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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【短編】明日に架ける橋(前篇) 

前後編で短編をお届けします。
題名が思い浮かばなかったので、適当につけました。
なぜこんなタイトルになったかということは、明日の後半の後で……

この話には元ネタがあります。
世界仰天○○という番組で、金持ちで脊髄損傷の男と、失業保険を手に入れるために判子だけをもらいに来たのに介護人として雇われてしまった男の友情物語をやっていました。あまりにも綺麗な話で、確かに仰天物語だったけれど、そんなにきれいにまとめていいのか、現実はもっと色々複雑じゃないの~??と思ったら、天邪鬼物語が生まれていました。

今日明日、ちょっと毛色の違う物語をお楽しみください。



 ムスタファは16の時に故郷のラバトからパリにやって来た。6人兄弟の3人目で、両親とは特別に上手くいっていなかったわけでもない。ただその年になって故郷で仕事を見つけることが難しいと分かったので、よくある話だが、都会に出れば生活は今よりもずっと刺激的で良くなるのだろうと信じて、知り合いの伝手を頼って来たのだ。
 だが、これもよくある話だが、ムスタファが求めるだけの報酬を得ることができるような仕事が、簡単に見つかるわけではなかった。

 始めこそ、それなりに志を持っていたムスタファも、20歳を越える頃には既に10以上の仕事を転々としていた。田舎と違って都会には驚くようなタイプの仕事があり、上を見なければ何とか生活ができた。結果として、故郷に自慢できるような財産もろくな人間関係も手に入れることはできなかったが、25を越える頃には悪知恵だけが見事に身についた。汗水たらして日銭を稼ぐことが馬鹿らしくなり、30を越える頃にはいっぱしの詐欺師になっており、雇い主や社会を欺きながら生きることに妙な自負心さえ感じていた。

 身長は180センチメートルを超えていて、肩幅も大きく、腕も太かった。肌の色は褐色で髪は縮れた黒、目の色はハシバミ色だった。20の時に勤めていた工場で、誤って万力で潰してしまった左手の小指だけが役に立たなかったが、それ以外は見事に健康だった。一見、如何にも恐ろしそうな外見でありながら、笑うと子どものように純真に見えた。少し付き合うと、恐ろしい外見は頼もしさと映るようになり、親しみを感じる頃には騙されている、という具合だった。

 ムスタファはビジネスのパートナー、つまり騙す相手として、身分があって、孤独で自尊心が強く頑固な老人を選んだ。何故なら、彼らは騙されたと気付いても、自分が騙されたことを世間に知られたくないので、警察に届け出たり裁判所に訴えたりする可能性がほとんどなかったからだ。結果、ムスタファの犯罪ともいえる詐欺が露見する可能性は極めて低かった。

 まず被害者となるターゲットに近付き、信頼を勝ち得て、時には慈善事業を持ちかけ、時には新しい信仰を勧めた。つまり健康信仰や長寿信仰といったものだ。
 しかも、ムスタファが被害者たちからせしめる金額は、彼にとっては数か月を遊んで暮らせるほど有意義なものだったが、被害者にとってははした金に過ぎず、財産がひっくり返るわけでもなかったので、腹を立つものの、ちょっと悪い夢を見たと思ってやり過ごせば済む程度だった。

 ムスタファにとって故郷は遠くなっていた。被害者たちから騙し取った金で故郷に帰るチャンスはいくらでもあったが、いつも賭け事や女に使い切ってしまった。そんな生活を不自由だとも惨めだとも思っていなかった。

 今度のムスタファのターゲットは、以前は有名な俳優だったセバスチャン・ティボーだ。長身でクールで甘いマスクの持ち主は、40代前半で芸能界から身を引くまでは女が切れることはなく、4度結婚して4度離婚していた。貴族の家系で、北アフリカで搾取した財産が唸るようにあり、離婚の度に相手に家屋敷を与えるほどだった。子どもはいなかったが、愛情を注ぐものは幾つも持っていた。バイクとスポーツカーとセスナを愛し、クルーザーを操縦し、羽振りのいい頃にはカジノを買い取ったという話もあった。

 だが、50歳を過ぎた今、セバスチャンはパリ郊外の広大な敷地にひとりきりだった。4度目の離婚の前に、スカイダイビング中に事故に遭い、脊髄損傷のため首から下が全く動かなくなっていた。
 もともと信頼できる人間に囲まれていたわけではない。華やかな世界に生きていたが、彼の栄光や財産のおこぼれに与ろうとする者ばかりだった。城のような家に住んでいたが、介護人なしでは生きていくことができなくなり、誰もが自分の財産を狙う悪党に見え、気難しくなり、他人を自分と同じ種類の人間とは思わなくなった。

 セバスチャンの介護人は1週間ごとに代わっていた。彼は秘書代わりに役所の福祉課の事務員をこき使った。ろくな介護会社を紹介しないと言って、唯一自由な口で相手を罵り倒した。やがて役所も彼を相手にしなくなった。
 そこで、セバスチャンは財産管理を依頼している弁護士を通じて介護人を募集し、1週間こき使っては解雇した。どれほど高額の給料で破格の待遇でもあんな職場はごめんだと、解雇された介護人は口をそろえて言い切った。

 ついに国中の介護人からそっぽを向かれ、セバスチャンの弁護士、ミシェル・ランボーも呆れ果ててしまった。
 ランボー家はミシェルの父親の代からティボー家の弁護士を務めてきた。父親の遺言もあり、まだ若い女弁護士としては随分と我慢強く、この偏屈な男の法的な援助をしてきたが、さすがに1週間おきに新しい介護人の斡旋をすることに疲れてきた。

 1週間ほどしか持たないのだから、介護士の資格を持っている必要はないと考え、面接をして適当に雇うことにした。四肢機能は全廃で、内臓にもしばしば障害を来たし、時には排尿障害で入院を余儀なくされるセバスチャンには同情の余地があると思ってきたが、正直なところ、彼の偏屈さと頑強さにはほとほと疲れ果てていたのだ。

