、しばらくの間は、夏海に何か言える状況じゃなかったけど、せめて、ずっと俺が傍にいるからって、そう伝えようと思った時、夏海から東京の大学を受けるって聞いて」
 ゆうちゃんの背中がふと大きく息をついた。

「あの時、止めればよかったなぁと思ったけど、俺もちょっと意地になったりもしてさ、素直に気持ちを伝えられなかった。それから、ヒロタカからいろんな女の子を紹介してもらったけど、どうしてもうまくいかなくて、というよりも上手くいくようにしようという気持ちがなかったんだ」
 夏海はいつのまにか自然に、そっと頭をゆうちゃんの背中に預けていた。

「なぁ、夏海、俺、消防士になって、それから救急隊勤務になった時、交通事故の現場に行くことがあったんだ。その時、家族を一度に亡くして一人だけ生き残った男性がいて、その時自分が何言って何したのか覚えていないんだけど、一年たってその人が区切りだからって事故現場に花を供えに来られたんだ。その後で、消防署にも寄ってくださって、お礼が言いたいって言われた。その人は淡々と話していたけれど、帰って行く背中は何ひとつまだ乗り越えてなんかいないって語っているようだった」
 広くて大きなゆうちゃんの背中は、今、言葉を吐き出しながら少しだけ震えているように感じた。

「その時思ったんだ。悲しみに区切りなんてないんだ。この人は一生この悲しさや苦しさを抱えていくんだって。それは忘れることも捨てることもできないもので、他人から見たら、早く忘れて立ち直って欲しいって言ってあげたいけれど、それは間違いだって。大事な人を失ったんだ。悲しいままで、そのままでいいんだ。他の人間は、苦しみや悲しみを抱えて生きていくその人を、そのまま見守っていたらいいんだ。そう思った」
 夏海はゆうちゃんの身体に回した手で、今ようやく、ゆうちゃんを抱き締めた。

 するとゆうちゃんが、そのままつかまってて、と言って、再びツーリングバイクを漕いで、街灯のある場所にまで移動した。そして、また器用に夏海を座らせたまま、自分はバイクを降り、胸ポケットから折りたたんだ紙を出し、広げて夏海の手に持たせた。そのまま、バイクと夏海を支えてくれている。
 街灯の柔らかい明かりの下で、褪せた碧い短冊に書かれた文字は、懐かしく優しい形をしていた。
 夏海は文字の上に指を添え、まるで指で読むようになぞった。

 涙が溢れてきて、止めることはできなかった。
 十年も前に書かれた文字は、夏海の涙で濃く浮かび上がり、ひとつひとつの言葉の意味を静かに優しく、しかし力強く語りかけていた。
「夏海に、さえちゃんを忘れることはできないし、俺もきっとそうだと思う。だけど、それを抱えたままだっていいじゃないかって思う。一人では苦しくて悲しくても、一緒なら、きっとたくさんのものを抱えたままでもやっていけると思う」

 ゆうちゃんは大きく息を吐いた。そしてこれまで以上にはっきりとした声で言った。
「だから、戻ってこいよ。天野が原に」



 その声に重なるように、突然キッというブレーキの音が聞こえた。
 少し行き過ぎて停まったのは、薄暗がりの中でもはっきりと分かる真っ赤なGT-Rだった。チカチカと点滅するハザードランプに、夏海もゆうちゃんも顔を上げる。
 後ろから来た車が、急ブレーキに苛立つようにクラクションを鳴らして行き過ぎた。

 窓が開く。
「おい、ユウキ! 忘れものだ!」
 ゆうちゃんの手元に、何かが飛んでくる。ゆうちゃんは片手で器用に受け止めた。
「ちょっと萎れ気味だけど、どうせすぐに新しいの、作ってあげるでしょ!」

 窓から顔を見せたのは、今日の主役たちだった。花婿の顔の向こうから、覗き込むように花嫁が笑っている。
 彼らは、自分たちが企画したイベントは最後まで面倒を見ると決めているに違いない。
 ゆうちゃんの手の中に、真っ白のブーケがあった。花は部分的に散ったり萎れたりしているようだが、今日の諸々の出来事、あるいは十年以上前からの出来事をみんな吸い込んで、街灯の下ではより白く浮かび上がるようだった。

「ほら見ろ、機物神社か逢合橋だって言ったろう」
 根拠のない推理は、たまたま当たったらしい。いや、この二人なら、運など容易に引き付けてしまいそうだ。
「ヒロタカが絶対二人を探すってうるさくて。私たち、このまま関空なの。じゃあね、夏海、ゆうちゃん。来年の結婚式には呼んでね」
「いや、今年中かも知れないぞ」
 勝手なことをしゃべるだけしゃべって、今日の主役は手を振りながら走り去った。

「ほんとに、あいつら、バカップルすぎる。十年前に夏海を紹介しなくて良かったよ」
「え?」
「十年前の宵宮の日に、夏海に紹介したい奴がいるって言ったろう? ヒロタカだよ。ヒロタカには一度、夏海を紹介しておきたかったんだ。結果的に今になったけど、あの頃に紹介してたら、きっと引っ掻き回されてた」
 そう言いながらも、ゆうちゃんは嬉しそうに見えた。

 ゆうちゃんはしばらくじっと手に飛び込んできた白いブーケを見つめていたが、やがて、夏海にツーリングバイクから降りるように促した。夏海がゆうちゃんの前に立つと、彼は夏海の目をちょっとの間見つめ、やがて少し目を逸らして、いささかぶっきらぼうに夏海の手を取り、ブーケを握らせた。

 今宵、天の川にかささぎの橋が渡され、長い時に隔てられていた幼い恋と深い友情は、その橋を越えてようやくひとつになろうとしていた。




 なっちゃんと仲直りができますように。
 なっちゃん、ごめんね。たった一人の大事な友だちを試すようなことをしてしまったことを後悔しています。ゆうちゃんのことを苦しいくらいに好きだったけれど、あの手紙をなっちゃんに渡してから、私にとって、なっちゃんがもっと大事な人だと気が付きました。なっちゃんにはずっと笑っていて欲しい。
 だから、他には何も願いません。なっちゃんと、一瞬でも早く仲直りができますように。

 短冊の隅には、ピースをして思い切り笑う少女と、傍で静かに微笑む長い黒髪の少女の絵が添えられていた。


【天の川で恋をして】了





無事に、終了いたしました……良かった。7月中に終わって……
お付き合いくださいました皆様、ありがとうございました(^^)
さて、最後に残った謎。それはこれが何のホラーを下敷きにしてたのかということですね。
それは次回の後書きで(*^_^*)
併せて、この天野が原を発祥地とする、日本における七夕伝説をご紹介。
併せて、頭の中でヘビーローテーションしていたテーマソング(例のごとく、映画化するなら妄想^^;)もご紹介。




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【天の川で恋をして】あとがき 

交野3
ようやく、最後の謎を解く時がやってきましたね。
まずは、このあとがきの構成を。
(1)下敷きになったホラー映画
(2)作品の舞台を巡る
(3)映画化されたら妄想:テーマソング(追記)



(1)下敷きになったホラー映画
さっそく、私の記憶の中に10年以上も居座っている某ホラー映画の、超いい加減(もしかしたら一部間違いもあるかも)ストーリーを。ちなみに、もともとは小説です。
(ちゃんとした筋を知りたい方は、ウィキってくださいね)

四国の某所。町に引っ越して何年もたっていた主人公・H子が故郷の田舎に帰ったとき、幼馴染のS子が16歳で亡くなったことを知る。もう一人の幼馴染・F也は、S子の恋人だったのだが、その死から立ち直れないでいる。
恋人を亡くした幼馴染、そしてもう一人の幼馴染→当然いいムード。
その時、不穏なうわさが。亡くなったS子の家は、死者の口寄せをする家柄で、S子はその跡取り、しかも口寄せの儀式の最中に亡くなったらしく、その母親は娘の死をいたく悲しんでいる。そして、禁断の甦りの儀式を行っていた。その儀式とは、四国の88か所めぐりを反対に廻る、いわゆる逆打ちを、亡くなった年齢の数だけ行うと、黄泉の国との結界が壊れて、死者が甦るというのだ。
もうすぐ16周目! 少しずつ亡くなったS子の気配が漂い始め、いい雰囲気になっているF也とH子の傍に……

