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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂[22] 第2章 同居人の入院(9)(改)/ 本棚お見せします 

「イワン・東道。三年前までプロのボクサーだった」
 昇が連れてきた男は、確かに見たことのある男だった。
 ソ連人とのハーフだったが、ソ連といっても東方なので、人種としてはほとんどアジア人と言ってもよかった。目も髪も黒く身体も大きいので、見ているだけでも威圧感がある。無精にならない程度の髭を鼻の下に伸ばして、顔はテレビで見たままの角ばった形で、かろうじて目元が穏やかに見えることを除けば、姿形だけで格闘家という印象を示している。
 今はボクシングジムを経営していて、若手のかなり有名なボクサーが彼のジムの所属だと聞いたことがあった。

 彼らは昇の店のカウンターではなくテーブル席のほうに向かい合って座り、自分たちのテリトリーであるにも関わらず、密談の気配を漂わせていた。
「われわれのうちで主に連絡係をしている」
 イワン・東道は口も開かずに、しかし嫌味という印象はなく挨拶をするように頷いた。ただ、その表情は強張っている。
「こいつのところは一種の中継地点だ。竹流のやつ、時々勝手に動き回っては危ないことに首を突っ込むんで、万が一ってことを考えて、あいつと行動を共にしたやつは、こいつのところに情報を漏らしていくような決まりだった。ところが今回は何ひとつ連絡が来ていない」
「どういう意味だ?」

 二人の男が自分よりも年上であることも、色々な意味で自分よりも立場が強いことも、真にはよくわかっていた。しかし、この場で丁寧な言葉を使う余裕もなかったし、何よりも嘗められてたまるか、という気持ちもあった。竹流を挟んでは対等の立場にあるという態度を貫くつもりだった。
「何か個人的な事情があったのか。しかも高瀬の爺さん、わざとらしく姿を消していやがる。まぁ、どっちにしても竹流が口を割らないとなると、高瀬の爺さんは死んでも口を開かないからな」
 真は高瀬の動じない彫像のような顔を思い出した。それでも、あの男は主人に忠実というだけだ。何があっても決して主人を裏切らない。昇の言うとおり主人の言いつけなら、殺されても口を開かないだろう。

「何か、ローマの方の事情なのか」
「いや、今のところは国の大親分が動いている気配はないんだけどな」
 そう言ってから、昇はちらりと東道と視線を合わせた。それは、どこまで真に話すか、という打ち合わせをしている目に見えた。
「ただひとつ分かったのは、竹流は今回一人ではなかったということだけだ」
「一人で行動させないようにしているんじゃなかったのか」
「そのつもりだが、あいつは鉄砲玉みたいなところがある。お前さんもよく知ってるだろう」
 それはそうだが、何となく協力はできないという話が出てきそうに思えて、つい嫌味を言いたくなった。
「俺のところに一人だけ連絡を寄越さなかったやつがいる」
 東道が初めて重い口を開いた。声も重低音でよく響く。
「どういう意味だ?」
「招集を掛けた。非常事態につき、いかなる場合でも連絡せよ、と。ところが非常事態に応じないということは、そいつがもっと非常事態にあるということだ。不可抗力で応えられないにせよ、故意にせよ」
「それは、誰だ」

 聞いて分かるとも思えなかったが、かろうじて繋がりそうな何かにしがみつきたい気持ちだった。だが、その問いが出れば言おうと準備していたかのように、東道は一瞬で拒否の態勢に移った。
「これは我々の問題だ。仲間内の事はこちらでカタをつける。だからあんたは手を引いて欲しい」
 真はこの言葉が出ることは始めから覚悟していたので、驚かなかった。この男たちが自分たちのボスを守るためなら何でもするということも、他人の介在を喜ばないということも、真にはよく分かっていた。
 イラついては駄目だと思っていたので、冷静に受け止めたつもりだった。
「勿論、その仲間の件についてはあんたたちでカタをつけたらいい。だが、竹流があんな状態である以上、しかもこの上に何かをしでかそうとしている以上は、俺も放ってはおけない」

