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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【雪原の星月夜-1-】 第1章 月の船(1) 行旅死亡人 

いよいよ連載開始です。初っぱなから18Rにするべきかもしれない内容なので、ご注意ください(中身はたいしたことはありませんが、誰と誰、という辺りにはかなり問題が^^;)。
さて、【海に落ちる雨】のあらすじをうまく書けたらいいのですが、とても書けそうにないので、事件の内容については割愛します。

【海に落ちる雨】事件後の大事なポイントは……
先の事件の際に、大和竹流は修復師として「神の手」と言われた右の手を負傷しています。それだけではなく精神的にも肉体的にもかなり痛めつけれたので、表向きは穏やかにしていますが内心では荒れ狂っているはず。
【海に落ちる雨】のラストで、相川真は竹流=ジョルジョの叔父、チェザーレ・ヴォルテラに雇われて、竹流と一緒にローマに向かうことになりました。竹流はその時点では、集中治療室から出て間もなく、退院を止められながらも、チェザーレがどうしてもローマに連れて帰るというので、真はボディガードとして雇われたわけです。
チェザーレの計画の中では、そのままジョルジョをローマに留め置いて(もちろん、彼はヴォルテラ家次期当主ですから)、真を側近に雇い続けるつもりだったのですが、あれやこれやあって、結局二人して東京に戻ってきました。その間の出来事は、また外伝などで書くかも知れませんし、本文中にもたまに出てくるかも。
【海に落ちる雨】の事件前から竹流と真は同棲していたのですが(恋愛関係ではなく、真が生活落伍者?で、当時危ない女と付き合っていて心中しかねなかったので、竹流が面倒を見ていた……そのままずるずる居候、という状態)、東京に戻ってからも一緒に住んでいました。ただ、精神的に荒れていた竹流は、ちょっと暴力的になっていて、最終的に二人は同居を解消(もっとも真は殺されてもいいと思っていた)。

さて、相川調査事務所は、浮気調査もしますが、メインは失踪人調査です。下請けに使ってくれている名瀬弁護士事務所は企業の顧問弁護士なども請け負っている中堅事務所ですが、少年事件でも有名です。
今回の事件は、まさに相川調査事務所の真骨頂? 失踪事件の調査を頼まれたのですが、きな臭い連中の姿が見え隠れし、また真自身の過去にも関わりを示すような事実が重なり、素直に受けることが出来ません。
例のごとく、おっちゃんたち、大活躍。まずは、真の伯父・失踪している相川功の過去について、真の知らない事実が明らかに。また、真にとって味方なのか敵なのか分からないおっちゃん、真の実父と若い頃先輩後輩関係だったいかにも役人という香月(真には河本という偽名を使っていた)、前回の事件で真を使って邪魔者を消そうとしていたかも知れない裏社会の住人・福嶋鋼三郎、功の親友だった循環器内科医・斉藤宗彦、などなど。

タイトルはまだ仮題なのですが、もうこのまま行くかもしれません。「星月夜」というのは、星が月夜のように明るく瞬いている夜、のこと。クライマックスの舞台は真の故郷の浦河町~襟裳岬~阿寒湖。行方不明の若い女性童話作家を探す旅の行方は?

以前にも書きましたように、この物語にはいわゆる「本歌」があります。渡辺淳一『阿寒に果つ』……多分、あの時代、私にとっての「先輩・先生」たちの世代が経験した学生運動などが吹き荒れていた熱い時代、その残り香が感じられる物語ですが、今の世代の人たちにはどう映るのでしょうか。
ちなみに、このシリーズ自体にも本歌があって、それはアンデルセンの『人魚姫』と『源氏物語』を足して2で割った感じ?(え?)

最近何かと話題の文字数について。今回は6200字あまり。もう少し短くしてもいいのですが、私の文章の性格上、ワンシーンを途中で切るとかなり間抜けな内容になるので、とりあえずこのくらいでアップしていこうかなと思います。あ、でも、ワンシーンが短いときは短めにしてみます。
ちなみに短編の時はもっと長くても一気にアップしちゃっていますが……どうなのかなぁ。代わりに栞代わりのマーク入れてみたり。コメントを毎回丁寧にくださる人もいるので、それはもうまとめてでいいよ、って気持ちもあったり。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(1) 行旅死亡人
 18R

 天井は重厚な深い茶色の木材が組み合わされていて、時代がかったシャンデリアの光を吸収して震えている。
 幾つもの丸い輪が揺れながら、網膜から無防備になった脳に侵入してくるときには、これが現実なのか、それとも夢なのか、もうまるで分からなくなっていた。それでも、この部屋に入り、始めに天井を見た瞬間には、まだ前頭葉はまともに働いていたはずだ。
 狂っているな、と真は思っていた。

 この部屋に入ったのは何時だったか、何度目なのか、この身体が受け止めている重みは一体何なのか、一瞬だけ自分の存在を実存として受け止める隙があると、脳の片隅で僅かの時間、考えていた。だが、それは本当に一瞬に過ぎない。
 自分の身体が快楽に異常に素直だと理解したのは、まだ中学生の時だったように思う。こうした行為が、愛とか恋とかとは別の次元で成立するのだということを、真は自分の身体で自然に受け入れてしまっていたのだろう。それでも、どこかの時点までは、常識から外れないように上手く制御できていたはずだった。

 十代の頃、思春期独特の肥大した自分自身を持て余していたにしても、自分に関わる事象はそれほど多くはなかった。十代の始め、都会で生活しなければならないという現実とどうしても折り合えず、毎日が戦いだった時も、状況が好転した十代の半ばからも、学校、勉強、剣道、数少ない友人、少しばかり複雑だった家族、付き合っていた女の子、つまり自分の抱えきれる事象はせいぜいそれくらいだったのだ。
 だから深くその中へ没入した。生きているということがそれだけで、時には重く苦しくさえあったが、同時に、若い身体には乗り越えるための内なる力も与えられていたはずだった。

 あの頃、意志や思想や理屈を全て超えたところにある何かに、真は恐ろしいほど素直に反応する自分を持て余していた。
 それはいつも極めて身近なところにあった。多くの十代の若者にとって、時にあの世とこの世の敷居が簡単に低くなってしまう瞬間があるのだろうが、真にはひどく低い時が長く続き、それは今、もうあれから十年以上の時を経ても変わっていないような気がした。
 死も、性的に興奮する身体も、全てが単純な細胞の営みのひとつとして、真には制御できなくなる時がある。そう、快楽に溺れるとき、真の身体はあの時の恍惚を、いつもなぞっていたのだろう。

 十九の秋、浦河の崖から落ちた、あの瞬間の恍惚。
 真の記憶にある暗い溝だった。時々、真はあの日までの自分自身と、そして帯広の病院で意識を取り戻して以降の自分自身が、本当に繋がった一人の人間なのか、わからなくなる。身体にも記憶にも、確かに深い亀裂があった。
 思い出せないのだ。逆行性健忘だと説明を受けた。その言葉の本当の意味が、今もまだ理解できない。思い出せないのは、思い出してしまったら、今ここにある自分が誰かの夢の中でのみ存在する幻なのだということを、認めざるを得なくなるからかもしれない。
 この世にしがみついたのには確かに理由があった。だがそれが失われている今、この世に存在している理由が、また分からなくなっている。

 こうして身体の奥深くに他人の重みを受け入れ、自分自身を痛めつけている時だけ、この身体がこの世に留まっていることを実感できる。
 その時、真は鍵を掛けたはずの記憶の引き出しの前に立っている。そのイメージに、真は恐ろしく興奮していた。握りしめていた右手を開くと、そこに鍵がある。もう少しでその引き出しを開けることができる。あたりは真っ白で何の音もなく、ただ明るい靄に包まれている。真以外の生きているものの気配はない。いや、真自身の息遣いさえ聞こえない。真は鍵をゆっくりと鍵穴に差し込もうとする。

 イメージはいつもそこまでだった。咽喉が痛いのは喘いでいるからだと分かっていた。喘いでいる、という次元ではない。福嶋鋼三郎は、真が泣き叫んでいるという。真には記憶がないが、翌朝、いつもまともに声が出ないのは、福嶋の言うことが満更嘘ではないということなのだろう。
 朝、真はぼろぼろになっていた。何故殺してくれなかったのだろうといつも思っていた。その相手が福嶋なのかそうではないのかもよく分からない。呼吸はまともではなく、心臓の音も不規則であてにならなかった。天井にあるはずのシャンデリアの丸い灯りは網膜の上で揺れて、平衡感覚にまで影響し、胃が咽喉まで押し上げられたようになっていた。いや、視覚の異常ではなく、朝方になってもう一度深く沈められた福嶋の身体が、真の身体の中心を突きあがってきているからだった。

「兄さん」
 呼びかけられた時、確かに目を開けたつもりだったが、視野は僅かに明るくなっただけだった。
「ちょっと緩められんか。きつすぎるわ」
 福嶋の低い声は、その男の中心と接している深い部分から真の身体全体に伝播して、いつも真を狂わせた。緩めるどころか余計に相手を締め付ける。そして福嶋はその効果を分かっていて、わざと真を狂わせるような言葉を投げかけているのだろう。意識をすればするほど、相手を呑み込もうと締め付けてしまうのだ。

 福嶋が太い声で喘ぎ始める。そのまま身体の重みがのしかかってきた。厚い唇が真の鼻と薄めの唇を覆い尽くすようにして舌が絡み付いてくる。不快な臭いと何かとてつもない恐怖に身体を撫で回され、突き上げられ、探られていた。
 ふと、一瞬正気だと思った。正気のまま喘がされ、身体を開かれ、快楽に溺れていた。
 俺はやはり狂っている。意識がはっきりしてなお、たまらないほどの気持ちで相手にしがみついている。真は自分の手が福嶋のざらついた頬を弄っているのを視界の中に浮かべた。

 どこか頼る先を求めているのだ。その真の左手の薬指に、銀の指輪が暗い照明の中でゆらりと鈍い光を放っている。いつもなら指輪を外してこの部屋に入っていたのに、昨夜は何をとち狂っていたのかと考えていた。
 福嶋が真の手を取り、真の目を意地悪く見つめたまま、その指輪に厚い唇を押し当てた。
「二重の罪悪感やろ。わざと自分を追い込んでんのとちゃうんか」
 真は答えなかった。
 わしも年やな、と呟きながら福嶋がバスルームに消えた。一人きりで残されると、見上げる天井の焦げ茶色の板に映るシャンデリアは、いっそう異様にくっきりと輪郭を際立たせた。

 真はまだ硬いままの自分自身に手をやり、ゆっくりと扱いた。結婚指輪を見た瞬間に、恐ろしく興奮したような気がしたが、同時に急速に冷めたような気もした。だが、バスルームから水の音が伝わってくると、身体の中に燃え燻っている火がどうにも納まらなくなった。福嶋が戻ってくる前に、あともう一度だけ吐き出してしまいたかった。
 だが、一晩のうちに数え切れないほど達して疲れ果てた身体は、中途半端に快楽の行き着く先を探すだけで、昇りつめることはできなかった。

 福嶋はバスタオルを腰に巻きつけただけの姿で出てきたが、気が抜けたようになっている真を見て、呆れたような、蔑むような、あるいは哀れむような表情を一瞬浮かべた。何の意味も無い逢瀬でも、時を重ねるごとに同情や憐憫の気持ちが育っていくものなのだろうか。
 たとえば、夫婦の間でも。

 福嶋はサイドテーブルの煙草を取り上げ、銜えて火をつけると、魂が抜け出したままの真の唇に煙草を譲った。真は福嶋の指を添えられたまま煙をひとつ吸い込んで、そのまま煙草の替わりに触れた福嶋の唇を自分からも求めた。ついさっき自分自身が福嶋の口の中に放った残滓の味が絡みつく。真は福嶋の背中に腕を回してしがみつき、その背中に残る水滴の冷たさに震えた。
「嫁には仕事や、ゆうてるんか」
 真は答えなかった。福嶋がそんなことを聞いてくるとは思っていなかったので、答えを準備していなかったこともあるが、実際に、彼女に何か言い訳をしたのかどうか、思い出せなかったからだった。

 もっとも、夫が家の外で何をしているか、彼女が気にかけているのかどうかさえ、真には分からなかった。
「嫁とやるだけやったら満足でけへんのやろ。なぁ、兄さん、女は大事にしたらなあかん。せやけど、兄さんは狂いたいんや。もう今更、愛しい可愛いゆうてるような優しいセックスじゃ、何も感じんようになっとるんやろ」
 真はゆっくりと身体を起こし、福嶋の差し出した煙草を受け取った。
「いっぺん聞きたい、思てたんやけどな、なんで結婚なんてあほな真似したんや。あの男と別れたんは暴力に耐えられんかったんやとしても、あてつけに結婚したんやとしたら、相手も可哀相やろに」

 やはり真は答えなかった。別れたつもりはない、と言うべきだったのか、あるいは、ちゃんと妻を愛していると言うべきだったのか。少なくとも、福嶋は真と結婚した女がどういう夫婦関係を築いているか、知っているはずもなかった。
「まぁええわ。兄さんのプライベートに口を出すんはわしの主義に反するさかいな。ま、せやけど、そないに欲求不満なんやったら、わしがもっと適切な相手、世話したろか。安全で後腐れの無い、それでいて狂いまくっても構わん相手が必要やろ。わしもな、自分があんまりまともな人間やとは思てへんけど、セックスしながら相手を殴ったり、妙な道具使うたり縛り付けて犯すような変態ごっこは趣味とちゃうさかいな」

 福嶋の指が真の下顎を撫でた。
「今の兄さんがほんまに満足するんには、もっともっと無茶苦茶にされんとあかんのとちゃうんか。わしの言うてた通りやろ。それが兄さんの本性やて」
 真は福嶋の手から逃れて、煙草を二、三度吹かすと、直ぐに揉み消してベッドを出た。
 福嶋と寝た後はいつも起き上がれないほどになっていた。意志の力だけでどうにかできることなど多くはないということも、こうなってみて改めて思い知らされていた。それでも、真は崩れそうになる身体を何とか持ち上げていた。足の間を伝う粘液の感触に、一瞬叫びだしそうになったが、それも押さえ込んだ。意志はともかく、意地だけでも手離すまいと思っていた。

 熱めの湯温に設定したシャワーを浴びながら、真は壁に手をつき、腹の奥から込み上げてくる嘔気と闘った。身体の奥は既にとてつもなく汚らわしいはずなのに、もっと汚れなければ立っていられないような気がする時がある。何が不安なのか、不満なのかもよく分かっていない。分かりたくもなかった。
 意識が清明でいられる時間が、ある一定を超えると、あの引き出しを開けてしまうかもしれないと思っている。開けるときは終わりの時だ。だから、狂ってしまっていたい。

 真は、自分が舞の前では物分かりのいい夫を演じていることを知っていた。そしてまた、舞がそんな夫の秘密を何もかも知っているかもしれない、とも思っていた。具体的にではなくても、気配が分かっている、そういうことはあるに違いない。妻を愛おしいと思っていないわけではない。少なくともそう信じたい。
 だが、例えばゲイの男が自分の性癖を隠すために、それは他人の目からだけではなく自分の心からも隠すためかもしれないが、社会的には結婚という手続きを踏むのとは少し違っているような気がした。

 社会的になら隠すことは何もない。もう既に、周囲の人間たちは、真とあの男の間にあったことを知っていた。確かにひと時、狂うほどに求め合っていたし、ぼろぼろになって殺されてもいいと思い続けていた。他人の好奇の目など全く気にならなかった。
 真は何故自分が結婚という偽善を選んだのか、ある意味ではよく分かっていた。この結婚という事象に最も傷ついているのは真自身だった。少なくとも結婚という契約を結ぶに至る過程では、舞を愛しいと思っていたはずだが、彼女を愛しいと思うそのことで傷ついていた。その一方で、こうして時々会っては寝るような関係の相手が幾人かいる、そのことでも傷ついていた。
 だが、本当に傷ついている理由は、そのことではなかったのだ。

 もちろん偽善であり、卑怯でもあった。自分が卑怯者であることに傷つくほどには偽善者ではないからこそ、誰かに無茶苦茶にしてほしいと願っている。福嶋はそのことを知っているのだ。だが真がそう願えば願うほど、福嶋は言葉や態度とは裏腹に、優しい人間になっていく。もちろん、これは相対的な問題だった。真が傷つけて欲しいと願うほどには、福嶋は真を傷つけないというだけのことだ。決して、福嶋が本当に真に優しいというわけではない。

 部屋に戻ると、ガウンを着た福嶋が真をソファに誘った。
 真が無視をして着替えようとすると、福嶋は、もう今更急いで帰っても遅いやろ、と言った。真は結局言われるがままにソファに座り、スコッチを受け取った。福嶋は向かいのソファに大きな身体を預け、脚を組むとゆったりと煙草を吸った。
 真がスコッチをほんの少し、申し訳程度に口に含むのを見届けると、福嶋はテーブルに投げ出してあった大き目の茶封筒を、顎でさし示す。
 真は福嶋の顔を確かめ、訝しみながら茶封筒に手を伸ばした。

 定形外の茶封筒は厚みがあって、持ち上げた感触からは本だろうと思った。真は福嶋の顔を窺ったまま、封筒から本を出してみて、思わずその重みに震えた。
 ソ連の科学者が書いた『宇宙力学論』という古い本だった。
 福嶋は茶封筒の下に置かれた何かの記事のコピーも見るように促した。

