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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨45] 第7章 父と子(3)/ カミングアウト? 

さて、今回お届けするエピソードは、一応、本編の流れの中で語られておりますが、独立したエピソードとしてもお読みいただけるものです。と言っても、ストーリー性のあるものではなく、単なるエピソードですし、人物の関係性を物語るものなので、ここだけ読んでも面白いというものではありません^^;
ただ少し、大和竹流の独白を聞いてやってくださいませ。
語りの相手は高遠賢二。父親を刺して少年院に入っていたのですが、出てきてから身元引受人になったのは家族ではなく大和竹流です。賢二は時々激昂する性質ではありますが、根は優しい奴です。
大海の言い訳・追記はお読みいただいてから、あとがきにて……





 その日、大和竹流は飲んで帰ってきて、やたらと上機嫌だった。酒が抜けるのがもったいないとか、わけのわからないことを言って、風呂にも入らないで、お土産に貰ったという青森県の日本酒を一人で飲んでいた。
 田酒。いい名前だろう。酒は米からできてるんだから、これは田んぼの賜物だ。
 賢二にそう説教しながら、自然と農家の人に感謝しながらお前も飲め、と言うので、真が未成年に何を言うんだと止めた。
 俺なんか十歳の時にはもう飲んでたぞ、と自慢げに竹流が言うのを、あんたの国とはわけが違うし遺伝学的にも肝臓の処理能力が違うと、真が強く否定する。

 一緒にここに住んでみて分かったことがある。
 この二人はこうして会話のテンポまでが微妙な距離を感じさせる。つまり、見ている周りの人間の目を引く。始めは大和竹流の外見が惹きつけているのかと思っていたが、どうやらそれだけではないのかもしれないと、賢二は思い始めていた。

「どこで飲んでたんだ」
「お祖父ちゃんがギャラリーに来てくれたんで、二人で飲みに行った」
 真が睨むように竹流を見た。
「ちょっと灯妙寺に用事があって来たんだって。気分良く飲んでたら、電車の時間になってしまって、帰ったよ」
 飛行機嫌いの真の祖父、長一郎はよほどでない限り、北海道から出てくるとき夜行を使ってくるという。
「何であんたがおじいちゃんと飲んでるんだ?」
「へぇ、わざわざ北海道から出てきて、実の孫を差し置いて俺と飲んでたのが気に入らないのか? そりゃあ、嫉妬だな」
 真が、態度はともかく祖父を尊敬しているのを知っているので、竹流はからかい口調で言ったようだった。賢二はその二人の様子を、やっぱり痴話喧嘩だなと思って見ていた。

 竹流は真に言われて、ようやく、しかし嫌々という顔で風呂に入りに行った。そして、風呂から上がってきた後、真が居間のソファで新聞を読んでいるのを見て、隣に座ったかと思うと、そのまま真の読んでいる新聞の存在を無視して、真の膝枕で寝転んだ。
 緩やかにカーブを描いて大きな乃の字のように並んでいるソファの反対側に座っていた賢二はびっくりした。まだ彼らと住み始めて一ヶ月も経たないときで、二人の遠慮のない距離感に慣れていなかったせいもあった。
「おい、何考えてるんだ」
「うるさい」
「向こうで寝ろよ」
「まだ怒ってるのか。お祖父ちゃんを独り占めしてて悪かったな」

 真の説明では、竹流と真の祖父長一郎は、二人ともが歴史好きで、語り始めたら止まらないのだという。長一郎夫婦が北海道から出てきて灯妙寺の離れを借りて住んでいた頃も、真の知らない間に、竹流は長一郎のところでしばしば飲み語っていたようだ。まるでどっちが本当の祖父と孫なのか分からないくらいだというし、実際に、真の叔父にあたる人が、長一郎は竹流のことをもう一人の息子か孫のように思っていると言っていたらしい。
 竹流曰く、その日は日露戦争から第二次世界大戦に至るまでの日本の世界情報収集能力について語り合っていたらしい。

「怒ってないからどけよ」
「賢がいるからって気にしてるのか」
「馬鹿言うな」
 賢二は突然話の矛先を向けられてどきどきした。
 だが結局酔っ払いは眠ってしまい、真は何だかんだと言いつつ竹流を押しのけようとはしなかった。賢二は風呂に入ってくると言ってそこを離れた。