 昇は真の顔を見つめていた。東道のほうは明らかに睨みつけるような目つきだった。ついこの間まで竹流にしがみついている小僧のようだった真が、急に大人になって何かを要求してきているように思ったのだろう。
 真にもその自覚があった。彼ら竹流の仲間にしてみれば、こんな素人の小僧が竹流の傍でうろうろしていて、しかも竹流を危険に追い込んだり状況を悪くしたりしているように思えて、面白くないのは当たり前だろうと感じた。
「あんたには何もできない」
 東道が低い声でゆっくりと言った。
「以前とは違う」
「たった二年ばかりで偉くなったもんだ。しかも小僧の頃は、反射神経がいいだけのひ弱な餓鬼だったくせにな」

 真は思わず東道の顔を見た。そうか、伯父が失踪した後で竹流に連れて行かれたボクシングジムで、まだ若かった当時将来有望なこのボクサーの顔を見たことがあった。もっとも、葉子を守ると宣言したために、あの頃は真もかなり無茶なしごきを受けていたので、そのジムでまともな意識を維持していた記憶はない。剣道と違って、己の拳ひとつで戦うボクシングは、あの当時の真には相当ハードなものだった。竹流同様に、そのジムのオーナーも全く加減を知らない男だったからだ。
 真は東道の嫌味には返事もせずに黙っていたが、ここで引き下がるつもりはなかった。

 竹流の仲間たちが自分に良い感情を抱いていないのは分かっていた。
 真が彼らと関わったのは二年前だった。同居を始めてから街で面白い噂が流れているのを放っていたせいもあったが、外国人のシンジケートが海外から日本への密輸ルートに、竹流が持っている美術品の輸入ルートを欲しがったことがきっかけだった。竹流の輸入ルートは、表に出てもいい部分とよくない部分を上手くあしらえる特別な流れがあった。しかも美術品は管理がうるさく、手続きは煩雑で、輸入管理者でも相当の者でない限り手を触れることはかなわない。万が一にでも傷つければ、莫大な補償を請求されるとあっては、下手に手を出せないのだ。それだけに、怪しいものを隠して密輸するには恰好の方法だった。
 真を押さえればあの鼻持ちならないイタリア人は言うことを聞くだろうと、彼らが思ったのももっともだった。彼らは真を捕えて怪しい薬を使い、その手の趣味のある連中の中に放り込んで身体を自由にさせた。
 それがイタリア人の怒りをあれほどに爆発させる結果になるなどとは、思ってもみなかったのだろう。

 もしも竹流の仲間が止めなければ、竹流は新宿で戦争を仕掛けるところだった。
 そんなことをすれば、その先どういうことになるか分かっていたのか、あるいはそれでも止められなかったのか、竹流の怒りは半端ではなかったようだった。
 もっとも、真は後で他人から聞かされて知っただけだった。あのまま放っていたら、新宿はまさしく血の海になっていたぞ、と。だが、その時竹流は真にはこう言っただけだった。
 野良犬に噛まれたようなものだ。忘れろ。
 あの時は慰めてくれようともしなかったし、一時は目も合わせてくれなかった。だが、それが彼の怒りがいかに深かったかを表しているなどとは、真の方も思いも寄らないことだった。
 しかし竹流の仲間の方は、あの件で真の存在を警戒しているはずだった。もしも真の身に何かあれば、竹流がまた突拍子もない行動に出るのではないかと。個人的な感情に突き動かされるような行動は、どんな事態に陥っても破滅するまで歯止めが利かない可能性があることを、皆が知っている。

「あんたたちも、どうせ竹流から何も聞き出せなかったんだろう」
 彼らが竹流の見舞いに行ったか様子を見に行ったことは、容易に考えられた。その上で、竹流が彼らにSOSを出したとは考えにくかった。
 適当にカマをかけたつもりだったが、それは図星だったようだ。
 東道が相川真という存在を面白くないと感じているのは、真にはよく分かった。隣で昇が少し諦めたような表情で東道と真を見ていた。
 もちろん、東道も、簡単に助けを求めてこないボスに歯がゆい気持ちを持っているのだろう。
「とにかく、あんたに協力する気はない」
 そう言うと東道は先に席を立った。昇は出て行く東道を見送ってから、真に言った。
「つまり、我々もあんたと同じくらい八方塞がりってわけだ」
 真はその言葉には嘘はないと思った。





