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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【scriviamo!参加作品】青の海、桜色の風 

アーモンド2
Scriviamo!はscribo ergo sumの八少女夕さん主催の文字通り「一緒に書こうよ!」企画です。
毎年この季節の恒例行事になっていますが、皆さんの素晴らしい作品の数々に、今年は腰が引けていました。賑わっているマンハッタン系には参加する気合が湧かず(想像力が貧困で……)、とは言え他に何も思いつかなくて悶々……。あれこれ迷っている時に、ふと冬の庭に出てみると、何本かあるアーモンドの小さな木が、蕾をつけてじっと春を待っていました。
早く咲かないかなぁ→そう言えばアーモンドって夕さんの書かれている街(作品中ではPと記される)の近くでも綺麗なんだよな~→咲かせちゃう?→じゃ、書くか。でもPに行きそうなキャラってうちにいるかな? あ、ローマに住んでるのがいた。

というわけで、書き始めたらやっぱり起承転結が欲しくなって、最初の予定の倍の長さになってしまいました。でもscriviamo!参加作品なので、前後編に切るのもまだっるこしいし、一気にアップいたします。
シンデレラストーリーその後。身分違いを乗り越えてやっと想いが通じ合った(多分)恋人たち。でも前途は多難のようです。独立した恋愛掌編としても読んでいただけますが、含みがかなりあり、関連文献を読めば2倍楽しめる?

関連文献
【Infante323黄金の枷】:八少女夕さんの素晴らしい設定の物語。独創的な設定に対する夕さんの細やかな解説には目をみはるばかり。このトップ記事にある用語解説は必読。小説中にもあれこれたくさんの気になる背景が語られていて実に面白いのです。
【ローマのセレンディピティ】:拙作「真シリーズ」の子孫の物語ですが、真シリーズとは独立した恋愛小説としてお楽しみいただけます。身分違いの恋を描く、シンデレラストーリー。続きを書く気がなかったので独立カテゴリにしておりませんでしたが、前・中・後編となっております。

登場人物
相川詩織:身分違いの恋を成就させたはずのシンデレラ。しかし相手は複雑な組織の御曹司で、どうやら簡単には物事が進まないよう。
コンスタンサ:P街に住む少女。黄金の腕輪をした「星のある子どもたち」の一人。
ロレンツォ:詩織の婚約者だが、身辺事情が複雑で恋人と過ごす時間がない。


【青の海 桜色の風】

 詩織は託された箱を手にしっかりと持ったまま、その場に立ち止まって、ぐるりと百八十度あまりを見回した。
 青、青、青。
 実際にその絵が占める面積よりもずっと広く遠く、青が連なって見える。青の単色で描かれているのに、なんと豊かな色彩なんだろう。見つめていると吸い込まれそうだ。 アズレージョという、上薬をかけて焼かれたタイルだ。

 これが駅なんて、信じられない。
 高い窓から射し込む光が波を揺らめかせる。近づいてみると、青の濃淡がより豊かな色彩を纏って動き始めた。なんて穏やかな、その一方で心を震わす青なのだろう。
 色彩とは不思議だ。世界は色に溢れているのに、何色もの色が相殺し合って死んでしまうこともあれば、こうしてただの一色で描かれていても色が踊り出すこともある。
 何だか訳も分からないままに涙が滲んできた。ずっとずっと緊張していた糸が不意に緩んだ瞬間だった。

「アイカワシオリさんですか?」
 詩織は自分の背中から掛けられた声に振り返った。
 光に溶け込むように、一人の女性が立っていた。いや、女性というよりもまだ少女と言っていいのかもしれない。こちらの人はみんな少し日本人よりも年かさに見えるから、その分を差し引いても十三歳くらい、それ以上でも十五歳になったかどうかというところだろうか。
 光に透き通るように見えた髪は、少し光源の位置が変わるとヘーゼルナッツのような色合いで、そのハシバミ色の瞳と上手く釣り合っていた。卵型の綺麗な顔、三日月のような眉、紅くて形のいい唇。……一瞬、天使かと思った。

「あ、はい」
「コンスタンサと言います。あなたを案内するように言われて来ました、ドンナ・アントニアの使いの者です」
 この人に渡すのかしら、と思いながら手にした箱を差し出しかけた時、少女が首を横に振った。
 彼女が光輝いて見えた理由は直ぐに分かった。その細い腕に金の腕輪が光っていたのだ。腕輪の金が天からの光に染められて、それ自体が光源のように光り輝く。腕輪には赤い星が二つ、その金の光を吸い込むように沈みながら、少し悲しげに瞬いていた。

 こんなに輝いているのだから、きっと皆がこの少女に見入っているだろうと思ったのに、誰も気に止める様子もなく、立ち止まることもない。まるでそこにこの愛らしく美しい少女が存在していないかのように。
 私、おとぎの国に来たのかしら。
 少女はそれ以上何も言わずに歩き始めた。その背中が影に吸い込まれていく。
 ローマからずっと誰かが詩織を見張っている。この街Pに着いてからもずっと誰かの視線を感じる。詩織は諦めたように息を吐きだし、腕に抱えた箱をもう一度大事に抱え直して、後を追いかけた。


 あの秋の日から詩織の周囲は大きく変化していた。
 身分違いの叶わぬ恋だと諦めてローマを離れようした途端の、空港での突然のプロポーズ。世話になったヴォルテラ家の人々からはどんな非難を受けるかと思ったのに、まるで娘のように迎え入れてくれたこと。それに何よりも驚いたのは、揺るぎない次代当主として周囲に認められていた長男のロレンツォと、帰還した放蕩息子・次男のサルヴァトーレの次期当主交代劇の顛末だった。

 何しろ、ヴォルテラの家系は、もう何時とも知れない時代から教皇の警護団を勤めており、その外堀を強固に護る性格上、裏社会とのやり取りまで含めて相当の覚悟と犠牲の上に成り立っている組織だった。
 その性質はひとつの家系というよりも、まさに血の契りを交した組織と言ってよく、次代当主が必ずしも「ヴォルテラの血脈である」必要はなかったのだが、一度交された契約が反故にされた例は過去に一度もなく、今回の次期当主交代劇はヴォルテラの組織にとっては自らの存在意義を揺るがすほどの一大事、裏を返せば教皇庁にとってはヴォルテラに対して歴史上初めて、忠誠と信頼を問いただす機会となってしまった。

 次期当主と認められ、教皇の御傍に近付くことを既に許され、いくつも機密事項に通じていたロレンツォがその職務を「放棄」することは、教皇とヴォルテラの現当主・次期当主(新旧含めて)が納得しているからと言って、簡単に済む手続きではなかった。何しろ前例がないのだ。
 ただ一度、現当主の祖父にあたるジョルジョ・ヴォルテラがその職務を放棄しようとしたことがあった。だがその時、ある意味では「凄まじい力」が働いて、結果的に彼はローマに戻ってきたという。

 恐ろしいことに、これまでの不文律の慣習を頑なに護る強硬派が、職務を放棄しようというロレンツォの存在自体を亡きものにしようとしている、という噂さえあった。「組織を抜けようとする」からには、それ相応の犠牲を要求するべきだというのだ。もちろん、ヴォルテラの組織の側も教皇庁の側も、多くの者は、心の内では穏やかに事が進むことを願っており、何とか周知と納得を引き出したいと思っているはずだった。

 とは言え、そんなことは日本からやって来た小娘としか「組織」に認識されていないはずの詩織には、全く届いてこない事情だった。いや、もしかすると、この「小娘」がヴォルテラの次期当主を籠絡した魔性の女だと勘違いされている可能性もあり、詩織の周りでも、はっきりとは目に見えないものの、何かが蠢く気配が見え隠れしていた。

 そういう事情で、ロレンツォの計画通り、すぐにあの共同工房のあるアパートに住むというわけにはいかなかった。
 詩織はしばらくの間これまで通りにヴォルテラ家に住み込み、新しいジュエリー工房に勤め始めた。これまでと違っていたのは、屋敷の中で使用人として働くことはなく、通勤には自転車ではなく、運転手つき車が用意されたことだった。週末の考古学教室への出入りは叶わなかった。生活はいつも誰かに見張られていた。

 ロレンツォはしばらく辛抱してくれとだけ言い、ようやく想いを確かめ合った恋人同士とは思えないほど、同じ屋敷に住みながらも、現実に彼と会える時間はほとんどなかった。
 そんな時間が長くなると、会えない時間が愛を育てるというのは嘘だ、と思うほどに気持ちは後ろ向きになった。この恋が実ったのは夢か勘違いだったのかとさえ思う時もあった。

 シンデレラストーリーには恋が成就した後の部分は「いつまでも幸せに暮らしました」としか書かれていないが、そもそもそんなはずはないじゃないか、と詩織は思った。シンデレラは確かにお城から招待状が貰えるくらいの家系に生まれていたようだが、やはりお妃になるには身分の違いは問題となっただろうし、どれほど優しく美しくても、それまで家政婦のようにみすぼらしい恰好で働いていた娘に十分な教養があったとは限らず、お城での礼儀作法を教える教育係とかからは苛められたに違いなかった。


 それに、詩織には何よりも大問題があった。
 父親だ。メンバーの全員がすでに五十歳にもなろうという歳だが、カリスマバンドとも言われている『Breakthrough』のヴォーカリストで、年に一度は、それぞれ異なる四か国からメンバーを集められたヴォーカルグループの一員としても活動している有名人ではあるが、そんなことは詩織にとって問題ではなかった。

