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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨35] 第5章 誰も信じるな(2) 

*行く先々で絡む志穂。代議士・澤田顕一郎に対して何か含むところがあるようで、さらに大和竹流のところに出入りしていた男のことを見張っていたようでもある。何かを知っているようなのだが、真が全面的に協力してくれるなら話す、というだけで、事情がつかめない。
事務所に戻ると、今度は深雪が訪ねてきて…美和のご機嫌を損ねることに…



「こんなところで何をしている?」
「何って、田安の伯父さんに呼ばれたから来たのよ。あなたこそ、何してるのよ」
 真はそう言われて、勝手に侵入したのは自分の方か、と思った。
「田安さんに話があったんだ。ドアが開いたから」
「そう」
 この女が鍵を開けたのか、と納得していると、志穂はカウンターの高いスツールに座った。
「おかしいわね。正午って言ったのに。あの人、時間にうるさいからちゃんと来たのに、もう一時間以上待たされてるのよ」

 真はカウンターの内側から志穂と向かい合っていた。
「もう帰っちゃおうかな」
 志穂は派手な顔つきに似合わないような無邪気な声で呟いて、真のほうをちらりと見た。
 昼間のバーは滑稽なほどに明るく、間が抜けるほどに柔らかな空気に満ちていた。高い窓からは、さっきまではガラスを打つ雨の音が聞こえていたような気がしたが、今は白っぽく明るい陽の気配が降ってきている。遠くに、汽笛の音が重なった。海が近いのだ。

「澤田に、会ったんでしょ」
 真はこの女が何を知っていても、とりあえず驚かないことにした。
「どうして知っている?」
「まぁいいじゃない」
「一体何故、澤田にこだわる? 田安さんに近づいたのも澤田のことでか?」
 志穂は意味ありげに笑った。
「まぁね。言ったでしょ。澤田は仇だって」
「どういう意味か聞かせてくれ」
「今日は低姿勢ね」

 志穂はカウンターの上の灰皿を暫く指先でつついていたが、やがて真の方に顔を上げた。
「聞きたいなら聞かせてあげてもいいけど、代わりに何をしてくれるの」
「何をして欲しいのか聞かせてくれたら考える」
「じゃあ、香野深雪に澤田をどう思っているのか、直接聞いてよ」
「深雪に拘るわけは何だ?」
 志穂は暫く答えずに真を見つめていた。それからふと、視線を逸らし、思い立ったように立ち上がる。
「じゃあ、取り敢えず、ホテルに行かない?」
「ホテル?」
「丁度サービスタイムだし」

 真が何とも答えないでいるうちに、志穂は立ち上がりカウンターの内側に廻ってきて、真の腕を取った。それでも真が動かないでいると、彼女はさらに強く真の腕を引っ張るので、結局一緒に店を出た。
 志穂は薄い青のジャケットのポケットから鍵を取り出して、重い金属の勝手口の扉を閉めた。
「鍵、持っているのか」
「うん、まぁね」志穂は曖昧に答えただけだった。「ほんとに、どうしたのかしらね。何で来たの? 車?」
「いや、電車で」

 さっきの土砂降りは気のせいだったのかと思うほど外は明るくなっていて、太陽の光が足元を間抜けなほどにくっきりと照らし出している。
 志穂は真が逃げないようにとでも思っているのか、腕を摑んだままで、ポケットから別の鍵を出すと真に手渡した。
「運転、してくれるでしょ」
 志穂の車は国産車の軽で、店の近くに停めてあった。

 展開はともかく、何か知っているなら聞き出そうと思ったので、真は言われるままに車に乗り込み、志穂の指示のままに車を走らせた。新橋の近くまで来ると町の中の細い道に入り、一軒のラブホテルの前に出た。
「ここ?」
「何、躊躇ってるのよ。さっさと入ってよ。恥ずかしいでしょ、こんなところに止まってたら」
 それもそうだと思い、とにかく垂れ幕がぶら下がった入り口をくぐった。暗くて狭い半地下の駐車場に車を進めて止まると、志穂はさっさとドアを開けて車を降りる。
 仕方がないので、真もエンジンを切って車を降りた。

 真がドアに鍵をかけたときには、志穂は既にホテルの入り口に入っていってしまっていた。一体どういうつもりなのか、と思ったが、とにかくついていくしかなさそうだった。
 パネル式の受付で、部屋の写真が並んでいる。空いている部屋のパネルには明かりが点っていて、志穂はそのうちの一つを選んでパネルの下のボタンを押した。見ると、昼時にも関わらず半分ほどの部屋の明かりが消えている。
 三千五百円です、という女の声が小さな窓口の向こうから聞こえた。真は振り返った志穂に急かされるように財布を出した。

 階段を半分上がると、駐車場とは違って比較的綺麗なロビーになっている。エレベーターがあって、四階まで上がった。志穂は口をきかずに、さっき窓口で受け取った鍵を弄んでいる。
 エレベーターを降りると、どう見てもOLとその上司という風情の二人が立っていて、真たちから視線を逸らした。こういう場所は仕事柄それなりに慣れているつもりでも、時々背中が冷たくなるような時がある。皆がある一つの目的のためだけにここに来るからかもしれないが、駅のホームでしばしば吐き気や頭痛に襲われるのとは少し訳が違っていた。もっとも自分とてこういう所をそういう目的で利用することはあるのだから、文句を言うわけにはいかない。

 志穂は先に立ってある部屋の鍵を開けると中に入っていく。
 中には小さな玄関があって、奥に続く扉をもう一つ開けると、左の手前に洗面とトイレらしいドアと、ガラス張りになった大きなバスルームがあった。一段高くなったところに大きなオレンジ色の掛け布団を置いたベッドがある。
「今の香野深雪とはこんな下品なホテルに来ることはないでしょうけど」
 真は黙っていた。志穂はベッドに座って挑発するように脚を組んだ。綺麗な脚を持った女で、今日は短いスカートを履いている。
 深雪が気まぐれでこういうホテルを使いたがることがたまにある。面白がってそういう配信番組を見ながら行為をすることもある。だが、別にこの女にそんなことを伝えてやる必要はなかった。

「このホテルはね、ある男がある女といつも密会に使っていたところ」
 それがどうしたのか、と思った。
「男は雑誌記者で、何年か前から妻が交通事故で寝たきりになってて、八つになる女の子と暮らしていた。妻が事故に逢う前から、男はある女とここで抱き合うような関係で、妻が寝たきりのまま病院で亡くなった日もここで女に会っていた。妻が亡くなってからも、男は女との関係を断ち切れなかった。そして、半年後、自殺したわ」
 座ったら、と言うように、志穂はベッドの隣を指した。真は言われるままに座った。
「男はその時、ある不正融資について調べていた。男が自殺した後で、男の持ち物からフロッピーに入った脅迫文の原稿が見つかった。脅迫文の宛先は表には出なかったけど、政財界のそこそこの人物が幾人かターゲットになっていたようだった。男が寝たきりの妻の治療費で借金を抱えていたのは事実だけど」

 志穂は言葉を切った。真は彼女の横顔がいつになく真面目なのを見て取った。
「君の知り合いか」
「私の上司だったの」
「それだけか」
 志穂は真を見つめた。
「好きだったわ。記者としての基本も心構えも、何もかも教えてもらった。自殺したなんて今でも信じられない。子煩悩でいい父親だったわ」
「その、女というのは、君ではないんだろう」
 真は言葉を選ぶように言った。志穂は返事をしないまま、真から視線を逸らした。
「だから、香野深雪にどういうつもりなのか、聞いてよ」

 真は視線を逸らせたままの志穂の横顔を見た。
「深雪が、その男の恋人だったということか」
「恋人? 不倫でしょ」
「だが、それが澤田と何の関係が」言いかけて、真は留まった。「まさか、脅迫されていた政治家の一人が澤田で、澤田が深雪を使ってその雑誌記者をどうかしたとか、思っているんじゃないだろうな」
「知らないわよ。だから、本人に聞いてよ」

 真は顔を上げた志穂と暫く睨み合うような格好になっていた。だが、次の瞬間、志穂は真に身体を投げ出すようにして首に腕を回し、真の唇に自分の唇を押し付けてきた。真は一瞬何が起こっているのか認識できずに志穂を抱きとめたが、直ぐに彼女の身体を引き離した。
「何のつもりだ」
「あなたも、香野深雪の身体と離れられないんでしょ。その男の気持ちが分かるんじゃないの」
 そう言ってから、志穂は真の胸を確かめるようにシャツの上から触れてきた。
「あの女はそんなにいいの? 男が自分の何もかもを捨てるほどに?」
 真は思わず志穂の手首をつかんだ。
「君が直接深雪に聞けばいいだろう。万が一君の考えていることが事実だとして、俺が聞いても彼女はそうだとは言わないぞ」
 志穂は真を見つめてたままだった。

「あの人は肉親の感情を踏み躙るような女よ。話なんかしたいとは思わないわ」
「肉親?」
「赤の他人なら許せても、肉親だからこそ理解できないし、許せない事だってあるでしょ」
 真は志穂の手首を離した。志穂の言葉の意味を反芻してみたが、理解の向こうだった。
「試しに私を抱いてみたら? 何か分かるかもよ」
 深雪が男を誘うとき、こんなふうに必死な印象はないな、と真は思った。口で生意気を言いながらも、この女は目一杯な感じがしたのだ。
「悪いが、そのつもりでここについてきたわけじゃない」
「でもちょっと期待しなかった?」
「そういう気分じゃない」
「あら、じゃあ、そういう気分なら抱いてくれるの? それとも、大事な人が消えたから、それどころじゃないって事?」 

 真は思わず志穂の腕を掴んだ。
「どういう意味だ?」
 志穂は意味深に笑った。
「ほら、そうやって必死になる。消えたでしょ、あなたの彼氏、病院から」
「どうしてそんなことを知っている?」
「病院で騒いでたからよ」
「見張ってたのか」
「まぁね」
 真は志穂の腕を離さないまま更に聞いた。
「あいつはどこへ行ったんだ?」
「そんなこと知らないわよ。私が見張ってたのは別の男よ」
「そいつは美和がつけていった男か。竹流のところに面会に来ていたという」
 志穂は自分の腕を掴んでいる真の手に手をかけて、振りほどいた。
「あなたの彼氏、と言われて否定もしないと思ったら、今度は秘書さんを呼び捨て。随分仲がいいのね」
「君には関係のないことだ。その男を何故見張っている?」
「私と寝たら教えてあげてもいいわよ」
「馬鹿を言うな」
「教えてくれ、と言うから交換条件を出してるのに、もうちょっと低姿勢になったら?」
 真は志穂とまた暫く睨み合った。

 だが、先に視線を逸らせたのは志穂のほうだった。
「そうね、私は肉親の恋人と寝る趣味なんてないわ」
 そう言って志穂は立ち上がった。
「帰りましょう」
「何を言っている?」
 真は座ったままひとつ前の志穂の言葉の意味を確かめようとした。
「だから、香野深雪に聞きなさいよ。ベッドの上でいい気分になりながらね。あなたがいつもよりもっとあの女を悦ばせてあげたら、話してくれるんじゃないの。もっとも、あなたの方にその余裕があれば、だけど」
 随分な悪態をつきながら、志穂はもう部屋を出て行こうとしていた。真はひとつ息をついて、自分も立ち上がった。

 エレベーターの中でも志穂は口をきかなかった。
竹流に面会に来ていたという男の事を問い詰めたかったが、何もかもを拒否するような志穂の態度を見ては諦めざるを得ないようだった。ロビー階でエレベーターを降りると、志穂は真に歩いてここから出て行けと玄関口を指して、自分は駐車場への階段を降りていった。
 真はそれを見送りながら、諦めてラブホテルの正面口から出た。
 出たところで、入ってこようとした若いカップルとぶつかりそうになった。一人で仏頂面で出てきた男をカップルはどう思ったのか、一瞬意味深にこちらを見たのが気になったが、それどころではない気分だった。


 電車に乗ると一旦新宿まで戻り、車を取って大和邸に向かうことにした。考えてみれば大和邸があるところは結構な田舎なので、電車で行くとなると不自由この上ない場所だった。
 事務所に戻ると、ドアを開けた途端、美和の恨めしそうな声が飛んできた。
「先生~、連絡くらいくれてもいいのに」
「ごめん。何かあったか?」
「大家さんからは連絡ないし、澤田の経歴なんて、資料が多すぎて読みきれません」
 横で宝田までが、美和がどこかから担いできたらしい本の山と格闘している。少年少女向けの推理小説以外の本を広げたことがほとんどなく、細かい字を読むのが苦手な宝田には苦痛な作業だろうと思った。

「悪かった。あ、それと、何年か前に雑誌記者が、不正融資をしている会社や政治家を脅迫していて自殺した事件、なかったかな。詳しく知りたいんだけど」
「いつのことですか」
 そう言えば、いつという部分は聞いていなかった。俺も間抜けだな、と真は思ったが、楢崎志穂の連絡先も知らないし、もう一度会って話したいとも思わなかった。真が黙っていると、美和があきれたように言う。
「わかんないんですか。先生、ちょっと要求が無茶」
 美和の声はいつもの通り勢いが良くて明るく、真をほっとさせた。
「じゃあ、井出ちゃんにでも聞いてくれ。彼なら何か覚えてるかもしれないし」

 井出というのは新聞記者で、政治絡みの事件が専門だ。少し変わった男で、少年事件にも興味を持っていて、時々真のところにネタを仕入れに来る。勿論守秘義務を外すようなことはしないし、そうでなくても簡単にネタを提供するようなことはなく、仕事面ではそれなりに損得勘定をして付き合っているが、実際には時々飲みに誘うことのほうが彼の主目的なのではないかと思う事がある。
「あ、それもそうね。もう一つくらいキーワード、ないんですか」
「遺族は八歳くらいの女の子。母親は交通事故で寝たきりだったのが亡くなっている」
 美和は頷いて、念のためというように手帳に書きとめていた。
「それが、大家さんの怪我と何か関係あるの?」
「さぁ、どうかな。澤田と」一瞬真は躊躇ったが、先を続けた。「香野深雪には関係しているかもしれない」

 さすがに深雪の名前には、美和は複雑な顔をした。
「じゃあ深雪さんに聞けば分かるんじゃないんですか。先生、自分の恋人でしょ」
 宝田が横で頷いている。
「うん、まぁ、そうだけど」
 真が曖昧にしても否定しなかったのが美和の気に障ったはずだが、美和が何か言いかけたのを感じて真がまずかったな、と思ったときにドアがノックされた。
 美和は弾かれたようにドアのところにとんでいって開けた。攻撃を受けずに済んだかとほっとしたのも束の間、ドアのところに立っている女を見て、真はもっとまずい状況になったと思った。
 噂をすれば影、とはよく言ったものだ。

「まぁ、皆様、お揃いなのね」
「深雪」
 真は考えもなしに彼女の名前を呼んでいた。深雪は髪を綺麗に結い上げて、上品な白いスーツを着ていた。和装でも洋装でも、彼女は人の目を引く女だった。色白の肌の中で唇の赤みに一瞬で目を奪われ、やがて優しげな瞳に摑まると抜け出せなくなるような、そういう外観を持っている。
「真ちゃん、会えてよかった。ちょっとお願いがあって」
「うちはボランティアじゃありませんけど」
 被せるように美和が言った。美和が怒っている相手が、深雪ではなく自分であることは、多少女心が分かっていない真でも十分感じられた。
「あら、そんな事じゃないのよ」

 深雪は美和の言い分を完全に無視して真の方を見つめた。
「預かって欲しいものがあるの。今夜いつもの部屋に来てくださる?」
 完全に不味い状況だというのは間違いなかった。真は思わずドアまで行って、深雪の腕を取り、身体ごと抱くようにしてドアの外に出た。
「どうしたんだ、こんなところに来て。電話してくれたら」
「ちょっと近くまで来たから。それにあのお嬢さんに嫌われてるみたいだから、電話を切られてしまいそうだもの」
 そう言いながら、深雪はほとんど真の肩に頭を引っ付けるようにしていた。

「もう少しの間だけ、私のこと信じてくれる?」
 小さな声で深雪は呟いた。真は何を言われたのか、意味を考える余裕もなかった。
「じゃあ、九時に」
 深雪はそれでも離れがたいように真の身体にもう一段身を寄せると、直ぐに思い直したように離れた。真は深雪の優雅な後姿を見送って、暫くそこに突っ立っていた。

 頭は色々なことを考えていた。楢崎志穂が言っていたように、深雪に問い詰めるのが一番早いのかもしれない。まだ竹流との直接のつながりは分からないが、手がかりのない今は、何にでもしがみつきたい気分だった。
 だが、身体はそういう全てが言い訳であることを知っている。
 真は気を取り直して事務所の中に戻った。

 デスクの前に戻ったところで、美和が立ち上がり、幾冊かの本を重ねて真の前にバン、と音を立てて置いた。
「自分で読んでください!」
 そう言って美和は自分の机に戻り、バッグを取り上げて出て行こうとする。
「おい、どこに行く気だ」
「井出さんのところと図書館。調べてくれって言ったの、先生でしょ!」
 ドアを勢いよく開け放ったまま、美和はずんずんと出て行ってしまう。さすがにこの日は追いかけないわけにもいかず、真は狭く薄暗い階段の前で美和に追いつくと、彼女の腕を捕まえた。

 美和は本当に怒っているらしく、頬を震わせるようにしてそっぽを向いた。
「何をそんなに怒るんだ。いきなり冷たくするわけにもいかないだろう。しかも、彼女は何か知っているんだ」
「そういう言い訳してあの人と寝るんでしょ。先生なんて最低。昨日の今日でよくそんなことができるわね」
「何も抱きに行くわけじゃない。考えすぎだ」
「でも、結局そうなるわよ」
 叫んで真を睨んでから、急に美和は泣きそうな顔で俯いた。
「……ごめんなさい。私も二股かけてるんだった。何、怒ってんだろう、人のこと言えないよね」
 廊下の壁に押し付けられたような格好になっている美和が、頭をこつんと真の胸にひっつけた。さっきの深雪の頭よりもずっと重い頭だった。
「頭、冷やしてくる」
 美和はそう言って逃げるように階段を下りていった。

 開け広げの彼女の性質はそれで十分美徳だった。真は自分の二股の方がずっと性質が悪いことを知っていた。多分、今夜深雪と会えば抱き合わずにはいられないだろう。それは美和の言うとおりだった。
 事務所に戻ると、宝田が大きな身体でおろおろしていたが、真が机に戻るとその前に駆け寄ってきた。
「先生、その……結局、美和さんとそういうことなんすか」
 真は宝田のごつい顔を見上げた。心配そうな顔を見ていると、君には関係ないとは言えなかった。
「いや、つまり、ちょっと複雑なことになっていて」真は言葉を一旦飲み込み、一息ついてから続けた。「だからちょっと、美和ちゃんについていてやってくれないか」
 とにかくここは宝田も追い払ってしまうことにした。途端に宝田は真面目な顔になり、彼にしては珍しく口籠る事も無く、はっきりと言い切った。
「わかりやした。しかし、先生、そういうことなら深雪さんとはきちっと別れていただきやす」
 真は頷いた。
「いずれね」
「そんないい加減な」
「この件が片付いたらもう会わない。約束するよ」
 そんなことを宝田に約束しても仕方がないのだが、それを聞いて宝田はやっと納得したのか美和を追いかけて出て行った。



少しずつ、『出来事』が積み重ねられていきます。
どうやら糸口が出てきそうな次回。
ちなみに、伏線の中にはヤラセがありますので、ご注意ください^^;
誰も信じるな……特に作者を^m^
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨34] 第5章 誰も信じるな(1) 

第4章あらすじ

 恋人(というよりセフレ)である銀座のバーのママ・深雪のパトロンという噂のある代議士・澤田顕一郎から呼び出された真は、赤坂の料亭で会うことになった。澤田は竹流の怪我と何か関係しているかもしれないと、女刑事・添島麻子、雑誌記者・楢崎志保からにおわされている真は、探りを入れるつもりで乗り込む。もちろん、深雪とのことでちくちくいたぶられる可能性もあるのだが…と思いつつ行ってみると。
 話の内容は予想もしないことだった。
 真に、澤田のもとで働かないかという勧誘だったのだ。それも、澤田は真の実の父親、相川武史(世間ではアサクラタケシという名前で通っている)の大学の先輩であり、真の出生の事情、伯父・功が真を引き取ったことも知っていた。澤田は、自分のもとに来ることが真の安全を保障することになると告げる。しかも、ジャズバーの経営者・元傭兵の田安隆三は澤田の育ての親だという。
 話の内容には警戒しながらも、澤田のペースに巻き込まれて飲んでしまった真は、過去の話にいささかセンチメンタルになっていたことも手伝って、心配して真の帰りを待っていた美和とセックスをしてしまう。もちろん、美和のことは可愛いと思っていたので、勢いではなかったつもりなのだが、事が終わってしまうと自分の中で何かが冷めていることに気が付く。
 そこへもう一人真のことを心配していた竹流からの電話。何も話してくれない竹流に対してイラついていたにも関わらず、声を聞いているうちに恋しさがこみあげて来てしまう真に、竹流が『この件が終わったら、俺のところに来るか(=仲間として仕事をする、あるいは自分の全てを話すというニュアンス)』と言い、最後に『誰も信じるな』と告げる。
 美和は、真と電話の相手(=大家さん、つまり大和竹流)の間には割り込めないことを感じながら、真と初めて会った時のことを思い出していた。
 そして翌朝、二日酔いの真のもとへ、病院から竹流が姿を消したという電話がかかってきた。


さて、第5章です。
だんだんわけが分からなくなってきたと思いますが、適当に、適当に端折りながら読んでください。
こういう訳の分からない話は、気に入ったところだけ読むという方法があります^^;
って、そんなことをお勧めしてどうするんだって話ですが……




 病院までの道は渋滞だった。真はイライラしながらハンドルを何度も叩いた。暗い灰色の空からは、重くなった空気に溜めきれなくなった水滴がぱらついて落ちてきていた。
 雨だな。
 夜中の彼の声が耳に残っていた。甘い、耳元に口付けるようなハイバリトンの声が、電話だけに何倍も強調されて、耳のどこかに残っている。

 話をしたばかりだ。俺のところに来るか、とそう言われた。
 いや、多分すぐに戻ってくるのだろう。ちょっと出掛けただけに違いない。
 そう打ち消しながら、すぐにまた打ち消した。病院の中をうろうろしているとは思いがたい。少なくとも、病院からは姿を消しているのだ。さらわれたにしても自分から消えたにしても、良くない事態であることは間違いがない。
 車の流れは、天候のせいもあるのか、完全に止まっているようだった。
 渋滞の車の中にうずもれている間に、雨は突然激しさを増してきた。ワイパーは、始めは間歇的に動かしていれば済んだが、すぐに常時動かさなければ前が見えなくなった。そしてすぐに、雨は車自体を叩き潰す気ではないかと思うくらいの激しさになり、ワイパーの勢いを上げると、同じ勢いで気持ちがさらに焦ってきた。
 真は次の曲がり角で地下鉄の入り口を見つけると、脇道に逸れた。狭い道ながら、車がすれ違えることが分かると、駐車違反くらいは構わないと思って車を乗り捨てた。
 とにかく病院だった。
 雨が叩きつける中を、真は地下鉄の入り口に走りこんだ。


 担当の看護師が申し訳ないというようにあれこれ言葉を並べる中を、真は急いで病室に行ってみて確信した。布団は綺麗に畳まれていたし、何よりもあんなに目立つ男が誰の目にも留まらずに連れさらわれる可能性は低そうに思えた。ナースステーションの前を通らずに外に出るとなると非常口しか手はないが、開けられた形跡はなかった。常時ナースステーションに誰かがいたという保障はないが、本人の意思でなければ出て行くのはそこそこ困難に思える。
 真は警察に届けましょうか、という病院側の申し出に、暫く考えていたが、後でどうしてすぐに知らせなかったかと問い詰められるのも億劫だと思い、警視庁捜査一課の添島という刑事に知らせてもらうように頼んだ。もっとも、どうしてあなたが自分で連絡をしてこないのか、と言われそうだが、それはこらえてくれと思った。

 しかも、昼過ぎには状況はさらに明確になった。真が一度車を取りに病院を離れている間に、男が頼まれたと言って入院費を置いて行ったという。
 病院に張り付いていなかったことを後悔したが、その男が本当に頼まれただけなら、情報が得られるとは限らない。いや、今の竹流の状況に協力している人間なら、どうあってもうまく逃げられただろう。

 夜中の電話では、これからいなくなるような気配はなかった。来てくれるならそれでいい、と待ってくれているような言葉で電話を切ったのに、一体どういうつもりなのか。身体が多少は回復するのを待っていただけなのか、それとも新たな事態になって病院でじっとしている場合ではなくなったのか。
 看護師が、でもまだ少し熱があったのに、と呟くように言った言葉が頭に残っていた。何よりも身体の状態が心配だった。不自由な右手が何よりも気がかりだった。

 一旦事務所に戻ったが、じっと座っていることはできずに、真は町の中に出た。あてがあるわけではなかったが、新宿の東口の雑多な界隈を通り抜け、とにかく電車に乗ろうと思った。
 頭は忙しく働いていたつもりだが、動きは曖昧だったのか、何度も人にぶつかられた。いつもなら気持ちが悪いほどの人混みも全く意識の中に入ってこなかった。
 そもそも一体どこにこの『事件』の始まりがあるのか、見えなかった。知らない間に忍び寄るように日常の暮らしの中にまとわりついてきたようなものだ。
 日常の暮らし、と言っても、同居人や自分の生活が通り一遍のものとは思っていない。家族と平和に暮らす日常ではないし、同居人に至っては仕事も怪しい。

 ホームに立っていると、電車の警笛が頭の中を貫いた。
 誰も信じるな。
 警笛が、電話の同居人の言葉を向こうから投げかけてきたように思った。


 深雪と付き合い始めたのは一年以上も前のことだ。知り合ったきっかけも、ちょっとした事件でたまたま話を聞いただけで、別に誰かが何かを仕組んだようには思わない。
 澤田など、深雪のパトロンらしいとは噂されるが、現実にはどうだかわからない。第一、真自身が接触したのはつい昨日のことだ。たまたま真の父親の事を知っているからと言ってその点が怪しいとうわけではない。

 澤田が田安隆三と知り合いだからと言って、田安が怪しいわけでもない。いや、人物は怪しいが、田安が真に何か他意を抱いているなら、もうとっくにそういう片鱗を見せていてもいいはずだ。彼と知り合ったのは、そもそも真がまだ大学生のときだった。だが、田安は真と深雪とのことも知っているはずなのに、澤田の父親代わりに学費を出していたなど、初めて聞く話だ。

 田安のところに出入りしている楢崎志穂という女を見かけるようになったのは、この半年くらいの間のことだ。聞いたことはないが、田安とは随分前からの知り合いのように思える。澤田を恨んでいるようだが、だからといって手伝ってやる義理はない話だった。

 竹流の周りにいる人間で、あの添島という女刑事は、もう随分前から竹流を気に掛けていたように思ったが、蓋を開けてみればただ彼の女の一人というだけのことだった。国際警察機構に属していたことがある女で、その頃から竹流とは知り合っていたようだし、付き合いは長いのだろうが、竹流をあんな目に遭わせるようなことはないだろう。

