【死者の恋】(5)山背
【死者の恋】(5)をお届けいたします。
調査事務所所長の真の依頼人は高校生の島田詩津。探して欲しいというのは、詩津の手元に骨の入った小瓶を残していった足の悪いおばあさん。その人とは岩木山の登山道で会ったというのだ。詩津と一緒に弘前へ向かう予定だったが、詩津は待ち合わせの上野駅には現なかった。
たまたま津軽に用事があるという同居人で修復師の大和竹流と弘前までやって来た真であったが、岩木山を見れば、とても足の悪い老人に登れるような山ではない。しかも、詩津がその人に会ったという日には、まだ岩木山スカイラインは閉鎖されていたという。詩津は真に嘘ばかり話していたようなのだ。
そして約束をすっぽかした島田詩津は、憧れのロック歌手・向井嶺が出演しているライブハウスがあるビルの屋上で寝転がっていた。真には借りがあると思っている嶺は、ふてくされる詩津を連れて弘前へ行くことを決めた。
詩津は、病気の兄・祐一のことで悩み、家族とも上手くやっていけないでいた。周りの誰も信じられない詩津は、一人ぼっちでこの世界と戦っていると思っていた。そして、嶺だけが気持ちの支えだったのだが……
あれからタクシー会社とバス会社をあたってみたが、ここしばらくは足の悪い老いた女性を乗せたことはない、少なくとも記憶にはないという答えが返ってきた。
大体、本当はいつのことだったのか、それさえも分からないのだから、聞かれた方も困惑していたようだし、答えようがないのかもしれない。
竹流は根気よく真に付き合ってくれている。一体、何を考えているのか、タクシー会社で『担当の者』を窓口で待っている時に、ちらりとガラスの向こうの駐車場に停めた軽トラックを振り返りながら思いを巡らせる。
竹流は軽トラックから降りて、ドアに凭れたまま、岩木山の見える方向の空を見上げている。
視線をタクシー会社の事務所内に戻して、従業員が内ポケットから煙草を取り出すのを見て、自分の内ポケットの中のものを思い出した。それで、なるほどと思い至った。
骨か。
あれを見てから竹流は真に付き合うことに決めたのではないかと思う。例のごとく、彼の過剰な保護者意識を刺激してしまったに違いない。
だが、真の方はこれを初めて見た時、いつものように『何かを感じた』わけではなかった。
この骨は静かだった。静かで、こうして内ポケットに入れていても、なんの気配も感じない。何も語りかけてこない。
少なくともこれで数日はこの骨と一緒に過ごしているのだ。いつもなら、何者かが夢枕に立ってもおかしくないのだが、その気配もない。だから、真は実は始めこれがレプリカではないかと思った。あるいは『気』の少ない動物のものかもしれないとも思った。だが、訪ねた先の骨学者は、間違いなく人間の骨だと言ったのだ。真をかついでいるとも思えなかった。
もちろん、真の方も商売に使えるほどの特別な力があるというわけでもない。何かの拍子にたまに感じるというだけで、そもそも歳を経るごとに少しずつ自分の中の過敏な神経が大人しくなっていっているのかもしれないと思う。あるいは、あの男が傍にいる、つまり同居するようになって、そういう過敏な神経が鎮められているのかもしれない。そうであったら有難い気もするし、一方では残念な気もするが、いつまでも幽霊やら妖やらとお付き合いしているわけにもいかない。
とは言え、少しくらい何かを感じそうなものなのだ。
ある意味では、静かすぎて逆に気になる。
タクシー会社の扉を開けて出ていくと、竹流が真を振り返った。
「とりあえず、山背に行くか。もしかすると、あっちが正解かも知れないぞ」
竹流の言葉は、まさに正解だった。