 頑固で感情を隠すことのない直情的な性格の父親は、いくつかの因果の結果、ヴォルテラ家にいい感情を持っていないようだった。そこへ来て、よりにもよって三人の子供たちの中で一番可愛がっていた詩織が、事もあろうにヴォルテラの次代当主と恋に落ちたということに、激怒しないわけがなかった。

 それまで何ひとつ父親に逆らったことのなかった詩織が、初めて反旗を翻してジュエリーデザイナーとしてイタリアで勉強したいと言った時もひと悶着あったのだが、それはまだ激震とまでは行かなかった。いつか日本に帰ってくるものだと信じていたからだ。
 ところが、今回はまるで事情が違っていた。

 本来ならこの恋に自ら決着をつけて日本に戻るはずだった飛行機に、詩織は乗らなかったのだ。正確には、すでに動き始めようとしていた飛行機から無理やり下ろされたのだが、そんなことは父親の知ったことではない。レコーディングの予定をずらしてまで成田に迎えに行こうとしていた父親が、連絡を受けてどれほど怒り狂ったかということは、詩織の想像に難くなかった。

 そのままローマ行の飛行機に乗って娘の奪還に来そうだった父親を、家族もバンドメンバーも必死で止めたのだろう。
 有難いことに彼らのスケジュールはタイトだった。多分、怒りをライブにぶつけている父の声は、その年齢とは思えないくらいいつも以上に刺激的でかっこよく、ファンを魅了したのだろう。
 こっそりネットで調べてみると、日本国内のライブにも拘らず、その評判は海外メディアにも取り上げられるほどに上々で、すでに幾度目かのワールドツアーの話も浮上しているようだった。

 だが、いずれローマにやって来るはずの父とロレンツォの対決は、多分避けて通れないものだ。
 何重にも気が重くて、吐きそうになる。
 父のことはともかく、詩織は自分の気持ちに自信が無くなって来ていた。取り残されているような感覚は日ごとに強くなっていった。本来なら一番身近で守ってくれてもいいはずの恋人の顔は、この数週間全く見ることがなかった。


 コンスタンサはすたすたと石畳の道を進んでいく。随分と起伏に富んだ街であるらしく、通りを吹き抜けていく風にも揺らぎがある。時刻は十五時過ぎ。まだ陽は高いところにある。
「通り道ですから、大聖堂をお見せしなさいと言われています」

 コンスタンサの英語はゆっくりで聞き取りやすく、とても綺麗な音として聞こえる。少女から大人の女性へと変わりゆく中にいる、不思議な緊張感と不安が声の中に光と影を生み出している。詩織よりもずっと幼いのに、もう何かを憂えているように見えた。

 大聖堂の高台に登ると、P街の景色を印象付ける赤茶色の屋根屋根、優雅な貴婦人のようなD川、向こう岸に並ぶワイナリーなどが見渡せた。
 少し冷たい風が気持ちいい。
 大きな開かれた海に近い街は風の色も違うんだなと思いながら、コンスタンサの後について大聖堂の正面に回る。薄く黄味がかかった石造りの大聖堂は、強固な要塞のようにも見えた。

 大聖堂の中も、思った以上に簡素だった。大理石の柱なのだろうから、見かけ以上には豪勢なものなのだろうが、高い天井と飾り気のない柱は、むしろ冷たいほどに静かだ。その中で黄金や細かな彫刻に飾られた祭壇は、厳かに存在を際立たせていた。

 祭壇では丁度婚礼が行われていた。後姿の花嫁のヴェールが、天使の羽根のように空気を孕んでいる。祭壇の飾りよりも、何の装飾もない真っ白なヴェールの方が、誇らしげで光に満ちているように見えた。
 祈りの声が詩織の耳をくすぐる。ふと隣を見ると、コンスタンサもじっと花嫁のヴェールを見つめていた。それも、心を打たれるような寂しげな表情で。

 不意にため息が零れた。別にウエディングドレスに憧れているわけでもないし、プロポーズがあったからと言ってそうそう楽観しているつもりはない。いや、それどころか、そろそろ「勘違い」に気が付きなさいという神の配剤が働いているのかもしれない。試されているのだ。お前は本気で、ヴォルテラの次期当主をその椅子から引き摺り下ろす気なのかと。相手の立場を危うくしても、貫く気があるのかと。

 気が付くと、隣でコンスタンサが祈りを捧げていた。その髪の上で光が踊っている。
 詩織も静かに目を閉じた。
 好きというだけでは済まないものがあることは分かっていた。彼がどれほど望んでも、市井の住人としての生活が簡単に始まるわけではないことも。

「明日、時間がある時にでも回廊と博物館を見学してください。素晴らしいアズレージョもご覧いただけますから」
 コンスタンサの言葉にうなずきながら、中世の町並みの中へ入っていく。上から見ると立ち並ぶ赤茶色の屋根の色に目を奪われて気が付かないが、こうして通りを歩いてみると、はがれかけた壁の塗料や黒ずんだ色合いに、年月の重みと決して華やかではない生活の気配が滲み出る。

 歩いているうちにも、背中からも街のどこかの窓からも視線を感じる。このところ、少し過敏になり過ぎだと詩織は思った。
 そのうち、コンスタンサがある扉の前で立ち止まった。ドアノッカーを叩く。
 すぐに扉が内側から引き開けられた。

 視線だけで促されて中へ入ると、そこは不思議な空間だった。
 小さく殺風景な部屋だ。窓は道に向けてひとつきりで、光は高い建物に遮られてようやく部屋の全体を薄く染める程度だった。目が慣れてくると、壁側に簡素な棚があり、いくつかの靴が並べられているのが見て取れる。
 真ん中に作業台らしきものがあり、扉を開けた背の低い白髪の老人はちらりと詩織の方を見ると、無言のまま視線を詩織の手の中の箱の方へ向けた。

「あ」
 詩織は思わず声を出して、その箱をおずおずと老人に差し出した。
「これを、ローマのヴォルテラ家の奥様から言付かってきました」
 老人は無言で受け取り、詩織を見上げ、それからじっと詩織の足元を見た。数は少ないが靴を置いているからには、靴屋なのかもしれない。

 詩織の靴はヴォルテラ家の使用人として働いていた頃に買ったものだ。履きやすいからと古くなっても履き続けている代物で、踵も低いし、お世辞にもお洒落とは言い難い。靴屋にじっと見つめられると恥ずかしくなってきた。
 ふと、自分の傍に立つコンスタンサの靴を見やると、彼女の靴はお洒落というわけではなかったが、彼女の形のいい足にしっくりと馴染んで心地が良さそうだった。

『あんた、箱の中身を知っているのかね?』
 唐突にポルトガル語で聞かれたので、詩織は一瞬言葉の意味を掴み損ねた。
「いいえ。ただ、ドンナ・アントニアの使いの方に渡すようにと言われただけです」
 老人は目を細めて穏やかな声で言った。
『では、四日後にもう一度箱を取りに来なさい』


 四日後、ということはそれまでの三日間も何をして過ごそうか。もちろん、大聖堂の回廊や教会、博物館を見て回るのは楽しいだろう。川辺を歩いたり、対岸のワイナリーに行ってポートワインを楽しむのもいい。
 でも、こうして見張られている中で動くのは、何となく気が重い。
 コンスタンサにホテルへの道を案内してもらいながらも、知らない街での三日間に正直ため息が漏れた。その溜息をどう受け取ったのか、コンスタンサがようやく笑顔を見せた。

「三日間、何か計画されていますか?」
「いいえ。突然の出発だったので、何も考える時間がなくて」

 つい二日前のことだ。
 ヴォルテラ家の奥方・エルヴィエールから、Pという街に行き、ドンナ・アントニアの使いという人にこの箱を渡して、その後、相手の言う通りの期日を待って再び箱を受け取って来て欲しいと言われたのだ。
 何か秘密の使いを頼まれたような気もして、中身を聞くこともなくやって来た。開けてはいけないとも言われなかったが、何となく開けてはならないような気がして、自分が何のために派遣されたのかは知らない。飛行機も列車もホテルも、全て予約済みで必要なものは向こうに揃えてあるからというので、箱と身の回りのもの以外ほとんど何も持たずにやって来た。

「それなら、私に付き合っていただけますか?」
「でも、学校とか、あるいはお仕事とか……」
「学校は丁度お休みですから」
 そう言えば今は春期休暇の時期だ。

 微笑んでいるコンスタンサの表情には、ほんの少し翳りがある。若い娘には色々と用事があるだろうし、気を遣ってもらうのはあまりにも悪いからと断ろうと思ったものの、その翳りがほんの少し気になった。
 それに、本当にあてがなかったのだ。
「じゃあ、お願いします」

 ホテルはさっき待ち合わせた駅よりも少し北だというので、通り道にある教会を訪ねてみることになった。教会の近くに素敵な本屋さんがあるので行ってみませんか、と誘われて、詩織はもちろん、と返事をした。
 外観はシンプルな建物だったので、中に入った途端にデジャヴを覚えて驚いた。
「普通の本屋さんなの?」
「はい。1881年創業の老舗なんですよ。でも、古本屋じゃありません」
 確かにガイドブックなど、新しい本も並んでいる。骨董屋ではなく、普通の本屋のようだ。

