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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【幻の猫】(5) ライラック色のリボン 

真250kuroneko250

……誰だ? 次回最終回って言ったのは??
それは私。以下、私の心の中の葛藤。

始めから、絶対5回で終わらないって分かってたよね?
…うん、まぁ。
なのにどうして次回最終回とか書いたの?
いや、もしかして~とか思って……
limeさんを見習って、ちゃんと下書きを書こうとか思わないわけ?
…うん……取りあえず、考えとく。

さ、気を取り直して、いよいよ終わりが見えなくなった(嘘です)【幻の猫】第5回を始めましょう(^^)






 おばさんはホテルの洗濯や掃除の全てを仕切っているようで、さすがに忙しそうだった。真を連れまわした後は、仕事に戻らなければならなかったようで、少し残念そうに真の頭をよしよしすると、真にリボンと写真を託すように手渡して、真の両手を包み込んでうんうん頷いた。

ホテル
 言葉は全く伝わらないのに、おばさんの言いたいことは分かった。
 それは多分、真にあの天使の彫刻が見えたからなのだ。
 おばさんに霊感があるのかどうか、ということはこの際問題にはならない。多分、おばさんは見えていても気にしないタイプなのだろう。そして、真が『特別な能力』を利用して、この写真の持ち主を探してくれるのではないかと期待したのだろう。

 渡された封筒の一枚は、どうやら土に埋まっていたもののようで、表はおばさんの手で拭き取ったようだが泥が沁み込んで茶色くなっていた。しかし、油をしみ込ませた内張りの紙のおかげで写真とリボンを少しだけ守っていたようだ。もう一枚はおばさんがこれらを何かの偶然で土から掘り起し、大事に仕舞っていたもののようだっだ。

 とは言え。
 言葉も分からない異国で真にできることなどほとんど何もない。真は託されたリボンと写真、そして一緒に渡された二枚の封筒をチノパンツの後ろポケットに突っこんで、自分にできることをあれこれ考えた。
 この写真の持ち主はこの街に住んでいるのだろうか。もしもここがもともと墓地だったのなら、ここに死者を弔う人は、この近くに住んでいるのが普通なのだろうか。墓地が別の場所に移されたのだとしたら、ここに眠っていた人たちはどうしたのだろう。

 竹流がいたら簡単に解決しそうな問題だという気もした。でも、彼は今どこにいるのか分からない。女のところだという可能性も否定できないし、邪魔をして鬱陶しがられるのも、何だか嫌な感じだ。
 真はポケットから彼の指輪を取り出した。
 これが何かのパワーを持っていたら助かるんだけど。

 フロントの女性は英語は通じるけれど、冷たい感じで、しかも新しく雇われた人なのか、墓地のこととか天使の彫刻のこととかを知っている気配はなかった。

シエナ
 フロント脇の中庭に戻って、もう一度井戸の後ろを覗き込んでみたが、真が勝手にジョルジョと名付けた猫の気配も尻尾も見えない。もう太陽は随分高くに上がっていて、真の影はすっかり短くなっていた。
 その時、教会の扉が開いて、中から人々が出てきた。そうか、今日は日曜日なのだ。真が知らないうちに教会ではミサが行われ、今それが終わったのだろう。

 おばさんはいいのかなぁ。仕事があるから、また別の時間にお祈りをするのかもしれない。
 人々は固まって出てきたわけではなく、ばらばらに、一人、二人、あるいは家族連れというように、間を置いて出てくる。皆が黒い正装で、急ぐわけでもなく、ただ静かに真の前を通り過ぎていく。
 扉に目を向けると、開け放たれた向こうから、ステンドグラスに染められた光の気配がわずかに漏れだしてきている。

 真は、何かに魅かれるように扉の方へ歩いた。
 教会の一番後ろから見ると、長椅子が二列に並んでいる、シンプルな印象の聖堂だった。ほとんど単色に近い薄いブルーやイエローのステンドグラスは、中庭のほうから入る光を受けて、脇廊に短い四角の光を並べている。脇廊以外の場所は薄暗く、少しの間気が付かなかった。

 薄暗くなった椅子に、まだ人が一人だけ残っている。
 女の人だ。
 やがて黒いベールをかぶったままの女性は、ゆっくりと立ち上がり、静かに椅子と椅子の間を滑るように歩いてきた。顔も見えなかったが、それほど歳をとった人ではないようだ。真に気が付いたようでもなく、そのまま扉から出て行く。

 代わりに教会の中に一人残された真は、脇廊の後ろから祭壇を見つめた。祭壇には、塔の上の方から光が降り落ちてきている。まるでそこだけ、特別な光を集めたように真っ白に染められ、そしてその周囲に、小さな闇がうごめいて見えていた。
 光の後ろには影がある。きっとあれは、真の心の中にも巣食っている、不安の種だ。
 真は振り切るように視線の先を変え、中庭に出た。

kuroneko250
 あ。
 今、確かにジョルジョの尻尾が見えた。尻尾は裏庭に繋がっている建物の中へ消えて行った。真は慌てて追いかけた。もしかしたらジョルジョが何か教えてくれるかも、と都合のいいことを考えながら。

 でもジョルジョはどうして尻尾だけなんだろう?
 そう考えながら、暗い廊下を行き過ぎて、また明るい外に出る。さっきおばさんと歩いた、元墓地への道だ。見失ったジョルジョの尻尾を探して見回していると、オリーブ畑の木の影に、人の後姿が見えた。

 さっきの女の人だ。元墓地の方へ歩いて行く。
 結果的に真はその人を追いかけていた。ひらりと柵を乗り越えたとき、微かにずきんと右足が痛んだ。そして無意識に踏んだ『境界』に蹴躓いて、真は再び穴に落ちるような感覚に捕らわれた。
 空中を転がっている、というのか回転して落ちていくような無重力感が途切れても、まだ身体は重力を半分くらいしか感じなかった。足が地面についているのかどうか、定かではない。


 いて。
 今度は頭を打ったわけではなかったようだが、ずきずきと側頭部が痛んだ。吐き気がするほどの痛みで、目がちかちかして開けていられない。
 やっぱり今日は最悪だと思いながら、身体を引き摺るようにして縋りつくものを探したら、案の定、あの天使の羽根に触れた。

 どうしてこちらの世界に踏み込むとこんなに苦痛なんだろう。
 台座に座り込み、頭を天使の羽根に預ける。
 何となく辺りは明るく、まぶたの内側にまで光が侵入して、目が痛い。
 その時、影がふわりと天使から落ちてきたような気配があって、まぶしいほどの光を遮った。真は心地よい影の中で、ようやく目を開けた。

 幽霊じゃなかったんだ。いや、幽霊か。足があるかどうかは幽霊かどうかの絶対条件じゃないし、そもそも西洋の幽霊には足があったんだっけ?
『やぁ、会えたね』
 というのは妙な挨拶だと思ったが、それが正直なところだった。

 痩せた女の子は、おばさんが持っていた写真の中にいた子どもだった。幾つくらいだろう。身体は痩せていたが、目は大きくて、人形のように睫毛が長く、青い透き通るような目をしていた。小さな体なのに、女の子は少しも小さく見えなかった。不思議なオーラのようなものを纏っているからだ。
 女の子は真の後ろを覗き込むようにする。
 真がそれに気が付いて、女の子の目の先を追うと、その視線は真のチノパンツの後ろポケットの上に止まっている。真はポケットから封筒と写真、リボンを取り出した。

『これ、君のなんだね』
 女の子は頷いた、ように見えた。女の子の髪の毛に、よく似たライラック色のリボンが光に溶けている。改めてリボンの手触りを確かめると、しっとりとした絹のリボンで、微かに花の絵が描かれていた。
 これ、日本の着物の端切れだ。
 懐かしく優しい手触りが、まるで今しがた、誰かの手で縫い込まれたように、手の中で沈み込むように重くなる。

 言葉ではっきりと聞けたらいろんなことがわかるのに、中途半端な霊感だと、言葉も交わせないのかと残念だった。もっと言葉を聞くことができたり、過去の記憶とかが見えたらいいのだが、そんな便利な霊感が備わっているわけではなかった。
『君の名前を教えてもらえたらいいのに』
 女の子は大きな瞳で瞬きをして、ちょっと困ったように首をかしげた。
『これは、君とお母さん?』

 真が尋ねると、女の子は頷いたが、それよりも急いでいることがあるようで、真の腕を引っ張った。質量は感じないのに、確かに触れている実感がある。引っ張られて立ち上がったが、足が痛くてうまく歩けない。
 女の子はそれに気が付いて直ぐに引っ張るのを辞めた。
 そして真の前にしゃがみこみ、両手で真の足を包み込むようにする。
 温かくほわほわしたものが、痛んでいた真の足首の周りを取り囲んでいる。足が確かに軽くなっていた。

『ありがとう。僕は、君に何をしてあげたらいいいんだろう』
 女の子はやはり答えなかった。ただ真の手を引っ張る。
 女の子は天使の彫刻の後ろ側に真を連れて行った。そして地面を悲しそうに見つめる。悲しそうに見つめたまま、涙を落とし、そしてまた真を見上げた。

 この地面の下。
『君はここにいるの?』
 女の子は首を横に振った。そして真が握りしめたままの写真に視線を向ける。 
『まさか、君のお母さん?』
 女の子は首を横に振った。そしてゆっくり顔を上げて、少し遠くの空を見る。

 真が見上げても、自分たちのいる空間の頭の上はまっ白で、空も何もわからない、光の雲に覆われていた。
 女の子が視線を戻し、再び真の手の中にある写真を見る。少し首をかしげるようにして、まるで裏を覗き込むようだ。
 真はふとその視線に誘われるように、写真の裏を返した。

 幼い文字で、何かが書いてある。
 真の目は消えかかった文字に釘付けになっていた。

 その時、微かに音が聞こえてきた。
 真は目を閉じ、耳を澄ませた。
 鐘の音だ。
 正午の知らせる鐘の音は、少し離れたシエナの街から聞こえてくる。
 真が吹き抜ける風の気配に目を開けた時、女の子も、彫刻も、全て掻き消えていた。


 さっき見かけた女の人の影もない。風が舞っていて、まだ鐘の音だけが聞こえている。真は昨日竹流が連れて行ってくれたシエナの街の光景を思い描いた。あの町のどこかにあの子が逢いたい人がいるのだ。
 写真の裏に書かれていたのは、幼い、字を覚えたばかりの子どもが書いたような文字。
 MAMMA, TI AMO. AURORA.

シエナ
 そして。
 真は辺りを見回した。地面を掘れるようなものは何もない。
 この下にいるのは誰だというのだろう。それとも、単に大事なものが何か埋まっているのだろうか。真は近くのオリーブの枝を折った。頼りにならないが、手で掘るのは難しそうだ。ないよりはましだと思った。
 地面は思ったより固くはなかった。やがて、オリーブの枝は、何か固いものに当たった。真は手で湿った土を払いのけ、その下にあるものに触れた。

 そのごく一部にしか触れなかったが、指先は、かつて生きていた人の気配を、真の身体に電流のように流し込んだ。
 真は思わず土を元に戻した。全てを見る勇気はなかった。

 その時、顔を上げた真は、自分を見つめる視線とまともに向き合った。オリーブの木の影に、さっき教会から最後に出て行った女性が立っていた。女性は真と目が合うと、一歩後ろに下がり、そのまましばらく真を見つめていたが、やがて背を向けて慌てるようでもなくゆっくりと歩き去って行った。
 その目には、恐怖と言った種類のものはなく、ただ諦念と、そして安堵のような不可解な感情だけが浮かんでいた。

 その視線の意味を掴みかねて、真は追いかけようとすることもできなかった。
 何か、とんでもないものを掘り起こそうとしている、それは恐怖ではなく、悲しみだった。誰かの悲しみがこの土の下に埋められていて、愛する誰かの手を待っていた。

シエナ
 今、光の中をゆっくりと黒い尻尾が真の前を歩いていた。
 真は誘われるままに、ホテルの前からバスに乗り、シエナの街を目指した。バスのフロントガラスの前の道は、打ち水がされているように蜃気楼が煌めき、その中に黒い尻尾がバスを導くように走っている。
シエナ
 シエナの街に着いて、バスを降りた後、尻尾を探すと、バスの発着場になっている小さな広場から続く階段に、揺れながら上って行く尻尾の影が見えた。尻尾は階段の先の路地に入っていく。
 追いかけて路地に入り、いくつか小さな道を曲がり、方向感覚が分からなくなった頃、いきなり路地から出て行った尻尾が消えた。追いかけた真が路地を出ると、目の前にあの貝殻の美しい広場が、いきなり扇を広げたように視界全体を覆った。





さて、次回は第6回は、もうハチャメチャな回に見えるかもしれません(^^)
本当にすみません(先に謝ればいいってものでもないけれど)m(__)m
御出演いただくのは、以下のメンバーです。


探偵事務所【ラビット・ドットコム】の皆様
Artistas callejerosの皆様
そして吟遊詩人(?)・愛心さん


詳しくは次号を待て!…じゃなくて、次回の冒頭でご紹介(*^_^*)


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Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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NEWS 2013/5/31 腰痛(;_:)/ 【幻の猫】お知らせ 

腰痛で座っていられません(;_:)
仕事は座っていることが多いので(年取ると、事務仕事が増える……)、余計にこたえます。
別に腰痛持ちではないのですが、急に……
寝ててもあちこち痛くなってきて(庇うから?)、落ち着いて寝れない……
月末業務がこなせなくて困っている大海です(;_:)
昨日は、久しぶりに筋トレ、おサボりしました。
歳を取ると、ちょっとサボると、また翌週が辛いトレーニング。

maruta
今週末は、石の記事が書きたい。
お話も、進めたい。
腰よ、頑張れ。
肩も背中も、ばりばりに張っているけれど……



考えてみれば、調子がいいな~と思う日が少なくなっているなぁ。
何か気分転換を考えなくちゃ。

腰痛……
肩こりはあれこれ研究したけれど、腰痛は初心者。
また新たな研究ネタができてしまった……

できれば、病気以外の研究がしたい(;_:)


追記です。
本日夜20時ごろ…【幻の猫】第5話アップです。
そしてなんと、例のごとく、終わらなかったので、本日深夜前?【幻の猫】第6話もアップです。
え?まさかのまさか?
そうなんです。まさかの第7話があります^^;

遊びすぎちゃった……^^;
事情は、本日夜に!

Category: NEWS

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[雨51] 第8章 ある代議士の事情(4) 

代議士・澤田顕一郎の告白の後半です。澤田と香野深雪の関係が明らかに。
そして、深雪にも、真と同じように、過去に空白があることが語られる。
逆行性健忘。強いショックのためにある出来事からさかのぼって一部の記憶が吹っ飛んでいる。
澤田の本心はいったい?
そして、美和と真は、手懸りを求めて新潟へ。





 深雪は最後に別れるとき、親の顔を知らないと言っていた。
「もっとも、彼女の記憶はその辺りで欠落しているところがあるだろう。病院、それから施設に預け、匿名で学費を出したのは私だ。あれが大学を出て店を持つ時に初めて会ったが、それまでのことは話していない。ただ援助を申し出た」
「何故あなたがそんなことを?」
 澤田はただ穏やかに真を見つめていた。
「あれの生まれた家は新潟の糸魚川の古い旅館でね、昔から硬玉翡翠の販売も手がけていた。いずれ新潟まで立派な交通網が整備されれば、糸魚川で大きなホテルを経営するつもりだったのだろう。今で言うリゾート地開発計画があって、県議員や地元の業者とかなり深い付き合いもあったようだ。私はその頃九州日報に勤めていてね、若くて社会に義憤を感じていた」

 真は澤田が淡々と物語る過去を、重く苦しく感じ始めている自分に気が付いていた。それが深雪の関わる事情だからなのかもしれない。
 あの女を愛しているから重いのか、あるいは愛していないから重いのか、分からなくなっていた。

「『歴史的にも大変価値のある』翡翠仏が、県議員を介して中央財界や政界に流れているという噂を耳にした。もちろん、非合法な政治献金として、だ。発信源は糸魚川で自殺した翡翠を加工するある作家でね、取材をして、その事件の裏で深雪の父親が関わっていることを知った」
「つまり、あなたが記事を書かれたんですか」
「そうだ。その記事の後、深雪の両親は亡くなった。自殺ということになっている。深雪はまともに両親がぶら下がっているところを見たんだよ」

 真は澤田の冷めた目を見つめた。澤田が感情を敢えて表に出すまいとしていることは、十分に感じた。
「それで、記憶が曖昧と?」
「逆行性健忘というそうだね。ショックでその前の記憶の一部が飛んでしまうという。今、深雪がそのことを思い出しているのかどうかも私にはわからない。だが、そういうことは明瞭な記憶でなくても、心に深い傷を残すものなのだろう。その事件で、深雪の親戚の誰も、あの子を引き取ることはしなかった。不名誉な死に方をした家の娘だからだろうな」

「新津圭一の家と同じだ」思わず真は呟いた。「それで、あなたは深雪に申し訳ないと思って、援助をしてきたのですか」
 澤田は少しの間、言葉を選んだようだった。まるで美談にしてしまうのが悔しいとでも思っているように見えた。
「まあ、そういうことだ」
「そのことを深雪は知っていて?」
「私が話したことはないが、誰かから聞いたのかも知れない」
「あなたは、そのことで香野深雪があなたを恨んでいると思っているのですか」
「さぁ、どうだろうね。直接彼女とそのような話をしたことはないからね」

 真はやっと息をついた。
「彼女に妹がいませんでしたか?」
「妹の方はまだ赤ん坊でね、誰かに引き取られたと聞いたが」
 本当に妹がいたのだ。では、やはり楢崎志穂は香野深雪の妹なのか。そして、楢崎志穂は澤田のことを両親の敵と思っているのか。だが、そうだとして、何故楢崎志穂はそのことを知っているのだろう。誰かが楢崎志穂に事件を教えたということか。

「さっきの話ですが、つまり翡翠仏のような美術品が政治献金になるということなんですね」
「あんなものは、君、値段があってないようなものだ」
「どういう意味ですか」
「君はある美術品を見て、それが一億か五億かの違いがわかるかね? それは君にとっては同じはずだ。ただやたらに高い、という程度の。しかしそこには明らかに四億の差がある。その四億がどこに流れるかということだ。そして、その美術品に値段をつけるのは、世間の流通の程度と熱心なコレクターの存在と、そして何よりそれが希少価値で滅多に手に入らないものだという情報だ。その情報が事実である必要はない」

 真は澤田の冷静な表情をもう一度改めて見つめた。
「古い絵も、同じですか? 例えば、十七世紀の海外の著名な画家の絵、とか」
「モナリザが盗まれたとき、確かに複数の『モナリザの本物』が出回ったというが、本物が本家本元になければ、どこかにある、もしかして目の前にあるこれかもしれないという理屈になる。それがその美術品の『値段を決める情報』なのだよ。だが、そんな有名な絵をしばしば引き合いに出すのはかなり困難だ。せいぜい一億になるかならない程度のものを企業が数倍の値で買い取り、差額が献金になるという仕組みだ。あくまでも絵は桁違いの金を動かすためのからくりに過ぎない。そのものの価値が云々されるようなものは足もつくし、面倒だ」

「さっき、歴史的価値のある翡翠仏、とおっしゃいましたが」
「実際に流れたのが本物か贋物か、誰にもわからない。だが、それを持つことによって、神代の時代から存在する特別な加護が与えられるとなると、人は何かにすがりたいと思うのだろうね。特に、政治家や企業家は、敵も多く、是か非かを決める瞬間も多い。君はふざけたことだと思うだろうが、そういう時は神に頼るんだ。よく当たるという噂の占いは、何も年端もゆかない少女たちのものだけではない。財産や権力を持つ人間が頼るときには、大きな金が動く。そういうことだ」

 真は妙な違和感を覚えた。竹流が贋作に命をかける図式が浮かばない。そんな政治献金に多少の美術品が利用されても、勝手にどうぞ、と言いそうに思える。それなのに、彼は何かに対して命がけでこの事件に関わっている。

「この際だから、聞きたいことは聞いておきなさい」
 澤田はある一線は越えてこないが、嘘をつこうとしているようには見えなかった。
「何故、田安さんのお葬式を? ただ親代わりというだけではありませんよね。それに、何故あの人が殺されたんですか」
「殺された? 事故だとは君は思っていないのかね」
「あなたは事故だと思っているわけではないでしょう。あんな派手なお葬式をして、しかもマスコミをわざと引き寄せた」
 澤田は曖昧に頷いた。
「あの人と私の父親は戦時中同じ部隊でね、田安さんは私の父親の部下だった。常に生命の危機を共にする間に彼らは約束を交わしたのだと言う。どちらかが死に、どちらかが生き残れば、残ったほうは死んだ方の家族の面倒をみよう、という約束だ。あの人は律儀にそれを守ってくれた」
「田安さんの仕事をご存知ですよね」
「傭兵という仕事かね?」
 真が頷くと、澤田は首を小さく何度か横に振った。

「君は自分の父親がどういう仕事をしているか知っているかね?」
「いえ、あまり詳しくは」
「知りたいと思うことは?」
 真は答えることができなかった。ただ無言で澤田を見つめていると、やがて澤田は微笑んだようだった。
「君の父上も、君に知られたいとは思っていないだろう。だが、その上でもし知ったら、君はどうする? 父親を理解し、あるいは協力するか、それとも無視するか。もし彼がそのことで危機にあるとすれば、君は助けたいと思うかね?」

 真はやはりどうとも返事ができなかった。武史に対して、そこまで明確な感情を抱いたことはなかったし、考えたこともなかった。
「あなたは、どうなんですか」
 澤田は返事をしなかった。真は俯いて暫く考えていた。
 澤田が何かをしようとしている。その気配だけが明確に伝わってくる。真は慎重に言葉を選んだ。

「あなたは僕を雇いたいと仰いましたけど、それはつまり父を、手に入れたいということですか」
「君の父上を雇うということは実質上は不可能だ。某国の国家組織も、またその対立国のアカデミーも彼を手放すことはないだろう。彼の能力のこともあるが、彼は手離せない武器のようなものだ。自分が使うかどうかはともかく、他人の手に渡ることだけは避けたいと考えている。今更、日本の一個人が彼を雇いたいと願っても、無理なことだよ」
「それで、僕を雇えば、少なくとも父への牽制になると、そういうことですか」
「私はただ、正当な値段で情報交換をしたいと思っているだけだ」
「情報?」
 頭の中では忙しく考えていたが、どうしてもパズルの絵柄は出来上がらない。
「田安さんの葬儀については君の思っているとおりだ。私はただ、パフォーマンスをしているだけだ」
「誰かが、何かのリアクションをしてくると?」
 その真の言葉には澤田は答えなかった。
 パフォーマンスといわれて、ふと真は竹流の雑誌のインタヴューを思い出した。
 あれも、何かに対するパフォーマンスではなかったのか。それなければ、彼があんなふうに人前に姿を晒す理由が見当たらない。

「私のほうからも質問しても構わないかね?」
 真は意識を飛ばしていたので、不意に問いかけられて驚いた。
「添島麻子という刑事を知っているかね」
「えぇ」
 突然だな、と思った。
「この頃私の周りをうろうろしている。君と何か関係があるのかね。田安さんの店の爆発事故にかこつけて一度会ったが、捜査一課としては越権の仕事だ」
「僕には関係がありません。多分あなたが想像している通りでは?」
「私の想像?」
「あなたは直接、内閣調査室長のところへ行かれた。始めからそこに何かあると思っていたのではないのですか」
「なるほど。君は思ったよりも物知りだ。香月君と知り合いなのかね」
「香月? 河本さんでは?」
「どちらも同じだ」

 河本、という名前は、その男のひとつの顔にしか過ぎないということなのだろう。真は一度、机の上のグラスに視線を落としてから、気になっていたことを聞いた。
「店の爆発事故は何だったのですか」
 澤田が少し難しい顔をした。
「もしものときは後始末をするようにと、田安さんに言われていたが、あれは私がしたことではない」
 澤田は注意深く言葉を選んだように見えた。確かに、あの地下の射撃場を含め、他人の目に触れるとまずいものがあるはずだった。その後のニュースを見ていても、何も特別な報道はないが、田安が水死体で上がったといって直ぐに『河本』の命令を受けている添島刑事が動いていることからも、そこから何かが出てきたという可能性は高そうだった。ただ世間には知らされていないだけで。

「君を雇うことは私には大変有用なことだと思えてきたよ。香月君は私に、君には手を出さないように、と言った。君を雇いたいと思っているのは私だけでない、とね」
「どういうことですか」
「つまり、彼も、君の父上と対等に話をしたいと思っているのだろう。君と同居人が特別な関係にあるとも言っていた」

 何のことだと思ったが、澤田は真面目だった。
「実際、君と彼は恋人同士という間柄なのかね」
「ホモセクシュアルの人間は雇えないということですか」
「そう言えば、君は喜んでその振りをするだろう」
 全く図星というのはこのことだ。
「あいにく、私にはそういう偏見はない。だが、その人を探して君は随分必死のようだし、世間にもそのように思わせておいて放っている」
「それは、そのお蔭で、そういう手の連中と外国人のヤクザが僕に手出しをしないからです。あの町では多少そういう隠れ蓑が必要な場合もあるので」

 その日、澤田と約束を交わしたのは、少なくとも知り得た情報については共有すること、澤田に雇われることについて真剣に考えること、そして来週もう一度一緒に食事をすることについてだった。
 澤田がもしかして単純に誰かと食事を共にしたいと思っているのかと感じて、真は少しばかり澤田の中の噛み合わないピースの欠片を見た気がした。


 美和と銀座で落ち合ったのは、竹流の所有するレストランだった。勿論、ここでは美和も真も、本人たちが望まなくても完全にフリーパスで、シェフのほうもオーナーに出す食事と同様の振る舞いをする。美和がそれを望んでいたわけでもないのだろうが、人に聞かれたくない話をするにはもってこいの場所でもあった。
 今は別に人に聞かれたくない話があるわけでもなかったが、少しでも竹流に関わった場所にいることで、どこかで安心していたい気持ちもあった。もしかしてあわよくば、彼がひょっこりここに現れないかと、今もそう思っていた。

 トラットリアの方のコンシェルジェに挨拶をすると、何も言わないままに奥の特別室に通された。いつものことなので今更驚く事でもないが、何もかもいつも通りなのに彼がいない事実が重く感じられる。
「お葬式、どうでした?」
 真は美和に聞かれて、葬儀の様子と井出に会ったことと、それから澤田や嵜山の様子を話した。大東組の三代目が弔問に来ていたことも話した。澤田に呼ばれたことは黙っていると、真の食事が進まないのを見て、美和が言った。

「どこかで食べてきたでしょ」
 本当に、食べ物が絡むと女は鋭い。
「うん、まぁ、ちょっと断りきれなくて」
「また澤田顕一郎?」
 真が何て鋭いんだ、と感心していると美和がふとパスタから顔を上げた。
「本当に澤田に会ってたんですか?」
「え?」
 真の方が改めて聞きなおしていた。暫く二人とも言葉なく見詰め合っていたが、何となく納得して料理に向かった。

「それで君のほうは?」
「その昔の秘書の人のこと、多少わかりましたよ。でも、澤田に会ったのなら聞いてきてもよかったのに」
 全く美和の勘の鋭さには感心する。しかし、余計なことは言わないでいると、美和が先を続けた。
「村野耕治。澤田の同郷ですって」
「同郷?」それは聞いていない。「ということは大分の出身か」
「ブンヤ時代からの仲間なんですって」
「九州日報の?」

 美和は頷いた。
「新潟から帰ったら、一度九州に行ってきますね。ついでに実家にも寄りたいし」
 それでふと思い出した。
「九州日報の古い記事がわかるだろうか」
「先生、九州日報って、もうないんだよ。どこかに吸収されたって話。古い記事のことがわかるかどうかは不明だけど、いつの何の記事ですか?」
「二十三年ほど前の記事、内容は翡翠仏」
「二十三年?」
 美和は素っ頓狂な声を上げた。自分が生まれる前だと言いたかったのだろう。
「先生、澤田と何の話をしたんですか」
「後でゆっくり話すよ。でも時間もないし、早く片付けたほうがいいみたいだぞ」

 それから食事を片付けて、コンシェルジェに挨拶をして、上野に向かった。コンシェルジェの上品な紳士は、オーナーの怪我を心配していたが、もう少しかかると思うけど直ぐに戻ってきますよと言うと、やっと安心したような顔を見せた。
 上野で目的の『出羽』に乗り込むと、彼らは直ぐに寝台車の座席を見つけた。
「個室って、お前」
 添島刑事の取ってくれた列車を変更したのは美和だった。二人用の個室が安い値段とは思えない。時々美和の金銭感覚は、やはり金持ちのそれだと思う時がある。

「何かワクワクしますよね。個室なんて始めて」
 他人の話は完全に聞いていない。真は諦めて美和と一緒に個室に納まった。そこには座席と二段ベッドが入っていて、彼らはその座席に座って、列車が出発するまでの間に真は澤田から聞いた話を美和に伝えた。澤田との取引の件は端折った。

 美和は深雪の過去について聞いた後、真の方をじっと見つめて言った。
「深雪さん、可哀想。先生、一年も付き合ってて、そういう昔話とか聞いてあげなかったの?」
 美和の感想はもっともだと思った。
「でも、ああいう仕事をしているんだ、話したくない過去もあるかもしれないし、あまり聞くことでもないだろう」
「だって、深雪さんにとって、先生は特別なんじゃないの?」
 美和がどうしてそんなふうに思っているのか、真にはわからなかった。真が黙っていると美和は真の肩に凭れるようにした。

「何か腹は立つけど、同情もしちゃう」
 その言葉にも、真には答えることができなかった。
 列車が出発すると、寝台車の二段ベッドの上下に納まらずに、真のほうが美和を誘うように一緒に下段のベッドに入った。
「かなり狭いけど」美和が楽しそうに抱き合ったまま言った。「エッチしてたら、絶対隣に聞こえるよね」
 真は何も返事をしないまま、その美和の唇に口づけた。
 キスをしている間に美和は眠くなったのか、真の腕の中で欠伸をしてその胸に顔を埋めた。温かくて心地よい気分で、真はただ彼女の身体を抱き締めた。

 美和が一緒にいてくれて良かったと、心からそう思っていた。
 目を閉じると、列車の揺れと車輪と線路の鉄同士が軋み合っている地鳴りのような振動が、身体に響いてきた。今出発した東京の町の光景と、この向かう先にある北の町の光景がだぶついていた。北といっても、真の故郷とは全く違う世界だ。それでも向かっている先は混乱して絡まっている感じがした。記憶が複雑な欠片になってばらばらで、それを鉄同士が軋む音がかき回している。

 それでも、この道は彼に繋がっているだろうか。
 目を閉じていると、腕の中にいる美和ではなく、別の誰かを想っていた。それを否定することは自分でももうできなかった。途切れ途切れの睡眠は夢と錯覚を運び込んでは直ぐに打ち消していく。その錯覚を失いたくなくて、目を開けることはできなかった。





さて、次回から第9章です。正直、飛ばしていただいても一向に構わない章です。
竹流がいなくなって、見かけよりもずっと落ち込んでいるはずの真の過去へ遡ります。
相川真15歳。いささか危ない年齢で、いささか無謀なことをしておりました。
教師、あるいは導き手というものは、本当に必要ですね。

『若葉のころ』
これは大好きなKinki Kidsの主演ドラマで、タイトルからはいったいどんな爽やかな話かと思われるかもしれませんが、恐ろしく『痛い』話でした。根津甚八さんがいけてないオヤジをやっていて、これがもうリアルに怖くて、剛くんは鑑別所に入ってしまうし、その間に友と思っていた光一くんに彼女を奪われるし、かと思ったら、あれこれ悩む光一くんは事故で寝たきりに……
まるで韓流ドラマのような、あり得ないことが次々起こる展開。

でも、タイトルを頂きましたが、そんな悲しいことは起こりません…
無茶なことをする若者の話、かな?