「介護士」という縛りを外した途端に、もと有名俳優のセレブな生活を覗き見たいという有象無象の連中が面接にやって来た。彼の大ファンだったという女性も多く訪れたが、身体の全く動かないセバスチャンを世話するのに、女性は不適切だった。ためしに腕力のありそうな女性を数人雇ってみたが、案の定数日で腰を悪くした。結果として対象は男性ばかりになった。

 セバスチャンの介護は、住み込みで24時間の勤務だが、法律に則った休みは保障された。住まいは広大な敷地内にある本棟の隣の棟で、小さいながら豪華な別荘のようだった。掃除や洗濯、食事は他に女中がいるので、一切構わなくてもいいことになっていた。
 ミシェルは始めこそ、せめて人の好さそうな人間を選んでいたが、彼らが1週間後には傷つき疲れて、契約を白紙に戻したいと言ってくる姿に心を痛め、そのうちセバスチャンを踏みつけるほどの悪人を雇いたいと思うようになった。体格が大きく力がありそうなら尚良かった。

 そして、面接の席にやってきたムスタファ・ラムジを見た時、ミシェルは一目で彼を気に入った。身体は大きくて厳つく、いかにも腕力自慢で、ハシバミ色の目は優しそうだったが、多くの犯罪者を見てきたミシェルは、彼の剣呑さを嗅ぎ取ることができた。一応経歴を確認すると、その胡散臭さと言ったらこれ以上ないくらいで、大いに彼女を喜ばせた。そろそろ一度くらい、頑固で高慢ちきなセバスチャンが鼻を明かされるところを見たいと思っていた。

 ムスタファには介護の経験など全くなかった。セバスチャン・ティボーの介護人として雇われるには、財産管理人兼後見人となっている女弁護士を懐柔する必要があるだろうし、いささか手こずると思っていたので、いささか拍子抜けしてしまった。1週間ごとに介護人が首になっていることは聞いていたので、心を閉ざしてしまった哀れな元セレブ俳優の相手が勤まる「人徳者」がついに自分以外にはいなくなったのかもしれないと思って、ほくそ笑んだ。
 ムスタファには自信があった。悪事のためならどこまでも我慢強くなれる、ということに。

 初めて自分の住まいとして与えられる別棟に案内された時、ムスタファは小躍りした。
 こんな立派な屋敷を訪問することはあっても、住むことになったのは初めてだ。
 掃除も洗濯もしなくていいし、衣服も見苦しくないものを与えられた。食事に困ることは一切なかった。ベッドはアンティークで高級感漂う設えに、最高の寝心地を保障する最新のマットレスを置いてあった。一晩寝ると、数十年分の肩の疲れが取れたほどだった。枕の値段だけでも普通のサラリーマンの1か月の給料ほどもすると聞いて、驚くよりも呆れた。休みの日にはサンルームで一人で豪華な朝食を楽しむことができ、ゆったりと寛いだ後は、彼のために買ってもらったシトロエンで町に出ることも許されると説明を受けた。

 仕事のほうは噂通り最悪だった。
 セバスチャンは最低最悪の雇い主だった。24時間勤務とは言え、夜は自分のための別棟に帰ることができると聞いていたが、実際にはそういうわけにはいかなかった。セバスチャンが静かに眠っていてくれたらその通りになったかもしれないが、夜中に執拗に呼ばれ、やれ腕が痛い、足が痛い、腹が痛い、何とかしろと怒鳴り散らされた。もちろん食事は全介助が必要だった。車椅子で四六時中あちこちに連れて行くように命じられた。風呂に入れるのは重労働だったが、それを毎日求められた。ただの嫌がらせとしか思えなかった。動かないのだから毎日風呂に入る必要はないだろうと何度も言いそうになったが、呑み込んだ。

 最も苦痛な時間は、お茶の時間だった。
 本来ならこういう時間こそが相手を籠絡する良いチャンスだったが、セバスチャンには何ら効果を示さなかった。これまでムスタファは、この時間を利用して相手の話を聞いてやり、心を開かせるきっかけにしてきた。そして糸口を見つけると、自分の生い立ちや苦境を7割ほどのフィクションを加えて話し、相手の同情心を煽り、さらに社会に対する尊い奉仕精神を格調高く語ることを得意としてきた。ここまでくると、相手は自然に財布のひもを緩めていた。

 だが、セバスチャンはムスタファの話など聞こうともせずに、ひたすら他人の悪口を言い続けた。悪口の対象には事欠かなかった。これまで共演してきた大物女優、世界的にも有名な監督、学生時代の友人や恩師、自分の両親や親戚、病院の医師や看護師、雇った介護人や役所の人間たち、そして元妻たち。

「『禁断の恋』で共演したアリエル・ブラシェールはひどかった。演技なんてものじゃない。子どものお遊戯ほどのことしかできないくせに、あの大役を手に入れたのは枕営業のお蔭だ。清純そうな顔をしているが、下半身はどえらく下品だ。ベッドの上の声なんか聞けたものじゃない」
「ギュスターヴ・エモニエはカンヌで作品賞を取ったが、金に汚いコソ泥で、おまけにホモだ。あの注目を集めた『エスカルゴ街の人々』は盗作だぞ。学生時代に死んだ同級生が書いた脚本だ」
「俺がこんな体になったのはあの救急隊のボネって野郎のせいだ。最初に適切な処置をせずに俺を放置しやがった」

 明らかに出まかせの中傷だけでなく、よくもそんな細かいことを覚えているものだというほど過去の出来事をネチネチと語り、連中がいかに悪人かということを唾を飛ばして語り続けた。ムスタファが口を開くチャンスはまるでなかった。

 もちろん、セバスチャンは慈善事業にもまるで興味を示さなかった。自分の身体が不自由な分、様々な種類の助けを必要とする弱者の気持ちが分かる、何とかして助けたい、社会に貢献したいというような気持ちは皆無だった。さらに、民間信仰や民間医療といったものにも全く興味を示さなかった。
 ムスタファは自分が、今回初めてターゲットの選定に失敗したことを悟った。

