[雨151] 第31章 何の矛盾もない(1)祇園の女
いよいよ、【海に落ちる雨】第5節(最終節)の開始です。
本当は間に短編の連載を終わらせようと思ったのですが、あれこれ時間の都合がつかず、書き終えた作品に頼ることになっちゃいました。
さて、真や竹流の本音が出そろったところで、ようやく物語は本筋に戻ります。竹流を痛めつけた奴ら、しかも真の恋人(一応)・深雪や、そのかつての恋人で自殺した(ことになっている)新津圭一、そしてその一人娘の幼い千惠子までその犠牲になっていたようです。相手は「運送屋」、ほとぼりが冷めるまではどこにでも身を隠すつもりでいるようですし、なかなか尻尾を掴ませません。
ただし、何故か竹流の恋人・珠恵はその男・寺崎孝雄を捜し出す伝手を知っているようです。竹流の仲間・葛城昇は彼女がその伝手を使うことを止めますが、竹流の病状が悪化するにしたがって、真も珠恵も切羽詰って来たのかもしれません。
そして今、ひとつの真実が語られます。祇園の女たちの事情をお楽しみください。
あ、真の前世がマコトだったという事実が判明?? いやいや、あり得ない話ではないな。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
本当は間に短編の連載を終わらせようと思ったのですが、あれこれ時間の都合がつかず、書き終えた作品に頼ることになっちゃいました。
さて、真や竹流の本音が出そろったところで、ようやく物語は本筋に戻ります。竹流を痛めつけた奴ら、しかも真の恋人(一応)・深雪や、そのかつての恋人で自殺した(ことになっている)新津圭一、そしてその一人娘の幼い千惠子までその犠牲になっていたようです。相手は「運送屋」、ほとぼりが冷めるまではどこにでも身を隠すつもりでいるようですし、なかなか尻尾を掴ませません。
ただし、何故か竹流の恋人・珠恵はその男・寺崎孝雄を捜し出す伝手を知っているようです。竹流の仲間・葛城昇は彼女がその伝手を使うことを止めますが、竹流の病状が悪化するにしたがって、真も珠恵も切羽詰って来たのかもしれません。
そして今、ひとつの真実が語られます。祇園の女たちの事情をお楽しみください。
あ、真の前世がマコトだったという事実が判明?? いやいや、あり得ない話ではないな。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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岡崎の東海林家の前でタクシーを降りると、遠くから車の音が、湿った空気が生み出す幾重もの薄い膜を通して伝わってきた。風はなく、すでに夏が来たのかと思うような重い熱が皮膚に纏わりつく。夕刻になっていたが、辺りはぼんやりと明るく、タクシーが走り去った時には、重い空気が含む湿気そのままのような、細かな雨が降り始めた。振り仰ぐと、白暗い空から色のない雫が、息をひそめるように顔に降りかかってきた。
東海林家で待っていたのは、珠恵ではなく和枝だった。和枝は真に風呂を勧め、真が上がってくると、明らかに絹とわかる仕立てのいいスーツを用意していた。和枝が何も説明しないので、これはおそらく珠恵が用意したものだろうと思い、真は素直に袖を通した。サイズもきっちりと誂えてある。
和枝が、お嬢はんは毎日お百度を踏んだはるんどす、と目に涙を溜めながら怒りのこもった顔で言った。和枝は、『旦那はん』を追い込んでいるものが何なのか理解できないので、身近な仮想敵として真を睨みつけているのだろう。真はそう考えて、女たちの不幸に対して、哀れみと同時に納得のできない何かを覚えた。
だが、玄関を出ようとして、和枝が重々しい表情で石を打って見送ってくれた時、女たちもまたそれぞれが立っている場所で戦いを始めているのだと思い、不意に和枝の真に対する敵意にも正当な理由があるのだと思い至った。珠恵もまた同じだった。彼女が病院に姿を見せなくなったのは、真に手を貸してくれると言ったあの日からだった。珠恵がどれほど竹流の傍にいたいと思っているのか、それを最も理解しているのは、真自身なのかもしれない。
東海林家の前に停まっていたタクシーに乗り込むと、運転手は何も言わずに出発した。着慣れない上質の絹のスーツは、戦いに行く人間のために珠恵が用意したものなのだろう。違和感もなく、真の身体に馴染んでいる。戦闘服というものは、普段身に付けることもないのに、身に付けたとたんに身体にしっくりと来るのはなぜだろう。男というものは、あるいは女も、闘いに対しては、その衣服さえ適切に身に付ければ、いつでも準備が整っているものなのかもしれない。
真は目を閉じて、静かに自分自身の呼吸を数えた。
タクシーが停まったのは、暖かな提灯が揺れる祇園町のお茶屋の前だった。運転手は勝手知ったるように呼び鈴を押し、お客さんがお着きです、と言った。真はタクシーから降り、その町の景色を懐かしく見回した。低い町並み、石畳から立ち上る穏やかな湿度、提灯に浮かび上がる紅の色、暖かなざわめきが四条通から緩やかに伝わってくる。
『藤むら』という表札には見覚えがあった。程なく玄関が開いて、顔を出したのは上品な女将だった。
女将は沈むような藍地の単衣の着物を着て、すっと玄関に立っていた。ある程度年をとってしまうと、それ以上には老けることもなく、醜くもならず、その内面をも含めて、完全に維持をし続けることのできる女がいるが、まさにこの女将はその一人のようだった。
女将は真を見て少し頭を下げ、えぇ男はんにならはりましたなぁ、と言った。真はどう反応すればいいのか分からなかったので、ただ緊張を隠さずに頷き、導かれるままに奥の座敷に入った。
六畳の部屋に、舞を見せるための小さな次の間がついていた。床の間には真には読めない文字の掛軸がかかり、白祇園守木槿と大毛蓼の花が、竹の花入に、野にあるままの風情で揺れている。床の間の前には、席が二つ、用意されていた。
女将は酒を持ってこさせると、手ずから真に注いでくれた。
「珠恵ちゃんは今仕度しとりますさかい、ちょっとうちがお相手さしてもらいますわな」
女将は優雅に微笑んだ。そうすると二十代の娘のような口元になる。
「もう六年ほども前どすなぁ。旦那はんがおたくはんを連れてきはったんは」
真はとりあえず頷いた。
「旦那はんは、こないなことでもなかったら、おたくはんを珠恵ちゃんに会わせるおつもりはなかったんどすやろなぁ」
真は黙っていた。その通りなのだろうと思ったが、どう反応していいのかわからなかった。
「男はんはそういうところがずるおすな。けど、うちはおたくはんが珠恵ちゃんと会うてくらはって、良かったと思っとりますえ」
真は勧められるままに酒を飲んだ。女将は、あまりお強うないそうどすから、一杯にしときましょ、と言って徳利を置いた。何か、深い意味があるような気配だった。
「これで、珠恵ちゃんにも、旦那はんにも覚悟ができおしたやろ。もちろん、おたくはんにも」
真は飲み干したお猪口を置いて、女将に向き直った。
「あの、色々と誤解があるのでは。多分竹流が例の雑誌のインタヴューで余計なことを言ったからですね」
女将は穏やかに微笑んだ。珠恵にどこか似ていると思ったが、それは花街の女たちが腹の奥に持っている覚悟のようなものなのかもしれない。一方で、この女将のほうが人生にも社会にもうまく対応する、よい意味での八方美人さも持ち合わせている。女のしたたかさだ。
「何を言わはるんどす。旦那はんはいつでも、東京に愛しい恋人がいるんやゆうお顔をしてはりましたえ。珠恵ちゃんは何にも言わへんどすけど、和枝はんがよう愚痴りにきたはりましたわ。何やかんやとすぐ帰ってしまわはる、あれでは愛人の家にくる卑怯な男と変わらん、ゆうて。和枝はんは珠恵ちゃんのことが心配で、旦那はんの様子を見に東京にも行ったはりましたんや。珠恵ちゃんはそういうことはようない、ゆうてよう怒っとりましたけどなぁ」
「あの、確かに、一緒に住んではいますけど、それは僕が一人でまともに生活ができないような人間だからで、別にその」
女将は年齢を全く感じさせない艶然とした微笑を見せた。そして、真の拙い言い訳など完全に無視して、懐かしむような暖かい表情で話し始める。
「うちが初めて旦那はんに会うたんは、もう十五年以上も前のことどしたなぁ。東寺の講堂で、仏はんの前にずっと立ちすくんだまま、声も出さんと泣いたはりましたんや。高いとこから光が差し込んで、旦那はんの横顔がそれは綺麗で、ほんまに美しい絵を見とるような心地どしたな」
ふと言葉を切って、女将は真の顔を見た。神々しいほど嫋やかで静かで優しく、また艶美な表情だった。
「うちはその時、旦那はんに恋をしましたんや。この男はんのためにどないな無理もしよう、思いましたさかい。けど、珠恵ちゃんの事は別どした。この男はんは女を本当の意味で幸せにすることはできへんお人やと思ってましたさかい」
女将はやっぱりもう一杯飲んでおくれやすと言って、真のお猪口にお酒を注いだ。
「女に惚れてくらはるけど、惚れ抜いてはくらはれへん、そう思いましたんや」
真は、お猪口に注がれた酒が作り出す幾重もの輪を見つめた。かすかに乱れながらも、面には柔らかい光が踊っている。真の頭の中にもまた、揺れさざめくように幾つもの場面が踊っていた。
竹流は少し長い間仕事に出る前は、やたらと手の込んだ料理を作った。仕事以外で彼が家を空けるのは、どうせ女のことだろうと思っていた。連絡がないまま一晩帰らないことは稀だったが、あったとしても別に真も気にしなかったし、竹流も何か言い訳をするでもなく、翌朝あたりまえのように台所で味噌汁を作っていた。だが、ほんのたまに、奇妙な違和感を覚える時があった。
それを不意に思い出したのだ。
あの違和感。それは竹流が心の中に抱いていた、微かな罪悪感だったのかもしれない。下世話な言い方をすれば、男にとってはどちらも捨てることができない妻と愛人がいて、愛人の元から帰って妻の顔を見たとたんに男が抱く、何ともいえない罪悪感と狡さ、何とかこの場を取り繕おうとする健気な必死さのようなものだったのかもしれない。
竹流は一言も言わなかったが、真にも珠恵にも、何も知られたくなかったに違いない。いつかは言わなければと思いながらも、できればこのままどちらも気が付かないでいてくれることを願っていたはずだ。
もっとも、珠恵のほうは、ずっと真の存在を知っていたのだというから、竹流が取り繕っていたのは真に対してだけだったのかもしれない。だが、珠恵は竹流と一緒にいる時に、真のことを話題に出して問い詰めるようなことはしなかっただろうから、言い訳をしないという意味では、知られたくないという気持ちの延長だったのだろう。
思えば滑稽なことを考えていると分かっていた。いや、この際、どっちが妻で愛人かという確認は無用のものだし、考えてみれは真は妻という言葉にも、愛人という言葉にもそぐわない。
「旦那はんがおたくはんを連れてきはった時、あぁ、うちの勘は間違いやなかったと思いましたんや。けど、珠恵ちゃんは、自分が旦那はんに惚れてるさかいそれでええ、言うて、健気に一生このままでも十分やと覚悟を決めてますのや。そんならそれで、うちもえぇと思うしかありしまへん」
いや、これはどうしても否定しておかなければならない。常識感覚なのか罪悪感なのか、そういう種類のものが咽喉の辺りで苦い味となって粘膜を刺激した。
「やっぱり誤解です。単に、今更僕に珠恵さんのことを話すのが気恥ずかしかったからではないかと思いますし、それに、あの男は女を愛しても簡単に惚れるような男じゃないと思っていました。絵や職人の仕事には直ぐに惚れ込みますけど。その彼が惚れる女は珠恵さんだけなんでしょうし、きっと惚れ抜きますよ」
女将は静かに微笑んでいた。まるで、そんなにえぇ格好しはっても心の内は隠せませんえ、と言っているような目、そして意志の強い口元を見つめながら、真は女将が注いでくれた酒をあおり、そしてお猪口を戻した。
お猪口の底に僅かに残った酒は、もう揺らぐだけの量はなかった。磁器の真っ白な面に微かに見えるのは、跳ね返した光だけだ。
その瞬間、真は急に覚悟を決めたような気持ちになった。顔を上げて女将を見ると、ようやく本心を言う気になったのか、ならば覚悟してお聞きしましょう、という張りつめた表情にも思えたし、ただ穏やかに微笑んでいるだけのようにも見えた。
「いえ、やはり誤解ではないのかもしれません。僕はあの男に生かされている。肌を合わせるような関係ではなくても、本当はどんな女にだってあの男を渡したくないと思っています。ここに来たのは、珠恵さんに、これは僕の仕事だと言いに来たんです。あの人には傷ひとつ残すわけにはいかない」
女将は、真がこれまで見た女性の微笑みの中でも、極上の笑みを浮かべた。己の決意や対する人への優しさ、未来を見通しても尚恐れることのない勇気、そういった全てが含まれた微笑みだった。そして、直ぐにきりりとした表情となると、ひと膝下がり、真に深々と頭を下げた。
「やっぱり旦那はんが大事にしたはるお人や。珠恵ちゃんが、お母はん、うちは初めて嫉妬したんどす、けどうちはこの人ごと旦那はんを愛おしく思うと、そう言うとりましたんや。これでうちにも覚悟ができました。今後一生涯、うちと珠恵ちゃんは、旦那はんとおたくはんのためなら、どないなことでもさせてもらいます」
真は女将が一体何を言おうとしたのか、確かめようと思ったが、その時、次の間の襖がそっと開いて、三味線を持った年配の女性と、芸妓装束の珠恵が入ってきた。
珠恵は扇子を前に置いて深々と頭を下げ、ようお越しやす、と言い、三味線の音にすっと立ち上がった。黒留袖の裾に描かれた波が、岩に触れ音を立てて跳ね上がったように見える。綺麗な瓜実顔で、耳の方へ形よく伸びた目じりまで緊張感が行き届き、唇は優しく、しかし強く引き結ばれていた。
真は改めて美しい女だと思った。決して大柄ではない女性が、黒い装束に包まれて、大きく羽根を広げて舞う鶴のように見える。扇の先までも血が通うように見え、真はその立ち姿に、女の深い情を見たように思った。
微かに麝香の匂いがした。
竹流は何度か真夜中を過ぎてから、マンションに戻ってきたことがあった。飲んでいたようでもなく、真に言い訳をする気配もなかった。ソファで寝るな、と言って真を起こし、寝室のベッドに導く身体から微かにその香が匂ったことがあった。
何かを本能的に感じ取ったとまで言う気はない。真はただベッドに入ってきた彼に、いつものように無意識に、わずかに身体を寄せただけだった。眠っていたと思うが、意識は覚醒していたのかもしれない。竹流が全く眠らずに自分を見つめている気配を、真はずっと感じていたような気がした。
この男は女を抱いてきたのだと思っていた。そんなことは珍しいことでもないのに、何故か特異な気配があったのだろう。身体のどこか特別な場所で、真はこの男が自分を抱きたいと思っているのだと感じていた。
真は自分自身の指の先までも、血が流れていくのを感じ、それと同時に今明らかに珠恵と自分の間に密やかな運命を感じた。運命という言葉が間違っているのだとすれば、それは必然だと思えた。真は遥かな未来に対して、珠恵に託していかなければならない事があるような気がした。それが何かは分からないのに、珠恵もそれを知っていると思った。
珠恵の舞を見ながら、真はあの男が珠恵を抱いているところを垣間見ているような気がした。
珠恵の視線の先には竹流がいて、竹流の視線の先には珠恵がいる。そして竹流は珠恵を見つめながらその先に明らかに真を感じている。そして真は、自らの身体で彼らの交わりをずっと感じていた。彼自身を珠恵の身体の奥深くへ沈めてその締め付ける襞の感覚に震えている竹流のものを、自分自身が今受け入れているような錯覚で身体の芯が痺れたようになり、そのまま絶頂に昇り詰めさせられたようだった。
竹流は他の女を抱く時には、真の事を考えることなどないだろう。それはその時だけの愛であり、その時間に誰か他の人間の事を考える余地はないはずだった。だが、珠恵は別だった。この女は一生竹流のものであり、また竹流も一生この女のものだからこそ、竹流はこの女を抱きながら、真のことを考えたかもしれないと思った。真は疼いたままの身体の芯に竹流の身体の一部を受け入れているような感覚の余韻に、静かに、しかし激しく興奮したままでいることを感じた。
膝の上に置いた手に、密やかに水滴が落ちた。
神に見捨てられた箱舟だと竹流が言った小さな船は、南の国の暖かな海をあてもなく彷徨っている。昼間からずっと苦しいほど抱き合っていたクルーザーのデッキの上で、毛布に包まれたまま一緒に見上げていた宇宙は、地球には足下などないと語りかけていた。星の音が聞こえたような気がして見上げた宇宙に散りばめられた幾千億もの星々は、いつでも真に無限の物語を語り、父も母もない幼い子どもを慰め暖めてくれていた。
だがあの時、真は身体の芯から怖い、と思った。大きな暗い宇宙の中で彷徨っている地球という天体、その天体の片隅で、神に見放され波に翻弄されながら浮かんでいる箱舟、空から降り落ちる雨は海に溶け入り、そこには何の意味もなく何の重みもないのかもしれない。だが真は、この儚い天体の片隅で、名前も与えられない小さく孤独な存在であるという事実に怯えたわけではなかった。海に落ちた雨のただ一滴は、海の最も小さな生き物にも知られることがないということに、恐怖したわけではなかった。
真が恐ろしいと思ったのは、もしもこの男と引き離されたら、というただそれひとつの事だった。
一緒に暮らしている間、何も不安がなかったわけではないが、身体を求められないことなどは苦痛とも感じなかった。あのマンションのベッドの上は、部屋と廊下の窓を開けてしまえば、風向き次第で潮の香りがした。そのお蔭で、触れ合うことがなくても、僅かなきっかけがあればいつでもあの海の、あの小さな箱舟の上に戻ることができる。そこは厩舎の藁の中と同じにおいがした。
あんたたちがいやらしいのは、身体が触れてなくても精神でセックスをしているからだ、と言われたことがある。突っ込めばそれだけのことだけど、触れもせず、そうやって向かい合わせのソファに座って黙って別々の事をしているだけでいやらしい、と。
竹流はその時は、余計なお世話だというようなことを言っただけだったが、あとで二人きりになったとき、突然真の傍に座り真を抱き寄せて耳元に口付けようとした。何考えてるんだ、と真が身を引くと、やっぱり触れるほうがいやらしい気がするけどなぁ、と言って無遠慮に真を見つめた。
あの深い海の色、青灰色の瞳の中に自分自身が存在していることだけで、確かに身体は興奮しているのだとすれば、これが身体を触れなくても交わっているということなのかもしれない。
同居してから、竹流は不用意に真にキスをすることもなかったし、したとしても子どもを嗜めるようなキスの域を出なかった。だがその日は何を思ったのか、首の後ろに手を回して優しく引き寄せると、唇に触れて、それから唇と舌で真の唇を味わうように求めてきた。真は一瞬この男は何を考えているのだと思って、身体を緊張させた。その気配が伝わったのかどうか、竹流は真の頭を撫でて突然強く抱き締め、お前、何を処女みたいに震えてるんだ、とからかった。ベッドに入ってからも、拒否してもしつこく、こっちに来いと呼びかけてくる。妙な事言われて盛り上がるんじゃないよ、と言ってやると、どうせお前引っ付いてくるくせに、と楽しむような声が返ってきた。
絶対にそんなことはないと思って眠ったが、ふと夜中に目が覚めるといつの間にか引っ付いていた。朝方になって、こっちが触ると怒るくせに、離れたら尻だけくっつけて寝てるって、お前、絶対に前世は猫だろ、と言いながら思い出し笑いをしている竹流を睨み付けた。
竹流がつけているコロンの香りは本当に微かで、むしろシーツに沁み込んだ洗剤の匂いのような気もする。それはローマの屋敷のベッドの中で香っていた匂いと同じだったから、そう錯覚しているのかもしれない。そこにふわりと竹流自身の匂いと葉巻の香りが混じる。穏やかな寝息を数えながら、真は再び目を閉じた。
もしかすると、こういう記憶全てが綺麗ごとで、真も竹流も、ただ自分たちの存在や関係性を懸命に正当化しようとしていただけなのかもしれない。本当は自分がいつでもあの男が女を抱いているところを想像しては、激しく嫉妬に悶えていたのかもしれない。小松崎りぃさと初めて会った時も、涼子の腰を愛おしげに抱いて耳元に口づけていたあの男の後ろ姿に、ただ狂ったような気持ちになっていただけなのかもしれない。
俺は、目の前のこの女性にも、決して竹流を譲ろうと思っているわけではない。
そう感じたとき、真はどうしたわけか、東海林珠恵という女性の存在を心から受け入れたような気がした。この女性が今目の前にいてくれて、本当によかったと思った。
今珠恵が披露している舞は、会えない男を思って千々に乱れる女の想いを表したものだと、女将が真の耳元で囁いた。ふ、と頬に絹の感触があったと思ったら、女将が着物の袖で真の涙を拭ってくれていた。真が女将を見ると、女将は何も言わずともわかっている、というような顔で真を見つめていた。
三味線の音が途切れて、真が珠恵のほうへ視線を移すと、珠恵は深々と礼をして、そっと立ち上がり、女将と入れ替わって真の傍に座った。女将は静かに出て行った。
どうぞ、と言われて珠恵の酌を受けながら、真は微かに俯く女の横顔を無遠慮に見つめた。
竹流がこの女と恋に落ちたのは、一瞬の出来事だったろう。その一瞬に彼は生涯の恋人を、伴侶を得たのだ。珠恵の白い眼瞼の上に宿る淡い光は、この女が心と身体のうちに閉じ込めている深い情を、ほんのたまさかに表に零したもののようだった。
珠恵はゆっくりと杯に半分ほど酒をついで、真のほうへ顔を上げた。
白粉の匂いが鼻腔を刺激する。ふと、竹流が珠恵に甘えていた声が、まだ耳の中に残っているような気がして、真は一瞬目を閉じた。
「母は寺崎孝雄の世話になっていたことがあるんどす」
真は唐突に耳に入り込んできた言葉の意味を、しばらく考えなければならなかった。
珠恵は竹流よりも年上だと聞いていたが、肌や唇の艶やかさはまだ女盛りであることを感じさせた。どこかで見た菩薩のような目元と、その優しい光を上手く納めている卵形の顔からは、彼女がまだ少女であった頃の姿が容易に想像できた。
真はまさか、と思った。
「うちは酷い目には遭うとりまへん」
真がほっとして息を吐き出すと、珠恵は穏やかに微笑んだ。
「父は学者としてはほんまに立派な、優しい穏やかな人どした。けど、お金や生活のことは何も分からん人やったんどす。父が亡くなり、借金だけが残って、母は私を育てるために寺崎孝雄の世話になっとったんどす」
真は凍りついたような顔で珠恵を見つめていたのかもしれない。珠恵はその緊張を溶かしてくれるかのように僅かに微笑んだ。
「寺崎孝雄と母は幼馴染で、寺崎は母のことがずっと好きやったそうどすけど、母は当時は羽振りも良かった大学教授と結婚したんどす。母は、父の家の財産や肩書きに惚れたんやのうて、ほんまに父を愛して結婚したんどすけど、寺崎孝雄にはそうは見えへんかったようどすな。寺崎孝雄はその後、北陸のほうで海産物の運搬で財を成したそうで、父が借金だけを残して亡くなった後で、寺崎が現れて母の世話をしたいと言ってきやはったそうどす」
珠恵は一旦言葉を切った。
「母は借金を全て肩代わりしてやろうという寺崎の申し出は断ったようどすけど、何もかも寺崎に逆らうことはようせんかったんどす。うちを守るためやったと思います」
真は暫くの間、無遠慮に珠恵を見つめ、それから混乱したピースを納める引き出しが見つからないまま、手元の杯に視線を移した。
「暫くして、母は身籠ったんどす。うちは子どもで、意味が理解でけへんかったかもしれまへん。母は祇園はんに夜な夜なお百度を踏みに行っとおりましたんや。雨の日も雪の日も」
真は何かに思い当たったように珠恵を見つめた。
雨の日、雪の日に、あるいは嵐の夜に、薄暗い神社でお百度を踏む身籠った女の幻は、鬼気迫っているような気がした。自分を身籠らせた男への憎しみ、産まれてくる子どもへの恐怖とそれに打ち勝とうとする母性、あるいは男を受け入れた己の身体への後悔と増悪、様々な感情が女を狂わせようとしたはずだ。
「子どもが流れてくれたら、と思てたようどす」
真は身体が固まったまま、珠恵の目を見つめていた。母親に望まれなかった子どもの哀れな姿が、真と珠恵の間に漂っているような気がした。
「寺崎孝雄の子どもやったんどす。母が子どもを産みたくないと思っていたことは、寺崎に伝わったんですやろな。寺崎は母を祇園から連れ出し、寺崎の家に閉じ込めて二十四時間監視させるようになったんどす。その時、母が私をどうやって『藤むら』の女将はんのところに連れて行ってくれたんか、うちはよう覚えてまへんのや。うちが母に再会したんは、母がその子どもを産んだ後どした」
「では……」
その時、真は寺崎昂司が『珠恵姐さん』と言った言葉に篭められた本当の意味を知った。寺崎昂司は『姐さん』ではなく『姉さん』と言っていたのだ。だから、昂司は実の姉を頼り、ここに電話をかけてきていたのだ。
「昂司はうちの弟どす。もっともうちがそのことを知ったのはずっと後になってからどすけど。その当時、うちは母が弟を産んだことも知りまへんどした。母は寺崎のところから祇園に戻ってきましたけど、病気がちになってしもうて、お座敷もままならんようになっておったんどす。それでも寺崎孝雄はしばしば客を連れては『藤むら』に現れました。女将はんはあの男には『藤むら』の敷居は跨がせへんゆうて、祇園中に響くような声で追い出さはったこともあったようどすけど、寺崎孝雄が連れてくるお客はんは、『藤むら』がどうしても断れへん筋の方々が多かったんどす。寺崎孝雄はそのことをよう知っとったようどす。それに、孝雄の手元には人質のように昂司がおりましたんや。孝雄は祇園の外へも母を呼び出したりしておったようどすけど」珠恵は微かに俯いた。「母は病気の身体を押して、祇園はんに毎日願をかけに行っとおりました。生まれて来たからには愛しい我が子、昂司を不憫に思てたんやと思います」
真はいつの間にか自分の手が震えていることに気が付いた。
「昇さんたちはそのことを知らないのですか」珠恵は頷いた。「竹流は?」
「旦那はんはご存知どす。うちが昂司に会えるようになったんは、何より旦那はんのお蔭どすさかい」
竹流は珠恵を引き受けたとき、東海林家に降りかかった全ての不幸についてできる限りの解決を試みてやろうとしたようだった。女将や当時を知る人たちから事情を聞いて、恐らくいつもの徹底ぶりを発揮して、珠恵だけでなく昂司を救うためのあらゆる手を尽くしたのだろう。
大和竹流と寺崎昂司は偶然知り合ったわけではなく、竹流が昂司を探し出したのだ。寺崎昂司にとって大和竹流は、親友でもボスでもなく、本当は姉の恋人であり夫であったわけだ。そして大和竹流にとっての寺崎昂司は、やはりただの仲間のひとりではなく、愛する妻の弟であり、彼自身にとっても大事な家族だったのだろう。だから、葛城昇や添島刑事は『寺崎昂司は特別』だと感じていたのだ。もちろん、竹流は彼らに全ての事情を話すわけにはいかなかっただろうが。
「旦那はんは、昂司が寺崎孝雄から離れられるように、随分と骨を折ってくらはりました。昂司は時々、旦那はんに連れられて岡崎の家にも来てくれるようになりましたけど、うちが一人でも構わんと来てほしいゆうても、決して旦那はんと一緒のとき以外は来てくれへんかったんどす」
珠恵はしっかりと顔を上げ、真を見つめ、これまでになく切羽詰ったような声で言った。
「昂司は、もしかしてうちを守ってくれようとしてたんやないやろか、と」
竹流がどうしても手に入れたかったもの。
江田島が言った言葉が真の耳の中で重く沈んだ。自らの身を犠牲にしてまでも欲しかったのは、妻とも言っていい女の弟、寺崎昂司の本当の自由だったのかもしれない。
「珠恵さん」
その先に言葉を続けようと思ったのに、言葉は出てこなかった。真は言葉の代わりに黙って珠恵を見つめた。
その時、廊下の軋みと太い男の声が響いてきた。
「いや、嬉しいやないか。珠恵ちゃんのほうから呼んでくれるとは」
珠恵ははっとしたように真から少し離れた。
(つづく)




うちのむかし猫(トップ記事の猫です)、触ったら怒るのに、無視したらお尻だけくっつけてどてっと寝るんですよね。で、触ったら噛む^_^; これが真の前世だったか……え? と、それはマコト?
祇園の言葉で「あなた」というのは多分「おまはん」と言うのが正しいのかもしれません。京都では、「あんたはん」、「おたくはん」など色々な言い方がありますが、方言の類って、小説中で文字にして書くと少し分かりにくかったりするので、使いにくかったりしますよね。方言をどのくらい不自然で読みにくくない範囲で使うか、いつも悩みます。
あ、祇園さんというのは八坂神社のことです。
そして、いよいよ最後の大物?登場です。この人物は結果的にレギュラー化するのですが……今のところはただの助兵衛な大物だと思っておいて頂いていいような気がします。でも腹にはあれこれ黒いものが……
この先の展開については、しばらく目を瞑っておいてくださいね(~_~;)
<次回予告>
珠恵は真を振り返り、強い声で言った。
「うちは旦那はんの身にこれ以上こないなことが起こらへんことだけが望みどす。寺崎孝雄が旦那はんをあないな目にあわせたんどしたら、償ってもらわへんとあきまへん。相川はんのおっしゃる通り、昂司が戻ってこない限り旦那はんが納得しはれへんのどしたら、昂司を旦那はんに会わせてやりたい、思てます。相川はんの身に何かあったら、旦那はんがどないな気持ちにならはるかはよう分かってるんどす。そやけど、うちには相川はんを人身御供に差し出すしか道がありしまへん。堪忍しとおくれやす」



岡崎の東海林家の前でタクシーを降りると、遠くから車の音が、湿った空気が生み出す幾重もの薄い膜を通して伝わってきた。風はなく、すでに夏が来たのかと思うような重い熱が皮膚に纏わりつく。夕刻になっていたが、辺りはぼんやりと明るく、タクシーが走り去った時には、重い空気が含む湿気そのままのような、細かな雨が降り始めた。振り仰ぐと、白暗い空から色のない雫が、息をひそめるように顔に降りかかってきた。
東海林家で待っていたのは、珠恵ではなく和枝だった。和枝は真に風呂を勧め、真が上がってくると、明らかに絹とわかる仕立てのいいスーツを用意していた。和枝が何も説明しないので、これはおそらく珠恵が用意したものだろうと思い、真は素直に袖を通した。サイズもきっちりと誂えてある。
和枝が、お嬢はんは毎日お百度を踏んだはるんどす、と目に涙を溜めながら怒りのこもった顔で言った。和枝は、『旦那はん』を追い込んでいるものが何なのか理解できないので、身近な仮想敵として真を睨みつけているのだろう。真はそう考えて、女たちの不幸に対して、哀れみと同時に納得のできない何かを覚えた。
だが、玄関を出ようとして、和枝が重々しい表情で石を打って見送ってくれた時、女たちもまたそれぞれが立っている場所で戦いを始めているのだと思い、不意に和枝の真に対する敵意にも正当な理由があるのだと思い至った。珠恵もまた同じだった。彼女が病院に姿を見せなくなったのは、真に手を貸してくれると言ったあの日からだった。珠恵がどれほど竹流の傍にいたいと思っているのか、それを最も理解しているのは、真自身なのかもしれない。
東海林家の前に停まっていたタクシーに乗り込むと、運転手は何も言わずに出発した。着慣れない上質の絹のスーツは、戦いに行く人間のために珠恵が用意したものなのだろう。違和感もなく、真の身体に馴染んでいる。戦闘服というものは、普段身に付けることもないのに、身に付けたとたんに身体にしっくりと来るのはなぜだろう。男というものは、あるいは女も、闘いに対しては、その衣服さえ適切に身に付ければ、いつでも準備が整っているものなのかもしれない。
真は目を閉じて、静かに自分自身の呼吸を数えた。
タクシーが停まったのは、暖かな提灯が揺れる祇園町のお茶屋の前だった。運転手は勝手知ったるように呼び鈴を押し、お客さんがお着きです、と言った。真はタクシーから降り、その町の景色を懐かしく見回した。低い町並み、石畳から立ち上る穏やかな湿度、提灯に浮かび上がる紅の色、暖かなざわめきが四条通から緩やかに伝わってくる。
『藤むら』という表札には見覚えがあった。程なく玄関が開いて、顔を出したのは上品な女将だった。
女将は沈むような藍地の単衣の着物を着て、すっと玄関に立っていた。ある程度年をとってしまうと、それ以上には老けることもなく、醜くもならず、その内面をも含めて、完全に維持をし続けることのできる女がいるが、まさにこの女将はその一人のようだった。
女将は真を見て少し頭を下げ、えぇ男はんにならはりましたなぁ、と言った。真はどう反応すればいいのか分からなかったので、ただ緊張を隠さずに頷き、導かれるままに奥の座敷に入った。
六畳の部屋に、舞を見せるための小さな次の間がついていた。床の間には真には読めない文字の掛軸がかかり、白祇園守木槿と大毛蓼の花が、竹の花入に、野にあるままの風情で揺れている。床の間の前には、席が二つ、用意されていた。
女将は酒を持ってこさせると、手ずから真に注いでくれた。
「珠恵ちゃんは今仕度しとりますさかい、ちょっとうちがお相手さしてもらいますわな」
女将は優雅に微笑んだ。そうすると二十代の娘のような口元になる。
「もう六年ほども前どすなぁ。旦那はんがおたくはんを連れてきはったんは」
真はとりあえず頷いた。
「旦那はんは、こないなことでもなかったら、おたくはんを珠恵ちゃんに会わせるおつもりはなかったんどすやろなぁ」
真は黙っていた。その通りなのだろうと思ったが、どう反応していいのかわからなかった。
「男はんはそういうところがずるおすな。けど、うちはおたくはんが珠恵ちゃんと会うてくらはって、良かったと思っとりますえ」
真は勧められるままに酒を飲んだ。女将は、あまりお強うないそうどすから、一杯にしときましょ、と言って徳利を置いた。何か、深い意味があるような気配だった。
「これで、珠恵ちゃんにも、旦那はんにも覚悟ができおしたやろ。もちろん、おたくはんにも」
真は飲み干したお猪口を置いて、女将に向き直った。
「あの、色々と誤解があるのでは。多分竹流が例の雑誌のインタヴューで余計なことを言ったからですね」
女将は穏やかに微笑んだ。珠恵にどこか似ていると思ったが、それは花街の女たちが腹の奥に持っている覚悟のようなものなのかもしれない。一方で、この女将のほうが人生にも社会にもうまく対応する、よい意味での八方美人さも持ち合わせている。女のしたたかさだ。
「何を言わはるんどす。旦那はんはいつでも、東京に愛しい恋人がいるんやゆうお顔をしてはりましたえ。珠恵ちゃんは何にも言わへんどすけど、和枝はんがよう愚痴りにきたはりましたわ。何やかんやとすぐ帰ってしまわはる、あれでは愛人の家にくる卑怯な男と変わらん、ゆうて。和枝はんは珠恵ちゃんのことが心配で、旦那はんの様子を見に東京にも行ったはりましたんや。珠恵ちゃんはそういうことはようない、ゆうてよう怒っとりましたけどなぁ」
「あの、確かに、一緒に住んではいますけど、それは僕が一人でまともに生活ができないような人間だからで、別にその」
女将は年齢を全く感じさせない艶然とした微笑を見せた。そして、真の拙い言い訳など完全に無視して、懐かしむような暖かい表情で話し始める。
「うちが初めて旦那はんに会うたんは、もう十五年以上も前のことどしたなぁ。東寺の講堂で、仏はんの前にずっと立ちすくんだまま、声も出さんと泣いたはりましたんや。高いとこから光が差し込んで、旦那はんの横顔がそれは綺麗で、ほんまに美しい絵を見とるような心地どしたな」
ふと言葉を切って、女将は真の顔を見た。神々しいほど嫋やかで静かで優しく、また艶美な表情だった。
「うちはその時、旦那はんに恋をしましたんや。この男はんのためにどないな無理もしよう、思いましたさかい。けど、珠恵ちゃんの事は別どした。この男はんは女を本当の意味で幸せにすることはできへんお人やと思ってましたさかい」
女将はやっぱりもう一杯飲んでおくれやすと言って、真のお猪口にお酒を注いだ。
「女に惚れてくらはるけど、惚れ抜いてはくらはれへん、そう思いましたんや」
真は、お猪口に注がれた酒が作り出す幾重もの輪を見つめた。かすかに乱れながらも、面には柔らかい光が踊っている。真の頭の中にもまた、揺れさざめくように幾つもの場面が踊っていた。
竹流は少し長い間仕事に出る前は、やたらと手の込んだ料理を作った。仕事以外で彼が家を空けるのは、どうせ女のことだろうと思っていた。連絡がないまま一晩帰らないことは稀だったが、あったとしても別に真も気にしなかったし、竹流も何か言い訳をするでもなく、翌朝あたりまえのように台所で味噌汁を作っていた。だが、ほんのたまに、奇妙な違和感を覚える時があった。
それを不意に思い出したのだ。
あの違和感。それは竹流が心の中に抱いていた、微かな罪悪感だったのかもしれない。下世話な言い方をすれば、男にとってはどちらも捨てることができない妻と愛人がいて、愛人の元から帰って妻の顔を見たとたんに男が抱く、何ともいえない罪悪感と狡さ、何とかこの場を取り繕おうとする健気な必死さのようなものだったのかもしれない。
竹流は一言も言わなかったが、真にも珠恵にも、何も知られたくなかったに違いない。いつかは言わなければと思いながらも、できればこのままどちらも気が付かないでいてくれることを願っていたはずだ。
もっとも、珠恵のほうは、ずっと真の存在を知っていたのだというから、竹流が取り繕っていたのは真に対してだけだったのかもしれない。だが、珠恵は竹流と一緒にいる時に、真のことを話題に出して問い詰めるようなことはしなかっただろうから、言い訳をしないという意味では、知られたくないという気持ちの延長だったのだろう。
思えば滑稽なことを考えていると分かっていた。いや、この際、どっちが妻で愛人かという確認は無用のものだし、考えてみれは真は妻という言葉にも、愛人という言葉にもそぐわない。
「旦那はんがおたくはんを連れてきはった時、あぁ、うちの勘は間違いやなかったと思いましたんや。けど、珠恵ちゃんは、自分が旦那はんに惚れてるさかいそれでええ、言うて、健気に一生このままでも十分やと覚悟を決めてますのや。そんならそれで、うちもえぇと思うしかありしまへん」
いや、これはどうしても否定しておかなければならない。常識感覚なのか罪悪感なのか、そういう種類のものが咽喉の辺りで苦い味となって粘膜を刺激した。
「やっぱり誤解です。単に、今更僕に珠恵さんのことを話すのが気恥ずかしかったからではないかと思いますし、それに、あの男は女を愛しても簡単に惚れるような男じゃないと思っていました。絵や職人の仕事には直ぐに惚れ込みますけど。その彼が惚れる女は珠恵さんだけなんでしょうし、きっと惚れ抜きますよ」
女将は静かに微笑んでいた。まるで、そんなにえぇ格好しはっても心の内は隠せませんえ、と言っているような目、そして意志の強い口元を見つめながら、真は女将が注いでくれた酒をあおり、そしてお猪口を戻した。
お猪口の底に僅かに残った酒は、もう揺らぐだけの量はなかった。磁器の真っ白な面に微かに見えるのは、跳ね返した光だけだ。
その瞬間、真は急に覚悟を決めたような気持ちになった。顔を上げて女将を見ると、ようやく本心を言う気になったのか、ならば覚悟してお聞きしましょう、という張りつめた表情にも思えたし、ただ穏やかに微笑んでいるだけのようにも見えた。
「いえ、やはり誤解ではないのかもしれません。僕はあの男に生かされている。肌を合わせるような関係ではなくても、本当はどんな女にだってあの男を渡したくないと思っています。ここに来たのは、珠恵さんに、これは僕の仕事だと言いに来たんです。あの人には傷ひとつ残すわけにはいかない」
女将は、真がこれまで見た女性の微笑みの中でも、極上の笑みを浮かべた。己の決意や対する人への優しさ、未来を見通しても尚恐れることのない勇気、そういった全てが含まれた微笑みだった。そして、直ぐにきりりとした表情となると、ひと膝下がり、真に深々と頭を下げた。
「やっぱり旦那はんが大事にしたはるお人や。珠恵ちゃんが、お母はん、うちは初めて嫉妬したんどす、けどうちはこの人ごと旦那はんを愛おしく思うと、そう言うとりましたんや。これでうちにも覚悟ができました。今後一生涯、うちと珠恵ちゃんは、旦那はんとおたくはんのためなら、どないなことでもさせてもらいます」
真は女将が一体何を言おうとしたのか、確かめようと思ったが、その時、次の間の襖がそっと開いて、三味線を持った年配の女性と、芸妓装束の珠恵が入ってきた。
珠恵は扇子を前に置いて深々と頭を下げ、ようお越しやす、と言い、三味線の音にすっと立ち上がった。黒留袖の裾に描かれた波が、岩に触れ音を立てて跳ね上がったように見える。綺麗な瓜実顔で、耳の方へ形よく伸びた目じりまで緊張感が行き届き、唇は優しく、しかし強く引き結ばれていた。
真は改めて美しい女だと思った。決して大柄ではない女性が、黒い装束に包まれて、大きく羽根を広げて舞う鶴のように見える。扇の先までも血が通うように見え、真はその立ち姿に、女の深い情を見たように思った。
微かに麝香の匂いがした。
竹流は何度か真夜中を過ぎてから、マンションに戻ってきたことがあった。飲んでいたようでもなく、真に言い訳をする気配もなかった。ソファで寝るな、と言って真を起こし、寝室のベッドに導く身体から微かにその香が匂ったことがあった。
何かを本能的に感じ取ったとまで言う気はない。真はただベッドに入ってきた彼に、いつものように無意識に、わずかに身体を寄せただけだった。眠っていたと思うが、意識は覚醒していたのかもしれない。竹流が全く眠らずに自分を見つめている気配を、真はずっと感じていたような気がした。
この男は女を抱いてきたのだと思っていた。そんなことは珍しいことでもないのに、何故か特異な気配があったのだろう。身体のどこか特別な場所で、真はこの男が自分を抱きたいと思っているのだと感じていた。
真は自分自身の指の先までも、血が流れていくのを感じ、それと同時に今明らかに珠恵と自分の間に密やかな運命を感じた。運命という言葉が間違っているのだとすれば、それは必然だと思えた。真は遥かな未来に対して、珠恵に託していかなければならない事があるような気がした。それが何かは分からないのに、珠恵もそれを知っていると思った。
珠恵の舞を見ながら、真はあの男が珠恵を抱いているところを垣間見ているような気がした。
珠恵の視線の先には竹流がいて、竹流の視線の先には珠恵がいる。そして竹流は珠恵を見つめながらその先に明らかに真を感じている。そして真は、自らの身体で彼らの交わりをずっと感じていた。彼自身を珠恵の身体の奥深くへ沈めてその締め付ける襞の感覚に震えている竹流のものを、自分自身が今受け入れているような錯覚で身体の芯が痺れたようになり、そのまま絶頂に昇り詰めさせられたようだった。
竹流は他の女を抱く時には、真の事を考えることなどないだろう。それはその時だけの愛であり、その時間に誰か他の人間の事を考える余地はないはずだった。だが、珠恵は別だった。この女は一生竹流のものであり、また竹流も一生この女のものだからこそ、竹流はこの女を抱きながら、真のことを考えたかもしれないと思った。真は疼いたままの身体の芯に竹流の身体の一部を受け入れているような感覚の余韻に、静かに、しかし激しく興奮したままでいることを感じた。
膝の上に置いた手に、密やかに水滴が落ちた。
神に見捨てられた箱舟だと竹流が言った小さな船は、南の国の暖かな海をあてもなく彷徨っている。昼間からずっと苦しいほど抱き合っていたクルーザーのデッキの上で、毛布に包まれたまま一緒に見上げていた宇宙は、地球には足下などないと語りかけていた。星の音が聞こえたような気がして見上げた宇宙に散りばめられた幾千億もの星々は、いつでも真に無限の物語を語り、父も母もない幼い子どもを慰め暖めてくれていた。
だがあの時、真は身体の芯から怖い、と思った。大きな暗い宇宙の中で彷徨っている地球という天体、その天体の片隅で、神に見放され波に翻弄されながら浮かんでいる箱舟、空から降り落ちる雨は海に溶け入り、そこには何の意味もなく何の重みもないのかもしれない。だが真は、この儚い天体の片隅で、名前も与えられない小さく孤独な存在であるという事実に怯えたわけではなかった。海に落ちた雨のただ一滴は、海の最も小さな生き物にも知られることがないということに、恐怖したわけではなかった。
真が恐ろしいと思ったのは、もしもこの男と引き離されたら、というただそれひとつの事だった。
一緒に暮らしている間、何も不安がなかったわけではないが、身体を求められないことなどは苦痛とも感じなかった。あのマンションのベッドの上は、部屋と廊下の窓を開けてしまえば、風向き次第で潮の香りがした。そのお蔭で、触れ合うことがなくても、僅かなきっかけがあればいつでもあの海の、あの小さな箱舟の上に戻ることができる。そこは厩舎の藁の中と同じにおいがした。
あんたたちがいやらしいのは、身体が触れてなくても精神でセックスをしているからだ、と言われたことがある。突っ込めばそれだけのことだけど、触れもせず、そうやって向かい合わせのソファに座って黙って別々の事をしているだけでいやらしい、と。
竹流はその時は、余計なお世話だというようなことを言っただけだったが、あとで二人きりになったとき、突然真の傍に座り真を抱き寄せて耳元に口付けようとした。何考えてるんだ、と真が身を引くと、やっぱり触れるほうがいやらしい気がするけどなぁ、と言って無遠慮に真を見つめた。
あの深い海の色、青灰色の瞳の中に自分自身が存在していることだけで、確かに身体は興奮しているのだとすれば、これが身体を触れなくても交わっているということなのかもしれない。
同居してから、竹流は不用意に真にキスをすることもなかったし、したとしても子どもを嗜めるようなキスの域を出なかった。だがその日は何を思ったのか、首の後ろに手を回して優しく引き寄せると、唇に触れて、それから唇と舌で真の唇を味わうように求めてきた。真は一瞬この男は何を考えているのだと思って、身体を緊張させた。その気配が伝わったのかどうか、竹流は真の頭を撫でて突然強く抱き締め、お前、何を処女みたいに震えてるんだ、とからかった。ベッドに入ってからも、拒否してもしつこく、こっちに来いと呼びかけてくる。妙な事言われて盛り上がるんじゃないよ、と言ってやると、どうせお前引っ付いてくるくせに、と楽しむような声が返ってきた。
絶対にそんなことはないと思って眠ったが、ふと夜中に目が覚めるといつの間にか引っ付いていた。朝方になって、こっちが触ると怒るくせに、離れたら尻だけくっつけて寝てるって、お前、絶対に前世は猫だろ、と言いながら思い出し笑いをしている竹流を睨み付けた。
竹流がつけているコロンの香りは本当に微かで、むしろシーツに沁み込んだ洗剤の匂いのような気もする。それはローマの屋敷のベッドの中で香っていた匂いと同じだったから、そう錯覚しているのかもしれない。そこにふわりと竹流自身の匂いと葉巻の香りが混じる。穏やかな寝息を数えながら、真は再び目を閉じた。
もしかすると、こういう記憶全てが綺麗ごとで、真も竹流も、ただ自分たちの存在や関係性を懸命に正当化しようとしていただけなのかもしれない。本当は自分がいつでもあの男が女を抱いているところを想像しては、激しく嫉妬に悶えていたのかもしれない。小松崎りぃさと初めて会った時も、涼子の腰を愛おしげに抱いて耳元に口づけていたあの男の後ろ姿に、ただ狂ったような気持ちになっていただけなのかもしれない。
俺は、目の前のこの女性にも、決して竹流を譲ろうと思っているわけではない。
そう感じたとき、真はどうしたわけか、東海林珠恵という女性の存在を心から受け入れたような気がした。この女性が今目の前にいてくれて、本当によかったと思った。
今珠恵が披露している舞は、会えない男を思って千々に乱れる女の想いを表したものだと、女将が真の耳元で囁いた。ふ、と頬に絹の感触があったと思ったら、女将が着物の袖で真の涙を拭ってくれていた。真が女将を見ると、女将は何も言わずともわかっている、というような顔で真を見つめていた。
三味線の音が途切れて、真が珠恵のほうへ視線を移すと、珠恵は深々と礼をして、そっと立ち上がり、女将と入れ替わって真の傍に座った。女将は静かに出て行った。
どうぞ、と言われて珠恵の酌を受けながら、真は微かに俯く女の横顔を無遠慮に見つめた。
竹流がこの女と恋に落ちたのは、一瞬の出来事だったろう。その一瞬に彼は生涯の恋人を、伴侶を得たのだ。珠恵の白い眼瞼の上に宿る淡い光は、この女が心と身体のうちに閉じ込めている深い情を、ほんのたまさかに表に零したもののようだった。
珠恵はゆっくりと杯に半分ほど酒をついで、真のほうへ顔を上げた。
白粉の匂いが鼻腔を刺激する。ふと、竹流が珠恵に甘えていた声が、まだ耳の中に残っているような気がして、真は一瞬目を閉じた。
「母は寺崎孝雄の世話になっていたことがあるんどす」
真は唐突に耳に入り込んできた言葉の意味を、しばらく考えなければならなかった。
珠恵は竹流よりも年上だと聞いていたが、肌や唇の艶やかさはまだ女盛りであることを感じさせた。どこかで見た菩薩のような目元と、その優しい光を上手く納めている卵形の顔からは、彼女がまだ少女であった頃の姿が容易に想像できた。
真はまさか、と思った。
「うちは酷い目には遭うとりまへん」
真がほっとして息を吐き出すと、珠恵は穏やかに微笑んだ。
「父は学者としてはほんまに立派な、優しい穏やかな人どした。けど、お金や生活のことは何も分からん人やったんどす。父が亡くなり、借金だけが残って、母は私を育てるために寺崎孝雄の世話になっとったんどす」
真は凍りついたような顔で珠恵を見つめていたのかもしれない。珠恵はその緊張を溶かしてくれるかのように僅かに微笑んだ。
「寺崎孝雄と母は幼馴染で、寺崎は母のことがずっと好きやったそうどすけど、母は当時は羽振りも良かった大学教授と結婚したんどす。母は、父の家の財産や肩書きに惚れたんやのうて、ほんまに父を愛して結婚したんどすけど、寺崎孝雄にはそうは見えへんかったようどすな。寺崎孝雄はその後、北陸のほうで海産物の運搬で財を成したそうで、父が借金だけを残して亡くなった後で、寺崎が現れて母の世話をしたいと言ってきやはったそうどす」
珠恵は一旦言葉を切った。
「母は借金を全て肩代わりしてやろうという寺崎の申し出は断ったようどすけど、何もかも寺崎に逆らうことはようせんかったんどす。うちを守るためやったと思います」
真は暫くの間、無遠慮に珠恵を見つめ、それから混乱したピースを納める引き出しが見つからないまま、手元の杯に視線を移した。
「暫くして、母は身籠ったんどす。うちは子どもで、意味が理解でけへんかったかもしれまへん。母は祇園はんに夜な夜なお百度を踏みに行っとおりましたんや。雨の日も雪の日も」
真は何かに思い当たったように珠恵を見つめた。
雨の日、雪の日に、あるいは嵐の夜に、薄暗い神社でお百度を踏む身籠った女の幻は、鬼気迫っているような気がした。自分を身籠らせた男への憎しみ、産まれてくる子どもへの恐怖とそれに打ち勝とうとする母性、あるいは男を受け入れた己の身体への後悔と増悪、様々な感情が女を狂わせようとしたはずだ。
「子どもが流れてくれたら、と思てたようどす」
真は身体が固まったまま、珠恵の目を見つめていた。母親に望まれなかった子どもの哀れな姿が、真と珠恵の間に漂っているような気がした。
「寺崎孝雄の子どもやったんどす。母が子どもを産みたくないと思っていたことは、寺崎に伝わったんですやろな。寺崎は母を祇園から連れ出し、寺崎の家に閉じ込めて二十四時間監視させるようになったんどす。その時、母が私をどうやって『藤むら』の女将はんのところに連れて行ってくれたんか、うちはよう覚えてまへんのや。うちが母に再会したんは、母がその子どもを産んだ後どした」
「では……」
その時、真は寺崎昂司が『珠恵姐さん』と言った言葉に篭められた本当の意味を知った。寺崎昂司は『姐さん』ではなく『姉さん』と言っていたのだ。だから、昂司は実の姉を頼り、ここに電話をかけてきていたのだ。
「昂司はうちの弟どす。もっともうちがそのことを知ったのはずっと後になってからどすけど。その当時、うちは母が弟を産んだことも知りまへんどした。母は寺崎のところから祇園に戻ってきましたけど、病気がちになってしもうて、お座敷もままならんようになっておったんどす。それでも寺崎孝雄はしばしば客を連れては『藤むら』に現れました。女将はんはあの男には『藤むら』の敷居は跨がせへんゆうて、祇園中に響くような声で追い出さはったこともあったようどすけど、寺崎孝雄が連れてくるお客はんは、『藤むら』がどうしても断れへん筋の方々が多かったんどす。寺崎孝雄はそのことをよう知っとったようどす。それに、孝雄の手元には人質のように昂司がおりましたんや。孝雄は祇園の外へも母を呼び出したりしておったようどすけど」珠恵は微かに俯いた。「母は病気の身体を押して、祇園はんに毎日願をかけに行っとおりました。生まれて来たからには愛しい我が子、昂司を不憫に思てたんやと思います」
真はいつの間にか自分の手が震えていることに気が付いた。
「昇さんたちはそのことを知らないのですか」珠恵は頷いた。「竹流は?」
「旦那はんはご存知どす。うちが昂司に会えるようになったんは、何より旦那はんのお蔭どすさかい」
竹流は珠恵を引き受けたとき、東海林家に降りかかった全ての不幸についてできる限りの解決を試みてやろうとしたようだった。女将や当時を知る人たちから事情を聞いて、恐らくいつもの徹底ぶりを発揮して、珠恵だけでなく昂司を救うためのあらゆる手を尽くしたのだろう。
大和竹流と寺崎昂司は偶然知り合ったわけではなく、竹流が昂司を探し出したのだ。寺崎昂司にとって大和竹流は、親友でもボスでもなく、本当は姉の恋人であり夫であったわけだ。そして大和竹流にとっての寺崎昂司は、やはりただの仲間のひとりではなく、愛する妻の弟であり、彼自身にとっても大事な家族だったのだろう。だから、葛城昇や添島刑事は『寺崎昂司は特別』だと感じていたのだ。もちろん、竹流は彼らに全ての事情を話すわけにはいかなかっただろうが。
「旦那はんは、昂司が寺崎孝雄から離れられるように、随分と骨を折ってくらはりました。昂司は時々、旦那はんに連れられて岡崎の家にも来てくれるようになりましたけど、うちが一人でも構わんと来てほしいゆうても、決して旦那はんと一緒のとき以外は来てくれへんかったんどす」
珠恵はしっかりと顔を上げ、真を見つめ、これまでになく切羽詰ったような声で言った。
「昂司は、もしかしてうちを守ってくれようとしてたんやないやろか、と」
竹流がどうしても手に入れたかったもの。
江田島が言った言葉が真の耳の中で重く沈んだ。自らの身を犠牲にしてまでも欲しかったのは、妻とも言っていい女の弟、寺崎昂司の本当の自由だったのかもしれない。
「珠恵さん」
その先に言葉を続けようと思ったのに、言葉は出てこなかった。真は言葉の代わりに黙って珠恵を見つめた。
その時、廊下の軋みと太い男の声が響いてきた。
「いや、嬉しいやないか。珠恵ちゃんのほうから呼んでくれるとは」
珠恵ははっとしたように真から少し離れた。
(つづく)



うちのむかし猫(トップ記事の猫です)、触ったら怒るのに、無視したらお尻だけくっつけてどてっと寝るんですよね。で、触ったら噛む^_^; これが真の前世だったか……え? と、それはマコト?
祇園の言葉で「あなた」というのは多分「おまはん」と言うのが正しいのかもしれません。京都では、「あんたはん」、「おたくはん」など色々な言い方がありますが、方言の類って、小説中で文字にして書くと少し分かりにくかったりするので、使いにくかったりしますよね。方言をどのくらい不自然で読みにくくない範囲で使うか、いつも悩みます。
あ、祇園さんというのは八坂神社のことです。
そして、いよいよ最後の大物?登場です。この人物は結果的にレギュラー化するのですが……今のところはただの助兵衛な大物だと思っておいて頂いていいような気がします。でも腹にはあれこれ黒いものが……
この先の展開については、しばらく目を瞑っておいてくださいね(~_~;)
<次回予告>
珠恵は真を振り返り、強い声で言った。
「うちは旦那はんの身にこれ以上こないなことが起こらへんことだけが望みどす。寺崎孝雄が旦那はんをあないな目にあわせたんどしたら、償ってもらわへんとあきまへん。相川はんのおっしゃる通り、昂司が戻ってこない限り旦那はんが納得しはれへんのどしたら、昂司を旦那はんに会わせてやりたい、思てます。相川はんの身に何かあったら、旦那はんがどないな気持ちにならはるかはよう分かってるんどす。そやけど、うちには相川はんを人身御供に差し出すしか道がありしまへん。堪忍しとおくれやす」
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Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨152] 第31章 何の矛盾もない(2)人身御供
【海に落ちる雨】第31章その2です。少し表現をマイルドにしようと思ったのに、もういいや、という気がしてきたので、あまり手直しもせずに出しております。不適切な表現があるかもしれませんがご容赦ください。
「何の矛盾もない」というのは、長渕剛氏の歌のタイトルから借りました。真も珠恵も、どんなことが起こっても、相手がどんなでも、何も矛盾を感じていないのです。
それでも、今のところ真の怒りは彼自身の手で相手をころしちゃおうなんてところまでは行っていません。少なくとも彼も常識人ですので。その箍を外してしまうためにはこの人物は必要だったのです。火に油をぶっかける係。
福嶋鋼三郎。えぇ、ただのスケベな大物と思ってください。そして、このおっちゃん、真を刺客にリクルートしようとしているのです。真も珠恵もそのことを分かっているのに敢えて乗ったのかもしれません。
あぁ、5日毎と思っていたら、あっという間に過ぎちゃった。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
「何の矛盾もない」というのは、長渕剛氏の歌のタイトルから借りました。真も珠恵も、どんなことが起こっても、相手がどんなでも、何も矛盾を感じていないのです。
それでも、今のところ真の怒りは彼自身の手で相手をころしちゃおうなんてところまでは行っていません。少なくとも彼も常識人ですので。その箍を外してしまうためにはこの人物は必要だったのです。火に油をぶっかける係。
福嶋鋼三郎。えぇ、ただのスケベな大物と思ってください。そして、このおっちゃん、真を刺客にリクルートしようとしているのです。真も珠恵もそのことを分かっているのに敢えて乗ったのかもしれません。
あぁ、5日毎と思っていたら、あっという間に過ぎちゃった。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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声と共に現れたのは恰幅のいい五、六十台の紳士で、えらの張った大きな浅黒い顔に、太い黒縁の眼鏡を掛けていた。上質の背広の襟には菊のバッジが光っている。髪には白いものが混じっていたが、しっかりと背筋の伸びた大きな体躯は年齢よりも遥かに若々しく見え、背広の上からでも剛直な身体つきが見て取れた。
「福嶋先生、ご無沙汰しまして」
珠恵は柔らかな声で挨拶し、深々と頭を下げた上で、福嶋という名前の男を、もうひとつ準備してあった席へ案内した。
「二人きりやない、ゆうんはいささか焼けるけどなぁ」言いながら座布団にどかっと腰を落としてから、福嶋は真のほうをまともに見た。「しかし、まぁ、えらい若い兄さんやな。珠恵ちゃんの何や」
「うちの弟どす」
珠恵がその言葉を発したとき、真の耳には、珠恵の決意と真への深い感情が明らかに届いた。福嶋は幾分か険しい目をしてから、不意に笑った。
「珠恵ちゃんのええ人の弟分か」
珠恵は曖昧に微笑み、さ、おひとつ、と言って福嶋に酒を勧めた。福嶋は杯を口に運びながらも真を観察している。真が緊張して福嶋から視線を外すと、福嶋はもう一杯、というように珠恵に杯を差し伸べた。珠恵は更にもう一杯ついだ。福嶋という男の目は、真から離れてはいなかった。
「しかし、これは」福嶋が真を検分するように言ってから呟いた言葉の意味を、真は理解できないまま、ゆっくりと顔を上げ福嶋を見た。「綺麗な目、しとるわ。男にしとくんはもったいないような目や。あんた、あいの子やな」
真が答えないでいると、珠恵が福嶋に柔らかい声で呼びかけた。
「先生、急にそないな仰い方しはったら、びっくりしはりますえ。緊張したはんのに」
「そりゃそうや」福嶋は楽しそうに笑って、さらに酒を飲んだ。「寺崎に会わせたい、ゆうさかいな、どないな意図やと思うて勘繰っとるんや」
珠恵は多少意味深な表情で福嶋にひと膝寄った。
真には珠恵が見せる曖昧な態度こそ、この福嶋という男への芝居だと映っていた。しかも、その芝居はほぼ全て福嶋に見抜かれていて、珠恵のほうでも見抜かれていることを知っている、そういうやり取りに思える。まるで分かっている芝居の筋書きを辿っているような自然さと不自然さが入り混じる。
「こんお人は寺崎のお父さんに返して欲しいものがあるんどす。そやからうちを訪ねてきはったんどすけど、福嶋先生はうちがいくらお頼みしても、うちにはちぃとも寺崎のお父さんの行く先を教えてくらはれしまへん。そやから痺れを切らさはったんどす。お父さんはなんや、雲隠れせなあかんような理由でもおありなんやろか」
福嶋は変わらずに真をじっと見つめていた。値踏みをしているのだ。真が彼にとって役に立つ人間かどうか、手元の駒を捨ててでも手に入れる価値のある人間かどうか、そして彼の思う通りに、他人が避けるような仕事をやり遂げる意志を持っているかどうか、ということを。
「そりゃわしかて、どないな理由でも珠恵ちゃんに頼ってもらうんは嬉しいんやで」
福嶋は珠恵の手を取って撫でさするようにした。
「今日かて、無理して東京から帰ってきたんや。電話だけではどうにも事情が分からんさかいな、こんなわしでも、痛くもない腹を探られとうるようで気持ちが悪いんやで」
真は、まるで珠恵が自分自身の身内であるような気がして、一瞬腰を浮かしかけたが、珠恵は慣れているのか、そっと福嶋の手に自分のもう一方の手を重ねた。
「先生、うちはいつかて先生のことを頼りにしてますのや。うちの方かて、ほんまにお会いしたかったんどすえ。そやのに、先生の方こそ、うちを避けてはったんですやろ」
福嶋は珠恵の手をさすり続けている。真は竹流がこれを見たらこの男をぶっ飛ばしているはずだ、と思った。珠恵がほんの少し、真のほうを気遣い、少し福嶋に会釈をするようにして真の傍に寄り、真の杯にも酒を満たした。無理しはらんと、という囁きで、真はふと我に返ったような気持ちになる。
この仕事が時には男に手を握られることくらいあることを竹流は重々承知しているだろうし、いい気分ではないとしても、そんなことで青筋を立てて怒るような懐の狭い男ではない。それなのに、真がここで怒り出すのは筋違いというものだろう。
「女将に出入り禁止や、言われとったさかいな。あの女将は寺崎の事を誤解しとるんや。あいつはほんまに淑恵ちゃんのことが好きやったんやで。昂司君が産まれる時かて、淑恵ちゃんの身体をほんまに心配してなぁ、大事に大事にしとったんや。それを拉致したみたいにゆうて、ほんまにあの女将はきついさかいな」
珠恵はまた福嶋にそっと膝を向ける。
「お母はんは心配してくれたはったんどす。女将が芸妓を預かるゆうことは、ほんまの母親になるゆうことですさかい」
「せやけど、珠恵ちゃんかてあれこれ女将に吹き込まれて、寺崎のことをええように思てへんのとちゃうんか」
「そんなことはありしまへん。寺崎のお父はんとはあんまりお話する機会かてあらへんどしたさかい、よう知らへんだけどす」
「それやったらええんや。なぁ、もう少し落ち着いたら、いつでもわしが寺崎に会えるようにしてやろう思てたんやで。もちろん女将には内緒や。そうなっとったら、寺崎かて喜んだと思うけどなぁ。よう珠恵は幾つになっても綺麗や、淑恵そっくりや、ゆうとったんやで。珠恵ちゃんかて淑恵ちゃんの話を聞きたかったやろ」
「そうどすな」
もう何杯目かの酒を注ぎながら、珠恵は心からそう思っているかのように福嶋に相槌を打つ。真は結局、珠恵が無理しないように、と言いながら注いでくれた杯を空けた。
この男は今、寺崎孝雄のことを過去形で話している。まさか、と思ったところへ、珠恵がきっぱりとした声で言った。
「先生は寺崎のお父さんが今、どこにいたはるんか、知っとおすやろ」
「やれやれ、またその話かいな。電話で何べんも言うたやろ。今は珠恵ちゃんはあいつに会わんほうがええのや。少なくともわしは、珠恵ちゃんのためにそう思てたんやで。お互いに誤解もあるさかいな」
「先生はうちに意地悪をしたはるんや」
真の方がぞくっとするほどの甘え声だった。福嶋は即座に反応した。
「何ゆうんや。ほんまに珠恵ちゃんは可愛いおなごやな。淑恵ちゃんへの義理がなかったら、何を捨ててでもわしのものにしたいと思うところや」
そう言ってから、福嶋は視線をまっすぐに真に向けた。
「けどまぁ、それほどに言うんやったら連絡つけてやってもええ。もちろん、この兄さんの覚悟次第やけどな。何が何でも寺崎に会いたいゆうんやったら、わしにまかしといてくれたらええ」
その時すっと障子が開いて、女将と手伝いの女が顔を出した。手伝いの女は三味線を手にしていて、真がふと見ると、祇園では見かけないはずの太棹だった。
「先生、なんやうちの悪口が聞こえとったような気がしますなぁ」
「何ゆうんや」
福嶋は女将に苦笑いを返しながら更に杯を重ねた。この男は祇園の掟を破る気はないのだ。ここでは法律は女将だ。
「しょうがあらしまへん、うちと先生の仲どすさかい、今日は水に流さしてもらいますわな。久しぶりやおへんか。珠恵ちゃんの舞は見とってもらわなあきまへんさかい」
「ほんまやなぁ」
珠恵はまた本当に優雅に微笑み、三味線の弾き手が入ってくると、直ぐに支度をして隣の間に行き、扇子を前に深々と頭を下げた。
珠恵が舞っている間、福嶋はねっとりとした目で珠恵を見つめていた。真は落ち着かない気分で、時々福嶋を見遣り、また珠恵に視線を戻した。
珠恵は明らかに、さっき真だけに披露したときとは違う気配で舞っていた。
それはまるで福嶋に挑みかけ誘うような妖艶な舞に見えた。芸妓の舞は秘めた心で舞うものだと聞いていたが、明らかに趣旨が違う、と思った時、真は珠恵の意図をはっきりと理解した気がした。
俺は人身御供というわけだな、と思ったが、珠恵が真の身に起こる危険も結果も全て共に引き受ける気持ちでいることを、あえて真に伝えようとしているのだと思えた。
「いや、ほんまに淑恵ちゃんが生きてるようや」
舞が終わると、福嶋は珠恵を手招きした。珠恵は当たり前のように福嶋に近付き、もう一度、福嶋の杯に酒を満たした。
「相川はん、よろしかったら太棹、聴かしとおくれやす」女将は妖しく微笑み、太棹三味線を真に示した。「噂には聞いてますえ」
「いえ、でも」
真は一瞬珠恵を見、それから福嶋と目が合った。
「ほぉ、この兄さんは三味線を弾かはるんか。そりゃええ、わしも聴きたいわ」
真が女将の意図を測りかねるようにその顔を見ていると、女将が、お座敷では座を白けさせたらあかんのどすえ、と言った。真はもう一度珠恵を見て、それから太棹を受け取った。わざわざ用意したもののようだった。
「祇園に太棹は似合わないのでは」
「そうどすか。弾き手によるんやと思いますけどなぁ」
女将は言いながら福嶋を見張っているような顔をした。真は結局太棹を受け取り、それから手伝いの女から撥と指摺りを受け取って、ひとつ息をついた。少し考えてから、本調子に糸を合わせ、小原節を、と言った。唄は上手ではありませんが、と断ったが、微笑んだ珠恵と目が合って、結局唄った。
前奏を弾きながら、二の糸から一の糸に指を滑らしたとき、真はいつになく身体が震えるような気持ちがした。竹流が、お前の叩く一の糸に持っていかれた、と言った言葉を思い出したからかもしれない。
灯妙寺の縁側でお前がじょんからを叩いていたのを聞いたときから、大和の家にお前を連れ帰ってベッドに連れ込むまでの数日間、俺はずっと興奮していて、ここは勃ちっぱなしだったんだ、と言って、賑わうローマのバールで真の手を摑み彼のものに触れさせた。真がびっくりして手を引っ込めると、竹流は面白そうに笑って真の頭を撫で、そのまま明らかに今日知り合ったばかりに違いない男たちが誘うままに飲み続け、歌い続け、踊り続けていた。どこまでが本心からの言葉だったのか、真は摑み損ねた。
だが、今日この一瞬は、竹流の声がそのまま耳の中に蘇り、不意に身体の芯が疼いた。女たちがそれを察したのではないかと思い、思わずじっとりと汗をかいていたが、暫くするとそれも忘れた。いつもなら祖母の奏重が、年を取っても変わらない艶やかな声で唄う小原だったが、一人きりで弾いている時にたまに自然に唄っているように、真の身体の芯、腹の底から抵抗もなく声が出た。
いや、今日この一瞬だけではない。いつでも、というわけではなかったが、三味線を叩きながら、時々わけの分からない興奮が昇ってくることがあった。
それが一番ひどかったと自覚しているのは、高校生の頃だった。真は思春期独特の身体の反応なのだろうと、あまり突き詰めたこともなかったが、祖父に三味線の稽古をつけてもらいながらも、意識がどこかへ舞い上がっていくと、身体が一緒に不意に浮き上がるような経験があったし、何ともしようがなくて道場に飛んでいって竹刀を振り続けたこともあった。
一度だけ、美沙子にそんな話をしたような気がする。あまり具体的な話をしたわけではなく、時々そんなことで竹刀を振っていることがあると言っただけだと思うが、美沙子は不思議そうな顔をして、男の子ってそういう意味では相手が誰でもいいのかな、と呟いた。それは違うと言ってやったのかどうか、もう記憶にはないが、音楽や踊りにはそういう催淫作用があるのだろう。
祭の時に人々が性的に解放されるのは、古今東西、昔から変わっていない。踊りと音の中で、男と女はお互いを求めあい、交わってきたのだ。
案の定、小原の第三節で興奮したように三味線の手数が増える部分に差し掛かると、真は身体がどうかなるのではないかというような奇妙な気分に陥った。欲情を果たすことができない状態で、ただ興奮していて、腰の辺りが熱く疼くような異常な感覚に、真は声ごと震えているのを自覚していたが、止められなかった。三味線と撥を持っていなければ、歴史に名高いかのダンサーのように自慰をしていたかもしれないと思うような感覚は、明らかに珠恵が福嶋に見せ付けた舞に触発されたのだと思った。
叩き終えた瞬間、三の糸が切れた。
真は暫くの間放心していたが、切れた糸が視界に入ると急に我に返った。三の糸はナイロンではなく絹だったために、直ぐに切れてしまったようだった。
「いや、太棹もええもんやな」
福嶋の声が湿り気を帯びて耳に差し込まれたような気がして、ぞくっとした。女将は、福嶋をちらりと見遣り、まだ身体から何かが抜け出したようになっている真の手から、三味線と撥を受け取ると、ほんまに、と相槌を打った。
背中を汗が滑り落ちる気配がした。
「ええお声どすな。得意やないやなんておっしゃらはって、うちは魂持っていかれそうな気がしましたえ」
真がふと珠恵の方を見ると、珠恵は黙って微笑んでいた。そのまま引き込まれるような気がして、これで固めの盃は酌み交わしたような心地がする。
福嶋が、ちょっと二人で話をさせてくれるか、と女将と珠恵に話しかけた。声が太く低く響いて、その是非も言わせない威圧感に、真はただ福嶋の顔を見つめた。
緊張していたかもしれないが、恐怖はまるでなかった。
女たちが出て行って障子が閉まると、急に辺りが静かになった。福嶋は微動だにせずに真を見ている。こういう目で相手を見るというのは、既に目だけで相手を犯すようなことに違いない。
「ええ貢物や」目を逸らさないまま、福嶋が低い声で言った。「珠恵ちゃんも知ってか知らいでか、残酷なことやな。目にも耳にも毒や」
注いでくれへんか、と言われて真は向かい合わせになっていた席から、福嶋の近くに寄った。途端に福嶋の太い腕に手を摑まれる。
「目の色が、左右違うんやな」
その言葉に真は背中を撫でられたような気がした。この男はやはり何かを知っている。そう、恐らくは寺崎孝雄が買い取ったというビッグ・ジョーのビデオを見たのかもしれない。福嶋は真の顎に手をかけ、暫くの間じっとりと嘗め回すように真の顔を見ていた。
「寺崎に何を返してもらいたいんや」
真は突然、身体の芯で冷めた塊が重くなったような気がした。
「昂司さんを」
福嶋は暫く驚いたような顔で真を見ていたが、やがて噴き出すように大声で笑った。
「兄さん、そりゃ何の冗談や。昂司は別に孝雄に束縛されているわけでも何でもないで。そりゃ好きで父親と一緒におることもあるやろけどな」
そう言って、顎にかかった手をすっと首へ滑らせてきた。真のワイシャツの襟とネクタイを少しの間見つめ、軽くネクタイを緩めると、首に滑った福嶋の手が真の鎖骨にかかる。
「よう似おうとる。珠恵ちゃんの見立てやな。あの子は淑恵ちゃんとおんなじで趣味がええ」
真が何も言わずに福嶋を睨み付けていると、福嶋がシャツの上から真の胸を撫でるようにした。
「ええ目、しとるわ」そう言って福嶋は息をついた。「誤解せんといてや。わしは寺崎孝雄と淑恵ちゃんとは幼馴染でな、寺崎が、淑恵ちゃんにもここの女将にも誤解されたままなんが可哀想やと思っとったんや。あいつはほんまに子どもの頃から淑恵ちゃんだけが好きでなぁ、かわいそうに淑恵ちゃんが死んでから脱殻みたいになっとったんやで。珠恵ちゃんと昂司がおったから、寺崎も立ち直ったようなもんや。淑恵ちゃんかて寺崎に可愛がられとったから、借金取りに売られんで済んだんやし、昂司かって生まれたんや。売られとったら、どんな酷い目におうとったことか、兄さんにもわかるやろ。皆、誤解しとるんや。あんたかて、寺崎が悪い奴やて吹き込まれとったんと違うんか。そりゃ多少は悪さもするやろけど、気の小さい男や、そんな悪人というわけやあらへん。兄さんも寺崎に会うたら分かることや」
そう言って真を離すと、福嶋は改めて杯を差し出した。真は黙ってその杯に酒を満たした。
「都ホテルや」
福嶋は真の耳元へ囁くように言って、咽喉を鳴らした。本気であの男に復讐したいのなら、堅気を捨ててこっちへ来いと、そう言っているのだ。真は極めて冷静にその言葉を受け取った。
福嶋が先にホテルに帰ってから、真は少しだけ一人で酒を味わい、漸く意を決して立ち上がりかけたとき、珠恵が慌てたように部屋に戻ってきた。珠恵は真の顔を見て、それでも躊躇したような気配を見せた。
「ありがとうございます」
真は決心していることを珠恵に告げた。
「うちは、昂司を諦めろ、と言われたら諦めてもええんどす」
珠恵は多分、真の身に起こるかもしれないことを、改めて考えたのかもしれなかった。
「でも、竹流は諦めませんよ。だから、あなたはあの福嶋という男を呼んだんでしょう」
珠恵は、できる限り真に害のない形で寺崎孝雄を探し出そうとしてくれていたようだった。しかし寺崎は危険を感じているのか、一向に行方が分からないままで、結局一番頼りたくない男に連絡を取るしかなかったようだった。もっとも、その男の方でも珠恵が出ていく必要はないと突っぱねていたようだが、珠恵が真の名前を出したか、その意図を匂わせたので、何か別の形の解決を思いついたのかもしれない。
明らかに危険な男だと思った。状況を冷酷に判断して、切る時は身内でも自分の身体でも切り捨てるのだろう。そして、あの男は真がそのための刃になりうると見抜いたのだ。
それでもいい、と真は思った。俺は喜んで身体の内に潜む刃を研ぎ、鋭い切っ先をあの男の咽喉元に突き付けようとしている。
「大丈夫ですよ。近道であればあるほど、僕自身は嬉しいくらいです」
珠恵は真の前に座り、懐から二本の匕首を出して、真の目の前に置いた。真は暫く匕首を見つめ、それから顔を上げて珠恵の顔を見た。引き結んだ唇に載せられた紅の艶やかさは、珠恵を、初めて岡崎の屋敷で会った時とはまるで別人に見せている。その先に何が起こるのかを見据えながら決意をしている、底から立ち昇ってくるような強さは、真の感情も鎮めてしまうようだった。
「相川はんに万が一の事があったら」
そう言うと、珠恵は一本の匕首を自分の懐に戻した。真は暫く、珠恵の差し出したもう一本の匕首を見つめていたが、やがて手を差し伸ばした。触れた鞘には珠恵の温もりが移っていた。
「相川はん」
「昇さんには、何も言わないで下さい」
「では、北条はんに」
真は首を横に振った。福嶋の背広のバッジが気になっていた。
「今、仁道組が動いたら、相手も警戒するでしょう。つつき出せなくなる。必ず連絡します」
珠恵は暫く唇を引き結んだまま真を見つめていたが、やがて頷いた。真は立ち上がり、珠恵に頭を下げて出て行きかけたが、ふと気になって振り返る。
「本当は、寺崎さんはどう思っていると思われますか」
「昂司が、どすか」珠恵は真のほうを振り返らないままだった。「わかりまへん。昂司にとって、あの子が産まれてこないほうが良かったと思っていた母親と、それでも昂司を育ててきた父親と、どちらが大切だったのか、うちには見当もつきまへん」
「あなたは」
珠恵は真を振り返り、強い声で言った。
「うちは旦那はんの身にこれ以上こないなことが起こらへんことだけが望みどす。寺崎孝雄が旦那はんをあないな目にあわせたんどしたら、償ってもらわへんとあきまへん。相川はんのおっしゃる通り、昂司が戻ってこない限り旦那はんが納得しはれへんのどしたら、昂司を旦那はんに会わせてやりたい、思てます。相川はんの身に何かあったら、旦那はんがどないな気持ちにならはるかはよう分かってるんどす。そやけど、うちには相川はんを人身御供に差し出すしか道がありしまへん。堪忍しとおくれやす」
真は屈みこんで、頭を下げた珠恵に手を差し伸ばした。
「僕は、あなたと同じ気持ちですし、多分あなたと同じ道の上にいる。あなたが謝ることなど何もありません。あなたにお会いして、僕は色んなことを思い出した。竹流があなたのところから帰ってきたとき、いつも奇妙なほど優しかったことも」
珠恵は顔を上げ、静かに首を横に振った。
「うちを抱かはるとき、旦那はんはいつもうちを見ながら、少し遠くを見たはりました。相川はんにお会いしたとき、あぁこの人やったんやと直ぐに分かったんどす。和枝はんが失礼なことをゆうたかも知れまへんけど、あの人にもそのことが分かっとったんや、思います」
真は思わず珠恵の前に膝をつき、彼女の肩を強く抱いた。そして、全く何の抵抗も感じず珠恵の唇に触れた。珠恵は当たり前にそれを受け入れているように見え、真が更に強く珠恵を抱いてその唇を割った時も、そうなるべきであると思っていたかのように真を受け入れた。絡みついた舌には性的な意味合いは何もなかったのに、真はこの女性と自分は自然に身体を合わせることができるような気がした。それは未来を重ねることと同じだった。柔らかく甘い口づけだった。
真が唇を離すと、珠恵は真の眼を見つめたまま、真の唇に移った紅をそっと指で拭った。
「永遠の、遥か彼方が見えるようどす」
珠恵が真の目のうちに何を見つけ出したのか、真は生きているうちにはその答えを知ることはなかったが、今ここに魂の一部を残したような気がした。
(つづく)




これでお膳立ては整いました。えっと、この先の展開を予想されいてる方も「まさか」って方も、半分目を瞑る用意をしてくださいませ。しつこいようですが、今はこのオッチャン、ただのスケベな大物と思っていてくださって構いませんから……^^;
えぇ、お察しの通り、次回は残念ながら18禁です。このお話の最後の……かな?
<次回予告>
「大和竹流をあのような目にあわせた一人は、あなたですか」
福嶋は表情のないまま、長い時間真の目を見つめ、それから急に相好を崩すと、これまでにないくらい大きな声を上げて豪快に笑った。
「そう思てついてきたんか。そんで、わしがそうや、ゆうたらわしのペニスを食い千切る気ぃやったんか」福嶋は笑い飛ばしてから、真剣な怖い目で真を見つめ、真の顎に手をかけた。「ゆうたやろ。わしはな、綺麗な子どもや男や女を縛り付けて犯すような気色悪い趣味はないわ。大体、そっちはそれなりに間におうとるさかいな」
真が睨みつけたままでいると、福嶋は強い力で真の顎をつかんだ。
「珠恵ちゃんの旦那にはな、確かに商品価値があるで。それもでっかい価値や。そやけど、それは縛り付けて犯したって出てこんもんや」



声と共に現れたのは恰幅のいい五、六十台の紳士で、えらの張った大きな浅黒い顔に、太い黒縁の眼鏡を掛けていた。上質の背広の襟には菊のバッジが光っている。髪には白いものが混じっていたが、しっかりと背筋の伸びた大きな体躯は年齢よりも遥かに若々しく見え、背広の上からでも剛直な身体つきが見て取れた。
「福嶋先生、ご無沙汰しまして」
珠恵は柔らかな声で挨拶し、深々と頭を下げた上で、福嶋という名前の男を、もうひとつ準備してあった席へ案内した。
「二人きりやない、ゆうんはいささか焼けるけどなぁ」言いながら座布団にどかっと腰を落としてから、福嶋は真のほうをまともに見た。「しかし、まぁ、えらい若い兄さんやな。珠恵ちゃんの何や」
「うちの弟どす」
珠恵がその言葉を発したとき、真の耳には、珠恵の決意と真への深い感情が明らかに届いた。福嶋は幾分か険しい目をしてから、不意に笑った。
「珠恵ちゃんのええ人の弟分か」
珠恵は曖昧に微笑み、さ、おひとつ、と言って福嶋に酒を勧めた。福嶋は杯を口に運びながらも真を観察している。真が緊張して福嶋から視線を外すと、福嶋はもう一杯、というように珠恵に杯を差し伸べた。珠恵は更にもう一杯ついだ。福嶋という男の目は、真から離れてはいなかった。
「しかし、これは」福嶋が真を検分するように言ってから呟いた言葉の意味を、真は理解できないまま、ゆっくりと顔を上げ福嶋を見た。「綺麗な目、しとるわ。男にしとくんはもったいないような目や。あんた、あいの子やな」
真が答えないでいると、珠恵が福嶋に柔らかい声で呼びかけた。
「先生、急にそないな仰い方しはったら、びっくりしはりますえ。緊張したはんのに」
「そりゃそうや」福嶋は楽しそうに笑って、さらに酒を飲んだ。「寺崎に会わせたい、ゆうさかいな、どないな意図やと思うて勘繰っとるんや」
珠恵は多少意味深な表情で福嶋にひと膝寄った。
真には珠恵が見せる曖昧な態度こそ、この福嶋という男への芝居だと映っていた。しかも、その芝居はほぼ全て福嶋に見抜かれていて、珠恵のほうでも見抜かれていることを知っている、そういうやり取りに思える。まるで分かっている芝居の筋書きを辿っているような自然さと不自然さが入り混じる。
「こんお人は寺崎のお父さんに返して欲しいものがあるんどす。そやからうちを訪ねてきはったんどすけど、福嶋先生はうちがいくらお頼みしても、うちにはちぃとも寺崎のお父さんの行く先を教えてくらはれしまへん。そやから痺れを切らさはったんどす。お父さんはなんや、雲隠れせなあかんような理由でもおありなんやろか」
福嶋は変わらずに真をじっと見つめていた。値踏みをしているのだ。真が彼にとって役に立つ人間かどうか、手元の駒を捨ててでも手に入れる価値のある人間かどうか、そして彼の思う通りに、他人が避けるような仕事をやり遂げる意志を持っているかどうか、ということを。
「そりゃわしかて、どないな理由でも珠恵ちゃんに頼ってもらうんは嬉しいんやで」
福嶋は珠恵の手を取って撫でさするようにした。
「今日かて、無理して東京から帰ってきたんや。電話だけではどうにも事情が分からんさかいな、こんなわしでも、痛くもない腹を探られとうるようで気持ちが悪いんやで」
真は、まるで珠恵が自分自身の身内であるような気がして、一瞬腰を浮かしかけたが、珠恵は慣れているのか、そっと福嶋の手に自分のもう一方の手を重ねた。
「先生、うちはいつかて先生のことを頼りにしてますのや。うちの方かて、ほんまにお会いしたかったんどすえ。そやのに、先生の方こそ、うちを避けてはったんですやろ」
福嶋は珠恵の手をさすり続けている。真は竹流がこれを見たらこの男をぶっ飛ばしているはずだ、と思った。珠恵がほんの少し、真のほうを気遣い、少し福嶋に会釈をするようにして真の傍に寄り、真の杯にも酒を満たした。無理しはらんと、という囁きで、真はふと我に返ったような気持ちになる。
この仕事が時には男に手を握られることくらいあることを竹流は重々承知しているだろうし、いい気分ではないとしても、そんなことで青筋を立てて怒るような懐の狭い男ではない。それなのに、真がここで怒り出すのは筋違いというものだろう。
「女将に出入り禁止や、言われとったさかいな。あの女将は寺崎の事を誤解しとるんや。あいつはほんまに淑恵ちゃんのことが好きやったんやで。昂司君が産まれる時かて、淑恵ちゃんの身体をほんまに心配してなぁ、大事に大事にしとったんや。それを拉致したみたいにゆうて、ほんまにあの女将はきついさかいな」
珠恵はまた福嶋にそっと膝を向ける。
「お母はんは心配してくれたはったんどす。女将が芸妓を預かるゆうことは、ほんまの母親になるゆうことですさかい」
「せやけど、珠恵ちゃんかてあれこれ女将に吹き込まれて、寺崎のことをええように思てへんのとちゃうんか」
「そんなことはありしまへん。寺崎のお父はんとはあんまりお話する機会かてあらへんどしたさかい、よう知らへんだけどす」
「それやったらええんや。なぁ、もう少し落ち着いたら、いつでもわしが寺崎に会えるようにしてやろう思てたんやで。もちろん女将には内緒や。そうなっとったら、寺崎かて喜んだと思うけどなぁ。よう珠恵は幾つになっても綺麗や、淑恵そっくりや、ゆうとったんやで。珠恵ちゃんかて淑恵ちゃんの話を聞きたかったやろ」
「そうどすな」
もう何杯目かの酒を注ぎながら、珠恵は心からそう思っているかのように福嶋に相槌を打つ。真は結局、珠恵が無理しないように、と言いながら注いでくれた杯を空けた。
この男は今、寺崎孝雄のことを過去形で話している。まさか、と思ったところへ、珠恵がきっぱりとした声で言った。
「先生は寺崎のお父さんが今、どこにいたはるんか、知っとおすやろ」
「やれやれ、またその話かいな。電話で何べんも言うたやろ。今は珠恵ちゃんはあいつに会わんほうがええのや。少なくともわしは、珠恵ちゃんのためにそう思てたんやで。お互いに誤解もあるさかいな」
「先生はうちに意地悪をしたはるんや」
真の方がぞくっとするほどの甘え声だった。福嶋は即座に反応した。
「何ゆうんや。ほんまに珠恵ちゃんは可愛いおなごやな。淑恵ちゃんへの義理がなかったら、何を捨ててでもわしのものにしたいと思うところや」
そう言ってから、福嶋は視線をまっすぐに真に向けた。
「けどまぁ、それほどに言うんやったら連絡つけてやってもええ。もちろん、この兄さんの覚悟次第やけどな。何が何でも寺崎に会いたいゆうんやったら、わしにまかしといてくれたらええ」
その時すっと障子が開いて、女将と手伝いの女が顔を出した。手伝いの女は三味線を手にしていて、真がふと見ると、祇園では見かけないはずの太棹だった。
「先生、なんやうちの悪口が聞こえとったような気がしますなぁ」
「何ゆうんや」
福嶋は女将に苦笑いを返しながら更に杯を重ねた。この男は祇園の掟を破る気はないのだ。ここでは法律は女将だ。
「しょうがあらしまへん、うちと先生の仲どすさかい、今日は水に流さしてもらいますわな。久しぶりやおへんか。珠恵ちゃんの舞は見とってもらわなあきまへんさかい」
「ほんまやなぁ」
珠恵はまた本当に優雅に微笑み、三味線の弾き手が入ってくると、直ぐに支度をして隣の間に行き、扇子を前に深々と頭を下げた。
珠恵が舞っている間、福嶋はねっとりとした目で珠恵を見つめていた。真は落ち着かない気分で、時々福嶋を見遣り、また珠恵に視線を戻した。
珠恵は明らかに、さっき真だけに披露したときとは違う気配で舞っていた。
それはまるで福嶋に挑みかけ誘うような妖艶な舞に見えた。芸妓の舞は秘めた心で舞うものだと聞いていたが、明らかに趣旨が違う、と思った時、真は珠恵の意図をはっきりと理解した気がした。
俺は人身御供というわけだな、と思ったが、珠恵が真の身に起こる危険も結果も全て共に引き受ける気持ちでいることを、あえて真に伝えようとしているのだと思えた。
「いや、ほんまに淑恵ちゃんが生きてるようや」
舞が終わると、福嶋は珠恵を手招きした。珠恵は当たり前のように福嶋に近付き、もう一度、福嶋の杯に酒を満たした。
「相川はん、よろしかったら太棹、聴かしとおくれやす」女将は妖しく微笑み、太棹三味線を真に示した。「噂には聞いてますえ」
「いえ、でも」
真は一瞬珠恵を見、それから福嶋と目が合った。
「ほぉ、この兄さんは三味線を弾かはるんか。そりゃええ、わしも聴きたいわ」
真が女将の意図を測りかねるようにその顔を見ていると、女将が、お座敷では座を白けさせたらあかんのどすえ、と言った。真はもう一度珠恵を見て、それから太棹を受け取った。わざわざ用意したもののようだった。
「祇園に太棹は似合わないのでは」
「そうどすか。弾き手によるんやと思いますけどなぁ」
女将は言いながら福嶋を見張っているような顔をした。真は結局太棹を受け取り、それから手伝いの女から撥と指摺りを受け取って、ひとつ息をついた。少し考えてから、本調子に糸を合わせ、小原節を、と言った。唄は上手ではありませんが、と断ったが、微笑んだ珠恵と目が合って、結局唄った。
前奏を弾きながら、二の糸から一の糸に指を滑らしたとき、真はいつになく身体が震えるような気持ちがした。竹流が、お前の叩く一の糸に持っていかれた、と言った言葉を思い出したからかもしれない。
灯妙寺の縁側でお前がじょんからを叩いていたのを聞いたときから、大和の家にお前を連れ帰ってベッドに連れ込むまでの数日間、俺はずっと興奮していて、ここは勃ちっぱなしだったんだ、と言って、賑わうローマのバールで真の手を摑み彼のものに触れさせた。真がびっくりして手を引っ込めると、竹流は面白そうに笑って真の頭を撫で、そのまま明らかに今日知り合ったばかりに違いない男たちが誘うままに飲み続け、歌い続け、踊り続けていた。どこまでが本心からの言葉だったのか、真は摑み損ねた。
だが、今日この一瞬は、竹流の声がそのまま耳の中に蘇り、不意に身体の芯が疼いた。女たちがそれを察したのではないかと思い、思わずじっとりと汗をかいていたが、暫くするとそれも忘れた。いつもなら祖母の奏重が、年を取っても変わらない艶やかな声で唄う小原だったが、一人きりで弾いている時にたまに自然に唄っているように、真の身体の芯、腹の底から抵抗もなく声が出た。
いや、今日この一瞬だけではない。いつでも、というわけではなかったが、三味線を叩きながら、時々わけの分からない興奮が昇ってくることがあった。
それが一番ひどかったと自覚しているのは、高校生の頃だった。真は思春期独特の身体の反応なのだろうと、あまり突き詰めたこともなかったが、祖父に三味線の稽古をつけてもらいながらも、意識がどこかへ舞い上がっていくと、身体が一緒に不意に浮き上がるような経験があったし、何ともしようがなくて道場に飛んでいって竹刀を振り続けたこともあった。
一度だけ、美沙子にそんな話をしたような気がする。あまり具体的な話をしたわけではなく、時々そんなことで竹刀を振っていることがあると言っただけだと思うが、美沙子は不思議そうな顔をして、男の子ってそういう意味では相手が誰でもいいのかな、と呟いた。それは違うと言ってやったのかどうか、もう記憶にはないが、音楽や踊りにはそういう催淫作用があるのだろう。
祭の時に人々が性的に解放されるのは、古今東西、昔から変わっていない。踊りと音の中で、男と女はお互いを求めあい、交わってきたのだ。
案の定、小原の第三節で興奮したように三味線の手数が増える部分に差し掛かると、真は身体がどうかなるのではないかというような奇妙な気分に陥った。欲情を果たすことができない状態で、ただ興奮していて、腰の辺りが熱く疼くような異常な感覚に、真は声ごと震えているのを自覚していたが、止められなかった。三味線と撥を持っていなければ、歴史に名高いかのダンサーのように自慰をしていたかもしれないと思うような感覚は、明らかに珠恵が福嶋に見せ付けた舞に触発されたのだと思った。
叩き終えた瞬間、三の糸が切れた。
真は暫くの間放心していたが、切れた糸が視界に入ると急に我に返った。三の糸はナイロンではなく絹だったために、直ぐに切れてしまったようだった。
「いや、太棹もええもんやな」
福嶋の声が湿り気を帯びて耳に差し込まれたような気がして、ぞくっとした。女将は、福嶋をちらりと見遣り、まだ身体から何かが抜け出したようになっている真の手から、三味線と撥を受け取ると、ほんまに、と相槌を打った。
背中を汗が滑り落ちる気配がした。
「ええお声どすな。得意やないやなんておっしゃらはって、うちは魂持っていかれそうな気がしましたえ」
真がふと珠恵の方を見ると、珠恵は黙って微笑んでいた。そのまま引き込まれるような気がして、これで固めの盃は酌み交わしたような心地がする。
福嶋が、ちょっと二人で話をさせてくれるか、と女将と珠恵に話しかけた。声が太く低く響いて、その是非も言わせない威圧感に、真はただ福嶋の顔を見つめた。
緊張していたかもしれないが、恐怖はまるでなかった。
女たちが出て行って障子が閉まると、急に辺りが静かになった。福嶋は微動だにせずに真を見ている。こういう目で相手を見るというのは、既に目だけで相手を犯すようなことに違いない。
「ええ貢物や」目を逸らさないまま、福嶋が低い声で言った。「珠恵ちゃんも知ってか知らいでか、残酷なことやな。目にも耳にも毒や」
注いでくれへんか、と言われて真は向かい合わせになっていた席から、福嶋の近くに寄った。途端に福嶋の太い腕に手を摑まれる。
「目の色が、左右違うんやな」
その言葉に真は背中を撫でられたような気がした。この男はやはり何かを知っている。そう、恐らくは寺崎孝雄が買い取ったというビッグ・ジョーのビデオを見たのかもしれない。福嶋は真の顎に手をかけ、暫くの間じっとりと嘗め回すように真の顔を見ていた。
「寺崎に何を返してもらいたいんや」
真は突然、身体の芯で冷めた塊が重くなったような気がした。
「昂司さんを」
福嶋は暫く驚いたような顔で真を見ていたが、やがて噴き出すように大声で笑った。
「兄さん、そりゃ何の冗談や。昂司は別に孝雄に束縛されているわけでも何でもないで。そりゃ好きで父親と一緒におることもあるやろけどな」
そう言って、顎にかかった手をすっと首へ滑らせてきた。真のワイシャツの襟とネクタイを少しの間見つめ、軽くネクタイを緩めると、首に滑った福嶋の手が真の鎖骨にかかる。
「よう似おうとる。珠恵ちゃんの見立てやな。あの子は淑恵ちゃんとおんなじで趣味がええ」
真が何も言わずに福嶋を睨み付けていると、福嶋がシャツの上から真の胸を撫でるようにした。
「ええ目、しとるわ」そう言って福嶋は息をついた。「誤解せんといてや。わしは寺崎孝雄と淑恵ちゃんとは幼馴染でな、寺崎が、淑恵ちゃんにもここの女将にも誤解されたままなんが可哀想やと思っとったんや。あいつはほんまに子どもの頃から淑恵ちゃんだけが好きでなぁ、かわいそうに淑恵ちゃんが死んでから脱殻みたいになっとったんやで。珠恵ちゃんと昂司がおったから、寺崎も立ち直ったようなもんや。淑恵ちゃんかて寺崎に可愛がられとったから、借金取りに売られんで済んだんやし、昂司かって生まれたんや。売られとったら、どんな酷い目におうとったことか、兄さんにもわかるやろ。皆、誤解しとるんや。あんたかて、寺崎が悪い奴やて吹き込まれとったんと違うんか。そりゃ多少は悪さもするやろけど、気の小さい男や、そんな悪人というわけやあらへん。兄さんも寺崎に会うたら分かることや」
そう言って真を離すと、福嶋は改めて杯を差し出した。真は黙ってその杯に酒を満たした。
「都ホテルや」
福嶋は真の耳元へ囁くように言って、咽喉を鳴らした。本気であの男に復讐したいのなら、堅気を捨ててこっちへ来いと、そう言っているのだ。真は極めて冷静にその言葉を受け取った。
福嶋が先にホテルに帰ってから、真は少しだけ一人で酒を味わい、漸く意を決して立ち上がりかけたとき、珠恵が慌てたように部屋に戻ってきた。珠恵は真の顔を見て、それでも躊躇したような気配を見せた。
「ありがとうございます」
真は決心していることを珠恵に告げた。
「うちは、昂司を諦めろ、と言われたら諦めてもええんどす」
珠恵は多分、真の身に起こるかもしれないことを、改めて考えたのかもしれなかった。
「でも、竹流は諦めませんよ。だから、あなたはあの福嶋という男を呼んだんでしょう」
珠恵は、できる限り真に害のない形で寺崎孝雄を探し出そうとしてくれていたようだった。しかし寺崎は危険を感じているのか、一向に行方が分からないままで、結局一番頼りたくない男に連絡を取るしかなかったようだった。もっとも、その男の方でも珠恵が出ていく必要はないと突っぱねていたようだが、珠恵が真の名前を出したか、その意図を匂わせたので、何か別の形の解決を思いついたのかもしれない。
明らかに危険な男だと思った。状況を冷酷に判断して、切る時は身内でも自分の身体でも切り捨てるのだろう。そして、あの男は真がそのための刃になりうると見抜いたのだ。
それでもいい、と真は思った。俺は喜んで身体の内に潜む刃を研ぎ、鋭い切っ先をあの男の咽喉元に突き付けようとしている。
「大丈夫ですよ。近道であればあるほど、僕自身は嬉しいくらいです」
珠恵は真の前に座り、懐から二本の匕首を出して、真の目の前に置いた。真は暫く匕首を見つめ、それから顔を上げて珠恵の顔を見た。引き結んだ唇に載せられた紅の艶やかさは、珠恵を、初めて岡崎の屋敷で会った時とはまるで別人に見せている。その先に何が起こるのかを見据えながら決意をしている、底から立ち昇ってくるような強さは、真の感情も鎮めてしまうようだった。
「相川はんに万が一の事があったら」
そう言うと、珠恵は一本の匕首を自分の懐に戻した。真は暫く、珠恵の差し出したもう一本の匕首を見つめていたが、やがて手を差し伸ばした。触れた鞘には珠恵の温もりが移っていた。
「相川はん」
「昇さんには、何も言わないで下さい」
「では、北条はんに」
真は首を横に振った。福嶋の背広のバッジが気になっていた。
「今、仁道組が動いたら、相手も警戒するでしょう。つつき出せなくなる。必ず連絡します」
珠恵は暫く唇を引き結んだまま真を見つめていたが、やがて頷いた。真は立ち上がり、珠恵に頭を下げて出て行きかけたが、ふと気になって振り返る。
「本当は、寺崎さんはどう思っていると思われますか」
「昂司が、どすか」珠恵は真のほうを振り返らないままだった。「わかりまへん。昂司にとって、あの子が産まれてこないほうが良かったと思っていた母親と、それでも昂司を育ててきた父親と、どちらが大切だったのか、うちには見当もつきまへん」
「あなたは」
珠恵は真を振り返り、強い声で言った。
「うちは旦那はんの身にこれ以上こないなことが起こらへんことだけが望みどす。寺崎孝雄が旦那はんをあないな目にあわせたんどしたら、償ってもらわへんとあきまへん。相川はんのおっしゃる通り、昂司が戻ってこない限り旦那はんが納得しはれへんのどしたら、昂司を旦那はんに会わせてやりたい、思てます。相川はんの身に何かあったら、旦那はんがどないな気持ちにならはるかはよう分かってるんどす。そやけど、うちには相川はんを人身御供に差し出すしか道がありしまへん。堪忍しとおくれやす」
真は屈みこんで、頭を下げた珠恵に手を差し伸ばした。
「僕は、あなたと同じ気持ちですし、多分あなたと同じ道の上にいる。あなたが謝ることなど何もありません。あなたにお会いして、僕は色んなことを思い出した。竹流があなたのところから帰ってきたとき、いつも奇妙なほど優しかったことも」
珠恵は顔を上げ、静かに首を横に振った。
「うちを抱かはるとき、旦那はんはいつもうちを見ながら、少し遠くを見たはりました。相川はんにお会いしたとき、あぁこの人やったんやと直ぐに分かったんどす。和枝はんが失礼なことをゆうたかも知れまへんけど、あの人にもそのことが分かっとったんや、思います」
真は思わず珠恵の前に膝をつき、彼女の肩を強く抱いた。そして、全く何の抵抗も感じず珠恵の唇に触れた。珠恵は当たり前にそれを受け入れているように見え、真が更に強く珠恵を抱いてその唇を割った時も、そうなるべきであると思っていたかのように真を受け入れた。絡みついた舌には性的な意味合いは何もなかったのに、真はこの女性と自分は自然に身体を合わせることができるような気がした。それは未来を重ねることと同じだった。柔らかく甘い口づけだった。
真が唇を離すと、珠恵は真の眼を見つめたまま、真の唇に移った紅をそっと指で拭った。
「永遠の、遥か彼方が見えるようどす」
珠恵が真の目のうちに何を見つけ出したのか、真は生きているうちにはその答えを知ることはなかったが、今ここに魂の一部を残したような気がした。
(つづく)



これでお膳立ては整いました。えっと、この先の展開を予想されいてる方も「まさか」って方も、半分目を瞑る用意をしてくださいませ。しつこいようですが、今はこのオッチャン、ただのスケベな大物と思っていてくださって構いませんから……^^;
えぇ、お察しの通り、次回は残念ながら18禁です。このお話の最後の……かな?
<次回予告>
「大和竹流をあのような目にあわせた一人は、あなたですか」
福嶋は表情のないまま、長い時間真の目を見つめ、それから急に相好を崩すと、これまでにないくらい大きな声を上げて豪快に笑った。
「そう思てついてきたんか。そんで、わしがそうや、ゆうたらわしのペニスを食い千切る気ぃやったんか」福嶋は笑い飛ばしてから、真剣な怖い目で真を見つめ、真の顎に手をかけた。「ゆうたやろ。わしはな、綺麗な子どもや男や女を縛り付けて犯すような気色悪い趣味はないわ。大体、そっちはそれなりに間におうとるさかいな」
真が睨みつけたままでいると、福嶋は強い力で真の顎をつかんだ。
「珠恵ちゃんの旦那にはな、確かに商品価値があるで。それもでっかい価値や。そやけど、それは縛り付けて犯したって出てこんもんや」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨153] 第31章 何の矛盾もない(3)本性~18禁~
【海に落ちる雨】第31章その3です。真が精神的に追い込まれていく過程をじっくりお楽しみください。
18禁ですので、ご注意ください。幾つかの意味でご不快な方もおられるかもしれませんので、自己責任でお願いします。
前回も言い訳をしましたが、実は第4節まで書いて、あのままただ真が復讐に走る、という構図だったのですが、ある程度「狂って」もらわないと話が進まない。とは言え常識人の真はこのままでは簡単には手を血に染めてまで復讐しよう、とまではならないことに気が付いて……
え~、みたいな展開ですが(いや、ある程度予測していた方も多いと思いますが)、このままこの先の3章分、真と一緒に追い込まれていってください。
ちなみに、このお話の18禁部分はもう1話続きますが、その先は多少の繰り返しだけであんまり詳しい描写の部分はありません。でも自分で言うのもなんですが、今更読むと相当に恥ずかしいものがある……でも、きっと今の私にはもう書けないなぁ……こういうのは勢いが必要なシーンですものね。書くことにこれほどまでにエネルギーのいるシーンは少ない。しかも色気がまるでない。格闘シーンと同じですね。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
18禁ですので、ご注意ください。幾つかの意味でご不快な方もおられるかもしれませんので、自己責任でお願いします。
前回も言い訳をしましたが、実は第4節まで書いて、あのままただ真が復讐に走る、という構図だったのですが、ある程度「狂って」もらわないと話が進まない。とは言え常識人の真はこのままでは簡単には手を血に染めてまで復讐しよう、とまではならないことに気が付いて……
え~、みたいな展開ですが(いや、ある程度予測していた方も多いと思いますが)、このままこの先の3章分、真と一緒に追い込まれていってください。
ちなみに、このお話の18禁部分はもう1話続きますが、その先は多少の繰り返しだけであんまり詳しい描写の部分はありません。でも自分で言うのもなんですが、今更読むと相当に恥ずかしいものがある……でも、きっと今の私にはもう書けないなぁ……こういうのは勢いが必要なシーンですものね。書くことにこれほどまでにエネルギーのいるシーンは少ない。しかも色気がまるでない。格闘シーンと同じですね。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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「半々やな、思っとったんや」
福嶋はそう言いながら、濃いめのウィスキーを真の前に差し出した。
都ホテルの最上階のデラックスルームは、ダブルベッドの入った寝室と、三人掛けのソファと一人用の椅子、ローテーブルの置かれたリビング、さらにデスクが置かれた書斎用の部屋からなっていた。真は勧められたリビングのソファに座り、出されたウィスキーに礼を言った。
「冷静に考えたら怖気付くもんやさかいな」
福嶋はシャワーを浴びた後のようで、バスローブ姿だった。大柄で横幅もあるが、太っているわけではなく、筋肉質の足が組まれると、威圧的に見える。襟のバッチからすると警察関係者なのだろうが、そんなことを聞いたところでどうなるものとも思えなかった。顔のパーツはそれぞれが濃い造りで、体つきは剛健で、年齢が読めない。一通りの武道は心得ている気配があり、耳の形を見ると、柔道では明らかに有段者、しかも相当強いと見て取れた。年齢の割に壮健な身体を持ち、年齢の割に老獪な頭を持っているのかもしれない。
福嶋は足下から舐めあげるように真を見た。
「しかし、ほんまに男にしとくんは勿体ないな。女やったら相当高級な娼婦になれるわ」
煙草を持ったままの手で、福嶋は真を指し、口元を緩めて、ま、今はそんなことどっちでもえぇけどな、と付け加えた。
「生憎、女の代わりに可愛がっていただけるほど、か細くて柔らかい身体をしているわけではありません」
「そうや、だからええんや」
顎で飲むように真に指令する態度は、命令を下すことに慣れている人間のすることだった。真はここは酔ったほうが勝ちなのかどうか考えたが、選択の余地はないような気がした。もっとも酔っ払う程飲む気はなかったが、福嶋を納得させるくらいの酒は必要なのだろう。
「三味線は誰の手ほどきなんや」
真はそんなことはどうでもいいだろう、さっさと本題に移れ、と思いながら答えた。
「祖父です」
福嶋は頷いて、濃いウィスキーを胃に流し込んでいる。
「相川」
まるで確認するようにその名前を呟かれて、真は一瞬身体を強張らせた。いやらしいだけのおっさん、というわけではない、まるで獲物を狩るような雰囲気を纏い、福嶋は取調べを進めるように昔話を語った。
「北海道の帯広に、そういう苗字の恐ろしく強い剣士がいてな、わしも何回かこてんぱんにやられたわ。猟銃も扱いよるし、熊撃ちの名人やと聞いとった。息子がアメリカに飼われとる」
真は、もうこの手の状況にいちいち驚かないようにしようと思った。
「香月ゆう男が煩そうてかなわん、何とかできひんか、て寺崎が言いよるさかいな、わしが香月に話しつけて、ちょっとばかり交換条件を出したったんや。スパイみたいな仕事はな、皮剥かれたらお仕舞いや。もっともあれだけの腕やさかい、アメリカも手放す気ぃはないやろけどな。香月も酔狂な男や。昔馴染みのよしみか、憧れの先輩へのはなむけか、アサクラタケシとその息子を守りたいとでも思いよったんか。もちろん、あの男はあの姑息な役人根性で、しっかり損得勘定はしとるけどな」
福嶋は煙草を最後まで吸い切ると、じっくりと灰皿で揉み消しながら続けた。
「そやけどなぁ、怒り狂ったイタリアのマフィアがまだうろちょろしとるさかいな、寺崎には暫く出てくんな、ゆうてやってたんや。まぁ、そんなことは今はもうええ。兄さんが来てくれたからには、わしもシナリオを書きかえてみようかて気ぃになったわ」
そう言って福嶋は真を手招きした。太く骨ばった指の先は煙草のヤニだけではなく、何か他の理由もあってか、黒ずんで見えた。職人か、あるいは歴史の重みが沁みついている気配がした。
真は一瞬だけ躊躇ったが、直ぐに立ち上がった。今更逡巡しても無駄だ。福嶋の傍へ行くと、いきなり腕をつかまれ、その大きな身体の中へ引っ張り込まれた。
「女とちゃうからええんや。そりゃ、女の身体はええもんやけどな、わしら、男の身体の良し悪しかて、ようわかっとる。使い道が違うんやさかいな」
福嶋はそう言って、スーツの襟元から大きな手を差し入れ、確かめるようにシャツの上から真の胸の筋肉を撫でた。何を確かめているのか、少なくともその目は新潟の下蓮生家の主人の、ただ淫乱な目つきとは違っていた。
「さすがにアサクラタケシの息子だけのことはある。えぇ筋肉の張り具合や。大柄でもないくせに、ちょっと鍛えたら、十分に大型の銃も撃てる身体やな」
真はその言葉で事情を呑み込んだ。俺は二重の人身御供と言うわけか。それならそれでも構わない。
「寺崎孝雄のところに案内してください」
福嶋は豪快に笑った。
「寺崎は所詮、小悪党や。淑恵ちゃんのことかて、わしがゆうたんはほんまの事やで。東海林淑恵に恋焦がれとって、淑恵ちゃんが死んでからは全くの不能者や。どないしようもないから、淑恵ちゃんとの間にできた昂司を手離したくないんや。可愛らしいもんやろ。珠恵ちゃんにかて、よう手ぇだせへんのやで。あんなに淑恵ちゃんに似てるのになぁ。まぁ、屈折してるさかい、薬なんか使うて、縛り付けて犯りまくるみたいなビデオで興奮しとるんや。大層なことができる奴と違う。肝っ玉もちっこいし、ほんまに可愛らしいもんやないか」
天の高みから見れば、寺崎孝雄のしている程度の悪事は可愛らしいものというわけか。
だが、それが許されるかどうかは別の話だ。大局から見れば仕方がないからと言って、罪もない人々の命や尊厳が奪われるとしたら、それは程度や傷けられた人間の頭数で測られる問題ではない。
真が睨み付けると、福嶋がにたりと笑った。
「ほんまにえぇ目しとるな。味わいがいがありそうや」
そう言って、福嶋は真の手を離し、上着脱いだらどうや、と勧めた。勿論、命令だった。
「なぁ、兄さん、ほんまの悪党言うんはな、表は大人しい顔しとるもんや。香月のような男こそ相当な悪党やで。でないとあんな仕事してられへんわ。淑恵ちゃんかて、あんな綺麗な顔して、拒否する時はきつかったわな。二人きりの時にどないな具合やったんか知らんけどな、寺崎には冷たかったんやろ。せやから寺崎はどっか狂うてしもうたんかも知れへん」
「あなたが、寺崎孝雄を野放しにしている張本人というわけですか」
「わしか」福嶋はさも面白そうに笑った。「わしかて寺崎の作ったビデオは見るで。見ながら女とやることあるけどな、暗い部屋に一人篭もってあんなもん見て、せっせと自分の下半身扱いとるような根暗とはちゃうわ。さっきも言うたやろ。わしはな、そんな肝っ玉が小そうて思いも遂げられん、健気な寺崎が可哀想や思うとるだけや。寺崎に顧客を紹介してやることはあるけどな」
「犠牲者もですか」
福嶋はまたたまらん、というように豪快に笑った。
「兄さん、あんたと話してるとおもろいわ。犠牲者はいくらでも作り出せるわな。せやけど、上質の顧客はなかなか手に入らへんもんや。そやから、しっかり捕まえとかなあかんのや」
「そういうわけですか。それであなたは強請でひと儲け、というわけですね」
「わしは、そんなしょうもないことで誰かをわざわざ強請ったりはせんわ。くれるもんは貰うこともあるけどな。まぁ、お蔭で生きてく風通しはええんもんや」
そう言うと、ほなそろそろ味見さしてもらおか、と言って福嶋は立ち上がった。真は極めて冷静な気分で、向かいあって立っている福嶋に低い声で言った。
「先に、寺崎孝雄の居場所を教えてください」
「心配せんでもええ。わしがちゃんと算段したるがな。もっとも兄さんがどれほどの覚悟を見せてくれるか次第やけどな」
真はしばらく福嶋の顔をじっと見つめていた。
この男はまだ冗談だと思っているに違いない。そもそも珠恵が懸命に寺崎孝雄の居場所を聞き出そうと連絡をしていたにも関わらず、今までは無視してきたのだ。
もちろん、この男にとって東海林珠恵が特別な存在で、不用意に傷つけたくないという意味合いもあったのかもしれない。だが現実的には、珠恵と寺崎孝雄とが接触してもこの男にとって何の得もない、というのが正解だろう。
だが、珠恵が真の名前を出したことで事態が変わったのだ。
この男は相川真の価値を知っている。つまり、その名前に連なる附属の価値だ。だから、試してみる気になったのだ。真が彼にとって価値のある駒になりうるかどうか、目的のためなら身売りも、手を血に染めることも厭わないかどうか。そして、その覚悟を示せというのだろう。
真はようやく上着を脱いだ。とうに覚悟はついている。正義心も道徳心も貞操も何もかも捨ててしまうことができるのか、ただ憎しみに身を任せられるかと聞かれているのなら、返事は決まっていた。
シャワーを浴びさせてくれ、と言うと、福嶋はまた面白げに笑った。
「あほゆうんやないで。そのままがええんや」
真は命じられるままに寝室に行き、一瞬躊躇ってから、ネクタイを解きかけた。それを、背中から福嶋に羽交い締めにされる。
「噂に聞くアサクラタケシの息子か。さぞ、ええ味しとるんやろな。ヴォルテラの息子とはどないなんや。ちゃんと可愛がってもろうとるんか。ノン気やて聞いとるけど、まぁ、ちょっと確かめさしてもろたら分かることやけどな」
固く結ばれていたネクタイは難なく解かれ、直ぐに腰のベルトも外される。シャツのボタンをひとつふたつ外し、硬く大きな指で鎖骨を弄ると、その先は後のお楽しみとでもいうように、福嶋は先にベッドに座り、脚を広げてバスローブの前を肌蹴させた。
部屋の明かりは落とされてもいなかったし、福嶋のものが筋肉質の太い大腿の間で、赤黒く大きく膨れ上がって屹立している様子が、遠慮も羞恥もない状態で真の前に示された。何かの競技で、これから一試合するようなあっけらかんとした気配だった。
「兄さん、突っ立ってんと、膝つくんや。やり方がわからへん、ゆうほど初心やないんやろ。さっきのあんたの三味線でこないなってもうたんや。責任とって收めてもらわなあかんわ」
真は自分の腹のうちにある恐ろしく冷たいものの質量を感じた。福嶋に言われるままに膝をつき、既に準備の整っているとでもいうような性器を口に銜えた。もしもこの男が竹流に直接何かをした一人なら、ここでこれを食い千切ってやろうと考えていた。そう考えると何でもできるような気がして、真は福嶋の性器を支えている手とは別の手を睾丸に添えて弄った。
「多少は調教されとるゆうわけやな」
この状況をやり過ごすために、真はただずっと、殺してやると念じていた。誰をというのでもなかったかもしれない。それが分かっているかのように福嶋の手は真の顎を弄り、耳や頬、時には福嶋のものを銜えている唇を愛撫し、時には優しく頭を撫でたりもした。少しずつ福嶋の息が長く大きくなっていく。もともと相当な大きさのあった性器は、真の口の中で一段と大きさを増した。真はそのつもりがなくても噛み付きそうになって、思わず吐き出してむせた。
「兄さん、いっぺん口の中に出させてくれや」
拒否する立場にないことだけはよく分かっていた。だが、真はあえて尋ねた。
「大和竹流をあのような目にあわせた一人は、あなたですか」
福嶋は表情のないまま、長い時間真の目を見つめ、それから急に相好を崩すと、これまでにないくらい大きな声を上げて豪快に笑った。
「そう思てついてきたんか。そんで、わしがそうや、ゆうたらわしのペニスを食い千切る気ぃやったんか」
福嶋は笑い飛ばしてから、真剣な怖い目で真を見つめ、真の顎に手をかけた。
「ゆうたやろ。わしはな、綺麗な子どもや男や女を縛り付けて犯すような気色悪い趣味はないわ。大体、そっちはそれなりに間におうとるさかいな」
真が睨みつけたままでいると、福嶋は強い力で真の顎をつかんだ。
「珠恵ちゃんの旦那にはな、確かに商品価値があるで。それもでっかい価値や。そやけど、それは縛り付けて犯したって出てこんもんや」
福嶋は真の顎をつかんでいるのとは別の手で自分の性器を摑み、真の唇に先端を押し当てた。真はまだ福嶋を睨みつけたままだったが、やがて言葉のないまま、福嶋のものを銜えた。
シャワーのあとの湯の匂いが篭もっている。真は福嶋の性器を一方の手で扱き、舌で先端を嘗めてから、咽の奥まで迎え入れた。ずっと福嶋を睨み付けていたが、福嶋のほうも半分笑うような、半分はビジネスの話をしているような真剣な目で真を見ている。
そのうち福嶋は徐々に深い息になっていき、やがて合図のように真の頭を引き寄せると、直接咽の奥に流し込むように射精した。真は一瞬むせそうになったが、それを堪えた。真の口の中で、福嶋の性器がいつまでも脈打っている。それは一度の射精では完全に小さくはならなかった。
「わしも可愛がったろ。自分で脱ぐか」
真は込み上げてくる嘔気を飲み込んで、ワイシャツのボタンにかかった福嶋の手を払いのけた。
手は震えてもいなかった。自分でシャツを脱ぎ、躊躇うこともなくズボンも下着も脱いだ。福嶋は目だけでも真を犯すように見つめている。
「ほんまにええ身体や。三味線叩いてんの見て思うたんや。これは上物やてな。リラックスして横になっといたらええ。ええ気持ちにさせたるさかいな」
真はもう一度だけ福嶋を睨み付けておいてから、ベッドに横になった。やはり福嶋は随分と長い間真を見つめていたが、やがて納得したように真の性器を口に含み吸い始める。それでもさすがに簡単に反応できるほど真のものは興奮しておらず、中途半端な大きさのままで、真は目を閉じて、ただ早く通り過ぎてくれることだけを願っていた。
福嶋は半勃ちのままの真のものをしばらく愛撫していたが、諦めたのか、手をそこに残したまま口で真の後ろの襞を舐め始めた。それには、さすがに真も震えた。突然急所を突かれたように襞が収縮する。その反応に福嶋は漸く満足したようで、真の脚を更に広げさせると、唾液でたっぷりと湿らせ、舌を固くして何度も襞を突いた。やがて十分に濡らしたと思ったのか、口を性器に戻して、先端の穴に同じように舌を捻じ込むようにしながら、指で後ろの穴を揉み解すようにしている。
「なんや、後ろのほうが感じるんか」
真は息を吐き出した。
「そうや、堪えんとしっかり息しとくんや」
ゆっくりと後ろを揉み解しながら、やがて福嶋は指で穴を弄り、まず確かめるように一本入れようとした。真は思わず腹に力を入れて、福嶋を拒否しようとしたが、福嶋は冷静に真の腹を愛撫し、耳元で力抜きや、と囁いてきた。何かの瞬間に、真は太棹を叩きながら身体の中心が疼いていた感覚を思い出し、気が付けば、福嶋の指を吸うように飲み込んでいた。
「なんや、えらい狭いんやな。恋人が行方不明で、暫く放っとかれてたからか、それともほんまに可愛がってもろてへんのか。まぁ、なんぼゆうてもあの男は珠恵ちゃんにぞっこんやさかいな」話しかけながら福嶋は真が飲み込んだ指で粘膜を弄っていた。「せやけど、これは楽しみやな」
真は一瞬身体が緊張したのを感じた。福嶋は指を何とかもう一本増やし、幾らか乱暴に弄ったあとで、突然的確に急所を探り当てたようだった。真は思わず声を上げ、福嶋の指を食い絞めていた。
「前立腺、マッサージされたことあるか。どないや、気持ちええやろ」真は唇を噛んだ。それでも声を出して悶えてやる気はなかった。「兄さんも大概頑固やな。苛めとる気はないんやで。ええ気持ちにさせてやりたいだけや」
この男は言葉だけでも真を追い込み犯そうとしている。追い込んだ先で何をさせようとしているのかも分かっている。それを感じて脳はアラームを鳴らしながら、感じることを拒否し続けていたはずだった。だが意に反して、狭い器官を弄られ、身体の中でも特に敏感な粘膜を擦られているうちに、真の性器は福嶋が満足する程度には硬くなってきていた。
「ここは多少素直になってきたようやけどな」
そう言って福嶋は更に長い時間をかけて揉みしだくと、唐突に指を引き抜き、真に四つ這いになるよう命じた。真は何も考えないようにして、言われる通りに尻を上げてその場所を福嶋に晒した。
羞恥という感情はどこかに捨てられていた。福嶋という男が極めて事務的に事を進めているからなのかもしれない。契約書類にサインをもらうためには、これだけの手続きが必要です、と言われているようなものだと思っていた。
「ほんなら、味見さしてもらうで。なぁ、兄さん、逃げるんなら今のうちやで」
そう言いながらも、福嶋は時間を与える気配もなかった。
真は後ろにあてがわれたものの感触に一瞬だけ狼狽えたが、腰を引き寄せるような福嶋の動きと同時に、息を吐いた瞬間に福嶋の性器を飲み込んでいた。福嶋はそのまま真の尻を摑んで引き寄せ、重量挙げでもするような力の入った呻きをひとつとあげて、抉るように真の身体を貫いた。
何も感じなかったわけではなかった。だが唾液や指だけの準備で受け入れるには、真のほうに経験が浅すぎた。受け入れたときには案の定、激烈な痛みが身体の中心を突き抜けて脳天に達した。だが、もしもこの痛みがなかったら、真の頭は冷静な部分を残せなかったかもしれない。福嶋は真の身体が行為に慣れていないことを察したのか、暫くの間は身体を揺らすようにして刺激を押さえていたようだった。
緩やかな刺激は少しずつ身体に染み渡っていき、そのうちもっと深い刺激を求め始める。真は腹を突き上げてくる圧迫感と共に、いつの間にか荒くなっていく自分の息を何度も整えた。やがて、真の身体の反応を挿入したもので感じ取ったのか、福嶋はぎりぎりまで引き抜いては、一気に突き上げるような動きに移った。ひとつ突く毎に、更に奥を探られ、真は崩れそうになる膝を支えるのが精一杯になってきた。
福嶋は徐々に挿入のスピードを上げていき、太い声で喘ぎ始め、同時に喋り続けていた。腹の奥に響くようなバリトンの声は、耳から媚薬を注ぎ込むような効果がある。
「なぁ、兄さん、男が男を犯すゆうんはどういうことか分かるか。女と違うて、本来受け入れるための腟がないんや。この穴はほんまやったらこんなもん受け入れる場所と違うわな。濡れるわけでもあらへん。孕むわけでもあらへん。そこへ無理矢理突っ込むゆうことはな、愛や恋とは違う、子孫繁栄のためでもあらへん。こんな恥ずかしいところに雄の武器を突っ込むゆうことは、支配者と被支配者の関係をはっきりさせるゆうことなんやで。動物かて雄が雄に突っ込むことがあるらしいけどな、それは別に狂って雄同士でやりたくなったんとは違うんや。どっちが支配者かということをはっきりさせるためにやっとるんや」
突然、福嶋は突くのを止めて、真を腹這いにさせると、真の一方の足を摑んで、挿入したまま真の身体を半回転させた。真はあまりの刺激に息を吐き出し、目をきつく閉じた。
「悶えとる男の顔見ながらイってもしょうがないしな、それこそ征服しとる気分になれて、ほんまは後ろからやるほうが好きなんやけど、なんや兄さんの顔見ながら出しとうなったわ」
そう言って、福嶋はリズムを取るように何度も突き上げてきた。
「わしは別に相手を殺すまでやりたいなんてあほなこと考えてへんから、安心してイきや。分かるか、あんたの中、今わしを締め付けとるんや。飲み込まれそうになっとるんは、わしのほうやで」
そう言うと、福嶋は息を荒げた。言われて初めて、真は自分の器官自体で福嶋のものの形や大きさを感じ取り、腹の奥が震えたことを自覚した。途端に、無意識のうちに更に相手を締め付けてしまう。まるで福嶋のものを欲しがり、誘い込んで吸い尽くそうとしているのは真のほうであるというような自身の粘膜の動きを、感じてしまったのだ。真は自分自身のその反応に驚き、また自分の性器も同時に硬く緊張したのを感じた。
「だいぶキツイな。ほんまにええ具合や」福嶋は時々動きを止め、真の粘膜が震える様を味わうようにして、真の顔を見る。「たまらんな。挿れてるだけでもイってしまいそうやで。中が震えてんの、自分でわかるか」
福嶋はそう言うや、突然真の顔に覆いかぶさるようにして、唇を吸った。真はそのときにはもう拒否をする力が抜けてしまっていた。言葉で説明されていると、その通りに身体が反応していくのが分かる。
「どないや、後ろの穴がひくついとると、上の口でも感じるやろ。繋がった粘膜やさかいな」真の唇は言われるままに震え始めた。「想像してみ。兄さんの身体の上と下はな、わしのもんで満たされとんのや。身体が全部、性器みたいな感じがせぇへんか」
福嶋は片方の手で真の顎をつかみ、厚く器用な舌で口の中の粘膜を舐り、時には吸い付くようにした。
確かに感じていたかもしれないが、真はそれでも頭のどこかが冷めたままだった。ただ年齢を疑うような太く硬い福嶋のものを銜え込んでいる場所だけは、勝手に意思を持って福嶋を締め付けているのが分かっていた。脳の中では絶対に感じてやるのものかと、まだこの事態に必死で逆らっている。福嶋は機械のように冷徹に仕事をしている、という態度のまま、粘膜を擦り始める。真は目を閉じて、打ち付けられている体重に神経を向けた。さっさといってくれ、と思っていた。しかし福嶋はなかなか達しようとはしてくれず、真がかろうじて踏みとどまっている抑制を食いしばって目を開けると、福嶋は真を見下ろしていた。
「兄さんも頑固やな。どうしても操を立てたいわけや。泣かせる話やないか。わしはな、そういう話は好きやで」
福嶋はそう言うや、真の膝をしっかりと折って尻を持ち上げ、更に深く奥を突くようにした。それだけで狂いそうな刺激が襲い掛かり、真は一段と歯を食いしばった。福嶋のものが胃にまで届いたように深々と身体に食い込んでくる。
涙と一緒に声だけは我慢できずに漏れ出していたが、絶対にいってやるものかとまだ思っていた。その真のぎりぎりの感情に追い討ちをかけるように、真自身の粘膜が福嶋のものを食い絞めて蠕き、悲鳴を上げるように絡みついている。福嶋は更に奥を、というように、真の身体を折るのではないかと思うほどの力で乗り掛かってきた。二、三度強く腰を打ちつけると、福嶋の息が急に荒くなった。
「わしの負けや。出すで」
福嶋は最後は、それでもまだ、というように奥の奥に突き上げて達した。
腹の奥に今日会ったばかりの、仇の一人かもしれない男のものを銜え込み、吐き出された熱い精液を受け入れたとき、真は震える身体をどうすることもできず、脚の先を突っぱねた。粘膜の奥は、吐瀉物のような熱い液体を打ち付けられて異常なほどに収縮し、次の瞬間には一気に毒薬を吸収したかのように頭の先まで痺れが走った。福嶋のものは律動を繰り返したまま、まだ真の身体の中で断末魔の蛇のようにうねっている。
その最後の一滴までを搾り取ろうとしているのは、真自身の身体の方だった。殴られもしないのに意識が曖昧になり、連続して震え続けている粘膜だけはまだ福嶋を求めている。真の性器は射精せずに硬く勃ち上がったままで、ひくつきながらわずかに先端から液体を零している。まるで後ろの粘膜が今まで味わったことのない快感に勝手に狂ってしまったために、ついていけずに取り残されてしまったようだった。腰の辺りから腹全体が重く熱く、痺れたままだ。突っぱねていた脚の先は、力を失う機会を逸して、身体は芯から何度も痙攣した。
意識は明瞭だったのに、その痙攣を止めることができない。
「兄さん、射精せんとイったんやろ。余計苦しいんとちゃうんか」福嶋はまだ真の中に入ったまま、体重を真に掛けてきた。「アホやな、我慢せんと出したらよかったんや。そやけど、出すよりずっと気持ちよかったやろ。自分で分かるやろ、兄さんの中、まだ痙攣しとるわ。女の絶頂と一緒やな。女はなぁ、男の十倍ほども気持ちええんやてゆうさかいな」
福嶋は勃ち上がったままの真のものに手を触れた。その瞬間、真は足掻いた。
「触るな」
「イかしたろ、ゆうてんのや。そのままやったら何時までも身体が疼くで」
「満足したんなら、さっさと抜いてくれ」
何を言われているのか分からず、真は訴えた。声を出してから、涙声になっていることに気がついたが、自分自身が話すだけでも、福嶋を銜えたままの後ろの襞が収縮するのが分かって混乱してきた。
わかった、わかった、と二度繰り返し、福嶋はまだ真の中に入ったままだった性器を引き抜いた。その瞬間の快感とも苦痛ともつかない異様な感触に真は震えた。何処かで、越えてはならない線を越えたことが分かった。
(つづく)




都ホテルはもう名前を変えていて、今は別のホテルになっています。
ところで、この福嶋がなぜレギュラーになったのか、それは第一にわが友の声援?に答えたわけでもありますが、今後の展開にもしかしていい塩梅を加えてくれるのではないかと思ったのでした。しかも、実は長一郎じいちゃんとは剣を交えた仲だったという。
次作【雪原の星月夜】は真の結婚後の話ですが、まぁ、どんな展開になっているのか(福島と真の関係、ってこと?)、また次作もお楽しみいただければと思います。
あ、真の嫁は、先に断わっておきますが、まずまずの悪妻です。ただ色んな意味で、真にはない生命的エネルギーや底力があって、真とはちょうどつり合っていたのかもしれません。まだ先のことですが……^^;
<次回予告>
「上等のスーツ着て、祇園のお座敷で取り澄ましたように酒飲んで、背筋伸ばして三味線弾いて、あるいは調査事務所で不良のガキどもの相手して優しい声で話しかけとっても、その顔が兄さんの本性や。わしが南米におった時に、何度か見たジャガーの子どもを思い出すわ。ヤマネコや。ちっこいくせに、捉えられたら一人前に牙むきよる。それも必死や。持ってるなけなしの武器、全部使うて立ち向かってきよるんや。相手が動物や、分かっとっても、押さえつけて犯しとうなるような健気さや」



「半々やな、思っとったんや」
福嶋はそう言いながら、濃いめのウィスキーを真の前に差し出した。
都ホテルの最上階のデラックスルームは、ダブルベッドの入った寝室と、三人掛けのソファと一人用の椅子、ローテーブルの置かれたリビング、さらにデスクが置かれた書斎用の部屋からなっていた。真は勧められたリビングのソファに座り、出されたウィスキーに礼を言った。
「冷静に考えたら怖気付くもんやさかいな」
福嶋はシャワーを浴びた後のようで、バスローブ姿だった。大柄で横幅もあるが、太っているわけではなく、筋肉質の足が組まれると、威圧的に見える。襟のバッチからすると警察関係者なのだろうが、そんなことを聞いたところでどうなるものとも思えなかった。顔のパーツはそれぞれが濃い造りで、体つきは剛健で、年齢が読めない。一通りの武道は心得ている気配があり、耳の形を見ると、柔道では明らかに有段者、しかも相当強いと見て取れた。年齢の割に壮健な身体を持ち、年齢の割に老獪な頭を持っているのかもしれない。
福嶋は足下から舐めあげるように真を見た。
「しかし、ほんまに男にしとくんは勿体ないな。女やったら相当高級な娼婦になれるわ」
煙草を持ったままの手で、福嶋は真を指し、口元を緩めて、ま、今はそんなことどっちでもえぇけどな、と付け加えた。
「生憎、女の代わりに可愛がっていただけるほど、か細くて柔らかい身体をしているわけではありません」
「そうや、だからええんや」
顎で飲むように真に指令する態度は、命令を下すことに慣れている人間のすることだった。真はここは酔ったほうが勝ちなのかどうか考えたが、選択の余地はないような気がした。もっとも酔っ払う程飲む気はなかったが、福嶋を納得させるくらいの酒は必要なのだろう。
「三味線は誰の手ほどきなんや」
真はそんなことはどうでもいいだろう、さっさと本題に移れ、と思いながら答えた。
「祖父です」
福嶋は頷いて、濃いウィスキーを胃に流し込んでいる。
「相川」
まるで確認するようにその名前を呟かれて、真は一瞬身体を強張らせた。いやらしいだけのおっさん、というわけではない、まるで獲物を狩るような雰囲気を纏い、福嶋は取調べを進めるように昔話を語った。
「北海道の帯広に、そういう苗字の恐ろしく強い剣士がいてな、わしも何回かこてんぱんにやられたわ。猟銃も扱いよるし、熊撃ちの名人やと聞いとった。息子がアメリカに飼われとる」
真は、もうこの手の状況にいちいち驚かないようにしようと思った。
「香月ゆう男が煩そうてかなわん、何とかできひんか、て寺崎が言いよるさかいな、わしが香月に話しつけて、ちょっとばかり交換条件を出したったんや。スパイみたいな仕事はな、皮剥かれたらお仕舞いや。もっともあれだけの腕やさかい、アメリカも手放す気ぃはないやろけどな。香月も酔狂な男や。昔馴染みのよしみか、憧れの先輩へのはなむけか、アサクラタケシとその息子を守りたいとでも思いよったんか。もちろん、あの男はあの姑息な役人根性で、しっかり損得勘定はしとるけどな」
福嶋は煙草を最後まで吸い切ると、じっくりと灰皿で揉み消しながら続けた。
「そやけどなぁ、怒り狂ったイタリアのマフィアがまだうろちょろしとるさかいな、寺崎には暫く出てくんな、ゆうてやってたんや。まぁ、そんなことは今はもうええ。兄さんが来てくれたからには、わしもシナリオを書きかえてみようかて気ぃになったわ」
そう言って福嶋は真を手招きした。太く骨ばった指の先は煙草のヤニだけではなく、何か他の理由もあってか、黒ずんで見えた。職人か、あるいは歴史の重みが沁みついている気配がした。
真は一瞬だけ躊躇ったが、直ぐに立ち上がった。今更逡巡しても無駄だ。福嶋の傍へ行くと、いきなり腕をつかまれ、その大きな身体の中へ引っ張り込まれた。
「女とちゃうからええんや。そりゃ、女の身体はええもんやけどな、わしら、男の身体の良し悪しかて、ようわかっとる。使い道が違うんやさかいな」
福嶋はそう言って、スーツの襟元から大きな手を差し入れ、確かめるようにシャツの上から真の胸の筋肉を撫でた。何を確かめているのか、少なくともその目は新潟の下蓮生家の主人の、ただ淫乱な目つきとは違っていた。
「さすがにアサクラタケシの息子だけのことはある。えぇ筋肉の張り具合や。大柄でもないくせに、ちょっと鍛えたら、十分に大型の銃も撃てる身体やな」
真はその言葉で事情を呑み込んだ。俺は二重の人身御供と言うわけか。それならそれでも構わない。
「寺崎孝雄のところに案内してください」
福嶋は豪快に笑った。
「寺崎は所詮、小悪党や。淑恵ちゃんのことかて、わしがゆうたんはほんまの事やで。東海林淑恵に恋焦がれとって、淑恵ちゃんが死んでからは全くの不能者や。どないしようもないから、淑恵ちゃんとの間にできた昂司を手離したくないんや。可愛らしいもんやろ。珠恵ちゃんにかて、よう手ぇだせへんのやで。あんなに淑恵ちゃんに似てるのになぁ。まぁ、屈折してるさかい、薬なんか使うて、縛り付けて犯りまくるみたいなビデオで興奮しとるんや。大層なことができる奴と違う。肝っ玉もちっこいし、ほんまに可愛らしいもんやないか」
天の高みから見れば、寺崎孝雄のしている程度の悪事は可愛らしいものというわけか。
だが、それが許されるかどうかは別の話だ。大局から見れば仕方がないからと言って、罪もない人々の命や尊厳が奪われるとしたら、それは程度や傷けられた人間の頭数で測られる問題ではない。
真が睨み付けると、福嶋がにたりと笑った。
「ほんまにえぇ目しとるな。味わいがいがありそうや」
そう言って、福嶋は真の手を離し、上着脱いだらどうや、と勧めた。勿論、命令だった。
「なぁ、兄さん、ほんまの悪党言うんはな、表は大人しい顔しとるもんや。香月のような男こそ相当な悪党やで。でないとあんな仕事してられへんわ。淑恵ちゃんかて、あんな綺麗な顔して、拒否する時はきつかったわな。二人きりの時にどないな具合やったんか知らんけどな、寺崎には冷たかったんやろ。せやから寺崎はどっか狂うてしもうたんかも知れへん」
「あなたが、寺崎孝雄を野放しにしている張本人というわけですか」
「わしか」福嶋はさも面白そうに笑った。「わしかて寺崎の作ったビデオは見るで。見ながら女とやることあるけどな、暗い部屋に一人篭もってあんなもん見て、せっせと自分の下半身扱いとるような根暗とはちゃうわ。さっきも言うたやろ。わしはな、そんな肝っ玉が小そうて思いも遂げられん、健気な寺崎が可哀想や思うとるだけや。寺崎に顧客を紹介してやることはあるけどな」
「犠牲者もですか」
福嶋はまたたまらん、というように豪快に笑った。
「兄さん、あんたと話してるとおもろいわ。犠牲者はいくらでも作り出せるわな。せやけど、上質の顧客はなかなか手に入らへんもんや。そやから、しっかり捕まえとかなあかんのや」
「そういうわけですか。それであなたは強請でひと儲け、というわけですね」
「わしは、そんなしょうもないことで誰かをわざわざ強請ったりはせんわ。くれるもんは貰うこともあるけどな。まぁ、お蔭で生きてく風通しはええんもんや」
そう言うと、ほなそろそろ味見さしてもらおか、と言って福嶋は立ち上がった。真は極めて冷静な気分で、向かいあって立っている福嶋に低い声で言った。
「先に、寺崎孝雄の居場所を教えてください」
「心配せんでもええ。わしがちゃんと算段したるがな。もっとも兄さんがどれほどの覚悟を見せてくれるか次第やけどな」
真はしばらく福嶋の顔をじっと見つめていた。
この男はまだ冗談だと思っているに違いない。そもそも珠恵が懸命に寺崎孝雄の居場所を聞き出そうと連絡をしていたにも関わらず、今までは無視してきたのだ。
もちろん、この男にとって東海林珠恵が特別な存在で、不用意に傷つけたくないという意味合いもあったのかもしれない。だが現実的には、珠恵と寺崎孝雄とが接触してもこの男にとって何の得もない、というのが正解だろう。
だが、珠恵が真の名前を出したことで事態が変わったのだ。
この男は相川真の価値を知っている。つまり、その名前に連なる附属の価値だ。だから、試してみる気になったのだ。真が彼にとって価値のある駒になりうるかどうか、目的のためなら身売りも、手を血に染めることも厭わないかどうか。そして、その覚悟を示せというのだろう。
真はようやく上着を脱いだ。とうに覚悟はついている。正義心も道徳心も貞操も何もかも捨ててしまうことができるのか、ただ憎しみに身を任せられるかと聞かれているのなら、返事は決まっていた。
シャワーを浴びさせてくれ、と言うと、福嶋はまた面白げに笑った。
「あほゆうんやないで。そのままがええんや」
真は命じられるままに寝室に行き、一瞬躊躇ってから、ネクタイを解きかけた。それを、背中から福嶋に羽交い締めにされる。
「噂に聞くアサクラタケシの息子か。さぞ、ええ味しとるんやろな。ヴォルテラの息子とはどないなんや。ちゃんと可愛がってもろうとるんか。ノン気やて聞いとるけど、まぁ、ちょっと確かめさしてもろたら分かることやけどな」
固く結ばれていたネクタイは難なく解かれ、直ぐに腰のベルトも外される。シャツのボタンをひとつふたつ外し、硬く大きな指で鎖骨を弄ると、その先は後のお楽しみとでもいうように、福嶋は先にベッドに座り、脚を広げてバスローブの前を肌蹴させた。
部屋の明かりは落とされてもいなかったし、福嶋のものが筋肉質の太い大腿の間で、赤黒く大きく膨れ上がって屹立している様子が、遠慮も羞恥もない状態で真の前に示された。何かの競技で、これから一試合するようなあっけらかんとした気配だった。
「兄さん、突っ立ってんと、膝つくんや。やり方がわからへん、ゆうほど初心やないんやろ。さっきのあんたの三味線でこないなってもうたんや。責任とって收めてもらわなあかんわ」
真は自分の腹のうちにある恐ろしく冷たいものの質量を感じた。福嶋に言われるままに膝をつき、既に準備の整っているとでもいうような性器を口に銜えた。もしもこの男が竹流に直接何かをした一人なら、ここでこれを食い千切ってやろうと考えていた。そう考えると何でもできるような気がして、真は福嶋の性器を支えている手とは別の手を睾丸に添えて弄った。
「多少は調教されとるゆうわけやな」
この状況をやり過ごすために、真はただずっと、殺してやると念じていた。誰をというのでもなかったかもしれない。それが分かっているかのように福嶋の手は真の顎を弄り、耳や頬、時には福嶋のものを銜えている唇を愛撫し、時には優しく頭を撫でたりもした。少しずつ福嶋の息が長く大きくなっていく。もともと相当な大きさのあった性器は、真の口の中で一段と大きさを増した。真はそのつもりがなくても噛み付きそうになって、思わず吐き出してむせた。
「兄さん、いっぺん口の中に出させてくれや」
拒否する立場にないことだけはよく分かっていた。だが、真はあえて尋ねた。
「大和竹流をあのような目にあわせた一人は、あなたですか」
福嶋は表情のないまま、長い時間真の目を見つめ、それから急に相好を崩すと、これまでにないくらい大きな声を上げて豪快に笑った。
「そう思てついてきたんか。そんで、わしがそうや、ゆうたらわしのペニスを食い千切る気ぃやったんか」
福嶋は笑い飛ばしてから、真剣な怖い目で真を見つめ、真の顎に手をかけた。
「ゆうたやろ。わしはな、綺麗な子どもや男や女を縛り付けて犯すような気色悪い趣味はないわ。大体、そっちはそれなりに間におうとるさかいな」
真が睨みつけたままでいると、福嶋は強い力で真の顎をつかんだ。
「珠恵ちゃんの旦那にはな、確かに商品価値があるで。それもでっかい価値や。そやけど、それは縛り付けて犯したって出てこんもんや」
福嶋は真の顎をつかんでいるのとは別の手で自分の性器を摑み、真の唇に先端を押し当てた。真はまだ福嶋を睨みつけたままだったが、やがて言葉のないまま、福嶋のものを銜えた。
シャワーのあとの湯の匂いが篭もっている。真は福嶋の性器を一方の手で扱き、舌で先端を嘗めてから、咽の奥まで迎え入れた。ずっと福嶋を睨み付けていたが、福嶋のほうも半分笑うような、半分はビジネスの話をしているような真剣な目で真を見ている。
そのうち福嶋は徐々に深い息になっていき、やがて合図のように真の頭を引き寄せると、直接咽の奥に流し込むように射精した。真は一瞬むせそうになったが、それを堪えた。真の口の中で、福嶋の性器がいつまでも脈打っている。それは一度の射精では完全に小さくはならなかった。
「わしも可愛がったろ。自分で脱ぐか」
真は込み上げてくる嘔気を飲み込んで、ワイシャツのボタンにかかった福嶋の手を払いのけた。
手は震えてもいなかった。自分でシャツを脱ぎ、躊躇うこともなくズボンも下着も脱いだ。福嶋は目だけでも真を犯すように見つめている。
「ほんまにええ身体や。三味線叩いてんの見て思うたんや。これは上物やてな。リラックスして横になっといたらええ。ええ気持ちにさせたるさかいな」
真はもう一度だけ福嶋を睨み付けておいてから、ベッドに横になった。やはり福嶋は随分と長い間真を見つめていたが、やがて納得したように真の性器を口に含み吸い始める。それでもさすがに簡単に反応できるほど真のものは興奮しておらず、中途半端な大きさのままで、真は目を閉じて、ただ早く通り過ぎてくれることだけを願っていた。
福嶋は半勃ちのままの真のものをしばらく愛撫していたが、諦めたのか、手をそこに残したまま口で真の後ろの襞を舐め始めた。それには、さすがに真も震えた。突然急所を突かれたように襞が収縮する。その反応に福嶋は漸く満足したようで、真の脚を更に広げさせると、唾液でたっぷりと湿らせ、舌を固くして何度も襞を突いた。やがて十分に濡らしたと思ったのか、口を性器に戻して、先端の穴に同じように舌を捻じ込むようにしながら、指で後ろの穴を揉み解すようにしている。
「なんや、後ろのほうが感じるんか」
真は息を吐き出した。
「そうや、堪えんとしっかり息しとくんや」
ゆっくりと後ろを揉み解しながら、やがて福嶋は指で穴を弄り、まず確かめるように一本入れようとした。真は思わず腹に力を入れて、福嶋を拒否しようとしたが、福嶋は冷静に真の腹を愛撫し、耳元で力抜きや、と囁いてきた。何かの瞬間に、真は太棹を叩きながら身体の中心が疼いていた感覚を思い出し、気が付けば、福嶋の指を吸うように飲み込んでいた。
「なんや、えらい狭いんやな。恋人が行方不明で、暫く放っとかれてたからか、それともほんまに可愛がってもろてへんのか。まぁ、なんぼゆうてもあの男は珠恵ちゃんにぞっこんやさかいな」話しかけながら福嶋は真が飲み込んだ指で粘膜を弄っていた。「せやけど、これは楽しみやな」
真は一瞬身体が緊張したのを感じた。福嶋は指を何とかもう一本増やし、幾らか乱暴に弄ったあとで、突然的確に急所を探り当てたようだった。真は思わず声を上げ、福嶋の指を食い絞めていた。
「前立腺、マッサージされたことあるか。どないや、気持ちええやろ」真は唇を噛んだ。それでも声を出して悶えてやる気はなかった。「兄さんも大概頑固やな。苛めとる気はないんやで。ええ気持ちにさせてやりたいだけや」
この男は言葉だけでも真を追い込み犯そうとしている。追い込んだ先で何をさせようとしているのかも分かっている。それを感じて脳はアラームを鳴らしながら、感じることを拒否し続けていたはずだった。だが意に反して、狭い器官を弄られ、身体の中でも特に敏感な粘膜を擦られているうちに、真の性器は福嶋が満足する程度には硬くなってきていた。
「ここは多少素直になってきたようやけどな」
そう言って福嶋は更に長い時間をかけて揉みしだくと、唐突に指を引き抜き、真に四つ這いになるよう命じた。真は何も考えないようにして、言われる通りに尻を上げてその場所を福嶋に晒した。
羞恥という感情はどこかに捨てられていた。福嶋という男が極めて事務的に事を進めているからなのかもしれない。契約書類にサインをもらうためには、これだけの手続きが必要です、と言われているようなものだと思っていた。
「ほんなら、味見さしてもらうで。なぁ、兄さん、逃げるんなら今のうちやで」
そう言いながらも、福嶋は時間を与える気配もなかった。
真は後ろにあてがわれたものの感触に一瞬だけ狼狽えたが、腰を引き寄せるような福嶋の動きと同時に、息を吐いた瞬間に福嶋の性器を飲み込んでいた。福嶋はそのまま真の尻を摑んで引き寄せ、重量挙げでもするような力の入った呻きをひとつとあげて、抉るように真の身体を貫いた。
何も感じなかったわけではなかった。だが唾液や指だけの準備で受け入れるには、真のほうに経験が浅すぎた。受け入れたときには案の定、激烈な痛みが身体の中心を突き抜けて脳天に達した。だが、もしもこの痛みがなかったら、真の頭は冷静な部分を残せなかったかもしれない。福嶋は真の身体が行為に慣れていないことを察したのか、暫くの間は身体を揺らすようにして刺激を押さえていたようだった。
緩やかな刺激は少しずつ身体に染み渡っていき、そのうちもっと深い刺激を求め始める。真は腹を突き上げてくる圧迫感と共に、いつの間にか荒くなっていく自分の息を何度も整えた。やがて、真の身体の反応を挿入したもので感じ取ったのか、福嶋はぎりぎりまで引き抜いては、一気に突き上げるような動きに移った。ひとつ突く毎に、更に奥を探られ、真は崩れそうになる膝を支えるのが精一杯になってきた。
福嶋は徐々に挿入のスピードを上げていき、太い声で喘ぎ始め、同時に喋り続けていた。腹の奥に響くようなバリトンの声は、耳から媚薬を注ぎ込むような効果がある。
「なぁ、兄さん、男が男を犯すゆうんはどういうことか分かるか。女と違うて、本来受け入れるための腟がないんや。この穴はほんまやったらこんなもん受け入れる場所と違うわな。濡れるわけでもあらへん。孕むわけでもあらへん。そこへ無理矢理突っ込むゆうことはな、愛や恋とは違う、子孫繁栄のためでもあらへん。こんな恥ずかしいところに雄の武器を突っ込むゆうことは、支配者と被支配者の関係をはっきりさせるゆうことなんやで。動物かて雄が雄に突っ込むことがあるらしいけどな、それは別に狂って雄同士でやりたくなったんとは違うんや。どっちが支配者かということをはっきりさせるためにやっとるんや」
突然、福嶋は突くのを止めて、真を腹這いにさせると、真の一方の足を摑んで、挿入したまま真の身体を半回転させた。真はあまりの刺激に息を吐き出し、目をきつく閉じた。
「悶えとる男の顔見ながらイってもしょうがないしな、それこそ征服しとる気分になれて、ほんまは後ろからやるほうが好きなんやけど、なんや兄さんの顔見ながら出しとうなったわ」
そう言って、福嶋はリズムを取るように何度も突き上げてきた。
「わしは別に相手を殺すまでやりたいなんてあほなこと考えてへんから、安心してイきや。分かるか、あんたの中、今わしを締め付けとるんや。飲み込まれそうになっとるんは、わしのほうやで」
そう言うと、福嶋は息を荒げた。言われて初めて、真は自分の器官自体で福嶋のものの形や大きさを感じ取り、腹の奥が震えたことを自覚した。途端に、無意識のうちに更に相手を締め付けてしまう。まるで福嶋のものを欲しがり、誘い込んで吸い尽くそうとしているのは真のほうであるというような自身の粘膜の動きを、感じてしまったのだ。真は自分自身のその反応に驚き、また自分の性器も同時に硬く緊張したのを感じた。
「だいぶキツイな。ほんまにええ具合や」福嶋は時々動きを止め、真の粘膜が震える様を味わうようにして、真の顔を見る。「たまらんな。挿れてるだけでもイってしまいそうやで。中が震えてんの、自分でわかるか」
福嶋はそう言うや、突然真の顔に覆いかぶさるようにして、唇を吸った。真はそのときにはもう拒否をする力が抜けてしまっていた。言葉で説明されていると、その通りに身体が反応していくのが分かる。
「どないや、後ろの穴がひくついとると、上の口でも感じるやろ。繋がった粘膜やさかいな」真の唇は言われるままに震え始めた。「想像してみ。兄さんの身体の上と下はな、わしのもんで満たされとんのや。身体が全部、性器みたいな感じがせぇへんか」
福嶋は片方の手で真の顎をつかみ、厚く器用な舌で口の中の粘膜を舐り、時には吸い付くようにした。
確かに感じていたかもしれないが、真はそれでも頭のどこかが冷めたままだった。ただ年齢を疑うような太く硬い福嶋のものを銜え込んでいる場所だけは、勝手に意思を持って福嶋を締め付けているのが分かっていた。脳の中では絶対に感じてやるのものかと、まだこの事態に必死で逆らっている。福嶋は機械のように冷徹に仕事をしている、という態度のまま、粘膜を擦り始める。真は目を閉じて、打ち付けられている体重に神経を向けた。さっさといってくれ、と思っていた。しかし福嶋はなかなか達しようとはしてくれず、真がかろうじて踏みとどまっている抑制を食いしばって目を開けると、福嶋は真を見下ろしていた。
「兄さんも頑固やな。どうしても操を立てたいわけや。泣かせる話やないか。わしはな、そういう話は好きやで」
福嶋はそう言うや、真の膝をしっかりと折って尻を持ち上げ、更に深く奥を突くようにした。それだけで狂いそうな刺激が襲い掛かり、真は一段と歯を食いしばった。福嶋のものが胃にまで届いたように深々と身体に食い込んでくる。
涙と一緒に声だけは我慢できずに漏れ出していたが、絶対にいってやるものかとまだ思っていた。その真のぎりぎりの感情に追い討ちをかけるように、真自身の粘膜が福嶋のものを食い絞めて蠕き、悲鳴を上げるように絡みついている。福嶋は更に奥を、というように、真の身体を折るのではないかと思うほどの力で乗り掛かってきた。二、三度強く腰を打ちつけると、福嶋の息が急に荒くなった。
「わしの負けや。出すで」
福嶋は最後は、それでもまだ、というように奥の奥に突き上げて達した。
腹の奥に今日会ったばかりの、仇の一人かもしれない男のものを銜え込み、吐き出された熱い精液を受け入れたとき、真は震える身体をどうすることもできず、脚の先を突っぱねた。粘膜の奥は、吐瀉物のような熱い液体を打ち付けられて異常なほどに収縮し、次の瞬間には一気に毒薬を吸収したかのように頭の先まで痺れが走った。福嶋のものは律動を繰り返したまま、まだ真の身体の中で断末魔の蛇のようにうねっている。
その最後の一滴までを搾り取ろうとしているのは、真自身の身体の方だった。殴られもしないのに意識が曖昧になり、連続して震え続けている粘膜だけはまだ福嶋を求めている。真の性器は射精せずに硬く勃ち上がったままで、ひくつきながらわずかに先端から液体を零している。まるで後ろの粘膜が今まで味わったことのない快感に勝手に狂ってしまったために、ついていけずに取り残されてしまったようだった。腰の辺りから腹全体が重く熱く、痺れたままだ。突っぱねていた脚の先は、力を失う機会を逸して、身体は芯から何度も痙攣した。
意識は明瞭だったのに、その痙攣を止めることができない。
「兄さん、射精せんとイったんやろ。余計苦しいんとちゃうんか」福嶋はまだ真の中に入ったまま、体重を真に掛けてきた。「アホやな、我慢せんと出したらよかったんや。そやけど、出すよりずっと気持ちよかったやろ。自分で分かるやろ、兄さんの中、まだ痙攣しとるわ。女の絶頂と一緒やな。女はなぁ、男の十倍ほども気持ちええんやてゆうさかいな」
福嶋は勃ち上がったままの真のものに手を触れた。その瞬間、真は足掻いた。
「触るな」
「イかしたろ、ゆうてんのや。そのままやったら何時までも身体が疼くで」
「満足したんなら、さっさと抜いてくれ」
何を言われているのか分からず、真は訴えた。声を出してから、涙声になっていることに気がついたが、自分自身が話すだけでも、福嶋を銜えたままの後ろの襞が収縮するのが分かって混乱してきた。
わかった、わかった、と二度繰り返し、福嶋はまだ真の中に入ったままだった性器を引き抜いた。その瞬間の快感とも苦痛ともつかない異様な感触に真は震えた。何処かで、越えてはならない線を越えたことが分かった。
(つづく)