またお楽しみに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/5/29 探し物/ いつか出会うはず 

サンタフェ
ずいぶん以前にサンタフェに行ったことがあります。目的はただインディアンの世界に触れたかったから。
(インディアン、が良いのか、ネイティヴアメリカン、が良いのか、どちらがより差別用語的であるかということで議論されているようですが、結果的にはどちらも起源的には差別的な用語。彼ら自身は長くインディアンと呼ばれてこれが普通になっているので、とある本に書かれていたので、ここではインディアン、とします。本来はそういう統括的な呼び名ではなく、それぞれ~族と名前を持っておられるので、それが正解では)
多分、明らかにモンゴロイドとルーツが同じ民族と思える。
世界観も、自分の感じているものにとても近い。

サンタフェに逗留して、インディアンの遺跡をいくつか見に行きました。
石の遺跡は崩れていて、当時の面影はないけれど、これはそもそも『残す』ことを考えていなかったから。
彼らは、その土地に住むメリットがなくなれば、新しい土地に移動していったので、何百年も形をとどめる建造物を必要としなかったからなのですね。
サンタフェ

ペトログリフの中には渦巻の模様がいくつもあって、これは移動とか流転とか、を表している。
マヤの太陽の暦もそうだけれど、巡るもの、という感覚が常にあるのです。
文明は直線的に右上がりだと思っていはいけない、常に元に戻るのだと、彼らは知っている。
言い出したらきりがない話だけれど、その中には、もしかしたら次の太陽は巡ってこないのではないかという恐れも含まれる。
マヤやアステカの残酷とも言える生贄の儀式は、次の太陽に活力を与えるためのもので、現代の私たちからすればナンセンスなのかもしれないけれど、次の太陽のためには当たり前の犠牲だったんだろうな。
そもそも、平均寿命は20代とか30代じゃないのだろうか?
病気や餓え、戦争、もしかすると他の生物との戦い。

巨大な建造物が現代にまで残る文明、文字を残し記録を残した文明、それが必ずしも偉大な文明であったかどうかは一概には言えません。
ケルトにもアイヌにも文字はないけれど、大事なことは伝承として伝わった。
どれほど文字を操り、どれほど巨大な塔を築いても、それを統べる知恵がなければ、何にもならない。

サンタフェ
だからこの遺跡を見ると、これで良し、と思う。
よく『消えた○○文明』というのがあるけれど、消えたのではなく、移動しただけ。
その血や教えは、脈々と受け継がれている。

インディアンの考えでは、自然界のすべてのものに精霊が宿っているといいます。
これはアニミズムと同じ。
その精霊の人形をカチナと言います。
実は、かの地に行った目的のひとつは、私の精霊、私のカチナを探すことだった。
きっと見つけたら、何か心にひらめいて、私には彼が・彼女が分かるはず。

残念ながらその時は見つけられなかったのですが、きっといつか出会うはずと思っている。
私の生涯の探し物です。

サンタフェ

……って、まるで白馬に乗った王子様を待つ姫じゃありませんか!
しかも、巨大な建造物を否定したのは、スカイツリーとか見ると心拍数が上がるからでしょ(高所恐怖症なので)、とか言われそう。
ま、それは事実であります。
多分生涯、私はスカイツリーには登らない^^;



ちなみに、私のスピリット(守護霊じゃなくて、魂の連れ合い)はトカゲ。
ヒーラーの方にそう言っていただいて、それまでずっとトカゲが気になったり、結構好きだったりした理由が分かった気がしたのも、この旅でした。

ココペリ
あ、この子はココペリ。有名なインディアンの精霊です。
豊穣の精霊、男女の交合や子宝の精霊、いたずら者だそうですけれど。
ちなみに、これはTDLで購入した人形^^;

きっと生涯ずっと探し続けるんだろうな、と思うものって、何かありますか?

Category: 旅(あの日、あの街で)

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【幻の猫】(4) 街の光と影 

真250kuroneko250
さて、今度は竹流の様子を見に行きましょう(^^)
どうやら、あの妙齢の女性、クラリッサと一緒のようです(行方不明の少女・フィオレンツァの叔母)。
浮気現場を押さえるまで、探偵は目を離してはいけません。
証拠を掴んだら、言いつけてやりましょう!?

などとふざけている場合じゃありませんでした。
ほのぼのとした話を考えていたのに、だんだん雲行きが怪しいですね…
ついに、真実がおよそ見えてきます。まずはお読み戴けると嬉しいです。

そうそう、このお話、もしかして初めてこのブログにたどり着いてくださった方がいたら、なんのこっちゃと思われたかもしれません。

主人公の二人を改めてご紹介。

相川真:この時点では大学受験を終えたばかりの18歳。ちょっとした霊感もどきありの、理系っこ、将来の夢は宇宙に飛ぶこと(ロケットを飛ばすこと)。でも3年先には大学を中退して調査事務所の雇われ探偵。上のlimeさんによるイラストの彼が真です。
大和竹流:その家庭教師だった男、絵画修復師、27歳。実はイタリア人(名前はジョルジョ)で、このたび11年ぶりに、帰るつもりではなかったお国に帰ってきました。実はローマ教皇庁の裏番的存在・ヴォルテラの御曹司。
受験頑張ったご褒美に、竹流の故郷・イタリアを旅行中の二人のある1日に、ちょっとしたミステリーが。
舞台はシエナ。世界中で最も美しい広場(と私が勝手に思っている)・カンポ広場を取り巻きながら、ちょっと悲しくて優しい物語をお楽しみください。

ちなみに……ジョルジョがもう一人…いや、一匹(上の写真の黒猫がイメージ)。
霊感坊や・真は一人で取り残されたホテルの敷地内で、今はもうない天使の彫刻と、不思議な猫と、少女の幻を見る。一方、野暮用で出かけている竹流は昔の使用人・ベルナデッタを訪問中。彼女は『片羽根の天使協会』という行方不明者を探してくれるイタリア版教会附属婦人探偵団みたいな組織のメンバー。そこに逗留中の女性・グローリアの5歳(当時)の孫・フィオレンツァがちょうど1年前このシエナの街で姿を消したという。
さて、その真実は。そして関わる人々は、どうやって魂を開放していくのか…
どうぞお楽しみください。




シエナ
 竹流はクラリッサと一緒に町のはずれを歩いていた。
 大きなワインセラーがある、古い城の跡地の一角を路地の方に入っていく。
 古い街には何某か、こういう影の部分がある。町も人も、世界は何もかも光と影が織り込まれたタペストリーのようなものだ。そして、光と影の距離は、あまりにも近い。

 指輪を置いてきてしまった。自分を『ヴォルテラの後継者』だと示すものが何もないのは、正直心許ない気がするのだが、考えてみれば頼るものが自分しかいないのに一人で放り出されている真は、もっと心許ない気持ちでいることだろう。指輪を渡してやったのは、どれほど想ってやっているのかということを示すことでもあったが、何しろちょっと頼りない顔をされたので、その瞬間、ただ哀れで愛おしく思えたのだ。

 それならなぜ、一緒にいてやらなかったのだろう。考えてみれば、ここに一緒に来ても良かったはずだ。
 イタリアに戻ったのは十一年ぶりだった。試験が終わったらあんたの国に連れて行ってほしい、と真が言ったとき、竹流は受け流すつもりだった。
 だがどこかで気が変わった。

 永遠に帰るつもりがないのか、と聞かれたら、それはあり得ないと心から思う。この国を、あのローマの街を愛している。多分、どこの誰よりもだ。逆らえない郷愁に取りつかれて、そして真が言い出したからだという言い訳を利用して、十一年間一度も足を踏み入れなかったこの場所へ戻ってきた。
 ここに戻れば、突然、日本が遠くなった。生まれ育った国の空気は、長い期間の離別などまるきりなかったように、竹流の肌を完全な形で包み込んだ。ふと気が付くと、この懐かしい故郷の苦しいほどに眩い光の影に隠れて、あの国で狂うほどに愛しいと思ったことまでが夢か幻ではなかったかと思えてしまう。

 真はおそらく、その竹流の心の動きを、言葉や行動ではなく気配で、あるいは重ねた手や肌の微かな温度から、つながった心や身体のどのような部分からも、敏感に察知していることだろう。海から上がってきてからは、真は少しずつ、口数が少なくなってきている。彼にはあり得ないほどに素直で無邪気な顔を見せる瞬間もあるが、見ていないところでは不安な表情をしている時の方が多くなってきていた。それに気が付いていないふりをし通している。
 今朝も、一人で町でも歩いたらどうだと言ってやった時、何か言いかけて口をつぐんでしまった。その時の表情が、網膜の上から消えてくれない。
siena

「シニョール・ヴォルテラ?」
「え? あぁ、失礼。ちょっと考え事を……」
 クラリッサ、失われた少女の叔母にあたる女性の、燃えるような赤い髪が竹流の腕に触れていた。そしてはっきりと光を宿す緑の瞳が、竹流を捕えている。いや、それでも、彼女の中にもやはり、小さな不安と不信の影が見える。
「聞いておられなかったんでしょうね」
「えぇ、すみません、シニョーラ。何か?」
「なぜ私を連れ出したのかとお尋ねしたんです」

 竹流はクラリッサをしばらく真正面から見つめていた。
 二人が歩いていた路地は、すでに最後の扉を残して行き止まりになっている。狭い路地には、午前中の最後の時間、あともう少しで天蓋の頂上に太陽が昇り詰めるまでの時間では、まだ朝を迎えていないのと同じ闇が残っていた。
 扉には重く黒い鉄のノッカーが付いていて、暗がりの中では悪魔の顔のように見える。

「グローリアやベルナデッタのいるところでは、話しにくいことがあるのではないかと思ったのです」
 クラリッサは答えなかったが、竹流の目をまともに見返している。強い分だけ脆くもある女が、鎧の内側を垣間見せる時、竹流はいつも女たちを本当に愛おしく思うのだ。
「なぜ、そんなことを?」

「始めから少しだけ疑問があった。行方不明の女の子を探す家族がすることは、悲しむことじゃない。気がふれるのは、確実にその子に残酷な運命が訪れたと知ってからでいいはずです。そして、何故、一年なんです? つまりもしもその子が行方不明なら、時間が経てば経つほど、探すのは難しくなる。時間との闘いのはずだ。だが、あなたたちは、彼女がいなくなって『丁度一年だから』と言ってやってきた」
 クラリッサはまだ強い瞳で、睨み付けるように竹流を見つめていたが、やがて肩を落とし、息をついた。
「あなたは怖い人だわ」
 そう言って、路地の行き止まりにある扉へ視線を移す。

「ここに何があるの?」
「多分、あなた方が思い出したくない真実が」
 竹流はクラリッサを見つめたまま、ノッカーに手をかけた。クラリッサが何か拒否的なことを言う、もしくは真実を告白するのかと思ったが、彼女は意外な表情を見せた。
 ほっとしたような、張りつめたものが緩んだような顔だった。
「いいわ。一緒に真実を見ましょう」

シエナ
 扉の向こうには、すっかり白くなった前髪で目を半分隠し、鷲鼻の下にある乾いた唇を厚い舌で何度も舐めている男が待っていた。小柄な体を革の上下で包み、杖をつき、足を引き摺りながら、竹流とクラリッサが立つ扉にやって来る。
「あんたがヴォルテラの御曹司だと、どうして信じる?」
 だみ声で、男はせせら笑うように聞いた。竹流はこの土地の言葉で答えた。

「事情があって指輪を置いてきた。信じてもらうしかない」
 竹流が言った途端に、男は杖を振り上げ、地面を突き刺していた端を竹流の咽喉元に突きつけた。
 クラリッサが息をのんだのが分かる。

 刃の切っ先が微かに咽喉を切った。ほんの少し、血の匂いがしていた。だが竹流は、まったく動じなかった。
男はそのまま杖を戻し、唇だけを動かして答えた。
「なるほど、騙ったところで得をするわけでもないことに命を懸ける馬鹿はおるまい。御曹司、こっちへ来い」
 男が足を引き摺り、杖が地面を痛めつける音が鈍く、両側から圧迫する壁に木霊する。もう一つの扉を開けると、その先に小部屋がある。竹流はクラリッサと共に男について行った。

 小部屋はぼんやりとした照明が灯されているが、明るいというわけではなかった。男はもう一度竹流の顔に目を近付ける。そして改めてチェザーレと同じと言われる青灰色の目を見つめ、がさがさの節くれだった手で頬や鼻、唇を撫で回し、最後に耳を確認し、いいだろうと言った。
「確かにチェザーレの息子だ。何が聞きたい?」
「この女性の母親が、丁度一年前の今日、五歳になる孫娘と一緒にこの街にやってきた。孫娘はここで行方不明になったという」

「ふん」
 妙な声を出して、男は今度はクラリッサをじろじろと見つめた。さすがにクラリッサは顔をしかめたが、怯んだ様子はなかった。
「それで、この街の誰かが娘を掻っ攫って、幼い子どもの身体を欲しがる悪趣味な金持ちの老人に売ったとでもいうのか」
「そういうことなら、あんたたちの目や耳に入らないことは絶対にないはずだ」
 男はくくく、と笑った。

「そんな話は聞いたこともない。一年前にばあさんが娘がいなくなったと大騒ぎしていたのは知っている。異常に騒いでいたからだ。だが、俺たちは知っている。ばあさんは一人でこの街にやってきた。娘っこなんぞ連れて来ていない」
 竹流はクラリッサの反応を見ていた。クラリッサはやはり怯む気配なく男を見返していたが、ほっと息をついた。
「そう、あなたのおかげでようやくパズルが嵌ったわ」

シエナシエナ
「ここに来るのを言い出したのはあなたですか? それとも母上?」
 竹流が扉を閉めて直ぐに、内側から施錠する重い音が聞こえた。丁度天頂に上がった太陽が、今この路地を僅か数分だけ、光の箱の中のように真っ白に染めていた。
 竹流の質問にクラリッサは質問を返した。
「その前に、いつ、母の話を疑ったの?」

「始めは、可愛そうな女性だと思っていた。だが、私が疑ったのは、あなたのお母さんではなく、ベルナデッタです。彼女なら、子どもを失う悲しみは誰よりもよく知っている。そして、私の叔父の力を借りれば、この国で分からないままになることなどほとんどないことも知っている。もしも彼女が、本気でグローリアのためにフィオレンツァを探す気なら、躊躇わずに叔父の所に相談に行ったはずなのです。だが彼女はそうしなかった。考えられる理由はひとつだけだ。ベルナデッタが何かを知っていて、誰かを、おそらくはあなたの母上を庇っている、つまり真実に目を瞑ることにしたのではないかということです」

「ベルナデッタは私たちに良くしてくださったわ。何も聞かずに、ただ母を見守ってくれている」
 クラリッサは少し考えさせて、と言って、ようやく光に満ち溢れた路地から先に出て行った。竹流は黙って後を追った。

シエナ
 路地から出て大きな通りへ戻ると、街は賑やかになっていた。そう言えば今日は日曜日なのだ。あちこちの暗がりから町の人々や観光客が吐き出され、ところどころでかたまって、当てのない今日の予定を生み出そうとしている。ドゥオーモの近くまで戻ると、空気の色合いまで華やかなものへと変わっていった。

『片羽根の天使協会』へ戻り、ベルナデッタの部屋をノックしたが、留守だった。取次の女性が、ジョルジョとクラリッサを見かけて声をかけてきた。
「ベルナデッタなら広場に出かけたんじゃないですかね。この時間はいつも広場のバールだから」
「母は?」
「あら、御一緒ですよ」

 竹流はベルナデッタの机に歩み寄り、彼女の家族の写真が入ったフレームを手に取った。
 ま新しいフレームだ。今朝これを見た時、違和感を覚えたのは、写真が古い割にはフレームが新しいものだったからかもしれない。
 竹流は何かが気になって後ろの留め金を外し、写真の裏を見た。

 ベルナデッタとアウローラ、エドアルドより。

 アウローラは病気のために五歳で短い一生を終えた。ベルナデッタは、それを自分のせいだと手紙に書いていた。抗癌剤の影響の残る身体で恋をして、子どもを宿した。この子を諦めたら、年齢からももう子供を産むことはないだろうと思ったので、無理を承知で出産したのだと。相手は妻子ある男性で、ベルナデッタの主治医だった。
「去年、写真をみんな捨ててしまわれたんですよ。辛いからと言って。その写真は、最近アウローラの父親にあたる人が亡くなって、その家族が遺品から出てきたと送ってきたんですよ。さんざん嫌味な手紙つきでね。ベルナデッタは、これも何かの思し召しなのだろうって、また写真を飾るようになって」

 アウローラは頭の上でライラック色のリボンを結んでいた。見覚えのあるこのリボンは、竹流が日本から贈ったものだった。ベルナデッタからの手紙には、足長おじさんからのプレゼントだと言って、アウローラがとても喜んでいると書かれていた。
 竹流は丁寧に写真をフレームの中に戻した。
 
 傍らで、写真にいるもう一人の失われた少女を見つめいていたクラリッサが、写真を見つめたまま、意外にもはっきりとした声で言った。
「お話した通り、行方不明なのは、フィオレンツァだけではなく私の姉も、なのです。姉の夫は異性関係がだらしなくて、姉はそのことで不安定になっていて、フィオレンツァを虐待していた。私は一年前のあの日、母と姉とフィオレンツァに何があったのかは知らないのです。ただ、私は、本当のことを知るのがずっと怖かった。このまま見て見ぬふりをしようとも思っていました。けれど……このところ、ジョルジョが落ち着かなくなって、奇妙な鳴き方をするようになったのです。ジョルジョはフィオレンツァが可愛がっていた猫でしたから」

 竹流はクラリッサの腕をそっと支えた。気丈に話しているが、彼女の声が震えているような気がしたからだ。
「それは、あなたも辛かっただろうに」
 そう言った途端に、クラリッサの身体から力が抜けたようになり、竹流に凭れかかってきた。竹流はクラリッサの身体を柔らかく抱きとめ、しばらくの間抱きしめてやっていた。燃えるような赤い髪はしっとりと沈んでいたが、優しい香りがした。もしかしたら重大な真実を隠しているかもしれない母親に付き添ってきて、ずっと心が不安でいっぱいだったのだろう。頬を零れ落ちる涙にそっと唇で触れ、どちらからというのでもなく、唇にも触れかかった時だった。

黒猫200
 いきなり真っ黒な塊のようなものが、ベルナデッタの机に飛び上がり、フィオレンツァとアウローラの写真立てを倒した。
 驚いて見下ろすと、猫のジョルジョの黄金の目が、同じ名前の浮気者の顔をじっと見つめている。
 クラリッサがようやく少し微笑んだ。
「だめみたいね」
「確かに、猫の祟りは怖いからね」
 ジョルジョはとん、と軽く机から飛び降りた。そして部屋を出ていきかけて立ち止まり、ついて来いというように、扉の所で振り返る。
「行こうか。ジョルジョと一緒に、真実を確かめに」
「えぇ、そして母とベルナデッタを救いに」



浮気はもう一人(一匹)のジョルジョが許しまへん^m^

次回、一応物語は解決いたします。
そして、ちょっと色々な人がカンポ広場を行き交います。
なだれ込みでエピローグがありますので、また併せてお楽しみください。



Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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[雨50] 第8章 ある代議士の事情(3) 

代議士・澤田顕一郎が喪主となった元傭兵・田安隆三の葬儀に参列した真は、そこで飲み仲間でもある新聞記者・井出から、自殺した雑誌記者・新津圭一の娘が預けられていた新潟の施設が閉鎖され行方が分からなくなっていることを知らされる。葬儀にはヤクザまで参列しており、真は澤田の本心を疑う。自らの身を危うくしてでも田安の葬儀を行った本心はいったい?
一方、澤田は新津のことを知っているはずだし、新津が脅迫していた相手の中に澤田が含まれていた疑いもある。
澤田から食事の誘いを受けていて真は、彼の真意を確かめるために、再び澤田に会うことにした。

さて、竹流の失踪の大元には、新津圭一という雑誌記者の死が関係しているもよう。さらに、竹流は新津が自殺したころ、新潟の県庁の中にある絵にまつわる仕事をしていたようなのだ。新潟というキーワードの中にいく人もの人間が関わっている。
真は美和と一緒に新潟へと向かうことにした。
その前に、2回に分けて、澤田顕一郎との会話をお聞きくださいませ。
真実の一端が見えるでしょうか。





 嵜山は時間通り事務所に現れた。
 美和とは銀座で待ち合わせていたが、真は彼女が嵜山と鉢合わせなかったことに感謝した。また何かれと美和が心配するのは申し訳なく思っていた。

 その日は料亭ではなく、田園調布の澤田の私邸に連れて行かれた。豪邸ではなく、適当に恥ずかしくはない家という程度だが、落ち着いた静かな環境だった。
 嵜山は車を車庫に入れ、一度姿を消した。真を出迎えたのは四十代の上品な女性だった。澤田夫人かと思ったが、すぐにお手伝いの女性と知れた。
「妻が入院していてね」
 澤田の個人的な状況を聞いたのは、それが初めてだった。

 派手な飾りのひとつもない十畳ほどの座敷に通されて、勧められるままに座布団に座ると、先ほどの女性がビールを運んできた。床の間には、細い筆づかいの文字だけの掛軸と、姫百合と小紫陽花が活けられた花器が吊られている。静かな梅雨の景色が、この床の間に切り取られていた。
「無理を言って済まなかったね。田安さんのことを話す相手を、他に思いつかなかった」

 真は黙って女性がビールを注いでくれるのを受けた。彼女が出て行くと、真はビールに口はつけずに、座敷机の上にグラスを戻した。
 顔を上げると、澤田は真っ直ぐに真を見つめていた。
「故人を偲ぶ、というムードではないようだね」

 真は意を決したように口を開いた。
「香野深雪はあなたの何ですか?」
 澤田は黙ったまま真を見つめている。
「あなたは大和竹流をどこへ隠したんですか。それから、あなたは新津圭一という男を知っていますね」

 いきなり切り出すのは性急だったかもしれない。美和と待ち合わせた時間のこともあったが、何よりも今流れている時間そのものが惜しかった。真はどの名前で澤田が表情を変えるかと思って見ていたが、どれも裏切られた。
 澤田は淡々とした表情で真を見つめ返しているだけだった。

「深雪と私に、つまり世間の一部が噂するように、身体の関係があるかどうかを聞いているのかね」
「……それでも結構です」
 澤田は笑ったようだった。
「あれは君に惚れているんだよ」
「何のために彼女は僕に近づいてきたんです? それは僕が大和竹流と親しいからですか」
「それは、君と同居している男のことだね。一体、君は何を私に聞きたいのだ?」

 真はまだ注意深く澤田を見ていた。澤田は手にしたまま口をつけなかったグラスを、結局机に戻した。
「深雪と私の関係は、今はただビジネスのようなものだ。あれは世間が思っているよりも賢い女だし、何を考えているのか、私に手の内を全て見せることはないが、それでも誰を思っているかはよく分かる」

 真は注意深く澤田の表情を確かめた。澤田が深雪に対して抱いているのは、それほどにビジネスライクなものには思えなかった。深雪の気持ちも、どうだか分からない。
「それで、私が君の同居人をどうしたと言うのだね」
「あなたがさらったのではないのですか」
「さらう?」
 澤田が何を考えているのか、やはり表情からは掴み切れなかった。

「あなたの秘書は僕の実家でもなく事務所でもなく、大和竹流のマンションに電話をかけてきた。送り届けてもらったのも彼のマンションです」
「嵜山が自分の判断でしたことだろうが、一体君の同居人がどうしたというのだ」
「あなたと彼の接点は何ですか」
 澤田はまだ不可解に真を見つめているだけだった。
「君は、まるで恋人のように必死だね。その人がどうしたというのだね。私に分かるように話したまえ」
 澤田ではないのか、それともしらを切り通すつもりなのか、真はまだ暫く澤田を見つめていたが、やがて諦めた。
「あなたの秘書を呼んでください」

 澤田は手伝いの女性を呼んで、嵜山を呼ぶように言った。嵜山は直ぐにやって来た。
「お呼びでしょうか」
 その姿を見ると、今度は、澤田よりもこの男のほうが怪しく思えてくる。実直だが、その心の内を読めない、抜け目のない目つきだった。
「この人が君に聞きたいことがあるようだ」
 嵜山は背中の障子を閉めて、真のほうを向き直った。
「何でしょうか」

 淡々と押さえ込まれた声で嵜山が尋ねる。質問したのは澤田だった。
「彼の同居人のことを知っているかね」
「銀座にギャラリーとレストランをお持ちのイタリア人の方です。最近、雑誌でお顔を拝見しました。御一緒にお住まいということでしたので、そちらに御連絡いたしました」
 それもそうだ。あの雑誌で、真や竹流を知る人間だけでなく知らない人間も、『大和竹流』という男を認識したわけだ。真は自分からは口を挟まず、澤田が嵜山に質問している様子を見つめていた。

「その人のことを調べたかね」
「お住まいは、申し訳ありませんが、探させて頂きました」
「その人が今、どこにいるか知っているかね」
 嵜山はその質問の意味が飲み込めなかったようだった。
 澤田は真のほうを見て、他に何か聞きたいことはあるかと聞いた。

 本当のところは、ここまでは予想していた展開だった。実際、澤田は竹流の事は知らないのかもしれない。同じ人物と関わっているが、澤田と竹流自身に接点があるわけではないのかもしれない。
「新津圭一という雑誌記者をご存知ですか」
「新津?」
 嵜山は首を傾げた。
「三年半前、ロッキードの直前に自殺した……いえ、殺されました」

