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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【真シリーズ短編(1)・人喰い屋敷の少年】目次 

【真シリーズ短編・人喰い屋敷の少年】目次
相川真を主人公とする一連の物語の短編集。時代は昭和の後半。
調査事務所を舞台にした人間模様。あるいは、北海道の牧場を経営する相川の一族と、ローマ教皇に繋がるヴォルテラの一族の運命の交錯を描いた物語の一部。
こちらの短編集は、本編を読まなくても問題無く読めるようになっていますので、お気軽にお楽しみにください。

相川真→出身は北海道の牧場。中学入学前に東京の伯父に引き取られる。
大学で宇宙工学を学んでいたが、色々あって中退。バイトで勤めていた六本木の調査事務所に就職した。
しかし、25の時に事務所が閉鎖されたことを機に独立、あれこれあって新宿で調査事務所を開いている。
詳しい人物紹介はこちら

1.【人喰い屋敷の少年】
 人の気配のない幽霊屋敷。そこでは不思議な少年が目撃されていた。
 行方不明者を捜して屋敷を訪れた私立探偵の相川真が謎に迫る!
 (1)カグラの店
 (2)夫の死を願う女
 (3)人を喰らう屋敷
 (4)女の事情と猫を抱いた少年
 (5)役者は揃った
 (6)白い猫を抱いた少年
 (7)飽和状態~重い夕闇~
 (8)歪み
 (9)秘めごと


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Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(1)カグラの店 

limeさん
8888Hitのリクエストもあと残りひとつとなりました。
お題はこちらのlimeさんのイラストに物語を、というもの。もちろん、リクエストを下さったのは小説ブログ「DOOR」のlimeさん(*^_^*)
私にはこの金網が「立ち入り禁止区域」=「結界」に見えてしまい、さらに空模様が微妙に不穏。しかも、ねこちゃんは何かにおびえているような感じ→ちょっとホラーもどきを書いてみたくなりました。
いえ、実は私、ホラーはダメなんです。だから、なんちゃってホラーです。
(でも、他人様にはお目にかけられませんが、真シリーズの長編第1作はまさにホラーでした^^;)
都会の片隅にはこんな「謎の場所」があるかもしれない、そしていつも通りかかる、塀ひとつ、金網ひとつ、扉ひとつの向こうには、こんな空間があるのかもしれない。
夏の夜、ちょっと足を止めて、覗いていってくださいませ。

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会った、猫を抱いた少年。幽霊が見えるという霊感少年のようだが。

真シリーズを全く御存じなくても、独立したお話として読んでいただけるようになっています。
少し古そうな印象の描写が出てきますが、時は1970年代ですので、何となく昭和後半バブルへと登り詰めていく波に取り残された都会の片隅をイメージして読んでいただければと思います。
ちなみに、カグラには某京都の石屋の女店主を髣髴させるものがありますが、ずばり、こちらが原型です。

4話構成(いつものように予定^^;)で、1話目は『バッカスからの招待状』もどきの酒場のシーンから始まります。
真って酒が飲めないのに、これも営業のうちと唐沢に連れ回され、結構色んな所に出入りしているんです。



【人喰い屋敷の少年】(1)カグラの店

「人を喰らう屋敷の話かい?」
 狭いカウンターの内側に立つ女主人が、籠もった声で聞き返した。
 煙草を燻らせる太い指の先で、赤いマニキュアが暗い照明の加減で古くこびりついた血の跡のように沈む。大きな体に纏う薄い上衣に、赤や黄、緑、青の幾何学模様が、祈りを籠めた曼荼羅のように揺れていた。

 六本木の調査事務所に勤める相川真は、カウンターに座り、いつものように飲めない酒を舐めていた。
 いずれ宇宙船を飛ばすつもりで物理学と宇宙工学を学んでいた大学を中退して、何の因果か私立探偵の見習いをしている。
 真が水割りを注文しても、女主人が水を少ししか入れないのは嫌がらせだ。真が飲めないことを知っているのだ。上がりのことよりも、酒も飲めないくせに店にやって来る人間を軽蔑することのほうが、彼女には大事であるらしい。
 しかも出された酒を残そうものなら、店から叩き出されて、二度と入れてくれないだろう。

 店内は僅か三畳ほどの広さしかない。天井も低く、カウンターに六人分の席があるだけで、背中と後ろの壁の間を通る時は、身を細めなければならない。客同士は身を寄せ合って、不安定な椅子に座っているので、時に相手の体臭が酒に混じって気が滅入る。
 だが、どれほど背伸びをしても、生まれが卑しい人間は銀座の高級店で飲めば五分で居心地が悪くなるが、劣悪な環境には比較的容易に順応するものだ。

 客は女主人に罵倒され、当たるのかどうか分からないタロット占いのカモとなって高い占い料をふっかけられ、それでも何故か磁石に引きつけられるように否応なしにここへ戻って来る。飲み代だけは恐ろしく安い。
 時折、建物自体が轟音と共に揺れる。ここは、国鉄の高架下の二階に狭苦しい店が何軒も並んでいて、鰻酒場と呼ばれているうちの一軒だった。

 店が開くのは夕方の六時だが、その時間には既にカウンターの椅子は埋まっていることが多い。もっとも長居をする客はいないので、少し待つ気があるなら、安くてそこそこの酒にありつける。
 真は今日、六時前にここにやって来た。
 すれ違うのがやっとという狭い階段の床木をギシギシ言わせながら上ると、すでに開店を待つ男が三人、店の前に立っていた。年齢も背格好も異なっているが、皆がどこかくたびれている。世間に背を向けられているのに、自分の方が世間を足蹴にしていると思っている。

 女主人はカグラと名乗っていた。名前なのか名字なのか、本名なのか通称なのかも分からない。年齢も不詳だ。二十代ということはないだろうが、三十代と言われればそうとも見えるし、還暦だと言われてもそうとも見える。
「お前、まだあの詐欺師のところで働いてるのかい? 全く、そんなふうに人生のいい時を潰しちまうなんて、どうかしてるね。行きつく先は知れてるよ」
 そうかも知れないと思うが、真にもそれなりに事情があるのだ。別にここでこの女主人に話すことでもない。
 真は痩せた指でショートホープの灰を落とした。灰だけは、重く湿った空気をものともせずに、軽やかに舞いながら落ちていく。ただし、行きつく先は安っぽいアルミの棺だ。

 女主人が詐欺師と呼んでいるのは、真の雇い主である唐沢調査事務所の所長のことだ。そして、彼女の言葉は大筋では正しい。
 店の中は、煙草の煙のせいか、あるいは外から流れ込むよどんだ空気のせいか、何となくけぶっていて、霧のたちこめる深い森の中にいるようだった。奥に小さな窓がひとつきりあって、ゆっくりと闇に堕ちていく都会の喧騒とこの店とを区切っている。
 曇った硝子の向こうで、時に赤や青の光が点灯し、揺らいでは消えていった。

 カグラの上衣の模様に重なる曖昧な光が、手元のグラスにも映っている。この琥珀色の液体を飲み切ったら、多分明日は起き上がれない。
「ただ具体的な場所を知りたいだけです」
「行こうってのかい? やめときな。お前みたいな人間は簡単に食われちまうよ」
 そう言われても仕事だから仕方がない。
 唐沢はこの手の依頼が来ると、ニタニタ笑って真の肩を叩く。うちの所員には幽霊だって見つけちゃう優秀な若者がいましてね、と依頼人に縁起でもないことを言うのだ。一体いつから唐沢がそんな風に思い込んでいるのか、真にはよく分からない。

 カグラは無表情だったが唇の端だけを釣り上げた。
「教えてやったら、代わりに何をくれるんだい?」
 真は答えなかった。真をここに連れてきた唐沢所長の助言によると、「決して下手に出てはいけない」のだ。
 あの女と契約をするってのはだな、人間と妖怪が契約書を交わすのと同じだ。異種の世界に住む同士の間で契約なんぞあり得ない。絶対に取引するんじゃないぞ。下手に契約を交そうものなら、命までとられかねないからな。
 真からすれば、唐沢もカグラも同じ穴のムジナ、に見える。

「この人に頼みごとなんて、止めといたほうがいいよ。骨までしゃぶられる。あんた、私立探偵だっけ? 今回はどんな仕事?」
 真の隣に座っている、三十代のくたびれたサラリーマンらしい男が声を掛けてきた。ネクタイも背広も皺がよって張りがない。飲み始めてから半時間もたたないのに、すでに酔いが回っているようだ。あるいは昼間から既に出来上がっていたのかもしれない。「窓さん」と呼ばれているのは、どうせ窓際族だろうと常連たちが決めつけているからだ。
 じろり、とカグラが睨んだ。
「あんた、この店であたしの許可なく喋るんじゃないよ。それ以上口をきいたらおん出すからね」

 言葉と同時に、カグラの指が真の顎に伸びてきた。煙草の煙が真の頬を舐めるように上ってきて、鼻と目に沁みた。薄暗い灯りの下だったが、魔女か殺人鬼を演じる舞台俳優のようにくっきりと縁取られた目が近づいてきて、それ自体が生き物のように光る。
「特別にタダで占ってやろうか?」
「占いはいりません」
「自分の運命を知るのは怖いかい?」
 真は口を噤んだ。

 運命? それはどんなことを指すのだろう? たとえば、異国の女性との間にできた子どもをもてあました父親に、生まれて間もなく捨てられてしまうようなことだろうか。あるいは、叶わぬ恋に精神を病んだ継母に首を絞められてしまうようなことだろうか。または、自分の人生の中にどうしても思い出せない時間を抱えているようなことだろうか。
 十九の秋、崖から転落して生死の境を彷徨った。真にはその数日前からの記憶がない。逆行性健忘だと説明されたが、ぽっかりと抜け落ちた時間の前後で、ここにいる相川真という人間が、過去からちゃんと繋がっている同じひとりの自分なのか、今でも自信がない。

 それとも。思い出したくない何かがその数日にあったのか。だから自分でその時間を脳の中のどこかの引き出しに仕舞い、鍵を掛けた。
 思い出せないけれど、自分の中のどこかにいる真実の自分は、あれが事故だったのかあるいは自殺未遂だったのか、そしていったい自分が何をしたのか、本当はちゃんと知っているのだろう。知っているけれど、思い出したくないのだ。それを思い出す時には、辛うじてこの世界に留まっている自分という存在は、ばらばらに崩れ落ちてしまうに違いない。

 しばしば同じ夢を見る。
 真っ白な霧の中で、変色した真鍮の鍵を手にして立っている。目の前には鍵のかかった古い机の引き出しがある。恐ろしくて身が竦むのに、手は見えざるものに導かれるままに、まっ黒な鍵穴に鍵を差し込む。この鍵が合わなければいいと願う。だが、無情にも鍵は抵抗なく回る。冷静だと思っている頭とじっとりと湿った指は、完全に乖離している。かちゃり、と振動が指先から身体全体に伝わってくる。
 その夢の先は見たことがない。
 あの「事故」以来、ふわふわと、実存という幻としてこの世を漂っている。
 これ以上に素敵な運命の話など、あるとも思えないし、あったとしても聞きたいとも思わない。

 カグラの指はしばらくの間、真の顎に触れたままだった。冷たく乾いた手だ。それから唇に触れかけて、すっと離れていった。
「この世から誰にも気が付かれないように消えちまいたいが、死ぬまでの勇気がない奴は幾らでもいる。自ら望んで消えたってのに、それでもあんたは捜すのかい」
「それが仕事ですから」
「ほ。まともなことを言う」
 この店ではまともなことを言ってはいけない、とでも言いたげだった。

「幽霊が見える私立探偵が、死者の幻の影を捜して彷徨う。そいつはいい」
 カウンターの一番奥を指定席にしている「作家」が呟いて、くしゃくしゃの紙を懐から取り出し、ちびた鉛筆でメモを取っている。
「作家」というのは自称で、真はその男の本当の名前を知らない。歳の頃は四十代くらいか。時々呟く言葉が、独り言なのか、あるいは話しかけられたのか、分からないことがある。だが、少なくとも「作家」が「私立探偵」に興味を持っていることは確かのようだ。
 いや、大方の「作家」は「私立探偵」に興味があるに違いない。

「風のない夏の夜、眠れない主人公が船の甲板に出ると、ひとりの男が亡霊のように立って海面を見つめている。振り返った男の顔は、月明かりで真っ青に見える。気味が悪いが目が合ってしまったので、やむを得ず主人公は男に話しかける。暑いですね、何か見えますか。男は淡々とした声で答える。えぇ、先ほど誰か飛び込んだみたいです、自殺でしょうか。それを聞いた主人公は怯えた声を上げる。それは大変だ、誰かに知らせなければ。しかし男は慌てる素振りもない。男の濡れた髪から雫が零れ落ちる。いや、もう遅いようですよ、ほら。男が濡れた手で海を指す。月明りが作る細い波の道に、一人の男が仰向けに浮いている。その顔は……」

 真が煙草を挟んだ手でグラスを持ったまま「作家」の低い声を聞いていると、不意に「作家」が身を屈めるようにして、カウンターの一番端から反対の端に座る真の方を見た。
「あなたは主人公が何を見たと思います?」
 くつくつと「作家」が笑う。真は答えを知っていたが、返事をしなかった。
「馬鹿馬鹿しい。そういう物語の手法だろう? 甲板に立っている男が幽霊であるかのような描写をさんざんしておいて、実は海に浮かんでいる自殺者は主人公自身だったというオチなのさ。叙述トリックの基本形だ」

 酒と煙草で擦れたカグラの言葉が終わるのを待って、「作家」の隣に座っていた「教授」が言った。
「しかし、自分が死んでしまったことに気が付かないなんてことがありますかね」
 何の「教授」かは知らないし、本当に大学で教えている先生という職業なのかは分からない。いかにもロマンスグレイという風体で、おっとりとした声で一本筋が通ったような理屈を言うので、皆がそう呼んでいるだけかもしれない。
「いやぁ、魚も名人に捌かれたら、自分が死んじまったことに気が付かないで泳いでるっていうじゃないか」
 真の隣で「窓さん」が、噛み合うような噛み合わないようなことを言って、またグラスを空けた。後でこっそりと自分のグラスをこの男の前に置いておこうと真は思った。

「教授、幽霊はね、必ずしも自分が死んだということに気が付いているとは限らないものなんだ。魂というのか、ある種の念といったものが残る。例えばあまりにも突然に予期せぬ死が訪れた時。あるいは死を覚悟していたが、取り返しがつかない段階で後悔して、この世に未練を残してしまった時」
「それは物語の世界の話でしょう。現実には霊はあり得ないと思いますよ。例えば幽霊の目撃談にしても、地球の磁場が作る空間の歪みが、人間の視覚のぎりぎりのところで捉えられた結果だと推測されますね。あるいは恐怖心が生み出す脳の錯覚。脳はあまりにも不可解なものを許容できないので、かつて学習し習得した知識に照らし合わせて、何かに変容させて理解する。子どもの頃に読んだ小説や見たテレビに植え付けられたイメージのままの『幽霊』や『宇宙人』、という形に押し込めてしまうのでしょう」

「霊を科学で証明しようという試みはさんざんされているが、さて、どうでしょうね。霊は存在するのか、しないのか。見えなければいないのか、見えなくてもいるのか。ね、探偵さん」
 真はやはり答えずに、琥珀色の液体を舐めた。
 幽霊談義に参加するつもりはなかった。
 カグラが、躊躇っていないで酔っぱらっちまいなというような意地悪な視線を送ってくる。

「だが、生きながら無になることは難しくはないかもしれませんね。幽霊にはなれないが、他人からは死者と見なされることです。例えば誰かがこの世から消えてしまいたいと願った時、存在をなかったことにすることは意外に簡単です。自分を知っているあらゆる人間との接触を断つ。それだけで、その人はある側面からは無になる。他人に認識されてこそ存在する何某とやらは、認識されなくなれば、その何某であることが終わる。人が他人との関係や繋がりを求め、肩書を求めるのは、何某かであることを証明したいからなんです。全ての人間との接触を断ったら、自分が何者であるかを証明することは、結構むずかしいものですからね。不老不死を求めるのは人間の常ですが、自分だけが生き残っても意味がないのはそういうことです。誰からも認識されない何某は無と同じです」

「教授ぅ。俺なんぞ、いつも消えちまいたいと思っていますけどね、でも自分を知る全ての人間の前から消えちまったとしても、一番厄介な自分自身からは逃げられませんよぉ」
「いや、そうでもないかもしれない。不在者の生死が不明になってから七年間たてば、死亡したと同じと見なされる。自分の死亡届が出されたら、もしかすると、自分という楔からも解き放たれるかもしれない。生きながらにして死者となる。戸籍というただ紙切れ一枚の上に名前が書かれているだけのことなのに。なるほど、突き詰めれば人の存在とは紙切れの上の認識の問題なのか。自分が自分を認識する、認識する自分が存在しなくなれば、それが無なのか。他人からは認められなくなった自分は無なのか。では、認識されれば幽霊でも在ることになるのか、はたまた」

「作家」は呟きながらまた紙に何かを書きつけていた。
 存在という哲学的命題と、幽霊の存在を云々することはまるで別の問題だ。霊感があると人に言われる真だが、霊の存在を信じているわけではない。それは信じる、信じない以前の問題だ。在るものは在るし、無いものは無い。それだけのことだ。見えるもの、感じるものを信じるしかない。
 そして、失踪人調査は、幽霊談義とは別のことだ。

 待っていてもどうやら有用な情報は与えられそうにもない。真は諦めて、飲んだくれの「窓さん」の前に、自分のグラスをそっと滑らせた。酒も飲めないくせに来るんじゃないよという視線は感じたものの、カグラは何も言わなかった。
 代金を置いて、小さく皆に会釈をして席を立った。
 釣銭が貰えるはずだったが、カグラは数枚の千円札の上に手を置いたまま、釣銭を数える気配はなかった。

 蒸し暑い。
 古い木の階段は降りる時にもまたぎしぎしと鳴った。幾分か湿気が強くなっているような気がする。
 海が近いので、風向きによっては潮の香りが強くなる。すでに日が落ちていたが、まだ足元には昼間の強い光の名残が残っていた。薄闇にともる街灯の周りに蒸気が集まり、白く煙る輪の中で虫が舞っている。煙草の臭いが染みたシャツが、身体に張り付いていた。

 人を喰らう屋敷。
 よくある噂話だが、都会のどこかには、傍にあるのにそれが何なのか分からないブラックボックスのような場所があるものだ。使う人が少なく用心が悪いので立ち入り禁止になった地下道への入り口、毎日通りかかるのに中に入ったことのない暗い森がある公園、人気はなく、固く閉ざされた扉に聞いたことのない会社名が並んでいる古いビルの長い廊下、いつも門扉に南京錠がかかっていて人の気配がない屋敷。
 結局、場所は分からなかったが、何となくあの辺りかというイメージはあった。だいたい、カグラが正確に場所を知っているとも限らない。あの女主人は、噂話に適当に尾ひれはひれをつけて話していただけかもしれない。
 明日、あの周辺で子どもたちをつかまえて聞いてみれば、多分すぐにでも場所が分かるだろう。

 線路の高架下になっているものの、こちらの方向へ歩いてくる人は僅かだった。
 蒸した空気に電車が行き過ぎる音が絡まる。この上にセミの鳴き声が重ならないだけでもましだと思いながら駅の方向へ歩き始めた時、突然後ろから腕を掴まれた。
「いや、よかった、探偵さん」
 追いかけてきたのは「作家」だった。キャスケット帽子を少しだけ斜めに被り、丈の短い粋なスーツを着ている。それでも何となくくたびれて見えるのは、そのスーツがあまり似合っていないからなのだろう。
「あなた、知りたいんでしょ。人を喰う屋敷の場所」

 真が返事をする前に「作家」は先を続けた。
「どうです。今から行ってみましょうよ」
「今から?」
「幽霊屋敷ですよ。昼間に行ってどうするんです? 折しも季節は夏。蒸し暑く、身体に纏わりつく空気さえ何かこの世のものではないものを孕んでいるようだ。こんな日はぜひ、幽霊に出会ってみたいものですからね」
「作家」の丸眼鏡は大方伊達なのだろう。その奥にある目は、分厚いガラスの向こうで何を考えているのかまるで分らない。

 子どもの肝試しでもあるまいに、と思ったが、ここで断るという選択肢はなさそうだった。
 唐沢は真がこの仕事に一週間も費やしようものなら、あれこれと嫌味を言うだろう。とにかく噂の「人を喰らう屋敷」と依頼された失踪者の関係を明らかにすればそれでいい。
「それで」
 並んで駅のほうに歩き始めてから「作家」が尋ねた。
「もちろん、あなたは幽霊が見えますよね?」

 幽霊が見える私立探偵が、死者の幻の影を捜して彷徨う。
 それが「作家」の求めている題材なのだろうか。
 いや、彷徨うのはごめんだな、と真は思い、少なくとも道連れがいる方が安全には違いないと考えた、その時。
「噂の屋敷に行くのなら、もちろん俺たちも連れてくよなぁ」
 千鳥足の「窓さん」と暑いのにスーツをきちんと着た「教授」までもが追いかけてきた。


(2)夫の死を願う女に続く。




折しも昨夜、近所で子どもたちが懐中電灯を持って、何人かで組になって、ちょっぴり賑やかに歩いていました。
会話の内容からは、どうやら肝試し中。今時、そんなものをやっているのですね。
昔、家の周りが田畑と木立しかなかったころ、近所の子供会で肝試しをしていたことを思い出しました。
確かに、その辺に「出そうな」掘立小屋とか、ありましたもの。

そうそう、これは偶然ですが、limeさんがただ今連載中の『モザイクの月』に出てくる優馬くんにも記憶から抜け落ちた時間がありますが、うちの真にもありまして。
19の時に北海道で崖から転落して死にかけています。これが事故なのか自殺未遂なのか、本人は数日前からの記憶がありません。記憶は強いショックで失われることがありますが、それがどんなショックだったのか、今の真にはわかりません。でも、実は、自分は本当はあの時死んじゃってて、今の自分は実は……なんて思っていたりします。
この謎に真っ向から向かい合うのは、現在連載中の『海に落ちる雨』の次作『雪原の星月夜』(執筆中)。行方不明の女性作家を探す一方で、真っ向から自分を捨てた父親と向かい合う物語になっています。もう真は29かな。
あ、これはまだ先の話ですが。
このお話では真は22歳(多分)。『清明の雪』の後くらいの時系列になります。

次回は結界の中、人喰い屋敷に参りましょう(^^)
真って、変な道連れには恵まれているみたいですね^^;
あ、その前に、次回は唐沢調査事務所から始まります(*^_^*)

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(2)夫の死を願う女 

limeさん
少し間が空いてしまいました。この頃少し「スランプ」なのでしょうか。いちいち引っかかって前に進まないのです。集中力もないし、やたらと眠いし。もしかして「幽霊」の仕業か? 「人喰い屋敷」の呪いか?
なんて冗談はさておき、『人喰い屋敷の少年』(2)です。順番を入れ替えたので、章題が予告とは変わっています。
お楽しみくださいませ(*^_^*)
ちなみに第1話はこちら→(1)カグラの店

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会った、猫を抱いた少年。(まだ出会っていませんね^^;)



【人喰い屋敷の少年】(2)夫の死を願う女

 その依頼人がやって来たのは土曜日の午後だった。
 所長の唐沢は昼過ぎには飲みに出て行ってしまったし、先輩探偵である三上は他の依頼の件で出かけている。事務員の女の子は土曜日は休んでいることが多い。