はぁ。書いているだけで怖い。
『死国』という映画です。これ、かの『リング2』と2本立てでやってたんですね。
ちなみに私は絶対にホラー映画など見に行きません。
なのに、なぜか暇つぶしに職場の後輩(♂)と行く羽目になり、映画館へ。

何が怖かったのかというと。
そもそもこれは予想通り、S子が最後はゾンビのように甦るのですが、もうゾンビになっちゃったら怖いを通り越して笑える(ひきつった笑いだけど)んですよね。でもその「ちょっとずつ気配が」の怖さ。
ちなみに、亡くなったS子は長い髪、H子はショートカットです。
F也とH子が一緒に家の中にいる。二人は噂の真実を確かめようとしている。
F也は『逆打ち』について調べている。H子はお茶を淹れに台所へ。
F也はH子のいる台所に背を向けて、本に書かれている内容を読みながらH子に話しかけている。
H子はお茶を淹れながら返事をしている。
しばらくして。
F也の肩に手が載り、肩越しに一緒に本を覗き込む。F也は当然、H子だと思っていて話しかけている。

その時。はらりとF也の肩に長い髪が。

ぎょえ~(・_;)

もう恐ろしすぎる((+_+))
と思って、怖すぎた私は、取り敢えず後輩に話しかけようと隣を見た。
その時。

隣で後輩は固まっていました。
その後輩の固まった顔があまりにも怖かったので、映画館を見まわした私。

その時の映画館の光景が忘れられません。
映画館中が凍り付いていて、まるで私一人正気、みたいな世界。
そう、2重に怖かったのです……

このお話にいただいたのは、この三角関係と幼馴染という設定、そしてさえちゃんの家が少し複雑な家で、自由な夏海の環境を羨んでいる一面があるということ。
三角関係だけど、友情もあって、化けて出んでも…と思いつつ、書いておりました^^;


ちなみに逆打ちとは本来は、そんなためのものではありません。
いつも弘法大師様が前を歩いてくださっているというお遍路。
でも前を歩かれている弘法大師様には永遠にお会いすることができないと思った衛門三郎なる方が、弘法大師様にお会いしたいと思ってなさったことです。だから、死者に会える、という話にもなったのかもしれません。
一説には、順打ちの3倍の功徳があるとも言われますが、そもそも88か所めぐりは最後のほうがきついので、そのきつい側からまわるのでそのように言われるのかもしれません。
拙作の【清明の雪】でもこのエピソードを使わせていただいておりますm(__)m
【清明の雪】14.修行僧 逆打ち いつかあなたに会いたい


(2)作品の舞台を巡る
なぜか、昨日、所用でこの交野あたりに行ってまいりました。
7月7日は過ぎておりますので、まるきり日常の、何の変哲もない風景に変わっておりましたが、写真などをとってきましたので、ご覧ください。
交野2
機物(はたもの)神社です。ゆうちゃんが夏海を探して、始めにやってきて、霊感少女と会った場所。
七夕のお祭りのときの光景はYou Tubeでもアップされていますが、境内中に竹が飾られ、皆が短冊を結んでいる。でも普段は誰もいない、社務所にも人の気配のない、静かすぎる場所です。
知り合いの地元の方は、普段は誰も近寄らない、と。

この天野が原という場所、昔から風光明媚な場所で、平安貴族の狩りの場だったようで、在原業平も歌を詠んでいますね。伝説が生まれるにふさわしい場所のようです。
この神社の祭神は、機織りの女神様です。もともと機械技術を伝えた祖先を祭神としていましたようですが、戦国時代末期に織姫様、つまり棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ)になったとか。
七夕伝説と言えば、発祥は中国ですね。渡来人が伝えた織姫・彦星の伝説・7月の収穫祭や風習などが融合して、現在の日本の七夕行事になったと考えられています。
で、この日本における七夕伝説の発祥の地が、交野市から枚方市に広がる交野が原だとされているのです。
交野1
ところで、日本起源の七夕伝説は、本家本元は、天女の羽衣伝説とそっくりです。そのものと言ってもいいのかもしれません。いったいどうなってこうなったのか、そもそも中国の七夕伝説にも数種類あるようですし、あれやこれや時代の中で変遷していったのでしょうね。

参考までに。
七夕伝説、日本版(というのか、混同版かも)
これは、いわゆる羽衣伝説ですね。
男が水浴びしている天女の羽衣をかっぱらってしまう。帰れなくなって困っている天女を嫁にして仲良く暮らす。男は羽衣を隠しておいたのだけど、数年して見つかってしまう。天女は天へ帰ってしまう。
男は天女に会いたいので、100足の草鞋(だったかな?藁?)を編んで天へ上る。実は99足で、早く会いたくなって1足足りないまま出かけてしまった。そのため、天にたどり着く手前で落っこちそうになる。
天女が助けてくれて、天女の父親に一緒に暮らす許可を貰う。でも、父親はこの男が気に入らないので、何とかしたいと思っている。天で瓜を育てる仕事を貰った男は、食べてはいけないと言われていたのに、のどが渇いてしまってつい瓜に手を出す。
瓜を割ったら、中から水があふれてきて大きな川になって、天女と離れ離れになる。あまりにも娘が悲しがるので、可哀相に思った父は年に一度だけ川に橋を掛けて会う事を許している。
という話。九州や沖縄のあたりにはこの形で伝説が残っていたようです。
(それにしても、男は一貫して天女LOVEだけど、天女の複雑な心理は何だろう。まるで、『こころ』における先生の嫁の心情が読めん、という感じだなぁ)

そもそも、昔は女性にとって、機織りの神様が大事な神様だったので、出発点は棚機津女(たなばたつめ)という神様を祀ることから来たようですね。そこに、豊作祈願や、「織物(これも作物からできる)が上手になりますように」信仰が合わさった模様。
で、中国から入ってきた織姫と牽牛の話もミックスされて、今に至る、ようです。


そして。最後のシーンで夏海とゆうちゃんが会っていた場所、逢合橋(あいあいばし)。
天野川にかかる橋、京阪交野駅からの徒歩範囲内にあります。伝説では織物神社の織姫と牽牛石(枚方市にある)の牽牛がこの橋で1年に1度会い、愛を確かめ合うと言われますが……普段はただの橋です。車道と、両脇に歩道が別々に橋になっていて、七夕の時には笹が飾られるようですが。
交野5
交野4
しかし、川沿いには歩道も整備されていて、それはそれでよい感じ。冒頭の花は、この歩道で見つけた花です。
夏海がゆうちゃんからもらったブーケの白のイメージ。
交野7
交野8
これは橋から見た天野川。向こうに第二京阪(高速道路)が見えています。
恋愛小説のラストシーンにしては、味気ない場所ですけれど、まぁ、それもありかな。
交野10
最後に、これは枚方市内の天野川。ちょうど交差点「天の川」の近くです。
こんなふうな河原を、三人が歩いていたのですね。
さらに、この先、天野川が淀川に合流するあたりに、かささぎ橋が本当にありまして。
もっとも、普通に、幹線道路の橋なので、情緒はないんですけれどね。
他にも、土地の名前にやたらと星がついているのも素敵ですよね。

たまたま所用で、1-2か月に1度は通るようになったこの地域の地名に魅かれて書いたこの小説。
思い起こせば、初めにあったのは地名だけでした。形になってよかった。
ちなみに、なんちゃってご当地小説なので、細かいところは目をつぶってやってください。
だいたい、書き終わってから、神社と橋を見に行ったという……

そうそう、あかねさんに鋭く指摘されましたが、登場人物の名字も、みなこの近くの地名です。
点野、仁和(仁和寺)、石津……ただ、これは正確には寝屋川の地名のよう。私は車で通るので、交差点の名前を見ているのですね。

でも、頭の中では、実はみっちゃんがゆうちゃんに横恋慕とか、あの霊感少女がゆうちゃんに恋をしてややこしいとか、ゆうちゃんは優柔不断だからあんなことやこんなことや、とか^^;
やっぱり、さえちゃんは、いざ二人がくっつくと、化けて出るとか。
月9のドラマみたいなことをあれこれ想像していた、実は意地悪な大海でした。

