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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【死と乙女】(1) 春・金の卵 

始めはカウンターを設置していなかったのですが、改めて置いた2013/6/18から訪れてくださる方がもうすぐ2000になります。ありがとうございますm(__)m
でも、これは500Hit記念に頂いたリクエスト。
Scribo ergo sumの夕さんから「指揮者が出てくるお話」としていただきました(^^)
夕さん、遅くなってしまってすみません(..)

が、指揮者ネタがあるようなないような、だったので、ある指揮者の若かりし頃、ということにしていただきました。ただ今、ウィーンの音楽院ピアノ科の学生です。
相川慎一。相川真の息子です。2歳の時に父親が亡くなり、5歳でローマのヴォルテラ家(大和竹流が戻っている)に引き取られ、14で日本にいる母親を亡くしています。

彼の音楽のルーツは、一時引き取られていた富山享志・葉子夫婦(真の従妹と親友カップル)でしょうか。
その享志が登場する短編はこちら→8月の転校生
葉子が東京音楽大学のピアノ科を卒業して、ピアノの先生をしています。
母親代わりの人の膝の上でピアノを聞いていたのがルーツですね。
ヴォルテラ家に来てからは本格的に教師がついています。結構規格外の教師ばかりですが。
ちなみに、ジョルジョ・ヴォルテラ、ピアノが弾ける人です。
そして、父親の真は津軽/三味線を弾いていました。祖母が民謡歌手なので、主に唄付け(伴奏)ですが。
慎一の中で邦楽が意味を持つのはもう少し先のようです。

ローマで育ての親と精神的葛藤がものすごく、そしてまたある事件をきっかけに精神に障害(簡単に言うとPTSD)を持つようになった彼は、しばらくイタリア北部の子どものためのサナトリウムに入所しておりました。
その後ようやく落ち着いて、ひとりで生きていくことを決め、ウィーンにやって来たというわけです。
多分、心はローマに残ったまま。

さて、18禁シーンは出てきませんが、匂わせるシーンは出てきます。
相手については、今はまだ深く突っ込まないでください。
この子、本当に頼りないんです。あの人が、かなり過保護に育てていますから……世間知らずと言うのか。

では、around 2000(millennium)の物語です。お楽しみください(*^_^*)
全何回か? 多分、7回くらい? B5ノートに31ページで、今回4ページ分です。
大幅に加筆・修正していますので、少し長くなるかも。
参考までに、友人同士で作っていたコピー誌でこの原案を連載していたのは1986年でした。びっくり。
当時のほうが、クラシック音楽のことはよく知っていたと思います。
だから加筆しているうちになんちゃってクラシック・なんちゃってウィーンになると思うのですが、見逃してやってください。じゃなくて、ご指摘・ご指導くださいm(__)m
思えば、カラヤンが最後に来日した演奏会を聞きに行ったのもあの頃……
(地球か、何もかもみな、懐かしい……の気分^^;)

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「君にとってはあれが金のタマゴだというわけだ」
 背の高い灰茶色の髪の男が、ノイブルガーのグラスを傾けながら、皮肉とはっきりと分かる口調で言った。ロッキングチェアの上にクッションを背もたれにして、深く腰掛けて静かに揺らせている。目は青みがかった濃い灰色で、どちらかというと黒くも見える。幾分かウェーヴした髪は、いつもなら手入れが行き届いていないのだが、必要な時には短く切り揃えられて整えられる。彼にとって、今日はその必要な時だった。

 人を寄せ付けない男だと言われているが、決して人嫌いではない。ただ面倒なのだ。自堕落に暮らすにはプライドが高すぎるし、仙人になるには好奇心も強く、切れる頭を持っていて聡明でもある。何かに対して才能があるというわけではなかったが、金と財産だけは彼の手に余るほどだった。

 彼が書斎に人を入れるのは珍しい。
 いや、今日の場合は彼に選択肢はなかった。何故なら目の前にいる女は、彼の習性を知っていて、始めから遠慮をする気などなかったのだから。
「タマゴですって? あれは立派な雄鶏よ」

 腰まである長いハシバミ色の髪を、今日は結いもせずに流したその女は、向かいのソファに腰かけて足を組んでいる。少し痩せ過ぎなことと、髪と同じ色の目がきついところを除けば、申し分のない美女だった。
「で、今さらテオドール・ニーチェについて何を書けというんだ? 申し分ない! 素晴らしい! 最高級のサラブレッド! 半世紀に一度の逸材! 聴けば分かる。それを否定はしない」
「気に入らないのね、そのサラブレッドが」
「気に入らない? 恥ずかしながらこの歳になって、あんな若造のピアノに泣かされたことすらある。だが、まぁ、そうかもしれん。気に入らないんだ。彼は完璧だ。人間業とは思えない」

 女はソファから身を乗り出した。
「その完璧な若造のロマンスなんていかが?」
 男は顔をしかめた。ノイブルガーの最後の一口を飲み切ると、サイドテーブルにとんとグラスを置く。
 音楽家の私生活など真っ平だ。どうせろくなものではない。音楽が良ければいい。
 ずっとそう思ってきた。

「パリのコンセルヴァトワールのブレヴァル教授の娘を知っているでしょ。去年のショパン・コンクールでニーチェと一位を争った娘よ。あら、そう言えば、いつも辛辣なあなたが珍しく感傷的な評を書いていたわね。ピアノから零れ落ちた音に指で触れることができるような、まさに絹のようなピアニシモ、だったかしら? ニーチェを追いかけてこっちの音楽院に編入してきたくらいだから、相当ご執心よ。よく父親が許したことね」

 女は昔から、彼の書いた評の言葉を覚えていた。時には一字一句暗誦し、ダメ出しをする。編集者だから当然のことかもしれないが、周囲の者は彼女がこの男に執心していると思っていたようだ。そして、それは嘘ではなかったし、二人には蜜月の時もあった。
 もっとも、男の方は今の女の気持ちには敏感であるとは言い難かった。

「君の欠点は想像力が豊かすぎることだ。アネット・ブレヴァルがテオドール・ニーチェのピアノに心奪われたとして、何が悪い? テクニックのひとつも盗み出したくなるほどに、テオドールの音が素晴らしいということだろう」
「私の想像にはいつも根拠があるのよ。あの娘の目は音楽だけじゃない、雄鶏そのものを求めている。ねぇ、しばらくニーチェを追いかけてみない? あの鉄壁の心が動くとしたら、実に興味深いわ」
「いつから三文雑誌の編集者に成り下がったんだ?」

「とんでもない言い種ね、ヴィクトル。恋愛が藝術にどれほどの効果をもたらすかということよ。伝統的な古典音楽の大作曲家や演奏家にも、今までさんざんスキャンダルがあったじゃない。それがコマーシャルになって売れる。売れて初めて多くの人間の耳に届く。もしかしたらクラシックになんか興味のない者も、レコードやCDの一枚でも手に取ってみようって気になるかもしれない。ニーチェもアネットもルックスはそんなに悪くないし、売り出し方によってはビッグなカップル、そしてビッグなビジネスになるわよ。ニーチェが実力のある演奏家だということは認めるわ。でもそれだけじゃダメ。あなただって、何だかんだと言いながら興味があるでしょう」

「そりゃあ、まぁな」
 男はまだ何か口の中に言いたいことをためていたようだが、珍しくその辛辣な口を閉じてしまった。女はそれを見て立ち上がる。
 背も高い。やや面長で鼻筋の通ったゲルマン人美女らしい顔が、立ち上がった時により映える。
「さて、そろそろ行かなくちゃ。あなたの気が進まない理由は知ってるわ。あなたの大事なもう一つの金のタマゴが黙っていないと思うからなんでしょう」
「何の話だ?」

 女がまだ帰る気がないことは、男には分かっている。男は煙草を引き抜いた。引き抜きながら、ちらりと部屋の片隅の柱時計を見る。
「また時計を気にしているわね」
「お前が俺の昼食を取り上げた」
 本当なら、今頃は彼のポンコツ車でグスタフの店に着いているはずだった。男の少ない交友関係の中で、美味いステーキを食べさせてくれるのはグスタフしかいない。

「ヴィクトル、あなたは昔はうちの新聞社の音楽欄担当者に過ぎなかったけれど、今は違うわ。署名入りの評を、どの新聞にも雑誌にも高い値で売りつけることができる身分なのよ。そのあなたが若い音楽院生を囲っている、そっちのほうがよほどスキャンダラスだと思う人間もいるのよ。ものになるかどうかわからないうちから著名な評論家に身売りしている、そういう噂もないわけじゃなくてよ。彼の将来を心配するなら少し考えた方がいいわ」

「だったら、どこかで別の評論家を雇って書かせたらいい」
 珍しく男が荒々しい言葉を吐き出したので、女が驚いたような顔をした。男は軽く舌打ちをした。
「言わせておくがいいさ。あいつはニーチェのように立派な雄鶏になるタイプじゃない。だが、お前にも少しは耳があるんだろう? 今年の特待生試験でも覗きに来るといい。今年はブレヴァルと彼の一騎打ちになるだろうからな」
「随分な入れ込みようね、ヴィクトル。まぁ、私が口出しをすることじゃないし、お好きなように。人嫌いのあなたがそんなに惚れ込むのには訳があるのでしょうけれど、感心できないわね。昼食を取り上げてごめんなさいね」

 女は気位が高く見下ろすような、それでいて優雅な態度で暇を告げた。男は女を玄関まで見送ることもしなかったし、女の方もそれに慣れていた。
 女が出ていくと、男はやっと一息ついて、剃りたての首の後ろを無造作にかいて、それからようやくロッキングチェアから降りると、煙草を消した。
「テオドール・ニーチェのロマンスねぇ」

 世間は退屈している。音楽界も同じだ。いつもチヤホヤする、もしくは叩きのめす対象を求めている。
 男は昨夜書き上げたテオドール・ニーチェのミニコンサートに対する評論の原稿を取り上げた。今見てみると、昨夜の興奮に乗じた拙い文章に思えて、破いてしまった。

 そうだ、彼女は大事な点を見過ごしいてる。
 いくら天才とは言え、簡単にはあんな音は出せない。あの表現力は天性の才能や練習だけから来るものではない。ニーチェはもうずっと前から、苦しい恋をしている。
 だが、誰に? 少なくともそれはブレヴァル教授の娘ではない。
 追求してみたいという好奇心もないわけではない。
 だが、今男の心を占めていたのはニーチェではなかった。
 男は探偵を雇っていた。こんなことはまるで初めてだった。


 ヴィクトル・ベルナールはフランス人だが、伯父がオーストリア貴族の女性と結婚したが一人息子を亡くし、紆余曲折の後、養子に迎え入れられた。従って今の正式な名前はヴィクトール・ベッケンバウアーだが、評論を書くときは元の名前を使っている。
 伯父は亡くなったが、気難しい未亡人の相手をする者は他に誰もなく、今はヴィクトルだけが夫人との会話が可能な人間だった。もっとも、夫人は普段ザルツブルグの領地に一人で住んでいて、特に寂しいわけでもないらしく、下手にご機嫌伺いにでも行こうものならかえって機嫌を損ねるので、つかず離れずで距離を保ちながら生活している。

 ベッケンバウアー家はザルツカンマーグートの湖の近くに古くからの領地を持ち、遊覧船とホテルを所有し、他にもいくつかの湖に遊覧船を浮かべていて、何もせずに遊び歩いていても、一生を数度は繰り返すに足るだけの財産があった。未亡人も、養子にあれこれと事業に口を出されるよりは、優秀な雇い人達に経営を任せることを好んだので、ヴィクトルは結婚もせず、適度に財産を食いつぶして浮世を楽しんでいる。
 おそらく堅気の世人の覚えはめでたくないのだろうが、一種の風流人の間では彼の生活は粋で当世風で気が利いていると思われているらしい。本人は何にも頓着していない。

 ヴィクトルがサンルームに降りて行ったとき、彼の『金のタマゴ』である相川慎一はまだ書庫の中でベートーヴェンにかじりついていた。
「Guten tag. ご機嫌はいかがですか?」
 サンルームから梯子の下の書庫にいる慎一に話しかけても、何の反応もない。

 朝早くからここに閉じこもって、どこかこの世ではない楽園を彷徨っているような、紅潮しふわふわと浮いたような表情で本を読みふけっていた。もう何度も読んだ本もあるだろうに、子どもが小さい頃に読んだお伽噺を大事に温めるように、繰り返し繰り返し想いを過去へ、未来へ運んでいる。
「シンイチ、三時だぞ。昼食にしては遅いが、食べに出よう。……おい、生きているのか?」
「……」

 伯父は無類の音楽好きだったが、耳が良かったというわけではない。本人も分かっていて、そのことでコンプレックスを抱いていたのか、ヴィクトルの耳を頼りに、知識だけは他人に引けを取るまいとかき集めたのがこの本の山だった。偉大な、あるいは知られていない音楽家の伝記や手記の類は、ここに見当たらないものはないほどで、音楽院の図書館にも負けていない。時には講師たちがここに本を借りに来る。古いスコアも同じだった。

 書庫は半地下になっていたが、梯子を上るとそのままサンルームに続いている。書庫へ降りる扉が床で開いたままになっているので、サンルームにあふれた余韻が梯子の下にまで零れていた。その光の中に座って梯子に凭れたまま、慎一はまだ夢の中に彷徨っている。
 この世ではない夢幻の世界を描き出しているのは、彼自身だということにも全く気が付いていない。

 そこから連れ出すのは野暮だろうが、朝食も抜いているのを知っていたので、放っても置けない。梯子を上から叩いてやると、慎一はやっと顔を上げてヴィクトルを見た。
「戻ってからまた読めばいい」
「……あ、うん。今、何時?」
「三時」
「もうお昼、食べたの?」
「まだだ。俺も客が来ていてね」

 慎一はようやく名残惜しそうに本を閉じ、ちょっとふらつきながら立ち上がり、書棚に本を戻しに行った。
 全く、梯子を上る時間も惜しいほど本にのめり込めるなんぞ、頭の構造はどうなっているんだ。ヴィクトルは一旦視界から消えた慎一が梯子の下に戻ってくると、まだ足元がふらついている彼を助けて引き上げてやった。
「お客さんって、誰?」
「ユーディット・マンハイム」
「ユング社の人?」
「あぁ。ほら、行くぞ。上着は?」
「えっと……」
 少しサンルームを見回してから、困ったような顔をする。無邪気というにはあまりに無自覚の、残酷で罪のない横顔だった。
 生活という意味においてはヴィクトル自身もかなり落伍者だという自覚はあるが、この子はそれを上回る。

 もう一つの金のタマゴだと? こいつは金のタマゴから出てきた醜いあひるの子だ。卵から孵っても誰も気が付かないだろうし、自分が黄金の白鳥になって、湖に映る自分の姿を見た後でも気が付かない可能性がある。
 だが、もう一羽の黄金の白鳥は既に仲間を嗅ぎつけただろう。テオドール・ニーチェはそういう点でも他の連中とは違っている。こ憎たらしい話だ。

「走って来たんだ。だから持ってこなかったかも」
 土曜日の朝、慎一はいつもウィーンの街中の下宿からヴィクトルの住む郊外のこの屋敷まで走ってくる。敷地に入る抜け道を教えてあるので、誰に断ることもなく入ってきて、勝手に書庫に籠っている。この屋敷に住みこんでいる古くからの使用人夫婦は、主人に言われるまま、土曜日の早朝には書庫に一番近い勝手口の扉の鍵を開けておいてくれるのだ。
 無表情で愛想の悪い老夫婦だが、慎一には奇妙に優しい。

 ヴィクトルは彼らに慎一のための上着を持ってこさせた。さすがに慎一にはかなり大きいが、ないよりはいい。春とは言え、夕方には風が冷たくなるだろう。
「この間のテオドールのミニコンサートの評の話?」
 慎一は自分には大きい上着の裾に手が半分以上隠れてしまうのをちょっとだけ気にするようなしぐさをして、すぐに諦めた。そのまま歩き始めたヴィクトルを追いかけてきて、横から見上げて問う。

 全く、この残酷な無邪気さはどうだ。頼りなく儚く見えて、つい手を差し伸ばしてしまう。だが、その内側にある強靭な竹のようなしなりは、いつもヴィクトルの胸を締め付けた。

 華奢な体で、肩も首筋も、もうすぐ十八だというのにまだ成長期の途中なのではないかと思わせる。短く切った髪は黒いが、目は微かに明るい碧のような色合いだった。しかし、本人は純粋な日本人だという。美少年という言葉はあまり適当ではないが、惹きつけられるような何かを、その目の内側に持っている。
 何かの拍子に口から出る言葉がイタリア語である理由は、まだ本人の口から直接は聞いていない。
 一体どこの誰がこんな間の抜けた子どもに育てたんだ。親の顔が見てみたい。

 そう心のうちで悪態をついてから、ヴィクトルは零れそうになった溜息を飲み込んだ。
 その謎を今、解こうとしている。何か禁断のものに手を触れようとしているような、そんな緊張感があった。
 それでも、音楽の話だけは別だ。もっと技量の劣った学生でもこの子の数倍、いやあるいは十倍、ライバル意識を持ち合わせているだろう。向上心や功名心は、この世界で生き残っていくためにはある程度必要だった。

 もっとも、本人に言わせると「ものすごく意識している」という。でも彼は本当にすごいんだから、どうしようもないよ、とこれもまた例の間の抜けた調子で言うのだから、ヴィクトルにはライバル心を煽る糸口が見当たらない。
 心酔する気持ちも分からなくはないのだが。
 だが、どうあれ、この世界で生き残らせたい。それはヴィクトルの野心でもあった。

「春だね。さっきサンルームから覗いたら、庭の奥の水仙がもう咲き始めてた」
 そう言ってから、慎一はちらっとヴィクトルを見上げる。
「ねぇ、ヴィクトル、何か怒ってる? ランチタイムに間に合わなかったから?」
「お前ね、もう少し意識したら?」
「何を?」
 玄関を出て、車庫のシャッターを開ける。ポンコツだがよく走る青いビートルが、何だか嬉しそうに見える。
「仮にも同い年でマエストロ級の扱いを受けようという奴もいるんだぞ」
「だって、器が違うよ」

 これだからな。説得しても仕方がない。
 あ~、いらいらする。
 ヴィクトルは頭をかいて、ワーゲンの扉を開けた。
 ユーディットの話も話だし、こっちはこっちで一向に功名心がない。かといって、お前には功名心がないのかと聞くと、本人はそれは僕にもあるよと言う。全く堂々巡りだ。

「せめてコンクールのひとつにも出てみないか?」
 エンジンをかけながら、ちらりと助手席を見ると、慎一はまっすぐ前を見たままだった。
 とても自分など、と思っているのか。いや、その真剣な横顔には、時々光が射す。自分の才能への自負心と恐怖心が拮抗して、一種の麻痺状態に陥っているのかもしれない。

 こいつの音楽には一種独特の響きがあるのだ。あの響きを、どこかにぶつけさせたい。
「そうだね」
 だが、帰ってきたのは、いつものように曖昧な返事だった。

 車が領地を出るまで、しばらくは若草が風に薙いでいるのが見えている。慎一は窓を開けて目を閉じ、草の匂いを嗅いでいるようだった。
「特待生試験が終わったら、そろそろ考えてみるんだな」
「……うん」
 車が石畳の道に入ってからは、時々不用意に跳ねるので、喋ると舌を噛みそうになる。二人ともその後はずっと黙っていた。街が近づくと、ヴィクトルは大きく肩で息をついた。

 初めてヴィクトルの屋敷にやって来たあの夜から、慎一はある一部分を彼に所有させながらも、その内なる光をどこへも吐き出さないまま、静かに身体の奥深くで灯し続け、ヴィクトルにもその光が見えないように背中を向けて、覆い隠しているような気がした。


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 あの日、古いホイリゲのアップライトピアノを弾いていた、まだあどけないような少年の背中を思い出すと、ヴィクトルは今でも抱きしめたくなる。

 観光客用にヨハン・シュトラウスの曲をアレンジして弾いているのを聴いた時には、酒場で聞くにしては上手いと思っただけだった。そして、いくつかポップな曲をリクエストに応じて弾いていた時、子どもがどうしてこんなところで小銭を稼がなくてはならないのだろうと思った。

 ホイリゲの主人はにやにやするばかりだった。音楽院のピアノ科の学生だというのを聞いて、感心できないと思った。こんな酒場でピアノを弾く必要がどこにある? そんな暇があるなら、家でしっかりと基礎のトレーニングをしたらいいと言ってやったが、主人は、そんな金持ちの学生ばかりじゃないさと言った。

 苦学生か。言葉の響きはいいが、この世界にはレッドカーペットがある。舞台に上がる前にそのカーペットに触れることもできない人間の方が多い。こんな酒場でピアノとホールのバイトをしているような子どもには到底届かない世界だろう。

 同じようなことを思う人間がいたらしく、どう見ても上品で気取った、そして意地悪な客がリクエストを申し込んできた。子どもに、自分の実力を思い知り、さっさと尻尾を巻いて国に帰るように促すつもりのようだった。
 主人はやはりにやにやするばかりだった。少年はちょっと困ったような顔をした。リクエストをした紳士は鷹揚に笑っていた。

 その時聴いたベートーヴェン『熱情』の第三楽章を、ヴィクトルは今でも耳の中に残している。

 彼が困ったような顔をしたのは、その曲がこの場所に相応しいとは思わなかったからなのかもしれない。リクエストをした紳士の表情がみるみる変わっていった。
 だが彼は紳士だった。少年に余るほどのチップを渡し、腕を優しく叩き、君は将来をきちんと考えるべきだ、と告げた。少年はまた困った顔をした。

 どうだい。俺が見つけた金のタマゴだ。
 ホイリゲの主人はアップライトピアノをグランドに変えるつもりなのだと言った。彼には音楽の都に住む者として、未来の音楽家を発掘し支援するという自負心があった。

 あれからヴィクトルはそのホイリゲに何度も通った。
 少年は時には子守唄のような優しい曲を奏でた。ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』、パッヘルベルの『カノン』、シューベルトの『セレナーデ』のピアノアレンジなどは女性に幾度もリクエストを受けていた。
 彼が弾くリストの『ラ・カンパネラ』はヴィクトルの好みだった。ヴィクトルは、技術を鍵盤に叩きつけるように連打する弾き方を好きではなかった。少年の指はまるで鐘は鐘でも、釣鐘草を思わせるように撫でるように優しく鍵盤の上を駆け巡り、しかし魂の底の方で確かに響き残る鐘の音を聴くものに感じさせた。

 だが、忘れられなかったのはあの『熱情』だった。
 あのベートーヴェンはどこかで聴いたことがある。苦しく辛く重く絶望的でいて、奥深くに希望と信念と、今にも迸り出ようとする、まさしくパッションが潜んでいた。こんな子どもになぜ、あの『死』と『生』の狭間のような音が出せるのだろう。

 二度目に彼があの音を聴かせたのは、店が跳ねた後、誰に聞かせるともなく弾いていた『テンペスト』のやはり第三楽章だった。ヴィクトルはたまらなくなって声を掛けた。

 少年は言葉が不自由なのかと思うほど、喋らなかった。後で、ドイツ語はちゃんと聞き取れるのだが、この国に来るまであまり喋る機会がなかったので、自分から言葉を紡ぐことに躊躇があるのだと分かった。
 その時はまだ、ヴィクトルは彼のルーツが日本だと思っていた。

 だが、何を聞いても彼は日本のことはほとんど知らなかった。日本語を話せないわけではないようだが、一度日本人観光客に話しかけられて困ったような顔をしているところを見かけた。
 反対に、自分から話しかけるのではないが、イタリア人観光客とは滑らかに、リラックスして会話を楽しんでいた。
 とは言え、いずれにしても言葉に想いを乗せるのが得意な人間ではないようだった。

 語らない分だけ、ピアノが語る。
 引き込まれた人間を決して離さない、深い湖が、彼の内側にあった。
 そしてその夜、ヴィクトルは彼を手に入れ、そしてさらに踏み込めない深みがあることを思い知らされた。





さて、夕さんの物語のようにヨーロッパの香り漂う物語になりますかどうか。
(ちょっと難しいかな……)多少は大目に見てくださいませ。

途中の写真のピアノはうちのYAMAHAです。
本当はBösendorferであるべきなんでしょうけれど。

ところで、次のキリ番は2222です。
それまでには終わりたいです^^;
無理かなぁ…(無理そう…^^;)

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Category: ♪死と乙女(連載中)

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【死と乙女】(2) 胎動、特待生試験 

かなり真面目なクラシック物語になってしまっています。
のだめみたいにもっと笑いを増やしたいのですが、ついあれこれ思い入れが…^^;
モーツァルト弾いている時はまるでのだめ風に、ちょっと阿呆丸出し(いい意味で)になっていますが、音が聞こえるような物語になっていたらありがたいです。
(と言っても、のだめさん、実はあまり真面目に読んだことがなく、中途半端な知識です…すみません^^;)

今回の曲は
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番
 第2楽章の最後、ロマン・ロランが天国への階段だったか上昇だったか、と表現したトリルが……
モーツァルト ピアノソナタ第11番
 第3楽章がかの有名なトルコ行進曲です。





 特待生試験は一週間後に迫っていた。
 合格すれば一年間の学費は完全に免除、上手くすれば生活費も半分は面倒を見てもらえるという純粋な試験の一面もあったが、実際にはこれはイベントだった。試験という名前の新人発掘オーディションのようなものだ。
 職人とは違って、長い経験がキャリアとなり演奏家を一流に仕立てあげるという世界ではない。要するに売り出すことが可能な才能を発掘することが目的なのだった。

 だから、この試験は一部の部外者に対しては公開されている。つまり、プロのオーケストラやオペラ劇場、舞台のプロデューサーや音楽監督などの責任者、テレビ局や新聞社の音楽担当、署名入りの評をある基準以上の雑誌に載せることのできる評論家、つまり学校が付き合っていく中で、将来に向けてメリットのある有力者が招待されていた。
 そして、数年前から、ヴィクトル・ベルナールもその招待状を受け取る光栄に浴している。

 その頃、慎一は毎日ヴィクトルの屋敷に通ってきていた。
 彼の下宿の女主人は若い音楽家を育てることを趣味にしているようで、音楽院の学生というだけで賃貸の契約条件の半分はクリアするのだが、さすがに下宿にグランドピアノを持ち込むスペースはない。
 慎一もベーゼンドルファーのアップライトを借りていたが、大きな試験の前にタッチの違うピアノで練習することはマイナス以外の何物でもない。練習環境が整わないという時点で、この世界では既にスタート地点に立っていないのと同じだった。

 慎一が毎日来てもいいかと尋ねた時、ヴィクトルは顔には出さなかったが大いに喜んだ。幾らかはやる気になっているのだろうと思ったからだ。ヴィクトルは直ぐに信頼のおける調律師を呼んだ。調律師はこの間来たところなのにと不思議がったが、ヴィクトルは一厘の狂いも許せないので、毎日でも来させるつもりだと答えた。調律師はますます不思議そうな顔をした。

 多分慎一にとっては死活問題なのだろう。他の学生にとってはこの試験は名を挙げるためのステップだろうが、慎一にとっては授業料という大きな現実がある。だが理由などこの際どうでもいい。切羽詰っていればいるほどいい。
 もっとも、あくまでも言葉はきつく、意地悪な言い方をした。
「その代わり、拙い音を出したら蓋を閉める。俺は騒音には耐えられない」
 慎一はしばらくヴィクトルの顔を困ったように見ていたが、やがて唇を引き結んだ。
「わかったよ」

 おかげで、しばらくの間ヴィクトルは至福の時間を過ごすことができた。
 ホイリゲで弾くような曲ではなく、死活問題の絡んだ試験のための練習だけに、一曲一曲に集中しているのが分かる。

 毎年出るとは限らない合格者にはいくつかの特典が提供されるが、授業料の免除だけではなく、コネでもなければとても授業を受けることができないような名教授のレッスンが受けられるかもしれないのだった。もっとも、そういう名教授の多くは気難しく、実際にレッスンを受けることができるかどうかは、その後いかにうまく交渉するかにかかっていたりするようだ。

 ピアノ科ではリーツマン教授がその人だった。
 還暦もとっくに越えていたが、半年に一度行われる演奏会のチケットは全くとることができないという。拙い演奏を聴くと、授業でも演奏会でも椅子を蹴って席を立つという伝説があった。

 一次試験で各科の受験者は五人に絞られる。ピアノ科の課題はバッハ『ピアノ協奏曲第一番』とベートーヴェンのピアノソナタだった。ベートーヴェンは何が来るか分からないという話だったが、こういうものは大抵情報が確信犯的に漏れ出すもので、今年は後期三大ピアノソナタのどれかだという「確かな風評」が流れてきた。

 慎一からそれを聞いて、ヴィクトルは年々嫌がらせがひどくなってきていると思った。ショパンもリストもないこの試験の意味合いは容易に推し測られる。そもそも最初のバッハで大概は振り落す気なのだ。
 弾くこと自体は難しくはない、だが全くごまかしがきかない曲をメインに並べてくる。その中にこうして若さだけではどうしようもない曲を混ぜ込んでくるのだ。

