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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【相川真シリーズSS-1】吾輩は猫なのである 

さて、ちょっと休憩に、SSをお届けします。
連載中の【海に落ちる雨】を本にして友人に渡したときおまけにつけてあった掌編です。
おまけなので、内容はたいしたことはありませんが……

まだこちらのブログ内には登場しておりませんが、大和竹流の親友(ただし猫)にトニー・ハーケンという茶トラ猫がいます。
もしかしてこの名前にピンとくる人がいたらびっくりです。
でもこの時代、まだダンガードエースはやっていませんが……

その生意気で男前の茶トラ猫、しっぽまで縞々、お腹にも模様あり、のトニー(オス)視点で見た真と竹流の同棲生活。
ちょっと覗いてみませんか。




 吾輩は猫である。

 と、かの文豪が書き記した名作を真似て始めてみようとしたが、かったるいので止める。
 しかも、オレには一応名前というものがある。
 まぁ、名前なんてのは、オレに言わせると、全く無用の長物である。名前ってのは、集団の中で個を識別するために始まったものというよりも、名前があれば、モモノケに赤ん坊を取られずに済むっていうんで、子どもが生まれた途端にトラ、とかクマ、とか何でも強そうな名前を適当につけたものらしい(だから後から名前を変えるんだな。ま、一生クマって名前の人もいるんだろうけど)。いわゆる『呪』ってのかな。呪いじゃないぜ。魔力を込めるって感じだ。種族によっては、一般に呼ばれる名前のほかに、人に知られちゃいけない秘密の名前があったりして、それを知られたら力が失われる、なんてお話もあったりするわけだ。……ってのは、オレの親友の受け売りだけどね。

 で、その親友が、オレをトニーと呼ぶので、オレは自分がトニーということにしてやっている。一匹狼の猫にはどうでもいいことなんだが、親友のタケルに、あのいい声で呼ばれるのは、ちょっと気分がいい。そう、オレの親友は、ちょっと低めのよく通る声を持っていて、人間の言葉では『ハイバリトン』というらしい。それに手もいい。大きな手で、何てのか、無駄なところがない、器用で、よく使われた職人の手ってわけだ。この手で顎なんか撫でられると、ちょっとたまらないんだな。

 オレとタケルの出会いは、もう気の遠くなるくらい前のことだ。
 オレはまだ子猫だったんだが、親とはぐれちまって、一人で生きていたんだ。たまたまはぐれちまった場所が良かったから、何とか腕一本で生き延びてこれたが、人間がいっつもやたらと追いかけてくるから、オレのオフクロはあれにつかまってやられちゃったのかもしれないなぁ。人間は、船ってやつに乗って海に出て行って、魚を取ってくる。んで、その魚がトロ箱にごっついこと突っ込まれて、まだ夜も明けないうちからいっぱい人がやってきて、魚の取り合いをやるんだ。オレはその隙を狙うってわけ。で、タケルもオレも、つまりその魚をあさっていたわけさ。確かに、あいつの方がゴツい分、取り分は多かったけど、まぁ、オレとしてもその日の飯くらいは何とか稼げてたのさ。ツキジって場所だ。

 タケルのやつは、金を払ってたんじゃないかって? 金って何?
 ま、そんなことはともかくとして、何度も顔を合わせているうちに、情ってのかな、そういうのが湧いてきて、何となく一緒にいてやろうかと思ったわけさ。タケルのやつはオレをツキジから離れた山奥に連れてった。最初は海の匂いがしないのが気に入らなかったんだけどさ、住めば都だね。魚はタケルが運んできてくれるから不自由しないし、いつも家にいるシツジ(竹流のオヤジみたいな人だ)のタカセはオレと割と似たところがあって、無愛想で余計なことをしないのが気に入ってるし、オレには見回らなきゃならない場所がいっぱいあるから忙しいのだ。

 タケルのやつは、巣をいくつか持っている。
 ひとつが、オレとタカセが見張っているヤマトの家。それからオレの愛するツキジの近くにマンションとかいう箱みたいな巣がある。後は、まぁ、メスのいるところだな。そこはえらく遠いらしく、オレも行ったことがない。
 で、たまにツキジのマンションに行きたくなる時は、タケルのやってくるのを待って、赤いフェラーリ(ってのは乗り物だ。人間ってのは自分より速く動く乗り物がないと、移動が遅いのだ。しかし猫も長時間走るのは苦手だ。そういう意味では、長い距離を移動できるということで、人間はいいものを持っている)の前で待つわけさ。タケルはオレのために助手席のドアを開けてくれる。で、オレはこのドライブが結構気に入っている。あるいは、タカセのツレが、ツキジのマンションに掃除に行くので、それについていくこともある。掃除ってのがまたいいんだよ。オレは綺麗好きなので、タカセのツレの後ろをついていく。タカセのツレは、ちょっとおしゃべりでやたらとオレに絡みたがるから、オレは苦手な部分もあるんだが、掃除の腕は絶品だ。だから気に入っている。

 で、その日、オレは久しぶりにツキジのにおいを嗅ぎたくなって、タカセのツレについて行った。
 タケルのやつは、今、オレの弟分と一緒にマンションに住んでいる。弟はマコトと呼ばれているが、人間というよりも、ちょっとオレたち寄りのところがある。どんな所って、説明するのは難しいんだけどさ。
 で、行ってみたら、タケルは留守で、マコトがひとりで帰ってきたもんだから、なんか一人にしとくのは可哀想だなと思って、オレはタカセのツレに、今日はここに泊まってやることにするぜ、って言ったのさ。たまには弟とゆっくり過ごすのも悪くないと思ってね。オレとマコトは、まぁ、仲よくタカセのツレが作っていってくれた夕飯を食って、何となくだらだらとして、ベランダで海の匂いを存分に吸い込んで、ベッドに潜って、丸まって眠った。オレは蒲団の上で、マコトは蒲団の中で。

 そうなんだ、マコトのやつはオレらと同じように丸まって寝るんだな。そういや、タケルと一緒のときは丸まってなかったな。そう、タケルとマコトの関係はちょっと不思議なのさ。親子かな、とも思ったりするんだが、普通父親ってのは子どもの面倒は見ないものだし、随分前のことだけど、オス同士なのに交尾をしていたこともある。タケルのやつは、普段とってもいいやつなんだが、たまにマコトを苛めるからさ、オレとしては気にしてやらなくちゃならないのさ。

 翌日オレは久しぶりにツキジを散歩して、久しぶりに人間に追いかけられるスリルも味わって、で、マコトを待って、一緒にマンションに帰った。
 マコトはまずもって自分で飯を作るという芸当はできないのだが、ツキジで、ちゃんと包丁の入った魚をもらってきて、今日は刺身ってことになったようだ。オレも嬉しいぜ。でも、これもタケルが頼んでおいたものらしいんだよな。
 あんまり甘やかすと、本当に一人で何にもできない子になっちゃうから、少し厳しくした方がいいと、オレは思うんだけども、なんかこいつ見てると、オレが面倒見てやらなくちゃって気になるんだよなぁ。タケルのやつもそう思ってるんだろうけど、ちょっと甘やかし過ぎだぜ。

 でも、マコトのやつ、マンションに帰ったとたんに、電話で呼び出されて、どっかに行っちまった。オレのために刺身を先に出してくれたんで、オレはちょっとだけ食べたけど、一人で食っててもなんかつまらないんで、半分残してマコトの帰りを待った。仕事のようだ。あいつも頑張ってるんだなぁ、何て、オレもちょっと感慨にふけったりしながら待っていたら、随分遅くにマコトは帰ってきて、で、せっかくの刺身だからってんで一緒に食事ってことになった。
 刺身は極上だった。オレが刺身を頬張っている間に、マコトはネギを拙い包丁さばきで切っている。鍋を出して、出汁を取り始めた。

 お、味噌汁くらいは作れるようになったのかよ、兄弟。タケルも多少は教育ってのをやってるんだな。
 って、なんか噴火するような音がしたと思ったら、鍋が噴きこぼれて爆発していた。オレはびっくりして、しばらく鍋と兄弟の顔を見比べていた。
 えーっと、これはどういうことだろう、弟よ。
 どうやら、中に具を突っ込み過ぎて、しかもタケルがこいつのために作っておいた出汁袋をそのまま煮込んでいたらしい。マコトはしばらく呆然と鍋を見ていたが、ため息をひとつ付くと、オレに自分の分の刺身もくれて、ろくに飯も食わずにそのまま寝室に行ってしまった。
 いくら美味いからって、これ以上は食えないぜ、兄弟。
 オレは結局半分以上刺身を残して、マコトを追いかけたけど、マコトのやつは蒲団をかぶって丸まってしまっていた。

 もしかして、これはふて寝か?
 オレはちょっと考える。
 多分、タケルのやつはまたメスのところだろう。あいつがこういう回りくどい手の込んだ言い訳がましい親切(ツキジで魚がもらえるようにしてあったり、ってこと)をするってことは、つまり、後ろめたいってことだ。後ろめたいってことは、やっぱりメスの所に違いない。
 で、オレは、マコトのやつを応援してやろうって思ったわけさ。

 翌朝、いい匂いで目が覚めた。うん、いつ嗅いでもこのタケルの作る飯の匂いはいいもんだ。
 って、あいつ、帰ってきたのか。オレは寝室の床で伸びをして、自分が味噌汁臭いのを堪えて、ダイニングに行った。さすがにこの状態で蒲団の上に寝るのは憚られたんだよな。
 ダイニングに入って、こちらに背を向けて包丁を動かしているタケルを見た。浮気する男の背中は、いじらしくていいもんだなぁ、なんて考えながら。

 あれ、オレ、昨日だいぶ頑張ったんだけど、すっかり綺麗になってるじゃないか。マコトが噴き零した鍋をひっくり返して床に落とし、ついでに床の味噌汁溜まりにダイブしといたんだけどな。
 すっかり片付いている…ってことは、タケルが片づけたってことなのか。びっくりしただろうに、後ろめたい男は文句も言わずに片づけて、働いているわけか。いじらしいなぁ。
 食べ物の匂いの中に、麝香っての? オレも色々学んだんだけど、メスの残り香が微かにしているんだよな。また、キョウトとかいうとこに行ってたんだろ。
 ほんとに、いつかマコトにちゃんと釈明しろよ。

 そこへ、ちょっとびっくりしたような顔をしながら、マコトがダイニングに入ってきた。タケルが振り返り、マコトに何か言っている。まったく普通の顔だ。もちろん、怒ってもいない。ま、怒れる立場じゃないんだろうけどさ。マコトは竹流に何か言われて、不意にオレを見た。
 え、何で? という顔だ。そう、オレが味噌汁まみれなのに気が付いたらしい。
 そんなの決まってるじゃないかよ、兄弟。お前の援護射撃をしてやったのさ。
 オレは得意満面だった。本当は水浴びは好きじゃないんだが、ま、兄弟よ、一緒にこれからひとっ風呂浴びて、昨日の首尾についてゆっくり語り合おうじゃないか。んで、後ろめたさ満杯のタケルの作った極上の味噌汁を味わってくれ。
 あ、オレには昨日の刺身の残りで作った極上猫まんまと、ついでにコニャックも、頼んだぜ、親友。


「お帰り……帰ってくんの、夜じゃなかったっけ?」
「ちょっと心配で帰ってきたんだ。もうすぐ朝飯できるから、先、シャワー浴びて来い。ついでにその味噌汁まみれの猫も、洗ってきてくれないか」
「え?」

(【吾輩は猫なのである】了)             

このトニーは、うちで昔飼っていた茶トラ猫のにゃんた(一般名、本当の名前はイーヴ、と言いました…)がモデルです。
トニーは真のことを弟と思っています。
自分より後で竹流のところに来た(=飼われた?)から。
真は、猫にも保護者感情を抱かせる人だったようです。
一人で何にもできない子、って、そりゃないよ、トニー。
でも本当にその通り。
それにしても、動物視点ってむずかしいなぁ。


↓そのにゃんたの究極の1枚。
もう30年以上前だったか…我が家にやって来てくれて間もなくのころです。
にゃんた
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【真シリーズ・掌編】聖夜の贈りもの 

少し早いですが、ミッキーの国ではすでにクリスマスのイベントは始まっているし、もう今週末から降誕節だし、本当に寒くなってきているし、漫画の雑誌などは1か月早いのが普通だし、放っておくとまた【天の川で恋をして】の時みたいに遅くなってしまうので、早々とクリスマスプレゼントをお送りすることにしました。
(長い解説^^;)

真シリーズの掌編ではありますが、全く関係なく、予備知識皆無で読んでいただくことができます。
ある意味では、『バッカスからの招待状』と言ってもいいかもしれません。
(話題が古すぎて、記事を拾いだせない……scribo ergo sumの夕さんが提唱されていた、タイトルから始めよう:神話バージョン……)

さて、聖夜まであと4週間、今日は不思議なバーにご案内いたしましょう。
よろしければお付き合いください。
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【雑記・あれこれ】limeさんのコメキリ番10000を踏みました! 