 調査事務所にとって駅から徒歩八分というのは極めて好立地だ。
 あまりにも駅に近いと、別に見られているわけではなくても、何となく人目が気になって入りにくい。かといって駅から遠すぎると、たどり着くまでに事務所の扉を開ける決心が鈍る。
 もっとも、この事務所に辿り着いた依頼人は、どう見ても戦前からあると思われるビルの大きな亀裂には足を止めるだろう。

 その日、留守番を預かっていた真は、誰もいない部屋で窓を開けたまま、事務机に肘をついてぼんやりと外を眺めていた。
 外、と言っても特別な景観があるわけではない。大通りから一本だけ入った道に面しているビルの二階で、見えるのは向かいのビルの古めかしい外壁と窓だけだ。
 真正面に見えるのは、喫茶アネモネという赤い文字で、少しだけ腰の曲がったオーナーの姿が薄暗いガラス窓の向こうでよたよたと歩いていた。還暦も過ぎたお祖母さんだが、オムライスが滅法美味いのと、孫娘が可愛いと言うので、唐沢のお気に入りだ。

 じりじりと熱を上げる道路の照り返しが窓に昇ってくる。一人の部屋でクーラーは贅沢だと思い窓を開けていたのだが、さすがに暑い。
 扇風機を回そうと立ち上がりかけたところ、重い木の扉がノックされた。
 真が扉を開けた時、ほっそりとした色白の女性が一歩後ろに下がり、驚いたような顔をした。
 もちろん、ここに来た目的が他にあるわけではないだろう。それでも彼女の気持ちは分からなくもない。調査事務所という場所には、扉をノックしてからでも引き返そうかと思わせる何かがあるのだ。

 束ねられた長い髪は艶を失っているように見えたが、頬にかかるほつれ髪は彼女の顔をより白く輝かせていた。地味な服装に化粧っ気のない顔。それでも一度見たら忘れられない女性だと真は思った。
 女性は松岡綾と名乗った。

 たいていの依頼人は真のような若い探偵に訝しげな顔をする。こんな若僧に大事な話をして大丈夫か、という不安からだろう。だが綾はそういう気配を見せなかった。憔悴したようにも見えるその気配から、真は浮気調査の可能性は低いと見た。
 浮気調査を依頼しに来る女性は、もっと明確な目的を持った顔をしていることが多い。少なくとも、依頼をする時点で何かを吹っ切っているからだ。

 真は慌ててテーブルに放置されたエロ雑誌を片付けた。唐沢があちこちに放り出しているので、こうした雑誌が散らかっているのが見慣れた景色になってしまっているが、来客の存在でその異常さに気が付く。
 それから、窓を閉めてクーラーの電源を入れ、依頼人を招き入れて、奥の冷蔵庫から麦茶を出し、小さなガラスのコップに注いだ。
 事務員はサクラという名前の若い女の子で、昼間はこの事務所で、夜は小さなスナックで働いていると言っていた。髪の毛を染めて、化粧は派手だった。間延びした喋り方をして、いつも億劫そうに座っているだけだが、それでもこんなちょっとしたことをしてくれる人間がいないだけで、結構面倒なものだと思う。

 真が麦茶の入ったコップを持って戻ってきたとき、綾は来客用のソファに座り、ぼんやりと向かいのビルの『アネモネ』という文字を見つめていた。
 真は、これに書き込んでくださいと言って、綾に依頼書とペンを渡した。綾はしばらくじっと依頼書を見つめていたが、重いものでも持ち上げるようにペンをとり、身を屈めるようにして書き込んでいった。

 松岡綾。二十七歳。住所は江戸川区。職業は空欄だった。依頼内容の部分に来て彼女の手が止まる。真が、そこは私が書きますからと言うと、重労働を終えたかのようにほっとした顔になった。
 それから少しの間は沈黙が続いていた。

 こんな時、熟練の探偵ならうまく相手の気持ちを和らげるのだろうが、真はいつまでたっても話を切り出すのが苦手なままだった。時々こうして留守番をしているが、飛び込みの依頼人がやって来ることは滅多にないので、自ら苦手を克服しようという気持ちにもならない。いつも唐沢や三上がどんなふうに話を切り出していたかと考えても、うまく思い出せなかった。
 やがて綾の方が真の視線と沈黙に屈したようだった。

「この人が生きているのかどうか知りたいのです」
 綾は表情を変えずにそう言って、小さな擦り切れたバッグから写真を出した。
 細く白い手には指輪はなかった。
 写真には、今よりも少し幼い顔をした綾と三十代くらいの男が並んで写っていた。男は背が高く、いささか目つきがきな臭い。写真だからそう見えると言うのではなく、ある独特の職業の人間が持つ顔つきだった。

 真は彼女の言葉を依頼書に書き込みながら、ふと顔を上げた。
「あの……失踪人を捜すということではなくて?」
 綾は一瞬、不意打ちを受けたような顔をした。真の質問の意味を即座に理解したのは、彼女自身も普通の依頼ではない、何か事情を抱えていることを自覚していたからなのだろう。
 綾はしばらく注意深く真の顔を見つめ、やがてはっきりと頷いた。
「死んでいたらそれでいいのです」

「生きていたら?」
 綾は視線を漂わせたが、返事をしなかった。
 昔の恋人の消息を知りたいとか、生き別れた家族のことを知りたいとか、そういう依頼はありがちだ。だがこれほど明瞭に生死を問う依頼は滅多にない。何か特別な事情が見え隠れしていた。

 失踪人調査の場合に気を付けなければならないのは、依頼人と失踪人の関係と捜索の理由だった。後で何が起こってもこちらは責任を持たないと突っぱねることができるか、確認が必要な場合も多々あるからだ。場合によっては、探し当てた後から修羅場になることもある。
「この方のお名前と、あなたとの御関係をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
 というより、話してくれなければ前に進まない。綾は少し間を置いて答えた。

 小さな間だったが、彼女の逡巡の理由が複雑であるという気配を漂わせていた。
「松岡圭吾。私の夫です」
 真は、膝の上におかれた綾の左の薬指をもう一度確かめた。
 もちろん、結婚指輪をしない女性もいる。だが、彼女の場合は、何か強い意志を持って外しているように思えた。
「あの、これは皆さんにお聞きするとこなので、お気を悪くなさらないでください。どういう事情にしても、警察には届けられたのでしょうか」

 綾はじっと真の顔を見つめた。吸い込まれそうなまっ黒な瞳だ。オッドアイのために人の目を見るのが苦手な真も、思わず見つめ返していた。
「届けてはおりません。私からの届けは必要なかったものですから」
「どういう意味ですか?」
 他の誰かが届けたということか。真は写真の中の松岡圭吾という男の顔をもう一度見た。独特の職業の人間が持つ、きな臭い顔つき。

「夫は刑事でしたから」
 やはりそうか。面白いことに、対極にいるはずのヤクザと刑事は大体同じような顔つきをしていて、写真などで見ると職業がどちらか言い当てるのは難しい。
 いずれにしても、探偵事務所にとってはどちらでも同じだ。あまり有難い相手ではない。
 真はペンを置いた。
「では、探偵事務所が介入する余地はないと思うのですが」

 綾は口の中で何かを呟いたように見えた。言葉を選んだのかもしれない。
「夫が失踪してもうすぐ七年です」
 綾の頬は相変わらず、固く閉ざされた氷のように白いままだった。
「失踪する前に関わっていた事件は解決しています。夫が失踪した理由は別にあるのです。そして、当時警察は真剣に行方を捜していたとは思いません」
「どうしてそう思うのですか」

「夫は、良い刑事ではありませんでしたから」
 言葉を吟味してそう言ったようだが、綾は真の顔を見て、もう一度考え、付け加えた。真が意味を解していないような顔をしていたからだろう。
「捜査の仕方が強引でした。裏では良くない人たちとのつながりがあって、詐欺や恐喝まがいのこともしていたようです」
「それで」
 真は一旦言葉を切った。依頼書に書かれた細い文字が、筆で薄く書かれた仮名文字のように、頼りなく流れていくように見えた。

「もしも生きていたとしても、七年経って失踪宣言の審議申立てをして認められれば、あなたは法律上は自由の身になれるんじゃありませんか。わざわざ今、生死を確認しなければならない理由はなんですか?」
 もう少し綿で包んだような言い方をしろと所長の唐沢には言われる。女にそんな口のきき方をしていたら、嫌われて何もしゃべってもらえなくなるぞ、と言うのだ。
 かく言う唐沢は相手によって言い方を変えていて、女性相手には優しい話し方をしているが、相手が相手ならどちらがやくざかと思うような口のきき方だ。

 いや、唐沢自身、まともな調査事務所を経営している、まっ当な探偵というわけではない。彼が裏で何をやっているのか、真はあえてその辺には触れないようにしているが、博打と女に金を注ぎ込んでいながら、時折従業員に給料と言う名前の破格の小遣いをくれるからには、正攻法で探偵業だけをしているとは思えない。
 綾の夫といい勝負なのだろうが、公僕ではないゆえに見逃されているようなものだ。
 だが、唐沢が探偵として極めて優秀な事だけは確かだ。表向きは実に真っ当な仕事をしていて、いくつかの弁護士事務所や保険会社からは最後の砦だと思われていた。

「それは、依頼の際に必要な事でしょうか」
「はい。あなたがそのようにおっしゃることの中に失踪の理由があるのなら、知っておかなければ捜すことはできません」
「捜さなくていいのです。ただ死んでいるのかどうか知りたいのです」
「同じことではありませんか? 捜さなくて死んでいるかどうかだけ確認することはできません」
 そう、ただひとつ、その「死」が殺人で、犯人が確かに殺したと言うなら別だが。

 この依頼はいささか裏がありそうだ。唐沢は金になると思えば食いつくが、金にもならないのにただ面倒だと知れば、うまくあしらって依頼を諦めさせる。真にはそのような芸当はできそうにもないが、引き受けて最初に聞き込みをする相手が警察というのは、どう考えても上手くない。綾が怒って帰ってしまうならそれもいいと思った。
 だが、綾はもう一度バッグを開け、細い手で厚い封筒を出してきた。
「こういう調査にいくらかかるのか想像がつかなかったものですから」

 唐沢なら、この時点でこの人の手を握るだろう。
 真はじっと綾の黒い瞳を見つめた。張り詰めたような鋭い緊張が見て取れる。もう何年も思いつめていたことが分かる。何かに追い籠められてここに来たことも理解できる。それだけに何とかしてあげたいと思わなくもないが、刑事の失踪となると話は別だ。

 だが真は、綾の切羽詰ったような表情に負けてしまった。
「これは多すぎます。とりあえず、手付金として三万円を頂きます。この調査が簡単に済んでしまうものなら、追加料金は頂きませんので」
 どう見ても封筒の中には百万ほどの現金が入っていた。身なりからもそれほど裕福なご婦人と言うわけでもなさそうだったので、この金には彼女の決心が見て取れた。
 ようやく綾はほっとしたような顔をした。そして、やっと秘密を打ち明ける気になったようだった。
「夫は人食い屋敷に食われたのかもしれません」


 カグラの店には一癖も二癖もある人間たちが集まる。
 真は何時の間にか連れだって歩いている連中を確認した。

 前を歩くのは、酒を飲んでいても歩いていても背筋をつっと伸ばして、如何にもダンディな「教授」。
 いつも髪をきちんと撫で付け、綺麗に髭を剃っている。そして、時に重大な宇宙の真理を計算しているように宙を見る。暑さなど感じないかのようにネクタイを締め、スーツを着崩さない。

「教授」の斜め前を歩いているのが「作家」。
 時折振り返り、真の歩みを確かめている。着崩した背広姿でポケットに手を突っ込んでいるのは、少し世間を斜めから見ているというパフォーマンスなのか。もう少し古い時代なら、作務衣か着物姿も似合いそうだが、やや長めの髪をキャスケット帽に無造作に収め、ずれた丸眼鏡をそのままにしている。

 そして、真の後ろからついてくるのが酔っぱらって千鳥足の「窓さん」。
 サラリーマンだと言っていたが、ニックネームから察するに窓際に追いやられているのか。靴はぼろぼろで、一応背広姿ではあるものの、外したネクタイがポケットから半分はみ出していた。たまにふらついて、電信柱に何か話しかけている。

 妙なことになったものだ。
 カグラの店は新宿の外れにあった。新宿から小田急線に乗り、世田谷の某所までやって来て、「作家」が知っているという「人を喰らう屋敷」、有り体に言えば幽霊屋敷に、飲み屋の客同士が連れだって向かっている。

 幽霊談義はカグラの店での毎日の話題のひとつだ。
 店の独特の雰囲気がそうさせるのかもしれないが、何より、お互いの職業も住んでいる場所も明かそうとしない客たちが酒を飲みながら会話をしようとするなら、何か特別な話題が必要となる。
 だが、天気の話は一分あれば十分だ。政治と経済の話は三畳ばかりの狭く安っぽい飲み屋では野暮すぎる。カグラの店に集まる連中は皆、政治を憎んでいるように見えるし、世間が上昇気流に乗っていても、あの店はいつも不景気な顔をしている。

 だから、皆、好んで噂話をする。
 噂と言っても、有名人の話ではない。誰にも関係がなさそうな、嘘と言えばそうとも聞こえ、真実だと言えばそのようにも聞こえる、そんな噂話だ。それも大袈裟で嘘っぽいほどいい。誰も真実を突き止めようとはしないはずだからだ。
 おそらくそんな中で『人食い屋敷』の話を聞いたのだ。

 カグラの店での真の位置づけは『オカルト系実体験が豊富な霊感探偵』というところらしい。
 もちろん、真自身が自分のことをそのように言ったわけではない。真を連れ回すことを趣味にしているとしか思えない所長の唐沢が、あることないこと吹聴するのだ。しかも、具合の悪いことに、真自身が持っている「オーラ」とやらがそれを真実らしく脚色しているらしい。

 目は右が深い森のような碧、左は深い闇のような黒だった。髪の色は幾分か明るい。真自身は会ったこともないが、母親はドイツ人とのハーフだと聞いている。
 その一方、育ったのは北海道の沿岸部で、まわりの大人たちは漁師か牧場関係者ばかりだった。言葉は荒く北国訛り、お蔭で東京に出て来てから人と話すことに抵抗があり、自ずと無口になってしまった。
 あれこれが絡まって、独特のムードがあると思われていて、それがオカルト探偵もどきの噂に真実味を与えてしまっているというわけだ。

 だが、探偵業務に役立つ霊感など、通常では考えにくい。少なくとも、真自身、調査の際に霊感が役立った例など全くない。しかも、見えざるものが見えたところで、お祓いができるなど人の役に立つことなど何ひとつなく、ただ感じるだけなのだ。そもそも真自身はこれが特殊な能力だとも思わないし、自分でもただの勘違いか精神病の一種ではないかと感じている。

 多くの飲み屋では、皆がある「役割」を演じているものだ。いつの間にか現実の姿とは少しずれた人物像を作り上げている。つまり、真の役割は、表の生活の中で話題にしたら怪訝な顔をされるような話のブラックボックス、というわけだ。話を放り込むのもよし、拡張させるのもよし、場合によっては吸収して消し去ってくれるかもしれない、という期待が込められていたりする。
 だから、カグラの店では、真を見れば皆、幽霊・オカルト話を始めるという始末だった。

 そういうわけで、依頼人の松岡綾が『人食い屋敷』の話をしたとき、「どこかで聞いた話」だと思ったのも当然だった。しかも、その「どこか」の選択肢は恐ろしく狭かった。
 綾自身はその屋敷がどこにあるのか、まるで知らないと言った。

 それじゃあ、なぜ、食われたなどと思うのです?
 真が聞くと、綾はまたじっと真の顔を見つめ、答えた。
 夫は私をその屋敷に連れて行って、「食わせる」つもりだったようですから。
 妙なことをずいぶんとあっさりとした顔で言うものだと思ったが、真はそんなこともあるのかもしれないと当たり前のように確認した。
「食わせる」というのは、屋敷にですか。
 綾は唇の端を少し上げて微笑んだ。真が、何がおかしいのかという顔をしたことにすぐに気が付いたようで、真面目な顔で答えた。
 いえ。驚かれたり呆れたりなさらないから。

 思えばおかしな女だと思った。まるで生死とか常識とか社会通念とか、そういうものを越えている。もっとも、真にとっては幽霊が事件を起こすよりも、現実の人間のすることの方が恐ろしい。
 綾が帰った後、彼女の座っていた場所には大金の入った封筒が残されていた。慌てて追いかけたが、あの細い身体は人混みに紛れて見つからなかった。
 後で返そうとあの封筒を引き出しに無造作に突っ込んできてしまったが、唐沢の目に触れていないことを願うしかない。出所を確認もせずに、懐に仕舞うに違いないからだ。

「屋敷の場所って、カグラさんが教えてくれたのですか?」
 真が聞くと「窓さん」がけたけた笑った。
「カグラさん、って、あのばあさんにさん付けはねぇよ」
「作家」が含み笑いをしているのか、背中が幾分か揺れていた。彼は歩みのスピードを緩め、真に並ぶ。

「ねぇ、探偵さん、この東京という大きな都市にはね、妖怪が闊歩していた江戸時代、あるいは新しい時代を築くために大事な何かを地中深くに埋めてしまった明治時代、あるいは摩訶不思議な熱気に煽られた大正時代から確かに続いている、不可侵の秘密がそこかしこに残されているんだ。あるいは、一般人民に知られることはまかりならない戦前・戦中の秘密もね。そういったものはどこにあると思います?」
 そう言うや、「作家」が立ち止まる。「教授」も足を止めた。

「たとえばこの何の変哲もない家。しかし、我々はこの家の中で何が行われているのか分からない。例えば七年間、少女が閉じ込められているかもしれない。少女はもしかすると自分が閉じ込められているということを知らないかもしれない。人生とはそんなものだと思っているかもしれない。ねぇ、教授」
「作家」が「教授」に流し目を送った。「教授」は「作家」が適当に示した家を検分するように見つめている。背丈はほぼ似ている二人だが、声のトーンがまるで違っていた。何かを探るような、いささか神経に触るような声で話す「作家」に比べると、「教授」の声はいつも穏やかで催眠術でもかけようとしているかのようだ。

「確かに、江戸時代の長屋のように、隣の怒鳴り声までも聞こえてくるような作りではありませんからね。ところで」
「教授」がいきなり真のほうを振り返った。表情は淡々としたままだ。少し離れた街灯からの明かりで、顔の半分だけが白く、残りの半分は暗く沈んでいる。
「あなたは何故、人食い屋敷を訪ねようとなさっているのですか」
「作家」がくつくつと笑った。
「教授、それはだめですよ。探偵にはね、守秘義務ってやつがあるんだ。我々はせいぜい彼にくっついて行って、謎解きの一端を覗き見るだけだ。ね、探偵さん」

「しゅひぎむぅ? 何の話ぃ?」
 酒臭い息が頬にかかった。「窓さん」が真の肩に手を掛けて話しに加わってくる。
「さて、探偵はどんな依頼を受けたのか。それすらも明らかにされずに始まる探偵小説もまた面白い」
「ではあなたはこれをネタに何か物語を書こうという訳ですか」
 責めるようでもなく、変わらずに淡々とした声だった。

「いやいや、俺はね、幽霊が見えると言う探偵さんに興味があるだけなんだ。しかもターゲットは噂の『人食い屋敷』。実はね、カグラに話を聞いてから、周辺を歩いてみたことがあるんですよ。それで、何を見たと思います?」
「お化け!」
「窓さん」が真の肩に置いた手に力を入れてくる。これだけ酔っぱらっているのに、話の脈絡がそれなりに合っているのが不思議だ。

「作家」は肯定も否定もせずに、唇の端を吊り上げて笑った。そして、意味深に三人の顔を見回し、秘密の話を打ち明けるように声を潜める。
「幽霊なのか、生霊なのか、いずれにしてもこの世にあり得べからざるものだ。実はね、今は誰も住んでいないはずの屋敷なのに、少年が目撃されているのですよ。青白い顔の少年が白い猫を抱いて屋敷の庭を歩いている。近所の小学生が塾の帰りに見たそうですよ。いや、もしかすると少年は悪い奴に拉致されて、閉じ込められているのかもしれない。あるいは殺されて庭に埋められているのか。そして、夜になったら魂だけが庭を彷徨っている」

「あなたが少年を見たわけではないんですよね」
 真には、人からは霊感と思われているものがあるかもしれない。だが、それは在りもしないことには騙されないという方向へ働く。胡散臭い話には、生きた人間の思惑が働いているものだ。
「作家」は真の顔をじっと見つめた。
「そう。俺には幽霊は見えませんからね。だが、猫はいたんですよ。白い猫」

 そして「教授」と「窓さん」の顔をじっと見て付け加えた。
「もっとも、俺が見たものが実存する猫かどうかはわからない。しかし、あの屋敷にはね、きっと秘密があるんだ。さあ、探偵さんの事件を覗き見しに行こうじゃありませんか」

 全く、幽霊話と宇宙人目撃話には尾ひれはひれがやたらとくっつくものだ。そのうち誘拐されたとかいう体験談まで加わってくるに違いない。
 もちろん、宇宙人に誘拐されるなどあり得ない。だが脳がそれを「記憶」することはあるだろう。例えばその話を百回も聞けば、実際に起こった出来事だと錯覚することはあり得る。幽霊も、そこにいると思えば「いる」。人間がそれを信じれば「実存する」かもしれない。逆に存在を信じなければ「いない」。実在する人間であっても、全ての人の記憶から消えれば、あるいは目の前から姿を消してしまって「いない」ということになれば、その人の存在は末梢される。

 夫の生死だけが知りたいという人妻。彼女は本当に人食い屋敷が夫を食ったと思っているのか。
 カグラの店で「教授」と「作家」が交わしていた会話が何故か気になった。
 真が心の中でため息をついた時、先を歩く「作家」と「教授」、そして「窓さん」の足が止まった。
「ほら、着きましたよ」

(3)人を喰らう屋敷 に続く。




少し分かりやすくしようと順番を入れ替えたりあれこれしていたら、少し間が空いてしまいました。
集中連載短編は1週間くらいの間にさっさと終わらせたいのですけれど、いざアップする段になると、あれこれ迷いが生まれて、うだうだしている間にまた悩みが深くなり。
未熟者につき、ご容赦ください。
変な道連れたちと、ついに屋敷にやってきました。
4回の起承転結で終わらせようと思っていたのに、まだ「起」から抜け出せない。
頭の中の構図は綺麗に4回分だったのですけれど。

では、ようやく次回、結界の中『人喰い屋敷』に入りましょう(^^)

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(3)人を喰らう屋敷 

limeさん
連休もあと1日。10月と11月に大会やら仕事の集会があるため、三味線三昧(練習場所が遠くて、帰ってきたらばたんきゅう)+お仕事+庭掃除の週末です。
さて、『人喰い屋敷の少年』(3)です。ついに、飲み屋の常連たちと共に屋敷に侵入した真が見たものは?
寄り道ついでに、唐沢所長まで登場しちゃいました。お楽しみくださいませ(*^_^*)
ちなみに第1・2話はこちら→(1)カグラの店(2)夫の死を願う女

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会う、猫を抱いた少年。(なかなか会わないなぁ^^;)
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。



【人喰い屋敷の少年】(3)人を喰らう屋敷

 人喰い屋敷、あるいは幽霊屋敷と呼ばれるのだから、もう少しそれらしいものを予想していた。少し傾いた木造の古い日本家屋か、蔦の絡まる鱗屋根の洋館か、映画のセットになりそうなそんな屋敷だとムードがあっていい。
 だが、実際に今、目の前にあるのはそこそこ立派な一軒家ではあるが、洒落た洋館でもなければ、料亭のような日本家屋でもない。建て替えの時期を逸した古い家、というだけのようだ。