「バッハはもっとタッチを揃えろ。シンプルに、できるだけシンプルに」
 慎一のバッハを初めて聞いたが、どうにも色が付きすぎていると思った。いや、もしかすると、当時のバッハの曲は教会の中であのステンドグラスから零れ落ちる光の競演を音にしたものかもしれないのだが、多分一次試験の審査をする連中はそれを求めてはいない。
 その最初の関門は、簡単そうでいてなかなか越えられないものだろう。

 慎一はむっとした顔をして、何かを言いかけたが、すぐにじっと鍵盤を睨んだかと思うと、ヴィクトルの要求通りに弾きはじめた。
 悪くない。
 基礎はきっちりとできている。教育はしっかりと受けて来ているのが分かる。練習自体の基礎だってできている。

 だがあのベートーヴェンは。
 抒情というものはテクニックの上に乗っている。だから確かなテクニックがなければ、抒情という域の話をすることはできない。だが、あの『熱情』を聞いた時、そこには音楽を聴いているという受け身の自分はいなかった。演奏家のテクニックなどどうでもよくなった。

 引きずり込まれてしまったのだ。彼の内面へ。
 慎一がいつもあの生と死の狭間で叫ぶような音を出しているわけではないことは、この数週間で納得した。何かのキィがあるかのように、瞬間にあの場所へはまり込むのだ。
 不用意に聴いていたら、足を掴まれて湖の底へ引っ張り込まれるような危うさ。

 それは一次試験の課題と噂された、ベートーヴェンの後期三大ソナタのうちでも抒情的で高度なテクニックを要求する三十二番の第二楽章を聴いている時に、不意に襲ってきた。

 目の前に地球の景色がある。天空に広がる満天の星が降り注ぐ。あるいはしんしんと降り積もる雪。日本のある評論家はこれを宇宙の星の煌めきと称した。天国の旋律だ。
 弾こうと思えば十代の学生にも弾けるだろう。だが、酸いも甘いも、死の恐怖も生の喜びも身に迫って味わったことのない若者には弾く資格のない曲だと思っている。
 それを試験でやろうというのだから、嫌がらせとしか思えない。

 まいったな。
 ヴィクトルは廊下を挟んだ向こうから聞こえてくる天国の哀しくも明るい調べに身体を締め付けられ、動けなくなっていた。
 おそらく、慎一自身も分かっているのだろう。彼自身なのか、あるいはそうではない何かが彼の指を動かし、天国への道を開く瞬間があることを。あるいは彼自身のうちにある深い湖の奥深くへの道が、通じる瞬間があることを。

 ヴィクトルは突然不安になり、廊下に飛び出し、慎一がピアノを弾く部屋に飛び込んだ。
 慎一はヴィクトルには気が付かなかった。
 十本の指がピアノの上に確かにあるのだが、すでに音楽は指先でもなく、その指先から繋がるハンマーから奏でられているのでもなかった。
 確かに彼の指が奏でているはずのトリルは、彼の内側から迸る光になっていた。光はこの部屋を埋め尽くし、どこか果てのない非現実にぶつかって、再びこの部屋に降り注いでいる。

 宇宙がそこに広がっていた。
 星が瞬くときにガラスが触れ合うような音になる。これはもうピアノの音ではなかった。孤独や恐怖や不安はないが、喜びや安堵もなかった。星々の瞬く光で宇宙が真っ白に染まっていた。あるいは雪が降り積もり、真っ白の中へ自分が埋もれていくような感触だった。

 ヴィクトルはピアノに走り寄り、思わず慎一の手を払いのけ、蓋を閉めた。
 蓋の閉まる音が突然真っ白な空間を畳み、引き裂かれたような痛みだけが残った。
 何が起こったのか分からずに慎一がびっくりした顔でヴィクトルを見ていた。
 だが、何が起こったのか分からないのはヴィクトルも同じだった。
 腕を掴み、そのまま寝室に連れ込んだ。
「ヴィクトル、どうしたの」
 何度も慎一が聞いた。
 聞きたいのはこっちだと思った。

 幼い時、シューベルトの『魔王』を聞いた。そしてそれ以降、魔王はずっと彼の身近にいた。
 既に母親は亡く、父親は死の床にいた。魔王が連れて行ったのは子どもの彼ではなく、父親だった。
 あれから、シューベルトの歌曲は警戒するようになった。無意識に予防線を張るお蔭で、聴いていても心を取り込まれることはない。
 だが、こんなふうに不意打ちで死の世界を見せられるとは。
 死は真っ白だ。そして、不安でも恐怖でも安堵でもなく、ただそこにあり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ真っ白だ。

「ヴィクトル」
 呼びかける声は少しずつ曖昧になっていく。
 ヴィクトルは慎一の頭を抱き締めた。魔王が今さらって行こうとしているのはお前なのか、それとも俺なのか。あるいは、二人が重なり迎えようとしている別の形の死なのか。


 一次試験を通過したのは四人だけだった。ベルリンから来たヘルムート・シュルツ、アメリカから留学しているヒューバート・スミス(彼は弱冠十五歳だった)、そしてアネット・ブレヴァルとシンイチ・アイカワ。多分最後の名前だけは、大方の予想のうちには入っていなかったことだろう。
 幸いというのか、ベートーヴェンは三十番の第三楽章で、慎一はそれなりに可もなく不可もなく、確かなテクニックを見せていた。

 三日後の二次試験はモーツアルトだった。
 モーツァルトについては、ヴィクトルは心配していなかった。むしろしてやったりと思っていた。いつも慎一を教えている講師のローマイヤーは、ヴィクトルとは別の形で早くから慎一の才能を認めていた一人だった。

 初めてのレッスンの時、慎一はモーツァルトのソナタで、ローマイヤーが想像していたどの音とも異なる音を聴かせてみせた。それはローマイヤーが聴いた久しぶりに面白いモーツァルトだった。

 モーツァルト以降のロマン派の作曲家たちは、良くも悪くも藝術の至高を求め、そこに哲学や人生を織り込んだ。
 だがモーツァルトは違う。彼の先駆者はハイドンしかおらず、藝術ではなく娯楽として、ひたすら音を楽しみ遊び続けた。彼はそういう時代の申し子だった。軽やかで明るい音は、ばらけたと思えば心地よい所へ収束する。その畳み込まれる一瞬の音の調和と透明度を、人々は楽しんだ。イタリアを旅すればイタリア以上に底抜けに明るい音を、ロココ調の音楽を耳にすればさらに流麗な音を披露して見せた。

 その彼が藝術に目覚めた時、モーツァルトの神髄が胸のうちから彼を食い破った。モーツァルトの娯楽の音、彼の軽やかで明るい音に魅かれ、その世界に遊んでいた信望者たちは彼を離れた。モーツァルトは支援者を失い、貧しさと絶望のうちに亡くなった。
 その彼の晩年の作品こそモーツァルトの神髄であるというものもいる。

 だが、ローマイヤーは、透明な湖のように時代を反射したモーツァルトの音楽は、底抜けに明るい天才の軽さだと思っていた。そしてモーツァルト以降何百年を経ても、まだ誰一人として彼の天才に追いつくものは現れていない。
 そして今、モーツアルトにも、彼以降の常識、つまり音楽は苦悩する人生を映し、音を哲学するものだという考え方を押し付けようとするものもある。
 だがナンセンスだ。モーツァルトの音楽は純粋に音を遊んでいる軽さなのだ。

 その音楽を慎一は肌で知っているように思えた。イタリア以上に明るいイタリアの、透明で何ひとつそこに留めることのない残酷な無邪気さが彼の音にあった。
 ローマイヤーはヴィクトルを誘った。
 人嫌いだと言われたヴィクトルも、さすがにこの頃には人に慣れ始めていた。音楽を聴き、評論を書くだけでは足りないものがあることを思い知っていたからだ。

「おい。久しぶりにモーツァルトを聴いた。あれこそモーツァルトだ。底抜けに明るい、何も考えていない、透明度の高い湖みたいな音だ。知っているか。モーツァルトの本物の音は、馬鹿にしか奏でられないんだ。国王の前で尻をめくって見せるほどの阿呆にしか出せない音だ」
 興奮してそう言ってから、ぐっとワインを飲み干し、ローマイヤーは渋い声で続けた。

「無邪気すぎて、残酷な音だ。誰も追いつけない。それは鏡だからできることだ。あるいは、透明でどこまでも底が見えない湖だ。何もかもを跳ね返す孤独な湖だよ。だが、もし一度その湖に飛び込んでしまったら、そこは本当に底なし沼だろうな」
 その阿呆もしくは馬鹿が、ヴィクトルの知っているホイリゲの少年と同一人物だと分かったのは、それから数か月後だった。

 ローマイヤーはまた、テオドール・ニーチェを育て上げたスタッフの一人でもあった。
 半世紀に一度の逸材に対する音楽院の態度は、特別に過ぎると思うこともある。だが、そのような人物がここで学び自分の道を切り開いて行ったということは、学校のステータスに関わっていた。彼のために他国からも著名な演奏家や教育者を客員講師として呼び、それがまた生徒に人気だった。

 幸いテオドールは学ぶことを喜んだ。ただピアニストとしてのテクニックを追求するだけでなく、舞台芸術や指揮法のクラスにも顔を出していた。そんなことは無駄だという教師もいた。だが、彼が目指す世界はもっと高いのだろうとローマイヤーは思っていた。ローマイヤーがそう言うと、皆は渋い顔をしながら認めた。
 ただ、学校がどうしても提供できないでいるものがひとつあった。テオドール・ニーチェは、彼の域に手が届く仲間を持たなかった。友人もなく、孤高の存在だった。ローマイヤーは彼にぜひとも友人を持たせてやりたいと思っていた。

「リーツマンは彼の音を気に入る。百二十パーセント、請け負う」
 ローマイヤーがヴィクトルに言った通りだった。
 モーツァルトピアノソナタK.331。全く嫌がらせとしか思えない王道だ。音が良く聞こえるように仕組まれている。

 ちょっとした演奏会風に仕立てられた音楽院のホールには、未来の契約者を求める各界のエージェントがひしめいていた。その中にはユーディット・マンハイムの姿もあった。ヴィクトルは何となく満足だった。
 ヴァイオリン、チェロ、フルートと進んで、次がピアノ科だった。

 演奏順はヘルムート・シュルツが一番だった。悪くないが、いささか音が重い。一次試験のベートーヴェンは悪くなかったし、堅実だが、モーツァルト向きではない。
 二番手はヒューバート・スミスだった。これも悪くない。最少年の無邪気な悪意が感じられる音だ。
 そして三番目が慎一だった。

 心配していたつもりはなかったが、ヴィクトルは何となく背筋を伸ばして座り直してしまった。
 慎一の指は、今日は一段と軽やかに鍵盤を走っているように見えた。重さが全くない。ローマイヤーが言うところの、残酷な無邪気だ。全ての音が明瞭に聞こえる。しかも、音の種類が以前よりも一段と増えているような気がした。

 慎一の音楽の特徴は、音色の豊かさだった。一音一音、色合いを変えることもできるのではないかという気がする。それがモーツァルトで生きる。花を咲かせたり、水遊びをしたり、スケートを滑ったり、時には落とし穴を掘ってみたり、おもちゃ箱から色々なものを取り出しては大人に自慢をしている、そんな音だった。まさに、おとぎの国のミッキーマウス、魔法使いの弟子みたいなものだ。

 もっと緊張するのかと思っていたら、意外にもしっかりしている。そんなことにほっとするなんて、俺は授業参観にやって来た父親か、とヴィクトルは自分自身に突っ込んでおいて、やがて目を閉じた。
 湖か。まさにそうだ。森の奥にある透明な湖の面をガラスにして、妖精がスケートをしているような、いやまさに国王に尻をめくって見せるような乱痴気騒ぎをしている明るさだ。
 こんな音で表面を飾り、そして内にあのパッションを潜めている。湖の岸辺で遊ぶ妖精を見ているうちはいい。ふと、気になって湖の底を覗き込んでしまったら、そこにはあの深い闇のような熱情があるのだ。
 その内面に気が付く者がどのくらいいるのだろう。

 ふとヴィクトルは周囲を見回す。
 すり鉢状の会場の一番下がステージだ。そのステージに向かって左端の隅に、テオドール・ニーチェが座っていた。
 へぇ、怖い顔だな。……なるほどね。天才を揺るがしたか。

 隣のローマイヤーが肘でヴィクトルをこついた。
 見ると、さっきまで真剣に聴いていたリーツマンが隣の助手に何か話しかけていた。リーツマンは全く学生の名前を憶えないことでも知られていた。多分、彼は一次試験を通過してきた四人の優秀な学生の名前を一人として知らずに、この会場にやって来たはずだ。その彼が確かめるのはただひとつ、その学生の名前だ。
 ローマイヤーが右手の親指を立てる。ヴィクトルはただ頷いた。

 さて、後はアネット・ブレヴァルだ。
 だが、彼女の演奏が始まった時、ヴィクトルはあれ、と思った。
 期待していたどの音とも違う。音は一つとして重くない。技術も確かで華やかだ。だがこの音は。
 隣でローマイヤーが身を乗り出して心配そうにステージを見ていた。
 相変わらず、手で触れることができるような絹の耳触りだ。慎一の音にも匹敵するほどの無邪気さと透明さ。多彩で明るい音の豊かさと深さ。その華やかさはさすがとしか言いようがないが、ヴィクトルにはある違和感があった。

 この娘は以前、こんな音を出していたか?
 それに、ヴィクトルはある一か所、ほんの一瞬、あることに引っかかった。気のせいかと思って瞬間に辺りを見回し、同じことを感じた者が、少なくともこのホールにあと二人、いることが了解できた。

 だが、勝敗の行方は分からなくなったな、とヴィクトルもローマイヤーも思った。花があると言えば、アネットの方に軍配が上がる。
 ヴィクトルは先に屋敷に戻りながらあれこれと考えをめぐらす。今日は土曜日で、そのまま慎一が屋敷にやって来るはずだった。

 特待生試験の先にデビューを見ている者と、とにかく学費をと思っている者と、自ずと世界は違っているという現実はある。この試験に落ちたら、慎一はいささか困窮するのだろう。生活の全ての面倒を見てやるから、下宿を引き払って屋敷に住むようにと言えば、そうするだろうか。
 毎日本が読めるし、誰にも遠慮せずに練習ができるぞ。そう提案してみるのも悪くない。

 少なくともこの数週間は良かった。慎一の食事の世話や練習の面倒も見ることで、ヴィクトルの生活は充実していた。細切れの時間に書く評論や、頼まれていた本の章節は驚くほど進んだ。夜はベッドの中で、何時間も音楽論を闘わせた。最近はドイツ語を話すことに躊躇がなくなった慎一は、不器用ながら音楽の話だけは一生懸命で喰らいついてくるようになった。時には辛口評論家のヴィクトルを論破してしまうこともある。

「語学の習得にとって一番いいのは、その言葉を話す恋人を作ることだって知ってたか?」
 言い合いに負けそうになると、ヴィクトルはそう言って慎一をからかった。
 慎一は枕を武器にして応戦するほどの余裕も出てきた。
 この手のコンクールや試験には片っ端から出させてやるのがいいのかもしれない。適度な緊張感と練習に入る熱、実戦で修正されていく音の癖、そして他人から受ける刺激。それが若い音楽家を成長させていくことだろう。
 そうすれば少しはやる気になるはずだ。醜いあひるの子に、お前の羽根は実は真っ白どころか黄金色だぞと気が付かせてやるのは、実に骨が折れる。


 慎一が屋敷に戻ってきたのは夜の八時を過ぎてからだった。
 心配していたヴィクトルはおろおろし過ぎて何ひとつ仕事が手につかなかった。本当なら、今日の特待生試験の評を仕上げてしまうつもりだったのだ。慎一の顔を見てしまって、公平さを失わないうちに。それが、一行も打ち込まれていない。

 それなのに、食事を済ませてきたと聞かされては、心中穏やかではない。思わず突っかかってしまった。
「誰と食事だって?」
 慎一はちょっと躊躇ってから答えた。
「テオドール・ニーチェ」

 あれこれ下心もあり、それに思いつめた表情の彼の姿を目にしていたヴィクトルはギクッとしたが、表情を変えずに言った。
「おぉ、憧れの君とお食事か」
 慎一はしばらく例の困ったよう顔でヴィクトルを見ていた。慎一を待っていたために遅くなったヴィクトルの食事にワイン一杯で付き合っている慎一の頬は既に赤かった。

「……妬いてるの?」
 全く、こういうことには立派に巻き返すようになった。それもこの数週間に彼が習得したことだ。
「そうだ」
「ごめんなさい」
「何で謝る?」
「だって、お腹がすいていたから、腹を立ててるんでしょ」
 それも多少はあるが、どうにも気に入らないだけだ。あの若造が、自分の音楽に実力通りの自負心を持つのは構わないが、それだけではなく、他人の音楽を聴き分ける耳を立派に備えていることに、嫉妬している。
「でも、どうして彼は僕なんかを食事に誘ったんだろう」

 だから……!
 ヴィクトルは怒鳴りそうになるのを辛うじて踏みとどまった。
「シンイチ、お前、醜いあひるの子の話を知っているか?」
「アンデルセン?」
「いや、もういい。で、何の話をしたんだ?」
「モーツァルトのオペラをどう思うかって。驚いたなぁ。ピアノのことしか考えていないと思ってたのに」
 あの天才はピアノで終わる気はないんだよ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。

「他には?」
「他?」
 慎一は首を傾げる。
「たとえば今日の試験の話とか」
 そう言われて初めて慎一は今日が試験だったことを思いだしたように見えた。こいつは、あの時その天才がどんな目で自分をを見ていたのか、全く知らないだろう。
「うん、手ごたえはどうだったかって聞かれたけど……やっぱりアネット・ブレヴァルかなぁ。音も華やかで、色が豊かで、あなたの言う通り透明感があって、音に触ることができるみたいで、それに何より厭きなかった」
「厭きない?」
「時々、他人の弾くモーツアルトを聞いていると、眠くなっちゃうんだ」
 全く、辛口評論家のヴィクトルのお株を奪うようなことを、よくもしれっと言ってくれる。

「お前、何か忘れてないか?」
「何を?」
 全く、文句を言う気も失せる。
「自分が弾いている時は何を思っているんだ?」
「え?」
 慎一はまるで何を聞かれたのか分かっていない顔をした。
「何にも考えてないけど……強いて言えば犬たちのこと」
「犬? 飼ってたのか?」
 慎一は突然顔を伏せ、何も話さなくなった。

 ある一定の思い出話になると慎一は口をつぐむ。たとえば、五歳までいたという日本の叔母の話は喜んでする。だが残念なことに、音楽が楽しかったこと以外はあまりよく覚えていないらしい。ウィーンに来てからのこともよく話すようになった。苦労話はあれこれあるのだろうが、下宿の女主人であるマルグリットや下宿仲間、ホイリゲの主人のロルフのことなどはよく話題になる。
 彼が話さない十数年には、一体何があったというのだろう。

 ヴィクトルは今日中に原稿を上げなければならないからと、先に慎一を休ませた。
 書斎に閉じこもると、ヴィクトルはまず葉巻の端をカットして、ロッキングチェアに腰かけた。
 彼はアネットのことを考えていた。

 確かにあの華やかな外見と気高さと愛らしさの同居した顔つきは、ピアニストとしてだけではなくモデルとしてだってやっていけそうだ。腕もいい。テオドールとはまた違う、女らしい繊細さと、逆に女にしか出せない大胆さと、そして常に前進しようとする克己心が表れている。

 だが今日、彼女は一瞬、第二楽章の冒頭の部分で、危険な綱渡りのような不安感をのぞかせた。あの時、ふと顔を上げて彼女を見つめたものがヴィクトル以外にも二人いた。テオドールと慎一だった。
 なぜあの二人が死に反応したのだろう。ヴィクトル自身は幼いときから魔王と道連れだった。だが、慎一とテオドールは一体どんな死を知っているというのだろう。

 少なくとも、慎一が知っている死は、観念の死ではない。
 ヴィクトルは葉巻の煙を繰り返し吐き出し、身体から魔王の痕跡を消し去ろうとしてみた。
 アネットがテオドールに恋をしているというのは大いに結構だ。だが彼女は幸せではないのか。何を思いつめているのだろう。確かに、誰かが言っていた。恋というものは、時に誰かを殺してしまうほどに恐ろしいものだと。

 ヴィクトルは原稿用紙に向かった。
 今年も音楽院に於いて新しい才能を発掘する特待生試験の日がやって来た。若さと力、古きものと新しきもの、これまで積み重ねてきた練習の一秒一秒、憧れや理想、それらが最も色濃く出る試験だ。若者にしか描き出せない音楽の魂、それが強く迸って聴くものを震わせた。だが、中に二人、生に対する仄かな諦め、生の中にある深い死の哀しみの色、どうしても越えられぬ絶望感を、その楽の魂の底に潜ませている者がいた。一人は、自身すら知らぬ心の奥底に、そしてもう一人は今やそれを取り出そうと手を触れた形で。では、何が彼らにそうさせたのか。人間が生への美しい諦めを覚える時、人や事物、小さな木の芽、一羽の蝶、夕陽の茜、せせらぎの音、空に射す一条の光に対する激しい愛情を感じているものだ。だが、今はそれが観念の死であることを願う。

 死には二通りある。観念の死と現実の死だ。アネットは、観念の死を潜ませている。だが、若者にとって、その二つの死の境界はあまりにも浅く不明瞭だ。
 死の背中に貼りついているものは愛情だろう。言葉にすると軽くなるが、実際には重くて苦しい愛情だ。
 愛情……アネットのそれはテオドール・ニーチェに向かっているとしても、慎一のそれはどこへ向かっているのか。

 寝室に入ると、慎一は『ドン・ジョバンニ』のスコアを広げたまま眠っていた。
 死。人間は誰だってそれを遺伝子の中に潜ませて生まれてくるのだ。この子も、あらゆる地上の生きものはすべからく、その運命から逃れられない。
 その短い運命の中で、シンイチ、お前は一体誰を捜している?

「ん……ヴィック?」
 そっと髪に触れると、慎一は身動ぎした。
「あぁ、起こしちまったか。悪かった」
 ベッドに潜り込むと、ごく自然に傍に擦り寄ってくる。仔猫が母親を探しているようなものだ。
「もう書けたの?」
「疲れてるんだろう。おやすみ」

 ぱらぱらとスコアをめくってみる。テオドールと話していたことを思いだしていたのか。あるいは、眠りという観念の死に向かう旅の友を求めたのか。
 額にお休みのキスをくれてやると、慎一はゆっくりと目を開けた。
「ほんの一瞬だけど、あなたは気が付いていたんでしょう?」
「……アネットのことか」

 ヴィクトルは慎一の頭にそっと手で触れた。
「他人には踏み込めない部分があるさ」ヴィクトルはそう言って、慎一の目をしっかりと見つめ返した。「お前にもな」
 慎一の目には生と死が同時に宿っていた。そこには絶対的な孤立が同居し、それらをすべて受け入れて尚、立とうとする奥底に秘められた炎に、否応なしに惹きつけられる。慎一の繊細さ、臆病さ、謙虚さ、卑下、これらはすべて自信と生命への激情の裏返しなのだということは、ヴィクトルはとっくに気が付いている。

「知りたい?」
 静かに慎一は問うた。ヴィクトルは答える代りに彼を引き寄せて抱き締めた。
 お前の音楽がすべての答えであることは知っている。お前がもし百万の言葉を並べても、何気ない一小節の方がどれほど雄弁であることか。
「知ればいいってものじゃない」
 だが、ヴィクトルは優秀な探偵を雇っていた。そのことを慎一には知られなくなかった。

 慎一はヴィクトルの胸に頭を押し当てていた。
「あなたが好きだよ、ヴィクトル」
「……二番目にな」
「ヴィック」
「分かってるさ。何も言うな」
 慎一はそっと目を伏せ、やがて静かに閉じた。

 俺がもっと大きな人間なら、お前の全未来を受け止められるのだろう。今や遥か高みへ向けて開いてゆこうとするこの儚くも尊い魂の運命を、不安と恍惚のうちに潜むすべての感情を、こうして自らをお前が飛び立つための大地にして、支えてやれたらと願う。




このお話は、いわゆる神様視点になっているのですが、ここまではほとんど三人称を借りたヴィクトル視点。
原文は慎一のつぶやきもずいぶん入っているのですが、抜きました。
何だかやっぱり気持ち悪くて……
他の人の書いている神様視点は気にならないのに、自分が書くと違和感が…
でも、次回からは視点は若者たちに移ります。
おっちゃん視点はなかなか良かったですが(実は夕さんと同じで、オッチャン好き)、そろそろ青い子供たちの面倒を見なければ……

あ、でも、いつものような三人称型視点固定ではありませんで、よく見ると、神様視点。
ローマイヤー先生のツイッター(つぶやき)も混じっていますから(^^)
う~ん、自然にやりたいけど、意識してしまう(ぶつぶつ……(..))