このブログを初めて、まる4年ですが、1か月前に、コメント数が1万を超えました半分は私の返信なのですが、それでも5000です。いやもう、ものすごい貴重な時間と優しさを皆様から頂いていたのだなあと実感。小説や雑記へのコメントは本当に、ブログを続ける何よりの励みですし、宝物です。改めて皆様にお礼を!いつも温かい、そして楽しいコメント、本当にありがとうございます!今回は、1万回目にコメントをくださった、大...
(雑記)コメント1万記念。リクエスト・イラスト



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まずはlimeさん、コメント数10000というすごい数に到達、おめでとうございます(*^_^*)
limeさんのセンス、小説への熱意、持続力、コメントへの丁寧なお返事、ブログの読者さんへの思いやり、全てが相まっての10000コメントという偉業、素晴らしいですね。
その10000目のコメントを踏ませていただいたのは、なんと私でした^^;

ものすごく得をした気分です。それをいいことに、我儘なリクエストをさせていただきました。
limeさんちの春樹とリク、そしてうちの真が、どことなく似ているんじゃないかというのが、limeさんと私の共通の印象だったので、ぜひともイラストで確かめていただきたいと……

3人を並べての感想。
≪もしも私が面接官で、3人から誰かひとりを採用するなら≫
リク→時間通りに仕事に来そうにないし、営業に行ったら帰って来そうにないので不採用。
真→人と合わせられそうにないし、変な仕事をさせたら保護者が怒鳴り込んでくるという噂なので不採用。
春樹→まぁ、取りあえず誠実そうだし、雇ってみる……・雇ってみたら、ウザい友人(ごめんなさい!)が押し掛けてきたので、今、再検討中。

リクと春樹はコートを着ているのに、妙に軽装のマコト、じゃなくて真(変換すると、先に『マコト』になっちゃう^^;)。
例のごとく走っているのかしら。
limeさんが書かれている通り、真は昭和の人(あ、でも、中期よりは後期かな??^^;)。この3人が出会うことは時間的にはないのですけれど。
(それ以前に、別のコラボであり得ない時間を乗り越えて会っている人たちがいますけれど^^;)

そして、コメント欄に「猫バスが来そう」というのがあったので、なるほど!と思い、その辺りにイマジネーションを刺激されて、このあまりにも素敵なイラストを物語にしてみました→→追記からどうぞ。
(あ、でも期待はしないでくださいね! 極めてつまらない掌編ですので^^;)

と、その前に、真を切り抜いたイラストを頂きましたので、それをご披露。
逵滂シ点convert_20131206223537
(このイラストの著作権はlimeさんにあります(*^_^*))

この白い猫、もしやもち姫さん??(→→ウゾさんのブログ:百鬼夜行に遅刻しました
いや、レディか……^^;(【真シリーズ・掌編】聖夜の贈りもの
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【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル 

ようやく【掌編】三味線バトル、こと『じゃわめぐ』をアップいたします。
真シリーズを御存じない方でも、何の問題もなく、音楽小説として読んでいただけると思います。

これはもともと、limeさんから頂いたイラストのために書いた作品『幻の猫』が発端になったものです。
その中で、八少女夕さんのscribo ergo sumの中の人気作品『大道芸人たち』のArtistas callejerosの4人にご登場いただいたのですが、真が三味線で彼らと共演したのです(その時は稔はギター)。
そして、別れる時、稔と真が今度は三味線2丁で、と再会を約していたのですね。

scriviamo!2014用にとも思っていたのですが、『大道芸人たち』は人気作品だしきっと登場回数も多いだろうから、あえて『樋水龍神縁起』を選んだのでした。
なので、これは別枠としてお楽しみくださいませ。

三味線をメインにした作品というのは、実はものすごく書きにくいのです。
でも、このたび、ちょっと気分が乗っていたので書いてみることにしました。
ところが書き始めてみると、思ったよりも難産で、結局ほとんど書き直しました。
理由は、最初真視点で書いたのですけれど、すっきりしなくて、第三者を出してみたからなのです。
お楽しみいただけると嬉しいです。
ちなみに、予定外に長くてすみません^^; 前後編に分けようかとも思ったのですが、一気に読んでいただいた方がいいなぁと。

【登場人物】
相川真:この掌編では21歳になったところ。時系列では【清明の雪】の少し前です。大学生でロケット工学の勉強中。大学受験後の春休みに、家庭教師である大和竹流と彼の祖国・イタリアを旅している時、Artistas callejerosのメンバーに会う。
祖父・長一郎の手ほどきで太棹三味線を弾く。祖母・奏重は民謡歌手。
19歳の秋に故郷・北海道で崖から転落、逆行性健忘と、覚えていない期間に自分が何かとんでもないことをしていたのかもしれないという恐怖に苦しんでいる。
安田稔:詳しくはこちらのページをどうぞ→『大道芸人たち』あらすじと登場人物
成田美南:東京の清掃会社で働く女性、22歳。津軽・五所川原出身。もともと民謡歌手を目指していた。

ちなみに時代とかは気にしないでください。
実は大幅にずれているので(真の時代が古い)、あくまでもお話としてお楽しみいただければと思います。
追記に三味線豆知識があります(*^_^*)




その店は、東武浅草駅から浅草寺に歩くわずか数百メートルの道の途中にあった。
成田美南は、重く黒ずんだ木の扉の前に立っていた。扉には、重々しく透明度の低い硝子がはめ込まれていて、その向こうで灯りと闇のコントラストが揺らめいている。
重い扉は防音の役割を中途半端に担っているが、電車の音が途切れると、粉雪がちらつく冷たい空気の中、店内の喧騒がじわりと伝わってきた。

美南は暗い青色のオーバーコートのフードを頭から外した。数年前に青森の五所川原から上京した時に持って来て以来、一度も買い替えたことのないオーバーコートだ。田舎の街で購入した時からすでに野暮ったいデザインだったものが、今では既に博物館に並んでも良さそうなものになっている。
粉雪は時折風と共に扉に吹き付け、厚いガラスに当たって砕ける。

フードを外した耳を掠める風の中に、微かに伸びのいい女性の声が混じる。太鼓を叩くような響きが、扉の向こうから直接振動として胸に伝わってくる。
慣れ親しんだ太棹の、腹に食い込むような津軽の節だ。
美南は目を閉じた。扉の外からでも美南には分かる。よされの節だ。

一気に津軽の古い家の中に引き戻される。じっちゃの家の板敷の囲炉裏の間。爆ぜる炭の音。火に掛けられたけの汁の匂い。そしてじっちゃの撥の音。
みなみ、うたっこ、じょんずだぁのぉ。
じっちゃの声が風に巻かれて、東京の空高くへ消えていく。

「入らないの?」
美南ははっと顔を上げた。
霞む店内の灯りを薄暗く写し取った硝子に、美南の影と重なるように別の人間の影が映る。
「かに。ぼへらっ……」
美南は言葉を止めた。
「あ、いえ、すみません。ぼんやりしてて」
振り返ると、美南の後ろにギターを担いだ男が立っていた。美南よりは随分と年上のようだが、まだ若い。真っ黒で硬い髪に焦げ茶色の瞳、それに見ただけでちょっと人好きのする朗らかな気配。
男は軽やかな笑顔で、美南のために重い扉を開けてくれた。

……やっぱりすごい。
扉が開いた瞬間、美南は耳と目を奪われた。いや、扉を開ける前からわかっていたのだ。
比較的広い店内だが、カウンターもオープンな座敷にあるテーブル席も、ほとんど満席だった。奥に、一段高くなった小さな舞台がある。
その上で、どちらかというと小柄で細身、ジーンズ姿の若い男が三味線を叩き、年配で恰幅のいいスーツ姿の女性がよされ節を唄っていた。

唄は止め節に入ろうとしていた。一音が長く伸ばされると、若い男が間合いを測るように唄い手の女性の揺れる背中を見つめる。微かに笑みを浮かべているようにも見えるが、目と耳を研ぎ澄ませているのが分かる。
唄い手を見つめたまま、撥を打つ。重く叩きつける後撥に、押さえるような弱音の前撥、その節に誘われるように声が三味に絡み付く。三味も、応えるように唄に絡み付く。

じっちゃもいつもあんなふうに唄い手の背中を見ていた。
すごい、と思った。だが、美南も幾度も出場した大会の上位入賞者たちの上手さとは違う。唄も、三味線もだ。声には渋みがあり、地鳴りのようなうねりがある。テクニカルなものは何もないのに、津軽のリズムがある。泥臭く、腹に響く。唄い手の渋く重い響きに、三味線は見事に合わせている。

唄い手が最後の音を畳み込むと、店内からはやんやと拍手が起こった。唄い手の女性は深々と頭を下げる。
三味線を叩いていた若い男は唄を追いかけるようにして手を止め、唐突に今までと全く違う顔をした。ほっとしたような、子どもの様な柔和な顔だった。
だがその顔が、一瞬先に表情を変えた。

彼は、あれ、というような少し驚いた顔をしていた。
その視線の先に自分がいることに美南も驚く。
いや、彼が見ているのは美南ではない。美南の後ろに立っているギターを担いだ男だ。振り返るとギター男も軽く手を挙げて、舞台の上の男に挨拶をしていた。
唄い手の女性は店のステージから降りると客席に戻った。この店の専属歌手というわけではなく、客だったようだ。それなのにあの堂々とした歌いっぷりはどうしたものだろう。

三味線の男は三味線立てに楽器を戻し、舞台を降りると唄い手と言葉を交わした。
年配の、小柄でずんぐりした半被姿の男が、彼から撥を受け取る。ぽんぽんと彼の腕を褒めるように叩くと、マイクを持って話し始めた。この半被の男がステージを仕切っているのだろう。
「いんや、もう、じょんずだぁなぁ。どんだべ」
半被姿の男が問いかけると、客たちが改めて唄い手と三味線の男に向けて手を叩く。
半被の男は客席を見回し、また次の誰かに目を付けたのだろうか、やはり客らしい誰かをステージに上げた。
三味線の男は、そのまま真っ直ぐ美南とギター男の方へ歩いてきた。

「よっ。まさかどんぴしゃで会えるとは思わなかったよ」
「ミノルさん。いつ日本に?」
既に満席と思われる店内に、ミノルと呼ばれたギターを担いだ男と美南の席はなさそうだったが、店の従業員らしき男が近づいてきて、三味線の男に呼びかけた。
「マコトちゃん、知り合いか?」
「マコトちゃん」は頷く。
近くで見ると、髪の色は染めているかのように明るく、目は右目だけが碧が混じったように幾分明るかった。「ミノルさん」と「マコトちゃん」は背の高さもそれほど変わらないので、外見はまるで違うのに、兄弟のように見えた。

従業員は直ぐにカウンター席の客を詰めさせて、三人のためのスペースを作ってくれた。客は誰しも嫌な顔をせずに椅子を少しずつずらしてくれる。ただの居酒屋の客同士ではない、皆、同種の人間、あるいは同郷者だと感じているのだ。
「いえ、あの、私は……」
美南は連れではないことを言おうとしたが、ミノルさんに止められた。マコトちゃんがミノルさんに問いかけるような顔をする。

「あ、えーっと、こっちは……」
ミノルさんが言葉に詰まって、美南に目配せをする。
「あ、あの、美南といいます」
「そ、ミナミちゃん」
「ミノルさんの恋人ですか?」
「いや、今店の前で知り合った」
マコトちゃんはちょっと驚いたような顔をしたものの、それ以上は何も聞かなかった。

ふたりは物凄く親しい友人同士というわけではないようだ。差しさわりのない程度に近況を確認し合いながら、お互いの情報を探り合っているように見えた。
色々あったよ、とミノルさんは前置きをした。色々あったけれど俺は結構頑張っているよ、というように聞こえた。マコトちゃんは頷いた。
マコトちゃんも、自分も色々あって、と言った。何かに深く耐えているような声だった。今度はミノルさんが、慰めるような、励ますような気配で頷いた。
ステージでは、さっきの半被の男性の伴奏で、別の客がタント節を唄い始めていた。

従業員がおごりだと言って、真鱈の昆布〆め、ばっけみそ、ニシンの切り込み、ホッケのすり身汁、そしてじょっぱりを運んできた。どれも懐かしい津軽の料理、そして酒だ。
ミノルさんの顔が明るくなる。美南ちゃん、遠慮せずに食いなよ、と勧めてくれる。

会話の中から分かったのは、ミノルさんは大道芸人で主にヨーロッパで4人組で活躍しているということ、今回は野暮用で日本に戻ってきたこと、またすぐにヨーロッパに戻ること、それだけだった。

マコトちゃんの方もミノルさんと同じように、自分のことを多くは話さなかった。ただ、聞かれるとぽつぽつと言葉を返した。大学生でロケット工学の研究をしていること、時間は比較的自由になるのでいくつかバイトを掛け持ちしていること、去年の秋に大きな事故に遭って今はまだ少しリハビリが必要なのだと言った。
身体自体はそんなに不自由ではないところをみると、リハビリというのは少し別のニュアンスがあるように聞こえた。

「それで、ミナミちゃんは?」
いきなり話を振られて美南は「え?」と声を出してしまった。ミノルさんに加えてマコトちゃんも顔を上げてじっと美南を見ている。
「ミナミちゃんてさ、青森の人?」
「ど、どうしてですか?」
「何となく、だけど」

その時、またステージを仕切っている男性がマコトちゃんのところにやって来た。
「マコトちゃん、リクエストだべ。小原、頼むわ」
今度はさっきとは違う女性がステージで彼を待っていた。ジーンズ姿の小柄で若い女性だ。マコトちゃんはちょっとミノルさんの顔を見て、それからゆっくりと立ち上がった。
「あいつ、意外に女にモテるんだなぁ」
ミノルさんが呟くと、空になったグラスにじょっぱりを継ぎ足しながら従業員が笑った。
「大概は年寄だけど」
ミノルさんは違いない、と言って笑った。素敵な笑顔だと思った。

「ここは誰でも演奏できるの?」
ミノルさんが従業員に問いかける。
「若手演奏家の修業の場ですよ。店長が気に入ったら雇ってます。今日のステージの第一部は終わったんで、今はああして客に遊ばせてるんです。客って言ってもびっくりするような演奏家が来たりもしますからね」
「彼も?」
「マコトちゃんはお祖母さんが民謡歌手なんですよ。小学生の時からお祖母さんの唄付けをしていたそうですし、高校生の時からここで弾いてた。店長がラブコール送っているんですが、大学も忙しそうで、まだ専属で雇われちゃくれないみたいです。でも若い唄い手も彼を知っていますからね、ああやって彼に三味線を頼みたがるんですよ。三味線が上手くても、あれだけの唄付けのできる若手はそういませんから」
従業員が言葉だけは標準語、イントネーションは見事に東北弁で話した。言葉にも微かに濁音が残る。

ステージでは、マコトちゃんが伴奏者を待っていた女性に話しかけてから、隅の方に置いてある丸い木の椅子に座った。本数を確認していたのだろう。三本の糸を二上がりから本調子に調弦している。唄い手はマコトちゃんを振り返り、顔を上げた彼に小さく会釈をした。
美南と同じ、二十歳過ぎくらいだろうか。小柄で控えめな印象の女性だった。
マコトちゃんが目を閉じて息をひとつ吐き、改めて糸合わせをして、前弾きを始める。

短めの前弾きだった。だが、美南はその撥の動きに釘付けになっていた。
三の糸から一の糸へ、四と六の勘所を滑るように移動する指。その指先から、不思議な色気が滲み出る。
小原節の一の糸は、じょんから節とは少し印象が違う。太く力強いのは同じなのだが、情けも何もかも断ち切るような女の潔さ、その中に潜めていた色気が、一の糸から零れ出す。
男の人なのに本当に不思議だと美南は思って、マコトちゃんの手をじっと見つめた。

じっちゃとよく似た手つきだった。後撥の柔らかな叩きも、前撥が三味線の胴の枠近くまでくっと近付き、親指を滑らせるようにして音を抑えるのも、そしてしなやかに、一方で力強く竿を滑り勘所を押さえていく左手も。
上手い、というレベルの問題ではない。この人は唄い手をよく知っている。
そして、弾き手によってわずかに異なる、リズムをとるタイミングまでもが、じっちゃとよく似ていた。

前弾きから太鼓の部分に差し掛かる時、マコトちゃんが顔を上げて唄い手を見た。小柄で穏やかな顔つきの女性は、恋人を見るようにマコトちゃんの三味線を振り返る。
タイミングを確かめ合った後は、女性は一歩前に出て、深く頭を下げた。店の中の客たちはこの子を知っているようだった。待っどったと一段大きな拍手が上がる。人気者なのだろう。太鼓を叩くのは、半被の男だ。唄が始まった。
美南は思わずその女性の唄い手の声に震えた。