 それにしてもなんと見事な内装だろう。ネオゴシック様式で、天井まで届く壁いっぱいの見事な書棚を見上げていくと、天井には幾何学的な木の装飾が施されている。その装飾と一体化するように中央に階段が設えてあり、うねる様なカーブを描きながら二階へと誘う階段は、どこか未知の世界へと続くようだ。途中で左右に別れ、また合流する階段の木の手すりや赤い床は、二階の天井部分のステンドグラスで微妙に色合いを変えている。
 決して広い空間ではないが、まさに完成された映画のワンシーンを見るようだった。

 デジャヴの理由は直ぐに分かった。
 初めてヴォルテラの図書室に入れてもらった時のことを思いだしていたのだ。本を手渡してくれようとして、初めてロレンツォの指が触れた時のことを。
 いや、もしかすると、こうして数日間とは言えヴォルテラの屋敷から出されたのは、それなりの訳があるのかもしれない。少し頭を冷やして考えてみなさい、ということなのか。この旅の終わりには、答えを出すことを求められているのか。

 少しずつ諦めていくことも、あるいは考えなくてはならないのかもしれない。お伽噺はそう簡単には成就しないということを。
 詩織は首を横に振った。せめて、自分を見失わないようにしよう。私は分不相応な恋をしているのだ。
 本屋や図書館に入ると籠ってしまうのが詩織の悪い癖だ。思わず本の背表紙を追いかけながら、装飾の図版や写真集を探してしまう。コンスタンサにゆっくりしてくださっていいですよ、と言われて、その言葉に甘えることにした。

 二階に上がり、気になる本をチェックしている時、何気なく手摺から階下を見下ろし、そこにいるコンスタンサの顔が目に入った。
 詩織は思わず目を逸らした。見てはいけないものを見てしまった気がした。

 彼女は誰かと目と目で語り合っていた。いや、相手の男性も何か言いたげに彼女をじっと見つめていたので、誰か、というのは不適切な表現だ。
 背が高くブルネットの巻き髪を短く刈った青年は、本屋の従業員のようだった。二人の表情は言葉よりもずっと雄弁だった。少なくとも、恋に惑っている詩織には明らかだった。しかも、その恋は、詩織と同じように、ままならぬ何かを抱えている。

 光を受けたコンスタンサの顔の半分を支配する翳が、そのことを表していた。
 まだ若いのに、そんなに惑うような恋をしているのだろうか。少なくとも、あの年であれば恋愛には翳りなどなく、未来は光に満ちていてもよさそうなのに。


 初日に見損ねた大聖堂の回廊と、回廊にある小部屋、博物館、そして街の中に点在する教会を訪ね歩き、ワイナリーを訪れて試飲をしたり、この街の名物料理を楽しんだりしながら二日間が過ぎて行った。
 D川の景色は心を揺さぶるものだった。昼間の光の元では、そう遠くはない海の青を連れてきて輝き、夕陽が沈む時刻には太陽の橙を孕んで沈むように揺れさざめいた。街の各所に見られるアズレージョのタイルの青もまた、見る時間によって無限の色彩を放っていた。

 コンスタンサは年に似合わず名ガイドだった。その上、彼女の学校での専攻は美術で、ジュエリーデザイン工房で働いている詩織の仕事に随分と興味を示してくれて、自然と会話は弾んだ。
 コンスタンサは美しいだけではなく、聡明で利発な少女だった。始めは緊張していたのか受け答えも硬く聞こえたが、会った翌日には彼女の本来の性質なのか、人好きのする暖かいムードを惜しみなく詩織にも向けてくれた。二人はすっかり打ち解け、まるで歳の離れた親友同士、あるいは姉妹のように感じ合っていた。

 ある時、コンスタンサが詩織の左手の薬指の小さなダイヤを見て、一瞬視線を逸らし、それからまた顔を上げた。
「シオリは結婚しているの?」
「ううん。……約束はしているけれど、まだどうなるのか分からないの」
「どうして? 愛し合っているんですよね」
「うん。でも、思うようにはいかなくて。始めはね、二人が想いあっているのかどうかも分からなくて、やっと気持ちが通じたと思ったけれど、そもそも猫の子どもが間違えて人間の王子様に恋をしたようなものなのよ。今は話をする時間も持てなくて、だんだん本当に信じていいのかどうか分からなくなってきて」

「それって、いわゆる身分違いですか?」
「大きな括りでは、そうかな」
「でも、信じ続けなきゃだめですよ。障害があっても、魂が呼び合っているのなら。だって、お互いの心が一番大事なんですから」
 表情にはあの不安な翳りがあったが、いつになく熱を帯びた強い口調だった。

 あなたにも心から想う人がいるのね。
 詩織は声には出さなかった。あの本屋で交わされていた視線が、必ずしも恵まれた恋人同士のものではないということは、同じように必ずしも報われるとは限らない恋をしている詩織には、直感で理解できたのだ。
 彼女は命がけの恋をするには幼いだろうか。いや、ロミオとジュリエットだって、恋に落ちた時、彼女と変わらない歳だったのだ。

 コンスタンサの表情に同じような翳りを見たのは、その時だけではなかった。詩織が今度ローマに遊びに来ないかと言った時、コンスタンサは一瞬顔色を変え黙り込んだ。
 彼女の細い指が、詩織が初めて見た時に天使の持ち物かと思った黄金の腕輪に触れていた。微かに震えるような指先を見て、詩織はその腕輪のことを何度も聞きかけては呑み込んだ声を、また飲み込んだ。

 その腕輪はどうやって外すの?
 ジュエリーデザイナーの詩織には単純な疑問だった。まるで継ぎ目のない完璧な形は、それ故にこの少女をどこかに繋ぐ解けない鎖にも見えた。

 コンスタンサは小さな声で、街を出たことがないし、きっと両親が許してくれないから、と言った。詩織は何だか申し訳ない気がして、不用意な発言を謝罪した。そして、小さなメモに、いつかロレンツォと住む約束をしている、ローマの下町の修復工房の住所を書いた。
 自分が書いた住所をしばらくじっと見つめ、詩織は小さく頷いた。信じなきゃ。そう言ったコンスタンサの声が耳の中に残っていた。詩織は顔を上げ、コンスタンサの手を取ると、その掌に小さなメモを握らせた。
「じゃあ、これはお守りね。いつかきっとここを訪ねてきて。十年後でも、二十年後でも、きっと待ってるから」

 そう、いつかきっとこの場所に住み、あの賑やかな工房の人々と暮らし、ロレンツォにとっては運命と言える修復の仕事を見守りながら生きて行くのだ。
 コンスタンサの言う通り、信じなければ夢は叶わないはずだから。

 それにしても、相変わらず、どこを歩いていても、バスや路面電車に乗っていても、常に付きまとう視線があって、時には少しナーバスにもなった。
 三日目になって、詩織は、コンスタンサの方もその視線を気にしている気配を感じた。
 そして、ふと違和感を覚えた。
 もしも、この「視線」が詩織に向けられているものなら、コンスタンサが気付いた時点で詩織に何か注意を促すだろうと思った。その時、初めて、もしかしてこの街に入ってから、ローマにいる時よりも強く、複雑に感じるこの気配は、自分だけではなくコンスタンサに向けられているものもあるのではないかと疑った。


 そして明日は約束の箱を受け取りに行こうという前日。
 二人はD川を遥かに遡り、上流に咲くアーモンドの花を見に行く約束をしていた。待ち合わせは駅だったが、そろそろ出かけようかという刻限になって、コンスタンサがホテルのロビーから電話をかけてきた。
「お部屋まで迎えに行きます」
 いつものように明るい声だった。

 しかし、いくら待ってもドアがノックされることはなかった。始めはエレベーターが混んでいるとか、部屋を間違えたとか、あるいは化粧室かどこかに寄っているのかと思ったが、それにしても遅すぎる。
 何か事件にでも巻き込まれたのだろうか。ロビーからここまでの僅かな時間に?
 連絡するにも彼女の電話番号さえ知らない。部屋で待っていた方がいいのかどうかも分からない。詩織は出かける準備を整えて部屋を出ようとドアに向かった。

 その時、ドアの下の隙間からすべり込ませたと思われるメモが目に入った。
 詩織は急いでメモを拾い上げた。二つ折りになった白い便箋を開くと、細く頼りなげな、しかしはっきりとした意志の強い文字が並んでいた。

シオリ、一緒にアーモンドを見に行けなくてごめんなさい。後生ですから、今は絶対に私を探さないで。たった三日間一緒に過ごしただけなのに、シオリは私にとって一番大事な友だちになりました。いつかきっとローマに、シオリに会いに行きます。

 詩織はメモを握りしめた。


 これから何をするべきなのか分からなくなって、詩織はベッドに潜り込んだ。
 ヴォルテラの予約した部屋は、詩織一人にはどう考えても勿体ない、落ち着かないくらいに広い部屋だった。王侯貴族も泊まるというホテルに宿泊するのは、どう見ても庶民丸出しの、ろくな靴も履いていない自分には不釣り合いだと思ったが、こんなところでヴォルテラの意向に反するのは無駄な労力だった。

 いつかきっと、と誓ったけれど、空を見上げて高みを望むことは容易いが、現実の地面を一歩進むのは難しい。
 訳も分からないうちに泣けてきた。コンスタンサの境遇についてもっと聞いてやるべきだったのではないかと思った。