追記は、音楽コーナーです。






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Category: ♪死と乙女(連載中)

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【死と乙女】(3) 兆し・恋とはどんなものかしら 

さて、少し間が空いてしまいましたが、【死と乙女】の第3話をお届けします。
ウィーンの音楽院ピアノ科の学生、相川慎一。心に少し問題を抱えた彼ですが、何とかこの町で生きていくためには奨学金が欲しいというので、特待生試験を受けたところです。この音楽院ピアノ科には、スーパースターとも言うべきテオドール・ニーチェという学生がいて、さらに彼を追いかけてこの学院に入ってきた、やはり実力者であるアネット・ブレヴァルがいます。慎一の保護者となっているのは、音楽評論家のヴィクトル・ベルナール。

少し間が空いていますが……始めから読んでいただいても大して量はありません。

→→【死と乙女】 :(1)春・金の卵、(2)胎動・特待生試験

今回の舞台裏で流れている曲はオペラです。
ワーグナー『神々の黄昏』最終部分:ブリュンヒルデの自己犠牲
モーツァルト『フィガロの結婚』:ケルビーノのアリエッタ『恋とはどんなものかしら』






「ここ、座ってもいいかしら?」
 慎一は自分が話しかけられたのだということに全く気が付かなかった。目で追いかけていたスコアの上にくっきりと影が落ちているのを見て、初めてそこに人が立っていることを認識したのだ。
「……あ、え、えぇ。どうぞ」

 顔を上げてから、慎一は少しの間、彼女の明るい金の髪と緑の瞳を無遠慮に見つめていた。やがて彼女が、まるで自分に恋をしている幼い子供に対して諭すようような笑みを浮かべた時、ようやく女性をこんなにも見つめては失礼になるということに思い至った。
 慌ててスコアに視線を戻し、最終幕のラストに意識を戻そうとしてみる。

 音楽院の中庭には、木々が程よく木陰を作り、芝生の上には座って本を広げる者や友人たちとの会話に夢中な者、あるいは眠りの妖精と戯れる者が午後のひと時を楽しんでいた。遠く、あるいは近くから、ピアノやヴァイオリン、フルートの音が重なり合っては離れ、離れてはまた重なり合って、無秩序の調和を孕ませ、風に乗って運ばれてくる。
 この場所で長時間を過ごすにはまだ薄ら寒い気候だったが、穏やかで明るい光が二人の座る白いテーブルと椅子に注がれていた。

「ワーグナー? オペラのスコアを読んでいるなんて、余裕なのね」
 話しかけられて、慎一はどぎまぎしながら頷いた。
 そもそもその人が自分に声を掛けてくるとは思えなかったし、あの特待生試験の日まで、彼女は自分を知らなかったのではないかとさえ思っていた。
「人待ちで……暇つぶしなんだ」
 慎一は慌ててスコアを閉じた。

「試験の結果に自信があるということかしら」
「まさか。僕は、その……君が一番素晴らしかったと思うよ」
 何を言っていいのか分からなくて、とにかく思っていたことをそのまま口に出した。
 彼女はさらりと慎一の言葉を受け流した。

「ワーグナーって、何だかあなたには似合わないわね。反ユダヤ主義者で、社会的な思想をあれこれと書き残して、その音楽はナチスに利用された。ワーグナーが藝術によって世界を救済すると信じていたフリードリヒ・ニーチェも、彼が国王や貴族に囲まれて意気揚々としている姿を見て、やがて失望して離れて行ったのに」
「でも、フリードリヒ・ニーチェは晩年、ワーグナーを愛していたと何度も人に語っていた。それに、音楽や藝術が、その作者の生きた時代の影響を何も受けないとは思わないし、当時の権力者がその音楽をどのように使おうとも、音楽そのものの美しさや正しさまで批判されるなんてのは間違っていると思う」

 アネット・ブレヴァルはにっこりとほほ笑んだ。金の髪が光に透けて輝いた。
 慎一は、自分はどうしてこんなふうに突っかかるような言い方をしてしまったのかと後悔した。つい、ヴィクトルと音楽について話すときのように、気持ちが高まってしまったのだ。
 さらりと躱したアネットの唇に、微かに憐れむような気配が浮かんだような気がして、慎一は俯いてしまった。もちろん、アネットの心にあったのは憐れみでも侮蔑でもなかったのだが、その複雑さには慎一の理解は及んでいなかった。

「そう言うと思ったわ。こんにちは、シンイチ。ずっとあなたと話したいと思っていたの。だからかしら。お話しするの、初めてだという気がしないわ」
 差し出された手をどうしようかと慎一は戸惑った。その様子を見て、アネットは面白がるような顔をし、すっと手を伸ばして来て、閉じたスコアの上で固まったままの慎一の手を両手で包むようにして握手を遂行してしまった。慎一が、事の成り行きに気が付いて手を握ろうとしたときには、その手はするりと慎一の心を躱すように離れて行ってしまっていた。

 それから改めて、彼女の言葉の意味を考える。
 ずっと僕と話したいと思っていた? からかわれているのだろうか。
「それから、私はあなたのライバルなのだから、もう少し闘志をむき出しにしてくれたほうが有難いわ」
「え?」
 アネットはふふ、と笑った。そして瞳を伏せて、慎一が閉じたスコアの表紙を見つめる。
「『神々の黄昏』ね。暇つぶしにしても、どうしてオペラを?」
「え、その、……」

 慎一の言葉はまるで上手く出てこなかった。さっき咄嗟にワーグナーを擁護した時とはすっかり違って、突然言葉を失った様子を見て、アネットがふっと息をついた。
「『ニュルンベルグの指輪』には色々な解釈があるわよね。あなたがスコアから何を読み取ったのか、興味があるわ」

 慎一がオペラのスコアを読むのは、ただそこに景色を思い描くことが楽しいからだった。ピアノのスコアにはないものが交響曲のスコアにあり、交響曲のスコアにないものがオペラのスコアの向こうにあった。耳から入る音の調和と、目から入る舞台の景色の調和。それを思い描くと、ひと時何もかもを忘れて、艶やかで優しく、甘く、時には苦しみを真正面から見つめるための、自分だけの世界を心の内側に作り上げ、その色を変え、さらに想いを深めることができた。

 それは慎一にとっては小さな箱庭だった。
『あの日』から、精神の病を克服するために続けてきた訓練は、音を加えて初めて、慎一にとって意味のあるものになった。今はもう、実際の箱庭は必要ではなかった。ただスコアがあれば世界は無限に広がった。いや、もうスコアさえ必要ではなくなっていた。

 だが、言葉で何かを説明することはとても難しいことだ。特に彼女のような、外見的な美だけでなく、あのピアニシモを指先から作り出すことができる内面的な美しさをも持ち合わせた、あらゆる意味で魅力的な女性に対して、今の慎一の言葉は何ひとつ追いつくことはできなかった。
 アネットの目は『神々の黄昏』という題名の上に注がれていた。

「これは、深い愛の物語ね。『ブリュンヒルデの自己犠牲』」
 一瞬、アネットは遠い目をした。
「忘れ薬のせいで妻を忘れてしまって、愛の証である指輪を彼女の指から奪い他の女と結婚しようとした夫、裏切られたと思って自ら死に至らしめてしまった愛する夫。その夫とあの世で結ばれるために、神々の世界をも焼き尽くすために火を放ち、自らも愛馬と共にその火に焼かれる。彼女は最後まで誇り高かったわ。ワーグナーは古い秩序や社会的・政治的規律を男性の登場人物に託し、女性の登場人物に愛に命を懸ける自由を託したのね」

 慎一はようやく顔を上げた。ブリュンヒルデが完全な愛の成就のために焼き払ったのは、古い世界の秩序の全てだったのかもしれないが、その激しさには体が震える。
 震えるのは、自分自身の内面にも同じような炎を飼っているからだ。
「でもこれは自己犠牲じゃないわ。彼女は夫の裏切りを許せなかった。夫を自分だけのものにするために、彼を敵に殺させて、自分も同じ火に焼かれることで愛を成就したのよ」

 慎一は答えることもできずに、アネットの顔を見つめていた。まだ幼さも残るような少女の面影と、激しい情念を秘めた熟成した女の影が、彼女の上で行き来していた。
 彼女の中に、自分と同じ炎がある。
 そう思ったのはもう恋の始まりだったのかもしれない。

「シンイチ」
 親しげにアネットが呼んだ。アネットの綺麗な湖のような緑色の瞳が目の前にあった。光が金の髪の上で踊っている。彼女の指先から零れるピアニシモの絹を思わせる頬が、微かに朱く染まっている。
「あなたは恋をしたことがある?」
 慎一はドキドキした。もしかすると、今恋をしているのかもしれないと思った。
「あなたは?」
 声が少しだけ上滑りする。

 アネット・ブレヴァルがテオドール・ニーチェを追いかけてこのアカデミーに編入してきたという噂は知っていた。もっとも、慎一はそういうゴシップ的なことには、ついさっきまでまるで興味がなかった。ゴシップや世間話を楽しむ会話を交わすような友人はいなかったし、音楽以外の話をするには、彼のドイツ語はいささか心もとなかった。いや、ドイツ語の問題ではなく、言葉は話す内容が伴わなければ、スムーズには喉の奥から出てこないのだ。

 どうかしら、とアネットは言葉をはぐらかした。そして少し遠くの光の中を見つめる。
「どうしても手に入れたいのに、手に入らないと分かってしまったら、その人を殺してでも自分だけの物にしたいって、そこまで思うことができるかしら」
 そんな『恋』をしたことがなかった。だから慎一は答えられずに黙っていた。
 それはテオドールのことを言っているの?
 咽喉まで出かかった言葉は、そのまま呑み込まれてしまった。

「でも、私が恋をしているのはピアノなの。誰にも負けたくはないし、負けるとも思っていないけれど、人に勝つことはできても、芸術の神様には届かない。どうしても届かないものだと始めから知っている場合は、どうするのがいいのかしら」
 慎一は黙ったままだった。特待生試験の時のモーツァルトの第二楽章の始め、あの瞬間の不可解な不安が頭をかすめた。
 あれは確かに死の影だった。慎一自身がそれに気が付いたのは、自分の内側に同じ死の影が漂っているからだ。だが自分のそれは、まさに生々しい血の臭いが伴っているのに、彼女の影には臭いがなかった。

「今年の演奏旅行のことは聞いていて?」
 突然、アネットは遠くの光から、慎一に視線を戻して聞いた。
「演奏旅行?」
「今年はテオドール・ニーチェのお相手を探すのだとか」
 幾分かアネットの声が重くなった気がした。そして、意味が全く理解できていない慎一の顔を見て、同とも表現し難い複雑な表情を浮かべた。

「お邪魔ですか?」
 突然、上から降ってきた声に、慎一も、そしてアネットも驚いて顔を上げた。
 先に、見事な笑顔を見せたのはアネットだった。慎一は声の主が近づいてきていたことにも気が付かなかったのに、今まだ、彼女の華やかな笑顔に捕まえられていた。
「いいえ。こちらこそごめんなさい。シンイチ、あなたの待ち人でしょ」

 席を立とうとしながらアネットは答える。ふわりと、風に誘われて花のような香りが漂った。彼女の声が、慎一の耳の中であのピアニシモと同じような優しい反響を転がす。
 するりとヴィクトル・ベルナールの手が立ち上がるアネットを止めた。
「お話しする機会を窺っていたんですよ、マドモワゼル・ブレヴァル。私は……」
「存じてますわ」
 アネットは微笑んだ。その唇には、先ほど慎一が垣間見た影はどこにもなかった。

「ムッシュウ・ベルナール。この間はもったいないくらいの評を書いてくださいましたでしょう?」
「この間、といいますと」
「ショパン・コンクールの時です。テオドール・ニーチェが一位をとった……」
「あぁ。あなたが一位でも良かったはずだって。あれは難しい審査だったでしょうね。私は、審査員の好みに過ぎないと思ったのですが。あなたの抒情的なレガートは今でも耳に残っていますよ」
「それでも、負けは負けですから」
「私は本当のことしか書きません。今でもあなたが一位でも良かったと思っています」
 アネットを引き留めたヴィクトル・ベルナールの魂胆など知らない慎一は、黙って二人の会話を聞いていた。

「それはそうと、今年の演奏旅行の件はもう?」
「えぇ。聞きました。今、その話をしていたところですの」
「試験を受けられる?」
「それは評論家としてのネタ探しですか?」
「そう感じる理由は何です?」
 アネットは少し俯いた。その表情はまるで舞台の上で演技をする女優のように見えた。
「色々な人が、私とテオドール・ニーチェのことで勘ぐっていることを知っています。あなたもその一人だとは思いたくありませんけれど」
「なるほど」

 慎一は注意深くヴィクトルの唇に浮かぶ表情を見ていた。ヴィクトルの感情は時に読み取りにくいが、唇には様々な思惑が漂っていて、慎一にはそこから発される言葉の震えから色々なものが見える。
「私が興味があるのは、何故今年に限って、そんなことを考えたのかということですね」
 アネットは微かに唇を噛んだ。唇は、確かに雄弁だ。彼女の唇だけに宿った暗い影は、またあの第二楽章の始めを思い出させた。

「試験のことは、まだ考えていません。この間の試験の結果もまだ出ていないのですから」
 そろそろ行かなくちゃと立ち上がりながら、アネットが一瞬、慎一の方を見た。
 そこにあったのは、注意深くヴェールを被せられているものの、明らかに憎しみと戸惑いの入り混じったものだった。慎一は、一見ではただ可憐で美しい彼女の外観の内側に、あれこれと押し込められた複雑な色を感じ取って、しばらく呆然とし、それからふと目を伏せた。

 アネットは僕を嫌っている?
 それは同じ試験を受けたからなのだろうか。ライバルにはもっと本気でかかっていかなければならないものだと、彼女はそう言っているのだろうか。
 恋とはどんなものかしら。
 それはやはり苦しくて、時々涙もし、何かが欲しいのだけれど何かが分からず、時に凍るような想いをしたと思えば、また燃え上がり、心が落ち着かない。

 心が落ち着かない。慎一はまさにその想いを、背を向けて去っていく彼女と、その向こうにある何かに感じ始めていた。
「演奏旅行って何?」
 横でヴィクトルが大袈裟にため息をつく。
「お前ね、自分がこの世界で生き残っていくためにどんなチャンスや可能性があるのか、周囲を見回してきたことがあるか?」

 慎一はちょっとだけヴィクトルを睨んだ。今は、どうやって一人で生きていくか、それでいっぱいだった。だが、慎一とて、その先を何も感じていないわけではないのだ。
 その先を思うと、心が苦しくなる。
「特待生試験だって、お前とは違う目的でみな受けている。演奏旅行の件だって、もしかして自分にチャンスがあるならと、誰もが虎視眈々と周囲を睨んでいる。さっきまでその餌に食いついていたライオンがいなくなれば、いつでも飛びかかれるように準備しているんだ」

 それから、白いチェアに凭れるようにして、ヴィクトルはまた大袈裟にため息をついた。
「それなのに、俺の見込んだ金のタマゴ君は、呑気にオペラのスコアなど眺めている」
 そう言って頭を掻き、ヴィクトルはテーブルに両肘をついて、諭すように慎一に話して聞かせた。

「デヴューのチャンスを若い音楽家に与えるために、この音楽院の援助者たちが資金を集めて作った企画だ。毎年夏の終わりに、二週間ほどでいくつかの国を回って演奏会をする。メンバーは基本的には推薦で決まるが、オーディションをする科もある。選ばれたら、オケのメンバーももちろんだが、ソリストには特に注目が集まるし、上手くやればスポンサーがつく。そのままプロデヴューだって夢じゃないだろう。ここ数年、ピアノ科はテオドール・ニーチェがその席を譲らなかったんだが、試験でもう一人、選ぶことになったんだそうだ。この演奏会のネームバリューが上がっているのはテオドールのお蔭だ。若い演奏家に惚れ込んだスポンサーたちが、どの国でも彼が来るのを待っている。だから彼をメンバーから外すことはできないが、そろそろ別の学生にもチャンスを与えなければならないということなんだろうな」

 ヴィクトルはじっと慎一を見る。
「ただし、テオドールと張り合わなけりゃならないんだ。良くも悪くも比較される。それは重圧だろうけどな」
 慎一は黙ってヴィクトルを見つめ返していた。
「受けてみないか」
 慎一は無言のままだった。
「今年はイタリアとギリシャを回る」

 言葉は慎一の耳に深く重く届いた。頭の中に残ったものとはまるで違う言葉が、口から出てくる。
「特待生試験の結果もまだなのに……」
「そんなものは関係がない。お前は、前の結果がどうだったかで、次の結果が決まると思っているのか?」
 ヴィクトルは何を知っているのだろう。彼が口にした街の名前のひとつが慎一の心を苦しいほどに掴んだ。
「ミラノ、ローマ、ナポリ、アテネ。お前の音を届けたいとは思わないか」


 ローマ。
 そこに住む人に、届けたい言葉は溢れるほどにこの身体にあふれている。
 それでも、思い出すと苦しくて息ができない。
 ……ジョルジョ。……マルチェロ。
 慎一の魂はまだ、あの街を彷徨ったままだった。






以下に曲のYou Tubeを畳んでありますが……ワーグナーの方はかなり長い……
余程興味があればどうぞ^^;

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Category: ♪死と乙女(連載中)

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【死と乙女】(4) 想い・セレナーデ 

【死と乙女】第4話をお送りいたします。セレナーデ……恋人の窓辺で囁く愛の唄です。
あまりにも長くなったので、トップページにある間だけ畳みます。すみません。
場面も変わるので2回に分けても良かったのですが、感情が繋がっているので、一気にいってしまいました。

夕さんのおっしゃる通り、完全にのだめ風にクラシック話になっていますね。
もともとはノートに手書きで32ページの作品でしたが、今まででその3分の1程度が終わったところです。オリジナルにはなかった場面もどんどん増えて、完全に長くなっています。いつ終わるのかしら……
気長にお付き合いくださいませ。

ところで、訃報がありましたね。
やなせたかしさん(94歳)、ご冥福をお祈りいたします。
以前記事に書かせていただきましたが、御年70になってから売れ始めた「アンパンマン」
その飽くなき想像力と、子どもたちに夢と勇気を与え続けた愛情に、たくさんの子どもたちの時々ママ代わりより、心から感謝申し上げます。

何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱い心燃える だから君は行くんだ 微笑んで

今日はこの歌が頭の中でヘビーローテーションでしたが……

今回の登場曲は以下の通りです。(最後に曲もアップしています(*^_^*))
ナポリ民謡『帰れソレントへ』『オー・ソレ・ミオ』
シューベルト歌曲集『白鳥の歌』より『セレナーデ』
*『アルルの女』第二組曲のメヌエットは次回にも出てきますので今回は割愛。
(そう言えば、この曲、のだめにも出てましたね。ファランドールと一緒に)




 ヴィクトル・ベルナールが今日、音楽院にやって来たのは、慎一の教育に熱心なピアノ科担当教師、ローマイヤーに呼び出されたからだった。
 特待生試験の結果について情報があるのかと思えば、そうではなかった。その件について聞くと、ローマイヤーは肩をすくめただけだった。
「揉めてるよ。ものの見事に」
 それは予想できたことだ。

「これを君はどう解く?」
 ローマイヤーは比較的開け広げの性格だった。ピアノ科で最も若い教師だが、一時期のコンクールを総なめしたのに、そのままデビューもせずに教師になった。何かの瞬間に教師が向いていると自覚したという。彼は、学校という特殊環境を隠れ蓑にして象牙の塔をこしらえ、中からの眺めを楽しむようなことはしない。だから学生にも人気があった。
 もしも慎一の担当教師がローマイヤーでなかったら、とヴィクトルは時折考える。ローマイヤーの推薦なしには慎一は特待生試験を受けることさえ叶わなかったろうし、レッド・カーペットが敷かれた階段には一歩も近づけなかっただろう。髪の色や目の色、そして後ろ盾のないこと、全てが慎一にはマイナスになっていたからだ。

 ローマイヤーはいつものように机にちょっと尻をかけて座る。実は身長が低いのだが、そうやって机の端に座ることで、自分をちょっとばかり大きく見せたいのかもしれないが、ただの癖かもしれなかった。
「アネットの音か?」
 ローマイヤーはその通り、というように人差し指を立てた。
「確かに彼女の音は軽やかで柔らかく、妖精が跳ねているみたいだ。おっと、君に言わせると、手で触れることのできる絹のようなピアニシモ、だな。だがあの試験の日のあれは彼女の音じゃない」

 そうなのだ。ヴィクトルが驚いたのと同じように、ローマイヤーも気が付いていたのだ。
「あれはシンイチの音だ。ものの見事にコピーしているが、彼女のオリジナルの音じゃない」
 ローマイヤーはもう一度肩をすくめた。
「もっとも、コピーがオリジナルを越えそうなほど完璧なのには参ったけどね。でも、まぁ、すぐにシンイチはその先に行くだろうけれど。ところで、あの現場にいた者でそれに気が付いたのは何人だと思う?」

 ヴィクトルはローマイヤーに聞かれてすんなりと答えた。
「三人、もしくは四人。俺と、君と、それから多分、テオドール・ニーチェ。俺には分からないのはリーツマン教授」
「君とは意見が合う。四人だ。リーツマンは気が付いている」
 そう言ってから、ローマイヤーは面白そうに笑った。

「いや、全く。それなのに、君も俺も当の本人、シンイチを数に入れていないと来ている」
「あいつはそんなことに気が付いていない。自分の音がそこに留まっていないからだ」
「同感だ。だからあのモーツァルトが弾ける。多分、次に弾いた時はまた違う音を奏でる。どこまで疾走する気かな。もっともこの自由さが、いつかデビューした時に長所になるか短所になるかは不明だが」
 その通りだ。あの時の演奏が良かったという過去で評価され、聴衆も「あの時の音」を求めてやって来る。それなのに期待通りの音でなかったら失望する聴衆もいるだろう。

 ローマイヤーはよっと机から飛び降りた。
「だが、もうこれは教授会に委ねるしかないしな。ピアノの前に座る段階で勝負がついている可能性もある。実力が同じでどちらを取るかと言われたら、実績と背景、ついでに外観からもアネットの勝ちだ。シンイチに勝ち目はない」

 ローマイヤーは穏やかな風が吹き込む窓へと視線を向けた。開け放たれた窓からは、早春のまだ冷えた温度と共に明るい光が流れ込んできている。光の中に時折、ピアノや弦楽器の音が混じる。ローマイヤーは誰もいないことを確かめるように窓の外を見た。
 窓辺で振り返り、神妙な顔をしてヴィクトルに向き合ったローマイヤーは、低い声で続けた。

「ところが、そのもう一人が何を察したのか、学長にいちゃもんをつけに来た」
「何だって?」
「いちゃもんは言い過ぎだが、テオドール・ニーチェだよ。演奏旅行にピアノ科からもう一人、出してくれと、学長に直々に申し出てきたんだ。しかも、学長ははっきりとは言わなかったが、自分のパートナーになる学生を名指ししてきたらしい」
「まさか」
「そう。シンイチを指名して来たんだ。おっと、これは学長から聞いたんじゃない。盗み聞きの天才秘書の手をちょっとばかり握って聞き出したんだが。さて、君はどう思う? テオドール・ニーチェの思惑は何だ? 確かにシンイチは魅力的な演奏家になると思うが、現時点でテオドールの敵じゃない」

「だが、テオドールにはそう見える?」
「どうだろうね。テオドールにそれとなく聞いてみたんだが、知らん顔だったよ。テオドールのプライドにかけて、自分よりはるかに格下の学生が気になっていることを知られたくないのかもしれないが」
 ヴィクトルは、それにしても今日わざわざ自分が呼び出された理由は何だろうと思っていた。
「君も知っている通り、学長はネオナチかと思うくらいのゲルマン至上主義だ。百歩譲ってヨーロッパ人種ならともかく、日本人のシンイチに易々とチャンスを与える気持ちなどないわけだ。テオドールの希望がそのまま受け入れられるとは思い難い。いくら学院一のスーパースターの頼みであっても」

「で、君が俺を呼んだ理由は」
「多分、試験がある。皆に平等に機会を与えるという大義名分だ。残念だが出来高レースにはならない。第一の関門は」
「シンイチが受ける気になるかどうか、ということか」
 慎一には階段を駆け上るための気概がないというのは確かだ。何より、特待生試験は明日の生活のためだが、その先の未来を勝ち取るために食らいつくという気持ちはまだないだろう。

 それに、スポンサーがついているとはいえ、演奏旅行の参加費用の全てを学院が出してくれるわけではない。さらに舞台に上がるための服、靴、身につけるすべてのものを人目に晒すことになる。
 そういう金銭的な問題が絡んだ時点で、慎一は試験を受けることを断念するだろう。
 それくらいの金などくれてやりたいが、そうですか、よろしく、と慎一が受け取るとは思えない。特待生試験に合格したら、学費と一緒にそれも出してもらえるのだろうか。
 だが何より、慎一にはどうしても越えられない問題がある。悔しいが、人種の問題だ。

「君の説得次第、と思ったりもするんだがな」
「説得もそんなに簡単じゃないが、受けたところで彼に勝ち目があるのか? ソリストとなればより注目されるだろうが、人種的な問題もあるだろうし、パーティやら何やら上流社会のマナーも求められる……」
 ヴィクトルは超絶技巧の必要な難題を吹っかけられたと思った。
 そもそもヴィクトルはただの評論家だ。ローマイヤーのような正当な音楽教師にできないことが、一介の評論家にできるわけがない。少なくとも、慎一は評論家としてのヴィクトル・ベルナールを頼っているわけではないのだ。

 だが、言葉にしてみてからふと思い至る。
 一度だけ事情があって高級レストランに連れて行ったことがある。服がないからと慎一は断ったが、それは高名なオペラ歌手のコンサートとセットになったディナーだった。本当は行きたいと思っているのは、ヴィクトルの目にも明らかだった。
 服を誂えてやった時、慎一はいつものように困った顔をした。
 僕には返せないと。
 出世払いだ、覚悟しておけ、と言ったら、唇を引き結んで小さく頷いた。

 不安そうで肩身の狭そうな表情をしていたのに、いざその場に立った時、慎一の立ち居振る舞いは、よく揶揄されるような「東洋の子猿」のものではなかった。その場に溶け込むように自然に人々の間を歩き、椅子を勧められれば自然に座る。イタリア人のオペラ歌手が挨拶に回ってきたとき、慎一は緊張してガチガチになっていたが、優しく笑みを浮かべて語りかける歌手に、完璧な、そうまさに完璧なイタリア語で答えた。
 それだけではない。テーブルマナーも、どこにも付け入る隙がなかった。
 一体、この子はどういう出自なんだ。ヴィクトルは人の過去を詮索する気持ちなどさらさらなかったのに、あの時から急にたまらなく知りたくなった。

 もしも、彼にチャンスを与えてやれたら。
「ま、君らの関係をどうこう言うつもりはないんだけれど、いや、これもただの噂だと思う面もあるが、もしそうなら全力で彼を説得しろよ。上流社会のマナーなんぞくそくらえだが、君なら教えてやれるだろう」
 いや、彼にはそれは必要ないんだ、とヴィクトルが言葉を挟む間もなく、ローマイヤーは続ける。

「彼が恥ずかしくない服や靴だって、揃えてやれる。この世界のこんな片隅で音楽をしている限り、彼の上には陽が当たらない。悪いが、君との関係だってマイナス要素のひとつになるだろう。君らが否定しても好奇の目がそれを許さない。誰もがリーツマンのように音だけでその音楽家の価値を判断してくれるわけではない。それでも、もし彼の本当の音を聴いたら、彼を見る目は少しは変わるだろう。もちろん、彼がその場で自分自身を上手く表現できるかどうかは分からないが、少なくともその舞台に上げてやらなければ、スタートにもならない」

 それは教師の君の仕事だろう、と言いかけたが、ヴィクトルは言葉を飲み込んだ。そんなに簡単なら自分が呼び出されるわけがない。
 ヴィクトルはやるだけはやってみるが、と言葉を濁して、ローマイヤーの部屋を辞した。
 もしも打開策があるのなら、その鍵を握っているのはテオドール・ニーチェだと思いながら。

 そして慎一と待ち合わせた場所にアネットの姿を見つけた時、さすがのヴィクトルも相当に驚いた。いささかの後ろめたさと、そして面白いことになるかもしれないという期待が同時に湧き起こる。
 アネットは演奏旅行の話を知っていた。
 まだ公には発表されていないが、噂が駆け巡るのは早い。

 だが、それにしても、早すぎないか?
 鎌をかけるつもりで「何故今年に限ってそんなことを思いついたのだろう」という問いかけをしてみた。アネットが何かを知っている可能性を考えたのだ。もしかして、アネットが本当にテオドールと繋がっているのなら、そこから話が伝わった可能性もあるかと思った。だがアネットはするりと躱してしまった。

 アネットが去った後、慎一は何も言わずに席を立ち、今ヴィクトルの前を歩き続けている。級友の一人が声を掛けてきたのにも全く気が付かなかった。
 まだ浅い春の陽が慎一の背中に冷たく白く輝いている。
 何故、アネットはあんな表情をしたのだろう。まるで慎一を憎んでいるようにも見える表情だった。あるいは、会話の端々に何かを確かめるような気配もあった。

 やはり、彼女は意図して慎一に近付いているのではないか。
 そんな疑問が湧き起こる。
 アネットのピアニシモが耳の中に残っていた。手に触れる絹の手触りがそのまま耳の中にある。
 慎一も同じことを感じているに違いない。
 門が見えてきた。守衛の初老の男が出ていく学生に挨拶を返している。石造りの門は両脇の大きな木のせいで十分に陽が当たらないのだが、木漏れ日がその煉瓦の上で小さな曲を奏でるように揺れていた。

「車を取ってくる。シンイチ、聞いているのか?」
 慎一がヴィクトルの声にも苛立っているのを感じる。
「シンイチ」
「あなた、何か隠しているんだ」
 ヴィクトルは後ろから慎一を追いかけながら、ポケットの中の車の鍵を探っていた。
 全く、どこまで鋭いのやら。


 あの二人は同棲しているんじゃないかしら。
 ユーディット・マンハイムはそう言った。もちろん、半分は根も葉もないことだろうが、ユーディットはこの二人を追いかけているのだ。あるいは半分くらいは根のあることかもしれない。
 だが、アネットはともかく、テオドールはどうなのだろう。あのテオドール・ニーチェがアネット相手にそれほど人目につくことをするだろうか。

 もちろん、「あの」テオドールとて実質は二十歳にもならぬ子どもだ。子どもとは言いがかりかも知れないが、人生経験という意味ではまだ青二才なのだ。音楽のためにでなくとも、女にだって興味を持つだろうし、それにどう対応していいのか惑っていたとしてもおかしくはないだろう。

 車に乗り込んだ後も、屋敷に帰り着いた後も、慎一は黙り込んでいた。
 下宿に帰りたいと言い出さなかったのは有難かった。少なくとも先ほど投げかけた問いかけに対する気持ちを確認するチャンスはあるかも知れない。
 と思ったのは甘い考えだった。屋敷まで黙ってついてきたものの、結局ヴィクトルが会話のきっかけをつかむ前に慎一は寝室に閉じこもってしまった。
 やむを得ないのでしばらくの間そっとしておこうと考えていたヴィクトルも、さすがに夕食の時間になっては心配になってきた。

「シンイチ、何を怒っている?」
 何かを隠しているのが気にくわないのか、それとも少しばかり興味を持った女性に仄かな恋心でも抱いてしまって、それがあっさりと躱されてしまったのがショックだったのか。それとも。
「腹が減ったろう。何か作ろう。降りて来いよ」
 ベッドに潜り込んだままの慎一の頭を撫でてやっても、反応はなかった。

 パンと野菜を温め、ワインを先に開けてテイストを済ます。ハムをフライパンに並べて焼きながら、テオドールのことを考えた。
 思い切ったことをしたものだ。それほど慎一が気になったのか。確かに特待生試験の時の慎一の演奏は上出来だった。だが、あれは慎一の一面でしかないし、学院一の逸材が演奏旅行のパートナーに彼を指名するほどの出来栄えだったとも思えない。

 そう言えば、特待生試験の後で慎一はテオドールに誘われて食事に行ったという。同級生を誘うなどテオドールらしくない行動に思える。そういう人づきあいが得意な人間ではないだろう。だが、それでも慎一には声を掛けたのだ。彼が慎一に執心する理由は何だろう。
 もしもテオドールの執心がアネットに伝わっていたら、そしてユーディットの言う通り、アネットがテオドールに夢中になってこの学院に来たのだとしたら、見事な三角関係の成立になる。

 だが慎一は何に反応したのだろう。
 不意に、会話の途中で慎一が黙り込んだ場面を思い出した。
 ミラノ、ローマ、ナポリ、……
 ヴィクトルが演奏旅行で訪問する都市の名前を並べた時、慎一は黙り込んでしまったのだ。
 少しずつ、何かの核心に触れかけている。その気配が暗い廊下の向こうから伝わってくる。