 だが、女たちは皆、澤田の名前を口にするか、澤田の関係者だ。一人は澤田の『愛人』と言われている、一人は澤田に恨みでもあるようだし、一人は澤田の『目的』を知りたいという。
 添島刑事は、澤田が真に接触してくるはずだし、ある人がそれを気に掛けていると言った。ある人、というのは、以前一度外務省絡みの事件で知り合った相手だった。と言っても真にとってはそれほど特別な事件だったわけではなく、ただ真が請け負った失踪人調査の対象になった家出少年が、外務省の某高官の息子だったということだけなのだが、この少年はコンピューターのいわゆるおたくで、父親のところから何かとんでもないものを『盗み出していた』らしい。その先のことは真の耳にも目にも入ってこないので、実際に何があったのかは知らない。だが、その少年を見つけたら、直ぐに連絡をしてくるようにと言われた先が、その人のところだった。添島刑事が『特別な番号』といったのはそのことだ。
 内閣調査室の河本、と名乗った。本名かどうかは知らない。

 真と血のつながりのある、つまり実の父親である相川武史は、真が生まれて直ぐに日本を出て行っている。詳しいことは何も知らない。最近彼が真に対して態度を変えたような気配もない。つまり、会いたがったり、接触してくるようなことだ。彼がどこか異国で特別な仕事をしていることで、時々自分の身辺で微妙な出来事があるように思うこともあるが、何かが突然変わったわけでもない。
 
 竹流が『誰も信じるな』と言った『誰も』は、他にも候補者がいるのだろうか。
 竹流が出掛けたのは三週間前のことだ。彼が出掛けるのはしょっちゅうのことで、いつでも楽しげに仕事に出て行く。今回唯一ムードが違ったのは、いつもに比べてちょっとばかり嫌そうに出て行ったことくらいだ。
 彼の仕事は大概、美術品もしくは歴史的遺物に絡んだことだ。今では古い日本画、襖絵・屏風絵や版画修復の専門家の一人に数えられているが、もともとルネサンス期の芸術品、そして聖堂にあるどんなものでも修復する手を持っていると聞いている。彼自身はロシアやギリシャ正教のイコンに造詣が深いようで、大和邸のアトリエに並ぶイコンを見ると圧倒される。まさに聖堂の中にいるようなものだった。
 それらと関係のないような仕事を竹流がするとは思えないが、嫌々出かけたということは、そういった本来の仕事とはかけ離れたことなのか。大体、そういうことと、澤田や内閣調査室だの米国の国家機構だのは関わらないような気がする。

 それなら、やはり竹流の実家の問題なのか。
 竹流自身は何も話さないので、全て伝聞に過ぎないが、ローマのヴォルテラ家は表向きには銀行家つまり金貸し業で、世界の有名都市にいくつかのホテルを持っている事業家だが、実際には国家や大きな組織に情報を売っている組織だと聞いていた。特にソ連と中東の情報には通じていて、そもそもヴォルテラの家はイタリアのファシズムを早々に終わらせた一翼を担っていたという由緒正しい経歴を持つ。国の栄華は最早落日となっているが、あの家は始めからそんなものには目もくれず、独自の道を歩んでいる。冷戦の前にはソ連の情報に最も詳しい人間の一人だと言われたが、既に矛先を中東に向けているとも聞く。さらに警備会社を持っていて、一般家庭の警備ではなく、国家や部族のような大きな組織の警備をしているとも聞く。その後ろについているのは、世界に最大のネットワークのひとつを持っているヴァチカンであるらしいとも。いや、表の顔は全て隠れ蓑であり、ヴォルテラの本質はむしろ教皇庁との関係で成立しているとも聞いている。

 とは言え、それが澤田と接点があるようには思えない。
 だが、竹流は澤田の事を知っていて、彼の元で働かないかといわれたのか、と聞いた。
 国の親分が動いている気配はないと、竹流の仲間が言っていたし、やはり澤田と何か関係があるのだろうか。

 落ち着け、と真は自分に言い聞かせた。『事件』ならば何かが起こったのだ、何かが起こっているのだ。
 ひとつは誰かが竹流を暴行した。勿論、それだけで十分『事件』なのだが、絡み付いている出来事を思い出さなくてはならない。

 出来事と言えば、事務所が荒らされた。さんざん引っ掻き回してあったが、真の仕事に直接関わりあることを探っていたわけではないように思えた。
 持っていかれたのはフロッピーとテープ類、ビデオだ。
 誰かが、何かを探している。
 マンションにその誰かが現れないのは、あのマンションが簡単には入り込めない造りで、しかも竹流が二重三重のセキュリティをかけているからだろう。
 では、大和邸は。
 もう一度行ってみるかと思った。高瀬も帰ってきているかも知れない。

 真は大和邸の方向とは逆に向いていることに気が付いて、電車を降りた。降りてみると、田安のジャズバーがある東京湾の近くだった。
 何となく気になり、思い立って田安のところに行くことにした。田安にも話を聞きたかったし、丁度いいと思った。本当に澤田代議士と田安がそんなに親しい間柄なら、真が香野深雪と付き合っていることを知っていたのに、どうして何も言わなかったのだろう。
 もっとも、他人の情事にいちいち意見を言うような人ではない。
 それとも、澤田と田安は二人して、あるいは深雪も一緒に、自分を見張っていたのかと思った。
 まさかね。俺も随分偉くなったものだ。

 真は駅を出て、小雨になった湿っぽい空気の中を田安のバーへの道を歩きながら、色々と嫌な想像を打ち消した。
 だが、深雪はともかく、田安も澤田も真の父親の事を知っている。田安は終戦からずっと傭兵をして世界中の戦地を歩いてきた男だという。父とは立場は違うのだろうが、接点があったのだろう。
 もし本当に誰かが真の中の遺伝子を欲しがっているのだとして、そんなものが何になるのだろう。父が息子を愛おしいと思っている気配は全くないし、万が一そうだとしても、今更澤田や田安が真の父親に何かを要求したところで仕方がないように思える。万が一にも父が息子を愛おしいと思っていたとしても、彼は自分の立場と仕事をわきまえているだろう。息子が犠牲になるのを助けるために、彼自身に課せられた立場や義務を棄てるようなウェットさを持ち合わせている男ではない。

 ジャズバーの表は、勿論こんな時間に開いているわけがなかった。
 巨大な倉庫が並ぶ埠頭から少し離れたところだが、回りには何を扱っているのか分からない会社の事務所や倉庫が並んでいて、その中で田安の店は、外見こそ周辺と同じように地味な気配に沈んでいる。他に店らしいものはないし、賑やかな界隈ではない。それなのに意外にも客は少なくない店だった。もっとも、どういう目的の人間たちが集まってくるのかと言えば、真っ当とは思いがたい。
 真は勝手口に回りドアを叩いてみたが、返事はなかった。代わりに、それほど遠くないところから汽笛の音が聞こえてきた。

 考えもなく来てみたが、真昼間だし寝ているのかもしれない。
 田安はこの上の階の倉庫のような部屋に住んでいるが、小さな窓があるだけの部屋で、外から人の気配が窺えるわけでもない。
 もう一度勝手口を叩いてみたがやはり返事はなく、真は諦めるしかないかと思いつつ、何気なくドアノブに手をかけた。

 抵抗なく、ドアノブは廻った。
 真は怪訝に感じつつドアを開けて中に入った。酒類の箱が積み上げられた物置兼廊下を少し進むと、カウンターの内側に出る。真はカウンターへ入る潜り口の向かいにある鉄の階段を登って、田安の住む部屋に上がった。
 靴音が高く反響して、空洞のような空間に広がる。
 階段を上がると小さな踊り場のようになっていて、ドアが一つきりある。
 それをノックしたが、返事はやはりなかった。まさかと思ってドアノブをまわそうとしてみたが、こちらはさすがに鍵がかかっていた。
 たまたま勝手口の鍵を掛け忘れたのだろうか。
 そう思いながら階段を下りて、一応カウンターの内を覗いた。地下への落とし扉は閉じられていて、中に人のいるサインはない。
「何だ、あなただったの」
 突然の声に真は驚いた。店の中に立っていたのは楢崎志穂だった。





さて、第5章が始まりました。
あらすじ、第3章までは長かったのに、4章が短いのはエッチしていただけだから?
何だかちょっと変な気分。
会話には、結構いろいろな情報(伏線ではなく人物の)が含まれていたのに…

以下、再掲。

このシリーズの読み方指南。竹流の立場から見たら、こんな感じです。

(真の年齢・状況) → (竹流の立ち位置)
小学生(高学年)~中学生 → 野生の生き物手懐け期
高校生          → 猫かわいがり期
大学受験~入学までの1か月 → 道踏み外し期
              (『海に落ちる雨』に出てきます)
大学生~崖から落ちるまで → 突き放し・遠くから見守る・立て直し期(同上)
崖から落ちて~同棲まで  → 迷い道期 (『清明の雪』はここ)
同棲期    → 第2次猫かわいがり期(『海に落ちる雨』はここ)
       猫だと思っていたら、いつの間にか猫が山猫になっていたけど…
               
この先は……かなり辛い部分がある時期ですので、またいずれ。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼:後篇 

さて、後編は聖地巡礼です。
予定外に長いです(タルコフスキーで盛り上がりすぎて…^^;)。ごめんなさいm(__)m

聖地と言えば、ドラマや映画、小説の舞台・ロケ地のこと。そこに行くというのが聖地巡礼なのですね。
韓流ドラマに嵌って、雪だるまでチュウのあの公園に行った方も多いに違いない……
ファンにとってはたまらない場所、そしてその特別な場所で過ごす時間は至福のひと時、であります。
日本では『東京ラブストーリー』愛媛県のどこかの駅(すみません、よく知らないんです…)とか、でしょうか。

私たちがまだ若いころ、『南京路に花吹雪』という漫画がありまして、大いに嵌った私たち、何年もたって上海に行く機会があった時、友人が「南京路で花吹雪(=紙吹雪?)やりたい~」と叫んでいました。
本当にやったら、『当局』につかまっていたと思われます。
(当時、上海はまさにバブル夜明け状態で、町をきれいにしようキャンペーン中。道に唾を吐かない、ごみを捨てない、ごみ箱でおしっこしない(子供は股割れパンツ穿いてましたからね)、などなど7か条の条例ができて、破ったら罰金か禁固だった…今も?)


さて、私にとっての聖地巡礼。
それはタルコフスキーが映画を撮った舞台を見に行くことでした。
多分、あんなところまで行った日本人は多くはないだろうし、もしかしていらっしゃったら、語り合いたいくらいです。

と、その前に、アンドレイ・タルコフスキー
生涯にたった8本の映画を残して、亡命先のパリで亡くなったロシアの映画監督。エキセントリックな監督で、『鏡』では自分の母親の思い出を撮るのに、故郷の景色を再現するために麦畑を一から植えたり(しかし、これはすごいシーンだった。女性=母親が家にいて、医者だったか男が帰っていく、目の前に一面の麦畑、風がだだっ広い麦の畑をザーッと撫でていくんです。あの時私は、映画の画面から風が吹いてきたと感じて…これは神の息吹だと思った。今思い出しても鳥肌の立つシーン)、『サクリファイス』ではセットの家をラストで燃やしているんだけれど、カメラが回ってなくてもう一度きちんと建て直させて、また燃やしたり(ちゃちなセットでは許せないと)、『ノスタルギア』(邦題ではカタカナでは『ノスタルジア』ですが、タルコフスキーがロシア語で『ノスタルギア』と呼んでほしいと言っていたというので)ではろうそくの火を消さないようにして、ある場所(バーニョ、つまり風呂なんですね。古い公衆浴場=温泉の水を抜いたところ)を端から端まで歩く、消さずに歩けたら世界を救うことができるみたいな話で…その気の遠くなる長時間の撮影にしても、正直、周囲の人間は迷惑だったろうな、と思うエピソードばかりです。黒沢明が大好きで、日本も好きで、首都高をワンシーンに使ったり。
ある映画評論家に、自分が死んだら「回想録にどうしようもない暴君の監督だったって書くなよ。生きているうちにそれはさんざん言われたから」とか言ってみたり。
『芸術至上主義』で、多分近くにいたらかなり迷惑な監督だったかもしれないけれど。
でも、残された映像は、ある意味鬼気迫るものがあって、本当に素晴らしい。

「僕と君たちの間には秘密がなくてはならない。君たちに何もかも分かってしまってはいけない。君たちは不明な状態にいなくてはならない。すべては意外で、予測できず、興味を引くものでなければならない。君たちはちょうど恋をしているようでなくっちゃね。最後の場面で死ぬということが最初の場面から分かっていて、どうやってまともに演じることができる? つまり最初のシーンと最後のシーンとの間に起こることは全て嘘になってしまうだろう」
タルコフスキーが役者たちに語った言葉。
これって、映画監督と観るものの間にも成立することだし、書き手と読み手の間にも成立することですね。

あるいは彼の父親、詩人のアルセイニー・タルコフスキーの『最初の出会い』
『出会いの一瞬一瞬を
 神の出現のように祝った……』
タルコフスキーの映画は、まるで父の詩を映像に刻み込んでいるみたいです。
そう、彼は映画を『刻みこむ』と言う表現で語っていました。

あぁ、タルコフスキーの話をすると、際限がなくなり、人を退屈させるので、このあたりで。
私の本棚のタルコフスキーコーナーでお察しください…^^;
タルコフスキーコーナー


『ノスタルギア』『サクリファイス』はやはり彼の最高峰だったと思うけれど、個人的には『アンドレイ・ルブリョフ』が一番好き。あの、ラストでイコンがカラーになる瞬間、何度見ても背筋がぞわぞわするのです。
そう言えば、大和竹流(修復家)がイコンに造詣が深いのは、もう完全にこの映画の影響です。


さて、そのタルコフスキーの『ノスタルギア』のファーストシーンで使われた礼拝堂と、ラストシーンで使われた教会に行ってきたのです。
言うのは簡単ですが、もちろん観光案内書には載っていない。タルコフスキーの本で町の名前を確認し、本の中に載っていた車で行ったという人のコラム(当時はネットなんてありませんでしたから)を読んで、イタリアの細かい地図を取り寄せて鉄道が走っているかどうか確認し、調べたけれど、結局わかったのは町の名前と路線図だけ。そもそもイタリアは駅から町まで遠いことが多くて、しかも彼が映画を撮った町自体には列車は通っていない。とにかく、地図上の最寄り駅で降りることにした。
分からんけど、とりあえず行ってみようと。きっと行けばわかるだろうと…あの頃、本当に無謀だった私。

ファーストシーンで使われた礼拝堂は、フィレンツェからローマに向かう列車を途中下車し、ローカル線に乗り換えて、ある駅で降りて、駅員さんに聞いて、結局目的の町・トゥスカニアは古い町と新興住宅地が並んでいて、その新興住宅地に向けてバスが通っていることが判明。
駅から半時間(もっと?)ほどバスで移動。移動中には道路を横断する羊さんの群れ(むろん、羊優先)やら、耕された土が湿った茶色や乾いた灰色になっていたり、緑の牧草地があったり、の私の大好きなイタリアの田舎の景色。

あ、そう言えば、私この電車移動中に帰りの航空券を落としまして…もうイタリアに住めってことか?とか思ったけれど、本当に田舎町の駅員さんは優しかった!
何と、あちこち電話をかけて、ローマに向かって行ってしまっていた列車の中を探してもらってくださり…私は無事に日本に生還したのでした。
その時、言われた、忘れられない単語。
Domani, tirare(多分、辞書を引っ張り出した私が、動詞の活用を分かっていないと気が付かれたからか、原型でおっしゃられた)…その後、真面目にイタリア語を勉強し始めた時、この単語は心の灯りみたいだった。
『明日、引き取りにおいで』
special thanks2
その時の駅員さんたち。きっとこの方々は、私が今でもものすごーく感謝していることを、ご存じないだろうなぁ。

忘れられないのはバスの中。珍しい乗客にバスの中は騒然…『どっから来たの?』『日本』『何歳?』『○○歳』『どこ行くの?』『バジリカ・サン・ピエトロ』…そして、随分走った時…バス中の乗客がみんな、窓の外を指差して『バジリカ・サン・ピエトロ!!!』と大合唱。
丘の上に建つ寺院と、笑顔いっぱいで見知らぬ異邦人にあれがそうだよ、と教えてくれた人々に大感謝でした。

ついでに、行くまでホテルがあるかどうかも分からなかったのですが、何とか発見。と言うより、ほぼ開店休業の宿が1軒のみ。え?客?と、明らかに戸惑っている様子。
ぼろぼろのホテルでした…長期にわたり客を泊めた気配がない^^; 取りあえず雨風がしのげる、でもシャワーしたらバスルームどころか、部屋全体の床が水浸し…でも映画みたい~(タルコフスキーの映画にはやたら水のシーンが多い。これはもう神の配剤?)とか言ってはしゃいでいた私…今だったら絶対怒るに違いない^^;

2泊して、本当に何回も礼拝堂に通いました。
この地下の礼拝堂、歩くと柱が移動していくみたいなのです。静謐で、何もなくて、ただ柱が並んでいる。
バジリカサンピエトロ
バジリカサンピエトロ
日付を見ただけでも、びっくりすると思いますが、なんと3日間も通っていた私…
学生って本当に、金はないけど暇はあった…宿泊はぼろホテルか修道院、電車はユーレイルパス。
懐かしい。

映画で使われた時はこのシーン。懐妊を望む女性のための祈祷が行われていた。実際には、タルコフスキーは祭壇の絵は別の教会から借り受けて使っていました。その教会は、たしか北イタリアのどこかにあったはず。
タルコフスキー

教会はいつも扉が閉まっていて、門番のおばちゃんがいて、鍵を開けてもらうんです。
1日に2回も行ったりしていたので…最終日はもう、別れがつらくて。
『Io, qui』おばちゃんの言葉…私はここにいるからね、と。またおいでね、と。
special thanks
結果的には再訪できていないし、この方ももういらっしゃらないかもしれないけれど……私が本当はもう一度お顔を見たいなぁと、今でも思っていることを、この方もご存じないだろうなぁ…

多分、どうでもいい人にはどうでもいい場所なんだろうなぁ……(と、いきなりしみじみ)^^;
でも聖地って、そんなものですよね。

ラストシーンの教会はサン・ガルガーノ。
こちらはシエナから1日数本しかないバスに揺られて1時間ばかり…だったかな。
帰りのバスも1本か2本しかなくて、まぁ、よく行ったものだと。海外で運転に自信がある人は、レンタカーをお勧めします^^;
ただ、こちらはきっと、写真などで見た方もあると思います。

サンガルガノ
サンガルガノ
いやもう、素晴らしい。屋根のない教会です。金がなかったので、売っぱらったとか言う話。
バスの本数があまりにも少ないので、朝着いたら、あとは夕方のバスの時間まで、何もない教会で1日過ごしました。
(あ、びっくりするトイレの話。またいずれ)
長くいると、太陽の加減でこんなにも写真が違っている……

そして映画ではこんなシーン。
タルコフスキー
イタリアの景色(教会だけど、屋根のない廃墟…実はちゃんと修道院として機能している)の中に、ロシアの風景。
亡命したタルコフスキー自身のノスタルギアを感じるシーンなのです。

実はあまりにも感動して、これはイタリア旅行の真と竹流(真18歳、高校卒業から大学入学までの間の1か月のハネムーンですね…いえ、まぁ、そんなこともあったと^^;)に、この地に立っていただきました。聖地巡礼かつ、結果的にロケハンということに…(いずれ【雨】の回想シーンで登場)
その時彼らが寝転がっていたのが、この教会の裏手。
サンガルガノものすごく小さく、うちの母が座っています(^^)

ちなみに、滅多に見かけない旅行者を見ると確認したくなるんでしょうね…
必ず田舎のバスでは乗客の皆さんから質問攻め:『どこ行くの?』
で、私は答える。『サン・ガルガーノ』…着いたら教えてくださいとバスの運転手さんに言ってあるんだけれど、結果的に必要はないんですね。
だって、乗客のみなさん、私の行先をしっかりチェックしていて、近づいたら口々に(この時は輪唱のようでした)『サン・ガルガーノ!』『サン・ガルガーノ!』
…え?と戸惑っていると、窓まで引っ張って行かれて、指差してくれる。
バス道の車道からは、遥か彼方にちっこく見える寺院。

トスカナの田舎は私にとってベストな場所(精神安定という意味で…)。人為と自然が程よく入り混じり、緑の丘が重なり合って続き、その空と地の境界をバスで走って行く……風の匂いも、空と小麦畑やブドウ畑の色も、果てない地平線の向こうも…何もかも。

この旅の話、話せば長いことながら、なので、またそのうちに。
聖地と思っているからか、その地で出会う人はみんな優しく、私はこの場所に好かれている、私もこんなに恋焦がれてやってきたのだから、とご都合主義的に思っちゃうのでした…(^^)



考えてみれば、観光地の多くは歴史的背景のある場所で、ある意味、普通に観光地に行けば聖地巡礼ともいえるわけですが……

私の場合、他に訪ねたことのあるマニアックなところは、『オルフェウスの窓』のレーゲンスブルグ……これはウィーンから一人、てぽてぽと電車に乗って、本当に大丈夫かなと思いながら行きました。もう、どこにあの音楽学校が~という感じで、少年合唱団(ウィーンとは違って声変わりしても歌える)の歌に感動したりしながら。

他には坂本龍馬脱藩の道(諸説あり、2か所ほど行きました)でしょうか。こちら、檮原は何度も行っているのです。でも、これは歴史上の人物なので、今回はちょっと話の筋から外れるかな。実は龍馬友の会の幽霊部員?の私…^^;
あ、鬼平の舞台は歩きましたよ、もちろんです(^^)
池波先生のお気に入りのお店も、そして山の上ホテルにも泊まりました…でも、これはマニアックというほどのこともなく、鬼平ファンなら誰でもやりたくなりますよね、うん(^^)


そして、ロケハンと聖地巡礼の旅はまだまだ続くのであった……(*^_^*)

自分なりのこだわりの聖地、皆さんはどんなところに行かれましたか? あるいは行きたいですか?

Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼:前篇 

【物語を遊ぼう】のちょっぴり息抜きバージョン。前後編でお届けします。
もしかすると、旅のおすすめ、みたいな回かもしれません。

旅の目的・テーマを決めるとき、物書きならやっぱりロケハンをテーマにしてはどうかしら、と。
旅と言っても、別にすごく遠くに行くばかりとは限りません。

最近ちょっとマイブームのロケハン。
映画やドラマの舞台を探すlocation huntingの真似事ですが、ただ町をぶらぶらするのではなく、あれこれ具体的妄想を頭に描きつつ歩くと、ごみ箱一つでさえも意味があるように思えてしまうのです。
私は関西在住ですが、真の事務所は新宿。
で、たまに友人の小説とちょっとコラボをしていて(これはいつか登場するのかどうかは不明です^^;)、じゃあ舞台をきちんと探していこう…ということになったのです。

そして始まった東京町散歩。
えっと、自分自身のロケハンなので、うちの小説の登場人物の例で失礼いたします(^^)

新宿二丁目、歌舞伎町、新宿西口…に始まったのですが(この辺りは複数回散策)、特に歌舞伎町はちょっと怖いので休日の朝歩くという…まだ昨夜の興奮?冷めやらぬ街の景色は、何だか独特のムードがありまして。
もちろん、真の時代は少し古いのですが、新宿歴史博物館もきっちり押さえ、本も購入。
真の事務所の場所も、真が時々行っていたバーも、ある人と雨宿りしたガード下も…
【雨】に登場するゲイバー『葵』(葛城昇の店)も、何かで出てくるに違いないコマ通りも(^^)
全部チェックしました。

真の祖父母が東京の定宿にしていたのが、白山のお寺。
ここに真は結婚後住んでいるのですが、隣に神社という描写があって、まさに白山神社。
白山~神楽坂あたりは、彼が犬の散歩およびランニングをしていたに違いない場所。
ランニング中に神楽坂をテリトリーにしている誰かさんと鉢合わせとか、あるかなぁ?
よし、歩いて確認! みたいなのがロケハンの醍醐味。
おみせ
これは白山から少し歩いたところにあるお店(食事処)。
多分、歴史が古そうなので、真の生きていたころにもあったはず。
嫁とご飯食べに来たりもしたはず。で、誰かさんと鉢合わせ?
どんな顔するかな?…などなど、走る妄想。

竹流のマンションは築地の近く。もちろんレストランのための実益兼ねてこの立地。
彼のギャラリーとレストランは銀座なので、徒歩圏内。
同棲していた頃、真は多分川沿いをランニングしていたはず。

【雨】第5節には助平なおっちゃん(裏社会と表社会の繋ぎ目くらいにいる元警察関係者)が出てきますが、そのおっちゃんの事務所は帝劇の裏、とか、アパートは川口アパートメントだよねとか言いながら歩く。
などなど……

ついでに、真の故郷、浦河や牧場のあるあたりにも時々行ったりしています。特に四季の差が激しい地方は、いい季節だけを見ても意味ないし、と。
唯一、確認できていないのが冬の襟裳岬。
どなたか北海道の方に教えていただきたいと思うこの頃です。


思い起こせば、私のロケハンの第一歩はローマの町でした。
そう、ジョルジョ・ヴォルテラの町…でも、実はその時書いていたのが、真の息子・慎一(ピアニスト)の話で、このため(だけではないけれど)に私はザルツブルグ~ウィーン~ローマを見て歩いたのでした。
(今は流行らないのかもしれませんが、バックパッカーというやつですね)
でもあの頃、カメラはデジタルではなかったし、記録のように写真を撮るということはできず、記録より記憶と印象で勝負、だったような。


そしてそれから……最近は旅をしたから舞台に選ぶのか、舞台に選んだから旅をするのかは、微妙なときもあるけれど、テーマのある旅って結構楽しい。
結果的には、好きだから行く⇒ますます好きになってどうしても書きたくなる(私の場合は志明院がまさにそうです)ってことになる場合も。
もう一つ、シエナがありました。
シエナも、好きすぎて、ふたりに歩かせました。
【石紀行番外編】か何かでまたご紹介したいと思うのですが、我慢できないので?ここでちら見を(^^)

「世界中で最も美しい広場へようこそ」
イタリアに来てから時々不安がっている、まだ可愛かった頃の^^;真に、竹流が路地を抜けた瞬間に言った言葉。
シエナ
あの路地を2人は抜けてきて…そして塔の上からこの景色を…
(そのためにはかなり気合入れて塔を登らねばなりませんが)
カンポ広場
そう、貝殻型/扇型で、緩やかな斜面になっている広場なのです。
で、座り込んで、日長一日、人間ウォッチング……を何度やったことか。
他にあちこち行けばいいのに、なぜかリピーターになる私でした。
ここで町同士で馬に乗って騎馬戦みたいなお祭りで争ったりもする。
本当に、世界で最も美しい広場と思っています…もっとも、見た広場はごく一部だけれども。

こうやって、大好きな場所を舞台に使う…舞台に使うために、再びその目で見ると、また違う町の顔が見えてくる。道のごみひとつ、看板ひとつも、何もかも、物語の世界を構成するために新しい顔を見せてくれる。


ひとつ言えていること。
物書きにとって、ロケハンは楽しい!