『山背』は早い時間だったにも関わらず、満席に近かった。カウンターに六人、テーブル席六つの店だ。土間になった部分で三味線の生演奏を聞かせ、時には客も演奏や唄を手伝う。というよりも、大方は強引に哲さんに舞台に引き上げられる。この店のオーナーはすでに他界しているが、一番弟子だった哲さんが店の仕切りを受け継いでいる。哲さんの語りが軽妙で、金の相談は別にして(いや、本当に困ったら何とかしてくれるのかもしれない)、人生相談、恋愛相談始め、よろず相談処ともなっている。ちなみにこの店から生まれたカップルは既に両手両足の指の数を越えているという。
そう、飲み屋は情報や人の流れの集積地かつ発信基地のようなものだ。しかも、田舎の町では、誰かの知り合いは誰かの知り合いで、伝手を辿って行けばかなり多くの人間の情報に行き当たる。しかも、哲さんはこの町の飲食店組合の世話役であり、家は岩木山のふもとのリンゴ農園であるから農業関係者の大方とは知り合いで、なおかつ多くの農家は兼業で、一家の誰かが役所勤めやタクシー・バスの運転手なんてのがざらにいるのだ。
「何だべ、そんなこた、なして先にオレに聞かねぇべ」
この一言で、あちこちに情報が発信された。
真がするべきことは、待つことだけだった。
待っている間は哲さんの三味線を楽しむ時間になった。
哲さんの三味線は泥臭い。そして津軽の匂いがする。特によされ節は最高だった。
三枚撥の微妙な間合いは、やはり津軽に生まれ、津軽に住んで、津軽で採れたものを食べている人間にしか出せない『間』だ。北海道に育ち、しかも北海道でも沿岸部の町の空気を吸ってきた真も、言語的には東北弁に近いリズムで話すことができる。東京に長く住んで、すっかり東京言葉に慣れたとは言え、幼いころに身体にしみ込んだリズムは、少し気を許すと腹の中から湧き出してしまうのだ。それでも、それは津軽のリズムではない。三味線を叩いている時だけは、津軽人になりたいと思うことがある。
尤も、真の場合は、民謡歌手でもある祖母の奏重の伴奏をすることが主なので、三味線弾きたちの切実な思いを半分も理解していないかもしれない。
店の若者がじょんから節やリンゴ節をやった後で、哲さんのよされ節を聴きながら地元の酒、田酒を飲む。それは、酒があまり飲めない真にとってもリラックスした極上の時間になっていた。
その時、微かに、本当に微かに、内ポケットで小さな音が鳴った気がした。
ふと気になってポケットを押さえてみたが、その時にはもう『骨』は静まり返っていた。気のせいだったのかと、もう一杯田酒を口に含む。
竹流はすっかりここの従業員とは知り合いだったらしく、注文しないままに郷土料理が次々と運ばれてきて、その度に彼らと個人的な会話を交わしている。
地元の普通の主婦のようなオバサンが哲さんに呼ばれて、椅子から立ち上がった。客の一人だが、当然哲さんの知り合いだろう。哲さんの傍に立ち、太鼓を叩くべき人がみな台所と給仕で忙しいのを見て取ると、自分で太鼓の撥を取った。二言三言打ち合わせたかと思うと、哲さんが三味線を持ったまま立ち上がる。
「小原だべ。真、おめ、三味線弾け」
いや、それは……と言いかけたのを、哲さんが目だけで却下する。哲さんの得意技のひとつが無茶振りなのだが、何故か誰も拒否できないのが不思議だった。
近くに座っていた客が、なんだと哲さんに問いかける。
「こないだ唄っこ聴いたべ。奏重ちゃんの孫さ」
哲さんの答えに、客は、あぁあぁ北海道の、帯広だっけ、と確認する。
「浦河だ」
「んじゃ、これが例の色っぺぇ小原を弾く孫息子だべか」
どこでどんな話になっているのか恐ろしいが、考えてみれば、哲さんの有難い協力のおかげで、少なくとも『足の悪いおばあさん』の存在が確認できるかもしれないのだ。ここで哲さんの投げたパスを断るわけにはいかない。