 不確定な話だが、インパクトのある表現を選んだ。嵜山はまだ考えているようだったが、逆に澤田が真の視界の端で多少不可解な表情をした。
 真はそれを見逃さなかった。澤田のほうを向き直ると、真は改めて聞いた。
「新津圭一をご存知ですね」
 しかし、代わりに答えたのは嵜山だった。
「それは、フロッピーに脅迫文を残して自殺した男ですね。殺人とは聞いておりません」
 真はそれには答えず、澤田の顔を見つめていた。

「君は何を調べているのだね」
 ようやく、澤田は関心を示したような気配を見せた。
「大和竹流を捜しています」
「その人が、新津圭一という男とどういう関係があるのだね」
「わかりません。あなたがご存知ではないかと思っていました」
 澤田は暫く真を見ていたが、やがてひとつ息をついた。

「その男が自殺したときに、検察が、脅迫されたことはないかと言ってきた。直後にロッキード事件があって、それとも絡めて随分としつこく聞かれた」
「あなたには、脅迫された事実があったのですか」
「いや」
 澤田は一言で否定したが、何か考えているように見えた。

「脅迫の内容をご存知ですか」
「ある企業から収賄があったのではないかと言われた」
「ある企業?」
「だが全く身に覚えのないことだった」
 雑誌記事には『IVMの件で、と脅迫文には書かれていた』と載っていた。検察も何かの企業名と思ったのだろう。もちろん、澤田が身に覚えがないと常套句を言ったところで、検察がそれを信じたかどうかは分からない。実際に澤田が収賄事件に関わっていた可能性もある。だが、真は澤田が金を受け取ったかどうかには興味がなかった。

「もう一つ教えてください。その頃も嵜山さんはあなたの秘書だったのですか」
 澤田は何を言うのか、という顔で真を見た。それから嵜山と視線を合わせる。
「そうです」
 返事をしたのは嵜山だった。
「では、四十年台の後半頃は?」

 明らかに、澤田は真に対する態度を、その身体の奥のほうで変えたように見えた。
「一体、君は何を嗅ぎ廻っている?」
「気になりますか? それなら、あなたももう少し手の内を見せてくださってもいいのではありませんか」
 食い下がるしかないと判断した。嵜山が澤田に何か命令を仰ぐような表情を見せたが、澤田は暫く考えるような顔をした後で、嵜山に下がっているようにと言った。 

「今度は君が脅迫者というわけか」
「あなたには脅迫される覚えがあるというわけですか。さっきから申し上げていますが、僕は大和竹流を返してくれと言っているのです。それ以外のものを要求するつもりはありません」
「その男は君の一体なんだね?」

 澤田が竹流をさらっていたぶったとは思っていない。しかし、この男は何かを知っていると思いたかった。今直接に竹流に近づくのは、この経路しかないように思ったのだ。
「僕のことで、叔父、いえ、父のことを調べたあなたが彼のことを知らないとは思いません。僕が香野深雪と付き合い始めたのはもう一年以上も前のことで、今更のようにあなたが僕に接触してきたのは、父のことを知ったからですね。僕と同居している男も、父以上にかなり特殊な事情を抱えた人間です。田安さんとあなたの関係を考えても、あなたが何も知らないとは思いません」

 澤田はようやく落ち着いた表情に戻って、冷めた声で机の上の料理を片付けるように言った。せっかく妙子が腕を振るっているのだから、と穏やかな声で続ける。
 真は有無を言わせぬ気配を感じて、逆らわずに食事に専念した。
 確かに、竹流ほどではないにしても、妙子という澤田家のお手伝いもかなりの料理の腕前に思えた。
 だが、美和の味噌汁の伸びたわかめが何となく愛おしく思い出されるのは不思議だった。

 食事の間に、澤田は、自分の妻が病気で長く入院していることを真に告げた。何の病気かと真が聞くまでもなく、心の病だと澤田のほうから言った。お子さんは、と何気なく聞いたが、澤田は、男の子が一人いたが小さい頃事故で死んだと、今まで以上に冷めた声で言っただけだった。

 食事の後で、澤田の書斎に通された。食事をしていた部屋は一階の和室だったが、二階は洋室が並んでいるようで、特に書斎は扉も厚く、外界との空気を完全に隔てるようになっていた。
「先程の話の続きをしなさい」
 澤田は小さめの一人掛けのソファが二つ向かい合っているところに、真を座らせた。大きなデスクはなく、真の伯父の書斎と同じように小さな机が隅に置いてあり、あとは書棚が図書室のように並んでいる。澤田顕一郎のお気に入りの空間とでも思える小さなスペースを、仄かに橙の明りが包み込んでいた。

 真は開き直ることに決めていた。今は手がかりもないのだ。
「あなたもご存知かもしれませんが、僕の同居人は、ギャラリーとレストランの経営者ですが、本職は絵画や美術品の修復師です。かなり胡散臭い仕事もしているかもしれませんが、仕事には情熱を持っている。彼が絡むとなると、間に絵画か何か美術品が介在しないわけがないと思っています。もう一つ、彼の実家はローマのヴォルテラという家です。表向きは銀行業とホテルチェーンを持っている事業家ですが、裏では情報の売り買いをしているし、何よりも随分大掛かりな警備にまつわる仕事をしていると聞いています。つまり特殊技能を持った兵士を雇っている。もともとはヴァチカンの法王庁を守るために作られた組織だと聞いています。田安さんがそういう事情を知らなかったとは思いません」

 澤田は顔色も変えずに聞いていた。
「彼が今何をしているのか、僕にはわかりませんが、あなたの関係者と一緒にいるのではないかと、そう疑っています」
「私の関係者?」
「昭和四十年台の後半、あなたの秘書だった誰か」
 澤田は真をじっと見つめた。初めて、真はこの男が強い興味を示したように思った。

「何故、その人物を知っている?」
「山口県の小郡辺りの土地を新幹線のために買い付ける仕事をされていた、その時、あなたと握手した女の子が、あなたの秘書の事を何となく覚えていた」
 澤田は暫く顎に手を掛けて考えていた。

「村野、という男だ。しかし彼は四十年代の後半に癌で亡くなっている。私の秘書を十年近く勤めてくれたが、秘書というよりも戦友のようなものだった。現在、君の同居人と行動を共にするのは不可能だが?」
「いえ、本人ではなく、その息子さんです」
「息子? 村野に子どもがいたとは聞いていないが。村野家が養子をもらっているなら別だが」
「いえ、血のつながりのある息子さんのはずです」
「どういうことだね?」
 美和の『親子』を見抜く勘だとも言えないな、と思った。澤田はまた、思い立ったように言った。

「もちろん、彼の晩年のことは私もよく知らないし、身辺に誰か女性がいたとしてもおかしくはない。だが、その『村野の息子』が君の同居人と一緒にいるとしても、私との接点にはならないと思うのだが?」
 それはその通りだ。真は思わず唇を噛み締めるように俯いた。
「それで、他に君が私について疑っているのは、何だね?」
「新津圭一をご存知ですね。検察から名前を聞いたわけではなく」

 澤田は溜息をついたようだった。
「その男は、深雪と付き合っていたからね」
 楢崎志穂の作り話ではなかったのか、と思った。
「だが、私と彼が直接関わるようなことは何もない」
「香野深雪のことで、嫌がらせをしたことも?」

 澤田はさすがに少しばかり笑ったようだった。
「私が君に嫌がらせをすると思っていたのかね?」
「いえ、そういうわけでは」
 痛いところをつかれたようには思うが、あまり表情に出さないほうがいいと思った。

「私から見れば、君は新津圭一より遥かに深雪には良い相手だと思える。少なくとも結婚していないというだけでもね。君も世間も、色々と誤解をしているようだが、私はただ深雪の幸せを見届ける義務があると思っているだけだ。だが、新津圭一がそういう意味で相応しくない相手だからと言って、私には彼を殺してしまうほどの理由はない。君の言うように、自殺でなく他殺だったとして」
 真は暫く澤田の顔を見つめていた。真の感情に引っ掛かったのは、思いも寄らない部分だった。
「幸せを見届ける義務?」

 澤田は一つ息をついて、ソファに凭れた。
「深雪の過去を聞いたことがあるかね?」
「いいえ」
 深雪とはそんな話をした事がない。澤田がどう思っているのかはともかく、自分と深雪はただ身体を重ねるだけの関係で、言葉を重ねてお互いの来し方を思い遣ったことなどなかった。
 よく考えてみれば酷い話だ。相手のことを十分に知ろうとしなかったのは、何に対しても責任を取ろうという気がなかったということだ。
「あれの両親は自殺している」
「自殺?」
 言葉を繰り返しただけで、しばらくそれ以上の反応ができなかった。
 
 もちろん、初めて聞く話だった。





深雪の過去…次回は、真が彼女から聞いたことのない過去を澤田が語ります。
澤田顕一郎と深雪の関係は、愛人関係なのかどうか?
そして、澤田はいったい何を考えているのか?
それぞれの人間たちの思いのどの狭間で、竹流はひっかかってしまったのか…
次回、第8章最終回です。
少し退屈ですが、お付き合いください。
第9章は……いよいよ(^^)『若葉のころ』……つまり、真、過去の思い出にどっぷり浸る章です。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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【幻の猫】(3) 嘆きの天使 

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さて、いじけているはずの真はいったい何をしているのでしょう?
ちょっとホテルに戻って、覗いてみましょう。
共演者は、真っ黒の猫と、そしていかにもイタリアのマンマ風おばさん!





 足は見事に挫いたらしいが、何とかゆっくり数歩は歩くことはできた。とりあえずフロントに行って、湿布薬でももらおう。確か、英語の話せる女性が一人いた。
 ホテルの横手は丘陵地になっている。今真がいるオリーブ畑が隣接していて、なだらかな登りの傾斜の上に、ホテル内の教会の塔が見えていた。
 何か身体を支えるような杖でもあれば楽なんだけど、と思ったが、都合よく棒切れか何かが落ちているわけでもない。
 この傾斜を登れるだろうか。
シエナホテル
 真はため息をついた。やっぱり今日はついていない。
 ちょっとくらいごねれば良かったかもしれない。そうしたら今日出かけることを考え直してくれただろうか。いや、そんな女々しいことを言っている場合じゃない。何より、ホテルの敷地内で遭難なんて、冗談じゃない。

 不意に、足元に温かいものが触れた。まるで真の挫いた足を庇うように横に寄り添っているのは、真っ黒でしなやかな背中と長くぴんと立った尻尾をもつ猫だ。黄金の首輪がきらりと光る。真はちょっと屈んで、そっと背中を撫でてやった。猫は真の足に絡み付くように身体を擦り付けてくる。
 触れられると、何だかあまり痛くないような気がしてきた。

 やがて、ジョルジョ、と真が勝手に名前を付けた猫は、俺についてきな、とでも言うように黄金の目で真を振り返り、にゃあと一声鳴いた。
 何とか登れそうな気がする。真は足を引きずりながら、オリーブの木の間をゆっくりと進んだ。時々温かいものが足に触れるように絡み付く。見下ろすと、そばをぴったりとジョルジョが付いてきてくれている。
 
 オリーブの木は育って高木になるが、ここにあるのはまだあまり大きくはなっていない木ばかりで、幹を頼りにするにはいささか気が引けるような大きさだったが、それでも何もないよりはましだった。

 ある程度登ってから、ある場所でふと身体が軽くなった。突然、夢の世界から帰ってきたような、そう、時々感じるあの奇妙な帰還の感触だ。真は電流が流れたような気がして、不意に足を止めた。
 結界を飛び越えるあの奇妙な感じ。真は思わず足元のジョルジョを見た。

 風が吹いている。
 ジョルジョは、つまり真が勝手にそう呼んでいる猫は、突然何かを思い出したかのように一瞬立ち止まり、すぐに、真を庇うことを忘れたかのように、振り返ることもなく走り去っていった。

 気が付くと、足は何ともなくなっていて、ちょっと跳ねてみたが痛みはほとんどない。少し離れたところに脱いだ靴が転がっている。真はごく普通に歩けることを確認しながら、靴のところまで行ってみて、あれ、と思った。
 慌てて振り返る。
 
 一体どの部分で何に躓いて転んだのだろう。そもそも落ちるような段差などないし、落ちて頭をぶつけるような彫刻など見当たらない。なだらかな斜面の下まで、オリーブ畑が続いているだけだ。
 ま、時々あることだし、しかも頭打ったし、そういうことなんだろう。
 足は痛くないけれど、頭は何となくぼんやりしている部分がある。というよりも、はっきり言って痛い。あやかしたちのテリトリーで起こったことが現実の世界へ持ち込まれることは多くはないけれど、ないわけでもない。頭をぶつけたあの彫刻は幻かも知れないのに。
シエナホテル

 妙に納得して、靴下と靴を履いてホテルの方へ戻ると、あのいかにも実体のマンマ、つまりこのホテルの従業員らしい大きな体のおばさんが洗濯物を干していた。ここはホテルの裏手になっている。
 おばさんが真に気が付き、何か呼びかけてきた。無茶苦茶早口のイタリア語で何かを一生懸命話している。申し訳ないけれど、ちっともわからない。

 おばさんはようやく真が言葉を理解していないことに気が付いたようで、肩をすくめた。
 やがて洗濯物を干す手を止めて、真を手招きする。
 おばさんは真の後ろのオリーブ畑を指差し、何かを言っている。入っちゃいけないとか、そういうことだろうか。確かに柵をひとつ乗り越えたけれど。

 真がきょとんしたままなのを見ると、今度は真の服を指差し、両手で自分の髪の毛の上で丸を二つ描く。それから自分の後ろを振り返り、また何かを探していたようだが、やがて真に何も伝わっていないことを悟ったのか、屈んで地面に何かを描きはじめた。
 真といい勝負の下手くそな絵だったが、スカートを穿いた人形、いや、女の子の絵だ。頭の上にリボンを描いている。そして、リボンを指差し、すぐに真の服を指差す。
 リボンの色を示しているようだ。
 今日、真は薄い紫色のような色合いのロングTシャツを着ていた。

 おばさんの描いた少女の絵は上手ではなかったけれど、スカートのふわふわ感には見覚えがあった。
 え?
 よく聞き取れなかったが、tua amicaだけが耳に残る。

 真は慌てて振り返った。
 後ろにはもちろん、誰もいないし、気配もない。いや、色々なものの気配はあの場所を境に消えている。真が改めておばさんを見ると、おばさんは再び肩をすくめ、それから真を手招きした。

シエナホテル
 おばさんについて行くと、すたすたと教会やフロントに面した四角形の中庭を通り抜け、おばさんはホテルの小さなフロントに呼びかける。
 すぐに、アドリアーナと呼ばれたメガネをかけた若い女性が机に向かって書きものをしていた手を止め、真とおばさんの方へ歩いてきた。すらりとしたメガネ美人で、利発そうに明るい声で話す女性だ。気にくわないのは、いささか竹流に話しかける声に艶がある、ような気がすることだ。
 
 おばさんはアドリアーナに何かを説明している。やがて、アドリアーナは綺麗な英語で真に尋ねる。
「あなたが一緒に遊んでいた女の子、知り合いなの?」
 真は呆然とアドリアーナの顔を見ていたに違いない。アドリアーナがどういうことかしら、というようにおばさんを見る。おばさんが再びアドリアーナに何かを話している。アドリアーナは再び真に聞き直す。
「一緒に歩いていた?」

 僕は女の子と一緒に遊んでもいないし、歩いてもいません、と言いかけて、真はおばさんの後ろの方、井戸の方を見て息を飲み込んだ。
 しっぽ!
 真っ黒の尻尾が井戸の後ろにすいと隠れた。ジョルジョ?

 いや、あの場所で見かけたジョルジョとはいささか雰囲気が違うのだ。いや、正確にはあの見えない結界を越える前後で、猫は別の猫に変わってしまったような気がする。そして、今、井戸の陰に隠れたのは明らかに真のジョルジョだ。
 井戸の後ろならもう逃げるところはない、と思って、アドリアーナとおばさんを放って、中庭を走って横切った。中庭の半分、つまり井戸のある側はまだ影になっている。中庭は井戸の方向に向けて少しだけ高くなっていた。
シエナホテル

 真が影の部分に走り込み、その井戸の後ろに回り込んだとき、黒い影は中庭の影の部分をものすごい速さで突っ切ってしまい、光のある半分へ飛び込んだ。真が目で追いかけた時には、影は、つまり尻尾の持ち主は光の中でもう形にはなっていなかった。
 その光のある半分で、アドリアーナとおばさんが少しずつ浮かび上がってくる。

「どうしたの?」
 真はぼんやりと光の中の二人が現実に戻っていくのを見ていた。
「猫がいたような気がして……」
 フロントの傍まで戻ってから、真はアドリアーナに言った。猫がいたくらいで大騒ぎするのも変な話だと思いながら。
「さっきオリーブ畑の下の方で、天使の彫刻のところにいた猫とそっくりで……」

 あれ? 彫刻、そう言えば、後で上から見た時には見えなくなっていた。木の陰になっていたから?
 アドリアーナは変な顔をした。そしておばさんに何か話をして、それから真の方を見てもう一度肩をすくめてフロントへ戻っていった。ちょっと変な子だと思われたらしい。
 この子ね、猫とか天使の彫刻とか、変なこと言うのよ……とかなんとか言っているに違いない。

 一方のおばさんは、アドリアーナが話す途中から首を横に振り、天を仰いでいわゆるオーマイガッ!のポーズをしたと思ったら、いきなり真の手を掴み、真を引きずってずんずんと歩いて行く。
 真はおばさんに引っ張られる形で、中庭を突っ切り、建物の中に入り、暗い廊下を進んで、始めにこのホテルに着いたときに案内されたある部屋へ辿り着いた。
シエナホテル図書館
 小さな図書館だ。真ん中に赤い天蓋のようなものが釣り下がり、同じく赤いテーブル、その上に載せられたいくつかのゲーム、小さなビリヤード台、そして壁に作りつけられた本棚。
 おばさんは本棚をしばらく手と目で探し、やがてあるコーナーに辿り着くと、そこから取り出したのは何かアルバムのようなものだった。入口で突っ立ったままの真を手招きする。
 弾丸のようにしゃべるので、おっかないおばさんだと思っていたが、こうして目をじっと見ると何とも愛嬌のあるおばさんだ。

 手招きされて真はおばさんの傍に行った。そしてアルバムに貼られたいくつかの写真の中、おばさんが指差した先を見て、真はまたもや驚いた。
 おばさんを見上げ、何だかわからないけれど、うんうんと頷く。
 おばさんはまた弾丸のようにしゃべり始めて、それから真がイタリア語を理解していないことをすぐに思い出したようで、急に話を辞めて、今度はアルバムを持ったまま、真の手を掴んで、図書館を出た。

 おばさんが指差した写真には、あの天使の彫刻が写っていた。

 今度は、おばさんは真を連れてオリーブ畑の方へ向かっていた。真はおばさんに腕を取られていたものの、すでに引っ張られているというよりも、一緒になっておばさんと急いで歩いていた。
 柵の手前で手を放したおばさんが、うんとこと重い身体で柵を越えようとする。先に真はひらりと乗り越えて、おばさんからアルバムを預かり、彼女が乗り越えるのを手伝った。確か向こうの方に、扉になった部分があったと思うのだが、かなり遠回りになるので、ここで乗り越えることにしたようだ。おばさんも早く真に何かを説明したかったように思えた。

 柵を乗り越えると、やっとおばさんはにっこり笑い、真を抱きしめ、いい子いい子と頭を撫でた。一体いくつに見られているのだろう、と思ったが、パレルモでも竹流の知り合いの十六歳の少年に年下と見られたくらいだから、日本人はかなり実年齢よりも幼く見えるらしい。
 やがておばさんは先に立って歩きはじめ、真が、確かにそこがあの『境界』だったと感じたあたりをすたすたと越えてなだらかな斜面を下って行き、幾らか平坦になった辺りで歩を止めた。

 真はおばさんの傍に立ち、そしてふわりと何か優しい空気に包まれたような気がした。
 アルバムを真から受け取ったおばさんは、まず天使の彫刻の写真を指差し、自分の立っている地面を指差す。
 Questo, qui
 おばさんの言葉の一部に、真に理解のできる単語が含まれていた。
 これはここにあったんだよ。

 真は呆然とおばさんを見つめていた。
 つまりさっきはタイムスリップした、ということ?
 そして何よりも、それを見たという真を、おばさんが変な子だと思っていないことにも驚いた。やっぱりこのおばさんは、真と同じように霊感もどき持ちなのかもしれない。じゃあ、おばさんが蹴った猫、というより尻尾もやっぱり?
 などという難しいことは聞けそうにもない。

 それからおばさんは別のページを繰り、新たな写真を指差す。
 それほど広くはないが、明らかに墓地のような写真だった。
 おばさんはそれを指差した後、両手を広げて、くるりと一回転した。
 え?
 真はおばさんを見つめた。

 つまり、ここは墓地だったということ?

 真が目だけで問いかけると、おばさんはまるで真の声が聞こえたかのように、力強く頷いた。そして、丁度彫刻のあったという地面をもう一度、というよりも何度も指差し、再びアルバムを抱えて斜面を登り始めた。真はついて行きながら、おばさんの手からアルバムをもらって、自分が代わりに持つ。めくってごらんとでもいうようにおばさんがアルバムを指差すので、歩きながらページを繰っていくと、このアルバムはどうやらこのホテルと教会の沿革を記録したもののようだった。
 ホテルに改築したものの、そもそも教会だったのだから墓地が隣接していたとしても不思議ではない。日本のように、ホテルの傍に墓地があるというのが縁起が悪いとかいう感覚はないのかもしれないが、何か事情があって墓地を移設したのかもしれない。

 もう一度おばさんが柵を越えるのを手伝い、一緒におばさんの用務室のようになっている小部屋へ行くと、おばさんが棚の隅から小さな白い封筒を取り出した。

 中には一枚の写真と薄紫の小さなリボンが入っていた。いや、あるいはもとはもう少し明るい、ライラックのような紫だったのかもしれない。年月で焼けて、色あせた紫になっているようだった。
 写真には、少し顔色の悪いやつれた女性と、小さな女の子が写っていた。写真はセピア色になっていたがカラー写真ではなく、小さな女の子の頭の上にあるリボンの色は分からなかったが、それは今ここにあるこの小さな髪飾りのリボンなのだろう。

 おばさんはもう一度天使の彫刻を指差した。つまり、この写真とリボンは、あの彫刻のところにあったということなのだ。
 台座に突っ伏し、嘆き悲しむ天使の傍に。





さぁ、物語はいよいよ佳境へ?
次回は竹流のほうへもどってみましょう。
あの女性といちゃついていなければいいのですが……



Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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NEWS 2013/5/26 私は優秀な暗殺者… 

うつぎ
空木(ウツギ)の花がいよいよ花盛りです。うちには3種類のウツギがありますが、それぞれ違った魅力があります。

と、綺麗な花を愛でていたいところですが、今日の私は残酷な暗殺者。
始めの頃は見るのも嫌だった毛虫もナメクジも、うちの花たちの敵、近所の子供たちが間違って触ったら大変とも思えば、やる気になるのです。
そして多分、薬を播くのが自力では難しい私は、ひたすら個別攻撃。
武器は、割りばしのみ。そう、極めて直接的な『つぶす』という作戦です。

最初は気持ち悪い~とか思いながらやっているのですが、100匹近くもやっていると、麻痺してくる。
こいつらは敵だ~とか脳内で声が聞こえ……
だんだん気持ち悪いも何もなく、ただの普通の『仕事』になっていく。

毛虫も命あるものと言えばその通りなんだけど。

世界にたくさんいる少年兵って、こうやって子どもの頃から洗脳されていたら、銃を持つのも人を殺すのもただの『仕事』になっていくんだろうなぁ。
こうやって見れば、毛虫も一生懸命逃げているのに、私ときたら箸でつまんではつぶす。
無情だな……
こいつらの下に立ってはいけない(落ちてくることがあるから)。
目を離してもいけない(移動速度は意外に速い)。
ちょっと遠くにいる奴をやっつけるときは、サイドに気をつけろ(間違えて触ってしまうことがあるから)。
どんな小さな禍根(虫)も残すな(いつかでかくなって襲ってくるから)。
などと暗殺者の掟を守りながら、もくもくと毛虫退治に精を出す。


って、わたしだって怖いのよ~
だって、あいつらったら、身体は柔らかいから、掴みそこなったら上手く落下して、さらに抜群の脚力を利用して奥の方の細かい枝に引っかかって手の届かにところへ姿を消すし、静かに葉の裏側なんかに潜んでるし、死んだあとでも毛でカブレさせるという攻撃力を持つし。たまに死んだふりするし。
今日などは、やっつけた後なのに、溝に落ちて水の上で3回もはねた!
何なの、その断末魔の根性は!

しかも、つるバラの奥に伏兵を潜ませていた!
なんと蜂の巣が作られかけていて、枝を切ろうとしたら、敵の攻撃と思ったのか、こっちに飛んできた!
その上、今日、私は黒い服を着ていた!
真正面からこっちに向かってくる!