 降りてこない慎一を迎えに寝室に上がると、彼はまださっきの姿勢のままで身じろぎもせずにベッドに潜り込んでいた。そっと肩に手をかけてこちら側を向かせると、それを拒むように小さく身体を丸める。
 泣いているのか。
「シンイチ」

 こういうことは珍しいことではない。そしてヴィクトルはそれを敢えて追及はしないという態度を貫いてきた。音楽が素晴らしければ、その音楽家の過去や生活になど興味はない。そもそも音楽家というのが清廉潔白だとは思えないし、知れば音楽の素晴らしさまで損なわれてしまうような気がして、ただ音だけから感じる世界を大事にしてきたというのに。
 今は胸が締め付けられるほどに知りたいと思う。
 慎一のことも、そしてもしかすると、アネットとテオドールのことも。
 この若い楽聖たちの行く末を心から愛しく思うからだ。

 慎一はゆっくりと目を開ける。視線は天井よりも遥か上を彷徨っている。ヴィクトルはベッドに腰かけ、そっと頭を撫でてやる。
「夢でも見ていたか」
 慎一は彷徨った視線をそのままに、涙を拭うこともせずに目を閉じた。
「同じ夢」
「うん?」

「……ローマからここに来るとき、列車の中でずっと夢を見ていた。波の向こうで灯りが揺れていて、声が聞こえるんだ。声は、五歳の僕に呼びかけている」
 ヴィクトルはそっと指で涙を拭ってやった。
「ローマに戻りたいんだろう」
 初めてその街の名前を口にした。

「行けばいい。方法は分かっているんじゃないのか。神がお前にチャンスをくれようとしている。そしてここに、お前を助けようという人間が、少なくとも二人はいるんだ」
 そう、お前と同じように、この音楽の世界の高みへ飛ぼうという友が、ただ一人で彷徨う空があまりにも広くて、今誰かの手を握りたいと思っているのだ。
 もしかすると、彼が今、お前の神なのかもしれない。
 そして俺にもできることはいくつもある。
 お前はただ、その手を握り返してくれればそれでいいのに。


 ごらん、慎一。あれがナポリの港。目を閉じれば、波が奏でる音楽が聞こえてくるだろう。この海はソレントの港へ、アマルフィの海岸へと繋がっている。そして波の向こうにシチリアの灯りが浮かぶ。慎一、お前はこの国を愛してくれるか。

 耳の中で、優しいハイバリトンの声が蘇る。幻でなく、今ここで聞きたいと願ったことが何度あっただろう。
 ホイリゲの洗い場の食器の音、笑いさざめく客たちの声、入口の重い扉が開かれると吹き込んでくる風の輪舞曲、そして慎一自身が奏でるピアノの音。
 全てが重なり合い響き合って、ひとつの音楽になる。そこにまたあの声が重なる。

 ローマに行けば、全て許されて会うことができるのだろうか。そんなことは叶わない夢だと思ってきた。
 想いは駆け巡り、毎年一度クリスマスの休暇に彼と歩いたサンタ・ルチアの港へ帰っていく。
 ナポリの港。浮かぶ卵城。光を揺らめかせながら遥か地中海の彼方へ遠ざかる波。風が運んでくる酒場の陽気な会話と音楽。
『帰れソレントへ』の調べが海の風に乗って囁きかける。

 初めてあの街を訪れた時、慎一の背丈は彼の腰にも届かなくて、手を引かれて一生懸命、海沿いの道を歩いた。それから少しずつ慎一の背は伸びていき、彼の声や気配をもっと身近に感じられるようになった。
 それと同時に、彼の苦しみを理解し、理解すればするほどに、彼の想いは慎一自身からは遠ざかっていった。

 ジョルジョの目に映っていたのは僕だったのか、それとも父だったのか。
 僕は父なのか、それとも父が僕になり代わったのか。
 記憶にないその人が、僕の中の遺伝子の奥深くで潜んでいて、少しずつ僕を侵して表へ浮かび上がってくる。そして僕を僕でなくしていく。
 僕のまん中にぽっかりと空いた穴は、この先どうしたら埋めていくことができるのだろう。いや、そうじゃない。僕はもう、そんなことを望む資格さえ失っている。

「シンイチ、リクエストだよ」
 ホイリゲの主人は陽気な声で呼びかけてくる。それから片目を瞑って、ちょっと意味深なサインを送ってきた。
 手元に渡された白い紙に、流れるような綺麗な文字が書かれている。

 シューベルト セレナーデ 私のために歌って

 ふと顔を上げると、一番隅のテーブルに黙って座っているアネットと目が合った。
 アネットはこの一週間ばかり、毎日ホイリゲに通ってきていた。そして主人が慎一の恋人だと勘違いしても仕方がないほどに、ピアノを弾く慎一を、ほとんど瞬きもせずに見つめていた。

 彼女はいつもシューベルトやリスト、シューマンの小品をリクエストした。慎一はそっと囁きかけるように答えを返した。数分の曲の間に、いつも想いは二人の間を行き交った。
 昨夜、彼女は遅い時間にホイリゲに来て、客が皆帰った後でピアノの傍にやって来た。

 ねぇ、あなたの育った国の曲を聞かせて。
 慎一は少し考えて、『'O sole mio』を歌った。綺麗なイタリア語だと彼女は言った。
 日本の歌じゃないのね。
 日本の歌はよく知らないんだ。僕のルーツは自分でもわからない。
 アネットはしばらくの間、慎一の手元を見つめていた。それから慎一の肩にそっと手を置いた。
 じゃあ、お返しに。

 彼女はビゼーの『アルルの女』第二組曲のメヌエットを弾いた。
 そもそもピアノ曲ではなく、それを管楽器ではなく打楽器であるピアノで聞くとパサパサに聞こえるのに、アネットの指先からはまるでフルートそのもののような滑らかで優しい調べが流れ出した。
 それから慎一はアネットを下宿まで送り届けた。夜になると冷え込む街の歩道を、恋人同士よりは少し離れて、友人同士よりは少し親密に、並んで歩いた。

 あなたは『アルルの女』の物語をどう思う?
 その時の会話の最中に覚えた不安を、今、不意に思い出す。

 慎一はしばらくの間、アネットの静かな表情を見つめていた。
 今日、真っ白な服を着たアネットは、この賑やかな夜のホイリゲの小さな闇の中で浮かび上がるように艶やかに見えた。誰も彼女に話しかけようとしない。酔客にさえ、彼女の張り詰めた絃のような厳しさが伝わるのだ。厳しくて、美しい。

 慎一は目を伏せた。そっと鍵盤に指を下ろす。
 いつもなら酔客たちの楽しいひと時を邪魔しない程度にピアノを弾く。たまにはじっと慎一を見つめて聞いてくれる酔狂な客もいる。だが多くの人の耳には、ピアノもこの空間を構成する音のひとつにすぎない。
 慎一はリクエストを貰った時以外はそのようにピアノを弾いてきた。リクエストを貰ったら心を籠めて、その人のために弾こうと心掛ける。それでも、他の客の楽しい会話を途切れさせないように気を使っている。

 だが、慎一は今この時の彼女からのリクエストだけは自分の力の全てをもって弾きたいと思った。彼女と自分のためにそうしたいと思っていた。心を籠めて、という言葉では足りない。心をぶつけたいと思った。何故なら、アネットの目には、全てを共有したいという強い願いが浮かんでいるような気がしたからだ。

 セレナーデ。恋人の窓辺で愛を囁く歌。切ない恋心を伝えんと想いを歌に乗せて、夜のしじまの中に語りかける。どうか私のところへ降りてきて。私の声を聞いて。私の想いに応えて。震えるような思いで待っている私のところへ。
 ピアノの脇にあるマイクスタンドが震える。その振動が微かに身体に伝わってきていた。

 めったに歌わない慎一が、昨日に続いて今日も歌い出すのを見て、ホイリゲの主人は驚いたような顔をした。
 慎一の声は賑やかなホイリゲの中に滑り出した。この声が、彼女のいる一番隅の席にまで届いて欲しいと願いながら、咽喉を震わす声は夜の闇を縫い取るように迸り出た。

 アネットもまた、誰かを想っている。
 僕も今すぐにでも、その人のところへ飛んでいきたいと願う。
 切なくて、苦しくて、窓辺で愛しい人に愛の答えを求める。その愛の形は、純粋な恋かもしれないし、家族への想いかもしれない。僕の想いは僕だけが分かっている。
 彼のためにあの国を、あの街を愛したいと願った。彼のためにピアノを弾きたいと思った。彼に、父ではなく僕を見て欲しかった。彼をあの暗い場所から救い上げたいと願った。そして、僕のこの命は彼を救うためにここにあるのだと知ってほしかった。今もなお、どんなに離れても、顔を見ることも声を聞くことも叶わなくても、彼の気配だけはずっと傍にある。

 僕がピアノを弾いてきたのは、ただ一人の人のためだった。
 彼に聴いて欲しくて、今も僕は、彼に聞こえない場所であっても、こうして彼のためだけに、彼に囁きかけるために、音を紡いでいる。
 ジョルジョ。僕はあなたをその苦しみから解き放つことができるだろうか。
 そして、アネット。もしかして僕は君の魂に触れることができないだろうか。君の魂が震えるように願う苦しい恋の想いに、せめて手を添えて慰めたいと願う。

 今、慎一は完全にホイリゲが静寂に包まれていることを知らなかった。
 誰もが手を止めていた。ビールのジョッキを掴んだ手はそのままで、テーブルから持ち上げられることはなかった。ソーセージを口にしようとしていた者も、そのままフォークを皿に戻していた。おしゃべりは完全に止まっていた。そして、仲間の従業員でさえも、客の注文を取ることもなく、飲み物や食べ物を運ぶ足さえも止めていた。

 ホイリゲの主人はご満悦だった。曲が終わったら、俺が見つけた金のタマゴだと言うつもりだった。もっとも、今慎一がしているのは、彼の技術を見せるピアノの名曲を弾くことではなく、本来なら慎一が得意というわけではない、自分で伴奏をしながら歌うことだった。
 慎一が歌を人の前で披露することは多くはないのだが、ホイリゲの主人は彼の声が好きだった。もちろん、主人の思うところでは、慎一はピアノの世界で大成するはずなのだが、もしかして象牙の塔に住んでいる偉い人々に分かってもらえなかったら、ポピュラーの世界でもいいじゃないかと思っていた。

 彼の声は洗練されているわけではないが、ここのところにぐっとくる。
 主人は確かめるように自分の胸を何度か叩いた。
 けれども曲が終わった時、主人も口を閉ざし、沈黙してしまった。

 ねぇ、シンイチ。待ち望んだ恋人は窓を開けてくれたかしら? そこから降りてきてこの愛を受け入れてくれたのかしら。
 アネット、僕にはわからない。でも、心は伝わったのだと思う。
 もしも受け入れてもらえなかったら、私たちの心は死んでしまうような気がするわ。
 そうだね。僕はずっとそんな闇の中にいた。ねぇ、アネット、もしも君が望む人が君を受け入れなくても、君の音楽を愛する人が沢山いるんだ。恋人も、もしかして窓を開けなくても、その部屋の中でそっと心を打たれて泣いているような気がする。だから泣かないで。

 畳み込んだ最後の音が、完全に静まり返ったホイリゲの闇の中に吸い込まれていった。
 慎一はその静寂に、今初めて気が付いた。何故ホイリゲが静まり返っているのか分からなかった。突然不安になり、周囲を見渡す。

 息をすることも忘れいてた人々は、その小さな楽聖の戸惑ったような表情に我に返り、はっと気が付いた主人の拍手を合図にして、突然皆が立ち上がり喝采の声を上げた。感激した老いた婦人が小さな舞台に歩み寄り、このあまりにも不安そうな若者の手を握り、早口で何か言いながらその手を何度も振った。
 貴方は間違っていないわ。
 婦人はそう言っていたようだった。

 慎一は隅のテーブルを見ようと思ったが、リクエストをくれた女性の姿はもうそこになかった。いや、人々の向こうで彼女は立ち上がり、そっとドアの方へ歩いて行く。目で追いかける慎一はかろうじて舞台を降りたが、握手や言葉を求める人々を遮ることができないままだった。

 その時。
 ドアの近くの席で誰かが立ち上がった。

 テオドール。
 突然、慎一の耳に静寂が蘇った。アネットに話しかけるテオドール。テオドールをまっすぐに見上げるアネット。二人は深刻な表情で短い言葉を交わしていたが、すぐに感情が二人を押し流し、明らかに言い争いに変わっていった。
 そして不器用な愛を持て余す若い恋人たちは、ホイリゲに慎一の不安を残し、そのままウィーンの街の闇の中へ出ていった。



追記で音楽をお楽しみください。


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【死と乙女】(5) 幻想、特待生試験結果 

【死と乙女】第5話をお届けいたします。
ウィーンの某音楽院に通う3人の若き楽聖たちの物語。
相川慎一。真の息子ですが、父亡き後、ローマのヴォルテラ家に引き取られていました。しかし何か事情があって、今、ひとりでウィーンで苦学生となっています。学費の免除があるというので特待生試験を受けたものの、そこには強敵が。
アネット・ブレヴァル。パリからやって来た、絹のようなピアニシモを奏でる、まさにミューズのような女性。パリの音楽院の作曲科教授の娘である彼女が特待生試験を受けた理由はまだ明らかにはなっていませんが、慎一の強力なライバルとなっています。
テオドール・ニーチェ。音楽院のピアノ科のスーパースター。すでに楽壇にデビューもしていますが、まだまだ学ぶことが多いと考えている優等生。しかし彼のことは、この物語の後半に語りたいと思います。

これでようやく折り返しです。年内に終わらせたいと言ったけれど、かなり難しいことが判明。
どのお話を書くよりもエネルギーを消耗することが分かりました。でも、努力をするつもり。
リクエストを下さった夕さんには感謝いたします。
思ったより長くなっていることは申し訳ないと思うのですけれど、思った以上に書いていて面白く、力が入っています。
一度書き終えた作品を手直ししながら書いているのですが、エネルギーは3倍くらい注いでいるかも。
端折ったシーン、書き加えたシーンなどがあれこれありますが、大きな筋と時間運びは変わっていません。
だからあまりハッピーなお話ではないのですけれど、この真剣に魂をぶつけるように音楽と向かい合う若者たちを応援していただけたら、とても嬉しく思います。

今回の音楽は……多分もっとも重要なパートです。
ビゼー 組曲『アルルの女』より『ファランドール』
ショパン ポロネーズ第7番変イ長調Op.61『幻想』
ベートーヴェン ピアノソナタ第23番ヘ短調Op.57『熱情』

追記に『アルルの女』のあらすじと、これらの曲を畳んでいます。
よろしければ、ご一緒にBGMにしながらお楽しみください。ちょっと苦しくなるかもしれませんが……




 特待生試験の結果がなかなか公表されないことについては、一部で様々な憶測が飛び交っていた。もっとも、結果は試験後数週間以内に発表する、と明文化されているだけで、既に「数週間」という言葉自体が曖昧だった。
 この期間にどのような駆け引きや想いの交錯があるのか、最終的に発表される結果だけが全てではあるが、結果に表れない想いの重さは、時々ぶり返す真冬のような寒さによって、余計に関係者の気持ちを揺さぶっていた。
 もちろん、多くの関係者は巻き込まれいてるだけなのだ。

 皆の関心がピアノ科にあるのは確かだった。大方の評はアネット・ブレヴァルに傾いているものの、たった一人、頑強に別の候補者を推しているらしいというのが風評だった。
 結果を確定するために最も問題となるのが、そのたった一人の人物であるがゆえに、結果が公表されないのだとも。
 やきもきする周囲の関心を他所に、当事者の二人は異様に静かだった。二人の心はまるでもう別の次元にあるようだった。
 そんな中で、学校では互いに全く無関心と見える二人が、ホイリゲの片隅でピアノに向かい、小さな賭け事をしていることなど、一体誰が知っていたのだろう。

 店が跳ねた後、ホイリゲの主人はいつも苦学生のピアニストに、思い切り練習できる時間を提供してやっていた。それは主人にとっても至福の時間だった。大方の酔客は喜ばないかもしれないが、自分の耳を信じて疑わない主人にとっては、ここからが本当の音楽だった。
 その楽しみが、この数日、倍になっている。
 始めは慎一のファンだと思っていた。彼女が一方的に彼にリクエストをするだけだったからだ。だが二人は知り合いのようで、数日もすると、店の跳ねた後の観客一人きりのコンサートに、彼女が二人目の客となり、やがて彼女もその腕前を披露するようになった。

 女学生の方は繊細で華やかな音を紡いだ。だが主人の耳は、その華やかさの後ろにある強靭な、硬くて壊すことのできない堅固さを聞きとることができた。揺るがないものがあった。不思議な強さは、時に哀しくも感じられた。何かに向かって懸命に闘っている。
 それは慎一も同じだった。
 慎一に聞いても、彼女のことはピアノ科の友人だというだけだった。若い二人の恋を邪魔する気持ちはなく、むしろ応援したいと思っている主人には、それ以上の説明がないのは不服でもあったが、シャイな東洋人の青年を追い込んでも哀れだと思い、主人はそっとその二人の様子を、店の片隅で売り上げを計算しながら窺っていた。
 主人のいる場所から見ると、今日、二人はいつもよりもずっと椅子を近付けて座っているように見えていた。

 慎一は、ピアノ代わりに軽くテーブルを叩くアネットの指を見ていた。聞きたいことが多くあるのに、一方では何もないような気もした。聞きようがなかったのもあるが、二人の間には、音楽以外の会話をすることはタブーであるような、そんなムードが始めからあった。
 アネットの髪がふわりと慎一の肩に触れるくらいに近くにある。それなのに、言葉にならない何かが、二人の間に硬い膜を張っている。

「ねぇ、シンイチ。あなたが指揮者だったらファランドールをどんなふうに奏でるのかしら。明るく、華やかな音を引き出す? それとも少し重厚に?」
 昨夜、アパートまで送っていく道で、アネットは不意に聞いた。ウィーンの街の高い建物の隙間を吹き抜けていく風が、二人の間に吹き込み、二人はまるで恋人同士のように身体を少し寄せ合った。

『アルルの女』は、芸術は庶民の生活や感情を表現するべきであるという考えが芽生えた時代に生まれた物語だ。ビゼーの曲はドーデの戯曲に管弦楽をつけたもので、全部で二十七曲あるものを、演奏会用に別の曲からの『メヌエット』を加えた八曲を組にして演奏される。
 こうして一部を切り出された物語の奥に潜む心情をあえて表すことは、聴衆にどうとらえられるのだろうか。それをアネットは確認しているのか。うわべを聞けば、祝いの席で踊る賑やかな祭りの風景が浮かぶ。その華やかな曲を背景にして主人公が自殺するシーンで終わるこの物語を、切り取られた数分の曲がどこまで伝えることができるのか、あるいは求められるのか。さらに言えば、たとえば、この曲を作った時に作曲家がどうであったかというような、作者の人生経験を共有し表現することが、演奏者にも求められるのだろうか。

「音の中に潜んでいる何かを聞きとるようにと、聴衆に強要することはできないよ。ただ、感じる人がいれば感じるだろう。それが必ずしもいいこととは思わないけれど」
 慎一はふと、特待生試験のアネットの音が出した一瞬の惑い、深い部分に潜んだ死の匂いのようなものを思い出した。何故自分がそれに反応してしまったのか、その理由を心に沈めた上で慎重に答えた。
 アネットはそうね、とだけ答えた。別れ際に彼女は慎一の傍らで言った。
「恋は人を殺すことがあるのね」
 慎一が驚いたのは、その声が不思議なほど明るく決然と聞こえたからだ。

 今、ホイリゲの片隅で、慎一はアネットの髪の匂いを感じながら考えている。
 昨夜のアネットの声は何を訴えていたのだろう。この明るく華やかな声の中に潜む心を読み取るようにと、慎一に求めていたのだろうか。
「ねぇ、シンイチ、いつでも私たちは最後の時を共にしている、そういうの日本では何て言うんだったかしら」
「最後の時って……」
「このお茶碗で飲むのは最初で最後かもしれない、この絵を見るのはこれきりかもしれない、この音を聴くのも今だけかもしれない、この人と会うのはこれが最後かもしれない、だからこそこの時を大事にしようと思う、そういうことを表す言葉」
「ごめん。僕は日本のことをよく知らないんだ」
「そうだったわね」

 また二人の間に沈黙が流れる。賑やかだったホイリゲのホールには、今は彼らとホイリゲの主人以外の誰もいない。ホイリゲの主人は今日の売り上げの計算と、明日の仕入れの計画を立てている。
 明確な音は何もないが、建物自体が唸るような重さ、あるいは空調の音、もしくは風の音が、微かな振動として身体に直接伝わってくる。
「ねぇ、シンイチ。もしかしたらこれが最後の時かもしれないと思って、ひとつずつ曲を贈り合いましょう。自分の心の中で、これだけは、と思う曲を。そしてそれに心動かされたら、お礼に、他の人にはどうしても言えない秘密をひとつだけ打ち明けるの」
「それはゲーム?」
「そう、ゲーム。打ち明けた秘密が真実かどうかは詮索しないこと」

 どちらが先に曲を奏でるか、二人は目と目で確認し合って、先にアネットが立ち上がった。
 アネットはピアノの前に座って、少しの間目を閉じていた。慎一は彼女の横顔を見つめていた。これだけはと思う彼女の曲が何であるのか、強い好奇心が動いていた。
 その時間は何故かとても長く感じられた。どの曲を選ぼうか、惑っているようにも見えたが、最初の音が指先から零れ出した時、彼女には何の迷いもなかったことが分かった。

 その瞬間に慎一を貫いたとてつもない不安と震え、そして鳥肌の立つような感触は、言葉に表すことのできないものだった。それは、今この時、その演奏家の最高の演奏の瞬間に自分が居合わせていると知っていたからだった。
 アネットは今、その音楽の中へ全てを注ぎ込んでいた。
 ショパンの『幻想ポロネーズ』。晩年の傑作のひとつとも言われているが、とらえどころのない曲だった。今の慎一には手の届かない曲だ。

 ポロネーズとはポーランドの貴族が好んだ舞踏のための曲で、ショパンがポロネーズを作曲する心には、二十歳の時に国を捨てて以来戻ることの叶わなかった祖国への愛情があるのだという。だが、この曲はポロネーズのリズムを使った全く異色の作品だった。形式は明らかにポロネーズのものではないし、短調と長調が入り混じり、主題さえもはっきりしない。
『幻想』の名前が付けられたのはショパンの知るところではないだろうが、それ故に、ポロネーズではなく幻想曲とした方がいいのではないかとも言われる。

 慎一は咽喉元を締め上げられるような気持ちで、演奏するアネットを見つめていた。
 アネットは無表情だった。ピアニストが時に演奏しながら苦渋の表情を浮かべてみたり、大きなパフォーマンスを見せるようなことはあるが、それは一切なかった。その姿を見る限りでは、まるきり淡々と、何の感情もないというように音を紡いでいた。
 だが一旦視覚の情報を切り取ってしまったら、その渦を巻くような音の波は、聴くものを簡単に、感情のるつぼのような海の中へ突き落す。

 不安だった。恐ろしく不安だったのに、この海を共に彷徨ってやることだけが、今、自分がアネットにしてあげることができる唯一のことだと分かっていた。だから、慎一はその海を彷徨った。
 時に頭上に光が射した。水面から深い海の底まで、光が仄かに届く。遥か頭上の海面は光を躍らせている。風がある。海の底でもその風の強さが分かる。だが、すぐに闇がやって来る。音は大きくうねり、小さく返し、一定のリズムを刻むことはない。常に誰かの想いや願いを呑み込み、複雑に、時には心を刺し貫き、時には甘い夢で包み込む。

 だが、全ては幻想だ。
 ショパンを愛する人は、この曲の捉えどころのなさに惑うだろう。それどころか、ショパン自身がこの曲を、家族に宛てた手紙の中で「何と呼んだらいいのか分からない曲」と記しているし、大方はショパンの曲を絶賛していたシューマンやリストもこの曲を聞いて、どのように評していいのかわからなかったようだ。リストは「この曲はいたるところで、突然の変動に傷つけられた深い憂愁、急な驚きに乱された平安、忍びやかな嘆きで色取られている。全ての希望が失われ、かつ乱れた感情を経験する」と言った。
 長年、結核に苦しめられ、晩年という言葉が哀れなほどの若さで逝った楽聖の苦悩、死が身近にあるからこそ作り出せた葛藤、そこから迸りでる熱のようなもの、時には凪いだ湖面のように静かになり、時には燃え盛る炎ともなり、時には風のように惑い、人生や感情を切り刻んだような音楽だった。

 ショパンコンクールで演奏した場合に、この曲の解釈は高いレベルで要求されるだろう。できれば選択したくない曲であるかもしれない。
 それを二人の若い楽聖がコンクールの第三予選で挑み、決着がつかなかったという記事を、慎一はヴィクトル・ベルナールの評論で読んだ。おそらくあの戦いのひとつのピークであったのだろう。
 結局、二人の音楽の決着は、ファイナルのピアノ協奏曲第一番でついた。オーケストラを味方につけたら、テオドール・ニーチェに勝つことはできない。それほどにテオドールの技術と音楽の解釈、豊かな表現力、周囲の音を理解する力は抜きんでいていた。

 ヴィクトルの評論は、淡々としていた。アネットの音を褒め称えながらも、『幻想ポロネーズ』については若さゆえの観念の幻想を彷徨っていた、とだけ書いていた。慎一が気になって聞いた時、ヴィクトルは答えた。
『あれは、どう書いていいか分からなかったんだ』
『観念の幻想って何?』
 慎一が尋ねた時、ヴィクトルは遠くを見た。
『死とか命とか、そういうものを、頭の中だけで理解しているっていうことだ。だが、時にそれは簡単に現実にすり替わる。若者の死は、身体の病気でなければ、幻想の中で起きる』
 これ以上はどうしても説明できないとばかりに、ヴィクトルは言葉を畳んだ。
 テオドールも? と慎一が尋ねたら、それには答えを返してきた。
『いや、テオドール・ニーチェは少なくとも我々を不安には陥れなかった。彼は音楽をコントロールしていた。もちろん、いつもというわけではないが、計算し、寸でのところで苦悩に手を差し伸べていた。そういう気がする。でも、アネットだって、ノクターンやエチュード、ソナタでは慈愛に満ちたマリアのような音を出していたんだが』

 あのショパンコンクールの後、アネットはテオドールを追いかけて、この学院に編入してきたのだ。テオドールの背中だけを見つめて。
 そして、幾らかの時を経て、アネットの中に心の核のようなものが生まれている。
 まるで分裂病のように突然変化する楽想は、聴くものの平穏を乱す。だがそれは曲の表面を追いかけるからだ。晩年のショパンが、死の病と、ジョルジョ・サンドとの関係が破綻しつつあった苦悩に翻弄され、時にかつての歓喜に満ちた時間を思い起こし、自らの心の中に飼っていた憂鬱を発散させ、幻想のように消えゆく人生を振り返るなら、そこには狂おしいまでの命の筋道が通っていたはずだった。

 この曲を奏でる時には、ばらばらになる楽想を、あるいは弾くものの感情を、まとめ上げる芯こそが要求される。そして今、アネットは何の境地に立ち、その自らを纏め上げる芯を手に入れたというのだろう。
 後半に差し掛かり、一度柔らかくなった曲想が、改めて激しく打ち出され、またやがて畳まれていく。
 僅か十二分から十三分ほどの時間、慎一は熱くなったり冷たくなったりしながら、アネットの感情の底に、揺るがない形で横たわっている沈黙したままの彼女の原型のようなものに辿り着いていた。
 どれほど呼びかけても何も答えない。全てを拒む彼女の頑なな決意。慎一は大きく扉を叩き続けている。だが、答えは何もない。

 突然、慎一の周りから何もかもが消え去った。
 静かで、何もない。
 慎一はふと我に返る。

 大きな衝撃が加わった時、頭ごとどこかへ飛ばされてしまったような気がするものだ。
 そこにあるのは自分の身体だけだった。身体は司令塔を失い、ただ腐っていくかのように漂っている。
 何もないと思っていたところに、時々光や温もりが触れる。その優しさゆえの苦痛は激烈だった。何もないなら、いっそ何もないまま、自分にとっての時間が永遠に前に進まなければいい。
 だが、生きている限り、何もない孤高の場所に居続けることはできない。頭は再び何かを感じ始める。温かさも冷たさも、苦痛も安寧も、幸福も不幸も、全てがばらばらに脈絡なく、予告も無く、慎一にまとわりつく。時に哀しく、時に穏やかに、心を揺さぶり、昂らせ、鎮め、絶望に陥れたと思えば、またそこから救い上げて愛を語る。この大きな揺れを身体に浴びて生き抜くことの難しさ。