 でも、彼女は絶対に言わなかっただろう。その強い意志は彼女の表情からも小さな手の動きからも読み取れた。だから、詩織も聞かなかったのだ。聞かないことが彼女にとっても最善であると思ったからこそ。でも、いなくなってしまうくらいなら、聞いて励ますことくらいはできたかもしれないのに。
 いや、自分だって、もしかしてヴォルテラの事情を詳しく知っていたとしたら、誰かにべらべらと喋ることはできない。それと同じことだ。

 彼女は何かを選び取ったのだ。あの本屋に行って、コンスタンサと視線を合わせていた青年に聞けば分かるだろうか。いや、あの青年はもしかして、もうそこにいないかもしれない。だめだ。私が何かをすれば、もしかしたらコンスタンサに迷惑が掛かるかも知れない。例えば彼女を探すような素振りを見せてはいけない。

 ぐるぐると思考が巡っている時、ドアベルが鳴った。無視してベッドに潜っていたが、もしかしてコンスタンサが、と思ったら、裸足でドアまで走っていた。
 しかし、ドアアイの円の中には、知らない男性が立っていた。
「ドンナ・アントニアの使いのものです」
 コンスタンサを探しに来たのだ。詩織は一気に緊張した。

 だが、相手に気取られてはいけない。詩織は息を吸い込んで吐き出してから、ドアを開けた。
 三十代くらいのそれほど大柄ではない穏やかな表情の男が立っていた。いでたちはいかにもホテルのボーイか運転手といったところだ。
「何か御用でしょうか」
 聞かれてもしらばっくれてやる。私にだってそのくらいの芝居はできる。
「あなたをアルト・ドウロ地方の、今一番アーモンドの花が美しい村までお連れするようにと、ドンナ・アントニアから言付かって参りました」
 

 疑問はサンタクロースの袋に納まらないくらいにある。もしかしたら誘拐かも知れない。そもそもドンナ・アントニアが誰かも知らないし、あるいはそんな人はこの世に存在していなくて、何かの記号か割符なのかもしれない。
 ただ、幾らかやけになっていた。もしかしてこれが誘拐でも、どこからかずっと詩織を見張っているヴォルテラの誰かが助けてくれるんだろう。

 鬱陶しいくらいに見張っていたんだから、こんな時くらい役に立ってよね。
 いや、でも、もしかしたらヴォルテラにとって詩織は邪魔な小娘かも知れないのだ。それならそれで、相手の本性を見抜いてやる。

 詩織はぶつぶつとあれこれ口の中で呟きながら、窓の外を景色が変わっていくのを見つめていた。上着のポケットの中に忍ばせた、小さく折り畳んだコンスタンサの手紙を掌で握りしめる。
 私たちは同士なのだ。そんな思いが不思議と湧き上がってきた。

 市街を一歩出ると、そこはもう長閑な田舎の景色だった。
 何だか懐かしい、と思った。どこまでも続く緑の丘の重なりはタペストリーのようで、トスカナの田舎を思い出させた。そして不思議だ、と思った。いつの間にかあの国が私の懐かしい場所になっているなんて。
 詩織は目を閉じた。

 私の懐かしい景色は日本ではなくなっているんだろうか。それはそれで妙に寂しく感じられた。両親や姉、弟は何時だって懐かしい。頑固で煩い父親だけど、その愛情もよく知っている。賑やかな東京の街だって、生まれ育った景色は何時でも帰りたい場所なのに。
 今私は、何だかとてもふわふわしていて、頼りがない。
 その時、不意に車が止まった。
 詩織は目を開けた。

 一瞬、桜並木だと思った。
 低い石垣の傍に車は止まっていた。その先には、青い空を背景に、緑の草地に遥か先まで並ぶ桜色の木々。車を降りると、風が耳元を掠めて行った。
 ちらりと運転手を見ると、どうぞ、とでもいうように石垣の先に入ってもよさそうな素振りをしたので、緑の草地に踏み込んだ。

 そうだ。桜のはずがない。近付いてみると、桜よりもずっと力強く空を目指して伸びているような枝振りに、少し大振りの、幾らか濃い色合いの花が咲いていた。その色合いには、儚さも迷いもなかった。枝の張りにも、何かの大きな力が宿っているように見えた。
 懐かしいと思うノスタルジアよりも、先へと手を伸ばす希望が漲っている。

 そう。私は自分で選んだんだ。帰ろうと思えばいつだって帰れたんだから。
 唐変木で女の気持ちなんて絶対に分かっているとは思えないし、か弱い私の腕で掻き分けられる障害かどうかは確かめもしなかったけれど、それでも一緒に生きて行こうと決めたんだから。

 詩織は息を吸い込んだ。一度叫んだら、すっとするに違いない。
 私は世界に名を知られるヴォーカリストの娘なんだから、あの丘の向こうにまで届くほどの声が出せるはず。
「ロレンツォのばか~! へのへのもへじ~!」
 あぁ、すっきりした。

 へのへのもへじとはどういう意味だ。
 風が木霊を連れて戻ってきた。
 木霊? 空耳にしては随分とはっきりした声だ。しかも、木霊のくせに、質問が返って来てる?
 ぱちん、と枝を踏み割る音がして、詩織は驚いて振り返った。

「こんなところで何をしている?」
「……そ、そっちこそ」
 久しぶりに会う恋人同士にしてはそっけない言葉を交わしてから、何となく並んで歩きだした。それにしても、一体どうしてこんなところに忽然と現れたのだろう?

 詩織は、いつもと変わらず無表情な恋人の横顔をちらりと見た。黒に近い鳶色の髪と青灰色の瞳。それでも、この瞳に時々驚くほどに優しい色が降りてくることを、詩織は知っていた。
 でも、キスまではいいから、せめて手を繋ぐとか、肩を抱き寄せるとか、無いわけ?

「どうせまたトトの奴の策略だな。あいつは兄をからかうことしか頭にないらしい」
「サルヴァトーレが何かしたの?」
「よく分からんが、本当なら自分が行きたいのだがどうしても行けない、他に信頼できる人間がいないから、P街のボアヴィスタ通りのどこぞの屋敷に重大な手紙を届けろとか、本屋の青年をどこぞに連れて行けだとか、他にもあれこれ頼まれてきた。挙句に今朝はホテルに電話がかかってきて、この村に迷子がいるから拾いに行けと」

 振り返ってみたら、さっきの運転手の車は忽然と消えていた。
 もしかして。詩織はロレンツォの言葉にドキドキした。本屋の青年とコンスタンサのために、あの策士のサルヴァトーレが動いていたのなら。ことの顛末は何も分からないし、実際にコンスタンサとあの本屋の青年が何に困っていたのかを詩織は何も知らないのだ。
 コンスタンサの手紙にあったように、今詩織が彼女にしてやれること何もない。
 それでも、彼女の翳りの中に宿っていた強い光のようなものを、詩織は心から信じた。

「どうやって来たの?」
「列車とヒッチハイクだ」
「どうやって帰るの?」
「何とかなるだろう」
 そう言ってからロレンツォはポケットから何かを出してきた。鼈甲飴?
「Rebucados da Regua。砂糖と蜂蜜、レモンから作られた飴だ」
 ポケットからアメチャン……って、大阪のおばちゃんじゃないんだから、と呟きながら鼈甲色の飴を受け取る。そして、このむっつりとした男がどんな顔で飴を買ったのだろうと思うと、何だか少しだけ可笑しくなった。
 そう言えば朝から何も食べていなかった。
 糖分が頭に届くと、少しだけ元気が出てきた。

「今、色々と大変なんでしょ」
「そうでもない。ある程度は予想していたことだ。組織というものは思ったよりも頭が固いことが分かったが」
「怖い噂もあったから……」
「私が殺されるとか?」
 詩織は驚いてロレンツォを見上げた。そんなにあっさりと言わないで、と思った。だが、ロレンツォはふっと優しい顔をして笑った。笑い、とまでは分かりにくかったけれど。

「だが、一方で組織というものは噂よりもずっと寛容でもある。お前が心配するようなことは何もない。まだしばらくはトトを補佐してやることは必要だが」
 本当に、私は何もできないなと思った。
「工房にも行けていないんでしょ」
「数か月もすれば仕事を始められる。修復を待つ絵は、百年単位の時間を待ってくれていたんだ。百年前の修復師が百年後の私たちに託した時間だ。そして私たちはまたさらに百年後の修復師にその時間を託す。数か月など物の数でもない」
 詩織はただ頷いた。
「私を待つのに疲れたのか?」
 詩織がロレンツォを見上げ、首を横に振った。

 このアーモンドの花たちだって、咲いている時間は本当に短いけれど、ちゃんと実を結んで、そして散ってもまた花の時期をずっと待っているのだ。
 それにしても、ヴォルテラの次期当主だった男が、列車とヒッチハイクだなんて。いや、この人はこれから先、何があろうとも、ただのローマ市民として生きていくことを選択したのだ。お兄ちゃん大好きのサルヴァトーレが聞いたら、予定外だと言って拗ねるかも知れないが。

「ところで、さっきは一体何を叫んでいたんだ?」
「えっと、つまり、日本では伝統的に青い海に向かって叫ぶの。海のばかやろ~って」
「そんなことをして何になる?」
「うん、と……青春?」
 ロレンツォには全く意味が通じなかったらしい。