絶対、あの瞬間、蜂と目があったのです。
蜂の目にはどんなふうに見えていたのか、文字で書くと、大海×大海×大海×大海×大海……って感じでしょうか。


いや、蜂はともかく、毛虫。
怖いので、ちゃんと手袋で防備して、長そでの袖口を縛って敵の侵入も防ぐのです。
そう言えば、ゴルゴ13が言っていました。
なぜ彼は優秀なスナイパーなのか?
俺はウサギのように臆病だからだ、と。

毛虫退治なのに、妙に哲学的なことを考えてしまった(*^_^*)
いや、こんなのは哲学的とは言いませんね。
ただの生活の知恵。…かな?
これから、虫との戦いの日々が始まる……

あぁ、疲れた。(来週こそ、園芸屋さんを呼ぶぞ)
もう1種類のウツギに慰めてもらいましょう。
うつぎ

Category: ガーデニング・花

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[雨49] 第8章 ある代議士の事情(2)/ ブログの文字数 

元傭兵・田安隆三の死に反応したのは、真だけではなかった。澤田顕一郎、与党の代議士である。
真の父親(相川武史:某国国家組織の雇われ暗殺者)の大学時代の先輩でもあったという澤田。真に、君の安全を保障してやりたいから自分のところで働かないかともちかけてきたのは、どういう理由があったのだろうか。
田安の葬儀の現場へ乗り込んでいった真はそこで……





 朝食を済ませると、真は一旦事務所に行ってから、久しぶりに自宅に戻り、喪服に着替えて田安の葬儀に出掛けた。
 梅雨の晴れ間というのか、空はすっきりと冴えて、青々としている。

 何ともしっくりいかない違和感を覚えたまま、葬儀の場に行くと、多少は予想していた通り、とても代議士が執り行っている葬儀とは思えない参列者の面々を目の当たりにした。参列者の数自体はそれほど多くはないが、一人一人の存在感を掛け合わせると数百人級の葬儀場の気配だった。その上、報道陣の数が半端ではない。
 町の中の比較的小さな寺の境内は、多分今日のこの時間の日本のどの場所よりも、異様な重力を持っているように思えた。

 真は特に報道関係者と思われる人間たちとは目を合わさないようにして、テントの下の受付に進んだ。受付にはいかにも事務的な顔をした男たちが三人並んでいて、真が香典を差し出そうとすると、それを丁重に辞退した。記帳だけは勧められたので、それを済ませて焼香に進んだ。
 淡々と進んでいく焼香の列はそれほど長くもなく、真の順番は直ぐにやって来た。読経の声は、空気の湿りを裏切るように乾いて淡々と響いていた。真正面に立って、白い菊の中に埋もれるような田安の遺影を目にしたとき、やはり何とも言えない違和感が襲ってきた。

 真は実のところ田安がどんな顔をしていたのか、はっきりとは思い出せずにいた。あの水死体があまりにも強い記憶を残したからなのか、遺影を見ていてもその人だという確信が持てない気がした。その上、哀しいのかどうかも分からなかった。
 実際に遺体を見たときは、苦しくて吐き続けていたのに、今は干からびた感情が筋のようになって残っているだけだった。

 焼香を済ませて、本来なら遺族が並んでいるところに来ると、澤田が会葬者に丁寧に頭を下げていた。威圧感があり堂々としたムードを持つ澤田が、そこまで丁寧にひとりひとりに頭を下げている姿自体も違和感があった。真はただ彼に一礼をしたが、澤田のほうも特に何の感情も見せずに、真に一礼を返してきた。
 何かを確かめに来たつもりだったが、確かめるどころか疑問だけを膨れ上がらせたようなものだった。早くここから抜け出してしまいたいのに、足は重くて思うように進めない。何かに足を引っ張られるような気がして、一度だけ振り返った。

 読経の声の中に不意に、パイプの煙の匂いと一緒に田安の声が混じって聞こえたようだった。
 お前は優しい人間だ。
 顔は思い出せないのに、あの時の声だけははっきりと耳に残っていた。その声のトーンも響きも、穏やかで慰めるような優しさも。

 だが、優しいということは何の力にもならないことがある。第一自分の本質が本当に『優しい』とも思えない。むしろ何に対しても、自分自身に対してさえ、執着し熱くなることは少ないし、時折自分が恐ろしく冷酷な人間であるような気がする時もある。その上、自分の力では何も超えられない弱さは、背中にぴったりと張り付いている。
 あの事故以来、ずっとそうだ。いや、あるいはもう、生れ落ち、両親に捨てられたその時から。

 視界の隅に澤田の姿が入った。澤田は後ろに立つ嵜山に何か耳打ちしているようだった。
『その人、こんなふうに澤田の後ろに立ってた』
 美和が言ったことが本当なら、何故澤田の関係者の息子と思しき人間が、今竹流と関わっているのだろう。澤田は誰を探しているのだろう。そして竹流は、どこでどうしているのか。

 いつの間にか視界の中央に澤田がいて、その中央から嵜山が真っ直ぐこっちに向かって歩いてきた。嵜山の視線の正面にいるのが自分であるということに気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
「ご会葬、有難うございます」
 真は反射的に頭を下げた。
「澤田から、今夜お食事を御一緒に、とのことです」
 真は嵜山を無遠慮に見つめた。
「いえ、今日は夜行で新潟に発つ予定ですので」
「では、五時半に事務所にお迎えに上がります」

 完全に真の言うことを無視して澤田の言葉を伝える義務をなし終えると、嵜山は引き返していった。真はその後姿を、呼び止めることもせずに見送ってしまった。あまりにも有無を言わせない気配に、人に仕えることに命を掛けている人間に共通の融通の利かなさを見た気がした。

 気が付くと、背後で何やらざわめきが起こっていた。振り返ると黒塗りの大きなベンツが数台連なっていて、門の前の狭い道で停まった。助手席のドアが開き、スーツ姿の男が一人出てきて、後部座席のドアを開けている。車から降りた和装の大柄な男を見て、さすがに真も驚いた。
 大東組という暴力団の三代目だった。年は七十を過ぎているようだが、未だに組を仕切って若い者を制している。三代目は堂々と歩いていって、札束のような香典袋を受付に出している。断ろうとした受付の男に全く有無も言わせず、そのまま記帳し焼香へ進んでいく。

 皆がその様子を言葉なく見守っていた。張り詰めた空気の中では、全ての音が凍りついている。焼香を済ませた三代目が澤田に会釈をすると、澤田は他の会葬者に対してと全く変わらない礼をした。そして、三代目の手に香典袋を返す。
 三代目が何かを言っているようだったが、澤田は落ち着いた表情を崩すこともなく、それに答えていた。だが、三代目が一度手元を離れたものをもう一度懐に戻すことなどあり得ないと真は思った。

 三代目は澤田に次の言葉の隙を与えずに、車のほうへ引き返してきた。真はまだ門の近くに突っ立っていたので、思わず一歩後ろへ下がったが、三代目と目が合ってしまった。
「あんたも来とったか」

 不意に静止画像が流れ始めたようだった。
 真は、この男が次の代までには解散すると宣言していて、それ以来内外から命を狙われているのを知っていた。関東のその系列の組では五本の指に入る大所帯で、ここが解散すればバランスは崩れて、いわゆる『失業者』が多く出る。時々真も、社会にはこういう吹き溜まりをやり過ごす場所が必要であると思う事がある。その澱み処には、もしかすると大東の三代目のような人間が必要なのかもしれない。
 それでもヤクザはヤクザだ。肯定する対象ではない。

 三代目を囲む五人ばかりの屈強な男たちの視線を受けながら、真は開き直るしかない、と諦めた。背中の報道陣の視線も痛い。
「えぇ」
「この間は、うちの若い者が世話になった」
「いえ、別に世話をしたわけでは」
 単に、犯罪に関わらないと分かったので、人捜しを手伝っただけだ。
 三代目は祭壇のある本堂の方を振り返った。
「田安の爺さんはこんな湿っぽい葬式なんぞ必要とはせん。流れ流れて、わし等、地獄の針の山に座って宴を楽しむさ。あんたは来ちゃいかん」
 笑いながら三代目は人々が避けて作った道を真っ直ぐ歩いて、車に戻った。

 とっさに長居しないほうがいいと思って、真は駅への道を戻ろうとしたが、ここぞとばかりに報道陣の一部に追われた。
「故人と澤田代議士の関係をご存知ですか。大東組との関係は?」
 真は返事をせずに、心持ち歩を速めた。
「あなたは故人のお知り合いですか? それとも澤田代議士と? 大東組の三代目とは?」
 真は、走り出したい気持ちをかろうじて踏みとどまらせて、できるだけ悠然とした態度で歩こうと思っていたが、実際には自然に足は速くなっていた。
「故人は、本当は何をしていた人か、御存じなのではありませんか」

 やはり冗談じゃない、と思って結局、歩を速めてみたが、相手は諦める気配もない。その途端、横からむんずと腕を摑まれた。何するんだ、と思ってその相手の顔を見た。
「井出ちゃん」
 新聞記者の井出がぼさぼさの天然パーマの頭に、例のごとく冴えないジャンパーとジーンズといういでたちで真の顔を覗き込んでいた。

「だめだねぇ、素人は」
 井出は真の耳元に小さな声で呟いて、後ろの報道陣には大きな声で言った。
「この人、追いかけても無駄だよ。同業だからね」
 井出はあっさりと後ろをかわすと、真の肩をぽんぽんと叩くように促して、一緒にどんどんと歩いてくれた。報道陣はさすがについてこなかった。

「あのね、真ちゃん、あんたは一応澤田の『愛人』の『愛人』なのよ。こんなとこに来ちゃ駄目でしょ」
「井出ちゃん、取材か」
 井出はあまり取材のふうでもなく、まるで通りかかっただけだという格好だ。もっとも、井出の格好はいつでも無頓着の極みのようなところがある。その服装の趣味の悪さと、天然パーマと幾分か出っ張った顎と無精髭を除けば、背もあるし、立ち姿などのシルエットは決して悪くない、というのが美和の見解だった。
「まぁね。それにしても、何で大東の親分と知り合いなのさ」
「知り合いなものか」
「大東さんがあんなふうに話しかけてくるなんて、あんたに一目置いてるってムードだったね。真ちゃんって、どっか危ないなぁ」
「冗談じゃない、こっちは何もしてないのに」
「それが危ないの」
 そう言ってから、井出は真の耳に囁きかけた。
「そこの公園で煙草でもどう?」

 新宿で生きていくためには、あの手の連中ともたまにはギブアンドテイクがあるというだけのことだと真は考えていた。
 それに、真に事務所を提供してくれているのは、そもそも寛和会という関東一円でシマを張っているヤクザの傘下にある仁道組の組長の息子だ。古い仁義を重んじる系統のヤクザで、最近ではむしろまっとうな処世を試みているのではないかという気配もなくはないのだが、組長の北条東吾は、義理と人情を絵に描いたような寛和会最大の春日組の親分から可愛がられていて、結局は盃を受けて組を持たせてもらうことになったと聞いている。そもそも北条家は華族で、戦時中零落れて闇市を仕切ることで生き延びたというのが、ヤクザ稼業に足を突っ込むきっかけだったという。
 確かに、真自身、北条東吾には公というより私の部分で随分可愛がられている。ヤクザに可愛がられているという事実について、本来、世間的には褒められたことではないはずだが、真の例の平等感覚はこういう時にろくでもない活躍を見せてしまう。

 ヤクザを肯定するつもりはない。麻薬を流したり、女を転がしたり、恐喝を働いたり、彼らのしのぎの道に共感できる部分はほとんどない。それでも、弱いものから金を掠め取るような仕事を、堅気が全くしていない、とは言えないのも事実だった。この大都会の中で、ヤクザよりも性質の悪い銀行や大企業の人間を、真はどれくらい見たかしれない。しかも、法律や日本の国が作り上げてきたシステムによって、そういう大っぴらな悪事に、一般の人間はむしろ気が付かないように上手く取り繕われている。いや、悪事は大きければれば大きいほど、一般人には気付き難いものとなるのかもしれない。
 もちろん、もしも大多数の人間が気が付いて何とかしようとしてしまったら、国は崩壊するだろう。あるいは人々も、それが分かっているから、行動を起こさないのかもしれない。

 そう考えると、何が正しいのか間違っているのか、真はいつも分からなくなってしまう。真のしていることは、結局は、大きな力に逆らいきれずに波に呑まれている哀れな男女が、あるいは子どもが、少しだけ波から顔を上げることができる時間を稼いでやっているだけのことなのだろう。

 道沿いの小さな公園には、近くの寺の葬儀の気配を感じてか、誰も出てきていなかった。大きな楡の木の下で光が斑に揺れている中に、年季の入った木のベンチが一つ、浮かんでいる。
 真は井出と一緒にベンチに座って、煙草の火をつけ合った。
「この間の、新津って雑誌記者の話」井出がひとつ吹かすか吹かさないうちに言った。「あの千惠子って娘のことだけど」
「施設に預けられたとかいう?」
「そうそう。あれから俺も気になってさ、ちょっと調べようと思って、その施設を捜してみたんだけど、地上げでなくなっててさ、当時十人ばかり子供がいたみたいだけど、みんなどこかへ引き取られたそうだ。もう今更分からないかもしれない」
 真は煙草を手に持ったまま、暫く考えていた。

「少なくとも姉夫婦が引き取ったんじゃないことだけは確かだけどな」
 井出が煙草の灰を落としながら、吐き捨てるように言った。
 井出の感情の中に、その姉夫婦への怒りや不信を見出すことは難しいことではない。真は、こういう井出の青臭い正義感が、この男を記者という仕事に繋ぎとめているのだろうと思っていた。人は、自尊心と自負心がなければ、誇りを持って仕事を続けていくことは難しい。もしも、その仕事を続ける上で最も大切なものが失われたら、人は、特に男は、どうやって命や人生を繋いで行くのだろう。

 それでも、その一方で、おそらくは弟の脅迫と自殺というスキャンダラスな事件のあおりを喰らった姉夫婦の不幸も、理解できなくはなかった。もうその件には触れて欲しくない、と思いながら、世界の片隅でひっそりと時間を潰している家族がいることは、どうしようもなく事実なのだろう。
 だが、取り残された子どもは、僅か八歳という心と身体をどうやってこの世に繋ぎとめているのか。それとも、すでに失われたものの重みを抱えきれずに道の半ばで倒れてしまっていないのだろうか。

「その施設、どこにあったんだ?」
「新潟」
 真は思わず井出の顔をじっと見つめた。
「新潟?」
「新津って記者は新潟の出身らしいよ。記者になって東京に出てくるまでは向こうに住んでたようだし」
 真はしばらく地面を見つめていた。蟻が忙しげに列を作ってどこかへ向かって進んでいる。この世界がどういう状況になっていようとも、蟻はただ彼らの世界の中で巣を造り、餌を運び、生命体の塊として子孫を育んでいる。
 低い空をヘリコプターの音らしい大きな飛行音が横切っていった。

「新潟に行くんだ」
「誰が?」
「美和ちゃんと、今日、夜行で」
 井出は不可解なものを見るように真を見つめていた。
「それって、名探偵の勘?」
「冗談だろ。竹流の件で、手がかりがありそうだから」
 井出は真を見つめて言った。
「もうちょっと手の内、見せてくれてもいいんじゃないの」

 真は暫く考えていた。それから徐に井出の方へ顔を上げた。
「協力してくれるか」
「もちろんよ」
 井出は明らかに面白いネタを見つけた記者の顔になる。
「取材と称して新潟県庁に入りたいんだ」
「県庁? 何だよ、それは」
「県庁の会議室に架かっている絵が見たい」
「絵?」

 井出はさすがに記者らしく、見返りは何かと聞いているように思えた。
「贋作だと鑑定された絵だ」
「真ちゃん、絵を見て贋作かどうか分かるのか」
「分かるわけないだろう。でも」
 真は次の言葉は飲み込んだ。新津圭一の脅迫事件でも自殺事件でもない、澤田や河本が関わっている大層な事件でもない、竹流の側から見れば絶対に絵以外の何の事件でもないはずだった。彼に繋がっていると思えるのは、今はそれしかない。
「大和さんとその絵に何かあるんだな」

 真は答えなかった。
「それが何で新津圭一と関係があるんだ?」
「わからない。竹流は、新津圭一の自殺の記事を俺に残していた。彼は新津圭一を知っている。新津圭一が自殺した頃、彼は新潟で贋作と言われている絵画のことで仕事をしていた。新津圭一が絵と関係があるかどうか分からないけど」
「真ちゃんが見ているのは、大和さん側の視点から、ってわけだ。彼が絡むということは、絶対に間に絵か、美術品が介在している、っていう」
 真は吸わないままの煙草をようやく咥えた。相変わらず、味を感じない。

「愛だねぇ」
 井出はしみじみと言った。真はどうとでも言ってくれ、と思っていた。自分の心の中にあるとてつもなく重いものを、他人が量れるとは思えない。
「真ちゃんは別に新津圭一の事件をひっくり返したいわけじゃない、単に大和さんを捜したいだけなんだよな。それってやっぱり愛だなぁ」
 二度繰り返して、井出は何かに納得したようだった。

「よし、俺も愛には協力するか。事務所に名刺、届けとくわ」
 そう言って去りかけた井出の後姿が、ふと停止した。井出には珍しく、たっぷり数秒は躊躇った後、真のほうを振り返った。
「あのな、口を利けなくなった新津圭一の娘のことだけどさ」さらに数秒、井出は時間をとった。「公表はされなかったけど、病院に運び込まれて、婦人科医の診察を受けたって、噂があったんだ」
「婦人科医?」

 井出は、真にはわからないか、という顔をして右手を上げるとそのまま去っていった。
 その言葉は、井出が何かを伝えようとしたのだろうが、真には半分解るようでわからなかった。考えていると嫌な汗が噴き出してくるようで、真は振り払うように歩き始めた。それから手元の煙草の吸殻を、そのまま律儀に駅の吸殻入れまで持っていって捨てた。

第7章 あらすじ
自分の父親の正体を知る元傭兵・ジャズバーの店長・代議士澤田顕一郎の育て親である田安隆三が水死体で発見された。彼の死体を見た真は、行方不明の竹流の身を案じながら、不安で押しつぶされそうになっていた。
一方、女刑事・添島麻子から、新潟の贋作鑑定事件というヒントを与えられた美和は、真と一緒に新潟に行くことを決めたが、事務所の仲間である宝田や賢二から、真と竹流の事情などを聞きながら気持ちが揺れ動いている。
そんな時、事務所に真の実の父親・相川武史が訪ねてくる。訪問の理由は明かさないまま、そして真との間にある深い溝を埋めようともせずに、ただ警告のような言葉だけを残していった。

「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」




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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/5/26 昨日の試合(甲子園) 

野球
<画像はイメージ画です^^;>

昨日、実家で阪神ファンの父と、阪神ファンの甥と一緒にテレビで野球を見ていました。
あ、例にもれず、私も阪神ファンです。多分、結構こてこてです。
応援歌は全部は知らないけれど、甲子園に一人で行くこともあります(with)。
多分、野球そのものが結構好き。
球場で飲むビールもかなり好き(野球場は大きな酒場、とも思っている?……昔々の甲子園、結構酔っぱらいのおじちゃんとかがいて、子供心に面白かった^^;)。

ちなみに、昔、阪神が負けると、夕食がまずい(みんなの機嫌が悪いので)という家が、関西のあちこちに存在するという都市伝説がありましたが、伝説でもなんでもなく、我が家もその傾向にありました。
今年はまだ行ってないけれど、いつも父と甥と、そしてなぜか私の職場の同僚が何人か、一緒に甲子園に行きます。ちなみに、私がいなくても、うちの父・甥・私の同僚…という組み合わせも何度かありまして…^^;


それにしても、昨日の試合は?
0-1で日ハムに負けていたけれど、9回の裏でデッドボールで浅井が出塁してから、流れが阪神へ……

でも、浅井自身は、ボール当たった!という気配もなく(痛そうでもなかった)???
抗議した日ハム監督・栗山氏は審判への暴言で退場(ま、抗議するわな)。
(でも、何言ったのか分からへんやん!教えてよ!…by 欲求不満の観戦者)
確かにあのまま終わってたら盛り上がりはなかったけれど……

う~ん、これは何かのファンサービス?と思うような不思議な展開。
確かに、ひーやん(桧山)大ファンの私としては、雄姿が見れて嬉しかったよ。
ついでに選手時代からの和田さんのファンの私は、勝つ度にほっとするんだよ(去年、辛かったからね)。
大和の涙とよしよしと祝福するみんなの姿も良かったよ。
マートンの早口で何言ってるのか分からないヒーローインタビューと、微妙にcatch upしていない(というよりも、え?そんなこと言ってた?という)通訳もなかなか良かったよ。

でも……微妙に釈然としないのはなぜ?
まるで、すごい渋滞に巻き込まれた時、やっとすんなり車が流れ始めて、でも一体なんで渋滞していたのか、事故の処理とかも終わってて跡形もなくて……
こんだけ待った私に理由を教えてよ!!ってな時みたいな欲求不満感(@_@)
(渋滞の一番前の車が見たい~~~とか、よく叫んでしまう)

……とまぁ、色々ありますが、野球はやっぱり面白いなぁ。
参考までに、乱闘シーン、かなり好きなんです。だって……一生懸命ならあるよね、って感じ。
(パフォーマンスでもあるけれどね)



ちなみに私、日ハム時代からの小笠原さんの大ファン。
今は敵のチームにおられますが、そして髭は剃って欲しくなかったけれど、でもそれでも気になる人。
(小笠原さんの本も持っている。阪神ファンのくせに?……いえいえ、巨人に行かれたのは結果論ですから)

そして、ホークス時代からの城島さんの大ファン。
実は、阪神に来てほしくなかった。なぜなら、気になって応援できないから……
好きな球団と、大好きな選手は別個のほうがいいという、変なファン心理です。
(だから、某神戸の球場にはよく行きました。オリックスVS日ハムor ホークス……阪神戦よりも落ち着いて野球を観れる、結構楽しい時間。花火も上がるときがあるし)
城島さんの引退試合(鳴浜)は、ちょうど私は松葉杖状態(で移動困難)だったので行けなかったけれど……(;_:)
会見は10回くらい見て、泣きました。
金本の会見も同じくらい見て、泣いたけど……(ただ涙もろいだけ?)

その私のベストショット。
野球
はい。全力空振りの小笠原さんと、ボールを受けるキャッチャー・城島さん。
ちょっと宝物的写真(^^) そして、奇しくも、2人とも背番号2(^^)


さて、トップの写真はオールスター戦(大阪ドーム)です。
オールスターでは各球団のマスコットたちが、奇妙なパフォーマンスをするのですが、一匹(?)見たこともないのがいたのです……消去法で行くと、どうやらカープのマスコットらしい。
ごめんなさい、あなたを存じ上げませんでした……
でも、いったい何者?
鯉のお化け??????
ウィキっても、今一よく分からない(スラィリーという名前だそうで)、不思議な存在感……
しかも、なぜか私が見た時は、虹色だったような??? 気のせいでしょうか。
カープファンの人に怒られそうですが、ちょっと気になる、謎の生き物?なのです。


あぁ、また落ちのない記事を書いてしまった……

落ちがないので、昔書いた小説で、ある人物(オッチャン)に言わせた一言を。

好きな球団があって、毎日晩飯に缶ビールを一本空けて、テレビの中の選手や監督にちょっと文句を言って、それだけで結構幸せってなもんだ。
(シーズンオフはどうするの?って突っ込まないでね^^;)

Category: たまにはアイドル

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[雨48] 第8章 ある代議士の事情(1)18R 

第7章 あらすじ
自分の父親の正体を知る元傭兵・ジャズバーの店長・代議士澤田顕一郎の育て親である田安隆三が水死体で発見された。彼の死体を見た真は、行方不明の竹流の身を案じながら、不安で押しつぶされそうになっていた。
一方、女刑事・添島麻子から、新潟の贋作鑑定事件というヒントを与えられた美和は、真と一緒に新潟に行くことを決めたが、事務所の仲間である宝田や賢二から、真と竹流の事情などを聞きながら気持ちが揺れ動いている。
そんな時、事務所に真の実の父親・相川武史が訪ねてくる。訪問の理由は明かさないまま、そして真との間にある深い溝を埋めようともせずに、ただ警告のような言葉だけを残していった。

「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」

さて、第8章を始めたいと思います。今度は、澤田顕一郎の事情に絡めながら、竹流を探す真を見守ってやってください。
内容などあまり気にせず、頑張って謎解きなんてしようとせず、登場人物の心の動きを追いかけていただければと思います。
この第2節は、真がやたらめったら過去を回想しています。そして美和との間にも、男女関係よりも少し深い気持ちが育っていっているのかもしれません





 武史に送られて竹流のマンションまで帰りつくと、真は美和と一緒に車を降りた。
 車の中では三人とも黙っていたが、気まずいという状況は通り越していて、むしろ淡々とした気配だった。真にしてみれば、もう既に語る言葉はないという距離感が父と自分の間にあることを、ただ確かめただけだった。歩み寄る手がかりさえも見出せないし、そもそも歩み寄りたいと思っているわけでもなかった。
 今更、父親に何も期待していない。期待どころか、その存在すら受け入れいていない。真の人生も生活も、全くその人と関わりのないところで成立していて、心を乱される要因にさえならないはずだった。

 マンションのエレベーターの中で二人きりになると、ずっと俯いたままだった美和がようやく真の顔を見た。
「ごめんなさい」
 真は美和が何を謝ったのか理解できなかったが、よく考えれば、彼女なりに言い過ぎたとでも思ったのだろう。
「何も謝ることはない」
「でも、叔父さん、気を悪くしたよね」
 真は美和が武史に言ってくれたことは、美和に対しては有り難いと思っても、謝られるようなことではないと思った。

「いや、あんなことくらいで気分を害したりするような人じゃない」
 武史にとって美和の感情など子供の戯言程度のものだろう。だから、残念ながら、美和の心配するように、武史が感情を乱されることはあり得ない。武史にとって真の事がそうであるように。
 美和は何を考えているのか、暫く黙っていた。

 部屋に入ってから、不意に美和の腕に触れようとしたが、するりと美和は真の手を逃れた。そしてかしこまったように真の前のソファに座って言った。
「私の妄想じゃないよね? 先生のお父さん、なんだよね。どうして叔父さんだって」
 真は上着を脱いで、それをソファの背凭れに掛けてから、美和の前に座った。
「あの人の言うとおり、誰も隠しているわけじゃない。ただ、戸籍ではあの人の籍に俺は入っていない。それだけのことだ」

 美和はただ心配そうに真を見つめていた。
「それで、先生はいいの? お父さんに甘えたいとか、何とかして欲しいとか思わないの? ううん、そうじゃなくて、腹が立ったりしないの? 親だったらあんな冷淡になれないよ。大家さんの事だって、いくら許されないって、ここにずっといられない人だなんて、わざと先生に聞こえるように言ったんでしょ」
 真は美和の顔を、心から、真正面に見つめた。彼女の気持ちは本当に有り難いと思った。
「美和ちゃん、そもそも大きな誤解がある。俺と竹流はそういう関係じゃないし、第一あいつは女としか寝ない。百歩讓って、確かに親か兄貴か教師か、そういうものには近いかもしれないが、そういう相手は一生一緒にいるものではない」

 自分の声が、他人のもののように淡々と響いた。武史の中の何かと自分の中の何かが呼応して、こんなふうに冷めた声が出せているのかもしれない。唐突に自分自身の感情に対して冷淡になることができるのも、やはり親から受け継いだ特質なのだろう。あるいは、誰かに殺意を持つような残虐性までも、あの男の遺伝子から受け継いだのかもしれない。
「それに、事実として、あいつのローマの家は次の当主が戻るのを待っている。それを覆したりすることは、多分誰にもできない。たとえ彼自身が望んでも、無理なことだ」

 自分の望みを断ち切るように、真は言い切った。
 言葉にすることで、自分に言い聞かせるしかなかった。
 必ず彼をローマに連れ戻す日が来ると、彼の叔父に宣言されている。あの穏やかで冷たい声の調子は、耳の底に溜まったままで、時折耳の中で唸るのだ。

「先生……」
 美和はその先に何かを言いかけて、飲み込んだようだった。
「とにかく、明日の準備をしよう」
 真はそう言いながら、スーツの上着の内ポケットの煙草を取り出し、火をつけた。美和はまだ黙っていたが、やがてバッグを持って立ち上がった。
「先生、心の奥にある本当の気持ちって、絶対に湧き出てくるのを押さえられないよ。大体、先生と大家さんの間の事を、身体の関係がどうとうか精神的な繫がりがどうとか、そんなことで量ったりなんかできないでしょ。賢が言ってた、大家さんは」

 美和は真がちゃんと聞いているのかどうか確かめるように、一度言葉を切った。その間に、真はテーブルの上に残していた視線を、ようやく美和に向けた。
「人を愛して心も身体も求めたら、その先にあるのは何だと思うって、賢にそう聞いたんだって。大家さんは先生がまだ小学生のときから先生のこと、ずっと見てたんだよ。先生が色んなことで苦しんでたときも、好きな女の子がいたときも、何もかもみんな。それを全部受け止めて大事に思うってことは、簡単にはできないよ。親だって、子供が自分の思い通りにならなかったら腹が立つのに、大家さんが先生に向けている愛はすごい愛なんだよ。私には届かないよ」

 美和の感情が直線的で、真はそれをまともに見つめていられない気がした。火をつけて吸わないまま手に持っていた煙草を、思い出したように咥えて、真は何か言葉を探したが、結局何も出てこなかった。
「先生、大家さん、ずっと前に先生と一緒にイタリアに行ったとき、もう一歩で狂うんじゃないかと思ったくらい幸福だったって、先生が言ってくれた言葉は、それが何だったのかは話してくれなかったみたいだけど、今まで誰からも、それほど有り難くて幸福な気持ちにさせる、心だけじゃなくて身体まで昂ぶらせるような言葉を聞いたことがないって、そう言ってたんだって。大家さんは、ずっとそう思ってるんだよ」

 真は思わず美和から視線を外した。
「先生、私、今日は帰るね。明日の朝、上野で待ち合わせようよ」
 そう言って、美和は部屋から出て行こうとした。真は彼女が部屋から出ようとドアを開けた瞬間、思わず声を掛けた。

「美和」
 無意識だったが、初めて彼女を呼び捨てにした。美和はびっくりしたように振り返った。
 自分の中の何かをこのまま抱えているのは無理だと思った。

 いつだってあの男が傍にいたのは分かっている。彼のほうではない、彼を求めていたのは自分のほうだということも分かっている。真がアッシジで彼に言った言葉は寸分も違わず、そのまま今の気持ちだった。引き離されるなどあり得ないと思いたかった。
 学校の勉強も、それ以上のあらゆる学問も、学ぶことの素晴らしさと一緒に教えてくれたのは彼だった。それどころか、他人と交わす言葉も、ただ日本語や英語というのではなく、語り合い求め合うための言葉自体を彼が教えてくれた。りぃさと同じように、この世に生きていることが罪悪のように思えていた時、あの崖から落ちた時、それでもこの世に帰ってこなければならないと思ったのは、彼の呼んでいる声が聞こえたような気がしたからだ。

 今生きている自分自身の意味が、ただあの時彼に呼ばれて戻ってきたからだと、もしかするとこれは仮の命で、それは自分の命ではなく彼の命だとそう思っている。
 自分の命の核は、自分の中ではなく、彼の中にあるのではないかと、そう感じている。
 それを認めることが苦しかった。今の現実も、これから来るであろう未来のほぼ確かな現実も、その男から引き離されている。

「帰るな」
 言葉はいつでも心を全て表すものではない。そしてそれが本当に言葉になるときは、一生のうちに恐らく数えるほどしかない。

 美和は半開きのドアに凭れるようにして突っ立っていた。真は煙草を灰皿に捨てて立ち上がり、美和をただ力任せに抱き締めた。美和は暫く真の腕の中で堅い棒のようになっていた。ぽとんとバッグが床に落ち、真の足にあたった。美和はしばらく動かなかったが、やがて真の胸に頭を寄せるようにした。
「先生、自分が結構卑怯だって分かってる?」

 美和は怒っているようではなく、その声は随分優しく真の耳に届いた。真は返事をしなかったが、その通りだと思った。けれども、何もかも、今はどうすることもできないような気持ちだった。
 ベッドに入り、ただ自然に求め合った。美和は嫌がっていたわけではないようだった。初めての時よりも真を簡単に受け入れると、美和は潤んだ目を開けて真を見つめた。
「何?」
 真が問いかけると、美和は小さく首を横に振った。