第2章、完結です。
次回からは第3章『同居人の恋人たち』。
また冒頭にあらすじを入れますので、ここまでを読み返すのが面倒だけれど、これから読んでやろうという奇特な方がおられましたら、第3章からでもお入りください。

コラムは我が家の本棚。ちょっと覗いてみませんか?
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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【掌編】月へん(ちょっと純文学) 

実は、八少女夕さんのブログ(Scribo ergo sum)を何度か訪問させていただいていて、お勧めされていたStellaさん(星たちの集うskyの星畑)に投稿してみようかと思ったものの…
ちょっと描写(単語)がどうなのか、18Rとか18禁ではないのだけど、微妙なのかな、と躊躇いもあったりして。

ちょっとお伺いを立ててからにしようかとも思ったりしています。

実はこれは、もう10年以上も前に私が文章教室で書いた下手な掌編。
下手なりに、何だか懸命さが見えて、ちょっと懐かしくなりまして。
改行や単語を少し直しましたが、全体の雰囲気は変えたくなかったので、あえて大きな変更なく公開してしまいます。

これはお題があって、お題に対して書いたもの。
この時のお題は『月』。何だか、宮中のお歌の会みたい…^^;
彩色みおさんのSSでは、お題が3つもあって、ものすごく頭をひねります。
こちらはひとつ。さすがにひとつだと、私にしてはかなり短い6387字!
確か、原稿用紙10~15枚という指示だったような記憶が。
でも、登場人物の関係性が限定されていないという自由さと掴みどころのなさがあり、結局難しいのは同じですね。

以前に書きましたが、これが先生に『詰め込みすぎ』と言われた代物です。
もう少し、さらりと使えと。
もう、月、月、月…とやりすぎて、ちょっと下品だったらしいです^^;^^;
自分ながら、何だか一生懸命の作品で、ちょっと『自分で自分を褒めたい』世界だったんですけど…

ここに出てくる詩は、本当に私が予備校の教科書で出会ったもの。
引用したのはその詩の一部なのですが、この部分を読んだとき、本当にS台の教室の中で鳥肌が立った。
貧しい海辺の家で、両親とも働いていて家を空けているのか、他に人の姿はなくて、飯を炊く匂いがしている。そこに赤ん坊が一人、小籠に座って、おそれを知らず、微笑んで海を見ている…という詩。
詩人は伊良子清白。詩は『安乗の稚児』
志摩の村で、僻地診療に生涯をかけ、往診に向かう途中亡くなられたという医師かつ詩人です。

私の掌編はともかく、この詩を紹介したかったので、ちょっと恥ずかしいけれど読んでいただけると幸いです。



【月へん】

 ご遺体からそれが出てきたのは、五月の祭の日だった。

 北原冬真は、祭の高揚感など全く届かない二階の教室で、周囲から『四季』と呼ばれているグループのメンバーと一緒に、終わる気配の見えない作業を続けていた。
 キャンパスの一番奥にある、古く堅い色をした棟は、一級河川に面している。この部屋に入った時間には、窓枠で切り取られた河川敷に、若い葉に目一杯の光を跳ね返した桜の木が並んでいるのが見えていた。今は同じ枠の中で、低く黒い山の影を背景にして、川向こうにある別の大学の荘厳な四角い影の中に、窓明かりがぽつぽつ浮かび始めている。

 硬質の台が並んだ広い教室には、『四季』のメンバーの他は、一組が残っているだけだった。彼らがいつも遅くまで作業をしているのは、丁寧で探究心が強いからだ。しかし、『四季』のメンバーが遅いのは、真面目にやっていないからだ。
 冬真は、切れ味の悪い鋏や、手袋の中の冷たい汗に苛つき始めていた。何より、遺体の顔が目に入る度に、胃の中がかき回されるような感じがする。鼻の形が似ている、などと誰かが言い出さないか、いつも気になっていた。

「ちょっと煙草、吸ってくるわ」
 茶髪でピアスをしている京谷通秋が突然、攝子とメスを置き、脱いだ手袋を裏返しに掴んで立ち上がった。京谷は開業医の息子で、ルックスは悪くないし、バンドでベースを弾いていて、隣接する看護学校の学生にも人気がある。しかし、どこか軽薄な感じがして、冬真にとっては苦手なタイプだった。京谷はついさっきまで億劫そうな表情で、台の上に重く横たわるご遺体の、ある部分を観察していた。

