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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

海に落ちる雨 改めまして 

改めまして、よろしくお願いします。
第1節は、言ってみれば謎ばら撒き編、というところでしょうか。
それにしてもやたらと長い描写があれこれ出てきますが、適当に、適当に読み散らかしてください。

始章を読み飛ばしてこられた方へ、大筋をご案内いたします。

まず『アレルヤ』→竹流(ジョルジョ)編

この人は、ローマのヴォルテラという家の跡継ぎです。家というよりは、ローマ教皇をお守りする組織です。
世襲というわけではないのですが、半分世襲みたいな家。
何よりも幼少時からそれ相応のスパルタ教育を受けていたわけで、どっぷりカソリックの教えに縛られています。
当代の当主はジョルジョの叔父であるチェザーレ。厳しい人ですが、心から甥を愛している。

さて、神の兵士たるべく一生懸命に学び、心と体を鍛えても、何か満たされていないジョルジョの心に、一筋の光を灯していたのは、飲んだくれの修復師。この『神の手』を持つ気難しい天才修復師から後継者になれと言われて、ヴォルテラの跡継ぎを返上しようとしたものの、かなうはずもなく。
家出してしまいます。

船の仕事をしながら世界に出ていくものの、病気で倒れてニューヨークの大金持ちのもとへ。
メトロポリタン美術館に紹介されて、修復師として働きながら、トレジャーハンターたちとも付き合う。
実はこの金持ち、チェザーレに言われて、ジョルジョの面倒を見ていたのです。
いつもどこにいても、叔父に見守れていることを半分で嬉しいと思いながらも、その手から立ち上がり、一人の確かな人間として、自分の力で歩きたいと願う、けなげな若者だったわけです。
そして、ついに日本へ。
神学校の先輩の姉を探すうちに、たどり着いたのが脳外科医の相川功の家でした。

BGMには、IL DIVOの『アレルヤ』をどうぞ
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(2008/11/26)
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そして『銀の雫、降る』→真編

北海道浦河の競走馬の牧場出身の野生児は、半分ドイツ人の血が流れている母親と、相川家から勘当された父親との間に生まれた、いじめられっこ。
目の色はヘテロで、右目は碧、左目は黒です。
自分からも、誰かと一緒にいたいとか、誰かに分かってもらいたいとかいう感情をあまり持たないようにしてきたために、一人ぼっちが当たり前と思っていた。
遊び相手は、馬と犬と『蕗の下の人(コロボックル)』たち。

それでも、家族はみんな彼を大事にしていたのですが……ある時、叔父にコロボックルを紹介してしまって、慌てた叔父が東京の兄(真の伯父にあたる)のところへ飛んで行ったのです。
その時、ひっついてきた従妹の葉子に対して、騎士精神を刺激されたので、後先考えずに東京の伯父のところに引き取られたものの……いじめられっこ。

但し、いじめられながらも、どこかに反骨精神のある中学生だった。
さて、学校の勉強についていけていなかった(東京の言葉あるいは人間の言葉が理解できない?)真の家庭教師になったのが大和竹流。
このスパルタのおかげで、何とか人間らしく生きていけるようになった真なのでした。
その心に実父の影が……父親からは捨てられたのだと思い切ることで、この壁を乗り越えようとする。しかし、信頼していたもう一人の父=伯父も結局失踪(実は事件あり)。
その真の三人目の父ともいうべき存在が大和竹流なのかもしれません。

真→竹流
精神的にはものすごく頼っているけど、頼り切りたくはない、一人で頑張れる、とあがく状態です。
この感じはこのYou Tubeをご覧ください⇒Kitten "saved" by her mother
冒険に出かけて独立したい子猫、無理やり連れ戻す母猫……
『やめて~、お出かけしたい~、せっかく頑張って階段下りた(落ちた?)のに~』

そして、今回、大和竹流の失踪から物語が始まります。
真はお父ちゃんを探し出せるのか?

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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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☂[1] 第1章 同居人の留守 (1)(改) 

 深い碧の森。
 高い空から見下ろす大地に、銀色の雨が降りしきる。
 真自身も銀の雫となって大地に落ち、地中の奥深くに潜り込み、密やかに生命の根を支える。大地を踏みしめ足音を地中に落としているのはキタキツネかエゾシカ、それともこの沈むような重みはクマだろうか。心地よい湿度と共に伝わる振動に、真は深く息を吸い込み、溶け出していく自分自身の魂と身体を開放する。
 開放された魂は、地中を突きあがり、碧の森を飛び越えて、遥か彼方の雲の上に昇り、そして大宇宙にそのまま溶け入ろうとする。

 それを押し留めるように、誰かの暖かい腕が背中から身体を締め付けた。
 真は目を開けた。眠りの習性のせいもあるが、ここのところ熟睡できないでいる。
 視界はほとんど闇で、ぼんやりと壁が白んで浮いていた。

 そこはこの二年半の間にすっかり慣れ親しんだ部屋だった。
 サテンのシーツから微かにハーブの石鹸が香り、頬に静かな闇の空気が触れている。部屋の壁には、ベランダに面する廊下に開く大きな窓があり、木製のブラインドを下ろしてしまえば外の気配は伝わってこず、心地よい暗闇に身体を浸すことができる。

 普段改めて意識することはなかったが、時々こうして夜中に目が覚めると、隣で眠っている男の穏やかな息遣いを数えて安堵した気持ちになった。
 自分たち男同士の同居が、多少意味深な外見を世間に向けていることは何となく知っている。いや、むしろそれを利用さえしている。仕事の内容も場所も、ある意味そういう噂を許容する節さえあった。

 夜中に目が覚めて、寂しさも不安も感じずにもう一度目を閉じることができる、こんな穏やかな状態がいつまで続いてくれるのか、考えてみることがないわけではない。
 真は背中から感じる同居人の呼吸を、身体の芯に響く振動のまま受け止めて、軽く身じろぎをするように、その腕から逃れて身体を起こした。

 海からそう遠くはないこのマンションの持ち主は同居人の方だが、真は学生の頃、彼がヒモのような生活をしていて、このマンションについても、幾人もいる金持ちの恋人たちの誰かに金を出させているのだとばかり思っていた。
 真の思い込みはどこまでが事実でどこからが誤解なのか、今でもよく分からないが、同居人が『ビジネス』として女と寝ていたことは嘘ではないようだった。

 真が中学生の頃は、ここに来れば大概女と鉢合わせた。
 同居人は、真が小学生の時に北海道から東京に出てきて以来、真と妹の葉子の家庭教師をしていて、何やらいわくのある人間のようだったが、実際の生活の糧は、ジゴロのように女から得ているのではないかと真は思っていた。高級車に乗り、身に付けているものも、決して豪勢ではなかったが、上品なものばかりで、何よりこの男にはそういったものがしっくりと馴染んだ。

 一体あれから何がどうなってここに行き着いたのか、もしかしてインディアンの長老の言葉が、とてつもない歯車を廻したのか、気がつけばあれから干支もとっくに一廻りを越えてしまって、いつの間にかここに一緒に住むようになり、既に二年半もの時が流れている。

 広い造りのマンションには、他に真が一人で使っても構わないはずの部屋もあったが、もともとベッドを共にする以外の目的でこのマンションで他人と夜を明かす可能性のなかった同居人は、真がここに住むようになっても、ベッドをもう一つ入れようという発想は全くないようだった。
 同居のきっかけが真の方の多少危ない恋愛事件だったこともあって、真の保護者を自任していた同居人は、過剰に何かを心配していた可能性はあったが、こんなに立派なキングサイズのダブルベッドがあるのに、何故もう一つベッドが必要なのか分からないという単純な感覚の方が強そうだった。

 いつも隣で眠っている男との間に数十センチの隙間がある。それは時にはもどかしい思いを抱かせる距離だったが、他人との間としては、心地よい距離でもあった。他人とどれほど強く抱き合って現実の距離が消え去っても、それが何の意味もないということはよく分かっていた。
 真は隣の男が目を覚まさないのを確認する時間を待ち、静かにベッドを抜けると、廊下側のドアから寝室を出た。

 ベッドに入ったときから身体を引っ付け合っていることはほとんどない。眠っていると無意識に温もりを探すのが真の癖で、いつの間にか引っ付いていることはある。それを同居人はよくからかうのだが、真は寝ているの間のことだからと、自分の意識とは関係ないと主張して無視をする。
 このからかいにまともに反応すると、ろくなことにならないこともよく知っている。
 だが、酔っ払っているときは別にして、同居してからは、こんなふうにこの男のほうから真を、背中から抱き締めてくることなどめったになかった。そういう時は多分何か、それもある特定の何かがあった時だと真は何となく察していた。
 それを直接言葉で確かめたことは一度もない。こういうことは去年の秋から多くなっているような気がする。

 優雅に曲がったくの字型の廊下のテラスに向いた側は総ガラス張りで、その日は穏やかな月が空高く上がっているのが見えていた。
 夢の中では、雨が降っているのだろうと思っていたが、降り注いでいたのは雨でも星々の雫でもなく、月から零れ落ちる光だった。
 頭のどこかで覚えている気配と音は、地球に落ちる恵みを、光も水も同じものだと教えている。

 もうすぐ梅雨に入ることを思えば、今日のような月は暖かい気分にさせた。その月明かりが、変形した五角形のテラスを静かに始まる芝居の舞台のように浮かび上がらせている。
 舞台の上には古い農具の板で作られたテーブルと四客の椅子、大きくそれを覆う天女の袖のようなパラソル、木桶に植えられたオリーブの木。パラソルは遠い海からの風に時に大きく、時に囁くように軋む。
 天を見上げれば五角形に切り取られた、ここに住む者だけが所有する空。深い藍に染め込まれた天に浮かぶ月は、陽炎のような光の弯曲を空気に漂わせている。


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☂[2] 第1章 同居人の留守 (2)(改) 

 煙草、どこに置いたっけ。

 月の光が真の前に影を作り、柔らかく婉曲したくの字の先へ伸びている。
 素足に廊下の板は冷たいはずだが、あまり現実味を帯びた温度ではなかった。影の伸びた先にダイニングの扉がある。イメージの中では五角形の優雅な弯曲を既に追いながら、煙草のことを考えていると、そう言えば夕食の後でダイニングのテーブルの上に残してきたような気がした。

 イメージを追いかけるように廊下を曲がりダイニングの扉を開け、薄明かりに照らされたテーブルの上に煙草の箱を見つけた。横に置いてあったライターも一緒に手にとり、真はもう一度廊下に出て、そのはす向いにあるテラスへ繋がる扉を開けた。
 
 室内にかかった圧力を解き放つように、空気の流れが変わる。
 テラスに置かれた雪駄を履いて外界に開けた五角形の一角まで行くと、今日は潮の香りがここまで吹き込んでいることに気がついた。
 湿気を含んだ風からライターの灯を守って煙草に火をつけると、真はパジャマのポケットに煙草の箱とライターを突っ込んで、大きくひとつ吹かした。

 同居人は基本的には煙草を吸わないので、部屋の中で吸うことは憚られた。
 駄目だと言われたわけではないが、煙草を吸うときは極力テラスに出て吸うようにしている。それに本数を減らすようにと常に意見されていて、同居してからは、いつの間にか数は減っていた。

 三度ばかり、有毒であるはずの煙を肺に送り込むと、強張っていた身体中の筋肉が弛緩したような気がした。
 目を閉じると、潮の香りの中で、微かにレーズンとオレンジの香りが混じったような刺激が鼻の奥をくすぐった。寝る前に少しだけ舐めたグレンドロナックの甘い匂いを、鼻粘膜が覚えていたのかもしれない。

 ウィスキーなど、銘柄を覚えられるほど精通しているわけでもないし、そもそも気分の勝れないときに匂いなど嗅いだら、それだけで酔っ払ってしまいそうな時もある。
 だが、真の眠りの習性を心配した同居人は、ナイト・キャップを勧めるし、それによって少しはよく眠れるようになったのも事実だった。たまには水で割ったほうが芳香が強くなる品種もあるようだが、少しだけストレートで舐めると、気分が落ち着いて、少なくとも睡眠導入には極めて効果的であるということ知ったのも、同居を始めてからだった。

 もっとも、同居人の好みは、アクア・ヴィテ『生命の水』すなわちブランディの方で、気分に応じては飲み分けているようだが、デラマンという名前のついたデカンターボトルに入ったコニャックが彼のお気に入りのようだった。
 ウィスキーとどこが違うのか、全くわからない真に、本来の同居人なら『原料が違う』に始まる長い薀蓄を垂れるはずだが、その時彼は上品で優しく色気のある表情で、女を抱くような甘い気分に浸れる、と言った。真には全く理解の及ばない感想だった。

 真は、もうひとつ煙を吸い込んだ。
 北海道の澄んだ空気の中では煙草を吸う必要もないのに、都会の空気では何かを消し去りたくて煙草を好むようになった。
 真が高校生の頃から、もちろんその頃はたまのことだったが、吸っているのを同居人はずっと知っていて、時々くどくどとニコチンの悪徳について説教を垂れてくる。
 そういう同居人がたまに吸っている葉巻の方がよほど身体に悪いと真は思っている。もっとも、同居人が葉巻を吸っているのはよほど何かに気分を害している時だけで、彼の実家の誰かがブレンドしているという、眩暈を覚えるほどの強い香りで、神経を麻痺させて何かを鎮めようとしているように見えた。

 目が覚めたのは熟睡できていなかったからだと思った。草食動物並みの本能で身を守っている真は、あまり眠りの深いほうではなかった。子供のときから馬たちと過ごす時間が長かったので、彼らの眠りの習性が染み込んでいるのかもしれない。

 熟睡できない理由は、数日前から食事の内容の手が込んできたからだった。
 一緒に住み始めてから間もなく、それが何の合図かわかった。

 真の同居人は、時々数日、時によっては一週間あまり、家を空けた。
 同居人の本当の仕事が何であるのか、真には未だによく分からない。銀座にビルを持ち、一階にギャラリーを開いていて、その筋では相当有名な修復師だった。有名無名問わず気に入った作家がいるとかなりの援助もしているようで、彼を頼る芸術家がいくらもいるということを、ある時他人の噂話で知った。

 そのビルの二階にはアトリエ兼事務所が、三階には会員制のかなり怪しげなクラブが入っていて、四・五階には半端でなく美味しいものが食べられる、食通の間では知る人ぞ知るイタリアンレストランを、六階には都会の隠れ家としてこれもまた噂になっているらしいバーを経営していた。

 一度だけ同居人の仕事に引っ付いてアラビア半島の小国まで行ったことがある。真が高校生のときで、ただ修学旅行に行きたくないばかりに、大した考えもなく同居人を脅すようにしてついていったのだが、全てが真の理解を超えていて、その上どこかの映画で見たようなシーンが目の前に展開される事態が『三分に一度のクライマックス!』とばかりに襲い掛かった。一緒に行動していたアラブ人のトレジャーハンターは彼を『同業』と言っていた。同居人は自分の職業を泥棒と詐欺だと話していたことがある。

 レストランを所有していただけではなく、本人自身相当の料理の腕前だった。
 というよりも何に対しても中途半端の大嫌いな男で、その徹底振りには真も泣かされたことがある。
 中学高校のとき、真と妹の葉子の勉強の面倒を見てくれていたのは、当時彼らの父親の秘書のような仕事をしていたこの男で、その徹底的なスパルタには、上手く逃げていた妹はともかく、真のほうは完全に捕まってしまっていた。
 そういう男と同居してから、一人では決して食事を作ることのない真の食生活は、結婚した世間の男性に比べても数段勝ったものになった。
 その食事内容の手が込んでくるのは、同居人がまた仕事に出掛けるサインだった。

 始めの一年はそれでも何とも思わなかった。それが前年の秋くらいから、どういうわけか妙に堪えるようになってきた。いや、そのきっかけが何だったのか、真は不思議なことにはっきりと覚えていた。


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☂[3] 第1章 同居人の留守 (3)(改) 

 同居人はその時、食い入るように新聞を読んでいた。
 真が傍に行ったのも気が付かずに新聞を読んでいることなど、後にも先にもあの時しか記憶にない。真が声を掛けると、同居人は慌てたように新聞を畳んだ。
 後で確かめた、同居人の視線の先にあった新聞記事には、つい先月にローマ教皇となった教皇が急死し、新しい教皇が誕生したと書かれていた。ヴァチカン始まって以来のスラブ人教皇は一九七八年十月二十二日に、戴冠式を行わず教皇就任式を執り行っていた。

 同居人の故郷での新聞記事だから、とその時は考えたが、あれほどに薀蓄を語ることの好きな男にしては珍しく、何の解説もなかったし、その後それについての話題が出たことは一度もない。
 もしかすると、夜中にかかってくる電話の数が増えたのは、あれ以来かもしれないとは思うが、電話についてはそれほどはっきりとした記憶が残っていたわけでもなかった。

 同居人の仕事が、時にはあまり安全とは言いがたい事は知っている。真は女でもないし、心配して待っているような性質でもないが、あの時から、腹の底から何かが突き上げてくるような痛みが湧き起こり、不意に耐えられない瞬間が襲ってくるようになっていた。

 同居人が留守にしている時、ふと何かに呑みこまれそうな感じがして目を覚ます。いつもなら自分の左隣にあるはずのものがそこになく、大きな空洞を感じる。それまでは、一人でいることを淋しいと思うことはあっても恐ろしいなどと思ったことがなかったのに、真は恐ろしいと感じた自分に驚いた。
 もしも帰って来なかったら、と思ったのだろうか。
 多分そんな理屈ではなかった。ただ、傍にいるはずのものがいないというそのこと自体に、恐怖を感じたのだろう。

 女だったら行かないでとすがったりもできるかもしれないが、そんな単純にはいかない。そもそも世間はそう思っているかもしれないが、真と同居人との間にいわゆる恋人同士の関係が成立しているわけではない。
 もちろん、恋人同士だからといって、相手の心の全てがわかるものでもないし、相手の人生の何もかもを所有できるわけでもない。だが、恋人という肩書きのほうが、ただの同居人よりは余程拘束力のある関係に思えた。

 六月になろうというのに夜の風は薄着には冷たく感じた。
 北海道育ちの真に、東京の夜の風が寒いなどというはずもないのだが、ビル風や都会独特の気象に色づけされた風は北海道の牧場にはないものだった。だが、今日の場合は数日前まで熱を出していたからかもしれない。

 子供の頃からよく扁桃腺を腫らせては三日ばかり高熱を出した。
 真を引き取った祖父母はこの身体の弱い子供がまともに育たないのではないかと心配していた。大人になってその頻度は減ったものの、時々都会の空気を拒否するように、身体は何かに反応して馬鹿みたいに熱が出る。

 煙草の半分が灰になってしまった時、洗面所の近くのドアが開いた。
「お前、また熱がぶり返しても知らんぞ」
 外国人とは思えない練れた日本語を話す長身の同居人は、一応日本人の真がパジャマでいるのに、本人はガウンのように着物で寝ている。これを縫ったのは真の祖母で、同居人がそういう生活習慣であることを喜んで腕前を披露している。
 真は返事をしなかった。同居人は無造作に欠伸をして真の傍までやってきた。

「中に入るか、上に何か着ろ」
「吸い終わったら中に入るよ」
 それを言い終わるか終わらないうちに、同居人の手が真の口元の煙草を取り上げて、手すりで揉み消してしまった。
「中に入れ」
 吸殻を持って、同居人はダイニングのほうの扉から中に戻った。いつも通りの鳴かぬなら鳴かせてみせようの精神だ。真には逆らう隙もない。
 真は仕方なく後に続いて中に入った。

 ダイニングに柔らかい照明を灯して、同居人は小さめのブランディグラスを二つ、テーブルに置いていた。
 二人のためにあるとは思えない、大家族のためにこそ作られたような大きなガラスのテーブルは、イタリア人の芸術家に相応しい洗練されたデザインで、二面はゆったりとしたL字型の薄辛子色のベンチに、あとの二面には洒落たデザインの、しかし座り心地の滅法良いチェアに囲まれていた。

 穏やかなオレンジの光を和紙で包み込んで、天井にぼんやりとした大きな円を投げ掛けているフロアライトの傍で、いつもと形の違う、ややスリムな楕円のボトルから、琥珀色の液体をグラスに注いで、同居人は一方を真の方に滑らせる。
 グラスは計算されたように、テーブルの端から十センチほど手前で止まった。

 料理の手が込んでくることとは裏腹に、同居人の機嫌はあまりいいとは言いかねた。
 それは出掛ける前の同居人には珍しいことで、いつもなら本人曰く天職でもある『泥棒と詐欺』の大仕事に出掛ける前は、ちょっと気持ちが悪いくらいハイになっていることが多い。
 もともとイタリア人の性格もあるのだろうが、とにかく人生は楽しく生きるべきという信条をそのまま体現している。もっとも、それは彼の一方の顔で、その裏にかなり複雑で根の深いものが潜んでいることを真は知っていた。

 真は、いつものように逆らう気などなく、ベンチに座ってブランディに口をつけた。コニャックに比べると、随分と癖の強いアルコールが舌の上で小さな火花を散らしている。
 一人で酒を飲むという習慣のない真は、決して酒に強いというわけではない。
 この男と同居するようになって、何とか付き合えるくらいに飲めるようになった程度だった。調子が悪ければ缶ビール一本でも十分に酔っ払えることもある。
 顔をしかめた真に、直ぐに気が付いたのか、同居人は淡白な声でアルマニャックだ、と言った。蒸留を一度しかしないから、ちょっと癖が強いだろう、と言われて、ふと同居人の顔を見る。
 まず十分に手の中でグラスを暖めて、香りを楽しむ、鼻から匂いを吸い込んで口の中に残したまま飲むといい、と説明する声までがいつになく硬かった。


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☂[4] 第1章 同居人の留守 (4)(改) 

 数日前から酒の量が増えている同居人の顔を窺うと、今日も決して気分快晴とはいかないように見えた。
 つまり、女を抱いているような気分にさせる上品なコニャックではなく、今日はそういう気分なのだと言いたいのかもしれない。

 いや、やはり去年の秋以来だ。
 同居人は時々何もせずに考え込んでいることが多くなった。寝ている間は別にして、あるいは仕事にかかる前に絵やその他の美術品を前にして考え込んでいるときを別にして、時間を無駄に過ごすことが少ないように思える男が、何もせずテラスで座っていることが多くなっていたのだ。

 時々、真が気になってテラスに出ると、同居人は何も言わずに五角形の空を見上げている。
 そして、他人行儀な口調で、今夜は月が綺麗ですね、と言う。真が意味を理解できずにガーデンテーブルの向かいに座ると、同居人は木の椅子に深く背を預けた。
 ぎっと、木の合わせが擦れあった音がする。

『I love youって何て訳すか知ってるか?』
 また下らない薀蓄を話し始めるのだろうと、真は返事をしなかった。
『明治時代の日本では『愛している』という訳はなかったそうだな。夏目漱石は、月が綺麗ですねとでも訳すか、と言ったらしい。あなたなしでは生きていけない、と訳した詩人もいたそうだ』

 月が綺麗だなんて言われても、聞いたほうに想像力がなかったら聞き流してしまう、と真が言うと、同居人は真の方を見ないまま、僅かに微笑んだように見えた。
 珍しく真剣な恋でもしているのだろうか、それとも昔の叶わなかった恋でも思い出しているのだろうかと思ったが、追求してもまともな答えが返ってくるとは思いがたく、真は月を見上げる。五角形の空に、ひと際大きく、月が輪郭を浮きたてるように香っている。
 何かを聞いておかなければならないような気がするのに、言葉にならない。あの秋の日以来、真のほうもずっと身体の奥のほうに吐き出せない何かを抱えていた。

「また出掛けるのか」
 やっと形になった言葉は、分かりきったことで、今聞いておきたいことではなかった。
 一番大事なことを聞こうとすると、拙い事態を引き起こしかねないと本能的に感じている真は、今日もまた、当たり障りのない話題のほうに逃げた。
「あぁ」
 返事は短かった。

 同居人はチェアに座って、アルマニャックをグラスに残った半分ほど一気に飲んでしまうと、大きな手のひらの上でグラスを揺らせた。その琥珀の中に、幾つかの曖昧な光が浮かんでは小波のように姿を変えている。
「珍しく、乗り気がしないようだな」
「いつだって乗り気なわけじゃないさ。お前をひとり残していくのは心配だからな」
 基本的に同居人が心配しているのは、真の食事なのだ。
 もっとも最近は『大家さん』のいない間は私に任せなさい、という気合の入った事務所の『秘書』のお蔭で、それほどひもじい思いをしないで済んでいる。
 
 秘書の女の子が同居人の事を『大家さん』と呼んでいるのは、真と同居人の関係を疑う彼女に、恋人ではなく大家のようなものだと真が言ったからだった。
「どのくらい帰らない?」
「一ヶ月くらい、かな」

 あっさりとした返事の割には長い期間に、真は次の言葉を飲み込んだ。
 しばしば一週間単位では家を空ける男だったが、一ヶ月などという期間を聞いたためしがない。真は、もう一口アルマニャックを飲んだ。突然口に含むと、強烈なアルコールが舌を刺す。
 その勢いで、真は尋ねた。
「どこに行くのか、聞いてもいいのか」

 同居人は真の顔を見た。
 その青灰色の深い瞳の色を見ると、真は時々わけもなく不安になる。胸の内のどこかをかき回されるような気がする。深く重い海の色は、真の側頭葉のどこかに刻みつけられた北の海と同じだった。
 幼い頃、溺れかけた海の深みから見た光の色、それは手が届きそうで届かない、摑みかけると姿を変えてすり抜けていく揺らぎのようだった。
 同居人の数多いる恋人たちは皆、その光を何とかして摑みたいと願っているだろう。

 同居人の恋人が本当は何人いるのか真はよく知らない。
 このマンションの上の階に住んでいるブティックを経営している美人はその一人だが、真が顔も名前も知っている相手は彼女くらいだった。
 真と同居してからこの男が恋人たちにどのくらいの時間を割いてやっているのか、それを考えると真は彼女たちに恨まれているかもしれないと思う時がある。

「遠くには行かない、そのつもりだ」
 そう言われてしまうと、やはりそれ以上は聞けなかった。
「深雪さんに頼んで一緒にいてもらうか」
 期間が長いことを気にしたのか、同居人はさらにそう続けた。

 真は、突然降って湧いたような名前の意味をぼんやりと考えた。
 真の方から話したことはないが、この男が真の生活の一部始終を摑んでいたとしても、特別驚くことはない。だから、その女の名前が出ても真は不思議にも思わなかったが、腹の奥のどこかで何かが奇妙な重みを増した気がした。
 それは単純に、真がここ何年かベッドを共にしている唯一の女の名前だったからなのかもしれない。

「余計なお世話だ」
「美和ちゃんにも言っといてやるよ。尤も、どっちも他人の女だ。気をつけたほうがいいぞ」
 最後のほうは、この男らしい冗談を含んだ小気味いい調子だった。
 真はやっと会話のペースが彼らしくなったことにほっとして、あるいは自分が触れてはいけない不機嫌のスイッチを押さなかったことに安堵して、会話を繋いだ。

「人のこと言うより、自分の心配をしたら」
「俺はお前と違って、ちゃんと限度を知っているし、幸い逃げ足も速い。女たちも俺に要求してはならないことや、要求しても仕方のないことを弁えている。お前はその辺、器用とは言いがたいからな、俺のいない間に痴情の縺れで刺されたりするなよ」
 同居人はいつもの茶目っ気のある口調になっていたが、真は咽元で引っかかっている何かがどうしても取れずに気になり、また同居人の顔をちらりと見た。
 その瞬間、あまりにも綺麗な顔でこちらを見ている同居人と予想外に視線が合って、真は思わず頭の隅にあった常套句を口に出していた。
「そっちこそ、人の心配してないで無事に帰って来いよ」
 真が珍しく優しいことを言ったので、結局それが仇になってしまった。

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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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☂[5] 第1章 同居人の留守 (5)(改) 

 次の朝、真が調査事務所に着くと、既に秘書の女の子が鍵を開けていて、居ついているヤクザ志望の大男が掃除をしていた。

 この二年ほどの間に、相川真という名前は新宿ではちょっとばかり知られた名前になっていた。
 相川調査事務所というのが、堅気ではない北条グループの持つビルの一室に設けられていることもあるが、その所長がよくあるような元警察関係者でもなく、まだ二十七の若い男であること、そのバックについているのが、有名な企業の顧問弁護士をいくつか兼任している、しかし実際には少年事件でその高名を世間に知らしめている名瀬弁護士であるということ、この職業にありがちないかにも胡散臭い気配もなく、ちょっと印象的な外見を持っていて、ある筋では有名な男と同居しているということが、この若者の名前をこの町の中で一気に押し上げてしまった。

 調査事務所とは言え、最近では不良少年少女の駆け込み寺的存在にすらなりつつある。
 以前、真が勤めていた唐沢調査事務所は、所長が保険金詐欺を働いて閉鎖されたが、そこでも未成年の家出は真の担当だった。
 名瀬のような立派な経歴の弁護士に、唐沢のような怪しい男の知り合いがいることを未だに真は理解できないでいるのだが、唐沢が逮捕されてからも名瀬は真を重宝してくれていた。独立してからも、名瀬の手伝いで少年事件の下調査を続けていて、いつの間にかこの調査事務所の売りが未成年の家出調査ということになってしまい、気が付けば関わった子供や親たちのクチコミでそういう世間的な存在の意味が出来上がってしまった。
 勿論、今では未成年に限らず成人の失踪人調査の依頼も多いし、時には何を間違ってかペットの行方不明まで扱うこともある。しかも、大きな声では言えないが、実は動物関係はかなり得意でもある。人間の顔が一人一人異なるように、真には猫の顔も犬の顔も全て異なって見えるのだが、何より本来野生の生物がこの東京という都会の中で、本能的にどういう行動をとるのかということを、真自身が身を持って知っているからかもしれない。

 実際には、相川真はこんな仕事に向いている屈強で我慢強く逞しい男ではなかった。
 明らかに異国の血が混じっていると分かる外見、よく見ると真っ黒ではない髪と、左右の色が異なっている目は、月並みなことだが、物心ついた頃には苛めの対象になっていた。大柄でもなく、一見では強そうにも見えなかったことは、その状況を悪化させることになった。事情があって両親に育ててもらえなかったことが、さらに気持ちを卑屈にさせる結果になり、子どもの頃に育った北海道を出て伯父の住む東京に来てからは、微妙な方言のイントネーションが少年時代の真を苦しめた。

 様々の成り行きが真をこの仕事に就けさせたが、本人はこれを望んでいたわけではなかった。大学生の時にはロケットを飛ばすエネルギーの研究をしていて、もしも大学を辞める状況に追い込まれなければ、研究職という、有難くも他人とあまり口を利かなくて済む職業に就いていたはずだった。
 だが紆余曲折した人生は、時には思わぬところで役に立つ事がある。
 卑屈になっていた少年時代のお蔭で、苦しむ少年少女の気持ちには敏感にならざるを得ず、とはいえ慰めることは全くできないのだがそれがかえって彼らには居心地がいいらしい。
 その上、他人を肩書きや職業や学歴で判断できなくなってしまっていて、やむを得ず身に付いた平等感覚が、多様な立場の人間の気に障らない彼という人間を作り上げてきた。今の仕事はそういう感覚がプラスに働いている。
 もっとも、この真の感覚を、馬、犬、人間という程度の区別しかついていないと、同居人はからかう。確かに、人間の顔の区別がつくように、個々の犬や馬の顔の区別も難なくつけることができる真にとっては、平等という感覚が他人とは違う次元で成立しているのかもしれない。

 それに、申し訳ないが、もとヤクザか刑事かというほどに胡散臭い顔つきの同業者たちの中で、いくらかでも堅気の人間が取っ付きやすい年齢と顔つきであることは、一見ではこの手の仕事をしている人間には見えないし、仕事を依頼してもらいやすいという、ありがたい側面を生んでくれる。
 都会に身寄りのない地方出身の大学院生に間違えられることも多かったし、やや年かさの人間の保護本能をくすぐるには、この外見は大いに役立ってくれた。たまにふと、わざと北の国のイントネーションを絡ませている自分に気が付くと、真は随分阿漕になったと我ながら感心することもあった。

 そのお蔭か、決して大手でもない真の事務所は、何故か情報網の豊かさでは何処にも負けていない伝を幾つか持っている。もちろん、真の怪しい『師匠』唐沢正彰のネットワークはそのまま使わせてもらえることもあるのだが、それはかなり危険な方面の伝であって、何より市井の人間の伝という点では、真も、共同経営者の女の子も、世間知らずの田舎者の媚を振り撒いては、怖いくらいに相手の同情心と人情を煽るという技を、知らず知らずに使えるまでになっていた。

 新宿の東口を出た歌舞伎町の一角にある四階建てのビルは、表向きは不動産業だが昔気質のいわゆる任侠一家の北条グループの持ち物で、数年前の風俗店一斉ガサ入れまでは多少怪しい店が入っていたが、その後は一応まともそうに見える事務所や店舗が入っていた。

 一階は薬屋で、その奥に小さな診療所がある。主に漢方を扱っている薬局だが、この界隈の人間が利用する理由は、精力をつけてくれる類の薬やら道具を売っているからだった。店主は小太りの中国人で、真にもしばしば薬を勧めてくれる。買い求めたことはないが、無理矢理押し付けられたことはあり、どんなものかと一度だけ試してみたことはあるが、効果を実感できたという気はしていない。診療所のほうはいわゆる性病を診てくれる病院のようだが、割と流行っていることは出入りする人間の数からも想像できる。

 二階には真が使っている事務所と、隣にはどういう客層を狙っているのか分からない旅行会社がある。尤も、かなり格安のチケットを扱っていることと、ツアーの行き先が辺境地というあたりも手伝ってか、特異な格好をした若者がやってくるし、たまには青年海外協力隊のような特殊な任務を背負った団体の利用もあるようで、この二階への階段を上って来る客はこの界隈の一般的な基準からはまともな方かもしれない。
 三階は事務所と住居が一緒になったような造りになっているが店は入っておらず、四階はカラオケバーになっていた。

 ビル自体の入り口は人通りの多い表通りに面していて、それほど陰湿なムードは感じられないが、初めて訪れた客が上るには多少の勇気と覚悟が必要には違いない階段を上ると、事務所の扉の前で大柄な男が廊下を掃いていた。

「お早うごぜえやす」
 身体も顔も厳つく大きいが、気の小さいこの男は宝田三郎という名前で、大阪の出身だった。
 身体つきは、仕事を失って筋肉が贅肉に変わり始めたプロレスラー、といったところで、子どもの頃どぶに落ちて切ったという顎の傷が、後の処置が悪かったのか随分と目立って取り残されている。これが宝田を厳つく見せていて、すれ違う人はまず彼と目を合わせないようにするはずだが、よくよく見ると小動物のような可愛らしい目をしている。北条の若旦那のところに弟子入りを希望したが、性格が向かないと言って一蹴された。天涯孤独で行き場がなく困っているのを、真の事務所に紹介された次第で、北条の若旦那に恩義を感じ、真のことは先生、先生と言って尊敬してくれている。

 宝田はその尊敬の気持ちを表すべく、毎朝頼みもしないのに事務所をぴかぴかに研き上げる。宝田が育った施設は、お世辞にも愛情深く子どもたちを育てているという環境ではなく、そこで彼はいつも掃除をさせられていたらしい。お蔭で、古い新宿のビルにも関わらず、事務所は清潔で比較的居心地も悪くない。

「先生、おはよ」
 真が事務所に入るなり、奥の炊事場から元気な声が聞こえた。
 砕けた調子で挨拶をする『秘書』の柏木美和は、北条の若旦那の恋人だった。とは言え、本人は大学でジャーナリズムを勉強している写真家志望の一見普通の立派な女子大生で、あまりちゃんと聞いたことはないが、いい家のお嬢さんのようだった。それが任侠の男と付き合っていて家族問題になっていないのは、彼女の出身地が山口県というかなり地方であるお蔭だった。

 ちなみに『秘書』と本人は譲らないが、真にとっては実際は共同経営者だった。彼女なりの美意識の中で、『秘書』というのがハードボイルド的に格好いいということらしい。もっとも、探偵小説の登場人物ではないのに、ハードボイルドを求める理由はよく分からない。
 普通の女子大生よりはお洒落に気を使っている気配はないし、どちらかというと童顔なので高校生と言われても通用しそうだが、口だけは年上の人間を完全に言い負かしてしまう。だが、田舎ののんびりした金持ちのお嬢さんという出身によるものなのか屈託がなく、口だけは江戸っ子並みのきっぷの良さだが、嫌味がない。