 美和を愛おしいと思う気持ちには全く偽りがなかった。それはりぃさを想っていた時よりも自然で、多分美沙子と別れた後に、彼女に対して本当はそう思っていたと感じた気持ちと同じようなものだと思った。あの時、付き合っている間は、そんな自分の気持ちに気が付くこともできなかったのに。
 そして、それ以上に自然に、他の誰かを想っている自分を感じた。それは美和の言うとおり、どうしようもないことだと思った。

「やっぱり一応避妊しよう」
 言葉はいつでも思う通りにはならない。
「もういいよ。先生は嫌なの?」
 美和は真がどこかで極めて冷静になっていることを感じていたのだろうが、怒り出すこともなく穏やかに尋ねてきた。
「そうじゃない。仁さんと決闘しなければならないのも分かってるけど、今はまだ子どもの親になる自信がない」
 もうできているなら仕方がないと思ったが、武史に会って自分の気持ちが中途半端に乱れたことを認めざるを得なかった。美和は暫く真の顔を見つめていたが、小さな声で、そうだね、と言った。
「君を、大事に思っていないわけじゃない」

 こんな状況で言い訳だけはする男としての自分を腑甲斐無いと感じたが、どうしても美和には言っておきたいと思った。そして、美和は可愛らしく微笑んで頷いた。
「先生の言いたいことは分かってる」
 そう言って彼女は一つ大きく息をついて起き上がった。そして真に避妊具を持ってこさせて、自分から率先してそれを真のものに着けてくれた。そうしている間に少しばかり真のものは小さくなっていたが、美和は愛しそうに手で扱いてくれて、躊躇することもなく脚を開いて真を誘った。

「何だか不思議」
 真は、そう呟いた美和の顔を見つめた。穏やかで暖かい表情は、救い主の死に寄り添っていた女たちの慈愛に満ちた気高い顔そのままだった。
「うん、何だかどうでもよくなっちゃった。仁さんに刺されても、大家さんが先生を愛してても、私がもしかしてまだ仁さんを好きでも、先生が大家さんを」
 真はそれ以上話を続けさせたくなくて、硬くなった自分自身を彼女の中に埋めた。
 美和の腕が真の首の後ろで重なり、優しく真を引き寄せた。


 イエス・キリストがラザロのためにしたことは、彼を死者の群から取り戻したことではなく、彼の死を友として涙したことだった。キリストが医術としてか奇跡としてか、あるいは偶然としてか、いずれにしろラザロを蘇らせたとして、キリストがもしラザロの死に涙を見せなかったら、一体結果としての蘇りにどれほどの価値があったのだろう。
 彼が自分にしてくれたことは、そういうことだと思っている。
 真が崖から落ちて命すらどうなるか分からなかった二週間。ようやく意識が戻ったとき、最初に目にしたのは、ただ自分を見つめてくれていたあの深い青灰色の瞳だった。滅多に感情を面に出さない祖父が、目に涙を浮かべて真に言った。
 大和君がずっとお前の傍に座っとった。お前が目を覚ますまで、ほとんど飲み食いもせず、ずっとお前の傍にな。
 だから祖父は、竹流が不義理をしたと頭を下げたときも、言ったのだ。
 わしは、真のことはあんたにやったと思っとる。あの子が東京に出て、馴染めん街で生きてこれたのは、何もかもあんたのお蔭だ。いや、北海道にいても同じことだったかも知れんと思っておる。あの子があの崖から落ちて、生きて帰ってきたのは奇跡だ。あんたがあの子をこの世に呼び戻してくれた。煮て食おうが焼いて食おうが、あんたの好きにしてもらったらええ。
 祖父が、自分たちの間の事を、仁のように恋愛関係として認めていたとは思いがたい。あの時は猫の子どもじゃないのだからやり取りするようなものじゃないと思ったが、その祖父の感覚はまさに正しいと今は思っている。


 眠ってしまった美和を見つめながら、いくらかうとうとしたようだったが、朝、真は美和の例の如く威勢のいい声で叩き起こされた。
「先生!」
「……何だ、大きな声で」
 思わず背を向けて布団に潜り込もうとした真の肩を美和はむんず、と摑んで彼女の方に向かせた。
「これ見て」
「何だよ」
「何だじゃないの」

 もしもこの子と結婚したら絶対尻に敷かれる、などと無責任なことを思いながら真は起き上がった。ちゃんと真面目に悩んでいるはずなのだが、美和の絶対的な明るさは天性のもので、真にはない彼女の最大の美徳だった。
 起き上がった真の目の前に美和が新聞の三面記事を突きつけた。
 真は思わず新聞を彼女の手からもぎ取った。

『澤田代議士、恩人の告別式の喪主を務める
 本日正午より澤田顕一郎代議士は品川区○×寺に於いて、氏の早逝した父の友人、田安隆三氏の葬儀を執り行う予定である。田安隆三氏は戦後より東南アジアでの開発事業に着手し成功を収め、現在も会長として事業を担う傍ら、芝浦でジャズ喫茶を経営していた。身寄りはなく、一人暮らし。六月二十七日早朝、横浜で水死体となって発見された。同日解剖の結果、死亡したのは六月二十三日、体内よりアルコールが検出され、酔って誤って海に転落したものと推定されている。同氏は澤田代議士の高校・大学時代の学費を出資し、政治家となった後も後援者として資金を提供していた一人と言われ、その孤独な死に澤田代議士はショックを隠しきれない様子である』

 記事の内容はざっとそういうところだった。美和と真は顔を見合わせた。
「その田安って人が、先生の知り合いだった人? 添島刑事に呼び出された」
「あぁ。しかし、まさか」
「何かおかしいの?」
「田安さんの経歴がかなり眉唾ものなのも事実だが、澤田がどうして? 下手すると政治家生命に関わる」
「それはつまり、田安さんって人が怪しいから?」
 真はもう一度記事を読み返した。
「にも関わらず葬儀をするって事は、何かのパフォーマンスかしら?」

 美和が真の視線の先を探るように、一緒に新聞を覗き込む。真はしばらくして顔を上げた。すかさず美和が聞く。
「お葬式、行く?」
「新潟に出るのが遅くなるだろう」
「でも、気になるでしょ」
 結局列車を夜行にして、ホテルも一日宿泊の予定をずらした。美和がてきぱきと予定を変更している間、真はまだベッドの上で座ったまま新聞を見ていた。 

 田安の死は事故で片付けられたのだろうか。ここには彼の店の爆発事故の事は触れられていない。田安が叩けば埃の出る人物であることは間違いがないし、警察のブラックリストにだって載っているはずだ。マスコミが何かを嗅ぎ付けたら、澤田にはマイナスになってもプラスになることは絶対にない。
 一体、澤田は何を考えているのか。これではまるで、澤田顕一郎ここにあり、と宣言するようなものだ。しかも叩けば埃の出る人間の関係者であることをあえて世間に晒して、自らの立場を危険に追い込む、この目的は何だろう。赤の他人のふりをし通すことだってできたはずだ。

「先生、早くシャワー浴びてきて」
 美和が寝室を覗き込んで声を掛けてきた。真はまだ新聞の記事に釘付けになっていた。頭の中で何かの符号が形になろうとしていたのに、ピースがいくつか足りない、そういう感じだった。
 真がシャワーを浴びて出てくると、美和が寝室の隣の部屋でテレビをつけていた。真が声を掛けようとした瞬間、美和があっと声を上げた。

 テレビの画面は、田安隆三の死亡のニュースと、澤田代議士がその葬儀をするというので、記者たちが彼にインタヴューをしているところだった。
「昨日、あんまりにも頭が興奮してて言うの忘れてたけど、ほら、先生がお父さん、じゃなくて叔父さん? どっちでもいいけど、あ、違う、どっちでもよくないんだ」
「何の話だ」

 美和の話はほとんど支離滅裂になっている。
「つまりその、先生とお父さんが向かい合って煙草吸ってたとき、絶対親子だって、つまりDNAがかなり近いって思った瞬間に、思い出したの。この間大家さんの所に面会に来てた男の人、どっかで会った気がするって、でもなんか変な感じで思い出せないって言ったでしょ。会ったような会ってないような、って。私、多分あの人のお父さんに会ってるの」
「何だって?」

 美和はテレビの中の澤田を指差した。澤田は後ろに何人かを従えて半分歩きながら、記者の質問に穏やかに答えていた。カメラのフラッシュの中で、彼は田安が自分の父親と親しく、父の死後は彼が自分の父親代わりだったと話していた。
「しかもまさにこういうシチュエーションだった。今このシーン見て思い出したの。その人、こんなふうに澤田の後ろに立ってた」

 美和が指したのは秘書の嵜山だった。
「君が澤田に会ったっていうのは、新幹線の土地買収の時」美和は頷いた。「澤田の秘書ってことか?」
「うん、同じ立ち位置ならそういうことよね。でもどうしてそういう人の息子が大家さんと一緒にいたんだろう?」
 美和は昨日の事はすっかり棚に上げて気分を一新して、例のよく動く瞳をくるくるさせて真を見つめていた。
 全く、田安が、こういうあっけらかんとしたタイプがお前に丁度いいと言ってくれていたのも頷ける気がした。
 真はもう一度テレビに視線を戻したが、ニュースは直ぐに別の話題に移った。

「ね、先生、その人のこと、調べてみていい?」
「そうしてくれ」
「先生、お葬式、一人で行ける? ついていった方がいい?」
 美和は、今度は真面目な顔をして聞いた。そんなに心配しなくても、と思った。
「大丈夫だ。で、列車はどうなったんだ」
「二十三時三分、上野発の出羽」
「じゃあ銀座で食事をしよう」





なんだかちょっと夫婦みたいなシーンになっていますね^^;
美和と真、本当にどうしてくっつかなかったんだろう???
作者のいじわる? いえいえ、これは神の配剤なのです……

イエス・キリストがラザロのためにしたことは……の下りは、もう20年も前に書いた文章のまんまです。
敢えて書いた自分が付け足すことなんて何もないはずなのですが、語りたいことのエッセンスみたいなものかもしれません。
大きな声では言えませんが、私、そのころ『イエス・キリストの生涯』を書き始めていたんですよ……
歴史に生きた革命家としてのイエス・キリストを書きたくて。
怒られそうですが、テーマは『ナザレの春』だった。
砂漠の荒涼とした土地の中で、美しい春の景色を見せていたというナザレの村で生まれたイエスの教えは、やっぱり生まれ変わる春・蘇る命(心)という、自然から得た印象・教えだったのではないだろうかと。
私はクリスチャンではないけれど(どころかめいっぱいアニミズム人間かつ浄土真宗)、このくだりを書いたときも今も、心からラザロの蘇りのシーンの本当の美しさは、ただの一文、「イエスは涙を流された」にあると思っています。いえ、多分、聖書の中で最も美しい一文に違いありません。

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【幻の猫】(2) 失われた少女 

真250
表紙の目印には、やっぱり嬉しくて、いちいちlimeさんのイラストをのっけております(^^)
アップバージョンの小さい版にしてみました。
さて、真を放り出して、竹流は女のところに……探偵気分で、竹流の行動を見張りましょう!
まずは物語をお楽しみください(^^)




シエナ

「いいえ、そんなはずはないわ。そんな馬鹿なこと……」
 竹流が通りに面した門を叩き、大きな扉を開けて現れた取次の女性に名前を告げた後、ほとんど待つこともなく、奥からそんな言葉と共に少し年を取った女性が現れた。小柄で、ほっそりとした印象を受ける上品な女性だが、声がよく通る。
 そして女性は、竹流の姿を見ると、目を見開き、大きく開けた口を両手で覆うようにして、そのまま固まってしまった。

「ベルナデッタ、やっと会えた」
 竹流が呼びかけると、女性は感極まったように涙を流した。
「あぁ、その声は確かにジョルジョ坊ちゃま。私は夢を見ているのかしら」
「まさか。長年の無礼を詫びに来たんだ」
 ベルナデッタは、ヴォルテラの屋敷に仕えていた女中だった。そして、大和竹流、すなわちジョルジョ・ヴォルテラがロヴェーレ家から養子に出されたとき、始めにジョルジョの世話をしてくれた女中であり、日常のあれこれの教育係かつ相談相手でもあった。

 ヴォルテラの屋敷に仕える者たちは、大概何代にもわたって仕えてきたものばかりであったし、ベルナデッタの家系もそのひとつだった。しかし、ベルナデッタ自身は、ジョルジョが神学校に入った年に血液の腫瘍であることが分かり、療養のために職を辞した。
 この時、当主のチェザーレ・ヴォルテラは彼女の病気治療のために、当時としては最先端の医療を受けさせるべく奔走した。そのかいあってか、ベルナデッタは寛解し、今も検査は必要であるもののこうして生きながらえている。
 ひとつの大きな不幸を抱えながら。

「何を仰いますのやら。いつも手紙や贈り物をしてくださって」
 竹流はベルナデッタに歩み寄り、その手を取り、まるで貴婦人相手にするように口づけた。ベルナデッタは慌てて手を引っ込めた。
「まぁ、いけません。坊ちゃま。私のようなものを相手に、そんなことを」
 そう言ってから、ベルナデッタはほうと息をついた。
「坊ちゃまは本当にお変わりではありませんのね。あの頃も、私たち使用人とあまりにも対等にお話し下さるので、立場を弁えるようにと随分と怒られていなさった。それなのに、よくこっそり私たちのところにやって来られては、下々の者たちの戯言話に付き合っておられて」

「ベルナデッタ、俺はもう坊ちゃまじゃないんだ。手紙にそう書いただろう?」
 とんでもないとベルナデッタは首を横に振った。
 ベルナデッタは中庭に面したテラスに竹流を誘い、先ほど取り次いだ女性に頼んでカプチーノを用意させた。

 高い建物に四方を囲まれた中庭には、午前中の光は十分には届いていなかったが、半分だけ真っ白に明るく染められていた。その中に、心穏やかな朝食のために用意されている比較的大きめのテーブルがある。
 中庭の半分はまだ太陽の恩恵が届かず、闇に沈んでいる。
 竹流はその陰の中に、木の椅子に座ってぼんやりと四角い空を眺めている老いた女性を見出した。椅子の肘掛には杖がひっかけてある。

「あぁ、グローリア、あなたもご一緒にいかが」
 ベルナデッタの声に、グローリアと呼ばれた女性がゆっくりと竹流とベルナデッタを振り返った。

 魂の籠っていないような無機質な瞳だった。あるいは大事な何かを失ったために、感情を一緒に持ち去られたような瞳だった。まるで人形のように静かで、そして乾いた様子で、彼女は闇の中に座っていた。
 綺麗に撫でつけられ結われた髪には飾りのひとつもなく、暗い影の中に沈んだブラウスとスカートのもとの色合いは分からなかった。首には古い石の入ったネックレスが、ようやく光の足掛かりになろうと揺らめいていたが、照らす光源がなくては輝く術もないようだった。

 竹流が気を利かせて、足の悪い女性がこちらのテーブルへ移るのを助けようと、一歩踏み出したとき、ベルナデッタがやんわりと止めた。
「明るい所を嫌がっておられるんですよ。私たちがあちらの小さいテーブルに参りましょう」
 そしてベルナデッタは、グローリアとは少し距離を取って、何も話さず、ただ優しい表情を浮かべて彼女を見守りながら、そして時折竹流に日本の話を聞きながら、短い午前中の時間を演出した。
 グローリアのいる闇に目が慣れてくると、その女性がそれほど歳をとっているわけではないことが分かった。何か悲しい出来事のために、髪も白くなり、身体も心も間違えて歳をとり急いでしまったかのように見える。

 その時、微かに、視界の端で何かがきらめいた。
「おや、ジョルジョ、お前、どこに行っていたの?」
 竹流は自分の名前が呼ばれたのかと思って、驚いてベルナデッタの視線の先を追う。

くろねこ
 猫だった。
 真っ黒で、尻尾の長い猫が、ゆったりと歩いている。首には金の首輪。すらりとしたしなやかな体つきは、小さな黒い豹のようにも見える。
「あぁ、坊ちゃま、ごめんなさい。この子はグローリアの猫なんですよ。その、坊ちゃまと名前が一緒なのは偶然で……」
 ちらり、と猫が竹流を見上げる。ゴールデンアイの、吸い込まれるような瞳は、光を失った飼い主の代わりに、世の中を見つめているかのようだった。
 やがてジョルジョ、つまり真っ黒の猫は、グローリアの足元に頭を摺り寄せ、グローリアはようやく何かから解き放たれたように猫を抱き上げた。

 カプチーノを飲み終えると、ベルナデッタは竹流を建物の中に誘った。
 建物の奥にはいくつかの個室があって、それはこの『協会』の目的のために使われていた。教会付属の婦人団体である『片羽根の天使協会』は、不思議な団体で、言ってみればご婦人方のネットワークを生かした人探しを主な仕事にしている。依頼人は女性に限るのだが、行方不明の人、探して欲しい人がいる場合、この協会が力になってくれるし、もしもの時には『慰め』をも仕事のひとつにしている。各地に支部があり、ここシエナの責任者がベルナデッタだった。依頼人は時には居場所のないものや遠くから来たものであったりするので、彼らが宿泊できるように小さな部屋がいくつも用意されている。
 全て教会への寄付から成り立っている完全なボランティア組織であり、健康も心も不安定となったベルナデッタを支えてきたのは、人のために何かをしているという充足感なのだろう。

 部屋のひとつがベルナデッタと幾人かの女性が共同で使っている事務所だった。机が四つと、真ん中に小さなソファ、それぞれの机の上には書類が積み上げられている。機能的とは言い難いが、彼女たちはその中のどこに何があるのか、完璧に記憶している。
 それぞれの机には、持ち主が誰であるのかがわかる写真が置かれている。どれもそれぞれ、ここで働いている女性の家族の写真だ。ベルナデッタの写真にも、小さな痩せた女の子と、まだ治療のためにやつれた顔をしていた頃のベルナデッタが写っていた。
 今日ここで仕事をしているのはベルナデッタ一人のようだった。

「あの方はね、ミラノからいらしたんですよ。二番目の娘さんが連れていらしたんです。お気の毒に、ちょうど一年前にシエナに五歳になるお孫さんと旅行に来られたんですが、そのお孫さんが行方不明になってしまわれて。彼女は自分がお孫さんの手を放してしまったことで、行方を見失ってしまったと言って、自分を責めておられるんですよ。警察にも直ぐに届けて、ずいぶん探されたんですけどね、結局何の手がかりもないまま時間だけが過ぎて、一時は精神的にも随分危ない状態になっておられたんですの……いえ、今もまだ心はここにはなくていらっしゃるのですわ」
「それは……気の毒だね。彼女はその時からずっとこの協会に?」
「いいえ、ミラノに二番目の娘さんと暮らしておられるのですけれど、丁度一年前の今日がお孫さんがいなくなった日ですから、もしかしてと藁にもすがるような思いで、一週間前にこちらに来られたんですよ」

 常識的に、一年も行方不明の子どもが、その丁度一年目だからと言って、ここで今見つかるとは思えない。哀れだが、子どもが無事である可能性は低いだろう。
「その子どもの母親は?」
「それが、家を出てしまわれたとか」
「なぜ」
 ベルナデッタは首を横に振った。
 事情を知っているのか知らないのか、あるいは知っていても部外者に話すことを躊躇ったのかもしれない。ヴォルテラの力は知っているだろうに、チェザーレやその息子には頼るわけにはいかない、という彼女の気持ちも分からなくはない。

「ベルナデッタ、もしかして少し手伝えることがあるかもしれないよ。もちろん、子どもが無事であるかどうかは保証できないけれど、少なくとも、いささか胡散臭い連中に事情を聞くことはできる」
 まるで感情を失ってしまったようなグローリアの瞳と、戦いを挑むような黒い猫の金の瞳が竹流の中で二重写しになっていた。
 旅行中に手を放してしまったために孫は行方不明、その母親も家を出て行ったというグローリアが気の毒だったし、それにもしかしてその子どもが犯罪にでも巻き込まれたというなら、自分にもいささか情報網の心当たりがなくもない。今更、探し当てられる自信はないが。

「結果的に、彼女に辛い事実を突きつけることになるかもしれないけれど、でもどこにいるのか分からないままでいるよりは、事実を受け入れる方が救いになるかもしれない」
 それから竹流はベルナデッタの手を握りしめた。ベルナデッタは俯いていたが、自分を握りしめた竹流の手を逆に両の掌で包み返した。
「坊ちゃま、確かにその通りです。時々、旦那様が何か協力できることがあるだろうと言って訪ねてくださるのですけれど、犯罪に絡むようなことは恐ろしくて調べることはできません。調べた結果は大概悲しく辛いものですから、知らないまま、もしかしてどこかで幸せに暮らしているかもしれないと信じている方が、救いになるかもしれない。そう思って、依頼人の方にはただ心穏やかでいて下さるように祈るしかなかったのです」

 竹流はベルナデッタの肩を抱くようにして、ソファに一緒に座った。叔父、チェザーレ・ヴォルテラが今でも一介の使用人であったベルナデッタの生活に気を配っていることを聞くと、何故か背中がうずくような気がした。いや、竹流はずっとその男に育てられてきたのだ。どれほどの悪事に手を染めていても、大事に思う人間の一人をも漏らさぬように思いやる、ヴォルテラの当主としての義務を叩き込まれてきた。
「ベルナデッタ、あなたはきっと他人の悲しみに自分の悲しみを重ねて、優しくなりすぎるんだ。大事な人を失った辛さは、あなたは誰よりも知っているのだから」

 もしかしてもうこの世にいないかもしれないが、その少女の足掛かりを探してやろう。長い間ベルナデッタに何もしてやれなかったことの償いにでもなれば。
「それなら、坊ちゃま、私の代わりに説明できる人がここにもうすぐ来られますわ。話だけでも聞いてあげてくだされば、幾らかでも救いになるでしょう」

シエナ
 やってきたのは、グローリアの娘だった。クラリッサという名前の艶やかな女性は、赤い髪に見事なグリーンの瞳を持っており、大学で地質学を教えているのだと言った。ベルナデッタが竹流を紹介する間、その賢明で揺るぎのない瞳で竹流を見つめていた。
 何かを訴えるような、力強い瞳だ。
 やがてクラリッサは挑むような目をふと緩ませて、話し始めた。

「そうですか。もう今さら、誰かに話して辛いとも恥ずかしいとも思わなくなりましたから、打ち明けますわ。いなくなったのは姉の娘で、フィオレンツァと言いました。その時、五歳だったのですが、ここシエナに来たのは、両親が不仲で随分と酷い喧嘩をしていましたので、私たちの母、グローリアがフィオレンツァを不憫に思って連れ出したのです。その結果あんなことになって、姉はそれから余計に夫と上手くいかなくなって、少しおかしくなっていたのかもしれませんが、家を出てしまったのです」
 竹流は思わずベルナデッタを見た。哀れな打ち明け話を聞かされるのだと思っていたのだが、あまりにも淡々とクラリッサが話すので、違和感を覚えたというのが正解だ。いや、彼女自身のことではないのだから当たり前なのかもしれない。 

「失礼ですが、不仲の理由は」
「よくある夫の異性関係ですわ」
「それで、あなたの姪御さん、フィオレンツァがいなくなったのはこのシエナのどこです?」
 竹流はクラリッサから目を離さなかった。いつも女性を口説くときには意識してその目を見つめる。まさに今も、この女性をベッドに誘い込むほどのつもりで見つめていた。そうしているうちに、この女性が本音を零してくれないかと思った。

「母はあのような状態なので、はっきりしたことは分かりかねます」
「あなたはその時、ご一緒ではなかったのですね」
「えぇ。失礼ですけれど、シニョール・ヴォルテラ、私は母に自分自身を取り戻してほしいと思っておりますが、フィオレンツァのことは正直諦めています。もう一年も前のことなのですよ」
 彼女の言葉に竹流は同意した。

 その時、かりかりとドアをひっかく音が聞こえた。
 ベルナデッタが扉を開けると、黒い塊のようなものが飛び込んできて、竹流の足元に来ると、ふんふんと匂いを嗅いだ。それから何か納得したように座り、竹流をそのゴールデンアイで見上げて、にゃん、と何かを訴えかけるように鳴いた。




さて、女のところにおりましたが、別に色っぽい理由ではなかったようですね(^^)
そうなんです、竹流は、あちこちにこういう老人(とまではいかない年の人もおりますが…男女問わず)がおりまして、決して礼を欠かさない。本当に老人に好かれる人でして。
本人も職人ですから、腕に覚えのある年寄りは特に好き。

でも、登場した妙齢の女性はちょっとヤバそうですね。
みんなでしっかり見張りましょう!って、何のことやら。

さて、limeさんの【白昼夢】を読まれた皆様はちょっとあれっと思われたかもしれません。
いえ、ぜんぜん関係ないとも言えますが、ちょっとだけもじってしまいました^^;
(limeさんへのお礼ストーリーですから!)
OEA(片目を閉じた天使)…という組織の裏バージョンみたいで…片羽根の天使協会。
しかもイタリア版おばちゃん探偵団!
何だかシリーズものが書けそうに思いますが……もちろん、書きません^^;

猫の写真は、イタリアで撮ったものですが、町はタルクィニアというところ。
エトルリア時代の墓を見に行ったのです。
丁度、黒猫!と思ってここに載せてみました。

さて、次回は(多分)いじけている真に会いに行きましょう!


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【幻の猫】(1) 黒い尻尾/ limeさんのイラストお礼ストーリー 

真500
やっぱり表紙をつけさせていただきました(*^_^*) limeさんに捧げる短編の幕開けですから。
そう、limeさんが描いてくださった真の絵のお礼に、ちょっとしたハートフルストーリーをお送りいたします。
そのイラストのページはこちらです→limeさんのブログ:小説ブログ「DOOR」

と言っても、そんなに凝ったつくりではないので、あまり期待なさらず、ちょこっとお付き合いください。
相川真18歳。大学受験を頑張ったご褒美に、家庭教師(いい加減な表現ですみません^^;)の大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラの故郷・イタリアへの旅行をねだります。ギリシャから入ってクルーザーでアドリア海クルーズの間は、空は青いし海も青いし、二人きりだし…(あ。別にエッチな話ではありませんので、ご安心を!)
なのに陸(パレルモ)に降り立ってからは、竹流はあれこれ会わなければならない人もいて、時々真は放り出されてしまう。もちろん竹流は優しいのだけれど、人々は彼を真の知らない名前で呼び、ハネムーン(言い過ぎ)という噂もある楽しい旅行のはずが、ちょっと不安を感じるようになります。
パレルモ→アマルフィ→ナポリ→(ローマ素通り)→ピサ→そしていまシエナにたどり着きました。
世界中で一番美しい広場を持つシエナの町を舞台に、猫と少女の優しい物語にしばしお付き合いくださいませ。

全5回でお送りいたします。
limeさんが描いてくださったイラストのシーン、しょっぱなから登場です。
そして、いつもお世話になっている夕さん(夕さんのブログ:scribo ergo sum)の小説みたいにヨーロッパの香りが出せたらいいのですが…(^^)
さらに、切なさはakoさんの詩から頂きました(え?何の話って…2013/5/21の【その瞳の先】をお読みください。勝手にうちの二人だわとか思っていた大海^^;→akoの落書き帳(2013/5/21))。




 あ、いた。
 真は靴を脱いだ。ついでに靴下も脱いでしまう。
 裸足の方が警戒されないかも、と単純に考えただけだった。
 オリーブの木の陰から黒い尻尾の先だけが見えている。アンテナのようにぴんと立てた先っぽで、後ろから追いかける真の気配を感じ取ろうとしているようにも見える。
 その尻尾が微かに震えたと思ったら、すいっと木の陰に消えた。

 真は慌てて追いかけた。
 足の裏に冷たい草の命の気配と、その下から漂ってくる土の湿度。一歩一歩踏みしめる短い時間にも、地面から地球の温度が湧き上がってくる。
 尻尾が消えたオリーブの木まで近づいたと思った途端に、足がぐらりと傾いた。

 あれ、と思った時には身体が回転しているような浮遊感に襲い掛かられる。何となく視界が暗いのは穴に落ちているから? いや、そんなはずはない。でもオリーブ畑の中でこけたのなら、身体は地面とオリーブの木にはぶつかっても、こんなふうにどこかに落ちていくような感じにはならないはずだけど。
 これじゃあまるで、不思議の国のアリスだ、って穴があったんだっけ?

