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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨35] 第5章 誰も信じるな(2) 

*行く先々で絡む志穂。代議士・澤田顕一郎に対して何か含むところがあるようで、さらに大和竹流のところに出入りしていた男のことを見張っていたようでもある。何かを知っているようなのだが、真が全面的に協力してくれるなら話す、というだけで、事情がつかめない。
事務所に戻ると、今度は深雪が訪ねてきて…美和のご機嫌を損ねることに…



「こんなところで何をしている?」
「何って、田安の伯父さんに呼ばれたから来たのよ。あなたこそ、何してるのよ」
 真はそう言われて、勝手に侵入したのは自分の方か、と思った。
「田安さんに話があったんだ。ドアが開いたから」
「そう」
 この女が鍵を開けたのか、と納得していると、志穂はカウンターの高いスツールに座った。
「おかしいわね。正午って言ったのに。あの人、時間にうるさいからちゃんと来たのに、もう一時間以上待たされてるのよ」

 真はカウンターの内側から志穂と向かい合っていた。
「もう帰っちゃおうかな」
 志穂は派手な顔つきに似合わないような無邪気な声で呟いて、真のほうをちらりと見た。
 昼間のバーは滑稽なほどに明るく、間が抜けるほどに柔らかな空気に満ちていた。高い窓からは、さっきまではガラスを打つ雨の音が聞こえていたような気がしたが、今は白っぽく明るい陽の気配が降ってきている。遠くに、汽笛の音が重なった。海が近いのだ。

「澤田に、会ったんでしょ」
 真はこの女が何を知っていても、とりあえず驚かないことにした。
「どうして知っている?」
「まぁいいじゃない」
「一体何故、澤田にこだわる? 田安さんに近づいたのも澤田のことでか?」
 志穂は意味ありげに笑った。
「まぁね。言ったでしょ。澤田は仇だって」
「どういう意味か聞かせてくれ」
「今日は低姿勢ね」

 志穂はカウンターの上の灰皿を暫く指先でつついていたが、やがて真の方に顔を上げた。
「聞きたいなら聞かせてあげてもいいけど、代わりに何をしてくれるの」
「何をして欲しいのか聞かせてくれたら考える」
「じゃあ、香野深雪に澤田をどう思っているのか、直接聞いてよ」
「深雪に拘るわけは何だ?」
 志穂は暫く答えずに真を見つめていた。それからふと、視線を逸らし、思い立ったように立ち上がる。
「じゃあ、取り敢えず、ホテルに行かない?」
「ホテル?」
「丁度サービスタイムだし」

 真が何とも答えないでいるうちに、志穂は立ち上がりカウンターの内側に廻ってきて、真の腕を取った。それでも真が動かないでいると、彼女はさらに強く真の腕を引っ張るので、結局一緒に店を出た。
 志穂は薄い青のジャケットのポケットから鍵を取り出して、重い金属の勝手口の扉を閉めた。
「鍵、持っているのか」
「うん、まぁね」志穂は曖昧に答えただけだった。「ほんとに、どうしたのかしらね。何で来たの? 車?」
「いや、電車で」

 さっきの土砂降りは気のせいだったのかと思うほど外は明るくなっていて、太陽の光が足元を間抜けなほどにくっきりと照らし出している。
 志穂は真が逃げないようにとでも思っているのか、腕を摑んだままで、ポケットから別の鍵を出すと真に手渡した。
「運転、してくれるでしょ」
 志穂の車は国産車の軽で、店の近くに停めてあった。

 展開はともかく、何か知っているなら聞き出そうと思ったので、真は言われるままに車に乗り込み、志穂の指示のままに車を走らせた。新橋の近くまで来ると町の中の細い道に入り、一軒のラブホテルの前に出た。
「ここ?」
「何、躊躇ってるのよ。さっさと入ってよ。恥ずかしいでしょ、こんなところに止まってたら」
 それもそうだと思い、とにかく垂れ幕がぶら下がった入り口をくぐった。暗くて狭い半地下の駐車場に車を進めて止まると、志穂はさっさとドアを開けて車を降りる。
 仕方がないので、真もエンジンを切って車を降りた。

 真がドアに鍵をかけたときには、志穂は既にホテルの入り口に入っていってしまっていた。一体どういうつもりなのか、と思ったが、とにかくついていくしかなさそうだった。
 パネル式の受付で、部屋の写真が並んでいる。空いている部屋のパネルには明かりが点っていて、志穂はそのうちの一つを選んでパネルの下のボタンを押した。見ると、昼時にも関わらず半分ほどの部屋の明かりが消えている。
 三千五百円です、という女の声が小さな窓口の向こうから聞こえた。真は振り返った志穂に急かされるように財布を出した。