 静かに畳まれた音、音楽の最後に打ち鳴らされる高音。
 その時には、慎一はふらりと立ち上がっていた。

 ホイリゲの主人が見た時、慎一はアネットの傍らに立っていた。そしてアネットはこの人生を畳み込んだような音楽を聞かせたばかりとは思えないほど淡々と立ち上がり、慎一に席を譲った。慎一はまるで操られた人形のようにピアノの前に座った。
 主人の場所からは慎一の横顔が見えていた。慎一はじっと鍵盤を見つめ、膝に手を載せていたが、それはほんのわずかな時間だった。不意にその手が上がったと思った時には、慎一の指先からはあの、たとえようもなく切実な音が迸り出た。

 ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』の第三楽章。
 ホイリゲの主人は鳥肌が立つのを感じた。慎一の弾くこの曲を聴くのは二度目だった。
 今日、慎一は始めから、感情を抑えることはしなかった。女学生のショパンが前奏曲だったとでも言うように、第一楽章、第二楽章を飛ばしたまま、いきなりのクライマックスを突き進んだというように見えた。

 ベートーヴェンが交響曲の主題を盛り込んだことからも、彼の目指していたものがピアノだけでどこまでの多重性とダイナミズムを表現しうるかという挑戦でもあるように思える。ここにぶつけられたエネルギーのものすごさは、確かな技術がなければ、音楽性とという部分に言及する域には達しない。もちろん、ただ弾くだけなら難曲とまでも言わないのかもしれない。だが、要求されるのは技術だけではない。
 慎一の演奏するこの曲を初めて聴いた時から、主人は技術も音楽性さえも超えてしまった何かを感じていた。慎一の指先から吹き出すようなその想いは、ただ叩きつけたのでは騒音にもなりかねないどの一音にも籠められていた。音の粒はばらばらの想いを載せながらも、ひとつに大きくまとまっていた。うねるように、呑み込むように、弾くものと聴くものの区別なく激しく揺さぶり、包み込んでは突き放し、温めては冷たく襲い来る。熱情という言葉を望んだのは作曲者自身ではなかったのだろうが、全てをぶつけるにこれほどに適切で、難しい音楽はあるまい。

 身体の内から、魂から、声にならない声を振り絞って叫んでいる。慎一の身体からオーラのように立ち上る何かは、慎一の中に巣食っている別の魂にも見える。作曲者なのか、この曲に翻弄され続けてきた幾人もの演奏家のものなのか、あるいは今ここで聴いているたった二人の聴衆のものなのか。
 それが今、慎一の身体の内から迸り出るように見える。

 憑かれている。
 主人は思わず駆け寄って演奏を止めなければならないと思った。この若い二人は一体何をやっているのだ。だが身体が硬直したように動かなかった。
 切実、と言ってしまえばそれだけの言葉だった。慎一はこの曲を奏でる時、命を削っているように見える。一音一音はただピアノに叩きつけてしまえば意味をなさないのかもしれない。だが、その一音一音に慎一は命を叩き込んでいる。

 一体どうしたらいいのだ、と主人は思った。不穏で不安だった。だが、恐ろしいものを見る時の恍惚感が主人を圧迫していた。まさに圧迫だった。恐ろしいのに、美しく、悲しく、ぎりぎりの崖の上を歩いているように恐怖と昂揚感が押し寄せて、呼吸ができない。同じような旋律が何度も押し寄せる波のように、繰り返し繰り返し魂を洗っていく。
 女学生の奏でたものが、変容の中の揺るぎなきものであるならば、慎一の奏でているものは同じ音の連鎖の中で永遠に移り変わる変容だった。
 慎一は音楽の神に取り憑かれているのだ。そして、取り殺されてしまうかもしれない。

 主人は最後の音が畳みこまれた瞬間に、身体を縛っていた拘束から解き放たれたように椅子から立ち上がった。
 あの変人の評論家は、つい最近まで屋敷に電話を引いていなかった。あまりにも不自由だろうとさんざんに周囲に言われて、ようやく電話を置いたところだったが、まともに出たためしがない。もしかして受話器を上げ方が分からないのではないかと疑うほどだった。
 今日、まだあの使用人夫婦が起きていたらいいのだが、年寄りであてにならない。耳だって遠いだろう。
 案の定、電話のコール音は受話器の向こうで鳴り続けるばかりだった。
 ヴィクトル、くそ野郎、俺の金のタマゴが、壊れちまう。
 主人はついに諦めて受話器を電話に叩きつけた。

 慎一は弾き終えた後、しばらくの間完全に放心していた。
 わずか七分余りに、魂を取り落してしまった。またあの時のように、頭がここから飛んで行ってしまったのだ。今自分がどこにいるのか、何をしたのか、まるで分からなくなっていた。

 不意に静かになった空間には、ピアノもなく、ここはホイリゲの中でもなかった。目の前に小さな箱庭がある。
 あなたの思うように世界を作っていいのよ。
 優しい声がする。だが慎一は何もそこに描くことはできなかった。箱庭の砂地が波打ちながら自分を呑み込んでいくような気がした。綺麗な色を付けられた家のミニチュアも、木や花壇、柵の模型も、そして小さな魂のない人形たちも、慎一にとっては形のない、意味もない、そして網膜に影さえ残さないものだった。
 慎一の前に、世界はなかった。
 あそこから、どうやってここにたどり着いたのだろう。今自分は一体どこにいるのだろう。

 ふと肩に白い手が乗せられた。
 二人とも、涙を流すということはなかった。ただお互いのことが分かっていた。手を握りしめ合い、約束通り、誰にも知らせることができない秘密を、少ない言葉で打ち明けた。
「あなたがこの世にいなければよかったのに」
「君に会わなければよかった」

 二人は同時にそう言って、少しだけ微笑み合った。幸せなほほえみではなかった。だが、不幸とも言えなかった。ただ、これが互いにとって、最後の演奏だと知っていた。それを世界の中で二人だけが聴き合い、二人だけが理解し合っていることを知っていた。
「僕は、大切な人を殺してしまった」
「私は、今から大切な人を殺そうとしている」
 理由も是非も問わない約束だったが、二人とも何より、問う必要がないことを知っていた。

 慎一は今日、アネットを送らなかった。アネットも敢えて、送らないで、とは言わなかった。アネットが出ていった後も、慎一はピアノの前に座ったままだった。
 ヴィクトルに連絡がつかないままホイリゲの主人がホールに戻ってきたとき、慎一は意外にもしっかりとした気配で、ピアノの蓋を閉じ、するりと立ち上がった。ピアノの前に座っている時には大きく見えるのだが、こうして立ち上がってみると、慎一は華奢で小柄だった。民族の由縁もあるのだろうが、何よりも頼りなげで幼い子供のように思えた。

 だが、その表情には、子どもにはない影が宿っている。命を削り落とし、今、一度に十年ばかりも年を取ったように見えた。
「シンイチ、送ろうか」
 慎一は表情を変えなかった。
「大丈夫です。遅くまで、ありがとうございます」
 いつものように礼を言って、いつものように飾り気のない一張羅の黒い上着を着て、慎一は冷え込むウィーンの街の中へ吸い込まれていった。


 ホイリゲの主人の罵声がヴィクトルの耳に届いたのは翌日の夜だった。
 慎一は今まで一度も無断で欠勤したことはなかった。学校に行っていたのかどうかは主人には分からなかったが、後で聞くと、下宿の部屋を一歩も出ていなかったようだった。
 心配した主人が店を従業員に任せて屋敷まで乗り込んできたので、ヴィクトルは初めて事情を知った。慌てて一緒に慎一の下宿に行くと、下宿の女将、マルグリットが慎一の部屋の前でおろおろしていた。
「あぁ、あなたたち、丁度良かった。シンイチが出てこないんだ。朝、声を掛けた時は、今日は気分が悪いから食事はいらないと言っていたんだけど、夕食にも降りてこないし、そもそも一度も顔を見ない日なんて、今までなかったんだよ」

 ヴィクトルはドアを叩いた。声を掛けてみたが、まるきり音さえもしない。出ていったのを見なかったのかと尋ねたが、マルグリットは買い物に行く時間だけここを離れたが、後は家にいたのだと言った。マルグリットはここに住む下宿人達をわが子のように可愛がっていた。音楽院の学生ならなおさらだった。そして、慎一のことを誰よりも気にかけている様子が、言葉の端々にも態度にも出ていた。慎一に頼る親がいないことを知っていたからだった。
 非常手段だとは思ったが、マルグリットに鍵を持ってこさせた。
「シンイチ、入るぞ」
 一応声を掛けて、ヴィクトルとホイリゲの主人、マルグリットは部屋のドアを開けた。

 一部屋きりの部屋には、もう夜も更けているというのに、明かりは灯っていなかった。
 ドアの脇を探って灯りをつけると、慎一は借りているベーゼンドルファーのアップライトの前に座っていた。ピアノの蓋は閉じられたままだった。それどころか、慎一は、昨夜主人が最後に見た黒い上着を着たままだった。
 マルグリットが悲鳴のような声を呑み込んで、慎一に駆け寄り、手を握った。
「シンイチ、どうしちまったの」
 ホイリゲの主人は、お前が電話に出ないからだとヴィクトルに悪態をついた。
 ヴィクトルはその通りだと頷きながらも、思わず慎一の住んでいる小さな部屋を見回していた。

 ヴィクトルが慎一の部屋に入るのは初めてだった。
 部屋は広くはない。ベッドとピアノ、窓際の机、それに木製のクローゼット。それだけだった。
 机の上は片付いていたが、古本屋で買ったらしい古い本が積み上げられていた。本は床に置かれた手製の木の台の上にも積み上がっていた。背表紙を見たところ、大方は音楽に関するものばかりだった。それから詩集、日本語の本もいくつか。それに楽譜の束。新しいものではなく、束からはみ出た端は、いずれも破れたり変色したりしていた。
 クローゼットの中に掛けられた服はわずかだった。隅に、ヴィクトルが買ってやったスーツが、それだけはカバーをかけて大事そうに吊るされていた。下には靴が数足。運動靴と、少しましな、しかし履き古した革靴、そしてやはりヴィクトルが買ってやった上等の革靴。その他にまだいくらか本が積まれていた。
 僅かなお金を全て音符と活字に変えて生きているのだ。

 愛おしさが込み上げて、ヴィクトルはどうしてこの想いを形にしてやればいいのか、惑った。
 それから三日間、慎一は口から文字通り何も受け付けなかった。ヴィクトルが引き取った翌日の夕方からは吐き続け、医者嫌いのヴィクトルも、今回ばかりは医者を家に入れ、点滴をさせて、自分は夜もほとんど眠らずに慎一の傍に付き添っていた。
 熱はなかったが、まるで魘されるように汗をかき、時折布団にもぐり込んで身体を丸めたまま冷たくなっていた。ヴィクトルがさすって温めてやると、何かに気が付いたようにその手を握り、しばらくの間じっと握ったまま離さなかった。唇に色がない時があり、そっと触れてやると驚いたように目を開け、小さな声でごめんなさいと言った。
 何も謝られるようなことはないとヴィクトルは優しい声で言った。

 慎一のいる場所がどんな場所なのか、ヴィクトルには想像もつかなかった。だから簡単にそこから這い上がってこいとは言えなかった。それでも夜はずっと手を握ってやっていた。
 慎一はその手を煩わしそうに解こうとするときもあったが、強く握り返してくることもあった。ただ触れいてるだけの時もあった。そして、やがてヴィクトルの手を探すようになった。
 その手の冷たさ、時に湿度を帯びた熱さ、あるいは真っ白な乾き、そのすべてにヴィクトルは己の人生をかけてやってもいいと思った。ヴィクトルは今更ながらに、この少年の過去を詮索しようと探偵を雇ったことを悔やんでいた。己を恥じて依頼を取り消そうとその男に連絡を入れてみたが、ローマに出かけているという男とは連絡が取れなかった。
 賽は投げられた後なのだ。

「シンイチ、もしも聞こえているなら、これだけは覚えておけ。俺はお前が誰であろうとも、何も語らなくても、お前の奏でる音だけを信じている。俺はずっとお前の味方だ」
 自分に言い聞かせるようにヴィクトルは慎一の耳元に話しかけた。どのような結果であろうとも、受け入れた上で、言葉通り、このミューズに愛でられた聖なる魂を守ると決めた。

 三日目に連絡を受けたローマイヤーがやって来た。慎一はようやく温かい飲み物だけは口にするようになり、点滴を抜いてもらったところだった。
 無断で授業を休んだことを穏やかな声で謝る慎一に、ヴィクトルもローマイヤーも何も言えなかった。どこへ行けばいいのか、慎一はまだ惑っているように見えた。返してくる言葉は謝罪だけだったのだ。
 何とも言えずに黙っているヴィクトルをちらりと見て、ローマイヤーが言った。
「明日、特待生試験の結果が張り出される。私はそのことを知らせに来たんだ。どんなに辛くても、自分が闘った結果は見届けなければならない。それが今、君には大事なことだ」

 慎一はあの日から初めて、まともに感情のあるような顔をした。
 慎一を助けようとする手がここにもひとつ、存在していた。
 翌日、慎一は何日目かでようやく風呂に入り、身支度を整えた。心配が頭から吹き出しそうになっている無愛想な老夫婦の顔を見て、困ったような顔をして、それからまた小さな声でごめんなさいと言った。
 ヴィクトルの作ったサラダとソーセージ、パンのシンプルな朝食を半分ほど口に入れて、それから行ってきます、と立ち上がった。
 ヴィクトルは送るとも言わなかった。一人で行くべきであると思っていた。


 何日目かの外の風は、まだ強く頬に吹きつけたが、随分と暖かくなっていた。
 慎一は立ち止まり、空を見上げた。高く澄みきる高い青、その中に浮かびながら空を切る鳥、風ははるか上空を舞い、彼方から吹き降ろしてくる。足元の緑の草は、溜め込んでいた芳しい土の匂いを風に乗せ、慎一の足元から吹き上がった。
 何度も何度も繰り返し迫りくる罪の苦痛と、そこから這い出すときの世界の静けさ。世界はいつも静かだった。人間の営みなど意に介さぬように、ただそこにあった。いつになっても、ここから本当の意味で抜け出すことができないことは知っていた。知っていたからこそ、ここに立つ意味があることも分かっていた。
 もしもこの指に与えられたものに意味があるのなら、この指は朽ちるまで全て音楽に捧げなくてはならない。それが慎一の罪への唯一の贖いだった。

 音楽院の門をくぐった時、門の向こうからアネットが歩いてきた。
 アネットの周りを光が取り囲んでいた。世界のどのようなものよりも、彼女は美しいと思った。鮮やかな光色の金の髪、優しく赤い唇、桜の色の頬、湖のような瞳、そしてミューズの宿る白い指。
 すれ違う時、アネットは晴れやかな笑顔を浮かべた。
「おめでとう、シンイチ。あなたを越えたかったわ」
 慎一は言いようのない不安を覚えた。アネットを追いかけることはできなかった。光の中を歩き去っていく彼女を見送ってから、慎一は駈け出した。

 途中で、幾人かの友人に出会った。そのうちの一人、アメリカからの留学生でジャズ歌手とジャズピアニストの両親を持つボブ・マッケンジーが慎一の腕を叩いた。
「おめでとう。何より、これで食いっぱぐれなくて済むじゃないか」
 掲示板の前は、人だかりだった。慎一の頭には複雑なものが行き来していた。掲示板に近付く人、結果を見て納得したように、あるいは疑問を口にしながら歩き去る人の無秩序な流れに押されながら、慎一は張り出された文字の前にたどり着いた。
 その瞬間、慎一は来た道を急いで引き返した。
 門まで息も継がずに走り戻ったが、もう彼女の明るい金の髪を見つけることはできなかった。

 特待生試験結果 ピアノ科 合格者 二名
  アネット・ブレヴァル
  シンイチ・アイカワ




どなたか慎一に『一期一会』を教えてあげてください^^;
竹流もといジョルジョはちゃんと日本語を教えてあげてたはずなんですけれど……
普段使わない言語だったし、仕方ないですね。

追記で音楽をお楽しみください。と言っても、今回は苦しいかも……(>_<)


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【2017 scriviamo!参加作品】サバンナのバラード 

scriviamo.png
八少女夕さんのscriviamo!に今年も参加させていただくことにしました。毎年大人気のこの企画、今年はますます参加者も増えて、夕さんも大変だろうなぁ~と思っているうちに出遅れてしまいそうになっておりました。今日は一念発起して書き始め、一気に書き上げたのはいいのですが、さっきまた一度、前置きに書いた記事を飛ばしてしまって、真っ青です(@_@)
気を取り直して。

毎年、あれこれ悩むのも楽しいのですが、ここのところ、P街のあの一族にちょっかいを出したり(私じゃなくてトトが!ということにしようっと…【海の青・桜色の風】)、奥出雲の神様に祟られそうなことをしてみたり(【龍王の翡翠】)、夕さんを困らせているのか、怒られる手前のぎりぎりにチャレンジしているのかというような気もしなくはないのですが、今年はかなり大人しめです(多分)。

このネタはもともとクリスマス用に準備していたのですが、時間が無くて断念したもの。でも、この際、クリスマスはメインの設定ではなかったので外しました。
もちろんのこと、私はアフリカには足を踏み入れたことがありませんので、全くの想像です(@_@) 夕さんに「サバンナはそんなとこじゃないわよ」ってだめ出しをもらいそうですが、それを覚悟の上で、イメージを膨らませて書いてみました^^; 
夕さんのところからお借りしたのは、【ニューヨークシリーズ・郷愁の丘】から、既にニューヨークではなくケニアかイタリアに行っちゃっているかもしれない彼女と、彼女の恋人候補と思われるシマウマの先生と、ナイロビの旅行エージェント氏。今回はほんと、ほぼ名前だけなので、ご迷惑をおかけしていることはないと思われます。

こちらの方の主人公・奈海(なみ)は、初出。うちにもカメラマンがいるわ~と時々つぶやいていたのですが、本人の登場はなかなかチャンスがありませんでした。
ところで、彼女の名前は、彼女が奈良の出身で、海のない県で海洋写真家であった父親がつけました。彼女のお祖父さんのエピソードは写真家の星野道夫氏のものですが、購読中のナショナルジオグラフィックを見ても、本当にカメラマンってどこまで行くんだろう。そのおかげで素晴らしい世界を見ることができる、有り難いけれど、気をつけて行って頂きたいなあと思います。

このカテゴリが『ピアニスト・慎一シリーズ』に入っているわけは、読み始めたらすぐに分かるのですが、物語自体を読んでいただく際には何の基礎知識も必要なく、ただ女の絆物語、と思って読んでいただけたらと思います。
♫ た~てのいとはあなた~ よ~このいとはわたし~ の世界?
ただし、このシリーズの冠がついているからには、クラシック音楽は必須。今回の曲は、ショパンのバラード第1番。【死と乙女】でも使ったので、ちょっと悩んで、第4番と迷ったのですが、第1音がずんとくる方を選びました。
(BGMにされる方は、続きを読むを開けてくださいませね)
実は書き始めたときはノクターンの20番を想定していたのですが、なんだか『戦場のメリー・クリスマス』ですっかり悲痛なイメージに傾き過ぎちゃったような気がするので(でも確かに、これは人生のレクイエム。私の中では、緒方拳さん遺作・中井貴一さん主演『風のガーデン』なのですけれど)、今回は断念。いつか使おうっと。

少し長いのですが、途中で切るのも間抜けなので、そのままです。ご容赦ください。


【サバンナのバラード】


 車体の塗装があちこち剥げて錆がついている四輪駆動車の中から、ショパンのエチュードが聞こえてきた。
 奈海は、ファインダー越しに見ていた巨大な夕陽から目を上げて、振り返った。土埃のせいで赤茶に汚れていた白い四輪駆動車は、大地に沈みゆく太陽でオレンジ色に燃え上がっている。
 運転席では、帽子を深く被ったフランス人の医師が、背もたれを倒してゆったりとくつろいでいた。ナイロビで修理してもらったカーステレオは、彼の休息のために最も重要なアイテムだったようだ。

 三年前まで、世界各地の難民キャンプで寝る暇もないくらいに働いていたフランス人医師、ネイサン・マレは、先日四十になった。祝ったのは、奈海と、無口で愛想の悪い現地コーディネーター兼看護師、それに赤い砂埃と、ネイサンが以前所属していた医療援助団体から払い下げられた四駆のエンジン音だけだった。
 残念ながらその時、カーステレオは壊れていて、音楽の一つもかけることができなかったので、仕方なく奈海が日本語の歌を歌った。
 ハッピーバースディーじゃない歌にしてくれ、できれば聞いたことのない日本の歌をと言われたので、いつも落ち込んだときには聴いているんだと言ってDreams Come Trueの『何度でも』を歌った。歌詞の意味を説明したら、いい歌だと喜んでくれて、奈海が三十一になる来月には今度は僕が特別な歌を歌ってやると言ってくれた。

 ネイサンは、医療援助団体から委託という形にしてもらって、何が起こっても団体に責任は問わないという念書を書き、フリーで医療の手の届かない地域に足を運ぶようになってから、既に三年が経つ。団体の中にいる以上、ある程度の安全域に身を置かねばならず、彼の理想とするものに近づくことができなかったのかもしれない。この一年はナイロビを基点にして、ソマリア難民キャンプやその周辺を回っていて、まさに砂漠に水滴を垂らすような仕事を黙々と続けていた。
「こういうのを、無謀っていうんだろうなぁ」
 この一年、ネイサンについてアフリカの小さな村を回ってきた奈海には、そうは思えなかった。

 ネイサンはできる限りの情報網を駆使して現地事情を確認していたし、奈海が行動を共にするようになってからは、時々都市に戻ったり、知人や友人の別荘を訪ねて数日過ごすようなこともしてくれた。
 一方で、奈海のほうも、一通りの医療処置の知識を得ることができるようになったし、少しはネイサンの助けができるようになっていた。一緒に行動している看護師は、ソマリアから逃げ出したときに一人息子を亡くしていて、そのせいなのか、あるいはただ言葉の問題なのか、あまり口を開かなかったが、黙々と仕事をこなす人だった。彼女からも奈海は色々なことを学んだ。
 もちろん、奈海がいなければ、銃声が響くような危険地域、ソマリアの国境近くにだって行くのかもしれないが、自分がネイサンの抑止力になっているなら、それもいいと思えるようになっていた。奈海は今、自分が誰かの役に立てるかも知れないことを嬉しく思うようになり、そして、その機会と居場所を与えてくれた人には何が起こっても生きていて欲しいと、心から願っていた。

 夕焼けはまさに巨大、という言葉がぴったりだった。
 不思議なことに、この大地を踏むようになってから、都会で見聞きした飾られた言葉や映像が何一つ、人生においてそれほど必要なものではなくなっていた。ここでは言葉は単純で明快だった。巨大なものは巨大、赤いものは赤い、そして美しいものは美しい。そして写真の中の映像もまた、疑問を挟む余地がないほどに単純だった。
 今、太陽は地平線をくっきりと浮かび上がらせながら、その日の最後の祈りの時間を地上のあらゆる生命に赦していた。視界の両端を越えてなお、左右へ延びている地平線は、木々のわずかな凹凸までくっきりと浮かび上がらせて大地を黒く沈め、その上に壮大な空が乗っていた。色彩を表現することのできない中心から放たれた光の矢が雲に跳ね返り、オレンジの海を空に描いている。

 奈海は結局、押そうかどうか迷っていた指をシャッターから外し、祖父の形見のライカを胸元にまで下げた。どんなに撮っても、この自然には追いつけない。そう考えたら、これをファインダーの中に納めることが馬鹿げているように思えた。
 代わりに、髭面の四十男が眠っている姿をライカのファインダーに捉え、それから少し車から離れて構図を選んで、一枚撮った。彼女のフィルムにもSDカードにも、大自然のちょっとした景色とともに、この四十男と無口な看護師の横顔の記録が増えていっていた。
「や、また撮ったな。こんなむさ苦しいのを撮ってもフィルムが無駄だろう」
「そうでもないわ」
「またフィルムを探し回る羽目になるぞ」
「いいのよ。無くなったら、撮らないだけだから」
 ネイサンはやれやれというように、いつものように口髭をなでながら、呆れた笑いを浮かべた。

 まさかこれほどにフィルムもSDカードも消費するとは思わなかったので、ナイロビに立ち寄ったときにナイロビ中のフィルムを買い占めるくらいに探し回った。ネイサンはそれにずっと付き合ってくれていたのだ。
 奈海とて、自分がパリに住んでいるというだけで享受してきた数々の自由や利便について、何ら有難さも感じずに生活していたことを恥ずかしく思っていたのだが、写真に関するものだけは譲れなかった。

 それでも、ネイサンの友人だという旅行エージェントのリチャード・アシュレイは、いったいこの国ではどこからどこまでが旅行エージェントの仕事なのかと首を傾げるくらいに協力的だった。ナイロビで手に入れるべきものは、彼のおかげで滞りなく手に入れることができた。このオンボロの四駆の修理も含めて。
 それに、リチャードのおかげで、シマウマの研究者であるスコット博士と知り合うことができて、彼の別荘に誘ってもらえたし、そこで久しぶりに会話を楽しんだり、生命の危機や不安を感じずに暖かい布団で眠る夜を手に入れることができそうだった。

 リチャードは、僕はカメラマンという人種を愛しているんだと言っていたが、それはおそらく『太陽の子供たち』のカメラマン、ジョルジア・カペッリのことだろう。ジョルジアは写真集の解説欄に、リチャードの協力について繰り返し感謝の言葉を述べていた。
 彼女と自分は、同じように写真を仕事として生きているのに、ずいぶんと離れた場所にいるような気がしていた。彼女の写真展を見に行ったとき、ふと、ずっと疑問に感じていた何かが身体の奥深くではじけてしまったのだ。

 パリでファッションモデルたちのスチール写真を撮ることからスタートした奈海のカメラマンとしてのキャリアでは、これまで祖父や父の残したフィルムカメラを必要とする場面など一度もなかった。だから、形見だといって渡されていた箱を初めて開けたのは、パートナーと別れ、都会を離れることを決めた時だった。
 祖父は厳しい辺境の地で動物たちの写真を撮っていたカメラマンで、アラスカの山の中で熊に殺された。祖母も、父やその兄弟も、そんな祖父を尊敬していたが、同じように海洋写真家となっていつ帰ってくるともしれない父を待っていた母は、カメラマンという仕事を好いてはいなかったのだろう。父もまた、若くして海難事故に巻き込まれて帰らぬ人となっていた。それなのに、いつカメラマンになろうと決めたのか、自分でももう覚えていないが、これは血なのだと信じていた。

 ただ、その血が、結果的に、自身の仕事のことで苦しんでいる年下のパートナーを見捨てる遠因になってしまったことは辛かった。しかも、彼は二人の間に生まれた娘を手放したくないと主張したので、奈海は一人でアパートを出ることになり、しばらくは自分から言い出したこととはいえ、何から手をつければいいのか分からなかった。早くパリから逃げ出してしまいたいけれど、どうやって伝手を見つければいいのか知らなかったのだ。
「それなら一緒に来てみますか?」
 声をかけてくれたのは、ジョルジアの写真展で知り合ったネイサンだった。最初は一ヶ月くらいのつもりでここへやってきたのに、それから、いつの間にか一年という月日が流れている。
 
 こんな絶対的な自然の中でショパンなんて、と違和感を覚えながら、太陽が刻一刻と変えてゆく空の色彩を見つめる。修理してもらったとは言え、大地の砂を幾分か吸い込んだらしい音の悪いカーステレオから聞こえてくるショパンは、残響の秒数まで計算された都会のホールで聴くものとはまるで違っていた。
 違っているはずなのに、今、胸の奥に響いてくる振動は不思議な波長で奈海の身体を揺らし始めていた。そして、バラードのその曲のほんの第一小節が始まったときに、奈海はいつの間にか目の前の夕焼けの残照が滲んでいることに気がついた。

 それは確かに、懐かしい彼のピアノだった。
 奈海がその音を、聞き間違えるはずがなかった。
 後で、他の人からこの曲は第一主題が厄介なのだと聞いて、改めてCDでじっくりと聴いてみると確かに屈曲したバラバラのピースが散らばっているような印象を受けたが、彼の演奏にはそんなイメージはまるでなかった。それに、続く第二主題の美しい旋律がまっすぐに心に沁み込んでくるところから終盤までは、曲の盛り上がりと共に、聴いている自分の方も息を忘れるほどに心を惹かれ、そして、いつの間にか恋に落ちていたのだ。

 彼は、奈海がパリでアパートをシェアしていたイネス・ルジャンドルの弟の友人だった。
 イネスの家庭事情は単純ではなく、彼女は父親、すなわちベルリンの名士であるアルブレヒト・ニーチェには正式には認知されていなかった。母親はパリの踊り子で、娘を一人で育てていたが、イネスが十二の時に病気で亡くなってしまった。やむを得ずニーチェ家に使用人の扱いで引き取られたイネスは、文字通り天使のような外見で男たちを虜にし、女たちからは執拗ないじめを受けた。彼女の美しさを称える男たちにしても、彼女を一段階も二段階も下の階層の人間として蔑んでいることには変わりなかった。