 などなど、短い時間にあれこれ考えている自分が滑稽になる。断末魔に時間の流れが遅くなるというのは本当かも知れない。
 最後にゴツン、と頭を何かにぶつけた。
 脳震盪を起こしたのか、一瞬ブラックアウトしてしまい、記憶がふっとんだ。

シエナホテル
 一昨日の夕方、シエナに着いて、教会を改築したこのホテルに投宿した。夕陽がオリーブ畑の向こうに沈んでいく様子を見ながら、テラスで夕食前のアペリティーヴォを飲んでいた時、向かいでゆったりとテラスのソファに座り、夕陽を眺めている竹流の肩越しにあの黒い尻尾を見かけた。

 猫、だと思う。
 何故『思う』なのかというと、いつも尻尾しか見えないのだ。
 始めはまた変なものが見えているのかもと思っていた。この国の歴史は重い。しかも古い時代の街の上に新しい街を積み重ねるというやり方で、今自分が立っている地面の下に歴史が層状に重なっている。だから、不意に何かを感じることが多くなっていたのだ。

 だが、昨日の朝、洗濯物を干している大きな女性、そう、まさにイタリアのマンマという感じの女性の足元にその尻尾が見えていて、実のところ光の加減で全体はよく見えなかったのだが、女性が向きを変えた途端にそいつを蹴ったようだった。何か唸るような声が聞こえたような気がしたら、女性がScusamiと言ったのだ。
 多分、猫を蹴ったので思わず言ったのだろうから、その尻尾の持ち主は幻やあやかしではなくて、実体のある生き物ということになると思うのだけれど。
 もちろん、あのいかにも実体という感じの力強いマンマに、真と同じような霊感もどきがある可能性もなくはないのだが。

シエナ
 昨日は一日、竹流は真を連れて、シエナの町を案内してくれた。宿泊しているホテルは町から幾分離れたところにあって、町の中心部に出るためにはバスで十五分ばかりかかる。石畳の路地を歩き、光と影で区切られた建物の間を抜けるとき、竹流が、俺の腕に捕まってちょっと目を瞑っていろと言った。
 目を閉じたまま歩くと、微かな喧噪、吹き抜ける風、高い空の気配、グラスの当たるような音が、耳ではなく体全体に直接伝わってきた。
 狭い路地を抜け、大きな空間に出たことが、肌でわかる。
 竹流の足が止まる。そして真も足を止めた。
「世界中で一番美しい広場へ、ようこそ」

シエナ
 目を開けた時、真が立っていたのは、なだらかなスロープが下って行く、そのてっぺんだった。少しずつ色を違えるレンガ色の広場は、貝殻の形をしている。真正面には高い塔、市庁舎、広場を取り囲むいくつもの建物が作る影が、広場のレンガ色をさらに多彩に染め分けている。人々は歩き、あるいは座り、語らいながら、朝のひと時を過ごしていた。

 彼らもまた、広場に座ってひと時、何もせずに時間の上を漂った。
 塔に登り見下ろした広場の美しい造形、その上に明瞭な境界を引く光と影、遠く見晴らせばトスカナのなだらかな緑の丘陵地を吹き抜ける風、市庁舎の大きな窓から硬質な床に差し込む光、一歩陰に踏み込めば身体に沁み込んで来る歴史の闇。

シエナ
 光が強ければ強いほど、影もまた色濃い。
 光の温度や湿度、周囲にあるものの色彩によって、光にも影にも無数の色があるはずなのに、この国では光があまりにも艶やかで、何もかもが真っ白に染められ、そしてその対極にはあまりにも暗い闇がある。
 真が不安な顔を見せると、竹流はまるで子供にするように髪に手を触れ、撫でてくる。子ども扱いが嫌で逃れると、やっと気が付いたように手を真の肩に落として軽く、慰めるように二度ほど叩く。
 

 不安でたまらないとは言い出せない。
 幸福ではないのかと聞かれると困るからだ。
 それに、女みたいなことを言いたくない。
 幸せ、とか、怖い、とか、寂しい、とか、そんなことを言って甘える自分が許せない気がする。ほんのちょっと、男としてのプライドが許さないのだ。
 それでも、幸福と不安はぴったりとはりついている。その二つを割くことなど、まるきりできない。幸福であればあるほど、不安は大きく膨らんでくる。

 夜は尚更だった。時々、まったく胃が食べ物を受け付けなくなる。竹流はオリーブオイルが合わないのかと心配している。たまには胃に休憩が必要みたいだと言うと、納得してくれる。本当は、そこでもう一言、聞いて欲しいと思うのに。いや、そんなことを考えること自体、女々しい気がする。
 ほとんど眠れないまま、夜中にダブルベッドの中で目を覚ます。
 隣で眠っている竹流は本当に静かだった。これほど傍にいるのに、真の知らない名前で呼ばれる彼は、まるで真とは別の次元に存在しているような気さえする。

シエナホテル
 するりと彼の腕を逃れ、裸足のまま部屋を出た。
 ホテルには真四角切り取られた石畳の中庭があり、井戸だけが隅にあって、他には何もない。その一面はフロントのある棟、また別の一面はレストランのある棟、また別の一面は教会に面している。別の一面は奥へ抜けていく通路に繋がっていた。
 四角く切り取られた空、闇に浮かび上がる教会の塔。見上げていると、この世界の中で生きているものが自分一人のような気がした。


シエナホテル
 いて。
 気を失っていたのが一瞬だったのか、それとも長い時間だったのか、うつ伏せに倒れていた真は頭と足の両方に痛みを覚えながら、地面を両腕で押すようにして起き上がった。
 走馬灯のように、一瞬の間に昨日からの出来事を脳が反芻したらしい。その時の感情もそのままに。

 目を開けてみた。
 視界は土と草、そして……影?
 真以外の影が地面に落ちている。

 まだ頭がはっきりしなくて、一度真は首を振った。
 その瞬間に、影は大きく動き、空気が揺らめいた。真は両膝、両手をついたまま、首を動かそうとしたが、頭の痛みが強烈になって、一瞬ぐらりと身体が揺れる。気を取り直して何とか顔を上げた時、オリーブ畑の向こうへ駆けていく後姿のようなものを見た気がした。
 猫より明らかに大きい影だ。足元は光で見えないが、少し長めの髪にうす紫色のリボン、ふわりとした光色のカーデガン。

 女の子?
 素早く起き上れば追いかけられると思ったものの、立とうとしてずきん、と右の足首が悲鳴を上げた。

 倒れていた地面の視界の端に石の塊がある。そこに身体を持ち上げるようにして縋りつき、凭れた。
 頭を打った上に、足を挫いてしまったのかもしれない。

 何だか今日はついていない。というより出だしから最悪だった。朝食を終えた後、竹流がちょっと野暮用で出かけるから、お前は良かったら一人で町にでも出かけたらいい、と言って、地図とバスの番号を書いた紙、ホテルのカード、お金、そしてちょっと躊躇ってから、左の薬指から銀の指輪を抜いて渡してくれた。
 万が一の時は、この指輪を教会かどこかの店で見せれば、必ず何とかしてくれるはずだと言って。

 一人で町を歩いてもつまらない。絵画や彫刻は、解説してくれる人がいなければ何のことか分からない。ついでに、また変なものが現れても困る。
 と言うわけで、幻の黒い尻尾探索を今日のスケジュールにしたのだが……

 ため息をついた途端、視界の隅に尻尾が登場した。
 ジョルジョ!
 と呼びかけた途端、にゃあ、と声が聞こえた。もちろん、勝手に名前をつけたのだ。自分が永遠に呼ぶことのない彼の名前を、幻の猫につけて何が悪い。

 幻?
 いや、猫はきっちりそこにいた。垂れ下がったドレープのようなものと誰かの足の間に。
 真っ黒の身体にゴールデンアイ。そして首にはその目と同じ、黄金の首輪。

 足?
 いちいち反応が遅い今日の真は、垂れ下がったドレープを見上げた。
 ドレープではなくて、羽根だ。
 
 真はその石の塊、つまり彫刻に手を付きながら、何とか立ち上がった。ひょこっと右足を庇いながらほんの少し離れて見ると、台座に突っ伏すようにして天使が泣き崩れていた。
 真はもう一度周囲を、そして猫よりも大きな影が消えて行った辺りを見た。低いオリーブの木が見えているだけで、風がその隙間を吹き抜けるが、誰かの気配が残っているわけではなかった。

 幻の猫が実態になったと思ったら、今度は女の子の幻が現れたということなのか。
 にゃあ。
 ジョルジョが何かを訴えるように鳴いた。




猫にジョルジョと呼びかけること程度しかできない、意外に小心者な真。
さて、次回は竹流は何をしているのか、探りに行きましょう。

なお、このホテルは実在します。そしてそのホテルの写真を載せさせていただきました。
もちろん、景色は多少アレンジしております(^^)
嘆きの天使、というのはlimeさんが描いてくださったイラストの天使の彫刻なのですが、似たようなのがいくつかあるようで、limeさんはサンフランシスコの墓地のものをご覧になったそうですが(実物?写真?)、ローマにも同じようなものがあるそうです。
シエナには……多分ないでしょう^^;


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NEWS 2013/5/22 白い芍薬/ うちにも青虫 

芍薬シロ
まるで薔薇のようにも見えますが、白い芍薬です。
ピンクよりもかなり小ぶりで、あまり芍薬!には見ませんが……
芍薬シロ
これで、芍薬に見えますね(^^)

そして、ブログのお友達・limeさんのリクエストにお応えして、アーモンドの実をご紹介。
アーモンド実アーモンド2013/3/31
この皮は梅なみに分厚くて、その中にクルミみたいな…というよりも桃の種みたいな硬い殻が入っていて、食べるところはその中です。だからすごく大きな実をとっても、中身がすごく小さかったりする。
しかも、この殻が無茶苦茶硬いのです。クルミどころではないかもしれません。
いつも実家に持って帰って、万力で割ります。で、塩を振って炒って食べる。
努力の割には、一瞬で無くなる本当に小さなアーモンドですが、自分のアーモンドなので、それなりに幸せ(^^)
ナッツ類の値段が高い理由がよく分かる体験です^^;

ちなみに、西宮にある東洋ナッツの敷地内のアーモンドはこんな風です。
アーモンド3
白っぽく見えますが、桜よりもかなり濃いめのピンク。でも、桜だと言われたら、そうかも、と思いますね。

最後に、うちの青虫くんも、こんな感じで……
あ、出所はこちらのlimeさんのブログをご覧ください→limeさんの青虫(小説ブログ「DOOR」)
気持ち悪いので、小さめの写真にしました^^;
青虫
だんだん大きくなってくると、動きが鈍くなってきて、いかにもさなぎになる前なんだ~という感じになります^^;
それがまた、ちょっと気持ち悪いけれど、隣の子どもがとても青虫を欲しがるので(幼稚園に持っていくらしい)、一応大事においております。

落ちのないお話でした(*^_^*)

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[雨47] 第7章 父と子(5)/ 家系図 

前回あまりにも中途半端だったので、続きをアップします。
これで第7章は終了です。美和ちゃんの啖呵(?)をお楽しみください(^^)
啖呵というのか、心の声ですね。こういうシーンを見返すと、なんでこの二人、恋人に収まらなかったのだろうと思います。そこが面白いんでしょうけれど。





 武史はさりげなく宝田や賢二にも気を使って、それからは事務所の仕事のことや、事務所に勤めている馴れ初めのことなどを彼らに聞いたりしていた。
 その間に幾らか酒が入って、美和も少しずつ気分が良くなっていた。宝田と賢二も同様のようだった。ほぼ下戸のはずの宝田も、今日は逆らえないと思ったのか、意識を失ったほうが勝ちと思ったのか、多少飲んでいる。

 食事が終わると隣の部屋に席を替わって、上等のウィスキーを振舞われた。
 美和は、本筋の見えないムードに幾らかやけになってきて、とりあえず飲めるだけ飲もうかと思ったが、さりげなく武史が美和の飲んでいる水割りを薄くしていってくれているのが分かって、多少感動した。
 宝田は頑張っていたが、緊張から飲めないものを飲んでしまって、既に鼾をかいていた。女将が来て、宝田に布団を掛けてくれる。
 美和がちらりと見たとき、女将と武史は静かに視線を交わした。賢二はまだ緊張しながらも付き合っていたが、半時間後にはダウンしていた。

 真と武史は向かい合って暫く黙って飲んでいる。それから武史に奨められて、真は煙草に火をつけてもらっていた。美和が一旦トイレに立ってから戻ってきたとき、二人は同時に美和を振り向き、それからほとんど同じタイミングで煙草の灰を落とそうとした。

 美和は二人の横顔を同時に見て、そしてその瞬間、随分と前から大脳を刺激していたものが、あるべきところにピンと収まった。もう少しで声を出すところだった。

 だが、美和はそれを飲み込んで、真の隣に座った。
「大和君は一体何の事件に首を突っ込んでいるんだ?」
「絵のことかと」
「絵? それは彼には本職だろうが、澤田が絵に造詣が深いとは聞いた事がないが」
「でも絵画には金銭的価値もありますよね」
 武史は暫く真の顔を見ていた。

「例えばレンブラントやフェルメールなら?」
「まさか、どこかの美術館から盗み出したとでもいうのか」
「知られざる名画が埋もれていたとか」
「それは、特にレンブラントやフェルメールの場合大いにあり得るが、しかし一方で、それを本物か贋物か判定するのは実に困難だし金も時間もかかる。その『知られざる名画』に金銭的価値が付随する前に、個人なら破産しかねないね。特にフェルメールなどはこれまでにもさんざん贋作が現れ、あるいは同じ時代の他の画家のものが彼の作だとされて大騒ぎになった歴史があるので、既に皆が用心している。だがそれでも、もしもそれが『知られざる本物』だというなら、条件がある」

「条件?」
「簡単なことだ。その絵を本物と知っていること、つまり来歴がはっきりしているということだ。あるいはその持ち主にとって本物と思い込める何かがあること、そしてその持ち主が、金銭でもなんでもなくその絵そのものを他人の目に触れさせたくないほど愛しているということだ」
「澤田はそれには当てはまらないと」
「そうだね」
「では誰が」

 美和には、真が何かに縋り付きたいと思っている気配がよく分かった。そして、そのことを武史も気が付いていると思った。
「澤田自身に確認したのか」
「澤田は彼の話題には全く興味を示さなかったんです」
「だがお前は澤田が何かを知っていると思っている」
「そうです。澤田の秘書は事務所ではなく僕の自宅でもなく、竹流のマンションに電話を掛けてきた。僕が何も言わないのに、竹流のマンションに僕を送り届けた。それに、ある刑事が河本さんから、澤田と竹流と僕を見張るようにと指令を受けていた。その人の話では、澤田も竹流も同じ人物と関わっているようだ、と。僕はてっきりあなたもその件で日本に帰ってこられたのかと」

「真、私は河本に指令を受ける言われはない。帰ってきたのが休暇でも悪くはないだろう」
 武史は淡々とした口調でそう言った。その声が美和には酷く冷淡に聞こえた。
「それは、そうですが。でも、澤田には会われたんですよね」
 武史はそれには何も答えず、表情も変えなかった。真が武史の顔を見て更に何か言いたげにしたが、結局口をつぐんだのを見て、美和は武史に向き直った。

「先生は大家さんのことを心配してるんです。先生にとって大家さんは親や恋人も同様ですから」
「親や恋人?」
 武史が呟くようにして顔を上げ、美和を見た。
 美和はその深く強い、冷淡な視線に対抗するように、思わず次の句を継いでいた。
「先生は小さいときからずっと苛められてて、それは外見のせいもあるけど、でも一番悪いのは守ってくれる親がいなかったからです」

「美和ちゃん」
 真が思わず美和の腕を掴んだのを、美和は振り払った。本当のところはかなり酒が廻っていたし、さっきからずっと我慢していた感情が噴き出してしまった。
「大家さんが先生をずっと庇ってくれていた。勿論、人と人との間のことだから、始めから良好で親密な関係ではなかったにしても、大家さんは、先生が攫われてひどい目に遭った時だって、周囲構わず相手に戦争を仕掛けそうだった。そういうことは多分ただの恋人ならしない。自分の立場や相手の状況もかなぐり捨てて怒れるのは、本当なら親のすることだわ。その大家さんがあんな怪我をさせられて、その上行方不明で、正気でいられるわけがないです」
「美和ちゃん、いいから」
 真が止めるのを美和はもう一度無視した。
「あなたが先生の親なら、何とかしてあげようとは思わないわけ?」

「美和ちゃん」
 ついに真は美和を引き寄せて頭ごと抱えた。
「酔ってるんです。すみません」
 真の声も淡々と響いた。美和はその声を、頭を押し付けている真の胸を介したまま、乾いた振動として感じていた。武史の表情は見えなかったが、二人とも長い間黙っていた。
 真の心臓の音は随分と不規則に感じる。不安と混乱がその不安定なリズムの奥に見え隠れするのに、音質は単調でぱさぱさとしたものだった。その音を聞いている間に、美和は無理矢理、平静に戻されたような気がした。やがて真の腕の中から離れるようにして、真の顔を見る。真の表情は冷めたままで、そこには怒りも不安もなく、あるいは感情さえ窺うことができなかった。

「ごめんなさい、半分妄想です」
 そう言って恐る恐る見たが、武史も怒っているようではなかった。
「いや、隠しているつもりはない」
 武史は静かに抑えた口調で答えた。

 その強い意思で抑制された感情の奥を、美和は例の文章教室トレーニングの要領で更に妄想してしまった。本当はこの人も辛いのだろうと、大体そうでなかったら先生が可哀想と、そう思った。
 それでも、もしかしてこの人は、先生が自分の仕事のせいで間違えて危ない目にあったり殺されたりしても、この無表情を変えないのだろう。何かを深く感じるということを既に捨ててしまった人間の魂は、冷たく固まって、もう何一つ受け入れようとしないように思える。

 真も黙ったままなので、美和は居た堪れない気持ちになった。
「さっき、先生と叔父さん、向かい合って煙草吸ってたでしょ。あ、同じだと思ったの。仕草とかそんなんじゃなくて、顔や背格好の似ている、似ていないじゃなくて、その人が内側に持っているオーラみたいなもの、それが同じに見えた。ごめんなさい。気に障ることを言うつもりじゃなかったんです」

 武史も真も、しばらくの間何も言わなかった。女将が一度、氷を取り替えにやってきたが、何も言わずに直ぐに出て行った。真はもう一本煙草を引き出して銜えた。ライターの火で真の表情に幾らか翳りができ、一瞬強く燃え立った後では、闇は一層深くなったように見えた。
 やがて真は淡々と言った。
「別に、僕はあなたを恨んでいるわけではありません。今更、あなたにどうこうして欲しいと思っているわけでもない。ただ、竹流をあんな目にあわせてさらったやつがいるなら、そしてもしあなたがその相手を知っているなら、教えて欲しいと思っただけです」
「それで、お前はどうするつもりなんだ」
「知れたことです」
 武史は黙って息子の顔を見つめていた。美和は急に真のことも武史のこともおっかない気がした。
「それは、彼の『父親』に任せられないのか」
「イタリア人の力を借りたいとは思いません。挨拶もしてもらっていない。これは彼と僕自身の問題だと思っています」

 武史は息をつくようにして煙草を取り、火をつけた。美和は黙って武史と真の顔を窺っていた。どちらも自分の感情を最大限に堪えているように見えた。
「だが、あの男は使いようだ。もし相手が接触してきたら、迷わずに会いなさい。お前の協力者にはならないだろうが、あの男は自分の後継者のためなら国一つ滅ぼすくらいのことはする。それから、澤田が何を考えているのか、お前が直接聞くことだ。あの男はお前の力にはならないかもしれないが、利害は一致するかもしれない」
「河本さんは」
「真、お前も分かっているだろうが、あの男は表向きとは違う顔を持っている。お前が彼に協力を求めれば、その代償は高くつく」

 真はまだ暫く武史を黙って見つめていた。美和はその真を見ていたが、やがて真が淡々と言った言葉にいくらか動揺した。
「あなたは、本当は何が目的で日本に帰ってきたんですか」
 美和は真が自分の父親すら疑っていると思った。だが、それに答えた武史も、一線を越えてくることはなかった。
「休暇だ。それに河本の戯言を聞く必要もありそうだと思った」
 今度は武史もはっきりと、議論を打ち切るように断言した。

 暫くして女将がやって来て、彼らは相談して宝田と賢二をここで寝かせておくことにした。帰りがけに美和が武史に頭を下げると、武史は美和の腕を優しく叩いて、囁くような優しい声で言った。
「真を頼みます。あの子にはあなたのような人が必要でしょう」
 美和は思わず武史を真正面から見つめた。美和は一度呼吸を整え、それから堅い岩のように感情を押さえ込んだ男に、ひとつひとつの言葉を何とか響かせようと、ゆっくりと言った。

「さっきも言いましたけど、先生にとって、一番大事な人は大家さんなんです。大家さんが帰ってこなかったら、先生は」
 だが、これ以上は言葉にならなかった。
 武史は、今日美和が見た中では一番優しい表情を見せた。
「彼はずっとここにはいられない男です。ヴォルテラが跡継ぎを諦めることはないし、実質ヴァチカンの懐刀であるヴォルテラが、あの子たちの関係を認めることもない。たとえそれが恋人同士ではなく、きわめて親密な親子のような関係であっても、です」

 美和は真に今の言葉が聞こえていなければいいと思ったが、武史はむしろ真の耳に入ることを望んでいるように思えた。
 不意に、この男がコロンと煙草の臭いの向こうに隠している本当のにおいが鼻についた。それは美和の世界の中には本来なら存在していないにおいだったが、彼女の妄想はそれを嗅ぎ分けて認識した。





さて、次章、第8章は『ある代議士の事情』です。
真の心の中へ少しずつ、入っていってくださいませ。

以下、ちょっとコラム。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨46] 第7章 父と子(4)/ カミングアウトの余波 

ついに(?)、真の実の父親の登場です。ほとんど出てくることはありませんが、実は裏では?暗躍しております。
真とのかなり微妙な、というよりもはっきり言って遠すぎる距離感をお楽しみください。





 美和は賢二の話を黙って聞いていたが、やがて少しばかり大人ぶった表情を作って言ってやった。
「何だ、分かりきったことじゃない」
 賢二は彼らの関係について、一部分だけは美和に言葉では告げなかったようだった。しかし、美和は賢二の話し方から、何となく妄想は妄想ではなかったな、と思っていた。賢二は、彼自身が思っているほど嘘をつくのが上手ではなかった。

 宝田も神妙な顔で俯いていたが、彼らが三人で押し黙ってしまったとき、表のドアをノックする音が聞こえた。
 悪いことをしていたわけでもないのだが、彼らは皆一様に緊張して顔を見合わせ、結局宝田がドアを開けに行った。
 そこに立っていたのは四十を越えたかというくらいの年恰好の紳士で、上品な深いグレイのスーツを着こなし、いくらか白いものも混じっている髪は緩く波打って、優しげな印象だった。背は日本人の平均からして決して大柄ではなかったが、身体つきはがっしりしている。だがその目には普通の世界で生きている人間のものではない、底知れない何かが潜んでいるように見えた。

 一見の穏やかな風情の向こうに隠されている何かを嗅ぎ取ったのは、美和だけではなかったようだ。
「あー、あの、何のご、御用でしょうか」
 いくらか躓きながら宝田が相手に尋ねた。返ってきた声は、力強く明瞭で、是非を問うことのない確かな響きを持っていた。そして、どこか冷たく、重い響きが残る。
「真は留守ですか」
 美和は、ここの所長の事を『真』と呼び捨てにする人物は、竹流と、最近気を良くして彼を呼び捨てにしている自分の恋人の北条仁しか知らなかった。あとは、真の妹婿で親友の富山享志と、真の親戚くらいだろうか。
「……あ、は、はい」

 宝田が困ったように美和を振り返った。その男のムードには、立っているだけで相手を威圧するような気配がある。
「そうですか」
 男は当てが外れたようで、ちょっと考えたように見えた。
「あの、何かご伝言でしたら」
 美和は慌てて立ち上がり、尋ねた。
「いえ、出直します。仕事の合間に寄ったので」

 その向こうで階段を登ってくる足音が聞こえた。宝田がほっとしたように美和を振り返った。
「あぁ、帰ってきたようですね」
 紳士がすっとドアの脇に寄ったので、美和からも真の姿が見えた。真は紳士を見て、驚いたように足を止めた。

 その真の顔を見て、美和は尋常でないものを感じた。
 真の表情は一瞬で感情という感情を閉じ込めたように、いわゆる無表情というような種類のものに変わった。その石のように固まった表情のまま、いや、正確にはその後で無理やり表情を作ったような顔で、ゆっくりと階段の最後の一段を登りきり、その紳士の前まで来た。
「何度電話しても出ないから、心配したよ」
「何時日本へ?」

 真の声は、美和がこれまでに聞いたことのあるどの種類の声とも異なっていた。熱い何かを一瞬に凍らせたような声で、いくら愛想がない男だとはいえ、こういう真の顔も声も態度も、美和は全く見たことがなかった。
「一週間ほど前だ」
「そうですか。すみません、ずっと知人のところに居候していたので。入ってください」
 紳士はそれをそっと手だけで拒否した。
「いや、車を待たせているのでね。夕食の約束ができれば、と思って寄らせてもらったんだ。先約はあるか」
 真は暫く紳士を見つめていたようだった。その背中から立ち上る不信の気配に、美和は緊張した。
「いえ、今夜は別に」
「では、七時を少し回ると思うが、ここへ迎えを寄越そう。皆さんもぜひ御一緒に」

 紳士は美和や宝田、賢二にも声を掛けて、腕時計を見てからあっけなく立ち去った。美和は、暫く気圧されたようにその紳士の靴音を聞いていたが、真がドアを閉めて事務所に入っていたので、思わず聞いた。
「今の人、誰?」
 真は一瞬だが、何か躊躇するような顔を見せた。
「叔父だよ」
「おじさん? 先生の?」
 美和は幾らかの違和感を覚えて繰り返した。
「かっこいい人っすね。何をしてる人ですか」
 宝田が緊張したまま、しかし何か話していないと逆に緊張で壊れそうになるとでもいうかのように、言った。
「今はワシントンに住んでいる。半分はロンドンかな。まぁ、警察関係だ」

 それ以上真は何も言いたくないかのように話題を逸らせた。
「美和ちゃん、大学は?」
「やっぱり面白くないから帰ってきちゃった。あ、それで、これ添島刑事から」
 美和は机のほうに戻り、添島刑事から渡された茶封筒を真に手渡した。
「刑事さん、先生のこと心配してた。大学の門で待ち伏せ喰らっちゃった」
 真は受け取った茶封筒の中を出しながら、不可解そうに美和を見つめた。
「待ち伏せ?」
「うん、と、まぁ、あの人なりに先生を心配してるって感じだった、かな」

 美和は真が出している封筒の中身を覗いた。コピーの用紙が十枚ほど入っていて、例の贋作と言われているレンブラント、フェルメールの絵のコピーと解説も入っていた。
「これも」
 美和は机の上に忘れていたメモと旅行会社の封筒を思い出して、それも真に手渡した。あなたも一緒に、と言った添島刑事の声が耳に蘇ってくると、照れるべきなのか、あるいは覚悟を決めなければならないのか、よく分からなかった。
「これは?」
「絵に詳しい人だって。その贋作鑑定者の一人だとか言ってた」

 旅行会社の封筒には新潟までの往復切符二枚と二泊分のオークラホテル新潟ツインルームのクーポン券が入っていた。メモ書きに『美和さんも連れて行くこと』と書かれているのが、美和の目にも入った。真が急に顔を上げて美和を見たので、美和は思わず真を見つめていたままの視線を外すこともできなかった。
「明日、行く?」
「そうだな」

 出掛けるとなると、それなりに済ませておかないといけない用事もあったので、彼らはそれから幾らか真面目に仕事の相談をした。出掛けている間、賢二と宝田に頼んでおかなければならないことが幾つかあった。
 そんなこんなで、あっという間に七時になりかけていた。誰もがそわそわと時計を気にし始めたが、真だけは冷静な顔をしているように見えた。
 美和が思うところでは、宝田は自分とは無関係な世界から来たような紳士に誘われて浮わついているように見え、賢二は誘ったのが真の関係者、しかも叔父という身近な人物だということに緊張し、美和自身は真の無愛想な気配に緊張していた。

 七時になって迎えが来たが、車を運転してきたのは真の叔父というその人本人だった。紳士は美和の為に自分で助手席の扉を開けてくれ、結局後ろに男三人が並んだ。
大きな宝田が乗っても、車には余裕があった。
 美和は心配になってバックミラーから真の顔を盗み見したが、真は端っこに座っていて、表情はよく見えなかった。
 車の中で皆が緊張していたのか、始めは誰も口をきかなかった。何か気の利いた会話でもと思ったが、何も思いつかず、美和も結局黙っていた。

「知人って、大和君のところか」
 ようやく、紳士、つまり真の叔父、相川武史がバックミラーに映っているはずの真の顔を確かめるように見て、問いかけた。冷めた声だった。とても友好的な叔父と甥の会話には思えない。
「そうです」
「調子は?」
「え?」
 真が何を聞かれたのか解らないというように聞き返す。
「身体だよ。前に入院していたって」
「いえ、大丈夫です」

