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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨29] 第3章 同居人の恋人たち(7)/第4章予告 

これにて第3章が終了しますので、掲載させていただくことにしました。
何か事情があるらしい、同居人・大和竹流の大怪我。本人は何も語りたがらない。
そして、捜査一課の女刑事が特別な任務だと言って竹流を見張っている。
さらに、真のもとへは、愛人(というよりセフレ?)の深雪のパトロンとも言われている代議士・澤田顕一郎から『一緒にご飯でも…』という連絡が…。そしてもう一人、竹流の怪我に関わっていると思われる男から、竹流は無事かと尋ねる電話がかかってくる。その上、事務所の秘書・美和が竹流のところに面会に来ていた男をつけていくと、『危ないから下手に関わるな』と警告される。
何がどうなっているのか…



「香野深雪が、何の関係が?」
「例えば、澤田が香野深雪にあなたを見張らせていた、とかね」
「どちらにしても捜査一課のあなたの仕事とは思えません」
「今は、ちょっと立場が違うのよ」
「どういう事ですか」
 添島刑事は立ち上がった。
「もしも澤田が接触してきたら連絡してちょうだい」
「澤田代議士の目的が知りたいんですか」
「そうよ」
「ひとつ教えてください。大和竹流をあんな目に遭わせたのは彼ですか」
 一瞬、添島刑事は刑事ではない目をしたように思った。
「澤田はそういうせこい事をする人間じゃないと思うけど。あなたは、ああいう残忍なことをするのが、どういう種類の人間か知ってる?」
「どういう意味ですか」
「ああいうことをするのは、プロじゃない。大人しくて優しい一般人の仮面を被った悪魔だわ。誰かの心の中に潜んでいる」

 真がどうとも返事できないでいるうちに、添島刑事はドアの近くまで歩いていた。そしてドアのノブに手を掛けてから、明らかに一瞬躊躇して、それから真のほうをふと振り返った。
「それから、あなたの相棒、私が見舞いに行っても少しも嬉しそうな顔をしないのよ。涼子さんの前だからかもしれないけど、もうちょっと大事にしてくれてもいいんじゃないのって、伝えといて。私だって傷つくことくらいあるんだからって」
 添島刑事がドアを開けて出て行く後姿を見送りながら、少なくとも三回は彼女の言葉が頭の中を廻ってから、やっと真はその意味を飲み込んだ。あの助平野郎、と思って添島刑事を追いかけようとドアを出ると、すぐ脇の壁に凭れるように美和が立っていた。

 美和は寝不足に他の理由も加わって、赤い目で真を恨めしそうに見た。
「先生って、いっぱい隠し事してるんですね」
「してない。誤解だ。今の話はどこか一方の局面からの話で、事実じゃない。つまり、誰かが勘違いで信じているハードボイルド小説の筋書きだ」
 美和がどこからどこまで聞いていたのかは分からないが、とにかく否定しておいた。
「もういいです」
 するりと真の横をすり抜けるように、美和は事務所の中に戻った。何か話しかけたかったが、今はそれどころではなかった。美和のことは後にして、階段を駆け降りると、添島刑事は事務所のビルの前に待たせていた車に乗りかけたところだった。

 スマートで、鼻持ちならないキャリアウーマンだと思っていた女が、ついさっきの告白からは全く別の女に思えた。車に乗ろうとする足元ひとつ見ても、むしろ優雅で色香さえ感じる。
 添島刑事はすぐに真に気が付いて、一瞬、いつもの強気な表情を緩ませた。真は何のために追いかけたのかよくわからなくなって、とりあえず何か言葉を探した。
「もし澤田から接触があれば、どこへ連絡すればいいんですか」
 結局、真が思いついた質問は多少本筋とはずれたことだった。
「特別な番号、あなたは知ってるでしょ」添島刑事はふと息をついた。「ついでに言っとくわ。今となってはアサクラタケシという名前は伝家の宝刀でも何でもない、あなたがそんな名前に傷つくことは馬鹿げてるわよ」
 それだけ言うと、添島刑事は車に乗ってしまった。真に事実を伝えてしまったことに、彼女なりに羞恥の感情があったのかもしれなかった。

 事務所に戻ると、美和はもくもくと資料の整理をしていた。顔を上げて真を見ることもしない。真が仕方なく自分の机に戻りかけた時、宝田が本当に心配そうに、しかしどうしても大きな声を隠せず、真に話しかけてきた。
「先生、美和さんは先生の事、好きなんすかね。あんな美和さん、初めて見たっす。恋をすると……」
「さぶちゃん!」美和がぴしゃりと怒鳴った。「そういう話は私の聞こえないところでして!」
 真は、そもそも何で美和は機嫌を損ねてしまったのだろうかと考えながら、時々ちらちら彼女の方を見つつ、報告書の仕上げにかかった。

 問題の七時は近づいていた。美和に今日は早く帰るようにと言いたかったが、どうも人を寄せ付けない気配で美和が仕事をしているので、話しかけられなかった。宝田も、真と美和を置いて帰るのは心配だというように、用事もないのに事務所の中をうろうろする。
 困った真が、ついに意を決して話しかけようとした瞬間、ドアが開いた。
「何だ、暇そうじゃん」
 入ってきたのは高遠賢二だった。何でもいいから救われたような気分だった。

 このところ夕食時には現れる賢二は、少年院上がりだが、笑うとかなり童顔なので可愛らしい印象を与える。背は真よりも高いのでちょっとばかり威圧感はあるが、童顔と差し引きすると、全体では普通の若者だった。
 少年院に入っていたのは、実の父親を刺したからだった。
 その父親とは今も疎遠で、賢二はもう長い間家には帰っていない。少年院を仮出所したときも、身柄は名瀬弁護士に預けられた。父親は某有名企業の取締役で、名瀬は賢二の母方の祖父が経営する会社の顧問弁護士だった縁で、賢二の事件に関わった。
 賢二が子供の頃から父親の暴力の対象になっていたことは、ある程度明らかだった。父親はそれを躾だと言った。家族の中でのことでもあり、父親を追及することはできなかった。母親は賢二を心配していたが、父親が罪に問われたり、家庭内のことが世間に知られたりするのは困ると思っていたようだった。
 名瀬ができる限り穏便に済ませようとしたにも関わらず、父親はきちんと罪の償いをさせるべきだと言い、賢二自身も殺意を認めた。