 周囲の家屋とのバランスが特に悪いと言うようにも見えない。この辺りは少し裕福な層の人間が暮らしているようだ。両隣の家には灯りがともっているので、この家だけが暗く沈んで見えた。
 敷地は二百坪ばかりありそうで、道路に面した側には大人の背丈ほどの門柱と、車が入る幅のすっかり黒ずんだ木の扉があった。扉はぴたりと閉められている。その先には短いアプローチがあるようで、建物までは少し先に見えている。手入れをされていないためか、庭の木々の枝が暗い空を背景に無造作に伸びていた。
 噂通りの『人喰い屋敷』なら、あの枝が伸びて人を掴み上げるのだろう。

「作家」の手招きで人喰い屋敷を通り過ぎ、一本先の道を曲がり、更に曲がって細い路地に入る。路地にも家が並んでいるが、こちらは表通りよりも幾分か小さ目の家ばかりだった。
 やがて「作家」は、その家と家の僅か六十~七十センチメートルあまりの幅の中に入っていった。

 道のような道でないような隙間の両側には、柵も塀もない。両側の家の壁があるだけだ。他人様の家の敷地ではないのかもしれないが、何のための道だろう。いや、人間のための道と言うよりも猫のための道に見える。隙間に入ってすぐのところに、左手の家の壁に凭れかけるようにして、自転車が停めてあった。

 確かに「作家」の言う通りだ。この東京という町は、いつも見ている風景に溶け込んでいるが、中身の分からないブラックボックスに満ち溢れている。外からは違和感はないが、閉じられた箱のように見える普通の民家も、きっちりと閉められ何の表記もない、誰が使うのか分からないビルや地下街の扉も、見慣れた風景だが、その中身を誰も知らない。
 この家と家の間の隙間は、閉じられた場所に繋がる小さな綻びのようなものかもしれない。普段は誰も入ろうとしない。他人様の土地かも知れないし、昼間にこんなところを見咎められたら、警察に報告されるかもしれない。

 だが、夜に紛れた酔っぱらいの「冒険者」たちの逡巡は、一瞬のうちに風に飛ばされてしまったようだ。
 一旦足を止めて奥を窺った「教授」も、「作家」の後に続いて隙間に入っていく。こんな盗人まがいの行動をとる時にも、まっすぐ伸ばした背中は変わらなかった。何か思うところでもあるのか、「作家」の行動を見張っているかのようにぴったりと離れない。

 真は「窓さん」と顔を見合わせた。「窓さん」の顔は暗がりの中ではよく見えなかったが、白い歯が浮かび上がってへらへら笑っているように見えた。危機感も恐怖感も消してくれる、何とも有難い酔っぱらいの顔だ。
 結局先に「窓さん」が細い道に入っていった。酔っぱらっていたためか、自転車に軽く接触して音を立てる。小さな音だったが、真は思わず両脇の家の二階の窓を見上げた。
 明かりはついているが、家人が動く気配はなかった。

 三人の背中は既に見えなくなっていた。
 まるで、秘密基地への近道を知っている仲間について行く子どものようだと思った。
 子どもの頃の真にも、秘密の場所は幾つもあった。春の始め、北海道の凍てついた大地から花が初めに小さな芽を出す場所、氷の下の水の音が最初に聞こえる場所、秋に初めに赤くなる木も、コロボックルたちがいつも呼び止めてくれる繁みも、友達だったアイヌの老人と真だけの秘密だった。

 だが、ここは東京の町の中だ。そして相手は自然でも幻の小人でもなく、人間という更に不可解な生き物なのだ。
 松岡綾の夫の行方不明と、噂の人喰い屋敷の関係は確かなものではない。ただ綾の口から『人喰い屋敷』と言う言葉が出たことと、真がこの言葉を聞いた記憶とが結びついただけだ。
 幽霊屋敷と噂される家屋敷がこの都内にどれくらいあるのかは定かではないが、ひき逃げ車両を追跡する場合よりは件数は格段に少ないことは確かだろうし、綾自身が確かな場所を知らないと言うのなら、ひとつずつ当たってみるしかない。

 真が三人を追って隙間を入っていくと、真っ暗な先は行き止まりになっていた。左右に「道」が分かれている。道と言っても、家と家の裏側同士が向かい合った、さらに細い隙間のようなものだ。隣接する建物との距離に関係しているのか、何か元々の土地の形によるのか、あるいは建築法や消防法に関係する理由なのかもしれない。
 先を行った三人は、左側の狭い通路に立っていた。ここが丁度『人喰い屋敷』の裏手になるのだろう。

 もともとしっかりとした塀があったようだが、壊しかけて何かの事情でやめたのか、塀の一部が崩されていて、代わりにその部分にだけ味気ない緑色の金網のフェンスが設えてあった。
 いや、色に気が付いたのは「作家」が手にした小さな懐中電灯のお蔭だった。闇の中で、緑色の金網だけが現実のものとして浮かび上がる。

「作家」は「教授」に懐中電灯を預けて、フェンスの前に屈み、何か作業を始めた。すぐに「教授」から懐中電灯を受け取り、身を屈めてフェンスの先に入っていく。フェンスの一部は始めから切られていたのか、捲れあがって、人一人通れるようになっていた。
「教授」は躊躇う様子もなく、そのまま身を屈めて隙間を潜り、「作家」について行く。「窓さん」も、何かを確かめるように真を振り返ったが、そのまま続いた。

 真は一旦辺りを見回した。と言っても、背中側には少し小さな民家の壁があるだけで、真の左右に伸びる狭い通路の先は、暗がりに塞がれていてどこへ続いているとも知れない。できれば昼間に来たかったと思ったが、案内人である飲み屋の常連が活動できる時間は、夜に限られているのだろう。
 結局、真も『人喰い屋敷』の敷地へ足を踏み入れた。

 敷地内は自発的な明かりはひとつもなく、暗闇の中で建物の位置が分かる程度で、背が高く、手入れされずに繁った木々で覆われていた。空と木々は黒の色合いの差だけで境界が示される。先に入った「作家」と「教授」の姿は見えなかったが、「窓さん」が何かにぶつかっているような気配だけが伝わってきた。
「作家」が持つ懐中電灯の明かりが微かに揺らめいて遠ざかっていく。

 真は目を閉じた。開けていても閉じていても、闇の気配は同じだったが、見ようと思わない分だけ聴覚が冴え渡る。そして、いわゆる第六感というやつも。
 湿気を含んだ風の声。足元で小さく渦を巻いている。建物の方からは何の気配も感じない。ただ隣家の家から水音が聞こえる。それから微かに赤ん坊がむずかるような声。遠くを行く車の音。じりじりと、虫か何かが唸っているような声もする。

 先を行った三人の足音は湿った地面に吸収されているらしく、気配さえはっきりしない。
 時々、カタカタと何かを揺するような音が混じるので、その音だけが自分の他にも誰かがこの空間にいることを確認する手段だった。彼らのうちの誰かが建物への侵入を考えているのかもしれない。

 真は目を開けた。すでに懐中電灯の明かりは視界から消えていた。
 そして一歩を踏み出そうとしたその時。
 微かにではあるが、はっきりとした声が聞こえた。
 はっきりと、というのは語弊がある。声が壁や何かに遮られていない、というだけのことだった。何を言っているのかは聞き取れない。だが確かに人の声だった。
 しかも複数の。
 先を行った三人が会話をしていると思わなかったのは、その一方の声が聴き覚えのない声だったからだ。いや、声と言うよりも気配、かもしれない。

 思わず足音を忍ばせていた。地面には枯れて落ちた葉が腐葉土としてクッションの役割を果たしていた。枝でも踏まない限り、音は吸収されてしまう。まるで自分の存在さえ危うい暗がりの中を、真っ黒な建物へ向かって歩いていく。家屋は巨大な壁にしか見えなかった。
「……えから……抜け出したんだ?」

 確かにそう聞こえた。低く押さえ込んだ声が、自分の知っている誰かの声かどうか、判別はできなかった。だが、その瞬間、真の足が枝を踏み割った。
 息を呑む気配は自分のものだったのか、会話をしている誰かのものだったのか、ぱたりと声が止み、がさがさと何かを掻き分けるような音がした。この闇の中に紛れ込んで初めて聞く、大きな音だった。それにしても一瞬先には闇に吸い込まれてしまい、逃げ去るような湿った足音もすぐに静寂に飲み込まれた。

 追いかけようとした訳でもないが、真は会話の聞こえていた方に歩いた。速く歩こうにも足元が不安で探りながらしか進めない。家屋の角を曲がろうとして、誰かにぶつかりかけた。
「おや、これは探偵さん」

 声は「作家」のものだった。いつもの少し神経に触る高めの声を、幾分か押さえている。手に懐中電灯を持っているはずだったが、明かりを消していた。
「建物はどこも施錠されているみたいですね。しかも暗すぎて、肝試しにもならないようだ」
「作家」は辺りを気にするような素振りを示した。
「あの二人はどこに行ってしまったんでしょうね。下手にうろうろすると食われるかもしれないのに」

 真は闇に慣れ始めた目で「作家」の横顔を確かめた。ふと見やると、隣家の二階の窓がここから見えている。カーテンを通して微かに漏れる光だけでも、暗がりでは道しるべのようだった。
 その時、確かに何かに気を取られた、あるいは何か大事なことを感じ取ったのだが、真の思考と言葉を止めたのは、唐突に目に入った二つの光だった。いや、「作家」の目がその方を向いているような気がして、その暗闇の方を見たのだ。
 黄金に光るような二つの光。じっとこちらを窺っている。

 シャーロック。
 囁くような声が、微かに聞こえた。
 若い、いや、まだ子どもの声だ。
 瞬間に、二つの光は、がさりという枝をかき分けるような音と共に、闇の中へ掻き消えた。

「聞きましたか? どうやら、少年と猫が出たようだ」
「作家」が真の耳に囁きかける。耳にかかった息が湿っぽく、耳の中の細かな産毛まで逆立った。さっき誰かと一緒でしたかと聞きかけて、真は少し考え、言葉を呑み込んだ。


「人喰い屋敷ぃ? 行ってみたのか? 出たのか?」
 唐沢は昨夜のギャンブルが好調だったのか、機嫌がよかった。
 朝まで事務所で飲んでいたらしく、真が出勤した時にはテーブルには焼酎の瓶、倒れたグラス、床にもゴミが散らかっていて、当の唐沢は接客用のソファから落ちそうになりながらも、器用な格好で高いびきをかいていた。
 はっきりとした歳は知らないが、戦争中に十代だったというから、四十代の半ばは過ぎているかどうかというところだろう。とはいえ、外観からは全く年齢不詳で、若くも見えるし、こうして酔っ払って寝ていると、より歳をとっているようにも見えた。

 エロ本にも煙草のヤニにも慣れたが、酒の臭いだけには慣れることができそうもない。真は直ぐに窓を開けた。
 起き出した唐沢に、コップに入れたあまり冷えていない水を渡す。それから、ソファにぐったりともたれかかって、聞いているのか聞いていないのか分からない唐沢に、昨日の依頼人の報告を済ませた。

「出ませんよ。そもそも何も感じませんでした」
「おぉ、お前さんの妖怪レーダーには何も引っかからなかったってぇわけだな」
「何ですか、妖怪レーダーって」
「出たら、髪の毛がぴぴぴ、って……」

 ゲゲゲの鬼太郎じゃあるまいし、しかも妖怪じゃなくて幽霊屋敷じゃなかったか。どっちでもいいけれど(いや、その道の識者にとっては妖怪と幽霊はまるで別物だろうけれど、真にとってはどうでもいい)、俺は妖怪や幽霊の探知機ではない。それに、人を喰うのなら、幽霊じゃなくて、もしかしたら妖怪が正解かもしれない。
 唐沢は大きな欠伸をして、首の後ろを掻いた。それから立ち上がり、真面目な顔をして立ったままの真に近付いてくる。

「で、どうよ? 美人だったのか、その依頼人」
「所長の好みかどうかは分かりません」
「お前の好みのタイプか?」
「特に好みのタイプはありません」
「お前さ、この間紹介したミサキちゃんとはどうだったのよ。あの子、いいだろ? 胸もむちむちばーんで、如何にもあげまんって感じでよ」
「別にどうもしません」
「ホテルには行ったんだろ? 良かったか?」

 真は返事をせずに、肩を抱こうとする唐沢をするりと躱した。唐沢とはまともに向かい合って話さないほうがいい。そもそも九十パーセントくらいは真をからかっている。
「ミサキちゃんは良かったって言ってたぞ。あっちの相性は悪くないようじゃないか。だがよ、俺はね、お前がどう思ってるかってのが大事なわけよ」

 唐沢の雑言・暴言は完全に無視して、真は書棚から地図の本を取り出した。
 使い込まれてぼろぼろになっているが、この事務所には年代ごとの東京都内の詳細な地図帳が、図書館並みに揃っている。問題はこの乱雑な放り込まれ方だ。
 もっとも、真もそろそろこの無秩序の秩序に慣れ始めていた。乱雑だが、下手に片付けたら余計に場所が分からなくなる。この乱雑な突っ込まれ方の中にも、ちゃんとルールがあるのだ。事務所の人間以外の誰かには、絶対に分からない秩序だ。

「お前はさ、ああいうダイナマイト系の明るい子と付き合うべきなんだよ。けど、お前、薄幸な美人に騙されるタイプだからな」
 時々、唐沢がまともなことを言っているような気がするのだが、大抵は一瞬のことだ。
 しかも、この酒臭くて崩れたおっさんのどこがいいのか、街に集まる女の子たちは唐沢のことを結構頼りにしているようなのだ。唐沢が真に女の子を紹介するのは日常茶飯事のようになっているのだが、いちいち女の子たちは唐沢に結果を報告する。後からあれこれ言われるのが煩わしくて、高校生の時から付き合っていた彼女と別れてからは、何回かに一度は唐沢の言うままに付き合うようになっていた。
 もっとも恋愛に必要不可欠とされる面倒な過程は大概かっ飛ばしているので、大方は直ぐにふられる。女というものは鋭くて、真にその気がないことがすぐに分かるのだ。

「しかし、あのおっかない彼氏に見つかったら、いつか刺されるかもなぁ」
 真は無視した。

 唐沢が「彼氏」と言ったのは、真の元家庭教師で、父親が失踪してから真と妹の親代わりをしてくれている男のことだ。何かを知っているのか、いや、適当に言っているだけだろうが、真の「彼氏」だと勘違いしている。かく言う真の方も、「彼氏」ではないと訂正したのは最初の数回だけだった。大体、唐沢は真の話など全く聞いていないので、何度も訂正するのが面倒臭くなってしまった。
 何より、真のすることにいちいち小うるさい「彼氏」が、唐沢の事務所に勤めていることを、気に入らないにしても止めようとはしない。唐沢は多分、その「彼氏」が唐沢のことをそれほど嫌っていないことを知らないだろう。

「人喰い屋敷を調べてんのか?」
 地図を机に広げた途端、背中から唐沢に覗き込まれる。
 もちろん、真はこの先の唐沢の言葉に期待していた。これもこの事務所に勤め始めてから真が獲得した処世術、あるいは事務所の秩序だった。
「そんなことはね、俺に聞きゃあいいのよ。歩く辞書と言われるこの俺様に」

 歩く辞書ではなくて、歩く情報網兼ハッタリというのが正解だ。
「幽霊屋敷って東京にどのくらいあるんです?」
「二十三区内では確かに認定されたのは三軒だな。それらしい空き家は随分あるが、幽霊が出たとか人が消えたとか確認されたのは意外に少ないだろ。世田谷の人喰い屋敷は中でもぴか一だ」
 そのあたりは話半分に聞いておく。聞いておいて自分で言うのもなんだが、大体どうやって三軒なんて断定できるんだろう。
 もっともらしい数字なのだが。

「で、その奇妙な依頼をした女は、元刑事の旦那が死んでいるかどうかを知りたいってんだろ。刑事の名前は何だって? 松岡圭吾。そんなのはちょっと調べりゃ分かるのよ。じゃ、行くか」
 また唐沢が大欠伸をした。ぼさぼさの髪をそのままに、よれよれのポロシャツの腰の隙間から手を差しいれて背中を掻き、ベルトを締め直しただけで、真を促して事務所を出る。
 この男の辞書に「身だしなみ」という言葉はないらしい。

 依頼料のことは適当に誤魔化しておいた。唐沢が起きる前に引き出しの奥の方に隠したが、今度は事務員の女の子が見つけてしまうかもしれない。もっとも、この事務所には金銭の価値が本当に分かる人間はいないのだ。貧しい方向へも裕福な方向へも、感覚が麻痺している。

 唐沢が最初に向かったのは江戸川区の警察署だった。いつものように、入口の警察官に知り合いのように手を挙げて、自分の家のようにすたすたと中に入っていく。何故呼び止められないのか、真は何時も不思議なのだが、あまりにも自然で毒気を抜かれるのかもしれない。
 唐沢と真が入口のドアを潜ってから署長室のソファに座るまで、僅かに五分余りだった。受付で唐沢が署員に何を耳打ちしたのか、真は何も知らない。

「松岡圭吾……あぁ、確かに」
 署長は椅子の座りが悪そうに見えた。
 唐沢に確認したところで、なに、いつもちょっと面倒をみてやっているんだと言うに違いない。そら恐ろしい男だと思う面もあるのだが、表面的にはだらしなく人懐こく、そして『脅し』にしても底は浅そうだった。だからこそ、相手も適当にあしらって適当に情報を提供して、さっさと追い払ってしまうのが得策と思っていられるのだろう。
 そのあたりの加減が上手いのだ。本気で脅迫はしない。

 もちろん、こういう場所に来れば、真のほうも、警察はちゃんと失踪人調査をしたのか、などと確認するような、余計な口を挟まない。ここは唐沢に任せるに限る。
「何でもろくな刑事じゃなかったそうだな。あんたたちも大変だよなぁ」
「前の署長の時代の話だ。松岡を捜しているのかね」
 署長の声は幾分か緊迫していた。唐沢が何を言い出すのか、さすがに用心している。

「いや、捜しているんじゃないんだな。そいつの奥さんがね、多分そろそろいい人でもできたんだろうねぇ。ま、あと一年も経たないうちに死んだことにできるんだから放っときゃいいはずなんだが、もしもだよ、新しい男と懇ろに暮らしてて、万が一生きていた元旦那が帰って来たらさ、どんな修羅場になるか分かったもんじゃないだろ。怯えてるんだよ。だからね、知りたいのは生きてるか死んでるかだけなんだ。ま、事件が起こるまでは動けないってのはわかるけどさ、ここは人助けと思って、いや、事件を未然に防ぐ正義の警察官としてだね、ちょっとヒントをくれないかなぁ。可哀相な女なんだよ」

 話を聞きながら真は改めて感心していた。なるほど、そういうことなのかもしれない。唐沢は真から話を聞いただけだが、女の心情を読めない真とは違って、あっさりと松岡綾の本音を言い当てているのかもしれない。
 真は綾の憔悴した化粧っ気のない顔を思い出した。
 いや、憔悴していたのか、あるいは内側では夫とは別の男との恋に身を焼いていたのか。

「ま、確かに」
 署長は何かを思い出すふうだった。
「松岡圭吾は別の署で私の部下だったこともある。奥さんは美人だったよ」
 唐沢はどこまで知っていてここに来たのか。綾の住所からだけではなかったに違いないと真は思うのだが、唐沢の勘働きというやつはちゃらんぽらんに見えて実に鋭い。これがギャンブルにも活かされているのだろう。

「これは噂だがね、奥さんの浮気を疑って、よく酒を飲んでは暴力をふるっていたようだった。当時松岡が組んでいた真田って奴と奥さんの浮気も、疑っていたことがあるようだ。ヤクザ相手にも恐喝まがいのことをしていたようだから、殺されてドラム缶に詰められて東京湾に沈められていたとしても、誰も驚かんよ」
「松岡が遊びまわっていた場所はわかるか?」
「あぁ、それなら田代に聞きゃ、分かるだろう」

 田代と言うのは、当時、松岡圭吾失踪の調査をした刑事だという。一応の調査はされたようだが、結局所在が掴めず、一方で誰もが「あの男ならヤクザの手で東京湾に沈められていても当然」と思っていたので、ある程度のところで手を打ったのかもしれない。
 田代は刑事を辞めて、新宿で喫茶店をやっていた。

(4)女の事情と猫を抱いた少年、に続く。




遊びすぎちゃった。本題から離れないように、でもちょっぴり唐沢の紹介も兼ねて(本編では刑務所の中なので、あまり登場できないし^^;)、遠回りしています。こんな道草も楽しんでいただければと思っている間に、だんだん長く……(あぁ、いつものことね、と思ってくださってありがとうございます!)←先に言っとく(#^.^#)
でも、一応「承」には入りました。
limeさん、何だか長くなっていてすみません……(@_@)

今の時代なら、臓器を切り出して跡形もなく、ってことなんでしょうけれど、この時代はまだドラム缶で東京湾^^;
書類や本の整理も、PCなどなくて、ね。ワープロはあったかな。

次回は、『人喰い屋敷』の中にまで侵入します(*^_^*)

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(4)女の事情と猫を抱いた少年 

limeさんlimeさん天使と男160
あれ? 今回は表紙絵(?)が2枚? その事情は本文で探ってください。
(はい、省エネをしてしまいました。)
さて、『人喰い屋敷の少年』(4)です。
省エネとは書きましたが、実は合わせ技をしたら今回のアップ分が長くなってしまいました。でもどうしても、少年に会いたかったので、7000字の掟(って、なぜ掟?)を破って10000字です。長くてごめんなさい!
何はともあれ、お楽しみくださいませ(*^_^*)
ちなみに第1・2・3話はこちら→(1)カグラの店(2)夫の死を願う女(3)人を喰らう屋敷

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会う、猫を抱いた少年。(なかなか会わないなぁ^^;)
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(4)女の事情と猫を抱いた少年


 綾はアトリエの鏡の前に座っていた。
 また朝が来た。昨日はベッドにも入らず、アトリエのソファで眠ってしまっていた。

 アトリエと言っても、夫がいなくなってからマンションの一室をそのように使っているだけだ。夫がいる間は、家で絵など描くことはできなかった。
 可哀相に思ってくれた絵の先生が、彼のアトリエを時々使わせてくれたが、夫はその男と綾の関係を疑っていた。

 いや、夫が、妻との関係を疑う男はこの世に数限りなくいたのかもしれない。
 その中でも特に夫の猜疑心を煽っていたのが、夫の同僚だった真田俊克だ。今でも真田とは時々顔を合わす。会話も交わす。手が触れるほどに近くにいることもある。触れたいと願う時もある。

 夫がいなくなってから、朝はいつもひっそりとやって来るようになった。夫の怒鳴る声も聞こえないし、何かを割る音も聞こえない。時々窓の外から鳥の声が聞こえるだけだ。もちろん、車の音や電車の音、何かしら都会にありがちな雑多な音はそこかしこに溢れているはずだが、綾の耳には上手く届かなかった。
 左耳は、夫に何度も殴られたことで聴力を失いかけていたが、そのせいではない。

 カーテンを閉めたままの薄暗い部屋の中には絵具の匂いが籠っていた。この部屋に入るのは久しぶりだったので、昨日、あの探偵事務所から戻ってきて扉を開けた時、しばらく忘れていた匂いに眩暈がした。
 時々、全く絵を描けなくなる時がある。描きたくないし、描くのが怖い。魂が絵の中に表れて、誰かに知られてしまうことを恐れているのだ。