 階段を半分上がると、駐車場とは違って比較的綺麗なロビーになっている。エレベーターがあって、四階まで上がった。志穂は口をきかずに、さっき窓口で受け取った鍵を弄んでいる。
 エレベーターを降りると、どう見てもOLとその上司という風情の二人が立っていて、真たちから視線を逸らした。こういう場所は仕事柄それなりに慣れているつもりでも、時々背中が冷たくなるような時がある。皆がある一つの目的のためだけにここに来るからかもしれないが、駅のホームでしばしば吐き気や頭痛に襲われるのとは少し訳が違っていた。もっとも自分とてこういう所をそういう目的で利用することはあるのだから、文句を言うわけにはいかない。

 志穂は先に立ってある部屋の鍵を開けると中に入っていく。
 中には小さな玄関があって、奥に続く扉をもう一つ開けると、左の手前に洗面とトイレらしいドアと、ガラス張りになった大きなバスルームがあった。一段高くなったところに大きなオレンジ色の掛け布団を置いたベッドがある。
「今の香野深雪とはこんな下品なホテルに来ることはないでしょうけど」
 真は黙っていた。志穂はベッドに座って挑発するように脚を組んだ。綺麗な脚を持った女で、今日は短いスカートを履いている。
 深雪が気まぐれでこういうホテルを使いたがることがたまにある。面白がってそういう配信番組を見ながら行為をすることもある。だが、別にこの女にそんなことを伝えてやる必要はなかった。

「このホテルはね、ある男がある女といつも密会に使っていたところ」
 それがどうしたのか、と思った。
「男は雑誌記者で、何年か前から妻が交通事故で寝たきりになってて、八つになる女の子と暮らしていた。妻が事故に逢う前から、男はある女とここで抱き合うような関係で、妻が寝たきりのまま病院で亡くなった日もここで女に会っていた。妻が亡くなってからも、男は女との関係を断ち切れなかった。そして、半年後、自殺したわ」
 座ったら、と言うように、志穂はベッドの隣を指した。真は言われるままに座った。
「男はその時、ある不正融資について調べていた。男が自殺した後で、男の持ち物からフロッピーに入った脅迫文の原稿が見つかった。脅迫文の宛先は表には出なかったけど、政財界のそこそこの人物が幾人かターゲットになっていたようだった。男が寝たきりの妻の治療費で借金を抱えていたのは事実だけど」

 志穂は言葉を切った。真は彼女の横顔がいつになく真面目なのを見て取った。
「君の知り合いか」
「私の上司だったの」
「それだけか」
 志穂は真を見つめた。
「好きだったわ。記者としての基本も心構えも、何もかも教えてもらった。自殺したなんて今でも信じられない。子煩悩でいい父親だったわ」
「その、女というのは、君ではないんだろう」
 真は言葉を選ぶように言った。志穂は返事をしないまま、真から視線を逸らした。
「だから、香野深雪にどういうつもりなのか、聞いてよ」

 真は視線を逸らせたままの志穂の横顔を見た。
「深雪が、その男の恋人だったということか」
「恋人? 不倫でしょ」
「だが、それが澤田と何の関係が」言いかけて、真は留まった。「まさか、脅迫されていた政治家の一人が澤田で、澤田が深雪を使ってその雑誌記者をどうかしたとか、思っているんじゃないだろうな」
「知らないわよ。だから、本人に聞いてよ」

 真は顔を上げた志穂と暫く睨み合うような格好になっていた。だが、次の瞬間、志穂は真に身体を投げ出すようにして首に腕を回し、真の唇に自分の唇を押し付けてきた。真は一瞬何が起こっているのか認識できずに志穂を抱きとめたが、直ぐに彼女の身体を引き離した。
「何のつもりだ」
「あなたも、香野深雪の身体と離れられないんでしょ。その男の気持ちが分かるんじゃないの」
 そう言ってから、志穂は真の胸を確かめるようにシャツの上から触れてきた。
「あの女はそんなにいいの? 男が自分の何もかもを捨てるほどに?」
 真は思わず志穂の手首をつかんだ。
「君が直接深雪に聞けばいいだろう。万が一君の考えていることが事実だとして、俺が聞いても彼女はそうだとは言わないぞ」
 志穂は真を見つめてたままだった。

「あの人は肉親の感情を踏み躙るような女よ。話なんかしたいとは思わないわ」
「肉親?」
「赤の他人なら許せても、肉親だからこそ理解できないし、許せない事だってあるでしょ」
 真は志穂の手首を離した。志穂の言葉の意味を反芻してみたが、理解の向こうだった。
「試しに私を抱いてみたら? 何か分かるかもよ」
 深雪が男を誘うとき、こんなふうに必死な印象はないな、と真は思った。口で生意気を言いながらも、この女は目一杯な感じがしたのだ。
「悪いが、そのつもりでここについてきたわけじゃない」
「でもちょっと期待しなかった?」
「そういう気分じゃない」
「あら、じゃあ、そういう気分なら抱いてくれるの? それとも、大事な人が消えたから、それどころじゃないって事?」 