竹流にもさっさと行って来いと目と顎だけで命じられて、結局真は立ち上がった。哲さんから指摺りを借りて左の親指と人差し指にひっかけ、三味線と撥を受け取る。哲さんは代わりに太鼓にまわる。唄い手のオバサンに節と本数を確認し、本調子、三本に軽く糸を合わせた。
そして、ひとつだけ息をつき、軽く掛け声を発して糸合わせを始めた時だった。
舞台からは丁度正面にある店の扉が開いた。一瞬、外の強い風と車の音が巻くように店の中に吹き込んで来る。
真は糸合わせを続けながら、入ってきた嶺と視線を交わす格好になった。
ひょろりと背が高く、目は時々クスリのせいか、それ以前に目つきが悪いだけなのか、かなりいかれている。この間まで肩まで伸ばしていた髪を、多分衝動的に切ったのだろう。寝癖なのか、ポマードで固めたものなのか、つんつんに突っ立っている。そして、鎖がやたらとついた皮ジャンに洗い晒しのジーンズ。この店にそぐわないことだけは確かだ。
嶺は真を見て、お、という顔になり、それからいつものように投げやりで蓮っ葉な態度で肩をいからせ、けっと吐き捨てるような顔を作った。
嶺がこういう顔を作る意味は、真には何となく分かっている。
だが、いきなり嶺が扉の向こうの外へ腕を伸ばしたとき、真は危うく立ち上がりそうになった。
島田詩津。
上野駅で待ち合わせたはずだったが、約束をすっぽかした女子高生が、嶺に腕を引っ張られ、『山背』に入ってきた。真と目が合うと、びくっと体を震わせ、いったん目を逸らす。
嶺は詩津を店に引き入れた後、店の従業員のいらっしゃいませに何か言葉をかけた。真の視線の先を追いかけた竹流と嶺の目が合ったらしく、嶺が軽く頭を下げた。下げた、というよりも頷いたという方が適切だ。
従業員は連れだと理解したようだった。
嶺に背中を押されるように、詩津はまっすぐ真の近くのテーブルまで歩いてきた。紺のスカートに淡いピンクのモヘアのセーター、スカートと同じ生地らしい紺の上着、軽くパーマをかけているらしい髪は、店の人工的な照明の下でも明るく見える。唇をきっと固く結び、目は真から外さないまま、人形のように促されるまま椅子に座った。
睨まれる筋合いはないと思ったが、嶺と軽く挨拶を交わした竹流が詩津をちらりと見て、それから真に向かって、とりあえず弾けというような顔をしたので、ようやくほっと息をついた。
津軽小原節。祖母の奏重が得意としている、津軽五大民謡のひとつだ。金沢の芸妓の娘として生まれた奏重が養女に出された先が、民謡の師匠の家で、どうやらこの唄には祖父との波乱に満ちた恋物語が絡んでいるらしく、唄う祖母は年齢を全く感じさせない色気を醸し出す。おばあちゃんと孫の競演を他人に見せるのが嬉しくて仕方がない奏重のために、真は祖父の代わりによく伴奏を務めた。
真が弾き始めた途端に、ざわついていた店の中が静まり返っていた。この異邦人に津軽の心がわかるまいという思いと、やれるものならやってみなという好奇心と、そして多分祖母の名前にまつわる期待のためだ。だが、曲が滑り出したとたん、そんな外部のことはどうでもよくなった。
一体いつ、この唄の中にある、女の色気と心意気を心で感じられるようになったのか、自分でも覚えていない。前奏部分を自分のアレンジで弾きながら、ふとこちらを見た竹流と目が合い、やがて真は目を閉じた。三の糸から一の糸まで指を滑らすとき、ふと自分でも何かとんでもない気を放出しているように思うときがある。下世話な言い方をすれば、感じるのだ。そして、どうやらそれが聴いている人に伝わっているのではないかと思う。奏重の声と真の三味線は、絡み合って増幅する。
もう心は落ち着いているはずだったのに、どうやら唄には感情を煽りたてる力がある。
考えてもどうにもならないと分かっていることだ。