 真が関わったのは、賢二が仮出所したときで、事もあろうに賢二は家に帰りたくなくて逃走した。そのことで刑期が延びるのは構わないようだった。名瀬に頼まれて賢二を捜し出したのは真だった。
 賢二に同情したばかりではなかったが、賢二の気持ちはよく分かった。真が名瀬につかみかかったのは、穏便に事を運ぼうとしていた名瀬のやり方が気に食わなかったからではなかった。
 賢二が家に帰りたくないなら、何故その手段を考えてやらないのかと思ったからだった。名瀬が穏便に済まそうと考えたのは、賢二の罪状を積み上げたくなかったからだというのはよく分かっていた。
 その時、普段感情を表に出すことのない真が、確かに理路整然とした内容ではなかったが、激しい口調で名瀬に畳み掛けているのを、賢二は近くで聞いていたらしい。賢二がニコリとも笑わずに、それでも出所したら真のところに行きたいと言ったのは、自分のために何かを語ってくれる大人が他にいなかったからなのだろう。その賢二の気持ちを考えると、真は突っぱねることもできなかった。

 名瀬に呼ばれて、賢二が真のところで預かってもらうことを希望していると聞いたとき、真は実は本当に困った。
『困るなら、はっきりそう言ってやって欲しい』
 名瀬にそう言われて、とにかく賢二に状況を説明しようと思ったが、拒否されたと感じて逃げ出した賢二を捜すのに、また骨を折った。
『そうしてやりたいが、俺も居候身分なんだ』
 賢二は真の事情を聞いて納得はしたようだが、本当に失望したように見えた。
 だが事は簡単に解決した。竹流があっさりと、引き取ってやろうといって、彼のほうから積極的に名瀬や少年院の関係者に面談をしに行った。自分がいかに真っ当な人間であるかをアピールするのに、竹流の饒舌はただならぬものがあった。
 以前にも同じように彼の弁舌が発揮されたときがあった。真が高校一年生の時、風俗写真家のモデルになっていたというので、学校から停学を言い渡された。竹流は伸びていた髪もばっさりと切ってスーツを着込み、ヨーロッパの貴族が生まれながらにその血の中に持っている高貴な匂いをオーラのようにまとい、真の保護者として学校にやってきた。立っているだけでも既に周囲を圧倒していたのだが、その上傍で聞いていてもどうかと思うくらいの立て板に水の話しっぷりで、教頭始め居並ぶ教師たちを煙に巻いてしまった。
 傍で聞いていてもどうかと思うような滑らかな口調で、あることないことを諭すように、時には攻め、時には丸め込み、相手を納得させてしまう手腕は只者ではない。大体、相手はあの目で見つめられただけで既に負けているのだ。

 そういうわけで、一時、賢二は竹流のマンションに真と一緒に引き取られていた事がある。今は一人で暮らしを立てているが、あれ以来、真や竹流に対する信頼を抱き続けてくれているようだった。
「何か手伝うことあったらするよ」
「いや、仕事はいいんだが」
 真が言いよどんだのを、美和の気配から何か察したのか、賢二が宝田のすがりつくような視線を振り返った。
「宝田くんと美和ちゃんと、食事に行ってやってくれないか」
「私はお腹なんかすいていません」
 ピシッと美和が言う。
 困ったな、と真が思っているところへドアがノックされた。美和は当たり前のように立ち上がり、ドアを開けに行く。真には止める隙もなかった。

「お迎えに上がりました」
 美和にとも真にともつかない調子で、長身で身体もがっしりした黒い背広を着た男が丁寧な口調で挨拶をした。
 美和が自分のほうを振り返る前に、真は背広の上着を取って着ると、目だけでその男と頷き合う。一瞬、美和と目が合ったが、真はここで彼女に何か言い訳する言葉も思いつかなかったので、そのまま視線を逸らして迎えに来た男と申し合わせたように事務所を出た。
 背後に美和の不満と不安を思い切り感じたが、それでも振り返ることはできなかった。


        * * *

 美和は事務所の扉を開けた時、目の前に立っている黒い背広の男に見覚えがある、と思った。その後真が申し合わせたように出て行ったので、考えてみると、思い当たるものに簡単に行きついた。
 テレビで見た事がある。澤田顕一郎の秘書だ。
 一体いつそういうことになったのか、昨日の真の様子からは澤田と接触していた気配はなかった。しかも、少しばかり喧嘩しているからといって、『秘書』に何も知らせていないことにまた腹が立ってきた。
 だが、今日添島刑事が言っていたことが何か関わっているのなら、これはきっと大変なことなのだ。
 賢二が状況を把握できないような顔で美和に何か話しかけようとした気配を、美和は完全に無視するように言った。
「何してるのよ、仕事でしょ」
「へ?」
 宝田が意味不明の言葉を返す。
「後をつけなさいよ。これは誘拐よ。早く!」
 訳がわからずぼーっとしている宝田と賢二にむっとして、美和は叫んだ。その勢いに急き立てられるように二人は事務所を飛び出していく。
 彼らが通りに下りて、真が乗った黒塗りの大きな車の後ろからタクシーでつけていくのを事務所の窓から確認して、美和は自分もバッグを持ち、事務所に戸締りをして表通りに出た。
 タクシーをつかまえて向かったのはG医大病院だった。


「すごい勢いで飛び込んで来たと思ったら……」
 美和は、竹流がまるで今晩のおかずの内容でも聞いたかのようにあっさりと受け流すので、カチンときた。
「澤田顕一郎の秘書が迎えにきたのよ」
「分かってる。でも真を連れ去ってどうするというんだ? 自分の女を寝取ったからって何か特別なことができるわけじゃないだろう。第一、万が一にも香野深雪が本当に澤田顕一郎の愛人であって、澤田が腹いせに真を呼び出したんだとしても、真にしてもそのくらいの覚悟はあって、彼女と付き合っていたと思うけど?」
 諭されるように言われて、美和はがっかりした。竹流は美和の顔を見て、優しい表情で側の椅子を勧める。美和は宥められた子供のような気分でその背もたれのある椅子に座った。