 真は思わず志穂の腕を掴んだ。
「どういう意味だ?」
 志穂は意味深に笑った。
「ほら、そうやって必死になる。消えたでしょ、あなたの彼氏、病院から」
「どうしてそんなことを知っている?」
「病院で騒いでたからよ」
「見張ってたのか」
「まぁね」
 真は志穂の腕を離さないまま更に聞いた。
「あいつはどこへ行ったんだ?」
「そんなこと知らないわよ。私が見張ってたのは別の男よ」
「そいつは美和がつけていった男か。竹流のところに面会に来ていたという」
 志穂は自分の腕を掴んでいる真の手に手をかけて、振りほどいた。
「あなたの彼氏、と言われて否定もしないと思ったら、今度は秘書さんを呼び捨て。随分仲がいいのね」
「君には関係のないことだ。その男を何故見張っている?」
「私と寝たら教えてあげてもいいわよ」
「馬鹿を言うな」
「教えてくれ、と言うから交換条件を出してるのに、もうちょっと低姿勢になったら?」
 真は志穂とまた暫く睨み合った。

 だが、先に視線を逸らせたのは志穂のほうだった。
「そうね、私は肉親の恋人と寝る趣味なんてないわ」
 そう言って志穂は立ち上がった。
「帰りましょう」
「何を言っている?」
 真は座ったままひとつ前の志穂の言葉の意味を確かめようとした。
「だから、香野深雪に聞きなさいよ。ベッドの上でいい気分になりながらね。あなたがいつもよりもっとあの女を悦ばせてあげたら、話してくれるんじゃないの。もっとも、あなたの方にその余裕があれば、だけど」
 随分な悪態をつきながら、志穂はもう部屋を出て行こうとしていた。真はひとつ息をついて、自分も立ち上がった。

 エレベーターの中でも志穂は口をきかなかった。
竹流に面会に来ていたという男の事を問い詰めたかったが、何もかもを拒否するような志穂の態度を見ては諦めざるを得ないようだった。ロビー階でエレベーターを降りると、志穂は真に歩いてここから出て行けと玄関口を指して、自分は駐車場への階段を降りていった。
 真はそれを見送りながら、諦めてラブホテルの正面口から出た。
 出たところで、入ってこようとした若いカップルとぶつかりそうになった。一人で仏頂面で出てきた男をカップルはどう思ったのか、一瞬意味深にこちらを見たのが気になったが、それどころではない気分だった。


 電車に乗ると一旦新宿まで戻り、車を取って大和邸に向かうことにした。考えてみれば大和邸があるところは結構な田舎なので、電車で行くとなると不自由この上ない場所だった。
 事務所に戻ると、ドアを開けた途端、美和の恨めしそうな声が飛んできた。
「先生~、連絡くらいくれてもいいのに」
「ごめん。何かあったか?」
「大家さんからは連絡ないし、澤田の経歴なんて、資料が多すぎて読みきれません」
 横で宝田までが、美和がどこかから担いできたらしい本の山と格闘している。少年少女向けの推理小説以外の本を広げたことがほとんどなく、細かい字を読むのが苦手な宝田には苦痛な作業だろうと思った。

「悪かった。あ、それと、何年か前に雑誌記者が、不正融資をしている会社や政治家を脅迫していて自殺した事件、なかったかな。詳しく知りたいんだけど」
「いつのことですか」
 そう言えば、いつという部分は聞いていなかった。俺も間抜けだな、と真は思ったが、楢崎志穂の連絡先も知らないし、もう一度会って話したいとも思わなかった。真が黙っていると、美和があきれたように言う。
「わかんないんですか。先生、ちょっと要求が無茶」
 美和の声はいつもの通り勢いが良くて明るく、真をほっとさせた。
「じゃあ、井出ちゃんにでも聞いてくれ。彼なら何か覚えてるかもしれないし」

 井出というのは新聞記者で、政治絡みの事件が専門だ。少し変わった男で、少年事件にも興味を持っていて、時々真のところにネタを仕入れに来る。勿論守秘義務を外すようなことはしないし、そうでなくても簡単にネタを提供するようなことはなく、仕事面ではそれなりに損得勘定をして付き合っているが、実際には時々飲みに誘うことのほうが彼の主目的なのではないかと思う事がある。
「あ、それもそうね。もう一つくらいキーワード、ないんですか」
「遺族は八歳くらいの女の子。母親は交通事故で寝たきりだったのが亡くなっている」
 美和は頷いて、念のためというように手帳に書きとめていた。
「それが、大家さんの怪我と何か関係あるの?」
「さぁ、どうかな。澤田と」一瞬真は躊躇ったが、先を続けた。「香野深雪には関係しているかもしれない」