一の糸を叩くとき、想いを断ち切ることができると思う。二の糸には人の心の隠された色が潜んでいるように思う。そして、三の糸を奏でる時、どうしてもこの心の中にある何かが、零れ出すような気がしてしまう。
目を開け、唄い手を見ると、平凡な田舎のオバサンとしか見えなかった女性の目の中に、強い光が見えた。オバサンは真の合図ににこりと笑う。
自らの掛け声で迷いを断つと、哲さんの太鼓が追いかけてくる。
さぁあ~あ~あ~、あ、あ、さぁあ……
唄の始まりからはいっそう、真の気持ちも撥捌きも冴えた。それはオバサンの声が見事だったからだ。奏重とはまた違う魅力で、重みのある、腹の底から響くような声だった。
その時。
再び、真の内ポケットで、小さく震えが起こっていた。身体ごと、震えるような振動になる。何が起こっているのか、しばらくの間理解できなかった。
真はオバサンを見、そしてさらに詩津を見た。
詩津が何かに惹きつけられたように真を見ていた。
オバサンの声と、詩津の目と、真が撥を打ち付ける三味線の皮と、そしてポケットの中の骨は、今、完全に共鳴し合っていた。
ちょっと三味線シーンを書いてみたくなって、予定外に長くなりました^^;
動物愛護協会の方に怒られそうですが、津軽は猫ではなく犬です。
だからあの野太い音が出ます。
そして弾く、というより、叩きます。打楽器のようなものです。
よくカラオケの絵面に出てきますが、海辺で吹雪の中、弾くことなどできません。
皮が湿気て破れてしまいます。
五大民謡というのがあって(じょんから、よされ、あいや、小原、三下がり)、それぞれ調子(三本の糸の合わせ方)や撥づけが違います(西洋音楽的には拍子?三拍子とか四拍子とか…かな?)。
でも和楽器には、言葉では表せない『間』と言うのがあって、これは津軽弁のように弾く、というといいのでしょうか。
うん、なかなか説明しづらいですね……
お暇でしたら、You Tubeなどで聴いてみてください。



調査事務所所長の真の依頼人は高校生の島田詩津。探して欲しいというのは、詩津の手元に骨の入った小瓶を残していった足の悪いおばあさん。その人とは岩木山の登山道で会ったというのだ。詩津と一緒に弘前へ向かう予定だったが、詩津は待ち合わせの上野駅には現なかった。
たまたま津軽に用事があるという同居人で修復師の大和竹流と弘前までやって来た真であったが、岩木山を見れば、とても足の悪い老人に登れるような山ではない。しかも、詩津がその人に会ったという日には、まだ岩木山スカイラインは閉鎖されていたという。詩津は真に嘘ばかり話していたようなのだ。
そして約束をすっぽかした島田詩津は、憧れのロック歌手・向井嶺が出演しているライブハウスがあるビルの屋上で寝転がっていた。真には借りがあると思っている嶺は、ふてくされる詩津を連れて弘前へ行くことを決めた。
詩津は、病気の兄・祐一のことで悩み、家族とも上手くやっていけないでいた。周りの誰も信じられない詩津は、一人ぼっちでこの世界と戦っていると思っていた。そして、嶺だけが気持ちの支えだったのだが……
あれからタクシー会社とバス会社をあたってみたが、ここしばらくは足の悪い老いた女性を乗せたことはない、少なくとも記憶にはないという答えが返ってきた。
大体、本当はいつのことだったのか、それさえも分からないのだから、聞かれた方も困惑していたようだし、答えようがないのかもしれない。
竹流は根気よく真に付き合ってくれている。一体、何を考えているのか、タクシー会社で『担当の者』を窓口で待っている時に、ちらりとガラスの向こうの駐車場に停めた軽トラックを振り返りながら思いを巡らせる。
竹流は軽トラックから降りて、ドアに凭れたまま、岩木山の見える方向の空を見上げている。
視線をタクシー会社の事務所内に戻して、従業員が内ポケットから煙草を取り出すのを見て、自分の内ポケットの中のものを思い出した。それで、なるほどと思い至った。