あ、それから。
さえちゃんは事故にあった日、機物神社に短冊を吊るしに来て、夏海を探していて、事故にあったんですね。
「一瞬でも早く」仲直りしたくて。
だから、夏海は、さえちゃんの声を最後に聞いていたのでしょうね。
雨の中で。
余計な解説でした。
(やっぱり、化けて出る?(・_;))

お付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
そして、これから読んでくださるかもという皆様、よろしくお願いいたします(*^_^*)

実は、まともに女の子が主人公の話、初めて書いたかもしれません……



あ…
次回予告

せっかく乙女な話を書いたけれど、次回はまた男の子話で短いものを。
そう、1111記念のホラーな話(ホラ話ではありません)、ウゾさんからのリクエスト・学園の七不思議事件簿。
ウゾくんの話よりも先に頭で形になってしまったので、お先に失礼いたします。
また、夕さんリクエストの指揮者話も、先を越されてすみません。

【8月の転校生】
ね、ちょっと怖いでしょ。
舞台は、真が通っていた、聖・幹学園。語り部は真の自称親友・富山たかしくん(中学2年生)。
夏休みのある日、閉めてある教室に忘れてきたクラブの試合メンバー票を取りに行くことに。
逢魔の時、音楽室から歌が聞こえるとかいうこわーい話もあり、コックリさん!で行く人を決めたところ、あてられたのはたかしくん。さて、どうなる、たかし。
ちなみにこの人、超天然キャラです。


*家のネット環境が悪く、別のところで借りて記事作成^^;
 う~ん。何とかしてほしい。
 →一応、微妙に解決。WiFiからケーブル繋いで有線にしたら、立ち直っています。

追記に(3)のテーマソング話題を。
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Category: 天の川で恋をして(恋愛)

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【短編】明日に架ける橋(前篇) 

前後編で短編をお届けします。
題名が思い浮かばなかったので、適当につけました。
なぜこんなタイトルになったかということは、明日の後半の後で……

この話には元ネタがあります。
世界仰天○○という番組で、金持ちで脊髄損傷の男と、失業保険を手に入れるために判子だけをもらいに来たのに介護人として雇われてしまった男の友情物語をやっていました。あまりにも綺麗な話で、確かに仰天物語だったけれど、そんなにきれいにまとめていいのか、現実はもっと色々複雑じゃないの~??と思ったら、天邪鬼物語が生まれていました。

今日明日、ちょっと毛色の違う物語をお楽しみください。



 ムスタファは16の時に故郷のラバトからパリにやって来た。6人兄弟の3人目で、両親とは特別に上手くいっていなかったわけでもない。ただその年になって故郷で仕事を見つけることが難しいと分かったので、よくある話だが、都会に出れば生活は今よりもずっと刺激的で良くなるのだろうと信じて、知り合いの伝手を頼って来たのだ。
 だが、これもよくある話だが、ムスタファが求めるだけの報酬を得ることができるような仕事が、簡単に見つかるわけではなかった。

 始めこそ、それなりに志を持っていたムスタファも、20歳を越える頃には既に10以上の仕事を転々としていた。田舎と違って都会には驚くようなタイプの仕事があり、上を見なければ何とか生活ができた。結果として、故郷に自慢できるような財産もろくな人間関係も手に入れることはできなかったが、25を越える頃には悪知恵だけが見事に身についた。汗水たらして日銭を稼ぐことが馬鹿らしくなり、30を越える頃にはいっぱしの詐欺師になっており、雇い主や社会を欺きながら生きることに妙な自負心さえ感じていた。

 身長は180センチメートルを超えていて、肩幅も大きく、腕も太かった。肌の色は褐色で髪は縮れた黒、目の色はハシバミ色だった。20の時に勤めていた工場で、誤って万力で潰してしまった左手の小指だけが役に立たなかったが、それ以外は見事に健康だった。一見、如何にも恐ろしそうな外見でありながら、笑うと子どものように純真に見えた。少し付き合うと、恐ろしい外見は頼もしさと映るようになり、親しみを感じる頃には騙されている、という具合だった。

 ムスタファはビジネスのパートナー、つまり騙す相手として、身分があって、孤独で自尊心が強く頑固な老人を選んだ。何故なら、彼らは騙されたと気付いても、自分が騙されたことを世間に知られたくないので、警察に届け出たり裁判所に訴えたりする可能性がほとんどなかったからだ。結果、ムスタファの犯罪ともいえる詐欺が露見する可能性は極めて低かった。

 まず被害者となるターゲットに近付き、信頼を勝ち得て、時には慈善事業を持ちかけ、時には新しい信仰を勧めた。つまり健康信仰や長寿信仰といったものだ。
 しかも、ムスタファが被害者たちからせしめる金額は、彼にとっては数か月を遊んで暮らせるほど有意義なものだったが、被害者にとってははした金に過ぎず、財産がひっくり返るわけでもなかったので、腹を立つものの、ちょっと悪い夢を見たと思ってやり過ごせば済む程度だった。

 ムスタファにとって故郷は遠くなっていた。被害者たちから騙し取った金で故郷に帰るチャンスはいくらでもあったが、いつも賭け事や女に使い切ってしまった。そんな生活を不自由だとも惨めだとも思っていなかった。

 今度のムスタファのターゲットは、以前は有名な俳優だったセバスチャン・ティボーだ。長身でクールで甘いマスクの持ち主は、40代前半で芸能界から身を引くまでは女が切れることはなく、4度結婚して4度離婚していた。貴族の家系で、北アフリカで搾取した財産が唸るようにあり、離婚の度に相手に家屋敷を与えるほどだった。子どもはいなかったが、愛情を注ぐものは幾つも持っていた。バイクとスポーツカーとセスナを愛し、クルーザーを操縦し、羽振りのいい頃にはカジノを買い取ったという話もあった。

 だが、50歳を過ぎた今、セバスチャンはパリ郊外の広大な敷地にひとりきりだった。4度目の離婚の前に、スカイダイビング中に事故に遭い、脊髄損傷のため首から下が全く動かなくなっていた。
 もともと信頼できる人間に囲まれていたわけではない。華やかな世界に生きていたが、彼の栄光や財産のおこぼれに与ろうとする者ばかりだった。城のような家に住んでいたが、介護人なしでは生きていくことができなくなり、誰もが自分の財産を狙う悪党に見え、気難しくなり、他人を自分と同じ種類の人間とは思わなくなった。

 セバスチャンの介護人は1週間ごとに代わっていた。彼は秘書代わりに役所の福祉課の事務員をこき使った。ろくな介護会社を紹介しないと言って、唯一自由な口で相手を罵り倒した。やがて役所も彼を相手にしなくなった。
 そこで、セバスチャンは財産管理を依頼している弁護士を通じて介護人を募集し、1週間こき使っては解雇した。どれほど高額の給料で破格の待遇でもあんな職場はごめんだと、解雇された介護人は口をそろえて言い切った。

 ついに国中の介護人からそっぽを向かれ、セバスチャンの弁護士、ミシェル・ランボーも呆れ果ててしまった。
 ランボー家はミシェルの父親の代からティボー家の弁護士を務めてきた。父親の遺言もあり、まだ若い女弁護士としては随分と我慢強く、この偏屈な男の法的な援助をしてきたが、さすがに1週間おきに新しい介護人の斡旋をすることに疲れてきた。

 1週間ほどしか持たないのだから、介護士の資格を持っている必要はないと考え、面接をして適当に雇うことにした。四肢機能は全廃で、内臓にもしばしば障害を来たし、時には排尿障害で入院を余儀なくされるセバスチャンには同情の余地があると思ってきたが、正直なところ、彼の偏屈さと頑強さにはほとほと疲れ果てていたのだ。

「介護士」という縛りを外した途端に、もと有名俳優のセレブな生活を覗き見たいという有象無象の連中が面接にやって来た。彼の大ファンだったという女性も多く訪れたが、身体の全く動かないセバスチャンを世話するのに、女性は不適切だった。ためしに腕力のありそうな女性を数人雇ってみたが、案の定数日で腰を悪くした。結果として対象は男性ばかりになった。