 画家の中には自画像を描く作家も多い。綾には信じられない。自分の顔を描くなど、恐ろしいことだ。
 自分の顔を見つめていると、その顔の奥にいる誰か別の人間の顔が見えるような気がする。よく二重人格とか多重人格の話を耳にするが、人は誰だっていくつかの顔を持っている。ある人に向けている顔だけが全てではない。

 私のこの顔は、昨日の若い探偵にはどんなふうに映ったのだろう。
 夫が失踪してしまった可哀相な妻? あるいは夫の死を願う悪魔のような女? もしかすると、他の男の手を待っている淫乱な女?
 あの若い探偵は、何かを見透かすような目をしていた。印象的なオッドアイ。あの碧の右眼には、この世のものではない何か、人の心の奥の闇も見えてしまうのかもしれない。

 鏡の中に映ったアトリエは、小さな箱庭のようだ。
 綾の背中の先には描きかけの絵がある。
 昨日あの探偵と話をしてから、突然また絵を描きたくなった。

 この頃、誰かがじっと綾を見ている。失踪した夫かも知れない。あるいは別の男かも知れない。もしかすると、綾自身の恐怖心が身体から抜け出して、自分自身を見ているのかもしれない。いや、あるいは、既にこの世のものではない夫が、霊魂となって綾の行く先を見張っているのかもしれない。

 かつて愛した男でも、生きているのか死んでいるのか、その気配を察知するような能力は綾にはない。すでに愛していたかどうかも思い出せないほどに時間が経ってしまったからだろう。あるいは、今関心を寄せている他の男の想いさえも、目の前にいる時でさえ、やはりはっきりと知ることはできない。

 私は知りたいのだ。誰が私を愛しているのか。私は誰を探しているのか。今、私を見つめているのは誰なのか。
 夫が死んでいるのなら、もう探さなくてもいい。

 あの絵には何かが足りない。綾は鏡の中の絵を見つめる。
 綾は、絵の中にいつも天使を描いた。亡くした子どもを思い出しているのかもしれないし、自分の心に蓋をする手段なのかもしれない。
 描かれているのは椅子に座っているあの男。少し若いころのあの男を想いながら描いた。何かを思いつめているような目。私を置いてどこかへ行ってしまうあの人の姿を、ここに留めておきたかった。

 私は悪い女だろうか。
 あの日、あの男の手が私の肌に触れた時の微かな温度を思い出している。思い出すだけで、肌のその部分がちりちりと痛むように泡立つ。
 やはり小さな天使を描き入れよう。自らへの戒めと永遠に失われた子どもの魂を鎮めるために。


「先輩、また飲み過ぎたんですか?」
 田代はコーヒーの豆を挽き、少しだけ冷ました湯を注ぎ始めた。挽いた豆が湯を吸って膨らみドームを作る。同時にマンデリンの少し癖のあるいい香りが上ってきた。
 刑事をやっていた時にはこの匂いを楽しむ余裕さえなかった。コーヒーはただの眠気覚ましで、それさえも利尿効果を考えると、幾らでも楽しむというわけにはいかなかった。

 喫茶店の中にはジャズが流れていた。それなのに、何故か店の名前は『モーツァルト』だ。田代が警察を辞めてこの店を前のオーナーから引き継いだとき、店名を変えないというのが条件だった。特にこだわりもなかったし、別に店名などどうでもいい。

「あぁ。くそぅ」
「そうやって非番の日は飲んだくれて、挙句に二日酔いで過ごすなんて勿体ない。さっさと嫁さんを貰ったらどうなんです」
「お前はいいよな。こんなクソッタレの仕事にはさっさと見切りをつけて、可愛い嫁さんと二人で楽しく店をやってる」
 田代の横では、お腹が大きくなり始めた小柄な女性がにこにこと笑っている。
 そうだ。女は明るくて、笑顔が可愛くて、些細な事にはこだわらないのがいい。

「真田さんはどんな人が好みなんですか? 私、友達を紹介しようかしら」
 田代の妻がオムライスのデミグラスソースの味を見てから、振り返って尋ねた。彼女の作るオムライスが評判で、この店はそれなりに流行っていた。昼時になればテーブルはほとんどが埋まる。
 だが、この二日酔いの先輩刑事、つまり田代の刑事時代の署の先輩である真田は、今日はオムライスを味わうことはできないだろう。

 二日酔いでわざわざ喫茶店になど来なければいいのに、一人でいるのは寂しいらしい。それとも誰かと待ち合わせているのだろうか。時々、外を窺っている。
 それが「彼女」だったらいいのだが。
「だめだめ。真田さんは好きな人がいるんだよ」
「もしかして、綾さんのこと?」

 二日酔いの頭をカウンターに預けていた真田がむくりと起き上った。
「馬鹿言っちゃいけないよ。あれはただ、放っておけないから気にしているだけだ」
 田代は妻に向かって肩をすくめてみせた。
 そうだ、真田は「彼女」に会いたい一方で、会うことを恐れてもいる。

 それから田代は壁にかかった可愛らしい天使の絵を見つめる。
 四号の小さな絵だが、妻が気に入って、作家に直接交渉して購入したものだった。作家はプレゼントすると言ったのだが、妻はちゃんとした値段で買いたいと譲らなかった。

 天使は蓋の開いたグランドピアノに頬杖をついていて、うっとりと目を閉じている。誰かがピアノを弾いているのだろうか。『モーツァルト』という店名も悪くないと思うのは、この絵を見る時だった。
 控えめに書かれたサインはAya K.

 松岡綾は絵を描くときには旧姓を使っていた。時々、童話の雑誌や何かのデザインのための画を描いている。優しく柔らかな色調の絵は、彼女に似つかわしいとも思うし、一方でまるきり彼女らしくないと思うこともある。
 それもそうだ。元刑事の夫の失踪、そして秘めた恋。複雑な想いの中にいる女の顔が、ひとつとは限らない。

 もうすぐ松岡綾の夫、同様に元刑事の松岡圭吾が失踪して七年だ。七年経って申立てをすれば、綾は自由の身になる。田代は、あの日から時間が止まったままの綾と仕事熱心な元先輩が結ばれてくれたら、と思っていた。

 松岡圭吾が失踪する前、真田は松岡と組んでいた。真田は、口は悪いが仕事熱心で真面目な男だ。最後まで松岡の勝手に振り回されていたが、先輩を立てることも忘れない律儀なところもあった。
 松岡失踪事件を調査したのは田代の班だったので、田代は何度か真田に話を聞いたのだが、真田は多くを語りたがらなかった。

 松岡圭吾には、暴力団の一部と懇ろな関係にあったとか、事件解決の影では金が動いていたり暴力沙汰があったりで、黒い噂が絶えなかった。それでも真田は二年先輩の松岡を立てて、よく尻拭いもしていたようだし、悪く言うことはなかった。先輩後輩の関係ゆえなのか、あるいは綾を挟んで微妙な関係にあったからなのか、そのあたりも当時署内では噂になっていた。

 しかし、警察としても有難くも失踪してくれた松岡圭吾というトカゲの尻尾の在り処をこれ以上追及して、世間への警察の不祥事への関心を煽りたくなかったこともあって、一般的な失踪事件の中にうまく埋もれさせたというのが正解だろう。
 そうした警察内の尻拭いの駆け引きに嫌気がさして、田代は、当時通っていたこの喫茶店のウェイトレスとの結婚を機に、刑事を辞めたのだ。

 真田はようやくコーヒーの香りに気が付いたようで、コップ一杯の水を飲み干してからコーヒーカップを持ち上げた。
「あぁ、うめぇ。お前はどうも鼻持ちならねぇが、お前の淹れるコーヒーは最高だ」
「そりゃどうも。それで、綾さんとは会えたんですか?」
「いや」
「探偵事務所に行こうだなんて、綾さんも一体何がどうしたって言うんでしょうね。ただ待っていればいいものを。あるいは、もしかして松岡さんが生きているんじゃないかって怯えてるんでしょうか」
「本気で松岡を捜したいのかもしれないじゃないか」
「まさか、あの暴力夫を捜すなんてあり得ませんよ。俺はね、先輩、あなたと綾さんが」
「どっちにしても俺の知ったことじゃないさ」

 真田が田代の言葉を遮った。それから何かを気にするように、また店の外を振り返った。
 店は、真田が今も勤務する区内の警察署の近くにある。窓からは通りと川が見えているだけだ。
 田代は、綾があの扉を開けて入って来てくれたらいいのにと思った。

 だが、真田は決して綾に本心を打ち明けたいとは思わないらしい。松岡圭吾はろくでなしの刑事で、失踪してもうすぐ七年。この世から消えるという境界まであと少しだ。そうすれば真田と綾は晴れて結婚することだってできるようになる。
 時々、真田と綾はこの『モーツァルト』で会っている。いや、偶然居合わせる。言葉少なげに向かい合い、たまに目が合ってもまた目を逸らす。別のことに関心があるように振る舞いながら、お互いの存在を誰よりも近くに感じている、そんなふうに田代には見えた。
 大人の恋って難しいものらしい。いや、単なる意地っ張りにも見えるのだが。

 その時、真田が思い立ったようにサングラスを手に取って席を立った。非番の日であっても、署の管轄内で酔っぱらっている姿を見られるのはまずいから、出かける時はサングラスをかけているが、あんなもの役に立つのかと田代は思う。
「帰るんですか?」
「あぁ、悪いけど、つけといてくれ」
 足元が危うい。

 一か月ほど前、田代は松岡綾に誰か探偵を紹介して欲しいと相談された。警察官上がりで探偵業をしている者はそこそこ知っていた。信用できる男を紹介したつもりだったが、後からその男が店にやって来て言った。
 いきなり、死んだ人間と話ができるかと聞かれたぞ。あの女、イカれてるのか。
 オカルトがかった依頼だったので、そちらの方面に明るそうな別の事務所を紹介したのだという。

 もちろん、綾が探偵を探しているということはすぐに真田に伝えたが、真田は知ったこっちゃないという顔だった。気になったので、あれから何度か綾に探りを入れてみたが、実際に彼女が依頼に行ったのかどうかは分からなかった。
 追及してどうしようというのでもない。ただ、綾と真田がもう少しお互いの気持ちを確かめ合うきっかけができればと思っていたのだ。

 それにしても「そっちの方面に明るそうな探偵」がいるというのは驚きだった。
 真田が扉を開けると、扉の上につけたカウベルが鳴った。それを合図にして、外から車の音や風の音、蝉の声などが交じり合って飛び込んでくる。
 外は朝よりもまた温度が上がっているようだった。

 真田の開けた扉が閉まる前に、入れ替わるように二人連れが入ってきた。
 胡散臭い目つきの中年の男と、どこかにまだ少年のような面影を残した若い男だ。
 こういう組み合わせを見ると、つい元同業者ではないかと思ってしまう。だが、胡散臭い中年男は突然にかっと笑った。若い男のほうは肩にぶつかりかけてそのまま去っていった真田を少し振り返ってから、田代の顔を見た。

「カウンター、いいかい?」
 中年男が常連のように話しかけてくる。
「どうぞ」
 警戒していることを相手に察知されるような声を出してしまった。こういう時は、俺もまだまだ客商売に染まり切ってはいないらしいと思ってしまう。

 中年男に促されて、若い男の方もカウンターに座った。
 馴れ馴れしく若い男の肩を抱く中年男の左手には古い大きな傷があった。元同業者ではなくて、あちらさんのほうかもしれない。若い男は顔色を変えない。
 男らしい顔ではあるが、どこかに中性的なムードを持っているように感じるのは、その目と髪の色のせいだろう。いや、どっちかというと、野生の獣のような雰囲気だ。

「松岡綾って知ってるだろ?」
 いきなりの名前に田代は驚いた。若い男が幾分窘めるように中年男の横顔を見る。
「いや、いいんだ。知ってるのは知ってる。あ、俺ぁね、六本木で調査事務所をやってる唐沢ってんだ。こいつは俺の弟子で相川。お、いい匂いだなぁ。デミグラスソース。オムライスか? おい、食おうぜ。可愛い奥さんの作るオムライス、二つ」

 綾の名前と、唐突に現れた探偵。結びつくものはひとつしかない。ではこの目の前にいるのが「そっちの方面に明るい探偵」なのか。

 唐沢という中年男はオムライスの方に夢中になったらしく、お前知ってるか、オムライスってのは日本で生まれた洋食で、大正時代にはその原型があったんだ、とか何とか薀蓄を語り始め、オムライスを出したら、完全に黙り込んですごい勢いでぺろりと平らげ、こりゃアネモネのオムライスにも勝る、奥さん、あんたのソースは最高だ、デミグラスソースの中に優しさや愛情が融け込んでいるとか何とか褒め称え始めた。
 妻はにこにこ笑って客の話を聞くモードになっている。

 繊細からは程遠いこの男に幽霊が見えるとは思えない。むしろこいつは根っからの詐欺師だと田代は思いながら、無言のまままだ半分もまだ食べていない若い男のほうを見つめる。
 可哀相に、こんな男に雇われていたら、さぞ面倒くさいだろうと同情してしまう。だが、なるほど、この若い男なら、幽霊が見えますと言っても、いかにもそれらしい。

「綾さんはあんたたちのところに依頼に行ったというわけか」
 唐沢が相川という若い男の頭をぽかんと叩く。
「あれ、お前何時そんなこと喋ったよ」
 喋ったのはあんただよ、と田代は思ったが何も言わなかった。
 いや、喋ったわけじゃないか。綾の名前が出たのと、この男が調査事務所の者だと言っただけだ。

「まぁ、いいですよ。綾さんのことは俺も心配しているんだ」
「あんた、元刑事だってね。いや、俺らはね、綾さんの旦那のことを調べる羽目になったんだが、当時その松岡圭吾って旦那の失踪を調査してたのがあんただって聞いたからね。いや、もちろん、俺もさ、あれこれ警察の事情は分かるよ、だから細かいことはいいんだ。その旦那の遊びまわっていた場所だけでも教えて貰えたら有難いねぇ」

 やばい男だと思った。田代が警察を辞めているからには、あまり警察にいい思いを持っていないことも計算に入れて、正攻法で来たのだろう。いや、あるいはもと同業者ってこともあるのか? このいかにもあちらさんふうの男が? いや、似たようなものだから区別はつかないか。
 そんなことはともかく、あの時、十分に松岡の行方を探れなかったことには、田代は今でも不完全燃焼な思いを持っているのも確かだった。

「いいですよ。綾さんの不利益にならない範囲でなら喋りますよ。て言っても、松岡圭吾はひとつところで遊ぶような男じゃなかったし、あちらさんたちとの交友関係も随分と深そうでしたけど、特にどの組ってのでもなかった。しかもどんな大悪党を想像してるのかか知りませんけど、警察の人間ってのは多かれ少なかれあんな感じですからね。つまり、ヤクザ者と張り合えるくらいでなけりゃ、やってられませんよ」

「仕事は熱心だったのか」
「えぇ、色んな意味でね」
「嫁さんへの暴力は?」
 田代は一瞬躊躇ったが、答えた。
「あったでしょうね。自分を押さえられないところがありましたから」

 その時、若い男が突然顔を上げた。
「綾さんのほうはどうだったのですか?」
 唐突な問いかけだった。
 田代は意味を考えた。綾が暴力ゆえに松岡から逃げたいと思っていたかどうか、という意味だろうか。

「いえ、つまり、綾さんはご主人を愛していたのかどうかと」
 へぇ、また随分と根本に立ち返った質問だな、と田代は思った。
「さぁ。女性の気持ちはよく分かりませんが」
 そう言って田代はちらりと妻を見た。妻は食後のコーヒーの豆を挽き始めていた。
「愛し合って結婚したのだとしても、暴力ばかり振るわれていて、しかもいきなり失踪、悪事のにおいがプンプンする、とくれば、他の男を頼ったり、結果として好きになってしまうこともあるでしょうね」

 田代は、当時調査した記憶を思い起こし、松岡圭吾がよく出入りしていた店を幾つか彼らに教えた。
 奇妙な組み合わせの二人連れの探偵は、食後にコーヒーを注文した。
 若い男はコーヒーを待つ間にふと店内を見回し、何が気になったのか席を立ち、綾の描いた天使の絵に近付いていった。しばらくじっとグランドピアノに頬杖をつく天使を見つめていたが、その後は窓の外を少しの間眺め、やがて気配さえ殺すように静かに元の場所に戻ってきた。
 唐沢と名乗った中年男はこの界隈の美味い店を田代や妻から聞きだしながら、ほとんどずっと喋っていた。田代は、若い男の方が唐沢の煙草に火をつける仕草に、何故か引きつけられた。今時、銀座のホステスでもあんな色気のある仕草を醸し出す女はいない。いや、銀座になど行ったことはないし、何よりその手はしっかりとした骨組みの男のものだったけれど。

 それから唐沢の裏表のわからない、あるいはあると思わせて裏など全くないのかもしれない顔を見て、改めて、よくもこんな上司と付き合っていられるものだと感心した。
 

 唐沢は当てになるようで当てにならない。
 真は今ひとりで、昨夜、例の三人と歩いた道を辿っていた。同じ道なのに、夜と昼ではまるきり顔がちがう。あっけらかんとした強い夏の光のせいで、町の光景は色や形のディテールが飛んでしまい、あまりにも白々しく輝いて見えた。

 そう言えば、子どもの頃は逆のことを思った。昼間に人気のない森の中を歩いた夜、布団の中で考えたのだ。
 今、この時間、あの場所はどんなふうなのだろう。岩や木、土、ひそかに生きる動物たちが微かな息遣いが、夜の闇の中に漂う景色を思い、心は誰もいない密やかな森に遊んだ。

 北海道育ちだが、暑さに弱いというわけではない。それでも真昼間の太陽は身体から生気を奪っていく。
 唐沢が後は自分で頑張れと逃げ出したのは、実はこの暑さのせいだけだとは思いたくないが、そもそも夜人間の唐沢に昼の光はきついのだ。

 真は『人喰い屋敷』の表に立っていた。
 昼の光の中で見ると、人が住まない家はやはり周囲の家から浮き上がっていた。
 黒ずんだ厚い木の門に隅が黒ずんだ木の表札があり、『門倉』という名前が刻まれている。石の門柱は、積み上げられた石の隙間から小さな植物が顔を出していた。塀は細かな石が塗り込められていて、色瓦の屋根が設えてあった。敷地内の木は手入れされていないために、家屋を覆っているように見える。

 真は昨日、「作家」に案内された裏路地を回り、二軒の家に挟まれた細い通路の前に来ると、躊躇いもなくその中に入った。ここで逡巡して周囲をうろうろしては余計に目立つ。それよりは、まるで関係者のように当たり前に振る舞うに限る。
 ここは住宅街で、見知らぬ人間がいればどちらにしても目立つのだから、その時間を短縮するのが賢い。

 裏側から改めて見る『人喰い屋敷』は昨夜見たとおり、塀の一部が金網になっていた。
 ここに来る前に図書館で古い地図を確認したら、もともと裏側の家も含めて『門倉』という屋敷の敷地だったようだ。相続などで土地の一部を手放し、改めて表側と見合った塀を作ろうとして放置されたようだ。金網の一部が切られて、人が潜れるようになっているのは、誰かの悪戯かもしれない。

 あれ。
 昨夜ここを出る時、「作家」は切られた金網を留めた針金を直していたはずだ。
 だが、針金が外され、金網はめくれあがっている。
 誰かがここを通ったのだ。しかもまだ中にいるかもしれない。

 真はめくれ上がった隙間を通り、『人喰い屋敷』の敷地に入った。一瞬何を思ったのか、鳴くのをやめた蝉が、またすぐに煩く騒ぎ始めた。木々が繫っているせいで太陽の熱気は幾分か遮られて、足元には湿気がある。おかげで足音は吸い込まれていった。通り抜けた風が木々を微かに唸らせて、木漏れ日が家屋の壁で模様を変えている。

 家屋はどちらかといえば洋風の作りだった。壁は白い漆喰で、屋根は傾斜がきつく、黄土色の焼き瓦を葺いてある。二階建てで、煙突が立っていた。真は家屋の表に回った。玄関には雨除けの屋根があり、通常の家の二枚分はある扉だ。
 試しに玄関扉を押したり引いたりしてみたが、やはり鍵がかかっていた。
 どの窓にもカーテンが引かれているか、雨戸が閉められている。開いている窓がないか確かめながら、真は木々に覆われている屋敷の周りを歩いたが、やはりどの窓も内側から鍵が掛けられていた。

 時折、何かに気が付いたように、蝉が鳴き止む。風が止まる。真は耳を澄まし、何か動くものがないか確かめる。
 少なくとも、霊魂とか幽霊とか、そういうものの気配はない。

 だが、最後に裏手を向いた角を回った時だった。
 視界の隅に、開いている窓の光景が残ったまま、別のことに気を取られた。

 微かに、生き物が唸る声を聞いたような気がしたのだ。
 いや、それだけなら、紛れ込んだ猫や犬かも知れないと思うのだが、誰かが、あるいは何かが息を呑む気配が重なった。

 その瞬間、白いものが木々の間を素早く駆け抜けるのが見えた。
 真は急いで後を追った。
 と言っても、抜け道となった金網までの距離がそれほどあるわけでもない。真は直ぐに「彼」に追いついた。

「驚かせてごめん。君は、夕べここにいたよね」
 びくり、と背中を震わせた少年が、意を決したようにゆっくりと振り返る。

 髪は真と同じような淡い色で、目の色も明るかった。真を見る目には、怯えというよりも、相手を値踏みするような気配が漂っている。肩には白い猫。猫は真に怯えるように毛を逆立て、少年のシャツを掴んでしがみ付いていた。

 だが、目が合ったのは一瞬だった。猫は素早く少年の肩から飛び降り、金網の隙間を潜って逃げた。そして、すぐに少年も、真から目を離さないように後ずさりし、しゃがんだと思った途端に金網の向こうへ滑り出ていた。

 真は追いかけることをすぐに諦めた。
 何より、開いている窓に興味を引かれていた。
 それに、あの少年にはまた会えるような気がしたのだ。

 窓枠に手を掛けて潜り込んだ先は、洋風の書斎のような部屋だった。不法侵入だがやむを得ない。

 テーブルやソファ、机と思しき家具には全て白い布が掛けられている。昼間だが、夕暮れ時のように暗い。それでも夜ではないので、目は直ぐに慣れた。壁には硝子戸のついた書棚が並んでいる。本はそのまま残されていた。背表紙は読めないが、かなり年季の入った本のようだ。ドアの脇の壁には柱時計。もちろん動いてはいない。
 真はドアノブに手を掛けた。その冷たさに一瞬背筋が緊張した。

 廊下はさらに暗かった。もちろん、人の気配はないし、ネズミや入り込んだ小動物は息を殺しているのか、ひっそりとしている。
 足元は絨毯のようだった。古い黴のような臭いがしている。
 だが空気は籠ってはいない。少なくとも、時折風が通っているようだ。

 扉をひとつずつ確かめた。廊下は階段の裏側で二手に分かれていて、家の裏手側には台所、ダイニングが並び、最後の扉の所まで来ると、玄関が見えた。玄関から真正面に階段があり、真っ直ぐ二階に上がっている。
 薄闇に慣れてきた目でも確認しにくい階段の先をちらりと見てから、真は玄関脇の扉を開けた。

 瞬間に、ふわり、と何かのにおいがした。
 一瞬漂い、消えてしまった。どこかで嗅いだことのあるようなにおいだが、香水か整髪剤か、少し人工的な香りだった。

 そこは小さな部屋だった。ベッドと机、それだけだが、この部屋だけは他の部屋と明らかに違っていた。ベッドにも机にも白い布が掛けられていない。椅子はなく、机の高さが少し低い。子どもの部屋だったのだろうか。
 真はベッドに残された布団を確かめた。皺があり、枕に凹みもある。
 足が何かを踏んだ。拾い上げてみると、スナック菓子の袋だった。
 机の上に暗い影を作っているのは灰皿だ。吸い殻はなかった。

 一旦廊下に出て、玄関の反対側を見ると、最初の扉は応接室のようだった。やはりソファにもテーブルにも白い布が掛けられている。一方の壁に暖炉がある。暖炉の上にも白い布があり、いくつかの置物をまとめて覆っているらしく、でこぼこしていた。

 隣の部屋がリビングだった。ここも同じような状態だったが、一方の壁に何か四角いものが立てかけてあり、やはり白い布が掛けられていたが、隅がめくれあがっていた。
 この部屋は雨戸が閉められておらず、カーテンだけだったので少しだけ明るい。
 どの部屋の白い布もきっちりと中のものを隠しているのに、そのめくれ上がった様子が妙に気になった。

 その布をそっと持ち上げてみた。
 そして思わず息を呑みこんだ。
 二十号ばかりの大きさの絵が額縁に収められている。そこに描かれていたのは少年だった。椅子に座り、膝に猫を乗せている。

 まさにさっき会ったあの少年がそこにいた。
 いや、絵の中の少年はもう少し幼いから、昔の絵なのかもしれない。
 そして、少年が膝の上に抱く猫は、さっき真に唸っていたあの白い猫だった。

(5)役者は揃った、に続く。




またまた遊びすぎちゃった。
遊びついでに(いや、遊ぶために?)2時間ドラマ仕立てに変更しました。
やっぱりミステリーって視点を動かすほうが断然いいですね。
あ、お恥ずかしいことに、ミステリーってほどに上等な出来ではありませんけれど。
さてさて、やっとですよ! 絵のシーンが登場しましたね! なので、大きく掲載。limeさん
あれ、少年、どうしてそんなにシャツがはだけてるのかしら?? これって、limeさんの罠?
改めてアップにしてみて、どきどきしている大海でした。

それから、綾が描いたということにした絵はこちら。
limeさん天使と男400
この絵の事情は、limeさんの妄想落書き:羽根のある君とをご覧ください。でも、綾はこれから天使を描き加えようとしていたようですね。
で、このコップは?? 聖書をモチーフにした絵のように、コップには何か宗教的な意味が?
いや、単なる飲んだくれか?