美南は、幼いころに三味線を弾く祖父の影響で唄を始めた。祖父も両親も小さな娘の唄の才能を喜んだ。美南は大好きな祖父が三味線を合わせてくれるのが嬉しくて、レコードを聴いては唄を覚えた。古いレコードからじりじりという雑音を押しのけて胸に訴えかける古い時代の津軽の唄い手たちの声が大好きで、岩木の山が見えるリンゴ畑が練習場所で、山からの風と雪解けの水、咲きそろうリンゴの花が先生だった。

小学生の時には大会にも出るようになり、いつも優勝もしくは準優勝を勝ち取った。中学生の時には民謡歌手になろうと決めていた。自分にとってその未来は必然だった。
周囲には同じように民謡や三味線をやっている子はいたが、それで身を立てようという者はいなかった。それだけで食べていけるのはごく一部の人間だと分かっていたからだ。
中学を卒業する前に、祖父が農作業中の事故で亡くなった。悲しくて胸が張り裂けそうだったけれど、それからは祖父のためにもっと頑張ろうと思った。

だが、高校生になり将来に向けて本当の実力が試される頃、五大民謡大会で優勝するようになったのは、美南ではなく、時々大会で顔を合わせていたひとつ年下の子だった。これまで入賞することも数えるほどだった彼女が優勝するようになったのは、名のある先生についたからだと聞いていた。
それからは何度大会に出ても勝てなくなった。自分の唄と上位入賞者たちの唄のどこに違いがあるのか、まるで分らなかった。違うのは後ろ盾があるかないかということだけだ。
結局はそういうことが大事なのだと思い知って、この世界に失望した。

唄はきっぱりと辞めてみたものの、大学へ行く準備はしていなかったし、地元に就職先はなかった。美南は地元の多くの若者と同じように、東京に出た。
東京には青森では考えられないような多様な仕事があり、先々のことは考えられなくても、少なくともその時を暮していくことができた。
ついこの間、本屋の店員を辞めて、小さな清掃会社の社員になった。気が付くと東京に出て二年が過ぎていた。冬になると少しだけ昔の傷が痛んだ。

本当は分かっていた。美南には後ろ盾となる先生もいなかったけれど、何よりも華やかさがなかった。美南を打ち負かしたあの子には外見の可愛らしさと同時に、声の中に華があった。艶やかで艶やかだった。声は山を駆けあがる風のように伸びやかだった。教えられたことを忠実に繰り返す素直さもあった。
美南の場合は結局、ちょっと唄の上手い子どもが、成長してみたらそうでもなかったというだけのことだったのだ。

今、目の前で唄う若い女性には、あの子と同じ伸びやかさ、艶やかさがあった。ちゃんと勉強もしているのだろう。きちんとした節で、聞いていると納まりがよく心地いい。
昔を思い出す唄は聴きたくないと思っていたのに、この頃仕事に疲れていたのかもしれない。会社の先輩が青森の人で、この民謡酒場のことを教えてくれた。
本当はあの扉の前で引き返そうしていたのだ。
でも、ミノルさんが扉を開けてくれた。

マコトちゃんが唄い手の背中を見つめ、その唄に合わせながら、撥のリズムを時折僅かにずらしている。初めての相手の唄に合わせるのは大変だろうけれど、そういうことに慣れているのか、あるいは敏感すぎる感性で自然に反応しているのか。
それとも、知らぬうちに自分のペースに唄い手を引き込んでしまうのか。
誰かの心の中に入り込んで、その心の一番大事なものをぎゅっと掴むような三味の音。
唄を引き立て、唄い手の声を引き出す魔法のような節と掛け声。
いつの間にか、声を出さないまま、咽喉の奥で唄っていた。

「あいつ、すごいな」
不意にミノルさんが呟く。美南ははっとして顔を上げた。ミノルさんを見ると、これまでとは違う顔だった。ミノルさんの中で火がつくのが見えた気がした。
唄の途中から美南の胸はどんどんと音を立てるように震えていた。三味線の皮を叩く音が響くからなのか、あるいはずっと昔に置き忘れてきたものが暴れはじめたのか。
隣でミノルさんが何かを問いかけるように美南を見ていた。

唄が終わって、喝采の中、マコトちゃんが半被の男性と何か言葉を交わした後、ミノルさんと美南のいるカウンターにやって来た。そしてミノルさんに撥と指摺りを渡して、ほんの少し微笑んだように見えた。
二人は目を見合わせただけだった。
「店長が田酒をおごってくれるって」
従業員の男がにこっと笑った。
「本当に?」
ミノルさんの声が弾んだ。

一緒に六段の三段目まで弾いて……という打ち合わせの声が聞こえた。
マコトちゃんが自分が使っていた三味線をミノルさんに渡す。トチが見事に巻いていて、照明で銀に照り返している。三と四の勘所は特に、摺れて光の跳ね返しが強い。マコトちゃんは別の三味線を手に取る。
二人は並んだ丸い木の椅子に座った。
客たちはおや、という顔をしていた。
ミノルさんも三味線を弾くのだ。美南はドキドキした。

六段やあどはだりはピアノのバイブルの様な基礎曲ではあるが、流派が違ってもほぼ同じ曲の流れなので初めて顔を合わせた同士でも合奏ができる。先生が十人いれば、同じじょんからの節でも、その中身は十人とも違う。これらの基礎曲も少しずつ細部が違うのだが、長さは同じようにしてあるので合わせることは可能なのだ。
基礎的といっても、簡単という意味ではない。

それは二人が顔を見合わせて掛け声を掛け合い、弾きはじめた時に明らかになった。
聞きなれた六段のはずなのに、客たちも「お」という気配で箸やグラスを止める。
美南はステージの上の二人に釘付けになった。
伴奏と独奏では全く印象が違うマコトちゃんの手は、じょんからの四枚撥のリズムも手伝って素朴で力強かった。いや、小原とじょんからの違いなのかもしれない。一方、ミノルさんの手はまた少しイメージが異なっていた。晴れやかで色々なニュアンスに読み取れた。

二人は一段目ではまだ互いのリズムを測り合っているよう見えた。
だが、二段目で再び掛け声を重ねた後は、互いの遠慮は不要になった。一瞬、また目と目を合わせて、二人の音は瞬間に主導権を譲り合いながらも、二重螺旋を描くように絡まり合った。音と音が叩きつけ合うように、しかし不意に優しさを滲ませて、絡まりながらどんどん高みに駆け上がる。
穏やかそうに見えるマコトちゃんの身体の中に熱い火の玉のようなものがある。同じように、朗らかそうに見えていたミノルさんの中でも、熱が高まるのが見て取れる。
「六段だべ?」
隣の男が感心したように呟いた。
美南はカウンターの上に乗せた右手をきゅっと握りしめた。

三段目終わりの捨て撥の勢いをそのまま引き継いで、始めに曲弾きを始めたのはマコトちゃんだった。ミノルさんは撥を止める。
一の糸は地鳴りのように重く、地面を踏みしめるようだった。心の内に渦巻く暗いものを断ち切るように、一音一音、撥に自らの魂を篭めるように皮を打つ。低い勘所から高い勘所へ、音は確実に北国の大地を踏み鳴らしていく。
本当に、唄付けの時とはまるで別人だ。音は強いが激しいというわけではない。むしろ大人しいくらいだ。でも物足りなくない。
「マコトちゃんの曲弾き、久しぶりだなぁ」
「いんや、いつもの彼じゃないべ」

そういうことだ。美南は、マコトちゃんの隣に座っているミノルさんを見る。ミノルさんは三味線を構えたままじっと目を閉じている。全く動かない。静かなのに、ふつふつと身体の内で熱情が湧き出していくのが見て取れる。
弾いていないけれど、ミノルさんも心で弾いている。

三味線には吹雪の音が混じる。足元から舞い上がり吹き付ける地吹雪の唸りだ。
一の糸から二の糸へ、三の糸へ、三と四の勘所を行き来する手は、徐々に聴く者の心までも震えさせる。三味線が鳴っている。三本の糸が共鳴する。津軽の言葉そのもののようにリズムが暴れる。暴れながら風になり、腹に食らいついてくる。
派手ではないのに、音は豊かだった。豊かだけれど、まっ白だった。

岩木お山の雄大な裾野、山の上から見下ろした津軽平野、雪で真っ白になった大地、北の果てに続く海岸線、冬に山から吹き降ろす山背風、リンゴ畑の中を惑う風、川を舐めていく春の雨、川面に散り積もる桜の花びら。
北国の自然が全て編みこまれたような二の糸、三の糸。
全てが確かに北国のリズムだった。生まれ育った津軽の大地が今、美南を包んでいた。

曲の半ばに、三の糸がふっと心を緩ませるように優しくなった。
美南は目を閉じた。冬の夜。しんしんと屋根に雪が降る音がする。降り積もり、包み込み、何かを守るように優しく語りかける。雪の子守歌だ。
北の国に生きる人の心、そしてマコトちゃんが心に秘めている想いが、自然の景色の中に浮かび上がった。真っ白で行き場を探している。答えのない世界に向かって呼びかけている。その言葉にならない想いが、直接心の深い場所に降りしきる。

十六の勘所でさらにぐっと弱音が増した。店中が静まり返っていた。さわりが響いて店中を埋め尽くしている。心地よく、震えるような反響。三本の糸が鳴り響き合い、震えながら、やがて無音になる。
雪が降り積もっていく。これは雪の音だ。
誰もが息をすることも憚られ、マコトちゃんが糸をはじく薬指をじっと見つめる。指は動いているはずなのに、止まっているようにも見えた。
あずましい。
美南はいつの間にか涙をこぼしていた。

無音の響きの中で、魂が微かに揺れていた。目を閉じると、深い雪の中、まっ白の景色の中で、暖かい手が身体を包み込んでくれる。優しさの中に深く傷ついた心が見える。その心を自らなだめるように音が傷を包み込む。
ミノルさんがふと目を開けて、労わるような気配で隣のマコトちゃんを見た。壊れそうなものを抱き止めるような、そして手を引いて解放しようとするような気配で。

息をのんだ客たちが拍手を送るのを忘れているうちに、マコトちゃんの指が竿の上、低音の勘所へ上がっていった。深く沈んだ哀切の先に、また扉を開こうとするかのように、歩みを止めない。まるきり先の見えない、どこまでも続く雪の中でも、夢中になって足を前へ進めようとする気持ちを、何とか先で待つ人に届けようとしている。
解放されたように唸る左手の動きに合わせるように、店内からは大喝采が起こった。うねるような拍手はしばらくやまなかった。

ミノルさんは喝采の中で糸合わせをしていた。マコトちゃんがミノルさんに節を譲って、ほっとしたように息を吐いた。
美南はミノルさんの手に釘付けになった。この人も半端じゃない。糸合わせだけでそれが分かる。マコトちゃんとはまた違う手だが、撥付けはやはり確実だった。弾くように強く打ちつける後撥、皮と糸に触れるように音を落とす前撥。
ミノルさんの演奏が始まると、客たちはまた静まり返り動かなくなった。

ミノルさんの撥も強く叩きつけているようでいて、その音は恐ろしくはなかった。胸に響くけれど、押し付けるような音ではなかった。
津軽の音というよりも、もっと深く豊かだと感じた。この人は沢山のものを見て、感じて、惑いながら、常に前を見て、何かを探しているのだと思った。
一の糸を高音から低音へ戻し、三と四の勘所で三本の糸を遊ばせる時に、それは美南の胸に直接響いてきた。

時には演歌の様に甘く切なく響き、ブルースのように泥臭く腹に響きを残し、時にはまるでジャズの演奏のように自由に踊りながら音を遊び、西洋の音楽のように音を確実に落とし、それでいて、どんな分野にも属さないミノルさん自身の音の流れを作り上げていく。
これはミノルさんの音だ。
ミノルさんの音には、ミノルさんの音だけで終わらない何かがある。

高い勘所へ、左手の人差し指がきっちりと角度をつけて竿を滑り降り、また滑らかに低い勘所へ戻る。優しくて綺麗な音だ。ミノルさんの音は大元が優しい。
その優しさは十六の勘所でちりちりとなる音の中に、泣きたくなるほどに温かく感じた。
マコトちゃんに負けないくらいにさわりが反響する。三本の糸が静かに震えて、小鳥が囀るような晴れやかな春が見える。

マコトちゃんの十六が降り積もって真っ白になっていく雪の世界なら、ミノルさんの十六は雪を解かす春の風のようだった。
マコトちゃんの音が、自らの内側を見つめ、蘇る想い出の景色を紡ぎ、やがて真っ白に染まっていく道程ならば、ミノルさんの音はそこから光を捜して、共に歩く誰かの手を探り、走り出す勇気だ。

すごい。二人の音は一緒に弾いていた時も、こうして独奏になっても、共鳴し合っている。
三味線を抱えたまま目を閉じていたマコトちゃんが、ふと目を開けて、じっとミノルさんの手元を見ている。ミノルさんの音から零れ出す何かを、ひとつたりとも逃すまいと願っているかのように。

弾き合っている者同士にしか分からない魂の交流があるのだ。言葉を交わす中では足りなかった想いを、二人は今、一節一節で語り合っている。
じっちゃと美南にもそれがあったように。
みなみ、うたっこ、じょんずだぁなぁ。じっちゃのためさ、うだっでけね。

やがて低い勘所へ指が移動しながら、撥が華やかにトレモロを奏で始めた。なんて綺麗なんだろう。三味線のトレモロが珍しいテクニックというわけではないのに、ミノルさんのそれはギターの音のように、よりたくさんの音が混じって聞こえた。
春、明るい海。光で七色に染まる海の色のように、共鳴し合いながら揺れさざめく。
美南は心が前に向かって坂道を登って行くような晴れやかな昂揚感を覚えた。
この先に何があるのだろう。それを見てみたいと思った。

マコトちゃんの演奏が「問い」なら、ミノルさんの演奏は「答え」のようだ。
確かな結論ではないけれど、答えにたどり着く道標のように感じられた。
マコトちゃんの節が懐かしい過去、自らの礎への回帰なら、ミノルさんの節は未来へ続く道のようだ。この坂を登れば見える景色を待ち望むことができる。

二人は今、弾いているミノルさんも傍で目を閉じて聴き入っているマコトちゃんも、完全に一体になっていた。美南の心もそこに一緒にあった。
じゃわめぐ。
津軽の言葉で、震える、心騒ぐ、ぞくぞくする、というような意味だ。この意味の深さはこの言葉以外で表すことはできない。
その言葉は、今この瞬間のためにあった。

まだ道は繋がっている。まだ歩ける。隣には大事な人がいるのだから。
ミノルさんの音がどんどん駆け上り、フィナーレに向かって三味線が大きくうねるように鳴った。それと同時に店内の客も身体を揺らすように、彼の音を盛り上げるように大喝采を送る。
だが二人の演奏者は、もうすでに別のところへ進もうとしていた。目と目を見合わせ、呼吸を合わせて掛け声を交す。余韻を断ち切るように二重奏に戻って、拍手を押しのけるように一の糸を大きく響かせ、あどはだりの冒頭を演奏し始めた。