 そんな中で異母弟のテオドールだけは、まさに姉を天使のように崇拝し愛してくれた。テオドールの初恋は、彼が類いまれなき音楽の才能に恵まれていることが判明した時点で、ウィーンへの留学という形で終わりを告げ、イネスは庇い慰めてくれる存在を失ってニーチェ家を出た。
 淑やかで華やかで優しい、天使のような顔と、絵から抜け出してきたヴィーナスのような身体の中に押し込められている鋼のような意志で、イネスはパリの町で生き抜いていた。

 彼女と初めて出会ったのは、フランスに語学留学していた奈海が、小さな雑貨屋でアルバイトをしているときだった。イネスはまだ無名のモデルで、時折雑誌に写真を載せてもらえる程度だったが、奈海は初めて目が合った瞬間から彼女の虜になった。
 ひょんなことから話をするようになり、いつの間にかルームシェアをする関係になり、やがて奈海の出自を知ったイネスが、彼女がいつも写真を撮っているスタジオに紹介してくれた。

 イネスは奈海にとっても天使だった。
 ちょうどその頃、スタジオに出入りしていた日本人の少女、ユイとも話をするようになった。少女とは言え、彼女は十五にして既に成熟した大人の女の身体を持っていた。明らかにハーフと分かる顔立ちだったが、エキゾチックで悪魔的な魅力を、唇からも目から身体のすべてから迸らせていた。それなのに、彼女はやはり「少女」なのだった。

 東洋の小悪魔・ユイと、真っ白な天使・イネス。この二人を前にしたときから、奈海はカメラのシャッターを押すのがこれほどに楽しいことなのかと思い、毎日のように二人の写真を撮るようになった。スタジオからプライベートまで、二人は奈海にとって完璧な被写体だった。やがて一枚の写真が雑誌に載ると、化粧品会社やジュエリー会社が、そのうちにファッションの最先鋒のブランド会社までが、こぞって彼女たちと契約したがった。奈海も同じように華やかな世界に巻き込まれ、一緒にパリの街を手に入れたような気持ちに酔いしれていた。住む場所も、着る服も、化粧の仕方も、全てが変わった。

「これは神の配剤かもしれないわ。私たちは運命で結ばれているのよ」
 ある日、イネスが天を仰ぐように言った。
「私の弟がウィーン交響楽団を指揮して、ユイのお兄さんがデビューするのよ。こんなことってある? もちろん、私たち三人は姉妹なのだから、ナミもこの運命に参加しなくちゃいけないわ」

 その若いピアニストのデビュー演奏会を聴きに行ったとき、舞台の上に現れた彼の身体が驚くほどに小さく見えて、思わず不安を感じたほどだった。いつも女性たちの中でも特に見栄えのあるモデルたちに囲まれていた奈海には、華やかな舞台の上で戸惑う子どものような彼の様子が滑稽にさえ見えたのだ。
 しかし、背負ったオーケストラの重圧が彼を潰してしまわないかと心配する奈海の思いをよそに、隣に座るイネスもユイも落ち着き払っていた。今思えば、彼女たちはあの演奏会の成功を確信していたのだ。

 彼が指先を鍵盤に下ろした瞬間から、その身体は突然別物に変わっていった。オーケストラの響きを、ピアノの壮麗なカデンツァが追いかけていく。曲調が壮大になればなるほど、一小節先に進むごとに聴くものを陶酔の世界に誘い込み、続く第二楽章ではこの上ない特別なロマンティシズムが居合わせる全てのものを酔わせる。そうしてオーケストラの波の上を自由に駆け回りながら、時に波を追いかけ、煽り、従え、逃れ、また戯れつつ、震えるようなエネルギーを身体から迸らせる姿は、音楽の神の光をその身体に纏っているように見えた。

 それなのに、曲が終わって立ち上がると、彼の音楽に酔いしれ押し流されて静まり返ったままの聴衆に、彼はまた不安そうな顔を向けた。それは本当に単純に出来映えを親に確認する子どものように、自分の演奏がどこか不味かったのではないかと心配している顔だった。
 もちろん、その静寂は一瞬のうちに爆発するような拍手喝采にとって替ったのだが、その幼い子どものような顔が、音楽においては自らがいつでもパトロンになろうと考える熱狂的なウィーンの音楽愛好家を刺激したことなど、彼は全く気がついていなかっただろう。

 イネスの弟、テオドール・ニーチェは若き楽聖として既に指揮者としてもピアニストとしても名を知られていたが、そのニーチェと、彼、相川慎一のデュオはその後しばらくウィーンの演奏会の華となった。ウィーンの人々は、若く情熱的で、しかも控えめで礼儀正しい才能に溢れたピアニストを、自分たちが育てた雛鳥のように愛し支えた。
 その彼が演奏会で乞われるのは、彼が最も得意としていたベートーヴェンだった。だからショパンを演奏会で聴くことは滅多になかった。奈海は音楽に詳しいというわけではなかったので、ピアノと言えばショパンだと思っていて、何気なくショパンは弾かないの、と聞いたのだった。彼は意表を突かれたような顔をして、そんなことはないけれど、誰も僕のショパンを必要としていないと思っていたから、と言った。
 彼が奈海のためだけに弾いてくれたのがこのバラードだった。

「このピアニストの演奏を一度だけ聴いたことがあったんだ。それも、コンサートじゃないんだよ。パリに帰ってコンサートホールに勤めている友人を訪ねた時にね、リハーサル室からノクターンの20番が聞えてきたんだ。足が震えてしまって、一歩も動けなくなった。最近来るようになった新しい調律師が、調律の合間に時々弾いているんだという。友人から、彼が元はウィーンで活躍していた、チケットが取れないほどのピアニストだったこと、指を痛めて若くして一線から脱落した後はもうコンサートもしていないらしくて、パリで音楽のアレンジをしたりピアノの調律を手伝ったりしているだけだって聞いてね、それからCDを探し回ったんだ」
 奈海は四駆に凭れたまま、ネイサンの横顔をそっと見た。ネイサンは、倒していた椅子から身体を起こして、四駆の窓枠に腕を預けて、すっかり沈みきった後も大地の空気を黄金に揺らめかせている太陽の名残をじっと見つめていた。
 奈海も地平線に視線を戻した。
 沈みゆく太陽は、奈海が心の中でずっと静めていた不安の波を揺らめかせた。

「彼の音楽は僕を全く裏切らなかったよ。彼はベートーヴェン弾きでね、『熱情』なんか何度聴いても震えて泣けてくるんだ。僕はあれ以上の『熱情』を他に聴いたことがないよ。ダイナミックでロマンティックで、あの若さで人生を語っているなんて。もちろん彼のチャイコフスキーやラフマニノフも素晴らしかったけれど、でも実は、僕は彼のショパンが結構好きなんだ。彼のベートーヴェンを聴いていると、波に飲み込まれそうな瞬間があるんだが、ショパンは違うんだ。少し感情を抑えて弾いている、情感が溢れすぎないように気遣っている、その間が心地よくてね。すうっと心に入ってきて、静かに僕の中で音を奏でている、自分にだけ語りかけてくれているような、そんな感じがする。もっとも、心地いいって安心していたら、結局ぐいぐいと巻き込まれて突き動かされてしまうのは、ショパンでも同じなんだけれどね。パリを離れるときに、一枚だけ何か持っていこう、と考えたら、思わずこれを手にしていた。この音楽が側にあったら、自分を見失わないで歩いて行けるような、そんな気がしたんだ」

 そう言ってから、ネイサンは突然何かに気がついたように、あぁ、と声を上げた。
「気分良く彼のショパンを聴きながらサバンナの夕陽が沈むのを見ている場合じゃない。この上また到着が遅くなると、スコット博士を心配させることになるから、先を急ごう。さぁ、乗って」
 カーステレオは今、『幻想即興曲』を奏でていた。音の悪さも気にならないくらいに、心は穏やかに満たされていた。
 助手席に乗り込むと、ネイサンの指がハンドルを撫でるようにリズムを追いかけていた。
「日本人だから、もしかして君も彼を知っているかな」
 アクセルを踏んでネイサンが尋ねた。ライトが、赤土が暗く沈んでいく中に吸い込まれていった。えぇ知ってるわ、と奈海は思った。思ったけれど、首を横に振った。横に振ったときに、涙があふれ出した。

 ここにも、彼のショパンを必要としている人がいる、そのことが嬉しくて有り難くて、そして、イネスの言葉を深く感じた。
 私たちは運命で結ばれているのよ。私たち三人は姉妹なのだから、ナミもこの運命に参加しなくちゃいけないわ。
 私は今も、彼のバラードをこんなにも愛している。そして、今私が運命を共にしたいと願い始めている人は、同じように彼のショパンを愛している。
「ナミ? どうしたんだ? 僕は何かまずいことを言ったのか?」
 ハンドルを操りながらネイサンが困ったような声で尋ねてきた。
「ううん。お腹が空いたのよ」
 隣でネイサンはまだ困っているようだった。ずいぶんと間を置いてから、うん、同感だ、という声が返ってきた。でも泣くほどなのかな、と思っているに違いなかった。


「もしもし。あぁ、まさか、あなたなの、ナミ」
「えぇ、突然ごめんなさい。今、大丈夫?」
「今、シンイチのアパートにいるのよ。あ、彼は出かけているわ。ナミ、少し話してても大丈夫なの? 電話代とか、何より電源とか」
「えぇ、今日はマリンディの知人の別荘なの。大丈夫、充電もできるし、途中で切れたりしないわ」
 しばらくごそごそと音がしていた。それからユイの声がよりはっきりと聞えるようになった。

「どうしてるのか、心配してたのよ。兄のことがあるからって、あなたが私やイネスとまで疎遠になるなんて、あり得ないと思っていたんだから。実はね、兄をここから追い出すことにしたの。それで、この部屋に私が住むことにしたのよ。だから引っ越しの準備とか色々あって、それでこっちにいるの」
「どういうこと?」
「チェコの潰れかけの小さな劇場が音楽監督を探しているのよ。ほとんど無給に近いけれど、伝統のある古い劇場なの。あなたも知っているとおり、彼にとってはピアノと同じくらいオペラは大事なんだから、ここでピアノにしがみついてぼろぼろになるくらいなら、別の世界に飛び込んでみなさいって、勝手に契約して来ちゃった」

 奈海にとっては驚くことばかりだった。何よりもユイの行動力にだ。彼女は母親を交通事故で亡くしてしてパリに来たというが、実はイタリアのある名家の当主の落胤だという噂があった。当の本人はそれについては全くノーコメントだったが、奈海が知っている彼女は、イネスと同じように、ひたすら自分の力だけを頼りに生きている、がむしゃらで精一杯で、そして外見の神秘的な冷たさとはまるで正反対の、いじらしさと熱さを秘めた眩しい女性だった。
「でもさすがにそこにレイナは連れて行けないし、私もパリからは離れられないし。それでレイナを私たちのアパートの方に引き取ろうとしたのよ。ところが、父親と母親のどっちに似たのかしれないけれど、この頑固娘、絶対ここを離れたくないっていうから、私の方がこっちに住むことになったの。もしかしてシンイチやあなたが帰ってきた時に、この部屋がなくなってたら迷子になるでしょ、ですって。五歳のチビ助の言うこと?」
「レイナ、そこにいるの?」
「えぇ、イチタロウの猫まんまを作ってるわ。替わる?」
 奈海は一呼吸置いて、目を閉じた。
「いいえ。今は」

 それ以上説明の言葉を付け加えることはできなかった。ユイもまた何も聞かなかったが、何を察したのか、この電話が切れる前に言うべきことは言わなくちゃというように話し始めた。
「ねぇ、ナミ、覚えていなかったら困るから、もう一度言っとく。私たちは運命の三姉妹なの。あなたの好きなあの曲みたいに、どんなに苦しくたって、10001回目はきっと来るって、いつか話したわよね。あなたはもしかして、こんな世界には自分は見合わないって思ったのかもしれないけれど、あなたが私たちの写真を撮ってくれなかったら、私たちは今ここにいない。他の誰かの写真じゃない、あなたの写真が認められたのは、あなたが私やイネスのことをちゃんと見つめてくれたからよ。あなたの写真が私たちの本当のところをちゃんと写していたからなの。地球のどこだっていいの、あなたの帰るところには私もイネスもいるんだから。そして私たち三銃士には守らなければならない姫君がいるんだから」

 お~い、とベランダの下からネイサンの呼ぶ声が聞えた。スコット博士に案内してもらって、シマウマを見に行く約束をしていたのだ。
 ふと、フィルムに焼き付けたはずの、サバンナの夕陽に赤く染まったネイサンの髭面を思った。
 そして、あの時、なぜ不意に寂しい思いが過ぎったのか、分かったような気がした。
 ここにやってきてから結ばれた絆は、切れてしまった過去の絆のあとを結び直したにすぎない、と思ってしまっていなかったか。フィルムは無駄なんかじゃない、この瞬間は二度と帰ってこないかも知れないのだ。そう思って不安になったからシャッターを切ったのだ。この糸も古くなったらまた切れてしまって、私にはその糸をしっかりと結びつけておく力など無いのだと、あの時、沈みゆく太陽に告げられているような気がした。

 シンイチの元を去ることを決めたとき、最初に相談したのはユイだった。シンイチとパートナーとして生活を共にし、子どもを持つに至った以上、ユイは奈海にとって義理の妹だったからだ。
 ピアニストとしてのレッドカーペットをそのまま歩き続けることのできなかったシンイチに同情はできても、荒れていく彼の生活や精神を支えるだけの力が奈海には欠けていた。それは、自分のカメラマンとしてのキャリアに自信が持てない事とも関係していた。
 華やかなモデルたちの姿をファインダーに納めながら、私が本当に撮りたいのはこんなのではないと思い続けていたのだ。だから、始めにイネスやユイの写真を認められたことで仕事を回してもらえるようになったキャリア、モデルを撮るカメラマンとしての仕事に、誇りを感じられなくなっていた。

 情熱を傾けていたことから見放された二人が一緒にいても、苦しいだけだった。
 シンイチはもっと苦しんでいた。さらに重厚な音を求められてトレーニングで重い鍵盤を叩いていた彼の小指の自由が利かなくなったとき、奈海は自分の無力を知った。その違いは奈海のような音楽の素人だけではなく、音楽の専門家の耳にだって聞き分けられない程度のものだと聞いた。むしろ、彼の音楽に深みを与えるものではないかという人もいた。だが、耳のいいシンイチ自身がその自分の音に耐えられなくなっていた。
 一体、百分の一秒以下のずれがなんなの!
 思わず叫んだ奈海を見たシンイチは、奈海が何も理解していないと気がついてしまった、そういう目をしていた。
 この人は私を必要とはしていない、ただひたすらに芸術の神に一人きりで対峙している、そして、やはりたった一人で、まだこの先に行こうとしている。音楽と向き合って、この人はなんて孤独なんだろう、そう感じてしまったのだ。
 そこに奈海の居場所はなかった。

 あの時、ユイは黙って奈海の決心を聞いて、それから微笑んだ。
「分かったわ。だったらナミにだけ、私の秘密を教えてあげる。私がどうして一生結婚しないって決めているか。私が世界で一番愛している男は、血の繋がった兄だからよ。私はあの人を生かすためなら、なんだってする。誤解しないでね。あなたに嫉妬してなんかいないわ。むしろあなたには感謝しているの。私たちと同じ運命の船に乗ってくれたこと、そしてレイナを産んでくれたこと。もしもあなたに何かがあったら、私もイネスも、あなたのところへ飛んでいくわ。それだけは確かなこと。私たちは同じ魂の船に乗って、戦っている。だからこそ、あなたの人生が、あなた自身のために先に延びていくことを、私たちは誰よりも願っているのよ」

 ゆ~い、いちたろーが~
 電話の向こうだというのに、姫君の声がずいぶんとはっきり聞こえた。
 こらっ、やさいもたべなきゃだめっ!
 馬鹿ね、イチタロウはパパのようには野菜は食べてくれないわよ。
 ユイが電話の向こうで、姫君に猫の生態について意見してから、奈海との会話に戻ってきた。
「まぁ、この姫君はもしかしたら、三銃士よりも逞しくなるかもしれないけどね。五歳にして、自分が父親の面倒を見なきゃならないと思ってるし、毎日彼にダメ出ししてるのよ。きっと多少のことには動じない女になるわ。なんと言っても、三銃士も姫君も、打たれ強いのが一番の取り柄ですもの。王子が来なかったら、自分でなんとかするだけよ。ねぇ、ほんとに、替わらなくていいの?」
 
 どこかの時点で私はあの華やかな世界に疲れてしまったんだ。
 ずっとそう思ってきた。そして、上手く繋いでおけなかった糸を思うと、自らの無力に足下から力が抜けていきそうになった。それを振り切るようにシャッターを切り続けてきたけれど、まさかそんな自分の気持ちを溶かしてくれたのが、切れてしまった糸だと思っていたシンイチのバラードだったなんて。そして、そのバラードを愛する人が、他にもいて、その人はこんなにも近くにいたのだ。
 あの燃える夕陽、絶対的な自然を前に彼のショパンを聴きながら、ネイサンがシンイチについて語った告白のような言葉を聞きながら、そして、今、電話の向こうに決して切れない運命に結ばれたユイやレイナの声を聴きながら、不意に一番大事なことが分かったような気がした。

 イネスも、ユイも、自分を信じて、ただ必死で生きているのだ。
 私が彼女たちの横顔を美しいと思ったのは、モデルとしての洗練された体つきや化粧の技術や華やかな衣装のせいじゃなかった。男たちや口さがない無責任な連中からどんな目で見られても、あの世界を生き抜いてやろうとしているイネスやユイの肌のうちから立ち上ってくる気品と気概。横顔からにじみ出る、どんな身分の偉い人間だって生きているだけでは持ちようもない信念と輝き。私が撮ってきたのは、そんな彼女たちの本当の美しさだった。
 私はこれまでの仕事にだって自信をもっていいのだ、あの運命に参加できたこと、今もまだ参加し続けていることを誇りに思っていいのだと、今ようやく過去を肯定することができたような気がした。

「ナミ?」
「今はまだ、何を言ったらいいのか分からないの」
 それでも、今はまだ。この先を歩いて行って、自分のことをちゃんと語る言葉を持つようになるまで、まだ娘とは話せないと思った。なぜなら、もう既にあの子は、私の娘というだけではないのだ。
 私たちの娘。だから私もまた、彼女と対等に語ることができる者であるべきだと思った。
 でも、彼には、この事だけは今こそ伝えて欲しい。
 今ならば少しだけ、シンイチの求めていた「その先」が分かるような気がしたからだ。

 古い絆も、決して切れてしまった訳ではなかった。そして、新しい絆は、その上に次々と結び固められていくに違いない。全ては自分がどう結び合わせていくかなのだ。
 ネイサンは言ってくれたじゃない。
 この音楽が側にあれば、自分を見失わないで歩いて行ける、と。
 ネイサンが愛してくれたあの音楽は、シンイチがあの苦しみの中で、ただの一音も無駄にしないと願いながら奏でてきた音なのだ。アフリカの大地にも負けない、苦しくても妥協を許せない、百分の一以下のその一点しかあり得ない、シンプルで絶対的な真実の瞬間なのだ。
「ユイ、ありがとう。あなたの声を聞くことができて良かった。それから、シンイチに伝えて欲しいの。あなたのバラードは、確かにこのサバンナにまで届いているわって」

 そう、だからやっぱり、私はこれからも「人」を撮りたいと思った。
 それが華やかなステージに立つモデルたちであっても、医療に手の届かないところにいる人たちに手を差し伸べようとしている無骨な医師であっても、子どもを混乱の中で亡くして行き場を失った看護師であっても、その人が確かに今ここで生きている横顔を、化粧の向こうにある心の核のようなものを、皺だらけの手の中に籠められた人生をかけた技を、太陽に焼かれながらまっすぐに顔を上げて地平線を見つめる祈りを、ずっと撮っていこうと思った。
 そしていつか、ミューズに魅入られた一人の音楽家の横顔を、繊細でいて節くれ立った力強い指先を、選ばれたものの苦悩と恍惚の狭間で戦い続ける魂の片鱗を、このファインダーでとらえる日がきたら、と願っていた。

「ナミ、シマウマが逃げて行ってしまうぞ」
「すぐ降りるわ。ごめんなさい」
 人間よりも動物の知り合いの方が多いというスコット博士と、医者だと名乗っても二度ほどは聞き返されるであろう冴えない風体のネイサン、相変わらず笑い顔ひとつ見せない看護師に向けて、奈海はベランダから手を振った。

(2017 scriviamo!参加作品【サバンナのバラード】 了)



テーマ曲は「浪花節だよ 女の人生は」って奴ですね(細川たかし『浪花節だよ人生は』)。青森の小原節の歌詞にも「津軽姉コの心意気」ってのがあります。
ちなみに「バラード」というのは、切ない恋心を歌うものではなく、単純に「物語」という意味なのですね。民謡にも「口説(き)」というのがありますが、これも男女の恋愛の色っぽい話じゃなくて「口説」=「物語」という意味。
だから、この話は単に「サバンナ物語」……(ちょっと身もふたもないタイトル)
でも物語の多くが恋愛を語っていることからも、「物語」に愛は必要なのです。うん。


ユイ(結依)は慎一の異父妹、お察しの通り父親はジョルジョ・ヴォルテラです。えっと、どうしてそんなことになってるかはまたいずれ。レイナは二代目真の母親、詩織のお祖母ちゃんです。この家系はことごとく女が強いらしいです。自ら三銃士とか言ってるし(*^_^*)
慎一のデビューはベートーヴェンの「皇帝」だったのです。もちろん、誰って、あの人のことを思っていたのでしょう……(あ、私がそう思って曲を選んだのか)。あの人の物語のタイトル自体が「Eroica」だったのですが、交響曲の方の「英雄」もまたどこかで登場するかも知れません。

ベートーヴェンの曲は、あの偏屈そうな写真とはまるきり違って、ものすごくロマンティックだと感じます。慎一がベートーヴェンを得意とするのには別の理由があるのですが、ショパンよりもリストよりも彼にベートーヴェンが似合うと思った理由は、あのダイナミズムとロマンティシズムの両者の調和。
このシリーズ、音楽の云々をなけなしの知識(というよりもほとんど無いに等しい知識)を振り絞って書いているので、実は結構しんどい……でも、無い袖でも、結構振れるもんだ、とかしょうも無いことで感心しているのでした(大したものは出て来ないけど、埃とか、糸くずとか……^^;)。
芸術って、偏狭で孤独な仕事ですよね。だからこそ、人を感動させるのかも知れません。
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Category: ♪慎一・短編

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【ピアニスト慎一シリーズ】What a Wonderful World~scriviamo! 2018参加作品~ 

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八少女夕さんのscribo ergo sumで毎年恒例となっていますscriviamo! (イタリア語でscrivere「書く」の活用形。一緒に書きましょう!)、今年も参加させて頂きます! と宣言したものの、思った以上に現実の時間(特に創作に没頭できるはずの週末)が忙しくて、夕さんに「待ってください!」とお願いしておりました。
ようやく完成したと思ったら、18000文字ほどあって、何とか短くしようと校正していたら、逆に長くなってしまったという……そうなんです。以前から分かっていたことですが、私には短くする才能は無いみたいです。
scriviamo!の解説には、「どんなに長い大作を書いて頂いてもお返しは長くないわよ」って断り書きをされていますが、思わず私のことかと苦笑いしちゃいました^^; いや、もう大きく締め切り破りなので、逆にお返しなんて気になさらないでってところなのですが、ちょっとばかり4人+2人の姿を書いて欲しかったりして。もちろん、長いのは私の才能のなさの問題なので、気になさらず!

と思ったら、夕さんが先ほど発表された、ユズキさんの素晴らしいイラストへのお返し・【小説】In Zeit und Ewigkeit!のまるで続きみたいな、裏話みたいな、そんな話になっていることにびっくり。
最初は真耶(夕さん、最新作で麻耶、になっていたけれど、こっちが正しい?)と拓人だけにご登場頂く予定だったのです。これか去年のscriviamo!の時に、どっちの話にしようかと迷ったお話で、でもその後、実際にバルセロナを旅したことで構想が膨らみました。
【大道芸人たち Artistas callejeros 】の中では(17)にバルセロナのグエル公園でやっていたという「銀の時計仕掛け人形」のことが出てきています。これをちょっと拝借して使わせて頂きました。
蝶子に怒られるかも。「簡単に書かないでくれる? これ、しんどいのよ!」って。

さて、こちらに登場する相川慎一は、相川真の息子ですが、物語は全く別物。もちろん大河ドラマが「割れても末に会わんとぞおもふ」に行き着くための流れの一部ではあるのですが、慎一の物語は、私のクラシック好きが昂じてできあがったもので、テーマもまたそれに関連したものです。

時間軸の中では、慎一がウィーンでの華々しい時代から落ちぶれてパリ→プラハに行って、丁度、やっぱりピアノから離れられないって戻ってきたところ。この繊細で、かつどこか抜けている、音楽評論家ヴィクトル・ベルナールに言わせると「残酷な無邪気」という表現がぴったりの音楽家の人生は、書いていて楽しいですが……
実はこのシリーズ、書くのに覚悟がいるんです。だって、私のクラシックの知識って、「好きだけれど、自分勝手に好きなだけで、実はよく知らない、ただのファン」の域ですから、本当に大変(>_<) 
何だよ、わかってね~な~とか思われる事も多々あると思いますが、多少の事には目をつぶってくださいね。

以前、通っている楽器屋さんの「ピアノの中を見てみよう!」ってイベントに出て、ピアノの構造に俄然興味を持ち、結局、三味線ついでにピアノを再開したのですが、調律にも俄然興味が湧いて折しも『羊と鋼の森』を読んだところ。
再開したピアノは、ただいまショパンの『ノクターン20番(遺作)』(『戦場のピアニスト』で有名だけれど、私の中では緒形拳最終作品となった中井貴一の『風のガーデン』)と格闘中。いつかはベートーヴェンの『悲愴』……でもとっても大変(>_<)
そんなこんなを盛り込むから長くなってるんですね……

慎一のプラハ時代の恋の相手は、劇場の歌姫、だったのですが、この歌姫は片腕を無くした元ヴァイオリニストの奥さん。盛り込みすぎたら収拾がつかないので、『死と乙女』が終わったらプラハ時代の話にも触れるつもりなので、いつかまた、ということで。
こちらのお話は「悩めるピアニスト、再始動の時」に出会ったある老夫婦の物語として読んで頂いてもいいかなぁ、でも欲張りすぎたので長いなぁ……
前後編に分けようかとも思ったのですが、間延びするとイマイチなので、一気にアップしてしまいます。20000文字を少し越えているので、途中で飽きたら、挟んである写真をブックマークにして、休憩しながら、分割でゆっくりお読んでいただけると嬉しいです。
(写真はサムネイルですので、クリックすると大きくなります)
なお、登場する音楽は『続きを読む』にのせています。

*追記:アップしてから、あちこち手直ししていたら、ますます長くなっちゃった! ごめんなさい!

ところで、以前、稔が、慎一の父親である真と三味線の共演をしているんですよ(【真シリーズ掌編】じゃわめぐ・三味線バトル)。
ほんとに、時間軸無茶苦茶ですが、局所で流行の?タイムパラドックス?ということで^^;
とういうよりも、以前、夕さんに、『樋水龍神縁起』のシリーズで瑠水の話は実は結構未来になるってことを聞いたことがあったような気がして。で、拓人の年齢からすると、実は慎一との方が時間軸は合っている(もしくは慎一の方がまだ年上)かもしれないと思うのでした。
でも何より、これはscriviamo! ですから、細かいことは気にしない!