*どちらの絵も著作権はlimeさんにあります。無断での転用はお断りします。

次回は失踪事件の謎に迫りますね。そしてそこには少年の秘密も(*^_^*)
(あぁ、大したことないのに、誇大広告^^;)



Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(5)役者は揃った 

limeさん
少し間が空いてしまいました。正月休みの間に集中連載、と思っていますが、何しろ普段できないことを片付けようと思ったら「普段できないこと」が多すぎて、まずは『MOZU』のseason2を見ることから始めちゃった^^;
さて、もう話を忘れられているかもしれませんが、もう細かいところはさておき、適当に、ついてきてください。←超無責任^^;
今回で、あれ、そう言えば、みんな怪しいじゃない、ってことに??
ちなみに第1~4話はこちら→(1)カグラの店(2)夫の死を願う女(3)人を喰らう屋敷(4)女の事情と猫を抱いた少年

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会う、猫を抱いた少年。(なかなか会わないなぁ^^;)
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(5)役者は揃った


 ……えから……抜け出したんだ?
 あの時。確かに誰か聞き覚えのある声がそう言った。

 絵から抜け出した?
 あの少年は誰かの知り合いだったか? あの時あの場所にいたのは「作家」だった。いや、彼は暗闇で見失ってしまった「教授」と「窓さん」を探しているように見えた。
 でもあの声は……

 理屈だけ考えれば、そもそも「作家」は何故あの場所を知っていたのだろう? 有名な『人喰い屋敷』だから? 彼はいつも小説のネタになることを考えている。だからそれに相応しい屋敷には興味があったのかもしれない。カグラの店には幽霊ネタ、怪奇ネタはつきものだ。そんな話を収集しては実地検分をしていたのかもしれない。
 そして、屋敷の中に誰かが隠れ住んでいた気配。
 さらに、一瞬だけ嗅いだ、香水か整髪剤のにおい。

 何かがちらちら見えているのに、全部が見えないもどかしさで、その日は一日中頭が重かった。その上、あの少年の絵が頭の隅にこびりついていて、離れない。
 白い猫を膝に抱いて椅子に座っている少年。しかも場所は幽霊屋敷だ。あの時見かけた少年が、実は絵から抜け出したと言われても不思議ではない。


 真は『人喰い屋敷』を出て、そこから最寄りの駅の近くにある不動産屋を訪ねた。
 三軒目が当たりだった。

 真の希望を聞いて、不動産屋の太った主人は眼鏡の奥から訝しげに真の顔を覗き込んだ。
「全く、世の中には物好きがいるもんだ。お客さんで二人目ですよ」
 真は驚いた顔をしてみせた。
「普通はヤクザと幽霊と自殺は避けるもんだけどね」
 言いながら、主人は台帳をめくる。

「ほら。これが門倉さんのお屋敷の裏の物件。あの屋敷の裏側と隣接している家は三軒ありましてね、うち二軒が貸家です。いや、随分と長いこと空いていましたけどね、つい数か月前に一軒は借り手がついた。お客さんと同じように、どうしても『人喰い屋敷』の隣に住みたいってね」
 主人の手は台帳を確認しながらめくり続けている。

「やっぱり僕のような物好きの学生でしたか」
 真は言葉の端々に北国の訛りを入れていた。北国から来た大学生という役どころだ。
「いや、あの雰囲気は役者か物書き、って感じでしたよ」
 多分大当たりだ。不動産屋の感性がそうそうずれているとは思わない。
「あぁ、これだ。残りの一軒がこちらです」

 物件を見に行きたいと言って、主人と一緒に歩いて『人喰い屋敷』の方へ戻った。道すがら、さりげなく世間話をする。
「どうして『人喰い屋敷』ってことになったんでしょうか」
「人を喰うってのは根も葉もない噂でしょうが、門倉さんちのご夫婦が相次いで亡くなられた後、息子さんが忽然と姿を消しましてね。小学校に上がる前だったかなぁ。いや、忽然と、というのは周囲から見た印象であって、実際にはどこかに引き取られたとか、ちゃんと事情があったと思いますがね」

「親戚かどなたかに?」
「さぁ。挨拶も何もなかったようですからね。何しろね」
 不動産屋の主人は声を潜めた。
「そもそも旦那さんは自殺したって噂でしたよ。あれ、そう言えばお嬢さんもいたかなぁ。いや、もう嫁いでたかな。誰も住まなくなった大きな屋敷ですからね、何となく気味が悪くなって、妙な噂話がくっついたんでしょうな。入り込んでる浮浪者がいるとか、いなくなったはずの少年が歩いてるとか、聞きますけどね」

 浮浪者が入り込んでいるのはともかく、いなくなったはずの少年が歩いているってのは同じレベルで語られることなのか、と思ったが、実際に少年を見た者としては、どちらも極めて現実的な話だった。
 そうだ。あの子は幽霊でも幻でもない。絵から抜け出したわけでもない。確かに存在していた。

 不動産屋が真を連れていったのは、潜り込んだときに通った狭い隙間の両隣にある家の、右側の更に隣だった。
 あの時、この隙間の両隣の家には明かりがついていたから、このどちらかが、最近「誰か」が借りた家なのだ。
 不動産屋が連れて入ってくれた貸し家の二階からは『人喰い屋敷』の敷地が見えていたが、少し斜めから覗く感じになるので、建物の屋根と、手入れがされていない木々が屋敷を覆っているように見えるだけだった。

 昼間なのに、今はひっそりと息をひそめている。
 少し考えます、と言って、現地で不動産屋と別れた。

 真は隙間の両隣の家を確認し、表札が出ていないほうの呼び鈴を押した。
 しばらく、何の気配もなかった。
 一歩下がり、二階の窓を見上げる。カーテンが引かれているが、少しだけ動いたような気がした。
 果たして出て来るか。

 たっぷり十分は家の玄関やら壁を介して、無言のやり取りがあったような気がする。もう一度呼び鈴を押してもいいが、真はただ我慢強く待っていた。
 だが結局その日は、玄関の扉は開かなかった。


「ふ~ん。人喰い屋敷ねぇ。そりゃほとんど音楽室のベートーヴェンの目が動くレベルの話だろ?」
 一旦夕方に事務所に戻ると、先輩探偵の三上司朗がパンをかじりながら報告書を書いていた。

 上から見下ろしてくるほどの長身で面長だが、相手に威圧感を与えることを気にしているのか、いつも少し身を屈めている。依頼人に対するときは勤めて柔らかい言葉で話しているので、ひとまずは取っ付きは悪くないが、時折目元に剣呑な影がある。
 後から他人から聞くことになったらお互い気まずいだろうから先に言っとくけど、俺には前科があるのだと、三上本人が話していたことがある。
 それでも真にとっては、三上は唐沢よりも数段まともな会話ができる相手で、三上も真を弟のように可愛がってくれていた。

 事務員のサクラがいないので、真は奥の流しで三上のために茶を淹れた。
「にしても所長の野郎、人使いが荒い上に、自分はまた競輪か」
 多分、と真は答えて、湯呑みを差し出しながら、三上の報告書を何気なく覗き込んだ。
 依頼人の欄には、かなえ養護施設とある。
「あぁ、これは俺らが施設にいた頃の仲間がまた同じような養護施設をやっているんだが、そこからの依頼なんだ。子どもを預ける親や親戚との揉め事やら、施設を卒業した子どもらがあちこちで起こす揉め事の仲裁やら、つまらない依頼ばかりだけどな」

 三上も唐沢も戦争で孤児になった。彼らは養護施設の先輩後輩の関係だ。彼らの憎まれ口はどこまでが本心か、真にはよく分からない。金にあざとい唐沢だが、つまらない依頼でも、養護施設からの依頼は絶対に断っていない。
「子どもがよく施設を抜け出すんだとさ。ま、子どもだって、いつも施設に閉じ込められて、大勢で揉み合って暮らしていたら、たまには一人で秘密基地に籠りたいこともあるだろうさ。犯罪に繋がらなきゃそれでいい。それでなくても、施設上がりの子どもへの世間の風は、あまり優しくはないからな」

 三上は安物のボールペンを置いた。彼自身の過去に重なるものがあったのかも知れない。
「で、その悪徳刑事の出入りしていた店を当たってみたのか」
「えぇ。でも、失踪に繋がりそうな際立った情報はありませんでした」
「何だ、その含みは?」
 三上は言葉の裏、人の表情を読むのが得意だった。

「つまり、怪しいと思えば何でも怪しい、そういうことか?」
「えぇ。単に仕事熱心だったとも取れるし、全てが行き過ぎだったようにも取れる。暴力団とも取引以上の関係にあったようですし、誰かが彼を殺して海に沈めていたとしても、驚きません。冤罪を生んでいた可能性もあるくらい、取り調べも辛辣だったようですし、金や暴力で色々なものを捻じ伏せていたという話でした。彼のことを良く言う人間はいなかった。生きているか死んでいるかを確かめるには、彼を殺したと誰かが名乗り出てくれない限り、無理そうです。つまり、生きていないことを証明できる確率は限りなく低い」

 三上は真の淹れた濃すぎる茶をすすった。それから、精悍な顔つきに似合わない犬のような目を細めて聞いた。
「じゃ、どうする? 金を返すか」
「もちろん、そのつもりですけど」
「まだ何か引っかかるのか?」
「何だか、騙されているような気がして」
「その美人の奥さんにか? さては、愛人と共謀して、実は彼女が夫を殺していた……で、あたかも自分は無関係だということを示したいがために、調査を依頼した、ってか」

 三上がにやにや笑って立ち上がり、机の向こう側から真の方へ回ってきた。
「どう思う? 役者は揃っているのか」
「多分。パズルがうまく嵌らないだけです」
 三上はまだにやにや笑っている。それから自分が作っていた報告書を真の目の前でひらひらさせた。

 その報告書に添えられた写真を見て、真は思わず三上の手から報告書を奪った。
「三上さん、これ……」
「さて、お前さんを騙しているのは誰だろうな」
 真はじっと写真を見つめた。横顔で分かりにくいが、確かに彼だ。
「行くか。キーパーソンはおそらくその女に間違いはないだろうが、まずは外堀を埋めるさ」


「おや、今日は保護者と一緒に飲みに来たのかい。相変わらずのねんねだね」
 古い木の床で椅子を引く音は、ガタガタと建物が揺れる音に紛れた。奥の小さな窓で、曖昧な黄色や赤が揺らめいているのも、いつもの光景だった。そこだけが、薄暗い店内で唯一色づいて見える。

 その一番奥の席から「作家」が軽くグラスを上げて、二人に挨拶をした。
「うちの弟をあんまり苛めないでくれよ」
 三上がカグラにそう言って、ウィスキーのロックと薄い水割りを注文した。
「ふん。飲めもしないのにちょろちょろされると目障りなんでね」

 今日は「作家」の他に、見知らぬサラリーマンらしき二人連れが座っていて、三上と真が座ると、六席のカウンター席は後一席を残すのみとなった。
「ところで最近、うちの所長は来てるかい?」
「あの詐欺師の顔なんぞ見たくもないね」
「ま、同じ穴のムジナって奴だからな。似た者同士はお互いをなかなか認められないものさ」
「けっ」

 カグラは煙草の灰をアルミの灰皿に落としながら三上を睨み付けた。
 派手で下手な化粧だと思うが、照明の下では舞台の登場人物のように際立って見える。
「で、また『人喰い屋敷』の話でもしに来たのかい?」
「どうやら『人喰い屋敷』には、老若男女問わず、人を惹きつけてやまない事情が色々とあるようだからな」

 それを聞いて「作家」が見知らぬサラリーマン二人に席を替わってもらい、三上の隣にやって来た。
「あなたも探偵さん?」
 丸眼鏡の奥から「作家」がいつものように相手を値踏みする視線を三上に送る。三上は軽く牽制するように、のらりくらりと躱す。
「えぇ、こいつの兄貴分です」

 あれ、と思った。「作家」と三上は初対面だったのか。
 この店には三上も何度も足を運んでいる。だが、確かに最近三上はここに来ていないし、思えば「常連」と認識していた連中も、よく考えてみたら、ここ最近よく見かける顔、ということだ。
 飲み屋は客の層が常に移り変わっている。変わらないのは唐沢くらいだ。

「それで、探偵さん、何か進展がありましたか。あなたの事件」
「えぇ。幾つか面白いことが。でも、まだ人を消す方法は分かりませんが」
「おや、そんな、最も簡単なところで躓いていましたか」
「簡単?」
「作家」はくつくつと笑った。
「探偵さん、自分を消したいと思ったことは?」

 一瞬、真はグラスを握った手に力を入れていた。氷の冷たさが硬質なガラスを通じて骨に沁みた。
「お前、本気で消え去ろうとした過去のある人間に聞くのは酷ってもんだよ。そうだろ」
 カグラがカウンターの向こうから真の方に身を乗り出した。肩にかかった黒いショールの上に、微かに暗い光が揺れている。
「おや、探偵さんにはそんな過去が?」

「おい、婆さん。あんまり余計なことを言うと、その鼻をへし折るぞ」
「おぉ、怖い。あんたは冗談じゃすまないから怖いよ」
 それでも、カグラは三上が前科者だとは言わない。知っていても最後の一線を越えないルールは守っている。
 真は黙ったまま薄い水割りを舐めた。カグラが作った水割りに更に三上が水を足してくれた、極薄だ。酒というよりも水に近い。

 脇腹の手術創とその時にぶつけた頭のどこかがぎりぎりと痛む。これを笑い飛ばせるようになれば、自分ももう少しこの世を上手く渡って行けるようになるに違いないが、あの事故と一緒に葬った何か大事なことがどうしても思い出せないまま、ぽっかりと空いた空洞を抱えて生きている。

「じゃあ、こう考えましょうよ。もし自殺以外の方法で自分の存在を消そうとしたら、どうするのが適切か」
「簡単さ。自分を知っている全ての人間との接触を断つ」
「さすが、アニキ探偵さん。その通りですよ。自分を何某と定めている全てのしがらみを捨てれば、自分は何某ではなくなる。誰も『あなたは何某ですね』と証明してくれなければ、それだけでいいんですからね。そして、ここでひとつ、疑問が生じる」

「作家」は言葉を切った。三上の大きな体を間に挟んでいても、「作家」の舌なめずりが聞こえたような気がした。
「なぜ、そうまでして自分を消さなければならなかったのか」
 三上がぐっとロックを飲み干した。
「大方、借金取りに追われてどうにもならなくなっていたんじゃないのか」
「おやおや、本当に、発想が貧困ですね。あなたはどうです。探偵さん」

 真は答えなかった。カグラがちらりと「作家」を睨み付けたような気がした。だが、「作家」は全く意に介さないようで、ゆったりとした芝居がかった声で言った。
「愛ですよ。愛ゆえに、人は間違いを犯す。自分の犯した犯罪を闇に葬るため、あるいはこれから犯すかもしれない犯罪から逃れるため、自分を消す人間だっているかもしれませんよ」
 真は思わず握りしめていたグラスから「作家」の方へ視線を移した。「作家」が幾分か身を屈めて真を覗き込んでいた。

 その時、丁度、最後の席を埋める客が扉を開けた。
 そして、その瞬間、真はあの『人喰い屋敷』の部屋で嗅いだ、香水のようなにおいを吸い込んでいた。

(6)白い猫を抱いた少年、に続く。



さて、見事に役者は揃いました。あとはだらっとお楽しみください。

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(6)白い猫を抱いた少年 

limeさん
【人喰い屋敷の少年】第6話です。今回は真が『人喰い屋敷』で見かけた白い猫を抱いた少年が正体を現します? でもまだ「オトナには言えない」ことがあれこれあるようで……。少しだけ、事情を覗きに参りましょう。
内容は予定通りに進んでいるのですが、その分を実際に書いて確認するたびに長くなるのは何故でしょう……ゆっくりお付き合いください。

ちなみに第1~5話はこちら→(1)カグラの店(2)夫の死を願う女(3)人を喰らう屋敷(4)女の事情と猫を抱いた少年(5)役者は揃った

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会う、猫を抱いた少年。
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
三上>真の勤め先『唐沢調査事務所』の先輩。真のいいアニキ。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(6)白い猫を抱いた少年


「さぁさぁ、あなたたち、喧嘩は辞めて、勉強の時間ですよ!」
 まるで拡声器を使ったような声は、部屋の壁を反響装置にして響き渡った。
 それまで部屋の中を体育館のようにして走り回っていた子どもたちは、その号令にぴたりと動きを止めて、ばらばらと隣の部屋に移動していく。

 年齢は幼稚園から高校生といったところか、二十人ばかりの子どもたちの動きに均一性はないが、この場所で定められた最低限の秩序を守っているように見えた。上級性は小さい子どもと手を繋いでやったり、中にはむずかる子どもを叱りながら引っ張っていくのもいる。さっきまで大喧嘩をしていたように見えた子どもたちも、肩を並べて、隣の教室のような部屋の大きな机のまわりに納まった。

「いつものことながら、お見事」
 三上が、背の低い小太りの女性に心からの賛辞を贈った。
「全くね、この仕事をしていると、声にだけは磨きがかかるわね」

 真はガラス窓越しに見える、隣の部屋の様子に気を取られていた。部屋と部屋は低いチェストとガラス窓で仕切られている。子どもたちは一斉に教科書やノートを広げ、まだそういう年齢に達しない子どもたちも上級生を見習って、小さなテーブルに大人しく座って、一心不乱に何かを書き始めた。
 これだけの子どもたちの共同生活なのだ。ある種のルールが必要となり、その第一が時間を守ることだというので、勉強時間、遊びの時間、食事など生活に必要な時間、家事や仕事の時間などが明確に分けられているのだという。

「さて、ルカのことね」
 三上に腕を取られるまで、真の視線は一点に釘付けになっていた。
 かなえ養護施設の施設長、そして子どもたちの母親代わりである新庄佳苗は、小柄な体に漲らせた活力と明るさを惜しみなく周囲に振り撒く、そういう顔をしていた。佳苗は真の視線の先を確かめ、納得したように頷いてから、三上と真を彼女の部屋に誘った。


 施設長の部屋と言っても、そこは事務所だった。お世辞にも片付いているとは言い難く、何某かの書類やら子どもたちの作品やら、篤志家からの段ボール箱から出された衣服やおもちゃ、本などが散らかっていた。それらを適当に机や床に移動させて、佳苗は真と三上のためにソファに居場所を作ってくれた。

 かなえ養護施設は多摩ニュータウンの外れにあった。開け放した窓からは、多摩川の向こうから吹いてくる風が抜けて行く。真はふと窓の外を見た。こちらは裏庭になるのだろうか、二十人余りの子どもたちと住み込みの従業員たちの洗濯物が風に大きく揺れている。

 ひとまず三上が作成した報告書に目を通した佳苗は、うん、と頷いた。それは真が唐沢調査事務所で三上が作成しているのを見たもので、ごく簡潔な報告書の一番上に少年の写真がクリップで留めてあったのだ。
 写真の少年は横顔だった。佳苗が真の視線を確かめ、大きく息を吸い込むようにして笑った。
「ルカは写真を撮られるのが嫌いでね、カメラが向いていると思ったらすぐそうやってそっぽを向くのよ」

 それからふうと大きな溜息をついて、一人掛けのソファに凭れた。年季が入って擦り切れたソファはどこから貰ってきたものなのか、古い映画にでも出てきそうな革張りだった。
「そう、まさかとは思っていたけれど、門倉さんのお宅に行っていたのね」
 それから一度三上の顔を見てから、真の方へ視線を向けた。事情を話してあるのかという確認に見えた。

「ルカは一度あのお宅に引き取られたことがあるの。でも、その時あの子はまだ小学生にもなっていなかったし、多摩から世田谷まで行けたとしても、正確に駅からの道も覚えているかどうか」
 三上がちらっと真を見てから、佳苗の方へ身を乗り出した。
「佳苗姉ちゃん、守秘義務ってのはあるんだろうけれど、もうあの家には誰も住んでいる気配はないし、ルカのためにも話してくれてもいいんじゃないかな。それに、こいつはあらゆる意味で信用できる奴だ。俺が保証するよ」

 三上はそう言って、子どもにするように真の頭に手を置いて、くりくりと撫でた。どういう場面になっても、唐沢と三上にかかると、真はいつまでも小僧の立場だが、それもこの頃ではすっかり慣れてしまった。それでも、唐沢も三上も、方向性は違っていても、真のことをそれなりに認めてくれている(誤解も混じっているが)。そのことが有難かった。
「それに、こいつはルカと話ができると思うけどね」

 その言葉に佳苗が改めて真の顔を見つめた。それは真が怯むほどの真剣な眼差しだった。
 やがて佳苗はまた何度か頷いた。
「私は何時だって三上くんのことは信じてるわよ」
 新庄佳苗は三上が養護施設にいた頃から姉貴分だったのだろう。三上の色々な経歴を分かった上でも、佳苗が三上を(そしてもしかすると唐沢のことも)信頼している気配が伝わってきて、そのことが真を安心させた。