 行旅死亡人。
 官報に載せられた身元不明の死亡者の欄には、ある男性の死亡報告が綴られていた。
 五十台後半、男性。自称、相川武史。職業、発見当時無職。死亡の状況、アパートの自室で餓死。所持品、作業用ズボン、作業用上衣、シャツ数枚、下着数枚、布団一式、本(訳本『宇宙力学論』)。

 わずか数行の中に押し込められた誰かの人生の終焉の報告には、明らかにあり得ない自称が貼り付けられていた。
 真は本の裏表紙をめくった。微かに震える指が支えた裏表紙の内側に、古い万年筆の青黒い跡。
 伯父は自分の本には小さな星座の印を入れていた。
「その本、見覚えあるんか」
 真は福嶋を睨んだ。
「何の真似ですか」

「兄さんがその本に見覚えがあるようやったら、連絡してきてくれ、ゆうて伝言をことづかっとるんや」
「どういう意味ですか」
「死人の名前には驚くわな。せやけど、名前ひとつなら偶然かもしれへん。けど、もしも兄さんがその本にも見覚えがある言うんやったら、偶然が二つ重なっとる。それはもう偶然ではあり得へんわな」
「伝言って……」
「せや、香月からや。兄さんの事務所に直接言うたれ、ゆうたんやけどな、香月の嫌がらせや。兄さんがわしんとこに来てることを知っとる、ゆうんを兄さんに分からせたいんやろ。香月らしい、嫌味なやり方や」

 真はしばらくの間、その本の裏表紙を見つめ、福嶋には分からないようにそっと星の印を撫でると、そのままテーブルの上に戻し、固い声で言った。
「知らない、と河本さんに伝えてください」
「なんや、興味ないんか。仮にも親父と同じ名前を自称しとった人間の死亡記事やで」
「あの人がどこかで野垂れ死にしようが、俺には関係のないことです。河本さんがうちの事務所に正式に仕事を依頼されるのであれば、受けないでもありませんが」

 福嶋は例の豪快な笑いを見せた。
「そらそうや。調査事務所にタダ仕事を押し付けるんはタチが悪いて、香月には言うといたるわ」
 真はソファから立ち上がり、脱ぎ散らかしていた服を身に付けた。その様子を福嶋が黙って見つめている、その凍りつくようで熱い視線を背中にずっと感じていた。
 震えていることを、福嶋が見咎めただろうと思いながらも、もう継ぐべき言葉はなかった。
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Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-2-】 第1章 月の船(2) 夫婦の問題 

【雪原の星月夜】2回目です。今回も長さは6200字あまり、偶然前回と同じくらいになりました。私のワンシーンに丁度いい長さなのかも? そして、今回は真の妻・舞が初登場です。今回は彼女自身の事も夫婦関係も、まだぼんやりとした輪郭しか描いていませんが、何となく雰囲気を掴んで頂けたら、と思います。
それにしても、ここから読み始めたら、真ってどんなに悪いやつ……って思われちゃうんだろうな。それでも、もう今更カッコイイ男に書き換えることはできませんし。

何というのか、壊れれば壊れるほど、深みにはまればはまるほど、そして穢れれば穢れるほど、透明になっていく。真というのはそういう人間かもなぁと、読み返してみて思っています。

ところで、舞はこう見えて結構料理は上手なんですよ。もちろんそれが理由で結婚したわけではありませんが、なぜか、真と一緒に住む相手は料理上手。竹流(料理は趣味。ついでにレストランのオーナー)、妹・葉子ちゃん(竹流が料理の先生)、そして嫁。
一方で美和ちゃん(事務所の自称・秘書)はかなり自己流(というよりも爆発系?)、ついでに珠恵(竹流の≒嫁)も自分で料理はしないなぁ(芸妓だし、料理よりも大事な事があるし、和枝さんがいるし)。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(2) 夫婦の問題
 

 車に乗ったまま灯妙寺の古い門を潜ると、高々塀一枚の力ながら、突然に外界の喧騒から切り離される。
 十メートルほども進むと、十台ばかり車が停められるようになった野晒しの砂利敷きの駐車スペースがある。その隅の、高い木々に覆われた場所に真は車を停めた。今日は若住職の車も出ているし、住職の原付もなかった。来客の車もない。年末が近いだけに、誰も彼も忙しいのだろう。

 エンジンを止めた後も、真はまだしばらく車の中に座っていた。フロントガラスに枯葉が音もなく落ちて、一度何かを確かめるように留まり、やはり音のない風に煽られて舞い上がって消えた。
 どうにも靄が晴れないまま、真は煙草に火をつけた。
 一体、どういうことだろう。『宇宙力学論』は父の本ではなく、失踪した伯父の本だった。それにまさにあれは伯父の本だ。伯父が彼の本に入れていた印、丁寧に描かれたオリオン座の印は、そのマニアックなほどに正確な星の位置関係も含めて、確かに伯父の描いたものだった。

 伯父、相川功は、真が中学生の時に失踪している。そしてあの本は、伯父と一緒に消えてしまっていたはずだった。
 恐ろしくて確かめたことはなかったが、伯父は、真の父親の仕事のことで何か事件に巻き込まれて亡くなっているのではないかと、真は思っていた。
 伯父が死んだと思うことは救いでもあった。彼がこの世にいないと想像する悲しみよりも、生きているのに自分たちのところに帰ってきてくれないのなら、その方がずっと辛いからだった。
 少なくとも、功が生きていて日本国内にいたのなら、十五年も真や葉子に気配ひとつ見せないなんてことはないはずだ。

 伯父ではないとして、あの行旅死亡人、つまり身元不明の無縁死に至った人物が、同姓同名ではなく、本当に実父の相川武史である可能性があるだのだろうか。だが、彼が帰国しているという話は聞いていないし、もし本当に「相川武史」なら、前内閣調査室長代理の『河本』には本人確認が可能だ。
 真は、フロントガラスに遮られて行き場を失う紫煙をぼんやりと見つめていた。

 それにしても、『河本』は何故こんな回りくどい方法で真にこのことを知らせる必要があったのか。つまり、『河本』はそれが彼の知っている「相川武史」ではないことを確認済みなのだろう。
 もちろん、福嶋の言うとおり、単に釘を刺されたということは十分に考えられた。
『河本』は、真が「イタリアンマフィア」の跡継ぎ息子と別れて、少なくとも真っ当に結婚したことについて、彼なりに満足しているはずだった。それなのに、何を思って、裏社会の権力者の一人と言われる福嶋鋼三郎と会っているのか、もちろんただ会っているわけではないことまでも含めて、とんでもなく気に入らないということを真に示したいだけなのかもしれない。

 伯父の本のことは気になった。だが、『河本』がぶら下げた餌にほいほいと食いつくのは我慢がならないような気がした。
 真は煙草を消した。車のドアを開けた途端、身体に冷やりと外気が纏わりつく。
 踏みしめる砂利がたてる音も、心なしか硬い。後ろめたい思いがそうさせるのか、何となく母屋には近づき難く、敷地の隅を辿りながら離れへ足を向けた。

 新婚生活は相川の家で始めたが、妻の流産をきっかけに灯妙寺の離れに移り住んだ。
 家賃は入れているが格安で、半分居候のようなものだ。住職は、時々子供たちに剣道を教える手伝いをしてくれたらそれでいいと言っている。ここに住み始めてまだ三ヶ月と経っていないが、もともと灯妙寺は、真にとって東京で心から安心して過ごすことができる数少ない場所のひとつだった。

 今、真と妻の舞が借りて住んでいる離れは、真が高校生の頃には、北海道の祖父母が借りていて、東京に来るときはここを住まいにしていた処だ。真も妹の葉子もこの離れを気に入っていたし、あの頃の真は多分、これまでの一生のうちで最も幸福な時を過ごしていたはずだった。
 だが、あれから十年以上経ってここに移り住んでから、改めて、真は自分があの時ほどには幸福ではないことを思い知った。
 自分の心にも身体にも沁みついている明らかな喪失感が何に因るのかは、真自身が最もよく分かっていた。そしてこの漠然とした不安に、妻が気が付かないでいるわけがない。

 離れの建物は木造二階建てで、L字型の内に折れ込んだ部分を、大きな楡の木に靠れ掛かるように預けていた。
 一階には玄関から続く次の間、台所とダイニング、小さな居間が玄関から庭に面して続く縁側に並び、L字に曲がった向こうに小さな座敷兼茶室があった。手洗いは離れの脇にもあったが、風呂は母屋に続く本堂の裏手で、母屋の人たちと共用だった。
 二階には和室が二つ並んでいる。まるで昔の旅籠の続き部屋のようにあっさりとした何もない部屋で、そのひとつを夫婦は寝室にしていた。
 その部屋で、妻の傍らで、真はいつも夢を見ていた。失ってしまった手がそこにあって、背中から冷たい身体を抱きしめてくれる夢を。

 小さな庭は梅の林に向かい合っている。春を告げる梅の仄かな香りは、無骨な真にとってさえ、早春の一番の楽しみで、まだ蕾さえはっきりしないのに、今からもう待ち遠しく思えた。
 そのL字に包み込まれた小さな庭に面した縁側に、六つ年下の妻が所在なさそうに座っていた。

 時々、真は自分がこの女を愛していると思い、時には疑っていると思い、そしてまた時には憎んでいるようにも思った。もし憎んでいるのだとしても、彼女に原因があるわけではなかった。理由を説明しろと言われても、明瞭に言葉で表すことはできない。それに、真以上に、彼女の方が真を憎んでいるかも知れない。

 舞はこの寒空をまるで気にするようでもなく、素足に履いたつっかけを、組んだ足の先でぶらぶらさせていた。
 足首が見える丈の履き古したジーンズに、白い長袖のTシャツ、その上にダウンジャケットを羽織っただけの格好で、膝に頬杖をついた右手に煙草を持っている。子どもを流産してから、止めていた煙草をまた吸っているようだが、それはたいてい夫への抗議のためなのだ。

 舞は真に気が付いてちらっと視線を向けたが、興味がなさそうにまた梅の木の方を見る。
 少女の頃はきつい化粧をしていたから、随分と大人に見えていたが、化粧をしていない彼女は幼く見える。長かった髪を、子どもを亡くした病院を退院した時に切ってしまったので、一見したところ、高校生に戻ったようだ。だが、その中で目だけは相変わらず強い光を宿しているのだった。
 彼女の長い髪を、真は気に入っていたような気がする。少なくとも出会った頃はそうだった。彼女が真に何も告げずにその髪を切ってしまったことについて、真はいくらか腹を立てたような気もするし、一方で自分が何か言える立場ではないという疎外感も覚えていた。

 退院し新しい住まいにやって来た舞は、亡くした子どものためだけではなく、他にも何かを弔うように、切った髪の一部を小さな白い陶器の入れ物に入れて鏡台の隅に置いていた。それは骨壺のようだった。
 そんなことをするような可愛げのある女には思えないが、それは真への抗議の手段のひとつなのか、それを見るたびに、真はこの女を哀れにも思い、一方で背中が冷たくなるような気もした。真と妻の最初の子どもは、もう性別も分かっていたのに、この世に生まれてくることはできずに、病院からの廃棄物として捨てられたのだった。

「電話もかけずに済まない。昨夜は遅くなったんで、もう寝てるかと思って」
 声が傷んだ咽喉から掠れて零れた。舞は夫のいいわけが終わるのを待たずに言葉をかぶせてきた。
「ご飯は?」
 出会った頃の乱暴な言葉遣いはいくらか矯正されていたが、それでもずいぶん棘がある。もっとも、後ろめたい気持ちが、真の聴覚機能に影響しているだけかもしれない。だいたい、妻がもう寝てるかもしれないから気を遣って昨夜は家に帰らなかった、などといういいわけが通用するはずもない。

 舞が朝食のことを聞いたのは、別に朝帰りをした夫に腹を立てているからではないのだろう。もちろん、夫を気遣ったわけでもない。ただ食事を作るという手続きが必要かどうか、それを確かめただけなのだ。
「顔を見に戻っただけなんだ」
 その時、舞は少しだけ不満な顔をしたように見えた。いや、不満なのか不安なのか、それすらも区別がつかなくなっている。そもそも、もともと口数の少ない夫が、妻を思いやるような言葉をかける時、下心がないなどと言えるだろうか。

 真は、でも少しなら事務所に出るのが遅くなってもいいか、と呟くように付け加えた。そして、自分がこの女の前で時折饒舌になるのは(あくまでも自分勝手な基準で)、後ろめたさ以外の何ものでもないと思った。
 舞は無表情のまま突っかけを沓脱ぎ石に脱ぎ捨てて、家の中に入っていった。突っかけは、ひとつは表を向いていたが、ひとつは裏返しになりかけの中途で妙なバランスのまま転がった。真はそれを揃えて、縁側からそのまま家の中に上がりかけた。

 不意に、耳元に何かが触れたような気がして振り返る。
 空には残月が白く浮かんでいた。霞んでうら寂しい白みがかった朝の青の中に、輪郭を溶け込ませた月が、微かにその存在を記している。台所の奥からガスコンロが点いた音、そして水道の音が重なる。
 縁側と居間を仕切るガラス障子は開け放しになったままだった。真は炬燵に足を入れて、座卓の上の新聞を取り上げた。視線だけで記事をなぞっていきながら、文字のひとつひとつを全く理解していない自分に気が付いたが、そのまま字面を追い続けた。

 包丁を動かすリズミカルで小気味よい音が鼓膜を震わせている。
 舞はもともと新宿のある店を中心に番を張っていたような少女だったが、あの頃から意外に包丁遣いは上手かった。それを指摘したら、刃物を使い慣れてるって言いたいのかと怖い顔で反撃された。そんなつもりではなかったので、そういう考えもあるか、と思って感心していたら、ずっと男に飯を作ってやってたからだと吐き捨てるように言った。

 彼女の言う男というのは、一人目は育ての親、それから彼女を利用し孕ませて捨てたろくでもない男のことだ。どちらも彼女に性的な暴力を振るっていたと言っていい。
 真が彼女と初めて出会ったのは彼女がまだ十七の時で、実の親が彼女を探しているからだったが、その時から大人の女のような振る舞いをする一方で、非常に幼く、感情をコントロールできない面を表に出すこともあった。

 どこか自分に似ていると思ったが、その時から彼女には真に最も欠けているものが備わっていた。
 生きることへの執着だ。自分をぼろぼろにして捨てたといい気分になっている連中に、いつか復讐してやる、飄々と生き抜いている姿を見せて、必ずあいつらをみんな足下に踏みつけてやると、そう思っているのだ。

 やがて包丁の音が止む。その時、閉めずに放っていたガラス障子の向こうの高い空を、鳥が横切った。その影や羽音を認識できるほどに、あたりは清明で静かだった。
 静けさは、身体のうちに鉛のように降り積もった痛みや悲しみを増幅させる。
 つい数時間前まで、福嶋をこの身体のうちに受け入れて、一晩中喘がされていたなどとは、到底自分でも思えなかった。身体は生物とは思えない傷み方をしているはずなのに、意外にも頑丈な本質があるのか、冷静でさえいれば醜態を露呈することなく妻と同じ空間にいることができる。
 俺は多重人格の一歩手前だな、と思うが、あるいは人というのは誰しもそんな要素を持っているのかも知れない。

 味噌汁と白御飯、焼き魚と茄子の漬物、わけぎのぬた和えを並べながら、舞が尋ねた。
「風邪、引いたのか」
 真は思わず身体が強張ったような気がしたが、次の瞬間にはすでに平静だった。己の罪を隠そうとする時、人は臆病になるか、あるいは極めてずうずうしくなるのか、どちらかなのだろう。
「ひと晩中歩き回っていたからかな」
 言葉を発したときには、真自身もその言葉が事実であると思い込むほどに、声には震えがなかった。

 犯罪や調査に関わる仕事をしている男や、医療に携わっている男というのは便利な言い訳を持っている。依頼者や患者のプライバシーを守る義務がある故に、一晩帰らなくても家族に詳しい話をしなくても構わないという前提があるのだ。舞も、何も聞いてこなかったが、たぶん夫のことを信じているからではないだろう。

 再会したのは、思わぬきっかけからだったが、その時、いずれ夫婦となる二人にはそれぞれ異なった事情があった。俗っぽく言うと、夫婦の間には始めから距離があったのだ。その距離は、子どもが生まれると分かった時に、もしかしたら真の思い込みだったのかもしれないが、消えないまでも明らかに小さくなった気がした。
 傍目には、愛し合っている仲の良い夫婦に見えていたことだろう。

 舞は風邪薬を出してきて、水の入ったコップを添えて座卓に置いた。幾分乱暴に置かれたコップの中で、水が波を作った。
 真は礼を言って、風邪ではないだろうと知りつつも薬を飲んだ。座卓の上の食器を片付ける妻の手に、真と同じ結婚指輪が曖昧な光を跳ね返している。

 一体この世のどれほどの夫婦が、確かな愛情を持って結婚に踏み切るのだろう。自分自身を考えても、夫婦というものは何を礎に成り立っている関係なのか、ただ不安に思う。いや、夫婦だけではない。人と人は一体何を信じて繋がっていればいいのだろう。あれほどにまで確かだと思っていた絆でさえ、継ぎとめることができなかった。
 この女は俺と結婚して満足なんだろうか。そもそもどうして結婚を決心したのだろう。俺を愛しているわけではないのに。

 真は舞の手を摑んだ。舞は不思議そうな顔で真を見た。脳はまだアドレナリンを持て余しているのだ。真は唐突に舞の身体を抱き寄せ、床に押し倒しジーンズの上から大腿を弄った。唇を求めながらジーンズのホックを外そうとすると、舞が思い切りかぶりを振って抵抗した。
「何すんだよ」
 舞は、今でも時々、夫に対してどういう言葉で話しかけるべきか、迷っているように見えるが、こういう時は昔の素の自分が出てしまうのだろう。