骨か。
あれを見てから竹流は真に付き合うことに決めたのではないかと思う。例のごとく、彼の過剰な保護者意識を刺激してしまったに違いない。
だが、真の方はこれを初めて見た時、いつものように『何かを感じた』わけではなかった。
この骨は静かだった。静かで、こうして内ポケットに入れていても、なんの気配も感じない。何も語りかけてこない。
少なくともこれで数日はこの骨と一緒に過ごしているのだ。いつもなら、何者かが夢枕に立ってもおかしくないのだが、その気配もない。だから、真は実は始めこれがレプリカではないかと思った。あるいは『気』の少ない動物のものかもしれないとも思った。だが、訪ねた先の骨学者は、間違いなく人間の骨だと言ったのだ。真をかついでいるとも思えなかった。
もちろん、真の方も商売に使えるほどの特別な力があるというわけでもない。何かの拍子にたまに感じるというだけで、そもそも歳を経るごとに少しずつ自分の中の過敏な神経が大人しくなっていっているのかもしれないと思う。あるいは、あの男が傍にいる、つまり同居するようになって、そういう過敏な神経が鎮められているのかもしれない。そうであったら有難い気もするし、一方では残念な気もするが、いつまでも幽霊やら妖やらとお付き合いしているわけにもいかない。
とは言え、少しくらい何かを感じそうなものなのだ。
ある意味では、静かすぎて逆に気になる。
タクシー会社の扉を開けて出ていくと、竹流が真を振り返った。
「とりあえず、山背に行くか。もしかすると、あっちが正解かも知れないぞ」
竹流の言葉は、まさに正解だった。
『山背』は早い時間だったにも関わらず、満席に近かった。カウンターに六人、テーブル席六つの店だ。土間になった部分で三味線の生演奏を聞かせ、時には客も演奏や唄を手伝う。というよりも、大方は強引に哲さんに舞台に引き上げられる。この店のオーナーはすでに他界しているが、一番弟子だった哲さんが店の仕切りを受け継いでいる。哲さんの語りが軽妙で、金の相談は別にして(いや、本当に困ったら何とかしてくれるのかもしれない)、人生相談、恋愛相談始め、よろず相談処ともなっている。ちなみにこの店から生まれたカップルは既に両手両足の指の数を越えているという。
そう、飲み屋は情報や人の流れの集積地かつ発信基地のようなものだ。しかも、田舎の町では、誰かの知り合いは誰かの知り合いで、伝手を辿って行けばかなり多くの人間の情報に行き当たる。しかも、哲さんはこの町の飲食店組合の世話役であり、家は岩木山のふもとのリンゴ農園であるから農業関係者の大方とは知り合いで、なおかつ多くの農家は兼業で、一家の誰かが役所勤めやタクシー・バスの運転手なんてのがざらにいるのだ。
「何だべ、そんなこた、なして先にオレに聞かねぇべ」
この一言で、あちこちに情報が発信された。
真がするべきことは、待つことだけだった。
待っている間は哲さんの三味線を楽しむ時間になった。
哲さんの三味線は泥臭い。そして津軽の匂いがする。特によされ節は最高だった。
三枚撥の微妙な間合いは、やはり津軽に生まれ、津軽に住んで、津軽で採れたものを食べている人間にしか出せない『間』だ。北海道に育ち、しかも北海道でも沿岸部の町の空気を吸ってきた真も、言語的には東北弁に近いリズムで話すことができる。東京に長く住んで、すっかり東京言葉に慣れたとは言え、幼いころに身体にしみ込んだリズムは、少し気を許すと腹の中から湧き出してしまうのだ。それでも、それは津軽のリズムではない。三味線を叩いている時だけは、津軽人になりたいと思うことがある。
尤も、真の場合は、民謡歌手でもある祖母の奏重の伴奏をすることが主なので、三味線弾きたちの切実な思いを半分も理解していないかもしれない。