さ、皆様のところにコメを書きに行こう! と思ったら、ピアノと三味線に行く時間です(o^^o)
また後で。それから、サキさん、この勢いでサキさんの30000Hitへのお祝いの物語を書こうとしているのですが、何しろ、時間軸が無茶苦茶で……実は本当の時間軸では、ミクが活躍する頃って、慎一はもうじいちゃんじゃないかと^^; 孫の真が(つまりレイナの息子)が頑張っている時代じゃないかとおもったりして。
それはまたいずれ。



【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World

音楽堂外観1
 シューベルトは歌が聞こえるから苦手なんだよ。
 辛口音楽評論家のヴィクトル・ベルナールが、珍しく視線を逸らして言った言葉が不意に蘇った。
 慎一は、ピアノの音を追いかけるように始まったヴィオラの深い嘶きに目を閉じた。

 ヴァイオリンやヴィオラといった弦楽器の音を聞くと、いつも北海道の牧場を思う。自分の根っこには、幼い頃に亡くなった父の故郷の風景がある。それが、弦を震わせる弓の原材料に関係しているというのは、ちょっと子どもっぽい発想かも知れないが、彼らが座る二階のバルコニー席のはす向かいに見える、見事な馬たちの彫刻を見ると、もしかすると同じように感じている人が居たのかもしれない、と思う。

 隣には上品な面持ちの小柄な老婦人が座っている。ブロンドの気配が残る明るい白髪だったが、皮膚にはまだ艶があり、薄化粧の中に、年齢にしては少し赤が濃いと思える口紅が一瞬目を引いた。それが少しも嫌みではなく、彼女の小柄な身体と小さめの顔の中で、丁度彼女の中心地点であるように魅力的なのだった。
 彼女は、初めて音楽というものに触れた少女のように、はしばみ色の瞳を輝かせている。
 実は、慎一はこの老婦人の名前さえまだ知らない。つい先ほど、コンサートが始まる五分前、この音楽堂の前で出会ったばかりなのだ。

 長い冬も終わろうとしていて、春の日差しが暖かく降り注ぐようになると、ヨーロッパの国々の音楽のシーズンもほぼ終わりにさしかかろうとしていた。ただでさえ多いこの街の観光客がさらに増え始める前に、音楽愛好家たちは静かに音楽を楽しむ夜をそろそろ手放さなければならいことを惜しむように、着飾ってホールへ出かけていく。
 意外にもアジア人、会話から察するに日本人の姿がやたらと目についた。それも、クラシックファンにしては客層がずいぶんと若い。観光客にしては、皆ちゃんと正装だし、着物姿の若い女性も複数見かけた。

 だが、慎一は、たまたま空いてしまった時間に計画などあるわけがなく、この街に音楽堂があると聞いてふらりと立ち寄っただけだった。だからもちろん、チケットを持っていたわけでは無いし、音楽堂に入るような格好もしていなかった。
 有り難いことに、開演時間が迫っていたこともあって、誰も、慎一に注目する人などいなかった。柱の陰に、慎一と同じようにこの場にそぐわない服装と雰囲気の老人が立っていたが、彼もきっとここに来てみて、アイドルのコンサートのような周囲の様子に気圧されてしまったのだろう。

 入り口に少し近づいて本日のコンサートのポスターを見ると、客層の謎が半分解けた。そこには日本人の男女の演奏家が並んで写っていた。二人とも、音楽家と言うよりもモデルのように艶やかで、その優雅で自信に満ちた(すくなくとも慎一にはそう見えた)微笑みは、バルセロナの街並みの中で際立った外観を持つ音楽堂の入り口に一段と華を添えていた。
 ポスターにはsold outと書かれた赤いステッカーが貼られている。

 ぼんやりと眺めていたら、突然英語で話しかけられた。慎一を日本人と思ったからだろう。
「あなた、興味がおあり? もしかしてどなたかとお約束があるのかしら」
 振り返ると、小柄な婦人が立っていた。春にしては少し地味な灰色のコートだったが、スカーフは水色と薄紫の絵の具をふわりと混ぜたような色合いで、彼女の小ぶりな顔によく似合っていた。おそらく「老婦人」と言ってよい年齢だ。
 いいえ、と答えると、老婦人は一度周囲を見回し、ほっとしたような顔をして言った。
「お時間があるのなら、私に少しつきあってくださらないかしら」
 あら、もう時間だわ、と時計を見た婦人が言い、まだ何も返事をしないうちにチケットを握らされ、音楽堂の中へ吸い込まれていた。

 華やかな外観を持つ音楽堂は、内部の装飾も夢の国のように幸福な色に満ちていた。
 ホールの中に入ったときに目を奪われた天井の巨大なシャンデリアも、今では静かに光と色を落として、音楽に満たされた宇宙を柔らかく包み込んでいる。この演奏に聞き耳を立てている音楽の女神たち、幸運な聴衆を包み込む光に満ちた深い森、疾走する馬たちは生命あることの歓びを歌い、その傍らでは楽聖たちも、穏やかに充ち満ちた音に身をゆだねていた。

 確かに、歌が聞えていた。
 シューベルトの『アルペジョーネとピアノのためのソナタ』を奏でているのは、ポスター通りにモデルのように美しい日本人のヴィオラ奏者と、まさに似合いのカップルといった風情の端整な顔立ちのピアニストだった。

 歌は語るように、語りは歌のように。そして、楽器は歌わせなくては。つまりこの世界は歌と語りに満ちているのよ。
 三年間勤めてきたプラハの小さな劇場で出会った歌姫が、彼女に歌を授けてくれた祖母の言葉だといって教えてくれた。
 残念ながら、歌なんて聞えない演奏もあるのだ。
 だが、彼女のヴィオラは歌っていた。そして、ピアノも共に歌い、完全な調和を生むのだった。

音楽堂天井
 慎一自身はこの三年の間、いや、それ以上の長い時間、演奏家としてピアノに触れることはなかった。
 音楽院の学生であったとき、何を間違えてか、すでに楽壇にデビューして人気を博していたひとつ年上の魅力的な若手ピアニストの相手役に選ばれて、伝統ある演奏旅行に同行したときから、彼のピアニストとしての将来は約束されたように見えていたに違いない。後付けのようにいくつかのコンクールに出て、ひとつの優勝といくつかの入賞を手に入れたが、実際にはコンサートピアニストとしての実績が先走った。
 
 実質上音楽のパートナーとなっていたテオドール・ニーチェとのデュオ・リサイタルのチケットは全て発売即日完売となったし、ソロリサイタルも成功したと言っていい。実際にあの頃は、彼自身の戸惑いは置き去りにされて、未来がどこまでも開けているように見え、わざわざ細い小径を探さなければならないなんてことはなかった。

 だが、歯車が狂って積み上げたものが崩れ落ちるためには、ほんの一本のピンがあれば済むことだった。
 常日頃から、これは自分の実力ではなく、テオドールの偉功のおこぼれに預かっているのではないかという考えが、幾度も脳裏をかすめていた。実際にそのような陰口をたたく者もいることは知っていた。その背景にあるのは、ほとんど嫉妬なのだろうが、この世界には同じくらいの実力でチャンスが与えられない者は、いくらでも転がっていて、嫉妬のネタには事欠かなかった。
 慎一には、自分が逆の立場になり得た可能性は、いくらでも想像できたのだ。
 だが、当のテオドールが、無口で何も言わないけれど、自分のピアノを信じてくれていることはよく分かっていた。
 それに、慎一にはこの道を歩き続けなければならない理由があった。人知れず心に秘めた誓いが、揺れ動く気持ちを支えていた。
 
 だが、この人のためにとピアノを弾いてきた、その人が亡くなった後、突然闇がおそってきた。闇はこの時を、今か今かと待ち構えていたのだった。闇に呑み込まれないためには、ただひたすら闇の中で弾き続けなければならなかった。弾き続けていると、突然糸が切れたように左手の小指が動かなくなった。
 診察を受けても骨や腱には異常はなく、スポーツで言うところにイップスのようなものかも知れない、気持ちの問題だろうと言われた。程なく指の機能は回復したが、以前と力の入れ方がどこか変わってしまったのか、まるで赤ん坊が最初の歩き方を探っているように、小指だけがタイミングを外すようになった。

 慎一がそう言っても、誰一人、天才的に耳のいいテオドールまでも、一体何が問題なのか分からないと言った。不幸なことに、慎一の耳はテオドール以上に厳しい耳だった。いや、テオドールの耳は始めから調和とバランスを探し当て受け入れる耳だったが、慎一の耳はいつの頃からか、高みの一点を目指す耳となっていた。絶対音感というものとは少し違っていると思うのだが、全ての音を音楽として捉えて、さらにその先にある音を求め続けてしまう耳には、自分自身が奏でる音楽に耐えられなかったのだ。
 そこからは、周囲の音をただ煩わしい騒音と感じる地獄の中を彷徨わなければならなくなった。
 結局、ウィーンを出て、生活上のパートナーとなった女性のパリのアパートに転がり込んだ。

 パリにいる頃、ピアノは生活のための道具であり、彼の名前が決して表に出ることのない曲を書き続け、何百というフレーズや楽曲をアレンジするための媒体でしかなかった。プラハの小さなオペラ劇場でも、歌手たちの練習のための伴奏をし続け、そしてやはり曲を書き続けるために、その黒い相棒はいつもそこにいてくれたのだが、お互いを満足させる何かを共有することはなかった。

 だが、慎一自身の諦念とは裏腹に、経営困難で売り払われるはずだった劇場は、最初の一年で、少なくとも赤字からは脱した。前任者の音楽監督は事故で片腕を失った元ヴァイオリニストだったが、誰にも、おそらく自分自身にも認められないまま、スラブの神話や伝説を元にした音楽劇を書いていた。
 それは慎一にとっては素晴らしい音と言葉の世界だった。監督室の片隅に他の書類の束と一緒に捨て置かれていたスコアを見つけ、面に被っていた埃を払いのけたとき、スラヴの広大な景色が目の前に広がったのだ。

 生活のため、劇場経営のためということもあったが、寝る間も惜しんで編曲に取りかかった。劇場経営復活のきっかけは、その序曲をたまたま耳にして気に入ったというテレビ局のプロデューサーがコマーシャルに起用してくれたことだった。
 その序曲については、一度でも耳に触れたならば人々を惹き付けるという確信はあった。皮肉なことにパリでの生活の糧となっていた音楽商売は、彼に「売れる音楽とは何か」ということを教えていた。だから、そのぎりぎりのところ、つまり自分自身やオリジナルの作曲者の矜持を傷つけない境界で踏みとどまれる範囲で、より印象的な冒頭に編曲することができたのだ。コマーシャルで使われたのは、まさにその冒頭部分だった。

 もちろん、「たまたま耳にして気に入った」なんて偶然は簡単に降っては来ない。おそらく、スーパーモデルで女優としても活躍している、しかも最近では自分でプロデューサーの仕事までやりはじめた妹の結依が何かを仕組んでくれたのだ。
 そんな情けは受けたくないと突っぱねる猶予もなく、プラハの毎日は戦場になった。公演の準備をし、当初はやる気があるのかないのか分からなかった歌手たちやオーケストラのメンバーを焚き付け、焚き付けたからには夜遅くまで練習に付き合い、さらにその後で、時には夜通し曲を書き、すぐさまオーケストラ用に編曲し、幕が開いたなら指揮棒を振り、どうしようもない時は彼自身まで舞台に立ったこともあった。

 やりがいがあったのか、その時生きがいに感じていたか、と聞かれたら、何とも答えられない。だが、何も考えられないくらい忙しいというのは幸せだったのかもしれない。
 心から望んでいた音楽とは、ある意味では対局のところにあったのかもしれないが、シューベルトの死後、部屋の中で埃を被っていた大ハ長調の楽譜を見いだしたシューマンの興奮と同じものを味わった感動が、あのプラハの三年間の活動を支えていたのは確かだ。

音楽堂ステージ
 今日、この音楽堂の前に来たのは偶然だった。バルセロナで落ち合うはずだった結依の乗る飛行機が、なにがしかの事情で飛ばなかったのだ。もっとも彼女が撮影とキャンペーンのために出かけている国にはよくあることのようで、事情を確認するのは無駄な作業だった。
 落ち合う約束が先延ばしになったために、突然何もすることがなくなった。

 ずっと昔、ウィーンで学生をしていた頃なら、こういう時間はもったいないくらい有り難いひとときだった。
 予定のない時間、異国の町をぼんやり歩いて、公園で木々を渡る風の音を聴き、靴が踏んだ枯れ葉の音を楽しみ、鳥たちを日がな一日眺めていたり、偶然出会った猫が迷惑そうに振り返るのも構わずに後をついていったり、流れる川の水面で跳ねる光の踊りをずっと見ていたり、一日中でも飽きることはなく、観るもの聴くもの全てが音楽に変わっていくのだった。

 だが、今は一人で知らない町にいることが苦痛だった。苦痛、とは少し違う。不意にたまらなく不安になるのだった。スペイン語は話せないが、彼がもっとも馴染んでいる別の言語のおかげで、言葉ゆえの疎外感がなかったにも関わらず、何もすることのない時間を異国でもてあましている、そういう自分自身を持て余しているのだ。

 プラハの小さな劇場の音楽監督の仕事は傍目には大成功だったろう。
 プラハでは誰一人彼の名前を知るものなど居なかったはずだが(いや、もしかするとピアニストの彼のことを少しは覚えている音楽愛好家がいたかもしれないが)、その無名の音楽家の手によって盛り返した劇場経営は、劇場の改装をする余裕まで生み、契約期限の三年が過ぎようとした頃にはさらに三年間の契約更新を打診された。
 同時に有名オペラ劇場から、次年度の公演の舞台監督とオーケストラの練習の指揮を任せたいという誘いを受けた。夢のような話だと、仲間たちは喜んでくれた。
 そう、その時には、劇場の関係者は全て、家族のような、仲間のような存在になっていたのだ。

 オペラや舞台芸術は、慎一にとってピアノと同じように人生の友人だった。それもピアノとの関係が上手くいかないときに、そっと手を貸してくれるかけがえのない友人だった。
 そう考えると、ピアノは友人というようなものではなかったかもしれない。あれは関係を切ることが簡単にはいかない肉親のようなものだった。ピアノとの関係はいつも果てしなく深く甘く、絡まり合うとほどけなくなり、苦痛にもがき、もがけばもがくほどに離れられない、愛情が深いだけに複雑でどうしようもないものだったが、そういうとき、オペラは一歩距離を置いたところから、まるで精神科医のようにじっくりと話を聞き、語ってくれるのだった。

 だが、どうやっても指がピアノを求め続けていることは、ずっと身体の芯のところで知っていた。生活のための活動の中で何かの拍子に動かす指が、いつの間にか鍵盤の上にあるのと同じ動きをする。意識をしようとしまいと、それがピアニストの宿命だった。それは理屈ではなく、すでに脳の一部がそこに移動して、彼に何かを命じているようなものだった。
 彼は弾かなければならなかった。そう誓ったのだから、途中でこの道を降りることは許されないはずだった。だが、またあの黒い相棒とどこまでも苦しく甘く、辛く輝かしい時を共にすることを思うと、身体がばらばらになりそうに感じることもあった。それほどまでにピアノを愛していることを知っていた。そして、同時にたたき壊してしまいそうなほど憎むべき対象にもなり得るのだった。

 一度逃げ出したその場所に戻る期限を先延ばしにしてきて、この上まだ三年逃げ惑うのか、そうなるともう修復不可能なレベルになってしまわないか、いや、もうすでに取り返しがつかないことになっているじゃないか、おまえは一度弾けないと言ってしまったのだから。
 契約更新の期限が近づくにつれて、歩いている足下が不如意になっていくのがわかった。そんな迷いの中でも、スケジュールは待ってくれなかった。

 だが、人気を博してロングランとなっていた自作オペレッタの公演がはねた後、一人練習室に戻ったあの夜、ほとんど何も考えられないくらい疲れ切っていて、そのまま床に崩れ落ちそうになりながら、灯りを消して扉を閉めようとしたとき、不意に黒い相棒から、ぽーんと音が響いてきたような気がして、振り返った。
 暗い部屋の奥、沈んだ闇の中にいっそう黒く、しかしそこだけ重力が、あるいは空気の密度が違ったように揺らめいていたピアノ。窓からうっすらと忍び込んだ月明かりの中で、その連れ合いは、お互いに沈黙してきた時間について話す時が来たのじゃないかと話しかけてきた。

 引き寄せられるように、ピアノの側に戻り、深い闇の中で蓋を開けた。
 八十八鍵、撫でるように触れたとき、毎日仕事のために十時間以上も弾いていたピアノとは思えない、別の感触が指先を刺激し、震えがこみ上げてきた。
 衝動が湧き起こった。
 ぽん、と始まりのラの音を鳴らすと、彼自身が調律したばかりのピアノが、座ってくれ、歌わせてくれと求めてきた。

 指を置いた瞬間、勝手に走り出したのはベートーヴェンのパルティーク第三楽章だった。
 気持ちは走っていたが、大屋根を閉めたままだったので、音は中途半端だった。それでも全ての音が確かに、一音も違えずにそこにあった。

 百分の一秒の音の隙間を苦しみ最高の音を作り上げていたはずのあの頃に比べたら、その音は稚拙で恥ずべき音だったかも知れない。だが、今、ここには彼とピアノしか存在していなかった。誰に言い訳する必要もなかった。
 そこに生まれ出る音は、自分自身の今を写す正確で完璧な鏡だった。その鏡に写っていた自分は、コンサートピアニストとしては低い位置におとしめられていたかもしれないが、あの頃よりもずっと深く厳しく、時に冷たく冴え渡り、そして同時に暖かい温度を湛えた森の中に木霊するひとつひとつの音を、拾い上げることができるようになっていた。

 いや、そのことに気がついたのは、もっとずっと後のことだった。
 ただ、その時、ピアノと彼だけがそこにいて、彷徨ってきた時間の想いを語り合っていたのだ。
 後から、その演奏を隣の部屋で聴いていた人がいたことを知ったが、彼が慎一にかけた言葉が、闇の中で行く先を示した。
 お前はここにいてはいけない。自分が求める最高の演奏にたどり着くためには、人生はあまりにも短い。
 その元ヴァイオリニストは、事故で片腕を失っていた。

 そう、あのピアノでは到底たどり着けない場所があった。
 かつて求めていた「その先」だ。

ピアノ
 劇場の経営が破綻しかかっていたので、調律師など雇う余裕はなかったから、劇場にあるピアノを調律するのは慎一自身の仕事だった。もともと十代の頃に壊れたピアノを鳴るように修理したこともあって、長い間自分のピアノの面倒は自分で見ていたし、そもそも調律師を頼んだり、当然のことながら、選べるほどに恵まれた環境にはいなかった。

 だが、初めてコンクールに出たとき、気むずかしく無愛想な、コンテスタントを憎んでいるとしか思えない顔をした調律師に出会った。彼が調律したピアノを一音鳴らした瞬間、世界の色が変わった。こんなにものすごいピアノを弾いたのは初めてだった。吸いつけられるように座り、弾き始めた瞬間から、周囲のことを全て、これがコンクールだということさえも、忘れ去ってしまった。
 最初は、短気な暴れ馬に乗っているような感じだった。振り落とされないように身を任せていると、すぐに指先を介して馬と会話ができるようになった。ペダルの感触も最高だった。踏み心地に戸惑ったのはほんの数小節で、すぐに最高の音を引き出せるポイントが分かった。そのまま、試し弾きということを忘れて一曲分弾き終えてしまった。

 慎一は迷わず、彼のピアノを選んだ。後で気がついたが、彼のピアノを選んだコンテスタントは一人だけだった。
 このピアノを完璧に自分のものにしたいと思ったのに、そのコンクールはファイナルまで残ることはできなかった。結果を知って、珍しく悔しいという思いがこみ上げてきた。とは言え、敗者には居場所はなく、立ち去ろうとした慎一を、その調律師が追いかけてきたのだ。
 おい、お前、次はどのコンクールに出る?
 背の高いオーストリア人の威圧するような声は、頭の上から降ってくるようだった。

 その時は何を言われているのか分からなかったが、結局、その後の慎一のピアニストとしてのキャリアを支えてくれることになったのはこの気難しい調律師、ヨナス・シュナイダーだった。次のコンクールで再会したとき、コンテスタントを憎んでいるような顔はそのままだったが、俺が絶対勝たせてやる、と言われた。
 俺を信じて、お前はただお前の最高の音を出せ。

 どこから見てもただの頑固オヤジとしか思えないその調律師が、幾人かの有名ピアニストが、彼でなくてはだめだとツアーへの同行を指名するような調律師であると知ったのは、実はずっと後のことだった。一方で、彼はコンテスタントには手厳しくて、下手に触れたら切れるような鋭く遊びのない究極の調整をしてしばしばコンテスタントを泣かせていた。俺が調律したピアノが弾けるなら弾いてみせろ、これが弾けない程度ならどうせ一流にはなれない、とでも言いたげに。

 そういえば、あの人は僕の何を認めてくれたのだろう。
 一度聞いたことがあったけれど、目を合わせることなく、分からん、といわれた。言葉で説明するのが面倒くさかったのか、本当に分からなかったのかは確かめていない。
 彼にも、挨拶もないままに、慎一は連絡を絶ってしまっていた。

ステージの彫刻
 やっぱりここに立ち寄るべきではなかったのかもしれない。
 自分はなぜこれほど遠い場所を歩いているのか。あのステージの上、音楽のミューズたちに囲まれているピアニストのいる場所から、ここはどれほど遠いのか。同じ日本人なのに華やかな舞台が似合う彼らは、おそらく年の頃は自分とあまり変わらないのだろう。それなに、どこかで道を外れた者は迷い続けるばかりだ。

 劇場との契約の延長を断ったのは、ピアノに戻るとすっかり決心できたからではなかった。だが、あの時、腹の底に湧き起こった静かな衝動は、明らかに言葉を持っていた。
 もう一度、あの人が調律したピアノを弾きたい。
 だから、プラハから戻ってきた。パリのアパートを引き払ってウィーンに戻りたいと言ったら、結依はすぐにウィーンにアパートを用意してくれた。

 この場所はどう? あなたの親友の姿が見えるでしょ。
 窓から覗くと、ベートーヴェンの銅像が見えた。
 今日からはもっと親しく、ルードヴィヒって呼んであげなさい。
 そう言って結依はにっこり笑った。

 佐渡裕がバーンスタインの鞄持ちとして初めてウィーンに行ったときのエピソードが気に入って、結依に話したことがあった。バーンスタインは「ユタカ、お前、ウィーンに知り合いはいるのか?」と尋ねたという。もちろん、初めてウィーンに来たというのに知り合いなどいるわけがなく、そう答えたら、「じゃあ俺の親友を紹介してやる」と言って連れてこられたのがベートーヴェンの銅像の前だった。
 今日からお前もルードヴィヒって呼んでいいぞ。

 わぁ、それはかっこいい話ね。
 結依もこのエピソードが気に入ったと言った。
 家賃を払うと言ったら鼻であしらわれた。
「私が、一人では使い切れないお金をいくら稼いでると思うの? それに、見ての通り、安くないわよ。あなたに払える? でもまぁ、払えるようになったら、折半にしましょうよ。これは私の投資なんだから、半分は譲らないわ。それに、ウィーンに来たときは、私もここに泊まるから。だいたい、あなたたちのパリのアパートは狭すぎたと思わない?」
 結依には頭が上がらない。

 三年のうちに娘のレイナは九歳になり、去年から一年の半分を日本で過ごすようになっていた。慎一と結依が「京都の母」と呼んでいる、祇園の踊りの師匠でもあり置屋の女将でもある珠恵のところにいるのだ。久しぶりに会った娘から、将来は日本に住むと宣言されてしまった。子どもながらに、自分のルーツを日本に定めたということなのだろう。
 九歳の娘にも取り残された気持ちだった。

 自分と言えば、プラハからウィーンに帰ったというのに、まだ惑っている。でも、あの練習室で静かに息を潜めていた暗闇の中のピアノに触れた瞬間の指の震え、冷たく暖かい鍵盤の感触、密やかに鳴った始まりのラ。
 それを思い出すと、喉が締まるように苦しくなった。甘い苦しさだった。

 想いが昂ぶったのは、第三楽章のAllegretto、ヴィオラのピチカートの合わせたピアノのテーマをヴィオラが引き取る瞬間の軽い興奮に引きずられたからだと気がついた。
 舞台の上の二人は、ほとんどアイコンタクトもしないのに、お互いを完全に把握し合っていた。調和し、時には突き放すように刺激し、また重なり、音は流れるのではなく降りつもっていく。この場所に立つまでに二人が費やしてきた時間が見えるようだった。

「シューベルトは歌が聞えるから苦手なんだよ。『魔王』を初めて聴いたとき、魂を持って行かれると思った。実際にはあの歌が持っていったのは父親の命だったけどな」
「でも、美しい歌もあるよ」
「もちろんだ。お前が歌う『セレナーデ』は俺も好きだ。だけど、美しくても苦しいのは同じだな。『アルペジョーネソナタ』なんて弦楽器が泣いているようにしか聞えない」
「珍しいね。あなたが言葉足らずだなんて」
「お前に言われたくないな。とにかく、俺はシューベルトについては書かない事に決めているんだ。だいたい、たった三十一で死んだって、とんでもない野郎だ」
「でも、モーツァルトは三十五で、メンデルスゾーンは三十八で、ショパンは三十九。あ、ビゼーは三十七。たいして変わらないよ」
「お前は時々無意識で無邪気に残酷だよ」
 ヴィクトルは大げさにひとつ溜息をついた。
「評論家というのは勝手な事ばかり言って、ずいぶん気楽な商売だと思っているかもしれないが、そもそも言葉にできない音を言語に変換するってのは大仕事なんだよ」

 観るもの、聴くもの、触れるもの、つまり五感や時には六感まで使って感じるものを言葉に起こすなんて、自分には考えられないことだ。だから、世間では金持ちの道楽だと言われているヴィクトルの「商売」が気楽だなんて思ったことは一度もない。
 彼がその言葉を導き出すために、図書室いっぱいの文献や資料を読み、毎日飽きるほどに音楽を聴き、時には地の果てとも思える場所まで音楽を求めて出かけていく姿を見ていたから、世の中に楽な仕事なんてひとつもないと断言できる。しかも、時には聴きたくない音楽も、修行の様に聴き続けなくてはならないこともあるだろうし、いくら大好きな音楽でも「商売」になってしまったら、単純に好き嫌いで済ますわけにもいかなくなるものだろう。

 そんな時はどうするのかと聞いたら、淡々と粛々としてなすべき事をなすのみ、とまさに修行僧のようなことを言っていたっけ。
 ここ十年ほどは、ヴィクトル・ベルナールの顔を見るのも年に数回ほどになっている。たまに偶然の女神のおかげで顔をつきあわせて話すこともあるが、ほとんど演奏会や公演で見かける程度だった。それでも、彼が書いた評論はほぼ全て目を通していたので(結依が送りつけてくるのだ)、彼が顔を見る回数以上に、自分の手がけた公演を観に来てくれていることは分かっていた。
 まともにピアノを弾けないでいた地獄のような時間の中で、慎一を音楽につなぎ止めていた細い糸の一本が、ヴィクトルの記事だったことは確かだった。

 音楽堂の前で本日の演奏会のポスターを見たとき、足を止めたのは、出演者が日本人のデュオだったからというだけではない。その名前は、ヴィクトル・ベルナールが一度、何かの音楽雑誌に評論を書いていたから、見覚えがあったのだ。
 細かな内容は忘れてしまったけれど、閉じていた目を開けても、そして再び目を閉じても、全く裏切らない世界を作り出している希有な演奏家だと、珍しく褒めていたことだけは覚えている。つまり、大概のところ外見が美しすぎる場合には、演奏にはがっかりさせられるものだが、この二人の場合は、視覚的にも演奏する姿は美しく、さらにその外見の美しさを裏切らない深みのある演奏で魅せてくれるということなのだ。

 こうして実際に聴いていると、この二人が見ている「その先」が理解できるような気がした。
 理解できる故に、苦しい気持ちにもなった。プロフィールに書かれた二人の経歴はしっかり読まなかったけれど、読まなくても分かった。この音楽堂の世界にぴったりと嵌まって華やかであるということも、その華やかさを裏切らない美しい演奏を聴かせるためにどれほどの努力をしているのかということも、すっかり分かるだけに心がざわついた。

 何よりも、辛口評論家のヴィクトル・ベルナールが認めた二人であるということに。
 そして、その努力の結果を未知の人々に認めさせるだけの場所が二人にはあり、今の自分にはないということに。
 どこからまた始めればいいのか分からない。時折、あの時、自分を認めてくれたプラハの劇場で仕事を続けていたなら、と思うことさえあった。

音楽堂の前の店
「アルペジョーネというのは、6弦の弦楽器だったのですってね」
 小柄な老婦人は名をマリアといい、アメリカからやってきたのだと言った。
 お一人で旅行ですか、と尋ねたら、ふふと笑って答えなかった。少し寂しい笑顔だと思った。

 コンサートの後、マリアと一緒に音楽堂前の路地を入った小さなタパスの店に入った。唐突に無理矢理誘ったのだから、お礼をさせて欲しいと言われたのだ。お礼をしなければならないのは慎一の方だった。
 彼女のような年齢の女性には少しテーブルと椅子が高すぎるのではないかと思ったが、彼女はひょいと身軽に木の椅子に座り、ワインでいいかしら、と聞いた。私は白が好きだけれど、あなたは、と尋ねられて、同じものでと答える。

 マリアはもうすぐ七十になるのだと言ったが、信じられなかった。彼女は快活で、人々をすぐにリラックスさせる雰囲気と話術を持っていた。
 チケット代を払おうとしたら、手の仕草ひとつで断られた。
 財布には大した現金が入っていなかったので、正直なところほっとしていた。意地を張って、結依が彼のために用意してくれたクレジットカードをウィーンのアパートに置いてきたことを後悔していたところだったのだ。もっとも、明日彼女と落ち合ったら、支払いは全て彼女に頼ることになるのだが。

 それから二人でカウンターに並ぶタパスを選びに行った。小さなパンに刻んだトマトとオリーブオイルが載せられたパン・コン・トマテ、ジャガイモの入ったオムレツ・トルティージャ、魚介のアヒージョ、それに生ハム。マリアは音楽に目を輝かせていたのと同じ顔で、一生懸命に食べるものをチョイスする。女性は、いくつになっても世界を楽しむ術に長けていると思う。
 とにかくまずは食べましょう、という彼女の掛け声にも、最初は少し遠慮していたが、何しろ今朝ウィーンを発ってからほとんど何も口にしていなかったし、彼女の「食事は素晴らしい時間」というような所作を見ていると、自然に食欲が湧いてきた。