「大家さんは心配じゃないの?」
「あいつだって子供じゃないんだし、自分のしたことの始末くらいはつけられるだろう」
 美和はやはり恨みがましく竹流を見つめ返した。
「今日、添島刑事が事務所に来たの」
 竹流がやっと少し興味のあるような顔で、美和を見た。
「先生がアサクラなんとかって人の息子で、澤田顕一郎がそのことを知って先生に接触してくるんじゃないか、とか、値段がどうのとか」
「値段?」
「先生の値段? 何の話かよくわからなかったけど、誰が誰を見張ってるんだとか、そんなことを話してた。あの刑事さんは大家さんの恋人なんでしょ。正確には恋人の一人なんでしょうけど、どういうことか問い詰めてよ」

 竹流はそれには答えず、代わりに言った。
「この時間だし、大方食事にでも誘われたんだろう。真だって一度くらいあの男と話をしておいたほうがいいかもしれないしな。でも、気になるんなら誰かを見に行かそうか? どこへ行ったか分かると有難いんだけど」
 美和はぽん、と両手を打ち合わせた。
「良かった。実はさぶちゃんと賢ちゃんに跡をつけさせたの」
 竹流は首を横に何度か振った。
「君の行動力には感心するけど、あんまりひやっとさせないでくれ。危ないことはせずに、家で大人しく待っていなさい」
 美和は、こんな感じで先生はいつもこの男に窘められているのだろう、と思った。
「大家さんちにいてもいい?」
「あぁ、もちろん」
 宝田たちから連絡があったら知らせる、と言って美和は大人しく帰る素振りを見せた。

「大家さん、すごくややこしいことになってないよね?」
 立ち上がりかけて問いかけると、竹流はいささかやつれたために余計に凄絶なほど男の色気が満ちた綺麗な顔に、極上の微笑を浮かべて、さらに穏やかで優しいハイバリトンの声で美和に答えた。
「大丈夫だよ」
 この笑顔と声に女は騙されるんだわ、と思った。あの冷静に仕事をこなしていそうな添島刑事でさえ、この男の手に落ちているのだ。その上、美和の妄想の中では、この男はそうやって騙した数多の女たちよりも真を愛しているわけで、ますます問題だと思えた。
 だが、今はその痛々しい右手の包帯を見ると、何も文句が言えない。
 美和は大人しく病室を辞して、廊下に出た。

 とは言え、そうは簡単に引き下がるつもりではなかった。
 美和の推理では、竹流は明らかに『アサクラ何とか』のあたりから反応していたと思う。竹流は何かを隠しているし、添島刑事の話では、澤田顕一郎が真の叔父か父親かは分からないが、誰かに興味を持っていて、そのことで真に接触をしてきたような感じだった。今回の竹流の怪我とそういったことが何か関係があるのかないのかよくわからないが、どちらにしても二人ともが何やら危機に巻き込まれているわけだ。もちろん、誰かが信じている下手なハードボイルド小説かもしれないが、信じている誰かがいるということは、危機だけは本物ということになる。
 何よりも、真は竹流の怪我と澤田が何か関係していると思っているのではないか、と美和は考えていた。
 美和は廊下の隅でじっと息を殺していた。

 思ったとおり、間もなく竹流は病室から出てきて、ゆっくりとした足取りで廊下がT字になっている窓際の公衆電話のほうへ歩いて来る。美和は竹流からは見えないところを探して、丁度手洗いの入り口が死角になるので、身を隠した。
 竹流は廊下の窓際の三つ並んだ公衆電話の右端を選んで、電話番号を七桁押していた。美和は手洗いの入り口でその数を数えていた。
 すぐに相手は出たようだった。

「俺だ。澤田が真に接触してきたらしい。あんたの言った通りだ。……いや、多分そういうことではないだろう。彼女の方は……、あぁ、頼んだよ」
 全部は聞き取れなかったし、電話は長くはなかった。受話器を置くと、竹流は脇腹を押さえるように電話に凭れた。それを見ていた美和は危うく駆け寄るところだった。
 相当身体はきついのだろう。半端な怪我ではなかったのだから。
 だが、すぐに竹流は身体を伸ばすようにして電話から離れ、病室の方に戻っていった。美和は一応彼が病室に入るまでは見届け、急いでマンションに戻った。





さて、次回から【第4章:同居人の失踪】です。
澤田顕一郎に呼び出された真は、この代議士が自分の出生の事情を知っていることに驚く。
そして、真がさらわれたと思って心配している美和と、ついに…(ちょっぴり18禁…ややほのぼの系)
(実は、美和の恋人、事務所のオーナーはヤクザの息子!いいのか^^;?)
そして、心配して電話をかけてきてくれた竹流とも、『いちゃいちゃ電話』(美和いわく)
恋しくて電話が切れない、ラブラブな二人をお楽しみください(^^)
(一応、この物語最大のラブシーンだと書いた本人は思っている)
美和は、ちょっぴり真に本気になりそうになりながらも、気持ちが揺れてしまう。
揺れる中、思い出したのは、初めて真と待ち合わせた時のこと。

そして…ついに、病院から姿を消した大和竹流。いったい、彼は何に関わっているのか。
まだ怪我の状態は芳しくない上に、右手は不自由なまま……
そして、次々と現れる不可解な人物たち。
誰がどこまで何を知っているのか。誰と誰の事情・人生が交錯しているのか。

第4章も、ぜひお楽しみください(^^)
おまけ映像は、大好きすぎてどうしたらいいのか分からない絵本【もちもちの木】のラストのキラキラシーン。
私はいつもこれを目指しているのです。

もちもちのき
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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【清明の雪】の世界へご招待 

新しく物語を読んでくださる方が幾人かいてくださって、本当にありがたいですm(__)m
そこで、この【清明の雪】の舞台をご案内するために用意していた写真をアップしようと思います。