都ホテルはもう名前を変えていて、今は別のホテルになっています。
ところで、この福嶋がなぜレギュラーになったのか、それは第一にわが友の声援?に答えたわけでもありますが、今後の展開にもしかしていい塩梅を加えてくれるのではないかと思ったのでした。しかも、実は長一郎じいちゃんとは剣を交えた仲だったという。
次作【雪原の星月夜】は真の結婚後の話ですが、まぁ、どんな展開になっているのか(福島と真の関係、ってこと?)、また次作もお楽しみいただければと思います。
あ、真の嫁は、先に断わっておきますが、まずまずの悪妻です。ただ色んな意味で、真にはない生命的エネルギーや底力があって、真とはちょうどつり合っていたのかもしれません。まだ先のことですが……^^;
<次回予告>
「上等のスーツ着て、祇園のお座敷で取り澄ましたように酒飲んで、背筋伸ばして三味線弾いて、あるいは調査事務所で不良のガキどもの相手して優しい声で話しかけとっても、その顔が兄さんの本性や。わしが南米におった時に、何度か見たジャガーの子どもを思い出すわ。ヤマネコや。ちっこいくせに、捉えられたら一人前に牙むきよる。それも必死や。持ってるなけなしの武器、全部使うて立ち向かってきよるんや。相手が動物や、分かっとっても、押さえつけて犯しとうなるような健気さや」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨154] 第31章 何の矛盾もない(4)穢れた血~18禁~
【海に落ちる雨】第31章その4です。引き続き18禁ですので、ご注意ください。やはりご不快な方もおられるかもしれませんので、読まれる時は自己責任でお願いします。
さて、これで「追込みの3章」中、1章分が終わります。え? まだ追い込むのって? はい、何しろ、まだたくさんの枝葉拾い、つまり伏線の後始末が残っていますから。この後、忘れられているに違いない全ての登場人物たちの事情、その後を拾っていきます。かなり深い(はず?)人間模様もお楽しみください。
その前に、しつこく18禁ですけれど、この先はどちらかというと会話をお楽しみくださいませ。え~っと、真と唐沢とか、真と福嶋とか、この釣りあわない人間関係って面白いんですよね。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
さて、これで「追込みの3章」中、1章分が終わります。え? まだ追い込むのって? はい、何しろ、まだたくさんの枝葉拾い、つまり伏線の後始末が残っていますから。この後、忘れられているに違いない全ての登場人物たちの事情、その後を拾っていきます。かなり深い(はず?)人間模様もお楽しみください。
その前に、しつこく18禁ですけれど、この先はどちらかというと会話をお楽しみくださいませ。え~っと、真と唐沢とか、真と福嶋とか、この釣りあわない人間関係って面白いんですよね。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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「なぁ、兄さん、わしと組まんか? その根性が気に入ったわ。いささか無計画やけどな」
福嶋は真の横に身体を投げ出し、真の首筋を太い指で愛撫していた。
「こんなん味おうたん初めてなんやろ。まだ身体が痙攣しとるやないか。ほんまに、こっちがもっていかれそうになったわ」福嶋の指が首から身体を滑り落ちていき、尻を揉み始める。「後ろだけでイケるゆうことは、兄さん、素質があるんや。ちょっと調教したったら、どんな男もいっぺん突っ込んだだけで忘れられん身体にしてやることができるで。多少薹が立っとるけど、好き好きやさかいな」
真は無視していたが、身体の奥の粘膜はまだそこに福嶋のものがあるかのように収縮し、何かを欲しがっていた。福嶋が尻を揉むたびに、襞があともう少し、と震える。それだけで荒くなっている息使いを、福嶋に知られていることが悔しかった。だが、福嶋はその真の反応には何も言わなかった。
「寺崎はそろそろあかん、思うとったんや。可哀想やけどな、面の皮があんまり厚うないんや。それやのに、頭に血ぃが上ったら何しよるか分からん。生き残っていくようなタイプとは違うわ。いくら私怨が絡んでいるとはいえ、ヴォルテラの息子をとっ捕まえて嬲るなんてぇのは、危なっかしいてあらへん。もちろん、それならそれで、自分の始末を自分でつけるんやったらえぇんやけどな。この世界はな、兄さん、悪人かて生き残るのが難しいんや。せやから、いつだって覚悟を決めとかなあかん」
福嶋は真の尻を揉んでいた手を、もう一度穴のほうへ進めた。途端に、真は福嶋を突き放した。冷静でいるつもりだったが、どこかでまだ混乱していたのだろう。
「寺崎孝雄はどこにいるんだ」
言葉の勢いを借りて立とうとしたが、足は痺れたままで床にへたり込んでしまった。自分の身体から骨格が引き抜かれてしまったような感覚だった。驚いたことに腰が抜けているのだ。
福嶋はまた豪快に笑いながらベッドから出て、真を助け起こしてベッドに横にした。
「ほんまに、兄さんは飽きひんわ。見てみ、わしのもん、また勃ってきよった。こんな、いったばっかりでまた勃ちよるなんてことは、滅多にあらへんのにな」
福嶋はもう一度真の膝を折り、硬く勃ち上がったものを後ろの襞に押し当てた。真のその場所は福嶋が吐き出したもので濡れたままで、今またその男を待っていたように勝手に飲み込もうとする。真は逆らう力もなく、福嶋をもう一度受け入れた。
「まだ痙攣しとるがな」そう言って福嶋は性器を奥まで深く埋めた。「纏わりついてきよる。可愛いやないか、こいつを欲しがっとる」
言われなくても自分の身体の反応はよく分かっているのに、言葉で表現されると震えが増幅されてしまう気がした。福嶋は奥まで挿入したものをぎりぎりまで引き抜き、次に突くときはさらに奥を抉るようにして、じらすようにゆっくりと繰り返す。真は何よりも、自分のものではなくなってしまったようなその器官が、福嶋が彼の性器を引き抜きかけると、求めるように追いかけていることに気が付いて、そのことで涙が零れそうになるのを止められなくなった。
悔しいという感情なのか、見知らぬ男に犯されているという事実に対してなのか、自分が恐ろしく飢えていることに気が付いたからなのか、自分でもよく分からなかった。それともただ、本能的に身体が欲していて、涙は快楽の直接的表現に過ぎないのかもしれない。
「何、我慢しとるんや。開放してしもたらええんや。感じるのは恥ずかしいことやあらへんで」
このいかにも腹黒い男に狂わされているということが、真を追い込んでいるのは事実なのに、身体ははしたないほどに福嶋に縋り付いている。
「兄さん」
呼びかけられて何度目かに、真は唇に触れる指の感触に目を開けた。
「唇、血が出とる。かまへん、かまへん。ここでのことはここでのことや。安心して声出さんかい。兄さんに突っこんどるんが他の誰かやったらええのに、思うんやったら、目閉じといたらええ。初めてやないんやろ。好きな男に抱いてもろたこと、思い出しとったらええんや」
真はしばらく福嶋の顔をぼんやりと見ていた。
冷徹な権力者、それも裏側の顔を幾つも持っているような支配者、それを悪意も興味もない顔でやり遂げて、渡世を機械的にこなしているような人間、その中では性行為もただの事務的な手続きに過ぎないような男だと思った。だが、相手に余計な感情や同情がないことが真を安心させたという事実は否めなかった。
大きな顔は日に焼かれた加減か、あるいは他の理由なのか、浅黒く、皺は十分にある年齢のはずなのに、肌の艶は若者のそれと変わらない。獰猛な大型の肉食獣のような身体と精神は、組み敷いた真など、小さな牙と唸ることしか攻撃の方法がない野生の小動物のように、片足ひとつで踏みつけてしまっているかのようだった。
小動物は狩られて喰われるとき、恐怖を覚えるのか、それとも食物連鎖の一環として自然の摂理が定めた運命を受け入れるのか、あるいは死を前にして脳から溢れ出した不可解な媚薬のために恍惚とした気分になるのか、一体どれなのだろうと真は考えていた。だがもし恍惚を覚えるなら、何故逃げるのだろう。もしかすると、逃げるという行為のために放出されたアドレナリンが身体を興奮させて、嬲られ殺されることに対する悦びを受け入れる準備をしているのかもしれない。
「背中に手、回さんか」真は目を閉じて、言われるままに福嶋の背中に手を回した。「それでええんや。動くで。わしをな、ええ人やと思たらええ。声出すんが自尊心でも傷つけるんやったら、わしの口、吸っといたらええんや」
意外なことに、目を閉じて感じる福嶋の唇は、その厚みも吸い付くような甘さも、相手を心地よさで支配してしまう恍惚感も含めて、錯覚を起こすようなものだった。真は逆らいきれない何かに押し付けられるように、福嶋の唇を求め、自分の方から腰を突き上げ、福嶋の背中に爪を立てた。福嶋の息遣いが粗く、太くなっていく。わけが分からなくなっていって、力強い唇から逃れようとすると、決して許さないというように追いかけられ、口の中の粘膜を舐られる。それだけで真の身体の奥深くの粘膜も一緒になって、気が狂ったように福嶋のものを締め上げてどこまでも欲した。
二度達したあとの福嶋は、簡単には三度目の精を吐き出さなかった。これがあとどのくらい続くのか、半分飛んでしまった意識の中で、真はもうすっかり身体の支配者としての自分自身を捨てていた。福嶋と真の腹の筋肉の間で擦られて苦しくなっている性器は、ある瞬間に溜め込んでいたものを吐き出したが、真はそれすら感じる余裕がなく、吐き出した次の瞬間には再び感じ始め、立て続けに何度も達したような気がした。腰から下が全て重く痺れていて、感覚器が伝えてくる刺激が許容範囲を超えてしまったために、脳は不気味に膨れ上がっている。
「イきっぱなしやな。ほんまに可愛いらしいわ。どんだけ我慢しとったんや。可哀想に」
福嶋の声は耳に直接注ぎ込まれ、真を完全に狂わせた。
真は多分、意識を失ったのだろう。自分ではもう何も分からなくなり、既に身体は浮き上がって、完全に精神は身体という器を離れた。脳の支配から放置された身体は勝手に快楽に走り、全ての五感が痙攣し続けていて、まともに外界の状況を判断できていなかった。鼻粘膜を通して感じる福嶋のコロンの匂いも、酒の匂いも、あるいは口の中に残っている福嶋が放ったもののにおいも、そして味蕾が覚えているその蛋白質独特の味も、唾液や汗の味までも、そして吹っ飛んでしまった視覚と聴覚はすっかり歪んでまともな外界の様子を伝えることができなくなっていて、身体の皮膚、粘膜の感覚だけは僅かな刺激を何十倍にも膨れ上がらせて、ついに域値いっぱいになってしまった。
福嶋の唇が離れた途端、真は狂ったように叫んでいた。やはり肉食獣に襲い掛かられた野生動物は、咽喉に噛みつかれたとき、快楽の神経が解き放たれて、ホルモンが一気に放出され、一瞬に天国の光を見るのだろう。
福嶋は、叫び続けている真の身体を折れるのではないかという力で抱き締め、吠えながら真の身体の中にありったけのものを叩き込んだようだった。真は、放たれた熱い感触に、自分自身の器官が後ろから口元まで一直線にひきつり、震え、硬直したことを感じて、その瞬間に、今度は本当に気を失った。
気が付いたとき、真は福嶋の大きな身体に抱かれていた。気を失っていたのが一瞬だったのか、何時間も経っていたのか分からなかった。耳は福嶋の唇の愛撫に微かに震え、真はわけが分からないまま福嶋の胸の厚い筋肉に頭を預けていた。唇はからからに乾いて、音にならない呻きを零している。その頭を福嶋が労わるように撫でている。真は身体が小刻みに震えだしたことを感じて、息を荒げた。歯が噛み合わなくなっている。
「久しぶりやったんか。辛うないか」
優しく太い声が真を宥めるように発せられると、真は急に混乱し、福嶋に噛みつき、そのまま彼を突き放すようにしてベッドの頭側の隅に逃げた。
福嶋は突然のことに少しの間驚いたように真を見つめ、また例の如く豪快に笑った。
「ほんまに、兄さんは飽きさせへんわ。あんな目で誘っておきながら、今更そんな怯えた野生動物の子どもみたいな顔されてもなぁ。そのくせ、触れられたら噛み付きよる。手負いの獣や」
福嶋はそう言って、薄い掛け布団で真を包むようにした。真が過換気のように呼吸をすると、福嶋は真に触れずにベッドの離れた場所で胡坐を組んだ。
「上等のスーツ着て、祇園のお座敷で取り澄ましたように酒飲んで、背筋伸ばして三味線弾いて、あるいは調査事務所で不良のガキどもの相手して優しい声で話しかけとっても、その顔が兄さんの本性や。わしが南米におった時に、何度か見たジャガーの子どもを思い出すわ。ヤマネコや。ちっこいくせに、捉えられたら一人前に牙むきよる。それも必死や。持ってるなけなしの武器、全部使うて立ち向かってきよるんや。相手が動物や、分かっとっても、押さえつけて犯しとうなるような健気さや」
福嶋は手を伸ばしてサイドテーブルから煙草を取り、火をつけた。ライターのかちっという音に真は震えた。
煙はゆったりと天井に立ち上る。福嶋は大きく吸い込んで、何度か煙を吐き出した。
「風呂、行けるか。わしが出したもん、始末しとかんと、後で腹具合が苦しなるで。何やったら手伝うたろか」
まるで人が変わったかのように、福嶋は極めて事務的な口調で言い放った。その言葉と音調が催眠術を解くキーワードのように、一瞬にして真の頭を冷静に戻した。
足は無事に動くし、腰も砕けているようなことはなかった。バスルームに入り、シャワーを捻った時も、温度を調節する余裕もあった。少し腹に力を入れると、ずるりと尻の間から粘液状のものが零れる気配が分かって、真は息を止めた。尻に指を差し入れ、福嶋の残滓を掻き出しながらも、すっかり手馴れた男娼のように落ち着いている自分に呆れる余裕もあった。
バスルームから出ると、洗面台にバスローブが置かれている。真は身体を拭いて、バスローブを纏い、それから改めて自分の顔を見た。
左右の色が違う目、目尻のほうで幾らか吊りあがった眉、そして少し薄めの唇は引き結ばれて震えていた。頬には色がなく、目の下に隈が浮き上がっているように見える。この何時間かの間に酷くやつれてしまったような気がした。
そして何よりも恐ろしいことに、身体の芯はまだ興奮していた。
飢えていた事実を突きつけられて、ただ困惑していたわけではない。貪るように受け入れてしまった快楽を、どこに仕舞っておけばいいのか、記憶の引き出しの適切な場所を探っても、落ち着かせる場所がなかった。どうしても他人に見せたくはないし、自分もできれば瞬時に忘れてしまいたい出来事を、隠しておく場所に困っている、まさにそういう状態だった。
福嶋に、ええ人やと思たらええ、と言われて目を閉じたとき、明らかに身体も心も素直に興奮し、今目の前にある快楽を躊躇いもなくしゃぶりつくしていた。身体に残る古い記憶を思い起こしていたのは、ただの防御反応だったのかもしれない。バスローブから微かに香る石鹸の匂いで、お前はこうやって弄られているうちに誰が相手でも感じるんだろうと、竹流に言われて打ち据えられたときのことが蘇った。竹流が言っていたのは滝沢基のことだったが、今、予想もしない相手に、しかも初めて会った男に身体を預けて受け入れたとき、自分自身が恐ろしくなった。
ベッドルームに戻ると、ベッドメイキングに来た部屋係らしい年配の男性の胸ポケットに、福嶋が札を何枚か捻じ込んでいるところだった。かなりの厚みをもった金を受け取った男は、慣れているのか、真の顔も見ずに出て行った。福嶋はブランディを開けて、グラスに注いだ。わしもひと風呂浴びてくるさかい、先にやっといてんか、と言われて、真は綺麗にシーツを伸ばされたベッドの上に腰を下ろした。
痛みは感じていなかった。というよりも、域値を超えてしまって、もう痛みがわからなくなっていて、むしろまだ疼いているくらいだった。しかし、ブランディを口にした途端、湧き起こった震えは異常なほどの勢いで、真の身体全体に広がった。
竹流が気に入ってナイトキャップにしているコニャックの味だった。
シャワーの音が止まるまで、真は震える身体をそのままにグラスをただ力任せに握りしめていた。やがて福嶋がバスルームの扉を開けた気配に我に返り、グラスに残ったブランディを一気に飲み干した。
「今日はこのままわしに抱かれて寝え」
その言葉に真は顔を上げて、福嶋を睨み付けた。精一杯睨み付けたつもりだったが、それほどの力が篭もっていなかったかもしれない。
「勘違いしたらあかんで。これは命令や。その代わり、急いで寺崎孝雄を呼び出したるわ。明日わしと一緒に東京に行くんや」
真はブランディを二杯飲んだ。真にとって多すぎる酒の量だったが、素面でこの男に抱かれて眠るのは無理だと思った。
身体は固まっていたし、冷たくなっていた。落ち着くまで呼吸を数えて、何とか息を整えようとした。福嶋はそれを感じていたのだろうが、その点で真を追い込むようなことは言わなかった。ぐっと押し付けられた福嶋の下半身のそれは、再び力を持っていた。だが、福嶋は真の脚をもう一度開かせようとはせずに、ただ真の頭を腕で支えて身体を抱いているだけだった。
「ビデオを、見たんですか」
呼吸を整えるために発した言葉に、福嶋は暫く答えなかった。真が顔を上げると、福嶋は真面目な顔で真を見ている。
「どのビデオのことや?」
「僕を知っていた」
福嶋は穏やかに笑んで頷く。余裕のある顔つきだった。
「アサクラタケシの息子、相川長一郎の孫や。警察で剣道やっとった連中は相川長一郎いう名前をよう知っとる。田舎もんのくせに、どえらい強いゆうてな。ありゃ、野生の動物と渡りあたってきたもんにしか使えん『気』やったわ。普通はな、攻撃する時に『気』を消すことは難しいもんや。それをあの男は難なく『気』を消してしまいよった。次にどこから来よるかさっぱりわからん、気持ち悪いくらいに真っ白になりよる。いくら腕力が強うても、いきって攻撃してくる奴の次の手は見え透いとるもんやけどな、あの男はほんまにわからんかったなぁ。その孫を、こうやってわしの思うとおりにしてるんやて考えたら、何とも妙な気持ちやな」
福嶋は別にいい気味だと思っているわけでも何でもなく、ただ巡り合わせが不思議だと言いたかったように見えた。
「珠恵ちゃんが、寺崎に会いたいゆうとる者がおる、ゆうてきた時、もしかしてと思っとったんや。ヴォルテラの息子は痛めつけられて、死に掛けとるゆうやないか、今とても寺崎の前に出て行ける状態やないやろからな。兄さんの目見て、確信したんや。このヘテロの目、あいの子やとわかる髪の色」
そう言って、福嶋は真の髪、目元、そして唇に手を触れた。
「寺崎は兄さんの昔の写真を持っとったわ。あれこそ目に毒やったな。あれは人間やない、魔物や。男も女も、あらゆる人間を狂わせる麻薬みたいな写真や。兄さん、自分で見たことあるんか」
真は返事をせずに福嶋を見ていた。あの当時、電車の吊広告や、町に貼られた大判のポスター写真のことは知っていたが、わざわざ手に取って開かなければならない写真集の内容は全く知らないし、興味もなかった。自分が傍目からどう見えるかなど、あの当時の真に考える余裕など全くなかったのだ。それに、自分の写真を見てうっとりとするようなナルシストでもなかったし、そもそも自分の顔や身体をじっくりと見ることもほとんどない。特にこの目は、自分が何故他人とは違うのか理解できなかった子どものころから、鏡の中に見つめるのが怖かったくらいだ。
「あてたろか。あのぼろ儲けしとったフィルム会社の広告になっとった、四枚組やったかの写真、兄さんが蔦の絡まっとる煉瓦の壁に凭れて顔を上げていく写真な、あれ撮られた後であのカメラマンと寝たやろ」
真はさぞ呆然とした顔で福嶋を見ていたことだろう。
「これから自分の身に起こること、失うことが分かっとる顔やった。引き戻せない過去と、どう足掻いても死は避けられん未来に挟まれた顔や。あのポスターを町中に貼られとったんやで、どれほど目ぇに毒やったか。寺崎が撮ったビデオなんかより、よっぽどそそるわ。わしかてあれでやったら、しこしこ下半身扱く気にもなるゆうもんや」
福嶋は語りかけながら、真の唇を指で愛撫していた。
「あんな潤んだ、それでいてどこか乾いた目でこっち見られてみぃ、それだけで勃起する男かておったやろ。あれは相手を誘っとる目やったんやで。自分で気が付いてへんやろけどな、さっきイきそうになりながら、兄さん、焦点の定まってへん目で、わしを見ながら、わしの遥か向こう見とったんや。写真とおんなじ目やった。あんたのペニスで突き殺してくれ、この首筋を噛みちぎってくれ、何されてもかまへん、言うとる目や。動物が自分より強い猛獣に食われるときに、ああいう目をするんかもしれへんと思たわ。食われたるけど、お前のものになるわけやない、どこかもっと先に行こうとしとるんや、てな。兄さん、あれはな、写真家がそれと分かって世間に叩き付けた写真や。フィルム会社も性質が悪いゆうもんや。わかっとって町中にポスター貼りまくりよった。あの頃のあの会社の売り上げ知っとるか。バカにならへんで。誰が撮っても同じような写真撮れる、思わせたんや、兄さんの目ぇがな。そんなわけ、あらへんのにな」
真は、そう言われても全く感慨を覚えなかった。自覚がないと言われればそうなのかもしれないが、確かに実感がなかった。
「兄さんは、そういう、自分は知らん、ゆう顔が残酷やな。それを幾らかでも自覚して売りものにして稼ぐくらいやったらまだしも、一般人みたいな顔してそこそこまともに暮らしとる。ヴォルテラの息子、たらしこんで、自分は分からん、みたいな顔してるんや。兄さんが薬使われて犯られまくっとったビデオな、あんなもん見たら、ヴォルテラの息子は狂ったはずや」
真は明らかに震え、それを分かっていたように福嶋が腕に力を入れた。
「寺崎孝雄はな、自分が勃起でけへんさかい、ああやって残虐の限りを尽くして興奮してんのや。犯されとる兄さんを見て狂っとるヴォルテラの息子を嬲るんは、そりゃ楽しかったやろな。淑恵ちゃんの娘をものにして囲とるくせに、京都にほったらかしにして、東京で兄さんと一緒に住んで、もしや夜な夜な兄さんとやっとるかもしれへん男やで。屈折した嫉妬が湧き起こっても不思議やあらへん。いや、もしかすると親心かもしらへんなぁ。何言うても、寺崎は珠恵ちゃんが可愛いんや。そやから、浮気な男に天罰を与えたらなあかん、思たんかもしれへん。寺崎はな、ああいう男が一番堪えるんが自分の意思に反してケツに突っ込まれて感じさせられることや、ゆうんもようわかっとるんや。ほんまに、けなげで可哀相な話や、思わんか」
真は思わず福嶋を睨み付けた。反吐が出る、と思った。
「東京帰ったら、ええもん見せたるわ」
そう言いながら、福嶋は真の殿部を揉んでいた。福嶋の性器は勃ち上がって真のバスローブの内側に侵入している。真は身体を硬くしたままだった。身体を引き寄せられると、福嶋のものが真の脚の間に擦られるようになる。
「ちょっとでも眠っといたほうがええで。身体、だるいやろ」
真は不思議に思って福嶋を見た。
「もう一回したいなら勝手に突っ込んだらどうなんです」
福嶋は面白そうに笑っている。
「あほ言うんやない。兄さん、これ以上やられたら、明日立たれへんで。女と違てな、男の身体が相手を受け入れるんはかなりしんどいはずや。あんまり自分を追い込むんやないで」
することをしておいて言う言葉にも思えなかったが、真は目を閉じた。福嶋は真の手を掴み、自分のものを押し当てた。
「この始末はまたいずれしてもろたらええわ。気が向いたら、時々わしに抱かれにきたらええ。わしはな、多分いろんな意味で兄さんの力になれるで。兄さんがわしに身体を提供する、わしは兄さんの欲しいものをこうやって時々与えたる。そういうセックスだけを間にはさんだ関係もええやろ。わしは兄さんが思てる以上に後腐れのない男やで」
もちろん、この男が求めているのは単純に身体などではない。彼のために役立つ兵器としての人間が欲しいのだ。そう思ったが、もう常識的な判断力はなかった。
目を閉じたままの真の唇は、福嶋の唇が触れた時も黙って受け入れた。唇で器用に口を開けられ、逆らうこともなく絡められた舌に自分の舌を任せてしまう。もしかすると、寺崎孝雄に会わせてもらう、というのは言い訳なのかもしれないと思うくらい、真の唇は素直にこの男に甘えようとしていた。それを感じると、唇と舌とは裏腹に身体は固まっていった。
「キスもええ味や。そんなに身体、固するんやない。もう知らん仲やないんやさかいな。とにかく眠ったらええ」
勿論、眠れるわけなどなかった。福嶋が鼾をかき始めると、真は身体を起こして、隣の部屋のソファに座り、煙草を引き抜いて火をつけた。一本吸い終わって灰皿で揉み消したとき、身体の震えに気が付いた。
だが、頭の中は奇妙に冷静だった。
これで寺崎孝雄に会える、と思った。意識がまともでなくなり呼吸も怪しくなり、器械と管に取り巻かれた竹流の苦しそうな顔を思い浮かべながら、誰かが手を下す前に俺が寺崎孝雄の心臓に刃を振り下ろすのだと思った。そのために見知らぬ男に身体を任せることなど何の問題もないはずだ。
真は自分の手を見つめた。
このまま穢れるならどこまでも穢れたらいい。俺は人殺しの息子だ。真の身体の狭い器官が、今あっけなく男を受け入れたように、この手は憎い敵に躊躇いも後悔もなく刃を振り下ろすことができるだろう。
真は静かに笑っていた。竹流のことをダシにして、本当は俺はただセックスと血に飢えていただけなのかもしれないと思ったとき、身体の内側で、穢れた運命を宿した血が獲物を求めるように音を立て流れているのを、明らかに感じ取った。
(第32章につづく)




次章第32章『焼ける』……あれこれと裏事情が語られていきます。それを映像によって知ることで、ついに真が爆発……そう、この物語の重要な小道具のひとつはビデオ。「語られた言葉」ではなく「映像を見る」ことがどれほど人間の脳に影響するか、ってことかも。ある意味、怖い話ですけれど。
引き続きよろしくお願いいたします。
あ、そうそう、珠恵はちゃ~んと仁に連絡していたみたいですよ(*^_^*) そんな簡単に引き下がるタマじゃありませんし。
<次回予告>
「わしは兄さんの思いを見届けてやりたいだけや」
一瞬にして向こうの部屋が騒がしくなる。仁が福嶋に摑みかかった気配は、見なくても伝わってきた。
「真に何をさせる気だ?」
興奮した仁の声に答えた福嶋の声は落ち着いていた。
「そりゃ、わしの決めることと違うがな。あの兄さんがしたいようにしたらええだけのことや。恋人がやられっ放しなんを見過ごされへん、仇を討ちたいなんて、健気で仕方ないやろ。一生懸命の可愛い若者を応援したりたいだけや。それに血は争えへん、てのもあるさかいな」
「血?」
北条仁は、相川真の父親がどういう人間か知らないはずだった。真はにわかに緊張した。
「目がええ。憎しみに燃えたら、いつでも残虐になれる目をしとる。さすがに人殺しの血を引いとるだけのことはある。それにな、あっちのほうも良かったで」真は目を閉じた。仁がどんな顔をしているか、容易に想像ができた。「わしのもん、ケツに銜えて狂ったように締め付けてきよったわ。何回イきよったか。可哀相に、身体が飢えとるんや。血にもセックスにもな」



「なぁ、兄さん、わしと組まんか? その根性が気に入ったわ。いささか無計画やけどな」
福嶋は真の横に身体を投げ出し、真の首筋を太い指で愛撫していた。
「こんなん味おうたん初めてなんやろ。まだ身体が痙攣しとるやないか。ほんまに、こっちがもっていかれそうになったわ」福嶋の指が首から身体を滑り落ちていき、尻を揉み始める。「後ろだけでイケるゆうことは、兄さん、素質があるんや。ちょっと調教したったら、どんな男もいっぺん突っ込んだだけで忘れられん身体にしてやることができるで。多少薹が立っとるけど、好き好きやさかいな」
真は無視していたが、身体の奥の粘膜はまだそこに福嶋のものがあるかのように収縮し、何かを欲しがっていた。福嶋が尻を揉むたびに、襞があともう少し、と震える。それだけで荒くなっている息使いを、福嶋に知られていることが悔しかった。だが、福嶋はその真の反応には何も言わなかった。
「寺崎はそろそろあかん、思うとったんや。可哀想やけどな、面の皮があんまり厚うないんや。それやのに、頭に血ぃが上ったら何しよるか分からん。生き残っていくようなタイプとは違うわ。いくら私怨が絡んでいるとはいえ、ヴォルテラの息子をとっ捕まえて嬲るなんてぇのは、危なっかしいてあらへん。もちろん、それならそれで、自分の始末を自分でつけるんやったらえぇんやけどな。この世界はな、兄さん、悪人かて生き残るのが難しいんや。せやから、いつだって覚悟を決めとかなあかん」
福嶋は真の尻を揉んでいた手を、もう一度穴のほうへ進めた。途端に、真は福嶋を突き放した。冷静でいるつもりだったが、どこかでまだ混乱していたのだろう。
「寺崎孝雄はどこにいるんだ」
言葉の勢いを借りて立とうとしたが、足は痺れたままで床にへたり込んでしまった。自分の身体から骨格が引き抜かれてしまったような感覚だった。驚いたことに腰が抜けているのだ。
福嶋はまた豪快に笑いながらベッドから出て、真を助け起こしてベッドに横にした。
「ほんまに、兄さんは飽きひんわ。見てみ、わしのもん、また勃ってきよった。こんな、いったばっかりでまた勃ちよるなんてことは、滅多にあらへんのにな」
福嶋はもう一度真の膝を折り、硬く勃ち上がったものを後ろの襞に押し当てた。真のその場所は福嶋が吐き出したもので濡れたままで、今またその男を待っていたように勝手に飲み込もうとする。真は逆らう力もなく、福嶋をもう一度受け入れた。
「まだ痙攣しとるがな」そう言って福嶋は性器を奥まで深く埋めた。「纏わりついてきよる。可愛いやないか、こいつを欲しがっとる」
言われなくても自分の身体の反応はよく分かっているのに、言葉で表現されると震えが増幅されてしまう気がした。福嶋は奥まで挿入したものをぎりぎりまで引き抜き、次に突くときはさらに奥を抉るようにして、じらすようにゆっくりと繰り返す。真は何よりも、自分のものではなくなってしまったようなその器官が、福嶋が彼の性器を引き抜きかけると、求めるように追いかけていることに気が付いて、そのことで涙が零れそうになるのを止められなくなった。
悔しいという感情なのか、見知らぬ男に犯されているという事実に対してなのか、自分が恐ろしく飢えていることに気が付いたからなのか、自分でもよく分からなかった。それともただ、本能的に身体が欲していて、涙は快楽の直接的表現に過ぎないのかもしれない。
「何、我慢しとるんや。開放してしもたらええんや。感じるのは恥ずかしいことやあらへんで」
このいかにも腹黒い男に狂わされているということが、真を追い込んでいるのは事実なのに、身体ははしたないほどに福嶋に縋り付いている。
「兄さん」
呼びかけられて何度目かに、真は唇に触れる指の感触に目を開けた。
「唇、血が出とる。かまへん、かまへん。ここでのことはここでのことや。安心して声出さんかい。兄さんに突っこんどるんが他の誰かやったらええのに、思うんやったら、目閉じといたらええ。初めてやないんやろ。好きな男に抱いてもろたこと、思い出しとったらええんや」
真はしばらく福嶋の顔をぼんやりと見ていた。
冷徹な権力者、それも裏側の顔を幾つも持っているような支配者、それを悪意も興味もない顔でやり遂げて、渡世を機械的にこなしているような人間、その中では性行為もただの事務的な手続きに過ぎないような男だと思った。だが、相手に余計な感情や同情がないことが真を安心させたという事実は否めなかった。
大きな顔は日に焼かれた加減か、あるいは他の理由なのか、浅黒く、皺は十分にある年齢のはずなのに、肌の艶は若者のそれと変わらない。獰猛な大型の肉食獣のような身体と精神は、組み敷いた真など、小さな牙と唸ることしか攻撃の方法がない野生の小動物のように、片足ひとつで踏みつけてしまっているかのようだった。
小動物は狩られて喰われるとき、恐怖を覚えるのか、それとも食物連鎖の一環として自然の摂理が定めた運命を受け入れるのか、あるいは死を前にして脳から溢れ出した不可解な媚薬のために恍惚とした気分になるのか、一体どれなのだろうと真は考えていた。だがもし恍惚を覚えるなら、何故逃げるのだろう。もしかすると、逃げるという行為のために放出されたアドレナリンが身体を興奮させて、嬲られ殺されることに対する悦びを受け入れる準備をしているのかもしれない。
「背中に手、回さんか」真は目を閉じて、言われるままに福嶋の背中に手を回した。「それでええんや。動くで。わしをな、ええ人やと思たらええ。声出すんが自尊心でも傷つけるんやったら、わしの口、吸っといたらええんや」
意外なことに、目を閉じて感じる福嶋の唇は、その厚みも吸い付くような甘さも、相手を心地よさで支配してしまう恍惚感も含めて、錯覚を起こすようなものだった。真は逆らいきれない何かに押し付けられるように、福嶋の唇を求め、自分の方から腰を突き上げ、福嶋の背中に爪を立てた。福嶋の息遣いが粗く、太くなっていく。わけが分からなくなっていって、力強い唇から逃れようとすると、決して許さないというように追いかけられ、口の中の粘膜を舐られる。それだけで真の身体の奥深くの粘膜も一緒になって、気が狂ったように福嶋のものを締め上げてどこまでも欲した。
二度達したあとの福嶋は、簡単には三度目の精を吐き出さなかった。これがあとどのくらい続くのか、半分飛んでしまった意識の中で、真はもうすっかり身体の支配者としての自分自身を捨てていた。福嶋と真の腹の筋肉の間で擦られて苦しくなっている性器は、ある瞬間に溜め込んでいたものを吐き出したが、真はそれすら感じる余裕がなく、吐き出した次の瞬間には再び感じ始め、立て続けに何度も達したような気がした。腰から下が全て重く痺れていて、感覚器が伝えてくる刺激が許容範囲を超えてしまったために、脳は不気味に膨れ上がっている。
「イきっぱなしやな。ほんまに可愛いらしいわ。どんだけ我慢しとったんや。可哀想に」
福嶋の声は耳に直接注ぎ込まれ、真を完全に狂わせた。
真は多分、意識を失ったのだろう。自分ではもう何も分からなくなり、既に身体は浮き上がって、完全に精神は身体という器を離れた。脳の支配から放置された身体は勝手に快楽に走り、全ての五感が痙攣し続けていて、まともに外界の状況を判断できていなかった。鼻粘膜を通して感じる福嶋のコロンの匂いも、酒の匂いも、あるいは口の中に残っている福嶋が放ったもののにおいも、そして味蕾が覚えているその蛋白質独特の味も、唾液や汗の味までも、そして吹っ飛んでしまった視覚と聴覚はすっかり歪んでまともな外界の様子を伝えることができなくなっていて、身体の皮膚、粘膜の感覚だけは僅かな刺激を何十倍にも膨れ上がらせて、ついに域値いっぱいになってしまった。
福嶋の唇が離れた途端、真は狂ったように叫んでいた。やはり肉食獣に襲い掛かられた野生動物は、咽喉に噛みつかれたとき、快楽の神経が解き放たれて、ホルモンが一気に放出され、一瞬に天国の光を見るのだろう。
福嶋は、叫び続けている真の身体を折れるのではないかという力で抱き締め、吠えながら真の身体の中にありったけのものを叩き込んだようだった。真は、放たれた熱い感触に、自分自身の器官が後ろから口元まで一直線にひきつり、震え、硬直したことを感じて、その瞬間に、今度は本当に気を失った。
気が付いたとき、真は福嶋の大きな身体に抱かれていた。気を失っていたのが一瞬だったのか、何時間も経っていたのか分からなかった。耳は福嶋の唇の愛撫に微かに震え、真はわけが分からないまま福嶋の胸の厚い筋肉に頭を預けていた。唇はからからに乾いて、音にならない呻きを零している。その頭を福嶋が労わるように撫でている。真は身体が小刻みに震えだしたことを感じて、息を荒げた。歯が噛み合わなくなっている。
「久しぶりやったんか。辛うないか」
優しく太い声が真を宥めるように発せられると、真は急に混乱し、福嶋に噛みつき、そのまま彼を突き放すようにしてベッドの頭側の隅に逃げた。
福嶋は突然のことに少しの間驚いたように真を見つめ、また例の如く豪快に笑った。
「ほんまに、兄さんは飽きさせへんわ。あんな目で誘っておきながら、今更そんな怯えた野生動物の子どもみたいな顔されてもなぁ。そのくせ、触れられたら噛み付きよる。手負いの獣や」
福嶋はそう言って、薄い掛け布団で真を包むようにした。真が過換気のように呼吸をすると、福嶋は真に触れずにベッドの離れた場所で胡坐を組んだ。
「上等のスーツ着て、祇園のお座敷で取り澄ましたように酒飲んで、背筋伸ばして三味線弾いて、あるいは調査事務所で不良のガキどもの相手して優しい声で話しかけとっても、その顔が兄さんの本性や。わしが南米におった時に、何度か見たジャガーの子どもを思い出すわ。ヤマネコや。ちっこいくせに、捉えられたら一人前に牙むきよる。それも必死や。持ってるなけなしの武器、全部使うて立ち向かってきよるんや。相手が動物や、分かっとっても、押さえつけて犯しとうなるような健気さや」
福嶋は手を伸ばしてサイドテーブルから煙草を取り、火をつけた。ライターのかちっという音に真は震えた。
煙はゆったりと天井に立ち上る。福嶋は大きく吸い込んで、何度か煙を吐き出した。
「風呂、行けるか。わしが出したもん、始末しとかんと、後で腹具合が苦しなるで。何やったら手伝うたろか」
まるで人が変わったかのように、福嶋は極めて事務的な口調で言い放った。その言葉と音調が催眠術を解くキーワードのように、一瞬にして真の頭を冷静に戻した。
足は無事に動くし、腰も砕けているようなことはなかった。バスルームに入り、シャワーを捻った時も、温度を調節する余裕もあった。少し腹に力を入れると、ずるりと尻の間から粘液状のものが零れる気配が分かって、真は息を止めた。尻に指を差し入れ、福嶋の残滓を掻き出しながらも、すっかり手馴れた男娼のように落ち着いている自分に呆れる余裕もあった。
バスルームから出ると、洗面台にバスローブが置かれている。真は身体を拭いて、バスローブを纏い、それから改めて自分の顔を見た。
左右の色が違う目、目尻のほうで幾らか吊りあがった眉、そして少し薄めの唇は引き結ばれて震えていた。頬には色がなく、目の下に隈が浮き上がっているように見える。この何時間かの間に酷くやつれてしまったような気がした。
そして何よりも恐ろしいことに、身体の芯はまだ興奮していた。
飢えていた事実を突きつけられて、ただ困惑していたわけではない。貪るように受け入れてしまった快楽を、どこに仕舞っておけばいいのか、記憶の引き出しの適切な場所を探っても、落ち着かせる場所がなかった。どうしても他人に見せたくはないし、自分もできれば瞬時に忘れてしまいたい出来事を、隠しておく場所に困っている、まさにそういう状態だった。
福嶋に、ええ人やと思たらええ、と言われて目を閉じたとき、明らかに身体も心も素直に興奮し、今目の前にある快楽を躊躇いもなくしゃぶりつくしていた。身体に残る古い記憶を思い起こしていたのは、ただの防御反応だったのかもしれない。バスローブから微かに香る石鹸の匂いで、お前はこうやって弄られているうちに誰が相手でも感じるんだろうと、竹流に言われて打ち据えられたときのことが蘇った。竹流が言っていたのは滝沢基のことだったが、今、予想もしない相手に、しかも初めて会った男に身体を預けて受け入れたとき、自分自身が恐ろしくなった。
ベッドルームに戻ると、ベッドメイキングに来た部屋係らしい年配の男性の胸ポケットに、福嶋が札を何枚か捻じ込んでいるところだった。かなりの厚みをもった金を受け取った男は、慣れているのか、真の顔も見ずに出て行った。福嶋はブランディを開けて、グラスに注いだ。わしもひと風呂浴びてくるさかい、先にやっといてんか、と言われて、真は綺麗にシーツを伸ばされたベッドの上に腰を下ろした。
痛みは感じていなかった。というよりも、域値を超えてしまって、もう痛みがわからなくなっていて、むしろまだ疼いているくらいだった。しかし、ブランディを口にした途端、湧き起こった震えは異常なほどの勢いで、真の身体全体に広がった。
竹流が気に入ってナイトキャップにしているコニャックの味だった。
シャワーの音が止まるまで、真は震える身体をそのままにグラスをただ力任せに握りしめていた。やがて福嶋がバスルームの扉を開けた気配に我に返り、グラスに残ったブランディを一気に飲み干した。
「今日はこのままわしに抱かれて寝え」
その言葉に真は顔を上げて、福嶋を睨み付けた。精一杯睨み付けたつもりだったが、それほどの力が篭もっていなかったかもしれない。
「勘違いしたらあかんで。これは命令や。その代わり、急いで寺崎孝雄を呼び出したるわ。明日わしと一緒に東京に行くんや」
真はブランディを二杯飲んだ。真にとって多すぎる酒の量だったが、素面でこの男に抱かれて眠るのは無理だと思った。
身体は固まっていたし、冷たくなっていた。落ち着くまで呼吸を数えて、何とか息を整えようとした。福嶋はそれを感じていたのだろうが、その点で真を追い込むようなことは言わなかった。ぐっと押し付けられた福嶋の下半身のそれは、再び力を持っていた。だが、福嶋は真の脚をもう一度開かせようとはせずに、ただ真の頭を腕で支えて身体を抱いているだけだった。
「ビデオを、見たんですか」
呼吸を整えるために発した言葉に、福嶋は暫く答えなかった。真が顔を上げると、福嶋は真面目な顔で真を見ている。
「どのビデオのことや?」
「僕を知っていた」
福嶋は穏やかに笑んで頷く。余裕のある顔つきだった。
「アサクラタケシの息子、相川長一郎の孫や。警察で剣道やっとった連中は相川長一郎いう名前をよう知っとる。田舎もんのくせに、どえらい強いゆうてな。ありゃ、野生の動物と渡りあたってきたもんにしか使えん『気』やったわ。普通はな、攻撃する時に『気』を消すことは難しいもんや。それをあの男は難なく『気』を消してしまいよった。次にどこから来よるかさっぱりわからん、気持ち悪いくらいに真っ白になりよる。いくら腕力が強うても、いきって攻撃してくる奴の次の手は見え透いとるもんやけどな、あの男はほんまにわからんかったなぁ。その孫を、こうやってわしの思うとおりにしてるんやて考えたら、何とも妙な気持ちやな」
福嶋は別にいい気味だと思っているわけでも何でもなく、ただ巡り合わせが不思議だと言いたかったように見えた。
「珠恵ちゃんが、寺崎に会いたいゆうとる者がおる、ゆうてきた時、もしかしてと思っとったんや。ヴォルテラの息子は痛めつけられて、死に掛けとるゆうやないか、今とても寺崎の前に出て行ける状態やないやろからな。兄さんの目見て、確信したんや。このヘテロの目、あいの子やとわかる髪の色」
そう言って、福嶋は真の髪、目元、そして唇に手を触れた。
「寺崎は兄さんの昔の写真を持っとったわ。あれこそ目に毒やったな。あれは人間やない、魔物や。男も女も、あらゆる人間を狂わせる麻薬みたいな写真や。兄さん、自分で見たことあるんか」
真は返事をせずに福嶋を見ていた。あの当時、電車の吊広告や、町に貼られた大判のポスター写真のことは知っていたが、わざわざ手に取って開かなければならない写真集の内容は全く知らないし、興味もなかった。自分が傍目からどう見えるかなど、あの当時の真に考える余裕など全くなかったのだ。それに、自分の写真を見てうっとりとするようなナルシストでもなかったし、そもそも自分の顔や身体をじっくりと見ることもほとんどない。特にこの目は、自分が何故他人とは違うのか理解できなかった子どものころから、鏡の中に見つめるのが怖かったくらいだ。
「あてたろか。あのぼろ儲けしとったフィルム会社の広告になっとった、四枚組やったかの写真、兄さんが蔦の絡まっとる煉瓦の壁に凭れて顔を上げていく写真な、あれ撮られた後であのカメラマンと寝たやろ」
真はさぞ呆然とした顔で福嶋を見ていたことだろう。
「これから自分の身に起こること、失うことが分かっとる顔やった。引き戻せない過去と、どう足掻いても死は避けられん未来に挟まれた顔や。あのポスターを町中に貼られとったんやで、どれほど目ぇに毒やったか。寺崎が撮ったビデオなんかより、よっぽどそそるわ。わしかてあれでやったら、しこしこ下半身扱く気にもなるゆうもんや」
福嶋は語りかけながら、真の唇を指で愛撫していた。
「あんな潤んだ、それでいてどこか乾いた目でこっち見られてみぃ、それだけで勃起する男かておったやろ。あれは相手を誘っとる目やったんやで。自分で気が付いてへんやろけどな、さっきイきそうになりながら、兄さん、焦点の定まってへん目で、わしを見ながら、わしの遥か向こう見とったんや。写真とおんなじ目やった。あんたのペニスで突き殺してくれ、この首筋を噛みちぎってくれ、何されてもかまへん、言うとる目や。動物が自分より強い猛獣に食われるときに、ああいう目をするんかもしれへんと思たわ。食われたるけど、お前のものになるわけやない、どこかもっと先に行こうとしとるんや、てな。兄さん、あれはな、写真家がそれと分かって世間に叩き付けた写真や。フィルム会社も性質が悪いゆうもんや。わかっとって町中にポスター貼りまくりよった。あの頃のあの会社の売り上げ知っとるか。バカにならへんで。誰が撮っても同じような写真撮れる、思わせたんや、兄さんの目ぇがな。そんなわけ、あらへんのにな」
真は、そう言われても全く感慨を覚えなかった。自覚がないと言われればそうなのかもしれないが、確かに実感がなかった。
「兄さんは、そういう、自分は知らん、ゆう顔が残酷やな。それを幾らかでも自覚して売りものにして稼ぐくらいやったらまだしも、一般人みたいな顔してそこそこまともに暮らしとる。ヴォルテラの息子、たらしこんで、自分は分からん、みたいな顔してるんや。兄さんが薬使われて犯られまくっとったビデオな、あんなもん見たら、ヴォルテラの息子は狂ったはずや」
真は明らかに震え、それを分かっていたように福嶋が腕に力を入れた。
「寺崎孝雄はな、自分が勃起でけへんさかい、ああやって残虐の限りを尽くして興奮してんのや。犯されとる兄さんを見て狂っとるヴォルテラの息子を嬲るんは、そりゃ楽しかったやろな。淑恵ちゃんの娘をものにして囲とるくせに、京都にほったらかしにして、東京で兄さんと一緒に住んで、もしや夜な夜な兄さんとやっとるかもしれへん男やで。屈折した嫉妬が湧き起こっても不思議やあらへん。いや、もしかすると親心かもしらへんなぁ。何言うても、寺崎は珠恵ちゃんが可愛いんや。そやから、浮気な男に天罰を与えたらなあかん、思たんかもしれへん。寺崎はな、ああいう男が一番堪えるんが自分の意思に反してケツに突っ込まれて感じさせられることや、ゆうんもようわかっとるんや。ほんまに、けなげで可哀相な話や、思わんか」
真は思わず福嶋を睨み付けた。反吐が出る、と思った。
「東京帰ったら、ええもん見せたるわ」
そう言いながら、福嶋は真の殿部を揉んでいた。福嶋の性器は勃ち上がって真のバスローブの内側に侵入している。真は身体を硬くしたままだった。身体を引き寄せられると、福嶋のものが真の脚の間に擦られるようになる。
「ちょっとでも眠っといたほうがええで。身体、だるいやろ」
真は不思議に思って福嶋を見た。
「もう一回したいなら勝手に突っ込んだらどうなんです」
福嶋は面白そうに笑っている。
「あほ言うんやない。兄さん、これ以上やられたら、明日立たれへんで。女と違てな、男の身体が相手を受け入れるんはかなりしんどいはずや。あんまり自分を追い込むんやないで」
することをしておいて言う言葉にも思えなかったが、真は目を閉じた。福嶋は真の手を掴み、自分のものを押し当てた。
「この始末はまたいずれしてもろたらええわ。気が向いたら、時々わしに抱かれにきたらええ。わしはな、多分いろんな意味で兄さんの力になれるで。兄さんがわしに身体を提供する、わしは兄さんの欲しいものをこうやって時々与えたる。そういうセックスだけを間にはさんだ関係もええやろ。わしは兄さんが思てる以上に後腐れのない男やで」
もちろん、この男が求めているのは単純に身体などではない。彼のために役立つ兵器としての人間が欲しいのだ。そう思ったが、もう常識的な判断力はなかった。
目を閉じたままの真の唇は、福嶋の唇が触れた時も黙って受け入れた。唇で器用に口を開けられ、逆らうこともなく絡められた舌に自分の舌を任せてしまう。もしかすると、寺崎孝雄に会わせてもらう、というのは言い訳なのかもしれないと思うくらい、真の唇は素直にこの男に甘えようとしていた。それを感じると、唇と舌とは裏腹に身体は固まっていった。
「キスもええ味や。そんなに身体、固するんやない。もう知らん仲やないんやさかいな。とにかく眠ったらええ」
勿論、眠れるわけなどなかった。福嶋が鼾をかき始めると、真は身体を起こして、隣の部屋のソファに座り、煙草を引き抜いて火をつけた。一本吸い終わって灰皿で揉み消したとき、身体の震えに気が付いた。
だが、頭の中は奇妙に冷静だった。
これで寺崎孝雄に会える、と思った。意識がまともでなくなり呼吸も怪しくなり、器械と管に取り巻かれた竹流の苦しそうな顔を思い浮かべながら、誰かが手を下す前に俺が寺崎孝雄の心臓に刃を振り下ろすのだと思った。そのために見知らぬ男に身体を任せることなど何の問題もないはずだ。
真は自分の手を見つめた。
このまま穢れるならどこまでも穢れたらいい。俺は人殺しの息子だ。真の身体の狭い器官が、今あっけなく男を受け入れたように、この手は憎い敵に躊躇いも後悔もなく刃を振り下ろすことができるだろう。
真は静かに笑っていた。竹流のことをダシにして、本当は俺はただセックスと血に飢えていただけなのかもしれないと思ったとき、身体の内側で、穢れた運命を宿した血が獲物を求めるように音を立て流れているのを、明らかに感じ取った。
(第32章につづく)



次章第32章『焼ける』……あれこれと裏事情が語られていきます。それを映像によって知ることで、ついに真が爆発……そう、この物語の重要な小道具のひとつはビデオ。「語られた言葉」ではなく「映像を見る」ことがどれほど人間の脳に影響するか、ってことかも。ある意味、怖い話ですけれど。
引き続きよろしくお願いいたします。
あ、そうそう、珠恵はちゃ~んと仁に連絡していたみたいですよ(*^_^*) そんな簡単に引き下がるタマじゃありませんし。
<次回予告>
「わしは兄さんの思いを見届けてやりたいだけや」
一瞬にして向こうの部屋が騒がしくなる。仁が福嶋に摑みかかった気配は、見なくても伝わってきた。
「真に何をさせる気だ?」
興奮した仁の声に答えた福嶋の声は落ち着いていた。
「そりゃ、わしの決めることと違うがな。あの兄さんがしたいようにしたらええだけのことや。恋人がやられっ放しなんを見過ごされへん、仇を討ちたいなんて、健気で仕方ないやろ。一生懸命の可愛い若者を応援したりたいだけや。それに血は争えへん、てのもあるさかいな」
「血?」
北条仁は、相川真の父親がどういう人間か知らないはずだった。真はにわかに緊張した。
「目がええ。憎しみに燃えたら、いつでも残虐になれる目をしとる。さすがに人殺しの血を引いとるだけのことはある。それにな、あっちのほうも良かったで」真は目を閉じた。仁がどんな顔をしているか、容易に想像ができた。「わしのもん、ケツに銜えて狂ったように締め付けてきよったわ。何回イきよったか。可哀相に、身体が飢えとるんや。血にもセックスにもな」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨155] 第32章 焼ける(1)女記者の語り
【海に落ちる雨】第32章のスタートです。「焼ける」……ちょっと意味深なタイトルの章ですが、もうここまで来たら諦めてお付き合いくださいませ(..)
まずは、雑誌記者だと言っていた楢崎志穂のその後です。自殺した(ことになっているけど実は殺された)新津圭一(雑誌記者)の後輩で、彼を大変尊敬していた。その新津を不倫に走らせた香野深雪(またややこしいことに、一応真の恋人)には複雑な感情を抱いていて、真に対しても複雑な態度を取り続けていました。同じ施設で育った姉・御蔵皐月を探していて、や~さんの荒神組に近づいてみたり、かなり大胆なことも。姉への思いと新津への思い、そして深雪やその保護者である澤田への敵意、もちろん真もその一人です。
まずは彼女の事情をご確認ください。ちょっと長くてごめんなさい。ワンシーンで切りどころがなかったのです。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
まずは、雑誌記者だと言っていた楢崎志穂のその後です。自殺した(ことになっているけど実は殺された)新津圭一(雑誌記者)の後輩で、彼を大変尊敬していた。その新津を不倫に走らせた香野深雪(またややこしいことに、一応真の恋人)には複雑な感情を抱いていて、真に対しても複雑な態度を取り続けていました。同じ施設で育った姉・御蔵皐月を探していて、や~さんの荒神組に近づいてみたり、かなり大胆なことも。姉への思いと新津への思い、そして深雪やその保護者である澤田への敵意、もちろん真もその一人です。
まずは彼女の事情をご確認ください。ちょっと長くてごめんなさい。ワンシーンで切りどころがなかったのです。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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東京にある福嶋の『事務所』には看板も何もなく、外部に向けては完全に固く閉ざされたビルだった。
東京駅からそう遠くない場所で、迎えに来た車はこれ見よがしの高級車だったが、福嶋の態度も運転手の態度も、見かけの厳つさとは異なりあまりにも自然で、東京駅の雑踏の中でも目立つ気配はなかった。
皇居を囲む緑が、朝の光に踊るように輝いている。
車は地下の駐車場に吸い込まれた。
薄暗い駐車場から直接上階に上がるエレベーターは、九階で止まった。扉が開くと、目の前に二人の男が立っている。体格のいい、しかもヤクザとは明らかに違う品格のある顔立ちの男たちだった。
「あの女ですが、どう致しましょう」
一方の男が早速福嶋に語りかけた。
「あぁ、丁度ええ。この兄さんに会わしたろ、思てたんや」
男は了承したというように軽く頭を下げ、福嶋の前を歩いていく。もう一人の男は真の後ろを、急かすほどではない速度で歩いている。先を行く男がこの階で唯一の扉の前に立ち、無駄のない動作で扉を開けた。
扉の向こうは思った以上に広い部屋で、大きな応接セットと、奥まった場所に立派なデスクが置かれている。デスクの後ろは大きな窓で、向かいのビルの窓ガラスが日の光に照らされて複雑な反射を投げ掛けていた。
福嶋は、中に入ることを躊躇っている真に、まあ座れや、と言った。
ほとんど間を置かずに、タイトなスーツを着た背の高い女性がコーヒーを運んでくる。無言で真に早く座るように促し、真がソファに座るとその前にコーヒーを置いて、真の向かいにもひとつコーヒーを置くと、出て行った。
一見綺麗で整った脚だが、筋肉の張り方からはただの美人の脚というわけではなさそうだった。
「頼んどいた件、確認でけたか」
一緒に入ってきた男ははい、と答えて、ちらりと真のほうを見た。
「かまへん。依頼者はこの兄さんやさかいな」
福嶋は真を顎でさして、どっかりと向かいのソファに腰を落とした。
「寺崎孝雄は明日夜には例の場所にいると」
そう言って福嶋にメモを手渡す。福嶋はメモを見て、それをそのまま男に返した。
「夜言わんと、昼までに来い、ゆうたってくれ」
言いながら、真の目を見る。
「兄さん、そういうことや。明日まで待ったってくれや」
そう言って身体を前に乗り出すと、福嶋はコーヒーを取り上げた。真は黙ったまま福嶋の行動を見ていた。
「あの女、連れてきたれや」
男は一礼して一度部屋を出て行った。
「あの女というのは」
福嶋は、真にコーヒーを勧めた。真は答えを待って、コーヒーには手も出さなかった。
「兄さんかて、色々聞きたいこともあるやろ」
福嶋の顔には、ただただ世の中は面白いもんなんや、という感情だけが貼り付いていた。高いところに立って、常にあらゆるものを見下していたなら、そうも思えるのだろう。真は悪党というものの基準がよく分からなくなっていた。
福嶋が煙草を真に勧め、真は一息置いて、一本受け取った。福嶋がライターを灯す。大きな指はライターを隠してしまうほどだった。煙を吸い込むと、急に息が苦しいような気がして、真はむせた。
「香月に怒られそうやな。話が違うゆうて」
真はやっと落ち着いた気管に、新たなニコチンを送り込んだ。
「河本さんは一体なにを?」
福嶋は、真が香月という男のことを『河本』と呼んだことについては、何も言わなかった。
「香月の奴、アサクラタケシを飼いたいんや。相手はアメリカの飼い犬やで。なぁ、兄さん、上手に生き残っていくためにはな、あんまりデカいことに手ぇ出さへんと、地道に賢い生き方を選んでいくほうがええのや。人間、権力を握るとそれ以上を求めてしまうもんや。けど、物事は何でもほどほどにしとくほうがええ。自分の私的な事情が満たされるなんぞ、露ほども思わん方がええのや」
どの口が言っているのかと思うほどしゃあしゃあと福嶋は言い放つ。真が睨んだままなのを見て、福嶋は真の心情など手に取るように分かっているとでもいうようにするりと視線を躱した。
「香月はな、アサクラタケシの息子がイタリアのマフィアに奪われんようにしたら、アサクラタケシに恩を着せられる、思とんのや。兄さんがアサクラタケシの息子やゆうんは、一部の人間は当たり前みたいに知っとるけどな、誰も口には出さへん。報復が怖いんもあるけどな、そんなことを触れ廻ってどうこうできるとは思とらへんのや。そやけど、そういう情報に飢えとる連中に教えてみ、兄さんの周りはあっという間に騒がしなるわ。そうしたら、アサクラタケシは丸裸になんのと一緒や。わしはどういう連中にそれを教えたったらええもんか、よう知っとんのや。香月はわしがそんなことしたら、アサクラタケシに恩を着せるどころやないんはよう知っとる。まぁ、味見したらあかん、とはゆうとらへんかったから、話が違うゆうことはないな。わしと組んだらあかんともゆうとらへんかったからな」
その時、廊下の方から争うような音と声が聞こえてきた。切羽詰ったような女の声と、絡みつくような幾つかの足音は、開かれたドアの音で突然に飛ばされた。
真はその女を見て、すぐに煙草を灰皿に落として立ち上がった。
男に両脇を支えられるようにして連れて来られた女も、驚いたような顔で真を見つめている。
「荒神組から買いとったんや。ほんまにちょろちょろと危なっかしいことしよるさかいな」
女は男たちの手を払いのけ、そのまま真のところまで歩いてくると、いきなり真に平手打ちを食らわした。
「皐月のこと、知ってたの」
真は楢崎志穂が切羽詰ったように上げた声と、もう一発襲ってきそうになった平手打ちをかわした。
「何のことだ」
「皐月を殺したのはやっぱり寺崎昂司だったんでしょ。あの時、あの男を殺していたら」
「一体何の話をしている?」
福嶋は面白そうにやり取りを聞いているだけで、何の反応もしなかった。真はちらりと福嶋を見て、それから楢崎志穂を座らせた。
「あんな酷い……」
志穂はそれだけ言って声を詰まらせた。真は泣きはらしたような志穂の目と、それとはアンバランスに男を誘うような厚い唇を見つめた。だがその唇には紅も引いておらず、ただ震えていた。
真が理由を尋ねるように福嶋を見ると、福嶋はようやく口を開いた。
「この娘さんはな、御蔵皐月がいたぶられて吊り下げられて、血を流したまま犯られてるビデオを見たんや。いや、犯られとったんとちゃう、女のほうが男を犯しとったんや。それ見て、ちょっとおかしぃなっとる」
「どういうことだ」
「兄さん、死体見たそうやないか。死に顔はどないやった? 満足しきって恍惚としとったやろ」
真は意味が理解できずに福嶋を睨んだ。睨む以外に何かができるとは思えなかった。
「女の死に顔や。好きな男の血を舐めて死んだんや。最後に好きな男のもん、銜えてな。男のほうには意識もなかったようやけど、薬で勃ちっぱなしやったんやろ」
真は楢崎志穂が自分を睨みつけている顔を改めて見つめ、それから思わず肩を抱き寄せた。
この娘は一体いつも何を求めているのかと考えていたが、身寄りもなく拠り所もなかった彼女の唯一の支えが、姉と慕っていた御蔵皐月だったということなのだろう。それに、事実二人は血の繋がった姉妹だった。
志穂は真に抱き寄せられた後では無抵抗になり、あとはただ声を押し殺すようにして嗚咽していた。
「健気な娘やけどな、兄さんと同じで無計画で無謀や。ヤクザに平気で絡みに行ったりしよるし、昔惚れた男のことも忘れられへんらしいで。兄さん、もういっぺん抱いたったらどないや。女黙らすには、腰が砕けるくらいええ気持ちにさせたるんが一番ええ」
真は福嶋をまた睨み付けた。
その時、再び扉が開いて、エレベーターの前で見かけた男の一人が入ってきた。男は福嶋に近付き、何かを耳打ちする。福嶋は一言聞くと、例の如く面白そうに笑った。
「ほんまに、昨日から飽きることがないわ」
そういうと、福嶋は男に顎だけで何か指令を出した。
男は真と志穂のところにやってきて、二人を引き離し、志穂のほうは幾らか暴れたので、別の男に羽交い締めにされた。すっと男の懐からナイフが出されて志穂の頬に当てられる。志穂は怖がっている気配はなかったが、半分放心したような顔をしていた。
男は志穂にではなく、真に、不用意に傷つけたくはないので声を出さないように、と言った。やっていることとは裏腹に声は事務的で上品だった。真と志穂は男に示されるままに、応接セットの奥のドアから隣の部屋に移された。
隣は会議室のような作りで、円形に配置された机の周りに十客ほどの椅子が並べられているだけの部屋だった。ブラインドが下りているために、隣のビルの光の反射はここには届いていない。志穂の表情も、男たちの顔も、はっきりとはわかりかねた。
微かに隙間を残されたドアの向こうは、視界からは消えてしまったものの、気配は十分に窺われる。廊下側の扉が開く音と、それに伴って入ってきた靴音は複数で、にわかにざわめいたような空気が動いた。
「あんたが福嶋鋼三郎か。噂には聞いてるが、大概悪党面だな」
そのまま心のうちに沁み込み、痺れるような明快な声に、真は思わず震えた。
北条仁の声だった。真は仁の顔を見て事情を話したい衝動に駆られたが、志穂の首にあてられたナイフを見て、静かに息を吐き出した。
だが、仁の前に出て行くことを躊躇った理由は、志穂の首にあてられたナイフのせいだけではない。男たちの脅しには迫力はなく、もしも真が仁と話したいなら、別に出て行っても構わないという程度の勢いしか感じない。
何よりも真は、僅か扉一枚向こうの世界と己の心とのあまりの遠い距離に、ただの一歩すら動けなかったのだ。
「兄さんが仁道組の跡取り息子か。噂どおり、ええ男やないか。東吾にもよう似とる」
「そりゃどうも」仁の声が皮肉に響く。「あんたこそ、悪党面が立派すぎて惚れ惚れするよ」
「で、何の用で来はったんや?」
「とぼけるなよ。俺の可愛い弟分をここに連れ込んでるだろう。返してもらおうか」
福嶋の顔は見えないが、余裕のある顔で笑っているのが目に見えるようだった。
「昨日から、色んなものを返して欲しがる奴ばかりやって来よるわ。あの兄さんはなぁ、自分からわしんとこに来たんや。別に苛めたりはしとらんさかい、安心せい」
「あんた、何を企んでる?」
低くどすの利いた、それでいて真っ直ぐな何かに支えられた仁の明瞭な声が、今日は腹に響いてくる。
真は目を閉じた。
「企む? なんも企んどらんがな。あの兄さんが寺崎孝雄に会いたいゆうさかい、会わしたろ、思とんのや」
「それでまた面白いビデオでも作る気か。言っとくけどな、あいつももう昔みたいにやられっぱなしのガキじゃない。寺崎孝雄の首だってどうなるかわからんぞ」
「北条の兄さん、わしはな、寺崎の気色悪い趣味に手ぇ貸したる気ぃなんぞないわ。せやけど、ものごとは納まるところへ納まらんかったら、どないもならんやろ」
「貴様、何考えてやがる」
「わしは兄さんの思いを見届けてやりたいだけや」
一瞬にして向こうの部屋が騒がしくなる。仁が福嶋に摑みかかったような気配は、見なくても伝わってきた。
「真に何をさせる気だ?」
しかし、福嶋の声は落ち着いている。
「そりゃ、わしの決めることと違うがな。あの兄さんがしたいようにしたらええだけのことや。恋人がやられっ放しなんを見過ごされへん、仇を討ちたいなんて、健気で仕方ないやろ。一生懸命の可愛い若者を応援したりたいだけや。それに血は争えへん、てのもあるさかいな」
「血?」
北条仁は、相川真の父親がどういう人間か知らないはずだった。真はにわかに緊張した。
「目がええ。憎しみに燃えたら、いつでも残虐になれる目をしとる。さすがに人殺しの血を引いとるだけのことはある。それにな、あっちのほうも良かったで」
真は目を閉じた。仁がどんな顔をしているか、容易に想像ができる。
「わしのもん、ケツに銜えて狂ったように締め付けてきよったわ。何回イきよったか。可哀相に、身体が飢えとるんや。血にもセックスにもな」
隣の気配は身体に振動として伝わってくる。しかし、真たちにナイフを突きつけている男たちは微動だにしない。だが、真が想像したほど隣の騒ぎは長くは続かなかった。
「兄さんも、ほんまはさっさと味わいたかったんとちゃうんか。あんまりぼやぼやしてるさかい、わしみたいなんが先に楽しんでまうんやで。あの兄さんの身体な、ちょっと調教したったらものすごいことになるわ。男、狂わすことができるで。ま、ちょっと年がいっとるけどな、肌見てみぃ、二十歳やそこらやゆうても通るしな、傷がまたえぇ。可愛がって舐めつくしたりたいような身体や」
「貴様、いつまでも世の中、裏から操り続けることができると思ったら大間違いだぞ」
「そりゃそうや。わしな、別に明日どうなっても構へんのや。毎日十分楽しくやっとるさかいな。兄さんかて、渡世はそれなりに楽しいやろ。あの身体な、兄さんのところに帰ってきたら、ゆっくり試してみたらええ。一回突っこんだったら、向こうから何遍でも欲しがってきよるんや、本人の意思と関係ないところでな。せやな、仁道組の若の小姓かつ用心棒ってのもええかもしれへんで」
仁が無茶苦茶に怒っているのは手に取るように感じられた。
「せやけど、今はあかん。わしもあの健気な決意に応えたらなあかんさかいな。暴れても兄さんはここにはおらへんわ。もう引き取ってもらおか」
少しの間幾つかの物音が交錯していたが、やがて静かになり、乱暴に扉が開けられる音が振動のまま響いてきた。その振動の中に、仁の搾り出すような叫びが重なる。
「真、絶対に手を汚すんじゃねぇぞ。一度殺っちまうと、二度目から先は恐ろしいくらい簡単になる」
兄さんに伝えといたるわ、という福嶋の落ち着きはらった声を最後に、突然静寂が降ってきた。
真は仁の言葉を、決して頭の中で反芻しないように、と思った。
しばらくして、真は自分の脇に立っていた男に促されて、元の部屋に戻った。福嶋は笑いを噛み殺したような顔をしている。
「いや、ほんまに退屈せえへんわ。えらいおもろいヤクザや。敵地と知ってて一人で来るなんてのは、跡取り息子にはあるまじき行動や。余っ程兄さんがかわいいんか、兄さんと同じように無計画なんか。東吾も青臭い男やけどな、このご時世に仁義なんてもんがまかり通る、思とる」
福嶋は真の表情を覗き込むようにする。
「兄さんを抱きとうてしょうがないゆうオーラが出とったわ。一回くらい寝たったらどないや。減るもんやないし、あの男もええ身体しとるさかい、兄さんも楽しめるんとちゃうんか。せやけど、兄さんの身体がええ具合なんを知ったら、あの男のほうがよう離しよらんかもしれへんな」
そういうと、福嶋は真を手招きした。真は男に促されるままに福嶋の傍に行った。
途端に、福嶋が真のスーツの上から胸を弄るようにする。真は思わず身体を引いたが、瞬間に福嶋が確かめている理由を理解した。福嶋は真の背広の内ポケットを探り、縫い付けてあった何かを引きちぎるようにして取り出した。
「ほんまに、祇園のおなごは惚れた男のためやったら何しよるかわからん」
福嶋はただ楽しそうに言った。福嶋の太い指に隠れるようにしてつままれているのは、発信器のようだった。福嶋は暫くただ興味深そうに発信器を見ていたが、やがて真のほうに顔を向けた。
「明日まで時間あるさかいな、下の部屋でゆっくりビデオ鑑賞でもしてたらええわ。ほんまは時間までどっか行っとっても構わん、思てたけど、北条の兄さんに見つかってしもたら仕方ないわな。わしもひと仕事したらつきおうたるわ」
楢崎志穂にナイフを突きつけたままの男は、志穂を誘導して部屋から出て行こうとしていた。
「彼女をどうするつもりだ」
真が福嶋に詰め寄ると、福嶋はただ笑った。
「どないもせんがな。納まるもんが納まったら、したいようにさせたる。わしはな、女をいたぶるんは趣味とちゃうんや」
「五分でいい、話をさせてくれ」
志穂が不可解な顔で真を振り返っている。あまりにも色々な事があって混乱している表情だった。
思ったよりも早くに、福嶋は志穂を拘束している男に顎だけで命じた。男は志穂を促してソファに座らせ、福嶋は真の背を彼女の方へ軽く押しやるようにした。真は一瞬、福嶋の顔を見たが、何かを読み取れたような気はしなかった。真が志穂の隣に座ると、志穂は一旦真を睨みつけたが、直ぐに視線を落とした。
志穂は震えていた。
「あなたと話すことなんて何もないわ」
「分かってる。だけど、どうして荒神組なんかに近付いたりしたんだ」
「皐月の絵のことならあなたが知っているって、皐月に会わせてやるって言われたのよ」
「ヤクザの言うことを真に受けたのか」
「真に受けてなんかいないわ。だから、寺崎昂司を捜してたのよ。そうしたら、寺崎は自分が皐月を殺したって」
志穂は言葉に詰まり、訳が分からなくなったかのように、真の胸を叩いた。
「どうして、あんな」
それきり、声にはならなかった。真はどうしてやればいいのか分からないまま、志穂の手を取り、そのまま抱きしめた。
志穂はしばらく真の胸を思い切り叩いていたが、そのうちただ嗚咽だけが、耳よりも真の身体自体を伝達器にして頭に響いてきた。
恋をして、先輩として頼りにしていた男を、仕組まれた『自殺』で失った。その男の『自殺』や『脅迫』が信じられなかったが、世間はその事実を、次にやって来た大きな事件の陰で忘れてしまいそうだった。だから志穂は、ただスキャンダラスなにおいを無理矢理にばら撒くような記事を書いたのだろう。
まだ忘れないで、あの人は、そんなことをする人じゃない。これは何かの陰謀なのよ、と。
だが彼女の声は届かなかった。だから志穂は一人で調べ、仇を探し続けていたのだろう。そして、偶然なのか必然なのか、絡み合った糸は同じ暗闇の中で、志穂が最も信頼していた『姉』、御蔵皐月の元へも繋がっていた。いや、志穂のほうからは偶然でも、御蔵皐月や寺崎昂司の方からは、必然だったのかもしれない。
「抱いたるんやったら、部屋、貸したるで」
福嶋の声に志穂は顔を上げ、真を睨んだが、その目には憎しみが籠められていたわけではなかった。ただ湧き起こってくる感情のぶつける先を見つけられなかっただけのように見えた。
「あなたなんかと寝るんじゃなかった。新津を騙した女と寝るような男」
真はしばらく志穂の顔を見つめていた。それでも、と思った。
「それでも、君は俺に逃げろと言ってくれた」
志穂は何を言われているのか分からない、というような顔をした。それから笑いたいのに笑えない、という顔をしたような気がした。
「でも、何の役にもたたなかったでしょ。あなたは随分痛めつけられたんだって」
「そんなことはない。お蔭で大仰に見えていた出来事の裏にあるものが見えた」
志穂は今度は明らかに笑ったように見えた。
「でも、私はあなたに強姦されたって言ったのよ」
「荒神組に脅されたんじゃないのか」
「違うわ」
志穂はわざと悪女の顔を作り上げたように見えたが、それはこの女にあまり似合っていないような気がした。
「あなたが憎かったの。絶対愛してないはずなのに、あなたは香野深雪のことをいかにも理解していて愛しいというように話したのよ。自分で気が付いていたのかどうか知らないけど。この男は偽善者だって思った。女を愛しているふりをしながら、いつも他の誰かを想ってる。許せないような気がしたの。新津のことを考えた。新津だって本当に奥さんのことを愛してたのよ。奥さんが元気だった頃、何度か新津の家に呼ばれたことがあった。幸せそうな家族だった。奥さんが病気で寝た切りになったからといって、後から出会った女が運命の女だったとしても、香野深雪にうつつを抜かした新津が許せなかったのかもしれない。新津を好きだったと思えば思うほど、憎いような気がした。その新津を狂わせた香野深雪も、その香野深雪と付き合っていたあなたも。色々考えていたら、何もかもが許せないような気がして、自分でも止められなかった」
真は志穂の話していることが、全てよく分かるような気がした。自分の中の何かと闘っている。
「新津圭一の記事を書いたのは君なんだろう。あの記事は、新津のプライベートについて随分際どいことまで書いてあった。新津が脅迫者ではないというために書いたにしては、厳しい内容だと思っていた。君は、新津が許せなかったのか」
「新津は脅迫なんて卑怯なことをする人間じゃない、でも、不倫をしていたのは事実でしょ。どれほどきれいごとで飾っても、やっていることはただの不倫でしかないのよ。新津を好きだったけど、それとこれとは別だった。そのことについては、新津にも言い逃れることはできないと考えてた。でも、何かが引っ掛かっていたの。千惠子ちゃんのことも。だから、真実と思われることは書いて残しておこうと思った。そのことで新津の心証が悪くなったとしても、隠したことで後から事実が歪められて、本当のことが闇に葬られるのは許せないって思ってた」
志穂は真を睨みつけるように話していたが、やがて俯いた。
「でも、本当は自分でもよく分からない。何かが許せないと思ったけど、それが何なのか。自分が生きてきた世界なのか、身勝手な男に対してなのか、この世の中にある理不尽に対してなのか、それとも何もできなくて、何と闘えばいいのかわからない自分自身に対してなのか」
志穂は真に気付かれないようにとでも思っていたのか、静かに鼻を啜り上げたようだった。
「フロッピーの中身のことは、どうやって知ったんだ。IVMのこと、っていうのは、フロッピーを見ていなければ書けないことだ。君は新津圭一と一緒に取材をしていたわけではないんだろう」
志穂はその時、はっきりと真の顔を真正面から見た。目を逸らさず、静かに真を見つめている瞳の中にあるのは、微かな誇りと、何かに対する意地だったのかもしれない。それは、たまに井出が見せるのと同じ、何かを追及する時の記者の目だった。
「ニュースソースは言えない、って格好良く言いたいけど、本当は違うわ。あれは多分、その筋の関係者が記事を書けっていうつもりで私に送りつけてきたんだと思う。だからそのまま書いてやった」
「どういうことだ?」
「何もかもは教えられない、でも少しネタをばらしてやろうっていうのは、内部の人間がすることよ。あの記事は、あの後ロッキードでほとんど忘れられたと思うけど、でも後ろ暗いところがある関係者には、それなりに脅しになったでしょうね。しばらくは大人しくしていろ、それ以上何かしたら本当に動くぞ、っていう警告」
真は志穂の顔をしばらく見つめ返し、それから一瞬福嶋の方を見たが、福嶋はこちらを見ようともせずに煙草を燻らせていた。
「君が言っているのは、内調の誰かがその『後ろ暗い関係者』に警告をした、ということか」
「知らないけど、そんなところじゃないの」
それから志穂は黙り込んで俯いていた。
志穂の苦しみや悲しみは、真には寄り添ってやれる種類のものではなく、志穂が自分で越えていかなければならないものなのだろう。それを少し軽くしてやろうなどという気持ちは、真の中にはまるでなかったし、もしそう考えたのだとしても、ただの自惚れにしか過ぎないし、志穂はそれをはねのけるだろう。
それに、今、真自身も何か得体の知れないものに追いかけられているような状態だった。
「もうそろそろ、ええか」
福嶋が立ち上がった。
「今、兄さんが何を言ってやっても、その娘さんには届かんわ」
福嶋の言うとおりだった。志穂は男に肩を叩かれて、思い切ったように顔を上げた。
「皐月を信じてた。でも、私にはもう何が正しいことなのかよくわからない。皐月の気持ちも、私の理解を越えてた。あなただって、こんなところで何してるの。この男が何者か知らないわけじゃないんでしょ。こんなところに来て、あなたは何をしようとしてるの。この男があなたの価値を認めたんだとしたら、それはろくでもないことについてに決まってる。それを分かっててあなたがここにいるんだとしたら、とんでもないわ」
真は志穂が言っている言葉の意味を、それなりに理解していると思っていた。この女は打ちのめされながらも、本質としての記者魂を捨てられないのだ。
彼女は真の出生のことも、立ち位置も、知っているのだ。だから記者の本能から警告している。しかし、志穂は真にとって味方でもなければ、気持ちを確かめ合う相手でもない。彼女の厳しい視線の中に映っている真は、恐らくとんでもなく危険な気配を纏っているのだろう。
立つ位置の違いが、志穂に真のいる場所をくっきりと見せているような気がした。そう、福嶋と寝たことまではわからないにしても、そこに理屈ではない恐ろしい協定の存在を、彼女は感じ取っているのかもしれない。そういう意味では、志穂の視線は真の本音を抉り出そうとするようで、恐ろしい気もした。
それでも、真はこの女が幸せになってくれたらいいと願っていた。
やがて志穂は立ち上がり、もう真には視線を向けることもなく、男に促されて部屋を出て行った。その扉の閉まる音を耳の後ろのほうで感じながらも、真は振り返らなかった。
「ほな、兄さん、行こか」
福嶋の呼びかけは静かに、低く重く響いた。
(つづく)




次に語るのは……御蔵皐月。竹流と寺崎昂司と三角関係だったという女。
一体何を語るのでしょうか。
<次回予告>
「姉さんといるときのあいつは、本当に幸せそうに見えた。君にこんなことを言うのは酷かもしれないのは分かってるよ。あいつは本当に姉さんを愛しているし、大事に思っている。今でもそれを疑っているわけじゃない。でも、君がビッグ・ジョーをそそのかして、あの坊主をさらわせて男どもの餌にさせたときのあいつを見て、俺は本当に驚いた。あいつは平気で戦争をしかけたんだ。何の躊躇いもなかった。誰か無関係の人間が巻き込まれて傷を負うことすら構わないようだった。普段は穏やかで寛容に見える男が、怒りで我を忘れて狂った激しい鬼神になっていた。」



東京にある福嶋の『事務所』には看板も何もなく、外部に向けては完全に固く閉ざされたビルだった。
東京駅からそう遠くない場所で、迎えに来た車はこれ見よがしの高級車だったが、福嶋の態度も運転手の態度も、見かけの厳つさとは異なりあまりにも自然で、東京駅の雑踏の中でも目立つ気配はなかった。
皇居を囲む緑が、朝の光に踊るように輝いている。
車は地下の駐車場に吸い込まれた。
薄暗い駐車場から直接上階に上がるエレベーターは、九階で止まった。扉が開くと、目の前に二人の男が立っている。体格のいい、しかもヤクザとは明らかに違う品格のある顔立ちの男たちだった。
「あの女ですが、どう致しましょう」
一方の男が早速福嶋に語りかけた。
「あぁ、丁度ええ。この兄さんに会わしたろ、思てたんや」
男は了承したというように軽く頭を下げ、福嶋の前を歩いていく。もう一人の男は真の後ろを、急かすほどではない速度で歩いている。先を行く男がこの階で唯一の扉の前に立ち、無駄のない動作で扉を開けた。
扉の向こうは思った以上に広い部屋で、大きな応接セットと、奥まった場所に立派なデスクが置かれている。デスクの後ろは大きな窓で、向かいのビルの窓ガラスが日の光に照らされて複雑な反射を投げ掛けていた。
福嶋は、中に入ることを躊躇っている真に、まあ座れや、と言った。
ほとんど間を置かずに、タイトなスーツを着た背の高い女性がコーヒーを運んでくる。無言で真に早く座るように促し、真がソファに座るとその前にコーヒーを置いて、真の向かいにもひとつコーヒーを置くと、出て行った。
一見綺麗で整った脚だが、筋肉の張り方からはただの美人の脚というわけではなさそうだった。
「頼んどいた件、確認でけたか」
一緒に入ってきた男ははい、と答えて、ちらりと真のほうを見た。
「かまへん。依頼者はこの兄さんやさかいな」
福嶋は真を顎でさして、どっかりと向かいのソファに腰を落とした。
「寺崎孝雄は明日夜には例の場所にいると」
そう言って福嶋にメモを手渡す。福嶋はメモを見て、それをそのまま男に返した。
「夜言わんと、昼までに来い、ゆうたってくれ」
言いながら、真の目を見る。
「兄さん、そういうことや。明日まで待ったってくれや」
そう言って身体を前に乗り出すと、福嶋はコーヒーを取り上げた。真は黙ったまま福嶋の行動を見ていた。
「あの女、連れてきたれや」
男は一礼して一度部屋を出て行った。
「あの女というのは」
福嶋は、真にコーヒーを勧めた。真は答えを待って、コーヒーには手も出さなかった。
「兄さんかて、色々聞きたいこともあるやろ」
福嶋の顔には、ただただ世の中は面白いもんなんや、という感情だけが貼り付いていた。高いところに立って、常にあらゆるものを見下していたなら、そうも思えるのだろう。真は悪党というものの基準がよく分からなくなっていた。
福嶋が煙草を真に勧め、真は一息置いて、一本受け取った。福嶋がライターを灯す。大きな指はライターを隠してしまうほどだった。煙を吸い込むと、急に息が苦しいような気がして、真はむせた。
「香月に怒られそうやな。話が違うゆうて」
真はやっと落ち着いた気管に、新たなニコチンを送り込んだ。
「河本さんは一体なにを?」
福嶋は、真が香月という男のことを『河本』と呼んだことについては、何も言わなかった。
「香月の奴、アサクラタケシを飼いたいんや。相手はアメリカの飼い犬やで。なぁ、兄さん、上手に生き残っていくためにはな、あんまりデカいことに手ぇ出さへんと、地道に賢い生き方を選んでいくほうがええのや。人間、権力を握るとそれ以上を求めてしまうもんや。けど、物事は何でもほどほどにしとくほうがええ。自分の私的な事情が満たされるなんぞ、露ほども思わん方がええのや」
どの口が言っているのかと思うほどしゃあしゃあと福嶋は言い放つ。真が睨んだままなのを見て、福嶋は真の心情など手に取るように分かっているとでもいうようにするりと視線を躱した。
「香月はな、アサクラタケシの息子がイタリアのマフィアに奪われんようにしたら、アサクラタケシに恩を着せられる、思とんのや。兄さんがアサクラタケシの息子やゆうんは、一部の人間は当たり前みたいに知っとるけどな、誰も口には出さへん。報復が怖いんもあるけどな、そんなことを触れ廻ってどうこうできるとは思とらへんのや。そやけど、そういう情報に飢えとる連中に教えてみ、兄さんの周りはあっという間に騒がしなるわ。そうしたら、アサクラタケシは丸裸になんのと一緒や。わしはどういう連中にそれを教えたったらええもんか、よう知っとんのや。香月はわしがそんなことしたら、アサクラタケシに恩を着せるどころやないんはよう知っとる。まぁ、味見したらあかん、とはゆうとらへんかったから、話が違うゆうことはないな。わしと組んだらあかんともゆうとらへんかったからな」
その時、廊下の方から争うような音と声が聞こえてきた。切羽詰ったような女の声と、絡みつくような幾つかの足音は、開かれたドアの音で突然に飛ばされた。
真はその女を見て、すぐに煙草を灰皿に落として立ち上がった。
男に両脇を支えられるようにして連れて来られた女も、驚いたような顔で真を見つめている。
「荒神組から買いとったんや。ほんまにちょろちょろと危なっかしいことしよるさかいな」
女は男たちの手を払いのけ、そのまま真のところまで歩いてくると、いきなり真に平手打ちを食らわした。
「皐月のこと、知ってたの」
真は楢崎志穂が切羽詰ったように上げた声と、もう一発襲ってきそうになった平手打ちをかわした。
「何のことだ」
「皐月を殺したのはやっぱり寺崎昂司だったんでしょ。あの時、あの男を殺していたら」
「一体何の話をしている?」
福嶋は面白そうにやり取りを聞いているだけで、何の反応もしなかった。真はちらりと福嶋を見て、それから楢崎志穂を座らせた。
「あんな酷い……」
志穂はそれだけ言って声を詰まらせた。真は泣きはらしたような志穂の目と、それとはアンバランスに男を誘うような厚い唇を見つめた。だがその唇には紅も引いておらず、ただ震えていた。
真が理由を尋ねるように福嶋を見ると、福嶋はようやく口を開いた。
「この娘さんはな、御蔵皐月がいたぶられて吊り下げられて、血を流したまま犯られてるビデオを見たんや。いや、犯られとったんとちゃう、女のほうが男を犯しとったんや。それ見て、ちょっとおかしぃなっとる」
「どういうことだ」
「兄さん、死体見たそうやないか。死に顔はどないやった? 満足しきって恍惚としとったやろ」
真は意味が理解できずに福嶋を睨んだ。睨む以外に何かができるとは思えなかった。
「女の死に顔や。好きな男の血を舐めて死んだんや。最後に好きな男のもん、銜えてな。男のほうには意識もなかったようやけど、薬で勃ちっぱなしやったんやろ」
真は楢崎志穂が自分を睨みつけている顔を改めて見つめ、それから思わず肩を抱き寄せた。
この娘は一体いつも何を求めているのかと考えていたが、身寄りもなく拠り所もなかった彼女の唯一の支えが、姉と慕っていた御蔵皐月だったということなのだろう。それに、事実二人は血の繋がった姉妹だった。
志穂は真に抱き寄せられた後では無抵抗になり、あとはただ声を押し殺すようにして嗚咽していた。
「健気な娘やけどな、兄さんと同じで無計画で無謀や。ヤクザに平気で絡みに行ったりしよるし、昔惚れた男のことも忘れられへんらしいで。兄さん、もういっぺん抱いたったらどないや。女黙らすには、腰が砕けるくらいええ気持ちにさせたるんが一番ええ」
真は福嶋をまた睨み付けた。
その時、再び扉が開いて、エレベーターの前で見かけた男の一人が入ってきた。男は福嶋に近付き、何かを耳打ちする。福嶋は一言聞くと、例の如く面白そうに笑った。
「ほんまに、昨日から飽きることがないわ」
そういうと、福嶋は男に顎だけで何か指令を出した。
男は真と志穂のところにやってきて、二人を引き離し、志穂のほうは幾らか暴れたので、別の男に羽交い締めにされた。すっと男の懐からナイフが出されて志穂の頬に当てられる。志穂は怖がっている気配はなかったが、半分放心したような顔をしていた。
男は志穂にではなく、真に、不用意に傷つけたくはないので声を出さないように、と言った。やっていることとは裏腹に声は事務的で上品だった。真と志穂は男に示されるままに、応接セットの奥のドアから隣の部屋に移された。
隣は会議室のような作りで、円形に配置された机の周りに十客ほどの椅子が並べられているだけの部屋だった。ブラインドが下りているために、隣のビルの光の反射はここには届いていない。志穂の表情も、男たちの顔も、はっきりとはわかりかねた。
微かに隙間を残されたドアの向こうは、視界からは消えてしまったものの、気配は十分に窺われる。廊下側の扉が開く音と、それに伴って入ってきた靴音は複数で、にわかにざわめいたような空気が動いた。
「あんたが福嶋鋼三郎か。噂には聞いてるが、大概悪党面だな」
そのまま心のうちに沁み込み、痺れるような明快な声に、真は思わず震えた。
北条仁の声だった。真は仁の顔を見て事情を話したい衝動に駆られたが、志穂の首にあてられたナイフを見て、静かに息を吐き出した。
だが、仁の前に出て行くことを躊躇った理由は、志穂の首にあてられたナイフのせいだけではない。男たちの脅しには迫力はなく、もしも真が仁と話したいなら、別に出て行っても構わないという程度の勢いしか感じない。
何よりも真は、僅か扉一枚向こうの世界と己の心とのあまりの遠い距離に、ただの一歩すら動けなかったのだ。
「兄さんが仁道組の跡取り息子か。噂どおり、ええ男やないか。東吾にもよう似とる」
「そりゃどうも」仁の声が皮肉に響く。「あんたこそ、悪党面が立派すぎて惚れ惚れするよ」
「で、何の用で来はったんや?」
「とぼけるなよ。俺の可愛い弟分をここに連れ込んでるだろう。返してもらおうか」
福嶋の顔は見えないが、余裕のある顔で笑っているのが目に見えるようだった。
「昨日から、色んなものを返して欲しがる奴ばかりやって来よるわ。あの兄さんはなぁ、自分からわしんとこに来たんや。別に苛めたりはしとらんさかい、安心せい」
「あんた、何を企んでる?」
低くどすの利いた、それでいて真っ直ぐな何かに支えられた仁の明瞭な声が、今日は腹に響いてくる。
真は目を閉じた。
「企む? なんも企んどらんがな。あの兄さんが寺崎孝雄に会いたいゆうさかい、会わしたろ、思とんのや」
「それでまた面白いビデオでも作る気か。言っとくけどな、あいつももう昔みたいにやられっぱなしのガキじゃない。寺崎孝雄の首だってどうなるかわからんぞ」
「北条の兄さん、わしはな、寺崎の気色悪い趣味に手ぇ貸したる気ぃなんぞないわ。せやけど、ものごとは納まるところへ納まらんかったら、どないもならんやろ」
「貴様、何考えてやがる」
「わしは兄さんの思いを見届けてやりたいだけや」
一瞬にして向こうの部屋が騒がしくなる。仁が福嶋に摑みかかったような気配は、見なくても伝わってきた。
「真に何をさせる気だ?」
しかし、福嶋の声は落ち着いている。
「そりゃ、わしの決めることと違うがな。あの兄さんがしたいようにしたらええだけのことや。恋人がやられっ放しなんを見過ごされへん、仇を討ちたいなんて、健気で仕方ないやろ。一生懸命の可愛い若者を応援したりたいだけや。それに血は争えへん、てのもあるさかいな」
「血?」
北条仁は、相川真の父親がどういう人間か知らないはずだった。真はにわかに緊張した。
「目がええ。憎しみに燃えたら、いつでも残虐になれる目をしとる。さすがに人殺しの血を引いとるだけのことはある。それにな、あっちのほうも良かったで」
真は目を閉じた。仁がどんな顔をしているか、容易に想像ができる。
「わしのもん、ケツに銜えて狂ったように締め付けてきよったわ。何回イきよったか。可哀相に、身体が飢えとるんや。血にもセックスにもな」
隣の気配は身体に振動として伝わってくる。しかし、真たちにナイフを突きつけている男たちは微動だにしない。だが、真が想像したほど隣の騒ぎは長くは続かなかった。
「兄さんも、ほんまはさっさと味わいたかったんとちゃうんか。あんまりぼやぼやしてるさかい、わしみたいなんが先に楽しんでまうんやで。あの兄さんの身体な、ちょっと調教したったらものすごいことになるわ。男、狂わすことができるで。ま、ちょっと年がいっとるけどな、肌見てみぃ、二十歳やそこらやゆうても通るしな、傷がまたえぇ。可愛がって舐めつくしたりたいような身体や」
「貴様、いつまでも世の中、裏から操り続けることができると思ったら大間違いだぞ」
「そりゃそうや。わしな、別に明日どうなっても構へんのや。毎日十分楽しくやっとるさかいな。兄さんかて、渡世はそれなりに楽しいやろ。あの身体な、兄さんのところに帰ってきたら、ゆっくり試してみたらええ。一回突っこんだったら、向こうから何遍でも欲しがってきよるんや、本人の意思と関係ないところでな。せやな、仁道組の若の小姓かつ用心棒ってのもええかもしれへんで」
仁が無茶苦茶に怒っているのは手に取るように感じられた。
「せやけど、今はあかん。わしもあの健気な決意に応えたらなあかんさかいな。暴れても兄さんはここにはおらへんわ。もう引き取ってもらおか」
少しの間幾つかの物音が交錯していたが、やがて静かになり、乱暴に扉が開けられる音が振動のまま響いてきた。その振動の中に、仁の搾り出すような叫びが重なる。
「真、絶対に手を汚すんじゃねぇぞ。一度殺っちまうと、二度目から先は恐ろしいくらい簡単になる」
兄さんに伝えといたるわ、という福嶋の落ち着きはらった声を最後に、突然静寂が降ってきた。
真は仁の言葉を、決して頭の中で反芻しないように、と思った。
しばらくして、真は自分の脇に立っていた男に促されて、元の部屋に戻った。福嶋は笑いを噛み殺したような顔をしている。
「いや、ほんまに退屈せえへんわ。えらいおもろいヤクザや。敵地と知ってて一人で来るなんてのは、跡取り息子にはあるまじき行動や。余っ程兄さんがかわいいんか、兄さんと同じように無計画なんか。東吾も青臭い男やけどな、このご時世に仁義なんてもんがまかり通る、思とる」
福嶋は真の表情を覗き込むようにする。
「兄さんを抱きとうてしょうがないゆうオーラが出とったわ。一回くらい寝たったらどないや。減るもんやないし、あの男もええ身体しとるさかい、兄さんも楽しめるんとちゃうんか。せやけど、兄さんの身体がええ具合なんを知ったら、あの男のほうがよう離しよらんかもしれへんな」
そういうと、福嶋は真を手招きした。真は男に促されるままに福嶋の傍に行った。
途端に、福嶋が真のスーツの上から胸を弄るようにする。真は思わず身体を引いたが、瞬間に福嶋が確かめている理由を理解した。福嶋は真の背広の内ポケットを探り、縫い付けてあった何かを引きちぎるようにして取り出した。
「ほんまに、祇園のおなごは惚れた男のためやったら何しよるかわからん」
福嶋はただ楽しそうに言った。福嶋の太い指に隠れるようにしてつままれているのは、発信器のようだった。福嶋は暫くただ興味深そうに発信器を見ていたが、やがて真のほうに顔を向けた。
「明日まで時間あるさかいな、下の部屋でゆっくりビデオ鑑賞でもしてたらええわ。ほんまは時間までどっか行っとっても構わん、思てたけど、北条の兄さんに見つかってしもたら仕方ないわな。わしもひと仕事したらつきおうたるわ」
楢崎志穂にナイフを突きつけたままの男は、志穂を誘導して部屋から出て行こうとしていた。
「彼女をどうするつもりだ」
真が福嶋に詰め寄ると、福嶋はただ笑った。
「どないもせんがな。納まるもんが納まったら、したいようにさせたる。わしはな、女をいたぶるんは趣味とちゃうんや」
「五分でいい、話をさせてくれ」
志穂が不可解な顔で真を振り返っている。あまりにも色々な事があって混乱している表情だった。
思ったよりも早くに、福嶋は志穂を拘束している男に顎だけで命じた。男は志穂を促してソファに座らせ、福嶋は真の背を彼女の方へ軽く押しやるようにした。真は一瞬、福嶋の顔を見たが、何かを読み取れたような気はしなかった。真が志穂の隣に座ると、志穂は一旦真を睨みつけたが、直ぐに視線を落とした。
志穂は震えていた。
「あなたと話すことなんて何もないわ」
「分かってる。だけど、どうして荒神組なんかに近付いたりしたんだ」
「皐月の絵のことならあなたが知っているって、皐月に会わせてやるって言われたのよ」
「ヤクザの言うことを真に受けたのか」
「真に受けてなんかいないわ。だから、寺崎昂司を捜してたのよ。そうしたら、寺崎は自分が皐月を殺したって」
志穂は言葉に詰まり、訳が分からなくなったかのように、真の胸を叩いた。
「どうして、あんな」
それきり、声にはならなかった。真はどうしてやればいいのか分からないまま、志穂の手を取り、そのまま抱きしめた。
志穂はしばらく真の胸を思い切り叩いていたが、そのうちただ嗚咽だけが、耳よりも真の身体自体を伝達器にして頭に響いてきた。
恋をして、先輩として頼りにしていた男を、仕組まれた『自殺』で失った。その男の『自殺』や『脅迫』が信じられなかったが、世間はその事実を、次にやって来た大きな事件の陰で忘れてしまいそうだった。だから志穂は、ただスキャンダラスなにおいを無理矢理にばら撒くような記事を書いたのだろう。
まだ忘れないで、あの人は、そんなことをする人じゃない。これは何かの陰謀なのよ、と。
だが彼女の声は届かなかった。だから志穂は一人で調べ、仇を探し続けていたのだろう。そして、偶然なのか必然なのか、絡み合った糸は同じ暗闇の中で、志穂が最も信頼していた『姉』、御蔵皐月の元へも繋がっていた。いや、志穂のほうからは偶然でも、御蔵皐月や寺崎昂司の方からは、必然だったのかもしれない。
「抱いたるんやったら、部屋、貸したるで」
福嶋の声に志穂は顔を上げ、真を睨んだが、その目には憎しみが籠められていたわけではなかった。ただ湧き起こってくる感情のぶつける先を見つけられなかっただけのように見えた。
「あなたなんかと寝るんじゃなかった。新津を騙した女と寝るような男」
真はしばらく志穂の顔を見つめていた。それでも、と思った。
「それでも、君は俺に逃げろと言ってくれた」
志穂は何を言われているのか分からない、というような顔をした。それから笑いたいのに笑えない、という顔をしたような気がした。
「でも、何の役にもたたなかったでしょ。あなたは随分痛めつけられたんだって」
「そんなことはない。お蔭で大仰に見えていた出来事の裏にあるものが見えた」
志穂は今度は明らかに笑ったように見えた。
「でも、私はあなたに強姦されたって言ったのよ」
「荒神組に脅されたんじゃないのか」
「違うわ」
志穂はわざと悪女の顔を作り上げたように見えたが、それはこの女にあまり似合っていないような気がした。
「あなたが憎かったの。絶対愛してないはずなのに、あなたは香野深雪のことをいかにも理解していて愛しいというように話したのよ。自分で気が付いていたのかどうか知らないけど。この男は偽善者だって思った。女を愛しているふりをしながら、いつも他の誰かを想ってる。許せないような気がしたの。新津のことを考えた。新津だって本当に奥さんのことを愛してたのよ。奥さんが元気だった頃、何度か新津の家に呼ばれたことがあった。幸せそうな家族だった。奥さんが病気で寝た切りになったからといって、後から出会った女が運命の女だったとしても、香野深雪にうつつを抜かした新津が許せなかったのかもしれない。新津を好きだったと思えば思うほど、憎いような気がした。その新津を狂わせた香野深雪も、その香野深雪と付き合っていたあなたも。色々考えていたら、何もかもが許せないような気がして、自分でも止められなかった」
真は志穂の話していることが、全てよく分かるような気がした。自分の中の何かと闘っている。
「新津圭一の記事を書いたのは君なんだろう。あの記事は、新津のプライベートについて随分際どいことまで書いてあった。新津が脅迫者ではないというために書いたにしては、厳しい内容だと思っていた。君は、新津が許せなかったのか」
「新津は脅迫なんて卑怯なことをする人間じゃない、でも、不倫をしていたのは事実でしょ。どれほどきれいごとで飾っても、やっていることはただの不倫でしかないのよ。新津を好きだったけど、それとこれとは別だった。そのことについては、新津にも言い逃れることはできないと考えてた。でも、何かが引っ掛かっていたの。千惠子ちゃんのことも。だから、真実と思われることは書いて残しておこうと思った。そのことで新津の心証が悪くなったとしても、隠したことで後から事実が歪められて、本当のことが闇に葬られるのは許せないって思ってた」
志穂は真を睨みつけるように話していたが、やがて俯いた。
「でも、本当は自分でもよく分からない。何かが許せないと思ったけど、それが何なのか。自分が生きてきた世界なのか、身勝手な男に対してなのか、この世の中にある理不尽に対してなのか、それとも何もできなくて、何と闘えばいいのかわからない自分自身に対してなのか」
志穂は真に気付かれないようにとでも思っていたのか、静かに鼻を啜り上げたようだった。
「フロッピーの中身のことは、どうやって知ったんだ。IVMのこと、っていうのは、フロッピーを見ていなければ書けないことだ。君は新津圭一と一緒に取材をしていたわけではないんだろう」
志穂はその時、はっきりと真の顔を真正面から見た。目を逸らさず、静かに真を見つめている瞳の中にあるのは、微かな誇りと、何かに対する意地だったのかもしれない。それは、たまに井出が見せるのと同じ、何かを追及する時の記者の目だった。
「ニュースソースは言えない、って格好良く言いたいけど、本当は違うわ。あれは多分、その筋の関係者が記事を書けっていうつもりで私に送りつけてきたんだと思う。だからそのまま書いてやった」
「どういうことだ?」
「何もかもは教えられない、でも少しネタをばらしてやろうっていうのは、内部の人間がすることよ。あの記事は、あの後ロッキードでほとんど忘れられたと思うけど、でも後ろ暗いところがある関係者には、それなりに脅しになったでしょうね。しばらくは大人しくしていろ、それ以上何かしたら本当に動くぞ、っていう警告」
真は志穂の顔をしばらく見つめ返し、それから一瞬福嶋の方を見たが、福嶋はこちらを見ようともせずに煙草を燻らせていた。
「君が言っているのは、内調の誰かがその『後ろ暗い関係者』に警告をした、ということか」
「知らないけど、そんなところじゃないの」
それから志穂は黙り込んで俯いていた。
志穂の苦しみや悲しみは、真には寄り添ってやれる種類のものではなく、志穂が自分で越えていかなければならないものなのだろう。それを少し軽くしてやろうなどという気持ちは、真の中にはまるでなかったし、もしそう考えたのだとしても、ただの自惚れにしか過ぎないし、志穂はそれをはねのけるだろう。
それに、今、真自身も何か得体の知れないものに追いかけられているような状態だった。
「もうそろそろ、ええか」
福嶋が立ち上がった。
「今、兄さんが何を言ってやっても、その娘さんには届かんわ」
福嶋の言うとおりだった。志穂は男に肩を叩かれて、思い切ったように顔を上げた。
「皐月を信じてた。でも、私にはもう何が正しいことなのかよくわからない。皐月の気持ちも、私の理解を越えてた。あなただって、こんなところで何してるの。この男が何者か知らないわけじゃないんでしょ。こんなところに来て、あなたは何をしようとしてるの。この男があなたの価値を認めたんだとしたら、それはろくでもないことについてに決まってる。それを分かっててあなたがここにいるんだとしたら、とんでもないわ」
真は志穂が言っている言葉の意味を、それなりに理解していると思っていた。この女は打ちのめされながらも、本質としての記者魂を捨てられないのだ。
彼女は真の出生のことも、立ち位置も、知っているのだ。だから記者の本能から警告している。しかし、志穂は真にとって味方でもなければ、気持ちを確かめ合う相手でもない。彼女の厳しい視線の中に映っている真は、恐らくとんでもなく危険な気配を纏っているのだろう。
立つ位置の違いが、志穂に真のいる場所をくっきりと見せているような気がした。そう、福嶋と寝たことまではわからないにしても、そこに理屈ではない恐ろしい協定の存在を、彼女は感じ取っているのかもしれない。そういう意味では、志穂の視線は真の本音を抉り出そうとするようで、恐ろしい気もした。
それでも、真はこの女が幸せになってくれたらいいと願っていた。
やがて志穂は立ち上がり、もう真には視線を向けることもなく、男に促されて部屋を出て行った。その扉の閉まる音を耳の後ろのほうで感じながらも、真は振り返らなかった。
「ほな、兄さん、行こか」
福嶋の呼びかけは静かに、低く重く響いた。
(つづく)



次に語るのは……御蔵皐月。竹流と寺崎昂司と三角関係だったという女。
一体何を語るのでしょうか。
<次回予告>
「姉さんといるときのあいつは、本当に幸せそうに見えた。君にこんなことを言うのは酷かもしれないのは分かってるよ。あいつは本当に姉さんを愛しているし、大事に思っている。今でもそれを疑っているわけじゃない。でも、君がビッグ・ジョーをそそのかして、あの坊主をさらわせて男どもの餌にさせたときのあいつを見て、俺は本当に驚いた。あいつは平気で戦争をしかけたんだ。何の躊躇いもなかった。誰か無関係の人間が巻き込まれて傷を負うことすら構わないようだった。普段は穏やかで寛容に見える男が、怒りで我を忘れて狂った激しい鬼神になっていた。」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨156] 第32章 焼ける(2)女贋作者の告白
【海に落ちる雨】第32章その2です。
楢崎志穂に続いて、その姉である御蔵皐月が語ります。と言っても、ビデオの中のこと。これを福嶋がどうやって手に入れたかって。それはもう、なんやかやと言いくるめて寺崎孝雄から取り上げたんですね、多分。
友人Aと話していて、福嶋の裏設定があれこれとできていたんですよ。本編では出しませんが、例えば、生れは大阪の八尾で、小学校の時に京都に引っ越してきた当初は「八尾だって」とか言われて苛められて、それを姐御のように優しかった淑恵(珠恵の母親)とその腰ぎんちゃくだった寺崎孝雄に助けられていた。そのうち、持ち前の大阪人根性を発揮していじめっ子に変わったかも?
でも、その時の恩義がありますからね。あんな奴でも、これまで寺崎孝雄を見捨てられなかったんですよ、きっと。そして淑恵への恩義があるので、珠恵のことは手を握るぐらいで我慢しちゃってる。実は結構律儀な男なんです。
戦時中は部隊の副隊長って立場で、隊長さんのことをすごく尊敬していて、仲間からも結構慕われていたんじゃないかって思うんですよね。けれど、部隊は全滅。偶然一人だけ生き残ってしまって、気が付いた時、累々と横たわる仲間たちの屍の中にいた。
そんな過去を持っていて、今でも時々魘されている。だからこそ、戦後はのめり込むように仕事をして、むしろ命などどうでも良かった。のし上がって今の立場にいても、もう明日はどうなってもいいって思っている。あの時死んでいたはずなんだから、ってね。早く仲間たちのところに行かないと申し訳ないと思ってるんです。
でもこんな渋い過去があるなんて、絶対真には言わないだろうし、ここでも書かないぞ。あ、書いちゃったけれど、これは本編には出て来ない裏設定。そんなことよりも、今は存分に悪人度をお楽しみくださいませ。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
楢崎志穂に続いて、その姉である御蔵皐月が語ります。と言っても、ビデオの中のこと。これを福嶋がどうやって手に入れたかって。それはもう、なんやかやと言いくるめて寺崎孝雄から取り上げたんですね、多分。
友人Aと話していて、福嶋の裏設定があれこれとできていたんですよ。本編では出しませんが、例えば、生れは大阪の八尾で、小学校の時に京都に引っ越してきた当初は「八尾だって」とか言われて苛められて、それを姐御のように優しかった淑恵(珠恵の母親)とその腰ぎんちゃくだった寺崎孝雄に助けられていた。そのうち、持ち前の大阪人根性を発揮していじめっ子に変わったかも?
でも、その時の恩義がありますからね。あんな奴でも、これまで寺崎孝雄を見捨てられなかったんですよ、きっと。そして淑恵への恩義があるので、珠恵のことは手を握るぐらいで我慢しちゃってる。実は結構律儀な男なんです。
戦時中は部隊の副隊長って立場で、隊長さんのことをすごく尊敬していて、仲間からも結構慕われていたんじゃないかって思うんですよね。けれど、部隊は全滅。偶然一人だけ生き残ってしまって、気が付いた時、累々と横たわる仲間たちの屍の中にいた。
そんな過去を持っていて、今でも時々魘されている。だからこそ、戦後はのめり込むように仕事をして、むしろ命などどうでも良かった。のし上がって今の立場にいても、もう明日はどうなってもいいって思っている。あの時死んでいたはずなんだから、ってね。早く仲間たちのところに行かないと申し訳ないと思ってるんです。
でもこんな渋い過去があるなんて、絶対真には言わないだろうし、ここでも書かないぞ。あ、書いちゃったけれど、これは本編には出て来ない裏設定。そんなことよりも、今は存分に悪人度をお楽しみくださいませ。
登場人物などはこちらをご参照ください。




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ビルの十階は住居のようになっていて、台所と洗面、手洗いの他はぶち抜きのワンフロアだった。敷かれた絨毯は分厚く、靴下を通してもその立ち上がった毛のどっしりとした厚みが伝わってくる。部屋のど真ん中に、円形に近い、大きなベッドが置かれている。一歩間違えたらラブホテルだな、と真は思い、男に促されるままに部屋の中に進んだ。
部屋の一方の壁には、畳一畳分はありそうな巨大なスクリーンがしつらえてある。真はその白い空間を睨み付けていた。
戦争に士気がいるというのなら、憎しみの感情こそ最も揺るぎない力だろう。今は、目の前にそれを掻き立てるものを持って来いという気持ちだった。だが、戦場で敵を撃つ恐怖を、あるいは自分が死に向かう恐怖を忘れさせてくれる麻薬なら不要だった。
真は上着を脱ぎ、ベッドの上に放り投げた。仁の言葉を、耳だけに留まらせて、決して脳には伝えたくなかった。
男はスクリーンへの映写機のスイッチを入れ、カーテンを全て閉めた。まだ昼にもなっていないにも拘らず、部屋の中は完全に光が遮断された。映写機から光の筋が、空気の微粒子で震えながらスクリーンに細かな塵を浮かび上がらせている。微かな機械音は真の身体の芯に響いていた。
男が出て行った後で、スクリーンに映像が映し出された。
始めに、映像はあのフェルメールの贋作を長い間舐めるように映していた。
黄色い服を着た女性が、金に光る巻き毛を項に零れさせて、レースを編んでいる。光の加減で絵に浮かび上がるポワンティエ。絵の輪郭は光そのものだった。女はレースを編みながら、男の心を離すまいとしている、真にはそう見えた。男を絡み取ろうとしている手は、ひどくエロティックに見える。
真はベッドに座り、いつまでもフェルメールの絵を見つめていた。いつの間にか身体が僅かに興奮していることを感じる。
その後、映像は暫く真っ暗になり、ふわりと白いものが舞ったような気がした。
映像の真ん中に白い服を着た女が立っていて、その視線は真っ直ぐに何かを見つめていた。
意思の強い、挑むような視線は、目の前の何かを射抜くように見える。唇は厚く、少しめくれ上がったような上唇が卑猥で、幾分上を向いたような鼻も妙に妖しく見えた。女はゆっくりとした動作で椅子に座り、脚を組み、長く白い緩やかな曲線を描くドレスの裾から、裸足の足の先を出していた。マニキュアの赤が扇情的に映し出される。
『私たちを育てていた村野という男は戦時中に阿片を捌いていた男の息子で、村野自身も手伝いをしていたみたいよ。軍が戦時中に、ひとつは資金源として、もうひとつは兵士を戦場に送り出す手段として阿片を使っていたことは知られていないわけじゃないけど、今となっては確かな証拠は闇のファイルに仕舞われている。でも、村野は世界のあらゆる国が戦時中に率先して麻薬を使っていたという証拠を握っていた。タイあたりの産地を直接に仕切っていたともいうし、売却の仲介も全て自分たちの手でやっていたというから、当たり前ね。こういう話の鉄則は仲間を増やさないこと、まさに右手のしていることを左手に知らせるな、ってことらしいから。黙っていても、村野の懐には金が転がり込んだ。村野は復讐という名前がつくゲームを本当に楽しんでいた』
女は手渡された煙草を一本抜いて、火をつけてもらうと、深く吸い込んだ。
『村野の家は、母屋筋にあたる澤田の家と百年も前からずっと仲が悪かった。もともとは分家とはいえ召使のような扱いで、澤田の家は村野家の素行が悪いといっては足蹴にしてきたのよ。特に澤田顕一郎の父親と村野耕治の父親は、土地のこと、女のことで随分揉めていたらしくて、村野耕治の父親が積年の出来事の復讐とでもいうように澤田顕一郎の母親を暴行して、村野家は大分を追い出された。村野親子は世話になった新潟の蓮生家で、主の女たちと関係を持ったり強請りたかりで生き抜いたそうよ。そうでもしなければいつか澤田に復讐してやる機会さえ持てないと思ったんでしょうね。折りしも始まった戦争で、村野耕治の父親は某かの伝で、大陸で阿片を生産させて日本に運び込む仕事を始めて、大儲けした。金の力で大手を振って大分に戻って、零落していた澤田家の土地を手に入れ、地元の名士にのし上がった。澤田顕一郎の父親は変死体で発見されたそうだけど、村野の父親が殺したんじゃないかという噂もあって、それも金の力で潰したというわ。澤田顕一郎は大分を出て行った。その後、元傭兵だったという田安隆三の世話になっていたのは知ってるでしょ』
女は言葉と言葉の間で煙草の煙を吐き出し、紅い唇でほんのりと笑った。
『大学を卒業した澤田は九州に戻ってきた。大分には帰る家がなかったから、福岡で新聞社に勤め始めたのよ。知っての通り、優秀な記者だったというわ。でもね、その新聞社の大株主は村野耕治の父親だったのよ。父親が死んでいたから、実質新聞社は村野耕治のものだった。内容はともかく、幼馴染だった村野耕治と澤田顕一郎、そして花という女は新聞社で再会した。間抜けだったのは澤田顕一郎よ。昔のことは水に流そう、あれは古い家同士の問題で、父親同士がどう思っていたとしても、若い俺たちが憎しみまで受け継ぐ必要はないという村野耕治の言葉に、澤田はころりと引っ掛かった。
古い因習に辟易している若者が日本中にうようよいた時代ですもの。そして、正義感が強くて人を信じやすい、しかも記者としての信念を持ち、世の中の真実を追究しようという澤田に、周りの人間は引き込まれていった。花もその一人だった。馬鹿な女よね。記者として一時も休まずに仕事をしている澤田を、いつも新聞社の廊下で待っていたそうよ。澤田を追い続けて、待ち続けて、時々澤田が時間を作って花を可愛がると、花はのめりこむように澤田を愛して繋ぎとめようとした。澤田に悪気なんてなかったでしょうし、本当に花を好きだったのかもしれないけど、澤田は気になる事件があると、花のことなんてすっかり忘れてしまったんでしょうね。
女なんて哀れで愚かな生き物なのよ。村野耕治に可哀想にって言われて、花はあっさりと村野と寝た。馬鹿な女だわ。好きな男を手離すなんて。しかも村野耕治と花の結婚の報告を聞いたとき、澤田は祝福したそうよ。花はもしかして澤田が嫉妬してくれないかって思ったのかもしれないわね。澤田に祝福されたとき、花の中の何かが壊れたのよ。村野耕治の子どもを産んだら、直ぐに自分は病気で育てられないといって里子に出して、男に狂い始めた。
村野耕治だって、始めから花に執着していたわけじゃない、村野が執着していたのは澤田顕一郎よ。村野は花の身体がものすごくいいことを知っていた。だから、花を色んな男に抱かせて、ここぞと思った男の子どもを産ませた。それが私と志穂よ。村野は私たちの父親から有形無形のものを随分と手に入れたんじゃないかしら? 村野耕治は何をしたかったのかって? どうでしょうね。裏の世界に顔も名前も知られていた、世界中の奇妙な秘密結社が彼の力を欲したし、その結社の目的が復讐と聞けば、喜んで協力者になっていた。
でも彼が本当に執着していたのは澤田だって言ったでしょ。澤田に対して友情や愛情という感情を抱いていたわけじゃないわよ。執着。澤田の戦友、心を許した友になって、日陰から支える力になって、ここぞというときには澤田の首を絞めて楽しんでいた。そしてまた手を緩めて協力者になる。そういう心理はどう表現すればいいのかしらね。花だって同じ。いつもどうやって澤田を手に入れようかと考えていた。ベッドにまで引きずり込めば、自分の身体で澤田を思い通りにできると思っていたんじゃないかしら』
女の細くしなやかな指が灰を落とす。
『ええ、その女の写真を見たわ。そうね、確かに私たちに似ていた。志穂? あの子は何も知らないのよ。村野耕治が私たちに吹き込んだ、香野深雪の妹だって話を本気で信じてたんだから。人を信じやすい馬鹿な子よ。振り回されてばっかりで、施設でだっていつも誰かを信じて、裏切られては泣かされて、そのくせ必死で食い下がってくるの。馬鹿だけど、大事な妹だわ。そうね、不幸体質なのは村野花の血のせいじゃないかしら。報われない恋をするのよ。妻子のある男を好きになって、心に秘めていたら、その男が香野深雪と付き合ってた。あの子だって村野花の血を引いているんだから、そのうち男をどうしても手に入れようっていう遺伝子に火がつくのかもね。でも、男が死んでから追い求めても遅いわ』
女の目が哀れむような妖しさを放った。真は女が話しかけている相手の傍に立っているような気持ちになっていた。
『あなたも馬鹿よ。私は村野花っていう頭の悪い、男に執着して、手に入れるためなら何でもするような女の娘よ。女の武器が何かということもちゃんと知っている。ええ、村野耕治と寝たわ。義理の父親とね。初めて寝たのは中学を卒業する年。村野が癌だって分かってからは、村野の寿命を一瞬でも縮めてやりたくて毎日のように抱かれてやったわ。村野は笑ってた。癌の痛みを取るために自分が他人に使ってきた阿片を吸って、男を勃たせるためには奇妙な新種の麻薬を使った。お前は正真正銘、花の娘だ、身体もいいし、蛇のようにねちっこく男を狩ることを知っているって。
私は村野に抱かれて、自分の身体の中にあのしわがれた化け物の分身みたいな男を受け入れて、身体中がどんどん穢れて腐っていくような気持ちになった。追い込まれていたのは私の方だったのかもしれないわね。そうね、それ以外の時間はずっと絵を描いていたわ。不思議でしょ、自分で言うのもなんだけど、癌のせいでしょぼくれた村野のものをこの身体に受け入れて、極限まで身体が穢れたような気がして、それから絵を描くと魂が浮き上がったみたいになるの。私はフェルメールの絵に溶け込んでいけた。
中学生のとき、初めて村野に抱かれてから、ずっとフェルメールの絵を見ていた。男が私を貪っている間、目はあの絵を見つめ続けていて、一ミリごとの光を記憶した。毎日毎日、何時間も何時間も。だから私の身体にはフェルメールの絵が染み込んでいる。穏やかな光に包まれているように見えて、その後ろに影があるの。私にはフェルメールの描いたひとつひとつのポワンティエの後ろに陰が見えた』
女は煙草を揉み消した。そしてふと目を上げると、怖いほどに綺麗に微笑んだ。高貴で、悲しく、孤独な美しさだった。『その絵がフェルメールであることに迷いがない』と江田島は語っていた。フェルメールを追い続けた男にしても、もしも科学的な分析で顔料の幾つかがフェルメールの時代にはありえないものと判明しなかったら分からなかったというほどの迷いのない光の雫。
この女があのフェルメールの贋作を描いたのだ。己の身体のうちの暗い影を光に変えることで、この女は何を購いたかったのだろう。
『そんなふうに穢れてしまった私の身体を抱いて、お前は綺麗だと言ってくれたのはあの男だった。私の描いたフェルメールに惚れたと言ってくれた。お前は自分のために自分の絵を描いたらいいと言ってくれた。でも、あの男が私のものにはならないことはわかっていた』
女は無表情のままなのに、どこか哀しそうな顔で向かいにいる誰かに語り続けている。
『あなたはやっぱり馬鹿よ。知ってるんでしょ。私があなたを騙して、ただ利用してたってこと。だからこうして復讐しようとしているの? いいわよ。あなたのしたいようにしたらいいわ。あなたは私のために何でもしてくれた。あの男が私にフェルメールの贋作の贋作を描いてくれと言った時も、あの男が県庁の絵をすり替える前に、彼の所から私の絵を盗み出してくれた。彼を困らせてみたかっただけなのに。私の狂言自殺にも手を貸してくれて、あの男を呼んできてくれた。アトリエに火をつけたとき、私は興奮していたわ。全て燃えてしまって、もしかして私も死んでしまったとしても、あの男を一緒に連れて行けるのなら、と思っていた。あの時に負ったあの男の背中の火傷の瘢』
女の唇がゆったりと笑った。
『私を救うために負ったあの傷を見るたびに、私は幸福だった。これは私のために負った傷だと思うと、あの男が愛おしくてたまらなかった。でも、一緒に死にたいと言った私の願いだけは、あなたは聞き届けてくれなくて、結局あの男と私を火事場から助け出してくれたわね。その時は余計なことをしたと恨んだけれど、今は感謝しているのよ。でもあの時から、あの男は私を慰めてくれても、抱かなくなった。あなたが私を愛していると思ったからなんでしょうね。私があなたを愛していると言ったのは嘘だったのに。あの男が、弟で親友であるあなたに女を寝取られて悔しいと思ってくれたら、と願っていた。でもあの男は、私とあなたのことを認めようとしたのよ? まるで村野耕治と花の中身のない幸福を祝福した澤田顕一郎みたいにね。
でも、あなたが佐渡の家であの男の火傷を手当てしている姿を見ながら、私は奇妙な気持ちになっていた。あなたはあの男を愛しているんじゃないかと疑ったのよ。あの男の方も、まるであなたのためなら何でもしてやろうというように見えた。でも、あの男は私に対しては距離を置くようになっていた。私があの男の背中を手当てして、たまらなくなって火傷の瘢に口づけたとき、あの男は私の手に自分の手を添えて、昂司に誤解されるわけにはいかない、と言ったの。その手がどれほど憎かったか。
あなたはいつもそんな私を憐れんでくれたわね。私が、佐渡の隠れ家からあの男が封印していた銃器類を盗み出して欲しいと言ったときも、あなたは何も聞かずに言うとおりにしてくれた。事故に見せかけて、爆弾を仕掛けてもくれた。そうよ、あの男を追い込みたかった。なのに、あの男は、君たちが無事でよかったって。銃器類は海に沈めたと言ったら、それを鵜呑みにした。私たちを信じたわけじゃないと思うのに、もっと早くにそうするべきだった、悪用されなければそれでいい、とだけ言って』
ゆらりと影が被った。真はぼんやりと女の顔にかかる哀しげな影の揺らぎを見つめていた。その後に続いた男の声は、真が聞き知っている声よりも低く、優しく、そして悲しい声だった。
『違うんだ。俺は、君の言うままに武器庫を吹き飛ばして、警察沙汰にでもなってあいつが苦境に立つのを見たかったわけじゃない。俺はあの礼拝堂を壊したかったんだ。あいつは何時になってもあんなものに縛られて、時々あの彫刻の前で何時間も座っていた。震えてたんだよ。出てくると酷く憔悴していて、宿根木に戻る、と言ってまた何時間も婆さんの昔話を聞いて、ようやく落ち着いて東京に戻る。京都の姉さんのところに帰るわけでもなく、東京のマンションに帰っていく。
君だって嫉妬で狂いそうだったかもしれないが、俺はただ悔しかった。俺に心を許して何でも話してくれていたはずだった。本当に愛しそうに姉さんの名前を呼んだ。それなのに、理由も話さずあの彫刻の前で震えている。俺が聞いても、たまには昔を思い出すんだと言うだけだ。京都に帰らずに、マンションであの坊主を抱いて眠っているのかと思うと、悲しかった。そんなにいい身体なのか、と聞いたら、いや、セックスをする相手じゃないし、湯たんぽにもならないと答える。
あいつに気がある俳優の小坊主が面白そうだと言ってマンションに押しかけて、数日居座っていたけど、そいつは言ったよ。あれは本当に突っ込んでなくても、触れないままやってるのと一緒だ、同じ空間にいるだけでどきどきしたって。姉さんは騙されているんじゃないかと思ったこともあった。でも、姉さんといるときのあいつは、本当に幸せそうに見えた。君にこんなことを言うのは酷かもしれないのは分かってるよ。あいつは本当に姉さんを愛しているし、大事に思っている。今でもそれを疑っているわけじゃない。
でも、君がビッグ・ジョーをそそのかして、あの坊主をさらわせて男どもの餌にさせたときのあいつを見て、俺は本当に驚いた。あいつは平気で戦争をしかけたんだ。何の躊躇いもなかった。誰か無関係の人間が巻き込まれて傷を負うことすら構わないようだった。普段は穏やかで寛容に見える男が、怒りで我を忘れて狂った激しい鬼神になっていた。あいつの心のうちは、あいつ自身もよく分かっていないのかもしれないし、もしかして分かっていて認めたくないのかもしれないけど、あの坊主に持っていかれている。混乱したのは俺のほうだ』
女はくすくすと笑った。
『あれは面白かったわね。ビッグ・ジョーにぜひとも撮影しておくように勧めたのよ。きっと後で役に立つからって。役に立たなくても、高く売れそうじゃない。そうよ。私、見てたの。あの坊やを抱いた男たちは、一様に興奮していた。余程いい味だったんでしょうね。あんな、セックスなんてしたこともない、したことがあったとしても興味もない、なんて顔をしながら、悶えだしたらどんな目をしていたか。あれこそ淫乱の目よ。相手を狂わす目。この身体とこの目であの男をたらしこんでいるのか、この身体に狂ってあの男は私を抱かなくなったのかって思うと、男たちが抱いた身体を試したくなった。
私、レズビアンが使うディルドをつけてあの子の身体に挿れてやったの。あの子、道具を挿入されても狂ったように悶えてた。その顔を見てるだけで興奮したわ。あの男は私や女たちに優しくしても、溺れるなんてことは一度もなかった。でもこの顔を見ながらやっているのなら、夜な夜な溺れてて当然だと思ったわ。どうしても自分の身体であの子の身体を知りたくなった。あの子の中に指を挿れたら、襞が生きているみたいに私を食い締めてくるの。自分が男でなかったことを、あの時程残念に思ったことはなかったわね。男が狂うわけが分かった。手首まであの子の身体に突っ込んで、腸ごと引きずり出してやりたかった。私はあの坊やがどこか異国の金持ちにでも売られて、麻薬漬けにされて夜な夜な変態のセックスの相手をさせられて、狂って死んだらいいって思ってた。なのに、あなたはどうして助けに行ったりなんかしたの?』
女の影に重なる男の影は、影だけだったのに悲しく揺れている。
『竹流は、本当に狂いそうになっていた。でもそれはそういう意味じゃない。竹流はあの坊主を失うこと自体に耐えられないんだ。そのために禁欲しろと言われたら、自分がどれほど苦しくても指一本触れなかったはずだ。あいつは、一度あの坊主を失っているんだと言った。あの世から呼び戻してきたんだと信じてるんだ。今この時が、自分があの子を失いたくないために見ている長い長い夢なんじゃないかと、本当はあの子が死んでしまってるんじゃないかと怯えてる。深酒になると時々弱音を吐いて、そんな話をした。あいつは湯たんぽにもならない、いつも手足が冷たいんだって言いながら、手が震えていた。ただの低体温だろ、と言ったら、明日太陽が昇らなかったらこのまま冷たくなってしまうんじゃないかと思うって。太陽は昇るよ、当たり前だろ、と言ってやると、納得したように笑ってたけど、あいつはいつだってあの子を失うことを怖れてるんだ。抱きたくて狂っている、そういうわけじゃない』
『優しいのね、昂司。でもそんな感情は紙一重よ。あの男が本当はどんなふうに思っているのか、私にはよく分かるのよ。あの男は、あの坊やが死ぬまでその身体の中に突っ込みたい、あるいは首を絞めたいと思っているわ。苦しむくらいならいっそ殺してしまいたいって』女は不意に思い立ったような顔になった。『ねぇ、あの男はビッグ・ジョーをそそのかしたのが私だって気が付いているかしら』女は返事を待つようでもなかった。『気が付いていたら、私を殺していたわね。でも、あの男に殺されるなら本望だわ。私を刺して血まみれになりながら私を抱いて欲しい。あの男が欲しいわ』
女はうっとりとした顔をした。
『でもいいのよ。昂司、あなたが私を殺して。いっそ早く血まみれにして、私を抱いて』
男のほうが何か答えていたが、カメラがぶれたのか、暫く画面が乱れて雑音が被っていた。
乱れた画面の向こうで、男が女を抱いていた。男が上になって長い時間、女の脚の間に入り、激しく動いていたが、やがて女が自ら上に替わって男に跨り、狂ったように腰を回し上下に動いた。女のめくれ上がった唇は喘ぎ続けている。男は女の乳房に手を伸ばし揉みしだいている。もっと、と女が叫び、男が指に力を入れ乳首をつまみ上げる。縛ってと言われると、男は女の白い肌に赤い縄を回し、僅かの時間の間に女の身体を縛り上げた。絞めてと言われて、男は女の首を大きな手で押さえた。女の顔が上気するように鬱血した。
『あなた……本当に素敵よ。食い込んでくる縄がまるで生きて私を締め上げているみたい。私が憎いから? いいのよ、もっときつく縛って……もっと強く首を絞めて……』
男は答えずに縄の間から零れる乳首を噛んだ。女は仰け反り、恍惚とした表情を浮かべた。
苦痛を楽しんでいる、と真は思った。そして、女の顔に自分自身を重ねていた。恐ろしいことに、苦痛を舐めるように味わう快楽に浸っている自分に気が付いていなかった。いや、冷静にその自分を受け止めているもう一人の自分が、部屋の隅で立っている気配を感じていたが、見て見ぬふりをし通した。
『ソ連に行ったのはね、私の描いていたフェルメールの絵に秘められた物語を確かめたかったからなの。あの男はキエフの老人に騙されているって知っていたのに、それでも何かを信じたいんだと言っていた。フェルメールのマリアも、琥珀の地図も、もしも彼らが必要なら取り戻して、彼らに返してやりたいって思ってたのよ。でもあの老人はそんな生易しい男じゃなかったわ。私が日本人のムラノという男の使いだと言ったら、下にも置かない扱いだった。
そう、ムラノ、という名前は愚かなネオナチの仲間たちの間では金蔓の代名詞だったのよ。自分という個人が死んでも、必ず自分たちの組織がやがてこの世界を征服するんだって、いつかムラノは自分たちを助けに来てくれると分かっていたって、そう言っていたわ。そうしてマリアも琥珀も馬鹿な男どもの野心の犠牲になったのよ。世界中に散らばった同じような絵の下には、もっととてつもない宝の地図が書かれているんだって、夢を見るように語ったわ。もう片足を棺桶に突っ込んでいるくせに、その老人は私を厭らしい目で見た。私はやつらの儀式に呼ばれた。そう、妙な薬を盛られて、神の遣いと寝たのよ。男ってのはどうして復讐や秘密結社やら世界征服なんかにのめり込むのかしらね。この世界がゲームで成り立っていると思っているのかしら』
呟きながら、女は男の愛撫を受け入れていた。男は何も言わずに女が溢れさせている蜜を吸っていた。
『あの男は、きっと何もかも分かっていたのよね。それでも、そんな愚かな老人を哀れだとでも思ったのかしら。もしかすると、マリアが老人を救ってくれるとでも思ったのかしらね。強くて逞しくて、何もかも持っていて、愛されている、でも心のうちには重い悪魔の錘を抱えていて、時々残酷なくらいに相手を断罪するのに、結局は優しくて馬鹿な男』
女は呟き、喘ぎながら涙を流しているように見えた。
『ねぇ、昂司。最後にあの男と寝たいわ。あなたの父親、花と一緒に子どもをいたぶったり、相手が死ぬまで犯り続けるビデオを作ってるじゃない。花に聞いたのよ。今度はあの男がターゲットなんだって。ねぇ、最後にあの男とやらせて。何年も触れてもらえなかったの。死ぬならあの男を銜えながら死にたいわ。そう、私を撮ってよ。そしてあの男に見せて。あの男には、一緒に地獄へ行く私の姿を見ながら死んで欲しい。最後に私だけを見て欲しいのよ』
『死ぬ必要なんかないよ』
女は何かを思い浮かべていたのか、興奮して叫ぶような喘ぎをあげ始めた。
真はもうその時すでに、脳の中でも心でも、何も感じなくなっていた。この女に会ったという記憶はなかった。そもそも助け出された記憶さえ曖昧で、寺崎昂司の顔すらよく覚えていなかったのだから、薬漬けで犯されていた間の記憶などなくて当然だった。それでも真の身体は震えて、腸の奥がひきつったような痛みを訴えた。
画面の中で、男の手が、女の白い皮膚に傷をつけていた。女は悲鳴を上げ、もっと、と叫んだ。男は女の肩に口づけ、女の皮膚を食い破った。女は血を流し、同時に血走った目がうっとりとし始めた。女の長い髪が汗と血液でべっとりと額に貼りつき、厚めのめくれ上がった唇から涎が零れている。男は女の望むままに、女を噛み、女を縛り、女を犯し続けていた。女の頭の中で別の男の幻が浮かんでいることは明らかだった。
(つづく)




ちょっと長かったですね。いつもと同じくらいなのですけれど、文字が多く感じるのは女がずっとしゃべっているからですね。でも謎解きのシーンでブチ切れされたら「なんだよ、もう」なので、一気に行きます。私が憑りつかれたように書いていた部分ですから、勢いがすごいのかも。
この章はあともう1回。女の告白が終わったということは……真の火に油を注ぐ究極のシーンがビデオにて登場します。えぇ、あのビデオ、見ちゃうんですよ、真。だから、燃え上がっちゃった…・・・・
<次回予告>
『ほんまに、こうなってもまだ綺麗な身体しとるな。生まれが違うゆうんは、こういうことなんか。こんな上質の犠牲者は初めてやからな、親父も、先生方もそりゃ興奮しまくっとったで。これで足がついて仕事がやばくなってもかまへんくらいの勢いや。まあ、この男は東海林珠恵をたらしこんで、囲うて玩具にしながら、別の男と一緒に住んで、公衆の面前で愛してるなんて抜かしてるような野郎やからな、親父かて可愛い珠恵ちゃんのためにもこの男を裁かなあかん、思ってるんや。お前の姉さんのためやで』
わずかに、横たわった男の唇が動いたような気がした。暫く沈黙が続き、やがてがさがさという風が草木を揺らすような音が聞こえ始めた。その時、影がゆらりと動いて、喋り続けていた男を押しのけ、横たわった男の唇に指で触れた。カメラは追いかけるように傷つき横たわる男を映し続けている。
『カメラ、止めてくれ』
底から響くような声だった。



ビルの十階は住居のようになっていて、台所と洗面、手洗いの他はぶち抜きのワンフロアだった。敷かれた絨毯は分厚く、靴下を通してもその立ち上がった毛のどっしりとした厚みが伝わってくる。部屋のど真ん中に、円形に近い、大きなベッドが置かれている。一歩間違えたらラブホテルだな、と真は思い、男に促されるままに部屋の中に進んだ。
部屋の一方の壁には、畳一畳分はありそうな巨大なスクリーンがしつらえてある。真はその白い空間を睨み付けていた。
戦争に士気がいるというのなら、憎しみの感情こそ最も揺るぎない力だろう。今は、目の前にそれを掻き立てるものを持って来いという気持ちだった。だが、戦場で敵を撃つ恐怖を、あるいは自分が死に向かう恐怖を忘れさせてくれる麻薬なら不要だった。
真は上着を脱ぎ、ベッドの上に放り投げた。仁の言葉を、耳だけに留まらせて、決して脳には伝えたくなかった。
男はスクリーンへの映写機のスイッチを入れ、カーテンを全て閉めた。まだ昼にもなっていないにも拘らず、部屋の中は完全に光が遮断された。映写機から光の筋が、空気の微粒子で震えながらスクリーンに細かな塵を浮かび上がらせている。微かな機械音は真の身体の芯に響いていた。
男が出て行った後で、スクリーンに映像が映し出された。
始めに、映像はあのフェルメールの贋作を長い間舐めるように映していた。
黄色い服を着た女性が、金に光る巻き毛を項に零れさせて、レースを編んでいる。光の加減で絵に浮かび上がるポワンティエ。絵の輪郭は光そのものだった。女はレースを編みながら、男の心を離すまいとしている、真にはそう見えた。男を絡み取ろうとしている手は、ひどくエロティックに見える。
真はベッドに座り、いつまでもフェルメールの絵を見つめていた。いつの間にか身体が僅かに興奮していることを感じる。
その後、映像は暫く真っ暗になり、ふわりと白いものが舞ったような気がした。
映像の真ん中に白い服を着た女が立っていて、その視線は真っ直ぐに何かを見つめていた。
意思の強い、挑むような視線は、目の前の何かを射抜くように見える。唇は厚く、少しめくれ上がったような上唇が卑猥で、幾分上を向いたような鼻も妙に妖しく見えた。女はゆっくりとした動作で椅子に座り、脚を組み、長く白い緩やかな曲線を描くドレスの裾から、裸足の足の先を出していた。マニキュアの赤が扇情的に映し出される。
『私たちを育てていた村野という男は戦時中に阿片を捌いていた男の息子で、村野自身も手伝いをしていたみたいよ。軍が戦時中に、ひとつは資金源として、もうひとつは兵士を戦場に送り出す手段として阿片を使っていたことは知られていないわけじゃないけど、今となっては確かな証拠は闇のファイルに仕舞われている。でも、村野は世界のあらゆる国が戦時中に率先して麻薬を使っていたという証拠を握っていた。タイあたりの産地を直接に仕切っていたともいうし、売却の仲介も全て自分たちの手でやっていたというから、当たり前ね。こういう話の鉄則は仲間を増やさないこと、まさに右手のしていることを左手に知らせるな、ってことらしいから。黙っていても、村野の懐には金が転がり込んだ。村野は復讐という名前がつくゲームを本当に楽しんでいた』
女は手渡された煙草を一本抜いて、火をつけてもらうと、深く吸い込んだ。
『村野の家は、母屋筋にあたる澤田の家と百年も前からずっと仲が悪かった。もともとは分家とはいえ召使のような扱いで、澤田の家は村野家の素行が悪いといっては足蹴にしてきたのよ。特に澤田顕一郎の父親と村野耕治の父親は、土地のこと、女のことで随分揉めていたらしくて、村野耕治の父親が積年の出来事の復讐とでもいうように澤田顕一郎の母親を暴行して、村野家は大分を追い出された。村野親子は世話になった新潟の蓮生家で、主の女たちと関係を持ったり強請りたかりで生き抜いたそうよ。そうでもしなければいつか澤田に復讐してやる機会さえ持てないと思ったんでしょうね。折りしも始まった戦争で、村野耕治の父親は某かの伝で、大陸で阿片を生産させて日本に運び込む仕事を始めて、大儲けした。金の力で大手を振って大分に戻って、零落していた澤田家の土地を手に入れ、地元の名士にのし上がった。澤田顕一郎の父親は変死体で発見されたそうだけど、村野の父親が殺したんじゃないかという噂もあって、それも金の力で潰したというわ。澤田顕一郎は大分を出て行った。その後、元傭兵だったという田安隆三の世話になっていたのは知ってるでしょ』
女は言葉と言葉の間で煙草の煙を吐き出し、紅い唇でほんのりと笑った。
『大学を卒業した澤田は九州に戻ってきた。大分には帰る家がなかったから、福岡で新聞社に勤め始めたのよ。知っての通り、優秀な記者だったというわ。でもね、その新聞社の大株主は村野耕治の父親だったのよ。父親が死んでいたから、実質新聞社は村野耕治のものだった。内容はともかく、幼馴染だった村野耕治と澤田顕一郎、そして花という女は新聞社で再会した。間抜けだったのは澤田顕一郎よ。昔のことは水に流そう、あれは古い家同士の問題で、父親同士がどう思っていたとしても、若い俺たちが憎しみまで受け継ぐ必要はないという村野耕治の言葉に、澤田はころりと引っ掛かった。
古い因習に辟易している若者が日本中にうようよいた時代ですもの。そして、正義感が強くて人を信じやすい、しかも記者としての信念を持ち、世の中の真実を追究しようという澤田に、周りの人間は引き込まれていった。花もその一人だった。馬鹿な女よね。記者として一時も休まずに仕事をしている澤田を、いつも新聞社の廊下で待っていたそうよ。澤田を追い続けて、待ち続けて、時々澤田が時間を作って花を可愛がると、花はのめりこむように澤田を愛して繋ぎとめようとした。澤田に悪気なんてなかったでしょうし、本当に花を好きだったのかもしれないけど、澤田は気になる事件があると、花のことなんてすっかり忘れてしまったんでしょうね。
女なんて哀れで愚かな生き物なのよ。村野耕治に可哀想にって言われて、花はあっさりと村野と寝た。馬鹿な女だわ。好きな男を手離すなんて。しかも村野耕治と花の結婚の報告を聞いたとき、澤田は祝福したそうよ。花はもしかして澤田が嫉妬してくれないかって思ったのかもしれないわね。澤田に祝福されたとき、花の中の何かが壊れたのよ。村野耕治の子どもを産んだら、直ぐに自分は病気で育てられないといって里子に出して、男に狂い始めた。
村野耕治だって、始めから花に執着していたわけじゃない、村野が執着していたのは澤田顕一郎よ。村野は花の身体がものすごくいいことを知っていた。だから、花を色んな男に抱かせて、ここぞと思った男の子どもを産ませた。それが私と志穂よ。村野は私たちの父親から有形無形のものを随分と手に入れたんじゃないかしら? 村野耕治は何をしたかったのかって? どうでしょうね。裏の世界に顔も名前も知られていた、世界中の奇妙な秘密結社が彼の力を欲したし、その結社の目的が復讐と聞けば、喜んで協力者になっていた。
でも彼が本当に執着していたのは澤田だって言ったでしょ。澤田に対して友情や愛情という感情を抱いていたわけじゃないわよ。執着。澤田の戦友、心を許した友になって、日陰から支える力になって、ここぞというときには澤田の首を絞めて楽しんでいた。そしてまた手を緩めて協力者になる。そういう心理はどう表現すればいいのかしらね。花だって同じ。いつもどうやって澤田を手に入れようかと考えていた。ベッドにまで引きずり込めば、自分の身体で澤田を思い通りにできると思っていたんじゃないかしら』
女の細くしなやかな指が灰を落とす。
『ええ、その女の写真を見たわ。そうね、確かに私たちに似ていた。志穂? あの子は何も知らないのよ。村野耕治が私たちに吹き込んだ、香野深雪の妹だって話を本気で信じてたんだから。人を信じやすい馬鹿な子よ。振り回されてばっかりで、施設でだっていつも誰かを信じて、裏切られては泣かされて、そのくせ必死で食い下がってくるの。馬鹿だけど、大事な妹だわ。そうね、不幸体質なのは村野花の血のせいじゃないかしら。報われない恋をするのよ。妻子のある男を好きになって、心に秘めていたら、その男が香野深雪と付き合ってた。あの子だって村野花の血を引いているんだから、そのうち男をどうしても手に入れようっていう遺伝子に火がつくのかもね。でも、男が死んでから追い求めても遅いわ』
女の目が哀れむような妖しさを放った。真は女が話しかけている相手の傍に立っているような気持ちになっていた。
『あなたも馬鹿よ。私は村野花っていう頭の悪い、男に執着して、手に入れるためなら何でもするような女の娘よ。女の武器が何かということもちゃんと知っている。ええ、村野耕治と寝たわ。義理の父親とね。初めて寝たのは中学を卒業する年。村野が癌だって分かってからは、村野の寿命を一瞬でも縮めてやりたくて毎日のように抱かれてやったわ。村野は笑ってた。癌の痛みを取るために自分が他人に使ってきた阿片を吸って、男を勃たせるためには奇妙な新種の麻薬を使った。お前は正真正銘、花の娘だ、身体もいいし、蛇のようにねちっこく男を狩ることを知っているって。
私は村野に抱かれて、自分の身体の中にあのしわがれた化け物の分身みたいな男を受け入れて、身体中がどんどん穢れて腐っていくような気持ちになった。追い込まれていたのは私の方だったのかもしれないわね。そうね、それ以外の時間はずっと絵を描いていたわ。不思議でしょ、自分で言うのもなんだけど、癌のせいでしょぼくれた村野のものをこの身体に受け入れて、極限まで身体が穢れたような気がして、それから絵を描くと魂が浮き上がったみたいになるの。私はフェルメールの絵に溶け込んでいけた。
中学生のとき、初めて村野に抱かれてから、ずっとフェルメールの絵を見ていた。男が私を貪っている間、目はあの絵を見つめ続けていて、一ミリごとの光を記憶した。毎日毎日、何時間も何時間も。だから私の身体にはフェルメールの絵が染み込んでいる。穏やかな光に包まれているように見えて、その後ろに影があるの。私にはフェルメールの描いたひとつひとつのポワンティエの後ろに陰が見えた』
女は煙草を揉み消した。そしてふと目を上げると、怖いほどに綺麗に微笑んだ。高貴で、悲しく、孤独な美しさだった。『その絵がフェルメールであることに迷いがない』と江田島は語っていた。フェルメールを追い続けた男にしても、もしも科学的な分析で顔料の幾つかがフェルメールの時代にはありえないものと判明しなかったら分からなかったというほどの迷いのない光の雫。
この女があのフェルメールの贋作を描いたのだ。己の身体のうちの暗い影を光に変えることで、この女は何を購いたかったのだろう。
『そんなふうに穢れてしまった私の身体を抱いて、お前は綺麗だと言ってくれたのはあの男だった。私の描いたフェルメールに惚れたと言ってくれた。お前は自分のために自分の絵を描いたらいいと言ってくれた。でも、あの男が私のものにはならないことはわかっていた』
女は無表情のままなのに、どこか哀しそうな顔で向かいにいる誰かに語り続けている。
『あなたはやっぱり馬鹿よ。知ってるんでしょ。私があなたを騙して、ただ利用してたってこと。だからこうして復讐しようとしているの? いいわよ。あなたのしたいようにしたらいいわ。あなたは私のために何でもしてくれた。あの男が私にフェルメールの贋作の贋作を描いてくれと言った時も、あの男が県庁の絵をすり替える前に、彼の所から私の絵を盗み出してくれた。彼を困らせてみたかっただけなのに。私の狂言自殺にも手を貸してくれて、あの男を呼んできてくれた。アトリエに火をつけたとき、私は興奮していたわ。全て燃えてしまって、もしかして私も死んでしまったとしても、あの男を一緒に連れて行けるのなら、と思っていた。あの時に負ったあの男の背中の火傷の瘢』
女の唇がゆったりと笑った。
『私を救うために負ったあの傷を見るたびに、私は幸福だった。これは私のために負った傷だと思うと、あの男が愛おしくてたまらなかった。でも、一緒に死にたいと言った私の願いだけは、あなたは聞き届けてくれなくて、結局あの男と私を火事場から助け出してくれたわね。その時は余計なことをしたと恨んだけれど、今は感謝しているのよ。でもあの時から、あの男は私を慰めてくれても、抱かなくなった。あなたが私を愛していると思ったからなんでしょうね。私があなたを愛していると言ったのは嘘だったのに。あの男が、弟で親友であるあなたに女を寝取られて悔しいと思ってくれたら、と願っていた。でもあの男は、私とあなたのことを認めようとしたのよ? まるで村野耕治と花の中身のない幸福を祝福した澤田顕一郎みたいにね。
でも、あなたが佐渡の家であの男の火傷を手当てしている姿を見ながら、私は奇妙な気持ちになっていた。あなたはあの男を愛しているんじゃないかと疑ったのよ。あの男の方も、まるであなたのためなら何でもしてやろうというように見えた。でも、あの男は私に対しては距離を置くようになっていた。私があの男の背中を手当てして、たまらなくなって火傷の瘢に口づけたとき、あの男は私の手に自分の手を添えて、昂司に誤解されるわけにはいかない、と言ったの。その手がどれほど憎かったか。
あなたはいつもそんな私を憐れんでくれたわね。私が、佐渡の隠れ家からあの男が封印していた銃器類を盗み出して欲しいと言ったときも、あなたは何も聞かずに言うとおりにしてくれた。事故に見せかけて、爆弾を仕掛けてもくれた。そうよ、あの男を追い込みたかった。なのに、あの男は、君たちが無事でよかったって。銃器類は海に沈めたと言ったら、それを鵜呑みにした。私たちを信じたわけじゃないと思うのに、もっと早くにそうするべきだった、悪用されなければそれでいい、とだけ言って』
ゆらりと影が被った。真はぼんやりと女の顔にかかる哀しげな影の揺らぎを見つめていた。その後に続いた男の声は、真が聞き知っている声よりも低く、優しく、そして悲しい声だった。
『違うんだ。俺は、君の言うままに武器庫を吹き飛ばして、警察沙汰にでもなってあいつが苦境に立つのを見たかったわけじゃない。俺はあの礼拝堂を壊したかったんだ。あいつは何時になってもあんなものに縛られて、時々あの彫刻の前で何時間も座っていた。震えてたんだよ。出てくると酷く憔悴していて、宿根木に戻る、と言ってまた何時間も婆さんの昔話を聞いて、ようやく落ち着いて東京に戻る。京都の姉さんのところに帰るわけでもなく、東京のマンションに帰っていく。
君だって嫉妬で狂いそうだったかもしれないが、俺はただ悔しかった。俺に心を許して何でも話してくれていたはずだった。本当に愛しそうに姉さんの名前を呼んだ。それなのに、理由も話さずあの彫刻の前で震えている。俺が聞いても、たまには昔を思い出すんだと言うだけだ。京都に帰らずに、マンションであの坊主を抱いて眠っているのかと思うと、悲しかった。そんなにいい身体なのか、と聞いたら、いや、セックスをする相手じゃないし、湯たんぽにもならないと答える。
あいつに気がある俳優の小坊主が面白そうだと言ってマンションに押しかけて、数日居座っていたけど、そいつは言ったよ。あれは本当に突っ込んでなくても、触れないままやってるのと一緒だ、同じ空間にいるだけでどきどきしたって。姉さんは騙されているんじゃないかと思ったこともあった。でも、姉さんといるときのあいつは、本当に幸せそうに見えた。君にこんなことを言うのは酷かもしれないのは分かってるよ。あいつは本当に姉さんを愛しているし、大事に思っている。今でもそれを疑っているわけじゃない。
でも、君がビッグ・ジョーをそそのかして、あの坊主をさらわせて男どもの餌にさせたときのあいつを見て、俺は本当に驚いた。あいつは平気で戦争をしかけたんだ。何の躊躇いもなかった。誰か無関係の人間が巻き込まれて傷を負うことすら構わないようだった。普段は穏やかで寛容に見える男が、怒りで我を忘れて狂った激しい鬼神になっていた。あいつの心のうちは、あいつ自身もよく分かっていないのかもしれないし、もしかして分かっていて認めたくないのかもしれないけど、あの坊主に持っていかれている。混乱したのは俺のほうだ』
女はくすくすと笑った。
『あれは面白かったわね。ビッグ・ジョーにぜひとも撮影しておくように勧めたのよ。きっと後で役に立つからって。役に立たなくても、高く売れそうじゃない。そうよ。私、見てたの。あの坊やを抱いた男たちは、一様に興奮していた。余程いい味だったんでしょうね。あんな、セックスなんてしたこともない、したことがあったとしても興味もない、なんて顔をしながら、悶えだしたらどんな目をしていたか。あれこそ淫乱の目よ。相手を狂わす目。この身体とこの目であの男をたらしこんでいるのか、この身体に狂ってあの男は私を抱かなくなったのかって思うと、男たちが抱いた身体を試したくなった。
私、レズビアンが使うディルドをつけてあの子の身体に挿れてやったの。あの子、道具を挿入されても狂ったように悶えてた。その顔を見てるだけで興奮したわ。あの男は私や女たちに優しくしても、溺れるなんてことは一度もなかった。でもこの顔を見ながらやっているのなら、夜な夜な溺れてて当然だと思ったわ。どうしても自分の身体であの子の身体を知りたくなった。あの子の中に指を挿れたら、襞が生きているみたいに私を食い締めてくるの。自分が男でなかったことを、あの時程残念に思ったことはなかったわね。男が狂うわけが分かった。手首まであの子の身体に突っ込んで、腸ごと引きずり出してやりたかった。私はあの坊やがどこか異国の金持ちにでも売られて、麻薬漬けにされて夜な夜な変態のセックスの相手をさせられて、狂って死んだらいいって思ってた。なのに、あなたはどうして助けに行ったりなんかしたの?』
女の影に重なる男の影は、影だけだったのに悲しく揺れている。
『竹流は、本当に狂いそうになっていた。でもそれはそういう意味じゃない。竹流はあの坊主を失うこと自体に耐えられないんだ。そのために禁欲しろと言われたら、自分がどれほど苦しくても指一本触れなかったはずだ。あいつは、一度あの坊主を失っているんだと言った。あの世から呼び戻してきたんだと信じてるんだ。今この時が、自分があの子を失いたくないために見ている長い長い夢なんじゃないかと、本当はあの子が死んでしまってるんじゃないかと怯えてる。深酒になると時々弱音を吐いて、そんな話をした。あいつは湯たんぽにもならない、いつも手足が冷たいんだって言いながら、手が震えていた。ただの低体温だろ、と言ったら、明日太陽が昇らなかったらこのまま冷たくなってしまうんじゃないかと思うって。太陽は昇るよ、当たり前だろ、と言ってやると、納得したように笑ってたけど、あいつはいつだってあの子を失うことを怖れてるんだ。抱きたくて狂っている、そういうわけじゃない』
『優しいのね、昂司。でもそんな感情は紙一重よ。あの男が本当はどんなふうに思っているのか、私にはよく分かるのよ。あの男は、あの坊やが死ぬまでその身体の中に突っ込みたい、あるいは首を絞めたいと思っているわ。苦しむくらいならいっそ殺してしまいたいって』女は不意に思い立ったような顔になった。『ねぇ、あの男はビッグ・ジョーをそそのかしたのが私だって気が付いているかしら』女は返事を待つようでもなかった。『気が付いていたら、私を殺していたわね。でも、あの男に殺されるなら本望だわ。私を刺して血まみれになりながら私を抱いて欲しい。あの男が欲しいわ』
女はうっとりとした顔をした。
『でもいいのよ。昂司、あなたが私を殺して。いっそ早く血まみれにして、私を抱いて』
男のほうが何か答えていたが、カメラがぶれたのか、暫く画面が乱れて雑音が被っていた。
乱れた画面の向こうで、男が女を抱いていた。男が上になって長い時間、女の脚の間に入り、激しく動いていたが、やがて女が自ら上に替わって男に跨り、狂ったように腰を回し上下に動いた。女のめくれ上がった唇は喘ぎ続けている。男は女の乳房に手を伸ばし揉みしだいている。もっと、と女が叫び、男が指に力を入れ乳首をつまみ上げる。縛ってと言われると、男は女の白い肌に赤い縄を回し、僅かの時間の間に女の身体を縛り上げた。絞めてと言われて、男は女の首を大きな手で押さえた。女の顔が上気するように鬱血した。
『あなた……本当に素敵よ。食い込んでくる縄がまるで生きて私を締め上げているみたい。私が憎いから? いいのよ、もっときつく縛って……もっと強く首を絞めて……』
男は答えずに縄の間から零れる乳首を噛んだ。女は仰け反り、恍惚とした表情を浮かべた。
苦痛を楽しんでいる、と真は思った。そして、女の顔に自分自身を重ねていた。恐ろしいことに、苦痛を舐めるように味わう快楽に浸っている自分に気が付いていなかった。いや、冷静にその自分を受け止めているもう一人の自分が、部屋の隅で立っている気配を感じていたが、見て見ぬふりをし通した。
『ソ連に行ったのはね、私の描いていたフェルメールの絵に秘められた物語を確かめたかったからなの。あの男はキエフの老人に騙されているって知っていたのに、それでも何かを信じたいんだと言っていた。フェルメールのマリアも、琥珀の地図も、もしも彼らが必要なら取り戻して、彼らに返してやりたいって思ってたのよ。でもあの老人はそんな生易しい男じゃなかったわ。私が日本人のムラノという男の使いだと言ったら、下にも置かない扱いだった。
そう、ムラノ、という名前は愚かなネオナチの仲間たちの間では金蔓の代名詞だったのよ。自分という個人が死んでも、必ず自分たちの組織がやがてこの世界を征服するんだって、いつかムラノは自分たちを助けに来てくれると分かっていたって、そう言っていたわ。そうしてマリアも琥珀も馬鹿な男どもの野心の犠牲になったのよ。世界中に散らばった同じような絵の下には、もっととてつもない宝の地図が書かれているんだって、夢を見るように語ったわ。もう片足を棺桶に突っ込んでいるくせに、その老人は私を厭らしい目で見た。私はやつらの儀式に呼ばれた。そう、妙な薬を盛られて、神の遣いと寝たのよ。男ってのはどうして復讐や秘密結社やら世界征服なんかにのめり込むのかしらね。この世界がゲームで成り立っていると思っているのかしら』
呟きながら、女は男の愛撫を受け入れていた。男は何も言わずに女が溢れさせている蜜を吸っていた。
『あの男は、きっと何もかも分かっていたのよね。それでも、そんな愚かな老人を哀れだとでも思ったのかしら。もしかすると、マリアが老人を救ってくれるとでも思ったのかしらね。強くて逞しくて、何もかも持っていて、愛されている、でも心のうちには重い悪魔の錘を抱えていて、時々残酷なくらいに相手を断罪するのに、結局は優しくて馬鹿な男』
女は呟き、喘ぎながら涙を流しているように見えた。
『ねぇ、昂司。最後にあの男と寝たいわ。あなたの父親、花と一緒に子どもをいたぶったり、相手が死ぬまで犯り続けるビデオを作ってるじゃない。花に聞いたのよ。今度はあの男がターゲットなんだって。ねぇ、最後にあの男とやらせて。何年も触れてもらえなかったの。死ぬならあの男を銜えながら死にたいわ。そう、私を撮ってよ。そしてあの男に見せて。あの男には、一緒に地獄へ行く私の姿を見ながら死んで欲しい。最後に私だけを見て欲しいのよ』
『死ぬ必要なんかないよ』
女は何かを思い浮かべていたのか、興奮して叫ぶような喘ぎをあげ始めた。
真はもうその時すでに、脳の中でも心でも、何も感じなくなっていた。この女に会ったという記憶はなかった。そもそも助け出された記憶さえ曖昧で、寺崎昂司の顔すらよく覚えていなかったのだから、薬漬けで犯されていた間の記憶などなくて当然だった。それでも真の身体は震えて、腸の奥がひきつったような痛みを訴えた。
画面の中で、男の手が、女の白い皮膚に傷をつけていた。女は悲鳴を上げ、もっと、と叫んだ。男は女の肩に口づけ、女の皮膚を食い破った。女は血を流し、同時に血走った目がうっとりとし始めた。女の長い髪が汗と血液でべっとりと額に貼りつき、厚めのめくれ上がった唇から涎が零れている。男は女の望むままに、女を噛み、女を縛り、女を犯し続けていた。女の頭の中で別の男の幻が浮かんでいることは明らかだった。
(つづく)



ちょっと長かったですね。いつもと同じくらいなのですけれど、文字が多く感じるのは女がずっとしゃべっているからですね。でも謎解きのシーンでブチ切れされたら「なんだよ、もう」なので、一気に行きます。私が憑りつかれたように書いていた部分ですから、勢いがすごいのかも。
この章はあともう1回。女の告白が終わったということは……真の火に油を注ぐ究極のシーンがビデオにて登場します。えぇ、あのビデオ、見ちゃうんですよ、真。だから、燃え上がっちゃった…・・・・
<次回予告>
『ほんまに、こうなってもまだ綺麗な身体しとるな。生まれが違うゆうんは、こういうことなんか。こんな上質の犠牲者は初めてやからな、親父も、先生方もそりゃ興奮しまくっとったで。これで足がついて仕事がやばくなってもかまへんくらいの勢いや。まあ、この男は東海林珠恵をたらしこんで、囲うて玩具にしながら、別の男と一緒に住んで、公衆の面前で愛してるなんて抜かしてるような野郎やからな、親父かて可愛い珠恵ちゃんのためにもこの男を裁かなあかん、思ってるんや。お前の姉さんのためやで』
わずかに、横たわった男の唇が動いたような気がした。暫く沈黙が続き、やがてがさがさという風が草木を揺らすような音が聞こえ始めた。その時、影がゆらりと動いて、喋り続けていた男を押しのけ、横たわった男の唇に指で触れた。カメラは追いかけるように傷つき横たわる男を映し続けている。
『カメラ、止めてくれ』
底から響くような声だった。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨157] 第32章 焼ける(3)探偵の堕落~18禁~
【海に落ちる雨】第32章最終回です。この辺りは書いていた時の勢いを切りたくなくて、1回分がやや長くなっていますが、ご容赦ください。また、18禁につき、ご注意ください。大した描写があるわけではありませんが、いささか痛いところもありますので、半分目を瞑っておいてください。多分、ここが最後の山……この先はもう禁がつくようなシーンはありません。
丁度「探偵は風」なんて市川昆監督の名言(?)をご紹介した矢先に、うちの探偵は堕落しております。早く魔物界から戻っておいで。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
丁度「探偵は風」なんて市川昆監督の名言(?)をご紹介した矢先に、うちの探偵は堕落しております。早く魔物界から戻っておいで。