 一時間前に同じ事を言って出て行った蒲田嗣春は、まだ戻ってきていなかった。蒲田は明らかに体力勝負の学生で、テニス部の次期部長候補である。好感度は学年一だが、声が大きすぎてがさつな感じがする。
「ちょっと、冗談じゃないわ。もういい加減、終わらせましょうよ」
 きりっとした口元に、細長い目に長い睫を持った金原爛夏は、昨年の学生着物美人コンテストで優勝した、料亭のお嬢様だ。性格はきついし、女子の友人がいるようには見えない。金原はさっきまで、京谷の手元を直視できずにいたが、今度は彼を真っ直ぐに見て文句を言った。その瞳に熱っぽいものが浮かんでいる。
 偶然だが、名前に春夏秋冬が入っているので、『四季』と呼ばれているのだが、この作業が始まって一ヶ月、チームワークが発揮されたことなど一度もなかった。

 丁度そこに、蒲田がコンビニの袋を提げて戻ってきた。
「おう、ちょっと休憩しようや」
 爽やかに大声を上げて、すでに休憩は十分取ったはずの蒲田がメンバーを誘った。
 蒲田は解剖学教室の眼鏡をかけた女性助手に頼みこんでいる。彼女は迷惑そうな顔のままだったが、蒲田の勢いのある愛想の良さに負けて、研究室の電気ポットのお湯を、四つのカップラーメンのために分けてくれた。

 このままだと自分の頭もホルマリンで固定されそうだったので、休憩は悪くなかった。冬真は蒲田の後ろに続いて、教室の裏手から河川敷に沿った広場に出た。
 始めは反対していた金原も、蒲田の勢いには巻かれてしまったようだ。トイレに寄ると言った京谷の分もカップラーメンを持って、おとなしく後ろをついてきた。
 金原は、自分たちのご遺体が比較的若い筋肉質の男性であることに、羞恥と不満を感じているような気配があった。一人で解剖室に残されたくなかっただけなのかもしれない。

 薄暗い中に、石のベンチが二つ、少し離れて川に向かって並んでいる。蒲田がそのうちのひとつに座った。冬真は、等間隔の法則に従い別のベンチに座ろうとしたが、蒲田に手招きされて、彼の隣に座ることになった。
 気、きかせろよ。
 蒲田が冬真の腕を肘でこついて、小さな声で言った。
 金原は、戻ってきた京谷にカップラーメンを渡し、同じベンチに座る。冬真はちらりとその様子を盗み見た。薄暗闇の中で、彼女の頬がほんの少し赤く染まったように見えた。

「おい、三分過ぎてるぞ」
 蒲田の号令で、皆が蓋を開けてラーメンをすすり始めた。
「あー、うめぇ。何で解剖実習中のカップラーメンはこんなに美味いんだろ。この卵の黄色いの、実習が始まったら食えねぇって先輩が言ってたけど、ちっともそんなことねぇなぁ。お湯で膨らむと、確かに脂肪そっくりだよ」
 このデリカシーのない発言は、金原の微妙な女心に気が付いた男のものとは思えない。金原はさすがに蒲田を睨んだ。それでも四人とも、卵も残さず、スープまで飲みきった。

 口頭試問が近いので、ノルマまでは進めなくてはならないはずだが、教室に帰る気がしなくて、ベンチに座ったまま空を仰いだ。暗い空に薄黒い雲の輪郭が厚く押し付けられている。そのうち、蒲田が口頭試問の予行演習しようぜ、と言い出した。
 いつものように表情がはっきりしないままの京谷が、ラーメンを食べていた箸で、地面に骨の絵を描き始めた。骨に続いて、臓器、血管まで、あっという間に河川敷の電燈の下に、かなり精巧な人体の地図が広がった。京谷にそんな才能があるなんてのは驚きだった。

 ひとつひとつ声に出して、人間の身体の部分につけられた名前を挙げていく。そのうち、英語と日本語の名称を、地面に書いては消すようになった。
「鮨屋のネタが魚偏なのは当たり前として、何で人間の身体のパーツには月偏がついてるんだ?」
 恥ずかしくもでかい声で蒲田が言うのに、冷たい声で金原が答えた。
「馬鹿ね。月偏じゃなくて、人体の部分の場合は、にくづき、って言うのよ」