 さすがに深雪の名前には、美和は複雑な顔をした。
「じゃあ深雪さんに聞けば分かるんじゃないんですか。先生、自分の恋人でしょ」
 宝田が横で頷いている。
「うん、まぁ、そうだけど」
 真が曖昧にしても否定しなかったのが美和の気に障ったはずだが、美和が何か言いかけたのを感じて真がまずかったな、と思ったときにドアがノックされた。
 美和は弾かれたようにドアのところにとんでいって開けた。攻撃を受けずに済んだかとほっとしたのも束の間、ドアのところに立っている女を見て、真はもっとまずい状況になったと思った。
 噂をすれば影、とはよく言ったものだ。

「まぁ、皆様、お揃いなのね」
「深雪」
 真は考えもなしに彼女の名前を呼んでいた。深雪は髪を綺麗に結い上げて、上品な白いスーツを着ていた。和装でも洋装でも、彼女は人の目を引く女だった。色白の肌の中で唇の赤みに一瞬で目を奪われ、やがて優しげな瞳に摑まると抜け出せなくなるような、そういう外観を持っている。
「真ちゃん、会えてよかった。ちょっとお願いがあって」
「うちはボランティアじゃありませんけど」
 被せるように美和が言った。美和が怒っている相手が、深雪ではなく自分であることは、多少女心が分かっていない真でも十分感じられた。
「あら、そんな事じゃないのよ」

 深雪は美和の言い分を完全に無視して真の方を見つめた。
「預かって欲しいものがあるの。今夜いつもの部屋に来てくださる?」
 完全に不味い状況だというのは間違いなかった。真は思わずドアまで行って、深雪の腕を取り、身体ごと抱くようにしてドアの外に出た。
「どうしたんだ、こんなところに来て。電話してくれたら」
「ちょっと近くまで来たから。それにあのお嬢さんに嫌われてるみたいだから、電話を切られてしまいそうだもの」
 そう言いながら、深雪はほとんど真の肩に頭を引っ付けるようにしていた。

「もう少しの間だけ、私のこと信じてくれる?」
 小さな声で深雪は呟いた。真は何を言われたのか、意味を考える余裕もなかった。
「じゃあ、九時に」
 深雪はそれでも離れがたいように真の身体にもう一段身を寄せると、直ぐに思い直したように離れた。真は深雪の優雅な後姿を見送って、暫くそこに突っ立っていた。

 頭は色々なことを考えていた。楢崎志穂が言っていたように、深雪に問い詰めるのが一番早いのかもしれない。まだ竹流との直接のつながりは分からないが、手がかりのない今は、何にでもしがみつきたい気分だった。
 だが、身体はそういう全てが言い訳であることを知っている。
 真は気を取り直して事務所の中に戻った。

 デスクの前に戻ったところで、美和が立ち上がり、幾冊かの本を重ねて真の前にバン、と音を立てて置いた。
「自分で読んでください!」
 そう言って美和は自分の机に戻り、バッグを取り上げて出て行こうとする。
「おい、どこに行く気だ」
「井出さんのところと図書館。調べてくれって言ったの、先生でしょ!」
 ドアを勢いよく開け放ったまま、美和はずんずんと出て行ってしまう。さすがにこの日は追いかけないわけにもいかず、真は狭く薄暗い階段の前で美和に追いつくと、彼女の腕を捕まえた。

 美和は本当に怒っているらしく、頬を震わせるようにしてそっぽを向いた。
「何をそんなに怒るんだ。いきなり冷たくするわけにもいかないだろう。しかも、彼女は何か知っているんだ」
「そういう言い訳してあの人と寝るんでしょ。先生なんて最低。昨日の今日でよくそんなことができるわね」
「何も抱きに行くわけじゃない。考えすぎだ」
「でも、結局そうなるわよ」
 叫んで真を睨んでから、急に美和は泣きそうな顔で俯いた。
「……ごめんなさい。私も二股かけてるんだった。何、怒ってんだろう、人のこと言えないよね」
 廊下の壁に押し付けられたような格好になっている美和が、頭をこつんと真の胸にひっつけた。さっきの深雪の頭よりもずっと重い頭だった。
「頭、冷やしてくる」
 美和はそう言って逃げるように階段を下りていった。