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また画面が乱れた。
そこから先は常に画面が振動していた。手振れなのか、その場所自体が揺れているのか、小刻みな振動の中で、女の身体は何かの上で踊っていた。オレンジ色の明りが狭い空間を染め上げている。
周囲に映っているものは、形も大きさも色も曖昧で、薄暗い闇の中で犇めいて何かを押しつぶそうとしているように見えた。中央に置かれた台の上で、女の身体は上下に左右に揺れ続けていた。オレンジの明りの中、女の身体に大小の黒い染みが幾つも沈んでいる。それは深い穴倉のようで、その先はただの闇だった。
真は歯がかみ合わなくなってくるのを感じた。
女の身体の下に男がいた。寺崎昂司ではない、別の男の顔が映し出されたとき、真の身体は完全に凍りついた。
男の目は薄く光を吸い込んでいるが、跳ね返すだけの力はなかった。オレンジの曖昧な光の中で、男の淡い金の髪は軽くウェーヴして薄く、頼りなく、光に溶け入っていた。彼の目には何も映っていなかった。既にこの世から零れ落ちて、虚ろに空を彷徨う儚い光は、ただ小刻みに震え続けていた。
女と男の身体が繋がったその場所へ画面が移動していく。女は黒い染みのような蜜で男の下半身を染め上げている。女の子宮から溢れ続けているものは、女の意識を徐々に遠くへ持ち去ろうとしているようだった。
まともな意識だったらきっと吐いていただろう。自らの子宮から血を流しながら男の性器を銜えている女の目は、既にこの世のものではなく魔物だった。
だが一方で、真はこの女を羨ましいと思っていることに気が付いていた。愛する男を死ぬまで自分の身体のうちに銜えて、この世から零れていく意識の中でまだ男を貪りつくしている。志穂は残酷だと言ったが、この女は悦んでいると思った。
やがて女は、この場面の中に存在する別の誰かの手からナイフをもぎ取り、自分の体の下に横たわる男の首筋を、そのナイフで撫でるようにした。女の意識も既に零れ落ちているのだろうし、身体は下がり続ける血圧のせいで大きく揺れていた。女が男の首にナイフをつき降ろそうとしているのか、それともただ死の舞を踊っているのか、よく分からなかった。
だが女はついに男の心臓を捕らえ、ナイフを振り上げた。
見開いた女の目は既に事切れていたのかもしれない。だが女の腕は明らかな意思を持っていて、ナイフを男の心臓に振り下ろそうとした。
実際にはそれほどのスピードを出す力は、女には残っていなかった。
別の誰かの手が女の持つナイフに添えられ、そのまま女自身の心臓の方へ向きを変えた。女は目を見開いたまま、うっとりと涎と血を流し、倒れるのでもなく自らの胸でナイフを受け止めた。
画面は長い時間止まっているようにすら見えた。やがて真は人の声で我に返った。
『このままにしとくか。どうせこの男ももう長くないやろ。女の子宮と血の中で男をぶっ勃てたまま固まるのも、悪くない。死後硬直したら抜けなくなるやろし、ちょっとした見世物や。しっかり撮っとけよ』
冷酷な声は聞いたことのないものだった。
『それとも、惚れた女が別の男と繋がったまま死んで、男のほうもおっ勃ったまま逝っちまうのは、お前としても許せへんか。まぁ、お前の好きにしたらええけどな。あぁあ、えらい血まみれやな。久しぶりや、こんなに凄いのは。犠牲者自らこうしたい言うたんやから、しょうがないけど。後、どないするんや』
『古い神社の跡があるんだ。そこに連れて行って、木に吊るして映したらどうだろう。そういうのが好きな客がいるだろう』
口笛の音のようなひゅーと甲高い息の音が混じる。
『お前も怪奇趣味やな。ええで。最近ここまで濃いフィルム、少なかったから、お客も喜ぶやろ。ついでに儀式に何人か呼んだろか。喜びよるやろ』
複数の人間がいるのだ。やがて切り替わった画面には、道路脇から少し切り立った崖が映り、本来人が踏むこむべきではないけもの道に分け入る足元が見えた。既に事切れている女と、まだ辛うじてこの世に魂を残している男が、引きずられていく。やがて彼らは、真にも見覚えのある、今はただ結界を示す注連縄だけが廻らされた古い祈祷所に辿り着いた。
暗がりの中で、ほとんど明りもないため、画面はただ暗く、人の数も表情も何も見分けられなかった。女の身体は大きな木に結わえ付けられ、足下の祭壇のような石に、四角いものが置かれている。女が描いたフェルメールの贋作だった。誰かが結界の中に、巨大な五芒星を描いている。男の身体が、完全な裸体のまま、五芒星に重ねられる。
その時、突然明りが宙を舞い、ライトが女の顔を映し出した。
女は微笑んでいた。まだ子宮の内側が男で満たされ、絶頂の中にいるようなうっとりとした表情だった。厚めの唇の端からは血が滴り、何度でも男のものを銜えたいというように微かに開かれていて、目はカメラの向こうにいるはずの男を求め続けていた。
次に移動したライトは死に瀕した男の顔を探った。
男は微かに胸を上下させていたが、その息は浅く、形のいい唇にはすっかり血の気はなかった。女の目よりも遥かに彼方を見遣る目は、既にあの深い海の青を失っているように見えた。画面に映し出された身体には無数の傷、火傷の瘢、そしてカメラが包帯も何もない右手を映し出す。
傷ついた右手には、新たに印が刻まれたようで、まだ新しい血がこびり付いていた。イエス・キリストの手のひらに討ちこまれた杭の瘢。まさにそれは神の子どもをこの世に引きずり落として冒涜した人間の罪の瘢だった。そして不自然な向きに歪められた右の足。
真は腹の中で黒い渦が大きく、重くなっていくのを感じた。
『やっぱり繋がったままのほうが面白い絵やった気がするけどな』
声は冷たく、腹に食い込むようだった。
『お前、こんな呪術みたいなことして、この男が生き延びるなんて思てるんとちゃうやろな。見てみ、もう息も絶え絶えや。あと数時間ももたへんで。それとも最期まで見守っといてやろういうんか』
喋り続けている男が五芒星の傍にしゃがみこみ、横たわる男の右の手の平に指を捻じ込むような仕草をした。
『昂司、親父はお前がかわいいんやで。こんな男にいつまでもうつつ抜かさんと、思い切ってお前の手で止め刺したったらどうや。突っ込みたいんやったらもう一回したれや。まだ勃っとるし、薬が効いとるみたいやから、あっちもまだ締まりがええかもしれへんで』
その男の指は、横たわっている男の傷の痕をひとつひとついたぶるように、更に傷つけている。
『ほんまに、こうなってもまだ綺麗な身体しとるな。生まれが違うゆうんは、こういうことなんか。こんな上質の犠牲者は初めてやからな、親父も、先生方もそりゃ興奮しまくっとったで。これで足がついて仕事がやばくなってもかまへんくらいの勢いや。まあ、この男は東海林珠恵をたらしこんで、囲うて玩具にしながら、別の男と一緒に住んで、公衆の面前で愛してるなんて抜かしとるような野郎やからな、親父かて可愛い珠恵ちゃんのためにもこの男を裁かなあかん、思ってるんや。お前の姉さんのためやで』
わずかに、横たわった男の唇が動いたような気がした。暫く沈黙が続き、やがてがさがさと風が草木を揺らすような音が聞こえ始めた。
その時、影がゆらりと動いて、喋り続けていた男を押しのけ、横たわった男の唇に指で触れた。カメラは追いかけるように横たわる男を映し続けている。
『カメラ、止めてくれ』
底から響くような声だった。
カメラは回ったままだったが、照明が落とされたために、画面が漆黒になった。しかし、闇の中で、血の臭いを嗅ぎつけた野良犬や野良猫、あるいは猛禽が襲ってくるような息遣いが漆黒の闇を揺らしていた。
突然、その闇の中で、激しい息遣いと悲鳴が入り混じった。悲鳴は断続的になり、照明が戻されたのか、ただ目が慣れたのか分からない薄闇の中で、少しずつカメラは犠牲者に近付いているようだった。
薄闇の中で上下する犠牲者の胸は、ほとんど断末魔の息のように見える。唇はもう声を発することができず、音声にはならない呻きを零すばかりだった。
その頼りない呻きの中に、実際には聞き取れないような周波数で、竹流、と呼びかけた悲しげな優しい声が沈んだ。死に瀕し横たわった男の目が、微かに感情を帯び、声の主を探すように彷徨う。
坊主を連れてきてやる。運命が味方すれば、あるいはそれが必然なら、お前はもう一度あいつの顔を見ることができるだろう。
影は本当にそれだけの言葉を言ったのか、真の耳がおかしくなって聞こえぬはずの声を聞き届けたのか、それはよく分からなかった。
横たわる男の唇が何かを震えながら戦慄いている。
しぬな。おれのそばにいろ。こうじ。
真は、意識が崩れ落ちかかっている男の唇が動く形を読み取った。影はその唇にそっと重なり、やがて明りが落とされた。
あとは画面が乱れて、そのうち途切れた。
画面を見ていただけなのに、全力疾走した後のような疲労感で、真は立ち上がることもできず、今はもう何も映っていないスクリーンを睨んでいた。
ドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた時も、全く気が付かなかった。
「なんや、見終わったんか。参考になったか」
福嶋の声だった。福嶋は部屋に入ると、明りもつけずに、上着を脱ぎネクタイを解いて、真の横に座った。ベッドが大きく沈む。福嶋はぐいと真を抱き寄せた。
「抱いたろ」
そう言った福嶋の手が真のシャツのボタンにかかる。
「あの男は誰です?」
「男? あぁ、昂司と一緒におったやつか。ありゃ、寺崎孝雄のもう一人の息子や。昂司の兄貴やな。寺崎かて始めからインポやったんとちゃう。恋焦がれた淑恵ちゃんを手に入れて抱いてから、わけ分からんようになってしもたんや。淑恵ちゃんは、娘の珠恵ちゃんがおらんかったら、その場で自分の咽喉掻き切って死ぬ気ぃやったんやろな。孝雄には可哀相やけどな、切ない片想いや。しかも力ずくともなったら、淑恵ちゃんがあいつにどないな態度やったか、想像がつくわな。おかしいもなる、ゆうことや。その息子は和徳ゆうてな、ある意味、ええ男やで。孝雄より肝が据わっとるし、残忍や。実質、この残酷ビデオ事業はな、和徳と村野花がやってるようなもんや。村野花が案を出してな、犠牲者も選んで、和徳はプロデューサー兼監督やな。その二人に比べたら、寺崎孝雄なんぞ可愛いもんや」
真は福嶋に視線を移した。
「村野花」呟いて、福嶋の目を見る。「やはり生きているんですね」
真の唇を福嶋は吸い、肩からシャツを落とし、鎖骨の上を愛撫した。
「恋人はまだ待っている」
真が呟くと、福嶋が顔を上げた。
「何の呪文や」
「昂司さんが、澤田顕一郎に伝えろと言ったんです」
そうか、と福嶋は笑いを含んだ声で言った。
「どこにいるのか、知ってるんですか」
福嶋はまた例の豪快な笑いを見せた。
「兄さん、そりゃ別の話やろ。勿論知ってるで。ばばあになっても怖いくらい妖艶な女や。もっとも太りすぎて見るかたもあらへんけどな、それでも手招きされたらふらふら寄っていってしまいそうな毒虫みたいな顔しとるわ」
「その女は、澤田顕一郎を追い落とそうとしているんだ」
福嶋はニヤニヤと笑っていた。
「兄さんが熱くなることと違うわな。澤田がどうなろうと、兄さんには関係あらへんやろ。あれは男と女の問題や。ほっとき」
真がどういう反応をしていいのか分からずに首を横に振ると、福嶋が真をベッドに横たえた。太い指がゆっくりとした速度でベルトの金具をいじり、外している。下げられたジッパーの内側に大きな手が滑り込み、下着の上から真を擦り始めた。
「今からな、別のビデオ見せたるわ。その前に、兄さん、自分が犯られてるとこ、見るか? それ見たら、兄さんの恋人がどんな気持ちやったか、ようわかるかも知れへんで」
真は福嶋を睨んだだけだった。
「自分が突っ込まれてるとこ見るんはさすがに気色悪いか。せやけど、もう一本のほうは、見といたほうがええ。兄さんかて知りたいやろ。恋人がどんなふうに犯られたんか」
真はスクリーンを睨んでいた。福嶋の手が下着の下に侵入して直接触れたとき、真のものは半分勃ちあがっていた。それは怒りのために脳の中にぶちまけられたアドレナリンのせいだった。身体が固くなり、硬直した筋肉がそのまま性器まで締め上げたような気がした。
部屋の中に別の男の気配があり、事務的に映写機を操作していた。真は目だけはスクリーンから離さなかった。
画面に、見覚えのある佐渡の地下の洞窟が映っていた。イエス・キリストの目、絶望と神への失望と困惑のために血走り、空を見上げた目が映し出されている。地面から掘り出された形のままの石の祭壇の上に、竹流の身体は横たえられていた。意識は確かなのか、身体だけが動かないのか、目は忙しく動いている。光がその綺麗な青灰色の目を探り出す。
『急所は外してあげるからね。安心しておいで』
ナイフが竹流の身体を滑っている。赤い筋が幾つも皮膚に浮かび上がる。そして唐突に僅かに皮膚を削ぐように右の二の腕に突き立った。竹流の身体が大きく揺れる。
真は自分の身体も抉られたような振動を感じ、息を飲み込んだ。福嶋の指が真の後ろに侵入していた。
「まだ柔らかいやないか。ここは昨日のことを覚えとるんやろ。兄さん、クスリ使いたかったら言いや。もっとええ気持ちになれるで」
真は答えなかった。目と頭はスクリーンから外すこともできなかった。薬など使わなくても、脳は十分に興奮していた。興奮の内容と種類は別のものだったかもしれないが、身体に表れた結果は同じだった。
それから一体何度、竹流の身体は傷つけられ、火を押し付けられ、爪にも杭を打ち込まれたのか、その都度真は自分の身体も同じように痛みに突き破られそうになるのを感じた。
福嶋はビデオの進行を確かめるようにしながら、執拗に真の身体を撫で回していた。後ろに捻じ込まれた指は三本に増え、真にとって最も敏感な場所をもう知っている、というように的確に刺激していた。真の性器は硬くなって勃ち上がり反り返り、凶器に姿を変えている。
『可哀相に、痛いだろうね』
ねっとりとした声と共に傷を手当している手は、時折傷に爪を立てて血を誘い出している。その都度、苦しげな竹流の呻き声が真の耳を刺激した。
『さあ、少し回りが騒がしくなってきたからね、別の場所に行こうか。ここはいい場所だけどね。このイエス・キリストの目はいいね。誰かを愛して憎み、一緒に地獄へ引きずり降ろそうとしている目だよ。淫乱で官能的だ。死の恐怖に絶望しているのに、興奮もしている。君にも直ぐに同じ気持ちが味わえるよ。いや、これは君自身の顔だね。綺麗な顔だが、心の内に悪魔を飼っている』
切り替わった画面は、狭い箱の中のようだった。これが寺崎孝雄の持つ撮影所、つまり大型トラックの中なのだろうということは容易に見て取れた。
『そうそう、薬は何時切れるか分からないからね。足が先だね』
太い男たちの腕が何本か竹流の下肢に重なった。膝の関節を押さえる手と、足首を捻るような手。やがて異様な掛け声と共に下腿が捻られた。竹流は叫んだのか、声も出なかったのか、気味が悪いほど他の音は消えていて、明らかにばきっという太い枝が折れるような音だけが響いた。
真の身体は完全に硬直し息は荒くなった。福嶋が何をしているのかもう分からなくなっていた。
『今からその特別なパーティーを始めよう』
竹流の目の前の壁がスクリーンになった。
真はその時初めて、自分が犯されている姿を見た。真の目は、画面の中のスクリーンを見つめている竹流の目に釘付けになっていた。竹流の口には布切れが押し込まれ、叫ぼうにも叫べずに、時々嗚咽と共に身体が揺れるのが分かった。
竹流の目は怒りに震えていた。狂ったように咽喉の奥で叫ぶ声まで聞こえるような気がした。
だが何よりも、真は二重の映像の中にいる自分自身の目の中に、快楽を貪るような異常な光を見てしまい、恐ろしくなった。竹流は気が付いていると思った。
この顔を、今福嶋の前に晒しているのだ。それは絶望と諦めの気持ちに近かった。この映像の中の真自身は薬を使われているのは分かっていた。だが、昨日から福嶋はそういう類のものを使っているわけでもないのに、真の身体は勝手に興奮しているのだ。
俺は、誰のものでも銜え込んで興奮することができる。そして多分、平気で人を殺せる。
真はそう思って、笑った。
分自身を嘲る笑いだったのか、ただ身体のうちに流れるろくでもない血の滾りに興奮した笑いだったのか、自分でも分からなかった。その時真が自分の顔を見ていたら、その凄絶な殺気に自分で恐ろしくなっていたかもしれない。
まさに、セックスで興奮するということと、人を殺すということは、同じ平面の上にあることに思えた。それは、女の身体を抱いている時には決して感じないことだった。
女の身体が与えてくれるものが平和と安らぎと、子孫をこの世に残すための救いなのだとしたら、女の身体に入っている時にこのような残忍な気持ちにならないことは納得ができた。
昔から戦の時に、武将の相手をする小姓が連れて行かれていたのは、女を戦場に連れて行けないからではない。女がいれば戦意が削がれるからだ。男の身体を責める限り、それは戦いに興奮する漲る力を与えてくれる。
真は自分の身体に男を受け入れながら、自分自身が凶器になり、敵を突き殺すエネルギーを与えられていることをはっきりと感じていた。抱くか抱かれるかは関係がなかった。この男同士の行為には、女の代わりという側面はない。まさに福嶋の言うとおり、別のものだった。
映像の中に年配の身体の大きな男が入ってきた。『先生』と呼ばれたその男は、竹流の身体に尖った突起が幾つもついたベルトを巻きつけ、興奮した息遣いで何度も鞭を振り下ろした。竹流の身体にいく筋もの赤い傷が浮かび上がる。そのひとつひとつの傷の位置を、真は全て知っていた。
ひとつ竹流が打ち据えられるたびに、真はひとつその男の罪の数を増やし、息の根を止めてやるまでの間にその身体に突き立ててやるナイフの数を、あるいは捻じ曲げてやる骨の数を増やしていった。
『先生』と呼ばれた男は竹流の首にベルトを巻きつけた時も、明らかに息苦しさに意識を失いそうになっている竹流の姿に余計に興奮したのか、更にひとつきついほうへ穴を移した。竹流の顔はうっ血のために赤くなり、強張った。『先生』が竹流の後ろの穴を舐めているのを見たとき、真は自分のその場所にも同じような刺激を覚えた。そして、猛獣のように『先生』が竹流の身体に凶器を突っ込んだとき、真の身体の内側で明らかに地鳴りのような音を立てて切れたものがあった。
必ず、殺す。
真は自分の身体の内側に侵入してきた福嶋のものと、『先生』のものと、両方のものを粘膜の細胞ひとつひとつで締め付け、食い締めた。食い千切ろうと思っていた。目から血が流れているような気もした。福嶋の声は『先生』の声に重なり、獣が獲物を狩るときの咆哮に重なった。
「えぇ目ぇや。ぞくぞくするわ」
福嶋はこれまでにないほど興奮した声を出していた。だが、真はそれ以上に興奮していた。スクリーンの中に、竹流の両腕を押さえつけている寺崎孝雄の手を見たとき、ターゲットを確認したと思った。この手の形を、関節の形も爪の形も腕の皺も、全て完全に脳の中に刻み付けた。この手を切り落とし、骨を砕いてやろうと思っていた。
竹流はその手に押さえつけられ、けだもののような『先生』という男に後ろを抉られていた。その目のうちには快楽の一片もない。恐怖と混乱と憎しみ、そして悲しさだけだった。
真は一度も目を閉じなかった。時々福嶋の顔を見ると、福嶋は真の目を見つめたまま激しく動いていた。真は貫かれているにも関わらず、自分自身もこの男を食い尽くそうと求めているような気がした。今、真は犯されている竹流の姿を見ながら、自分が怒りと恐怖と性的な興奮の区別が全くつかなくなっていることを感じた。もしもあの場面の中に真自身がいたら、真は自分こそが竹流を犯していたかもしれないとさえ思っていた。
その男は俺のものだ。
真は腹の内で叫びながら、現実には福嶋の硬く熱い杭を締め付け、福嶋の動きに合わせながら狂ったように、自分から苦しいほどに身体を動かした。
「凄いで、兄さんの中。そうや、わしをこのまま食い殺すんや」
何度も射精した。そして何度も射精もせずに絶頂を味わった。言い訳をしないならば、実際には狂うほどに感じまくっていて、身体は快楽に溺れきっていた。
そして真は脳がある錯覚を起こしていることに気が付いた。時々吹っ飛びそうになる意識の中で、真は寺崎孝雄の身体にナイフを幾度も突き立て切り刻んでいた。そして、その男を殺すときは、多分、今感じている以上に気持ちがいいのだろうと思った。
幾種類ものビデオが回っていた。その中に、何度もサブリミナルのように竹流の映像が混じった。時々、小さな子どもが大人の相手をしている映像が混じっていた。怒りと悲しみが飽和してしまい、もう何も感じなくなっている真は、その中に見たことのあるような顔の子どもを認めた。
真がぼんやりとその顔を見つめていると、あれが昂司や、と福嶋が耳元で囁いた。
「今ではえらい図体もでかなってしもたけど、美少年やったんやで。初めて映像撮ったんは、まだ六つくらいの時ちゃうか。十の時には立派に男のもん、ケツに銜えとったわ。女相手のフィルムもよう撮らされとった。もっと小さい子どもの相手させられとったりな。さすがに淑恵ちゃんの子や。芸妓の血を引いとるさかいな、相手を楽しませることをよう知っとる。わしは聞いただけやけどな、インポになっとった孝雄も、昂司とだけはやれるって話やったで。まあ、淑恵ちゃんの子やからな」
寺崎昂司の目には光がなかった。暗く、悲しい目をしていた。
「これ、初めて男とやったときのやつらしいで」
寺崎昂司はまだ小学生の低学年に見えた。尻を上げさせられ、洗面器に張られた湯で尻の穴を温められ、ローションを絡みつかせた指を挿れられ、やがていきり立った太い男のもので容赦なく貫かれた。尻の穴からは血液が滲み出していた。映し出された寺崎昂司の幼い顔には、恐怖というよりもすでに諦観が漂っているように見えた。微かに震えている睫だけが、今身体に起こっているとてつもない不幸に対して抗議をしていた。
女たちも例外ではなかった。寺崎昂司は勃つには幼すぎる身体を痛めつけられ、性器を擦られ、肛門にはローターを入れられても、あまりにも反応がないと怪しげな薬を試されてもいるようだった。少年は懸命に女に奉仕し、自分のものが役に立たないようなら口で女たちを満足させようとしていたが、それでも勃たなければ酷い扱いを受けていた。
時には、大人たちが連れてきた、更に幼い子どもとの性行為を演じている。何かの拍子に子どもが逆らうと、映像に現れる大人が昂司を無茶苦茶に殴り、身体が裂けるほどの巨大なもので昂司の身体を貫いていた。寺崎昂司は映像の中で少しずつ老いていき、実際の年齢を何十年も飛び越えてしまうように見えた。
あまりにも痛ましい光景に、真は幾度か目を開けたまま自分自身が失神しているのかもしれないと思った。寺崎昂司の顔を見ながら、真は自分が悲しいのか、とてつもなく怒っているのか、もう分からなくなっていた。ただ身体は興奮し続けていた。
性的な興奮を覚えていたというよりも、放出され続けているアドレナリンが、脳と身体の反応をあちこちで取り違えてしまい、交錯した神経細胞とその伝達物質の全てが絡まって解けなくなっているような状態だった。
正気を取り戻して時々福嶋を見ると、愛しむような顔をしていたり、面白がるような顔をしていたり、駆り立てるような顔をしていたりした。そのどの表情にも、真は大きく揺れ動かされた。福嶋が真の足を抱え上げ、更に深く抉るたびに、もっと奥まで突いてくれ、できれば突き殺してくれと思った。頭が冷静なまま、極度の興奮の波が押し寄せ続け、真は腹の粘膜全てが狂っているのを感じた。
心は何も感じていないと思っていたのに、実際には涙が止め処なく流れていた。福嶋が何度も真を貫きながらも、時々その涙を指や舌で拭っていた。それでも真は映像を見るのを止めなかった。網膜は幾重にも恐ろしい光景を積み重ね、どれが実際に今視覚が捉えているものか、わからなくなっていた。そして徐々に、痛ましい光景自体が現実のものかどうか分からなくなり、身体の内側が固く冷たくなっていった。そこには、もう感じるための心は無かった。
意識が明瞭になったとき、真は福嶋と一緒にバスルームにいた。いつの間にか夜が明けていた。
福嶋は真の身体に指を挿入し、真が気が付いたのを見て、腹に力を入れるように言った。言われるままにわけもわからず力を入れると、ずるりと濃い液体が流れ出すのが分かる。時々はしたない音が混じったが、真は何も感じなかった。
「事が納まったら、またわしが可愛がったろ。昨夜の兄さんは最高やったわ。わしもこんなんは初めてや」
福嶋はまるで召使になったかのように、自ら真の身体を大きなタオルで丁寧に拭き、広い洗面室の椅子に真を座らせると、ドライヤーで髪を乾かし、大きな自分の身体に靠れ掛からせるようにして真の頬と顎にシェイビングクリームを塗って、ゆっくりと髭をあたった。剃刀の刺激は滑らかで、真は目を閉じて福嶋に全てを預けた。福嶋のゴツい手が時々真の首筋を愛撫する。
ふと目を開けて鏡を見ると、福嶋もまた鏡の中に写る自分たちの姿を見つめていた。
部屋に戻ると、黙って用意された服を着る。一揃いのスーツは、珠恵が用意したものよりはずっとタイトで、真の身体の線を浮かび上がらせるようなものだった。ネクタイはいらんやろ、と言いながら、福嶋はサイドテーブルから取り上げた、黒く重い塊を真の手掌に押し付けた。
真は暫くその冷たさと重みを噛み締めていたが、やがて静かに福嶋にそれを返した。
「なんや、いらんのんか。持ってて損はないで」
「直接、この手で絞め殺す」
真自身の声は、空洞のようになってしまった身体の内側に、乾いて響いた。福嶋は満足げな顔で頷いた。
「せやけど珠恵ちゃんの匕首は持っていきや。ほんまに、祇園のおなごはあなどれんわ。惚れた男のためやったら、例えばこうやって兄さんを人身御供に差し出すことかて平気や」
福嶋は自分が真に差し出した匕首にちらりと視線を送り、頷くようにして付け加えた。
「いや、兄さんと珠恵ちゃんは一蓮托生なんかもしれへんな」
それが珠恵のものだとどうして分かったのだろうと思いながら受け取ったとき、鞘に刻まれた、何かの花の紋が目に入った。
花は動けないが、植物は種の保存のために動かないという選択をした時点で、生物学的に動物には考えられない覚悟を決めたのだろう。
その花の紋に慰められるように、今となってはすっかり穏やかで平坦な感情に満たされていた。真は抱きしめるように、匕首をスーツの下に忍ばせた。
(第32章『焼ける』了、第33章へつづく)




もう少しだけ、苦しいシーンにお付き合いください。
次回から第33章『太陽の破片』です。こちらの曲を聴きまくりながら書いておりました。尾崎豊さんの『太陽の破片』。
これ、いいんかな。普通にプロモーションビデオなんだけれど、今だったら引っかかりそう。
ちなみに何故か3:10あたりまではホルスト『惑星』のジュピターが流れておりまして、『太陽の破片』自体はその後です。かっ飛ばしてくださってもいいように思います。
<次回予告>
「動くな」
低いどすの利いた声は自分のものとも思えなかった。
今、俺は人殺しの血で喋っている。真はそう思い、自らの身体のうちにある人殺しの男の血に感謝さえした。
真は寺崎孝雄に笑いかけてやった。左手をそのけがらわしい男の首にかけて、思い切り締める。手の全ての筋肉が今まで出したこともない力と巧妙さを示し、甲の血管は太く浮き上がった。瞬間、寺崎孝雄はうぐ、と呻き、手を真の方へ振り上げようとした。真には何の躊躇いもなかった。匕首を振り上げると、男の右の二の腕に突き立てた。寺崎孝雄は狂ったような叫びを上げた。
「俺が躊躇していると思うなよ。一思いに殺したくないだけだ」



また画面が乱れた。
そこから先は常に画面が振動していた。手振れなのか、その場所自体が揺れているのか、小刻みな振動の中で、女の身体は何かの上で踊っていた。オレンジ色の明りが狭い空間を染め上げている。
周囲に映っているものは、形も大きさも色も曖昧で、薄暗い闇の中で犇めいて何かを押しつぶそうとしているように見えた。中央に置かれた台の上で、女の身体は上下に左右に揺れ続けていた。オレンジの明りの中、女の身体に大小の黒い染みが幾つも沈んでいる。それは深い穴倉のようで、その先はただの闇だった。
真は歯がかみ合わなくなってくるのを感じた。
女の身体の下に男がいた。寺崎昂司ではない、別の男の顔が映し出されたとき、真の身体は完全に凍りついた。
男の目は薄く光を吸い込んでいるが、跳ね返すだけの力はなかった。オレンジの曖昧な光の中で、男の淡い金の髪は軽くウェーヴして薄く、頼りなく、光に溶け入っていた。彼の目には何も映っていなかった。既にこの世から零れ落ちて、虚ろに空を彷徨う儚い光は、ただ小刻みに震え続けていた。
女と男の身体が繋がったその場所へ画面が移動していく。女は黒い染みのような蜜で男の下半身を染め上げている。女の子宮から溢れ続けているものは、女の意識を徐々に遠くへ持ち去ろうとしているようだった。
まともな意識だったらきっと吐いていただろう。自らの子宮から血を流しながら男の性器を銜えている女の目は、既にこの世のものではなく魔物だった。
だが一方で、真はこの女を羨ましいと思っていることに気が付いていた。愛する男を死ぬまで自分の身体のうちに銜えて、この世から零れていく意識の中でまだ男を貪りつくしている。志穂は残酷だと言ったが、この女は悦んでいると思った。
やがて女は、この場面の中に存在する別の誰かの手からナイフをもぎ取り、自分の体の下に横たわる男の首筋を、そのナイフで撫でるようにした。女の意識も既に零れ落ちているのだろうし、身体は下がり続ける血圧のせいで大きく揺れていた。女が男の首にナイフをつき降ろそうとしているのか、それともただ死の舞を踊っているのか、よく分からなかった。
だが女はついに男の心臓を捕らえ、ナイフを振り上げた。
見開いた女の目は既に事切れていたのかもしれない。だが女の腕は明らかな意思を持っていて、ナイフを男の心臓に振り下ろそうとした。
実際にはそれほどのスピードを出す力は、女には残っていなかった。
別の誰かの手が女の持つナイフに添えられ、そのまま女自身の心臓の方へ向きを変えた。女は目を見開いたまま、うっとりと涎と血を流し、倒れるのでもなく自らの胸でナイフを受け止めた。
画面は長い時間止まっているようにすら見えた。やがて真は人の声で我に返った。
『このままにしとくか。どうせこの男ももう長くないやろ。女の子宮と血の中で男をぶっ勃てたまま固まるのも、悪くない。死後硬直したら抜けなくなるやろし、ちょっとした見世物や。しっかり撮っとけよ』
冷酷な声は聞いたことのないものだった。
『それとも、惚れた女が別の男と繋がったまま死んで、男のほうもおっ勃ったまま逝っちまうのは、お前としても許せへんか。まぁ、お前の好きにしたらええけどな。あぁあ、えらい血まみれやな。久しぶりや、こんなに凄いのは。犠牲者自らこうしたい言うたんやから、しょうがないけど。後、どないするんや』
『古い神社の跡があるんだ。そこに連れて行って、木に吊るして映したらどうだろう。そういうのが好きな客がいるだろう』
口笛の音のようなひゅーと甲高い息の音が混じる。
『お前も怪奇趣味やな。ええで。最近ここまで濃いフィルム、少なかったから、お客も喜ぶやろ。ついでに儀式に何人か呼んだろか。喜びよるやろ』
複数の人間がいるのだ。やがて切り替わった画面には、道路脇から少し切り立った崖が映り、本来人が踏むこむべきではないけもの道に分け入る足元が見えた。既に事切れている女と、まだ辛うじてこの世に魂を残している男が、引きずられていく。やがて彼らは、真にも見覚えのある、今はただ結界を示す注連縄だけが廻らされた古い祈祷所に辿り着いた。
暗がりの中で、ほとんど明りもないため、画面はただ暗く、人の数も表情も何も見分けられなかった。女の身体は大きな木に結わえ付けられ、足下の祭壇のような石に、四角いものが置かれている。女が描いたフェルメールの贋作だった。誰かが結界の中に、巨大な五芒星を描いている。男の身体が、完全な裸体のまま、五芒星に重ねられる。
その時、突然明りが宙を舞い、ライトが女の顔を映し出した。
女は微笑んでいた。まだ子宮の内側が男で満たされ、絶頂の中にいるようなうっとりとした表情だった。厚めの唇の端からは血が滴り、何度でも男のものを銜えたいというように微かに開かれていて、目はカメラの向こうにいるはずの男を求め続けていた。
次に移動したライトは死に瀕した男の顔を探った。
男は微かに胸を上下させていたが、その息は浅く、形のいい唇にはすっかり血の気はなかった。女の目よりも遥かに彼方を見遣る目は、既にあの深い海の青を失っているように見えた。画面に映し出された身体には無数の傷、火傷の瘢、そしてカメラが包帯も何もない右手を映し出す。
傷ついた右手には、新たに印が刻まれたようで、まだ新しい血がこびり付いていた。イエス・キリストの手のひらに討ちこまれた杭の瘢。まさにそれは神の子どもをこの世に引きずり落として冒涜した人間の罪の瘢だった。そして不自然な向きに歪められた右の足。
真は腹の中で黒い渦が大きく、重くなっていくのを感じた。
『やっぱり繋がったままのほうが面白い絵やった気がするけどな』
声は冷たく、腹に食い込むようだった。
『お前、こんな呪術みたいなことして、この男が生き延びるなんて思てるんとちゃうやろな。見てみ、もう息も絶え絶えや。あと数時間ももたへんで。それとも最期まで見守っといてやろういうんか』
喋り続けている男が五芒星の傍にしゃがみこみ、横たわる男の右の手の平に指を捻じ込むような仕草をした。
『昂司、親父はお前がかわいいんやで。こんな男にいつまでもうつつ抜かさんと、思い切ってお前の手で止め刺したったらどうや。突っ込みたいんやったらもう一回したれや。まだ勃っとるし、薬が効いとるみたいやから、あっちもまだ締まりがええかもしれへんで』
その男の指は、横たわっている男の傷の痕をひとつひとついたぶるように、更に傷つけている。
『ほんまに、こうなってもまだ綺麗な身体しとるな。生まれが違うゆうんは、こういうことなんか。こんな上質の犠牲者は初めてやからな、親父も、先生方もそりゃ興奮しまくっとったで。これで足がついて仕事がやばくなってもかまへんくらいの勢いや。まあ、この男は東海林珠恵をたらしこんで、囲うて玩具にしながら、別の男と一緒に住んで、公衆の面前で愛してるなんて抜かしとるような野郎やからな、親父かて可愛い珠恵ちゃんのためにもこの男を裁かなあかん、思ってるんや。お前の姉さんのためやで』
わずかに、横たわった男の唇が動いたような気がした。暫く沈黙が続き、やがてがさがさと風が草木を揺らすような音が聞こえ始めた。
その時、影がゆらりと動いて、喋り続けていた男を押しのけ、横たわった男の唇に指で触れた。カメラは追いかけるように横たわる男を映し続けている。
『カメラ、止めてくれ』
底から響くような声だった。
カメラは回ったままだったが、照明が落とされたために、画面が漆黒になった。しかし、闇の中で、血の臭いを嗅ぎつけた野良犬や野良猫、あるいは猛禽が襲ってくるような息遣いが漆黒の闇を揺らしていた。
突然、その闇の中で、激しい息遣いと悲鳴が入り混じった。悲鳴は断続的になり、照明が戻されたのか、ただ目が慣れたのか分からない薄闇の中で、少しずつカメラは犠牲者に近付いているようだった。
薄闇の中で上下する犠牲者の胸は、ほとんど断末魔の息のように見える。唇はもう声を発することができず、音声にはならない呻きを零すばかりだった。
その頼りない呻きの中に、実際には聞き取れないような周波数で、竹流、と呼びかけた悲しげな優しい声が沈んだ。死に瀕し横たわった男の目が、微かに感情を帯び、声の主を探すように彷徨う。
坊主を連れてきてやる。運命が味方すれば、あるいはそれが必然なら、お前はもう一度あいつの顔を見ることができるだろう。
影は本当にそれだけの言葉を言ったのか、真の耳がおかしくなって聞こえぬはずの声を聞き届けたのか、それはよく分からなかった。
横たわる男の唇が何かを震えながら戦慄いている。
しぬな。おれのそばにいろ。こうじ。
真は、意識が崩れ落ちかかっている男の唇が動く形を読み取った。影はその唇にそっと重なり、やがて明りが落とされた。
あとは画面が乱れて、そのうち途切れた。
画面を見ていただけなのに、全力疾走した後のような疲労感で、真は立ち上がることもできず、今はもう何も映っていないスクリーンを睨んでいた。
ドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた時も、全く気が付かなかった。
「なんや、見終わったんか。参考になったか」
福嶋の声だった。福嶋は部屋に入ると、明りもつけずに、上着を脱ぎネクタイを解いて、真の横に座った。ベッドが大きく沈む。福嶋はぐいと真を抱き寄せた。
「抱いたろ」
そう言った福嶋の手が真のシャツのボタンにかかる。
「あの男は誰です?」
「男? あぁ、昂司と一緒におったやつか。ありゃ、寺崎孝雄のもう一人の息子や。昂司の兄貴やな。寺崎かて始めからインポやったんとちゃう。恋焦がれた淑恵ちゃんを手に入れて抱いてから、わけ分からんようになってしもたんや。淑恵ちゃんは、娘の珠恵ちゃんがおらんかったら、その場で自分の咽喉掻き切って死ぬ気ぃやったんやろな。孝雄には可哀相やけどな、切ない片想いや。しかも力ずくともなったら、淑恵ちゃんがあいつにどないな態度やったか、想像がつくわな。おかしいもなる、ゆうことや。その息子は和徳ゆうてな、ある意味、ええ男やで。孝雄より肝が据わっとるし、残忍や。実質、この残酷ビデオ事業はな、和徳と村野花がやってるようなもんや。村野花が案を出してな、犠牲者も選んで、和徳はプロデューサー兼監督やな。その二人に比べたら、寺崎孝雄なんぞ可愛いもんや」
真は福嶋に視線を移した。
「村野花」呟いて、福嶋の目を見る。「やはり生きているんですね」
真の唇を福嶋は吸い、肩からシャツを落とし、鎖骨の上を愛撫した。
「恋人はまだ待っている」
真が呟くと、福嶋が顔を上げた。
「何の呪文や」
「昂司さんが、澤田顕一郎に伝えろと言ったんです」
そうか、と福嶋は笑いを含んだ声で言った。
「どこにいるのか、知ってるんですか」
福嶋はまた例の豪快な笑いを見せた。
「兄さん、そりゃ別の話やろ。勿論知ってるで。ばばあになっても怖いくらい妖艶な女や。もっとも太りすぎて見るかたもあらへんけどな、それでも手招きされたらふらふら寄っていってしまいそうな毒虫みたいな顔しとるわ」
「その女は、澤田顕一郎を追い落とそうとしているんだ」
福嶋はニヤニヤと笑っていた。
「兄さんが熱くなることと違うわな。澤田がどうなろうと、兄さんには関係あらへんやろ。あれは男と女の問題や。ほっとき」
真がどういう反応をしていいのか分からずに首を横に振ると、福嶋が真をベッドに横たえた。太い指がゆっくりとした速度でベルトの金具をいじり、外している。下げられたジッパーの内側に大きな手が滑り込み、下着の上から真を擦り始めた。
「今からな、別のビデオ見せたるわ。その前に、兄さん、自分が犯られてるとこ、見るか? それ見たら、兄さんの恋人がどんな気持ちやったか、ようわかるかも知れへんで」
真は福嶋を睨んだだけだった。
「自分が突っ込まれてるとこ見るんはさすがに気色悪いか。せやけど、もう一本のほうは、見といたほうがええ。兄さんかて知りたいやろ。恋人がどんなふうに犯られたんか」
真はスクリーンを睨んでいた。福嶋の手が下着の下に侵入して直接触れたとき、真のものは半分勃ちあがっていた。それは怒りのために脳の中にぶちまけられたアドレナリンのせいだった。身体が固くなり、硬直した筋肉がそのまま性器まで締め上げたような気がした。
部屋の中に別の男の気配があり、事務的に映写機を操作していた。真は目だけはスクリーンから離さなかった。
画面に、見覚えのある佐渡の地下の洞窟が映っていた。イエス・キリストの目、絶望と神への失望と困惑のために血走り、空を見上げた目が映し出されている。地面から掘り出された形のままの石の祭壇の上に、竹流の身体は横たえられていた。意識は確かなのか、身体だけが動かないのか、目は忙しく動いている。光がその綺麗な青灰色の目を探り出す。
『急所は外してあげるからね。安心しておいで』
ナイフが竹流の身体を滑っている。赤い筋が幾つも皮膚に浮かび上がる。そして唐突に僅かに皮膚を削ぐように右の二の腕に突き立った。竹流の身体が大きく揺れる。
真は自分の身体も抉られたような振動を感じ、息を飲み込んだ。福嶋の指が真の後ろに侵入していた。
「まだ柔らかいやないか。ここは昨日のことを覚えとるんやろ。兄さん、クスリ使いたかったら言いや。もっとええ気持ちになれるで」
真は答えなかった。目と頭はスクリーンから外すこともできなかった。薬など使わなくても、脳は十分に興奮していた。興奮の内容と種類は別のものだったかもしれないが、身体に表れた結果は同じだった。
それから一体何度、竹流の身体は傷つけられ、火を押し付けられ、爪にも杭を打ち込まれたのか、その都度真は自分の身体も同じように痛みに突き破られそうになるのを感じた。
福嶋はビデオの進行を確かめるようにしながら、執拗に真の身体を撫で回していた。後ろに捻じ込まれた指は三本に増え、真にとって最も敏感な場所をもう知っている、というように的確に刺激していた。真の性器は硬くなって勃ち上がり反り返り、凶器に姿を変えている。
『可哀相に、痛いだろうね』
ねっとりとした声と共に傷を手当している手は、時折傷に爪を立てて血を誘い出している。その都度、苦しげな竹流の呻き声が真の耳を刺激した。
『さあ、少し回りが騒がしくなってきたからね、別の場所に行こうか。ここはいい場所だけどね。このイエス・キリストの目はいいね。誰かを愛して憎み、一緒に地獄へ引きずり降ろそうとしている目だよ。淫乱で官能的だ。死の恐怖に絶望しているのに、興奮もしている。君にも直ぐに同じ気持ちが味わえるよ。いや、これは君自身の顔だね。綺麗な顔だが、心の内に悪魔を飼っている』
切り替わった画面は、狭い箱の中のようだった。これが寺崎孝雄の持つ撮影所、つまり大型トラックの中なのだろうということは容易に見て取れた。
『そうそう、薬は何時切れるか分からないからね。足が先だね』
太い男たちの腕が何本か竹流の下肢に重なった。膝の関節を押さえる手と、足首を捻るような手。やがて異様な掛け声と共に下腿が捻られた。竹流は叫んだのか、声も出なかったのか、気味が悪いほど他の音は消えていて、明らかにばきっという太い枝が折れるような音だけが響いた。
真の身体は完全に硬直し息は荒くなった。福嶋が何をしているのかもう分からなくなっていた。
『今からその特別なパーティーを始めよう』
竹流の目の前の壁がスクリーンになった。
真はその時初めて、自分が犯されている姿を見た。真の目は、画面の中のスクリーンを見つめている竹流の目に釘付けになっていた。竹流の口には布切れが押し込まれ、叫ぼうにも叫べずに、時々嗚咽と共に身体が揺れるのが分かった。
竹流の目は怒りに震えていた。狂ったように咽喉の奥で叫ぶ声まで聞こえるような気がした。
だが何よりも、真は二重の映像の中にいる自分自身の目の中に、快楽を貪るような異常な光を見てしまい、恐ろしくなった。竹流は気が付いていると思った。
この顔を、今福嶋の前に晒しているのだ。それは絶望と諦めの気持ちに近かった。この映像の中の真自身は薬を使われているのは分かっていた。だが、昨日から福嶋はそういう類のものを使っているわけでもないのに、真の身体は勝手に興奮しているのだ。
俺は、誰のものでも銜え込んで興奮することができる。そして多分、平気で人を殺せる。
真はそう思って、笑った。
分自身を嘲る笑いだったのか、ただ身体のうちに流れるろくでもない血の滾りに興奮した笑いだったのか、自分でも分からなかった。その時真が自分の顔を見ていたら、その凄絶な殺気に自分で恐ろしくなっていたかもしれない。
まさに、セックスで興奮するということと、人を殺すということは、同じ平面の上にあることに思えた。それは、女の身体を抱いている時には決して感じないことだった。
女の身体が与えてくれるものが平和と安らぎと、子孫をこの世に残すための救いなのだとしたら、女の身体に入っている時にこのような残忍な気持ちにならないことは納得ができた。
昔から戦の時に、武将の相手をする小姓が連れて行かれていたのは、女を戦場に連れて行けないからではない。女がいれば戦意が削がれるからだ。男の身体を責める限り、それは戦いに興奮する漲る力を与えてくれる。
真は自分の身体に男を受け入れながら、自分自身が凶器になり、敵を突き殺すエネルギーを与えられていることをはっきりと感じていた。抱くか抱かれるかは関係がなかった。この男同士の行為には、女の代わりという側面はない。まさに福嶋の言うとおり、別のものだった。
映像の中に年配の身体の大きな男が入ってきた。『先生』と呼ばれたその男は、竹流の身体に尖った突起が幾つもついたベルトを巻きつけ、興奮した息遣いで何度も鞭を振り下ろした。竹流の身体にいく筋もの赤い傷が浮かび上がる。そのひとつひとつの傷の位置を、真は全て知っていた。
ひとつ竹流が打ち据えられるたびに、真はひとつその男の罪の数を増やし、息の根を止めてやるまでの間にその身体に突き立ててやるナイフの数を、あるいは捻じ曲げてやる骨の数を増やしていった。
『先生』と呼ばれた男は竹流の首にベルトを巻きつけた時も、明らかに息苦しさに意識を失いそうになっている竹流の姿に余計に興奮したのか、更にひとつきついほうへ穴を移した。竹流の顔はうっ血のために赤くなり、強張った。『先生』が竹流の後ろの穴を舐めているのを見たとき、真は自分のその場所にも同じような刺激を覚えた。そして、猛獣のように『先生』が竹流の身体に凶器を突っ込んだとき、真の身体の内側で明らかに地鳴りのような音を立てて切れたものがあった。
必ず、殺す。
真は自分の身体の内側に侵入してきた福嶋のものと、『先生』のものと、両方のものを粘膜の細胞ひとつひとつで締め付け、食い締めた。食い千切ろうと思っていた。目から血が流れているような気もした。福嶋の声は『先生』の声に重なり、獣が獲物を狩るときの咆哮に重なった。
「えぇ目ぇや。ぞくぞくするわ」
福嶋はこれまでにないほど興奮した声を出していた。だが、真はそれ以上に興奮していた。スクリーンの中に、竹流の両腕を押さえつけている寺崎孝雄の手を見たとき、ターゲットを確認したと思った。この手の形を、関節の形も爪の形も腕の皺も、全て完全に脳の中に刻み付けた。この手を切り落とし、骨を砕いてやろうと思っていた。
竹流はその手に押さえつけられ、けだもののような『先生』という男に後ろを抉られていた。その目のうちには快楽の一片もない。恐怖と混乱と憎しみ、そして悲しさだけだった。
真は一度も目を閉じなかった。時々福嶋の顔を見ると、福嶋は真の目を見つめたまま激しく動いていた。真は貫かれているにも関わらず、自分自身もこの男を食い尽くそうと求めているような気がした。今、真は犯されている竹流の姿を見ながら、自分が怒りと恐怖と性的な興奮の区別が全くつかなくなっていることを感じた。もしもあの場面の中に真自身がいたら、真は自分こそが竹流を犯していたかもしれないとさえ思っていた。
その男は俺のものだ。
真は腹の内で叫びながら、現実には福嶋の硬く熱い杭を締め付け、福嶋の動きに合わせながら狂ったように、自分から苦しいほどに身体を動かした。
「凄いで、兄さんの中。そうや、わしをこのまま食い殺すんや」
何度も射精した。そして何度も射精もせずに絶頂を味わった。言い訳をしないならば、実際には狂うほどに感じまくっていて、身体は快楽に溺れきっていた。
そして真は脳がある錯覚を起こしていることに気が付いた。時々吹っ飛びそうになる意識の中で、真は寺崎孝雄の身体にナイフを幾度も突き立て切り刻んでいた。そして、その男を殺すときは、多分、今感じている以上に気持ちがいいのだろうと思った。
幾種類ものビデオが回っていた。その中に、何度もサブリミナルのように竹流の映像が混じった。時々、小さな子どもが大人の相手をしている映像が混じっていた。怒りと悲しみが飽和してしまい、もう何も感じなくなっている真は、その中に見たことのあるような顔の子どもを認めた。
真がぼんやりとその顔を見つめていると、あれが昂司や、と福嶋が耳元で囁いた。
「今ではえらい図体もでかなってしもたけど、美少年やったんやで。初めて映像撮ったんは、まだ六つくらいの時ちゃうか。十の時には立派に男のもん、ケツに銜えとったわ。女相手のフィルムもよう撮らされとった。もっと小さい子どもの相手させられとったりな。さすがに淑恵ちゃんの子や。芸妓の血を引いとるさかいな、相手を楽しませることをよう知っとる。わしは聞いただけやけどな、インポになっとった孝雄も、昂司とだけはやれるって話やったで。まあ、淑恵ちゃんの子やからな」
寺崎昂司の目には光がなかった。暗く、悲しい目をしていた。
「これ、初めて男とやったときのやつらしいで」
寺崎昂司はまだ小学生の低学年に見えた。尻を上げさせられ、洗面器に張られた湯で尻の穴を温められ、ローションを絡みつかせた指を挿れられ、やがていきり立った太い男のもので容赦なく貫かれた。尻の穴からは血液が滲み出していた。映し出された寺崎昂司の幼い顔には、恐怖というよりもすでに諦観が漂っているように見えた。微かに震えている睫だけが、今身体に起こっているとてつもない不幸に対して抗議をしていた。
女たちも例外ではなかった。寺崎昂司は勃つには幼すぎる身体を痛めつけられ、性器を擦られ、肛門にはローターを入れられても、あまりにも反応がないと怪しげな薬を試されてもいるようだった。少年は懸命に女に奉仕し、自分のものが役に立たないようなら口で女たちを満足させようとしていたが、それでも勃たなければ酷い扱いを受けていた。
時には、大人たちが連れてきた、更に幼い子どもとの性行為を演じている。何かの拍子に子どもが逆らうと、映像に現れる大人が昂司を無茶苦茶に殴り、身体が裂けるほどの巨大なもので昂司の身体を貫いていた。寺崎昂司は映像の中で少しずつ老いていき、実際の年齢を何十年も飛び越えてしまうように見えた。
あまりにも痛ましい光景に、真は幾度か目を開けたまま自分自身が失神しているのかもしれないと思った。寺崎昂司の顔を見ながら、真は自分が悲しいのか、とてつもなく怒っているのか、もう分からなくなっていた。ただ身体は興奮し続けていた。
性的な興奮を覚えていたというよりも、放出され続けているアドレナリンが、脳と身体の反応をあちこちで取り違えてしまい、交錯した神経細胞とその伝達物質の全てが絡まって解けなくなっているような状態だった。
正気を取り戻して時々福嶋を見ると、愛しむような顔をしていたり、面白がるような顔をしていたり、駆り立てるような顔をしていたりした。そのどの表情にも、真は大きく揺れ動かされた。福嶋が真の足を抱え上げ、更に深く抉るたびに、もっと奥まで突いてくれ、できれば突き殺してくれと思った。頭が冷静なまま、極度の興奮の波が押し寄せ続け、真は腹の粘膜全てが狂っているのを感じた。
心は何も感じていないと思っていたのに、実際には涙が止め処なく流れていた。福嶋が何度も真を貫きながらも、時々その涙を指や舌で拭っていた。それでも真は映像を見るのを止めなかった。網膜は幾重にも恐ろしい光景を積み重ね、どれが実際に今視覚が捉えているものか、わからなくなっていた。そして徐々に、痛ましい光景自体が現実のものかどうか分からなくなり、身体の内側が固く冷たくなっていった。そこには、もう感じるための心は無かった。
意識が明瞭になったとき、真は福嶋と一緒にバスルームにいた。いつの間にか夜が明けていた。
福嶋は真の身体に指を挿入し、真が気が付いたのを見て、腹に力を入れるように言った。言われるままにわけもわからず力を入れると、ずるりと濃い液体が流れ出すのが分かる。時々はしたない音が混じったが、真は何も感じなかった。
「事が納まったら、またわしが可愛がったろ。昨夜の兄さんは最高やったわ。わしもこんなんは初めてや」
福嶋はまるで召使になったかのように、自ら真の身体を大きなタオルで丁寧に拭き、広い洗面室の椅子に真を座らせると、ドライヤーで髪を乾かし、大きな自分の身体に靠れ掛からせるようにして真の頬と顎にシェイビングクリームを塗って、ゆっくりと髭をあたった。剃刀の刺激は滑らかで、真は目を閉じて福嶋に全てを預けた。福嶋のゴツい手が時々真の首筋を愛撫する。
ふと目を開けて鏡を見ると、福嶋もまた鏡の中に写る自分たちの姿を見つめていた。
部屋に戻ると、黙って用意された服を着る。一揃いのスーツは、珠恵が用意したものよりはずっとタイトで、真の身体の線を浮かび上がらせるようなものだった。ネクタイはいらんやろ、と言いながら、福嶋はサイドテーブルから取り上げた、黒く重い塊を真の手掌に押し付けた。
真は暫くその冷たさと重みを噛み締めていたが、やがて静かに福嶋にそれを返した。
「なんや、いらんのんか。持ってて損はないで」
「直接、この手で絞め殺す」
真自身の声は、空洞のようになってしまった身体の内側に、乾いて響いた。福嶋は満足げな顔で頷いた。
「せやけど珠恵ちゃんの匕首は持っていきや。ほんまに、祇園のおなごはあなどれんわ。惚れた男のためやったら、例えばこうやって兄さんを人身御供に差し出すことかて平気や」
福嶋は自分が真に差し出した匕首にちらりと視線を送り、頷くようにして付け加えた。
「いや、兄さんと珠恵ちゃんは一蓮托生なんかもしれへんな」
それが珠恵のものだとどうして分かったのだろうと思いながら受け取ったとき、鞘に刻まれた、何かの花の紋が目に入った。
花は動けないが、植物は種の保存のために動かないという選択をした時点で、生物学的に動物には考えられない覚悟を決めたのだろう。
その花の紋に慰められるように、今となってはすっかり穏やかで平坦な感情に満たされていた。真は抱きしめるように、匕首をスーツの下に忍ばせた。
(第32章『焼ける』了、第33章へつづく)



もう少しだけ、苦しいシーンにお付き合いください。
次回から第33章『太陽の破片』です。こちらの曲を聴きまくりながら書いておりました。尾崎豊さんの『太陽の破片』。
これ、いいんかな。普通にプロモーションビデオなんだけれど、今だったら引っかかりそう。
ちなみに何故か3:10あたりまではホルスト『惑星』のジュピターが流れておりまして、『太陽の破片』自体はその後です。かっ飛ばしてくださってもいいように思います。
<次回予告>
「動くな」
低いどすの利いた声は自分のものとも思えなかった。
今、俺は人殺しの血で喋っている。真はそう思い、自らの身体のうちにある人殺しの男の血に感謝さえした。
真は寺崎孝雄に笑いかけてやった。左手をそのけがらわしい男の首にかけて、思い切り締める。手の全ての筋肉が今まで出したこともない力と巧妙さを示し、甲の血管は太く浮き上がった。瞬間、寺崎孝雄はうぐ、と呻き、手を真の方へ振り上げようとした。真には何の躊躇いもなかった。匕首を振り上げると、男の右の二の腕に突き立てた。寺崎孝雄は狂ったような叫びを上げた。
「俺が躊躇していると思うなよ。一思いに殺したくないだけだ」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨158] 第33章 太陽の破片(1)ラブホテルの廃墟
【海に落ちる雨】第33章が始まります。この物語のクライマックスの3章分、最後の章です。
ラストスパートですので頑張ってアップしようと思います。追い込まれたジャガーの子どもみたいに牙をむいている主人公の探偵。このままでは探偵が犯罪者になりそうな勢いで、どこへ行きつくのか、際どいシーンが続きますが、もうしばらくお付き合いください。ここを読んで、悪人(一寸の虫)にも「五分の魂」なんて思っていただけるのか、やっぱりこういうシナプスの結合のおかしい奴は欠片も魂が無いと思われるのか。色々と思いを巡らせていただけたら、嬉しいです。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
ラストスパートですので頑張ってアップしようと思います。追い込まれたジャガーの子どもみたいに牙をむいている主人公の探偵。このままでは探偵が犯罪者になりそうな勢いで、どこへ行きつくのか、際どいシーンが続きますが、もうしばらくお付き合いください。ここを読んで、悪人(一寸の虫)にも「五分の魂」なんて思っていただけるのか、やっぱりこういうシナプスの結合のおかしい奴は欠片も魂が無いと思われるのか。色々と思いを巡らせていただけたら、嬉しいです。





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拍子抜けするほど明るい日差しの中で、真は目の前の崩れかかった建物を見つめて立っていた。
梅雨は明けかけていて、日々に陽射しの温度が上がり、湿気がこもり、身体の温度を上昇させている。緑は目に鮮やかで、遥か天空の楽の音のように、鳥がさえずっている。遠くから、トラックの地響きが木霊したような気がした。
テレビドラマ並みの構図だと真は思った。
山奥の国道沿いに、人気を避けるように建てられた古い建物の目的は、明らかにラブホテルだった。入り口のアーチは骨組みだけになっていて、錆び付き、傾いている。駐車場だった場所には屋根はなく、無駄なくらい広く、地面のアスファルトはあちこち割れて草が力強く生えだしていた。ラブホテルは二階建てで、広いだけの敷地を持て余すように、アミューズメントパークのお城のように駐車場を取り囲んで半円を描いている。窓はほとんどガラスがなく、入り口のドアも傾いていた。
何かの気配を察したのか、鳥や風の音が完全にこの世界から畳まれて消えた。静まり返った廃墟は現実のものとは思えなかった。寺崎の撮影所のひとつだと福嶋は言っていたが、廃墟になったラブホテルというのは、確かにいい舞台なのだろう。
真は建物を睨みつけたまま煙草を一本吸った。
誰かに見られているような気配がいつもあり、一方ではいつまでも待ち人は来ないのではないかという気がするほど、一本の煙草が燃え尽きるまでの時間は長かった。福嶋が護衛をつけたろかと言ったのを断っていた。
真はやがて煙草を投げ捨て、揉み消して建物に向かって歩き始めた。まだ誰も来ていないのだろうと思ったが、何かに引かれるような気がした。
傾いた外れかけのドアを手前に引くと、異常なくらい大きな音がした。音は周囲の山の中に消え入り、同時に遠くへ高い鳥の声が突き抜けた。
ドアの向こうはフロントロビーで、意外に明るかった。真ん中に丸い池のような水盤がしつらえてあって、半円分は白い壁で取り囲まれている。壁にはギリシャ神話の某かの場面が浮き彫りになっていて、男が女を捕まえ、逃げようとする女の指が木に変わろうとしていた。その女の手だけが、壁から突き出ている。水盤には勿論水もない。
明るいのは、天井が吹き抜けで、ドームのように天窓があるからだった。天窓のガラスもやはり割れ落ちている。足下にはステンドグラスのように、幾種類もの色を跳ね返す破片が散らばっている。一歩歩くと、その破片を踏む音が、天国の音楽のように響いた。
水盤の後ろに小さなフロントがある。小さい窓口の向こうはさすがに真っ暗だった。フロントの両脇を、カーブを描いて階段が上っている。一階と二階は同じような造りなのか、両翼を伸ばすような廊下があり、その両脇に部屋が並んでいるようだった。
ラブホテルにしてはややオープンすぎる造りだが、その当時としては斬新で開放感があるあたり、高級感を感じさせていたのかもしれない。どっちにしてもすることをする場所なのだ。
微かに、何かの物音がしたような気がした。
真は上階を見上げ、吹き抜けのロビーの階段を上った。踊り場から両側の気配を窺い、左翼を選ぶと、二階に上がった。
廊下の天井にも天窓が所々に開いているために明るかった。真はゆっくりと廊下を歩いた。聞こえるのは自分の足音だけだった。
木のドアにはひとつひとつ花の絵が掘り出されている。どのドアも、壊れずに閉まったままだった。薔薇、百合、チューリップ、ヒヤシンス、水仙、真にも分かる程度の花だったが、幾つ目かのドアの花には見覚えがなかった。何か、南国の花のようだった。更にその先に進みかけたとき、南国の花の向こうから何かが軋むような音が身体に響いてきた。
真は立ち止まり、そのドアの前に戻った。暫くドアを見つめていたとき、もう一度ぎっという音が響いた。
途端に、真はドアのノブを回していた。
ドアは難なく開いた。円形の大きなベッドが部屋いっぱいに置かれ、その上で太った男が、女の上に跨っている。
その唐突な光景に真は息を飲み込んだ。だがこれは映像などではなく、明らかに目の前に繰り広げられている場面だった。女の脚には明らかに見覚えがあった。そして、その一方の足首は不自然な角度に曲げられている。太った男は女の脚の間で唸りながら、大きな尻を動かしていた。
男は突然の来訪者にも振り返りもしなかった。その理由は直ぐに明らかになった。真は男に飛び掛るようにして女の身体から男を引き離し、男の目を見てぞっとした。
狂っていた。いや、完全に目が座っていた。善悪に対する判断力、あるいは人間としての理性は欠片も見いだせない目だった。
男は行為を中断されたことに突然怒り始め、獣のような声を上げて真に飛び掛ってきた。真は男の体重に一旦は押し潰された。後頭部を床に打ち付けられたせいで、一瞬意識が飛びかける。頭を振って意識をふり戻すと、自分の首を絞めて涎を垂らしている男の裸の股間を思いきり蹴り上げた。男は唸り、床を転げまわった。
「深雪!」
真は叫んでベッドの上に飛び戻り、全裸で横たわる女を助け起こした。
深雪の身体は、真の記憶以上にか細く儚く見えた。深雪の目には混乱があり、真の顔を見ても誰だか分からないようで、怯えて暴れようとした。真はその身体を抱き締め、もう一度深雪の名前を呼んだ。
「真ちゃん?」
腕の中で深雪が呟くように真の名前を呼んだ。真は深雪の顔を見つめた。一方の目には酷い痣があり、腫れ上がっていた。頬も幾らか腫れて見え、唇は色を失っていた。それでも真にはこの女が驚くほど美しく見えた。真はもう一度深雪を抱き締めた。
薬を使われているわけではなく、動けないようにされたまま犯されていたせいで錯乱していただけなのだろう。真は深雪の足を見て、それからもう一度深雪の顔を見た。
その時、真の後ろを見つめていた深雪の顔が、恐怖に歪んだ。真は瞬時にそれを悟り、深雪を抱き締めたままベッドを転がった。深雪が苦痛にひきつった叫びを上げた。
声が出るのだと思って、真はむしろ安堵した。
振り返ると、全裸の気狂いの男が真に襲いかかろうとしていた。真はベッドに深雪を残して飛び降り、男を蹴り飛ばした。
自分のものとは思えないほど身体は軽かった。異常な量のアドレナリンが溢れ出しているせいだろう。男は一旦ベッドから落ちたものの、身体つきに似合わず機敏に起き上がった。その男の中でも過剰分泌されたアドレナリンが爆発しているのだろう。
男の手が何かを掴んだ。三脚の上に載せられたカメラだ。
カメラは唸るような音を立てていたが、男が三脚ごと掴み取ったために、急に唸りをやめた。男は真の頭上から三脚を振り下ろした。真は飛びのいた。三脚が砕け散る音が、廃墟の廊下を突き抜ける。男はひひ、と笑い、流れる涎をそのままに真を見た。
起き上がりかけた真の身体にのしかかってくる体重は、真の倍近くはありそうだった。
男の手が真の首にかかり、締め上げようとしたとき、真は背中に挿してあった珠恵の匕首を掴んでいた。だが、鞘から抜く余裕はなかった。
そのまま、男の目めがけて突き上げた。男は今度こそ激しく叫んで飛びのき、呻きながらあちこちに身体をぶつけ、廊下へ転がり出た。倒れては立ち上がり、倒れるたびに床が大きく振動した。
真は深雪に駆け寄り、深雪の意識がはっきりしていることを確かめると、その身体に自分のスーツの上着を掛けて抱き上げた。
「どうして」
真はただ首を横に振った。わけもなくこの女を犯していた男が憎く、この女を痛めつけた者が許せなかった。
「探したんだ。預かったものを、返したかった」
それだけ言うと、真は深雪を抱き締めるようにして廊下へ出た。
これが愛だと言った男の影が過ぎる。お前は女をちゃんと愛することのできる男だと言った草薙の顔が翳めた。
真の両腕に沈む深雪の重みは、真をどこかありえないほど幸福な未来へと連れ出そうとしている。真の身体と心は、この女を抱いた全ての夜を思い出していた。深雪はどれほど悲しく、美しく微笑んでいたのだろう。もしもこの世にあの男が存在せず、あるいは真があの男と無関係な場所で生きていたら、真はこの女を愛したかもしれないと思った。
いや、それでも、その俺はきっとどこか心のうちに果てのない渇きを抱えてしまっただろう。
真は縋りつきたいような想像を打ち消した。この仮定は始めから成立しない。なぜなら、真はあの男がこの世にいなかったら、真自身もこの世には存在していないことを知っていたからだ。
真は静かに笑みを浮かべていたかもしれない。今、真の前には他の道はなかった。
気狂いの男の姿は廊下にはない。階段を下りると、水盤の脇で男は全裸のまま突っ立っていた。真が匕首で付いた目の脇から血を流しながらも、男は肩を大きく震わせて、ひっひと笑った。
「先に見つけられてしまったようだね」
真の視線の先に別の男が立っている。
背は高いが病的に痩せていた。目は細く、奥まっていて、感情が読み取りにくい目だったが、異様に光って見えた。唇は薄く、何か病気でも抱えているように色が薄かった。頬に黒子があり、大きく目立っている。
少なくとも、男は身を隠して生きているような人間には見えなかったが、人ごみの中でも真はこいつを見分けられる、と思った。
「ビデオで見たよりずっといいね」
湿った声だった。この声だ。この声が、昨夜何度も回り続けていたビデオの中で、竹流を押さえつけ、男たちに彼を嬲らせ、楽しむように彼の身体を傷つけていた。
真は男の手を見た。まさに、映像の中で竹流を押さえつけていたあの手だった。真という死神にだけ分かるように示された刻印を確かめるように、真は寺崎孝雄の手を食い入るように見つめた。痩せて骨ばっているくせに、奇妙に力のある手、異常に関節が膨れて見えるので、まるで骸骨に辛うじて肉がこびり付いているようにもみえる。
竹流は、この手によって、もう彼自身の力を出すことができないほど痛めつけられていたのだ。
「福嶋はどうしたんだ」
不満そうな声で、いらつくように寺崎孝雄は言った。
「福嶋ならここには来ない」
「君一人で来たのか」
そうだ、と答えて真は深雪に心配しなくてもいいから、という視線を送った。
「福嶋が私に贈り物がある、というから来たんだ。福嶋のところに相川という青年がとっ捕まって犯られてるんだって聞いたからね、君のことだろうとは思っていたが、首に縄を掛けられてここに来るのかと思えば、一人で、しかも拘束されてもいない」
「その必要がないからだ」
寺崎孝雄の後ろに、どこかで見たようなヤクザたちがふらふらと三人、現れた。ゾンビのようだと真は思った。
「久しぶりだねぇ、兄ちゃん」
そのうちの一人は、いつか真を痛めつけようとした荒神組のヤクザだった。
「福嶋の旦那に掘られたそうだねぇ。旦那は容赦がないからなぁ。でも良かった、って顔してるじゃないか。イかされまくったんだろうねぇ」
真は全く反応する気もなかった。雑魚には目もくれずに寺崎孝雄だけを見ていた。獲物を目の前にして、身体は自然に戦闘の準備をしていた。自分の目が今どういう印象を他人に与えているかなど、気にも留めなかった。
「真ちゃん」
深雪が何を察したのか、不安そうに真の名前を呼んだ。
それはヤクザに囲まれていることへの不安ではなく、明らかに真の目を見て恐怖を感じている声だった。真は深雪の顔を見て、それからまた寺崎孝雄を見た。
「この人をどうするつもりだったんだ」
答えたのは、狂気に満ちた目をしていた荒神組のやくざだった。
「なかなか絵のありかを教えてくれないんだよね。それなのに、新津圭一を殺したのかって、まるでこっちが悪いみたいに責めるんだよ。おかしいだろ。この女ねぇ、孝雄さん、殺す気だったんだ。新津圭一の娘を守りたい一心だよ。ちょっとけなげだけどね、だからさぁ、逃げられないように足の関節、外してやってねぇ、ずっと狂った男の相手、させてたんだぁ。殺しちゃうわけにはいかないからね。俺らはそういう中途半端、苦手なんだよね。ついついやりすぎちゃうからね」
「絵のありか? どの絵のことだ」
「村野耕治って人が持ってた絵だよ。新津って記者が昔、盗み出したんだ」
真は深雪の顔を見た。深雪は静かに真を見つめていた。深雪は、自分は知らないのだ、というように首を横に振った。
その絵があるとすれば、あの場所だけだ。深雪が真に預けた貸金庫の鍵、その中に何が入っているのか、深雪自身は見ていないのかもしれない。
「あんたたちがその絵を欲しがるわけは何だ」
「村野花が欲しがっているんでね」
真は深雪を抱え直した。深雪が降ろしてくれと言う。真は深雪の足を見て、それから階段の座りやすい位置に深雪を降ろし、彼女を守るように傍に立った。
「あんたたちが新津圭一を殺したんだな。新津圭一は何かを掴んでいた。あんたたちが犯しているとてつもない罪の証拠を。だから殺したのか」
「殺す前に奴の目の前で娘を犯してやろうと思ったのに、ちょっと手元が狂っちゃってね、先に死んじゃったんだよ。だから奴の死体の下で娘を犯してやったんだ。撮るべき予定が変わったけど、あれはあれで高く売れたねぇ」
返事をするヤクザには見向きもせず、真は寺崎孝雄を見ていた。寺崎孝雄は狂った目はしていなかったが、神経質そうな、それでいて粘着型の気質を思わせる顔つきだった。
「竹流に何の恨みがあったんだ。ただあんたらの趣味にしても酷すぎる」
寺崎孝雄は咽喉を詰まらせるような声で笑った。
「珠恵をおもちゃにしている。結婚もせずに囲ってあの子の身体を貪っている。それだけでも死に値する大罪だが、その上、昂司にまでちょっかいを出してきた。素直ないい子だったのに、あの男に会ってからひどく私に逆らうようになったんだよ」
「それは当たり前だろう。貴様は昂司さんに酷いことをしていた」
寺崎孝雄は不可解な、そして不快な顔をした。神経質そうな頬が歪む。
「酷い? とんでもない。昂司は直ぐに慣れて、自分からいい映像が撮れるようにと私に協力してくれていたよ。中学生の時には、もっと小さな子どもとの共演も喜んで出ていた。あの子は人気があったよ。あの子は私の相手も喜んでしてくれた」
「あんたは狂っている。自分の息子だろう。昂司さんは暗い目をしていた」
「君は何もわかっていないんだよ。昂司はね、母親にも捨てられて、姉にも、その存在すら知られず、私しか頼る者がいなかったんだよ」
「あんたが、珠恵さんの母上を無理矢理犯して子ども産ませた。その人は、子どもに罪がないことが分かっていても、どれほど苦しい思いだったか」
「私はね、淑恵も珠恵も、愛しているんだよ。珠恵とは血のつながりはないが、淑恵の娘だ。大和竹流のように、何人もの女と寝て、珠恵を悲しがらせるような人間とは違う。私は淑恵だけを愛していた。その上、君だ。あのはしたない雑誌のインタヴューを読んだだろう。君を愛していると言っていた。肌を合わせる相手ではない、というのは嘘だろう。こそこそやっているならまだしも、あんなに大っぴらに珠恵を傷つけて馬鹿にした。いい気になっているものだ。稀代の修復師だと? 誰のお蔭であそこまでになったというんだ? 全て珠恵のお蔭だよ。珠恵が彼のためになることを何でもやってきたからだ。本来なら珠恵を妻にして、東京に連れて行くなり、自分が京都に住むなり、しなければならないはずだ」
真はいかにも正論、というような理屈を並べている男の口元を冷淡に見ていた。ある側面から見たことだけを正しいと信じている、しかも自分自身の悪事は棚に上げて、自分こそが正しく、まさに正義を行っていると考えている。この男に竹流を批判する権利などないはずだ。
竹流が結婚できないと珠恵に言った理由はひとつだけだ。竹流は、自分がいずれローマに帰らなければならない人間だと考えていた。そこに珠恵を連れて行っても、珠恵が幸せになれないと思っている。
それに、竹流の修復師としての才能と技術は、彼の天性と努力の賜物だ。この男はなにも知らないのだ。竹流がインタビューに応じたのは、叔父に、ヴォルテラの跡取りではなく修復師として生きていきたいという希望を伝えるためだった。ああいうやり方でもしなければ、叔父の手から、その深い愛情から逃れられないと思ったのだろう。
「君が犯されているビデオを見た時の彼を見て、私は確信したよ。身体の関係がないというのは嘘だとね。あの執着は、身体を知っているからこそのものだ。彼は、彼だけが君を組み敷いて君を貫く権利のある人間だと思っているんだよ。だから苦しんだ。見てくれたかい? 彼が無茶苦茶にされている姿。叩かれたり殴られたりするよりも、男に犯されることのほうが余程、惨めで自尊心を傷つけてられて死にたくなるほど苦しいはずだからね。君が犯されている姿を見たときの彼の顔、ぞくっとするほど魅力的だったよ。もともと本当に綺麗な男だからね、しかも天上の支配者として生きていくはずの人間だ。私もね、これまであれほどの場面を撮ったことはなかったよ。あの男は君が犯されて喘いでいる映像を見ながら、私が押さえつけた手の下で、男のでかいものに身体をケツから貫かれて、怒りと怯えで震えていたよ。これまで一度も、誰にも屈した事がない、踏みつけられたこともない人間が、私の手に押さえつけられて、男に組み敷かれて、薬のせいとはいえ悶えてたんだよ。君に聞かせたかった、彼の喘ぐ声。私はね、長い間勃ちもしなかったのに、久しぶりに、本当に久しぶりに興奮したんだよ。意識が無くなった彼を犯してやった。死体になるまで犯し続けたいと思ったのは二度目だ。本当にこっちも気を失うくらい素敵だったよ。もう彼のそこは血まみれでね、意識もないのに……」
真は寺崎孝雄に摑みかかり、馬乗りになった。寺崎孝雄の身体は長身というだけで、重石のない看板のように簡単に倒れた。瞬時に真の手は珠恵の匕首を手にして、鞘ごと寺崎孝雄の耳元に振り降ろしていた。
その振動は寺崎孝雄の顔を怯えさせた。
真は今、自分がどれほど冷酷に笑ったか、はっきりと意識した。ヤクザたちが真の行動にまだ怯んでいるうちに片をつけてやらなければならなかった。真は躊躇いもなく、鞘から匕首を引き抜いた。
寺崎孝雄の顔が明らかに恐怖に歪んだ。
ヤクザが深雪のほうへ動こうとした気配に、真は叫んだ。
「動くな」
低いどすの利いた声は自分のものとも思えなかった。
今、俺は人殺しの血で喋っている。真はそう思い、自らの身体のうちにある人殺しの男の血に感謝さえした。
真は寺崎孝雄に笑いかけてやった。左手をそのけがらわしい男の首にかけて、思い切り締める。手の全ての筋肉が今まで出したこともない力と巧妙さを示し、甲の血管は太く浮き上がった。
瞬間、寺崎孝雄はうぐ、と呻き、手を真の方へ振り上げようとした。真には何の躊躇いもなかった。匕首を振り上げると、男の右の二の腕に突き立てた。寺崎孝雄は狂ったような叫びを上げた。
「俺が躊躇していると思うなよ。一思いに殺したくないだけだ」
そう言うと、真は匕首を引き抜き、噴き出した返り血を福嶋が用意したシャツに浴びながら、叫び続けている寺崎孝雄の左の腕にも匕首を振り下ろそうとした。
「真ちゃん、やめて!」
叫んだのは深雪だった。
その声は真の耳に届いていたが、真は彼女を見なかった。だがやくざたちは深雪の声に反応して、深雪に近付こうとした。真は匕首を寺崎孝雄の首にあてた。真はヤクザたちを睨みつけ、低い声で言った。
「動くなと言ったはずだ」
ヤクザは真の殺気に明らかに困惑している。
真は冷静な頭の中で、深雪との距離を常に測っていた。ゆっくりと切り刻んでやりたいが、深雪の身に危険が及ぶことは避けたかった。その自分自身の冷静さの中に己の恐ろしい血を感じたが、今はむしろそれに酔いそうな気持ちだった。
寺崎孝雄はひーっと叫んでいたが、真が匕首を首にあてると、何度も胸を上下させてから、絡まった舌のまま叫ぶように言った。
「楽しんだのは私だけじゃない」
「ああ、知っている。貴様のもう一人の息子も切り刻んでやる」
「違う、昂司もだ」
寺崎孝雄が顔を動かしたので、彼の顎が切れた。その血が、彼の言葉で困惑した真を余計に煽り立てた。
「何を間の抜けたことを」
「あの男の右手を抉ったのは昂司だ。昂司も」
真は一瞬にかっとなって寺崎孝雄の動かない右手掌に匕首を振り下ろした。寺崎孝雄は、野生動物の牙に肉を食い千切られたような叫びを上げる。ざっくりとした手応えが明らかに身体に響いた。
「馬鹿を言うな」
「昂司は、あの男を恨んでるんだよ。昂司に聞いてみろ。私は昂司のために、昂司が望むことをしてやっただけだ。昂司はあの男から離れたがっていた。昂司が望みもしないのに、昂司には住むことのできない世界に連れ出そうとしたからだ。あの男の右手を抉った時の昂司の顔は」
「誰が彼をまともな世界に住めなくしたんだ」
ついに真は、馬乗りになったまま、匕首を寺崎孝雄の目の上に振り上げた。
「真!」
その瞬間。
ヤクザが深雪へ襲い掛かり、真が一瞬気を取られたほんの短い時間。
ヤクザの身体は見えない何かに投げ飛ばされたようになり、階段に叩きつけられた。腕を切られた寺崎孝雄は、断末魔の力を振り絞ったかのように跳ね起きようとした。真はとっさに匕首を構えた。そして、跳ね起きた寺崎がその刃に飛び込んでくるのを待った。
しかし、寺崎孝雄は跳ね上がったかと思うと、真の匕首に届く前に、その男のいる場所にだけ直下型の地震でも起こったかのように、がくんと崩れた。真の首に伸びてきた寺崎孝雄の手が、一瞬で力を失う。
その瞬間、右から左へ、真っ赤な閃光のようなものが一筋、突き抜けた。
それは寺崎孝雄の脳天を、明らかに貫いていったのだ。
「真!」
二度目の叫びで真は背後を振り返り、走りこんでくる北条仁を認めた。
その瞬間、真は寺崎孝雄の目をめがけて匕首をふり降ろした。寺崎孝雄の目は既に生きているものの光を失っていた。ざくっと重い手応えがあり、匕首は引き抜けなくなった。真の身体は匕首から手を離さないまま、寺崎孝雄の身体の横へ引き倒された。
「真!」
三度目の声は耳のすぐ真横だった。真は肩を摑み身体を抱こうとする北条仁に全身で抗った。手だけは寺崎孝雄の頭に振り下ろしたはずの匕首を引き抜こうとして、柄を摑んだまま固まっている。視界は真っ赤で、人間の身体から噴き出した強烈な臭いが、真の身体にも鼻腔にも口の中にも飛び込んできた。
何かの拍子に抜けた匕首を、真はもう一度振り下ろそうした。
「よせ、もう死んでる」
諭すように言った仁の手が真の腕を摑んだ。だが真は抗った。抗って、無茶苦茶に匕首を振り回した。振り回しながら、獣のように叫んだ。離せ、と言っているつもりだったが、ただ喉が出せる一音だけを狂ったように叫び続けた。
「真、落ち着け。死んでるんだ」
叩きつけるように言った仁の言葉の後に、重く深い沈黙が降った。
真は自分を抱き締める仁の肩越しに、階段に吹っ飛ばされたヤクザの頭から血が止め処なく零れだしているのを見た。
深雪がその男を、そしてゆっくりと真のほうを見て、怯えたように目と唇を震えさせていた。見下ろすと、寺崎孝雄もまた、頭から血を流していた。その目は、真を見て怯えていた時のまま、もう何も映していない。真が男の目に振り下ろしたと思っていた匕首は、既に死者となっていたその男の耳を深く傷つけていたが、それは真の願ったような結果ではなかった。
「何故、邪魔をする?」
真は誰にというのでもなく、うわ言のように呟いた。
北条仁が拳銃を持っていないことは分かっていた。それどころか、誰も、誰かが持っていたのだとしても、真の目が届く範囲では今拳銃を手に握っているものはいなかった。
ヤクザたちは廊下の先を薄気味悪く見つめ、一歩ずつ後ろへ下がった。
至近距離ではない場所から、しかも障害物の多いこの場所で、的確に二人の男の脳天を一瞬の間に撃ち抜いた奴がいる。姿もなく、真に声を掛けることもなく、真の目の前にぶら下げられた獲物を掻っ攫った。
仁は真を離して、顔を覗き込んできた。
「正気か」
真は仁の手を逃れ、ふらりと立ち上がった。
(つづく)




ほらね。仁ったら、ほんと、このお話の中ではいいとこどり(*^_^*)
何故ここに来れたのか。説は色々あります。
福嶋が知らせたとか、父ちゃんが知らせたとか、イタリアのマフィアが知らせた、とか。私の案は(決めてないんかい! いや、後で仁が匿名の電話を受けたと真に伝えるんですが)多分、なんだかんだ言って福嶋かなぁと。でも、いい人にはしたくないので言いません。ま、福嶋は面白半分だったかも。「どうしても救いたかったら行ってこいや。間に合うかどうかは知らんけどな」とか言って。
く~、悪いおっさんやわ~(喜んでる^^;)。
まぁ、死体の始末に〇やさんは必要ですからね。
年内にこそこそとこの章を終わらせて、何とか年度末までにこの物語を終えたいと願っているのですが。
何しろ苦しい章なので、早く終わらせて、真の回復を迎えたいと思っていて。だって、このままじゃ探偵の流儀に反していますものね。やっぱり、今のところ、全然ヒーローになれてないや。
次回から、寺崎昂司の独白です。こちらもまた、お楽しみに。いや、みんな、喋る、喋る。この話の中で口数が少ないのは主人公だけかも。
<次回予告>
「だが彼のように飛ぶことさえできない人間には、永遠に彼の孤独も気高さも理解はできない。理解ができないことに気が付くこともできないかもしれない。地面の暗いところでじっと光を避けて生きてきたんだ。生まれる前から望まれず、形を成す前に母の胎内からさえ追い出されようとしていた命が、間違ってこの世に送り出され、その父親は、自分を捨てた女の代用品として子どもを使った。そう、まさに道具として使ってきたんだよ。時には殺されるほどに殴られ、時には歪んだ愛情を示すために父親のものを受け入れ、ただ試され続けてきた。それが地面を這うものの生き方だった。太陽が上がれば、石の下に隠れ、時には地面に穴を掘って、暖かな光を避けてきた。太陽を見たいと思っても、その方法を知らなかった」



拍子抜けするほど明るい日差しの中で、真は目の前の崩れかかった建物を見つめて立っていた。
梅雨は明けかけていて、日々に陽射しの温度が上がり、湿気がこもり、身体の温度を上昇させている。緑は目に鮮やかで、遥か天空の楽の音のように、鳥がさえずっている。遠くから、トラックの地響きが木霊したような気がした。
テレビドラマ並みの構図だと真は思った。
山奥の国道沿いに、人気を避けるように建てられた古い建物の目的は、明らかにラブホテルだった。入り口のアーチは骨組みだけになっていて、錆び付き、傾いている。駐車場だった場所には屋根はなく、無駄なくらい広く、地面のアスファルトはあちこち割れて草が力強く生えだしていた。ラブホテルは二階建てで、広いだけの敷地を持て余すように、アミューズメントパークのお城のように駐車場を取り囲んで半円を描いている。窓はほとんどガラスがなく、入り口のドアも傾いていた。
何かの気配を察したのか、鳥や風の音が完全にこの世界から畳まれて消えた。静まり返った廃墟は現実のものとは思えなかった。寺崎の撮影所のひとつだと福嶋は言っていたが、廃墟になったラブホテルというのは、確かにいい舞台なのだろう。
真は建物を睨みつけたまま煙草を一本吸った。
誰かに見られているような気配がいつもあり、一方ではいつまでも待ち人は来ないのではないかという気がするほど、一本の煙草が燃え尽きるまでの時間は長かった。福嶋が護衛をつけたろかと言ったのを断っていた。
真はやがて煙草を投げ捨て、揉み消して建物に向かって歩き始めた。まだ誰も来ていないのだろうと思ったが、何かに引かれるような気がした。
傾いた外れかけのドアを手前に引くと、異常なくらい大きな音がした。音は周囲の山の中に消え入り、同時に遠くへ高い鳥の声が突き抜けた。
ドアの向こうはフロントロビーで、意外に明るかった。真ん中に丸い池のような水盤がしつらえてあって、半円分は白い壁で取り囲まれている。壁にはギリシャ神話の某かの場面が浮き彫りになっていて、男が女を捕まえ、逃げようとする女の指が木に変わろうとしていた。その女の手だけが、壁から突き出ている。水盤には勿論水もない。
明るいのは、天井が吹き抜けで、ドームのように天窓があるからだった。天窓のガラスもやはり割れ落ちている。足下にはステンドグラスのように、幾種類もの色を跳ね返す破片が散らばっている。一歩歩くと、その破片を踏む音が、天国の音楽のように響いた。
水盤の後ろに小さなフロントがある。小さい窓口の向こうはさすがに真っ暗だった。フロントの両脇を、カーブを描いて階段が上っている。一階と二階は同じような造りなのか、両翼を伸ばすような廊下があり、その両脇に部屋が並んでいるようだった。
ラブホテルにしてはややオープンすぎる造りだが、その当時としては斬新で開放感があるあたり、高級感を感じさせていたのかもしれない。どっちにしてもすることをする場所なのだ。
微かに、何かの物音がしたような気がした。
真は上階を見上げ、吹き抜けのロビーの階段を上った。踊り場から両側の気配を窺い、左翼を選ぶと、二階に上がった。
廊下の天井にも天窓が所々に開いているために明るかった。真はゆっくりと廊下を歩いた。聞こえるのは自分の足音だけだった。
木のドアにはひとつひとつ花の絵が掘り出されている。どのドアも、壊れずに閉まったままだった。薔薇、百合、チューリップ、ヒヤシンス、水仙、真にも分かる程度の花だったが、幾つ目かのドアの花には見覚えがなかった。何か、南国の花のようだった。更にその先に進みかけたとき、南国の花の向こうから何かが軋むような音が身体に響いてきた。
真は立ち止まり、そのドアの前に戻った。暫くドアを見つめていたとき、もう一度ぎっという音が響いた。
途端に、真はドアのノブを回していた。
ドアは難なく開いた。円形の大きなベッドが部屋いっぱいに置かれ、その上で太った男が、女の上に跨っている。
その唐突な光景に真は息を飲み込んだ。だがこれは映像などではなく、明らかに目の前に繰り広げられている場面だった。女の脚には明らかに見覚えがあった。そして、その一方の足首は不自然な角度に曲げられている。太った男は女の脚の間で唸りながら、大きな尻を動かしていた。
男は突然の来訪者にも振り返りもしなかった。その理由は直ぐに明らかになった。真は男に飛び掛るようにして女の身体から男を引き離し、男の目を見てぞっとした。
狂っていた。いや、完全に目が座っていた。善悪に対する判断力、あるいは人間としての理性は欠片も見いだせない目だった。
男は行為を中断されたことに突然怒り始め、獣のような声を上げて真に飛び掛ってきた。真は男の体重に一旦は押し潰された。後頭部を床に打ち付けられたせいで、一瞬意識が飛びかける。頭を振って意識をふり戻すと、自分の首を絞めて涎を垂らしている男の裸の股間を思いきり蹴り上げた。男は唸り、床を転げまわった。
「深雪!」
真は叫んでベッドの上に飛び戻り、全裸で横たわる女を助け起こした。
深雪の身体は、真の記憶以上にか細く儚く見えた。深雪の目には混乱があり、真の顔を見ても誰だか分からないようで、怯えて暴れようとした。真はその身体を抱き締め、もう一度深雪の名前を呼んだ。
「真ちゃん?」
腕の中で深雪が呟くように真の名前を呼んだ。真は深雪の顔を見つめた。一方の目には酷い痣があり、腫れ上がっていた。頬も幾らか腫れて見え、唇は色を失っていた。それでも真にはこの女が驚くほど美しく見えた。真はもう一度深雪を抱き締めた。
薬を使われているわけではなく、動けないようにされたまま犯されていたせいで錯乱していただけなのだろう。真は深雪の足を見て、それからもう一度深雪の顔を見た。
その時、真の後ろを見つめていた深雪の顔が、恐怖に歪んだ。真は瞬時にそれを悟り、深雪を抱き締めたままベッドを転がった。深雪が苦痛にひきつった叫びを上げた。
声が出るのだと思って、真はむしろ安堵した。
振り返ると、全裸の気狂いの男が真に襲いかかろうとしていた。真はベッドに深雪を残して飛び降り、男を蹴り飛ばした。
自分のものとは思えないほど身体は軽かった。異常な量のアドレナリンが溢れ出しているせいだろう。男は一旦ベッドから落ちたものの、身体つきに似合わず機敏に起き上がった。その男の中でも過剰分泌されたアドレナリンが爆発しているのだろう。
男の手が何かを掴んだ。三脚の上に載せられたカメラだ。
カメラは唸るような音を立てていたが、男が三脚ごと掴み取ったために、急に唸りをやめた。男は真の頭上から三脚を振り下ろした。真は飛びのいた。三脚が砕け散る音が、廃墟の廊下を突き抜ける。男はひひ、と笑い、流れる涎をそのままに真を見た。
起き上がりかけた真の身体にのしかかってくる体重は、真の倍近くはありそうだった。
男の手が真の首にかかり、締め上げようとしたとき、真は背中に挿してあった珠恵の匕首を掴んでいた。だが、鞘から抜く余裕はなかった。
そのまま、男の目めがけて突き上げた。男は今度こそ激しく叫んで飛びのき、呻きながらあちこちに身体をぶつけ、廊下へ転がり出た。倒れては立ち上がり、倒れるたびに床が大きく振動した。
真は深雪に駆け寄り、深雪の意識がはっきりしていることを確かめると、その身体に自分のスーツの上着を掛けて抱き上げた。
「どうして」
真はただ首を横に振った。わけもなくこの女を犯していた男が憎く、この女を痛めつけた者が許せなかった。
「探したんだ。預かったものを、返したかった」
それだけ言うと、真は深雪を抱き締めるようにして廊下へ出た。
これが愛だと言った男の影が過ぎる。お前は女をちゃんと愛することのできる男だと言った草薙の顔が翳めた。
真の両腕に沈む深雪の重みは、真をどこかありえないほど幸福な未来へと連れ出そうとしている。真の身体と心は、この女を抱いた全ての夜を思い出していた。深雪はどれほど悲しく、美しく微笑んでいたのだろう。もしもこの世にあの男が存在せず、あるいは真があの男と無関係な場所で生きていたら、真はこの女を愛したかもしれないと思った。
いや、それでも、その俺はきっとどこか心のうちに果てのない渇きを抱えてしまっただろう。
真は縋りつきたいような想像を打ち消した。この仮定は始めから成立しない。なぜなら、真はあの男がこの世にいなかったら、真自身もこの世には存在していないことを知っていたからだ。
真は静かに笑みを浮かべていたかもしれない。今、真の前には他の道はなかった。
気狂いの男の姿は廊下にはない。階段を下りると、水盤の脇で男は全裸のまま突っ立っていた。真が匕首で付いた目の脇から血を流しながらも、男は肩を大きく震わせて、ひっひと笑った。
「先に見つけられてしまったようだね」
真の視線の先に別の男が立っている。
背は高いが病的に痩せていた。目は細く、奥まっていて、感情が読み取りにくい目だったが、異様に光って見えた。唇は薄く、何か病気でも抱えているように色が薄かった。頬に黒子があり、大きく目立っている。
少なくとも、男は身を隠して生きているような人間には見えなかったが、人ごみの中でも真はこいつを見分けられる、と思った。
「ビデオで見たよりずっといいね」
湿った声だった。この声だ。この声が、昨夜何度も回り続けていたビデオの中で、竹流を押さえつけ、男たちに彼を嬲らせ、楽しむように彼の身体を傷つけていた。
真は男の手を見た。まさに、映像の中で竹流を押さえつけていたあの手だった。真という死神にだけ分かるように示された刻印を確かめるように、真は寺崎孝雄の手を食い入るように見つめた。痩せて骨ばっているくせに、奇妙に力のある手、異常に関節が膨れて見えるので、まるで骸骨に辛うじて肉がこびり付いているようにもみえる。
竹流は、この手によって、もう彼自身の力を出すことができないほど痛めつけられていたのだ。
「福嶋はどうしたんだ」
不満そうな声で、いらつくように寺崎孝雄は言った。
「福嶋ならここには来ない」
「君一人で来たのか」
そうだ、と答えて真は深雪に心配しなくてもいいから、という視線を送った。
「福嶋が私に贈り物がある、というから来たんだ。福嶋のところに相川という青年がとっ捕まって犯られてるんだって聞いたからね、君のことだろうとは思っていたが、首に縄を掛けられてここに来るのかと思えば、一人で、しかも拘束されてもいない」
「その必要がないからだ」
寺崎孝雄の後ろに、どこかで見たようなヤクザたちがふらふらと三人、現れた。ゾンビのようだと真は思った。
「久しぶりだねぇ、兄ちゃん」
そのうちの一人は、いつか真を痛めつけようとした荒神組のヤクザだった。
「福嶋の旦那に掘られたそうだねぇ。旦那は容赦がないからなぁ。でも良かった、って顔してるじゃないか。イかされまくったんだろうねぇ」
真は全く反応する気もなかった。雑魚には目もくれずに寺崎孝雄だけを見ていた。獲物を目の前にして、身体は自然に戦闘の準備をしていた。自分の目が今どういう印象を他人に与えているかなど、気にも留めなかった。
「真ちゃん」
深雪が何を察したのか、不安そうに真の名前を呼んだ。
それはヤクザに囲まれていることへの不安ではなく、明らかに真の目を見て恐怖を感じている声だった。真は深雪の顔を見て、それからまた寺崎孝雄を見た。
「この人をどうするつもりだったんだ」
答えたのは、狂気に満ちた目をしていた荒神組のやくざだった。
「なかなか絵のありかを教えてくれないんだよね。それなのに、新津圭一を殺したのかって、まるでこっちが悪いみたいに責めるんだよ。おかしいだろ。この女ねぇ、孝雄さん、殺す気だったんだ。新津圭一の娘を守りたい一心だよ。ちょっとけなげだけどね、だからさぁ、逃げられないように足の関節、外してやってねぇ、ずっと狂った男の相手、させてたんだぁ。殺しちゃうわけにはいかないからね。俺らはそういう中途半端、苦手なんだよね。ついついやりすぎちゃうからね」
「絵のありか? どの絵のことだ」
「村野耕治って人が持ってた絵だよ。新津って記者が昔、盗み出したんだ」
真は深雪の顔を見た。深雪は静かに真を見つめていた。深雪は、自分は知らないのだ、というように首を横に振った。
その絵があるとすれば、あの場所だけだ。深雪が真に預けた貸金庫の鍵、その中に何が入っているのか、深雪自身は見ていないのかもしれない。
「あんたたちがその絵を欲しがるわけは何だ」
「村野花が欲しがっているんでね」
真は深雪を抱え直した。深雪が降ろしてくれと言う。真は深雪の足を見て、それから階段の座りやすい位置に深雪を降ろし、彼女を守るように傍に立った。
「あんたたちが新津圭一を殺したんだな。新津圭一は何かを掴んでいた。あんたたちが犯しているとてつもない罪の証拠を。だから殺したのか」
「殺す前に奴の目の前で娘を犯してやろうと思ったのに、ちょっと手元が狂っちゃってね、先に死んじゃったんだよ。だから奴の死体の下で娘を犯してやったんだ。撮るべき予定が変わったけど、あれはあれで高く売れたねぇ」
返事をするヤクザには見向きもせず、真は寺崎孝雄を見ていた。寺崎孝雄は狂った目はしていなかったが、神経質そうな、それでいて粘着型の気質を思わせる顔つきだった。
「竹流に何の恨みがあったんだ。ただあんたらの趣味にしても酷すぎる」
寺崎孝雄は咽喉を詰まらせるような声で笑った。
「珠恵をおもちゃにしている。結婚もせずに囲ってあの子の身体を貪っている。それだけでも死に値する大罪だが、その上、昂司にまでちょっかいを出してきた。素直ないい子だったのに、あの男に会ってからひどく私に逆らうようになったんだよ」
「それは当たり前だろう。貴様は昂司さんに酷いことをしていた」
寺崎孝雄は不可解な、そして不快な顔をした。神経質そうな頬が歪む。
「酷い? とんでもない。昂司は直ぐに慣れて、自分からいい映像が撮れるようにと私に協力してくれていたよ。中学生の時には、もっと小さな子どもとの共演も喜んで出ていた。あの子は人気があったよ。あの子は私の相手も喜んでしてくれた」
「あんたは狂っている。自分の息子だろう。昂司さんは暗い目をしていた」
「君は何もわかっていないんだよ。昂司はね、母親にも捨てられて、姉にも、その存在すら知られず、私しか頼る者がいなかったんだよ」
「あんたが、珠恵さんの母上を無理矢理犯して子ども産ませた。その人は、子どもに罪がないことが分かっていても、どれほど苦しい思いだったか」
「私はね、淑恵も珠恵も、愛しているんだよ。珠恵とは血のつながりはないが、淑恵の娘だ。大和竹流のように、何人もの女と寝て、珠恵を悲しがらせるような人間とは違う。私は淑恵だけを愛していた。その上、君だ。あのはしたない雑誌のインタヴューを読んだだろう。君を愛していると言っていた。肌を合わせる相手ではない、というのは嘘だろう。こそこそやっているならまだしも、あんなに大っぴらに珠恵を傷つけて馬鹿にした。いい気になっているものだ。稀代の修復師だと? 誰のお蔭であそこまでになったというんだ? 全て珠恵のお蔭だよ。珠恵が彼のためになることを何でもやってきたからだ。本来なら珠恵を妻にして、東京に連れて行くなり、自分が京都に住むなり、しなければならないはずだ」
真はいかにも正論、というような理屈を並べている男の口元を冷淡に見ていた。ある側面から見たことだけを正しいと信じている、しかも自分自身の悪事は棚に上げて、自分こそが正しく、まさに正義を行っていると考えている。この男に竹流を批判する権利などないはずだ。
竹流が結婚できないと珠恵に言った理由はひとつだけだ。竹流は、自分がいずれローマに帰らなければならない人間だと考えていた。そこに珠恵を連れて行っても、珠恵が幸せになれないと思っている。
それに、竹流の修復師としての才能と技術は、彼の天性と努力の賜物だ。この男はなにも知らないのだ。竹流がインタビューに応じたのは、叔父に、ヴォルテラの跡取りではなく修復師として生きていきたいという希望を伝えるためだった。ああいうやり方でもしなければ、叔父の手から、その深い愛情から逃れられないと思ったのだろう。
「君が犯されているビデオを見た時の彼を見て、私は確信したよ。身体の関係がないというのは嘘だとね。あの執着は、身体を知っているからこそのものだ。彼は、彼だけが君を組み敷いて君を貫く権利のある人間だと思っているんだよ。だから苦しんだ。見てくれたかい? 彼が無茶苦茶にされている姿。叩かれたり殴られたりするよりも、男に犯されることのほうが余程、惨めで自尊心を傷つけてられて死にたくなるほど苦しいはずだからね。君が犯されている姿を見たときの彼の顔、ぞくっとするほど魅力的だったよ。もともと本当に綺麗な男だからね、しかも天上の支配者として生きていくはずの人間だ。私もね、これまであれほどの場面を撮ったことはなかったよ。あの男は君が犯されて喘いでいる映像を見ながら、私が押さえつけた手の下で、男のでかいものに身体をケツから貫かれて、怒りと怯えで震えていたよ。これまで一度も、誰にも屈した事がない、踏みつけられたこともない人間が、私の手に押さえつけられて、男に組み敷かれて、薬のせいとはいえ悶えてたんだよ。君に聞かせたかった、彼の喘ぐ声。私はね、長い間勃ちもしなかったのに、久しぶりに、本当に久しぶりに興奮したんだよ。意識が無くなった彼を犯してやった。死体になるまで犯し続けたいと思ったのは二度目だ。本当にこっちも気を失うくらい素敵だったよ。もう彼のそこは血まみれでね、意識もないのに……」
真は寺崎孝雄に摑みかかり、馬乗りになった。寺崎孝雄の身体は長身というだけで、重石のない看板のように簡単に倒れた。瞬時に真の手は珠恵の匕首を手にして、鞘ごと寺崎孝雄の耳元に振り降ろしていた。
その振動は寺崎孝雄の顔を怯えさせた。
真は今、自分がどれほど冷酷に笑ったか、はっきりと意識した。ヤクザたちが真の行動にまだ怯んでいるうちに片をつけてやらなければならなかった。真は躊躇いもなく、鞘から匕首を引き抜いた。
寺崎孝雄の顔が明らかに恐怖に歪んだ。
ヤクザが深雪のほうへ動こうとした気配に、真は叫んだ。
「動くな」
低いどすの利いた声は自分のものとも思えなかった。
今、俺は人殺しの血で喋っている。真はそう思い、自らの身体のうちにある人殺しの男の血に感謝さえした。
真は寺崎孝雄に笑いかけてやった。左手をそのけがらわしい男の首にかけて、思い切り締める。手の全ての筋肉が今まで出したこともない力と巧妙さを示し、甲の血管は太く浮き上がった。
瞬間、寺崎孝雄はうぐ、と呻き、手を真の方へ振り上げようとした。真には何の躊躇いもなかった。匕首を振り上げると、男の右の二の腕に突き立てた。寺崎孝雄は狂ったような叫びを上げた。
「俺が躊躇していると思うなよ。一思いに殺したくないだけだ」
そう言うと、真は匕首を引き抜き、噴き出した返り血を福嶋が用意したシャツに浴びながら、叫び続けている寺崎孝雄の左の腕にも匕首を振り下ろそうとした。
「真ちゃん、やめて!」
叫んだのは深雪だった。
その声は真の耳に届いていたが、真は彼女を見なかった。だがやくざたちは深雪の声に反応して、深雪に近付こうとした。真は匕首を寺崎孝雄の首にあてた。真はヤクザたちを睨みつけ、低い声で言った。
「動くなと言ったはずだ」
ヤクザは真の殺気に明らかに困惑している。
真は冷静な頭の中で、深雪との距離を常に測っていた。ゆっくりと切り刻んでやりたいが、深雪の身に危険が及ぶことは避けたかった。その自分自身の冷静さの中に己の恐ろしい血を感じたが、今はむしろそれに酔いそうな気持ちだった。
寺崎孝雄はひーっと叫んでいたが、真が匕首を首にあてると、何度も胸を上下させてから、絡まった舌のまま叫ぶように言った。
「楽しんだのは私だけじゃない」
「ああ、知っている。貴様のもう一人の息子も切り刻んでやる」
「違う、昂司もだ」
寺崎孝雄が顔を動かしたので、彼の顎が切れた。その血が、彼の言葉で困惑した真を余計に煽り立てた。
「何を間の抜けたことを」
「あの男の右手を抉ったのは昂司だ。昂司も」
真は一瞬にかっとなって寺崎孝雄の動かない右手掌に匕首を振り下ろした。寺崎孝雄は、野生動物の牙に肉を食い千切られたような叫びを上げる。ざっくりとした手応えが明らかに身体に響いた。
「馬鹿を言うな」
「昂司は、あの男を恨んでるんだよ。昂司に聞いてみろ。私は昂司のために、昂司が望むことをしてやっただけだ。昂司はあの男から離れたがっていた。昂司が望みもしないのに、昂司には住むことのできない世界に連れ出そうとしたからだ。あの男の右手を抉った時の昂司の顔は」
「誰が彼をまともな世界に住めなくしたんだ」
ついに真は、馬乗りになったまま、匕首を寺崎孝雄の目の上に振り上げた。
「真!」
その瞬間。
ヤクザが深雪へ襲い掛かり、真が一瞬気を取られたほんの短い時間。
ヤクザの身体は見えない何かに投げ飛ばされたようになり、階段に叩きつけられた。腕を切られた寺崎孝雄は、断末魔の力を振り絞ったかのように跳ね起きようとした。真はとっさに匕首を構えた。そして、跳ね起きた寺崎がその刃に飛び込んでくるのを待った。
しかし、寺崎孝雄は跳ね上がったかと思うと、真の匕首に届く前に、その男のいる場所にだけ直下型の地震でも起こったかのように、がくんと崩れた。真の首に伸びてきた寺崎孝雄の手が、一瞬で力を失う。
その瞬間、右から左へ、真っ赤な閃光のようなものが一筋、突き抜けた。
それは寺崎孝雄の脳天を、明らかに貫いていったのだ。
「真!」
二度目の叫びで真は背後を振り返り、走りこんでくる北条仁を認めた。
その瞬間、真は寺崎孝雄の目をめがけて匕首をふり降ろした。寺崎孝雄の目は既に生きているものの光を失っていた。ざくっと重い手応えがあり、匕首は引き抜けなくなった。真の身体は匕首から手を離さないまま、寺崎孝雄の身体の横へ引き倒された。
「真!」
三度目の声は耳のすぐ真横だった。真は肩を摑み身体を抱こうとする北条仁に全身で抗った。手だけは寺崎孝雄の頭に振り下ろしたはずの匕首を引き抜こうとして、柄を摑んだまま固まっている。視界は真っ赤で、人間の身体から噴き出した強烈な臭いが、真の身体にも鼻腔にも口の中にも飛び込んできた。
何かの拍子に抜けた匕首を、真はもう一度振り下ろそうした。
「よせ、もう死んでる」
諭すように言った仁の手が真の腕を摑んだ。だが真は抗った。抗って、無茶苦茶に匕首を振り回した。振り回しながら、獣のように叫んだ。離せ、と言っているつもりだったが、ただ喉が出せる一音だけを狂ったように叫び続けた。
「真、落ち着け。死んでるんだ」
叩きつけるように言った仁の言葉の後に、重く深い沈黙が降った。
真は自分を抱き締める仁の肩越しに、階段に吹っ飛ばされたヤクザの頭から血が止め処なく零れだしているのを見た。
深雪がその男を、そしてゆっくりと真のほうを見て、怯えたように目と唇を震えさせていた。見下ろすと、寺崎孝雄もまた、頭から血を流していた。その目は、真を見て怯えていた時のまま、もう何も映していない。真が男の目に振り下ろしたと思っていた匕首は、既に死者となっていたその男の耳を深く傷つけていたが、それは真の願ったような結果ではなかった。
「何故、邪魔をする?」
真は誰にというのでもなく、うわ言のように呟いた。
北条仁が拳銃を持っていないことは分かっていた。それどころか、誰も、誰かが持っていたのだとしても、真の目が届く範囲では今拳銃を手に握っているものはいなかった。
ヤクザたちは廊下の先を薄気味悪く見つめ、一歩ずつ後ろへ下がった。
至近距離ではない場所から、しかも障害物の多いこの場所で、的確に二人の男の脳天を一瞬の間に撃ち抜いた奴がいる。姿もなく、真に声を掛けることもなく、真の目の前にぶら下げられた獲物を掻っ攫った。
仁は真を離して、顔を覗き込んできた。
「正気か」
真は仁の手を逃れ、ふらりと立ち上がった。
(つづく)



ほらね。仁ったら、ほんと、このお話の中ではいいとこどり(*^_^*)
何故ここに来れたのか。説は色々あります。
福嶋が知らせたとか、父ちゃんが知らせたとか、イタリアのマフィアが知らせた、とか。私の案は(決めてないんかい! いや、後で仁が匿名の電話を受けたと真に伝えるんですが)多分、なんだかんだ言って福嶋かなぁと。でも、いい人にはしたくないので言いません。ま、福嶋は面白半分だったかも。「どうしても救いたかったら行ってこいや。間に合うかどうかは知らんけどな」とか言って。
く~、悪いおっさんやわ~(喜んでる^^;)。
まぁ、死体の始末に〇やさんは必要ですからね。
年内にこそこそとこの章を終わらせて、何とか年度末までにこの物語を終えたいと願っているのですが。
何しろ苦しい章なので、早く終わらせて、真の回復を迎えたいと思っていて。だって、このままじゃ探偵の流儀に反していますものね。やっぱり、今のところ、全然ヒーローになれてないや。
次回から、寺崎昂司の独白です。こちらもまた、お楽しみに。いや、みんな、喋る、喋る。この話の中で口数が少ないのは主人公だけかも。
<次回予告>
「だが彼のように飛ぶことさえできない人間には、永遠に彼の孤独も気高さも理解はできない。理解ができないことに気が付くこともできないかもしれない。地面の暗いところでじっと光を避けて生きてきたんだ。生まれる前から望まれず、形を成す前に母の胎内からさえ追い出されようとしていた命が、間違ってこの世に送り出され、その父親は、自分を捨てた女の代用品として子どもを使った。そう、まさに道具として使ってきたんだよ。時には殺されるほどに殴られ、時には歪んだ愛情を示すために父親のものを受け入れ、ただ試され続けてきた。それが地面を這うものの生き方だった。太陽が上がれば、石の下に隠れ、時には地面に穴を掘って、暖かな光を避けてきた。太陽を見たいと思っても、その方法を知らなかった」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨159] 第33章 太陽の破片(2)イカロスの翼
【海に落ちる雨】第33章その2です。
ついに、竹流の受けた傷のわけが全て語られようとしています。
三味線の曲弾き一曲、大体3分前後なのですが、弾いている間、呼吸をしていないような気がすることがあります。もちろん、そんな訳はないのですけれど、弾き終わった時、呼吸困難になっているというのか。全力疾走した後みたいな感じ。このお話のこの部分を書いている時、まさに呼吸を忘れていたかも、と思うくらい疲れたのを思い出します。
ある民謡の唄い手さんが言っておられました。唄を一曲唄うってのは、大変なことだ、と。
物語を書くのもまた、大変なことですね。残念なことに、想いをぶつけるようにして書いたものが良い出来であることは、あまりないのですけれど。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
ついに、竹流の受けた傷のわけが全て語られようとしています。
三味線の曲弾き一曲、大体3分前後なのですが、弾いている間、呼吸をしていないような気がすることがあります。もちろん、そんな訳はないのですけれど、弾き終わった時、呼吸困難になっているというのか。全力疾走した後みたいな感じ。このお話のこの部分を書いている時、まさに呼吸を忘れていたかも、と思うくらい疲れたのを思い出します。
ある民謡の唄い手さんが言っておられました。唄を一曲唄うってのは、大変なことだ、と。
物語を書くのもまた、大変なことですね。残念なことに、想いをぶつけるようにして書いたものが良い出来であることは、あまりないのですけれど。





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表から見覚えのある北条の若い衆達が飛び込んできて、あたりを見回し、まず深雪を助け起こし、足の関節が捻じ曲げられているのを見ると、抱き上げて連れ出した。寺崎孝雄と一緒にやってきた、そして今はまだ少なくとも生きて動いている二人のヤクザは、北条仁が連れてきた若い衆の数に勝てないと思ったのか、抵抗もしなかった。
真は男たちが死体をどうするのかと話している声を耳の後ろで聞きながら、ふらふらとロビーを突き抜けて、建物の左翼になる廊下へと歩いた。足下で、高い窓から落ちて粉々に砕けたステンドグラスが、高くなった日の加減でオレンジと緑、深い藍の色を跳ね返した。
時折、真の足はその虹色の太陽の破片を踏み割った。
真っ直ぐに伸びた廊下の先には開いたままの扉があり、そこから一筋の光が真の歩く道を照らしていた。両側に並ぶ扉は、閉じられたものも、開けられたままのものも、あるいはただ壊れているところもあり、所々で外からの光を取り込んで、その道を飾っている。
真は重い足を引きずるように歩いていた。手にはまだ珠恵の匕首を摑んでいた。壊れた扉から射し込む光が、時々真の身体を溶かし、光の色に染め上げた。地獄へ歩く道がこれほどに明るいのならば、何度でも歩いてやろうと思った。
その道は遥か、母の胎内に戻る道にも思えた。
澤田顕一郎の友人が語った、二人はとても幸せそうで、子どもが生まれてくることを待ち望んでいたというのが本当なら、そのことだけで真は、自分をこの世に送り出した両親を許せるのかもしれないと、一瞬だけ考えた。たとえ彼らが、生まれたばかりで何の抵抗もできない赤ん坊を捨てて、二度と子どもに愛情を向けなかったのだとしても、ただこの世に送り出してくれたことで感謝できるのかもしれない。寺崎昂司のように、屈折した下劣な愛情を父親から受けるくらいなら、忘れられていた真のほうが余程幸せだったのかもしれない。
自らの行方を神に、あるいは悪魔に預けるとき、人間は寛容になれるものだと真は考えていた。この世にしがみつき生きていたときは、親たちを許せるなどとは、これっぽっちも考えていなかった。
だが、もしも、真がこの手で絞め殺し心の臓を抉り出してやりたいと思っていた男の命を、目の前で掻っ攫っていったのがその父親ならば、話は別だった。あれは真の獲物だったのだ。
光の道の終点は、更に強い光に満たされていた。あらゆるものが遥か彼方の天体から発せられた熱と光を跳ね返し、真っ白と透明だけに染め上げられていた。扉の向かいは大きな窓で、その窓枠だけが光の中で微かに黒く浮き上がっている。
真は窓に走りこんだ。
窓の外に身体を乗り出したとき、突然世界は色を取り戻した。
光を跳ね返している緑の艶やかさ、微かに霞みながら柔らかい青を湛えた空、その空を掠めた黒い鳥の影。景色は凪いだ海のように静かで、動かなかった。
窓枠にかけた腕に力が入り、その窓を乗り越えようと自分自身の筋肉が動いたのを自覚した瞬間だった。
「追ってどうする?」
真の目の前には、遥かに緑の木々とくすんだ空しかなかった。光の破片は満ち溢れ、真の目を射った。真の網膜は光の強さに焼かれて、機能を失いかけていた。身体は震えだし、微かな振動は真の脳の細胞を振り回し、真の壊れやすい側頭葉に及んで、記憶の引き出しをばらばらに開け始めた。
もしも心というものが本当にあるのなら、真の心は今、砕け散って、その破片が冷たく固まった。
振り返った真の視界の中に、黒い人影が更に重く沈んでいた。
「どうして」
真は精一杯でそれだけを呟いた。
窓は、地球という孤独な船から宇宙を見上げる境界だった。その宇宙は光に満たされていたのに、突然、真とその男との間だけが重く、暗く、苦しく、地球の重力に縛り付けられた。
男は、いつか真を地獄から救い上げてくれた時から変わらない穏やかで優しい、悲しいほどに暖かなものを背中に負ったまま、そこに立っていた。
精悍な顔つきは、あるいは降り積もった苦痛の結果であって、もしも彼が人並みに幸せな人生を送れていたならば、そこにはもう少し柔らかな丸みがあったのかもしれない。真が、大和竹流と誤解していたほどの、大きな優しい手は、今そこに光に溶け出すようにしてこの男の身体にぶら下がっていた。
「何に対して、聞いている?」
真は、気をつけていなければ意識を窓から捨ててしまいそうになるのを、辛うじて留まっていた。
「竹流は、あなたのためになら命だって投げ出したかもしれないのに」
光によって曖昧になっていた男の輪郭はゆっくりと、しかし確実に濃くなっていった。
「その通りだ。俺も、あいつのために命を投げ出したいと願っていた。今でも、そう思っている」
「それなら何故」
声が重く鋭くなり、真自身の咽喉を締めつけた。
高い宇宙で、鳥が鋭く長く鳴き声を上げた。羽音さえ響いてくるような静けさの中で、今、真はほとんど意識を手放しかけていた。
「大和竹流」
その名前を寺崎昂司は呟くように、深く重い声で呼んだ。
「優しく、暖かく、強く、大きな人間だった。人は生まれた時からそのような素質を持っているわけじゃない。彼はそうあるべく努力し続けていた。高貴で誇りに満ちていたのは、彼の生まれと何世紀にも渡って彼の祖先から受け継がれてきた血の故だけではない。彼が自らそう在るべくして育ててきた、本当の意味での気高さだ。彼の父親は、あるいは取り囲む人々は、彼がそうあるべき姿になるために、あらゆる力を注いできただろう。ただ甘やかし、ただ可愛がったわけでもなく、時には厳しく突き放し、苦しめるほどの難題を押し付けながら、彼をこの世界を支配する男に育て上げるために愛情の限りを尽くしてきた」
匕首を握る手が痺れてくる。
寺崎昂司は静かに優しい声で続けた。
「だが、それでも彼は苦しんでいた。何が彼の心を苦しめていたのかは知らないが、それでも俺には贅沢な苦しみに思えたよ。そう、多分それは高みに立つ人間にしか分からない孤独だったのだろう。太陽に焼かれた神の子どものように、永遠に手に入ることのない更なる高みを目指して飛ぶものだけが知っている、果てのない孤独、選ばれた人間だけが触れることのできる不安と孤独だ。彼はその孤独のゆえに、人間が神と一体になる瞬間にだけ生み出すことのできる芸術という深い海へ飛び込んでいったのだろう。
そもそも芸術家なんてろくでもない人間どもかもしれない。自らの欲望を創作にぶつけているだけなのだから。それを崇める人々も、ただ気が向いた時だけ誉めそやし、あるいは他人の批評に振り回されてが異口同音に盲信する馬鹿どもばかりかもしれない。それでも彼は、そういう愚かで罪深い人間の魂が天翔ける一瞬の神の領域を信じたからこそ、芸術の神の前にひれ伏して、壊れたものを拾い集めるように修復の世界に入り込んだ。そこにいれば、彼は孤独ではなかったのだ。罪深き人間が神の高みに上がった一瞬に作り上げた芸術は、彼の崇高で孤独な魂を抱いて慰めた。その場所でだけ、彼は孤独ではなかったんだ。彼が還るべき光に満ちた太陽の道だ」
アドリア海の光の海を渡る風、儚い箱舟の上で、竹流が真を抱きしめていたその身体の奥深くに抱えられた深い孤独を、真は今もまだ手の内に抱いていた。だが言葉を語っているのは、真ではなく別の男だ。真はこの男と自分の間にある不可解な共通点を、明らかに感じ取っていた。
「彼はよく話していた。彼が敬愛していた修復師のことだ。飲んだくれで、気が向かなきゃ仕事をしない、女を殺して刑務所に入っていたこともあるのに、変なところで潔癖症で、少しの金が入ると夜の街に出て行って、賑やかで孤独な夜の女たちに持ち金の全てをばら撒くような男だったらしいよ。だが、一旦修復作業に入り込むと、その男は神になった。教会のあらゆる黄金、絵画、タペストリー、ステンドグラス、全てのものが光を取り戻し、くすんで悪魔さえ住みつきそうだった教会は神の世界に立ち戻り、何百年も前にその場所で祈っていた人々の声までも蘇るようだったと。その宇宙になら、彼は住むことができたんだろう。悪魔と神をどちらも心に抱えた修復師は、竹流を本当に可愛がったと聞いている。弟子を取ることもなく、自分のためだけに仕事をしていた男が、ありったけの技術を彼に注ぎ込んだんだ。その修復師は、誰よりも竹流の孤独を知っていたからこそ、彼が孤独ではない場所を作ってやろうとしたのかもしれない」
寺崎昂司は、一旦黙り込み、真の少し遠くを見た。
今は全ての音が畳まれ、静かで穏やかだった。
「だが彼のように飛ぶことさえできない人間には、永遠に彼の孤独も気高さも理解はできない。理解できないことに気が付くこともできない。地面の暗いところでじっと光を避けて生きてきたんだ。生まれる前から望まれず、形を成す前に母の胎内からさえ追い出されようとしていた命が、間違ってこの世に送り出され、その父親は、自分を捨てた女の代用品として子どもを使った。そう、まさに道具として使ってきたんだよ。時には殺されるほどに殴られ、時には歪んだ愛情を示すために父親のものを受け入れ、ただ試され続けてきた。それが地面を這うものの生き方だった。太陽が上がれば、石の下に隠れ、時には地面に穴を掘って、暖かな光を避けてきた。太陽を見たいと願っても、その方法を知らなかった」
真はもう切れ掛かりそうな意識に爪を立てるようにして窓にもたれ、息を整えた。寺崎昂司の顔に翳が落ち、暗く沈んだ。
「姉がいることは知っていたんだ。寺崎孝雄は俺に姉の映像や写真を何度も見せた。少女の頃から、姉は美しく優しく、包み込むような微笑を浮かべた人だった。これがお前の姉さんだ、本当に美しいだろうと、あの下劣な親父がうっとりとした顔で言ったよ。姉は母にそっくりだそうだ。その写真や映像を見るごとに、会った事もない姉が、俺の中で唯一の憧れであり救いであり、孤独を忘れさせてくれる存在になっていった。
姉の店出しの日、俺はこっそり見に行ったよ。姉の舞妓姿はどれほどに美しく愛らしく優しかったことか。けだもののような寺崎孝雄も、姉にだけは手出しをしなかった。母の面影のせいだったかもしれないし、母の懇願の故だったかもしれないが、何より姉のあの美しさが、あの男の手が触れることを拒んだからなのだろう。姉が最初に結婚した男は、有名な優男の俳優で、確かに一時は人気もあったよ。でも、俺にはそいつの汚らわしい手が見えていた。いつか殺してやろうと思っていたけど、その前に祇園の町が姉を救い出してくれた。姉の美しさを穢すことができるものは何もなくなった。
でも姉は、その後大和竹流と出会ってしまった。なぁ、坊主、姉と大和竹流の出会いは必然だ。姉のあの美しさに触れることが許されるのは大和竹流だけだ。大和竹流の根源的な孤独を癒せるのは、姉だけだ。俺は心から喜んだよ。だが、大和竹流の孤独は、姉がどれほど外から彼を包み込んでも、心のうちに開いた穴を埋めるものがない限り、満たされることはなかった」
珠恵の匕首が手の中で重みを増している。真はより強く握ることで、辛うじて意識を繋ぎとめていた。
「大和竹流は俺に会いに来た。地面を這いずっと光を避けて石の下に隠れていた虫に、太陽の下に出る方法を教えようとしたんだよ。姉への憧れと思慕、それに大和竹流への憧れと、兵士が心から忠誠を誓って王に跪くような気持ちは、俺の中にこれまで味わったことのない不思議な感情を起こさせた。大和竹流は何でも持っていた。姉のために岡崎の家を買い戻し、改築し、姉を住まわせて、俺にも一緒にここで暮らしたらいいと言った。二人は、まさに比翼の鳥、連理の枝だったよ。完璧な一対の男女だった。俺は彼らが岡崎の家で平和に暮らす姿を見ているだけで幸せだと思っていた。
彼は、俺を本当の弟、もしくは仲間、対等の友として扱ってくれようとした。俺を遊びに連れ出し、彼の華やかな世界を見せ、一緒にその世界で生きようと言った。誰にも渡すことのなかった鍵を、俺に預けた。俺は多分夢を見ていたんだろう。彼の言葉には嘘もない、嘘をつく必要のない人間だからだ。彼が言葉を発しさえすれば、言葉に神が宿り、神はその願いを聞き届けてしまう、まさに言霊を操る男だった。俺は彼を愛したよ。姉の夫として、俺の兄として、友として、彼を誇りに思い、縋り、彼のようになろうと憧れた。彼は俺に芸術について多くを語り教え、彼の子どもの頃の事を語り、夢を語り、彼の最高の仲間として、弟として友として扱ってくれた」
寺崎昂司の声には抑揚がなく、時々、かすれてどこかへ消え行くようになる。真はそれが自分の意識のせいだと思っていた。
「俺はまさに、己の分を知らないイカロスだった。蝋で固めた翼は溶けかけて、天掛ける馬たちをひく手綱は焼け切れかかっていた。地を這い続けていた虫には、太陽の光は強すぎたんだ。ただうまく日陰で休み、光の恩恵だけを受け取る方法を知っていたらよかった。だが俺はあの男の後ろ姿についていくのに必死で、太陽を見ようとしてしまって目を焼き、焼け爛れて、太陽そのものになりたいとさえ願ってしまった。そう、俺は忠誠を誓う兵士というだけならまだ良かったんだろう。それなのに、彼は俺を、他の仲間とも違う位置に置いて、彼と対等に扱ってくれようとした。俺が東海林珠恵の弟だからだ」
窓から吹き込んだ風が、時々寺崎昂司の声を掠れさせている。真はその風に倒れそうになっている自分自身を、何とか立たせていた。
「だが俺は、十にもならないうちから男の相手をし、女の相手もして、あまつさえ、俺よりも幼い子どもとセックスの真似事をしてきたような男だ。十四のときだったか、俺よりずっと幼い子どもを犯すように命じられた。俺は何の躊躇いもなく、自分がこれまで男たちにされてきたように、その子どもを犯したよ。身体は恐ろしく興奮していて、なのに心は何も感じなかった。子どもは泣き叫んでいたけど、そのうち何も言わなくなった。その子はそのあと親父たちに連れて行かれた。どうなったのか、俺は見なかったけど知っていたよ。でも俺は何もしなかった。
俺は父親の相手もしてきた。彼はすっかり勃起もできない身体になっていたのに、俺にだけは反応した。俺に母親の服を着せ、化粧をさせ、狂ったように俺を犯した。俺がすっかり大人の男になると、彼は怒った。女のようでない、母親のようでないというそれだけのことだ。彼は俺を縛りつけ、死ぬ一歩手前まで殴り、それから謝りながら俺を抱いた。お前をこうしておかないと珠恵を傷つけてしまいそうだと、泣きながら威してきたんだよ。俺はずっと、いつかこの男を殺してやろうと思っていた。なぁ、坊主、そんな人間に光のもとに出て行ける道などありはしなかったよ」
「それでも、あなたは新津千惠子を救うおうとしてくれたんじゃないのですか」
寺崎昂司は表情を変えないまま、笑ったように見えた。
「そうなんだ。時々、かわいそうな子どもを救けたくなる。俺が抜け出せなかった暗闇から出してやりたくなる。理由なんてないんだよ。ただの気紛れだ。うまく逃げ出せて生きている子どももいたし、とっ捕まってかえってひどい目にあった子どももいた。俺は何をしていたのか、何をしたかったのか、自分でもよく分からない。その子どもが俺よりひどい目にあうことを望んでいたのか、本当に逃がしてやりたかったのか」
わずかに寺崎昂司の身体が揺れた。真は自分の身体の揺れとの区別がつかなくなっていた。
「大和竹流にはそういう人間のことは一生分からないだろう。あいつには姉以外にも何人も女がいて、セックスは女を優しく愛するための方法だと言った。実際にあいつはどの女にも本当に優しかった。女だけじゃない、年寄りにも、仲間にも、職人たちにも、レストランのウェイターたちにもだ。あいつに一言何か言って欲しいために、皆が己の仕事に懸命になっていた。あいつはあいつで、子どもみたいに無邪気に、『うちのパティシエ』『うちのウェイター』『うちの料理人』『うちの修復助手』『うちのギャラリーの受付』がいかに素晴らしいかを自慢する。宿根木のばあさんが淹れる茶がいかにうまいか、彼女の佐渡わかめの味噌汁がどれほどうまいか、それを我が事のように自慢するんだよ。そう、あいつはまさに理想の為政者であり友でもあり、あいつの周りにはあいつを王のように慕う人間がごまんといた。だが中には、あいつが天から注ぐ愛を、己の身だけに受けたいと願う人間もいた。御蔵皐月もその一人だった」
僅かの間、寺崎昂司は言葉を探しているように見えた。
「俺はいつもあいつと皐月が愛し合っているところを見ていた。俺が知っているセックスとは違う、優しい愛し方だった。あいつは御蔵皐月の才能を心から愛し、御蔵皐月の女としての身体を慈しんだ。傷つけられて空洞のようになり、生きる意味を失っていた皐月の心と身体は、あいつでいっぱいになって癒されたんだよ。彼らが抱き合っている姿を見ながら、俺は不思議な気持ちになっていた。俺はあいつになって御蔵皐月を愛する夢を見て、御蔵皐月になってあいつに愛される夢を見た。俺は生まれて初めて、命じられたわけでもなくカメラの前ではないところで自慰をしたよ。御蔵皐月の身体の中に入り、大和竹流に後ろから抱き締められ深く貫かれているところを想像しながら。
だが、御蔵皐月はそんなあいつの優しい愛などでは満足できない女だった。大和竹流を手に入れるために何でもした。狂言自殺、無理心中の真似事、愛してなどいない俺を誘惑し、そして坊主、お前をヤクザに売りつけた。俺はそんな皐月を哀れに思ったよ。彼女は俺と同じだ。手に入らないものを繋ぎとめようとしている。あの男の全てを手に入れることなどできないのに、自分だけを見て欲しいと願っていた。俺は皐月の願いを何でもきいてやりたかった。皐月を愛してやれば、俺自身も救われるような気がした。
だが、大和竹流は御蔵皐月や俺とも、あるいはあの美しい姉とも関わりのないところで、誰にも助けられることなく、神から授けられた重荷を背負い、多くの義務としがらみに絡みとられていた。姉のためであっても、俺や皐月のためであっても、全てを捨てることはできない男だった。それはやむを得ないことだったんだろう。人の上に君臨する王というものはそういうものだ。だが、坊主、お前だけは別だ」
寺崎昂司は真を、真の内側を、真も知らないでいた自分自身を見抜いているような気がした。
真は少しずつ混乱し始めていた。
「お前は大和竹流にとって、過去から背負ってきた宿命でもなければ、選び取っていかなければならない必然でもない。なのに何故、彼はお前と出会い、お前をああまでして想うのだろうな。お前が攫われたとき、あいつは確かに狂っていた。あれほど何もかもを持っているのに、あれほどに人々からも神からも愛されているのに、その全てを捨てることに何の躊躇いもなかった。狂ったようにビッグ・ジョーに復讐しようとするあいつを見て、俺はただ苦しくて、この男のために何でもしてやりたいと思ったよ。俺がお前を助けたのは、ただあいつの狂った姿を見ていたくなかったからだ。彼は王であり、太陽であり、不可侵の聖なる魂を抱いた男だ。こんな小僧のために全てを投げ捨てていいはずはない、そう思っていた」
真の意識は、すでに真の身体の周囲に浮かんでいるだけで、見聞きしていることの半分も理解できなくなっている。
「坊主、お前には分からないだろうな。お前は自分が何者だか知っているか? 竹流は俺にゴーギャンの絵を見せて、我々はどこから来たのか、どこへ行くのか、我々は何者なのか、という問いを示したよ。彼はその問いに対する答えを知らないようだったし、お前もまた知らないだろう。彼は『問い』そのものだからだ。そしてお前は『答え』そのものだからだ。だが、俺は自分がどこから来たのかも、どこへ行くのかも、何者なのかも知っている。悲しいことに知っているんだ。その時、俺は彼と自分との明らかな違いを理解した。永遠に彼にはなれない、始めから分かっていたことだが、彼のように生まれることはできない」
真は唇が震えるままに開いた。
「だから、彼の右手を抉ったのか」
寺崎昂司は自分の左手をすっと上げた。その手には小指がなかった。
「本当は俺の手を重ねて一緒に貫くつもりだった。どういうわけか、親父が止めに来て、手元が狂った」寺崎昂司は自分の手を見つめ、ふっと笑ったように見えた。「笑えるだろう。あんな下劣な父親だが、息子が可愛いと言って、落ちた俺の小指を拾って病院に行こうって泣きやがったんだ」
遠くで鳥が鳴いたような、高い周波数の音が生まれ、今真と昂司の間にある空間を鋭く、二つに裂いたようだった。
「あいつの右手と一緒に俺の小指は失われた。共に流れ出した血を見つめて、俺はもっと一緒に傷つきたいと思った。血に塗れたあいつの右手を抱いて、その血を舐めた。その右手が愛おしくて仕方がなかったんだ」
「わからない。どうしてそんなことを」
「それを望んだ人がいたからだ。そして俺もそれを望んだからだ」
「あいつにとって、右手を失うことがどれほどのことか、あなたは知っているはずだ」
「だからだよ。彼はあの右手を失っても、あの誇りと気高さを持ち続けることができるのか、孤独を癒す唯一の場所を失っても、例えば坊主、お前や姉がいれば彼が満たされているのか、知りたかっただけだ」
「そんなわけがない。あの右手には、彼が何十年もの間、己の力で摑み取ってきた全てのものが畳み込まれている。何かで代わりがきくようなものじゃない。あなたは分かっているはずだ」
「そうだ。分かっていたから、それを奪いたかった。俺は自分の手の痛みなど何も感じなかった。なぁ、坊主、俺が彼の手を突き刺した瞬間、彼はどんな顔をしていたと思う? ただ哀しそうに俺を見ていた。哀れんで俺を見ていた。何が起こったのか、分かっていたはずだ。それなのに、彼は血にまみれた手を差し伸ばして、俺を抱き締めたよ。俺を恨んで憎めばいいのに、俺を哀れみ悲しんだ。もしも許すと言われたら、それこそ地獄だと思った。彼は許すという言葉を発しなかったけれど、咄嗟に俺を可哀相に思ったんだろう。自分の心がその先、どんなふうに歪むのかなど、考えもしなかっただろう。彼の目はこう言っていたんだ。お前にこの右の手をくれてやる、命をくれてやる、だが心はやれない、と。俺は、その目がたまらなくなって、一度彼を親父たちのところから逃れさせた」
(つづく)




本当は一気に行きたいシーンなのですが、あまりにも長いので、いったん切ります。いや、本当に、謎解きシーンの探偵みたいによくしゃべる。主人公は無口だなぁ。
次回第33章の最終話、28日に更新いたします。仕事納めの日(^_^)/~
<次回予告>
真は首を狂ったように横に振った。
「さぁ、今俺を殺さないと後悔するぞ」
昂司は、彼の身体ごと真にぶつかってこようとした。
「寺崎さん!」
真が叫んだとき、突然寺崎の身体は突然、大きな引き潮にさらわれるように後ろへ引き倒された。



表から見覚えのある北条の若い衆達が飛び込んできて、あたりを見回し、まず深雪を助け起こし、足の関節が捻じ曲げられているのを見ると、抱き上げて連れ出した。寺崎孝雄と一緒にやってきた、そして今はまだ少なくとも生きて動いている二人のヤクザは、北条仁が連れてきた若い衆の数に勝てないと思ったのか、抵抗もしなかった。
真は男たちが死体をどうするのかと話している声を耳の後ろで聞きながら、ふらふらとロビーを突き抜けて、建物の左翼になる廊下へと歩いた。足下で、高い窓から落ちて粉々に砕けたステンドグラスが、高くなった日の加減でオレンジと緑、深い藍の色を跳ね返した。
時折、真の足はその虹色の太陽の破片を踏み割った。
真っ直ぐに伸びた廊下の先には開いたままの扉があり、そこから一筋の光が真の歩く道を照らしていた。両側に並ぶ扉は、閉じられたものも、開けられたままのものも、あるいはただ壊れているところもあり、所々で外からの光を取り込んで、その道を飾っている。
真は重い足を引きずるように歩いていた。手にはまだ珠恵の匕首を摑んでいた。壊れた扉から射し込む光が、時々真の身体を溶かし、光の色に染め上げた。地獄へ歩く道がこれほどに明るいのならば、何度でも歩いてやろうと思った。
その道は遥か、母の胎内に戻る道にも思えた。
澤田顕一郎の友人が語った、二人はとても幸せそうで、子どもが生まれてくることを待ち望んでいたというのが本当なら、そのことだけで真は、自分をこの世に送り出した両親を許せるのかもしれないと、一瞬だけ考えた。たとえ彼らが、生まれたばかりで何の抵抗もできない赤ん坊を捨てて、二度と子どもに愛情を向けなかったのだとしても、ただこの世に送り出してくれたことで感謝できるのかもしれない。寺崎昂司のように、屈折した下劣な愛情を父親から受けるくらいなら、忘れられていた真のほうが余程幸せだったのかもしれない。
自らの行方を神に、あるいは悪魔に預けるとき、人間は寛容になれるものだと真は考えていた。この世にしがみつき生きていたときは、親たちを許せるなどとは、これっぽっちも考えていなかった。
だが、もしも、真がこの手で絞め殺し心の臓を抉り出してやりたいと思っていた男の命を、目の前で掻っ攫っていったのがその父親ならば、話は別だった。あれは真の獲物だったのだ。
光の道の終点は、更に強い光に満たされていた。あらゆるものが遥か彼方の天体から発せられた熱と光を跳ね返し、真っ白と透明だけに染め上げられていた。扉の向かいは大きな窓で、その窓枠だけが光の中で微かに黒く浮き上がっている。
真は窓に走りこんだ。
窓の外に身体を乗り出したとき、突然世界は色を取り戻した。
光を跳ね返している緑の艶やかさ、微かに霞みながら柔らかい青を湛えた空、その空を掠めた黒い鳥の影。景色は凪いだ海のように静かで、動かなかった。
窓枠にかけた腕に力が入り、その窓を乗り越えようと自分自身の筋肉が動いたのを自覚した瞬間だった。
「追ってどうする?」
真の目の前には、遥かに緑の木々とくすんだ空しかなかった。光の破片は満ち溢れ、真の目を射った。真の網膜は光の強さに焼かれて、機能を失いかけていた。身体は震えだし、微かな振動は真の脳の細胞を振り回し、真の壊れやすい側頭葉に及んで、記憶の引き出しをばらばらに開け始めた。
もしも心というものが本当にあるのなら、真の心は今、砕け散って、その破片が冷たく固まった。
振り返った真の視界の中に、黒い人影が更に重く沈んでいた。
「どうして」
真は精一杯でそれだけを呟いた。
窓は、地球という孤独な船から宇宙を見上げる境界だった。その宇宙は光に満たされていたのに、突然、真とその男との間だけが重く、暗く、苦しく、地球の重力に縛り付けられた。
男は、いつか真を地獄から救い上げてくれた時から変わらない穏やかで優しい、悲しいほどに暖かなものを背中に負ったまま、そこに立っていた。
精悍な顔つきは、あるいは降り積もった苦痛の結果であって、もしも彼が人並みに幸せな人生を送れていたならば、そこにはもう少し柔らかな丸みがあったのかもしれない。真が、大和竹流と誤解していたほどの、大きな優しい手は、今そこに光に溶け出すようにしてこの男の身体にぶら下がっていた。
「何に対して、聞いている?」
真は、気をつけていなければ意識を窓から捨ててしまいそうになるのを、辛うじて留まっていた。
「竹流は、あなたのためになら命だって投げ出したかもしれないのに」
光によって曖昧になっていた男の輪郭はゆっくりと、しかし確実に濃くなっていった。
「その通りだ。俺も、あいつのために命を投げ出したいと願っていた。今でも、そう思っている」
「それなら何故」
声が重く鋭くなり、真自身の咽喉を締めつけた。
高い宇宙で、鳥が鋭く長く鳴き声を上げた。羽音さえ響いてくるような静けさの中で、今、真はほとんど意識を手放しかけていた。
「大和竹流」
その名前を寺崎昂司は呟くように、深く重い声で呼んだ。
「優しく、暖かく、強く、大きな人間だった。人は生まれた時からそのような素質を持っているわけじゃない。彼はそうあるべく努力し続けていた。高貴で誇りに満ちていたのは、彼の生まれと何世紀にも渡って彼の祖先から受け継がれてきた血の故だけではない。彼が自らそう在るべくして育ててきた、本当の意味での気高さだ。彼の父親は、あるいは取り囲む人々は、彼がそうあるべき姿になるために、あらゆる力を注いできただろう。ただ甘やかし、ただ可愛がったわけでもなく、時には厳しく突き放し、苦しめるほどの難題を押し付けながら、彼をこの世界を支配する男に育て上げるために愛情の限りを尽くしてきた」
匕首を握る手が痺れてくる。
寺崎昂司は静かに優しい声で続けた。
「だが、それでも彼は苦しんでいた。何が彼の心を苦しめていたのかは知らないが、それでも俺には贅沢な苦しみに思えたよ。そう、多分それは高みに立つ人間にしか分からない孤独だったのだろう。太陽に焼かれた神の子どものように、永遠に手に入ることのない更なる高みを目指して飛ぶものだけが知っている、果てのない孤独、選ばれた人間だけが触れることのできる不安と孤独だ。彼はその孤独のゆえに、人間が神と一体になる瞬間にだけ生み出すことのできる芸術という深い海へ飛び込んでいったのだろう。
そもそも芸術家なんてろくでもない人間どもかもしれない。自らの欲望を創作にぶつけているだけなのだから。それを崇める人々も、ただ気が向いた時だけ誉めそやし、あるいは他人の批評に振り回されてが異口同音に盲信する馬鹿どもばかりかもしれない。それでも彼は、そういう愚かで罪深い人間の魂が天翔ける一瞬の神の領域を信じたからこそ、芸術の神の前にひれ伏して、壊れたものを拾い集めるように修復の世界に入り込んだ。そこにいれば、彼は孤独ではなかったのだ。罪深き人間が神の高みに上がった一瞬に作り上げた芸術は、彼の崇高で孤独な魂を抱いて慰めた。その場所でだけ、彼は孤独ではなかったんだ。彼が還るべき光に満ちた太陽の道だ」
アドリア海の光の海を渡る風、儚い箱舟の上で、竹流が真を抱きしめていたその身体の奥深くに抱えられた深い孤独を、真は今もまだ手の内に抱いていた。だが言葉を語っているのは、真ではなく別の男だ。真はこの男と自分の間にある不可解な共通点を、明らかに感じ取っていた。
「彼はよく話していた。彼が敬愛していた修復師のことだ。飲んだくれで、気が向かなきゃ仕事をしない、女を殺して刑務所に入っていたこともあるのに、変なところで潔癖症で、少しの金が入ると夜の街に出て行って、賑やかで孤独な夜の女たちに持ち金の全てをばら撒くような男だったらしいよ。だが、一旦修復作業に入り込むと、その男は神になった。教会のあらゆる黄金、絵画、タペストリー、ステンドグラス、全てのものが光を取り戻し、くすんで悪魔さえ住みつきそうだった教会は神の世界に立ち戻り、何百年も前にその場所で祈っていた人々の声までも蘇るようだったと。その宇宙になら、彼は住むことができたんだろう。悪魔と神をどちらも心に抱えた修復師は、竹流を本当に可愛がったと聞いている。弟子を取ることもなく、自分のためだけに仕事をしていた男が、ありったけの技術を彼に注ぎ込んだんだ。その修復師は、誰よりも竹流の孤独を知っていたからこそ、彼が孤独ではない場所を作ってやろうとしたのかもしれない」
寺崎昂司は、一旦黙り込み、真の少し遠くを見た。
今は全ての音が畳まれ、静かで穏やかだった。
「だが彼のように飛ぶことさえできない人間には、永遠に彼の孤独も気高さも理解はできない。理解できないことに気が付くこともできない。地面の暗いところでじっと光を避けて生きてきたんだ。生まれる前から望まれず、形を成す前に母の胎内からさえ追い出されようとしていた命が、間違ってこの世に送り出され、その父親は、自分を捨てた女の代用品として子どもを使った。そう、まさに道具として使ってきたんだよ。時には殺されるほどに殴られ、時には歪んだ愛情を示すために父親のものを受け入れ、ただ試され続けてきた。それが地面を這うものの生き方だった。太陽が上がれば、石の下に隠れ、時には地面に穴を掘って、暖かな光を避けてきた。太陽を見たいと願っても、その方法を知らなかった」
真はもう切れ掛かりそうな意識に爪を立てるようにして窓にもたれ、息を整えた。寺崎昂司の顔に翳が落ち、暗く沈んだ。
「姉がいることは知っていたんだ。寺崎孝雄は俺に姉の映像や写真を何度も見せた。少女の頃から、姉は美しく優しく、包み込むような微笑を浮かべた人だった。これがお前の姉さんだ、本当に美しいだろうと、あの下劣な親父がうっとりとした顔で言ったよ。姉は母にそっくりだそうだ。その写真や映像を見るごとに、会った事もない姉が、俺の中で唯一の憧れであり救いであり、孤独を忘れさせてくれる存在になっていった。
姉の店出しの日、俺はこっそり見に行ったよ。姉の舞妓姿はどれほどに美しく愛らしく優しかったことか。けだもののような寺崎孝雄も、姉にだけは手出しをしなかった。母の面影のせいだったかもしれないし、母の懇願の故だったかもしれないが、何より姉のあの美しさが、あの男の手が触れることを拒んだからなのだろう。姉が最初に結婚した男は、有名な優男の俳優で、確かに一時は人気もあったよ。でも、俺にはそいつの汚らわしい手が見えていた。いつか殺してやろうと思っていたけど、その前に祇園の町が姉を救い出してくれた。姉の美しさを穢すことができるものは何もなくなった。
でも姉は、その後大和竹流と出会ってしまった。なぁ、坊主、姉と大和竹流の出会いは必然だ。姉のあの美しさに触れることが許されるのは大和竹流だけだ。大和竹流の根源的な孤独を癒せるのは、姉だけだ。俺は心から喜んだよ。だが、大和竹流の孤独は、姉がどれほど外から彼を包み込んでも、心のうちに開いた穴を埋めるものがない限り、満たされることはなかった」
珠恵の匕首が手の中で重みを増している。真はより強く握ることで、辛うじて意識を繋ぎとめていた。
「大和竹流は俺に会いに来た。地面を這いずっと光を避けて石の下に隠れていた虫に、太陽の下に出る方法を教えようとしたんだよ。姉への憧れと思慕、それに大和竹流への憧れと、兵士が心から忠誠を誓って王に跪くような気持ちは、俺の中にこれまで味わったことのない不思議な感情を起こさせた。大和竹流は何でも持っていた。姉のために岡崎の家を買い戻し、改築し、姉を住まわせて、俺にも一緒にここで暮らしたらいいと言った。二人は、まさに比翼の鳥、連理の枝だったよ。完璧な一対の男女だった。俺は彼らが岡崎の家で平和に暮らす姿を見ているだけで幸せだと思っていた。
彼は、俺を本当の弟、もしくは仲間、対等の友として扱ってくれようとした。俺を遊びに連れ出し、彼の華やかな世界を見せ、一緒にその世界で生きようと言った。誰にも渡すことのなかった鍵を、俺に預けた。俺は多分夢を見ていたんだろう。彼の言葉には嘘もない、嘘をつく必要のない人間だからだ。彼が言葉を発しさえすれば、言葉に神が宿り、神はその願いを聞き届けてしまう、まさに言霊を操る男だった。俺は彼を愛したよ。姉の夫として、俺の兄として、友として、彼を誇りに思い、縋り、彼のようになろうと憧れた。彼は俺に芸術について多くを語り教え、彼の子どもの頃の事を語り、夢を語り、彼の最高の仲間として、弟として友として扱ってくれた」
寺崎昂司の声には抑揚がなく、時々、かすれてどこかへ消え行くようになる。真はそれが自分の意識のせいだと思っていた。
「俺はまさに、己の分を知らないイカロスだった。蝋で固めた翼は溶けかけて、天掛ける馬たちをひく手綱は焼け切れかかっていた。地を這い続けていた虫には、太陽の光は強すぎたんだ。ただうまく日陰で休み、光の恩恵だけを受け取る方法を知っていたらよかった。だが俺はあの男の後ろ姿についていくのに必死で、太陽を見ようとしてしまって目を焼き、焼け爛れて、太陽そのものになりたいとさえ願ってしまった。そう、俺は忠誠を誓う兵士というだけならまだ良かったんだろう。それなのに、彼は俺を、他の仲間とも違う位置に置いて、彼と対等に扱ってくれようとした。俺が東海林珠恵の弟だからだ」
窓から吹き込んだ風が、時々寺崎昂司の声を掠れさせている。真はその風に倒れそうになっている自分自身を、何とか立たせていた。
「だが俺は、十にもならないうちから男の相手をし、女の相手もして、あまつさえ、俺よりも幼い子どもとセックスの真似事をしてきたような男だ。十四のときだったか、俺よりずっと幼い子どもを犯すように命じられた。俺は何の躊躇いもなく、自分がこれまで男たちにされてきたように、その子どもを犯したよ。身体は恐ろしく興奮していて、なのに心は何も感じなかった。子どもは泣き叫んでいたけど、そのうち何も言わなくなった。その子はそのあと親父たちに連れて行かれた。どうなったのか、俺は見なかったけど知っていたよ。でも俺は何もしなかった。
俺は父親の相手もしてきた。彼はすっかり勃起もできない身体になっていたのに、俺にだけは反応した。俺に母親の服を着せ、化粧をさせ、狂ったように俺を犯した。俺がすっかり大人の男になると、彼は怒った。女のようでない、母親のようでないというそれだけのことだ。彼は俺を縛りつけ、死ぬ一歩手前まで殴り、それから謝りながら俺を抱いた。お前をこうしておかないと珠恵を傷つけてしまいそうだと、泣きながら威してきたんだよ。俺はずっと、いつかこの男を殺してやろうと思っていた。なぁ、坊主、そんな人間に光のもとに出て行ける道などありはしなかったよ」
「それでも、あなたは新津千惠子を救うおうとしてくれたんじゃないのですか」
寺崎昂司は表情を変えないまま、笑ったように見えた。
「そうなんだ。時々、かわいそうな子どもを救けたくなる。俺が抜け出せなかった暗闇から出してやりたくなる。理由なんてないんだよ。ただの気紛れだ。うまく逃げ出せて生きている子どももいたし、とっ捕まってかえってひどい目にあった子どももいた。俺は何をしていたのか、何をしたかったのか、自分でもよく分からない。その子どもが俺よりひどい目にあうことを望んでいたのか、本当に逃がしてやりたかったのか」
わずかに寺崎昂司の身体が揺れた。真は自分の身体の揺れとの区別がつかなくなっていた。
「大和竹流にはそういう人間のことは一生分からないだろう。あいつには姉以外にも何人も女がいて、セックスは女を優しく愛するための方法だと言った。実際にあいつはどの女にも本当に優しかった。女だけじゃない、年寄りにも、仲間にも、職人たちにも、レストランのウェイターたちにもだ。あいつに一言何か言って欲しいために、皆が己の仕事に懸命になっていた。あいつはあいつで、子どもみたいに無邪気に、『うちのパティシエ』『うちのウェイター』『うちの料理人』『うちの修復助手』『うちのギャラリーの受付』がいかに素晴らしいかを自慢する。宿根木のばあさんが淹れる茶がいかにうまいか、彼女の佐渡わかめの味噌汁がどれほどうまいか、それを我が事のように自慢するんだよ。そう、あいつはまさに理想の為政者であり友でもあり、あいつの周りにはあいつを王のように慕う人間がごまんといた。だが中には、あいつが天から注ぐ愛を、己の身だけに受けたいと願う人間もいた。御蔵皐月もその一人だった」
僅かの間、寺崎昂司は言葉を探しているように見えた。
「俺はいつもあいつと皐月が愛し合っているところを見ていた。俺が知っているセックスとは違う、優しい愛し方だった。あいつは御蔵皐月の才能を心から愛し、御蔵皐月の女としての身体を慈しんだ。傷つけられて空洞のようになり、生きる意味を失っていた皐月の心と身体は、あいつでいっぱいになって癒されたんだよ。彼らが抱き合っている姿を見ながら、俺は不思議な気持ちになっていた。俺はあいつになって御蔵皐月を愛する夢を見て、御蔵皐月になってあいつに愛される夢を見た。俺は生まれて初めて、命じられたわけでもなくカメラの前ではないところで自慰をしたよ。御蔵皐月の身体の中に入り、大和竹流に後ろから抱き締められ深く貫かれているところを想像しながら。
だが、御蔵皐月はそんなあいつの優しい愛などでは満足できない女だった。大和竹流を手に入れるために何でもした。狂言自殺、無理心中の真似事、愛してなどいない俺を誘惑し、そして坊主、お前をヤクザに売りつけた。俺はそんな皐月を哀れに思ったよ。彼女は俺と同じだ。手に入らないものを繋ぎとめようとしている。あの男の全てを手に入れることなどできないのに、自分だけを見て欲しいと願っていた。俺は皐月の願いを何でもきいてやりたかった。皐月を愛してやれば、俺自身も救われるような気がした。
だが、大和竹流は御蔵皐月や俺とも、あるいはあの美しい姉とも関わりのないところで、誰にも助けられることなく、神から授けられた重荷を背負い、多くの義務としがらみに絡みとられていた。姉のためであっても、俺や皐月のためであっても、全てを捨てることはできない男だった。それはやむを得ないことだったんだろう。人の上に君臨する王というものはそういうものだ。だが、坊主、お前だけは別だ」
寺崎昂司は真を、真の内側を、真も知らないでいた自分自身を見抜いているような気がした。
真は少しずつ混乱し始めていた。
「お前は大和竹流にとって、過去から背負ってきた宿命でもなければ、選び取っていかなければならない必然でもない。なのに何故、彼はお前と出会い、お前をああまでして想うのだろうな。お前が攫われたとき、あいつは確かに狂っていた。あれほど何もかもを持っているのに、あれほどに人々からも神からも愛されているのに、その全てを捨てることに何の躊躇いもなかった。狂ったようにビッグ・ジョーに復讐しようとするあいつを見て、俺はただ苦しくて、この男のために何でもしてやりたいと思ったよ。俺がお前を助けたのは、ただあいつの狂った姿を見ていたくなかったからだ。彼は王であり、太陽であり、不可侵の聖なる魂を抱いた男だ。こんな小僧のために全てを投げ捨てていいはずはない、そう思っていた」
真の意識は、すでに真の身体の周囲に浮かんでいるだけで、見聞きしていることの半分も理解できなくなっている。
「坊主、お前には分からないだろうな。お前は自分が何者だか知っているか? 竹流は俺にゴーギャンの絵を見せて、我々はどこから来たのか、どこへ行くのか、我々は何者なのか、という問いを示したよ。彼はその問いに対する答えを知らないようだったし、お前もまた知らないだろう。彼は『問い』そのものだからだ。そしてお前は『答え』そのものだからだ。だが、俺は自分がどこから来たのかも、どこへ行くのかも、何者なのかも知っている。悲しいことに知っているんだ。その時、俺は彼と自分との明らかな違いを理解した。永遠に彼にはなれない、始めから分かっていたことだが、彼のように生まれることはできない」
真は唇が震えるままに開いた。
「だから、彼の右手を抉ったのか」
寺崎昂司は自分の左手をすっと上げた。その手には小指がなかった。
「本当は俺の手を重ねて一緒に貫くつもりだった。どういうわけか、親父が止めに来て、手元が狂った」寺崎昂司は自分の手を見つめ、ふっと笑ったように見えた。「笑えるだろう。あんな下劣な父親だが、息子が可愛いと言って、落ちた俺の小指を拾って病院に行こうって泣きやがったんだ」
遠くで鳥が鳴いたような、高い周波数の音が生まれ、今真と昂司の間にある空間を鋭く、二つに裂いたようだった。
「あいつの右手と一緒に俺の小指は失われた。共に流れ出した血を見つめて、俺はもっと一緒に傷つきたいと思った。血に塗れたあいつの右手を抱いて、その血を舐めた。その右手が愛おしくて仕方がなかったんだ」
「わからない。どうしてそんなことを」
「それを望んだ人がいたからだ。そして俺もそれを望んだからだ」
「あいつにとって、右手を失うことがどれほどのことか、あなたは知っているはずだ」
「だからだよ。彼はあの右手を失っても、あの誇りと気高さを持ち続けることができるのか、孤独を癒す唯一の場所を失っても、例えば坊主、お前や姉がいれば彼が満たされているのか、知りたかっただけだ」
「そんなわけがない。あの右手には、彼が何十年もの間、己の力で摑み取ってきた全てのものが畳み込まれている。何かで代わりがきくようなものじゃない。あなたは分かっているはずだ」
「そうだ。分かっていたから、それを奪いたかった。俺は自分の手の痛みなど何も感じなかった。なぁ、坊主、俺が彼の手を突き刺した瞬間、彼はどんな顔をしていたと思う? ただ哀しそうに俺を見ていた。哀れんで俺を見ていた。何が起こったのか、分かっていたはずだ。それなのに、彼は血にまみれた手を差し伸ばして、俺を抱き締めたよ。俺を恨んで憎めばいいのに、俺を哀れみ悲しんだ。もしも許すと言われたら、それこそ地獄だと思った。彼は許すという言葉を発しなかったけれど、咄嗟に俺を可哀相に思ったんだろう。自分の心がその先、どんなふうに歪むのかなど、考えもしなかっただろう。彼の目はこう言っていたんだ。お前にこの右の手をくれてやる、命をくれてやる、だが心はやれない、と。俺は、その目がたまらなくなって、一度彼を親父たちのところから逃れさせた」
(つづく)



本当は一気に行きたいシーンなのですが、あまりにも長いので、いったん切ります。いや、本当に、謎解きシーンの探偵みたいによくしゃべる。主人公は無口だなぁ。
次回第33章の最終話、28日に更新いたします。仕事納めの日(^_^)/~
<次回予告>
真は首を狂ったように横に振った。
「さぁ、今俺を殺さないと後悔するぞ」
昂司は、彼の身体ごと真にぶつかってこようとした。
「寺崎さん!」
真が叫んだとき、突然寺崎の身体は突然、大きな引き潮にさらわれるように後ろへ引き倒された。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨160] 第33章 太陽の破片(3)魂の還る場所
【海に落ちる雨】第33章最終話です。
苦しい苦しい独白コーナーもようやく終了し、次章からは壊れちゃった主人公が少しずつ再生していく過程になるのですけれど、あともう少しだけ、昂司の言葉を聴いてやってください。
今年最後の【海に落ちる雨】……ごく少数の人の支えでアップを続けておりますが、せめて何とかこのお話の最終話まではブログを続けなくちゃ、と思っております(まだ次話もあるのだけれど……どこまで頑張れるかしらと、めまいで不安な年末なのでした)。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
苦しい苦しい独白コーナーもようやく終了し、次章からは壊れちゃった主人公が少しずつ再生していく過程になるのですけれど、あともう少しだけ、昂司の言葉を聴いてやってください。
今年最後の【海に落ちる雨】……ごく少数の人の支えでアップを続けておりますが、せめて何とかこのお話の最終話まではブログを続けなくちゃ、と思っております(まだ次話もあるのだけれど……どこまで頑張れるかしらと、めまいで不安な年末なのでした)。





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真は寺崎昂司から目を逸らした。
始めに竹流が大怪我をして戻ってきたとき、竹流はその右手に対して、できれば触れて欲しくないような気配だった。時々動かない手を左の手で支えながら、遠くを見つめていた。それでも、もしかすると竹流はその時、いつか昂司の心が癒されれば、その右手も癒されるのではいかと思っていたかもしれない。
「親父たちは、すっかり彼を諦めたかと思っていた。頭がまともだったら、ヴォルテラの息子を痛め続けるなんて危険なことを、それ以上はできないはずだと思っていた。だが、俺は親父たちを甘く見ていたらしい。彼らには大和竹流を嬲る、ということ以上に目的も理由もなかった。親父たちは俺にも分からないように逃げ回っていた。坊主、お前がテスタロッサのことを言わなかったら、テスタロッサを探そうとは思いつかなかった」
「あなたがマンションで探していたのは、千惠子ちゃんが襲われているビデオだったんですか」
「そうだ。あのビデオは一部の信頼が置けるクライアントにだけ、恐ろしく高値で売られていた。そのマスターテープが何かの間違いで流れたんだ。つまり死体が吊り下げられるシーンまで入ったフルバージョンが。坊主、お前には信じられないだろう? 世の中にはそんなものがないと満足にセックスもできない人間がいるんだ。普通の刺激なんかじゃ満たされない、麻薬と一緒だよ。始めは緩やかな刺激で済んだものが、少しずつ物足りなくなり、更なる刺激を求めていく。それを見ている人間には、もう罪悪感なんてない。更に強い刺激を求めるだけだ」
「竹流はあのビデオをどうしようとしたんですか。新津圭一が自殺ではないということを証明するつもりだった? あなたは一度はあのビデオをあなたの父親の元から盗み出しておきながら、今度は竹流の手元から取り返そうとしていた」
「親父たちが二度目に竹流を連れ去ったと分かったとき、俺は半分諦めていた。親父たちは多分あいつを殺すつもりだと思った。だがもしも『取引』が可能なら、と思ったんだよ。そこまでしておいて、何を今さらと思うだろう? そう、俺の心はいつも行ったり来たりを繰り返していた。親父らにぼろぼろにされた子どもを助けたいと思う時と、俺と同じようにどうにでもなれと思う時があったように、あいつのことも、命を懸けて救いたいと思う時も、粉々に砕けてしまったらいいと思う時もあった。多分、あの時の俺は不意にあいつを救いたいと思ったんだろう。どこに隠していた? ビデオはとっくにマンションに届いていたはずだ」
今、真は、どこまでが昂司の本心なのか、何を信じたらいいのか、もうまるで分からなくなっていた。
「マンションの上の階の人が預かっていた」
「室井涼子か。竹流は、結局俺をどこまで信じていいのか、迷っていたんだろうな。マンションの自分の部屋では危ないと思っていたわけだ」
誰も信じるな、と真に警告したとき、竹流は何を考えていただろう。それでも、竹流は寺崎昂司を信じたかったのだろう。いや、あるいは信じなくても、ただ命は差し出してやる気だったのか。
いずれにしても彼は苦しかったはずだ。
俺のところに来るか。
電話線の向こうの微かに震えるような気配を思い出して、真はまた震えた。あの時、どうして勘違いしたまま会いに行かなかったのだろう。会いたくて狂いそうだったのは自分の方だったのに。
「親父たちには新津圭一が他殺だと分かれば困る事態があったんだよ。香野深雪が、それに彼女の動きを察した澤田顕一郎が、疑いをもって探り始めていたからだ。親父たちは『新津圭一が何かを隠している』ことを知った。そして香野深雪が預かっている可能性があることを。澤田は元々優秀な記者だった。疑えばすっぽんのように喰らい付いてくるということを、親父たちはよく知っていた」
「あなたが新津圭一のフロッピーを内調から盗み出したというのは本当なんですか」
「盗み出した?」
寺崎昂司は笑ったようだった。
「内調の河本って男がそう言ったのか」
わずかに寺崎昂司の身体が揺れたように見えた。真はやはり、自分の視界が覚束ないために揺らいでいるのだと思っていた。
「新津圭一は自殺でカタがついている。今更ひっくり返す気はないとあの男は言ったんだ。殺人なら時効にはまだまだ時間がある。もしも他殺ということが分かれば、誰が何のために殺したのかが問題になる。新津圭一が何を調べていたのかが分かれば、親父の大事な顧客たちが困ることになるし、それは河本も望まないと言ったんだよ。もしも過去の収賄事件をいくつも表に出さざるを得なくなって、あるいはそいつらの性癖が明らかになったら、政界・経済界の一部が混乱するような大物が絡んでいるんだ」
「では、取引というのは、河本さんとの取引ということだったんですか」
「そうだ。俺はビデオを竹流から取り戻して河本に届けるつもりだったんだ。代わりに俺は、いや正確には親父たちは、新津の残したフロッピーに何が書かれていたのかを知りたかったんだ。新津圭一が何をどこまで知っていたのか、親父たちは気持ちが悪かったんだよ。だが、河本はフロッピーの中を消していやがった」
「消していた?」
「その前に楢崎志穂に中身を幾らかばらしていたようだけどな。でも、あの男のことだ、教えても構わない情報と、永遠に葬るべき情報は上手く分けていただろう。そこに誰の名前が書かれていたのかは知らないが、河本という男は、この世界の秩序を守るために『あってはならないもの』と言った。秩序を守るためには、多少の犠牲は止むを得ないというわけだ。消されてしまっているなら、取引をする必要はなくなった」
「あの男は千惠子ちゃんを……」
「ビデオの次の問題は、新津千惠子が記憶を取り戻すかどうかだろうな。でも、八歳の娘の証言だ。誰もまともに取り合わないという確信もあるんだろう。だが俺が娘を連れ去ったと知って、慌てて俺を指名手配させた。娘が『記憶』以外にも何か実際の物を預かっていると思ったんだろう。だがあの子は何も預かっていないし、覚えちゃいない。河本はそれを確信しただろうから、今は娘をどうこうしようとは思っていないだろうさ。
それにあの娘も記憶など取り戻さないほうがいい。そのまま忘れて、新しい別の思い出を積み重ねていくほうがいいんだよ。幸い、香野深雪がやっと娘を預かる気になってくれた。先のことは分からないが、それでも子どもは、今は食いっぱぐれることはなさそうだ。正しい愛情を注いでくれる大人が近くにいて、さしあたって雨風が凌げて食えるなら、それで今のあの子には十分だろう」
寺崎昂司は静かに、真に一歩近付いた。真はぼんやりとその姿を見つめていた。
「坊主、もうこのことには手を出すな。竹流を返してやっただろう。親父はもう裁かれたんだ。遠からず、俺の兄も幾人かの仲間たちも、怒り狂ったゼウスの裁きを受けるさ。お前がこれ以上首を突っ込むと、今度はもっとでかいところが動き出す。親父たちは、とてつもなく大きな顧客を持っていた。そこが動けば、お前は間違いなく消される」
真は震えている唇が痺れだしたのを感じていた。
小学生や中学生のとき、こういう兆候があるといつも気を失っていた。今も、実際もう立っているのもやっとだった。
「アサクラタケシに、会ったんですか」
寺崎昂司は答えなかった。
「あなたの父親を殺すように、あの男に頼んだんですか」
真はほとんど叫んでいた。寺崎昂司は黙って立っていたが、また一歩、真に近付いた。真はゆるりと昂司の姉の匕首を構えた。
「アサクラタケシのクライアントは多分、別の人間だろう。彼が、お前のために自らしたことでないのなら。いや、多分、お前の父親は、どうあってもお前を人殺しになどしたくなかっただろう」
「あなたは、本当に、一度傷つけた竹流の手を更に抉って」真は息を飲みこみ、吐き気を押さえ込むように続けた。「彼を、犯したというんですか」
寺崎昂司はまた一歩真に近付き、静かに微笑んだ。
「そうだ。大和竹流が親父たちのところで無茶苦茶にされているのを見たとき、俺はその男をそうするのは、他の誰でもない、俺だと思った。俺がもう一度彼の手を抉ったとき、彼はほとんど意識が朦朧としていたよ。ああ、このままこの男は、あの天の高みから引き摺り下ろされて、ここで男たちに犯されてぼろ屑のように地面に投げ捨てられるのだと思った。俺が憧れ、彼のようになりたいと分不相応な願いを抱き、俺が愛して憎んだ男が、あんな屑のように扱われているのを見たとき、たまらない快感と不快感が押し寄せてきた。俺は興奮していたよ。俺のものは苦しいくらいに固くなっていた。御蔵皐月を抱いたときにさえ、そんなことにはならなかったのに、苦しいくらいあいつを求めた。もうほとんど息が絶え絶えだったあいつの身体を貫くのは、恐ろしいくらいに簡単だった。そう、恐ろしいくらいに簡単だったんだよ」
真は近付いてくる寺崎昂司から一歩逃れようとしたが、窓枠がその退路を断っていた。
「誰にもひれ伏したことのない、神のような男のケツを貫くことがそんなに簡単でいいわけがない。それなのに、そいつはもう意識も崩れ落ちていて、目も焦点が定まっていない、ぼろぼろの布切れのようだった。薬のせいで、あいつの身体は、襤褸切れなのに俺のものを受け入れ、締め付けてきた。その時、俺はこいつを本当に愛していると思ったよ。あいつは絶え絶えになった息を僅かに荒げて、こうじ、と俺の名前を呼んだ。こうじ、何をしている、何故逃げない、と。俺は恐ろしくなって狂ったようにあいつの身体に自分を叩きつけた。あいつは朦朧としながら、何か呟いていた。全部は聞き取れなかったけど、ずっとここに、と聞こえた。誰かの言葉だと思った。誰かが今、この男の中を満たしている、と。あいつは死を受け入れた顔をしていた。その誰かに抱かれていたからだ」
真は匕首を握る手に更に力を入れた。
「坊主、お前だよ。お前以外にいない、とそう思った。俺の身体の下にあの男を組み敷いて、そのまま犯り殺すつもりだった。でも彼はお前の名を呼びこそしなかったが、その目はお前を探していたんだ。そう、彼はお前のもので、お前は彼のものだった。彼は永遠に俺のものにも、もしかすると姉のものにもならない。その時、たとえ死体になっても、お前に返さなければならないと思った。坊主、お前は俺を殺す権利がある」
すでに寺崎昂司は真の目の前だった。昂司は真の握る珠恵の匕首の真正面にいる。このまま真が意識を失って、昂司に倒れ掛かりさえすれば、この男を刺し殺すことができる。真はふらりと力を抜いた。倒れ掛かるのは簡単なことのはずだった。
その瞬間、真の目は、光で遮られてよく見えていなかったものを捉えた。
「寺崎さん……」
真は呟いた。
寺崎昂司の腹からは、真が刺さなくても既に血が流れていた。スラックスは血に染まり、裾からは赤い雫が滴っていた。寺崎昂司が立っている床には、雨の後の水溜りのように血が揺れて、そこに真の影が映っていた。その時、真と寺崎昂司の間にあった空間の断裂は曖昧になり、昂司のほうが真に近付いたのか、真のほうが昂司に近付いたのか、お互いの呼吸が重なり合ったような気がした。
「寺崎さん」
真は苦しくなってきている腹の内からもう一度呼びかけ、首を横に振った。瞬時に、この男を助けなければならないと思った。竹流がこの男を逃がしたいと思っていたのなら、あるいはこの男にもう一度会いたいと思っているのなら、竹流のところに連れて行ってやらなければならなかった。
「まさか、アサクラタケシがあなたまで」
寺崎昂司は曖昧に笑った。
「アサクラタケシにクライアントがいたとしたら、寺崎孝雄は許されず、寺崎昂司は許せる、とは思わないだろう。だが、お前の父親は、俺がお前に真実を話すことを望んだんだよ。いや、お前がもしも本気なら、本気でジョルジョ・ヴォルテラに一生ついていく気なら、お前がその手で俺を刺し殺すべきだと、ようやく達観したのかもしれないな。お前が本気であいつを守りたいなら、お前自身の手で俺を殺さなければならない。俺は生きていれば、またあいつを殺したくなる。あいつの身体を天から引き摺り下ろし、ぼろぼろにしたくなる。俺が親父たちからそうされてきたように、あいつに俺と同じ苦しみを味あわせたくなる。
坊主、俺はあいつを抱きながら、どれほど興奮したことか。その血を見て、その血の海の中に突っ込みながら、どれほど悦んでいたか。俺は狂っているぞ。あの男が欲しいんだ。御蔵皐月を愛していたんじゃない、俺は大和竹流を俺のものにしたかった。御蔵皐月が俺の目の前であの男のものを銜えながら、死ぬまで踊り狂っているのを見たとき、それは俺であるべきだと思っていた。あの男を一生縛り付けて、俺だけのものにして、そう、身籠った母を犯し続けていた俺の親父のように、あいつが許しを乞うても残忍に笑いながら犯り殺すまであいつを貪って、あいつの右手をもっと深く抉ってその血を舐め、俺があいつになり、もう一度重ねた手を刺し貫き、いっそ身体ごと焼いて、あいつと一緒に狂い死にしたいんだ。お前になど、渡したくない」
真は首を狂ったように横に振った。
「さぁ、今俺を殺さないと後悔するぞ」
昂司は、彼の身体ごと真にぶつかってこようとした。
「寺崎さん!」
真が叫んだとき、昂司の身体は突然、大きな引き潮にさらわれるように後ろへ引き倒された。
真は目の前から消えた昂司の身体を光の中で完全に見失い、その瞬間、真自身もついに意識を失った。
* * *
それは寺崎昂司が初めて見た極楽の景色だった。
そこには美しい姉がいて、開け放たれた丸い窓の向こうに、木漏れ日を地面に降らせる紅葉の青葉が輝いている。太陽の破片は惜しみなく地上に降り注ぎ、地面の暗い場所にも、暖かな温度を与えていた。
美しい姉は、昂司と大和竹流の前に味噌汁と漬物を静かに置く。水茄子と豆腐の味噌汁が胃に入ると、自然に身体の内側から満たされていく。大和竹流は姉に微笑みかける。堂島のじいさんの水茄子はやっぱり最高だ、と言って。
昂司、お前も一緒にここに住もう。俺と、珠恵のためにそうしてくれ。
昂司は、考えとくよと答えて、水茄子の漬物を口に入れる。竹流は京野菜を作る農家である堂島のじいさんと初めて会ったときの話をしている。ちらりと姉を見ると、竹流を穏やかな目で見つめて、それから昂司の視線に気が付いて優しく微笑んだ。
現実に目を開けると、窓から降り注ぐ光の破片は、昂司の目を射て、痛めつけた。眩しすぎて目が焼けてしまい、もう網膜は光以外の何も映さなくなっていた。
「病院に行くか」
横たわる昂司の傍に、胡坐をかいて座り込んでいる男は、大きな影になっている。その影は避難所のように、昂司を強い光から守っているようだった。
「保証はしてやれないが、もしかして今なら、まだ助かるかもしれないぞ」
昂司は首を横に振った。
その男が作る影は、昂司の目を穏やかに慰める。この男もまた、同じように影を、傷を引きずっているのだろうと、薄くなっていく意識の中で認めることができた。
いや、あるいはこの男は死神なのかもしれない。死神が昂司を迎えに来てくれたのだろう。
やがて男は静かに肯定した。
「それもいい」
低い、決断する力に満ちた声だった。昂司は光のほうへ少しだけ顔を向けて問うた。
「坊主は、どうした」
「あいつに人なんぞ殺せるか」
「だが、あいつは人殺しの息子だ。自分はそう思っているだろう」
男の影は少し揺らめく。
「人殺しの息子かどうか知らんが、真には無理だ」
昂司はぼんやりとした意識の中で笑った。死神までがあの坊主の味方をするのか、と思った。
その男が『真』と呼んだとき、その名前に向けられた深い優しさに、昂司は大和竹流の横顔を思い出した。
昂司が、ビッグ・ジョーの所から真を救い出し竹流のところへ連れ帰ったとき、竹流はしばらく昂司の腕に抱かれたままの真を黙って見つめていた。あれは横たわるイエス・キリストを見つめる母マリアの慈愛の表情と同じだった。
昂司の手から真を抱き取り、竹流は昂司に言った。
お前に、一生返せない恩義ができたよ。どう感謝したらいいのかわからない。
昂司の複雑で自滅的な感情も深い憎しみも、あるいは愛情も、何も気が付かないまま竹流はそう言ったのだ。昂司があの男の右手を抉ったとき、竹流はこれがあの時の代価ならやむを得ない、真のためならあの神の手といってもいい右の手を捨ててもいい、とそう思ったのかもしれない。
俺はあの坊主をやはり羨んでいたのだ、だからあの坊主に殺されたかったのだろう。
「それほどに真に殺されたかったのか。そうしてあいつが生きている限り、最後まであいつの記憶の中に巣を作ることで、あいつに復讐をしたかったか? 嫉妬というにはあまりにも哀しいな」
男は馬鹿にしたようではなく、ただ言葉を噛み締めているようだった。
「いや、自分が死んでからも、大和竹流の運命を握っていたい、ということか。そうだな、それもいい、そういう生き方も死に方もあるんだろう。なら、俺が大和竹流の代わりに、お前の死に様を見届けてやるよ」
昂司は目を閉じた。複雑で苦しい運命を書き綴られていた本は、光の中で風にページを繰り続けられ、やがて目に見えない速度で光に溶け入り、光の破片の一部になっていった。
降り注ぐ太陽の破片は、形を変え、天空の音楽を奏でている。それは暖かい言葉となり、魂を宿し、昂司の心に落ちてきた。
しぬな。おれのそばにいろ。こうじ。
昂司はもう一度だけ目を開けた。幻でも見たいと願った姿は、網膜に残ったまま、今もすぐ傍にあった。そして今度こそ、昂司は自分の意思ではなく、神の力に全てを任せて目を閉じた。
薄れていく意識の中で、極楽を飛ぶ鳥の長い尾に触れたような気がした。
(第33章 了、第34章『交差点』につづく)