志明院
撮影ができないので、お寺で分けていただいたお写真を掲載させていただきました。
咲いているのは石楠花です。雨に濡れる山門、この先に杉木立の中を階段が続いていて、本堂があります。
この階段(写真の山門をくぐって、かなり長い階段を上った本堂の前)で、真と竹流が座って、話をしていたのです。
(ところで通常ブログ画面で見たら、すごく左右から圧縮された写真になっていてびっくり…)

そうです、ここが岩屋山志明院です。
京都の地図を見ても、観光案内を見ても、多分普通には載っていないと思います。
鴨川の源流とも言われ、有名な歌舞伎『鳴神』の舞台でもあります。

初めてここを訪れたのは、もう何年前なのでしょうか。
歌舞伎が大好きだった私は(贔屓は中村橋之助さん、亀次郎さん改め猿之助さん。藤十郎さんも大好き。亡くなられた団十郎さん、勘三郎さんは、一番長く楽しませていただいた役者さんでした。基本、みなさんそれぞれ好きでして)、いつか訪れたいと思いながらも、あまりにも地図からはみ出ているのでどうしたらいいのか分からなくて…
京都を離れてから、通うようになりました。

初めてこの地を訪れた時、3月でしたが、途中で引き返そうかと思ったくらいの雪道でして。
その後も、なぜか雨の日ばかり。
私の記憶にある志明院はいつも雨の中です。
水の聖地ですから、これは天の配剤だったのかもしれません。
先日も行ってまいりましたが、その時、初めて雨も雪もなくて……
奥さんに「珍しいですね~、あなたが来られるときに天気がいいなんて(曇りだけど)」と言われました^^;
そう、【清明の雪】の400年の椿のエピソード、実際の奥さんのお言葉通りなのです。

この山門、階段、本堂のさらに上に上がると、飛龍の滝(龍神が閉じ込められていた滝壺)、上人の洞窟、そしてさらに先に登って鴨川の源流があります。
源流というより、山の岩から水が沁みだしているのです。山に川があるというわけではありません。しかし山門の脇では、岩からしみ出した水が束になり、細い流れになっていて、やがて下ると流れは太くなり、いずれ鴨川に至ります。

落葉樹を多く抱えた山があるということは、大きなダムがひつとあるのと同じこと、と言われています。まさに山から水が湧き出し滴っているのです。
聖水が滴る岩屋には、清水の舞台のような、小さな舞台が設えてあって、良い季節には楓の葉に光が照りかえります。
司馬遼太郎先生の『街道をゆく』にもこのお寺のことが書かれています。橋を渡ると、そこからは清浄な空気が漂い、本当に魑魅魍魎さんが普通にいるような、そんな世界です。
岩屋山
上は、志明院の入り口手前にある弘法大師の像。下は、その道です。
ちなみに、杉の木が無茶苦茶倒れていて、大変なことになっていた時期がありました。
大雪のせいで倒れたのです。それが道路に突き出していたのですね。
実は、ちらりと見えていますが、こんなものじゃなくて、場所によっては多くの倒木が今でも滑り落ちてきそうなくらいです。あまりにも人が通らないので、応急処置しかなされていないままなんですね。
それでも、だからこそ、ここには司馬遼太郎さんが訪問された時と変わらない空気が残っています。
岩屋山

そう言えば、先日、奥さんとお話をしていたら、息子さんが地質学者、つまり石博士だとおっしゃるのです。つくづく、縁を感じるお寺です。
もしもチャンスがありましたら、ぜひ、訪れてください。

そして、私がこのお話の発想を得たのは、実は一冊の本のあるページ。
いささかネタバレにもなりますが、万葉集の風景を写真でつづった本でした。
このページを見た時、京都という愛すべき町、怨念も優しい想いもみんな飲み込んでいるはずの空間に、この風景を描いてみたいと思った。
清明の雪

舞台を京都に決めた時、私の中の京都の大きなテーマは水でした。
長く住んでいる時、京都の疏水や鴨川はいつも身近にあったものでした。京都の気候が、夏異常に暑く冬に異常に寒いのは、京都の地下には巨大な水瓶があって、このために底冷えしたり熱がこもったりするとも聞いておりました。
水瓶?と本気で地盤の下にたまった水を想像していた私は、それがいわゆる地下水脈を意味していると後で理解したのですが、地盤の下の水瓶のイメージが消えなかった。
そしてある時、テレビで、宮家に関係するお屋敷(もしかすると裏千家の宗家の関係だったかもしれませんが)のお庭に、ある泉があって、この京都の地下水の水が減ると水位が下がり、時には涸れることもある、というのを聞きました。その家は確か、地下の水が十分にあるのかどうかを確かめるというお役目を(天皇家から?)与えられていたような、そんな感じだったと思います。そして、その水位が近年、下がっている、時にほとんど水がなく涸れているのだと。
さらに、京都の町屋からお豆腐屋さん・湯葉屋さんが減り、その理由も清浄な地下水が得られなくなったからだというお話を聞いたとき、いつかこのことを書きたいと、ずっと思っていた。
古代のあらゆる都市で、水の問題は大きな問題だった。あのマチュピチュにしても、アンコールワットにしても、灌漑についての人智は計り知れないものがあります。イタリアのナポリやアルベロベッロもしかり。

そしてもう一つ。親が子を思う気持ち。
これもテレビ番組で恐縮ですが、鶴の北帰行をやっていて、群れの一羽が足をけがして飛べなかったんですね。そうしたら、群れがみんないつまでも飛ばない。
季節はもうギリギリ。これ以上待ったら渡れないというぎりぎりになっても、何回かトライしながらも怪我の具合が悪いうちはみんなで待っている。
しかも、オシドリってラブラブに見えるけど、『おしどり夫婦』はまやかしで、いつも相手を変えているそうですが、鶴は本当に添い遂げるそうで、どちらかが死ぬまで相手を変えないのだとか。
同じ鳥でもこんなに違うのね…と驚きつつも、もう頭の中はフル回転。
鶴ってすごい。親子愛もすごい。