 開け広げの彼女の性質はそれで十分美徳だった。真は自分の二股の方がずっと性質が悪いことを知っていた。多分、今夜深雪と会えば抱き合わずにはいられないだろう。それは美和の言うとおりだった。
 事務所に戻ると、宝田が大きな身体でおろおろしていたが、真が机に戻るとその前に駆け寄ってきた。
「先生、その……結局、美和さんとそういうことなんすか」
 真は宝田のごつい顔を見上げた。心配そうな顔を見ていると、君には関係ないとは言えなかった。
「いや、つまり、ちょっと複雑なことになっていて」真は言葉を一旦飲み込み、一息ついてから続けた。「だからちょっと、美和ちゃんについていてやってくれないか」
 とにかくここは宝田も追い払ってしまうことにした。途端に宝田は真面目な顔になり、彼にしては珍しく口籠る事も無く、はっきりと言い切った。
「わかりやした。しかし、先生、そういうことなら深雪さんとはきちっと別れていただきやす」
 真は頷いた。
「いずれね」
「そんないい加減な」
「この件が片付いたらもう会わない。約束するよ」
 そんなことを宝田に約束しても仕方がないのだが、それを聞いて宝田はやっと納得したのか美和を追いかけて出て行った。



少しずつ、『出来事』が積み重ねられていきます。
どうやら糸口が出てきそうな次回。
ちなみに、伏線の中にはヤラセがありますので、ご注意ください^^;
誰も信じるな……特に作者を^m^
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨34] 第5章 誰も信じるな(1) 

第4章あらすじ

 恋人(というよりセフレ)である銀座のバーのママ・深雪のパトロンという噂のある代議士・澤田顕一郎から呼び出された真は、赤坂の料亭で会うことになった。澤田は竹流の怪我と何か関係しているかもしれないと、女刑事・添島麻子、雑誌記者・楢崎志保からにおわされている真は、探りを入れるつもりで乗り込む。もちろん、深雪とのことでちくちくいたぶられる可能性もあるのだが…と思いつつ行ってみると。
 話の内容は予想もしないことだった。
 真に、澤田のもとで働かないかという勧誘だったのだ。それも、澤田は真の実の父親、相川武史(世間ではアサクラタケシという名前で通っている)の大学の先輩であり、真の出生の事情、伯父・功が真を引き取ったことも知っていた。澤田は、自分のもとに来ることが真の安全を保障することになると告げる。しかも、ジャズバーの経営者・元傭兵の田安隆三は澤田の育ての親だという。
 話の内容には警戒しながらも、澤田のペースに巻き込まれて飲んでしまった真は、過去の話にいささかセンチメンタルになっていたことも手伝って、心配して真の帰りを待っていた美和とセックスをしてしまう。もちろん、美和のことは可愛いと思っていたので、勢いではなかったつもりなのだが、事が終わってしまうと自分の中で何かが冷めていることに気が付く。
 そこへもう一人真のことを心配していた竹流からの電話。何も話してくれない竹流に対してイラついていたにも関わらず、声を聞いているうちに恋しさがこみあげて来てしまう真に、竹流が『この件が終わったら、俺のところに来るか(=仲間として仕事をする、あるいは自分の全てを話すというニュアンス)』と言い、最後に『誰も信じるな』と告げる。
 美和は、真と電話の相手(=大家さん、つまり大和竹流)の間には割り込めないことを感じながら、真と初めて会った時のことを思い出していた。
 そして翌朝、二日酔いの真のもとへ、病院から竹流が姿を消したという電話がかかってきた。


さて、第5章です。
だんだんわけが分からなくなってきたと思いますが、適当に、適当に端折りながら読んでください。
こういう訳の分からない話は、気に入ったところだけ読むという方法があります^^;
って、そんなことをお勧めしてどうするんだって話ですが……




 病院までの道は渋滞だった。真はイライラしながらハンドルを何度も叩いた。暗い灰色の空からは、重くなった空気に溜めきれなくなった水滴がぱらついて落ちてきていた。
 雨だな。
 夜中の彼の声が耳に残っていた。甘い、耳元に口付けるようなハイバリトンの声が、電話だけに何倍も強調されて、耳のどこかに残っている。