 宝田も美和も推理小説の読みすぎだった。所長のことは『先生』と呼ぶのが格好いいと思っている。ただし、宝田が読むことができるのは、少年少女向け江戸川乱歩シリーズくらいだろう。
「雑誌、見ました?」
「雑誌?」
 美和はタイミングよく淹れたコーヒーを運んできて、大きめの窓の前のデスクに座りかけた真の前にコーヒーを置いた。
 デスクの上に美和が持ってきたらしい雑誌があって、真は表紙を見た途端、勘弁してくれ、と思った。
「ほんと、大家さんってモデルにしてもいいくらい男前よね」
 と言うのか、半分裏社会に首を突っ込んでいるような男が、こんなに堂々と全国誌の表紙を飾っていていいのか、と思った。

 雑誌は砕けた切り口が売り物の経済誌で、社会の上層の男たちが身に付けるべき教養や服装にまで言及している。その上、一流の女性の読者層も狙っていて、特集でしばしば一流の世界で成功している人物が取り上げられる。女性にも、というのは、その特集の人物が大概年寄りではなく若手で、しかも圧倒的に独身の男が取り上げられているのだ。この手の教養誌にしては発行部数も多く世間への浸透率も高い。切り口は砕けているが、奥行きが深いというのも、この雑誌の発行部数を伸ばしている理由のひとつだった。

 雑誌の表紙には、銀座の有名ギャラリーおよびレストランのオーナー、稀代の修復師『大和竹流(36) 』と、彼の胡散臭い日本名がでかでかと掲載されていた。

 知り合ってから十五年以上もたって、しかもこんな雑誌の表紙で、今更だが同居人の年齢を知った。自分よりも随分年上だとは思っていたが、大体そんな単純なことさえ知らなかったと思うと情けない気分になってくる。誕生日は四月だと聞いたことがあるが、何日かさえ知らないし、祝ってくれと言われたこともない。

「それ、アイドルの雑誌なみに売れてるみたいですよ」
 美和は楽しそうに話しかけてくる。もっとも、彼女はいつだって楽しそうだ。
「そんな雑誌が売り切れになるほど売れるなんて、普通はないでしょ。表紙だけでも買っていく女性がいっぱいいるんだって、本屋の人が言ってましたよ。最後の一冊だったんだもの」
 美和は栗色の瞳を思い切り楽しそうに輝かせて続けた。
「インタビューを読んで、先生、怒らないほうがいいですよ」
「怒る?」
 美和は御丁寧に雑誌を開いてくれた。


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☂[6] 第1章 同居人の留守 (6)(改) 

 レストランのオーナーとしての材料の選択、それを任すべき人材の選択、またユニークな料金システムから始まるインタビューの内容は、確かに新しい試みと彼の人を見る能力が存分に散りばめられたものだった。

 レストランは、上層階には上品で料金も半端ではない店が入っていて、その下の階にかなりカジュアルな店を入れていた。
 このカジュアルな店の方が大人気で、ただし予約は一切入れない、料金もその日の持ち合わせで、困れば予算を言えば適当に見繕ってくれる、しかし恐らくレストラン側が損をしているのではないかというほどの旨いものが食べられる、名前も洒落ていて『かまわぬ』という日本名だった。どこでどうしたのか歌舞伎の名門のご贔屓になっているらしい。

 上層階のレストランは、それこそドレスコードが要求されるようなところで、ただしあくまでも少人数のための静かな環境を大事にしていて、パーティーなどには開放されていない。おそらく、最高級の料理とワインを味わえるが、メニューはなく、客はただ、その日の気分と、どのイタリアの地方の料理を食べたいかという注文だけを聞かれるという。

 行列ができる、というような店ではないが、週末はまず予約がなければ入れないというし、平日でもほぼテーブルが埋まっている。カジュアルな店のほうは、まず連日満席で、遅めの時間を含めても余程運がよければ入れる程度、という話も聞く。

 これだけ人気がありながら、数ある二号店・三号店のオファーをことごとく断っている。曰く、自分の目と鼻と舌の届かないところに自分の店があるというのは、耐えられないということなのだ。大体が、自分が美味いと思うものを食べるために作ったレストランなのだから、自分が通えないところにあるのでは本末転倒ということらしい。
 可愛いお店、というわけですね。
 インタヴューアーの女性の台詞も気が利いていた。

 もっとも、本人が家で作る料理は基本的には和食で、ただし、レストランで和食を提供することはない。それは分を弁えているということなのかもしれないが、その代わり有名無名を問わずやたらと日本料理店には出入りしていて、料理人とも随分親しくしているようだった。
 とある一流の料理人がこの男の舌を唸らせたら自信を持てる、とまで言ったらしい。

 雑誌の記事には、ハリウッドスター並みの容姿を存分に見せびらかすような写真が何枚も添えられていた。
 あの青灰色の瞳を、その色合いや内に籠められた光をどうしてここまで上手くカメラが捕らえたのかと思う写真ばかりだ。
 これまで何度もインタビューを依頼してきたが、ようやく受けてもらえた、というコメントがついていた。カメラマンは久しぶりに腕が鳴るほどの被写体に出会って気合が入ったことだろう。
 何より、記事を企画した編集者は、この号を売る方法を十分に心得ていたと思えた。

 何故か会員制のクラブの話題には一切触れず、話題はギャラリーの事に代わり、そこからインタビューの内容にも熱が入ってくる。
 ギャラリーは物を売っているだけではなく、バブルに向かって俄か金持ちが増えている日本で、本物の芸術の国からやってきた本物の目を持つ男が、洗練された生活の中で持つべきあらゆる貴重品・芸術品のコーディネートをしてくれる、つまり芸術コンサルタントとも言うべき仕事について書かれていた。

 具体的に同居人の仕事がそういうものなのかどうか、真には心当たりもない。
 実際、企業や有名会社の社長がこの男に芸術財産の管理を依頼したという話もあり、あるいは華族や没落した会社の関係者、もしくは神社や寺が、美術品の整理を頼んだというようなことは聞いたことがあったので、そういう意味合いなのかもしれない。

「でも、自分の本当の仕事は地味な修復師だって、何かかっこよすぎますよね」
 だがそれは本当かも知れないと思った。
 これは地道で科学的で冷静な判断能力を必要とする仕事で、一切自分を出さない仕事だと書かれている通り、同居人がその仕事に傾けている情熱と時間と、そして何よりもこの派手な外見の男が、文字通り寝食忘れて没頭している様を見ている真には、彼のその仕事へのエネルギーと作家たちへの尊敬の気持ちが、時に湧き立っているように思えることがあった。

 だが、問題はそんなことではない。あの男の本当の顔はもっと別だと真は知っていた。
「でも、注目すべきは男も女も惚れる男のプライベートって小見出しの先ですよ。先生、怒っちゃだめよ」
 美和は真の視線の先を追いかけて、解説を挟んできた。言われた時には真の目は既にその先を読み始めていた。

@ ところで、そんな大和さんの私生活は、どうなんでしょう。
$ それは、恋人のことですか。
@ もちろん、それも含めて。指輪を左の薬指にしていらっしゃいますが、御結婚されているわけではないんですね。
$ これは家の紋章です。結婚もある種の契約とすれば、それに近いものはあるかもしれません。
@ では、いずれイタリアに戻られるのですか。
$ いいえ、そのつもりはありません。日本は私にとってもう既に故郷のようなものですから。
@ 日本にお住まいになってから二十年ですよね。ちなみに、お住まいは都内のマンションとお伺いしていますが。
$ ええ。他に多摩に屋敷が、あとは仕事柄、京都にも家があります。
@ 恋人のことを伺ってもよろしいですか。
$ もちろん。
@ 噂では、恋人はお一人ではないとも。
$ 付き合いの深さは色々ですが、どの女性も平等に愛していますよ。
@ 世の男性が聞いたら怒りそうですね。
$ 女性との時間は、仕事の疲れと緊張を癒してくれる大切な時間です。彼女たちとの会話もそれ以外の行為も、仕事のインスピレーションを高めるのには欠かせないものです。それに、こちらがそのつもりでなくても、時にはとんでもなく危ない目に遭うこともありますからね、安らかな気持ちにさせてくれる女性の存在はどうしても必要なのです。
@ 御結婚への願望は。
$ ありませんね。というよりも、私のような男と結婚する女性は不幸でしょう。
@ では、恋人が他の人と結婚したら、どう思われますか。
$ それは止むを得ませんね。その人の幸せを願うしかありません。
@ もう一つ、気になる噂を聞いています。お聞きしていいものかどうか迷うところですが、男の方の恋人もいらっしゃるとか。
$ それはなかなかユニークな噂ですね。確かに、同居人は男ですが。
@ 今お伺いしようとしていたところですが、同居人がいらっしゃるというのは本当なのですね。しかも、それはかなり有名な話とも伺っています。本当に恋人なのですか。
$ ご想像にお任せします。そうでないとしても、彼は私にとっては全ての女性の恋人と比べても、勝るとも劣らない存在なので、噂にも一片の真実があるのかもしれませんね。
@ どういう方なのか、気になりますね。
$ 愛しているのかと聞かれたら、その通りだと答えます。尤も、恋人であるかどうか、つまり肌を合わせる相手であるかどうかというのは、また別のことです。しかし、一緒に住んでいる最大の理由は、彼が私の恩人の息子であることと、放っておくと食事も一人でできないので私が料理を作っているからです。
@ お料理の腕も半端ではないと伺っていますが、それは本当なのですね。
$ それについては自信を持ってイエス、ですね。もちろん、うちのシェフには敵いませんが。
@ そんなお料理をいつも食べていらっしゃる同居人の方は羨ましいですね。二重の意味で、世の女性の羨望の的です。
$ このあたりで勘弁してください。これ以上余計なことを話すと彼に怒られそうなので。


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☂[7] 第1章 同居人の留守 (7)(改) 

 真は思わず雑誌を放り出した。
 あの野郎、と思った。その気持ちに追い討ちをかけるように、美和が言葉を掛けてくる。
「ちょっと調べたら簡単に先生に行き着きますね」

 何を考えているんだか、時々突拍子もない行動に出る。
 それでも、同居人が目立つ外見ほどにはパフォーマンスを好まない人間であることがこれまで救いだったのに、一体何を考えているのか。確かに去年の秋から何やら思いつめたような顔をしていることがあるし、考えてみれば、夜中にかかってくる電話の数が増えたのも事実だったが、それとこれは別だと思った。

 もちろん、その電話が彼の母国語で交わされていることからも、同居人の身辺で女関係以外の何か特別なことが起こっている可能性は否定できない。その電話を同居人が枕元の子機で取ることはないが、後半には、隣の部屋で眠っている真もびっくりするくらいの激しい調子になっていることが多い。

 彼の実家が彼の帰りを待っていることは分かっていた。彼がそこに帰りたがっていないことも知っていた。
 自分が生涯呼ぶことのない同居人の本当の名前を、真は心の中でさえ思うことができない。その名前はある意味で恐怖に近い感情を引き起こすことがある。
 それは彼のいない左隣が引き起こす感情と全く同じだった。

 その日は外に出る気も起こらなかったが、幸い新しい仕事が舞い込む気配もなかった。

 とは言え、仕事にならない来客の多い一日だった。
「真ちゃん、最近顔を見せてくれないから、来ちゃったわ」
 といいながら疲れた顔に、目だけは異様に楽しげな気配を漂わせて、歌舞伎町の某ショーパブの人気者が顔を出したのは、真がコーヒーを飲み終えて間もなくだった。
 彼女はさんざん美和とおしゃべりをして、結局小一時間で帰ったが、何をしに来たのか全くわからなかった。

 美和の不思議なところは、水商売の女性たちにもあまり嫌われることがなく、会話にも簡単についていってしまう、それもただ屈託のない世間知らずのお嬢さん、という感じではなく、本当に明日からその手の店で働く気でもあるのではないかと思われるくらいの興味津々の顔で会話に参加していることだった。

 その後で、朝方まで開いているバーのバーテンが、コーヒーを飲みにやって来た。
 美和は、うちは喫茶店じゃないんですけどね、と言いながらもちゃんと美味いコーヒーを振舞う。
 この男は青森の出身で、ここに顔を出す連中の中では珍しいことに、真の探偵業とは何の関係もない知り合いだった。つまり、真は高校生のときから祖母の奏重が民謡酒場で唄う時に三味線伴奏に借り出されていたのだが、その酒場に客として出入りしていた男だ。
 彼は真に会うと、安心して津軽弁を話す。答える真はあくまでも標準語を繕うが、美和がいつも、どうして分かるの、と不思議そうに真を見る。その男も、今度またゆっくり飲みに来てくれと言って、半時間ほどで帰っていった。

 昼時には別の来客があった。
 この調査事務所を、バイト、というよりもほとんど趣味で手伝ってくれている主婦が幾人かいるのだが、彼女たちは尾行についてほとんど天才的ともいえる才能を示している。いかにも下町のお節介好きの買物中おばちゃん風から、旦那の帰りが遅いので昼間はぶらぶらとウィンドウショッピングやジョギングといったスポーツを楽しんでいる有閑マダム風から、真や美和では全く考えられない世間への溶け込み方を持っていた。
 彼女たちはまた、ほとんど娘か息子のように事務所の経営者を可愛がってくれているのだ。

 タッパーに詰めた肉じゃがに自家製漬物、炊き込みご飯などを持って、彼女たちはやって来た。
 お互いに面識があるのかどうか、複数の主婦に同時に仕事の手伝いを頼むことはなかったから、真も美和もよくわかっていなかったが、そこは主婦のネットワークを舐めてはいけないということなのだろう。

「うちの田舎から送ってもらった野菜なのよ」漬物を出しながら、有閑マダム風の都さんが言えば、「今朝、築地に行ってきたら、蛸が安かったのよ」と胡瓜と酢で和えた蛸を、吉祥寺に住むおせっかいな笙子さんが差し出した。
 さんざん喋った後で、笙子さんが言う。
「真ちゃん、あんまり水臭いのはなしにしてね」
「そうよ。困ったことがあったら、バイト料は要らないから私たちが手伝うわよ」

 都さんと、もう一人、かなり平凡な大人しい主婦の顔をした靖子さんも頷いている。
 靖子さんの肉じゃがは逸品で、靖子さん本人には会ったことはないものの肉じゃがだけは口にしたことのある竹流も、いつかは靖子さんに会って秘密を聞きたいと言っている。

 一体、自分が何を困るのかと真は思いながら、適当に相槌を打っておいた。

 後から振り返ってみれば、仕事帰りの水商売の連中や、昼間にやってきてお茶を飲んで帰った主婦にしても、つまりはあの雑誌の記事の話を探りにきたのだろう。しかも、真の性格を真以上に摑んでいる彼らは、直接聞けば真が何も喋らないことを知っていて、ただ真の顔を観察していたというわけだ。
 皆が、ある意味では真以上に探偵業に精通しているということかもしれない。
 

 夜になって真は身を隠すように事務所を出た。
 午後になって事務所にやってきた自称『弟子』の高遠賢二が、何か怪しい人影が外に、などと言うので、自意識過剰になったのかもしれない。
 それが必ずしも例の雑誌と関係しているわけではないだろうが、厄介ごとに巻き込まれるのは御免だった。

 調査事務所といっても、少々面が割れても仕事に差し支えるほどでもなかったし、全国ネットのテレビに連日顔を出しているような有名人でもない限り、顔を覚えられて困るなどということはないはずだが、自分の外見が割と印象的なのを真は知っていた。
 本来ならこの手の仕事は目立たないほうがいいはずだが、実際には目立つことがそれほど害になることはなかった。むしろプラスに働くこともあったので、最近では気にしないようにしている。

 考えてみれば、調査事務所を始める前までは、この外見で得をしたことなど一度もない。子どもの頃から北海道のような田舎では真の外見は否応無しに目立って、幼稚園でも小学校でも同年代の子供からからかわれ苛められ除け者にされた。
 庇ってくれる親はいなかったが、祖父が時々我慢がならん、というように苛めた子供の家に怒鳴り込みに行った。当時は親戚一同で経営していた牧場の経営がそれほど悪くはなく村にも随分貢献してきていたので、祖父の朴訥な行動は何とか許容されていたが、それでも他の家族はそんな祖父を窘めた。

 小さい頃、鏡の中の自分を見ていると変な生き物のように思えた。それは目と髪の色だけの問題だったのに、怖くて鏡を割ったこともあった。近くに一人で住んでいたアイヌ人の老人だけは、真の髪についても目についても何も言わなかった。いや、むしろ褒めてくれさえした。

 きっとお前の目は、他人の目に見えないものを見、感じることができる。

 それがどう意味だったのかはともかく、お蔭でしっかり変なものが見えた。最初は民話に出てくる『蕗の下の人たち(コロボックル)』だった。
 そういうものが、少なくとも世間常識的には、本当は存在していないのだということは、随分大きくなるまで分からなかった。

 孤独だった子供は、次第に見えるはずのないものを見て感じるようになった。
 今でも時々、どこまでが現実か幻か分からなくなる事がある。
 中学生のとき、逆にこの外見を利用してやろうと思ったことはあった。思えば随分と無茶をしたものだったが、お蔭で人が外見に惹かれ外見で他人を判断することがしっかりと認識できた。それはプラスにもマイナスにもなるが、あまり積極的にプラスにはなり得ない事も了解した。

 ただこの仕事を始めてからは、他人が自分を覚えてくれていることが助けになることも多々あった。ある意味名刺代わりだったのだ。
 勿論そのお蔭でかなり痛い目に遭ったこともある。しかし、その痛い目に遭ったことがきっかけで、今ではこの界隈で真につまらないちょっかいをかけてくる連中は随分と減った気もする。

 良いか悪いか、プラスかマイナスかは、人の心だけが決める。それはよくわかっているつもりだった。


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☂[8] 第1章 同居人の留守 (8)(改)(メロス論付?) 

 新宿駅の人混みには、ここに事務所を開いてから二年半たった今でも慣れない。
 吐き気や手足の先の痺れはあまり感じなくなったが、時々襲ってくる頭痛だけは始末におえなかった。かといって車で動くには不自由な町だ。

 新宿から有楽町まで電車に乗ってドアに凭れ、疲れた顔のサラリーマンたちや楽しげな若い女の子達のざわめきをぼんやりと眺めていると、いつものように自分がここにいる事に違和感を覚えた。

 時々、夢の中ばかりではなく現実であっても、天からの風を感じると、急に重力から放たれたような心地になる。そのまま、身体ごと北海道の雄大な緑の中に引き戻されるように感じながら、それを振り払ってここに存在している。
 この世界との関わりを重く感じる時間をやり過ごすために必要な存在が、今自分の向かっている先にある。そういう意味では女は必要な存在だった。

 ねえ、今月のプレデンシャル、見た?

 突然耳に飛び込んできたのは近くの女の子の高い声だった。
 そういう雑誌を絶対に見ない年代の女の子だ。真は、その言葉に何気なく吊広告を見上げ、不意に息を呑み込んだ。

 同居人の顔が映画スターさながらに広告の中で微笑んでいた。
 ハリウッドスターよりも遥かに品位のある顔立ちは、まさに作り物や後付のものではなく、彼の血の中に何世代にもわたって積み重ねられてきた遺伝子と環境によるものだった。
 程よくウェーヴのかかったくすんだ金の髪、青と灰色の混じった惹き込まれるような瞳の色、顔の造りには明らかに北欧系の血が感じられたが、皮膚の色には母方の血よりも僅かに父方の血が強く出ているようだ。スーツ姿の同居人の写真からは、女でなくとも惚れ惚れとするような品格と色気が滲み出ていて、その微笑には個人的に自分に向けられていると誰もが誤解しそうな親しみが込められている。
 彼に見つめられると、自分が世界の中心にいるような心地がする、と言っていた女がいたが、まさにその目が、吊広告から人々を見下ろしている。

 直視できないと思った。

 同居人には複数の女性がいて、沢山のパトロンや協力者や友人がいて、彼に才能を認められた仕事仲間がいて、それでも真は自分がその中で特別な存在であることを、どこかで小気味よく感じていることは否定できなかった。
 自分だけに向けられているわけではないことを知ってはいるが、その穏やかで優しげな微笑をこんな吊広告に晒して欲しいとは思えない。そう考えると、何やら腹が立ってきて落ち着けない気持ちになった。

 早く女を抱きたいと思った。

 行きつけている銀座のクラブは、この界隈の規模からすると随分と小さな空間だったが、古い馴染みの客も多く、客層は上品なほうだった。ほとんどの客は町や店のルールを弁えていて、余計なことを口外してはならないことを知っている。その店のママがある有名代議士の贔屓であることも皆が心得ていた。

 その店は先代のママの時代から、あまり派手な宣伝もパフォーマンスも好まなかったが、客足の途絶えることはなかった。ママが代わってからもそのムードは受け継がれたが、時代が変わったせいか、この頃は多少あからさまな物欲しげな視線をママに送る客もいる。俄かに金を握った連中だった。ママがこういった連中を客として入れているのは、彼女や彼女のパトロンが知りたい情報を得られる可能性が高いからかもしれない。

 勿論、そういう事が無ければ真が彼女の店に出入りするチャンスもなかった。
 真が彼女に会ったのはある失踪人調査の仕事がきっかけだったが、その件が落着した後も彼女との関係を切れなかった。仕事に協力してくれた彼女に礼を言いに行った日、誘われてそのままホテルに行ったのが最初だった。

 ベッドを共にした女の数からすれば、真も少ないほうではなかった。
 とは言え、ちゃんと付き合ったと多少なりとも自信を持って言えるのは、高校生のときから五年間付き合った年上の同級生だけだった。
 それにしても、真のほうはちゃんと付き合っていたつもりだったが、彼女がどう思っていたかについては、振り返ってみればかなり微妙な点もある。

 彼女と別れた後暫くの間は、引きずっていた初恋の火が燻っていて、自分の感情に始末をつけるのに時間を必要とした。それがはっきりと吹っ切れたのは、その初恋の相手である妹の葉子が、真の友人の富山享志と結婚したときだった。
 妹といっても実際には血の繋がりはあっても多少希薄で、葉子は従妹であり、父親同士は腹違いの兄弟だった。
 もっとも葉子との関係にはキスのひとつも介在しなかった。ただ一度、二人きりで流星を見にドライブに行った秩父の山奥で、葉子の手を握りたいと強く願った瞬間があった。
 もしもあの時、あの数センチが何かの間違いで物理的に消えてしまっていたら、多分その場でキスをして告白していたかもしれなかった。彼女の方でも自分に想いを寄せてくれていることには半分程度の確信があった。

 だが、その数センチは永遠に埋めることのできない数センチになった。
 その距離が何だったのか、今でもはっきりとは言えなかった。
 妹に一目惚れをして北海道から出てきたと言われても否定はできない。あの夏の日、白いワンピースのスカートの裾を牧場の風になびかせて、飛んでいこうとする麦藁帽子に手を伸ばした少女は、まさに天から降ってきた姫君だった。あれからずっと、兄としても恋をした男としても、自分は彼女の騎士だと思ってきた。

 だから、高校生のときから付き合っていた篁美沙子が別れるときに言った言葉は、葉子を指しているのだと思っていた。

 あなたが未来を共有したい相手は私じゃない、と。

 しかし、真の腹の深いところでは、それが葉子ではないかもしれないという気持ちが燻っていた。
 それがあの永遠に埋めることのできない数センチだったのだろうか。
 葉子にはいつでも自分の良い側面だけを見せていたかったし、だからこそ、そこに性的な衝動をかぶせることは侵しがたい悪徳であるような気がしていたのかもしれないが、本当にそれだけだったのか、自分でも確信がなかった。

 その頃、始めはバイトで勤め、その後はボーナスのない出来高制の正社員として働いていた唐沢調査事務所の胡散臭い所長にけしかけられて、真にしてみれば随分多くの女性とベッドを共にした。
 一度きりの女性もいたし、何度か会った女性もいた。そういった女性の一人一人を具体的には思い出せない。他の女性とベッドを共にしている時に、何かの癖が似ていたりして不意に思い出すことはあっても、顔や名前まで記憶に留めているわけではない。

 それは今この電車の中ですれ違うばかりの女たちと、大して変わるわけではなかった。ベッドを共にして身体の距離がゼロになるまで近づいた相手なのに、思い出せないような希薄な感情しか残っていない。

 そういう意味では、最後に恋をした小松崎りぃさは稀有な存在だった。付き合ったという感覚はないが、恋をしたとは思っているし、そう思いたいと願っていた。傍からは身代を持ち崩した大店の若旦那のようだと思われていたらしいが、のめり込んだのは事実だった。

 りぃさは親友の従姉で、出会ったのは妹の結婚式だった。あの日自分の感情に火をつけたのが妹の花嫁姿だったのか、それとも別の何かだったのか、今は記憶を明確にしたくないと思っている。

 確かに何かを感じていたはずの自分の心を記憶から締め出したのは、りぃさが自殺したと知った時に感じた空恐ろしい感情を、真は二度と味わいたくないと思っていたからだった。
 あんなにのめり込むように恋したのに、求めていた手は彼女の手ではなかったように思った。
 一緒に死んでもいいと心から思っていたのに、愛していたのかと言われると答えられない。

 りぃさが死んだと分かったとき、どこかに安堵している自分がいた。
 他人の死を願い安堵したのは二度目だった。三度も味わいたくない感情だった。

 だから、その後しばらくは女性とベッドを共にするようなことは避けていたが、健康な二十代の男がそのままで済まされるわけがなかった。
 自分で処理をしようと思っても、同居人と同じベッドではそれもできなかった。

 その状況でこのクラブのママの存在は有難かった。相手はそういう意味ではプロだと思えたし、恋愛という面倒なプロセスを踏まなくてもよかった。
 偉そうに言うほど女性を断っていた期間が長かったわけではない。彼女たちとの行為が、この世界で生きていくためには必要だと、ママと寝ているときにはっきりと感じている。

 それが本当に求めている行為でなくても、だ。






こうしてみると、結構遊んでいるように見える真ですが、結局本当に掴みたい手がが誰の手だったか、ということなんですね。
恋愛、というよりも、これは魂の結びつきの話。
だから4代先でもいいから結ばれたかったんです。
彼らも、私も。

…以下、追記です。

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☂[9] 第1章 同居人の留守 (9)(改)18禁? 

注:大したことはありませんが、一応18禁でお願いします。


「真ちゃん、今日は機嫌が悪いのかと思ったわ」
 ママの名前は深雪と言ったが、本名かどうか分からなかった。年齢も聞いたことがないが、肌の張り具合からは三十を越えたあたりなのだろうか。

 週末ではなかったが店にはそこそこの客が入っていて、テーブルはほとんど埋まっていた。
 カウンターには五人が座れるようになっていて、テーブル席は、座ると肩より幾分か低いだけの仕切りで三つの区画に分けられいた。カウンターには真の他に一人、髪に白いものが混じり始めた年配の上品な男性が座っている。
 ほんのりと赤みを帯びた照明は、こじんまりとした空間を穏やかに包み込むように見せながら、その半面毒を振りまくような気配を併せ持っている。この気配が男たちに心の奥の本音を吐き出させる。それを心地よく思って男はここに通い、女はそれを包み込む。

 店には五人ほど女の子がいて、交替で二人、あるいは三人が詰めている。それなりに美人で上品な女の子ばかりで、他の店ほどには年齢は若くないようだ。だが、会話をしてみると頭のいい女性ばかりだとわかる。彼女たちはテーブルをそれぞれ世話していて、忙しいはずだがそのような素振りも見せない。

 それでも、ちらちらと彼女たちが真を気にしているのが分かる。
 この店に来る客の中で真は極めて若い。大体、ここに通うほどの金をつぎ込める若い男はそれほど多くはない。真もあまり金を持っていそうにはないことを、彼女たちは嗅ぎ分けている。だから真がここに来ることができるのは、ママのお気に入りだからということも知っているはずだった。

 それでも、若いというだけでも真が彼女たちにとって魅力的な男であることは違いなかったろうし、真にもその自覚があった。どこか野生的な気配のある視線、明らかに異国人の血が混じっていると分かる髪と瞳の色、物欲しげに通っているはずなのに、ベッドの上以外ではクールで女を欲しがっているとは思えない態度が、男を値踏みし慣れた女たちにも好意をもって迎えられているようだった。
 勿論、真がママの男でさえなければ、だ。

 真がママの男であることを、皆が思っていても店の中で口に出すことはなかった。ママのパトロンだという噂の代議士のことも同様だった。
「雑誌のことか?」
「そうね」
「今日はどこに行ってもその話から逃げられない」

 上品な薄紫の着物を装った深雪は、真の前に薄めのウィスキーを作って出した。
 深雪は真がここに来るのは寝たいという合図だと知っていて、濃い酒を飲ませて男を使い物にならないようにすることはなかった。真がそんなには酒に強くないことを深雪は知っているはずだし、彼女のほうもベッドに入るときには真が一瞬で興奮するくらいに濡れているので、多分真が店のドアを開けた時点でその気になっていると思われた。
 今カウンターを間に挟んでいても、深雪の着物の裾の向こうの白く美しい脚の間が濡れていると思うと、自分の股間が熱く重くなってくるのを感じる。

 そういうカウンターの端のやり取りを、他の客が意味ありげに、そしていくらか敵意を持った視線で見つめていることを、時々露骨に感じる瞬間がある。
「本当に恋人じゃないの?」
「冗談だろう。知ってるくせに」
 もしも噂どおり同居している男が恋人なら、女を求めて街に出てくるわけがない。
「そうかしら」
 深雪は薄くて形のいい唇を優雅に動かして呟く。その唇が自分のものを咽の奥深くにまで咥えて、意外にも厚くて器用な舌で先を舐めてくれるのを今から待つ時間が、途方もなく長く感じる。

「大体、記事を読んで初めて知ったことがいくつもある。正確な年も知らなかったし、あいつの仕事の内容なんて、聞いてもまともに答えてもらったこともない」
 深雪はくすくすと笑った。
「ほら、そうやって愛情に飢えた子供みたいなことを」
 真はグラスを持った手を不意に強張らせた。
 深雪には時々何かを見透かされているような気持ちになる。もしかして篁美沙子が言っていたのは葉子のことではなかったのかもしれないと不意に思ったのも、抱き合っているときに深雪が言った何かの一言がきっかけだった。

 考えてみれば美沙子は、今思い出しても多感の塊だったような真の高校時代を共有していた相手だ。もしも深雪がたったこれだけの時間で真の心の内を見透かしたのだとしたら、美沙子があの頃の真の感情に気が付かなかったとは思えない。
 ここに来るのは、同居人が隣で眠っているので自分で自分を処理できないからではないのだろう。それを女たちは何と敏感に察知することか。

 カウンターに座っている別の男のグラスを気遣って、深雪が真の傍を離れた。真のグラスの琥珀が煌めきの位置を変える。何かをやり過ごすように目を伏せると、僅かな距離の中で交わされている会話の響きが、理解できない異国の言葉に変わっている。
 その時、我慢の限界かと思うほど自分のものが熱くなってきていることを感じた。それが、深雪が自分以外の男を気に掛けたからだと思いたかった。

 店がようやく看板の灯りを消したのは二時を廻った頃だった。
 他の客たちが真の存在を意識してわざと帰らないようにしているのではないかと思うほど、長い時間だった。女の子達が、珍しくまだ店を出ない真を気にしていたが、深雪は彼女たちに、後のことはいいから帰りなさいと声を掛けた。珍しく、というのは、大抵店の終わりかけにはママが真を外で待たせるか、先にいつものホテルへ行かせているからで、今日のように最後まで店の中で待たせることはなかった。

 深雪が看板の灯りを消してドアを閉めたとき、真はもう立ち上がっていた。
 強引に深雪の身体を引き寄せ唇を吸い、我慢ができないことを知らせるように自分のものへ彼女の手を導いた。そのまま一番傍のテーブル席のソファへ倒れこむように深雪を抑えつけると、着物の裾を割る。
 着物の下に深雪は下着をつけていなかった。それは彼女のほうも真を待っていた証拠だと思った。濡れている脚の間に手を入れた途端、スラックスの中で射精しそうになる。深雪は冷静とも見える表情で真のベルトに手を掛け、僅かな金属音をさせてそれを外した。
 金属音は湿った空気の中で角を落とされたように曇って、真の耳の奥でいつまでもごそごそと残っていた。

 深雪の細い指が絡みつくように真のものを下着の中から出して、やんわりと撫でるようにしたが、我慢を超えていた真は、構っていられなくてその手を払いのけ、既に真を迎え入れる準備ができているように湿った彼女の中へ自分自身を埋めた。
 足袋を履いたままの深雪の素足は、薄赤い照明の中で何時になく扇情的で、真はその両脚を抱えるようにして、そのまま彼女の一番深いところまで突いた。微かに深雪の顔が苦痛に歪んだように見えたが、直ぐにその唇から吐息が漏れ出し、絡みつく蛇のように腕が真の腰を抱き寄せる。こうしてただ挿入するだけで、身体の奥から湧き出すような快感が頭の中心にまで昇ってくる。深い海の底の圧力で身体中の細胞が歪められ、一番敏感な受容体の全てを弄っている。


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☂[10] 第1章 同居人の留守 (10)(改)18禁? 