 いつの間にか、地面に描かれた古代の壁画のような人体の輪郭が、薄明かりに揺らめいている。見上げると黒い雲の上端に光の縁取りができていた。
「そう言えば、今日は満月よね」
 金原が言った途端に、雲の向こうから光の矢が飛び出した。思わず空から目を逸らすと、京谷が地面に男性器を描いているのが目に入った。それは、たった今天空を支配した新しい光と、人工の薄暗い電燈の明かりによって、幾重にも陰影を揺らめかせ、随分と生々しく見えた。
 あまりの事に、金原は呆然としていたが、さらに京谷はポケットから何かを取り出して、ペニスの絵の上に置いた。

 それは白く鈍い光を跳ね返す小さな球で、地球に落ちた天体の欠片のようだった。白濁した球は天の光を映して、輝き始めるように見えた。
 蒲田が屈んで、徐にその球を人差し指と親指で摘むように拾い上げ、すっかり姿を現した天の球体にかざした。ふたつの球体が三十八万キロメートルの距離を越えて重なり合う。
「これ、真珠か?」
 京谷が無表情のまま答えた。
「さっき、ご遺体から出てきたんだ」
「マジかよ。あそこから? ヤっちゃんが女を悦ばすのに入れるってやつかよ。そういや、背中にごっつい三日月型の傷があったな。やっぱり、ヤっちゃん?」
 冬真は思わず、蒲田の手から真珠をもぎ取った。
「何するんだ」
 真珠には熱があるようだった。
 冬真はその真珠を手掌に受けたまま、他の三人に背を向けた。
 なんて事なのだろう。よりにもよってあの男はこんなものを入れて、あの女を悦ばせていたのか。


 数度に渡る解剖学の口頭試問と筆記試験を無事に乗り越えて、『四季』のメンバーは無事に単位をもらって夏を迎えた。夏休み直前の日曜日、いち早く運転免許をとっていた蒲田が運転席に座り、『かね原』という屋号がついたワゴン車は、伊勢の安乗に向かっていた。
 解剖実習を終えたら行く、というあの日の約束が今日実行に移された。明らかにお節介な蒲田はともかく、京谷や金原が付き合っている理由はよくわからなかった。第一、実習中に『四季』のメンバーに友情が芽生えた気配など、感じなかった。
 夏の大会の前だったので、どうしても午前中はクラブに出るという蒲田の都合で出発は昼になり、安乗の漁港に着いた時は、既に陽が傾き始めていた。

 狭い村の中では、『三村咲月』という女性の住まいは直ぐに知れた。
 その家は、海辺に建つ掘建て小屋のように見えた。青く薄暗くなっていく海を背景に、黒いシルエットとなった小さな家の薄く開けられた窓からは、甘い香りを漂わせて、米を炊く蒸気が零れ出していた。
 玄関口で、いつものように大きな声で蒲田が呼びかけたが、返事はなかった。冬真は居心地悪く、蒲田の後ろに隠れるように立っていた。

 その時、家の脇に廻った金原があっと声を上げた。
 皆が脇に回って金原の視線の先を見ると、砂地の地面に直接、大人が両手で何とか抱えられるくらいの籠が置かれていた。
 金原が叫んだのは、籠の中に赤ん坊が見えたからだった。
『四季』のメンバーは暫く会話なく、白い着物に包まれた赤ん坊を見つめていた。赤ん坊といっても、もうそこそこ大きく、この世に生まれ出てから半年以上は経っているようだ。
 赤ん坊は彼らの気配を感じた様子もなく、一人で海に向かい、微笑んでいた。
 黄昏時の空の下、何と語り合っているのか、静謐とも思われる空気を纏い、時には空に向かってさし上げた自分の手をじっと見つめている。
 少し向こうの方で、座ったまま首を伸ばした犬が、四人を窺っていた。

「あの、うちに何か?」
 いつの間に戻ってきたのか、粗末な灰色のブラウスを着て、長靴に漁師用の黒いエプロンをつけたままの女性が、彼らの後ろから声をかけてきた。女性は振り返った四人の顔を順番に見つめ、それから確かめるように冬真に話しかけた。
「あなた、冬真くん?」