と思うと、いたずらを仕掛けるようにミノルさんの手が止まった。
マコトちゃんは弾き続けたままミノルさんの顔を見る。ミノルさんは、さぁ来い、という顔だ。マコトちゃんは少し微笑んだように見えた。
抑えていたテクニックを披露するように一の糸を薬指で擦り、音を縮めたり延ばしたりしてうねりを作る。
ミノルさんが頷いてマコトちゃんの音に重ねる。
マコトちゃんが今度は手を止める。

ミノルさんはマコトちゃんの手を真似しながらも自分の音へと変えていき、そのまま弾き続けて、三と四の勘所へ上がり、三本の糸を最大限に共鳴させながら、時に一の糸を叩き、時に三の糸を掬い弾き、撥を躍らせる。
今度はマコトちゃんがその音に重ねる。ミノルさんの手を忠実に真似て、そのまま自分の音へと引き継ぎ、今度は高い勘所へ滑り降りながら、長唄の手のような聞かせどころを作る。
ちらっと顔を上げてミノルさんを見る。
ミノルさんはよしきた、という顔をして、マコトちゃんを真似る。次はマコトちゃんが手を止める。

自由に、旧節、中節、新節の節回しを使い分けながら、お互い相手が次に何を仕掛けてくるか楽しんでいる。
二人の独奏の時には静まり返っていた店内も、いまは大盛り上がりだった。二人の演奏者の気分を盛り上げるように、一方に拍手を贈れば、もう一方がライバル心を燃やすのを確かめ、更に重ねてより大きな拍手を贈る。
それを繰り返しながら聴衆は一体となってこの三味線バトルを遊び始めた。
美南もいつの間にか一緒になって手を叩いていた。

三の糸を擦るくぃーんくぃーんという音をマコトちゃんが響かせると、ミノルさんが真似ながら、今度はより離れた勘所同士で擦りを見せる。マコトちゃんが重ねて、またより長く、更に長く、最後は二人で崩れそうになるまで擦りを見せる。
客たちは大受けして大喝采を贈る。
次はミノルさんのさっきのトレモロをマコトちゃんが真似る。
ミノルさんはにやっと笑って得意のトレモロを重ねる。マコトちゃんが手を真似るようについて行く。お互い譲らないというように音を重ねていく。

十六の聞かせどころでちりちりという音を二人が重ねた時は、もう店内の全ての客の心は、完全に二人の競演に魂を持っていかれていた。
ひとりの十六でもあれだけさわりが響いていたのだ。今や二丁の三味線、六本の糸が共鳴して、わ~んわ~んと空気を振動させていた。二人はお互いの手を見ながら完全に合わせていた。
すごい、ぴったりだ。これほど長く続けていても一部の狂いもない。
まっ白な雪原の風景と七色に輝く凪いだ海。重なり合い、ひとつの世界を生み出す。
息をのんで見守っていた客たちは、もう我慢がならないかのように惜しみなく拍手を贈った。

それを見て、二人のバトルは派手やかに左手で竿を駆けあがりながら、乱れ弾きに入った。音を折り重ねて大仰なまでにミノルさんが三味線を揺らして音を反響させると、ずっと綺麗な姿勢を崩さなかったマコトちゃんが、ちょっとだけ遠慮がちにミノルさんを真似た。
笑いを誘っておいて、ミノルさんとマコトちゃんは顔を見合わせた。
同時にはっと掛け声を合わせて一の糸を叩き、瞬間の無音を作った後、弱音で三・四の勘所でちりてれを繰り返す。その音を滑らかに、お互いの息を確かめ合いながら、徐々に徐々に大きくしていく。
客は立ち上がっていた。美南も立ち上がった。

まるで違う音色の二人が、互いにちょっとライバル心を燃やし、一方でお互いを尊重し、音を認め合いながら次の音を探していく。その過程を見守っていた美南も客たちにも、あるいは演奏家たちにも、一緒に音を作り上げたような満足感が漂っていた。
ここでは客席にいる者も確かに音作りに参加していた。
大会や演奏会のように、ステージと客席の間の垣根はなかった。
美南の唄を聴いていたじっちゃがそこに一緒にいたように。

忘れていた。こんなふうに唄えばよかったんだ。
大好きな唄を諦められるはずはなかったのに。いや、ただ唄を、民謡を楽しめばよかったのだ。大会で勝ったり負けたりするのは一つの出来事に過ぎない。ここにいて、この場所で、今この時に、誰かと一緒に音を確かめ合いながら、響かせ合いながら、心を通わせればよかっただけなのだ。
もう一度唄いたい。
もう一度三味の音に合わせて、このじゃわめぐ心を唄に籠めてみたい。
美南は今、心から強く願っていた。

二人が手を繋いで、というよりもミノルさんがマコトちゃんの手を無理やり掴むようにして、二人で手を高く上げて挨拶をする。
当然のように客たちはアンコールを要求した。美南も嬉しくなって手を叩いた。
一緒に来たわけではなかったけれど、まるでもう十年も前から知っている人たちのようだった。

ステージ上ではミノルさんがマコトちゃんにそっと耳打ちする。
マコトちゃんがちらりとこちらを見て頷く。客たちが二人の気配に、アンコールを期待して静まり返る。
その時、ミノルさんが美南を見た。

美南を手招きしている?
美南は自分じゃないのかもしれないと辺りを振り返ったが、他にミノルさんの視線の先にいる者はない。
連れだから演奏家仲間だろうと思ったらしいカウンターの隣の客が、美南の腕をそっと押した。半被の男が美南をステージに手招きする。まだ昂揚感の余韻でわけのわからないうちに、ステージに押し上げられていた。

「何本?」
「あの……」
「小原を口ずさんでたでしょ。じょんからはいけるよね」
「え……でも……」
「大丈夫。僕らが支えるから」
マコトちゃんはもう座っていた。もうほとんど疑いのないような顔で美南に問いかける。
「五本? 六本?」
マコトちゃんって、意外に押しが強いんだと思った時には言葉が出ていた。
「……六本で」

ミノルさんは頷き、マコトちゃんの隣に座る。二人は顔を見合わせて、打ち合わせもなく互いの手を見て、頷き合う。ミノルさんが顔を上げて、美南に優しく微笑む。
糸を合わせる音。さわりを確かめ、もう一度顔を見合わせ、糸合わせを始める。三の糸の音をもう一度顔を見合わせて確かめた後は、捨て撥をせずに十の勘所に左手を置いた。
竹山の手だ。一の糸を合わせた後は、短いけれども見事に絡まり合う乱れ弾きで十六の勘所にまで持っていき、先に低い勘所へ辿り着いたマコトちゃんがミノルさんを待ち、やがて二人で申し合わせたように美南を見た。
二人は一枚岩のようにぴったりと息を合わせていた。
まるで一本の三味線の音に聞こえる。いや、今はマコトちゃんの節にミノルさんが合わせている。

みなみ、じっちゃにきがせでけね。

美南は二人に向かって頭を下げた。顔を上げた時、二人とも美南を見ていた。
一緒にやろう、と言っていた。心が想うままに、ただ君の心に唄を乗せてくれたらいいんだよ、あとは僕らがついて行くから、と。
美南は客席を振り返った。
客たちはすでに、ミノルさんとマコトちゃんが作った音を楽しむという世界に浸っていた。その余韻のままに、温かい視線を美南に向けていた。
上手下手はいいんだよ。一緒に唄を、津軽の節を楽しもうと言っていた。

「けっぱれ」
誰かの声がした。美南は答える代りに微笑んだ。微笑んでからふと気が付いた。
ここ数年、私はこんなふうに笑ったっけ?
三味線は重なって新節の太鼓の部分に入る。
半被の男が太鼓を叩き始めた。客たちも太鼓を真似て、机や手を叩いていた。
美南は深く、客席に向かってお辞儀をした。再び顔を上げた時、美南の前には大きな海が見えた。春を迎えた津軽の海。岩木お山の上から見た津軽平野の霞む緑の大地。
そして、まだ見たことがない遥か遠い国の、あるいは遥か遠い未来の海が。

今日、粉雪の中で出会った人が開けてくれた扉の向こうには道があった。
どこへ向かっているのか、今はまだわからないけれど、胸を張ってこの道を歩いていこう。





さて、物語には追記があります(*^_^*)
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Category: ☆真シリーズ・掌編

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【お誕生日記念掌編】君のために 

お誕生日、記念掌編です。いわゆるサプライズですが、こんなことしてもらったら、結構嬉しい?
けれど……この二人の組み合わせではどうなのよ、って気がしますね。
そして、真のお仕事の一端も少し覗いてみていただけるようになっている、かも?
(いや、どんな仕事してるんだって話になるかも^^;)
そして、かなり珍しい、真の一人称です(*^_^*)(二度とないかもしれない)




 ここのところずっとすれ違っている。
 などと言うと美和ちゃんがあれこれ深読みして喜ぶので、事務所ではそんな話をすることはないが、ふとした拍子に手を止めて考えてしまう。
 もっとも、特別に勘所の働く美和ちゃんに隠し事をしていても無駄だというのは、この一年で学んだことのひとつだ。

 一応俺が所長ということになっている調査事務所は、今は刑務所に入っている俺の元上司のあることないことの宣伝と、残していってくれた情報網のお蔭で、開業以来約一年、今のところ順調にやっていけている。主として失踪人調査、特に未成年の家出やらトラブルを請け負っている関係上、年末が近くなり、人々の心の隙間に風が吹き込むようになると、下請けに使ってくれる弁護士事務所からの依頼も増えて、自然と忙しくなった。

 喧嘩した覚えはないが、もともと多いとは言い難い会話は、互いの仕事の状況によってはほとんど皆無になる。
 誰の話って、つまり、同居人のことだ。
 この季節には、俺は朝出かけて、そのまま夜通し、朝方まで家出少年に付き合うこともあるし、事務所でそのまま寝てしまうことも多い。今日は帰れないと電話をする手間を惜しまなければいいのに、あれこれと忙殺されているうちに機会を逸してしまう。ややこしくならないうちに謝ればいいのだが、こっちだって仕事なのだから、という思いがあると、どうしても素直に言葉は出てこない。

 まるで熟年夫婦のようだと言われそうだが、単にきっかけが掴めないだけなのだ。
 大体、忙しいのは向こうも同じだ。美術品の修復師で、ギャラリーのオーナー、加えて銀座でちょっと有名なイタリアンレストランのオーナーである彼は、この間からはまたどこか北陸の山奥の寺に籠っている。襖絵の修復に出かけているのだ。いつものようについでに趣味の岩登りをしてくるに違いないし、あるいはどこかにいる大切な女のところにも寄っているのかもしれない。

 同居しているとはいえ、特別な約束事があるわけでもない。いや、同居と言うよりは、俺が居候をしているだけなので、向こうの仕事に俺がとやかく言うことは何もない。飯の面倒を見てもらっているだけで、十分に感謝しなければならないのだ。

「先生、聞いてる?」
 ふと気が付くと、目の前に美和ちゃんの顔があった。まだ中学生と言っても通るような童顔だが、都内の名門女子大に通うお嬢様だ。何を間違えて、ヤクザの持ちビルを間借りしているこの事務所の「秘書」などをしているのか、いや、そもそもヤクザの「彼女」になどなってしまったのか、運命というのは彼女にも俺にもままならないものらしい。
 彼女はここ数日何となく落ち着かないようで、珍しく夜はそそくさと帰っていく。彼氏と何かあったのかもしれない。

「え、っと、なんだっけ?」
 俺は別に先生でも何でもない、ただの調査事務所の雇われ所長だ。彼女が俺のことを「先生」と呼ぶのは、そのほうがハードボイルド的にかっこいいから、というだけの理由だ。それに彼女は俺にとって共同経営者であって、「秘書」ではない。これも、ハードボイルド的にかっこいいからだそうだ。……いまひとつ、理解できないが、あえて否定することもないのでそのままにしている。

「今夜、十一時にハチ公前ですよ」
「え? あ、そうか」
 そう言えば、何日か前から「十一時、ハチ公前」と、しつこく繰り返されている。
「で、明日は八時には事務所に戻っていてくださいね」
「あぁ、わかった。で、今日は何だっけ?」
「行けば分かります」

 俺のスケジュールはほぼ百パーセント、美和ちゃんに握られているので、特に気にも留めなかったが、スケジュールの内容を教えられないのは不思議だ、と思う余裕さえなかった。見知らぬ依頼人との待ち合わせがハチ公前ということはないだろうから、見知った情報屋か誰かが待っているのだろう。

 呪文のような「十一時、ハチ公前」をお題目のように繰り返して、美和ちゃんは今日も早々に帰っていった。俺は報告書の仕上げに取り掛かり、問題の時間が近づいてきたので、少し早めに事務所を出た。
 外に出ると思った以上に寒かった。十一月と言えば、陽が落ちるのも早くなり、まだ夕方と思っていたらいつの間にか真っ暗になっている。とは言え、冬というにはまだ抵抗があり、つい薄着で出かけてはあまりの寒さに震える。真冬以上に人肌が恋しいと思う、不思議な季節だ。

 夜の十時。歌舞伎町はこれからが本番だ。この街に生活を合わせていると、二十四時間の感覚がおかしくなる。子どもの頃、北海道の浦河で育った俺は、今でも人類という種としては真っ当な体内時計を持っていると自覚しているので、この街での暮らしがかなり精神を侵しているのではないかと思わなくもないのだが、慣れとは恐ろしいものだ。今では、仕事で地方に出かけると、時々この喧騒が恋しくなる。

 そして逆に習性というものも恐ろしい。どんなに遅く眠っても、五時過ぎには目を覚ましてしまう俺は、仕方がないので居候中のマンションを早朝にこっそり抜け出して、隅田川沿いを走っている。おかげで同居前とは打って変わった健康的な暮らしになっているわけだ。

 知り合いの客引きやホステスと挨拶を交わし、寄って行かないのという声には「また」という曖昧な答えを返して、新宿駅の東口から国鉄に乗り渋谷で降りた。
 駅を三つばかり移動するだけなのに、街の風景や雰囲気はまるきり違ってくる。
 それが東京の面白い所だ。北海道は、隣町に行っても大概は同じような景色だが(少なくとも俺が育った辺りは)、江戸時代には世界有数の人口を誇った街は、それぞれの区域で、古い時代から脈々と受け継いできた独特な雰囲気を培ってきたのだろう。

 渋谷や原宿は得意先(というのも妙な言葉だが)にもあたるので、土地勘はかなりあるほうだ。それでもハチ公にお目にかかるまでに遭遇するトラブルを回避するのは難しかった。
「わ~、マコトちゃんだぁ!」
 東京の謎のひとつは、こんなに広くて、こんなに人が沢山いるというのに、時々思わぬところで思わぬ知り合いに出会うということだ。