 目的を達することができないと分かった後は、監獄のような生活だと感じられた。しかも運悪く、屋敷内の掃除・洗濯・料理を受け持っていた女中が、病に倒れて職を辞した。無口で働き者の彼女は、最後まで残っていたたった一人のティボー家の雇われ人だった。彼女の代わりは当然のことながら簡単には見つからなかった。こうして彼女の仕事はムスタファの仕事になった。

 掃除はすぐに諦めた。手を抜くのに最適な項目だったからだ。洗濯も溜め込んではまたセバスチャンの機嫌を大いに損ねた。料理だけは思ったほどに苦痛ではなかった。市場へ買い物に行くのはいい気分転換だった。
 市場の賑わいの中に身を置くと、そのままミシェルの事務所に行って、退職届を出そうかと考えた。林檎を齧りながら、ぼんやりと夕陽が街並みの向こうへ落ちていくのを見ていると、市場の隅で小汚い服装の子どもが数人固まって震えているのが目に留まった。
 今日だけはあの寝心地のいいベッドで寝ようと思った。

 もちろん、ムスタファがやられっ放しということはあり得ない。
 いつでも辞めてやるという気持ちになると、楽になった部分もあった。介護は乱暴になった。ベッドから車椅子にセバスチャンを移す時も物のように扱い、車椅子の上に投げ落とすようにしてやった。風呂も勝手に2日に1回と決めた。食事を口に運ぶのも、自分の食事を優先した。熱いスープに気が付かなかったふりをしてやった。

 どんなにセバスチャンが文句を言っても、彼が動けないことが分かっていたから、口だけの攻撃など屁と思えば屁だった。時には恨めしそうに自分を見るセバスチャンの前で、ゆったりと紅茶を味わったりした。セバスチャンの他人に対する悪口も、前衛音楽と思えば気にならなくなった。
 気分転換には、街に出かけて女を買ったり、賭博に行ったりした。決して少なくない額の給料は貰っていたが、1か月に1度、弁護士を通して支払われる給料日の前になると、ほとんど毎月底をついていた。

 星の数ほどの前任者が全て1週間ばかりで辞めていった中、こんなにも尽くしてやったのだから、いつかここから出ていく時には、少しばかり金目のものを失敬して行っても許されるだろうと思った。
 ムスタファは屋敷内の金目のものを物色した。絵画や装飾品の価値は分からなかったが、どれも見事なものに思えた。しかし持って行くには大きすぎると思われた。
 ミレーの『晩鐘』が暖炉の間に掛けられていたが、こんなところに本物があるわけはないし、どうやら模写のようだった。
 宝石類はセバスチャンの4人の元妻たちが全て持ち去ったのかもしれなかった。時計やタイピン・カフスなど、男性が身に着ける金目の小物は見つけられなかった。

 セバスチャンは、3日に1回様子を見に来るミシェルに食ってかかった。
「あんな男は即刻首だ。早く辞めさせろ。俺の言うことを全く聞こうとしない。最初だけ大人しい顔をしていたが、正体を現しやがった。あいつは詐欺師だ。ヤクザだ。クソだ。私を殺そうとしている」

 確かに詐欺師だ。ミシェルは腹の中で笑いつつ、真面目な顔で答えた。
「セバスチャン、何だかんだと言いつつ1年経つのよ。本当に辞めさせるとなると、彼には自分の雇用状況や解雇通告が妥当なものであったかを調べるよう当局に要求することができるわ。あなたの素行が健全とは言いかねることが白日の下に晒されたら、彼はあなたに慰謝料を要求することになるでしょうね」
「そんなことにならないようにお前を雇っているんだ。何とかしろ」
「ごめんなさいね。私、明日から休暇なのよ。1か月後にまた話を聞くわ」
 セバスチャンは、もしも手が動くならクリスタルの灰皿を投げつけやると思った。

 ムスタファはすっかり気持ちを切り替えた。
 そうだ、相手は口で何を言っても、手も足も動かせないのだ。哀れむには性質が悪すぎる男だ。これまで関わってきた全てのこと、他人から受けた親切に感謝の気持ちの欠片も持っていない。自分もろくな人間ではないが、あいつほどではないと断言できた。俺は少なくとも、これまで騙してきた哀れな老人たちには感謝している。セバスチャンは金がある分だけ、俺以上の悪人だ。

 ムスタファはセバスチャンを軽蔑し、軽蔑することで気分よく介護、いや半介護を続けた。
 気分が変わると、変わったことをしてみたくなった。敷地内に荒れた畑があることに気が付いて、苗を買ってきて植えるようにした。数か月後の予定を考えながら、新しい苗を買い揃えるのは楽しかった。故郷の畑を思い出した。オリーブに、オレンジ、ナツメヤシ、ジャガイモ、トマト。鶏も手に入れた。
 畑の作物のことを考えているうちに、1年が2年になり、また新しい年が巡ってきた。

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Category: 明日に架ける橋(ヒューマン)

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【短編】明日に架ける橋(後篇) 

短編『明日に架ける橋』後篇です。
決して、元ネタが気持ち悪いくらい「いい話」だったので、天邪鬼になってバッドエンドにしようと思っているわけではありません^^; それなりにハッピーエンドです(^^)
それに状況設定をいくらか借りましたが、顛末は全く異なっており、中身は全くのフィクションですので、色々いい加減ですけれど、細かいところは目を瞑ってお読みくださいませ m(__)m
もう少し短く纏めるつもりだったのに、思ったより長くなってしまってすみません。

さてタイトルの『明日に架ける橋』ですが、有名なSimon&Garfunkelの『Bridge over Troubled Water』です。

When you're weary, feeling small
When tears are in your eyes,
I will dry them all

I'm on your side
When times get rough
And friends just can't be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