 村の方へ歩きながら、途中で牧場から戻るトラックに拾ってもらい、駅まで連れて行ってもらった。ぎりぎりP街への最終列車に間に合い、革のかたいシートに並んで座ると、ようやくほっとした。相変わらず誰かの視線は感じるけれど、もういいかと思えた。しばらくこの状況は変わらないのだろうから、慣れるしかない。
 何だか今日は疲れた。これくらいはいいよねと、眠ったふりをして、ロレンツォの腕に寄りかかった。

 膝の上に置いた手に、そっと大きな手が重ねられた。
 ずっと傍にいてくれ。
 それは、ただ桜色の風の音かもしれなかった。それでも、重ねた手のぬくもりだけは、今、確かにここに在った。


 翌日、ロレンツォと一緒に、例の箱を受け取りに行った。
 背の低い老人はじろりとロレンツォを見上げ、それからゆっくりとした英語で詩織に聞いた。何だ、話せるんじゃない。
「あんた、本当に箱の中身を聞いていないのかい?」
「え……と、はい」

 ふん、と鼻で息を鳴らし、詩織に箱を手渡すと、老人は顎だけで開けてみなさいと促した。箱は持ってきた時よりも少し軽くなっている気がした。
 詩織はロレンツォを見上げ、誰かに怒られやしないかとドキドキしながら箱を開けた。これは詩織などには開けることが許されない、秘密の箱だと思っていたのだから。

「……」
 声が出なかった。

 箱の中に入っていたのは、花嫁が履く真っ白の靴だった。
 パールが混じったようにほんの少しの光でも吸い込んで純白に輝く靴は、ごくシンプルで飾りのひとつもなかったが、上質の革で作られていることは直ぐに分かった。しかも、詩織がこれまで履いたことのある一番ヒールの高い靴の、倍の高さがあった。一体これは……

「履いてみるといい」
「……私の靴?」
「あんた以外の誰の靴だというのだ」
 狐につままれたような心地で、言われるままに靴にそっと足を入れてみた。

 未知の高さのヒールだったにもかかわらず、靴はまるで吸い付くように詩織の足に馴染んだ。試しに数歩、歩いてみたが、ふかふかの絨毯の上を素足で歩いているようで、ヒールの高さを全く感じなかった。
 そう言えば。少し前に、ロレンツォの母親が、自分の服と靴を作るついでだからと、詩織の分も採寸し粘土で足の型を取らせていた。じゃあ、あの箱に入っていたのは……

「ふん、歩き方は式の日までに練習した方がよさそうだがな」
 それから老人は作業台の上に置いてあったもう一つの靴を取り上げた。それは日常に履くためのブラウンの革靴で、やはり飾りも何もなかったし、作り手が分かるようなロゴマークのひとつもなかった。
「この靴はこれから花嫁になる女性へのプレゼントだ。あんたの靴はひどすぎる。女性なら、せめて後一センチは高い靴を履くべきだ」

「おじいさんが作ってくださったんですか?」
「いや、わしではない。わしはただの仲介人だ」
 老人は余計なことは何も話さなかった。


 ウェディングシューズの箱にはカードが添えられていた。
 それを読んで、詩織は泣き出してしまった。

 花嫁のために姑が最高の靴を贈るのは、ヴォルテラの風習だった。靴を贈ることで、「あなたをこの家に迎え入れます、あなたの足でこの地を踏みなさい」という気持ちを表すのだという。

 ふと、唯一の小さな明かり取りとなっている窓を見やる。薄暗い闇や翳りの中にも必ず光が届くのだ。その小さな明かりを見失わないように、しっかりと地面を踏みしめながら歩いていこう。
 そして、その頼りない光は、この素敵な街で出会ったあの少女にも必ず幸せが舞い降りて、いつかきっと再会できるような予感を運んできた。


あなたを待たせて不安にさせていることを許してくださいね。でも、遠からずあなたを迎える準備が整うことでしょう。あなたが私の娘になってくれることは、この上ない喜びです。私たちは、幾世代もの時を経て、魂と血が呼び合ったことを知っているからです。この先の未来を、誇りと愛を持って共に歩いてゆきましょう。私の新しい娘へ、この靴とたくさんのキスを贈りますXXXXXXXXXXXXXXX
追伸。結婚式と新婚旅行が前後することを私は嫌いません。しばらくその唐変木を預かってくださると嬉しいわ。妻としてのあなたの最初の仕事は、彼の辞書に休暇という単語を書き加えることになりそうです。

(「青の海 桜色の風」了)


夕さんちの登場人物を使わせていただくことで、何か設定にひびが入っていはいけないと思い、名前と靴だけ登場していただきました。えぇ、靴はもちろん、あの方が作って下さったのですよね。
組織的には何となく根底が似ており、ヴォルテラとは何らかの接点があるのかもしれない、なんて勝手にあれこれ想像を巡らし、誰が作ったとも知られていはいけない靴をこっそり掠め取らせていただきました。
「星のある子どもたち」の中には、絶対に○○○○した子もいるだろうなぁ、真実を知らされた時にはもう恋に堕ちていて、他の誰かと出会っても心動かされない子だっていただろうし、監視人さんたちに見張られながらも必死で恋心を守り通した子も。で、監視人たちは、それに対してどうしたのかしら。ペナルティはなんだろう? その辺はもう夕さんの頭の中にしかないと思うので、さらりと流しました。
で、トトは一体何をしたのか? あるいは兄貴はトトに使われているふりをしてなにをやらかしたのか? そんなことしていいのか? その辺はもう、見て見ぬふりで。
「意外に組織は寛容」とロレンツォも言っておりますし……何卒お手柔らかに^^;

作品中に登場した本屋はレオ・イ・イルマオン
詩織の泊まっているホテルは夕さんが記事にも書かれていたその名もInfante Sagres
いえ、もちろん私、P街のモデルのあの街に行ったこともないのですけれど。
あ、リスボンには一度行ったことがあります。
アーモンド3
どう見ても桜に見えるけれど、アーモンド。

あ、それから……
「こんなところで何をしている?」「そっちこそ」
という会話は、初代ジョルジョ(竹流)と初代真が、冬の襟裳岬で交わした会話でもあります。
その会話が聞けるのは、『雪原の星月夜』……『雨』の次作です。先はまだまだ長い道のりだね。
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Category: 掌編~詩織・ロレンツォ~

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【サキさん30000Hitお祝い短編】 Hasta mi final~この命尽きるまで~ 

ブログのお友達、サキさんのDebris circusの30000Hitリクエストの枠をゲットしたので、何か掌編を書いて頂くことになったのですが、その前に、ずっと以前からミクin Romaの話を書く書く詐欺していたので、この際に私が先にお祝いの話を書こうと思ったわけです。

このポルト&ローマ陣営の物語には、八少女夕さんの【黄金の枷】シリーズ(外伝)と山西サキさんの【絵夢の素敵な日常】に登場する人々が絡んでいます。しかし、実のところは、うちのメンバーだけが実時間では未来から来た「タイムトラベラー」なのです。でも、これは楽しくキャラたちで遊ぼう?という企画なので、このシリーズにおいてだけ、うちのシリーズは時間軸を無視しております(^^) 
それはまぁ、読む際にはあまり大きな影響はないので、一応お断りということで。

サキさんと夕さんの書かれたキャラたちについて。
ここに登場する、ミク・イケウエ・エストレーラは少し複雑な出生の事情のあるオペラ歌手ですが、アウスブルグのオペラ劇場の音楽監督、ハンス・ガイテル氏に認められて素晴らしい舞台で主役を演じきった後で、ポリープの手術を受けることになってしまいました。彼女には、ポルトに祖母のメイコがいて、また6つ年下の(今回のお話の時点では)恋人未満、友人以上のジョゼがいます。
ジョゼは夕さんの【黄金の枷】のヒロイン・マイアの幼なじみ。さらに、その物語に登場する由緒ある一族に対して、うちのヴォルテラの新・次代当主のサルヴァトーレがオイタをしたといういわくもあります。

夕さんとサキさんがすでに書き上げられた部分では、ジョゼとミクはもう結婚式を挙げたのですが、この物語は、ちょっと遡って、まだミクとジョゼが気持ちを確かめ合う前、好きだけれど、年齢の関係も微妙だし、立場もチガウし、うにゃうにゃで悩んでいる頃です。
丁度のその時、ミクの友人、絵夢・ヴィンデミアトリックスの紹介でイタリアの有名耳鼻咽喉科医の手術を受けることになったミクをお世話することになったのが、ローマのヴォルテラ家。そして、ミクは手術を受けるために時々ローマで診察を受けたり説明を聞いたり、リハビリや術後の生活のことなどを整えたりしていますが、ローマ滞在の時は、ヴォルテラ家ではなく音楽家・慎一の家にいます。

細かいことはさて置いて、この由緒正しき教皇のお庭番?ヴォルテラの次期当主となるはずだったロレンツォが、事もあろうに、日本人のお嬢ちゃん・詩織と恋に落ちてしまったのですが、玉の輿シンデレラストーリーのはずが、やはり貴族と異国の庶民の結婚にはあれこれ障害もあり、さらにこの二つの家系は百年にわたる因縁があり、そうは問屋が卸さない状態で、何より詩織の父親・二代目真がかなりお怒りの様子。詩織は、家出同然にローマにいるので、まだ父親とは和解できていません。

ロレンツォと詩織の恋の軌跡を書いたシンデレラストーリーはこちら→【ローマのセレンディピティ】
ピアニスト慎一の若かりし頃の物語はこちら→【ピアニスト慎一シリーズ】