 とは言え、風呂は二回目だった。と言うよりも、そのことに真が気が付かなかったことに、却って賢二は動揺した。まさか、やっぱり二人はできていて、自分が同居するようになったので困っているのではないかと思った。そういう気配は、思い返してみればあるような気もしたし、敢えて聞いたことはなかったが、赤の他人が一緒に住んでいるムードにしては親密だと思えた。
 仕方がないので賢二は洗面所側のドアからベランダに出てしばらく時間を潰し、結局五分ほどで台所側のドアから中に戻り、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。そこからはリビングは丸見えにはならないが、間に仕切りはないので、自分の部屋に移動する時に、不意に彼らの様子が目に入ってしまった。

 静かで何の音もなかった。
 新聞は畳まれてテーブルに投げ出してあった。
 そして、真は自分の膝で眠っている竹流の顔をただ黙って見つめていた。竹流は腕組みをしたまま顔を真の方に向けて眠っている。そのくすんだ金の髪は緩やかなライトの下で複雑な影を作っていた。

 真の手がふわっと持ち上がったように、賢二には見えた。
 数センチ先の現実を、空に浮いた手がなぞるように微かに動く。
 賢二は自分が唾を飲み込んだ音まで聞こえるのではないかと緊張した。
 賢二には空にとどまったままの指の僅かな震えが、たまらなくエロティックなものに見えた。
 結局、真は竹流の髪に触れることもなく、そのまま何もせず空で手を握った。その時、突然組んでいた腕を解いた竹流が、眠っていなかったのか、真の方へ手を差し伸ばしてその項を抱き寄せようとした、その瞬間に真は、竹流に触れるのを躊躇っていた手でその額を叩いた。

「ここで寝るな。風邪ひくぞ」
 竹流はそう言われて、結構な力で叩かれたらしい額を押さえながら、億劫そうに起き上がった。
 賢二は、知らないふりをするのもかえっておかしいと思い、お休みなさいと声を掛けて、ダイニングの方から反対の廊下へ出た。彼らの顔は見なかった。

 賢二を最も緊張させていたのは、割と開け広げな竹流の態度ではなく、真が黙って竹流を見つめていた、その表情だった。もしも竹流が目を開けて真の表情を見ていたら、と思うと、自分のことでもないのに緊張した。
 確かに、竹流が時々連れて行ってくれるクラブの女性たちも、みな艶やかで色っぽい。だが彼女たちと竹流との絡む様子を見ていても、こういう緊張感を覚えることはなかった。それは単なる性別の問題ではないような気がした。

 あるいは、こんなこともあった。
 少年院を出所したばかりの賢二には、定期的に保護司と名瀬弁護士に現状報告に行く義務があった。だがある時、何か事情があったのか、今回は身元引受人と一緒に来るようにという手紙を受け取った。しかし、賢二は忙しい『身元引受人』たちにそのことを言い出しかねていた。ただでさえ、縁もゆかりもないはずの自分を引き取ってくれているのだ。できるだけ迷惑をかけたくないという気持ちになるのも当然だった。
 その日は、福島の工事現場に出かけることになっていて、上野駅前集合は朝五時だった。四時に起きた賢二は、結局明け方に切羽詰って彼らの寝室をノックした。もしも黙っていたら最終的に困るのが彼らであるということを、さすがに賢二も学んでいたからだった。

 真は前の晩、遅くなるといって一緒に食事をしなかった。早くに寝てしまった賢二は、真が戻っているのかどうかも知らなかった。
 入れ、という声は竹流のものだった。
 賢二が寝室の扉を開けたとき、竹流はベッドで上半身を起こし、いつもの穏やかな声で、どうした、と尋ねた。
 フロアライトの緩やかな灯りで、部屋の様子は、暗いリビングよりもはっきりと目に入ってきた。賢二の目には、竹流のすぐ傍で、彼に抱きつくように真が布団に潜り込んで眠っているように見えた。
 促されて事情を話すと、竹流は手紙を読むと言って、サイドテーブルの明かりを灯した。
 ちょっと動けないから持って来い、と言われベッドサイドまで行ったが、どきどきして手が震えた。竹流は手紙を通してそれを感じただろうに、何も言わなかった。