【海に落ちる雨】に、真が某外国人マフィアに痛い目に遭わされた時、竹流が怒り狂って、周囲の迷惑顧みず戦争を始めそうになった…というエピソードが出てきます。
多分、親って、わが子が痛い目に遭ったら、なりふり構わず、周りの迷惑顧みず、守ってやるものだ、それは理屈じゃないぞ、という感じ。
だから、調査事務所の共同経営者、美和ちゃんは、この二人を見ていて『親子か兄弟か恋人か、どれがいちばん近いかというと親子』と言っていたのですね。実際は、どれも当てはまるような、あてはまらないような。

京都と水と龍。そして万葉集の風景。
もう詰め込んでしまえ!と思って出来上がったのがこの物語。
清明の雪 (参考文献一部)
ちなみに、この写真の中の本、『京都・水ものがたり』の表紙の写真、志明院の飛龍の滝です。

ついでに、眠れぬ夜の本『空海の言葉』から『迷悟』を引っ張り出してきて、物語は完成しました。
全文はこのようなものです。
『それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。真如、外に非ず、身を捨てて何くんか求めん。迷悟、我に在れば、すなわち発心すれば、すなわち到る。明暗、他に非ざれば、すなわち信修すれば、忽ちに証す。』(般若心経秘鍵)
この内容はもちろん空海のオリジナルではありませんが、空海がもっとも大事に思っていた言葉ではないかと思われます。

さて、現世に降りた、ちょっと俗世にまみれた聖僧のイメージが和尚さん。
和尚さんの言葉に、書きながら自分でも励まされていた気がします。
人はこれから自分がなっていくものにしかなれない、とか、人も神も10割の善はない、なればこそ善悪ある身を愛おしんで悪いことはございません、とか……
これはうちが浄土真宗で、いわんや悪人をや、の世界観がどっぷり身についているからなんでしょうね。でも、この和尚さんは禅宗のイメージですけれど。
二人を導く先導者の役割を担う、ちょびっとミステリアスな和尚さんですが、そのミステリアス度は次回にも持ち越されます。既に寝たきりになっておられますが、死に掛けた竹流の命を救うという……多分、三途の川で命のやり取りをしたに違いないと思われる……

哲学の道を歩く二人の『同行二人』のシーン、多分私の中でのクライマックスでしたが、やっぱり最後のキラキラシーンは見てほしいです。
本当に可能かどうか?
それはもう、あくまでも小説ですから(*^_^*)
でも、ここで、小説のタイトルと章題と内容が、全て溶け合って収束できていたなら、ちょっとは成功だったかな…(*^_^*)

さて、お暇なときに、少しずつでも、京都の水の物語、覗いて見ませんか?
あるいは、京都観光案内として読んでいただいても……嬉しいです(*^_^*)

Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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【物語を遊ぼう】12.本の装幀は芸術:夏目漱石初版本 

今回は、本というものが芸術であるというお話。

本の装幀のお話です。
最近は文庫本になるのを待って買うようになってしまったけれど、以前は単行本の時に装幀を楽しんで買っていたこともあったんですが……しかも、もう最近では電子図書なんて時代になって、装幀という概念自体がなくなってしまうのかもしれないと思うと、寂しいですね。

ブログで小説を発表していますが、そもそも書いた小説を確認するとき、やっぱり一度ならず印刷して、紙ベースで、しかも縦書きで確認するのが常です。
ついでに、とじ太くんという有難い簡易製本グッズで本にしてみたりもしています。もちろん味気ない姿ではありますが。
やっぱり紙がいいですよね。同人誌さんなどは、本当に良いと思います。
時々、うちの祖父がやっていたように、本を作ってみようかなと思う時もあるんですが……

うちにある本の中で最も私が大事にしているのが、夏目漱石の初版本の復刻版です。
もう20年以上前に、アルバイトと仕送りで生活していた大学時代に、月々3000円くらい、何年間かかけて購入しました。もうこれから先、こういう本職人はいなくなるから、と聞いて、無理してでも買いたいと思ったものです。

言葉よりも、今回は写真、ですね。
ほとんど語りのないまま、写真が並びます。すみません。本当は全巻、お見せしたいのですが。
草合
草合
まずは『草合』です。包む形の紙箱に覆ってあるその下から出てくるのは……
これはツワブキのようですが、この黒い部分、漆なんです。
本の装丁に漆。本当にこれは芸術のたまものに見えます。
夏目漱石
こちらは『道草』。左は箱ですが麻の布が貼られていて、表紙は紙ですが、絵が綺麗。

そして一番凝っているのが、この『吾輩は猫である』でしょうか。
夏目漱石は始めからこれをこんなに長編で書くつもりはなかったそうですが、あまりにも人気が出てしまったので長編になった。その読者や出版社の愛着が、こういう形になったのでしょうか。
吾輩猫2
上はまず、一番表のカバー、そしてそのカバーを取っても下のようにおしゃれな表紙が出てきます。
前・中・後編と3冊とも、それぞれ異なっていて面白い。
吾輩猫
もっと素敵なのは、この背表紙です。右がカバー、左が表紙のものです。表紙の背表紙(って変な言い方)がいいと思いませんか? 猫→ネズミ→魚、というのが素敵です。
吾輩猫
そしてこれはなんと、アンカット製本なのです。
(すみません、カット本ではなく、アンカット。カットして読むと覚えていた私の勘違いでした。)
下の写真のように、下半分の袋とじ状態です。これをペーパーナイフで切って読むのですね。いつか切りたいと思うけれど、もったいないのでそのままです。年取ったら、ちみちみと楽しみたいですね。
*追記:しかも天が繋がっているアンカット製本が多くて、地が繋がっているのは珍しいとか。この本は地が繋がっていて、天は切りそろえられていて金箔が施してあります。
吾輩猫1
本を開くと、こんな風に物語の世界に入り込んでいくことができます。挿絵も素敵ですよ。
吾輩猫
吾輩猫
しっかり文章を書きたいと思っていたのに、この本の前では何も言葉が無くなりますね。
ブログに文章を書きつけてはいますが、本の世界にはやっぱり心が躍ります。