「ね、ね、どっかいくの? あ、そうそう、この子、こないだ言ってたミカちゃん」
「ミカで~す。ナナ、このひとって、もしかして」
「ほら、こないだ言ってたタンテイさんだよ。カッコいいでしょ。あたし、カノジョ候補なんだ。あ、マコトちゃん、いまひま?」
 暇というわけではない。ただ少し早めに事務所を出たので、約束の十一時までには小一時間ばかり間があるというだけのことだ。
 それにしてもこの子たちの台詞は、どうして平仮名と片仮名ばかりに聞こえるのだろう。それなのに、妙にインパクトと強引さがある。いや、放っておけない感じ、というのか。

「あのさ、うちのガッコのともだちが、さっきへんなオトコといっしょにちょっとアヤシイお店に入ってったんだ。マコトちゃんのカオ見たら、やっぱり気になってきた。ね、ちょっとつきあってよ」
 そして、一見の印象よりも根はかなり素直で、大人が思う以上に賢明で、友達想いだ。いや、友達と言っても一度話しただけ、という場合すらある。それでも、意気投合して話をしたなら、もうトモダチというわけだ。
 ちなみに、この元家出娘ナナは、かつて依頼を受けて俺が何度も東京の街中を捜しまわったこと複数回、という高校生だ。もちろん、俺は彼女のカレシ候補でもなんでもない。
「ここでマコトちゃんに会えたってことはウンメイだね」

 いまひとつよく分からないが、怪しい店に入っていたというだけなら、相手の男を確認して話をつけるのに半時間もあれば十分だろう。俺はナナの案内でスクランブル交差点を渡り、その先の路地に入り、彼女たち曰くの「アヤシイ店」に付き合った。

 アヤシイ……って。怪しすぎるだろ。
 喫茶店兼パブと称して営業をしているが、中は個室ばかりで、もちろん従業員は個室で何が行われているかを知っていても何も言わないというタイプの店だ。知りませんでした、お客さんのプライバシーですから、と言えば済むが、個室使用料金はそれなりについている。ホテルに入ると目立って困る男女にとっては、有難い場所かもしれない。
「どうする? マコトちゃん」
 どうするって、学校のトモダチってことは高校生だろう。
「アイテ、ちょっとコワそうだったよ」

 選択の余地はない。俺は店長を呼び出し、「警察にばれたら困るだろう、いや、俺は君たちの味方だから、警察沙汰にはしたくないんだけど、ちょっとワケアリの女子高生がここに入っていったのを見たんだ、その子の親はある代議士の関係者らしくてね」などとあることないこと言って(こういう技は、全て元上司の受け売りだ)、ナナのトモダチと相手の男が入っていった部屋に乗り込むことになった。

 しかし、相手の男は「コワそう」どころか、ナナのトモダチの塾の教師だった。確かに一見は強面だが、話を聞くと学生運動の時に顔に傷を負ってしまって、それ故に中身は別にして怖がられてしまう、ということだった。
 何より、二人は本気の恋仲だというのだ。結果的に、薄い壁の向こうから微かに男女の営みの気配が漏れ来る狭い個室のテーブルで、ナナとミカちゃんと俺は、許されぬ恋に嘆くカップルの悩み相談を受ける羽目に……なっている場合じゃない。

 はっと気が付くと、とっくに十一時を回っていた。
 何より、高校生をこんな時間まで遊ばせておくわけにはいかない。俺は教師にとくとくと常識を説明し(一体、何故俺が常識を説かねばならないのだ)、とにかくも今日は家に高校生たちを帰すべきだという結論を突きつけた。ついでに、ナナの提案で、今度「マコトちゃんの事務所でゆっくり話し合おう」ということになった。

 一体なんで俺の事務所だ? きっと美和ちゃんが、まずは呆れてため息をつき、その後で、あの子のことだから、また親身に(あるいは興味津々で)話に首を突っ込んで来るに違いない。
 などと思いを巡らしている余裕はない。
 渋谷駅まで戻り、彼らが改札に入ってくのを確認したうえで、俺は急いでハチ公の元へ行った。冗談じゃない、すでに十一時半になろうとしている。

 ハチ公前はこんな時間でも、待ち合わせらしい人でいっぱいだ。
 だが、俺は思わず足を止め、一瞬だけパニックになった。

 待ち合わせ相手に謝らなければならない、とか、いや何より待ち合わせ相手が誰なのかも聞かされていなかったのだから、とか、そもそも相手を見分けられるのだろうか、などというあれこれは全て吹っ飛んだ。
 人混みのど真ん中にいても、決して紛れてしまうことのない男が、忠犬ハチ公の横に立っている。
 そしてこの状況で、俺の待ち合わせ相手が彼以外の他の誰かである可能性は、ほぼゼロパーセントだった。
 しかも。

 この長身で、絵から抜け出したような金髪碧眼、どこから誰が見てもその美貌で人目を惹く男を、忠犬ハチ公さながらに待たせているのはどんな女だと、周囲の視線が彼に釘付けになっているのは明らかだった。
 まずい。
 とは言え、引き返すこともできない、どうしようもない状況だった。

 すぐに彼は動けないままの突っ立っている俺に気が付いた。
 ……怒っているのではなさそうだが、その後の行動はあまりにも唐突だった。彼はいきなり突っ立っている俺の方へ歩いてきて、腕を掴んだ。
「急ごう」

 え? と思う間もなく、彼、つまり俺の同居人は俺をほとんど引きずるようにして、スクランブル交差点へ急いだ。
 いささか周囲の視線が怖い。誤解を招いてはいけないので断言しておくが、一緒に住んでいるからと言って決してそういう関係ではない。
 以前は俺の家庭教師で、父親の失踪後は俺と妹の保護者でもあり、妹が結婚して家を出てからは、一人でまともに飯を食えない俺を居候させてくれている、そういう関係だ。

 ただ、彼が俺のことを、放っておくと人間社会でまともに生きていけないと思っていることは明らかだった。
 一度は大学一年生の秋、北海道で崖から落ちて生死の境を彷徨った。事故だったのか、あるいは自殺未遂ではないかと言われているが、当の本人である俺には、ある期間の記憶が、今でも抜け落ちたままだ。微かに思い出すのは、彼との間の複雑な感情と、自分がこの世には生きていないような妙な感覚に捕らわれていたことだ。あの時、二週間ばかりも意識がなく、意識を取り戻してからも記憶が混乱していた俺を救い上げてくれたのは、彼だった。

 あと一度は、妹の結婚式で知り合った、少し変わった女と恋に落ちた時だった。彼女には自殺願望があり、俺はその願望と彼女へ憐れみと偽りの愛情に流されて死にかかっていた。あの時も、この男が助けに来てくれなかったら、今ここに俺は生きて存在していないかもしれない。そして、まるで一昔前の芸術家のようなこの恋愛事件が、同居の直接のきっかけだった。
 要するに、放っておくと危ない、ということなのだろう。

 人々が無秩序に行く先を求める交差点を渡り、説明と会話もなく早足で向かいのビル群に向かった。暗い路地に入って、あるビルの勝手口らしいドアで警備員に挨拶をし、誰かに連絡をつけてもらっているようだった。
 この時間にはほとんど営業を停止しているようなビルだ。

 わざわざハチ公前などという目立った待ち合わせ場所で、わざわざ同居している者同士が待ち合わせをしなければならない理由は何だ? そもそもどこかの山奥の寺に籠っているんじゃなかったか? いや、あるいは女のところか。
 と思う間もなく、警備員はビルの中に入れてくれて、従業員用のエレベーターの場所を教えてくれた。薄暗い灯りの中を、急ぎ足のままの彼についてゆき、エレベーターで最上階へ上る。遅れたことを怒っているのかどうか、エレベーターの中でも目を合わすことはなかったが、彼はただ時間を気にしているようで、ひとつずつ大きくなる数字を見つめている。
 やがて最上階に着くと、そこにきちんとスーツを着た男性が待っていた。

「お待ちしておりました。どうぞ」
「済みません。時間が」
「いいえ、明日までにはあと十分ありますから」
 男性は彼に微笑みかけ、そして俺の方にも爽やかな微笑をくれた。
 どう考えてもおかしなシチュエーションなのだが。

 それにここは……
 丸い廊下の内側の扉のひとつが開けられた。
 薄暗い空間だが、従業員通路を通っている間に目は慣れていた。すり鉢状の丸い空間には椅子がずらりと並んでいる。真ん中に大きく真っ暗な無骨な器械が見えている。そして天井は大きなドーム。
 プラネタリウムだ。

 説明も何もなく、二つだけ白い印のある椅子に案内された。もちろん、ドーム内には彼と俺、それに案内の男性以外の誰もいない。
 座った途端、一気に真っ暗になった。
「本日はようこそ当館へお越しくださいました。これから皆様を二十八年前、十一月十六日から十七日の空へ、ご案内いたします」

 始めはその日付けが何なのか、理解できなかった。多分たっぷり数十秒、俺は簡単な引き算を考え込んでいたはずだった。答えが出た時、俺は思わず彼を見た。
 と言っても、真っ暗でほとんど輪郭しか分からないのだが、彼はただ、人工の空を見上げていた。

 そうか。すっかり忘れていたけれど、今日、いや、あと十分ほどで俺の誕生日だったのだ。でも、これは何の演出だ? 女なら喜ぶのだろうが、男の俺にするのはどうなんだ。それにそもそも、こんな時間に一体この男はどういう裏の手を使ってこのプラネタリウムに話をつけたのか(いや、単に金を積んだだけなのかもしれないが)。
 だがそんなあれこれも、真っ暗なドームの天井に星が映し出された途端に、飛んで行ってしまった。

 頭の上を東から西へと渡る天の川。西の空には、低い位置に夏の大三角形が沈み、天頂近くにペガサスの大四辺形が見えた。天頂にはアンドロメダ、南の空にはフォーマルハウト、そして東の空には冬の星座が上がってきている。オリオン座、おうし座、ぎょしゃ座。おうし座の一等星アルデバランが輝いて、その傍らには昴。
 そして、記号しかない満天の小さな星々のひとつひとつ。そのかなりの数を、俺は子どもの頃から伯父に教えられて知っていた。

 昔、この満天の星空はいつも身近にあった。
 北海道の牧場育ちの俺は、夜空には空自体が真っ白に輝くくらいに星があることが当たり前だと思っていた。東京の空を初めて見上げた時、俺はまるきり異世界に来てしまったような感覚になった。それでもこうして長くここに住んでいると、星の少ない空がすっかり当たり前だと感じるようになっていたのかもしれない。いや、そもそも、この街では空を見上げなくなっていた。

 そう言えば、こんな空を、この男と一緒に見上げたことがあった。
 あれは俺が高校を卒業した年だった。アドリア海に浮かぶクルーザーのデッキから見上げた白く輝く星々に満たされた空。空はそのまま海に連なり、波となってクルーザーを包み込んでいた。どんな場所であっても、この男が傍にいれば、俺はこの世に命を繋ぎ止めていられる、そんな気がした。

 案内の男性は何も話さず、すでに気配さえも分からなくなっていた。
 どのくらいの時間、そうしていたのかは分からない。時はゆったりと急ぐこともなく静かに流れ、いつの間にか星座は十一月十七日へと移り変わっていた。

「浦河じゃ、天然のプラネタリウムで、もっとたくさん星が見えるのにな」
 彼が囁いた。俺が答えないままでいると、すっと、彼の手が俺の頭に触れた。
「でも、お前が生まれた日には、東京でもこのくらいの星は見えていただろう。……誕生日おめでとう」
「一体何のまねなんだ?」

 少しだけ沈黙がある。
「お前の生まれた日の空を、一緒に見たかっただけだ」
「そんなことは女に言え」
「馬鹿を言うな。女が相手なら、こんな寒い所には連れてこない。ホテルの最上階、温かい部屋でシャンパンを開けて、星の代わりにネオンの灯った夜景を見ながら乾杯をする、部屋中を薔薇で埋め尽くして、もちろんバスルームにも……」

 勝手に言ってろ。俺はわざと少し音を立てて座り直した。隣で彼は少しの間黙り込み、やがて耳元に囁くような優しい声で言った。
「いや、単に、どうしてお前が生まれた日、お前が小さな子どもだったころ、もしかしてお前が孤独で小さく震えていた頃、俺はお前の傍にいなかったんだろうな、と思って」

 俺はやっぱり答えなかった。
 ……いったいどう答えろというのだろう。

 やがて彼が立ち上がり、俺もそれに続いた。魔法が切れたようにドームの天井から星は消え、案内の男性がドームのドアを開けた時には、世界はまた外へと向かって開かれた。
 通って来た従業員通路を戻り、エレベーターで一階に降りて、警備員に礼を言って外に出る。外ははっとするくらいに寒くなっていて、思わずコートの襟を立てた。もっと暖かい恰好をしてくるんだった。

「でも、少しだけ、感動したろう?」
 自分で言ったら値打ちがないだろうが。
「お礼のキスとかないのか」
 何を間の抜けたことを。
「お礼はあんたの誕生日に考える」
「いつ生まれたかなんて、忘れたよ」
 ほら、自分の誕生日の話になると、そうやってすっとぼける。祝ってくれと言われたこともないし、そもそも四月生まれとは聞いたような気がするが、何日とも聞いたことはない。

「飲みに行こう。ビルの最上階のバーに。ホテルの部屋はとってないけれど」
 俺がほとんど飲めないのを知っているくせに。しかも、部屋もどうでもいい。
「少しくらい、付き合ってくれてもいいだろう」
 そりゃまぁ……たまには……

 彼が路地を歩きだす。
 いつもこうしてチャンスを逸してしまうのだ。たまには、言葉にしなければならないのは分かっているけれど。

 ありがとう。
 俺は聞こえないと思うぎりぎりくらいまで彼が遠ざかってから、ようやく言った。

 彼は、後ろ姿のまま、ほんの少し足を止めたように見えた。いや、それは古い映画のフィルムが一瞬から回りしたくらいの僅かな瞬間で、やはり聞こえてはいなかったかもしれない。聞こえていなくてもいいし、できればその方がありがたい。
 と思ったら、彼が本当に足を止め、半分だけ振り返った。
「早く来い」
 俺はひとつ白い息をついて、彼を追った。少し離れて後を追うくらいが丁度いい距離感なのだが、この頃は彼は並んで歩きたがった。少しは一人前だと認めてくれているのかもしれないけれど。

 路地を出ると、日付が変わった時間とは思えないくらい、通りにはまだ多くの人がいた。スクランブル交差点で交錯する人生の一瞬だ。それぞれの生活と人生を背負って、この交差点に引き寄せられ、また離れていく。小さなエネルギーが交錯し、煌めいては消える。空の星と同じように、この街にも微かな星のきらめきが灯る。
 信号が青になった時もまだその不思議な光景を見つめていたら、彼がすっと俺の肩を抱き寄せるような仕草をして、それから軽く叩いて先を促した。
 俺たちは一緒に、その年の十一月十七日の交差点を渡った。

追記:美和ちゃんがここの所そわそわしていた理由は、翌日、というよりも十一月十七日の夜、判明した。夜八時、事務所に戻ると、有無も言わさず新宿の街の中へ連れ出され、某ショウパブへ(ゲイバーなのだが、ここのチーママ・サクラは事務所のお得意さんでもある)。俺の誕生日会とやらを計画してくれていたのだ。美和ちゃんまでも出演のショウがあり、ゲームがあり、常に誰かが騒ぎまわっていて、正直なところ途中から記憶が曖昧だ。要するに、ただどんちゃん騒ぎする理由が欲しかっただけとしか思えないが……この街で一年、俺も少しだけここに馴染んできたのかもしれない。


 ある仔猫のつぶやき
「おたんじょうびのお祝い、いいなぁ。ぼく、じぶんのおたんじょうび、知らないの」
「そうか……じゃあ、俺と一緒ってのはどうだい。おなじ名前だし、これも何かの縁だから」
「ほんと?」
「あるいは、君が一番大事な人に、初めて出会った日でもいいんじゃないかな」
「う~ん。じゃ、りょうほう、おたんじょうびにする!」
……え?