タパスの皿
 一通り、タパスを平らげて、ワインのお替わりを頼んだところで、マリアが先ほどのコンサートのパンフレットを取り出し、アルペジョーネの話を始めたのだった。
「フレットもあるし、まるでギターみたい。でも弓で演奏するのね。チェロよりも少し小ぶりで、ヴィオラよりも重音を出すのが容易ですって」
 パンフレットには、演奏者の略歴と共に、演奏した曲目の紹介、そしてその曲にまつわる蘊蓄やエピソードが比較的細やかに書かれていて、シューベルトの『アルペジョーネソナタ』については、このソナタが今では使われていないアルペジョーネという楽器のために書かれたという紹介と共に、アルペジョーネの写真や解説が添えられていた。確かに、小さいチェロとギターを混ぜて二で割ったみたいな楽器だ。

「不思議ね。今では使われなくなった楽器のための曲が残っている。今はそれを他の楽器で演奏する。でもそれはきっと曲が作られた時と同じ音楽じゃないのね」
「ピアノなんて、鍵盤の数も、音の鳴る仕組みも、まるきり原型とは違ってきていますし」
 半分独り言のように言ったら、いきなり手を捕まれた。そして、納得したように「やっぱり」と言った。
「やっぱり?」
「あなたはピアノを弾くのね」

 思わず手を引っ込めようとしたが、マリアの手はふわりとしていて何の力も入っていないようなのに、慎一の手の動きを封じ込めてしまっていた。
「ピアニストの手はすぐに分かる」
 そう言ってまた、ふふ、と笑った。最初に赤すぎるような気がした唇の色が、少し光度を抑えた店内で小柄で控えめな彼女の存在を相手に印象づけるための演出かも知れないと思ったのはその時だった。

「さっきから少し気になっていたの。もしかしたら、あなたはあんなふうに華やかで素敵なステージに立つことができる才能ある音楽家を見たくなかったのじゃないかしらって」
 マリアはまだ慎一の手を握りしめていた。
「でも、私には分かるわ。この手は一流のピアニストの手だって。そして、きっとあなたは、彼らのような人たちを見なければならなかったのよ」
 慎一はなんとも答えられずにいたが、ようやく彼女の手から逃れた。
「でも、あなたは僕の名前を知らない。たぶん、今この街にいる誰一人として。一流のピアニストならその名前を知られているはずですよ」

 マリアは少し考えるような顔をした。そして確かめるようにゆっくりとひとつの名前を口にする。
「ルイ・アンダーソン」
 慎一が意味が分からずじっと彼女を見つめていると、マリアは少し神妙な顔になっていた。
「ルイ・アームストロングなら知ってるでしょ。でも、ルイ・アンダーソンは誰も知らない。一昔前の私の国の人なら、誰だって彼の名前を知っていたのに。でも今は、もし知っていたとしても、彼はもう終わっていると思うわね。きっとそう」
 そしてふうっと息をつく。

「私の夫よ。ジャズ・ピアニストなの。正確には、ジャズ・ピアニストだったというべきかしら。十代の頃まではクラシックをやっていたのだけれど、黒人の血が混じっていて、外見からお前にクラシックなんて理解できない、お前の音楽はデタラメだって言われて挫折して、二十歳を越えてからジャズに転向した。馬鹿げているでしょ。民族や生きてきた環境は、それはもちろんその人の音楽に影響を与えるものでしょうけれど、外観や他人の好みで、誰かの音楽が正しくないなんて言われたら、あなた、どう思う?」

 マリアは、慎一の人種的差異についても意識して言ったのだろう。慎一自身、謂われない差別を感じたことは一度や二度ではなかった。だが、それを言っても何も始まらない。腹の内側で、自分は日本人の遺伝子を持っているが、自分以上のベートーヴェンを弾けるピアニストはそういるまいと信じている自分がいる。

「でも、結果的にジャズに転向したのは正解だった。少なくともその時はね。それからは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そうね、たぶん、ニューオーリンズでも彼の名を知らない人はいなかったと思うわ。素晴らしいピアニストだった。幾人もの著名な歌い手が彼との共演を求めたし、ライブや公演のない日なんてなかった。レコードも出したし、ヨーロッパにも何度も遠征した。そう、日本にも行ったことがあったわね。それにね、見た目もなかなかいい男だったのよ。そして私も一目惚れ、じゃなくて、一耳惚れ? どっちかしら」
 彼女の唇がふふとまた笑ったけれど、今度はさらに寂しい唇だった。

「彼は私の先生でもあったのよ。私は歌だけれど、ちっとも芽が出なくて。才能ないんだから止めちまえってよく言われたわ。だからもちろん、プロになんてなれなかったし、子どもたちも少しだけ音楽をかじったけれど、結局誰も音楽家にはならなかった。夫は忙しくてあまり家に寄りつかなかったし、きっと外に女性もいたと思うのよ。でもね、ある時」
 マリアはワイングラスの縁をそっとなでた。ワイングラスの面で彼女の顔が光に歪んだ。
「それは、そう、きっとほんのちょっとしたボタンの掛け違えだったと思うのよ。ピアノがね、鳴らなかったの」

「鳴らない? 調律がうまくなかったってことですか」
 マリアは頷いたような、首を横に振ったような、曖昧な感じで首を動かした。そうだ、ジャズに調律は、あるようなないような話だ。
「あなたなら分かると思うけれど、そもそもジャズの演奏では、ピアノもクラシックのようにきちんとした調律なんてなされていないでしょ。たとえば高音部の鍵盤の三本の弦は、クラシックならずれているなんてあり得ないけれど、ジャズはあり。音のずれ、タイミングのずれを楽しむものなのだから。もちろん、あの人だってそんなことはちゃんと分かっているのよ」
 マリアは声を少し潜めた。
「頭ではね」

ピアノ2
 ピアノの鍵盤にはそれぞれ弦が張ってある。鍵盤を押さえると、羊毛を固く巻いたハンマーがこの弦を叩くことによって音が鳴る。そういう意味ではピアノは弦楽器でもあり打楽器でもある。最低音部ではひとつの鍵盤について太い弦が一本。低音部では少し細めの弦が二本、そして中音部から高音部には更に細い弦が三本。
 複数の弦が張られている鍵盤で、その張り方が一律でなかったら、ひとつの鍵盤から複数の音が聞えてくることになる。

 クラシックの曲を弾くならば、ひとつの鍵盤から複数の音などということはあり得ない。調律の際に万が一ごく微妙にずらすことがあっても、人間の耳に複数の音が聞こえるなんてことにはならないし、せいぜい音の印象を少し変える程度のずれだ。だが、ジャズでは敢えて音程をずらすことがある。たとえば一つの鍵盤に張られた三本の弦のうち、左側は少し低め、中央は正規の音程、右側は少し高めというように。こうすることでより明るくポップな音を引き出せる。
 これが極端になって、ひとつの鍵盤から三つの音が聞えるような調子外れのピアノはホンキートンクと呼ぶんだ、とアメリカから来た音楽院の学生が教えてくれたことがあった。

 気持ち悪くないのか、と聞いたら、お前の耳には気持ち悪いだろうなぁ、と笑われた。
 でも、これがまた、場末のバーに似合っちゃうんだよな。もっともわざとそんな調律をするってことになると、下品な音とのぎりぎりのラインを考えなくちゃならないから、難しいよ。でも、そもそもジャズって貧しい奴らが何とか生きていこうって場所で生まれた音楽じゃないか。一流の調律師に百分の一の狂いもなく調律してもらえるなんて発想が始めからないんだよ。ちなみに、ホンキートンクミュージックというのは、カントリーミュージックの系列で、ホンキートンクってバーから生まれた音楽なんだ。メロディやハーモニーよりリズムが大事、ピアノはろくに調律されていない、時に鍵盤が上手く動かない、それで普通だったのさ。お前、絶対気持ち悪いだろ?

 あの頃は確かに気持ち悪いと思っていた。思えば、アップライトとはいえ(そもそもアップライト自体は珍しいのだが)、ベーゼンドルファーの憧れのウィンナ・トーンを手に入れた時から、常にひとつ上の音を探し求めていたのだから。
 だが、今となっては、そんな音楽もあるのだと自然に納得できる。

 パリにいる頃は、出会うピアノのほとんどは調律とは無縁だったので、時には鍵盤が波打っているなんてものまであった。あまりにも可哀想で、金にもならないのに幾日もかかって修理したこともある。もちろん、慎一は調律師ではなかったから、あくまでもちゃんとした調律師を雇って欲しいと思ったが、全てのピアノが大事にされているわけではないし、例え大事にされていたとしても、ヴァイオリンのような弦楽器と違って、古い楽器に値打ちがあるというものではなかった。製造された時が最高の状態で、そこから劣化していく運命にある楽器には、それなりの逃れられない宿運というものがあるのだろう。

 そしてその運命は決して否定的な面ばかりでもないのだ。置かれた場所の湿度や温度、周囲の壁や布地、室内に置かれたあらゆるものに影響されて音は変わる。さらに、弾く人によっても。
 最高の環境でなくても、それぞれのピアノに、それぞれの宿命の音がある。

「でも、結局、あの人の耳は『ずれ』を楽しむようにはできていなかったの。本当のところ、ピアノはいつも心地よい『ずれ』を計算して調整してあった。ジャズピアニストとしてデビューしたけれど、二十年近くもクラシックのピアノを弾いてきた人なのよ。彼の中に『正しい音』というものがあって、どうしてもそこを求めてしまう。あの人の音は綺麗だった。歌も乗せやすくて、安心して任せることができるピアノだった。でも、初めから、即興的な音の遊び、音程やタイミングのずれ、ジャズに最も必要な何かが欠けていると批評している人たちもいたわ。それがあの日、あの人の頑なさが人々を失望させてしまったの」

タパスの店の犬
 誰かの視線を感じると思ったら、少し離れたテーブル席の椅子の上に、犬がいた。あれは確か日本の犬だ。シバ犬っていったか。何かを訴えかけるように目でマリアと慎一のほうを見つめている。飼い主は中年の男で、時々犬の背を撫でながら、携帯電話の向こうの誰かに大きな声でしゃべっていた。

「久しぶりのライブバーでの仕事だったの。いつものように演奏前にピアノの音は仕上がっていた。もちろん、他の楽器の音、店内に入る多くの人々の立てる音や体温、湿度はちゃんと計算に入っていたのよ。でも、その日、突然の大雨で、とても外に出かけるような天気ではなくなってしまって、お客さんの足を止めてしまった。調整したはずの『いい具合に調子の狂った』ピアノは、多分その突然の湿気と半分しか埋まらなかった客席によって、本当に『狂って』しまった。少なくとも、彼の耳には。でも、そんな天気でも半分の客は集まってきていて、キャンセルなんて雰囲気ではなかったの。その頃、あの人の人気はほんの少しだけ翳りが出てきていて、時々マネージャーやプロデューサーと喧嘩を、そう、それもかなり音楽の根本に触れるようなところで喧嘩をするようになっていた。あの日もあの人は何かで腹を立てていて、ピアノを弾き始めてから、突然、こんな壊れたピアノは弾けないと言い出して途中で放り出してしまったの」
 ステージを途中で捨てるということは、それがどんな悪条件であっても、プロにとっては命を絶つことと同じだということは理解できた。しかも、そこにジャズを聴きに集まっていた人々は、その『壊れた』ピアノが奏でる不調和の調和を求めてきていたのだ。

「そこに、まだ駆け出しの若い、でもジャズマンとしては才能溢れるピアニストがいたの。彼がステージを引き取って、しかも大成功を収めてしまった」
 その椅子が空いたなら、いつでもそこに座るべく準備して構えているものがいる。それはこうした世界の常道だった。慎一がウィーンを去った後も、誰も彼の不在を嘆くことはなかっただろう。それほどに厳しい世界に生きているのだ。

 どんなピアノも鳴らすことができる、それを不協和音から音楽に変えることができる、そのぎりぎりのところを楽しむことができる、少しばかり鈍感な耳を持つ一方で、指には溢れんばかりの才能を持てる者は、おそらくその懐の広い演奏を見事に示すことができたのだ。そして、マリアの夫は、残念ながら、自分が求める音の残酷なまでの鋭敏さと、人々が求める音の寛容さと遊びの狭間で、折り合いを付けることができなくなってしまったのだろう。
 自分自身の理想の音に忠実であればあるほど居場所がなくなる、この世界はやはり苦しい。

「あの人の苦しさをその時受け止めてあげることができていたら、少しは違っていたのかもしれないわね。でも私も、その時は、今より少しばかり若くて思慮も浅くて、あの人のちょっとした裏切りに我慢がならなくなっていたこともあって、心の内に飼っている意地悪な虫が騒いでしまったの。あの人は家に閉じこもるようになって酒ばかり飲んでいた。一方で、私は、あの人が何度もダメだって言った歌で、少しばかりお金を稼ぐことができるようになっていたの。音楽教室の講師、ちょっとしたコンサート、仲間との打ち合わせ。誰も私の名前なんて、しかもルイ・アンダーソンの妻だなんて知らなかったけれど、一緒に音楽を楽しむ仲間が大勢いて、それが私に幸運と幸福をもたらしてくれていた」

 マリアは言葉を探すように、店内に視線を彷徨わせ、まだこちらを探るような目で見ていた柴犬に視線を止めた。柴犬はすっと視線を外して、電話を終えた主人の手に甘えた。
「ねぇ、あなた、正しい音ってものが世の中にあるのかしら。正しい音、正しい音楽、正しい音色。あると言えば、他の正しさを否定することになるし、無いと言えば、何を求めて何にすがっていけばいいのか分からなくなるのね。私は残念ながらそんな一流の腕も耳もなかったら、逆に幸せだったのかもしれない。でも、あの人はただ肌の色が少し違うと言うだけで、信じていた音楽に見放され、救いを見いだしたはずの音楽には嵌まりきれなかった。そして、あの人は家を出て行ったのよ」

 時計をふと見やって、もう遅いわね、とこれまでになく神妙な面持ちでマリアはつぶやいた。丁度椅子から抱き上げられた柴犬が、去り際に名残惜しそうにこちらを見ていたので、マリアが小さく手を振ったら、犬は恥ずかしそうに視線を逸らして主人の腕に凭れた。
 その手を見ていると、彼女にも長い時間とその後の苦労があったのだろうと容易に想像できる。

「十年ぶり」
「え?」
「あの人の居場所が分かったの。それでね、私、手紙を書いたのよ。あの人に届いたのかどうか分からないけれど。あなたさえよければ、思い出の場所で会いましょうって。私たちがまだ幸せだった頃、この街に来たのは三十年ほども前の事だったかしら。少し記憶が曖昧な部分もあったけれど、街に着いてみたら、どんな順番でこの街を巡ったのか、どんな話をして過ごしたのか、その時どういう気持ちだったのか、みんな思い出してきたの」

「じゃあ、あの……このコンサートも」
「三十年前、この音楽堂で一緒にコンサートを楽しんだのよ。その頃、あの人はジャズピアニストとして成功し始めたところで、ようやくクラシックに踏ん切りを付けるところに来ていたから。あの夜、私たちは、自分たちが愛し楽しんできた音楽について、夜が明けるのも忘れて語り合っていたわ。本当に幸せな時間だった。だから、今日、あの人もあの日のことを思い出してくれているかしらって、ぎりぎりまで待ったけれど、あの人は来なかった。お友達が、きっと私たちが気に入ると思うと言って、用意してきれたチケットだったの。でも、まさか売り切れになるようなコンサートとは知らなくて、あの人が来なくて私ひとり、空いた席の隣に座っているのって、演奏家にも観客にも申し訳ないような気がして。いいえ、そうじゃなくて、ただ自分が心細かったのよ。それに何だか、あなたの後ろ姿が、若い頃のあの人に似ているような気がしたの。どこか所在なさげで、それでも、まだ遠くの何かを探して、重力という、言われなきどうしようもない暴力に逆らって立っている、そんな後ろ姿」

 でもそろそろ、思い出の旅も終わりね、と彼女は言った。
 明日、グエル公園に行って、バルセロナの海を見て、ニューオーリンズに帰るわ。
 そう言って、彼女は椅子から降りた。

 せめてこの店の支払いは、と言ったら、彼女は少し考えてから答えた。
「それはだめよ。あなたの時間を私が買ったのだから。でももしかしてお礼がしたいと思ってくれているのなら、明日、グエル公園で待ち合わせをしてもらえるかしら。初めのうちは思い出に浸って楽しく過ごしていたけれど、実のところ、一人で、ついに現われないかも知れないあの人を待つのが、本当は怖いの」
 ごめんなさい、今日会ったばかりの人にこんなお願いするなんて、と彼女はうつむいた。
「もちろん、先約があるなら断ってね」
 結依が着くのは明日の夕刻だった。ここまでしてもらって断る理由はなかったし、事情を知ったからには、マリアの明日、彼女のこの旅の行く末が気になっていた。
 慎一は思わず、必ず行きます、と答えていた。

グエル公園3
 もしかすると、彼女の夫はこの街には来ていないかもしれない。
 だが、慎一は、彼がこの街にいるような気がしてならなかった。コンサートの始まる五分前、期待に満ちた周囲の雰囲気に気圧されたひとりぼっちのマリアが慎一に声をかけなかったら、その一分後に彼女の夫がマリアに声をかけていたかもしれない。
 その男の気持ちが、慎一にはよく分かるような気がしたのだ。
 だから、今、待ち合わせたグエル公園でマリアの姿を少し離れた場所から見守りながら、慎一は声をかけることができないままだった。もしかして、自分が今、彼女に声をかけてしまったら、一歩を踏み出そうとしていた彼の足を止めてしまわないかと思った。

 およその時間だけは聞いていたものの、どこで待ち合わせと具体的に決めていたわけではなかったが、彼女のいる場所はすぐに分かった。音楽が聞えてきていたからだ。
 グエル公園の立体的に組み合わされた散歩道の上から、慎一は下の小さな広場を見つめていた。広場を取り囲む回廊は、岩を組み合わせて(貼り合わせて?)人工的に造られていたが、敢えて自然の造形を人工で模すことによって、かえって自然と人為の共生について思索を迫られるという効果を生んでいた。だが、今ここに集まる人々は、そんな製作者の意図の事など忘れているだろう。

 広場の隅には四人組の大道芸人がいた。
 観光客たちの足が、大階段よりも、音楽の聞えるこの場所へ向いているのも納得ができた。観客たちは、ただ通り過ぎたり遠巻きに見ているだけではなく、もうすっかり座り込んで、次の芸の瞬間を見逃すまいとしているようだ。
 バルセロナの別の広場でも、あんなふうに身体に銀を塗って動かない彫刻のふりをしながら、コインを入れてもらったら動き出すというパフォーマンスをしているところを見かけたが、彼ら四人の場合は、ただちょっと動いてみせるという程度ではなく、音楽を奏でたりパントマイムをしたり、おそらく入れられたコインや紙幣の額によっては四人が一緒に音楽劇を一曲やってみせるという高度な芸までも披露しているのだった。先ほどから、ひっきりなしに音楽が聞えているのは、コインや紙幣を入れる観客が後を絶たないからだ。

 上から見ただけでは表情まで分からないが、マリアもおそらく目を輝かせてその様子を見ているに違いなかった。慎一もしばらく彼らの芸に引き込まれていたが、時々マリアが周囲を見回すのに気がついて、自分もまた、会ったこともないマリアの夫の姿を探しているのだった。
 まだ日は落ちていなかったが、春の風は遅い午後ともなればすぐに冷たくなる。それに夏だったなら、バルセロナの太陽の下とてもあの格好でパフォーマンスなどできはしまいという重労働をしている大道芸人たちの体力もそろそろ限界だろう。このパフォーマンスが終わったら、マリアは夫に会えないままこの街を去ることになるのかもしれない。

 そうして見ているうちに、最前列から動かないまま彼らの芸を楽しんでいる二人組を認めて、慎一は驚いた。
 昨夜、あの音楽堂のステージの上にいた二人だ。見ていたら、ピアニストの男性の方が、クールビューティーという言葉がぴったりのヴィオラ奏者に軽く目配せをしたと思ったら、財布ごとギターケースに放り込んだ。
 さすがの四人もぎょっとしたように、一気に二人の方を見た。観客から大きな拍手が湧き起こる。こうなったら最後に出し惜しみのない最高の芸を見せてくれ、という期待が満ちあふれる。

 慎一も思わず期待して彼らの次の動きを見守っていた。
 彼らは片隅にアンプに繋いだ電子ピアノを置いていた。背の高い男性がピアノに近づいたと思ったら、すとんとパントマイムの様子で椅子に座った。そして、始めは機械仕掛けのように、数小節の後にはすっかりコンサートピアニストのように、昨夜、あの音楽堂で聴いたばかりのシューベルトの『アルペジョーネソナタ』を弾き始めた。ヴィオラは、と思ったら、九小節後に、銀髪の鬘を被っている女性の大道芸人がフルートでアルペジョーネのパートを奏で始めた。

 ヴィクトル・ベルナールが弦が泣いていると言っていた、アルペジョーネのパートが、フルートで聴くとただ美しく甘く聞えた。幾分かテンポを調節して、明るく聞えるようにアレンジしているのだ。ピアノとフルートは恋人同士の囁き合いのように絡まり合う。
 残りの二人は、待ち合わせた恋人同士、男が遅れてきて、女が怒る、というパントマイム風コントをやっていた。音楽とのギャップが観客に大受けで、最後は二人が甘く抱き合うという設定だった。コントの中身が盛り上がってくると、曲調はどんどん変わっていき、とてもシューベルトとは思えなくなった。
 少なくとも、これなら泣かなくて済む、と慎一も思った。
 財布を放り込んだ二人も大喜びだった。その時、彼らは知り合いなのだと分かった。昨日あの音楽堂に彼ら四人もいたのかもしれない。

 マリアを見ると、胸に手を当てて何かを祈っているように見えた。
 正しい音ってなにかしら。正しい音色、正しい音楽。
 昨夜の彼女の問いかけが蘇る。

 華やかで美しい音楽堂で、演奏前には湿度や温度、観客の数、時にピアノの脚の向きまで気にしながら調律された音を頼りに、演奏中には息を潜めて聴くような天上の響き。こうして周囲の観客や風のざわめきの中で、時には走り回る子供たちの素っ頓狂な歓声や放り込まれるコインの音に重なりながら奏でられる、この世界を写し取ったような地上の響き。場末のライブバーでひとつの鍵盤から三つも音を出す壊れかけのホンキートンクピアノが作り出す、人生の響き。
 おそらく本当の音楽には正しさなど無いのだろう。そこには、自分にとって大切な音を求める演奏者と、その音を楽しむ人々がいるだけなのだ。

 シンイチ、演奏家が決して許されない演奏がたったひとつだけある。それは、聴く人を絶望させる演奏だ。たとえ、苦悩する魂が重力に引き込まれて深い地球の底にまで落ちていったとしても、そこから一筋の希望の光を見つけることができるような、そしてその暗い場所から浮き上がってくることができるような、そんな演奏をする音楽家になりなさい。そして、いつも、まだ会ったことのない人たちのことを思って弾きなさい。
 音楽院の恩師が卒業の時に授けてくれた言葉だった。
 正しい音楽というものは無いのかも知れない。だが、幸福な音楽というものが、確かに在るのだ。

 マリアが不安そうにまた辺りを見回している。約束したはずの慎一を探しているのか、それとも待ち焦がれた夫の姿を探しているのか。楽しげな観客たちの中で一人きりの彼女の不安が哀れだったし、せめてもう一度だけ彼女に礼と別れの挨拶を述べるべきかとも思い、迷いながら、慎一は下の広場へ降りようと歩き始めた。
 その時、下の層の柱の陰にひっそりと立っている老人の姿に気がついた。

 そして不意に理解した。それは、昨日、音楽堂の入り口近くの柱の陰に隠れるように立っていた、慎一と同じように場違いな雰囲気の老人だった。
 だが、老人は息を潜めるように動かなかった。マリアの場所からは無骨な柱しか見えない位置で、ただ黙って立っている。
 昨夜の音楽堂の前でも、そしておそらく、これまでマリアが巡ってきた街のあらゆる場所でも、彼はマリアに声をかけることなく立っていたのだろう。

 慎一は息をひとつ、ついた。
 彼がマリアに声をかけるかどうか、それは分からなかった。かけて欲しいとも思ったが、簡単にはそうできない彼の気持ちも理解できた。旅の終わりが近づいていることは彼も知っているだろう。その彼の決心を、二人の運命の行き先を知りたいような、やはり知りたくないような、複雑な気持ちで、慎一は視線を逸らした。
 その時。

「おい、俺の壊れたルードヴィヒ、いつまでその中途半端な場所からただ見ている気だ?」
 突然の声に慎一は驚いて振り返った。
「ヨナス……」
 そこに立っていたのは、十年の間にさらに頭の毛が少なくなった懐かしい調律師、ヨナス・シュナイダーだった。大きな身体で、上からピアニストを憎んでいるような視線で見下しているような顔つきはそのままだったから、十年たっても忘れるはずもなかった。もちろん、それは外からうかがい知れる視線だけのことで、彼のピアノへの愛情、ピアニストへの想いの深さは、慎一が一番よく知っていた。

 大体、慎一のことを、形容詞をくっつけたルードヴィヒなどと呼ぶのは、彼くらいだった。機嫌の良いときは「小さいルードヴィヒ」で済んだが、ちょっと怒ると「本物よりも始末に負えない耳をもったルードヴィヒ、いっそ聞えない方がずっといい」と悪態をついていたっけ。今日の機嫌はまだましだと言うことだ。
 ただ、二人とも、ベートーヴェンを、そしてこの世界に生まれ出ようとする全ての音を、愛していた。

 それにしても、一体なぜ突然ここに、と思いを巡らしてから、あぁそうかと事情を察した。
 出掛けにホテルに結依から伝言があった。ちょっとした手違いで、今日そっちには着けないんだけれど、エージェントを派遣したから、というのだった。どこに行けとも、何時とも言っていなかったというので、仕方なくホテルのフロントには自分は今日グエル公園に行くと伝えてはあったが、彼がそのエージェントだったということだ。
「まったく、俺の命だって、あとどのくらいか知れたものじゃないというのに、いつまで待たせようって言うんだ。人の命は短く、芸術の時は長い」

 低いバリトンの声も愛情のこもった悪態も、やはりヨナスのものだった。慎一は言葉を返すこともできずに、ゆっくりと数歩彼に歩み寄り、そのまま倒れ込むようにヨナスに抱きついた。
「あなたのピアノをまた弾きたいと、そう思っていたところだった」
 一瞬の間の後、ヨナスの腕が慎一をぐいと抱きしめた。弾きたいと言った先から、この腕が作り出す、その一点しか許せないような孤高の、そして最高の音を思い出すと、思わず震えた。

 あのピアノの音に、今の自分は追いつけるだろうか。こみ上げてくる不安を隠すことはできなかった。
「あなたのピアノを弾けるほどの力が、まだ僕にあるのなら」
 いきなり、ヨナスは慎一を引きはがし、上からじっと目を見つめてきた。
「安心しろ。俺も多少歳をとって、耳がいい具合に馬鹿になっているさ。だが、今のお前が弾くピアノを最高の状態に仕上げる事ができる調律師は、いつだって俺しかいないと、そう思わないか。それにいつだって、未来は過去から生まれ出るが、過去と同じ姿はしていないものだ」

 結依なら、今の慎一の震えを、武者震いね、と一言で片付けるだろう。
 慎一は彼の腕に触れ、彼を見つめ返し、再びその胸へ顔を埋めた。
 そうだ、この腕があればまだ「この先」に行くことができる。それはかつて描いていた未来とは違っているかもしれないが、あの頃の慎一には描くことのできなかった深く豊かな予感を抱いて、森や海や空、人々の悲哀や希望、この世界のあらゆる色彩を湛えながら、静かに待っていた。

グエル公園2 
 今、世界の片隅の小さな広場では、既にこの世界から姿を消したアルペジョーネのためのソナタが終わろうとしていた。音楽が終わると、素晴らしいパフォーマンスを終えた四人の大道芸人に、才能溢れる二人の演奏家が駆け寄って、賞賛と祝福を伝えながら再会の喜びを確かめ合った。
 その様子を、夫を待つ名も無きジャズ歌手が、祈るような気持ちで見つめていた。
 すぐ側の無骨な岩の柱の陰からは、年老いたジャズピアニストが、弱り切った足で、不確かな、しかし重い一歩を、そっと踏み出そうとしていた。

 そして、遠く離れたニューオーリンズの場末のライブバーでは、壊れかけたピアノの不揃いの鍵盤のひとつが、不意にぽーんと音を弾かせて、遠くから何かがやってくるのを、あるいは、戻ってくる時を、待っていた。

(【What a Wnderful World】了 )

*写真の犬は柴犬ではありませんが、音楽堂の近くのお店で本当にこんなシーンが。タパスは実は別のお店の写真です。
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Category: ♪慎一・短編

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