注:やっぱりたいしたことはなのですが、一応18禁でお願いします。


 身体の相性からだけ言えば、これほどにいい女は他にいなかった。
 深雪の一番深いところに自分のものが当たるのを感じると、そのまま意識も身体も砕かれていくような心地がした。
 真が無理矢理に興奮したものを押し込むと、深雪は始めこそ苦しげな顔をするが、この女の内側は欠けたものを待っていたかのように真の形のままに変化し、緩やかに、やがて激しく真の身体から全てを吸い取ろうとするように締め付けてくる。
 その合わさった感じの堪らないほどの感覚は、他のどの女性とも分かち合ったことのないものだった。

 だから、そこに愛情があるのかといえば疑わしいが、身体は彼女との関係に極めて満足していることを分かっている。

 真が今日は随分と溜め込んでいてそれを全て彼女の中に出したことを、深雪はその締め付けた粘膜の内で感じただろうと思ったが、気恥ずかしい気分にもならなかった。
 そういう部分で、真は、自分が心の内ではやはり深雪の事を商売のために身体を使う女だと思っているのかもしれないと感じる。
 真が射精した後でも、深雪の内側の襞は、まだ足りないというように貪欲に真を締め付け、最後の一滴までも吸い取ろうとしていた。

 その足の間の生き物とは別物のように、赤い唇が冷めた声を吐き出す。
「続きはホテルに戻ってから」
 駄々っ子を窘めるように深雪が言った。

 ある意味これでもう満足だった。けれども今日は帰っても一人だと思うと、深雪の言うままにホテルに行く気になった。今夜だけは、誰もいない左隣を感じるのは御免だと思った。
 適当に身繕いをして、タクシーでいつものホテルに向かった。

 タクシーの中から見る東京の町の景色は、今が夜なのか、いや夜なのだが、実際に存在しない異質な時間帯に思えて、真の中の生物としての時計を狂わせている。深夜にも関わらず溢れている色とりどりのネオンや車のライトが、人間の脳を壊していっているのだろう。
 いつか祖父が、木に昼夜問わずライトを当てていると、その木は弱ってしまって花を咲かせないと言っていたことがある。

 北海道の牧場の深夜は穏やかな闇だった。だが、遠くで啼いている何か生き物の叫びにも、果てのない彼方の闇から吹き込んでくる風にも、一度も恐ろしいと思ったことはない。それはアイヌ人の老人がいつも子どもの目を静かに見つめて話してくれたからだ。
 完全な闇というものはない。草も木々も星明りを微かに跳ね返し、昼間の太陽の光を内に湛え、闇の中でも僅かな温度を放出している。お前を守るカムイたちの声も聞こえるはずだ、と。

 だが、この町は違う。これほどに光に満ち溢れているのに、ここは昼も夜も、真の神経の脆いところを知っていて叩きのめそうとする。
 東京に出てきてから自分は弱ってしまっているだろう。
 窓ガラスに映る影が、まさに真の今の姿そのものだった。頼りなく、儚い。周囲の闇や光の加減で、時々姿かたちは曖昧にかすれて消えてしまい、また現れるときには元の形を失っている時もある。

 今はある意味で充たされているはずだった。
 毎日とはいかなくても、その男が傍にいて、手を伸ばせば届くところに温もりがある。生命の根源を支える食物も精神を休める水も、その男の手から与えられる。あるいは、呼吸する空気でさえも与えられているように感じる。真の命も身体も、今は全てあの男の手が支えている。真の身体から温度が失われるような日は、いつでもあの男が自分の体温を分け与えるように暖めてくれる。
 少しの間出掛けると言われただけで、細胞のひとつひとつが、人間としての生命の形を保てない。
 なんと情けなく、馬鹿げた存在なのだろう。

 ガラスの中に浮かんだ自分自身の曖昧な感情を、見ていられなくなって目を閉じた。
 いつの間にか深雪の手が真の膝を撫でている。その手は膝から身体の中心へ優雅に滑ってくる。
 頭の中にある全ての思考を否定したくて、何かから逃れるように深雪を抱き寄せ、着物の袷から手を滑り込ませて直に乳房に触れると、深雪は唇を真の顔に寄せてきた。
 タクシーの運転手がバックミラーを気にしているのを感じたが、それをちらりと見て、滅多にないことなのに、逆にその気になった。

 一体何が不安なのだろう。
 時々見る夢の中で、自分自身が梟のカムイに変わってしまうことなのか。夜中に鳴る電話と、異国の言葉が持つ激しい残響のせいなのか。あるいは、あの男が、月が綺麗だと呟くからなのか。

 あからさまな欲情を隠しもせずに唇を吸い合って、真は深雪の脚を開かせてそのまま着物の裾の下を弄った。そういう行為を他人に見られていることの恥ずかしさよりも、今自分が感じている正体不明の孤独感を知られるほうが、恐ろしいように思った。

 タクシーの運転手はゆっくり走っていては身体に毒とでも思ったのか、さっさと客を目的地まで運んだ。
 深雪はいつものようにたっぷりとチップと上乗せした料金を払って、着物でも慣れた仕草で車を降りる。ホテルのベルボーイが彼女のためにタクシーのドアを持って、お帰りなさいませ、と声をかける。
 そのいつもの光景をドラマのシーンのように見つめて、真は黙って深雪についてホテルのエントランスに向かった。タクシーの中での行為にも関わらず、その時にはもう冷めた気分に包まれつつあった。

 どうやら深雪はこのホテルに半分住んでいるような感じで、真も金を払ったことがない。
 もっとも深雪も、自分が部屋代を払っているわけではないと言っていたので、彼女のパトロンが出しているのかも知れなった。それが本当なら、真がここで彼女と情事を重ねていることは困ったことを引き起こさないのかと思う。割と上品で大きなシティホテルだし、部屋も二間続きのセミスィートのようで、安い値段とは思えない。

「お先にシャワーをどうぞ」
 深雪は真をシャワールームに追いやって、彼女自身はその間に着物を脱ごうとしていたようだった。

 重く湿った心を抱えたまま一人シャワーを浴びている時、真は意外にもまた欲情してくるのを感じた。
 俺はどうしたんだろうと思った。
 そして、急に自分の手でそれを慰めたい気分になった。外に女が待っているのにどうなってしまったのか分からないまま、自分のものに手を触れた瞬間、高校生の時以来滅多に味わうこともなかった、痛みとも快感ともつかないものに襲い掛かられて、何度か手で扱いただけで簡単に昇り詰めてしまった。

 射精した瞬間、自分の五感に触れていったものに震えた。
 大和邸の主人の寝室の大きなベッドに広げられたサテンのシーツの手触り、不思議な媚薬のような油絵具の匂い、肌に触れていた冷たい銀の指輪の感触、自分を見つめている深い青灰色の瞳、舌の先に吸いつく甘い唇の熱さ、時々耳元に囁かれる異国の音楽のような暖かい言葉、そういったものが遠い昔のことのはずなのに、一瞬にこの身の上に蘇った。

「真ちゃん?」
 妙な記事を読んだせいだと思ったし、吊広告のせいだとも思った。あんな表情でなく、もっと特別な個人的な表情を自分は知っていると思いたかったのだろうか。それを思い出すことで、正体不明の孤独感から逃れられると信じていたからだろうか。
 シャワーから出てベッドに入った後、何を察したのか、深雪は何も求めず真を抱き締めてくれていた。


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☂[11] 第1章 同居人の留守 (11)(改)(冒頭とは) 

*パパ(竹流)が留守にしているのでちょっとイライラしている?真。
しかしそのころ竹流は……(竹流視点に替わります)
もともとこの小説の冒頭は、このシーンでした。
したがって、今から読んでやろう!という人はここから読んでいただいても、差し支えありません(^^)



 くぐもった音がまたひとつ、頭の上を掠めていった。
 その音は既にいくつ続いたのか分からなくなっていた。
 何の音だろうと考える頭はもうなかった。銃声のようにも聞こえる。

 相手の人数も動きも読んでいたのに、どこからか意識が自分のいる世界から滑り落ちてしまい、今はただ何とか足の裏につく地面の感覚をせめて失わないようにと思うのが精一杯だった。
 誰か知った声が彼の名を呼んだようだった。
 しかし、それは頭の襞の間をすり抜けて、何の像も記憶の回路の中に結ばなかった。

 俺としたことが何という失態だろう。

 命からがら、などという場面はこれまでにも何度もあったが、それは堪らないスリルと快感と、それを乗り越える楽しみを与えてくれただけで、本当に死んでしまうかもしれないと思ったことはない。

 いや、俺はどこかで何かのきっかけを捜していたのか。
 死んでしまうかもしれないと思えるほどの刺激を、あるいは自分の何かが完全に変わってしまえるほどの何かを。

 去年の秋、即位したばかりのローマ教皇が一ヶ月の在位で亡くなり、彼、ジョルジョ・ヴォルテラが生まれた時の教皇から数えて正確には四代目の教皇が即位した。いや、この新しい教皇はそれを即位ではなく就任と言ったのだが、その人がポーランド人であると知った時から、彼はどこかで焦っていたのかもしれない。
 予言など信じてはいない。
 だが、子どもの時に誰かの心の中に植えつけられた迷信というものは、そんなはずはないと知った後でも、守らなくてはならない絶対のルールのように思える時があるのも事実だ。寝る前に神様にお祈りをしなかったら夢の中に悪魔が出てくる、靴下を穿いたまま寝たら怖い夢を見る、というような他愛のない迷信であっても。

 多分、お祈りをちゃんとしなかったんだな、彼は自分を嘲笑ってみた。こんな時に限って冷静になる自分が可笑しいと思った。
 それとももっと別の罪が彼をこの状況に追い込んだのかもしれない。
 首に手を掛けることもなく殺してしまった一人の男と、一人の女。
 それらの魂がこの千載一遇の機会に地獄から手を伸ばして、ついに彼の足を捕まえたのかもしれない。男は彼を呪うように、死の間際に彫っていた像に、殺人者の顔を写し取っていた。女は今も、彼が最も大事に思う人間の心の内に棲み付いて、時々その首を絞めようとしている。

 逃げることは屈辱だとも思わなかったし、真の祖父の長一郎がいつも言っていたように、かの織田信長も逃げ足は滅法速かったという。逃げるが勝ちという戦法は、彼自身最も好むやり方のひとつだった。
 だが、逃げている最中に意識が遠のいてくるなんてことは初めてだった。

 もっとも、朦朧としながらも身体は勝手に動いていた。
 だが、走っているのか歩いているのか、それほどのスピードさえ出ていないのか、本当のところは進んでいないのかさえわからない。既に夕方になっていたはずだが、この暗さは深い森が名残の太陽の光を遮っているからなのか、ただ時間の故に実際に闇になっていたからなのか、あるいは意識がまともでないからなのかも分からない。

 唯一感じるのは、肩から出血しているらしい拍動だけだった。
 このまま血を流していると本当に死んでしまうのかもしれない。

 誰かがもう一度、彼の名を呼んだ。それから、肩口の傷を何か布のようなもので気を失うほどにきつく縛った。部位が部位だけにそんなもので止血できるとも思わなかったが、その痛みで一瞬意識が鮮明になった。

「逃がし屋失格だな。だが、この真下は国道でトラックの抜け道だ。運がよければ助かる」
 話している相手が誰なのか、思い出せないような感覚に陥った。
「昂司」しかし、声のほうは意識よりも先に相手の名を呼んでいた。「ここから早く離れろ」
「馬鹿言え。お前を置いて逃げられるわけがない」
 腹が立つほどに寺崎昂司の声がスローモーションで聞こえていた。

「この下が国道なら何とか逃げられる。もう俺のことは心配するな。それよりも、あの子を助けてやってくれ。何とか彼女の父親の汚名も晴らしてやって欲しい」
 彼の声は彼自身の中ではスムーズに響いていたが、実際にはどの程度相手に聞こえていたのか定かではなかった。しかも、知らないうちに自分が地面に尻をついていることに気が付いた。

「お前を置いていくわけにはいかない」
 彼の言葉など完全に無視をするように、もう一度寺崎昂司が言った。
「俺のことよりも、お前は彼女に償ってやらなけりゃならない」
 その言葉は昂司の耳に届いたのかどうか、定かではなかった。

 もう相手の顔もろくに見えていなかった。暗いのは自分の視力が保たれていないからかもしれない。
 しかし、昂司の手が一瞬揺らいだのを感じることはできた。
 昂司は彼を立ち上がらせると、勢いをつけるように彼の背中を押した。そのお蔭か、足は自動のゼンマイを巻かれたように森の斜面を駆け下り始めた。
 だが実際には駆け下りるほどのスピードではなかったのかもしれない。
 人の気配も銃声のような音も、背中の遥か彼方へ遠のいて行くように思った。

 あの馬鹿、引き付けているのか。

 再び意識ははっきりしなくなってきた。身体に当たっているはずの木々の枝の鞭のような感触にも痛みさえ感じない。たまに身体ごと木にぶつかるので、その痛みがかろうじてあと何歩かを継いでいた。もつれたような足の感触はもうよく分からなかった。
 肩はずきずきと拍動を続けていた。血はどんどん流れ去って、心臓が空っぽのまま拍動しているような錯覚に陥る。

 彼の記憶はどこか一部が曖昧になっていた。
 曖昧にせざるを得なかった。
 右手には全く感覚がなく、一体それをどこに置き忘れてきたのか、思い出そうにも思い出せない、思い出したくないような気がしていた。
 昂司はどうして俺を助けに来てくれたのだろう、どうして俺を逃がしてくれたのだろうと思った。いや、それが大和竹流が頼りにしている逃がし屋としての彼の仕事だからだ。

 一人で何とか話をつけるつもりだった。
 相手に容赦も理屈もないことは感じていたが、三年半前に救ってやれなかった少女に対する後ろめたさが今も燻り続けていた。

 その少女の何に固執しているのか、自分でも分からなかった。
 真が付き合っている香野深雪という女の、過去に持っている深い傷を知ったとき、彼は真の手を離してやる時が来たのだと思った。真が自然に女と愛し合い、自然に家庭を作り、その場所にあの少女の居場所もあるようにさえ思った。
 真には、本人も気が付いていない、他人の傷を癒す力があると思っていた。それがあの傷ついた女と少女のためのものだと言ってしまっていけないということはないはずだった。

 そうでもしてくれないと、俺はお前を奈落の底へ引きずり落としてしまう。

 感覚のない右手からも痛みと血が零れ落ちていく。
 その痛みが蘇ると、彼は自分の心をまた抑えられなくなった。

 いや、あれはお前のものだ。お前があの日、定められた運命の歯車に乗って、手に入れたものだ。みすみす手放すことはない。奈落の底までつき合わせたらいいのだ。

 彼は迷いながら、既に下がり始めた血圧で全く回らない頭を最大限に回転させているうちに、だんだん何も考えられなくなった。仲間たちの怒りが目に見えるような気がした。一人で行くなといつも言われていたのに、つい己を過信してしまった。

 いや、そうではない、ただ信じたかったのだ。彼が、己の心の闇を閉じ込めたあの小さな地下の礼拝堂の鍵を預けた男を、ただ救いたかったのだ。

 あんたは甘すぎる、世の中の人間が最後は善意であんたを迎えてくれると思っている。あんたはやっぱりお坊ちゃんなんだよ。だから俺たちがいるんだ、絶対に一人で勝手なことをするな。

 葛城昇の声が聞こえてくるようだ。
 不意に、一ヶ月くらいだと言った瞬間の、頼りなげな真の顔を思い出した。

 まいったな。真のやつ、一人で食っていけるんだろうか。

 そもそも真を甘やかして、一人で飯を食うという当たり前の習性を奪い取ったのは彼だった。
 そう思った瞬間、やはり俺はあれを手放したくないのだと、手放すことは半身を捥ぎ取られるようなものだと痛みと共に思い出したような気がした、

 その時、遠くのほうから地鳴りのような音が聞こえているように思った。
 トラックの音だろうか。真の顔を思い出した途端、運が舞い戻ったような気がした。
 そして次の瞬間、突然に足が空を踏み抜いた。

 意識は、突然の強烈な光とクラクションの音と、地面に叩きつけられた激しい痛みを最後にぷっつりと途切れた。


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☂[12] 第1章 同居人の留守 (12)(改) 

 長いと思われた一ヶ月の半分以上は過ぎようとしていた。

 あの日以来、何となく気恥ずかしいのと後ろめたいのとで、深雪にも会っていなかった。
 大体、たった一人の例外を除けば、他人と同じベッドにいて眠れたことのない真に、同居人が留守だからといって他の女性と夜を共にしたところで落ち着けるはずもなかった。
 そう思うと、左隣がどうとか言わずに、とにかく耐えるほうがましに思えた。

 時間のつぶし方はそれほど難しいことではなかった。

 共同経営者の柏木美和は、恋人である北条仁がタイに出張しているので夜は暇だったらしく、彼女と必ずひっついてくる宝田三郎と、最近ほとんど事務所に入り浸るようになった元不良少年で少年院上がりの高遠賢二とが、真の心の内を知ってか知らずか、しばしば真の夕食に同伴した。
 時には北条の親爺さん、つまり任侠一家の親分が碁の相手をしてくれといって事務所に電話をかけてきて、食事を振舞われることもあった。

 その上、誰が何を言ったのか、たまには食事でもどうだといって、名瀬弁護士や、真の不整脈の主治医で、脳外科医の伯父の親友だった斎藤医師や、以前に勤めていた唐沢調査事務所の先輩の三上司朗までが電話をかけてきた。
 美和が言ったのかも知れないと思ったが、名瀬はともかく、斎藤や三上の連絡先を美和が知っているとは思いがたかった。そうなると考えられることはひとつだった。出掛ける前に同居人が知らせていったのだろう。妙な気の回し方に、有難いと思うより何となく腹が立ってきた。

 真は食い込むような重みを肩に受け止めて、前方を睨みつけていた。その視界の中央に、黒い人影が起き上がってくる。
 実際のスピードはかなりのものだったはずだが、集中すると、的が立ち上がる時間は、その何倍も引き伸ばされて感じる。
 ライフルを構えると指は勝手に反応した。ずん、と身体に、多分心臓の真ん中に重い振動が伝わってくる。
 弾丸は視界の中心を裂いて、そのまま的のど真ん中に突き刺さった。

 真は自分でもかなり動体視力がいいと思う時がある。おそらく、子どもの頃から祖父の手加減のない剣道の相手をさせられていたからで、いつからか、相手が打ち込んでくる瞬間には、その動きがスローモーションのように感じられるようになっていた。

「そりゃあ、お前さん、有難いと思うべきだろう」
 三度ばかり、お見事、というように両手を叩いてからイヤプロテクターを外し、火をつけたパイプを美味そうに燻らせて、ほとんど白髪の老人は面白そうに言った。

 真は今でもこの老人に初めて会ったときの事を鮮明に覚えている。
 真が大学を中退したとき雇ってくれたのは、ある縁があってそれまで時々バイトに行っていた調査事務所の唐沢所長だった。
 かなり胡散臭い男で、実際、自分の事務所に爆弾を仕掛けた保険金詐欺を企んで、今刑務所に入っている。

 この老人はその唐沢所長の古くからの知り合いらしく、胡散臭いといえば所長以上だったかもしれない。しかし、どこかに人懐こい気配を持っていて、風変わりな容貌にも関わらず人を惹きつけた。
 田安隆三という名前のこの老人は白髪を肩まで伸ばしていて、大概ニットの帽子を被っていた。
 白く長い眉毛は小さな鋭い目を隠して、そこに宿る細々とした複雑な人生の来し方を見せまいとする。この老人なりの基準で整えられた長めの顎鬚も、まるで口元の何かを隠すようだ。大柄ではなく、どこかすばしこそうな気配を醸し出していて、なぜか蜥蜴を思い起こさせる。
 いつもパイプを燻らせている風変わりな老人で、どういう経歴の人物か、今でも真にはよく解らなかった。

 初めて会ったとき、この年齢不詳の老人は真を値踏みするような目で上から下まで見つめ、アサクラタケシのねぇ、と呟いた。

 あの時、真の身体の芯は、思い出してはいけない記憶を引きずり出してきて震え始めた。
 久しぶりに意識を失うのではないかと思った。
 だが、それ以来、田安隆三は、真がただ一度尋ねたときを別にして、その男の名前を真の前であえて口にしたことはない。

 田安が経営しているジャズバーは東京湾の近くで、客の半分以上は外国人だった。田安はその店の二階に住んでいたが、そこは本とレコードと変な骨董のようなもので溢れた部屋で、田安は生活しているというよりもただそこに存在しているという感じだった。

 今彼らがいるのは、そのジャズバーの地下の部屋だった。田安のほかに女が一人、一緒にいる。

「それで、その食事の誘いが鬱陶しくて、ここに逃げてきたわけだな」

 確かにそういう側面はあった。人と食事を共にすることは、それが比較的よく知った相手でも気を使うものだった。名瀬弁護士はいい親爺のようだが、エリート街道を歩んできた人間で、気が置けない相手とは言いがたい。斎藤医師は伯父が失踪した後、真と葉子の保護者を自任していた一人で、昔から自分たちを知っているが、逆に知られていることで甘える相手にはならなかった。三上司朗は良い兄貴分だったが、事務所の爆破事故で下半身不随になり車椅子の生活を続けていて、ある部分では責任を感じている真にとって、彼が優しく接してくれればくれるほど罪悪感を覚える相手でもあった。ましてや、任侠の親分と楽しく食事というわけにはいかない。

「あら、じゃあ私と行きましょうよ」
 綺麗な脚を持った派手な顔つきの若い女は、その脚を見せ付けるような短いスカートをはいている。
 あまり手を入れているとは思えない短い髪と化粧気のない顔だが、もとの作りが派手なのか、十分男心をくすぐるタイプだった。目は化粧なしではっきりするほどに大きく、唇はたっぷりと水を含んでいるように艶やかに存在を主張しているが、小振りの輪郭の中に上手く納まっていた。
 声に尋常ではない色気があるのだが、態度が素っ気ないことが勿体なく感じられる。

 どういう関係かは知らないが、田安のところにしばしば出入りしている。週刊誌の記者だと聞いているが、本当かどうか確かめたこともない。楢崎という苗字だけは知っていたが、ここで会う以外に接点もなかった。もっとも、田安がこの地下室に出入りを許しているということは、それなりの事情があるはずだった。

 真は外したイヤプロテクターをカウンターの上に置いた。
 完全に法に触れていることは知っているが、ここに来て銃を撃っていると、その瞬間には何かを忘れていられた。

 真が小さい頃、唯一の友人だったアイヌ人の老人は、よく熊の話をしてくれた。
 彼らが熊を撃ち、熊に感謝し、それを食らい、その皮を取り、魂を天に返す儀式の全てが、真には生きることと思われた。銃を握るということはそういうことだと思っていた。
 実際に祖父の長一郎は猟銃の免許を持っていて、時には狩りもする。
 もともとマタギとも暮らしたことがあり、その腕前は相当なものだと聞かされたことがあるし、熊が人里に出てきた時にはいつも借り出されているのを知っている。
 だが、それはあくまでも特殊な事情のあることだ。

 感謝し食うためでもないのに、これで人を撃ったり殺したりするのはあり得ないことだと思っている。
 だが、撃った瞬間に自分の身体に響く重い振動は、時折それだけで生きていることを実感させる衝撃となった。

 そもそもこの怪しい老人が何故自分をこの地下室に誘い銃の扱いを教えたのか、真は未だに聞いたこともないし、聞いたとしても田安が答えるとは思えない。

『こういう世界をどう思う?』

 尋ねられたとき、真は理解したくないと答えた。今でもそれは変わらないが、この衝撃を感じている瞬間だけ、自分の血の中のある一部が熱くなるのを感じる。
 だが、これが父と繋がっているからだとは、まだ認められないでいる。

 教えて欲しいと言ったとき、田安は、知らないほうがいいこともあると思わないかと答えた。
 真が逡巡していると、田安はパイプの煙を吐き出して、静かに言った。

『アサクラタケシ。アメリカの国家が飼っているスナイパーだ。多分、世界中で数えても片手のうちに入る腕の持ち主だ。仕事をしくじったことは一度もない、冷徹に淡々と仕事をこなしている。俺はあの男の親分を知っているがな、あの男には感情の起伏がないのか、あるいは極めて平坦なのだと言っていたよ。だからアメリカはあの男を手離さない。極めて精巧で、これ以上を望めないほどの道具だからだ。万が一にも敵の手に落ちることがあってはならないから、最後まで飼い殺す気だ』

 田安はその時慈しむような目で真を見た。
『坊主、その男がお前の父親の相川武史かどうか、それはわからん。確かにお前さんはいい腕を持っている。だが、お前の祖父さんは猟銃を扱うだろう。それも半端じゃない腕と聞いたぞ。お前が引いているのはその血かもしれない。人間がひとつの動物として生きていくために必要とした道具を扱う腕だ』

 真は自分の手を見つめた。もしかして真もまた銃の扱いに関していい腕を持っているのだとして、こんな技能が何の役にも立たないことを分かっているし、それを万が一にも行使するような場面には出会いたくないと思っている。だが、これが父の生業なら、せめて何かを理解したいと願っているのだろうか。

 真は、自分はあの父親に捨てられたのだと改めて思った。
 それなのにその男を理解する必要がどこにあるのだろう。


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☂[13] 第1章 同居人の留守 (13)(改)(『それっぽい』) 

「私が奢ってあげましょうか」
 どこか男を挑発するような顔つきなのに、この女の中にはアンバランスさが見て取れた。それが何なのか、今の真には興味がなかった。
「食事をする相手を探しているわけじゃない」
「ベッドを共にする相手?」

 真は思わず女を睨み付けた。
「どっちかというと抱き締めて可愛がってくれる相手よね」
 女のほうも挑戦的な目で真を見つめる。真が返事をしないままでいると、女はさらに続けた。
「心中するんじゃないかと人に思われるほど好きになった女がいたのに、今はあんなおっかない女と付き合っていて、しかも本当は留守をしている恋人が恋しくて仕方がないってわけでしょ」
「恋人ではない」
「あらそう? でも街ではすっかりそう思わせておいて放っているじゃない。雑誌にまで派手に書かれちゃって」
「単なる誤解だ」
「言い訳してないじゃない?」

 それはその通りだった。
 だがそれは妙な趣味を持っている連中への牽制と、そしてたまには同情や同族意識を引くためと、あの男が自分の『恋人』と思われていればある種類の人間たちに仕事上での威圧になるからでもあった。
 同居人のほうもわざとなのか、その噂を否定さえしない。あんな雑誌のインタビューであってもだ。

 真はライフル銃を田安に返して、放り出していた上着を取った。
 内ポケットから煙草を出してきて咥えると、女は何を思ったのかそれに火をつけてくれた。火をつけてもらう程度のことを拒否する理由もないので、そのまま新鮮なニコチンを吸い込む。
 ふと近くに来た女を見ると、何か特殊な気配を感じた。
 口で生意気を言うほどには敵意のないことを示したいような、そういう視線に思えた。

「まぁまぁ、上でバーボンでもどうだ?」
 面白そうにやり取りを見ていた田安が真と女を窘めて促した。
 真は煙草を咥えたままそれについて行き、女も後に続いた。
 地下から上る階段はバーのカウンターの裏の足元に出る。ちょっと見れば食品庫のような出入り口だった。真と女はカウンターの外側に廻り、背の高い椅子を間にひとつ空けて座った。

 倉庫のような造りで天井が高い店の中には、大きくはないがドラムセットとグランドピアノを置いて、他にベースや管楽器が多少持ち込まれても問題のないくらいの大きさのステージがあり、フロアには無秩序にテーブルが十ばかり散らばっている。カウンターはL字になっていてやはり十数人は座ることができた。

 バーはまだ開店前で、こういう店には似合わない明るい照明に包まれていたが、すぐに田安は灯りを落とした。瞬間に、どこか間が抜けたような白々しさは消え去り、空間が秘密めいた匂いを纏い、心の奥を吐き出したい気分を盛り上げてくれる。

「あまり意地悪を言わずに、素直に探偵さんに頼み事をしたほうがいいぞ」
 バーボンを、彼女の方には濃い目に、真には薄めに作って、田安はカウンターにグラスを並べ、すっとそれぞれのほうへ滑らせた。器用で、隙のない動きだ。

「もっと汚らしいトレンチコートでも着て、女好きで、ウィスキーはダブル、ニコチン臭くて、胃薬なんか飲んでる、それっぽい探偵でないと、頼みごとを言い出しにくいか」

 田安は時々、真があまりにも『探偵』ぽくないことをからかう。
 真はほとんど水に近いバーボンを半分くらい飲む。女はまだ黙っている。真は煙草に火をつけ、しばらく黙ってふかしていた。
 随分と間をおいてから、女が呟くように言う。

「別に、頼み事なんて」
 煙草の灰を灰皿に落としかけて真がふと女を見ると、女は少し肩を竦めるように視線をバーボンに落としていた。
「俺と話をしているときとは、もっと素直なのにな。それではまるで好きな子を苛める小学生だ」

 何を言うのよ、という顔で女が田安を睨んだ。田安はちょっと優しげに笑んで真に目配せを送った。
 怪しい老人だが、面倒見がいいところもある。
「この娘はこういう物言いしかできないが、まぁ悪気があってのことじゃない。お前さんに頼みがあるんだよ」

 頼みがある人間がそういう物言いをするか、と真は思ったが、煙草の火をつけてくれた瞬間の視線は確かに嫌味ではなかった。
「頼みって事じゃないけど」
「言えよ」
 真が心して優しげな声で言ったからか、女はちょっと真と視線を合わせてから俯いた。

「志穂ちゃん」
 田安は促すように声を掛けてから、店の看板に明かりを灯しに表に出て行った。
 志穂という名前なのか、と妙に感慨深く思っていると、彼女は例のごとく勝気な表情で真を見つめた。

「あなたが付き合ってる女」
 真は彼女を見つめ返した。
「香野深雪が、誰の女か知ってるんでしょ」
「どういう意味だ?」
「澤田代議士。一応自民党だけど、半分無所属みたいな男」

 真は彼女の言いたいことを探るように、その勝気な瞳と形のよい扇情的とも言える厚めの唇を見つめていた。
「あの男のことを調べてるの」
「仕事か」
「まぁね。でも私が知りたいのは表に出てくる澤田のことじゃない。あの男の過去を知りたいの。というよりも、その過去と繋がっている今のあの男のこと。香野深雪はあなたに寝物語でも何か話さないの?」
「まさか。大体何の話だ?」
「あなた、澤田が提供しているって噂の、香野深雪の住まいになっているホテルに堂々と出入りしているじゃない? 澤田がそれを許してくれているなんて思ってるの?」

 いつの間にか田安がカウンターのうちに戻って彼らの会話を聞いていた。
 話が単なる仕事の依頼ではなく、自分の身に直接関わりのあることだったので、真の方も冷静に田安の気配を窺っていたわけではなかったが、何となく田安もこの会話の内容に興味を抱いているような気がした。
 田安はこの女の頼み事の内容は知らなかったのかもしれない。
 あの長い眉毛の向こうの目が注意深く何かを窺っているように思えた。

「もしもそうだとして、今更澤田代議士が俺をどうこうしようなんて思わないだろう。大体そういう気ならとっくに何か言ってきているはずだ」
「あなたの価値を知れば、別でしょうけど」
「俺の価値?」
 真は女を見つめ、それから思わず田安の方を見た。
 田安も黙って真を見ていた。だが、田安の表情からは相変わらず何も読み取れない。

 真はもう一度女のほうに視線を戻した。
「それで、君は澤田代議士をどうしようと言うんだ? 政治家としての失脚が目的か?」
「ただ本当のことを知りたいの」
「本当のこと? 仕事ではないのか」
「香野深雪に聞いてみて。澤田がどういう男か知ってるのかって」
「言っておくが、彼女は俺にそういうことは話さない。単に店の客というだけだ」

「じゃあ、あなたは彼女に一回いくら払ってるの?」
 真は今までそういう単純な話に思い至らなかったこと自体に、自分でも驚いた。

 深雪とこれほどに肌を合わせても、金銭的なやり取りをしたことはない。ましてや抱き合う場所についても、たまに深雪が面白がってラブホテルに行こうと言う時以外、真が財布を出す事もない。
「あんな怪しい女が単に好き嫌いであなたと寝ると思ってる? しかもあなたとのセックスがどんなに良くても、それだけで関係を続けることなんてあり得ないわよ」

 身体の相性がいいからだと思っていたが、確かに深雪に何かを確かめたことなど一度もなかった。
 だが、男と女の間のことだ。愛じゃなくても身体が離れられないようなことだってあると、この目の前の生意気な女に言ってやりたい気がした。
「彼女とのことは個人的なことだ。悪いが、そういうことなら頼まれても協力はできない。それに澤田代議士が俺に何かを要求してきたことも接触してきたこともない。筋違いだ」

 真は黙ったままの楢崎志穂の突き刺さるような視線を感じながら、薄いバーボンを口にした。
 薄いはずのバーボンが舌に突き刺さるような気がした。





以下、コラム畳んでいます。
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☂[14] 第2章 同居人の入院 (1)(改)(あらすじ付) 

第1章 あらすじ

相川探偵事務所所長・相川真(27)は、もと家庭教師(?)かつ保護者である大和竹流と同棲を始めて2年半が経過している。大和竹流(=ジョルジョ・ヴォルテラ)(36)は美術品の修復師であるが、実はヴァチカンを支える裏組織ヴォルテラの跡継ぎであり、本人は望んでいないが、いずれローマに帰ることを期待されている。
このところ竹流が考え込んでいることが多くなっていたが、真は事情を聞きだすことができない。親であり兄であり、また教師でもある同居人がいなくなることが、実は不安でたまらなくて、考えたくないと思っている。
そんな時、竹流がしばらく留守にするといって出かけて行った。
ちょうどその頃、竹流が某経済・社会雑誌のインタビューに答えた記事が掲載される。オーナーとなっているレストランやギャラリー、修復師としての仕事について、そしてついでにプライベートにまで触れた記事には、同居人の真のことまで書かれていた。ふたりの関係をちょっと誤解されるような答え方で…
事務所のメンバー、共同経営者の女子大生・柏木美和、孤児施設出身のヤクザ志望・宝田三郎、バイトの主婦たち、その他事務所のある新宿で働く知り合いたち、などなど周りからインタビュー記事のことを面白がられている気配を感じて、いささか面白くない真は、恋人というよりも体の関係だけを続けている銀座のバーのママ・深雪に会いに行ったりしながら、竹流の帰りを待っている。深雪は代議士・澤田顕一郎の愛人という噂もあるが、実のところはよくわからない。
そんな時、自分の実の父親のことを知る老人・田安隆三の経営するジャズバーで、真は楢崎志穂という雑誌記者と会う。志穂は、澤田顕一郎のことを調べていて、真に深雪から澤田のことについて何か聞いていないかというのだが…

それでは、第2章【同居人の入院】、お楽しみください。
その前に、おまけ写真:遠からず登場予定のマルタ島の石の神殿。
マルタ1



「もしもし、相川調査事務所です。……え? はい、代わります」
 真が自分の机の上で鳴っている電話をしばらく放置していると、前を通りすがりに、いつも通りやたらと勢いのよい声で電話を取った『秘書』の柏木美和が、途中から真に目で合図を送るようにして露骨に嫌な顔をした。そして受話器の口を押さえもせずに真に渡した。
「刑事さん」
「刑事?」

 真は美和の手から受話器を受け取り、さて、何の話かと考えた。仕事上、時々警察がらみになることはある。しかし、今のところお世話になるような話はないはずだった。
「お久しぶり」
 真はその声に思わず受話器を握る手に力を入れた。添島刑事、本庁捜査一課の女刑事だ。
「何かありましたか」
「大ありよ。忙しい? ……わけはないわね。あなたが事務所に座ってるんだから」

 電話の向こうの声は爽やかに痛いところを突いて無駄なく響く。
 この女刑事は時々同居人の仕事の事で何かを嗅ぎ廻っているような気配があるが、実際に彼女のターゲットに同居人が入っているのかどうかもわからない。大体、竹流の仕事の裏のほうで多少は法に引っ掛かるかどうかの際どい部分があるのだとしても、捜査一課が関わってくる理由はなさそうだった。

 確かに一週間ほど前から閑だった。それまではあれやこれやと問題を持ち込まれ、名瀬弁護士からも手伝いを頼まれ、美和だけでなく自称『弟子』の高遠賢二まで走り廻ってくれていた。ところが季節労働者のようなもので、いきなり暇になる。こうなると浮気の調査でもいいや、と思ってしまう。

「とにかく来て頂戴。G医大病院の別館。玄関で誰か待たせるから」
「いきなり何ですか」
「用件は来てから話すわ」
 女刑事はそれだけ言って一方的に電話を切った。
 真がしばらく受話器を握りしめたままでいるのを、美和がまだ不愉快そうな顔で見ている。

 真とその女刑事の接点は、考えてみれば同居人しかいない。彼女は捜査一課で少年事件とは何の関係もないし、その女刑事と会うのも同居人のギャラリーでだけだった。どういう関わりかはともかく、その刑事が真を呼ぶとなると同居人絡みの可能性は高いが、どういうことだろう。

 同居人が出掛けてからすでに三週間は経っている。そんな時に掛かってきた本庁の女刑事からの電話は、あまり良い内容とは思えない。同居人の仕事がどこかで法に触れる可能性は十分にあるのだろうが、捜査一課となると随分複雑だ。
「出掛けてくる」

 美和が不満と不安をあからさまに顔に出して真を見ていたのは、刑事という職業の人間への警戒と、真が個人的にそういう種類の人間と関わっていることに対する負の感情のためだろう。そもそも、美和は極道の女で、この事務所は任侠一家の持ち物だ。
 真は言い訳する言葉を見つけることもできなかったので、そのまま事務所を出た。階段を下りてから、車で行くか電車で行くか迷ったが、結局電車を選んだ。


「半分わかってます、って顔ね」
「いつもこんな顔です。用件をおっしゃってください」
 玄関で誰か待たせると言いながら、待っていたのは添島刑事その人だった。ダークグレイのパンツスーツを着て、いかにもキャリアウーマンを印象付ける容姿で、女性にしては背が高い分、履いている靴のヒールは低い。長い間海外で仕事をしていたとも聞くが、いかにもスマートなムードの女だ。耳の下辺りで切り揃えられたストレートヘア、切れ長の直線的な目、やや吊り上がった眉、通った鼻筋と横にくっきりと結ばれた唇。気がきつそうで賢くて、それに十人並み以上には美人だった。

 午前中の大学病院の玄関は多くの人間が出入りする。その中を縫うように、添島刑事は病院の廊下を早足で颯爽と歩いていく。こういうタイプは苦手だと思いながら、真は何とか彼女の後をついていった。やがて添島刑事はエレベーターの前で立ち止まる。
 添島刑事はエレベーターの現在位置を示すランプを見上げたまま、真の顔を確かめるわけでもなく、肩を落とすようにひとつ息を吐き出して言った。

「あなたの相棒、死に掛かってたの」
 真は思わず無遠慮に彼女を見つめた。

「普通の人間ならまず死んでたわね。出血多量と敗血症でショック寸前、折れた肋骨はもうちょっとで肺を傷つけるところだったっていうし、あれでどうしてあんな生意気な口をきけるのか不思議だわ。それから」彼女は意味ありげな視線を真に向けた。「これは新しいものじゃないけど背中の火傷の瘢」
「火傷?」
 エレベーターは各駅停車をしているようで、なかなか一階に降りてこない。

 添島刑事は彼女にしては僅かに躊躇うような時間を置いて、3の数字で止まっているランプを見上げていた視線を、真のほうに移した。
「知らなかったの?」
 驚いたような顔だった。というよりも、真自身が理解不能という顔をしているはずだった。
「本当に彼ですか?」
「それはどういう意味? 驚いたわ。一緒に住んでるし、何でも知ってるのかと思ってた」
「別に裸を見せ合って喜ぶ間柄ではないので」

 エレベーターの扉が開いて乗り込み際、添島刑事はちょっと真を振り返り、意外にも非常に好意を感じさせるような微笑を浮かべた。
「そういう言われ方をすると余計に勘繰ってしまうじゃない」

 エレベーターの中に一緒に乗り込んだ五人ばかりの他人に遠慮したのか、添島刑事はそれ以上続けなかった。真は現実味を帯びていない彼女の話の内容を、別の頭で忙しく考えていた。
 背中の火傷? だが、この女刑事が彼を見間違うはずはない。

 そう言われてみれば、同居人の裸の背中を見たのはいつが最後だったのだろう。
 昔はよく伯父に連れられて温泉にも行ったし彼の背中を流したこともある。最後に見たのが正確に何時で何処だったのかも思い出せないが、同居してから確かに裸の背中など見ていないかもしれない。
 風呂上りの同居人を見ることはあっても、裸でうろうろしていることなどなく、一緒に風呂に入るわけでもないし、ベッドの中で彼の背中に触れるわけでもない。違和感なくそういうものだと思っていたし考えたこともなかった。

 ましてや、その背中に直接触れたのはもう九年も前のことだ。


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☂[15] 第2章 同居人の入院(2)(改) 18禁?/ ラブホ談義? 