 世間体はあまり良くない仕事をしている自覚はあったが、少数であれ誰か信じてくれる人がいるのだ。
 佳苗は改めて真の顔を見て、そのあとふっと柔らかな表情になると、しっかりと真の方を向いた。子どもと常に向かい合っているこの女性は、子どもと話す時いつもこうしてきちんと真正面から目を見つめるのだろう。あなたに話しかけているのだ、と。

「ルカは1歳になる前にこの施設に来たの。彼の両親は交通事故で亡くなって、どちら側にも彼を引き取ってくれる親戚はいなかった。内気で、なかなか皆と打ち解けなくて、一人で遊んでいることが多かったけれど、優しい子。でも時々妙なことを言うので、皆からは浮いている感じだった」
「妙なこと?」
「庭に友達がいるからおやつをとっとくんだとか、夜中に起きた時亡くなったお母さんに会ったとか」

「お、そりゃ、お前の同類だな」
 三上が茶々を入れる。佳苗は三上を嗜めるような表情を見せたが、真はその内側に言葉以上のものを感じて、この女性を信じる気になった。少なくとも唐沢と三上が、かなえ養護施設からの依頼や相談は一切断らないだけの何かがあるのだ。

「七年前、門倉さんのご夫婦が、子ども引き取りたいと言ってこられたの。何度も面会をして、おうちにも伺って、あちらにあの子を短期間泊まりに行かせたりしながら、様子を見ていた。門倉さんのご夫婦はうち以外にも幾つも養護施設を回っておられて、真剣に考えておられるようだったし、その中でどうやらルカのことが随分と気に入ったようだった。あの子も嫌がる様子がなかったし、門倉さんが迎えに来られたら自分から出て行ったりしていたから、すっかりお互い気に入ったのだろうと、養子縁組の話を進めたの。それから半年くらいだったかしら。あの子は戻ってきた」

「戻ってきた?」
 三上はその言葉に引っかかったようだった。
「そう。文字通り、突然戻ってきたの。ある朝、施設の扉の前に立ってたのよ。慌てて門倉さんのお宅に連絡を入れたけれど、誰も出ない。それで確認したら、ご夫婦とも亡くなったのだと」

「親戚とかから連絡はなかったのですか?」
「えぇ。どういう事情だったのか確認しても、親戚は弁護士がいたはずだから大丈夫だと思っていたって。親戚と言っても、それほど近い親戚ではないらしくて、細かいことは何も分からないというの。あの子は何も話さないし……もっとも、あの子はその時まだたった6歳だったのだから」

「その弁護士とは話をされたのですか?」
 三上は主導権をすっかり真に預けてくれたらしい。隣で黙って話の成り行きを聞いている。
「養子縁組の時に間に立ってくださった弁護士の先生がいたので、その人のことかと連絡してみたけれど、事務所を閉めておられて、その後の連絡先も分からなかった。他人の家の事情をどこまで調べていいものか迷って、唐沢くんに相談したら、ルカの様子はどうなんだって聞くから、特に変わった感じはないと答えたら、ルカに実害がないのなら他人様の家の事情だから放っておいたらいいと言われたんだけれど」
 唐沢の言いそうなことだ。誰かのためになるわけでもない、一文の得にもならない話は受けたくなかったのだろう。

「実際にルカくんの様子はどうだったのですか?」
「そうね……ひどく傷ついている様子でもなかったし、あの子がいつも一人で遊んでいるのは前と同じだし、よくぼーっとしているけれど、それもずっと変わらなかったし、学校ではちゃんと勉強もしているようだし、成績もそんなに悪くないわ。良くもないけれど」
「さっき妙なことを言うと仰っておられましたが、それも変わりませんか?」

 佳苗は驚いたような顔をして真を見た。
「あら、いいえ」
 それから三上の顔を一度見てから、真に視線を戻した。
「言われるまで気が付かなかった。確かに、門倉さんのお宅から戻ってからは、あの子は妙なことを言わなくなったわね。いえ、そもそもそれまで彼が言っていたことは、子どもにはよくある、現実と幻想の世界の行き来なのかと……」
 佳苗は真の顔の変化には敏感に反応した。

「誤解しないでね。子どもが大人には見えないものを見るとか、そういうことを否定しているのではないのよ。子どもにとっては確かにそこにあるのだし、その世界が大人には見えないだけで勘違いでも何でもなくて、本当にあるのだとしても私は驚かないわ。そして、成長すると多くの人間がその世界との縁を切っていくことも」

 真はしばらく考えを巡らせていた。それからゆっくりと言葉を区切るようにして確認した。
「門倉さんの家に娘さんはおられませんでしたか?」
 不動産屋は「お嬢さんもいたんじゃなかったか」と言っていた。
「会ったことはなかったけれど、子どもが家を出て寂しくなったので養護施設の子どもの里親になろうと思ったと言っておられたから、ご結婚でもなさったのかと」

「養子縁組の際に、相手方の戸籍などは確認されますか?」
「そこまでの権限はないのよ。ただ、相手方がどのような人間かは調べることはある」
 そう言って、ちらっと佳苗が三上を見た。つまりそこで調査事務所が関係するというわけだ。唐沢と三上が、ほとんど金にならない養護施設からの依頼を断らないのは、自分たちの出自と佳苗との人間関係によるものだろう。

「でも、門倉さんの場合は、間に弁護士さんが立っておられたから、唐沢くんに頼むまでもないだろうと」
「もし写真か何かで弁護士の先生の顔を見たら、その人かどうか判別できますか?」
「これでもかなり記憶力はいいのよ。一度ならず会った人の顔はまず忘れないんだけれど、七年前のことだから、いささか自信はないけれど」
「その遠い親戚と弁護士以外に、門倉家の関係者にお会いになられたことは?」
「いいえ」

「三上さんに依頼された内容を確認してもよろしいですか?」
「えぇ。この半年ほど、時々あの子が施設を抜け出しているの。始めは慌てたのだけれど、いつもきちんと帰って来ていて、でも、どこに行ったのかは言おうとしない。何度か途中までつけていくことはできたけれど、いつも見失ってしまって。だから唐沢くんにお願いしたの」

 真は今度は三上に向き直った。
「彼が誰かに会っていたようなことは?」
 三上は首を横に振った。
「道の途中では誰にも会っていないが、さすがに門倉家の敷地内までは踏み込んでないからな」
「ひとりでバスや電車には乗れますか? つまり、個人的に管理しているお金があるのかということですが」
「学校までの定期はあるわ。小銭くらいのお金は持っているから、切符くらいは買えると思う」

 真は頭の中で一通り確認してから、改めて佳苗に聞いた。
「ルカくんと話せますか?」
 佳苗は頷いた。
「彼が望むなら」
 自分でルカに話しかけてみると告げて、真は一人で席を立った。佳苗と三上を施設長室に残して部屋を出ていきかけた時、ふと気になって確認した。

「猫を見ませんでしたか?」
「猫?」
「ルカくんが白い猫を連れていたことは?」
「いいえ、ないわよ」


 施設長室を出て、木の廊下を音を立てながら歩いていく廊下の途中で、少年は教室側とは反対の廊下の窓枠に凭れて立っていた。開け放した窓からは、蝉の声が順番を争うように重なり合って滑り込んでくる。夏の日は長く、高い気温は陽の傾きをものともせずに体温を上昇させるのに、彼の周りだけは涼やかに見えた。

 風が華奢な身体を包み込んでいる。髪が一瞬ふわりと舞いあがり、透明で柔らかな頬に光の影を作った。
 施設長の話からすると、彼はせいぜい十二歳ということになるが、顔つきはもう少し大人びていた。だが、少し成長が遅いのか、身体は未熟なまま、時間の中のどこかで止まってしまっているように見えた。

「やぁ、また会えたね。ルカ、それにシャーロック。多分すぐにまた会えるような気がしていたんだ」
 ルカはじっと真を見つめていた。そして薄く紅を引いたようにも見える唇を開いた。
「やっぱり、シャーロックが見えるんだね?」
 それは真が思っていた以上にはっきりとした声だった。少なくとも彼は幻でも幽霊でもない。……当たり前のことだけれど。真は頷いた。

 ルカは肩にあの時の猫を抱えるように抱いていた。猫はじっと真を値踏みするように見つめている。真っ白で少し長めの毛、そして水色に近いブルーの瞳。
 ルカの手がそっと猫の毛を撫でたように見えた。
「誰にも見えないのかと思ってた」
「でも、猫を見たという人もいたよ」
「見えるふりをしたり、嘘を付いたりしているんだ。その方が面白いから。本当に見えているんじゃない」
「そうかもしれない」

 真は頷き、ルカから数メートルの距離をおいて立ち止まった。
「君と話すことができるだろうか」
 ルカはじっと真を見つめていたが、その時間は覚悟していたよりも短かった。少年は逃げるようでもなく、徐に真に背を向けて歩き出した。それは真を拒否をしているのではなく、待っているような緩やかな歩みだった。
 真は意識して肩の力を抜き、少年の速度に合わせてゆっくりと後を追いかけた。


「君の隠れ家?」
 尋ねると、ルカは木の上を見上げた。
 裏庭の洗濯物は丁度取り入れられるところだった。女性職員が二人掛かりでシーツやタオル、大量の衣服を大きなかごに納めていっている。ルカはまだ物干し竿の上ではためいているシーツをするりと躱すように歩いていった。真は職員に会釈をして脇を通り抜けた。

 その先に、ニュータウンを見渡すことができる場所があり、それほど高くはない木が幾つか並んでいた。
「でも、一緒には登れない」
 確かに、枝振りは木登りには最適だが、二人の人間を収容するには手狭すぎるようだ。二人は一緒に草地に座った。白い猫は彼らの間に納まった。

「君がつけたの?」
 ルカは一瞬何を聞かれたのか分からないような顔をしたが、真の視線の先が白い猫の上にあるのを見て、そっとその背中を撫でた。
「違う。あの子がそう呼んでたんだ」
「君の友だち?」
 ルカは返事をしなかった。

 それは門外漢にどう話せばいいのか迷っているように見えたし、真を信用していいのかどうか値踏みしているようでもあった。あるいは、そもそも人と話すことが得意というわけではないのかもしれない。少年のころの真と同じように。
 彼にとっての核心の部分には、まだ他人を入れたくないということなのだ。

「シャーロックというのはいい名前だね。きっと君の友だちのご家族の誰かがホームズのファンだったんだろうな」
 真はそう言ってから、自分の方も口を噤んだ。
 相手が話さないままでいると、時々饒舌になっている。自分でも意外で、ふと気が付いた瞬間に気恥ずかしくもなる。もっとも、この仕事を始めるまでは、特別な人間以外とはほとんど話すことがなかったのだから、仕方がない。

「ひとつだけ聞いてもいいかい?」
 ルカはやはり答えない。でも、拒否をしているわけではなさそうだ。
「君が門倉さんのお宅に行ったのは、誰かに会うためだったのかな?」
 返事はない。
「でも、よく道を覚えていたね?」
 ルカは突然顔を上げ、何かを言いたげに真の顔を見た。

 よく見ると、真と同じように少し髪の色が淡く、目の色は黒というよりも鳶色のような色合いだった。綺麗な子だな、と改めて思った。
 取調べみたいでいやな聞き方をしていると思ったので、逆に真の方が目を逸らした。
 それからしばらく、何も話さないまま黙ってニュータウンの街並みを見ていた。ルカが時々シャーロックの背を撫でる。真はそのルカの白い手を見つめる。時々目が合うけれど、ルカは話し始めようとはしなかった。

 やがて、捜しに来た三上にそろそろ行こうと呼びかけられて真が立ち上がった時、ルカが真を見上げた。
「また来る?」
 縋るような目だった。真は頷いた。
「明日?」
 その切羽詰った日を確認した理由は何だったのだろう? だが、真は敢えて聞かなかった。問い詰めてもルカは返事をしないと思った。だから、代わりにはっきりと頷いた。
「明日」
 ルカも小さく頷いた。

(7)飽和状態~重い夕闇~に続く。



次回はルカが語り始めます。そして、『人喰い屋敷』に潜んでいる亡霊が活動を始める?

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(7)飽和状態~重い夕闇~ 

limeさん
【人喰い屋敷の少年】第7話です。間が空いてしまってごめんなさい。
多重視点って書き慣れていないので(長編ではあるのだけれど、シーンがコロコロ変わる短編ではあまりなくて)、右往左往してしまいました。今回は特に真視点のないままになりそうだったのですが、それではちょっと主役の面目が?と思って、ねじ込んじゃった。
やっぱりサービスシーンは必要だよね、と思ったけれど、何のサービスもなかった。『水戸黄門』における由美さんの入浴シーンみたいなサービスシーン、やっぱりお話には必要な気がしてきた。

今回は色んな人物がそろそろ動き始めようとしているようです。それも、探偵がうろうろし始めたから、みたいですね。裏で糸を引いているのは誰か、そう、もちろんあの人?

ちなみに第1~6話はこちら→(1)カグラの店(2)夫の死を願う女(3)人を喰らう屋敷(4)女の事情と猫を抱いた少年(5)役者は揃った(6)白い猫を抱いた少年
*冒頭のイラストの著作権はlimeさんにあります。

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。7年前に失踪した夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会った、白い猫を抱いた少年。
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
三上>真の勤め先『唐沢調査事務所』の先輩。真のいいアニキ。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(7)飽和状態~重い夕闇~


「ねぇ、シャーロック。あの人のことを信じてもいいと思う?」
 白い猫は何も答えずにじっと少年の顔を見つめている。
 ルカは猫の背中を撫でていた。いつも「あの子」がしていたように。
 正直なところ、少し混乱していた。「味方」がいるとは思ってもみなかったのだ。

 味方? ルカは自分が思いついた言葉を少し不思議な気持ちで反芻した。
 これまで、他人に対して味方とか敵とか、そういう言葉を当てはめて考えてみようとは思っていなかった。大人がズルいとか悪いとまでは思っていないが、信じるに値するとまでは思っていない。だから、ルカにとってそこにいる人たちはただ「そこにる」だけで、それ以上の意味はあまりなかったのだ。

 でも、あの人はちょっとだけ、これまで会った人たちと違っていた。
 ルカはもう一度白い猫の背中を尾まで撫でた。白い猫の背中は夕陽の中でも真っ白のままで、穢れも染みのひとつもなかった。
「お前のこと、ちゃんと見える人がいるなんて」

 先生たちはルカのこの奇妙な能力について、非難はしないし否定もしないが、ルカを信じているようにはみえない。子どもには一時的にそういう時期があるのだと思っていて、ルカを傷つけないようにしてくれているのだろう。
 ルカがまだ小さい時は、周りはただ話を合わせていてくれているだけのようだったが、そのうちに他の子どもたちがルカのことを少し気味悪く見るようになり、やがてルカの方が学習した。
 こういうことはあまり他人に言わない方がいいのだということを、だ。

 でも、あの探偵はシャーロックとちゃんと視線が合っていた。
 思いがけず門倉家で会った時にも、ルカはそれを感じたのだ。
 ルカ、とドアの外から雅美先生の声が聞こえる。もう七時なのだ。この施設の朝食と夕食はどちらも七時と決まっていた。

 太陽は大きく傾いていたが、夏の闇はまだ地球の自転の角度からずれていて、ここには届いていないようだ。四人部屋だが、今ここにはルカしか残っていない。皆食事までの時間を共同スペースで過ごしているのだろう。
 白い壁、その壁に張り付くように置かれた二つの木枠の二段ベッド、今日取り替えられたばかりの白いシーツと枕カバー、窓際に置かれた四人分の机、ランドセルや鞄、靴入れ、机の上の教科書。

 ルカは二段ベッドの上段で膝を抱えた。ベッド柵に小さな蜘蛛が歩いていた。ルカはそっと手を差し伸べた。蜘蛛はルカの手を避けるようにして、ベッド柵から飛び降りた。
 蜘蛛の糸がふわっと風に煽られて、黄金に照り輝いた。
 あの子がいたからあの家の子どもになった。あの子が一人ぼっちで困っていると思ったから、友だちになろうと思った。

 ルカは一歳の時に『かなえ養護施設』に来た。もちろんその頃のはっきりとした記憶はない。他の子どもたちと自分が少し違うと思ったこともなかったし、両親がいないことを寂しいと思うこともなかった。ルカには友だちがたくさんいたからだ。後で気が付いたことだが、少しだけおかしいのは、その友だちが他の誰にも見えないことだった。
 施設の他の子どもたちがルカのことを少し変だと思っていることに気が付いたと同時に、どうやら友だちの方もルカ以外の人には会いたくないらしいと感じたので、それからはあまり施設のみんなに友だちの話はしないようにした。

 七年前、門倉の「お父さん」と「お母さん」がルカに会いに来た。ルカには二人がとても歳をとっているように見えた。彼らは小さな男の子を連れていた。ルカと同い年くらいの男の子だった。
 どうして「お父さん」も「お母さん」も佳苗先生たちもこの子のことを紹介してくれないし、話題にもしないんだろうと思ったが、すぐにその事情は呑み込めた。

 きっとこの子は「友だち」なのだ。この子も他の友だちと同じように、ルカ以外の人間とは話をしたくないに違いない。だから黙っていることにした。
 ルカにしか見えない友だち。
 それが死者たちだと気が付いたのはもっとずっと後になってからだったが、その時はただ新しい友だちがルカを必要としていると感じたので、門倉の家に行き、いつの間にかルカは門倉の子どもになっていた。

「お父さん」も「お母さん」も優しかったし、友だちとの秘密の時間は楽しかった。だからルカは何の疑問も感じずに門倉の家に馴染んでいた、はずだった。
 あの女の人が戻って来てから、少しだけ様子がおかしくなった。

 いや、初めからおかしかったのだ。何故なら新しい両親はルカに別の名前を与えた。だからルカは混乱した。彼らがルカに与えた名前は、友だちの名前だったからだ。
 どうして「お父さん」と「お母さん」は友だちの名前で僕を呼ぶのだろう?
 ルカはその疑問をいつものように飲み込んだ。これは聞いてはいけないことだ。大人に質問したり確認したりしてはいけないことがあることを、ルカはもうずっと前から知っていた。

 あの女の人はルカのことを友だちの名前で呼ぶことはなかった。「お父さん」と「お母さん」の前では呼んでいたかもしれないが、彼らのいない時、彼女はまるでルカのことが見えないように振る舞った。
 それでも、あの人がじっとルカのことを見ていることは分かっていた。
 彼女は絵を描いた。それはルカの顔であり、あの子の顔でもあった。ルカは自分が「ルカ」なのか、あの子なのか、時々分からなくなった。

「ルカ」
 雅美先生の声が聞こえる。ルカは我に返り、慌てて二段ベッドの梯子を半分まで降りた。それからシャーロックに、待ってて、と話かけ、梯子から飛び降りた。ルカの髪は、窓から差し込む光で、蜘蛛の糸と同じように金に光った。
 明日、あの探偵が訪ねて来る。彼が「味方」だという確信はない。もしかすると大人たちがやって来て、本当のことを覆い隠してしまうかもしれない。

 ルカは決心した。
 今夜、あの家に行こう。あいつがあの子を殺した証拠は、僕がきっと探し出す。


 綾はその扉を開けるべきかどうか、躊躇っていた。
 細い廊下はずっと果ての方まで続いている。その先の小さな窓からは夕陽が紅の光を注ぎ込んでいるが、長い廊下のこの場所までは届かない。油をしみ込ませた黒ずんだ木の廊下は、時折ガタガタと振動する。電車が脇を通っていくのだ。

 黒い廊下の染みが足元から昇って来て、綾の白いワンピースを染め変えてしまった。ゆらめく衣が微かに素足に触れている。生暖かい風が両脚の隙間を撫でていく。綾はふるっと身震いした。
 街は確かに動いている。だがこの廊下だけが異次元に繋がる別の空間に変わってしまったのか、今ここには誰の気配も感じられない。

 でも、この小さな扉の向こうには真実を知る者がいる。
 綾の前で扉は固く閉ざされている。もう何十年も一度も開かれたことがない、沈みこんだ暗い影の塊のように見える。鈍い銀色のドアノブに触れたら、きっと氷のように冷たいのだろう。
「綾さん」
 誰かが綾に呼びかけている。
「松岡綾さん」
 綾は顔を上げる。

 重い音をたてて扉が開く。向こうから、能面のような顔をした白い影が綾に近付いてくる。
 この影はついに罪人の襟首を捕まえに来た。私は、捕まってしまう前にどうしても知りたいのだ。あの時、あの人が「彼」を殺してくれたのかどうか。今でもあの人が私を愛してくれているのなら、きっと私は少しだけ救われる。
「綾さん」
 影がもう一度呼んだ。

 そう、この影は知っているのだ。私があの子を殺してしまったことを。何故なら私はそのことをこの影に打ち明けてしまったのだから。
 影に腕を掴まれそうになって、綾は慌ててその手を振り払った。

 階段を駆け下りながら、綾はあの占い師の言葉を思い出していた。
 ほらごらん。『悪魔』が逆位置で出ている。どう解釈するかはお前次第だが、これだけは言っておくよ。お前が求める愛を与えてくれる男はいない。何故ならお前の方は与えていないからだ。お前は、男が他の誰かよりもお前のことを愛しているかどうか比べようとする。だが、本当に愛する者は、その愛を何かと比べたりはしない。自分の全てをかけて愛するから、比べようがないのだ。

 綾は答えた。
 私は決して断罪されることや死ぬことを恐れているわけではないの。でも愛を確かめずには、生きていくことができない。
 占い師はもう一枚、カードをめくった。

 それなら、死者を呼び出して聞いてみるかい。探偵を雇うんだね。お前の夫は元刑事だったんだろう。昔の知り合いに、そんな仕事をしている連中がいないか、聞いてみるんだね。探偵に会ったら必ず聞くんだよ。「死者の口寄せができるか」ってね。肝要なのはそのところだ。
 占い師がテーブルに残したカードは、正位置の『死神』だった。

 夏の太陽は傾くまでには時間がかかるのに、傾いてしまってから姿を消すまでの時間は意外に短い。一瞬に闇に閉ざされようとする街を綾は急いでいた。影は長く、駅の階段を夕闇に沈めている。人々の顔はその影で全く実体がないまでにかき消されていく。山手線のホームに続く階段を上り切った綾の白いワンピースの裾は、黒い影と残照の茜を纏いながら風に身を任せていた。

 あの探偵はもしかすると死神なのかもしれない。誰かが彼の元へ私を誘ったのだ。
 山手線は東京の街を巡っている。闇に沈もうとする街の景色は、少しずつ色を失って行く。幾つものホームが並び賑やかな光を纏う街も、大きな木々に覆われる森のある街も、静かに家路を辿る人を受け入れる街も、ゆっくりとモノトーンに落ちていく。

 そのどこかの駅で、綾は不意に他の乗客に押し出されるようにしてホームに降り立った。
 降り立った途端に、時間が逆戻りした。あるいは乗っていたのは、過去へ戻る電車だったのか。足は自然に人の流れを追いかけて、ホームの階段を上っていく。

 綾はいつの間にか、もう長く訪れたことのない道を歩いていた。
 この道は七年前から綾にとって存在しない道だったのに、今もこうして現実のものとして確かにここにある。
 やがて綾は立派な門構えの一軒の家の前に立ち止まる。
 薄闇の中で街灯がジジと音を立て、幾匹もの蛾が作る影が淡く踊っている。
 固く閉ざされた門。門の向こうには、すっかり手入れされなくなった木々が屋敷を覆って、一塊の黒い魔物のように見える。