学生の頃はこんな素敵な友情・愛情に憧れたものでした。
今は? そんな簡単じゃないと思うのですね。
だから、半分皮肉で、残り半分は心から願って、このタイトルをつけました。

俺は心から君のことを思っているぜ!なんてのはちょっと苦手。
でも、平凡な人間が、あるいは普段は悪党みたいなやつが、気が向いて(気が変わって、じゃなく)、あるいはそんな気ではなかったのに偶然に、いいことをしてしまった、っていう話、大好きなんです。

もちろんその源流にあるのは『鬼平犯科帳』です。
そして、ものすごく好きな映画『シンドラーのリスト』。
あの映画の中で、シンドラーが始めは「ユダヤ人を救おう」という意識ではなく、「自分の工場には工員が必要だ(しかも安い給料で働いてくれる?)」的な、実に資本主義的考えでたまたまリストを作ったら……という歴史の中での大きな流れに飲み込まれて、結果論的にいいことをしちゃった、その不思議さに心を打たれます。
人間って、ほんと、終わってみないと分かりませんね。

だから、このお話も「あれ? 気がついたら、lay me downしちゃってたよ」ってのがミソ。

本当はもうひとつ、候補にしたタイトルがありました。
『Sound of Music』の『Something Good』……
実は片手に入るくらいのOne of my favorite songs……大好きな曲です。

Perhaps I had a wicked childhood
Perhaps I had a miserable youth
But somwhere in my wicked, miserable past
There must have been a moment of truth

For here you are, standing there, loving me
Whether or not you should
So somewhere in my youth or childhood
I must have done something good

Nothing comes from nothing
Nothing ever could
So somewhere in my youth or childhood
I must have done something good

因果応報? いやいや、でもこの曲をセバスチャンに捧げようと思います(^^)
では、そんなあれこれの想いを籠めて、後篇、お送りいたしまする。
(前置き、長いって!……す、すみません(・_・;))




 冬の間は、セバスチャンの病状は悪化することが多かった。
 特に腎臓は深刻だった。しばしば浮腫んで顔色もどす黒くなり、ムスタファがセバスチャンを乱暴に担いで病院に走ることも多くなった。点滴や導尿のために、数日入院することもあった。いずれ透析が必要になるかもしれないと弁護士からは聞いていた。
 冬には足や手の痛みもひどかった。夜中に何度も起こされて、足や手を擦り続けるように言われた。ひどい時は夜通し足を擦り続けた。

 だが、よく考えたら脊髄損傷で四肢は全く動かないし、感覚もないのだ。痛いはずがない。この野郎は俺を騙して嫌がらせをしているのだ。
 やってられないと思った。「半介護」に徹することに決めたムスタファは、夜中を過ぎたら自分の別棟に戻って、インタフォンの電源を切り、安眠を貪ることにした。

 そんなふうにして寝心地のいいベッドのスプリングを楽しめたのは数日だった。眠りについて間もなく、インタフォンの音が聞こえる。ムスタファは飛び起きた。
 あのくそったれ。どこまでも鬱陶しい野郎だ。
 だが考えてみたら、電源を切っているのだ。聞こえるはずがない。
 空耳だった。
 空耳なのに、そのままムスタファは眠れなくなった。

 結局、セバスチャンのいる本棟に様子を見に行った。寝室の外にまで、唸るセバスチャンの声が聞こえていた。耳を塞ぎたくなるような苦痛の声だった。
 ムスタファはそっとドアを開け、しばらく天蓋付の大きなベッドの脇に突っ立っていた。セバスチャンは胸を掻き毟るようにして、額に大粒の汗をかきながらきつく目を閉じたまま、歯を食いしばって唸っていた。
 ムスタファは何も言わずに、幻影に苦しむクソ野郎の何も感じないはずの足を擦り始めた。

 フランスの冬は、緑の野菜こそ少ないが、比較的野菜の種類は豊富だ。
 紫ジャガイモ、縮緬キャベツ、根セロリ、ベトラーヴ、ルタハガ。特に根菜類のスープは冬にはもってこいだった。
 根菜のトピノンブールはアンティチョークのような芳香があり、生で食べるとしゃりしゃりと歯ごたえもいい。これをジャガイモと一緒に茹でて皮をむく。葱の白い部分を少量のバターでゆっくり炒める。葱の青い部分も一緒にして、水と塩を加え、20分くらい煮る。ミキサーで滑らかにしてスープを作る。
 黒パンを浸しながら、セバスチャンの口に運んでやる。

 面倒くさい食事介助も、今では一番楽な介護になった。女中が辞めた後、こんなもの食えるかとムスタファの料理を罵倒し続けているセバスチャンも、畑で採れた野菜にだけは文句を言わない。
 スープはセバスチャンの口の端から零れる。それをタオルでふき取ってやりながら、ボケてもいない、頭のはっきりした大の大人がこんなふうに他人に口を拭ってもらったり、下の世話をしてもらうのは、本当に辛いことだろうなとムスタファは思った。

 だが、夜通し足や腕を擦るのはそろそろ勘弁してもらいたかった。
 そうだ。これで2年にもなるのか。これほど長くひとつの仕事場にいたのは初めてだ。吾ながら驚く。
 もうそろそろ潮時だろう。こうして若くて健康で何でもできるはずの俺が、人生のいい時間を、こんな監獄みたいなところでクソッタレの面倒を見て過ごすなんて、まったくもって信じられない。

 ここは大きいばかりが取り柄の幽霊屋敷だ。叫んでも誰にも声が届かない。がらんどうの様な場所だ。
 そうだ、いつまでもここでこんなことをしていてはだめだ。楽しくないじゃないか。
 思ったより長く勤めてしまったが、これは一つの吉祥だろう。
 パリに出てきてから、ムスタファは初めてラバトに帰ることを考え始めていた。