注:ビデオのシーンですが、一応18禁でお願いします。


 一瞬、記憶の網膜の上に蘇ってきた光景を真は必死で確かめようと思ったが、湯気のせいなのか、記憶にかかった靄のためなのか、はっきりとは思い出せなかった。

 あれは去年の秋だった。
 夕方にいきなり事務所にやって来た同居人に引きずられるようにして、新潟に連れて行かれた。一体何事かと聞けば、急に旨い酒が飲みたくなったから付き合え、という。

 同居人にはそういう、言い出したらきかないところがあって、時々他人の都合を考えずに行動する。
 もっともその対象になっているのはほとんど真なのだが、全く意見も都合も聞かずに強引に真をどこかへ連れ出す。それに付き合ってやらないと、子どものように不機嫌になることもあるし、第一、あまりにも力関係がはっきりしているからかもしれないが、真のほうに選択権がないことが多い。
 一時竹流がマンションに預かっていた高遠賢二も、居候したての頃はその唐突な強引さに面食らっていたようだが、それが相手のテンポだと分かると、いや何より、そのお蔭で本当に旨いものに出会えると分かった後では、何も言わなくなったどころか、その強引さを歓迎するようにすらなった。
 賢二のように、あの強引さには屈服してしまうのがいいに違いない。

 新潟に着いたのは十時前で、それから旨い酒と魚を味わった後、車を運転するのは不可能で、時間が時間だけに、気が付けば海に近いラブホテルに泊まることになっていた。
 平屋のラブホテルは別荘のように部屋が立ち並び、各部屋には大名の名前が並んでいて、案の定ホテルの名前は『大名屋敷』で、車はそれぞれの部屋に横付けできるようになっている。
 部屋に入ると、先に風呂を使えと言われた。竹流はその間にフェラーリの具合を確認しにいっていたのかもしれないが、部屋にはいなかった。真が風呂から上がってベッドに潜り込んだ後で、竹流は風呂に入っていたようだが、こういうホテルにありがちなことに風呂はガラス張りで、ベッドからも中の様子が微かに分かる造りになっている。

 もちろん、部屋は薄暗かったし、バスルームの照明も同様だった。
 竹流の背中をまともに見たわけでもないし、大体そんなものをじっと見つめていたりなどしたら、後で墓穴を掘るのは目に見えていた。
 ガラスの向こうの湯気に煙る薄暗いバスルームに浮かび上がる同居人の身体は、その細部はともかく、昔と変わらずに張り詰めた確かな力強さを感じるもので、今思い出しても記憶の中のその背中には翳など全くなかった。
 真は深くベッドに潜り込んで、とにかく同居人が風呂から上がってきて、真につまらないちょっかいをかけてくる前に寝てしまおうとしたが、それは無理な相談だった。

 竹流は確かに少し酔っ払っていたかもしれない。
 ベッドに入ってくると、頭の上のボードのスイッチをいじって、部屋の明かりを落とし、何を思ったのかテレビのスイッチを入れた。突然、何の脈絡もなく、絡み合う男女が画面に登場する。
 ラブホテルに配信されてエロビデオを一日中流しているチャンネルだ。

『あぁん……、あ、あ…、もっと、もっと……、あぁ、イク、イク、いっちゃう』
 明らかに芝居がかった声が、はしたないほどの音量で耳に飛び込んできた。
 真は思わず同居人を振り返り睨んだが、彼は音を下げようともしない。

『この売女め、さっきまでのイヤイヤはやっぱり嘘だな。お前のここはぐちゃぐちゃで厭らしい音をたてているぞ。ほら、後ろの穴まで濡れてやがるな。助平な身体だ』
 同じように芝居がかった男の声と同時に、同居人が、背中を向けて丸まった真を後ろから抱き締めてきた。

 真は再び同居人を振り返り、その青灰色の目を見る。
 同居人は真ではなくテレビの画面を見つめている。
 真がきまり悪くテレビのほうへ視線を戻すと、がっしりした中年の男が、細身だが胸だけは極端に大きい若い女の膝を深く折って、濡れた別の穴に女の蜜で濡れた男根の先端をあてがっていた。男はそのままそれを後ろの狭い穴にねじ込み、激しくピストン運動を始めた。女は例の如く芝居がかった悲鳴を上げて、乳首の勃った乳房を揺らしている。

『どうだ。アナルは初めてか』
『許して……、あ、あ、いやぁ、あ、ん……、いい、あぁ、もっとぉ』
『はぁ、はぁ、こっちもいいぞ、前の穴よりいい締まり具合だ。う……、出そうだ、中で出すぞ』

 真は身体を強張らせた。その反応を敏感に感じ取ったのか、同居人は真の耳に唇を押し当ててきて、舌を差し入れてくる。
『酔ってるのか』
 拒否をするつもりで呟いた声は擦れて、かえって厭らしかった。
 飲みすぎた、と同居人は呟いたが、声はしっかりしていた。
 画面の中の男女は更にヒートアップしている。
 その大音響の喘ぎ声に紛れるように、同居人は真の耳朶を噛んだ。

『しようか』

 耳に熱い息と共に囁かれた言葉に、真は驚くほど敏感に反応した。
 同居人の手がガウンの中に差し入れられ、しばらくの間、その薬指に嵌められた指輪の冷たい感触が真の胸を弄っていた。指先は、真の肌、筋肉をひとつひとつ確かめるように蠕き、首筋に当てられたままの唇からは熱がそのまま伝わってくる。
 こんな形で触れられたのは、一体どれくらい久しぶりのなのか、と真は思い、目を閉じて欲情に身体を開放していいものかどうか躊躇っているうちに、同居人の指の動きは少しずつ曖昧になっていった。
 やがて真のガウンの腰紐にかかったまま、手は動きを止めてしまう。
 真は振り返り、同居人の顔を見つめた。同居人はもう目を閉じて、微かに寝息を立て始めている。

『するんじゃないのか』

 真はとりあえず呟いてみたが、寝ていたわけでもなかったのか、同居人は真を抱き寄せた。そのまま頭を抱いて、真の耳元に囁く。

『お前、奈落の底まで俺に付き合う気があるか』

 返事をした記憶はない。というよりも、同居人はそのまま本当に眠ってしまったようだった。
 真はテレビ画面の中で第二ラウンドに突入して縺れ合っている男女にわけもなく腹が立ってきて、同居人を押しのけて頭の上のスイッチを切った。

 彼が酔っていなかったら、することをして、その背中にも触れて、そしてあの問いかけに返事をしていたのだろうか。いや、酔っていたからこそ、同居人はわざとテレビなどをつけて、あんな言葉を投げ掛けてきたのだろう。
 答えを聞きたくなかったのかもしれない。

 真は不意に自分の手を見つめた。
 途端に、エレベーターの振動が現実のものとして身体に響いてきた。
 俺は何に酔っているのだと思って、真は各駅停車のエレベーターの数字を見上げた。

 八階でエレベーターを降りて、会話が他人の耳に入らない状況になると、添島刑事は話を続けた。
「新しい傷は全てまともとは言いがたい弾傷や刃物の傷。本人は意識が戻った途端、ヤクザの抗争に巻き込まれたって言うの。そんな情報は全くなかったし、どう聞いても嘘は見え見えなのに、被害者が何故怪しまれなきゃならないんだ、の一点張り」

 真は添島刑事の言葉に一瞬刑事のもの以上の何かを感じたが、それが何かは分からなかった。
 廊下は随分と先まで続いているように見えたが、それはT字になった突き当りが窓になっていて、そこから溢れこむ光が、ここが病院の廊下であるという現実を消し去っているからだった。

「死にかかってたことはともかく、十分凶悪な事件に巻き込まれたように思えるわ。誰が見ても暴行を受けたようにしか見えない。あんなに強運で屈強な男がそういう目に遭うからにはそれだけの理由があるんでしょう」
 そう言って、ある病室の前に立つ警官から敬礼の挨拶を受けると、添島刑事は立ち止まり真を振り返った。真も足を止める。

「あなたは善良な市民ね」
「何故?」
「大和竹流を拘束する理由はないけど、あなたに彼を預けるわ。彼はどうしてもしゃべる気はないみたいだけど、誰にやられたのか、あなたが聞き出して知らせて頂戴」
「それは警察の仕事でしょう? それに病院が不審な怪我人がいると通報したんだとしても、本人が被害届を出す気がないんだとしたら、逆に、あなた方が動いている理由は何です? 捜査一課ってのは、どういう理屈です?」

 添島刑事は一つ息をついたが、真の質問には答えなかった。
「尋常じゃない怪我、それに弾傷と思われる傷痕だって言ったでしょう。 それに、あの男が一筋縄ではいかないことは、あなたが一番よく知ってるんじゃないの」

 結局、添島刑事はそれだけ言うと、ノックをしたものの、中からの返事を待たずに引き戸を開けた。
 真は僅かに躊躇してから、後に続いた。

 本当は『背中の火傷の瘢』にまだ引っかかっていた。

 雑誌の件でもそうだったが、自分が一番彼の身近にいる人間だという自負心があったし世間もそう思っているはずのに、正確な年齢も誕生日も、ましてや背中の火傷なんてものも知らない。
 一緒に住み始める前にも同じような不安な気分になったことがあった。あの時、ある人が言った言葉を今も思い出すことがある。

 あなたは彼のことを知りたいの? それとも彼に傍に居て欲しいの?

 親に捨てられた自分を生かしてきたものが本当は何だったのか、よく分かっているだけに、こういう事があると傍に居るだけでは何の役にも立たないと思い知らされる。女だったら、傍にいるということだけで足りたかもしれないが、それだけでは不安になる。知らないことはそのまま不安に繋がった。

 部屋は個室で、扉を開けて入ると、右手に洗面台と電気調理器具の置かれた小さな流し台が備え付けてあった。その向かいの扉はトイレのようだった。奥が部屋になっていて、ベッドの足元だけが見えている。
 黙って添島刑事についていくと、ほんの少しだけ上体を上げたベッドで、真がよく知っている男が横たわっていた。






ちなみに、当時は今のように通常のビデオもDVDもケーブルで見放題の、なんて物はありませんでしたが、ラブホにだけ特別配信されていたエロ番組があったそうで、真と竹流が見ていたのはそれです。
しかし、この二人、本当に『やっちゃえ!』って思うけど、基本ニアミス(一応^^;)

少しだけ、ラブホ話?(期待しないでください、健康なラブホ話?)はコラムへ。

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☂[16] 第2章 同居人の入院(3)(改)(BGM) 

「よぉ、やっと来たか」
 まるで軽い挨拶のように同居人、大和竹流は言った。
 だが、その言葉の調子とは不釣合いにも、頭も、肩から肘までも包帯で覆われている。顔色はお世辞にもいいとは言いがたかった。
 相変わらず同性から見ても一瞬言葉を飲み込むほどの綺麗な顔立ちをしている同居人は、こうして傷ついて、多少いつもより顔が腫れぼったい状態でも、いやむしろそれだけに余計に、凄絶な色気を増して見えた。

 だが、真は思わずその姿に息を呑んだ。
 同居人の声はいつもの軽口を叩いている時と変わらない響きだったにも関わらず、あの屈強でいかにも逞しげな体つきからは何かが失われて見えたからだった。

 真のその顔をどう解釈したのか、竹流は更に例の軽口を続けた。
「川を渡るとお花畑があって、門のところにお袋が立っていて、お前はまだ来ちゃいけないと言うんで帰ってきたんだ」
 この馬鹿、張り倒してやろうか、という気持ちが顔に出たのかもしれない。
 竹流は真の顔を見て少し笑った。少なくとも何とか笑おうとした顔だった。

「でも俺の母親はまだ生きているみたいだけどな。……なんて顔してる?」
 添島刑事が真の隣で大袈裟に溜息をついた。
「死に損ないのくせにこの通りよ。減らず口というのか何というのか」
 それには反応せず、竹流はまた真の方へ話しかけた。
「再会の抱擁とキスくらいしてくれるのかと思ったのに」
「強がるのは辞めなさい。まだ熱があるでしょ。大体昨日集中治療室から出たところよ。個室に出たからってもう退院できる気でいるのね」

「お願いだから」竹流はやっと添島刑事の方を見た。「二人きりにしてくれよ」
「はいはい、キスでも抱擁でも十分して頂戴」
 添島刑事は少しばかり力を込めた声で真によろしくね、と言い残すと、そのまま一瞬肩を落としたような仕草を見せて病室を出て行った。
 真は彼女の後姿を見送りドアが閉まるのも見届けてから、竹流のほうを向き直った。

 さっきまで軽口を叩いていた同居人は、まともに真の顔を見つめていた。
 真も黙ったまましばらく竹流の顔を見つめ、それから徐に視線を逸らした。
 身体のうちに湧き出していた感情は、一切言葉になどならなかった。
 形のいい綺麗な唇の端は切れて腫れ上がっていた。その唇は何かを堪えているようで、真はそれをどう聞き出していいのかわからなかった。

「お前の飯の心配をしていたんだ。ちゃんと食ってたのか」
 そんなことは今どうでもいいだろうと、真は思った。だが、真のほうも、何から言葉を始めればいいのか分からなかった。
「日本にいたのか」
 真はようやくベッド脇の椅子に座った。
 言葉のない間合いを埋めるように、パイプ椅子の番いが軋む。
 竹流は低めにリクライニングを上げたベッドに、完全に身体を預けている。そんな姿ひとつとっても、この男には不釣合いだった。
「そうだ。よその国へ行くなんて言ってたか」

 血豆のように腫れ上がった部分を別にすると、唇にも血の色は薄かった。
 父方の血のせいか、西洋人にしてはそれほど白い肌色ではなかったが、今日ばかりは色素が抜け出したようにシーツの中に沈み込んでいる。寝巻きの襟からも、身体に巻かれている包帯が覗いていた。
 こんな顔色で無駄口を叩いては話をはぐらかしているのだろう。だから添島刑事は呆れ果てたような感じだったのだ。
 何よりも、熱だとか集中治療室だとか、この男には不釣合いなことばかりだ。真は殴りたいような気分と顔を見た安心とが一緒になった複雑な感情を飲み込んで、今度は、ただその顔を見ているしかない自分に腹がたってきた。

「びっくりしたろう」
 そう言われて真は思わず顔をしかめた。びっくりする、などという簡単な言葉で括っていいのかと思った。
「俺も、死ぬかもしれないと思って自分で驚いたよ。今まで一度だってそんなことを思ったことはないのにな。三日間ばかり意識がなかったそうだ」
 長く言葉を続けると最後のほうには声が擦れてくるのを聞くと、真は思わずそれを遮った。
「もう口をきくな」
 だが、それを無視して竹流は言葉を継ぐ。

「お前の事を考えていたら心電図のモニターの音がうるさくなってきて、半分の意識で会いたい会いたいと思っていたら、だんだんこっちの世界が近くなってきた」
 この男は思ってもみないことをこうやっていけしゃあしゃあと言って、これまでにどれほどの女を泣かせてきたのだろう。
 その複雑な感情を見透かすように、ふと竹流は真のほうに手を伸ばしてくる。
 右手も包帯に巻かれていた。

「手くらい握ってくれたらどうだ」

 何をこの、と思う意識の壁を突き抜けるように、真は何かに押されるように右手を差し出した。
 真が握った竹流の右手は、熱く湿ったように重かった。しかし、真の手を彼が握り返してくる気配はなかった。
 その手には、竹流の力ではどうすることもできないほどの重力が圧し掛かっているように思えた。

「手が、砕けるかと思った。とりあえず上げ下げはできるんだが、まだ感覚がない」
 真の手から竹流の手が滑り落ちるように抜けた。真は思わずそれを追いかけて握り締めた。

 竹流が何を言っているのか、半分わからなかった。
 だが、彼の右手の、意識のある人間の手とは違う異様な重みに、自分の魂のどこかを削り取られるような嫌な感触を覚えた。

 竹流は思わず弱音を吐いてしまったことに気が付いたように、急に話題を振り戻した。
「ちゃんと飯、食ってたか?」
 その右手を所有しているのは別の生き物のように、淡々といつものハイバリトンの良い声で竹流はまた同じことを尋ねた。真のほうも、その彼の右手を握っている自分の右手とは別の人格のように返事をした。
「あぁ。いいから、もう黙ってろ」

 しかし今、真の意識は、その意思を失っているような彼の右手の上に残っていた。
 真の手の中で竹流の右手は悲鳴のような拍動を続けながら、びくともせず、全くただの重い付属物のように彼の腕にくっついている。真の支えがなければ、その手は重力に逆らうことができなくなってしまうようだった。
 何かを話していないと闇に落ち込んでしまうかのように、竹流は息を苦しげに継ぎ、まだ何かを話そうとした。しかし、話の内容には核心から逃れようとするような奇妙な色合いがあって、添島刑事が言った意味も理解できた。

 しばらくして、ドアがノックされ、若い看護師が入ってきた。
 真は意識なく握ったままだった竹流の手を思わず離した。それに気が付いたのかどうか、真と視線が合うと看護師は微笑むように会釈した。
「ご家族の方ですか」
「いえ、あの」
 真が言いよどんだのを、竹流が先を続けた。
「同居人です。家族というより、ある意味ではもっと親密な」

 ちょっと同情したのが馬鹿らしくなるほどの減らず口だと真は思った。
 看護師は、あなたが噂の、というような明らかに興味本位の視線を真に向けた。あの雑誌の読者の一人なのだろう。
 だが、同居人がこんなふうに空元気を示すのは、どう考えてもあまりいい状況とはいい難い。真が黙ったまま竹流を見つめていると、竹流はその視線に気が付いているのかどうか、わざとらしくない程度の曖昧さで視線を避けている。
 竹流は渡された体温計を腋窩に挟んで、黙っていた。
 看護師はその間に脈を数えたり、患者の襟元を開けて聴診したりしていた。はだけた胸の筋肉は、僅かの期間に随分と落ちたように見えた。左の肩は包帯で覆われ、右胸には何かに強く圧迫されたような痣が残っている。
 体温計が音を立てたので、竹流はそれを左手で取り、表示をちらっと見て看護師に渡した。

「なかなか下がりませんね。解熱剤、持ってきましょうか」
「いえ、大丈夫です」
 看護師に答える声には、落ち着きと品がある。それはいつもと変わらなかった。
「じゃあ、氷枕、取り替えますね」
 看護婦は無駄のない動作で竹流の頭の下の氷枕を取り、それを持って一旦病室を出て行った。

 あの雑誌の件でも文句のひとつも言いたかったはずなのに、その傷ついた身体を見て、下がらない熱と聞かされては、彼の痩せ我慢に追い討ちをかける気にはなれなかった。
 真は話しかける次の言葉も出てこないまま座っていた。
 だが、そう間をおかずに、竹流はあっさりと冷めた声で言った。
「もう、仕事に戻れ。夕方、また寄ってくれ」

 さすがに傍にいてくれとは言ってくれないな、と思った。
 そう思った自分にまた驚いて、真はただ頷いて立ち上がり、それから布団を掛けなおしてやった。
「そうするよ」
 精一杯でそれだけ言って、真は戻ってきた看護師と入れ替わりに部屋を出た。





以下、コラム(BGMについて)、畳んでいます。
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☂[17] 第2章 同居人の入院(4)(改)(美男美女) 

 真が長く傍にいれば、弱音を吐いてしまいそうになって、それが嫌なのかもしれない。
 看護師が出てくるのを待ちながら、真は閉まったままの扉を睨み付けていた。

 いつものことだが、竹流は真に弱みを見せることなど決してない。苦しい時は、一人でやり過ごそうとする。
 年齢差を考えても、真が竹流の苦しみや悩みの吐き出し口になることはできないのかもしれないが、怪我や病気で弱っているときくらいいいじゃないかと思うと、なんだか自分が頼りなくて情けない気分になってきた。
 ふと、手を握りしめて、真は目を閉じた。
 あるいは、苦しみを吐き出すときに、暴力に頼ってしまうかもしれないことを、恐れているのかもしれない。

 看護師が出て来たので、医者と話せないかと聞いた。少し待ってくださいと言われて、ナースステーションの脇で待っていると、眼鏡をかけた若い医者が中から呼びかけてきた。

 入院したのは十日ほど前のことだという。山梨との県境に近い山道でトラックに轢かれそうになり、そこから救急車が呼ばれた。トラックの運転手は、道路脇の崖から滑り落ちてきたと言ったそうだ。一旦近くの病院で応急処置が取られ、そのままここに搬送されてきた。三日間は完全に意識がなく、その後一週間は半分朦朧状態だったが、この数日で意識はしっかりしてきたという。まだ時々熱がぶり返すが、それでも随分ましになったという話だった。
 出血多量の元は左の鎖骨下動脈の枝を傷つけられていたからで、部位からしてもどうしようもなさそうなものを、何とか止血しようと堅い石を裂かれたシャツか何かで巻いて、血管を圧迫しようとしてあったという。本人にできることではないというからには、誰かと一緒だったのだろう。

 若い医者は何とか言葉を選ぼうとしていたが、結局諦めて素直に表現した。
 まるでいたぶられたような、と。
 致命傷となり損なった傷以外は殺すことが目的とは思えない、上手く急所を外れたものばかりで、動けないようにされた上に暴行を受けたとしか考えられないという。
 病院が警察を呼んだのはそのためだった。ただ、所轄の警察から本庁に担当が移っていた事情については、しかも捜査一課の女刑事が出て来た事情は、医師は何も知らないようだった。
 その上、この目立つ男の身元についてはそれほど苦もなく確認できたはずにも拘らず、真のところに連絡が来たのが一週間以上も経ってからだという事情についても、医師は関与していないふうだった。

「右手は、どうしたんですか」
 若い医者は、淡々と状況を説明するモードに入っていた。
「ナイフか何か、鋭利なもので抉られたんでしょう。神経を痛めているらしく、指先の感覚はあまりはっきりしないようです」

 真は一瞬、自分の視界から何もかもが消えたような錯覚に襲われた。頭の血管から血の気が引き血圧が保てなくなる瞬間の、白い視界だった。
 倒れるまいと意識を集中していると、頭に血液が戻ってくるのが分かる。意識していなければ、明らかに倒れていた。

「それは」
 乾いた喉から、ひきつったような声が出た。
「動くようになるかどうか、わかりません」
 真は思わず医者から視線を外した。
 誰も見ていなければ、突然襲ってきた吐き気を隠せないところだった。
「背中の、火傷というのは?」
 あの右手の湿った重さを思い出すと、息を継がなければ短い言葉さえ話せなかった。
「あれも結構酷いものですね。でももう三年ばかり前の火傷だって聞きましたけどね。住んでいた所が火事になったとか」

 医者の話が終わってナースステーション脇の面談室を出たところで、手が冷たくなって震えていることに気が付いた。人に見られたくないと思って病棟から離れ、喫煙コーナーを探して煙草に火をつけたときも、まだ手は震えていた。
 それでも一本吸い終わると、何とか電話をすることだけは思いついた。

 事務所には美和がまだ大学に行かずに残っていて、真は彼女の元気な声に救われたような気分になった。
「大家さんが怪我? それであの刑事さん、電話してきたの?」
「あぁ。とにかく今日は病院にいるよ」
「うん、わかった」
 何を察したのか、美和の声が心配そうに変わった。
「先生、大丈夫?」
 真はそれには答えなかった。
「大学行くんなら、事務所閉めといてくれていいぞ」
「大丈夫。ばっちり代返頼んであるから」
 美和の明るく勇ましく響く声を聞いていると、ほっとした。あの北条仁がこの十六も年下の小娘に参ってしまったのも分かる気がする。

 仕事に戻る気にはなれなかったので、病院の中で時間をつぶした。ほとんど一時間毎に煙草を吸っていたようだったが、後から思い返しても一体何をして時間を潰していたのか、記憶になかった。
 だが一日病院で過ごしてみると、そこに溢れている沢山の患者たちの姿が、徐々に真を落ち着かせてくれるようだった。どの人がどんな病気で何故病院に通っているのかは見ているだけではわからないが、時折検査に向かう不自由そうな人や、救急室からストレッチャーで運ばれていく病人をみていると、それぞれの病気や怪我という不幸に、それぞれのドラマがあるのだろうと思えた。
 他人の不幸は、時に見ているものに力を与えることがある。
 自分がそれよりはよほどいい、と思えるからか、あるいはどんな苦境でも乗り越えようとする力を感じるからなのか。

 夕方病室に戻った時、竹流は眠っていた。
 名残の太陽が染めた橙の空が、そのまま彼の頬に落ちていた。
 真は静かにベッド脇の椅子に座り、その寝顔を見つめた。
 この男は一体何をしていたのだろう。明らかに特別な出来事に巻き込まれたとしか思えないが、それがこのごろ頻繁に掛かってきていた彼の母国からの電話と関係があるのか、それとも全くそれ以外の彼自身の事情なのか、何となく昨年の秋くらいから様子がおかしかったことと関係しているのか、彼のどの仕事がこのとんでもない事態に彼を追い込んだのか、わけが分からなかった。

 ふと点滴のボトルが空になりかけているのを見つけて立ち上がり、ナースステーションまでそのことを告げに行った。戻ってくると、真が立てた物音の何かで竹流は目が覚めていたのか、天井を見つめたまま何かを考えているようだった。
 言葉を交わす間もなく看護師がやってきて、点滴のボトルを取り替えていった。

「何か、大事なことを話さなくていいのか」
 看護師が出て行ってから、真は一日中あれやこれやと考えていた言葉を何とか口にした。
 竹流はその意味を分かったのかどうか、それについては何も答えなかった。
 この男が何も話さないと決めたら、決して話すとは思えない。真は無言のままの竹流の明らかな拒否を感じた。
「明日、医者にいつ退院できるか聞いてくれないか」
 その挙句に竹流が言ったのは、かなり実現不可能な内容だった。

「馬鹿言え。退院なんて遥か先の話だ。大体死に掛かっていた人間が今言うことじゃない」
 馬鹿馬鹿しくなって畳み掛けるように言うと、竹流は天井を見つめたまま呟くように言った。
「酒も飲めないし、女も抱けないし、病院は地獄のようだ」
「死にたいのか」
 真の目の前でベッドに横たわっている男の顔に張り付いているのは、いつものこの男の表情ではなかった。修復作業をしている時も、料理をしている時も、誰かと話をしている時も、あるいは真を怒鳴りつけていた時でも、この男の表情には血が通っていた。熱情に支えられ、深い思いに満ちた顔をしていた。それが、今この表情は半分白い仮面を被ったようで、何か大切なものが削り取られてしまった残骸のように見えた。

 この顔を、真は一度だけ見た事がある。
 ローマのあの屋敷で、抑揚のない仮面のような顔で真を見下ろしていた表情、何かを懸命に堪えたために感情を失ったような顔は、確かに一瞬だったのかもしれないが、真を震えさせた。

「酒が抜け切ったら死ぬ」
 思ったよりも真剣な声でそう言われて、真は、今時分の感じた不可解な不安を押し込めようとして、ちょっと溜息をついた。
「舐める程度なら、明日こっそり持ってきてやるからごねるな。女は諦めろ」
「お前が代わりをしてくれるならいいけど」
 そう言って、やっと竹流は真の顔をまともに見た。
 真は、その綺麗な青灰色の瞳に一瞬心臓を抉られたような気がして、慌てて答えた。
「馬鹿言うな。ショックで頭のどこかに血が巡ってないんじゃないだろうな」
 一瞬、その青灰色の瞳が自分を見つめている向こうへ、引き込まれそうな気がした。
 その目は、一度も肌を合わせたことがないわけじゃないだろうとでも言っているような感じがしたが、だからといって、今この時点からどうすることもできない事だと思えた。
 大体、やっぱり女しか抱けないと言ったのは、この同居人の方だ。

 だがあの時。
 外で深雪が待っているのを知りながら、身体は全く他の事を思って欲情していた。さっき女を抱いたばかりなのに、一人であんなにも簡単に昇り詰めてしまうほどに。
 その自分については深く考えたくなかった。
「涼子を呼ぶから、彼女と相談してくれ」
 竹流は納得したのか諦めたのか、不思議な表情で笑ったように見えた。





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☂[18] 第2章 同居人の入院(5)(改)(ブログって…) 

注:プチ18禁? 真はしながら考え事ばかりしているので、相変わらずどうでもいいくらいのシーンにも思えますが…一応。

「真ちゃん?」
 深雪が白い肩の上から黒髪を滑らせて、上から真を覗き込んだ。
「今日はずっとだんまりね。あれからずっと来ないから心配してたのよ」

 深雪の綺麗な卵形の顔と、派手ではないのに惹きつけるような唇の形を見つめながら、真は考え事のひとつを反芻していた。
 あの週刊誌の女記者、楢崎志穂に言われたことが気にならないわけではなかったが、深雪に聞きただす気にはなれなかった。深雪も自分も、身体を合わせることで満足しているはずだった。深雪を利用して澤田代議士に近づくことも考えないし、第一その男とはできる限り顔を合わせたくないと思っている。澤田という男の仕事にも過去にも、興味はなかった。

 もちろん、深雪と自分の事を、澤田が知らないとまでは思っていない。
 澤田の顔はポスターやテレビでも何度か見たことはある。目つきは鋭いが顔つきはそれを隠すような穏やかさを湛えているし、女性ファンも多いという噂も聞く。だが、その政治的活動については、真は敢えて知ろうとも思わなかった。自分が澤田を気にして怖がっていると人に思われるのも癪だろうし、誰よりも深雪にそう思われるのは、彼女を抱く男としての沽券に関わると思えた。
 巷では、深雪が澤田のために何人かの男を破滅させたという噂もある。
 本当かどうかもわからないし、実際にそんなことがあるのなら澤田顕一郎の周りには黒い噂が渦巻いていてもいいはずだが、真の知る限り、政治家としての澤田が女を使って何かをしなければならないほど野心があるとか、敵が多いとかいう話は聞かない。
 もっとも、酒の席の戯言なのだとしても、深雪がこの身体で誰かを破滅させることができると言われれば、そうかもしれないと思えた。あるいは、少しばかり世間の覚えのめでたい政治家を追い落とすための、単なる小汚い噂話かもしれない。

「二週間ぶりに店に来て、ホテルに来て、それなのに私の顔も見てくれないの」
 深雪はそう言いながら彼女の方から唇を合わせ、そのまま下半身も深く沈めてきた。
 既に二度ばかりも極めた後で真自身は萎えていたが、まだ彼女の中だった。それを逃がさないように深雪が締め付けてくると、その粘膜の襞のひとつひとつが意識を持って絡みつくように感じて、真の身体はいとも簡単に反応する。
 思わず息を吐き出して声が漏れた。
 考えても仕方がないと思って、真は深雪の腰を強く抱き寄せ、上から覆いかぶさるようにしている彼女の両頬を捕まえて、貪るようにその唇や舌を吸った。

 それでも頭の中に冷めた部分があって、そこで同居人の事を考えていた。
 自分が何に混乱しているのかは明らかだった。
 彼は強く、自分を守ってくれるものだと思っていた。自覚はなかったがそうなのだ。

 東京に出てきたのは十一のときだった。北海道にいたときよりも酷い苛めにあって、何度も学校で倒れた。当時真を息子として育ててくれていた伯父の、個人的な秘書のような仕事をしていた竹流が、いつも渋々真を学校に迎えに来た。何度も怒鳴られたし嫌味も言われた。
 始めのうち、真は自分が東京の言葉が理解できないのだと思っていた。だが、そのうちだんだん人間の言葉が理解できないような気がしてきた。早口でまくし立てるクラスの子供たちの言葉だけではなく、学校の先生が何を言っているのかも分からなくなった。急速に不安になり、人混みや学校の教室で恐ろしい吐き気や頭痛に襲われた。手足が冷たくなっているのを感じたときには、何時も意識が吹っ飛んでいた。
 伯父はいつも優しかった。伯父の友人の斎藤医師もそうだった。それでも真に気を遣って腫れ物を触るように大事にしてくれる大人たちに、敵意は無くても心から甘えることはできなかった。
 あの当時からかなり流暢な日本語を話していた竹流は、それでも腹が立ってくると、日本語とイタリア語とをちゃんぽんにして真を何度も怒鳴りつけていた。だが不思議なことに、彼に何を言われてもその言葉が理解できるし、気を失うこともなかった。真を心配して言ってくれている言葉ではなかったが、裏表の全くない言葉は、本能的に言語以上のものを感じ取る真には、唯一理解できる言葉になった。
 当初竹流は、真の伯父を、彼の大切な人の血縁者を殺した、少なくとも死に追いやった仇だと誤解していたようだし、真のほうも竹流が伯父に危害を加えようとしていると誤解していたのだが、その誤解が解けた後、伯父が失踪してから、伯父への恩義を何かの形で示そうとしたのか、竹流は真と伯父の一人娘の葉子の実質上の保護者を買って出た。
 それからはずっと、その時々で共にした時間の長短は別にして、いつも彼が自分たちを守ってくれていたと感じている。

 その男が傷ついてベッドに横たわっている姿など、これまで一度も見たことがなかった。今朝から何とか保っていた理性は、ここに来て腹の底から湧いてくるような怒りにも似たもので、吹き飛ばされそうになっていた。

 彼の右手。
 聖堂の宇宙を蘇らせていたという敬愛する修復師を神様だったと言い、いつか自分の手でもあの宇宙を蘇らせるのだと言っていた、その右手。付き合っていた女の子と別れ、大学も辞めて行き先を失っていた真のために、錆びついた刀剣を磨いてくれていた手。ギャラリーや大和邸のアトリエで、彼が過去の作家たちの仕事を讃えながら、そこからその作品を愛した人々の心までも蘇らそうとしていた、その尊い右の手。

 それが動かないかもしれないと、淡々と語った医者に罪はないのに、その言葉に爆発しそうな何かが突き動かされた。
 いつの間にか三度硬くなった自分自身を、深雪を組み敷くようにして彼女の中に埋め、真は狂ったように彼女の内側を擦った。形の上では深雪の白い豊かな乳房を揉み乳首を噛みながら、心のうちでは別の何かに対する炎に似たものが燃え上がっていた。
 どこのどいつかは知らないが、必ず彼をあんなにした償いをさせてやる。

「……真ちゃん」
 喘ぐように深雪が真を呼んだ。その声は遠くの木霊のように彼方にあって、今の真自身のいる場所とは次元自体が異なっているようで、真の意識には直接届かなかった。
 何て名前だっけ? 竹流の仲間がやっている店、ゲイバーだったことだけは覚えている。彼の仲間なら何か知っているのだろう。あの調子では竹流自身が何か話してくれるとは思えないが、自分たちのボスを信頼して大事にしているあの仲間たちが、何も知らないわけがない。
「痛いわ……」
 不意に切羽詰った悲鳴のような声が耳に飛び込んできて、真は我に返った。

 これではまるで深雪に対して殺意があるようだと気が付いた。
 殺意? 俺に人が殺せるのだろうか。田安にはそんなことはあり得ないと言ったが、今はできるような気がしていた。姿形も見えない誰かに対して自分が今抱いているものは、明らかに殺意だった。同じだけ、いやそれ以上の傷を相手にも負わせてやらなければ気が済まなかった。
 多分、彼の仲間たちも同じ思いを抱くだろう。

 ふと気が付くと、深雪の身体が小刻みに震えていた。強すぎるほどに噛んでいた深雪の乳首を歯の間から自由にして、真は幾分か驚いて深雪を見つめた。
 深雪は下ろしたままの長い髪を白い枕の上に広げ、薄っすらと目に涙を溜めていた。
「ごめん」
 何人もの男をたぶらかし身体で商売をしてきた女だと、頭のどこかで思っていた。それがまるで幼い子どものように震えている。真はしばらくの間、真っ白になった感情を持て余していた。