 もちろんとげとげしい会話が日常というわけではない。それでも確かに愛し合っていると思える瞬間はこれまで幾つもあった。今でさえ、夫婦は時々お互いへの隠された愛情を思い出したような会話を交わすこともある。子どもができると分かった時に、真はこの女と夫婦になってよかったと確かに思っていた。
 子どもを失った夫婦は不幸であることは間違いないが、子どもの不在が夫婦の良し悪しを決めるものではない。子どもを持てなかった夫婦の縁や愛情が薄いわけでもないだろう。

 それでも、真は自分がこれまでに犯してきたとてつもない罪が、あるいは人殺しの血が、子どもの命と引き換えにされたのではないかと感じていた。己の心を押し隠してこの女を妻にしたことが審判されて、子どもの命を代償にされたのだとしたら、いや、あるいは真はあの失った記憶の断裂の間で、本当ならもうこの世から失われている存在であり、己の遺伝子を残すことなどあり得ないのかもしれない。

 全てを、失った子どものせいにするのは間違っている。だが、子どもを失ってから、舞とは夜の営みを一度としてしたことがなかった。何より、子どもを失うことで、後ろめたい思いを抱えることになった。どこかで、今なら引き返せるのではないかと思っている。その真の秘めた想いがあの子どもを殺したに違いない。
「寝不足で、ちょっと興奮気味なんだ。すまない」
 本当は謝ってしまわないほうが良かったのだろう。真が舞の身体を抱き起こすと、彼女はするりとその腕から逃れていった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-3-】 第1章 月の船(3) 不夜城の異変 

【雪原の星月夜】3回目です。
今回はちょっと長めです。途中で切ろうかどうか悩みつつ、アップしました。やっぱり長いかなぁ。半分に切れなくもないのですが、真ん中のきりどころが微妙で、一気にアップしちゃった。←最近、字数に悩んでいる^^;
本当のところを言うと、サブタイトルをつけるのが面倒くさいというのもあるのです。以前はつけてなかったけれど、これは目印にいいなぁと思いまして。
それに、今回は説明が多いので、まぁ、適当にすっ飛ばして読んで頂いてもいいような気がします。物語の進行上必要だけれど、余り面白くない回、っていう例の部分ですね。

さて、真の事務所、久しぶりにお目にかかる美和ちゃんと宝田の登場です。
タイトルをつけてから、不夜城=新宿っていつも異変だらけの街だから、異変って言っても「いつも通り」ってことだな、なんて思ったりしていました。

今回登場の「大東組」というのは、実は、【海に落ちる雨】に瞬間的に出てきたのです。あの時、亡くなったおやじさん=田安のおっちゃんのお葬式にこの組の組長が来ていて、真とものすごく短い会話を交わしているのですね。それきり絡んでいませんが。
[雨49]第8章 ある代議士の事情(2)
この回のコラムに、偶然「文字数」のことが書いてあった。そこにも、ひとつの記事が6000~7000文字になるって書いてある。てことは、ずっと、ワンシーンがその長さって事かぁ。でもね、もうひとつ気がついたんです。二人のシーンだけは、もっと長いんですよ^^; あれ? 
なんだ、ずっと悩んでて、成長してないのね、私。

ついに、竹流のお店も(名前だけ)出てきました。でも、なかなかあの人は出てきませんね……
わたしも、久しぶりに早く会いたい気がします(*^_^*) 

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(3) 不夜城の異変
 

 数週間前から、街に警察官が増えていた。理由は分かっている。真の調査事務所が入っているビルの前に、防弾チョッキをつけた警察官が立っている理由も明らかだった。
 こんな状況では飛び込みの依頼人もやってこないだろうし、いつも真の仕事を陰日なたで支えてくれている主婦のアルバイト達にも、しばらく事務所に近付かないほうがいいと伝えてあった。万が一、仕事が入ってくれば、事務所ではなく外で会う手筈になっている。

 このビルは、関東一円でシマを張っている寛和会の傘下である仁道組の持ち物だった。その寛和会最大の春日組の大親分、別所広太郎が急死したのは先月のことだ。
 昔気質の別所が何を考えていたのかはともかく、跡目を指名せずして亡くなったのが内部に混乱を招いた。
 確かに別所には狭心症の既往があったし、高血圧の薬も飲んでいたから、病死として問題はなかったが、殺されたというまことしやかな噂が寛和会内部に走った。折しも、関西から関東への進出を図っている広域暴力団昇龍会が、関東で寛和会と対抗する一大勢力である真厳会の筆頭、丹波組と手を組むつもりであるという噂が、もう半年以上前から流れていたところだった。大黒柱の別所を失って浮き足立った春日組が崩壊すれば、一気に真厳会が勢力を拡大する可能性があった。

 そんな時に、春日組の特攻の若者が丹波組の事務所に突っ込んで行ったのだ。その若者は返り討ちにあって、事務所の窓から投げ落とされて死んだ。もちろん、表向きには事故死ということになっている。
 緊張は一気に高まったが、今のところ、真厳会の中で丹波組の向こうを張る大東組の大親分の制止が利いているのか、全面抗争にはならずに春日と丹波はにらみ合ったままだった。もちろん、裏でなにがしかの手打ちと称するやり取りがあったのだろうが。

 だがもしも、全面抗争になれば、春日の大親分に誰よりも世話になっていた北条東吾は、黙っているわけにはいかないだろう。そしてもし、東吾に何かあれば、息子の北条仁は動かざるを得なくなる。この世界で最も大事なのは、面子と義理だ。
 今、この事務所を見張っているのは、警察官だけではない。仁道組の見知った幾人かの男の顔も、真の視界に入っていた。仁がこの事務所に一番の人員を割いていることは、その男たちの顔を見れば分かる。その男たちは皆、北条東吾と仁のためなら、つまりは仁の恋人のためなら、特攻としての仕事を躊躇いなくこなすのだろう。

 真が、事務所のある二階に上がっていくと、閉まった扉の向こうから威勢のいい声が聞こえてきた。
「うちは堅気の商売をしてんですからね、ビルの持ち主がどうのこうので、ガードをつけてくれるってならともかく、こっちが犯罪者みたいに扱われるいわれはないですけど」
「北条の跡取りの女が、堅気が聞いて呆れるな」
「だから何よ。うちなんかで怒鳴り散らしてないで、街の平和を守りなさいよ」
 真は扉を開けた。途端に真正面に仁王立ち、という言葉が相応しいように立っている柏木美和と視線がぶつかった。

「所長のお出ましだな」
 振り返ったのは警視庁捜査四課でも、若手で最も荒いと言われている古塚という男だった。厳つい顔つきは、高校生の時にはもう少しましだったような気がするから、この仕事を続けるうちに身に付いてきた特質なのだろう。
「おい、相川、この娘には口のきき方を教えといたほうがいいぞ。こんな時にそんな口をきいてたら一言で相手を刺激して、ババ引くことになるのは自分だって事をな」

 古塚は小学生の時から剣道の全国大会入賞の常連で、そもそも剣道を続けるために警察に入ったような男だった。真とは合計四回試合をして、二勝二敗の結果だったが、その後も大学で剣道を続け、警察官にまでなった古塚からは、恐らく真は今、一本も取れないに違いない。
 高校二年の関東大会の準決勝で大将同士としてぶつかった試合が、古塚にとっては余程に印象深いものだったのだろう。新宿の街で再会したとき、古塚は真を直ぐに見分けて近づいてきた。いわく、まだ勝負はついてないぞ、と。真からすれば、結果は見えているというのに。

「小娘、悪いことは言わん。北条仁とは別れろ。俺たちも酔狂でこんな仕事してるわけじゃないからな、忠告も大事な義務だって思ってるんだよ。遠からず北条東吾は切り込むぞ。東吾が死んだら、お前の恋人は黙ってるわけにゃいくまい」
「古塚さん」
 真は美和の不満と不安と怒りが最大限に混在した目を見つめたまま、古塚に話しかけた。
「彼女には、警察に絡まれるような事情は何もないはずだ。今日は引き上げてください」

「相川、俺はな、お前のことだって心配してんだぞ。こんなくそったれの街で、ヤクザのビルで調査事務所なんかやってんのは正気の沙汰とは思えねぇ。聞きゃあ、お前、あの名瀬弁護士のお気に入りらしいじゃないか。悪いこたぁ言わねぇ。さっさと名瀬先生様に泣きついて、こんな街から出て行け。前原だって心配してたぞ。ま、向こうは俺と違って親の七光りもきらきらの、立派なキャリアだけどよ」
 前原こそは真の高校の先輩で、その父親も警視庁のキャリアだ。前原自身は捜査一課の刑事など似合わない雰囲気の男で、高校生の頃から温厚な平和主義者だった。だが頭の切れる先輩だったし、策士の一面も持ち合わせていたので、後方で分析をしたりシステムを動かしたりということなら、その才能を余すことなく発揮するだろう。

「ご忠告は有り難いと思ってます。でも、北条さんは彼女にも俺にも、被害が及ばないようにと思ってくれてる」
「すっかりヤクザに骨抜きにされやがって」古塚は吐き捨てるように言ってから、少しは心配そうな気配を滲ませて先を続けた。「北条東吾や息子がどう思ってようと、相手はそうは思わんぞ。お前だって分かってるだろうに」
 古塚は鼻で息を吐くと、もう何度も繰り返している問答の結果など分かっているかのように、結局長居を諦め、事務所を出て行きかけた。
「だが、もしも北条の息子が何かやらかして、お前らが匿ったりなんぞしたら容赦はしねぇぞ」
 美和が何かを言い返そうとしたのを真は制して、古塚のためにドアを開けた。古塚はひと睨みしてから出て行った。

「もう、むかつくったらありゃしない。始めっからこっちを犯罪者扱いよ。警察が冤罪事件を生んできたわけがよく分かるわ」
 真は美和を窘めるように軽く腕に触れ、コーヒーを頼んだ。美和は何かを言いかけて、唇を引き結び、それから奥の小さな炊事場に消えた。
 真は美和を見送ってから、デスクに置かれた手紙を確認した。名瀬弁護士事務所からの支払い証明、エアコンのダイレクトメール、ローン会社の宣伝、少し前に探し出した失踪人の調査に対する礼状、それにもう一通、やたらと大きな封筒が残されていた。
 真がその封筒を開けたとき、丁度美和がコーヒーを持って来てくれた。

 封筒から出てきたのは一冊の本だった。今日は開ける封筒に本が入っている確率が高い一日だと思った。
 不思議な本だった。大きさや装丁からすると、絵本の類なのだろうか。
「ゴッホの星月夜みたいな絵」
 美和が表紙を見て言った。濃く青い海のような空に星が渦巻くように光を放ち、樹氷の林に照り返る景色、その木々の足下に広がるのは雪原だろうか。雪原は黄金に染まり、番いの鶴が啼き交わすように嘴を高く突き上げている。

『天の海 月に帰る船』
 タイトルが黄金の涙のような色で青い空の中に書かれている。その絵を見ていると、デジャヴのような不思議な感情が湧き上がってくる心地がした。
 美和がコーヒーを机に置いて、封筒の裏を見た。どこから送られてきたのか興味を覚えたのだろう。
 池内暁。
「知ってる人?」
 真は首を横に振った。封筒には本以外の何も入っていない。差出人の住所はなかったが、消印は都内のものだった。

「あれ」美和が絵本の表紙を見て言った。「その作家さん、知ってる」
 雪原の暗い黄色の中に沈むような黒で書かれた名前は、『文 神路月』。その下に『絵 アンーチュプ コロ アフプーコロポ』と書かれている。
 アイヌ語だ。
「若くて美人の童話作家さんだよ。私も全部読んだけど、その本は知らないなぁ。新作かな」

 真がぼんやりと表紙を見つめていると、美和が何かを思い出したように、資料が山積みになっている奥の部屋に行って、一冊の雑誌を持って戻ってきた。その雑誌を真に差し出す。
 美和は大学を卒業して大学院生になっていた。ジャーナリズムを学んでいたが、その研究テーマは写真が社会に残してきたインパクトについてで、正確なテーマは真の知らない単語が並んでいるので、真面目に聞いたことがない。

 彼女は大学院の試験を受けるとき、山口に帰ってこいという実家からの催促や、生活のあり方を決定してしまうかもしれない就職に対して、猶予期間が欲しかったのだと言った。その時、彼女はあえて北条仁の名前は出さなかった。家族と完全に縁を切り、北条仁の女として生きていくということは、もう引き返せない場所に向かうということだ。美和は出来る限り平静を装っているが、常識的に考えたら、迷って当然だった。

 真が以前の同居人とローマで過ごしている間に、美和と仁が蜜月とも言える時期を過ごしていたことは聞いていた。しかし、その間にも美和にはまだ大学生としての生活や義務があり、それが美和にもう一度考え直す時間を与えてしまったのだろう。そして、北条仁も、美和の将来を安泰なものにしてやりたいと願わずにはいられなかったに違いない。
 以前より短くなった髪は、美和に似合っていた。

「十代の女の子にとってカリスマ童話作家、っていうのかな、ちょっとアイドル的存在でもあるの。童話っていうよりもティーン向けの小説、って言うほうが正しい気はするけど、内容としては大人が読んでも十分に楽しめると思う。随分前からマニアックなファンはいたけど、そもそも作家って、テレビにでも出ない限り、広く一般に知られているってこと、あんまりないでしょ。でも、彼女はこの雑誌をきっかけに結構名前を知られるようになったの」
 半年ほど前の、十代の女の子向けのファッション雑誌だった。

 表紙にはいかにもモデル、という顔立ちのすっきりした顎を持った若い女性が、ポンチョのように裾の開いた腰まである淡い桜色のブラウスに、細く黒いパンツを履いて、右肩を少し前に出して向こうから歩いてきたようなポーズで立っていた。切りそろえられた長い黒髪は、演出なのだろうが、風で広がって重力とは関係のない位置に踊っている。
 印象的なのは、濃い眉だった。その眉に比べると、目も鼻も唇も、決して地味なわけではないのに、あと付けされたもののように記憶に残らない。美人というのではないが、一度見たら忘れない、印象に残る顔だった。

 しかし、先に真の目を引いたのは、桜色のふわりとしたブラウスの裾の模様だった。
 それはアイヌの文様だった。女たちが刺繍する文様は、様々な意味合いを持つ。その衣装を身に付ける者、恋人や夫を守るためのものだった。袖口や裾、襟口に文様を施すのは、そういう場所から悪霊が入り込むことを防ぐためのものだ。だが、この文様がファッション雑誌に取り上げられるような種類のものとは思えなかった。
 真はその作家の特集記事をめくってみたが、そこにはアイヌの文様に関する記述はなかった。

 神路月、というのはペンネームなのだろうが、本名に関する記載は何もない。生い立ちに関する記載もない。ただ、彼女が書いた物語についてと、気に入っている映画や本、化粧品や装飾品、家に飾っている雑貨の紹介だけだった。
 彼女の作品は、記事によれば七作あると言うが、美和の言うとおり、そこには今目の前にある『天の海 月に帰る船』という物語は含まれていなかった。とすれば、この半年の間に出版された本なのだろうか。

 何より、真の知らない池内暁なる人物が、真の知らない童話作家の絵本を送りつけてきたことが問題だった。本をぱらぱらとめくってみたが、手紙やメモの類も入っていない。幻想的な景色が描かれた表紙を見る限り、小学生程度の子ども向けの絵本を想像していたが、中のページをめくってみると文字が予想以上に多い。
 とりあえず、ざっと本の内容だけでも読んでみようか、もしかして何かの暗号でも隠れているのかも、と思ったとき、宝田三郎が戻ってきた。

 宝田はこのところ、朝の掃除を済ませると、高円寺の北条の家に日参しているようだった。それは、この大変な時にこそ、世話になっている仁の力になりたいという単純な気持ちだったのだろう。
 もともとヤクザになるのが希望で関西からこの街にやってきた宝田だったが、生来の気弱な性格のためヤクザには向かないと言われて、真の調査事務所で働いている。だが北条の家が混乱に巻き込まれようとしている時に、黙って知らん顔をするような薄情はできない、というのが宝田の理屈だったし、それについては真もどうとも意見することができなかった。

 宝田が高円寺と調査事務所を行ったり来たりすることが、結果的にこの事務所を危険に晒している可能性について、真は宝田に何か言うべきだったのかもしれない。だが、真とて、仁に対して知らん顔をすることなどできない立場にあった。いや、立場と言うよりも、ただ仁のことが心配なだけだったし、宝田も同じなのだ。
 宝田は、相変わらず現役を退いて筋肉が贅肉に変わってしまったプロレスラーのような身体で、しょんぼりと朝の挨拶をした。今日も仁に会えなかったのだろう。ふと美和を見ると、美和も宝田の様子を見て何かを察したのか、黙ってしまっていた。

 どうせここのところ開店休業状態でもあったし、明日、名瀬弁護士の事務所に行くまでは仕事も入ってこないだろうから、今日は美和と宝田を連れてどこかにドライブにでも出掛けるのがいいのかもしれない。
 真が口を開きかけたとき、電話が鳴った。美和が何かに救われたように表情を変えて、受話器を取る。始めはやたらと丁寧な口調で電話に答えていたが、幾らか曇った顔になって真に受話器を渡した。