* 渋谷にあった、閉館してしまった某プラネタリウムがモデルです。

Category: ☆真シリーズ・掌編

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【真シリーズ・掌編】ラグタイム 

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実は、【奇跡を売る店シリーズ(2)・砂漠に咲く薔薇】の第2話を書いていたのですが、carat!主催のcanariaさんのしばらく休止します記事を拝見して、悩んだ結果、書き下ろしの読み切りに変更しました。そのためにアップが遅くなってすみません。canariaさん、待っていただいてありがとうございました! しかも、実はちょっと長い……本当に申し訳ありませんが、許してくださいませ!

読み切り、と言っても、誰でも楽しんでいただけるお話かどうかは自信がないのですが(いや、背景を知らなくても何も問題ないのですが、多少知っていると「は~そんなことに~」な部分があるというだけで)、実はこれ、八少女夕さんの主催されている?【バッカスからの招待状】にも参加希望の掌編です。
語り手の「原田佳彦」はこちらのブログではまるきりの初登場人物です。実は純粋に私のキャラではなくて、あれこれ裏設定はありますが、またいつかの機会に。とりあえず、ちょっと気のいいバーのマスターという理解でなんの問題もありません。

この「ラグタイム」というお店は、西新宿の老舗喫茶バーがモデルです(名前は違う)。リアル友人でもあるsayaさんとロケハンで見いだしたお店で、この店を舞台にした未公開のお話があるのですが、人物関係がかなり際どいので、少しマイルドに書き直していつかここにアップできたらと、こそこそ思っています。
「ラグタイム」という格好いい店名はsayaさん。彼女のタイトルのセンス、なかなかなんですよ。
そしてここに登場する「客の男」、読み始めたら、あ~あの新宿で調査事務所やってるあの人ね、とすぐ分かるのですが(タイトルに書いてあるか^^;)、最後の方に「え?」な部分もあるかも。この話は【海に落ちる雨】よりも、その続きの【雪原の星月夜】よりも後の話なのです。

canariaさんのお休みは少し寂しいですが、お帰りをお待ちしようと、頑張って久しぶりに書き下ろしました。
あ~、『マルモのおきて』の残り5話を見ちゃったせいで(またバカ泣きして頭が痛い)、アップが遅くなりました。ほんとに済みません。


【真シリーズ・クリスマスイヴ掌編】ラグタイム
~バッカスからの招待状~



「いっらしゃいませ」
 原田佳彦はグラスを磨いていた手を止めて、その日、三組目の客を迎え入れた。

 組、と言っても今度の客は一人だった。
 今日は、社会的に言うと特別な日なので、早い時間に「ラグタイム」のような店にやってくる客は少ない。開店早々に、これからパーティーに出かけようという常連のカップルがやってきて、一時間後に出勤前のホステスが数人一緒にやってきて、以後は一人きりの静かな時間が流れていた。

 通常であれば客からのリクエストがない限り、店に音楽は流さないのだが、たまに開店前や開店直後、ほとんど客のない時間帯に好きなジャズのレコードをかけている。
 でも、こんな日は世の中に逆らって、思い切り演歌でも流したい。
 そんな他愛もないことを考えていた頃合いだった。

「ラグタイム」は新宿西口から歩いて数分の飲食店街の地下にある小さなバーだった。東口とは違って、繁華街も狭く、賑やかさは広さに比例して東口の二十分の一くらいだ。
 それでもコアな客が多いのもこの辺りの店の特徴でもある。佳彦は同じ新宿でも歌舞伎町とはまた違う雰囲気が好きだった。

「雨、まだ降っていましたか」
 男のコートの肩で、雨の滴が薄暗い灯りを吸い込んでいた。
「もう雪に変わりかけていますよ」
「ホワイトイヴですか。人肌恋しくなる、見事な神の演出ですね」

「特別な日」に一人で入ってきた若い男は、マフラーを外しコートを脱いだ。預かろうとする佳彦に手で合図をして、いつものように入り口から二つ目のカウンター席の椅子を引いて、その背にコートを掛ける。
 佳彦はこの物静かな男が、一人掛けのソファーのような低い椅子を引いて、すっとその内側に収まる仕草がなんとなく気に入っていた。

「そう言えば、あなたがここに来る日は雨が多い」
「おかげでここには何度も傘を返しに来る羽目になった」
 佳彦はふと微笑んだ。雨というキーワードで緩やかに客と繋がっていることが、奇妙に心地よく感じられた。
「お仕事、終わりですか」
「今日のような日にうちに来る依頼者は滅多にいません。もっとも、普段とそんなに変わりませんけど」

 この客は常連というほどこの店に足繁く通ってくるわけでは無い。そのせいか、打ち解けてくれているのかどうか分からない、ぎりぎりのラインのままで丁寧な言葉遣いを崩さなかった。
 それでも、佳彦にとっては特別な客だ。

「歌舞伎町は賑やかでしょうね」
 聞かれるまでもなく、佳彦はお湯で薄く割った赤霧島を出した。酒に弱いと言っていたので、頼まれればアルコール控えめのオリジナルカクテルを作りもしたが、ある時、この芋焼酎を出したら、これなら悪酔いしそうにないと言われたので、それ以来「とりあえずビール」ならぬ「とりあえずアカキリ」にしている。
「だから早々に事務所を閉めて逃げ出してきました。あそこに遅くまで残っていると、そのうち襲撃されるので」

 男は新宿三丁目にある調査事務所の雇われ所長だった。歌舞伎町は目と鼻の先だ。
 歌舞伎町で「襲撃」というと危ないものを想像しそうだが、もちろん、そういう意味ではないだろう。
 当然、仕事のことはあまり話さないが、言葉の端々から窺われることに、事務所には事務員を含めて幾人かの従業員がいて、さらに出入りする連中のおかげでかなり賑やかな場所となっているようだった。こんな無口な所長で、よくもあの街でもっているものだと思うが、この雰囲気が逆に人を寄せ付けているのかもしれない。
 賑やかで派手な街には、外見からでは分からない、孤独で寂しい人間が多く集まり、どこかに居場所を探しているのだ。

 男は、この店のことを、歌舞伎町の仲間たちには内緒にしているようだった。
 あの街の連中には遠慮が無いから、きっとこの男が静かに過ごせる場所なんて無いのだろう。
 さっき男が言った「襲撃」というのは、今日のような日には、パーティが終わった酔客や、店を閉めた後に行き場を無くした水商売の連中が、遅い時間に無遠慮に事務所に押しかけて来るということだろう。その場所の本来の使い方を間違えていることなど、気にしない連中だ。

 男は冷えた手を温めるためだけに焼酎グラスに触れたようで、まだ飲もうともしなかった。厚い木製のカウンターの木目模様が、薄暗い照明で濃淡を浮かび上がらせている。
 グラスと言っても、土色の陶器製なので、同じ色合いのカウンターに吸い込まれそうに見えた。
 この店の前の経営者が佳彦の恩人だったこともあるが、この厚い一枚板のカウンターが店を引き受ける最大の理由だった。もちろん、きっかけは別にあったが、最後に背中を押したということだ。

 佳彦は顔を上げて、薄暗い店内に視線を向けた。七席のカウンターと三つのテーブル席だけの狭い店には、佳彦と客が一人。客のいない店の中は、恐ろしく空虚で暗く沈んで見えるものだ。とても今日がクリスマスイヴだとは思えない、何の飾りもない空間だが、明るい世界に背を向けて生きてきた自分たちのような人間には、ふさわしい隠れ家かもしれない。
 世間が浮かれているこんな日には、特にそんなことを感じる。

 この調査事務所の所長がこの店に通うようになったのは、個人的なつながりだったので、改めて聞かれたことも話したことも無いが、おそらく佳彦の前身についてもある程度は感づいているだろう。あまり大きな声で話すことのできない仕事、という意味だ。
 佳彦自身は足を洗ったつもりでも、どうしても切り離せないしがらみはついて回ってくる。誰も佳彦を今さらどうこうしようとは思わなくても、佳彦自身がふと、今自分のいる場所を疑うのだ。
 そちら側には住んでいない客が楽しそうに語る日々の出来事を聞いているときも、公園ではしゃいで走り回る娘を妻が追いかけている姿を見ているときも。

「家に帰らないんですか」
 男は左の薬指に指輪をしていたが、家族のことはほとんど話さなかった。以前に一度だけ、妻が一人目の子どもを身籠もった時に煙草をやめるつもりだったのに、と言ったことがあったが、その後、子どもの話題が出たことは無いし、少なくともこの店では今でも煙草を吸っている。もっとも、家で吸えないので、職場や飲食店で吸っている男も、世の中には多くいるだろう。

「あなたも、こんな日は店を閉めて家族サービスをしたほうがいいんじゃないのですか」
 この男には、二歳になる娘がいることを話したことがあった。
「でも、あなたのようなお客さんがやってきて、店が閉まっていたら路頭に迷ったりするでしょう。こんな日こそ、帰りたくても帰れない人もいる」
 男は顔を上げて真正面から佳彦を見た。そしてふと笑みを浮かべる。自嘲のようなこの微かな笑みは、初めて会ったときから佳彦に好印象を与えていた。

「思えば、クリスマスなんて本来は日本人には何の縁も無いイベントなのに、いつの間にか、その日に一緒に過ごす恋人も家族も居ない人間は惨めに思えるようにすり込まれてしまいましたね。あるいは、そんな日に一生懸命働いていると馬鹿らしく思えるように」
 普段は常連客ともあまり長話をしない佳彦だったが、この男に対しては話しかけずにはいられなかった。

 もっとも、佳彦は決して話し嫌いでも賑やかな会話が苦手というわけでもない。ただ、このような店でカウンターの内側で仕事をしているうちに、自分の本来の性質とは関係なく、二通りの人種に分かれていくものらしい。
 客との会話を楽しみ、時には自分のことを語り、酒の蘊蓄を語りながら客と楽しい時間を共有したいと思う者。そして、客の話に耳を傾けながらも受け流し、自分の方からはあまり話しかけず、静かに酒を提供する者。佳彦は自分は完全に前者だと思っていたのだが、気がつくとごく一部の人間を相手にする時を除いて、後者に収まっている。

「実際には、ひたすら働いている人間の方が多いのに」
「違いありません」
 佳彦が自分も焼酎を飲んでいいかというサインを送ると、男はうなずいた。客の前で飲むこともほとんどないのに、今日は少し気分が違っていた。

「イエス・キリストも驚いているでしょうね。まさか自分の誕生日が、こんな離れた極東の国で恋人同士の記念日みたいに扱われているとは」
「でも、それをきっかけに人が集まることを喜んでいるかもしれません」
「それが鬱陶しくて歌舞伎町から抜け出してきた人が言うんですからね」
 男は意外なことに、いつもよりもずっと分かりやすい笑みを浮かべた。
「決して、こんな日のあの街の雰囲気は嫌いというわけじゃないんですよ」

 男は佳彦が焼酎に口にしたのを見てから、自分の手で暖めているグラスに酒が入っていることを思い出したように、ようやくグラスに口をつけた。そしてまたしても意外なことに、半分ほども飲んでしまった。
「ただ、なんとなく、今日は一人になりたかっただけで」

 佳彦は、客が何かを語りたいというオーラを放っている時には好きなだけ語らせてやろうと思っていたが、この客が自分のことを何でも話したいと思っているようには感じなかった。
 ただ、一人になりたい時の相棒に、この店と自分が選ばれたことは嬉しかった。

「今日は演歌を流していないんですね」
 さっきそんなことをちらりと考えていたので、まるで頭の中を覗かれていたようで面映ゆい。一人の時は、時々、演歌を聴きたくなるのだと、そんなことも話したのだっけ。
「そう言えば、あなたが二度目にここにいらっしゃった時、北原ミレイをかけていたんでしたね」

『懺悔の値打ちもない』というタイトルを二人が同時に口にしたので、思わず顔を見合わせた。
「今日は街にクリスマスソングが流れていると言うのに、『懺悔の値打ちもない』はないですね。でも、たまに聞きたくなるんですよ。日本人のソウルミュージックじゃないですか。『ラグタイム』に演歌はないよって、人からは言われるんですけどね」
「いや、ズレてる、って意味からすると、ちょうど合っているかもしれませんよ」

 二度目に彼がこの店に来た時、店名の由来を聞かれた。音楽用語ですか、という問いだったので、詳しいなと思ったことを思い出した。
 ラグタイムというのは、十九世紀から二十世紀始めにアメリカで流行した音楽のジャンルで、ジャズの原型のひとつだ。メロディーラインとベースラインの拍のずれをRagged timeと呼び、その不揃いのタイミングの中から色々なニュアンスが生まれる。この店もそういう場所であったらいいと思って名付けた。
「確かに。今度言われたら、そう言い返します」

 男がショートポープの箱を上着の内ポケットから取り出したので、佳彦は灰皿を彼の前に置き、ポケットからライターを取り出した。男はちらりとライターを見て、それから佳彦の手から火をもらい、ひとつはき出して、ようやくほっと息をついたように見えた。
 何か音楽をかけましょうか、と尋ねると、男は少し考えてから、ブルースをと言った。

 佳彦は少し考えてからルイ・アームストロングのアルバムを選び、レコードに針を落とした。ざざっという微かな雑音の後、『We have all the time in the world』が流れ始める。
 酒を勧めるのにいいタイミングだと思った。
「今日はせっかくですから、少し強めのお酒をいかがですか」
 男は意味を察したようだった。
「では、あなたがいつか作ってくださったジェームズ・ボンドの酒を」
「ジェームズ・ボンド・マティーニですね」