最後に少し個人的な本を。
おじいちゃん
おじいちゃん
上の写真、表紙に出ている文字は決して本の題名ではありません。多分、何かの箱に書かれていた絵と文字がそのまま本の装幀みたいだったので、このように使ったものだと思います。そして薄い半紙に墨で書かれた文字と絵。祖父の直筆です。
この世に1冊しかない、世界中で私にとって最も大事な本かもしれません。


次回、『小説はストーリーかキャラか』……またご一緒に物語を遊んでください。

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Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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[雨28] 第3章 同居人の恋人たち(6)/本棚(3):信長コーナー 

調査事務所の共同経営者・美和とちょっといいムードの夜を過ごすのかと思ったら…
理由不明のまま不機嫌になった美和とはちょっと喧嘩モード。
そのまま翌日、竹流の入院先の病院へ行くと……




「今朝美和ちゃんが来て、えらい剣幕だったよ」
 真が病室に入るなり、竹流は面白そうに言った。
「美和ちゃんが来た?」
 今日の午前中は授業に出ると言っていたはずだった。
「お前相手に恋愛は無理だとか、女の気持ちが分かってないとか、ついでに俺がお前を過保護にしすぎてるからだとか、他人に渡す気がないなら先生が欲求不満にならないように毎日押し倒せとか、だから悪い女に捕まるんだとか」
 真は唖然と竹流の説明を聞いていた。
「そんなことを言いにわざわざ来たのか、あの娘は」
「よほど腹に据えかねたんだろう」

 真は料理の入ったタッパーを出した。今日ここに来る前に、竹流の銀座のレストランに寄ってシェフから受け取って来たものだった。ついでに、深い緑のガラスの小瓶も取り出す。
 一瞬で竹流が嬉しそうな顔をしたので、思わず渡しかけて引っ込めた。竹流は何て意地悪をするんだ、という顔で真を見た。
「おい、冗談だろう」
「舐めるだけの量にしては多そうだけど」
 竹流はふと楽しそうな顔をした。真をからかうときに見せる悪戯好きの子どもの顔だ。腫れが引いた竹流の顔は、いつもの整った綺麗な顔だった。少し面やつれて頬の肉が落ちたように思うが、額にかかる軽くウェーヴした絹のようなくすんだ金の髪も、見透かすような青灰色の目も以前のままだ。
「手が不自由なんで、口移しで飲ませてくれるんだな」
「馬鹿言え」
 真のほうも、一緒に住むようになった二年半の間に、このからかいをやり過ごすことを覚えた。
「じゃあ寄越せ。グラッパだろう。この間フィレンツェから送らせたんだ。オーナーとしては味見しとかないとな」
「それって、強い酒だろう。怪我が化膿するぞ」
「ちょっとだけじゃないか」

 言い合っているところに看護師が入ってきたらややこしいと思って、ミニチュアボトルを竹流に渡す。竹流は満足そうにその瓶を観賞していたが、ちょっと訴えるように真を見た。
 その綺麗な瞳の訴えかけるような色合いに、思わず真は反論するのも忘れて瓶を受け取り、蓋をひねって開けてやった。確かに、瓶の蓋をひねるような両手が必要な作業は、とても今は無理そうに思えた。
 竹流は開いた瓶を受け取って、その口から匂いをかいだ。真があっと思ったときには、もう飲み干している。
「さすがに、アンテノーリのグラッパだ」
 なにやら満足げに頷いて、竹流は空の瓶を真に渡した。
「で、珍しく昼間から来るなんて、どうしたんだ? お前のほうも美和ちゃんとの一件を俺に報告に来たわけじゃあるまい?」

 真はようやく椅子に座った。涼子はあれから来ている気配はない。竹流自身も随分身体が楽になったのか、身体を起こしている時間が長くなっているし、高熱が出なくなって、少しは歩いたりもしているようだった。怪我のせいでいくつかの不自由があることを別にすれば。
「昨日、マンションに電話があった」
「誰から?」
「あんたの仲間の誰かだ。心当たりはあるだろう」
 竹流は一瞬息を飲んだようだったが、真から視線は外さなかった。さすがに表情が変わったことを、真は見逃さなかった。もっとも、竹流のほうは、真にその変化を見透かされたことを隠し立てするような、怯んだ気配はなかった。低い、穏やかな声で問い返す。
「何か言っていたのか、そいつは」
「カタはついたからもう手を出すなと、そうあんたに伝えてくれと。あんたが生きてるのか、と聞いた」

「そうか」
 竹流は一言、短く言っただけだった。話を切り上げようとする気配が満ちているし、表情が硬い。この男がこういう顔をする時は、一切説明をする気はないし、何も聞くなというサインだということは分かっていた。だが、この状況で何も聞かないでいるという選択肢はない。
「話せ」
「何をだ」
 声まで硬くなっている。
「美和ちゃんが昨日ここに面会に来ていた男に関わるなと忠告されたらしい。それはあんたが言わせたのか。俺にあててか?」
 暫く黙っていた竹流が、ゆっくりとベッドから出た。真は思わず彼の身体を支えようとしたが、竹流はそれを手で制した。身体を起こすのは不自由ではなくなったのだろう。
「屋上に行こう」
 屋上には喫茶室があって、植え込みと背の高い柵に囲まれた庭がある。隣の棟の屋上にはテニスコートがあって、黄色いボールが跳ねているのが見える。今日は天気がいいのでサンルーム様になった喫茶室はほぼ満員で、屋上の庭のベンチがかろうじてひとつ空いているだけだった。
 彼らはそこに座って暫く黙っていた。

「これはお前には関わりのないことだ」
 随分間を置いてから竹流が言った。
「そんな怪我で、何ができる?」
「お前が首を突っ込まなくても助けてくれる連中はいる」
「そうか? みんな、あんたが助けを求めて来ないんで、イライラしてるみたいだったけど」
 竹流は苦笑いをした。
「昇のやつだな」
 真はそれには答えなかったが、代わりに言った。
「俺が、あんたの腕の代わりになれる」
「そんなことはしなくていい」竹流の返事は早かった。「お前が手を出すようなことは何もない。いや、どんなことであれ、俺のような者がすることにお前が関係する必要はない」
 何だよ、その言い分は、と思った。
「それで? あんたがこうやって酷い状態で帰ってくるのを、俺は心配して待ってるだけか。俺はあんたの女たちとは違う」
 真が思わず言ったのは本音だった。女たちがどうであっても、竹流がどう思っていようとも、同じような扱いをされるのは真っ平だった。それに、自分はもう子どもではない。いつまでもこの男に保護者の顔をされているのは幾らか気に食わない。