「お久しぶりですね」
 美和の不快な表情の理由は直ぐにわかった。電話の相手は件の大東組の若頭、新圧龍和だった。
「さぞかし騒がしいことでしょう。鬼塚があなたの事務所に入って行ったと、うちの若い者から知らせがありましたので、陣中見舞いを兼ねて電話をさせて頂いたのですよ」
 言葉も丁寧だが、新圧は見かけも上品で、一見ヤクザには見えない。それでも古塚を鬼塚と言っているあたり、警察への警戒と恨みは積り積もっていることだろう。
「何か、御用でしょうか」

 ヤクザと付き合いたくて付き合っているわけではないが、結果として絡んでしまうことはなくもない。
 仁道組と大東組は敵対する掌紋を掲げているにも関わらず、大東組の三代目の真に対する覚えは、決して嬉しくないことに、大変にいいらしい。真が大東組の若い衆の人捜しを手伝ったからでもあるが、それはあくまでも犯罪に関わっていないという確信があったからだし、その条件下でなら依頼人が大企業の社長だろうとヤクザだろうと幼稚園児だろうと、一切差別なく仕事を受けるのが真の立場に違いなかった。それに大東組の三代目は、善し悪しは別にして、昔気質の昭和任侠伝を地で行っているような男だった。

「組長があなたにお会いしたいと言っておりましてね」
「この状態で僕が大東さんにお会いするというのは、もしも誰かが勘繰ったらとんでもないことだと思いますが」
「私も組長にそう言ったんですがね、何でも個人的に仕事を頼みたいのだと、人の命がかかっているかもしれないから、この状況下でも待てないのだということで」
「人の命?」
「今夜十時に銀座の『ポルト ネッラ ネッビア』でお待ちしております」
 真は思わず言葉にならない声を出しかけたが、新圧はあっさりと電話を切ってしまった。
 新圧が告げた会員制バーは、真が結婚前まで同居していた男の持ち物だった。

「どうして大東の新圧から電話がかかってきたりするわけ? もう、何が何だかわかんない」
 美和がこのところいらついているのはよくわかっていたし、美和の気持ちを思えば、いらいらするなとは簡単には言えなかった。
「個人的に仕事を頼みたいって」
 真が半分まで言いかけたところに、美和が言葉を被せた。
「冗談でしょ。平常ならまだしも、この開戦前夜とでもいうような状態で、仁道組の持ちビルにある調査事務所の所長が、大東組の若頭に呼び出されて会いに出掛けるなんてありえない。勘繰られたら、先生、巻き添え喰っちゃうよ。やめてよ」
 美和は混乱して半分叫んでいた。宝田の顔も険しかったが、真は二人をソファに座らせて、少し時間を置いてから、努めて冷静な声で言った。

「指定されたのは竹流の店だ。めったなことはないと思う」
 美和はしばらくの間、混乱したような顔のまま、真を睨んでいたが、そのうちに涙目になった。
「もう気が狂いそうだよ」叩きつけるように言ってから、美和は青い顔のまま息をついた。「自業自得っていうのか、ヤクザと付き合っちゃった自分が悪いんだけど、先生にもしものことがあったら爆発しちゃいそうだよ」
 美和もまた、このひと月近く仁に会えていないのだ。事情が目に見えず、説明もされず、俺を信じて北条の屋敷にいろとも言ってもらえない状況で、美和はまた混乱しているのだろう。この一週間ほど、美和のイラつきはエスカレートしていっているように見えていた。

「どうせ客も来ないだろうし、横浜にドライブにでも行って、中華街で昼ごはんにしようか」
 いつもなら食べ物の話題には食いついてくる美和と宝田だったが、今日は違っていた。
 美和は真を涙目のまま睨みつけ、宝田はとろんとした当てもない視線を向けてきただけだった。どうにも居心地が悪いのはやむを得なかったが、提案に賛成をもらえなかった真は、結局、コーヒーを飲み終えると出かけることにした。
 事務所を出掛けに、仁道組の見張りの男と視線だけで会釈を交わし、美和と宝田のことを頼んでおいた。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-4-】 第1章 月の船(4) 図書館の出逢い 

【雪原の星月夜】4回目です。
今回もまた、「物語の進行上必要だけれど、あまり面白くない回」になるような気もします。
でも、書いている時は、意外に楽しかったのです。なぜなら、このカリスマ女流作家の本のタイトルをずらっと並べてみたから。こういうの書く時って、結構楽しくありませんか。

さて、今回登場の女子高生たち、真の出身校の後輩になるわけですが、もともとこの学院は私の通っていた学校がモデルなんです。そして、ここに登場する女子高生は私の友人(たち)がモデルです。ここにアップしている作品の最初の読者でもありました。
美和ちゃんも仁も今回ちょっと辛い立場なので、清涼剤の役割を果たしてくれる人が必要だったのですね。
結構ハードな展開が多いこのシリーズ(昭和ですから)、清涼剤的立ち位置の登場人物が幾人か必要になるんです。今回は、多分、後輩女子高生たちと灯妙寺の人たちでしょうか。

今回は第1章の最終話です。でも、まだあの人は出てきませんね……夕さん曰く「ヒロインが出てこない」って……^^;
それなのに、次回はちょっと1回休憩になるかも。息子のお話が書けていたら、ですけれど。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(4) 図書館の出逢い
 

 図書館の暖房は幾らか強すぎるような気がした。
 終戦直後に建てられた古い公会堂を改築した図書館は、窓ガラスの歪みまでもがレトロなムードを醸し出している。ただでさえ遠くを見通せない古いガラスが曇って、水滴を下枠に溜めていた。
 真はコートを脱ぎ、受付の若い女性に絵本のコーナーを聞いた。

 今日は封筒から本が出てくる確率も高いが、月に遭遇する確率も高い。封筒から出てきた本のタイトル『天の海 月に帰る船』、新圧が告げた大和竹流の所有するバーは会員制で『霧の港』という意味のイタリア語だったが、竹流はそのビルの上階にあるレストランの脇に、小さなカウンターだけのバーも作らせていた。そのバーの名前は『月の船』という。

 どこか記憶の隅に、古代の歌人が作った歌が引っかかったが、よく思い出せなかった。古代の歌とは思えない宇宙を描いた壮大な内容に、真は苦手だった国語に初めて興味を覚えた記憶がある。古代から人々は天を見上げ、星を数え、星座に物語を託し、命の行く先を求めてきたのだろう。
 竹流はギャラリーには『星の林』という名前をつけていたが、それもその歌に含まれていた言葉だったはずだ。

 その上、童話作家の名は『神路月』、彼女の本に絵を添えた画家の名前、アイヌ語で記された名前は、訳すと『月の貰い子』という意味だった。朝方に灯妙寺の家に戻った時に、何かに見つめられているような気がして振り返った空に、ぼんやりと浮かんでいた白い残月もまた、今日、真の回りに漂っている月の気配だった。

 絵本・童話のコーナーに行くと、その女流童話作家の本は子ども向けというよりも、やや年長、高校生くらいの年齢をターゲットにしているコーナーに並んでいた。本の傷み方を見ると、随分と貸し出されたことがわかる。
 真は背表紙を、肝心要の部分に追いついてしまうのが恐ろしいような気がして、やたらと時間をかけて読み下していった。
『消えたプレヤード』、『南のひとつ星』、『星のささやき』、『青の妖霊』、『かささぎの橋』、『後に続くもの』、『鬼宿の契り』。

 脳外科医になる道を選ぶ前、というよりも医学部に入る前、伯父の功は理学部で天文学を学んでいた。医師になってからもマニアックなほど宇宙に纏わる勉強を続けていたし、ドラマや映画、漫画やアニメまで好んで見ていた。
 小学五年生で東京の伯父に引き取られてから、登校拒否で学校に行けなかった真は、趣味とはいえないほどの彼の情熱を直ぐ傍らで分かち合ってきた。だから、肉眼で見分けられる星の名前を、その学問的名称も愛称も含めて、今でもほとんど正確に言うことができる。

 このタイトルの全てが、星や気象に関わるものであることは直ぐに理解できた。
『消えたプレヤード』というのは牡牛座プレアデス星団、すなわち昴にまつわる物語に由来している。プレアデス星団は肉眼では六つの星の集まりに見えるが、神話では天を担ぐアトラスの七人姉妹だとされている。つまりひとり欠けているのだ。その欠けた一人が消えたプレヤードというわけだった。
 『南のひとつ星』は南魚座のフォーマルハウト、秋の夜空のただひとつの一等星だ。『星のささやき』というのは、確かシベリアのどこかで氷点下五十度にもなると、大気の中で水分が結晶となって霧氷が発生するが、この時に微かな音がするのだと聞いた。その音のことを星のささやきと呼んでいる。

『妖霊星』は文字通り妖しい星、もともとは弱法師の当て字だと言われている。弱法師の物語は観世元雅作の能で、父子の誤解と贖罪の物語だった。『かささぎの橋』とは、織姫を船に乗せてくれない意地の悪い月の船人に代わり、かささぎが羽根を広げて織姫を向こう岸へ渡してやろうとした、その羽根が連なった橋のことをいう。
『後に続くもの』というのは、牡牛座の一等星アルデバランのことだ。この星がプレアデス星団の後から空に昇るためにそう呼ばれる。
 どの背表紙からも、ある独特の孤独感が滲み出ている。題名から受ける印象なのだろう。

 最後に残った『鬼宿の契り』という本を、真は書棚から抜き出した。
 鬼宿、というのは蟹座の甲羅にあたる四つの星の中国名で、かの国では最も縁起の悪い星とされている。人間が死ぬと、心をつかさどる魂(こん)は天に昇って神になるが、形、つまり肉体をつかさどる魄(はく)は地上に残って鬼と呼ばれる精霊になるという。もっとも、インドではお釈迦様が生まれた時に月がこの星の場所にあったので、めでたい星座とされていることからも、国によっても人によっても捉え方は色々なのだということだ。
 だが、『鬼宿』という言葉は、どう考えても明るい物語につけるタイトルには思えない。

 物語の舞台は真の想像とは違って、現代だった。主人公は女子高に通う女の子、恋の相手は毎朝の通学の電車で会う男子校の高校生。女子高生にとっては身近な物語であることが人気の理由なのかもしれないが、物語は、飛ばし読みをしている真の目の中で、直ぐに現実から遠ざかっていった。
 文字が描き出す世界が現実から遠ざかっていくと、逆に真の頭の中で、物語の風景が現実に近付いていった。

 主人公の女子高生は、勉強はそこそこ好きではないけど嫌いでもない、絵を描くのが好きだったので何となく美術部に入っているけれどそれほど熱心な部員でもない、おしゃれには少しばかり興味があるけれど、当然のことながらお金もないので、せいぜい雑誌の中で楽しむ程度、放課後の友だちとのおしゃべりが楽しくて、というような、どこにでもいそうな女の子だった。
 恋の相手は、同じ路線にある私立の有名高校の男の子で、野球部のエース、ハンサムで友達思い、性格も明るく、いかにも少女漫画に出てきそうな相手だった。

 だが、物語が半分まで進むと、男の子の家庭環境がかなり複雑で、母親の再婚相手である義父から暴力や性的な虐待まで受けていたことが分かる。主人公とこの男の子は急速に親しくなり、二人で親たちから逃げ出そうとする。主人公の家庭環境が特に複雑である描写はないが、思春期独特の反抗心はあったのだろう。
 だが、物語が後半になり、鬼宿の意味が明らかになった。

 主人公の少女は、死者だった。魂が離れたことに気が付かないままの魄、すなわち鬼だったのだ。少女の恋は、可愛らしい初恋などではなく、この世に対する妄執だった。少年はひとつの呪縛から逃れ、別の呪縛に絡め取られる。
 真は思わず本を閉じた。思春期の多感な少年少女がこれを読んで何を思うのか。そもそもその年齢の若者はこういうオカルトやら魂の物語が大好きなのだ。真がこれまでに関わってきた未成年の失踪者にも、当人曰わく「声なき声に導かれて」彷徨っていたような者もいた。この世界、この社会との関わりを切実に苦悶し、肉体に害を及ぼすほどに思いつめるのもまた、そういう年齢独特の心のあり方なのだろう。

 だが、一方で、彼らは一様に大人たちが思うよりも誠実で真剣で、何より聡明だった。決してオカルトに溺れているだけではないのだ。それは、この世界とこの先どのように付き合っていくのかを確認していく通過儀礼のようなものに違いない。
 真自身とて、その年齢の時には、同じような心情でいたし、正直なところ今でも、まだ現実との区別がつかない幻を垣間見る瞬間さえある。記憶の混乱なのだろうと思っているが、突き詰めて考えることで自分の足元が崩れてしまうような恐怖があった。
 年齢に関係なく、心の内というものは表に出すことが困難なものだ。

 小学生の時に東京に出てきてから、何度か精神科医や心理学者の診察を受けた事があった。彼らは真に絵を描かせたり、催眠療法に近いような方法を試したが、真はどこかでその方法を警戒し、恐らく彼らは上手く真の心の内を知ることはできなかったはずだった。
 大体、どう考えても下手糞な真の絵を見て、何がわかったというのだろう。ただその子どもが、かなり複雑な内面を抱えていることだけを知ったに違いない。

 何を抱えていようとも、少なくともこうして大人になり、社会で生活をしていけるようにはなる。本当に必要なものは、その複雑さを抱えた個を、そのまま受け入れてくれる別の個の存在なのだろう。
 女子高生のカリスマ童話作家であるという神路月。
 月というのは、本来、様々の神話では陰のイメージを持たされている。その作家はどうして自分にそんな名前をつけたのだろう。

 ふと誰かの視線を感じて顔を上げると、不信そうに真を見つめる制服の女の子がいた。
 確かに、もう三十にもなろうという男が、カリスマ童話作家の本を真剣に見ているというのは怪しいだろう。

 だが、何か気の利いた言葉で会話を始めて、その女の子から情報を引き出すような器用さが真にはない。この仕事に関わって既に十年は経過しているにも拘らず、調査事務所の人間とは思えない不器用さを、未だに真は克服できないでいる。
 ところが、実際にはこの手腕の乏しさが真にとってプラスに働いていることが少なくない。初めて会った相手は、真が調査事務所の人間だとは全く思いもしないだろうし、今でもまだ大学生に見られることもある風体からも、都会に慣れずに道に迷っている若者と間違われることもある。

 女子高生はしばらく顔を上げた真と視線を合わせていたが、後ろから近付いてきた別の女の子の気配に後ろを振り返った。その瞬間にようやく網膜に映っていたその子の制服が、正確な情報になって真の脳に入ってきた。
 真が通っていた私立の聖幹学院の制服だった。いや、制服そのものは随分と垢抜けてファッショナブルになっているように思ったが、襟についた、三つ葉のクローバーをモチーフにした学校の紋章はそのままだった。

 今度は二人の女の子の視線をまともに受ける結果になって、真は逆に視線を逸らすことができなくなった。幸いだったのは女の子達の屈託のなさだった。
「その本、借りられますか?」
 真は思わず自分の手元に視線を戻した。
「いえ、どうぞ」
 真は『鬼宿の契り』を先に現れた女の子に差し出した。

 それをきっかけに図書館の隅で囁きを交わすような会話が始まった。女子高生たちは、真のような年齢の男が、その本を取り上げて読んでいたことに興味を持っていたようだった。
「幹学院ですか」
 真が尋ねると、制服に興味を持っている怪しい男に思われたのか、一瞬女子高生の顔つきが微妙になったが、それに気が付いて真が困惑気味の顔をすると、一人がくるんと表情を変えた。
 真は出会ったばかりの頃の屈託のない美和の顔を重ねていた。

「いや、俺も卒業生なので……」
 そうなんだ、と二人組の女子高生は顔を見合わせたが、まだいくらか疑いを残しているようだった。
 さりげなく、何年の卒業、その時いた先生がまだ勤めているか、など当事者しか知らない情報交換をしてから、ようやく安心したのか、笑顔を見せてくれた。

 真が通っている頃から、学院では私服にしようという運動があって、もともと学生の主張を取り入れることに積極的な院長の方針で、その意見は何度も学生集会で話題になっていた。二人の女子高生の話では、結局、毎日服を選ぶのは面倒だという学生からの現実的意見で、私服化は実現しないままだという。その代わり、スカートやズボン、ブレザーとネクタイは制服で、ブラウスやコート、ちょっとした装飾品などは自由ということになったらしく、よく見ると二人の着ているブラウスは、どちらも白ながらデザインは全く違っていた。

 何となくその子たちと歩調を合わせるような気配で図書館を出て、別に親しくというわけでもなく少しの距離を置いたままで、両脇を高い欅の木に挟まれた歩道を歩いた。
 女子高生たちは真に興味を持っているものの、知らない男への警戒はそれなりに保ちつつ、今の学校の状況について、真の質問に答えてくれる。時には彼女たちの方から、昔の学校のことを聞いてくる。それを聞くと、十年以上も経って随分変わったところもあるのかと思いきや、大筋としてはあまり変わっていないように思えた。
 毎朝の礼拝、何故かイベントの多い校風、脱線が多くてなかなか進まない授業、それでも大学入試対策などの現実的な側面は随分改善されているようだった。

 二人の女子高生は、本名は名乗らなかったが、先に真と視線の合った方は「あゆ」と呼ばれていた。小説を読んだり音楽を聴いたりするのが好きそうで、二人の話は真をそっちのけで、時には真を巻き込んで途切れる気配はなかった。
 同じ高校生と言えども、真が近年接している問題を抱えた少年少女たちとは随分違う。いや、それはあくまでも表の問題なのかもしれない。
 妻の舞、それに真と妻が子どもを失うきっかけになったあの少女もまた、複雑な表の顔の後ろに素直で屈託のない一面を持っていた。子供はこの難しい時期を乗り越えて大人になっていく。全ての道にはそれぞれの意味があり、同じ道はひとつとしてないのだろう。