 辞める時には多少は金目のものをかっぱらって行こうと思っていたので、あちこちの部屋に忍び込んでは机や戸棚の中を引っ掻き回してみた。
 だが、簡単に金にできそうな宝石類は、やはり見つからなかった。
 仕方がないので、戸棚の中のアンティークの人形を持ち出し、買い物のついでに骨董屋に寄ってみた。骨董屋の主人は眼鏡の向こうから胡散臭そうにムスタファを見上げ、唇の端を吊り上げるようにして言った。
「あんた、これ、ガラクタだよ。その辺の露店で売っているようなものさ」
 その後も、壺やアンティークの置物、金の燭台を幾つか持ち込んだが、どの店でも返事は同じだった。金の燭台はメッキだった。

 ある日、ムスタファは弁護士のミシェルに呼ばれた。ミシェルはいつものようにぴっちりと髪を結いあげて、真面目な顔でムスタファを迎えた。
 この女も、あんなクソッタレの面倒を見なくちゃならないなんて、ご苦労なことだと思った。若くてそこそこ美人なのだから、他にもっと楽しむことがあるだろうに。

 セバスチャンの様子はどうだと聞かれたので、夜中に唸っていることと、病院に行く回数が増えたことを伝えた。
「麻痺してんのに、痛いなんてありえねぇだろ。全く、さすがに俳優だっただけのことはある。あんなふうに苦しい苦しい、って芝居を打たれると、優しい俺はついつい言うことを聞いちまうんだよ。あのくそジジイは俺に嫌がらせをしてやがるのに。つくづく俺は自分を哀れに思うぜ」

 ミシェルは面白い男を選んだものだと、吾ながら感心した。俳優はあなたの方ね、と思った。始めは善人の芝居をしていたが、この頃は本性を露わにしている。
「ムスタファ、あれは芝居ではないのよ。幻肢痛と同じようなものね。戦争なんかで脚を失った人が経験する、そこにはないはずの脚の痛み。詳しい原因は分かっていないけれど、脳の中のその脚に相当する部分が、支配するべき脚を失ったことに気が付かないまま働き続けているの。つまりコンピューターが更新されないまま動いているってこと。強力な電気を流して、万力で潰されるような痛みだというわ。セバスチャンの場合も、完全に機能を失った四肢なのに、脳のその部分はまだ活動しているのよ」

「幻の痛みなのか?」
「そう、幻なのに恐ろしい痛み」
 ムスタファには理解できなかった。だが万力で潰されるような痛みがどれほどのものかは、身をもって知っていた。ムスタファは潰れた左の小指をちらりと見た。
「それに、あんな身体だけれど、まだ50代よ。ジジイというのはちょっと酷くないかしら?」
 そう言ってミシェルは微笑んだ。
 こんな愉快な男もなかなかいない。コソ泥で詐欺師だが、何かをする時には自然と一生懸命になっている。まともなことをやっているかどうかは別にして。

「ところで今日あなたを呼んだのは他でもないの。ムスタファ、あなたを解雇することになりました」
 ムスタファは唖然とした。確かにこの1年以上、セバスチャンの動かない身体を物のように乱暴に扱ってきた。言われた時に言われたようにはしなかった。時々家の中から金目の物はないかと漁ったりもしていた。結果的にそんなものはなかったのだが。
 もちろん、そろそろ辞めるつもりだった。だが、こちらからいい条件で辞める時期を窺っていたのだ。それなのに、いきなり過ぎやしないか?

 ムスタファの泳ぐ目を見ながら、ミシェルはふうと溜め息をついた。そして、まぁ座りなさいと接客用の革張りのソファを指した。
「セバスチャンはさっさと首を切れと息巻いていたわ」
 そう言ってミシェルは笑った。頑固なあの男らしいと思ったからだ。
「理由なんか言う必要はない、退職金ならたんまりつけてやれって」

 ムスタファはソファに座った途端に落ち着かない気持ちになった。まるで小心な犯罪者が警察署に引き立てられたかのようだった。あるいは、生まれて初めて騙される側になった気がした。
「でもね、セバスチャンが言うほどのたんまりな退職金は払えないの」
 ミシェルに勧められた煙草を咥えたが、なかなかうまく火がつかなかった。
「あなたはあの大きな屋敷に暮らしてみて、何を感じたかしら?」
 がらんどうの屋敷だ。そう思ったが、ムスタファは言葉にしなかった。

「見ての通り、大きな屋敷だけれど、中身は空っぽ。もう金に替えることができる物はほとんど残っていない。これまであの人の言う通り、治療も介護も、身障者としての社会の恩恵に与らずに彼の私的財産でやって来た。でももう限界なの。彼はあなたや私への給料は意地でも払い続けたけれど、土地と屋敷は借金の抵当に入っているし、残った一部の値打ち物の家具や本を整理して、せいぜいセバスチャンの入院費が出るかどうかね」
「何だって?」
「つまり、セバスチャンは、あなたを雇った頃にはもう大金持ちではなくなっていたの。あなたは詐欺師だけれど、セバスチャンも立派な詐欺師だったというわけ」
「そうじゃない。入院ってどういうことだ?」
「腎臓が悪いのは知っているでしょう? それに前立腺癌だとわかったの。彼は入院も治療も拒否しているけれど、これ以上あのまま頑張らせるのは難しいと思うのよ。彼を説得するのは私の仕事だけれど、あなたにはこれ以上給料を払い続けることもできないし、それにこれからは、介護は病院の仕事になるわけだから」

 こうして突然仕事を失ったムスタファは、手元に残った金を暇潰しに何度も数えた。
 明日にはこの別棟も明け渡さなければならなかった。
 これまで貰っていた給料自体はほとんど賭博と女に消えていたので、僅かしか残っていなかった。確かにミシェルの言う通り、退職金はたんまりではなかったが、これだけあれば故郷に帰って小さな畑ならひとつくらい手に入れることはできそうだった。
 セバスチャンは無理をしたのかもしれないが、ムスタファのためというよりも、彼の慢心と見栄のためだろうと思えた。
 だが、ムスタファにとってこの金は懸命に汗水を垂らして働いて得たものという気がしなかった。そういう金はえてして身につかないものだ。