 冷静に考えてみれば、セックスをしながら人を殺すことを考えていたのだ。その殺意のようなものが、繋がった身体を通して深雪に伝わったのかもしれない。真は薄い口紅が残っている唇に口づけ、まだ硬いままの自分自身をゆったりと動かしながら、もう一度ごめんと言った。深雪はするりと腕を真の背中に回してきた。
 抱き締め合っていると、不思議と安心した。それでも、頭はどこかで他のことを考えていた。

 そうだ。葵……そんな名前だった。『ママ』の名前も確か同じだ。





以下ブログについてのつぶやき……

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☂[19] 第2章 同居人の入院(6)(改)/ タイトルの出所 

 新宿二丁目の表通りを一本入り、路地を進むと、幅一メートル程の道の両脇に堅く閉ざされた扉が並ぶ。どこか秘密めいた匂いをさせていて、この界隈でも特殊な雰囲気を作っている。これをずっと奥の突き当りまで歩くと、やはり曖昧な明りを灯した看板を出している店があって、赤に白抜きで『葵』と染め抜かれてあった。
 空気は重たく湿度を増していて、看板の文字の輪郭もぼんやりと定まらない。真はしばらくの間、葵の文字を見つめていたが、やがて意を決した。

 重い木の扉を開けると、さっと薄暗い店内の複数の人間の目が真に集まった。それは一瞬で敵か味方かを見分ける目であって、決して客を迎え入れる目ではなかったが、よほど敏感でもない限りそんなことには気が付かないはずだった。
 店内には、それぞれが個室感覚のあるボックス席があって、あとは僅かなオープン席とカウンターだった。お互いの視線ができるだけ合わないような造りにも関わらず、その気配を感じるなどとは、真のほうが気が立っているからに違いなかった。
「いらっしゃいませ」
 真正面のカウンターの奥の『ママ』と目が合った。

 こざっぱりとした白いシャツにきっちりとネクタイを締めているのは、そのタイを外してみたいという欲望を男に抱かせるためだと聞いている。もちろん、この『ママ』は変化自在だ。相手に合わせてどんな姿にもなってくれる。細身の体を衣服で隠していても、滲み出る色気は消せない。女顔でもないし、化粧をしているわけでもないのに、唇は紅を引いたように艶めかしい。軽くウェーヴした髪は、額と耳に零れている。そして、意志のはっきりとした強い目。その目が、真を睨みながら、唇だけが客を迎えて微笑む。
 むっつりとした顔の黒服のバーテンがさっと真の上着を取ってくれようとするのを断って、真はママのところまでゆっくりと歩いた。

「殺気があるじゃない」
 以前会ったときに、お前は俺の恋敵だな、と言われた。当たらずとも遠からず、といったところだ。
「話がある」
『ママ』は怪訝な目でただ真を見た。
「竹流のことで」
 ようやく『ママ』の手が座るように促す。真はちょっと店内の気配に目を遣ったが、座らなかった。
「込み入った話か?」
「二人だけで話したい」
『ママ』は暫く真の顔を見つめていた。それから背後にある棚のキィボックスからひとつ鍵を取ると、真に手渡した。その手はお世辞にも細くてしなやかな柔らかな手とは言いがたい。せいぜい性別を思えば華奢という程度だった。
「二階、先に行ってろ」

 このバーの二階には個室が六つある。人に聞かれたくない密談の場として使われることが多いようだが、勿論、人に知られたくない性癖を持った大物が『そういう』目的でここを利用しているとも聞く。
 この店に雇われているのは、どの性別の格好をしていても男性で、それなりのものを出せば相手をしてくれるようだった。ちらりと聞いた噂では、そのサービスは決して他では望めないほどのもので、一度味わったら深みに嵌っていかざるを得ないという。要求される金額は口止め料も含んでいるのかと思うほどで、普通の稼ぎではとても手が出ない。それでも、それに見合うだけのサービスが受けられるというのだから、客足が途切れるはずもなかった。

 真は店の奥の階段に目を遣り、何かを訴えるようにもう一度『ママ』を見てから奥へ行った。
 真が階段を上り際に振り返ると、バーテンがすっと目を逸らしたのを感じた。バーテンは『ママ』を見つめ、何らかの、少なくとも現実になれば真にとっては有難くない指示を仰いだようだが、『ママ』は首を横に振ったように見えた。
 真は薄暗い階段を上がって、暗く赤い光にぼんやりと照らされた廊下を進んだ。手元の鍵を見て右の三番目の扉の前に立ち、鍵を開ける。中に入ると本当に狭い通路の脇に、半畳ばかりのガラス張りのシャワールームとトイレのドアが、その奥にコンパクトにベッドと小さなテーブルと二つの椅子が納まっている。それでいっぱいの空間だった。廊下と同じ赤い薄暗い光がぼんやりと満ちている。窓はなく、完全に防音されているようだった。
『ママ』を待つ間に上着の内ポケットから煙草を出した。落ち着かない気分で、このところ煙草が増えている。それを一番身近に見ているのは秘書の美和で、真の気配を敏感に察しているだろうと思われた。

 一本吸い終わる頃にドアをノックされる。
「何の用だ。まさかわざわざ恋敵に改めて勝負を挑みに来たわけじゃあるまいな。それとも、あの雑誌を読んだ女の誰かに襲われたか」
 店での言葉遣いは幾らか中性的なのに、私生活では完全に男言葉を話している『ママ』は、入ってくるなり苛立ったようにそう言った。店での源氏名は葵と言ったが、私生活では葛城昇という立派な名前を持っている。
「竹流が何の仕事をしに行ったのか、教えてくれ」
 真はいきなり切り出した。
「仕事?」
「何処かに何かをかっぱらいに行ってたんじゃないのか」
「何の話だ」
 真が何時になく迫力のある気配を示したからか、葛城昇は胡散臭そうなものを見る目で真を見た。
「冗談ではなくあんたたちが泥棒集団なのは知っている。何処かに仕事に行ってたんじゃないのか」
 昇は真の座っているベッドの近くの椅子に座った。
「おい、もうちょっと丁寧な言葉で話せないのか。何を焦ってる?」

 真は暫く昇の顔を見つめていた。確かに、喧嘩を売る相手は彼ではなかった。それに、よく考えたら年上だし、幾ばくかの恩義もある相手だった。だが、今は構っていられなかった。
「竹流が仕事のときは、あんたたちは皆彼に付き合ってるんじゃないのか」
「まさか。全員で出掛けていくようなことはない。内容にもよるが、ほとんど数人だ。以前はあいつ、一人で出掛けていくこともあったが、俺たちがそれは辞めてくれるように言った。今は少なくとも二人では出て行っていると思うが」
「じゃあ、彼が誰と行ったのかも知らないのか。あんたたちの大事なボスだろう?」
「彼がどうかしたのか」
 そう聞かれて、初めて彼らが何も知らないことがはっきりした。真は別に隠す必要もないことだとは思っていたが、むしろ逆に彼らが知らないという事実に戸惑いを覚えた。
「何かあったんだな。一方的に聞いてないで訳を話せ」
 真が一瞬黙ってしまったので、昇が質問する側に廻った。

「今、病院だ」
「病院?」
「酷い暴行を受けたようで、一歩間違えたらあの世行きだったという話だ」
「どういうことだ」
 いきなり昇が真の胸ぐらを摑んだ。中世的なムードを纏っているが、その力は明らかに男のもので、か弱いどころか、鍛えられた筋肉の動きは艶やかに強い。
「こっちが聞きたい」
 すかさず真は答えた。昇は暫く真の目を見つめていたが、それから漸く真を離した。
「俺は何も聞いていない。高瀬の爺さんには聞いたのか」
 高瀬というのは大和邸の執事だった。真がその男と面識があることは昇も知っている。
「あの人が何か知っているのか」
「知っているかどうかは知らん。だが、あの人は竹流のことなら何でも知っている。国の大親分とも連絡を取り合っているくらいだからな」
「国の大親分?」
「ヴォルテラの大親分だ」
 真はしばらく昇の顔を見つめたままだった。唐突に出て来た大きな名前に、真が怯んだ気配を感じたのか、昇が鼻先で笑ったように見えた。
「その人が関係していることか」
「知るか。第一、大親分は俺たちの存在を疎ましく思ってる。大事な跡取り息子が、悪いお友達とつるんで家に帰って来ないとでも思っているんだろう。高瀬の爺さんが何を考えてるのかも俺たちは知らん。もっとも、あの爺さんは竹流が云うなと言えば、死んでも口を割らない。大体、彼は? 意識はあるのか? 何故本人に聞かない?」
「あいつが話すと思うか? 聞いても話をはぐらかす。しかも、まだ何か考えてる」
「考えてる?」昇はまだ真を睨みつけたままだった。「まだ手を引いていないということか?」
「分からない」
 真がやっと息をついたのを感じたのか、昇は表情を緩めた。
「酷いのか」
 昇はそれだけしか聞かなかったが、彼が何を聞いたのか真には十分伝わった。
「あぁ」
 真の方も短く答えるのが精一杯だった。とてもあの右手の事は昇に、彼の仲間の誰にも自分の口からは言えそうになかった。

 昇は俯いて何かを考えていたが、随分間を置いて顔を上げた。
「ひとつだけ聞いておく。彼のためなら何でもできるか」
 真は頷いた。昇はにやっと笑った気がした。
「人も殺せるか?」
 しばらく、真は昇の顔を見つめていた。俺は彼のためなら本当に何でもするぞ、という顔だった。堅気のお前にそれだけの決心などないだろう、という言葉を準備している顔だ。
「多分」
 その問い掛けは何かの試験なのかとも思ったが、返事までにかかった時間はともかく、腹のうちでは答えることに躊躇いなどなかった。その気概だけは伝わったのか、昇が、本気か、というような視線を真に向けていた。少なくとも、真がそう答えるほどに、竹流の状況が好ましくないということは伝わっただろうと思った。
「上等だな」
 昇は女のものではない、繊細だが骨っぽい右手を差し出した。真は躊躇わずにその手を握り返した。更に握り返してきた昇の手の力は、真が怯むほどだった。友好的な握手とは言いかねたが、これが儀式ではなく裏切ることは決してできない契約の成立と感じた。
 昇は近いうちに事務所に連絡をすると約束した。
 先に出て行く真の背に、昇が話しかけた。
「どこの病院だ?」
 ふと振り返った真の目に映ったのは、男とも女ともつかないが彼を愛している者の目だった。
「G医大病院」
「そうか」
 真は扉を閉じてそれに凭れ、赤い曖昧な光に満たされた廊下で目を閉じた。
 今の昇のような目をする者があと何人いるのかと思った。少なくともそのうちの一人には今から話しに行かなければならなかった。
 店を出ると、ぱらぱらと雨が降り始めいていた。思わず新宿の空を路地から見上げると、あまりにも近い空から雨が湧き降るように見えた。





さて、新しい登場人物が出てきました。今後もしっかり絡みますのでお見知りおきを。
竹流の仕事仲間、ゲイバーの店長『葛城昇』です。
私の話の中では珍しい、妖艶な男です。
でも、なぜか私が書くと、男っぽくなってしまう。うーん……色気を書く鍛錬が……
【Time to Say Goodbye】の葛城拓とは関係ないのですが、実は、遠い親戚だったりして、とか思って勝手に楽しんでます。時代が全然違うので(多分40歳くらい違う)、どんな関係かしら…(^^)


以下、コラムです。この小説のタイトルの出所について……
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☂[20] 第2章 同居人の入院(7)(改)/ 噂あるいは流言 

 誰もいないマンションの部屋の鍵を開けると、薄暗い玄関の明かりが僅かに強くなる。
 マンションの豪華なロビーに入る前に上着の雨を払ってきたが、玄関を入るとそれでもやはり重い湿気が身体を押しつぶすように感じた。

 上着を脱いでそのまま玄関脇のコート掛けに掛け、部屋に上がる。
 右手の廊下を進むと、突きあたりが親しい人を迎え入れる応接室を兼ねた居間になっていた。応接机を取り囲んで革のソファと一人掛けの椅子とが優雅に乃の字を描いて並び、左手にはバーカウンターを設えた酒類の並んだ棚が、右手には遺跡と海が描かれた穏やかな色合いの絵と寝室に繋がる扉が、奥にはくの字の廊下に繋がる扉と窓がある。
 真はソファに座り、同居人がいないのをいい事に、ここのところ室内で吸っている煙草の箱を机の上から取り上げた。吸殻が片付いているところを見ると、大和邸の執事の奥さんで、三日に一度は掃除や洗濯をしてくれている高瀬登紀恵が来てくれたのだろう。

 一本吸ったら、このマンションの上の階に住む室井涼子に会わなければならなかった。
 涼子に会うのは、僅かながら気まずい気持ちがあった。

 涼子は大きなデパートを経営するグループの社長の娘で、十年以上前に家を出て、一人でこのマンションに住んでいる。彼女を可愛がっていたグループの会長である祖父が金を出したと聞いている。彼女自身は、竹流の銀座のギャラリーからそう遠くないところで、ブティックを経営していた。
 涼子には高校時代の先輩だったという不倫相手がいた。大学を卒業して何年か経ってから母校の文化祭に行き、そこで再会して以来そのまま関係を持つに至ったという。当時、既にその男は結婚していて、子供が生まれるところだった。
 その状況で男が妻と別れることはあり得なかった。しかし男は不倫相の涼子を離す気もなかったようだった。涼子のほうも高校時代という特別な時間の一部を共有していた相手だけに、簡単に別れてしまえなかったようだ。

 涼子がこのマンションで暮らし始めてから、下の階に住んでいた長身の外国人と関係を持つまでにそう長い時間はかからなかった。この男のところにはその頃から複数の、いかにも金を持っていそうな女性がやって来ていたし、始めのうちは涼子も真と同じように、この男はヒモ暮らしをしているのだと思っていたようだった。
 涼子にとっての竹流は、始めは寂しい夜の身体を慰めてくれる相手でしかなかったのだろうが、始末の悪いことに、この外国人は女性には自然に精一杯の愛情を注いだ。勿論会っていない時間にはほとんど思い出しもしないのだろうが、会っている時間をこれほどに心地よく演出する男は、恐らく世界中を探してもそう多くは見つけられないだろう。そういう時間を騙されながら共有することは、大人の男女の間では楽しいはずだった。

 真が始めて涼子に会ったのは中学生の時だった。回りにはいない大人の女性の匂いは、時々乗り合わせるエレベーターの中でも、明らかに情事の後と分かる竹流のマンションでも、真には刺激的だった。涼子のほうも、どういう訳か自分の恋人のところに現れるこの特殊な雰囲気を持った遥かに年下の少年に、意識はしていなかっただろうが自分の女としての色香を存分に振りまいていた。
 真にとって淡い初恋の相手が妹の葉子なら、女という存在への初恋の相手は涼子だった。淡い初恋は手を握ることもキスをする事もなく過ぎていったが、女という生き物を感じさせた相手への恋は、ある時思いもかけない展開を見せた。

 それは、真がこのマンションで竹流と同居を始めてから間もなくのことだった。
 その日同居人は仕事で留守をしていて、たまたま真は涼子とエレベーターで乗り合わせた。
『竹流、留守なの?』
 涼子はいつの間にか大人になってしまった若者が、ずっと以前から彼女に特殊な感情を抱いていることは知っていたのだろう。
 涼子の問いかけに真はただ頷いた。
『飲みに来ない?』

 どういうつもりで涼子が自分を誘ったのか、今でも真は半分分かっているようで分からない。
 だが彼女に誘われたことは、胸をつかまれるほど刺激的で嬉しい出来事でもあった。後で来てと言われていったん部屋に戻り、それでもやはり期待をしていたのか、シャワーを浴びて何時になく丁寧に身体を洗った。
 約束の時間に涼子の部屋に行くと、軽い食事と酒を振舞われ、当たり前のようにベッドに誘われた。

 誘われた、というのはどこか間違っているのかもしれない。だが、真を部屋に迎え入れた時、涼子も明らかにシャワーを浴びた後のようで、髪は艶やかに濡れていた。その時点で、真のほうも明らかにそうなる確信を抱いた。
 ジンの匂いがふと近くで香ったと思ったとき、涼子の唇はすぐ傍にあった。グラスではなく、彼女の唇を吸い、涼子の手が遠慮がちに真の太腿に置かれた時、真の手は涼子の襟元を弄りその乳房に触れていた。

 その日の行為は、多分どの女性と共にしたものよりも、記憶に残る行為だった。彼女の身体の隅々まで手と唇で確かめ、撫でるように慈しみ、求められるままに朝まで自分を駆り立て続けた。
 その時は涼子の心のうちを考える必要を感じなかった。

 それ以来、涼子と個人的に口を利くことも会うこともない。涼子が同居人の恋人の一人であることは十分分かっているし、その同居人が留守のときであっても、もう一度彼女と夜を共にすることはなかった。
 同居人にどれくらい涼子を愛しているかと聞けば、恐らく例のごとく穏やかな笑みを浮かべて、心から愛していると言うだろう。その同居人への後ろめたさや遠慮があったからというわけではなかった。大体、真の目から見ていて、同居人が数いる恋人の中で涼子だけを特別に扱っているとは思いがたかった。
 涼子のほうが、何かにけりをつけたかったのだと思えた。

 考えても仕方がない。
 真は煙草を揉み消すと、決心が鈍らないうちに立ち上がり、マンションの部屋を出てエレベーターでひとつ上の階に上がった。

 このマンションはひとつの階に三つしか部屋がなく、エレベーターは三機ある。つまり、同じエレベーターを利用する同じ階の住人はいないことになる。涼子の住む部屋へはこの同じエレベーターを利用した。
 部屋の呼び鈴を押すと、随分と間を置いて、ドアホンから声が聞こえた。真だと分かると、涼子はまた随分間を置いてドアを開けた。
 涼子は長い髪を後ろで束ねて薄化粧をしているように見えた。
 竹流の恋人になる女は大筋では美人の域に入っている。涼子はさすがに良家のお孃さん育ちで顔つきも上品だったし、態度や気配も控えめに見えるが、何よりも仕事柄もあって、服装を含めた外見をきちんと整えた趣味のいい女だった。
 怪訝そうに自分を見つめている視線を受けて、突然訪ねてくるのは迷惑だと感じているのだろうと真は思った。同居人が留守だということは、彼の気配がここ何週間もないことで涼子のほうも分かっているだろう。そんな時に真が訪ねていけば、下心のある可能性を涼子も考えただろうと思う。
「夜分に、済みません」
 涼子はそのまま外に出掛けてもいいような服装だった。それは、あなたと寝る気はないわよ、というサインに思えたので、思わず丁寧な挨拶をしてしまった。
「どうしたの?」
 冷たい声ではなかったが、一線を引いている声だった。
「竹流が怪我をして入院しているので、見舞いに行ってもらえないかと」
 真は話しながら声が上ずっているのを感じた。それがどういう感情の反映だったのかは、自分でもよく分からない。涼子に対する感情なのか、あるいは同居人に対する感情なのか。
「入院?」
 涼子は思いも掛けない話の内容に、明らかに戸惑った顔をした。
「どういうこと?」
 真はそれには答えなかった。どう、と言われても竹流自身が何も言わないのでよくわからないのだ。それをうまく彼女に伝えられそうになかった。
「G医大病院の東病棟の八階です」

 そう言ってから、涼子が自分を見る微妙な敵意に、思い当たる節を見出した。
 涼子もあの雑誌を読んだだろう。あれを読んで、同居人の恋人の全てが自分の敵になったのだろうと、今更ながら真は思い至った。
 これまではただの噂だった。それが活字になり、同居人が意味合いはともかく『愛している』などという言葉を明確に示したのだ。真にとっては現実味のない言葉だが、彼女たちにとっては重い響きだ。
 真は多少居た堪れない気分になって、少し頭を下げるようにしてエレベーターの方へ戻ろうとした。
「真」それを不意に涼子が呼び止める。「あの人、具合悪いの?」
 真は涼子の方に、半分だけ向き直った。
「行ってあげてください」

 とても状況を説明できなかった。それにこれ以上涼子と向かい合っているのは苦痛に思えた。
 涼子の目は、私はあの人を愛しているの、あなたの存在など認めたくないの、と明らかに真に伝えているようだった。
 真とベッドを共にした夜、涼子がけりをつけたのは彼女自身の心の向きだったのかもしれない。心から愛しているのはあの不倫相手ではなく、素性もはっきりしない、複数の恋人を持っている異国人であるということを、自分自身に明確にしたのだろう。
 そのことを、今、涼子はその長い睫の向こうの切れ長の瞳から、真に訴えかけているように見えた。





さて、あのインタヴュー記事が色々な人間の心をかき乱しているようです。
この時代はネットなんて全く考えられなかった時代。
情報の伝達スピードは、今よりもはるかに遅い。
それでも、文字になり大衆の目に晒される。
言葉は言霊でもあるけれど、呪でもある。
(さっき、ちょうど陰陽師をやっていたので…^^; 野村萬斎さん、中井貴一さん、どっちももう大好きで)

もちろん、すべての人の目に触れるわけではないのだけれど、一度書いた人の(この場合はインタビューに答えた人の)手を離れたら、もう誰が何を思うかはコントロールが利かなくなる。
思うのは自由で、答えるのも自由。

でも、そこには明らかにルールがあるわけで。
書くほうには、その文字を公衆の面前に晒す覚悟も必要。
そして、匿名だからと言って、何をしても書いてもいい、ということにはならないという当たり前のこと。
もちろん、自分にとってはOKの範囲でも、他の人にとってはダメということもあるので、難しいのだけど、それはちゃんと語り合えるのなら分かり合える可能性があるということで……
節度、心の上品さ、思いやり、そういったものを忘れずに、でも自分の心を前に向かって伝える。

多分、竹流はこの世でただ二人に(もしかして三人)、自分の覚悟を伝えたかったのだろうけれど。

そしてここにも一人、心を乱された女性がいるようで。
室井涼子。
竹流が以前から付き合っている女性の一人。
うーん、そんなに女がいていいいのか、って話もありますが、それぞれがそれぞれのいきさつで付き合っていて、しかもこの人、一度付き合うと捨てないんですよね。
いいのか悪いのかは別にして。

開き直っていえば、モデルの一人が光源氏なので…『この野郎』な男だけど、一番大事な女も幸せにしてやれない男なんてなんだよ、ってことなんだけど、花散里も末摘花も捨てないという不思議な一面にはちょっと微笑ましいものが…ってただの優柔不断かしら。
でも『源氏物語』の醍醐味は、女三宮を正妻に迎えてから~宇治十帖だし、この人の生涯も、実は真を失ってからのほうが長かったりする。真の息子が傍にいるのだけど、親子葛藤がまたややこしくて。

あら、鬼も笑う先の話をしてしまいました。
それは大河ドラマの1年目の11月くらいの話なので、さておき。

そう、噂や伝聞が世の中を動かしているというのは、今も昔も変わらないようで。
そもそも経済を支えているのは噂やムードですし(だから風船)、ある日テレビで『ヨーグルトで長生きできる!』なんて放送されると、次の日スーパーからヨーグルトが消えるし。
元禄時代、赤穂浪士を駆り立てて仇討にまで至らせたのは、あの時代のムード、民衆の流言やパワーだという話だし。でなきゃ、隣近所の屋敷が、真っ暗闇の中の仇討を応援するべく松明を掲げたりしないわな(江戸時代なんて夜は真っ暗)。
そして、中世も、噂が時代を作ったって本も出ている。
歴史を勉強するとき、歴史学だけではなく民俗学を一緒に勉強するべきであったと今更ながらに思います。
(敬愛する網野善彦先生の受け売り^^;)

うーん、あまりにも余談のほうが長いのはまずいなぁ。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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☂[21] 第2章 同居人の入院(8)(改)/ 作品の世界 

 葛城昇が連絡を寄越したのはその三日後だった。

 三日間、真は半分裏切られたような気分で過ごしていた。竹流の仲間にしてみれば、真は彼らにもその仕事にも関係のない存在で、彼らのボスを守るのは彼らだけの仕事と考えていて当然だった。
 その三日間、真も手をこまねいていたわけではなかったが、大和邸に行っても執事の高瀬は留守をしていて、マンションに来た彼の妻の登紀恵に確かめると、来週まで帰らないという。夫の行き先を彼女は知らなかった。竹流と繋がっていそうな知る限りの情報屋をあたってみたが、誰もここ暫くの彼の動向を知るものはなかった。

 勿論、当の竹流自身にもさりげなく探りを入れてみるのだが、こちらは尚一層鉄の壁だった。話が具合の悪いところへ行くと、身体の不調を訴えて口をきかなくなる。しかも本当に具合が悪そうなので、それ以上は突っ込めなくなってしまった。増してや、右手のことは触れて欲しくもない、というような気配だった。

 他に話す人がいないからか、真はしばしば医師から病状説明を聞く破目になった。
「いつもついていらっしゃる女の人が、てっきり奥さんかと思いましてね」
 そんなことは看護師からの情報をちゃんと確認したらすぐにわかるだろう。看護師たちは家族状況や見舞客の素性については確認しているし、もしも言葉で確認しなくても勘が鋭いのだから。
 もっとも医師がそう思い込むのは当然だった。真が竹流の入院を伝えた翌日から、涼子は病院に泊まりこんでいたし、始めの数日は、昼間も店を若い子たちに任せて竹流に付き添っていた。
さすがに多少元気になった竹流は、その必要はないと涼子に伝えただろう。勿論、本当はずっと傍にいて欲しいという言葉を期待していた涼子を、できる限り傷つけない優しい言い方で。

 竹流の病室で涼子に会っても、真は何となく目を合わせられなかった。
 だがその微妙な空気をやり過ごす方法は簡単に見つかった。事務所の秘書の美和が半分は心配して、半分は他の興味も手伝って、真に引っ付いて見舞いに来たがったからだった。
「大丈夫。大家さんのいない間は、先生の面倒は私がちゃんと見ますからね」
 美和は例のごとく勇ましく明るく宣言して、竹流の苦笑いを誘っていた。
「もっとも、先生には他に行くところがあるみたいですけど」
「どこにも行ってないよ」
 真は美和の勢いを何とか抑えようと、事実を否定した。

 美和が何を思ってか気合を入れてお見舞いの花を選んできていた。それを受け取って、涼子が花瓶に水を汲もうとしている。美和はするっと真の傍を離れて、お手伝いしましょうか、と声をかけた。
 涼子は硬い表情のまま、それを断っている。美和の機敏な気配、屈託のない話し方、明るい調子は、周りにいる者たちの気持ちを逸らさせない。それを涼子が複雑な思いで受け止めていることを、真ははっきりと感じていた。

 美和は真の横に戻ってくると、思い立ったように楽しげな声で言った。
「いっそ、うちに泊まったら? どうせ一人だとろくにご飯も食べないでしょ」
「うちって、それはないだろう」
『うち』というのは、美和が任侠一家の跡取り息子と同棲している部屋のことだ。美和には両親が用意してくれた他のマンションもあるのだが、彼女はほとんどそこへは帰っていない。せいぜい親に対するアリバイ作りをする時くらいだろう。

 ともかく、この突拍子もない娘には良識や常識はあるようでないし、一方ではないようで結構まともな側面もある。
「ね、大家さんもその方が安心でしょ」
 竹流は面白そうに真と美和を見ていた。
 いつか竹流が、美和と一緒にいる真を見て、昔の葉子と一緒にいるときのようだと言ったことがあった。
 葉子も遠慮しているようでいて、妹かつ姫君の立場を思い切り利用して上手く兄に甘えていた。その辺りには、ある種類の女の子にしか使えない感性の武器があるのだろうが、美和と葉子にはそういう意味では共通点があるのかもしれない。
 妹とは言っても、葉子と真は父親同士が腹違いの兄弟の従兄妹だったし、似ていない部分のほうが多い。それでも兄妹と言えば皆が納得する仲の良さだったし、そう思えば真と美和が兄妹と言っても差し支えのないくらいで、聞かされた他人が納得するくらい、彼らは雇い主と秘書という以上に親密に見えた。もっともそれは真の態度ではなく、美和や葉子の持っている天性の性質によるものなのだろう。

「真に北条さんと決闘する気があるかどうか、聞いておいたほうがいいぞ」
「残念でした。あの人は今バンコクなの。修羅場にはならないわ」
 真は、この二人は当事者を棚に上げて何を言ってるんだと思った。
「冗談じゃない。修羅場になる、ならないより、そんなことができるわけがないだろう。大体そうやって節操なく男を誘うのは辞めなさい」
「節操なく誘ってなんかないわよ。先生には下心があるからでしょ」
「馬鹿言うな。大体君は同級生の男だとか賢や宝田君を平気で家に泊めてるだろう。男はみんないい加減で、下心のある生き物だと思っていた方がいい」

 三人が三様に意見を言い合うのを見ていて、涼子が少し複雑な顔をしているのに真は気が付いた。涼子はゆっくりと目を伏せて、そのまま窓の外を見る。
 涼子の視線を追いかけるようにして見た窓の外は、明るくもなく暗くもなく、曖昧に白みを帯びてくすんでいた。
「だって友達じゃない。しかも賢ちゃんやさぶちゃんに下心なんかあるわけないじゃない。ね? 大家さん」
 美和の声は、そんな曖昧な景色など吹き飛ばすように屈託がなく、逞しく響く。
「それは分からないな。ああ見えて賢は結構口説くのは上手かったぞ。少なくともこいつよりはな」
「あら、先生は私を口説かないけど、綺麗なお姉さんたちの気を引くのは上手だもんね」

 真は涼子の引くような気配が気になって、返事をしなかった。
「ちなみに賢ちゃんは私を口説いたことなんかないわ。それに、仁さんには他に気に入った人がいたらデートしても寝てもいいって言われてるもん」
「それは北条仁のパフォーマンスだな。本当に君が他の男とデートしてベッドでも共にしようものなら、出刃持って刺しにくるかもしれないぞ」
 竹流は意味深にそう言って、涼子を気にしている真の方をちらりと気に掛けたようだった。美和もすぐにそれに気が付いたのか、いくらか声のトーンを落とした。
「それに、これは下心とかの問題じゃなくて、先生の衣食住の問題なわけでしょ。でも、先生たちの愛の巣に私がお邪魔するのは、大家さんに失礼だし?」

 何か気になったものの、その内容までは理解できないはずの美和が突いたポイントは、いくらか涼子の気に障ったかもしれないと真は思った。雑誌の記事も拙いが、身近な人間が口にすると、その内容は急に重みを増す。
 だが、大体何が愛の巣だ、近頃の若い娘は何を考えてるんだ、と真が思った途端に、今度は竹流が余計なことを付け加えた。
「確かにベッドはひとつしかないし、一つ屋根の下となればすなわち……」
 真はその思わせ振りな竹流の言い方には思わず反応した。
「そういうことを言うと誤解するだろう」
「誤解じゃないな」竹流は面白そうに言って、美和に向き直った。「こいつは時々淋しいと無意識に引っ付いてくるからな。気をつけたほうがいいぞ」
「何の話だ」

 涼子の気配を身体の左半分で感じながら、真は慌てて否定した。
 竹流がどういうつもりでそんなことを言うのか、真は理解できなかった。大体、この男は涼子の気持ちなど痛いほどに知っているはずだった。しかも、この男は決して無神経な人間ではない。面白がって言っているだけでもない。真は思わず視線を避けた。
 視線を避けてしまったのは、幾らか後ろめたい気持ちがあったからだった。実際には、竹流の言っていることは本当だった。自分でも半分は無意識なので始末が悪いが、半分はよくわかっている。

 今でも時々、何の脈絡もなくあの夢を見る。夢の内容はいつもほとんど同じだった。
 捜している。
 大概、夜の景色だったが、時には薄暗い不明な時間帯のこともある。何を捜しているのか、夢の中の真は知らない。ただ捜して歩き続けている。歩いている場所は色々だった。真の足元は短い草の感触だったり、あるいは雪を踏みしめる軋んだ音だったりしたが、風の匂いだけは懐かしい木や草や雪や生き物たちの気配を運んできていた。あるいは、明らかに都会のビルの谷間を歩いているようなときもある。だが、どこまで行っても自分以外の生きているものの姿がない。
 夢の中で何を捜していたのか、目覚めた自分は知っている。捜しているのは濡れた黒い瞳を持った懐かしいあの馬の姿だった。けれども一度も見つけ出せた事がない。気が付くと指の先からまた温度が失われている。

 夢でも見たか?
 まるで子供を宥めるように頭を抱き寄せて、冷たくなっている身体を暖めてくれるのはこの同居人だった。この現実の世界で真の恐怖を抱いて慰めることができるのは、他に誰もいない。 
 同居人は知らないのだ。他の誰かとベッドを共にしても、そのまま朝を迎えたことはない。他人と同じベッドでは、何を警戒しているのか自分でも分からないが、眠れなかった。あんなに長い間付き合っていた美沙子が相手でもそうだったのだ。夢から逃れられないとしても、無意識、などという状態にまで深く眠れるのは、この男の隣だけだった。
 同居人が他の人間と夜を過ごしている真を見たことがないのは当たり前で、多分同居人のほうは、真が誰に対しても同じように無防備になっていると思っているだろう。それを説明して、同居人の気分をよくしてやる必要はないと思っている。

「まぁ、でもお前の飯の心配をしてくれているわけだ。俺としては留守中に君がマンションにいてくれるのは構わないけど?」
 竹流は美和にそう言って微笑んだ。美和も、まるで大家さんも私も先生の保護者よね、とでもいうような分かり合った気配でその言葉に頷いている。真は余計なことを言わないほうが得策と決めて、後は黙っていた。

 竹流は少しの時間会話を楽しむと、また身体を完全にベッドに預けた。
 その様子を、真も、そして窓際に立つ涼子も気に掛けていた。
 日ごとに竹流の体は回復してきているように見えたが、未だに熱は下がりきってはいないと聞いていた。微熱になっているとは言え、大の大人がこれほども熱が続くと体力が奪われていくものなのだろう。さすがに面会人が帰るとベッドから起き上がれないようで、この頃は涼子にうるさく言われて解熱剤と入眠剤を飲んで眠りにつくようだった。
 人前では陽気なことを言いながら、竹流が心の中で何を考えているのか、誰にもわからないままだった。

 四日目に、葛城昇はもう一人の男を連れて真の事務所に現れた。真は不満そうな美和を残して、客人二人と一緒に外に出た。
 重くなってきた空は一段と暗さを増して、まだ昼時だというのに人々の足は何かを避けるように速くなっていた。三人は同じように急ぎ足で人混みを通り抜け、昇の店まで歩いた。





さて、第2章はあと1回です。
もしかして、気が向かれましたら、第3章からも入れるこの話。次々回から突入していただいてもOKなのですね。
本当に、ここまではいったい何なのでしょうね^^;
いえいえ、人物をつかんでいただくには大事で、伏線は張りまくりですけれど。
でも、途中からでも楽しめるはずです、多分。 

コラムは、作品の世界…作家さんの誰かの世界観に似ている?という話。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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☂[22] 第2章 同居人の入院(9)(改)/ 本棚お見せします 

「イワン・東道。三年前までプロのボクサーだった」
 昇が連れてきた男は、確かに見たことのある男だった。
 ソ連人とのハーフだったが、ソ連といっても東方なので、人種としてはほとんどアジア人と言ってもよかった。目も髪も黒く身体も大きいので、見ているだけでも威圧感がある。無精にならない程度の髭を鼻の下に伸ばして、顔はテレビで見たままの角ばった形で、かろうじて目元が穏やかに見えることを除けば、姿形だけで格闘家という印象を示している。
 今はボクシングジムを経営していて、若手のかなり有名なボクサーが彼のジムの所属だと聞いたことがあった。

 彼らは昇の店のカウンターではなくテーブル席のほうに向かい合って座り、自分たちのテリトリーであるにも関わらず、密談の気配を漂わせていた。
「われわれのうちで主に連絡係をしている」
 イワン・東道は口も開かずに、しかし嫌味という印象はなく挨拶をするように頷いた。ただ、その表情は強張っている。
「こいつのところは一種の中継地点だ。竹流のやつ、時々勝手に動き回っては危ないことに首を突っ込むんで、万が一ってことを考えて、あいつと行動を共にしたやつは、こいつのところに情報を漏らしていくような決まりだった。ところが今回は何ひとつ連絡が来ていない」
「どういう意味だ?」

 二人の男が自分よりも年上であることも、色々な意味で自分よりも立場が強いことも、真にはよくわかっていた。しかし、この場で丁寧な言葉を使う余裕もなかったし、何よりも嘗められてたまるか、という気持ちもあった。竹流を挟んでは対等の立場にあるという態度を貫くつもりだった。
「何か個人的な事情があったのか。しかも高瀬の爺さん、わざとらしく姿を消していやがる。まぁ、どっちにしても竹流が口を割らないとなると、高瀬の爺さんは死んでも口を開かないからな」
 真は高瀬の動じない彫像のような顔を思い出した。それでも、あの男は主人に忠実というだけだ。何があっても決して主人を裏切らない。昇の言うとおり主人の言いつけなら、殺されても口を開かないだろう。