「真、起きれるか? 大体お前、いつ帰ってきたんだ」
 手紙を読んでから、竹流は傍の真に声を掛けたが、もちろん賢二がそこにいることなど知らないはずの真は、珍しく爆睡していたようで、眠りを遮られたことに抵抗するように竹流の身体に腕を回してさらに強く抱きついた。……少なくとも賢二にはそう見えた。
「賢二が、話があるそうだぞ」

 それで初めて真は起き上がり、一瞬賢二を見て驚いたような顔をし、それからはいつもの真だった。黙って手紙を読み、俺が行こうかと言う竹流に、いや、自分が行くと答えていた。賢二は真がちゃんと服を着ていることに妙に安心する一方で、寝乱れた寝巻きの襟元から覗く首筋の筋肉の様子、鎖骨の張りに緊張した。

 それからしばらくの間、賢二は自分が真に対してよからぬ欲情を抱いているのではないかと思って、自分でパニックになっていた。
 少なくとも外で見る真は、冷静で大声で騒ぎ立てることもなく、賢二の目から見る限り、色恋沙汰には嵌まり込まないタイプに見えていた。少々の出来事には驚きもせず、あまり真正面から相手を睨み付けるようなこともしない。ただし、相手の話を、軽口ひとつも挟まず黙って聞く気配は、いかにも信用が置けそうだからか、クライアントたちは心の内をほとんど包み隠さず真に打ち明けているように見える。これは水商売の店では大正解で、本来なら客の話を聞く立場のホステスやホストたちが、逆に真に話を聞いてもらいたがるのだ。
 そういう姿にも、ある意味嫉妬を覚える時があった。真が誰か他の人間を気に掛け、心配し、真剣に話を聞いている様子が、時々賢二には気に食わない時があるのだ。
 それでも、その落ち着いた姿には特別『そそる』ような何かがあるようには思わない。

 だが、大和竹流のマンションで見る真は、全く別の側面をしばしば見せつける。真は時々完全に無防備で、時々無遠慮に相手を挑発しているのではないかと思えるような態度をとるのだ。ほんのたまに、明らかに相手を誘っているような目つきで竹流を見るような気がして、賢二はたまらくなって自分の部屋に逃げ出したこともある。
 竹流が面白がって買ってくれるエロ雑誌などオカズにしなくても、そういう日はあの目を思い出すだけで簡単に昇り詰めることができたし、その満足感は欲望を吐き出した後までも背中を登ってくるような気がした。
 竹流はそういう真の態度に慣れているのか、あっさりと受け流しているが、たまにはからかうように竹流のほうが真を引き寄せる。そうすると、真は言葉だけは怒って、相手をかわしている。
 できの悪い飼い猫みたいだろう、と竹流が言ったことがある。

 そんなことが色々あったので、ある時、竹流がオーナーをしているバーで飲んでいるとき、思わず聞いたのだ。
 ちなみに、賢二は未成年で、竹流は一応賢二の立場を考えて、自分の店であることをいいことにして控えめのアルコールを出してくれたようだが、そもそも根本的に二十歳未満の飲酒が何故いけないのかあまり分かっていない様子だった。

「先生をどうしようとしてるんだ」
 竹流は賢二を穏やかな表情で見ていた。
「どうって、セックスをする関係かどうか聞いているのか」
 あまりにもあっさりと核心を問い返されたので、賢二はたじろいでしまった。竹流は余裕のある笑みを見せる。
「セックスはしないことにしている」
 淡々と答えられると、そもそも性別の問題があることを忘れてしまいそうだった。

「でも先生は、どう思ってるんだよ」
 竹流は賢二が何を言っているのか、ちゃんと分かっているようだった。それどころか、賢二がたまに真をどういう目で見ているかも知っているような気がした。
「あいつが俺にしがみつくのは全くの無意識だ。色っぽい事情などない。動物の子どもが何かにひっついていると安心するのと同じだよ」
「じゃあ、あんたは?」
 喉の奥で何かが引っ掛かっている気がした。竹流は例の如く、女を簡単に落としてしまう極上の笑みを、賢二にも見せた。
「賢、他人を愛して身体を求めて、その先に何があると思う? 例えばお前が好きで好きでたまらない女がいて、相手に何を望む?」