 セバスチャンの介護は、住み込みで24時間の勤務だが、法律に則った休みは保障された。住まいは広大な敷地内にある本棟の隣の棟で、小さいながら豪華な別荘のようだった。掃除や洗濯、食事は他に女中がいるので、一切構わなくてもいいことになっていた。
 ミシェルは始めこそ、せめて人の好さそうな人間を選んでいたが、彼らが1週間後には傷つき疲れて、契約を白紙に戻したいと言ってくる姿に心を痛め、そのうちセバスチャンを踏みつけるほどの悪人を雇いたいと思うようになった。体格が大きく力がありそうなら尚良かった。

 そして、面接の席にやってきたムスタファ・ラムジを見た時、ミシェルは一目で彼を気に入った。身体は大きくて厳つく、いかにも腕力自慢で、ハシバミ色の目は優しそうだったが、多くの犯罪者を見てきたミシェルは、彼の剣呑さを嗅ぎ取ることができた。一応経歴を確認すると、その胡散臭さと言ったらこれ以上ないくらいで、大いに彼女を喜ばせた。そろそろ一度くらい、頑固で高慢ちきなセバスチャンが鼻を明かされるところを見たいと思っていた。

 ムスタファには介護の経験など全くなかった。セバスチャン・ティボーの介護人として雇われるには、財産管理人兼後見人となっている女弁護士を懐柔する必要があるだろうし、いささか手こずると思っていたので、いささか拍子抜けしてしまった。1週間ごとに介護人が首になっていることは聞いていたので、心を閉ざしてしまった哀れな元セレブ俳優の相手が勤まる「人徳者」がついに自分以外にはいなくなったのかもしれないと思って、ほくそ笑んだ。
 ムスタファには自信があった。悪事のためならどこまでも我慢強くなれる、ということに。

 初めて自分の住まいとして与えられる別棟に案内された時、ムスタファは小躍りした。
 こんな立派な屋敷を訪問することはあっても、住むことになったのは初めてだ。
 掃除も洗濯もしなくていいし、衣服も見苦しくないものを与えられた。食事に困ることは一切なかった。ベッドはアンティークで高級感漂う設えに、最高の寝心地を保障する最新のマットレスを置いてあった。一晩寝ると、数十年分の肩の疲れが取れたほどだった。枕の値段だけでも普通のサラリーマンの1か月の給料ほどもすると聞いて、驚くよりも呆れた。休みの日にはサンルームで一人で豪華な朝食を楽しむことができ、ゆったりと寛いだ後は、彼のために買ってもらったシトロエンで町に出ることも許されると説明を受けた。

 仕事のほうは噂通り最悪だった。
 セバスチャンは最低最悪の雇い主だった。24時間勤務とは言え、夜は自分のための別棟に帰ることができると聞いていたが、実際にはそういうわけにはいかなかった。セバスチャンが静かに眠っていてくれたらその通りになったかもしれないが、夜中に執拗に呼ばれ、やれ腕が痛い、足が痛い、腹が痛い、何とかしろと怒鳴り散らされた。もちろん食事は全介助が必要だった。車椅子で四六時中あちこちに連れて行くように命じられた。風呂に入れるのは重労働だったが、それを毎日求められた。ただの嫌がらせとしか思えなかった。動かないのだから毎日風呂に入る必要はないだろうと何度も言いそうになったが、呑み込んだ。

 最も苦痛な時間は、お茶の時間だった。
 本来ならこういう時間こそが相手を籠絡する良いチャンスだったが、セバスチャンには何ら効果を示さなかった。これまでムスタファは、この時間を利用して相手の話を聞いてやり、心を開かせるきっかけにしてきた。そして糸口を見つけると、自分の生い立ちや苦境を7割ほどのフィクションを加えて話し、相手の同情心を煽り、さらに社会に対する尊い奉仕精神を格調高く語ることを得意としてきた。ここまでくると、相手は自然に財布のひもを緩めていた。

 だが、セバスチャンはムスタファの話など聞こうともせずに、ひたすら他人の悪口を言い続けた。悪口の対象には事欠かなかった。これまで共演してきた大物女優、世界的にも有名な監督、学生時代の友人や恩師、自分の両親や親戚、病院の医師や看護師、雇った介護人や役所の人間たち、そして元妻たち。

「『禁断の恋』で共演したアリエル・ブラシェールはひどかった。演技なんてものじゃない。子どものお遊戯ほどのことしかできないくせに、あの大役を手に入れたのは枕営業のお蔭だ。清純そうな顔をしているが、下半身はどえらく下品だ。ベッドの上の声なんか聞けたものじゃない」
「ギュスターヴ・エモニエはカンヌで作品賞を取ったが、金に汚いコソ泥で、おまけにホモだ。あの注目を集めた『エスカルゴ街の人々』は盗作だぞ。学生時代に死んだ同級生が書いた脚本だ」
「俺がこんな体になったのはあの救急隊のボネって野郎のせいだ。最初に適切な処置をせずに俺を放置しやがった」

 明らかに出まかせの中傷だけでなく、よくもそんな細かいことを覚えているものだというほど過去の出来事をネチネチと語り、連中がいかに悪人かということを唾を飛ばして語り続けた。ムスタファが口を開くチャンスはまるでなかった。

 もちろん、セバスチャンは慈善事業にもまるで興味を示さなかった。自分の身体が不自由な分、様々な種類の助けを必要とする弱者の気持ちが分かる、何とかして助けたい、社会に貢献したいというような気持ちは皆無だった。さらに、民間信仰や民間医療といったものにも全く興味を示さなかった。
 ムスタファは自分が、今回初めてターゲットの選定に失敗したことを悟った。

 目的を達することができないと分かった後は、監獄のような生活だと感じられた。しかも運悪く、屋敷内の掃除・洗濯・料理を受け持っていた女中が、病に倒れて職を辞した。無口で働き者の彼女は、最後まで残っていたたった一人のティボー家の雇われ人だった。彼女の代わりは当然のことながら簡単には見つからなかった。こうして彼女の仕事はムスタファの仕事になった。

 掃除はすぐに諦めた。手を抜くのに最適な項目だったからだ。洗濯も溜め込んではまたセバスチャンの機嫌を大いに損ねた。料理だけは思ったほどに苦痛ではなかった。市場へ買い物に行くのはいい気分転換だった。
 市場の賑わいの中に身を置くと、そのままミシェルの事務所に行って、退職届を出そうかと考えた。林檎を齧りながら、ぼんやりと夕陽が街並みの向こうへ落ちていくのを見ていると、市場の隅で小汚い服装の子どもが数人固まって震えているのが目に留まった。
 今日だけはあの寝心地のいいベッドで寝ようと思った。

 もちろん、ムスタファがやられっ放しということはあり得ない。
 いつでも辞めてやるという気持ちになると、楽になった部分もあった。介護は乱暴になった。ベッドから車椅子にセバスチャンを移す時も物のように扱い、車椅子の上に投げ落とすようにしてやった。風呂も勝手に2日に1回と決めた。食事を口に運ぶのも、自分の食事を優先した。熱いスープに気が付かなかったふりをしてやった。

 どんなにセバスチャンが文句を言っても、彼が動けないことが分かっていたから、口だけの攻撃など屁と思えば屁だった。時には恨めしそうに自分を見るセバスチャンの前で、ゆったりと紅茶を味わったりした。セバスチャンの他人に対する悪口も、前衛音楽と思えば気にならなくなった。
 気分転換には、街に出かけて女を買ったり、賭博に行ったりした。決して少なくない額の給料は貰っていたが、1か月に1度、弁護士を通して支払われる給料日の前になると、ほとんど毎月底をついていた。

 星の数ほどの前任者が全て1週間ばかりで辞めていった中、こんなにも尽くしてやったのだから、いつかここから出ていく時には、少しばかり金目のものを失敬して行っても許されるだろうと思った。
 ムスタファは屋敷内の金目のものを物色した。絵画や装飾品の価値は分からなかったが、どれも見事なものに思えた。しかし持って行くには大きすぎると思われた。
 ミレーの『晩鐘』が暖炉の間に掛けられていたが、こんなところに本物があるわけはないし、どうやら模写のようだった。
 宝石類はセバスチャンの4人の元妻たちが全て持ち去ったのかもしれなかった。時計やタイピン・カフスなど、男性が身に着ける金目の小物は見つけられなかった。