「何か、ローマの方の事情なのか」
「いや、今のところは国の大親分が動いている気配はないんだけどな」
 そう言ってから、昇はちらりと東道と視線を合わせた。それは、どこまで真に話すか、という打ち合わせをしている目に見えた。
「ただひとつ分かったのは、竹流は今回一人ではなかったということだけだ」
「一人で行動させないようにしているんじゃなかったのか」
「そのつもりだが、あいつは鉄砲玉みたいなところがある。お前さんもよく知ってるだろう」
 それはそうだが、何となく協力はできないという話が出てきそうに思えて、つい嫌味を言いたくなった。
「俺のところに一人だけ連絡を寄越さなかったやつがいる」
 東道が初めて重い口を開いた。声も重低音でよく響く。
「どういう意味だ?」
「招集を掛けた。非常事態につき、いかなる場合でも連絡せよ、と。ところが非常事態に応じないということは、そいつがもっと非常事態にあるということだ。不可抗力で応えられないにせよ、故意にせよ」
「それは、誰だ」

 聞いて分かるとも思えなかったが、かろうじて繋がりそうな何かにしがみつきたい気持ちだった。だが、その問いが出れば言おうと準備していたかのように、東道は一瞬で拒否の態勢に移った。
「これは我々の問題だ。仲間内の事はこちらでカタをつける。だからあんたは手を引いて欲しい」
 真はこの言葉が出ることは始めから覚悟していたので、驚かなかった。この男たちが自分たちのボスを守るためなら何でもするということも、他人の介在を喜ばないということも、真にはよく分かっていた。
 イラついては駄目だと思っていたので、冷静に受け止めたつもりだった。
「勿論、その仲間の件についてはあんたたちでカタをつけたらいい。だが、竹流があんな状態である以上、しかもこの上に何かをしでかそうとしている以上は、俺も放ってはおけない」

 昇は真の顔を見つめていた。東道のほうは明らかに睨みつけるような目つきだった。ついこの間まで竹流にしがみついている小僧のようだった真が、急に大人になって何かを要求してきているように思ったのだろう。
 真にもその自覚があった。彼ら竹流の仲間にしてみれば、こんな素人の小僧が竹流の傍でうろうろしていて、しかも竹流を危険に追い込んだり状況を悪くしたりしているように思えて、面白くないのは当たり前だろうと感じた。
「あんたには何もできない」
 東道が低い声でゆっくりと言った。
「以前とは違う」
「たった二年ばかりで偉くなったもんだ。しかも小僧の頃は、反射神経がいいだけのひ弱な餓鬼だったくせにな」

 真は思わず東道の顔を見た。そうか、伯父が失踪した後で竹流に連れて行かれたボクシングジムで、まだ若かった当時将来有望なこのボクサーの顔を見たことがあった。もっとも、葉子を守ると宣言したために、あの頃は真もかなり無茶なしごきを受けていたので、そのジムでまともな意識を維持していた記憶はない。剣道と違って、己の拳ひとつで戦うボクシングは、あの当時の真には相当ハードなものだった。竹流同様に、そのジムのオーナーも全く加減を知らない男だったからだ。
 真は東道の嫌味には返事もせずに黙っていたが、ここで引き下がるつもりはなかった。

 竹流の仲間たちが自分に良い感情を抱いていないのは分かっていた。
 真が彼らと関わったのは二年前だった。同居を始めてから街で面白い噂が流れているのを放っていたせいもあったが、外国人のシンジケートが海外から日本への密輸ルートに、竹流が持っている美術品の輸入ルートを欲しがったことがきっかけだった。竹流の輸入ルートは、表に出てもいい部分とよくない部分を上手くあしらえる特別な流れがあった。しかも美術品は管理がうるさく、手続きは煩雑で、輸入管理者でも相当の者でない限り手を触れることはかなわない。万が一にでも傷つければ、莫大な補償を請求されるとあっては、下手に手を出せないのだ。それだけに、怪しいものを隠して密輸するには恰好の方法だった。
 真を押さえればあの鼻持ちならないイタリア人は言うことを聞くだろうと、彼らが思ったのももっともだった。彼らは真を捕えて怪しい薬を使い、その手の趣味のある連中の中に放り込んで身体を自由にさせた。
 それがイタリア人の怒りをあれほどに爆発させる結果になるなどとは、思ってもみなかったのだろう。

 もしも竹流の仲間が止めなければ、竹流は新宿で戦争を仕掛けるところだった。
 そんなことをすれば、その先どういうことになるか分かっていたのか、あるいはそれでも止められなかったのか、竹流の怒りは半端ではなかったようだった。
 もっとも、真は後で他人から聞かされて知っただけだった。あのまま放っていたら、新宿はまさしく血の海になっていたぞ、と。だが、その時竹流は真にはこう言っただけだった。
 野良犬に噛まれたようなものだ。忘れろ。
 あの時は慰めてくれようともしなかったし、一時は目も合わせてくれなかった。だが、それが彼の怒りがいかに深かったかを表しているなどとは、真の方も思いも寄らないことだった。
 しかし竹流の仲間の方は、あの件で真の存在を警戒しているはずだった。もしも真の身に何かあれば、竹流がまた突拍子もない行動に出るのではないかと。個人的な感情に突き動かされるような行動は、どんな事態に陥っても破滅するまで歯止めが利かない可能性があることを、皆が知っている。

「あんたたちも、どうせ竹流から何も聞き出せなかったんだろう」
 彼らが竹流の見舞いに行ったか様子を見に行ったことは、容易に考えられた。その上で、竹流が彼らにSOSを出したとは考えにくかった。
 適当にカマをかけたつもりだったが、それは図星だったようだ。
 東道が相川真という存在を面白くないと感じているのは、真にはよく分かった。隣で昇が少し諦めたような表情で東道と真を見ていた。
 もちろん、東道も、簡単に助けを求めてこないボスに歯がゆい気持ちを持っているのだろう。
「とにかく、あんたに協力する気はない」
 そう言うと東道は先に席を立った。昇は出て行く東道を見送ってから、真に言った。
「つまり、我々もあんたと同じくらい八方塞がりってわけだ」
 真はその言葉には嘘はないと思った。





第2章、完結です。
次回からは第3章『同居人の恋人たち』。
また冒頭にあらすじを入れますので、ここまでを読み返すのが面倒だけれど、これから読んでやろうという奇特な方がおられましたら、第3章からでもお入りください。

コラムは我が家の本棚。ちょっと覗いてみませんか?
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[雨23] 第3章 同居人の恋人たち(1)/第2章あらすじ付  

第2章 あらすじ

同居人・大和竹流が仕事の内容も告げずに出かけて3週間、新宿の調査事務所所長・相川真のところに、警視庁の捜査1課の女刑事・添島麻子刑事から電話がかかってくる。
竹流が怪我をして入院しているというのだ。病院へ行くと、竹流の怪我は真の想像以上に酷いもので、山梨の県道で見つけられてから数日意識がなく、昨日集中治療室から出たばかりなのだという。その上、修復師として『神の手』と言われていた右手まで傷つけられていた。医師はその手が元通りに動かない可能性を告げ『まるでいたぶられたようだ』と言うのだが、当の本人は話をはぐらかして何も言おうとしない。はるかに年上で、自分が頼ってばかりいた相手が傷ついてベッドから離れられないでいる姿など初めて見た真は、いつものように身体の関係だけを続けている銀座のバーのママ・深雪に会ったりしながらも、頭の中では竹流のことでいっぱいになっている。
しかも、竹流の背中には数年前の古い火傷の痕があるという。真は同居してから彼の背中など見たことがなかったことに改めて気づき、さらに竹流が自分に何も話さないでいることに傷ついたり、イライラしたりしてしまうのだった。
竹流の恋人の一人であるブティックのオーナー・室井涼子に入院中の竹流の世話を頼み、何も話そうとしない竹流の怪我の事情を知るための糸口をつかもうと、真は竹流の仲間であるゲイバーのママ・葛城昇を訪ねて事情を聞こうとする。しかし、昇も元ボクサーのイワン・東道も何も知らないという。竹流の仕事仲間たちは、ボスである竹流のためなら何でもするような連中で、真に、自分たちで何とかするから、お前は引っ込んでろと告げるのだった。

…さて、第3章【同居人の恋人たち】を始めたいと思います。
第1章のあらすじは第2章の始めにあります。
ふたつ読んだら、十分に今からでもお話についてくることができますので、よろしければここからでも参戦してみませんか?
長いお話ですが、この第3章はどちらかというと、登場人物を紹介するような章です。
気楽に、お付き合いください。





 この二日間、竹流の許しを得た美和はマンションにやって来て泊り込んでいた。
 美和は意識しているのかいないのかはともかく、Tシャツに半パンツというかなり挑発的な格好でうろうろしていて、風呂上りなどは栗色のソバージュヘアをポニーテールにしてうなじを見せて、平気で真のすぐ横に引っ付いて新聞を覗き込んだり、テレビを一緒に見たりしていた。

 ここ数日はそれなりに仕事も入ってきて、その日真は家出をしている二人の中学生を捜しに高崎まで出掛けて行って、本人たちと会ってきたところだった。高崎までの足取りを確認するのには二日かかったが、中学生もそろそろ金がなくて心細くなっていたところのようだった。
 家にすぐには帰りたくないというので、今日は宝田が預かって、事務所の上の彼のねぐらで面倒を見てやっている。彼らにとって宝田のようなアウトサイダーは、懐くことはできなくても、自分たちの境遇を不幸に思わずに済むきっかけにはなるだろうと思えた。
 明日は彼らを家に帰るようにしてやらなければならない。親の種類によってはかなり骨が折れるのはこれからだった。

 そういうことをぼんやりと考えながらも、美和の素足の脹脛が気になった。これで誘っているつもりはないと言われても困るな、と真は思った。
 それで三日目には事務所を出るとき、ドアに鍵を掛けながら、傍らの美和に言った。
「いくら北条さんがバンコクでも、三日も留守だと心配するだろう。今日は帰って電話を待ったらどうだ?」
 美和はちょっと唇を尖らせるようにして真を見た。
「どこかに行く気なんだ」
 そう言ってから美和はくるりと表情を変えて、にっこり笑った。
「先生って女を口説かないって顔をしていながら、結構怖い人と付き合ってるんですね。絶対騙されてるんだから、気をつけたほうがいいですよ」
 尤も、美和の口調はと言えば、顔の表情とは裏腹で、かなり怒っているように聞こえる。
 それにはまともに答えずに、真は美和をマンションまで送った。どこからそんな話を聞いたのだろうと思ったが、聞きとがめるほどの事でもない。

 そのまま直接深雪の店に行った。
 店に入ると、テーブル席で深雪が視線の厭らしそうな太った中年男の相手をしていた。ちらりとそれを見遣って真がカウンターに座ると、深雪はすぐにカウンターの内に入った。テーブル席を立つタイミングを見計らっていたのだろう。
 カウンターには、明らかに水商売と分かる、派手な服を着た女が一人座っている。深雪よりも年下だろうか、静かに飲んでいる水割りのグラスにかかった手は綺麗で、爪は磨かれているもののマニキュアの色はなかった。美人というよりも、凛とした気配で、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。任侠映画に出ていたなら啖呵でも切りそうな、強いムードを感じる。
「どうかしたの。貴方が同じ週のうちに二度も来るなんて」
 山崎の薄めの水割りをいつものように手際よく作って、深雪は優しげな言葉で真に話しかけてきた。
「同居人が入院してて」
「まぁ、どうしたの?」
 彼女は真と同居人の関係をどう思っているのだろうか。聞いたことはないが、世間並みには興味深く見ているのだろう。
「ちょっと事故にあったんだ」
 真は言葉を濁したが、深雪はカウンター席に座る他の客の水割りを作りながら、ちらりと真の顔を見てから、優雅に目を伏せるようにして視線をグラスに戻した。
「それで、この間あんなに荒れてたの?」

 真はついこの間深雪に会ったときのことを思い出してみたが、確かに竹流が入院していると聞かされて病院に行った日のことだ。深雪に泣かれたことをふと思い出し、真は答えに窮した。それでも、深雪があの時、真の尋常ならぬ気配を感じていながらあっさりと受け流してくれたことは、ありがたいと思っていた。
「ちゃんとご飯、食べてたの?」
 何故かみんなが同じ心配をする。それほど一人では飯も食べられないという印象を世間に植え付けているのだろうか、それともあの雑誌のインタビューのせいか。
 そう思ってから、何だって同居人が入院していることと自分が荒れていることが結び付けられたんだろう、と思ったが、敢えて聞くのも妙な気がした。

「うちのうるさい秘書が何かとお節介で」
 何気なく言ってしまったが、不意に深雪が僅かながら複雑な顔をしたことには気が付いた。
「ネクタイピンの彼女ね」
「ネクタイピン?」
 聞き返しながら、真は思い当たる節をすぐに探し当ててしまった。
 三ヶ月ほど前、確かに深雪のホテルにネクタイピンを忘れた。それがよりにもよって美和が真の誕生日にと買ってくれたもので、せめて一週間に一度くらいはつけてね、と例の可愛らしい調子で言うので、決まって金曜日にはつけていたものだった。
 普段からネクタイをして仕事をするわけでもなかったが、金曜日は必ず名瀬弁護士の事務所に行くので、その時はスーツにネクタイという格好をするため、丁度よかったのだ。
 そのネクタイピンが、土曜日の夕方、そろそろ帰ろうと片付け始めたデスクの上に置かれて、美和が拗ねたように言った。
 もう忘れないで下さいね。
 すぐに深雪が届けに来たのだろうと思ったが、次に深雪に会ったのは金曜日ではなかったので、そのまま聞くのを忘れていた、そのネクタイピンだった。

「あの時は、用心棒みたいな人があとをつけてきたのよ」
 深雪は幾らか面白そうに笑って言った。
 多分ネクタイピンを受け取った美和は、宝田に深雪のあとをつけさせたのだろう。だから美和は深雪の事を知っていたのか。少し聞き込めば、深雪の素性くらいすぐに分かっただろう。
 それに不器用な宝田の尾行では、素人だって気が付いただろう。それでも、宝田のような一見その道の男に見える人間にあとをつけられて、動じなかった深雪はたいしたものだと思った。

「姉さん、私、そろそろ行くわね」
 カウンターの二つ向こうの席に座っていた女が立ち上がった。座っていた時にはわからなかったが、かなり背が高い。スリットの入ったスカートから覗く脚は優雅で美しい。女は意味深な視線を真に向け、その後で深雪に微笑みかけた。
「今日はお店?」
「ううん、例のボランティアよ」
 深雪はわざわざその女を見送りに店の外まで出て行った。
 深雪の友人関係や仕事上の付き合いをいちいち確認するのはどうかと思っている。それではまるで自分が深雪の恋人で、深雪を束縛する権利のある男だと考えていることになる。真にも独占欲がないわけではないし、付き合っている女が他の男とセックスをしたり、いやそれどころかさっきのような太った中年男に膝をさすられたり、あるいはただ親しげに話しかけたりしている場面であっても、見ているのはあまり気持ちのいいものではない。たとえ、商売でそういうことをしているのだと知っていても、しかも真自身が彼女の恋人でも何でもなくても、誰か他の男に触れさせたいとは思わなかった。だが、今の真にそこまでの権利も覚悟も何もない。

 深雪のほうも、真が彼女を占有する権利のある男だとは思ってもいないだろう。金を持っているわけでもないし、彼女の仕事にプラスになるわけでもない真の存在は、深雪にとって一体何だろう。深雪に言い寄る、金を持った社会的にもステータスのある男と違うのは、せいぜい若いということくらいに違いない。あるいは真がいつも感じているように、身体の相性がいいということを、深雪も感じているだけなのかもしれない。セックスがいいということは、時には他の何よりも大事な瞬間がある。
 それとも、何か特別な事情があるのか、あるいは少し年下の男を、たまには弄んでみたいだけなのかもしれない。

 だから、その夜いつものように深雪の住むホテルで求め合った後で、彼女がこう言った時、真はやはり自分は弄ばれているのかと思った。
「ねぇ、真ちゃん、もしも私がどうしてもって言ったら、駆け落ちしてくれる?」
 こうして何人の男を、この真剣で美しい瞳で手玉に取ってきたのだろうか。それなのに、深雪がしな垂れかかるように身体を預けてくると、たまらないほど甘美な気分になった。
 澤田代議士はこの女に手玉に取られているのだろうか、それとも手玉に取っているのだろうか。どちらにしてもあの男の利害に真が関わることはないだろうから、こうして無事でいられるのだろうが、風向きが変われば分からない。
「それとも、澤田が怖い?」
 真の心情を見透かしたように、深雪がさらりと言った。

 深雪の口から澤田の名前が出たのは実は初めてだった。それだけに真はかなり動揺した。それは繋がった身体の部分を通して深雪に伝わったはずだった。今の自分の動揺を深雪はどう思っただろう。
 真は返事もせずに、何かを封じ込めるように笑っていく深雪の顔を見つめていた。
「いやね、そんな顔しないで。冗談よ」
 深雪は澤田という男から逃げたがっているのだろうか。
けれども、その男から深雪を奪ってやるだけの力と金と、そして何よりも愛情が自分にないことくらい、真は重々承知していた。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨24] 第3章 同居人の恋人たち(2) 

大けがで入院している同居人・大和竹流。その恋人の一人である室井涼子はどちらかというと、気持ちがまっすぐなために苦しんでしまう大人の女です。真は嫌味を言われつつ、どうすることもできない…
そんな真のところに、怪しい電話が2本…





 翌日の昼間、仕事の合間に病院に寄ったとき、帰りがけの真を捕まえた涼子が、今日は泊まれないのと言った。そんなに毎日泊まっていなくても大丈夫だろうと言うと、涼子は複雑な表情をした。
「お茶でも飲まない?」
 真は涼子と一緒に病院の地下の喫茶室に行って、暫く無言で座っていた。個人的に彼女と二人で向かい合うのは、あの抱き合った日以来だった。今は、涼子の気配からは、そんな親しげなムードは全く感じられない。自然と真も構える態勢になっていた。
「あれからあの子、ご飯作ってくれてるの?」
「えぇ、まぁ」

 美和は特別料理が上手いわけでなかったが、マンションに来てからはそれなりに一生懸命に炊事をしてくれている。だが、そんなことを涼子が気に掛ける理由が分からなかった。
「彼女、葉子ちゃんにどこか似てるわね」
 真は思わぬ言葉にしばらく無遠慮に涼子を見つめていた。
 同居人も同じことを言っていたが、真にはそうは思えなかった。顔が似ているというわけでもないし、葉子はあんな挑発的な格好で家の中をウロウロしたりはしなかった。
「彼女がお嫁に行って、お姫様を盗られた騎士二人が、また新しいお姫様を見つけたって感じかしら」
 真は涼子が何を気にしていたのか、ようやく分かったような気がした。

 恐らく葉子は、竹流の女たちの最大のやっかみの相手だったかもしれなかった。
 いくら真が彼の身近にいても、あくまで男で、嫉妬の対象にはなりにくい。だが、葉子は別だった。葉子のことを、竹流がそれこそ言葉通り『目の中に入れても痛くない』くらい、つまり我が娘か妹のように大事にしていたのは誰の目からも明らかで、彼女の結婚式には一切の衣装や道具を準備して、一般家庭から金持ちの御曹司のところへの嫁入りに文句をつけさせなかったくらいだ。それどころか、普段名乗りを上げる事も無いのに、葉子の結婚式には本名を名乗って相手方の親戚を威圧してしまった。この俺がついているのだからこの娘を傷つけたら許さない、というパフォーマンスだったのだろう。竹流の恋人たちの誰一人として、あれほどに彼に大事にしてもらってはいないはずだった。
 女を簡単に口説き平気で手を出す男が、葉子には姫君を扱うように接する、その特別扱いは、他の女にしてみれば同性であるだけに面白くない部分があるだろう。

「あの子、貴方のこと好きなのね」
 突然思いもしないところに飛び込んできた言葉に、真は自分でも驚くほど速くに反応していた。
「それはない。第一、恋人がいる」
 涼子は返事をしなかったが、微笑んだ。好きになるのに恋人がいるかどうかは関係ないんじゃないの、というような微笑に見えた。
「あの人も、あの子と話していると楽しそうだったわ。色々と本音もこぼれるみたいだし」
「本音って」
 真は思わず口をつぐんだ。ベッドの話は確かにまずかったな、と思った。と言っても、ここでいきなり言い訳をするのも妙な気がした。

 心のどこかに存在する不可解な自分自身を感じる。その自分は涼子に、そんなに毎日側にいられたら竹流も困るんじゃないかと言いかけていた。どっちのためを思ってなのか、あの男に本気にならない方がいいと言ってやりたい。
「雑誌、読んだんでしょ」
 涼子は運ばれてきたコーヒーにはまだ手をつけていなかった。
「あれは、単に」
 涼子の何かを訴えるような視線に真はまたその先の言葉を失った。
 いくら言い訳しても仕方がないことのように思えた。彼女たちにとって事実は事実だ。真はあの男と一緒に住んでいる。ご飯も作ってもらっている。同じベッドで眠っているし、時には抱き締めてもらうこともある。だが、どれも子供をあやすようなものだ。それでも、彼女たちにはそこに伴う感情などどっちでもいいのだろう。
 その事実だけが重い。
 それに、そこにある真自身の感情は、もしかするともっと重い。
 何だか息苦しいと思えた。

「こんな時くらいしか彼の側にいれないの」
 涼子が不意に言った言葉の後ろに、真に対する僅かな嫌悪感が潜んでいることを感じる。自分が彼の側にいるからだ、と真は単純に思っていた。
 同居してからも、竹流は何度か涼子をマンションに誘った。真が遠慮して今日は相川の家のほうに戻ると言うと、竹流は別に構わないと言った。何が構わないのか、涼子のほうはいくら何でも真のいるマンションで竹流と抱き合うなどということはできないだろう。恨まれるだけの十分な理由だと真は思った。
「もしかして何か誤解しているんだったら」
 真が言いかけると、涼子は疲れたような表情で真を見た。
「大体、俺は彼の背中の火傷のことも初めて知った。雑誌の件もあいつらしい冗談だ。本当に誤解だよ」
 涼子は初めて、真の目をまともに見た。
「あの火傷のお蔭で、相手の女がどういう人間かよく分かるって言ってたわね。身体の傷のひとつやふたつはたいしたことじゃない、そんなものは深く残るものじゃないって。貴方に知られないようにしていたわけじゃないんでしょうけど」
 涼子は溜息をついた。
「貴方が彼と住んでいることなんて、別にどうって事じゃないわね。彼の背中の火傷に触れても、気味が悪いとは思わなくて、この男をなお愛おしいと思う女は何人もいる。それどころか、あの背中に触れて、もっとあの男を自分だけのものにしたいと思った女だっているでしょう。女は男の体の傷にも、心の傷にも弱いから。それを癒せるのは私だけだと信じたいのよ」
 まるで自分自身に言うように涼子は重くそう言うと、首を横に小さく振った。
「私、何を言ってるのかしらね。貴方に何を言っても仕方ないのに」
 それで涼子は話を切り上げた。

 涼子の思いの深さには何となく気が付いていた。だが、その時本当にはっきりと真は彼女の心の向きがわかったように思った。
 涼子はもうあの不倫相手を、情熱を持って愛してはいないのだろう。
 だが、新しい恋はもっと不幸で不安だった。
 その新しい恋の相手はその時だけの愛を捧げてくれるが、それ以上のものを求めることも求められることもない。例えば人生も心も全て求めているわけではない、かえってそういう足枷を嫌うだろう。そんな恋には走り出せないことは、涼子もわかっている。 
 涼子が例の不倫相手がやってくる日だからと言って帰っていく後姿を、真はぼんやりと見送った。今ではその長年親しんだ不倫相手は、彼女の精神安定剤になりつつあるのだろう。以前とは逆だった。

 コーヒーが冷めていくのを見送りながら、真はどうともできない気持ちを放り出したいと思っていた。人の感情は重くて、突きつけられるとどうしようもないと思う。自分が関わった人間の感情は、そこにもう一人の人間の感情が絡んで重みを増し、真にはどうしようもなくなってしまう。
 病室に戻ると、丁度看護師が氷枕を取り替えるついでに、竹流の左肩の包帯を巻きなおしていた。
 今更だが彼の美しいと言ってもいい身体に傷を負っている姿を見ると、この傷を負わせた相手を憎く思う一方で、その扇情的で愛おしい様子に、この傷の痛みを共有したいとも思う。涼子の言うとおり、この背中の傷は、誰かの心に強い憐憫と恋情を燃え上がらせても不思議ではない。
 看護師が出ていってから、竹流は黙って側に立っている真に話しかけてきた。
「医者に聞いたろう」
 真は目を逸らした。
「お前には、火傷したという一言では済まないからな。いつの間にか隠し事をしているようになってしまったが、別に始めからそういうつもりではなかった」

 涼子の心ではない、始末に終えないのは自分の心のほうだと思った。
 竹流の仲間にも、竹流の女たちにも、相川真という人間は鬱陶しい存在なのだろう。普段そんなことを考えることはなかったが、今ははっきりと彼らの拒否を感じていた。こんなにも彼を心配しても、その感情を共有していても、自分はひどく孤独なのだと思えた。
 その上、竹流の最も側にいて、彼の恋人にも仲間にも嫉妬の目を向けられている自分だけが、彼の背中の火傷のことを何も知らなかった。
 あり得ないほど割に合わない話だと思えた。

 真がマンションに戻ったのは九時前だった。美和はもしかしたら友達と出掛けるかも知れないといっていたので、遅くなるかもしれなかった。
 遅くなってもマンションに行きますからね。できれば、ひとりでもちゃんとご飯は食べといてくださいよ。期待してないけど。
 うるさい小姑のような生意気な口のききかたは、確かに少しばかり妹や同居人に通じるものがある。美和の心配通り、飯など口にもしていなかった真は、せめて酒でも飲むか、と同居人お気に入りのブランディの蓋を捻った。
一人でいるときに、マンションでブランディを開けるのは初めてだった。

 さっきまで気休めにと思って、最近相川の家に戻ったときに持って帰ってきていた『宇宙力学論』という本を読んでいたが、どこかから字面を見ているだけなのに気が付いていた。この本は既に絶版になっていて、父、正確には伯父の功が失踪したとき、一緒に消えた本だったが、ある時古本屋で同じ本を見かけて購入したものだった。
 ブランディをグラス半分ほど飲むと、無性に煙草が吸いたくなった。咥えてライターを取り上げると、何回か空打ちのカチカチという音がして、結局火はつかなかった。
 身体の内側で急にかっとした何かが吹き上がって、真はライターを床に叩きつけた。
 昼間のことを思い出していたのだ。何かが真の神経を逆撫でしている。
 だが少し冷静になれば、同居人の女たちのことで、あるいは同居人が背中の火傷を真に隠していたからと言って、熱くなっても仕方がないと思えた。真は煙草を吸うことを断念して、せめて落ち着いて茶でも飲もうとソファから立ち上がった。

 広いダイニングを背に台所で湯を沸かしながら、真はコンロの前に突っ立っていた。
 それにしても美和の奴、一体何をやっているのだろう。
 もう十一時になる。名瀬弁護士の事務所に行った後、病院に寄る前に事務所には一度電話を入れたが、宝田が出て、美和はもう帰ったと言っていた。もちろん、友達と遊びに行くかも、とは言っていたし、真がいらいらして心配する必要もないのだろうが、遅くなるならせめて連絡ぐらいくれてもいいはずだ。ちょっと下まで見に行こうかと思ったとき、電話が鳴った。

 美和だろうと思って受話器を取り上げたが、相手は何も言わなかった。
「大和です」
 だがそれでも相手は無言のままだった。たっぷり一分近くの沈黙の後、真は受話器をどのタイミングで置こうかと考えながら、あと数秒待とうかと思った途端に、相手の声がした。
「……竹流は、どうしてる?」
 擦れた低い声だった。思わず返事をした声も上ずってしまった。
「あんた、誰だ?」
「教えてくれ」
 これは、もしかして昇と東道が言っていた連絡を寄越さなかった仲間ではないのか。
「あんた、竹流の仲間か」
「彼は生きているのか」
「生きてる。死に掛かってはいたけどな。一体」
「彼に伝えてくれ。カタはついた、だからもう手をだすな、と。それで分かる」
「……おい」
 呼びかけた途端、電話は切れた。真は呆然と受話器を握りしめていたが、プープーという耳の奥のほうの音にようやく我に返り、受話器を戻した。
 何の話だ、と思った。何がどうなっているのか分からないうちに、最後通告のような電話だけがかかってくる。カタがついたような気配は、勿論伝わってこなかった。

 力が抜けたような気がして、気を取り直して湯を沸かしていた火を止め、お茶の葉を急須に入れて湯を注ぐ。熱湯を入れるなと同居人に怒られそうだが、今日は本人がいないので熱湯でも水でもいいような気分だった。
 それを飲みかけたとき、再び電話が鳴った。
 今度こそ美和だろうと受話器を取る。
 だが、次の電話の相手はもっと意外な人間だった。さっきの電話に比べると真っ当なものの言い方をする相手だったが、内容は同じくらい意外だった。
「相川真さんでしょうか。私、澤田顕一郎の秘書の嵜山と申します」

 真は一瞬に身体が凍りついたような気がした。下世話な噂話で、香野深雪のパトロンと言われている代議士、澤田顕一郎が一体どういう事情で真に連絡をしてくるというのか。
「澤田が一度ぜひ貴方にお目にかかりたいと申しまして、もしご都合がよろしければ、明日夕食を御一緒させていただけないでしょうか」
 嵜山という男の話し方は、真の都合を聞いているようで、有無も言わせないような気配に満ちている。
 真は冷めた頭で、悪いときに悪いことは重なるのもだと考えていた。ついに澤田の利害と自分が何か不都合な関わり合い方をしたのだろうか。それとも単なる澤田の興味なのだろうか。
 別に構わないと言うと、相手は事務的な声で言った。
「では、明日七時に事務所へお迎えに上がります」

 受話器を置いてから、さすがに何てことだ、と思った。
 せっかく淹れたお茶を飲む気力もなく真はダイニングに座っていたが、何だかますます落ち着かなくなってきた。奇妙な二つの電話と、帰ってこない美和と、三つのものが真の神経に障っている。
だが、そのうち最も解決に近そうなのは、美和の行方だと思った。
 他に考えつかず、何よりも落ち着かなくて、とにかく事務所に向かうことにした。
 地下の駐車場でエレベーターの扉が開くと、湿気がのしかかるようだった。車を出して通りに出てから窓を開けると、外は六月の肌寒い夜で雨の匂いがした。車を赤信号で停めたとき、不意に昨夜の深雪の言葉を思い出した。
 駆け落ちしてくれる?
 ……まさか、澤田にもそのようなことを言ったわけではないだろう。それに、あまり知ろうとは思っていなかったが、澤田という男は女に入れあげてホテルに住まわせるような人物ではないようだった。深雪が澤田の女だという証拠は何もないし、もしそういう事実があれば、彼の政治家としての道はスキャンダルで閉ざされているはずだ。
 新宿の街に入ると、まだ夜は宵のうちだった。





Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨25] 第3章 同居人の恋人たち(3) 

 滲んでぼやけたようなネオンの文字、時々車の方を鬱陶しそうに見る目、夜通しあらゆる種類の騒音が通りを横切る。それでもこの新宿の街は、人混みで吐き気に襲われるというどうしようもない真の病気を、多少改善させたという不思議な治癒力を持っている。あまりにも飽和状態に詰め込まれた雑多なもの、喜びも苦しみも成功も失墜も、あらゆる幸福も不幸も、そういう全てのものに触れすぎた結果、真の心の苦しみを脱感作させていったのかもしれない。どこまでも全てを飲み込み隠すような町が、真の中の何かを庇っているのかもしれなかった。
 今日両親の元に帰った中学生も、明日幸せになれるかどうか分からない。家族は一緒にいるだけで幸福とは言えないことは、この仕事を始めてよくわかった。自分のような人間は少数だと思っていたが、そうではないのだろう。

 車を隣のビルの地下駐車場に入れてドアを閉めた時、風でうるさいから閉めるようにと書かれた張り紙が、ばたばたと音を立てていた。地下駐車場は二十台ばかりの車が停められるようになっていて、時々通りを吹き抜ける風がここまで入り込む。だが今日の場合は階段室の戸が開いているからだった。
 夜間なので、この階段を上がってもビル自体の玄関が閉まっている。それでも安全性を考えれば、まったく防犯の意識がないと言える。真はその扉を閉め、車の通ってきた通路を上がり、表に出て隣のビルへ向かった。

 調査事務所が入っているビルの階段にも風が舞っていた。真はふと息をついて、一気に階段を駆け上がった。階段の蛍光灯は切れ掛かっていて、時々妙な音を立てている。遠くはない彼方でパトカーか救急車のサイレンが奇妙な振動を残している。
 階段を上がりきったところで、目の前の状況に一瞬足が止まった。
 薄暗い廊下の明かりの中で、事務所のドアが開いているのが目に入った。
 明かりがついているならば違和感もなかったが、明らかに事務所の中は暗がりだった。真は物音がないことだけを確認して、事務所の入り口の電気を手探りでつけた。

 全く見事に荒らされている。
 一度そういうことがあった後で、個人情報が入ったようなものは奥のセキュリティのついた部屋に入れるようになった。だが、それも無駄と分かると、今度は場所を変えて本当に大事なものは、三階の宝田が寝袋を持って転がり込んでいる住居兼事務所の空き部屋の奥に入れるようになった。竹流の仲間の誰かがセキュリティを入れてくれたらしく、万が一破られても証拠が残るようになっている。尤も、最高のセキュリティは『貴重なものがあるようには見えない』ということだ。汚らしく一見何もないように埃に埋もれている部屋だけに、誰も大事なものがあるとは思わないだろう。
 しかし、今日の相手はそういうものには興味を感じなかったようだった。

 随分とひっくり返されている。ふと見ると、留守番電話のテープを入れる部分が空きっぱなしでそのテープが消えていた。何もないのでそんなものでも持っていったのかもしれないが、いくつかのどうでもいいフロッピーや他のテープ類、ビデオも消えていることがわかった。
 その時、階段を上がってくる高い靴音が響いて、事務所の前で止まった。真が振り返ると、立っていたのは、田安の店に出入りしている楢崎志穂だった。

 志穂は部屋を見回していた。
「ひどいわねぇ。よくもまぁ、こんなに引っ掻き回したものだわ。何か盗られたの?」
 この間澤田と深雪のことを聞いて真の気分を害したことなど、彼女はもう忘れているのだろうか。真が返事をせずに視線を外すと、楢崎志穂のほうも視線を外した。
「そんな顔しないでよ。この間は悪かったわ」
 それから彼女はもう一度事務所の中をゆっくりと見回した。
「何しに来たんだ?」
「別に。あなたがいたら謝ろうかと思って通りかかったら、電気がついてたから」
「謝る?」
 気分は害したが、別に謝られるようなことでもないと思った。
「私が悪いことを言ったとは思ってないけど、あなたは気分が悪かったでしょうから。留守電のテープがないの?」
 志穂は真の側までやって来てデスクの上を覗き込んだ。

「他には?」
「美和が帰らない」
「あなたの秘書?」
「共同経営者だ」
「彼女ならあなたが居候しているマンションに帰ったわよ」
「どうして知っている?」
 深雪や澤田のことならともかく、一体何故この女が美和のことまで知ってるのかということを理解できず、真は彼女を見た。
「ある男をつけてたら、たまたま彼女も同じ男をつけてたのよ」
「男? 誰だ?」
「さぁ。あなたの秘書に聞いたら?」

 真はしばらく考えを巡らせたが、ようやく質問に思い至った。
「まだ澤田のことをどうかしようと思ってるのか」
「あの男は仇だから」
 真は思わず楢崎志穂の顔を無遠慮に見つめた。
「どういう意味だ?」
「だから、香野深雪にどういうつもりか聞いて欲しいって言ったでしょ」
「君の言っていることは訳がわからない」
「あなたが味方をしてくれるなら話すけど」
 真はわざとらしく息をついた。
「訳が分からないのに味方にはなれない」
「でも、澤田に呼び出されたんじゃないの?」
 ますます理解できない事態になって、真は黙って志穂の勝気な顔を見つめた。
「どうしてそんなことを知っている?」
「いいじゃない、どうでも」