 そもそも真は愛想がいいほうではない。しかし、これは全く感情を殺しているとしか思えなかった。しかも、叔父と甥という関係にしてはあまりにも淡々としている。だいたい、真が入院していたのは、事務所を独立する前で、二年半以上前のことではないのか。
 美和は自分の悩みなどすっかり吹っ飛んでしまって、忙しく、真の声と運転席の男の横顔とを観察していた。
「大和君は、元気にしているのかね」
「あなたが知らないとは思いませんが」
「何のことだ」
「河本さんのところで聞かれたんじゃないのですか」
 暫く武史は黙っていた。
「後で話そう」

 美和はちょっと緊張して、隣で運転する武史の横顔をちらりと盗み見た。どこかで見た顔つきだなと思いつつも、緊張がその考えを吹き消した。
 車は赤坂のテレビ局の辺りを狭い道に入って、いささか由緒ある、しかし表向きは普通の家のような一軒の料亭の前で停まった。武史が一旦エンジンを止め、皆を下ろして、それから玄関の呼び鈴を押すと、上品な和服姿の女将らしい人が出てきて、武史から車の鍵を預かった。直ぐに番当風の男が女将から鍵を受け取り、車をどこかに持っていったようだった。
 女将と武史は親しげな夫婦のような呼吸で話を交わしていたが、やがて女将自ら彼らを奥へ通した。美和は得意の観察眼で彼らを見ていたが、その距離は男と女の関係だと判断した。それについて、真が複雑な顔で彼らを見ていることに美和は気が付いた。真は美和と目が合うと、視線を中庭の方に逸らせた。

 坪庭のような中庭に向かって三つほどの部屋があるきりの、古い日本家屋だった。東京の真ん中とは思えないほど静かなところだ。塀に囲まれているからか、車の音も、耳を澄ませると聞こえないわけでもないのだが、どこか別次元のものに思える。代わりに、庭の小さな池を流れる水の音に、鹿脅しの音が高く重なった。
 ふと見ると、宝田がかちんこちんに緊張していた。美和はそれを見て思わず笑いがこぼれ、自分のほうは逆に落ち着いてきた。

 部屋に入ると、座席は掘り炬燵になっていて、宝田はやっと幾らかほっとしたようだった。
 直ぐにビールと付けあわせが運ばれて来て、彼らはとりあえずグラスを合わせた。真は武史に聞かれて、美和から順番に武史に紹介した。
 食事の間、武史は特に美和を気遣うように、大学の事や事務所で仕事をしている理由やらを尋ねてきた。緊張していても仕方がないと開き直って、美和が答えていると、武史は穏やかに微笑むように聞いてくれていた。

 いい男だな、と思った。身体つきもしっかりしていて、外見だけなら年齢関係なく女がほれ込んでしまうような男だ。煙草と、かすかにコロンのいい香りがしている。だが、それは何かを取り繕うためのもののようで、随分と取ってつけた匂いに思えた。
「一度、ワシントンに電話したんです」
 真が不意に言った。
「何時?」
「いえ、あなたはもう日本に来ていたようですから」
「お前が電話してくるなんて、珍しい。何かあったのか」
「ある人が、あなたのことを懐かしいと話していて、あなたはどうしているかと聞いていたので」
「ある人?」
「澤田顕一郎をご存知ですね」

 叔父に対して随分よそよそしい口のきき方だという点は置いても、何を性急に話してるのよ、と美和は思った。
「あぁ。しかし、それは奇妙な質問だね。彼には四日前に会ったところだが」
「会った?」
 美和は思わず手を握りしめた。ふと見ると、賢二も宝田も、わざと視線を逸らすかのように料理に集中している。本当に男はこういう時役に立たないと美和は思った。

 真は少し考えていたように見えた。
「すみません、今の言い方は正確ではなかった。澤田顕一郎は僕にあなたのことをよく知っていると言って、それから僕に彼のところで働かないかと言ったんです」
 武史はしばらく真の顔を見つめていた。驚いた顔でもなく、ただ淡々と見つめている。
「それはまた……、それで返事をしたのか?」
「断りました」
 武史は頷いた。
「それは正解だったね。お前をSPにでも雇うつもりだったのかな」
「澤田はあなたに何も言わなかったのですか。つまり、彼は僕のことでどこかに探りを入れていたと、ある人から聞きました。正確には僕の事ではなく、あなたのことです。あなたに行き着いたので、彼は僕と会う気になった」

 美和はどきどきしながら彼らの会話を聞いていた。
「穏やかに食事をさせてくれる気はないのか。お前の仲間と恋人も一緒だというのに」
「恋人じゃないです」
 美和は飛び上がりそうになって否定した。
「そうですか。あなたのような人がこの子の傍にいてくれて、安心だと思ったのですよ」
 武史が穏やかに言ったので、美和はどきん、と胸が鳴るのを感じた。

「はぐらかさないで下さい」
 真が淡々とした声で言うので、美和はまた緊張してきた。ヤクザと付き合っていてこういう緊張感には慣れているつもりだったが、今日はムードが違っている。
「真、何を焦っているのか知らないが、澤田が私に会おうとしたのは、日本に帰って警察庁のある部署で働く気はないかと聞くためだった、と理解している。お前のことをどうこう言われたわけではないし、私も断ってきた」
「立場があるからですか」
 武史はそれには答えず、真に日本酒を奨めた。真は強張った表情でそれを受けていた。

「それで、さっきお前は河本がどうのと言っていたが?」
 真はしばらく武史を見つめていた。それからゆっくりと確認するように問いかける。
「河本さんにも会ったのですか」
「いや」
「でもあの人を知っているんですね」
「仕事上のことだ。それで、お前が焦っているのは何故なんだ?」

 真は当てが外れて幾らか拍子抜けしたというような顔になった。美和は、真がもしかして目の前の叔父という人まで疑っているのかと思った。真はそのまま会話に興味を失ったかのように黙り込んでしまった。
「実は大家さんが事件に巻き込まれてて」
 美和は思わず口をはさんでいた。宝田までが身を乗り出す。
「そうなんす。先生は大和さんが心配で」
 美和は、宝田がそれでも真を守ろうとしているのだと思って、なんだか嬉しくなった。ちょっと情けないムードだったことは、許してあげようと思う。

「大家さん?」
 宝田の言葉を聞いてから武史は美和に聞き返した。頭が回っていなかったので、半分しどろもどろに返事をする。
「あ、つまり大和さんのことです。大家さんが死にそうな怪我して帰ってきて、それからまた病院からいなくなってしまったので。ちょうど澤田顕一郎が先生に急に接触してきたので、もしかして何か関係があるんじゃないかって」
「大和君が、怪我? どういう意味だね。それが澤田と関わっているというのは?」

 武史は知らないようだった。いや、知っていたとしても、それを表に見せるような男ではなさそうだった。美和は真の顔を見た。真は美和を少しの間見つめていたが、やがて決心したように言った。
「実は澤田がパトロンになっているという噂のある女が銀座にいるんですが」
「先生」
 美和が心配して遮ったのを、真はいいんだ、というように目で合図してきた。
「その女と一年以上前から懇意にしているもので」

 武史は暫く真と美和の顔を交互に見ていた。それからほっとしたように笑った。だがその笑顔にはひどく不自然なものがある。笑いなれていない人間の顔に思えた。あるいは、上手く笑っているが、心からは笑っていない。
「お前も男なんだし、そのくらいのことで非難されることもないだろう。それで、お前が一年も前からその女と懇意にしていて、それなのに急に最近澤田顕一郎がお前に接近してきた。それには何か理由があると思った。だが、まだわからないな。大和君が怪我をしたということと、それが何の関係が? 何より、大和君の怪我というのはどういうことなんだ?」

 真はまだしばらくの間、言葉を探すように黙っていた。美和には、真がそれでも用心しているように見えた。
「誰かに暴行されたようだ、と。酷い状態で、それでも本人は何も話そうとしない。挙句に病院から消えました。彼自身の意思か、さらわれたのか、今のところわかりません。ただ、澤田に関わりのある女が、ある事件の関係者ということがわかって、竹流自身もその事件に関わっていた」 
 武史のほうも頭を最大限に回転させているように美和には見えた。
「まず、食事を片付けよう」





一気に行こうかと思ったのですが、あまりにも長いので半分にしました。
えぇ、今から宣言しておきます。何げない登場をした人物が、本当に何気なく終わることもありますし、実は後でかなり重要な役割を果たしていたと分かる場合もあり、無茶苦茶怪しい癖に実はいい人だったり、無茶苦茶怪しくてやはり怪しかったり……
さて、このお父ちゃん、いったいどれでしょう……
答えは……ラストまで教えられません^m^

前回のことですが……カミングアウト、などと大仰なことをしなくても、別に良かったのかしらと思いつつも、皆様の暖かいコメントにちょっとうるうるしております。
コメントのお返事もう少しお待ちください。遅くなっていてごめんなさい。
嬉しいので?じっくりお返事させていただきます(?)

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NEWS 2013/5/20 庭の守り神2/ 絵本【ギルガメシュ王シリーズ】 

タヌキ
今日はうちの庭のもう一人?一匹?の守り神、フクロウ君よりも『主(ぬし)』にふさわしいタヌキ君をご紹介いたします。
実家にやって来たのはもう40年以上前、そして我が家にやって来たのも10年以上前となりました、まさに主にふさわしい信楽タヌキ氏です。
で、なぜ新参者のフクロウ君に先を越されたかというと、芍薬の陰に隠れてすっかり見えなくなっていたのです。
すみません、私の手入れの悪さが……^^;
全貌をお見せできるのは芍薬の花が終わってからですね。
今は顔だけ、ちょっぴりご挨拶。

れもん
そしてこちらが、蕾だらけのレモンの木の一部。
もちろん、このすべてが実になるわけではありませんが……アーモンドの実よりも結実率は高いです。
いつかこれが、ブロ友・月子さんによってジャムになる日が来るんですね……\(^o^)/
楽しみ~~
さっそく101を播きました(って、私は101の回し者みたい……宣伝費はもらっていません^^;)

で、今日はネタもなかったので、いつか使おうと思ってファイルアップしてあった絵本をご紹介したいと思います。
というよりもですね、この絵本、一時生産されなかったのか、アマゾンで3倍の値段で取引されていたのです。
さっき確認したら出版社が再度刷ってくれたのでしょうか、ちゃんとまっとうな値段で普通に売っておりました。
1800円→1995円/冊とちょっと値上がりしていましたけれど……^^;
ギルガメシュ
ギルガメシュ
ギルガメシュ

10年弱前の本なのですが、絵が素敵で買ったのです。
【ギルガメシュ王ものがたり】【ギルガメシュ王のたたかい】【ギルガメシュ王さいごの旅】の3部作。
何でも持っている、強い王・ギルガメシュは、寂しい男だったのですが、その理由は友だちがいなかったから。
そのため気難しくなっていって、ありがちなことに暴君化。
なんて、いかにも子供向け絵本なのですが、闘いの中で得た親友・エンキドゥと共に怪物と戦ったとき、地上をかしずかせる力でも何でもくれてやるから夫になれと惑わす女神・イシュタールに、ギルガメシュがこう答えるシーンに至る頃には、すっかり虜に。

富や力で、我を惑わすのはやめよ。我は大いなる都を築いた。わが都と、人々をおいて、どこへ行くこともせぬ。人々は我を、我は人々を、愛しうやまっているのだ。我には友がある。わがために命をささげてくれる友が。他には何もいらぬ。

うーん、えぇ話や(涙目)。
でも、もちろん、絵本とはいえ、叙事詩のまんまなので、せっかく親友になったエンキドゥもその嫁のシャマトもあっさりと死んじゃったりするのですが……
彼らの死に衝撃を受けて、永遠の命を探し求めに旅に出るけれど、そんなものは手に入らない。
でも、ギルガメシュが作ったこの美しい都、人々にしてきた良いこと、それらの全てこそが君の永遠の命だ……と鳥になったエンキドゥに空から自分の都を見せてもらって教えられ、悟るラストなど、もう泣けてきちゃうのです。…って、単純すぎ?

でも、何ともドラマティックで、叙事詩にふさわしい格調高い絵にも魅かれて、何回読んだことでしょう。

うーん、結構単純な人間なんです。私……
若いころ、哲学書も難解な物語も、一人前になったつもりで読んでは議論をぶっていたけれど、結局頭には何も残っていないような気がする……でも、こういう単純に『綺麗な』物語はいつまでも心に残りますね。
【モチモチの木】【ごんぎつね】……etc.しかりです。

それにしても、なんであんなに高かったんだろう。人にプレゼントしようと思ってアマゾンを見たら、その時5800円/冊くらいで売っていたんですよ。
嵐の初回盤だって、いつもバカみたいな値段だし、これが資本主義と言ったらそれまでだけど、何だか腑に落ちない…(@_@)


ということで、今日は今からコメ辺させていただきます(^^)
ちょっとカミングアウトに疲れて?じゃなくて、月曜日の業務に疲れて、ほのぼの記事にしてみました(^^)



Category: 本(ご紹介・感想)

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[雨45] 第7章 父と子(3)/ カミングアウト? 

さて、今回お届けするエピソードは、一応、本編の流れの中で語られておりますが、独立したエピソードとしてもお読みいただけるものです。と言っても、ストーリー性のあるものではなく、単なるエピソードですし、人物の関係性を物語るものなので、ここだけ読んでも面白いというものではありません^^;
ただ少し、大和竹流の独白を聞いてやってくださいませ。
語りの相手は高遠賢二。父親を刺して少年院に入っていたのですが、出てきてから身元引受人になったのは家族ではなく大和竹流です。賢二は時々激昂する性質ではありますが、根は優しい奴です。
大海の言い訳・追記はお読みいただいてから、あとがきにて……





 その日、大和竹流は飲んで帰ってきて、やたらと上機嫌だった。酒が抜けるのがもったいないとか、わけのわからないことを言って、風呂にも入らないで、お土産に貰ったという青森県の日本酒を一人で飲んでいた。
 田酒。いい名前だろう。酒は米からできてるんだから、これは田んぼの賜物だ。
 賢二にそう説教しながら、自然と農家の人に感謝しながらお前も飲め、と言うので、真が未成年に何を言うんだと止めた。
 俺なんか十歳の時にはもう飲んでたぞ、と自慢げに竹流が言うのを、あんたの国とはわけが違うし遺伝学的にも肝臓の処理能力が違うと、真が強く否定する。

 一緒にここに住んでみて分かったことがある。
 この二人はこうして会話のテンポまでが微妙な距離を感じさせる。つまり、見ている周りの人間の目を引く。始めは大和竹流の外見が惹きつけているのかと思っていたが、どうやらそれだけではないのかもしれないと、賢二は思い始めていた。

「どこで飲んでたんだ」
「お祖父ちゃんがギャラリーに来てくれたんで、二人で飲みに行った」
 真が睨むように竹流を見た。
「ちょっと灯妙寺に用事があって来たんだって。気分良く飲んでたら、電車の時間になってしまって、帰ったよ」
 飛行機嫌いの真の祖父、長一郎はよほどでない限り、北海道から出てくるとき夜行を使ってくるという。
「何であんたがおじいちゃんと飲んでるんだ?」
「へぇ、わざわざ北海道から出てきて、実の孫を差し置いて俺と飲んでたのが気に入らないのか? そりゃあ、嫉妬だな」
 真が、態度はともかく祖父を尊敬しているのを知っているので、竹流はからかい口調で言ったようだった。賢二はその二人の様子を、やっぱり痴話喧嘩だなと思って見ていた。

 竹流は真に言われて、ようやく、しかし嫌々という顔で風呂に入りに行った。そして、風呂から上がってきた後、真が居間のソファで新聞を読んでいるのを見て、隣に座ったかと思うと、そのまま真の読んでいる新聞の存在を無視して、真の膝枕で寝転んだ。
 緩やかにカーブを描いて大きな乃の字のように並んでいるソファの反対側に座っていた賢二はびっくりした。まだ彼らと住み始めて一ヶ月も経たないときで、二人の遠慮のない距離感に慣れていなかったせいもあった。
「おい、何考えてるんだ」
「うるさい」
「向こうで寝ろよ」
「まだ怒ってるのか。お祖父ちゃんを独り占めしてて悪かったな」

 真の説明では、竹流と真の祖父長一郎は、二人ともが歴史好きで、語り始めたら止まらないのだという。長一郎夫婦が北海道から出てきて灯妙寺の離れを借りて住んでいた頃も、真の知らない間に、竹流は長一郎のところでしばしば飲み語っていたようだ。まるでどっちが本当の祖父と孫なのか分からないくらいだというし、実際に、真の叔父にあたる人が、長一郎は竹流のことをもう一人の息子か孫のように思っていると言っていたらしい。
 竹流曰く、その日は日露戦争から第二次世界大戦に至るまでの日本の世界情報収集能力について語り合っていたらしい。

「怒ってないからどけよ」
「賢がいるからって気にしてるのか」
「馬鹿言うな」
 賢二は突然話の矛先を向けられてどきどきした。
 だが結局酔っ払いは眠ってしまい、真は何だかんだと言いつつ竹流を押しのけようとはしなかった。賢二は風呂に入ってくると言ってそこを離れた。

 とは言え、風呂は二回目だった。と言うよりも、そのことに真が気が付かなかったことに、却って賢二は動揺した。まさか、やっぱり二人はできていて、自分が同居するようになったので困っているのではないかと思った。そういう気配は、思い返してみればあるような気もしたし、敢えて聞いたことはなかったが、赤の他人が一緒に住んでいるムードにしては親密だと思えた。
 仕方がないので賢二は洗面所側のドアからベランダに出てしばらく時間を潰し、結局五分ほどで台所側のドアから中に戻り、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。そこからはリビングは丸見えにはならないが、間に仕切りはないので、自分の部屋に移動する時に、不意に彼らの様子が目に入ってしまった。

 静かで何の音もなかった。
 新聞は畳まれてテーブルに投げ出してあった。
 そして、真は自分の膝で眠っている竹流の顔をただ黙って見つめていた。竹流は腕組みをしたまま顔を真の方に向けて眠っている。そのくすんだ金の髪は緩やかなライトの下で複雑な影を作っていた。

 真の手がふわっと持ち上がったように、賢二には見えた。
 数センチ先の現実を、空に浮いた手がなぞるように微かに動く。
 賢二は自分が唾を飲み込んだ音まで聞こえるのではないかと緊張した。
 賢二には空にとどまったままの指の僅かな震えが、たまらなくエロティックなものに見えた。
 結局、真は竹流の髪に触れることもなく、そのまま何もせず空で手を握った。その時、突然組んでいた腕を解いた竹流が、眠っていなかったのか、真の方へ手を差し伸ばしてその項を抱き寄せようとした、その瞬間に真は、竹流に触れるのを躊躇っていた手でその額を叩いた。

「ここで寝るな。風邪ひくぞ」
 竹流はそう言われて、結構な力で叩かれたらしい額を押さえながら、億劫そうに起き上がった。
 賢二は、知らないふりをするのもかえっておかしいと思い、お休みなさいと声を掛けて、ダイニングの方から反対の廊下へ出た。彼らの顔は見なかった。

 賢二を最も緊張させていたのは、割と開け広げな竹流の態度ではなく、真が黙って竹流を見つめていた、その表情だった。もしも竹流が目を開けて真の表情を見ていたら、と思うと、自分のことでもないのに緊張した。
 確かに、竹流が時々連れて行ってくれるクラブの女性たちも、みな艶やかで色っぽい。だが彼女たちと竹流との絡む様子を見ていても、こういう緊張感を覚えることはなかった。それは単なる性別の問題ではないような気がした。

 あるいは、こんなこともあった。
 少年院を出所したばかりの賢二には、定期的に保護司と名瀬弁護士に現状報告に行く義務があった。だがある時、何か事情があったのか、今回は身元引受人と一緒に来るようにという手紙を受け取った。しかし、賢二は忙しい『身元引受人』たちにそのことを言い出しかねていた。ただでさえ、縁もゆかりもないはずの自分を引き取ってくれているのだ。できるだけ迷惑をかけたくないという気持ちになるのも当然だった。
 その日は、福島の工事現場に出かけることになっていて、上野駅前集合は朝五時だった。四時に起きた賢二は、結局明け方に切羽詰って彼らの寝室をノックした。もしも黙っていたら最終的に困るのが彼らであるということを、さすがに賢二も学んでいたからだった。

 真は前の晩、遅くなるといって一緒に食事をしなかった。早くに寝てしまった賢二は、真が戻っているのかどうかも知らなかった。
 入れ、という声は竹流のものだった。
 賢二が寝室の扉を開けたとき、竹流はベッドで上半身を起こし、いつもの穏やかな声で、どうした、と尋ねた。
 フロアライトの緩やかな灯りで、部屋の様子は、暗いリビングよりもはっきりと目に入ってきた。賢二の目には、竹流のすぐ傍で、彼に抱きつくように真が布団に潜り込んで眠っているように見えた。
 促されて事情を話すと、竹流は手紙を読むと言って、サイドテーブルの明かりを灯した。
 ちょっと動けないから持って来い、と言われベッドサイドまで行ったが、どきどきして手が震えた。竹流は手紙を通してそれを感じただろうに、何も言わなかった。

「真、起きれるか? 大体お前、いつ帰ってきたんだ」
 手紙を読んでから、竹流は傍の真に声を掛けたが、もちろん賢二がそこにいることなど知らないはずの真は、珍しく爆睡していたようで、眠りを遮られたことに抵抗するように竹流の身体に腕を回してさらに強く抱きついた。……少なくとも賢二にはそう見えた。
「賢二が、話があるそうだぞ」

 それで初めて真は起き上がり、一瞬賢二を見て驚いたような顔をし、それからはいつもの真だった。黙って手紙を読み、俺が行こうかと言う竹流に、いや、自分が行くと答えていた。賢二は真がちゃんと服を着ていることに妙に安心する一方で、寝乱れた寝巻きの襟元から覗く首筋の筋肉の様子、鎖骨の張りに緊張した。

 それからしばらくの間、賢二は自分が真に対してよからぬ欲情を抱いているのではないかと思って、自分でパニックになっていた。
 少なくとも外で見る真は、冷静で大声で騒ぎ立てることもなく、賢二の目から見る限り、色恋沙汰には嵌まり込まないタイプに見えていた。少々の出来事には驚きもせず、あまり真正面から相手を睨み付けるようなこともしない。ただし、相手の話を、軽口ひとつも挟まず黙って聞く気配は、いかにも信用が置けそうだからか、クライアントたちは心の内をほとんど包み隠さず真に打ち明けているように見える。これは水商売の店では大正解で、本来なら客の話を聞く立場のホステスやホストたちが、逆に真に話を聞いてもらいたがるのだ。
 そういう姿にも、ある意味嫉妬を覚える時があった。真が誰か他の人間を気に掛け、心配し、真剣に話を聞いている様子が、時々賢二には気に食わない時があるのだ。
 それでも、その落ち着いた姿には特別『そそる』ような何かがあるようには思わない。

 だが、大和竹流のマンションで見る真は、全く別の側面をしばしば見せつける。真は時々完全に無防備で、時々無遠慮に相手を挑発しているのではないかと思えるような態度をとるのだ。ほんのたまに、明らかに相手を誘っているような目つきで竹流を見るような気がして、賢二はたまらくなって自分の部屋に逃げ出したこともある。
 竹流が面白がって買ってくれるエロ雑誌などオカズにしなくても、そういう日はあの目を思い出すだけで簡単に昇り詰めることができたし、その満足感は欲望を吐き出した後までも背中を登ってくるような気がした。
 竹流はそういう真の態度に慣れているのか、あっさりと受け流しているが、たまにはからかうように竹流のほうが真を引き寄せる。そうすると、真は言葉だけは怒って、相手をかわしている。
 できの悪い飼い猫みたいだろう、と竹流が言ったことがある。

 そんなことが色々あったので、ある時、竹流がオーナーをしているバーで飲んでいるとき、思わず聞いたのだ。
 ちなみに、賢二は未成年で、竹流は一応賢二の立場を考えて、自分の店であることをいいことにして控えめのアルコールを出してくれたようだが、そもそも根本的に二十歳未満の飲酒が何故いけないのかあまり分かっていない様子だった。

「先生をどうしようとしてるんだ」
 竹流は賢二を穏やかな表情で見ていた。
「どうって、セックスをする関係かどうか聞いているのか」
 あまりにもあっさりと核心を問い返されたので、賢二はたじろいでしまった。竹流は余裕のある笑みを見せる。
「セックスはしないことにしている」
 淡々と答えられると、そもそも性別の問題があることを忘れてしまいそうだった。

「でも先生は、どう思ってるんだよ」
 竹流は賢二が何を言っているのか、ちゃんと分かっているようだった。それどころか、賢二がたまに真をどういう目で見ているかも知っているような気がした。
「あいつが俺にしがみつくのは全くの無意識だ。色っぽい事情などない。動物の子どもが何かにひっついていると安心するのと同じだよ」
「じゃあ、あんたは?」
 喉の奥で何かが引っ掛かっている気がした。竹流は例の如く、女を簡単に落としてしまう極上の笑みを、賢二にも見せた。
「賢、他人を愛して身体を求めて、その先に何があると思う? 例えばお前が好きで好きでたまらない女がいて、相手に何を望む?」

 この男は、女をこうやって見つめるだけでその気にさせてしまうのだろう。その目には、極めて親密で個人的な興味を相手に抱いていると誤解させる、豊かな感情が溢れているように見える。
 賢二は竹流を見つめて、しばらくしてやっと口を開いた。
「そりゃあ、抱きたい、と思うかな」
 言ってからよからぬ想像を打ち消さなければならなかった。
「その女と、例えば百回寝たとする。それでも相手を好きでたまらない。じゃあ、どうなる?」
「え?」

 何を聞かれているのか分からなくて、賢二は聞き返した。
「セックスにも満足している、その人との会話にも一緒にいるそのことにも満たされている、けれどもその先はどうなるんだろうな。女性と話して、食事を振舞って、最上級のデザートと酒を楽しんでもらう、そのことが男を楽しませるのは、その先のベッドの上の事を思うからだ。だが、ベッドに入ってすっかり満足して、さらにその先を求めたら、何があるんだろうな」
 一言一言が、色々な想像を呼び起こした。
「俺、あなたが女性を口説いてるのを見てても、そんな先の事考えているようには見えないけど」

 本当は気になっていることは別のことだった。それでも、賢二はとにかく当たり障りのないことを口にした。竹流はブランディを口に含みながら、賢二の顔をまともに見て、また例の極上の笑みを見せた。
「女はいいものだ。可愛いくてただ本当に愛おしく思う。ベッドの上でもいくらでもいい気分にさせてやりたいと思う。女たちがいるから、男の感情も欲望も納まり所がある。だが、俺はどうやら相手にそれ以上、その先を求めていないかもしれないと、そう思うことがある」

 賢二は、今度は黙って相手を見つめていた。この人は珍しく酔っているんだろうか、それともしらふなんだろうか、と考えたが、その目を見ていてもわからない。
 竹流は賢二の顔を見て、それから懐かしそうに話し始めた。

「初めて会ったとき、あいつはまだ小学生だった。生意気で、人間社会に適応する術も持たず、ただ牙を剥いて相手を威嚇することしかできない、気の弱い野生の生き物のようだった。日本語も不自由してるし、こいつは馬鹿なんじゃないかと思ったよ。外国人の俺のほうが、よほどまともな日本語を知っているくらいだったからな。しかも学校で苛めにあってるのか何だか知らないが、一人前に登校拒否だし、ようやく行ったかと思ったら、ひっくり返って保健室で寝てるとかで、俺はあいつの父親の代わりに何度も学校に迎えに行った。時には学校から逃げ出して行方不明になってるし、腹が立って、何度も怒鳴ってやった。あいつの親父さんは恩人だったし、頼まれて断れなかったし、学校に行けないというので随分あいつの勉強の面倒も見てやった。日本の学校の教科書は面白そうではなかったし、俺も腹が立ってたんだろうな、歴史も古典も数学も科学も、とにかく吐き気がするだろうなと思うほど詰め込んでやった。あいつが理解しているかどうかなど気に掛けたこともなかった。だけど、ある時天文学を教えてて、俺が言ったことに対してあいつが何か反論したんだ」

 竹流はまた微笑むように賢二を見た。
「滅多に質問もしてこないのに、あまりにもその問いが核心をついていて、俺としたことが、狼狽えてしまった。それからは俺も教えるのを楽しんでたんだろうな。親父さんが失踪してからは、勉強だけではなく、喧嘩の仕方も護身術も、ついでに言うと相手の息の根を止める方法も、みんな教えた。あいつが妹を守りたいと言ったからだ」
 賢二はこの男が冗談でもなんでもなく、極めて真剣な話をしていることを感じ、その言葉の一つ一つを聞き漏らさないようにと思った。そして、自分が今までこんなにも真剣に誰かの話を聞いたことがあったろうかと考えた。