「心配などする必要はない。もうカタがついたと、そいつも言ってただろう」
「とてもそんなふうには聞こえなかった」
 竹流はそれには黙ってしまった。
 時折、自分たちをちらちらと見る周囲の人の視線を感じるが、それは単にこの同居人が目立つからか、それともあの雑誌の読者が何かを想像をしているからか、真には分からなかった。
「せめて、あんたをこんな目に遭わせた奴が誰か言え」
 真は自分で何をかっかしているのか、と思った。竹流は彼自身の右手を左の手で庇うように握り、暫くは黙っていた。その瞳は青い空の深みを吸い込んだように静かで、今は何の感情も読み取れない。

 真が今日医者に確認したところでは、その右手は相変わらず感覚も曖昧のようだった。全く動かないわけではないようだが、何よりも痛み刺激に対しても反応が鈍いと聞いた。少なくとも細かな作業ができるような手ではなかった。そのことを竹流自身は聞いているのかどうか、そしてそれについてどう考えているのか、竹流のほうからは何も言わないし、何よりその手が彼の仕事における自尊心も何もかもを支えていることを考えれば、真からは何も聞けそうになかった。
「そんなことを聞いてどうする」
「いいから話せ」
 竹流は真の顔を、綺麗な青灰色の目で見つめた。
「覚えていない」
「冗談だろ」
「本当だ。だからもう、首を突っ込むな」
「あんたがそうやって突っぱねても、誰も納得してない。それにもし」言葉を切った真の顔を、竹流が何かを断ち切るように鋭く見た。これ以上何も言うなという視線に逆らうように、真は竹流の目を見返し、低く重い声で続けた。「こんなことがローマの叔父さんに知れたら、あの人は相手をただじゃ済まさないぞ」

 さすがにそれには竹流は反応した。
「お前、それ以上余計なことを言うと、ここでその口を塞ぐぞ」
 真は竹流を見つめていた目を逸らさなかった。
「高瀬さんが留守をしてるのは、どうしてだ」
「知らん」
「あんたの命令でなくて彼が家を空けるものか。それとも叔父さんの用事か」
 真の言葉が終わらないうちに、竹流はその重い右の手を真の頬に押し当ててきた。
「本当に、口を塞ぐぞ」
 竹流が屋上に自分を連れてきたのが、話が煮詰まるのを避けたからだと分かった。
「脅したって無駄だ。だけどこれだけは言っておく。あんたが黙っていればいるほど、皆尚更追及する。誰かがまた怪我をするかもしれないぞ。俺たちが何も言わなくても、叔父さんの耳にだっていつ入るか知れない」
 竹流は右の手を下ろした。
「明日まで待ってやる。ちゃんと話せよ」
 真は捨て台詞のように言って立ち上がった。一瞬、周囲の視線が痛いように思ったが、気のせいにした。竹流はベンチに座ったまま立ち上がる気配はなかったが、真は彼を残して屋上を横切り、サンルームの喫茶店の扉を開けた。
 一瞬、振り返ろうかと思ったが、やめた。


 真が事務所に戻ると、美和が大学から戻ってきていた。彼女の機嫌が悪いのは、おろおろしている宝田の様子でわかった。
 荒らされた事務所の片付けは、今朝早めに事務所に来て宝田と一緒に済ませていた。それでも、早起きの宝田が事務所の入り口で大慌てをする時間には間に合わなかった。宝田は、今日は不運な日だと思っているだろう。
 その上、病院から戻ってきた真のほうも、美和に輪を掛けて機嫌が悪かった。それでも宝田は、美和より真のほうがまだ話しかけやすいと思ったのか、小声で、何かあったんすか、と尋ねてきた。真は首を横に振っただけだった。
 その時真の機嫌を損ねていたのは、勿論竹流が頑なに口を開かなかったことによるのだが、それだけではなかった。
 竹流はローマの叔父の名前が出た瞬間に顔色を変えた。
 それがどういう意味かはよく分かっていた。彼にとってその叔父がいかに重い存在であるかということだ。そしてその叔父にとっても、竹流は大事な跡取りだ。
 以前一度だけローマに連れて行かれたとき、あの男はヴァチカン寺院の礼拝堂で真に言った。
 今は君に預けますが、我々は彼を諦めることはできないのです。
 あの静かで穏やかな声は、今も耳の底に残っている。真の是非など確かめることのない声だった。

 ちょっとばかり鬱な気分に襲い掛かられていた時、突然よく通る声が耳に飛び込んできた。
「この微妙な雰囲気は何?」
 開けっ放しの事務所のドアから声を掛けたのは添島麻子刑事だった。
 何かのきっかけを待っていたかのように、美和が自分のデスクの上の書類をポンと勢いよくまとめ、叩くように置いて事務所を出て行こうとした。
「美和さん、どちらへ」
 宝田が困ったように声を掛ける。
「おしっこよ。ほっといて!」
 美和は立ち止まったが振り返りもしなかった。ちらりとドアのところの添島刑事を睨んで、そのまま事務所を出て行く。
「何も進展はありませんよ」
 真は添島刑事に声を掛けた。竹流から何か聞きだせと言われていた件だろうと思ったが、警察で勝手に調べてくれ、という気分だった。
「どうせあのトウヘンボク、話をはぐらかせてるんでしょ。それで、あの子とも進展なし?」
 添島刑事は出て行った美和の方を示した。宝田が注意深く女刑事の顔色を窺っている。
「何の話ですか」
「あら、今一緒にマンションに泊まってくれているんじゃないの?」
 それを聞いて宝田がびっくりしたような顔になる。
「え? どういうことっすか。美和さんと? でも美和さんには」
「そんな訳がないだろう」
 真が珍しくいらついた声で言ったからか、宝田はひるんでしまった。その宝田の顔を見て刑事が同情する。