後編は聖地巡礼です。

Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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NEWS 2013/4/29 今朝の庭:椿と蟻 

椿と蟻
庭掃除を始めたら、新緑がまぶしくて、ふと目に留まった椿の花。
椿ももうそろそろ終わりですが、この椿に蟻が一匹……
よく見ると、椿の花弁に溜まった水を飲んでいるよう。
少しは蜜の味がして甘いんでしょうか。
椿と蟻
akoさんなら、どんな詩になさるんだろうとか、ちょっと思ったワンシーンでした。

さて、今朝の庭は、もうつるバラがほぼ満開。と言っても、絡み合って咲く黄色と白では、咲く時期が少しずれていて、黄色がほとんど満開、白は七分くらいかな。
絡み合っているのは、隣に植えたら大きくなりすぎて、絡んじゃっただけなんですけれど…
棘がないので、庭ではありがたいバラです。
つるバラ黄つるバラ白
そして、この白のほうが、香りが良いのです。黄色はなんの匂いもしません。
ヴェネツィアの運河の臭いはともかく(やっぱりこだわるのか、そこ)、このバラの匂いは、本当にお届けできなくて残念。

マーガレットとフクロウ
マーガレットも満開ですね。
そうそう、庭には見張り番がおります。こちらはフクロウくん。
他に、芍薬と牡丹に挟まれて信楽のタヌキ君もおります。タヌキ君は実家から婿入りしましたが、フクロウ君は縁起を担いで(福くる、もしくは不苦労)、十年前に鎮座していただきました。
フクロウ君が収まっている石は、親戚の家の庭に転がっていた古い灯篭の残骸。
うちの庭にはほかに、石臼や脱穀石など、昔農家(ってうちとか親戚のこと)で使っていた石の道具が、花と一緒にオブジェ的に狭い庭にひしめいております。

今朝のお庭のワンシーンでした。
さ、庭仕事の続きだわ。

Category: ガーデニング・花

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NEWS 2013/4/29 少し嬉しい拍手とHIT 

シーサー1
というわけで、特別に?私の母と私が沖縄で作ったシーサーをアップ!?
向かって右が雌?で母作、左が雄で大海作。
うちの母は、何だかこういうこと器用なんですよね。
私はイマイチなんですが……

ついでに、一目ぼれして購入したシーサーもご紹介。
シーサー2
本当は屋根とか門とかに置くものとは思うけれど(ちなみにすでに門には別のシーサーがいる)、床の間に飾ってもいい?とか適当なことを言われたので、床の間横に並んでおられます。
シーサー屋さんで一目ぼれしたんですね。
狛犬みたいに阿吽になっていますが…

そう言えば、お寺や神社の狛犬で結構面白いものがありますよね…
岩木山神社で見た狛犬は、あがったり下がったり、の不思議な姿。上向きと下向きの対でした。
(写真が見当たらないので、またいずれ…)

あ、何の記事だったかというと、カウンターは置いていなのですが、管理画面にはアクセス数とか出てきてて、数え始めたのが今年の1月22日。ブログ自体は1月14日に記事を書き始めているのですが、その時はどうやってアクセスの解析とか置くのか分からなかったのです。
と言っても、そのころはブログに訪ねてきてくださる人はほとんどいなかったと思うのですが。
さっき見たら、訪問者数1900になっていました。
もちろん、有難いリピーターさん方と、通り過ぎていく方がほとんどなのでしょうけれど…袖擦りあうも他生の縁、ということで?やっぱり有難いなぁと。
ついでに、いただいた拍手もふと見たら、404と何やら意味ありげな?数に…
何より嬉しいのは最近、ちょっとだけ小説のほうの拍手がちまちまと増えてきていて…
ちょっぴりうるうるしております(;_:)

読んでくださる方がお一人でも、きっととても嬉しいと思うのだけれど、複数いてくださって、それに暖かいコメントも下さって、本当に感謝しておりますm(__)m
思えば、私が書いたものって、絶対ブログ向きではないだろうな、と思う迷いからスタートし、機械音痴なのでブログの仕様との戦いもあり……それなりに乗り越えて…
畳むのも教えていただいたし……
それに、この先、ちょっと痛い話もあるので、どうなのかな、とか思いながらも、たとえ読んでくださるのが一人になっても…ちょっとだけ頑張ろうと思うのでした。
(でも、痛いのがメインじゃないので…本当はほのぼのが好き)

私もできるだけあちこちお訪ねして、感謝の気持ちをばら撒きたいと思います。

でも、今日はまず、庭の雑草との闘いが待っている!
待ってろよ、カラスノエンドウ、スイスイ、タネツケバナ、タチイヌノフグリ、オシヒバ、コニシキソウ……
本当は雑草、好きなのもあるんだけれど、収拾がつかなくなりジャングルになっていくので、心を鬼にしてやはり戦わねばなりません…

Category: NEWS

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NEWS 2103/4/28 ポメラとタブレット 

ぽめらとたぶれっと

本日、青森行の準備のために、以前から懸案事項だった買い物をしました(^^)
お金はいささかかかりましたが…^^;

旅行や出張の時、いつもは頑張ってPCを持っていくのですが、今回は別にExelやPower Pointを使うわけでもないし…
でも、ブログもちょっと書けたらいいなぁと思うし、これを機に読みたかった皆さんのお話をじっくり読みたいし、たまには調べものもしたいし(ロケハンも目的のひとつだし)…

実は私の携帯、本当に携帯で、スマホではありません。だからブログを見るのはとても大変。
でも、スマホのネット画面はかなり小さそう…目がしんどい~
と悩んでいたら、スマホとタブレットを持ってる人が、スマホはいらんかった、電話なら普通の携帯のほうがいいし、持ち歩くのさえしんどくなかったら携帯とタブレットが正解、とのたもうたのです。

ということで、タブレット持ちになりました(*^_^*)
一気に世界がつながった?

そして、もう一つの懸案であったポメラ、買いましたよ。
二次小説書きの友人がずいぶん前に買って、いいよ~と言っていたのが羨ましかったけれど、なかなか買う!という勢いのないまま…
リンクを貼らせていただいている彩色みおさんもポメラ買ったよ~(そして破損した!)と書いておられまして…

これで、少し出先でもお話を書ける環境になりました(*^_^*)

そしてそして、旅には絶対に本を持っていかないと落ち着かない私は、今回旅の友に、東直己さんのススキノ探偵シリーズ最新刊(シリーズ12作目)を購入(^^)
本当は小野不由美さんの『屍鬼』(4冊)と思っていたのですが、絶対に夜は飲むし、いつも読めないまま持ち帰ることも多いし、今回は皆様のお話も読みたいし、とりあえず1冊だけならこれ、と。
併せて、『青森県謎解き散歩』という謎の本も購入。

さて、どうなる、私の今年の青森遠征(^^)


…どうせ、毎日三味線聴いて、叩いて、飲んで…で終わるんじゃね―の?という声が…^^;
あぁ、その通りです。行く前はいろいろ思うけれど、行ってみたら三味線三昧(+飲み放題…あ、お金はかかってるから放題、じゃないか)なんだなぁ。



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NEWS 2013/4/27 探偵は写真の中に… 

今日は朝から咳が止まらないのに、大阪まで三味線の練習に行き(大会前だし…休んでる場合じゃないよっと^^;)、帰ってきたらポストにアマゾンさんからの小包が…

注文してあった写真集が届きました(^^)
『探偵は写真の中にいる』
またの名を、探偵大泉洋写真集。
洋ちゃん
(写真:ついでに一緒に、前回の映画のパンフレットを開いたところ。マッチを模してある。ど真ん中のは、ケラーオーハタのトランプ(^^))
本当に本当に、洋ちゃん大好きなんです。
何が、どこが、と聞かれると困るんだけれど…
芸能人という範疇の人で、お嫁にもらって~とまで思った人は他におりません(*^_^*)

『探偵はバーにいる』…去年、観に行って、洋ちゃんloveにますます拍車がかかりました。
『俺』役の洋ちゃんは、いつもよりちょっぴりシリアスな役で、騙されて別の場所にいる間に小雪が復讐をしようとしていることに気が付いて、誰にともなく(電車に?)叫んだ姿が…
「もっと早く走ってくれよ!!」

5月に2作目が公開されるというので、とても楽しみ(*^_^*)

で、この原作のススキノ探偵シリーズ、50%の作家買いの私ですが、このシリーズは全部読みました。
少しだけ時代が古いので、何だか自分にとってはしっくりくる。
映画の『俺』よりもかなり人間臭く男臭く、ダメ度が高くて、擦れていて、危なっかしい。
なんせ、山の中で葉っぱを育てていたりした過去もある(いいんかな…これは時代が時代で、今と法律も違っていたからなのか???)。
結婚もして子供もできるけれど、ダメ夫のダメ父で離婚。
結局、ススキノとともに生きている。
でも、高田とのコンビは最高としか言いようがない。

映画の『俺』のほうがいささかまともな気がします。
で、その映画の『俺』=洋ちゃんの写真集。
朝から夜までの『俺』の1日をドキュメンタリー風に撮ってある、と言うコンセプト。
缶ピー(缶に入ったピース…煙草)やら、黒電話やら、久しく見ないものが写っていたり…
『モンデ』のナポリタンを食べるシーンも。
でも、花柄のパンツはいかがなもんでしょうか。

少し時代が前、としか原作には書かれていないけれど、微妙に懐かしい描写は小説も映画も守っていて、そこが私のお気に入り。
更に言うと、高田くん役の松田龍平くんがいい味出していますし(^^)

津軽から戻ったら、さっそく映画館にGOです(*^_^*)

Category: たまにはアイドル

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【清明の雪】akoさんの詩と バッサリ切られた竹流視点 

まずは、akoさんが二人をイメージした詩を書いてくださって(あれ、違うのかな?真のみ?)、ちょっと感無量なので、ここにリンクを貼らせていただきました。
2013/4/25の詩『心見つめて。』→akoの落書き帳
自分ではこんな風に詩が書けないので、すごくすごく嬉しいです。
ギュッと気持ちを詰め込んでみると、こんなふうに語れるのだなぁと、一語一語を噛みしめたくなりました。
本当に、私の179000文字が、この詩の一編に詰め込まれたみたいで、嬉しかったです(^^)
akoさん、ありがとうございます(*^_^*)



読んでくださる方がいて、感想を頂くと、なるほど、そういえば竹流視点をバッサリ切ったけれど、実はちょっと「竹流の浮気者!」って声が聞こえてきそうで……
(これもakoさんの、切ない、と言うご感想が、確かにもっともだなぁと思い。真はぐずぐず言って泣いてますしね…いえ、これはもう、若さゆえでして^^;)
でも、はっきり言って、竹流はけっこう浮気者です。浮気と言うより、それなりにどれも本気?

この人の困ったところは、すべての恋人に対して真摯であること。
多分、過去に付き合ったどの女とも切れていないし(体の関係だけであっても)、女が離れたがらない。
これは女ほうも心地がいいからなんでしょうね。
干渉しすぎないし、縛られない。
でも、逆に縛って欲しい人は苦しむわけで…(それが【海に落ちる雨】の涼子さん)

ちなみにこの人、女と同じように、老人大好きで、日本全国(多分世界のあちこちにも)に構ってくれる老人がいて、たいていが腕に覚えのある老人なんですね。もし旅に出ていて、女のところに泊まるか老人のところに泊まるか…となると、多分老人を選ぶ人(詳しくは竹流の紹介コーナーを→これからお世話になります:大和竹流)。

ただ、一人だけ、どうしても大事な女がいて、それが今回は名前だけで出てこなかったタエさんと言う人。
祇園甲部の芸妓さんです。漢字で書くと、珠恵。
年上で、まだ日本に来て間もない竹流をあれこれ助けてくれていた女性。

実は、この珠恵さんとこっそり電話をしていた、というシーンを、バッサリ切ったんですね。
そして、峰子さんと浮気をしていた翌日、女将に怒られたシーンも。
これは竹流視点が生きていたからこそ書いたシーンなんですが、真視点に統一した時に完全に切ったシーン。
どうしても必要なところは、『タヌキ寝入り技法』(しのぶさんにお借りした表現^^;…つまりタヌキ寝入りの真が竹流の言葉を聞くという形)で残しましたが、竹流と離れている真には知りようのないシーンは、もう捨てるしかなかったので。

これはもう、本編には永遠に出てこないシーンなので、おまけとしてここに載せちゃおうと思います。
と言っても、全部載せると長いし、シーンも切れ切れなので、一番要の浮気の言い訳シーンをお届けします。
気が向いたら読んでみてください(^^)
ちなみに、消えたシーンなので、きちんと推敲されていません。あしからずご了承ください(^^)

本当は『畳む』ということをやってみたいのだけど、どうしたらいいのか分からないので、このままです。すみません…





*【清明の雪】第18章と19章の間くらいになるのでしょうか。京都の置屋の離れに龍がやって来て、竹流と峰子の姿を見て真がふて寝したあたり。峰子は竹流の真への視線を追いかけて、この男は!と何かに気が付いた様子。
『ぜったい姐さんに言いつけてやるわ』
『言わないって約束したろう』
『そのことやあらへん』
…じゃあ、どのこと?って話ですが……^^;
女の勘を馬鹿にしたら痛い目に遭うよ、竹流くん^m^
で、その後から翌朝にかけての竹流の「実は…」という部分です(^^)



 峰子の後ろ姿を見送っていた竹流は、ふと溜め息をこぼして、閉められた障子を見つめ、それから天空の月を見上げた。
 美しい月だと、もう一度思った。
 それから、濡縁の床に視線を戻したとき、竹流の目に何か光るものが飛び込んできた。
 竹流はゆっくりと光に近づき、しゃがみ込んで、その光を親指と人差指で摘みとった。そして、彼は思わず天空を見上げたが、澄んだ光を湛えた月がそこにあるばかりだった。
 竹流の手が拾い上げたのは、綺麗な螺鈿の欠片だった。
 月に翳して見つめていると、不意にどうしても愛しい女の声を聞きたいと思った。
 そっと音を忍ばせるように障子を開けると、障子から零れる月明かりだけで部屋の中はぼんやりと浮かび上がっている。真は起きているのかもしれないが、布団に潜って身動きひとつしなかった。
 竹流はもう一度障子を閉め、玄関脇の電話台に足を忍ばせて行った。音をたてないようにと思うと、ぎしりと足の底が振動した。遠く微かに人の声と、四条通からの車の音が聞こえてきていた。
 滅多に掛けることのない電話番号だが、忘れることも絶対にない。呼び出し音を五回ほど待つと、向こうで穏やかな京都弁が答えた。
「和枝さん?」
「いや、旦那はん。どないしはったんどす?」
 向こうで、岡崎の家の手伝いの女性が驚いたように声のトーンを上げた。
「珠恵は居るか?」
「へえ、ちょっとお待ちを」
 電話の声は落ち着いていたが、向こうで、お嬢はん、と彼女には珍しく大きな声で珠恵を呼ぶ声は、まだ驚きと狼狽えた様子を隠しきれないようだった。
 少し時間を置いて、向こうから愛おしい女の声が聞こえた。
「旦那はん? こないな夜中に、どないしはったんどす」
「来週、そっちに帰ろうかと思って」
 およそ月に一度は京都に来ているが、一度も、今から行くと連絡したことがない。東京からも、特別な用事がある時以外電話をかけることはない。多分、珠恵も和枝も随分驚いているだろう。まるで後ろめたいことを隠すかのようだな、と思った。浮気をする男が、妻に妙に優しいことを言ったりするのと、全く同じだった。
「何やあったんどすか」
 優しい艶やかな声は、月の表から降り注いでくるようだった。
「いや、月が綺麗だからな」
 電話の向こうの珠恵の顔が微笑むのさえ伝わってくるようだった。
「何や、気持ち悪いどすな。そんなお約束、一度もしはったことがないのに」
「本当はただ、声を聞きたかったんだ」
 向こうで珠恵は少し黙っていた。彼女には何でも解ってしまうように思ったが、それでも構わないと思った。彼女は全てを受け入れてくれている。それに甘えていることは解っていたが、時々その彼女の懐に抱かれていたいような気持ちになった。
 多分、俺は、最後には誰が自分を甘えさせてくれるのかを、ちゃんと知っている。そして珠恵は、俺をどうやって御すればいいのかを知っているのだ。
「旦那はんの言わはることを、いちいち期待しとったら身が持ちまへんけど、」
 珠恵は言葉を切った。そして、その後の小さな間と柔らかい言葉の響きが、竹流を、彼女に会いたくてたまらない気持ちにさせた。
「待ってます」
 今すぐにでも珠恵の声をこの耳で直に聞き、その肌にこの手で触れ、その髪の匂いを嗅いで、抱き締めたいと思った。思いながら、竹流は電話を切った。そして、ふと握りしめたままの左手を開いた。
 玄関のくすんだガラス戸も、月明かりでほんのりと明るかった。その穏やかな光が螺鈿の欠片を照らし、跳ね返った七色の冷めた光は竹流の体を包み込んだ。


 朝から、峰子も真も竹流に対して口をきかなかった。峰子はともかくも、真まで何で怒っているのか、竹流にはよく解らなかった。
 仕方なく、竹流はハンストに走っている彼らを放っておいて、置屋の女将と話しながら朝食を食べ、それから彼女の手伝いのために錦市場に買い物に出かけた。どうしようもないので、とにかく荷物持ちになろうと思ったのだ。
「何で、珠恵ちゃんのところに行ってあげへんのどす?」野菜を選びながら、女将が嗜めるような口調で言った。「喧嘩でもしてはるんどすか」
「まさか。彼女は俺が京都にいることを知らないんだ」
「いや、珍しい」
 女将は心底驚いたように竹流を見つめた。
「仕事で来ていたし、それに連れがいたんで、何となく」
「連れがいるゆうて、遠慮しはるような仲やあらへんですやろに。しかも、女の人やったら知りまへんけど、男はんやったら何も問題あらへんのに。だいたい、岡崎の家は旦那はんの家ですやろ。そやから、峰ちゃんに変な気を起こさせるんどすえ」
 竹流は、この女将に嘘はつけないことを知っていた。
「峰ちゃんは妹みたいなものだ」
「ほんなら、悪戯はいい加減にしときよし。あの子は本気なんや」
 竹流は野菜に視線を戻した女将の横顔を見つめた。
「せやから、珠恵ちゃんにくっついて一生懸命お稽古してるんどす。珠恵ちゃんを越えたいんや。芸事でも、女としても」
 竹流はしばらく、女将が野菜を選んで店の主人に注文している様子を見つめていた。それから、朝から賑わしい市場の通りへ視線を移した。生活の当たり前の活気が満ちている。そのほとんどを支えているのが女たちだ。強く、しなやかで逞しい。
 女将は野菜を受け取ると、主人に礼を言い、その言葉に竹流は気がついて、彼女の手から野菜を受け取った。
「峰ちゃんに、謝らないといけないな」
「余計なことは言わんほうがええんどす。あの子かって解っててしたことや。けど、二度とはあきまへんえ。昔の花街やったら、二人の女子に手を出すなんてのはご法度や」
 竹流は、息をついて頷いた。
「お母さんには敵わないな」
「女ゆうものは、男はんよりずっとしたたかな生きもんどす。峰ちゃんかて、珠恵ちゃんかて、同じことや」
 そう言われてみると、男は情けない生きものだという気がしてきた。昨夜、何を俺は煮詰まっていたのだろう。所詮、女には太刀打ちできないし、女がいなくてはやっていけない。女がいて、自分の気持ちは収まり処を得ている。
「ひとつ、聞いてもよろしおすか」
 竹流は真剣な女将の顔を見た。
「男はんのお相手も、いてはるんどすか」
 竹流は思わず野菜を落としそうになった。
「そうやなかったら、なんやって珠恵ちゃんとこに行かはれへんのどす?」
 女将の刺すような瞳に、竹流は首を横に振った。
 四年前、女将が珠恵に結婚を勧めていたのを、竹流は思わず立ち聞きしてしまった。相手は、先妻とは死別したが、財産もある立派な人物のようで、珠恵を心から好きでいてくれるようだった。竹流は、女将が早くに母親を亡くした珠恵のことを実の娘のように可愛がっていることは知っていた。
 竹流が聞いていることを女将は知っていたのかもしれない。珠恵が返事をしないでいると、女将は妙にはっきりとした声で言った。
 あの男は結婚に向いている相手ではないえ。
 自分の事ながら、その通りだと竹流は思った。しかし珠恵は、それでも構わないから、と言って結婚の申し込みを断り竹流を選んだ。竹流は、珠恵から自分がどれほどの恩義を受け、愛されているかをちゃんと知っていた。そして女将は、竹流がその全てをきちんと贖う人間であることも、よく解ってくれていたはずだった。それを示すつもりで、珠恵の父親の借金も全て返すと、岡崎の家も買い戻した。
 お母はん、怒らんといてな。報われんでもええんどす、この人のものでいたいんや。
 いつも控えめで他の若い芸妓に遠慮しているような珠恵が、女将の前ではっきりと言ったとき、竹流は自分も一生彼女を大事にすると、頭を畳につけるようにして女将に誓った。
 女将の心のうちは読めなかった。竹流はただ、約束を違えるつもりはないと、それだけは言っておこうと思ったが、女将はふと息をついて言った。
「旦那はんが珠恵ちゃんを捨てへんことは、ようわかっとります。けど、旦那はんの気持ちが妻や家族を思うようなものになってるゆうことは、却って女としての珠恵ちゃんの感情を傷つけるんどすえ。うちがずっと心配しとったのはそのことや。旦那はんは甘える場所が欲しくて珠恵ちゃんを利用してはる。もちろん、愛してるのは分かってて言うとりますのや。けど、激しく狂うように求めていはるんとは違う」
「珠恵を傷つけるつもりはないよ。彼女は、誰よりも大切な人だ」
「あの、旦那はんの子どもみたいな男はんよりもどすか」
「子ども?」
 竹流は思わず女将の言葉を繰り返した。
「へぇ。なんや、やや子のようや。旦那はんはいつから親鳥にならはったんやろ」
 反論する言葉も浮かんでこなかった。
「けど、旦那はんにそういう強い気持ちがある、ゆうことは、もしかするとええ事なんかもしれまへんなぁ。なんや、羨ましいような気がしましたわ」
 女将は竹流の腕をそっと優しく掴んで、買い物の続きに促した。
 それから、魚屋、干物屋を廻り、タクシーで祇園に戻った。
 戻ると、峰子は家に帰った後のようだった。真は一人で縁側に座って、ぼんやりとしていた。竹流はその様子を見つめながら、一体どうしようかと思っていたが、昼食まで抜かれては困るな、と思い、真を外に誘いだした。

*そしてこの後、二人で京都の町を歩いているのです…

読み流していただけると幸いでございます。でもちょっと、竹流の気持ち…つまり珠恵さんがいるので、真に走れない?いやいや、つまり道を踏み外さない?いやいや、何だか煮え切らない裏事情を見ていただけたかもしれません(^^)

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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[雨33] 第4章 同居人の失踪(4) 

*切り処が微妙なので、勢いでアップしてしまいました。これで第4章が終わります(^^)
って、このお話、38章もあるんですよ。
もちろん、途中でいささか茶化した章が入っているので(回想シーンと言うのか、高校生時代の真と竹流)、実際には35章分くらいでしょうか。
この程度を勢いでアップしたところで、先は長い……適当に端折りながら読んでいただければと思いますm(__)m
*さて、この回は、ちょっと意外な真の過去をお見せすることになるかも…^m^
美和ちゃん視点の続きから入ります。




 記憶を辿るような夢を見た。
 眠ってしまう前に思い出していたからかもしれない。

 秋の終わりの午後、明るい喫茶店の窓側の席で、その男は通りを見ながら椅子に深く座って煙草を燻らせていた。
 明るい日差しを通すと、髪の色は真っ黒ではなく、光を吸い込んで輪郭がぼやけるように輝いていて、煙草の煙が周囲の空気を揺らせている。煙草を吸い込んで、一度テーブルの上の灰皿に戻した指は随分華奢に見えたが、身体を壊して入院していたからだと聞いていた。

 もう半時間以上、美和はその男を離れた席から観察している。
 恋人の北条仁から、北条一家が所有している新宿の空きビルにテナントをいくつか入れることになったこと、そのひとつを調査事務所にしようと思っていること、所長候補は既に決まっていて、ただちょっと決心がつかないみたいだから一押しするようにと言われていた。
『お前、秘書というか、共同経営者として一緒にやれよ。大学で勉強するより、よほどいい社会勉強になるぞ』
 任侠一家の男と付き合っているだけで十分社会勉強している、と美和は思った。仁は意味ありげに美和を見て、一冊の写真集を出してきた。

 その表紙の少年のこちらを真っ直ぐ見つめる目に、美和はどきっとした。
 しかも写真家の名前は、将来の写真家候補の美和もよく知っている名前だった。
『滝沢基、って、あの報道写真家の?』 
 仁は頷いた。
『昔は社会風俗を撮ってたんだ。しかもかなりタブーのな。売春、同性愛、未成年の性、そういった類の。今でこそ世界の戦地を飛び回っているが、それが奴の出発点だ。その写真集はその中でも随分異色で、発行部数が少なかったし、滝沢基が一人のモデルだけを使った写真集を出しているのは後にも先にもそれ一冊だ』
『これが、何の関係?』
 美和が問うと、仁は写真集を開いた。

 その目を見た瞬間に、惹き込まれるような、呑み込まれるような感覚に陥って、思わず息をすることを忘れていた。
 圧倒的な存在感でそこに存在している少年は、今まさに大人になる瞬間を生きているように見えた。
 切れ長で野生的な瞳は真っ黒ではなく、特に右の目は光の加減によっては明らかに碧色に沈んでいる。しっかりとした眉のライン、細めで通った鼻筋、そして扇情的でさえある薄めの唇。その唇が薄く開けられて、碧の目は真っ直ぐにファインダーを見つめている、その時カメラマンはどれほど興奮していただろう。子どもでも大人でもなく、男性でも女性でもなく、あくまでも中性的で年齢も定かでない、人ともつかない神懸りのような存在。それが、一枚一枚の写真から湧き上がるように伝わってくる。誰のものにもならないという緊張感が突き刺さるようで、この被写体となった若者はどこへ行こうとしているのだろうという不安が、見るもののうちに湧き上がってくるのだ。
 これは少年から大人に、あるいは野生の生き物から、良し悪しは別にして人間に変わろうとしていた瞬間の、二度とない時間を残したものだったのだろう。それはカメラマンの力も本人の力も及ばない、時の神秘によるものだ。

 古いレンガの校舎の蔦のはい登る壁にもたれて立っている少年が、うつむき加減から目を上げていく四枚組の写真は、美和にも見覚えがあった。うつむいている少年は泣いているように見える。目を上げたとき、彼は綺麗な碧を帯びた瞳でカメラの方を、いや実際にはその向こうにある命の行く末を、さらにその先にある死すらも受け入れて、果てしなく遠い自分の未来を見つめていた。
 ページをめくると、春夏秋冬の景色をバックにした、やや作り物的な要素のある物語風の写真もあった。秋は菊慈童、冬は雪女、春は梅の精霊、そして夏は太古の昔と思しき草原で風の精を、それぞれモチーフにしているようだった。
 中でも菊慈童は秀逸だった。少年は幻影のような菊の花園を背景に、白い衣をまとい、能の面を手に立っていて、振り返りざまだった。いや、それとも魂になってでも想う相手のところへ会いに行こうとした『菊花の契り』を下敷きにしていたのだろうか。その瞳には凄絶なほどの色気があって、薄く開けられた唇は淡い菊の背景の中で浮かび上がるように赤く、いかにも見るものを誘いこむような妖しい吐息を漏らしているように見える。明らかに彼は、そのファインダーの向こうに誰か、具体的な誰かを見つめているのだと思える。
 薄衣をまとっただけのように見える雪女は、雪の大地に倒れざまにこちらを見上げている。唇には紅を引いて、あたかも愛するものを食い殺したような凄絶な印象を持たせていたが、一転して春の梅の精は、ごく普通の白いシャツとスラックスの上に美しい錦の打掛を羽織った少年が、梅の木の上の鴬に何か語りかけるように手を差し伸べていて、穏やかで優しい光景だった。果てなく広がる夏の景色は、実に自然な光景だった。少年は風の向こうを振り返り、微かに開いた唇が桜の色に染まっていた。淡い茶色の髪は光に溶け入り、細い首筋はまだ少年と大人の狭間で彷徨っているように見えた。