 セバスチャンは、3日に1回様子を見に来るミシェルに食ってかかった。
「あんな男は即刻首だ。早く辞めさせろ。俺の言うことを全く聞こうとしない。最初だけ大人しい顔をしていたが、正体を現しやがった。あいつは詐欺師だ。ヤクザだ。クソだ。私を殺そうとしている」

 確かに詐欺師だ。ミシェルは腹の中で笑いつつ、真面目な顔で答えた。
「セバスチャン、何だかんだと言いつつ1年経つのよ。本当に辞めさせるとなると、彼には自分の雇用状況や解雇通告が妥当なものであったかを調べるよう当局に要求することができるわ。あなたの素行が健全とは言いかねることが白日の下に晒されたら、彼はあなたに慰謝料を要求することになるでしょうね」
「そんなことにならないようにお前を雇っているんだ。何とかしろ」
「ごめんなさいね。私、明日から休暇なのよ。1か月後にまた話を聞くわ」
 セバスチャンは、もしも手が動くならクリスタルの灰皿を投げつけやると思った。

 ムスタファはすっかり気持ちを切り替えた。
 そうだ、相手は口で何を言っても、手も足も動かせないのだ。哀れむには性質が悪すぎる男だ。これまで関わってきた全てのこと、他人から受けた親切に感謝の気持ちの欠片も持っていない。自分もろくな人間ではないが、あいつほどではないと断言できた。俺は少なくとも、これまで騙してきた哀れな老人たちには感謝している。セバスチャンは金がある分だけ、俺以上の悪人だ。

 ムスタファはセバスチャンを軽蔑し、軽蔑することで気分よく介護、いや半介護を続けた。
 気分が変わると、変わったことをしてみたくなった。敷地内に荒れた畑があることに気が付いて、苗を買ってきて植えるようにした。数か月後の予定を考えながら、新しい苗を買い揃えるのは楽しかった。故郷の畑を思い出した。オリーブに、オレンジ、ナツメヤシ、ジャガイモ、トマト。鶏も手に入れた。
 畑の作物のことを考えているうちに、1年が2年になり、また新しい年が巡ってきた。

Category: 明日に架ける橋(ヒューマン)

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【短編】明日に架ける橋(後篇) 

短編『明日に架ける橋』後篇です。
決して、元ネタが気持ち悪いくらい「いい話」だったので、天邪鬼になってバッドエンドにしようと思っているわけではありません^^; それなりにハッピーエンドです(^^)
それに状況設定をいくらか借りましたが、顛末は全く異なっており、中身は全くのフィクションですので、色々いい加減ですけれど、細かいところは目を瞑ってお読みくださいませ m(__)m
もう少し短く纏めるつもりだったのに、思ったより長くなってしまってすみません。

さてタイトルの『明日に架ける橋』ですが、有名なSimon&Garfunkelの『Bridge over Troubled Water』です。

When you're weary, feeling small
When tears are in your eyes,
I will dry them all

I'm on your side
When times get rough
And friends just can't be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

学生の頃はこんな素敵な友情・愛情に憧れたものでした。
今は? そんな簡単じゃないと思うのですね。
だから、半分皮肉で、残り半分は心から願って、このタイトルをつけました。

俺は心から君のことを思っているぜ!なんてのはちょっと苦手。
でも、平凡な人間が、あるいは普段は悪党みたいなやつが、気が向いて(気が変わって、じゃなく)、あるいはそんな気ではなかったのに偶然に、いいことをしてしまった、っていう話、大好きなんです。

もちろんその源流にあるのは『鬼平犯科帳』です。
そして、ものすごく好きな映画『シンドラーのリスト』。
あの映画の中で、シンドラーが始めは「ユダヤ人を救おう」という意識ではなく、「自分の工場には工員が必要だ(しかも安い給料で働いてくれる?)」的な、実に資本主義的考えでたまたまリストを作ったら……という歴史の中での大きな流れに飲み込まれて、結果論的にいいことをしちゃった、その不思議さに心を打たれます。
人間って、ほんと、終わってみないと分かりませんね。

だから、このお話も「あれ? 気がついたら、lay me downしちゃってたよ」ってのがミソ。

本当はもうひとつ、候補にしたタイトルがありました。
『Sound of Music』の『Something Good』……
実は片手に入るくらいのOne of my favorite songs……大好きな曲です。

Perhaps I had a wicked childhood
Perhaps I had a miserable youth
But somwhere in my wicked, miserable past
There must have been a moment of truth

For here you are, standing there, loving me
Whether or not you should
So somewhere in my youth or childhood
I must have done something good

Nothing comes from nothing
Nothing ever could
So somewhere in my youth or childhood
I must have done something good

因果応報? いやいや、でもこの曲をセバスチャンに捧げようと思います(^^)
では、そんなあれこれの想いを籠めて、後篇、お送りいたしまする。
(前置き、長いって!……す、すみません(・_・;))




 冬の間は、セバスチャンの病状は悪化することが多かった。
 特に腎臓は深刻だった。しばしば浮腫んで顔色もどす黒くなり、ムスタファがセバスチャンを乱暴に担いで病院に走ることも多くなった。点滴や導尿のために、数日入院することもあった。いずれ透析が必要になるかもしれないと弁護士からは聞いていた。
 冬には足や手の痛みもひどかった。夜中に何度も起こされて、足や手を擦り続けるように言われた。ひどい時は夜通し足を擦り続けた。

 だが、よく考えたら脊髄損傷で四肢は全く動かないし、感覚もないのだ。痛いはずがない。この野郎は俺を騙して嫌がらせをしているのだ。
 やってられないと思った。「半介護」に徹することに決めたムスタファは、夜中を過ぎたら自分の別棟に戻って、インタフォンの電源を切り、安眠を貪ることにした。

 そんなふうにして寝心地のいいベッドのスプリングを楽しめたのは数日だった。眠りについて間もなく、インタフォンの音が聞こえる。ムスタファは飛び起きた。
 あのくそったれ。どこまでも鬱陶しい野郎だ。
 だが考えてみたら、電源を切っているのだ。聞こえるはずがない。
 空耳だった。
 空耳なのに、そのままムスタファは眠れなくなった。

 結局、セバスチャンのいる本棟に様子を見に行った。寝室の外にまで、唸るセバスチャンの声が聞こえていた。耳を塞ぎたくなるような苦痛の声だった。
 ムスタファはそっとドアを開け、しばらく天蓋付の大きなベッドの脇に突っ立っていた。セバスチャンは胸を掻き毟るようにして、額に大粒の汗をかきながらきつく目を閉じたまま、歯を食いしばって唸っていた。
 ムスタファは何も言わずに、幻影に苦しむクソ野郎の何も感じないはずの足を擦り始めた。

 フランスの冬は、緑の野菜こそ少ないが、比較的野菜の種類は豊富だ。
 紫ジャガイモ、縮緬キャベツ、根セロリ、ベトラーヴ、ルタハガ。特に根菜類のスープは冬にはもってこいだった。
 根菜のトピノンブールはアンティチョークのような芳香があり、生で食べるとしゃりしゃりと歯ごたえもいい。これをジャガイモと一緒に茹でて皮をむく。葱の白い部分を少量のバターでゆっくり炒める。葱の青い部分も一緒にして、水と塩を加え、20分くらい煮る。ミキサーで滑らかにしてスープを作る。
 黒パンを浸しながら、セバスチャンの口に運んでやる。

 面倒くさい食事介助も、今では一番楽な介護になった。女中が辞めた後、こんなもの食えるかとムスタファの料理を罵倒し続けているセバスチャンも、畑で採れた野菜にだけは文句を言わない。
 スープはセバスチャンの口の端から零れる。それをタオルでふき取ってやりながら、ボケてもいない、頭のはっきりした大の大人がこんなふうに他人に口を拭ってもらったり、下の世話をしてもらうのは、本当に辛いことだろうなとムスタファは思った。