「でもどうしてこの本をご覧になってたんですか」
 質問されて、真は一瞬考えてから、妹からこの作家の『月に帰る船』という作品を借りてきて欲しいと頼まれたのだと返事をした。二人の女子高生は顔を見合わせた。
「それって、次作に考えてるっていう本のタイトルだよね。この『鬼宿の契り』の続編になるって話だったけど、まだ出版されていません。私たち、今度学年末発表会で『鬼宿の契り』の寸劇をするんですけど、学校の図書室の本は貸し出されてたから、区の図書館に来たんです」
 まだ出版されていない、という言葉を真は確認した。
 女子高生たちは不思議そうに真を見つめている。

「でも本当に出版されるのかなぁ」
 一人が呟く。風がきつく吹きつけて少女たちの白いマフラーの端を巻き込んでいった。
「どうして?」
「最後の『後に続くもの』が出てから結構経ってるんです。作家さん自身、半年位前に一度雑誌に出てから、どこにも出てこないし」
 ではあの本は何なのだろう。出版元まで確認しなかったが、ちゃんと本の体裁を整えていたから、てっきり出版された本だと思っていた。

「去年の文化祭の時に講演会に来たんだよね」
「来たって、その神路月って作家が、学院に?」
「はい。だってうちの卒業生ですし」
 真は女子高生たちの顔を思わず見つめ直した。
「卒業生? 幹学院の?」
「本名は神路あきら、あきらって昴っていう字なんです」

 これから塾だという二人の女子高生とは、欅の並木道の下で別れた。話は尽きないように笑いながら去っていく二人の後姿を、真は随分長い時間見送っていた。
 物語を最後まで読まなかったので分からないが、タイトルから察するに『鬼宿の契り』は明るい話とは思いがたい。それでも彼女たちの手にかかれば、物語はハッピーエンドに書き換えられてしまうのかもしれない。

 風は冷たく、枯葉が頬に当たるほどの近くを切っていった。耳元で、枯れた葉がまだ木の枝に繋がっていたときの記憶が囁かれたような気配がする。その気配は直ぐに、並木道の傍の信号が青に変わったことで、かき消された。
 真はコートのポケットに手を突っ込んだ。
 一体、何の縁故であの本は真の事務所に送られてきたのだろう。送り主の名前は池内暁、読みようによってはやはり『あきら』と読める。女性か男性かもわからない。

 とにかく事務所に戻ってあの本を確かめようと思った。
 事務所に戻ると、留守番をしていた宝田から、美和は気分が悪いと言ってマンションに戻ったと聞かされた。ここに閉じ籠っていると気分が悪くもなるだろう。周囲への迷惑を考えると大学にも行きにくくなっているはずだった。
 後で電話をしてやろうと思いながら、真は机の上に残された本を取り上げた。

 美和がゴッホの星月夜みたいだといった表紙を、もう一度見つめる。暗い藍の空に黄色の光を湛える星、その星に照らされ闇に浮かぶ黄金の雪原、雪原の中で鳴き交わす鶴の番。真は本の裏表紙をめくった。
 初版の日付は、未来の日付だった。そしてその下に続く発行者の名前は池内暁、この本を送ってきた人物の名前だった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-5-】 第2章 霧の港(1) 喪失 

【雪原の星月夜】5回目です。
『霧の港』というのは竹流の店で会員制のバーです。多分各ブースでは世の中が動くような秘密の会話が交わされていることでしょう。真は大東組の若頭・新庄に呼び出されて銀座にあるこの店に向かっているのですが、まだかなり時間が早いので、少し寄り道をしてしまったようです。寄り道をしたのは竹流の元恋人(のひとり)室井涼子のブティックです。
ちらりと予告していましたが、真は今、彼女と微妙な関係なのです。

相変わらず、まだあの人は出てきませんね……でも新宿から銀座に来たので、少し近づいたかしら。彼は今、築地?
本当は1回休憩して息子のお話にするつもりだったのですが、ちょっと事情があってこのまま第2章に入りました。事情というのは、やっぱり【死と乙女】の後半をアップしてからのほうがいいなぁと思ったので。

ところで、プチ予告です。
しばらくキリ番リクエストをしておりませんでしたが、60000Hitでは久しぶりにしようと思っています。
近づいたらまた記事として募集させて頂きますが、今回の趣向は「うちのオリキャラ(もしくは大海)があなたのオリキャラ(もしくはご自身)を巨石への旅にご案内します」です。ただし、エスコート役をネコや某寺の物の怪にしたら、迷子になったりして、たどり着けないかも?
相変わらず辺境中の辺境で、うちのペースだと、60000Hitになるのはまだ随分先になりそうですので、もう少しお待ちくださいませ(*^_^*)

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第2章 霧の港
(1) 喪失
 

 その日は案の定、夕方まで来客もなく、真は宝田を早めに休ませて、七時には事務所を出た。大東組の新圧に指定された時間までには、まだ少し間があった。

 銀座に出るのは久しぶりだった。
 クリスマスが近いためか、街は夜となってますます煌びやかに見える。どの店もまだ閉店の札を出しておらず、明りの灯った店内では客が買物を楽しんでいる。その華やかな空気にもかかわらず、真には全てが冷えて固まった絵のように思えた。透明な氷に閉じ込められた向こうにある世界は、光を内側に包み込んだまま、真が手を伸ばしても届かないものに映る。

 その一軒の前で真は足を止めた。銀座では小さいながら、上品でセンスのよい服をデザインして売るという店は、夜の世界の女性が、ファッションの相談も含めて愛用している店だった。店の明りはその女性たちのために夜中近くまで灯されていた。髪をアップにまとめ、その一部を肩に垂らした上品な立ち姿の女性が、いかにもどこかの店のママと思われる和服姿の女性と話していた。

 一瞬、店の女性の目が真のほうに向けられ、それから少し驚いたような顔になった。真は会釈も微笑みもせず、ただ目だけで合図を送ったような形になった。
 もしも同業者が真の素行を調べたら、あっさりと不貞行為が調査報告書に並べられることだろう。もしも舞が、夫の浮気に対して何か事を起こそうと思えば、それは簡単なことのはずだった。

「ここ、久しぶりね」
 半時間ほどで接客を終えた室井涼子が、以前待ち合わせに使ったこともあるプチホテルの一室を訪ねてきた。涼子はドア口でコートを脱ぎながら言った。
「あなた、銀座では会いたくないって言ってたのに」
 そんなことを言っただろうかと思いながら、真はそのまま涼子を抱きしめた。それともそう言っていたのは涼子のほうだったのかもしれない。涼子は真に抱かれたまま、その冷たい頬を真にくっつけて、少し驚いたように離れた。
「あなたのほうが冷たい」

 真は十歳ほども年上の女の、歳を経ても変わらない美しい顔を見つめた。
 涼子は、真が中学生の頃に初めて会ったときから、変わっていないように見えた。もちろん、その肌はとっくに若い女のものでなかったし、近くで見れば目元にも明らかに皺がある。それでもそんなものは涼子のマイナスにはなっていないように思えた。

 涼子とは月に一度ばかり会う。いつの間にか、どちらも何も言わないのに、月の始めになると、どちらかからほとんど無言に近い電話を仕事場に掛ける。それだけで十分だった。始めの数度だけ銀座で会ったが、それはお互いにあまり好ましい場所ではなかったため、近頃は涼子の車で少し遠くまで出かけることが多かった。
 このプチホテルの部屋は二人ともが何となく気に入っていた。部屋は狭く、アールデコ調の鏡と机が置かれていて、小振りのダブルベッドもアンティークなつくりだった。天井も高くないため、まるで包み込まれているような気持ちになる。窓のカーテンを開けたことはないが、カーテンは柔らかく淡いブラウンで、時々外の音の気配が伝わるのか、視界の隅で揺れていた。

「怒ってるんじゃないかって思ってたの」
 ベッドに一緒に座ると、涼子が真の顔を見て言った。
「どうして」
「この間、あなたを傷つけたから」
 しばらく真は何を言われているのか分からなかった。涼子のピアスの透明な光に惹かれるように、その耳に口づける。涼子の香水を嗅いだとき、二週間ほど前に会ったときのやり取りを思い出した。

「子どものこと?」
 涼子は頷いた。
「知らなかったの。あなた、何も言わないし、あなたとは月に一度会うだけで、他に接点もなかったし」
 真は涼子の肩を抱いていた手を離し、ベッドに深く座りなおした。
「怒るようなことじゃないよ」
「でも私が無神経だったのは確かだわ」

 仕事中の涼子が、真と視線が合っただけでここにやって来た理由がやっとわかった。いつもの涼子なら、真が自分の生活や仕事に差し障ることを許容しない雰囲気があったし、逆に真のプライベートにも踏みこむことはなかった。
 真はこのホテルに入ったとき、涼子が来るかどうか、むしろ来ないだろうとさえ思っていた。
「無神経だったのは俺のほうだ」
「それにあれは、何となくその時の気分で言っちゃっただけだから、もう忘れて」

 しばらくの間、二人とも黙り込んだ。もともと抱き合おうと思って涼子の店の前を通ったわけではなかったし、涼子のほうもすぐに店に戻るつもりのようだ。コートを脱いだだけで、上着を脱ぐ気配はなかった。
「誰から聞いたんだ」
「この間久しぶりに葉子ちゃんに会ったの。それで」

 真は何故か涼子にあの事を吐き出してしまいたい気持ちになった。腹の奥に隠してある何かを出し切ってしまうことはもちろんできない。だが僅かだけ、ここで涼子に打ち明けてもどれほどの罪になるというのだろうか。
 だが、真は決してそんなことはできない自分という人間を嫌と言うほど知っていた。
「あれは俺が悪かったんだ。それに、人に話すようなことでもないと思っていたし。気にさせてごめん」

 涼子は真の顔を見ないまま、少し笑ったようだった。哀しい、というよりは感情のない静かな笑いだった。
 女の表情には、表面からは全くわからない理由が潜んでいる事がある。真はそれを涼子から、竹流の恋人の一人として彼のマンションで初めて会ったときから今この瞬間に至るまで、教えられてきたのだ。

「どうしてあなたが謝るの。それに、私もあんなこと言うべきじゃなかった。単にセックスが気持ちよかったからそんな気分になったりしたのかもしれない。少し酔ってたし。でも何だか変よね。今まで愛していると思っていた男と寝て、確かにそういうことは頭を掠めなかったといえば嘘になるけど、一度もそんな気持ちになったことはなかった。つまり、ちょっと歳を取ってセンチメンタルになりやすくなってるだけなの。こういうことってタイムリミットがあるじゃない。それで何だか最近落ち着かなくなったり、一人で泣いてしまったり、更年期には早いけど、そういうのに近いのかもしれないわ。誤解しないでね。あなたを愛しているわけじゃないし、負担をかけるつもりもないの。あなたが嫌なら、いつでも、こういうことをやめてもいいんだし」

 真は返事をせずに手を組み、額をつけた。
 涼子は、真に対してやはり少し大人の女でいようとする。もちろん、涼子が真を愛していないというのは本当だろう。今でも涼子は、真の以前の同居人を愛している、その気配はいつでも、ベッドの中ででも伝わってきていた。
「別れるつもりはないよ。あなたのほうが嫌になったら身を引く」

 涼子はこういうものの言い方が嫌いだと言ったことがあった。物事の決定権を女に譲っているのは優しさだと誤解しているような言い方、悪者になりたくなくて自分からは別れないという男の厭らしさ、それが時々涼子の気に障るのだろうが、これまでもあまり幸福とは言いがたい、つまり未来を描けない恋しかしていない彼女は、それを自分の非だとわかっているだけに、たまらない気持ちになることがあるのだろう。

「あと一年もしたら私も四十になるの。きっとこれからも時々あんなふうに、セックスをしているときに子どもが欲しいって言い出すかも、それどころか、もしかしたら安全日だって嘘をつくかもしれない。そうしたらあなたは重荷に感じることになるわ。早くこういうタチの悪い年増女とは別れたほうがいいと思わないの」
 真はただ首を横に振った。

 真は涼子に対して後ろめたさを覚えていた。あの日、竹流と一緒にローマに発つ前日、涼子に何も告げずに東京を離れたことに対して、あるいはもっと根本的なことで、涼子の竹流への深くて苦しい想いを知りながら、その男を奪っていってしまったことに対してなのかもしれない。
 だが、涼子と別れられないのは、後ろめたさだけが理由ではなかった。今でも、涼子は真には手の届かない憧れの女性であり、ベッドの中でもこれほどに懸命に愛したいと願う相手はいなかった。ただ、心がついていっていないだけなのだ。そして真の全ての感情や想いを、涼子が何もかも感じとって知っているということを、語り合わなくても真にはわかっているような気がしていた。

「あなたの車が、今でも時々、マンションの駐車場に停まっている。朝まで」
 真はようやく顔を上げて涼子を見つめた。涼子の声は奇妙なほど優しくて綺麗だったが、顔には表情がなかった。
「それなのにあなたが私と寝るのは、私が可哀想だからなのよね。私も、あなたと別れたいのに、自分が可哀想で、それに身体を温めてくれる人が欲しくて、あなたに甘えてしまう。あなたは私が傷つけるようなことを言っても、黙って受け入れようとする。奥さんが流産したことは私に話すようなことじゃないんでしょうけど、あなたは顔色も変えず、何も不幸など感じていないような顔で同じようなペースで私と会う。私が子どもが欲しいって言ったとき、あなたは責めもせず、慌てる様子もなく、真剣に考えているような顔をした。葉子ちゃんは、あなたが子どもが生まれてくるのを待ち望んでいたって言ってたわ。何も言わないけど、葉子ちゃんの家に行って、姪っ子の寝顔を幸せそうな顔で見ていて、享志くんが聞いたら、女の子がいいって答えたって、あなたがそんなことを言うなんてちょっと驚いたって話していた」

 真はいきなり力任せに涼子を抱き寄せた。涼子は息を止め、しばらく固まっていた。それから急に腕の中で力を抜き、小さな声でごめんなさい、と言った。
 上手く涼子に伝えることはできない。あの日、涼子は安全日だと言っていた。それはただセックスの前に避妊具をつけなくてもいいという、いつものメッセージに過ぎないと思ってベッドに入った。もちろん避妊具を介して触れ合うよりもよかったし、涼子も直接真を受け入れるほうがずっと感じていることは、涼子に埋めた部分からいつでも確かに伝わってきていた。
 あの日、昂ぶりが最大限に達しそうになっている真の耳元で子どもが欲しいわと涼子が囁いたとき、真は実は驚きもしなかった。ただ一瞬だけ動きを止め、真にとっては誰よりも官能的で憧れ止まない女性の目を見つめ、激しくこの女を求め、そのまま涼子の中に自分自身を吐き出し、その後もずっと彼女の中に深く身体を沈めていた。

 結婚した当初、飲み屋かどこかで、子どもを作るにはこれまでのような中途半端な覚悟ではいけない、真剣にセックスをしないと駄目だ、射精した後も動かずに最後の一滴までも女に吸い尽くしてもらうようにするんだぞ、と子作りの秘訣を、子どもが七人いるという酔ったオヤジから説教を受けたことがあった。
 舞と抱き合っていたときにはそんなことを真剣に考えたことはなかったが、あの時涼子を抱きしめたまま離したくないと思い、ふとそのオヤジの言葉を思い出していた。

 子どもを失ったことが真の感情に影響していなかったのかどうか、それは今でもよくわからない。涼子に対する憐れみなのか、ただ生物の雄の本能として子孫をできるだけ沢山残そうというホルモンが働いただけだったのか。
「ちょっと情緒不安定なの。精神科にでも行ったほうがいいみたい」
 そう言うと、涼子はお店に戻らなくちゃ、と言って立ち上がった。

 出て行きかけて涼子は不意に立ち止まった。そしてやはり感情の読み取れない表情のままで振り返り、真の顔を見た。
「今でも会って、朝まで一緒にいるのは何故? 奥さんを裏切るのがわかっていて、どうして結婚なんかしたの?」
 真は答えなかった。答えるための言葉も、自分が本当は何をどのように感じているのかについての確かな心の内の声も、自分自身の中に用意されていなかった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-6-】 第2章 霧の港(2) 胎動 

【雪原の星月夜】6回目です。
しばらく放置していて済みません。アメリカの旅から帰ってきたら、怒濤の毎日でした。仕事の方で仕上げなければならない原稿、親に頼まれていたチラシ作り、と思ったら、日常業務に潜む爆弾が炸裂し、ついでにまた風邪をひいてしまい、なかなかあれこれうまく回りませんでした。ようやく大物を片付けたので、それなりに普通に忙しいけれど、大波は来ない日常に戻りました。

というわけで、久しぶりに戻ってきました。
物語はまだまだ序盤ですので、それほどの事件も起こっていません。
このお話、二つのことが同時に起こっているのですね。私の話にありがちな、多重構造です。ひとつはマコトの、じゃない、真の実父と同姓同名の男が行旅死亡人(身元がはっきりと分からない死亡人)となっていること、もうひとつは、神路月(昴)という女性童話作家の失踪です。しかも彼女の失踪の背景には暴力団絡みのきな臭い話も絡みついているようです。

今回は、こうした物語によくある「展開上だいじな情報は含まれているけれど、あんまり面白くない回」ってやつですね。もっとも、舞台があの人のお店というのは、ちょっと楽しいかな。あの人はまだ出てこないのに。それでは、どうぞ。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
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【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第2章 霧の港
(2) 胎動
 