 一瞬部屋の中が静寂になると、外の車の音や何かの騒音が耳についた。宴会帰りの集団の叫びらしいものに被さるようにパトカーのサイレンの音が近付き、そのままスピードを緩めずに遠ざかっていった。湿った空気が古い建物の鉄の窓枠のわずかな隙間から滑り込んでくるように感じる。
 真はまだ志穂を見つめたままだった。志穂の幾分か厚めの唇が、外のネオンの赤を跳ね返して僅かに意地悪く笑った気がした。
「怖い?」
「何がだ」
「澤田があなたをどうしたいと思っているのか。そりゃあ、愛人を寝取った男に優しい言葉は掛けてくれないでしょうから」
 そう言ってから真の顔を見て、志穂はくすくすと笑った。
「冗談よ。澤田がその気なら、とっくの昔にあなたを叩きのめしてるでしょうから。特別に教えといてあげるけど、彼は自分の愛人の恋人に興味を持ったんじゃなくて、あなたの素性に興味を持ったのよ。それがたまたま自分の愛人の恋人だった」

「素性?」
「あなたは、おめでたく自分のお父さんが脳外科医だと思っているんじゃないでしょ」
 真はさすがに息を飲み込んだ。何故この女がそんなことを話しているのだろう。自分には縁もゆかりもない女だ。
「一体、そんなことを探ってどうするつもりだ?」
「別に探ってなんかないわよ。でも、あなたも気を付けたほうがいい。あなたの知らないところで、あなたの値段はつけられてるのよ。誰かがそれをどう料理するか考えている、あなたの意思なんか何も関係ない。だから、私の味方をしてくれたほうが為になると思うわ」
「俺の、値段?」
「そう、あなたの値段も、あなたの同居人の値段も」
 真は思わず志穂につかみかかった。
「どういうことだ。同居人って、彼に何かした奴のことを知っているのか」
 志穂は心底驚いたような顔で真を見つめていた。暫く見つめ合ってから、志穂はようやく納得のいったような顔で俯いた。
「誰が何をしたのかは知らない。でも、彼の値段は特別に高いと思うわ。特に、あなたにとってはね。澤田に会って確かめたらいいわ」
 真はようやく志穂を摑んでいた手を離した。

 志穂はまだ少しの間真を見つめていたが、鼻だけで笑うと、じゃあ、と短く挨拶をして出て行った。荒らされた部屋に一人残されると、気分がますます滅入ってきた。
 もしも、澤田が深雪と寝ている男としての相川真に興味を抱いているのではなく、楢崎志穂の言ったとおり、相川真の血筋に興味を抱いているのなら、それはもっと性質が悪い話だと思えた。
 だが、冷静に考えると、もし澤田が竹流の怪我に何か関わっているのなら、澤田からの食事の誘いは願っても無いチャンスだった。

 真は派手に荒らされた事務所をもう一度見回した。床に散乱した紙や本、ファイル、開けられて中身を引っ掻き回された机やキャビネットの引き出し。元にあった位置がわからなくなっている紙類や本はともかく、机や椅子が壊された気配はなかった。
 事務所の片付けは明日にしようと思った。こんな夜中にこれを片付けるのは気が滅入る。宝田に伝言をしておかないと朝びっくりするだろうが、彼は今頃鼾をかいて眠っているだろうから、起こすのも可哀想な気がするので、彼の驚く分は仕方がないと思うことにした。
 結局真は宝田が慌てる顔を想像しながら、事務所に鍵だけを掛けてマンションに戻った。

 地下駐車場に車を停めて直接部屋に上がると、薄暗いリビングの隅で内線電話のランプが点滅していた。受話器を上げてコンシェルジェに事情を聞くと、真は部屋を飛び出してエレベーターでロビーに下りた。ロビーのソファで美和は背を向けて座っていた。向かいに回ると、思い切り膨れ面だった。
「遅くまでどこ行ってたんですか」
 真は思わず娘を持つ父親の心境になっていた。
「君を捜しに行ってた。遅いのはそっちだ」
 美和はどうして、という顔をした。真は、住人のプライバシーには興味なさそうな上品なコンシェルジェに軽く頭を下げて、美和を引っ張ってエレベーターホールに向かった。
「私だって遅くなることくらいあるわ。遊びに行く事だって。もう子供じゃないんだし」
 美和の言葉が終わるか終わらないかでエレベーターの扉が開いた。中に乗り込んで、ドアが閉まってから真は美和の顔を見ないまま言った。
「女の子が夜遅くまでふらふら遊び歩くんじゃない」
「父親みたいに私に指図しないでよ。それに私、遊び歩いてたんじゃないわ。ちゃんと話を聞いてから怒ってよ」

 確かに自分が美和に怒る筋合いではないな、と思った。その真の表情を見たからか、美和はちょっと楽しげな顔になった。
「何か、口うるさいお父さんと一緒にいるみたい。先生の妹さんって大変だったでしょうね。夜、友達と遊びにも行けない」
 エレベーターを降り、部屋に入っても、真は話すべき言葉を上手く探せなかった。美和が時々、半分楽しそうに自分を見ている視線を感じる。居間に入って上着を脱ぐと、ソファの背に投げ出した。真が言葉もなく座ると、美和はべったりと横に引っ付いてくる。
「落ち込んだの?」
「悪かった。俺が怒る筋合いじゃないし」
「ちゃんと話も聞いてないし」
 そう言って、美和は真の顔を覗き込み、本当に身体ごと引っ付いてきた。

 生活とか態度は滅茶苦茶のくせに、美和は勘の鋭さと素晴らしくよく回転する頭を持っている。そのくせ、しゃべっている内容にどこまで本気でどこから冗談なのか分からない部分がある。やはり葉子に似ているとは思えなかった。葉子も確かに賢くて勘の鋭いところがあったが、こういう鉄砲玉のようにしゃべるけたたましさはない。
「誰をつけてたんだ?」
「どうして知ってるの?」
「ちょっとな」
 説明しがたいところだ。
「本当はね、先生が病院に行くって出て行ってから、私も病院に行って、そのまま一緒にマンションに帰ろうと思って追いかけたの。でも、病院には先生も涼子さんもいなくて、知らない男の人が面会に来てた」
「知らない男?」
「うん。見たことのない人。あんまり大柄じゃなくて、一見老けた感じだったけど、肌の艶からは四十は超えてないかな。何を話しているのかは聞こえなかったけど、敵って感じじゃなかった。でも大家さんの話し方や態度を見ていると、親しい人って感じでもなかったし。それで後をつけたの」
 真は何気なくそういうことを話している美和を見つめた。
「どうしてそういう危ないことをするんだ」
「いいじゃない。無事に帰ってきたんだから」
 真が言い終わらないうちに美和が言葉を被せるように言った。不意に美和が驚くほど顔を近づけてきたので、真は思わずひるんだ。
「それが途中で見つかっちゃったの。で、下手に関わると危ないから絶対に関わるなって。先生にもそう伝えろって」
「その男が言ったのか」
 美和は頷いた。

 その話はそれまでだった。真は美和が風呂から上がってくるまで、居間のソファで煙草をふかしていた。
 澤田と竹流にはどこかに接点があったのだろうか。それとも深雪と? しかし、竹流の普段の態度から深雪と関わっている感じはなかった。竹流は真が深雪と付き合っているのは知っていたし、もしも何か危ない女ならそれなりの警告をしてきそうだ。では、やはり竹流と澤田に接点があったのだろうか。
 いや、そう言ったのはあの女、楢崎志穂だけだ。彼女の言葉を信じるなら、というだけで、まだ信じるべきかどうかさえわからない。踊らされては駄目だと思った。
 だが、澤田の秘書は事務所ではなく、このマンションに電話を掛けてきた。真の事務所ではなく、竹流のマンションに、だ。そこに真がいることを知っている。もっとも、考えてみれば全国誌で同居していることを話したわけだから、誰だって知っているといえば知っている。電話番号を調べることくらいは、その気になれば簡単な話だ。

 美和が考え事をしている真の向かいに座った。例のごとく短すぎるショートパンツだ。年寄りくさいが、腰が冷えるからもっと温かい格好をしなさいと言いたくなる。
「先生、私今日ソファで寝るね」
 考えてみれば、もう一部屋、賢二が以前ここに居候していたときに使っていた客間があるわけで、そこならベッドがないわけではない。しかし半階下になるような造りになっているその部屋は、ちょっと遠いところにあるようで、あまり普段は入ることもない。
「構わないから、ベッドで寝なさい」
「じゃあ、一緒に寝よ」
 真は、全くこの娘は、と思って美和を見つめた。






さて、ちょっとばかり秘書/共同経営者といちゃついているように見えますが、この二人はこれから先の生涯、男と女というよりも兄妹もしくはちょっとした運命共同体という形になっていきます。
ちなみにこの美和ちゃんは、そもそも私たち(友人たち含む)の学生時代、あれこれ興味津々だったころのイメージを形にしたようなもの。
時々、インタビュワーの役割も果たしてくれます。
だから真のことにも、あれこれ興味を持っちゃうのですね。

ちょっとしばらく、二人の気持ちの行き来をお楽しみくださいませ。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨26] 第3章 同居人の恋人たち(4)/三国志泥人形 

今回から2回分、ベッドの上で美和ちゃんと会話しているだけの真…^^;(18禁なし)
でも、単なる『修学旅行の会話』です。
調査事務所の共同経営者同士(所長と秘書ともいう)、同僚以上、友達以上、でも兄妹未満、恋人未満。
これからたくさんしんどいこともあるけれど、美和ちゃんはいつでも真にとって恋人未満の大事な存在。
多分、真の死後もそれは同じことで……
お互い、結婚は別の人とするんですけれど。
さて、この会話の中で、真という人物を少し紐解いていっています……
会話メインですので、よろしければ楽しんでくださいませ。






「別に何もしないでしょ。いいじゃない」
「そういう問題ではない」
「どうして? やっぱり我慢できなくなっちゃいそう?」
「馬鹿なこと言ってないで、早くベッドで寝なさい」
「やだ」
 子供のように美和がまた膨れるので、真は大袈裟に溜息をついた。
「じゃあ、ここで寝ろ」
 そう言って、とりえずは自分が寝室のベッドで寝ることにした。

 週に二日はマンションに来て家事をしていってくれる高瀬登紀恵が、洗濯して畳んでいってくれた中で、無意識のうちに自分の寝巻きではなく竹流のシャツをひっかけて、いい加減にボタンを掛けると、真は後でソファと代わってやろうと思いながらベッドに潜り込んだ。
 潜り込んでから、ベッドの中に残っている微かな香りにほっとして、あの男の匂いに安心している飼い犬の気分になった。

 簡単には眠れるわけがなかった。美和がここに泊まるようになって、さすがに女の子をソファで寝かすわけにはいかず、自分が何日かソファで横になっていた。眠れなかったのは、他人が近くにいるからだけではなく、ベッドに横になれないからでもなかった。
 今も、美和の挑発よりも、隣に彼の気配のないことに堪えられなくなっているように思えた。寝返りを打つと、ベッドの窪みが変わって、身体を包み込むようにまとわりついてくる。
 まるで悪夢のようだ。
 もう幾日この寝苦しさと闘っているのだろう。涼子のように臆面もなく病院に泊まりこめる立場ならよかっただろうか。だが、彼女のように、ただ傷ついた男の傍にいるだけで満足することはできないだろう。焦っているのはあの男の傍にいることができないからではない。あの男がわけも話さず、一人で何かを抱えたままだからだ。

「先生」
 美和が居間と続きのドアから顔を出した。
「どうした?」
 真は思わず跳ね起きた。
「やっぱり一緒に寝ていい?」
 真はいい加減に着ていた竹流のシャツを調えた。真が返事をする前に、美和はもうベッドの近くまで来ていて、潜り込もうとしていた。
「知ってると思うけど、男はみんな狼だぞ」
 気の利いた言葉も言えず、真はとにかく慌ててそう言った。
「知ってる。すごくいい例が近くにいるから。でも先生は無害なんでしょ」
 自分の付き合っている男をそういうのもどうかと思うが、確かに北条仁はその代表格と言って間違いなさそうだ。いや、そんなことに感心している場合じゃない。
「じゃあ、これは知らなかったかもしれないが、無害そうな男が一番危ない。近所の優しいお兄さんが、幼女暴行の犯人として捕まえられることも多いだろう」

 真としては、慌てたとはいえ、目一杯説得力のあるつもりで言ったが、美和はちょっと考えてから笑い転げてしまった。
 真は仕方なく溜息をつき、真面目な声で言った。
「美和ちゃん、これは絶対良くない」
「そうかなぁ。私は単に一人で寝るのも淋しいと思うだけで。お兄ちゃんがいたらこんな感じかなぁと思っただけなのに」
 それはまさに殺し文句だった。自分がソファに移るという選択枝がぶっ飛んでしまって、真は仕方なく、そのかわり離れているようにと言って美和をベッドに入れてやった。
「ね、本当にいつも大家さんと一緒に寝てるの?」
「寝てるって、隣にいるだけだ」
「別に変だなんて言ってないわよ」
 美和はそう言ってちょっと深く布団に潜り込んだ。人が動く気配が妙に心地よい気分にさせる。眠れるかどうかは別の問題だが。

「香野深雪って澤田代議士の愛人なのかなぁ。澤田代議士って愛人がいるような人じゃないと思ってたけど」
 唐突に美和が話しかけてきた。内容が内容だけに真は驚いたが、あくまでも冷静に答えた。
「それはよくわからない。どこかの悪趣味な週刊誌ネタで、全く根拠もないんだろう。澤田を、知っているのか」
 美和が澤田について何か知識を持っているのかも知れないと思った。自分が見ないようにしてきた、世間が知っている当たり前の澤田の姿についてだ。
「うん。ずっと昔だけど、祖父の土地を売ることになって、その時色々と世話になったって言ってた。今ではその土地、新幹線が走ってるけど。その時父は選挙に出てて、澤田代議士が応援に来てくれてたみたい。私は握手して地方新聞に載ったの」
 何気なく聞いたのに、随分個人的な思い出話で真はさらに驚いた。
 半分は美和がやはり地方の実力者の血縁だということを確認したからだったが、意外なつながりだと思った。
「先生、あんまり関わらないほうがいいと思います。他に女の人なんていくらでもいるじゃない。何も深雪さんじゃなくても」
 急に真面目な声で美和が言った。
 それがそういうわけにもいかないのだ、と真は心の中で思っていた。深雪を身を焦がすほどに愛しているわけではないが、彼女の身体とは離れられないと思う。そう考えれば、自分は随分あさましい男だと思えた。

「ね、先生、初体験っていつ?」
 ついさっきまでしんみりとした調子で話していたのに、美和は唐突にどこかの悪趣味な雑誌のインタビューのような質問を投げかけてきた。
「お前、何だか話をそういう方向へ向けてないか?」
「知っててもいいでしょ。優秀な秘書としては」
 薄暗いフロアライトの灯りの中でも、美和の悪戯っぽい目が潤むように光って見えていた。多分、この娘は、すべてに対して大真面目なのだろう。冗談で何かを言っているわけではないのかもしれない。
「知らなくてもいいだろう」
「はーん、何かやましいことしてるんだ」
「してない」
 やましいといえば、やましい部分はある。だがそれは、美和に対してではなかった。
「年上の人?」
 少し間をおいて、美和が真摯な声で聞いてくる。女というのはこういう時、本気でなくとも演出して可愛らしさを装うことができる人種だ。だが、美和に関して言えば、もう慣れてしまったからなのか、少しも嫌な気がしないのが不思議だった。
 多分、美和には裏表がないからなのだろう。

「俺の話なんか追求しても面白くないぞ」
「うん。でも聞きたい。何か、修学旅行のときこうやって友達と布団潜ってエッチな話とかしたの、思い出すなぁ」
「修学旅行って、高校のか?」
 何てませてたんだ、と思って聞き返すと、美和はあっさりと答えた。
「中学だよ。高校生はだんだん体験に真実味が入ってくるから、皆でそんな話はしないのよ。中学生はまだちょっと夢物語じゃない? 先生も修学旅行の時、そうじゃなかった? 男ってやらしいからそんな話ばっかりしてたんでしょ」
「修学旅行は行ってないから知らないな」
「え?」美和が未確認生命体でも見たように、高い声を上げた。薄明かりの中で慣れてきた目は、相手の顔をほぼ認識できるようになっている。「どうして?」
「さぼったんだ。行きたくなくて」
「どうして?」
 どうして、を二度繰り返して、美和はびっくり一杯の顔を見せた。修学旅行って楽しいのにどうして、と問いかけている顔だった。
「人と一緒にいるのが苦痛だったからかな」
「中学も高校も?」
「中学のときは本当に熱を出した。もっとも熱が出ないかな、と期待してたけど。高校のときは本当にさぼった」
「小学校の時はさすがに行ったんだよね?」
「小学校は学校自体、ほとんど行ってない。行っても結局、保健室だった」
「どうして?」
 また、『どうして』が続いた。
「苛められててしょっちゅう気を失ってたからな、簡単に言うと登校拒否だ。中学の半分も」

 美和にこんなことを話しているのは不思議だが、緊張感から逃れられるのは悪くなかった。それから、この体験は当時から知っている人間は別にして、誰にも話したことがなかったのに、と思い至った。自称親友を宣言してくれていた、今では妹の夫になっている富山享志は、院長や功から聞かされて事情を知っていたかもしれないが、真自身の口から話したことはない。五年間付き合った篁美沙子との間でも、この件は話題になったことがない。それなのに、今自分は何だってこんなにもするりと、こんな話を五歳も年下の小娘に話しているのだろう。
「人生で一度も修学旅行に行ってないの? そんな人初めて見た」
 そう言ってから、美和は真剣な表情をした。
「でも、結構辛い過去、だよね? 変なこと聞いてごめんなさい」
 そうしんみりと言われると、急に愛おしい気分になった。
 美和の美徳は、こうして簡単に人に同感して、素直に謝ってくれたりする点だった。だからつい口が滑ってしまったのか、と思い、急に言い訳しておきたくなった。
 このままでは極めて不幸な、同情に値する傷を背負った悲しく情けない男になってしまう気がした。
「高校の時はそんなに不幸な学校生活ではなかったんだ。クラブもそれなりに楽しかったし、一人だけどお節介な友人がいたし、ただ人と一緒に寝泊りができなかっただけで」
「それでさぼったの?」
 真は返事をしなかった。一体何を話しているのかと自分でも思った。
「何かもったいないような、でも先生らしいような」
 美和はいつの間にか近くにいて、楽しげに笑った。
「それで不良家出少年少女の気持ちが分かるんだ。学校に行きたくない、親と話したくない、友だちも信じられない、自分自身のことも嫌になっちゃう……」美和はそれだけ呟いて、ふと真面目な顔になった。「どんな体験も役に立つのね」
 美和の感想はいかにも彼女らしくて前向きで気持ちがいい。

「でもどうして人と一緒に寝泊りができないの? 女の人とは一緒に夜を過ごすでしょ」
「緊張して眠れないのかな。自分でもよくわからない。女の人のところにも、泊まってくることはない」
 美和は意外という顔をして、ついに真のすぐ側まで寄ってきた。
「ふーん、じゃあエッチだけして帰るんだ。それは女にとっては極めて嫌な男よね」
 と言われても仕方がない。それから美和は意味深な顔をして真を見つめる。
「という事は、完全に大家さんは別格なわけね。大家さん、先生が無意識に引っ付いてくるって」
それから急に美和は何かに思い当たった顔をする。
「って、大家さんはそのこと、知らないの? つまり、先生が大家さんにだけは違うってこと」
 知っていれば、美和にマンションに泊まってもいいなどと言わなさそうに思える。それとも、知っていてわざとだろうか。
「知らないだろうな。でも、そういう言い方は変だろう」
「何で?」
「あいつは、俺が小学生の時からの知り合いで、単に今さら緊張感がないだけで」
「そういう話には聞こえなかったけど。でも、どうして大家さんにそう言わないの?」
「言っても仕方ないだろう? あいつを気分良くさせたって仕方ないし、それにそう言うと、自分は馬か犬並だって思うかもしれないし」
 美和は今度こそ真に完全に引っ付いていた。 
「先生、今の言い方はかなり難解よ。先生が大家さんにだけ安心してるって事が、大家さんを気分良くさせるってことでしょ。馬か犬並みってのは、先生が一緒に寝てて安心してるのは馬とか犬だけってことでしょ。つまり先生にとっては、最上級の大家さんへの褒め言葉と愛情と感謝ってことだよね。しかも先生は大家さんからの愛情を目一杯感じているわけだ。少なくとも、先生がそうだってことを大家さんが知ったら気分良く思うだろうなって感じるくらいに」
 一人解説が終わると、美和はにっこりと笑った。
「ずっと前、仁さんが言ってた。保護者とか同居人とか言ってるけど、あれは肌を合わせたことのない人間同士の距離じゃないって」
「何の話だ」
「何って、先生と大家さんの話に決まってるでしょ」
 真は溜息をこぼした。
「北条さんは、人間同士の感情を全部恋愛モードで量ってるからな」
「でも、当たらずとも遠からずよ」

 美和は完全に真に身体を引っ付けた状態で、というよりも身体を半分乗りかからないばかりの距離で、真に擦り寄っていた。化粧っけはもともとないので、普段の顔とそう変わらない、子供っぽい表情が随分愛しげに見える。
 思えば、年下の女の子とこうやってベッドの中で個人的な会話を交わしている状況など、今まで一度もなかった。付き合った女性は、今思ってみればことごとく年上だったし、会話よりもその行為ばかりに集中していた気がする。
「で、話をはぐらかしたでしょ。何時が初体験ですか? そういう学生時代なら結構奥手だった?」
 美和は屈託なく無邪気な表情を崩さなかった。
 はぐらかしたって、って自分ではぐれていってたんじゃないのか、と思った。どうやってこの話を切り上げさせようかとも思ったが、話が途切れるとまずいことになるかもしれないとも考える。
 こういうのが修学旅行の夜の会話というのなら、一生に一度くらいは味わっておいてもいいのかもしれないと、ふと変な気分になった。美和の魔力というと奇妙な表現だが、この娘は本当に不思議な力を持っている。もちろん、真にとって、ということなのかもしれない。
「十五の時かな」
「じゅうご? 先生こそ、ませてるじゃない」
「そうだ。だからあんまり近づくと恐いぞ」
「別に恐くないけど、意外。年上? どういう関係の人? その人とは何回くらいしたの?」
 矢継ぎ早に聞いてくるので適当に答えておくことにした。
「年上。知り合いの人の女。何回したかは覚えてないけど、片手のうち」
「他人の恋人と寝たの?」
「そうしろって言われたんだ」

 淡々と返事をしていた中に、ふと不思議な感覚が蘇った。
 その知り合いというのは、真がある事情で金が欲しくてモデルをしていた写真家だった。むしろその写真家のほうと数ヶ月、濃密な時を過ごした。ベッドを共にした回数よりも遥かに深い時間が、カメラの向こうと手前にあった。思い出すと妙な感覚が蘇る。
「懐かしい?」
「いや、別に」
 その女性に対して某かの感慨を持っていたという記憶はなかった。多分、向こうもそうだろう。
「男の人は初めての相手ってどうでもいいのかな」
「どうかな。人にもよるし、相手にもよるんじゃないかな」
 美和は真の顔のすぐ側でうつ伏せになって頬杖をついている。
「じゃあ、ちゃんと付き合った人は?」
 まったく、女の子はどうしてこういうことを知りたがるのだろう。
 そう思ったが、美和の単純で素直な興味の向け方にはまるきり厭味がない。
「高校のときの同級生かな」
「事務所開く前に付き合ってた人は違うの? 先生が体壊すくらいだったって」

 美和は意外に物知りだと思った。多分北条仁が何か言ったのだろう。だが、事務所を開く前に付き合っていた女、小松崎りぃさのことは今でもきちんと解決できていないし、それだけに今ここで美和に話せることはなかった。
 真が黙っていると、何かを察したのか、美和は案の定、深追いをしてこなかった。好き勝手なことを言っているくせに、こういうところでは敏感に他人の感情を汲み取る。
「でも、先生って、高校生のときにちゃんと彼女がいたんだね。なんかちょっと意外だなぁ。どのくらい付き合ったの?」
 さらりと話題を戻した美和についていくように、真は答えた。
「五年、かな。俺は、ずっと変わらないって思ってたけど」
答えてから、これも一種の誘導尋問だな、と気が付いたが、小松崎りぃさの話よりはずっとましな話題だった。
「変わらないって、結婚したいと思ってたの?」
「したいと言うよりも、そうなっていくんだろうと思ってたんだ」
「どうして別れたの?」
「振られたんだ。別れる時はあっけないものだったな」
「どうせ先生が優柔不断だったんじゃないの? 結婚したいってハッキリ言わなかったんでしょ。女はやっぱり、他の男には目もくれるな、俺について来い、俺だけを見てろって言って欲しいときがあるわ。あんまりしょっちゅうだとむかつくかもしれないけど」
 美和の言うことは、かなりいい線をついていた。
「今でもその人の事、思い出す?」
「そうだな。たまには思い出すかな」
「一番エッチした回数多いのはその人?」
 何を聞くのやら、と思った。
「そりゃあ、まぁ、付き合った年数が長いからな」
「もしかしてまた会ったら、焼けぼっくいに火が、なんて事になりそう?」
「それは、向こうがないだろう」
「先生は? 今でもその人の事、好きなの?」
「それはどうかわからないけど、俺は別に嫌いになって別れたわけじゃないから」
 そう返事して真は美和のほうを見つめた。適当な質問をしているわけではなく、何か引っかかっているような、心配事でもあるような印象を受けたのだ。
「何かあったのか?」
 真が声のトーンを変えて聞くと、美和は一瞬黙り込み、それからふいと俯いた。
「別に」
 美和の一番の美徳は、隠し立てのできない素直な感情だった。一度言葉を切ったものの、美和は結局、しんみりと続けた。
「先生は誰かほかの人のことを思いながら、別の人を抱いたりできる?」





どうでもいい会話、次回も続きます(^^)
おまけは三国志人形。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨27] 第3章 同居人の恋人たち(5)/本棚紹介(2) 

「先生は誰かほかの人のことを思いながら、別の人を抱いたりできる?」
突然、美和に聞かれていささか困っている真。同居人が入院中で、心配した調査事務所の共同経営者=秘書の美和が、竹流のマンションに泊まり込んでいるのです。
まだまだいちゃいちゃシーン?は続きます。
でも、このふたり、恋人というより、兄妹なんですね……



 真は少しの間、返事をせずに黙って美和を見つめていた。ほんの少し目を伏せた美和は、いつになくしおらしく、愛しく思えた。
「北条さんと何かあったのか」
「別に何もないけど」強がって勢いよく言ってから、責めるように真を見る。「どうなの? 男ってそういうもの?」
「残念なことかもしれないけど、不可能な話じゃないだろうな」
 そう言われて考えてみれば、篁美沙子とはまだ自分が中途半端で、何がどうなっていくのか分からない中で付き合っていた。彼女との行為も、どこか子供っぽい手探りのような部分があって、そういう意味では一生懸命だったかもしれない。
 恋の激しさだけから言えば、多分傍から見れば小松崎りぃさと付き合っている時の真はピークだったろうと思うが、心の中はどうだっただろう。りぃさを想っていたのか、他の誰かを思っていたのか、ただ自分だけの事で精一杯だったのか。
 結局りぃさが自殺してしまったので、もう何も確かめることもできない。りぃさが何を思っていたのか、感じていたのかも分からないままだ。だが彼女の存在は、真自身の心のうちを抉り出すような結果になりそうだった。りぃさがもう少し生きていたら、真はその心とあの時、向かい合わなければならなかったはずだった。

 美沙子でさえ、別れるときに言ったのだ。
 あなたが未来を共有したいのは私じゃない、と。
 あの時、それ以外の部分では美沙子の不満を膨らませていた可能性は否定できないにしても、美沙子との行為の最中には、真は彼女に対してだけ熱くなっていたと思うのに。
 いや、それは言い訳だと真は思った。あの頃はきっと若くて、あまり余裕がなかっただけなのだろう。
本当はあの頃も、誰と寝ても真はいつも他の手を捜していた。それまで全く自覚はなかったが、あの手が自分を抱きとめてくれたとき、その行為の最中に別の誰かの手を求めなくてもいいということが、どれほど幸福で満たされた行為であるかを知った。

 結局、誰かと寝ていても、他の誰かを想っている。可能とか不可能とかではない。ただ、想っていて、捜しているのだ。
 私じゃない、と言った美沙子はそれが誰だと思ったのだろう。りぃさは、知っていただろうか。そして今、深雪はどう思っているだろう。
 駆け落ちしてくれる?
 深雪のあの言葉は、ただ真をからかっていたのだろうか。あるいは、澤田と何かのっぴきならない事態にでもなっているのだろうか。一体、深雪の想いはどこにあるのだろう。彼女は、真が誰を求めているか、感じているのだろうか。
 愛し合っていると信じている相手が、誰か他の人を思っている。それは身体を繋いだときに相手に伝わるものなのか。もしもそうなら、美沙子も、りぃさも、そして深雪もずっとそのことを知っていたのだろうか。

「北条さんに、他の男とデートしたり寝てもいいって言われたことがショックだったのか」
「うーん、ショックっていうのか、先生、それってどう思う?」
「ひとつには、北条さんは君を本当に好きなんだよ。でも君は彼より十六も年下だ。北条さんは何にだって自信のある人だろうけど、好きになった相手が堅気でしかもいいとこのお嬢さんだろう。先行き不安になるはずだ。しかも北条さん自身、先行きを考えたのなんて初めてなのかもしれない。ふたつめは、とは言っても北条さんの性質から言って、他の人と全く付き合わないってことはできないだろう。だから、君が他の人とデートでもしてくれたら気が楽かも知れないと思っている。本当にそうなったら、どう思うかは別の話だけど」
 美和は意外な顔をして真を見た。
「先生って、そんなふうに人の恋愛感情を読めるんだ」
「人のことは簡単な話だ」
「自分の事は難しい?」
「そういうものだろう?」
 美和はまた例のごとく表情を変えて、にっこり微笑んだ。
「私から見たところでは、先生は世界で一番大家さんを愛してる。でも、大家さんは保護者で何よりも男の人で、世間的に許されない感情だと思ってる。だから、ちゃんとした女の人と付き合ってない。深雪さんをそういう世界のプロだと思っていて、恋愛対象じゃなくてセックスの相手にしてる。普通の相手を恋愛対象にしたら、その人を傷つけることが分かったから。大家さんは」美和は一旦言葉を探すように、間を置いてから先を続けた。「先生よりもっと先生のことを愛してる。だけどあの人は大人だから、先生より多分もっと無理してる。女の人たちの事を大事にしてるけど、それは習性としてやってるだけのこと。だから他の女の人が先生を見る目は、ちょっと恐いでしょ。その人たちにとっても他人の恋愛感情は読めるからだよ」

 真は、呆気に取られて美和の唇が動くのを見ていた。
「それに、私は仁さんの意見には納得してる。人の恋愛事情は確かによく分かるのよ。先生たちは、一度も寝たことがないわけじゃないんでしょ。よく、男と女の関係は別れ際に分かるって言うけど、別れ際じゃなくても距離でわかるのよ。ふとした何気ない瞬間の身体と身体の距離。先生たちは全然気が付かれてないって思ってるかもしれないけど、本当に近いよ。一度エッチしちゃうと、相手との距離は何かの瞬間、不意に驚くほど近いんだよね」
 美和はそれだけ言って、くるんとまた表情を変えた。
「何ちゃって。分析してみました。ちょっと私の妄想が入ってるけど。仁さんの言うとおり、他人同士の距離を見ていると結構物語になるんだよね」
 真は思わず真実がこぼれそうになるのを、押し留めた。
「文章教室の先生が他人を観察して物語を作れって言うから、試してみたの。文章を書くトレーニングの第一、観察力と感性を磨く」
「文章教室?」
 そう言えば、美和はジャーナリズムを勉強していて、本人は将来写真家になりたいと言っている。澤田教一に憧れていると言っていた。文章教室は大学の勉強の一環なのだろう。
 だが、危ないなと思った。もしも美和の妄想が入っているにしても、文章教室のトレーニングにしても、竹流の感情はどうだか知らないが、ある面からすればかなり真実に近いかもしれない。
「驚かすな」
「あら? 驚くってことは結構いい線いってたってこと? それとも、ほとんどどんぴしゃ?」
 真は思わず美和の頬に手を伸ばした。叩くほどではなく、軽く彼女に触れる。これ以上その話を続けさせたくなかったせいもあるが、ただその一瞬、この可愛らしいものに触れたい気がしたのだ。
 美和はその真の手に自分の手を添えて、明るい、真剣な眼差しで真を見つめている。
 Tシャツを通して美和の乳房が胸に触れているのが分かる。形のいい、幼いほどの硬さだった。自分の身体が反応しているのは分かったが、いつもと違うのは欲情しているというよりも、愛おしい気持ちになっていたことだった。

 先生、不倫しよう。
 美和の唇が動くのを真はただ見ていた。無意識のうちに、美和の頬に触れた手は彼女のうなじに上がり、美和のほうからか真の方からか、唇が触れるところまで近づいた。
「先生と恋愛する人は大変」
 唇で相手の息がはっきりと感じられるところで、美和が囁く。
「どうして」
「大家さんと闘わないといけないから」
「君と恋愛する人も大変だ」
「どうして」
「北条さんに刺されるかもしれないから」
「やっぱり不倫だよね」
 それでも、その時はただの文章教室その一の感性を磨く、いわゆる妄想の域でしかなかった。お互い独身で結婚しているわけでもないが、ある意味不倫という言葉がぴったり当てはまるように思える。それは、感性と言葉の遊びのようなものだったかもしれない。

 やがて唇はゆっくりと相手を確かめ、美和の形のいい薄い上唇と、よく動く下唇を確かめ、そのまま可愛らしい妄想を話す舌を確かめていった。
「酒、飲んでたな」
「だって、もう二十歳すぎてるもん。飲んだっていいじゃない。それに先生が帰って来ないからだよ」
 会話と会話の間に舌を絡めるように口付ける。
「好きでもない男と寝るのは、楽しくないかもしれないぞ」
 美和は意外、という顔をした。
「私、先生のこと、好きよ」
 その美和のくるくるよく変わる表情を見ていると、ふいに安堵感が湧いてきた。自分は今まで女性とベッドを共にして、こんなふうに相手の顔を見つめたことがあっただろうか。相手を、その人としてきちんと見ていなかったかもしれない。心のうちのどこかで、自分の中の何かを否定していたから、相手を見ることができなかったのだろうか。

「ねぇ、先生」
「うん?」
 呼びかけられたとき、まだ真は美和の柔らかな唇の感触を味わっていた。
「私が今日あとをつけていった人って、大家さんの仲間じゃないよね?」
「仲間?」
 急に現実的な話題になったのと、美和の口から出た『仲間』という意味深な言葉に、真は我に返った。
「だって、大家さんって何か危ないお仕事してるでしょ」
「どうして?」
「あの添島っていう女刑事さん、何となく大家さんを見張ってる気がするし、それにいつか会ったゲイバーのママ、単なるその道の人には見えなかったもの」
 全く、これも妄想の一環なのかもしれないが、美和の感性には時々どきっとする。
「それに、あの男の人、何だかどっかで会った気がするんですよね」
 実は美和が一番気にしているのは、その男のことのようだった。
「でも、なんて言うのかなぁ、絶対この人に会ったっていう確信じゃなくて、何かそういう気がするだけで、この人のこと、何か知ってるような気がする感じ。あー、何だか気持ち悪い」
 わけの分からない言語になりながら美和が呟いて、暫くして、まあいいか、と言いながらまたくるっと表情を変えた。頭の中に湧き出したことを口に出さずには放っておけない、彼女の美徳でもあり悪徳でもあるように思える。

 自分からいい雰囲気を壊しておいて、美和は気を取り直したように真に身体を寄せてきた。とは言え、真のほうは一瞬盛り上がった気分が、少しばかり削がれたようになっていた。
 美和の話題が、竹流のところに訪ねてきたという男の事になったからだが、それと一緒に不意に、今日マンションにかかってきた二本の不可解な電話を思い出したのだ。
 考えてみれば、もしかして楢崎志穂の言うとおり、澤田の目的が深雪との関係を問いただすことではなくて、真自身のことだったとしても、このチャンスに自分の『愛人』を寝取った男を呼び出してちくちくいたぶってみたくなっただけかもしれない。澤田が寛容に間男を見逃してくれているなどと、どうして思っていたのだろう。たまたま今まで忙しくてそんな余裕がなかっただけかもしれない。
 それに、もう一本の電話。
 竹流のあの怪我の訳を知っている誰かが掛けてきた。
 そして、不意にあの重い右手を思い出した。本人は何も言わないし、あんなふうに誤魔化していつも通り振舞っているが、あの右手は。