 だが、夜通し足や腕を擦るのはそろそろ勘弁してもらいたかった。
 そうだ。これで2年にもなるのか。これほど長くひとつの仕事場にいたのは初めてだ。吾ながら驚く。
 もうそろそろ潮時だろう。こうして若くて健康で何でもできるはずの俺が、人生のいい時間を、こんな監獄みたいなところでクソッタレの面倒を見て過ごすなんて、まったくもって信じられない。

 ここは大きいばかりが取り柄の幽霊屋敷だ。叫んでも誰にも声が届かない。がらんどうの様な場所だ。
 そうだ、いつまでもここでこんなことをしていてはだめだ。楽しくないじゃないか。
 思ったより長く勤めてしまったが、これは一つの吉祥だろう。
 パリに出てきてから、ムスタファは初めてラバトに帰ることを考え始めていた。

 辞める時には多少は金目のものをかっぱらって行こうと思っていたので、あちこちの部屋に忍び込んでは机や戸棚の中を引っ掻き回してみた。
 だが、簡単に金にできそうな宝石類は、やはり見つからなかった。
 仕方がないので、戸棚の中のアンティークの人形を持ち出し、買い物のついでに骨董屋に寄ってみた。骨董屋の主人は眼鏡の向こうから胡散臭そうにムスタファを見上げ、唇の端を吊り上げるようにして言った。
「あんた、これ、ガラクタだよ。その辺の露店で売っているようなものさ」
 その後も、壺やアンティークの置物、金の燭台を幾つか持ち込んだが、どの店でも返事は同じだった。金の燭台はメッキだった。

 ある日、ムスタファは弁護士のミシェルに呼ばれた。ミシェルはいつものようにぴっちりと髪を結いあげて、真面目な顔でムスタファを迎えた。
 この女も、あんなクソッタレの面倒を見なくちゃならないなんて、ご苦労なことだと思った。若くてそこそこ美人なのだから、他にもっと楽しむことがあるだろうに。

 セバスチャンの様子はどうだと聞かれたので、夜中に唸っていることと、病院に行く回数が増えたことを伝えた。
「麻痺してんのに、痛いなんてありえねぇだろ。全く、さすがに俳優だっただけのことはある。あんなふうに苦しい苦しい、って芝居を打たれると、優しい俺はついつい言うことを聞いちまうんだよ。あのくそジジイは俺に嫌がらせをしてやがるのに。つくづく俺は自分を哀れに思うぜ」

 ミシェルは面白い男を選んだものだと、吾ながら感心した。俳優はあなたの方ね、と思った。始めは善人の芝居をしていたが、この頃は本性を露わにしている。
「ムスタファ、あれは芝居ではないのよ。幻肢痛と同じようなものね。戦争なんかで脚を失った人が経験する、そこにはないはずの脚の痛み。詳しい原因は分かっていないけれど、脳の中のその脚に相当する部分が、支配するべき脚を失ったことに気が付かないまま働き続けているの。つまりコンピューターが更新されないまま動いているってこと。強力な電気を流して、万力で潰されるような痛みだというわ。セバスチャンの場合も、完全に機能を失った四肢なのに、脳のその部分はまだ活動しているのよ」

「幻の痛みなのか?」
「そう、幻なのに恐ろしい痛み」
 ムスタファには理解できなかった。だが万力で潰されるような痛みがどれほどのものかは、身をもって知っていた。ムスタファは潰れた左の小指をちらりと見た。
「それに、あんな身体だけれど、まだ50代よ。ジジイというのはちょっと酷くないかしら?」
 そう言ってミシェルは微笑んだ。
 こんな愉快な男もなかなかいない。コソ泥で詐欺師だが、何かをする時には自然と一生懸命になっている。まともなことをやっているかどうかは別にして。

「ところで今日あなたを呼んだのは他でもないの。ムスタファ、あなたを解雇することになりました」
 ムスタファは唖然とした。確かにこの1年以上、セバスチャンの動かない身体を物のように乱暴に扱ってきた。言われた時に言われたようにはしなかった。時々家の中から金目の物はないかと漁ったりもしていた。結果的にそんなものはなかったのだが。
 もちろん、そろそろ辞めるつもりだった。だが、こちらからいい条件で辞める時期を窺っていたのだ。それなのに、いきなり過ぎやしないか?

 ムスタファの泳ぐ目を見ながら、ミシェルはふうと溜め息をついた。そして、まぁ座りなさいと接客用の革張りのソファを指した。
「セバスチャンはさっさと首を切れと息巻いていたわ」
 そう言ってミシェルは笑った。頑固なあの男らしいと思ったからだ。
「理由なんか言う必要はない、退職金ならたんまりつけてやれって」

 ムスタファはソファに座った途端に落ち着かない気持ちになった。まるで小心な犯罪者が警察署に引き立てられたかのようだった。あるいは、生まれて初めて騙される側になった気がした。
「でもね、セバスチャンが言うほどのたんまりな退職金は払えないの」
 ミシェルに勧められた煙草を咥えたが、なかなかうまく火がつかなかった。
「あなたはあの大きな屋敷に暮らしてみて、何を感じたかしら?」
 がらんどうの屋敷だ。そう思ったが、ムスタファは言葉にしなかった。

「見ての通り、大きな屋敷だけれど、中身は空っぽ。もう金に替えることができる物はほとんど残っていない。これまであの人の言う通り、治療も介護も、身障者としての社会の恩恵に与らずに彼の私的財産でやって来た。でももう限界なの。彼はあなたや私への給料は意地でも払い続けたけれど、土地と屋敷は借金の抵当に入っているし、残った一部の値打ち物の家具や本を整理して、せいぜいセバスチャンの入院費が出るかどうかね」
「何だって?」
「つまり、セバスチャンは、あなたを雇った頃にはもう大金持ちではなくなっていたの。あなたは詐欺師だけれど、セバスチャンも立派な詐欺師だったというわけ」
「そうじゃない。入院ってどういうことだ?」
「腎臓が悪いのは知っているでしょう? それに前立腺癌だとわかったの。彼は入院も治療も拒否しているけれど、これ以上あのまま頑張らせるのは難しいと思うのよ。彼を説得するのは私の仕事だけれど、あなたにはこれ以上給料を払い続けることもできないし、それにこれからは、介護は病院の仕事になるわけだから」

 こうして突然仕事を失ったムスタファは、手元に残った金を暇潰しに何度も数えた。
 明日にはこの別棟も明け渡さなければならなかった。
 これまで貰っていた給料自体はほとんど賭博と女に消えていたので、僅かしか残っていなかった。確かにミシェルの言う通り、退職金はたんまりではなかったが、これだけあれば故郷に帰って小さな畑ならひとつくらい手に入れることはできそうだった。
 セバスチャンは無理をしたのかもしれないが、ムスタファのためというよりも、彼の慢心と見栄のためだろうと思えた。
 だが、ムスタファにとってこの金は懸命に汗水を垂らして働いて得たものという気がしなかった。そういう金はえてして身につかないものだ。

 最後にムスタファは、屋敷内の土地を自ら耕して作った小さな畑を見に行こうと思った。
 突然解雇されたので、春に収穫するはずだったアーティチョーク、アスパラガス、新玉ねぎや蕪がどうなるのか、少しだけ気になった。
 遠くから見ると、畑の畝には夕陽が凹凸の文様を描いていて、土の色は橙に染まっていた。土の中から込み上げるような野菜たちの命の温度が、空中で粒子となり、その粒子が天からの光を細かく跳ね返していた。

 ふと視線を移動させると、橙に染まった光の中で、黒い影が畑の傍にうずくまっているように見えた。目を細めてよく見ると、車椅子の影だった。
 ムスタファと車椅子の間の霞んだ空気は、粒子のひとつひとつが虹の色にもなり、またオレンジに煌めき、ゆらゆらと空に昇っていた。

 遠くに見える車椅子の影とまだ芽の生え揃わない畑の光景は、ムスタファにティボー家の暖炉の間にあったミレーの『晩鐘』の絵を思い出させた。絵の中で、夕陽に手を合わせる農村の人々は、神を信仰してというよりもただ自然への畏敬の念に導かれ、貧しさも豊かさも何もかも越えたところで祈りを捧げていた。
 模写で何の価値もないのだろうけれど、あれはあれでいい絵だったとムスタファは思った。