店の若者がじょんから節やリンゴ節をやった後で、哲さんのよされ節を聴きながら地元の酒、田酒を飲む。それは、酒があまり飲めない真にとってもリラックスした極上の時間になっていた。
その時、微かに、本当に微かに、内ポケットで小さな音が鳴った気がした。
ふと気になってポケットを押さえてみたが、その時にはもう『骨』は静まり返っていた。気のせいだったのかと、もう一杯田酒を口に含む。
竹流はすっかりここの従業員とは知り合いだったらしく、注文しないままに郷土料理が次々と運ばれてきて、その度に彼らと個人的な会話を交わしている。
地元の普通の主婦のようなオバサンが哲さんに呼ばれて、椅子から立ち上がった。客の一人だが、当然哲さんの知り合いだろう。哲さんの傍に立ち、太鼓を叩くべき人がみな台所と給仕で忙しいのを見て取ると、自分で太鼓の撥を取った。二言三言打ち合わせたかと思うと、哲さんが三味線を持ったまま立ち上がる。
「小原だべ。真、おめ、三味線弾け」
いや、それは……と言いかけたのを、哲さんが目だけで却下する。哲さんの得意技のひとつが無茶振りなのだが、何故か誰も拒否できないのが不思議だった。
近くに座っていた客が、なんだと哲さんに問いかける。
「こないだ唄っこ聴いたべ。奏重ちゃんの孫さ」
哲さんの答えに、客は、あぁあぁ北海道の、帯広だっけ、と確認する。
「浦河だ」
「んじゃ、これが例の色っぺぇ小原を弾く孫息子だべか」
どこでどんな話になっているのか恐ろしいが、考えてみれば、哲さんの有難い協力のおかげで、少なくとも『足の悪いおばあさん』の存在が確認できるかもしれないのだ。ここで哲さんの投げたパスを断るわけにはいかない。
竹流にもさっさと行って来いと目と顎だけで命じられて、結局真は立ち上がった。哲さんから指摺りを借りて左の親指と人差し指にひっかけ、三味線と撥を受け取る。哲さんは代わりに太鼓にまわる。唄い手のオバサンに節と本数を確認し、本調子、三本に軽く糸を合わせた。
そして、ひとつだけ息をつき、軽く掛け声を発して糸合わせを始めた時だった。
舞台からは丁度正面にある店の扉が開いた。一瞬、外の強い風と車の音が巻くように店の中に吹き込んで来る。
真は糸合わせを続けながら、入ってきた嶺と視線を交わす格好になった。
ひょろりと背が高く、目は時々クスリのせいか、それ以前に目つきが悪いだけなのか、かなりいかれている。この間まで肩まで伸ばしていた髪を、多分衝動的に切ったのだろう。寝癖なのか、ポマードで固めたものなのか、つんつんに突っ立っている。そして、鎖がやたらとついた皮ジャンに洗い晒しのジーンズ。この店にそぐわないことだけは確かだ。
嶺は真を見て、お、という顔になり、それからいつものように投げやりで蓮っ葉な態度で肩をいからせ、けっと吐き捨てるような顔を作った。
嶺がこういう顔を作る意味は、真には何となく分かっている。
だが、いきなり嶺が扉の向こうの外へ腕を伸ばしたとき、真は危うく立ち上がりそうになった。
島田詩津。
上野駅で待ち合わせたはずだったが、約束をすっぽかした女子高生が、嶺に腕を引っ張られ、『山背』に入ってきた。真と目が合うと、びくっと体を震わせ、いったん目を逸らす。
嶺は詩津を店に引き入れた後、店の従業員のいらっしゃいませに何か言葉をかけた。真の視線の先を追いかけた竹流と嶺の目が合ったらしく、嶺が軽く頭を下げた。下げた、というよりも頷いたという方が適切だ。
従業員は連れだと理解したようだった。
嶺に背中を押されるように、詩津はまっすぐ真の近くのテーブルまで歩いてきた。紺のスカートに淡いピンクのモヘアのセーター、スカートと同じ生地らしい紺の上着、軽くパーマをかけているらしい髪は、店の人工的な照明の下でも明るく見える。唇をきっと固く結び、目は真から外さないまま、人形のように促されるまま椅子に座った。