『人喰い屋敷』という名前に相応しい家だ。
 ここで、一緒に死ぬこともできたのに。
 綾はそっと門に手を触れ、軽く押してみた。ぎっと木が擦れるような音がしたが、門はびくともしなかった。
 その音に重なるように、声が聞こえた。

「綾さん」
 一瞬、あの影が追って来たのかと思った。やはり逃げきれないということなのかもしれない。
「お嬢さん、門倉綾さん」
 綾ははっと顔を上げた。
「やはりあなたですか」

 恐る恐る振り返ると、街灯の下に男が立っていた。夏というのに、まるで暑さを感じないようにきちんとスーツを着て、背を真っ直ぐに伸ばしている。風の中に微かに整髪剤の香りが漂っていた。
 一体、何故この男がこんなところに。
 男が一歩近づいてきた時、綾は一歩下がり、その背中に閉ざされた木の扉の気配を受け止めた。背中に何か重いものが圧し掛かってくる。

 綾はその重さを振り切るように、駅とは反対の方向へ走り始めた。
 死神はあの探偵ではなく、別の男だったのか。
 男は追いかけてはこなかった。だが、別の死神が綾の背中にぴったりと貼り付いていた。


 そろそろ日が暮れる。いい加減に非番の日に飲み歩くのは止めにしないと、普段の仕事にも差し支えるようになる。何より、そのうち本物のアル中になって身体を壊すに違いない。
 真田は駅前の商店街で買ってきた、コロッケと串揚げの茶色い紙袋を見て溜息をついた。

 田代の言う通り、嫁でももらって落ち着くのがいいのかもしれない。いや、こんなくたびれた、見かけはすっかり中年の刑事のところに嫁に来る奇特な女性はいないだろう。
 それに、俺も年甲斐もなく溜息なんぞつくようになったかと思うと、我ながらジジ臭くなったものだと感じた。まだまだ若いと思っていたが、十年も若い世代が新しく入ってくるようになると、時間の流れを嫌でも感じさせられる。

 嫁か……
 真田の脳裏には一人の女性の顔が浮かんでいる。
 哀れな女だと思う。彼女はいつも愛を求めていた。愛だけを求めていて、身体が傷つく事よりも、愛されていないと感じることに恐怖を覚えているようだった。愛さているという実感を得ることだけが、彼女を生かしていたのかもしれない。

 真田にとって、彼女はあくまでも先輩刑事の妻だった。だが、時には哀れという感情の中身がぶれることもある。人の心ほど確認し難いものは無い。今でも、これが恋か愛かと聞かれたら、憐憫以上の何もでもないと答えることはできる。だが憐憫が愛情ではないという分類もできない。
 愛情は複雑な成分でできている。純粋さではなく、憎しみや嫉妬も、その中には入りこんでいるのだから。

 ただひとつだけ分かっていることがある。
 このことが片付かないと、自分の中で踏ん切りがつかない。
 真田はポケットの中身を探りながら、アパートの階段を上りかけた。錆びた鉄製の階段に、低く傾いた夏の夕陽が作る長い複雑な影が交錯する。
 鍵を探していた手が、ポケットの底に小さな穴を探り当てた。

 こんな小さな綻びがやがては大きくなって、大事なものをとり零していくんだろうな。
 最近は全く酒が抜けきったことのない頭を振って、ポケットの穴という現実的なものから哲学めいたことを思いついた自分に感心していたら、階下から呼び止められた。

「ちょっと、真田さん」
 アパートの大家のおばさんだ。寮を出た時に、結婚して引っ越した他の刑事から紹介された。口が堅いから安心だと言われたのだが、本当にそうなのか、真田は基本的に他人を信用していないので、自分からはあまり話しかけないようにしている。
 むろん、アパートの他の住人には「特に愛想の悪い奴」と思われない程度に挨拶をする。目立たないことが肝要で、警察官であることを知らさないようにしているが、さすがにこの大家だけは知っていた。

 大家は太ってはいるものの機敏な動きで真田の傍までやって来た。
「今日あんたを訪ねて人がやって来たよ」
「俺を?」
 大家は二度頷いた。
「刑事を調べようなんて、変な探偵事務所もあるもんだね」

 大家の方では、刑事である真田に協力したい気持ちは大いにあるのだろう。戦利品を自慢するように、スカートのポケットから名刺を取り出した。
 真田は思わず舌打ちした。

 いつかはやって来ると思っていたが、ついに俺のところまでたどり着いたとなると、そうそう悠長にもしていられない。
 真田は田代の喫茶店にやって来た二人連れを思い出した。若い探偵だけならともかく、あの中年の方はどう見てもきな臭い顔をしていた。いい加減さを纏っていたものの、あの顔の下からは獣の臭いがしていた。百戦錬磨、あらゆるやばいことを潜り抜けてきたという顔つきだ。

 名刺を受け取り、大家に礼を言って背を向けてから、真田は胸の前で名刺をくしゃりと握り込んだ。
 探偵などという胡散臭い連中に物事を引っ掻き回される前に、何としてでも先輩を見つけ出したい。たとえそれが遺体であっても。
 それは決して、綾のためではなかった。

 門倉家の屋敷。『人喰い屋敷』などという奇妙な噂を振り撒いた奴が誰かは分かっている。そいつが「犯罪現場」に人を近付けないために振り撒いた噂だ。
 敷地内に入り込んでみたことはあるものの(それで十分不法侵入で罪なのだが)、いくらなんでも現役の刑事が窓を割って家に侵入するというわけにもいかないと思っていた。だが、あそこには絶対に何かがある。

 松岡圭吾。
 その男に真田はけりをつけなければならなかった。


「やはり来ましたね」
 真は意識して肩の力を抜いた。開け放した窓から風が吹き込んで来るが、決して気持ちのいい風ではない。じっとりと熱気と湿気を含んだ風だ。それでも重く湿った風が木々の葉をこする音は、少しだけ気温を下げてくれる。
 だが、その音が気持ちまでも落ち着かせてくれるわけでは無い。
 隣接する門倉家の木々のざわめくような音だ。不安と緊張の色を帯びている。

「そんなに怖い顔をなさらずに、ね、座りましょうよ、探偵さん。そうそう、冷たいお茶でもいかがですか」
「お構いなく」
 和室の床に薄い絨毯を敷いて、そこにテーブルと椅子を置いてある。
 まだ外はほんのりと明るかったが、既に陽は落ちていて、部屋の中で相手の表情を見分けるのは難しかった。テーブルの白い布に、スタンドの灯りが作ったオレンジの光の輪がぼんやりと反射して、あたりに濃淡の深い影をいくつも浮かび上がらせていた。
 真が座ると、相手の男は満足したような顔になり、自分も椅子を引いた。

 唐沢の「教育」は徹底していた。出先で出された飲食物は絶対に口にするな、というのだ。唐沢がそう言うのにはもちろん理由がある。毒でも盛られていたら、ということだ。もちろん、世の中にそうそう他人に毒を盛ろうという連中がいるとは思えないが、唐沢はニヤニヤ笑って下品な一言を付け加えることを忘れない。
 女だったら毒じゃなくても睡眠薬だけでも、何をされるか分からないだろ。いや、男だからって、お前は気を付けた方がいい。お前を眠らせてやっちまおうって奴は、俺が知ってるだけでも片手では足りないからな。
 まったくあのおっさんは。

「さて、探偵さん、我々が情報を共有することはとても有意義なことだと思いませんか」
 事実はある程度分かったつもりだった。だが目的は何だ?
 真は相手をじっと見つめた。他意はないのだが、こうしてじっと相手を見つめるだけで、相手は「怖い顔」だと言う。真には自覚はない。

「まずは、探偵さんがここを突き止めた理由をお聞きしましょうか」
「僕が確認したいのは、どの時点からあなたが関わっているのかということです」
「先に俺は探偵さんの名推理を聞きたいですね。迷探偵の謎解きシーン。今度の作品に使えそうだ」
 そう言いながら、すっとアルミの灰皿が差し出した。真は動かなかった。

「僕の方の理由は簡単です。あなたは、門倉さんの屋敷に入る裏道を知っていた。それも、普通の通行人には分からないような道を。僕が『人喰い屋敷』の話をした途端に、待っていたように僕を案内した。もしやと思って駅前の不動産屋に当たりをつけてみたら、門倉さんのお屋敷の隣の家を指定して借りたという人物がいた。写真で確認したわけではありませんが、印象はあなたに一致した。そして最後に、三上さん、先日カグラの店に一緒に行った僕の先輩ですが、彼は古くからのあの店の常連だ。でもあなたたちはお互いを知らなかった」
 相手は嬉しげに手を叩いた。

「大いに結構。では、もうひとつ答えてください。今日はここに来るまでにどちらを回ってこられましたか」
 別に手の内を見せたら損をするというものでもない。
「養護施設、それから病院へ」
 いつも着崩した背広姿だが、今日は家で寛いでいたのか、明治の大作家のような和服姿だった。普段被っているスキャット帽は、壁際の衣桁のフックに掛けられている。しかし、トレードマークのような丸眼鏡と、その奥の他人を観察する目だけはいつもと同じだった。

 真の答えに満足したのか、「作家」はにたりと笑った。
「では隠しっこなしにしましょう。俺がシナリオを書いたんですよ。いや、シナリオというほどのものでもないか。少しばかり指でつついてみたら、後は転がり出した、とでも言いましょうか。それでね、探偵さん、俺はじっとあの男が尻尾を出すのを待っていたんですよ」

【人喰い屋敷の少年】(8) に続く。



田代の喫茶店『モーツァルト』に綾の絵が掛けられていました。サインはAya「K」だったのですね。
さて、次回は「作家」の語りを聴きましょう。
そして、一人で夜の屋敷に真実を掘り起こそうとやってきたルカの身に危険が?

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(8)歪み 

limeさん
【人喰い屋敷の少年】第8話です。すっかり1か月に1話のペースになっている……何とかスピードアップしたいです。
しかも、今回もあんまりサービスシーンがないなぁ。でも、唐沢のおじちゃんを書く楽しみに、私自身は満足です(^^)
今回は少しだけ時間が巻き戻しです。かなえ養護施設から戻った真が「作家」と対峙するまでの間……さて、物語は少しずつ解けていっています。
*冒頭のイラストの著作権はlimeさんにあります。

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。7年前に失踪した夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会った、白い猫を抱いた少年。
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
三上>真の勤め先『唐沢調査事務所』の先輩。真のいいアニキ。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(8)歪み


 その日の午後、いったん三上と一緒にかなえ養護施設から事務所に戻った真は、ソファで高鼾の唐沢所長を叩き起こした。
「お前ね、可愛い顔して何て乱暴なんだ。もうちょっと優しく起こそうって気はないのか」
 そんな気持ちは全くない。しかも真の顔が可愛いなどという言い方自体が嫌味だ。いつも「お前、ほんとに野生の山猫だね、そんな怖い顔をすると運が逃げてくぞ」などと言うくせに。

 大体、この男の手際が良すぎる時は、何か裏があるのだ。これまでだってずっとそうだった。何ひとつ関与していないふりをしながら、唐沢が裏で糸を引いているなんてことは日常茶飯事だ。
 もっともこの男の「糸を引く」やり方は「何気ない一言を言う」というだけだ。それはほとんどの場合一種の脅迫で、唐沢にとっては何気ない一言が、相手の腹には相当食い込むことが請け合いなのだ。しかも、相手は、その一言を放った唐沢がその後何のフォローもしてこないことに、更に不気味な気配を感じて動かざるを得なくなるのだ。ところが、言った唐沢は十中八九、そのことを本当に忘れている。
 気の毒だと思うが、乗ったあんたが悪いよ、と真は同類相憐れむ気持ちになる。

 そう、唐沢の「何気ない一言」に乗ってこの事務所でバイトを始めたのが、真にとっては運の尽きだった。そもそも真の伯父の失踪に関係してアメリカから『私立探偵』などと言う輩がやって来なかったら、そして伯父の親友である斎藤が、友人の名瀬弁護士を介して唐沢を紹介してこなかったら、真にとって探偵業は永遠に無縁の仕事だったはずだ。
『お前の伯父上のことは俺がちゃ~んと調べてやるから、とりあえず、お前、うちでバイトしねぇか?』
 唐沢が真面目に伯父のことを調査している気配はなかった。真はそれについてはもう追求していない。真自身が結論を知っているからだ。そして、恐らく唐沢は始めから、真の実父のことも伯父の消息も知っていたに違いない。もちろん、唐沢は真を傷つけまいとして何も言わないわけではない。そんなお優しい男ではないのだ。

 今こうして、擦り切れて穴が開いているシャツの裾をたくし上げて脇腹を掻き、大あくびをしている唐沢を見て、誰もこの男が、優秀な米国特殊部隊の戦士という過去があり、誰からも恐れられた傭兵部隊の最も優秀な兵士であったとは思わないだろう。
 しかも、事務員の女の子がいない時は、ズボンさえまともに履いていないことがあるのだから、始末に負えない。
「隠し事は無しにしてください」
「何のことよ」
「どうして三上さんがルカという少年の件に関わっていたんですか?」
「そりゃお前、偶然とか、天の配剤とか、あれこれあるだろ」
「この世に偶然の出来事がないとは言いません。でもこの事務所の関わる事件で偶然が起こる確率は限りなく低い」
 あなたが所長である限り。真はその言葉を呑み込んだ。

 そもそも、松岡綾の夫、松岡圭吾のことを確認するのに江戸川区の警察署に乗り込んでいく手際からして怪しかったのだ。いや、もちろん、唐沢にはそういう突拍子もなく鋭い「勘働き」があるので、あの時点では必然なのか偶然なのか掴みかねた。だが、三上の仕事内容を知った時、頭の隅で小さく引っかかっていたことに合点がいった。
 唐沢がじっと真の目を見つめる。見ようによっては色気のある目だ。そういう女たちの言葉をもう幾度聞いたことだろう。だがこいつは多分恐ろしく頭の切れる悪党だ。そして、その悪事の底は空洞なのだ。何かありそうだと深い井戸の底を覗いているうちに、ある日堪らなくなって底に降りてみたら、何もなかった。唐沢とはそういう男だ。
 そして、「無」ほど「真実」に近いものはこの世にないのかもしれない。

「お前は本当に可愛いねぇ」
 そう言いながら唐沢は今度はパンツの後ろから手を入れて、尻を掻き出した。意外にも毛の薄い素足を組んで、もう一つ大きな欠伸をすると、今度は真剣な顔で真を見上げた。
「もっと教えて欲しいなら、手付金を払いなさい」
 ニタニタ笑いながら掌を上にして右手を差し出してくる。真はため息をついた。引き出しに仕舞ったはずの百万、綾が置いていった「手付金」がまだそこに無事に残っている確率は低そうだった。

「誰とグルになっていたんです? 始めから松岡綾さんにこの仕事には百万ほど掛かるって伝えてあったんですね。どうせ『うちの従業員は、多すぎるとか言って受け取らないだろうけど、その場合はこそっと置いていきなさい』とか何とか言ってあったんでしょう」
「いや、全く、お前は鋭いね~」
「冗談じゃありません。吹っかけ過ぎです」
「その代わり、万が一殺人が絡んでいても目を瞑りますよ、と言ってやったのさ。口止め料としては安いだろう?」

 真は思わずかちん、ときた。全くこの男は、冗談でも言っていいことと悪いことがあるし、本当のことなら尚更、触らずに置いておくべきこともあるのだ。しかも、この男に対しては口止め料など在って無きが如しだ。
 もっとも、この男は市井の薄幸な女性を脅してみみっちい口止め料をせしめるような人間ではない。そんなはした金には興味がないし、何かの間違いで誰かを死なせてしまったという次元の問題に固執するとは思えない。多分、松岡綾が人に知られたくない秘密を持っていたとして、それを唐沢が知ったとしても、聞いてから一日で忘れてしまうに違いない。彼にとっての重大事項ではないからだ。

「松岡綾さんのこと調べてあったんですね」
「死者の口寄せができる探偵なんて限定がついてみろ、お前しかいないだろうが。あぁ?」
「もう何度も言いましたけど、僕は霊能力者でもイタコでもありません。死者と話もできません。そういういい加減な宣伝をしないでください」
「お前ね、この商売は九十九パーセント、ハッタリなのよ」
 それはそうかもしれない。真は大袈裟に溜息をついて、テーブルを挟んで唐沢の前に座った。

「誰かがあなたと口裏を合わせて、この事務所に松岡綾さんを寄越したんですね。たまたまじゃなくて、必然的に僕しかいない時間を指定して。あなたは依頼料を伝え、彼女をそれを持ってやって来た。松岡綾さんについて、既にある程度下調べをしてあったあなたは、彼女が少なくともその額を払えるかどうかは知っていたということです」
「お前は、普段は口が利けないのかってくらい無口なくせに、誰かを追い込むとなるとよく言葉が出てくるもんだな。そうさ、俺ぁね、お前のそこが気に入ってるんだ」

「どうでもいいですから、あなたが彼女について知っていることを話してください」
「何くれる?」
「もう十分に松岡綾さんからせしめたでしょう。返す返さないはもう好きにして構いませんが、正直に話してください。彼女の依頼にはちゃんと答えを出してあげたいですから」
 依頼料を既に払った綾の方でも、まさかその一部でも返って来るとは思っていないだろう。その金額が高すぎると思ったならば、探偵社を替えれば済んだのだから。

「そんなことをしたら、お前さんがつまんないだろう? 謎解きっていう極上の甘い蜜を吸えなくなるんだから」
「僕は金田一耕助でも明智小五郎でもありません。謎解きを楽しんでいるわけじゃなくて、依頼人を困らせたくないだけです」
 唐沢はニタニタ笑って真を手招きした。仕方なくテーブルを回って唐沢の方へ行くと、ソファの隣に座るように促される。真はエロ雑誌を机の上に乱暴に移して、その場に座った。唐沢が真の肩に手を置いて、耳元に囁きかけるように言う。

「あの女の旧姓は門倉ってんだ」
「かどくら? って、じゃあ……」
 真の頭の中で、パズルがひとつ、カチッと嵌る音がした。

 門倉の『人喰い屋敷』の中に忍び込んだとき、白い猫を膝に抱いた、ルカとそっくりの少年の絵を見た。あるいはルカをモデルに描かれたものかもしれない。それと同じ印象をどこかで感じたことを、今、思い出した。
 唐沢と一緒に訪ねた、綾の夫・松岡圭吾の失踪を調べていた田代という元刑事の経営する喫茶店の中で見た絵。グランドピアノに頬杖をつく天使の絵だった。あの絵から全く同じ印象を受けたのだ。
 真の網膜に写し取られたその絵は、今写真のように鮮やかに記憶の底から蘇ってきた。絵にはサインがあった。Aya.Kという控えめなサインが。つまり、門倉綾のサインだったのだ。

「そうよ。あの『人喰い屋敷』のお嬢様だったのさ」
 唐沢は真から顔を離すと、にっと笑って「以上」と言った。
「以上、じゃないでしょう。他には?」
「お前、人から謎解きの結果を何もかも聞かされたら、がっかりしない?」
「しません。何度も同じことを聞かないで、さっさと白状してください」
「じゃ、あと一つだけ教えてあげよう」
 少し茶目っ気のある声で言ってから、唐沢は更に真の肩を強く引き寄せて、耳元に囁きかけた。
「あの女の通っている病院を教えてあげるよ」


 その病院は線路沿いにあって、白い漆喰が塗られた壁には、少し傾き始めた西陽が強く照り返っていた。
 駅からは少し歩くことになるので、人通りはそれほど多くない場所に、三階建ての四角い建物が周囲に溶け込むように建っている。街の中でもなく、かといって人里離れた場所でもない、その中途半端な立地がその病院の性質を物語っているようでもあった。診療所ではなく病院で、少ないながらも入院病室を備えているようだ。

 真は診療時間を確かめた。夜診の時間までそれほど間は無いようだ。硝子戸を押し開けると、ぎぃと大きな音がして、一瞬にして古い映画のワンシーンに紛れ込んだような気がした。
 入ってすぐに受付らしい窓口があった。カーテンが引かれていて、今は誰の気配もない。いや、まだ診察時間まで半時間はあるはずだが、すでに一人の患者が待合の椅子に座っていた。明かりは最低限しかなく薄暗い上に、あまりにも静かで気が付かなかった。顔を伏せ、入ってきた真に全く興味を示す様子もなく、床を見つめている。

 真はふと身震いした。その患者はまるきり動くこともなく、真っ黒な塊のようだった。ふと奥を見遣ると、外観からは細長い建物という印象はなかったが、油を引いた黒い木の廊下は随分と長く見えた。奥が暗いためにそう見えるのかもしれない。
 インターホンを押すと、少し遅れて中で物音がして、受付のカーテンが動いた。

 看護婦らしい中年の女性が顔を出す。今にも「まだ受付前ですよ」と喋り出しそうなその口が動く前に、真は切り出した。
「先ほど、電話で院長に面会をお願いした相川というものです」
 看護婦は表情を変えなかった。一旦カーテンを閉め、別のドアから出てきて、真を二階の院長室へ伴った。

 物部と名乗った院長は唐沢よりは幾分年上の印象で、大柄な男だった。太っているというわけでもなさそうだが、どっしりとした体格で、どこか唐沢と似たものがあった。その目の中に、相当の野心家だと思わせるものと、この世を見限って諦念している気配が同居していた。後ろへ撫で付けた髪が蛍光灯の灯りで黒々と照り輝いて見えた。

「断っておきますが、私は患者のことを探偵などというよからぬ輩に話す気などありませんよ。それは我々の倫理にも関わる問題ですからね」
 それはそうだろう。だが、この男は唐沢の電話ひとつで面会には応じたのだ。もちろん、例の唐沢流のやり口だ。
「結構です。ただ、僕の話を聞いてくだされば」
「五分だけです。もう診察の準備を始めなくてはならなりませんからね。つまり、精神統一です。君も分かるだろうが、こうした仕事は患者の話を聞いて同意してやりながら、聞き流す能力も必要なのですよ。でなければ私の方が『持っていかれてしまう』。何しろ、この仕事はこちら側と向こう側の壁が結構薄くてね、同業者で自殺者と病人が多いのもやむを得ません」

 真は返事をしなかったが、その意味は理解できた。少なくとも、中学生のころの自分を思い出せば、まさにその壁は無きに等しかったのだから。いや、あるいは今も。
「松岡綾さんはあなたの患者さんだと聞きました。彼女は、自分は誰かを殺したと相談していませんでしたか」
 もちろん、物部院長が何か答えるわけはない。無表情のまま真を見ている。

 だが、真には確信があった。唐沢が適当に「殺人の口止め料」などと言うはずがない。あの男がそう言うのには、何らかの根拠があるのだ。そして松岡綾は、何かに怯えているかもしれないが、自分が全く狂っているわけでは無いことを知っている。
 あの目は狂気の目ではない。赤ん坊だった真の首を絞めた義母の目とはまるで違っていた。義母は真を見ていなかった。だが、綾の目には真が映っていた。彼女は真に彼女自身を確かめようとしていた。

「ただし、彼女がその告白を警察ではなくあなたにしているという点から、彼女自身もそれが事実かどうかよく分かっていない、つまり妄想だと思っている可能性が高い。確信は無くても、どこか冷静に自分自身を見ている彼女もいるんです。さらに、彼女が『自分の罪』をあなたに告白して、それが警察沙汰になっていないことから、あなたの方でもそれが妄想であろうと考えている」
「確かに『私は人を殺しました』と患者が言ってきたとしても、ほぼ九十七パーセントは嘘でしょうね。君の言う通り、罪の告白をするならもう少し適切な場所があるからですよ。そして本当に隠したい者は、何も言わない。但し、残り数パーセントの人間は、法的に自分を裁くことのない誰かに罪を打ち明けておきたいと考える。とは言え、私は警察に『私の患者が人殺しのようです』とは言いに行きませんけれどね」