 最後にムスタファは、屋敷内の土地を自ら耕して作った小さな畑を見に行こうと思った。
 突然解雇されたので、春に収穫するはずだったアーティチョーク、アスパラガス、新玉ねぎや蕪がどうなるのか、少しだけ気になった。
 遠くから見ると、畑の畝には夕陽が凹凸の文様を描いていて、土の色は橙に染まっていた。土の中から込み上げるような野菜たちの命の温度が、空中で粒子となり、その粒子が天からの光を細かく跳ね返していた。

 ふと視線を移動させると、橙に染まった光の中で、黒い影が畑の傍にうずくまっているように見えた。目を細めてよく見ると、車椅子の影だった。
 ムスタファと車椅子の間の霞んだ空気は、粒子のひとつひとつが虹の色にもなり、またオレンジに煌めき、ゆらゆらと空に昇っていた。

 遠くに見える車椅子の影とまだ芽の生え揃わない畑の光景は、ムスタファにティボー家の暖炉の間にあったミレーの『晩鐘』の絵を思い出させた。絵の中で、夕陽に手を合わせる農村の人々は、神を信仰してというよりもただ自然への畏敬の念に導かれ、貧しさも豊かさも何もかも越えたところで祈りを捧げていた。
 模写で何の価値もないのだろうけれど、あれはあれでいい絵だったとムスタファは思った。

 少しずつ温度が下がり始めた夕闇の中、やがて車椅子に細長い影が歩み寄ってきて、車椅子の男に促すように話しかけ、そのまま一緒にがらんどうの屋敷の中に入って行った。
 それを見送りながらムスタファは胸の中で吐き捨てるように言った。
 あいつは俺以上の悪人で、他人を自分と同じ人間とも思っていない。とんでもない野郎だった。
 こうして、ムスタファは屋敷に背を向けた。

 ムスタファは洒落た白いスーツを誂えた。彼の黒い肌に白のスーツは妙に映えた。
 それを着て、彼は生まれて初めて高級カジノに足を運んだ。入口で一度止められたが、かつて詐欺の対象とした議員の名前を挙げ、彼の了承があることを確かめさせた。
 この退職金でまともな生き方をするのは自分のこれまでの人生に見合わないと思ったし、故郷に帰るつもりで飛行機のチケットを買いに街に出てみると、パリの街はやはり賑やかで明るかった。
 僅かばかりの畑で汗水を垂らしたとしても大した稼ぎにならないことを思うと、娯楽も何もない故郷での暮らしは恐ろしくつまらないものに感じられた。
 どうせ金など身につかないのだ。ムスタファは全額をバカラにつぎ込んだ。

 カジノから出てきたとき、ムスタファの持ち金は30倍になっていた。
 俺にもついにツキが回ってきたのだ。神は俺を見捨てていなかった。ムスタファは思わず空に向かって雄叫びを上げた。

 これだけあれば、故郷に帰ってもいい顔ができる。ラバトには帰らずに、パリの16区とはいかなくても閑静な住宅街にアパルトマンを買ってもいい。いや、いっそアメリカに行こうか。もしかするともっと刺激的で面白いことが待っているかもしれない。
 ムスタファは一週間、未来について希望に満ちた夢を見ながら、これまで泊まったこともないようなガードマンがいるホテルで楽しく過ごした。
 そして8日目の朝になり、美味いコーヒーを飲み干した後、世界を旅することができる飛び切りの車を買うためにホテルを出た。


 セバスチャンは屋敷もわずかに残る調度も全て始末して、ムスタファの退職金を作り、自分はひとまずミシェルの言う通りに入院した。
 彼は病院でも嫌われ者だった。造影やCT検査を受けるために検査室に行っても、訳もなく技師たちを罵倒し、看護師の扱いに常に抗議をした。治療は受けないと断固抵抗した。ミシェルはなんとか彼を説得しようとしたが、徒労に終わった。いくら相手が手足の動かない人間でも、その意志を無視することはできなかった。

 セバスチャンにはもう帰る場所はなかった。あれこれと身障者の社会保障手続きは済ませたが、それでも金の有る無しでその先の人生は雲泥の差となった。今や彼には財産と言えるものはなかった。代々受け継がれた土地も屋敷も、全て別れた女たちに持っていかれ、俳優として名を馳せた栄誉も霞のように消え去っていた。
 病院を出たところで24時間面倒を見てくれる介護人を雇える見込みはほとんどなかった。

 ミシェルには結婚の話があったが、時期を先延ばしにしていた。だがこれ以上は延ばせなくなった。妊娠していることが分かったのだ。しかも確認した時には既に4か月になっていた。生むことには迷いはなかったので、父の遺言ではあったが、これ以上セバスチャンの面倒を見ることはできないと告げるしかなかった。

 やがてセバスチャンは治療を拒否したまま、病院を出てモンマルトルに安アパートを借りた。日に3回、社会保障のルールに則って介護会社から介護士が様子を見に来る。30分ばかりセバスチャンの世話をして、目も合わさずに帰って行く。セバスチャンの罵詈雑言は相変わらずだが、介護士たちは耳に栓をしているかのようで、まるきり返事をせずに、能面のような顔で仕事をしていた。
 それでも、セバスチャンは何もかも他人が悪いと思い続け、何ひとつ改めようとしなかった。だから、誰も彼に同情をしていなかった。
 アパートの大家が飼っている猫までも、セバスチャンを胡散臭い目で見て、毛を逆立てた。猫までもが、来月、セバスチャンが家賃を払えるかどうか、危ぶんでいるように見えた。

 春になっても、夜には狭くて汚いアパートは冷え込んだ。夏になれば暑くて身体中が燃えるように感じた。熱中症で死んだ人間がいるらしいと、アパートの廊下で誰かが大きな声で話していた。秋になると一気に気温が下がり、身体から全てのエネルギーが吸い取られた。どうやら今年の冬は越せまいとセバスチャンは思った。
 ベッドに寝転んだままのセバスチャンは、車椅子に乗せてくれる家族も友人もなく、天井を見続けるしかすることがなかった。