 この男は、女をこうやって見つめるだけでその気にさせてしまうのだろう。その目には、極めて親密で個人的な興味を相手に抱いていると誤解させる、豊かな感情が溢れているように見える。
 賢二は竹流を見つめて、しばらくしてやっと口を開いた。
「そりゃあ、抱きたい、と思うかな」
 言ってからよからぬ想像を打ち消さなければならなかった。
「その女と、例えば百回寝たとする。それでも相手を好きでたまらない。じゃあ、どうなる?」
「え?」

 何を聞かれているのか分からなくて、賢二は聞き返した。
「セックスにも満足している、その人との会話にも一緒にいるそのことにも満たされている、けれどもその先はどうなるんだろうな。女性と話して、食事を振舞って、最上級のデザートと酒を楽しんでもらう、そのことが男を楽しませるのは、その先のベッドの上の事を思うからだ。だが、ベッドに入ってすっかり満足して、さらにその先を求めたら、何があるんだろうな」
 一言一言が、色々な想像を呼び起こした。
「俺、あなたが女性を口説いてるのを見てても、そんな先の事考えているようには見えないけど」

 本当は気になっていることは別のことだった。それでも、賢二はとにかく当たり障りのないことを口にした。竹流はブランディを口に含みながら、賢二の顔をまともに見て、また例の極上の笑みを見せた。
「女はいいものだ。可愛いくてただ本当に愛おしく思う。ベッドの上でもいくらでもいい気分にさせてやりたいと思う。女たちがいるから、男の感情も欲望も納まり所がある。だが、俺はどうやら相手にそれ以上、その先を求めていないかもしれないと、そう思うことがある」

 賢二は、今度は黙って相手を見つめていた。この人は珍しく酔っているんだろうか、それともしらふなんだろうか、と考えたが、その目を見ていてもわからない。
 竹流は賢二の顔を見て、それから懐かしそうに話し始めた。

「初めて会ったとき、あいつはまだ小学生だった。生意気で、人間社会に適応する術も持たず、ただ牙を剥いて相手を威嚇することしかできない、気の弱い野生の生き物のようだった。日本語も不自由してるし、こいつは馬鹿なんじゃないかと思ったよ。外国人の俺のほうが、よほどまともな日本語を知っているくらいだったからな。しかも学校で苛めにあってるのか何だか知らないが、一人前に登校拒否だし、ようやく行ったかと思ったら、ひっくり返って保健室で寝てるとかで、俺はあいつの父親の代わりに何度も学校に迎えに行った。時には学校から逃げ出して行方不明になってるし、腹が立って、何度も怒鳴ってやった。あいつの親父さんは恩人だったし、頼まれて断れなかったし、学校に行けないというので随分あいつの勉強の面倒も見てやった。日本の学校の教科書は面白そうではなかったし、俺も腹が立ってたんだろうな、歴史も古典も数学も科学も、とにかく吐き気がするだろうなと思うほど詰め込んでやった。あいつが理解しているかどうかなど気に掛けたこともなかった。だけど、ある時天文学を教えてて、俺が言ったことに対してあいつが何か反論したんだ」

 竹流はまた微笑むように賢二を見た。
「滅多に質問もしてこないのに、あまりにもその問いが核心をついていて、俺としたことが、狼狽えてしまった。それからは俺も教えるのを楽しんでたんだろうな。親父さんが失踪してからは、勉強だけではなく、喧嘩の仕方も護身術も、ついでに言うと相手の息の根を止める方法も、みんな教えた。あいつが妹を守りたいと言ったからだ」
 賢二はこの男が冗談でもなんでもなく、極めて真剣な話をしていることを感じ、その言葉の一つ一つを聞き漏らさないようにと思った。そして、自分が今までこんなにも真剣に誰かの話を聞いたことがあったろうかと考えた。

「後から、俺のその恩人は真の本当の父親ではないことを知った。真は自分の父親が誰だか知っているし、その人が自分をまだ赤ん坊のときに捨てていったことも知っている。生みの母親も同じだ。勿論、彼らが若くて、事情があって子どもを育てられなかったのは頭では分かっているだろうが、赤ん坊にとってはそんな事情は飲み込めない。お祖父さんが育ててくれたことにあいつはとても感謝しているし、彼を心から尊敬しているけれど、それでも親じゃない。俺の恩人は、あいつと血のつながりのある伯父だったが、色々複雑な事情と感情の中で真を育てていたようだし、あいつがあの幾らか日本人離れした外見も手伝って、子どもの頃から苛められて、でも自分を愛してくれる周りの大人たちを失望させたくないと思うばかりに、彼らの顔色を窺って生きてきたのだとしたら、それはそれで辛かったのかもしれない。それでも俺にはあいつの気持ちの全部は納得がいかなかったけれど」