 三村咲月は彼らを家に招き入れ、何もないけど、と言ってお茶を出してくれた。
 彼女は若くはなく、もう四十になっているはずだった。咲月の傍らに置かれた籠の中の赤ん坊が彼女の子供なら、随分な高齢出産というわけだ。それに美人とは言いがたく、隣に学生着物美人コンテスト優勝者が座ると、みすぼらしいほどだった。
 咲月は『真珠』を受け取り、右の親指と人差し指で摘まんだ。その節くれ立った指は太く、指輪なんて似合わないだろうと思えた。
「そうなの、こんなものが」
 咲月は不思議そうに珠体を見つめ、真実の真珠は薬品でも変形しないって本当なのね、と呟き、それから微笑んだ。
 その顔は、あの赤ん坊の表情と同じだった。

「脳溢血で倒れる前、あの人、時々鬱ぎ込んでて、ある日、私を悦ばせるんだって出掛けていって。帰ってきてから、幾夜も頑張ったのよ。私ももう長い間そういう悦びを感じたことなんてなかったけど、あの満月の夜は、きっと受精するって思った」
 生物の普通の営みを語るように、さらりと咲月は言った。
 四人を送り出して家の外に出たとき、咲月は冬真を呼び止め、天空の光をその両眼のうちに映して、海鳴りに負けじと思うのか、大きな声で言った。
「申し訳ないとは思ってないわ。でも、あなたが大学に受かったって聞いたとき、あの人、何も言わなかったけど、一人でこの浜に座って、海に向かってお酒を飲んでいた。海の上には満月が昇ってきて、あの人の影は光に浮かび上がる仏のようだった。あの人が、自分が死んだらあなたの入った大学に献体するって遺言を書いたのは、その日のことだった。まさか、本当に直ぐに仏になって、直接自分の息子の将来に役に立つとは思ってなかったでしょうけど」


「お前って、意外に苦労してたんだな。何も言わないし、いつも人を観察してるみたいで虫が好かなかったけど」
 珍しく、蒲田の声を耳障りに感じなかった。
『四季』のメンバーは誰が言い出したわけでもなく、季節順に浜に寝転んでいた。もうすっかり夜になっていて、彼らの足の伸びるずっと先の海から、月が昇ってきていた。
「しかも、世の中ってびっくりするような偶然があるのね」

 もっとも、冬真が小学生の時に愛人を作って家を出て行った父親の記憶は、あまり明確ではなかった。だから、実習が始まって、初めて黙祷をし、遺体の入った袋を開けたときも、直ぐには気が付かなかった。気が付いたのは、肩から背中の傷の瘢を見た時だった。その大きな三日月型の傷は、海に行ったときに岩場で足を滑らせた息子を助けようとして、背中から岩に落ちたときにできたものだった。
 それからは、遺体に自分と似た部分を探すようになっていた。
 父が亡くなったことを母は知っていたようだが、冬真には何も言わなかったのだ。母は安乗まで一人、葬式を『見に』行っていた。
 享年五十二、死因脳出血。
 母から聞きだした情報は、解剖学教室の台の上の遺体につけられた札のプロフィールと同じだった。

「ネアンダルタール人とクロマニヨン人の間には、ミッシングリンクがあるんだ」
 突然、京谷が言った。間の抜けた声で蒲田が聞き返す。
「ミッシングリンク? 何や、それ」
「それって、バンドのオリジナルで歌ってる曲? サビが『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』ってやつでしょ」
 さすがに、金原は京谷の歌をよく知っていた。
「人類の祖先を辿ると、直接の先祖はクロマニヨン。でも、クロマニヨンの前には繋がらない。ネアンダルタールは遥か昔に分かれて別の道を行った遠い親戚。でも、クロマニヨンの前には誰もいない。クロマニヨンはどこから来たのか。人類はどこから来たのか。あの月か。だから月が懐かしいのか。だから僕らの身体には、たくさん月の欠片があるのか」