 さっさとあの世からお迎えが来ないものかと日々思っていたが、意外にも四肢機能がなく動けない程度では、腐りかかった内臓と幻影に苦しめられる頭だけの身体であっても、簡単には死ななかった。
 幻肢痛は一段と酷くなり、時には排尿障害の悪化で医師が往診に来ることもあったが、それでもセバスチャンは生きていた。

 少ないとはいえ、食事をするから死なないのだろうと思った。頭と壊れかけた内臓だけでも、餓死はするものだろうかと真剣に考えていると、可笑しくなってきた。
 動かないのに栄養が必要なのだ。何も食べたくないのに空腹を感じることもあるのだ。消化管も腎臓も機能を諦めかけているのに、まだ心臓が動いている。幻の痛みに狂うことができるほどに、頭も冴えているのだ。

 こんな体になるまでは、好き勝手に生きていた。財産を食いつぶし、結婚していなくてもしていても、常に複数の女と付き合っていた。女だけではなく、友人たちをも馬鹿にしていた。
 思い返してみても、あの世にもこの世にも会いたい人間などいなかった。
 全く、つまらない一生だったと思った。華やかだったが、全て幻だった。
 銀幕の幻想に踊らされ、最後は動かない手足の幻影に苦しめられた。

 ふと、あの屋敷の暖炉の間の『晩鐘』を思い出した。
 あれは偽物だが、なかなかいい絵だった。だが、畑を耕し夕陽に祈りを捧げるような人生はセバスチャンには無縁だったし、今さらそんな人生なら良かったと憧れる気持ちもなく、そもそもそんなしみったれた人生はごめんだと思っていた。

 そろそろ最後の晩餐のことを考えようと思った。
 あのがらんどうの屋敷には何も惜しいものはなかったが、ムスタファの畑の春野菜だけは今でも心残りだった。冬が近くなり、思い出すのはトピノンブールのスープだった。
 あれを最後の晩餐にしたいものだと思った。
 セバスチャンは目を閉じた。まだ動かせる身体の部分が、ひとつひとつ機能を失っていくのだと思っても、何の感情も湧いてこなかった。

 それなのに、嗅覚というものは最後の最後まで残るものらしい。それに記憶との結びつきは、どんな感覚よりも鋭いという。
 ふん、まぁ、あれは美味かったと認めてやろう。
 セバスチャンはそう思いながら、もう染みの形の全てを覚えてしまった天井を見るために目を開けた。

「よう、くそジジイ。まだ生きていたか」
 セバスチャンは我が目を疑った。目の前にトピノンブールのスープがある。
 そして窓から差し込む夕日に染められて立っているのは、去年まで見飽きるほど見ていたハシバミ色の瞳を持つ浅黒い巨体だった。
「市場でトピノンブールを買いすぎちまったのよ。で、ここにくたばりかかったジジイが首から下が動かないまま寝てるって聞いたからよ、ちょっと寄ってみたのさ」

 例のごとく極めて乱暴にムスタファはセバスチャンの身体を起こし、背中に枕と毛布を丸めて身体を固定した。
 そして大きな体を壊れかかった小さな椅子に収めて、トピノンブールのスープをセバスチャンの口元に運ぶ。
 セバスチャンは口を閉じたままだった。

「おい、冗談じゃないぜ。せっかく作ったものが冷めちまって窓から捨てるなんてことになったら、俺はあんたをここから引きずり出してゴミ箱へ押し込んでやる」
 そう言って、ムスタファはセバスチャンの頑なな唇にスプーンを押し当てた。
 その香りと勢いにセバスチャンは思わず口を開けてしまい、結局むすっとした顔のまま、スープをすべて飲み干した。
 食事が終わると、ムスタファはよし、と言って立ち上がり、空になったスープカップを部屋のすみに置かれたまま長く使われていない車椅子に乗せて、軽々と持ち上げ、一度部屋を出ていった。

「じゃ、行こうぜ」
 セバスチャンはいつもの罵詈雑言を口にしようにも、あまりにも状況が呑み込めないでいた。彼はこれまで一度も、他人の都合で振り回されたり、他人のペースに合わせるという事態に自らを置いたことがなかった。
 ムスタファは以前のように軽々とセバスチャンを担ぎ上げた。以前と同じように物を扱うようで乱暴だった。
「貴様は私をここで殺す気か。私は今にも死にゆく病人だぞ。そんな乱暴に……」
 セバスチャンが言い終わらないうちに、二人は戸口を出ていた。

 今、目の前にあるのは大きくて真っ白なキャンピングカーだ。いや、夕陽でオレンジ色に染められたボディは魔法の馬車ほどに唐突で、滑稽で、希望に満ちていた。
「一体私をどうするつもりだ」
「あんたは以前俺を苦痛の職場という監獄に閉じ込めた。毎日、不協和音のミルフィーユみたいな悪口や雑言を聞かせた。だから、今度は俺があんたを監獄に招待するのさ。こいつに乗って、あんたの死に場所を探しに行こうぜ」

 キャンピングカーとしては破格のサイズだ。ほとんどバスと言ってもいい。車体は幾分低く作ってあり、ソファセットの奥にリクライニング付のベッドが見えていた。小さな台所があり、トピノンブールのスープを作った鍋が、まだそのままだった。シャワー室ではなくバスタブを設えてある。セバスチャンの車椅子は、所定の位置とでも言うように、入口の近くに上手く固定されていた。

 解雇されカジノで大金を手に入れた後、車を買いに行ったムスタファは、始め、砂漠でも走れるくらいの洒落た四駆を手に入れようと思っていた。だが、店の駐車場に停まっているキャンピングカーに目を奪われた。
 不意に、これならセバスチャンが車椅子ごと乗ることができるな、と思ったのだ。