 それから竹流は賢二を見て問いかけた。
「賢、お前、あいつが完全に無防備に笑ってるのを見たことがあるか?」
「え? ない、かな」
 竹流の手がカウンターの上のブランディグラスを揺らせた。綺麗で無駄のない手に、心地のいい照明が曖昧な濃淡の影を作っていた。

「この俺も、今まで二度ばかりしか見たことがないんだ。一度は、親父さんと一緒に北海道の牧場に連れて行ってもらった時のことだ。あの頃、あいつはほんとに可愛げのない、ほとんど口もきかない子どもで、北海道に着いて迎えのトラックで牧場に入ったときから外ばかり見ていて、ある馬を見かけると途中で車を止めさせて走り去っていった。あいつの叔父さんが、夜まで帰ってこないと言ったが、案の定夕食の時間になっても帰って来なかったよ。別に気にしていたつもりはなかったんだけど、それでも少しは心配していたのかもしれない。何となく寝付けなくて、何かに誘われたような気がして外に出た」

 この店には音楽も、騒がしい会話もない。上手く配置されたテーブルや椅子の向き、オブジェや植物のおかげで、隣の席の会話さえほとんど聞こえない。それでも、賢二は誰かが、この男が打ち明けようとする秘密を聞きとがめたりしないかと緊張していた。
 だが、竹流は、いつもならよく通るハイバリトンの声を荒げることもなく、穏やかな声のまま淡々と続けた。
 彼の声こそが音楽のように柔らかく空気を振動させていた。

「牧場はもう真っ暗闇で、何も見えないのに、自分の身体だけが浮き上がっていた。そこから命の温度がふわふわと湧き上がって天に昇っていくように思えて、見上げると、頭の上に広がっているのは魂ごと吸い上げられそうな宇宙だった。天然の満天のプラネタリウムだ。星明りとはこれほどに美しく明るいものなのかと思ったよ。目を閉じると自分以外にも命のざわめくような気配がある。牧場には十匹近い樺太犬の雑種やらハスキーが飼われてたんだが、ふと気が付くとその犬たちが群れになって走っていくんだ。あいつが帰ってきたことに犬たちはすぐに気が付いて、嬉しそうにじゃれ付いていた。あいつは、弘志兄ちゃんに怒られるからだめだ、って楽しそうな声で彼らを窘めながら声を出して笑ってたよ。俺に気が付いて途中で凍りついてたけどな」

 賢二はぼんやりとその光景を想像していた。
 真が賢二に、彼自身の過去を話したことはなかった。少年院上がりの賢二に自分の辛い過去を話して、俺もお前の気持ちが分かるよ、とでも言ってきてもよさそうだが、そういうことは一切なかった。もしも簡単にそんな言葉を投げかけられていたら、賢二は反抗していたに違いない。

「二度目は、あいつの大学受験が終わって、約束どおりイタリアに連れて行った時だった。色々あって、あの時はハネムーンみたいでな」
「ハネムーン?」
 その表現は何なんだ、と賢二は思った。竹流は賢二の心を見透かすように、まるではるか年下のライバルを蹴落とすような極上の笑みをまた浮かべる。

「まさに蜜月だったんだよ。セックスをするかどうかという問題ではなく、気持ちが完全に重なっていると誤解しきれる状態だったんだ。何てことはない、ピサの斜塔見て、あいつ、妙にはしゃいでて」
 まるで何かを思い出すように、竹流の顔は穏やかで幸せそうに見えた。
「それって、まさかと思うけど、傾いてたから?」