「可哀想でしょ。そんな言い方しちゃ。あなたがイラついている訳は知れてるでしょうけど」
「イラついてる訳じゃありません」
 宝田はおろおろした気配を隠しもせず、真と添島刑事の会話を聞いている。
「そう? 私はてっきり澤田顕一郎のことかと思ってたけど」
 真は思わず手を止めて、添島刑事を見た。
「どういう意味です?」
「澤田顕一郎が内閣調査室に何か言ってきたみたいよ。それも、あなたの事で」
「何の話ですか」
「正確には、あなたじゃなくてあなたの叔父さん、じゃないわね、あなたが自分の戸籍をどのように理解しているかってことにもよるけど」
 真は、添島刑事の話している内容にどう返事をすればいいのか、判断できなかった。
「叔父にしても、日本のお偉いさん方に何も関わりはないと思いますけど」
 答えた声が上ずっていた。
「今まではそうね。でも、あなたが全部把握しているかどうかは知らないけど、彼は三つくらい肩書きを持っている」
 そうか、自分以外の他人がこんなにも自分の身上について知識を持っているなどということは、今まで考えたこともなかった。

「俺は叔父が何をしているかよく知りません。そのことで澤田顕一郎に絡まれても答えようがありません」
 添島刑事はちょっと肩をすくめた。
「ある人が、あなたがどう考えているのか気にしているのよ。それで私に行ってこいって」
「ある人?」
「澤田が聞いてきたからでしょうね。澤田は面白いことを知った。自分が世話をしている女の恋人が、アサクラタケシの息子で、父親と同じように大学時代から優秀な研究者になるかもしれないって一目置かれていて、アメリカに留学の話があって、その裏でアメリカの某国家組織が絡んでいたというような話を」
「何の話ですか」
 添島刑事はお邪魔するわね、と宝田に断って、部屋の中央の応接セットのソファに座り、脚を組んだ。
「エネルギーの研究をしてたでしょう。ちょっとマニアックな教授があなたを見込んでアメリカに留学させようとしていた」
「俺は三年足らずで大学を辞めたんですよ」
 半分馬鹿馬鹿しくなって真は呆れたように言った。

「嫌な予感がしたから? 向こうの国ではあなたを受け入れる準備ができていた。某工科大も、あるいはNASAも、ワシントンも。あなたが来たらCIAはアプローチするつもりだった。親子二代にわたって優秀な工作員を作るために。あの組織もいまや青田刈りに必死だというし、何も経済発展著しい快適な時代に、好き好んで命を差し出すような危険な仕事に就こうなんて若者はなかなかいないそうよ。で、あなたは知っていたんでしょ? だから大学を辞めた。それでこんなところでこんな仕事をしている」
 真はちらりと、おろおろしている宝田を見た。宝田は真と目が合うと、助けを求めるような顔つきになった。宝田がアルファベットの並ぶ話の内容を理解しているとは思いがたかったが、尋常でないことは分かっただろう。
「あなたの言い方だとまるで俺がやむを得ずこんな仕事をしているみたいですけど、俺は望んでこうしているんです。それから留学の話を断ったのは妹を一人にするわけにはいかなかったからで、そういう複雑な事情は俺の知ったことではなかった。……でも、つまり澤田代議士は、その下手なハードボイルド小説のような話を信じているということですか」
「そのようね」
「それに大体あり得ないでしょう。同居人ならともかく、俺はどう転んだって一般人です。彼らに何の得もない」
 添島刑事は肩までは届かない短いストレートヘアの前髪をかきあげた。
「あなた自身にあろうがなかろうが、どうでもいいのよ。この素敵なハードボイルドが本物だという前提で話をするなら、彼らが欲しかったのはあなたの父親を繋いでおく太い鎖、特別な身体能力を持った人間のDNAでしょうから。それに、もしもあなたとあなたの同居人が本当に特別な関係にあるのなら、もう一つ面白い釣りができる。ヴォルテラの大親分という」

 真は溜息をついた。添島刑事は何だってこんなことを、よりにもよってこんなところで話しているのだと思った。いや、あるいは真が竹流から何も聞き出せないでいることにいらついているのかもしれない。
「アメリカ人がイタリア人なんかに興味を持ちませんよ」
「どうかしら。あなたはヴォルテラの何を知ってるの? あのイタリア人がアメリカ国内のマフィアの弱みをどれだけ握って、どれほど恩義をかけているか、それどころかカソリックの総本山の裏の顔を全て引き受けている、それにあの男の勢力の一部は中東にある。アメリカ人が興味を持っているのはそれでしょうね」
「竹流は、今はローマに帰る気はない、でしょうけど」
 そう言ったのは精一杯の気持ちだった。
「それは彼の希望というだけよ。ヴォルテラの家は次代当主を定めたら、決して讓らないという特別な事情を持っている。チェザーレ・ヴォルテラという男は、もしその気になればあなたごと抱え込むわよ」
 真はしばらく添島刑事の顔をしみじみと見つめていた。あるいはこの女刑事は、真に警告しに来たのかもしれない。
「つまり、それが俺の値段というわけですか」
「値段?」
 添島刑事が怪訝そうに言ったので、真は首を横に振った。それは楢崎志穂が言った言葉で、この刑事には何の関係もないはずだった。
「それで、澤田顕一郎はあなた方の敵ですか、味方ですか」
 真は添島刑事の顔を見つめた。添島刑事はしばらく言葉を選んでいるように見えた。
「どうかしらね。ただ、澤田が何か特別なことを考えてるんじゃないかと思っている人もいるわ。私には分からないけど」
「あなたの仕事は? 澤田を見張ることですか。それとも、大和竹流を?」
「あなたを見張っているのかも知れないわよ」
「冗談でしょう」
「あなたと、香野深雪を」
 真は心のうちを捕まれたような気持ちで、添島刑事を見返した。



次回、第3章最終回です。本日のおまけは、本棚の一角。


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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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