今年の更新はここまで。正月早々から第34章のスタート、かな?
新しい年は、仁のカッコいい啖呵から始まります。
いつも拙いお話にお付き合ってくださる方々に心から感謝申し上げます。
いつもコメントを下さるlimeさん、夕さん、TOM-Fさん。皆様のおかげでアップを続けていられるようなものです。年末なので特別に、心から! お礼を申し上げます。
この辺りの下りをアップしながら、本当に自分のお話はダメダメだなぁ、読者さんが少ないということはそれだけ非魅力的ということなのだと分かりつつ、ここまで来ちゃったから、後は惰性でも何でも取りあえずラストまでは行こうと心に誓う年末でした。
やっぱり、ブログで発表するようなお話じゃなかったなぁと、今更ながらに黄昏る年の瀬なのでした。
でも、カウントダウンは地味にテレビで大野くんを見ようっと!(何の関係もありませんが^^;)
良いお年を!
<次回予告>
「人間は皆がお前みたいに聖人君子でも完璧でもないんだよ。自己犠牲や無償の献身は、そいつが『持てる者』だからこそできる。そんなお前を身近に見て、普通の人間はどう感じるか考えてみたことがあるか。お前の自己犠牲は普通の人間の犠牲とは桁が違う。だから普通の人間はお前からそれを受け取ると、自分が果てなく愛されているような気持ちになる。けれどお前にとってそれはごく一部、僅かなものでしかない。だからお前は平気で自分の命さえ差し出してやろうとする。だが、お前が本気になったら、お前は全く別の人間になる。相手にも苦痛を強いるんだ。それが葛城昇にも寺崎昂司にも見えちまったのさ。自分たちに向けられたものとは全く違うお前の姿を見ちまったからだ。本気になったお前が聖人なんかじゃない、偏狭で残酷で、限りが無いほどにいやらしい人間だということに気が付いた」



真は寺崎昂司から目を逸らした。
始めに竹流が大怪我をして戻ってきたとき、竹流はその右手に対して、できれば触れて欲しくないような気配だった。時々動かない手を左の手で支えながら、遠くを見つめていた。それでも、もしかすると竹流はその時、いつか昂司の心が癒されれば、その右手も癒されるのではいかと思っていたかもしれない。
「親父たちは、すっかり彼を諦めたかと思っていた。頭がまともだったら、ヴォルテラの息子を痛め続けるなんて危険なことを、それ以上はできないはずだと思っていた。だが、俺は親父たちを甘く見ていたらしい。彼らには大和竹流を嬲る、ということ以上に目的も理由もなかった。親父たちは俺にも分からないように逃げ回っていた。坊主、お前がテスタロッサのことを言わなかったら、テスタロッサを探そうとは思いつかなかった」
「あなたがマンションで探していたのは、千惠子ちゃんが襲われているビデオだったんですか」
「そうだ。あのビデオは一部の信頼が置けるクライアントにだけ、恐ろしく高値で売られていた。そのマスターテープが何かの間違いで流れたんだ。つまり死体が吊り下げられるシーンまで入ったフルバージョンが。坊主、お前には信じられないだろう? 世の中にはそんなものがないと満足にセックスもできない人間がいるんだ。普通の刺激なんかじゃ満たされない、麻薬と一緒だよ。始めは緩やかな刺激で済んだものが、少しずつ物足りなくなり、更なる刺激を求めていく。それを見ている人間には、もう罪悪感なんてない。更に強い刺激を求めるだけだ」
「竹流はあのビデオをどうしようとしたんですか。新津圭一が自殺ではないということを証明するつもりだった? あなたは一度はあのビデオをあなたの父親の元から盗み出しておきながら、今度は竹流の手元から取り返そうとしていた」
「親父たちが二度目に竹流を連れ去ったと分かったとき、俺は半分諦めていた。親父たちは多分あいつを殺すつもりだと思った。だがもしも『取引』が可能なら、と思ったんだよ。そこまでしておいて、何を今さらと思うだろう? そう、俺の心はいつも行ったり来たりを繰り返していた。親父らにぼろぼろにされた子どもを助けたいと思う時と、俺と同じようにどうにでもなれと思う時があったように、あいつのことも、命を懸けて救いたいと思う時も、粉々に砕けてしまったらいいと思う時もあった。多分、あの時の俺は不意にあいつを救いたいと思ったんだろう。どこに隠していた? ビデオはとっくにマンションに届いていたはずだ」
今、真は、どこまでが昂司の本心なのか、何を信じたらいいのか、もうまるで分からなくなっていた。
「マンションの上の階の人が預かっていた」
「室井涼子か。竹流は、結局俺をどこまで信じていいのか、迷っていたんだろうな。マンションの自分の部屋では危ないと思っていたわけだ」
誰も信じるな、と真に警告したとき、竹流は何を考えていただろう。それでも、竹流は寺崎昂司を信じたかったのだろう。いや、あるいは信じなくても、ただ命は差し出してやる気だったのか。
いずれにしても彼は苦しかったはずだ。
俺のところに来るか。
電話線の向こうの微かに震えるような気配を思い出して、真はまた震えた。あの時、どうして勘違いしたまま会いに行かなかったのだろう。会いたくて狂いそうだったのは自分の方だったのに。
「親父たちには新津圭一が他殺だと分かれば困る事態があったんだよ。香野深雪が、それに彼女の動きを察した澤田顕一郎が、疑いをもって探り始めていたからだ。親父たちは『新津圭一が何かを隠している』ことを知った。そして香野深雪が預かっている可能性があることを。澤田は元々優秀な記者だった。疑えばすっぽんのように喰らい付いてくるということを、親父たちはよく知っていた」
「あなたが新津圭一のフロッピーを内調から盗み出したというのは本当なんですか」
「盗み出した?」
寺崎昂司は笑ったようだった。
「内調の河本って男がそう言ったのか」
わずかに寺崎昂司の身体が揺れたように見えた。真はやはり、自分の視界が覚束ないために揺らいでいるのだと思っていた。
「新津圭一は自殺でカタがついている。今更ひっくり返す気はないとあの男は言ったんだ。殺人なら時効にはまだまだ時間がある。もしも他殺ということが分かれば、誰が何のために殺したのかが問題になる。新津圭一が何を調べていたのかが分かれば、親父の大事な顧客たちが困ることになるし、それは河本も望まないと言ったんだよ。もしも過去の収賄事件をいくつも表に出さざるを得なくなって、あるいはそいつらの性癖が明らかになったら、政界・経済界の一部が混乱するような大物が絡んでいるんだ」
「では、取引というのは、河本さんとの取引ということだったんですか」
「そうだ。俺はビデオを竹流から取り戻して河本に届けるつもりだったんだ。代わりに俺は、いや正確には親父たちは、新津の残したフロッピーに何が書かれていたのかを知りたかったんだ。新津圭一が何をどこまで知っていたのか、親父たちは気持ちが悪かったんだよ。だが、河本はフロッピーの中を消していやがった」
「消していた?」
「その前に楢崎志穂に中身を幾らかばらしていたようだけどな。でも、あの男のことだ、教えても構わない情報と、永遠に葬るべき情報は上手く分けていただろう。そこに誰の名前が書かれていたのかは知らないが、河本という男は、この世界の秩序を守るために『あってはならないもの』と言った。秩序を守るためには、多少の犠牲は止むを得ないというわけだ。消されてしまっているなら、取引をする必要はなくなった」
「あの男は千惠子ちゃんを……」
「ビデオの次の問題は、新津千惠子が記憶を取り戻すかどうかだろうな。でも、八歳の娘の証言だ。誰もまともに取り合わないという確信もあるんだろう。だが俺が娘を連れ去ったと知って、慌てて俺を指名手配させた。娘が『記憶』以外にも何か実際の物を預かっていると思ったんだろう。だがあの子は何も預かっていないし、覚えちゃいない。河本はそれを確信しただろうから、今は娘をどうこうしようとは思っていないだろうさ。
それにあの娘も記憶など取り戻さないほうがいい。そのまま忘れて、新しい別の思い出を積み重ねていくほうがいいんだよ。幸い、香野深雪がやっと娘を預かる気になってくれた。先のことは分からないが、それでも子どもは、今は食いっぱぐれることはなさそうだ。正しい愛情を注いでくれる大人が近くにいて、さしあたって雨風が凌げて食えるなら、それで今のあの子には十分だろう」
寺崎昂司は静かに、真に一歩近付いた。真はぼんやりとその姿を見つめていた。
「坊主、もうこのことには手を出すな。竹流を返してやっただろう。親父はもう裁かれたんだ。遠からず、俺の兄も幾人かの仲間たちも、怒り狂ったゼウスの裁きを受けるさ。お前がこれ以上首を突っ込むと、今度はもっとでかいところが動き出す。親父たちは、とてつもなく大きな顧客を持っていた。そこが動けば、お前は間違いなく消される」
真は震えている唇が痺れだしたのを感じていた。
小学生や中学生のとき、こういう兆候があるといつも気を失っていた。今も、実際もう立っているのもやっとだった。
「アサクラタケシに、会ったんですか」
寺崎昂司は答えなかった。
「あなたの父親を殺すように、あの男に頼んだんですか」
真はほとんど叫んでいた。寺崎昂司は黙って立っていたが、また一歩、真に近付いた。真はゆるりと昂司の姉の匕首を構えた。
「アサクラタケシのクライアントは多分、別の人間だろう。彼が、お前のために自らしたことでないのなら。いや、多分、お前の父親は、どうあってもお前を人殺しになどしたくなかっただろう」
「あなたは、本当に、一度傷つけた竹流の手を更に抉って」真は息を飲みこみ、吐き気を押さえ込むように続けた。「彼を、犯したというんですか」
寺崎昂司はまた一歩真に近付き、静かに微笑んだ。
「そうだ。大和竹流が親父たちのところで無茶苦茶にされているのを見たとき、俺はその男をそうするのは、他の誰でもない、俺だと思った。俺がもう一度彼の手を抉ったとき、彼はほとんど意識が朦朧としていたよ。ああ、このままこの男は、あの天の高みから引き摺り下ろされて、ここで男たちに犯されてぼろ屑のように地面に投げ捨てられるのだと思った。俺が憧れ、彼のようになりたいと分不相応な願いを抱き、俺が愛して憎んだ男が、あんな屑のように扱われているのを見たとき、たまらない快感と不快感が押し寄せてきた。俺は興奮していたよ。俺のものは苦しいくらいに固くなっていた。御蔵皐月を抱いたときにさえ、そんなことにはならなかったのに、苦しいくらいあいつを求めた。もうほとんど息が絶え絶えだったあいつの身体を貫くのは、恐ろしいくらいに簡単だった。そう、恐ろしいくらいに簡単だったんだよ」
真は近付いてくる寺崎昂司から一歩逃れようとしたが、窓枠がその退路を断っていた。
「誰にもひれ伏したことのない、神のような男のケツを貫くことがそんなに簡単でいいわけがない。それなのに、そいつはもう意識も崩れ落ちていて、目も焦点が定まっていない、ぼろぼろの布切れのようだった。薬のせいで、あいつの身体は、襤褸切れなのに俺のものを受け入れ、締め付けてきた。その時、俺はこいつを本当に愛していると思ったよ。あいつは絶え絶えになった息を僅かに荒げて、こうじ、と俺の名前を呼んだ。こうじ、何をしている、何故逃げない、と。俺は恐ろしくなって狂ったようにあいつの身体に自分を叩きつけた。あいつは朦朧としながら、何か呟いていた。全部は聞き取れなかったけど、ずっとここに、と聞こえた。誰かの言葉だと思った。誰かが今、この男の中を満たしている、と。あいつは死を受け入れた顔をしていた。その誰かに抱かれていたからだ」
真は匕首を握る手に更に力を入れた。
「坊主、お前だよ。お前以外にいない、とそう思った。俺の身体の下にあの男を組み敷いて、そのまま犯り殺すつもりだった。でも彼はお前の名を呼びこそしなかったが、その目はお前を探していたんだ。そう、彼はお前のもので、お前は彼のものだった。彼は永遠に俺のものにも、もしかすると姉のものにもならない。その時、たとえ死体になっても、お前に返さなければならないと思った。坊主、お前は俺を殺す権利がある」
すでに寺崎昂司は真の目の前だった。昂司は真の握る珠恵の匕首の真正面にいる。このまま真が意識を失って、昂司に倒れ掛かりさえすれば、この男を刺し殺すことができる。真はふらりと力を抜いた。倒れ掛かるのは簡単なことのはずだった。
その瞬間、真の目は、光で遮られてよく見えていなかったものを捉えた。
「寺崎さん……」
真は呟いた。
寺崎昂司の腹からは、真が刺さなくても既に血が流れていた。スラックスは血に染まり、裾からは赤い雫が滴っていた。寺崎昂司が立っている床には、雨の後の水溜りのように血が揺れて、そこに真の影が映っていた。その時、真と寺崎昂司の間にあった空間の断裂は曖昧になり、昂司のほうが真に近付いたのか、真のほうが昂司に近付いたのか、お互いの呼吸が重なり合ったような気がした。
「寺崎さん」
真は苦しくなってきている腹の内からもう一度呼びかけ、首を横に振った。瞬時に、この男を助けなければならないと思った。竹流がこの男を逃がしたいと思っていたのなら、あるいはこの男にもう一度会いたいと思っているのなら、竹流のところに連れて行ってやらなければならなかった。
「まさか、アサクラタケシがあなたまで」
寺崎昂司は曖昧に笑った。
「アサクラタケシにクライアントがいたとしたら、寺崎孝雄は許されず、寺崎昂司は許せる、とは思わないだろう。だが、お前の父親は、俺がお前に真実を話すことを望んだんだよ。いや、お前がもしも本気なら、本気でジョルジョ・ヴォルテラに一生ついていく気なら、お前がその手で俺を刺し殺すべきだと、ようやく達観したのかもしれないな。お前が本気であいつを守りたいなら、お前自身の手で俺を殺さなければならない。俺は生きていれば、またあいつを殺したくなる。あいつの身体を天から引き摺り下ろし、ぼろぼろにしたくなる。俺が親父たちからそうされてきたように、あいつに俺と同じ苦しみを味あわせたくなる。
坊主、俺はあいつを抱きながら、どれほど興奮したことか。その血を見て、その血の海の中に突っ込みながら、どれほど悦んでいたか。俺は狂っているぞ。あの男が欲しいんだ。御蔵皐月を愛していたんじゃない、俺は大和竹流を俺のものにしたかった。御蔵皐月が俺の目の前であの男のものを銜えながら、死ぬまで踊り狂っているのを見たとき、それは俺であるべきだと思っていた。あの男を一生縛り付けて、俺だけのものにして、そう、身籠った母を犯し続けていた俺の親父のように、あいつが許しを乞うても残忍に笑いながら犯り殺すまであいつを貪って、あいつの右手をもっと深く抉ってその血を舐め、俺があいつになり、もう一度重ねた手を刺し貫き、いっそ身体ごと焼いて、あいつと一緒に狂い死にしたいんだ。お前になど、渡したくない」
真は首を狂ったように横に振った。
「さぁ、今俺を殺さないと後悔するぞ」
昂司は、彼の身体ごと真にぶつかってこようとした。
「寺崎さん!」
真が叫んだとき、昂司の身体は突然、大きな引き潮にさらわれるように後ろへ引き倒された。
真は目の前から消えた昂司の身体を光の中で完全に見失い、その瞬間、真自身もついに意識を失った。
* * *
それは寺崎昂司が初めて見た極楽の景色だった。
そこには美しい姉がいて、開け放たれた丸い窓の向こうに、木漏れ日を地面に降らせる紅葉の青葉が輝いている。太陽の破片は惜しみなく地上に降り注ぎ、地面の暗い場所にも、暖かな温度を与えていた。
美しい姉は、昂司と大和竹流の前に味噌汁と漬物を静かに置く。水茄子と豆腐の味噌汁が胃に入ると、自然に身体の内側から満たされていく。大和竹流は姉に微笑みかける。堂島のじいさんの水茄子はやっぱり最高だ、と言って。
昂司、お前も一緒にここに住もう。俺と、珠恵のためにそうしてくれ。
昂司は、考えとくよと答えて、水茄子の漬物を口に入れる。竹流は京野菜を作る農家である堂島のじいさんと初めて会ったときの話をしている。ちらりと姉を見ると、竹流を穏やかな目で見つめて、それから昂司の視線に気が付いて優しく微笑んだ。
現実に目を開けると、窓から降り注ぐ光の破片は、昂司の目を射て、痛めつけた。眩しすぎて目が焼けてしまい、もう網膜は光以外の何も映さなくなっていた。
「病院に行くか」
横たわる昂司の傍に、胡坐をかいて座り込んでいる男は、大きな影になっている。その影は避難所のように、昂司を強い光から守っているようだった。
「保証はしてやれないが、もしかして今なら、まだ助かるかもしれないぞ」
昂司は首を横に振った。
その男が作る影は、昂司の目を穏やかに慰める。この男もまた、同じように影を、傷を引きずっているのだろうと、薄くなっていく意識の中で認めることができた。
いや、あるいはこの男は死神なのかもしれない。死神が昂司を迎えに来てくれたのだろう。
やがて男は静かに肯定した。
「それもいい」
低い、決断する力に満ちた声だった。昂司は光のほうへ少しだけ顔を向けて問うた。
「坊主は、どうした」
「あいつに人なんぞ殺せるか」
「だが、あいつは人殺しの息子だ。自分はそう思っているだろう」
男の影は少し揺らめく。
「人殺しの息子かどうか知らんが、真には無理だ」
昂司はぼんやりとした意識の中で笑った。死神までがあの坊主の味方をするのか、と思った。
その男が『真』と呼んだとき、その名前に向けられた深い優しさに、昂司は大和竹流の横顔を思い出した。
昂司が、ビッグ・ジョーの所から真を救い出し竹流のところへ連れ帰ったとき、竹流はしばらく昂司の腕に抱かれたままの真を黙って見つめていた。あれは横たわるイエス・キリストを見つめる母マリアの慈愛の表情と同じだった。
昂司の手から真を抱き取り、竹流は昂司に言った。
お前に、一生返せない恩義ができたよ。どう感謝したらいいのかわからない。
昂司の複雑で自滅的な感情も深い憎しみも、あるいは愛情も、何も気が付かないまま竹流はそう言ったのだ。昂司があの男の右手を抉ったとき、竹流はこれがあの時の代価ならやむを得ない、真のためならあの神の手といってもいい右の手を捨ててもいい、とそう思ったのかもしれない。
俺はあの坊主をやはり羨んでいたのだ、だからあの坊主に殺されたかったのだろう。
「それほどに真に殺されたかったのか。そうしてあいつが生きている限り、最後まであいつの記憶の中に巣を作ることで、あいつに復讐をしたかったか? 嫉妬というにはあまりにも哀しいな」
男は馬鹿にしたようではなく、ただ言葉を噛み締めているようだった。
「いや、自分が死んでからも、大和竹流の運命を握っていたい、ということか。そうだな、それもいい、そういう生き方も死に方もあるんだろう。なら、俺が大和竹流の代わりに、お前の死に様を見届けてやるよ」
昂司は目を閉じた。複雑で苦しい運命を書き綴られていた本は、光の中で風にページを繰り続けられ、やがて目に見えない速度で光に溶け入り、光の破片の一部になっていった。
降り注ぐ太陽の破片は、形を変え、天空の音楽を奏でている。それは暖かい言葉となり、魂を宿し、昂司の心に落ちてきた。
しぬな。おれのそばにいろ。こうじ。
昂司はもう一度だけ目を開けた。幻でも見たいと願った姿は、網膜に残ったまま、今もすぐ傍にあった。そして今度こそ、昂司は自分の意思ではなく、神の力に全てを任せて目を閉じた。
薄れていく意識の中で、極楽を飛ぶ鳥の長い尾に触れたような気がした。
(第33章 了、第34章『交差点』につづく)



今年の更新はここまで。正月早々から第34章のスタート、かな?
新しい年は、仁のカッコいい啖呵から始まります。
いつも拙いお話にお付き合ってくださる方々に心から感謝申し上げます。
いつもコメントを下さるlimeさん、夕さん、TOM-Fさん。皆様のおかげでアップを続けていられるようなものです。年末なので特別に、心から! お礼を申し上げます。
この辺りの下りをアップしながら、本当に自分のお話はダメダメだなぁ、読者さんが少ないということはそれだけ非魅力的ということなのだと分かりつつ、ここまで来ちゃったから、後は惰性でも何でも取りあえずラストまでは行こうと心に誓う年末でした。
やっぱり、ブログで発表するようなお話じゃなかったなぁと、今更ながらに黄昏る年の瀬なのでした。
でも、カウントダウンは地味にテレビで大野くんを見ようっと!(何の関係もありませんが^^;)
良いお年を!
<次回予告>
「人間は皆がお前みたいに聖人君子でも完璧でもないんだよ。自己犠牲や無償の献身は、そいつが『持てる者』だからこそできる。そんなお前を身近に見て、普通の人間はどう感じるか考えてみたことがあるか。お前の自己犠牲は普通の人間の犠牲とは桁が違う。だから普通の人間はお前からそれを受け取ると、自分が果てなく愛されているような気持ちになる。けれどお前にとってそれはごく一部、僅かなものでしかない。だからお前は平気で自分の命さえ差し出してやろうとする。だが、お前が本気になったら、お前は全く別の人間になる。相手にも苦痛を強いるんだ。それが葛城昇にも寺崎昂司にも見えちまったのさ。自分たちに向けられたものとは全く違うお前の姿を見ちまったからだ。本気になったお前が聖人なんかじゃない、偏狭で残酷で、限りが無いほどにいやらしい人間だということに気が付いた」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨161] 第34章 交差点(1)姫君の覚悟と騎士の欺瞞
【海に落ちる雨】第34章「交差点」です。孫タイトルがまるでファンタジーの世界になっているけれど……思えばこのお話は『人魚姫』の焼き直し、しかも竹流と葉子の関係は『かぐや姫』の月の姫と無理難題を押し付けられた求婚者。ある意味、究極のファンタジーかも。
さて、ものすごい勢いで書いた怒涛の31~33章が終了し、ここからは再生の巻、です。まだ地獄の底のようなところにいる主人公ですが、ゆっくりと這い上がってきてくれるはず(かな?)。
新年は、北条仁のカッコいい啖呵から、お楽しみください。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
さて、ものすごい勢いで書いた怒涛の31~33章が終了し、ここからは再生の巻、です。まだ地獄の底のようなところにいる主人公ですが、ゆっくりと這い上がってきてくれるはず(かな?)。
新年は、北条仁のカッコいい啖呵から、お楽しみください。





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竹流は、薬剤性間質性肺炎、という病名から三週間ほどかけて回復した。
だが、その永遠とも思われる時間で、彼の体力はほとんど叩きのめされるまでに崩壊していた。わずかの幸いな出来事は、その間に足のギプスが取れたことくらいだった。
竹流は、真が姿を見せないことについて、傍についている葉子に尋ねることもしなかった。愛する女を呼んで欲しいとも言わなかった。何が起こっているにせよ、望ましい事態だとは思ってもいなかった。
彼の姫君は、彼女に額づきあらゆる義務を果たしてきた騎士のために、どのような世話も焼いてくれた。
竹流の背中の火傷の瘢についても、新しい残酷な傷跡についても、彼女は何も聞かなかった。竹流は姫君に彼の身体の隅々まで晒すことについて、羞恥の感情を動かされるほどの余裕もなく、姫君のほうは彼の身体のどの一部についても、触れることを躊躇わなかった。
時々姫君の顔を見ると、彼を安心させようとするのか、目一杯に可愛らしい穏やかな顔を見せた。
真の居場所について、あるいは真が犯したかもしれない罪について、彼女に不安がないわけがない。それでも姫君は、幼いときから自分を守り続けてくれた騎士たちの罪は、全て自分も一緒に被るつもりであるという気品を崩さなかった。
もしも竹流が、どうしてそこまでのことをしてくれるのかと葉子に聞けば、彼女はこう答えるのだろう。
竹流さんがそう教えてくれたんだよ。男が本当に苦しい時に最大の味方になってやれるような女になってくれ、って。
竹流は肺炎からは回復したものの、夜な夜な魘されていた。何かの拍子には、自分でも理解できない言葉を呟き、自分でそれに気が付いて放心していることもあった。薬の影響なのか、それ以外のもっと複雑な理由なのか、自分でもわけが分からなかった。医師は葉子には何か説明しているのだろうが、葉子は何も言わなかったし、竹流も聞かなかった。
真の顔を見ないまま、三週間が過ぎたころ、北条仁が病院に尋ねてきた。
病室には似合わないぞんざいな態度で傍の椅子に座り、腕と足を組むと、仁はしばらく竹流の顔を黙って見つめていた。怒っているようにも呆れているようにも見えたが、それ以外の感情も見え隠れしていた。
「死に損ないの割には、相変わらず綺麗な顔をしてやがる。色男が病に臥す姿が、こんなにもそそるもんだとは思わんかったよ」
竹流は感情のない目でぼんやりと天井を見つめたままだった。
溜息をひとつついた仁は、竹流の顎を摑んだ。指先に力が籠っているのが見て取れた。竹流が僅かに顔を歪めると、仁は、どうやら正気らしいな、と言って改めて椅子に深く座りなおした。
それから仁はまるで嫌がらせのように黙ったまま座っていた。
竹流は仁から目を逸らし、目を閉じ、窓のほうへ顔を向けて、また目を開けた。普段の彼ならば考えにくいことだが、長い沈黙が彼を不安にさせていた。竹流の身体の内側に巣くった悪魔の薬は、彼の人格の一部を壊してしまったのかもしれない。あるいは竹流の、彼自身さえ知らなかった脆い部分を膨れ上がらせたのかもしれない。
「何故、聞かない?」
仁は足と腕を組んで、椅子にふんぞり返ったままだった。
「聞くのが怖いか? お前があの世とこの世を行ったり来たりしてる間に、真が何をやらかしたか、今どうしてるのか、何故お前のところに来れないのか」
竹流は目を閉じた。何を聞かされても、自分には今、どうすることもできないという気がした。
「もっとも、可哀想な病人のお前に辛い事実は知らせないでやろう、なんて優しい了見は、俺も持ちあわせてないんでね、事実はそのまま話す」
一旦言葉を切ると、仁は葉子の方を見た。
「聞かないほうがいいかもしれないぞ」
葉子は竹流の方をちょっと見たが、聞いてもいいならここにいます、と言った。
葉子の言葉には力と覚悟がある。仁はしばらく葉子の顔を見ていたが、納得したように竹流のほうに向き直り、ひとつ息をついた。
「あいつは今、うちに預かっている」短い沈黙の間に、遠くアラームの音が幾つか重なった。「始めの何日かは、自分が誰かもわかっていない様子だったけどな、ここんとこは朝起きて、十分とは言えないが、ちゃんと飯も食ってる。たまに出掛けることはあるが、ほとんど一日中、縁側で座ってぼんやりしている。言葉を忘れたんじゃないかと思うほどめったに口もきかないが、まあ親父の将棋の相手はできるようになったから、頭が狂ったわけでも、喋れないわけでもないんだろう。縁側の柱にもたれて、あぁも無防備にされてるとな、あまりにも凄絶で色っぽいんで、そのうち襲いそうだ」
それでも竹流は天井を見つめたままだった。
「お前が抱えていたものが何か、寺崎昂司がお前の何だったのか、今更聞いてもしょうがないけどな、遺言くらいは伝えてやるよ。お前を憎んでいた、ってな」
仁は全く竹流から視線を外さない。その気配を感じながら竹流は目を閉じた。
「お前が与えてくれようとした愛情も哀れみも、寺崎昂司には辛くてしょうがなかったんだろうさ。お前がそうしてあいつのために自分を犠牲にしようとすればするほど、あいつは自分にはないものに傷ついていた。惨めだったろうさ」
竹流は涙を流した。それは止めることのできない感情の僅かな吐き出し口だった。
「だが、お前を愛していた。これから先のお前の生涯、お前の心のうちに棲み付いて離れてやらないと、そう伝えておいてくれと、それが遺言だ」
竹流は、寺崎昂司がそんなことを言わないはずだと知っていた。だが、仁が昂司の心のうちをいかに鋭く汲み取ったかについては、疑う余地がなかった。
「人間は皆がお前みたいに聖人君子でも完璧でもないんだよ。自己犠牲や無償の献身は、そいつが『持てる者』だからこそできる。そんなお前を身近に見て、普通の人間はどう感じるか、考えてみたことがあるか。お前の自己犠牲は普通の人間と桁が違う。だから普通の人間はお前からそれを受け取ると、自分が果てなく愛されているような気持ちになる。けれどお前にとってそれはごく一部、僅かなものでしかない。しかも、性質の悪いことに、お前にとっては命さえも、平気で差し出してやれるものらしい。だが、お前が本気になったら、お前は全く別の人間になる。相手にも苦痛を強いるんだ。それが葛城昇にも寺崎昂司にも見えちまったのさ。自分たちに向けられたものとは全く違うお前の姿を見ちまったからだ。本気になったお前が聖人なんかじゃない、偏狭で残酷で、限りが無いほどにいやらしい人間だということに気が付いた」
仁の声は淡々と続いた。竹流はもう新しい涙を失っていた。
「逆にお前のほうは、そんな自分に我慢がならないことに気が付いた。だから逃げ出す気だ。お前は堕ちてしまうのが怖いんだろう。自分が地獄に落ちることは構わないとしても、誰かを一緒に引きずり落としたら、それがお前にとっては拭うことのできない罪になる。いや、おまえ自身は地獄に落ちようが最後には救われることが約束されているんだろうが、一緒に落ちてしまった人間はただ地獄を這うしかなくなる。そうなればお前自身はたとえ天国に迎えられても、心は地獄にいるのと同じだからな。だが、悪いがな、この国には悪人のほうが極楽に行くのが簡単だっていうとんでもない宗教があるんだよ。すっぱり認めちまえ。お前はとてつもない極悪人だ。もう二度と聖人なんかに戻れやしない。覚悟を決めて一緒に地獄を這ってやれ」
それから暫く北条仁は黙って竹流の顔を見ていた。微かに、窓ガラスが震えたような気がした。
やがて仁は、それまでとは違った優しい声で言った。
「お前に約束したことは守れなかったな。俺に全て預けろ、と言ったのにな。珠恵さんにも悪いことをしたよ。俺が真を守るから安心して任せろ、と言っておきながら、どうやら俺も真を甘く見ていた」
竹流は目を閉じたままだった。
「真は身を売ってまでもお前の仇をとろうとしやがった。あいつは半分狂ってたよ。お前が奴らに犯られまくってる映像を見せられたんだ。寺崎昂司が、真のことを人殺しの息子だからだと言っていたが、あれはあいつ自身の意思だ。血がどうのという問題であるわけがない」
竹流は思わず目を開けて、葉子を見た。仁も、言ってしまってから心配になったのか、葉子を振り返っていた。
しかし、葉子はまったく動じる様子もなく、そこに立って静かに微笑んでさえいるように見えた。男たちの戦争に対して、自分も覚悟を決めているというような風情だった。
仁は呆れたような、感心したような表情で首を小さく何度か振り、竹流のほうに向き直った。
「真は寺崎孝雄に止めをさすことができなかった。誰かがその権利を掻っ攫っていきやがったんだ。もっとも、もう死んでると言ってやっても、まだそいつを殺し足りないとでもいうように、死体にナイフを突き立てようとした。殺しても殺しても足りない、と無茶苦茶に暴れやがった」
「昂司は」
竹流は目を閉じたまま、ようやく尋ねた。仁は淡々と、しかし低く重い声で答えた。
「きっかけを与えたのが誰にせよ、あれは自殺だよ。俺が看取ったから、間違いがない。あるいは俺が見殺しにしてやったんだから、殺ったのは俺かもしれないな。少なくとも真は無関係だ。もっとも、もし真が寺崎昂司を殺したかったとして、お前に何を言う権利がある?」
万が一、真が寺崎昂司を殺したのだとしても、竹流はそのことで真に対して憎しみの欠片もなかった。
もしも、竹流が、いや竹流と富山享志が、小松崎りぃさを死に追い込んだということを真が知っても、真は竹流や享志に対してどのような負の感情も起こさないだろう。それと同じように、真もまた、竹流が自ら入り込んだ沼の底から、彼を救い上げようとしただけなのだ。竹流が真を責める要素などあるはずもなかった。
だが、竹流がどこかで小松崎りぃさや飛龍の影に怯えるように、真が寺崎昂司の影に怯えるのだとしたら、それは竹流にとっても深い傷となるに違いなかった。それでも、竹流は、自分が寺崎昂司に対して抱いていた想いを真と共有するつもりはなかった。それを真に背負わせるわけにはいかないと思っていた。
「はっきり言っておく。忘れろ。お前が真にしてやれる最も大事なことは、忘れてやることだ」
それから仁は大きく息をついた。
「今はお前もこんな状態で、どうもならんだろうけど、いつか報いてやれ。そのためにも、あいつを傍から離すな。あいつがお前のために何をしたんだとしても許してやれ。あいつが望んでいるんだ、奈落の底まで連れて行ってやれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
立ち上がりかけて、仁はもう一度竹流の顔を見た。
「しばらくあいつは預かっとく。お前さん、早く良くなって迎えに来ないと、本当に俺が喰っちまうぞ。据え膳を前にしちゃあ、俺にも我慢の限界ってもんがあらぁな」
仁は、こんな話をして申し訳なかったな、というような視線を葉子に向けて、それから病室を後にした。
仁が閉めた扉の音が、低く柔らかく病室に残った。
「レディの前でなんてことを」
竹流は天井を見つめたまま、ただそう呟いた。葉子が仁の座っていた椅子の背にそっと手を掛けて、竹流が疲れきっていないかと、心配そうな顔をした。
葉子は真についてどんなとんでもないことを聞かされたとしても、おそらく真を信じているだろうと、竹流には分かっていた。
葉子が信じているのは、お兄ちゃんはそんなことをするはずはない、ということではない。むしろ、真がしたかもしれないあらゆる行為に対して、葉子は自分が動じることもないことを確信しているのだ。
それでも竹流は、真がそんなところへ足を踏み入れるきっかけを作ったことに対して、葉子には申し訳ないと思っていた。
葉子は竹流のその表情から何を思ったのか、小さな声で言った。
「私、極道の女にもなれるかも」
自分で自分に呆れるように息をついてから、葉子は竹流に微笑みかけた。
「竹流さんがこんなことになって、お返しをするのは当然だと思ってるもの。お兄ちゃんが今、どういう状態かわかんないけど、多分お兄ちゃんは後悔してるんじゃなくて、今もまだ怒りが冷めないんだよ。だから、ここに来れないんだと思う」
その言葉を受けて、竹流は随分長い間葉子を見つめていた。
彼らが守り通してきたと思っている小さなお姫さまは意外に強く逞しくて、実は彼ら男たちの方が守られていた、などという話は、一人前の騎士気取りであった竹流の自尊心をちょっとばかり傷つけたのだが、本当のところは否定できそうになかった。
何とも返事できずに、竹流は葉子からまた天井へ視線を戻した。
「それに、竹流さん、お兄ちゃんをとられちゃ駄目だよ。私は、竹流さんだからこそ許してるんだからね。そこを汲んでくれなきゃ、私もお兄ちゃんを諦めた甲斐がないわ」
さすがにそれにも返事ができなかった。
葉子の前で自分たちがある特殊な意味で『仲が良い』ことを隠し立てしたこともないのは事実だが、葉子がそんなふうに自分たちを見ているというのは、言葉にされてしまうと実際かなり驚きでもあり、竹流は答えに窮した。だが、葉子は他意は全くない、というように微笑む。
まったく、この夫婦はどこまでも、真と彼のことを肯定的に考えようとするのだ。そこにどれほど無茶苦茶な欲望や混乱が渦巻いていても、葉子や享志にかかってしまうと、魔法の粉でも振りかけられたように浄化されてしまう。
「俺は、葉子ちゃんが思ってるほどいい奴じゃないんだ。知ってる通り、幾人か付き合っている女がいて、妻のように想っている女もいる。あいつに対しての感情は、そういうものとは全く別のもので、事実、きれいごとでは済まされない」
思い返してみれば、竹流は、葉子相手に女の話などした覚えは一度もない。葉子の騎士気取りの彼は、彼女にそういう自分の下世話な部分など見せたくはなかったのだ。真のことについても同じだった。
姫君に、神の戒律にも背いている複雑な彼の感情を説明するのは、どうにも耐え難いことだった。葉子に言わせれば、それにしては態度にありありと出ている、というところなのだろうが。
答えない葉子に、竹流は幾らか不安になる。やはり、この病のせいで彼の脳細胞はどこか、おかしくなってしまったのかもしれない。
「もし誰かを本気で好きになって側に置いたら、相手の一挙手一投足まで思い通りにならないと許せなくなる。腹が立てば相手に何をするかわからない、俺は多分そういう人間なんだ。君が見ているような人間ではない。北条さんの言っていたことは何もかもその通りだ」
「それで、イタリアから帰ってきたとき、お兄ちゃんとわざと距離を置こうとしていたわけなの?」
竹流は事実、あまりにも驚いて葉子を見た。
葉子は、竹流が知っているどの女とも違っている面があった。時々、非常識とも言える言葉を、あっけらかんと言ってしまう。物事を思わぬ方向に一刀両断してしまうのだ。そして、そのお姫様スマイルであっさりと流してしまう。
かぐや姫の物語を読んだとき、竹流は思ったものだった。まさにこの娘は重力を含めた常識の範囲の異なっている月からやってきたお姫様で、男たちに無理難題を押し付けて平気な顔をしている。
だが、どんな苦難に立ち向かわなければならないのだとしても、姫に傅く騎士としては、彼女の願いを聞き届けなくてはならない、と。それだけの価値のある姫君だと竹流は思っていた。なぜなら、その非常識はあくまでも表面上の問題で、その奥で彼女はただ物事の本質だけを見ている。
葉子に月を取ってきて、と言われたら、竹流は間違いなく月を取りにいく。この娘が、お兄ちゃんをお願いね、と言ったから、竹流は今、苦しんでいる。この娘がそう言ったのは、月には手に入れるだけの本当の価値があり、竹流にとって真がどれほど大事な存在であるのかということを、葉子はちゃんと知っているからなのだ。
「そんなに驚かないで。私は、別にそれでもいいかな、って思ってただけで。でも、お兄ちゃんがりぃささんとああいうことになったとき、竹流さんがちゃんとお兄ちゃんを捕まえておいてくれてたらこんなことにならなかった、と思ったのは事実だけど」
この夫婦は同じことを言うのだな、と竹流は思った。
「でも、今度は俺があいつを殺すかもしれない」
「それは仕方がないわ」
そう、葉子にとっては、竹流が真を殺してしまっても、それは仕方がない、ということになるのだ。
「同じに思えるよ」
「だってお兄ちゃん、あの時だいぶとち狂ってたけど、りぃささんのこと、本当に愛してたわけじゃない。彼女のことを哀れに思ったり同調したりしたかもしれないけど、あれは愛じゃないもの。お兄ちゃんは、竹流さんがいるから、他の人を愛せないんだよ。それはなかったことにはできない、抜きにして仮定もできないんだから、仕方ないと思うけど」
竹流は混乱していた。彼らのお姫様の言葉に、というわけでもない。ただ葉子の言葉から露になりそうな自分の感情に狼狽えていた。
竹流の答えはもう出ていたはずだった。
今となっては、真を地獄へ伴う気はなかった。そのために、すっかり真をやくざの手に任せなければならないというのなら、それも仕方がないのかもしれないと、曖昧な意識の中で考え続けていた。香野深雪が無事だったら、真に言ってやってもいいと思っていた。その女を大事にしてやれと、お前はこんな世界にやってこなくても、女を愛し、子を生し、もしかして両親からの愛情に不満があったのなら、お前の子どもに愛情を注いでやれと、そう言ってやろうと、噂に聞く三途の川とやらを行き来しながら真にかけてやる言葉を考え続けていた。
真が彼に向けている愛情は、ただ子どもが親離れできていないのと同じ種類のものだ。彼が、以前は馬たちや犬たち、あるいは目に見えないあやかしたちに頼っていた感情をそのまま竹流に向けているのだとすれば、それは当てが外れているのだ。
竹流には、真を守ってきたもの達のような、透明な気高い感情などない。こうなってしまうまでは、自分にも彼らに負けない大きな広い愛情があって、聖書に書かれているように、寛容で情け深く嫉むことも奢ることもない素晴らしい愛情を真に向けることができる、以前はそうではなかったかもしれないが今はできるのだと、感情をコントロールし、恐らくは成功していたはずだった。
だが、一度本当のことに気が付いてしまったものは、どうすることもできない。
真は彼が求めたら拒否をしないことは分かっていた。そして、逆にそれ故に真がどんなに彼のこの厭らしい欲情に応えてくれたとしても、多分竹流はどこまでも真の真情を疑って、ありもしない何かに対しての嫉妬心の切りがないだろうことも分かってしまっていた。
あの日、襲い掛かってきた欲求に耐え切れず、真とキスを交わしたとき、竹流は己の腹のうちにある欲望が、この九年半の間、一度も消えていなかったことに気付かされた。こいつを支配し、押さえつけていうことをきかせ、身体も精神も壊れるまで思うままに貪りたいという果てのない欲望は、ただ小さな種火になっていただけで、いつでもほんの僅かなきっかけで燃え上がり、二度と消せなくなることに、そして今度こそ逃れられないことに、気付かされた。
あのキスが最後に引き返せるはずの交差点だった。その交差点を過ぎてしまえば、その先は一本道だった。引き返すだけの幅のない道は、ただ前へ向かって延びている。ここから降りるには、走り続けスピードを上げ続ける車から、飛び降りるしかなかった。竹流は病魔という悪魔が、彼をその車から引きずり降ろし、固い地面に身体が粉々になるよう叩きつけてくれたら、と本気で考えていた。
彼は真を救ってやるべきであって、壊してしまうために今まで耐えてきたわけではない、そう思っていた。
いや、俺は単に卑怯者なのだ。今でも、神の戒律に逆らう恐怖から逃れられない偽善者だ。俺はただ罪人になりたくないのだ。惨めに堕ちていくことが怖い。神にとっての善人であることからはみ出し、神の御光から零れることを、こうなってしまっても、まだどこかで恐れている。悪人のままでよいと言ってくれる仏の心に触れ、取り込まれてしまうのが怖いのだ。
真は、たとえ竹流がどんな人間であろうとも、あるいは悪魔であっても、受け入れるだろう。それがわかっているから恐ろしい。そして、自然のままの感情を内に秘めた生き物は、あの深い空の闇と深い緑の森の色を湛えた瞳で竹流を見つめ、時に引き返すことのできない底なし沼へ誘い込む。愛おしくて苦しい。そして、だからこそ、心も身体も思うままにして、挙句にはその首を絞めてしまいそうになる。そして何よりも恐ろしいことに、真は彼が首を絞めても、ただ黙ってそれを受け入れるのだろう。
竹流は確かに焦っていたのかもしれない。昨年の秋、予言された異国の教皇が「就任」したと知ったときから、ついに選ぶ時が来たのだと、海の底に潜む異国からやって来た姫君の手を取るのか、懐かしくも優しい同族の姫君の手を取るのか、決断する時が来たのだと思った。
あの優しい教皇から与えられた指輪を捨てたとき、確かに一度は選んだのだ。それなのに、神は一度は裏切った彼を許した。帰っておいでと、両手を広げて待っている。
そして、結局は悪人になる覚悟ができなかった俺は、暖かな神の元へ帰りたいと願っている。
(つづく)




新年の初っ端に仁の言葉を有難く拝聴。
さて、次回はやーさんのお家に居候状態の危なっかしい真のその後です。
<次回予告>
この腕だと思った。骨ばった手には覚えがあった。
真は地面を掘り始めた。地面は固く、真の手はすぐに土と血で黒と赤に染まった。それでも真は素手のまま、地面を掘り続けた。真が掘ると、腕は地中に沈んでいく。真は追いかけるように地面を掘った。腕が地面にのめり込んでいく速度が上がると、真も爪が剥がれるのも気にならず、激しい痛みを感じながら狂ったように掘った。
知らず知らずのうちに叫んでいた。



竹流は、薬剤性間質性肺炎、という病名から三週間ほどかけて回復した。
だが、その永遠とも思われる時間で、彼の体力はほとんど叩きのめされるまでに崩壊していた。わずかの幸いな出来事は、その間に足のギプスが取れたことくらいだった。
竹流は、真が姿を見せないことについて、傍についている葉子に尋ねることもしなかった。愛する女を呼んで欲しいとも言わなかった。何が起こっているにせよ、望ましい事態だとは思ってもいなかった。
彼の姫君は、彼女に額づきあらゆる義務を果たしてきた騎士のために、どのような世話も焼いてくれた。
竹流の背中の火傷の瘢についても、新しい残酷な傷跡についても、彼女は何も聞かなかった。竹流は姫君に彼の身体の隅々まで晒すことについて、羞恥の感情を動かされるほどの余裕もなく、姫君のほうは彼の身体のどの一部についても、触れることを躊躇わなかった。
時々姫君の顔を見ると、彼を安心させようとするのか、目一杯に可愛らしい穏やかな顔を見せた。
真の居場所について、あるいは真が犯したかもしれない罪について、彼女に不安がないわけがない。それでも姫君は、幼いときから自分を守り続けてくれた騎士たちの罪は、全て自分も一緒に被るつもりであるという気品を崩さなかった。
もしも竹流が、どうしてそこまでのことをしてくれるのかと葉子に聞けば、彼女はこう答えるのだろう。
竹流さんがそう教えてくれたんだよ。男が本当に苦しい時に最大の味方になってやれるような女になってくれ、って。
竹流は肺炎からは回復したものの、夜な夜な魘されていた。何かの拍子には、自分でも理解できない言葉を呟き、自分でそれに気が付いて放心していることもあった。薬の影響なのか、それ以外のもっと複雑な理由なのか、自分でもわけが分からなかった。医師は葉子には何か説明しているのだろうが、葉子は何も言わなかったし、竹流も聞かなかった。
真の顔を見ないまま、三週間が過ぎたころ、北条仁が病院に尋ねてきた。
病室には似合わないぞんざいな態度で傍の椅子に座り、腕と足を組むと、仁はしばらく竹流の顔を黙って見つめていた。怒っているようにも呆れているようにも見えたが、それ以外の感情も見え隠れしていた。
「死に損ないの割には、相変わらず綺麗な顔をしてやがる。色男が病に臥す姿が、こんなにもそそるもんだとは思わんかったよ」
竹流は感情のない目でぼんやりと天井を見つめたままだった。
溜息をひとつついた仁は、竹流の顎を摑んだ。指先に力が籠っているのが見て取れた。竹流が僅かに顔を歪めると、仁は、どうやら正気らしいな、と言って改めて椅子に深く座りなおした。
それから仁はまるで嫌がらせのように黙ったまま座っていた。
竹流は仁から目を逸らし、目を閉じ、窓のほうへ顔を向けて、また目を開けた。普段の彼ならば考えにくいことだが、長い沈黙が彼を不安にさせていた。竹流の身体の内側に巣くった悪魔の薬は、彼の人格の一部を壊してしまったのかもしれない。あるいは竹流の、彼自身さえ知らなかった脆い部分を膨れ上がらせたのかもしれない。
「何故、聞かない?」
仁は足と腕を組んで、椅子にふんぞり返ったままだった。
「聞くのが怖いか? お前があの世とこの世を行ったり来たりしてる間に、真が何をやらかしたか、今どうしてるのか、何故お前のところに来れないのか」
竹流は目を閉じた。何を聞かされても、自分には今、どうすることもできないという気がした。
「もっとも、可哀想な病人のお前に辛い事実は知らせないでやろう、なんて優しい了見は、俺も持ちあわせてないんでね、事実はそのまま話す」
一旦言葉を切ると、仁は葉子の方を見た。
「聞かないほうがいいかもしれないぞ」
葉子は竹流の方をちょっと見たが、聞いてもいいならここにいます、と言った。
葉子の言葉には力と覚悟がある。仁はしばらく葉子の顔を見ていたが、納得したように竹流のほうに向き直り、ひとつ息をついた。
「あいつは今、うちに預かっている」短い沈黙の間に、遠くアラームの音が幾つか重なった。「始めの何日かは、自分が誰かもわかっていない様子だったけどな、ここんとこは朝起きて、十分とは言えないが、ちゃんと飯も食ってる。たまに出掛けることはあるが、ほとんど一日中、縁側で座ってぼんやりしている。言葉を忘れたんじゃないかと思うほどめったに口もきかないが、まあ親父の将棋の相手はできるようになったから、頭が狂ったわけでも、喋れないわけでもないんだろう。縁側の柱にもたれて、あぁも無防備にされてるとな、あまりにも凄絶で色っぽいんで、そのうち襲いそうだ」
それでも竹流は天井を見つめたままだった。
「お前が抱えていたものが何か、寺崎昂司がお前の何だったのか、今更聞いてもしょうがないけどな、遺言くらいは伝えてやるよ。お前を憎んでいた、ってな」
仁は全く竹流から視線を外さない。その気配を感じながら竹流は目を閉じた。
「お前が与えてくれようとした愛情も哀れみも、寺崎昂司には辛くてしょうがなかったんだろうさ。お前がそうしてあいつのために自分を犠牲にしようとすればするほど、あいつは自分にはないものに傷ついていた。惨めだったろうさ」
竹流は涙を流した。それは止めることのできない感情の僅かな吐き出し口だった。
「だが、お前を愛していた。これから先のお前の生涯、お前の心のうちに棲み付いて離れてやらないと、そう伝えておいてくれと、それが遺言だ」
竹流は、寺崎昂司がそんなことを言わないはずだと知っていた。だが、仁が昂司の心のうちをいかに鋭く汲み取ったかについては、疑う余地がなかった。
「人間は皆がお前みたいに聖人君子でも完璧でもないんだよ。自己犠牲や無償の献身は、そいつが『持てる者』だからこそできる。そんなお前を身近に見て、普通の人間はどう感じるか、考えてみたことがあるか。お前の自己犠牲は普通の人間と桁が違う。だから普通の人間はお前からそれを受け取ると、自分が果てなく愛されているような気持ちになる。けれどお前にとってそれはごく一部、僅かなものでしかない。しかも、性質の悪いことに、お前にとっては命さえも、平気で差し出してやれるものらしい。だが、お前が本気になったら、お前は全く別の人間になる。相手にも苦痛を強いるんだ。それが葛城昇にも寺崎昂司にも見えちまったのさ。自分たちに向けられたものとは全く違うお前の姿を見ちまったからだ。本気になったお前が聖人なんかじゃない、偏狭で残酷で、限りが無いほどにいやらしい人間だということに気が付いた」
仁の声は淡々と続いた。竹流はもう新しい涙を失っていた。
「逆にお前のほうは、そんな自分に我慢がならないことに気が付いた。だから逃げ出す気だ。お前は堕ちてしまうのが怖いんだろう。自分が地獄に落ちることは構わないとしても、誰かを一緒に引きずり落としたら、それがお前にとっては拭うことのできない罪になる。いや、おまえ自身は地獄に落ちようが最後には救われることが約束されているんだろうが、一緒に落ちてしまった人間はただ地獄を這うしかなくなる。そうなればお前自身はたとえ天国に迎えられても、心は地獄にいるのと同じだからな。だが、悪いがな、この国には悪人のほうが極楽に行くのが簡単だっていうとんでもない宗教があるんだよ。すっぱり認めちまえ。お前はとてつもない極悪人だ。もう二度と聖人なんかに戻れやしない。覚悟を決めて一緒に地獄を這ってやれ」
それから暫く北条仁は黙って竹流の顔を見ていた。微かに、窓ガラスが震えたような気がした。
やがて仁は、それまでとは違った優しい声で言った。
「お前に約束したことは守れなかったな。俺に全て預けろ、と言ったのにな。珠恵さんにも悪いことをしたよ。俺が真を守るから安心して任せろ、と言っておきながら、どうやら俺も真を甘く見ていた」
竹流は目を閉じたままだった。
「真は身を売ってまでもお前の仇をとろうとしやがった。あいつは半分狂ってたよ。お前が奴らに犯られまくってる映像を見せられたんだ。寺崎昂司が、真のことを人殺しの息子だからだと言っていたが、あれはあいつ自身の意思だ。血がどうのという問題であるわけがない」
竹流は思わず目を開けて、葉子を見た。仁も、言ってしまってから心配になったのか、葉子を振り返っていた。
しかし、葉子はまったく動じる様子もなく、そこに立って静かに微笑んでさえいるように見えた。男たちの戦争に対して、自分も覚悟を決めているというような風情だった。
仁は呆れたような、感心したような表情で首を小さく何度か振り、竹流のほうに向き直った。
「真は寺崎孝雄に止めをさすことができなかった。誰かがその権利を掻っ攫っていきやがったんだ。もっとも、もう死んでると言ってやっても、まだそいつを殺し足りないとでもいうように、死体にナイフを突き立てようとした。殺しても殺しても足りない、と無茶苦茶に暴れやがった」
「昂司は」
竹流は目を閉じたまま、ようやく尋ねた。仁は淡々と、しかし低く重い声で答えた。
「きっかけを与えたのが誰にせよ、あれは自殺だよ。俺が看取ったから、間違いがない。あるいは俺が見殺しにしてやったんだから、殺ったのは俺かもしれないな。少なくとも真は無関係だ。もっとも、もし真が寺崎昂司を殺したかったとして、お前に何を言う権利がある?」
万が一、真が寺崎昂司を殺したのだとしても、竹流はそのことで真に対して憎しみの欠片もなかった。
もしも、竹流が、いや竹流と富山享志が、小松崎りぃさを死に追い込んだということを真が知っても、真は竹流や享志に対してどのような負の感情も起こさないだろう。それと同じように、真もまた、竹流が自ら入り込んだ沼の底から、彼を救い上げようとしただけなのだ。竹流が真を責める要素などあるはずもなかった。
だが、竹流がどこかで小松崎りぃさや飛龍の影に怯えるように、真が寺崎昂司の影に怯えるのだとしたら、それは竹流にとっても深い傷となるに違いなかった。それでも、竹流は、自分が寺崎昂司に対して抱いていた想いを真と共有するつもりはなかった。それを真に背負わせるわけにはいかないと思っていた。
「はっきり言っておく。忘れろ。お前が真にしてやれる最も大事なことは、忘れてやることだ」
それから仁は大きく息をついた。
「今はお前もこんな状態で、どうもならんだろうけど、いつか報いてやれ。そのためにも、あいつを傍から離すな。あいつがお前のために何をしたんだとしても許してやれ。あいつが望んでいるんだ、奈落の底まで連れて行ってやれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
立ち上がりかけて、仁はもう一度竹流の顔を見た。
「しばらくあいつは預かっとく。お前さん、早く良くなって迎えに来ないと、本当に俺が喰っちまうぞ。据え膳を前にしちゃあ、俺にも我慢の限界ってもんがあらぁな」
仁は、こんな話をして申し訳なかったな、というような視線を葉子に向けて、それから病室を後にした。
仁が閉めた扉の音が、低く柔らかく病室に残った。
「レディの前でなんてことを」
竹流は天井を見つめたまま、ただそう呟いた。葉子が仁の座っていた椅子の背にそっと手を掛けて、竹流が疲れきっていないかと、心配そうな顔をした。
葉子は真についてどんなとんでもないことを聞かされたとしても、おそらく真を信じているだろうと、竹流には分かっていた。
葉子が信じているのは、お兄ちゃんはそんなことをするはずはない、ということではない。むしろ、真がしたかもしれないあらゆる行為に対して、葉子は自分が動じることもないことを確信しているのだ。
それでも竹流は、真がそんなところへ足を踏み入れるきっかけを作ったことに対して、葉子には申し訳ないと思っていた。
葉子は竹流のその表情から何を思ったのか、小さな声で言った。
「私、極道の女にもなれるかも」
自分で自分に呆れるように息をついてから、葉子は竹流に微笑みかけた。
「竹流さんがこんなことになって、お返しをするのは当然だと思ってるもの。お兄ちゃんが今、どういう状態かわかんないけど、多分お兄ちゃんは後悔してるんじゃなくて、今もまだ怒りが冷めないんだよ。だから、ここに来れないんだと思う」
その言葉を受けて、竹流は随分長い間葉子を見つめていた。
彼らが守り通してきたと思っている小さなお姫さまは意外に強く逞しくて、実は彼ら男たちの方が守られていた、などという話は、一人前の騎士気取りであった竹流の自尊心をちょっとばかり傷つけたのだが、本当のところは否定できそうになかった。
何とも返事できずに、竹流は葉子からまた天井へ視線を戻した。
「それに、竹流さん、お兄ちゃんをとられちゃ駄目だよ。私は、竹流さんだからこそ許してるんだからね。そこを汲んでくれなきゃ、私もお兄ちゃんを諦めた甲斐がないわ」
さすがにそれにも返事ができなかった。
葉子の前で自分たちがある特殊な意味で『仲が良い』ことを隠し立てしたこともないのは事実だが、葉子がそんなふうに自分たちを見ているというのは、言葉にされてしまうと実際かなり驚きでもあり、竹流は答えに窮した。だが、葉子は他意は全くない、というように微笑む。
まったく、この夫婦はどこまでも、真と彼のことを肯定的に考えようとするのだ。そこにどれほど無茶苦茶な欲望や混乱が渦巻いていても、葉子や享志にかかってしまうと、魔法の粉でも振りかけられたように浄化されてしまう。
「俺は、葉子ちゃんが思ってるほどいい奴じゃないんだ。知ってる通り、幾人か付き合っている女がいて、妻のように想っている女もいる。あいつに対しての感情は、そういうものとは全く別のもので、事実、きれいごとでは済まされない」
思い返してみれば、竹流は、葉子相手に女の話などした覚えは一度もない。葉子の騎士気取りの彼は、彼女にそういう自分の下世話な部分など見せたくはなかったのだ。真のことについても同じだった。
姫君に、神の戒律にも背いている複雑な彼の感情を説明するのは、どうにも耐え難いことだった。葉子に言わせれば、それにしては態度にありありと出ている、というところなのだろうが。
答えない葉子に、竹流は幾らか不安になる。やはり、この病のせいで彼の脳細胞はどこか、おかしくなってしまったのかもしれない。
「もし誰かを本気で好きになって側に置いたら、相手の一挙手一投足まで思い通りにならないと許せなくなる。腹が立てば相手に何をするかわからない、俺は多分そういう人間なんだ。君が見ているような人間ではない。北条さんの言っていたことは何もかもその通りだ」
「それで、イタリアから帰ってきたとき、お兄ちゃんとわざと距離を置こうとしていたわけなの?」
竹流は事実、あまりにも驚いて葉子を見た。
葉子は、竹流が知っているどの女とも違っている面があった。時々、非常識とも言える言葉を、あっけらかんと言ってしまう。物事を思わぬ方向に一刀両断してしまうのだ。そして、そのお姫様スマイルであっさりと流してしまう。
かぐや姫の物語を読んだとき、竹流は思ったものだった。まさにこの娘は重力を含めた常識の範囲の異なっている月からやってきたお姫様で、男たちに無理難題を押し付けて平気な顔をしている。
だが、どんな苦難に立ち向かわなければならないのだとしても、姫に傅く騎士としては、彼女の願いを聞き届けなくてはならない、と。それだけの価値のある姫君だと竹流は思っていた。なぜなら、その非常識はあくまでも表面上の問題で、その奥で彼女はただ物事の本質だけを見ている。
葉子に月を取ってきて、と言われたら、竹流は間違いなく月を取りにいく。この娘が、お兄ちゃんをお願いね、と言ったから、竹流は今、苦しんでいる。この娘がそう言ったのは、月には手に入れるだけの本当の価値があり、竹流にとって真がどれほど大事な存在であるのかということを、葉子はちゃんと知っているからなのだ。
「そんなに驚かないで。私は、別にそれでもいいかな、って思ってただけで。でも、お兄ちゃんがりぃささんとああいうことになったとき、竹流さんがちゃんとお兄ちゃんを捕まえておいてくれてたらこんなことにならなかった、と思ったのは事実だけど」
この夫婦は同じことを言うのだな、と竹流は思った。
「でも、今度は俺があいつを殺すかもしれない」
「それは仕方がないわ」
そう、葉子にとっては、竹流が真を殺してしまっても、それは仕方がない、ということになるのだ。
「同じに思えるよ」
「だってお兄ちゃん、あの時だいぶとち狂ってたけど、りぃささんのこと、本当に愛してたわけじゃない。彼女のことを哀れに思ったり同調したりしたかもしれないけど、あれは愛じゃないもの。お兄ちゃんは、竹流さんがいるから、他の人を愛せないんだよ。それはなかったことにはできない、抜きにして仮定もできないんだから、仕方ないと思うけど」
竹流は混乱していた。彼らのお姫様の言葉に、というわけでもない。ただ葉子の言葉から露になりそうな自分の感情に狼狽えていた。
竹流の答えはもう出ていたはずだった。
今となっては、真を地獄へ伴う気はなかった。そのために、すっかり真をやくざの手に任せなければならないというのなら、それも仕方がないのかもしれないと、曖昧な意識の中で考え続けていた。香野深雪が無事だったら、真に言ってやってもいいと思っていた。その女を大事にしてやれと、お前はこんな世界にやってこなくても、女を愛し、子を生し、もしかして両親からの愛情に不満があったのなら、お前の子どもに愛情を注いでやれと、そう言ってやろうと、噂に聞く三途の川とやらを行き来しながら真にかけてやる言葉を考え続けていた。
真が彼に向けている愛情は、ただ子どもが親離れできていないのと同じ種類のものだ。彼が、以前は馬たちや犬たち、あるいは目に見えないあやかしたちに頼っていた感情をそのまま竹流に向けているのだとすれば、それは当てが外れているのだ。
竹流には、真を守ってきたもの達のような、透明な気高い感情などない。こうなってしまうまでは、自分にも彼らに負けない大きな広い愛情があって、聖書に書かれているように、寛容で情け深く嫉むことも奢ることもない素晴らしい愛情を真に向けることができる、以前はそうではなかったかもしれないが今はできるのだと、感情をコントロールし、恐らくは成功していたはずだった。
だが、一度本当のことに気が付いてしまったものは、どうすることもできない。
真は彼が求めたら拒否をしないことは分かっていた。そして、逆にそれ故に真がどんなに彼のこの厭らしい欲情に応えてくれたとしても、多分竹流はどこまでも真の真情を疑って、ありもしない何かに対しての嫉妬心の切りがないだろうことも分かってしまっていた。
あの日、襲い掛かってきた欲求に耐え切れず、真とキスを交わしたとき、竹流は己の腹のうちにある欲望が、この九年半の間、一度も消えていなかったことに気付かされた。こいつを支配し、押さえつけていうことをきかせ、身体も精神も壊れるまで思うままに貪りたいという果てのない欲望は、ただ小さな種火になっていただけで、いつでもほんの僅かなきっかけで燃え上がり、二度と消せなくなることに、そして今度こそ逃れられないことに、気付かされた。
あのキスが最後に引き返せるはずの交差点だった。その交差点を過ぎてしまえば、その先は一本道だった。引き返すだけの幅のない道は、ただ前へ向かって延びている。ここから降りるには、走り続けスピードを上げ続ける車から、飛び降りるしかなかった。竹流は病魔という悪魔が、彼をその車から引きずり降ろし、固い地面に身体が粉々になるよう叩きつけてくれたら、と本気で考えていた。
彼は真を救ってやるべきであって、壊してしまうために今まで耐えてきたわけではない、そう思っていた。
いや、俺は単に卑怯者なのだ。今でも、神の戒律に逆らう恐怖から逃れられない偽善者だ。俺はただ罪人になりたくないのだ。惨めに堕ちていくことが怖い。神にとっての善人であることからはみ出し、神の御光から零れることを、こうなってしまっても、まだどこかで恐れている。悪人のままでよいと言ってくれる仏の心に触れ、取り込まれてしまうのが怖いのだ。
真は、たとえ竹流がどんな人間であろうとも、あるいは悪魔であっても、受け入れるだろう。それがわかっているから恐ろしい。そして、自然のままの感情を内に秘めた生き物は、あの深い空の闇と深い緑の森の色を湛えた瞳で竹流を見つめ、時に引き返すことのできない底なし沼へ誘い込む。愛おしくて苦しい。そして、だからこそ、心も身体も思うままにして、挙句にはその首を絞めてしまいそうになる。そして何よりも恐ろしいことに、真は彼が首を絞めても、ただ黙ってそれを受け入れるのだろう。
竹流は確かに焦っていたのかもしれない。昨年の秋、予言された異国の教皇が「就任」したと知ったときから、ついに選ぶ時が来たのだと、海の底に潜む異国からやって来た姫君の手を取るのか、懐かしくも優しい同族の姫君の手を取るのか、決断する時が来たのだと思った。
あの優しい教皇から与えられた指輪を捨てたとき、確かに一度は選んだのだ。それなのに、神は一度は裏切った彼を許した。帰っておいでと、両手を広げて待っている。
そして、結局は悪人になる覚悟ができなかった俺は、暖かな神の元へ帰りたいと願っている。
(つづく)



新年の初っ端に仁の言葉を有難く拝聴。
さて、次回はやーさんのお家に居候状態の危なっかしい真のその後です。
<次回予告>
この腕だと思った。骨ばった手には覚えがあった。
真は地面を掘り始めた。地面は固く、真の手はすぐに土と血で黒と赤に染まった。それでも真は素手のまま、地面を掘り続けた。真が掘ると、腕は地中に沈んでいく。真は追いかけるように地面を掘った。腕が地面にのめり込んでいく速度が上がると、真も爪が剥がれるのも気にならず、激しい痛みを感じながら狂ったように掘った。
知らず知らずのうちに叫んでいた。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨162] 第34章 交差点(2)仇の死体はどこにもない
【海に落ちる雨】第34章その(2)です。
北条の屋敷に預けられているマコト、じゃなくて、真(いや、にゃんが預けられていたら、襖や畳が大変なことに……でも、北条東吾はマコトを可愛がりそう)。
まだまだ闇の中を這いずり回っているようです。
覚書にしかならない孫タイトル、ちょっと変なことになっていてすみません……
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
北条の屋敷に預けられているマコト、じゃなくて、真(いや、にゃんが預けられていたら、襖や畳が大変なことに……でも、北条東吾はマコトを可愛がりそう)。
まだまだ闇の中を這いずり回っているようです。
覚書にしかならない孫タイトル、ちょっと変なことになっていてすみません……





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朝と夜の区別がうまくつかなかった。時々、鳥が鋭く叫ぶような声が聞こえて、朝だと思って目を開けると、真っ暗な闇の中だった。目を開けたのが、夢なのか現実なのかも分からなかった。眠る前に仁に抱かれていたような気がしたが、朝起きてみるといつも一人だった。
昼間の日の光には、温度も明るさも感じなかった。誰かに促されるままに食事をし、風呂につかり、あるいは排泄や呼吸までも、他の誰かの手がなくてはできていないような気もした。
夜の闇はむしろ現実に近かった。その闇の中で、真は今もまだ、殺すべき相手を探し続けていた。手には力があり、突き殺すための刃も持っていた。どこまでも歩いた。だが仇はなりを潜めていた。
真が北条の屋敷の縁側で、着流しのまま柱に凭れていると、仁のボディガードの大男が、蜂蜜の入ったレモンジュースを置いていった。柑橘類の匂いは、気付け薬の役割を果たす。
暑くなり始めた気温に焼かれて、グラスの中の氷が位置を変え、からんとたてた音に真はふと盆のほうを見た。
一緒に盆の上に置かれた新聞には、ある経済界の大物が、惨殺体で発見されたという報道が一面で踊っていた。
政治の世界にも報道の世界にも顔が利き、あるテレビ局の株の大半を所有している男で、実力と男気に溢れ、精力的で野心に満ち、発展途上国の援助活動にも惜しみなくその力を使っている人物だった。一面に載った写真からは、強い意思と、人受けする人柄が立ち上っている。
その男は、新宿の街中に取り残された、営業の看板を下ろしたラブホテルの廃墟跡で、身体を文字通り『裂かれて』、投げ捨てるようにして殺されていた。新聞の表現はあくまでも控えめだったが、記者はスキャンダル性を隠したくないかのようで、活字の中には抑えきれない勢いが見て取れた。
その大手の新聞の下には、あることないことを大きく書きたてることで有名な、それでいて発行部数の多い夕刊紙が置かれている。見出しの文字には、一般紙のようにはスキャンダル性への躊躇などなかった。そこには、男の肛門から太い鉄パイプが挿入され、腸と腹を食い破っていた、しかもそれは生前の傷だった、と書かれていた。
真はその新聞を、おそらく繰り返し三度は読んだ。二面には、連続殺人か、という大きな文字が斜めに叩きつけられている。京都の運送屋の若社長もまた、生きたまま手足と男根を切り落とされ、出血するままに放置されて殺されていた。やはり肛門には日本刀が突っ込まれていたという。
運送屋の父親は失踪したことになっていた。他にも、同様の手口で、浮浪者や大学教授が殺されていた。
別の日付の新聞には、新宿の荒神組の事務所が襲われ、組長以下五人が無残な姿で殺されていたという記事が、面に向けて置かれていた。ヤクザの抗争として扱われ、新宿の警備は、ヤクザも一般人も歩けないほど強化されているようだった。
真はぼんやりとしたまま新聞を傍らに置き、レモンジュースを飲んだ。からからと氷が音を立てた。
その夜も、真は闇に囚われた。
真は死体を捜していた。粉々になるまで砕いてやるつもりだったのに、見つからなかった。足元の感覚がないままに歩き続け、やがて大きな木の下に辿り着いた。
よく見ると、木の幹には女の胸が浮き上がっている。横暴な神から逃げた女が月桂樹に変わったのだ。ふと足下を見ると、地面から腕が突き出ていた。
この腕だと思った。骨ばった手には見覚えがあった。
真は地面を掘り始めた。地面は固く、真の手はすぐに土と血で黒と赤に染まった。それでも真は素手のまま、地面を掘り続けた。
真が掘ると、腕は地中に沈んでいく。真は追いかけるように地面を掘った。腕が地面にのめり込んでいく速度が上がると、真も逃げられまいと必死で土をかいた。
爪が裂けて剥がれた。しかし、その時にはもう痛みに反応する感覚は、残っていなかった。
知らず知らずのうちに、言葉にならぬ声で叫んでいた。
誰かの大きな身体が真を抱き締めた。真は抗い、無茶苦茶に暴れた。大きな身体は真の身体を、折れるほどの力で抱き締めていた。真はその背中に泥と血に塗れた爪をたて、狂ったように引っ掻いた。
大きな身体は痛みを受け入れるようにして、さらに真の身体を締め付けてくる。
「真、もういい」
次第に真は力を失った。
あぁ、俺は狂っているのだな、と思った。瞬きもせずに闇の空を見上げていた。時々、僅かに現実の中に残された意識が外界を認識しようとすると、激しく頭が痛んだ。身体が割れ裂けるような痛みの中で、真は仁の身体のにおいを嗅いだ。
真は死体を粉々にしなければならなかった。そのためには今、この男に抱かれなくてはならないと思った。
頭の細胞の突起は無茶苦茶に繋ぎ合わされて、因果関係が普通ではなくなっていた。真は仁の身体にしがみつき、仁の太い鎖骨に噛み付いた。仁の手を求め、自分の猛り狂った性器を摑ませようとした。
だが北条仁はその手を真の背中に優しく回し、ただ真を抱き締めるだけだった。真は満たされない欲求に狂いそうになった。
朝、目を開けると、やはり一人きりだった。真はふらふらと立ち上がった。身体が崩れ落ちそうになった時に、大きな男に抱きとめられた。男は日課のように、真を便所に連れて行き、その後で風呂場に連れて行き、ゆっくりと身体を洗ってくれる。真が男の顔を見ると、男は太い声で、正気ですかい、と尋ねた。
「若が心配してますぜ、姐さんも、深雪の姉さんも」
真は男の顔を見て、それから自分の爪に視線を移した。爪は剥がれてもいないし、指先が血に塗れているようなこともなく、そのことがただ辛く思えた。いっそ身体が裂けてしまってくれていたらと、どれほど思ったかしれなかった。
「裁きは下されたんですよ。神の裁きだ。兄さんは早く忘れることです」
真がふらつくと、大男は着衣のままの身体で、真の身体を抱きとめた。この男の身体の内側では、真など子どものようなものだった。
「美和ちゃんは」
「姐さんは昨日から大学に行ってますわ。もう安心だからってんで。若はまだ護衛を外すな、って言ってますがね。夕方には戻って来られまさぁ。深雪の姉さんは、足の怪我でね、一週間ほど入院されてましたけど、退院してしばらくうちにお預かりしたんですが、もう大丈夫だからって一昨日、マンションに戻られましたんで」
「仁さんは」
「若は、今日は荒神組の親分筋と話をつけに行っとります」
「一緒に行かなくていいんですか」
「あっしですかい? なぁに、若にはいっぱしのもんが三人ばかりついていってますわ」
風呂から上がると、真は久しぶりに意識して少し朝食を食べ、新聞を広げた。まだ雲の中を歩いているような気分だったが、外界の空気はちゃんと一気圧で、真の皮膚を突き通すような痛みを起こさせることはなかった。
新聞の一面に小さく、澤田顕一郎が検察の事情聴取を受けたという記事が載っていた。詳しいことは何もわからなかった。逮捕された、という文字はないが、家宅捜索令状が出される見込みで、澤田は家に戻れない状況のようだった。連日の殺人事件報道で、澤田の『事件』の扱いが小さくなっているのだろう。
真は着替えて、それほど濃くはない髭をあたり、久しぶりにネクタイを締めた。大男が驚いたように真を見た。出掛けることを告げると、ついていく、と言われた。断ってもついてくるだろうと思い、真は大男の運転で皇居の近くまで乗せてもらった。
真が車を止めさせたビルを見て、大男は驚いたようだった。
「そいつはいけませんや」
ここでは真を降ろせない、と大男は言ったが、真は一時間で戻ると言ってビルに入った。大男はついてこようとしたが、さすがに福嶋に一緒に会わせるわけにはいかなかった。それでも彼はビルのエレベーターまではついてきた。
案の定、ビルの入口で止められたが、受付の女性は優しく穏やかな声で電話を掛け、連れの大男に待つ場所を教え、真をエレベーターへ誘った。声は優しいが、無駄のない動きと笑っていない目の力には、さすがに大男も気が付いたようだった。
福嶋は真が訪ねたときにはこの事務所にはいないようだったが、十五分ほどでどこかから戻ってきた。真は待っていたソファから腰を上げた。
「近々来るやろ、思とったんや。どないや、身体の調子は」
福嶋は部屋に入ってくるなり、例の大きな力強い声で言った。あっけらかんとした強い調子に、一瞬、目的を忘れて流されそうになった。
真は答えずに、上着を脱ぎ、ネクタイを外した。福嶋は驚いたような顔をしたが、そのうち面白そうに笑った。福嶋と一緒に入ってきた二人の男は表情さえ変えない。
「何のつもりや、兄さん。まさか男に抱かれる気持ちよさが、もう忘れられんようになったんか」
「村野花の居所を教えてください」
福嶋はしばらく真の顔を見つめていた。そしてそのうち大声で笑い始めた。
「何言い出すんか思たら」
福嶋はそう言って急に笑うのを止め、厳しい顔になって真の傍に歩いてくると、真が外しかけたシャツのボタンをとめた。
「ええか、兄さん。兄さんの身体はな、そんな安もんと違う、高級なんや。たとえ相手がわしでも、安売りしたらあかん。個人的にわしとのセックスが忘れられん、ゆうのやったら話は別やけどな」
福嶋はそう言って、真のネクタイを締めなおし、まぁ座り、とソファを勧めた。
「どないしても澤田顕一郎のことに首を突っ込みたいんか」
「あなたは気が付いておられるんでしょう」
「連続殺人事件の犯人か?」
福嶋は真に煙草を勧めたが、真は手を出さなかった。福嶋は表情を変えないまま自分の煙草に火をつけ、ゆっくりとひとつふかした。
「ほんまに、イタリアのマフィアはこわいわ。わしらでもぞっとするようなことしよる。せやけど、村野花はマフィアの跡取りに直接悪さしたんとちゃうさかい、関係あらへんやろ」
「あの女がいる限り、また犠牲になる子どもがいるかもしれない」
福嶋は鼻で笑った。
「あほゆうんやないわ。頭のねじがぶっ飛んだ相棒がおれへんようになったんや、あの女にもうそないな勢いはないわ。あるとしたら、澤田への執着だけやろ。どうせ一人では何もでけへんのや。ほっといたり。それに今更どうこうしても、澤田への事情聴取やら家宅捜索は止めらんやろし、澤田にかけられた疑いの目は、たとえ疑いが晴れたとしても、政治家である限りは一生付きまとうもんや」
「だったら、あなたにも村野花を庇う理由はないはずだ。あなたが村野花に弱みを握られているのでもない限り」
福嶋はしばらく考えていたようだった。
「どないするつもりや」
「あなたは僕に寺崎孝雄を殺させようとした。本当ならその代価としてでも、その女の居場所を教えてくれてもいいはずです。足りないようなら僕を抱けばいい。理由を説明する義務はありませんし、あなたに納得してもらいたいとも思いません」
「北条の息子か。どないしても兄さんに手を汚して欲しいはなかったんやな」
真はしばらく不可解に福嶋を見ていた。そして福嶋が反応したのが『殺させようとした』という一語だったことに気が付いた。
「あなたが、アサクラタケシに『仕事』を依頼したのではないのですか」
福嶋も不可解に真を見た。
「アサクラタケシが殺ったんか」
真はしばらくぼんやりとした頭の霧を払えなかった。振り払うように頭を横に振ったが、全く霧の晴れる気配などない。
「いえ、直接見たわけじゃない。他の誰かかもしれません」
「アサクラタケシは国家に飼われとるんや、少々の圧力かけたかて、仕事を個人的に受けるような立場とちゃうで」
そう言って、福嶋は立ち上がった。
「まぁ、ええわ。せっかく健気に身を差し出しに来てくれたんや。上、行くか。わしも半時間ほどやったらなんとかなるさかいな」
真は黙って福嶋に従った。十階に上がると、その日はブラインドも上げられていて、部屋は明るい光に満ちていた。福嶋は自らブラインドを下げ、向きを調節して光だけを部屋に残した。
この部屋で、あの息苦しいビデオを見て、福嶋に身体を開いたことが嘘のように思える。だが、真は自らもう一度この男に抱かれに来たのだ。それがただ村野花の居場所を知りたかったのか、北条仁が手出しをしてくれないことに痺れを切らしただけなのか、自分でもよくわからなかった。
俺はおかしくなっているのだろう、と真は思った。
まだ殺し足りないのだ。飢えた身体の血が、せめて福嶋との狂ったようなセックスで満たされるのならと思っているだけなのかもしれない。
真がネクタイを解こうとすると、福嶋の手がそれを止めた。時間がないさかいな、と言って福嶋は真の背中をベッドにつけて、足だけがはみ出したままの真のベルトに手を掛けた。下半身だけを剥かれて、真は一瞬で無抵抗になった。いや、始めから抵抗する気などなかった。真は目を閉じ、福嶋を待った。
しかし、暫くは何の気配もなかった。やがて福嶋がベッドを離れた音がして、暫くの間ごそごそと引き出しの中かどこかを探るような気配だけがあった。真は福嶋が何か道具でも探しているのかと思っていた。
「勃っとらへんがな。時間がないんやで」
真はそう言われて、目を開け、福嶋のなんとも言えない不可思議な表情を見つめた。つまり意地悪いことをしようというのでもなく、笑っているのでもない。
「自分ではよ、勃たせんかい」
真は福嶋が表情とは裏腹の冷たい声で言った言葉に、暫くは反応しなかった。それからゆっくりと目を閉じ、自分の性器に手をやり、扱き始めた。無意味で悲しく、乾いていた。
頭は意識を手離しかけていた。また夢の中と現実との境は曖昧になり、時間の感覚も失われていく。
霧の中から抜け出せない。死体をもう一度裂くまでは、どう考えても許せることではなかった。それなのに、真の手元にはその死体の欠片もなかった。その代りを求めるように、真は次第に手の動きを速くして、性的な興奮などまるで感じず、規則正しい運動をしているようにただむやみに擦った。
身体に福嶋の重みがのしかかる。全く準備されていない身体だったが、貫かれてもいいと思った。
しかし、ふと気が付くと、福嶋に軽く頬を叩かれていた。
「兄さん、正気か」
福嶋は真の手を除けて、真の尻を上げさせ、下着とスラックスを上げてベルトを締めた。淡々とした動きだった。
「辛そうやな。わしがその気ぃでも、今の兄さんは抱けんわ。もっと余裕のある時に来いや。そのときは例え天皇陛下への謁見であっても仕事全部キャンセルして、朝まで可愛がったるわ」
そう言って福嶋は一枚の名刺を真の手に握らせた。
クラブ タランチュラ 新宿三丁目
真のテリトリーのまさにど真ん中で、その女は生きていた。
(つづく)




どうでしょう? あんまり福嶋の印象は変えていただきたくないのですが(やっぱり、「悪人」がいい)、でも実はちょっと好々爺だったりして。というのか、「効果的なタイミング」を知っているのかも? そう考えたら、無茶苦茶悪人?
必ずしも優しく慰めてくれる相手ばかりではないのですが、この交差点では色々な人間が真の前を行き交い、そして時には叱咤し、時には抱きしめてくれるのです。
さて、次回はくすぐったくなるような友情の物語? 天然級長の出番です。
<次回予告>
真は享志の腕の中で再び呼吸を荒げ、震え始めると嗚咽を零し、叫ぶと共に享志の身体にしがみついて背中に爪を立てた。その腕の中の真の急な変化を、享志は意外にも上手く受け止めた。享志は狂ったように暴れ始めた真を抱きしめ、耳の内に囁いた。
「そうだ、奴等のしたことは許されるべきことじゃない。お前は何にも間違っていない。もしもまだ足りないなら、俺が一緒に行ってやるよ。そいつらの身体を一片一片切り刻んで、骨を砕いてやろう」



朝と夜の区別がうまくつかなかった。時々、鳥が鋭く叫ぶような声が聞こえて、朝だと思って目を開けると、真っ暗な闇の中だった。目を開けたのが、夢なのか現実なのかも分からなかった。眠る前に仁に抱かれていたような気がしたが、朝起きてみるといつも一人だった。
昼間の日の光には、温度も明るさも感じなかった。誰かに促されるままに食事をし、風呂につかり、あるいは排泄や呼吸までも、他の誰かの手がなくてはできていないような気もした。
夜の闇はむしろ現実に近かった。その闇の中で、真は今もまだ、殺すべき相手を探し続けていた。手には力があり、突き殺すための刃も持っていた。どこまでも歩いた。だが仇はなりを潜めていた。
真が北条の屋敷の縁側で、着流しのまま柱に凭れていると、仁のボディガードの大男が、蜂蜜の入ったレモンジュースを置いていった。柑橘類の匂いは、気付け薬の役割を果たす。
暑くなり始めた気温に焼かれて、グラスの中の氷が位置を変え、からんとたてた音に真はふと盆のほうを見た。
一緒に盆の上に置かれた新聞には、ある経済界の大物が、惨殺体で発見されたという報道が一面で踊っていた。
政治の世界にも報道の世界にも顔が利き、あるテレビ局の株の大半を所有している男で、実力と男気に溢れ、精力的で野心に満ち、発展途上国の援助活動にも惜しみなくその力を使っている人物だった。一面に載った写真からは、強い意思と、人受けする人柄が立ち上っている。
その男は、新宿の街中に取り残された、営業の看板を下ろしたラブホテルの廃墟跡で、身体を文字通り『裂かれて』、投げ捨てるようにして殺されていた。新聞の表現はあくまでも控えめだったが、記者はスキャンダル性を隠したくないかのようで、活字の中には抑えきれない勢いが見て取れた。
その大手の新聞の下には、あることないことを大きく書きたてることで有名な、それでいて発行部数の多い夕刊紙が置かれている。見出しの文字には、一般紙のようにはスキャンダル性への躊躇などなかった。そこには、男の肛門から太い鉄パイプが挿入され、腸と腹を食い破っていた、しかもそれは生前の傷だった、と書かれていた。
真はその新聞を、おそらく繰り返し三度は読んだ。二面には、連続殺人か、という大きな文字が斜めに叩きつけられている。京都の運送屋の若社長もまた、生きたまま手足と男根を切り落とされ、出血するままに放置されて殺されていた。やはり肛門には日本刀が突っ込まれていたという。
運送屋の父親は失踪したことになっていた。他にも、同様の手口で、浮浪者や大学教授が殺されていた。
別の日付の新聞には、新宿の荒神組の事務所が襲われ、組長以下五人が無残な姿で殺されていたという記事が、面に向けて置かれていた。ヤクザの抗争として扱われ、新宿の警備は、ヤクザも一般人も歩けないほど強化されているようだった。
真はぼんやりとしたまま新聞を傍らに置き、レモンジュースを飲んだ。からからと氷が音を立てた。
その夜も、真は闇に囚われた。
真は死体を捜していた。粉々になるまで砕いてやるつもりだったのに、見つからなかった。足元の感覚がないままに歩き続け、やがて大きな木の下に辿り着いた。
よく見ると、木の幹には女の胸が浮き上がっている。横暴な神から逃げた女が月桂樹に変わったのだ。ふと足下を見ると、地面から腕が突き出ていた。
この腕だと思った。骨ばった手には見覚えがあった。
真は地面を掘り始めた。地面は固く、真の手はすぐに土と血で黒と赤に染まった。それでも真は素手のまま、地面を掘り続けた。
真が掘ると、腕は地中に沈んでいく。真は追いかけるように地面を掘った。腕が地面にのめり込んでいく速度が上がると、真も逃げられまいと必死で土をかいた。
爪が裂けて剥がれた。しかし、その時にはもう痛みに反応する感覚は、残っていなかった。
知らず知らずのうちに、言葉にならぬ声で叫んでいた。
誰かの大きな身体が真を抱き締めた。真は抗い、無茶苦茶に暴れた。大きな身体は真の身体を、折れるほどの力で抱き締めていた。真はその背中に泥と血に塗れた爪をたて、狂ったように引っ掻いた。
大きな身体は痛みを受け入れるようにして、さらに真の身体を締め付けてくる。
「真、もういい」
次第に真は力を失った。
あぁ、俺は狂っているのだな、と思った。瞬きもせずに闇の空を見上げていた。時々、僅かに現実の中に残された意識が外界を認識しようとすると、激しく頭が痛んだ。身体が割れ裂けるような痛みの中で、真は仁の身体のにおいを嗅いだ。
真は死体を粉々にしなければならなかった。そのためには今、この男に抱かれなくてはならないと思った。
頭の細胞の突起は無茶苦茶に繋ぎ合わされて、因果関係が普通ではなくなっていた。真は仁の身体にしがみつき、仁の太い鎖骨に噛み付いた。仁の手を求め、自分の猛り狂った性器を摑ませようとした。
だが北条仁はその手を真の背中に優しく回し、ただ真を抱き締めるだけだった。真は満たされない欲求に狂いそうになった。
朝、目を開けると、やはり一人きりだった。真はふらふらと立ち上がった。身体が崩れ落ちそうになった時に、大きな男に抱きとめられた。男は日課のように、真を便所に連れて行き、その後で風呂場に連れて行き、ゆっくりと身体を洗ってくれる。真が男の顔を見ると、男は太い声で、正気ですかい、と尋ねた。
「若が心配してますぜ、姐さんも、深雪の姉さんも」
真は男の顔を見て、それから自分の爪に視線を移した。爪は剥がれてもいないし、指先が血に塗れているようなこともなく、そのことがただ辛く思えた。いっそ身体が裂けてしまってくれていたらと、どれほど思ったかしれなかった。
「裁きは下されたんですよ。神の裁きだ。兄さんは早く忘れることです」
真がふらつくと、大男は着衣のままの身体で、真の身体を抱きとめた。この男の身体の内側では、真など子どものようなものだった。
「美和ちゃんは」
「姐さんは昨日から大学に行ってますわ。もう安心だからってんで。若はまだ護衛を外すな、って言ってますがね。夕方には戻って来られまさぁ。深雪の姉さんは、足の怪我でね、一週間ほど入院されてましたけど、退院してしばらくうちにお預かりしたんですが、もう大丈夫だからって一昨日、マンションに戻られましたんで」
「仁さんは」
「若は、今日は荒神組の親分筋と話をつけに行っとります」
「一緒に行かなくていいんですか」
「あっしですかい? なぁに、若にはいっぱしのもんが三人ばかりついていってますわ」
風呂から上がると、真は久しぶりに意識して少し朝食を食べ、新聞を広げた。まだ雲の中を歩いているような気分だったが、外界の空気はちゃんと一気圧で、真の皮膚を突き通すような痛みを起こさせることはなかった。
新聞の一面に小さく、澤田顕一郎が検察の事情聴取を受けたという記事が載っていた。詳しいことは何もわからなかった。逮捕された、という文字はないが、家宅捜索令状が出される見込みで、澤田は家に戻れない状況のようだった。連日の殺人事件報道で、澤田の『事件』の扱いが小さくなっているのだろう。
真は着替えて、それほど濃くはない髭をあたり、久しぶりにネクタイを締めた。大男が驚いたように真を見た。出掛けることを告げると、ついていく、と言われた。断ってもついてくるだろうと思い、真は大男の運転で皇居の近くまで乗せてもらった。
真が車を止めさせたビルを見て、大男は驚いたようだった。
「そいつはいけませんや」
ここでは真を降ろせない、と大男は言ったが、真は一時間で戻ると言ってビルに入った。大男はついてこようとしたが、さすがに福嶋に一緒に会わせるわけにはいかなかった。それでも彼はビルのエレベーターまではついてきた。
案の定、ビルの入口で止められたが、受付の女性は優しく穏やかな声で電話を掛け、連れの大男に待つ場所を教え、真をエレベーターへ誘った。声は優しいが、無駄のない動きと笑っていない目の力には、さすがに大男も気が付いたようだった。
福嶋は真が訪ねたときにはこの事務所にはいないようだったが、十五分ほどでどこかから戻ってきた。真は待っていたソファから腰を上げた。
「近々来るやろ、思とったんや。どないや、身体の調子は」
福嶋は部屋に入ってくるなり、例の大きな力強い声で言った。あっけらかんとした強い調子に、一瞬、目的を忘れて流されそうになった。
真は答えずに、上着を脱ぎ、ネクタイを外した。福嶋は驚いたような顔をしたが、そのうち面白そうに笑った。福嶋と一緒に入ってきた二人の男は表情さえ変えない。
「何のつもりや、兄さん。まさか男に抱かれる気持ちよさが、もう忘れられんようになったんか」
「村野花の居所を教えてください」
福嶋はしばらく真の顔を見つめていた。そしてそのうち大声で笑い始めた。
「何言い出すんか思たら」
福嶋はそう言って急に笑うのを止め、厳しい顔になって真の傍に歩いてくると、真が外しかけたシャツのボタンをとめた。
「ええか、兄さん。兄さんの身体はな、そんな安もんと違う、高級なんや。たとえ相手がわしでも、安売りしたらあかん。個人的にわしとのセックスが忘れられん、ゆうのやったら話は別やけどな」
福嶋はそう言って、真のネクタイを締めなおし、まぁ座り、とソファを勧めた。
「どないしても澤田顕一郎のことに首を突っ込みたいんか」
「あなたは気が付いておられるんでしょう」
「連続殺人事件の犯人か?」
福嶋は真に煙草を勧めたが、真は手を出さなかった。福嶋は表情を変えないまま自分の煙草に火をつけ、ゆっくりとひとつふかした。
「ほんまに、イタリアのマフィアはこわいわ。わしらでもぞっとするようなことしよる。せやけど、村野花はマフィアの跡取りに直接悪さしたんとちゃうさかい、関係あらへんやろ」
「あの女がいる限り、また犠牲になる子どもがいるかもしれない」
福嶋は鼻で笑った。
「あほゆうんやないわ。頭のねじがぶっ飛んだ相棒がおれへんようになったんや、あの女にもうそないな勢いはないわ。あるとしたら、澤田への執着だけやろ。どうせ一人では何もでけへんのや。ほっといたり。それに今更どうこうしても、澤田への事情聴取やら家宅捜索は止めらんやろし、澤田にかけられた疑いの目は、たとえ疑いが晴れたとしても、政治家である限りは一生付きまとうもんや」
「だったら、あなたにも村野花を庇う理由はないはずだ。あなたが村野花に弱みを握られているのでもない限り」
福嶋はしばらく考えていたようだった。
「どないするつもりや」
「あなたは僕に寺崎孝雄を殺させようとした。本当ならその代価としてでも、その女の居場所を教えてくれてもいいはずです。足りないようなら僕を抱けばいい。理由を説明する義務はありませんし、あなたに納得してもらいたいとも思いません」
「北条の息子か。どないしても兄さんに手を汚して欲しいはなかったんやな」
真はしばらく不可解に福嶋を見ていた。そして福嶋が反応したのが『殺させようとした』という一語だったことに気が付いた。
「あなたが、アサクラタケシに『仕事』を依頼したのではないのですか」
福嶋も不可解に真を見た。
「アサクラタケシが殺ったんか」
真はしばらくぼんやりとした頭の霧を払えなかった。振り払うように頭を横に振ったが、全く霧の晴れる気配などない。
「いえ、直接見たわけじゃない。他の誰かかもしれません」
「アサクラタケシは国家に飼われとるんや、少々の圧力かけたかて、仕事を個人的に受けるような立場とちゃうで」
そう言って、福嶋は立ち上がった。
「まぁ、ええわ。せっかく健気に身を差し出しに来てくれたんや。上、行くか。わしも半時間ほどやったらなんとかなるさかいな」
真は黙って福嶋に従った。十階に上がると、その日はブラインドも上げられていて、部屋は明るい光に満ちていた。福嶋は自らブラインドを下げ、向きを調節して光だけを部屋に残した。
この部屋で、あの息苦しいビデオを見て、福嶋に身体を開いたことが嘘のように思える。だが、真は自らもう一度この男に抱かれに来たのだ。それがただ村野花の居場所を知りたかったのか、北条仁が手出しをしてくれないことに痺れを切らしただけなのか、自分でもよくわからなかった。
俺はおかしくなっているのだろう、と真は思った。
まだ殺し足りないのだ。飢えた身体の血が、せめて福嶋との狂ったようなセックスで満たされるのならと思っているだけなのかもしれない。
真がネクタイを解こうとすると、福嶋の手がそれを止めた。時間がないさかいな、と言って福嶋は真の背中をベッドにつけて、足だけがはみ出したままの真のベルトに手を掛けた。下半身だけを剥かれて、真は一瞬で無抵抗になった。いや、始めから抵抗する気などなかった。真は目を閉じ、福嶋を待った。
しかし、暫くは何の気配もなかった。やがて福嶋がベッドを離れた音がして、暫くの間ごそごそと引き出しの中かどこかを探るような気配だけがあった。真は福嶋が何か道具でも探しているのかと思っていた。
「勃っとらへんがな。時間がないんやで」
真はそう言われて、目を開け、福嶋のなんとも言えない不可思議な表情を見つめた。つまり意地悪いことをしようというのでもなく、笑っているのでもない。
「自分ではよ、勃たせんかい」
真は福嶋が表情とは裏腹の冷たい声で言った言葉に、暫くは反応しなかった。それからゆっくりと目を閉じ、自分の性器に手をやり、扱き始めた。無意味で悲しく、乾いていた。
頭は意識を手離しかけていた。また夢の中と現実との境は曖昧になり、時間の感覚も失われていく。
霧の中から抜け出せない。死体をもう一度裂くまでは、どう考えても許せることではなかった。それなのに、真の手元にはその死体の欠片もなかった。その代りを求めるように、真は次第に手の動きを速くして、性的な興奮などまるで感じず、規則正しい運動をしているようにただむやみに擦った。
身体に福嶋の重みがのしかかる。全く準備されていない身体だったが、貫かれてもいいと思った。
しかし、ふと気が付くと、福嶋に軽く頬を叩かれていた。
「兄さん、正気か」
福嶋は真の手を除けて、真の尻を上げさせ、下着とスラックスを上げてベルトを締めた。淡々とした動きだった。
「辛そうやな。わしがその気ぃでも、今の兄さんは抱けんわ。もっと余裕のある時に来いや。そのときは例え天皇陛下への謁見であっても仕事全部キャンセルして、朝まで可愛がったるわ」
そう言って福嶋は一枚の名刺を真の手に握らせた。
クラブ タランチュラ 新宿三丁目
真のテリトリーのまさにど真ん中で、その女は生きていた。
(つづく)



どうでしょう? あんまり福嶋の印象は変えていただきたくないのですが(やっぱり、「悪人」がいい)、でも実はちょっと好々爺だったりして。というのか、「効果的なタイミング」を知っているのかも? そう考えたら、無茶苦茶悪人?
必ずしも優しく慰めてくれる相手ばかりではないのですが、この交差点では色々な人間が真の前を行き交い、そして時には叱咤し、時には抱きしめてくれるのです。
さて、次回はくすぐったくなるような友情の物語? 天然級長の出番です。
<次回予告>
真は享志の腕の中で再び呼吸を荒げ、震え始めると嗚咽を零し、叫ぶと共に享志の身体にしがみついて背中に爪を立てた。その腕の中の真の急な変化を、享志は意外にも上手く受け止めた。享志は狂ったように暴れ始めた真を抱きしめ、耳の内に囁いた。
「そうだ、奴等のしたことは許されるべきことじゃない。お前は何にも間違っていない。もしもまだ足りないなら、俺が一緒に行ってやるよ。そいつらの身体を一片一片切り刻んで、骨を砕いてやろう」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨163] 第34章 交差点(3)王子の友情と秘め事
【海に落ちる雨】第34章その(3)です。
この章の孫タイトルは酷いなぁ。えっと、作者の目印ですので、お気になさらず^^;
北条の屋敷に預けられている真のところに、親友の富山享志が海外出張から戻ってきます。さて、まだ泥沼を這っている真が這い上がるきっかけに……なるかな。
途中「何?」と思うような展開があっても、笑って読み流してください。享志は大まじめだけれど、作者はからかっています。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
この章の孫タイトルは酷いなぁ。えっと、作者の目印ですので、お気になさらず^^;
北条の屋敷に預けられている真のところに、親友の富山享志が海外出張から戻ってきます。さて、まだ泥沼を這っている真が這い上がるきっかけに……なるかな。
途中「何?」と思うような展開があっても、笑って読み流してください。享志は大まじめだけれど、作者はからかっています。





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富山享志は成田に降り立った到着ロビーで、富山の迎えよりも先に北条一家の出迎えに腕を摑まれた。驚く富山の運転手に、大丈夫だからと言ってから、享志は北条の若い衆に事情を尋ねた。若い衆は、若がお話があるんで、と言っただけだった。
そういうわけで、享志は生まれて初めてやくざの家に足を踏み入れた。そうと知らなければ、一見のところはただ由緒ある立派な家屋敷と見えるだけだ。享志は恐怖よりもただ興味であたりを見回していた。
もっとも玄関での出迎えは、任侠映画で見るほどではなかったが、それなりの迫力で、さすがにその時ばかりは引きそうになったが、表情には出さず鷹揚にその出迎えを受けた。
「よく来たな」
仁は享志の顔を見て、それから面白そうに笑った。
「さすがに真の親友を自称するだけの事はある」
享志はわざとらしく息をついて、尋ねた。
「一体、どういうことです」
「ヤクザに付き合ってここまで来るよりも、あいつの親友を名乗る方が大変なことだと言ってるのさ」
「そういうことじゃなくて」
北条仁は享志の肩を叩いた。
「お前さんも、ついこの間、世の中とんでもないことがあるって思ったと思うけどな、さらにとんでもないことがあるってわけだ。まあ、もう諦めてくれ」
「北条さん?」
享志は知りあったばかりなのに、やくざの家の御曹司である仁に違和感を覚えなかったし、今日自分は相手を信用してやって来た、と思った。
「俺も色々としなければならないことがあってな、それに下手すると我慢がきかなくなりそうで困ってるんだ。お前さん、悪いが、できるだけここにいちゃくれないか」
半分は冗談だぞという含みを持たせたような仁の顔を見ながら、享志はこの男は何を言っているのだろうと思った。
「理由を聞かせて下さい」
「仕事と親友はどっちが大事だ?」
「難しい選択を迫りますね。でも真に何か困ったことがあるのだったら、答えは簡単です」
仁は小気味良く笑った。
「お前さん、ヤクザに向いてるよ。仕事サボって親父に勘当されたら、北条へ来い。若頭で迎えてやる」
そう言いながらもう一度享志の肩を叩き、ひとりでほっとくとちょっと危ないんでな、と言いながら縁側の角を曲がった。
長い縁側の向こうの隅に真がいるということに、しばらく享志は気が付かなかった。
真は完全に風景に溶け込んでいて、人間の気配を感じさせなかった。
彼は座って柱にもたれ、片方の足を投げ出し、もう片方の膝を立てていた。着流しの裾から膝の下が覗いていて、ぞくっとするほどエロティックに見えた。二十代も後半の男をつかまえてエロティックもないはずだが、何の違和感もなかった。立てた膝の上に肘を載せ、軽く指で唇に触れている。色の薄い髪には光が留まっていた。光は、時々風で弄られては居心地が悪そうに形を変えた。
享志は、ああ俺は恋をしていたな、と思った。
高校生の頃、真が某風俗写真家のモデルをしていてPTAのおばさん方曰く『破廉恥な写真』を撮らせていたという、その写真を興味津々の同級生から見せられたときの事を思い出した。
それを見ることは親友を裏切ることのような気がして後ろめたかったのもあるが、他の誰にもこんな姿を見せたくないと思って、その写真集を取り上げた。
写真集の持ち主は級長が権限を発揮して『高校生に似つかわしくない持ち物』を取り上げただけだと考えたのだろう。後から返してくれと言われなかったのでそのまま自分のものにしてしまった。そもそも借りた本を返さないまま忘れている、ということはよくある話で、貸した方もよほどのことがない限り、あえて返せとは言ってこないものだ。
取り上げたものの、その写真集のページを開くことは何度も躊躇した。だが、結局好奇心を抑えられずに夜中にこっそりページを繰った。
写真集はモデルの名前も何も明かしていなかったし、ある意味普段制服で見かける真とはいくらか違った印象があったのだが、真でないとは誰も、勿論享志も思わなかった。
真がその写真家とどういう関係にあったのか、中にはそれを思わせぶりにするような写真まであって、享志は興奮した。どうにも抑えられずに初めて自慰をした。どれほどいけないことだと思っても、真の唇に触れることを想像してしまった。もっともその時の享志にはそれ以上の行為は思いも寄らないことだった。
享志が生まれて初めて女性と関係を持ったのは、つまり、従姉の小松崎りぃさと寝たのは、その後のことだった。
その写真の中の真はあまりにも綺麗で、ある意味、人間離れして見えた。視線を外すことを許さないというように絡み付いてくる目は、これを見たあらゆる人間を不快なほどの興奮状態に駆り立てただろう。多分PTAのおばさん達も、本当のところはこれを見て密かに目の保養をしているに違いない、とは同級生のもっぱらの噂だった。
しかも、写真集自体「ある筋」ではかなり売れていて、あいつそのうち電車の中で痴漢にあうぞ、いやもうあったらしいとか、あっち系の人間がこの写真を夜の友にしているらしいとか、そういうあるともないとも言えないような話題が、しばらく尽きなかった。享志はその度に後ろめたい気持ちを抱いていたものだった。
だが、真を見るたびにどきどきしていたというのは事実でもあったが、その動揺には後ろめたさも半分あって、実際には真と会話を交わしているうちに、いつも落ち着いてきた。
話をしていれば、真は別に変わった生き物でもなんでもなく、ちょっとばかり世間一般の事には興味の薄い、ずれた感性の同級生に過ぎなかった。
それでも時々、何かの拍子に真は享志の中で存在の意味を変える時がある。
何より、初めて会った時がそうだった。
院長に呼びかけられたのも気がつかずに、享志は明らかに真に見惚れていた。彼は、享志がこれまで見たことのない不思議で綺麗な生き物のようだった。人間というよりも獣の美しさにも似ていたし、妖精とかそういうこの世のものではない生き物のようにも思えた。
図書室で一緒に勉強をしていた時もそうだった。
開け放たれた窓から吹き込む風は、本のページを無遠慮にめくり、鳥の声は高く舞い上がった。窓の外には桜の花びらが舞い散っていた。享志は顔を上げ、窓側に座る真を見つめた。真は本のページを戻すことさえせずに、肘をつき、窓の外を見つめていた。
薄い茶色の髪は、光に溶け出しそうになっていた。唇の色は桜の色に染まって見える。女の子とは全く違うのに、これほどまでに美しいのは何故だろうと享志は思っていた。
なんだよ、と享志の視線に気が付いた真が聞いた。
いや、綺麗だと思って。
享志は口をついて出てしまった言葉を引っ込めるわけにもいかず、窓の外へ視線をずらした。真は享志の視線を追うように、花びらを舞い上げる風に目を向ける。
詩人にでもなったら、と呆れたような声が返ってきた。
今、縁側の柱に凭れてただ庭先を見ている真は、十年の時を戻ってしまい、あるいは更にもっと幼く見えた。りぃさとの事があってから健康には随分気を使っていると聞いていたが、ここのところ少し痩せたせいか、髪の色まで更に薄く儚く見えた。手を触れてはいけないもの、触れば消えてしまうもののように思えたが、享志はむしろ消えないように抱き締めたいと思った。
おかしな意味ではなく、ただ純粋にそう思った。
享志は、仁に腕をつかまれて我に返った。
「昼間はいいんだがな、あれでも随分まともだし、誰かが気を付けて見ていることができる。問題は」
言いながら、仁は真の近くまで行った。
「ロンドンから親友がお帰りだぞ」
真は仁を見上げてから、徐に享志の方を見た。そして、享志の感傷を吹っ飛ばすような、淡々とした声で言った。
「お帰り」
「あ、あぁ」
享志は思わず吃るように返事をした。真はゆっくりと立ち上がる。その瞬間に着流しの前がいくらかはだけて、享志は一瞬何となく目のやり場に困ってしまった。
仁の父親、北条東吾は、一見のところは仁よりも優しげで、堅気の伯父さんに見えた。だが、しばらくの間でも前に立っていると、その印象は変わってしまう。隠し事などないのに、身を竦めてしまいそうになる。だが、幸い、享志は東吾にも気に入られたようだった。
食事は屋敷に住まう全ての若い衆が一緒にとる習慣らしく、座敷に縦一列に並べられた机で、皆で無言で片づけた。真も一緒に、享志の向かいに座っていた。真の隣の大きな男が、まるで牛若丸に寄り添う弁慶が主人の世話を焼くように、真の食事に気を使っている。
食事の後で風呂に案内される。さすがの享志も、普通の家に旅館のような広い風呂場があるのを初めて見た。一人で立派な檜の湯船に浸かっていると、どうにも間が抜けているような気がした。
享志が風呂から上がってくると、真はもう眠っているらしく、隣の部屋はすっかり静かだった。
享志は襖一枚隔てた向こうの気配をしばらく窺っていたが、何の物音もしなかったので、そのまま自分も布団に横になった。身体は長いフライトの後で疲れていたが、時差ボケも多少手伝って、どうやら頑張ったところで眠れそうになかった。真に話しかけてみようかと思った、その時だった。
獣が獲物を求めて叫ぶ声か、何か鋭い叫びが、享志の耳を一方から他方へ突き抜けた。享志は跳ね起きた。そのままの勢いで、隔てられた襖の取手に手を掛けて開きかけた時、真、と呼びかける仁の声に気がついた。
「落ち着け。もういい」
穏やかな強い声だった。見ようと思ったわけではなかったが、襖に手を掛けていたその手が意識なくほんの少し襖を開けた。
一瞬、享志はどうしようかと思った。一見のところ、彼らはひとつの布団の中で抱きあっているように見えたし、享志もさすがにその時は、そりゃあ駄目でしょう、と声に出しそうになった。
真はしばらく何やらもがいているように見えたが、やがて大人しくなった。仁はその真の身体を抱きしめ、頭を撫でてやっていた。
享志は薄く開けた襖をそのままに布団に戻り、どうともできずにそこに胡坐をかいていた。
怒りなのか、悲しさなのか、苛立ちなのか、自分でも区分けのできない感情に押し包まれていた。だが、一番悔しいと思っていたのは、真が恐ろしく辛い状況にあった時に傍にいてやれなかったこと、その事情を今自分が理解できていないということだった。
いくらかして襖が開いて仁が入ってくると、思わず仁を睨みつけてしまった。
仁は享志の前に同じように胡坐をかいて座った。
「夜な夜なあの調子だ。殺す気だった仇を目の前で掻っ攫われて、せめて死体をズタズタに裂いてやる気だったのを俺が留めた。殺し足りないんだ。死体が粉々になるまで叩きのめさなかったことを、後悔してるんだよ」
仁は着物を肩から外して肩を露にした。
薄い灯りの中で、その背中の立派な龍の彫りものは今にも動き出しそうに見えたが、享志は仁が見せたかったものがそれではないことをすぐに悟った。
仁の肩には、真がつけたと思われる爪の跡がいくつもあった。
「そういうわけで、ほっておけない」
享志は息をついた。目は仁を睨み付けたままだった。
「で、僕にどうしろと?」
「とにかく、傍にいてやってくれ。あんな具合のくせに、どう言っても京都に行くことを拒否しやがる」
享志は襖のほうへ視線を向け、それからまた仁に向き直った。仁はゆっくりと肩と背中を着物の内に戻す。
「大和さんはどうなっているんです? 大丈夫なんですか」
「お前さん、日本を出る前、だいぶ酷いのは見たんだろう?」
享志は一瞬、自分はとんでもないことをしてしまったかもしれないと思った。仕事は何よりも大事だった。だが、そのためにもっと大事なものを掴みそこなったかもしれないと思ったのだ。あの時、大和竹流は死にかかっていたのだから。
「ええ」
「聞いたところじゃ、何とか肺炎とかいう、性質の悪い肺炎で死に掛かっていたようだがな、とりあえず命は助かったらしい。だが、身体はすっかり参っているようだ。三途の川のあっちとこっちを何往復もしたんだ、そりゃ参りもするだろう。そう簡単に東京に帰ってもこれないだろうしな。それに身体だけのことなら、まだいいんだ」
享志はもうひとつ息をつき、そのまま問いかけた。
「真に、手を出したんですか」
仁は、その質問をポーカーフェイスで受け止めて、真面目に返事をしてきた。
「据膳は喰いたいところでもあるがな、さすがに俺も多少の節制は持ちあわせとる。何より意識もまともじゃないあいつを強姦してもこっちがつまらん。襲うにしても、俺に犯られてるんだってことくらい分かってて欲しいもんだ」
享志は一瞬ほっとしたと同時に自分が腹を立てたような気がした。
仁はしばらく享志の顔を真っ直ぐ見ていたが、さらに付け加えた。
「男に身を売ったんだよ」
享志は顔を上げた。北条仁は恐ろしい顔つきにも見えたし、悲しそうな顔にも見えた。その顔の意味合いを、享志が測りかねているうちに、仁は先を続けた。
「仇が逃げ出さないうちに居場所を突き止めて、引きずりだそうと思ったんだろ。真を抱いた野郎は、ものすごく良かったと言ってやがったよ。真がいくらでも欲しがったってな。いやいやだったとしても、後ろめたいと思うくらい感じさせられたんじゃ、真も京都に行って大和竹流の顔を見れないんだろうよ。その上、大和竹流が傷つけられ犯られまくっている映像を見せられたんだ。二重の意味で、あの男の顔をまともに見れないわけだよ」
仁は享志の肩をぽんと叩いて立ち上がった。
「あいつの身体は随分いいらしいぞ、何なら抱いてやれ」
享志は思わず仁に殴りかかろうとしたが、仁はあっさりとそれを止める。享志は、ひどく疲れて辛そうな仁の顔に、思わず拳を引っ込めた。
「お前さんはあいつの親父の事を知っているのか?」
享志は理解できずに仁を見つめた。仁はいいんだ、というように首を横に振った。
「俺は明日京都に行って来るつもりだ。とにかく頼んだぜ」
翌日、享志は朝一番に父親のところに行って、帰国早々に挨拶に来なかったことを詫び、最低数日の休みをもらうと宣言した。ペナルティは受けるつもりだと言って、珍しく父親の反撃にもあわずにさっさと逃げ出した。
組織というものは有り難いくらいに、個人の事情などで壊れないようにできている。
昼過ぎに享志が北条家に戻ると、真はまた縁側に座っていて、庭の池に泳ぐ鯉を眺めていた。享志とは目を合わすような合わさないような状態で、視線も心もするりと脇をすり抜けた。
いつもあんな調子ですと、北条の若い衆が溜息を零すように享志に告げた。
「一昨日、ようやく少しだけ出かけられたんですが、帰ってからまたあの調子で」
そのうちに大学から美和が戻って、享志に挨拶をしにきた。
美和は少し痩せたように見えたが、元気そうにしていた。最近はマンションにも半分戻っている、という話だった。真が心配なので時々様子を見に来ているのだろうと享志は思っていた。ずっとあんなのなのか、と聞くと美和はそうだと返事をした。でもご飯食べてるだけましかも、と言って、美和は縁側に座ったままの真を見つめた。
真は何か小さなカードのようなものを手に持って、じっと見つめている。享志と美和が傍に行くと、慌てるようでもなく紙切れを握りこんでしまった。
夕食時の様子を見ている限りは、やつれているせいか凄絶に色っぽいことを除けば、いつもの真とそんなに変わりないようにもみえた。
真は、仁がどうしたのかも、何故今日に限って享志がここについているのかも何も聞かなかった。
享志はどう言っていいのか分からなかったので、とにかく隣に布団持ってきてもいいか、と尋ねた。真は何でそんなことを断る必要があるのか、と言った。北条仁のように同じ布団で眠る、というわけにはいかないと思ったからだ。
布団に横になってからも、真は一言も口を利かなかった。眠っているのかどうかも分からなかった。享志は、庭の薄暗い灯りに照らされた障子を背景にして、微かに布団の影が震えるように上下するのを見ては、心を鎮めていた。
遠くで、何かが壊れるような物音がした。
その時、不意に、真の呼吸が強く乱れた。何かに押しつぶされようとするのを避けるように寝返りをうち、身体を丸めて縮こまった気配を感じて、享志は身体を起こした。
完全な静寂の中で、白んだ障子がまるで結界のようにこの部屋を囲っている。真は布団の中にもぐり込んでしまっていた。幼い子供が、自分を喰らいに来る悪魔を避けるような姿に見えた。
だが、真は、悪魔に喰われようとも絶対に助けを呼ばない。享志にはその確信がある。
だからこそ、こっちが手を差し伸べてやらなければ、こいつはまたすり抜けて行ってしまう。享志は何かに駆りたてられるように、真の眠る布団に滑り込んだ。
その時、真の身体の冷たさに、享志は不意に我に返った。季節を疑うような体温だった。汗で身体の温度を奪われてしまったのかもしれない。
我に返ってみると、享志はそういう行動に出たことに、自分で驚いた。よく考えれば、真は幼い子どもではない。自分で判断し、自分で責任を取れる年齢の男だ。それに、彼は親友であり、妻の兄でもある。葉子にプロポーズしたとき、君たち兄妹を一生守りたい、と言ったのは確かだが、真については少し離れたところで見守っていてやって、もしも助けを求められたらいつでも行ってやろうと、それが親友の、そして義理とはいえ兄弟のするべきことだと考えていた。
それに、享志は自分自身の感情を真に伝えるつもりなど、その時まで全くなかった。
だが、真が何か叫ぶように息を飲み込んで、享志の肩にしがみつくようにして爪を立ててきたとき、享志は思わず真を抱きしめていた。腕に抱いた真は、享志が知っている彼よりもずっと小さく思えた。
その身体を抱き締めたとき、ずっと以前、学生のときから自分はこうしたかったのだと享志は改めて思った。奇妙なことに、何か問い詰められた時に返す言い訳を考えるほどに、頭は完全に冷静だった。
中高生の頃、あの頃はどうしたってこんなことはできなかった。自分が竹流のように大人ではなく包み込める度量がないという気持ちがあったのと、真にそれが妙な気持ちではないと言い訳できる自信がなかったからだった。
だが、今真は享志にしがみつき、唸るように何かもがいていた。荒く激しい息遣いと混乱した脈拍を直接肌で感じると、享志は更に強く真を抱いた。
そうか、殺し足りない、というのはこういうことか、と思った。真は相手が享志かどうか、仁かどうか、そんなことは構っておらず、相手の血を求めて唸りをあげる獣のようだった。
仁は夜な夜なこれにどう対応していたのかと思った。しかも、それを自分に押し付けていくなんて。
何も妙案が浮かんでいたわけではなかった。ただ、真がさらに暴れようとしたとき、享志は思わず更に強い力で真を抱きしめていた。それから何かに突き動かされるように真の顔を摑んで彼に口づけた。
その一瞬、真は正気に返ったようだった。それは完全に友情の域を越えていたし、百歩譲って家族に許されるやり方があったとしても、それも越えるような口づけだった。
真は享志の腕を摑んで、必死に逃れようとしていたが、享志は火事場の馬鹿力とでもいうほどの力で真を離さなかった。真はもがいて、何とか腕を逃れさせると、享志の唇を顔ごと引き離し、享志の顔をまともに見た。
完全に正気に見えた。
「享志、どうしたんだ」
「どうしたって、お前の方だろ」
真は不可解な表情をしていた。自分自身の中の感情の混乱と、ここにいるのが享志であるということへの混乱と、その享志が自分にしたことへの混乱が全部こんがらがっていたようだが、それはまともな反応に思えた。真は混乱のあまりひどく幼い、不安げな表情となり、それが享志をたまらない気持ちにさせた。
そんなに不安なのに、何故京都に行かないのかと喉まで出かかった問いかけを飲み込んだ。
「離せって。大丈夫だから」
真が自分から逃れようとしているその感じが、享志の内側の何かを強く刺激した。享志はより一層強く真の腕を摑んで、抱き寄せた。
「享志」
真が思わず名を呼んだ、その唇をもうこれ以上何も言えなくしてしまいたくなって、そのまま、さらに強く抱きしめた。真はしばらく抗っていたが、そのうち大人しくなった。
本当は友情で十分だった。多分、真は他の誰に対しても抱いたことのない友情という気持ちを享志に向けてくれているのだと知っていた。享志自身の気持ちもその通りだったのに、学生の頃の甘酸っぱい、それでいて大人になってからでは自分の感情だったのかどうかも怪しいほどに不可解な、友情とも恋愛とも線を引けない感情をずっと抱えて引きずっていることへの気恥ずかしさも打ち消してしまいたかった。
やはりこれは恋かもしれないと享志は思った。そして、多分今を逃したら相手に伝えることも、気持ちを形にすることもできないような気がした。
腕の中の真がまだ抗いながら訴えた。
「葉子に言うぞ」
「言えよ。どうせ、彼女は動じない」
享志があまりにも冷静な声で言ったからか、真は返事をしてこなかった。どうせ、それもそうだとでも思ったのだろう。自分も真も、完全に葉子の掌の上で、しかもその立場に甘んじているんだな、と妙なことに感心した。
真はもう抵抗もせずに、享志が頭を抱き寄せているのに任せている。微かに咽喉仏が動き、息が漏れ出し、それが享志の耳元をくすぐった。享志はふと顔を上げ、真を見た。
真はすっかり冷静な顔つきだった。
「もし最後まで行く気なら、構わないぞ」
そう言いながらも、身体は微かに震えていた。享志はしばらく真の顔を黙って見つめていた。
こいつは誰かに身を委ねたことでどこかでやけくそになっているのか、それとも享志にはどうせそんなことはできないだろうと踏んで、けしかけるような事を言っているだけなのか、どちらかなのだろうと思った。前者なのだとしたら哀れで仕方がなかった。後者なのだとしたら、本当にこのまま犯してやりたいような気がした。
もちろん、そんなことはできないのだが、それでも俺を侮ってるなと思うと、少しばかり悔しかった。享志は真剣な顔のまま、真の首筋に口づけてやった。さすがに真は慌てたようだった。
まったくこいつは、なんだってんだ。
「享志、ごめん。気に障ったんなら謝るから、離してくれ」
享志はもう聞かないことにした。いや、そのようなふりをした。挑発したのはお前だろうと言ってやろうと考えていた。だが、真の震えは止まらず、不安になった享志がその顔を見ると、目を閉じて享志の愛撫を受け入れ、ただ涙を流していた。
からかい返してやろうと思っていたのに、逆に慌てたのは享志だった。
享志は真を抱き締めた。
本当に、なんだってんだ。
彼に会いたいのだろうと思った。享志ですら、あの傷ついた姿と心に恐怖を感じたのだ。真が何よりも彼のあんな姿を見たくないと思っていることは理解できた。そしてもし、本当に真が竹流のために身を売るまでの事をしたのなら、そして心はどうあれ許してしまったのだとしたら、真は自分の犯してしまったことに怯えないわけがなかった。
あるいはもしかして本当に、大和竹流がとてつもない目にあって、その姿を真が見たのだとしたら、真は相手を殺しても殺しても足りないと感じているだろう。怒りの感情に任せて、仇の身体をズタズタに裂き、死骸を最後の一片まで形がなくなるまで食い千切りたいと、今の今も感じているだろう。
真が苦しんでいるなら、何も聞かず抱き締めてやればいいだけのことだった。暖かい言葉でも、慰める優しい手でもなく、激しく抱いて求めてやればいいと思った。
真が今闘っているのは、真自身の心のうちに深く重く棲み付いている、真自身さえその存在を忘れていた血を求めるような野生の残虐な本能、あるいはもっと明確に、殺意というくび木だったのかもしれない。それとも、否定してもくっきりと浮かび上がってくる、己のうちにある快楽への炎のような欲望だろうか。
だがもしそうだとして、それを内に潜めているのは真だけではない。享志もまた、自分自身が一度きりとはいえ心のうちに抱いた明らかな殺意の存在を、今でも頭の隅に飼っていた。
真は享志の腕の中で再び呼吸を荒げ、震え始めると嗚咽を零し、叫ぶと共に享志の身体にしがみついて背中に爪を立てた。
その腕の中の真の急な変化を、享志は意外にも上手く受け止めた。享志は狂ったように暴れ始めた真を抱きしめ、耳の内に囁いた。
「そうだ、奴等のしたことは許されるべきことじゃない。お前は何にも間違っていない。もしもまだ足りないなら、俺が一緒に行ってやるよ。そいつらの身体を一片一片切り刻んで、骨を砕いてやろう」
そのまま享志は真の腰を抱き寄せ、ぴったりと自分に密着させ、耳を愛撫して舌を差し入れ、どれほど自分が真を求めているか、教えてやった。真はわずかに震えて、それから背中に立てていた爪を納め、享志の肩に顎を預けてきた。享志は頭ごと真を抱き締め、真が眠るまでこの身体を強く、強く抱いていてやろうと思った。
(つづく)




天然級長、頑張りました。真は本当に果報者です。でも、天然な人をからかうととんでもない目に遭います^^;
真、まだその辺のことが分かっていませんね。
<次回予告>
「俺、お前のそういう無神経なところ、嫌いじゃないけどさ、それ以上言ったら本当にお前を襲うよ」享志は真から視線を外さなかった。「頼むから、りぃさのことは忘れてくれ。お前の中でなかったことにしてくれたら、それでいい」
でも、と言いかけた真は、享志のその無表情とも見える横顔に口をつぐんだ。
「悪いけど、お前には関係のないことなんだ。俺とりぃさのことは」
「でも彼女の自殺は、結局俺が彼女を……」
言いかけた真の口を唐突に力で享志は塞いだ。
「勘違いしないでくれ。りぃさは俺が死神を雇って殺したんだ」
そう言うと、享志は真の頭を自分の肩に抱き寄せた。
「二度と、小松崎りぃさの話はするな。大和さんの前でもだ」



富山享志は成田に降り立った到着ロビーで、富山の迎えよりも先に北条一家の出迎えに腕を摑まれた。驚く富山の運転手に、大丈夫だからと言ってから、享志は北条の若い衆に事情を尋ねた。若い衆は、若がお話があるんで、と言っただけだった。
そういうわけで、享志は生まれて初めてやくざの家に足を踏み入れた。そうと知らなければ、一見のところはただ由緒ある立派な家屋敷と見えるだけだ。享志は恐怖よりもただ興味であたりを見回していた。
もっとも玄関での出迎えは、任侠映画で見るほどではなかったが、それなりの迫力で、さすがにその時ばかりは引きそうになったが、表情には出さず鷹揚にその出迎えを受けた。
「よく来たな」
仁は享志の顔を見て、それから面白そうに笑った。
「さすがに真の親友を自称するだけの事はある」
享志はわざとらしく息をついて、尋ねた。
「一体、どういうことです」
「ヤクザに付き合ってここまで来るよりも、あいつの親友を名乗る方が大変なことだと言ってるのさ」
「そういうことじゃなくて」
北条仁は享志の肩を叩いた。
「お前さんも、ついこの間、世の中とんでもないことがあるって思ったと思うけどな、さらにとんでもないことがあるってわけだ。まあ、もう諦めてくれ」
「北条さん?」
享志は知りあったばかりなのに、やくざの家の御曹司である仁に違和感を覚えなかったし、今日自分は相手を信用してやって来た、と思った。
「俺も色々としなければならないことがあってな、それに下手すると我慢がきかなくなりそうで困ってるんだ。お前さん、悪いが、できるだけここにいちゃくれないか」
半分は冗談だぞという含みを持たせたような仁の顔を見ながら、享志はこの男は何を言っているのだろうと思った。
「理由を聞かせて下さい」
「仕事と親友はどっちが大事だ?」
「難しい選択を迫りますね。でも真に何か困ったことがあるのだったら、答えは簡単です」
仁は小気味良く笑った。
「お前さん、ヤクザに向いてるよ。仕事サボって親父に勘当されたら、北条へ来い。若頭で迎えてやる」
そう言いながらもう一度享志の肩を叩き、ひとりでほっとくとちょっと危ないんでな、と言いながら縁側の角を曲がった。
長い縁側の向こうの隅に真がいるということに、しばらく享志は気が付かなかった。
真は完全に風景に溶け込んでいて、人間の気配を感じさせなかった。
彼は座って柱にもたれ、片方の足を投げ出し、もう片方の膝を立てていた。着流しの裾から膝の下が覗いていて、ぞくっとするほどエロティックに見えた。二十代も後半の男をつかまえてエロティックもないはずだが、何の違和感もなかった。立てた膝の上に肘を載せ、軽く指で唇に触れている。色の薄い髪には光が留まっていた。光は、時々風で弄られては居心地が悪そうに形を変えた。
享志は、ああ俺は恋をしていたな、と思った。
高校生の頃、真が某風俗写真家のモデルをしていてPTAのおばさん方曰く『破廉恥な写真』を撮らせていたという、その写真を興味津々の同級生から見せられたときの事を思い出した。
それを見ることは親友を裏切ることのような気がして後ろめたかったのもあるが、他の誰にもこんな姿を見せたくないと思って、その写真集を取り上げた。
写真集の持ち主は級長が権限を発揮して『高校生に似つかわしくない持ち物』を取り上げただけだと考えたのだろう。後から返してくれと言われなかったのでそのまま自分のものにしてしまった。そもそも借りた本を返さないまま忘れている、ということはよくある話で、貸した方もよほどのことがない限り、あえて返せとは言ってこないものだ。
取り上げたものの、その写真集のページを開くことは何度も躊躇した。だが、結局好奇心を抑えられずに夜中にこっそりページを繰った。
写真集はモデルの名前も何も明かしていなかったし、ある意味普段制服で見かける真とはいくらか違った印象があったのだが、真でないとは誰も、勿論享志も思わなかった。
真がその写真家とどういう関係にあったのか、中にはそれを思わせぶりにするような写真まであって、享志は興奮した。どうにも抑えられずに初めて自慰をした。どれほどいけないことだと思っても、真の唇に触れることを想像してしまった。もっともその時の享志にはそれ以上の行為は思いも寄らないことだった。
享志が生まれて初めて女性と関係を持ったのは、つまり、従姉の小松崎りぃさと寝たのは、その後のことだった。
その写真の中の真はあまりにも綺麗で、ある意味、人間離れして見えた。視線を外すことを許さないというように絡み付いてくる目は、これを見たあらゆる人間を不快なほどの興奮状態に駆り立てただろう。多分PTAのおばさん達も、本当のところはこれを見て密かに目の保養をしているに違いない、とは同級生のもっぱらの噂だった。
しかも、写真集自体「ある筋」ではかなり売れていて、あいつそのうち電車の中で痴漢にあうぞ、いやもうあったらしいとか、あっち系の人間がこの写真を夜の友にしているらしいとか、そういうあるともないとも言えないような話題が、しばらく尽きなかった。享志はその度に後ろめたい気持ちを抱いていたものだった。
だが、真を見るたびにどきどきしていたというのは事実でもあったが、その動揺には後ろめたさも半分あって、実際には真と会話を交わしているうちに、いつも落ち着いてきた。
話をしていれば、真は別に変わった生き物でもなんでもなく、ちょっとばかり世間一般の事には興味の薄い、ずれた感性の同級生に過ぎなかった。
それでも時々、何かの拍子に真は享志の中で存在の意味を変える時がある。
何より、初めて会った時がそうだった。
院長に呼びかけられたのも気がつかずに、享志は明らかに真に見惚れていた。彼は、享志がこれまで見たことのない不思議で綺麗な生き物のようだった。人間というよりも獣の美しさにも似ていたし、妖精とかそういうこの世のものではない生き物のようにも思えた。
図書室で一緒に勉強をしていた時もそうだった。
開け放たれた窓から吹き込む風は、本のページを無遠慮にめくり、鳥の声は高く舞い上がった。窓の外には桜の花びらが舞い散っていた。享志は顔を上げ、窓側に座る真を見つめた。真は本のページを戻すことさえせずに、肘をつき、窓の外を見つめていた。
薄い茶色の髪は、光に溶け出しそうになっていた。唇の色は桜の色に染まって見える。女の子とは全く違うのに、これほどまでに美しいのは何故だろうと享志は思っていた。
なんだよ、と享志の視線に気が付いた真が聞いた。
いや、綺麗だと思って。
享志は口をついて出てしまった言葉を引っ込めるわけにもいかず、窓の外へ視線をずらした。真は享志の視線を追うように、花びらを舞い上げる風に目を向ける。
詩人にでもなったら、と呆れたような声が返ってきた。
今、縁側の柱に凭れてただ庭先を見ている真は、十年の時を戻ってしまい、あるいは更にもっと幼く見えた。りぃさとの事があってから健康には随分気を使っていると聞いていたが、ここのところ少し痩せたせいか、髪の色まで更に薄く儚く見えた。手を触れてはいけないもの、触れば消えてしまうもののように思えたが、享志はむしろ消えないように抱き締めたいと思った。
おかしな意味ではなく、ただ純粋にそう思った。
享志は、仁に腕をつかまれて我に返った。
「昼間はいいんだがな、あれでも随分まともだし、誰かが気を付けて見ていることができる。問題は」
言いながら、仁は真の近くまで行った。
「ロンドンから親友がお帰りだぞ」
真は仁を見上げてから、徐に享志の方を見た。そして、享志の感傷を吹っ飛ばすような、淡々とした声で言った。
「お帰り」
「あ、あぁ」
享志は思わず吃るように返事をした。真はゆっくりと立ち上がる。その瞬間に着流しの前がいくらかはだけて、享志は一瞬何となく目のやり場に困ってしまった。
仁の父親、北条東吾は、一見のところは仁よりも優しげで、堅気の伯父さんに見えた。だが、しばらくの間でも前に立っていると、その印象は変わってしまう。隠し事などないのに、身を竦めてしまいそうになる。だが、幸い、享志は東吾にも気に入られたようだった。
食事は屋敷に住まう全ての若い衆が一緒にとる習慣らしく、座敷に縦一列に並べられた机で、皆で無言で片づけた。真も一緒に、享志の向かいに座っていた。真の隣の大きな男が、まるで牛若丸に寄り添う弁慶が主人の世話を焼くように、真の食事に気を使っている。
食事の後で風呂に案内される。さすがの享志も、普通の家に旅館のような広い風呂場があるのを初めて見た。一人で立派な檜の湯船に浸かっていると、どうにも間が抜けているような気がした。
享志が風呂から上がってくると、真はもう眠っているらしく、隣の部屋はすっかり静かだった。
享志は襖一枚隔てた向こうの気配をしばらく窺っていたが、何の物音もしなかったので、そのまま自分も布団に横になった。身体は長いフライトの後で疲れていたが、時差ボケも多少手伝って、どうやら頑張ったところで眠れそうになかった。真に話しかけてみようかと思った、その時だった。
獣が獲物を求めて叫ぶ声か、何か鋭い叫びが、享志の耳を一方から他方へ突き抜けた。享志は跳ね起きた。そのままの勢いで、隔てられた襖の取手に手を掛けて開きかけた時、真、と呼びかける仁の声に気がついた。
「落ち着け。もういい」
穏やかな強い声だった。見ようと思ったわけではなかったが、襖に手を掛けていたその手が意識なくほんの少し襖を開けた。
一瞬、享志はどうしようかと思った。一見のところ、彼らはひとつの布団の中で抱きあっているように見えたし、享志もさすがにその時は、そりゃあ駄目でしょう、と声に出しそうになった。
真はしばらく何やらもがいているように見えたが、やがて大人しくなった。仁はその真の身体を抱きしめ、頭を撫でてやっていた。
享志は薄く開けた襖をそのままに布団に戻り、どうともできずにそこに胡坐をかいていた。
怒りなのか、悲しさなのか、苛立ちなのか、自分でも区分けのできない感情に押し包まれていた。だが、一番悔しいと思っていたのは、真が恐ろしく辛い状況にあった時に傍にいてやれなかったこと、その事情を今自分が理解できていないということだった。
いくらかして襖が開いて仁が入ってくると、思わず仁を睨みつけてしまった。
仁は享志の前に同じように胡坐をかいて座った。
「夜な夜なあの調子だ。殺す気だった仇を目の前で掻っ攫われて、せめて死体をズタズタに裂いてやる気だったのを俺が留めた。殺し足りないんだ。死体が粉々になるまで叩きのめさなかったことを、後悔してるんだよ」
仁は着物を肩から外して肩を露にした。
薄い灯りの中で、その背中の立派な龍の彫りものは今にも動き出しそうに見えたが、享志は仁が見せたかったものがそれではないことをすぐに悟った。
仁の肩には、真がつけたと思われる爪の跡がいくつもあった。
「そういうわけで、ほっておけない」
享志は息をついた。目は仁を睨み付けたままだった。
「で、僕にどうしろと?」
「とにかく、傍にいてやってくれ。あんな具合のくせに、どう言っても京都に行くことを拒否しやがる」
享志は襖のほうへ視線を向け、それからまた仁に向き直った。仁はゆっくりと肩と背中を着物の内に戻す。
「大和さんはどうなっているんです? 大丈夫なんですか」
「お前さん、日本を出る前、だいぶ酷いのは見たんだろう?」
享志は一瞬、自分はとんでもないことをしてしまったかもしれないと思った。仕事は何よりも大事だった。だが、そのためにもっと大事なものを掴みそこなったかもしれないと思ったのだ。あの時、大和竹流は死にかかっていたのだから。
「ええ」
「聞いたところじゃ、何とか肺炎とかいう、性質の悪い肺炎で死に掛かっていたようだがな、とりあえず命は助かったらしい。だが、身体はすっかり参っているようだ。三途の川のあっちとこっちを何往復もしたんだ、そりゃ参りもするだろう。そう簡単に東京に帰ってもこれないだろうしな。それに身体だけのことなら、まだいいんだ」
享志はもうひとつ息をつき、そのまま問いかけた。
「真に、手を出したんですか」
仁は、その質問をポーカーフェイスで受け止めて、真面目に返事をしてきた。
「据膳は喰いたいところでもあるがな、さすがに俺も多少の節制は持ちあわせとる。何より意識もまともじゃないあいつを強姦してもこっちがつまらん。襲うにしても、俺に犯られてるんだってことくらい分かってて欲しいもんだ」
享志は一瞬ほっとしたと同時に自分が腹を立てたような気がした。
仁はしばらく享志の顔を真っ直ぐ見ていたが、さらに付け加えた。
「男に身を売ったんだよ」
享志は顔を上げた。北条仁は恐ろしい顔つきにも見えたし、悲しそうな顔にも見えた。その顔の意味合いを、享志が測りかねているうちに、仁は先を続けた。
「仇が逃げ出さないうちに居場所を突き止めて、引きずりだそうと思ったんだろ。真を抱いた野郎は、ものすごく良かったと言ってやがったよ。真がいくらでも欲しがったってな。いやいやだったとしても、後ろめたいと思うくらい感じさせられたんじゃ、真も京都に行って大和竹流の顔を見れないんだろうよ。その上、大和竹流が傷つけられ犯られまくっている映像を見せられたんだ。二重の意味で、あの男の顔をまともに見れないわけだよ」
仁は享志の肩をぽんと叩いて立ち上がった。
「あいつの身体は随分いいらしいぞ、何なら抱いてやれ」
享志は思わず仁に殴りかかろうとしたが、仁はあっさりとそれを止める。享志は、ひどく疲れて辛そうな仁の顔に、思わず拳を引っ込めた。
「お前さんはあいつの親父の事を知っているのか?」
享志は理解できずに仁を見つめた。仁はいいんだ、というように首を横に振った。
「俺は明日京都に行って来るつもりだ。とにかく頼んだぜ」
翌日、享志は朝一番に父親のところに行って、帰国早々に挨拶に来なかったことを詫び、最低数日の休みをもらうと宣言した。ペナルティは受けるつもりだと言って、珍しく父親の反撃にもあわずにさっさと逃げ出した。
組織というものは有り難いくらいに、個人の事情などで壊れないようにできている。
昼過ぎに享志が北条家に戻ると、真はまた縁側に座っていて、庭の池に泳ぐ鯉を眺めていた。享志とは目を合わすような合わさないような状態で、視線も心もするりと脇をすり抜けた。
いつもあんな調子ですと、北条の若い衆が溜息を零すように享志に告げた。
「一昨日、ようやく少しだけ出かけられたんですが、帰ってからまたあの調子で」
そのうちに大学から美和が戻って、享志に挨拶をしにきた。
美和は少し痩せたように見えたが、元気そうにしていた。最近はマンションにも半分戻っている、という話だった。真が心配なので時々様子を見に来ているのだろうと享志は思っていた。ずっとあんなのなのか、と聞くと美和はそうだと返事をした。でもご飯食べてるだけましかも、と言って、美和は縁側に座ったままの真を見つめた。
真は何か小さなカードのようなものを手に持って、じっと見つめている。享志と美和が傍に行くと、慌てるようでもなく紙切れを握りこんでしまった。
夕食時の様子を見ている限りは、やつれているせいか凄絶に色っぽいことを除けば、いつもの真とそんなに変わりないようにもみえた。
真は、仁がどうしたのかも、何故今日に限って享志がここについているのかも何も聞かなかった。
享志はどう言っていいのか分からなかったので、とにかく隣に布団持ってきてもいいか、と尋ねた。真は何でそんなことを断る必要があるのか、と言った。北条仁のように同じ布団で眠る、というわけにはいかないと思ったからだ。
布団に横になってからも、真は一言も口を利かなかった。眠っているのかどうかも分からなかった。享志は、庭の薄暗い灯りに照らされた障子を背景にして、微かに布団の影が震えるように上下するのを見ては、心を鎮めていた。
遠くで、何かが壊れるような物音がした。
その時、不意に、真の呼吸が強く乱れた。何かに押しつぶされようとするのを避けるように寝返りをうち、身体を丸めて縮こまった気配を感じて、享志は身体を起こした。
完全な静寂の中で、白んだ障子がまるで結界のようにこの部屋を囲っている。真は布団の中にもぐり込んでしまっていた。幼い子供が、自分を喰らいに来る悪魔を避けるような姿に見えた。
だが、真は、悪魔に喰われようとも絶対に助けを呼ばない。享志にはその確信がある。
だからこそ、こっちが手を差し伸べてやらなければ、こいつはまたすり抜けて行ってしまう。享志は何かに駆りたてられるように、真の眠る布団に滑り込んだ。
その時、真の身体の冷たさに、享志は不意に我に返った。季節を疑うような体温だった。汗で身体の温度を奪われてしまったのかもしれない。
我に返ってみると、享志はそういう行動に出たことに、自分で驚いた。よく考えれば、真は幼い子どもではない。自分で判断し、自分で責任を取れる年齢の男だ。それに、彼は親友であり、妻の兄でもある。葉子にプロポーズしたとき、君たち兄妹を一生守りたい、と言ったのは確かだが、真については少し離れたところで見守っていてやって、もしも助けを求められたらいつでも行ってやろうと、それが親友の、そして義理とはいえ兄弟のするべきことだと考えていた。
それに、享志は自分自身の感情を真に伝えるつもりなど、その時まで全くなかった。
だが、真が何か叫ぶように息を飲み込んで、享志の肩にしがみつくようにして爪を立ててきたとき、享志は思わず真を抱きしめていた。腕に抱いた真は、享志が知っている彼よりもずっと小さく思えた。
その身体を抱き締めたとき、ずっと以前、学生のときから自分はこうしたかったのだと享志は改めて思った。奇妙なことに、何か問い詰められた時に返す言い訳を考えるほどに、頭は完全に冷静だった。
中高生の頃、あの頃はどうしたってこんなことはできなかった。自分が竹流のように大人ではなく包み込める度量がないという気持ちがあったのと、真にそれが妙な気持ちではないと言い訳できる自信がなかったからだった。
だが、今真は享志にしがみつき、唸るように何かもがいていた。荒く激しい息遣いと混乱した脈拍を直接肌で感じると、享志は更に強く真を抱いた。
そうか、殺し足りない、というのはこういうことか、と思った。真は相手が享志かどうか、仁かどうか、そんなことは構っておらず、相手の血を求めて唸りをあげる獣のようだった。
仁は夜な夜なこれにどう対応していたのかと思った。しかも、それを自分に押し付けていくなんて。
何も妙案が浮かんでいたわけではなかった。ただ、真がさらに暴れようとしたとき、享志は思わず更に強い力で真を抱きしめていた。それから何かに突き動かされるように真の顔を摑んで彼に口づけた。
その一瞬、真は正気に返ったようだった。それは完全に友情の域を越えていたし、百歩譲って家族に許されるやり方があったとしても、それも越えるような口づけだった。
真は享志の腕を摑んで、必死に逃れようとしていたが、享志は火事場の馬鹿力とでもいうほどの力で真を離さなかった。真はもがいて、何とか腕を逃れさせると、享志の唇を顔ごと引き離し、享志の顔をまともに見た。
完全に正気に見えた。
「享志、どうしたんだ」
「どうしたって、お前の方だろ」
真は不可解な表情をしていた。自分自身の中の感情の混乱と、ここにいるのが享志であるということへの混乱と、その享志が自分にしたことへの混乱が全部こんがらがっていたようだが、それはまともな反応に思えた。真は混乱のあまりひどく幼い、不安げな表情となり、それが享志をたまらない気持ちにさせた。
そんなに不安なのに、何故京都に行かないのかと喉まで出かかった問いかけを飲み込んだ。
「離せって。大丈夫だから」
真が自分から逃れようとしているその感じが、享志の内側の何かを強く刺激した。享志はより一層強く真の腕を摑んで、抱き寄せた。
「享志」
真が思わず名を呼んだ、その唇をもうこれ以上何も言えなくしてしまいたくなって、そのまま、さらに強く抱きしめた。真はしばらく抗っていたが、そのうち大人しくなった。
本当は友情で十分だった。多分、真は他の誰に対しても抱いたことのない友情という気持ちを享志に向けてくれているのだと知っていた。享志自身の気持ちもその通りだったのに、学生の頃の甘酸っぱい、それでいて大人になってからでは自分の感情だったのかどうかも怪しいほどに不可解な、友情とも恋愛とも線を引けない感情をずっと抱えて引きずっていることへの気恥ずかしさも打ち消してしまいたかった。
やはりこれは恋かもしれないと享志は思った。そして、多分今を逃したら相手に伝えることも、気持ちを形にすることもできないような気がした。
腕の中の真がまだ抗いながら訴えた。
「葉子に言うぞ」
「言えよ。どうせ、彼女は動じない」
享志があまりにも冷静な声で言ったからか、真は返事をしてこなかった。どうせ、それもそうだとでも思ったのだろう。自分も真も、完全に葉子の掌の上で、しかもその立場に甘んじているんだな、と妙なことに感心した。
真はもう抵抗もせずに、享志が頭を抱き寄せているのに任せている。微かに咽喉仏が動き、息が漏れ出し、それが享志の耳元をくすぐった。享志はふと顔を上げ、真を見た。
真はすっかり冷静な顔つきだった。
「もし最後まで行く気なら、構わないぞ」
そう言いながらも、身体は微かに震えていた。享志はしばらく真の顔を黙って見つめていた。
こいつは誰かに身を委ねたことでどこかでやけくそになっているのか、それとも享志にはどうせそんなことはできないだろうと踏んで、けしかけるような事を言っているだけなのか、どちらかなのだろうと思った。前者なのだとしたら哀れで仕方がなかった。後者なのだとしたら、本当にこのまま犯してやりたいような気がした。
もちろん、そんなことはできないのだが、それでも俺を侮ってるなと思うと、少しばかり悔しかった。享志は真剣な顔のまま、真の首筋に口づけてやった。さすがに真は慌てたようだった。
まったくこいつは、なんだってんだ。
「享志、ごめん。気に障ったんなら謝るから、離してくれ」
享志はもう聞かないことにした。いや、そのようなふりをした。挑発したのはお前だろうと言ってやろうと考えていた。だが、真の震えは止まらず、不安になった享志がその顔を見ると、目を閉じて享志の愛撫を受け入れ、ただ涙を流していた。
からかい返してやろうと思っていたのに、逆に慌てたのは享志だった。
享志は真を抱き締めた。
本当に、なんだってんだ。
彼に会いたいのだろうと思った。享志ですら、あの傷ついた姿と心に恐怖を感じたのだ。真が何よりも彼のあんな姿を見たくないと思っていることは理解できた。そしてもし、本当に真が竹流のために身を売るまでの事をしたのなら、そして心はどうあれ許してしまったのだとしたら、真は自分の犯してしまったことに怯えないわけがなかった。
あるいはもしかして本当に、大和竹流がとてつもない目にあって、その姿を真が見たのだとしたら、真は相手を殺しても殺しても足りないと感じているだろう。怒りの感情に任せて、仇の身体をズタズタに裂き、死骸を最後の一片まで形がなくなるまで食い千切りたいと、今の今も感じているだろう。
真が苦しんでいるなら、何も聞かず抱き締めてやればいいだけのことだった。暖かい言葉でも、慰める優しい手でもなく、激しく抱いて求めてやればいいと思った。
真が今闘っているのは、真自身の心のうちに深く重く棲み付いている、真自身さえその存在を忘れていた血を求めるような野生の残虐な本能、あるいはもっと明確に、殺意というくび木だったのかもしれない。それとも、否定してもくっきりと浮かび上がってくる、己のうちにある快楽への炎のような欲望だろうか。
だがもしそうだとして、それを内に潜めているのは真だけではない。享志もまた、自分自身が一度きりとはいえ心のうちに抱いた明らかな殺意の存在を、今でも頭の隅に飼っていた。
真は享志の腕の中で再び呼吸を荒げ、震え始めると嗚咽を零し、叫ぶと共に享志の身体にしがみついて背中に爪を立てた。
その腕の中の真の急な変化を、享志は意外にも上手く受け止めた。享志は狂ったように暴れ始めた真を抱きしめ、耳の内に囁いた。
「そうだ、奴等のしたことは許されるべきことじゃない。お前は何にも間違っていない。もしもまだ足りないなら、俺が一緒に行ってやるよ。そいつらの身体を一片一片切り刻んで、骨を砕いてやろう」
そのまま享志は真の腰を抱き寄せ、ぴったりと自分に密着させ、耳を愛撫して舌を差し入れ、どれほど自分が真を求めているか、教えてやった。真はわずかに震えて、それから背中に立てていた爪を納め、享志の肩に顎を預けてきた。享志は頭ごと真を抱き締め、真が眠るまでこの身体を強く、強く抱いていてやろうと思った。
(つづく)



天然級長、頑張りました。真は本当に果報者です。でも、天然な人をからかうととんでもない目に遭います^^;
真、まだその辺のことが分かっていませんね。
<次回予告>
「俺、お前のそういう無神経なところ、嫌いじゃないけどさ、それ以上言ったら本当にお前を襲うよ」享志は真から視線を外さなかった。「頼むから、りぃさのことは忘れてくれ。お前の中でなかったことにしてくれたら、それでいい」
でも、と言いかけた真は、享志のその無表情とも見える横顔に口をつぐんだ。
「悪いけど、お前には関係のないことなんだ。俺とりぃさのことは」
「でも彼女の自殺は、結局俺が彼女を……」
言いかけた真の口を唐突に力で享志は塞いだ。
「勘違いしないでくれ。りぃさは俺が死神を雇って殺したんだ」
そう言うと、享志は真の頭を自分の肩に抱き寄せた。
「二度と、小松崎りぃさの話はするな。大和さんの前でもだ」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨164] 第34章 交差点(4)放蕩息子への帰還命令
【海に落ちる雨】第34章最終話です。
実はちょっとややこしい事をしてありまして……時間順に並べると、享志が海外出張から帰ってきて→仁が京都に行って竹流に啖呵を切る、ってのが正解なのです。何でこんな順番になっているのかと言うと、33章の最後に竹流が出てきているので、先に竹流のことを書いちゃおうとしたのでした。後からひっくり返そうかと思ったのですが、享志のシーンを書くには、真のシーンを先に書かなければならなくて、でも真がどうなっているかを書くのは仁が啖呵を切ってからの方がいいなぁ、しかも享志視点ってのは新しいので、あんまり唐突に出てきてもなぁ……とかあれこれ悩んでこんなことに。
ま、もうこの辺、時間の順番はあまり大した問題ではないので、さら~っと流してやってください。
この期に及んで享志のサイドからの描写も避けたかったんだけど、どうしても仁・享志、竹流・享志の絡みが書きたくなって、今後(after『雨』)にも響くので、唸りつつもこんなことになりました。
でも、享志のサイドって、このお話では初めてですが、【学園七不思議シリーズ with オリキャラオフ会】を読んでくださった方々には、もうお馴染みかもしれませんよね。だから逆にこっちの享志が不思議なイメージになるのかも。いや、あれから10年以上たっているので、享志も大人になっているのです。それなりに(*^_^*)
えっと、本当は、やっちゃえ、という気持ちで書いていた、なんてのは内緒です。しかし、さすがに享志も仁も大人です。手負いの獣を襲ったりはしませんね。作者が走ろうとしても、馬鹿言っちゃいけないよ、ってなもんで。
でも、享志、なかなか乙なことをやってくれます。そして真の盲目的な享志への信頼も笑えちゃうんです……
あ、タイトルですか? えっと……もう思いつかなくて……アイディアの枯渇です。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
実はちょっとややこしい事をしてありまして……時間順に並べると、享志が海外出張から帰ってきて→仁が京都に行って竹流に啖呵を切る、ってのが正解なのです。何でこんな順番になっているのかと言うと、33章の最後に竹流が出てきているので、先に竹流のことを書いちゃおうとしたのでした。後からひっくり返そうかと思ったのですが、享志のシーンを書くには、真のシーンを先に書かなければならなくて、でも真がどうなっているかを書くのは仁が啖呵を切ってからの方がいいなぁ、しかも享志視点ってのは新しいので、あんまり唐突に出てきてもなぁ……とかあれこれ悩んでこんなことに。
ま、もうこの辺、時間の順番はあまり大した問題ではないので、さら~っと流してやってください。
この期に及んで享志のサイドからの描写も避けたかったんだけど、どうしても仁・享志、竹流・享志の絡みが書きたくなって、今後(after『雨』)にも響くので、唸りつつもこんなことになりました。
でも、享志のサイドって、このお話では初めてですが、【学園七不思議シリーズ with オリキャラオフ会】を読んでくださった方々には、もうお馴染みかもしれませんよね。だから逆にこっちの享志が不思議なイメージになるのかも。いや、あれから10年以上たっているので、享志も大人になっているのです。それなりに(*^_^*)
えっと、本当は、やっちゃえ、という気持ちで書いていた、なんてのは内緒です。しかし、さすがに享志も仁も大人です。手負いの獣を襲ったりはしませんね。作者が走ろうとしても、馬鹿言っちゃいけないよ、ってなもんで。
でも、享志、なかなか乙なことをやってくれます。そして真の盲目的な享志への信頼も笑えちゃうんです……
あ、タイトルですか? えっと……もう思いつかなくて……アイディアの枯渇です。





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その朝、真は目を覚ましたとき、隣に享志がいてすやすや眠っているのを見て、暫く何が何だか分からずに享志の寝顔を見ていた。
昨夜の事は全くといっていいほど覚えていなかった。ただ享志が何か大事なことを耳に囁いてくれていた、その気配だけを記憶していた。真は耳に手をやり、それから不意に、左耳が聞こえにくくなっていることを思い出した。
ずっと身体中愛撫されていたような気だるさはあるのに、無理矢理抱かれた覚えも何もなかった。女と寝たときには記憶がはっきりしないこともあり得るだろうが、男相手ではそうもいかないだろうと、真は自分の身体を確認し、思わず可笑しくなった。
第一、享志が真にそんなことをするはずがなかった。
微かに享志の呼吸が変わり、軽く寝返りを打つ。真が身体を起こして、乱れた着物の襟をかき合わせるように整えたとき、目を覚ました享志と視線が合った。
「大丈夫か」
享志はそう言ってから、何だか後朝の何とかって感じだな、と呟いて勝手に照れ笑いをしている。それから享志は真の顔をまともに見つめた。
「京都に行こう。一人で行きづらいんなら、俺が一緒に行くから」
真は首を横に振った。
「会いたいんだろう?」
真は返事をしなかった。まだ混乱していてよく分からなかった。あの傷ついた姿を冷静に見る自信がなかったし、自分が何をしたかもよく分かっていた。
映像の中でひどく傷つけられていた竹流を見てどこかで興奮していたかもしれない自分自身を、怒りと性的興奮の区別がつかなくなっていた自分自身を、福嶋という男に貫かれて理屈もなく喘がされていた自分自身を、どうしても理解できずに、そのままの形で竹流の顔を見る勇気もなかった。会ったら今度こそ真は我を失うかもしれない。
だから、どうあっても今は会えないと思っていた。いつになれば会えるようになるのか、それも分からなかった。もしかして、もうこのまま会う勇気さえ持てないのかもしれないと、思った。
突然、享志は寝転んだまま下から真を抱き寄せた。真はいきなりの事でバランスを崩して、享志に倒れこんだ。
「何するんだ」
「キスしていいか」
「寝ぼけてるのか」
享志は腰を抱き寄せた手とは別の手で、真の唇に触れた。
その享志の、真がこれまで見たことのない男らしい真剣な表情に、真は言葉を飲み込んだ。享志はいつもの彼らしくもない、笑みを一切含んでいない目で、真の唇を見つめている。
「こうして見たらお前って時々隙だらけなのにさ、何で俺には今まで付け入るチャンスがなかったんだろうな」
「何、言ってるんだ」
「俺も大人の男になったってことだよ。大和さんじゃなくてもお前を守ってやれる男がいるってことだ。お前が葉子の手を取ってバージンロードを歩いてきた時、俺、本当はお前の手ごと、二人とも抱き寄せようかと思ったんだ」
臆面もなく享志はあっさりと言う。真はこいつは何を言ってるんだと思った。
「バージンロードを歩いていたのは葉子だ、俺はただのエスコートだって」
「どっちでも一緒だよ。俺はお前の手も一緒に取ったつもりだし、葉子にもそうプロポーズした。なぁ、真、素面でキスさせろよ。何だったら、新婚初夜にするか。朝だけど」
真は事実慌てた。真の認識の中ではそんなことを全く言うはずもない親友が、真剣な目で真を見つめているわけで、上手くかわす方法も思いつかなかった。
「悪いけど、操を立ててるんだ。何でもいいから、とにかく離せって」
混乱して口をついて出た言葉は、半分は真自身も理解していない。語気は後半で荒くなっていた。享志は暫く真の顔を見ていたが、急に表情を変えて、大笑いを始めた。
「何だよ」
「俺にしちゃ、上手い言い回しだったと思わないか?」
「仁さんに何か吹き込まれたんだな」
「いや。俺の本心だよ。からかったわけじゃない。俺は、北条さんみたいに、女の人とセックスするみたいにお前を抱きたいわけじゃないけどさ、なんて言っていいのか分からないけど、強いて言えば、ずぶ濡れの捨て猫見て放っておけないような気持ちかなぁ」
「それはただの憐憫だ」
享志は寝転がったまま、真面目な顔で真を見つめている。
「雨の中で感じた憐憫だけじゃ、捨て猫は拾って帰れないんだよ。あとの面倒をちゃんと見る気でなけりゃ」
享志はそう言って起き上がった。
「でも、抱いてくれと言われたら、多分俺はお前を抱けるよ。昨日それがわかった」
すぐ傍に感じる享志の身体は、それなりに鍛えようとしてきた真よりも一回りは大きかった。真は、いつの間にかすっかり立派な人間になり、あるいは享志の言うとおり、誰かを確かに守ることができる大きな男になった享志に、眩暈がするような憧れと嫉妬と、どうしても逆らえない微かな恐れを感じた。
享志は、目を逸らすことは許さないというように真を見つめたまま、真面目な顔で続ける。
「お前さ、俺じゃなくて、大和さんにちゃんとそう言うべきだよ。あなたのために操を立てています、って。あの人はさ、お前が思っているよりも繊細で傷つきやすい人だと思うからさ、本当は色んなことで苦しんでる。いや、俺が言うことじゃないか。お前が一番良く知ってるはずだもんな」
ふと享志が見せた暗い翳りのある横顔に、真は見覚えがあった。
この横顔は、あの結婚式の二次会で、歩き去るりぃさの後姿を見つめていた横顔と同じだった。
それは、真が見知っている享志の表情の中ではあり得ないほど享志に不釣合いな表情で、だからこそ真は何かの見間違いかとも思い、あるいは見てはいけない顔を見たような気がして、あの時、記憶の底に沈めてしまったのだ。
だが今、はっきりと思い出してしまったあの時の横顔、愛しさと憎しみと憐れみと、あるいは思いつく限りの喜怒哀楽の感情を畳み込んで静かにならざるを得なかったような横顔をもう一度目にしたとき、記憶の深い沼の底から湧きあがってきたのは、さらに具体的な色合いに染められた享志の感情そのものだった。
真が黙り込んだまま、享志の顔を見つめていると、享志が何だ、というように真を見た。真は視線を外し、一旦なんでもない、と言てから、改めて享志を見た。
その時にはすでに脳の活動は止まっていて、真の口は勝手に言葉を送り出していた。
「ごめん」
「何?」
享志の声に、僅かに冷たい響きが伴っている。真は一旦息をつき、引っ込みがつかなくなったという、それだけのことでその先を続けてしまった。
「りぃさのこと、俺は何も気が付かなくて」
享志は暫く身動きもしなかった。黙って真を見つめるその目は、怖いくらいだった。
真は他人とのコミュニケーションにおいて時々こういう失策を犯してしまうということに、自分でも気が付いていた。だがそれに対して、享志や竹流は、いつもあっさりとかわして、冗談に受け流してくれる。それが真には真似のできない彼らの度量だということに、真はとっくに気が付いていたはずだった。
真は言ってはいけない言葉を口にしたと気が付いて、一旦目を逸らしたが、享志が自分をじっと見つめたままであることに気が付いて、どうすることもできずに彼と目を合わせた。享志はようやくひとつ、息をついた。
「俺、お前のそういう無神経なところ、嫌いじゃないけどさ、それ以上言ったら本当にお前を襲うよ」
享志は真から視線を外さなかった。
「頼むから、りぃさのことは忘れてくれ。お前の中でなかったことにしてくれたら、それでいい」
享志は真からようやく視線を外した。でも、と言いかけた真は、享志のその無表情とも見える横顔に口をつぐんだ。
「悪いけど、お前には関係のないことなんだ。俺とりぃさのことは」
「でも彼女の自殺は、やっぱり俺が彼女を……」
突然享志が起き上がり、真の肩を強く掴んだ。真は享志の目を見て恐ろしくなり、そのまま口を噤んだ。
「勘違いしないでくれ。りぃさは俺が死神を雇って殺したんだ」
そう言うと、享志は真の頭を自分の肩に抱き寄せた。
「二度と、小松崎りぃさの話はするな。大和さんの前でもだ」
小さな疑惑の炎は、真の内側で立ち上がり、そのまま雨に打たれて消されようとした。
享志の声は、真がこれまでにこの親友の口から聞いたことのないものだった。そして真は、自分が確かに、この義理の弟となった親友と、あの男に守られていたのだと理解したように思った。
真は了解したことを伝えるために、自分のほうから親友の身体に手を回し、抱き締めた。そして、今初めて、享志が震えていることに気が付いた。
俺はずっと自分だけが苦しんでいたと思っていた。
真は突然に強い感情に突き動かされた。
何かを勘違いしていた。他人と自分の間に線を引こうとしてきたのは、ただ自分を守るためだった。だが、こうして友は他人である自分を、自らを貶めるような真似をしてまでも、守ろうとしてくれていたのだ。
何故、それに気が付かないままにしていたのだろうか。
だが、縋りつくような真の感情がまだ冷めないうちに、案の定、享志は気を取り直したようだった。真の背中を宥めるように二度叩くと、ゆっくりと諭すように言った。
「京都に行こう。お前は大和さんの傍にいなければだめだ」
真は恐ろしく静かな気持ちで首を横に振った。時間が欲しかった。考える時間と、納得する時間が。その時間がもしかして永遠に彼と自分を裂くのなら、それもやむを得ないと思っていた。
「お前は行けよ。葉子の顔を見てきてやって欲しい」
真がそう言うと、享志は、葉子なら大丈夫だよ、お前よりずっと、と答えた。そしてひとつ息をつく。
「お前、本当に頑固だな。会ってキスのひとつもすれば済む話だろ」
「どうしても、会っておかなければならない人がいるんだ」
「大和さんのことより大事なわけじゃないだろう」
そんなものがあるのなら言ってみろ、とばかりに享志は畳み掛けてくる。真はどうとも返事ができずに、曖昧な表情を浮かべた。
福嶋に名刺をもらったものの、その女の顔を見る勇気がなかった。今更、という気持ちもあった。だが、享志がここに来てくれて、そのことが真に冷静な判断のチャンスを与えてくれた。
会っておかなければならない人は、村野花だけではなかった。どうしても澤田顕一郎に会いたかった。いや、澤田顕一郎に会いたかったら、真は村野花に会いたかったのだ。きっと今、会っておかなければ、後悔するのは分かっていた。会わないでいるということは、義務を放棄するような気がしたのだ。
「仁さんが何言ったのか知らないけど、俺は大丈夫だから、葉子のところに行ってやって欲しい。彼女を守ってくれるんだろう? 強がってるとは思うけど、竹流の様子を見ていて、心細くないとは思わないよ」
じゃあ、北条さんが帰ってくるまではここにいるよ、と言われたが、真は首を横に振った。
「竹流の顔も、見てきて欲しいんだ」
「お前が行けって言ってるだろう」
享志の声が幾らかいらついて聞こえる。それでも真は拒否した。
「それに、珠恵さんに、俺は無事だから、竹流のところに行ってやって欲しいって伝えてくれないか」
「あぁ、そりゃ絶対にないな」
享志はふて寝するように布団に転がった。
「俺は少しあの人に会っただけだけど、あの人はお前より先に大和さんに会いに行くことはないと思うよ。つまりお前が大和さんに会わなければ、珠恵さんも大和さんに会えないわけだ。お前のせいで彼女は大和さんに会えないってわけだぞ」
天井を睨んだまま享志は息をつき、堂々巡りだな、と言った。
「三日、だな」
真が何を言ってるんだと思って享志を見ると、享志は静かに続けた。
「ま、いいとこ三日が勝負だ」
享志は天井から真のほうを向き直った。
「ヴォルテラの大親分が、放蕩息子を連れてローマに戻ってくる」
真は意味が理解できず、ぼんやりと享志の顔を見つめたままだった。
「俺がロンドンで聞いた噂だよ。既にヴォルテラの自家用機がローマを発ったっていう話も聞いている。俺たちはお前に何を用意してやればいい? 必要なら、たとえ宇宙船でも作ってやるよ。北条さんだったら、宇宙船の船長の知り合いくらい、いるに違いない。でもな、お前が大和さんのところに行かないと、話にもならない」
享志は起き上がった。
「俺が大和さんをもう二、三発殴って起きられないようにしとくか。重病人を飛行機に乗せるのは難しいだろうし」
そう言ってから享志は心配そうに付け加えた。
「チェザーレ・ヴォルテラって人は、死に掛けてても大和さんを連れて帰る気だぞ。悠長なこと、言ってる場合か」
享志は真を見つめている。真はひどく冷静な気持ちだった。
このことが片付いたら、彼を帰国させます。
始めから、チェザーレはそう言っていた。そう、『片付いた』のだ。そして、今更計画を覆すことはないだろう。真は、チェザーレの言葉を思い起こして息をついた。
あなたに決心ができたなら、一緒にいらっしゃい。
決心など、どうやってつければいいのか分からなかった。
「とりあえず、愛してるって伝えとくよ。三日で縄かけに戻ってくるから、覚悟を決めとけよ」
* * *
享志は京都の病院に着いて、まず葉子を呼び出した。
葉子は直ぐに詰所に現れ、二人は病棟の待合のソファに腰掛けて、少しの間再会してほっとしたということを、お互い言葉には出さずに確認しあった。
結婚する前にもそういう雰囲気はあったのだが、結婚してからなお、彼らは恋人同士というよりも、むしろ真ではなく享志と葉子の方が兄妹ではないかと思うような家族の親しさを積み重ねていた。
「彼、どう?」
ようやく享志は聞いた。
「うん」
葉子は少し逡巡したように見えた。
「何だか、ちょっとずついたたまれないような感じになってきた。身体も、何だかすっかり弱ってる感じだし、それにどっちかというと」
享志は、震えるように拳を握りしめている葉子の手を握った。葉子は顔を上げた。
「起きてるときは、むしろ変に空元気を見せようとしてる時もあるし、時々訳がわからなくなるときもあるし、それに夜は、時々どうかなっちゃうんじゃないかと思うくらい魘されてる」
「医者は何て?」
「肝機能は三桁から下がってこないし、まだ酸素から離れられないし、でも快方に向かっていますからって。足のリハビリとかは、もうそれどころじゃないって感じだし」
「肺炎は大丈夫そうって?」
「多分」
葉子はまた自分の手を見つめ、それから顔を上げた。
「北条さんが昨日来たの」
「うん、知ってる」
葉子はちょっと考えるように享志を見つめた。
「お兄ちゃんに会ったの?」
享志は頷いた。
「来ないの? 北条さんは、お兄ちゃんを迎えに来い、って竹流さんに言ってたけど、動けるようには思えないし、それに」
葉子はちょっと言葉を切って、先に享志の返事を待った。
「真はまだ会わなければならない人がいるからって。一緒に行こうって言ったんだけどね」
「今朝早くに竹流さんの叔父さんが来たの。イタリア語で話してたからよく分からないけど、飛行機の話をしてた」
享志は頷いた。
「向こうでも噂になっていた。何か言われた? いつ帰るとか」
「うん、世話をかけて有難う、というのと、あなたとお義父様によろしくって。その後、主治医の先生と話してたから、多分飛行機に乗って大丈夫かってことだと思うけど」
「じゃあ、医者に聞くのが早いな」
噂は嘘ではなかったのだ。
享志は詰所に行き、医者と話がしたいということを告げたが、外来中なので話ができるのは午後になると言われた。
仕方がないので、取り敢えず竹流に面会に行くことにした。
竹流は、享志が病室に入ったとき、眠っているようだった。数週間前に見たときよりも更にやつれたように見えた。享志が側に座ると、その物音で静かに目を開けた。竹流は享志の方を見、それが享志とわかって少し目で挨拶するような表情をした。
「大丈夫ですか」
竹流は頷いた。
「熱は?」
「今は微熱がある程度かな。思ったより参ってしまったみたいだ」
享志は竹流の綺麗な青灰色の目を見つめた。
「真に、会いましたよ」
享志は務めて穏やかに言った。
「思ったよりは元気そうでした。あなたに会いたくて狂いそうなくせに、認めない理由は知りませんけどね」
竹流はただ頷いた。
「東京に帰れそうですか?」
「さあ、医者は、肝機能はひどいし、骨髄機能も下がっていて血球が全て低い上に、何より体力もままならない状況なので、それが良くならないと無理だ、と言ってるみたいだけどね」
「飛行機なんか当分無理ですよ」
竹流は享志を見た。
「叔父が来たことを言っているのか?」
享志は答えずに、いつですか、と聞いた。
「さあ、医者と何か話したんだろう」
「帰る気ですか?」
「今の俺に選択権がないのは確かだ。叔父が怒っているのもわかっている」
それは怒っているからではなく、本当に心配しているからだろうと思ったが、享志は何も言わなかった。
享志の父の話では、ローマのヴォルテラ家はこの男以外の跡継ぎなどこれっぽっちも考えておらず、あんな雑誌のインタヴュー記事など何かの丁稚上げだと主張しているらしいし、もともといつまでもこの男を東京で遊ばせておく気はないのだから潮時だろうということだった。
「真は」享志は、相手の表情を読み取るように見つめていた。「どうするんです?」
「どうって、何が?」
「放っておくと、どうなるか知りませんよ。ただでさえ、あいつに懸想してるろくでもない種類の人間がいるのは知ってるでしょう? それに、危なっかしくて」
「君が言っているのは、真をローマに連れて行くかどうか、ということか」
「二人で駆け落ちすればいいってことですよ。ローマに連れて行くかどうかってのは、最悪でも、ってところですね」
竹流は静かに息を吐き出し、目を閉じた。
「それは、無理な相談だな。あいつのことは北条さんや君たちがいるから、大丈夫だろう」
「本気で言ってるんですか」
享志は結局その日、葉子を珠恵のところに帰して、病院に泊まった。
さて、どうしたものかと、真剣に忙しく考えていた。自分が親友にしてやれることと、そのことで周りに与える影響を考えていた。
真は何を望むだろう。
夜になると、病院の静けさは享志の気持ちを逆に煽り立てた。昨日抱きしめた真の身体を、その意外な幼さと熱さを手の中にまた感じた。だが、もう二度とそういうことはないだろう。葉子の兄だからでも、親友だからでもなく、自分の常識を逸した感情の在り方を消したかったからでもなかった。真が、自分に求めていることがそういうことではないということを、享志はちゃんと知っていたからだった。
享志は横になることもなく、ただベッドの脇に座っていた。この男がいなかったら、自分はどうしていたのだろう。葉子よりも真自身を求めただろうか。自信がなかった。
真を、あの時々馬鹿みたいに儚くなってしまう感情を、誰かが支えてやらなければならないと思っていた。真は時々上手くこの世に適合できないような気配を見せることがあった。その役割をずっと果たしてきたのはこの男ではなかったのか。この男だから、嫉妬心は別にして、享志は安心していられたはずだった。
真が北海道で崖から落ちたとき、真があの牧場の周辺の広大な土地を庭のように知っていて、さらに賢明な馬たちが真を危険に近づけるはずがないのに、真がそこから落ちたのは何か特別なことだったのだと、皆が話しているのを聞いた。それが誰かの意志ではないかという意味だった。
誰もそれ以上は言わなかったが、享志はあの牧場から空を見上げた時、それが亡くなった飛龍という馬、あるいは森に息づく神々ではないかと直感的に悟った。真のその儚い感情を愛おしく思っているのは、人間だけではなく、馬たちも犬たちも同じ感情を真に抱いていたのだ。神々から真を引き離してしまった人間は、その後の真を守ってやる義務があると思っていた。
この男が、その義務を放棄しようとしているとは思えなかった。だから多分、この男は自分自身のむしろ人間らしい欲情の結果を差引きしたのだろう。義務を放棄することで、却って真を救えるのではないかと思っているのかもしれなかった。
「それは誤解だな」
思わず享志は声に出して呟いた。
真は、この男が生きているかどうかも分からないで引き離されていることよりも、多分どんな目に遭おうとも一緒にいたいと思っているだろう。
だが今真は混乱し、迷っている。わけが分からなくなっているのだ。
享志が椅子に座ったままうとうとしていたとき、現実と夢の狭間に、叫びのようなものが響いた。享志は跳ね起きた。そしてすぐに、竹流が魘されているのだと知った。
一瞬、真の叫びと重なった。享志は、竹流を揺り起こそうとしてその肩に手を触れたが、思ったよりもやつれてしまった肩の感触に自分の手を疑った。
「大和さん」
呼びかけてみたが、その男が苦しむ様を楽しんでいる悪夢は、簡単には竹流を離さなかった。
叫びかけて息を詰めるようにして呼吸を止め、跳ね起きた竹流を、享志は抱き留めた。享志が差し伸べた腕の中で、竹流は肩で激しく呼吸をしながら、突然力を失ったようになり、そのまま享志に身体を預けてきた。
しばらく享志は彼を抱きしめていた。
自分よりもずっと大きな相手だと思っていた。
その男が足元も覚束なく、起き上がることもやっとで、目の前で苦しんでいるのは合点がいかなかった。真が仇を殺しても殺し足りないと感じているのは当然だと思った。
少しして竹流が正気に戻ったのか、自ら享志から離れるようにした。
「すまない」
「いいえ、大丈夫ですか」
竹流は返事をしなかった。享志は氷枕をとって、竹流を横にさせてから、詰所に行って氷を替えてもらった。
冷たい氷枕を頭の下に戻してやって、享志はやっと息をついた。
「僕が言うのは何ですけど、真を側から離さないほうがいいですよ。何より、あなた自身のために。あなたが真なしでやって行けるとは、僕には思えません」
竹流は返事をしなかった。
夜の帳が下りてくる。何時までも上がらない幕のように、静かに世界を闇に染めて、時間だけは確実に流れていった。
(第34章『交差点』了、第35章『恋花』につづく)