 明日、医師に状況を確かめようと思っていると、美和が不意に真の下半身に触れてきた。びっくりして美和を見ると、美和はちょっとむっとした顔をした。
「先生なんて嫌い」
「何で」
 美和はぷい、と向きを変えてベッドの向こうの端に行ってしまった。さっきまで興奮していた何かが急に冷めたのは事実だが、嫌われるようなことなのだろうか。
「美和ちゃん」
「ちゃんつきで呼ばないで」
「何言ってるんだ」
 いつも『美和ちゃん』じゃないか、何が悪いんだと思った。若い女の子の瞬間に変わる感情に、どうもついていけない。
「深雪さんのところに行ったら。あの人とは、すごくいいんでしょ」
「何の話だ」
「先生は、年上でちょっと怪しくて危険な香りがして、セックスが上手な女が好きなんでしょ」
 どうやら他の事を考えていたのが悪かったらしい。とは言っても、先に話題を逸らしたのは美和のほうだ。
「先生は絶対に騙されてるんですからね。って言うか、何かに利用されようとしてるんですよ。あの人は絶対恐い女なのよ。でないと、さぶちゃんにつけられて何のリアクションも無いなんてあり得ない。さぶちゃんの顔見て、普通なら恐いはずよ」
「それは宝田君に失礼だろう」
 確かに宝田三郎は顔は恐いが、あんなに気が弱いのに、と思った。それに、あの事務所の惨状を見て、明日彼が大慌てするのを考えると申し訳ないような気がした。
「事実を言ってるんです。それに何だって挑戦状を叩きつけるみたいにタイピンを私のところに届けに来るのよ。私は先生の恋人じゃないし、そんな厭味をされる覚えはないわ。大家さんにならともかく」
「だから、それは誤解だ」
「嘘つき」
 一体何を怒られているのか分からないままだったが、どうしようもないので放っておくことにした。





さて本日のちょっとコラムは本棚の紹介その(2)です。
そして次回予定の【物語を遊ぼう】のプチ予告でもあります。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨28] 第3章 同居人の恋人たち(6)/本棚(3):信長コーナー 

調査事務所の共同経営者・美和とちょっといいムードの夜を過ごすのかと思ったら…
理由不明のまま不機嫌になった美和とはちょっと喧嘩モード。
そのまま翌日、竹流の入院先の病院へ行くと……




「今朝美和ちゃんが来て、えらい剣幕だったよ」
 真が病室に入るなり、竹流は面白そうに言った。
「美和ちゃんが来た?」
 今日の午前中は授業に出ると言っていたはずだった。
「お前相手に恋愛は無理だとか、女の気持ちが分かってないとか、ついでに俺がお前を過保護にしすぎてるからだとか、他人に渡す気がないなら先生が欲求不満にならないように毎日押し倒せとか、だから悪い女に捕まるんだとか」
 真は唖然と竹流の説明を聞いていた。
「そんなことを言いにわざわざ来たのか、あの娘は」
「よほど腹に据えかねたんだろう」

 真は料理の入ったタッパーを出した。今日ここに来る前に、竹流の銀座のレストランに寄ってシェフから受け取って来たものだった。ついでに、深い緑のガラスの小瓶も取り出す。
 一瞬で竹流が嬉しそうな顔をしたので、思わず渡しかけて引っ込めた。竹流は何て意地悪をするんだ、という顔で真を見た。
「おい、冗談だろう」
「舐めるだけの量にしては多そうだけど」
 竹流はふと楽しそうな顔をした。真をからかうときに見せる悪戯好きの子どもの顔だ。腫れが引いた竹流の顔は、いつもの整った綺麗な顔だった。少し面やつれて頬の肉が落ちたように思うが、額にかかる軽くウェーヴした絹のようなくすんだ金の髪も、見透かすような青灰色の目も以前のままだ。
「手が不自由なんで、口移しで飲ませてくれるんだな」
「馬鹿言え」
 真のほうも、一緒に住むようになった二年半の間に、このからかいをやり過ごすことを覚えた。
「じゃあ寄越せ。グラッパだろう。この間フィレンツェから送らせたんだ。オーナーとしては味見しとかないとな」
「それって、強い酒だろう。怪我が化膿するぞ」
「ちょっとだけじゃないか」

 言い合っているところに看護師が入ってきたらややこしいと思って、ミニチュアボトルを竹流に渡す。竹流は満足そうにその瓶を観賞していたが、ちょっと訴えるように真を見た。
 その綺麗な瞳の訴えかけるような色合いに、思わず真は反論するのも忘れて瓶を受け取り、蓋をひねって開けてやった。確かに、瓶の蓋をひねるような両手が必要な作業は、とても今は無理そうに思えた。
 竹流は開いた瓶を受け取って、その口から匂いをかいだ。真があっと思ったときには、もう飲み干している。
「さすがに、アンテノーリのグラッパだ」
 なにやら満足げに頷いて、竹流は空の瓶を真に渡した。
「で、珍しく昼間から来るなんて、どうしたんだ? お前のほうも美和ちゃんとの一件を俺に報告に来たわけじゃあるまい?」

 真はようやく椅子に座った。涼子はあれから来ている気配はない。竹流自身も随分身体が楽になったのか、身体を起こしている時間が長くなっているし、高熱が出なくなって、少しは歩いたりもしているようだった。怪我のせいでいくつかの不自由があることを別にすれば。
「昨日、マンションに電話があった」
「誰から?」
「あんたの仲間の誰かだ。心当たりはあるだろう」
 竹流は一瞬息を飲んだようだったが、真から視線は外さなかった。さすがに表情が変わったことを、真は見逃さなかった。もっとも、竹流のほうは、真にその変化を見透かされたことを隠し立てするような、怯んだ気配はなかった。低い、穏やかな声で問い返す。
「何か言っていたのか、そいつは」
「カタはついたからもう手を出すなと、そうあんたに伝えてくれと。あんたが生きてるのか、と聞いた」

「そうか」
 竹流は一言、短く言っただけだった。話を切り上げようとする気配が満ちているし、表情が硬い。この男がこういう顔をする時は、一切説明をする気はないし、何も聞くなというサインだということは分かっていた。だが、この状況で何も聞かないでいるという選択肢はない。
「話せ」
「何をだ」
 声まで硬くなっている。
「美和ちゃんが昨日ここに面会に来ていた男に関わるなと忠告されたらしい。それはあんたが言わせたのか。俺にあててか?」
 暫く黙っていた竹流が、ゆっくりとベッドから出た。真は思わず彼の身体を支えようとしたが、竹流はそれを手で制した。身体を起こすのは不自由ではなくなったのだろう。
「屋上に行こう」
 屋上には喫茶室があって、植え込みと背の高い柵に囲まれた庭がある。隣の棟の屋上にはテニスコートがあって、黄色いボールが跳ねているのが見える。今日は天気がいいのでサンルーム様になった喫茶室はほぼ満員で、屋上の庭のベンチがかろうじてひとつ空いているだけだった。
 彼らはそこに座って暫く黙っていた。

「これはお前には関わりのないことだ」
 随分間を置いてから竹流が言った。
「そんな怪我で、何ができる?」
「お前が首を突っ込まなくても助けてくれる連中はいる」
「そうか? みんな、あんたが助けを求めて来ないんで、イライラしてるみたいだったけど」
 竹流は苦笑いをした。
「昇のやつだな」
 真はそれには答えなかったが、代わりに言った。
「俺が、あんたの腕の代わりになれる」
「そんなことはしなくていい」竹流の返事は早かった。「お前が手を出すようなことは何もない。いや、どんなことであれ、俺のような者がすることにお前が関係する必要はない」
 何だよ、その言い分は、と思った。
「それで? あんたがこうやって酷い状態で帰ってくるのを、俺は心配して待ってるだけか。俺はあんたの女たちとは違う」
 真が思わず言ったのは本音だった。女たちがどうであっても、竹流がどう思っていようとも、同じような扱いをされるのは真っ平だった。それに、自分はもう子どもではない。いつまでもこの男に保護者の顔をされているのは幾らか気に食わない。

「心配などする必要はない。もうカタがついたと、そいつも言ってただろう」
「とてもそんなふうには聞こえなかった」
 竹流はそれには黙ってしまった。
 時折、自分たちをちらちらと見る周囲の人の視線を感じるが、それは単にこの同居人が目立つからか、それともあの雑誌の読者が何かを想像をしているからか、真には分からなかった。
「せめて、あんたをこんな目に遭わせた奴が誰か言え」
 真は自分で何をかっかしているのか、と思った。竹流は彼自身の右手を左の手で庇うように握り、暫くは黙っていた。その瞳は青い空の深みを吸い込んだように静かで、今は何の感情も読み取れない。

 真が今日医者に確認したところでは、その右手は相変わらず感覚も曖昧のようだった。全く動かないわけではないようだが、何よりも痛み刺激に対しても反応が鈍いと聞いた。少なくとも細かな作業ができるような手ではなかった。そのことを竹流自身は聞いているのかどうか、そしてそれについてどう考えているのか、竹流のほうからは何も言わないし、何よりその手が彼の仕事における自尊心も何もかもを支えていることを考えれば、真からは何も聞けそうになかった。
「そんなことを聞いてどうする」
「いいから話せ」
 竹流は真の顔を、綺麗な青灰色の目で見つめた。
「覚えていない」
「冗談だろ」
「本当だ。だからもう、首を突っ込むな」
「あんたがそうやって突っぱねても、誰も納得してない。それにもし」言葉を切った真の顔を、竹流が何かを断ち切るように鋭く見た。これ以上何も言うなという視線に逆らうように、真は竹流の目を見返し、低く重い声で続けた。「こんなことがローマの叔父さんに知れたら、あの人は相手をただじゃ済まさないぞ」

 さすがにそれには竹流は反応した。
「お前、それ以上余計なことを言うと、ここでその口を塞ぐぞ」
 真は竹流を見つめていた目を逸らさなかった。
「高瀬さんが留守をしてるのは、どうしてだ」
「知らん」
「あんたの命令でなくて彼が家を空けるものか。それとも叔父さんの用事か」
 真の言葉が終わらないうちに、竹流はその重い右の手を真の頬に押し当ててきた。
「本当に、口を塞ぐぞ」
 竹流が屋上に自分を連れてきたのが、話が煮詰まるのを避けたからだと分かった。
「脅したって無駄だ。だけどこれだけは言っておく。あんたが黙っていればいるほど、皆尚更追及する。誰かがまた怪我をするかもしれないぞ。俺たちが何も言わなくても、叔父さんの耳にだっていつ入るか知れない」
 竹流は右の手を下ろした。
「明日まで待ってやる。ちゃんと話せよ」
 真は捨て台詞のように言って立ち上がった。一瞬、周囲の視線が痛いように思ったが、気のせいにした。竹流はベンチに座ったまま立ち上がる気配はなかったが、真は彼を残して屋上を横切り、サンルームの喫茶店の扉を開けた。
 一瞬、振り返ろうかと思ったが、やめた。


 真が事務所に戻ると、美和が大学から戻ってきていた。彼女の機嫌が悪いのは、おろおろしている宝田の様子でわかった。
 荒らされた事務所の片付けは、今朝早めに事務所に来て宝田と一緒に済ませていた。それでも、早起きの宝田が事務所の入り口で大慌てをする時間には間に合わなかった。宝田は、今日は不運な日だと思っているだろう。
 その上、病院から戻ってきた真のほうも、美和に輪を掛けて機嫌が悪かった。それでも宝田は、美和より真のほうがまだ話しかけやすいと思ったのか、小声で、何かあったんすか、と尋ねてきた。真は首を横に振っただけだった。
 その時真の機嫌を損ねていたのは、勿論竹流が頑なに口を開かなかったことによるのだが、それだけではなかった。
 竹流はローマの叔父の名前が出た瞬間に顔色を変えた。
 それがどういう意味かはよく分かっていた。彼にとってその叔父がいかに重い存在であるかということだ。そしてその叔父にとっても、竹流は大事な跡取りだ。
 以前一度だけローマに連れて行かれたとき、あの男はヴァチカン寺院の礼拝堂で真に言った。
 今は君に預けますが、我々は彼を諦めることはできないのです。
 あの静かで穏やかな声は、今も耳の底に残っている。真の是非など確かめることのない声だった。

 ちょっとばかり鬱な気分に襲い掛かられていた時、突然よく通る声が耳に飛び込んできた。
「この微妙な雰囲気は何?」
 開けっ放しの事務所のドアから声を掛けたのは添島麻子刑事だった。
 何かのきっかけを待っていたかのように、美和が自分のデスクの上の書類をポンと勢いよくまとめ、叩くように置いて事務所を出て行こうとした。
「美和さん、どちらへ」
 宝田が困ったように声を掛ける。
「おしっこよ。ほっといて!」
 美和は立ち止まったが振り返りもしなかった。ちらりとドアのところの添島刑事を睨んで、そのまま事務所を出て行く。
「何も進展はありませんよ」
 真は添島刑事に声を掛けた。竹流から何か聞きだせと言われていた件だろうと思ったが、警察で勝手に調べてくれ、という気分だった。
「どうせあのトウヘンボク、話をはぐらかせてるんでしょ。それで、あの子とも進展なし?」
 添島刑事は出て行った美和の方を示した。宝田が注意深く女刑事の顔色を窺っている。
「何の話ですか」
「あら、今一緒にマンションに泊まってくれているんじゃないの?」
 それを聞いて宝田がびっくりしたような顔になる。
「え? どういうことっすか。美和さんと? でも美和さんには」
「そんな訳がないだろう」
 真が珍しくいらついた声で言ったからか、宝田はひるんでしまった。その宝田の顔を見て刑事が同情する。

「可哀想でしょ。そんな言い方しちゃ。あなたがイラついている訳は知れてるでしょうけど」
「イラついてる訳じゃありません」
 宝田はおろおろした気配を隠しもせず、真と添島刑事の会話を聞いている。
「そう? 私はてっきり澤田顕一郎のことかと思ってたけど」
 真は思わず手を止めて、添島刑事を見た。
「どういう意味です?」
「澤田顕一郎が内閣調査室に何か言ってきたみたいよ。それも、あなたの事で」
「何の話ですか」
「正確には、あなたじゃなくてあなたの叔父さん、じゃないわね、あなたが自分の戸籍をどのように理解しているかってことにもよるけど」
 真は、添島刑事の話している内容にどう返事をすればいいのか、判断できなかった。
「叔父にしても、日本のお偉いさん方に何も関わりはないと思いますけど」
 答えた声が上ずっていた。
「今まではそうね。でも、あなたが全部把握しているかどうかは知らないけど、彼は三つくらい肩書きを持っている」
 そうか、自分以外の他人がこんなにも自分の身上について知識を持っているなどということは、今まで考えたこともなかった。

「俺は叔父が何をしているかよく知りません。そのことで澤田顕一郎に絡まれても答えようがありません」
 添島刑事はちょっと肩をすくめた。
「ある人が、あなたがどう考えているのか気にしているのよ。それで私に行ってこいって」
「ある人?」
「澤田が聞いてきたからでしょうね。澤田は面白いことを知った。自分が世話をしている女の恋人が、アサクラタケシの息子で、父親と同じように大学時代から優秀な研究者になるかもしれないって一目置かれていて、アメリカに留学の話があって、その裏でアメリカの某国家組織が絡んでいたというような話を」
「何の話ですか」
 添島刑事はお邪魔するわね、と宝田に断って、部屋の中央の応接セットのソファに座り、脚を組んだ。
「エネルギーの研究をしてたでしょう。ちょっとマニアックな教授があなたを見込んでアメリカに留学させようとしていた」
「俺は三年足らずで大学を辞めたんですよ」
 半分馬鹿馬鹿しくなって真は呆れたように言った。

「嫌な予感がしたから? 向こうの国ではあなたを受け入れる準備ができていた。某工科大も、あるいはNASAも、ワシントンも。あなたが来たらCIAはアプローチするつもりだった。親子二代にわたって優秀な工作員を作るために。あの組織もいまや青田刈りに必死だというし、何も経済発展著しい快適な時代に、好き好んで命を差し出すような危険な仕事に就こうなんて若者はなかなかいないそうよ。で、あなたは知っていたんでしょ? だから大学を辞めた。それでこんなところでこんな仕事をしている」
 真はちらりと、おろおろしている宝田を見た。宝田は真と目が合うと、助けを求めるような顔つきになった。宝田がアルファベットの並ぶ話の内容を理解しているとは思いがたかったが、尋常でないことは分かっただろう。
「あなたの言い方だとまるで俺がやむを得ずこんな仕事をしているみたいですけど、俺は望んでこうしているんです。それから留学の話を断ったのは妹を一人にするわけにはいかなかったからで、そういう複雑な事情は俺の知ったことではなかった。……でも、つまり澤田代議士は、その下手なハードボイルド小説のような話を信じているということですか」
「そのようね」
「それに大体あり得ないでしょう。同居人ならともかく、俺はどう転んだって一般人です。彼らに何の得もない」
 添島刑事は肩までは届かない短いストレートヘアの前髪をかきあげた。
「あなた自身にあろうがなかろうが、どうでもいいのよ。この素敵なハードボイルドが本物だという前提で話をするなら、彼らが欲しかったのはあなたの父親を繋いでおく太い鎖、特別な身体能力を持った人間のDNAでしょうから。それに、もしもあなたとあなたの同居人が本当に特別な関係にあるのなら、もう一つ面白い釣りができる。ヴォルテラの大親分という」

 真は溜息をついた。添島刑事は何だってこんなことを、よりにもよってこんなところで話しているのだと思った。いや、あるいは真が竹流から何も聞き出せないでいることにいらついているのかもしれない。
「アメリカ人がイタリア人なんかに興味を持ちませんよ」
「どうかしら。あなたはヴォルテラの何を知ってるの? あのイタリア人がアメリカ国内のマフィアの弱みをどれだけ握って、どれほど恩義をかけているか、それどころかカソリックの総本山の裏の顔を全て引き受けている、それにあの男の勢力の一部は中東にある。アメリカ人が興味を持っているのはそれでしょうね」
「竹流は、今はローマに帰る気はない、でしょうけど」
 そう言ったのは精一杯の気持ちだった。
「それは彼の希望というだけよ。ヴォルテラの家は次代当主を定めたら、決して讓らないという特別な事情を持っている。チェザーレ・ヴォルテラという男は、もしその気になればあなたごと抱え込むわよ」
 真はしばらく添島刑事の顔をしみじみと見つめていた。あるいはこの女刑事は、真に警告しに来たのかもしれない。
「つまり、それが俺の値段というわけですか」
「値段?」
 添島刑事が怪訝そうに言ったので、真は首を横に振った。それは楢崎志穂が言った言葉で、この刑事には何の関係もないはずだった。
「それで、澤田顕一郎はあなた方の敵ですか、味方ですか」
 真は添島刑事の顔を見つめた。添島刑事はしばらく言葉を選んでいるように見えた。
「どうかしらね。ただ、澤田が何か特別なことを考えてるんじゃないかと思っている人もいるわ。私には分からないけど」
「あなたの仕事は? 澤田を見張ることですか。それとも、大和竹流を?」
「あなたを見張っているのかも知れないわよ」
「冗談でしょう」
「あなたと、香野深雪を」
 真は心のうちを捕まれたような気持ちで、添島刑事を見返した。



次回、第3章最終回です。本日のおまけは、本棚の一角。


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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨29] 第3章 同居人の恋人たち(7)/第4章予告 

これにて第3章が終了しますので、掲載させていただくことにしました。
何か事情があるらしい、同居人・大和竹流の大怪我。本人は何も語りたがらない。
そして、捜査一課の女刑事が特別な任務だと言って竹流を見張っている。
さらに、真のもとへは、愛人(というよりセフレ?)の深雪のパトロンとも言われている代議士・澤田顕一郎から『一緒にご飯でも…』という連絡が…。そしてもう一人、竹流の怪我に関わっていると思われる男から、竹流は無事かと尋ねる電話がかかってくる。その上、事務所の秘書・美和が竹流のところに面会に来ていた男をつけていくと、『危ないから下手に関わるな』と警告される。
何がどうなっているのか…



「香野深雪が、何の関係が?」
「例えば、澤田が香野深雪にあなたを見張らせていた、とかね」
「どちらにしても捜査一課のあなたの仕事とは思えません」
「今は、ちょっと立場が違うのよ」
「どういう事ですか」
 添島刑事は立ち上がった。
「もしも澤田が接触してきたら連絡してちょうだい」
「澤田代議士の目的が知りたいんですか」
「そうよ」
「ひとつ教えてください。大和竹流をあんな目に遭わせたのは彼ですか」
 一瞬、添島刑事は刑事ではない目をしたように思った。
「澤田はそういうせこい事をする人間じゃないと思うけど。あなたは、ああいう残忍なことをするのが、どういう種類の人間か知ってる?」
「どういう意味ですか」
「ああいうことをするのは、プロじゃない。大人しくて優しい一般人の仮面を被った悪魔だわ。誰かの心の中に潜んでいる」

 真がどうとも返事できないでいるうちに、添島刑事はドアの近くまで歩いていた。そしてドアのノブに手を掛けてから、明らかに一瞬躊躇して、それから真のほうをふと振り返った。
「それから、あなたの相棒、私が見舞いに行っても少しも嬉しそうな顔をしないのよ。涼子さんの前だからかもしれないけど、もうちょっと大事にしてくれてもいいんじゃないのって、伝えといて。私だって傷つくことくらいあるんだからって」
 添島刑事がドアを開けて出て行く後姿を見送りながら、少なくとも三回は彼女の言葉が頭の中を廻ってから、やっと真はその意味を飲み込んだ。あの助平野郎、と思って添島刑事を追いかけようとドアを出ると、すぐ脇の壁に凭れるように美和が立っていた。

 美和は寝不足に他の理由も加わって、赤い目で真を恨めしそうに見た。
「先生って、いっぱい隠し事してるんですね」
「してない。誤解だ。今の話はどこか一方の局面からの話で、事実じゃない。つまり、誰かが勘違いで信じているハードボイルド小説の筋書きだ」
 美和がどこからどこまで聞いていたのかは分からないが、とにかく否定しておいた。
「もういいです」
 するりと真の横をすり抜けるように、美和は事務所の中に戻った。何か話しかけたかったが、今はそれどころではなかった。美和のことは後にして、階段を駆け降りると、添島刑事は事務所のビルの前に待たせていた車に乗りかけたところだった。

 スマートで、鼻持ちならないキャリアウーマンだと思っていた女が、ついさっきの告白からは全く別の女に思えた。車に乗ろうとする足元ひとつ見ても、むしろ優雅で色香さえ感じる。
 添島刑事はすぐに真に気が付いて、一瞬、いつもの強気な表情を緩ませた。真は何のために追いかけたのかよくわからなくなって、とりあえず何か言葉を探した。
「もし澤田から接触があれば、どこへ連絡すればいいんですか」
 結局、真が思いついた質問は多少本筋とはずれたことだった。
「特別な番号、あなたは知ってるでしょ」添島刑事はふと息をついた。「ついでに言っとくわ。今となってはアサクラタケシという名前は伝家の宝刀でも何でもない、あなたがそんな名前に傷つくことは馬鹿げてるわよ」
 それだけ言うと、添島刑事は車に乗ってしまった。真に事実を伝えてしまったことに、彼女なりに羞恥の感情があったのかもしれなかった。

 事務所に戻ると、美和はもくもくと資料の整理をしていた。顔を上げて真を見ることもしない。真が仕方なく自分の机に戻りかけた時、宝田が本当に心配そうに、しかしどうしても大きな声を隠せず、真に話しかけてきた。
「先生、美和さんは先生の事、好きなんすかね。あんな美和さん、初めて見たっす。恋をすると……」
「さぶちゃん!」美和がぴしゃりと怒鳴った。「そういう話は私の聞こえないところでして!」
 真は、そもそも何で美和は機嫌を損ねてしまったのだろうかと考えながら、時々ちらちら彼女の方を見つつ、報告書の仕上げにかかった。

 問題の七時は近づいていた。美和に今日は早く帰るようにと言いたかったが、どうも人を寄せ付けない気配で美和が仕事をしているので、話しかけられなかった。宝田も、真と美和を置いて帰るのは心配だというように、用事もないのに事務所の中をうろうろする。
 困った真が、ついに意を決して話しかけようとした瞬間、ドアが開いた。
「何だ、暇そうじゃん」
 入ってきたのは高遠賢二だった。何でもいいから救われたような気分だった。

 このところ夕食時には現れる賢二は、少年院上がりだが、笑うとかなり童顔なので可愛らしい印象を与える。背は真よりも高いのでちょっとばかり威圧感はあるが、童顔と差し引きすると、全体では普通の若者だった。
 少年院に入っていたのは、実の父親を刺したからだった。
 その父親とは今も疎遠で、賢二はもう長い間家には帰っていない。少年院を仮出所したときも、身柄は名瀬弁護士に預けられた。父親は某有名企業の取締役で、名瀬は賢二の母方の祖父が経営する会社の顧問弁護士だった縁で、賢二の事件に関わった。
 賢二が子供の頃から父親の暴力の対象になっていたことは、ある程度明らかだった。父親はそれを躾だと言った。家族の中でのことでもあり、父親を追及することはできなかった。母親は賢二を心配していたが、父親が罪に問われたり、家庭内のことが世間に知られたりするのは困ると思っていたようだった。
 名瀬ができる限り穏便に済ませようとしたにも関わらず、父親はきちんと罪の償いをさせるべきだと言い、賢二自身も殺意を認めた。

 真が関わったのは、賢二が仮出所したときで、事もあろうに賢二は家に帰りたくなくて逃走した。そのことで刑期が延びるのは構わないようだった。名瀬に頼まれて賢二を捜し出したのは真だった。
 賢二に同情したばかりではなかったが、賢二の気持ちはよく分かった。真が名瀬につかみかかったのは、穏便に事を運ぼうとしていた名瀬のやり方が気に食わなかったからではなかった。
 賢二が家に帰りたくないなら、何故その手段を考えてやらないのかと思ったからだった。名瀬が穏便に済まそうと考えたのは、賢二の罪状を積み上げたくなかったからだというのはよく分かっていた。
 その時、普段感情を表に出すことのない真が、確かに理路整然とした内容ではなかったが、激しい口調で名瀬に畳み掛けているのを、賢二は近くで聞いていたらしい。賢二がニコリとも笑わずに、それでも出所したら真のところに行きたいと言ったのは、自分のために何かを語ってくれる大人が他にいなかったからなのだろう。その賢二の気持ちを考えると、真は突っぱねることもできなかった。

 名瀬に呼ばれて、賢二が真のところで預かってもらうことを希望していると聞いたとき、真は実は本当に困った。
『困るなら、はっきりそう言ってやって欲しい』
 名瀬にそう言われて、とにかく賢二に状況を説明しようと思ったが、拒否されたと感じて逃げ出した賢二を捜すのに、また骨を折った。
『そうしてやりたいが、俺も居候身分なんだ』
 賢二は真の事情を聞いて納得はしたようだが、本当に失望したように見えた。
 だが事は簡単に解決した。竹流があっさりと、引き取ってやろうといって、彼のほうから積極的に名瀬や少年院の関係者に面談をしに行った。自分がいかに真っ当な人間であるかをアピールするのに、竹流の饒舌はただならぬものがあった。
 以前にも同じように彼の弁舌が発揮されたときがあった。真が高校一年生の時、風俗写真家のモデルになっていたというので、学校から停学を言い渡された。竹流は伸びていた髪もばっさりと切ってスーツを着込み、ヨーロッパの貴族が生まれながらにその血の中に持っている高貴な匂いをオーラのようにまとい、真の保護者として学校にやってきた。立っているだけでも既に周囲を圧倒していたのだが、その上傍で聞いていてもどうかと思うくらいの立て板に水の話しっぷりで、教頭始め居並ぶ教師たちを煙に巻いてしまった。
 傍で聞いていてもどうかと思うような滑らかな口調で、あることないことを諭すように、時には攻め、時には丸め込み、相手を納得させてしまう手腕は只者ではない。大体、相手はあの目で見つめられただけで既に負けているのだ。

 そういうわけで、一時、賢二は竹流のマンションに真と一緒に引き取られていた事がある。今は一人で暮らしを立てているが、あれ以来、真や竹流に対する信頼を抱き続けてくれているようだった。
「何か手伝うことあったらするよ」
「いや、仕事はいいんだが」
 真が言いよどんだのを、美和の気配から何か察したのか、賢二が宝田のすがりつくような視線を振り返った。
「宝田くんと美和ちゃんと、食事に行ってやってくれないか」
「私はお腹なんかすいていません」
 ピシッと美和が言う。
 困ったな、と真が思っているところへドアがノックされた。美和は当たり前のように立ち上がり、ドアを開けに行く。真には止める隙もなかった。

「お迎えに上がりました」
 美和にとも真にともつかない調子で、長身で身体もがっしりした黒い背広を着た男が丁寧な口調で挨拶をした。
 美和が自分のほうを振り返る前に、真は背広の上着を取って着ると、目だけでその男と頷き合う。一瞬、美和と目が合ったが、真はここで彼女に何か言い訳する言葉も思いつかなかったので、そのまま視線を逸らして迎えに来た男と申し合わせたように事務所を出た。
 背後に美和の不満と不安を思い切り感じたが、それでも振り返ることはできなかった。


        * * *

 美和は事務所の扉を開けた時、目の前に立っている黒い背広の男に見覚えがある、と思った。その後真が申し合わせたように出て行ったので、考えてみると、思い当たるものに簡単に行きついた。
 テレビで見た事がある。澤田顕一郎の秘書だ。
 一体いつそういうことになったのか、昨日の真の様子からは澤田と接触していた気配はなかった。しかも、少しばかり喧嘩しているからといって、『秘書』に何も知らせていないことにまた腹が立ってきた。
 だが、今日添島刑事が言っていたことが何か関わっているのなら、これはきっと大変なことなのだ。
 賢二が状況を把握できないような顔で美和に何か話しかけようとした気配を、美和は完全に無視するように言った。
「何してるのよ、仕事でしょ」
「へ?」
 宝田が意味不明の言葉を返す。
「後をつけなさいよ。これは誘拐よ。早く!」
 訳がわからずぼーっとしている宝田と賢二にむっとして、美和は叫んだ。その勢いに急き立てられるように二人は事務所を飛び出していく。
 彼らが通りに下りて、真が乗った黒塗りの大きな車の後ろからタクシーでつけていくのを事務所の窓から確認して、美和は自分もバッグを持ち、事務所に戸締りをして表通りに出た。
 タクシーをつかまえて向かったのはG医大病院だった。


「すごい勢いで飛び込んで来たと思ったら……」
 美和は、竹流がまるで今晩のおかずの内容でも聞いたかのようにあっさりと受け流すので、カチンときた。
「澤田顕一郎の秘書が迎えにきたのよ」
「分かってる。でも真を連れ去ってどうするというんだ? 自分の女を寝取ったからって何か特別なことができるわけじゃないだろう。第一、万が一にも香野深雪が本当に澤田顕一郎の愛人であって、澤田が腹いせに真を呼び出したんだとしても、真にしてもそのくらいの覚悟はあって、彼女と付き合っていたと思うけど?」
 諭されるように言われて、美和はがっかりした。竹流は美和の顔を見て、優しい表情で側の椅子を勧める。美和は宥められた子供のような気分でその背もたれのある椅子に座った。

「大家さんは心配じゃないの?」
「あいつだって子供じゃないんだし、自分のしたことの始末くらいはつけられるだろう」
 美和はやはり恨みがましく竹流を見つめ返した。
「今日、添島刑事が事務所に来たの」
 竹流がやっと少し興味のあるような顔で、美和を見た。
「先生がアサクラなんとかって人の息子で、澤田顕一郎がそのことを知って先生に接触してくるんじゃないか、とか、値段がどうのとか」
「値段?」
「先生の値段? 何の話かよくわからなかったけど、誰が誰を見張ってるんだとか、そんなことを話してた。あの刑事さんは大家さんの恋人なんでしょ。正確には恋人の一人なんでしょうけど、どういうことか問い詰めてよ」

 竹流はそれには答えず、代わりに言った。
「この時間だし、大方食事にでも誘われたんだろう。真だって一度くらいあの男と話をしておいたほうがいいかもしれないしな。でも、気になるんなら誰かを見に行かそうか? どこへ行ったか分かると有難いんだけど」
 美和はぽん、と両手を打ち合わせた。
「良かった。実はさぶちゃんと賢ちゃんに跡をつけさせたの」
 竹流は首を横に何度か振った。
「君の行動力には感心するけど、あんまりひやっとさせないでくれ。危ないことはせずに、家で大人しく待っていなさい」
 美和は、こんな感じで先生はいつもこの男に窘められているのだろう、と思った。
「大家さんちにいてもいい?」
「あぁ、もちろん」
 宝田たちから連絡があったら知らせる、と言って美和は大人しく帰る素振りを見せた。

「大家さん、すごくややこしいことになってないよね?」
 立ち上がりかけて問いかけると、竹流はいささかやつれたために余計に凄絶なほど男の色気が満ちた綺麗な顔に、極上の微笑を浮かべて、さらに穏やかで優しいハイバリトンの声で美和に答えた。
「大丈夫だよ」
 この笑顔と声に女は騙されるんだわ、と思った。あの冷静に仕事をこなしていそうな添島刑事でさえ、この男の手に落ちているのだ。その上、美和の妄想の中では、この男はそうやって騙した数多の女たちよりも真を愛しているわけで、ますます問題だと思えた。
 だが、今はその痛々しい右手の包帯を見ると、何も文句が言えない。
 美和は大人しく病室を辞して、廊下に出た。

 とは言え、そうは簡単に引き下がるつもりではなかった。
 美和の推理では、竹流は明らかに『アサクラ何とか』のあたりから反応していたと思う。竹流は何かを隠しているし、添島刑事の話では、澤田顕一郎が真の叔父か父親かは分からないが、誰かに興味を持っていて、そのことで真に接触をしてきたような感じだった。今回の竹流の怪我とそういったことが何か関係があるのかないのかよくわからないが、どちらにしても二人ともが何やら危機に巻き込まれているわけだ。もちろん、誰かが信じている下手なハードボイルド小説かもしれないが、信じている誰かがいるということは、危機だけは本物ということになる。
 何よりも、真は竹流の怪我と澤田が何か関係していると思っているのではないか、と美和は考えていた。
 美和は廊下の隅でじっと息を殺していた。

 思ったとおり、間もなく竹流は病室から出てきて、ゆっくりとした足取りで廊下がT字になっている窓際の公衆電話のほうへ歩いて来る。美和は竹流からは見えないところを探して、丁度手洗いの入り口が死角になるので、身を隠した。
 竹流は廊下の窓際の三つ並んだ公衆電話の右端を選んで、電話番号を七桁押していた。美和は手洗いの入り口でその数を数えていた。
 すぐに相手は出たようだった。

「俺だ。澤田が真に接触してきたらしい。あんたの言った通りだ。……いや、多分そういうことではないだろう。彼女の方は……、あぁ、頼んだよ」
 全部は聞き取れなかったし、電話は長くはなかった。受話器を置くと、竹流は脇腹を押さえるように電話に凭れた。それを見ていた美和は危うく駆け寄るところだった。
 相当身体はきついのだろう。半端な怪我ではなかったのだから。
 だが、すぐに竹流は身体を伸ばすようにして電話から離れ、病室の方に戻っていった。美和は一応彼が病室に入るまでは見届け、急いでマンションに戻った。





さて、次回から【第4章:同居人の失踪】です。
澤田顕一郎に呼び出された真は、この代議士が自分の出生の事情を知っていることに驚く。
そして、真がさらわれたと思って心配している美和と、ついに…(ちょっぴり18禁…ややほのぼの系)
(実は、美和の恋人、事務所のオーナーはヤクザの息子!いいのか^^;?)
そして、心配して電話をかけてきてくれた竹流とも、『いちゃいちゃ電話』(美和いわく)
恋しくて電話が切れない、ラブラブな二人をお楽しみください(^^)
(一応、この物語最大のラブシーンだと書いた本人は思っている)
美和は、ちょっぴり真に本気になりそうになりながらも、気持ちが揺れてしまう。
揺れる中、思い出したのは、初めて真と待ち合わせた時のこと。

そして…ついに、病院から姿を消した大和竹流。いったい、彼は何に関わっているのか。
まだ怪我の状態は芳しくない上に、右手は不自由なまま……
そして、次々と現れる不可解な人物たち。
誰がどこまで何を知っているのか。誰と誰の事情・人生が交錯しているのか。

第4章も、ぜひお楽しみください(^^)
おまけ映像は、大好きすぎてどうしたらいいのか分からない絵本【もちもちの木】のラストのキラキラシーン。
私はいつもこれを目指しているのです。

もちもちのき

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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