 写真集の副題には『二度とはないこの瞬間を』と書かれていたが、仁の解説では、それはある大手のフィルム会社の宣伝のタイトルだったという。この少年は全く名前を出される事も無く、その一度の宣伝に滝沢基のモデルとして現れて、以後一度も顔を見ないらしい。だが当時、駅の看板にも電車の吊広告にもその少年の写真が並べられて、一時は騒然としていたようだった。滝沢基はその写真を機に日本から消えてしまい、今の報道写真家としての仕事を始めている。
『この写真集、そういう趣味の連中の夜の友になっていたともいうけどな』
 美和にも見覚えがあった四枚組の写真は、フィルム会社の宣伝で町中に貼られていたものだったのだ。その会社の宣伝は、業界ではトップレベルの芸術性で、過去の宣伝写真を網羅したバイブル的写真集が発行されていたからだ。
『しかも、滝沢基は俺と同じ人種でな、モデルともほとんどそういう関係になっているという噂だった』
『って、これ、未成年でしょ』

 仁はにやりと笑った。確かに写真集の中には、あたかもそのことを示唆するような、ベッドの上で撮られたものもあって、これを見た『そういう趣味の連中』が夜のオカズにしていても頷ける。いや、ベッドの上の写真でなくても十分だった。その目と唇を見ているだけでも、その目に自分だけを映し出させ、その唇に自分のもっとも敏感なものを銜えさせたいと思う連中がごまんといてもよさそうだ。もしもこの、まさに人とも思えない神懸りな生き物を、自分の足下に跪かせ、淡く光を躍らせる髪を鷲摑みにし、たっぷりと唾液を零れさせた唇に欲望を銜えさせ、その咽の奥にまで深く挿入し、そして綺麗なラインを描く顎に手を触れたときに、ふとその潤んだ碧の目が自分を見上げたら、と想像するだけで、何度でもイケそうだ。少なくとも男はそう思うだろう、もしもその趣味がなくても。女の美和でさえそう感じたのだから。

『何しろ、当の写真家本人は宣伝のポスターが町中に貼られて写真集が出たときにはトンズラしてしまっていたし、モデルのほうは、まぁ名前も出自も出さないという契約だったようだから、会社もだんまりを決め込んでいたからな。そのモデルを捜せ、ってんで、逆にヒートアップしてものすごい宣伝効果だったわけだ。しかも、その宣伝のタイトルはつまり、誰にでも一生でただ一度やってくる、少年から大人になる瞬間をって意味だ。そのモデル個人、ではなく、一般人誰でも、ってことだと強調していたしな。だが、まぁその印象的な顔、一般人の代表にするには無理があるよな。そそられる』
 仁のちょっと個人的でいやらしい感想に、美和は多少むっとしながら納得した。多分、これをオカズにするような男たちは、まさにその『瞬間』にこの少年を囲い慰み者にしながら写真を撮ったカメラマンという妄想を頭の中で描きながら、無茶苦茶に嫉妬しただろう。この写真集を見た全ての人間が、このモデルとカメラマンの情事を想像し、それを覗き見る悪趣味な気分を味わい、自分もベッドかどこかで自慰をするほどの気分になったはずだ。こんな目が電車の吊広告やら街角の看板からこっちを見ていたら、本当にたまらない気がする。もっとも、それだけに見てはいけない秘密の気配が漂って、目を逸らす人もあっただろうが。
 まぁ、北条仁は自慰なんかしない、多分ちゃっかりその辺で誰かを口説いているだろう。美和はそう思いながらも、誰かを実際抱くのと、誰かを想像しながら一人でするのと、どっちが気持ちいいんだろう、と考えて、自分で気恥ずかしくなった。

『それで、これが何の関係があるの』
『まぁ、行ってみればわかる』
 そう言われて待ち合わせ場所にやってきた。

 随分育ってしまったが、明らかに同じ横顔だった。後で仁に問い詰めたら、本人にはその写真の話はしていないという。ただ、ある人物に刑務所に面会に行った時、堀の外の道ですれ違った瞬間にぴんと来たというから、仁のその道の目は恐ろしいくらい確かだ。
 あの写真に見られるような、男性とも女性ともつかない、どこか中性的な危うい気配はもうどこにもないが、どこか綺麗な野生の生き物を思わせるような顔つきと目のムードはそのままだった。もっとも、さすがに、夜のオカズにされちゃうほどの際どさはもうないかな、と美和は思ってほっとした。もしもあのままなら、歩いているだけで公然猥褻罪に近い。そう考えると、ああいう危うさはある一時期に一気に放出されてしまうものかもしれない。だが、もしもその時間を傍で共有している人がいたら、そのときは本当に大変だったろうな、とも感じた。

 いずれにしても、この人が上司になるのは悪くないかも。
 じっくり半時間は観察して美和は立ち上がった。
『こんにちは。お待たせしてすみません』
 突然声を掛けると、男は少しばかり驚いたように顔を上げた。遅れたことを責める気配もなく、少し頷くように煙草に視線を戻し、灰皿で揉み消す。痩せているように見えていた指は、それでもしっかりとした骨組みを感じさせる力強い男のものだった。
 色々な話をしたように思うが、ほとんど美和がしゃべっていた。男のほうは気を逸らさない程度に聞いてくれていた。調査事務所の胡散臭い所長が爆破事件を起こした件も、この男自身が有名な弁護士の名瀬に気に入られていて、今はそこで勤めていることも、どうやらエリート集団の中で気詰まりな気分になっていることも、それとなく話の中に折り込んだ。

 それから幾分かプライベートな話にも及んだ。
『最近、恋人と別れたんでしょ。すごく落ち込んでたって』
 男はひとつ息をついた。それから、責めるようではないが、淡々とした調子で言った。
『それ、これから仕事をしていく上で、話さなければならないようなことか』
 触れられたくないのだな、と思って美和は首を横に振った。
『ところで、男の人と一緒に住んでいるって、本当?』
 さらに美和が話をふると、表情を変えずに男は答えた。
『それも、何か問題なのか』
 男は表情を変えなかったが、美和は一瞬どきっとした。一瞬だが、男の目に、写真と同じ強烈な媚のようなものを感じたのだ。勿論、それは美和に対してではないのだが、美和は思わず答えた自分の声が上ずっているのを感じた。
『別に。どういう関係かと思って。もしそうだとしても、別に問題にはならないけど』

 やはり例の写真集が引っかかってしまう。どう見ても男に身体を許しているような色気だったし、それ以来そういう性向を持っているとしてもおかしくはないわけだ。そしてその相手が同居している男だというのは、ありがちな構図だった。さっきの一瞬の目の光を見れば、今でもこの男が、四六時中でなくても何かの瞬間には、誰かを狂うほどの興奮に陥れるようなフェロモンを撒き散らしているとしても頷ける。
『一緒に住んでいる相手がいるのは事実だ。でも、単に大家のようなものだ。それに、そういう趣味もない』
 美和はちょっと拍子抜けして、淡々とした表情を崩さない男をしばらく黙って見つめていたが、やがてにっこり笑ってみせた。
 やっぱり、この人が上司になるのは悪くないかも。
 あの日以来ずっと、美和は真の同居人の大和竹流を、大家さんと呼んでいる。


 夢で思い出すだけでも、強烈な色気だったように思う。仁の話では、あの時は恋人と心中しそうなまでに煮詰まっていた恋愛の後で、その女性が自殺して、本人も身体を壊して入院し、退院後ようやく働きだしたところだと言っていたし、そういう病み上がりの色気があったのだとしても、誰にでもあるような色気ではないと思った。
 色気といっても、女が持つものとは明らかに違う。そういうものに女が惹きつけられるような色気だった。いや、多分、女だけではない。
 それを、今も真はどこかに漂わせているし、こうやって身体を重ねた後でも変わらない気がする。あの喫茶店で彼を初めて見た時から、自分は彼と寝たいと思っていたのだろうか。

 美和はリビングのソファで眠っている真を見つめながら、さて、どうしようかと思っていた。真は身体をいくらか丸めるようにしていたが、ガウンの襟元から覗く首筋の筋肉と鎖骨が、たまらなく色っぽく見えた。それが昨日身体を重ねたからそう思うのか、あるいは彼と同居人の関係を疑うからそう思うのか、美和自身にもよく分からなかった。
 こういうのは、所謂野次馬根性の側面があるのかな、それともミーハー根性? 当事者になるよりちょっと離れて見ているほうがいいというような。
 何とか客観的になろうと考えている自分がほんの少し滑稽な気がした。それから、さしあたって今どうするか、選択肢を思い浮かべる。

 寝かしておいてあげるか、キスしちゃうか、それとももっといたずらして彼のものを触っちゃうか、美和は色々オプションを考えながら、結局とにかく顔を近づけてみた。
 途端に、真の手が美和の髪に伸びてきた。
「起きてたの」
 真は頭を抱えるように起き上がった。
「二日酔い?」
 それには答えずに、真はソファに座った状態で頭を抱えた。美和は横に座った。
「大丈夫?」
 真は頷いたが、あまり良い状況とは言いかねるようだった。美和はちょっと顔を覗くようにした。
「結構しらふだって言ってたけど、やっぱり酔った勢いなのね」
 ちょっとやり込めたい気分で美和がそう言うと、真は顔を上げた。
「ちゃんと覚えてるよ。酒の勢いは借りたかもしれないけど」
「そう? ゴムつけなかったことも? 大家さんとの関係を認めたことも?」

 真はさすがにびっくりしたような顔をした。後半はカマをかけただけだったのだが、美和は真がどっちにびっくりしたのだろうと思い、その真の反応に驚いた。
「つけなかったのは、覚えてる。仁さんと決闘しなければならないのも分かってる。で、何だって?」
 美和は真剣に真を見つめた。真は怪訝そうに美和を見つめていた。思わず、電話を盗み聞きしていたことへの後ろめたさよりも、その姿を見てしまったときの小さな衝撃が言葉になってしまった。
「恋人同士の、電話だよ」
 真はまだ美和を見つめていた。
「電話?」

 確かめるように真が呟くのを美和の方も見つめていた。その碧のかかった黒い瞳の色には、見るものを自ずと惹きつけてしまう色気がある。じっと見つめると、写真集で見たとおり、右の目のほうが碧の色が強い。そしてその奥に、あの喫茶店で垣間見た、強烈に絡みつくような際どい媚を見つけることは、難しいことではなかった。
 この目で大家さんを見つめるのだ。
 いくら大和竹流が場慣れしていても、こんなのはたまらないだろう。この目に自分だけを映させ、この唇に自分のものだけを銜えさせ、その身体の中心に自分のものだけを刻みつけ覚えさせたい。自分の中心をその腹の奥に十分に与え、その口からもっと欲しいと甘えるような喘ぎを涎のように垂れ流させたい。支配欲の強い男であれば、絶対にそういう欲求を覚えずにはいられないはずだし、美和の見る限り、大和竹流という男は独占欲や支配欲が強いタイプに見えた。それどころか、真のほうも、明らかに大和竹流に対して、自分の中のもっとも大事なものを差し出してもいいと思うくらいの媚を振りまいているはずだ。だが、もしも、仁の言うとおり、一度でもそういう事になっていながら、そして今ベッドで隣に眠っているのを見ながら、時にはすがりつくように甘えてくるのをかわしながら、その欲求を抑え込むというのは、一体どういう事情で、どれほどの精神力なのだろう。

 勿論、美和の想像力が大仰に働いていることも否定はできない。さっきまで何とかやり過ごそうと思っていた自分自身の感情が、またも思わぬ方向に転がっていく気配を感じて、美和は思わず、どう思考回路を切り替えようかと、一瞬の間にこれまでの全ての経験をひっくり返さなければならなかった。
「なんちゃって。これも妄想よ。夜中に電話かかってきたの、大家さんでしょ」
 ここで煮詰まっても仕方がないと美和は思って、ころっとムードを変えて明るい調子で言った。冗談にしておいたほうがよさそうだと、とっさにそう思った。
「先生、泣きそうに見えたし、何か遠距離恋愛の恋人同士みたいな電話だったよ。会いたいのに会えない、みたいな。ご飯食べたら会いに行っていいですよ。でも、食べれる?」

 最後の質問が終わらないうちに、突然美和は真に抱き締められ、予想外のことにびっくりした。
 真の身体から僅かな発酵したアルコールの甘い匂いがした。
「先生」 
 呼びかけたが返事はなかった。代わりに、真は美和を少し離して両手で顔を包むようにキスをしてきた。美和には、それが本心を隠したいための行動に思えたが、真が舌を口に入れてきたときには、やはり身体が昨日の事を思い出して自然に応えていた。
 随分長い時間キスをしてから、真は額をくっつけたまま唇を離した。美和は離れる真の唇を追いかけかかって、止まった。真の両手が随分と優しく美和の頬を包んでいる。だが、その指先は血が巡っていないかのように冷たかった。
「美和ちゃん、俺は」
 美和はその先がどっちの内容であっても、聞いてはならないような気がした。
「先生、昨夜すごく良かったよ。恥ずかしいくらい濡れちゃった。ね、私はどうだった? やっぱり深雪さんの方がいい?」

 こんなことを言いたいわけではなかったが、自分が言い出したとはいえ、今あの男の話は聞きたくないと思った。真は何を察したのか、言いかけた言葉の先は続けなかった。代わりに、また美和の唇を優しく吸い、軽く音を立てるキスをしてきた。
「すごく良かったよ。愛おしいと、思った」
 その返事の後半を聞いた時には、美和は泣きそうな気持ちになって、真に抱きついた。真の言葉は嘘ではないだろうが、美和は、自分たちがしたことがこの男の気持ちを追い詰めないかと思って心配になった。
 それから随分長い間抱き締めあっていた。
 もしも、多分そういう周期ではないので大丈夫だろうが、子供ができたとして、北条仁が許してくれたとして、その先はどうなのだろう。この人は、本当に私のものになる?

 美和が自分の胸のうちに問いかけた瞬間、電話が鳴った。
 真は暫く動かなかったが、ゆっくり美和から離れると立ち上がる。美和は真が受話器を上げるのを見て、急に別の次元に行ってしまったように感じた。
「はい、大和ですが」
 同居人の苗字を当たり前に名乗っている後姿を、美和は取り残されたような気分で見つめた。
「いえ、どういう意味ですか?」
 真は向こうが話すのを確認するように聞いている。美和はその背中が徐々に緊張していく気配を感じた。
「誰も、見かけてないという意味ですか。いつから? いえ、ここには」
 真の声はいつもより擦れていた。酒のせいなのだろうが、その分切羽詰って聞こえてくる。
「分かりました、すぐに行きます」
 真は受話器を置いて、寝室に行ってしまった。出てきたときには着替えていて、美和の顔を見て、一瞬何か言いかけてとどまった。美和は問いかけた。
「病院?」
 真は弾かれたように頷いた。
「どうしたの?」
「竹流の、姿がないらしい。とにかく、行ってくる」
「え?」
 美和はどう返事していいのか、しばらく真を見つめたままだったが、出て行く真を追いかけて玄関まで行った。靴を履いてから、真は美和を振り返った。
「美和ちゃん、ちょっと澤田の経歴を調べてくれないか。それから、もし事務所に竹流から連絡があったら」
 真は一瞬躊躇ったようだったが、意を決してその先を続けたように見えた。
「俺がつかまらなかったら、二丁目の『葵』というバーのママに知らせてくれ。どこか机の引き出しにマッチがあったと思う。頼んだよ」
 先生、二日酔いは? と問いかける言葉を聞きもせず、真は飛び出していった。 
 美和は暫く玄関でぼーっとしていたが、急に気を取り直して出掛ける準備を始めた。



さて、いちゃついている間に何だかとんでもないことが起こっていたようで…
次回第5章『誰も信じるな』、お楽しみください。
ちなみに、この章題には出所があります…Xファイルのモルダーの部屋に貼ってあるポスター。
TRUST NO ONE

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨32] 第4章 同居人の失踪(3) 

*さて、これはラブシーンと納得していただけるかどうか…真夜中の電話。
 電話を盗み聞きしているような気持ちで読んでいただけると嬉しいです(実際に、美和ちゃんが盗み聞き^^;)




「随分飲んだんじゃないのか。すごい声になってるぞ」
 答えが出てこない。口を開いたら、さっきまで考えていたことの奥にある大事な何かが、そのまま零れ出てしまうような気がした。
「見張ってたのか」
「何を?」
「俺を。随分タイミングよく電話を掛けてくるじゃないか。もしかしたら帰ってこなかったかもしれないのに」
 話しながら真は、自分は何を言っているのかと思った。
「馬鹿を言うな。帰ったら美和ちゃんに泣きつかれただろう。随分な剣幕だったからな」
「それで、俺がここへ帰り着いて、彼女を慰める時間まで計算してたってわけか」

 竹流が少しの間向こうで躊躇しているように感じた。この小さな間が、永遠のように苦く感じるのは何故なのだろう。答えた竹流の声は穏やかで、どこか哀しげにも聞こえる。
 考えてみれば、捨て台詞を吐いて別れたきりだったのだ。
「そういうことにしてもいい」
「それで、あんたは俺に深雪を見張らせていたのか。それとも深雪に俺を見張らせていたのか」
「何のことだ」
「あんたと深雪の関係は何だ? 澤田とは?」
 真は自分でも何を言っているのかわかっていなかった。半分は澤田を問い詰めなかった後悔だった。半分は、あんな状態になっているのに、何も話してくれない同居人への怒りだった。

 怒り、というよりも半分は悲しみのようなものかもしれない。どうせ自分は、彼にとっては何の役にも立たない、少なくとも彼が自分に与えてくれていることの一割も返すことができないままでいる。
 竹流は多分、この真の問いかけに対して、無視してしまうか茶化してしまうに違いない、そう思っていた。対等の立場で語り合うことは難しいし、特に話題が、彼が触れてほしくない部分に及べば、まともな答えが返ってくるとは思い難かった。
 だが意外なことに、その問いかけに対して電話の向こうで同居人は押し黙っていた。
 真はその沈黙の間に、ますます混乱してきていた。なぜ頼ってくれないのかと情けなく思う気持ちと、あの病院の屋上で別れた時の怒りと苛立ちが咽喉元まで突き上げてくる。結局、やはり酔っているのだ。

「澤田に、自分の下で働かないかと言われたのか」
 長い沈黙の後、竹流が電話の向こうから穏やかな声で問いかけてきた。
 どういうことなのだろう。どうして竹流はそんなことを知っている? 知らないまでも、澤田がそんな申し出をすると予想できたというのだろう。頭の中がぐるぐると回って収拾がつかなくなっていた。
「よく知っているな」
「俺が奴の立場なら言うかもしれないと思っただけだ。それで、何と返事をした?」
 断った、と言いかけて、ちょっとばかり腹が立ってきたので曖昧な言い方をした。
「考えさせてくれと言った」
「そうか」
 だが、それに対しても竹流はあまりにもあっさりと返事をして、また長い間黙った。電話のことなので、長い間といってもそれほどでもなかったのかもしれない。
 真はその間を、何とも言葉を継ぐことができずに黙っていた。

「……お前、俺のところに来るか」
 突然、竹流がいつもと変わらない穏やかな声で言った。
 あまりにも予想外で唐突だったので、酔っている真の頭は、『会いたい』と言われているのだと誤解した。いや、会いたいと言って欲しいと思っていただけなのかもしれない。
「俺、酔ってるし、運転できない」
「馬鹿だな、そういう意味じゃない」
 じゃあ何だ、と言いかけて真は口をつぐんだ。これは、つまりある特異な申し入れなのだ。澤田と同じような言い方をすれば、自分のところで働かないか、というような。
「お前に、どんな形であれ、俺のような人間がすることに、あるいは将来しなければならないことに関わらせるつもりはないと、そう思ってきた。だが、お前がそれでは耐えられないというなら、俺のところに来い」

 何を動揺しているんだ、と真は自分に言い聞かせた。そして、自分が本当に酔っているのか確かめようと、部屋の壁に架かる遺跡の絵を見つめた。それは多分シチリアのどこかにあるギリシャ時代の遺跡だろう。揺らいでいるのは思い出や懐かしさのせいではない、きっとやはりただ酔っているのだ。
 竹流の声は恋人に囁くように甘い。遠い昔、何度も耳元で聞いたはずのこのハイバリトンの甘い声に、真は女のように酔いそうな気分になって、受話器を持ったまま壁に背を預けて座り込んだ。
 だが、もう今更、女や子供のように扱われるのは真っ平だった。
「酔ってるんで、考えられない」
 半分は本当だった。頭の中は既に廻っていたし、幾分か気分も悪かった。
「それに、またあんな訳の分からないところについて行くのは御免だけど」
「訳のわからないところ?」聞き返して、竹流が少し笑ったように思った。「サウジに行った時のことか? だが、お前のお蔭であの時は助かったと、あれからアリがえらく感謝していたけどな」

 誰のことだかよく覚えていないが、多分あの時一緒に行動していたアラブ人のトレジャーハンターがそういう名前だったかもしれない。あの時は生きるか死ぬかのぎりぎりのスリルを何回も潜り抜ける破目になったし、確かに、裸馬さえ乗りこなせる自分の特技が、彼らの危機を救ったことは真も自覚している。
 あの時は、竹流の本当の仕事に疑問を感じていた真が、丁度行きたくなかった高校の修学旅行をサボって、竹流を脅すようにしてついていったのだ。いや、実際はただ何とかして傍にいたかったのかもしれない。
「いつもあんなことしてるんだろう。映画じゃないんだから、必ず助かるとは思えない」
「だから、一緒にいたいんじゃないのか」
 真はそういうことだ、と思ってはいた。素直にそうだ、とは言えなかったが。
「俺は、あんたの女たちとは違う」
「当たり前だ。女は連れて行かない」

 真はまた黙り込んだ。気分が悪くなってきた。この電話が切れてくれなければいいと、ただそう思っていた。向こうで竹流も黙っていた。
 どこから電話してるんだろうと、病院の中の光景を想像した。病室を出て、廊下の先の大きな窓が並んだ明るいロビーだろうか。あの窓から竹流は今どんな景色を見つめているのか。
 シロカニペ ランラン ピシュカン
 目を閉じると銀の雫の降る音が聞こえてくるようだった。言葉にならない想いは、心の中でどんどん重みを増していく。滴る雫にもならず、ただ地球の中心に向かって重力の命令のまま、果てしなく深く潜っていく。
 明らかに身体の奥深くで震えるような重みを感じながら、これではまるで恋人の電話を切りたくない女子高生みたいだと思った。全て酔っているせいだと思いたかった。
 あるいは、久しぶりに声を聞いた親からの電話も、こういう気持ちになるものなのかもしれない。
 親と電話で話す、という状況は真には想像の榧の外だった。実際に父親と電話で話したことがないわけではないし、親子と名乗りあって語らうというわけではなかったが、たまに日本に彼が帰ってくるときに会うこともあった。何年かに一度程度で、恐らく真の二十七年の人生のうちでも、片手で数えられるくらいのことだ。だが、懐かしいとも恋しいとも思ったことがない。
 そう思える土台が、あの父と自分の間に無いのだろう。
 真にとって親と言える誰かがいるとすれば、幼少の時は祖父と叔父が、その後は伯父と、そしてこの男だった。その中で全くの他人である同居人は、血の繋がりもないのに、何故何の見返りもなくずっと真を庇い続けてくれていたのだろう。

「真、お前、ちゃんと上、着てるか? また熱を出すぞ。それから、登紀恵さんがレモンを持ってきてくれてただろう? 切るくらいできるだろう」
 同居人はくどくどと二日酔いの対策について一演説ぶって、真は時々相槌を打ちながらそれを聞いていた。聞いていたのは彼の声だけで、クエン酸がどうだのという内容はほとんど理解できていなかったが、そんなことはどうでもよかった。何となく何かが不安で、たまらなくこの声が愛おしく、ただこの電話を切りたくなかった。
「さっきの話だがな、急いで答えを出す必要はない。それに、いずれにしてもこの件が終わってからのことだ。それから、澤田も、他の誰でも、お前の利用価値を知っている。お前の遺伝子の値打ちと、おまえ自身の値打ちと。だから」
 竹流は暫く言葉を選んだようだった。
「誰も、信じるな」
 真の頭の中で、何か特殊なものが弾けた。

 それから、今度こそ随分と長い間、二人ともが黙っていた。こんなときに、電話線だけは随分と儚く頼りなく、それでも何かを繋いでいるように思えた。耳元に伝わってくる振動で相手の感情が解ればいいのに、と何度も思う。
 背中の壁の冷たさが不意に身体の芯にまで伝わるような気がした。
「雨だな」
 その儚い電話線の向こうで同居人が呟くように言った。このマンションの居間からは、ブラインドを下ろしてしまえば、廊下ともう一枚のガラスの向こうの外の気配は分からなかった。竹流は病院のロビーの大きな窓の並びから外を見つめているのだろう。
 真は自分が静かなコンクリートの箱の中に座っていて、その箱に銀の滴が降り注ぎ、雫は僅かな隙間から零れ出し、やがて穏やかな湿度が身体に滲みこんでくるのを感じた。竹流もまた、別の箱の中で静かに立っていて、銀の滴を感じているだろう。

「もう、切るぞ」
 うん、と返事をしたつもりだが、声が相手に届いていたかどうかは分からなかった。しばらくの沈黙の間に、恋しい気持ちが身体の中心から湧き上ってくるような気がした。
「そっちが切れよ」
 やがて同居人が優しげなハイバリトンの声で、囁くように言った。
 十代の恋人同士の電話じゃないのだし、そっちが切れ、と真は思った。それから、彼も電話を切りたくないのだと思った。わけもなく、泣きたいような心地だった。黙っていると、突然名前を呼ばれる。
「真」

 本当のところ、座り込んだところから立ち上がることも、腕を伸ばして受話器を置くこともできないような気分だった。ただ名前を呼ばれた不意打ちに、思わず言葉を捜した。
「明日、午前中にはそっちに行くよ」
 言葉は何でもよかった。向こうで同居人は暫く黙っていたが、あぁと短く返事をした。
「何かいるものは?」
「いや、別に何も。お前が来てくれるなら、それでいい」
 そう言ってからきりが無いとでも思ったのか、同居人はじゃあなと言って電話を切った。

 真はそれでもそれから長い間、受話器を持ったまましゃがみこんでいた。酔っているな、と思った。考えのまとまらない頭の中で、今何時だろうと思った。この空間に自分ひとりなら、時間など気にもせず迷わず今会いに行ったかもしれない。
 だが、電話を切って間もないのに会いたいと思うなどと、女のようだと思って直ぐに打ち消した。不意に、また穏やかなサテンのシーツに包まれる感覚が肌に蘇り、不思議な油絵具の匂いが嗅覚の中に浮き上がってきた。降りしきっていた銀の滴は薬指のリングに結晶し、真の肌に触れた。真は振り切るように立ち上がり、ようやく受話器を置いた。
 それから、真はのったりと部屋を見回し、ソファの方に回って、帰ってきたときに脱ぎ散らかした上着とネクタイとベルト、それから靴下を片付けて、ガウンの紐を結んでから、ソファに座ってテーブルの上の煙草を取り上げた。
 そうとも思ってはいなかったが、ライターをつけようとして自分の手が震えていることに気が付いた。
 この時何故美和を置いてでも会いに行かなかったのか、後から真はどれほど後悔したか知れなかった。