さて、次章は短いのですが(ほぼワンシーン)、それでも1回でアップするには長すぎるので、2回に分けてお届けします。
この物語の中で、何故か私が妙に力を入れちゃった章です。一体、村野花を描写するのになぜこだわったのか……読んでいただいて何かを察してくださると嬉しいかもしれません。
えぇ、イメージはまさに毒蜘蛛です。それでは次回、クラブタランチュラでお会いしましょう。
<次回予告>
激しい恋情を心の内に秘めて、それにさえも毒の味を滲みこませて、自らを毒に変えてしまい、己を殺しながら生きることは、とてもできない。砂漠の蜘蛛にとっては、己の毒だけが餌になっているのかもしれない。そんなことになれば、俺は簡単に死んでしまうのだろうと真はぼんやりと考えていた。
突然、女は短くなった煙草を持ったままの手をすっと差し伸ばし、太い薬指と小指で真の顎に触れた。毒虫のように粘液を指からも吐き出しているのかと思えば、意外にも乾いた手だった。
「あんたは綺麗だね」女が近付くと複雑な香水の匂いが真の鼻腔を満たし、頭が痺れて気分が悪くなった。それと同時に甘美な快感が身体を走りぬける。「血の匂いがするよ」
この女には、俺の人殺しの血がわかるのだと真は思った。



その朝、真は目を覚ましたとき、隣に享志がいてすやすや眠っているのを見て、暫く何が何だか分からずに享志の寝顔を見ていた。
昨夜の事は全くといっていいほど覚えていなかった。ただ享志が何か大事なことを耳に囁いてくれていた、その気配だけを記憶していた。真は耳に手をやり、それから不意に、左耳が聞こえにくくなっていることを思い出した。
ずっと身体中愛撫されていたような気だるさはあるのに、無理矢理抱かれた覚えも何もなかった。女と寝たときには記憶がはっきりしないこともあり得るだろうが、男相手ではそうもいかないだろうと、真は自分の身体を確認し、思わず可笑しくなった。
第一、享志が真にそんなことをするはずがなかった。
微かに享志の呼吸が変わり、軽く寝返りを打つ。真が身体を起こして、乱れた着物の襟をかき合わせるように整えたとき、目を覚ました享志と視線が合った。
「大丈夫か」
享志はそう言ってから、何だか後朝の何とかって感じだな、と呟いて勝手に照れ笑いをしている。それから享志は真の顔をまともに見つめた。
「京都に行こう。一人で行きづらいんなら、俺が一緒に行くから」
真は首を横に振った。
「会いたいんだろう?」
真は返事をしなかった。まだ混乱していてよく分からなかった。あの傷ついた姿を冷静に見る自信がなかったし、自分が何をしたかもよく分かっていた。
映像の中でひどく傷つけられていた竹流を見てどこかで興奮していたかもしれない自分自身を、怒りと性的興奮の区別がつかなくなっていた自分自身を、福嶋という男に貫かれて理屈もなく喘がされていた自分自身を、どうしても理解できずに、そのままの形で竹流の顔を見る勇気もなかった。会ったら今度こそ真は我を失うかもしれない。
だから、どうあっても今は会えないと思っていた。いつになれば会えるようになるのか、それも分からなかった。もしかして、もうこのまま会う勇気さえ持てないのかもしれないと、思った。
突然、享志は寝転んだまま下から真を抱き寄せた。真はいきなりの事でバランスを崩して、享志に倒れこんだ。
「何するんだ」
「キスしていいか」
「寝ぼけてるのか」
享志は腰を抱き寄せた手とは別の手で、真の唇に触れた。
その享志の、真がこれまで見たことのない男らしい真剣な表情に、真は言葉を飲み込んだ。享志はいつもの彼らしくもない、笑みを一切含んでいない目で、真の唇を見つめている。
「こうして見たらお前って時々隙だらけなのにさ、何で俺には今まで付け入るチャンスがなかったんだろうな」
「何、言ってるんだ」
「俺も大人の男になったってことだよ。大和さんじゃなくてもお前を守ってやれる男がいるってことだ。お前が葉子の手を取ってバージンロードを歩いてきた時、俺、本当はお前の手ごと、二人とも抱き寄せようかと思ったんだ」
臆面もなく享志はあっさりと言う。真はこいつは何を言ってるんだと思った。
「バージンロードを歩いていたのは葉子だ、俺はただのエスコートだって」
「どっちでも一緒だよ。俺はお前の手も一緒に取ったつもりだし、葉子にもそうプロポーズした。なぁ、真、素面でキスさせろよ。何だったら、新婚初夜にするか。朝だけど」
真は事実慌てた。真の認識の中ではそんなことを全く言うはずもない親友が、真剣な目で真を見つめているわけで、上手くかわす方法も思いつかなかった。
「悪いけど、操を立ててるんだ。何でもいいから、とにかく離せって」
混乱して口をついて出た言葉は、半分は真自身も理解していない。語気は後半で荒くなっていた。享志は暫く真の顔を見ていたが、急に表情を変えて、大笑いを始めた。
「何だよ」
「俺にしちゃ、上手い言い回しだったと思わないか?」
「仁さんに何か吹き込まれたんだな」
「いや。俺の本心だよ。からかったわけじゃない。俺は、北条さんみたいに、女の人とセックスするみたいにお前を抱きたいわけじゃないけどさ、なんて言っていいのか分からないけど、強いて言えば、ずぶ濡れの捨て猫見て放っておけないような気持ちかなぁ」
「それはただの憐憫だ」
享志は寝転がったまま、真面目な顔で真を見つめている。
「雨の中で感じた憐憫だけじゃ、捨て猫は拾って帰れないんだよ。あとの面倒をちゃんと見る気でなけりゃ」
享志はそう言って起き上がった。
「でも、抱いてくれと言われたら、多分俺はお前を抱けるよ。昨日それがわかった」
すぐ傍に感じる享志の身体は、それなりに鍛えようとしてきた真よりも一回りは大きかった。真は、いつの間にかすっかり立派な人間になり、あるいは享志の言うとおり、誰かを確かに守ることができる大きな男になった享志に、眩暈がするような憧れと嫉妬と、どうしても逆らえない微かな恐れを感じた。
享志は、目を逸らすことは許さないというように真を見つめたまま、真面目な顔で続ける。
「お前さ、俺じゃなくて、大和さんにちゃんとそう言うべきだよ。あなたのために操を立てています、って。あの人はさ、お前が思っているよりも繊細で傷つきやすい人だと思うからさ、本当は色んなことで苦しんでる。いや、俺が言うことじゃないか。お前が一番良く知ってるはずだもんな」
ふと享志が見せた暗い翳りのある横顔に、真は見覚えがあった。
この横顔は、あの結婚式の二次会で、歩き去るりぃさの後姿を見つめていた横顔と同じだった。
それは、真が見知っている享志の表情の中ではあり得ないほど享志に不釣合いな表情で、だからこそ真は何かの見間違いかとも思い、あるいは見てはいけない顔を見たような気がして、あの時、記憶の底に沈めてしまったのだ。
だが今、はっきりと思い出してしまったあの時の横顔、愛しさと憎しみと憐れみと、あるいは思いつく限りの喜怒哀楽の感情を畳み込んで静かにならざるを得なかったような横顔をもう一度目にしたとき、記憶の深い沼の底から湧きあがってきたのは、さらに具体的な色合いに染められた享志の感情そのものだった。
真が黙り込んだまま、享志の顔を見つめていると、享志が何だ、というように真を見た。真は視線を外し、一旦なんでもない、と言てから、改めて享志を見た。
その時にはすでに脳の活動は止まっていて、真の口は勝手に言葉を送り出していた。
「ごめん」
「何?」
享志の声に、僅かに冷たい響きが伴っている。真は一旦息をつき、引っ込みがつかなくなったという、それだけのことでその先を続けてしまった。
「りぃさのこと、俺は何も気が付かなくて」
享志は暫く身動きもしなかった。黙って真を見つめるその目は、怖いくらいだった。
真は他人とのコミュニケーションにおいて時々こういう失策を犯してしまうということに、自分でも気が付いていた。だがそれに対して、享志や竹流は、いつもあっさりとかわして、冗談に受け流してくれる。それが真には真似のできない彼らの度量だということに、真はとっくに気が付いていたはずだった。
真は言ってはいけない言葉を口にしたと気が付いて、一旦目を逸らしたが、享志が自分をじっと見つめたままであることに気が付いて、どうすることもできずに彼と目を合わせた。享志はようやくひとつ、息をついた。
「俺、お前のそういう無神経なところ、嫌いじゃないけどさ、それ以上言ったら本当にお前を襲うよ」
享志は真から視線を外さなかった。
「頼むから、りぃさのことは忘れてくれ。お前の中でなかったことにしてくれたら、それでいい」
享志は真からようやく視線を外した。でも、と言いかけた真は、享志のその無表情とも見える横顔に口をつぐんだ。
「悪いけど、お前には関係のないことなんだ。俺とりぃさのことは」
「でも彼女の自殺は、やっぱり俺が彼女を……」
突然享志が起き上がり、真の肩を強く掴んだ。真は享志の目を見て恐ろしくなり、そのまま口を噤んだ。
「勘違いしないでくれ。りぃさは俺が死神を雇って殺したんだ」
そう言うと、享志は真の頭を自分の肩に抱き寄せた。
「二度と、小松崎りぃさの話はするな。大和さんの前でもだ」
小さな疑惑の炎は、真の内側で立ち上がり、そのまま雨に打たれて消されようとした。
享志の声は、真がこれまでにこの親友の口から聞いたことのないものだった。そして真は、自分が確かに、この義理の弟となった親友と、あの男に守られていたのだと理解したように思った。
真は了解したことを伝えるために、自分のほうから親友の身体に手を回し、抱き締めた。そして、今初めて、享志が震えていることに気が付いた。
俺はずっと自分だけが苦しんでいたと思っていた。
真は突然に強い感情に突き動かされた。
何かを勘違いしていた。他人と自分の間に線を引こうとしてきたのは、ただ自分を守るためだった。だが、こうして友は他人である自分を、自らを貶めるような真似をしてまでも、守ろうとしてくれていたのだ。
何故、それに気が付かないままにしていたのだろうか。
だが、縋りつくような真の感情がまだ冷めないうちに、案の定、享志は気を取り直したようだった。真の背中を宥めるように二度叩くと、ゆっくりと諭すように言った。
「京都に行こう。お前は大和さんの傍にいなければだめだ」
真は恐ろしく静かな気持ちで首を横に振った。時間が欲しかった。考える時間と、納得する時間が。その時間がもしかして永遠に彼と自分を裂くのなら、それもやむを得ないと思っていた。
「お前は行けよ。葉子の顔を見てきてやって欲しい」
真がそう言うと、享志は、葉子なら大丈夫だよ、お前よりずっと、と答えた。そしてひとつ息をつく。
「お前、本当に頑固だな。会ってキスのひとつもすれば済む話だろ」
「どうしても、会っておかなければならない人がいるんだ」
「大和さんのことより大事なわけじゃないだろう」
そんなものがあるのなら言ってみろ、とばかりに享志は畳み掛けてくる。真はどうとも返事ができずに、曖昧な表情を浮かべた。
福嶋に名刺をもらったものの、その女の顔を見る勇気がなかった。今更、という気持ちもあった。だが、享志がここに来てくれて、そのことが真に冷静な判断のチャンスを与えてくれた。
会っておかなければならない人は、村野花だけではなかった。どうしても澤田顕一郎に会いたかった。いや、澤田顕一郎に会いたかったら、真は村野花に会いたかったのだ。きっと今、会っておかなければ、後悔するのは分かっていた。会わないでいるということは、義務を放棄するような気がしたのだ。
「仁さんが何言ったのか知らないけど、俺は大丈夫だから、葉子のところに行ってやって欲しい。彼女を守ってくれるんだろう? 強がってるとは思うけど、竹流の様子を見ていて、心細くないとは思わないよ」
じゃあ、北条さんが帰ってくるまではここにいるよ、と言われたが、真は首を横に振った。
「竹流の顔も、見てきて欲しいんだ」
「お前が行けって言ってるだろう」
享志の声が幾らかいらついて聞こえる。それでも真は拒否した。
「それに、珠恵さんに、俺は無事だから、竹流のところに行ってやって欲しいって伝えてくれないか」
「あぁ、そりゃ絶対にないな」
享志はふて寝するように布団に転がった。
「俺は少しあの人に会っただけだけど、あの人はお前より先に大和さんに会いに行くことはないと思うよ。つまりお前が大和さんに会わなければ、珠恵さんも大和さんに会えないわけだ。お前のせいで彼女は大和さんに会えないってわけだぞ」
天井を睨んだまま享志は息をつき、堂々巡りだな、と言った。
「三日、だな」
真が何を言ってるんだと思って享志を見ると、享志は静かに続けた。
「ま、いいとこ三日が勝負だ」
享志は天井から真のほうを向き直った。
「ヴォルテラの大親分が、放蕩息子を連れてローマに戻ってくる」
真は意味が理解できず、ぼんやりと享志の顔を見つめたままだった。
「俺がロンドンで聞いた噂だよ。既にヴォルテラの自家用機がローマを発ったっていう話も聞いている。俺たちはお前に何を用意してやればいい? 必要なら、たとえ宇宙船でも作ってやるよ。北条さんだったら、宇宙船の船長の知り合いくらい、いるに違いない。でもな、お前が大和さんのところに行かないと、話にもならない」
享志は起き上がった。
「俺が大和さんをもう二、三発殴って起きられないようにしとくか。重病人を飛行機に乗せるのは難しいだろうし」
そう言ってから享志は心配そうに付け加えた。
「チェザーレ・ヴォルテラって人は、死に掛けてても大和さんを連れて帰る気だぞ。悠長なこと、言ってる場合か」
享志は真を見つめている。真はひどく冷静な気持ちだった。
このことが片付いたら、彼を帰国させます。
始めから、チェザーレはそう言っていた。そう、『片付いた』のだ。そして、今更計画を覆すことはないだろう。真は、チェザーレの言葉を思い起こして息をついた。
あなたに決心ができたなら、一緒にいらっしゃい。
決心など、どうやってつければいいのか分からなかった。
「とりあえず、愛してるって伝えとくよ。三日で縄かけに戻ってくるから、覚悟を決めとけよ」
* * *
享志は京都の病院に着いて、まず葉子を呼び出した。
葉子は直ぐに詰所に現れ、二人は病棟の待合のソファに腰掛けて、少しの間再会してほっとしたということを、お互い言葉には出さずに確認しあった。
結婚する前にもそういう雰囲気はあったのだが、結婚してからなお、彼らは恋人同士というよりも、むしろ真ではなく享志と葉子の方が兄妹ではないかと思うような家族の親しさを積み重ねていた。
「彼、どう?」
ようやく享志は聞いた。
「うん」
葉子は少し逡巡したように見えた。
「何だか、ちょっとずついたたまれないような感じになってきた。身体も、何だかすっかり弱ってる感じだし、それにどっちかというと」
享志は、震えるように拳を握りしめている葉子の手を握った。葉子は顔を上げた。
「起きてるときは、むしろ変に空元気を見せようとしてる時もあるし、時々訳がわからなくなるときもあるし、それに夜は、時々どうかなっちゃうんじゃないかと思うくらい魘されてる」
「医者は何て?」
「肝機能は三桁から下がってこないし、まだ酸素から離れられないし、でも快方に向かっていますからって。足のリハビリとかは、もうそれどころじゃないって感じだし」
「肺炎は大丈夫そうって?」
「多分」
葉子はまた自分の手を見つめ、それから顔を上げた。
「北条さんが昨日来たの」
「うん、知ってる」
葉子はちょっと考えるように享志を見つめた。
「お兄ちゃんに会ったの?」
享志は頷いた。
「来ないの? 北条さんは、お兄ちゃんを迎えに来い、って竹流さんに言ってたけど、動けるようには思えないし、それに」
葉子はちょっと言葉を切って、先に享志の返事を待った。
「真はまだ会わなければならない人がいるからって。一緒に行こうって言ったんだけどね」
「今朝早くに竹流さんの叔父さんが来たの。イタリア語で話してたからよく分からないけど、飛行機の話をしてた」
享志は頷いた。
「向こうでも噂になっていた。何か言われた? いつ帰るとか」
「うん、世話をかけて有難う、というのと、あなたとお義父様によろしくって。その後、主治医の先生と話してたから、多分飛行機に乗って大丈夫かってことだと思うけど」
「じゃあ、医者に聞くのが早いな」
噂は嘘ではなかったのだ。
享志は詰所に行き、医者と話がしたいということを告げたが、外来中なので話ができるのは午後になると言われた。
仕方がないので、取り敢えず竹流に面会に行くことにした。
竹流は、享志が病室に入ったとき、眠っているようだった。数週間前に見たときよりも更にやつれたように見えた。享志が側に座ると、その物音で静かに目を開けた。竹流は享志の方を見、それが享志とわかって少し目で挨拶するような表情をした。
「大丈夫ですか」
竹流は頷いた。
「熱は?」
「今は微熱がある程度かな。思ったより参ってしまったみたいだ」
享志は竹流の綺麗な青灰色の目を見つめた。
「真に、会いましたよ」
享志は務めて穏やかに言った。
「思ったよりは元気そうでした。あなたに会いたくて狂いそうなくせに、認めない理由は知りませんけどね」
竹流はただ頷いた。
「東京に帰れそうですか?」
「さあ、医者は、肝機能はひどいし、骨髄機能も下がっていて血球が全て低い上に、何より体力もままならない状況なので、それが良くならないと無理だ、と言ってるみたいだけどね」
「飛行機なんか当分無理ですよ」
竹流は享志を見た。
「叔父が来たことを言っているのか?」
享志は答えずに、いつですか、と聞いた。
「さあ、医者と何か話したんだろう」
「帰る気ですか?」
「今の俺に選択権がないのは確かだ。叔父が怒っているのもわかっている」
それは怒っているからではなく、本当に心配しているからだろうと思ったが、享志は何も言わなかった。
享志の父の話では、ローマのヴォルテラ家はこの男以外の跡継ぎなどこれっぽっちも考えておらず、あんな雑誌のインタヴュー記事など何かの丁稚上げだと主張しているらしいし、もともといつまでもこの男を東京で遊ばせておく気はないのだから潮時だろうということだった。
「真は」享志は、相手の表情を読み取るように見つめていた。「どうするんです?」
「どうって、何が?」
「放っておくと、どうなるか知りませんよ。ただでさえ、あいつに懸想してるろくでもない種類の人間がいるのは知ってるでしょう? それに、危なっかしくて」
「君が言っているのは、真をローマに連れて行くかどうか、ということか」
「二人で駆け落ちすればいいってことですよ。ローマに連れて行くかどうかってのは、最悪でも、ってところですね」
竹流は静かに息を吐き出し、目を閉じた。
「それは、無理な相談だな。あいつのことは北条さんや君たちがいるから、大丈夫だろう」
「本気で言ってるんですか」
享志は結局その日、葉子を珠恵のところに帰して、病院に泊まった。
さて、どうしたものかと、真剣に忙しく考えていた。自分が親友にしてやれることと、そのことで周りに与える影響を考えていた。
真は何を望むだろう。
夜になると、病院の静けさは享志の気持ちを逆に煽り立てた。昨日抱きしめた真の身体を、その意外な幼さと熱さを手の中にまた感じた。だが、もう二度とそういうことはないだろう。葉子の兄だからでも、親友だからでもなく、自分の常識を逸した感情の在り方を消したかったからでもなかった。真が、自分に求めていることがそういうことではないということを、享志はちゃんと知っていたからだった。
享志は横になることもなく、ただベッドの脇に座っていた。この男がいなかったら、自分はどうしていたのだろう。葉子よりも真自身を求めただろうか。自信がなかった。
真を、あの時々馬鹿みたいに儚くなってしまう感情を、誰かが支えてやらなければならないと思っていた。真は時々上手くこの世に適合できないような気配を見せることがあった。その役割をずっと果たしてきたのはこの男ではなかったのか。この男だから、嫉妬心は別にして、享志は安心していられたはずだった。
真が北海道で崖から落ちたとき、真があの牧場の周辺の広大な土地を庭のように知っていて、さらに賢明な馬たちが真を危険に近づけるはずがないのに、真がそこから落ちたのは何か特別なことだったのだと、皆が話しているのを聞いた。それが誰かの意志ではないかという意味だった。
誰もそれ以上は言わなかったが、享志はあの牧場から空を見上げた時、それが亡くなった飛龍という馬、あるいは森に息づく神々ではないかと直感的に悟った。真のその儚い感情を愛おしく思っているのは、人間だけではなく、馬たちも犬たちも同じ感情を真に抱いていたのだ。神々から真を引き離してしまった人間は、その後の真を守ってやる義務があると思っていた。
この男が、その義務を放棄しようとしているとは思えなかった。だから多分、この男は自分自身のむしろ人間らしい欲情の結果を差引きしたのだろう。義務を放棄することで、却って真を救えるのではないかと思っているのかもしれなかった。
「それは誤解だな」
思わず享志は声に出して呟いた。
真は、この男が生きているかどうかも分からないで引き離されていることよりも、多分どんな目に遭おうとも一緒にいたいと思っているだろう。
だが今真は混乱し、迷っている。わけが分からなくなっているのだ。
享志が椅子に座ったままうとうとしていたとき、現実と夢の狭間に、叫びのようなものが響いた。享志は跳ね起きた。そしてすぐに、竹流が魘されているのだと知った。
一瞬、真の叫びと重なった。享志は、竹流を揺り起こそうとしてその肩に手を触れたが、思ったよりもやつれてしまった肩の感触に自分の手を疑った。
「大和さん」
呼びかけてみたが、その男が苦しむ様を楽しんでいる悪夢は、簡単には竹流を離さなかった。
叫びかけて息を詰めるようにして呼吸を止め、跳ね起きた竹流を、享志は抱き留めた。享志が差し伸べた腕の中で、竹流は肩で激しく呼吸をしながら、突然力を失ったようになり、そのまま享志に身体を預けてきた。
しばらく享志は彼を抱きしめていた。
自分よりもずっと大きな相手だと思っていた。
その男が足元も覚束なく、起き上がることもやっとで、目の前で苦しんでいるのは合点がいかなかった。真が仇を殺しても殺し足りないと感じているのは当然だと思った。
少しして竹流が正気に戻ったのか、自ら享志から離れるようにした。
「すまない」
「いいえ、大丈夫ですか」
竹流は返事をしなかった。享志は氷枕をとって、竹流を横にさせてから、詰所に行って氷を替えてもらった。
冷たい氷枕を頭の下に戻してやって、享志はやっと息をついた。
「僕が言うのは何ですけど、真を側から離さないほうがいいですよ。何より、あなた自身のために。あなたが真なしでやって行けるとは、僕には思えません」
竹流は返事をしなかった。
夜の帳が下りてくる。何時までも上がらない幕のように、静かに世界を闇に染めて、時間だけは確実に流れていった。
(第34章『交差点』了、第35章『恋花』につづく)



さて、次章は短いのですが(ほぼワンシーン)、それでも1回でアップするには長すぎるので、2回に分けてお届けします。
この物語の中で、何故か私が妙に力を入れちゃった章です。一体、村野花を描写するのになぜこだわったのか……読んでいただいて何かを察してくださると嬉しいかもしれません。
えぇ、イメージはまさに毒蜘蛛です。それでは次回、クラブタランチュラでお会いしましょう。
<次回予告>
激しい恋情を心の内に秘めて、それにさえも毒の味を滲みこませて、自らを毒に変えてしまい、己を殺しながら生きることは、とてもできない。砂漠の蜘蛛にとっては、己の毒だけが餌になっているのかもしれない。そんなことになれば、俺は簡単に死んでしまうのだろうと真はぼんやりと考えていた。
突然、女は短くなった煙草を持ったままの手をすっと差し伸ばし、太い薬指と小指で真の顎に触れた。毒虫のように粘液を指からも吐き出しているのかと思えば、意外にも乾いた手だった。
「あんたは綺麗だね」女が近付くと複雑な香水の匂いが真の鼻腔を満たし、頭が痺れて気分が悪くなった。それと同時に甘美な快感が身体を走りぬける。「血の匂いがするよ」
この女には、俺の人殺しの血がわかるのだと真は思った。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨165] 第35章 恋花(1)クラブタランチュラ
【海に落ちる雨】第35章その(1)です。15000字ほどの短い章ですが、一気に載せるには長いので、2つに切りました。
偏屈な狂人と言ってもいい寺崎孝雄と組んで悪質なビデオを作っていた村野花。澤田顕一郎への叶わぬ想いが焼き切れてしまったのでしょうか。その女は、意外にも真が普段生活している場所のすぐそばで、じっと息をひそめていたのです。
タイトルになっているのは、チャゲ&飛鳥さん(色々ありましたが)の『恋花』……何があろうとも、名曲は名曲ですね。といっても、今やYou Tubeでも聴けなくなっているので、どうしようかと迷ったのですが、まぁこの時代のものですので、そのままです。
トップに出てくる歌は……殿さまキングスの名曲です。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
偏屈な狂人と言ってもいい寺崎孝雄と組んで悪質なビデオを作っていた村野花。澤田顕一郎への叶わぬ想いが焼き切れてしまったのでしょうか。その女は、意外にも真が普段生活している場所のすぐそばで、じっと息をひそめていたのです。
タイトルになっているのは、チャゲ&飛鳥さん(色々ありましたが)の『恋花』……何があろうとも、名曲は名曲ですね。といっても、今やYou Tubeでも聴けなくなっているので、どうしようかと迷ったのですが、まぁこの時代のものですので、そのままです。
トップに出てくる歌は……殿さまキングスの名曲です。





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あなたのために 守り通した 女の操
今さら人に 捧げられないわ
新宿の繁華街の海のどこかから零れてくる歌詞が、洪水のような数多の音の中で、輪郭を浮き立たせる。
昼間から大人の玩具や特別な下着や避妊具を堂々と売る店の前で、その歌は切々とした響きをボリュームアップし、真が前を通り過ぎてもなお耳の後ろからついてくるようだった。
お別れするなら死にたいわ、という歌詞が、聞こえにくい左耳の内で反響する。
真は立ち止まり、もう一度ポケットから福嶋にもらった赤と黒に彩色された名刺を出してみた。
クラブ タランチュラ
いかにもそれらしい命名で、多少呆れさえもする。真はそっと息を吐き出した。
真が自分を取り戻せないでいた間に、とっくに梅雨は明け、いつの間にか季節はすっかり夏になっていた。それでも真の身体は、いつからそうなのか、汗さえもかくことができないほど冷たいままだった。
真はまだ暫く突っ立っていた。この雑踏の中、誰かが自分を見咎めてくれるだけの時間を待っていたのだ。
新宿には無数の道がある。そしてそのほとんどが闇に繋がっている。細い一本一本の道は、その道を歩く運命を見出してしまった者には優しく馴染み深い顔を見せるが、異邦人には恐ろしい底なし沼を歩くような気持ちを湧き起こさせる。
もちろん、親しみ深い顔の裏側には、また別の顔を隠している。
新宿で仕事を始めて、真はこの無数の道をどれほど無駄に歩いたか知れない。仕事のためには街にとって馴染みの顔になっておかなければならない、という理由もあったが、この闇は真を飲み込み怯えさせる一方で、真の傍にぴったりと張り付いて、沁み入る麻薬のように徐々に真の身体と心を支配し始めていた。
そこにある無数の声なき声、心無き心は、真にロダンの地獄の扉を思い出させる。無数のカムイたちに守られていた時と同じように、無数の闇が真に語りかけ、激しく毒を振りまきながら、時には優しい顔で包み込もうとした。
北海道の大きな風に抱かれていた時の安らぎとは全く違うのに、何故、東京でこの町だけが真を慰めることができるのか、真はずっとわからないでいた。
だが、今、真はその理由を知っている気がした。
福嶋、そして寺崎親子が抉り出した真自身の中にある恐ろしい闇。それは真の遺伝子の中にずっと刻み込まれていたものだったからだ。ただ、闇が闇に引き込まれるように、真はこの道に辿り着いたのかもしれない。
怒り狂ったゼウスの手によって身体を裂かれた男が投げ捨てられていたラブホテルの廃墟は、この先の角を曲がった道の路地にあった。
闇の世界はぴったりと光の世界の裏側に張り付いている。
享志が京都に発ってから、ようやく、真は一ヶ月以上も顔を出さなかった調査事務所に戻った。
事務所に棲みついているヤクザ志望のくせに気の弱い宝田三郎は、暫く真の顔を見て呆然とし、それから泣き出すのかと思えば、きりりとした態度で北条の若い衆の如く、真に傅くように傍から離れなかった。
自称弟子の高遠賢二は何も言わなかったが、まるで毎日そこに真が帰ってくるのが当たり前であるような風情で、帰還したボスに淡々と仕事の報告をした。名瀬弁護士は、真が留守の間もうまく賢二を使っていて、賢二は困った事があると三上に相談しているようだった。
自分の仕事場に帰ってきて、真はようやくほっとしたものの、賢二や宝田がいつの間にか真より先を歩いているような気がして、奇妙な寂しさを覚えたのも事実だった。
美和はあまり何も話さなかった。それでも時々、真の視線を避けながらも真を気にしている。美和らしくない態度だった。昼過ぎにかかってきた電話を受けた美和は、電話の相手としばらく何か話した後、真に受話器を渡した。
電話の相手は新聞記者の井出だった。
澤田顕一郎の居場所がわかったぜ。
井出は完全にオフレコだと言った。その理由を聞いて真のほうが驚いた。澤田は井出を名指しして新聞社に連絡してきたのだという。俺と真ちゃんがラブラブなのを聞いたみたいだぜ、と例の剽軽な口調で言い、電話番号しか聞いていないんだ、その気になれば調べられるけどさ、と前置きして井出はある番号を言った。
電話番号を聞いて、真の側頭葉の引き出しは簡単にその鍵を開けた。
それは溺死した田安隆三の店にあった公衆電話の番号だった。あの店は爆破されたのではなかったかと思ったが、どうやら澤田はその電話をどこかへ移していたようだった。
電話をかけて、会いたいと伝えたが、澤田は周辺が騒がしいので難しいと言った。声は随分と憔悴しているようだったが、思ったよりもずっとしっかりとしていた。香月には居場所を知らせてあるし、逃げているわけではない、と澤田は言った。
マスコミからは逃げているがね。申し開きに出て行くのは構わないが、その前にどうしても会いたい人がいてね。だが、いくら探してもその人の居場所がわからないのだ。
真は自分がその女の居場所を知っている、と言った。寺崎孝雄の息子から、恋人はまだ待っている、という伝言を預かっていると伝え、一緒に行きたいから自分に会って欲しいと言ったが、電話は切れてしまった。
もう一度かけてみたが、呼び出し音は空しく響くだけだった。
だが真は、彼自身か誰かを使ってかはともかく、澤田が自分を見張っているだろうと思っていた。この町の雑踏の中で、静かに、真とその誰かの足音だけが、離れたまま絡み合っている気配を感じる。
やがて真は名刺をズボンのポケットに仕舞った。その手は、ポケットの中でまた別のものの感触を確かめる。
竹流の指輪だった。ずっと持ち歩いていた指輪を、真は今朝、銀座まで出掛けていって磨いてもらった。くすんでいた銀は光を取り戻し、ポケットの中で幾らか軽くなっていた。
ぼんやりと、これを返さなければならないのだと考えていた。その一方で、これを返すことは彼をローマへ帰すことだとも考えていた。そこに自分の居場所を求めることは難しいと知っていた。
真は、恐らく何度も歩いたはずの路地を入った。
極めてゆっくりとした足取りで、後ろを歩いている誰かに自分の足跡を見つけてもらおうと思っていた。
果たしてこの路地の奥に、その女は本当にいるのだろうか。
澤田に恋焦がれていたという、いつも泣きはらしたような大きな眼をして新聞社のベンチで澤田の帰りを待っていたという女。澤田を振り向かせることが難しいことを知って村野耕治と寝た女。そして、その自暴自棄な、愛とは言えない行為を、澤田から祝福されて行く先を失った女。
草薙謙二という息子をこの世に産み捨て、諦め切れない澤田への恋情を抱えたまま少しずつ崩れていった女は、己の身体で男を絡め取り、二人の娘を産み落とした。
一人の娘は、母と同じように、叶わぬ恋に身を焼き、その男を死の縁まで連れて行こうとした。そしてその男を銜え込みながら、果てしなく血を流して死んでいった。
また一人の娘は、やはり叶わぬ恋をして、その男の恋人を憎んだ。行き着く場所のないまま失った男への恋情は、今も彷徨ったまま、彼女もまた向かう先を見失っている。
この路地の先にいる女は少しずつ崩れて、叶わぬ想いが穿った大きな空洞を埋めるように、幼い子どもや強情で美しい男女を嬲り、彼らの苦痛を舐めて己の空白を満たそうとしたのだろうか。内へ内へと向かった女の想いは歪み続け、酷くグロテスクな形となり、沼のような街の片隅で息を潜めている。
真は暗い穴蔵の中でじっと息を殺して、獲物を待つ巨大で真っ黒な蜘蛛を想像していた。
真はふと、楢崎志穂の事を考えた。
あの娘は、多少無鉄砲なことをして彷徨っているものの、真っ直ぐな想いを心に抱いているのだと思った。自殺したことになっている上司、新津圭一を本当に好きだったのだ。その想いが彼女の混乱に拍車をかけているのだとしても、素直な心根を持っていることには違いがなかった。
真が彼女を抱いたときに感じたものは、随分と幼い感情だった。男と寝ることに慣れていない、というだけではない。ひどく怯えていたような気配が、手の内に蘇ってくる。彼女は真に暴行されたと警察に言ったことについて、ただ良い人間の顔を装う真が憎かったのだと言った。だがそれが全てということではない。
何より彼女は明らかに真に、逃げて、と言ったのだ。少女の頃、御蔵皐月を姉と慕い、その姉の言葉通り幸せになろうと思っていたかもしれない。村野花が心の内に育て、遺伝子の中に注ぎ込んでしまった激しい嫉妬や憎しみの感情が、せめて志穂と言う娘の中で浄化されるなら、と真は思っていた。
もしも村野花が澤田顕一郎との恋を成就させていたらどうだっただろう。もしも御蔵皐月が大和竹流と想い合う仲になれていたらどうだったのだろう。彼らの中にも、楢崎志穂のような素直な心根が育っていったかもしれない。
澤田にも竹流にも、自分たちが女を追い込んだという自覚はないだろう。何より、堕ちていったのは女の勝手だった。新聞社のベンチで澤田を待っていた頃のような想いを花が抱き続けていたのなら、もっと違う未来が彼女の手にあったかもしれない。
叶わぬ恋に身を焼いて崩れていった女を思うと、真は身体の芯が凍るような気がした。
御蔵皐月の最期の姿に真が怯えたのは、その女の死に様が凄絶だったからではない。真は、その女の姿に自分の影を重ねていた。寺崎昂司の最期の叫びが耳に残っているのもまた、同じ理由だった。
いつでも真は、彼らにすり替わってしまう暗闇を心の底に抱いている。この暗闇と、一体これからどこまで戦っていかなければならないのか、あるいはいっそ彼らのようにその想いと心中してしまったほうがいいのかもしれない。
真は、自分の身体の中には人殺しの残虐な血と、快楽を貪り自滅していく恐ろしい火の玉のようなものが潜んでいることを知ってしまった。
今となっては、それに気がつかなかった時に戻ることはできない。
お前は人の感情に対して鼻が利く。それも良い感情や世間的に理解可能な感情に対してだけじゃない。自分にとっての悪意でも、犯罪者の常識を逸した感情でも、普通では理解できない感情にも同じように反応する。
唐沢が言っていた言葉の意味を、今更ながらに真は理解した。
常識を逸した感情が、真自身の身体の内にある。だからこそ、反応できてしまうのだと思った。
もしも村野花の顔を見て、そこに自分自身の影を見つけてしまったらどうなるだろう。
真は自分が簡単に狂ってしまえる人間であると気が付いてしまった。飛龍は、だからあの時迎えに来たのだ。お前がこれ以上この世で生き永らえるなら、お前のうちに潜んでいる人殺しの血が沸騰して、いつかは隠し遂せなくなる。その前にその世を離れよ。飛龍はそう語っていたのに、真はあの時既に、心の内にある激しい恋情に身を焼いていたのかもしれない。
恋情。確かにあれはそういう種類のものだった。身体のうちから迸るような想いに焼かれて、あの十九の秋、真はこの世に戻ってきた。浅ましい恋情は、あの時死の運命さえも焼き尽くしてしまったのだろう。
アドリア海の波の上、ただあの男と引き離されることだけを恐れていた。あの男と離れてしまったら、真は人間らしい形を保ち続けることができない。
その崩れた真自身の形が、この扉の向こうにあるのかもしれない。
その扉は、新宿では当たり前に見かける何千、何万とある扉のひとつにしか過ぎなかった。向こうの光も闇も何も見えない、黒い炭酸水のような色合いの扉に、赤と橙の間のような見えにくいタランチュラという文字が沈んでいる。開店しているのか準備中なのかもわからない。いや、まだ夕方にもならないのだから、開店しているわけがなかった。
真はついに、その扉を開けた。
扉は、真の手に意外にも軽く感じられた。地獄の扉は、きっと恐ろしいくらいに軽いのだろう。そして天国への扉は、尋常ではないくらいに重いのかもしれない。
扉を開けると、乾いたテレビの音が、背中に感じる町の雑音に被さった。地獄にはテレビもあるらしいと、真は淡々とした頭で考えた。テレビは映りが悪く、時々横縞を走らせる。この町に落ちてくる時に電波は歪んでしまうのだ。二人組の漫才師の姿は、まるで宇宙にあるスタジオから送られてきたように、異次元の言葉を喚きたてている。
赤と黒、黄色、青、あらゆる種類の色が、大作を仕上げた後のパレットの上のように、交じり合い、あるいは混じりきらずに絡み合っている。わずか五席ほどのカウンターの向こうに、そんな色合いの大きなムームーのような薄手の服を着て、煙草を片手に腕を組んだ、異様に太った女が立っていた。
女はその姿勢のままテレビに視線を向けていたが、別の目で入ってきた真を見ているように思えた。昆虫の目のように最低でも百八十度、あるいはそれ以上を見渡せるのかもしれない。女の目は、多分彼女が痩せていなくてもせめて普通の程度の太り方なら、顔の輪郭の中でくっきりと大きく見えていたのだろう。顎は二重を超えて三重ほどになっていて、その上に厚く、めくれ上がったような唇が、真っ赤に染め上げられている。皺の手入れなどした事のないような皮膚は張りがなく、ばさばさの髪は無造作に纏め上げられて艶がなかった。太った身体から伸びる腕は、やや不釣合いに細い。その細い腕の先にある手には、真っ赤なマニキュアを塗った爪が浮かび上がっている。
もしかして美しい女だったのかもしれない、と、真はそれでも思った。頽廃と生命力、自堕落と果てのない欲望、諦観と往生際の悪さのいずれもが女の上に乗っかかっていた。
断りもなく入ってきた客にまだ準備中だとも言わずに、女はテレビを消した。扉が閉まった後の狭い店の内側に、突然有線の音楽だけが浮き上がる。
「珍しいお客が来るもんだね」
あの時は正気でなかったのだろう。だからその女の声をよく覚えてもいなかったが、今、聴覚中枢はその声を知っていると言った。ビデオの中で語り続けていた御蔵皐月の声。親子なのだ。声は裏切らない。
恐ろしい言葉を、天女のような澄んだ声で発し、時に高揚して残忍な言葉を語ってさえ、媚薬を零すような耳に心地よい声だった。
福嶋が、今でも毒虫みたいに妖艶な女だと言った。その訳がわかる。
「そろそろあの男がやってくるかと思ったんだけどね」
真は返事をせずに突っ立っていた。
「座ったらどうだい」
そう言われて、真は、急に自分が何をしにここに来たのかわからなくなった。それでも努めて冷静なふりをして、カウンターのスツールに腰掛けた。
スツールは僅かに傾いていて、安定が悪かった。その上でバランスを取りながら、居心地の悪さが快感に変わるまでの時間は、意外にも短かった。
それから長い時間、女は何も話さず、真も何も言わなかった。
この女は、どれほどの長い時をこの狭い場所で息を潜めていたのだろう。荒涼とした砂漠の真ん中で巣を張ったところで、その網にかかる生き物はめったにはいない。それを知りながら、あえて砂漠にやってくる虫を待っている蜘蛛のようだ。そのような生き方があることは、この町に来てから十分に理解はしていたつもりだったが、その結果をこの僅かな空間の中で真とこの女だけが今共有しているという事実に、真は微かに戦慄を覚えた。
そのような情念を抱いて、何十年も生きるということができるのだろうか。自分ならばとっくに死んでしまっているだろうと真は考えていた。
激しい恋情を心の内に秘めて、それにさえも毒の味を滲みこませて、自らを毒に変えてしまい、己を殺しながら生きることは、とてもできない。砂漠の蜘蛛にとっては、己の毒だけが餌になっているのかもしれない。そんなことになれば、俺は簡単に死んでしまうのだろうと真はぼんやりと考えていた。
突然、女は短くなった煙草を持ったままの手をすっと差し伸ばし、太い薬指と小指で真の顎に触れた。毒虫のように粘液を指からも吐き出しているのかと思えば、意外にも乾いた手だった。
「あんたは綺麗だね」女が近付くと複雑な香水の匂いが真の鼻腔を満たし、頭が痺れて気分が悪くなった。それと同時に甘美な快感が身体を走りぬける。「血の匂いがするよ」
この女には、俺の人殺しの血がわかるのだと真は思っていた。
「その若者に手を触れるな」
突然、力に満ちた低い声が天から振り落とされた。真は扉が開いたことにも気が付かなかったが、女は知っていたようだった。すっと女の手が、真の顎を離れる。
「やっと、見つけたよ」
そう言いながら入ってきた男は、真が見知っていた時よりも少し痩せたように見えた。それでも堂々とした足取りでカウンターに歩み寄り、静かに、真の座るスツールからひとつ空けて座った。
「そうかい、私はずっとあんたを見てたよ」
女は、もう真には興味がないようだった。
網を張っていた毒蜘蛛が、新しく網に絡みついたもっと大きな獲物に目を移し、小さな獲物のことを一瞬に忘れてしまったかのようだった。女は煙草を灰皿に捨て、澤田顕一郎を見つめていた。
有線はかすかに音楽を奏で続けている。私の横にはあなたがいて欲しい、と確かまだ十代の歌手が歌う声が、伸びやかに耳に届く。だがこれは喪失の歌だ。真は静かに目を閉じた。身体は温度を下げ続け、指先に感覚がなくなっていた。
「花」不意に驚くほど優しい声で澤田顕一郎が呼びかけた。「探していたのは本当だ。君と別れたと村野から聞かされたときも、村野が亡くなったときも、君のことを考えていた」
ふっと花は笑った。その笑顔のあどけなさに真は目を見張った。
「あんたは何日も私を待たせた後もそう言ったね。私を抱き締めながら、ずっと君のことを考えていたって。だが、あんたはそのうち何週間も帰ってこなくなった。あんたは仕事に夢中だった。中毒みたいに真実とやらを追いかけていた。だが、あんたが暴き続けた真実とやらに傷ついた人間だって沢山いた。自殺した夫婦だっていた」
澤田は静かに女を見つめている。優しく悲しい気配だった。
「あんたは贖罪の気持ちで記者をやめたんだろうけどね、一度傷ついたものは癒されることなんてありはしない。あんたの可愛い香野深雪だって、ぶら下がった両親の死体の夢を今も見続けているんだよ。両親を亡くした娘ってのは悲惨なものさ。預けられた親戚の親父に幼い身体を触られて、男の欲望の餌食になる。あんたが招いたことだ。後からどんなに償っても取り返しがつくことじゃないさ。あんたが実際に犯していなくても、香野深雪はあんたのせいでそうなったんだ。それでも、あんたは偉そうに先生様になってるんだね」
澤田は狭いカウンターの上で肘をつき、両手を組んだ。
「君の言うとおりだ。人は気が付かないまま、他人を傷つけることができてしまう、それは恐ろしいことだとよく分かっている。記者という仕事はいつも、己が簡単に犯してしまえる無感覚の暴力との戦いだった。検察が来ると知ったとき、君だろうと思ったんだ。それが君が私に向けた憎しみであるなら、受けるつもりだった。だが、ただ一目、君の顔を見ておきたかったんだ」
「醜く変わり果てた私を見て、満足かい? あんたへの思いが満たされなかったばかりに、太陽のように周りを惹きつける魅力的な男や女ってのが大嫌いでね、天真爛漫な子どもってのも同じだ。全てがあんたを思い出す。自分がどれほど相手を傷つけ苦しめているか、ちっとも気が付かない奴だ。そういう屈折した思いを乗り越えられずに、吐き気がするような罪を犯し続けている馬鹿な女さ。それほどあんたに恋焦がれていた女の気持ちを聞いて、満足だろう?」
澤田は暫く花を見つめていた。真は澤田が暫く何も言わなかったので、思わず澤田の顔を見た。澤田は静かな穏やかな表情で、語りかけるように言った。
「いや、君は今でもとても魅力的だよ。君にうまく説明はできないが、取材で何日も帰らず張り込んだ後で、新聞社に戻って、あのベンチで君が座っているのを見たとき、いつも私はどれほど嬉しかったかしれない。それを君にちゃんと伝えられていたらよかった。私の結婚生活がうまくいかなかったのも、ずっとどこかでこんなはずではなかったと、傍にいるのは君だったはずだったという想いから逃れられなかったからだ。その時の気持ちが君への愛だったかどうかは、もう私にもわからないが」
村野花は暫くの間、見下ろすように澤田を見ていた。それから新しい煙草を引き抜いて、火をつける。彼女の指に挟まれると異様なほど細く見える煙草から、さらにか細い煙が立ち上る。
「悲しいね。あんたに今更そう言われても、私は懐かしさも喜びも感じない。自分が吐き出し続けた毒で、すっかり自分の身体も心も蝕まれているんだね」
真は視線を、カウンターに落とした。グラスの跡が古くこびり付いていて取れないまま、カウンターは鈍い明りの中で黒く重く横たわる。
「満たされぬ想いを抱いて生き続けるってのはこういうことさ」突然、村野花は真を見た。真は絡み取られるように花を見返した。「そのうち何も感じなくなる。何も感じなくても生きていくことはできる。悲惨なものさ」
真は村野花から視線を外すことができずに、口紅が剥げかけた唇を見つめていた。
「若い人には理解できないだろうけどね、人間、ここぞという時に選び間違うと後は間違い続けるしかない、そういう分岐点があるものさ」
「花」と澤田が呼びかけた。「君が望むなら」
澤田の言葉は突然開けられた扉とその向こうから飛び込んできた町の騒音、複数の人間の足音に遮られた。
(つづく)




昭和だなぁ。You Tubeでこの辺りを検索すると、ちあきなおみさんの『喝采』とか出てきて、懐かしさに浸ってしまいました。あ、歳が……^_^;
このシーンのどこが気に入ってるかと言うと、「スツールは僅かに傾いていて、安定が悪かった。その上でバランスを取りながら、居心地の悪さが快感に変わるまでの時間は、意外にも短かった。」と言う部分。いや、実は、昔のバーのカウンターにこんなところがあって、直せばいいのにそのままで、そのイスって座りにくいのに、座ってしまったらいつの間にか尻に馴染んじゃうみたいな……居心地の悪さって結構嵌るのかも。
昭和が身に染むシーンでした。
<次回予告>
「北条仁もヤクザにしてはインテリだから困るのよ。頭ん中も筋肉か睾丸ぐらいのヤクザだったら、あんたなんかちゃっちゃと毎日押し倒してやりまくって、バンバン跡継ぎ作ってさ、そうしたら結構、子煩悩だったりするんじゃないの。いいじゃない、あんたも実家なんて捨てなさいよ。勘当されたらいいじゃない。あたしなんて、もう十年も前に親とは縁が切れてんだから」



あなたのために 守り通した 女の操
今さら人に 捧げられないわ
新宿の繁華街の海のどこかから零れてくる歌詞が、洪水のような数多の音の中で、輪郭を浮き立たせる。
昼間から大人の玩具や特別な下着や避妊具を堂々と売る店の前で、その歌は切々とした響きをボリュームアップし、真が前を通り過ぎてもなお耳の後ろからついてくるようだった。
お別れするなら死にたいわ、という歌詞が、聞こえにくい左耳の内で反響する。
真は立ち止まり、もう一度ポケットから福嶋にもらった赤と黒に彩色された名刺を出してみた。
クラブ タランチュラ
いかにもそれらしい命名で、多少呆れさえもする。真はそっと息を吐き出した。
真が自分を取り戻せないでいた間に、とっくに梅雨は明け、いつの間にか季節はすっかり夏になっていた。それでも真の身体は、いつからそうなのか、汗さえもかくことができないほど冷たいままだった。
真はまだ暫く突っ立っていた。この雑踏の中、誰かが自分を見咎めてくれるだけの時間を待っていたのだ。
新宿には無数の道がある。そしてそのほとんどが闇に繋がっている。細い一本一本の道は、その道を歩く運命を見出してしまった者には優しく馴染み深い顔を見せるが、異邦人には恐ろしい底なし沼を歩くような気持ちを湧き起こさせる。
もちろん、親しみ深い顔の裏側には、また別の顔を隠している。
新宿で仕事を始めて、真はこの無数の道をどれほど無駄に歩いたか知れない。仕事のためには街にとって馴染みの顔になっておかなければならない、という理由もあったが、この闇は真を飲み込み怯えさせる一方で、真の傍にぴったりと張り付いて、沁み入る麻薬のように徐々に真の身体と心を支配し始めていた。
そこにある無数の声なき声、心無き心は、真にロダンの地獄の扉を思い出させる。無数のカムイたちに守られていた時と同じように、無数の闇が真に語りかけ、激しく毒を振りまきながら、時には優しい顔で包み込もうとした。
北海道の大きな風に抱かれていた時の安らぎとは全く違うのに、何故、東京でこの町だけが真を慰めることができるのか、真はずっとわからないでいた。
だが、今、真はその理由を知っている気がした。
福嶋、そして寺崎親子が抉り出した真自身の中にある恐ろしい闇。それは真の遺伝子の中にずっと刻み込まれていたものだったからだ。ただ、闇が闇に引き込まれるように、真はこの道に辿り着いたのかもしれない。
怒り狂ったゼウスの手によって身体を裂かれた男が投げ捨てられていたラブホテルの廃墟は、この先の角を曲がった道の路地にあった。
闇の世界はぴったりと光の世界の裏側に張り付いている。
享志が京都に発ってから、ようやく、真は一ヶ月以上も顔を出さなかった調査事務所に戻った。
事務所に棲みついているヤクザ志望のくせに気の弱い宝田三郎は、暫く真の顔を見て呆然とし、それから泣き出すのかと思えば、きりりとした態度で北条の若い衆の如く、真に傅くように傍から離れなかった。
自称弟子の高遠賢二は何も言わなかったが、まるで毎日そこに真が帰ってくるのが当たり前であるような風情で、帰還したボスに淡々と仕事の報告をした。名瀬弁護士は、真が留守の間もうまく賢二を使っていて、賢二は困った事があると三上に相談しているようだった。
自分の仕事場に帰ってきて、真はようやくほっとしたものの、賢二や宝田がいつの間にか真より先を歩いているような気がして、奇妙な寂しさを覚えたのも事実だった。
美和はあまり何も話さなかった。それでも時々、真の視線を避けながらも真を気にしている。美和らしくない態度だった。昼過ぎにかかってきた電話を受けた美和は、電話の相手としばらく何か話した後、真に受話器を渡した。
電話の相手は新聞記者の井出だった。
澤田顕一郎の居場所がわかったぜ。
井出は完全にオフレコだと言った。その理由を聞いて真のほうが驚いた。澤田は井出を名指しして新聞社に連絡してきたのだという。俺と真ちゃんがラブラブなのを聞いたみたいだぜ、と例の剽軽な口調で言い、電話番号しか聞いていないんだ、その気になれば調べられるけどさ、と前置きして井出はある番号を言った。
電話番号を聞いて、真の側頭葉の引き出しは簡単にその鍵を開けた。
それは溺死した田安隆三の店にあった公衆電話の番号だった。あの店は爆破されたのではなかったかと思ったが、どうやら澤田はその電話をどこかへ移していたようだった。
電話をかけて、会いたいと伝えたが、澤田は周辺が騒がしいので難しいと言った。声は随分と憔悴しているようだったが、思ったよりもずっとしっかりとしていた。香月には居場所を知らせてあるし、逃げているわけではない、と澤田は言った。
マスコミからは逃げているがね。申し開きに出て行くのは構わないが、その前にどうしても会いたい人がいてね。だが、いくら探してもその人の居場所がわからないのだ。
真は自分がその女の居場所を知っている、と言った。寺崎孝雄の息子から、恋人はまだ待っている、という伝言を預かっていると伝え、一緒に行きたいから自分に会って欲しいと言ったが、電話は切れてしまった。
もう一度かけてみたが、呼び出し音は空しく響くだけだった。
だが真は、彼自身か誰かを使ってかはともかく、澤田が自分を見張っているだろうと思っていた。この町の雑踏の中で、静かに、真とその誰かの足音だけが、離れたまま絡み合っている気配を感じる。
やがて真は名刺をズボンのポケットに仕舞った。その手は、ポケットの中でまた別のものの感触を確かめる。
竹流の指輪だった。ずっと持ち歩いていた指輪を、真は今朝、銀座まで出掛けていって磨いてもらった。くすんでいた銀は光を取り戻し、ポケットの中で幾らか軽くなっていた。
ぼんやりと、これを返さなければならないのだと考えていた。その一方で、これを返すことは彼をローマへ帰すことだとも考えていた。そこに自分の居場所を求めることは難しいと知っていた。
真は、恐らく何度も歩いたはずの路地を入った。
極めてゆっくりとした足取りで、後ろを歩いている誰かに自分の足跡を見つけてもらおうと思っていた。
果たしてこの路地の奥に、その女は本当にいるのだろうか。
澤田に恋焦がれていたという、いつも泣きはらしたような大きな眼をして新聞社のベンチで澤田の帰りを待っていたという女。澤田を振り向かせることが難しいことを知って村野耕治と寝た女。そして、その自暴自棄な、愛とは言えない行為を、澤田から祝福されて行く先を失った女。
草薙謙二という息子をこの世に産み捨て、諦め切れない澤田への恋情を抱えたまま少しずつ崩れていった女は、己の身体で男を絡め取り、二人の娘を産み落とした。
一人の娘は、母と同じように、叶わぬ恋に身を焼き、その男を死の縁まで連れて行こうとした。そしてその男を銜え込みながら、果てしなく血を流して死んでいった。
また一人の娘は、やはり叶わぬ恋をして、その男の恋人を憎んだ。行き着く場所のないまま失った男への恋情は、今も彷徨ったまま、彼女もまた向かう先を見失っている。
この路地の先にいる女は少しずつ崩れて、叶わぬ想いが穿った大きな空洞を埋めるように、幼い子どもや強情で美しい男女を嬲り、彼らの苦痛を舐めて己の空白を満たそうとしたのだろうか。内へ内へと向かった女の想いは歪み続け、酷くグロテスクな形となり、沼のような街の片隅で息を潜めている。
真は暗い穴蔵の中でじっと息を殺して、獲物を待つ巨大で真っ黒な蜘蛛を想像していた。
真はふと、楢崎志穂の事を考えた。
あの娘は、多少無鉄砲なことをして彷徨っているものの、真っ直ぐな想いを心に抱いているのだと思った。自殺したことになっている上司、新津圭一を本当に好きだったのだ。その想いが彼女の混乱に拍車をかけているのだとしても、素直な心根を持っていることには違いがなかった。
真が彼女を抱いたときに感じたものは、随分と幼い感情だった。男と寝ることに慣れていない、というだけではない。ひどく怯えていたような気配が、手の内に蘇ってくる。彼女は真に暴行されたと警察に言ったことについて、ただ良い人間の顔を装う真が憎かったのだと言った。だがそれが全てということではない。
何より彼女は明らかに真に、逃げて、と言ったのだ。少女の頃、御蔵皐月を姉と慕い、その姉の言葉通り幸せになろうと思っていたかもしれない。村野花が心の内に育て、遺伝子の中に注ぎ込んでしまった激しい嫉妬や憎しみの感情が、せめて志穂と言う娘の中で浄化されるなら、と真は思っていた。
もしも村野花が澤田顕一郎との恋を成就させていたらどうだっただろう。もしも御蔵皐月が大和竹流と想い合う仲になれていたらどうだったのだろう。彼らの中にも、楢崎志穂のような素直な心根が育っていったかもしれない。
澤田にも竹流にも、自分たちが女を追い込んだという自覚はないだろう。何より、堕ちていったのは女の勝手だった。新聞社のベンチで澤田を待っていた頃のような想いを花が抱き続けていたのなら、もっと違う未来が彼女の手にあったかもしれない。
叶わぬ恋に身を焼いて崩れていった女を思うと、真は身体の芯が凍るような気がした。
御蔵皐月の最期の姿に真が怯えたのは、その女の死に様が凄絶だったからではない。真は、その女の姿に自分の影を重ねていた。寺崎昂司の最期の叫びが耳に残っているのもまた、同じ理由だった。
いつでも真は、彼らにすり替わってしまう暗闇を心の底に抱いている。この暗闇と、一体これからどこまで戦っていかなければならないのか、あるいはいっそ彼らのようにその想いと心中してしまったほうがいいのかもしれない。
真は、自分の身体の中には人殺しの残虐な血と、快楽を貪り自滅していく恐ろしい火の玉のようなものが潜んでいることを知ってしまった。
今となっては、それに気がつかなかった時に戻ることはできない。
お前は人の感情に対して鼻が利く。それも良い感情や世間的に理解可能な感情に対してだけじゃない。自分にとっての悪意でも、犯罪者の常識を逸した感情でも、普通では理解できない感情にも同じように反応する。
唐沢が言っていた言葉の意味を、今更ながらに真は理解した。
常識を逸した感情が、真自身の身体の内にある。だからこそ、反応できてしまうのだと思った。
もしも村野花の顔を見て、そこに自分自身の影を見つけてしまったらどうなるだろう。
真は自分が簡単に狂ってしまえる人間であると気が付いてしまった。飛龍は、だからあの時迎えに来たのだ。お前がこれ以上この世で生き永らえるなら、お前のうちに潜んでいる人殺しの血が沸騰して、いつかは隠し遂せなくなる。その前にその世を離れよ。飛龍はそう語っていたのに、真はあの時既に、心の内にある激しい恋情に身を焼いていたのかもしれない。
恋情。確かにあれはそういう種類のものだった。身体のうちから迸るような想いに焼かれて、あの十九の秋、真はこの世に戻ってきた。浅ましい恋情は、あの時死の運命さえも焼き尽くしてしまったのだろう。
アドリア海の波の上、ただあの男と引き離されることだけを恐れていた。あの男と離れてしまったら、真は人間らしい形を保ち続けることができない。
その崩れた真自身の形が、この扉の向こうにあるのかもしれない。
その扉は、新宿では当たり前に見かける何千、何万とある扉のひとつにしか過ぎなかった。向こうの光も闇も何も見えない、黒い炭酸水のような色合いの扉に、赤と橙の間のような見えにくいタランチュラという文字が沈んでいる。開店しているのか準備中なのかもわからない。いや、まだ夕方にもならないのだから、開店しているわけがなかった。
真はついに、その扉を開けた。
扉は、真の手に意外にも軽く感じられた。地獄の扉は、きっと恐ろしいくらいに軽いのだろう。そして天国への扉は、尋常ではないくらいに重いのかもしれない。
扉を開けると、乾いたテレビの音が、背中に感じる町の雑音に被さった。地獄にはテレビもあるらしいと、真は淡々とした頭で考えた。テレビは映りが悪く、時々横縞を走らせる。この町に落ちてくる時に電波は歪んでしまうのだ。二人組の漫才師の姿は、まるで宇宙にあるスタジオから送られてきたように、異次元の言葉を喚きたてている。
赤と黒、黄色、青、あらゆる種類の色が、大作を仕上げた後のパレットの上のように、交じり合い、あるいは混じりきらずに絡み合っている。わずか五席ほどのカウンターの向こうに、そんな色合いの大きなムームーのような薄手の服を着て、煙草を片手に腕を組んだ、異様に太った女が立っていた。
女はその姿勢のままテレビに視線を向けていたが、別の目で入ってきた真を見ているように思えた。昆虫の目のように最低でも百八十度、あるいはそれ以上を見渡せるのかもしれない。女の目は、多分彼女が痩せていなくてもせめて普通の程度の太り方なら、顔の輪郭の中でくっきりと大きく見えていたのだろう。顎は二重を超えて三重ほどになっていて、その上に厚く、めくれ上がったような唇が、真っ赤に染め上げられている。皺の手入れなどした事のないような皮膚は張りがなく、ばさばさの髪は無造作に纏め上げられて艶がなかった。太った身体から伸びる腕は、やや不釣合いに細い。その細い腕の先にある手には、真っ赤なマニキュアを塗った爪が浮かび上がっている。
もしかして美しい女だったのかもしれない、と、真はそれでも思った。頽廃と生命力、自堕落と果てのない欲望、諦観と往生際の悪さのいずれもが女の上に乗っかかっていた。
断りもなく入ってきた客にまだ準備中だとも言わずに、女はテレビを消した。扉が閉まった後の狭い店の内側に、突然有線の音楽だけが浮き上がる。
「珍しいお客が来るもんだね」
あの時は正気でなかったのだろう。だからその女の声をよく覚えてもいなかったが、今、聴覚中枢はその声を知っていると言った。ビデオの中で語り続けていた御蔵皐月の声。親子なのだ。声は裏切らない。
恐ろしい言葉を、天女のような澄んだ声で発し、時に高揚して残忍な言葉を語ってさえ、媚薬を零すような耳に心地よい声だった。
福嶋が、今でも毒虫みたいに妖艶な女だと言った。その訳がわかる。
「そろそろあの男がやってくるかと思ったんだけどね」
真は返事をせずに突っ立っていた。
「座ったらどうだい」
そう言われて、真は、急に自分が何をしにここに来たのかわからなくなった。それでも努めて冷静なふりをして、カウンターのスツールに腰掛けた。
スツールは僅かに傾いていて、安定が悪かった。その上でバランスを取りながら、居心地の悪さが快感に変わるまでの時間は、意外にも短かった。
それから長い時間、女は何も話さず、真も何も言わなかった。
この女は、どれほどの長い時をこの狭い場所で息を潜めていたのだろう。荒涼とした砂漠の真ん中で巣を張ったところで、その網にかかる生き物はめったにはいない。それを知りながら、あえて砂漠にやってくる虫を待っている蜘蛛のようだ。そのような生き方があることは、この町に来てから十分に理解はしていたつもりだったが、その結果をこの僅かな空間の中で真とこの女だけが今共有しているという事実に、真は微かに戦慄を覚えた。
そのような情念を抱いて、何十年も生きるということができるのだろうか。自分ならばとっくに死んでしまっているだろうと真は考えていた。
激しい恋情を心の内に秘めて、それにさえも毒の味を滲みこませて、自らを毒に変えてしまい、己を殺しながら生きることは、とてもできない。砂漠の蜘蛛にとっては、己の毒だけが餌になっているのかもしれない。そんなことになれば、俺は簡単に死んでしまうのだろうと真はぼんやりと考えていた。
突然、女は短くなった煙草を持ったままの手をすっと差し伸ばし、太い薬指と小指で真の顎に触れた。毒虫のように粘液を指からも吐き出しているのかと思えば、意外にも乾いた手だった。
「あんたは綺麗だね」女が近付くと複雑な香水の匂いが真の鼻腔を満たし、頭が痺れて気分が悪くなった。それと同時に甘美な快感が身体を走りぬける。「血の匂いがするよ」
この女には、俺の人殺しの血がわかるのだと真は思っていた。
「その若者に手を触れるな」
突然、力に満ちた低い声が天から振り落とされた。真は扉が開いたことにも気が付かなかったが、女は知っていたようだった。すっと女の手が、真の顎を離れる。
「やっと、見つけたよ」
そう言いながら入ってきた男は、真が見知っていた時よりも少し痩せたように見えた。それでも堂々とした足取りでカウンターに歩み寄り、静かに、真の座るスツールからひとつ空けて座った。
「そうかい、私はずっとあんたを見てたよ」
女は、もう真には興味がないようだった。
網を張っていた毒蜘蛛が、新しく網に絡みついたもっと大きな獲物に目を移し、小さな獲物のことを一瞬に忘れてしまったかのようだった。女は煙草を灰皿に捨て、澤田顕一郎を見つめていた。
有線はかすかに音楽を奏で続けている。私の横にはあなたがいて欲しい、と確かまだ十代の歌手が歌う声が、伸びやかに耳に届く。だがこれは喪失の歌だ。真は静かに目を閉じた。身体は温度を下げ続け、指先に感覚がなくなっていた。
「花」不意に驚くほど優しい声で澤田顕一郎が呼びかけた。「探していたのは本当だ。君と別れたと村野から聞かされたときも、村野が亡くなったときも、君のことを考えていた」
ふっと花は笑った。その笑顔のあどけなさに真は目を見張った。
「あんたは何日も私を待たせた後もそう言ったね。私を抱き締めながら、ずっと君のことを考えていたって。だが、あんたはそのうち何週間も帰ってこなくなった。あんたは仕事に夢中だった。中毒みたいに真実とやらを追いかけていた。だが、あんたが暴き続けた真実とやらに傷ついた人間だって沢山いた。自殺した夫婦だっていた」
澤田は静かに女を見つめている。優しく悲しい気配だった。
「あんたは贖罪の気持ちで記者をやめたんだろうけどね、一度傷ついたものは癒されることなんてありはしない。あんたの可愛い香野深雪だって、ぶら下がった両親の死体の夢を今も見続けているんだよ。両親を亡くした娘ってのは悲惨なものさ。預けられた親戚の親父に幼い身体を触られて、男の欲望の餌食になる。あんたが招いたことだ。後からどんなに償っても取り返しがつくことじゃないさ。あんたが実際に犯していなくても、香野深雪はあんたのせいでそうなったんだ。それでも、あんたは偉そうに先生様になってるんだね」
澤田は狭いカウンターの上で肘をつき、両手を組んだ。
「君の言うとおりだ。人は気が付かないまま、他人を傷つけることができてしまう、それは恐ろしいことだとよく分かっている。記者という仕事はいつも、己が簡単に犯してしまえる無感覚の暴力との戦いだった。検察が来ると知ったとき、君だろうと思ったんだ。それが君が私に向けた憎しみであるなら、受けるつもりだった。だが、ただ一目、君の顔を見ておきたかったんだ」
「醜く変わり果てた私を見て、満足かい? あんたへの思いが満たされなかったばかりに、太陽のように周りを惹きつける魅力的な男や女ってのが大嫌いでね、天真爛漫な子どもってのも同じだ。全てがあんたを思い出す。自分がどれほど相手を傷つけ苦しめているか、ちっとも気が付かない奴だ。そういう屈折した思いを乗り越えられずに、吐き気がするような罪を犯し続けている馬鹿な女さ。それほどあんたに恋焦がれていた女の気持ちを聞いて、満足だろう?」
澤田は暫く花を見つめていた。真は澤田が暫く何も言わなかったので、思わず澤田の顔を見た。澤田は静かな穏やかな表情で、語りかけるように言った。
「いや、君は今でもとても魅力的だよ。君にうまく説明はできないが、取材で何日も帰らず張り込んだ後で、新聞社に戻って、あのベンチで君が座っているのを見たとき、いつも私はどれほど嬉しかったかしれない。それを君にちゃんと伝えられていたらよかった。私の結婚生活がうまくいかなかったのも、ずっとどこかでこんなはずではなかったと、傍にいるのは君だったはずだったという想いから逃れられなかったからだ。その時の気持ちが君への愛だったかどうかは、もう私にもわからないが」
村野花は暫くの間、見下ろすように澤田を見ていた。それから新しい煙草を引き抜いて、火をつける。彼女の指に挟まれると異様なほど細く見える煙草から、さらにか細い煙が立ち上る。
「悲しいね。あんたに今更そう言われても、私は懐かしさも喜びも感じない。自分が吐き出し続けた毒で、すっかり自分の身体も心も蝕まれているんだね」
真は視線を、カウンターに落とした。グラスの跡が古くこびり付いていて取れないまま、カウンターは鈍い明りの中で黒く重く横たわる。
「満たされぬ想いを抱いて生き続けるってのはこういうことさ」突然、村野花は真を見た。真は絡み取られるように花を見返した。「そのうち何も感じなくなる。何も感じなくても生きていくことはできる。悲惨なものさ」
真は村野花から視線を外すことができずに、口紅が剥げかけた唇を見つめていた。
「若い人には理解できないだろうけどね、人間、ここぞという時に選び間違うと後は間違い続けるしかない、そういう分岐点があるものさ」
「花」と澤田が呼びかけた。「君が望むなら」
澤田の言葉は突然開けられた扉とその向こうから飛び込んできた町の騒音、複数の人間の足音に遮られた。
(つづく)



昭和だなぁ。You Tubeでこの辺りを検索すると、ちあきなおみさんの『喝采』とか出てきて、懐かしさに浸ってしまいました。あ、歳が……^_^;
このシーンのどこが気に入ってるかと言うと、「スツールは僅かに傾いていて、安定が悪かった。その上でバランスを取りながら、居心地の悪さが快感に変わるまでの時間は、意外にも短かった。」と言う部分。いや、実は、昔のバーのカウンターにこんなところがあって、直せばいいのにそのままで、そのイスって座りにくいのに、座ってしまったらいつの間にか尻に馴染んじゃうみたいな……居心地の悪さって結構嵌るのかも。
昭和が身に染むシーンでした。
<次回予告>
「北条仁もヤクザにしてはインテリだから困るのよ。頭ん中も筋肉か睾丸ぐらいのヤクザだったら、あんたなんかちゃっちゃと毎日押し倒してやりまくって、バンバン跡継ぎ作ってさ、そうしたら結構、子煩悩だったりするんじゃないの。いいじゃない、あんたも実家なんて捨てなさいよ。勘当されたらいいじゃない。あたしなんて、もう十年も前に親とは縁が切れてんだから」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨166] 第35章 恋花(2)私を見失わないで
【海に落ちる雨】第35章その(2)です。
『私を離さないで』にしようと思ったら、今まさにドラマ化されていたのでやめました。
思えば、携帯電話のないこの時代、帰ってこない旦那や子供を心配しても、連絡を取るなんて簡単にはできませんでした。待ち合わせの時に駅のホームの反対で待っていても、出会えないまま、なんてこともしばしばありました。
何でもかんでも「繋がっている」今では考えられないことでしょうけれど。
時々、繋がっていない時代を懐かしむのは何故かなぁ……
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
『私を離さないで』にしようと思ったら、今まさにドラマ化されていたのでやめました。
思えば、携帯電話のないこの時代、帰ってこない旦那や子供を心配しても、連絡を取るなんて簡単にはできませんでした。待ち合わせの時に駅のホームの反対で待っていても、出会えないまま、なんてこともしばしばありました。
何でもかんでも「繋がっている」今では考えられないことでしょうけれど。
時々、繋がっていない時代を懐かしむのは何故かなぁ……





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村野花は微動だにしなかった。澤田は扉を振り返った。真は思わずスツールから立ち上がっていた。
「村野花、あなたに逮捕状が出ています」
決然とした声の主は、添島麻子刑事だった。
添島刑事はまっすぐに村野花を見つめ、それから真のほうをちらりと見た。
「罪状を説明したほうがよろしいでしょうか」
丁寧でいて有無を言わさぬ気配だった。
真はこの女は根っからの刑事なのだと思った。大和竹流と別れても、刑事として生きて行く、そのことに疑問のない女だった。それは決して大和竹流への愛情が、御蔵皐月や室井涼子と比べて薄いということではない。この女は、その本質として、己の恋情に潰れてしまうことをよしとしないという信念を抱いているのだ。
村野花はその時、恐ろしいくらい美しく微笑んだ。
「いいえ、結構よ」
真はまだ呆然と村野花の顔を見ていたが、花はカウンターの奥からそのままの姿で回ってきて、真の脇をすり抜けた。
その瞬間、極めて優しい香りが彼女の首筋から香った。
「あんたは間違いなく分岐点にいるよ。あんたがするべきことは、ただそこから飛ぶことだ。行き先が極楽か地獄かは、私の知ったことじゃないけどね」
村野花は真にそう告げて、澤田顕一郎には何も語らず、立ち止まりもせずに決然と歩き去った。
扉が閉まる余韻までも収束してから、やっと真は自分が震えていることに気が付いた。
若い刑事に村野花を任せた添島刑事は、次に澤田顕一郎のところにやって来た。
「澤田さん、あなたの家から貸金庫の鍵を押収しました。その金庫の中には二十二年前のフィルムが入っていました。内容はご存知ですね」
澤田は息をひとつついて、立ち上がった。
「私は逮捕状を持っていませんし、あなたには弁明する時間と権利、義務が与えられていると思います。私はただ河本からあなたを連れてくるように言われただけですから」
添島刑事は幾らか心配そうな視線を真に向けたが、真が突っ立ったままなのを暫く見つめた後で、そのまま澤田を伴って出て行った。
扉が閉まり、突然外界の騒音は消し去られて、静かに有線のリクエストが続いた。
真は力なく、たった二席だけのテーブル席のほうに座った。季節が理解できないほどに、身体は冷え切っていた。
分岐点にいることは知っている。だが、十代の頃のように、心のままに選び取り、勢いよく飛ぶほどには思い切れない。それは無鉄砲になれるほどにはもう若くないというだけのことかもしれないし、あるいは振り切れない複数の思いに縛られているからなのかもしれない。自分がただ混乱していることはよく分かっていた。
ローマについて行くことなどできるはずもない。あの女のように毒を喰らいながら生き続けることもできない。それならば何故、あの時寺崎昂司を殺して、自分もまた一緒に狂い死にしてしまわなかったのだろう。
真は身体の震えを止めることもできずに、割れるように痛み始めた頭を抱えた。
浦河に帰ろうか。まだそこに自分の場所があるなら、飛龍がまだそこで待っていてくれるなら、幾らか残された時間をあの場所で過ごすのも悪くない。北斗、銀河、燦、シリウス、七星、流、ルナ。真は順番にハスキー犬、樺太犬、オオカミ犬たちの顔を思い浮かべていた。どの犬たちもみなもうこの世にはいなかった。自分は馴染み深い顔のひとつひとつとどれほど遠く離れてしまったのだろうか。梟のカムイ、狐のカムイ、大鷲のカムイ、彼らはまだそこにいるのだろうか。
それとも俺は、あの場所へ行っても、彼らを見つけ出すことができないほどに穢れてしまっただろうか。飛龍はそこから抜け出すには、ただもう一度あの崖から飛ぶしかないと言うかもしれない。それでも、子どもの真を慰めてくれた犬たちや昴のいる場所へなら、今こそ行ってしまってもいいような気がする。
そこはもしかすると真が思う以上にいい場所かもしれない。
次のリクエストは、一九七五年の作品、中島みゆきさんの『時代』です。
真の混乱した頭の中に、女性DJの深く優しい声が静かに落ちてきた。
一九七五年、四年前。その頃真は一体どうやって生きていたのだろう。
確かあの頃は、美沙子と別れた後で、葉子が家にいて、たまには竹流が灯妙寺に遊びに来ていた。竹流は必要以上に真に近付くこともなく、ある一定の距離を保ったまま、ただ完全に見放してしまうとまた真が『自殺』でもしかねないと思っていたのか、常に義務のように真と葉子の様子を見に来ていた。
あの頃、葉子がいなかったら、真はまともに生活などできていなかったはずだ。だから葉子が結婚した後、真はこの世と折り合いをつけることが、それがこれほど簡単なのかと思うくらい簡単に、できなくなってしまった。
あの時、竹流と享志が真を救い上げてくれなかったら、真はりぃさと間違いなく心中していた。考えてみれば、葉子も大和竹流もいないところで生きていたことなどないのだ。
そんな時代もあったねといつか話せる日が来る。
本当にそうだろうか。いや、今度こそこの新宿の街は真を飲み込んでしまうかもしれない。この街は真にとっての隠れ家ではなくなってしまい、真はこの優しく恐ろしい街に吸い込まれてしまうのかもしれない。そういった人間たちを、ここで一体どれほど見てきたことか。
真はテーブルに突っ伏した。
少しずつ新宿は闇の顔を向け始めている。この闇にこのままきっと呑み込まれてしまう。
「ん、もう、陰気臭い店ねぇ」
夜が近付き、活気付き始めた町の騒音と共に飛び込んできた声は、素っ頓狂なくらい逞しく響いた。
電気、電気、と呟きながら奥へ進んでいく足音、さらにもうひとつの足音は真が突っ伏したままのテーブルの横で立ち止まり、向かいに座る気配に変わる。
真は顔を上げた。目の前に美和の、幾らか心配そうな、半分は呆れたような、怒ったような顔を認めた。
ぱあっと店内が明るくなる。電気を点けた足音は、そのままカウンターの中の酒を物色している。
新宿二丁目のゲイバーのチーママ、桜だった。逞しい腕で上等のウィスキーの壜とグラスを運び、作り物の胸を真に押し付けるようにして、真の隣に座った。
途端に、桜は大きな骨ばった両手で真の頬を摑み、いきなり唇を押し付けてきた。頭の回路がおかしくなって、幻を見ているのかと思っていたが、唇に押し付けられた感触は、明らかに現実だった。
「真ちゃん、もう、本当に心配してたのよぉ。東京に戻ってたんなら連絡くらいくれてもいいんじゃないのぉ」
さ、飲も飲も、といいながら、手際よく桜はウィスキーの水割りを作り始める。真は呆然としたまま、リズミカルにくるくるとマドラーでかき回されている琥珀を見つめていた。
「あんたも、もうストレートはやめときなよ」
美和に向けた言葉は鼻歌に替わる。よく聞けば、、有線から零れてくる中島みゆきの歌だ。あまりにも奇妙で明るいアレンジだったので気が付かなかった。
桜に歌われていると、確かに時代は回り、別れた恋人たちも生まれ変わって巡り会うような気がするから不思議だった。
「どうしたんだ」
他に言葉を思いつかず、真は桜と美和の顔を順番に見た。
「女刑事よ。警察ってほんとに、侮れないわね」
桜は真に水割りを差し出す。
「桜ちゃんと飲んでたの。そうしたら店に電話がかかってきて、ここに先生がいるから何とかしろって」
美和が桜の言葉を解説した。まだ明るい時間から既に飲み始めていたのかと思っていると、桜が更に解説した。
「そうよ、この子ったらね、一人前に何か悩んでるみたいだからさ、あたしが誘って飲んでたのよ。それにしても、何で私たちの居場所が分かったのかしらね? 警察の機動力ってのかしら、びっくりするわよねぇ」
いや、それは単に、君たちが飲んべぇで、出没する店の範囲が、添島麻子刑事個人に知られているだけだろう、と思うのだが、それでも添島刑事が複数の店に電話をかけたことだけは間違いがない。世話になりっぱなしだ、と真は思った。
桜は、ほら、と美和にも水割りを渡す。自分の分も作ると、強引に乾杯をして、半分ほども一気に飲んでしまう。あ、そうだ、そうだ、と桜は言い、店の公衆電話を見つけると、自分の店に電話を掛けて、少し遅れまぁす、同伴で行くわねぇ、いい男と飲んべぇの女よぉ、と明るく話している。
真はその間、美和と見詰め合っていた。
美和が真を心配していることは、鈍感な真もさすがに気が付いていた。だが、その感情の中に複雑な意味合いがあることを、真は微かに嗅ぎ分けている。正気ではなかった分、自覚がなかったにしても、自分が夜な夜な仁を頼っていたことくらい、全く覚えていないわけでもない。
美和との間に、仁を挟んで奇妙な感情になることだけはないと思っていただけに、真はこの自分が招いた状況に対応できないでいる。
「さ、飲むわよ」
他人の店だろ、と真が言うと、お代は置いてくわよ、と桜は屈託がない。
「こんな陰気臭い男と女の相手は、素面じゃできないわよ」
そう桜が言ったところへ、美和が文字通り一気に水割りのグラスを飲み干した。
「ちょっと、あんたは飲みすぎよ」
桜も負けじと追いかけている。数杯空けたあたりで、頭と口は幾らか軽くなり始めた。桜と美和は、酒が進むと、既に前の店で始めていたらしいバトルの続きを再開した。
「だから、言ってるでしょ。簡単に極道の妻になれないのは当たり前よ。でもね、あんた、男にはとことん惚れなきゃ駄目よ。少なくとも、惚れて惚れて惚れ抜いて、それで見切りをつけるんだったらつけたらいいのよ。あんたはちょっとばかり頭がいいもんだから、最後の本当に行き着くべきところに行く前に、引いちゃってるんだって。処女でもないんだから、あんたから押し倒したらいいのよ」
美和もいつものような勢いを取り戻しつつあった。アルコールで頭が飛びかけているのかもしれない。
「仁さんがらしくなく悩んじゃってるから、こっちもどうしたらいいのかわからないだけよ」
「北条仁もヤクザにしてはインテリだから困るのよ。頭ん中も筋肉か睾丸ぐらいのヤクザだったら、あんたなんかちゃっちゃと毎日押し倒してやりまくって、バンバン跡継ぎ作ってさ、そうしたら結構、子煩悩だったりするんじゃないの。いいじゃない、あんたも実家なんて捨てなさいよ。勘当されたらいいじゃない。あたしなんて、もう十年も前に親とは縁が切れてんだから」
「仁さんは、先生に夢中なのよ」
突然、美和の絡み癖が真のほうへ向けられて、真は狼狽えた。
「先生が苦しんでるのは知ってるけど、それに仁さんが先生を好きなのは知ってるけど、先生が仁さんと寝たら、ぶっ叩く」
桜は美和の顔に思い切り顔を近づけた。
「甘いこと言ってないで、ぶっ殺しちゃいなさい。だからあんたは甘いって言うの」
そこで突然桜は真のほうを向く。
「真ちゃん、あんたね、他の男に甘えてどうすんのよ。惚れた男に操を立てて、愛を貫かなくてどうすんの。あんたたち、本当にいらいらするわねぇ。それとも、あんたたちのほうができてるんじゃないの」
真は何の反応もできずに美和と桜を見ていた。
「そうよ。先生はね、大家さんがいなくって、寂しくって、ちょっとばかり私に甘えてただけなんだから。そんなの最初から知ってたわよ。私はね、仁さんが他の男と寝たほうがいいって言うから、試しに先生と寝ただけなの」
「えーっ、あんたら本当にそんなことになってたのぉ? ショックだわぁ」
桜は自分の両頬を両手ではさみ、ムンクの叫びを真似ると、それから真剣な顔になった。
「真ちゃん、それはそれで責任ある問題だわよ」
「違うのよ。そんな話じゃないの」
美和が桜の腕を摑む。酔っ払っている振りを装いながら、美和がその実、かなり素面なのだと真は気が付いていた。酔いを利用して、言いにくかったことを言ってしまいたいと思っているのだ。
「私は絶対に仁さんから離れない。この先どうなるのか分からないけど、仁さんと別れるなんて考えられないよ。でも、先生だって、大家さんと離れられないはずでしょ。何でこうなってんの。何で大家さんのところに行ってあげないの。仁さんに縋ってる場合じゃないでしょ」
「ちょっと、もう、どうなってんのよ」
真は困った顔をしていたのだろう。美和がまず黙り込み、それから桜も黙った。
次の曲は今月の二十五日に発売予定の『ひとり咲き』です。
有線のDJの声が狭い空間にまた優しく落ちてきた。その声が伴ってきた静けさに覆われた空間を、ただ恋の歌が満たしていく。
いい歌ね、と桜が呟いた。
結局その後、桜の店に行って、さらに飲み続けた。もっとも、真は何時もの通り、酒を舐めていただけだった。美和は飲みながら、ずっと仁さんの馬鹿、先生の馬鹿、と絡みまくっていた。
「あんた、本当に心まで素っ裸になって北条仁とセックスしたことあんの?」
桜は美和に詰め寄り、美和が泣きそうな顔になると、よしよしと美和の頭を撫でた。
「あんたは強がりだけどさ、なんて言ってもまだ小娘なのよ。もっともっと惚れなきゃダメよ。相手があんな大物なんだから、こっちも身を焦がすくらいに、死んじゃってもいいくらいに惚れなきゃ」
そう言って美和を抱き締めると、きりっと桜は真のほうを見る。
「真ちゃん、あんたは逆。地獄についていく覚悟ができてんのに、何でちゃんと伝えないわけ? 黙ってたら、伝わらないことっていっぱいあるのよ。まぁねぇ、確かに北条仁も大和竹流も、本気になると慎重で臆病な男なのよね。しかも、『ええ格好しい』だしね。どうせ別れるのも愛、なぁんて情けないこと考えてるんだから。いい男なのは認めるけど」
あら、あたしっていい男を虜にしている女と男と飲んでるわけよね、と桜は言った。ああ、あたしもいい男に愛されたいわと言いながら、桜は手酌で飲み始める。
酔いつぶれた美和を、北条の若い衆が迎えに来た。真は美和に絡まれたからではなくても、これ以上仁の世話になるわけにはいかないと思っていた。何より、美和の感情が真の存在で乱れるのはたまらない思いだった。
桜がうちに泊まる? と言ってくれたので、行き場所がない真は桜の上がりを待って一緒に彼女(彼)のアパートに行った。
道すがら、腕に腕を絡めてくる桜に真は言った。
「芝居くさいよ」
「あれ? ばれちゃってた? そうそう、女刑事が深刻な声だったから、真ちゃんをこっちの世界に引き戻すには、ぎりぎり本音の会話でいくしかないわねって、あの子と作戦練ったのよ。なのにあの子ったら、途中からマジになっちゃって。ま、こんな状況だし、あの子もあの子で辛いわよね。分かってんの?」
真はただ頷いた。
ワンルームの慎ましやかな住まいは、綺麗に掃除もされていて、カーテンもベッドカバーもトイレのカバーまでも、ピンクの色調の少女趣味であることを除けば、比較的居心地のいい部屋だった。
かなり酔っていたのも事実だった。シャワーを浴びる元気もなく、そのまま薄いピンクのシーツを敷いた狭いベッドに、桜と一緒に倒れこんだ。
桜は倒れこんだ途端に笑いながら真の上に乗りかかり、真剣にキスを求めてきた。真は半ばやけくそな気持ちで、半ば真剣にそれに応えた。意外にも柔らかい唇で、かすかに甘く、良い香りがした。
「抱いてって言ったら、抱ける?」
真は暫くぼんやりと桜の顔を見ていた。感情が壊れてしまいかけていた。桜は優しい顔をした。そして、何かを打ち消すように、村野花の店で聞いた有線の歌を鼻歌にしながら、真の胸に頭をひっつけた。
「あたしだってねぇ、寂しい夜はあるのよ。頑張っちゃてるけどね。でも、真ちゃん、あんたは幸せなのよ、想い想われてるんだから。あんたが望むんなら何時までもここにいたっていいけどね、ちゃんと前を向いて生きていかなきゃならない正念場ってのがあると思うわ。人の生き方って、きっと一番大事なのは、潔さなのよね。散るなら、覚悟を決めて散らなきゃ」
真は重みを預けてきた桜を抱いた。胸は作っていても、女とは違って骨組みはやはりがっしりと重く逞しく感じた。真が桜の頭を撫でたまま、天井を見つめていると、酔っ払って眠っているのかと思っていた桜が、むっくりと起き上がって真を見る。
「いっそあたしと住んじゃう?」
それもいいかもしれないと愚にもつかないことを考えた。桜はにっこりと笑って、真ちゃん、それもありかな、ってしょうもないこと考えてるんでしょ、と言った。
「桜ちゃんが聞いたんだよ」
桜はもう一度、真の胸に身体を預けてきた。
「そうよ、それもありなのよ。真ちゃん、どうあっても人は生きていけるわよ。馬鹿なこと考えちゃ駄目よ」
でも、こんないい男と住んだら、あたしが嫉妬に狂ったオカマの袋叩きにあうわ、それはご免だわね、と桜は呟いた。
さすがにそれ以上は桜も話しかけてこなかった。真はさんざん酔っ払っていたはずなのに、冴えた目とからからに渇いた咽喉で、明りがついたままの天井を見つめていた。桜の鼻歌が耳の奥で微かに心を震わせる。
命を燃やすなら、確かに恋がいいのかもしれない。
真は眠れないまま目を閉じた。それでもその夜は、短い眠りの間に、死体を捜し続ける夢を見なかった。
燃え尽きてしまった恋花は
静かに別れ唄歌うの
疲れたまんまで
二人で 心合わせたけれど
大きな夢を咲かせすぎた
燃えて散るのが花 夢で咲くのが恋
(第35章『恋花』了、第36章へつづく)




つくづく、いい歌だなぁ。
さて、次章のメインの主人公は美和です。
真? えぇ、まだぐるぐるしています。この人のぐるぐるは、八少女夕さんちのあの人やあの人よりも重症かもしれません^^; 京都は遠いねぇ。
<次回予告>
「誰かの一言が、人を生かすことがございます。旦那様のただひとつの言葉で、私は心からお仕えする主人を得、私の人生も意味のあるものとなりました」
真は、まるで一緒に高瀬の言葉を聞いているような、そして確かに真の反応を窺っている、トニーの黄金の目を見つめ返した。
「真様、私はあなた様のひとつの言葉が旦那様を生かしていることを知っております」
「僕の言葉?」



村野花は微動だにしなかった。澤田は扉を振り返った。真は思わずスツールから立ち上がっていた。
「村野花、あなたに逮捕状が出ています」
決然とした声の主は、添島麻子刑事だった。
添島刑事はまっすぐに村野花を見つめ、それから真のほうをちらりと見た。
「罪状を説明したほうがよろしいでしょうか」
丁寧でいて有無を言わさぬ気配だった。
真はこの女は根っからの刑事なのだと思った。大和竹流と別れても、刑事として生きて行く、そのことに疑問のない女だった。それは決して大和竹流への愛情が、御蔵皐月や室井涼子と比べて薄いということではない。この女は、その本質として、己の恋情に潰れてしまうことをよしとしないという信念を抱いているのだ。
村野花はその時、恐ろしいくらい美しく微笑んだ。
「いいえ、結構よ」
真はまだ呆然と村野花の顔を見ていたが、花はカウンターの奥からそのままの姿で回ってきて、真の脇をすり抜けた。
その瞬間、極めて優しい香りが彼女の首筋から香った。
「あんたは間違いなく分岐点にいるよ。あんたがするべきことは、ただそこから飛ぶことだ。行き先が極楽か地獄かは、私の知ったことじゃないけどね」
村野花は真にそう告げて、澤田顕一郎には何も語らず、立ち止まりもせずに決然と歩き去った。
扉が閉まる余韻までも収束してから、やっと真は自分が震えていることに気が付いた。
若い刑事に村野花を任せた添島刑事は、次に澤田顕一郎のところにやって来た。
「澤田さん、あなたの家から貸金庫の鍵を押収しました。その金庫の中には二十二年前のフィルムが入っていました。内容はご存知ですね」
澤田は息をひとつついて、立ち上がった。
「私は逮捕状を持っていませんし、あなたには弁明する時間と権利、義務が与えられていると思います。私はただ河本からあなたを連れてくるように言われただけですから」
添島刑事は幾らか心配そうな視線を真に向けたが、真が突っ立ったままなのを暫く見つめた後で、そのまま澤田を伴って出て行った。
扉が閉まり、突然外界の騒音は消し去られて、静かに有線のリクエストが続いた。
真は力なく、たった二席だけのテーブル席のほうに座った。季節が理解できないほどに、身体は冷え切っていた。
分岐点にいることは知っている。だが、十代の頃のように、心のままに選び取り、勢いよく飛ぶほどには思い切れない。それは無鉄砲になれるほどにはもう若くないというだけのことかもしれないし、あるいは振り切れない複数の思いに縛られているからなのかもしれない。自分がただ混乱していることはよく分かっていた。
ローマについて行くことなどできるはずもない。あの女のように毒を喰らいながら生き続けることもできない。それならば何故、あの時寺崎昂司を殺して、自分もまた一緒に狂い死にしてしまわなかったのだろう。
真は身体の震えを止めることもできずに、割れるように痛み始めた頭を抱えた。
浦河に帰ろうか。まだそこに自分の場所があるなら、飛龍がまだそこで待っていてくれるなら、幾らか残された時間をあの場所で過ごすのも悪くない。北斗、銀河、燦、シリウス、七星、流、ルナ。真は順番にハスキー犬、樺太犬、オオカミ犬たちの顔を思い浮かべていた。どの犬たちもみなもうこの世にはいなかった。自分は馴染み深い顔のひとつひとつとどれほど遠く離れてしまったのだろうか。梟のカムイ、狐のカムイ、大鷲のカムイ、彼らはまだそこにいるのだろうか。
それとも俺は、あの場所へ行っても、彼らを見つけ出すことができないほどに穢れてしまっただろうか。飛龍はそこから抜け出すには、ただもう一度あの崖から飛ぶしかないと言うかもしれない。それでも、子どもの真を慰めてくれた犬たちや昴のいる場所へなら、今こそ行ってしまってもいいような気がする。
そこはもしかすると真が思う以上にいい場所かもしれない。
次のリクエストは、一九七五年の作品、中島みゆきさんの『時代』です。
真の混乱した頭の中に、女性DJの深く優しい声が静かに落ちてきた。
一九七五年、四年前。その頃真は一体どうやって生きていたのだろう。
確かあの頃は、美沙子と別れた後で、葉子が家にいて、たまには竹流が灯妙寺に遊びに来ていた。竹流は必要以上に真に近付くこともなく、ある一定の距離を保ったまま、ただ完全に見放してしまうとまた真が『自殺』でもしかねないと思っていたのか、常に義務のように真と葉子の様子を見に来ていた。
あの頃、葉子がいなかったら、真はまともに生活などできていなかったはずだ。だから葉子が結婚した後、真はこの世と折り合いをつけることが、それがこれほど簡単なのかと思うくらい簡単に、できなくなってしまった。
あの時、竹流と享志が真を救い上げてくれなかったら、真はりぃさと間違いなく心中していた。考えてみれば、葉子も大和竹流もいないところで生きていたことなどないのだ。
そんな時代もあったねといつか話せる日が来る。
本当にそうだろうか。いや、今度こそこの新宿の街は真を飲み込んでしまうかもしれない。この街は真にとっての隠れ家ではなくなってしまい、真はこの優しく恐ろしい街に吸い込まれてしまうのかもしれない。そういった人間たちを、ここで一体どれほど見てきたことか。
真はテーブルに突っ伏した。
少しずつ新宿は闇の顔を向け始めている。この闇にこのままきっと呑み込まれてしまう。
「ん、もう、陰気臭い店ねぇ」
夜が近付き、活気付き始めた町の騒音と共に飛び込んできた声は、素っ頓狂なくらい逞しく響いた。
電気、電気、と呟きながら奥へ進んでいく足音、さらにもうひとつの足音は真が突っ伏したままのテーブルの横で立ち止まり、向かいに座る気配に変わる。
真は顔を上げた。目の前に美和の、幾らか心配そうな、半分は呆れたような、怒ったような顔を認めた。
ぱあっと店内が明るくなる。電気を点けた足音は、そのままカウンターの中の酒を物色している。
新宿二丁目のゲイバーのチーママ、桜だった。逞しい腕で上等のウィスキーの壜とグラスを運び、作り物の胸を真に押し付けるようにして、真の隣に座った。
途端に、桜は大きな骨ばった両手で真の頬を摑み、いきなり唇を押し付けてきた。頭の回路がおかしくなって、幻を見ているのかと思っていたが、唇に押し付けられた感触は、明らかに現実だった。
「真ちゃん、もう、本当に心配してたのよぉ。東京に戻ってたんなら連絡くらいくれてもいいんじゃないのぉ」
さ、飲も飲も、といいながら、手際よく桜はウィスキーの水割りを作り始める。真は呆然としたまま、リズミカルにくるくるとマドラーでかき回されている琥珀を見つめていた。
「あんたも、もうストレートはやめときなよ」
美和に向けた言葉は鼻歌に替わる。よく聞けば、、有線から零れてくる中島みゆきの歌だ。あまりにも奇妙で明るいアレンジだったので気が付かなかった。
桜に歌われていると、確かに時代は回り、別れた恋人たちも生まれ変わって巡り会うような気がするから不思議だった。
「どうしたんだ」
他に言葉を思いつかず、真は桜と美和の顔を順番に見た。
「女刑事よ。警察ってほんとに、侮れないわね」
桜は真に水割りを差し出す。
「桜ちゃんと飲んでたの。そうしたら店に電話がかかってきて、ここに先生がいるから何とかしろって」
美和が桜の言葉を解説した。まだ明るい時間から既に飲み始めていたのかと思っていると、桜が更に解説した。
「そうよ、この子ったらね、一人前に何か悩んでるみたいだからさ、あたしが誘って飲んでたのよ。それにしても、何で私たちの居場所が分かったのかしらね? 警察の機動力ってのかしら、びっくりするわよねぇ」
いや、それは単に、君たちが飲んべぇで、出没する店の範囲が、添島麻子刑事個人に知られているだけだろう、と思うのだが、それでも添島刑事が複数の店に電話をかけたことだけは間違いがない。世話になりっぱなしだ、と真は思った。
桜は、ほら、と美和にも水割りを渡す。自分の分も作ると、強引に乾杯をして、半分ほども一気に飲んでしまう。あ、そうだ、そうだ、と桜は言い、店の公衆電話を見つけると、自分の店に電話を掛けて、少し遅れまぁす、同伴で行くわねぇ、いい男と飲んべぇの女よぉ、と明るく話している。
真はその間、美和と見詰め合っていた。
美和が真を心配していることは、鈍感な真もさすがに気が付いていた。だが、その感情の中に複雑な意味合いがあることを、真は微かに嗅ぎ分けている。正気ではなかった分、自覚がなかったにしても、自分が夜な夜な仁を頼っていたことくらい、全く覚えていないわけでもない。
美和との間に、仁を挟んで奇妙な感情になることだけはないと思っていただけに、真はこの自分が招いた状況に対応できないでいる。
「さ、飲むわよ」
他人の店だろ、と真が言うと、お代は置いてくわよ、と桜は屈託がない。
「こんな陰気臭い男と女の相手は、素面じゃできないわよ」
そう桜が言ったところへ、美和が文字通り一気に水割りのグラスを飲み干した。
「ちょっと、あんたは飲みすぎよ」
桜も負けじと追いかけている。数杯空けたあたりで、頭と口は幾らか軽くなり始めた。桜と美和は、酒が進むと、既に前の店で始めていたらしいバトルの続きを再開した。
「だから、言ってるでしょ。簡単に極道の妻になれないのは当たり前よ。でもね、あんた、男にはとことん惚れなきゃ駄目よ。少なくとも、惚れて惚れて惚れ抜いて、それで見切りをつけるんだったらつけたらいいのよ。あんたはちょっとばかり頭がいいもんだから、最後の本当に行き着くべきところに行く前に、引いちゃってるんだって。処女でもないんだから、あんたから押し倒したらいいのよ」
美和もいつものような勢いを取り戻しつつあった。アルコールで頭が飛びかけているのかもしれない。
「仁さんがらしくなく悩んじゃってるから、こっちもどうしたらいいのかわからないだけよ」
「北条仁もヤクザにしてはインテリだから困るのよ。頭ん中も筋肉か睾丸ぐらいのヤクザだったら、あんたなんかちゃっちゃと毎日押し倒してやりまくって、バンバン跡継ぎ作ってさ、そうしたら結構、子煩悩だったりするんじゃないの。いいじゃない、あんたも実家なんて捨てなさいよ。勘当されたらいいじゃない。あたしなんて、もう十年も前に親とは縁が切れてんだから」
「仁さんは、先生に夢中なのよ」
突然、美和の絡み癖が真のほうへ向けられて、真は狼狽えた。
「先生が苦しんでるのは知ってるけど、それに仁さんが先生を好きなのは知ってるけど、先生が仁さんと寝たら、ぶっ叩く」
桜は美和の顔に思い切り顔を近づけた。
「甘いこと言ってないで、ぶっ殺しちゃいなさい。だからあんたは甘いって言うの」
そこで突然桜は真のほうを向く。
「真ちゃん、あんたね、他の男に甘えてどうすんのよ。惚れた男に操を立てて、愛を貫かなくてどうすんの。あんたたち、本当にいらいらするわねぇ。それとも、あんたたちのほうができてるんじゃないの」
真は何の反応もできずに美和と桜を見ていた。
「そうよ。先生はね、大家さんがいなくって、寂しくって、ちょっとばかり私に甘えてただけなんだから。そんなの最初から知ってたわよ。私はね、仁さんが他の男と寝たほうがいいって言うから、試しに先生と寝ただけなの」
「えーっ、あんたら本当にそんなことになってたのぉ? ショックだわぁ」
桜は自分の両頬を両手ではさみ、ムンクの叫びを真似ると、それから真剣な顔になった。
「真ちゃん、それはそれで責任ある問題だわよ」
「違うのよ。そんな話じゃないの」
美和が桜の腕を摑む。酔っ払っている振りを装いながら、美和がその実、かなり素面なのだと真は気が付いていた。酔いを利用して、言いにくかったことを言ってしまいたいと思っているのだ。
「私は絶対に仁さんから離れない。この先どうなるのか分からないけど、仁さんと別れるなんて考えられないよ。でも、先生だって、大家さんと離れられないはずでしょ。何でこうなってんの。何で大家さんのところに行ってあげないの。仁さんに縋ってる場合じゃないでしょ」
「ちょっと、もう、どうなってんのよ」
真は困った顔をしていたのだろう。美和がまず黙り込み、それから桜も黙った。
次の曲は今月の二十五日に発売予定の『ひとり咲き』です。
有線のDJの声が狭い空間にまた優しく落ちてきた。その声が伴ってきた静けさに覆われた空間を、ただ恋の歌が満たしていく。
いい歌ね、と桜が呟いた。
結局その後、桜の店に行って、さらに飲み続けた。もっとも、真は何時もの通り、酒を舐めていただけだった。美和は飲みながら、ずっと仁さんの馬鹿、先生の馬鹿、と絡みまくっていた。
「あんた、本当に心まで素っ裸になって北条仁とセックスしたことあんの?」
桜は美和に詰め寄り、美和が泣きそうな顔になると、よしよしと美和の頭を撫でた。
「あんたは強がりだけどさ、なんて言ってもまだ小娘なのよ。もっともっと惚れなきゃダメよ。相手があんな大物なんだから、こっちも身を焦がすくらいに、死んじゃってもいいくらいに惚れなきゃ」
そう言って美和を抱き締めると、きりっと桜は真のほうを見る。
「真ちゃん、あんたは逆。地獄についていく覚悟ができてんのに、何でちゃんと伝えないわけ? 黙ってたら、伝わらないことっていっぱいあるのよ。まぁねぇ、確かに北条仁も大和竹流も、本気になると慎重で臆病な男なのよね。しかも、『ええ格好しい』だしね。どうせ別れるのも愛、なぁんて情けないこと考えてるんだから。いい男なのは認めるけど」
あら、あたしっていい男を虜にしている女と男と飲んでるわけよね、と桜は言った。ああ、あたしもいい男に愛されたいわと言いながら、桜は手酌で飲み始める。
酔いつぶれた美和を、北条の若い衆が迎えに来た。真は美和に絡まれたからではなくても、これ以上仁の世話になるわけにはいかないと思っていた。何より、美和の感情が真の存在で乱れるのはたまらない思いだった。
桜がうちに泊まる? と言ってくれたので、行き場所がない真は桜の上がりを待って一緒に彼女(彼)のアパートに行った。
道すがら、腕に腕を絡めてくる桜に真は言った。
「芝居くさいよ」
「あれ? ばれちゃってた? そうそう、女刑事が深刻な声だったから、真ちゃんをこっちの世界に引き戻すには、ぎりぎり本音の会話でいくしかないわねって、あの子と作戦練ったのよ。なのにあの子ったら、途中からマジになっちゃって。ま、こんな状況だし、あの子もあの子で辛いわよね。分かってんの?」
真はただ頷いた。
ワンルームの慎ましやかな住まいは、綺麗に掃除もされていて、カーテンもベッドカバーもトイレのカバーまでも、ピンクの色調の少女趣味であることを除けば、比較的居心地のいい部屋だった。
かなり酔っていたのも事実だった。シャワーを浴びる元気もなく、そのまま薄いピンクのシーツを敷いた狭いベッドに、桜と一緒に倒れこんだ。
桜は倒れこんだ途端に笑いながら真の上に乗りかかり、真剣にキスを求めてきた。真は半ばやけくそな気持ちで、半ば真剣にそれに応えた。意外にも柔らかい唇で、かすかに甘く、良い香りがした。
「抱いてって言ったら、抱ける?」
真は暫くぼんやりと桜の顔を見ていた。感情が壊れてしまいかけていた。桜は優しい顔をした。そして、何かを打ち消すように、村野花の店で聞いた有線の歌を鼻歌にしながら、真の胸に頭をひっつけた。
「あたしだってねぇ、寂しい夜はあるのよ。頑張っちゃてるけどね。でも、真ちゃん、あんたは幸せなのよ、想い想われてるんだから。あんたが望むんなら何時までもここにいたっていいけどね、ちゃんと前を向いて生きていかなきゃならない正念場ってのがあると思うわ。人の生き方って、きっと一番大事なのは、潔さなのよね。散るなら、覚悟を決めて散らなきゃ」
真は重みを預けてきた桜を抱いた。胸は作っていても、女とは違って骨組みはやはりがっしりと重く逞しく感じた。真が桜の頭を撫でたまま、天井を見つめていると、酔っ払って眠っているのかと思っていた桜が、むっくりと起き上がって真を見る。
「いっそあたしと住んじゃう?」
それもいいかもしれないと愚にもつかないことを考えた。桜はにっこりと笑って、真ちゃん、それもありかな、ってしょうもないこと考えてるんでしょ、と言った。
「桜ちゃんが聞いたんだよ」
桜はもう一度、真の胸に身体を預けてきた。
「そうよ、それもありなのよ。真ちゃん、どうあっても人は生きていけるわよ。馬鹿なこと考えちゃ駄目よ」
でも、こんないい男と住んだら、あたしが嫉妬に狂ったオカマの袋叩きにあうわ、それはご免だわね、と桜は呟いた。
さすがにそれ以上は桜も話しかけてこなかった。真はさんざん酔っ払っていたはずなのに、冴えた目とからからに渇いた咽喉で、明りがついたままの天井を見つめていた。桜の鼻歌が耳の奥で微かに心を震わせる。
命を燃やすなら、確かに恋がいいのかもしれない。
真は眠れないまま目を閉じた。それでもその夜は、短い眠りの間に、死体を捜し続ける夢を見なかった。
燃え尽きてしまった恋花は
静かに別れ唄歌うの
疲れたまんまで
二人で 心合わせたけれど
大きな夢を咲かせすぎた
燃えて散るのが花 夢で咲くのが恋
(第35章『恋花』了、第36章へつづく)



つくづく、いい歌だなぁ。
さて、次章のメインの主人公は美和です。
真? えぇ、まだぐるぐるしています。この人のぐるぐるは、八少女夕さんちのあの人やあの人よりも重症かもしれません^^; 京都は遠いねぇ。
<次回予告>
「誰かの一言が、人を生かすことがございます。旦那様のただひとつの言葉で、私は心からお仕えする主人を得、私の人生も意味のあるものとなりました」
真は、まるで一緒に高瀬の言葉を聞いているような、そして確かに真の反応を窺っている、トニーの黄金の目を見つめ返した。
「真様、私はあなた様のひとつの言葉が旦那様を生かしていることを知っております」
「僕の言葉?」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨167] 第36章 I LOVE YOU(1)大和邸執事の事情
【海に落ちる雨】第36章その(1)です。
この章のメインは美和。北条仁の胸に飛び込めないまま、気持ちが落ち着かない彼女は、真の苦しむ様子を見てますます混乱しています。彼女の気持ちがどんなふうに固まっていくのか、お楽しみ頂ければと思います。
今回の前半は、大和邸の執事、高瀬の事情が語られます。執事とご主人様の愛の軌跡(絶対誤解を招く表現……)をお楽しみください。いつも全く喋らない高瀬が、真に畳みかけるように語るその気持ち……ま、一言でいうと「そういうわけだから、あんたがご主人様を見捨てたら祟るよ」ということじゃないかと思います(@_@)
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
この章のメインは美和。北条仁の胸に飛び込めないまま、気持ちが落ち着かない彼女は、真の苦しむ様子を見てますます混乱しています。彼女の気持ちがどんなふうに固まっていくのか、お楽しみ頂ければと思います。
今回の前半は、大和邸の執事、高瀬の事情が語られます。執事とご主人様の愛の軌跡(絶対誤解を招く表現……)をお楽しみください。いつも全く喋らない高瀬が、真に畳みかけるように語るその気持ち……ま、一言でいうと「そういうわけだから、あんたがご主人様を見捨てたら祟るよ」ということじゃないかと思います(@_@)





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まるで来ることを予測していたとでも言うように遠隔操作で開いた門を通り抜け、真は大和邸の敷地内に入った。
車を降りると、蝉の鳴き声が何かの拍子にぴたりと止んだ。都会の喧騒を離れ、幾らか高地になるこの場所は、静かで、風が吹けば夏でも涼やかに感じる。
桜は真が出て行ったことも気が付かずに眠っていたし、今もまだ眠り続けているかもしれない。真は、昨夜は何ひとつろくすっぽ反応も返すことができなかったな、と思った。もっとも、桜はそんなことを期待しているわけでもないのだ。
高瀬は直ぐに玄関から出てきた。
小柄な大和邸の執事は、そのまま衣装を変えれば戦国時代の切れ者の軍師だと言っても通りそうだ。いつものように無表情で真を迎え入れ、土足のままで使っている客間へ通す。古い柱時計が十一時を告げていた。
真はポケットから昨日磨いてもらった銀の指輪を出し、テーブルに載せた。
高瀬は無表情のまま、真を見ていた。理由を聞かなければどうともできないという、無言の圧力を感じて、真は顔を上げた。
「これを、竹流に返してあげてください」
高瀬は何も言わない。真は仕方なく先を続けた。
「彼が落としたものです。事情があって、僕は京都には行けません。彼はローマに帰るにも、これがないと困るでしょうし」
何の事情だろうか、と真は自分の言葉を反芻しながら、もう少し気の利いた言い回しをするべきだったか、と思った。
高瀬は何も言わずに客間を出て行った。
長居をするつもりはなかったので、真は突っ立ったままだったが、しばらく高瀬が戻ってこなかったので、落ち着かなくなり、結局座ることになった。びろうどを張った椅子は、強い弾力で真の崩れそうな身体を支えている。
やがて高瀬はコーヒーを盆に載せて戻ってきた。高瀬の足下にひっついて入ってきたのは、人間ならばもう立派な中年になっているトニーだった。
トニーは貫禄のある態度で、黄金の縞々の尻尾をぴんと上げて、真の前に立った。思わず真は椅子から降りて、トニーの前に屈み、その咽喉を撫でた。ずっと会いたいと思っていた懐かしい友人にあったような気がした。トニーは気持ち良さそうに目を閉じた後で、ふと目を開けた。
お前の気持ちは分かってるよ、とその黄金の目で話しかけている。
高瀬は黙ってコーヒーをテーブルに置き、一歩下がって、じっと真がコーヒーを味わうのを待っていた。
この状況で、真には断る選択肢はない。真はゆっくり味わうようにコーヒーを飲んだ。もしかすると、これが大和邸で最後に味わうコーヒーかもしれなかった。
だが、高瀬は指輪には全く触れようともしなかった。
コーヒーを飲み終えた真が困ったように顔を上げたとき、高瀬は一歩前に出て、ようやくテーブルの上の指輪を取り、真の手を取って、その手掌に指輪を載せて握らせた。
「お返しになるにしても、あなた様の手でお願いいたします」
拒むことを一切許さない声音だった。あえて真が、でも、と言いかけると、高瀬は無表情のまま微かに息をつき、先を続けた。
「私の祖父はこのあたりの小藩の家老の家系に生まれました。父もまた大和の伯爵家の執事を勤めてまいりました。時代は流れ、古い華族の家柄もまるで価値のないものとなりましたが、それは時代のせいだけではございません。私がお仕えしていた大和高顕も、華族としての誇りを保てるような男ではありませんでした。事業に失敗し、その責任を周囲のものに押し付け、一方で詐欺まがいのやり口で弱いもの達を追い落とし、ただ生き恥を晒していたようなものです。
ほとんど着の身着のままで日本に辿り着いた竹流様は、古い家や神社、寺の美術品を修復し、時には鑑定を手伝いながら、何とか糊口をしのいでおられましたので、大和のこの屋敷にも、ある神社の紹介でいらっしゃったのです。ほとんど事業らしい事業もしていなかった大和高顕は、竹流様の鑑識眼や修復の才能を知るや、竹流様に詐欺の片棒を担がせたのでございます。その上、頼るべき縁戚もないことは心配だと言って、竹流様の才能を誰のものにもさせないために、強引に養子縁組をしました。
竹流様は始め、日常会話はともかく、候文で書かれた手紙までは理解しておられませんでしたから、何をさせられているのか十分に理解できなかったことと思います。大和高顕は上辺は極めて好いパトロンの顔をしておりましたし、実際、竹流様に次々と友人を会わせておられましたから、竹流様にとっても悪いことばかりではなかったとは思います。しかし、竹流様は高顕も気が付かないくらい、恐ろしく物覚えの速い方でしたから、直ぐに高顕のしていることに気が付かれたのでございます。
竹流様が高顕を問い詰めたとき、高顕は青花様と奥様のことを持ち出し、逆に竹流様を脅した。奥様はお優しい方でしたが、身体も心も弱く、密かに竹流様を頼りにしておられて、恐らくは夫への不審から竹流様に想いを寄せておられた。お嬢様の青花様は気性の激しい方で、事実その時竹流様とは恋仲でいらっしゃいました。お嬢様はともかく、奥様は頼りなく儚げで、何かあれば自殺でもしかねないような方でしたから、竹流様は高顕に脅されるような形で仕事を続けておられた。
その頃から、竹流様は何かと私を頼りにしてくださっていました。時々、座ったまま右の手をじっと見つめておられました。高瀬、この手はこんなことをしたいと思っているだろうか、とおっしゃって、それでも目の前にやってくる美術品に、あの方は本当に愛おしそうに触れられた。ある時、高瀬、俺には今何もないけれど俺の味方になってくれないか、と言われました。
やがて、弱いものからいくらせしめても大した物にならない、詐欺をするならもっと大きいところから、と竹流様のほうから高顕を担ぎ上げて、結局高顕を上手く追い込むことに成功されました。高顕は自分が騙した権力者に追われるようにして、北欧の知り合いを頼り日本を出て行きました。青花様は竹流様の傍に残ると随分泣いておられましたが、竹流様は奥様を心配されて、青花様に奥様の傍にいて差し上げるようにとおっしゃいました。
竹流様は何もおっしゃいませんでしたが、青花様が竹流様を離したくなくて、父親とある部分では協力関係にあったことを知っておられたと思います。高顕は家屋敷と大和家が持っていた古い美術品のほとんどを竹流様に渡して、これで満足かと吐き捨てるように言ったのです。高顕は私を北欧へ連れて行こうとしていたのですが」
淡々と語り続けていた高瀬が、初めて言葉を切った。真は顔を上げた。
「その時、竹流様は、家屋敷などいいから高瀬を寄越せ、他には何も必要ないと仰って下さいました」
真は無表情のままの高瀬の顔を黙って見つめていた。竹流はよく、高瀬がいないとだめなんだ、あの時も高瀬がいてくれたら何とかなると思っていた、と話していた。
「誰かの一言が、人を生かすことがございます。旦那様のただひとつの言葉で、私は心からお仕えする主人を得、私の人生も意味のあるものとなりました」
真は、まるで一緒に高瀬の言葉を聞いているような、そして確かに真の反応を窺っている、トニーの黄金の目を見つめ返した。
「真様、私はあなた様のひとつの言葉が旦那様を生かしていることを知っております」
「僕の言葉?」
真は繰り返したが、頭の中には何も浮かんでいなかった。
結局、真は指輪を高瀬に預けることはできなかった。高瀬は黙って真を見送り、一緒にトニーも、よろしく頼むぜ、という顔をしながら真を見送っていた。
持ち主に返されるチャンスを失った指輪と、行き先を失ったままの真は、また上がり始めた地球の熱をまともに受けながら新宿に戻った。
事務所には北条仁からの伝言が残されていた。ただ一言、戻って来い、という言葉だった。その日一日、することがなかった真は事務所に座って、窓の外の忙しい新宿の街の景色を眺めていた。
それでも人は生き、町は動き、地球は回り、銀河の中で星は生まれて消えている。
* * *
桜と真と飲み潰れた翌日、美和は仁の前で二日酔いの醜態を晒すことが躊躇われて、頭痛と吐き気を抱えながら大学に行った。と言っても、授業に出ていたわけではない。青い顔をしながらトイレと図書室を往復していると、もしかして美和、あなた、と言われた。
短絡思考だと美和は思う。真にしてもそうだ。真の場合は短絡思考というよりも、複雑すぎて回りまわって変な方向へ行ってしまっている気もする。結果として逆方向へ短絡しているようなものだった。
先生、私、まだ先生が好きだよ。
その一言は、昨夜どうしても言えなかった。美和のほうでも、色々な天邪鬼な考えが浮かんできて、素直にはなれなかった。言葉にして言ってしまえば、この想いは半分以上成就されるようなものだ。叶うとは思っていないから、伝わればそれで良かった。そもそも叶えるためにある想いではなかった。
大好きで独り占めしたい気持ちがないわけではないが、それは子どものころ、アイドルに憧れたのと同じような感覚だった。多少の妄想があったとしても、またその人を思って心が乱れることくらいはあったとしても、その人と結ばれるということについては、現実味は全くなかったし、万が一現実になっても、美和は自分があまり幸せではないかもしれないと思っていた。
分不相応、とでもいうのか、何故かその場所、つまり真の隣には、美和は納まりきれない。安心できないのだ。それは初めて真と肌を合わせた日に、もう分かってしまったことだった。
実際に美和と身体を合わせている真よりも、大和竹流と電話で話しているその姿のほうが、どれほどエロティックで扇情的で、優しく、悲しく、そして想いに満ちていたか。その姿に美和は嫉妬よりも諦念を覚えたのだ。
嫉妬しているとしたら、その思いの深さに、だった。
この想いは、伝えないから変な形で燻ってしまうのだ。口に出してしまったら、きっとすっきりする。ただ一言、先生、大好き、と言ってしまったとたんに、満たされる。そして、その思いを美和は一生抱き続けると思う。
私は一生、先生の追っかけみたいなものだと思った。初めて会った日、いや、その前に仁に真の中学生の頃の写真を見せられたときから、この人を一生どこかで見つめていたいと思っていた。
本当の想いを伝えないままだから苦しくて燻ってしまう、という意味では、仁に対しても同じだった。ただ意味合いは全く違う。
考えてみれば、仁とは恋人同士とはいえ、美和のほうから好きとも愛しているとも言葉にしたことがない。仁の強い力に引きずられるようにして、ただ一緒にいただけだ。それだけでは駄目だということは、もう分かっていた。
仁への想いは、口に出せば本物になると知っていた。きっと引き返さないところへ行く。そしてそれは、普通の生き方との決別を意味している。
子どもの頃から、美和はちょっと変わった子どもだと言われていた。普通の子と感動のポイントがずれている。楽しいと思うことは沢山あるけれど、同世代の友人たちが興味を持つものに惹かれない。両親とは上手くやっていると思うが、弟たちのように甘え方が上手ではない。物事にはのめり込みながらも、何時も少し離れたところで考える癖もある。そのくせ、感情は上がったり下がったり激しい面もある。テレビドラマのお涙頂戴は泣けないのに、実話で聞く少し悲しい話には異常に反応してしまう。理不尽が嫌いで、公道でヤクザをひっぱたいてしまう。
私には普通の生き方はできないし、するべきではないという自負心がどこかにある。自分が何者かである、という強い自尊心まではなくても、少し変わっていると言われると、自慢げな気分になっていたりもした。
だが、極道の妻になるというのは、ただの『普通ではない次元』ではなく、飛び越えすぎている。子どものころから抱いていた、何者かになるという気持ちは、そういう終着点を予想などしていなかっただろう。仁がヤクザでなければ、という思いはどうしても起こってきてしまう。
だが、北条仁には『ヤクザではない』という前提条件はあり得ないのだ。
真が竹流と電話で話しているあの姿は、一瞬で美和を諦めの気持ちにさせた。だが、仁から、今なら目を瞑る、と言われたとき、美和は目の前が真っ白になったような気がした。
これまで、仁と離れるという可能性について、美和は真剣に考えたことがなかった。相手がヤクザだからという漠然とした感覚はあっても、それはまだ先のこと、と思い続けてきた。あの最初の頃のデートのように、何となく離れがたくて次の約束を繰り返した時のまま、美和は幼い恋心を少しずつ長く繋いできたのだ。
それが断ち切られる可能性があるという事実を突きつけられたときから、美和は混乱している。
その上、仁は今、真の姿にひどく傷ついている。
真に何があったのか、誰も説明しないし、真自身も何も言わないが、尋常ではないことが起こっていたことだけが、美和にも分かる。仁もまた、出入りだのという危ない橋を渡ることの少なくなった現在の渡世にあっても、この世界はいつでもそういうぎりぎりのものと背中合わせにいることは間違いないと、確認したような気持ちだったのだろう。
そして、腹を括っていたわけではない一般の人間がそこに突き落とされたとき、一体どういうことになるのか、真の姿を見ながら考えているに違いない。
仁さんは、私にはこんな世界は無理かもしれないと、思い始めている。
美和にはそのことがよく分かっているような気がした。真は夜な夜な、まるでまだ誰かを殺してやろうとしているように狂ったように魘されている。美和は、その声を聞きながら、自分もおかしくなったような気がしていた。
もしも私が先生の立場だったら、もし、仁さんに何かあったら、一体何ができるだろう。
北条仁は柏木美和に、引き返すなら今だ、と告げている。でも、私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
美和は、比較的早めに納まってきた吐き気をいいことに、突然思い立って図書室を出た。まだ頭は割れるように痛かったが、それは二日酔いのせいではなくて、考え過ぎたせいかもしれない。
美和は中央線に飛び乗り、東京駅まで来ると、京都に向かう新幹線に飛び乗った。
二日酔いは新幹線が時速二百キロ以上のスピードで吹き飛ばしてくれたが、眠ろうと思いながらも結局一睡もできなかった。
何百キロもの距離を数時間で移動できるのに、先生は何故この距離を躊躇うのだろう。
仁さんはあんなに近くにいるのに、私は何故飛び込めないのだろう。
美和はずっと、その問いだけを走り去る景色に向かって投げ掛けていた。
答えは知っている。桜曰くの『いい男』たちが、必要以上にいい人であろうと臆病になってくれているからだ。俺が守るからついて来い、と言ってくれたらいい。その結果、やっぱり守りきってもらえなくても、そのことで美和は仁を恨まないし、真も竹流を恨まないだろう。
だが、答える権利は、美和にも真にもなく、仁と竹流だけが答えを引き出すチャンスを握っている。
だんだん混乱して、何が何だか分からなくなっている。真を思い切れないような気持ちと、絶対に仁を諦められないという気持ちと、仁がヤクザを捨てることはないという恐ろしさと、真が竹流の仇を討つために何かとんでもないことをしたのかもしれない恐怖と、そして美和自身がいつかそういうものと向かい合わなければならないかもしれない、という可能性と、色々なものがぐちゃぐちゃに頭の中に詰まっていた。
二日酔いの酒が振り落とされても、それ以外のものが頭に詰まりすぎていて、頭痛がする。さすがに新幹線のスピードも、美和の頭にこびりついている混乱までは振り落としてくれなかった。
(つづく)




語らない人が語ると長い、ということがよく分かりました(^^)
高瀬は実は「本当のこと」を知っている、つまり「真の失われた記憶」の唯一の証人なのです。彼は絶対、竹流にも話さないと思いますが、彼の律儀の根っこは、竹流のたった一言に根差していたのですね。
さて、物語は美和の視点に移ります。二日酔いの勢いで京都にやって来た美和。次回はあの素っ頓狂な妹と「男ってどうしようもないわよね~」なんて話に? お楽しみに。
<次回予告>
「普通、自分のお兄さんがそんなふうだったら、嫌だったりしませんか?」
「そうなのかしらね。でも、私にとってお兄ちゃんは天から降ってきた騎士だったから、ちょっとばかり人間離れしていたのかも。ちっちゃいときは一緒に暮らしてないし、初めて会ったときは小学校の高学年で、本当に笑えるけど、浦河の牧場で会ったから、馬に乗せてもらったりして、絵に描いたような王子様の登場だったの。その頃から中学くらいまで、お兄ちゃん、異様なくらい綺麗だった。線の細い危なっかしい美少年って感じじゃなくて、何かすばしっこい野生の生き物みたいで、今よりずっと異国の血が色濃く出てて、誰もが振り返るって感じじゃなかったけど、見つめちゃったら目が離せなくなるみたいだった。私も小学生の頃は単なる憧れの気持ちだったけど、中学になって、正直うちの兄はどうなっちゃうの、っていうくらいどきどきしてたのよ」葉子は美和に微笑みかける。「でも話してると、単にちょっと常識のずれた、都会に戸惑っている田舎もので、あの頃は気を抜いたら凄い北海道弁だったし」
(なんだ? このやけくそな会話は?)



まるで来ることを予測していたとでも言うように遠隔操作で開いた門を通り抜け、真は大和邸の敷地内に入った。
車を降りると、蝉の鳴き声が何かの拍子にぴたりと止んだ。都会の喧騒を離れ、幾らか高地になるこの場所は、静かで、風が吹けば夏でも涼やかに感じる。
桜は真が出て行ったことも気が付かずに眠っていたし、今もまだ眠り続けているかもしれない。真は、昨夜は何ひとつろくすっぽ反応も返すことができなかったな、と思った。もっとも、桜はそんなことを期待しているわけでもないのだ。
高瀬は直ぐに玄関から出てきた。
小柄な大和邸の執事は、そのまま衣装を変えれば戦国時代の切れ者の軍師だと言っても通りそうだ。いつものように無表情で真を迎え入れ、土足のままで使っている客間へ通す。古い柱時計が十一時を告げていた。
真はポケットから昨日磨いてもらった銀の指輪を出し、テーブルに載せた。
高瀬は無表情のまま、真を見ていた。理由を聞かなければどうともできないという、無言の圧力を感じて、真は顔を上げた。
「これを、竹流に返してあげてください」
高瀬は何も言わない。真は仕方なく先を続けた。
「彼が落としたものです。事情があって、僕は京都には行けません。彼はローマに帰るにも、これがないと困るでしょうし」
何の事情だろうか、と真は自分の言葉を反芻しながら、もう少し気の利いた言い回しをするべきだったか、と思った。
高瀬は何も言わずに客間を出て行った。
長居をするつもりはなかったので、真は突っ立ったままだったが、しばらく高瀬が戻ってこなかったので、落ち着かなくなり、結局座ることになった。びろうどを張った椅子は、強い弾力で真の崩れそうな身体を支えている。
やがて高瀬はコーヒーを盆に載せて戻ってきた。高瀬の足下にひっついて入ってきたのは、人間ならばもう立派な中年になっているトニーだった。
トニーは貫禄のある態度で、黄金の縞々の尻尾をぴんと上げて、真の前に立った。思わず真は椅子から降りて、トニーの前に屈み、その咽喉を撫でた。ずっと会いたいと思っていた懐かしい友人にあったような気がした。トニーは気持ち良さそうに目を閉じた後で、ふと目を開けた。
お前の気持ちは分かってるよ、とその黄金の目で話しかけている。
高瀬は黙ってコーヒーをテーブルに置き、一歩下がって、じっと真がコーヒーを味わうのを待っていた。
この状況で、真には断る選択肢はない。真はゆっくり味わうようにコーヒーを飲んだ。もしかすると、これが大和邸で最後に味わうコーヒーかもしれなかった。
だが、高瀬は指輪には全く触れようともしなかった。
コーヒーを飲み終えた真が困ったように顔を上げたとき、高瀬は一歩前に出て、ようやくテーブルの上の指輪を取り、真の手を取って、その手掌に指輪を載せて握らせた。
「お返しになるにしても、あなた様の手でお願いいたします」
拒むことを一切許さない声音だった。あえて真が、でも、と言いかけると、高瀬は無表情のまま微かに息をつき、先を続けた。
「私の祖父はこのあたりの小藩の家老の家系に生まれました。父もまた大和の伯爵家の執事を勤めてまいりました。時代は流れ、古い華族の家柄もまるで価値のないものとなりましたが、それは時代のせいだけではございません。私がお仕えしていた大和高顕も、華族としての誇りを保てるような男ではありませんでした。事業に失敗し、その責任を周囲のものに押し付け、一方で詐欺まがいのやり口で弱いもの達を追い落とし、ただ生き恥を晒していたようなものです。
ほとんど着の身着のままで日本に辿り着いた竹流様は、古い家や神社、寺の美術品を修復し、時には鑑定を手伝いながら、何とか糊口をしのいでおられましたので、大和のこの屋敷にも、ある神社の紹介でいらっしゃったのです。ほとんど事業らしい事業もしていなかった大和高顕は、竹流様の鑑識眼や修復の才能を知るや、竹流様に詐欺の片棒を担がせたのでございます。その上、頼るべき縁戚もないことは心配だと言って、竹流様の才能を誰のものにもさせないために、強引に養子縁組をしました。
竹流様は始め、日常会話はともかく、候文で書かれた手紙までは理解しておられませんでしたから、何をさせられているのか十分に理解できなかったことと思います。大和高顕は上辺は極めて好いパトロンの顔をしておりましたし、実際、竹流様に次々と友人を会わせておられましたから、竹流様にとっても悪いことばかりではなかったとは思います。しかし、竹流様は高顕も気が付かないくらい、恐ろしく物覚えの速い方でしたから、直ぐに高顕のしていることに気が付かれたのでございます。
竹流様が高顕を問い詰めたとき、高顕は青花様と奥様のことを持ち出し、逆に竹流様を脅した。奥様はお優しい方でしたが、身体も心も弱く、密かに竹流様を頼りにしておられて、恐らくは夫への不審から竹流様に想いを寄せておられた。お嬢様の青花様は気性の激しい方で、事実その時竹流様とは恋仲でいらっしゃいました。お嬢様はともかく、奥様は頼りなく儚げで、何かあれば自殺でもしかねないような方でしたから、竹流様は高顕に脅されるような形で仕事を続けておられた。
その頃から、竹流様は何かと私を頼りにしてくださっていました。時々、座ったまま右の手をじっと見つめておられました。高瀬、この手はこんなことをしたいと思っているだろうか、とおっしゃって、それでも目の前にやってくる美術品に、あの方は本当に愛おしそうに触れられた。ある時、高瀬、俺には今何もないけれど俺の味方になってくれないか、と言われました。
やがて、弱いものからいくらせしめても大した物にならない、詐欺をするならもっと大きいところから、と竹流様のほうから高顕を担ぎ上げて、結局高顕を上手く追い込むことに成功されました。高顕は自分が騙した権力者に追われるようにして、北欧の知り合いを頼り日本を出て行きました。青花様は竹流様の傍に残ると随分泣いておられましたが、竹流様は奥様を心配されて、青花様に奥様の傍にいて差し上げるようにとおっしゃいました。
竹流様は何もおっしゃいませんでしたが、青花様が竹流様を離したくなくて、父親とある部分では協力関係にあったことを知っておられたと思います。高顕は家屋敷と大和家が持っていた古い美術品のほとんどを竹流様に渡して、これで満足かと吐き捨てるように言ったのです。高顕は私を北欧へ連れて行こうとしていたのですが」
淡々と語り続けていた高瀬が、初めて言葉を切った。真は顔を上げた。
「その時、竹流様は、家屋敷などいいから高瀬を寄越せ、他には何も必要ないと仰って下さいました」
真は無表情のままの高瀬の顔を黙って見つめていた。竹流はよく、高瀬がいないとだめなんだ、あの時も高瀬がいてくれたら何とかなると思っていた、と話していた。
「誰かの一言が、人を生かすことがございます。旦那様のただひとつの言葉で、私は心からお仕えする主人を得、私の人生も意味のあるものとなりました」
真は、まるで一緒に高瀬の言葉を聞いているような、そして確かに真の反応を窺っている、トニーの黄金の目を見つめ返した。
「真様、私はあなた様のひとつの言葉が旦那様を生かしていることを知っております」
「僕の言葉?」
真は繰り返したが、頭の中には何も浮かんでいなかった。
結局、真は指輪を高瀬に預けることはできなかった。高瀬は黙って真を見送り、一緒にトニーも、よろしく頼むぜ、という顔をしながら真を見送っていた。
持ち主に返されるチャンスを失った指輪と、行き先を失ったままの真は、また上がり始めた地球の熱をまともに受けながら新宿に戻った。
事務所には北条仁からの伝言が残されていた。ただ一言、戻って来い、という言葉だった。その日一日、することがなかった真は事務所に座って、窓の外の忙しい新宿の街の景色を眺めていた。
それでも人は生き、町は動き、地球は回り、銀河の中で星は生まれて消えている。
* * *
桜と真と飲み潰れた翌日、美和は仁の前で二日酔いの醜態を晒すことが躊躇われて、頭痛と吐き気を抱えながら大学に行った。と言っても、授業に出ていたわけではない。青い顔をしながらトイレと図書室を往復していると、もしかして美和、あなた、と言われた。
短絡思考だと美和は思う。真にしてもそうだ。真の場合は短絡思考というよりも、複雑すぎて回りまわって変な方向へ行ってしまっている気もする。結果として逆方向へ短絡しているようなものだった。
先生、私、まだ先生が好きだよ。
その一言は、昨夜どうしても言えなかった。美和のほうでも、色々な天邪鬼な考えが浮かんできて、素直にはなれなかった。言葉にして言ってしまえば、この想いは半分以上成就されるようなものだ。叶うとは思っていないから、伝わればそれで良かった。そもそも叶えるためにある想いではなかった。
大好きで独り占めしたい気持ちがないわけではないが、それは子どものころ、アイドルに憧れたのと同じような感覚だった。多少の妄想があったとしても、またその人を思って心が乱れることくらいはあったとしても、その人と結ばれるということについては、現実味は全くなかったし、万が一現実になっても、美和は自分があまり幸せではないかもしれないと思っていた。
分不相応、とでもいうのか、何故かその場所、つまり真の隣には、美和は納まりきれない。安心できないのだ。それは初めて真と肌を合わせた日に、もう分かってしまったことだった。
実際に美和と身体を合わせている真よりも、大和竹流と電話で話しているその姿のほうが、どれほどエロティックで扇情的で、優しく、悲しく、そして想いに満ちていたか。その姿に美和は嫉妬よりも諦念を覚えたのだ。
嫉妬しているとしたら、その思いの深さに、だった。
この想いは、伝えないから変な形で燻ってしまうのだ。口に出してしまったら、きっとすっきりする。ただ一言、先生、大好き、と言ってしまったとたんに、満たされる。そして、その思いを美和は一生抱き続けると思う。
私は一生、先生の追っかけみたいなものだと思った。初めて会った日、いや、その前に仁に真の中学生の頃の写真を見せられたときから、この人を一生どこかで見つめていたいと思っていた。
本当の想いを伝えないままだから苦しくて燻ってしまう、という意味では、仁に対しても同じだった。ただ意味合いは全く違う。
考えてみれば、仁とは恋人同士とはいえ、美和のほうから好きとも愛しているとも言葉にしたことがない。仁の強い力に引きずられるようにして、ただ一緒にいただけだ。それだけでは駄目だということは、もう分かっていた。
仁への想いは、口に出せば本物になると知っていた。きっと引き返さないところへ行く。そしてそれは、普通の生き方との決別を意味している。
子どもの頃から、美和はちょっと変わった子どもだと言われていた。普通の子と感動のポイントがずれている。楽しいと思うことは沢山あるけれど、同世代の友人たちが興味を持つものに惹かれない。両親とは上手くやっていると思うが、弟たちのように甘え方が上手ではない。物事にはのめり込みながらも、何時も少し離れたところで考える癖もある。そのくせ、感情は上がったり下がったり激しい面もある。テレビドラマのお涙頂戴は泣けないのに、実話で聞く少し悲しい話には異常に反応してしまう。理不尽が嫌いで、公道でヤクザをひっぱたいてしまう。
私には普通の生き方はできないし、するべきではないという自負心がどこかにある。自分が何者かである、という強い自尊心まではなくても、少し変わっていると言われると、自慢げな気分になっていたりもした。
だが、極道の妻になるというのは、ただの『普通ではない次元』ではなく、飛び越えすぎている。子どものころから抱いていた、何者かになるという気持ちは、そういう終着点を予想などしていなかっただろう。仁がヤクザでなければ、という思いはどうしても起こってきてしまう。
だが、北条仁には『ヤクザではない』という前提条件はあり得ないのだ。
真が竹流と電話で話しているあの姿は、一瞬で美和を諦めの気持ちにさせた。だが、仁から、今なら目を瞑る、と言われたとき、美和は目の前が真っ白になったような気がした。
これまで、仁と離れるという可能性について、美和は真剣に考えたことがなかった。相手がヤクザだからという漠然とした感覚はあっても、それはまだ先のこと、と思い続けてきた。あの最初の頃のデートのように、何となく離れがたくて次の約束を繰り返した時のまま、美和は幼い恋心を少しずつ長く繋いできたのだ。
それが断ち切られる可能性があるという事実を突きつけられたときから、美和は混乱している。
その上、仁は今、真の姿にひどく傷ついている。
真に何があったのか、誰も説明しないし、真自身も何も言わないが、尋常ではないことが起こっていたことだけが、美和にも分かる。仁もまた、出入りだのという危ない橋を渡ることの少なくなった現在の渡世にあっても、この世界はいつでもそういうぎりぎりのものと背中合わせにいることは間違いないと、確認したような気持ちだったのだろう。
そして、腹を括っていたわけではない一般の人間がそこに突き落とされたとき、一体どういうことになるのか、真の姿を見ながら考えているに違いない。
仁さんは、私にはこんな世界は無理かもしれないと、思い始めている。
美和にはそのことがよく分かっているような気がした。真は夜な夜な、まるでまだ誰かを殺してやろうとしているように狂ったように魘されている。美和は、その声を聞きながら、自分もおかしくなったような気がしていた。
もしも私が先生の立場だったら、もし、仁さんに何かあったら、一体何ができるだろう。
北条仁は柏木美和に、引き返すなら今だ、と告げている。でも、私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
美和は、比較的早めに納まってきた吐き気をいいことに、突然思い立って図書室を出た。まだ頭は割れるように痛かったが、それは二日酔いのせいではなくて、考え過ぎたせいかもしれない。
美和は中央線に飛び乗り、東京駅まで来ると、京都に向かう新幹線に飛び乗った。
二日酔いは新幹線が時速二百キロ以上のスピードで吹き飛ばしてくれたが、眠ろうと思いながらも結局一睡もできなかった。
何百キロもの距離を数時間で移動できるのに、先生は何故この距離を躊躇うのだろう。
仁さんはあんなに近くにいるのに、私は何故飛び込めないのだろう。
美和はずっと、その問いだけを走り去る景色に向かって投げ掛けていた。
答えは知っている。桜曰くの『いい男』たちが、必要以上にいい人であろうと臆病になってくれているからだ。俺が守るからついて来い、と言ってくれたらいい。その結果、やっぱり守りきってもらえなくても、そのことで美和は仁を恨まないし、真も竹流を恨まないだろう。
だが、答える権利は、美和にも真にもなく、仁と竹流だけが答えを引き出すチャンスを握っている。
だんだん混乱して、何が何だか分からなくなっている。真を思い切れないような気持ちと、絶対に仁を諦められないという気持ちと、仁がヤクザを捨てることはないという恐ろしさと、真が竹流の仇を討つために何かとんでもないことをしたのかもしれない恐怖と、そして美和自身がいつかそういうものと向かい合わなければならないかもしれない、という可能性と、色々なものがぐちゃぐちゃに頭の中に詰まっていた。
二日酔いの酒が振り落とされても、それ以外のものが頭に詰まりすぎていて、頭痛がする。さすがに新幹線のスピードも、美和の頭にこびりついている混乱までは振り落としてくれなかった。
(つづく)



語らない人が語ると長い、ということがよく分かりました(^^)
高瀬は実は「本当のこと」を知っている、つまり「真の失われた記憶」の唯一の証人なのです。彼は絶対、竹流にも話さないと思いますが、彼の律儀の根っこは、竹流のたった一言に根差していたのですね。
さて、物語は美和の視点に移ります。二日酔いの勢いで京都にやって来た美和。次回はあの素っ頓狂な妹と「男ってどうしようもないわよね~」なんて話に? お楽しみに。
<次回予告>
「普通、自分のお兄さんがそんなふうだったら、嫌だったりしませんか?」
「そうなのかしらね。でも、私にとってお兄ちゃんは天から降ってきた騎士だったから、ちょっとばかり人間離れしていたのかも。ちっちゃいときは一緒に暮らしてないし、初めて会ったときは小学校の高学年で、本当に笑えるけど、浦河の牧場で会ったから、馬に乗せてもらったりして、絵に描いたような王子様の登場だったの。その頃から中学くらいまで、お兄ちゃん、異様なくらい綺麗だった。線の細い危なっかしい美少年って感じじゃなくて、何かすばしっこい野生の生き物みたいで、今よりずっと異国の血が色濃く出てて、誰もが振り返るって感じじゃなかったけど、見つめちゃったら目が離せなくなるみたいだった。私も小学生の頃は単なる憧れの気持ちだったけど、中学になって、正直うちの兄はどうなっちゃうの、っていうくらいどきどきしてたのよ」葉子は美和に微笑みかける。「でも話してると、単にちょっと常識のずれた、都会に戸惑っている田舎もので、あの頃は気を抜いたら凄い北海道弁だったし」
(なんだ? このやけくそな会話は?)
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨168] 第36章 I LOVE YOU(2)姫君の本音
【海に落ちる雨】第36章その(2)です。
孫タイトルはもう、気にしないでください。姫様トーク炸裂です。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
孫タイトルはもう、気にしないでください。姫様トーク炸裂です。





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京都に着いて、病院までもあっという間だった。
だが、大和竹流の病室が近くなるにつれ、美和の足はうごかなく重くなってきた。やっぱり距離は実測ではないのだと思った。詰所にも近づけず、美和はエレベーター前の待合に戻りかけたが、病室を出てきた葉子と目が合ってしまった。
葉子は、あ、と小さく声を上げて、一旦病室の中をちらりと覗くと、美和のところまで早足でやってきた。
「竹流さん、今眠ってるから」
葉子はそう言って、美和を待合のベンチに誘った。
「大家さん、どうですか」
葉子はうん、と曖昧な返事をしてから、美和を見た。
葉子はほとんど化粧っ気のない顔で、背中の真ん中辺りまで届く髪をひとつに束ねて、いかにも病気の家族を看護している、それも決して悲壮感だけではない、必ずその病人を良くしてみせる、という決意を漂わせていた。
「肺炎のほうはもういいみたい。肝機能とか骨髄機能が少し弱ってるけど、そのうち戻るだろうって」
葉子は息をつく。
「相変わらず精神的には辛そうだけど、それについては何も言ってくれないの。夜はずっと魘されてるし、昼間も時々起きたまま冷たい汗をかいてる時もあるし」
美和は、この人はやはり可愛らしいだけではなく、強い人なのだと考えた。苦しむ人の傍にいて、その人をちゃんと見つめて、守ろうとしている。
私は、仁さんからも先生からも目を逸らそうとしている。
真が魘される声が耳の中で小さく唸っていた。
「先生と一緒だ」
葉子は顔を上げた。
「お兄ちゃん、ずっと意地張ってる?」
美和は暫く葉子の顔を見ていた。意地を張っている、という言葉が適切なのかどうか分からなかったが、この人が言うと、ただそれだけの事に思えてしまうから不思議だった。
一刀両断のしかたが間違っているけれど、切ってしまえば案外断面は単純だった、ということを、この人は分かっているのかもしれないと思う。
「先生も、毎晩魘されてる」
「どうせ魘されるんだったら、一緒にいたらいいのにね」
それもそうだ、と美和も思った。
やっぱりこの人はかなり変わっていると思いながら、美和は葉子の顔を改めて見つめた。可愛らしい日本人形のような優しい風情なのに、どこか素っ頓狂な側面がある。多分、私と同じで同い年の女の子達と上手く話が合わない、合わせるのは下手ではないかもしれないけど、どこかで少しずれているような人だと思った。
「葉子さんは、どうして先生を諦めたの?」
美和の突然の質問に、葉子は少しの間美和の顔を幾らか驚いたように見ていたが、やがて少し微笑んだ。
「竹流さんがいたから」
やっぱり、一刀両断の方向が間違っているような気がするけれど。
「じゃあ、先生はどうして葉子さんを諦めたんだろう」
葉子は行儀良く揃えていた足を少し斜めにした。
「そっちは多少複雑かもしれないけど、大筋は同じことじゃないかな。竹流さんがいるから」
美和は暫く葉子の顔を見つめたままだったが、幾らかおかしな気分になって少し笑った。
この人は不思議な人だな、と思う。
さすがに真と竹流のお姫様だけのことはある。そもそも「お姫様」という人種はかなり抜けていて、世間常識からはずれているものだった。この人はナイトたちに、平気な顔で、あのお月様を取ってきて、と言うのかもしれない。そしてナイトたちは大真面目な顔で、その命令を果たすべく月にだって飛んでいく。あり得ないことだって、このお姫様が命令すると実現可能な願いに変わってしまい、ナイトたちはちゃんとお月様を手に入れてお姫様に差し出すのだ。まさにお伽噺のように明瞭であっけらかんとして、複雑な感情の膨れ上がりや行き違いも、科学的な可能不可能も、完全にどうでもよくなってしまう。
こういうタイプの人は同性からはあまり好かれないのだろうと思ったが、今の美和には新しい視点に触れたようで心地よかった。
「普通、自分のお兄さんがそんなふうだったら、嫌だったりしませんか?」
え? そうなの? と不思議そうな顔見せてから、葉子は笑った。私、普通じゃないかも、なんて彼女は思ってもいないのだろう。
「そうなのかしらね。でも、私にとってお兄ちゃんは天から降ってきた騎士だったから、ちょっとばかり人間離れしていたのかも。ちっちゃいときは一緒に暮らしてないし、初めて会ったときは小学校の高学年で、場所は浦河の牧場。お兄ちゃんは馬に乗って登場して、手を引いて馬に乗せてくれて。ね、絵に描いたような王子様の登場じゃない? その頃から中学くらいまで、お兄ちゃん、異様なくらい綺麗だった。あ、世間で言う美少年って感じじゃなかったけれどね。線の細い危なっかしい美少年ってのじゃなくて、すばしっこい野生の生き物みたいで、今よりずっと異国の血が色濃く出てて、誰もが振り返るって感じじゃなかったけど、見つめちゃったら目が離せなくなるみたいだった。私も、正直うちの兄はどうなっちゃうの、っていうくらいどきどきしてたのよ」
葉子は美和に微笑みかける。
「でも話してると、単にちょっと常識のずれた、都会に戸惑っている田舎もので、あの頃は気を抜いたら凄い北海道弁だったし」
「北海道弁?」
真の北海道弁、それはかなりアンバランスな組み合わせでかえってすとん、と納得のいく面もある。
「そう、北海道の沿岸部って、札幌とか内陸部とは違ってほとんど東北弁に近い感じなの。はっきりって何言ってるのか分からない時もあるし。それに、東京に来た頃、ものすごいわけの分からない言語も呟いてたの。竹流さんとお父さんが、アイヌ語だろうって」
アイヌ語、と美和は素直に素っ頓狂な声を出して、それからまた妙に安心した。
「つまり簡単に言うと凄く『ずれてた』のよ。だから、そのずれついでに、お兄ちゃんの好きな人が一番身近にいる男の人だって言われても、別にそうなんだ、って感じだったのかな。それに、中学の頃って私たちもちょっとそういうのに興味があったりもして、いささか常識を超えた恋愛を美化してたかもね。しかも、私たちにとって竹流さんは特別な人だったから、この人ならしょうがないか、どころか、もう積極的にこの人とくっつけちゃえ、って感じだったの。お兄ちゃんはお父さんと、つまり私の叔父さんだけど、一緒に暮らしてないから、ものすごいファザコンだと思うし。竹流さんはお兄ちゃんにとって、お父さんであり、兄貴であり、先生であり、目の前に世界を広げてくれたたった一人の人だった」
そんなに短絡的でいいのか、何よりこの人って物語と現実の落差とか常識と非常識の線引きを分かっているのかしら、でも、ちょっとだけ、何だか分かってしまう、と美和は思った。
「でも、今は少し違うかな。大学生の頃は、時々おっさんくさいって思うこともあるくらいで、お兄ちゃんももう普通の若者だったし、相変わらず多少ずれてたけど、見てるだけでどきどきするような感じでもなかったし。だけど、竹流さんとの関係は、その頃からのほうが気持ちは切羽詰ってたのかもしれない。お兄ちゃんが高校生の頃はね、本当にどうなのってくらい、いちゃいちゃしてたのよ、あの二人。正直見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだった。お兄ちゃんたちはそんなふうに周りが見てるなんて、これっぽっちも思ってなかったと思うけど」
葉子はまたにっこりと笑った。そしてちょっと告げ口をするような、噂話を楽しむような顔になった。あのね、あなただけに教えるけど、誰にも言わないでね、という顔だ。美和は思わず耳を寄せた。
「竹流さんはいつもお兄ちゃんに勉強を教えてたから、二人はよく訳の分からない数式がいっぱい並んだ小難しい物理学の本を広げて、何でそんな数字や記号の羅列にそこまでヒートアップできるのかっていうような喧嘩みたいなやり取りをしてたんだけど、その距離はないだろうって思うくらいお互い近くに座ってるし、竹流さんが灯妙寺に泊まりにきたら、いっつも一緒に寝てたし、時々、どこかで他人が見てるのを全く気にしないふうで竹流さんはお兄ちゃんの腰を抱くし、お兄ちゃんも何だかんだいいつつ全然身体が逃げてないし。でもその時は、見てて恥ずかしいって面は置いといて、それに多少はお兄ちゃんたちもそういう自分たちの感情を持て余したくらいのことはあっても、切羽詰ってるようには見えなかったかな」
「それはつまり、キスくらいはしてても、身体の関係はなかったってことですよね」
葉子は美和の呟きに少し驚いたようだが、微笑んで頷いた。
「そうだと思う」
「どこかで一線を越えたから、今はあんなに切羽詰ってるんだ」
「多分、お兄ちゃんの大学入試の前後かな。凄く異様なムードだったから。でも直ぐに二人は会わなくなっちゃって、それからお兄ちゃんは北海道で崖から落ちたの」
美和は葉子を見つめた。真の身体に残る傷跡を思い出した。
「誰も、お兄ちゃんが助かるとは思っていなかった。でももし、あの時お兄ちゃんが死んじゃってたら、竹流さんはどうなってたか分からない。ううん、あれは竹流さんがお兄ちゃんをあの世から引きずり戻してきたんだと、みんなそう思ってる。それからずっと、二人は微妙な距離を保って生きてるような気がするの。私、結婚するとき、ちゃんとお兄ちゃんを見ててね、って竹流さんに言ったんだけど」葉子は少しの間、自分の指を見つめる。その指に光る結婚指輪を、美和は違和感を持って見つめていた。「竹流さんは、お兄ちゃんを壊してしまうのが怖いと思ってる。お兄ちゃんは、竹流さんがまだるっこしいから自分も煮え切らないのかな。他にも少し理由があるかもしれないけど、こっちから見るとどっちもどっちに見える」
美和はふと自分の手を見つめる。
「葉子さんは、先生に自分の気持ちを伝えた?」
葉子は俯いたままの美和を見つめている、その気配を美和は感じながらずっと手元を見ていた。
「お兄ちゃんが好き?」
その葉子の問いは、責めるようでも、興味本位でもなかったが、美和は答えなかった。葉子は少し時間を置いてから、美和の問いに答えた。
「結婚式の前の日に、本当はお兄ちゃんのお嫁さんになりたかった、って告白したの。別に答えて欲しかったわけじゃなくて、ただ言っておきたかったのかな」
「先生は、今も葉子さんのこと、想ってると思う」
美和は顔を上げて言った。半ばろれつが回らないほどの早口になっていた。これに答えた葉子の声は、ゆったりと落ち着いて自信に満ちて聞こえた。
「うん、多分ね。私も、今でもお兄ちゃんが大好き。本当は竹流さんにも取られたくないくらい。でも、あの人たちは引き裂いたら死んじゃうかもしれない。生きているかもしれないけど、別の生き物になっちゃうかも、そんな気がするから、私は私で今はこれでいいと思えてる。それに、私は竹流さんのことも大好きなの。あの人は私たちのお父さんで、お兄さんで、私にとっては大親友で最高の王子様。だから大好きな二人が一緒にいてくれたら嬉しいし、他の人なんかと一緒になって欲しくないと思ってる」
やっぱりこの人はずれてる、と美和は思う。
「告白したら、すっきりするもの?」
「そうね、女ってずるいから、結構言っちゃったらすっきりして、言われた男のほうがうじうじ思うのかも」
美和は少し葉子が妬ましくなっていた。そんなふうに達観して二人の仲を認め、自分は簡単に他の人と結婚できるものだろうか。一体、どうやって自分の感情にけりをつけ、あるいは思い切り、その決意の中へ飛び込んで行けるというのだろう。
「私、先生と寝たの」
私は嫌な女だな、と美和は思った。だが、どこかで自分のほうがこの女性より優位にあることを示しておきたかったのかもしれない。だが、言ってしまってから顔を上げられなくなった。
そして、どこかで、真と寝たことが真への執着になっているのかもしれないと考えた。考えてみれば、真と寝てから、仁とは一度も、キスさえも交わしていない。そのことに思い当たったとき、美和は急に悲しくなってきた。
葉子は長い間黙っていた。その沈黙の間に美和の手は震えだし、自分が放ってしまった言葉の重みを、自分で味わう破目になった。情けなくて涙が出そうになったとき、葉子が優しい声で問いかけた。
「美和さん、恋人がいる?」
美和は頷いた。
「北条さん?」
美和はもう一度頷きながら、涙が零れてしまうのを止められなくなった。
「私も、お兄ちゃんが大好きだったけど、別の人と結婚した。プロポーズを受けたとき、思ったの。女には、一から百までこの人でなければならない、というのはないんだろうって」美和は微かに震えていたが、そこに被せられた葉子の声は凛として逞しかった。「どうして私が享志さんと結婚したのかって思ってるでしょ。女にとって愛は大事だけど、その人が自分のものであるという事は、もっと大事。お兄ちゃんは始めから私のものじゃなかったの。でもね、享志さんはお兄ちゃんの親友で、お兄ちゃんのことが大好きなのよ。彼は、私と一緒にお兄ちゃんを守るって言ってくれた。さっきこの人でなければならないってのはない、って言ったけれど、私にとって、享志さんと結婚するのは必然だったわけ」
美和はようやく顔を上げた。葉子は美和の涙を溜めた目を見て、それから幾らか穏やかな顔になった。
「男の人たちは、お兄ちゃんがもしかしたらこの世の人ではないかもしれない、なんて幻想みたいなこと信じてる。でも、そんなことはあるはずがないの。だけど、竹流さんも享志さんも、もしかして私のお父さんも、お兄ちゃんが手を離したらこの世から消えてしまう蜻蛉みたいに思ってる。お兄ちゃんのことを、守ってあげなければならないお姫様みたいに思ってるのよ」
葉子は自分の言葉に自分で頷いて、先を続けた。大事な論説を説明する研究者みたいだと美和は思った。
「つまり、男の人って守る対象が必要で、誰かを守るって構図が好きで、そのことで自尊心が満たされていないとだめなのよ。カップルの相手が自分より強いなんてありえないわけ。でも本当は女のほうが潜在的に強いし、社会的にもどんどん逞しくなってるから、女相手に男らしさを主張する場所がなくなったのかもね。そこにたまたま一見頼りなげでちょっと放っておけない、適応障害みたいな人間がいたから、あとはもう守らなきゃってことになって。そもそもお兄ちゃんって、何でか分からないけど、保護者意識を煽るのよね。私なんて、小学生の時から、うちの兄を守らなきゃ、って思ってたんだから」
葉子は美和に笑いかけた。
「でも、お兄ちゃんはかなりズレてるけど、ちょっと確かめればあれで結構その辺の男なんかよりずっと男気もあるし、逞しいとこもあるし、少なくとも蜻蛉ってわけじゃないのがわかるのにね。もちろん、たまに驚くような弱点があって、そこを責められると一気に崩れるような脆さを持ってるのは認めるけど、それは人間誰でもそういうとこがあると思うし」
葉子は美和を見つめてまた微笑んだ。
「男の人ってみんな馬鹿みたいでしょ。女はどの馬鹿に一生付き合っていくのかを決めるだけ」
美和はごめんなさい、と言った。
「どうして?」
「嫌なことを言って」
葉子は微笑みながら首を横に振った。
「大家さんは、私が先生と話してると、よく言ってたの。葉子ちゃんと一緒にいたときのことを思い出すって。私は、自分が葉子さんに似てるんだって思ってたけど、会ってみて似てるなんて思わなかった。じゃあ、きっと先生から受ける印象がそうなんだろうって思ったの。先生は私を抱きながら葉子さんのことを考えてたんじゃないかって」
葉子は少しの間、何かを考えていたようだったが、やがて確かめるような調子でゆっくりと話した。
「それは違うかもしれない。お兄ちゃんは私をお姫様のように大事にしてくれたけど、性的な対象とは思っていなかったと思う。お兄ちゃんが、高校生のときからずっと付き合っていた女の人と別れた後、私、ちょっとの間賭けをしていたの。お兄ちゃんがもし、一度でも私の手を握ってくれたら、どうあっても、押し倒してでもお兄ちゃんをものにしちゃおうって。その頃、お兄ちゃんはとても優しくて、私のことを一番にしてくれて、映画にも買物にもドライブにも連れてってくれた。秋の日に秩父の山奥まで流星を見に行ったの。少し離れたところに車を停めている人がいたけど、真夜中の山の中でほとんど二人きりだったのよ。私たちは手を握ってキスをしたっていいような状況だったと思うし、ほんの数センチのところにお兄ちゃんの手があったのに、お兄ちゃんは私の手に触れなかった。その時、私はこれまで通り、お兄ちゃんのお姫様のままでいよう、それしかないんだって思った」
葉子は美和を見てにこっと笑った。お姫様スマイルって、本当は裏があるかもよ、って顔で。
「本当は『お姫様』を演じ続けるのも結構大変だったんだけどね」
美和は俯いて、もう一度小さな声でごめんなさい、と言った。
この女性と真との間には、多分沢山の時間と沢山の想いの交錯があったのだろう。それを全て超えて、葉子は兄の親友と結婚し、真は彼自身さえ分からないほどの深い想いに身を焼いている。その長い時間は、美和には決して届かないものだと思えた。
急にこの人に嫌われたくないと思った。
そしてそう思ったとき、美和は自分自身と北条仁との間にあった時間が、決して他の誰とも共有できない時間だったことを考えた。それは二人の間でしか流れていない時間で、多分誰かに聞かれても説明のできないものだった。
「仁さんが好きなの。でも怖い。だからどこかに逃げ道を探してしまう。先生のことは逃げ道にしているつもりじゃなかったけど、でも今もよく分からないの」
「ねぇ、美和さん」
急にはっきりとした声で葉子は呼びかけた。
「きっとその人にとってとても大事な、真実の瞬間がやってくるのよ」
「真実の瞬間?」
「そう。時々、あの時の出来事が私の行く先を照らしてるって思うことがある。私にとっては、お兄ちゃんに初めて会った日、お兄ちゃんに告白もしないまま振られちゃった日、享志さんにプロポーズしてもらった日。それから、お兄ちゃんが崖から落ちたとき、病院でほとんど飲み食いもせずにお兄ちゃんの傍に座っていた竹流さんを見ていた日々。享志さんが、君たち兄妹を守りたいってプロポーズしてくれた時に、あの辛かった時の竹流さんの姿を思い出して、考えていたの。私もお兄ちゃんと竹流さんを守ろうって。何だか変だけど、自然にそう思ったの」
葉子はエレベーターの横の時計を見て、立ち上がった。
「そろそろ病室に戻らないと。竹流さんに会っていく?」
美和は首を横に振った。今、大家さんの顔を見たら泣いてしまいそうだと思った。葉子はそれ以上強制はしなかった。
「美和さん、お願いがあるの。あなたからもお兄ちゃんに伝えて。竹流さんの叔父さんが来たって。叔父さんはもう飛行機の算段をしているんだって。今ついていくかどうかは別にして、竹流さんに会っておかないと後悔するよって、脅しといていいから」
美和は急に与えられた大事な使命に思わず跳ね上がるように立ち、強く頷いた。
この人と、これから先ももう少し話したいと、そう思った。
(つづく)




お姫様はやっぱりちょっと壊れていますが、彼女の無理難題は王子も騎士も聞かざるを得ません。
「お兄ちゃんをお願いね」
この一言が、竹流の首を繋いでいる……そう、裏番(ラスボス)はやっぱりこの姫君でした。
もう一人のラスボスの登場はもう少しお待ちください(^^)
<次回予告>
「騙されたんじゃありませんよ。自分から抱かれに行ったんだ」
「お前、どうしちまったんだ」
「どうもしません。あなたの言うとおり、福嶋の言うとおりですよ。俺は福嶋と寝て、福嶋に狂うほどに感じさせられて、おかしくなったんだ。でも、普通ならそれだけのことで人を殺したくなんかならない。寺崎孝雄を刺したとき、俺は無茶苦茶に興奮していた。今でもまだ興奮している。あの時と一緒だ。俺は今までも二度ほど人を殺しかかっている。いや、一緒じゃない。何のために殺したかったのかも今はわからなくなっている。今でも福嶋に抱かれて、今でも寺崎孝雄の体にナイフをつきたてている。この身体に、この手に感触がはっきりとある」
「あいつが苦しむ姿を見せられて、お前がおかしくなっても仕方がないよ。けど、それは正当な理由だ。頼むからしっかりしてくれ。お前、永遠にあいつを失うことになって、耐えていけるのか。お前とあいつのことに、お前の親父や福嶋鋼三郎は何の関係もないだろうに。真、俺を狂わせんでくれ」
……なんだかあちこちでやけくそが続いているぞ?