詩織の父親・二代目真のストーリーはまだ手が回っていませんが、実は鉛筆書きではファイル1冊分、多分ノートのページでぎっしり百枚以上あるのです。そんな因縁部分をぶっ飛ばしていますので、分かりにくい部分もあると思いますが、ここは単純に、娘の結婚を認められない頑固オヤジと思っていただいて問題は無いように思います。
一代目と違って、悩むことは悩むけれど、正しい方向へもずれた方向へも猪突猛進系の二代目です。
ちなみに、彼はただいま、日本では某バンド(ロックというのかポップスというのか)のヴォーカリスト、そして時々別の多国籍ヴォーカルグループでも活動しています。
その父親がついにこのヴォーカルグループのコンサートでローマに来てしまいました。危うし、詩織……ってそういう話じゃないか。いや、危ういのは、ぶっ飛ばされるかも知れないロレンツォか……

ミクと詩織がそれぞれ気持ちを固めていく会話をお楽しみいただけたら、と思います。
あ、ガイテル氏を勝手にあれこれ肉付けして済みません。まぁ、狭い畑ですから、知り合っていてもおかしくないだろうし。年齢は随分チガウので、ガイテル氏からすると、慎一は伝説の人に近いのかも^^;

そして、サキさんへのリクエストは、いよいよ手術となれば、きっとジョゼや絵夢も遠くから見守っているだけではすまなかったと思うので、その辺りのことを、結婚後の思い出話としてでも新婚旅行に絡めてでもいいので、お願いしちゃいましょう。

そうそう、慎一は、私が敬愛していた大フィルの指揮者・朝比奈隆さんと同じように92歳までは頑張っていただく予定です。今回、直接の登場はありませんが、ミクのことを孫娘と同じように思っているようです。
そして、このタイトル『Hasta mi final』というのはスペイン語で「(私の命の)終わる時まで」という意味です。この歌は『続きを読む』を御覧ください(BGMにしてくださいませ)。
実は、二代目真が参加しているヴォーカルグループのモデルは、IL DIVOなのですが、彼らの曲のイメージでこの物語を書きました。歌詞はほぼまんま、結婚式のあの誓いの言葉です。

改めまして、サキさん、30000Hit、おめでとうございます(*^_^*)
この【Hasta mi final】の歌は、ミクとジョゼの結婚へのお祝いでもあります(^^)/


【Hasta mi final~この命尽きるまで~】

 末娘が、どうやら結婚するようです。
(「お前、どうやら、って何だよ」と後ろから笑いを含んだ仲間の声がする。)
 ご存知の方も多いと思いますが、子どもが三人います。上の二人の子どもが小さいときには、仕事でほとんど家にいなかったので、あまり懐いてくれなかった。でも、一番下の娘は、甘えん坊で離れると泣くので、小さい頃からよく仕事にもくっついてきて、ここにいる三人からも、日本の私のバンドのメンバーからも可愛がられていました。
 父親というのは、ここにいる皆さんもそうでしょうが、勝手に思い込んでいるものです。まさか、この可愛い娘が自分の手元から離れることはあるまいと。
 私は、十九の時に日本に母親をひとり置いて、今のバンドのメンバーと渡英したのですが、そういう私の身勝手とか無鉄砲さとか、よく言えば独立心が強いところなど、三人の中で格別泣き虫で甘えん坊で素直で可愛らしいこの小さな娘だけは、受け継いでいないものだと思っていました。けれど、彼女は私の反対を押し切ってこのローマに来て、自分なりに少しは人に認められる仕事をして、愛する男と出会った。やはり彼女は私の娘だったのだと、不思議に納得して、今になって、これまで手元で可愛がっていた時よりもはっきりと、彼女を誇りに思うようになっています。
 そんなお前が選んだ男なんだからと言ってやりたいのは山々ですが、やはり父親は誰でもそうでしょうが、今のところは相手の男をぶっ飛ばしてやりたいと思っています。しかし、運命の神が結び合わせたものを、人の力で裂くことはできないといいます。
(「そうだ、諦めろ」)
 仕方が無いので、歌います。


 その日のコロッセオは、溢れ出す熱気が天にまで届くようだった。
 寒くなり音楽シーズンが本格的になればどのコンサートホールも賑わいを見せるのだが、夏から秋にかけてのこの時期には、野外の古代遺跡が特別なコンサート会場になる日がある。大都会の灯りのために、シャンデリアの代わりに星々が天を埋め尽くすとはいかないが、その日は満月で、見上げると月の光に抱かれているような心地になった。

 ここに来るまで、本当は迷っていた。父とは日本を出てきてから、もう何年か一度も会っていないし、今の状況について自分の口からは説明できていなかった。だが、チケットは曾祖父の慎一のところに十枚以上も送られてきていたし、世話になっているヴォルテラ家の人たちだけではなく、ロレンツォの隠れ家(そして近い未来には新婚生活を送るはずの家)の工房の仲間たちも幾人か招待することになってしまったので、さすがに当の詩織が行かないわけにはいかなかった。招待された全員が、今日のコンサートを心待ちにしていることも分かっている。

 それに、その日は、このところ曾祖父が気にかけている女性が一緒だった。
 彼女はポリープの治療のためにイタリアに来ていて、今年中には手術を受ける予定になっている。彼女の住まいはポルトガルのポルトだが、今は診察を受けたり、手術の説明を聞いたりするのに、時々ローマに滞在している。手術を受けることを決めているものの、まだ不安の方が大きいだろうし、心細いだろうから、歳の近い詩織に力になってやって欲しいと頼まれていたのだ。

 それに手術の期間、その後のローマでの治療期間は、ヴォルテラ家が完全にバックアップすることになっている。古い付き合いのヴィンデミアトリックス家のお嬢様がくれぐれもよろしくと直接挨拶にも来ていたし、ついでにロレンツォ曰く、サルヴァトーレが以前迷惑をかけた筋の関係でもあるから、その貸しをいくらか返すことにもなるという。
 さらに、ピアニストであり、八十代の今でもローマのオペラ座の音楽顧問兼チェチーリア音楽院で教鞭も執っている曾祖父の、若い友人のひとりであるハンス・フリードリヒ・ガイテル氏からも、くれぐれもくれぐれも頼みますと何度も連絡が来ていた。

 慎一はピアニストなのだが、一時、事情があってピアノを離れていたときに東欧の劇場の音楽監督を務めていたこともあるし、スカラ座やオペラ座の音楽助監督を務めていたこともある。そして、彼が作曲・編曲した現代オペラを好んで取り上げて上演してくれている劇場の責任者のひとりが、ガイテル氏なのだった。
 そのガイテル氏は、ミクの「才能」を心から愛していて、誰よりも彼女の手術の成功を願っている。彼はそう言っていたが、詩織は何度か会って話しているうちに、彼の気持ちはそれだけではないのだなと感じた。
 人が人を思う気持ちというのは本当に暖かくて尊いものだと思う。

 手術を担当する予定になっているのは、世界でもこの分野では最も腕がいいとされている幾人かの医師の一人だが、それでもこれだけの面々に囲まれてしまったのでは、医者も身が縮むだろうね、と慎一は笑っていた。その医師のことはよく知っていて、信頼しているのだ。
 だが、例えどんなに周囲が道を整えたところで、ミクの不安はすっかり消え去るものでもない。手術を受けるのは他の誰でもなく、本人なのだ。そして、音楽家が自分の武器を失うことの恐怖を誰よりも知っている慎一は、ミクに対して、まるで本当の祖父のように接しているのだった。

 幾度となく父親がステージに立っている姿は見てきたが、こんなに緊張して客席に座るのも、父がステージの上でこんなにも話すのを聞いたのも、初めてだった。
 バンドで主にMCを務めているのは作曲とキーボードを担当している神坂伸二だったし、そもそも父はヴォーカリストのくせに人前で話をするのが得意な人ではなかった。他のメンバーに肩を叩かれて、押し出されるようにステージの中央に立った彼が「仕方が無いので」と言ったのは、まさに本音だったのだろう。

 その曲が始まってから終わるまでの時間は、ものすごく短かったようでもあるし、曲のままに命の尽きる時までの永遠のようでもあった。CDでは何度も何度も聴いていた曲なのに、今日は全てが違って聞こえた。
 もちろん、花嫁となる娘を持つ父に花を持たせようとしてくれた他のメンバーが、自分たちのソロパートを全て父に譲ったからというのもあったけれど、それは打ち合わせに無かったようで、父は自分のパートの後、誰も歌い出さないので一瞬驚いたようにメンバーを振り返っていた。

 さっさとお前が続きも歌え、というようにメンバーが手で合図を送ると、客席からは大きな拍手が湧き起こり、ローマの夜空に響き渡った。
 詩織の席からステージまでは幾分か距離があったので、事態を飲み込めなくて戸惑ったような彼の顔がはっきりと見えていたのかどうかは分からない。だが、詩織には、父の表情は目の前にあるように分かったし、それを見た瞬間に、抑えていた涙が溢れ出し、そこから先は、本当にステージは見えなくなった。

 オーケストラの伴奏を追いかけるように、父がやむを得ずというように再びマイクに向かうと、一瞬に客席が静まりかえる。管弦楽の暖かな響きがコロッセオを包み込み、その中に感情を押し殺しながらも、意味を確かめるように言葉を紡ぐ父の姿が、涙の向こうで神々しいくらい眩しく浮かび上がっていた。