「彼女が夫の暴力に苦しんでいたことは分かっています。しかし一方で、彼女は夫を愛していた。それも恐怖からでも依存心からでもなく、あの人にとっては暴力よりも愛情の有無の方が重大な問題だったからです。いえ、彼女は愛していたのではなく、愛されていることを実感したかっただけだ」
 物部院長は初めて表情を変えた。変えたというよりも、真に興味を示したように見えた。真の中の何かを見透かしたのかもしれない。
 真はこの病院に入った時に思わず身震いしたように、身体をわずかに硬直させた。
 標榜科を見た時に、引き返してもよかったのに。いつの間にか掌にじっとりと冷たい汗をかいていた。

「彼女の描いた絵を見たことがありますか?」
「君は見ましたか?」
「はい。天使の絵と少年の絵を」
「何を感じました?」
「……贖罪を」
 その言葉を吐き出した瞬間、真は立場が逆転したことを感じた。
 この医者が真を追い詰めている。

 物部の目には感情がなかった。感情を表にすれば、『彼の方が持っていかれる』からなのだろう。だからこの男はただ患者の前で鏡であろうとして、そのことに成功してきたのだ。
 綾もまた、ここに来て物部という鏡に写った自分の姿を見つめ、何かを振り落すように絵を描いていたのかもしれない。彼女が罪を犯したかどうかは問題ではない。自分が罪を犯したかもしれないと思っていることが問題なのだ。

「これは一般論ですが、多くの人間は自分自身の中にいくつもの歪を抱えている。歪が小さければ大抵の場合は問題にならないが、大きくなった歪はやがてその人間自身を歪めてしまう。やがてその歪は自分自身の中では収まらず、人間関係や社会の中での歪になる。だから人はその歪を何かで埋めようとする。愛情、信念、仕事、芸術、時には犯罪……彼女の場合はたまたまそれが絵だったというだけのことです。だが、芸術の才能に恵まれた者はいい。歪を埋めることのできる何かを天から与えられたのだから。さて、君は自分の歪みを何で埋めているのでしょうね」

 物部はちらりと壁の時計を見た。
「時間です。君は私の患者ではないが、最後に忠告しておきましょう。君は彼女のことをよく分かっているようです。それはつまり、君自身がより『向こう側』に近いということですよ。繰り返しますが、壁は薄い。残念なことに、埋めたはずの歪はすぐにまた地盤沈下を起こす」
 そう言って立ち上がり、真にもうここを出ていくようにと促した。真はもう一言何かを言おうと思ったが、言葉が浮かんでこなかった。のこのことここへやって来た自分が悪かったようだ。

 院長室を出て行きかけた真に、物部が声を掛けた。
「ところで、唐沢は元気にしていますか」
「え?」
「たまには顔を見せるようにと伝えてください」
「どういう意味ですか?」
「これは彼への嫌味ですよ。君に私の患者のことを話したのですから。そう、彼もまた私の患者です。いや、患者だったというべきか。病気かどうかは本人が困っているかどうか、それだけですからね」
 真はしばらくじっと物部の顔を見ていたが、相変わらず表情を殺した目に丸裸にされたような気がして、目を背けるようにして頭を下げた。


 そして今、真は『人喰い屋敷』に隣り合う貸家の二階にいる。カグラの店で出会った「作家」が借りている家だ。小さな丸いテーブルの上に置かれたスタンドが作る丸い光の輪を挟んで、しばらくの間「作家」と睨み合っていた。オレンジの光の輪の中には、蚊取線香の匂いと一緒に、今しがた「作家」が放った「あの男を見張っていた」という言葉の余韻が漂っていた。
 真がじっと「作家」を見つめていると、「作家」はふふと合点がいったように笑った。

「おや、探偵さんは私が怪しいと思っていたわけではなかったのですね。私のところへはそのうち辿り着くだろうとは思っていたのですが、まさにあなたを見くびっていました。『あの男』を疑う理由は?」
「匂いです。『人喰い屋敷』の中で嗅いだにおいと、あなたの言う『あの男』がつけている整髪料の匂いが同じだった。偶然だろうとも思いましたが、あの後、三上さんと一緒にカグラの店に行ってあなたと話している時、その匂いがして『あの男』が店に入ってきた。同じにおいを何度も嗅いでいるうちに記憶が明確になってきた」
「匂いは直接記憶と結びついているといいますからね。最も原始的な感覚だ」

「それで、初めに一緒にあの屋敷に行った時のことを思い出したんです。あの時、誰かとルカ、つまりあの屋敷で目撃された少年が、言葉を交わしていたのを闇の中で聞いた。『えから抜け出したんだ』とそう聞こえた。その後で僕はあなたとぶつかった。てっきりあなたがルカと話していたのだと思っていましたが、幾ら思い出してみてもあの声はあなたの声じゃなかった」
「そう、聴覚もまた、胎児から死の瞬間まで、最初から存在し最後まで残る感覚だと言われていますね」

「それでふと思い当たったんです。あなたも彼らの会話をこっそりと聞いていたんだと。あの場所に、僕たち四人とルカ以外の人間がいた可能性は否定しませんが、そんなに都合よく大勢の人間がいたとは思えない」
「『えから抜け出した』……かの少年が幽霊なら、絵画から抜け出した、というニュアンスでしょうかね」
「いいえ。あれは質問だった。『どうやって抜け出したんだ?』……ルカが抜け出していたのは養護施設で、その名前は『かなえ養護施設』と言うんです。もちろん、あなたはご存じだと思いますが」
「作家」はにやにやと笑いながら何度も頷いた。

「それに、そう考えてみたら、あなたは僕の仕事に興味を示すふりをしながら、最初から『あの男』から何かをあぶり出そうとするような会話をしていた。あなたたちは人間が存在するということはどういうことかという話をしていた。そこに『いる』のに『無』と見なされるにはどうなればいいのか、と」
「探偵さんは実によく人を見ている。いや、それがあなたの才能というものでしょう。やはりカグラが見込んだだけのことはある」
 カグラ? 一体何の脈絡だ?

 そう思った瞬間だった。
 開け放たれたままの窓の向こうで、何かが倒れるような大きな物音がした。何事かと窓の方を見た真の目に、一瞬、閃光が射しこみ、消えてしまったと思ったら、再び何かが割れるような鋭い音が響いた。と同時に、聞き覚えのある声が、風で嬲られる木々のざわめきと一緒に耳に飛び込んできた。
 やめて!!
「作家」と目を合わせた瞬間に、真はもう部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。

 ルカ! どうして今、そこにいる!?

【人喰い屋敷の少年】(9)に続く。



*現在、看護婦という言葉は使われず「看護師」ですが、この時代には一般的ではないので、あえて「看護婦」という言葉を使わせていただいております。

さて、時を同じくして、ルカは隣の屋敷に忍び込んでいたのですね。一体そこで何が?
ルカの身に何か危険が迫っているでしょうか?


Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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【8888Hitリクエスト・短編】人喰い屋敷の少年・(9)秘めごと 

limeさん
【人喰い屋敷の少年】第9話です。一応あらすじなど、書いてみました!
最初から読むための目次はこちら→【人喰い屋敷の少年】目次

あらすじ
唐沢探偵事務所の見習い探偵・相川真が留守番中に、松岡綾という女性が「もうすぐ失踪して7年になる夫の圭吾の生死を確認して欲しい」と依頼をしてきた。探して欲しい、ではなく、生死を知りたいという依頼に不穏なものを覚えながらも、綾の「夫は人喰い屋敷に喰われた」という言葉を聞いて、カグラの店にやってきた。
カグラの店ではしばしば、そのような都市伝説のような話題が持ち上がり、その日もまた、店には「作家」「教授」「窓さん」などいつも顔を合わせる連中がいて、真の持ち出した「人喰い屋敷」の話題に飛びついてきた。
店を出て彼らと一緒に潜り込んだ、噂の人喰い屋敷で、真は白い猫を抱いた少年に出会う。

翌日、真は唐沢所長と一緒に、元刑事だったという松岡圭吾の消息を訪ねる。松岡は「あまり良くない噂の多い」悪徳刑事だった上に、妻の綾に対して暴力を振るい、自分の相棒である真田と綾の関係も疑っていた。誰も、松岡圭吾に対しては良い感情を抱いていなかった。松岡の失踪を調査していた元刑事で喫茶店店主の田代も、真田と綾は好き合っているに違いないから、一緒になったらいいのにと7年の年月が過ぎ去るのを待っているように見えた。

一方、真の先輩探偵・三上はある養護施設からの依頼で調査をしていた。唐沢は相当金にあざとい男でもあるが、養護施設からの依頼だけは、どんなに些細なものでも断らない。今回の依頼は、養護施設からいつも少年がひとり抜け出しているのだというもので、その少年の写真を見て真は驚いた。真が人喰い屋敷で見かけた少年・ルカだった。
ルカは「死んだ人が見える」と言うので周囲に溶け込めずにいるようで、心を開かない少年だった。一度、門倉という家に引き取られたのだが、ある日何も言わずに戻ってきたことがあるという。門倉家はルカを引き取った年配の夫婦が亡くなっており、弁護士に後のことを任されていたようだったが、詳細は分からないままだった。
その門倉の屋敷、というのがなんと、「人喰い屋敷」だったのだ。

真は、偶然とは思えない依頼の重なりに唐沢を問い詰めるが、唐沢は綾がかかっている精神科の病院を教えてくれるだけだった。しかし、どうやら依頼の裏には、綾の本当の願いが潜んでいるように思えた。
今では誰も住んでいない人喰い屋敷に残る、誰かが潜んでいる気配。真が人喰い屋敷の中で見つけた絵に描かれた、ルカそっくりの少年。私は人を殺した、と精神科医に打ち明けていた松岡綾。彼女の旧姓は門倉、といった。なくしたものを探し出すように彼女が描く絵。そして、「作家」「教授」が話していた「人が周りとの接触を一切断ってしまったら、その人間の存在を証明することはできないのかどうか」という問い。

もうすぐ、綾の夫、松岡圭吾が失踪して七年。果たして、彼は……
真は不動産屋を訪ね、最近「人喰い屋敷」の隣の家を借りた人間がいることを確かめていた。そして今、真はその家で借り主と会っていた。しばしば顔を合わせていたものの、正体を知らなかった飲み仲間に。
そしてその時、隣の人喰い屋敷から、少年の悲鳴が聞こえてきた。

*冒頭のイラストの著作権はlimeさんにあります。

登場人物
相川真>大学を中退し、唐沢調査事務所に勤めている私立探偵見習。子どもの頃の遊び相手はコロボックルという不思議青年。3年ほど前に崖から落ちて生死の境をさまよってから、ますます霊感に磨きがかかっているという噂もあり。
カグラ>真の上司・唐沢が出入りする三畳酒場の女主人。本人がホラーのような存在。
作家>カグラの店の常連。本当に小説家かどうかは不明。真を観察して小説のネタにしようとしているらしい。
教授>カグラの店の常連。何の教授か、本当に教授か不明。おっとりとした声で理屈を言うのでそう呼ばれている。
窓さん>カグラの店の常連。いつも酔っ払っているサラリーマン。
松岡綾>真の依頼人。7年前に失踪した夫・松岡圭吾の生死を知りたいという。
ルカ>「人を喰らう屋敷」で真が出会った、白い猫を抱いた少年。
唐沢>真の勤め先『唐沢調査事務所』の所長。戦時中は十代、その後アメリカにも長く住んでいた、傭兵あがりのおっちゃん。ギャンブルと酒と女が好き。ちゃらんぽらんだが、どこか憎めない。
三上>真の勤め先『唐沢調査事務所』の先輩。真のいいアニキ。
田代>7年前、綾の夫・松岡圭吾の失踪事件を調査した班の元刑事。若くして警察に嫌気がさし、今は喫茶店をやっている。
真田>綾の夫・松岡の元同僚の刑事。松岡は、綾と真田の関係を疑っていた。



【人喰い屋敷の少年】(9)秘めごと


「ルカ! どこにいる!?」
 少なくとも、大声を出して誰かが彼を助けに来ていることを知れば、ルカの身に迫った危険が去ってくれるかもしれないと、その時はそれしか考えていなかった。

 ルカの声が聞こえたのだから、自分の声も届くはずだと思ったが、声は一瞬で闇に吸い込まれる。音は上に登ってくるが、平行方向へは壁が邪魔をする。
 真は、何度も潜ってその感覚をすっかり覚えていた秘密の通路を一瞬で通り抜け、一直線に先日開いていた窓に向かった。しかし、その窓は固く閉ざされている。

 屋敷の中から何かが倒れるような物音が響いてきた。
 ルカ!
 器物破損に及ぶにも、周囲に適当な石も落ちていない。すべての窓を見て回る余裕はない。ルカはどこから入った? 先日潜り込んだときに唯一人の気配のあったのは、玄関脇の小部屋だった。子供部屋のようだった。あの部屋の窓はどうだ。
 真は建物の周囲を探りながら走った。

 目は闇に慣れてきているし、さっきまで居た貸家の灯りがぼんやりと届いてきているものの、とても足下を確かにしてくれるものではない。しかもこの屋敷の中から灯りが漏れてきている様子はない。足元に何か障害物があったらすっ転んでしまうかもしれないが、構っていられなかった。
 予想に反して、小部屋の窓も閉まっていた。

 そのとき、再び屋敷の中から振動が響いてきた。すぐ側からではない。建物の対面だ。
 真は建物の角を回りかけて、足を止めた。いや、足に何かが纏わり付いてきて、真の足を止めたのだ。
「シャーロック」
 白い猫だった。猫の目が闇の中でもはっきりと黄金に光った。

 猫は真が自分を認識したことを確認すると、玄関の方向へ滑るように移動していった。
 シャーロックの影は真を導くように、闇の中でも靄のように白く浮かび上がっている。その白い靄がするりと何かの隙間に潜り込んでいく。
 玄関の扉がかすかに開いている。
 その隙間から、また何かが倒れるような鈍い音が聞こえた。

「ルカ!」
 真は我に返り、叫びながら玄関扉を引き開けて走り込んだ。その先の暗闇に、床だけがうっすらと白くにじんで見える。
 あの部屋はリビングだったか。ルカにそっくりの少年がシャーロックを抱いている絵が置いてあった。漏れてくる光は頼りないが、非現実ではなかった。懐中電灯か何か、床に転がっているのかもしれない。
「やめて!」

 今度は明らかに聞き覚えのあるルカの悲鳴だった。真は一度玄関の三和土に足を取られながらも軽い身のこなしで廊下に飛び上がり、微かに白んだ靄の中へ飛び込んだ。
 とたんに、何かが視界の中で光る。
「ルカ!」

 暗闇に慣れた目は、光に目を焼かれた。それでも光の中にルカがいると分かっていた。シャーロックの影だけは、光にも闇にもかき消されずに真の前にあったからだ。
 そのシャーロックがシャーとうなった声のままに、真は光に手を伸ばした。
 キラリと何かが跳ね返った。

 とたんに、鋭い痛みが腕をかすめた。どこまでが現実か分からない。だが、痛みと同時に床に倒れ込んだことだけは確かだった。鋭い痛みを受けた腕は何かにぶつかり、また別の何かにぶつかって絡み、もつれ合うように倒れ込んだ。
 腕に抱き取った重みは確かにルカのものだ。
 同時に、真の網膜は、床だけを照らしている光の中でナイフの残影を捕まえた。

 まるでスポットライトを浴びたように、床に転がったナイフだけが浮かび上がる。とっさに腕を伸ばして押さえようとしたが、同時に別方向から誰かの手がナイフに伸びてきた。
 真の指がナイフにかかると同時に、その手が真の手からナイフをかすめ取ろうとした。真の方がナイフまで遠くて、明らかに分が悪かった。

 指先からナイフの質量が消えたとたんだった。
 光が床から消えた。
 正確には、光がいったん浮き上がり、大きくグラインドして、別の場所へ焦点を移した。真はいつの間にか、ナイフに背を向けて自らの体で抱き留めたルカを庇っていた。とっさに、ルカを守ろうと身体が反応したのだ。

 その体勢から、突然場所を変えた舞台のスポットライトを振り返ったとき、真は光の中に意外な人物の顔を見た。
 いや、どこかで絡んでくるとは思っていた。だが、今ここにいるのは別の人物だと思っていた。
「窓さん……」
 いつも酔っ払っている姿しか見ない「窓さん」の腕が、床に呆然と座っている白い影に伸びて、「彼女」を助け起こした。

 光源の向こうの人影が、霧の中に浮かぶ強大なドッペルベンガーのように揺れた。
「いや、これは意外で面白い展開になりましたね。いささか役者が足りない上に、シーンは番違いのようだが」
 落ちた懐中電灯を拾い上げた影は、真を追いかけてきた「作家」だった。光は床に散った赤い血を追いかけて、真の腕を探り当てた。

 真の腕からもがくように逃れて、真の傷と出血に気がついたルカが、突然わめくような声を上げて、自分の手で傷を塞ごうとでもするように真の腕を握った。
 真はルカの手を優しくつかみ、大丈夫だと言った。誰かの痛みにとっさに反応するのだから、この子は死者が見えるとしても、その精神はずいぶんと健全だ。少なくともここに集まっている裏表のありそうな大人たちに比べれば。

「だが、今はとにかく探偵さんは手当が必要なようだ。こんな暗闇では何もできない。どうでしょう、俺の部屋に来ませんか」
 誰もが不承不承だったろうが、その言葉には従わざるをえなかった。確かに、ここには頼りない懐中電灯しかなく、真実を語る場にはふさわしくない。

 何かに突き飛ばされたのか、あるいは自分から倒れこんだのか、「窓さん」が複雑な表情で床に座り込んでいたが、その「作家」の言葉に首の後ろを軽く叩き、それから自分の側に呆然と座り込んでいる女性の腕に軽く触れて促した。
 光の加減だったのかもしれないが、彼女の顔は真っ白だった。唇にも色はなく、視線が定まらず彷徨っていた。彷徨いながら、やがてゆっくりと自分の腕に触れている「窓さん」の手に視線を固定し、それで初めて意識が返ってきたように見えた。

「あなたじゃないの」
 彼女は小さくつぶやいた。何を問うたのか、真には分からなかった。
 部屋を去り際にルカを支えながら立ち上がった真の目に入ったのは、ナイフで裂かれた一枚の絵だった。


 出血はそれほど多くはなかったにもかかわらず、興奮していた雰囲気を鎮めるには十分な傷だった。
 結果的にはかすり傷で、消毒と圧迫だけで済んだのだが、松岡綾は誰かが何かを言う前に真の傷の手当てを始めていた。自分のせいで真が傷を負ったということに申し訳ないと思っているような様子ではなく、ただ目の前に湧いて出た仕事を片付けているだけという淡々とした動作で、その指先は冷たかった。

 ルカは唇を強く引き結んだまま、真の側に立っていた。座るように椅子を差し出されても座ろうとしなかった。唇には色がなく、頬は白かったが、伝わってくる気配は綾よりも遙かにしっかりしたものだった。
 今は、彼の側にシャーロックの影はない。

 シャーロックが見えるから、ルカは真を信用した。
 実際のところ、真には時々、生きているものと既にこの世のものではないものとの区別がつかない。人間ならともかく、動物ではなおさらだった。シャーロックが生きている猫かどうか、というよりも死んでいる猫かどうか、今でも真にはよく分からない。
 ルカは多分そのことを察知したのだろう。

 ルカもまた、他人の目に何が映っているのかを窺い、自分に見える世界と他人が見ている世界の違いを確認している。自分が他人と違うものを見ているならば、それを悟られないように、用心深く、自分を隠しながら。

 もっとも、世の中というものは、誰の目に映っていても、すべて同じであるという保証はないし、確認することもできない。網膜と脳、二つのフィルターを通している間に、大きく歪められていても、原型がどんなものであったか、本当のところは分かるはずもない。新生児の視力は0.01、六ヶ月の乳児でも0.1ほどで、脳の発達とともに認識可能となっていくこの世界は、もしもその時脳が認識違いを起こしていたら、他の人たちとは相当違った像を結ぶようになっているかもしれない。
 もしかすると、七十億の人間は七十億の別の世界を描いているかもしれない。

 それでも、死んでしまったものが見えると言えば、かなりねじがぶっ飛んでいると思われても仕方がない。
 ルカは包帯を巻かれた真の腕ばかり気にしている。真はそっとルカの腕に触れてやった。心配しなくてもいい。その言葉は多分ルカには伝わっただろう。

 そして、今さらに一人、真の目の前に座っているのは、難しい顔をしたままの「窓さん」だった。酒が抜けているからか、あるいは芝居をする必要がなくなったからか、いつものただの酔っ払いではなく、深刻で怖い顔のまま綾の手を見つめている。
 この中で「作家」の顔だけは艶があって、いかにもこの状況を楽しんでいる様子だった。

「なるほど、ちらりとあなたの役割を考えたこともあったが、俺のシナリオにはなかった。こういう意外性は小説には大いに必要ですからね。実に興味深い。是非とも説明していただきたいものだ」
「窓さん」はちらりと「作家」を睨み付けてから、真を正面から見た。
「うちに訪ねてきた『探偵』はあんたか。俺だということを確かめに来たのか」
 真は頭の中でパズルをきれいに当てはめる時間を置いてから答えた。

「そうです。松岡綾さんのご主人、松岡圭吾さんのことを調べに行って、あなたの後輩の喫茶店に行った。その時、店の前ですれ違いましたよね」
「なるほどね。あの時、あんたたちを見かけて慌てて店から逃げだしたんだが、あんたがこっちを振り返った時には、俺だと気がついていたわけか」
「酔っ払っていようといまいと、人の骨格、歩き方の基本的な癖や雰囲気というのは変わりませんから。窓さん、いえ、真田刑事、聞くまでもないことかもしれませんが、『誰を』見張っていたのですか」

 真の傷の手当てを終えて、側に座っていた綾が初めて意識を取り戻したように顔を上げ、じっと真田を見つめた。
 綾の夫・松岡圭吾にその仲を疑われていた男女だ。だが、真田の目はあくまでも刑事の目だった。何かを疑い、何かを探っている。そして、綾の目の中にあるのもまた、愛とは別の何かだった。何かを畏れながらも、何かを期待し心を奪われている。
 あるいは、誰かを一緒に闇に引き込みたいと願う目かもしれない。

 綾が通っている病院の医者は倫理的配慮を盾にはっきりとは言わなかったが、綾が心に抱えている闇の気配は、真には直接伝わってくる。彼女を見ていると、閉じ込めたはずの記憶の引き出しの鍵が回りそうな気がする。
 だから、真はあえて綾を見なかった。

「やれやれ、探偵さんを出し抜いているつもりでしたが、これはどこかで一杯食わされていたようだ。窓さん、いや、真田刑事、つまりあなたは始めから俺と同じ『誰か』を見張っていたわけですね」
 それでも「窓さん」、いや真田刑事は何も答えなかった。
 ちらりと真を見て、煙草に火をつけてひとつ吹かすと、一瞬、恐ろしく冷めた目で綾の手元を見た。
 真はルカが不安そうに二人の表情を窺っていることに気がついた。

【人喰い屋敷の少年】(10)に続く。



最初に真実を語るのはなんと「窓さん」でした。
さて、人喰い屋敷には何が隠されているのでしょうか。
死体? それとも。

Category: ★短編(1)人喰い屋敷の少年

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