* * *

 目を覚ましたのは、電話の音よりも、隣の居間にいる男の気配のためだった。
 美和はしばらくの間、途切れ途切れの話し声を、聞いてはいけないものを耳にしてしまったような気持ちで、随分遠くの音として留め置いていた。それでも気になって身体を起こし、開いたままの居間の扉のほうに行って、その陰からやはり薄暗いままの居間の様子を隠れるように覗いた。
 さっき身体を重ねたばかりの男は、今全く別の次元にいる生き物のようだった。
 受話器を持ったまま床に座り込んで壁に凭れ、その男は電話の向こうの誰かに見えもしないのに相槌を打っているように見えた。その上、泣いているようにさえ見えた。

 美和は思わず唇を噛み締めた。
 そういうことは分かっていた、と思った。
 どれほど関係を否定されても、上司である真とその同居人の間柄は親密以上のものだった。それが単純に恋人同士の関係には思えないが、それだけにもっと悪かった。美和の恋人の北条仁は、女の方が好きだと言いつつ、世間にもバイセクシュアルであることを公にして憚らなかったが、時々美和に解説することがある。
 男同士の関係は長続きしない、と。
 それは単に肉体的な繋がりの難しさを言っているのか、法的に守られないからか、世間的に理解を得られないと思われているからか、いずれにしても自然の摂理から外れた関係を続けることは困難なのだろうと美和も思っていた。いや結局は、男女であっても肉体的な繋がりだけでは長続きしないということなのかもしれないし、それ以上に、男性同士は愛しいという感情を相手に抱きにくいものなのかもしれない。男女なら、肉体的な強い欲求が消えても、家族への義務的で自然摂理にも見合った愛情や、社会的な枠組みが守ってくれる。
 だが、目の前にいる真と同居人はまるで気配が違う。

 二人が恋人に見えるか、兄弟に見えるか、親子に見えるか、と問われたら、内情を知っていれば、実際最も近いのは親子ではないかと思えた。真の同居人は真を時々子供のように扱っているし、普段は反抗的なことを言いながらも真の方もそれに甘えている気配が見えないわけではない。年も十歳近く離れているようだし、ちらりと聞いた話では、真が子どもの頃勉強の面倒を見てくれていたのはその同居人だったという。つまり、真にとって、子供時代、もしくは最も多感な思春期の人格形成の一時期を、ほとんど全てあの同居人に預けていたのだろう。
 その上で、もしも仁の言うとおりなら、恋人同士であってもおかしくない距離にいる。
 他人の恋愛事情として妄想だと言いながら突っ込んだが、本当は事実に近かったのかもしれない。何かの拍子に驚くほど近い身体と身体の距離は、一度も関係を持たなかった人間にはあり得ない距離だと、仁が言っている通りに思えた。むしろ、実際には肉体的な関係を辞めてしまったのに、身体も心も尚更相手を求めているような、そんな気配だった。

 美和はそっとベッドに戻った。
 さっき狂うほどに求め合ったばかりだ。今もまだ、真が自分の中で果てた時の気配と拍動を、身体の芯が覚えていて疼いていた。美和の内側は真が中に出したものを、一滴も零したくないように収縮して飲み込もうとしていた。意識してのことではなかったが、衝動にしても心からこの男の子供を身籠ってもいいと思った。その欲求が性的な結びつきの快楽と切り離せないことも感じた。

 恋人である北条仁には、確かに男女問わずに相手がいる。任侠の世界に生きている男は比較的女関係には堅いと聞いていたが、仁はむしろ粋で遊びを楽しむタイプの人間だった。だが、遊びは派手だと噂されていた割には、美和に対して無謀な振舞いをしない。
 美和も郷里の山口で付き合っていた相手がいなかったわけではない。真には偉そうに言ったが、修学旅行でも、それ以外での友達とのおしゃべりの中でも、男女の恋愛については耳年増になるばかりで、実際に初めてちゃんとセックスをしたのは東京に出てきてからで、相手は北条仁だった。今でもその行為に完全に慣れたというわけではない。感じる、ということはちゃんとできていると思っていたが、どこかでいつも何かが引っ掛かっていて、昇り詰めるという次元にまではいっていなかった気がした。本当のところ、『いった』のは今日が初めてなのだ。そして、頭の芯が痺れ、子宮も腟も痙攣し続けるような感覚に、初めてこれが絶頂なのだと知った。子どもを産む痛みに女が耐えることができて、それでもまたセックスをしたいと思うのはこの快感が女にだけ与えられているからだとも、女は男よりも七倍は気持ちいいのだとかいうのも、会話の中では楽しんでいたが、実際に自分の身体で感じたのは初めてだった。
 北条仁は、美和の初めての相手が自分であることを知っていて、時々ベッドの中で、他の男とも寝てみたほうがいい、と勧めた。冗談なのか本気なのかよくわからなかった。具体的に誰、と言われたわけではない。もっとも、ベッドの中では仁と他にも色々な話をする。行為そのものよりも、話をするほうに時間を使っている。それはとても楽しく、不思議なことに暖かい時間だった。
 多分、北条仁は状況をしっかり理解しているのだ。それはつまり、この状況で万が一にも美和が子供を生むということになれば、美和自身にも美和の家族にも北条一家としても簡単な話ではないことを、いかにも勝手で強く自信家の男がけじめをつけたがっているということだった。それは仁が自分を大事にしてくれているからだということは、よく分かっていた。だが、快楽というものは、そういう理屈を重ねると薄れるものかもしれない。

 だが、万が一自分と真が恋人になって、その上で真とその同居人の関係を許容できるだろうか。自信がなかった。自分の恋人が身体で他の誰かを求めている事も許せないが、それよりも心で他の誰かを求めているとしたら、それはとんでもなく重いことのように思う。
 仁さんは他の男と寝てもいいって言うけど、そんな簡単なことじゃないわ。
 美和は恋人の言い分がやはり納得できなかった。
 仁の言うとおり、ちゃんと付き合っている相手がいて、その相手に許されて他の誰かと寝ることは、ある種類の人間からは羨ましいとさえ思われている。だが実際にしてみると、ややこしくてやってられないと思った。
 本当の恋人との行為のほうがずっと良くて、それを思い出してしまってもややこしい。逆に刹那の恋人との行為のほうが良くて、離れられなくなってもややこしい。
 身近な相手を選ぶんじゃなかったな、と思った。顔を合わせるということは、離れにくいということだ。

 真は寝室に戻ってくる気配はなかった。夜を他人と一緒に過ごせないと言っていたし、女の人のところに泊まってくることもないと話していた。あくまでも、真にとって大和竹流という男は別格なのだ。
 まぁ、でも考えても仕方がないか、と思い直した。
 大体、真と同居人の関係は始めからわかっていた話だ。そこに割り込もうと思っているわけでもない。
 あんなに切ない顔をされるのは、ちょっと意外だけど。
 美和は布団に深く潜りなおした。お尻がいくらか冷たいのは、きっと自分がかなり濡れていた跡のためだろう。本当にびっくりするくらい濡れちゃったな、と思った。感情はともかく、関係を続けるのは悪くないかもしれないが、そういう割り切りが自分にできるかどうか、やはりわからない。
 裸のまま布団に包まっているのは、結構気持ちが良かった。とにかく眠ってしまおうと思った。





次回、第4章最終回です。今回は短かった。
美和ちゃんの回想(真と初めて出会った時の…)あり、その中には真の意外な顔が…お楽しみに(^^)

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[雨31] 第4章 同居人の失踪(2) 18禁 

18禁です。ご注意ください。
…でも本音では、大したことないんですけど…逆に期待しないでね…と言う気持ち^^; こういうシーンを楽しむために書いたわけではなく、美和ちゃんとの気持ちの行き来の延長として、会話込みでお楽しみいただければ。
ついでに、これまでこういうシーンを『具体的に』書いたことがなかったのです…つまり、シナリオで言うと、ト書きみたいな感じで、「そして二人はベッドに行く」程度の言葉で書き、翌日「寝乱れたシーツから体を引き離し、ベッドの下のスリッパを探る」みたいな言葉が出てきて、はい、おしまい。
…そういうのしか書かなかったので、ちょっと気合入れたら玉砕したという。その時の参考文献…エッチなシーンに使われる局所や行為を示す単語のあれこれ、というテーマの本を読んで、びっくり! うわぁ、エッチ小説書く人って大変だぁ、と思い、自分にはその想像力がないことが分かりました。考えてみたら、人類、どころか動物がみんなやっている普遍的でなんの変哲もないシーンを、ひたすら手を変え品変え書くわけで、飽きが来ないようにアレンジする能力は半端ではないと思ったのです。と言うことで、官能小説家さんたちをすごく尊敬するに至りました。…つまり、何がいいたいのかと言うと…18禁という言葉に期待しないでくださいね、ということでして。
*風邪をひいてしまい、頭がぼんやりとしていて、更新が遅れてしまいました。咳が止まりません…でも、仕事に行かなくちゃ。
(個人的に、夕さんにごめんなさい^^;)
*実は、ちょっと書き直そうかと思っていたのですが、うん…まぁ、いいか、とそのまま出すことにしました。結局、流れの中で書いているので、ここだけ変えてもなぁ、と。




 マンションの玄関のドアを開けて、薄暗い明かりの中をぼんやりとした足取りのまま靴を脱いで上がり、そのまま右手に折れた廊下を歩いて突き当たりのドアを開け、上着を脱いでソファに放り出した。体がスローモーションのようにだるく、重く動いているのを感じる。
半分で澤田という男が意外にもいい人間だったと思い、半分で何か別のことにかっかしていた。
 それが何だかわからない。真はネクタイを解いて、靴下まで脱いでその辺に放ると、ついでにスラックスのベルトも引き抜いた。それから上着の内ポケットを探って煙草を探し当てると、テーブルの上のライターで火をつけようとした。

 その瞬間に、隣の寝室からの続き扉がものすごい勢いで開いて、美和が飛び込んできた。
「先生!」
 押し殺した悲鳴のように美和は叫んだ。
「……何だ、どうした?」
 思わず咥えた煙草を落としてしまった。あまりの美和の気配に、真は彼女に何事かあったのかと思った。美和はソファを廻って、そのまま躊躇いもなく真の腕に飛び込んでくる。
「何かあったのか」
 美和は顔を上げて真を真正面から見た。真剣な思いつめた表情に、真のほうは酔いも吹っ飛びそうだった。
「何かあったのは先生でしょ。澤田顕一郎に何かされなかった?」
「何かって……」
 真は美和が何を誤解していたのか分かって、ようやく少し笑った。
「夕食をご馳走になっていただけだ」
「それだけ?」
「そう」
「嘘」
「嘘じゃない。そんなに悪い人には見えなかったよ。君の言うとおりだ」
「香野深雪のことじゃなかったの?」真は頷いた。美和は必死、という表情で言葉を繋いでいた。「先生を抱きこもうって話でも? 添島刑事が言ってたみたいな」
「彼のところで働かないかとは言われたよ。勿論、断ったけどね」
「苛められなかったの?」
「苛めるって、そういう話じゃないよ。澤田が君の思っているような悪人なら、ここに帰ってきてないと思わないか?」

 美和はようやく安心したのか、やっと真に抱きついていることに気が付いたようで、顔を赤らめて手をぱっと離した。そして俯いて小さな声で言う。
「心配したの」
「悪かった」
「さぶちゃんと賢ちゃんにあとをつけさせたの」
「あぁ、知ってる」
「帰れって言ったの、先生?」
「俺だ」
「ごめんね」
 真は思わず彼女のポニーテールを外した髪を引き寄せるように撫でた。
「何を言う。心配してくれて有難う」
 美和は少し真のほうへ体重を預けた。それから彼女は顔を上げ、ほっとしたように笑った。
「先生、お酒臭いよ。酔ってるでしょ」
「いや、自分でもこんなに飲めるとは思っていなかった。結構しらふだ」
「ほんと?」

 不意に彼女のその感情を隠さない真っ直ぐな心が愛しいと思えた。時々訳の分からないところへ一人で走っていってしまうが、そのよく表情を変える瞳も、決して裏表を感じさせない感情表現も、愛おしいものに思えた。
 確かに、葉子に似ているのだ。それは性格や外見の事ではない。
 自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳、その明るい気配、少なくとも真が騎士になろうと思ったそのこと自体が、他の誰にでも抱けるような感情ではなかった。
 葉子が常に自分に、兄に対してではない感情を抱いていたのは知っていた。いや、それは真の方だ。本当の兄妹ではないのだから、告白さえしていれば他人の妻になることはなかったのだろう。
 お兄ちゃん、あの時から私には夢があったの。お兄ちゃんのお嫁さんになりたかった。
 彼女が嫁ぐ前の日に真の前に座り、あの誰よりも愛おしい声で言った言葉は、今でも耳の奥に残っている。

 何故急にそんなことを思い出したのかはともかく、真は、今目の前で美和が微笑んで、小さな声でやっぱり酔ってると言った、その桜色の唇が動くのを最後まで見届けてから、今度はそれを逃がしたくないと思って自分の唇で捕まえていた。
 美和はさすがに一瞬びっくりしたようだったが、すぐにそれに応えるように真の唇に吸い付いてきた。気が付くと、お互い夢中になって相手を求めていた。一瞬唇が離れた時、美和が俯いた。それをそのまま唇で追いかけると、美和が確かめるように言った。
「酔った勢いっていうのはいや」
「酔ってないよ」
「嘘。先生、目が据わってるもの。明日になったら、俺何かした? とか聞くんでしょ」
「まさか、ちゃんと覚えてるよ」
 もう一度求めると、今度は美和は逃げなかった。頭の隅で真はやっぱり酔ってるな、と思っていた。言葉は中途半端にしても、正面切って女の子に抱きたいという意思を伝えたのは初めてだった。
「明日、覚えてないなんて言ったら殴るから」
 美和は真が酔っていることを心配しているわけではないようで、真剣に拒否をしているというよりも、どこかでこの状況を楽しんでいるように見えた。真が美和を抱き上げると、彼女はびっくりして叫んで少し手足をばたばたした。そのまま美和がさっき勢いよく開けた寝室へのドアをくぐって、ダブルベッドの上に二人一緒に倒れこんだ。

「やっぱり酔ってる」
「分かった、酔ってる。でもちゃんと分かってる」
 真がそう言うと、美和のほうは暫く確認するように真の顔を見つめていた。そしてそのまま、彼女は真の首の後ろに両手を廻した。
 今度は長いキスだった。
 美和に恋人がいることも、その男に自分がいく分かの恩義があることもちゃんと頭では分かっていた。だが今、突然に抱きたいという衝動に駆られたのが事実だとしても、誰でもよかったわけではない。
 美和だからだ、と思っていた。自分のものが既に熱くなっているのは分かっていたが、深雪を相手にしているときのように、とにかく直ぐにそれを彼女の中に埋めたいとは思わなかった。十分にこうして愛おしく可愛がってキスをしていたいと思っていた。
 葉子にはできなかったことだった。もちろん、昔も今も彼女にそうしたいと思っているわけではなかった。葉子はいつまでも大事な姫君で、そのことは永遠に変わらない。だからと言って、美和が葉子の代わりとは思っていない。

 美和のTシャツの下から手を忍ばせると、彼女の肌が冷やりとして気持ちがよかった。そのまま何もつけていない乳房に触れると、少し緊張した美和が唇から逃げようとする。真はそれを追いかけて捕まえ、また舌を絡ませた。指の間で美和の乳首がつんと立つ。じれったいように美和がTシャツを脱いでしまおうとするのを止めて、なおゆっくりと手掌と指で愛撫を続けた。
 唇は美和の柔らかい耳を弄びながら、手はずっと彼女の胸を愛撫している。手の中で美和の昂ぶりが分かるようで、それをいつまでも可愛がっていたいと思った。そのうち真が美和のTシャツを脱がせると、彼女もゆっくりと真のシャツのボタンを外していく。遠慮している気配はなかった。
 美和の乳房は、見慣れている深雪のものとは全く違う。乳首も小さく、まだ子供のようだった。真はそれを口に含んで、始めは舌で転がすように、それから歯を立てて彼女が拒否しないのを随分長く確かめてから強く噛むようにした。美和は小さく声を上げたが、逃げなかった。むしろ真の背に廻した腕でさらに強く真を抱き寄せた。美和のショートパンツを下着ごとずらして脱がせてしまって、その薄めの繁みへ口づけたときも、美和はもうそのつもりだったのか、自分から腰を上げて脱がせやすいようにしてくれたし、先生もちゃんと脱いで、と要求してきた。
 真は一瞬躊躇ったが、そのままシャツもスラックスも下着も脱いだ。その真の体を見て、さすがに美和はちょっと驚いたようだった。

 けれども、その反応は以前りぃさが真に向けたものとは全く異なっていた。
「ハードボイルドの主人公並みだけど、どうしたの」
 真は何故か少しほっとしていた。
「昔、崖から落ちて死に掛かった、その時の傷やら手術の瘢やら」
「いつ?」
「大学に入った年の秋、かな」
「どうして? 常識的な生活してたら崖から落ちないでしょ、普通」
「覚えてないんだ、馬に乗って走ってたことしか」
 デジャヴのように、同じ言葉をりぃさに言った時の事をおぼろげに思い出す。真は僅かに何かに緊張している自分を感じていた。
「事故?」
「だろうな」
「意識が吹っ飛んでたってこと?」
「医者曰く、逆行性健忘だって」
「それって、いつかは思い出すの?」
「どうだろう」
 美和は、真を促すように仰向けにさせると、その上に覆いかぶさるようにして、いつかりぃさがしたように真の傷に触れ、口づけた。けれどもその口付けは温かく、まるで今からでも傷の痛みを吸い取ろうとするようで、慈しむように優しかった。これは美和であって、りぃさではない。りぃさのように、真を死の淵へ連れて行くようなことは決してないだろう。
「古傷って、痛むでしょ」
「そうでもない」

 美和は傷に触れ、それからゆっくりと真自身の昂りに手を添えた。それはずっと硬くなったままだったが、妙なことに焦りはなかった。始めは多少躊躇っていた美和が、指に力を入れてしっかり握ってくる。そして傷に触れるのと同じようにキスをして、緊張しきった先端を軽く口に含んで吸った。
「先生って着痩せするんだ。知らなかった」
 美和の反応は何もかも若々しくて、明るい。
 真が脚を開かせると、美和はさすがに最初だけ少し抵抗したが、真はそれを簡単にねじ伏せてしまうとその茂みの奥に唇で触れ、そのさらに奥へ舌を差し入れた。もう彼女は溢れるほどに濡れていて、あまりにも溢れてくるので後ろのほうまで濡れてしまうのを真が舌で追いかけると、さすがに美和もびっくりして脚を閉じようとした。予想していたので、それを押さえつけてしまい、後ろの方も舌で襞を確かめるように舐めてゆく。
「ずっと、濡れてたの。先生が帰ってきて顔を見たときから」
 そう言って美和は息を吐き出した。真は美和の手を自分のものへ導き、美和はそれを彼女自身のほうへ探らせるようにして、さらに脚を開いて真がやりやすいようにしてくれた。十分に先端だけを濡らすようにして何度も出入りを繰り返し、美和の反応をいちいち確かめながら、少しずつ奥へ入っていく。入口はともかくも、そうしなければ簡単には奥まで行き着けないように狭く、締め付けてくるようで気持ちがよかったこともあるが、このまま直ぐに奥の奥まで味わってしまうのは勿体ないような気さえした。

 真があまりにもゆっくりと焦らすようにするので、美和は急かすように腰を突き上げてくる。真が意地悪をするように引くと、美和の表情がむくれたようになった。その可愛らしい口から何か卑猥な言葉を引きだしてみたくなって問いかける。
「どうしたの」
「……深雪さん、いつもいいって言う?」
 思わぬ言葉に真のほうが驚く。
「いきなり、どうしたんだ」
「ちょっと気になったの。続けていいよ」
 ふてくされたようにそっぽを向くのを、真は軽く戻して唇にキスをした。
「深雪のことを気にすることはないだろう」
「だって、プロだもん」
「プロ? まさか、そりゃ君よりは場数を踏んでいるだろうけど、別にそれで金を取っているわけじゃない」
「でもいいんでしょ」
「それは今、関係ないだろう」
「私もそう思うわ。でも、気にしちゃう」
 真は半分まで美和の中に収まっていた自分のものをさらに奥へ入れる。美和はきゅっと目をつぶった。
「美和ちゃん」
「何よ」
「普通ね、女の子はこういう状態でそんなにしゃべらない」
「普通じゃないもん」

 本当に愛しいと思った。真は美和の脚を抱えるようにして、最後は少し勢いをつけて彼女の一番奥まで突いた。締め付けてくる美和の内側は、まだ少女のもののように狭く感じた。深雪の中のように襞がまとわりついて締め付けるたまらない気配はなく、ただ懸命に自分を受け入れてくれているようで、愛しい気持ちは募った。北条仁と関係を重ねているだろうに、随分と幼く感じる。
 それでも何度も繰り返し奥まで動いていると、少しずつ広がっていくように思った。そのまま美和を抱きかかえるようにして、真は座る姿勢になった。美和は脚を開いたまま座った真の上半身に身体を預けた。美和の顔を見ると、額にいくらか汗を滲ませて、唇を半開きにし、それから照れたような優しい目で笑う。
 そう言えば、自分の方も、こんなふうに女の子と会話をしながら抱き合うことを楽しむなんてことは、まるでなかったような気がした。もしかしたら少しばかり、自分と美和の間に運命でもあるのだろうかと誤解もしたくなる。
 そう考えると、この子はなんて可愛いのだろうと思い、その気持ちをどう表そうかと考え、唇を吸った。舌を吸いながら下半身を突き上げると、さすがにこのときばかりは美和も娼婦のようにのけぞって真にしがみついた。美和自身も腰を上下させながら動いて、あまりにも夢中になっていたのか、真のものが彼女の中から吐き出され、彼女の身体が後ろへ倒れそうになるのを真が慌てて抱きとめる。

 美和はもう一度照れたような顔になる。若くて奔放なヤクザの情婦なのだから、もっと場慣れしている娘なのだろうと思っていたが、それは意外な顔だった。
 何かを確かめるような気持ちで後ろを向かせて、もう収拾がつかないほどに濡れている部分へ後ろから攻めようとすると、やはり美和は抵抗した。嫌なのか、と聞くと、後ろからは苦手、と彼女は言った。
 北条仁とどのようなセックスをしているのかと気にしている自分が滑稽だと思いながら、真は美和の抵抗を無視した。脚を開かせてお尻を抱えると半分まで埋まっていたものをさらに奥へつき、美和の抵抗がないことを確認すると、彼女が昇り詰める寸前まで攻め続ける。きつくて気持ち良かったが、美和が震えて逃げようとしたので、さすがにその体勢は長くは続けられなかった。
 大丈夫かと尋ねると、うん、と小さく答える。
 愛しいと思う気持ちが込み上げるままに、もう一度顔を見つめ合いながらさらに心も体も高まっていくのを確認する。それでも、どこかにかすかに理性は残っていた。
 真が一旦彼女の中から出ようとすると、美和が締め付けてくる。
「待ってくれ」
「何」
「ゴム、つけるよ」
 身体を離そうとすると美和の腕が真を抱きとめた。
「美和ちゃん」
 窘めるように真が呼びかけたのを完全に無視して、美和は真を抱き締める。その必死とも思える力に真は少しばかり驚いていた。フェイントを食らった真は逆に美和にベッドに押し付けられる形になり、美和は上になって真を迎え入れた。
「だめだって」
「ここ、いつもそんなもの置いてあるの? 大家さんが使ってて?」
「まさか、あいつ、そんなもの使わないだろう」
「じゃあ先生が使うの?」
「とにかく離せって」
 美和が真を締め付けたまま、一瞬黙りこみ口調を変えて続けた。
「いいよ」
 真はその潤んだ瞳を見つめ返していた。
「このままして」
「だから、それは駄目だ」
「深雪さんの時もつけるの?」
「彼女は子供ができないんだ、だから……」

 美和の目に、一瞬これまでと違う表情が宿った。深雪という同じ女性への同情と、それを利用している男への怒りだったのかもしれない。
「先生の馬鹿」
「分かったよ、じゃあ外に出すから」
「いや」
「いやって、おまえ」
 まるで非難するように美和が真の胸を叩いた。
「できたら責任とってよ」
「責任って……」
「仁さんと決闘してでも、責任とってよ」
 真は暫く黙っていた。後で思い出しても、このとき酔っ払っていたのかしらふだったのか分からない。けれども、このまま美和の気持ちを受け止めてやりたいと思った。
「わかった」
 短くそれだけ言うと、真は身体の位置を入れ替えて、美和の頭を抱きしめると激しく動き始めた。誰かに対する罪悪感は異常な興奮に繋がるような気配がある。美和も同じだったのか、二人で狂ったように動きながら求め合い、腰をぶつけ合って愛し合った。美和が奇妙な声を上げてわめき始めても、真は動きを止めなかった。最後には二人ともがほとんど同時に訳が分からなくなって昇りつめてしまった。
 美和の中に出してしまうと、彼女の中でゆっくり搏動するように嵩りを小さくしていく自分のものの気配をたまらない余韻の中で確認して、まだそれを美和の中に埋めたまま、口付けを交し合った。美和は真を離そうとはせず、その粘膜はまだ痙攣するように真を締め付けていた。

 美和は泣いているようだった。
「どうしたんだ」
「ううん、大丈夫。びっくりしたの」
「何故?」
「すごくよかったの」
 真は唇で美和の唇と舌を吸うようにしながら、その髪を撫でていた。まだ彼女の中に入ったままだったが、心地よくてもう少しの間このままにしておきたい気がした。
「後悔しない?」
「俺が? それとも君が?」
「先生だよ」
「しない」
 真は適当ではなく真実そう思って答えた。
 美和はいつになくまじめな顔で真を見つめ、小さく頷いた。それから、真の背中に腕を回して力を入れた。
 真は黙ったまま美和を抱き返した。

 だが、美和の小さな抵抗を無視して彼女の中から出て、枕もとのティッシュを取って後始末をしているうちに、すっと冷めていく何かが襲い掛かってくるような気がした。
 その感覚に、真自身驚いた。
 真は愛おしい気持ちを片手に抱いたまま、頭ではもう別のことを考え始めていた。美和を可愛いと思う気持ちとは別のところに何か大事なものがあって、思い出したいような忘れていたいような妙な感覚だった。そもそも、深雪を相手にしているときには愛おしいという感情は乏しく、自分が溜まったものを吐き出してしまえば後は素面にもどって当然だったが、今、明らかに愛おしいと思って抱いた女に対しても、全く同じような気分に襲い掛かられたのだ。男が射精してしまえば一気に冷める、というメカニズムは理解していたが、それが今自分の感じているものなのか、というと半分あたっていて、半分ずれていた。
 四六時中、一分の隙もなく、ただずっと抱かれていたいと思った時が確かにあったからだった。そういう感覚を、自分の腹の奥のほうがそのまま記憶している。真は目を閉じて、息を吐き出した。
 それでも美和が背に抱きついてくると、真は当たり前のように抱き返した。