 話をしたばかりだ。俺のところに来るか、とそう言われた。
 いや、多分すぐに戻ってくるのだろう。ちょっと出掛けただけに違いない。
 そう打ち消しながら、すぐにまた打ち消した。病院の中をうろうろしているとは思いがたい。少なくとも、病院からは姿を消しているのだ。さらわれたにしても自分から消えたにしても、良くない事態であることは間違いがない。
 車の流れは、天候のせいもあるのか、完全に止まっているようだった。
 渋滞の車の中にうずもれている間に、雨は突然激しさを増してきた。ワイパーは、始めは間歇的に動かしていれば済んだが、すぐに常時動かさなければ前が見えなくなった。そしてすぐに、雨は車自体を叩き潰す気ではないかと思うくらいの激しさになり、ワイパーの勢いを上げると、同じ勢いで気持ちがさらに焦ってきた。
 真は次の曲がり角で地下鉄の入り口を見つけると、脇道に逸れた。狭い道ながら、車がすれ違えることが分かると、駐車違反くらいは構わないと思って車を乗り捨てた。
 とにかく病院だった。
 雨が叩きつける中を、真は地下鉄の入り口に走りこんだ。


 担当の看護師が申し訳ないというようにあれこれ言葉を並べる中を、真は急いで病室に行ってみて確信した。布団は綺麗に畳まれていたし、何よりもあんなに目立つ男が誰の目にも留まらずに連れさらわれる可能性は低そうに思えた。ナースステーションの前を通らずに外に出るとなると非常口しか手はないが、開けられた形跡はなかった。常時ナースステーションに誰かがいたという保障はないが、本人の意思でなければ出て行くのはそこそこ困難に思える。
 真は警察に届けましょうか、という病院側の申し出に、暫く考えていたが、後でどうしてすぐに知らせなかったかと問い詰められるのも億劫だと思い、警視庁捜査一課の添島という刑事に知らせてもらうように頼んだ。もっとも、どうしてあなたが自分で連絡をしてこないのか、と言われそうだが、それはこらえてくれと思った。

 しかも、昼過ぎには状況はさらに明確になった。真が一度車を取りに病院を離れている間に、男が頼まれたと言って入院費を置いて行ったという。
 病院に張り付いていなかったことを後悔したが、その男が本当に頼まれただけなら、情報が得られるとは限らない。いや、今の竹流の状況に協力している人間なら、どうあってもうまく逃げられただろう。

 夜中の電話では、これからいなくなるような気配はなかった。来てくれるならそれでいい、と待ってくれているような言葉で電話を切ったのに、一体どういうつもりなのか。身体が多少は回復するのを待っていただけなのか、それとも新たな事態になって病院でじっとしている場合ではなくなったのか。
 看護師が、でもまだ少し熱があったのに、と呟くように言った言葉が頭に残っていた。何よりも身体の状態が心配だった。不自由な右手が何よりも気がかりだった。

 一旦事務所に戻ったが、じっと座っていることはできずに、真は町の中に出た。あてがあるわけではなかったが、新宿の東口の雑多な界隈を通り抜け、とにかく電車に乗ろうと思った。
 頭は忙しく働いていたつもりだが、動きは曖昧だったのか、何度も人にぶつかられた。いつもなら気持ちが悪いほどの人混みも全く意識の中に入ってこなかった。
 そもそも一体どこにこの『事件』の始まりがあるのか、見えなかった。知らない間に忍び寄るように日常の暮らしの中にまとわりついてきたようなものだ。
 日常の暮らし、と言っても、同居人や自分の生活が通り一遍のものとは思っていない。家族と平和に暮らす日常ではないし、同居人に至っては仕事も怪しい。

 ホームに立っていると、電車の警笛が頭の中を貫いた。
 誰も信じるな。
 警笛が、電話の同居人の言葉を向こうから投げかけてきたように思った。


 深雪と付き合い始めたのは一年以上も前のことだ。知り合ったきっかけも、ちょっとした事件でたまたま話を聞いただけで、別に誰かが何かを仕組んだようには思わない。
 澤田など、深雪のパトロンらしいとは噂されるが、現実にはどうだかわからない。第一、真自身が接触したのはつい昨日のことだ。たまたま真の父親の事を知っているからと言ってその点が怪しいとうわけではない。

 澤田が田安隆三と知り合いだからと言って、田安が怪しいわけでもない。いや、人物は怪しいが、田安が真に何か他意を抱いているなら、もうとっくにそういう片鱗を見せていてもいいはずだ。彼と知り合ったのは、そもそも真がまだ大学生のときだった。だが、田安は真と深雪とのことも知っているはずなのに、澤田の父親代わりに学費を出していたなど、初めて聞く話だ。

 田安のところに出入りしている楢崎志穂という女を見かけるようになったのは、この半年くらいの間のことだ。聞いたことはないが、田安とは随分前からの知り合いのように思える。澤田を恨んでいるようだが、だからといって手伝ってやる義理はない話だった。

 竹流の周りにいる人間で、あの添島という女刑事は、もう随分前から竹流を気に掛けていたように思ったが、蓋を開けてみればただ彼の女の一人というだけのことだった。国際警察機構に属していたことがある女で、その頃から竹流とは知り合っていたようだし、付き合いは長いのだろうが、竹流をあんな目に遭わせるようなことはないだろう。