「後から、俺のその恩人は真の本当の父親ではないことを知った。真は自分の父親が誰だか知っているし、その人が自分をまだ赤ん坊のときに捨てていったことも知っている。生みの母親も同じだ。勿論、彼らが若くて、事情があって子どもを育てられなかったのは頭では分かっているだろうが、赤ん坊にとってはそんな事情は飲み込めない。お祖父さんが育ててくれたことにあいつはとても感謝しているし、彼を心から尊敬しているけれど、それでも親じゃない。俺の恩人は、あいつと血のつながりのある伯父だったが、色々複雑な事情と感情の中で真を育てていたようだし、あいつがあの幾らか日本人離れした外見も手伝って、子どもの頃から苛められて、でも自分を愛してくれる周りの大人たちを失望させたくないと思うばかりに、彼らの顔色を窺って生きてきたのだとしたら、それはそれで辛かったのかもしれない。それでも俺にはあいつの気持ちの全部は納得がいかなかったけれど」

 それから竹流は賢二を見て問いかけた。
「賢、お前、あいつが完全に無防備に笑ってるのを見たことがあるか?」
「え? ない、かな」
 竹流の手がカウンターの上のブランディグラスを揺らせた。綺麗で無駄のない手に、心地のいい照明が曖昧な濃淡の影を作っていた。

「この俺も、今まで二度ばかりしか見たことがないんだ。一度は、親父さんと一緒に北海道の牧場に連れて行ってもらった時のことだ。あの頃、あいつはほんとに可愛げのない、ほとんど口もきかない子どもで、北海道に着いて迎えのトラックで牧場に入ったときから外ばかり見ていて、ある馬を見かけると途中で車を止めさせて走り去っていった。あいつの叔父さんが、夜まで帰ってこないと言ったが、案の定夕食の時間になっても帰って来なかったよ。別に気にしていたつもりはなかったんだけど、それでも少しは心配していたのかもしれない。何となく寝付けなくて、何かに誘われたような気がして外に出た」

 この店には音楽も、騒がしい会話もない。上手く配置されたテーブルや椅子の向き、オブジェや植物のおかげで、隣の席の会話さえほとんど聞こえない。それでも、賢二は誰かが、この男が打ち明けようとする秘密を聞きとがめたりしないかと緊張していた。
 だが、竹流は、いつもならよく通るハイバリトンの声を荒げることもなく、穏やかな声のまま淡々と続けた。
 彼の声こそが音楽のように柔らかく空気を振動させていた。

「牧場はもう真っ暗闇で、何も見えないのに、自分の身体だけが浮き上がっていた。そこから命の温度がふわふわと湧き上がって天に昇っていくように思えて、見上げると、頭の上に広がっているのは魂ごと吸い上げられそうな宇宙だった。天然の満天のプラネタリウムだ。星明りとはこれほどに美しく明るいものなのかと思ったよ。目を閉じると自分以外にも命のざわめくような気配がある。牧場には十匹近い樺太犬の雑種やらハスキーが飼われてたんだが、ふと気が付くとその犬たちが群れになって走っていくんだ。あいつが帰ってきたことに犬たちはすぐに気が付いて、嬉しそうにじゃれ付いていた。あいつは、弘志兄ちゃんに怒られるからだめだ、って楽しそうな声で彼らを窘めながら声を出して笑ってたよ。俺に気が付いて途中で凍りついてたけどな」

 賢二はぼんやりとその光景を想像していた。
 真が賢二に、彼自身の過去を話したことはなかった。少年院上がりの賢二に自分の辛い過去を話して、俺もお前の気持ちが分かるよ、とでも言ってきてもよさそうだが、そういうことは一切なかった。もしも簡単にそんな言葉を投げかけられていたら、賢二は反抗していたに違いない。

「二度目は、あいつの大学受験が終わって、約束どおりイタリアに連れて行った時だった。色々あって、あの時はハネムーンみたいでな」
「ハネムーン?」
 その表現は何なんだ、と賢二は思った。竹流は賢二の心を見透かすように、まるではるか年下のライバルを蹴落とすような極上の笑みをまた浮かべる。

「まさに蜜月だったんだよ。セックスをするかどうかという問題ではなく、気持ちが完全に重なっていると誤解しきれる状態だったんだ。何てことはない、ピサの斜塔見て、あいつ、妙にはしゃいでて」
 まるで何かを思い出すように、竹流の顔は穏やかで幸せそうに見えた。
「それって、まさかと思うけど、傾いてたから?」

「そうなんだろうな。何回もぐるりを歩いて、上に昇ってから、俺が解説してやっているのを聞いてもいない。何も言わないのにひたすら傾いてるって顔中に書いてあったみたいだった。翌朝、ホテルで目を覚ました時も、あいつはもう起きていて窓から斜塔を見ているんだ。両脇に古い建物が並ぶ通りの先に、真っ白に輝く塔が、向こうからもこっちを覗くように傾いていた。あいつは傍に行った俺を見上げて、本当に僅かに微笑んで、塔のある街の景色がこんなに綺麗だなんて思わなかった、と言って、少しだけ俺に身を寄せるようにした。いや、俺のほうが抱き締めたかったのかもしれない。あぁ、こいつがいつもこれくらい感情のある顔をしてくれていたらって、そう思った。その旅行の間、あいつは笑っていなくても妙に素直で、俺は愛おしくてもう一歩で狂うんじゃないかと思うほど幸せな気分だった」

 一旦言葉を切ったとき、竹流は一瞬表情を変えた。賢二はもうグラスに手を掛けることさえしていなかった。
「だがそれはローマに帰るまでのことだった。ローマで、俺は自分の事でいっぱいで、自分の感情を持っていく先を他に見つけられなかった。あいつにさんざん暴力をふるって、嫌がることは何だってしたような気がする。殴りもしたし、思いつく限りの酷い言葉を投げつけて、嫌がるあいつに男との情事を細々と喋らせた。あいつは一切逆らわなかった。それが余計に腹立たしくて、酒を浴びるほど飲んでは、ボロボロになるまであいつをまた殴った。それどころか、挙句に扁桃腺を腫らせて寝込んでいたあいつを放り出して、逃げ出してしまった。女を抱いて、悪友たちと飲んでカードをしながら何日も過ごした。何日もたって、ふと、煙の向こうであいつがこっちを見ている気がしたんだ。いや、俺を見ていたのは実は馬の目だったのかな。北海道にはあいつを守っている化け物みたいな馬がいてな、もう死んでしまったけど、あの馬はいつでも俺を見張っているんだよ。誓いを違えたら許さないという黒い眼で俺を見る。たまらなくなって屋敷に戻り、まだ寝込んでいたあいつを連れてアッシジに逃げた。それなのに、あいつは」

 竹流は何か言いかけてそれを留めた。多分に酔っ払っているように見えていたが、最後の一線は踏みとどまった、そういう感じだった。
「お前に教えてやりたいけど、言えないな。俺はそのときアッシジの丘の上で、あいつから極上の告白を聞いたように思った。内容は不器用だったし、他の誰かが聞いても意味を解することはないだろうが、俺はそれまでも、今までだって、どんな女からもそれほど俺を有り難い幸福な気分にさせる、いや、心だけでなく身体まで昂ぶらせるような言葉を聞いたことがない。その夜、あいつを抱いたのが最後だ。以後、一切手を出していない」

 賢二は急に大変なことを聞いて、手元のグラスを倒しそうになった。
「あいつとセックスをするような関係にあったのは、たった一ヶ月ほどの間のことだ。それも七年も前の話で、大体ほんのちょっと箍が外れただけのことだった」
 賢二は心臓が口から出てきそうに思った。竹流は賢二を本当に弟分のように大事にしてくれていた。だからこそ話しても構わないと思ったのだろうが、やはり酔っ払っていただけなのかもしれない。

「その先に、何があるか考えたから?」
 竹流はあの深い青灰色の瞳で賢二を見つめた。男が見つめられても誤解しそうなほどの、魅力的で個人的な親近感を感じさせる瞳の色だった。
「いや、そういうつもりではなかったんだが、ただ、この手で叩き壊してしまいそうに思った。幸福で満たされていたのに、自分の本性も見てしまった気がした。俺はいつだってあいつの首を絞めることができるし、多分、俺が本当にあいつの首を絞めても、あいつが俺に逆らわないという自信がある。なぁ、賢、あいつは俺がしょっちゅう怒鳴りつけていた時だって、思い返してみれば一度も俺に逆らったことはない」

 内容とは裏腹の穏やかな声で竹流がそう言うので、賢二は思わず呟くように呼びかけた。
「大和さん」
「俺はいつだってあいつは俺のものだと思っている。どこかで、誰にも渡す気はないと、そう思っている。本当は今でも毎晩のように欲情しているし、毎晩それに耐える地獄を味わっている。耐えているのはあいつのためなんかじゃないし、寛容で優しい気持ちなど欠片もない。賢、これが愛するということの正体だと言っているわけじゃない。俺にも分からないんだ」






……すみません。アップしただけで何だか疲れてしまいました…^^;
以下、畳みます。
いつものコラムは1回休み。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨44] 第7章 父と子(2) 

第7章(2)をお届けいたします。
さすがにこれだけ長いと真視点だけでは話が平たんになるので、時々他の視点が混ざりますが、その中で最も多いのが美和視点。書くほうとしては大変書きやすい視点ですが、この子には語り部としての役割があるし、インタビュワーの才能もあるし、ちょっとミーハーだし??(って表現が古すぎでしょうか)
でも、後半にむけては彼女も色々と悩みが出てきます。
しばらく、お茶目でちょっと乙女で、そして(慣れない朝ごはんを作ろうと)頑張っている美和の視点をお楽しみください。煮られてくたっとなっているワカメの気持ちで…??





 朝まで、眠ったのかどうかも分からなかった。
 真は例の如く朝になると冷静で、美和が朝食の用意をする横で、茶を淹れていた。美和は味噌汁を手渡しながら、真の顔を見た。
 昨夜は眠れなかった。多分真も眠っていないと思った。けれどもそのことを話題にするのも憚られた。真の表情には、美和の問いかけも慰めも拒否するような静けさだけが、風の流れも水の音も消えてしまった風景画のように凪いで、貼り付いているだけだった。

「今日は大学に行くだろう?」
 真のほうから美和に尋ねてきた。美和は言葉の中身がよく分からないままに、とにかく頷いた。
 朝は面倒なのでいつもパン食だった。北条仁もそんなことはとやかく言わない。それなのに私は何をいそいそと朝から味噌汁なんか作っているのだろうと思った。
 高遠賢二が以前ここに居候していた時、朝からちゃんと米を炊いてくれて、しっかり味噌汁もついて、おかずも五品は並んでいると言っていたので、多分対抗意識なのだろう。 

『それが朝から飯が美味くてさ、今日も頑張ろうって気になるわ。先生も大和さんも朝は結構強くてさ、先生なんか朝、時々どっかの寺まで稽古に行ってるし、俺も何回かつき合わされたけど、たまにはその寺で朝飯、食べさせてもらったりさ。寺の朝飯ってのが、これがまた美味いんだよ。なんか、人がたくさんいてさ』
 賢二がその寺で食べる朝食をおいしいと思うのには、食卓につく人数の問題もあるのだろうが、それにしても毎朝、幸せなご飯にありついている真に、この味噌汁でいいのかどうかと思うと、浮かんでいるわかめにも申し訳ない気がした。そもそも台所には、料亭並みの道具と調味料が揃っていて、その半分くらいは使い方が分からないし、残りの半分も、美和がこれまでに使ったことのないものだった。

 だいたい、どう対抗心を燃やしても、真の同居人が作るものより美味しい味噌汁というのは無理だ。開き直って、わかめには諦めてもらうことにした。
 真は、美味しいとも不味いとも言わなかったが、嫌な顔もせずに淡々と食べてくれた。この人は綺麗な箸の使い方をするな、と手元を見ながら改めて思った。美和も、一応は山口県ではそれなりの家で育ったこともあり、箸の使い方については祖父母が異様にうるさかった。だから他人の箸の使い方が妙に気になる。箸がまともに使えない男とは生活を共にできないと思ってしまう。そういう意味では、北条仁はヤクザだが、全く問題がなかった。

 真が伸びきったわかめを箸でつかんで、一瞬、妙な顔をしたように思った。
「煮ちゃった」
 美和が言うと、真は何を言われたのか分からないような顔になって、それから納得したように、くたくたに変色したわかめを口に入れた。

 大学まで真が車で送ってくれる。
それを見咎めた友人が声を掛けてきた。友人、と言ってもとても親しいというわけではない。ノートの貸し借りはするが、大学以外のところでの付き合いはないし、そういう付き合いは美和のほうが敢えてしようとは思っていなかった。
 人数合わせの合コンには何度か誘われたが、特別に面白いと思ったことはなかった。そんなところに行かなくても、美和の周囲の人間たちは十分面白い人間たちで、合コンに来る男たちは、美和の中ではランクが低くなっている。恋人を探すためなら行く必要はなかったし、せいぜい学校の授業の人物観察に役立つ程度だった。

「いつもの彼氏はどうしたの?」
 大学の友人たちは『いつもの彼氏』、つまり北条仁がヤクザであることは知らない。ちょっとくらいは危ない感じに見えていても、仁は傍目には、若くして財を成した事業家と言っても、誰も疑ったりはしない外見だった。
「今、バンコク。あの人はバイト先の上司」
「朝帰り?」
 そうか、そういうことになるな、と改めて思った。
「柏木さんもやるわね。ちょっといい男だったじゃない?」

 そりゃそうよ、私が今本気で惚れてるんだから。
 心の中でそう思ってから、そうなのだ、と自分の気持ちに気が付いた。
「独身? 彼氏じゃないなら紹介してよ」
 美和は何だか落ち着かない気分になった。自分の気持ちの中に不可解な違和感がある。
 本気で惚れている。誰かの目に触れさせたいなどとは思わない。
 確かにそう思うのに、本気で惚れるわけがない、そういうわけにはいかない、とも思う。しかも、それが美和自身の感情なのか、他の誰かの感情なのか、糸が絡み合ってしまって、わけが分からない。
「駄目よ。恋人がいるから」

 講義中も落ち着かない気持ちは続いていて、結局二講目は諦めた。
 大学門を出ようとすると、青い車にクラクションを鳴らされる。
「添島刑事」
 思わず呟くと、添島刑事は乗りなさい、と言うように助手席のドアを開けてくれた。
「事務所へ行ったら所長は出掛けてるし、秘書は大学だって言うし」
 車を走らせてから最初の信号で止まり、ようやく添島刑事は言った。美和はその言葉の尻尾に噛みつくように、声を被せた。
「何か御用ですか」

 昨日の電話から敵対する気持ちだけではなくなっていたが、警察という職種に対してはどうしても警戒心を抱いてしまう。考えてみれば私は極道の女なわけだし、と美和は自分で納得した。
「昨日、おたくの所長と話していて、彼がやたらと引っかかっていたから、気になったの。もしかして彼、新潟に行く気になったんじゃないかしら、と思って」
「新潟?」
「絵の事でね」
 不意に、昨日丁度この刑事の電話で中断された本の最後のページを思い出した。
「まさか、贋作」
「彼から聞いたの?」
 美和はえ? と思った。本当にあの記事の事なのか。贋作と新潟。そうそう重なるキーワードとは思えない。
「いえ、年譜みたいなやつで。でもそれがどうかしたんですか」

 青信号になったので、添島刑事はアクセルを踏んだ。発進はまるで暴走族のレディースのような潔さで、美和は驚いた。
「詳しいことは彼から聞きなさい。それから、あなたもついていってあげた方がいいわね」
「私?」
「今あの人、一人で放っておけないでしょ」
 美和は逆らうこともできず頷いた。
「彼を、好きになってしまった?」
 あっさり言われてどきどきした。

 やはりこれは恋なのかもしれない。
 尋ねた添島刑事の声は、美和の想像をはるかに超えて優しかった。考えてみれば、あの大和竹流が恋人にしている女だ。真と違って、女の趣味がいい男が選んだ女なのだ。
「……そうかもしれません」
「大変よ」
 美和は思わず運転する添島刑事の横顔を見つめた。
「刑事さんもそう思います?」
「えぇ」
 美和は何故かほっとした。

「初めて寝たときはそう思わなかったけど、昨日分かっちゃったんです。あの人を好きになるのは簡単だけど、好きでい続けようと思ったら、壁が立ちはだかってるっていうのか」
「随分大きい壁でしょうね」
 美和は急にこの刑事に親近感を覚えた。大学の友人たちよりよほど私の気持ちが分かる人だわ、と思った。
「分かります?」
「分かるわよ。その壁ときたら、温かく見守っているつもりで、外敵を蹴飛ばしてるものね」

「私は外敵かぁ」
 思わず本心から呟いた。添島刑事は声に出して笑った。
「いざそういう思いで見ると、彼の周りにはぐるりに高い壁が張り巡らされている。彼を好きでい続けようと思ったら、その壁を崩さないといけない、もしくはずっとその壁と付き合っていかないとならないものね。あなたは壁の向こうの人と愛し合わなければならない」
 美和はほっと息をついた。
「刑事さんって、大家さんの恋人……でしょ」
「生憎ね。向こうはそう思ってるのかどうか、ベッドの相手とは思っているでしょうけど」
 美和は少しの間黙っていた。そういう関係は大人びてかっこよく聞こえるが、ひどく寂しく感じた。自分はとても北条仁が言うような境地には立てない。

「それでいいんですか」
「何? 寝るだけの関係ってことが?」
「えぇ、その……」
 美和は言葉を継げなかった。
「それでいいのよ。ベッドの上でだけは二人きりで、あの人は私のことをちゃんと見てくれているし愛してくれるから。残念ながら、それ以外の彼を求めるのは無理だけど、それ以上のものを求めることのできない相手と分かって恋をしたわ」
 美和は溜息をこぼした。
「先生はいつもどこか遠くを見てる。ベッドの上でだって」
 暫く添島刑事は何も言わなかった。美和も自分が何を言いたいのかわからなくなった。
「それで、北条仁とは別れるつもり?」

 美和は返事をしなかった。
 不意にそう尋ねられて、そんなことを考えてもいなかった自分に改めて驚く。浮気をしたのに、元の彼と別れることなど思いもしない。自分だけはイマドキの女の子みたいなことをしないと思ってきたが、案外そうでもないのかもしれない。
 別れ際に添島刑事は大きな茶封筒と新潟までの切符を二枚渡してくれた。
「新潟に行ったら、弥彦に寄ってこの人を訪ねなさい。絵画には詳しいし、その贋作の鑑定をした一人だから。切符は私からのお餞別。車は置いていきなさいって伝えて」


 美和が事務所に入ると、宝田と賢二が神妙な顔で話をしていた。美和の顔を見ると、二人とも多少緊張し、それから宝田が美和に話しかけた。
「お帰りなさい。先生はまだ名瀬先生のところっすよ」
「うん」
 美和が気のない返事をすると、二人とも心配げに美和を見つめた。美和はそれに気が付いて、気を取り直して努めて明るく言った。
「明日からちょっと新潟に行ってくるから、先生と一緒に。だからちょっとの間お願いね」
「え? じゃあ、その、婚前何とかって言う……」

 言葉の使い方が間違っていると美和は思った。
「馬鹿。仕事よ」
 宝田が賢二と顔を見合わせて、それから美和の前にやって来た。幾分躊躇ってから、勢いをつけて言う。
「美和さん、先生はまだあの女と別れてないんですぜ」
「知ってるわよ。私だって仁さんと別れたわけじゃないもの。それに、そんな簡単な話じゃないの」
 宝田はまた賢二を見る。賢二は少し肩をすくめたが、あまり積極的に会話に参加したくはない、という風情で目を逸らした。仕方ないという顔をして、宝田が先を続ける。
「美和さん、俺、やっぱり無理やと思いやす」
「何の話?」
「先生には、その」

 美和は宝田と賢二の顔を交互に見た。全く、本当に二人とも、大学の友人よりよほど私の気持ちが分かるんだから、と思った。
「さぶちゃんは先生の想い人が誰だと思ってるわけ?」
 美和は、まともな学歴もなく、性格もはっきしりたところのない宝田が、かなりできの悪い男だろうという気持ちがないわけでもなかったが、時々宝田が見せる究極の突っ込みにたじろぐこともあった。
 北条仁との事もそうだった。
 美和が、他の男と寝てもいいって言われてるんだと冗談交じりに言った時、宝田は、でも美和さんはそうしたいんすか、と平然と聞いてきた。宝田相手なら、緊張したり言葉を繕ったりしなくてもいいのだと気楽に話しかけてきたが、相手が思ったよりも鋭い返事をすることで、その存在を改めて感じさせられる、宝田にはそういうところがあった。

「美和さん、その、相手が悪いっす」
 宝田は賢二に助けてくれという目配せをしたように見えた。
「私、大家さんに対抗しようなんて思ってないから」
 言い出しかねるというような宝田の気配に、ちょっとむっとして美和は言った。
 だいたい私には、ヤクザとはいえ、一応男がいるのだ。しかも何だってこんなに真面目な顔で、ちょっと寝ただけの男のことで、しかもその男の想い人が男だという話を聞かされなきゃならないのだ。
 そう思うとむかむかしてきたが、賢二の視線にぶつかると、急に頭の中が冷めた。

 賢二がちょっと心配そうに宝田を見た。その目の表情を読み取って、美和は二人が何かを話し合ってたんだな、と思って開き直った。
「それにね、大体何よ、二人ともモジモジしちゃって。私は確かに先生と寝たけど、仁さんが他の男と寝てみろって言うから、試しにそうしただけ。別に何とも思ってないから」

 実際には、言葉にしてしまうと急に悲しくなった。言葉の途中から涙が目の奥で熱くなるのを感じる。意外にも鋭い感性を持っている宝田にも賢二にも、気が付かれていないとは思わなかったが、ここで泣いてしまうのは癪だった。
「二人でそんな噂話をしてたわけ?」
「いや、その、賢二が一緒に住んでたときの話をしてて」
 宝田はその大きな体に似合わないモジモジとした態度のまま、改めて賢二の方に助け舟を求めた。

 確かに賢二は半年ばかりあのマンションに、真と竹流と一緒に住んでいた。少し考えてみたら、ずいぶん興味深い話なのだ。
 それに、涙を堪えたのを、たとえ知られているのだとしても誤魔化したくて、美和は強気に言った。
「へぇ、何の話? 私にも聞かせないさいよ」
 賢二は急に話を振られたからか、困った顔をした。
「いや、単に大和さんが言ってたことを思い出しただけだから」
「大家さんが、何て?」

 美和は何でも来い、という気分になっていた。
 本当は、今更だが、真のことならば何でも知っておきたいと思っていた。所長と秘書という関係も、年上の知り合いからまるで兄妹みたいと言われる関係も、悪くはない。だが、肌を合わせた仲ともなれば、その行きつく先が恋人という関係に落ち着かなくても、少しだけ入り込んで相手を知ってもいいはずだ。
 いや、深く知れば、初恋のようなこの不可解な不安定さやもどかしさから逃れられるに違いない。
 それとも、もっと苦しくなるものだろうか。

「あの人、よく俺の事連れ廻してくれてさ、先生は、その、女遊びに俺を連れて行ってくれたりなんかしないし、でもあの人はいい遊びから悪い遊びまで一通り教えてくれた。判断するのはお前で、そのためには多くのことを知っていたほうがいいって。それで、俺、先生にもそういうこと教えたのかって聞いたんだ」
 今年の始めに成人式の話をしていたから、賢二は美和よりひとつ年下のはずだった。背が高くて上から見下ろされている感じが少し癪に障るのだが、賢二自身は童顔で、普段は大人しい。ただ、気持ちを溜め込んでしまって、表に出る時に賢明な方法を取れなかったからこそ、父親を刺すという行動に出てしまったのだろう。それは賢二の幼少期の家庭環境によるものだが、賢二自身は真と一緒にいるようになって、少しずつ、自分の感じ方や行動を修正しようとしているように見えた。

 賢二は言葉を選びながら、美和の顔を確かめながら、話をしていたが、一旦間を置くと、次の言葉がなかなか出てこなかったようだった。
「それで?」
 それでも美和が強い言葉で聞きただすと、思ったよりもするりと答えた。
「いや、先生を女遊びするようなところに連れて行ったことはないって。あの人の遊び方見てて、絶対ホモでもバイでもないって思ったからさ、じゃあ、先生は何なんだって聞いたら、あの人、真顔で言ったんだ。賢、人を愛して身体を求めたらその先にあるのは何だと思う、って」
 美和はその言葉の意味を考えた。
「俺にも分からないんだって言ってたよ。俺、この人にも分からないことがあるんだ、ってその時は感心しただけだったんだけど」
 賢二はちょっと躊躇って、多分全てではないのだろうが、自分が竹流から聞いたことを美和に話してくれた。





さて、今回は特別に次回予告です。
高遠賢二。実は大手の会社の取締役の息子。父親からは暴力を受けて育っていて、父親の絶対支配下にある家の中では誰も味方がいなかった。で、思い余って父親を刺したため少年院に入っていたのですが、出てきたときにも家に帰ることを拒否。あれこれあって、竹流のマンションに預かられていたことがありました。
竹流にとってはもう一人の可愛い弟分。
で、つい、口が滑ったようです。
次回、竹流が高遠賢二に語ります。半分耳塞いで、聞いていただいたほうがいいかもしれません…^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/5/18 朝ごはんブログに再チャレンジ!/今朝の花 

朝ごはん
トマトにブロッコリー、昨夜の焼き鳥の残り、ヒジキ、そしてお焦げ付きの筍ごはんおにぎり。
筍ごはんは毎年、実家近くの村の人がくれる筍で作られます(by母…大海ではない^^;)。
デザートはヨーグルトにダイダイの皮のシロップ漬け(母手作り)。
もちろん、ブログのお友だち・夕さんとお揃いのマグカップで珈琲。
(まるで一緒に買いに行ったみたいですね^^; 偶然です。しまうま模様のカップ。夕さんのはカップ&ソーサー)
あ、くれぐれも誤解しないでくださいね。毎日、こんなにちゃんと朝ご飯作っておりません^^;
っても、頑張ってこの程度、という声もあるかと……^^;^^;

今朝の珈琲はブラジルフレンチ。
苦みと深みのある、比較的正当な味わいの珈琲。
総じて酸っぱいコーヒーが苦手は私は、苦みのある豆のほうが好きです。
それを煎りの深さと豆のひき具合であれこれ変えてみて、好みの味わいを探しながら飲んでいるのですが…
正直、日によっても舌の具合が違うので、よく分かりません…^^;


筍で思い出しましたが、津軽で、竹というより笹の筍を取って食べるんですが、小指の先くらいなので、小さくてなかなか見つけにくいそうで、笹が茂っている中へ入って足元を見ている人たちがいると、友人(津軽人)が、
「ささのまいっこ、探してる」と。
ささのまいっこ??
まいっこ、というのは子どものことなんです。
もう、この、『まいっこ』が気に入って、あちこちで使いたがる大海です。
もちろん、ただ今連載中の【死者の恋】にもさっそく使いました(まだそのシーンはブログに載っておりませんが)。


さて、我が家の今朝の庭コーナーです(*^_^*)
ひおうぎ
ひおうぎ
ヒオウギもずいぶん咲きそろいました。
そして、さらに、開き始めたピンクの芍薬のお蔭で、庭の印象はピンク!
芍薬、薔薇(ピエール・ドゥ・ロンサーヌ)、ミニバラ…
芍薬の白はいつも少し遅れて咲きます。
ミニバラ
朝日で輝くような色…のはずが、私の写真がまずくて、自分でもがっかりの芍薬。
しゃくやく

そして…今では大木になってしまったレモン。
今は蕾が膨らみまくっています。
毎年、山のようにとれるレモンでケーキを焼きます……とか言ってみたい。
焼く時もある、程度。大概は魚の添え物になるだけです^^;
レモン

そしてこれ。何だかわかりますでしょうか。
アスパラ
恥ずかしながら、放置されたアスパラガスの花です。
いえ、もうタイミングを外すと、木のように大きくなり、こんな姿に……^^;
でも結構綺麗だったりもするんですよね。
そう言えば、昔、放置した野菜シリーズ……花は結構綺麗、なんて特集があったような(何かの園芸雑誌で)。

これから紫陽花の季節ですね。
我が家には、十年前植えた時にはみみっちい苗だった七段花(六甲か有馬かの山奥で発見された幻の紫陽花…もう今は幻ではないようですが)があります。ずいぶん大きくなって、ちょっと嬉しい今日この頃。
地味な紫陽花ですが、お茶花に使おうと植えたものです。
大体、山紫陽花は地味なものが多いのですが、一輪、切り取って床の間に飾るにはこれが一番ですね。
紫陽花は色も種類も本当に多彩で、楽しめる花のひとつですものね。
またここにご紹介したいと思います。

では、今日も頑張りましょう!(って、もうお昼だよ!!)

Category: ガーデニング・花

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