 多少は酔っているのだろうし、きっと明日は二日酔いには違いなかった。いつものように飲みすぎて頭痛がしてこないだけ今日はましだった。だが、冷静になってきて目を閉じるとほんの少し廻っている。考え始めると気持ちが悪くなってきた。
 傍らで美和はうとうとしているようだった。気持ちがよくて眠くなったのだろうと思い、その顔を見つめているとほっとするものがあった。
 美和は本当はどういうつもりだったのだろう。周期的に絶対妊娠することはないと確信していたのか、それとも本気でそうなってもいいと思っていたのか、それともただその時の快楽に酔った衝動だったのか。もし本当にそうなってもいいと思っていたのなら、それは北条仁に対する何かのレジスタンスなのか、あるいはもっと別のものだろうか。
 美和なりに不安なのはよくわかった。北条仁はいい男だが、堅気ではない。彼女も極道の妻になる決意まではできていないだろう。だから自分に乗り換えたのかもしれない。
 そういう見方をするのは、美和に対して酷いことかもしれないが、普通の感覚として理解はできることだった。北条一家が仁の父親の代で家業を畳むつもりでいたことは知っているが、もしもこの先仁が父親の希望通り堅気になったとしても、今までのしのぎの方法を全て放棄することはできないだろう。それに、美和の実家が彼らの関係を了承するわけはない。そういう意味では、真も決して、美和の家族が望む理想的な娘の相手ではないのだろうが、良識の範囲の中には留まっているはずだ。

 嫌なことを考えている、と思った。
 眠っている女の子の顔をこんなにじっと見つめるのは初めてのことだ。その感情のあれこれを、是非の感覚は別にしても、考えているのも初めてだった。それに何よりも自分が、結婚などという現実的な内容を前提に考えを巡らせていることに、真自身は驚いてもいた。
 だが多少冷めた頭の中では、別の部分で澤田顕一郎のことを考えていた。澤田が今日何を言おうとしていたのか、ただ本当に勧誘するだけのつもりだったのか。
 澤田は田安隆三の事を知っていた。それも父親の代わりに学資を出してくれていたという。それどころか、真の実父のことも知っていた。ただ伝聞としてではない、同じ時代に同じ大学で、同じ倶楽部で会話さえ交わした間なのだろう。
 しかも、真の出生時のことを知っている。
 真自身に何の記憶もない、何の感慨も持てない時間と空間を、今日初めて会った、しかも今、真が内容はともかく付き合っている女のパトロンかもしれない他人が体験しているのだ。
 その他人は、まるで父親のように、守ってくれるような事を言った。

 馬鹿げている、と思った。もしも澤田が本気で真を雇おうとしているのだとしても、きっととてつもない損得勘定があるのだ。
 何より、自分にそれほどの『値段』がつけられているとは思えない。
 今自分に価値があるとすれば、同居人のことだろうか。それは十分にあり得る話だ。
 真は今になって、澤田をもう少し問い詰めてこなかったことを後悔した。しかし、澤田はあまり竹流の話題には興味を示さなかった。それは演技だったのだろうか。
 酔っていたのかもしれないが、どこかであの男を悪い人間ではないように思い始めていた。それは、もしかすると父や母の話をしていたからなのだろうか。とすれば、真自身に生みの親への思慕があるということなのか。
今まで考えたことのない感情だった。
 煙草を吸おうと思って、真は身体を起こした。美和は起きる気配はなかったが、少し大きめの息をした。

 真が美和の耳にそっと口づけた瞬間、暗闇を裂くように電話の呼び出し音がした。
 真は慌ててベッドから出ると、枕もとのガウンを引っ掛けて、隣の居間に行った。ほとんど無意識の行動だった。
 ベッドの脇には子機もある。それなのに、同居人はいつも夜中の電話を隣の居間で取った。真を起こさないように気遣っているのかもしれないが、夜中の電話のほとんどは竹流の母国からの電話で、途中から激昂してくると隣室で眠っている真が目を覚ましてしまうほどの勢いで話している。別に寝室で話していても、真には理解できない国の言葉だ。
 それでも聞かせたくないと思っているのかもしれない。
 今同居人はいないが、鳴っていると迷惑なので、この電話に出るしかなかった。
 日本語でいいや、と思って声を出そうとすると、がさがさの咽に張り付いたように上手く声が出てこなかった。
「もしもし」
 耳の中で反響する自分自身の声は随分愛想がなかった。
「……無事か? 美和ちゃんが心配してたんで、どうしたかと思ってね」
 真は思わず受話器を握りなおした。





いよいよ、全編で最も、書いている私が萌えた電話のシーン。
これこそがラブシーンと思って書いたのですが……それも竹流の一言が。
あんたは中学生か高校生?というこの電話切りたくない会話をお楽しみください。
風邪で、ミニコラムをつける元気がないので、シンプルに。
次回は、今日の夜、更新しようと考えております。
この回が1日遅れたので^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨30] 第4章 同居人の失踪(1) 

第3章あらすじ

 竹流の許可のもと、事務所の共同経営者で女子大生の美和は、竹流のマンションに泊まり込んでいる。実は彼女の恋人は事務所のあるビルのオーナーで、ヤクザなのだが現在タイに出張中。
 ある日、真が帰りの遅い美和を待っていると、電話が2本かかってきた。一つは竹流の無事を確認する男からの電話。そしてもうひとつは、真が付き合っている銀座のバーのママ・深雪のパトロンだという噂の代議士・澤田顕一郎の秘書からだった。澤田が真に会いたいと言っているという。
 美和の帰りが遅いので、事務所に行ってみると、事務所は荒らされていて、いくつかのどうでもいいようなフロッピーやテープ類が盗られていた。そこへ、ジャズバーの経営者・田安隆三のところに出入りしていた雑誌記者・楢崎志穂が現れる。先日、いささかけんか腰になっていたことを謝ろうと思っていたという。彼女から、『美和を見かけた、どうやら自分(志穂)と同じ男をつけていたらしい』という話を聞いて、志穂に事情を聞こうとするがはぐらかされる。一体何がどうなっているのかと思いながらマンションに帰ると、美和が戻ってきていた。
 美和は、竹流のところに面会に来ていた男のあとをつけていっていたという。そしてその男から、『下手に関わると危ないから手を引け』と言われたことを告げる。美和はその男と会ったことがあるような気がするのだが思い出せなくて気持ち悪い、と真に告げる。
 ちょっと昔話や恋愛談義(と言っても美和の一方的?)をしながらいいムードになっていた二人だったが、結局何もなく、終ってしまった。いささか美和のご機嫌を損ねてしまったようなのだが……翌日病院に行った真は、竹流に怪我の事情を問い詰めるが、結局相手にされず、何も教えてもらえない。
 事務所に訪ねてきた添島刑事からは、彼女がある筋から特別な仕事を任されていて、どうやらその件に竹流が関わっているらしいことを匂わされる。そして、そこには澤田や深雪も関係しているような気配が…もしかして、竹流の怪我と澤田が関係している? 澤田から接触があれば、知らせてくれと言う添島刑事は、最後にちらりと爆弾発言を残して去っていく。実は、彼女もまた、大和竹流の恋人の一人!
 添島刑事には澤田の秘書から連絡があったことを告げていないのだが、これが糸口かも知れないと思って、真は意を決して、澤田に会うことを決めた。
 一方の美和は、澤田の秘書らしい男が真を迎えに来たことに驚く。自分に何も教えてくれなかった真に憤慨しながらも、事務所の従業員、気の弱いヤクザ志望の宝田三郎、そして少年院上がりの高遠賢二に『真が誘拐されたからさっさと後をつけて』と言い残し、自分は竹流の病院へ。
 竹流は慌てる美和を窘めて、あっさりと受け流す。しかし、帰るふりをして見張っていた美和は、竹流が誰かと電話をしていて、『真が澤田に呼び出されたらしい』などと会話する声を聞いていた。
 やはり、竹流の怪我と、真の恋人・深雪のパトロンである澤田は何か関わっているのだろうか?


あぁ、頑張った。あらすじって大変^^;
では、お楽しみください。




 澤田顕一郎の顔をまともに見るのは初めてだった。テレビや新聞にあれほど出ているのに、できるだけ顔を見ないようにしてきたのだな、と思うと、どう言い訳してもやはり深雪の事で自分はこの男を恐れていたのだろうと思えてくる。
 真は澤田の秘書、嵜山の先導で静かな赤坂の路地の奥へ進み、一軒の料亭の暖簾をくぐって、心得たような女将と思われる上品な女性の案内で部屋に通された。
 綺麗に木々を剪定した中庭に面した縁側を歩くと、板の軋みを身体に感じる。やがて案内の女将がすっと優雅に座り、障子を開けると、六畳ほどの部屋でその男が真を待っていた。

 澤田顕一郎は座敷机の向こうに座っていて、ゆったりとした態度で真を迎えた。澤田の後ろの床の間に、掛軸の太い文字が立派な背景をつけている。
 覚悟はできていたつもりだったが、いざ本人を目の前にしてみると、一瞬にしても自分の手を握りしめていた。
 澤田が政治家としてどういうタイプの人間か、ある程度は分かっている。攻撃的、というほどではないが、尋ねられると是非をはっきりと言うタイプだったが、さすがに政治家だけあって、玉虫色の部分もきちんと使い分けていた。出世を考えていないのか、与党の中であまり派閥をはっきりさせずにグレイで通しているが、現首相のご意見番の一人と言われている。政治評論家やマスコミの一部が彼をじき将来の首相候補と言っているが、大きな派閥の後ろ盾もないので、それは無理だろうという意見が大勢だ。澤田はそういうことにはノーコメントで、聞かれない限りは自分の方から何かを強くアピールする気配はない。むしろ地域密着型、という姿勢を大事にしているのか、地元での人気は高いとも聞いている。
 だが、真にとっても、深雪の事が無ければ特に注目する政治家ではないはずだった。逆に深雪の事があって、直視するのを避けていたくらいだ。

 深いグレイのスーツに臙脂のネクタイを締めており、その髪には白いものが混じっているが、目元の鋭さは若者のものと変わらない。顎はしっかりと張っていて、若い頃からさぞいい男振りだったのだろうと想像される。無駄な毛の一つも残さずに剃られた頬も、骨がしっかりと張っている。清潔で潔白な政治家を演出する外観だった。
 真は奨められるままに澤田の前に座った。
 嵜山は一礼して襖を閉め、立ち去った。澤田はそれを悠然と見送り、真に自ら杯を差し出す。
 あまり飲めないので、とも言えず、真はそれを受け取った。澤田がお銚子を傾け、真の杯に酒を注いでくれる。淡々とした気配だった。
「よく来てくれた。まずは乾杯としよう」
 いきなり日本酒というのはどうだろうと思ったが、ここは自分に選択権はなさそうだった。やけくそな気分と緊張が手伝って、真は澤田に合わせて一気に杯を空けた。

「深雪が君には随分世話になっていると聞いている。礼を言うよ」
 一気に核心に話が滑り込んできたように思ったが、同時に妙な感じに襲われる。
 澤田にとって、世間の噂どおり香野深雪が愛人なら、彼女の存在を自らに結び付けて告白すること自体、スキャンダルの根源になる。真はそう考えて、多少落ち着いた気分になった。
 この男は馬鹿ではないのだから、それを認めないだろう。そのことで真を攻撃することは、彼自身の首を絞めるようなものだ。
 とは言え、今ここで澤田が何を言い、何をしようとも証言してくれる人はいないわけだ。安心している場合ではないかもしれない。
「あれは贅沢な女だ。愛だけでなくそれ以外のものを必要としている。だが可哀相な女だ。もっともそれにほだされると、抜け出せなくなるぞ。君も気をつけたまえ」
 真は澤田が注ぐままに酒を受けた。まだ返事ができないでいる。
「だが、君が本気になってくれるのなら、あれほどに値打ちのある女もいない」

 澤田からは整髪剤のいい香りがした。身だしなみも上品で物腰は穏やかだが、威圧感がある。七三に軽く分けて後ろへ撫で付けた髪は、白いものが混じっているとは言え、艶があった。
「まあ、今日はそんなことを話すために君を呼んだのではないからね。ゆっくり食事を楽しもう」
 楽しめないだろうという真の予想を裏切って、出てくる料理はどれも一流だった。澤田は飲むと陽気になる性質らしく、真が頼みもしないのに料理の解説をしてくれる。その食材へのこだわりとほれ込みと、料理の説明に手抜きのないところは、同居人と全く同じだった。
 そう考えると急に親しみさえ感じられるように思うが、そんなことを考えている場合ではなかった。それでも、真はここに入ってきた当初よりはくつろいだ気分になっていたし、多少入った酒のせいもあって、僅かだが警戒心は薄れかかっていた。
 澤田の料理解説を聞きながら奨められるままに箸を料理に伸ばしていると、酒もいつの間にか杯が重ねられている。
「深雪が君はあまり飲めないと言っていたが、そうでもないらしいね」
 冗談じゃない、と真は思った。つられて飲んでいるのか、負けじと思って飲んでいるのかはともかく、これは立ち上がれるかどうか不安な気がしてくる。その証拠に相手の輪郭がややぼやけ気味だった。
 それでも頭の隅で、深雪と澤田が自分の事を二人の間で話題にしていたのか、と考えて妙な気がした。

 やがて料理の大方が出揃って、最後に小さな碗で蕎麦が出た。それを食べ終えると、澤田がさらに真の杯に酒を注ぎつつ言った。
「私が深雪の話をするために君を呼んだと思っていたかね」
 真は答えなかった。そうとも思っていたし、そうでないとも思っている。
「多分、世間的な噂を信じれば、そう思うだろうね」
「噂? 香野深雪があなたの愛人ではないかという?」
 澤田は微笑んだように見えた。
「あんな愛人を抱えていては身が持たない」
「どういう意味ですか? 彼女のために、ホテルを一室借りているほどのあなたが」
「あのホテルは私の名前で借りてはいるが、金を出しているのは別の人間だ。私が使わないので、深雪に貸している。私と彼女が会うために必要な場所ではない。君と会うためには必要なようだがね」
 真は思わず緊張した。
「あなたの、つまり愛人ではない、と」
「さあ、どうだろうね」
 澤田は言葉を明瞭にはしなかった。それが深いわけがあってのことか、真をからかってのことか、すでに真の頭では判断がつかない。
「だが、今日君を呼んだのは、別の件だよ」
 料理が一通り済んだからか、この部屋にはもう誰も近づいてこなかった。

「どうかね、私のところで働かないか」
 真はさらに緊張してその言葉を受け止めた。やはり、添島刑事は世間話をしに来たのではなく、真に警告しに来たのだ。
 もしも、澤田が本当にあの出来の悪いハードボイルド小説のような話を信じているのだとしたら、まだ深雪の事でちくちくいたぶられるほうがましに思えた。
 真が返事もしないまま澤田を見つめていると、澤田は少し笑んで先を続けた。
「君の父上の事はよく知っている。大学時代、彼は私の二年下でね、学部は違ったが彼は有名人だったし、何より同じ剣道部だったから、いわゆる同じ釜の飯も食ったというわけだ。医学部に入りなおしていた彼の兄貴はその頃もう忙しくてあまりクラブには顔を出していなかったからね、彼は実質大学一、いや関東一の猛者だったんだ。頭の切れるいい漢だったよ。唯一の欠点は、兄貴にぞっこんだったことくらいだな。以前ソ連の科学アカデミーに在籍していたこともあったようだが、今はアメリカにいるそうだね」

 戸籍上の問題、と添島刑事は言っていた。戸籍では、父親の籍に自分が入っていないことは知っている。だが親戚の誰も、真が長一郎の次男である武史の子供であることを、敢えて隠しているわけではなかった。それでも、言葉で私がお前の父親だと言ってくれたのは、伯父の功だけだった。
「それは、父ではなく、叔父のことでしょう」
「彼が、学生のうちにドイツ人女性との間に子供ができて、大学を続けられなくなったのは知っている。当時は恋愛事件としてなかなか有名な話になっていたからね。子供を兄貴が引き取ったのも知っている。尤も、子供を引き取るためだけに結婚したという噂の兄貴は、当時インターンで忙しくてほとんど家にいなかった。その兄貴が結婚した女性が育児ノイローゼになって、すぐにその子供は北海道のお祖父さんに引き取られたと聞いた」
 真は呆然と澤田を見ていた。大体、こんな展開になっているのは何故だと思った。
「調べたのですか」
「何を言う、それが私の学生時代の一番有名な恋愛事件だったんだよ。当時、文学部の学生主催の同人誌で、その事件をベースに小説を書いて発表したやつがいてね、皆その事件の事はよく知っているわけだ。相手の女性が東ドイツのある有名な人物の孫で、その女性の母親は日本人かあるいはハーフだった。本当かどうかは知らないが、その小説では東ドイツのスパイ組織の幹部の孫と書かれている。彼女は母親の故郷を旅しているうちに日本人男性と恋に落ちて駆け落ちした。そして子供が生まれてすぐにドイツに連れ戻された。筋書きだけでも下手な芝居よりもずっと劇的な物語だったんだよ」

 真自身のよく知らない話を、澤田が彼自身の生きた時代と場所で知っていることに驚いた。
「そんな下手な小説を信じる人がいたのですか」
「あの時代は、実在のスパイが普通に小説やニュースに顔を出した。マタ・ハリしかり、有名な日本の男装の麗人もね。もちろん、顔が出てしまえば、スパイとしての役割は終わるか、変わるかしたのだろうがね」
 真はしばらく澤田の顔を見つめていたが、結局開きなおるしかないと思った。
「母のことは全く記憶にありませんし、会ったこともありません。叔父、いえ、あなたのおっしゃるとおり父だとしても、彼の色々の事情は僕には全く分からないし、今も彼に会うことはほとんどありません。電話はごくたまにかかってきますけど、子供を心配して、というような感じではありません。だから、それ以上の事を聞いても無駄ですよ」
 澤田は真の顔をまっすぐに見つめていた。

「君は、父上が恋しくないのかね」
 この男は、何が目的で情に訴えてくるのだろうと真は思った。
「恋しいと思うほど彼のことをよく知りません。あの人の生き方に干渉するつもりもありません」
「なるほど、それもそうだろう」
 澤田は納得してくれたように見えた。
「では、君の話をしよう。君は成り行きでこんな仕事をしているようだが、今の仕事が君に合っていると思っているかね。多分、君は自分が思っている以上の事ができる人間だ。私は君の才能を伸ばす術を知っているし、その方法も持っている」
「何の、話ですか」
「だから、勧誘していると言っているのだよ。君は頭がいい、しかも極めて上質の遺伝子を受け継いでいる。もしもこの話が気に入らなくても、研究に戻りたいなら、私が協力をしよう。田安の爺さんからもそう聞いてくれているだろう」
 深雪のことなど既に吹っ飛んでいた。何故この男は真の周辺事情をこんなにもよく知っているのだ。

「田安さんを、ご存知なのですか」
「あの人は、君、私の父親代わりだ。学生のときに学費を出してくれていた。私の父は終戦の三日前に亡くなっていてね、以後は彼が私の父親のようなものだ。彼が私に君を推薦したんだよ」
「推薦?」
「君のいくつかの特殊な能力を含めてね」
 この男は、田安のことを知っている。もしかして、あの地下の射撃場のことも、勿論それが違法であることも。
「一体……、僕があなたのために何ができると言うのです?」
「私のために? 君、それは誤解だ。私は君のためになると思っているのだ」
 何が何だか分からないものの、簡単に言うと、この男は真がかなり特殊なことのできる人間と勘違いしているようだと思った。確かに酔ってはいるのだが、それが判断を鈍らせているわけではなさそうだ。
「初対面のあなたが、何が僕のためになるかということをご存知だとは驚きです。残念ですが、あなたのお申し出を受けるわけにはいきません。それでも、一人二人路頭に迷うかもしれないので」
「私が言っているのは、それも含めてのことだよ」
 真は一つ、息をついた。

「あなたがヤクザや不良少年の味方をしてくれるのですか。あなたの政治生命に関わりますよ」
「私の政治生命など問題にはなっていない。君が最も安全な場所は私のところだと言っているのだよ」
「安全?」
 一体何の話だと思った。何故自分が澤田に安全を保障してもらわなければならないのだろう。真は次の言葉がでないまま、澤田を見つめていた。
「いや、性急に話をするつもりはなかったのに、申し訳ない」
 澤田は、強引な気配を急に引っ込めた。
 その瞬間、真は澤田が見せた懸命さを垣間見た気がした。一体、この男は何を言いたいのだろう。まるで何かに追われているように見え、そしてそれを初対面の若者の危機と考え、守ろうとするというのはどういうことだろう。
「田安の爺さんが言っていた。あの子は優しい人間だ、父親のようにはなれない、だがそうは思わない人間もいる、とね」
 不意に、真は田安自身が自分に言った言葉を思い出した。

 お前は優しい人間だ、そんなふうに殺気を漂わせていてはいけない。自分が許せないからか? 哀しいことは泣いてしまうのがいいのだよ。

 あれは、小松崎りぃさが自殺した後だった。竹流が同居しようと言ってくれて、気持ちは立ち直っているつもりだったが、ただひとつどうしても心の中に染み付いているものがあった。
 他人の死を願った自分だった。
 りぃさを愛したと思った。だが、同時に彼女がこの世から消えてくれることを願っていた。りぃさがこの世に適応できず可哀想だからではなかった。彼女が生きていれば、いつか真自身の中の何かが彼女に呼応してそのまま自分も死んでしまうのだろうと思っていた。それは離れがたいものから離される恐怖だった。
 自分の中に、他人の死を願う気持ちが、否定しても否定しても湧き上がってくる異様な感覚。その相手を愛しているはずなのに、想いが深くなればなるほど、わけの分からない恐怖が突き上げてきた。それは昔、育児ノイローゼで真の首を絞めた義理の母親への恐怖から、彼女の死を願っていたのと同じだった。

 その事は竹流には話せなかった。何故りぃさの死を願ったのか、その理由の根底を彼に話せるわけがなかった。自分の心の内に最も深く食い込んでいる杭を抜く方法がなく、最も信頼する人間にその話ができない。
 それを話すことは、真の心の中にある叶うはずのない、叶ったとしてもどこへ行きつくこともない唯一の願望を晒すことになった。

「深雪も、同じだ」
 真が酔いに任せて意識をどこかへ飛ばしてしまったところに、不意に澤田が言った一言は真を混乱させた。それは不思議な感じだった。澤田は深雪を愛しているのではないかと、そう思えたのだ。
 だが、澤田は一瞬でそれをどこかへ閉じ込めたように見えた。
 そして、真はそれに触れるのが怖くなった。
 人の心が抱いている、他人には理解不能な堪え難い重い感情がそこにあったように思った。それは恋愛ではないかもしれない。だが心に抱えているには重いものだった。

 真は澤田が差し出した酒を黙って受けた。澤田の手は震えることもなく、ただ猪口の小さな面に輪が揺らぐように重なる。
 その同心円は真の感情を、同じように静かなままで、湧き出る中心へ落とし込んでいくようだった。そして、その中心に見えていたのは、それだけが自分の存在の全てを支えている、その何かだった。
 二十歳になる前に崖から落ちた、あの時、一度はこの世からこぼれてしまった真の命をここへ引き戻したあの声と、目覚めたときに真を見つめていた哀しい深い青灰色の瞳。それだけが、今、真を生かしている。
 その自分自身の核が、急に澤田の中の何かに反応したように思った。
「無理に飲まなくても構わないよ」
 言いながら酒を奨める澤田の声は穏やかで深かった。真はむしろ、気分良くその何かに酔っている自分を感じた。
「それに、答えも、急いでいるわけではない。考えておいて欲しいのだ。そしてもし、他の誰かが君に同じようなことを言っても、それを受けないでいて欲しい。いや、君がそれを受けることは、君自身を危険にさらし、不幸へ導く可能性があるということを覚えていて欲しい」

 真は頭で少なくとも三度は澤田の言葉を反芻した。澤田は少しばかり難しい顔をして、それからひとつ息をついた。真はその澤田の様子を見つめていたが、澤田が真に対して抱いているのが、深雪を寝取った男に嫌がらせをしたいというような敵意ではないことだけは確かだと思えてきた。
 それから、黙って酒をゆっくりと飲んだ。
 真は意外にも自分は飲めるのかもしれないと過信し始めた。澤田がいかにもくつろいだ気配で昔話を繋いだ。

「お父上は、理学部の寺村教室という優秀な研究者集団の一人でね、文系の私でも名前を知っているくらいだったよ。とは言え、彼がそこで有名だったのは、上の人間だろうが偉い先生だろうが、お構いなしにその学説の是非について論争を挑むような暴れ駒だったからだ。勿論彼自身も学生でありながら研究室に出入り自由の身になっていたくらいだから、将来を嘱望されていたのだろう。彼が論争に参加すると、激昂してくると北海道弁が止まらなくてね、剣道部の同輩がよく話していたものだ。北の国でも、東北と違って北海道は標準語に近いと言うが、あれは嘘だな、とそいつがよく言っていたよ。まあ、その彼が色恋で大学を去るとは、誰も思っていなかったがね」
 真は自分の知らない父親の昔をぼんやりと聞いていた。家族の誰もが、真に話してくれない人のことだった。それを赤の他人が話している不思議に、少し胸を打たれている。
 真自身は父親の性質も、少なくとも昔の人柄は何も知らない。だが、今真が垣間見ているイメージとは違う父がそこにいたようだった。もしも今澤田が話していることが本当なら、父のその性質は祖父とよく似ている。だが、真とは随分と違っているようだった。
 東京で、北海道のイントネーションや方言の特異な語尾を他人の前で晒すことを怖がってしまった真とは、まるで違っている強さを持っていた人なのだろう。

「その同輩が、父上が大学を辞める前に、教室に来なくなったのを心配して様子を見に行ったことがあった。父上はずっと兄貴と一緒に下宿していたアパートを出てしまっていてね、その時はもう、君のお母さんと一緒に住んでいたそうだよ。優秀な科学者になるものだとばかり思っていたから本当に驚いたと、そいつが話していた。彼女と生活するために父上は働いていたようでね、大学どころではなくなっていたのだろう。子供が産まれる、と言って幸せそうだった、ともね」
 真は思わず杯を口に運んだ。
「君はお父上や母上をよく知らないと言う。だが、少なくともそいつの話では、二人とも君が生まれてくるのを本当に待ち望んでいるように見えた、とね」

 何かが心の中で光って砕けたような音がした。
「でも、僕には記憶はありません。自分を意識できる頃には北海道に住んでいたし、既に父も母もいませんでしたから。待ち望むだけでは子供に対して責任を取ることにはならないでしょう」
 澤田は真の反論に、暫く言葉なく真の顔を見つめていた。そして、大人らしい分別のある表情をした。
「それは君、彼らは若かったのだ。今の君よりも若い。生きることに、あるいは愛することに懸命だったのだろう。君は今それだけ少年事件に関わっていて、それでも君自身がご両親を許していないのかね」
「子供には選択の余地がないことです。でも、別に許していないとか、そういうのではありません。さっきも言いましたが、彼らに何らかの感情を持てるほど、彼らのことを知らない。知らないものに何かの感情を持つことは難しいことです」
 澤田は頷いた。
「もっともなことだ。だが、感情を持たないことは、あるいは知らないということが、恐ろしいことに繋がることもある」

 一瞬、澤田の目が何か特殊なものに向けて強い怒りを表したようにも見えた。しかし、真は目に映ったものと思考の内側に結んだ像とのギャップで、そろそろ一杯になっていた。
 やはり酔っているらしい。
 澤田は、突然随分と優しい表情をした……ように見えた。
「だが、父も母も知らないと言って拗ねている君が、こうしてまともに生きてまともに社会と折り合っているのは、恐らく君を導いてくれた人がいるからだろう。良い教師に巡り合うことは、偶然や運もあるのだろうが、本当に人生で必要なことだからね」
「残念ながら学校では出会えませんでしたが。僕は登校拒否児で、特に小学校と中学の前半はほとんど学校に行っていませんでしたし。でも、別に拗ねているわけではありません」
「そうとも、それはどこで出会えるか誰にもわからない。学校とは限らない。君は中退したとは言え、それなりに立派な大学に行っていたのだから、誰かが君を教育してくれたのだろう」