 だが、女たちは皆、澤田の名前を口にするか、澤田の関係者だ。一人は澤田の『愛人』と言われている、一人は澤田に恨みでもあるようだし、一人は澤田の『目的』を知りたいという。
 添島刑事は、澤田が真に接触してくるはずだし、ある人がそれを気に掛けていると言った。ある人、というのは、以前一度外務省絡みの事件で知り合った相手だった。と言っても真にとってはそれほど特別な事件だったわけではなく、ただ真が請け負った失踪人調査の対象になった家出少年が、外務省の某高官の息子だったということだけなのだが、この少年はコンピューターのいわゆるおたくで、父親のところから何かとんでもないものを『盗み出していた』らしい。その先のことは真の耳にも目にも入ってこないので、実際に何があったのかは知らない。だが、その少年を見つけたら、直ぐに連絡をしてくるようにと言われた先が、その人のところだった。添島刑事が『特別な番号』といったのはそのことだ。
 内閣調査室の河本、と名乗った。本名かどうかは知らない。

 真と血のつながりのある、つまり実の父親である相川武史は、真が生まれて直ぐに日本を出て行っている。詳しいことは何も知らない。最近彼が真に対して態度を変えたような気配もない。つまり、会いたがったり、接触してくるようなことだ。彼がどこか異国で特別な仕事をしていることで、時々自分の身辺で微妙な出来事があるように思うこともあるが、何かが突然変わったわけでもない。
 
 竹流が『誰も信じるな』と言った『誰も』は、他にも候補者がいるのだろうか。
 竹流が出掛けたのは三週間前のことだ。彼が出掛けるのはしょっちゅうのことで、いつでも楽しげに仕事に出て行く。今回唯一ムードが違ったのは、いつもに比べてちょっとばかり嫌そうに出て行ったことくらいだ。
 彼の仕事は大概、美術品もしくは歴史的遺物に絡んだことだ。今では古い日本画、襖絵・屏風絵や版画修復の専門家の一人に数えられているが、もともとルネサンス期の芸術品、そして聖堂にあるどんなものでも修復する手を持っていると聞いている。彼自身はロシアやギリシャ正教のイコンに造詣が深いようで、大和邸のアトリエに並ぶイコンを見ると圧倒される。まさに聖堂の中にいるようなものだった。
 それらと関係のないような仕事を竹流がするとは思えないが、嫌々出かけたということは、そういった本来の仕事とはかけ離れたことなのか。大体、そういうことと、澤田や内閣調査室だの米国の国家機構だのは関わらないような気がする。

 それなら、やはり竹流の実家の問題なのか。
 竹流自身は何も話さないので、全て伝聞に過ぎないが、ローマのヴォルテラ家は表向きには銀行家つまり金貸し業で、世界の有名都市にいくつかのホテルを持っている事業家だが、実際には国家や大きな組織に情報を売っている組織だと聞いていた。特にソ連と中東の情報には通じていて、そもそもヴォルテラの家はイタリアのファシズムを早々に終わらせた一翼を担っていたという由緒正しい経歴を持つ。国の栄華は最早落日となっているが、あの家は始めからそんなものには目もくれず、独自の道を歩んでいる。冷戦の前にはソ連の情報に最も詳しい人間の一人だと言われたが、既に矛先を中東に向けているとも聞く。さらに警備会社を持っていて、一般家庭の警備ではなく、国家や部族のような大きな組織の警備をしているとも聞く。その後ろについているのは、世界に最大のネットワークのひとつを持っているヴァチカンであるらしいとも。いや、表の顔は全て隠れ蓑であり、ヴォルテラの本質はむしろ教皇庁との関係で成立しているとも聞いている。

 とは言え、それが澤田と接点があるようには思えない。
 だが、竹流は澤田の事を知っていて、彼の元で働かないかといわれたのか、と聞いた。
 国の親分が動いている気配はないと、竹流の仲間が言っていたし、やはり澤田と何か関係があるのだろうか。

 落ち着け、と真は自分に言い聞かせた。『事件』ならば何かが起こったのだ、何かが起こっているのだ。
 ひとつは誰かが竹流を暴行した。勿論、それだけで十分『事件』なのだが、絡み付いている出来事を思い出さなくてはならない。

 出来事と言えば、事務所が荒らされた。さんざん引っ掻き回してあったが、真の仕事に直接関わりあることを探っていたわけではないように思えた。
 持っていかれたのはフロッピーとテープ類、ビデオだ。
 誰かが、何かを探している。
 マンションにその誰かが現れないのは、あのマンションが簡単には入り込めない造りで、しかも竹流が二重三重のセキュリティをかけているからだろう。
 では、大和邸は。
 もう一度行ってみるかと思った。高瀬も帰ってきているかも知れない。