 ギャラリー『星の林』はまだ柔らかな灯りに包まれていた。二階のアトリエにも明りが灯っている。
 同じビルの四階には『かまわぬ』という和名のカジュアルなトラットリア、最上階にはバー『月の船』を併設した上品なリストランテがあり、その名前は『イル マーレ ディ フィルマメント』、天空の海という意味だった。トラットリアの内装はまるでヴェネツィアの運河の迷路を行くような気分にさせ、リストランテのほうは遥か宇宙を仰ぐアドリア海の波の上を漂うようだと言われていた。

 二号店を出さないかというオファーをこれまで頑固に断り続けてきた竹流が、新宿に建設予定の高層ビルの最上階への出店にいくらか興味を示しているというのも、怪我をしてからこそだろう。右手の怪我さえなければ、レストランはあくまでも竹流の道楽に過ぎなかったのだから、ディーラーや修復師としての仕事以外に、それほど入り込む必要はなかったのだ。

 真の以前の同居人、大和竹流は右手を怪我して以来、これまで以上に熱心に助手の若者に修復作業を教えていて、それ以外にも幾人かの希望者を雇うようになった。神の手と言われた手を失ってしまうことは竹流の計算にはなかっただろうし、リハビリのお蔭でそこそこの仕事はこなせるようになっているにも拘らず、竹流は美術品を傷つけることを恐れているのか、めったなことでは自分では手を出さなくなった。

 古くからいる修復助手は勉強熱心な地味な雰囲気の若者で、もともと音大の声楽の学生だったようだが、オペラの勉強をしている時に、たまたま竹流が企画した舞台芸術の作品展を見に来て、この世界に興味を持ったようだった。その時誘われてアトリエにやって来て、例の如く寝食忘れて作業に没頭している修復師の横顔にほれ込んだのだという。

 真はギャラリー脇のエレベーターの押しボタンの横にあるインターホンで、三階の会員制バー『イル ポルト ネッラ ネッビア』を呼び出した。そうしなければ、エレベーターはその階には停まってくれないようになっているし、他人と顔を合わせたくない客はこのエレベーターを使わない。
 そのバーにはほとんど足を踏み入れたことがない。犯罪には関わっていないとは思うが、ぎりぎりの取引が交わされていることは間違いがないのだろうし、だからこそ竹流は真にその場所をあまり見せようとはしなかったのかもしれない。

 その店の空気に漂う上品な葉巻やアルコールの香り、密やかに交わされている会話、全てが上手くブースごとに区切られ、他の客の顔は見なくても済むようになっている。エレベーターの扉が開いた途端に紫煙の香りを軽く吸い込んで、真は店内に足を踏み入れた。

 約束の十時にはまだ間があったが、待ち合わせの相手は既にブースのソファに座っていた。だが大東組の三代目でも新圧龍和でもない。ヤクザにも見えないし、かといって普通のサラリーマンにも見えない。真より背は高いが、痩せ気味で、髪の毛はやや長く耳にピアスをしていた。
 男は真を見ると慌てたように立ち上がった。会釈を交わし、真が新圧さんはと尋ねると、男は明らかに困っているのだという顔になった。

「のっぴきならない事情で来れないというので、私が代わりに来ました」
 男は名刺を差し出した。企画会社ウィル、その下に取締役、諏訪礼嗣と名前が記されている。
「まぁ、音楽家とか作家の代理人というか、マネージャーのような仕事を請け負う会社でして。いわゆる芸能人ではないんですが」
 大東組の企業舎弟ということかもしれない。
 諏訪の言うままに、真は向かいのソファに腰を落ち着けた。

「新圧さんは私があなたに説明するのに適任だと言うんですがね、私もよくは知らないのです。本来なら池内が来るべきなんですが」
「池内、というのは」
「池内さとしって男です。大東の組員で」
「大東の組員?」
 池内さとし。池内。
 真は改めて諏訪の顔を見た。

「さとし、というのは暁、という字ですか」
 諏訪は怪訝そうに真を見て、頷いた。
 これまで理解していた固有名詞に付加された、思いもよらぬ肩書きに、真はしばらく混乱していた。出版社の発行責任者ではないのか。しかも、何の因果関係もないはずのこの場で、いきなりもう一度その名前とぶつかるというのは、どういう廻り合せなのか。
 偶然の同姓同名でないのなら、事務所に送られてきた神路月の本と、新圧の電話は同じ出所だった可能性があるということだ。

「一体どういうことでしょうか。池内暁さんというのは、私の事務所に本を送った人の名前ですが」
「本ですか? それは聞いてませんね。神路月の本でしたか?」
 真は諏訪の顔を見たまま頷いた。諏訪の返事から、同姓同名の線は消えた。つまり、同一人物の話をしているのだ。
 諏訪はソファに凭れ、煙草に火をつけた。指には左右とも複数の指輪が光っている。手を見る限り、かなり若い男のようだったが、この照明の下では年齢を言い当てるのは難しい。

「そうですか」諏訪は少し間を取って、煙草に火をつけた。「神路月というのはうちの会社が代理人を務めてましてね、ちょっと変わった女でして、いや、見かけは別に変わっちゃいないんですけどね、そこそこ美人だし、作家というよりモデルみたいな体型してますしね」
「変わっているというのは」

「一時、精神科の病院に入院していたことがあるんですよ。いや、入院していたのは家族の誰かだったかな。ま、でも、怪我で入院していた時も錯乱気味だったから、精神病絡みと言えなくもないか」
 後半は独り言のようになりながら、諏訪はそんなことはどうでもいいというように首を横に振り、あとは淡々と続ける。
「ちょっとぼーっとしたところのある女でして、時々わけのわからないことを言いだしたりしてね。いや、別に頭が悪いってわけじゃありませんよ。まぁ、大袈裟でもなんでもなく、一部の女子高生のカリスマってのが分かるというのか、ちょっと宗教的な、巫女的なムードのある女なんですよ」

 真はしばらく諏訪が煙草を吹かすのを見守っていた。
 沈黙の時間の中に、空気が音を立てるとしたらこんなふうなのかと思われるように、微かに、人の声の震えのようなものが漂っている。
 密やかなざわめきというのは、耳にも身体にも心地よく、決して焦らせたり追い込んだりしない気配を漂わせている。竹流がこの空間に何を求めているかは、はっきりしているような気がした。

「新圧さんは、人の命が関わるかもしれないので、急いでいるようなことを仰っていましたが」
「そうなんですか? いや、それを言うなら新圧さんや池内の方が余程危ないでしょう。ご存知かと思いますが、真厳会と寛和会は今、一触即発ですからね。大東組は真厳会でも中立で、見ようによっては寛和会寄りだとも揶揄されてますからねぇ、下手すると内外から命を狙われる立場ってわけですよ。神路月がどうあれ、それどころじゃないはずなんですけどね」
「その神路月という人に何かあったということでしょうか」

 諏訪は真を真正面から見た。このことには興味もないのに巻き込まれたという迷惑そうな顔、それでいて会社の看板の一枚である作家の動向は多少は興味もあるという顔、あるいは親会社でもある大東組の惨事が降りかかるのは困るというような顔、複雑で曖昧な表情だった。
「神路月は数か月前から行方不明なんですよ」
 真はしばらく言葉を吟味していた。
「でも、それが何故、新圧さんや池内という人に関わりが?」

「神路月は池内の女ですわ。池内は新圧さんの懐刀ですから、まぁ、新圧さんにしたら、可愛い弟分が困っている時に放っておけないという気持ちなんでしょうかね。けど、月のほうは、ヤクザの男から逃げ出しただけなんじゃないですか」
 大東組は組長からしてかなりウェットな部分を持っているのは確かだ。だが、そうだからといって損得勘定を全く抜きにして、素人の女の行く末に懸命になったりするものだろうか。しかも、寛和会と真厳会が戦争を始めるかもしれない真っ最中に。
 だいたい新庄が、弟分の恋路を心配してやるような、そんなお優しい男だとは思えない。

「まぁとにかく、私があなたに説明しなければならないのは、神路月を捜して欲しいということなんでしょうね。どっちにしろ私は詳しいことは何も知らないんですよ。月のマネージャーに継ぎをつければ、私の仕事はおしまいってことで」
 諏訪は他人事のように言い放つと、ちらりと時計を見た。装飾の宝石が、薄暗い柔らかな照明の下でも、見せ付けるように四方へ光を放った。
「あの、新圧さんは何かまずいことに……」
 真が言いかけると、諏訪は身を乗り出してきた。

「とにかくね、うちも困るんですよ。確かにうちは大東さんの企業舎弟としてスタートしてるんですけどね、そろそろ何て言うのか、綺麗になりたいってのか。いや、とにかく月のマネージャーがもう直ぐ来るはずなんで、彼女に聞いてください。これで私も義理を果たしたってことになりますし」
 用意されている水割りのセットには、諏訪は手を出さなかった。この店は頼まない限りは誰も近付いてこない。恐らく真が来る前に、諏訪のほうで接客は不要である旨を告げているのだろう。周りに幾つもブースがあり、人がかなりいるはずだろうに、全く気配を感じない。

 落ち着かない諏訪の様子から見ても、ウィルという大東組の企業舎弟がヤクザとの繋がりを清算したいと思っているのは確かのようだった。もちろん、ヤクザが上がりを請求できる舎弟を簡単に手放すわけがないから、今大東組が巻き込まれている不測の事態は、この会社にとっては願っても無い出来事かもしれない。

 だが、諏訪の期待を裏切り、月のマネージャーという女性はなかなかやってこなかった。
「十時には来るように言ったんですけどね」
 諏訪は結局、水割りを自ら作り始め、真にも勧めてきた。真は礼を言って、少しだけ口をつけた。
「いい店ですね。うちが今度プロデュースするヴァイオリニストがいるんですが、この店のファンでしてね。何でもここのオーナーをお目当てにしょっちゅう通ってるとかで。本人は店の料理に惚れ込んでるんだって言いますけどね」
「ヴァイオリニストのプロデュースまでなさるんですか」
「これからはね、クラシックといえどもルックスと売り方ですよ。腕前なんてのは、そこそこ以上であれば十分」

 真は落ち着かない気分をどう始末すればいいのか、足が上手く地に着いていない感覚を覚えていた。だが真以上に、諏訪は落ち着かない顔をしている。水割りを一気に飲み干すと、手持ち無沙汰にもう一杯作り始めた。
 だが結局一時間以上待っても、神路月のマネージャーという女性は現れなかった。諏訪はまた連絡すると言い残して去っていった。誰かと待ち合わせでもあるのか、時計を気にし続けていた。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-7-】 第2章 霧の港(3) 深み 

【雪原の星月夜】7回目です。
時間が経つのって思った以上に速いのですね。って、毎年言ってるけれど、もう12月。妙に暖かい日が続いてちょっと気持ち悪いのですが、週1アップしたい小説、同じく週1でアップしたい旅行記が滞っています。スペインのメスキータの記事は半分書きかけなのだけれど、今年中にはスペインを終わらせたい。そして、これもまた書きかけの60000Hitのリクエストも終わらせなくちゃ。

「物語はまだまだ序盤ですので、それほどの事件も起こっていません。このお話、二つのことが同時に起こっているのです。私の話にありがちな、多重構造です。ひとつは真の実父と同姓同名の男が行旅死亡人(身元がはっきりと分からない死亡人)となっていること、もうひとつは、神路月(昴)という女性童話作家の失踪です。しかも彼女の失踪の背景には暴力団絡みのきな臭い話も絡みついているようです。」
……と書いた前回から、またまた何も進んでいませんが、今回ようやく皆様お待ちかねのヒロインあの人が出てきます。しかも……! っと、それは本文で驚いてくださったら?(いや、別に驚かないかも)
何よりも、ここで真の多重人格性が如実に表れていることが問題かも。修羅場をくぐってしまった後の二人は、離婚した元夫婦のような、かといって、切っても切れない粘っこい糸に絡まれて身動きが取れないのですが、竹流はすっかりストイックに戻っていて、今や「菩薩」です。真は一人で足掻いている……

このシーンは実は長いので、2回に切っています。ええ、お待たせしましたから、しっかりどっぷり、二人の世界に浸ってくださいませ。あれ? それにしては会話が不穏? はい。そもそも不穏なお話なんですよ。
でも、傍目から見たら、何だよ、もう、どうせラブラブなんでしょ、と言われかねません。いつものことですが。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第2章 霧の港(3) 深み

 マンションを訪ねようと思ったのは気紛れだった。
 いや、時計を気にしている諏訪の様子を見ながら、空白の時間のほうが長い会話を上手く操れず、真の頭の中にはまるきり別のことが浮かんでいたのかもしれない。

 長い航海で疲れた水夫の身体を慰め温める、霧に包まれた港という名前通り、苦難も喜びも不安も何もかもを隠してくれる、そういう雰囲気をあの店は持っている。上階のレストランやトラットリアにしてもそうだが、こだわり抜いた空間設計は、テーブルや椅子、ソファといった調度はもちろんのこと、灰皿や植物、従業員の服にまで、何処にも気を抜いたところがないにも拘らず、全て何気なく配置され、その距離感までもが、ここに踏み込んだ者を心地良い気分にさせてくれる。
 そのまま霧に包まれて隠れてしまいたい気持ちにさせられたのだとしたら、オーナーの思うままなのかもしれない。

 店を出て、駅前で電話を掛けた。帰れないかもしれないと言うと、舞はなんとも返事をしないまま電話を切った。
 受話器を置いた後も、真はしばらく電話の前に立ちすくんでいた。だが他人の視線が気になって、もう一度受話器を取り上げ、一瞬指を彷徨わせたあとで、ダイヤルを回した。

 呼び出し音は長く続いた。もしこの電話に相手が応えなかったら、目的地を変えようと考え始めたとき、もしもしという小さな声が聞こえた。
「美和ちゃん? 大丈夫か?」
 少し時間を置いてから、美和が幾らかしっかりした声で答えた。
「先生? うん。ごめんね、今日何だかいらいらしちゃって。休んだら少し落ち着いたから」
「明日、無理しないで休んだほうがいいぞ。名瀬先生のところに行った帰りに寄るから、マンションにいてくれ」

 美和は少し考えていたようだったが、そうだねと答えて、気を取り直したように、少しだけ元気な声で、じゃあ待ってる、と言った。
 電話を切って、真は思わずコートの襟を立てた。
 今日、図書館で会った女子高生たちの朗らかな笑顔を思い出していた。出会った頃、いや、真がローマに行くまで、美和もあんなふうに笑ったのだということを思うと、自分が何かをしてやれる立場ではないのだとしても、たまらないように気持ちになった。

 真が嵌まり込んでいるのは、自分勝手に落ちた闇かもしれない。だが、美和は半分そうではない。ヤクザと知っていて仁と付き合っていた部分には非があるのだとしても、二人で未来を描けるチャンスは幾らでもあったはずだった。少なくとも、北条東吾は甥をヤクザにするつもりはなかったのだ。
 だが一方で、仁の立場もよく分かっていた。この世界では、一度ヤクザものになった人間たちが堅気になろうとしても簡単にはいかない。堅気にもヤクザ以上に小汚い人間は幾らでもいるが、レッテルというものは恐ろしい。仁はそれが分かっているから、東吾を慕う若い衆たちを見捨てることはできなかったのだ。

 そして仁は美和に、俺のために死んでくれとは言えないでいる。美和にはその躊躇いがよく分かっているのだ。竹流もまた、結局は真の首を絞めることができなかった。

 真は有楽町から山手線に乗り、街の明りがちらちら灯るガラスの中の闇に浮かぶ自分自身の影を見つめていた。
 涼子の言うとおりだ。この幻のような影は、この世を彷徨うあさましい鬼宿のようなものだ。こうなってもまだ会わずにはおれず、会えば一晩、せめて一夜でも一緒にいたいと願ってしまう。そして、できればその闇の夜が永遠に自分たちを飲み込んでしまってくれたらと、今でも願っている。ずっと一緒にいることはできないということは、もう実証済みだというのに。

 身体が覚えた道筋を、もう何の意識もせずに辿る。その無意識の心の内を見つめ続けることが恐ろしくなって、真は何か他に考えるべきことを探した。まず美和のことを考え、彼女が食欲まで失うなんてのは余程の事だと思いながら、明日は美和の好きなケーキを買っていってやろうと思った。
 それから神路月のことを考えた。

 正式に依頼を受けたわけでもないので、まだ神路月、本名神路昴のことを詮索するのは早すぎるのかもしれないが、真は自分が既に何かに足を引っ張られているような気がした。
 理由ははっきりしている。
 本の表紙に描かれた雪原の星月夜。ひどく懐かしく、心ごと持って行かれそうになるあの風景は、真の夢の中に幾度も出てくる世界と同じだった。真の夢の中で、その風景は時には風の吹く草原であったり、静かな都会のビルの谷間の大通りだったりすることもあるが、具体的な景色の問題ではなかった。そこにある何とも言えない寂寥感、孤独感は、何かを探し続けて歩く真の身体の周りにいつも漠然と纏わりついていた空気と同じものだった。

 何故、あの本には真の脳の奥深くに潜んでいる光景が描かれているのか。そしてその絵を描いた人は、何故アイヌ語の名前を持っているのか、あるいは何故神路月はアイヌの文様を描いたブラウスを身に付けていたのか。
 思考回路が堂々巡りを始めたとき、真はほとんど無意識に電車を降りた。