 イアン・フレミングの『カジノ・ロワイヤル』にはモロトフカクテルと書かれている。ジェームズ・ボンドが、ロワイヤル・レゾーのカジノで敵との大勝負の緊張感をほぐすためにオーダーしたカクテルだ。
 ボストンシェイカーにゴードンジンを三、ウォッカを一、あとはキナ・リレのベルモットはキニーネが入っているので日本では手に入らないため、代わりにリレ・ブランを〇・五の割合で加える。

 初めてこの男に作った時と同じように、彼が曲を楽しむのを邪魔しないかと一瞬気になったが、またあの時と同じように、男はカクテルを待ち望むように佳彦の手を見た。安心してシェイカーを振り、カクテルグラスにきりっと冷えたマティーニを注ぎ、オリーブではなくレモンの皮を薄く切ったもの沈める。
 ボンドはこのカクテルにヴェスパーという、恋に落ちた女の名前をつけた。この女は裏切り者だったが、ボンドは一度味を知ってしまうと他のものは飲めないと言った。
 愛とはそういうものなのだろう。

 佳彦はカクテルグラスを取りあげた男の右手から、カウンターの木目の上に残された左手に視線を移した。薬指に嵌められた指輪は、鈍い銀の光を不安定に揺らめかせている。
 この指輪を外さずにいるのは、自分が何かから逸脱してしまうのが恐ろしいからだと言っていた、その表情を思い出した。
「寒い冬なのに、こんな冷たいカクテルを出す店って、どうかしてますね」
「ご心配なく。かのスパイと同じように僕も味音痴なので」

 佳彦は思わず嬉しくなった。
 マティーニは本来ステアで飲むもので、シェイクするものではないが、ジェームズ・ボンドは「冷たいものはとことん冷たく、熱いものは最高に熱く」が主義で、カクテルもシェイクさせるほうが冷たくなっていいという。酒好きの理論では、シェイクして冷やし過ぎると舌がしびれて味が分からないから、ボンドは味オンチだということになる。
 そのように説明したことを覚えていてくれたのだ。

「でも、クリスマスイヴに強い酒を勧めてご主人を引き留める店は、やっぱり不味いでしょうね」
 男はそれには答えなかった。
 俺はこの人の前ではしゃべりすぎるな、と佳彦は思って、また言葉を引っ込めた。ただ、この男も以前やってきた時に、ふと漏らしたことがあったのだ。
 ここに来たら、しゃべりすぎる、と。

 不思議だった。名前を知っているのに、なぜか名前を呼ぶことはない。あなた、と今でもいかにも他人行儀に話しかける。他の客ならば数度も通ってくれたら、名前を呼ぶというのに。それでも、この男は他のどの店でよりも、この店でしゃべりすぎると言い、佳彦も、他のどの客にもそうしないのに、この男にはやたらと自分の方から話しかけている。

 それでもここから先は、というぎりぎりの部分で留まるだけの理性と職業倫理は持ち合わせているつもりだった。そのつもりなのだが、他に客も居ないこんな夜は、もっと話して欲しいと思ってしまう。客に深入りするのは良くないことだと分かっているし、そんなことをしても、客にも自分にも何の役にも立たないことも分かっているのだが、時折、無性に気になって仕方がない客がいるものだ。

 クリスマスイヴの夜。一緒に過ごすべき人がいるだろうに、その場所を避けてバーのカウンターに座っている。たゆたう紫煙の向こうの不安な表情。情人と会う時にも外さない結婚指輪。
 ふと、エディット・ピアフの歌に涙を流さずに泣いていた氷のような横顔を思い出した。あいつは最も大事なものと引き離されているんだ、と共通の知人が話していたことも。
 それでも、誰かが誰かを心配して、気にかけ、涙を流したり、黙って側に立っていたり、ただ一緒に音楽と酒を分かち合うことは、きっと悪いことじゃない。家族でもなく、恋人でもなく、ただの店の主人と客の関係であっても。

「今日は、帰っても本当に誰もいないんです」
 男はいったん言葉を切り、不思議な表情を浮かべた。最高に幸せそうな、それでいてものすごく不幸で不安そうな、どこかで道を間違えたことに気がついて後ろを振り返った時のような、複雑な表情だった。あるいは、ただ暗い照明が作り出した影が、そう見せたのかもしれない。
「妻は、今、まだ入院していて」
「病気、ですか」
「いえ」

 また少し間を置いて、男は続けた。
「今朝、子どもが生まれたんです」
 何がこの男を不安にさせているのか、佳彦は自分の経験に照らし合わせても、上手く理解はできなかった。おめでとうございます、と素直な言葉が一瞬喉につっかえてしまったのは、男のさっきの表情の故だった。

「そうでしたか。それは、おめでとうございます。男の子ですか。それとも」
「男の子です」
 男は冷たいマティーニを思い切って飲んで、カウンターにグラスを戻した。
「以前亡くした子どもは、女の子だったんですが」
 佳彦は言葉を失った。一人目の子ども、と言っていたのは、その子のことだったのか。

「もう性別も分かるほど大きくなっていたのに、この世界を見ることはなかった。不思議ですね。僕は、どこかでもう一度その子に会えるのではないかと思っていたのかもしれません。その子がまた妻と僕を選んで戻ってきてくれたらと願っていた。その子を失ったのは僕が」
 男は言いかけて、そのまま言葉を無くしたようだった。
「すみません。ちょっと混乱しているらしい」

「生まれてきたお子さんを、愛せないと心配しているのですか」
「いいえ。そんなことじゃないんです。ただ、置き忘れてきたものをどうしても振り返ってしまって、不安になるのかもしれません。それとも、ただ単に、父親というのがどういうものか、よく分かっていないからかもしれません」
「父親って、始めからこんなものという型があるわけではありませんよ」

「ただ、あんなに小さくて儚いものが、この世界に放り出されて、生きていゆけるのかと」
 あなたが守るんですよ、と言いかけて、この男の不安が突然に理解できたような気がした。
 娘が生まれて、初めて腕に抱いた時、潰してしまわないかと心配になった。自分の指一本よりも小さな手が、いつか何かを掴めるようになるとは信じられなかった。そんなことを、この男は過剰に敏感に受け止めてしまうのだろう。

「相川さん」
 佳彦は初めて、男の名前を呼んだ。
「子どもって意外に逞しいですよ。一年経ったら、三倍の重さになるんですからね」
 短い前奏の後に黒人シンガーの声が耳に届いた。
 男はふと顔を上げ、ずっと探していたのに届かなかった景色を見つけたような表情を浮かべ、それから静かに目を閉じた。

 曲が終わるまで、佳彦も男も、何も言わず、動くこともしなかった。
 佳彦は、不安を見いだしては震える彼の睫毛を、左右に異なる色合いが見える目を、唇の前で組まれた手を、そして彼を縛り付けている指輪に揺らめく光を、美しいと思った。狭い店の中に揺れる灯を、明るい光の下で見たら小さな疵も隠せないけれど、こうして誰かの不安を包み支えている椅子やカウンターを、佳彦が店を譲り受けるずっと前から壁に掛かっている古いアメリカの街の絵を、絵の中ですっかり色あせて消えかかった虹を、そして、ずいぶん前に誰かが忘れていってくれたおかげで、突然の雨の日には誰かを庇うことのできる傘を、今、愛しいと思った。

 そして、大都会のこんな暗い地下の片隅にいても、世界を美しいと感じることができることに、ふと感謝の気持ちを覚えた。
「今度は温かいホットオレンジのカクテルを、お祝いにご馳走させてください。その子はきっと、あなたの不安を踏み越えて、素晴らしい世界を見るに違いないんですから」
(2016/12/18書き下ろし)


『We have all the time in the world』:『女王陛下の007』に使われていた、ルイ・アームストロングの名曲。ジェームズボンド・マティーニを飲むきっかけにしました。
最後に彼らが聴いているのは、タイトルは出しておりませんが、お察しの通り『What a wonderful world』です。
ほんとのことを言うと、こんな順序に曲が並んでいるレコード(アルバム)があるわけじゃないのですが、お目こぼしください。時代が時代ですし。でも『What a wonderful world』って1967年の曲なんですね。そう思ったら、余計にすごさを感じる。

生まれた子どもは、慎一。クリスマスイヴ生まれなんですね。不良パパを許してやってね。
何しろ、真はほんとのパパには捨てられちゃったので、父親ってのがなんだがよく分かっていないのです。おじさん(功)やもと家庭教師(竹流)のような仮の父には恵まれていたはずなんですけど……
幸い、慎一は性質的には母親の血を受け継いだのか、中身はかなりしぶといかも知れません(長命だし、中年期以降になってものすごい年下の美人と一緒に暮らしてるし……いや、そういうことじゃないか)。

Category: ☆真シリーズ・掌編

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【真シリーズ・掌編】水よりも濃いもの・前編 

なかなかまとまって小説を書く時間が無くて、あれこれと溜まったものを消化できないままですが、気分転換に短いお話を前後編でお届けいたします。
これは以前から、どこかで書いておきたいと思っていた事なのですが、なかなか文字にすることができないままだった部分です。

思えば、大学生のころに作っていたコピー本で連載していたのは、真の父親・武史の青春時代の話でした。彼が兄貴・功を追いかけて東京に出てきたのは終戦の5年後。それがこのシリーズの始まりです。
それを書いていたときは、まだ東西冷戦という言葉が身近だった時代。考えてみれば、ペレストロイカとは言え、ソ連に旅行に行くのにビザを取るのもちょびっと大変でした。行く前に「いくらペレストロイカでも、橋とか大きな道とかの写真を撮らないように」と注意を受け、行ってみたら、戦車が公道を走っているし(月曜日夜、演習なのかものすごい数の戦車が赤の広場に向かって走っていた)、カルチャーショックを通り過ごして、異次元に迷い込んだような気持ちでした。
でも、いつの間にか、今の若人にとっては、ベルリンに壁があったことさえ「?」になっているのかも……

そんなこんなを背景にして、真がこの世に生まれてきたわけですが……例のごとく、お節介で過保護なあの人、まぁ、この件を放っておけませんよね。ついつい余計な事をしているようです。
でも当の真は……どう思っているのでしょうか。

ちなみに、このシリーズについて、何の基礎知識が無くても問題なく読んで頂けると思います。半分は真のお仕事(調査事務所)の話でもありますので……


【真シリーズ・掌編】水よりも濃いもの・前編


 初めて会う人にデジャヴを覚える時には、多分その人と似た誰かを脳裏に浮かべているのだと思っていた。だから、この場合は、会った途端にすっかり何もかも納得できるものだろうと予想していた。なぜなら、彼は、目の前の女性の実の息子のことをよく知っていたらだ。
 だが、その人が目の前に現われた瞬間の印象は、もしかして間違えたのか、だった。
 とは言え、彼が頼った組織の調査能力に万が一の間違いも無いことは、彼が一番よく知っていた。

 彼は慎重にその女性を観察した。
 やがて、少しだけ共通点を見いだして、ようやく安心した。女性の目は、彼がよく知っている人物の右の目と本当によく似ていたからだ。だがその共通点を見いだすためには、まず他の全ての身体のパーツを視界から取り去ってしまわなければならないようだった。それほどに、この女性と、彼が知る女性の息子の外見には、そしてもしかするとその身体を構成する内なる細胞にも、共通点はほとんど見いだせなかった。

 遺伝子の半分が同じだとは思いがたい。
 彼自身が当事者でもないのに、何だかがっかりしていた。

「一体、これはどういうことでしょう。少なくともあなたがその名前で面会を申し込まれたことと、今あなたが仰った事には、まるで因果関係は無いように思いますわ」
「この名前で無ければ、お会いすることが難しいことは承知しておりましたから」
「それでは、これは騙し討ちということですわね」
「そう考えて頂いても差し支えありません」

 女性は彼が想像していたよりもずっと小柄で、少なくとも彼の知る多くのドイツ人の体格からはずいぶんとかけ離れた容姿をしていた。母親が日本人だと聞いていた。
 それでも、彼が知っている、どれほど小さくてもどこかで世界を動かしている有能な女性たちと同じ、強い光が、彼女の内側から香っていた。女性の目は暗い碧で、ヘーゼルナッツ色の髪は軽く波打って肩に触れていた。唇は薄く、改めてよく見れば耳の形は彼の知っている人物によく似ているような気がした。

「誤解の無いようにお伝えしておきますが、私は脅迫しに来たわけでも、あなたに何かを期待してきたわけでもない。言ってみれば、これは単なるお節介です。それに幾分か、私自身の興味も」
「それだけのために、わざわざ壁を越えてここまで?」
「そうですね。ずいぶんと度を超えたお節介であることは自覚しています」

 女性はこの応接室に現われてから、一度も座ろうとしなかった。歓迎していない合図だと思っていた。
 ローマの彼の屋敷から思えば、部屋はずっと広かったが、どこか冷たく沈痛な気配さえあった。彼はこの女性が、よくも戦後の復興の中で闇雲に何かと戦っていた東京の下町で、何ひとつ持たない日本人の学生と恋に落ちて子どもを産んだものだと、その事に改めて感慨さえ覚えた。
 彼は潮時だと思った。この人は何も答える気はないのだ。それに、本当に、何かを期待してここに来たわけではない。

 彼自身も母親の記憶が無い。
 いや、正確に言えば、実の母親の顔を知っているし、会ったこともある。
 その女に初めて会ったとき、自分は確かにこの女から生まれたのだろうと思った。だが、自分が母親似であることを納得しただけで、母という存在に感慨を覚えることは無かった。共に暮らしたことも無ければ、幼いころにその人に母として接してもらった記憶も全くないからなのだろう。
 だから、彼女がこの訪問を歓迎していなくても、そういうものだと納得していた。
 
 彼は、懐からネームカードを取り出し、低いテーブルの上にそっと置いた。
 その時、ふと指に触れた大理石から、この土地の気候を感じた。自然のものであれ、人工的なものであれ、景色が人を造るというのは本当のことだろう。
「東京にある私のギャラリーの連絡先です。もしもお気持ちが変わるようなことがありましたら」

 玄関の扉が重々しく開けられた時、車寄せでずっと立ったまま待っていた彼の運転手が、ほっと息をついた。いつもなら表情を変えない男だったが、それほど心配をかけたのかと思うと、少しばかり申し訳ない気がした。


 客人を見送った女は、門を出て行く車を応接室の窓から見つめていた。
 その瞳は揺らいではいなかった。心が動かされたわけでもなかった。
 ただ、自分は冷たい人間だろうか、と自問してみた。そして、そうかもしれないと思った。

 もう既に記憶からあの頃のことが抜け落ちているような気がする。それとも引き出しに仕舞って鍵をかけたまま、その鍵が見つからないだけなのか。
 確かにあの時は命さえも捧げていいと思っていた。もしも、あのままこの世から消えていても、きっと後悔はしなかっただろう。
 そんな恋をしたのだ。