 真は大和邸の方向とは逆に向いていることに気が付いて、電車を降りた。降りてみると、田安のジャズバーがある東京湾の近くだった。
 何となく気になり、思い立って田安のところに行くことにした。田安にも話を聞きたかったし、丁度いいと思った。本当に澤田代議士と田安がそんなに親しい間柄なら、真が香野深雪と付き合っていることを知っていたのに、どうして何も言わなかったのだろう。
 もっとも、他人の情事にいちいち意見を言うような人ではない。
 それとも、澤田と田安は二人して、あるいは深雪も一緒に、自分を見張っていたのかと思った。
 まさかね。俺も随分偉くなったものだ。

 真は駅を出て、小雨になった湿っぽい空気の中を田安のバーへの道を歩きながら、色々と嫌な想像を打ち消した。
 だが、深雪はともかく、田安も澤田も真の父親の事を知っている。田安は終戦からずっと傭兵をして世界中の戦地を歩いてきた男だという。父とは立場は違うのだろうが、接点があったのだろう。
 もし本当に誰かが真の中の遺伝子を欲しがっているのだとして、そんなものが何になるのだろう。父が息子を愛おしいと思っている気配は全くないし、万が一そうだとしても、今更澤田や田安が真の父親に何かを要求したところで仕方がないように思える。万が一にも父が息子を愛おしいと思っていたとしても、彼は自分の立場と仕事をわきまえているだろう。息子が犠牲になるのを助けるために、彼自身に課せられた立場や義務を棄てるようなウェットさを持ち合わせている男ではない。

 ジャズバーの表は、勿論こんな時間に開いているわけがなかった。
 巨大な倉庫が並ぶ埠頭から少し離れたところだが、回りには何を扱っているのか分からない会社の事務所や倉庫が並んでいて、その中で田安の店は、外見こそ周辺と同じように地味な気配に沈んでいる。他に店らしいものはないし、賑やかな界隈ではない。それなのに意外にも客は少なくない店だった。もっとも、どういう目的の人間たちが集まってくるのかと言えば、真っ当とは思いがたい。
 真は勝手口に回りドアを叩いてみたが、返事はなかった。代わりに、それほど遠くないところから汽笛の音が聞こえてきた。

 考えもなく来てみたが、真昼間だし寝ているのかもしれない。
 田安はこの上の階の倉庫のような部屋に住んでいるが、小さな窓があるだけの部屋で、外から人の気配が窺えるわけでもない。
 もう一度勝手口を叩いてみたがやはり返事はなく、真は諦めるしかないかと思いつつ、何気なくドアノブに手をかけた。

 抵抗なく、ドアノブは廻った。
 真は怪訝に感じつつドアを開けて中に入った。酒類の箱が積み上げられた物置兼廊下を少し進むと、カウンターの内側に出る。真はカウンターへ入る潜り口の向かいにある鉄の階段を登って、田安の住む部屋に上がった。
 靴音が高く反響して、空洞のような空間に広がる。
 階段を上がると小さな踊り場のようになっていて、ドアが一つきりある。
 それをノックしたが、返事はやはりなかった。まさかと思ってドアノブをまわそうとしてみたが、こちらはさすがに鍵がかかっていた。
 たまたま勝手口の鍵を掛け忘れたのだろうか。
 そう思いながら階段を下りて、一応カウンターの内を覗いた。地下への落とし扉は閉じられていて、中に人のいるサインはない。
「何だ、あなただったの」
 突然の声に真は驚いた。店の中に立っていたのは楢崎志穂だった。





さて、第5章が始まりました。
あらすじ、第3章までは長かったのに、4章が短いのはエッチしていただけだから?
何だかちょっと変な気分。
会話には、結構いろいろな情報(伏線ではなく人物の)が含まれていたのに…

以下、再掲。

このシリーズの読み方指南。竹流の立場から見たら、こんな感じです。

(真の年齢・状況) → (竹流の立ち位置)
小学生(高学年)~中学生 → 野生の生き物手懐け期
高校生          → 猫かわいがり期
大学受験~入学までの1か月 → 道踏み外し期
              (『海に落ちる雨』に出てきます)
大学生~崖から落ちるまで → 突き放し・遠くから見守る・立て直し期(同上)
崖から落ちて~同棲まで  → 迷い道期 (『清明の雪』はここ)
同棲期    → 第2次猫かわいがり期(『海に落ちる雨』はここ)
       猫だと思っていたら、いつの間にか猫が山猫になっていたけど…
               
この先は……かなり辛い部分がある時期ですので、またいずれ。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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