 マンションの鍵はまだ返していなかった。竹流は一度も返してくれとは言わなかったし、今でも真が訪ねて行って勝手に部屋に入っても気にしないだろう。もっとも、真はほとんどコンシェルジェを通して来訪を告げていたし、そうでなければ電話を掛けてから行くようにしていたので、鍵が必要になることは全くというほどなかったのだが。
 コンシェルジェはエレベーターに向かう真と目が合った時も、真が自然に会釈をしたからか、気にしなかったようだった。あのコンシェルジェにとっては、真はまだこのマンションの住人なのだろう。

 真はエレベーターに乗り込み、鍵を差し込んだ。エレベーターはボタンを押さなくても自動で住人をその階に連れて行くようになっている。鍵をポケットに戻し、真はいつものように左手の薬指の結婚指輪を抜き、鍵と同じポケットに入れた。
 決して不意打ちを演出しようとしたわけではなかった。女をマンションに上げて抱き合っている真っ最中である可能性も考えないではなかった。もしそういう現場に遭遇したら、素直に引き返そうと思っていた。
 とは言え、勝手に鍵を使ってドアを開けるのはどうかと思い、さすがに真っ最中に遭遇する勇気はなく、結局玄関ドアの呼び鈴を押した。

 押してから、そうだった、と思い至った。彼は今、誰かとベッドを共にすることはできないはずだった。少なくとも、真の知る限りは。だが、彼が真に自分が持つ全ての顔を見せているという確証はない。
 静かだった。真は目を閉じ、扉の横の壁に凭れ、もしも彼がいるのなら背中に微かな振動でも伝わってくるだろうと思いながら、呼吸を潜めていた。何かを探ろうという気持ちがあったわけではない。ただこの静かな世界が突然に恐ろしくなっただけかもしれない。

 不意に、身体の内に溜め込んでいたもろもろのものが噴き出してしまうような、唐突な感情の嘔気に襲われて、真は息を止め、腹のうちに全てを納め戻そうとして、自らの心を深く沈めた。水道の蛇口をきつく締めるように、唇を噛む。
 昨夜からの出来事だけを数えてもこんな調子なのだ。一体、このマンションを出てから、どれほどのものを呑み込み、溜め込んで、声ひとつ上げずにいたというのだろう。

 長い無音に、留守なのかもしれないと思い始めた。身体がひどく重くなったようで、そのまま崩れるようにしゃがみこんだとき、壁の向こうから足音の振動が身体に伝わってきて、やがて扉が開いた。
 しばらく沈黙が続いていたような気がする。真は眩暈を感じて、頭を持ち上げることができなかった。
「大丈夫か」
 いつもと変わらない、穏やかなハイバリトンの声だった。

 その声を聞くと、再び感情の波がうねるようにこみ上げてきた。
 昨夜からほとんど眠れていないような気がしたし、福嶋の部屋を訪ねた時点から溜まり続けていた何かが、もうこれ以上は抱え込めない限界に来ていた。それでも、溢れ出しそうな感情を呑み込むことにすっかり慣れきっている自分が、哀れで悲しく、可笑しくさえ思えた。

 真は返事もせず、顔を上げることもできないでいた。すると、竹流の気配がごく身近なところへ降りてきて、さっきよりもずっと近くに彼の声を感じた。それと同時に鼻先をかすめた匂いが、真の中の一番触れられたくない部分を締め付けた。
「中に入ろう」
 真が動けないままでいると、竹流の手がふわりと頭の上に載せられた。

 不自由だった竹流の身体は、今は余程気をつけて見ても、どこか具合の悪いところがあるようには見えない。もしも彼の本来の職業が修復師という、僅かな手先の感覚に頼るようなものでさえなければ、彼には全く不自由という側面はなかっただろう。
 真はようやく顔を上げたが、竹流の顔を見るよりも早くに、玄関で客人の靴を見つけてしまった。竹流は真がその靴に気が付いたことに対して、何も言わなかった。

 居間のソファで煙草を吸っていた客人は、真が部屋に入った時、息をつくようにして煙草を灰皿で揉み消し、立ち上がった。
「帰る。七夕の逢引を邪魔するのは野暮だからな」
 その時、北条仁は無造作に半分だけ留めてあったシャツのボタンをそのままに、ソファに放り出してあったネクタイとスーツの上着を取り上げた。
「仁さん」
 頭が何かを理解するより先に声と手が出ていた。真の傍を掠めようとした仁は、真が摑んだ手をそのまま摑み返してきた。
「説教は聞きたくねぇな」
 しばらく、真は仁と睨み合っていた。

 自分自身の身辺のことで精一杯だったから、いつも美和と仁の様子をうかがっていたわけではない。だが、少なくとも真が結婚する前、そしてその幾分か後でも、美和の様子を見る限り、幸せそうであったかどうかは別にしても、二人が追い込まれている気配はなかったように思う。
 だが、このところ、仁の顔つきはすっかり変わってしまっていた。もともとの顔の造りは彫が深く、そこそこに肉付きがあれば厳ついながらも頼りになる逞しい顔つきに見える男だったが、今は幾らか頬がこけたようになり、精悍という状況を通り越して凄惨なムードさえ漂わせていた。

「美和ちゃんも宝田も心配してるんですよ」
 仁は摑んだ真の手を、彼の方に引き寄せた。
「じゃあ、お前が美和を慰めてやれ」
「何を言ってるんですか」
 仁は鼻が引っ付くほどに真に顔を寄せて、意地悪く笑った。
「お前も、指輪を外して浮気をする狡猾さは身に付けたってわけだ。それとも自分がどういう人間だか、ようやく気が付いたってことか。そんな善人ぶった顔をして、嫁をもらって子作りに励んでるくせに、一方じゃ昔の男も忘れられない。それどころか、まだ足りなくて、突っ込もうが突っ込まれようが、今じゃ手当たり次第って訳か」

 一体、仁が何を言いたいのか、真はよく分からなかった。仁は鼻先で笑うと、真の頬を軽く叩いた。
「福嶋鋼三郎が言ってたぞ。お前にクスリを覚えさせたらイチコロだろうってな。だが、お前はそこまで馬鹿じゃない。さんざん修羅場を見せられてるからな。代わりに別のものにのめり込んじまってるわけだ」
 一瞬にして体が凍りついたような気がした。自分でも気が付いていたことだ。子どもを亡くしたことはただの言い訳に過ぎない。
「福嶋がな、気をつけてやれって、お前の保護者みたいな口をききやがる。お前がセックス依存症だって、下手するとそのうちに見ず知らずの他人に身体を任すようになるぞってな。しかも、追い込まれて痛めつけられるようなセックスでなければ感じないようになってきている」
 真は少しの間、言い返す言葉を無くして仁の顔を見ていた。

 仁が言っているのは、今の状況について他人の、特に真の意見など、聞きたくなどない、ということなのだ。覚悟を決めているのだから、一切、外野の声は耳に入れない、という意味だ。
 だが、仁が本当に完全に迷っていないなら、この期に及んで美和を遠ざけたりはしないだろう。北条仁は今でも、美和についてだけは迷っているのだ。
 中途半端に美和を傷つけるくらいなら、いっそ別れてやってくれと言いたい。だが、仁も、それ以上に美和も、やはり離れることができないのだ。

「高円寺には近付くなと宝田に言っておけ。お前も、しばらくヤクザが絡むような仕事は引き受けるな。それからな、福嶋にこれ以上縋りつくような真似はよせ。あいつは俺以上に腹の中が真っ黒な極悪人だ。お前があの男の身体の下で喘いでるとこなんぞ想像したら、こいつもまたお前の首を絞めたくなるだろうよ」
 顎だけで竹流のほうを示してそう言うと、仁は真の手を離し、居間を出て行こうとした。
「仁さん、せめて美和ちゃんに」
 仁は立ち止まったが、振り返らなかった。
「お前は美和を殺したいのか」
「仁さんこそ」
「美和をどうするかは俺が決めることだ。お前に意見される筋合いじゃねぇな」

 テーブルに置き忘れられたライターを取って、竹流が慌てる様子もなく仁を追いかけた。仁は玄関ホールで適当にネクタイを結び、コート掛けに手を伸ばしかけた。先に仁のコートを取り上げた竹流が、何かを訴えるような気配でそのコートを仁に手渡している。
 二人の間に真には分からない無言の会話があり、それは必ずしも友好的なものではなく、かといって敵対するばかりでもなく、ただ共通の了解のような気配があった。
 仁は竹流からコートを受け取り、竹流が無造作に渡そうとしたライターを取りかけて、一瞬真のほうを振り返りかけ、そのまま竹流を抱き寄せるような仕草をした。竹流はそれを半分受け入れ、半分かわすような淡々とした表情で、仁の手にライターを押し付ける。

 生きてりゃ、来週な。
 仁は確かに竹流の耳元にそのように告げて出て行った。声なのか、振動なのか、唇の動きなのか、その切羽詰まったような、一方で諦念に全てを譲り渡したような気配だけが、真の鼓膜と網膜を刺激した。玄関の扉が閉まるまで見送る竹流の横顔もひどく冷めていて、その一方で、彫刻された菩薩のように静かで、気味が悪いほどに慈愛に満ちて見えた。

 だが、一瞬先には、竹流はいつもの表情に戻っていた。居間への入り口で突っ立ったままの真の肩を軽く叩くようにして、中に入るように促す。
「お前、また何も食ってないんじゃないのか。低血糖だといらいらもするだろう。何か作ろう」
 その瞬間、さっきまで考えまいとしていたあの匂いの正体を追求しないではいられなくなった。
「何で仁さんがここに来てるんだ」
 微かに竹流の身体から甘い、香木の香りが匂っていた。彼独特の密かな体臭で、その匂いがどういう時に最も強くなるのか、真はよく知っていた。

「北条さんも行き場がないんだろう。自分からこの状況を打破するために切り込むわけにもいかず、かといってじっとしているのも性分に合わない。とは言え、あの人でも、ヤクザ同士の縄張り争いに下手な仲介役を買って出るほど馬鹿じゃない。誰かが首を差し出さないと納まらないということもよく分かっているし、仲介役どころか、首を差し出すのが自分の親父かもしれないと思ってるんだよ」
「そんなことは分かってる」
 竹流は真を促してソファに座らせると、自分は台所に入っていった。

 真の頭の中は、この数分の間に起こった出来事を処理できずにごった返していたが、結局のところ、今さらどうしようもないと納得するしかないと分かっていた。
 台所からは軽く包丁を動かす音、電子レンジの立てる微かな音、それからしばらくすると何かを炒める音がごま油の香ばしい匂いと一緒に伝わってきた。
 心臓の鼓動や呼吸だけは少しだけ落ち着いてきて、真は頭の混乱はそのままにしてダイニングに入った。

 いつものように手際よく料理をする竹流の後ろ姿を、真はしばらくの間、ただ見つめていた。ガウンの帯はきちんと結ばれていたし、着乱れているわけでもないのに、その姿にはどこかに退廃的にさえ思える色香があった。その現実的な質感にもかかわらず、今真の立つ場所からは、彼は随分と遠くにいるようだった。

 竹流は白ワインを出してきて真の前にグラスを置き、鮮やかな手つきで淡いトパーズのような色合いのワインを注いだ。
 直ぐに、蒸した鶏の胸肉と玉葱やハーブ、人参などを混ぜ合わせ、エスニックな味付けをしたサラダと、ごま油で炒めたちりめん雑魚に榨菜とセロリを混ぜたご飯、幾種類かの漬物、千切りの葱と茗荷を載せて黒ゴマ味噌だれをかけた豆腐が並べられた。竹流は時々料理に手を出しながら、彼自身はワインをほとんど一人で空けていた。

 帰るのかとも泊まっていくのかとも聞かない。泊まっていくものと決め付けているのか、それとも真の好きにすればいいと思っているのか、こういう時いつも、真もあえて聞いたこともない。食事を終えると、何気なく風呂を勧められ、真が居間に戻った時、竹流は誰かと電話で話していた。
 心地良く優しい調子の異国の言葉は、真の耳の中でいつでも音楽のようにざわめく。竹流は真と目が合うと、相手に二言三言話しかけ、受話器を置いた。

 真は話しかけようとする竹流の気配を無視して、勝手に寝室に入った。薄暗いベッドサイドの照明に浮かび上がるキングサイズのダブルベッドは、綺麗にベッドメイキングされていた。それでも、ついさっきまで、もしかしてこの上で密やかな情事が交わされていたのかもしれないという疑念はどうしても離れない。
 真が勝手にベッドに潜り込んでいると、しばらくすると竹流は寝室に入ってきて、真が潜り込んだ側のベッドの端に腰掛けた。乾いた軋みが真の身体に伝わってくる。

「コニャックは」
 真は返事をしなかった。竹流は真のこめかみから耳をそっと指で愛撫するような仕草をした。
「聞かないのか?」
 何をだろうと真は考えていた。
「電話はリオナルドだよ。お前がどうしているか、聞いていた」

 竹流の電話口の優しい話し方からは、相手が彼の叔父であるチェザーレではないことは想像できていた。リオナルドなら納得がいく。秘められた深い血の絆は、本人は知らなくても呼応する何かがあるのだろう。少なくともリオナルドは、口に出しては弟とは呼べない従弟を、心から愛し心配しているのだ。ローマから戻って同居していた頃も、リオナルドは三日とおかずに電話をかけてきていた。
 だが電話のことなど、気にするほどのものでもない。

「電話以外の言い訳はしないのか」
 つい、つっかかってしまった。竹流はしばらく、真の頭を、子どもを宥めるように撫でていた。
「お前がここを出て行った当初はそういうこともあったがな、それはただ俺がお前を失って狂ってしまわないかとあの人なりに心配してくれただけだ。今はただ、あの人はどうともできない気持ちをぶつける先がないだけなんだろう。少なくとも、俺が同じ修羅場を味わってきた同士だと思っている」

 淡々と語られる言葉に、真は身体が凍るような気がした。目を閉じれば、遥か風に乗って運ばれる潮の香り、波音までが五感の記憶装置に響く。溢れ出しそうな感情とは裏腹に、どこかに恐ろしく醒めた自分がいて、彼に何か辛らつな言葉を言ってやろうかと冷静に分析しているのだった。だが、結局、真は全く別のことを言った。もちろん、心の片隅にずっと引っかかっていることだった。

「美和ちゃんが辛そうで、見ていられない」
 竹流は少しの間手を止め、それからまた静かに真の髪に触れた。
「美和ちゃんだって、あの頃、同じことをお前に対して思ってただろう。なぁ、真、結局は二人にしか決められないことだ。お前が何を言っても、北条さんと美和ちゃんには、彼らにしか出せない答えがある」
 自分たちはもう答えを出したということなのか。そう考えて、真は今さらながらに、まだ自分が答えになど辿り着いていないことを思い知ったような気持ちだった。竹流が過去形で語る全てが、耳にも肌にも突き刺さるようだった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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【雪原の星月夜-8-】 第2章 霧の港(4) 指先 

【雪原の星月夜】8回目です。
前回のシーンの続きで、久しぶりに登場したあの人とのシーンにどっぷり浸かっていただく回です。

このお話には本歌があるってことを何度か書いていますが(このシリーズ自体、大元が本歌取りなんですもの。え? 本歌は何かって。アンデルセンの『人魚姫』です。お魚なのに人間の王子に恋をしちゃって、ああなってこうなって、結局海の泡になる……)、その渡辺淳一氏の『阿寒に果つ』をこの間、何十年かぶりに読み返しました。
実は細かいところはすっかり忘れていて、自分の中の神路月(昴)の物語が既に本歌を押しのけていた事に気がつきました。さて、どこまで本歌に近づけるのか、読み返して自分で面白がっていたのでした。

さらにこのお話、しょうも無いトライアルをしていることがあります。
ここは「指だけでえっちなシーンを書く」って試みだったのですが、見事に玉砕しました。指だけでいたしているようなシーンが書いてみたかったんです。そもそもなんで、こんなトライアルしてたんかな? 多分、ずっと以前に友人とそんなチャレンジについて話していたことがあったのかも知れません。実際にあれこれなさっているよりも、いろっぽいシーンになってたらいいんだけれど。

今回で第2章『霧の港』はおしまいです。
次回から第3章『プラネタリウム』。【奇跡を売る店】シリーズの保育園児・和子の原型、つまり、本家・真シリーズで立ち位置を同じくする保育園児・あかりが登場します。
といっても、年内は旅行記の続きアップと、60000Hitのリクエストを1つ2つアップして終わりそうだなあ。こちらの第3章は年明けですね。

【真シリーズについて】
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【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第2章 霧の港(4) 指先

「あんたこそ、聞かないのか」
「何を」
 闇の中には薄暗い灯だけなのに、目が慣れてくるとすぐに明るすぎると思える。誰にも見えないように隠してあった、泣き出したいのか叫びだしたいのか分からない心を、この灯りの下で晒すわけにはいかなかった。

 真が答えないでいると、竹流は言葉のひとつひとつを自ら確かめるように言った。
「お前がもし、本当にそういう依存症なら、責任の半分は俺にあるのかと考えていた」
 淡々とした他人事のような調子に苛立って、半分、と真は声に出していた。もっともそれは相手に届いていたかどうかはわからない。竹流は何も反応しなかった。

 混乱している。福嶋の威圧感ある重み、雪原に黄金の光を落とす星月夜、神路月のブラウスの文様、事務所の周りを見張っている警察官とヤクザ、図書館の窓から零れる冬の陽射し、昔通っていた学校の制服と校章、この世に彷徨う死者が求める契り、涙を飲み込んだ悲鳴のような美和の声、霧に包まれた港に逃げ込む幾つもの人の心。
 抱けよ、と言った時も、竹流は黙って真の頭を撫でていた。やはり、低く呟いた声が相手に届いた陽には思えなかった。だが、少しの躊躇うような間を置いて、竹流はベッドサイドの灯りを消し、ベッドに潜り込み、真を背中から抱きしめてきた。