 彼女の父親はドイツの外交官だった。二度目の世界大戦の足音が忍び寄る中、日本人の女性と恋に落ちた。多くの名士を輩出している古い家系の中で、誰からも祝福されなかったその恋の結果、女性は一人娘を産み、そのまま病に伏して亡くなってしまった。
 父親はその後誰とも結婚せずに、彼女を育てた。愛する女性を失った後悔から、父親は彼女には別の人生を求めた。彼女に課せられたのは女性としての人生ではなく、ひとつの家系を支える後継者としての生き方だった。

 戦争に負け、国が東西に裂かれた時代、彼女は少女だった。様々な場面で、瞬時に的確な判断をする必要は常に周囲に溢れており、彼女は家庭でも仕事でも父親の優秀な補佐官となり得た。
 だが、若者は常に現状を否定するものだ。
 一度、母親の国を見てみたいと言ったとき、父親は拒否をしなかった。何事も理詰めで考える父親は、それは彼女の当然の権利だと割り切っていたのだろう。

 初めて日本に降り立った時、同時に彼女を包み込んだ共感と異質感は、自分自身の内側と外側が共鳴した結果だった。相反するふたつの物が当然のように共存していた。彼女の身体は、髪も瞳も肌も、祖国ドイツのものであったが、同時に、この異質な空間に属するものでもあった。
 そして、恋はその共感と異質感の隙間に滑り込んできた。

 誓って、決して始めから帰るまいと計画していたのではない。
 だが、自分の身体のうちに、別の命を宿していることを知ったとき、故郷を遠く離れた異国で自分を産み、露のように消えてしまった母親を思った。それまでは一度も、彼女の中で現実的な存在とはならなかった母親が、子宮という別の記憶媒体を介して、彼女の中に潜んでいたのだ。

 今でも、あの時の感覚は理解できないままだ。今、はっきりと分かっていることは、理解できないままに愛し合い、全てを捨ててもいいと思った過去が、彼女にあったということだけだった。
「奥様。旦那様がお呼びでございます」
「今、行くわ」
 この生活には何ひとつ不満はない。生きがいもあり、幸福もある。もう二度と、我を忘れ、全てを捨てるような情熱に駆られることはないだろうということだけは分かっている。

 多分、あの時、彼女の命は燃え尽きたのだ。愛したはずの男も、授かった子どもも、今の彼女の世界には存在していなかった。
 彼らもまた、彼女の心の中で燃え尽きてしまっていたから。


「昨日の話なんだけどさ」
 事務所に入ってきた女は、勧められるよりも早くにソファに腰を下ろし、バッグから洒落た煙草ケースを取り出した。
 昨夜、というよりも今朝方まで仕事で飲んでいて、自分の店が終わったら、次は朝方まで開いているどこか別の店で飲んでいたのだろう。肩にかかる赤茶けた髪はばさばさで、化粧も直していないようで、多少はさばを読んでいると思われる三十歳という自称年齢よりも十は老けて見えた。
 夜、薄暗いラウンジの中で見れば、あれほどにも魅惑的に見える女性たちにも、孤独と時間は同じように無慈悲ということらしい。

「やっぱり、あれ、取り下げるわ。手付金、迷惑料として取っといてくれていいから」
「え?」
 酒焼けで擦れた声に答えたのは、真ではなく、美和だった。

 ここは新宿駅東口から五分ほどの場所にある調査事務所だ。相川真はこの事務所の雇われ所長で、女子大生の柏木美和は真の共同経営者だった。もっとも、ハードボイルドに憧れる美和の自称は「秘書」なのだが。
 美和は毎朝、大学に行く前に事務所に寄る。今朝は事務所に上がってくる階段で女に鉢合わせたようで、事情を把握している美和は真に合図を送って、自分はコーヒーを淹れに、奥の小さなキッチンスペースに入った途端だった。

 美和は慌てて駆け戻ってきて女の隣に座った。
「どうしちゃったの? 昨日の今日なのに」
 女は細い煙草に自分で火を付けて、ふうと大きくひとつ吹かした。
 真は女が座るソファの向かいに座ったまま、黙っていた。言葉を挟まない真に、美和が不満そうな顔を向けてくる。その目は「あのこと、言っちゃいなさいよ」と訴えているようだ。
「どうもしないわ。昨日の方がどうかしてたかもね」

 女は源氏名を朱美といった。歌舞伎町のクラブで働いていて、一見いかにも尻軽という外見ながら、話してみると男あしらいも上手く、実は難しい政治やビジネスの話にもついて行けるという一面も持っていた。もとは銀座で働いていたとも噂されているが、本人は過去を語らなかったし、言葉遣いからも、敢えて銀座の匂いを消しているように見えた。
 煌びやかな銀のセカンドバッグも薄いファーのついたコートも、多分ブランドものなのだろうが、全くその値打ちの分からない真には、かえって彼女を安っぽく見せているようで残念だった。一見で水商売と分かる虚飾がなかったら、彼女はもっと魅力的な女ではないかとどこかで思っているからだった。

 朱美はこの調査事務所のオーナーである北条仁と顔見知りのようで(もっとも仁の交流範囲は半端なく広いので、どこまでが「顔見知り」の範疇なのかよく分からない)、新宿で事務所を始めた当初に、彼女の勤めるクラブに挨拶に行ったことがあった。その時、朱美は真を探偵と知っても、興味を示した様子は見せなかった。何度か飲みに行ったときも、真を意識している気配もなかった。
 それが、昨日、これから同伴だからあまり時間が無いのよと言いながら、いきなり事務所を訪ねてきて、切り出したのだ。
「北条さんが、人捜しならあんたにって言うから」

 朱美は、生き別れている息子を捜して欲しいと言った。「生き別れ」と一度言ってから、「正確には捨てた」と言い直した。
 朱美は今日と同じように煙草をひとつ大きく吹かしてから話し始めた。
 十八で銀座で働き始めたこと、客の一人が娘のように可愛がってくれて、その客にどんな相手との会話にもついて行けるように仕込まれたこと、いつの間にか親子ほども年の離れたその男と理無い仲になって、二十二で子どもを産んだこと。当然、銀座には居られなくなって、新宿に流れてきたこと。子どもは育てられなくて、すぐに手放したこと。相手の男には、子どもは堕ろしたと言ったこと。

「産む前は一人で何としてでも育てようと思ってたのよ。でも実際に生まれてみたら、とても育てながら生きていくことなんてできないって気がついたのよね」
 あっさりと朱美は言った。準備してあった台詞のように、淀みがなかった。
「これまでに捜そうとしたことは?」
「ないわ」

 真が複雑な顔をしているのを見抜いたのか、朱美が脚を組み直して、少し身を乗り出して言った。
「言っとくけど、本当は捨てたことを後悔していて、でも、今更どんな顔をして会えばいいのか分からない、なんて殊勝な事を思ってたんじゃないわよ。正直、ずっと自分の事でいっぱいいっぱいだったんだから」
 子どもは、出産した小さな産院からどこかへもらわれていったという。里親のことは聞かないという約束だったらしい。
「それがなぜ、十三年も経って、急に捜そうなんて思いたったんですか?」
 母親というのは突然母性に目覚める瞬間があるのだろうか。そう不思議に思って尋ねたが、朱美は答えなかった。

 朱美が帰った後、早速、朱美が出産したという千葉の医院を確認したが、既に院長も亡くなって閉鎖されていた。じゃあ、明日にでも出かけていって、まだ近くに関係者が住んでいるかもしれないから確認してみようと思っていた矢先だった。
 朱美が帰って一時間ほどして、五十代と思われる夫婦がやってきた。
 記入してもらった依頼書には、四十四という男性の年齢と千葉の住所が書かれてあった。男もその妻も、年齢よりも遙かに老けて見えたのは、着ているものがずいぶんと古びていて、肌にも艶が無かったからだった。

 彼らの話は、失われていたパズルのピースのようにぴったりと、朱美の話に当てはまった。
 十三になる息子を育てているが、実の子どもでは無いこと、実の母親は銀座でホステスをしていたと聞いているが、詳細は知らされていないこと。
 斡旋してくれたという千葉の医院の名前も朱美の話と同じだったので、よほどその医院が特別な出産だけを扱っているのでなければ、偶然似たような話が同じタイミングであったものとは思いがたかった。

「なぜ、今になって、実の母親を捜すことになったのですか?」
 真は朱美に投げかけたのと同じ事を尋ねた。夫婦には他に子どもはいないということだったので、養子とはいえ、今更実の親に息子を取られたくないものではないのだろうかと、いぶかしく思った。
「実はこれを見てしまいまして……」

 千葉からやってきた中年夫婦は、擦り切れた守り袋を机の上に載せた。
 もともとは鮮やかな紫色だったのだろうが、すっかり色は剥げており、「身代守」と綴った金糸もあちこちが切れてみすぼらしかった。この守り袋は、子どもを引き取ったとき、実の母親が用意したという一枚の肌着とともに預かったという。
 彼らが引き取った子どもは、何も聞かされずにランドセルに付けていたが、この春に中学生になり、ランドセルを処分するときにこれを外して、「もうぼろぼろだし、捨てていい?」と聞いてきたのだという。

 彼らがやってきた時刻には美和が大学から帰ってきていて、興味津々の表情で彼らの様子を伺いながら、お茶を出し、それから真が「失礼します」と言って守り袋の中を改める手元に注目していた。
 そこには小さく折り畳まれた古い名刺が入っていた。
 折り畳まれた部分の文字は擦れて読みづらかったが、名前を判別することはできた。

 それを見て合点がいった。なぜ今日というタイミングで同時に一人の子どもに関わる二組(あるいは一組と一人)の親がここにやってきたのか。
 名刺には、真でもその名前を知っている人物の名前が記されていた。一昨日、その男が悪性リンパ腫で亡くなったという記事が、新聞にも載っていたのだ。
「もちろん、その人があの子の父親かどうかは分かりませんし、それは実の母親に聞いてみませんと」
 ふと何か苦いものを噛んでしまったような味が口の中に広がった。

 そもそも子どもはあなたたちが実の親では無いことを知っているのか、子どもの気持ちは確認したのかと聞いたが、夫婦は真とは目を合わせないようにして、答えなかった。妻の方は夫の様子を窺いながらますます落ち着かない様子になり、夫の方は妻を敢えて見ないようにして、膝の上に置いた拳に視線を落としていた。
 非常にデリケートな問題なので、一度お子さんとよく話してからのほうが良いのでは無いですかと、真はいったん話を切った。美和が「ちなみに依頼料は……」と幾分か水増しした額を提示すると、彼らは顔を見合わせた。

 彼らが帰った後、美和の顔を見たら、案の定、むっとしてた。
「遺産の分け前にでもありつこうって算段? もしくは脅迫でもしようっての?」
「美和ちゃん、憶測でものを言うのは良くないし、嘘の依頼料を伝えるのも良くないな」
「でも、当たらずとも遠からずよ」
 残念ながら、美和の勘は悪い方ではない。

 蛇の道は蛇で、ちょっと調べてみれば、実際に彼らが困窮していることがすぐにわかった。もっとも、彼らの経済状況があまり良いとは言えないなら、それは幸いだったかもしれない。美和の提示した水増し料金は、払えないことも無いかもしれないが、厳しい家計から捻出するにはちょっとばかり躊躇うような金額だったからだ。
 とはいえ、突然この名刺を持って先方に押しかけずに、いったんは母親を捜して確認しようとしたのは、幾分か良識もあったということなのだろう。

「でも、子どもの将来を思ってのことかもしれないじゃないか」
「そうかなぁ」
 美和は、真が慎重に、彼らを擁護しようとしたのが気に入らなかったようだ。もっとも、真にしても、子どもを理由に何か別のものをあてにしている様子には残念なものを感じたことは否定できない。
 それでも、子どもにとって何が幸せに繋がるかは、誰にも分からないと思った。
「でも、朱美さんにはちゃんと言わないとね」
 まずは下調べをしてから、と真は答えた。美和はまだ幾分か不満そうだったが、うんと頷いた。

 そして今、朱美は昨日の依頼は取り下げて欲しいと言ってきている。美和の目は「昨日のご夫婦のこと、言っちゃおうよ」と言っている。
 朱美の指が灰皿の隅で煙草を弾いた。灰が微かに赤く煌めき、落ちていくときはすっかり塵になって色彩を失った。
「今更会ってもね」
「もしも心配なら、直接会う必要は無いし、そっと様子を見る事もできますよ」

 朱美は、分かってないのね、という顔をした。
「何てのかな……つまり、自信が無いのよ」
「自信?」
 赤ん坊の時に捨てた子どもから責められるような言葉を投げつけられることを、今更心配しても仕方が無い。そんなことは重々承知の上で依頼に来たはずだが、やはり耐えられないと思ったのか。
 女は真の顔をちらっと見た。多分あんたの考えは間違っているわという表情だった。ふうとひとつ吹かして、それから煙草をもみ消した。

「その子の顔を見て、私の産んだ子だって、ぴんとくる自信が無いの。多分、血って、世間で言われてるほど、そんなに濃いものじゃないのよ。子どもの方だってそうじゃない? 私を見て、あぁ、確かにこの人が自分を産んだ人だって、感じると思う? 自分の産んだ子どもかどうか確信が持てないってことになったら、それこそ何だか惨めじゃない。もうこれ以上、惨めな思いはたくさん。そもそも今更引き取るってわけでもないんだし」
 昨日はどうかしていたわと言いながら朱美は立ち上がった。

 美和はドアが閉まるのを見届けてから、真の隣にくっつくように座った。
「先生、いいの?」
「仕方が無いだろ。依頼人の意志なんだから」
「でも、あの千葉の依頼人の方はどうするの? 結果的に朱美さんにはその事、伝えることになるでしょ」
「どうかな」

 真が半分予想していたとおり、それから一時間もしないうちに電話がかかってきた。
 件の千葉の依頼人の妻の方だった。
 あれから考えたのですけれど、やはりあの子は私たちのたった一人の息子ですし、あの子自身が実の母親のことを知りたいと思った時にはまた考えます。

 なさぬ仲とは言え、十三年、育ててきた子どもなのだ。だが、今回、ちらりとでも子どもを手放そうとしたこと、あわよくば息子の実の父親の家から何かの見返りを求めようと考えたことが、彼らのこれからの気持ちを揺れ動かすことになるかもしれないと思うと、少しの間憂鬱だった。
 子どもはどう思っているだろう。何も知らないなら、それが一番いい。だが、多感な年頃だ。どこかで漠然とした不安を覚えて、居場所の無いような頼りなさを感じているかもしれない。
 真はその子どもが、この先、図太くこの世を渡っていってくれることを願った。


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【お誕生日掌編】君のために
真の28歳の誕生日にお節介な過保護男からサプライズが?
こちらに登場の人物の関係が分かりやすく(珍しい真の一人称で)書かれている……はず。

Category: ☆真シリーズ・掌編

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