京都に着いて、病院までもあっという間だった。
だが、大和竹流の病室が近くなるにつれ、美和の足はうごかなく重くなってきた。やっぱり距離は実測ではないのだと思った。詰所にも近づけず、美和はエレベーター前の待合に戻りかけたが、病室を出てきた葉子と目が合ってしまった。
葉子は、あ、と小さく声を上げて、一旦病室の中をちらりと覗くと、美和のところまで早足でやってきた。
「竹流さん、今眠ってるから」
葉子はそう言って、美和を待合のベンチに誘った。
「大家さん、どうですか」
葉子はうん、と曖昧な返事をしてから、美和を見た。
葉子はほとんど化粧っ気のない顔で、背中の真ん中辺りまで届く髪をひとつに束ねて、いかにも病気の家族を看護している、それも決して悲壮感だけではない、必ずその病人を良くしてみせる、という決意を漂わせていた。
「肺炎のほうはもういいみたい。肝機能とか骨髄機能が少し弱ってるけど、そのうち戻るだろうって」
葉子は息をつく。
「相変わらず精神的には辛そうだけど、それについては何も言ってくれないの。夜はずっと魘されてるし、昼間も時々起きたまま冷たい汗をかいてる時もあるし」
美和は、この人はやはり可愛らしいだけではなく、強い人なのだと考えた。苦しむ人の傍にいて、その人をちゃんと見つめて、守ろうとしている。
私は、仁さんからも先生からも目を逸らそうとしている。
真が魘される声が耳の中で小さく唸っていた。
「先生と一緒だ」
葉子は顔を上げた。
「お兄ちゃん、ずっと意地張ってる?」
美和は暫く葉子の顔を見ていた。意地を張っている、という言葉が適切なのかどうか分からなかったが、この人が言うと、ただそれだけの事に思えてしまうから不思議だった。
一刀両断のしかたが間違っているけれど、切ってしまえば案外断面は単純だった、ということを、この人は分かっているのかもしれないと思う。
「先生も、毎晩魘されてる」
「どうせ魘されるんだったら、一緒にいたらいいのにね」
それもそうだ、と美和も思った。
やっぱりこの人はかなり変わっていると思いながら、美和は葉子の顔を改めて見つめた。可愛らしい日本人形のような優しい風情なのに、どこか素っ頓狂な側面がある。多分、私と同じで同い年の女の子達と上手く話が合わない、合わせるのは下手ではないかもしれないけど、どこかで少しずれているような人だと思った。
「葉子さんは、どうして先生を諦めたの?」
美和の突然の質問に、葉子は少しの間美和の顔を幾らか驚いたように見ていたが、やがて少し微笑んだ。
「竹流さんがいたから」
やっぱり、一刀両断の方向が間違っているような気がするけれど。
「じゃあ、先生はどうして葉子さんを諦めたんだろう」
葉子は行儀良く揃えていた足を少し斜めにした。
「そっちは多少複雑かもしれないけど、大筋は同じことじゃないかな。竹流さんがいるから」
美和は暫く葉子の顔を見つめたままだったが、幾らかおかしな気分になって少し笑った。
この人は不思議な人だな、と思う。
さすがに真と竹流のお姫様だけのことはある。そもそも「お姫様」という人種はかなり抜けていて、世間常識からはずれているものだった。この人はナイトたちに、平気な顔で、あのお月様を取ってきて、と言うのかもしれない。そしてナイトたちは大真面目な顔で、その命令を果たすべく月にだって飛んでいく。あり得ないことだって、このお姫様が命令すると実現可能な願いに変わってしまい、ナイトたちはちゃんとお月様を手に入れてお姫様に差し出すのだ。まさにお伽噺のように明瞭であっけらかんとして、複雑な感情の膨れ上がりや行き違いも、科学的な可能不可能も、完全にどうでもよくなってしまう。
こういうタイプの人は同性からはあまり好かれないのだろうと思ったが、今の美和には新しい視点に触れたようで心地よかった。
「普通、自分のお兄さんがそんなふうだったら、嫌だったりしませんか?」
え? そうなの? と不思議そうな顔見せてから、葉子は笑った。私、普通じゃないかも、なんて彼女は思ってもいないのだろう。
「そうなのかしらね。でも、私にとってお兄ちゃんは天から降ってきた騎士だったから、ちょっとばかり人間離れしていたのかも。ちっちゃいときは一緒に暮らしてないし、初めて会ったときは小学校の高学年で、場所は浦河の牧場。お兄ちゃんは馬に乗って登場して、手を引いて馬に乗せてくれて。ね、絵に描いたような王子様の登場じゃない? その頃から中学くらいまで、お兄ちゃん、異様なくらい綺麗だった。あ、世間で言う美少年って感じじゃなかったけれどね。線の細い危なっかしい美少年ってのじゃなくて、すばしっこい野生の生き物みたいで、今よりずっと異国の血が色濃く出てて、誰もが振り返るって感じじゃなかったけど、見つめちゃったら目が離せなくなるみたいだった。私も、正直うちの兄はどうなっちゃうの、っていうくらいどきどきしてたのよ」
葉子は美和に微笑みかける。
「でも話してると、単にちょっと常識のずれた、都会に戸惑っている田舎もので、あの頃は気を抜いたら凄い北海道弁だったし」
「北海道弁?」
真の北海道弁、それはかなりアンバランスな組み合わせでかえってすとん、と納得のいく面もある。
「そう、北海道の沿岸部って、札幌とか内陸部とは違ってほとんど東北弁に近い感じなの。はっきりって何言ってるのか分からない時もあるし。それに、東京に来た頃、ものすごいわけの分からない言語も呟いてたの。竹流さんとお父さんが、アイヌ語だろうって」
アイヌ語、と美和は素直に素っ頓狂な声を出して、それからまた妙に安心した。
「つまり簡単に言うと凄く『ずれてた』のよ。だから、そのずれついでに、お兄ちゃんの好きな人が一番身近にいる男の人だって言われても、別にそうなんだ、って感じだったのかな。それに、中学の頃って私たちもちょっとそういうのに興味があったりもして、いささか常識を超えた恋愛を美化してたかもね。しかも、私たちにとって竹流さんは特別な人だったから、この人ならしょうがないか、どころか、もう積極的にこの人とくっつけちゃえ、って感じだったの。お兄ちゃんはお父さんと、つまり私の叔父さんだけど、一緒に暮らしてないから、ものすごいファザコンだと思うし。竹流さんはお兄ちゃんにとって、お父さんであり、兄貴であり、先生であり、目の前に世界を広げてくれたたった一人の人だった」
そんなに短絡的でいいのか、何よりこの人って物語と現実の落差とか常識と非常識の線引きを分かっているのかしら、でも、ちょっとだけ、何だか分かってしまう、と美和は思った。
「でも、今は少し違うかな。大学生の頃は、時々おっさんくさいって思うこともあるくらいで、お兄ちゃんももう普通の若者だったし、相変わらず多少ずれてたけど、見てるだけでどきどきするような感じでもなかったし。だけど、竹流さんとの関係は、その頃からのほうが気持ちは切羽詰ってたのかもしれない。お兄ちゃんが高校生の頃はね、本当にどうなのってくらい、いちゃいちゃしてたのよ、あの二人。正直見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだった。お兄ちゃんたちはそんなふうに周りが見てるなんて、これっぽっちも思ってなかったと思うけど」
葉子はまたにっこりと笑った。そしてちょっと告げ口をするような、噂話を楽しむような顔になった。あのね、あなただけに教えるけど、誰にも言わないでね、という顔だ。美和は思わず耳を寄せた。
「竹流さんはいつもお兄ちゃんに勉強を教えてたから、二人はよく訳の分からない数式がいっぱい並んだ小難しい物理学の本を広げて、何でそんな数字や記号の羅列にそこまでヒートアップできるのかっていうような喧嘩みたいなやり取りをしてたんだけど、その距離はないだろうって思うくらいお互い近くに座ってるし、竹流さんが灯妙寺に泊まりにきたら、いっつも一緒に寝てたし、時々、どこかで他人が見てるのを全く気にしないふうで竹流さんはお兄ちゃんの腰を抱くし、お兄ちゃんも何だかんだいいつつ全然身体が逃げてないし。でもその時は、見てて恥ずかしいって面は置いといて、それに多少はお兄ちゃんたちもそういう自分たちの感情を持て余したくらいのことはあっても、切羽詰ってるようには見えなかったかな」
「それはつまり、キスくらいはしてても、身体の関係はなかったってことですよね」
葉子は美和の呟きに少し驚いたようだが、微笑んで頷いた。
「そうだと思う」
「どこかで一線を越えたから、今はあんなに切羽詰ってるんだ」
「多分、お兄ちゃんの大学入試の前後かな。凄く異様なムードだったから。でも直ぐに二人は会わなくなっちゃって、それからお兄ちゃんは北海道で崖から落ちたの」
美和は葉子を見つめた。真の身体に残る傷跡を思い出した。
「誰も、お兄ちゃんが助かるとは思っていなかった。でももし、あの時お兄ちゃんが死んじゃってたら、竹流さんはどうなってたか分からない。ううん、あれは竹流さんがお兄ちゃんをあの世から引きずり戻してきたんだと、みんなそう思ってる。それからずっと、二人は微妙な距離を保って生きてるような気がするの。私、結婚するとき、ちゃんとお兄ちゃんを見ててね、って竹流さんに言ったんだけど」葉子は少しの間、自分の指を見つめる。その指に光る結婚指輪を、美和は違和感を持って見つめていた。「竹流さんは、お兄ちゃんを壊してしまうのが怖いと思ってる。お兄ちゃんは、竹流さんがまだるっこしいから自分も煮え切らないのかな。他にも少し理由があるかもしれないけど、こっちから見るとどっちもどっちに見える」
美和はふと自分の手を見つめる。
「葉子さんは、先生に自分の気持ちを伝えた?」
葉子は俯いたままの美和を見つめている、その気配を美和は感じながらずっと手元を見ていた。
「お兄ちゃんが好き?」
その葉子の問いは、責めるようでも、興味本位でもなかったが、美和は答えなかった。葉子は少し時間を置いてから、美和の問いに答えた。
「結婚式の前の日に、本当はお兄ちゃんのお嫁さんになりたかった、って告白したの。別に答えて欲しかったわけじゃなくて、ただ言っておきたかったのかな」
「先生は、今も葉子さんのこと、想ってると思う」
美和は顔を上げて言った。半ばろれつが回らないほどの早口になっていた。これに答えた葉子の声は、ゆったりと落ち着いて自信に満ちて聞こえた。
「うん、多分ね。私も、今でもお兄ちゃんが大好き。本当は竹流さんにも取られたくないくらい。でも、あの人たちは引き裂いたら死んじゃうかもしれない。生きているかもしれないけど、別の生き物になっちゃうかも、そんな気がするから、私は私で今はこれでいいと思えてる。それに、私は竹流さんのことも大好きなの。あの人は私たちのお父さんで、お兄さんで、私にとっては大親友で最高の王子様。だから大好きな二人が一緒にいてくれたら嬉しいし、他の人なんかと一緒になって欲しくないと思ってる」
やっぱりこの人はずれてる、と美和は思う。
「告白したら、すっきりするもの?」
「そうね、女ってずるいから、結構言っちゃったらすっきりして、言われた男のほうがうじうじ思うのかも」
美和は少し葉子が妬ましくなっていた。そんなふうに達観して二人の仲を認め、自分は簡単に他の人と結婚できるものだろうか。一体、どうやって自分の感情にけりをつけ、あるいは思い切り、その決意の中へ飛び込んで行けるというのだろう。
「私、先生と寝たの」
私は嫌な女だな、と美和は思った。だが、どこかで自分のほうがこの女性より優位にあることを示しておきたかったのかもしれない。だが、言ってしまってから顔を上げられなくなった。
そして、どこかで、真と寝たことが真への執着になっているのかもしれないと考えた。考えてみれば、真と寝てから、仁とは一度も、キスさえも交わしていない。そのことに思い当たったとき、美和は急に悲しくなってきた。
葉子は長い間黙っていた。その沈黙の間に美和の手は震えだし、自分が放ってしまった言葉の重みを、自分で味わう破目になった。情けなくて涙が出そうになったとき、葉子が優しい声で問いかけた。
「美和さん、恋人がいる?」
美和は頷いた。
「北条さん?」
美和はもう一度頷きながら、涙が零れてしまうのを止められなくなった。
「私も、お兄ちゃんが大好きだったけど、別の人と結婚した。プロポーズを受けたとき、思ったの。女には、一から百までこの人でなければならない、というのはないんだろうって」美和は微かに震えていたが、そこに被せられた葉子の声は凛として逞しかった。「どうして私が享志さんと結婚したのかって思ってるでしょ。女にとって愛は大事だけど、その人が自分のものであるという事は、もっと大事。お兄ちゃんは始めから私のものじゃなかったの。でもね、享志さんはお兄ちゃんの親友で、お兄ちゃんのことが大好きなのよ。彼は、私と一緒にお兄ちゃんを守るって言ってくれた。さっきこの人でなければならないってのはない、って言ったけれど、私にとって、享志さんと結婚するのは必然だったわけ」
美和はようやく顔を上げた。葉子は美和の涙を溜めた目を見て、それから幾らか穏やかな顔になった。
「男の人たちは、お兄ちゃんがもしかしたらこの世の人ではないかもしれない、なんて幻想みたいなこと信じてる。でも、そんなことはあるはずがないの。だけど、竹流さんも享志さんも、もしかして私のお父さんも、お兄ちゃんが手を離したらこの世から消えてしまう蜻蛉みたいに思ってる。お兄ちゃんのことを、守ってあげなければならないお姫様みたいに思ってるのよ」
葉子は自分の言葉に自分で頷いて、先を続けた。大事な論説を説明する研究者みたいだと美和は思った。
「つまり、男の人って守る対象が必要で、誰かを守るって構図が好きで、そのことで自尊心が満たされていないとだめなのよ。カップルの相手が自分より強いなんてありえないわけ。でも本当は女のほうが潜在的に強いし、社会的にもどんどん逞しくなってるから、女相手に男らしさを主張する場所がなくなったのかもね。そこにたまたま一見頼りなげでちょっと放っておけない、適応障害みたいな人間がいたから、あとはもう守らなきゃってことになって。そもそもお兄ちゃんって、何でか分からないけど、保護者意識を煽るのよね。私なんて、小学生の時から、うちの兄を守らなきゃ、って思ってたんだから」
葉子は美和に笑いかけた。
「でも、お兄ちゃんはかなりズレてるけど、ちょっと確かめればあれで結構その辺の男なんかよりずっと男気もあるし、逞しいとこもあるし、少なくとも蜻蛉ってわけじゃないのがわかるのにね。もちろん、たまに驚くような弱点があって、そこを責められると一気に崩れるような脆さを持ってるのは認めるけど、それは人間誰でもそういうとこがあると思うし」
葉子は美和を見つめてまた微笑んだ。
「男の人ってみんな馬鹿みたいでしょ。女はどの馬鹿に一生付き合っていくのかを決めるだけ」
美和はごめんなさい、と言った。
「どうして?」
「嫌なことを言って」
葉子は微笑みながら首を横に振った。
「大家さんは、私が先生と話してると、よく言ってたの。葉子ちゃんと一緒にいたときのことを思い出すって。私は、自分が葉子さんに似てるんだって思ってたけど、会ってみて似てるなんて思わなかった。じゃあ、きっと先生から受ける印象がそうなんだろうって思ったの。先生は私を抱きながら葉子さんのことを考えてたんじゃないかって」
葉子は少しの間、何かを考えていたようだったが、やがて確かめるような調子でゆっくりと話した。
「それは違うかもしれない。お兄ちゃんは私をお姫様のように大事にしてくれたけど、性的な対象とは思っていなかったと思う。お兄ちゃんが、高校生のときからずっと付き合っていた女の人と別れた後、私、ちょっとの間賭けをしていたの。お兄ちゃんがもし、一度でも私の手を握ってくれたら、どうあっても、押し倒してでもお兄ちゃんをものにしちゃおうって。その頃、お兄ちゃんはとても優しくて、私のことを一番にしてくれて、映画にも買物にもドライブにも連れてってくれた。秋の日に秩父の山奥まで流星を見に行ったの。少し離れたところに車を停めている人がいたけど、真夜中の山の中でほとんど二人きりだったのよ。私たちは手を握ってキスをしたっていいような状況だったと思うし、ほんの数センチのところにお兄ちゃんの手があったのに、お兄ちゃんは私の手に触れなかった。その時、私はこれまで通り、お兄ちゃんのお姫様のままでいよう、それしかないんだって思った」
葉子は美和を見てにこっと笑った。お姫様スマイルって、本当は裏があるかもよ、って顔で。
「本当は『お姫様』を演じ続けるのも結構大変だったんだけどね」
美和は俯いて、もう一度小さな声でごめんなさい、と言った。
この女性と真との間には、多分沢山の時間と沢山の想いの交錯があったのだろう。それを全て超えて、葉子は兄の親友と結婚し、真は彼自身さえ分からないほどの深い想いに身を焼いている。その長い時間は、美和には決して届かないものだと思えた。
急にこの人に嫌われたくないと思った。
そしてそう思ったとき、美和は自分自身と北条仁との間にあった時間が、決して他の誰とも共有できない時間だったことを考えた。それは二人の間でしか流れていない時間で、多分誰かに聞かれても説明のできないものだった。
「仁さんが好きなの。でも怖い。だからどこかに逃げ道を探してしまう。先生のことは逃げ道にしているつもりじゃなかったけど、でも今もよく分からないの」
「ねぇ、美和さん」
急にはっきりとした声で葉子は呼びかけた。
「きっとその人にとってとても大事な、真実の瞬間がやってくるのよ」
「真実の瞬間?」
「そう。時々、あの時の出来事が私の行く先を照らしてるって思うことがある。私にとっては、お兄ちゃんに初めて会った日、お兄ちゃんに告白もしないまま振られちゃった日、享志さんにプロポーズしてもらった日。それから、お兄ちゃんが崖から落ちたとき、病院でほとんど飲み食いもせずにお兄ちゃんの傍に座っていた竹流さんを見ていた日々。享志さんが、君たち兄妹を守りたいってプロポーズしてくれた時に、あの辛かった時の竹流さんの姿を思い出して、考えていたの。私もお兄ちゃんと竹流さんを守ろうって。何だか変だけど、自然にそう思ったの」
葉子はエレベーターの横の時計を見て、立ち上がった。
「そろそろ病室に戻らないと。竹流さんに会っていく?」
美和は首を横に振った。今、大家さんの顔を見たら泣いてしまいそうだと思った。葉子はそれ以上強制はしなかった。
「美和さん、お願いがあるの。あなたからもお兄ちゃんに伝えて。竹流さんの叔父さんが来たって。叔父さんはもう飛行機の算段をしているんだって。今ついていくかどうかは別にして、竹流さんに会っておかないと後悔するよって、脅しといていいから」
美和は急に与えられた大事な使命に思わず跳ね上がるように立ち、強く頷いた。
この人と、これから先ももう少し話したいと、そう思った。
(つづく)



お姫様はやっぱりちょっと壊れていますが、彼女の無理難題は王子も騎士も聞かざるを得ません。
「お兄ちゃんをお願いね」
この一言が、竹流の首を繋いでいる……そう、裏番(ラスボス)はやっぱりこの姫君でした。
もう一人のラスボスの登場はもう少しお待ちください(^^)
<次回予告>
「騙されたんじゃありませんよ。自分から抱かれに行ったんだ」
「お前、どうしちまったんだ」
「どうもしません。あなたの言うとおり、福嶋の言うとおりですよ。俺は福嶋と寝て、福嶋に狂うほどに感じさせられて、おかしくなったんだ。でも、普通ならそれだけのことで人を殺したくなんかならない。寺崎孝雄を刺したとき、俺は無茶苦茶に興奮していた。今でもまだ興奮している。あの時と一緒だ。俺は今までも二度ほど人を殺しかかっている。いや、一緒じゃない。何のために殺したかったのかも今はわからなくなっている。今でも福嶋に抱かれて、今でも寺崎孝雄の体にナイフをつきたてている。この身体に、この手に感触がはっきりとある」
「あいつが苦しむ姿を見せられて、お前がおかしくなっても仕方がないよ。けど、それは正当な理由だ。頼むからしっかりしてくれ。お前、永遠にあいつを失うことになって、耐えていけるのか。お前とあいつのことに、お前の親父や福嶋鋼三郎は何の関係もないだろうに。真、俺を狂わせんでくれ」
……なんだかあちこちでやけくそが続いているぞ?
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨169] 第36章 I LOVE YOU(3)恋とはそういうもの
【海に落ちる雨】第36章その(3)です。
前回は真の妹(従妹)の葉子とのガールズトークでしたが、今回は北条の屋敷に戻った美和。何やら揉めている仁とマコト、じゃなくて真(「にゃ?」……いや、君は揉めていない……って、マコト、どこ行ってたの? あ、ぷいって行っちゃった。関係ないけれど、この変換、本当にいいところで「真」じゃなくて「マコト」って変換されるんですよね。なんかおちょくってる?)。
今回は美和視点なので、細かいもめごとの理由は書かれていませんが、男たちにとってはそもそも愛や恋より重大な問題があったようで。彼らにとって「立場」「立ち位置」の問題はもっと大きなことらしく、仁は結局、真が肝心の根のところを自分に打ち明けてくれないことにイライラしていたのかもしれません。そこに「カワイイ弟分」への微妙な感情も混じって……あらら。半分目を瞑ってお楽しみください。えっと、18禁ほどの迫力はないので、そのままです。
ところで、前回「ずれてる」姫君の告白がありましたが、そもそも作者にとっての葉子の立ち位置はこんな感じ。
↓
彼女は生まれた時から母親に一度も抱いてもらったことがありません(母親は精神疾患で療養入院中、そのまま亡くなった)。記憶にある限りでは、脳外科医の父親はいつも家にいなくて、食卓にはお手伝いさんの作ってくれたご飯。小学校3年生の時、兄貴ができるかもしれないと聞かされて、北海道へ会いに行った。それはもう気合いを入れてお姫様になり切ったと思います。彼女の気持ちは→「食卓を囲む人を何が何でもゲットする」→だから「胃袋を掴んだら離さない」(おかげで真はいつも食べ物に不自由していないのです)
そこからの彼女は、掴んだ獲物は離さない、家族とか恋人とか、放っておいたら何かの拍子に崩壊するかもしれない関係なんて、それこそ紙切れ一枚。それよりもアロンアルファのように一度くっついたら離れない強力な粘着力で、新しい「家族」を作り上げる。そのためなら、非常識と言われても、兄貴が男に惚れているならその男とくっつける(?)、イタリアのマフィアも利用する(?)、兄貴の親友にはあらゆる面から兄貴をサポートさせる(金もあるし、人徳もあるし、何よりも絶対に親友を裏切らないという確信がある)、面倒くさい女は排除する……
これがこの恐ろしい姫君の正体です。そう、世界は彼女を中心に回っている……
そして、この物語の裏でシナリオを書き換え続けているあの男と、天と地の両方からこの物語を廻しているのです。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
前回は真の妹(従妹)の葉子とのガールズトークでしたが、今回は北条の屋敷に戻った美和。何やら揉めている仁とマコト、じゃなくて真(「にゃ?」……いや、君は揉めていない……って、マコト、どこ行ってたの? あ、ぷいって行っちゃった。関係ないけれど、この変換、本当にいいところで「真」じゃなくて「マコト」って変換されるんですよね。なんかおちょくってる?)。
今回は美和視点なので、細かいもめごとの理由は書かれていませんが、男たちにとってはそもそも愛や恋より重大な問題があったようで。彼らにとって「立場」「立ち位置」の問題はもっと大きなことらしく、仁は結局、真が肝心の根のところを自分に打ち明けてくれないことにイライラしていたのかもしれません。そこに「カワイイ弟分」への微妙な感情も混じって……あらら。半分目を瞑ってお楽しみください。えっと、18禁ほどの迫力はないので、そのままです。
ところで、前回「ずれてる」姫君の告白がありましたが、そもそも作者にとっての葉子の立ち位置はこんな感じ。
↓
彼女は生まれた時から母親に一度も抱いてもらったことがありません(母親は精神疾患で療養入院中、そのまま亡くなった)。記憶にある限りでは、脳外科医の父親はいつも家にいなくて、食卓にはお手伝いさんの作ってくれたご飯。小学校3年生の時、兄貴ができるかもしれないと聞かされて、北海道へ会いに行った。それはもう気合いを入れてお姫様になり切ったと思います。彼女の気持ちは→「食卓を囲む人を何が何でもゲットする」→だから「胃袋を掴んだら離さない」(おかげで真はいつも食べ物に不自由していないのです)
そこからの彼女は、掴んだ獲物は離さない、家族とか恋人とか、放っておいたら何かの拍子に崩壊するかもしれない関係なんて、それこそ紙切れ一枚。それよりもアロンアルファのように一度くっついたら離れない強力な粘着力で、新しい「家族」を作り上げる。そのためなら、非常識と言われても、兄貴が男に惚れているならその男とくっつける(?)、イタリアのマフィアも利用する(?)、兄貴の親友にはあらゆる面から兄貴をサポートさせる(金もあるし、人徳もあるし、何よりも絶対に親友を裏切らないという確信がある)、面倒くさい女は排除する……
これがこの恐ろしい姫君の正体です。そう、世界は彼女を中心に回っている……
そして、この物語の裏でシナリオを書き換え続けているあの男と、天と地の両方からこの物語を廻しているのです。





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葉子の話していた『真実の瞬間』は、まさにその日のうちに天から降ってきた。
東京に帰り、美和はさんざん迷った挙句に、マンションではなく、北条の屋敷に戻った。
色々な複雑な想いはあるが、このところ仁が憔悴しているように見えるのが気になっていて、ひとりでマンションにいても落ち着かないような気がしたのだ。
北条仁という男は大概自信に満ちていて、あまり落ち込んだり悩んだりしない人間に見えた。若い衆達を大事にし、時代劇に出てくるめ組の親分よろしく、困った人がいるとついつい顔も手も口も出してしまうような人間だった。たまにはその鷹揚さが他人を傷つけることもあるのだろうが、何となく人懐こいムードでそれを誤魔化してしまう。
勿論、人懐こい、というのはある側面の仁の顔で、ヤクザの跡継ぎとしての自分を世間に晒すときは、全く別の顔を見せる。美和自身は仁が啖呵を切る姿など見たことはないが、時折見せる剣呑な表情に、仁の中の全く別人格を感じることもある。
もともと華族でもある北条家の立場は、この世界では微妙な位置にある。それも東吾の豪快な性質のお蔭でなめられずに済んでいるようなものだ。この世界で生き残り、一家を守るために、絶対に舐められないようにと、どれほど仁が気を使っているか、想像に難くない。
不動産と株や金融で屋台座を支えている北条の経済基盤は、クスリや女を商売道具にしている周囲のヤクザ組織からは一線を画しているように見えていて、そのことがかえって東吾や仁のこの世界での居場所を微妙にしているところがあるからだ。
『生易しい』という批判を跳ね除けるように、仁は身体に彫り物を入れた。青白いヤクザと舐められることを嫌ったのだ。だから、親分筋の寛和会への義理は欠かさない。もしも抗争になれば、親元を助けるために一番に駆けつけるのだろう。
今なら目を瞑る、と言われて以来、仁はマンションにはやってこないし、美和を北条の屋敷に泊めている間も、全く美和に手を触れてくる気配もなかった。それどころか、真っ直ぐに美和の目を見ることもない。仁は美和の答えを待っているのか、もう諦めているのか、あるいはそれ以外の辛い決心を自らに迫っているのか、実際には美和も摑みかねていた。
あの日、若い衆たちが意識も朦朧とした真を連れ帰った日から、仁の目つきがより険しくなった。それからの数日、美和は全く屋敷を出してもらえなかった。夜は、離れていても聞こえてくる真の呻き声に恐怖を覚えた。何があったのか、誰も説明してくれなかった。北条の若い衆も東吾も仁も、たった一つの卵を猛禽から守る鳥の群れのようになって、真を守っているように見えた。
数日後には真は、夜はともかく、昼間は比較的まともに見えるようになっていたが、縁側に着流しで座ったまま、ほとんど口もきかなかった。着物の袷から覗く胸は、ここ暫くの間にやつれたように見え、そうなると真は異様なほどに色気があるように見えた。自分の存在については何の興味もなく、無防備で無抵抗な真の姿は、美和でさえ、自分が男だったら押し倒して犯してしまいたいと思うほどに情けなくやるせなく、そして欲情をかきたてるようだった。
もっとも当の真は、享志が帰ってきてからは、出かけるようにもなったし、食事中も自分が食べているものに対して反応するようにもなった。それまでは空気でも食べているように食事中も全く表情がなかったが、少なくとも味付けに顔をしかめるようにはなっていた。
一方で、仁のほうはますます思い悩んでいるように見えた。
真には自覚がないのかもしれないが、昼間の活動と、夜の様子がまるで違っているからかもしれない。真は出かけて行っては、帰って来ると、誰とも口をきかずに一段と無表情になってどこかあらぬところを見ていた。
それならいっそ出かけずに屋敷でぼんやりしていてくれる方がまだ安心だと、仁は思っているのだろう。このところ仁が真を見つめる目には、いつもの仁にはない複雑なものが潜んでいる。それが単に真への欲情だとは思えないが、彼は何かに酷く傷ついているように見えた。
桜と一緒に真を迎えに行ったあの薄暗い地下のバーを思い出す。テーブルに身を丸めるようにして座っていた真は、まるで見たことのない毒蜘蛛の巣の中に永遠の安堵の棲家を見出しているようだった。あの時、桜がいなかったら、あんなふうに上手くやり切ることは出来なかった。真のあの場所に残して、後ずさりしていたかもしれない。
真はまだ、あの暗い場所と、そしてこちらのもう少し明るい場所を行ったり来たりしていて、特に夜になると、ずっと暗い方へと引きずられていってるようだった。一度精神の病を発症した者は、それを上手く隠していても、ちょっとしたことでフラッシュバックを起こし、また暗い世界に戻っていってしまう。その行き来は真を余計に混乱させ、昼間に見せる回復の分だけ、夜の闇にはより敏感になっているのかもしれなかった。
それとも、そんなふうに思う美和の方が、何かに憑りつかれているのかもしれない。
自分にとって辛いことが起こっても今は目も耳も塞ごうと思っていたのに、あの日、夜中に真を抱く仁を見てしまった。
その日は、窓を締め切ると湿気が篭もるようで、かといって冷房を入れる習慣があまりない北条の屋敷では、風が通るようにと、襖が開け放たれていた。
彼らが特別な行為をしていたとは思わない。真はただ魘されていたのだろう。魘されながら叫びを上げて、仁に縋りつく姿は、美和の全く知らない生き物のようで怖かった。それが実際の性行為でなくても、仁の抱き方には真を求め、犯して救おうとするようなニュアンスがあり、真の縋りつき方にも仁に助けを求め、必要なら抱かれようとしているような淫らな気配が漂っていた。
昼間、真が縁側に座ったまま身動きもしないでいると、仁が時々真を見張っていた。一度美和と目が合ったとき、仁は、この屋敷で自殺でもされたら寝覚めが悪い、と言った。
真に何があったのか、美和は聞きたくもなかったし、考えたくもなかった。仁に、ヤクザの俺がビビるような目をしていやがる、と言わせるような何かがあったのだろうとは想像したが、直接確かめようとは思わなかった。知ることが怖かった。
美和が京都から北条の屋敷に戻ったのは、夜の十時を回った頃だった。若に知らせます、という若い衆を止めて、美和は自分で仁のところに行くと言った。若い衆は一瞬、微妙な顔をしたが、美和が断固とした気配を示すと、一歩下がった。
広間のほうから諍うような気配が振動のように伝わってきていた。広間は特に締め切ってあったわけでもなく、全く無防備な、開け放たれた空間だった。
「それはあなたには関係がないことだ」
その時美和の耳に飛び込んできた、幾らかかすれた真の声は、異様に切羽詰って聞こえた。昨夜真が戻ってこなかったのは、桜のところに泊まったからだと知っていたが、今日ここに戻っているのは、仁が迎えにいったからなのだろう。
「関係がない? 俺はただお前が妙な固定観念に縛られていて、それが理由であいつに会えないと思い込んでいるんじゃないかと勘繰ってるんだ。心配しているんだよ」
「だから余計なお世話だって言ってるんです。第一、あなたがそんなことを知って、何になるというんですか」
真の声が、いつもの彼とは全く違う調子で聞こえている。美和は思わず緊張した。
「何にもならんよ。あぁ、確かに、お前と初めて会った時、唐沢からお前の親父がどうのという話は聞いた気はするよ。だが唐沢流のジョークだと思っていた。ここに来て、皆がお前には人殺しの血が流れているだの何だのと言って、お前を腫物を触るように奇妙に扱う。これじゃ、勘繰ってくれと言われているようなものだ。俺はな、お前の親父が誰だか知りたいんじゃないよ。お前がそんなことに縛られてるのが堪らないだけだ」
その時、部屋をひとつ隔てた向こうの、全く美和からも開けっ広げになった場所で、真は突然仁を押し倒し、真のほうから仁に口づけた。仁は真の肩を摑んだが、そのまま二人は縺れ合うように、どちらかといえば獣が殺しあうような気配で長い間お互いを貪っているように見えた。
「これで満足ですか」
真の声は、いつか宝田と賢二と一緒に連れて行ってもらった料亭で、『叔父』と話していた時の冷たく乾いた声と同じだった。
仁は少しの時間を置いて、怒気を帯びた声で答える。
「福嶋鋼三郎のような男に騙されて身を売りやがって」
「騙されたんじゃありませんよ。自分から抱かれに行ったんだ」
「お前、どうしちまったんだ」
「どうもしません。あなたの言うとおり、福嶋の言うとおりですよ。俺は福嶋と寝て、福嶋に狂うほどに感じさせられて、おかしくなったんだ。でも、普通ならそれだけのことで人を殺したくなんかならない。寺崎孝雄を刺したとき、俺は無茶苦茶に興奮していた。今でもまだ興奮している。あの時と一緒だ。俺は今までも二度ほど人を殺しかかっている。いや、一緒じゃない。何のために殺したかったのかも今はわからなくなっている。今でも福嶋に抱かれて、今でも寺崎孝雄の体にナイフをつきたてている。この身体に、この手に感触がはっきりとある」
仁は組み敷かれたままだったが、思い切り真の頬を打った。真が狂ったように仁に殴りかかろうとすると、仁は真をきつく抱き寄せ、そのまま愛しげに真の頭を抱いた。
「あいつが苦しむ姿を見せられて、お前がおかしくなっても仕方がないよ。けど、それは正当な理由だ。頼むからしっかりしてくれ。お前、永遠にあいつを失うことになって、耐えていけるのか。お前とあいつのことに、お前の親父や福嶋鋼三郎は何の関係もないだろうに。なぁ、真、これ以上俺を狂わせんでくれ」
最後の部分は懇願するような、何かを必死で求める子どものような、それでいて淫猥な響きを持っていた。仁は真を少し離して、彼の頬に触れた。真の唇が微かに動き、何かを言った。美和には助けてと言っているよう見えた。仁は突然何かに突き動かされたようにもう一度真を抱き寄せた。貪るように唇を吸いながら、仁の手は真のシャツのボタンを気忙しそうに外し始める。真は肩で息をしながら、逆に仁を求めるようにぶつけ合うようなキスを返し、ただ仁の手が求めるままにさせていた。
美和は呆然と突っ立っていた。
仁は、真を愛しいと思っているのだ。それが女に対する恋とか愛とかとは違う種類のものだというのは何となく理解している。ただその存在が不安でもどかしいのだ。それもよく分かっている。仁は、懸命に何かと戦っている、それを表に出すこともできない、ただ己の心の内で沸騰する火の玉を持て余し唸り続けている、その真の心を抱いていてやりたいと思っているのだ。そして真は、どうしても仁に全てを預けることも甘えることもできない、それでも、本当に縋りたい相手に真っ直ぐに向かっていけない心を、誰かに救い上げて欲しいと足掻いているのだ。
仁さん、その人にそれ以上近付かないで、それ以上心を持っていかれないで、と喉まで言葉が突き上げてきたが、そのまま引っ掛かって留まってしまった。
甘いこと言わないでぶっ殺しちゃなさい、という桜の声が蘇ったが、美和にはどうすることもできなかった。
その時。
「あんた、ちょっと小娘、何ぼやっとしてんの。仁があんたに本気だって言うから、ちょっと猶予期間を与えてやってやったってのに、冗談じゃない。あんたのつもりがよく分かったよ。こういうのを指銜えて見てるようじゃ、失格だね」
それは先日この屋敷で仁に言い寄っていた水商売風の女だった。
女は今日は藍色の江戸小紋を小粋に着こなしており、美和に一瞥をくれると、美和の手を引っ張って、すたすたと部屋を横切って広間に行った。
そして、広間の仕切り襖で美和の手を離すと、いきなり胸元から出した匕首の鞘を抜き、まさに周囲も気にせず絡み合っていた仁と真の耳元の畳にざっくりと突き刺した。
美和も思わず声をあげそうになったが、まず驚いて飛び起きたのは仁だった。仁は女を見つめたまま、真の身体を庇うように抱き締めていた。
「あんたら、男同士で傷舐め合っていちゃいちゃしてんじゃないよ。男ってのは何だってそう、うじうじしてんだろうね。誰かに抱かれようが、誰かと刺し違えようが、腹括ってんだったらすっぱり忘れやがれってんだ。仁、小娘が泣いてるよ。あんたも罪な男だね。もういい加減、はっきり言ってやりな。お前には極道の妻は務まらない、すっぱり別れようってさ」
真は半分正気でないような、いやあるいはしっかり正気のような顔で、ただ女の顔を振り返り見ている。真の肌蹴た胸に一瞥をくれた女は、一瞬美和を振り返った。
その時改めて美和の目に映った女は、前に見たときよりもぐっと色気を増していて、濃く描かれた眉の下の目尻は、切れ長できりりと力強く持ち上がっていた。
仁はわざとゆっくりとした動きで女の視線を追うようにして、黙って美和を見つめている。美和の存在に驚いているような顔ではなかった。
「ちょっと、あんたは顔貸しな」
女は唐突に真を引っ張り、奥のほうへ勝手知ったるように、着物の裾で小気味いい音を立てて歩き去っていく。美和は呆然とその勢いを見送り、それからふと仁が自分を見つめ続けている視線に気が付いた。
美和も仁を見つめた。仁は着流しの袷を整え、胡坐をかいて微かに上を向き、息を吐き出した。
「昔っからあの喧嘩っ早さだけは始末に負えねぇ」
美和は黙っていた。頭が混乱して、今何をするべきか、何を言うべきか、全く検討もつかなかった。仁は胡坐をかいたままの姿勢でもう一度息を吐き出し、それから徐に美和を見た。
まだ暫く見つめあい、やがて仁が静かな、抑えるような声で言った。
「あいつの言うとおりだな、美和」
仁が何を言い出すのか、恐ろしくて美和は震えた。仁は淡々と低い声で先を続けた。あるいは感情を押し殺しているのかもしれなかった。
「いい潮時かもしれない。俺はこの通り浮気性な男だし、お前のために堅気になってやることもできない。お前も、どう転んだって極道に嫁入りは出来んだろう」
その瞬間、美和の中で突然雪崩のようにずり落ち、走り始めた感情は、もう後からどれほど思い出しても思い出せない種類の激情だった。
美和はその場で突然、着ていたものを全て脱ぎ捨てた。
たとえ屋敷の誰が見ていようとも、仁とこの広間で堂々と行為をしてやろうと美和は思った。今そうしなければ、永遠に仁を失ってしまう、という恐怖が突然に湧き起こり、ただ居ても立ってもいられない気持ちになった。仁と共有していた全ての時間がなかったことになってしまうことが、ただわけもなく苦しく、叫びだしたくなった。
仁は、唐突な美和の行動にただ呆然と美和を見ているだけで、美和が仁のところまで素っ裸で大股で近付いた時も、まだ何の反応もせずに美和を見上げていた。
だが、美和が仁に屈みこみ、仁の着流しの裾を広げようとすると、仁はかすれた声でよさないか、と言った。仁はそう言ってから暫くの間、混乱した顔をしていた。美和は突然突き上げてきた衝動に任せて、仁の足の間に口を近づけ、中途半端に大きくなったままの仁を銜えようとした。
仁は一瞬震え、それから美和、と呼びかけた。もう一度美和、と呼んで、仁は美和の肩を摑んで引き上げ、そのまま美和を抱き締めた。仁の腕の力は強く、どうしようもないとでもいうように苦しく美和を締め付けた。
「よさないか」
仁は低い、明瞭な声でそう言った。仁自身をなだめようとしているように聞こえた。仁はゆっくりと美和を離すと、着流しを脱ぎ、美和の裸の身体に掛けた。
「衝動的に決めることじゃない」
そう言って仁は美和を抱き上げ、そのまま奥の寝室に連れて行く。美和を布団に降ろすと、静かに身体を重ね抱き締めただけで、美和の額に口づけると、仁は素っ裸のまま立ち上がった。
「一緒にいてくれないの」
恐らく美和は初めて、泣きそうな声で仁に訴えた。仁は背中を向けたままだった。
「俺も、頭を冷やしたほうが良さそうだ」
美和は仁の背中の龍を見つめていた。蠕く龍は目を光らせ、本当にお前に覚悟があるかと聞いている。美和は目を閉じた。私も頭を冷やそう、と思った。
もう一度目を開けると、仁の姿はなく、明りも消えて、ただ真っ暗だった。
微かに遠くで風がなっている。密やかな睦事の音が衣擦れのように闇の中で交わされている。もしかしてあの女と仁が、と思ったが、不意にそれは違う、仁を信じたいと思った。幾つかの襖を通しても伝わってくる艶事の気配は、どこか必死で、それでいて静かに快楽を貪るように聞こえた。美和はその音を聞きながら、自分の身体がじわりと濡れてくるのを感じた。
仁を愛していると、美和は今はっきりとその言葉を頭の中に浮かべることができた。あの女はまだしも、真に仁を渡したくないと、そう思った。美和は、自分が一時とは言え心から惹かれた人間の、底なし沼のような引力を、自分こそがよく知っていると思った。仁が同じようにそれに惹かれていることが許せなかった。
今、自分は明らかに嫉妬していると思った。
真に対する捨てきれなかった想いの根底にある複雑な感情は、仁の真への想いと絡まってしまっている。仁は始めから、真を特別な場所においているような気がしていた。いつもの仁ならもっとさっさと口説き落としている、そして口説き落とせなければさっさと身を引く、そういう潔さがあるのに、たとえ大和竹流の存在がそうさせるのだとしても、真だけに対しては今は手を出さずに、それでもいつかは、と思っているのではないかと、美和は時々仁の横顔を見ながらそう感じていた。
それが、葉子の言う男の人たちが抱いている幻想の結果だとしても、仁自身はそんなことを深く考えてはいないだろう。単純に、仁は真が愛おしいのだろうと思える。そういう仁の感情を、あの日仁が始めて美和に真の昔の写真を見せた瞬間から、美和は悟っていたような気がした。そして美和は、あの瞬間、仁が無邪気に恋をしていた少年への想いを、共有したのかもしれない。
仁が想い、仁が優しく声を掛け、仁がその唇に触れようとするから、美和は真を同じ目で見つめている。そしてその時、美和はまだ会う前から、ずっと真に嫉妬していたことに気が付いたのだ。
美和は仁の着流しに染み込んだ、仁の男臭いにおいを吸い込み、ただ堪らない気持ちになって自分の中にそっと指を挿れた。そこは溢れるように濡れていて、仁を求めていた。仁の着物の襟が微かに、まだ子どものようだった胸に触れ、乳首が硬く勃ちあがると、身体が震える。美和は、いつも仁がするように優しくではなく、強く自分の胸の突起を摘み、身体の奥が明らかにじわりと熱を上げたのを感じた。身体が疼き、芯から震えるような心地がして、脚を広げてゆっくりと指を動かし、ただその場所に仁のものを受け入れていることを思い描き、微かに乱れた息を吐き出しながら、今、美和は生まれて初めて女になったのだと思った。
(つづく)




次回、第36章の最終部分です。いや、このあたり、やっぱりちょっと照れるな。真と仁が何しても、真と福嶋が何しても、一向にどうでもいいのに……
<次回予告>
「いいのか。仁さんに惚れてるんだろう?」
「惚れてるさ。でもあたしは三十年近くも待ってるんだよ。今更急ぐ必要なんてないんだ。あと何年か待つくらいどうってことない。仁は直ぐに小娘に飽きるだろうし、小娘ははなっから極道の妻になれる玉じゃないよ。言っとくけど、あたしが小娘の立場だったら、あんたの胸に匕首を突き立ててたよ」
(本当の意味で真を立ち直らせたのはこの女かも? いや、大して立ち直っていないけれど)



葉子の話していた『真実の瞬間』は、まさにその日のうちに天から降ってきた。
東京に帰り、美和はさんざん迷った挙句に、マンションではなく、北条の屋敷に戻った。
色々な複雑な想いはあるが、このところ仁が憔悴しているように見えるのが気になっていて、ひとりでマンションにいても落ち着かないような気がしたのだ。
北条仁という男は大概自信に満ちていて、あまり落ち込んだり悩んだりしない人間に見えた。若い衆達を大事にし、時代劇に出てくるめ組の親分よろしく、困った人がいるとついつい顔も手も口も出してしまうような人間だった。たまにはその鷹揚さが他人を傷つけることもあるのだろうが、何となく人懐こいムードでそれを誤魔化してしまう。
勿論、人懐こい、というのはある側面の仁の顔で、ヤクザの跡継ぎとしての自分を世間に晒すときは、全く別の顔を見せる。美和自身は仁が啖呵を切る姿など見たことはないが、時折見せる剣呑な表情に、仁の中の全く別人格を感じることもある。
もともと華族でもある北条家の立場は、この世界では微妙な位置にある。それも東吾の豪快な性質のお蔭でなめられずに済んでいるようなものだ。この世界で生き残り、一家を守るために、絶対に舐められないようにと、どれほど仁が気を使っているか、想像に難くない。
不動産と株や金融で屋台座を支えている北条の経済基盤は、クスリや女を商売道具にしている周囲のヤクザ組織からは一線を画しているように見えていて、そのことがかえって東吾や仁のこの世界での居場所を微妙にしているところがあるからだ。
『生易しい』という批判を跳ね除けるように、仁は身体に彫り物を入れた。青白いヤクザと舐められることを嫌ったのだ。だから、親分筋の寛和会への義理は欠かさない。もしも抗争になれば、親元を助けるために一番に駆けつけるのだろう。
今なら目を瞑る、と言われて以来、仁はマンションにはやってこないし、美和を北条の屋敷に泊めている間も、全く美和に手を触れてくる気配もなかった。それどころか、真っ直ぐに美和の目を見ることもない。仁は美和の答えを待っているのか、もう諦めているのか、あるいはそれ以外の辛い決心を自らに迫っているのか、実際には美和も摑みかねていた。
あの日、若い衆たちが意識も朦朧とした真を連れ帰った日から、仁の目つきがより険しくなった。それからの数日、美和は全く屋敷を出してもらえなかった。夜は、離れていても聞こえてくる真の呻き声に恐怖を覚えた。何があったのか、誰も説明してくれなかった。北条の若い衆も東吾も仁も、たった一つの卵を猛禽から守る鳥の群れのようになって、真を守っているように見えた。
数日後には真は、夜はともかく、昼間は比較的まともに見えるようになっていたが、縁側に着流しで座ったまま、ほとんど口もきかなかった。着物の袷から覗く胸は、ここ暫くの間にやつれたように見え、そうなると真は異様なほどに色気があるように見えた。自分の存在については何の興味もなく、無防備で無抵抗な真の姿は、美和でさえ、自分が男だったら押し倒して犯してしまいたいと思うほどに情けなくやるせなく、そして欲情をかきたてるようだった。
もっとも当の真は、享志が帰ってきてからは、出かけるようにもなったし、食事中も自分が食べているものに対して反応するようにもなった。それまでは空気でも食べているように食事中も全く表情がなかったが、少なくとも味付けに顔をしかめるようにはなっていた。
一方で、仁のほうはますます思い悩んでいるように見えた。
真には自覚がないのかもしれないが、昼間の活動と、夜の様子がまるで違っているからかもしれない。真は出かけて行っては、帰って来ると、誰とも口をきかずに一段と無表情になってどこかあらぬところを見ていた。
それならいっそ出かけずに屋敷でぼんやりしていてくれる方がまだ安心だと、仁は思っているのだろう。このところ仁が真を見つめる目には、いつもの仁にはない複雑なものが潜んでいる。それが単に真への欲情だとは思えないが、彼は何かに酷く傷ついているように見えた。
桜と一緒に真を迎えに行ったあの薄暗い地下のバーを思い出す。テーブルに身を丸めるようにして座っていた真は、まるで見たことのない毒蜘蛛の巣の中に永遠の安堵の棲家を見出しているようだった。あの時、桜がいなかったら、あんなふうに上手くやり切ることは出来なかった。真のあの場所に残して、後ずさりしていたかもしれない。
真はまだ、あの暗い場所と、そしてこちらのもう少し明るい場所を行ったり来たりしていて、特に夜になると、ずっと暗い方へと引きずられていってるようだった。一度精神の病を発症した者は、それを上手く隠していても、ちょっとしたことでフラッシュバックを起こし、また暗い世界に戻っていってしまう。その行き来は真を余計に混乱させ、昼間に見せる回復の分だけ、夜の闇にはより敏感になっているのかもしれなかった。
それとも、そんなふうに思う美和の方が、何かに憑りつかれているのかもしれない。
自分にとって辛いことが起こっても今は目も耳も塞ごうと思っていたのに、あの日、夜中に真を抱く仁を見てしまった。
その日は、窓を締め切ると湿気が篭もるようで、かといって冷房を入れる習慣があまりない北条の屋敷では、風が通るようにと、襖が開け放たれていた。
彼らが特別な行為をしていたとは思わない。真はただ魘されていたのだろう。魘されながら叫びを上げて、仁に縋りつく姿は、美和の全く知らない生き物のようで怖かった。それが実際の性行為でなくても、仁の抱き方には真を求め、犯して救おうとするようなニュアンスがあり、真の縋りつき方にも仁に助けを求め、必要なら抱かれようとしているような淫らな気配が漂っていた。
昼間、真が縁側に座ったまま身動きもしないでいると、仁が時々真を見張っていた。一度美和と目が合ったとき、仁は、この屋敷で自殺でもされたら寝覚めが悪い、と言った。
真に何があったのか、美和は聞きたくもなかったし、考えたくもなかった。仁に、ヤクザの俺がビビるような目をしていやがる、と言わせるような何かがあったのだろうとは想像したが、直接確かめようとは思わなかった。知ることが怖かった。
美和が京都から北条の屋敷に戻ったのは、夜の十時を回った頃だった。若に知らせます、という若い衆を止めて、美和は自分で仁のところに行くと言った。若い衆は一瞬、微妙な顔をしたが、美和が断固とした気配を示すと、一歩下がった。
広間のほうから諍うような気配が振動のように伝わってきていた。広間は特に締め切ってあったわけでもなく、全く無防備な、開け放たれた空間だった。
「それはあなたには関係がないことだ」
その時美和の耳に飛び込んできた、幾らかかすれた真の声は、異様に切羽詰って聞こえた。昨夜真が戻ってこなかったのは、桜のところに泊まったからだと知っていたが、今日ここに戻っているのは、仁が迎えにいったからなのだろう。
「関係がない? 俺はただお前が妙な固定観念に縛られていて、それが理由であいつに会えないと思い込んでいるんじゃないかと勘繰ってるんだ。心配しているんだよ」
「だから余計なお世話だって言ってるんです。第一、あなたがそんなことを知って、何になるというんですか」
真の声が、いつもの彼とは全く違う調子で聞こえている。美和は思わず緊張した。
「何にもならんよ。あぁ、確かに、お前と初めて会った時、唐沢からお前の親父がどうのという話は聞いた気はするよ。だが唐沢流のジョークだと思っていた。ここに来て、皆がお前には人殺しの血が流れているだの何だのと言って、お前を腫物を触るように奇妙に扱う。これじゃ、勘繰ってくれと言われているようなものだ。俺はな、お前の親父が誰だか知りたいんじゃないよ。お前がそんなことに縛られてるのが堪らないだけだ」
その時、部屋をひとつ隔てた向こうの、全く美和からも開けっ広げになった場所で、真は突然仁を押し倒し、真のほうから仁に口づけた。仁は真の肩を摑んだが、そのまま二人は縺れ合うように、どちらかといえば獣が殺しあうような気配で長い間お互いを貪っているように見えた。
「これで満足ですか」
真の声は、いつか宝田と賢二と一緒に連れて行ってもらった料亭で、『叔父』と話していた時の冷たく乾いた声と同じだった。
仁は少しの時間を置いて、怒気を帯びた声で答える。
「福嶋鋼三郎のような男に騙されて身を売りやがって」
「騙されたんじゃありませんよ。自分から抱かれに行ったんだ」
「お前、どうしちまったんだ」
「どうもしません。あなたの言うとおり、福嶋の言うとおりですよ。俺は福嶋と寝て、福嶋に狂うほどに感じさせられて、おかしくなったんだ。でも、普通ならそれだけのことで人を殺したくなんかならない。寺崎孝雄を刺したとき、俺は無茶苦茶に興奮していた。今でもまだ興奮している。あの時と一緒だ。俺は今までも二度ほど人を殺しかかっている。いや、一緒じゃない。何のために殺したかったのかも今はわからなくなっている。今でも福嶋に抱かれて、今でも寺崎孝雄の体にナイフをつきたてている。この身体に、この手に感触がはっきりとある」
仁は組み敷かれたままだったが、思い切り真の頬を打った。真が狂ったように仁に殴りかかろうとすると、仁は真をきつく抱き寄せ、そのまま愛しげに真の頭を抱いた。
「あいつが苦しむ姿を見せられて、お前がおかしくなっても仕方がないよ。けど、それは正当な理由だ。頼むからしっかりしてくれ。お前、永遠にあいつを失うことになって、耐えていけるのか。お前とあいつのことに、お前の親父や福嶋鋼三郎は何の関係もないだろうに。なぁ、真、これ以上俺を狂わせんでくれ」
最後の部分は懇願するような、何かを必死で求める子どものような、それでいて淫猥な響きを持っていた。仁は真を少し離して、彼の頬に触れた。真の唇が微かに動き、何かを言った。美和には助けてと言っているよう見えた。仁は突然何かに突き動かされたようにもう一度真を抱き寄せた。貪るように唇を吸いながら、仁の手は真のシャツのボタンを気忙しそうに外し始める。真は肩で息をしながら、逆に仁を求めるようにぶつけ合うようなキスを返し、ただ仁の手が求めるままにさせていた。
美和は呆然と突っ立っていた。
仁は、真を愛しいと思っているのだ。それが女に対する恋とか愛とかとは違う種類のものだというのは何となく理解している。ただその存在が不安でもどかしいのだ。それもよく分かっている。仁は、懸命に何かと戦っている、それを表に出すこともできない、ただ己の心の内で沸騰する火の玉を持て余し唸り続けている、その真の心を抱いていてやりたいと思っているのだ。そして真は、どうしても仁に全てを預けることも甘えることもできない、それでも、本当に縋りたい相手に真っ直ぐに向かっていけない心を、誰かに救い上げて欲しいと足掻いているのだ。
仁さん、その人にそれ以上近付かないで、それ以上心を持っていかれないで、と喉まで言葉が突き上げてきたが、そのまま引っ掛かって留まってしまった。
甘いこと言わないでぶっ殺しちゃなさい、という桜の声が蘇ったが、美和にはどうすることもできなかった。
その時。
「あんた、ちょっと小娘、何ぼやっとしてんの。仁があんたに本気だって言うから、ちょっと猶予期間を与えてやってやったってのに、冗談じゃない。あんたのつもりがよく分かったよ。こういうのを指銜えて見てるようじゃ、失格だね」
それは先日この屋敷で仁に言い寄っていた水商売風の女だった。
女は今日は藍色の江戸小紋を小粋に着こなしており、美和に一瞥をくれると、美和の手を引っ張って、すたすたと部屋を横切って広間に行った。
そして、広間の仕切り襖で美和の手を離すと、いきなり胸元から出した匕首の鞘を抜き、まさに周囲も気にせず絡み合っていた仁と真の耳元の畳にざっくりと突き刺した。
美和も思わず声をあげそうになったが、まず驚いて飛び起きたのは仁だった。仁は女を見つめたまま、真の身体を庇うように抱き締めていた。
「あんたら、男同士で傷舐め合っていちゃいちゃしてんじゃないよ。男ってのは何だってそう、うじうじしてんだろうね。誰かに抱かれようが、誰かと刺し違えようが、腹括ってんだったらすっぱり忘れやがれってんだ。仁、小娘が泣いてるよ。あんたも罪な男だね。もういい加減、はっきり言ってやりな。お前には極道の妻は務まらない、すっぱり別れようってさ」
真は半分正気でないような、いやあるいはしっかり正気のような顔で、ただ女の顔を振り返り見ている。真の肌蹴た胸に一瞥をくれた女は、一瞬美和を振り返った。
その時改めて美和の目に映った女は、前に見たときよりもぐっと色気を増していて、濃く描かれた眉の下の目尻は、切れ長できりりと力強く持ち上がっていた。
仁はわざとゆっくりとした動きで女の視線を追うようにして、黙って美和を見つめている。美和の存在に驚いているような顔ではなかった。
「ちょっと、あんたは顔貸しな」
女は唐突に真を引っ張り、奥のほうへ勝手知ったるように、着物の裾で小気味いい音を立てて歩き去っていく。美和は呆然とその勢いを見送り、それからふと仁が自分を見つめ続けている視線に気が付いた。
美和も仁を見つめた。仁は着流しの袷を整え、胡坐をかいて微かに上を向き、息を吐き出した。
「昔っからあの喧嘩っ早さだけは始末に負えねぇ」
美和は黙っていた。頭が混乱して、今何をするべきか、何を言うべきか、全く検討もつかなかった。仁は胡坐をかいたままの姿勢でもう一度息を吐き出し、それから徐に美和を見た。
まだ暫く見つめあい、やがて仁が静かな、抑えるような声で言った。
「あいつの言うとおりだな、美和」
仁が何を言い出すのか、恐ろしくて美和は震えた。仁は淡々と低い声で先を続けた。あるいは感情を押し殺しているのかもしれなかった。
「いい潮時かもしれない。俺はこの通り浮気性な男だし、お前のために堅気になってやることもできない。お前も、どう転んだって極道に嫁入りは出来んだろう」
その瞬間、美和の中で突然雪崩のようにずり落ち、走り始めた感情は、もう後からどれほど思い出しても思い出せない種類の激情だった。
美和はその場で突然、着ていたものを全て脱ぎ捨てた。
たとえ屋敷の誰が見ていようとも、仁とこの広間で堂々と行為をしてやろうと美和は思った。今そうしなければ、永遠に仁を失ってしまう、という恐怖が突然に湧き起こり、ただ居ても立ってもいられない気持ちになった。仁と共有していた全ての時間がなかったことになってしまうことが、ただわけもなく苦しく、叫びだしたくなった。
仁は、唐突な美和の行動にただ呆然と美和を見ているだけで、美和が仁のところまで素っ裸で大股で近付いた時も、まだ何の反応もせずに美和を見上げていた。
だが、美和が仁に屈みこみ、仁の着流しの裾を広げようとすると、仁はかすれた声でよさないか、と言った。仁はそう言ってから暫くの間、混乱した顔をしていた。美和は突然突き上げてきた衝動に任せて、仁の足の間に口を近づけ、中途半端に大きくなったままの仁を銜えようとした。
仁は一瞬震え、それから美和、と呼びかけた。もう一度美和、と呼んで、仁は美和の肩を摑んで引き上げ、そのまま美和を抱き締めた。仁の腕の力は強く、どうしようもないとでもいうように苦しく美和を締め付けた。
「よさないか」
仁は低い、明瞭な声でそう言った。仁自身をなだめようとしているように聞こえた。仁はゆっくりと美和を離すと、着流しを脱ぎ、美和の裸の身体に掛けた。
「衝動的に決めることじゃない」
そう言って仁は美和を抱き上げ、そのまま奥の寝室に連れて行く。美和を布団に降ろすと、静かに身体を重ね抱き締めただけで、美和の額に口づけると、仁は素っ裸のまま立ち上がった。
「一緒にいてくれないの」
恐らく美和は初めて、泣きそうな声で仁に訴えた。仁は背中を向けたままだった。
「俺も、頭を冷やしたほうが良さそうだ」
美和は仁の背中の龍を見つめていた。蠕く龍は目を光らせ、本当にお前に覚悟があるかと聞いている。美和は目を閉じた。私も頭を冷やそう、と思った。
もう一度目を開けると、仁の姿はなく、明りも消えて、ただ真っ暗だった。
微かに遠くで風がなっている。密やかな睦事の音が衣擦れのように闇の中で交わされている。もしかしてあの女と仁が、と思ったが、不意にそれは違う、仁を信じたいと思った。幾つかの襖を通しても伝わってくる艶事の気配は、どこか必死で、それでいて静かに快楽を貪るように聞こえた。美和はその音を聞きながら、自分の身体がじわりと濡れてくるのを感じた。
仁を愛していると、美和は今はっきりとその言葉を頭の中に浮かべることができた。あの女はまだしも、真に仁を渡したくないと、そう思った。美和は、自分が一時とは言え心から惹かれた人間の、底なし沼のような引力を、自分こそがよく知っていると思った。仁が同じようにそれに惹かれていることが許せなかった。
今、自分は明らかに嫉妬していると思った。
真に対する捨てきれなかった想いの根底にある複雑な感情は、仁の真への想いと絡まってしまっている。仁は始めから、真を特別な場所においているような気がしていた。いつもの仁ならもっとさっさと口説き落としている、そして口説き落とせなければさっさと身を引く、そういう潔さがあるのに、たとえ大和竹流の存在がそうさせるのだとしても、真だけに対しては今は手を出さずに、それでもいつかは、と思っているのではないかと、美和は時々仁の横顔を見ながらそう感じていた。
それが、葉子の言う男の人たちが抱いている幻想の結果だとしても、仁自身はそんなことを深く考えてはいないだろう。単純に、仁は真が愛おしいのだろうと思える。そういう仁の感情を、あの日仁が始めて美和に真の昔の写真を見せた瞬間から、美和は悟っていたような気がした。そして美和は、あの瞬間、仁が無邪気に恋をしていた少年への想いを、共有したのかもしれない。
仁が想い、仁が優しく声を掛け、仁がその唇に触れようとするから、美和は真を同じ目で見つめている。そしてその時、美和はまだ会う前から、ずっと真に嫉妬していたことに気が付いたのだ。
美和は仁の着流しに染み込んだ、仁の男臭いにおいを吸い込み、ただ堪らない気持ちになって自分の中にそっと指を挿れた。そこは溢れるように濡れていて、仁を求めていた。仁の着物の襟が微かに、まだ子どものようだった胸に触れ、乳首が硬く勃ちあがると、身体が震える。美和は、いつも仁がするように優しくではなく、強く自分の胸の突起を摘み、身体の奥が明らかにじわりと熱を上げたのを感じた。身体が疼き、芯から震えるような心地がして、脚を広げてゆっくりと指を動かし、ただその場所に仁のものを受け入れていることを思い描き、微かに乱れた息を吐き出しながら、今、美和は生まれて初めて女になったのだと思った。
(つづく)



次回、第36章の最終部分です。いや、このあたり、やっぱりちょっと照れるな。真と仁が何しても、真と福嶋が何しても、一向にどうでもいいのに……
<次回予告>
「いいのか。仁さんに惚れてるんだろう?」
「惚れてるさ。でもあたしは三十年近くも待ってるんだよ。今更急ぐ必要なんてないんだ。あと何年か待つくらいどうってことない。仁は直ぐに小娘に飽きるだろうし、小娘ははなっから極道の妻になれる玉じゃないよ。言っとくけど、あたしが小娘の立場だったら、あんたの胸に匕首を突き立ててたよ」
(本当の意味で真を立ち直らせたのはこの女かも? いや、大して立ち直っていないけれど)
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨170] 第36章 I LOVE YOU(4)きっとそれも愛
【海に落ちる雨】第36章その(4)です。今回はさすがに18禁かなぁ。相変わらず、大したことのないシーンですが。念のため、相当年齢に達していない方は引き返してください(って、いうほど読者はいないのですけれど)。
5日おきくらいにはアップしようと思っていたのですが、今回は3月11日が迫っているので、変則で少し早めにアップしました。比較的短めなので、ご容赦ください。
ついでに、へんてこりんな孫タイトルになっていてすみません。これ、何の話だっけ? 愛の水中花?
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
5日おきくらいにはアップしようと思っていたのですが、今回は3月11日が迫っているので、変則で少し早めにアップしました。比較的短めなので、ご容赦ください。
ついでに、へんてこりんな孫タイトルになっていてすみません。これ、何の話だっけ? 愛の水中花?





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幾つかの部屋を勝手知ったるというように横切って、女は真を別室に連れ込んだ。
北条家の家屋敷の中では狭い部類に入る、六畳ほどの部屋だった。小奇麗に片付けられた部屋の片隅に鏡台と茶箪笥、隅にはやや大振りな布団が敷かれている。
薄暗い部屋の輪郭は、ぼんやりと豆電球の明かりだけで辛うじて読み取れる程度だった。
女は暫く真の顔を見ていたが、いきなり思い切り平手打ちを喰らわせると、真を布団に押し倒し、忙しなく真の腰のベルトの金具を外し、細くしなやかな手で真のものを救い出すと、手と口で愛撫した。やがて十分に大きくなったのを見届けると、すっと立ち上がり着物を脱ぐ。
女が襦袢まで脱ぎ、下着と腰紐だけになった瞬間に、真は身体を起こして女を腕に抱きとった。真のほうから女を組み敷くと、女は慈愛に満ちた菩薩のような顔をして、真の手が裾を開くのに任せていた。
女のその場所は暖かく潤んでいて、真は身体ごとこの女に深く預けたいと思った。女は、仁が最後まで外しそこなっていた真のシャツのボタンを全て外し、真の胸に緩やかに指を滑らせる。真はその瞬間に、女の中に深く自分自身を沈めた。
途中から、深雪を抱いているのだと錯覚していた。
女の身体の内側は、優しい海のように深く、静かに生命の始まりを予感させる。真はただ夢中で女を求め、女はなだめるように最も深いところまで真を導いた。福嶋に抱かれていたときには全く感じなかった穏やかな快感に、身体の芯まで癒されるような心地がして、ずっとこの女の中に留まっていたいと思った。女はそれが分かっているのか、性急に求めることなく、ゆっくりとした真の動きに合わせている。波に揺られるような穏やかな心地よさは、腰から頭までを包み込み、真を慰めた。
長い時間、真は女の中にいた。女もまた腰を震わせながら、真を包み込んでいた。そのうち更なる快楽を探し求めるように波は大きくなり、真は軽く喘ぎながら腰を動かした。女は真の身体の反応を敏感に読み取ると、徐に声を荒げて腰を真のほうへ、より強く絡みつくように持ち上げた。緩やかな波に任せるように、真も女も腰を動かし続け、やがて真は吸い込まれるように女の中に射精した。女は極度に真を締め付けることはなく真を穏やかに受け入れ、真が全て出し切るまでの不可解なほど長い時間、じんわりと腰を揺らめかせていた。
それからどれほどの時間だったのか、真には出し切った感覚がなく、まだずっと女の奥に身体を沈め続けていた。波に揺られ続けたまま、真は腰を女へとさらに深く押し付ける。このまま女の内側へ入り込み、その子宮に眠りたいような心地だった。
不意に、頬に触れた指に真は目を開けた。
「正気かい?」
それでも真の目は、まだ女の顔の輪郭を捉えていなかった。
「気持ちいいのは結構だけどね、くすぐったいよ」
女は慣れた口調でそう言った。暗がりでよく分からなかったが、照れたように視線を外す。相変わらず真は女の中に留まったままだった。
「本気で孕んじゃうかと思ったよ。深雪姉さんが惚れるはずだ」
真は一気に我に返った。その瞬間、真はずるっと女の中から滑り出た。女は、放心したままの真を下から抱くようにして、するりと抜け出すと、襦袢を軽く着込んで、部屋を出て行く。真は起き上がり、こめかみを押さえた。
二日酔いが冷めていないのだと思った。
女は直ぐに戻ってきて、一升瓶と二つのグラスを枕元に置くと、明りを灯し、衣桁から男物の着物を外して真の肩に掛け、背中からそっと肩を抱いて、飲むかい、と聞いた。
真は首を横に振った。
「二日酔いなんだ。それに酒は強いほうじゃない」
女は真の返事を無視して、二つのグラスに酒を注いだ。髪が艶やかで、結い上げた脇から零れる後れ毛が色っぽく、改めて見ると、言葉や態度よりも随分と女らしく優しく見える。女はグラスをひとつ、真に渡す。真は仕方なく受け取り、軽く乾杯をして半分まで飲み干した。胃が悲鳴を上げているのを感じて、思わず顔をしかめる。
「いい男じゃないか。小娘から仁を横取りしなくたって、十分間に合ってるんだろう」
真はグラスを畳に置いた。さっきまでの出来事が嘘のようで、仁と言い争っていたことまで現実味を無くし、今心の中には波が立っていなかった。
「仁さんを横取りしようとしたわけじゃない。ただ」
女は先を急がせなかった。真のグラスに更に注ごうとするのを、真は止める。
「あんたは」
真が聞くと、女はふと笑った。
「仁の従妹だよ。仁の許嫁でもある、って言いたいところだけど、それはあたしの勝手だからね。子どもん時から仁の女房になるって決めてたのに、今更あんな小娘に掻っ攫われるとは思ってなくてさ」
女はそう言ってグラスを空ける。口元が優雅で色気があり、目が力強く幾らか子どもっぽい。深雪の名前が出たことを聞いたつもりだったが、女は気が付かなかったようだった。
吸うかい、というように女は煙草を真に差し出す。真は有り難く受け取り、火を点けてもらった。煙を吸い込むときに顔を近づけて、女の香水も一緒に吸い込んでいた。媚薬のような香水だった。
煙草をゆっくりと何度か吹かし、そう言えばとち狂っていたからか、ここ何週間か煙草を吸っていないことに気が付いた。久しぶりに味わう煙を、肺が狂ったように欲しがっている。
「ここんとこ、仁も妙だったじゃないか。あんたの影響だろ」
さぁ、と真は返事をした。仁が真を心配してくれていたことが事実だとしても、仁を狂わせるほどのこともないと思っている。いや、あるとすれば、仁は真があまりにも簡単に福嶋鋼三郎と寝たことに狼狽えているのかもしれない。だが、そのことにもっとも狼狽えているのは真自身だった。そのことを突き詰めると、自分自身の性ようなものに触れる気がして、そのとてつもない闇が恐ろしくなり、考えないようにしてきた。
「あんたは」
「何さ」
女は真を見ないまま、煙を吐き出している。もう一度深雪のことを聞こうとしたものの、何故か聞き辛くなったので、話を自ら逸らした。
「いいのか。仁さんに惚れてるんだろう?」
「惚れてるさ。でもあたしは三十年近くも待ってるんだよ。今更急ぐ必要なんてないんだ。あと何年か待つくらいどうってことない。仁は直ぐに小娘に飽きるだろうし、小娘ははなっから極道の妻になれる玉じゃないよ。言っとくけど、あたしが小娘の立場だったら、あんたの胸に匕首を突き立ててたよ」
真は女の歯切れのいい言葉を聞きながら、不意に笑みが零れるのを感じた。それは自嘲でもあり、ただ本当に女の潔さにほっとしたのでもあった。女は一瞬怖い顔で真を睨み付けてから、ふと笑った。笑うと子どもっぽく、優しい風情に見えた。
「あんた、惚れた人がいるんだろう」
真は女から目を逸らし、もう一度煙を吸い込んだ。
「仁はそれで嫉妬してるのかい?」
奇妙な話の流れに真は顔を上げる。女は微笑んだ。
「仁はさ、人間に惚れるんだよ。惚れたら身体も求めちゃうあたりが困るんだけどさ。あんたが仁の神経を逆撫でする理由は、あたしが察するところ、あんたが煮え切らないからなんだろう。いつもの仁なら直ぐかっとなって、あんたをその人んところに引きずって行くんだけどさ、今回ばっかりは小娘への自分の感情と絡まっちまって、仁自身がこんぐらがってんのかねぇ」
この女は凄い女だ、と真は思い、暫く彼女の顔を無遠慮に見つめていた。
まさに仁の気持ちはこの女の言葉通りだと思った。仁がこのところ妙なのは、多分真のせいだと自覚はしていた。真が大和竹流のために我を忘れてしまっていたことを、仁は目と耳で、あるいはその肌で感じ続けていたのだ。そして仁の心に、忘れていようとしていたはずの事実を突きつけていた。
いつか、美和にもこういうことをさせてしまうのではないか。
人間は衝動によってこそ人を殺し、自分を追い詰める。追い詰めるような環境にいなければそれでいいが、仁の商売は、いつでも仁や周囲の人間を追い詰める類のものだ。そのことを仁は、美和に対してだけ目を瞑ってきていたのだ。
真は灰を落とし、心を静めた。真が竹流に会えないでいる理由を、仁が一番よくわかっている。多分、女の言うとおり、本来の仁なら京都に真を引きずって行くはずだった。
竹流の気持ちも、仁の気持ちも、深く考えると、真は叫びだしそうになった。だからできるだけそれを遠ざけてきた。仁が、真の父親のことを持ち出したのは、もう切羽詰って、そこにしか突破口を見いだせなくなっていたからなのだろう。
「何故、深雪を知っている?」
言葉を繋いでおかなければ、崩れそうになっている。ようやく真は聞いた。女はあぁ、と思い出したように頷いた。
「銀座なんて狭い町さ。あたしもホステスやってんだよ。あ、これでも店に出てる時は、ちゃんと丁寧で女らしい言葉でしゃべってんだよ。なんせ銀座はお上品な街だからね、客がビビっちまう。逆にここでお上品な言葉でしゃべったら、男衆に馬鹿にされちまうだろ。ヤクザって、ほんと、男尊女卑の世界だからね」そして自分の指の間の煙草を、少しの間弄ぶように揺らせた。「深雪姉さんが店持つ前だけど、二人とも同じ店で働いててさ、たんまに飲む仲だったんだ。あの人はあんまり自分の事は話さないけどさ、あたしは結構姉さんを頼りにしてたんだよ。この人は心に傷があるから優しいんだろうって思ってた」
女は静かに煙を吐き出す。真は女の顔を見つめる。不思議と穏やかな気持ちになっていた。
「それがこないだ、ここに来たら姉さんがいたんで、こっちはもうびっくりしたよ。足怪我したんだって、仁が預かってるってんでさ。実のところ、ここんとこ姉さんが店を閉めてたから、姉さんの店の客がうちに流れてきててね、深雪ちゃんはどうしたんだって、やたら聞かれてたんだよね。あんたのことは、もう随分前に客から聞いてたんだよ。深雪ちゃんが最近若い男と付き合ってる、あれは性質の悪いホストかジゴロじゃないかってさ、オヤジたちが心配しちゃって」
女は真の顔を見て笑う。
「それがなんだい、いい男じゃないか。ま、察するところ、オヤジたちの嫉妬だろうけどね。ここんとこ、あんたずっとぼーっとしてたから、私がこの家にしょっちゅう出入りしてたのも気が付かなかったろ?」
そう言ってから、女はわずかに俯き、少し笑みを噛み殺したようにしてから顔を上げた。
「そうじゃないね、一度、姉さんの店で会ってるんだよ。あんたは覚えてないだろうけどさ。実を言うとね、噂を確かめに行ったのさ。ちょっと一言、言ってやろうと思ったんだけど、あんたを見つめてる深雪姉さんの顔見てさ、あぁ、姉さんは本気だな、って分かったんだよ」
真は、深雪が今どうしているかを聞こうとして、混乱した自分の感情を保つ自信がなくなってしまい、やめた。だが、女はその辺りでは容赦しなかった。
「深雪姉さん、店を閉めるんだってさ。マンションも引き払ったそうだし」
真は女を見る。女はまるで菩薩のような顔をしていた。
「あんたは他に惚れた人がいるんだろうし、姉さんのことどころじゃないとは思うけどさ、会いに行ってやってくれないかな。姉さんは何も言わないけど、あんたに会いたがってると思うんだ」
真は顔を伏せ、目を閉じる。そんな資格が自分にあるだろうかと考えている。それに、深雪は狂ったように寺崎孝雄に匕首を突き立てた真を見ていた。深雪の怯えたような目が、真の網膜に蘇っていた。
不意に女の手が真の頬に触れ、軽く唇が触れた。
「思い切り引っぱたいちまったね。仁にもやられたから、暫く腫れてるかもね。言っとくけど、あたしが小娘の代わりにあんたの胸に匕首を突き立てなかったのは、深雪姉さんのためだ。それを忘れないでおくれよ」
真は、あんたは不思議な女だな、と言った。誰かの身体に匕首を突き立てる、ということを、この女は潔さにすり替えてしまった。
女はそうかい、と言いながら襦袢の襟を整える。男を納得させるのが上手い、と真が言うと、女は微かに微笑んだ。まさにさっき真を受け入れながら見せていた、菩薩のような顔だった。
「あたしは店の客とは寝ないけどね、セックスボランティアをやってんのさ」
真が言葉を理解できずに女を見ていると、女は帯も整えながら、綺麗な横顔を見せていた。
「障害者、色んな意味の障害者のさ、セックスの相手だよ。必要なんだ、彼らにも、愛や恋じゃなくても身体を慰めてくれる相手ってのがさ」
それに、と女は目を伏せて言った。
「あたしはいつだって、どうすれば仁に相応しい女になれるか、それだけを考えてるのさ」
真は暫くの間、無遠慮に女の顔を見つめていた。そして、ふと、唐沢調査事務所の爆発事故で下半身不随になった三上のことを思い浮かべた。この女が見たら、車椅子の三上は健常者で、一見五体満足に歩いている真が障害者に見えるのかもしれない。
「あんたには、俺が障害者に見えた?」
「そうだね。正確には、障害者になりたがってる、最も性質の悪い心の障害を抱えているって感じだよ。あたしがしていることは単なる一時的な癒しさ。あんたの病に特効薬はない。あるとしたら、たったひとつだ」
女の顔は、気品に満ち、厳しく優しい。美和も本気にならないと、この女に負けるかもしれないと心配になるくらいだった。
「知りたいかい?」
真は素直に頷いた。女は真に掛けてくれた着物の襟をそっと合わせた。
「愛してる」女はそう呟いて顔を上げた。「本気で惚れた相手にそう言うだけさ」
(第36章了、第37章『絵には真実が隠されている』につづく)




この姐さん、実は第1節の始めの方で出ているんですよ。真は深雪の店でニアミスしているんですね。
もっとも、姐さんの告白によると、噂を確かめに行った(真を見に行った)ってことだったようですが。
って、えらい長い伏線やなぁ~
それはともかく、こうしてみると、真ってやっぱりオスなんですけれどね、う~む。
それはともかく、ついに、全ての事件の解決編というのか、始末編の第37章までたどり着きました。あ~、長かったなぁ。あと最終話まで2章+終章の3章分。ようやくそんなことを言っても現実味を帯びてきたような気がします。
この先、事件のあらましに誰がどう関わったがある程度整理されますので、適当に流し読んでくださいませ。だって、その部分はあんまり萌え萌えなシーンはないんですもの。で、主人公2人はどうなったんだって? 駆け落ちなのか? それとも哀しい別れが待っているのか? うん、と……それは第38章後半まで、お待ちくださいませ^^;
<次回予告>
「なぁ、真、一番苦しい時に誰が助けてくれたかということだよ。その恩義を返すためだけでも、あとの一生だけでは足りないくらいだと、俺は思うんだ。それに俺は、唐沢との関係を切りたくないんだよ。俺は今でも、唐沢正顕が三上司朗を必要としてくれていることを知っているんだ」
真を見送りながら、裕子がそっと言った。
「ごめんね、急に妙なこと言い出して。でも三上は必死なの。人工受精のことも、ジャイアンのことも、唐沢のことも。たぶん、あなたのこともよ」
真は裕子の顔を見つめた。
「あなたはどう思ってるんですか?」
裕子は決然と、しかし少しだけはにかんだような笑顔を見せて、言った。
「私は、その三上に人生を賭けたから」



幾つかの部屋を勝手知ったるというように横切って、女は真を別室に連れ込んだ。
北条家の家屋敷の中では狭い部類に入る、六畳ほどの部屋だった。小奇麗に片付けられた部屋の片隅に鏡台と茶箪笥、隅にはやや大振りな布団が敷かれている。
薄暗い部屋の輪郭は、ぼんやりと豆電球の明かりだけで辛うじて読み取れる程度だった。
女は暫く真の顔を見ていたが、いきなり思い切り平手打ちを喰らわせると、真を布団に押し倒し、忙しなく真の腰のベルトの金具を外し、細くしなやかな手で真のものを救い出すと、手と口で愛撫した。やがて十分に大きくなったのを見届けると、すっと立ち上がり着物を脱ぐ。
女が襦袢まで脱ぎ、下着と腰紐だけになった瞬間に、真は身体を起こして女を腕に抱きとった。真のほうから女を組み敷くと、女は慈愛に満ちた菩薩のような顔をして、真の手が裾を開くのに任せていた。
女のその場所は暖かく潤んでいて、真は身体ごとこの女に深く預けたいと思った。女は、仁が最後まで外しそこなっていた真のシャツのボタンを全て外し、真の胸に緩やかに指を滑らせる。真はその瞬間に、女の中に深く自分自身を沈めた。
途中から、深雪を抱いているのだと錯覚していた。
女の身体の内側は、優しい海のように深く、静かに生命の始まりを予感させる。真はただ夢中で女を求め、女はなだめるように最も深いところまで真を導いた。福嶋に抱かれていたときには全く感じなかった穏やかな快感に、身体の芯まで癒されるような心地がして、ずっとこの女の中に留まっていたいと思った。女はそれが分かっているのか、性急に求めることなく、ゆっくりとした真の動きに合わせている。波に揺られるような穏やかな心地よさは、腰から頭までを包み込み、真を慰めた。
長い時間、真は女の中にいた。女もまた腰を震わせながら、真を包み込んでいた。そのうち更なる快楽を探し求めるように波は大きくなり、真は軽く喘ぎながら腰を動かした。女は真の身体の反応を敏感に読み取ると、徐に声を荒げて腰を真のほうへ、より強く絡みつくように持ち上げた。緩やかな波に任せるように、真も女も腰を動かし続け、やがて真は吸い込まれるように女の中に射精した。女は極度に真を締め付けることはなく真を穏やかに受け入れ、真が全て出し切るまでの不可解なほど長い時間、じんわりと腰を揺らめかせていた。
それからどれほどの時間だったのか、真には出し切った感覚がなく、まだずっと女の奥に身体を沈め続けていた。波に揺られ続けたまま、真は腰を女へとさらに深く押し付ける。このまま女の内側へ入り込み、その子宮に眠りたいような心地だった。
不意に、頬に触れた指に真は目を開けた。
「正気かい?」
それでも真の目は、まだ女の顔の輪郭を捉えていなかった。
「気持ちいいのは結構だけどね、くすぐったいよ」
女は慣れた口調でそう言った。暗がりでよく分からなかったが、照れたように視線を外す。相変わらず真は女の中に留まったままだった。
「本気で孕んじゃうかと思ったよ。深雪姉さんが惚れるはずだ」
真は一気に我に返った。その瞬間、真はずるっと女の中から滑り出た。女は、放心したままの真を下から抱くようにして、するりと抜け出すと、襦袢を軽く着込んで、部屋を出て行く。真は起き上がり、こめかみを押さえた。
二日酔いが冷めていないのだと思った。
女は直ぐに戻ってきて、一升瓶と二つのグラスを枕元に置くと、明りを灯し、衣桁から男物の着物を外して真の肩に掛け、背中からそっと肩を抱いて、飲むかい、と聞いた。
真は首を横に振った。
「二日酔いなんだ。それに酒は強いほうじゃない」
女は真の返事を無視して、二つのグラスに酒を注いだ。髪が艶やかで、結い上げた脇から零れる後れ毛が色っぽく、改めて見ると、言葉や態度よりも随分と女らしく優しく見える。女はグラスをひとつ、真に渡す。真は仕方なく受け取り、軽く乾杯をして半分まで飲み干した。胃が悲鳴を上げているのを感じて、思わず顔をしかめる。
「いい男じゃないか。小娘から仁を横取りしなくたって、十分間に合ってるんだろう」
真はグラスを畳に置いた。さっきまでの出来事が嘘のようで、仁と言い争っていたことまで現実味を無くし、今心の中には波が立っていなかった。
「仁さんを横取りしようとしたわけじゃない。ただ」
女は先を急がせなかった。真のグラスに更に注ごうとするのを、真は止める。
「あんたは」
真が聞くと、女はふと笑った。
「仁の従妹だよ。仁の許嫁でもある、って言いたいところだけど、それはあたしの勝手だからね。子どもん時から仁の女房になるって決めてたのに、今更あんな小娘に掻っ攫われるとは思ってなくてさ」
女はそう言ってグラスを空ける。口元が優雅で色気があり、目が力強く幾らか子どもっぽい。深雪の名前が出たことを聞いたつもりだったが、女は気が付かなかったようだった。
吸うかい、というように女は煙草を真に差し出す。真は有り難く受け取り、火を点けてもらった。煙を吸い込むときに顔を近づけて、女の香水も一緒に吸い込んでいた。媚薬のような香水だった。
煙草をゆっくりと何度か吹かし、そう言えばとち狂っていたからか、ここ何週間か煙草を吸っていないことに気が付いた。久しぶりに味わう煙を、肺が狂ったように欲しがっている。
「ここんとこ、仁も妙だったじゃないか。あんたの影響だろ」
さぁ、と真は返事をした。仁が真を心配してくれていたことが事実だとしても、仁を狂わせるほどのこともないと思っている。いや、あるとすれば、仁は真があまりにも簡単に福嶋鋼三郎と寝たことに狼狽えているのかもしれない。だが、そのことにもっとも狼狽えているのは真自身だった。そのことを突き詰めると、自分自身の性ようなものに触れる気がして、そのとてつもない闇が恐ろしくなり、考えないようにしてきた。
「あんたは」
「何さ」
女は真を見ないまま、煙を吐き出している。もう一度深雪のことを聞こうとしたものの、何故か聞き辛くなったので、話を自ら逸らした。
「いいのか。仁さんに惚れてるんだろう?」
「惚れてるさ。でもあたしは三十年近くも待ってるんだよ。今更急ぐ必要なんてないんだ。あと何年か待つくらいどうってことない。仁は直ぐに小娘に飽きるだろうし、小娘ははなっから極道の妻になれる玉じゃないよ。言っとくけど、あたしが小娘の立場だったら、あんたの胸に匕首を突き立ててたよ」
真は女の歯切れのいい言葉を聞きながら、不意に笑みが零れるのを感じた。それは自嘲でもあり、ただ本当に女の潔さにほっとしたのでもあった。女は一瞬怖い顔で真を睨み付けてから、ふと笑った。笑うと子どもっぽく、優しい風情に見えた。
「あんた、惚れた人がいるんだろう」
真は女から目を逸らし、もう一度煙を吸い込んだ。
「仁はそれで嫉妬してるのかい?」
奇妙な話の流れに真は顔を上げる。女は微笑んだ。
「仁はさ、人間に惚れるんだよ。惚れたら身体も求めちゃうあたりが困るんだけどさ。あんたが仁の神経を逆撫でする理由は、あたしが察するところ、あんたが煮え切らないからなんだろう。いつもの仁なら直ぐかっとなって、あんたをその人んところに引きずって行くんだけどさ、今回ばっかりは小娘への自分の感情と絡まっちまって、仁自身がこんぐらがってんのかねぇ」
この女は凄い女だ、と真は思い、暫く彼女の顔を無遠慮に見つめていた。
まさに仁の気持ちはこの女の言葉通りだと思った。仁がこのところ妙なのは、多分真のせいだと自覚はしていた。真が大和竹流のために我を忘れてしまっていたことを、仁は目と耳で、あるいはその肌で感じ続けていたのだ。そして仁の心に、忘れていようとしていたはずの事実を突きつけていた。
いつか、美和にもこういうことをさせてしまうのではないか。
人間は衝動によってこそ人を殺し、自分を追い詰める。追い詰めるような環境にいなければそれでいいが、仁の商売は、いつでも仁や周囲の人間を追い詰める類のものだ。そのことを仁は、美和に対してだけ目を瞑ってきていたのだ。
真は灰を落とし、心を静めた。真が竹流に会えないでいる理由を、仁が一番よくわかっている。多分、女の言うとおり、本来の仁なら京都に真を引きずって行くはずだった。
竹流の気持ちも、仁の気持ちも、深く考えると、真は叫びだしそうになった。だからできるだけそれを遠ざけてきた。仁が、真の父親のことを持ち出したのは、もう切羽詰って、そこにしか突破口を見いだせなくなっていたからなのだろう。
「何故、深雪を知っている?」
言葉を繋いでおかなければ、崩れそうになっている。ようやく真は聞いた。女はあぁ、と思い出したように頷いた。
「銀座なんて狭い町さ。あたしもホステスやってんだよ。あ、これでも店に出てる時は、ちゃんと丁寧で女らしい言葉でしゃべってんだよ。なんせ銀座はお上品な街だからね、客がビビっちまう。逆にここでお上品な言葉でしゃべったら、男衆に馬鹿にされちまうだろ。ヤクザって、ほんと、男尊女卑の世界だからね」そして自分の指の間の煙草を、少しの間弄ぶように揺らせた。「深雪姉さんが店持つ前だけど、二人とも同じ店で働いててさ、たんまに飲む仲だったんだ。あの人はあんまり自分の事は話さないけどさ、あたしは結構姉さんを頼りにしてたんだよ。この人は心に傷があるから優しいんだろうって思ってた」
女は静かに煙を吐き出す。真は女の顔を見つめる。不思議と穏やかな気持ちになっていた。
「それがこないだ、ここに来たら姉さんがいたんで、こっちはもうびっくりしたよ。足怪我したんだって、仁が預かってるってんでさ。実のところ、ここんとこ姉さんが店を閉めてたから、姉さんの店の客がうちに流れてきててね、深雪ちゃんはどうしたんだって、やたら聞かれてたんだよね。あんたのことは、もう随分前に客から聞いてたんだよ。深雪ちゃんが最近若い男と付き合ってる、あれは性質の悪いホストかジゴロじゃないかってさ、オヤジたちが心配しちゃって」
女は真の顔を見て笑う。
「それがなんだい、いい男じゃないか。ま、察するところ、オヤジたちの嫉妬だろうけどね。ここんとこ、あんたずっとぼーっとしてたから、私がこの家にしょっちゅう出入りしてたのも気が付かなかったろ?」
そう言ってから、女はわずかに俯き、少し笑みを噛み殺したようにしてから顔を上げた。
「そうじゃないね、一度、姉さんの店で会ってるんだよ。あんたは覚えてないだろうけどさ。実を言うとね、噂を確かめに行ったのさ。ちょっと一言、言ってやろうと思ったんだけど、あんたを見つめてる深雪姉さんの顔見てさ、あぁ、姉さんは本気だな、って分かったんだよ」
真は、深雪が今どうしているかを聞こうとして、混乱した自分の感情を保つ自信がなくなってしまい、やめた。だが、女はその辺りでは容赦しなかった。
「深雪姉さん、店を閉めるんだってさ。マンションも引き払ったそうだし」
真は女を見る。女はまるで菩薩のような顔をしていた。
「あんたは他に惚れた人がいるんだろうし、姉さんのことどころじゃないとは思うけどさ、会いに行ってやってくれないかな。姉さんは何も言わないけど、あんたに会いたがってると思うんだ」
真は顔を伏せ、目を閉じる。そんな資格が自分にあるだろうかと考えている。それに、深雪は狂ったように寺崎孝雄に匕首を突き立てた真を見ていた。深雪の怯えたような目が、真の網膜に蘇っていた。
不意に女の手が真の頬に触れ、軽く唇が触れた。
「思い切り引っぱたいちまったね。仁にもやられたから、暫く腫れてるかもね。言っとくけど、あたしが小娘の代わりにあんたの胸に匕首を突き立てなかったのは、深雪姉さんのためだ。それを忘れないでおくれよ」
真は、あんたは不思議な女だな、と言った。誰かの身体に匕首を突き立てる、ということを、この女は潔さにすり替えてしまった。
女はそうかい、と言いながら襦袢の襟を整える。男を納得させるのが上手い、と真が言うと、女は微かに微笑んだ。まさにさっき真を受け入れながら見せていた、菩薩のような顔だった。
「あたしは店の客とは寝ないけどね、セックスボランティアをやってんのさ」
真が言葉を理解できずに女を見ていると、女は帯も整えながら、綺麗な横顔を見せていた。
「障害者、色んな意味の障害者のさ、セックスの相手だよ。必要なんだ、彼らにも、愛や恋じゃなくても身体を慰めてくれる相手ってのがさ」
それに、と女は目を伏せて言った。
「あたしはいつだって、どうすれば仁に相応しい女になれるか、それだけを考えてるのさ」
真は暫くの間、無遠慮に女の顔を見つめていた。そして、ふと、唐沢調査事務所の爆発事故で下半身不随になった三上のことを思い浮かべた。この女が見たら、車椅子の三上は健常者で、一見五体満足に歩いている真が障害者に見えるのかもしれない。
「あんたには、俺が障害者に見えた?」
「そうだね。正確には、障害者になりたがってる、最も性質の悪い心の障害を抱えているって感じだよ。あたしがしていることは単なる一時的な癒しさ。あんたの病に特効薬はない。あるとしたら、たったひとつだ」
女の顔は、気品に満ち、厳しく優しい。美和も本気にならないと、この女に負けるかもしれないと心配になるくらいだった。
「知りたいかい?」
真は素直に頷いた。女は真に掛けてくれた着物の襟をそっと合わせた。
「愛してる」女はそう呟いて顔を上げた。「本気で惚れた相手にそう言うだけさ」
(第36章了、第37章『絵には真実が隠されている』につづく)



この姐さん、実は第1節の始めの方で出ているんですよ。真は深雪の店でニアミスしているんですね。
もっとも、姐さんの告白によると、噂を確かめに行った(真を見に行った)ってことだったようですが。
って、えらい長い伏線やなぁ~
それはともかく、こうしてみると、真ってやっぱりオスなんですけれどね、う~む。
それはともかく、ついに、全ての事件の解決編というのか、始末編の第37章までたどり着きました。あ~、長かったなぁ。あと最終話まで2章+終章の3章分。ようやくそんなことを言っても現実味を帯びてきたような気がします。
この先、事件のあらましに誰がどう関わったがある程度整理されますので、適当に流し読んでくださいませ。だって、その部分はあんまり萌え萌えなシーンはないんですもの。で、主人公2人はどうなったんだって? 駆け落ちなのか? それとも哀しい別れが待っているのか? うん、と……それは第38章後半まで、お待ちくださいませ^^;
<次回予告>
「なぁ、真、一番苦しい時に誰が助けてくれたかということだよ。その恩義を返すためだけでも、あとの一生だけでは足りないくらいだと、俺は思うんだ。それに俺は、唐沢との関係を切りたくないんだよ。俺は今でも、唐沢正顕が三上司朗を必要としてくれていることを知っているんだ」
真を見送りながら、裕子がそっと言った。
「ごめんね、急に妙なこと言い出して。でも三上は必死なの。人工受精のことも、ジャイアンのことも、唐沢のことも。たぶん、あなたのこともよ」
真は裕子の顔を見つめた。
「あなたはどう思ってるんですか?」
裕子は決然と、しかし少しだけはにかんだような笑顔を見せて、言った。
「私は、その三上に人生を賭けたから」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨171] 第37章 絵には真実が隠されている(1)小さくともかけがえのない一歩
【海に落ちる雨】第37章その(1)です。真が以前勤めていた唐沢調査事務所の先輩探偵・三上のところを訪ねる真。彼は事務所の爆発事故で下半身不随になっています。真はその事故については自分も後ろめたい気持ちを持っていて、三上の不自由に対して直視することができないでいました。でも、当の三上も妻の裕子も、そんなことは意にも介していないみたいです。本人は知らないところで、こんなふうに想ってくれている人たちがいる。本当に、今まで真はちゃんと周囲を見ていなかったのかも。
そして添島刑事から語られる澤田の事情と、潔い葉っぱかけの言葉……言葉は悪いけれど「ケツを叩かれた」?
お楽しみいただければ幸いです(^^)
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
そして添島刑事から語られる澤田の事情と、潔い葉っぱかけの言葉……言葉は悪いけれど「ケツを叩かれた」?
お楽しみいただければ幸いです(^^)





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「真くん、よかった。三上がどんなに心配していたか」
三上司朗の妻、裕子は腹の底から搾り出すような声で言った。
昨夜、女と話している時に、不意に三上のことを思い出した。毎日のように電話をしていたのに、急に途切れてしまって、三上はきっと心配しているだろうと思ったのだ。
裕子はどちらかというと小柄だが、痩せているわけでもなく、鍛えているという身体は筋肉質なほうで、いつもジーンズ姿だった。すごく美人、というわけでもないが、頼りになる姉貴に見える理由は、彼女が現役の看護師であり、職務に忠実に勤め続けているからなのかもしれない。裕子が身体を鍛える理由は、三上司朗、つまり夫が下半身不随で、何かの拍子に彼女の力が必要になることがあるからだった。もっとも、三上は自分でほとんどのことをこなしているし、何でも裕子に頼るという生活はしていない。
三上は犬の散歩なの、と裕子は言い、真を連れ出した。コースは分かってるから、と歩き始める。蝉の声が折り重なり、太陽は今日も容赦なく空の彼方から熱を降り注いだ。緑が濃くなり、生命の存在を主張する。
「犬、飼い始めたんですか」
「そうなの。って言っても成犬。ほら、捨て犬が保健所で殺されちゃうってのをテレビで見てて、急に三上が出掛けようって。それで絶対誰も飼おうなんて思わない、一番情けなさそうな汚い犬をもらって来たの。その犬、飼い主に虐待されてたみたいで、最初はえらく怯えてたんだけど、三上の不自由は分かったのかな。ペットショップの人がびっくりするくらい精神的に回復するのが早くて、この間から散歩にも行けるようになったのよ。犬は犬で、必死に三上を守ろうとしてるみたいで」
裕子はそう言って幸せそうに笑った。この夫婦は、なぜこんなにも幸福そうなのだろうと真は思った。
「あなたは、どうして三上さんと結婚したんですか」
裕子は真の唐突な質問に、暫く不思議そうに真を見ていたが、何かに思い当たったのか優しい顔で微笑んだ。
「好みのタイプだったから」
あまりにもあっけらかんとした答えに真は思わず裕子を見る。
「己の置かれた環境に屈せずに生きている。自分の不幸を他人のせいにしない。どんなことになっても惚れた人間を信じている。ついでに顔も好みだったからかな。ちょっと顎が張ってて、精悍な感じ。それに何だか犬っぽいでしょ。誠実な人だって思える」
真は、裕子が三上の過去の犯罪歴に対してどう思っているのか聞かなかった。それは聞かなくても分かっているような気がした。
世界はこうして光に満ち溢れている。それなのに、俺は一歩を踏み出すことができない。真は真っ直ぐに伸びる並木道の先を見つめ、その光の中で手を振る三上を認めた。三上は相当な勢いで車椅子をこいで、犬を伴って、真と裕子の傍に来た。
「生きてたか。お前、痩せたぞ」
犬は三上を庇うように車椅子と真の間に立ち、まるで見知らぬ人間を敵か味方か見極めるように真を見た。柴と何かの雑種のようで、短い毛と痩せた身体で、前足の一本が幾らか不自由そうで地面に完全にはついていない。その脚は、かすかに震えている。それでも犬は必死なのだ。お前はえらいな、と真は犬を見つめた。
犬には真の心が分かる。多分そうなのだろう。犬は真の目を見つめ、それからすっと一歩引いて、三上の車椅子の脇に座った。
「お前は無言で犬を納得させるから凄いな。俺なんか丸々一ヶ月だ。知ってるか」三上は真を示しながら、裕子に話しかける。「こいつと一緒に犬がいる家に行くと、犬は大概吠えるのをやめて黙るんだ」
「それは三上さんの誤解ですよ。なんて名前ですか」
「ジャイアン」
真は思わずやせっぽっちの犬を見つめた。
それから犬の話をしながら三上の家に戻ると、裕子がレモンケーキと紅茶を出してくれた。三上の家の、正確には裕子の家なのだが、小さな庭には柑橘類の木が何本か植えられていて、レモンはそのひとつだった。裕子は時々そうやってお菓子を作る。三上が甘いものが苦手なのを変えてしまったのは裕子だった。もっとも裕子のケーキは甘さ控えめで素直に美味しかった。
犬はべっとりと三上の傍にいる。
「大和さん、どうしてる?」
真は首を横に振った。
「何かあったのか」
レモンケーキが酸っぱくて、鼻につんとくるような気がした。
「何時京都から戻ったんだ?」
「三週間前」
「大和さんはまだ京都か?」
真はただ頷いた。
「何で離れたんだ?」
三上には全てを話さなくても、何かが通じてしまうような気がする。多分、身体が不自由な三上が、他人よりも五感、ついでに六感までも磨いているからなのだろう。
それから暫くの間、三上は保健所に行って、ジャイアンに初めて会った時の話をしていた。やがて、紅茶が二杯目になると、三上が唐突に言った。
「人工受精って聞いたことあるか?」
真が顔を上げると、三上が穏やかな顔をして真を見つめていた。
「俺はこうなってしまって、つまり簡単に勃起ができない。全く駄目ってわけじゃないんだけどな、色々試しても結局中途半端にしかならなくてさ。男としていささか情けない言い訳で、今は精一杯の生活だし、子どもはいらないって思ってたんだ。でも、こいつを飼い始めてから、何だか、色んなことが何とかなるんじゃないかって思えてさ。病院に相談に行ったら保険医療ではないから金もかかるし、楽なことばっかりじゃないし、不可能じゃないけど確率は微妙だって言われた。裕子は無理しなくてもいいって言うけど、やってみようかと思ってるんだ。他の男性から精子をもらうってのも含めてさ」
「何回も言ってるけど、それは最後の手段にしてね」
裕子はぴしり、と言って、真を見ると微笑んだ。三上は穏やかに笑って、真を見つめる。
「外国には第三者の精子提供者ってのがいて精子のバンクみたいなのがあるらしいけど、日本じゃボランティアを募るしかないし、誰かに頼むとすると、お前か唐沢しかないなって話をしてたんだ」
真はその対象者の名前のどちらにも驚いた。
「もし、俺が駄目で、唐沢が断ったら、お前、考えてくれるか」三上は犬の頭を撫でた。「どうせ唐沢は馬鹿笑いして断ると思うしな。あの人は、自分の遺伝子を残さないことだけが、彼がこの世界に対して出来る唯一の善行だと思ってるからな」
この夫婦の間で、唐沢正顕というのはどういう存在なのだろうと思った。その真の純粋な疑問に答えるかのように、三上はゆっくりと噛み締めるように言った。
「なぁ、真、一番苦しい時に誰が助けてくれたかということだよ。その恩義を返すためだけでも、あとの一生だけでは足りないくらいだと、俺は思うんだ。それに俺は、唐沢との関係を切りたくないんだよ。俺は今でも、唐沢正顕が三上司朗を必要としてくれていることを知っているんだ」
真を見送りながら、裕子がそっと言った。
「ごめんね、急に妙なこと言い出して。でも三上は必死なの。人工受精のことも、ジャイアンのことも、唐沢のことも。たぶん、あなたのこともよ」
真は裕子の顔を見つめた。
「あなたはどう思ってるんですか?」
裕子は決然と、しかし少しだけはにかんだような笑顔を見せて、言った。
「私は、その三上に人生を賭けたから」
真は並木道のベンチに腰掛けて、煙草を一本引き抜いた。銜えてからポケットに手を突っ込んで、ライターを持っていないことに気が付いた。ライターを摑みそこなった手に触れたものは、竹流の指輪だった。吸うことを諦めた煙草をケースに戻し、真は指輪を取り出して暫くそれを見つめ、そっと左の薬指に嵌めてみた。
銀の指輪は真の指には大きすぎて、不安定に回った。真は膝に両肘をついて、薬指に嵌めたままの指輪に口づけていた。愛してる、惚れた相手にそう言うだけだ、とあの女は言った。言葉は咽喉の奥に留まったまま出てこない。
昼過ぎの並木道を、自転車や乳母車、犬を連れた人が行き交う。背中に広がる公園からは子どもたちの勢いのある声が響いてくる。世界は明るく、空は高く、その下で人々は懸命に恋をして、人生を生き抜いている。それなのに何故、自分はこれほどに息を潜めているのだろう。
「気分でも悪いの?」
真は目を開けた。自分の前に、ヒールの低い黒い靴がある。顔を上げると、話しかけてきた女はすっと真の隣に座った。
「朝から探してたのよ。北条家にも相川家にもいないし、念のため大和竹流のマンションにも行ったけど。あなたの行きそうなところ全て電話して、やっと三上司朗の家で見つけたの」
添島麻子はちらりと真の左手の薬指を見たが、何も言わなかった。真はゆっくりと指輪を抜いてポケットに戻した。
「何か用ですか」
「澤田の容疑は一応は晴れたわよ」
真は添島刑事を見た。
「昨日、香野深雪が来たの。河本が彼女に会って、話を聞いた。澤田顕一郎は古いフィルムを貸金庫に隠し持っていた。幼い香野深雪が男に犯されているフィルム」
真は一瞬、吐きそうになったのを押し留めた。
「検察は色めき立ったけど、つまり現役の代議士が幼女への性行為を、自分がするかどうか別にして、そういうフィルムを楽しむ性癖を持っているということで、澤田を送検するつもりだった。そこへ香野深雪自身が現れて、そのフィルムを見て、確かにそれは自分だと言ったの。香野深雪はずっと澤田の世話になってたでしょ。検察は香野深雪の経歴を確認して、新潟の、香野深雪が預けられていた施設の園長だった渡邊詩乃にも問い合わせた。澤田は言い訳をしなかったけど、香野深雪も渡邊詩乃も、澤田に世話になりこそすれ、そういう辱めを受けたことはないと言った。澤田がそのフィルムを焼き捨てずに持っていた理由は」
「香野深雪の両親が自殺ではなかった証拠だから」
添島刑事は強張った表情のままで頷いた。
「新津圭一のビデオをあなたは持っているわね」
「えぇ。寺崎昂司が竹流のマンションに送ってきた。まだ竹流のマンションにあるはずです。つまり、香野深雪は、新津千惠子と同じように」
真はそこまで言ってから、その事実に改めて絶句した。
「香野深雪の両親は、縛り付けられて、目の前で幼い娘を犯されて、その後で自殺に見せかけられて殺されていたわ。とっくに時効だし、今更犯人は分からないでしょうけど」添島刑事は深い息をついた。「香野深雪の両親の死体の第一発見者は澤田顕一郎だったの。澤田は翡翠仏を介した収賄事件で香野深雪の両親を疑ってたから、しばしば取材に行っていたようだし」
「澤田が話したんですか?」
「えぇ。澤田の告白によると、澤田が発見したとき、香野深雪は両親の死体の下で、意識を失ってたそうよ。咄嗟に、この娘を隠さなければならない、と思ったみたい。彼女が何をされたのか、澤田には分かったでしょうから。あの時代、犯人を告発することは、香野深雪を好奇の目に晒し、香野深雪の人生自体も潰してしまうことは目に見えていたでしょう。だけど、殺人罪で犯人を起訴できるはずだと思った澤田は、香野深雪の両親は自殺じゃないって主張したそうだけど、結局警察はあっさりと自殺で片付けた。澤田の取材からも香野深雪の両親が絡んでいた収賄事件は明らかだったし、警察は、澤田こそ彼らを自殺に追いやったんだって言ったそうだし。澤田は自分の取材のせいで、香野深雪の家族が無茶苦茶になったんだと、それを随分悔いて、結局記者を辞めてしまった。香野深雪はそのあと親戚に預けられていたこともあったようだけど、でも結局そこでも性的虐待を受けて、澤田が引き取って渡邊詩乃が経営していた施設に預けたそうよ」
「その貸金庫にあったフィルムを、澤田はいつ手に入れたんですか。始めから見ていたのなら、その時にもっと強く、殺人だと主張していたでしょう」
「数年前に新津圭一が、新潟の蓮生家で見つけたのよ。新津圭一は既に時効だと分かっていたんでしょうけど、それを焼き捨てるかどうか迷って、結局澤田のところに持ってきた。香野深雪のためにどうしてあげるのが一番いいのか分からない、と言って」
「新津圭一」
真はその名前を痛みと共に思い起こした。香野深雪を愛していた男、自殺を装って殺され、その死体の下で娘を犯された男。冷静に考えてみれば、真にとっては恋敵であったわけだ。村野耕治にしても、新津圭一にしても、既に死んでしまったものたちが、亡霊のように人の心に染みを落としている。
そしてまた、真も、あるいは竹流も、これから先ずっと、寺崎昂司の亡霊を心に抱き続けるのだろう。
「新津圭一は、香野深雪の両親のことを調べていたそうよ。記者の勘なのかもしれないけど、殺しじゃないかって。調べていくうちに、当時、澤田顕一郎が香野深雪を診察してもらった医者にぶつかった。医者は口をつぐんだそうだけど、新津圭一にはそれが幼女暴行だと分かったんでしょうね。さすがに新津は優秀な記者だった。でも、恋人の身に過去に起こったとてつもない不幸に対して、どう対処するべきかは迷ったでしょうけど。しかも、収賄事件のほうからはずるずると色んなものが引っ掛かってきた。翡翠仏を運んでいた業者、つまり寺崎孝雄の運送会社、それに絡んだ政治家や経済界の面々。それは過去で終わっている話ではなくて、現在にまで繋がっていた。大和竹流が絡んでいたフェルメールの絵は、そのひとつの符号だったのよ。新津圭一は脅迫をしていたわけではなく、フェルメールの絵のことでそうした面々に事情を確認しようとしていた。そいつらはぞっとしたでしょうね。新津にとっては収賄事件だったけれど、実際は殺人や強姦を含んだ異常性愛の連中が相手だったわけよ。そいつらにとっては贈賄で挙げられるよりももっと悪い。人間性を否定されるのだから。だから連中は新津を生かしておくわけにはいかなかった。相談を受けた悪質ビデオの制作者、寺崎孝雄と和徳は、どうせ殺すなら、いつものように楽しんで殺そうとした。ちょうど、新津には可愛らしい娘がいた」
添島刑事はきつい口調で言った。
だが、犯人はもう出てこない。警察の手が届く前に、怒り狂ったイタリアのマフィアに断罪された。他に逃げ延びた関係者がいたとしても、もうそいつらは普通の穏やかな顔で、日常生活に戻っているだろう。次には自分に、狂ったゼウスの手が伸びてくるかもしれない恐怖と闘いながら。
「澤田はどうなるんですか」
添島刑事は煙草を真に差し出した。真は首を横に振った。
「疑いは晴れたけど、代議士は辞任するそうよ」
「村野花は」
「未成年に対する性的暴行、殺人教唆、猥褻ビデオの製作と販売。でも、刑法上、死刑になるほどの罪が出てくるかどうかは分からないわね。どの程度、村野花が関っていたか、証拠不十分、ってのもありそうだし」
「あの『連続殺人』の犯人は? 捕まらなかったら、ある意味大変なのでは」
「さすがにイタリアのマフィアは捕まえられないわね。証拠は全くない、しかも上の方で、もしも気が付いた人間がいたとして、握りつぶさざるを得ないでしょう。せいぜい暫くは繁華街に警官が多少多めに配置されて、暫くしたら日常に紛れて忘れられる。あとは、本庁と警察庁のお偉いさんの首がいくつか飛ぶか、あるいは減棒程度で済んじゃうのかしらね」
「河本さんは?」
「さぁ、どうかしら。河本は、ある意味では覚悟しているかもしれないけど。でもあの男のことだから、上手く立ち回るんじゃないかしら」それから添島刑事は遠くの空を見つめた。「河本の立場を思い遣ってるの? それともあんな男、地獄に堕ちろって思ってる?」
真は添島刑事の凛とした横顔を見つめた。不思議と静かな気持ちになっていた。
「何も。あの人にはあの人なりの、やむを得ない事情ってのがあったんでしょう」
「認めるの?」
「認めるわけじゃない。できるならもう、関わりたくないと思うだけです。ただ、あの人も決して得をしたわけでも、いい気分を味わったわけでもないことだけは分かります」
「あなたの父上も同じよ」
真はそれには反応しなかった。そして淡々とした声で尋ねた。
「あなたは、このままでいい、と?」
添島刑事はふと息を吐き出す。
「そうね。刑事としては認められないけど、たまには仕掛人がいてくれるのも悪くないわね」
「本気で?」
「本気よ。刑の執行なんてのを法律に頼っていたら、とんでもない悪党を見逃すことがあるってことは、私たちはよく分かっているもの。大和竹流のために目を瞑ることに抵抗はないわ。でも、本当はこんなことは刑事が絶対に考えちゃいけないことだわ。悪い刑事ね」
真は首を横に振り、視線を落とした。
「私は時々思うの。男は社会的倫理と体裁を重んじるけど、女はそうじゃない。男社会で男と同じ考え方で生きてきたと思っていたけど、今回は自分が女だと骨身に沁みて思ったわ。出世を望まないことも含めてね。女の潔さと言ってしまえばそれまでだけど、女にはもっと他に大事なものがあるからなのかもしれない。悪い刑事だと思うけど、自分がそういう人間だとわかったことは良かったと思ってる。だから辞表を出す気はもうないわ。最後までこの仕事に食らいつくことにした。仕掛人がいてくれたら、と思うのは今回が最後。犯罪は犯罪だと断じるのが私たちの仕事だから」
この女は本当に大和竹流を、いや、ジョルジョ・ヴォルテラという男を愛しているのだと思った。真には想像もつかないような歴史の重みを背負った家系の後継者を、その背景も含めて愛おしいと思っている、だからその中に自分の存在を無理矢理に押し込もうとはしていない。それに、この女の本質は、出世を望まないのだとしても、一人の刑事であるということから逃れることはないのだろう。
「新津圭一のビデオはどうしたら」
「もう犯人は殺されている。普通に考えたら、新津千惠子にとって、そのビデオが残っていることがプラスになるとは思えないわね。父親が自殺ではない、脅迫なんかしていないと分かって、でもそのことで、彼女の身体や心につけられた傷が癒されるわけでもない。澤田もそう思ったからこそ、香野深雪が受けた傷を揉み消そうとしたんでしょうね」
「でもフィルムを捨てなかった」
「そうね。でも、あれから二十年以上経っている。香野深雪がこれから生きていくにあたって、真実を押し隠すことと、己の身に起こったとてつもない不幸と向き合うことの、どちらが大切なことなのか、今になって澤田は少し迷ったのかもしれないわね。もう決めるのは彼ではない、香野深雪だって思ったんでしょう」
「深雪は……そのフィルムを見たんですよね」
真は改めてそう呟き、息をついた。深雪は、失われていた記憶を、無理矢理に思い出さされたのだ。その欠落していた彼女の記憶の部分は、まさにとてつもない負の要素を持っていた。
だが、本当にそうだろうか。本当にただ負の要素だけだったのだろうか。
たとえそれが辛く悲しいものであっても、いまや深雪の記憶はひとつに繋がり、彼女は一人の確かな人間となったのかもしれない。苦しみも悲しみも繋ぎ合わせて、彼女はこれから一人の人間として、今いる場所からようやく歩き始めることができるのだ。
真自身は、もしかして永遠に埋めることのできない記憶の欠落。真がその欠落した記憶を思い出す時が来たら、その時、この長い夢は終わってしまうのかもしれない。真は、自分の忘れている記憶については、やはり思い出したくないのだと、だからこそあえて記憶の引き出しに鍵を掛けたのだと思っていた。
だが、深雪は違う。たとえそれが負の力でも、存在を根底から覆すものにはならないはずだ。させてはいけない。
深雪のために、負の力ばかりではない、確かな正の力を与えてやることができれば。
その時、真は香野深雪から預かっていた貸金庫の番号と印鑑のことを思い出していた。寺崎昂司はいつか大切な『切り札』になる、と言っていた。それは犯罪者たちが断罪された後では遅いのだろうか。
「あなたは、どうするんですか?」
「どうって?」
真は暫く、何も言葉にできなかった。地面を忙しく歩く蟻たちは、この太陽の熱に焼かれながらも懸命に重荷を背負っていた。
「ジョルジョ・ヴォルテラのこと?」添島刑事は少しの間黙っていた。「そうね、一年に一度くらいは休暇を取ってローマに会いに行こうかしら。あなたが許してくれたら、あるいはジョルジョ・ヴォルテラが誰かさんと駆け落ちして居場所が分からなくなるのでなければ」
真は顔を上げた。
「ヴォルテラの自家用機は成田に次の主人を迎えに来たわよ。駆け落ちするんなら、さっさと決めなさい」
真は、どうして自分の周りにはこんなに勢いのある潔い人間ばかりいるのだろう、と考えていた。あるいは真ばかりが思い切れないだけなのか。みな、何故真の煮え切らない思いを知っているのだろう。
「香野深雪が今、どこにいるか知っていますか」
(つづく)




このお話は時代が古いので、まだ人工授精に関してはあれこれややこしかった時代なんです。そんな不確実な中でも、三上は必死だったみたいですね。その当時のことですから……いや、結構唐沢が、じゃあ!って言ったりして。いえ、大丈夫、きっとうまく行きます。
次回は深雪と真が過去を少し辿って行きます。絵が見つかるかな?
<次回予告>
「生か死か、どちらかしかないような生き方はしたくない、してはいけないと思っていた。新津が私を愛してくれたとき、彼の奥さんが意識もなくただ病院で死ぬだけの運命だと知って、それなのに私が新津と生きていくことを、新津が私と生きていくことを選んだら、私たちはその選択の中に放り込まれてしまう、ずっとそれが怖かった。それでも新津の手を拒めなかった私が彼を殺したのかもしれないと思った。誰かの不幸を下敷きにした幸福に酔ってはいけないって、その罰を与えられたような気がしたわ。だから、もうそれ以上何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう、知らなかったことにしようと思ったの」



「真くん、よかった。三上がどんなに心配していたか」
三上司朗の妻、裕子は腹の底から搾り出すような声で言った。
昨夜、女と話している時に、不意に三上のことを思い出した。毎日のように電話をしていたのに、急に途切れてしまって、三上はきっと心配しているだろうと思ったのだ。
裕子はどちらかというと小柄だが、痩せているわけでもなく、鍛えているという身体は筋肉質なほうで、いつもジーンズ姿だった。すごく美人、というわけでもないが、頼りになる姉貴に見える理由は、彼女が現役の看護師であり、職務に忠実に勤め続けているからなのかもしれない。裕子が身体を鍛える理由は、三上司朗、つまり夫が下半身不随で、何かの拍子に彼女の力が必要になることがあるからだった。もっとも、三上は自分でほとんどのことをこなしているし、何でも裕子に頼るという生活はしていない。
三上は犬の散歩なの、と裕子は言い、真を連れ出した。コースは分かってるから、と歩き始める。蝉の声が折り重なり、太陽は今日も容赦なく空の彼方から熱を降り注いだ。緑が濃くなり、生命の存在を主張する。
「犬、飼い始めたんですか」
「そうなの。って言っても成犬。ほら、捨て犬が保健所で殺されちゃうってのをテレビで見てて、急に三上が出掛けようって。それで絶対誰も飼おうなんて思わない、一番情けなさそうな汚い犬をもらって来たの。その犬、飼い主に虐待されてたみたいで、最初はえらく怯えてたんだけど、三上の不自由は分かったのかな。ペットショップの人がびっくりするくらい精神的に回復するのが早くて、この間から散歩にも行けるようになったのよ。犬は犬で、必死に三上を守ろうとしてるみたいで」
裕子はそう言って幸せそうに笑った。この夫婦は、なぜこんなにも幸福そうなのだろうと真は思った。
「あなたは、どうして三上さんと結婚したんですか」
裕子は真の唐突な質問に、暫く不思議そうに真を見ていたが、何かに思い当たったのか優しい顔で微笑んだ。
「好みのタイプだったから」
あまりにもあっけらかんとした答えに真は思わず裕子を見る。
「己の置かれた環境に屈せずに生きている。自分の不幸を他人のせいにしない。どんなことになっても惚れた人間を信じている。ついでに顔も好みだったからかな。ちょっと顎が張ってて、精悍な感じ。それに何だか犬っぽいでしょ。誠実な人だって思える」
真は、裕子が三上の過去の犯罪歴に対してどう思っているのか聞かなかった。それは聞かなくても分かっているような気がした。
世界はこうして光に満ち溢れている。それなのに、俺は一歩を踏み出すことができない。真は真っ直ぐに伸びる並木道の先を見つめ、その光の中で手を振る三上を認めた。三上は相当な勢いで車椅子をこいで、犬を伴って、真と裕子の傍に来た。
「生きてたか。お前、痩せたぞ」
犬は三上を庇うように車椅子と真の間に立ち、まるで見知らぬ人間を敵か味方か見極めるように真を見た。柴と何かの雑種のようで、短い毛と痩せた身体で、前足の一本が幾らか不自由そうで地面に完全にはついていない。その脚は、かすかに震えている。それでも犬は必死なのだ。お前はえらいな、と真は犬を見つめた。
犬には真の心が分かる。多分そうなのだろう。犬は真の目を見つめ、それからすっと一歩引いて、三上の車椅子の脇に座った。
「お前は無言で犬を納得させるから凄いな。俺なんか丸々一ヶ月だ。知ってるか」三上は真を示しながら、裕子に話しかける。「こいつと一緒に犬がいる家に行くと、犬は大概吠えるのをやめて黙るんだ」
「それは三上さんの誤解ですよ。なんて名前ですか」
「ジャイアン」
真は思わずやせっぽっちの犬を見つめた。
それから犬の話をしながら三上の家に戻ると、裕子がレモンケーキと紅茶を出してくれた。三上の家の、正確には裕子の家なのだが、小さな庭には柑橘類の木が何本か植えられていて、レモンはそのひとつだった。裕子は時々そうやってお菓子を作る。三上が甘いものが苦手なのを変えてしまったのは裕子だった。もっとも裕子のケーキは甘さ控えめで素直に美味しかった。
犬はべっとりと三上の傍にいる。
「大和さん、どうしてる?」
真は首を横に振った。
「何かあったのか」
レモンケーキが酸っぱくて、鼻につんとくるような気がした。
「何時京都から戻ったんだ?」
「三週間前」
「大和さんはまだ京都か?」
真はただ頷いた。
「何で離れたんだ?」
三上には全てを話さなくても、何かが通じてしまうような気がする。多分、身体が不自由な三上が、他人よりも五感、ついでに六感までも磨いているからなのだろう。
それから暫くの間、三上は保健所に行って、ジャイアンに初めて会った時の話をしていた。やがて、紅茶が二杯目になると、三上が唐突に言った。
「人工受精って聞いたことあるか?」
真が顔を上げると、三上が穏やかな顔をして真を見つめていた。
「俺はこうなってしまって、つまり簡単に勃起ができない。全く駄目ってわけじゃないんだけどな、色々試しても結局中途半端にしかならなくてさ。男としていささか情けない言い訳で、今は精一杯の生活だし、子どもはいらないって思ってたんだ。でも、こいつを飼い始めてから、何だか、色んなことが何とかなるんじゃないかって思えてさ。病院に相談に行ったら保険医療ではないから金もかかるし、楽なことばっかりじゃないし、不可能じゃないけど確率は微妙だって言われた。裕子は無理しなくてもいいって言うけど、やってみようかと思ってるんだ。他の男性から精子をもらうってのも含めてさ」
「何回も言ってるけど、それは最後の手段にしてね」
裕子はぴしり、と言って、真を見ると微笑んだ。三上は穏やかに笑って、真を見つめる。
「外国には第三者の精子提供者ってのがいて精子のバンクみたいなのがあるらしいけど、日本じゃボランティアを募るしかないし、誰かに頼むとすると、お前か唐沢しかないなって話をしてたんだ」
真はその対象者の名前のどちらにも驚いた。
「もし、俺が駄目で、唐沢が断ったら、お前、考えてくれるか」三上は犬の頭を撫でた。「どうせ唐沢は馬鹿笑いして断ると思うしな。あの人は、自分の遺伝子を残さないことだけが、彼がこの世界に対して出来る唯一の善行だと思ってるからな」
この夫婦の間で、唐沢正顕というのはどういう存在なのだろうと思った。その真の純粋な疑問に答えるかのように、三上はゆっくりと噛み締めるように言った。
「なぁ、真、一番苦しい時に誰が助けてくれたかということだよ。その恩義を返すためだけでも、あとの一生だけでは足りないくらいだと、俺は思うんだ。それに俺は、唐沢との関係を切りたくないんだよ。俺は今でも、唐沢正顕が三上司朗を必要としてくれていることを知っているんだ」
真を見送りながら、裕子がそっと言った。
「ごめんね、急に妙なこと言い出して。でも三上は必死なの。人工受精のことも、ジャイアンのことも、唐沢のことも。たぶん、あなたのこともよ」
真は裕子の顔を見つめた。
「あなたはどう思ってるんですか?」
裕子は決然と、しかし少しだけはにかんだような笑顔を見せて、言った。
「私は、その三上に人生を賭けたから」
真は並木道のベンチに腰掛けて、煙草を一本引き抜いた。銜えてからポケットに手を突っ込んで、ライターを持っていないことに気が付いた。ライターを摑みそこなった手に触れたものは、竹流の指輪だった。吸うことを諦めた煙草をケースに戻し、真は指輪を取り出して暫くそれを見つめ、そっと左の薬指に嵌めてみた。
銀の指輪は真の指には大きすぎて、不安定に回った。真は膝に両肘をついて、薬指に嵌めたままの指輪に口づけていた。愛してる、惚れた相手にそう言うだけだ、とあの女は言った。言葉は咽喉の奥に留まったまま出てこない。
昼過ぎの並木道を、自転車や乳母車、犬を連れた人が行き交う。背中に広がる公園からは子どもたちの勢いのある声が響いてくる。世界は明るく、空は高く、その下で人々は懸命に恋をして、人生を生き抜いている。それなのに何故、自分はこれほどに息を潜めているのだろう。
「気分でも悪いの?」
真は目を開けた。自分の前に、ヒールの低い黒い靴がある。顔を上げると、話しかけてきた女はすっと真の隣に座った。
「朝から探してたのよ。北条家にも相川家にもいないし、念のため大和竹流のマンションにも行ったけど。あなたの行きそうなところ全て電話して、やっと三上司朗の家で見つけたの」
添島麻子はちらりと真の左手の薬指を見たが、何も言わなかった。真はゆっくりと指輪を抜いてポケットに戻した。
「何か用ですか」
「澤田の容疑は一応は晴れたわよ」
真は添島刑事を見た。
「昨日、香野深雪が来たの。河本が彼女に会って、話を聞いた。澤田顕一郎は古いフィルムを貸金庫に隠し持っていた。幼い香野深雪が男に犯されているフィルム」
真は一瞬、吐きそうになったのを押し留めた。
「検察は色めき立ったけど、つまり現役の代議士が幼女への性行為を、自分がするかどうか別にして、そういうフィルムを楽しむ性癖を持っているということで、澤田を送検するつもりだった。そこへ香野深雪自身が現れて、そのフィルムを見て、確かにそれは自分だと言ったの。香野深雪はずっと澤田の世話になってたでしょ。検察は香野深雪の経歴を確認して、新潟の、香野深雪が預けられていた施設の園長だった渡邊詩乃にも問い合わせた。澤田は言い訳をしなかったけど、香野深雪も渡邊詩乃も、澤田に世話になりこそすれ、そういう辱めを受けたことはないと言った。澤田がそのフィルムを焼き捨てずに持っていた理由は」
「香野深雪の両親が自殺ではなかった証拠だから」
添島刑事は強張った表情のままで頷いた。
「新津圭一のビデオをあなたは持っているわね」
「えぇ。寺崎昂司が竹流のマンションに送ってきた。まだ竹流のマンションにあるはずです。つまり、香野深雪は、新津千惠子と同じように」
真はそこまで言ってから、その事実に改めて絶句した。
「香野深雪の両親は、縛り付けられて、目の前で幼い娘を犯されて、その後で自殺に見せかけられて殺されていたわ。とっくに時効だし、今更犯人は分からないでしょうけど」添島刑事は深い息をついた。「香野深雪の両親の死体の第一発見者は澤田顕一郎だったの。澤田は翡翠仏を介した収賄事件で香野深雪の両親を疑ってたから、しばしば取材に行っていたようだし」
「澤田が話したんですか?」
「えぇ。澤田の告白によると、澤田が発見したとき、香野深雪は両親の死体の下で、意識を失ってたそうよ。咄嗟に、この娘を隠さなければならない、と思ったみたい。彼女が何をされたのか、澤田には分かったでしょうから。あの時代、犯人を告発することは、香野深雪を好奇の目に晒し、香野深雪の人生自体も潰してしまうことは目に見えていたでしょう。だけど、殺人罪で犯人を起訴できるはずだと思った澤田は、香野深雪の両親は自殺じゃないって主張したそうだけど、結局警察はあっさりと自殺で片付けた。澤田の取材からも香野深雪の両親が絡んでいた収賄事件は明らかだったし、警察は、澤田こそ彼らを自殺に追いやったんだって言ったそうだし。澤田は自分の取材のせいで、香野深雪の家族が無茶苦茶になったんだと、それを随分悔いて、結局記者を辞めてしまった。香野深雪はそのあと親戚に預けられていたこともあったようだけど、でも結局そこでも性的虐待を受けて、澤田が引き取って渡邊詩乃が経営していた施設に預けたそうよ」
「その貸金庫にあったフィルムを、澤田はいつ手に入れたんですか。始めから見ていたのなら、その時にもっと強く、殺人だと主張していたでしょう」
「数年前に新津圭一が、新潟の蓮生家で見つけたのよ。新津圭一は既に時効だと分かっていたんでしょうけど、それを焼き捨てるかどうか迷って、結局澤田のところに持ってきた。香野深雪のためにどうしてあげるのが一番いいのか分からない、と言って」
「新津圭一」
真はその名前を痛みと共に思い起こした。香野深雪を愛していた男、自殺を装って殺され、その死体の下で娘を犯された男。冷静に考えてみれば、真にとっては恋敵であったわけだ。村野耕治にしても、新津圭一にしても、既に死んでしまったものたちが、亡霊のように人の心に染みを落としている。
そしてまた、真も、あるいは竹流も、これから先ずっと、寺崎昂司の亡霊を心に抱き続けるのだろう。
「新津圭一は、香野深雪の両親のことを調べていたそうよ。記者の勘なのかもしれないけど、殺しじゃないかって。調べていくうちに、当時、澤田顕一郎が香野深雪を診察してもらった医者にぶつかった。医者は口をつぐんだそうだけど、新津圭一にはそれが幼女暴行だと分かったんでしょうね。さすがに新津は優秀な記者だった。でも、恋人の身に過去に起こったとてつもない不幸に対して、どう対処するべきかは迷ったでしょうけど。しかも、収賄事件のほうからはずるずると色んなものが引っ掛かってきた。翡翠仏を運んでいた業者、つまり寺崎孝雄の運送会社、それに絡んだ政治家や経済界の面々。それは過去で終わっている話ではなくて、現在にまで繋がっていた。大和竹流が絡んでいたフェルメールの絵は、そのひとつの符号だったのよ。新津圭一は脅迫をしていたわけではなく、フェルメールの絵のことでそうした面々に事情を確認しようとしていた。そいつらはぞっとしたでしょうね。新津にとっては収賄事件だったけれど、実際は殺人や強姦を含んだ異常性愛の連中が相手だったわけよ。そいつらにとっては贈賄で挙げられるよりももっと悪い。人間性を否定されるのだから。だから連中は新津を生かしておくわけにはいかなかった。相談を受けた悪質ビデオの制作者、寺崎孝雄と和徳は、どうせ殺すなら、いつものように楽しんで殺そうとした。ちょうど、新津には可愛らしい娘がいた」
添島刑事はきつい口調で言った。
だが、犯人はもう出てこない。警察の手が届く前に、怒り狂ったイタリアのマフィアに断罪された。他に逃げ延びた関係者がいたとしても、もうそいつらは普通の穏やかな顔で、日常生活に戻っているだろう。次には自分に、狂ったゼウスの手が伸びてくるかもしれない恐怖と闘いながら。
「澤田はどうなるんですか」
添島刑事は煙草を真に差し出した。真は首を横に振った。
「疑いは晴れたけど、代議士は辞任するそうよ」
「村野花は」
「未成年に対する性的暴行、殺人教唆、猥褻ビデオの製作と販売。でも、刑法上、死刑になるほどの罪が出てくるかどうかは分からないわね。どの程度、村野花が関っていたか、証拠不十分、ってのもありそうだし」
「あの『連続殺人』の犯人は? 捕まらなかったら、ある意味大変なのでは」
「さすがにイタリアのマフィアは捕まえられないわね。証拠は全くない、しかも上の方で、もしも気が付いた人間がいたとして、握りつぶさざるを得ないでしょう。せいぜい暫くは繁華街に警官が多少多めに配置されて、暫くしたら日常に紛れて忘れられる。あとは、本庁と警察庁のお偉いさんの首がいくつか飛ぶか、あるいは減棒程度で済んじゃうのかしらね」
「河本さんは?」
「さぁ、どうかしら。河本は、ある意味では覚悟しているかもしれないけど。でもあの男のことだから、上手く立ち回るんじゃないかしら」それから添島刑事は遠くの空を見つめた。「河本の立場を思い遣ってるの? それともあんな男、地獄に堕ちろって思ってる?」
真は添島刑事の凛とした横顔を見つめた。不思議と静かな気持ちになっていた。
「何も。あの人にはあの人なりの、やむを得ない事情ってのがあったんでしょう」
「認めるの?」
「認めるわけじゃない。できるならもう、関わりたくないと思うだけです。ただ、あの人も決して得をしたわけでも、いい気分を味わったわけでもないことだけは分かります」
「あなたの父上も同じよ」
真はそれには反応しなかった。そして淡々とした声で尋ねた。
「あなたは、このままでいい、と?」
添島刑事はふと息を吐き出す。
「そうね。刑事としては認められないけど、たまには仕掛人がいてくれるのも悪くないわね」
「本気で?」
「本気よ。刑の執行なんてのを法律に頼っていたら、とんでもない悪党を見逃すことがあるってことは、私たちはよく分かっているもの。大和竹流のために目を瞑ることに抵抗はないわ。でも、本当はこんなことは刑事が絶対に考えちゃいけないことだわ。悪い刑事ね」
真は首を横に振り、視線を落とした。
「私は時々思うの。男は社会的倫理と体裁を重んじるけど、女はそうじゃない。男社会で男と同じ考え方で生きてきたと思っていたけど、今回は自分が女だと骨身に沁みて思ったわ。出世を望まないことも含めてね。女の潔さと言ってしまえばそれまでだけど、女にはもっと他に大事なものがあるからなのかもしれない。悪い刑事だと思うけど、自分がそういう人間だとわかったことは良かったと思ってる。だから辞表を出す気はもうないわ。最後までこの仕事に食らいつくことにした。仕掛人がいてくれたら、と思うのは今回が最後。犯罪は犯罪だと断じるのが私たちの仕事だから」
この女は本当に大和竹流を、いや、ジョルジョ・ヴォルテラという男を愛しているのだと思った。真には想像もつかないような歴史の重みを背負った家系の後継者を、その背景も含めて愛おしいと思っている、だからその中に自分の存在を無理矢理に押し込もうとはしていない。それに、この女の本質は、出世を望まないのだとしても、一人の刑事であるということから逃れることはないのだろう。
「新津圭一のビデオはどうしたら」
「もう犯人は殺されている。普通に考えたら、新津千惠子にとって、そのビデオが残っていることがプラスになるとは思えないわね。父親が自殺ではない、脅迫なんかしていないと分かって、でもそのことで、彼女の身体や心につけられた傷が癒されるわけでもない。澤田もそう思ったからこそ、香野深雪が受けた傷を揉み消そうとしたんでしょうね」
「でもフィルムを捨てなかった」
「そうね。でも、あれから二十年以上経っている。香野深雪がこれから生きていくにあたって、真実を押し隠すことと、己の身に起こったとてつもない不幸と向き合うことの、どちらが大切なことなのか、今になって澤田は少し迷ったのかもしれないわね。もう決めるのは彼ではない、香野深雪だって思ったんでしょう」
「深雪は……そのフィルムを見たんですよね」
真は改めてそう呟き、息をついた。深雪は、失われていた記憶を、無理矢理に思い出さされたのだ。その欠落していた彼女の記憶の部分は、まさにとてつもない負の要素を持っていた。
だが、本当にそうだろうか。本当にただ負の要素だけだったのだろうか。
たとえそれが辛く悲しいものであっても、いまや深雪の記憶はひとつに繋がり、彼女は一人の確かな人間となったのかもしれない。苦しみも悲しみも繋ぎ合わせて、彼女はこれから一人の人間として、今いる場所からようやく歩き始めることができるのだ。
真自身は、もしかして永遠に埋めることのできない記憶の欠落。真がその欠落した記憶を思い出す時が来たら、その時、この長い夢は終わってしまうのかもしれない。真は、自分の忘れている記憶については、やはり思い出したくないのだと、だからこそあえて記憶の引き出しに鍵を掛けたのだと思っていた。
だが、深雪は違う。たとえそれが負の力でも、存在を根底から覆すものにはならないはずだ。させてはいけない。
深雪のために、負の力ばかりではない、確かな正の力を与えてやることができれば。
その時、真は香野深雪から預かっていた貸金庫の番号と印鑑のことを思い出していた。寺崎昂司はいつか大切な『切り札』になる、と言っていた。それは犯罪者たちが断罪された後では遅いのだろうか。
「あなたは、どうするんですか?」
「どうって?」
真は暫く、何も言葉にできなかった。地面を忙しく歩く蟻たちは、この太陽の熱に焼かれながらも懸命に重荷を背負っていた。
「ジョルジョ・ヴォルテラのこと?」添島刑事は少しの間黙っていた。「そうね、一年に一度くらいは休暇を取ってローマに会いに行こうかしら。あなたが許してくれたら、あるいはジョルジョ・ヴォルテラが誰かさんと駆け落ちして居場所が分からなくなるのでなければ」
真は顔を上げた。
「ヴォルテラの自家用機は成田に次の主人を迎えに来たわよ。駆け落ちするんなら、さっさと決めなさい」
真は、どうして自分の周りにはこんなに勢いのある潔い人間ばかりいるのだろう、と考えていた。あるいは真ばかりが思い切れないだけなのか。みな、何故真の煮え切らない思いを知っているのだろう。
「香野深雪が今、どこにいるか知っていますか」
(つづく)



このお話は時代が古いので、まだ人工授精に関してはあれこれややこしかった時代なんです。そんな不確実な中でも、三上は必死だったみたいですね。その当時のことですから……いや、結構唐沢が、じゃあ!って言ったりして。いえ、大丈夫、きっとうまく行きます。
次回は深雪と真が過去を少し辿って行きます。絵が見つかるかな?
<次回予告>
「生か死か、どちらかしかないような生き方はしたくない、してはいけないと思っていた。新津が私を愛してくれたとき、彼の奥さんが意識もなくただ病院で死ぬだけの運命だと知って、それなのに私が新津と生きていくことを、新津が私と生きていくことを選んだら、私たちはその選択の中に放り込まれてしまう、ずっとそれが怖かった。それでも新津の手を拒めなかった私が彼を殺したのかもしれないと思った。誰かの不幸を下敷きにした幸福に酔ってはいけないって、その罰を与えられたような気がしたわ。だから、もうそれ以上何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう、知らなかったことにしようと思ったの」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨172] 第37章 絵には真実が隠されている(2)愛は心に沁み入る
【海に落ちる雨】第37章その2です。
格闘シーンや追込みシーンなどのクライマックスはもうないのですが、感情的にはまだまだクライマックスで、今丁度犯人の告白シーンみたいなところに差し掛かっているのかもしれません。もっとも、深雪も澤田も犯人、というわけではありませんが。
始めの頃、この物語には重複構造がいくつかあると書いたことがあるような気がします。
この物語では、疑似親子というのがやたらと出てくるのですが、その代表は澤田と深雪ということになるかもしれません。年齢的には親子じゃないけれど、三上と唐沢だって、ある意味疑似親子のようなものかもしれません。いや、一番の疑似親子は竹流と真なのですけれど。
深雪と澤田、其々の答えの行く末を見守ってやってください。
深雪と真が開けた扉の中には……?
長いので2回に分けてアップいたします。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
格闘シーンや追込みシーンなどのクライマックスはもうないのですが、感情的にはまだまだクライマックスで、今丁度犯人の告白シーンみたいなところに差し掛かっているのかもしれません。もっとも、深雪も澤田も犯人、というわけではありませんが。
始めの頃、この物語には重複構造がいくつかあると書いたことがあるような気がします。
この物語では、疑似親子というのがやたらと出てくるのですが、その代表は澤田と深雪ということになるかもしれません。年齢的には親子じゃないけれど、三上と唐沢だって、ある意味疑似親子のようなものかもしれません。いや、一番の疑似親子は竹流と真なのですけれど。
深雪と澤田、其々の答えの行く末を見守ってやってください。
深雪と真が開けた扉の中には……?
長いので2回に分けてアップいたします。





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真は相川の家に戻り、二階に上がって、伯父、功の書斎に入った。
真が大和竹流のマンションに居候するようになってから、この家には週に一度は高瀬登紀恵が風を通し、掃除をしに来てくれていた。そのお蔭で、この書斎にも誇りっぽい空気は溜まっていなかった。
伯父の書斎はまるっきり図書室で、備え付けの書棚が幾つも並んでいる。一番奥の窓際に机が置いてあり、その脇に扉のついたキャビネットがある。その棚には、功が作った幾つかの玩具が並んでいて、ほとんどが精巧な宇宙船の模型やプラネタリウムだった。
真はプラネタリウムを取り出し、止め具を外し、中に隠してあった印鑑と封筒をポケットに突っ込んだ。
伯父の書斎を出るとき、ふとこの部屋がどれほど自分にとって大事な場所だったかを考えた。
学校に行けなかった時間はいつもこの部屋にいて、勤務先の病院から帰ってきた伯父はいつもここに真を探しに来た。初めてあのプラネタリウムを点けてもらったのもこの部屋だった。立ち並ぶ書棚を背景に浮かび上がった星々は、この書斎を無限の宇宙に変えた。
真は息をつき、書斎の扉を閉めた。
家を出て車の扉を開けたとき、ふと相川の家を見上げ、静かに目を閉じた。
この家で過ごした時間のほとんどは、功との思い出に繋がっていた。真が自分で自分を哀れんでいた頃も、恐らく功は何かと闘っていて、真は何一つそれに気がつかないまま時間を過ごしていたに違いなかった。功が失踪して十三年、本当なら自分は功のために何かを成すべきではないのか。失踪人調査を看板にしている調査事務所の人間でありながら、何故重荷から逃げ続けているのだろう。
だが、今は自分自身の事情のことで迷っている場合ではないと、思いを振り切った。
いつも深雪と会っていたホテルに行き、駐車場に車を停めると、真はポケットから澤田に預かっていた鍵を出して確かめた。
あの時、この鍵を渡しながら、澤田は言葉にこそしなかったが、深雪を頼む、と言っていたような気がした。そしてそれは間違いではなかったのだ。澤田の深雪への想いは、贖罪と憐れみと、そしてまさに父が娘を思うような感情だったのだろう。
ロビーを通り抜け、いつものエレベーターを待つ間、真は不意に、もうすっかり自分も、深雪も、以前の自分たちではないことを理解したような気がした。
美和と初めて寝た後でこのホテルに来た時とは、明らかに自分の身体の内にある何かが変わっていた。あの時、真は深雪の待つ部屋に上がりながら、少し先の別れを予感しながらも、それでもいつもの逢引の時のように微かに興奮していたのだ。だが、今、自分はどれほど遠くへ来てしまったか。そして恐らく深雪も、もう以前の深雪ではないのだろう。
真がその部屋の鍵を開けたとき、深雪は奥の寝室の窓から街を見つめていた。
窓の外には東京のビル、そして白くくぐもったような空が果てなく広がり、深雪はカバーが掛けられたままのベッドに座って、街の遥か彼方にある宙と、真が静かに部屋に入っていった気配を感じていたようだった。
白いスーツを着た深雪の脇には、松葉杖が置かれていた。真は深雪の傍に行き、松葉杖を少し動かし、彼女の横に座った。
深雪は目を閉じていた。
「深雪」
真はその名前を、恐らく今までにないほどの心をこめて呼んだ。
深雪はゆっくりと目を開けて真を見つめ、それから僅かに微笑んだ。悲しく寂しげで、何かに懸命に耐えている顔だった。
「銀行に行こう。貸金庫を開けに」
深雪は唐突な真の言葉に、少しの間戸惑ったような顔をしていた。真はそのまま深雪の手を取り、立ち上がらせようとして、深雪の足のことに気が付いた。一瞬考えたが、結局深雪を抱き上げた。
「真ちゃん」
驚いたように声を上げる深雪の感情を無視して、真は部屋の扉まで行き、そのままでは扉を開けられないことに気が付いて、少しの間深雪を降ろし、扉を開けた。
一瞬抱き寄せた深雪は、以前よりもずっとか細く、か弱い少女のように思えた。
それでもさすがに恥ずかしいと思ったのか、深雪はもう一度抱き上げられることを拒んだが、真は首を横に振り、彼女をただ愛おしく抱き上げた。男女の関係としては終わってしまっていることを知っていたが、まだ一緒にしなければならない大切なことがある、それを深く感じていた。
深雪を車に乗せてから、真はようやく深雪に大丈夫か、と尋ねた。深雪は随分と強引なのね、と言った。
「見てないの? 貸金庫の中。一ヶ月経ったのに」
そうだ。あの時、深雪は真にこの番号と印鑑を預けて、一か月経ったらあなたのものだから好きにして、と言っていたのだ。
「こっちが聞きたいよ。君も、預かったまま何年も見ていないんだろう」
それもそうね、と深雪は言った。真はちらりと助手席の深雪を見て、改めて、何て美しい女だろうと思った。
真が調査のために適当な嘘をついて初めて深雪の店に行ったとき、深雪は凛とした態度で、出直してきなさい、と言った。モデルのように綺麗だけど、気の強い女だと思った。だが、二度目に深雪の店に行き、真が自分の立場を名乗って丁寧に事情を話すと、深雪はようやく微笑んだ。
彼女は協力を惜しまなかったし、そのお蔭で、自殺しようと家族の前から姿を消していた男を探し当てることができた。あの時の深雪の微笑みには、深い悲しみと、彼女自身が乗り越えようにも越えられずにいる苦悩に縁取られながらも、それでも愛されたことを知っている優しい温もりが漂っていた。
礼を言いに三度目に深雪の店に行ったときが、二人にとっては始まりだった。
深雪は後から私が誘ったと言っていたが、真は自分が誘ったのだと思っていた。深雪のホテルの部屋に行き、身の上話をするのでもなく、ただ静かに少しだけ酒を飲み、そのまま口づけを交わし、お互いに震えるように肌を合わせて交わった。
あの時に感じたとてつもなく深い快楽、この女とひとつになることの悦びは、真がそれまでどんな女と寝ていても感じなかったことだった。
あの時の真は、それがりぃさと別れて以来一度も女性と寝た事がなく、久しぶりのことですっかり興奮して、身体がおかしくなっているのだろうと考えていた。だいたい、竹流は一緒に住んでからも真に手出しをする気配がなく、真はただ、欲求不満だったのかもしれないと思っていた。
だが、美和と寝て、彼女を可愛いと思っても、同じような感覚にならなかったとき、深雪と自分の間にある不思議な符号を感じたのだ。
それは深い心の傷だった。今形には残っていないけれど、この女にはその身体に、魂にまで届きそうな深い傷がある。
真を受け入れる時、一見快楽に溺れたような顔をしながら、いつも深雪は一瞬、苦痛に耐えるような顔をした。だが、一旦真を受け入れてしまうと、深雪の身体のうちは、真がこの女の子宮は自分のために存在していると誤解するほどに、真のものに合わさって纏わり付き、真はこの女の全ての細胞で愛撫されているように感じた。真は深雪を激しく求めたし、時には狂おしく優しい気持ちにもなったが、別の人間の身体の温もりを知っている先入観が、真の目も心も曇らせてしまっていたのだろう。
真がその相手との間に横たわる深い溝、それは生者と死者の溝だったのかもしれないが、それを毎日その男との間に感じているのと同じように、この女もまた、生者と死者の深い溝の前に立って、そこから逃れられないでいると思った。
真のその不可解な感覚を、当の真ではなく竹流のほうがはっきりと知っていたのだろう。だから竹流は、もしも真と深雪がお互いに本気になったら身を引くつもりだった、そのように草薙は感じていたのだろう。
だが、それは竹流の誤解だと真は思った。理屈は通っているが、そして真自身もそのような錯覚に囚われることもあるし、事実、深雪の心の傷と真の傷の間には繋がりがあるのかもしれないが、それでもそこには大きな前提が欠落していた。
それは大和竹流の不在だった。だが、現実には大和竹流はそこに存在し、真は彼に教えられ育てられて、死の国から手を引かれて戻ってきた。深雪も、葉子も、あるいは美和もいない世界で真は生きていけるかもしれないが、あの男のいない世界には、真の存在の理由もない。
その通りだ。俺はあの男の手がなければ、言葉も話せず、この世界と折り合うこともできず、呼吸の仕方さえ分からなくなってしまう。あの男がローマに帰ったら、一体自分はどうなるのだろう。
真はまだ抜け出せない混乱に足を捕まれたままでいるのを感じた。
怖かったの、と深雪は言った。静かな声だった。
分かってるよ、と真は答えた。
深雪が、いや新津圭一が何かを預けていた貸金庫は、ある大手の銀行の支店にあった。銀行員は深雪が杖無しでは歩けないのに驚いて、車椅子を持ってこようとしたが、真はそれを断って深雪を抱いたまま、彼らの案内で個室の待合に通った。所定の手続きを済ませて、担当の銀行員が去ると、深雪が待合の深いソファで不安そうに扉を見つめた。
「澤田に、会ったのか」
真が聞くと、深雪は真の顔を見て、それから静かに首を横に振った。
「澤田を恨んでる?」
深雪は暫く、真の顔をじっと見つめていた。それからゆっくりと、もう一度首を横に振った。穏やかな、しかし決断に満ちた顔に見えた。
担当の銀行員は、何か筒のようなものと、麻の紐で結わえられた何冊もの手帳、そしてその上に一緒に結わえられた一通の手紙を持って戻ってきた。手帳は古くばさばさになっていて、紙は黄ばんでいた。
二人は顔を見合わせ、無言でどこか場所を変えてこれを確認しようと意見を交わした。
銀行を出て、真は少しの間行き先に困ったが、思い立って車を走らせた。深雪はどこに行くの、とも聞かなかった。貸金庫から出してもらったものを膝の上に置いたまま、黙り込んでいる。
車を停めたとき、初めて深雪は、ここはどこと尋ねた。
「灯妙寺。俺の祖父母が少しの間ここの離れを借りて住んでたんだ。今は北海道に戻ってる。俺も、高校生のころは半分ここに住んでいたようなものだった」
「どうして」
「さぁ」真は深雪が、どうしてここに連れてきたのか、と聞いたことをちゃんと理解していた。「深雪にここを、つまり俺が昔関っていた場所を、見せたかったのかもしれない」
真は助手席に回り、深雪を抱き上げた。
深く緑を増した楠の大木が大きな影を作り、夏の日差しは柔らかく穏やかに薄められ、風が吹きぬけていた。ここにはいつも風が吹いているな、と真は思った。
木の根に足を取られないように気をつけて歩いていると、深雪が支えてもらったら歩けるから降ろして、と言った。真が躊躇うと、歩きたいの、と彼女は続けた。
真は深雪を降ろし、深雪の持っていたものを受け取り、彼女の身体を別の手で支えるようにしてゆっくりと歩いた。不思議と、抱き上げているときよりも深雪の身体は重く感じられ、真はそれが深雪の足から伝わってくる重力のせいだと思った。
痛みがないはずはないのに、彼女は地面から伝わる何かをどうしてもその足で確認したいというようだった。
「静かね。東京の街の中とは思えない」
真は短く肯定した。
住職は法事に出掛けていて不在だったが、寺男と副住職が在宅していた。
彼らは本堂の脇廊に案内してくれて、茶を運んできてくれた。副住職は、今度何時稽古に来るのか、と真に尋ねた。住職が、真がここ暫く来なかったので相手になる奴がいないと嘆いているという。深雪が不思議そうな顔をするので、剣道だと教えてやり、真は少し考えてから、暫くは来れないかもしれない、と答えた。
真と深雪は顔を見合わせてから、麻の紐を解き、手帳を確かめた。
それは、澤田顕一郎の記者時代の膨大な記録だった。
深雪は震える手で手帳をめくり続けていた。二十年以上も前の手帳の綴りは甘く、何ページも外れていたり、隅が欠けていたりした。一ページに大きな字で数行の殴り書きもあれば、何行も何行も細かい字で書き綴られたところもあった。澤田顕一郎の情熱と強い決意、どのページにもそれが溢れかえっていた。
戦争中の軍の阿片使用、原爆の犠牲者の取材は、数冊の手帳に亘っていた。澤田は最後のページに、苦しげな字で叩きつけるように書いていた。
どれほど多くの犠牲者があの悲惨な日々に口をつぐんでいることか、彼らに口を開いてもらうことがどれほどに難しいか。私のように戦争の気配を遠くで記憶しているだけの人間にさえ、あの日々は苦しいのだ。だが人の記憶は消えていく。この戦争の記憶を忘れた時に、またあの悲惨さを知らない人間がそれを始める。この記憶が生々しいうちに、風化しないうちに必ず犠牲になった人々を贖わなくてはならない。後になってしまえば、遅すぎる。
澤田は酔っていたのかもしれない。あるいは泣いていたのかもしれない。所々、水が滴って、字が薄くなっていた。
蓮生家の歴史についても、膨大な取材がなされていた。ページの何枚かは千切られている。澤田は最後のページに、語れないことがある、と書いていた。それは、ロシアから連れてこられた美しい皇女のことだったのかもしれない。あるページに、あの見覚えのあるフェルメールの絵が模写されていた。ところどころ絵具が曖昧にのせられて彩色されている。そのページの一番下に、符号もしくは割符、と書いてあった。そこには真が村上で吉川弥生に見せてもらった古い雑誌にあった『青い血』の物語のあらすじが、抜粋と共に書かれていた。
「どうしてこれが新津圭一の手に?」
真が呟くと、深雪が手帳から目を離さないままに言った。
「新津は、澤田顕一郎を尊敬していた。私が初めて新津に会ったとき、彼は私のところに澤田顕一郎のことを聞きに来たの。何故澤田は記者を辞めたんだろう、何があったんだろう、どうして澤田は代議士という立場にありながらホステスである君の援助をしているんだろう、って。私はどの質問にも答えることができなかった」
深雪はふと顔を上げた。彼女の向こうに、灯妙寺の半跏思惟像が静かに揺らめいて見えていた。
「新津は一生懸命だった。始めは記者としての使命、それからいつしか私を愛し始めたと言ってくれた。新津に意識のないまま寝たきりの奥さんがいることは知っていたの。罪の意識で新津がどれほど苦しんでいたかも知っていた。でも私には何もできなかった。新津と初めて肌を合わせた日、私は恐怖のあまり意識を失ってしまった」
真は真っ直ぐに自分を見つめる深雪の目を、ただ見つめ返していた。
「新津は私が何か心に傷があるのだろうと言ったの。でも私には記憶がなかった。私は罪悪感のためだと思っていた。受け入れようとすると恐ろしくて身体が震えだした。新津はやはりそれは尋常のことではないと言った。おかしいでしょ。こんな仕事をしているのに、男の人と最後まで関係を持ったことはなかったのよ。新津が私を愛して心から心配してくれていることは痛いほどに分かっていた。新津は私との関係で苦しんで、それなのに私は彼を受け入れることが上手くできなくて、新津が哀れで愛しくて仕方がなかった。中途半端に身体を合わせるだけで新津を満足させてあげることもできなかった。
それでも、新津はいつかきっと癒される日が来る、って私を愛撫してくれていつも優しく抱き締めてくれた。私も新津が傍にいてくれたら安心していられた。新津は千惠子ちゃんを親戚に預けては、私のところに泊まりに来るようになったの。新津は私に娼婦みたいなことはしなくてもいいと言ったけど、私はせめて新津を満足させたくてテクニックだけは色々覚えた。いつも新津が欲しくて濡れていたのに、新津が安心していいよって私の中に入ろうとすると、恐怖で訳が分からなくなっていた。
でも、新津にも限界があったんだと思うわ。ある日酔っ払って無理矢理私を抱いたの。私は途中まで気を失っていた。でも、ちゃんと感じていたと思うし、新津を受け入れて嬉しかったと思うわ。その日から、新津には会っていないの。新津は糸魚川に行って私の過去を調べていたみたい。新潟から何度か短い電話をくれた。調べていることについては何も教えてくれなかった。その後で新津は自殺したの。新津が不倫の罪で苦しんでいて、奥さんの治療費で経済的にも大変だったって、警察はそう言ったわ」
陽が射しこんでいた脇廊に、時々影が落ち始めた。真は深雪の顔を黙って見つめていた。
「生か死か、どちらかしかないような生き方はしたくない、してはいけないと思っていた。新津が私を愛してくれたとき、彼の奥さんが意識もなくただ病院で死ぬだけの運命だと知って、それなのに私が新津と生きていくことを、新津が私と生きていくことを選んだら、私たちはその選択の中に放り込まれてしまう、ずっとそれが怖かった。それでも新津の手を拒めなかった私が彼を殺したのかもしれないと思った。誰かの不幸を下敷きにした幸福に酔ってはいけないって、その罰を与えられたような気がしたわ。だから、もうそれ以上何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう、知らなかったことにしようと思ったの」
雨が来そうですね、台風も近付いているそうですから、と寺男が薄暗くなった脇廊の電気を灯しに来た。
「大和さんが新津千惠子を預かってくれないか、と言ってきたとき、一体何が起こったのかと思った。あの人は、誰にも救ってもらえず見捨てられた子どもがかわいそうで、しかも、もしかしてとてつもない犯罪に巻き込まれるかもしれないから、って私を頼ってきたの。新津と私が不倫関係にあったことを知っていたんだと思うけど、それよりも澤田顕一郎の後ろ盾を期待したようなムードだった。私は断って、それからあの人は一度もやってこなかった。千惠子ちゃんがどうなったのかも、私は聞きたくないと思っていた」
じじっと明りが音を立てた。微かに水の音が聞こえている。
「真ちゃんと初めて寝た日、とても不思議だった。私は何の恐怖も感じなかったし、自然に濡れて、自然にあなたを受け入れた。肌を合わせる前から、いいえ、あなたが店の扉を開けて入ってきた時から、そのことが分かっていたような気がしていたの。今でも、どうしてそうだったのか分からないけど、私にはきっとあなたの傷が見えたのだと思う。この人は誰か本当に大切な人がいるのに、その人を求めたり求められたりすることができなくて、苦しんでいるのだと思った。新津が死んでしまって、私にそれができなくなったように。だから私はあなたが怖くないんだと思ったわ」
(つづく)




<次回予告>
「でも今、代議士も辞職して、離婚届にも判を押したっていう澤田には、この手帳が必要なんじゃないかしら。真ちゃん、澤田は、あなたが息子だったらって、あいつの親父を知っているんだ、でも息子のために何かしてやるのは難しい立場だろう、俺が親父になってやろうかって、お酒を飲んで嬉しそうに言っていた。澤田は一人息子を事故で亡くしているから、あなたを息子のように思っていたのかもしれない。だから、この手帳とこの絵、それに新津の手紙は、あなたから澤田に届けてあげて」
どこへ行くつもりなのか、と真は聞いた。多分新潟、と深雪は答えた。千惠子ちゃんは、と聞くと、深雪は真の顔を真正面から見た。
「大和さんに伝えて。今度こそ千惠子ちゃんは私がちゃんと預かったから、って。三年前にそれができなくて、ごめんなさいって」