 はっきり言ってあまりいい歌とは思えなかったが、京谷はなかなかの美声の持ち主だった。海鳴りをバックに、ラップ調のその曲は大した盛り上がりもなく淡々と響いたが、古の太鼓の音が背中の大地から突き上げてくるような感じがした。
「そうか、それで月偏なんだな」
「だから、人体の場合は、にくづきだって」
 蒲田と金原のやり取りに、京谷が歌とは違ったトーンの、ぼそぼそとした声を被せた。
「でも、朧とか朦とか朗は、月偏なんだよな。ぼんやりとした感じとか澄んでいる感じとか、そういうのは。それと人体を表す漢字の部首が同じってのは、何だか不思議だよな」

 ふと、小さな頃に父に連れられて行った、海辺の村の光景を思い出した。
 月が光を落とす海に漂う白い影。それは天と海を繋ぎ、揺らめきながら浜辺に伸び、やがて海から上がってくる女性の姿に変わっていった。
「さっき、赤ん坊が籠の中で笑っているのを見たとき、あ、こいつは知ってるんだって思ったよ」
 京谷は妙なことを考えている奴だった。妙だけど、きっと何か真実に近いことを。
 冬真はちらりと京谷を見た。
 あれは本当に真珠だったんだろうか。京谷は、本当は何かを知っていたのかもしれない、と思った。

「私も。さっき赤ちゃん見たとき、予備校の教科書に載っていた詩を思い出したの。それって、私たちの大先輩の医者が書いたもので、しかもまさにこの安乗が舞台で。その詩を読んだとき、見たことのない景色に取り込まれていく感じがした」
 金原は、予備校のときいつも窓際の席に座っていた。あの頃からとても綺麗で、いつも冬真の視界の隅っこは彼女が占拠していた。この詩を、色気のない教科書で見たとき、思わず窓の方を見た冬真は、窓際で金原も同じように、夜の空の向こうにその景色を描いていることを感じた。
「稚児一人小籠に座り、微笑みて海に向かえり」
 冬真が歌うように呟くと、京谷の向こうの金原は寝転んだままふっと冬真の方を向いて微笑み、それから上半身を起こした。
「見て」
 金原の言葉に皆が起き上がり、彼女の手が指す方向を見た。
 遥か海には遠い故郷からのメッセージが、光の帯となって降り注ぎ、揺れさざめきながら、まっすぐ冬真たちの足元まで伸びてきていた。
 彼女の手は、遠い昔、海から現れた女性の手と同じ彼方を指していた。その人の指は節くれ立っていて、とても指輪など似合いそうになかったのに、そこには光のリングができていた。

 ねぇ、冬真くん、生物の営みには月の引力が必要なの。珊瑚も満月の夜に一斉に産卵するのよ。でも、どうしてその日が満月の夜だって分るのか、不思議でしょう。私たち女は月のサイクルを持っているのよ。
 そう、私たちはみんな、知っているのよ。

(【月へん】了)
……月偏、月の欠片(月片)、月についての掌編(月篇)……


参考までに、詩の全部ではありませんが一部を。

とある家に飯(いひ)蒸かへり
男もあらず女も出で行きて
稚児ひとり小籠に坐り
ほゝゑみて海に対へり

荒壁の小家一村
反響(こだま)する心と心
稚児ひとり恐怖(おそれ)をしらず
ほゝゑみて海に対へり

(伊良子清白『安乗の稚児』:岩波文庫『孔雀船』より一部抜粋)

*稚児について
実はこの詩に初めて出会ったとき、私は何の疑問もなく、これは籠の中に入るくらいだから、赤ちゃん、と思い込んでいました。この掌編を書いた時も、そう信じて疑っていなかったと思います。
今考えると、実はもうちょっと大きい幼児なのか?と思ったりもして。
ただ、赤ん坊が恐れも知らず、私たちには見えない何かを見て、それに向かって微笑んでいる姿をよく見かけるので、私の勘違い(あるいは勘違いではないかも)は満更悪くない、と思い、稚児=赤ん坊のままです。
清白先生が見られた稚児の年齢は……ま、想像ということで。
この詩で、まるで小さい子を放置しているみたいだけど、「反響する心と心」にとても深いものが込められているんですね。
自分の子供のころ、裕福ではなかったと思うし、両親はすごく働いていて、私は掘っ立て小屋みたいな事務所の小さい和室にほっとかれてて、よく三和土に落ちて頭打ってたけど…同じような世界の中にいたように思います。

Category: その他の掌編

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