 少しずつ温度が下がり始めた夕闇の中、やがて車椅子に細長い影が歩み寄ってきて、車椅子の男に促すように話しかけ、そのまま一緒にがらんどうの屋敷の中に入って行った。
 それを見送りながらムスタファは胸の中で吐き捨てるように言った。
 あいつは俺以上の悪人で、他人を自分と同じ人間とも思っていない。とんでもない野郎だった。
 こうして、ムスタファは屋敷に背を向けた。

 ムスタファは洒落た白いスーツを誂えた。彼の黒い肌に白のスーツは妙に映えた。
 それを着て、彼は生まれて初めて高級カジノに足を運んだ。入口で一度止められたが、かつて詐欺の対象とした議員の名前を挙げ、彼の了承があることを確かめさせた。
 この退職金でまともな生き方をするのは自分のこれまでの人生に見合わないと思ったし、故郷に帰るつもりで飛行機のチケットを買いに街に出てみると、パリの街はやはり賑やかで明るかった。
 僅かばかりの畑で汗水を垂らしたとしても大した稼ぎにならないことを思うと、娯楽も何もない故郷での暮らしは恐ろしくつまらないものに感じられた。
 どうせ金など身につかないのだ。ムスタファは全額をバカラにつぎ込んだ。

 カジノから出てきたとき、ムスタファの持ち金は30倍になっていた。
 俺にもついにツキが回ってきたのだ。神は俺を見捨てていなかった。ムスタファは思わず空に向かって雄叫びを上げた。

 これだけあれば、故郷に帰ってもいい顔ができる。ラバトには帰らずに、パリの16区とはいかなくても閑静な住宅街にアパルトマンを買ってもいい。いや、いっそアメリカに行こうか。もしかするともっと刺激的で面白いことが待っているかもしれない。
 ムスタファは一週間、未来について希望に満ちた夢を見ながら、これまで泊まったこともないようなガードマンがいるホテルで楽しく過ごした。
 そして8日目の朝になり、美味いコーヒーを飲み干した後、世界を旅することができる飛び切りの車を買うためにホテルを出た。


 セバスチャンは屋敷もわずかに残る調度も全て始末して、ムスタファの退職金を作り、自分はひとまずミシェルの言う通りに入院した。
 彼は病院でも嫌われ者だった。造影やCT検査を受けるために検査室に行っても、訳もなく技師たちを罵倒し、看護師の扱いに常に抗議をした。治療は受けないと断固抵抗した。ミシェルはなんとか彼を説得しようとしたが、徒労に終わった。いくら相手が手足の動かない人間でも、その意志を無視することはできなかった。

 セバスチャンにはもう帰る場所はなかった。あれこれと身障者の社会保障手続きは済ませたが、それでも金の有る無しでその先の人生は雲泥の差となった。今や彼には財産と言えるものはなかった。代々受け継がれた土地も屋敷も、全て別れた女たちに持っていかれ、俳優として名を馳せた栄誉も霞のように消え去っていた。
 病院を出たところで24時間面倒を見てくれる介護人を雇える見込みはほとんどなかった。

 ミシェルには結婚の話があったが、時期を先延ばしにしていた。だがこれ以上は延ばせなくなった。妊娠していることが分かったのだ。しかも確認した時には既に4か月になっていた。生むことには迷いはなかったので、父の遺言ではあったが、これ以上セバスチャンの面倒を見ることはできないと告げるしかなかった。

 やがてセバスチャンは治療を拒否したまま、病院を出てモンマルトルに安アパートを借りた。日に3回、社会保障のルールに則って介護会社から介護士が様子を見に来る。30分ばかりセバスチャンの世話をして、目も合わさずに帰って行く。セバスチャンの罵詈雑言は相変わらずだが、介護士たちは耳に栓をしているかのようで、まるきり返事をせずに、能面のような顔で仕事をしていた。
 それでも、セバスチャンは何もかも他人が悪いと思い続け、何ひとつ改めようとしなかった。だから、誰も彼に同情をしていなかった。
 アパートの大家が飼っている猫までも、セバスチャンを胡散臭い目で見て、毛を逆立てた。猫までもが、来月、セバスチャンが家賃を払えるかどうか、危ぶんでいるように見えた。

 春になっても、夜には狭くて汚いアパートは冷え込んだ。夏になれば暑くて身体中が燃えるように感じた。熱中症で死んだ人間がいるらしいと、アパートの廊下で誰かが大きな声で話していた。秋になると一気に気温が下がり、身体から全てのエネルギーが吸い取られた。どうやら今年の冬は越せまいとセバスチャンは思った。
 ベッドに寝転んだままのセバスチャンは、車椅子に乗せてくれる家族も友人もなく、天井を見続けるしかすることがなかった。

 さっさとあの世からお迎えが来ないものかと日々思っていたが、意外にも四肢機能がなく動けない程度では、腐りかかった内臓と幻影に苦しめられる頭だけの身体であっても、簡単には死ななかった。
 幻肢痛は一段と酷くなり、時には排尿障害の悪化で医師が往診に来ることもあったが、それでもセバスチャンは生きていた。

 少ないとはいえ、食事をするから死なないのだろうと思った。頭と壊れかけた内臓だけでも、餓死はするものだろうかと真剣に考えていると、可笑しくなってきた。
 動かないのに栄養が必要なのだ。何も食べたくないのに空腹を感じることもあるのだ。消化管も腎臓も機能を諦めかけているのに、まだ心臓が動いている。幻の痛みに狂うことができるほどに、頭も冴えているのだ。

 こんな体になるまでは、好き勝手に生きていた。財産を食いつぶし、結婚していなくてもしていても、常に複数の女と付き合っていた。女だけではなく、友人たちをも馬鹿にしていた。
 思い返してみても、あの世にもこの世にも会いたい人間などいなかった。
 全く、つまらない一生だったと思った。華やかだったが、全て幻だった。
 銀幕の幻想に踊らされ、最後は動かない手足の幻影に苦しめられた。

 ふと、あの屋敷の暖炉の間の『晩鐘』を思い出した。
 あれは偽物だが、なかなかいい絵だった。だが、畑を耕し夕陽に祈りを捧げるような人生はセバスチャンには無縁だったし、今さらそんな人生なら良かったと憧れる気持ちもなく、そもそもそんなしみったれた人生はごめんだと思っていた。

 そろそろ最後の晩餐のことを考えようと思った。
 あのがらんどうの屋敷には何も惜しいものはなかったが、ムスタファの畑の春野菜だけは今でも心残りだった。冬が近くなり、思い出すのはトピノンブールのスープだった。
 あれを最後の晩餐にしたいものだと思った。
 セバスチャンは目を閉じた。まだ動かせる身体の部分が、ひとつひとつ機能を失っていくのだと思っても、何の感情も湧いてこなかった。

 それなのに、嗅覚というものは最後の最後まで残るものらしい。それに記憶との結びつきは、どんな感覚よりも鋭いという。
 ふん、まぁ、あれは美味かったと認めてやろう。
 セバスチャンはそう思いながら、もう染みの形の全てを覚えてしまった天井を見るために目を開けた。

「よう、くそジジイ。まだ生きていたか」
 セバスチャンは我が目を疑った。目の前にトピノンブールのスープがある。
 そして窓から差し込む夕日に染められて立っているのは、去年まで見飽きるほど見ていたハシバミ色の瞳を持つ浅黒い巨体だった。
「市場でトピノンブールを買いすぎちまったのよ。で、ここにくたばりかかったジジイが首から下が動かないまま寝てるって聞いたからよ、ちょっと寄ってみたのさ」

 例のごとく極めて乱暴にムスタファはセバスチャンの身体を起こし、背中に枕と毛布を丸めて身体を固定した。
 そして大きな体を壊れかかった小さな椅子に収めて、トピノンブールのスープをセバスチャンの口元に運ぶ。
 セバスチャンは口を閉じたままだった。