 真はこの男に手の内を見られていることに、どこかで抵抗できなくなっているのを感じていた。それが、自分が誰かに父親の影を捜しているからだとしたら、情けないような笑えるような話だ。
「それは今の同居人です。半端じゃないくらいスパルタでしたから」
 真は注意深く澤田の顔を見ていた。偶然のように転がり込んできた竹流の話題に、この男がどういう反応をするか確認したかった。
 大丈夫だ、自分は酔っているわけではないと思った。
「君に同居人がいることは知っているが、それは最近のことではなかったのかね」
 澤田は言葉を選ぼうとしたのか、幾らか逡巡したように見えた。少なくとも、澤田は『大和竹流』という男を知っている、そんな気がした。
「彼は僕の父の、いえ、つまり伯父の手伝いをしていました。僕が東京に出てきた小学生の時からの知り合いです。もっとも、彼と住むようになったのは二年半前のことですが」
「それは随分長い付き合いなのだね」
「彼はとにかく中途半端が嫌いで、徹底的でした。学校の勉強とは内容も質も違っていましたが、少なくとも学校に行けなかった分を埋め合わせて余りあるくらい勉強させられましたから。あなたの言うとおり、よい教師には巡り合っていたのかもしれません」

 だが、真が淡々と話す間に、澤田のほうも表情を押さえ込んだように見えた。一度、真からお猪口のほうへ視線を落とし、再び顔を上げたときには、ただ穏やかに見えた。
 竹流を知っているのか知らないのか、真は澤田の表情から何かを読み取ろうとしたが、特別に真の同居人に興味を抱いている気配がない。あるいはそういう振りを装っているのか、少なくとも真には判断ができなかった。
 澤田は竹流をあんな目に遭わせた誰かとは関わりがないのだろうか。週刊誌の記者という楢崎志穂の思わせ振りな言い方に踊らされているだけなのか。
 澤田がその後、場所を変えて飲まないかと言ってきたが、真はこれ以上飲む自信がなかった。それを言うと、澤田はそれもそうだと笑って真の腕を取って足元が不安定なのを支えてくれさえした。
 テレビの中で見る澤田顕一郎からは想像もできない一人の男がそこにいた。
 いつの間にかあの嵜山という澤田の秘書が傍に戻ってきて、澤田に言われて真を送ってくれた。説明もしないのに、車は竹流のマンションに横付けされた。
 真は多少危ない足元で車を降りてからそのことに気が付いた。
 なぜ、ここを知っているのか、なぜこのマンションの電話を知っていたのか、そう思ったときには、車はもう走り去っていた。






さて、第4章が始まりました。
少し長めになってすみません。適当なところで切るところがなかったのです。
いよいよ、第1節の『転』にあたる部分が出てきます。
そのまえに…次回18禁です。
実は、真面目にエッチなシーンを書いてみた、初試みです。
で、これ書いて、自分にそういうシーンを書く才能がないことが分かりました。
これって、やっぱり才能がいるんだわ、と。
明日、またお目にかかりましょう(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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イタリア(2) 後篇:水浸しのヴェネツィア 

アクアアルタ
海と陸地の境目がちょっと分からない、微妙な景色……

ホテルを出た時は、そんな大したことはないんじゃないの、と思ったのですが、サン・マルコ広場に近づくほどに、だんだん水っ気が多くなり…ある橋を渡ったら、橋の向こうは水没していました。
そして、後はもう、取りあえず水浸し。
晩秋から冬にかけて、高潮(Acqua Alta…イタリア語で高い水)の時に見られる景色です。
アクアアルタ
靴カバー
靴カバーはこんなふうに使います(^^)
この膝ギリギリくらいまで水が迫ってくるような場所もあります。
そしてもちろん、サン・マルコ広場が最もひどく水に浸かっています。
これは、わざとそうなるように広場が作られているからなのですね。サイフォン式に広場に水を引き込んで、他には水がいかないようにしてあるとのこと。
って、路地もどこもかしこも水だらけなんですけど。
お店の中もホテルの1階も、ドアを開けて木の板をはめ込んで少しばかり水をせき止めているのですが…いやいや、相手は水ですよ?
サンマルコ
そう、前日の板は、こうやって人が歩くための通路だったのですね。
ご覧ください、この水没したサンマルコ広場。数々の映画や小説、漫画でも、世界で最も美しいと称えられた、通常であればハトさんたちも飛び交い憩う広場。
でも、少しでも町が沈まないようにと広場に工夫がなされていることを思えば、そういう人為も加わっての美しさなのかもしれませんね。
ちなみに、どの程度水没するかは年によって違うみたいです。
この年は、結構沈んだみたいで、後から新聞に載っていました。
広場には、こんなに沈んだ年もあったよ的な、過去の写真が飾ってあったり。
ぴーちゃん
お巡りさんも出動中。でも、このおまわりさんたちはだべってばかりで、あんまり何もしていない感じだったのです。一方で、女性のお巡りさんは、てきぱきと誘導を……うーむ。
寺院
サン・マルコ寺院に入るのも一苦労です。
何かキャンペーンらしく、ピサの斜塔の絵が…
サンマルコ
サン・マルコ寺院の塔から見下ろしたらこんな感じ。

というわけで、写真を発見したので載せてみました。
いやはや、臭いをお届けできないのは、やっぱり残念(こだわりすぎ^^;)。

最後に、ちょっと素敵な写真を。
そう、水浸しだろうが、臭かろうが、アモーレの国ですから。
恋人たち

Category: 旅(あの日、あの街で)

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イタリア(1) 前篇:麗しのヴェネツィア 

アクア・アルタ
まずは美しい水の都をご覧ください(^^)
今日は、麗しいヴェネツィアの景色を前後編でお届けいたします。
写真が多くてごめんなさい。でも、今回は写真が命?です。

日付が入っていますね。びっくりしました。もう8年以上前だとは……
もちろん、デジタルではなくアナログの写真ですが、これは効果を狙ったのではなく、自然にこんな青になってしまったのです。この日のこの時間に撮った写真だけがこの色なんです…
今では、色などデジタルで変えることができますが、それでも偶然や自然の一瞬の奇跡ってのがあるんでしょうね。(ね、limeさん…(^^))
ごんどえーり
そして、これは客を待っているゴンドリエーレ(ゴンドラの船頭さん)たち。
ところで、ゴンドラですが、少し傾いているんですね。
ゴンドラ
これではちょっと分かりませんが、実は乗るとなると、結構この傾きが怖い。
だって…この運河、正直あまり美しくありません(ね、しのぶさん…^^;)。
そして、前回お伝えした通り、かなりな臭いなのです。
絶対に落ちたくない!と思うと、ちょっとした傾きに恐怖を感じるのでした。
もちろん、理由があります。ゴンドリエーレさんが左に乗ってバランスがとれるように左舷の方が右舷よりも25cmほど長いのだとか。

私たちが着いたのは午後。
サン・マルコ広場にはなぜかこんな風に膝よりも高い、正直ちょっと邪魔な、橋みたいな通路が??
サンマルコ
私たちを呼び止めたのは、露店のお兄ちゃん。
『今日は泊まるのか?』
『うん』
『じゃ、明日のために絶対買っとけ。損はさせねぇ』
靴カバー
何だか分からないままに購入しました。
ベニス
上はヴァポレットの乗り場。この町は運河だらけなので、もちろん電車やバスは通っておらず、電車の駅は町の外。町までの交通はこの水上バスのような乗り物です。
向かいの島をご覧ください。地面はほぼ水面の下ですよね。海抜はマイナスに見えます。
そして夜。ホテルの窓を開けると、この美しい風景とともに、潮風が部屋に吹き込んできます。
ベニス
そう、臭いをお届けできないのが残念です。

翌朝の景色は後篇の記事で……

Category: 旅(あの日、あの街で)

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【死者の恋】(5)山背 

【死者の恋】(5)をお届けいたします。
調査事務所所長の真の依頼人は高校生の島田詩津。探して欲しいというのは、詩津の手元に骨の入った小瓶を残していった足の悪いおばあさん。その人とは岩木山の登山道で会ったというのだ。詩津と一緒に弘前へ向かう予定だったが、詩津は待ち合わせの上野駅には現なかった。
たまたま津軽に用事があるという同居人で修復師の大和竹流と弘前までやって来た真であったが、岩木山を見れば、とても足の悪い老人に登れるような山ではない。しかも、詩津がその人に会ったという日には、まだ岩木山スカイラインは閉鎖されていたという。詩津は真に嘘ばかり話していたようなのだ。
そして約束をすっぽかした島田詩津は、憧れのロック歌手・向井嶺が出演しているライブハウスがあるビルの屋上で寝転がっていた。真には借りがあると思っている嶺は、ふてくされる詩津を連れて弘前へ行くことを決めた。
詩津は、病気の兄・祐一のことで悩み、家族とも上手くやっていけないでいた。周りの誰も信じられない詩津は、一人ぼっちでこの世界と戦っていると思っていた。そして、嶺だけが気持ちの支えだったのだが……




 あれからタクシー会社とバス会社をあたってみたが、ここしばらくは足の悪い老いた女性を乗せたことはない、少なくとも記憶にはないという答えが返ってきた。
 大体、本当はいつのことだったのか、それさえも分からないのだから、聞かれた方も困惑していたようだし、答えようがないのかもしれない。
 竹流は根気よく真に付き合ってくれている。一体、何を考えているのか、タクシー会社で『担当の者』を窓口で待っている時に、ちらりとガラスの向こうの駐車場に停めた軽トラックを振り返りながら思いを巡らせる。
 竹流は軽トラックから降りて、ドアに凭れたまま、岩木山の見える方向の空を見上げている。
 視線をタクシー会社の事務所内に戻して、従業員が内ポケットから煙草を取り出すのを見て、自分の内ポケットの中のものを思い出した。それで、なるほどと思い至った。

 骨か。
 あれを見てから竹流は真に付き合うことに決めたのではないかと思う。例のごとく、彼の過剰な保護者意識を刺激してしまったに違いない。
 だが、真の方はこれを初めて見た時、いつものように『何かを感じた』わけではなかった。
 この骨は静かだった。静かで、こうして内ポケットに入れていても、なんの気配も感じない。何も語りかけてこない。
 少なくともこれで数日はこの骨と一緒に過ごしているのだ。いつもなら、何者かが夢枕に立ってもおかしくないのだが、その気配もない。だから、真は実は始めこれがレプリカではないかと思った。あるいは『気』の少ない動物のものかもしれないとも思った。だが、訪ねた先の骨学者は、間違いなく人間の骨だと言ったのだ。真をかついでいるとも思えなかった。

 もちろん、真の方も商売に使えるほどの特別な力があるというわけでもない。何かの拍子にたまに感じるというだけで、そもそも歳を経るごとに少しずつ自分の中の過敏な神経が大人しくなっていっているのかもしれないと思う。あるいは、あの男が傍にいる、つまり同居するようになって、そういう過敏な神経が鎮められているのかもしれない。そうであったら有難い気もするし、一方では残念な気もするが、いつまでも幽霊やら妖やらとお付き合いしているわけにもいかない。
 とは言え、少しくらい何かを感じそうなものなのだ。
 ある意味では、静かすぎて逆に気になる。
 タクシー会社の扉を開けて出ていくと、竹流が真を振り返った。
「とりあえず、山背に行くか。もしかすると、あっちが正解かも知れないぞ」


 竹流の言葉は、まさに正解だった。
『山背』は早い時間だったにも関わらず、満席に近かった。カウンターに六人、テーブル席六つの店だ。土間になった部分で三味線の生演奏を聞かせ、時には客も演奏や唄を手伝う。というよりも、大方は強引に哲さんに舞台に引き上げられる。この店のオーナーはすでに他界しているが、一番弟子だった哲さんが店の仕切りを受け継いでいる。哲さんの語りが軽妙で、金の相談は別にして(いや、本当に困ったら何とかしてくれるのかもしれない)、人生相談、恋愛相談始め、よろず相談処ともなっている。ちなみにこの店から生まれたカップルは既に両手両足の指の数を越えているという。
 そう、飲み屋は情報や人の流れの集積地かつ発信基地のようなものだ。しかも、田舎の町では、誰かの知り合いは誰かの知り合いで、伝手を辿って行けばかなり多くの人間の情報に行き当たる。しかも、哲さんはこの町の飲食店組合の世話役であり、家は岩木山のふもとのリンゴ農園であるから農業関係者の大方とは知り合いで、なおかつ多くの農家は兼業で、一家の誰かが役所勤めやタクシー・バスの運転手なんてのがざらにいるのだ。

「何だべ、そんなこた、なして先にオレに聞かねぇべ」
 この一言で、あちこちに情報が発信された。
 真がするべきことは、待つことだけだった。
 待っている間は哲さんの三味線を楽しむ時間になった。

 哲さんの三味線は泥臭い。そして津軽の匂いがする。特によされ節は最高だった。
 三枚撥の微妙な間合いは、やはり津軽に生まれ、津軽に住んで、津軽で採れたものを食べている人間にしか出せない『間』だ。北海道に育ち、しかも北海道でも沿岸部の町の空気を吸ってきた真も、言語的には東北弁に近いリズムで話すことができる。東京に長く住んで、すっかり東京言葉に慣れたとは言え、幼いころに身体にしみ込んだリズムは、少し気を許すと腹の中から湧き出してしまうのだ。それでも、それは津軽のリズムではない。三味線を叩いている時だけは、津軽人になりたいと思うことがある。
 尤も、真の場合は、民謡歌手でもある祖母の奏重の伴奏をすることが主なので、三味線弾きたちの切実な思いを半分も理解していないかもしれない。

 店の若者がじょんから節やリンゴ節をやった後で、哲さんのよされ節を聴きながら地元の酒、田酒を飲む。それは、酒があまり飲めない真にとってもリラックスした極上の時間になっていた。

 その時、微かに、本当に微かに、内ポケットで小さな音が鳴った気がした。
 ふと気になってポケットを押さえてみたが、その時にはもう『骨』は静まり返っていた。気のせいだったのかと、もう一杯田酒を口に含む。
 竹流はすっかりここの従業員とは知り合いだったらしく、注文しないままに郷土料理が次々と運ばれてきて、その度に彼らと個人的な会話を交わしている。

 地元の普通の主婦のようなオバサンが哲さんに呼ばれて、椅子から立ち上がった。客の一人だが、当然哲さんの知り合いだろう。哲さんの傍に立ち、太鼓を叩くべき人がみな台所と給仕で忙しいのを見て取ると、自分で太鼓の撥を取った。二言三言打ち合わせたかと思うと、哲さんが三味線を持ったまま立ち上がる。
「小原だべ。真、おめ、三味線弾け」
 いや、それは……と言いかけたのを、哲さんが目だけで却下する。哲さんの得意技のひとつが無茶振りなのだが、何故か誰も拒否できないのが不思議だった。
 近くに座っていた客が、なんだと哲さんに問いかける。
「こないだ唄っこ聴いたべ。奏重ちゃんの孫さ」
 哲さんの答えに、客は、あぁあぁ北海道の、帯広だっけ、と確認する。
「浦河だ」
「んじゃ、これが例の色っぺぇ小原を弾く孫息子だべか」

 どこでどんな話になっているのか恐ろしいが、考えてみれば、哲さんの有難い協力のおかげで、少なくとも『足の悪いおばあさん』の存在が確認できるかもしれないのだ。ここで哲さんの投げたパスを断るわけにはいかない。
 竹流にもさっさと行って来いと目と顎だけで命じられて、結局真は立ち上がった。哲さんから指摺りを借りて左の親指と人差し指にひっかけ、三味線と撥を受け取る。哲さんは代わりに太鼓にまわる。唄い手のオバサンに節と本数を確認し、本調子、三本に軽く糸を合わせた。
 そして、ひとつだけ息をつき、軽く掛け声を発して糸合わせを始めた時だった。

 舞台からは丁度正面にある店の扉が開いた。一瞬、外の強い風と車の音が巻くように店の中に吹き込んで来る。
 真は糸合わせを続けながら、入ってきた嶺と視線を交わす格好になった。
 ひょろりと背が高く、目は時々クスリのせいか、それ以前に目つきが悪いだけなのか、かなりいかれている。この間まで肩まで伸ばしていた髪を、多分衝動的に切ったのだろう。寝癖なのか、ポマードで固めたものなのか、つんつんに突っ立っている。そして、鎖がやたらとついた皮ジャンに洗い晒しのジーンズ。この店にそぐわないことだけは確かだ。
 嶺は真を見て、お、という顔になり、それからいつものように投げやりで蓮っ葉な態度で肩をいからせ、けっと吐き捨てるような顔を作った。
 嶺がこういう顔を作る意味は、真には何となく分かっている。
 だが、いきなり嶺が扉の向こうの外へ腕を伸ばしたとき、真は危うく立ち上がりそうになった。

 島田詩津。
 上野駅で待ち合わせたはずだったが、約束をすっぽかした女子高生が、嶺に腕を引っ張られ、『山背』に入ってきた。真と目が合うと、びくっと体を震わせ、いったん目を逸らす。
 嶺は詩津を店に引き入れた後、店の従業員のいらっしゃいませに何か言葉をかけた。真の視線の先を追いかけた竹流と嶺の目が合ったらしく、嶺が軽く頭を下げた。下げた、というよりも頷いたという方が適切だ。
 従業員は連れだと理解したようだった。

 嶺に背中を押されるように、詩津はまっすぐ真の近くのテーブルまで歩いてきた。紺のスカートに淡いピンクのモヘアのセーター、スカートと同じ生地らしい紺の上着、軽くパーマをかけているらしい髪は、店の人工的な照明の下でも明るく見える。唇をきっと固く結び、目は真から外さないまま、人形のように促されるまま椅子に座った。
 睨まれる筋合いはないと思ったが、嶺と軽く挨拶を交わした竹流が詩津をちらりと見て、それから真に向かって、とりあえず弾けというような顔をしたので、ようやくほっと息をついた。

 津軽小原節。祖母の奏重が得意としている、津軽五大民謡のひとつだ。金沢の芸妓の娘として生まれた奏重が養女に出された先が、民謡の師匠の家で、どうやらこの唄には祖父との波乱に満ちた恋物語が絡んでいるらしく、唄う祖母は年齢を全く感じさせない色気を醸し出す。おばあちゃんと孫の競演を他人に見せるのが嬉しくて仕方がない奏重のために、真は祖父の代わりによく伴奏を務めた。
 真が弾き始めた途端に、ざわついていた店の中が静まり返っていた。この異邦人に津軽の心がわかるまいという思いと、やれるものならやってみなという好奇心と、そして多分祖母の名前にまつわる期待のためだ。だが、曲が滑り出したとたん、そんな外部のことはどうでもよくなった。

 一体いつ、この唄の中にある、女の色気と心意気を心で感じられるようになったのか、自分でも覚えていない。前奏部分を自分のアレンジで弾きながら、ふとこちらを見た竹流と目が合い、やがて真は目を閉じた。三の糸から一の糸まで指を滑らすとき、ふと自分でも何かとんでもない気を放出しているように思うときがある。下世話な言い方をすれば、感じるのだ。そして、どうやらそれが聴いている人に伝わっているのではないかと思う。奏重の声と真の三味線は、絡み合って増幅する。

 もう心は落ち着いているはずだったのに、どうやら唄には感情を煽りたてる力がある。
 考えてもどうにもならないと分かっていることだ。
 一の糸を叩くとき、想いを断ち切ることができると思う。二の糸には人の心の隠された色が潜んでいるように思う。そして、三の糸を奏でる時、どうしてもこの心の中にある何かが、零れ出すような気がしてしまう。
 目を開け、唄い手を見ると、平凡な田舎のオバサンとしか見えなかった女性の目の中に、強い光が見えた。オバサンは真の合図ににこりと笑う。
 自らの掛け声で迷いを断つと、哲さんの太鼓が追いかけてくる。

 さぁあ~あ~あ~、あ、あ、さぁあ……
 唄の始まりからはいっそう、真の気持ちも撥捌きも冴えた。それはオバサンの声が見事だったからだ。奏重とはまた違う魅力で、重みのある、腹の底から響くような声だった。

 その時。
 再び、真の内ポケットで、小さく震えが起こっていた。身体ごと、震えるような振動になる。何が起こっているのか、しばらくの間理解できなかった。
 真はオバサンを見、そしてさらに詩津を見た。
 詩津が何かに惹きつけられたように真を見ていた。
 オバサンの声と、詩津の目と、真が撥を打ち付ける三味線の皮と、そしてポケットの中の骨は、今、完全に共鳴し合っていた。




ちょっと三味線シーンを書いてみたくなって、予定外に長くなりました^^;
動物愛護協会の方に怒られそうですが、津軽は猫ではなく犬です。
だからあの野太い音が出ます。
そして弾く、というより、叩きます。打楽器のようなものです。
よくカラオケの絵面に出てきますが、海辺で吹雪の中、弾くことなどできません。
皮が湿気て破れてしまいます。
五大民謡というのがあって(じょんから、よされ、あいや、小原、三下がり)、それぞれ調子(三本の糸の合わせ方)や撥づけが違います(西洋音楽的には拍子?三拍子とか四拍子とか…かな?)。
でも和楽器には、言葉では表せない『間』と言うのがあって、これは津軽弁のように弾く、というといいのでしょうか。
うん、なかなか説明しづらいですね……
お暇でしたら、You Tubeなどで聴いてみてください。


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Category: ★死者の恋(間もなく再開)

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NEWS 2013/4/21 満開の躑躅/鬼平の言葉 

つつじ
ほぼ9年前のうちの躑躅です。
躑躅は年々小さくなる、とは言われておりますが、おそらくこれがこの躑躅のピークのころだったのかもしれません。
時は過ぎていく…しみじみそう思います。
躑躅2
これは2階から見たところ。


さて、今日は何かの拍子にふと思い出した鬼平の言葉をかみしめながら、仕事に行きたいと思います。

盗賊改めの密偵、おまさがある男を見かける。
男は大工であり、実は自分が手掛けた大店の見取り図を盗賊に売っている。
近頃は鳴りを潜めていたが、実は死の病・結核を患っていた。
そして同じように胸の病を抱える女と出会い、二人で静かに余生を送りたいと願う。
そのために必要な資金を、今手元にある大店の見取り図を売って得ようとするのだが。

女は、男からそのことを打ち明けられ、男にいう。
そんなことをして得たお金で幸せになんかなれない。
だが、男は自分が先に死んだあと、女に金がなくては辛い思いをさせてしまうと思い、決心して見取り図を売りに行く。

仲買人は、信頼のおける盗人(というのも変ですが、つまり、犯さず殺さず、貧しきからは奪わずの3原則を守る盗人)に渡りをつけてくれようとするのだが…
売りに行った先の盗賊は、代が変わっており、急ぎ働きをするあくどい男に変わっていた。
仲買人は殺され、その盗賊のかしらは直接男を呼び出し、殺して見取り図を奪おうとしている。

女は神社で、男が悪いことをしないようにと祈り続けている。

おまさはある程度の動きを掴みながら、鬼平に報告する。
本当は報告するかどうか躊躇っていたのだが、仲間にいわれて報告に行った。
そして、男も女も胸を患っていること、先はそれほど長くないのではないかと思うと、お縄にするのが辛い、もしかして見逃してやれたらとも思う、と心の内を打ち明ける。また、女がどうやら真心をもって男と接していることも伝える。
おまさがそれほどに迷っている姿を見た鬼平の言葉(正確ではないかもしれませんが)。

さて、許すか許さないか、それを決めなくてはならない。
一旦許すと決めたら、ここまで、というのはない。

男だねぇ。許すと決めたら全部許す。そう言ってるわけです。

そしてどうなったか。
鬼平の妻、久栄は、すべては女にかかっていると言っていたのですが、まさにその通り、女はついに盗賊改めにやって来た。
愛しい男を売るのはつらい。でもその男が悪いことをするのは見ていられない。
しかし男はあくどい盗賊に呼び出され、すでに殺されかかっている。
そこへ内偵を進めていた盗賊改めが乗り込んで、あくどい盗賊一味はお縄になる。

男にはもちろん、これまでの罪状があるのだが(多分、極刑に相当する並みの)、鬼平は見取り図を焼き、自分の懐から金を出して男に渡し、籠をふたつ頼んで、男と女に好きなところへ行けというのです。

籠に乗る男の表情は少し微妙な感じで、これがまた鬼平犯科帳っぽい。
女は男を売ったわけで、それをどう感じたのか。
女の真心を受け入れたのかどうか、さて、少し気になるラストではあるけれど、女を思って再び悪事に手を染めようとした男の真心もまた、嘘ではなかったわけで。

それはともかく、時々こうして、空海の言葉並みに鬼平の言葉を思い出す私って……
ま、今日はこれを心に留めて、少々のことあっても、許すと決めたら許す?と思って仕事しようっと。

Category: あれこれ

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[雨29] 第3章 同居人の恋人たち(7)/第4章予告 

これにて第3章が終了しますので、掲載させていただくことにしました。
何か事情があるらしい、同居人・大和竹流の大怪我。本人は何も語りたがらない。
そして、捜査一課の女刑事が特別な任務だと言って竹流を見張っている。
さらに、真のもとへは、愛人(というよりセフレ?)の深雪のパトロンとも言われている代議士・澤田顕一郎から『一緒にご飯でも…』という連絡が…。そしてもう一人、竹流の怪我に関わっていると思われる男から、竹流は無事かと尋ねる電話がかかってくる。その上、事務所の秘書・美和が竹流のところに面会に来ていた男をつけていくと、『危ないから下手に関わるな』と警告される。
何がどうなっているのか…



「香野深雪が、何の関係が?」
「例えば、澤田が香野深雪にあなたを見張らせていた、とかね」
「どちらにしても捜査一課のあなたの仕事とは思えません」
「今は、ちょっと立場が違うのよ」
「どういう事ですか」
 添島刑事は立ち上がった。
「もしも澤田が接触してきたら連絡してちょうだい」
「澤田代議士の目的が知りたいんですか」
「そうよ」
「ひとつ教えてください。大和竹流をあんな目に遭わせたのは彼ですか」
 一瞬、添島刑事は刑事ではない目をしたように思った。
「澤田はそういうせこい事をする人間じゃないと思うけど。あなたは、ああいう残忍なことをするのが、どういう種類の人間か知ってる?」
「どういう意味ですか」
「ああいうことをするのは、プロじゃない。大人しくて優しい一般人の仮面を被った悪魔だわ。誰かの心の中に潜んでいる」

 真がどうとも返事できないでいるうちに、添島刑事はドアの近くまで歩いていた。そしてドアのノブに手を掛けてから、明らかに一瞬躊躇して、それから真のほうをふと振り返った。
「それから、あなたの相棒、私が見舞いに行っても少しも嬉しそうな顔をしないのよ。涼子さんの前だからかもしれないけど、もうちょっと大事にしてくれてもいいんじゃないのって、伝えといて。私だって傷つくことくらいあるんだからって」
 添島刑事がドアを開けて出て行く後姿を見送りながら、少なくとも三回は彼女の言葉が頭の中を廻ってから、やっと真はその意味を飲み込んだ。あの助平野郎、と思って添島刑事を追いかけようとドアを出ると、すぐ脇の壁に凭れるように美和が立っていた。