「そうなんだろうな。何回もぐるりを歩いて、上に昇ってから、俺が解説してやっているのを聞いてもいない。何も言わないのにひたすら傾いてるって顔中に書いてあったみたいだった。翌朝、ホテルで目を覚ました時も、あいつはもう起きていて窓から斜塔を見ているんだ。両脇に古い建物が並ぶ通りの先に、真っ白に輝く塔が、向こうからもこっちを覗くように傾いていた。あいつは傍に行った俺を見上げて、本当に僅かに微笑んで、塔のある街の景色がこんなに綺麗だなんて思わなかった、と言って、少しだけ俺に身を寄せるようにした。いや、俺のほうが抱き締めたかったのかもしれない。あぁ、こいつがいつもこれくらい感情のある顔をしてくれていたらって、そう思った。その旅行の間、あいつは笑っていなくても妙に素直で、俺は愛おしくてもう一歩で狂うんじゃないかと思うほど幸せな気分だった」

 一旦言葉を切ったとき、竹流は一瞬表情を変えた。賢二はもうグラスに手を掛けることさえしていなかった。
「だがそれはローマに帰るまでのことだった。ローマで、俺は自分の事でいっぱいで、自分の感情を持っていく先を他に見つけられなかった。あいつにさんざん暴力をふるって、嫌がることは何だってしたような気がする。殴りもしたし、思いつく限りの酷い言葉を投げつけて、嫌がるあいつに男との情事を細々と喋らせた。あいつは一切逆らわなかった。それが余計に腹立たしくて、酒を浴びるほど飲んでは、ボロボロになるまであいつをまた殴った。それどころか、挙句に扁桃腺を腫らせて寝込んでいたあいつを放り出して、逃げ出してしまった。女を抱いて、悪友たちと飲んでカードをしながら何日も過ごした。何日もたって、ふと、煙の向こうであいつがこっちを見ている気がしたんだ。いや、俺を見ていたのは実は馬の目だったのかな。北海道にはあいつを守っている化け物みたいな馬がいてな、もう死んでしまったけど、あの馬はいつでも俺を見張っているんだよ。誓いを違えたら許さないという黒い眼で俺を見る。たまらなくなって屋敷に戻り、まだ寝込んでいたあいつを連れてアッシジに逃げた。それなのに、あいつは」

 竹流は何か言いかけてそれを留めた。多分に酔っ払っているように見えていたが、最後の一線は踏みとどまった、そういう感じだった。
「お前に教えてやりたいけど、言えないな。俺はそのときアッシジの丘の上で、あいつから極上の告白を聞いたように思った。内容は不器用だったし、他の誰かが聞いても意味を解することはないだろうが、俺はそれまでも、今までだって、どんな女からもそれほど俺を有り難い幸福な気分にさせる、いや、心だけでなく身体まで昂ぶらせるような言葉を聞いたことがない。その夜、あいつを抱いたのが最後だ。以後、一切手を出していない」

 賢二は急に大変なことを聞いて、手元のグラスを倒しそうになった。
「あいつとセックスをするような関係にあったのは、たった一ヶ月ほどの間のことだ。それも七年も前の話で、大体ほんのちょっと箍が外れただけのことだった」
 賢二は心臓が口から出てきそうに思った。竹流は賢二を本当に弟分のように大事にしてくれていた。だからこそ話しても構わないと思ったのだろうが、やはり酔っ払っていただけなのかもしれない。

「その先に、何があるか考えたから?」
 竹流はあの深い青灰色の瞳で賢二を見つめた。男が見つめられても誤解しそうなほどの、魅力的で個人的な親近感を感じさせる瞳の色だった。
「いや、そういうつもりではなかったんだが、ただ、この手で叩き壊してしまいそうに思った。幸福で満たされていたのに、自分の本性も見てしまった気がした。俺はいつだってあいつの首を絞めることができるし、多分、俺が本当にあいつの首を絞めても、あいつが俺に逆らわないという自信がある。なぁ、賢、あいつは俺がしょっちゅう怒鳴りつけていた時だって、思い返してみれば一度も俺に逆らったことはない」

 内容とは裏腹の穏やかな声で竹流がそう言うので、賢二は思わず呟くように呼びかけた。
「大和さん」
「俺はいつだってあいつは俺のものだと思っている。どこかで、誰にも渡す気はないと、そう思っている。本当は今でも毎晩のように欲情しているし、毎晩それに耐える地獄を味わっている。耐えているのはあいつのためなんかじゃないし、寛容で優しい気持ちなど欠片もない。賢、これが愛するということの正体だと言っているわけじゃない。俺にも分からないんだ」






……すみません。アップしただけで何だか疲れてしまいました…^^;
以下、畳みます。
いつものコラムは1回休み。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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