真は相川の家に戻り、二階に上がって、伯父、功の書斎に入った。
真が大和竹流のマンションに居候するようになってから、この家には週に一度は高瀬登紀恵が風を通し、掃除をしに来てくれていた。そのお蔭で、この書斎にも誇りっぽい空気は溜まっていなかった。
伯父の書斎はまるっきり図書室で、備え付けの書棚が幾つも並んでいる。一番奥の窓際に机が置いてあり、その脇に扉のついたキャビネットがある。その棚には、功が作った幾つかの玩具が並んでいて、ほとんどが精巧な宇宙船の模型やプラネタリウムだった。
真はプラネタリウムを取り出し、止め具を外し、中に隠してあった印鑑と封筒をポケットに突っ込んだ。
伯父の書斎を出るとき、ふとこの部屋がどれほど自分にとって大事な場所だったかを考えた。
学校に行けなかった時間はいつもこの部屋にいて、勤務先の病院から帰ってきた伯父はいつもここに真を探しに来た。初めてあのプラネタリウムを点けてもらったのもこの部屋だった。立ち並ぶ書棚を背景に浮かび上がった星々は、この書斎を無限の宇宙に変えた。
真は息をつき、書斎の扉を閉めた。
家を出て車の扉を開けたとき、ふと相川の家を見上げ、静かに目を閉じた。
この家で過ごした時間のほとんどは、功との思い出に繋がっていた。真が自分で自分を哀れんでいた頃も、恐らく功は何かと闘っていて、真は何一つそれに気がつかないまま時間を過ごしていたに違いなかった。功が失踪して十三年、本当なら自分は功のために何かを成すべきではないのか。失踪人調査を看板にしている調査事務所の人間でありながら、何故重荷から逃げ続けているのだろう。
だが、今は自分自身の事情のことで迷っている場合ではないと、思いを振り切った。
いつも深雪と会っていたホテルに行き、駐車場に車を停めると、真はポケットから澤田に預かっていた鍵を出して確かめた。
あの時、この鍵を渡しながら、澤田は言葉にこそしなかったが、深雪を頼む、と言っていたような気がした。そしてそれは間違いではなかったのだ。澤田の深雪への想いは、贖罪と憐れみと、そしてまさに父が娘を思うような感情だったのだろう。
ロビーを通り抜け、いつものエレベーターを待つ間、真は不意に、もうすっかり自分も、深雪も、以前の自分たちではないことを理解したような気がした。
美和と初めて寝た後でこのホテルに来た時とは、明らかに自分の身体の内にある何かが変わっていた。あの時、真は深雪の待つ部屋に上がりながら、少し先の別れを予感しながらも、それでもいつもの逢引の時のように微かに興奮していたのだ。だが、今、自分はどれほど遠くへ来てしまったか。そして恐らく深雪も、もう以前の深雪ではないのだろう。
真がその部屋の鍵を開けたとき、深雪は奥の寝室の窓から街を見つめていた。
窓の外には東京のビル、そして白くくぐもったような空が果てなく広がり、深雪はカバーが掛けられたままのベッドに座って、街の遥か彼方にある宙と、真が静かに部屋に入っていった気配を感じていたようだった。
白いスーツを着た深雪の脇には、松葉杖が置かれていた。真は深雪の傍に行き、松葉杖を少し動かし、彼女の横に座った。
深雪は目を閉じていた。
「深雪」
真はその名前を、恐らく今までにないほどの心をこめて呼んだ。
深雪はゆっくりと目を開けて真を見つめ、それから僅かに微笑んだ。悲しく寂しげで、何かに懸命に耐えている顔だった。
「銀行に行こう。貸金庫を開けに」
深雪は唐突な真の言葉に、少しの間戸惑ったような顔をしていた。真はそのまま深雪の手を取り、立ち上がらせようとして、深雪の足のことに気が付いた。一瞬考えたが、結局深雪を抱き上げた。
「真ちゃん」
驚いたように声を上げる深雪の感情を無視して、真は部屋の扉まで行き、そのままでは扉を開けられないことに気が付いて、少しの間深雪を降ろし、扉を開けた。
一瞬抱き寄せた深雪は、以前よりもずっとか細く、か弱い少女のように思えた。
それでもさすがに恥ずかしいと思ったのか、深雪はもう一度抱き上げられることを拒んだが、真は首を横に振り、彼女をただ愛おしく抱き上げた。男女の関係としては終わってしまっていることを知っていたが、まだ一緒にしなければならない大切なことがある、それを深く感じていた。
深雪を車に乗せてから、真はようやく深雪に大丈夫か、と尋ねた。深雪は随分と強引なのね、と言った。
「見てないの? 貸金庫の中。一ヶ月経ったのに」
そうだ。あの時、深雪は真にこの番号と印鑑を預けて、一か月経ったらあなたのものだから好きにして、と言っていたのだ。
「こっちが聞きたいよ。君も、預かったまま何年も見ていないんだろう」
それもそうね、と深雪は言った。真はちらりと助手席の深雪を見て、改めて、何て美しい女だろうと思った。
真が調査のために適当な嘘をついて初めて深雪の店に行ったとき、深雪は凛とした態度で、出直してきなさい、と言った。モデルのように綺麗だけど、気の強い女だと思った。だが、二度目に深雪の店に行き、真が自分の立場を名乗って丁寧に事情を話すと、深雪はようやく微笑んだ。
彼女は協力を惜しまなかったし、そのお蔭で、自殺しようと家族の前から姿を消していた男を探し当てることができた。あの時の深雪の微笑みには、深い悲しみと、彼女自身が乗り越えようにも越えられずにいる苦悩に縁取られながらも、それでも愛されたことを知っている優しい温もりが漂っていた。
礼を言いに三度目に深雪の店に行ったときが、二人にとっては始まりだった。
深雪は後から私が誘ったと言っていたが、真は自分が誘ったのだと思っていた。深雪のホテルの部屋に行き、身の上話をするのでもなく、ただ静かに少しだけ酒を飲み、そのまま口づけを交わし、お互いに震えるように肌を合わせて交わった。
あの時に感じたとてつもなく深い快楽、この女とひとつになることの悦びは、真がそれまでどんな女と寝ていても感じなかったことだった。
あの時の真は、それがりぃさと別れて以来一度も女性と寝た事がなく、久しぶりのことですっかり興奮して、身体がおかしくなっているのだろうと考えていた。だいたい、竹流は一緒に住んでからも真に手出しをする気配がなく、真はただ、欲求不満だったのかもしれないと思っていた。
だが、美和と寝て、彼女を可愛いと思っても、同じような感覚にならなかったとき、深雪と自分の間にある不思議な符号を感じたのだ。
それは深い心の傷だった。今形には残っていないけれど、この女にはその身体に、魂にまで届きそうな深い傷がある。
真を受け入れる時、一見快楽に溺れたような顔をしながら、いつも深雪は一瞬、苦痛に耐えるような顔をした。だが、一旦真を受け入れてしまうと、深雪の身体のうちは、真がこの女の子宮は自分のために存在していると誤解するほどに、真のものに合わさって纏わり付き、真はこの女の全ての細胞で愛撫されているように感じた。真は深雪を激しく求めたし、時には狂おしく優しい気持ちにもなったが、別の人間の身体の温もりを知っている先入観が、真の目も心も曇らせてしまっていたのだろう。
真がその相手との間に横たわる深い溝、それは生者と死者の溝だったのかもしれないが、それを毎日その男との間に感じているのと同じように、この女もまた、生者と死者の深い溝の前に立って、そこから逃れられないでいると思った。
真のその不可解な感覚を、当の真ではなく竹流のほうがはっきりと知っていたのだろう。だから竹流は、もしも真と深雪がお互いに本気になったら身を引くつもりだった、そのように草薙は感じていたのだろう。
だが、それは竹流の誤解だと真は思った。理屈は通っているが、そして真自身もそのような錯覚に囚われることもあるし、事実、深雪の心の傷と真の傷の間には繋がりがあるのかもしれないが、それでもそこには大きな前提が欠落していた。
それは大和竹流の不在だった。だが、現実には大和竹流はそこに存在し、真は彼に教えられ育てられて、死の国から手を引かれて戻ってきた。深雪も、葉子も、あるいは美和もいない世界で真は生きていけるかもしれないが、あの男のいない世界には、真の存在の理由もない。
その通りだ。俺はあの男の手がなければ、言葉も話せず、この世界と折り合うこともできず、呼吸の仕方さえ分からなくなってしまう。あの男がローマに帰ったら、一体自分はどうなるのだろう。
真はまだ抜け出せない混乱に足を捕まれたままでいるのを感じた。
怖かったの、と深雪は言った。静かな声だった。
分かってるよ、と真は答えた。
深雪が、いや新津圭一が何かを預けていた貸金庫は、ある大手の銀行の支店にあった。銀行員は深雪が杖無しでは歩けないのに驚いて、車椅子を持ってこようとしたが、真はそれを断って深雪を抱いたまま、彼らの案内で個室の待合に通った。所定の手続きを済ませて、担当の銀行員が去ると、深雪が待合の深いソファで不安そうに扉を見つめた。
「澤田に、会ったのか」
真が聞くと、深雪は真の顔を見て、それから静かに首を横に振った。
「澤田を恨んでる?」
深雪は暫く、真の顔をじっと見つめていた。それからゆっくりと、もう一度首を横に振った。穏やかな、しかし決断に満ちた顔に見えた。
担当の銀行員は、何か筒のようなものと、麻の紐で結わえられた何冊もの手帳、そしてその上に一緒に結わえられた一通の手紙を持って戻ってきた。手帳は古くばさばさになっていて、紙は黄ばんでいた。
二人は顔を見合わせ、無言でどこか場所を変えてこれを確認しようと意見を交わした。
銀行を出て、真は少しの間行き先に困ったが、思い立って車を走らせた。深雪はどこに行くの、とも聞かなかった。貸金庫から出してもらったものを膝の上に置いたまま、黙り込んでいる。
車を停めたとき、初めて深雪は、ここはどこと尋ねた。
「灯妙寺。俺の祖父母が少しの間ここの離れを借りて住んでたんだ。今は北海道に戻ってる。俺も、高校生のころは半分ここに住んでいたようなものだった」
「どうして」
「さぁ」真は深雪が、どうしてここに連れてきたのか、と聞いたことをちゃんと理解していた。「深雪にここを、つまり俺が昔関っていた場所を、見せたかったのかもしれない」
真は助手席に回り、深雪を抱き上げた。
深く緑を増した楠の大木が大きな影を作り、夏の日差しは柔らかく穏やかに薄められ、風が吹きぬけていた。ここにはいつも風が吹いているな、と真は思った。
木の根に足を取られないように気をつけて歩いていると、深雪が支えてもらったら歩けるから降ろして、と言った。真が躊躇うと、歩きたいの、と彼女は続けた。
真は深雪を降ろし、深雪の持っていたものを受け取り、彼女の身体を別の手で支えるようにしてゆっくりと歩いた。不思議と、抱き上げているときよりも深雪の身体は重く感じられ、真はそれが深雪の足から伝わってくる重力のせいだと思った。
痛みがないはずはないのに、彼女は地面から伝わる何かをどうしてもその足で確認したいというようだった。
「静かね。東京の街の中とは思えない」
真は短く肯定した。
住職は法事に出掛けていて不在だったが、寺男と副住職が在宅していた。
彼らは本堂の脇廊に案内してくれて、茶を運んできてくれた。副住職は、今度何時稽古に来るのか、と真に尋ねた。住職が、真がここ暫く来なかったので相手になる奴がいないと嘆いているという。深雪が不思議そうな顔をするので、剣道だと教えてやり、真は少し考えてから、暫くは来れないかもしれない、と答えた。
真と深雪は顔を見合わせてから、麻の紐を解き、手帳を確かめた。
それは、澤田顕一郎の記者時代の膨大な記録だった。
深雪は震える手で手帳をめくり続けていた。二十年以上も前の手帳の綴りは甘く、何ページも外れていたり、隅が欠けていたりした。一ページに大きな字で数行の殴り書きもあれば、何行も何行も細かい字で書き綴られたところもあった。澤田顕一郎の情熱と強い決意、どのページにもそれが溢れかえっていた。
戦争中の軍の阿片使用、原爆の犠牲者の取材は、数冊の手帳に亘っていた。澤田は最後のページに、苦しげな字で叩きつけるように書いていた。
どれほど多くの犠牲者があの悲惨な日々に口をつぐんでいることか、彼らに口を開いてもらうことがどれほどに難しいか。私のように戦争の気配を遠くで記憶しているだけの人間にさえ、あの日々は苦しいのだ。だが人の記憶は消えていく。この戦争の記憶を忘れた時に、またあの悲惨さを知らない人間がそれを始める。この記憶が生々しいうちに、風化しないうちに必ず犠牲になった人々を贖わなくてはならない。後になってしまえば、遅すぎる。
澤田は酔っていたのかもしれない。あるいは泣いていたのかもしれない。所々、水が滴って、字が薄くなっていた。
蓮生家の歴史についても、膨大な取材がなされていた。ページの何枚かは千切られている。澤田は最後のページに、語れないことがある、と書いていた。それは、ロシアから連れてこられた美しい皇女のことだったのかもしれない。あるページに、あの見覚えのあるフェルメールの絵が模写されていた。ところどころ絵具が曖昧にのせられて彩色されている。そのページの一番下に、符号もしくは割符、と書いてあった。そこには真が村上で吉川弥生に見せてもらった古い雑誌にあった『青い血』の物語のあらすじが、抜粋と共に書かれていた。
「どうしてこれが新津圭一の手に?」
真が呟くと、深雪が手帳から目を離さないままに言った。
「新津は、澤田顕一郎を尊敬していた。私が初めて新津に会ったとき、彼は私のところに澤田顕一郎のことを聞きに来たの。何故澤田は記者を辞めたんだろう、何があったんだろう、どうして澤田は代議士という立場にありながらホステスである君の援助をしているんだろう、って。私はどの質問にも答えることができなかった」
深雪はふと顔を上げた。彼女の向こうに、灯妙寺の半跏思惟像が静かに揺らめいて見えていた。
「新津は一生懸命だった。始めは記者としての使命、それからいつしか私を愛し始めたと言ってくれた。新津に意識のないまま寝たきりの奥さんがいることは知っていたの。罪の意識で新津がどれほど苦しんでいたかも知っていた。でも私には何もできなかった。新津と初めて肌を合わせた日、私は恐怖のあまり意識を失ってしまった」
真は真っ直ぐに自分を見つめる深雪の目を、ただ見つめ返していた。
「新津は私が何か心に傷があるのだろうと言ったの。でも私には記憶がなかった。私は罪悪感のためだと思っていた。受け入れようとすると恐ろしくて身体が震えだした。新津はやはりそれは尋常のことではないと言った。おかしいでしょ。こんな仕事をしているのに、男の人と最後まで関係を持ったことはなかったのよ。新津が私を愛して心から心配してくれていることは痛いほどに分かっていた。新津は私との関係で苦しんで、それなのに私は彼を受け入れることが上手くできなくて、新津が哀れで愛しくて仕方がなかった。中途半端に身体を合わせるだけで新津を満足させてあげることもできなかった。
それでも、新津はいつかきっと癒される日が来る、って私を愛撫してくれていつも優しく抱き締めてくれた。私も新津が傍にいてくれたら安心していられた。新津は千惠子ちゃんを親戚に預けては、私のところに泊まりに来るようになったの。新津は私に娼婦みたいなことはしなくてもいいと言ったけど、私はせめて新津を満足させたくてテクニックだけは色々覚えた。いつも新津が欲しくて濡れていたのに、新津が安心していいよって私の中に入ろうとすると、恐怖で訳が分からなくなっていた。
でも、新津にも限界があったんだと思うわ。ある日酔っ払って無理矢理私を抱いたの。私は途中まで気を失っていた。でも、ちゃんと感じていたと思うし、新津を受け入れて嬉しかったと思うわ。その日から、新津には会っていないの。新津は糸魚川に行って私の過去を調べていたみたい。新潟から何度か短い電話をくれた。調べていることについては何も教えてくれなかった。その後で新津は自殺したの。新津が不倫の罪で苦しんでいて、奥さんの治療費で経済的にも大変だったって、警察はそう言ったわ」
陽が射しこんでいた脇廊に、時々影が落ち始めた。真は深雪の顔を黙って見つめていた。
「生か死か、どちらかしかないような生き方はしたくない、してはいけないと思っていた。新津が私を愛してくれたとき、彼の奥さんが意識もなくただ病院で死ぬだけの運命だと知って、それなのに私が新津と生きていくことを、新津が私と生きていくことを選んだら、私たちはその選択の中に放り込まれてしまう、ずっとそれが怖かった。それでも新津の手を拒めなかった私が彼を殺したのかもしれないと思った。誰かの不幸を下敷きにした幸福に酔ってはいけないって、その罰を与えられたような気がしたわ。だから、もうそれ以上何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう、知らなかったことにしようと思ったの」
雨が来そうですね、台風も近付いているそうですから、と寺男が薄暗くなった脇廊の電気を灯しに来た。
「大和さんが新津千惠子を預かってくれないか、と言ってきたとき、一体何が起こったのかと思った。あの人は、誰にも救ってもらえず見捨てられた子どもがかわいそうで、しかも、もしかしてとてつもない犯罪に巻き込まれるかもしれないから、って私を頼ってきたの。新津と私が不倫関係にあったことを知っていたんだと思うけど、それよりも澤田顕一郎の後ろ盾を期待したようなムードだった。私は断って、それからあの人は一度もやってこなかった。千惠子ちゃんがどうなったのかも、私は聞きたくないと思っていた」
じじっと明りが音を立てた。微かに水の音が聞こえている。
「真ちゃんと初めて寝た日、とても不思議だった。私は何の恐怖も感じなかったし、自然に濡れて、自然にあなたを受け入れた。肌を合わせる前から、いいえ、あなたが店の扉を開けて入ってきた時から、そのことが分かっていたような気がしていたの。今でも、どうしてそうだったのか分からないけど、私にはきっとあなたの傷が見えたのだと思う。この人は誰か本当に大切な人がいるのに、その人を求めたり求められたりすることができなくて、苦しんでいるのだと思った。新津が死んでしまって、私にそれができなくなったように。だから私はあなたが怖くないんだと思ったわ」
(つづく)



<次回予告>
「でも今、代議士も辞職して、離婚届にも判を押したっていう澤田には、この手帳が必要なんじゃないかしら。真ちゃん、澤田は、あなたが息子だったらって、あいつの親父を知っているんだ、でも息子のために何かしてやるのは難しい立場だろう、俺が親父になってやろうかって、お酒を飲んで嬉しそうに言っていた。澤田は一人息子を事故で亡くしているから、あなたを息子のように思っていたのかもしれない。だから、この手帳とこの絵、それに新津の手紙は、あなたから澤田に届けてあげて」
どこへ行くつもりなのか、と真は聞いた。多分新潟、と深雪は答えた。千惠子ちゃんは、と聞くと、深雪は真の顔を真正面から見た。
「大和さんに伝えて。今度こそ千惠子ちゃんは私がちゃんと預かったから、って。三年前にそれができなくて、ごめんなさいって」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨173] 第37章 絵には真実が隠されている(3)ひとつの結末
【海に落ちる雨】第37章その(3)です。
深雪との会話の後半。深雪の心の動き、そして未来への決意も確認してやってください。
これが深雪と真が直接会話を交わす最後になるのかな(実は人生の中では、あと一度触れ合い? があるのです。手紙だけれど)。この後、ニアミスシーンは残っていますが、それは置いといて……
そもそも未練たらたらなのは真の方? そう言えば真って、美沙子の時も未練たらたら、思えばりぃさにだって、未練というのか後悔というのか……過去を引きずるタイプだったか。いや、でものど元過ぎれば、かもしれません。
ま、本命は別にいるし??(言い過ぎだ)
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
深雪との会話の後半。深雪の心の動き、そして未来への決意も確認してやってください。
これが深雪と真が直接会話を交わす最後になるのかな(実は人生の中では、あと一度触れ合い? があるのです。手紙だけれど)。この後、ニアミスシーンは残っていますが、それは置いといて……
そもそも未練たらたらなのは真の方? そう言えば真って、美沙子の時も未練たらたら、思えばりぃさにだって、未練というのか後悔というのか……過去を引きずるタイプだったか。いや、でものど元過ぎれば、かもしれません。
ま、本命は別にいるし??(言い過ぎだ)





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澤田の手帳は、一番新しいものさえも、既にボロボロだった。そこには翡翠仏の収賄事件、香野深雪の両親のことが細かに綴られていた。その最後のページには、色褪せてパリパリに乾いた押し花のようなものがへばりついていた。
深雪ちゃんがくれたもの。
そこには日付と一緒に、ただそれだけ書かれてあった。
真は深雪にそのページを開いて見せた。深雪はしばらくの間、まるで無表情でその文字を見つめていた。
やがて深雪は指でそっと花の欠片に触れた。その指先は細かに震えていた。
真が顔を上げて彼女を見ると、その横顔には、幼い日の記憶、優しく楽しかった思い出に触れているような穏やかな表情が浮かんでいた。やがて、彼女は静かに言葉を繋いでいく。
「手帳が送られてきたの。正確にはポストに入っていた」
「手帳?」
「新津の取材手帳だった。送り主の名前はなかったけど、まだ新しいもので、何ページも書かれてはいなかった」
深雪は持っていたバッグから手帳を取り出し、真の前に差し出した。
「これを読んで、新津を救わなければならない、千惠子ちゃんを救わなければならない、とそう思った。これ以上逃げてはいられない、きちんと決着をつけて、前に向かわなければ、このままでは新津に申し訳ないと、そう思った」
深雪は改めて顔を上げて、真を見つめた。
「あなたに出会ってから、ずっと考えていたの。いつかあなたに言わなければならないって」
真は先を待ったが、深雪はその先は続けずに手帳の表紙に視線を落とした。
真が手帳を開くと、手帳は最初の数ページのみしか書かれていなかった。
始めのページには、澤田顕一郎の新潟での経歴と、澤田の取材手帳やメモは糸魚川の深雪の両親の自殺事件の後で紛失していて、そのために澤田が申し開きもできずに追い込まれ、記者を辞めた経緯が綴ってあった。功名をはやった澤田が事件をでっち上げて興味本位の記事を書き、深雪の両親が自殺したのではないかと言われていたことも書かれていて、そこに村野耕治の名前があった。
新津圭一は村野耕治の名前に丸をして、大分、九州日報、荒川、蓮生家、澤田の手帳? といくつかのキーワードを並べていた。
そして、次のページには丁寧な文字で、手紙の下書きのようなものが書かれていた。
香野深雪様
深雪、俺のことを周りの人間は狂ったというかもしれない。俺は無茶苦茶だろうか。女房が死んだ日も君を求めていた。家にも帰らず、君を愛したいと願っていた。
澤田顕一郎に会いに行った。澤田は、自分の娘の顔をまっすぐに見て深雪のことを愛していると言えるのなら、深雪を任せてもいい、顔を洗って出直して来い、と言った。悔しいが、あの男に勝てないような気がした。あの男は、痛みを伴わないような中途半端な覚悟の人間には深雪を任せられないと、そう言ったような気がした。
君の過去を知れば、澤田の過去を知れば、あの男に勝てるかもしれない、君を守れる男になれるかもしれないと思った。だが、本当のことを知った今、澤田がどういう覚悟で君を守り続けているのかが分かった今、俺には君の未来を握っていいものかどうか分からなくなっている。澤田に会いに行こうと思っている。
深雪、暫くは会えないだろう。でも君を心から愛している。いつか俺が、女房のことも千惠子のことも含めて自分を許せるようになったら、君と一緒に生きていきたい。
真は深雪の顔を見た。
「始めはそれを読んで澤田を疑ったの。もしかしてこの人が新津を殺したんじゃないか、直接的じゃなくても、彼を自殺に追い込んだんじゃないかって。でも、寺崎昂司が尋ねてきた。新津千惠子をどこかに預かってくれって。新津から何か預かってないかって。千惠子ちゃんを預かって、新潟のお母さんのところに連れて行ったけど、貸金庫のことも手帳のことも言えなかった。誰を信じていいのか分からなかったの。でもあなたの顔だけがはっきりと見えた。貸金庫のこと、誰かに預けるとしたらあなたしかいないと思った」
深雪は息を止め、それから目を閉じた。半跏思惟像の瞑想に沈む表情は深雪の横顔に重なった。
「その時、あなたを愛しているって、心から理解したの。澤田は、私が新津と付き合っているときには彼の話題には怖い顔をして、何時別れるつもりかと冷たい声で言ったこともあったわ。でも、あなたのことは、時々、どんな男なんだ、俺が雇って君と一緒にさせようかって、子どもみたいに楽しそうに話していた。不思議だと思っていたけど、ある時、澤田がポツリと言ったの。あの男は傷を持っているんだ、それも遺伝子の深いところに、お前にはそれが癒せるかもしれないって。でも、私はあなたに私の気持ちを打ち明けることは決してないと、それはできないと思っていた」
「じゃあ、君は何を、俺に言おうとしてたんだ?」
「あなたが誰を愛しているのか、私はずっと知っていた。その人が、千惠子ちゃんを救おうと思ってくれていたことを、その人がどれほど繊細な優しさを持った人か、その人がどれくらいあなたを愛しているかを、ずっと知っていた。一度だけ、銀座のギャラリーに行ったことがあるの。あの人は、私と千惠子ちゃんならあなたを救えるかもしれない、と言ったわ。あの雑誌のインタビューを読んだ時、思ったの。この人はもしかして、こんなものが出版されたら、自分の身に何が起こるのか知っているんじゃないかと、それが何かはわからなかったけど、これはただの宣言じゃない、挑戦状だって」
深雪さらにバッグの中にから、新津の手帳が入っていたという封筒を出した。消印は新潟の荒川だった。しかもそれは三年半以上も前の日付で、さらに宛先不明の判が押されてあった。真は顔を上げた。
「荒川に行ったの。蓮生家は直ぐに分かった。蓮生千草という人が、自分が手帳を持って行って、私のマンションのポストに入れたと言ったわ」
深雪は小さく間を置いた。声がかすかに震えていた。
「新津はもしかして身の危険を感じていたのかもしれない。蓮生千草さんは新津に頼まれて、新津の取材手帳を預かり、逆に澤田の取材手帳を譲り渡した。もともと、澤田顕一郎の取材手帳を盗み出したのは村野耕治という人で、村野は時々、澤田の手帳に書かれた秘密を強請のネタにしていた。そのせいで澤田は取材相手から恨みを買うこともあって、少しずつ記者として身動きが取れなくなっていったというの。村野はこの手帳を、当時出入りしていた蓮生家に隠していて、そのまま亡くなった。手帳は千草さんが見つけて大事に取っておいたそうよ。ただ、新津の手帳のほうはこの最後の一冊を残して盗まれたんだと言った。この一冊は新津に頼まれて私に送ったそうだけど、あて先不明で送り返されしまった。私のマンションの名義は澤田になっているので、届かなかったんだと思うわ。この手帳、そのまま別に置いてあったから、盗まれずに済んだんだろうって」
「じゃあ、何故今になって君に届けようとしたんだろう」
「絵の鑑定のために東京に来た時、この住所を訪ねてくださったみたい。それで確かにこの住所に香野深雪が住んでいると聞いて、ポストに入れていったそうなの。新津が死んだことを知っていて、ずっと気になっていたけど、どうするべきか悩んでいたって。今更あんなふうに自殺した男の遺書を送るべきかどうか、でも東京に来る機会ができたというのは、何かの縁だったんだろうって」
真は蓮生千草の、何かを知っているような、だが必要でないことまで知る必要はないと決意したような、あるいは知っていても語るべきは自分ではないという決然とした不思議な気配を思い出していた。
新津圭一の取材手帳は、江田島が蓮生の親戚、時政の息子をそそのかして手に入れたのだろう。江田島は寺崎親子と繋がっていた。新津圭一の取材手帳に書かれていたことは、およそ想像ができる。
多分、添島刑事が言っていたよりも、新津圭一は遥かに真実に肉薄していたのだろう。そこには寺崎親子と村野花の犯罪、それに関与していたと思われる大物たちの名前が記されていたに違いなかった。
だからこそ、新津はあんな形で殺されてしまったのだ。
「新津圭一は、君のためにこの澤田の手帳を手に入れたかったんだろう。澤田が何故君を大事に思っていたかを、君に説明できると思ったんだ」
深雪は頷いた。そして真の顔を見てから、手帳といっしょに貸金庫に入っていた筒の蓋を開けた。
巻いた厚い紙、あるいは硬い布のようなものが入っている。
真はそれが広げられる前から、そこに何があるのかを知っていた。
フェルメールの絵。
添えられた手紙の封筒には宛名がなかった。開けて便箋を開くと、そこには新津圭一の筆跡で、澤田顕一郎様、と書かれてあった。
上蓮生家よりの預かり物です。あなたが二十数年前に探していた真実がここにあるかもしれません。蓮生千草さんはあなたを覚えておられました。あなたの熱意と、あなたの真実を見つめる心と、そして真実を求める恐ろしさと葛藤する姿を。戦争の最中やそれに続く暗い時代に起こった悲劇を忘れてはならない、だが暴くことで生まれる悲劇への苦しみがまたあることも分っている、なぜならあの異常な戦争の中にあって、全ての人が善人で被害者であり続けることはできなかったからだ、被害者であったと同時に人々は加害者としても苦しみ続けた、我々はその苦しみをどうするべきだろうか、と、若いあなたがまだ幼かった千草さんに語った言葉を。
千草さんはこの絵を僕に預け、蓮生家に置いておけば、この絵はハイエナどもの餌食になる、いつか誰かがこの絵を本当に必要としたらその人に渡したい、それまで預かって欲しい、もしも千草さんに何かあれば澤田顕一郎に届けて欲しいと言われました。
このことであなたの歓心を買い、深雪のことを許してもらおうと思っているわけではありません。これは僕が尊敬している記者としてのあなたへの手紙です。あなたの古い取材手帳を見つけました。あなたに会って、今や代議士となっているあなたに、深雪とのことを責められたとき、あなたは変わってしまったのだろうと思いました。しかしあなたの手帳を見て、あなたの香野深雪への愛情がどういう種類のものか、あなたが、僕が知っていたとおり、いかに素晴らしい記者であったか、今はよく分かったような気がしています。
あなたは記者を辞めるべきではなかった。あなたのような記者を失うことは、この世界にとって大きな損失です。あなたと話したいと思っています。深雪を愛するものとしてだけでなく、ひとりの記者として、あなたのようになりたいと思うからです。
新津圭一
真は手紙を深雪に渡し、それからフェルメールの絵を見つめた。そう、この面は贋作だ。真実はこの後ろにあった。
「澤田に会いに行かないか」
深雪は首を横に振った。
「真ちゃんが届けてあげて。澤田に会うためには、私にはまだ時間が必要なの」
「でも、この手帳は、君から澤田に返すべきだと思うよ」
深雪はそうね、でも、と呟くように言ってから、真の顔を見た。
「私はいつ澤田に会えるようになるのか、よく分からない。澤田を許していないわけではないの。あの人は私の両親の事で負い目があって、記者を辞めて、私のためにずっと苦しんでくれていた。だからこそ、今からは私は何とか一人で頑張りたいの。いつか自分の足で立って生きていると思えたら、私のほうから澤田に会いに行くわ」
そう言って深雪は、澤田の苦しみも汗も涙も吸い取ったぼろぼろの手帳の束を見つめた。
「でも今、代議士も辞職して、離婚届にも判を押したっていう澤田には、この手帳が必要なんじゃないかしら。真ちゃん、澤田は、あなたが息子だったらって、あいつの親父を知っているんだ、でも息子のために何かしてやるのは難しい立場だろう、俺が親父になってやろうかって、お酒を飲んで嬉しそうに言っていた。澤田は一人息子を事故で亡くしているから、あなたを息子のように思っていたのかもしれない。だから、この手帳とこの絵、それに新津の手紙は、あなたから澤田に届けてあげて」
どこへ行くつもりなのか、と真は聞いた。多分新潟、と深雪は答えた。千惠子ちゃんは、と聞くと、深雪は真の顔を真正面から見た。
「大和さんに伝えて。今度こそ千惠子ちゃんは私がちゃんと預かったから、って。三年前にそれができなくて、ごめんなさいって」
真は暫くの間、深雪の顔を見つめていたが、突然湧き起こってきた気持ちに逆らいきれずに深雪を抱き締めた。
今、真は心からこの女を愛おしいと思っていた。抱くことも口づけることもなくなってから、初めて本当に深雪の心が沁み入るように理解できるものとなり、真の心のうちに落ち着く場所を認めた。この女と生きてもいいと思った時間が僅かでもあったような、あるいは心のどこかにずっとその思いが潜んでいたような、そんな気がした。
だが、深雪は真の身体を抱き返していたが、その手は真の手よりも遥かに静かだった。深雪の手から伝わってくる気配は、波に呑まれてしまいそうになる真の甘さも衝動的な憐憫や同情心をも消し去ってしまうほどに穏やかで、深い色合いをしていた。
この女の心は、もう真のものではなかった。
「真ちゃん、あなたは自分の気持ちでいっぱいでしょうけど、少し自惚れて考えたほうがいいんじゃないかしら」
真はふと深雪を離した。深雪はいつも店のカウンターの向こうから見せる、大輪の花のような艶やかな微笑を見せた。
「大和さんが、あなたなしで生きていけると思う?」
深雪をホテルの部屋まで送り届けて、真はホテルの公衆電話から、澤田が井出に伝えたという電話番号をまわしてみたが、誰も出なかった。井出に電話を掛けると、井出は奇妙に嬉しそうだった。
「澤田が代議士を辞めたんだってな。かなり裏が複雑で、あれこれ規制もうるさくて、今はまだ記事を書けないんだけど」
「井出ちゃん、何喜んでるんだ」
「そりゃそうよ。澤田に変な性癖があるって話も容疑が晴れたらしいし、これで澤田顕一郎は本職に戻れるわけよ」
「本職?」
「真ちゃん、あの男は根っからの記者よ。俺、新聞社辞めて、あの人と組もうかと思ってるんだ。遠からず、新聞なんか消えて、まったく別の形のメディアがニュースを配信するようになるはずだしね」
「本気で言ってるのか?」
「あぁ。こんな大手の新聞社の記事なんてさ、誰にでも書けるのよ。制約は多いし、真実は曲げられるし、政治やヤクザとは切っても切れない関係だし。俺は俺にしか書けない物を、真実を、誰にも邪魔されずに書きたいんだ。澤田に会ったら伝えといてよ、俺が会いたいって言ってたって。ついでに、楢崎志穂って女の子も」
真はえ、と素っ頓狂な声を上げていた。
「あの子だろ、新津圭一の記事書いたSってイニシャルの主。いや、なんか大物筋から、雇ってやってくれって連れてこられたんだけどさ、あの天邪鬼かつ破天荒な感じ、この大手ってだけが取り柄のお固い新聞社には向かないと思ってさ。これまで書いた週刊誌の記事見せてもらったけど、じゃじゃ馬だし無鉄砲で無計画だし、でも曲がっていない、真実を見極めようとする意思があるんだ。これは見込みあるって思ったんだよね。あの子、何かデジャヴを感じると思ったら、どっか真ちゃんに似てるんだよなぁ。顔じゃないよ。天邪鬼、破天荒、無鉄砲、無計画、ついでに何でも知っているって顔してるけど、実は初心」
井出の景気のいい話しぶりに、真は本題を忘れるところだった。
澤田の電話番号の住所を簡単に調べられると言っていたのを思い出したから電話したのだ。案の定、井出はその住所を調べていた。自分で行かないのか、と言ったら、さすがに今日はまだマスコミが近付いてくるのを警戒してるだろ、と答えた。
井出の不思議なところは、ちゃらんぽらんで景気よく見えて、急に繊細な一面を見せるところだった。
真は電話を切った後、暫く呆然としていた。
福嶋が楢崎志穂の行く末を案じてくれるほど良い人間にも思えなかったが、井出の話から察するに、福嶋が彼女に仕事の面倒をみてくれたと思うのが妥当なような気がした。
人間というのは不思議なものだ。悪いことをしながら良いことをし、良いことをしながら悪いこともする。そう書いていた作家がいたな、と真は思い出した。小説など滅多に読まない真が、竹流のマンションにあった小説を読むようになったのは、竹流の不在の時間をやり過ごすためだった。竹流はその小説家が書く人物の心の機微、言葉の調子を随分と気に入っているようだった。
(つづく)




「人は善いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら善いことをする」
もちろん、池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』からの言葉です。
そうそう、そんなに簡単に「この人のことが分かった!」って人物じゃ、面白みがありませんものね。どうにも捉えようのない二面性、その裏表の狭間に味わいがあるのかもしれません。
いや、決して福嶋を弁護しているわけではありませんが(しょせんはスケベで悪人)。
<次回予告>
「それでも、行くか」
真は澤田の顔を見つめたまま、呟くように言った。
「始めから、修羅の道だった。人を殺さなくても」
「そうか」澤田はそれから随分長い間黙っていた。そして、やがて真っ直ぐに真を見つめて言った。「だが、どんなに細くてもいいから、命の通る道は少しだけ残しておきなさい。老婆心だがね、君はまだ若い。手垢がついた言葉だが、生きていれば何とかなるものさ。今は一本の道しかなく、それを歩かなければそこで終わるように見えているかもしれないがね、意外に脇道があるものさ。大概、歩きにくい道だろうけどね」



澤田の手帳は、一番新しいものさえも、既にボロボロだった。そこには翡翠仏の収賄事件、香野深雪の両親のことが細かに綴られていた。その最後のページには、色褪せてパリパリに乾いた押し花のようなものがへばりついていた。
深雪ちゃんがくれたもの。
そこには日付と一緒に、ただそれだけ書かれてあった。
真は深雪にそのページを開いて見せた。深雪はしばらくの間、まるで無表情でその文字を見つめていた。
やがて深雪は指でそっと花の欠片に触れた。その指先は細かに震えていた。
真が顔を上げて彼女を見ると、その横顔には、幼い日の記憶、優しく楽しかった思い出に触れているような穏やかな表情が浮かんでいた。やがて、彼女は静かに言葉を繋いでいく。
「手帳が送られてきたの。正確にはポストに入っていた」
「手帳?」
「新津の取材手帳だった。送り主の名前はなかったけど、まだ新しいもので、何ページも書かれてはいなかった」
深雪は持っていたバッグから手帳を取り出し、真の前に差し出した。
「これを読んで、新津を救わなければならない、千惠子ちゃんを救わなければならない、とそう思った。これ以上逃げてはいられない、きちんと決着をつけて、前に向かわなければ、このままでは新津に申し訳ないと、そう思った」
深雪は改めて顔を上げて、真を見つめた。
「あなたに出会ってから、ずっと考えていたの。いつかあなたに言わなければならないって」
真は先を待ったが、深雪はその先は続けずに手帳の表紙に視線を落とした。
真が手帳を開くと、手帳は最初の数ページのみしか書かれていなかった。
始めのページには、澤田顕一郎の新潟での経歴と、澤田の取材手帳やメモは糸魚川の深雪の両親の自殺事件の後で紛失していて、そのために澤田が申し開きもできずに追い込まれ、記者を辞めた経緯が綴ってあった。功名をはやった澤田が事件をでっち上げて興味本位の記事を書き、深雪の両親が自殺したのではないかと言われていたことも書かれていて、そこに村野耕治の名前があった。
新津圭一は村野耕治の名前に丸をして、大分、九州日報、荒川、蓮生家、澤田の手帳? といくつかのキーワードを並べていた。
そして、次のページには丁寧な文字で、手紙の下書きのようなものが書かれていた。
香野深雪様
深雪、俺のことを周りの人間は狂ったというかもしれない。俺は無茶苦茶だろうか。女房が死んだ日も君を求めていた。家にも帰らず、君を愛したいと願っていた。
澤田顕一郎に会いに行った。澤田は、自分の娘の顔をまっすぐに見て深雪のことを愛していると言えるのなら、深雪を任せてもいい、顔を洗って出直して来い、と言った。悔しいが、あの男に勝てないような気がした。あの男は、痛みを伴わないような中途半端な覚悟の人間には深雪を任せられないと、そう言ったような気がした。
君の過去を知れば、澤田の過去を知れば、あの男に勝てるかもしれない、君を守れる男になれるかもしれないと思った。だが、本当のことを知った今、澤田がどういう覚悟で君を守り続けているのかが分かった今、俺には君の未来を握っていいものかどうか分からなくなっている。澤田に会いに行こうと思っている。
深雪、暫くは会えないだろう。でも君を心から愛している。いつか俺が、女房のことも千惠子のことも含めて自分を許せるようになったら、君と一緒に生きていきたい。
真は深雪の顔を見た。
「始めはそれを読んで澤田を疑ったの。もしかしてこの人が新津を殺したんじゃないか、直接的じゃなくても、彼を自殺に追い込んだんじゃないかって。でも、寺崎昂司が尋ねてきた。新津千惠子をどこかに預かってくれって。新津から何か預かってないかって。千惠子ちゃんを預かって、新潟のお母さんのところに連れて行ったけど、貸金庫のことも手帳のことも言えなかった。誰を信じていいのか分からなかったの。でもあなたの顔だけがはっきりと見えた。貸金庫のこと、誰かに預けるとしたらあなたしかいないと思った」
深雪は息を止め、それから目を閉じた。半跏思惟像の瞑想に沈む表情は深雪の横顔に重なった。
「その時、あなたを愛しているって、心から理解したの。澤田は、私が新津と付き合っているときには彼の話題には怖い顔をして、何時別れるつもりかと冷たい声で言ったこともあったわ。でも、あなたのことは、時々、どんな男なんだ、俺が雇って君と一緒にさせようかって、子どもみたいに楽しそうに話していた。不思議だと思っていたけど、ある時、澤田がポツリと言ったの。あの男は傷を持っているんだ、それも遺伝子の深いところに、お前にはそれが癒せるかもしれないって。でも、私はあなたに私の気持ちを打ち明けることは決してないと、それはできないと思っていた」
「じゃあ、君は何を、俺に言おうとしてたんだ?」
「あなたが誰を愛しているのか、私はずっと知っていた。その人が、千惠子ちゃんを救おうと思ってくれていたことを、その人がどれほど繊細な優しさを持った人か、その人がどれくらいあなたを愛しているかを、ずっと知っていた。一度だけ、銀座のギャラリーに行ったことがあるの。あの人は、私と千惠子ちゃんならあなたを救えるかもしれない、と言ったわ。あの雑誌のインタビューを読んだ時、思ったの。この人はもしかして、こんなものが出版されたら、自分の身に何が起こるのか知っているんじゃないかと、それが何かはわからなかったけど、これはただの宣言じゃない、挑戦状だって」
深雪さらにバッグの中にから、新津の手帳が入っていたという封筒を出した。消印は新潟の荒川だった。しかもそれは三年半以上も前の日付で、さらに宛先不明の判が押されてあった。真は顔を上げた。
「荒川に行ったの。蓮生家は直ぐに分かった。蓮生千草という人が、自分が手帳を持って行って、私のマンションのポストに入れたと言ったわ」
深雪は小さく間を置いた。声がかすかに震えていた。
「新津はもしかして身の危険を感じていたのかもしれない。蓮生千草さんは新津に頼まれて、新津の取材手帳を預かり、逆に澤田の取材手帳を譲り渡した。もともと、澤田顕一郎の取材手帳を盗み出したのは村野耕治という人で、村野は時々、澤田の手帳に書かれた秘密を強請のネタにしていた。そのせいで澤田は取材相手から恨みを買うこともあって、少しずつ記者として身動きが取れなくなっていったというの。村野はこの手帳を、当時出入りしていた蓮生家に隠していて、そのまま亡くなった。手帳は千草さんが見つけて大事に取っておいたそうよ。ただ、新津の手帳のほうはこの最後の一冊を残して盗まれたんだと言った。この一冊は新津に頼まれて私に送ったそうだけど、あて先不明で送り返されしまった。私のマンションの名義は澤田になっているので、届かなかったんだと思うわ。この手帳、そのまま別に置いてあったから、盗まれずに済んだんだろうって」
「じゃあ、何故今になって君に届けようとしたんだろう」
「絵の鑑定のために東京に来た時、この住所を訪ねてくださったみたい。それで確かにこの住所に香野深雪が住んでいると聞いて、ポストに入れていったそうなの。新津が死んだことを知っていて、ずっと気になっていたけど、どうするべきか悩んでいたって。今更あんなふうに自殺した男の遺書を送るべきかどうか、でも東京に来る機会ができたというのは、何かの縁だったんだろうって」
真は蓮生千草の、何かを知っているような、だが必要でないことまで知る必要はないと決意したような、あるいは知っていても語るべきは自分ではないという決然とした不思議な気配を思い出していた。
新津圭一の取材手帳は、江田島が蓮生の親戚、時政の息子をそそのかして手に入れたのだろう。江田島は寺崎親子と繋がっていた。新津圭一の取材手帳に書かれていたことは、およそ想像ができる。
多分、添島刑事が言っていたよりも、新津圭一は遥かに真実に肉薄していたのだろう。そこには寺崎親子と村野花の犯罪、それに関与していたと思われる大物たちの名前が記されていたに違いなかった。
だからこそ、新津はあんな形で殺されてしまったのだ。
「新津圭一は、君のためにこの澤田の手帳を手に入れたかったんだろう。澤田が何故君を大事に思っていたかを、君に説明できると思ったんだ」
深雪は頷いた。そして真の顔を見てから、手帳といっしょに貸金庫に入っていた筒の蓋を開けた。
巻いた厚い紙、あるいは硬い布のようなものが入っている。
真はそれが広げられる前から、そこに何があるのかを知っていた。
フェルメールの絵。
添えられた手紙の封筒には宛名がなかった。開けて便箋を開くと、そこには新津圭一の筆跡で、澤田顕一郎様、と書かれてあった。
上蓮生家よりの預かり物です。あなたが二十数年前に探していた真実がここにあるかもしれません。蓮生千草さんはあなたを覚えておられました。あなたの熱意と、あなたの真実を見つめる心と、そして真実を求める恐ろしさと葛藤する姿を。戦争の最中やそれに続く暗い時代に起こった悲劇を忘れてはならない、だが暴くことで生まれる悲劇への苦しみがまたあることも分っている、なぜならあの異常な戦争の中にあって、全ての人が善人で被害者であり続けることはできなかったからだ、被害者であったと同時に人々は加害者としても苦しみ続けた、我々はその苦しみをどうするべきだろうか、と、若いあなたがまだ幼かった千草さんに語った言葉を。
千草さんはこの絵を僕に預け、蓮生家に置いておけば、この絵はハイエナどもの餌食になる、いつか誰かがこの絵を本当に必要としたらその人に渡したい、それまで預かって欲しい、もしも千草さんに何かあれば澤田顕一郎に届けて欲しいと言われました。
このことであなたの歓心を買い、深雪のことを許してもらおうと思っているわけではありません。これは僕が尊敬している記者としてのあなたへの手紙です。あなたの古い取材手帳を見つけました。あなたに会って、今や代議士となっているあなたに、深雪とのことを責められたとき、あなたは変わってしまったのだろうと思いました。しかしあなたの手帳を見て、あなたの香野深雪への愛情がどういう種類のものか、あなたが、僕が知っていたとおり、いかに素晴らしい記者であったか、今はよく分かったような気がしています。
あなたは記者を辞めるべきではなかった。あなたのような記者を失うことは、この世界にとって大きな損失です。あなたと話したいと思っています。深雪を愛するものとしてだけでなく、ひとりの記者として、あなたのようになりたいと思うからです。
新津圭一
真は手紙を深雪に渡し、それからフェルメールの絵を見つめた。そう、この面は贋作だ。真実はこの後ろにあった。
「澤田に会いに行かないか」
深雪は首を横に振った。
「真ちゃんが届けてあげて。澤田に会うためには、私にはまだ時間が必要なの」
「でも、この手帳は、君から澤田に返すべきだと思うよ」
深雪はそうね、でも、と呟くように言ってから、真の顔を見た。
「私はいつ澤田に会えるようになるのか、よく分からない。澤田を許していないわけではないの。あの人は私の両親の事で負い目があって、記者を辞めて、私のためにずっと苦しんでくれていた。だからこそ、今からは私は何とか一人で頑張りたいの。いつか自分の足で立って生きていると思えたら、私のほうから澤田に会いに行くわ」
そう言って深雪は、澤田の苦しみも汗も涙も吸い取ったぼろぼろの手帳の束を見つめた。
「でも今、代議士も辞職して、離婚届にも判を押したっていう澤田には、この手帳が必要なんじゃないかしら。真ちゃん、澤田は、あなたが息子だったらって、あいつの親父を知っているんだ、でも息子のために何かしてやるのは難しい立場だろう、俺が親父になってやろうかって、お酒を飲んで嬉しそうに言っていた。澤田は一人息子を事故で亡くしているから、あなたを息子のように思っていたのかもしれない。だから、この手帳とこの絵、それに新津の手紙は、あなたから澤田に届けてあげて」
どこへ行くつもりなのか、と真は聞いた。多分新潟、と深雪は答えた。千惠子ちゃんは、と聞くと、深雪は真の顔を真正面から見た。
「大和さんに伝えて。今度こそ千惠子ちゃんは私がちゃんと預かったから、って。三年前にそれができなくて、ごめんなさいって」
真は暫くの間、深雪の顔を見つめていたが、突然湧き起こってきた気持ちに逆らいきれずに深雪を抱き締めた。
今、真は心からこの女を愛おしいと思っていた。抱くことも口づけることもなくなってから、初めて本当に深雪の心が沁み入るように理解できるものとなり、真の心のうちに落ち着く場所を認めた。この女と生きてもいいと思った時間が僅かでもあったような、あるいは心のどこかにずっとその思いが潜んでいたような、そんな気がした。
だが、深雪は真の身体を抱き返していたが、その手は真の手よりも遥かに静かだった。深雪の手から伝わってくる気配は、波に呑まれてしまいそうになる真の甘さも衝動的な憐憫や同情心をも消し去ってしまうほどに穏やかで、深い色合いをしていた。
この女の心は、もう真のものではなかった。
「真ちゃん、あなたは自分の気持ちでいっぱいでしょうけど、少し自惚れて考えたほうがいいんじゃないかしら」
真はふと深雪を離した。深雪はいつも店のカウンターの向こうから見せる、大輪の花のような艶やかな微笑を見せた。
「大和さんが、あなたなしで生きていけると思う?」
深雪をホテルの部屋まで送り届けて、真はホテルの公衆電話から、澤田が井出に伝えたという電話番号をまわしてみたが、誰も出なかった。井出に電話を掛けると、井出は奇妙に嬉しそうだった。
「澤田が代議士を辞めたんだってな。かなり裏が複雑で、あれこれ規制もうるさくて、今はまだ記事を書けないんだけど」
「井出ちゃん、何喜んでるんだ」
「そりゃそうよ。澤田に変な性癖があるって話も容疑が晴れたらしいし、これで澤田顕一郎は本職に戻れるわけよ」
「本職?」
「真ちゃん、あの男は根っからの記者よ。俺、新聞社辞めて、あの人と組もうかと思ってるんだ。遠からず、新聞なんか消えて、まったく別の形のメディアがニュースを配信するようになるはずだしね」
「本気で言ってるのか?」
「あぁ。こんな大手の新聞社の記事なんてさ、誰にでも書けるのよ。制約は多いし、真実は曲げられるし、政治やヤクザとは切っても切れない関係だし。俺は俺にしか書けない物を、真実を、誰にも邪魔されずに書きたいんだ。澤田に会ったら伝えといてよ、俺が会いたいって言ってたって。ついでに、楢崎志穂って女の子も」
真はえ、と素っ頓狂な声を上げていた。
「あの子だろ、新津圭一の記事書いたSってイニシャルの主。いや、なんか大物筋から、雇ってやってくれって連れてこられたんだけどさ、あの天邪鬼かつ破天荒な感じ、この大手ってだけが取り柄のお固い新聞社には向かないと思ってさ。これまで書いた週刊誌の記事見せてもらったけど、じゃじゃ馬だし無鉄砲で無計画だし、でも曲がっていない、真実を見極めようとする意思があるんだ。これは見込みあるって思ったんだよね。あの子、何かデジャヴを感じると思ったら、どっか真ちゃんに似てるんだよなぁ。顔じゃないよ。天邪鬼、破天荒、無鉄砲、無計画、ついでに何でも知っているって顔してるけど、実は初心」
井出の景気のいい話しぶりに、真は本題を忘れるところだった。
澤田の電話番号の住所を簡単に調べられると言っていたのを思い出したから電話したのだ。案の定、井出はその住所を調べていた。自分で行かないのか、と言ったら、さすがに今日はまだマスコミが近付いてくるのを警戒してるだろ、と答えた。
井出の不思議なところは、ちゃらんぽらんで景気よく見えて、急に繊細な一面を見せるところだった。
真は電話を切った後、暫く呆然としていた。
福嶋が楢崎志穂の行く末を案じてくれるほど良い人間にも思えなかったが、井出の話から察するに、福嶋が彼女に仕事の面倒をみてくれたと思うのが妥当なような気がした。
人間というのは不思議なものだ。悪いことをしながら良いことをし、良いことをしながら悪いこともする。そう書いていた作家がいたな、と真は思い出した。小説など滅多に読まない真が、竹流のマンションにあった小説を読むようになったのは、竹流の不在の時間をやり過ごすためだった。竹流はその小説家が書く人物の心の機微、言葉の調子を随分と気に入っているようだった。
(つづく)



「人は善いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら善いことをする」
もちろん、池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』からの言葉です。
そうそう、そんなに簡単に「この人のことが分かった!」って人物じゃ、面白みがありませんものね。どうにも捉えようのない二面性、その裏表の狭間に味わいがあるのかもしれません。
いや、決して福嶋を弁護しているわけではありませんが(しょせんはスケベで悪人)。
<次回予告>
「それでも、行くか」
真は澤田の顔を見つめたまま、呟くように言った。
「始めから、修羅の道だった。人を殺さなくても」
「そうか」澤田はそれから随分長い間黙っていた。そして、やがて真っ直ぐに真を見つめて言った。「だが、どんなに細くてもいいから、命の通る道は少しだけ残しておきなさい。老婆心だがね、君はまだ若い。手垢がついた言葉だが、生きていれば何とかなるものさ。今は一本の道しかなく、それを歩かなければそこで終わるように見えているかもしれないがね、意外に脇道があるものさ。大概、歩きにくい道だろうけどね」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨174] 第37章 絵には真実が隠されている(4)歩きにくく豊かな脇道
【海に落ちる雨】もいよいよ終盤。第37章その4です。ワンシーンなので切り処が無くて、今回は少し長いのですが、その分次回(37章最終回)はかなり短い(けど、濃い?)。
今回は、澤田のところに会いに行く真です。これでようやく、一通り決着がつきます。
次回が第37章最終回で、第38章がついに本編最終章。ラストスパートですね。おまけの終章がくっついていますけれど(いや、おまけというよりも結構大事?)。まさかこのまま京都に行かずに終わったら怒るよね^^;
安心してください、行きますよ!(多分)
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
今回は、澤田のところに会いに行く真です。これでようやく、一通り決着がつきます。
次回が第37章最終回で、第38章がついに本編最終章。ラストスパートですね。おまけの終章がくっついていますけれど(いや、おまけというよりも結構大事?)。まさかこのまま京都に行かずに終わったら怒るよね^^;
安心してください、行きますよ!(多分)





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井出が教えてくれた住所は田安隆三の店からいくらも離れていない、倉庫街の一角だった。表札も看板もなく、扉には呼び鈴もない。遠く汽笛の音が、湿度の高い空気の隙間を縫って鼓膜に届く。辺りには、潮の香りが熱気に煽られるように篭もっていた。まだ雨は降らないが、嵐の前の暗い空が落ちてきそうだった。
真は扉を叩き、暫く待った。窓はなく、中の気配さえ分からないので、住人が在宅か不在かもわからない。真がもう一度扉を叩こうとしたその時、建付けの悪い引き戸が少しだけ開いた。
澤田は最後に真が見た時から髭を剃っていないようで、いつも清潔な代議士ムードを振りまいていた男とは思えないような疲れた顔をしていた。君か、と言い、よくここが分かったな、と付け足した。
遠くで雷の音が鳴っている。澤田は一瞬空を見て、真に入るように促した。
中は作業所の土間のようで、何のためか分からない機械が幾つか置かれていた。どれも埃をかぶっていて、事務机の上にも、何年も使われていないかのように雑然と紙やガラクタが積み上げられ、やはり埃を被っている。その奥に流しがあり、更に奥に一段高くなった畳の間があった。
何も出してやれなくてすまないな、と澤田は言った。真は返事をせずに澤田について畳の間に上がった。埃だけは掃除されていたが、古く擦り切れた畳には積年の汚れが染み付いていた。隅に薄くなった布団が畳まれて寄せられている。他には何もない。
真は澤田の前に座り、紙袋に入れて抱えてきたもの、そして絵の入った筒を一揃い、澤田の前に差し出した。澤田は不思議そうに真の顔を見ていたが、やがてまず紙袋の中を検分した。
中を見て、澤田には一瞬でそれが何か分かったようだった。
「君はこれをどこで」
「新潟の荒川の蓮生家です。恐らく村野耕治があなたのところから盗み出し、蓮生に隠していた。これは蓮生千草さんが新津圭一に頼まれて譲ったものです。新津圭一が深雪に託していた貸金庫から出てきました」
澤田は手帳を順番にゆっくりとめくり、それから新津の手紙に目を留めた。一瞬真に詰問するような目を向けてから、澤田は徐に手紙を広げて読んだ。読み終えた後、澤田はしばらく目を閉じていたが、何も言わなかった。
「この筒は、君が言っていたフェルメールの絵なのか」
「そうです」
「真実とは?」
「恐らく、これが本物ではないかと」
「本物?」
「キリストの墓を詣でるマリア。日露戦争の後で、ロシアの姫君と一緒に日本にやって来た絵です。昔あなたが戦争の悲劇のひとつだと取材していた、青い血の物語の」
澤田は暫く、真が広げた絵に載せられた、贋作のレースを編む女の手元を見つめていた。そして小さく息をつくと、穏やかな声で言った。
「これは、君が君の同居人に届けなさい。彼が探していた絵だろう」
「でも、蓮生千草さんはあなたにこれを、と」
「この絵の行くべき先は、彼が一番よく知っているのではないのか」
真は長い間、澤田の目を見つめていた。それから徐に絵を筒に戻しながら、尋ねた。
「荒神組のヤクザは、これを村野耕治が持っていた絵だと。村野花は、どうしてこの絵を欲しがっていたんですか」
澤田は息をついた。
「昔、蓮生家を取材した後、新潟から帰って花に会った時、俺は花に、村上で読んだ雑誌の話をしてね。花はその異国の皇女の悲劇の物語を怖がりながらも、随分気に入ったようだった。異国のお姫様の物語という手の届かない何かが、彼女の気に入ったんだろう。俺が手帳に写し描いてきた絵を何度も見て、どんな色だろうって、絵に水彩絵具をのせてみたりして、彼女は随分はしゃいでいた。
俺はそのころ福岡のぼろアパートに住んでいて、俺が帰ったときだけ、花はそこにやって来た。俺がいない時もこの部屋にいたらいい、と言ったんだが、一人の部屋は嫌いだと言ってね。あの時は久しぶりに三日も休んで、ずっと花と一緒にいた。後にも先にも、あれが花と一番長く一緒に過ごした時間だった。村野と花が結婚した後、俺は彼らの家にこの絵の『本物』があるのを見た。村野はこれは贋作で、蓮生家から譲り受けたんだと言った。何故かこの絵のことがずっと気になっていたんだ。村野が癌になり大分の家で寝込んでいたとき、見舞いに行って、久しぶりに彼の家でこれを見た。俺はこの絵を譲ってくれないかと言ったんだが、村野に断られた」
では、御蔵皐月はこの絵を、もうずっと以前、村野耕治の家で見知っていたのだ。この絵の前で義父に抱かれて、あるいはその最中にもこの絵をずっと見つめていたのかもしれない。だから彼女には、フェルメールの絵の奥の悲しみが見えていたのかもしれない。
「村野花にとっては、この絵があなたとの思い出に繋がっていたんですね」
真が呟くと、澤田は曖昧に笑った。
「今となってはもう、何も分からないがね」
そしてヤクザは、村野花の澤田への恋情を、大きな詐欺か恐喝のネタと取り違えていたかもしれない。村野花のような人間が探して欲しがるものの裏には、大きな金づるでも潜んでいると、当然のように思っていたかもしれない。そしてふと奇妙な考えが浮かんだ。
村野花の想いを、もしかして寺崎孝雄は知っていたかもしれない。
真は、殺して死体を砕きたいとまで思い続けていた憎い男の死に顔を思い出した。そこに何らの哀れみも覚えなかったのに、寺崎孝雄自身が、東海林珠恵の母親に抱いていた狂うほどの愛情の故に、結果はどうあれ深く重い愛の存在を知っていたが故に、村野花の心情を読み取ったのだろうと、だから花のためにヤクザを使って絵を取り戻そうとしてやろうとしたのだという考えに、違和感を覚えなかった。
そして、人間はなんと哀れな生き物だろうと思った。犯罪者が苦しいのは、心の片隅に良心を抱えているからだ。それがどんなに小さくても、もしもそこに微かな許しの言葉が注がれたら、塩が傷に沁みるように痛むのだろう。
「この絵を蓮生家に返したのは」
「俺だよ。この絵は村野の二度目の女房が、村野の家から持ち出していて、俺に買ってくれないかと言ってきたんだ。かわいそうに、村野に家政婦のように扱われていて、ろくに財産も残されていなかった。それで買い取って、蓮生に送り届けたんだ。村野が亡くなったので返したい、と匿名でね。村野が黙って持ち出したのではないかと思っていたし、これ以上これに関ってはいけないような気がしてね」
澤田が私ではなく俺と言っていることに気が付いて、真はふと澤田のこれまでの半生を思い、彼のこれからを思い、いくらかの不安と好感を覚えた。澤田は代議士の殻を捨てたのだろう。
そして、千草は、この絵を送り返したのが澤田顕一郎ではないかと、ちゃんと気が付いていたのではないかと思った。だから彼女は、真が、上蓮生からも絵が見つかったのではないか、と聞いたとき、曖昧に微笑んで答えなかったのだ。その絵の行方は、澤田顕一郎が決めるのが妥当である、と考えていたからだ。
「村野耕治を恨んでいないんですか」
「どうだろうね。村野はずっと私の戦友だった。俺は深雪を守ることが自分の仕事だと思っていたが、彼女を施設に預けてしまった後は、記者としての目標も意味も失って、本当に自堕落な生活を送っていた。もう自分は社会のためにも、誰か個人のためにも役に立たない人間になったのだろうと感じていた。もしも村野が俺を探し出して、大分に連れ帰ってくれなかったら、俺はどこかで野垂れ死にしていたかもしれないんだよ」
真は暫く澤田の顔を不可解に見つめていた。
「村野は俺を選挙に担ぎ出し、政治の世界に押し出してくれた。面倒なことは全て請け負ってくれた。たとえそれが、一旦は頂点に引き上げた後で、いつかは俺を追い落とすためだったんだとしても、個人的には、どうしても村野を恨む気持ちにはなれないんだ。彼が、社会に対して犯していた犯罪とは別の部分でね。思えば、俺が書いていた記事などは、村野にとっては偽善者の戯言に思えていたのかもしれないな。俺が、若い情熱に任せて青臭い正義をかざせばかざすほどに、村野は駆り立てられるように悪事を積み重ねていたというのなら、村野と俺はいつも裏表の関係であり、いつでも離れられないものであったのかも知れない」
澤田は一旦言葉を切り、目を閉じた。
「俺はどこかで知っていたよ。俺のこの手帳を持ち出したのは村野だろうと。俺が政治の世界に入ってから、たまに俺の昔の取材をネタにしたような小さな事件が起こっていた。新聞の三面記事の片隅にしか残らないような誰かの死亡記事、俺が無実と信じていた犯罪者の事件が掘り返されて社会的に制裁されたという記事、蓮生の呪いの話。始めは偶然だろうと思っていたが、時々背中が撫でられるような思いもした。実際に、あんたが秘密をばらしたんだろうと怒り狂った電話がかかってきたこともあった。俺は今政治家であり、記者ではない、そう言い聞かせながら俺は目も耳も塞いだ」
澤田は真を見て、やるせないような顔をして見せた。
「俺はこの取材手帳を残して、己の足跡を確かめ、自分が何者であるかいつも確認していたかっただけだった。奮い立たせていないと潰れてしまいそうだったんだ。若い俺は、いつでも何かに対して義憤があって、自分がいっぱしの何者かであると思い続けていたかった。だが、君、この取材手帳には、取材を受けた人間が抉られたくなどなかった傷が残されているんだ。俺はこれを焼き捨てるべきだった。焼き捨てなかったのが俺の罪だ。俺は、村野があれを利用して誰かを苦しめているんじゃないかと、どこかで疑っていたのに、何もしなかった。村野が九州の小松というヤクザと関係していたらしいというのも、何となく知っていたかもしれない。政治家なんてのは哀れなものだと思ったよ。村野は表では俺を担ぎ上げて、裏では俺の首を絞めていたかもしれないのに、政治家としての俺は村野に頼らなければ資金繰りもできない、後ろ盾も持たない、ただの記者崩れだった。しかも、誇りに思っていた記者の仕事でさえ、最後にほころんでぼろぼろになっていたわけだ」
「でもあなたは、真摯に仕事をされていたと、そう思います。政治家としても、記者としても。そうでなければ、蓮生千草さんはあなたにこの絵を託さなかった」
澤田は辛そうに笑って頷き、それから少しの間何かを考え、そしてまた微かに笑った。幾らか納得したような顔だった。
「俺は、それでも村野を信じたかったのかもしれないな。澤田家と村野家の間にあった古い因縁を、村野と俺がなかったことにして上手く浄化させてやっていけていると、確執など愚かなことだと、ご先祖様たちに言ってやりたかったのかもしれない。だが、実際には、村野が俺に与えてくれる安寧に縋っていただけかもしれない」
澤田は取材手帳の束を静かに見つめている。真はその表情を黙って見ていた。
「それでも、さっきこの手帳を見たとき、苦しいくらいに甘美な気持ちになったよ。人には浅ましくも捨てられない情念があって、年をとっても腹の底で燻り続けているのかもしれないな」
「記憶が風化する前に、必ず犠牲になった人々を購わなければならない」
真はゆっくりと噛み締めるように言った。澤田が顔を上げる。
「あなたがそう書いていました。苦しんでいる字だった。あなたは安寧に生きてきたわけじゃない。それに村野耕治は、例えば奇妙なネオナチのようなグループを援助していたり、武器や麻薬を流していたり、社会の片隅で生きている健気な人を強請って楽しんだり、あるいは大国を強請って大儲けしていたんです。それらの罪は、あなたや澤田一族への複雑な感情以前の問題です」
澤田は何度かゆっくり頷き、顔を上げて真を見た。
疲れ果ててやつれていても、翳りのない顔は、ある特別な人間だけに許されたものに思えた。真は澤田顕一郎と村野耕治の関係に、大和竹流と寺崎昂司の姿を重ねていた。
「それは村野が死んでから田安のおやじさんに聞かされたよ。おやじさん自身は、そういう生き方を決して否定はしなかったけどね。ケン、それでも奴はお前を生かしてきた、と言った。その通りなのだろう。人は必ずしも、善意と愛情だけで生かされているのではないかもしれないからね」
そして今、澤田は代議士としての人生を、村野耕治が己の手元に継ぎとめようとしたお蔭で永らえていた澤田顕一郎の半生を、村野花の手によって無理矢理に終わらされてしまった。
「これからどうされるんですか」
澤田は、暗い、しかしその奥に絶え間なく光を放った目を真に向けた。あの時代を生き抜いてきた人間にある共通のしぶとさのようなもの、澤田もまたそれを持っているのではないかと思える。
「さぁ、今日は一晩、酒でも飲んで、天井を睨みながら考えるよ」
真は思わずこの部屋の天井を見上げた。そこは古い木の板で、木目の波は濃くなったり薄くなったり、一部は剥がれているところまであった。
「田安隆三の店の跡も片付けないとならないからね。あそこに町工場でも建てて、仲間を集めて、宇宙に打ち上げられるロケットの一番小さな、しかしそれがなくてはどうしても飛ぶことのできない、そんな部品を作るかな。君の伯父上が憧れていたような」
「澤田さん」
真はその先を続けることができなかった。
「幸い、田安隆三は随分多くの財産を俺に残してくれた。無形のもののほうが多いがね」
田安隆三の死。チェザーレの言うことが本当なら、彼を殺したのはアサクラタケシだ。真は無意識に唇を噛み締めていたが、やがて静かに尋ねた。
「田安さんのお葬式をあんな形で出したのは、村野花にあなたの覚悟を示したかったからなんですね。代議士としての生命よりも、一人の男としてしなければならないことがあると、そして村野花がそのあなたの気持ちに気が付いてくれないかと」
澤田はそれには答えなかった。
遠くで、汽笛の低い音が震えている。やがて澤田は静かに語りかけるように話し始めた。
「なぁ、君、田安のおやじさんは好きに生きたさ。不可抗力だった戦争はともかく、その後も世界中の戦場を傭兵として渡り歩いた。これまで自分が殺してきた人間たちの生も死も、背中に全部背負ってさ。人を憎しみのためではなく、機械のようにただ職業として殺すことがどういう意味なのか分からないまま、それを強要されたあの戦争の時の答えを与えられないままで。ただ人間としてそれがどういうことかは、あの人はよく分かってたんだよ。
あの人はもしかすると、アサクラタケシの息子への愛情を確認したかったのかもしれない。それも君を庇うためでもなんでもない、ただあの人自身の人生を贖いたかったんだよ。だから君が苦しんだり、責任を感じたりする必要は全くないさ。始めから、あの人の生き方には、死が含まれていた。それは最初の戦争で戦場に立ったその瞬間からね。おやじさんはいつも言っていた。なぁ、ケン、恨みがある相手を殺すのだって簡単なことじゃない、だが俺たちの仕事は恨みも憎しみも何もない、ただ金と、そいつを殺すことが目的だからという理由のためだけに殺すんだ、一切感情もなく。あの最初の戦争だってそうだった、俺は戦場で殺した敵を憎んでなどいなかった、ただ命令だから殺しただけなんだ、あの時から俺の頭は狂ってしまったんだよってな。
おやじさんはあの戦争を生き抜いたことを誇りとも幸運とも思っていなかった。頭の中に奇妙な因果関係の回路が出来上がって、ただ殺し続けなければ生きていけないと思い続けていた。だから、あの人はいつか誰かが『打ち止め』にしてくれることを願っていたんだと思うよ。そしてそのことを、アサクラタケシに伝えたかったんだろう」
澤田はふと、ボロボロになった自分の取材手帳を見つめた。
「あなたは、田安隆三を殺したのが、アサクラタケシだと知って……」
澤田は顔を上げて、まさに息子を叱り、励まし、労り、未来へ導こうとする父親の威厳を示すような目で、真っ直ぐに真を見つめた。
「おやじさんはあの日、珍しく俺に電話をかけてきてね。ものすごく酔っていた。ケン、あの人は酔っ払ったときだけ昔みたいに俺をケン、って呼ぶんだけどね、ケン、俺は今からアサクラタケシに殺されに行くぞ、俺にしちゃあ、願ってもない死に方だ、俺のように生きていくことがどういうことか、坊主にも見せてやるさ、アサクラタケシはよく知ってるだろうけどな、あの男は、あの男に殺されたい俺を殺すためにやってくるのさ、自分の罪を塗り重ねて、いつか俺のように死ぬためにさ、あの男は俺と同じだ、引き返せないことはよく知っている、俺を殺さないとその先に道はないってことをさ、そしてその道の先には俺と同じ悲惨で孤独な死が待っているってことをな、だがそれは本当は歩く必要のなかった道だ、作っちまったからには通らなければならない道になってしまったってだけのことだ、坊主に俺の言葉を正確に伝えてくれよ、お前には歩いちゃいけない道があるって、そこは修羅の道だ、引き返せない一本道なんだよ、お前の親父のためにも決してその道に一歩を踏み出すな、ってな」
真は返事をせずに澤田を見つめていた。
「田安のおやじさんは、確かにチェザーレ・ヴォルテラの盟友だった。君に銃の扱いを教えたのもそのためだった。だが、いつか言っていたよ。あの坊主には無理だってな。才能の問題じゃない、才能なら怖いほどにある、だが的が生きてりゃ話は別だって。あの坊主は、命あるものがその生命の終わりまでは必死に生き続けるのだという必然を肌身で知っている、それを無意味でただ暴力的な力で終わらせてはいけないと、それが自然の摂理ってやつだってのをちゃんと分かっている、その相手がどんな悪魔でも、その心の重み、生命の重みに反応するんだ、どんな者であれ、遺伝子に予定された運命よりも早くに生命を断つことを、断たれることを是としない、そういう心根があると、そう言っていたよ。
おやじさんは、どっちにしても君を人を殺せるように育てるつもりはなかったさ。だがアサクラタケシが誤解していることは知っていた。そして言い訳もしなかった。だが、俺はな、アサクラタケシのほうも本当は知ってたんじゃないかと思うんだ。おやじさんの、もう打ち止めにしてくれっていうメッセージをな。おやじさんもアサクラタケシは知っていると、同じ世界を渡ってきた人間の直感みたいなものでさ、ちゃんとお互いに分かってて、だからアサクラタケシはあえておやじさんの望むとおりに、おやじさんの果てのない苦しみに終止符を打ってくれたんじゃないかってね。おやじさんは多分、生まれて初めて戦場に立って、生まれて初めて憎んでもいない敵を殺してから、安心して目を閉じた夜なんて一日さえなかったと思うよ。そこから先は、殺し続けなければ、生きている自分を確認できなかったのさ。だから、田安隆三は殺されたんじゃない、自殺したんだ」
静かになった古い工場跡に、遠く雷の音が聞こえている。真は上がってくる温度と湿度を、冷めた身体で受け止めていた。澤田はゆっくりと目を伏せた。
「それでも、行くか」
真は澤田の顔を見つめたまま、呟くように答えた。
「始めから、修羅の道だった。人を殺さなくても」
「そうか」澤田はそれから随分長い間黙っていた。そして、やがて真っ直ぐに真を見つめて言った。「だが、どんなに細くてもいいから、命の通る道は少しだけ残しておきなさい。老婆心だがね、君はまだ若い。手垢がついた言葉だが、生きていれば何とかなるものさ。今は一本の道しかなく、それを歩かなければそこで終わるように見えているかもしれないがね、意外に脇道があるものさ。大概、歩きにくい道だろうけどね」
真は、十勝連峰を遥かに臨む北海道の牧場の道を思い浮かべていた。
小さな真には背丈よりも高かった草は、獣たちが密かに通る豊饒の道を隠していたが、幻の友人たちは、真が寂しいときにはいつでも喜んでその道をこっそり通してくれた。土のにおい、動物たちの残した僅かな足跡、天から降り注いだ雨の蜜のような香り、土の内に潜む次の春への命の芽、小さな真にはそのひとつひとつが光の破片に見えていた。
真がぼんやりとそんな光景を思い浮かべて澤田の顔を見つめていると、澤田が真剣な顔のまま言った。
「それに俺の下町宇宙ロケット製造工場に、技術者として相川真を雇う計画があるってことも忘れないでくれ」
真は、澤田顕一郎という男にも、細いが確かな脇道があるのだと思った。だが真とは違って、澤田はその歩く道に他人を入り込ませることに抵抗がなく、またむしろそれを喜ぶ気配があった。
この男は、多分真が見知っているよりも遥かに大きく、勇敢な人間なのだろう。それは澤田がこれまでの五十数年の人生で叩き上げてきたものだ。そんな彼の道の上には、また別の道が上手く重なっていくのかもしれない。村野耕治も村野花も、実際には澤田顕一郎のその太く大きな道に絡み取られた細い道に過ぎないのかもしれない。
だが、そこへ思い切り電飾を施そうとする物好きもまた存在している。真は澤田と井出は結構いいパートナーかもしれないと思った。
「井出幸之助という記者から伝言が」
澤田は顔を上げた。
「あなたと組みたいと。それに楢崎志穂という娘も」
澤田の目に少しだけ、光が鋭く蘇った。
「ご存知かもしれませんが、彼女は村野花の娘で、雑誌記者をしていた。井出幸之助は、彼女は真実を探求したいという熱意があると、そう言っていました。本人は自分が誰の娘であるかなど、何も知りませんが。それから、深雪が」
真はその名前を呼びながら、引き返せない想いながらも、どれほどその女が愛おしかったかと思った。
「一人で、自分の力で生きてみたいのだと、いつかあなたに会えるようになったら、きっと彼女の方からあなたに会いに来ると」
澤田は頷いた。真に絵の入った筒を渡し、真が摑んだ手を優しく何度か叩いた。ペンだこの名残、代議士という職業にしては節くれ立った大きな手、刻まれた皺の一本一本が、澤田の道を照らしている。
出て行き際に、真はふと振り返った。
「澤田さん」澤田が顔を上げる。「村野花に、何を言いかけたんですか。君が望むなら、と」
澤田は答えなかった。だが澤田の幾らか俯いた顔の影に密かに漂っている、かつて恋をした男の深い情愛を、真は己の心情そのままに受け止めていた。
(つづく)




さて、37章最終回は……次回予告では何のことか分からないかな。いや、分かるかな。
まだぐるぐるのマコトは(にゃあ~)、じゃない、真は、絵を持ってうろうろ。
で、どこに行ったかというと……フェロモンまき散らして行ってはいけません。
<次回予告>
「全く、お前、危なっかしくて怖いよ。そんなフェロモン撒き散らしてこの店に来るんじゃないって。ちょっと痩せたら、凄絶な感じになって健全そうじゃなくなるんだからさ、気をつけてくれよ。実は自覚してるんだか、全く無意識で分かってないんだか。お前が入ってきた瞬間、テーブル席、固まってたぞ。後ろの席にいたいささか下品な集団は、お前がネコかタチかってんで賭けてるしさ」
「ネコ?」
「つまり、女役か男役かってことだよ。長居すると相手を探してるんだって思われて、賭けの餌食になるぞ」



井出が教えてくれた住所は田安隆三の店からいくらも離れていない、倉庫街の一角だった。表札も看板もなく、扉には呼び鈴もない。遠く汽笛の音が、湿度の高い空気の隙間を縫って鼓膜に届く。辺りには、潮の香りが熱気に煽られるように篭もっていた。まだ雨は降らないが、嵐の前の暗い空が落ちてきそうだった。
真は扉を叩き、暫く待った。窓はなく、中の気配さえ分からないので、住人が在宅か不在かもわからない。真がもう一度扉を叩こうとしたその時、建付けの悪い引き戸が少しだけ開いた。
澤田は最後に真が見た時から髭を剃っていないようで、いつも清潔な代議士ムードを振りまいていた男とは思えないような疲れた顔をしていた。君か、と言い、よくここが分かったな、と付け足した。
遠くで雷の音が鳴っている。澤田は一瞬空を見て、真に入るように促した。
中は作業所の土間のようで、何のためか分からない機械が幾つか置かれていた。どれも埃をかぶっていて、事務机の上にも、何年も使われていないかのように雑然と紙やガラクタが積み上げられ、やはり埃を被っている。その奥に流しがあり、更に奥に一段高くなった畳の間があった。
何も出してやれなくてすまないな、と澤田は言った。真は返事をせずに澤田について畳の間に上がった。埃だけは掃除されていたが、古く擦り切れた畳には積年の汚れが染み付いていた。隅に薄くなった布団が畳まれて寄せられている。他には何もない。
真は澤田の前に座り、紙袋に入れて抱えてきたもの、そして絵の入った筒を一揃い、澤田の前に差し出した。澤田は不思議そうに真の顔を見ていたが、やがてまず紙袋の中を検分した。
中を見て、澤田には一瞬でそれが何か分かったようだった。
「君はこれをどこで」
「新潟の荒川の蓮生家です。恐らく村野耕治があなたのところから盗み出し、蓮生に隠していた。これは蓮生千草さんが新津圭一に頼まれて譲ったものです。新津圭一が深雪に託していた貸金庫から出てきました」
澤田は手帳を順番にゆっくりとめくり、それから新津の手紙に目を留めた。一瞬真に詰問するような目を向けてから、澤田は徐に手紙を広げて読んだ。読み終えた後、澤田はしばらく目を閉じていたが、何も言わなかった。
「この筒は、君が言っていたフェルメールの絵なのか」
「そうです」
「真実とは?」
「恐らく、これが本物ではないかと」
「本物?」
「キリストの墓を詣でるマリア。日露戦争の後で、ロシアの姫君と一緒に日本にやって来た絵です。昔あなたが戦争の悲劇のひとつだと取材していた、青い血の物語の」
澤田は暫く、真が広げた絵に載せられた、贋作のレースを編む女の手元を見つめていた。そして小さく息をつくと、穏やかな声で言った。
「これは、君が君の同居人に届けなさい。彼が探していた絵だろう」
「でも、蓮生千草さんはあなたにこれを、と」
「この絵の行くべき先は、彼が一番よく知っているのではないのか」
真は長い間、澤田の目を見つめていた。それから徐に絵を筒に戻しながら、尋ねた。
「荒神組のヤクザは、これを村野耕治が持っていた絵だと。村野花は、どうしてこの絵を欲しがっていたんですか」
澤田は息をついた。
「昔、蓮生家を取材した後、新潟から帰って花に会った時、俺は花に、村上で読んだ雑誌の話をしてね。花はその異国の皇女の悲劇の物語を怖がりながらも、随分気に入ったようだった。異国のお姫様の物語という手の届かない何かが、彼女の気に入ったんだろう。俺が手帳に写し描いてきた絵を何度も見て、どんな色だろうって、絵に水彩絵具をのせてみたりして、彼女は随分はしゃいでいた。
俺はそのころ福岡のぼろアパートに住んでいて、俺が帰ったときだけ、花はそこにやって来た。俺がいない時もこの部屋にいたらいい、と言ったんだが、一人の部屋は嫌いだと言ってね。あの時は久しぶりに三日も休んで、ずっと花と一緒にいた。後にも先にも、あれが花と一番長く一緒に過ごした時間だった。村野と花が結婚した後、俺は彼らの家にこの絵の『本物』があるのを見た。村野はこれは贋作で、蓮生家から譲り受けたんだと言った。何故かこの絵のことがずっと気になっていたんだ。村野が癌になり大分の家で寝込んでいたとき、見舞いに行って、久しぶりに彼の家でこれを見た。俺はこの絵を譲ってくれないかと言ったんだが、村野に断られた」
では、御蔵皐月はこの絵を、もうずっと以前、村野耕治の家で見知っていたのだ。この絵の前で義父に抱かれて、あるいはその最中にもこの絵をずっと見つめていたのかもしれない。だから彼女には、フェルメールの絵の奥の悲しみが見えていたのかもしれない。
「村野花にとっては、この絵があなたとの思い出に繋がっていたんですね」
真が呟くと、澤田は曖昧に笑った。
「今となってはもう、何も分からないがね」
そしてヤクザは、村野花の澤田への恋情を、大きな詐欺か恐喝のネタと取り違えていたかもしれない。村野花のような人間が探して欲しがるものの裏には、大きな金づるでも潜んでいると、当然のように思っていたかもしれない。そしてふと奇妙な考えが浮かんだ。
村野花の想いを、もしかして寺崎孝雄は知っていたかもしれない。
真は、殺して死体を砕きたいとまで思い続けていた憎い男の死に顔を思い出した。そこに何らの哀れみも覚えなかったのに、寺崎孝雄自身が、東海林珠恵の母親に抱いていた狂うほどの愛情の故に、結果はどうあれ深く重い愛の存在を知っていたが故に、村野花の心情を読み取ったのだろうと、だから花のためにヤクザを使って絵を取り戻そうとしてやろうとしたのだという考えに、違和感を覚えなかった。
そして、人間はなんと哀れな生き物だろうと思った。犯罪者が苦しいのは、心の片隅に良心を抱えているからだ。それがどんなに小さくても、もしもそこに微かな許しの言葉が注がれたら、塩が傷に沁みるように痛むのだろう。
「この絵を蓮生家に返したのは」
「俺だよ。この絵は村野の二度目の女房が、村野の家から持ち出していて、俺に買ってくれないかと言ってきたんだ。かわいそうに、村野に家政婦のように扱われていて、ろくに財産も残されていなかった。それで買い取って、蓮生に送り届けたんだ。村野が亡くなったので返したい、と匿名でね。村野が黙って持ち出したのではないかと思っていたし、これ以上これに関ってはいけないような気がしてね」
澤田が私ではなく俺と言っていることに気が付いて、真はふと澤田のこれまでの半生を思い、彼のこれからを思い、いくらかの不安と好感を覚えた。澤田は代議士の殻を捨てたのだろう。
そして、千草は、この絵を送り返したのが澤田顕一郎ではないかと、ちゃんと気が付いていたのではないかと思った。だから彼女は、真が、上蓮生からも絵が見つかったのではないか、と聞いたとき、曖昧に微笑んで答えなかったのだ。その絵の行方は、澤田顕一郎が決めるのが妥当である、と考えていたからだ。
「村野耕治を恨んでいないんですか」
「どうだろうね。村野はずっと私の戦友だった。俺は深雪を守ることが自分の仕事だと思っていたが、彼女を施設に預けてしまった後は、記者としての目標も意味も失って、本当に自堕落な生活を送っていた。もう自分は社会のためにも、誰か個人のためにも役に立たない人間になったのだろうと感じていた。もしも村野が俺を探し出して、大分に連れ帰ってくれなかったら、俺はどこかで野垂れ死にしていたかもしれないんだよ」
真は暫く澤田の顔を不可解に見つめていた。
「村野は俺を選挙に担ぎ出し、政治の世界に押し出してくれた。面倒なことは全て請け負ってくれた。たとえそれが、一旦は頂点に引き上げた後で、いつかは俺を追い落とすためだったんだとしても、個人的には、どうしても村野を恨む気持ちにはなれないんだ。彼が、社会に対して犯していた犯罪とは別の部分でね。思えば、俺が書いていた記事などは、村野にとっては偽善者の戯言に思えていたのかもしれないな。俺が、若い情熱に任せて青臭い正義をかざせばかざすほどに、村野は駆り立てられるように悪事を積み重ねていたというのなら、村野と俺はいつも裏表の関係であり、いつでも離れられないものであったのかも知れない」
澤田は一旦言葉を切り、目を閉じた。
「俺はどこかで知っていたよ。俺のこの手帳を持ち出したのは村野だろうと。俺が政治の世界に入ってから、たまに俺の昔の取材をネタにしたような小さな事件が起こっていた。新聞の三面記事の片隅にしか残らないような誰かの死亡記事、俺が無実と信じていた犯罪者の事件が掘り返されて社会的に制裁されたという記事、蓮生の呪いの話。始めは偶然だろうと思っていたが、時々背中が撫でられるような思いもした。実際に、あんたが秘密をばらしたんだろうと怒り狂った電話がかかってきたこともあった。俺は今政治家であり、記者ではない、そう言い聞かせながら俺は目も耳も塞いだ」
澤田は真を見て、やるせないような顔をして見せた。
「俺はこの取材手帳を残して、己の足跡を確かめ、自分が何者であるかいつも確認していたかっただけだった。奮い立たせていないと潰れてしまいそうだったんだ。若い俺は、いつでも何かに対して義憤があって、自分がいっぱしの何者かであると思い続けていたかった。だが、君、この取材手帳には、取材を受けた人間が抉られたくなどなかった傷が残されているんだ。俺はこれを焼き捨てるべきだった。焼き捨てなかったのが俺の罪だ。俺は、村野があれを利用して誰かを苦しめているんじゃないかと、どこかで疑っていたのに、何もしなかった。村野が九州の小松というヤクザと関係していたらしいというのも、何となく知っていたかもしれない。政治家なんてのは哀れなものだと思ったよ。村野は表では俺を担ぎ上げて、裏では俺の首を絞めていたかもしれないのに、政治家としての俺は村野に頼らなければ資金繰りもできない、後ろ盾も持たない、ただの記者崩れだった。しかも、誇りに思っていた記者の仕事でさえ、最後にほころんでぼろぼろになっていたわけだ」
「でもあなたは、真摯に仕事をされていたと、そう思います。政治家としても、記者としても。そうでなければ、蓮生千草さんはあなたにこの絵を託さなかった」
澤田は辛そうに笑って頷き、それから少しの間何かを考え、そしてまた微かに笑った。幾らか納得したような顔だった。
「俺は、それでも村野を信じたかったのかもしれないな。澤田家と村野家の間にあった古い因縁を、村野と俺がなかったことにして上手く浄化させてやっていけていると、確執など愚かなことだと、ご先祖様たちに言ってやりたかったのかもしれない。だが、実際には、村野が俺に与えてくれる安寧に縋っていただけかもしれない」
澤田は取材手帳の束を静かに見つめている。真はその表情を黙って見ていた。
「それでも、さっきこの手帳を見たとき、苦しいくらいに甘美な気持ちになったよ。人には浅ましくも捨てられない情念があって、年をとっても腹の底で燻り続けているのかもしれないな」
「記憶が風化する前に、必ず犠牲になった人々を購わなければならない」
真はゆっくりと噛み締めるように言った。澤田が顔を上げる。
「あなたがそう書いていました。苦しんでいる字だった。あなたは安寧に生きてきたわけじゃない。それに村野耕治は、例えば奇妙なネオナチのようなグループを援助していたり、武器や麻薬を流していたり、社会の片隅で生きている健気な人を強請って楽しんだり、あるいは大国を強請って大儲けしていたんです。それらの罪は、あなたや澤田一族への複雑な感情以前の問題です」
澤田は何度かゆっくり頷き、顔を上げて真を見た。
疲れ果ててやつれていても、翳りのない顔は、ある特別な人間だけに許されたものに思えた。真は澤田顕一郎と村野耕治の関係に、大和竹流と寺崎昂司の姿を重ねていた。
「それは村野が死んでから田安のおやじさんに聞かされたよ。おやじさん自身は、そういう生き方を決して否定はしなかったけどね。ケン、それでも奴はお前を生かしてきた、と言った。その通りなのだろう。人は必ずしも、善意と愛情だけで生かされているのではないかもしれないからね」
そして今、澤田は代議士としての人生を、村野耕治が己の手元に継ぎとめようとしたお蔭で永らえていた澤田顕一郎の半生を、村野花の手によって無理矢理に終わらされてしまった。
「これからどうされるんですか」
澤田は、暗い、しかしその奥に絶え間なく光を放った目を真に向けた。あの時代を生き抜いてきた人間にある共通のしぶとさのようなもの、澤田もまたそれを持っているのではないかと思える。
「さぁ、今日は一晩、酒でも飲んで、天井を睨みながら考えるよ」
真は思わずこの部屋の天井を見上げた。そこは古い木の板で、木目の波は濃くなったり薄くなったり、一部は剥がれているところまであった。
「田安隆三の店の跡も片付けないとならないからね。あそこに町工場でも建てて、仲間を集めて、宇宙に打ち上げられるロケットの一番小さな、しかしそれがなくてはどうしても飛ぶことのできない、そんな部品を作るかな。君の伯父上が憧れていたような」
「澤田さん」
真はその先を続けることができなかった。
「幸い、田安隆三は随分多くの財産を俺に残してくれた。無形のもののほうが多いがね」
田安隆三の死。チェザーレの言うことが本当なら、彼を殺したのはアサクラタケシだ。真は無意識に唇を噛み締めていたが、やがて静かに尋ねた。
「田安さんのお葬式をあんな形で出したのは、村野花にあなたの覚悟を示したかったからなんですね。代議士としての生命よりも、一人の男としてしなければならないことがあると、そして村野花がそのあなたの気持ちに気が付いてくれないかと」
澤田はそれには答えなかった。
遠くで、汽笛の低い音が震えている。やがて澤田は静かに語りかけるように話し始めた。
「なぁ、君、田安のおやじさんは好きに生きたさ。不可抗力だった戦争はともかく、その後も世界中の戦場を傭兵として渡り歩いた。これまで自分が殺してきた人間たちの生も死も、背中に全部背負ってさ。人を憎しみのためではなく、機械のようにただ職業として殺すことがどういう意味なのか分からないまま、それを強要されたあの戦争の時の答えを与えられないままで。ただ人間としてそれがどういうことかは、あの人はよく分かってたんだよ。
あの人はもしかすると、アサクラタケシの息子への愛情を確認したかったのかもしれない。それも君を庇うためでもなんでもない、ただあの人自身の人生を贖いたかったんだよ。だから君が苦しんだり、責任を感じたりする必要は全くないさ。始めから、あの人の生き方には、死が含まれていた。それは最初の戦争で戦場に立ったその瞬間からね。おやじさんはいつも言っていた。なぁ、ケン、恨みがある相手を殺すのだって簡単なことじゃない、だが俺たちの仕事は恨みも憎しみも何もない、ただ金と、そいつを殺すことが目的だからという理由のためだけに殺すんだ、一切感情もなく。あの最初の戦争だってそうだった、俺は戦場で殺した敵を憎んでなどいなかった、ただ命令だから殺しただけなんだ、あの時から俺の頭は狂ってしまったんだよってな。
おやじさんはあの戦争を生き抜いたことを誇りとも幸運とも思っていなかった。頭の中に奇妙な因果関係の回路が出来上がって、ただ殺し続けなければ生きていけないと思い続けていた。だから、あの人はいつか誰かが『打ち止め』にしてくれることを願っていたんだと思うよ。そしてそのことを、アサクラタケシに伝えたかったんだろう」
澤田はふと、ボロボロになった自分の取材手帳を見つめた。
「あなたは、田安隆三を殺したのが、アサクラタケシだと知って……」
澤田は顔を上げて、まさに息子を叱り、励まし、労り、未来へ導こうとする父親の威厳を示すような目で、真っ直ぐに真を見つめた。
「おやじさんはあの日、珍しく俺に電話をかけてきてね。ものすごく酔っていた。ケン、あの人は酔っ払ったときだけ昔みたいに俺をケン、って呼ぶんだけどね、ケン、俺は今からアサクラタケシに殺されに行くぞ、俺にしちゃあ、願ってもない死に方だ、俺のように生きていくことがどういうことか、坊主にも見せてやるさ、アサクラタケシはよく知ってるだろうけどな、あの男は、あの男に殺されたい俺を殺すためにやってくるのさ、自分の罪を塗り重ねて、いつか俺のように死ぬためにさ、あの男は俺と同じだ、引き返せないことはよく知っている、俺を殺さないとその先に道はないってことをさ、そしてその道の先には俺と同じ悲惨で孤独な死が待っているってことをな、だがそれは本当は歩く必要のなかった道だ、作っちまったからには通らなければならない道になってしまったってだけのことだ、坊主に俺の言葉を正確に伝えてくれよ、お前には歩いちゃいけない道があるって、そこは修羅の道だ、引き返せない一本道なんだよ、お前の親父のためにも決してその道に一歩を踏み出すな、ってな」
真は返事をせずに澤田を見つめていた。
「田安のおやじさんは、確かにチェザーレ・ヴォルテラの盟友だった。君に銃の扱いを教えたのもそのためだった。だが、いつか言っていたよ。あの坊主には無理だってな。才能の問題じゃない、才能なら怖いほどにある、だが的が生きてりゃ話は別だって。あの坊主は、命あるものがその生命の終わりまでは必死に生き続けるのだという必然を肌身で知っている、それを無意味でただ暴力的な力で終わらせてはいけないと、それが自然の摂理ってやつだってのをちゃんと分かっている、その相手がどんな悪魔でも、その心の重み、生命の重みに反応するんだ、どんな者であれ、遺伝子に予定された運命よりも早くに生命を断つことを、断たれることを是としない、そういう心根があると、そう言っていたよ。
おやじさんは、どっちにしても君を人を殺せるように育てるつもりはなかったさ。だがアサクラタケシが誤解していることは知っていた。そして言い訳もしなかった。だが、俺はな、アサクラタケシのほうも本当は知ってたんじゃないかと思うんだ。おやじさんの、もう打ち止めにしてくれっていうメッセージをな。おやじさんもアサクラタケシは知っていると、同じ世界を渡ってきた人間の直感みたいなものでさ、ちゃんとお互いに分かってて、だからアサクラタケシはあえておやじさんの望むとおりに、おやじさんの果てのない苦しみに終止符を打ってくれたんじゃないかってね。おやじさんは多分、生まれて初めて戦場に立って、生まれて初めて憎んでもいない敵を殺してから、安心して目を閉じた夜なんて一日さえなかったと思うよ。そこから先は、殺し続けなければ、生きている自分を確認できなかったのさ。だから、田安隆三は殺されたんじゃない、自殺したんだ」
静かになった古い工場跡に、遠く雷の音が聞こえている。真は上がってくる温度と湿度を、冷めた身体で受け止めていた。澤田はゆっくりと目を伏せた。
「それでも、行くか」
真は澤田の顔を見つめたまま、呟くように答えた。
「始めから、修羅の道だった。人を殺さなくても」
「そうか」澤田はそれから随分長い間黙っていた。そして、やがて真っ直ぐに真を見つめて言った。「だが、どんなに細くてもいいから、命の通る道は少しだけ残しておきなさい。老婆心だがね、君はまだ若い。手垢がついた言葉だが、生きていれば何とかなるものさ。今は一本の道しかなく、それを歩かなければそこで終わるように見えているかもしれないがね、意外に脇道があるものさ。大概、歩きにくい道だろうけどね」
真は、十勝連峰を遥かに臨む北海道の牧場の道を思い浮かべていた。
小さな真には背丈よりも高かった草は、獣たちが密かに通る豊饒の道を隠していたが、幻の友人たちは、真が寂しいときにはいつでも喜んでその道をこっそり通してくれた。土のにおい、動物たちの残した僅かな足跡、天から降り注いだ雨の蜜のような香り、土の内に潜む次の春への命の芽、小さな真にはそのひとつひとつが光の破片に見えていた。
真がぼんやりとそんな光景を思い浮かべて澤田の顔を見つめていると、澤田が真剣な顔のまま言った。
「それに俺の下町宇宙ロケット製造工場に、技術者として相川真を雇う計画があるってことも忘れないでくれ」
真は、澤田顕一郎という男にも、細いが確かな脇道があるのだと思った。だが真とは違って、澤田はその歩く道に他人を入り込ませることに抵抗がなく、またむしろそれを喜ぶ気配があった。
この男は、多分真が見知っているよりも遥かに大きく、勇敢な人間なのだろう。それは澤田がこれまでの五十数年の人生で叩き上げてきたものだ。そんな彼の道の上には、また別の道が上手く重なっていくのかもしれない。村野耕治も村野花も、実際には澤田顕一郎のその太く大きな道に絡み取られた細い道に過ぎないのかもしれない。
だが、そこへ思い切り電飾を施そうとする物好きもまた存在している。真は澤田と井出は結構いいパートナーかもしれないと思った。
「井出幸之助という記者から伝言が」
澤田は顔を上げた。
「あなたと組みたいと。それに楢崎志穂という娘も」
澤田の目に少しだけ、光が鋭く蘇った。
「ご存知かもしれませんが、彼女は村野花の娘で、雑誌記者をしていた。井出幸之助は、彼女は真実を探求したいという熱意があると、そう言っていました。本人は自分が誰の娘であるかなど、何も知りませんが。それから、深雪が」
真はその名前を呼びながら、引き返せない想いながらも、どれほどその女が愛おしかったかと思った。
「一人で、自分の力で生きてみたいのだと、いつかあなたに会えるようになったら、きっと彼女の方からあなたに会いに来ると」
澤田は頷いた。真に絵の入った筒を渡し、真が摑んだ手を優しく何度か叩いた。ペンだこの名残、代議士という職業にしては節くれ立った大きな手、刻まれた皺の一本一本が、澤田の道を照らしている。
出て行き際に、真はふと振り返った。
「澤田さん」澤田が顔を上げる。「村野花に、何を言いかけたんですか。君が望むなら、と」
澤田は答えなかった。だが澤田の幾らか俯いた顔の影に密かに漂っている、かつて恋をした男の深い情愛を、真は己の心情そのままに受け止めていた。
(つづく)



さて、37章最終回は……次回予告では何のことか分からないかな。いや、分かるかな。
まだぐるぐるのマコトは(にゃあ~)、じゃない、真は、絵を持ってうろうろ。
で、どこに行ったかというと……フェロモンまき散らして行ってはいけません。
<次回予告>
「全く、お前、危なっかしくて怖いよ。そんなフェロモン撒き散らしてこの店に来るんじゃないって。ちょっと痩せたら、凄絶な感じになって健全そうじゃなくなるんだからさ、気をつけてくれよ。実は自覚してるんだか、全く無意識で分かってないんだか。お前が入ってきた瞬間、テーブル席、固まってたぞ。後ろの席にいたいささか下品な集団は、お前がネコかタチかってんで賭けてるしさ」
「ネコ?」
「つまり、女役か男役かってことだよ。長居すると相手を探してるんだって思われて、賭けの餌食になるぞ」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨175] 第37章 絵には真実が隠されている(5)開かれた扉の向こう
【海に落ちる雨】第37章その5です。
澤田から(あるいは蓮生家、新津圭一からも)託されたフェルメールの絵を持って真が訪ねたのは、竹流の仲間で恋敵?の葛城昇のゲイバーです。こんな状態で行ったら餌食になりそうだけれど、そこは百戦錬磨の昇が上手くあしらってくれるでしょう。
37章の最終回、この次はいよいよ本編最終章です。静かにラストスパート。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント 
【海に落ちる雨】登場人物
澤田から(あるいは蓮生家、新津圭一からも)託されたフェルメールの絵を持って真が訪ねたのは、竹流の仲間で恋敵?の葛城昇のゲイバーです。こんな状態で行ったら餌食になりそうだけれど、そこは百戦錬磨の昇が上手くあしらってくれるでしょう。
37章の最終回、この次はいよいよ本編最終章です。静かにラストスパート。





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空の遠くで雷鳴が続いている。
澤田の隠れ家を出て空を見上げると、重い雲が港の方向に溜まっていた。この季節ならまだ空は明るいはずの時間だったが、遠く低く唸るような雷鳴は、特殊効果で薄暗く演出された倉庫街の景色に似合いすぎるほどの音響を加えている。
雨の気配はまだ遠いが、空気の湿度は十分に重くなっていた。
真は新宿に戻り、事務所には顔を出さずに、二丁目の路地を入った。
重い湿度と曖昧な闇の予感の中で、『葵』の赤い文字は、鈍い光で大きな火の玉のようになって路地の奥で揺れている。そうか、彼には源氏名があったんだった、と改めて不思議な思いがする。
扉を開けると、敵か味方かを見分けようとする黒服の男のいつもの視線にぶつかる。
店内には既に客が溜まり始めていた。彼らの視線が真に絡みつく。値踏みをするようなねっとりとした視線も、今日は苦痛に感じなかった。真は、福嶋に言われた通り、今自分が意識なく誰かを誘い込むような目をしていることを、何となく自覚している気がした。
カウンターではなくテーブル席の面倒をみていた葛城昇が、幾らか驚いたような顔で真を見る。昇は黒服に目で合図をして、真をカウンターの隅の席に案内させた。
座りながら後ろの気配を窺うと、昇がこの店の中でしか見せない、商売用の優雅で妖しい笑みを浮かべて、客に何か答えていた。真は背中に向けられる複数の視線を思い切り意識しながら、カウンター席に座った。
カウンターに絵の入った筒を置く。
「お前、まずいよ」
程なく昇がカウンターの内に入ってくる。昇は細身の黒革のパンツと白いタンクトップという姿で、相変わらずどういう格好をしていてもこざっぱりと妖艶な気配を潜ませている。
「自覚してるって顔だな」
真が何も言わないうちに、昇はグラスを取り出し、見覚えのあるコニャックのデカンターボトルを取り上げる。
その時、真の肩にすっと大きな手がのった。
「それ、私に奢らせて頂けませんか」
丁寧な口調だった。上品な夏物のスーツを着た五十代と思しき紳士は、隣に座りかける。
「先生、申し訳ない、この人は客じゃないんです」
昇は相手を気遣うような優しい口調で言った。それは失礼、と紳士があっさりと引き下がる。それでも、気が向いた真が振り返り、逆に誘ってこないかを待つ時間だけはかけて、微かに失望の気配を落としていく。
「お前、痩せたな。大丈夫か」
真は頷いた。昇はコニャックを真に差し出す。
「全く、お前、危なっかしくて怖いよ。そんなフェロモン撒き散らしてこの店に来るんじゃないって。ちょっと痩せたら、凄絶な感じになって健全そうじゃなくなるんだからさ、気をつけてくれよ。実は自覚してるんだか、全く無意識で分かってないんだか。お前が入ってきた瞬間、テーブル席、固まってたぞ。後ろの席にいたいささか下品な集団は、お前がネコかタチかってんで賭けてるしさ」
「ネコ?」
「つまり、女役か男役かってことだよ。長居すると相手を探してるんだって思われて、賭けの餌食になるぞ」
真はコニャックを飲んだ。別れの杯にしてはよくできていると思った。ボトルには名前が書かれているわけでもなかったが、特別な人間のボトルであることは間違いがなかった。
「タチだろうってのが優勢だったみたいだけど」
真は顔を上げた。
「お前が獲物を狩ってる雄に見えるってことだよ。ここの客は鋭いぜ。実際、お前は精神的にはどっちもありなんだろうし、むしろ責める側に思える。身体はネコにされちまってるんだろうけど」
真は暫く意味を考えていたが、よく分からないままに放っておこうと決めた。昇は煙草を銜えて火をつけ、そのままその煙草を真に差し出す。真は抵抗なく受け取り、煙草を銜えた。
「花魁の吸い付け煙草」
真が分からない顔で煙草を見ると、昇が面白そうに笑った。
「お前は俺の誘いを受けたってことさ。これで暫く誰も寄ってこない」
真は、昇のほうこそ少し痩せたと思っていた。ただでさえ通って見える鼻筋が、くっきりと尖って見えている。
「キエフの老人は、まだこの絵を必要としているのかどうか、と思って」
昇は暫くカウンターの上の筒を見つめていた。
「どこにあったんだ」
「貸金庫の中。新津圭一が新潟の蓮生家から預かって、新津圭一はそれを香野深雪に託していた。俺は中を知らなかったけど、その番号と印鑑は、香野深雪から預かって俺が持っていたんです」
昇はほっと息をついた。
真は言ってしまってから、絵は貸金庫の番号に姿を変えて、ずっと自分が持っていたのだと、今ようやく気が付いたように思った。青い鳥の物語ではないが、探し物は驚くほど近くに転がっていたというわけだ。
大事なものはいつだって、そこにあることに気が付かない。
「キエフの爺さんは死んだらしいよ」
昇はゆっくりと、言葉を真に理解させるように言った。真はもう一口コニャックを飲み、ただそういう間の悪さというのも人の世にはあるのだろうと考えた。
「じゃあ、竹流は間に合わなかったんですね」
昇は自分の分もグラスについで、彼にとっても特別な人間のために置いてあるコニャックを味わっていた。
「それがその絵の運命さ。キエフの爺さんが本当に竹流を使って取り戻したかったのは、琥珀の地図じゃないかって話だよ。爺さんにとって、裁断されたフェルメールの古い絵のマリアなんぞ、救いにはならなかっただろう。むしろ帝政ロシアの幻の琥珀の間こそ、例のネオナチにとって大事な宝だったろうしな。まぁ、過去の亡霊みたいな爺さんの気持ちを汲んでやりたいっていう竹流の気持ちも分からんでもないけど、これはこれでいいと神様がおっしゃってるのさ」
真は暫く、数奇な運命を辿ったマリアを包み込む筒を見つめていた。つまり、返すべき本来の持ち主がいないということなのだ。
「絵の下敷きにされたマリアが、竹流の傍にいたくなって、さっさとじじいを呪い殺したのかもしれないぞ」
そうかもしれないと真剣に思った。
この絵は、本当に竹流の手を待っているのかもしれない。深い倉庫の地下から現れたロシアの姫君の白骨死体が悲運の孫娘、蓮生千草の手で掘り出されるのを待っていたのと同じように、マリアもまた掘り起こしてくれる手だけを捜している。
「琥珀の地図はどこに? もしかして新潟県庁の会議室にあるのが……」
「だろうなぁ。もう御蔵皐月という天才贋作師もいないし、すり替える予定の贋作は御蔵皐月の死体の脇に落ちていて、いまや証拠品として警察のお蔵の中ってわけだ」
真は煙草を吸い、そのままの手でコニャックを口にした。
「ま、大泥棒の復帰の最初の仕事は決まってるってわけだよな」
復帰することがあれば、だけど、と昇は付け加える。だが、あの御蔵皐月が描いた贋作は血にまみれていたと聞いている。多少は京都府警の刑事の誇張もあるのだろうが、それも竹流の手なら何とかなるのだろうか。
「これ、預かってもらえないだろうか」
昇はちらり、と筒を見る。
「いや、そいつは高瀬の爺さんに頼めよ。絵なら、あの人は喜んで預かるさ」
真は顔を上げる。高瀬と葛城昇が仲良く話をしたとは思えないが、竹流の現在の状況について話をしていた可能性は大いにあると思った。
「行ってやるんだろう? 高瀬の爺さんほどじゃなくても、俺たちだって、チェザーレ・ヴォルテラに何の恩義もないってわけじゃないし、それに万が一にも竹流が死んじまってたらあの男がどれほど嘆いていたか、下手すると世界大戦でも始めてしまいそうな気もするからさ、俺は駆け落ちは勧められないよ。だけど、もうそろそろ腰を上げないと、飛行機が古の都へ飛んで行っちまうぜ。ま、幸い嵐が来そうだけどな」
真は答えずに、筒を持って立ち上がった。
ふと頭の隅で、あの日、京都の病院にやって来たチェザーレ・ヴォルテラを思い出した。病室で、包帯に巻かれた竹流の頭を包み込むように抱き、額に口づけていた男の横顔、慈愛と決意に満ち、静かな炎さえ湧き立っているように見えたあの横顔を。
あの男がどれほど残忍なことをしようとも、息子を思う気持ちには微塵も翳りはなく、容赦さえない。真はもう一度、あなたにもそれができるか、と聞かれているような気がした。
「ブランディと吸いつけ煙草、ありがとうございます」
葛城昇は煙草の煙を吐き出す。その煙の向こうで微笑んだように見えた。
大和邸の門は、真のためならばいつも抵抗なく開けられる。そんな錯覚に陥るほど、その日の真夜中に真が車で乗りつけた時も、高瀬は待っていたように門を開けてくれた。多分、この執事には神通力があるのだと真は思っていた。
高瀬は真が抱えているものを見て、そのまま真を応接室ではなく、アトリエに通した。
どうして絵だと分かったのだろうと思いながら、真は高瀬がアトリエの扉を開けるのを見つめていた。
もともとパーティを行う広間として使われていたアトリエは、天井も高く、あたかも美術館のギャラリーのような印象を受ける。竹流が所狭しと並べているイーゼル、幾つもの作業台、それぞれが何らかの役割を果たしている棚や引き戸、複雑な薬品類の臭い、いつも一定に保たれている温度と湿度が、今も静かに主人の帰りを待っていた。
「明日、早速、ギャラリーの者を呼びましょう。巻かれたままの状態では絵を傷めてしまいます」
高瀬はそう言って、真の手から筒を受け取った。
「預かっていただけますか」
「指輪はお預かりできませんが、絵ならば、勿論でございます。旦那様がお戻りになられるまで、できるだけ良い状態でお預かりいたしましょう」
真はふと、高瀬がいつもより饒舌ではないかと思った。それは昨日の長い科白から受けた印象ではない。
いつもの高瀬なら、『指輪はお預かりできませんが』などと無益な修飾文節は言わない。高瀬は、今、真の心のうちをどう感じているのだろう。それを知りたいという、奇妙な感覚に襲われたが、真は結局何も言わなかった。
「確かめなくてもよろしいのですか」
真は何を言われているのか分からなくて、高瀬の顔を見つめる。この老獪な参謀は、恐らく何かを見聞きしてもその胸に仕舞って静かにそこに立ち続けるのだろう。
高瀬は黙って真の顔を見つめ返していた。
「この下に描かれているものを、ですか」
返事がないのは肯定ととる。
「これは、僕が見ても意味がないものです。彼が必要としたものであり、この上に重ねられた絵具の下から彼がいつか彼自身の手で掘り起こすまでは、この絵の下のマリアは待っているのでしょう」
そう、蓮生家の倉庫の地下に埋められていたロシアの姫君が朽ち果てようとする骨になりながらも、微かな己の血を頼りに、孫である千草の手を半世紀以上も待っていたように、このフェルメールのマリアは、その表に描かれた贋作の下で、気高い魂の奏でる微かな音だけを頼りに、一世紀以上の時を越えた今も竹流を待つだろう。そう信じたかった。
その日、真は大和邸に泊まった。
高瀬は真を大和邸の主人の寝室に通し、そのまま姿を見せなくなった。扉が閉まる前に駆け込んできたトニーが、ベッドの掛け布団の上で丸まったのを見届けて、真はサイドテーブルに竹流の指輪をそっと置き、ベッドに潜り込んだ。
身体は密やかに興奮していた。
この部屋の、このベッドの上で、真は初めてあの男に抱かれた。あの時と同じサテンのシーツの手触り、アトリエから出てきた後も身体に纏わりついていた痺れるような油絵具の匂い、ベランダの窓から吹き込んでくる風の囁きは、真の身体に脳の隅々にまで染み渡っていた。ただ、彼の手の温もりと、耳元で囁かれる異国の音楽のようなあの声が、今ここにはなかった。
それでも、真は耳元にあの男の囁く声、柔らかいハイバリトンの音調を感じていた。
真は目を閉じ、草に埋もれた脇道を探した。
嵐の迫る時に感じる微かな興奮が、身体の内から湧き起こる気配があった。嵐は身体のうちを引っ掻き回し吹き抜けて、余計なものをふり落としていく。嵐の過ぎ去った後は雲が切れて、天から光が差し込む。細い脇道を、自分自身より遥かに背の高い草を掻き分けて進むと、突然身体を締め付けていた鬱蒼と繁る草が途切れる。
突然開かれた扉は、今、世界を真っ白に染めた。
この景色を、真は随分昔に見たような気がしていた。
(第37章了、第38章へつづく)




さて、いよいよ本編最終章、第38章『そして、地球に銀の雫が降る』です。かなり長い章なので、6回分くらいありそう。一体彼らはちゃんと会えるのか? って心配になるような展開ですが、まぁ、あの人が放っておくわけがありませんよね。
こんなに引っ張っておいて、そんなあっさり? ってことになりそうですが、お楽しみに(*^_^*)
<次回予告>
だが、真が恐れているのは、もしかして竹流を守るために自分がまた他人の身体に刃を向けなければならないかもしれない、ということではなかった。今はただ、竹流の顔を見る勇気がないだけだった。竹流の感情に触れるのが、それが真にとっても正であっても負であっても、ただ最も愛おしいあの心に触れるのが恐ろしいだけだった。
何故、恐ろしいのかと聞かれても分からない。ただ身体が強張っていうことをきかなくなってしまう。
寺崎昂司や御蔵皐月の最期の姿を見たとき、真は彼らの感情の内を誰よりも知っているのは自分だと思った。いつか真も、彼らのように狂うほどにあの男を求めるかもしれない、求めながら狂っていくかもしれない。いや、もう既に狂い始めているのかもしれないのだ。
そのことは、多分、美和も仁も、あの仁の従妹も、三上も、深雪も知らない。ただ寺崎昂司と御蔵皐月だけが知っていた。あるいは村野花、あの女もだ。



空の遠くで雷鳴が続いている。
澤田の隠れ家を出て空を見上げると、重い雲が港の方向に溜まっていた。この季節ならまだ空は明るいはずの時間だったが、遠く低く唸るような雷鳴は、特殊効果で薄暗く演出された倉庫街の景色に似合いすぎるほどの音響を加えている。
雨の気配はまだ遠いが、空気の湿度は十分に重くなっていた。
真は新宿に戻り、事務所には顔を出さずに、二丁目の路地を入った。
重い湿度と曖昧な闇の予感の中で、『葵』の赤い文字は、鈍い光で大きな火の玉のようになって路地の奥で揺れている。そうか、彼には源氏名があったんだった、と改めて不思議な思いがする。
扉を開けると、敵か味方かを見分けようとする黒服の男のいつもの視線にぶつかる。
店内には既に客が溜まり始めていた。彼らの視線が真に絡みつく。値踏みをするようなねっとりとした視線も、今日は苦痛に感じなかった。真は、福嶋に言われた通り、今自分が意識なく誰かを誘い込むような目をしていることを、何となく自覚している気がした。
カウンターではなくテーブル席の面倒をみていた葛城昇が、幾らか驚いたような顔で真を見る。昇は黒服に目で合図をして、真をカウンターの隅の席に案内させた。
座りながら後ろの気配を窺うと、昇がこの店の中でしか見せない、商売用の優雅で妖しい笑みを浮かべて、客に何か答えていた。真は背中に向けられる複数の視線を思い切り意識しながら、カウンター席に座った。
カウンターに絵の入った筒を置く。
「お前、まずいよ」
程なく昇がカウンターの内に入ってくる。昇は細身の黒革のパンツと白いタンクトップという姿で、相変わらずどういう格好をしていてもこざっぱりと妖艶な気配を潜ませている。
「自覚してるって顔だな」
真が何も言わないうちに、昇はグラスを取り出し、見覚えのあるコニャックのデカンターボトルを取り上げる。
その時、真の肩にすっと大きな手がのった。
「それ、私に奢らせて頂けませんか」
丁寧な口調だった。上品な夏物のスーツを着た五十代と思しき紳士は、隣に座りかける。
「先生、申し訳ない、この人は客じゃないんです」
昇は相手を気遣うような優しい口調で言った。それは失礼、と紳士があっさりと引き下がる。それでも、気が向いた真が振り返り、逆に誘ってこないかを待つ時間だけはかけて、微かに失望の気配を落としていく。
「お前、痩せたな。大丈夫か」
真は頷いた。昇はコニャックを真に差し出す。
「全く、お前、危なっかしくて怖いよ。そんなフェロモン撒き散らしてこの店に来るんじゃないって。ちょっと痩せたら、凄絶な感じになって健全そうじゃなくなるんだからさ、気をつけてくれよ。実は自覚してるんだか、全く無意識で分かってないんだか。お前が入ってきた瞬間、テーブル席、固まってたぞ。後ろの席にいたいささか下品な集団は、お前がネコかタチかってんで賭けてるしさ」
「ネコ?」
「つまり、女役か男役かってことだよ。長居すると相手を探してるんだって思われて、賭けの餌食になるぞ」
真はコニャックを飲んだ。別れの杯にしてはよくできていると思った。ボトルには名前が書かれているわけでもなかったが、特別な人間のボトルであることは間違いがなかった。
「タチだろうってのが優勢だったみたいだけど」
真は顔を上げた。
「お前が獲物を狩ってる雄に見えるってことだよ。ここの客は鋭いぜ。実際、お前は精神的にはどっちもありなんだろうし、むしろ責める側に思える。身体はネコにされちまってるんだろうけど」
真は暫く意味を考えていたが、よく分からないままに放っておこうと決めた。昇は煙草を銜えて火をつけ、そのままその煙草を真に差し出す。真は抵抗なく受け取り、煙草を銜えた。
「花魁の吸い付け煙草」
真が分からない顔で煙草を見ると、昇が面白そうに笑った。
「お前は俺の誘いを受けたってことさ。これで暫く誰も寄ってこない」
真は、昇のほうこそ少し痩せたと思っていた。ただでさえ通って見える鼻筋が、くっきりと尖って見えている。
「キエフの老人は、まだこの絵を必要としているのかどうか、と思って」
昇は暫くカウンターの上の筒を見つめていた。
「どこにあったんだ」
「貸金庫の中。新津圭一が新潟の蓮生家から預かって、新津圭一はそれを香野深雪に託していた。俺は中を知らなかったけど、その番号と印鑑は、香野深雪から預かって俺が持っていたんです」
昇はほっと息をついた。
真は言ってしまってから、絵は貸金庫の番号に姿を変えて、ずっと自分が持っていたのだと、今ようやく気が付いたように思った。青い鳥の物語ではないが、探し物は驚くほど近くに転がっていたというわけだ。
大事なものはいつだって、そこにあることに気が付かない。
「キエフの爺さんは死んだらしいよ」
昇はゆっくりと、言葉を真に理解させるように言った。真はもう一口コニャックを飲み、ただそういう間の悪さというのも人の世にはあるのだろうと考えた。
「じゃあ、竹流は間に合わなかったんですね」
昇は自分の分もグラスについで、彼にとっても特別な人間のために置いてあるコニャックを味わっていた。
「それがその絵の運命さ。キエフの爺さんが本当に竹流を使って取り戻したかったのは、琥珀の地図じゃないかって話だよ。爺さんにとって、裁断されたフェルメールの古い絵のマリアなんぞ、救いにはならなかっただろう。むしろ帝政ロシアの幻の琥珀の間こそ、例のネオナチにとって大事な宝だったろうしな。まぁ、過去の亡霊みたいな爺さんの気持ちを汲んでやりたいっていう竹流の気持ちも分からんでもないけど、これはこれでいいと神様がおっしゃってるのさ」
真は暫く、数奇な運命を辿ったマリアを包み込む筒を見つめていた。つまり、返すべき本来の持ち主がいないということなのだ。
「絵の下敷きにされたマリアが、竹流の傍にいたくなって、さっさとじじいを呪い殺したのかもしれないぞ」
そうかもしれないと真剣に思った。
この絵は、本当に竹流の手を待っているのかもしれない。深い倉庫の地下から現れたロシアの姫君の白骨死体が悲運の孫娘、蓮生千草の手で掘り出されるのを待っていたのと同じように、マリアもまた掘り起こしてくれる手だけを捜している。
「琥珀の地図はどこに? もしかして新潟県庁の会議室にあるのが……」
「だろうなぁ。もう御蔵皐月という天才贋作師もいないし、すり替える予定の贋作は御蔵皐月の死体の脇に落ちていて、いまや証拠品として警察のお蔵の中ってわけだ」
真は煙草を吸い、そのままの手でコニャックを口にした。
「ま、大泥棒の復帰の最初の仕事は決まってるってわけだよな」
復帰することがあれば、だけど、と昇は付け加える。だが、あの御蔵皐月が描いた贋作は血にまみれていたと聞いている。多少は京都府警の刑事の誇張もあるのだろうが、それも竹流の手なら何とかなるのだろうか。
「これ、預かってもらえないだろうか」
昇はちらり、と筒を見る。
「いや、そいつは高瀬の爺さんに頼めよ。絵なら、あの人は喜んで預かるさ」
真は顔を上げる。高瀬と葛城昇が仲良く話をしたとは思えないが、竹流の現在の状況について話をしていた可能性は大いにあると思った。
「行ってやるんだろう? 高瀬の爺さんほどじゃなくても、俺たちだって、チェザーレ・ヴォルテラに何の恩義もないってわけじゃないし、それに万が一にも竹流が死んじまってたらあの男がどれほど嘆いていたか、下手すると世界大戦でも始めてしまいそうな気もするからさ、俺は駆け落ちは勧められないよ。だけど、もうそろそろ腰を上げないと、飛行機が古の都へ飛んで行っちまうぜ。ま、幸い嵐が来そうだけどな」
真は答えずに、筒を持って立ち上がった。
ふと頭の隅で、あの日、京都の病院にやって来たチェザーレ・ヴォルテラを思い出した。病室で、包帯に巻かれた竹流の頭を包み込むように抱き、額に口づけていた男の横顔、慈愛と決意に満ち、静かな炎さえ湧き立っているように見えたあの横顔を。
あの男がどれほど残忍なことをしようとも、息子を思う気持ちには微塵も翳りはなく、容赦さえない。真はもう一度、あなたにもそれができるか、と聞かれているような気がした。
「ブランディと吸いつけ煙草、ありがとうございます」
葛城昇は煙草の煙を吐き出す。その煙の向こうで微笑んだように見えた。
大和邸の門は、真のためならばいつも抵抗なく開けられる。そんな錯覚に陥るほど、その日の真夜中に真が車で乗りつけた時も、高瀬は待っていたように門を開けてくれた。多分、この執事には神通力があるのだと真は思っていた。
高瀬は真が抱えているものを見て、そのまま真を応接室ではなく、アトリエに通した。
どうして絵だと分かったのだろうと思いながら、真は高瀬がアトリエの扉を開けるのを見つめていた。
もともとパーティを行う広間として使われていたアトリエは、天井も高く、あたかも美術館のギャラリーのような印象を受ける。竹流が所狭しと並べているイーゼル、幾つもの作業台、それぞれが何らかの役割を果たしている棚や引き戸、複雑な薬品類の臭い、いつも一定に保たれている温度と湿度が、今も静かに主人の帰りを待っていた。
「明日、早速、ギャラリーの者を呼びましょう。巻かれたままの状態では絵を傷めてしまいます」
高瀬はそう言って、真の手から筒を受け取った。
「預かっていただけますか」
「指輪はお預かりできませんが、絵ならば、勿論でございます。旦那様がお戻りになられるまで、できるだけ良い状態でお預かりいたしましょう」
真はふと、高瀬がいつもより饒舌ではないかと思った。それは昨日の長い科白から受けた印象ではない。
いつもの高瀬なら、『指輪はお預かりできませんが』などと無益な修飾文節は言わない。高瀬は、今、真の心のうちをどう感じているのだろう。それを知りたいという、奇妙な感覚に襲われたが、真は結局何も言わなかった。
「確かめなくてもよろしいのですか」
真は何を言われているのか分からなくて、高瀬の顔を見つめる。この老獪な参謀は、恐らく何かを見聞きしてもその胸に仕舞って静かにそこに立ち続けるのだろう。
高瀬は黙って真の顔を見つめ返していた。
「この下に描かれているものを、ですか」
返事がないのは肯定ととる。
「これは、僕が見ても意味がないものです。彼が必要としたものであり、この上に重ねられた絵具の下から彼がいつか彼自身の手で掘り起こすまでは、この絵の下のマリアは待っているのでしょう」
そう、蓮生家の倉庫の地下に埋められていたロシアの姫君が朽ち果てようとする骨になりながらも、微かな己の血を頼りに、孫である千草の手を半世紀以上も待っていたように、このフェルメールのマリアは、その表に描かれた贋作の下で、気高い魂の奏でる微かな音だけを頼りに、一世紀以上の時を越えた今も竹流を待つだろう。そう信じたかった。
その日、真は大和邸に泊まった。
高瀬は真を大和邸の主人の寝室に通し、そのまま姿を見せなくなった。扉が閉まる前に駆け込んできたトニーが、ベッドの掛け布団の上で丸まったのを見届けて、真はサイドテーブルに竹流の指輪をそっと置き、ベッドに潜り込んだ。
身体は密やかに興奮していた。
この部屋の、このベッドの上で、真は初めてあの男に抱かれた。あの時と同じサテンのシーツの手触り、アトリエから出てきた後も身体に纏わりついていた痺れるような油絵具の匂い、ベランダの窓から吹き込んでくる風の囁きは、真の身体に脳の隅々にまで染み渡っていた。ただ、彼の手の温もりと、耳元で囁かれる異国の音楽のようなあの声が、今ここにはなかった。
それでも、真は耳元にあの男の囁く声、柔らかいハイバリトンの音調を感じていた。
真は目を閉じ、草に埋もれた脇道を探した。
嵐の迫る時に感じる微かな興奮が、身体の内から湧き起こる気配があった。嵐は身体のうちを引っ掻き回し吹き抜けて、余計なものをふり落としていく。嵐の過ぎ去った後は雲が切れて、天から光が差し込む。細い脇道を、自分自身より遥かに背の高い草を掻き分けて進むと、突然身体を締め付けていた鬱蒼と繁る草が途切れる。
突然開かれた扉は、今、世界を真っ白に染めた。
この景色を、真は随分昔に見たような気がしていた。
(第37章了、第38章へつづく)



さて、いよいよ本編最終章、第38章『そして、地球に銀の雫が降る』です。かなり長い章なので、6回分くらいありそう。一体彼らはちゃんと会えるのか? って心配になるような展開ですが、まぁ、あの人が放っておくわけがありませんよね。
こんなに引っ張っておいて、そんなあっさり? ってことになりそうですが、お楽しみに(*^_^*)
<次回予告>
だが、真が恐れているのは、もしかして竹流を守るために自分がまた他人の身体に刃を向けなければならないかもしれない、ということではなかった。今はただ、竹流の顔を見る勇気がないだけだった。竹流の感情に触れるのが、それが真にとっても正であっても負であっても、ただ最も愛おしいあの心に触れるのが恐ろしいだけだった。
何故、恐ろしいのかと聞かれても分からない。ただ身体が強張っていうことをきかなくなってしまう。
寺崎昂司や御蔵皐月の最期の姿を見たとき、真は彼らの感情の内を誰よりも知っているのは自分だと思った。いつか真も、彼らのように狂うほどにあの男を求めるかもしれない、求めながら狂っていくかもしれない。いや、もう既に狂い始めているのかもしれないのだ。
そのことは、多分、美和も仁も、あの仁の従妹も、三上も、深雪も知らない。ただ寺崎昂司と御蔵皐月だけが知っていた。あるいは村野花、あの女もだ。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨176] 第38章 そして、地球に銀の雫が降る(1)魔王は獲物を逃さない
いよいよ本編最終章に突入しました。いったいこのお話を書いたころは何を思っていたのか、どんな本を読んで、どんなニュースを見て、どんなことを感じていたのか、長い年月がたってからこうしてブログにアップしていく過程でその感情を思い出していました。あの「闇」への怒りがあって……その結果としてこの物語が生まれてきたんだなぁと思うと、感慨深いものがあります。
まだまだこの先、主人公たちは心の傷を背負って闘って行かねばならないようですが、ひとまずは最終章の最後の言葉にたどり着くまで、もうしばらくお付き合いください。
あ。孫タイトル、またふざけています。気になさらず……
そうそう、以前から何度か書いておりましたが、いつも物語を書く時には自分にとっての「キラキラシーン」が最初に湧き出してきて、そこに向かってひたすら書くのですが、まさにこの第4節と第5節はすごい勢いで書いていた記憶があります。
今回のキラキラシーンは、シーンじゃなくて、ごく短い言葉なのですが(別に特別な言葉じゃないけれど)……何度も言いますが、この一言を言うのに、ここまでお膳立てしてやらなきゃいけなかったのか? ほんとに、何でもソツなくこなす人だけれど、本気になると肝心の言葉がなかなか出てこないようでして。苦労しました。
その最終章、少し長いのですが、ようやく、京都です! お楽しみください。
あ、初回はまだ新宿にいますけれどね(^^)
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】登場人物
まだまだこの先、主人公たちは心の傷を背負って闘って行かねばならないようですが、ひとまずは最終章の最後の言葉にたどり着くまで、もうしばらくお付き合いください。
あ。孫タイトル、またふざけています。気になさらず……
そうそう、以前から何度か書いておりましたが、いつも物語を書く時には自分にとっての「キラキラシーン」が最初に湧き出してきて、そこに向かってひたすら書くのですが、まさにこの第4節と第5節はすごい勢いで書いていた記憶があります。
今回のキラキラシーンは、シーンじゃなくて、ごく短い言葉なのですが(別に特別な言葉じゃないけれど)……何度も言いますが、この一言を言うのに、ここまでお膳立てしてやらなきゃいけなかったのか? ほんとに、何でもソツなくこなす人だけれど、本気になると肝心の言葉がなかなか出てこないようでして。苦労しました。
その最終章、少し長いのですが、ようやく、京都です! お楽しみください。
あ、初回はまだ新宿にいますけれどね(^^)



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翌朝、ほとんど眠れなかった真は、高瀬が濃い目に淹れてくれたコーヒーだけを胃に納めて新宿に戻った。
遠くに嵐の気配を孕んだまま、空は灰色に沈んでいたが、まだ荒れ模様の予兆はなく、かえって息苦しいほど重い湿度が、高い気圧と共に身体を締め付ける。早朝の新宿は、前夜の気だるい名残と、新しい一日の始まりへの期待を混ぜ合わせたまま、凍りついていた。
事務所に真っ直ぐに帰るのが躊躇われて、真は遠回りを続けていた。
途中、顔見知りのホストに会って、煙草を吸いながら暫く立ち話をした。ホストは、昨夜の客が随分しつこかったという話を気だるそうに繰り返した。まぁ、身入りは悪かなかったけどさ、とほくそ笑む。あんたもしけた探偵稼業なんか辞めてもっと楽に稼いだら、といつものように誘ってくる。真は、考えとくよ、といつものように答えた。
彼の仕事が楽とはとても思えなかった。別れ際に、でも俺、酒飲めないんだ、と言うと、こんなのは慣れだよ、慣れ、と眠そうな声が返ってきた。
ホストと別れた真は、結局他には居場所がなくて、事務所に向かった。
事務所の窓を見上げると、当たり前のことだが、まだ静かで何の気配もない。二階の事務所ではなく、上階の宝田のねぐらまで暗い階段を上がってみると、いつもなら起きだしていてもおかしくない宝田の鼾が扉の向こうから聞こえていた。
ふと可笑しくなり、その鼾の音をそのまま聞いていたくて、ドアの前に座り込んでいると、自然に眠くなってきた。
真は目を閉じた。
宝田も賢二も、真がいなくてもちゃんとやっていくだろう。少なくとも、彼らを助けるために、北条仁も三上司朗も名瀬弁護士も手を貸してくれるはずだった。そう考えてから、真は自分の考えの奇妙なところに気が付いて、また可笑しくなった。頼るべき相手の中に、ヤクザと弁護士と犯罪歴のある車椅子の名探偵が、同じ重さで横に並んでいる。
この世の中は結構いけているかもしれない、と信じたくなった。
「うわ、先生、どうしたんすか」
早起きの宝田は、外見からは想像できないほどに寝起きがいい。さっきまで鼾をかいていたと思ったらもうすっかり普通に起きて活動している。
ちょっと眠れなくて、とあまり筋の通っていない言い訳をしてみる。
「俺、もう掃除に行きますから、中で寝ててください」
宝田は少し、喋り方が慎重になったな、と真は思った。宝田は真を抱きかかえるような勢いで自分の寝ていた万年床に連れていくと、暑いし掛け布団はいいっすね、あとで起こしに来ますよ、といつもの口調で言って、出て行った。
不思議なことに、万年床に染み付いた宝田の汗やにおいが、真を穏やかな気持ちにさせた。
冷静に考えたら決して居心地がよいはずのない場所なのだが、まるで浦河の厩舎の中のようだと思って、真は何となく幸せになっていた。馬たちの呼吸と温もり、時々震わす体の大きな揺れ、闇を縫うように耳に届く嘶き。そういったものが全て、幼い真の時間の中に溶け込んでいて、あの場所から祖父の背に負われて出ると、いつも頭上には横たわる天の川、満天の星が迎えてくれた。あらゆるカムイたちが遠く、近く、真を見守っていてくれる。その不思議な闇の気配は、幼い真にとって母のようでもあり、また父のようでもあった。
あの場所と、この新宿の街の中の古いビルの一室が似ているというのは妙な発見だ、と真は思って、その発見に楽しい気分にさえなっていた。
家に帰りたがらない家出少年を、宝田はよくここに預かってくれる。宝田は不器用で口下手だから、決して上手に彼らを慰めたりなどできないだろうが、彼らはここで何日か過ごすと、家に、あるいは彼らが本来いるべき場所に戻っていく。宝田の何がそうさせるのか、真はいつも不思議だった。それを今、真は何となく納得した気がした。
俺は今、家出少年というわけなんだな。そして、俺が帰るべき場所はどこなのだろう。
名瀬弁護士のところに挨拶に行かなければならない、と考えていた。少なくとも賢二のことは、この先ちゃんと立ち行くようにしてやらなければならない。
真はうとうとしながら、脳が思い浮かべている景色をひとつひとつ曖昧に追いかけていた。
いつか真実を見つめるための確かな時間が与えられたら、あの絵の下のマリアを見てみたいと思った。竹流がアトリエに残している、苦悩を叩きつけたような幾枚ものイコンの理由を、彼の口から聞きたいと思った。
修復する前に竹流は、絵やその他のあらゆる種類の作品の前に、いつも長い時間座っている。まるでそれらと会話を交わすように、時には幾晩も、寝る間も惜しむように見つめ続けている。
あれが、真の知っている父親の背中だった。
修復作業となると、竹流はいつでも、どんな小さなものでも丁寧に大切に扱った。そこに誰かの心や願いが籠められていると思っているからだ。
イタリアを旅している時、ローマのアッピア街道にあるドミネ・クォ・ヴァディス教会で、旅行中の修道女たちと挨拶を交わした。その後で、真は彼らの中の誰かが落としていった小さなクロスを拾った。鎖が古くなって切れてしまったようだった。
竹流は真の手からそれを受け取ると、知り合いの銀細工師のところに行き、自ら鎖を綺麗に直し十字架を研き上げた。その銀細工師は、竹流やチェザーレが嵌めている指輪の作者の息子だと聞いた。銀細工師は、いつ見ても本職顔負けの器用さだと、真に目配せをする。新しい鎖をつけてやったら、と尋ねる銀細工師に、それでは駄目なんだ、と答える。
それから竹流は、何年帰らなくても彼が指一本で、あるいは一言発するだけで稼動するネットワークを使って、ローマ中の修道院を調べさせ、僅か一昼夜のうちに持ち主を探し出してしまった。
あの時、泣き通しだったまだ幼いような顔つきの修道女の笑顔を思うと、真は今も胸が熱くなった。祖母の形見なんです、本当にありがとう、と何度も彼女は言った。竹流は、何も聞かなくても、この持ち主にとっては新しい鎖では駄目だと、その古いクロスから感じ取ったのだろう。それでも年月を経た鎖の寿命はよく分かっていたから、銀細工師から譲り受けた新しい鎖をそっと別に渡して言った。
パウロがキリストに出会ったあの道の途中でお会いしたのも何かの縁でしょう。もしもその鎖が駄目になれば、これをお使いなさい。あなたがこの新しい鎖に出会ったのも、あなたのお祖母さまの導きに違いないから。
竹流を見上げた修道女は、まさにキリストに出会ったと思ったに違いない。竹流は頭を下げ続ける修道女に微笑みかけると、黙ってその姿を見つめていた真の頭を撫で、身体を抱くようにして一緒に光溢れる街へ出た。
眠ったまま、光であたりを見失ったような気がしたとき、突然けたたましい足音が駆け上がってきて、扉をものすごい勢いで開け、何事かと起き上がった真を布団から引きずり出した。
「どうしたんだ」
美和は言葉なく、しかし力強く、真を見つめている。
真はその瞬間、美和のうちに、真が見たことのない別の女を見出したような不思議な印象を持ったが、それが何なのか分からなかった。
美和のほうでも、真といささか気まずい別れ方をしていたことを急に思い出してしまったというような顔になったが、早朝から階段を駆け上がってきた理由は別のことだったようで、口もきかないまま、まだ頭が働いていない真を引きずるように事務所に下りた。
事務所の中には、ひとりの若い中国人が立っていた。
中国人とわかった理由は、明らかにこれ見よがしの格好をしていたからだが、顔から見てもまだ随分若い、幼ささえ残るような年齢に見えた。それでも人生の大概の辛苦は嘗め尽くしたとでもいうような翳りが瞳のうちに宿り、その影を何か強い光で包み込んだような、不思議な色合いが見て取れる。この若者は、誰か強く信じる者がいるのだと、真は思った。
真よりも幾らか小柄で、艶やかな黒髪は、真よりも遥かにアジア人らしい。若い中国人は、物事を伝えるのに不自由のない程度の日本語を話した。
それは、真を取り敢えず数ヵ月雇いたいという『仕事』の依頼だった。
一瞬、事務所の中の空気は凍り付いた。宝田も美和も何も言わなかった。沈黙の間に賢二がやって来て、あまりの気配に一瞬中に入るのを躊躇ったほどだった。
中国人の話にその場の空気が凍りついたのは、彼の主人が示した報酬が、一体どういう種類の仕事がそれほどの代価を要求するのかというあまりの破格だったからだ。
「もちろん、あなたが断ることは自由です。しかし、私の主人は、あなたがこの話を受けると信じています。明後日、成田からローマへ飛びます。お返事は今夜いただきたい」
真はまだ何が起こっているのかわからないまま、中国人を見つめていた。
「私に何をしろ、と」
中国人は、それは聞いていない、と答えた。
「あなたの御主人は」
「今朝、京都に向かいました」
宝田が何を察したのか、急にいつもの彼らしいおろおろした気配を示した。
「竹流は、いえ、あの」
冷淡な表情を変えずに、中国人は真の言葉を受けた。
「ジョルジョ様はまだこのことを御存知ではありませんが、あなたがお受けくだされば、私の主人が話をするはずです」
ひと月で自分たちの今の稼ぎの一年もしくは二年分の給料を出そうという仕事の依頼が、どういう意味合いかは美和にも宝田にも何となく分かったようだった。しかも長期になれば、その額を上乗せする契約になっていた。真がちらりと美和を見ると、美和の方でもいささか不安そうな顔になった。
チェザーレ・ヴォルテラが煮え切らない真に痺れを切らしたのか、竹流の望みなのか、と考えたが、どうやら前者のようだ。あなたに覚悟ができたら、と言いながら、チェザーレは、どうせ覚悟なんて考えたところで出てこないことを知っているのだ。だから、いっそ放り込んだほうが早いと決断したのだろう。
チェザーレは、大事な息子が望む特別な玩具を買い与えるような感覚で、真を雇おうというのだ。しかも、その玩具の本来の値打ちを遥かに越えた破格の値段で。
「京都には先生が自分で行きます。そこであなたのご主人に先生が返事をします」
真がまだ逡巡している間に、美和が真よりも遥かに冷静な気配で言い放った。叩きつけるような言葉の勢いに、真は思わず美和の顔を見た。
中国人は美和の言葉をそのまま受けて、胸の内ポケットから封筒を出して、あとは挨拶もなく帰っていった。
ドアが閉まった途端、宝田がほーっと息をついてソファに座り込んだ。封筒の中を確かめた美和が、真にそれを差し出す。新幹線のグリーン席のチケットが入っていた。
「今の、大家さんの家の人?」
真は美和の顔を見つめた。しばらく見ない間に、僅かに印象の変わった美和の目からは、あの子どもっぽさは幾らか失われたように見えた。どこか真の知らないところで、美和は少し大人の女になったような気がする。あの仁の従妹だと名乗った女に対抗するためにも、美和も何かを思い切る必要があったのだろう。真はそんなことを思いながら、多分、と短く答えた。
あの中国人がどういう種類の人間か、今なら言い当てることができる気がした。
主人の命令ならどれほどの残忍な仕事も、機械のように正確に、冷徹な心でこなしていく人間だと思えた。あれがヴォルテラの主人のボディガードとして、主人のために平気で身体と命を差し出す人間が放つ気だと、真は思った。そのような男を真のところに差し向けることで、新しい依頼人もしくは雇い主は、真の覚悟を聞いているような気がした。
しかも、その男が傍を離れることでチェザーレ自身が多少なりとも無防備になることを厭わずに、真を雇うという些細な仕事をそれだけ重要で他の人間には任せられないということを示すためだけに、少なくともチェザーレ・ヴォルテラはそう思っていると真に知らせるために。
命なら、いつでも差し出す覚悟はできている。竹流がそれを望むなら。
「先生、葉子さんからの伝言、忘れてたよ」
というより、そもそもちっとも会えなかったからだけど、と美和はぼやいてから、顔をきっちりと上げて言った。
「さっさと京都に来いって」
それからふぅと大きく息をつく。
「もう先生には迷っている時間なんてないはず。先生は直接、大家さんの顔を見て、どうするかちゃんと返事をしなくちゃならないよ。どれほど心で思ってたって、言葉にならないんじゃ意味がないよね」
美和はいつも、彼女自身に言い聞かせるように真に話している。真はそのことに気が付いて、仁の心のうちを最も深く知っているのはやはり美和なのだと思った。そして、竹流の心のうちを最も深く感じているのは、真のはずだった。
真が神妙な顔をしていると、美和が急に、あのくるっとよく変わる屈託のない笑顔を見せた。今のその笑顔は、真がこれまでに見た美和のどんな顔よりも魅力的で、あのいつもの力強い明るさに満ちていた。
「それにしてもこれはいい仕事よ。うちの経営状況からは、この給料はものすごく有り難いわ。ついでに、もっとふっかけてやろう」
宝田が、美和さん、それはないっすよ、と涙声になっている。
「何言ってんのよ。先生が『長期出張』で留守をするんだったら、これからはさぶちゃんにも賢ちゃんにももっと頑張ってもらわなくちゃ」
美和はまるで既に仁義の世界に足を突っ込んだような気持ちのいい切れ味のある声で、断然と言った。「出張」に幾らか力をこめて。
「え、だって、何ヵ月もって話ですぜ」
「何か月どころか、向こうは先生を一生雇うつもりよ。もっとも、うちとしては先生を放すつもりはないけどね。その辺をはっきり言っとかないと。それに先生に危ないことをさせないように釘をさしておかないといけないわね」
美和はもうバッグを取り上げていた。
「さぁ、先生、行くわよ」
これまで黙っていた賢二が、真の代わりに、どこに、と聞いた。
「京都に決まってるでしょ」
「京都」そう叫ぶように言ってから、宝田がまだ涙目のまま聞いた。「美和さんも行くんすか」
「当たり前でしょ。大きな契約ですから、秘書がついていかなくちゃ」
真はようやく息をついた。美和は十分、ヤクザの姐御になれる、と思った。世界中を探してもこれ以上はないという巨大な組織のトップに殴りこみをかけようというのだから。
美和はもしかして、この勢いを借りて真をローマに放り込んでしまわないと、真が自分の心に押しつぶされてどうしようもなくなってしまうのではないかと考えているのかもしれない。
何かに飛び込むために必要なのは、タイミングと勢いだ、感情は後から始末したらいい。それは真も分かっていた。そして、美和も同じことを考えてきたのだろう。
先生、信号は青になっちゃったよ。ギアはドライブだし、前に行くしかないよね。
美和は、彼女自身にもそう言い聞かせている。お互いに、とんでもない相手に惚れてしまったのだから。そして、本当は、引き返す道を、もうとっくに自分たちの手で断ってしまっているのだから。
だが、真が恐れているのは、もしかして竹流を守るために自分がまた他人の身体に刃を向けなければならないかもしれない、ということではなかった。今はただ、竹流の顔を見る勇気がないだけだった。竹流の感情に触れるのが、それが真にとっても正であっても負であっても、ただ最も愛おしいあの心に触れるのが恐ろしいだけだった。何故、恐ろしいのかと聞かれても分からない。ただ身体が強張っていうことをきかなくなってしまう。
寺崎昂司や御蔵皐月の最期の姿を見たとき、真は彼らの感情の内を誰よりも知っているのは自分だと思った。いつか真も、彼らのように狂うほどにあの男を求めるかもしれない、求めながら狂っていくかもしれない。いや、もう既に狂い始めているのかもしれないのだ。
そのことは、多分、美和も仁も、あの仁の従妹も、三上も、深雪も知らない。ただ寺崎昂司と御蔵皐月だけが知っていた。あるいは村野花、あの女もだ。
それでも、交差点は過ぎてしまった。この先は一本道だ。狭くて、引き返す幅などない。車はスピードを上げ続けている。いつか確かめなくてはならないことだった。
新幹線の中でも、京都駅から病院に向かうタクシーの中でも、美和は時々真の顔を窺っている。あれほど勢いよく啖呵を切ったものの、美和は真の身に起こるかもしれない様々な問題を、それは真の仕事の内容を含んでいたが、何度も秤にかけているのだろう。
タクシーは堀川通を上がっていく。空は相変わらず重い。嵐は今日か明日には日本列島を飲み込むだろう。
真は目を閉じ、思わず美和の手を摑んだ。美和は一瞬、ぴくりと身体を震わせたが、直ぐに真の手に彼女の手を重ねてきた。熱気を帯びた手は、まさに今、真と感情を共有している。美和は、そして仁も、彼らの立場がやはり同じようなものだと分かっているのだ。
「先生、私、今でも、多分これからもずっと、先生が好きだよ」
言葉は驚くほど冷静に受け取ることができた。
「煮え切らなくていらいらすることもあるけど」
そう付け足すと、美和は真の顔を見てにっこりと笑う。女は決心すると、潔いものだと真は思った。
今はこうしてまた、美和が真の傍にいる。この道行にこの子は実に心強い道連れだった。新潟に行ったときも、何よりこの新宿の街で仕事をして生きてきた時も、ずっとこの娘は真の傍にいた。元気がよすぎるくらい賑やかでけたたましく、そのあたりの女の子とは少しばかり変わっていて、でも素直で優しく、思い遣りに満ちている。
真は美和の頭を思わず抱き寄せた。恋人でなくても、この子は真の人生の中で、重く強い存在の意味を持っていると思った。その真の想いに応えるように、美和は突然真の方に向き直り、真の両頬を摑むと真の唇に口づけた。
「桜ちゃんには負けられないわ」
カーラジオから、微かにあの時、村野花の店で聞いた曲のメロディーが聞こえていた。
「先生、みんなで待ってるよ。もしも、先生がしばらく帰ってこれなくても、先生が最後に帰るところはあの新宿の街の中の、あの古い北条のビルの中の、ちっちゃい事務所だよ。不良少年少女と水商売で落ちぶれた男女の駆け込み寺、失踪人調査、人どころか犬猫も探しちゃえるんで名前を売ってる相川調査事務所しかないんだよ。それを忘れないでね」
美和の言葉は、心の大事な場所に深く残った。
それでも真は、あまり軽快とは言い難い足取りで病院の玄関をくぐった。しかもいきなり、煙草を喫ってくると美和に言ってみたが、もちろん許してくれるはずがなかった。
「この期に及んで、往生際の悪い」
美和は本当に呆れるように言って、それから面白そうに笑った。
「先生らしいけど、さすがにもう諦めたほうがいいよ」
見えない鎖で美和に引っ張られるようにして、竹流が入院している病棟の詰所の前まで行くと、真の見知っている看護師達がはっとしたような顔をして会釈をしてくれた。真も会釈を返し、その瞬間、廊下の隅に立っている葉子と目が合った。
葉子は突然に力が抜けたような顔になって、真のほうに走ってきた。
葉子は真の傍らに美和を見つけると、ありがとうと言った。ううん、私じゃないの、と美和が答えている。一体、真の知らないところで、この二人は何を語っていたのだろうと真は思った。
三週間、真は何も見ず、何も聞かず、ただ彷徨っていたということが今更ながら感じられる。
葉子は真に向き直り、努めて冷静な声で言った。
「今、竹流さんの叔父さんが来てて」
「知ってる」
「明日、東京に戻るって相談をしているみたい」
真は葉子の顔を、今やっと冷静に見つめることができた。
(つづく)




急転直下。そう、あのローマの親分が、こんなぐるぐるのマコトを放っておくわけが、いや、マコトは放っておいて、真を放っておくわけがありません。もうそろそろお礼参りは済んだようだからいいだろう、そう思ったみたいですね。
そう、始めから連れて行く気だったのです。何しろ、息子を連れ帰るにあたってはエサも買い与えなくては、くらいの気持ちだと思います。メダカを買う時にメダカのエサも買う、って感じ?(例えがひどすぎる……)
でもこのくらいの圧力がないと、踏ん切りがつかない、ですよね。
って、この話、ラブコメじゃありませんけれど^^;
<次回予告>
「相川はん、どうぞ、あの人をよろしゅうお願いします」
「僕には何もできません。あなたこそ、彼の傍にいるべき人なのに」
珠恵は何もかもを包み込むように微笑んだ。
「相川はん、うちは断ったんどす」
「断った?」
「へぇ。もう随分前のことどすけど、東京へついて来いと言われた時に」
「なぜ?」
「祇園の外では生きていけまへんさかい。うちは祇園で生まれて、祇園がうちを育てて、いつも守ってくれました。旦那はんのためなら鬼にでもなりますけど、いくらあの人の頼みでも、この町を出ていくことはできしまへん」
(姐さんに言われたら、もう足かせがっしり嵌められたみたいなものですね(*^_^*))



翌朝、ほとんど眠れなかった真は、高瀬が濃い目に淹れてくれたコーヒーだけを胃に納めて新宿に戻った。
遠くに嵐の気配を孕んだまま、空は灰色に沈んでいたが、まだ荒れ模様の予兆はなく、かえって息苦しいほど重い湿度が、高い気圧と共に身体を締め付ける。早朝の新宿は、前夜の気だるい名残と、新しい一日の始まりへの期待を混ぜ合わせたまま、凍りついていた。
事務所に真っ直ぐに帰るのが躊躇われて、真は遠回りを続けていた。
途中、顔見知りのホストに会って、煙草を吸いながら暫く立ち話をした。ホストは、昨夜の客が随分しつこかったという話を気だるそうに繰り返した。まぁ、身入りは悪かなかったけどさ、とほくそ笑む。あんたもしけた探偵稼業なんか辞めてもっと楽に稼いだら、といつものように誘ってくる。真は、考えとくよ、といつものように答えた。
彼の仕事が楽とはとても思えなかった。別れ際に、でも俺、酒飲めないんだ、と言うと、こんなのは慣れだよ、慣れ、と眠そうな声が返ってきた。
ホストと別れた真は、結局他には居場所がなくて、事務所に向かった。
事務所の窓を見上げると、当たり前のことだが、まだ静かで何の気配もない。二階の事務所ではなく、上階の宝田のねぐらまで暗い階段を上がってみると、いつもなら起きだしていてもおかしくない宝田の鼾が扉の向こうから聞こえていた。
ふと可笑しくなり、その鼾の音をそのまま聞いていたくて、ドアの前に座り込んでいると、自然に眠くなってきた。
真は目を閉じた。
宝田も賢二も、真がいなくてもちゃんとやっていくだろう。少なくとも、彼らを助けるために、北条仁も三上司朗も名瀬弁護士も手を貸してくれるはずだった。そう考えてから、真は自分の考えの奇妙なところに気が付いて、また可笑しくなった。頼るべき相手の中に、ヤクザと弁護士と犯罪歴のある車椅子の名探偵が、同じ重さで横に並んでいる。
この世の中は結構いけているかもしれない、と信じたくなった。
「うわ、先生、どうしたんすか」
早起きの宝田は、外見からは想像できないほどに寝起きがいい。さっきまで鼾をかいていたと思ったらもうすっかり普通に起きて活動している。
ちょっと眠れなくて、とあまり筋の通っていない言い訳をしてみる。
「俺、もう掃除に行きますから、中で寝ててください」
宝田は少し、喋り方が慎重になったな、と真は思った。宝田は真を抱きかかえるような勢いで自分の寝ていた万年床に連れていくと、暑いし掛け布団はいいっすね、あとで起こしに来ますよ、といつもの口調で言って、出て行った。
不思議なことに、万年床に染み付いた宝田の汗やにおいが、真を穏やかな気持ちにさせた。
冷静に考えたら決して居心地がよいはずのない場所なのだが、まるで浦河の厩舎の中のようだと思って、真は何となく幸せになっていた。馬たちの呼吸と温もり、時々震わす体の大きな揺れ、闇を縫うように耳に届く嘶き。そういったものが全て、幼い真の時間の中に溶け込んでいて、あの場所から祖父の背に負われて出ると、いつも頭上には横たわる天の川、満天の星が迎えてくれた。あらゆるカムイたちが遠く、近く、真を見守っていてくれる。その不思議な闇の気配は、幼い真にとって母のようでもあり、また父のようでもあった。
あの場所と、この新宿の街の中の古いビルの一室が似ているというのは妙な発見だ、と真は思って、その発見に楽しい気分にさえなっていた。
家に帰りたがらない家出少年を、宝田はよくここに預かってくれる。宝田は不器用で口下手だから、決して上手に彼らを慰めたりなどできないだろうが、彼らはここで何日か過ごすと、家に、あるいは彼らが本来いるべき場所に戻っていく。宝田の何がそうさせるのか、真はいつも不思議だった。それを今、真は何となく納得した気がした。
俺は今、家出少年というわけなんだな。そして、俺が帰るべき場所はどこなのだろう。
名瀬弁護士のところに挨拶に行かなければならない、と考えていた。少なくとも賢二のことは、この先ちゃんと立ち行くようにしてやらなければならない。
真はうとうとしながら、脳が思い浮かべている景色をひとつひとつ曖昧に追いかけていた。
いつか真実を見つめるための確かな時間が与えられたら、あの絵の下のマリアを見てみたいと思った。竹流がアトリエに残している、苦悩を叩きつけたような幾枚ものイコンの理由を、彼の口から聞きたいと思った。
修復する前に竹流は、絵やその他のあらゆる種類の作品の前に、いつも長い時間座っている。まるでそれらと会話を交わすように、時には幾晩も、寝る間も惜しむように見つめ続けている。
あれが、真の知っている父親の背中だった。
修復作業となると、竹流はいつでも、どんな小さなものでも丁寧に大切に扱った。そこに誰かの心や願いが籠められていると思っているからだ。
イタリアを旅している時、ローマのアッピア街道にあるドミネ・クォ・ヴァディス教会で、旅行中の修道女たちと挨拶を交わした。その後で、真は彼らの中の誰かが落としていった小さなクロスを拾った。鎖が古くなって切れてしまったようだった。
竹流は真の手からそれを受け取ると、知り合いの銀細工師のところに行き、自ら鎖を綺麗に直し十字架を研き上げた。その銀細工師は、竹流やチェザーレが嵌めている指輪の作者の息子だと聞いた。銀細工師は、いつ見ても本職顔負けの器用さだと、真に目配せをする。新しい鎖をつけてやったら、と尋ねる銀細工師に、それでは駄目なんだ、と答える。
それから竹流は、何年帰らなくても彼が指一本で、あるいは一言発するだけで稼動するネットワークを使って、ローマ中の修道院を調べさせ、僅か一昼夜のうちに持ち主を探し出してしまった。
あの時、泣き通しだったまだ幼いような顔つきの修道女の笑顔を思うと、真は今も胸が熱くなった。祖母の形見なんです、本当にありがとう、と何度も彼女は言った。竹流は、何も聞かなくても、この持ち主にとっては新しい鎖では駄目だと、その古いクロスから感じ取ったのだろう。それでも年月を経た鎖の寿命はよく分かっていたから、銀細工師から譲り受けた新しい鎖をそっと別に渡して言った。
パウロがキリストに出会ったあの道の途中でお会いしたのも何かの縁でしょう。もしもその鎖が駄目になれば、これをお使いなさい。あなたがこの新しい鎖に出会ったのも、あなたのお祖母さまの導きに違いないから。
竹流を見上げた修道女は、まさにキリストに出会ったと思ったに違いない。竹流は頭を下げ続ける修道女に微笑みかけると、黙ってその姿を見つめていた真の頭を撫で、身体を抱くようにして一緒に光溢れる街へ出た。
眠ったまま、光であたりを見失ったような気がしたとき、突然けたたましい足音が駆け上がってきて、扉をものすごい勢いで開け、何事かと起き上がった真を布団から引きずり出した。
「どうしたんだ」
美和は言葉なく、しかし力強く、真を見つめている。
真はその瞬間、美和のうちに、真が見たことのない別の女を見出したような不思議な印象を持ったが、それが何なのか分からなかった。
美和のほうでも、真といささか気まずい別れ方をしていたことを急に思い出してしまったというような顔になったが、早朝から階段を駆け上がってきた理由は別のことだったようで、口もきかないまま、まだ頭が働いていない真を引きずるように事務所に下りた。
事務所の中には、ひとりの若い中国人が立っていた。
中国人とわかった理由は、明らかにこれ見よがしの格好をしていたからだが、顔から見てもまだ随分若い、幼ささえ残るような年齢に見えた。それでも人生の大概の辛苦は嘗め尽くしたとでもいうような翳りが瞳のうちに宿り、その影を何か強い光で包み込んだような、不思議な色合いが見て取れる。この若者は、誰か強く信じる者がいるのだと、真は思った。
真よりも幾らか小柄で、艶やかな黒髪は、真よりも遥かにアジア人らしい。若い中国人は、物事を伝えるのに不自由のない程度の日本語を話した。
それは、真を取り敢えず数ヵ月雇いたいという『仕事』の依頼だった。
一瞬、事務所の中の空気は凍り付いた。宝田も美和も何も言わなかった。沈黙の間に賢二がやって来て、あまりの気配に一瞬中に入るのを躊躇ったほどだった。
中国人の話にその場の空気が凍りついたのは、彼の主人が示した報酬が、一体どういう種類の仕事がそれほどの代価を要求するのかというあまりの破格だったからだ。
「もちろん、あなたが断ることは自由です。しかし、私の主人は、あなたがこの話を受けると信じています。明後日、成田からローマへ飛びます。お返事は今夜いただきたい」
真はまだ何が起こっているのかわからないまま、中国人を見つめていた。
「私に何をしろ、と」
中国人は、それは聞いていない、と答えた。
「あなたの御主人は」
「今朝、京都に向かいました」
宝田が何を察したのか、急にいつもの彼らしいおろおろした気配を示した。
「竹流は、いえ、あの」
冷淡な表情を変えずに、中国人は真の言葉を受けた。
「ジョルジョ様はまだこのことを御存知ではありませんが、あなたがお受けくだされば、私の主人が話をするはずです」
ひと月で自分たちの今の稼ぎの一年もしくは二年分の給料を出そうという仕事の依頼が、どういう意味合いかは美和にも宝田にも何となく分かったようだった。しかも長期になれば、その額を上乗せする契約になっていた。真がちらりと美和を見ると、美和の方でもいささか不安そうな顔になった。
チェザーレ・ヴォルテラが煮え切らない真に痺れを切らしたのか、竹流の望みなのか、と考えたが、どうやら前者のようだ。あなたに覚悟ができたら、と言いながら、チェザーレは、どうせ覚悟なんて考えたところで出てこないことを知っているのだ。だから、いっそ放り込んだほうが早いと決断したのだろう。
チェザーレは、大事な息子が望む特別な玩具を買い与えるような感覚で、真を雇おうというのだ。しかも、その玩具の本来の値打ちを遥かに越えた破格の値段で。
「京都には先生が自分で行きます。そこであなたのご主人に先生が返事をします」
真がまだ逡巡している間に、美和が真よりも遥かに冷静な気配で言い放った。叩きつけるような言葉の勢いに、真は思わず美和の顔を見た。
中国人は美和の言葉をそのまま受けて、胸の内ポケットから封筒を出して、あとは挨拶もなく帰っていった。
ドアが閉まった途端、宝田がほーっと息をついてソファに座り込んだ。封筒の中を確かめた美和が、真にそれを差し出す。新幹線のグリーン席のチケットが入っていた。
「今の、大家さんの家の人?」
真は美和の顔を見つめた。しばらく見ない間に、僅かに印象の変わった美和の目からは、あの子どもっぽさは幾らか失われたように見えた。どこか真の知らないところで、美和は少し大人の女になったような気がする。あの仁の従妹だと名乗った女に対抗するためにも、美和も何かを思い切る必要があったのだろう。真はそんなことを思いながら、多分、と短く答えた。
あの中国人がどういう種類の人間か、今なら言い当てることができる気がした。
主人の命令ならどれほどの残忍な仕事も、機械のように正確に、冷徹な心でこなしていく人間だと思えた。あれがヴォルテラの主人のボディガードとして、主人のために平気で身体と命を差し出す人間が放つ気だと、真は思った。そのような男を真のところに差し向けることで、新しい依頼人もしくは雇い主は、真の覚悟を聞いているような気がした。
しかも、その男が傍を離れることでチェザーレ自身が多少なりとも無防備になることを厭わずに、真を雇うという些細な仕事をそれだけ重要で他の人間には任せられないということを示すためだけに、少なくともチェザーレ・ヴォルテラはそう思っていると真に知らせるために。
命なら、いつでも差し出す覚悟はできている。竹流がそれを望むなら。
「先生、葉子さんからの伝言、忘れてたよ」
というより、そもそもちっとも会えなかったからだけど、と美和はぼやいてから、顔をきっちりと上げて言った。
「さっさと京都に来いって」
それからふぅと大きく息をつく。
「もう先生には迷っている時間なんてないはず。先生は直接、大家さんの顔を見て、どうするかちゃんと返事をしなくちゃならないよ。どれほど心で思ってたって、言葉にならないんじゃ意味がないよね」
美和はいつも、彼女自身に言い聞かせるように真に話している。真はそのことに気が付いて、仁の心のうちを最も深く知っているのはやはり美和なのだと思った。そして、竹流の心のうちを最も深く感じているのは、真のはずだった。
真が神妙な顔をしていると、美和が急に、あのくるっとよく変わる屈託のない笑顔を見せた。今のその笑顔は、真がこれまでに見た美和のどんな顔よりも魅力的で、あのいつもの力強い明るさに満ちていた。
「それにしてもこれはいい仕事よ。うちの経営状況からは、この給料はものすごく有り難いわ。ついでに、もっとふっかけてやろう」
宝田が、美和さん、それはないっすよ、と涙声になっている。
「何言ってんのよ。先生が『長期出張』で留守をするんだったら、これからはさぶちゃんにも賢ちゃんにももっと頑張ってもらわなくちゃ」
美和はまるで既に仁義の世界に足を突っ込んだような気持ちのいい切れ味のある声で、断然と言った。「出張」に幾らか力をこめて。
「え、だって、何ヵ月もって話ですぜ」
「何か月どころか、向こうは先生を一生雇うつもりよ。もっとも、うちとしては先生を放すつもりはないけどね。その辺をはっきり言っとかないと。それに先生に危ないことをさせないように釘をさしておかないといけないわね」
美和はもうバッグを取り上げていた。
「さぁ、先生、行くわよ」
これまで黙っていた賢二が、真の代わりに、どこに、と聞いた。
「京都に決まってるでしょ」
「京都」そう叫ぶように言ってから、宝田がまだ涙目のまま聞いた。「美和さんも行くんすか」
「当たり前でしょ。大きな契約ですから、秘書がついていかなくちゃ」
真はようやく息をついた。美和は十分、ヤクザの姐御になれる、と思った。世界中を探してもこれ以上はないという巨大な組織のトップに殴りこみをかけようというのだから。
美和はもしかして、この勢いを借りて真をローマに放り込んでしまわないと、真が自分の心に押しつぶされてどうしようもなくなってしまうのではないかと考えているのかもしれない。
何かに飛び込むために必要なのは、タイミングと勢いだ、感情は後から始末したらいい。それは真も分かっていた。そして、美和も同じことを考えてきたのだろう。
先生、信号は青になっちゃったよ。ギアはドライブだし、前に行くしかないよね。
美和は、彼女自身にもそう言い聞かせている。お互いに、とんでもない相手に惚れてしまったのだから。そして、本当は、引き返す道を、もうとっくに自分たちの手で断ってしまっているのだから。
だが、真が恐れているのは、もしかして竹流を守るために自分がまた他人の身体に刃を向けなければならないかもしれない、ということではなかった。今はただ、竹流の顔を見る勇気がないだけだった。竹流の感情に触れるのが、それが真にとっても正であっても負であっても、ただ最も愛おしいあの心に触れるのが恐ろしいだけだった。何故、恐ろしいのかと聞かれても分からない。ただ身体が強張っていうことをきかなくなってしまう。
寺崎昂司や御蔵皐月の最期の姿を見たとき、真は彼らの感情の内を誰よりも知っているのは自分だと思った。いつか真も、彼らのように狂うほどにあの男を求めるかもしれない、求めながら狂っていくかもしれない。いや、もう既に狂い始めているのかもしれないのだ。
そのことは、多分、美和も仁も、あの仁の従妹も、三上も、深雪も知らない。ただ寺崎昂司と御蔵皐月だけが知っていた。あるいは村野花、あの女もだ。
それでも、交差点は過ぎてしまった。この先は一本道だ。狭くて、引き返す幅などない。車はスピードを上げ続けている。いつか確かめなくてはならないことだった。
新幹線の中でも、京都駅から病院に向かうタクシーの中でも、美和は時々真の顔を窺っている。あれほど勢いよく啖呵を切ったものの、美和は真の身に起こるかもしれない様々な問題を、それは真の仕事の内容を含んでいたが、何度も秤にかけているのだろう。
タクシーは堀川通を上がっていく。空は相変わらず重い。嵐は今日か明日には日本列島を飲み込むだろう。
真は目を閉じ、思わず美和の手を摑んだ。美和は一瞬、ぴくりと身体を震わせたが、直ぐに真の手に彼女の手を重ねてきた。熱気を帯びた手は、まさに今、真と感情を共有している。美和は、そして仁も、彼らの立場がやはり同じようなものだと分かっているのだ。
「先生、私、今でも、多分これからもずっと、先生が好きだよ」
言葉は驚くほど冷静に受け取ることができた。
「煮え切らなくていらいらすることもあるけど」
そう付け足すと、美和は真の顔を見てにっこりと笑う。女は決心すると、潔いものだと真は思った。
今はこうしてまた、美和が真の傍にいる。この道行にこの子は実に心強い道連れだった。新潟に行ったときも、何よりこの新宿の街で仕事をして生きてきた時も、ずっとこの娘は真の傍にいた。元気がよすぎるくらい賑やかでけたたましく、そのあたりの女の子とは少しばかり変わっていて、でも素直で優しく、思い遣りに満ちている。
真は美和の頭を思わず抱き寄せた。恋人でなくても、この子は真の人生の中で、重く強い存在の意味を持っていると思った。その真の想いに応えるように、美和は突然真の方に向き直り、真の両頬を摑むと真の唇に口づけた。
「桜ちゃんには負けられないわ」
カーラジオから、微かにあの時、村野花の店で聞いた曲のメロディーが聞こえていた。
「先生、みんなで待ってるよ。もしも、先生がしばらく帰ってこれなくても、先生が最後に帰るところはあの新宿の街の中の、あの古い北条のビルの中の、ちっちゃい事務所だよ。不良少年少女と水商売で落ちぶれた男女の駆け込み寺、失踪人調査、人どころか犬猫も探しちゃえるんで名前を売ってる相川調査事務所しかないんだよ。それを忘れないでね」
美和の言葉は、心の大事な場所に深く残った。
それでも真は、あまり軽快とは言い難い足取りで病院の玄関をくぐった。しかもいきなり、煙草を喫ってくると美和に言ってみたが、もちろん許してくれるはずがなかった。
「この期に及んで、往生際の悪い」
美和は本当に呆れるように言って、それから面白そうに笑った。
「先生らしいけど、さすがにもう諦めたほうがいいよ」
見えない鎖で美和に引っ張られるようにして、竹流が入院している病棟の詰所の前まで行くと、真の見知っている看護師達がはっとしたような顔をして会釈をしてくれた。真も会釈を返し、その瞬間、廊下の隅に立っている葉子と目が合った。
葉子は突然に力が抜けたような顔になって、真のほうに走ってきた。
葉子は真の傍らに美和を見つけると、ありがとうと言った。ううん、私じゃないの、と美和が答えている。一体、真の知らないところで、この二人は何を語っていたのだろうと真は思った。
三週間、真は何も見ず、何も聞かず、ただ彷徨っていたということが今更ながら感じられる。
葉子は真に向き直り、努めて冷静な声で言った。
「今、竹流さんの叔父さんが来てて」
「知ってる」
「明日、東京に戻るって相談をしているみたい」
真は葉子の顔を、今やっと冷静に見つめることができた。
(つづく)