「おい、冗談じゃないぜ。せっかく作ったものが冷めちまって窓から捨てるなんてことになったら、俺はあんたをここから引きずり出してゴミ箱へ押し込んでやる」
 そう言って、ムスタファはセバスチャンの頑なな唇にスプーンを押し当てた。
 その香りと勢いにセバスチャンは思わず口を開けてしまい、結局むすっとした顔のまま、スープをすべて飲み干した。
 食事が終わると、ムスタファはよし、と言って立ち上がり、空になったスープカップを部屋のすみに置かれたまま長く使われていない車椅子に乗せて、軽々と持ち上げ、一度部屋を出ていった。

「じゃ、行こうぜ」
 セバスチャンはいつもの罵詈雑言を口にしようにも、あまりにも状況が呑み込めないでいた。彼はこれまで一度も、他人の都合で振り回されたり、他人のペースに合わせるという事態に自らを置いたことがなかった。
 ムスタファは以前のように軽々とセバスチャンを担ぎ上げた。以前と同じように物を扱うようで乱暴だった。
「貴様は私をここで殺す気か。私は今にも死にゆく病人だぞ。そんな乱暴に……」
 セバスチャンが言い終わらないうちに、二人は戸口を出ていた。

 今、目の前にあるのは大きくて真っ白なキャンピングカーだ。いや、夕陽でオレンジ色に染められたボディは魔法の馬車ほどに唐突で、滑稽で、希望に満ちていた。
「一体私をどうするつもりだ」
「あんたは以前俺を苦痛の職場という監獄に閉じ込めた。毎日、不協和音のミルフィーユみたいな悪口や雑言を聞かせた。だから、今度は俺があんたを監獄に招待するのさ。こいつに乗って、あんたの死に場所を探しに行こうぜ」

 キャンピングカーとしては破格のサイズだ。ほとんどバスと言ってもいい。車体は幾分低く作ってあり、ソファセットの奥にリクライニング付のベッドが見えていた。小さな台所があり、トピノンブールのスープを作った鍋が、まだそのままだった。シャワー室ではなくバスタブを設えてある。セバスチャンの車椅子は、所定の位置とでも言うように、入口の近くに上手く固定されていた。

 解雇されカジノで大金を手に入れた後、車を買いに行ったムスタファは、始め、砂漠でも走れるくらいの洒落た四駆を手に入れようと思っていた。だが、店の駐車場に停まっているキャンピングカーに目を奪われた。
 不意に、これならセバスチャンが車椅子ごと乗ることができるな、と思ったのだ。

 衝動で物を手に入れ、あっさりと失ってきたムスタファは、初めてこれから買おうとするものを調べつくし、吟味した。何度も店に足を運び、最終的に大型のキャンピングカーを手に入れ、1年かけて改造した。
 あのくそ野郎をどんなふうに迎えに行くか、その時あの高慢ちきな悪人はどんな顔をするかを想像してはニヤニヤした。車椅子の置き場所やリクライニングベッドの具合、首から下の動かない人間を風呂に入れるに必要な大きさなどを考えながら改造を進めるのは、驚くほど楽しかった。
 どうせあぶく銭なら、こんな使い方も悪くないじゃないか。

 ただひとつ心配だったのは、腎臓も悪く、癌だというセバスチャンがすでに死んでしまっていないかどうかということだった。以前入院していた病院に通院している気配はなかったし、介護会社もいくつか当たってみたが居場所は分からなかった。
 死んじまっていたら、俺のギャンブル運を自慢することもできやしねぇ。俺がついていたのは、あいつと違って、俺がいいことをしたからに決まっているのによ。
 ミシェルの勤める弁護士事務所にも行ってみたが、産休中の彼女には会えなかった。何より結婚したという彼女の居場所を探すのは、幸せに水を差すようで申し訳ない気がして、遠慮してしまっていたのだ。

 そして今、キャンピングカーの中には、赤ん坊を抱いた先客がいた。
「こんばんは、セバスチャン。相変わらず御機嫌は悪そうね」
 ソファに座ってすっかり寛いだ笑顔を見せているのは、ミシェルだった。
 パリの街を闊歩しているはずのキャリアウーマンは、髪を下ろし、化粧もほとんどしておらず、ラフなジーンズにダボダボのタートルネックのセーターを着ていた。

 セバスチャンを見つけられなかったムスタファは、役所に行き、離婚届を提出するためにやって来たミシェルと再会したのだ。
 ミシェルはシングルマザーとなり、半年間の育児休暇を取っていた。1年までは延長も可能だった。
「一体、君たちはこの私に何をしようとしているんだ」
「ムスタファに聞いたでしょ。あなたの墓場を探しに行くのよ。素敵な計画だと思わない? もっとも、あなたは私たちが考えているよりも長生きしそうだけれど」
「冗談じゃない。誰がお前たちなんかと。私を放っておいてくれ」
「あら、私たち以外の誰が、高慢ちきでいかれたジジイの死に水を取れるっていうの?」

 ムスタファはセバスチャンを、一人掛けの特注椅子に座らせて固定した。
「よし、じゃ、出かけるか。赤ん坊をチャイルドシートに、頼むぜ、ミシェル。くそジジイの罵詈雑言に赤ん坊の悲鳴のような泣き声、BGMも完璧だ。全く、地獄に行くのに相応しい旅になりそうだぜ」
 ムスタファはエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

 夕陽でオレンジに染まったバスのように大きな車のエンジン音に、大家の飼い猫が毛を逆立てて唸った。そして、オレンジから紅に色を変えながら勢いよく通りの向こうへ、パリの賑わう街並みの中から走り去っていくのを、しばらくの間見送っていた。




<元ネタの世界仰天○○物語>
脊髄損傷により四肢機能全廃のお金持ちAと、失業保険を求めているアルジェリア人Bのお話。
Aは24時間住み込みの介護人を探していて、面接でBを見て気に入る。
理由は「BがAを憐れだと思っていないから」
介護なんてしたことの無いBの扱いは乱暴だけれど、心根の優しい男。
Aの妻は不治の病。Aは看病に疲れていて気分転換にパラグライダー(だったかな?)に行って事故で脊髄損傷に。
妻を介護しなければならない自分が逆に介護される立場になってしまって、妻の見舞いにも行けないままになっていた。
それを知ったBはAを連れてAの妻の病院に通い、3人で心を通わせる。
やがてAの妻は他界。
冬になると幻肢通に苦しむAを見たBが、フランスからモロッコに移り住むことを提案。
AとBはモロッコで生活を始める。
モロッコの家を探しているとき、いつもBが選ぶホテルがあって、そのホテルの受付嬢にBはほの字だったよう。
Bは否定するけれど、その様子をみてAはBを解雇することに決める。
妻の遺言で「Bにいい人が現れたら、彼を解放してあげて」と言われていたからだ。
Bは拒否するけれど、結局ホテルの受付嬢と結婚して、故郷のアルジェリアへ。
そしてAは? 実はモロッコ人の女性と結婚。そして今も、AとBは交流しながら友情を育んでいるのだ!

いい人ずくめのお話でした(*^_^*)
Aもお金持ちのままだし、偏屈なジジイじゃないし。
Bも仕事がなかっただけで、コソ泥でも詐欺師でもないし。
けいさん(ブログ:憩)によると、映画にもなっていたのだとか。知りませんでした^^;

そうそう。
セバスチャンの『Something Good』は、もう金もないのに意地でも払い続けたムスタファの給料……だったのかしら?
そう考えたら、結構つまらない~~^^;
でも、その金がカジノで30倍??
いやいや、もう、世の中何があるのか分からないってことで。

ミシェルとムスタファ、いい感じじゃないかって?
それもまぁ、世の中、何があるか分からないってことで。

結局、いい人の話なんじゃないのって気もしますでしょうか?
いやいや、これは「腐れ縁」「どこかで死んじゃってたら寝覚めが悪い」って話なんですよ。
(いい人たちの話だって認めたくないところが天邪鬼^^;)
でも、書きながら、トピノ(ナ)ンブールのスープを無茶苦茶飲みた~いと思って、そこだけは自己満足です。

トピノンブールとは、日本で言うと、菊芋。
レンコンみたいな歯ごたえで、水分の多いしゃきしゃきした芋。見た目は生姜みたいな形?
匂いは、アンティチョークみたいだとか。

……何はともあれ、ここまで読んでくださいまして、本当にありがとうございました(*^_^*)

Category: 明日に架ける橋(ヒューマン)

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