 この多国籍ヴォーカルグループは、ある音楽プロデューサーが「自分が聴きたい音楽をやるために」作ったというグループで、自分たちのメインの音楽活動は続けたまま、一年に一度くらい集まり、幾つかの都市でコンサートをしたりアルバムを作ったりしている。アメリカ人のジャズ歌手、ドイツ人のオペラ歌手、フランス人のミュージカル・オペラ歌手、そして日本人のポップス・ロック歌手。
 誰もが「それって成立するのか」と訝しんだにも関わらず、当初は五年間の活動予定だったものが、気がついたらもう十五周年を過ぎてしまった。音楽の幅はますます広がって、今や世界中のファンが彼らのステージを待ち望んでいるという。

 久しぶりに生で聴く父の声は、そして短い曲のラストには、プリセンス・シオリといつも詩織のことを呼んでくれた彼らの重なり合った声は、全てのひとつの言葉を明瞭に聴く者の耳に運び、詩織の前に愛しくも懐かしい日々を描き出した。

 父親の商業用の顔は今では録画でも雑誌でもどこでも見ることができたが、母が撮っていた幾つかのビデオの中に閉じ込められていたプライベートの顔は特別なものだった。物心がついた時には、父親はほとんど家にいるようないないような生活をしていたので、母が子供たちのために「普通の父親」の顔を撮っておこうとしたものだ。
 走馬燈のように、というのは本当なのだと詩織は思った。場面が次々と現われて消えていくのか、一瞬にして全てが重なって周囲を埋め尽くしたのか、記憶の引き出しから魔法のように場面が飛び出してくる。

 姉や兄の時には言わなかったらしいのに、詩織の時だけは、小学校の参観日に行くと主張して、学校から「警備上の問題と周囲への影響から」できれば自粛していただけたらと言われた時の悔しそうな顔。マイホームパパはキャラに合わないと言いながらも、キャンプに行くとなれば一番はしゃいでいたのは父だった。
 中学生の頃にはぐれていた兄とは真っ向勝負、本気で戦っていた。母はいつも、あれは精神年齢が同じなのよ、と呆れ果てたように(でも愛情を込めて)言った。それでも、補導された兄を迎えに行った時、怪我をさせた喧嘩相手とその両親の前にいきなり土下座をして謝った父を見て、兄は馬鹿らしくなってぐれるのを辞めたと言っていた。兄は嬉しかったし恥ずかしかったのだ。日本中に名を知られているバンドのヴォーカリストである父にそんなことをさせてしまったことを。
 姉が医学部に合格した時、人前では当然だろうと飄々としていたけれど、こっそりと何度も何度も合格通知書を見ていたのを詩織は知っていた。詩織のことは、いつだって鬱陶しいくらいに可愛がってくれた。一年に一度は家族写真を撮るようになったのも、詩織が生まれてからだった。飼っていた秋田犬の散歩には、よく二人で行ったけれど、ほとんどトレーニングのようだったっけ。

 そして、詩織がイタリアに留学したいと言ったときに、初めて父を怒らせて口も利かなくなったこと。子供たちの中で一番いい子で、一度も父親に逆らったこともなく、にこにこしていたお姫様の詩織がいきなり反旗を翻したのだから、父のショックは相当なものだったのだろう。その上、仕事にも恋にも挫折して帰ると連絡をした矢先に、裏切るように突然ローマに残ることになってしまったのだから。
 色々な事情があって、あれから日本には戻ることができなかった。一度だけ、電話をかけた。ロレンツォが、やはりきちんと挨拶に行こうと言ってくれたからだった。だが、「いらん」と一言だけで電話を切られた。リハーサルで忙しいのよと母は言っていたけれど、許されていないのだと思っていた。

 忘れていたことも、悲しかったことも、嬉しかったことも、悔しかったことも、満たされていたことも、その時には我慢できないくらいに辛かったことも、目の前に浮かび上がってくれば、全てが愛おしかった。
 今はっきりと分かったのだ。
 ひと時だって、孤独だったことはなかった。その時は寂しくて潰れそうに思ったこともあったけれど、今この瞬間、何もかもが怖いくらいに報われていた。

 今このホールにいる全ての人々が、この曲がただ一人の愛するもののために歌われていることを知っている。そして、その個人的な感情は深い歓びを湧き立たせ、共有できる全ての人の魂と交わり、またやがて個人の元へ還っていく。その瞬間に生まれた音楽は、その次の瞬間には消えゆくものなのに、記憶の中に確かに何かを刻んでいく。
 震えている詩織の手に、隣から暖かい大きな手が重ねられた。
 Amamdote hasta mi final
 健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、良き時も悪い時でも、命の尽きる時まで変わることなく、君を愛することを誓う。

 父が自分の事を認めてくれたことは嬉しい。でも、誓いの言葉というのは、なんて重いのだろう。


「わたしのことなら、気にしなくてもいいんだよ」
 何だか個人的に盛り上がっちゃって、ミクは大変な思いをしてるのに、と謝ったら、その若いオペラ歌手は、笑って答えた。

 ミク・エストレーラは詩織より少し年上になる。時々お姉さんだなぁと思うこともあるし、時には少し幼く見えるときもある。でも、詩織が初めてミクにあったときから抱いている印象は、笑顔がとても素敵だなということだった。もちろん、人は誰でも笑顔の時が一番魅力的だが、こうして色んな感情を閉じ込めて笑う顔には、特に心惹かれるものがある。
「ロレンツォと一緒に行かなくてよかったの?」
「いいの。父はきっと私たちが訪ねていくのを見越して、楽屋から逃げ出していると思うし。あの人、娘と和解するなんてシーンは苦手なの。それに、ロレンツォ曰わく、ここは男同士がいいんですって。ぶっ飛ばされに行ってくるって」

 父親が早々に楽屋から逃げ出してどこに行っているのか、どうせ、ヴォルテラの誰かが見張っているに違いないから行き先は知れているだろうが、ロレンツォには確信があるようだった。時々、相川の家とヴォルテラの家の間にあった様々な出来事について、ロレンツォは知っているけれど自分が知らないことがあるのだと思うと、ものすごく不満を感じることがあるのだが、いつか曾祖父や大叔母が話してくれるだろうと信じていた。

 コンサートの後、詩織は曾祖父の住むローマ郊外の小さな別荘にミクと一緒に戻ってきた。
 現在、結婚式まではという約束で、詩織はまだヴォルテラの屋敷に住んでいる。
 そもそも次期当主の交替劇の後、ロレンツォは修復工房のアパートに住むつもりだったのだが、新たに当主となるサルヴァトーレが兄貴を簡単に手放すわけはなく、ロレンツォも時々無鉄砲なことをしでかす弟の側を離れるのが少しばかり心配なのだろう。
 詩織には時々、サルヴァトーレがわざと兄を困らせているように見えるのだが。

 ヴォルテラ家の人たちは詩織にはとても親切だが、やはり庶民出身の詩織には少し居心地が悪い面もある。だから、ミクが来たときは、堂々と慎一の家に泊まれるのが嬉しかった。何しろ、ミクの「お世話係」を頼まれているのだから。
 この別荘はローマの街から少し離れた湖の近くにあって、先々代の当主、ジョルジョ・ヴォルテラが義理の息子と言ってもいい慎一に遺したものだった。当初はここを受け取ることを拒否していた慎一だったが、歳をとって終の棲家を考えた時に、最も愛する街に戻ってきたということなのだろう。

 しかも、彼の側には、自分の娘よりも若い女性が連れ添っている。
「はい、どうぞ」
 庭で夜風に当たりながら、ミクと一息ついていたところへ、ワインとチーズを持ってきてくれたのがその女性、ラリーサだ。
 もとバレリーナだったという彼女は、祖国で祖父と父親が政治的監視対象だった関係で、幼いときにほぼ亡命のような形で国を離れざるを得なかったという。ほっそりとした少女のような雰囲気があって、ある程度歳をとった今でもまるで妖精のように見えるが、その意志の強さは、祖国の政治的危機に際して、残された親族のために国に戻ろうとしたことからも明らかだった。それに、そういう人だからこそ、親子ほども年の離れた女性を、曾祖父の方も恋するようになったのだろう。元々は、ラリーサ曰わく「私が押しかけ女房」だというのだから。

「ラーラも一緒にどう?」
「ありがとう。でも、写譜を終えてしまいたいの。ふたりでごゆっくり」
 慎一がこのところまた新しい歌曲を書き始めたと聞いている。いつかオペラに仕上げるつもりだとも言っていたが、彼の歳を考えたら、これが最後の作品になるかも知れない。その話を聞いて、この間、ハンス・ガイテル氏が、初演を是非自分に任せて欲しいと言っていた。ミクがここに来てくれたおかげで、慎一もガイテル氏も以前よりずっと近い関係になれて幸運だったと言っている。
 作曲の清書はラリーサが買って出ている。何でもいいから慎一の役に立ちたいと彼女はいつも思っているのだ。

