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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂[3] 第1章 同居人の留守 (3)(改) 

 同居人はその時、食い入るように新聞を読んでいた。
 真が傍に行ったのも気が付かずに新聞を読んでいることなど、後にも先にもあの時しか記憶にない。真が声を掛けると、同居人は慌てたように新聞を畳んだ。
 後で確かめた、同居人の視線の先にあった新聞記事には、つい先月にローマ教皇となった教皇が急死し、新しい教皇が誕生したと書かれていた。ヴァチカン始まって以来のスラブ人教皇は一九七八年十月二十二日に、戴冠式を行わず教皇就任式を執り行っていた。

 同居人の故郷での新聞記事だから、とその時は考えたが、あれほどに薀蓄を語ることの好きな男にしては珍しく、何の解説もなかったし、その後それについての話題が出たことは一度もない。
 もしかすると、夜中にかかってくる電話の数が増えたのは、あれ以来かもしれないとは思うが、電話についてはそれほどはっきりとした記憶が残っていたわけでもなかった。

 同居人の仕事が、時にはあまり安全とは言いがたい事は知っている。真は女でもないし、心配して待っているような性質でもないが、あの時から、腹の底から何かが突き上げてくるような痛みが湧き起こり、不意に耐えられない瞬間が襲ってくるようになっていた。

 同居人が留守にしている時、ふと何かに呑みこまれそうな感じがして目を覚ます。いつもなら自分の左隣にあるはずのものがそこになく、大きな空洞を感じる。それまでは、一人でいることを淋しいと思うことはあっても恐ろしいなどと思ったことがなかったのに、真は恐ろしいと感じた自分に驚いた。
 もしも帰って来なかったら、と思ったのだろうか。
 多分そんな理屈ではなかった。ただ、傍にいるはずのものがいないというそのこと自体に、恐怖を感じたのだろう。

 女だったら行かないでとすがったりもできるかもしれないが、そんな単純にはいかない。そもそも世間はそう思っているかもしれないが、真と同居人との間にいわゆる恋人同士の関係が成立しているわけではない。
 もちろん、恋人同士だからといって、相手の心の全てがわかるものでもないし、相手の人生の何もかもを所有できるわけでもない。だが、恋人という肩書きのほうが、ただの同居人よりは余程拘束力のある関係に思えた。

 六月になろうというのに夜の風は薄着には冷たく感じた。
 北海道育ちの真に、東京の夜の風が寒いなどというはずもないのだが、ビル風や都会独特の気象に色づけされた風は北海道の牧場にはないものだった。だが、今日の場合は数日前まで熱を出していたからかもしれない。

 子供の頃からよく扁桃腺を腫らせては三日ばかり高熱を出した。
 真を引き取った祖父母はこの身体の弱い子供がまともに育たないのではないかと心配していた。大人になってその頻度は減ったものの、時々都会の空気を拒否するように、身体は何かに反応して馬鹿みたいに熱が出る。

 煙草の半分が灰になってしまった時、洗面所の近くのドアが開いた。
「お前、また熱がぶり返しても知らんぞ」
 外国人とは思えない練れた日本語を話す長身の同居人は、一応日本人の真がパジャマでいるのに、本人はガウンのように着物で寝ている。これを縫ったのは真の祖母で、同居人がそういう生活習慣であることを喜んで腕前を披露している。
 真は返事をしなかった。同居人は無造作に欠伸をして真の傍までやってきた。

「中に入るか、上に何か着ろ」
「吸い終わったら中に入るよ」
 それを言い終わるか終わらないうちに、同居人の手が真の口元の煙草を取り上げて、手すりで揉み消してしまった。
「中に入れ」
 吸殻を持って、同居人はダイニングのほうの扉から中に戻った。いつも通りの鳴かぬなら鳴かせてみせようの精神だ。真には逆らう隙もない。
 真は仕方なく後に続いて中に入った。

 ダイニングに柔らかい照明を灯して、同居人は小さめのブランディグラスを二つ、テーブルに置いていた。
 二人のためにあるとは思えない、大家族のためにこそ作られたような大きなガラスのテーブルは、イタリア人の芸術家に相応しい洗練されたデザインで、二面はゆったりとしたL字型の薄辛子色のベンチに、あとの二面には洒落たデザインの、しかし座り心地の滅法良いチェアに囲まれていた。

 穏やかなオレンジの光を和紙で包み込んで、天井にぼんやりとした大きな円を投げ掛けているフロアライトの傍で、いつもと形の違う、ややスリムな楕円のボトルから、琥珀色の液体をグラスに注いで、同居人は一方を真の方に滑らせる。
 グラスは計算されたように、テーブルの端から十センチほど手前で止まった。

 料理の手が込んでくることとは裏腹に、同居人の機嫌はあまりいいとは言いかねた。
 それは出掛ける前の同居人には珍しいことで、いつもなら本人曰く天職でもある『泥棒と詐欺』の大仕事に出掛ける前は、ちょっと気持ちが悪いくらいハイになっていることが多い。
 もともとイタリア人の性格もあるのだろうが、とにかく人生は楽しく生きるべきという信条をそのまま体現している。もっとも、それは彼の一方の顔で、その裏にかなり複雑で根の深いものが潜んでいることを真は知っていた。

 真は、いつものように逆らう気などなく、ベンチに座ってブランディに口をつけた。コニャックに比べると、随分と癖の強いアルコールが舌の上で小さな火花を散らしている。
 一人で酒を飲むという習慣のない真は、決して酒に強いというわけではない。
 この男と同居するようになって、何とか付き合えるくらいに飲めるようになった程度だった。調子が悪ければ缶ビール一本でも十分に酔っ払えることもある。
 顔をしかめた真に、直ぐに気が付いたのか、同居人は淡白な声でアルマニャックだ、と言った。蒸留を一度しかしないから、ちょっと癖が強いだろう、と言われて、ふと同居人の顔を見る。
 まず十分に手の中でグラスを暖めて、香りを楽しむ、鼻から匂いを吸い込んで口の中に残したまま飲むといい、と説明する声までがいつになく硬かった。


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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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