 美和は寝不足に他の理由も加わって、赤い目で真を恨めしそうに見た。
「先生って、いっぱい隠し事してるんですね」
「してない。誤解だ。今の話はどこか一方の局面からの話で、事実じゃない。つまり、誰かが勘違いで信じているハードボイルド小説の筋書きだ」
 美和がどこからどこまで聞いていたのかは分からないが、とにかく否定しておいた。
「もういいです」
 するりと真の横をすり抜けるように、美和は事務所の中に戻った。何か話しかけたかったが、今はそれどころではなかった。美和のことは後にして、階段を駆け降りると、添島刑事は事務所のビルの前に待たせていた車に乗りかけたところだった。

 スマートで、鼻持ちならないキャリアウーマンだと思っていた女が、ついさっきの告白からは全く別の女に思えた。車に乗ろうとする足元ひとつ見ても、むしろ優雅で色香さえ感じる。
 添島刑事はすぐに真に気が付いて、一瞬、いつもの強気な表情を緩ませた。真は何のために追いかけたのかよくわからなくなって、とりあえず何か言葉を探した。
「もし澤田から接触があれば、どこへ連絡すればいいんですか」
 結局、真が思いついた質問は多少本筋とはずれたことだった。
「特別な番号、あなたは知ってるでしょ」添島刑事はふと息をついた。「ついでに言っとくわ。今となってはアサクラタケシという名前は伝家の宝刀でも何でもない、あなたがそんな名前に傷つくことは馬鹿げてるわよ」
 それだけ言うと、添島刑事は車に乗ってしまった。真に事実を伝えてしまったことに、彼女なりに羞恥の感情があったのかもしれなかった。

 事務所に戻ると、美和はもくもくと資料の整理をしていた。顔を上げて真を見ることもしない。真が仕方なく自分の机に戻りかけた時、宝田が本当に心配そうに、しかしどうしても大きな声を隠せず、真に話しかけてきた。
「先生、美和さんは先生の事、好きなんすかね。あんな美和さん、初めて見たっす。恋をすると……」
「さぶちゃん!」美和がぴしゃりと怒鳴った。「そういう話は私の聞こえないところでして!」
 真は、そもそも何で美和は機嫌を損ねてしまったのだろうかと考えながら、時々ちらちら彼女の方を見つつ、報告書の仕上げにかかった。

 問題の七時は近づいていた。美和に今日は早く帰るようにと言いたかったが、どうも人を寄せ付けない気配で美和が仕事をしているので、話しかけられなかった。宝田も、真と美和を置いて帰るのは心配だというように、用事もないのに事務所の中をうろうろする。
 困った真が、ついに意を決して話しかけようとした瞬間、ドアが開いた。
「何だ、暇そうじゃん」
 入ってきたのは高遠賢二だった。何でもいいから救われたような気分だった。

 このところ夕食時には現れる賢二は、少年院上がりだが、笑うとかなり童顔なので可愛らしい印象を与える。背は真よりも高いのでちょっとばかり威圧感はあるが、童顔と差し引きすると、全体では普通の若者だった。
 少年院に入っていたのは、実の父親を刺したからだった。
 その父親とは今も疎遠で、賢二はもう長い間家には帰っていない。少年院を仮出所したときも、身柄は名瀬弁護士に預けられた。父親は某有名企業の取締役で、名瀬は賢二の母方の祖父が経営する会社の顧問弁護士だった縁で、賢二の事件に関わった。
 賢二が子供の頃から父親の暴力の対象になっていたことは、ある程度明らかだった。父親はそれを躾だと言った。家族の中でのことでもあり、父親を追及することはできなかった。母親は賢二を心配していたが、父親が罪に問われたり、家庭内のことが世間に知られたりするのは困ると思っていたようだった。
 名瀬ができる限り穏便に済ませようとしたにも関わらず、父親はきちんと罪の償いをさせるべきだと言い、賢二自身も殺意を認めた。

 真が関わったのは、賢二が仮出所したときで、事もあろうに賢二は家に帰りたくなくて逃走した。そのことで刑期が延びるのは構わないようだった。名瀬に頼まれて賢二を捜し出したのは真だった。
 賢二に同情したばかりではなかったが、賢二の気持ちはよく分かった。真が名瀬につかみかかったのは、穏便に事を運ぼうとしていた名瀬のやり方が気に食わなかったからではなかった。
 賢二が家に帰りたくないなら、何故その手段を考えてやらないのかと思ったからだった。名瀬が穏便に済まそうと考えたのは、賢二の罪状を積み上げたくなかったからだというのはよく分かっていた。
 その時、普段感情を表に出すことのない真が、確かに理路整然とした内容ではなかったが、激しい口調で名瀬に畳み掛けているのを、賢二は近くで聞いていたらしい。賢二がニコリとも笑わずに、それでも出所したら真のところに行きたいと言ったのは、自分のために何かを語ってくれる大人が他にいなかったからなのだろう。その賢二の気持ちを考えると、真は突っぱねることもできなかった。

 名瀬に呼ばれて、賢二が真のところで預かってもらうことを希望していると聞いたとき、真は実は本当に困った。
『困るなら、はっきりそう言ってやって欲しい』
 名瀬にそう言われて、とにかく賢二に状況を説明しようと思ったが、拒否されたと感じて逃げ出した賢二を捜すのに、また骨を折った。
『そうしてやりたいが、俺も居候身分なんだ』
 賢二は真の事情を聞いて納得はしたようだが、本当に失望したように見えた。
 だが事は簡単に解決した。竹流があっさりと、引き取ってやろうといって、彼のほうから積極的に名瀬や少年院の関係者に面談をしに行った。自分がいかに真っ当な人間であるかをアピールするのに、竹流の饒舌はただならぬものがあった。
 以前にも同じように彼の弁舌が発揮されたときがあった。真が高校一年生の時、風俗写真家のモデルになっていたというので、学校から停学を言い渡された。竹流は伸びていた髪もばっさりと切ってスーツを着込み、ヨーロッパの貴族が生まれながらにその血の中に持っている高貴な匂いをオーラのようにまとい、真の保護者として学校にやってきた。立っているだけでも既に周囲を圧倒していたのだが、その上傍で聞いていてもどうかと思うくらいの立て板に水の話しっぷりで、教頭始め居並ぶ教師たちを煙に巻いてしまった。
 傍で聞いていてもどうかと思うような滑らかな口調で、あることないことを諭すように、時には攻め、時には丸め込み、相手を納得させてしまう手腕は只者ではない。大体、相手はあの目で見つめられただけで既に負けているのだ。

 そういうわけで、一時、賢二は竹流のマンションに真と一緒に引き取られていた事がある。今は一人で暮らしを立てているが、あれ以来、真や竹流に対する信頼を抱き続けてくれているようだった。
「何か手伝うことあったらするよ」
「いや、仕事はいいんだが」
 真が言いよどんだのを、美和の気配から何か察したのか、賢二が宝田のすがりつくような視線を振り返った。
「宝田くんと美和ちゃんと、食事に行ってやってくれないか」
「私はお腹なんかすいていません」
 ピシッと美和が言う。
 困ったな、と真が思っているところへドアがノックされた。美和は当たり前のように立ち上がり、ドアを開けに行く。真には止める隙もなかった。

「お迎えに上がりました」
 美和にとも真にともつかない調子で、長身で身体もがっしりした黒い背広を着た男が丁寧な口調で挨拶をした。
 美和が自分のほうを振り返る前に、真は背広の上着を取って着ると、目だけでその男と頷き合う。一瞬、美和と目が合ったが、真はここで彼女に何か言い訳する言葉も思いつかなかったので、そのまま視線を逸らして迎えに来た男と申し合わせたように事務所を出た。
 背後に美和の不満と不安を思い切り感じたが、それでも振り返ることはできなかった。


        * * *

 美和は事務所の扉を開けた時、目の前に立っている黒い背広の男に見覚えがある、と思った。その後真が申し合わせたように出て行ったので、考えてみると、思い当たるものに簡単に行きついた。
 テレビで見た事がある。澤田顕一郎の秘書だ。
 一体いつそういうことになったのか、昨日の真の様子からは澤田と接触していた気配はなかった。しかも、少しばかり喧嘩しているからといって、『秘書』に何も知らせていないことにまた腹が立ってきた。
 だが、今日添島刑事が言っていたことが何か関わっているのなら、これはきっと大変なことなのだ。
 賢二が状況を把握できないような顔で美和に何か話しかけようとした気配を、美和は完全に無視するように言った。
「何してるのよ、仕事でしょ」
「へ?」
 宝田が意味不明の言葉を返す。
「後をつけなさいよ。これは誘拐よ。早く!」
 訳がわからずぼーっとしている宝田と賢二にむっとして、美和は叫んだ。その勢いに急き立てられるように二人は事務所を飛び出していく。
 彼らが通りに下りて、真が乗った黒塗りの大きな車の後ろからタクシーでつけていくのを事務所の窓から確認して、美和は自分もバッグを持ち、事務所に戸締りをして表通りに出た。
 タクシーをつかまえて向かったのはG医大病院だった。


「すごい勢いで飛び込んで来たと思ったら……」
 美和は、竹流がまるで今晩のおかずの内容でも聞いたかのようにあっさりと受け流すので、カチンときた。
「澤田顕一郎の秘書が迎えにきたのよ」
「分かってる。でも真を連れ去ってどうするというんだ? 自分の女を寝取ったからって何か特別なことができるわけじゃないだろう。第一、万が一にも香野深雪が本当に澤田顕一郎の愛人であって、澤田が腹いせに真を呼び出したんだとしても、真にしてもそのくらいの覚悟はあって、彼女と付き合っていたと思うけど?」
 諭されるように言われて、美和はがっかりした。竹流は美和の顔を見て、優しい表情で側の椅子を勧める。美和は宥められた子供のような気分でその背もたれのある椅子に座った。

「大家さんは心配じゃないの?」
「あいつだって子供じゃないんだし、自分のしたことの始末くらいはつけられるだろう」
 美和はやはり恨みがましく竹流を見つめ返した。
「今日、添島刑事が事務所に来たの」
 竹流がやっと少し興味のあるような顔で、美和を見た。
「先生がアサクラなんとかって人の息子で、澤田顕一郎がそのことを知って先生に接触してくるんじゃないか、とか、値段がどうのとか」
「値段?」
「先生の値段? 何の話かよくわからなかったけど、誰が誰を見張ってるんだとか、そんなことを話してた。あの刑事さんは大家さんの恋人なんでしょ。正確には恋人の一人なんでしょうけど、どういうことか問い詰めてよ」

 竹流はそれには答えず、代わりに言った。
「この時間だし、大方食事にでも誘われたんだろう。真だって一度くらいあの男と話をしておいたほうがいいかもしれないしな。でも、気になるんなら誰かを見に行かそうか? どこへ行ったか分かると有難いんだけど」
 美和はぽん、と両手を打ち合わせた。
「良かった。実はさぶちゃんと賢ちゃんに跡をつけさせたの」
 竹流は首を横に何度か振った。
「君の行動力には感心するけど、あんまりひやっとさせないでくれ。危ないことはせずに、家で大人しく待っていなさい」
 美和は、こんな感じで先生はいつもこの男に窘められているのだろう、と思った。
「大家さんちにいてもいい?」
「あぁ、もちろん」
 宝田たちから連絡があったら知らせる、と言って美和は大人しく帰る素振りを見せた。

「大家さん、すごくややこしいことになってないよね?」
 立ち上がりかけて問いかけると、竹流はいささかやつれたために余計に凄絶なほど男の色気が満ちた綺麗な顔に、極上の微笑を浮かべて、さらに穏やかで優しいハイバリトンの声で美和に答えた。
「大丈夫だよ」
 この笑顔と声に女は騙されるんだわ、と思った。あの冷静に仕事をこなしていそうな添島刑事でさえ、この男の手に落ちているのだ。その上、美和の妄想の中では、この男はそうやって騙した数多の女たちよりも真を愛しているわけで、ますます問題だと思えた。
 だが、今はその痛々しい右手の包帯を見ると、何も文句が言えない。
 美和は大人しく病室を辞して、廊下に出た。

 とは言え、そうは簡単に引き下がるつもりではなかった。
 美和の推理では、竹流は明らかに『アサクラ何とか』のあたりから反応していたと思う。竹流は何かを隠しているし、添島刑事の話では、澤田顕一郎が真の叔父か父親かは分からないが、誰かに興味を持っていて、そのことで真に接触をしてきたような感じだった。今回の竹流の怪我とそういったことが何か関係があるのかないのかよくわからないが、どちらにしても二人ともが何やら危機に巻き込まれているわけだ。もちろん、誰かが信じている下手なハードボイルド小説かもしれないが、信じている誰かがいるということは、危機だけは本物ということになる。
 何よりも、真は竹流の怪我と澤田が何か関係していると思っているのではないか、と美和は考えていた。
 美和は廊下の隅でじっと息を殺していた。

 思ったとおり、間もなく竹流は病室から出てきて、ゆっくりとした足取りで廊下がT字になっている窓際の公衆電話のほうへ歩いて来る。美和は竹流からは見えないところを探して、丁度手洗いの入り口が死角になるので、身を隠した。
 竹流は廊下の窓際の三つ並んだ公衆電話の右端を選んで、電話番号を七桁押していた。美和は手洗いの入り口でその数を数えていた。
 すぐに相手は出たようだった。

「俺だ。澤田が真に接触してきたらしい。あんたの言った通りだ。……いや、多分そういうことではないだろう。彼女の方は……、あぁ、頼んだよ」
 全部は聞き取れなかったし、電話は長くはなかった。受話器を置くと、竹流は脇腹を押さえるように電話に凭れた。それを見ていた美和は危うく駆け寄るところだった。
 相当身体はきついのだろう。半端な怪我ではなかったのだから。
 だが、すぐに竹流は身体を伸ばすようにして電話から離れ、病室の方に戻っていった。美和は一応彼が病室に入るまでは見届け、急いでマンションに戻った。





さて、次回から【第4章:同居人の失踪】です。
澤田顕一郎に呼び出された真は、この代議士が自分の出生の事情を知っていることに驚く。
そして、真がさらわれたと思って心配している美和と、ついに…(ちょっぴり18禁…ややほのぼの系)
(実は、美和の恋人、事務所のオーナーはヤクザの息子!いいのか^^;?)
そして、心配して電話をかけてきてくれた竹流とも、『いちゃいちゃ電話』(美和いわく)
恋しくて電話が切れない、ラブラブな二人をお楽しみください(^^)
(一応、この物語最大のラブシーンだと書いた本人は思っている)
美和は、ちょっぴり真に本気になりそうになりながらも、気持ちが揺れてしまう。
揺れる中、思い出したのは、初めて真と待ち合わせた時のこと。

そして…ついに、病院から姿を消した大和竹流。いったい、彼は何に関わっているのか。
まだ怪我の状態は芳しくない上に、右手は不自由なまま……
そして、次々と現れる不可解な人物たち。
誰がどこまで何を知っているのか。誰と誰の事情・人生が交錯しているのか。

第4章も、ぜひお楽しみください(^^)
おまけ映像は、大好きすぎてどうしたらいいのか分からない絵本【もちもちの木】のラストのキラキラシーン。
私はいつもこれを目指しているのです。

もちもちのき

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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【清明の雪】の世界へご招待 

新しく物語を読んでくださる方が幾人かいてくださって、本当にありがたいですm(__)m
そこで、この【清明の雪】の舞台をご案内するために用意していた写真をアップしようと思います。

志明院
撮影ができないので、お寺で分けていただいたお写真を掲載させていただきました。
咲いているのは石楠花です。雨に濡れる山門、この先に杉木立の中を階段が続いていて、本堂があります。
この階段(写真の山門をくぐって、かなり長い階段を上った本堂の前)で、真と竹流が座って、話をしていたのです。
(ところで通常ブログ画面で見たら、すごく左右から圧縮された写真になっていてびっくり…)

そうです、ここが岩屋山志明院です。
京都の地図を見ても、観光案内を見ても、多分普通には載っていないと思います。
鴨川の源流とも言われ、有名な歌舞伎『鳴神』の舞台でもあります。

初めてここを訪れたのは、もう何年前なのでしょうか。
歌舞伎が大好きだった私は(贔屓は中村橋之助さん、亀次郎さん改め猿之助さん。藤十郎さんも大好き。亡くなられた団十郎さん、勘三郎さんは、一番長く楽しませていただいた役者さんでした。基本、みなさんそれぞれ好きでして)、いつか訪れたいと思いながらも、あまりにも地図からはみ出ているのでどうしたらいいのか分からなくて…
京都を離れてから、通うようになりました。

初めてこの地を訪れた時、3月でしたが、途中で引き返そうかと思ったくらいの雪道でして。
その後も、なぜか雨の日ばかり。
私の記憶にある志明院はいつも雨の中です。
水の聖地ですから、これは天の配剤だったのかもしれません。
先日も行ってまいりましたが、その時、初めて雨も雪もなくて……
奥さんに「珍しいですね~、あなたが来られるときに天気がいいなんて(曇りだけど)」と言われました^^;
そう、【清明の雪】の400年の椿のエピソード、実際の奥さんのお言葉通りなのです。

この山門、階段、本堂のさらに上に上がると、飛龍の滝(龍神が閉じ込められていた滝壺)、上人の洞窟、そしてさらに先に登って鴨川の源流があります。
源流というより、山の岩から水が沁みだしているのです。山に川があるというわけではありません。しかし山門の脇では、岩からしみ出した水が束になり、細い流れになっていて、やがて下ると流れは太くなり、いずれ鴨川に至ります。

落葉樹を多く抱えた山があるということは、大きなダムがひつとあるのと同じこと、と言われています。まさに山から水が湧き出し滴っているのです。
聖水が滴る岩屋には、清水の舞台のような、小さな舞台が設えてあって、良い季節には楓の葉に光が照りかえります。
司馬遼太郎先生の『街道をゆく』にもこのお寺のことが書かれています。橋を渡ると、そこからは清浄な空気が漂い、本当に魑魅魍魎さんが普通にいるような、そんな世界です。
岩屋山
上は、志明院の入り口手前にある弘法大師の像。下は、その道です。
ちなみに、杉の木が無茶苦茶倒れていて、大変なことになっていた時期がありました。
大雪のせいで倒れたのです。それが道路に突き出していたのですね。
実は、ちらりと見えていますが、こんなものじゃなくて、場所によっては多くの倒木が今でも滑り落ちてきそうなくらいです。あまりにも人が通らないので、応急処置しかなされていないままなんですね。
それでも、だからこそ、ここには司馬遼太郎さんが訪問された時と変わらない空気が残っています。
岩屋山

そう言えば、先日、奥さんとお話をしていたら、息子さんが地質学者、つまり石博士だとおっしゃるのです。つくづく、縁を感じるお寺です。
もしもチャンスがありましたら、ぜひ、訪れてください。

そして、私がこのお話の発想を得たのは、実は一冊の本のあるページ。
いささかネタバレにもなりますが、万葉集の風景を写真でつづった本でした。
このページを見た時、京都という愛すべき町、怨念も優しい想いもみんな飲み込んでいるはずの空間に、この風景を描いてみたいと思った。
清明の雪

舞台を京都に決めた時、私の中の京都の大きなテーマは水でした。
長く住んでいる時、京都の疏水や鴨川はいつも身近にあったものでした。京都の気候が、夏異常に暑く冬に異常に寒いのは、京都の地下には巨大な水瓶があって、このために底冷えしたり熱がこもったりするとも聞いておりました。
水瓶?と本気で地盤の下にたまった水を想像していた私は、それがいわゆる地下水脈を意味していると後で理解したのですが、地盤の下の水瓶のイメージが消えなかった。
そしてある時、テレビで、宮家に関係するお屋敷(もしかすると裏千家の宗家の関係だったかもしれませんが)のお庭に、ある泉があって、この京都の地下水の水が減ると水位が下がり、時には涸れることもある、というのを聞きました。その家は確か、地下の水が十分にあるのかどうかを確かめるというお役目を(天皇家から?)与えられていたような、そんな感じだったと思います。そして、その水位が近年、下がっている、時にほとんど水がなく涸れているのだと。
さらに、京都の町屋からお豆腐屋さん・湯葉屋さんが減り、その理由も清浄な地下水が得られなくなったからだというお話を聞いたとき、いつかこのことを書きたいと、ずっと思っていた。
古代のあらゆる都市で、水の問題は大きな問題だった。あのマチュピチュにしても、アンコールワットにしても、灌漑についての人智は計り知れないものがあります。イタリアのナポリやアルベロベッロもしかり。

そしてもう一つ。親が子を思う気持ち。
これもテレビ番組で恐縮ですが、鶴の北帰行をやっていて、群れの一羽が足をけがして飛べなかったんですね。そうしたら、群れがみんないつまでも飛ばない。
季節はもうギリギリ。これ以上待ったら渡れないというぎりぎりになっても、何回かトライしながらも怪我の具合が悪いうちはみんなで待っている。
しかも、オシドリってラブラブに見えるけど、『おしどり夫婦』はまやかしで、いつも相手を変えているそうですが、鶴は本当に添い遂げるそうで、どちらかが死ぬまで相手を変えないのだとか。
同じ鳥でもこんなに違うのね…と驚きつつも、もう頭の中はフル回転。
鶴ってすごい。親子愛もすごい。

【海に落ちる雨】に、真が某外国人マフィアに痛い目に遭わされた時、竹流が怒り狂って、周囲の迷惑顧みず戦争を始めそうになった…というエピソードが出てきます。
多分、親って、わが子が痛い目に遭ったら、なりふり構わず、周りの迷惑顧みず、守ってやるものだ、それは理屈じゃないぞ、という感じ。
だから、調査事務所の共同経営者、美和ちゃんは、この二人を見ていて『親子か兄弟か恋人か、どれがいちばん近いかというと親子』と言っていたのですね。実際は、どれも当てはまるような、あてはまらないような。

京都と水と龍。そして万葉集の風景。
もう詰め込んでしまえ!と思って出来上がったのがこの物語。
清明の雪 (参考文献一部)
ちなみに、この写真の中の本、『京都・水ものがたり』の表紙の写真、志明院の飛龍の滝です。

ついでに、眠れぬ夜の本『空海の言葉』から『迷悟』を引っ張り出してきて、物語は完成しました。
全文はこのようなものです。
『それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。真如、外に非ず、身を捨てて何くんか求めん。迷悟、我に在れば、すなわち発心すれば、すなわち到る。明暗、他に非ざれば、すなわち信修すれば、忽ちに証す。』(般若心経秘鍵)
この内容はもちろん空海のオリジナルではありませんが、空海がもっとも大事に思っていた言葉ではないかと思われます。

さて、現世に降りた、ちょっと俗世にまみれた聖僧のイメージが和尚さん。
和尚さんの言葉に、書きながら自分でも励まされていた気がします。
人はこれから自分がなっていくものにしかなれない、とか、人も神も10割の善はない、なればこそ善悪ある身を愛おしんで悪いことはございません、とか……
これはうちが浄土真宗で、いわんや悪人をや、の世界観がどっぷり身についているからなんでしょうね。でも、この和尚さんは禅宗のイメージですけれど。
二人を導く先導者の役割を担う、ちょびっとミステリアスな和尚さんですが、そのミステリアス度は次回にも持ち越されます。既に寝たきりになっておられますが、死に掛けた竹流の命を救うという……多分、三途の川で命のやり取りをしたに違いないと思われる……

哲学の道を歩く二人の『同行二人』のシーン、多分私の中でのクライマックスでしたが、やっぱり最後のキラキラシーンは見てほしいです。
本当に可能かどうか?
それはもう、あくまでも小説ですから(*^_^*)
でも、ここで、小説のタイトルと章題と内容が、全て溶け合って収束できていたなら、ちょっとは成功だったかな…(*^_^*)

さて、お暇なときに、少しずつでも、京都の水の物語、覗いて見ませんか?
あるいは、京都観光案内として読んでいただいても……嬉しいです(*^_^*)

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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【物語を遊ぼう】12.本の装幀は芸術:夏目漱石初版本 

今回は、本というものが芸術であるというお話。

本の装幀のお話です。
最近は文庫本になるのを待って買うようになってしまったけれど、以前は単行本の時に装幀を楽しんで買っていたこともあったんですが……しかも、もう最近では電子図書なんて時代になって、装幀という概念自体がなくなってしまうのかもしれないと思うと、寂しいですね。

ブログで小説を発表していますが、そもそも書いた小説を確認するとき、やっぱり一度ならず印刷して、紙ベースで、しかも縦書きで確認するのが常です。
ついでに、とじ太くんという有難い簡易製本グッズで本にしてみたりもしています。もちろん味気ない姿ではありますが。
やっぱり紙がいいですよね。同人誌さんなどは、本当に良いと思います。
時々、うちの祖父がやっていたように、本を作ってみようかなと思う時もあるんですが……

うちにある本の中で最も私が大事にしているのが、夏目漱石の初版本の復刻版です。
もう20年以上前に、アルバイトと仕送りで生活していた大学時代に、月々3000円くらい、何年間かかけて購入しました。もうこれから先、こういう本職人はいなくなるから、と聞いて、無理してでも買いたいと思ったものです。

言葉よりも、今回は写真、ですね。
ほとんど語りのないまま、写真が並びます。すみません。本当は全巻、お見せしたいのですが。
草合
草合
まずは『草合』です。包む形の紙箱に覆ってあるその下から出てくるのは……
これはツワブキのようですが、この黒い部分、漆なんです。
本の装丁に漆。本当にこれは芸術のたまものに見えます。
夏目漱石
こちらは『道草』。左は箱ですが麻の布が貼られていて、表紙は紙ですが、絵が綺麗。

そして一番凝っているのが、この『吾輩は猫である』でしょうか。
夏目漱石は始めからこれをこんなに長編で書くつもりはなかったそうですが、あまりにも人気が出てしまったので長編になった。その読者や出版社の愛着が、こういう形になったのでしょうか。
吾輩猫2
上はまず、一番表のカバー、そしてそのカバーを取っても下のようにおしゃれな表紙が出てきます。
前・中・後編と3冊とも、それぞれ異なっていて面白い。
吾輩猫
もっと素敵なのは、この背表紙です。右がカバー、左が表紙のものです。表紙の背表紙(って変な言い方)がいいと思いませんか? 猫→ネズミ→魚、というのが素敵です。
吾輩猫
そしてこれはなんと、アンカット製本なのです。
(すみません、カット本ではなく、アンカット。カットして読むと覚えていた私の勘違いでした。)
下の写真のように、下半分の袋とじ状態です。これをペーパーナイフで切って読むのですね。いつか切りたいと思うけれど、もったいないのでそのままです。年取ったら、ちみちみと楽しみたいですね。
*追記:しかも天が繋がっているアンカット製本が多くて、地が繋がっているのは珍しいとか。この本は地が繋がっていて、天は切りそろえられていて金箔が施してあります。
吾輩猫1
本を開くと、こんな風に物語の世界に入り込んでいくことができます。挿絵も素敵ですよ。
吾輩猫
吾輩猫
しっかり文章を書きたいと思っていたのに、この本の前では何も言葉が無くなりますね。
ブログに文章を書きつけてはいますが、本の世界にはやっぱり心が躍ります。

最後に少し個人的な本を。
おじいちゃん
おじいちゃん
上の写真、表紙に出ている文字は決して本の題名ではありません。多分、何かの箱に書かれていた絵と文字がそのまま本の装幀みたいだったので、このように使ったものだと思います。そして薄い半紙に墨で書かれた文字と絵。祖父の直筆です。
この世に1冊しかない、世界中で私にとって最も大事な本かもしれません。


次回、『小説はストーリーかキャラか』……またご一緒に物語を遊んでください。

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Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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