 衝動で物を手に入れ、あっさりと失ってきたムスタファは、初めてこれから買おうとするものを調べつくし、吟味した。何度も店に足を運び、最終的に大型のキャンピングカーを手に入れ、1年かけて改造した。
 あのくそ野郎をどんなふうに迎えに行くか、その時あの高慢ちきな悪人はどんな顔をするかを想像してはニヤニヤした。車椅子の置き場所やリクライニングベッドの具合、首から下の動かない人間を風呂に入れるに必要な大きさなどを考えながら改造を進めるのは、驚くほど楽しかった。
 どうせあぶく銭なら、こんな使い方も悪くないじゃないか。

 ただひとつ心配だったのは、腎臓も悪く、癌だというセバスチャンがすでに死んでしまっていないかどうかということだった。以前入院していた病院に通院している気配はなかったし、介護会社もいくつか当たってみたが居場所は分からなかった。
 死んじまっていたら、俺のギャンブル運を自慢することもできやしねぇ。俺がついていたのは、あいつと違って、俺がいいことをしたからに決まっているのによ。
 ミシェルの勤める弁護士事務所にも行ってみたが、産休中の彼女には会えなかった。何より結婚したという彼女の居場所を探すのは、幸せに水を差すようで申し訳ない気がして、遠慮してしまっていたのだ。

 そして今、キャンピングカーの中には、赤ん坊を抱いた先客がいた。
「こんばんは、セバスチャン。相変わらず御機嫌は悪そうね」
 ソファに座ってすっかり寛いだ笑顔を見せているのは、ミシェルだった。
 パリの街を闊歩しているはずのキャリアウーマンは、髪を下ろし、化粧もほとんどしておらず、ラフなジーンズにダボダボのタートルネックのセーターを着ていた。

 セバスチャンを見つけられなかったムスタファは、役所に行き、離婚届を提出するためにやって来たミシェルと再会したのだ。
 ミシェルはシングルマザーとなり、半年間の育児休暇を取っていた。1年までは延長も可能だった。
「一体、君たちはこの私に何をしようとしているんだ」
「ムスタファに聞いたでしょ。あなたの墓場を探しに行くのよ。素敵な計画だと思わない? もっとも、あなたは私たちが考えているよりも長生きしそうだけれど」
「冗談じゃない。誰がお前たちなんかと。私を放っておいてくれ」
「あら、私たち以外の誰が、高慢ちきでいかれたジジイの死に水を取れるっていうの?」

 ムスタファはセバスチャンを、一人掛けの特注椅子に座らせて固定した。
「よし、じゃ、出かけるか。赤ん坊をチャイルドシートに、頼むぜ、ミシェル。くそジジイの罵詈雑言に赤ん坊の悲鳴のような泣き声、BGMも完璧だ。全く、地獄に行くのに相応しい旅になりそうだぜ」
 ムスタファはエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

 夕陽でオレンジに染まったバスのように大きな車のエンジン音に、大家の飼い猫が毛を逆立てて唸った。そして、オレンジから紅に色を変えながら勢いよく通りの向こうへ、パリの賑わう街並みの中から走り去っていくのを、しばらくの間見送っていた。




<元ネタの世界仰天○○物語>
脊髄損傷により四肢機能全廃のお金持ちAと、失業保険を求めているアルジェリア人Bのお話。
Aは24時間住み込みの介護人を探していて、面接でBを見て気に入る。
理由は「BがAを憐れだと思っていないから」
介護なんてしたことの無いBの扱いは乱暴だけれど、心根の優しい男。
Aの妻は不治の病。Aは看病に疲れていて気分転換にパラグライダー(だったかな?)に行って事故で脊髄損傷に。
妻を介護しなければならない自分が逆に介護される立場になってしまって、妻の見舞いにも行けないままになっていた。
それを知ったBはAを連れてAの妻の病院に通い、3人で心を通わせる。
やがてAの妻は他界。
冬になると幻肢通に苦しむAを見たBが、フランスからモロッコに移り住むことを提案。
AとBはモロッコで生活を始める。
モロッコの家を探しているとき、いつもBが選ぶホテルがあって、そのホテルの受付嬢にBはほの字だったよう。
Bは否定するけれど、その様子をみてAはBを解雇することに決める。
妻の遺言で「Bにいい人が現れたら、彼を解放してあげて」と言われていたからだ。
Bは拒否するけれど、結局ホテルの受付嬢と結婚して、故郷のアルジェリアへ。
そしてAは? 実はモロッコ人の女性と結婚。そして今も、AとBは交流しながら友情を育んでいるのだ!

いい人ずくめのお話でした(*^_^*)
Aもお金持ちのままだし、偏屈なジジイじゃないし。
Bも仕事がなかっただけで、コソ泥でも詐欺師でもないし。
けいさん(ブログ:憩)によると、映画にもなっていたのだとか。知りませんでした^^;

そうそう。
セバスチャンの『Something Good』は、もう金もないのに意地でも払い続けたムスタファの給料……だったのかしら?
そう考えたら、結構つまらない~~^^;
でも、その金がカジノで30倍??
いやいや、もう、世の中何があるのか分からないってことで。

ミシェルとムスタファ、いい感じじゃないかって?
それもまぁ、世の中、何があるか分からないってことで。

結局、いい人の話なんじゃないのって気もしますでしょうか?
いやいや、これは「腐れ縁」「どこかで死んじゃってたら寝覚めが悪い」って話なんですよ。
(いい人たちの話だって認めたくないところが天邪鬼^^;)
でも、書きながら、トピノ(ナ)ンブールのスープを無茶苦茶飲みた~いと思って、そこだけは自己満足です。

トピノンブールとは、日本で言うと、菊芋。
レンコンみたいな歯ごたえで、水分の多いしゃきしゃきした芋。見た目は生姜みたいな形?
匂いは、アンティチョークみたいだとか。

……何はともあれ、ここまで読んでくださいまして、本当にありがとうございました(*^_^*)

Category: 明日に架ける橋(ヒューマン)

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