 その後ろ姿を見送りながら、ミクがほっと息をついた。
「本当に羨ましい。ラーラと慎一。あんな夫婦になれたらって思う」
「すごい年の差だし、誰が見ても親子だけれど」
「でも慎一は若いよね。とても八十代には見えない。まだオペラの指揮もしてるんでしょ。ハンスがね、すごい大先輩なんだけれど、友人のように感じるって」
「うん、だって、お祖母ちゃんが生まれたのは慎一じいちゃんが二十歳くらいの時だし、お祖母ちゃんは十九の時に父を産んでるんだもの。だから、慎一じいちゃんは、四十で孫を持ったわけ。だから、私の曾おじいちゃんといっても、おじいちゃんって歳だものね。それでも、さすがに去年から、ウィーンで毎年続けていたピアノコンサートは辞めたんだって。まだ教えてるけど」

「自慢のおじいちゃんだね。そして、そんな人に教えてもらえる学生は幸せだって思う。ハンスもね、まだどっちの方向に進もうか決めかねていた学生の時に、一度慎一がミュンヘンに呼ばれてやっていたオペラのサマースクールに行ったことがあったんだって。最初は、この人、ピアニストじゃないのかって疑問に思ってたそうなんだけれど、講義を受けているうちに彼のオペラへの愛情に感動しちゃって、それから彼が編曲したり作曲したいくつかの自作オペラを見て、自分も絶対オペラの演出家になろうって決めたんだって言ってた。今回、私がローマでの滞在先が慎一の家だって言ったら、大興奮しちゃって。こんな偶然、神さまからの贈り物だ、君の手術は間違いなく上手くいくって」

 それって根拠ないよね、とミクは少し不安そうに笑った後で、唇を引き結んで小さく頷いた。うん、きっと上手くいくと自分に強く言い聞かせているようでもあった。
 今日のミクはいつもよりずっと饒舌だと思った。もしかしたら、彼女の中で何かが少し、動いたのかも知れない。不安はあっても、そこから少しでも気持ちが前に向いたのだったら、そして父とあの仲間たちの歌がそのきっかけになったのだったら、本当に嬉しい。

「うん。お祖母ちゃんがね、いつも言ってた。おじいちゃんはいっぱい辛い想いをして、何回も挫折してきたんだって。自分の命に代えてもいいと思っていた大事な人を失って、指が動かなくなって、コンサートピアニストを断念して、荒れた生活を送っていたこともあったけど、でも、絶対に音楽から、そしてやっぱりピアノからも離れなかった。それは誓いでもあったんだって。だからきっとあの人はピアノの前か劇場で死ぬわよって。それを聞いて、ラーラが、じゃあ私が最期のその一瞬まで一緒にいるって決めたんだって」
 詩織はワインで頬を染めたミクの方へ少し身を乗り出した。
「ね、ミク、さっき、あんな夫婦になりたいって言ったでしょ。やっぱり、ミクには好きな人がいるのね。ね、どんな人?」

 ミクはちょっと躊躇ったようだったが、うん、とひとつ頷いて、携帯電話の中に隠し持っている一枚の写真を見せてくれた。そこには、上品な老婦人とミク、そして精悍でありながら、ちょっといたずら小僧のような雰囲気を残した若者が一緒に写っていた。ミクよりもずっと年下に見える。
「年下なの」
 詩織が何か聞く前に宣言してしまおうというようにミクは言った。

「私はずっと年上だから、彼の将来とか、釣り合いとか考えちゃって、それに彼の気持ちも分からないし、まだちゃんと告白もしていないし。それに、やっと主役の座を射止めた仕事も、ポリープのことでこの先どうなるか分からないし、色々考えちゃって。絵夢もメイコ、あ、メイコはこの人」
 ミクは写真の中の老婦人を指した。
「わたしの祖母。みんな励ましてくれるから、頑張ろうって思う半面、ひとりになると不安でどうしたらいいのか迷うこともいっぱいあって」

 ふたりで会話をするときは、日本語で話せるので、ふたりとも微妙な感情を言葉の端々に乗せることができて、初めて会ったときから不思議と壁は感じなかった。
「髪、切ったんだね」
 写真の中のミクは、長い髪をツインテールにしている。
 ミクの方が年上だが、詩織はミクに言われてから敬語を使わないようにしていた。そこに、この年下の青年への想いもあったのだと思うと、詩織は少し微笑ましく感じた。歳じゃなくて、私自身を見てという気持ちだ。

「うん。色んな思いがあって意地でも切るものかって思っていたけど、歌を辞めることになるかも知れないって思った時、これ以上何かを自分の中にため込んじゃダメだって、思いきって切っちゃった。それでも初めてこの街に来たときは本当に不安だった。お医者様の診察も、その説明を聞くのも。でも、絵夢のおかげで皆さんを紹介してもらって、今ではここがもうひとつの家みたいに感じる」
 詩織はそれを聞いて、ほっとした。自分たちが少しでもミクの役に立っていると分かることは嬉しかった。

「ポリープのことが分かってから、みんな、わたしのことを心配しすぎるくらい心配してくれて、音楽の話もね、もちろん『またいつか歌を聴かせて』って言ってくれるけれど、コンサートに行こうとか、直接音楽に触れるような機会を上手く避けてくれたりしていたような気がするの。それはそれで嬉しかったし、自分でもちょっと音楽のことを考えたくないって気持ちもあったり、一方でまた歌うために手術をするって決めたんだって気持ちを思い出したり、すごく複雑だった。慎一が今日のコンサートに誘ってくれた時も、どうして今なのかな、って思ったりして。でも、行って良かった。二つの意味で」
「二つ?」

「慎一がね、言ってくれたの。うちの孫はちゃんとした音楽教育を受けたわけじゃないし、クラシックの歌い手でもないし、若い頃には結構荒れていて、大事な人を失ったりしたこともあって苦しんで、歌えなくなったこともあって、だからこの仕事でやっていくかどうかも迷い続けていたと思うけれど、結婚を決めたとき、自分の歌ひとつで絶対に彼女を生涯食うのに困らないようにしてみせるって思ったそうだよ、って。だから、君に彼の歌を聴いて欲しいんだ。こんなふうに歌う人もいるんだってことを見て欲しいって」
「あ、それ、母から聞いたことがある。父が挨拶に行ったとき、母のお父さんが、そんな浮き草稼業で娘を幸せにできるのかって言ったんだって。ちなみに、うちの父と母、すごい遠い親戚なんだけれどね。そうしたら、父が、その浮き草稼業ひとつで生涯彼女に不自由させないようにしてみせるって約束したって」

 詩織はミクの言葉でまた、あの父の歌に込められた想いを理解した気がした。あの歌は、私とロレンツォの結婚を(仕方がないから)認めてやるってことだけじゃなくて、日本で待っている母への想いもあったんだ。
 意地でも、この道で生きていく、そして何があっても、自分の周りの人間を幸せにする。そんな単純な想い。

「ね、詩織は今まであんまり自分の恋の話はしてくれなかったよね。私も自分の話をあまりしなかったし。でも、今日色んな事が分かった。慎一がラーラを生涯の伴侶って決めたのも、歳の差とか、自分が音楽に傾ける情熱や時間を考えたら勇気が要ったと思うし、詩織のお父さんが詩織の恋を認めるのも、あの会場で、あれだけの人々の前で宣言したのも、あんな大きな家に大事な娘を嫁に出すなんて考えたらすごく勇気の要ることだったと思う。詩織も、自分がどこまでやれるんだろうって思ったら、今でもすごく不安なんだろうなって、だからあまり嬉しそうに人に話せないんだろうなって。おとぎ話のお姫様みたいに『いつまでも幸せに暮らしました』なんて、現実にはありえないものね」
「ミク……」
 自分が大変なときに、こんなふうに他人の感情に寄り添える、そんなミクだからこそ、将来を嘱望された歌手なのだと思った。歌は心を人に届けるものだから。
 詩織は、いつか、彼女が思いきり歌うのを聴いてみたいと思った。

「今日、詩織のお父さんの歌を聴いて思った。私もあんなふうに誰かを強く想って歌いたい。もしかして手術の結果が思うようなものでなくても、何があっても、音楽から離れないでいよう、その勇気は自分が自分の力で引き寄せるんだって。どんなに苦しくても、歌を手放さない。私には大事な人がいるから。躓くことがあっても大事な人を手放さない。私には支えてくれる音楽があるから」
 ミクが、省エネのために消えた携帯の画面をもう一度点灯させて、その大事な人たちを見つめた。詩織も一緒に、微笑んでカメラに向かう三人を見つめた。
 ミクは告白もしていないし気持ちも確かめ合っていないと言ったけれど、写真の中の三人はもうすっかり家族のようだった。ミク自身は気がついていないかも知れないけれど、ここには未来もちゃんと写り込んでいる。

「名前、何て言うの?」
「ジョゼ」
 答えてから、頬を染めたミクの短くなった髪に、風が優しく触れていった。
 苦しくても不安でも、手を放しちゃいけないものがある。ミクにも、私にも。あの時、父の歌を聴いて、嬉しさと共に、責任の重さや不安も一緒にわき上がってきて震えていた私の手を握ってくれたロレンツォの手を、私はもっとちゃんと握り返すべきだった。

「星が綺麗」
「うん」
 Hasta mi final
 ありきたりだけれど、詩織は星に誓った。
 あの手を生涯離さない。私がここにいるのは、ここに至るまでに積み重ねられてきた沢山の軌跡、そして奇跡の結果だから。
 詩織は、不思議な縁で出会い、それぞれの運命の輪を廻そうと確かめ合った新しい友人のことを、今日、もっと好きになった。
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Category: 掌編~詩織・ロレンツォ~

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