急転直下。そう、あのローマの親分が、こんなぐるぐるのマコトを放っておくわけが、いや、マコトは放っておいて、真を放っておくわけがありません。もうそろそろお礼参りは済んだようだからいいだろう、そう思ったみたいですね。
そう、始めから連れて行く気だったのです。何しろ、息子を連れ帰るにあたってはエサも買い与えなくては、くらいの気持ちだと思います。メダカを買う時にメダカのエサも買う、って感じ?(例えがひどすぎる……)
でもこのくらいの圧力がないと、踏ん切りがつかない、ですよね。
って、この話、ラブコメじゃありませんけれど^^;
<次回予告>
「相川はん、どうぞ、あの人をよろしゅうお願いします」
「僕には何もできません。あなたこそ、彼の傍にいるべき人なのに」
珠恵は何もかもを包み込むように微笑んだ。
「相川はん、うちは断ったんどす」
「断った?」
「へぇ。もう随分前のことどすけど、東京へついて来いと言われた時に」
「なぜ?」
「祇園の外では生きていけまへんさかい。うちは祇園で生まれて、祇園がうちを育てて、いつも守ってくれました。旦那はんのためなら鬼にでもなりますけど、いくらあの人の頼みでも、この町を出ていくことはできしまへん」
(姐さんに言われたら、もう足かせがっしり嵌められたみたいなものですね(*^_^*))
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨177] 第38章 そして、地球に銀の雫が降る(2)言葉より重いもの
【海に落ちる雨】はTOM-Fさんご推薦? の診断メーカー「本の感想聞いたったー」(https://shindanmaker.com/608968)から、以下のような感想を頂きました(もちろん、全て冗談ですって。ただ適当に日替わりでランダムに出てくる言葉らしい^^; でもカオスの中から出てくる言葉は、言い得て妙?)。
【海に落ちる雨】
奥園「泣きっぱなしだった」
稲崎「青春小説として評価されるべき」
石木「感動した」
え? 青春小説? 泣く? 出てくるのってアラサー~アラフィフばっかりだけど。
別の日に入れてみたら……
田島「複雑な話だった」
横坂「過去の恋愛を振り返りたくなった」
石木「ばかにしてたけど意外といい」
ちなみに。
【天の川で恋をして】
横坂「率直に言うとR-18」
田島「涙が止まらなかった」
相模「映画化されるべき」
……R-18って……そうだったのか……(実は超純粋なラブストーリー±ホラー?)
さて、ついに再会です。なのに、あの人たちったら、言葉足らずの寸足らずの舌足らず。何やってるんでしょう。
そして、【清明の雪】から引っ張った伏線?、和尚さんの「お見事」な蘇生術(やっぱ陰陽師だったか)も、ガッテン頂くと、嬉しいなぁ。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】登場人物
【海に落ちる雨】
奥園「泣きっぱなしだった」
稲崎「青春小説として評価されるべき」
石木「感動した」
え? 青春小説? 泣く? 出てくるのってアラサー~アラフィフばっかりだけど。
別の日に入れてみたら……
田島「複雑な話だった」
横坂「過去の恋愛を振り返りたくなった」
石木「ばかにしてたけど意外といい」
ちなみに。
【天の川で恋をして】
横坂「率直に言うとR-18」
田島「涙が止まらなかった」
相模「映画化されるべき」
……R-18って……そうだったのか……(実は超純粋なラブストーリー±ホラー?)
さて、ついに再会です。なのに、あの人たちったら、言葉足らずの寸足らずの舌足らず。何やってるんでしょう。
そして、【清明の雪】から引っ張った伏線?、和尚さんの「お見事」な蘇生術(やっぱ陰陽師だったか)も、ガッテン頂くと、嬉しいなぁ。



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「彼の叔父さんから仕事の依頼を受けた」
葉子が真の顔を幾らか驚いたように見つめている。
「返事をしにきたんだ」
「ローマに、来いって?」
真の表情を確認してから、葉子は美和に視線を移した。美和の頷く顔を見て、葉子はふと息をついて、ようやく少し微笑んだ。
「駆け落ちより現実的だね。それで竹流さんの叔父さん、妙なこと聞いてたんだ」
「妙なこと?」
「お兄ちゃんは、何か食べれないものはあるか、好き嫌いはないかって。竹流さんと私の作ったものなら何でも美味しいと言っています、って言っといたけど」
それから葉子は真面目な顔で付け足した。
「あの人は、本当に竹流さんを愛してるんだね。私たちはずっと、もう二十年近くもその人から竹流さんを取り上げてたのかもしれないって、何だか申し訳ないような気持ちになっちゃったの。変だね」
真は今また、チェザーレ・ヴォルテラが本当に恐ろしいわけを知った気がした。
あの男はあくまでも人情家で、自分の手の内にあるものに対しては限りない優しさと深すぎる愛情を注ぐ。たとえば、ローマ滞在中の真の食事を、まだ真が返事もしないうちから気遣うようなことも含めて。恐ろしい決断力を持ち、残忍な断罪を行いながら、その同じ手で神に祈り許しを請い、当たり前に身内のものを可愛がり、時には命さえ投げ出すことも厭わない。
そして、何よりも、息子を心から愛している。
敵わないということを、真はよく知っている気がした。息子が欲しがるものは、何でも力でもって手に入れてやろうとするのだ。そして絡み取られた真に、逃げる道はやはりないということだ。それでも、その力が、今の真の迷いを消し去ってくれるのなら、それもいいのかもしれない。
「今、病室に行って大丈夫だろうか」
「主治医の先生も居て、退院の相談をしてるから出てきたの。私、聞いてこようか」
「悪い」
真は、美和と一緒に詰所の近くに残り、葉子が病室をノックするのを見つめていた。すぐに病室の内側から扉が開かれ、葉子が中に入っていく。
カエサルに言わせれば、采は投げられた、というところだ。真はここに来てようやく開き直る、というやり方を思い出していた。
それでも身体の芯は震えている。これから自分の行く道が、正しいという保証は何もない。いや、正しいという言葉の基準すらもうよく分からなかった。それでも、今は前に進むしかなかった。
これは確かに真が望んだ道なのだ。分かっていたのに、まだ微かな逡巡が、身体の内側で音を立てている。
だが、力ある者は、敵にも味方にも、特に迷うものに対しては時間を与えないものだった。迷ったところで、ろくな結果は出てこないことを知っているのだ。葉子が病室に入ってから、多分一言二言の会話の時間を置いただけで、チェザーレ・ヴォルテラ本人が、葉子を伴って直ぐに病室から出てきた。
そして、まるで両手を広げて真を迎えようとするような、優しく甘い表情を見せた。
そこに立つ男は、息子のことを本当に心配しているただの父親に過ぎなかった。多分、この病院の関係者は、この男の恐ろしい本性など何も知らずに、本当に息子を愛している家族としてこの男を受け入れているだろう。
そしてそれは大筋として何も間違っていない。
「秘書を遣わすようなことをして、申し訳ありません。昨日から色々と準備をしていたものですから。こちらは」
ゆっくりとしたクィーンズイングリッシュは耳に不思議な心地よさを押し付けてくる。チェザーレに見つめられて美和が思わず背筋を伸ばした気配を感じる。
竹流と同じ、全く同じ青灰色の瞳に、美和はまた例の直感を働かせていることだろう。
「私の共同経営者です」
チェザーレは美和にも優しく微笑みかけ、真たちをエレベーター前の待合に誘った。
真と美和は並んで、チェザーレの向かいに座った。チェザーレは、葉子には彼の隣に座るように促す。この何週間か葉子がどれほど竹流の面倒をみてきたかを知っているチェザーレにとって、葉子はもう身内のようなものなのだろう。
「契約の内容は確認していただけましたか」
単刀直入にチェザーレは切り出した。
「金銭的なことは。仕事の内容はまだ伺っていません」
「あなたは、それを聞いてから受けるかどうかを決めるわけではありませんね」
真は答えに詰まった。
「アイカワさん、私はお願いしているのです。仕事の内容など付随的なことです。あれの側に居てやって欲しい。私は、私の後継者のためにあなたを雇うのであって、私のためではない。もしも金銭的に不足なら、倍にでもしましょう」
真が何も言えないでいるうちに、美和が極めて事務的な声で言った。
「じゃあ倍額で受けます」
「美和ちゃん」
先生は黙ってて、という目で美和は真を見た。
「あなたが先生をどうしても必要というなら、それだけの誠意を見せてください。もちろん、お金にこだわっているわけじゃありません。先生を連れて行く気なら、先生が私たちにとっても大事な人であることを、ちゃんと覚えていてもらわないと困ります」
チェザーレは実に小気味いい言葉を聞いたというように、楽しそうな顔をした。
「いいでしょう。あなたは」チェザーレは真の方を見た。「断る気でしたか?」
真は今となってはただ首を横に振るしかなかった。
本当はきっと、ただ彼に会いたかったのだ。ただ、どうやって会いたいと言えばいいのか、どんな手順で会いに来ればいいのか、その方法を見失っていた。そのきっかけがなくて、このチェザーレからの申し入れを利用したのかもしれない。
真は何も言わなかったが、誰も言葉を強要しなかった。
「ひとつだけ聞いていいですか」
美和は、半分やけくそのような英語を話している。それでも勢いで言葉が通じるというのはすごい。
「どうぞ」
「まさか、先生に人殺しをさせようなんて思ってませんよね」
真は驚いて美和を見た。一体、この娘は何を言い出すのかと思った。
だって英語で回りくどいことなんて言えないじゃない、と美和が小声で言った。
答えたチェザーレの声は極めて冷静だった。
「私のいる世界は、結果としてそういうことがあるかもしれないところです。今あれの身体の不自由を思えば、いつ何時そういうことが起こるかもしれないし、あれが自分で自分の身を守れるとは思えない。とは言え、私が誰を側につけようとも、あれは拒むでしょう。あなたにならそれができる。それに、あなたの雇い主は私ですが、仕事を決めるのは私ではない」
美和は言葉の意味を理解したのかそうでもないのか、納得したような顔をして、ちょっと一瞬真の方を見たが、真に意見を挟ませる気もなかったようだった。そもそも、美和でなくても、真に何か言葉を挟むチャンスを与えたら最後、何かの間違いで意に反してこの申し出を断るのではないかと、経緯を知っているなら誰でも不安に思うはずだ。
「明日、東京に戻ります。一晩帝国ホテルに泊まりますが、あなたも御一緒に。そのまま成田に向かいます。もっとも台風次第ですが」
チェザーレは一度言葉を切って、そんな事務的なことは今となってはどうでもいいのだ、というような顔で、ゆっくりとした調子で尋ねた。
「会っていきますか?」
真は、どうとも言わずにうつむいていた。美和が真をのぞき込んでくる。
「先生、大丈夫?」
真は大丈夫、と美和に答えて、葉子を見た。葉子は少し微笑んだ。
「待ってる、と思うけど」
チェザーレは真に、医師とまだ相談があるので、病室に行ったら医師がまだ中にいるはずだから詰所に呼んで欲しいと言った。葉子も美和も、真について病室に行く気はないようで、座ったままだった。真は他の皆の気配に押されるように立ち上がり、自分の意思ではどうすることもできない器械になったような気持ちで、病室の前まで行った。
一瞬、突っ立ったまま固まってしまったが、それほど長い時間ではなかった。ノックをすると、医師らしい男の、どうぞという声が聞こえた。流されるまま、真は声に押されるように扉を開けた。
「ああ、お久しぶりですね」
医師が何やら懐かしそうに真に話しかけてくれたので、妙な感じだった。真は医師にチェザーレの言葉を伝え、それを聞いて彼は竹流に一言二言告げてから、看護師と一緒に出ていった。
それでも、ここに至っても真っ直ぐに彼の顔を見ることなどできなかった。
僅か数メートルのところにいるその男の顔を見れば、このまま崩れてしまうかもしれないと思っていた。
扁桃腺を腫らせては、よく三日ばかり熱を出した。
高熱で苦しんでいる夜、竹流は何も言わずに傍に座ってくれていた。目を閉じていると、いつも彼の穏やかな視線を感じ、真は安心して細菌と闘う防御反応としての高熱に身体を任せた。
時々目を開けると、竹流はベッドサイドの柔らかい光の中に座って本を読んでいる。何の本かと問いかけると、大概は芸術家が誰かに宛てた手紙だったり、真には見ても違いが分からない古い記号の研究書だったりしたが、時には、池波正太郎の『鬼平犯科帳』やシュリーマンの『古代への情熱』だったりした。
何度読んでも飽きない、といいながら竹流は真の額に手を置いて熱を確かめると、もう少し眠っていろ、と言った。
目を閉じてもなお、彼の暖かな視線を感じる。あの熱に浮かされていた時と同じように、まさに今、その気配を真は身体中で感じていた。
真はひとつ静かに息を吐きだし、漸く覚悟を決めて、視線を上げた。
この青灰色の瞳、憂いを含んだ気品に満ちた唇、柔らかくウェーヴを描くくすんだ金の髪、どんな時も、どんな状態であっても大きく暖かい手。
そうだ、このためだけに俺は、あの十九の秋、この世に帰ってきたのだ。
本当は駆け寄って抱きつきたいのかもしれなかったのに、金縛りにあったように、身動き一つできなかった。
竹流は真を見つめたまま、ゆっくりと身体を起こそうとした。
その途端、真は思わず近くに寄って、愛しい男の身体を支えていた。いくらか痩せてしまった真の腕でも、その男はまるで以前と違って感じられた。すっかり別人のようにやつれた身体、細くなった肩は、真の心の内の憐憫や独占欲を煽り立てた。
「大丈夫なのか」
「起き上がるくらいはな」
一ヶ月近く経っているのだ。その間に、竹流もまた、自らの身体に襲い掛かる病魔や心の重荷と闘っていたはずだった。
真は自分が目も耳も塞いできた結果を、ただ苦しく抱きとめ、すぐに逆らい切れない想いに押し流されるように、強く力を籠めて抱き締めた。竹流は何も言わず、真の腕に抱きしめられるままになっていた。
かすかに、あの白檀のようなオリエンタルな香りが鼻粘膜をくすぐった。
「混乱してて」
真は会いに来ることができなかった事について、ただそう説明するのがやっとだった。竹流も、それに対してはただ頷いただけだった。頷いて真の頭を抱き締めていた。それでも、その手の温もりだけは、ずっと昔から変わらなかった。
「お前、随分痩せたろう? ちゃんと食ってたのか」
この状況で自分の事などどうでもいい、と真は思った。
「ずっと北条さんのところにいるのか」
「しばらくの間は。でも、いつまでも極道の家に世話になるわけにもいかないし、マンションにも戻りにくくて、あちこち点々と。昨日は多摩の屋敷に泊めてもらったよ」
真は、座っているままでは辛いのではないかと問いかけたが、竹流は大丈夫、と手で示した。
「マンションは登紀恵さんが行ってくれてるみたいだったし、それに」真は一旦言葉を切り、竹流の顔を見ないままゆっくり続けた。「涼子に、会うのも気まずくて」
「悪かったな」
「いや、あんたのせいじゃない」
そう断ってから、真はようやく一番気になっていたことを聞いた。
「珠恵さんは?」
「いや、一度も来ないよ。お前が京都に帰ってきたことを確認するまで、来る気もないんだろう。彼女がお前に」竹流は一瞬止まって、息を吐き出すようにしてから続けた。「昂司の親父の居場所を教えたのか」
竹流はその名前を出すことでかなりの力を使ったような気配を見せた。真は返事をしなかったが、一瞬身体がかっとなった。
「俺が頼んだんだ。あの人は何も、少なくともあんたに責められるようなことはしていない」
竹流は真の言葉の勢いに何かを察したのか、戸惑ったような声で言った。
「別に怒ってはいないんだがな」
暫くの間、竹流は、自分の知らないところで起こったであろう様々の出来事を思い描き、愛しい女を思い遣っていたのだろう。そのまま、それについてはそれ以上何も、真に聞くことも話すこともなかった。
それから、ふと、何かに思い当たったような声で問いかけてきた。
「深雪さんは、大丈夫か」
真は硬い顔で頷いた。
「あんたに伝えてくれって言われたよ。今度こそ千惠子ちゃんは預かるから、三年前に返事ができなくてごめん、って」
竹流は不可解な顔をして真を見ていた。
「それで、お前は?」
その時、真は、竹流がもしかしてチェザーレが真を雇ったことを知らないのではないかと思った。
「深雪は新津圭一の仇をうちたかったんだよ。彼らは本当に想い合っていたんだし、事情が分かったからには、深雪はただ新津圭一がしようとしていたことを確かめて、千惠子ちゃんを守りたかったんだと思う。澤田が深雪を守りたかったのと同じで」真は一旦言葉を切って、竹流を見つめた。「あんたは、深雪の気持ちを知ってたんだろう?」
竹流は暫くまだ、事情が飲み込めないような顔をしていた。
「いや。彼女が新津圭一と付き合ってたのは知っていたけど、少し違和感があったのかもしれない。もしあの二人の間に不倫という障害がなかったら、あるいは新津圭一が死ななかったら、どうなっていたかは分からないが、でも結局、俺が分かっていたことは、彼女が今は本当にお前を好きだということだけかな」
真は何も言わなかった。終わったことだと思った。
竹流も、真と深雪がどういう結論に至ったのかということについて、何も聞かなかった。
「珠恵に、来てくれるように伝えてくれないか。しばらく会えそうにないからな」
真は頷いた。竹流は、今の言葉に真が特別な反応をしなかったので、何か気にかかったようだった。真を探るように、しかし視線を逸らしたままで、なす術のない子どものように無力な声で言った。
「明日、東京に戻るんだ」
「ああ、知ってる」
真がそう返事をした時、思い立ったように竹流は真の顔を見て、黙って真を抱き寄せようとした。真は不意打ちに対して中途半端な格好になったが、自分のことはともかく、耳元で感じる竹流の呼吸が妙に苦しそうな気がして、今更ながら狼狽えた。
座ってて大丈夫か、やっぱり横になろう、と声を掛けたが、竹流はそれには返事をせずに、次にはさらに強い力で真を抱きしめた。それでもその腕には以前のような強さはなかった。
それが今の竹流に出せる目一杯の力のようだった。
「竹流」
「黙ってろ」
少しばかり乱暴な口調で竹流は言った。真は暫くの間、ただ彼に任せていた。
今、何かを言葉にしたところでどうしようもなかった。それでも、自分がこの手をどれほどに想っていたかということだけは、唯一確かなことのように思った。
もしかしてチェザーレが竹流に何も告げていないとして、それをどう確かめていいものかと、真はぼんやり考えていた。何も言わないままで、明日初めてそれが分かったら、恐らく驚くし怒るだろう。
かと言って、今話せばそれはそれで竹流を混乱させるような気がした。
自分が一緒にローマに行くことを竹流が喜ぶかどうか、どちらかと言えば喜ばないのではないかとさえ、真は思っていた。離れることも一緒にいることも喜ばないのなら、どっちにすればいいのだ、というところだが、そのどちらの選択にしても犠牲にするものがあって、居た堪れないという竹流の気持ちも、よく分かっているつもりだった。
真は結局、何も言えなかった。
「明日の夜ホテルに行くよ」
真がそう言ったとき、竹流は驚いた様子もなかった。竹流がローマに帰るということは真も知っていると、さすがにそのことは覚悟をしていたのだろう。
だが結局、それ以上はお互い何も話さなかった。
こうして互いの身体に触れ、その存在を確かめるだけで精一杯で、それ以上何を求めればいいのか分からなかった。ただ身体の内側にだけは熱いものが重みを増していくのに、何ひとつ、相手に示すことができなかった。
真はそのまま、そっと竹流の身体を離した。
「珠恵さんを呼ぶよ」
竹流は暫く反応しなかったが、やがて静かに頷いた。頷いてからひとつ息をついた。
「聞かないのか」
「何を?」
「珠恵のことだ」
「聞いてどうする? 何故そんな大事な人を京都に放っているんだって? どうしてここから連れ出さないんだって?」
竹流は天井を見つめたままふと笑ったように見えた。
「ふられたのは俺の方なんだけど」
意味を聞いても、竹流は答えなかった。
真は一旦病室を出たが、葉子が既に珠恵に連絡を入れてくれていたようだったので、その旨だけを竹流に伝えに戻った。明日夜にはチェザーレの依頼の仕事に入るとなれば、片づけなければならないことがあまりにも多かったので、珠恵が病院に来るのを待って、早々に東京に戻ることにした。
珠恵は真を見て、まるで母親のような表情で駆け寄ってきた。
「よう御無事で」
真はただ頷いた。
「感謝しとります。仇をとってくらはりました」
そう言われて、本当はまだ足りないのだ、この程度で済ますつもりじゃなかったと、真はこの人には知っておいてもらいたいと思った。だが、珠恵はただ真の手を取り、美しくしなやかなふたつの手で包み込むようにした。
何も言わなくてもいい、分かっているからと、その目は語っていた。
「匕首を、駄目にしてしまいました」
匕首のことではなく、寺崎昂司のことを伝えたかったのに、言葉にはできなかった。珠恵は真っ直ぐに真を見つめ、首を横に振った。
「あなたにお渡ししたんは、母の匕首どす。寺崎孝雄にも昂司にも、母の手が必要やと思いましたさかい」
真は、何も言うな、全て分かっているというような珠恵の心を、そのまま受け取った。
今はただ珠恵の心が、いや、ただその存在が有り難いと思った。余計なことを語らなくても、この女性は真の存在も罪も苦悩も、全て分かち合ってくれるのだと思えた。
「いつか、きっとあなたにお礼を致します。それが何かは、うちにも今はまだわかりまへんけど」
この女も、ただ美しく気高い人間などではない。心の内に炎を、愛する男を守るためには残忍にさえなれる激しい火の玉を抱えている。多分、竹流はこの女を抱くとき、他の女を抱くときのようにただ優しくしているわけではないのだろう。もっとも、基本的に女には甘く優しい男だから、ある一線は守るのだとしても、時には激しい一人の雄となって求めているのに違いない。
その真の考えを見透かしたように、珠恵が頭を小さく下げた。
「相川はん、どうぞ、あの人をよろしゅうお願いします」
「僕には何もできません。あなたこそ、彼の傍にいるべき人なのに」
珠恵はやはり、決意して何もかもを包み込むように微笑んだ。
「相川はん、うちは断ったんどす」
意味がよく分からず、真は繰り返した。
「断った?」
「へぇ。もう随分前のことどすけど、東京へついて来いと言われた時に」
「なぜ?」
「祇園の外では生きていけまへんさかい。うちは祇園で生まれて、祇園の町に育てられましたのや。この町だけは、いつでもうちを守ってくれる。うちは旦那はんのためなら鬼にでもなりますけど、いくらあの人の頼みでも、この町を出ていくことはできしまへん」
祇園の女は覚悟を決めている。彼女はこの町の申し子なのだ。男よりも、祇園の町のほうが信じるに値すると、肌身で知っているのだ。男が何を差し出そうとも、自分の人生を曲げることはないし、生きていく場所を変えることはないのだろう。
だから竹流は、ふられたのは俺の方だと言ったのか。
「そうや、忘れるとこどした」
珠恵は懐中していた袱紗を大事そうに取り出した。
中から出てきたのは竹筒だった。真は、今度は匕首ではなさそうだし何だろう、と思いながら受け取った。視線に促されるように竹筒を開けると、茶杓が一本入っている。
真は顔を上げた。
「これは」
「ご存知どすか」
「『迷悟』。龍泉寺の和尚さんの茶杓です。一体……」
真は『河本』の言葉を思い出した。
あそこの住職は今年の初めに倒れて、それからずっと意識が戻らないまま寝た切りだ、と。
「今年の初めからずっと、この病院に入院されとったんどす。けど、あの日、旦那はんが意識をとり戻さはった日、その日の朝早うに、亡くならはったそうどす。これを、あなたに、と」
寝た切りの和尚がどのようにして、真にこれを託すという遺言を遺したのか、真にはまるでわからなかったが、もしかするとあの寺にいたはみ出しものの若者たちの誰かが、和尚の心を汲んだのかもしれない。
迷いのある者はあの寺に戻ってくる、そして心の決まったものは、真っ直ぐにそこを出て行く。迷いも悟りも全て己の心の中にある。
真は、もう行きなさい、という和尚の言葉を聞いたような気がした。軽いはずのその茶杓は、同じ珠恵の手から渡されたあの匕首と同じほどに、重く感じられた。
やはり和尚が竹流を救ってくれたのだ。だから和尚はこの病院で、寝た切りのまま、ただ、命の火を託すために、傷ついた竹流が来るのを待ってくれていたのだ。
真は今、心から手を合わせたいと思った。
(つづく)




やっぱり和尚さんは頼れるなぁ(*^_^*)
「お前はまだ来ちゃいかん」
とか言ってくれたんですね。
さて、いよいよ再会したのにダメダメな彼らですが、まぁ、これでは消化不良でしょうから、もう少しお待ちくださいね。先に東京チームと別れの盃を交わさないと……
<次回予告>
美和はその仁の視線の先を見て、あ、と声を上げた。
「男ってのはさ、そうするつもりだったのに先に言われると、はいそうですかってきけないこともあるんだよ」
美和は動き始めた列車の中の深雪に、慌ててホームの先を指差した。深雪は不思議そうな顔をしていた。
お願い、気付いて、と美和は思った。



「彼の叔父さんから仕事の依頼を受けた」
葉子が真の顔を幾らか驚いたように見つめている。
「返事をしにきたんだ」
「ローマに、来いって?」
真の表情を確認してから、葉子は美和に視線を移した。美和の頷く顔を見て、葉子はふと息をついて、ようやく少し微笑んだ。
「駆け落ちより現実的だね。それで竹流さんの叔父さん、妙なこと聞いてたんだ」
「妙なこと?」
「お兄ちゃんは、何か食べれないものはあるか、好き嫌いはないかって。竹流さんと私の作ったものなら何でも美味しいと言っています、って言っといたけど」
それから葉子は真面目な顔で付け足した。
「あの人は、本当に竹流さんを愛してるんだね。私たちはずっと、もう二十年近くもその人から竹流さんを取り上げてたのかもしれないって、何だか申し訳ないような気持ちになっちゃったの。変だね」
真は今また、チェザーレ・ヴォルテラが本当に恐ろしいわけを知った気がした。
あの男はあくまでも人情家で、自分の手の内にあるものに対しては限りない優しさと深すぎる愛情を注ぐ。たとえば、ローマ滞在中の真の食事を、まだ真が返事もしないうちから気遣うようなことも含めて。恐ろしい決断力を持ち、残忍な断罪を行いながら、その同じ手で神に祈り許しを請い、当たり前に身内のものを可愛がり、時には命さえ投げ出すことも厭わない。
そして、何よりも、息子を心から愛している。
敵わないということを、真はよく知っている気がした。息子が欲しがるものは、何でも力でもって手に入れてやろうとするのだ。そして絡み取られた真に、逃げる道はやはりないということだ。それでも、その力が、今の真の迷いを消し去ってくれるのなら、それもいいのかもしれない。
「今、病室に行って大丈夫だろうか」
「主治医の先生も居て、退院の相談をしてるから出てきたの。私、聞いてこようか」
「悪い」
真は、美和と一緒に詰所の近くに残り、葉子が病室をノックするのを見つめていた。すぐに病室の内側から扉が開かれ、葉子が中に入っていく。
カエサルに言わせれば、采は投げられた、というところだ。真はここに来てようやく開き直る、というやり方を思い出していた。
それでも身体の芯は震えている。これから自分の行く道が、正しいという保証は何もない。いや、正しいという言葉の基準すらもうよく分からなかった。それでも、今は前に進むしかなかった。
これは確かに真が望んだ道なのだ。分かっていたのに、まだ微かな逡巡が、身体の内側で音を立てている。
だが、力ある者は、敵にも味方にも、特に迷うものに対しては時間を与えないものだった。迷ったところで、ろくな結果は出てこないことを知っているのだ。葉子が病室に入ってから、多分一言二言の会話の時間を置いただけで、チェザーレ・ヴォルテラ本人が、葉子を伴って直ぐに病室から出てきた。
そして、まるで両手を広げて真を迎えようとするような、優しく甘い表情を見せた。
そこに立つ男は、息子のことを本当に心配しているただの父親に過ぎなかった。多分、この病院の関係者は、この男の恐ろしい本性など何も知らずに、本当に息子を愛している家族としてこの男を受け入れているだろう。
そしてそれは大筋として何も間違っていない。
「秘書を遣わすようなことをして、申し訳ありません。昨日から色々と準備をしていたものですから。こちらは」
ゆっくりとしたクィーンズイングリッシュは耳に不思議な心地よさを押し付けてくる。チェザーレに見つめられて美和が思わず背筋を伸ばした気配を感じる。
竹流と同じ、全く同じ青灰色の瞳に、美和はまた例の直感を働かせていることだろう。
「私の共同経営者です」
チェザーレは美和にも優しく微笑みかけ、真たちをエレベーター前の待合に誘った。
真と美和は並んで、チェザーレの向かいに座った。チェザーレは、葉子には彼の隣に座るように促す。この何週間か葉子がどれほど竹流の面倒をみてきたかを知っているチェザーレにとって、葉子はもう身内のようなものなのだろう。
「契約の内容は確認していただけましたか」
単刀直入にチェザーレは切り出した。
「金銭的なことは。仕事の内容はまだ伺っていません」
「あなたは、それを聞いてから受けるかどうかを決めるわけではありませんね」
真は答えに詰まった。
「アイカワさん、私はお願いしているのです。仕事の内容など付随的なことです。あれの側に居てやって欲しい。私は、私の後継者のためにあなたを雇うのであって、私のためではない。もしも金銭的に不足なら、倍にでもしましょう」
真が何も言えないでいるうちに、美和が極めて事務的な声で言った。
「じゃあ倍額で受けます」
「美和ちゃん」
先生は黙ってて、という目で美和は真を見た。
「あなたが先生をどうしても必要というなら、それだけの誠意を見せてください。もちろん、お金にこだわっているわけじゃありません。先生を連れて行く気なら、先生が私たちにとっても大事な人であることを、ちゃんと覚えていてもらわないと困ります」
チェザーレは実に小気味いい言葉を聞いたというように、楽しそうな顔をした。
「いいでしょう。あなたは」チェザーレは真の方を見た。「断る気でしたか?」
真は今となってはただ首を横に振るしかなかった。
本当はきっと、ただ彼に会いたかったのだ。ただ、どうやって会いたいと言えばいいのか、どんな手順で会いに来ればいいのか、その方法を見失っていた。そのきっかけがなくて、このチェザーレからの申し入れを利用したのかもしれない。
真は何も言わなかったが、誰も言葉を強要しなかった。
「ひとつだけ聞いていいですか」
美和は、半分やけくそのような英語を話している。それでも勢いで言葉が通じるというのはすごい。
「どうぞ」
「まさか、先生に人殺しをさせようなんて思ってませんよね」
真は驚いて美和を見た。一体、この娘は何を言い出すのかと思った。
だって英語で回りくどいことなんて言えないじゃない、と美和が小声で言った。
答えたチェザーレの声は極めて冷静だった。
「私のいる世界は、結果としてそういうことがあるかもしれないところです。今あれの身体の不自由を思えば、いつ何時そういうことが起こるかもしれないし、あれが自分で自分の身を守れるとは思えない。とは言え、私が誰を側につけようとも、あれは拒むでしょう。あなたにならそれができる。それに、あなたの雇い主は私ですが、仕事を決めるのは私ではない」
美和は言葉の意味を理解したのかそうでもないのか、納得したような顔をして、ちょっと一瞬真の方を見たが、真に意見を挟ませる気もなかったようだった。そもそも、美和でなくても、真に何か言葉を挟むチャンスを与えたら最後、何かの間違いで意に反してこの申し出を断るのではないかと、経緯を知っているなら誰でも不安に思うはずだ。
「明日、東京に戻ります。一晩帝国ホテルに泊まりますが、あなたも御一緒に。そのまま成田に向かいます。もっとも台風次第ですが」
チェザーレは一度言葉を切って、そんな事務的なことは今となってはどうでもいいのだ、というような顔で、ゆっくりとした調子で尋ねた。
「会っていきますか?」
真は、どうとも言わずにうつむいていた。美和が真をのぞき込んでくる。
「先生、大丈夫?」
真は大丈夫、と美和に答えて、葉子を見た。葉子は少し微笑んだ。
「待ってる、と思うけど」
チェザーレは真に、医師とまだ相談があるので、病室に行ったら医師がまだ中にいるはずだから詰所に呼んで欲しいと言った。葉子も美和も、真について病室に行く気はないようで、座ったままだった。真は他の皆の気配に押されるように立ち上がり、自分の意思ではどうすることもできない器械になったような気持ちで、病室の前まで行った。
一瞬、突っ立ったまま固まってしまったが、それほど長い時間ではなかった。ノックをすると、医師らしい男の、どうぞという声が聞こえた。流されるまま、真は声に押されるように扉を開けた。
「ああ、お久しぶりですね」
医師が何やら懐かしそうに真に話しかけてくれたので、妙な感じだった。真は医師にチェザーレの言葉を伝え、それを聞いて彼は竹流に一言二言告げてから、看護師と一緒に出ていった。
それでも、ここに至っても真っ直ぐに彼の顔を見ることなどできなかった。
僅か数メートルのところにいるその男の顔を見れば、このまま崩れてしまうかもしれないと思っていた。
扁桃腺を腫らせては、よく三日ばかり熱を出した。
高熱で苦しんでいる夜、竹流は何も言わずに傍に座ってくれていた。目を閉じていると、いつも彼の穏やかな視線を感じ、真は安心して細菌と闘う防御反応としての高熱に身体を任せた。
時々目を開けると、竹流はベッドサイドの柔らかい光の中に座って本を読んでいる。何の本かと問いかけると、大概は芸術家が誰かに宛てた手紙だったり、真には見ても違いが分からない古い記号の研究書だったりしたが、時には、池波正太郎の『鬼平犯科帳』やシュリーマンの『古代への情熱』だったりした。
何度読んでも飽きない、といいながら竹流は真の額に手を置いて熱を確かめると、もう少し眠っていろ、と言った。
目を閉じてもなお、彼の暖かな視線を感じる。あの熱に浮かされていた時と同じように、まさに今、その気配を真は身体中で感じていた。
真はひとつ静かに息を吐きだし、漸く覚悟を決めて、視線を上げた。
この青灰色の瞳、憂いを含んだ気品に満ちた唇、柔らかくウェーヴを描くくすんだ金の髪、どんな時も、どんな状態であっても大きく暖かい手。
そうだ、このためだけに俺は、あの十九の秋、この世に帰ってきたのだ。
本当は駆け寄って抱きつきたいのかもしれなかったのに、金縛りにあったように、身動き一つできなかった。
竹流は真を見つめたまま、ゆっくりと身体を起こそうとした。
その途端、真は思わず近くに寄って、愛しい男の身体を支えていた。いくらか痩せてしまった真の腕でも、その男はまるで以前と違って感じられた。すっかり別人のようにやつれた身体、細くなった肩は、真の心の内の憐憫や独占欲を煽り立てた。
「大丈夫なのか」
「起き上がるくらいはな」
一ヶ月近く経っているのだ。その間に、竹流もまた、自らの身体に襲い掛かる病魔や心の重荷と闘っていたはずだった。
真は自分が目も耳も塞いできた結果を、ただ苦しく抱きとめ、すぐに逆らい切れない想いに押し流されるように、強く力を籠めて抱き締めた。竹流は何も言わず、真の腕に抱きしめられるままになっていた。
かすかに、あの白檀のようなオリエンタルな香りが鼻粘膜をくすぐった。
「混乱してて」
真は会いに来ることができなかった事について、ただそう説明するのがやっとだった。竹流も、それに対してはただ頷いただけだった。頷いて真の頭を抱き締めていた。それでも、その手の温もりだけは、ずっと昔から変わらなかった。
「お前、随分痩せたろう? ちゃんと食ってたのか」
この状況で自分の事などどうでもいい、と真は思った。
「ずっと北条さんのところにいるのか」
「しばらくの間は。でも、いつまでも極道の家に世話になるわけにもいかないし、マンションにも戻りにくくて、あちこち点々と。昨日は多摩の屋敷に泊めてもらったよ」
真は、座っているままでは辛いのではないかと問いかけたが、竹流は大丈夫、と手で示した。
「マンションは登紀恵さんが行ってくれてるみたいだったし、それに」真は一旦言葉を切り、竹流の顔を見ないままゆっくり続けた。「涼子に、会うのも気まずくて」
「悪かったな」
「いや、あんたのせいじゃない」
そう断ってから、真はようやく一番気になっていたことを聞いた。
「珠恵さんは?」
「いや、一度も来ないよ。お前が京都に帰ってきたことを確認するまで、来る気もないんだろう。彼女がお前に」竹流は一瞬止まって、息を吐き出すようにしてから続けた。「昂司の親父の居場所を教えたのか」
竹流はその名前を出すことでかなりの力を使ったような気配を見せた。真は返事をしなかったが、一瞬身体がかっとなった。
「俺が頼んだんだ。あの人は何も、少なくともあんたに責められるようなことはしていない」
竹流は真の言葉の勢いに何かを察したのか、戸惑ったような声で言った。
「別に怒ってはいないんだがな」
暫くの間、竹流は、自分の知らないところで起こったであろう様々の出来事を思い描き、愛しい女を思い遣っていたのだろう。そのまま、それについてはそれ以上何も、真に聞くことも話すこともなかった。
それから、ふと、何かに思い当たったような声で問いかけてきた。
「深雪さんは、大丈夫か」
真は硬い顔で頷いた。
「あんたに伝えてくれって言われたよ。今度こそ千惠子ちゃんは預かるから、三年前に返事ができなくてごめん、って」
竹流は不可解な顔をして真を見ていた。
「それで、お前は?」
その時、真は、竹流がもしかしてチェザーレが真を雇ったことを知らないのではないかと思った。
「深雪は新津圭一の仇をうちたかったんだよ。彼らは本当に想い合っていたんだし、事情が分かったからには、深雪はただ新津圭一がしようとしていたことを確かめて、千惠子ちゃんを守りたかったんだと思う。澤田が深雪を守りたかったのと同じで」真は一旦言葉を切って、竹流を見つめた。「あんたは、深雪の気持ちを知ってたんだろう?」
竹流は暫くまだ、事情が飲み込めないような顔をしていた。
「いや。彼女が新津圭一と付き合ってたのは知っていたけど、少し違和感があったのかもしれない。もしあの二人の間に不倫という障害がなかったら、あるいは新津圭一が死ななかったら、どうなっていたかは分からないが、でも結局、俺が分かっていたことは、彼女が今は本当にお前を好きだということだけかな」
真は何も言わなかった。終わったことだと思った。
竹流も、真と深雪がどういう結論に至ったのかということについて、何も聞かなかった。
「珠恵に、来てくれるように伝えてくれないか。しばらく会えそうにないからな」
真は頷いた。竹流は、今の言葉に真が特別な反応をしなかったので、何か気にかかったようだった。真を探るように、しかし視線を逸らしたままで、なす術のない子どものように無力な声で言った。
「明日、東京に戻るんだ」
「ああ、知ってる」
真がそう返事をした時、思い立ったように竹流は真の顔を見て、黙って真を抱き寄せようとした。真は不意打ちに対して中途半端な格好になったが、自分のことはともかく、耳元で感じる竹流の呼吸が妙に苦しそうな気がして、今更ながら狼狽えた。
座ってて大丈夫か、やっぱり横になろう、と声を掛けたが、竹流はそれには返事をせずに、次にはさらに強い力で真を抱きしめた。それでもその腕には以前のような強さはなかった。
それが今の竹流に出せる目一杯の力のようだった。
「竹流」
「黙ってろ」
少しばかり乱暴な口調で竹流は言った。真は暫くの間、ただ彼に任せていた。
今、何かを言葉にしたところでどうしようもなかった。それでも、自分がこの手をどれほどに想っていたかということだけは、唯一確かなことのように思った。
もしかしてチェザーレが竹流に何も告げていないとして、それをどう確かめていいものかと、真はぼんやり考えていた。何も言わないままで、明日初めてそれが分かったら、恐らく驚くし怒るだろう。
かと言って、今話せばそれはそれで竹流を混乱させるような気がした。
自分が一緒にローマに行くことを竹流が喜ぶかどうか、どちらかと言えば喜ばないのではないかとさえ、真は思っていた。離れることも一緒にいることも喜ばないのなら、どっちにすればいいのだ、というところだが、そのどちらの選択にしても犠牲にするものがあって、居た堪れないという竹流の気持ちも、よく分かっているつもりだった。
真は結局、何も言えなかった。
「明日の夜ホテルに行くよ」
真がそう言ったとき、竹流は驚いた様子もなかった。竹流がローマに帰るということは真も知っていると、さすがにそのことは覚悟をしていたのだろう。
だが結局、それ以上はお互い何も話さなかった。
こうして互いの身体に触れ、その存在を確かめるだけで精一杯で、それ以上何を求めればいいのか分からなかった。ただ身体の内側にだけは熱いものが重みを増していくのに、何ひとつ、相手に示すことができなかった。
真はそのまま、そっと竹流の身体を離した。
「珠恵さんを呼ぶよ」
竹流は暫く反応しなかったが、やがて静かに頷いた。頷いてからひとつ息をついた。
「聞かないのか」
「何を?」
「珠恵のことだ」
「聞いてどうする? 何故そんな大事な人を京都に放っているんだって? どうしてここから連れ出さないんだって?」
竹流は天井を見つめたままふと笑ったように見えた。
「ふられたのは俺の方なんだけど」
意味を聞いても、竹流は答えなかった。
真は一旦病室を出たが、葉子が既に珠恵に連絡を入れてくれていたようだったので、その旨だけを竹流に伝えに戻った。明日夜にはチェザーレの依頼の仕事に入るとなれば、片づけなければならないことがあまりにも多かったので、珠恵が病院に来るのを待って、早々に東京に戻ることにした。
珠恵は真を見て、まるで母親のような表情で駆け寄ってきた。
「よう御無事で」
真はただ頷いた。
「感謝しとります。仇をとってくらはりました」
そう言われて、本当はまだ足りないのだ、この程度で済ますつもりじゃなかったと、真はこの人には知っておいてもらいたいと思った。だが、珠恵はただ真の手を取り、美しくしなやかなふたつの手で包み込むようにした。
何も言わなくてもいい、分かっているからと、その目は語っていた。
「匕首を、駄目にしてしまいました」
匕首のことではなく、寺崎昂司のことを伝えたかったのに、言葉にはできなかった。珠恵は真っ直ぐに真を見つめ、首を横に振った。
「あなたにお渡ししたんは、母の匕首どす。寺崎孝雄にも昂司にも、母の手が必要やと思いましたさかい」
真は、何も言うな、全て分かっているというような珠恵の心を、そのまま受け取った。
今はただ珠恵の心が、いや、ただその存在が有り難いと思った。余計なことを語らなくても、この女性は真の存在も罪も苦悩も、全て分かち合ってくれるのだと思えた。
「いつか、きっとあなたにお礼を致します。それが何かは、うちにも今はまだわかりまへんけど」
この女も、ただ美しく気高い人間などではない。心の内に炎を、愛する男を守るためには残忍にさえなれる激しい火の玉を抱えている。多分、竹流はこの女を抱くとき、他の女を抱くときのようにただ優しくしているわけではないのだろう。もっとも、基本的に女には甘く優しい男だから、ある一線は守るのだとしても、時には激しい一人の雄となって求めているのに違いない。
その真の考えを見透かしたように、珠恵が頭を小さく下げた。
「相川はん、どうぞ、あの人をよろしゅうお願いします」
「僕には何もできません。あなたこそ、彼の傍にいるべき人なのに」
珠恵はやはり、決意して何もかもを包み込むように微笑んだ。
「相川はん、うちは断ったんどす」
意味がよく分からず、真は繰り返した。
「断った?」
「へぇ。もう随分前のことどすけど、東京へついて来いと言われた時に」
「なぜ?」
「祇園の外では生きていけまへんさかい。うちは祇園で生まれて、祇園の町に育てられましたのや。この町だけは、いつでもうちを守ってくれる。うちは旦那はんのためなら鬼にでもなりますけど、いくらあの人の頼みでも、この町を出ていくことはできしまへん」
祇園の女は覚悟を決めている。彼女はこの町の申し子なのだ。男よりも、祇園の町のほうが信じるに値すると、肌身で知っているのだ。男が何を差し出そうとも、自分の人生を曲げることはないし、生きていく場所を変えることはないのだろう。
だから竹流は、ふられたのは俺の方だと言ったのか。
「そうや、忘れるとこどした」
珠恵は懐中していた袱紗を大事そうに取り出した。
中から出てきたのは竹筒だった。真は、今度は匕首ではなさそうだし何だろう、と思いながら受け取った。視線に促されるように竹筒を開けると、茶杓が一本入っている。
真は顔を上げた。
「これは」
「ご存知どすか」
「『迷悟』。龍泉寺の和尚さんの茶杓です。一体……」
真は『河本』の言葉を思い出した。
あそこの住職は今年の初めに倒れて、それからずっと意識が戻らないまま寝た切りだ、と。
「今年の初めからずっと、この病院に入院されとったんどす。けど、あの日、旦那はんが意識をとり戻さはった日、その日の朝早うに、亡くならはったそうどす。これを、あなたに、と」
寝た切りの和尚がどのようにして、真にこれを託すという遺言を遺したのか、真にはまるでわからなかったが、もしかするとあの寺にいたはみ出しものの若者たちの誰かが、和尚の心を汲んだのかもしれない。
迷いのある者はあの寺に戻ってくる、そして心の決まったものは、真っ直ぐにそこを出て行く。迷いも悟りも全て己の心の中にある。
真は、もう行きなさい、という和尚の言葉を聞いたような気がした。軽いはずのその茶杓は、同じ珠恵の手から渡されたあの匕首と同じほどに、重く感じられた。
やはり和尚が竹流を救ってくれたのだ。だから和尚はこの病院で、寝た切りのまま、ただ、命の火を託すために、傷ついた竹流が来るのを待ってくれていたのだ。
真は今、心から手を合わせたいと思った。
(つづく)



やっぱり和尚さんは頼れるなぁ(*^_^*)
「お前はまだ来ちゃいかん」
とか言ってくれたんですね。
さて、いよいよ再会したのにダメダメな彼らですが、まぁ、これでは消化不良でしょうから、もう少しお待ちくださいね。先に東京チームと別れの盃を交わさないと……
<次回予告>
美和はその仁の視線の先を見て、あ、と声を上げた。
「男ってのはさ、そうするつもりだったのに先に言われると、はいそうですかってきけないこともあるんだよ」
美和は動き始めた列車の中の深雪に、慌ててホームの先を指差した。深雪は不思議そうな顔をしていた。
お願い、気付いて、と美和は思った。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨178] 第38章 そして、地球に銀の雫が降る(3)新宿、その大きな海の中で
【海に落ちる雨】ラストスパート中(その割には更新が遅い?)
前回、珠恵が言った言葉。
「いつか、きっとあなたにお礼を致します。それが何かは、うちにも今はまだわかりまへんけど」
これは、真の息子・慎一のことなのですね。もちろん、この時はまだ真も珠恵も知らないことですけれど。珠恵は慎一にとっては日本にいる母のような人。実の母、つまり真の嫁はどうしたって? え~っと、その話はまた今度。
長い章なので、どこで切るか、ものすごく悩んだんですが、ちょっと中途半端なので、実は前回の予告のところまで行きつきませんでした^^; あれ? 予定外だなぁ??
【雨】が終わったら、慎一の続きも書かなくちゃ。でも、どうなるのか、この通勤時間。
もう英語のヒアリングするくらいしか、することがないなぁ……あ、民謡の練習!
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】登場人物
前回、珠恵が言った言葉。
「いつか、きっとあなたにお礼を致します。それが何かは、うちにも今はまだわかりまへんけど」
これは、真の息子・慎一のことなのですね。もちろん、この時はまだ真も珠恵も知らないことですけれど。珠恵は慎一にとっては日本にいる母のような人。実の母、つまり真の嫁はどうしたって? え~っと、その話はまた今度。
長い章なので、どこで切るか、ものすごく悩んだんですが、ちょっと中途半端なので、実は前回の予告のところまで行きつきませんでした^^; あれ? 予定外だなぁ??
【雨】が終わったら、慎一の続きも書かなくちゃ。でも、どうなるのか、この通勤時間。
もう英語のヒアリングするくらいしか、することがないなぁ……あ、民謡の練習!



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東京に帰ってから、改めて名瀬弁護士や三上に挨拶に行かねばならなかった。
こうなった今、真の頼りになるのは、意外なことに、父親を刺した少年院上がりの高遠賢二だった。
少年院を出た賢二が、一時大和竹流のマンションに預けられていた時、賢二は真と竹流の関係がかなり微妙なことを見て取っていたのだろうが、いや、何より多分普通では考えられない特殊な場面を何度も目撃しているはずだったが、それについては何ら問題を感じなかったようだった。
竹流のほうは、いつも、ガキと言うことをきかない見栄ばかりのツッパリを嫌っているようなことを言うくせに、賢二のことは意外にも面白がって可愛がっていて、真ではとても教えられない様々のことを教えていたようだった。
真の見たところ、竹流の子ども嫌い、というのは見せ掛けか照れ隠しではないかと思う節がいくつもあって、新津千惠子のことにしても、気になると決して放っておかないのだ。賢二に対しても、女の口説き方、賭事の勝ち方、酒に飲まれない飲み方、つまり簡単に言うと人生の遊び方を伝授していたようで、真はそのあたりではよい弟子にはならなかったので、竹流にとっての賢二は、ある部分での一番弟子だったのかもしれない。
今回のことで、竹流がローマの古い貴族の家系の正当なる後継者であると知ったとき、賢二は竹流がローマを飛び出してきたことまで含めて、改めて大和竹流という人間を理解したのかもしれなかった。家や家長という存在から逃亡を図ったという面では賢二とも似た境遇であったわけだが、道を切り開く強い意思を持ち、何か特別な生き方を考えている人間が、世間には全貌も明らかにされなかった残酷な事件の結果として、実家へ引き戻されることになった。
それを見ていた賢二は、自分自身と重ねて考えさせられ、そして強い意思をもって真と竹流の留守を預かろうと、自分のすべきことを納得したような節があった。
だから真が名瀬に挨拶に行ったとき、賢二のことをいつも気にかけていた名瀬弁護士は、賢二の顔つきが変わったと随分喜んでいた。賢二のほうは、自分とは相対する存在であった名瀬の歓迎振りにはいささか戸惑ったようだった。
真が、名瀬先生はいつだって賢二のことを心配していたと伝えると、賢二はいつもなら反発するだろうに、ただ神妙な顔で真の顔を見つめていた。
「俺、こんな時しか言えないから、今言っとくよ。中学のころから、ずっと周りの大人なんて認めないと思ってた。あんたと大和さんがいなかったら、今もずっとそう思い続けていた、と思う。俺は、いつかあんたや大和さんみたいになりたい。具体的にどうしたらいいのか、今はまだ分からないけど、いつかきっと自分の手で掴みとる」
真は賢二の顔をただ見つめていた。何も言わなかったし、できなかったが、賢二には十分に伝わったと思った。
さすがに、北条仁に会いに行く勇気だけが出なかった。真は事務所で宝田と今後のことについて細かい仕事の打ち合わせをしながら、時々宝田の顔を見た。そして、俺はこいつらがいないと不安で仕方がないんだな、と思っていた。
夜になり、美和が飛び込んできた。
「深雪さんが、明日の朝、一番の列車で新潟に発つんだって」
真はちらりと美和を見て、それから宝田との話に戻った。
「聞いてんの」
美和はムッとして、真の傍に回りこんできた。真は片付けていた手紙の束を机に置いた。
「もう終わったことなんだ」
「見送りにくらい行きなさいよ」
「そういうのは、柄じゃない」
少し元気になった美和は、いつもの威勢のいい娘に戻ってしまっている。真はその美和の言葉の勢いを、不思議な幸福感で噛み締めていた。
「はーん、泣いちゃうからだ」
「泣かないよ」
「私たちは、先生がローマに行く時には大声で泣くからね。ね、さぶちゃん」
宝田は頷いたついでに、もう涙目になっている。
「行ってあげたら?」
「行かない」
美和がむっとした顔をした。真はそんな時間はないと答えた。
夜、久しぶりにマンションに行き、ビデオデッキに入ったままの新津千惠子のビデオを取り出した。
これを破棄するのか、保存するのか、真はやはり決心がつかなかった。これを捨ててしまえば、新津圭一は恐喝に失敗して自殺した、記者の風上にも置けないやつのままだった。だが、千惠子にとって、これは悪夢だ。
長い時間、真はビデオを見つめていたが、結局判断を先送りにした。絵と一緒に、高瀬に預けるのがいいような気がした。
丁度登紀恵がやってきたので、高瀬に届けておいて欲しい他のいくつかのものと一緒に、大切なものだから、と渡した。登紀恵は頷いて受け取り、一見では人のいいおばちゃんにしか見えない笑顔で真に言った。
「相川の家のほうも、これまで通り掃除して、風を通しておきますからね、安心していらっしゃい」
真は頷き、そしてこうして遠く離れようとしている時になって、どれだけの人に自分が支えられてきたのかを改めて知ることになった。あの伯父の書斎、あの大事な場所を、登紀恵が守ってきてくれていたことを、文字通り有り難いと思った。
マンションの片づけを登紀恵に託して、竹流の部屋から駐車場に降りたとき、真は見覚えのある車が走りこんできたのを認め、思わず柱の影に身を隠した。
涼子は、ここしばらく車が停まっていなかった駐車場のその場所に、車があるのを見つけるだろう。そして彼女は驚き、マンションの部屋を訪ねるかもしれない。
エンジンの音が止まり、駐車場の低い天井に涼子のヒールの音が響き、一瞬、止まった。
真は柱の影で息を潜めた。
涼子の靴音は幾分か速くなり、真が隠れた柱の前を通り過ぎて、何かが気になったかのようにエレベーターの前まで行かずに止まる。真は自分の呼吸が彼女に聞かれはしないかと思い、息を止めた。
何故か、身体の内側から激しい想いが込み上げてきたような気がした。
初めて竹流の部屋で涼子に会ったときから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
涼子はずっと真にとって憧れの女性で、そして真はこれまで涼子に対してどれほどの複雑な想いを抱いてきたのだろう。少年が年上の女性に抱く恋という感情も憧れも、女としての彼女への哀れみも、そして一人の人間を間に挟んだ苦しい嫉妬も、全て涼子から教えられたものだった。
その女性に、今、真は何ひとつ言ってやれない。この柱の影から出て、言い訳のひとつもできない自分を詫びて、ただ涼子を抱きしめたい。愛という言葉とは無縁だったにも関わらず、恨まれても憎まれても構わない、許されるとも思わなかったが、ただ真は自分と涼子の間に深い繋がりを感じないわけにはいかなかった。
もしも、この先のどこかで彼女と向かい合う日が来たら、涼子とは言葉もなく、お互いの苦しみを分かち合えるような気がした。
だが、それは多分真の身勝手な思いなのだろう。それに、その分かち合いには、真が珠恵との間に感じたような未来の何かに触れるような暖かさは何もない。ただ後ろ暗く、苦い思いだった。
真は、その瞬間、涼子に見つかって問い詰められ、何も答えられなくて彼女に恨まれたのだとしても構わないと思った。
柱の影から涼子の姿を覗き見たとき、涼子は、真の停めた車を振り返っていた。上品さを失わないながらもいつも綺麗に飾っているその女の、すっかり疲れやつれた横顔を見た途端に、真は咽喉元が苦しくなるような気がした。
涼子がエレベーターのほうに視線を戻すとき、車二台分ほどの距離を置いた先にいる真に気が付くだろうと思った。そして、真は、彼女に気付いて欲しいのか、気が付かないでいて欲しいのか分からなくなっている自分を感じた。
だが結局、涼子は視線を落とし、顔を上げないままエレベーターのほうへ歩き始めた。
真は涼子を乗せたエレベーターの音が完全に無になるまで、同じ柱の影に隠れたまま、まだ呼吸を止めたままのように静かに立っていた。
やがて車に戻ると、真は煙草を一本吸おうと胸ポケットに手をやってから、持っていないことに気が付いた。あたりは静かで、地下駐車場に、どこか小さな隙間から吹き入る微かな風の音さえも聞こえてくるようだった。
そう、涼子に、竹流が戻ってくることを、そしてそのままローマに行ってしまうことを、知られたくないと真は思っているのだ。
真は小さく首を横に振って、エンジンをスタートさせた。
夜中に調査事務所に戻ると、当たり前だが誰の気配もなかった。真は奥の冷蔵庫から缶ビールを一本出してきて、半分ほど飲み、そのままソファに寝転がった。
他に何処か行くところを思いつかなかったわけではない。ただ、そこで一晩を過ごしたかったのだ。
夜の間中、開け放たれた窓からはパトカーや救急車のサイレンの音、ガチャガチャと何かが触れ合う音、クラクションや派手なエンジンの音、呼び込みの音楽、喧嘩をしているらしい男たちのがなり声、高く笑う女の華やかな声が、幾種類も音色や音調を変えて耳に入り、少しの間脳の中で行き来し、また通り抜けていった。
真は、そういえば結局、少し聞こえにくかった左耳を医者に診てもらう時間がなかったな、と思った。
それでも、この新宿の事務所の窓から飛び込んでくる音は、現実と記憶の間を行き来しながら今の真を支えていた。いささか騒々しい部分も含めて。
確かに、俺は浦河でなくても、この街で生きてきたのだ。
静かに目を閉じて、更に続く喧騒を耳の中で転がしていたとき、突然事務所のドアが開いた。
「なぁに、もう寝てんの。あり得ないわねぇ」
桜、井出、それに見知っているホストやホステスの顔、ついでに近くの弁当屋の女主人、花屋の女の子、下の階の怪しい薬局の中国人、ついでに非番だという新宿署の巡査までいた。もう寝てんの、と言われたが、もう夜中の三時を回っていた。
決して広くはない事務所は、あっという間に数十人の来客でいっぱいになり、持ち込まれた酒とつまみと音楽は、多分、今現在、新宿の街中でも特に迷惑な騒音を周囲に振りまいていると思われた。
「これ、靖子さんの肉じゃがよぉ」と桜がタッパーを出してきた。「で、こっちは都さんの梅干、これは笙子さんのカレイの煮付け」
さすがにこの時間だから、事務所のバイトの主婦たちは姿を見せなかったが、料理だけは桜に言付けてくれたのだろう。
「何言うね。売れ残りだけど、うちの弁当は最高ね」
上海から来た弁当屋の女主人の差し入れは、残り物とは思えない豪勢さだった。もちろん、いつもの弁当にはないラインナップだ。
柄にもないと思ったが、何となくじん、ときて黙っていると、桜が真の頭を抱きしめるようにした。
「真ちゃん、泣いちゃ駄目よ。あーん、でも辛くなったらいつでも帰ってくるのよ」
桜の作り物の胸が苦しくて、結局泣くことはできなかったが、真は素直にその胸に頭を預けた。
お別れ会のようなものだから思い出話にでも花を咲かすつもりなのかと思っていたら、全くもって誰も彼もがいつも通りだった。
昨日亭主が女のところに泊まって来た(それも大抵は思い込みなのだが)だの、隣の親父がスケベなことを言うだの、新しく開店したクラブに行ったらぼったくられただの、誰かと誰かが喧嘩して救急車が来た、いや、パトカーだった、救急車と言えば、子どもを母親に預けている間に頭を切って四針も縫っただの、……そんないつもの会話が弾丸のように飛び交った。
皆がいちいち真に相槌を求めるので、いや、本当は真がどう反応しようがどうでもいいのだろうが、一応それぞれに頷いておくしかなかった。
それでも酒が飽和状態になると、もう皆が真のことなど忘れて、ただ騒いでいるように見えて、真はようやくほっとした。
いつも通りだ。この町に住む彼らにあるのは、「今」だけなのだ。過去も未来もかりそめだった。それがこの新宿という町だ。そして、過ぎてしまえばその「今」もまた、かりそめに変わっていく。
事務所も飽和状態だったので、真はそっと席を外し、廊下に出た。この扉を閉める時は、最後に一押ししながら少しだけ持ち上げるようにしなければならない。その微かな軋みが手に伝わってくる。
真は扉を閉めて、改めて数十年は経っている古い扉の曇りガラスの部分に書かれた、まだ二年あまりの時を刻んだだけの新しい文字を見つめた。
『相川調査事務所』。
またここに帰ってくることがあるのか、それさえも分からない不安の中にも、ここに帰ってくれば何とかなるという思いも同居していた。
短い廊下の隅の窓からは、空の星が見えたことなどない。それにたかだか二階では、街の灯りが星のように見えるというわけにもいかない。それでもこの小さな窓の向こうにも、こちら側にも、その中に生きている人間たちの人生が静かに、時に賑やかに煌めいている。
煙草に火をつけ、ひとつ吹かすと、ガラスが曇った。
「この期に及んでたそがれちゃってるか。未来はど~んと拓けてる、ってわけにはいかないね」
俺にも分けて、と言われて、井出に煙草を差しだし、火をつけてやった。
「それなりに拓けてるよ」
ふふん、と意味不明に笑って、井出もいっしょに窓から外を見た。
「あぁ、全く、この街の夜中の電気代は日本一は間違いないとして、世界でも有数だな」
「うん」
「澤田が電話に出てくれたよ」
「そうか」
それなりに驚いたつもりだったが、多分今の返事では井出には伝わっていないな、と思った。
「簡単に新聞社を辞めるなと言われた」
「うん」
澤田らしいと思った。澤田は、自分自身がどうなるか分からない中で井出の人生を左右するわけにはいかないと思ったのだろう。
「体制や権力の側に居なけりゃ分からないこともあるってさ。何を今さら、あの人らしくないよね」
「本音だと思うよ」
「俺ももう結構体制には揉まれちゃった後だけどね。本当の事なんて、まともに書かせてもらったこともない。別に俺、養う家族もないし、下町倒産寸前宇宙ロケット製造工場でもいいんだけどなぁ」
それでも、二人に繋がりができたことは良かったと思った。
新津圭一が一番願っていたこと、それは記者として、人として、正しくあることだったに違いない。そして、多くの苦難を乗り越えてきた老獪な政治家崩れと、お調子者で一見いい加減そうなのに正義感の強い若い記者が、その後の道を繋いでいくのだろう。
「でも、結局決めるのは自分だからね」
「うん」
「寂しくなるなぁ。飲み仲間がいなくなって」
「美和ちゃんがいるよ。それに、もしかしたらすぐに帰って来るかも」
そもそも俺は酒が飲めないのに、と言いかけた時、いきなり、何の前触れもなく井出が真に抱きついてきた。
「ヤバいと思ったら、絶対に逃げ出してくれよ。命あっての物種って言うだろ。くそっ、カビが生えているような言葉なのに、何で昔の人間は見事に真実付く言葉を残してんだろな」
真は井出に抱きつき返してやった。長身の井出の顔は見えなかったが、多分ものすごく驚いているに違いない。と思ったら、今度は井出が思い切り力をこめて抱き返してきた。
「やっぱり、真ちゃんと俺はラブラブだったんだよなぁ」
という井出の言葉が終わらないうちに、いきなり何かで頭をぶたれた。パシン、パシン、といい音がした。
「ちょっと、ありえないわよ。何こそこそやってんの!」
すっかり化粧の崩れた桜だった。手に握っているのは大阪発ハリセンだ。
「こんなとこで勝手に酔い覚まししてんじゃないわよ。さ、さ、飲むわよ」
井出と真は顔を見合わせて、酒枯れですっかり男の声に戻っている桜の馬鹿力に引っ張られて事務所の中に戻った。もう誰も彼も正体なく潰れているか、真の存在などすっかり忘れて飲んでいるのかと思ったら、真は部屋に戻った途端に輪の中に引き戻されてしまった。
そこへ畳み掛けられる言葉は、折り重なり折り重なり、真の耳の中へ入り込んでくる。真はこれらの声が、真のこの街での仕事を、生活を、そして真自身の人生の一部を支えてきてくれていたことを、今改めて感じた。今がうたかたであっても、ここに集う皆が消えそうに儚い存在だとしても、今明らかに優しくこの街に、この星に降り注ぐ命の雫に思えた。
明け方の空はたいてい曇って見えるものだが、その朝の空は、白んだ空から辛うじて少しの間太陽の気配を感じたと思ったら、時間と共に雲が厚みを増した。それでも仕事のため習性で起きる時間を守っている者は起きて帰り、まだ時間に余裕のある夜の仕事の者は端から帰る気はなく、そのまま事務所で雑魚寝に入っていた。
真はソファの上、井出の身体の傍で目を覚まし、といってもしっかり眠っていたわけではないのだが、井出を押しのけて身体を起こし、煙草を一本吸った。
こんなにも心を籠めて煙草を吸ったのは久しぶりだな、と奇妙なことを考えた。
そして、事務所の奥で顔を洗うと、髭を剃り、決して旨くはない水を水道から飲んで、シャツを着替え、久しぶりに髪を整えた。
(つづく)




実は、この最後の1行、ここだけだと何のことか分からないし、その後も何も書いていないのですが、この物語の中で私がものすごく好きなところなんです。
あ、自分の書くものを好きってのは本当はいけないんでしょうけれど、誰も言ってくれないので自分で書く^^;
真が身だしなみを整えるなんて、ほんと、珍しいんですよ。え? 何のためって? えぇ、もう予想通りだと思いますが、次回をお楽しみに(*^_^*) えっと、今度こそ前回の予告シーン、出てきます。
<次回予告>
「一杯の酒くらいでどうにかなることはないだろう。それに」
真が言葉を切った竹流の顔を見ると、竹流は少しあらぬところを見ていたが、直ぐに割としっかりとした声で続けた。
「弔い酒くらい飲ませてくれよ」
「弔い酒?」
真は竹流の分のグラスも、実はもう出していた。寺崎昂司のことを考えて飲みたいかもしれない、と思ったからだった。何も聞くまいと思っていた。だがその時、竹流はぽつりと本当に辛そうに言った。
「俺のテスタロッサの」
え、と思った。
「何言ってんだ。車の一台が何だ」
真の言葉が終わらないうちに、竹流は切り返してきた。
「ただの一台じゃないぞ。あれは、マッテオの親父が俺に作ってくれた、世界で一台のフェラーリだ。今でもあの車のことを考えたら気が狂いそうだ」
^^; ほんとにこの男は……素直に泣けよ ^^;
いよいよ、本格的にラストシーン(*^_^*)
長くなってもいいかなぁ。よかったら、もう一気に責めてもいいけど、ながいかなぁ。でも途中で切ったら、間が抜けてるかなぁ。



東京に帰ってから、改めて名瀬弁護士や三上に挨拶に行かねばならなかった。
こうなった今、真の頼りになるのは、意外なことに、父親を刺した少年院上がりの高遠賢二だった。
少年院を出た賢二が、一時大和竹流のマンションに預けられていた時、賢二は真と竹流の関係がかなり微妙なことを見て取っていたのだろうが、いや、何より多分普通では考えられない特殊な場面を何度も目撃しているはずだったが、それについては何ら問題を感じなかったようだった。
竹流のほうは、いつも、ガキと言うことをきかない見栄ばかりのツッパリを嫌っているようなことを言うくせに、賢二のことは意外にも面白がって可愛がっていて、真ではとても教えられない様々のことを教えていたようだった。
真の見たところ、竹流の子ども嫌い、というのは見せ掛けか照れ隠しではないかと思う節がいくつもあって、新津千惠子のことにしても、気になると決して放っておかないのだ。賢二に対しても、女の口説き方、賭事の勝ち方、酒に飲まれない飲み方、つまり簡単に言うと人生の遊び方を伝授していたようで、真はそのあたりではよい弟子にはならなかったので、竹流にとっての賢二は、ある部分での一番弟子だったのかもしれない。
今回のことで、竹流がローマの古い貴族の家系の正当なる後継者であると知ったとき、賢二は竹流がローマを飛び出してきたことまで含めて、改めて大和竹流という人間を理解したのかもしれなかった。家や家長という存在から逃亡を図ったという面では賢二とも似た境遇であったわけだが、道を切り開く強い意思を持ち、何か特別な生き方を考えている人間が、世間には全貌も明らかにされなかった残酷な事件の結果として、実家へ引き戻されることになった。
それを見ていた賢二は、自分自身と重ねて考えさせられ、そして強い意思をもって真と竹流の留守を預かろうと、自分のすべきことを納得したような節があった。
だから真が名瀬に挨拶に行ったとき、賢二のことをいつも気にかけていた名瀬弁護士は、賢二の顔つきが変わったと随分喜んでいた。賢二のほうは、自分とは相対する存在であった名瀬の歓迎振りにはいささか戸惑ったようだった。
真が、名瀬先生はいつだって賢二のことを心配していたと伝えると、賢二はいつもなら反発するだろうに、ただ神妙な顔で真の顔を見つめていた。
「俺、こんな時しか言えないから、今言っとくよ。中学のころから、ずっと周りの大人なんて認めないと思ってた。あんたと大和さんがいなかったら、今もずっとそう思い続けていた、と思う。俺は、いつかあんたや大和さんみたいになりたい。具体的にどうしたらいいのか、今はまだ分からないけど、いつかきっと自分の手で掴みとる」
真は賢二の顔をただ見つめていた。何も言わなかったし、できなかったが、賢二には十分に伝わったと思った。
さすがに、北条仁に会いに行く勇気だけが出なかった。真は事務所で宝田と今後のことについて細かい仕事の打ち合わせをしながら、時々宝田の顔を見た。そして、俺はこいつらがいないと不安で仕方がないんだな、と思っていた。
夜になり、美和が飛び込んできた。
「深雪さんが、明日の朝、一番の列車で新潟に発つんだって」
真はちらりと美和を見て、それから宝田との話に戻った。
「聞いてんの」
美和はムッとして、真の傍に回りこんできた。真は片付けていた手紙の束を机に置いた。
「もう終わったことなんだ」
「見送りにくらい行きなさいよ」
「そういうのは、柄じゃない」
少し元気になった美和は、いつもの威勢のいい娘に戻ってしまっている。真はその美和の言葉の勢いを、不思議な幸福感で噛み締めていた。
「はーん、泣いちゃうからだ」
「泣かないよ」
「私たちは、先生がローマに行く時には大声で泣くからね。ね、さぶちゃん」
宝田は頷いたついでに、もう涙目になっている。
「行ってあげたら?」
「行かない」
美和がむっとした顔をした。真はそんな時間はないと答えた。
夜、久しぶりにマンションに行き、ビデオデッキに入ったままの新津千惠子のビデオを取り出した。
これを破棄するのか、保存するのか、真はやはり決心がつかなかった。これを捨ててしまえば、新津圭一は恐喝に失敗して自殺した、記者の風上にも置けないやつのままだった。だが、千惠子にとって、これは悪夢だ。
長い時間、真はビデオを見つめていたが、結局判断を先送りにした。絵と一緒に、高瀬に預けるのがいいような気がした。
丁度登紀恵がやってきたので、高瀬に届けておいて欲しい他のいくつかのものと一緒に、大切なものだから、と渡した。登紀恵は頷いて受け取り、一見では人のいいおばちゃんにしか見えない笑顔で真に言った。
「相川の家のほうも、これまで通り掃除して、風を通しておきますからね、安心していらっしゃい」
真は頷き、そしてこうして遠く離れようとしている時になって、どれだけの人に自分が支えられてきたのかを改めて知ることになった。あの伯父の書斎、あの大事な場所を、登紀恵が守ってきてくれていたことを、文字通り有り難いと思った。
マンションの片づけを登紀恵に託して、竹流の部屋から駐車場に降りたとき、真は見覚えのある車が走りこんできたのを認め、思わず柱の影に身を隠した。
涼子は、ここしばらく車が停まっていなかった駐車場のその場所に、車があるのを見つけるだろう。そして彼女は驚き、マンションの部屋を訪ねるかもしれない。
エンジンの音が止まり、駐車場の低い天井に涼子のヒールの音が響き、一瞬、止まった。
真は柱の影で息を潜めた。
涼子の靴音は幾分か速くなり、真が隠れた柱の前を通り過ぎて、何かが気になったかのようにエレベーターの前まで行かずに止まる。真は自分の呼吸が彼女に聞かれはしないかと思い、息を止めた。
何故か、身体の内側から激しい想いが込み上げてきたような気がした。
初めて竹流の部屋で涼子に会ったときから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
涼子はずっと真にとって憧れの女性で、そして真はこれまで涼子に対してどれほどの複雑な想いを抱いてきたのだろう。少年が年上の女性に抱く恋という感情も憧れも、女としての彼女への哀れみも、そして一人の人間を間に挟んだ苦しい嫉妬も、全て涼子から教えられたものだった。
その女性に、今、真は何ひとつ言ってやれない。この柱の影から出て、言い訳のひとつもできない自分を詫びて、ただ涼子を抱きしめたい。愛という言葉とは無縁だったにも関わらず、恨まれても憎まれても構わない、許されるとも思わなかったが、ただ真は自分と涼子の間に深い繋がりを感じないわけにはいかなかった。
もしも、この先のどこかで彼女と向かい合う日が来たら、涼子とは言葉もなく、お互いの苦しみを分かち合えるような気がした。
だが、それは多分真の身勝手な思いなのだろう。それに、その分かち合いには、真が珠恵との間に感じたような未来の何かに触れるような暖かさは何もない。ただ後ろ暗く、苦い思いだった。
真は、その瞬間、涼子に見つかって問い詰められ、何も答えられなくて彼女に恨まれたのだとしても構わないと思った。
柱の影から涼子の姿を覗き見たとき、涼子は、真の停めた車を振り返っていた。上品さを失わないながらもいつも綺麗に飾っているその女の、すっかり疲れやつれた横顔を見た途端に、真は咽喉元が苦しくなるような気がした。
涼子がエレベーターのほうに視線を戻すとき、車二台分ほどの距離を置いた先にいる真に気が付くだろうと思った。そして、真は、彼女に気付いて欲しいのか、気が付かないでいて欲しいのか分からなくなっている自分を感じた。
だが結局、涼子は視線を落とし、顔を上げないままエレベーターのほうへ歩き始めた。
真は涼子を乗せたエレベーターの音が完全に無になるまで、同じ柱の影に隠れたまま、まだ呼吸を止めたままのように静かに立っていた。
やがて車に戻ると、真は煙草を一本吸おうと胸ポケットに手をやってから、持っていないことに気が付いた。あたりは静かで、地下駐車場に、どこか小さな隙間から吹き入る微かな風の音さえも聞こえてくるようだった。
そう、涼子に、竹流が戻ってくることを、そしてそのままローマに行ってしまうことを、知られたくないと真は思っているのだ。
真は小さく首を横に振って、エンジンをスタートさせた。
夜中に調査事務所に戻ると、当たり前だが誰の気配もなかった。真は奥の冷蔵庫から缶ビールを一本出してきて、半分ほど飲み、そのままソファに寝転がった。
他に何処か行くところを思いつかなかったわけではない。ただ、そこで一晩を過ごしたかったのだ。
夜の間中、開け放たれた窓からはパトカーや救急車のサイレンの音、ガチャガチャと何かが触れ合う音、クラクションや派手なエンジンの音、呼び込みの音楽、喧嘩をしているらしい男たちのがなり声、高く笑う女の華やかな声が、幾種類も音色や音調を変えて耳に入り、少しの間脳の中で行き来し、また通り抜けていった。
真は、そういえば結局、少し聞こえにくかった左耳を医者に診てもらう時間がなかったな、と思った。
それでも、この新宿の事務所の窓から飛び込んでくる音は、現実と記憶の間を行き来しながら今の真を支えていた。いささか騒々しい部分も含めて。
確かに、俺は浦河でなくても、この街で生きてきたのだ。
静かに目を閉じて、更に続く喧騒を耳の中で転がしていたとき、突然事務所のドアが開いた。
「なぁに、もう寝てんの。あり得ないわねぇ」
桜、井出、それに見知っているホストやホステスの顔、ついでに近くの弁当屋の女主人、花屋の女の子、下の階の怪しい薬局の中国人、ついでに非番だという新宿署の巡査までいた。もう寝てんの、と言われたが、もう夜中の三時を回っていた。
決して広くはない事務所は、あっという間に数十人の来客でいっぱいになり、持ち込まれた酒とつまみと音楽は、多分、今現在、新宿の街中でも特に迷惑な騒音を周囲に振りまいていると思われた。
「これ、靖子さんの肉じゃがよぉ」と桜がタッパーを出してきた。「で、こっちは都さんの梅干、これは笙子さんのカレイの煮付け」
さすがにこの時間だから、事務所のバイトの主婦たちは姿を見せなかったが、料理だけは桜に言付けてくれたのだろう。
「何言うね。売れ残りだけど、うちの弁当は最高ね」
上海から来た弁当屋の女主人の差し入れは、残り物とは思えない豪勢さだった。もちろん、いつもの弁当にはないラインナップだ。
柄にもないと思ったが、何となくじん、ときて黙っていると、桜が真の頭を抱きしめるようにした。
「真ちゃん、泣いちゃ駄目よ。あーん、でも辛くなったらいつでも帰ってくるのよ」
桜の作り物の胸が苦しくて、結局泣くことはできなかったが、真は素直にその胸に頭を預けた。
お別れ会のようなものだから思い出話にでも花を咲かすつもりなのかと思っていたら、全くもって誰も彼もがいつも通りだった。
昨日亭主が女のところに泊まって来た(それも大抵は思い込みなのだが)だの、隣の親父がスケベなことを言うだの、新しく開店したクラブに行ったらぼったくられただの、誰かと誰かが喧嘩して救急車が来た、いや、パトカーだった、救急車と言えば、子どもを母親に預けている間に頭を切って四針も縫っただの、……そんないつもの会話が弾丸のように飛び交った。
皆がいちいち真に相槌を求めるので、いや、本当は真がどう反応しようがどうでもいいのだろうが、一応それぞれに頷いておくしかなかった。
それでも酒が飽和状態になると、もう皆が真のことなど忘れて、ただ騒いでいるように見えて、真はようやくほっとした。
いつも通りだ。この町に住む彼らにあるのは、「今」だけなのだ。過去も未来もかりそめだった。それがこの新宿という町だ。そして、過ぎてしまえばその「今」もまた、かりそめに変わっていく。
事務所も飽和状態だったので、真はそっと席を外し、廊下に出た。この扉を閉める時は、最後に一押ししながら少しだけ持ち上げるようにしなければならない。その微かな軋みが手に伝わってくる。
真は扉を閉めて、改めて数十年は経っている古い扉の曇りガラスの部分に書かれた、まだ二年あまりの時を刻んだだけの新しい文字を見つめた。
『相川調査事務所』。
またここに帰ってくることがあるのか、それさえも分からない不安の中にも、ここに帰ってくれば何とかなるという思いも同居していた。
短い廊下の隅の窓からは、空の星が見えたことなどない。それにたかだか二階では、街の灯りが星のように見えるというわけにもいかない。それでもこの小さな窓の向こうにも、こちら側にも、その中に生きている人間たちの人生が静かに、時に賑やかに煌めいている。
煙草に火をつけ、ひとつ吹かすと、ガラスが曇った。
「この期に及んでたそがれちゃってるか。未来はど~んと拓けてる、ってわけにはいかないね」
俺にも分けて、と言われて、井出に煙草を差しだし、火をつけてやった。
「それなりに拓けてるよ」
ふふん、と意味不明に笑って、井出もいっしょに窓から外を見た。
「あぁ、全く、この街の夜中の電気代は日本一は間違いないとして、世界でも有数だな」
「うん」
「澤田が電話に出てくれたよ」
「そうか」
それなりに驚いたつもりだったが、多分今の返事では井出には伝わっていないな、と思った。
「簡単に新聞社を辞めるなと言われた」
「うん」
澤田らしいと思った。澤田は、自分自身がどうなるか分からない中で井出の人生を左右するわけにはいかないと思ったのだろう。
「体制や権力の側に居なけりゃ分からないこともあるってさ。何を今さら、あの人らしくないよね」
「本音だと思うよ」
「俺ももう結構体制には揉まれちゃった後だけどね。本当の事なんて、まともに書かせてもらったこともない。別に俺、養う家族もないし、下町倒産寸前宇宙ロケット製造工場でもいいんだけどなぁ」
それでも、二人に繋がりができたことは良かったと思った。
新津圭一が一番願っていたこと、それは記者として、人として、正しくあることだったに違いない。そして、多くの苦難を乗り越えてきた老獪な政治家崩れと、お調子者で一見いい加減そうなのに正義感の強い若い記者が、その後の道を繋いでいくのだろう。
「でも、結局決めるのは自分だからね」
「うん」
「寂しくなるなぁ。飲み仲間がいなくなって」
「美和ちゃんがいるよ。それに、もしかしたらすぐに帰って来るかも」
そもそも俺は酒が飲めないのに、と言いかけた時、いきなり、何の前触れもなく井出が真に抱きついてきた。
「ヤバいと思ったら、絶対に逃げ出してくれよ。命あっての物種って言うだろ。くそっ、カビが生えているような言葉なのに、何で昔の人間は見事に真実付く言葉を残してんだろな」
真は井出に抱きつき返してやった。長身の井出の顔は見えなかったが、多分ものすごく驚いているに違いない。と思ったら、今度は井出が思い切り力をこめて抱き返してきた。
「やっぱり、真ちゃんと俺はラブラブだったんだよなぁ」
という井出の言葉が終わらないうちに、いきなり何かで頭をぶたれた。パシン、パシン、といい音がした。
「ちょっと、ありえないわよ。何こそこそやってんの!」
すっかり化粧の崩れた桜だった。手に握っているのは大阪発ハリセンだ。
「こんなとこで勝手に酔い覚まししてんじゃないわよ。さ、さ、飲むわよ」
井出と真は顔を見合わせて、酒枯れですっかり男の声に戻っている桜の馬鹿力に引っ張られて事務所の中に戻った。もう誰も彼も正体なく潰れているか、真の存在などすっかり忘れて飲んでいるのかと思ったら、真は部屋に戻った途端に輪の中に引き戻されてしまった。
そこへ畳み掛けられる言葉は、折り重なり折り重なり、真の耳の中へ入り込んでくる。真はこれらの声が、真のこの街での仕事を、生活を、そして真自身の人生の一部を支えてきてくれていたことを、今改めて感じた。今がうたかたであっても、ここに集う皆が消えそうに儚い存在だとしても、今明らかに優しくこの街に、この星に降り注ぐ命の雫に思えた。
明け方の空はたいてい曇って見えるものだが、その朝の空は、白んだ空から辛うじて少しの間太陽の気配を感じたと思ったら、時間と共に雲が厚みを増した。それでも仕事のため習性で起きる時間を守っている者は起きて帰り、まだ時間に余裕のある夜の仕事の者は端から帰る気はなく、そのまま事務所で雑魚寝に入っていた。
真はソファの上、井出の身体の傍で目を覚まし、といってもしっかり眠っていたわけではないのだが、井出を押しのけて身体を起こし、煙草を一本吸った。
こんなにも心を籠めて煙草を吸ったのは久しぶりだな、と奇妙なことを考えた。
そして、事務所の奥で顔を洗うと、髭を剃り、決して旨くはない水を水道から飲んで、シャツを着替え、久しぶりに髪を整えた。
(つづく)



実は、この最後の1行、ここだけだと何のことか分からないし、その後も何も書いていないのですが、この物語の中で私がものすごく好きなところなんです。
あ、自分の書くものを好きってのは本当はいけないんでしょうけれど、誰も言ってくれないので自分で書く^^;
真が身だしなみを整えるなんて、ほんと、珍しいんですよ。え? 何のためって? えぇ、もう予想通りだと思いますが、次回をお楽しみに(*^_^*) えっと、今度こそ前回の予告シーン、出てきます。
<次回予告>
「一杯の酒くらいでどうにかなることはないだろう。それに」
真が言葉を切った竹流の顔を見ると、竹流は少しあらぬところを見ていたが、直ぐに割としっかりとした声で続けた。
「弔い酒くらい飲ませてくれよ」
「弔い酒?」
真は竹流の分のグラスも、実はもう出していた。寺崎昂司のことを考えて飲みたいかもしれない、と思ったからだった。何も聞くまいと思っていた。だがその時、竹流はぽつりと本当に辛そうに言った。
「俺のテスタロッサの」
え、と思った。
「何言ってんだ。車の一台が何だ」
真の言葉が終わらないうちに、竹流は切り返してきた。
「ただの一台じゃないぞ。あれは、マッテオの親父が俺に作ってくれた、世界で一台のフェラーリだ。今でもあの車のことを考えたら気が狂いそうだ」
^^; ほんとにこの男は……素直に泣けよ ^^;
いよいよ、本格的にラストシーン(*^_^*)
長くなってもいいかなぁ。よかったら、もう一気に責めてもいいけど、ながいかなぁ。でも途中で切ったら、間が抜けてるかなぁ。
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨179] 第38章 そして、地球に銀の雫が降る(4)愛の終着駅と始発駅
今日、ついに全ての予約投稿が終わりました。今までも予約投稿していたところもあったのですが、ここの所、手直ししながらやっていたら、予告がずれちゃって、反省しました。えっと、実は今回も! 予告に追いついていないのです。
夕さんに指摘されたあとなのに^^;
今回の主役は美和と仁。
2人の恋の行方に少しばかりお時間をいただきますね。
う~ん、こうしてみるとやっぱり仁はカッコいいかも。
孫タイトルはまた遊んでいます(#^.^#)
『愛の終着駅』って私のカラオケ十八番のひとつ? だったりして。え? 知りませんよね^^;^^;
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】登場人物
夕さんに指摘されたあとなのに^^;
今回の主役は美和と仁。
2人の恋の行方に少しばかりお時間をいただきますね。
う~ん、こうしてみるとやっぱり仁はカッコいいかも。
孫タイトルはまた遊んでいます(#^.^#)
『愛の終着駅』って私のカラオケ十八番のひとつ? だったりして。え? 知りませんよね^^;^^;



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* * *
朝の上野駅には人と荷物と、各種色々な言葉と泣き声、喚き声、笑い声が錯綜している。美和は、深雪のために荷物を列車の中に持って入った仁の後姿を見送り、それから改めて深雪を見た。
悔しいけど、綺麗な人だと改めて思った。まだ杖は痛々しいが、それでも深雪は随分良くなっていた。
「ごめんなさい。先生には言ったんだけど」
深雪は微笑んだ。
「もういいのよ。ちゃんと、話もできているから」
深い想いに支えられた優しい笑顔だった。仁が列車の中から出てくると、深雪はありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。
「困ったことがあったら、いつでも仁道組に言ってきな」
ヤクザに相談するのはどうなのよ、と思ったが、深雪は穏やかな表情のまま微笑んでいた。それから列車の発車までのわずか五分ほどの間、話す言葉はありきたりの、気をつけてとか、元気でとかのアレンジ程度になりながらも、美和は一生懸命深雪に話しかけていた。
真が付き合っている銀座のバーのママ、というので敵愾心を感じていた始めのころからすれば、今は随分時間が過ぎ気持ちも変わってしまったな、と不思議な思いだった。
やがて深雪は列車の中へ入った。
これ以上は言葉もなくなり、美和も仁も黙っていた。深雪はもう一度有難うと言った。
そして、この喧騒の中では静か過ぎるほどの音で、ドアは閉まった。
先生はついに来なかったのか、と美和は小さく息をついた。ちょっと睨むように仁を見ると、仁の目が遠くホームの端、列車の進行方向の先端に向けられている。
美和はその仁の視線の先を見て、あ、と声を上げた。
「男ってのはさ、そうするつもりだったのに先に言われると、はいそうですかってきけないこともあるんだよ」
美和は動き始めた列車の中の深雪に、慌ててホームの先を指差した。深雪は不思議そうな顔をしていた。
お願い、気付いて、と美和は思った。
列車はスピードを上げる。深雪の顔が見えなくなり、美和は遠く、ホームの端に立っている真の姿に視線を移し、不思議なほど静かな気持ちになっていた。目と目が合わなくても、彼らは互いに気が付くのだろうと、美和はそう思った。
列車が走り去り、人影が疎らになった後も、真はホームの端でずっと遠くを見つめたまま立っている。美和はその小さな影を心から愛しいと思って見つめていた。
だが、この愛おしさにはもう苦しみがない。多分、美和は仁を愛してから、別の男に初恋をしたのだ。本当なら初恋が先にあって、叶わない淡い恋心を知る。叶うことが目的ではないから、その恋は叶わないまま原型を保ち、いつまでも心の内に美しい思い出として残される。このわずか数ヶ月の間に、美和は淡く、激しくもある初恋をして、そしてそこから苦しみがぽつんと抜け落ちた途端に、綺麗な思い出になってしまった。
この恋は終わらない、と思っている。それでも、その人を自分だけのものにしたいという思いは全くなくなっている。いや、そんなものは始めからなかったのかもしれない。あの夜中の電話を盗み聞きした時に、美和の初恋はすでに思い出に変りつつあったのだろう。
だが、仁を失うことは怖い。仁が他の誰かのものになるかもしれない、と思ったとき、身体の内側から襲い掛かってきたような喪失感と嫉妬は、真に対しては全く感じることのないものだった。
北条仁は美和のものだったはずだ。それなのに、どんな形にしても、仁が真に特別な感情を持っていることに気が付いてからは、心がぐらついていた。
仁は真に惚れているのだ。
仁にとっては恋愛であろうとなかろうと、性別の問題はなく、ただ人としてどうかというだけが肝心なのだ。男であるとか女であるとかよりも、人としてどうであるかということの方が、遥かに難しいことを美和も分かっている。
人としてどうかという意味では、自分に自信がない。でも、女としても、まだ自分が魅力的だという自信もない。もちろん、仁が自分を想ってくれている気持ちを疑っているわけではない。
だが、もしも大和竹流がいなかったら、本当に美和は仁の心の一番大事な場所にいることができるのだろうか、と思った時、美和は悶えるほどに嫉妬した。真に仁の心の一部でも持っていかれるのは、恐ろしく苦しいことだった。あの仁の従妹だといった女にしても、美和の心を引っ掻き回す存在にはならなかったのに。
真だけは違っている。
美和が真を恋するのと同じくらい、あるいはそれ以上に深い思いを籠めて、仁は真を見つめている。何故なら、真が狂うほどに苦しむ姿を見てしまったからだ。同情と哀れみ、愛おしさと苦しさが、仁の中に湧き上がってしまったのだ。
だからあの時、美和は動くことができなかった。仁の従妹だという女に馬鹿にされても、美和には痛いほどに仁の心のうちが分かってしまっただけに、動くことも止めることもできなかったのだ。
もしかすると、仁の傍に真をいさせたくないから、美和は真を雇おうというイタリア人に真を押し付けたのかもしれない。真はまだ逡巡していた。もちろん、真が大和竹流の傍にいたいと思っているのは事実だし、間違ったことをしたわけではないはずだが、美和の本心は仁と真を離しておきたかった、というのもまた事実なのかもしれない。
豪快で屈託がなく、はばかりなく複数の情人を持ち、ヤクザだけに厳つく根性の据わった男ではあるが、美和は仁がどれほどに繊細な一面を持っているかを知っている。美和に対して仁がどれほどに気を遣ってくれているか、それを知っているのは美和だけだった。
この男を愛していると美和は思った。この男に狂うほどに求められたい。真が大和竹流を想うように、あれほどに苦しく激しく求められたいし、美和もまた求めたいと思った。
ずっと考えていたのだ。
もしも仁が狙われたら、迷わず美和は仁の盾になれるだろうか。
真はいつでも大和竹流のためになら、自らの身体で盾になることができるだろう。そして美和にはまだそこまでの実感も決意もない。そういう場面にならなければ決して実感することなどできないのだろうが、それでもその時はいつやってくるか分からない。仁はそういう世界に生きている。
気を遣われたいわけではない。全てを忘れるくらいに求めて欲しい、そうすればきっと美和はもっとこの男に惚れることができる。そして、この男のために全てを投げ出すことができる。誰にも渡したくない。
行こうよ、と美和は仁に声を掛けた。
「本当にいいのか」
仁が静かに聞いてくる。
「男ってのは、はいそうですか、って言えないんでしょ」
見上げて言うと、脈絡が分かったのか分からないままなのか、仁はそうだなと呟いた。
「仁さんは、先生を見てて苦しかった?」
仁は答えなかった。
「私、自惚れてもいい?」
美和は、まだ深雪を乗せた列車の行方を見送っている真を見つめたまま尋ねた。仁に、私だけを見てと言いたかった。
「美和にはもっと当たり前の、いつも生き死にが目の前に転がっているようなんじゃない未来があるって、仁さんがそう思ってくれてたんだって、多少は先生自身のことも心配したかもしれないけど、だから先生を見ながら、仁さんが私のために苦しんでくれていたんだって、そう思ってもいい?」
仁も、ホームの端の真の姿を見つめている。美和は今の自分の言葉に、仁が何を天秤にかけているのか、まるで最後の審判の結果を待つような気持ちで息をこらえていた。
やがて仁は美和の隣で深く息を吸い込み、静かに吐き出した。
「それ以外に何がある? 真はあの男のものだ。俺が何かを言うような立場じゃないさ。だが、お前は俺のものだ。少なくとも、今はまだ」
美和は俯き、静かに心を決め、顔を上げた。今、畳み掛けておかないと、また仁の心も美和自身の心も、中途半端に壊れそうな気がした。
「仁さん、私を抱いて。夜まで待ちたくない」
仁は美和の顔を見つめ、優しく、多分無理なほど優しく微笑んだ。
「マンションに行こうか? 我慢できなけりゃ、近くのホテルだな」
「そうじゃないの。高円寺の屋敷で抱いて欲しい。仁道組次代組長北条仁の女として」
この混乱や感情の渦の中から抜け出すには、そうしなければならないと美和は思っていた。仁は暫くの間、信じられないような顔をして美和を見ていた。
駅の雑踏の中、仁と美和の周りでだけ、時間が止まったように静かだった。
美和は仁の顔を見つめた。男前というわけではないのかもしれないが、その重ねてきた人生を刻んだ色気のある顔つきだった。引き結ばれた唇の強い張りを見つめながら、美和は今すぐにでもこの唇に触れたい、この唇に求められて狂ってみたいと思った。
「私は、先生として初めて本当にいったよ。その時、先生はいろんなこと全部ひっくるめて、一切捨てて抱いてくれた。どうして仁さんはそうじゃないの。私をいかせてよ。仁さんに無茶苦茶に求められて抱かれたい」
仁はしばらく、目の前で何が起こっているのかわからないような顔をしていた。やがて目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
「駅のホームで話すには、いささか重い話だな」
美和は黙って仁を見つめる。
「あいつらを見て触発されただけなら、少し時間を置いて考えたほうがいいかもしれないぞ」
「私は先生に嫉妬してるの、いろんな意味で。私は仁さんの本当の女になりたい。仁さんにそれができないんなら、別れるしかないよ」
美和は自分で言っておきながら、息を飲み込んだ。飲み込んでから、じわりと目の内が熱くなった。俯いた美和の目に映る仁と自分の足が、曇って見えなくなった。
長い沈黙の後で、仁が美和の頭の上で息を吐き出した。
美和は顔を上げた。仁の視線の先には、ホームの端で煙草に火をつけた真がいる。
「お前も真も馬鹿だよ」
そう言ってから仁はようやく美和を見た。その目のうちには愛おしく苦しいほどの迷いと苦しみと、何もかもを受け入れようという強い決意が見て取れた。
「美和、お前も、奈落の底まで付き合うか」
それからはどちらも何も話さないまま、中央線に乗って、新宿で乗換え、高円寺に着くと、北条の屋敷までの十分ほどの間、ただ黙って手が触れるか触れないかの距離を保ったまま歩いた。
嵐の気配は高まり、もう空は落ちてきそうなほど重く感じた。二人が屋敷の門に辿り着いたとき、ついにその溜まりきった重みを支えきれなくなった空は、大粒の雨を地上に叩きつけ始めた。
今、始まった嵐の中、仁と美和はお互いを見詰め合っていた。
慌てて門を開けにきたのであろう舎弟が、彼らに挨拶をしようとした瞬間。
仁は突然美和を抱き上げた。美和は大粒の雨をまともに顔に受けながら、これは祝福の雨だと思った。
仁と今から獣のように愛し合う、そしてきっと美和はこの男にもっと惚れる。
「仁道組次代組長北条仁が、花嫁を連れ帰った」
仁の太い大きな声は、雷鳴の中を屋敷の奥まで貫いたように思った。迎えに出てきていた舎弟たちは、一瞬背筋を伸ばし、それから申し合わせたように皆が頭を下げた。
「若、姐さん、ようお戻りで」
* * *
真が北条家に挨拶に行ったとき、仁は軽い調子で、まあ上がれよ、と言って屋敷内に真を招き入れた。大柄ないつものボディガードが真にタオルを渡し、真は身体に張り付くようなシャツから、僅かに水気をふき取った。
仁は座敷に真を待たせて奥に行っていたが、しばらくすると戻ってきて、真に細かく綺麗な龍の彫り物の鞘がついた短剣を渡した。
「使えるか?」
短剣の扱いは、中学生の頃、竹流が教えてくれたことがあった。功が失踪して葉子とふたりきり残された時、竹流に、お前はどうしたいかと聞かれて、葉子を守るためなら何でもする、と答えた。
竹流は護身術から格闘技のひと通りを教えてくれたが、ついでに絶対負けない喧嘩の仕方や短剣の扱いも教えてくれたことがあったのだ。もちろん短剣に関しては、祖父の長一郎と同じように、絶対に使うな、しょうもない相手には「気」だけ見せればいい、と付け加えていたが。
「多分」
「持っていけ。お守り以上の何かの役には立つだろう。その剣はこの家のお宝だからな、見た目は工芸品みたいなもんかも知れんが、刃も何とか言う昔の名工が鍛えたものらしいし、手入れもよく行き届いているから、しっかり切れる」
「そんなものをもらうのは」
「親父がお前にやれ、と言うんだ。もらっとけ」
真は少しの間黙り、頭を下げた。そして、顔を上げて仁を見た時、その表情の中にも変化を感じた。
誰もが皆、答えを己の力で探し出していく。そしてその先にあるのは、その決心に責任を取ることができるのは自分自身だけだという揺るがない心だった。静かな気持ちで、真は仁の目を見つめた。
いつか、この男に。
何かを思ったはずの真は心に浮かんだ言葉の先を、心の内に呑み込んで気が付かなかったふりをした。
運命は、あるいは必然は、もう既に回り始めた歯車を止めることはないだろう。
竹流の雑誌のインタヴューが寺崎孝雄の残酷な感情に火をつけたように、蓮生千草が思い立って届けた新津圭一の手帳が香野深雪に真実に立ち向かう勇気を与えたように、大和竹流の足跡を追いかけた真が蓮生千草に会ったことが、蓮生家の蔵の地下から、悲しい運命に沈んだロシアの姫君の白骨死体を救い上げたように、そしてその結果として蓮生千草が蓮生家の終焉を決心したように、新宿の闇に潜んでいた女の情念がロシアからやってきたフェルメールの絵によって火がつき、澤田顕一郎を代議士の椅子から引き摺り下ろしたように、しかし澤田顕一郎が代議士の席と引き換えに彼自身の若き日の情熱に再び出会ったように、ひとつひとつの出来事は無関係に見えて、全てが絡み合い、明らかに必然の成した結果として、今がある。
大和竹流が寺崎昂司のために己の身を犠牲にしようとしたことが彼を窮地に陥れ、そのことが真の感情に火をつけてしまったことも、だからこそ真はその自らが迸らせた炎と同じ色の炎を持つ珠恵と出会うことになったのも、何もかも必然が縫った網目のように絡み合い、偶然に、しかし確かにそのようにしかならなかった結論をその度ごとに紡ぎだした。すべて、こうなるように定まっていたかのように。
そしてこれはここでは終わっていない。まだ先に繋がっていく。
始めは仁とて、真にとってはたまに言い寄ってくる、しかし決して手を出してくることのない事務所のオーナーでしかなかったはずだった。だが、今は違う。その言葉も存在も、この数ヶ月の間にすっかり意味合いを変えてしまっていた。いつか、北条仁は真の命の肝心要のどこかに食い込んでくる、その降って湧いたような確信を、真は静かな気持ちで受け止めていた。
「色々と済みません」
「改まって言うな。まあ、とにかく身体には気をつけろよ。食うものが変わると、人間、壊れちまうことがあるからな」
真はちょっと笑んだ。
「まるで二度と帰ってこないみたいですね」
「その可能性もあるだろうが。あいつ次第だろうけどな」
真は手元の短剣の龍を見つめた。そうか、そういう可能性もあるんだな、と他人事のように思った。だが、竹流にはまだ何も確かめていない。竹流が拒めば真はここに帰ってくるしかなかった。
真は短剣を有り難く貰うことにした。暫くの間、仁も真も何も話さなかった。雨脚は今朝から徐々に勢いを増し、風の音が強くなってきている。昼間のはずだったが、すでに夕方にでもなったような薄暗い空気の中、仁の穏やかな声が伝わってくる。
「俺がお前を弟分として大事に思ってることは忘れるな。いや、そうじゃないな。もし、お前とあいつがのっぴきならない事になって、煮詰まってどうしようも耐えられなかったら、俺のところに来い。そのことを忘れるな」
真は静かな気持ちで仁を見つめ、そして頷いた。
遥か遠くで、人の声、車の行き交う音、出自のはっきりしない音楽の断片が、強くなってきた風の音に引っ掻き回されて、小さな渦となっている。それらは今はまだ遠くに留まったままで、真のいる場所にまでは入り込んでこなかった。
座って向かい合ったまま、仁は煙草をくわえる。吸うか、というようにケースを差し出してきたが、真は首を横に振った。
「仁さん」
「ん?」
煙を吐き出しながら、仁が曖昧な返事を寄越す。真は少しだけ躊躇い、顔を上げた。
「あのラブホテルの廃墟」
何を言い出すのか、というように仁が真を見つめている。珠恵が縫い付けていた発信機は、福嶋に見つかって捨てられた。ならば、誰かが北条家に知らせない限り、あのタイミングで仁があの場所に現れることはできなかったはずだった。
「あなたに場所を知らせたのは誰ですか」
仁はしばらく考えていたように見えた。やがて、豪勢な鉄製の灰皿に灰を落としながら答える。
「わからん。匿名の電話だった。あのラブホテルに着いてお前の顔を見るまで、ガセじゃないかと疑っていたんだが」
仁は息をついた。
「善意の第三者とは思えんけどな」
武史だろうか。いや、彼は彼自身の手で、真が手を下すことを止めるつもりだったはずだ。それならば、あの場所を知っていて、あのタイミングで、つまり真が手を下すかどうかのギリギリのタイミングで、北条仁をあの場所に誘い込む電話をかけることができたのは、二人しかいない。
福嶋鋼三郎か、寺崎昂司だ。
あのタイミングが偶然ならば、寺崎昂司かも知れない。あのタイミングが仕組んだものなら福嶋鋼三郎かもしれない。だが、福嶋鋼三郎が、最後の最後に気が変わって、真が手を汚すことを食い止めようとするほど善人であるとは思えない。しかし、運を天に任せるつもりで、つまり面白がって北条仁を寄越したのなら、あり得ない話ではない。
あの男ならやりかねない。最後の最後に志穂に助け船を寄越したように、真にも救命艇を差し向けてやろうと思ったのか。乗るかどうかはお前らの勝手だと言いながら。
だが、もうどちらにも確かめることはないだろう。寺崎昂司はこの世になく、福嶋鋼三郎に会うこともない。
ただ、ガセかもしれない電話を受けて、少なくとも北条仁はすっとんで来てくれたのだ。それだけは確かだった。
「ありがとうございます」
「あ?」
仁は聞こえないふりをしたのか、考え事をしていたのか、曖昧に声を出しただけだった。
仁は玄関まで真を送りだしてくれた。縁側を歩いているとき、仁が急に歩を止めて真を振り返った。そしていきなり真の腕を捕まえて唇にキスをしてきた。真は、実のところそういう状況をほんの少し予想していた気がした。
仁はすぐに真を離し、本当はもっと熱いキスをしたいんだがな、と言った。真は、美和ちゃんに言いつけますよ、と答えた。
それはまずいな、と仁はつぶやいている。真はその仁の表情に、少しだけ軽い嫉妬を覚えたような気がした。
確かにいつもの調子のよい仁に変わりはなかったが、そこにはっきりとした芯のようなものを感じたのだ。仁もまた、何かを決意したのかもしれない。
「たまには、電話くらいしてこい。美和も心配する」
真は頷き、結局我慢がならないように仁が抱き締めてきたのに任せた。
「仁さん」
「何だ」
「昇さんのこと」
言いかけて、妙だなと思い真は口をつぐんだ。葛城昇は立派なひとりの人間であり、それを真が仁に頼むというのは筋違いのような気がした。だが、仁はあえて答えた。
「任せとけ。俺は無理をしている男が好きだって言わなかったか。あいつはああ見えて、かなり繊細な男だからな。もっとも男ってのはみんな繊細な生き物だよ。女は時々、突然化けるけどな」
真は仁の顔を見つめ、美和のことはわざわざ頼む必要はないらしいと悟った。
北条家を出ると、足元は道と溝の区別も全く見分けがつかないようになっていた。駅までの短い距離を、北条の舎弟が送ってくれる。真は礼を言って駅に走りこんだ。
真は指定されたホテルに夕刻に入り、竹流と一緒に京都から戻ってきているはずの葉子と待ち合わせたロビーで、一本、煙草を吸った。煙草を吸い終わるころに、葉子が享志と一緒に現れ、チェザーレが予約してくれていたレストランの個室で食事をとった。
誰も何も今後のことについて口を開かなかった。しゃべりすぎることを恐れたからなのか、何もかも予想できないことだと思っていたからなのか、定かではなかった。
食事の後も、彼ら三人、つまり従兄妹同士の兄妹と、友人同士のような夫婦、義理とはいえ兄弟には違いない三人は、ただ黙ってロビーに座っていたが、やがて真は、富山の屋敷を出て二人で住むことを決めた葉子と享志が、彼らの新しい住まいに戻るのをホテルの玄関で見送った。
別れ際に享志が真の腕を摑み、何も言わないまま真の顔を見つめ、それから想いを籠めたようにして真の腕を軽く何度か叩いた。葉子はと言えば、色々あったけど結果的に何もかもが思い通りになったという満足そうな顔をしているように見えた。
もしかするとこの妹は、真以上に真の芯からの願いを知っていて、起こったことも、これから起こることも全てひっくるめてその手に握っているのだろう。
そして真は、もうこうなっては引くに引けずに指定された部屋へと上がっていった。
(つづく)




ようやく、お待ちかねの本編最終シーンです。
待っていてくださる人はいないかもしれませんけれど^^; いや、そもそも読者もほとんどいないこの物語に、ただ長いばかりで大変なのに、ここまでお付き合いくださった少数の方々、皆様の支えだけで続けてこれました。本当にお礼申し上げます。
あ。前回予告シーンは次回にちゃんと出てきます(*^_^*)
<次回予告>
「フェルメールは、持ち主に返すつもりだった」
「そのキエフのじいさん、死んだそうだよ」
「昇に聞いたよ。一目、マリアを見せてやりたかったんだけどな」
「ロマノフ王朝復活を目論んでいた『青い血』とかいう組織の妄想爺さんだぞ。ネオナチみたいな組織だ」
「そうだな。だけど、マリアを見たいという気持ちは嘘じゃなかったと思う」
「詐欺師のくせに、あんたは人が好すぎる」



* * *
朝の上野駅には人と荷物と、各種色々な言葉と泣き声、喚き声、笑い声が錯綜している。美和は、深雪のために荷物を列車の中に持って入った仁の後姿を見送り、それから改めて深雪を見た。
悔しいけど、綺麗な人だと改めて思った。まだ杖は痛々しいが、それでも深雪は随分良くなっていた。
「ごめんなさい。先生には言ったんだけど」
深雪は微笑んだ。
「もういいのよ。ちゃんと、話もできているから」
深い想いに支えられた優しい笑顔だった。仁が列車の中から出てくると、深雪はありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。
「困ったことがあったら、いつでも仁道組に言ってきな」
ヤクザに相談するのはどうなのよ、と思ったが、深雪は穏やかな表情のまま微笑んでいた。それから列車の発車までのわずか五分ほどの間、話す言葉はありきたりの、気をつけてとか、元気でとかのアレンジ程度になりながらも、美和は一生懸命深雪に話しかけていた。
真が付き合っている銀座のバーのママ、というので敵愾心を感じていた始めのころからすれば、今は随分時間が過ぎ気持ちも変わってしまったな、と不思議な思いだった。
やがて深雪は列車の中へ入った。
これ以上は言葉もなくなり、美和も仁も黙っていた。深雪はもう一度有難うと言った。
そして、この喧騒の中では静か過ぎるほどの音で、ドアは閉まった。
先生はついに来なかったのか、と美和は小さく息をついた。ちょっと睨むように仁を見ると、仁の目が遠くホームの端、列車の進行方向の先端に向けられている。
美和はその仁の視線の先を見て、あ、と声を上げた。
「男ってのはさ、そうするつもりだったのに先に言われると、はいそうですかってきけないこともあるんだよ」
美和は動き始めた列車の中の深雪に、慌ててホームの先を指差した。深雪は不思議そうな顔をしていた。
お願い、気付いて、と美和は思った。
列車はスピードを上げる。深雪の顔が見えなくなり、美和は遠く、ホームの端に立っている真の姿に視線を移し、不思議なほど静かな気持ちになっていた。目と目が合わなくても、彼らは互いに気が付くのだろうと、美和はそう思った。
列車が走り去り、人影が疎らになった後も、真はホームの端でずっと遠くを見つめたまま立っている。美和はその小さな影を心から愛しいと思って見つめていた。
だが、この愛おしさにはもう苦しみがない。多分、美和は仁を愛してから、別の男に初恋をしたのだ。本当なら初恋が先にあって、叶わない淡い恋心を知る。叶うことが目的ではないから、その恋は叶わないまま原型を保ち、いつまでも心の内に美しい思い出として残される。このわずか数ヶ月の間に、美和は淡く、激しくもある初恋をして、そしてそこから苦しみがぽつんと抜け落ちた途端に、綺麗な思い出になってしまった。
この恋は終わらない、と思っている。それでも、その人を自分だけのものにしたいという思いは全くなくなっている。いや、そんなものは始めからなかったのかもしれない。あの夜中の電話を盗み聞きした時に、美和の初恋はすでに思い出に変りつつあったのだろう。
だが、仁を失うことは怖い。仁が他の誰かのものになるかもしれない、と思ったとき、身体の内側から襲い掛かってきたような喪失感と嫉妬は、真に対しては全く感じることのないものだった。
北条仁は美和のものだったはずだ。それなのに、どんな形にしても、仁が真に特別な感情を持っていることに気が付いてからは、心がぐらついていた。
仁は真に惚れているのだ。
仁にとっては恋愛であろうとなかろうと、性別の問題はなく、ただ人としてどうかというだけが肝心なのだ。男であるとか女であるとかよりも、人としてどうであるかということの方が、遥かに難しいことを美和も分かっている。
人としてどうかという意味では、自分に自信がない。でも、女としても、まだ自分が魅力的だという自信もない。もちろん、仁が自分を想ってくれている気持ちを疑っているわけではない。
だが、もしも大和竹流がいなかったら、本当に美和は仁の心の一番大事な場所にいることができるのだろうか、と思った時、美和は悶えるほどに嫉妬した。真に仁の心の一部でも持っていかれるのは、恐ろしく苦しいことだった。あの仁の従妹だといった女にしても、美和の心を引っ掻き回す存在にはならなかったのに。
真だけは違っている。
美和が真を恋するのと同じくらい、あるいはそれ以上に深い思いを籠めて、仁は真を見つめている。何故なら、真が狂うほどに苦しむ姿を見てしまったからだ。同情と哀れみ、愛おしさと苦しさが、仁の中に湧き上がってしまったのだ。
だからあの時、美和は動くことができなかった。仁の従妹だという女に馬鹿にされても、美和には痛いほどに仁の心のうちが分かってしまっただけに、動くことも止めることもできなかったのだ。
もしかすると、仁の傍に真をいさせたくないから、美和は真を雇おうというイタリア人に真を押し付けたのかもしれない。真はまだ逡巡していた。もちろん、真が大和竹流の傍にいたいと思っているのは事実だし、間違ったことをしたわけではないはずだが、美和の本心は仁と真を離しておきたかった、というのもまた事実なのかもしれない。
豪快で屈託がなく、はばかりなく複数の情人を持ち、ヤクザだけに厳つく根性の据わった男ではあるが、美和は仁がどれほどに繊細な一面を持っているかを知っている。美和に対して仁がどれほどに気を遣ってくれているか、それを知っているのは美和だけだった。
この男を愛していると美和は思った。この男に狂うほどに求められたい。真が大和竹流を想うように、あれほどに苦しく激しく求められたいし、美和もまた求めたいと思った。
ずっと考えていたのだ。
もしも仁が狙われたら、迷わず美和は仁の盾になれるだろうか。
真はいつでも大和竹流のためになら、自らの身体で盾になることができるだろう。そして美和にはまだそこまでの実感も決意もない。そういう場面にならなければ決して実感することなどできないのだろうが、それでもその時はいつやってくるか分からない。仁はそういう世界に生きている。
気を遣われたいわけではない。全てを忘れるくらいに求めて欲しい、そうすればきっと美和はもっとこの男に惚れることができる。そして、この男のために全てを投げ出すことができる。誰にも渡したくない。
行こうよ、と美和は仁に声を掛けた。
「本当にいいのか」
仁が静かに聞いてくる。
「男ってのは、はいそうですか、って言えないんでしょ」
見上げて言うと、脈絡が分かったのか分からないままなのか、仁はそうだなと呟いた。
「仁さんは、先生を見てて苦しかった?」
仁は答えなかった。
「私、自惚れてもいい?」
美和は、まだ深雪を乗せた列車の行方を見送っている真を見つめたまま尋ねた。仁に、私だけを見てと言いたかった。
「美和にはもっと当たり前の、いつも生き死にが目の前に転がっているようなんじゃない未来があるって、仁さんがそう思ってくれてたんだって、多少は先生自身のことも心配したかもしれないけど、だから先生を見ながら、仁さんが私のために苦しんでくれていたんだって、そう思ってもいい?」
仁も、ホームの端の真の姿を見つめている。美和は今の自分の言葉に、仁が何を天秤にかけているのか、まるで最後の審判の結果を待つような気持ちで息をこらえていた。
やがて仁は美和の隣で深く息を吸い込み、静かに吐き出した。
「それ以外に何がある? 真はあの男のものだ。俺が何かを言うような立場じゃないさ。だが、お前は俺のものだ。少なくとも、今はまだ」
美和は俯き、静かに心を決め、顔を上げた。今、畳み掛けておかないと、また仁の心も美和自身の心も、中途半端に壊れそうな気がした。
「仁さん、私を抱いて。夜まで待ちたくない」
仁は美和の顔を見つめ、優しく、多分無理なほど優しく微笑んだ。
「マンションに行こうか? 我慢できなけりゃ、近くのホテルだな」
「そうじゃないの。高円寺の屋敷で抱いて欲しい。仁道組次代組長北条仁の女として」
この混乱や感情の渦の中から抜け出すには、そうしなければならないと美和は思っていた。仁は暫くの間、信じられないような顔をして美和を見ていた。
駅の雑踏の中、仁と美和の周りでだけ、時間が止まったように静かだった。
美和は仁の顔を見つめた。男前というわけではないのかもしれないが、その重ねてきた人生を刻んだ色気のある顔つきだった。引き結ばれた唇の強い張りを見つめながら、美和は今すぐにでもこの唇に触れたい、この唇に求められて狂ってみたいと思った。
「私は、先生として初めて本当にいったよ。その時、先生はいろんなこと全部ひっくるめて、一切捨てて抱いてくれた。どうして仁さんはそうじゃないの。私をいかせてよ。仁さんに無茶苦茶に求められて抱かれたい」
仁はしばらく、目の前で何が起こっているのかわからないような顔をしていた。やがて目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
「駅のホームで話すには、いささか重い話だな」
美和は黙って仁を見つめる。
「あいつらを見て触発されただけなら、少し時間を置いて考えたほうがいいかもしれないぞ」
「私は先生に嫉妬してるの、いろんな意味で。私は仁さんの本当の女になりたい。仁さんにそれができないんなら、別れるしかないよ」
美和は自分で言っておきながら、息を飲み込んだ。飲み込んでから、じわりと目の内が熱くなった。俯いた美和の目に映る仁と自分の足が、曇って見えなくなった。
長い沈黙の後で、仁が美和の頭の上で息を吐き出した。
美和は顔を上げた。仁の視線の先には、ホームの端で煙草に火をつけた真がいる。
「お前も真も馬鹿だよ」
そう言ってから仁はようやく美和を見た。その目のうちには愛おしく苦しいほどの迷いと苦しみと、何もかもを受け入れようという強い決意が見て取れた。
「美和、お前も、奈落の底まで付き合うか」
それからはどちらも何も話さないまま、中央線に乗って、新宿で乗換え、高円寺に着くと、北条の屋敷までの十分ほどの間、ただ黙って手が触れるか触れないかの距離を保ったまま歩いた。
嵐の気配は高まり、もう空は落ちてきそうなほど重く感じた。二人が屋敷の門に辿り着いたとき、ついにその溜まりきった重みを支えきれなくなった空は、大粒の雨を地上に叩きつけ始めた。
今、始まった嵐の中、仁と美和はお互いを見詰め合っていた。
慌てて門を開けにきたのであろう舎弟が、彼らに挨拶をしようとした瞬間。
仁は突然美和を抱き上げた。美和は大粒の雨をまともに顔に受けながら、これは祝福の雨だと思った。
仁と今から獣のように愛し合う、そしてきっと美和はこの男にもっと惚れる。
「仁道組次代組長北条仁が、花嫁を連れ帰った」
仁の太い大きな声は、雷鳴の中を屋敷の奥まで貫いたように思った。迎えに出てきていた舎弟たちは、一瞬背筋を伸ばし、それから申し合わせたように皆が頭を下げた。
「若、姐さん、ようお戻りで」
* * *
真が北条家に挨拶に行ったとき、仁は軽い調子で、まあ上がれよ、と言って屋敷内に真を招き入れた。大柄ないつものボディガードが真にタオルを渡し、真は身体に張り付くようなシャツから、僅かに水気をふき取った。
仁は座敷に真を待たせて奥に行っていたが、しばらくすると戻ってきて、真に細かく綺麗な龍の彫り物の鞘がついた短剣を渡した。
「使えるか?」
短剣の扱いは、中学生の頃、竹流が教えてくれたことがあった。功が失踪して葉子とふたりきり残された時、竹流に、お前はどうしたいかと聞かれて、葉子を守るためなら何でもする、と答えた。
竹流は護身術から格闘技のひと通りを教えてくれたが、ついでに絶対負けない喧嘩の仕方や短剣の扱いも教えてくれたことがあったのだ。もちろん短剣に関しては、祖父の長一郎と同じように、絶対に使うな、しょうもない相手には「気」だけ見せればいい、と付け加えていたが。
「多分」
「持っていけ。お守り以上の何かの役には立つだろう。その剣はこの家のお宝だからな、見た目は工芸品みたいなもんかも知れんが、刃も何とか言う昔の名工が鍛えたものらしいし、手入れもよく行き届いているから、しっかり切れる」
「そんなものをもらうのは」
「親父がお前にやれ、と言うんだ。もらっとけ」
真は少しの間黙り、頭を下げた。そして、顔を上げて仁を見た時、その表情の中にも変化を感じた。
誰もが皆、答えを己の力で探し出していく。そしてその先にあるのは、その決心に責任を取ることができるのは自分自身だけだという揺るがない心だった。静かな気持ちで、真は仁の目を見つめた。
いつか、この男に。
何かを思ったはずの真は心に浮かんだ言葉の先を、心の内に呑み込んで気が付かなかったふりをした。
運命は、あるいは必然は、もう既に回り始めた歯車を止めることはないだろう。
竹流の雑誌のインタヴューが寺崎孝雄の残酷な感情に火をつけたように、蓮生千草が思い立って届けた新津圭一の手帳が香野深雪に真実に立ち向かう勇気を与えたように、大和竹流の足跡を追いかけた真が蓮生千草に会ったことが、蓮生家の蔵の地下から、悲しい運命に沈んだロシアの姫君の白骨死体を救い上げたように、そしてその結果として蓮生千草が蓮生家の終焉を決心したように、新宿の闇に潜んでいた女の情念がロシアからやってきたフェルメールの絵によって火がつき、澤田顕一郎を代議士の椅子から引き摺り下ろしたように、しかし澤田顕一郎が代議士の席と引き換えに彼自身の若き日の情熱に再び出会ったように、ひとつひとつの出来事は無関係に見えて、全てが絡み合い、明らかに必然の成した結果として、今がある。
大和竹流が寺崎昂司のために己の身を犠牲にしようとしたことが彼を窮地に陥れ、そのことが真の感情に火をつけてしまったことも、だからこそ真はその自らが迸らせた炎と同じ色の炎を持つ珠恵と出会うことになったのも、何もかも必然が縫った網目のように絡み合い、偶然に、しかし確かにそのようにしかならなかった結論をその度ごとに紡ぎだした。すべて、こうなるように定まっていたかのように。
そしてこれはここでは終わっていない。まだ先に繋がっていく。
始めは仁とて、真にとってはたまに言い寄ってくる、しかし決して手を出してくることのない事務所のオーナーでしかなかったはずだった。だが、今は違う。その言葉も存在も、この数ヶ月の間にすっかり意味合いを変えてしまっていた。いつか、北条仁は真の命の肝心要のどこかに食い込んでくる、その降って湧いたような確信を、真は静かな気持ちで受け止めていた。
「色々と済みません」
「改まって言うな。まあ、とにかく身体には気をつけろよ。食うものが変わると、人間、壊れちまうことがあるからな」
真はちょっと笑んだ。
「まるで二度と帰ってこないみたいですね」
「その可能性もあるだろうが。あいつ次第だろうけどな」
真は手元の短剣の龍を見つめた。そうか、そういう可能性もあるんだな、と他人事のように思った。だが、竹流にはまだ何も確かめていない。竹流が拒めば真はここに帰ってくるしかなかった。
真は短剣を有り難く貰うことにした。暫くの間、仁も真も何も話さなかった。雨脚は今朝から徐々に勢いを増し、風の音が強くなってきている。昼間のはずだったが、すでに夕方にでもなったような薄暗い空気の中、仁の穏やかな声が伝わってくる。
「俺がお前を弟分として大事に思ってることは忘れるな。いや、そうじゃないな。もし、お前とあいつがのっぴきならない事になって、煮詰まってどうしようも耐えられなかったら、俺のところに来い。そのことを忘れるな」
真は静かな気持ちで仁を見つめ、そして頷いた。
遥か遠くで、人の声、車の行き交う音、出自のはっきりしない音楽の断片が、強くなってきた風の音に引っ掻き回されて、小さな渦となっている。それらは今はまだ遠くに留まったままで、真のいる場所にまでは入り込んでこなかった。
座って向かい合ったまま、仁は煙草をくわえる。吸うか、というようにケースを差し出してきたが、真は首を横に振った。
「仁さん」
「ん?」
煙を吐き出しながら、仁が曖昧な返事を寄越す。真は少しだけ躊躇い、顔を上げた。
「あのラブホテルの廃墟」
何を言い出すのか、というように仁が真を見つめている。珠恵が縫い付けていた発信機は、福嶋に見つかって捨てられた。ならば、誰かが北条家に知らせない限り、あのタイミングで仁があの場所に現れることはできなかったはずだった。
「あなたに場所を知らせたのは誰ですか」
仁はしばらく考えていたように見えた。やがて、豪勢な鉄製の灰皿に灰を落としながら答える。
「わからん。匿名の電話だった。あのラブホテルに着いてお前の顔を見るまで、ガセじゃないかと疑っていたんだが」
仁は息をついた。
「善意の第三者とは思えんけどな」
武史だろうか。いや、彼は彼自身の手で、真が手を下すことを止めるつもりだったはずだ。それならば、あの場所を知っていて、あのタイミングで、つまり真が手を下すかどうかのギリギリのタイミングで、北条仁をあの場所に誘い込む電話をかけることができたのは、二人しかいない。
福嶋鋼三郎か、寺崎昂司だ。
あのタイミングが偶然ならば、寺崎昂司かも知れない。あのタイミングが仕組んだものなら福嶋鋼三郎かもしれない。だが、福嶋鋼三郎が、最後の最後に気が変わって、真が手を汚すことを食い止めようとするほど善人であるとは思えない。しかし、運を天に任せるつもりで、つまり面白がって北条仁を寄越したのなら、あり得ない話ではない。
あの男ならやりかねない。最後の最後に志穂に助け船を寄越したように、真にも救命艇を差し向けてやろうと思ったのか。乗るかどうかはお前らの勝手だと言いながら。
だが、もうどちらにも確かめることはないだろう。寺崎昂司はこの世になく、福嶋鋼三郎に会うこともない。
ただ、ガセかもしれない電話を受けて、少なくとも北条仁はすっとんで来てくれたのだ。それだけは確かだった。
「ありがとうございます」
「あ?」
仁は聞こえないふりをしたのか、考え事をしていたのか、曖昧に声を出しただけだった。
仁は玄関まで真を送りだしてくれた。縁側を歩いているとき、仁が急に歩を止めて真を振り返った。そしていきなり真の腕を捕まえて唇にキスをしてきた。真は、実のところそういう状況をほんの少し予想していた気がした。
仁はすぐに真を離し、本当はもっと熱いキスをしたいんだがな、と言った。真は、美和ちゃんに言いつけますよ、と答えた。
それはまずいな、と仁はつぶやいている。真はその仁の表情に、少しだけ軽い嫉妬を覚えたような気がした。
確かにいつもの調子のよい仁に変わりはなかったが、そこにはっきりとした芯のようなものを感じたのだ。仁もまた、何かを決意したのかもしれない。
「たまには、電話くらいしてこい。美和も心配する」
真は頷き、結局我慢がならないように仁が抱き締めてきたのに任せた。
「仁さん」
「何だ」
「昇さんのこと」
言いかけて、妙だなと思い真は口をつぐんだ。葛城昇は立派なひとりの人間であり、それを真が仁に頼むというのは筋違いのような気がした。だが、仁はあえて答えた。
「任せとけ。俺は無理をしている男が好きだって言わなかったか。あいつはああ見えて、かなり繊細な男だからな。もっとも男ってのはみんな繊細な生き物だよ。女は時々、突然化けるけどな」
真は仁の顔を見つめ、美和のことはわざわざ頼む必要はないらしいと悟った。
北条家を出ると、足元は道と溝の区別も全く見分けがつかないようになっていた。駅までの短い距離を、北条の舎弟が送ってくれる。真は礼を言って駅に走りこんだ。
真は指定されたホテルに夕刻に入り、竹流と一緒に京都から戻ってきているはずの葉子と待ち合わせたロビーで、一本、煙草を吸った。煙草を吸い終わるころに、葉子が享志と一緒に現れ、チェザーレが予約してくれていたレストランの個室で食事をとった。
誰も何も今後のことについて口を開かなかった。しゃべりすぎることを恐れたからなのか、何もかも予想できないことだと思っていたからなのか、定かではなかった。
食事の後も、彼ら三人、つまり従兄妹同士の兄妹と、友人同士のような夫婦、義理とはいえ兄弟には違いない三人は、ただ黙ってロビーに座っていたが、やがて真は、富山の屋敷を出て二人で住むことを決めた葉子と享志が、彼らの新しい住まいに戻るのをホテルの玄関で見送った。
別れ際に享志が真の腕を摑み、何も言わないまま真の顔を見つめ、それから想いを籠めたようにして真の腕を軽く何度か叩いた。葉子はと言えば、色々あったけど結果的に何もかもが思い通りになったという満足そうな顔をしているように見えた。
もしかするとこの妹は、真以上に真の芯からの願いを知っていて、起こったことも、これから起こることも全てひっくるめてその手に握っているのだろう。
そして真は、もうこうなっては引くに引けずに指定された部屋へと上がっていった。
(つづく)



ようやく、お待ちかねの本編最終シーンです。
待っていてくださる人はいないかもしれませんけれど^^; いや、そもそも読者もほとんどいないこの物語に、ただ長いばかりで大変なのに、ここまでお付き合いくださった少数の方々、皆様の支えだけで続けてこれました。本当にお礼申し上げます。
あ。前回予告シーンは次回にちゃんと出てきます(*^_^*)
<次回予告>
「フェルメールは、持ち主に返すつもりだった」
「そのキエフのじいさん、死んだそうだよ」
「昇に聞いたよ。一目、マリアを見せてやりたかったんだけどな」
「ロマノフ王朝復活を目論んでいた『青い血』とかいう組織の妄想爺さんだぞ。ネオナチみたいな組織だ」
「そうだな。だけど、マリアを見たいという気持ちは嘘じゃなかったと思う」
「詐欺師のくせに、あんたは人が好すぎる」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節
[雨180] 第38章 そして、地球に銀の雫が降る(5)酒と泪と男の言い訳
本当は一気にアップしようと思ったのですが、いくらなんでも長すぎるので、やっぱり切りました。一気にアップすると13000文字あって……
それはともかく、遂にラストシーンその1です。
でも、この話はエピローグまで繋がっているので、まだ「つづく」なのですけれど。
取りあえず今回はあの男の言い訳をいっぱい聞いてやってください。
あ、また孫タイトルで遊んでいますが、TOM-Fさんから頂いたコメントにあった『酒と泪と男と女』から……女がいないので削ったら座りが悪いので、言い訳をつけ足したら、せっかくの歌のイメージが飛んじゃった。あれは「男は黙って……」なのに、喋ってる?
でもまぁ、あの二人ですから、相変わらず、言葉足らずですけどね。
登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】登場人物
それはともかく、遂にラストシーンその1です。
でも、この話はエピローグまで繋がっているので、まだ「つづく」なのですけれど。
取りあえず今回はあの男の言い訳をいっぱい聞いてやってください。
あ、また孫タイトルで遊んでいますが、TOM-Fさんから頂いたコメントにあった『酒と泪と男と女』から……女がいないので削ったら座りが悪いので、言い訳をつけ足したら、せっかくの歌のイメージが飛んじゃった。あれは「男は黙って……」なのに、喋ってる?
でもまぁ、あの二人ですから、相変わらず、言葉足らずですけどね。



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部屋を尋ねると、おそらく明日の打ち合わせでもあるのかと思っていたのに、チェザーレからは特別な伝言はなく、ただ明日のフライトの時間が残されていただけだった。
部屋は最上階のスイートルームで、真はチェザーレ自身がどこの部屋に泊まっているのかも知らされなかった。部屋には高瀬がいて、真が来たのを見て、それでは私はこれで、と竹流に挨拶したようだった。
真が高瀬をドアで見送ると、高瀬はやはり何も言わず、ただもう何もかもお任せなさい、という気配で真の顔を見つめ、ただ失礼いたします、と言って去った。
竹流は移動ですっかり疲れたのか、ベッドに横になっていたが、真が寝室に入ると起き上がった。そのシルエットは随分頼りなく見えて、真は思わず言った。
「大丈夫か、疲れただろうに」
「あぁ、まあ明日飛行機に乗ることを思うと、ぞっとするくらいにはな」
「横になってたほうがいい」
「すっかりなまってしまったなぁ。たったこれだけの移動で頭がくらくらするとは」
「当たり前だ、何週間寝込んでいたと思ってるんだ」
真は、竹流が自分が一緒に行くことを知っているのか知らないのか、どうやって確かめようかと思っていた。高瀬に聞いておけばよかった、と思ったが、例の如く、高瀬に取り付く島はないし、結局自分で確かめるしかなさそうだった。
真は、放っておくと竹流が起き上がったままなのが気になって、ベッドの脇に行ってその身体を抱くようにして横にさせた。
「飯は?」
「葉子たちと食べてきた」
「風呂は?」
「うん、シャワー借りるよ。とにかく寝てろって」
竹流は気持ちが悪いくらい素直だった。真は、身体を横たえて目を閉じた竹流の顔を見てから、バスルームに行き、シャワーを浴びた。浴室の大きな鏡に映る自分の姿を見て、確かに随分やつれたかな、と思った。
このままローマに行くのか、と改めて思った。不安なのかそうでないのかも分からなかった。自分に何ができるのかもわからなかった。
それでも、と真は思った。それでももう引き返す道はない。
しっかりと息を吐き出し、身体を拭くと、そこにあったバスローブをまとった。スリッパを探してクローゼットを開けると、下着からスーツ、靴まで一式、真の身体のサイズにあったものが用意されていた。
つまり、これからは真の着るものも食べるものも全て、ヴォルテラが面倒を見る、という意味なのだろう。改めて覚悟を迫られているような気がして、今更迷っても仕方がないとは言え、一杯くらい引っ掛けないと眠れないだろうと思った。
部屋に戻ると、竹流は眠っているように見えたが、真がプライベートバーのコニャックを開けた気配に気がついたようだった。
「ひとりで飲む気か」
「まだろくでもない肝機能だって聞いたぞ」
「一杯の酒くらいでどうにかなることはないだろう。それに」
真が言葉を切った竹流の顔を見ると、竹流は少しあらぬところを見ていたが、直ぐに割としっかりとした声で続けた。
「弔い酒くらい飲ませてくれよ」
「弔い酒?」
本当のところ、真は竹流の分のグラスももう出していた。寺崎昂司のことを考えて飲みたいかもしれない、と思ったからだった。何も聞くまいと思っていた。だがその時、竹流はぽつりと本当に辛そうに言った。
「俺のテスタロッサの」
え、と思った。
「何言ってんだ。車の一台が何だ」
真の言葉が終わらないうちに、竹流は切り返してきた。
「ただの一台じゃないぞ。あれは、マッテオの親父が俺に作ってくれた、世界で一台のフェラーリだ。今でもあの車のことを考えたら気が狂いそうだ」
真は暫く呆然と竹流を見ていた。
この男はあくまでも自分の心の内を言わない気らしい。真自身も大概だと思うが、この男の痩せ我慢は年季と根性が入っている。仁が、無理をしている男が好きだと言っていたが、無理にも限界があるはずだ。それでもこの男は無理をし続けるのかもしれない。いや、あるいは己の心の内の激しさを知っているからこそ、強く自制を利かせようとしているのかもしれない。
でも、こんなときくらいはちょっと頼ってくれてもいいんじゃないのか。
年を数えて、俺が九つも年下だってのが問題なのか、と考える。そして、彼の年齢を初めて知ったのも、あの雑誌のインタヴューだったな、と思いあたった。年の差を数えられるようになったことに感慨を覚えるのも妙だったが、何故か少しだけ相手の根源的な部分に触れたような気がした。
「じゃあ、また作ってもらえ。でも、あんたが死んでたら、その人は車を作ってやる相手を失っていたことになる」
「親父に顔向けできない」
竹流はぼんやりとした顔で、小さな子どもが大事な玩具を自分の過失で壊してしまったとでもいうような、情けない声を出す。
本当に、冗談でなく心からそう思っているのかもしれない、と真は思った。そして、九つの年の差なんて大したものじゃないな、と考える。
「あんなに大事に乗ってたんだ、それはその人も知ってるはずだ。一緒に頼みに行ってやるから、車ごときでごねるな」
真は、車など丈夫で壊れにくくて走ればいいと思っているので、竹流のこだわりは分からなかった。だが、確かに竹流の愛車を見ていると、その綺麗な流線のフォルムに美を感じることがあった。草原を翔る馬たちの美しさにも似ていたからだ。
竹流は、真の最後の言葉に僅かに顔をしかめたように見えた。真は話の流れの中で竹流が気が付いてくれたならそれもいい、と思っていた。
竹流は真が手渡したグラスを受け取りながら、また少し身体を起こした。
「今日は飲ませてくれないのか」
「さすがにそれだけ元気なら問題ないだろう。ひとりで飲め」
いつもなら「そんな冷たいこと言うなよ」とでも突っ込んでくるはずの男は、黙ってグラスの中の琥珀を見つめている。琥珀は複雑な世界をその内側に取り込んで、静かに揺れさざめいていた。
真は、自分のグラスを竹流のグラスと合わせた。
「あんたのテスタロッサと、それから」
言葉はそれ以上続かなかった。しかし、竹流は少し頷き、やがて何かを振り切るような確かな声で言った。
「それから、田安隆三と寺崎昂司に」
真は暫く竹流の顔を見つめていた。心の重荷は地獄まで持っていく、というような決意を秘めた、張り詰めた表情だった。振り返るな、と言われているのだと思った。
そのまま二人とも一気にグラスを空けた。咽喉から胃まで、焼けるように熱かった。
空になったグラスを見つめている竹流の手から、真がグラスを取り上げると、竹流が思い切ったように顔を上げる。
「もう一杯くらい飲ませてやろうって気にはならないか」
真は呆れたように竹流の顔を見つめた。
「ならない」
一応そうは言ったが、つまらなそうな顔の竹流をちらりと見て、ちょっとだけ可哀相な気持ちになった。竹流は真のほうを見ないまま、取り上げられたグラスのあった場所に、琥珀の残像を見つめている。
やがて言葉もないまま静かに、不自由な右の手を握りしめた。
真は、この男が臆面もなく泣いていることに、今初めて気が付いた。
「俺も」竹流の声は震えていた。「腑甲斐無いな」
真はそれから随分と長い間、竹流の横顔を見つめていた。
祇園『藤むら』の女将が話していた、東寺の講堂で立ち並ぶ仏像の前で立ち尽くし涙を流していたという若い日のこの男の姿を、今、垣間見たような気がした。
その時、うちは旦那はんに恋をしましたんや、この男はんのためならどないな無理もしよう思いましたさかい。
女将の艶やかな声が耳の中によみがえった。
惚れなきゃ駄目よ、と言っていた桜の潔い声を思い出す。惚れてるさ、と真は思っていた。
命を燃やすなら、確かに恋がいい、たとえそのまま散ったのだとしても。
真は、竹流から取り上げたグラスに思い切ってコニャックを足すと、竹流の手をとってそっと持たせてやった。
それから、真ももう一杯、コニャックを飲んだ。
何も話さなかった。時間だけはただ静かに、誰にも気配を感じさせることなく流れている。会えなかった時間、それは不可抗力も意地の張り合いもあったかもしれないが、その時間を取り戻し、お互いの存在を確かめるのには、話さなくても傍にいるだけで十分だと思っていた。
同居して二年半の間、決して身体を求め合うことはなかったのに、ただそこに一緒にいるだけで、やってるのと同じだと言われた。今、目を合わさなくても、思いが本当にぴったりと重なり合うことはないのだとしても、そして、言葉にしなくても考えていることが分かるとまでは言えないにしても、ただ相手の存在を感じているだけで、今は、それでいいと思った。
真は目を閉じ、このホテルの一室を取り囲む大きな空気、遥か天空の彼方で渦巻く嵐の気配、その上に遥かに広がる大宇宙を感じた。雨は地球に降り注ぐ、時に静かに、時に激しく。そして真は、嵐の風を孕みながら翼をその風に乗せて天を舞う、大鷲のカムイを見た気がした。カムイたちはまだそこにいたのだ。この地球の、天にも地にも。
ふと目を開けると、竹流は静かに空のグラスを傾けていた。さすがにもう一杯寄越せとは言わなかった。真は竹流の手からそっとグラスを取り、もう横になったほうがいい、と言った。
「とにかく、寝たほうがいい。明日のことを考えたら」
竹流は真の顔を見つめている。真は目を逸らさなかった。その目を見つめているうちに、真は腹の底から湧き出すような想いに焼かれそうになった。だがそれを言葉にすることなど、到底できそうになかった。
「疲れ過ぎてて、眠れそうにないんだ」
まるで子どものように、いくらか甘えた声を聞かされて、真は一瞬心臓が跳ね上がったような気がした。お前がいなければ俺は駄目になると、珠恵に甘えていたあの声を不意に耳元で聞かされたような気持ちだった。
「俺には誰も信じるなって言っておきながら、自分は馬鹿みたいに信じて、無茶をするからだ」
竹流は少し自嘲するような顔を見せて、それから息を吐き出した。天井を見つめ、そのまま静かに目を閉じる。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと目を開け、言葉を選ぶように話し始めた。
「そうじゃないんだよ。俺は自分がどういう人間だか、本当はよく分かってるんだ。悪魔を心の内に飼っている、そいつをどこか身体の外に追い出したくて、ある場所に閉じ込めたつもりだった。それでも、その鍵を自分だけが持っているのが苦しくて、自分が勝手に信じたいと願った者にも鍵を預けた。誰かを信じることで、浄化されると思っていたのかもしれない。だから、そいつに、鍵と一緒に命も預けてやろうと思った」
真は黙っていた。今は黙ってこの男の言葉を聞いてやろうと思っていた。
「昂司の心が、俺や珠恵と、父親と、皐月との間で揺れ動いていたのは知っていた。彼が最後に誰を信じるのか、本当のところ、俺は疑いもなく、それは俺や珠恵だと思っていた。それに、俺はあいつには返せないほどの恩義もあった。だが、こうなってみると、昂司が本当に俺や珠恵と一緒にいたかったのかどうか、俺の方は疑いもなくそう思っていたし、俺たちの所に来ることで昂司が救われて、自由に、幸福になれると信じていたが、それも本当のところ、俺の一方的な思い込みだったのだろうな」
竹流の声は、全く彼らしくなく、弱々しく聞こえた。
「寺崎さんを助けたくて、佐渡に行ったのか。江田島という男と取引をして、寺崎さんの居場所を教えてもらうとしたのか」
「絵のことも気になっていた。県庁に戻した絵だ。それにまだフェルメールのマリアがどこにあるのか、分かっていなかった。新潟にあることだけは間違いないと思っていたし、江田島と話したら何かが分かると思っていた。ちょっと嵌めてやろうと思ったんだが、相手もなかなかしたたかだった。ロマノフ王朝の琥珀の欠片では騙せなかったというわけだ」
「あれ、本物なのか」
「見たのか?」
「江田島のところで」
竹流は少しの間考えていたようだが、やがて真の顔をしっかりと見て言った。
「俺を、探してくれていたんだな」
「新津圭一の新聞記事を残していたくせに」
竹流はいささか意外そうな顔をした。
「いや、あの時はただ、もし俺に何かあって動けなくなったら困ると思って、新津圭一の自殺がハッタリだという事を誰かに知らせておかなければと、そう思ったんだ。千惠子ちゃんの身に何かあったら取り返しがつかないと思ったし、丁度澤田顕一郎がお前に近づいてきたと聞いたから、もしかして澤田に伝われば、あの男は、香野深雪のためにも動くと思った。香野深雪が動く気配があったから、澤田は放っておかないと思ったんだよ。だが、結局は、お前に辛い思いをさせんだな」
あてにされていたわけではなかったのかと思うと、いささか複雑な気持ちだった。
「お前を巻き込むつもりではなかったんだ。これは昂司と俺の問題だと思っていたし、だから、昇にも東道にも何も話すつもりはなかった。上手く立ち回るつもりだったんだがな、江田島から、昂司の父親から預かっていると言って昂司の小指を見せられた途端に、頭に血が上ってしまった。ちょっと考えたら、向こうが俺をおびき寄せるのが目的だと分かるはずなのに、昂司が俺を逃がしたために父親に監禁されてまた酷い目に遭っているんじゃないかと、焦ったんだ。それに、寺崎孝雄も、もう少し話が通じる相手だと思っていた」
「江田島道比古は、寺崎孝雄に弱みを握られていたんだ。実の姉とできていた。それで、あんたを売れば、秘密も守られて、フェルメールまで手に入ると思っていたんだ」
「フェルメールは、持ち主に返すつもりだった」
「そのキエフのじいさん、死んだそうだよ」
「昇に聞いたよ。一目、マリアを見せてやりたかったんだけどな」
「ロマノフ王朝復活を目論んでいた『青い血』とかいう組織の妄想爺さんだぞ。ネオナチみたいな組織だ」
「そうだな。だけど、マリアを見たいという気持ちは嘘じゃなかったと思う」
「詐欺師のくせに、あんたは人が好すぎる」
竹流は素直に頷いている。
「そういえば、その琥珀、どうした? 江田島のところか」
「いや、返してもらって……レンタカーの中で落としたから」
寺崎昂司の小指を見て、気持ちが悪くなって吐いていた。あのレンタカーは北条の若い衆が返してくれていたから、もしも気が付いていたら、何か言ってくれそうなものだ。いや、真があまりにもとち狂っていたので、すっかり忘れているのかもしれない。あるいは、もしかしてそのままレンタカーの中に残っていたとして、後で忘れ物は北条の家に届くのだろうか。いや、俺は車を借りる時、どこの住所を書いたっけ? 相川の家だ。帰った時も、郵便受けなど、全く見なかった。
「ごめん、明日確かめてくる」
「もういいよ」
「でも、本物なんだろ」
「琥珀の間は焼け落ちたようだが、欠片はあちこちに持ち出されたという。それはそのひとつだけど、まぁ、証明するのは難しいな。だが、あれは太古の自然から生み出されたものだ。大きな力が宿っているんだろう。お前が持ってくれていたらそれでいいし、もしかして地球のどこかにあれば、いつか誰かを救うのかもしれない」
真は答えに窮した。やはり、竹流は真が一緒にローマに行くとは思っていないのだろうか。それとも、分かっていて確認しているのか。どちらにしても、ここを発つ前に、美和に相川の家の郵便受けを確かめるように頼んでおこうと思った。
やがて竹流は少し咳き込み、身体をベッドに沈めて目を閉じた。真はそっと額に手を置いた。顔が赤く見えたので、熱でもあるかと思ったのだ。だが、あるいは久しぶりのコニャックのせいだったのかもしれない。
「あんまり話していると疲れるから、もう寝た方がいいよ」
竹流は答えずに、不意に真のほうを見つめた。そして、言葉を確かめるように、ゆっくりと話し始めた。
(つづく)




シーン、続きます(*^_^*)
最後に聞かなくちゃ。あの言葉を。
<次回予告>
「だが、こうなったからには、お前も考え直したほうがいい」そう言って竹流は少しだけ銀の指輪に視線を向ける。「お前がローマに来たりなどしたら、俺は何をするかわからないぞ」
真は黙って竹流を見つめた。竹流はひとつ息をつき、天井へ視線を向ける。
「今でも、身体が思い通りにならないことで大概いらついている。病院の中で葉子ちゃんがいてくれてたから押さえていただけで、本当のところ自分の感情を制御する自信がない。お前も知ってる通り、あの家の中では特にそうだ」



部屋を尋ねると、おそらく明日の打ち合わせでもあるのかと思っていたのに、チェザーレからは特別な伝言はなく、ただ明日のフライトの時間が残されていただけだった。
部屋は最上階のスイートルームで、真はチェザーレ自身がどこの部屋に泊まっているのかも知らされなかった。部屋には高瀬がいて、真が来たのを見て、それでは私はこれで、と竹流に挨拶したようだった。
真が高瀬をドアで見送ると、高瀬はやはり何も言わず、ただもう何もかもお任せなさい、という気配で真の顔を見つめ、ただ失礼いたします、と言って去った。
竹流は移動ですっかり疲れたのか、ベッドに横になっていたが、真が寝室に入ると起き上がった。そのシルエットは随分頼りなく見えて、真は思わず言った。
「大丈夫か、疲れただろうに」
「あぁ、まあ明日飛行機に乗ることを思うと、ぞっとするくらいにはな」
「横になってたほうがいい」
「すっかりなまってしまったなぁ。たったこれだけの移動で頭がくらくらするとは」
「当たり前だ、何週間寝込んでいたと思ってるんだ」
真は、竹流が自分が一緒に行くことを知っているのか知らないのか、どうやって確かめようかと思っていた。高瀬に聞いておけばよかった、と思ったが、例の如く、高瀬に取り付く島はないし、結局自分で確かめるしかなさそうだった。
真は、放っておくと竹流が起き上がったままなのが気になって、ベッドの脇に行ってその身体を抱くようにして横にさせた。
「飯は?」
「葉子たちと食べてきた」
「風呂は?」
「うん、シャワー借りるよ。とにかく寝てろって」
竹流は気持ちが悪いくらい素直だった。真は、身体を横たえて目を閉じた竹流の顔を見てから、バスルームに行き、シャワーを浴びた。浴室の大きな鏡に映る自分の姿を見て、確かに随分やつれたかな、と思った。
このままローマに行くのか、と改めて思った。不安なのかそうでないのかも分からなかった。自分に何ができるのかもわからなかった。
それでも、と真は思った。それでももう引き返す道はない。
しっかりと息を吐き出し、身体を拭くと、そこにあったバスローブをまとった。スリッパを探してクローゼットを開けると、下着からスーツ、靴まで一式、真の身体のサイズにあったものが用意されていた。
つまり、これからは真の着るものも食べるものも全て、ヴォルテラが面倒を見る、という意味なのだろう。改めて覚悟を迫られているような気がして、今更迷っても仕方がないとは言え、一杯くらい引っ掛けないと眠れないだろうと思った。
部屋に戻ると、竹流は眠っているように見えたが、真がプライベートバーのコニャックを開けた気配に気がついたようだった。
「ひとりで飲む気か」
「まだろくでもない肝機能だって聞いたぞ」
「一杯の酒くらいでどうにかなることはないだろう。それに」
真が言葉を切った竹流の顔を見ると、竹流は少しあらぬところを見ていたが、直ぐに割としっかりとした声で続けた。
「弔い酒くらい飲ませてくれよ」
「弔い酒?」
本当のところ、真は竹流の分のグラスももう出していた。寺崎昂司のことを考えて飲みたいかもしれない、と思ったからだった。何も聞くまいと思っていた。だがその時、竹流はぽつりと本当に辛そうに言った。
「俺のテスタロッサの」
え、と思った。
「何言ってんだ。車の一台が何だ」
真の言葉が終わらないうちに、竹流は切り返してきた。
「ただの一台じゃないぞ。あれは、マッテオの親父が俺に作ってくれた、世界で一台のフェラーリだ。今でもあの車のことを考えたら気が狂いそうだ」
真は暫く呆然と竹流を見ていた。
この男はあくまでも自分の心の内を言わない気らしい。真自身も大概だと思うが、この男の痩せ我慢は年季と根性が入っている。仁が、無理をしている男が好きだと言っていたが、無理にも限界があるはずだ。それでもこの男は無理をし続けるのかもしれない。いや、あるいは己の心の内の激しさを知っているからこそ、強く自制を利かせようとしているのかもしれない。
でも、こんなときくらいはちょっと頼ってくれてもいいんじゃないのか。
年を数えて、俺が九つも年下だってのが問題なのか、と考える。そして、彼の年齢を初めて知ったのも、あの雑誌のインタヴューだったな、と思いあたった。年の差を数えられるようになったことに感慨を覚えるのも妙だったが、何故か少しだけ相手の根源的な部分に触れたような気がした。
「じゃあ、また作ってもらえ。でも、あんたが死んでたら、その人は車を作ってやる相手を失っていたことになる」
「親父に顔向けできない」
竹流はぼんやりとした顔で、小さな子どもが大事な玩具を自分の過失で壊してしまったとでもいうような、情けない声を出す。
本当に、冗談でなく心からそう思っているのかもしれない、と真は思った。そして、九つの年の差なんて大したものじゃないな、と考える。
「あんなに大事に乗ってたんだ、それはその人も知ってるはずだ。一緒に頼みに行ってやるから、車ごときでごねるな」
真は、車など丈夫で壊れにくくて走ればいいと思っているので、竹流のこだわりは分からなかった。だが、確かに竹流の愛車を見ていると、その綺麗な流線のフォルムに美を感じることがあった。草原を翔る馬たちの美しさにも似ていたからだ。
竹流は、真の最後の言葉に僅かに顔をしかめたように見えた。真は話の流れの中で竹流が気が付いてくれたならそれもいい、と思っていた。
竹流は真が手渡したグラスを受け取りながら、また少し身体を起こした。
「今日は飲ませてくれないのか」
「さすがにそれだけ元気なら問題ないだろう。ひとりで飲め」
いつもなら「そんな冷たいこと言うなよ」とでも突っ込んでくるはずの男は、黙ってグラスの中の琥珀を見つめている。琥珀は複雑な世界をその内側に取り込んで、静かに揺れさざめいていた。
真は、自分のグラスを竹流のグラスと合わせた。
「あんたのテスタロッサと、それから」
言葉はそれ以上続かなかった。しかし、竹流は少し頷き、やがて何かを振り切るような確かな声で言った。
「それから、田安隆三と寺崎昂司に」
真は暫く竹流の顔を見つめていた。心の重荷は地獄まで持っていく、というような決意を秘めた、張り詰めた表情だった。振り返るな、と言われているのだと思った。
そのまま二人とも一気にグラスを空けた。咽喉から胃まで、焼けるように熱かった。
空になったグラスを見つめている竹流の手から、真がグラスを取り上げると、竹流が思い切ったように顔を上げる。
「もう一杯くらい飲ませてやろうって気にはならないか」
真は呆れたように竹流の顔を見つめた。
「ならない」
一応そうは言ったが、つまらなそうな顔の竹流をちらりと見て、ちょっとだけ可哀相な気持ちになった。竹流は真のほうを見ないまま、取り上げられたグラスのあった場所に、琥珀の残像を見つめている。
やがて言葉もないまま静かに、不自由な右の手を握りしめた。
真は、この男が臆面もなく泣いていることに、今初めて気が付いた。
「俺も」竹流の声は震えていた。「腑甲斐無いな」
真はそれから随分と長い間、竹流の横顔を見つめていた。
祇園『藤むら』の女将が話していた、東寺の講堂で立ち並ぶ仏像の前で立ち尽くし涙を流していたという若い日のこの男の姿を、今、垣間見たような気がした。
その時、うちは旦那はんに恋をしましたんや、この男はんのためならどないな無理もしよう思いましたさかい。
女将の艶やかな声が耳の中によみがえった。
惚れなきゃ駄目よ、と言っていた桜の潔い声を思い出す。惚れてるさ、と真は思っていた。
命を燃やすなら、確かに恋がいい、たとえそのまま散ったのだとしても。
真は、竹流から取り上げたグラスに思い切ってコニャックを足すと、竹流の手をとってそっと持たせてやった。
それから、真ももう一杯、コニャックを飲んだ。
何も話さなかった。時間だけはただ静かに、誰にも気配を感じさせることなく流れている。会えなかった時間、それは不可抗力も意地の張り合いもあったかもしれないが、その時間を取り戻し、お互いの存在を確かめるのには、話さなくても傍にいるだけで十分だと思っていた。
同居して二年半の間、決して身体を求め合うことはなかったのに、ただそこに一緒にいるだけで、やってるのと同じだと言われた。今、目を合わさなくても、思いが本当にぴったりと重なり合うことはないのだとしても、そして、言葉にしなくても考えていることが分かるとまでは言えないにしても、ただ相手の存在を感じているだけで、今は、それでいいと思った。
真は目を閉じ、このホテルの一室を取り囲む大きな空気、遥か天空の彼方で渦巻く嵐の気配、その上に遥かに広がる大宇宙を感じた。雨は地球に降り注ぐ、時に静かに、時に激しく。そして真は、嵐の風を孕みながら翼をその風に乗せて天を舞う、大鷲のカムイを見た気がした。カムイたちはまだそこにいたのだ。この地球の、天にも地にも。
ふと目を開けると、竹流は静かに空のグラスを傾けていた。さすがにもう一杯寄越せとは言わなかった。真は竹流の手からそっとグラスを取り、もう横になったほうがいい、と言った。
「とにかく、寝たほうがいい。明日のことを考えたら」
竹流は真の顔を見つめている。真は目を逸らさなかった。その目を見つめているうちに、真は腹の底から湧き出すような想いに焼かれそうになった。だがそれを言葉にすることなど、到底できそうになかった。
「疲れ過ぎてて、眠れそうにないんだ」
まるで子どものように、いくらか甘えた声を聞かされて、真は一瞬心臓が跳ね上がったような気がした。お前がいなければ俺は駄目になると、珠恵に甘えていたあの声を不意に耳元で聞かされたような気持ちだった。
「俺には誰も信じるなって言っておきながら、自分は馬鹿みたいに信じて、無茶をするからだ」
竹流は少し自嘲するような顔を見せて、それから息を吐き出した。天井を見つめ、そのまま静かに目を閉じる。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと目を開け、言葉を選ぶように話し始めた。
「そうじゃないんだよ。俺は自分がどういう人間だか、本当はよく分かってるんだ。悪魔を心の内に飼っている、そいつをどこか身体の外に追い出したくて、ある場所に閉じ込めたつもりだった。それでも、その鍵を自分だけが持っているのが苦しくて、自分が勝手に信じたいと願った者にも鍵を預けた。誰かを信じることで、浄化されると思っていたのかもしれない。だから、そいつに、鍵と一緒に命も預けてやろうと思った」
真は黙っていた。今は黙ってこの男の言葉を聞いてやろうと思っていた。
「昂司の心が、俺や珠恵と、父親と、皐月との間で揺れ動いていたのは知っていた。彼が最後に誰を信じるのか、本当のところ、俺は疑いもなく、それは俺や珠恵だと思っていた。それに、俺はあいつには返せないほどの恩義もあった。だが、こうなってみると、昂司が本当に俺や珠恵と一緒にいたかったのかどうか、俺の方は疑いもなくそう思っていたし、俺たちの所に来ることで昂司が救われて、自由に、幸福になれると信じていたが、それも本当のところ、俺の一方的な思い込みだったのだろうな」
竹流の声は、全く彼らしくなく、弱々しく聞こえた。
「寺崎さんを助けたくて、佐渡に行ったのか。江田島という男と取引をして、寺崎さんの居場所を教えてもらうとしたのか」
「絵のことも気になっていた。県庁に戻した絵だ。それにまだフェルメールのマリアがどこにあるのか、分かっていなかった。新潟にあることだけは間違いないと思っていたし、江田島と話したら何かが分かると思っていた。ちょっと嵌めてやろうと思ったんだが、相手もなかなかしたたかだった。ロマノフ王朝の琥珀の欠片では騙せなかったというわけだ」
「あれ、本物なのか」
「見たのか?」
「江田島のところで」
竹流は少しの間考えていたようだが、やがて真の顔をしっかりと見て言った。
「俺を、探してくれていたんだな」
「新津圭一の新聞記事を残していたくせに」
竹流はいささか意外そうな顔をした。
「いや、あの時はただ、もし俺に何かあって動けなくなったら困ると思って、新津圭一の自殺がハッタリだという事を誰かに知らせておかなければと、そう思ったんだ。千惠子ちゃんの身に何かあったら取り返しがつかないと思ったし、丁度澤田顕一郎がお前に近づいてきたと聞いたから、もしかして澤田に伝われば、あの男は、香野深雪のためにも動くと思った。香野深雪が動く気配があったから、澤田は放っておかないと思ったんだよ。だが、結局は、お前に辛い思いをさせんだな」
あてにされていたわけではなかったのかと思うと、いささか複雑な気持ちだった。
「お前を巻き込むつもりではなかったんだ。これは昂司と俺の問題だと思っていたし、だから、昇にも東道にも何も話すつもりはなかった。上手く立ち回るつもりだったんだがな、江田島から、昂司の父親から預かっていると言って昂司の小指を見せられた途端に、頭に血が上ってしまった。ちょっと考えたら、向こうが俺をおびき寄せるのが目的だと分かるはずなのに、昂司が俺を逃がしたために父親に監禁されてまた酷い目に遭っているんじゃないかと、焦ったんだ。それに、寺崎孝雄も、もう少し話が通じる相手だと思っていた」
「江田島道比古は、寺崎孝雄に弱みを握られていたんだ。実の姉とできていた。それで、あんたを売れば、秘密も守られて、フェルメールまで手に入ると思っていたんだ」
「フェルメールは、持ち主に返すつもりだった」
「そのキエフのじいさん、死んだそうだよ」
「昇に聞いたよ。一目、マリアを見せてやりたかったんだけどな」
「ロマノフ王朝復活を目論んでいた『青い血』とかいう組織の妄想爺さんだぞ。ネオナチみたいな組織だ」
「そうだな。だけど、マリアを見たいという気持ちは嘘じゃなかったと思う」
「詐欺師のくせに、あんたは人が好すぎる」
竹流は素直に頷いている。
「そういえば、その琥珀、どうした? 江田島のところか」
「いや、返してもらって……レンタカーの中で落としたから」
寺崎昂司の小指を見て、気持ちが悪くなって吐いていた。あのレンタカーは北条の若い衆が返してくれていたから、もしも気が付いていたら、何か言ってくれそうなものだ。いや、真があまりにもとち狂っていたので、すっかり忘れているのかもしれない。あるいは、もしかしてそのままレンタカーの中に残っていたとして、後で忘れ物は北条の家に届くのだろうか。いや、俺は車を借りる時、どこの住所を書いたっけ? 相川の家だ。帰った時も、郵便受けなど、全く見なかった。
「ごめん、明日確かめてくる」
「もういいよ」
「でも、本物なんだろ」
「琥珀の間は焼け落ちたようだが、欠片はあちこちに持ち出されたという。それはそのひとつだけど、まぁ、証明するのは難しいな。だが、あれは太古の自然から生み出されたものだ。大きな力が宿っているんだろう。お前が持ってくれていたらそれでいいし、もしかして地球のどこかにあれば、いつか誰かを救うのかもしれない」
真は答えに窮した。やはり、竹流は真が一緒にローマに行くとは思っていないのだろうか。それとも、分かっていて確認しているのか。どちらにしても、ここを発つ前に、美和に相川の家の郵便受けを確かめるように頼んでおこうと思った。
やがて竹流は少し咳き込み、身体をベッドに沈めて目を閉じた。真はそっと額に手を置いた。顔が赤く見えたので、熱でもあるかと思ったのだ。だが、あるいは久しぶりのコニャックのせいだったのかもしれない。
「あんまり話していると疲れるから、もう寝た方がいいよ」
竹流は答えずに、不意に真のほうを見つめた。そして、言葉を確かめるように、ゆっくりと話し始めた。
(つづく)



シーン、続きます(*^_^*)
最後に聞かなくちゃ。あの言葉を。
<次回予告>
「だが、こうなったからには、お前も考え直したほうがいい」そう言って竹流は少しだけ銀の指輪に視線を向ける。「お前がローマに来たりなどしたら、俺は何をするかわからないぞ」
真は黙って竹流を見つめた。竹流はひとつ息をつき、天井へ視線を向ける。
「今でも、身体が思い通りにならないことで大概いらついている。病院の中で葉子ちゃんがいてくれてたから押さえていただけで、本当のところ自分の感情を制御する自信がない。お前も知ってる通り、あの家の中では特にそうだ」
Category: ☂海に落ちる雨 第5節