睨まれる筋合いはないと思ったが、嶺と軽く挨拶を交わした竹流が詩津をちらりと見て、それから真に向かって、とりあえず弾けというような顔をしたので、ようやくほっと息をついた。
津軽小原節。祖母の奏重が得意としている、津軽五大民謡のひとつだ。金沢の芸妓の娘として生まれた奏重が養女に出された先が、民謡の師匠の家で、どうやらこの唄には祖父との波乱に満ちた恋物語が絡んでいるらしく、唄う祖母は年齢を全く感じさせない色気を醸し出す。おばあちゃんと孫の競演を他人に見せるのが嬉しくて仕方がない奏重のために、真は祖父の代わりによく伴奏を務めた。
真が弾き始めた途端に、ざわついていた店の中が静まり返っていた。この異邦人に津軽の心がわかるまいという思いと、やれるものならやってみなという好奇心と、そして多分祖母の名前にまつわる期待のためだ。だが、曲が滑り出したとたん、そんな外部のことはどうでもよくなった。
一体いつ、この唄の中にある、女の色気と心意気を心で感じられるようになったのか、自分でも覚えていない。前奏部分を自分のアレンジで弾きながら、ふとこちらを見た竹流と目が合い、やがて真は目を閉じた。三の糸から一の糸まで指を滑らすとき、ふと自分でも何かとんでもない気を放出しているように思うときがある。下世話な言い方をすれば、感じるのだ。そして、どうやらそれが聴いている人に伝わっているのではないかと思う。奏重の声と真の三味線は、絡み合って増幅する。
もう心は落ち着いているはずだったのに、どうやら唄には感情を煽りたてる力がある。
考えてもどうにもならないと分かっていることだ。
一の糸を叩くとき、想いを断ち切ることができると思う。二の糸には人の心の隠された色が潜んでいるように思う。そして、三の糸を奏でる時、どうしてもこの心の中にある何かが、零れ出すような気がしてしまう。
目を開け、唄い手を見ると、平凡な田舎のオバサンとしか見えなかった女性の目の中に、強い光が見えた。オバサンは真の合図ににこりと笑う。
自らの掛け声で迷いを断つと、哲さんの太鼓が追いかけてくる。
さぁあ~あ~あ~、あ、あ、さぁあ……
唄の始まりからはいっそう、真の気持ちも撥捌きも冴えた。それはオバサンの声が見事だったからだ。奏重とはまた違う魅力で、重みのある、腹の底から響くような声だった。
その時。
再び、真の内ポケットで、小さく震えが起こっていた。身体ごと、震えるような振動になる。何が起こっているのか、しばらくの間理解できなかった。
真はオバサンを見、そしてさらに詩津を見た。
詩津が何かに惹きつけられたように真を見ていた。
オバサンの声と、詩津の目と、真が撥を打ち付ける三味線の皮と、そしてポケットの中の骨は、今、完全に共鳴し合っていた。
ちょっと三味線シーンを書いてみたくなって、予定外に長くなりました^^;
動物愛護協会の方に怒られそうですが、津軽は猫ではなく犬です。
だからあの野太い音が出ます。
そして弾く、というより、叩きます。打楽器のようなものです。
よくカラオケの絵面に出てきますが、海辺で吹雪の中、弾くことなどできません。
皮が湿気て破れてしまいます。
五大民謡というのがあって(じょんから、よされ、あいや、小原、三下がり)、それぞれ調子(三本の糸の合わせ方)や撥づけが違います(西洋音楽的には拍子?三拍子とか四拍子とか…かな?)。
でも和楽器には、言葉では表せない『間』と言うのがあって、これは津軽弁のように弾く、というといいのでしょうか。
うん、なかなか説明しづらいですね……
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