 背中から感じる温もりは現実のものとも思えず、これは夢の中かも知れないと思いながら、真はそのまま目を閉じた。いつかのように、現実と夢の境が曖昧になっている。そう言えば、何百回と同じ役を演じている役者は、現実の生活に戻っている時間にも、自分が自分なのか、その役の人物なのか分からなくなる時があるという。
 自分という器はなんと曖昧なものなのだろう。境が曖昧になると、一番始めに失われるのは重力だ。なにひとつ、重さを感じない。身体は浮き上がり、あの崖からも飛べると思う。

 頭を締め付けるように抱かれて、不意に真は現実の重みを思い出した。闇に溶け出そうとする真を無理矢理に現実に引き戻す強さを持ちながらも、彼の左手はただ子どもをあやすように頭を撫でているばかりだ。
 真はたまらなくなって、自分の腹の近くにあるあまりにも静かな竹流の右手を摑み、自らの下腹部へ手繰り寄せようとした。
 しかし、その手に触れた瞬間、皮膚の内側から悲鳴のようなものが真の内側へなだれ込んできた。真は氷に打たれたように、自らの手の力を抜き、竹流の手を離した。竹流の右手は重く、血の巡りが失われたように冷たかった。

 注意してみなければ、どれほどの不自由が残されているのか分からない右手だったが、冬ともなると、体温の調節機能を失ってしまったのか、時に恐ろしく冷たく重く感じることがあった。やはりあの時、神経の一部が切れてしまって、本当は、それ以後も全く回復していないのではないか、竹流はもしかすると例のごとく自分の弱みを一切見せないように、上手く隠し通してるだけなのではないか、そんなふうに思えるのだ。
 そういう時、真には、なにひとつとして彼にしてやれることがなかった。どれほど想っても、替わってやることもできない、彼の苦しみを離れたところから見ているだけで、ただ怯えているしかなかった。

 だが、皮膚の内側に恐怖と闇を閉じ込めた彼の手を離した時、逆に竹流の手が突然、失われた機能を取り戻したかのように真の手を追いかけ、その指先が微かに、探るように触れた。
 真は震えた。

 竹流の指先はやはり冷たいまま、真の手の甲を探り、皮膚の内側に潜む骨、腱、血管をゆっくりと撫でてゆく。
 真は身体の奥が昂ぶるのを感じて、それをやり過ごそうと僅かに身動ぎした。その心の震えを察したかのように、竹流の指が拳の関節で止まる。
 真は唾を呑み込んだ。体液の全てが指先に移動してしまったのか、口の中は乾いていて、咽喉がひきつった。躊躇うような動きで、竹流の指が真の指に絡む。触れていると、彼の冷たい指先よりも、真の指のほうが遥かに温度を失っていることに気がついた。

 やがて重ねた手を強く握りしめ合う。身体の全ての機能が止まり、同時に、時間が止まった。
 重ねた手の温度は、徐々に上がり始める。竹流の手のひら、指が微かに汗ばんでくる。汗は真の皮膚を介して、筋肉や血管に沁み込んだ。傷つき何もかも失ったように思えるこの右手には、まだ生命が宿っていた。その体温と湿度を感じながら、真は目に見えないあらゆる束縛の隙間を掻い潜り、そして、自分自身を開放した。

 真の指先にも温度が戻り、時が動き始める。
 真は竹流の指の関節を探った。
 衣擦れの音ひとつなく、静かだった。その深い静寂の中、全ての感覚が指先に移動し、指だけが躊躇いながら探るように絡み合った。神経という神経が、その場所だけに集まり、相手を感じる。

 熱を帯びていく指先とは裏腹に、身体の芯は静まり返っていた。指以外の全ての器官が消えてしまっていた。わずかに残された生命の機能の全てが、指先だけで蠕き、求め合い、指と指の間の敏感な皮膚を食み合う。
 時折、竹流の右手はもどかしげに動きを止めた。一度刃で貫かれた手ではどうしてもできない動きがあるのか、あるいは感情が指の運動よりも先に走ってしまうからなのか。躊躇うように竹流の指が止まると、真はその指に自分の指を絡みつかせた。

 真が昂ぶる感情を持て余して指を止めると、竹流がその心を追いかけるように真の指を愛撫した。絡めるごとに更に指先に熱が集まり、昂ぶる。皮膚は呼吸し、相手の息を求め、じっとりと湿った体液を絡ませあう。どうやってこの指先を溶かし合い、ひとつになればいいのかと、もがくように複雑に絡んだ指は、このまま縺れきってしまいそうになっていた。

 やがて予想もしない何かとてつもないところに昇り詰めたかのように、二人の手が止まった。いつの間にか、手のひらを合わせて強く握り締めあう。全ての温度も湿度も、二つの手のひらの間に閉じ込められていた。
 咽喉もとに、大事なものを取り零すまいとするかのように、竹流の左の手が触れた。身体が痙攣したように震え、真は微かに硬直する。長い時間止めていた呼吸がようやく戻り、真は肩を震わせた。

 昂ぶった感情の余韻で、遠くに取り残されていた意識が、自らの身体のうちに緩やかな速度で戻ってくる。
 震えるままに、涙が零れた。ようやく蘇った背中の神経が、竹流の胸から熱と湿度を直接伝えてくる。竹流の呼吸がいつもより速いことに、真は今更ながらに緊張した。

「歌」
 声を出してみて、喘ぐように掠れた声だったので、自分でも戸惑った。竹流が、求め合った指先を微かに解いた。
「あんたの店の名前、なんかの歌と関係あったんじゃなかったっけ」
「それがどうかしたのか」
「いや、何か、今日ふと気になったのに、思い出せなかったから、気持ち悪くて」
 会話など必要がなかったのに、身体のどこかを動かしておかないと、このまま本当に溶け合って、原型を留めない生命体に変わってしまうような気がした。

 咽喉から言葉を零すごとに、身体の細胞が本来の機能を思い出して、活動を再開する。こうしてようやく、相手を別の生命体だと認識できるようになり、竹流も同じように感じていたのか、溶け合うことなどない別の個体に戻った真の身体を改めて、確かめるように抱き寄せた。
 異なった身体のうちに戻ってしまった魂を、幻だけでも引き戻そうとでもいうようだった。
 だが、その力は以前のように乱暴なものではなく、ただ静かで、包み込むように優しかった。

 高校生の頃、つまり真の首を絞めたあの女が亡くなった頃、竹流はよく真をこうやって抱きしめてくれた。それは、親が子どもを理屈抜きに赦し愛するのと同じようなものだった。何もかもお前のせいじゃないと言われているようだった。
 そして今、あの激しい想いと力とで愛された時間を過ごした後では、その優しさは逆に苦痛でさえあった。真はその苦痛を、縋るものは何一つない大海原の真ん中に浮かび、もはやどうすることもできないという静かな諦念のうちに受け止めた。

「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」
 竹流が耳元で囁くように歌う。震えるような吐息は、三十二音の言葉が語られる間に、天の海が凪いでいくように静かで穏やかなものに変わっていった。
 本当はその歌を忘れてしまっていたわけではなかった。ただ、この声で囁くように耳元で歌って欲しかっただけなのだ。

「柿本人麻呂だったっけ」
 真は確かめ、自分の声が、うちに押し込んだ感情よりも遥かに穏やかであることに、不思議に安堵した。
「日本の古代の人麻呂なんて名前の人が、宇宙を歌ってるってのは、やっぱりどう考えても不思議な感じがする。宇宙は古代から変わりなくそこにあるのに、人はひとつの人生の中でどれほど大事なものを失っていくんだろう」
 竹流はまだ真の頭を撫でていた。耳元をくすぐる呼吸は、すでに平静だった。

 十代の若者のようにセンチメンタルなことを言っていると考えて、真は自分で自分の言葉を貶める。それでも竹流の声は暖かく、柔らかく、真の汚れていないどこかを包み込むようだった。
「俺が、何であの店にそんな名前をつけたか、話したかな」
「いや」
「『天の海』、『月の船』、『星の林』……この歌を教えてくれたのは功さんだよ。日本の古代の歌人の歌だ、洒落てるだろうって。あの人が居なかったら、俺は深く人を信じることをやめてしまっていたかもしれないと、今でもそう思っている」

 竹流は今でも、真の伯父の功に心の底から感謝しているのだ。だから、功が息子として大事にしていた真のことを気に掛けているのだと、全ては功への恩義に報いるためだったと、そのように聞こえる言葉を、真は耳の中でしばらく持て余していた。
 そして、福嶋の事務所の奥にある彼の私室で手に取った、功の本の重さを思い出し、右の手をひとり、握りしめた。

 迷い苦しみながらも真を育ててくれた功の手は、いつも真の前に幾千万もの星々を映し出して見せてくれた。本の中にも、書斎の天井にも、不安で潰れそうになっていた心のうちにも、確かな軌跡を描いてくれた。
 功の『宇宙力学論』、あの本を福嶋のところに残してきたことを後悔した。意地を張るものでなかったのだ。本当なら頼み込んででも、あの本を受け取って来るべきだった。

 真は背中から沁み入るような温もりを感じたまま、目の前の真っ暗な空間を見つめた。
 その空間の直ぐ先にはブラインドを下ろした窓があり、窓の向こうには冷えた廊下、その向こうに五角形のベランダが切り取った暗い空が、星を宿している。その距離の永遠に、真は震えた。
 この目の前の暗闇は距離にすれば僅かに一メートルほどのはずなのに、その深さに身体ごと震えるような心地がする。今背中に感じている温かさも、距離にすれば一分の隙もないはずなのに、その間に深い深淵が横たわっているような気がした。

 真は目を閉じた。今でも、この男は真を殺したいと思ってくれているだろうか。いや、そうではないから、この男はあの時、真の手を離したのだ。そして真のほうは、今もこの男を殺したいと願っている。これはまさに鬼宿の妄執なのだろう。

 真は夢を見ていた。それは確かに見覚えのある光景だった。
 その女は真がこれまでに見たどの女よりも美しい女だった。窓の向こうには、木々の緑でさえ透明に染めた真っ白な光の世界が広がり、女は無造作に束ねた長い髪を肩の下にまで垂らして、ベッドの上に座り、窓枠に半分身体を投げ出すように預けている。赤い唇は時々歌うように開かれる。淡い茶色の光を湛える瞳に、真の影を取り込むと、女はいつも微笑んだ。

 あの人は、真を誰だと思っていたのだろう。自分を捨てた男の息子だと知っていたのだろうか。それとも彼女の夫だと思っていただろうか。だが真の外見は功にも武史にも似てはいなかった。ただ彼女と同じ孤独という闇を彷徨う魂、いや魄だと思っていたのではないだろうか。

 鬼宿、という言葉を眼にしたときから、真はそれがまさにあの女と自分のことだと、ずっとそう考えていた。周囲で起こっている出来事、流れている時間に全くついていけずに、ただ何もかもを自分の内側に押し込んで混乱し、自分自身は全く動けずにいる。過去に縛られ、その時間を共有した誰かを同じ闇の中に引きずり込もうとする妄執が、真の、そしてあの女の足首を捕まえている。その相手はもう既に、過去ではなく現在を、未来の時間を生きているというのに。

 何度も何度も同じ夢を、それも現実と区別のつかない夢を見ていた。意識は覚醒したままだったのだろう。
 同居していた時、朝、先に目を覚ましているのは、いつも竹流のほうだった。もっとも、真は先に目を覚ましたときには大概走りに出てしまっていたので、竹流の寝顔をじっと見つめていたことなどなかったから、そのように誤解しているのかもしれないし、竹流も時々夜通し仕事をしていることもあったので、先に眼を覚ましているのか、それとも一晩中眠らずにいたのかはよく分からないこともあった。

 離れてからは、ここに泊まりに来ると、真はまた草食動物のように短いスパンの眠りを繰り返すようになった。短い眠りは脈絡のないシーンだけの夢を伴っていて、その夢はしばしば強く記憶に刻まれた景色であるからか、現実感が強く、夢の中にも関わらず五感の全てが鋭く働いていて、ほとんど身体を休めていないような気がしていた。
 短い眠りにつくのは大概朝方で、気を失っているだけのような時もある。

 一度は命の向こう岸に連れて行かれ、右手の機能の一部を失うことになった出来事からずっと、竹流は眠っているのか、本当は眠らずに目を閉じているのか、よく分からない時が多くなった。
 ただ眠っているふりをしてしまいたいと思っているのかもしれなかった。

 ベッドサイドの柔らかなオレンジの灯りで、竹流の髪がさざめく波のように光を照り返している。通った鼻筋も、影を伴うとよりくっきりと浮き立つような彫の深い顔立ちも、気品に満ちた唇も、何もかも昔のままだったにもかかわらず、時間は確実にその上を過ぎてゆき、それ故に真は、これまでよりも遥かに深い想いでこの男を見つめているような気がした。その想いは、あまりにも色々な色を放り込んでしまったために、元の色合いが分からなくなった絵具のように、暗く深い。

 真はそっとベッドを出た。
 朝食を一緒に食べることもあったが、やはり後ろめたさを夕食まで引きずるのは忍びない気がして、相手が眠っているうちに、早朝にこのマンションを出て行くことが多くなっていた。この期に及んで、何を妻に対して繕うというのか。だいたい、あの女は、真にそんなことを期待していないはずなのに。

 リビングに出て、ふと時計を見ると、あまりにも暗くて分からなかったがもう七時前だった。冬で、空が曇っているからなのかもしれない。真が着替えを済ませた時、遠慮をするようなドアホンが鳴った。
 このマンションは、コンシェルジェの前を通らなければエレベーターホールに行き着くことはできない。不意の客の来訪の場合には、コンシェルジェからインターホンで知らせがある。ドアホンが鳴るのは、コンシェルジェを通した来客ではないということだから、ある程度親しい人間、あるいは竹流が予めその人が訪ねてくることをコンシェルジェに告げている場合だけだった。

 寝室からは気配はなかった。真は少し時間を置いてから、玄関に向かった。
 ドアを開けると、立っていたのはギャラリーの修復助手だった。真を見て、修復助手の篠田朔は、少しひるんだような顔をした。ある意味ではどちらも、見られたくない現場を目撃されたような状況だったのかもしれない。
「あ、いえ、あの、オーナーはまだお休みですか」

 真は一瞬リビングのほうを振り返り、多分、と答えた。決まり悪そうに立っている篠田を放っておくわけにいかず、真は上がるように促した。この男がここに来ることを、少なくとも竹流は知っている状況には違いなかった。
「どうぞ。俺はもう行きますので」
 顔つきも服装も、総じて地味な男だった。このまま服装を変えて公園に眠っていたら、誰もが浮浪者だと一瞬で信じてしまうほどに、周囲の景色で存在を失うようなムードの男だ。だが、竹流はこの男の真面目な側面を随分と買っているようだった。

 修復というのは、もともとは科学的根拠に基づいて丁寧に技術を身に付けて行えば誰にでもできることのはずだ、必要なのは根気とそれにかけてきた時間なのだと、近頃後進の育成に力を入れている竹流が話していた。幾人かの修復助手を育てながら、それぞれの特性を見極めて仕事を覚えさせ、一人前に育てる、神の手を失った修復師の、今はそれが誇りでもあったのだろう。この篠田という男は、まだ音大の学生であった時から竹流の助手を務めていたし、一番弟子と言ってもいいのかもしれない。

 篠田は困ったような顔のままだったが、しばらくして真の後ろに視線をやって、ようやくほっとしたような顔になった。
「悪いな、いつも」
 竹流はそう言って篠田を促して奥に上げた。それまでのおどおどした気配は消え、篠田はするりと運動靴を脱いで、促されるままに真の脇をすり抜けるようにして奥へ進んでいった。
「帰るのか」
 真が答えないまま篠田が閉めたリビングの扉を見つめていたからか、竹流が言い訳というのでもないだろうが、淡々とした声で言った。

「最近、夜中に仕事をしすぎて、朝方、起きられないことが多くてな、近くに住んでるんで時々来てもらってるんだ」
 そうなのか、と真は小さな声で答えた。何を言い訳されたのか、よく分からなかった。
 竹流が後ろめたいなどと思うことは何もないはずだった。少なくとも、真がポケットに結婚指輪を忍ばせていることに比べたら、どれほどのことだというのだろう。
 真はじゃあ、とだけ言って、靴に足を滑り込ませた。

 同居を解消した後、一人の夜が寂しくて一晩中仕事に没頭している、あるいは一人の朝が耐えられなくて修復助手を目覚まし代わりにマンションに来させて朝食を振舞う、こういう孤独への単純な付け薬を、竹流が利用していてもおかしくはない。もちろんそれはあくまでも一時的な効果しか得られない付け薬に過ぎず、根本的な解決方法には程遠いのだが、真よりは余程にこの男は孤独に弱いのだろう。
 少なくともローマでの彼の幼少時を知れば、いつも誰かが側にいて、彼を愛していたことがよく分かるし、竹流のほうでも彼らに深く愛されるための本能的な努力を惜しんでこなかったことが窺い知れた。

 幼少時の体質は、基本的に大人になっても変わらないものだ。真が孤独と簡単に付き合えるようになってしまっているのもまた、幼少時の習慣の結果に過ぎない。
 いや、少なくとも竹流は、もう真の首を絞めるような愚かな真似はしたくないと考えているに違いなかった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

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