【幻の猫】エピローグ:鳥と虫の棲む教会


【幻の猫】ついに大団円です。エピローグ(そして本当の意味での最終回)『鳥と虫の棲む教会』をお送りいたします。limeさんから頂いたイラストから始まったこの物語。ついに最終回を迎えることができました。
ちょっと感無量です。ブログを始めてから書き始めた物語で、(limeさんの大好きな)Endマークを入れたのは初めてかも……
さて、まずは物語をお楽しみください。
あの人たちも出てきますよ(*^_^*)
え? トップのイラスト/絵の猫のジョルジョは追いやられたのかって?
はい。新登場の竹流が迫力ありすぎて^^;




その瞬間は痛みなど何も感じなかった。だが、部屋のベッドに寝かされて、一人でじっと天井を見つめていると、痛みは腕の一部から身体という器を駆け巡り、頭を上げることができなくなった。
竹流は昨日の夜からほとんど部屋に戻ってくることはなかった。
警察の取り調べに付き合い、ベルナデッタやグローリアの足りない言葉を補ってやっていたようだった。当たり前のことだが、女たちは警察などという威圧的な存在と向き合うことには慣れていないだろうし、竹流の存在はどうしても必要だったのだろう。
だから、今日、真は一人でベッドの上で、このどうしようもない痛みと軽い発熱と闘っていた。
解熱剤を飲んだ後少しだけ楽になったので、一度だけ、あの『嘆きの天使』があった場所に行ってみたが、身体が思うように動かなくてしゃがみこんでしまった。実況見分に付き合っていた竹流に気が付かれて、すぐに部屋に戻るようにと言われた。
しゃがみこむ瞬間、ふとオリーブの木の陰に、黒い尻尾が見えた。
追いかけたかったが、どうしても身体が動かない。
にゃあ。
声だけは耳元に聞こえたが、もう一度顔を上げた時には猫の影はなかった。
竹流が仕方がないな、という顔をして、警官に何かを告げて、しゃがみこんだ真のところまでやって来た。
「歩けるか?」
支えられて立ち上がった時、猫の尻尾が消えたあたりにあの少女の影を見つけた。
アウローラ。
唇の動きだけで呼びかけてみたが、竹流が真の視線を追いかけて不思議そうに振り返った時、光の加減が変わったのか、少女の影は見えなくなった。
心の動きに身体がついて行っていないだけで、このまま心穏やかにしていられる気がしなかったが、竹流に部屋に連れ戻された後は、もう部屋を一人で出る気はしなかった。
時々、あのいかにもイタリアのマンマ風おばさんが様子を見に来てくれて、熱を測ったり、氷枕を取り換えてくれたり、食事を持って来てくれたりした。とは言え、ベッドの上に一人座ってリゾットを眺めていても食欲がわいてくるわけではなかった。
仕方なくベッドに横になり、目を閉じると、不意に光の中に吸い込まれたような気がした。

アウローラ。
呼びかけた時、光のせいで真っ白だった世界が急に色づいた。
ライラック色の空気が広がり、吹き抜けた風が色を集めたようになって、少女の髪の上に止まった。しっとりとした絹の手触りが伝わるように、そこだけクローズアップされて真の視界の中で重くなる。
竹流が少女のために古い日本の着物の端切れから作ったというリボンだった。
写真を見たからなのか、それとも真の意識が比較的鮮明に物事を捕えられるようになっていたからなのか、少女の顔はくっきりと見えた。病弱だったという痩せた少女の頬は、以前見た時よりも少しふっくらして見えていた。
「良かった。話したかったんだ」
真が話しかけると、アウローラは首を少し傾げるようにして微笑んだ。
ふと、少女の手を見ると、誰かの手を握っていた。
可愛らしいもう一つの手を見つめていたら、少しずつ光がまた溶け出してゆき、そこにアウローラよりも少し小さな女の子が立っていた。
「フィオレンツァだね」
少女たちは顔を見合わせて、微笑んだ。
「ジョルジョは大丈夫?」
尋ねた途端、足元に絡み付く気配を感じた。黒い猫が真の足に擦り寄り、甘えている。真は少し屈んで、猫の背中を撫でてやった。温度は何も感じなかったが、滑らかで優しい手触りだった。
もう帰らなくちゃ。
少女たちはそう言った。真は頷いた。

夜遅くになって、ようやく竹流が部屋に戻ってきた。
真は夢と現実を半分ずつ行き来しながらうとうとしていたが、ベッドの軋みが身体に響いたので、目を開けた。
正直なところ、昼を過ぎた頃から薬のお蔭か痛みは薄らいでいて、どちらかというと身体を休めすぎてだるいほどになっていた。いや、一度あの場所に行ってから、そして夢の中でアウローラたちと話してから、傷自体の痛みは取れていたような気がする。
「起こしたな」
頭に触れた竹流の手が髪を撫でた。
「もう済んだのか?」
竹流は頷いた。
「ベルナデッタは大丈夫?」
竹流はもう一度頷いてから尋ねた。
「痛みは?」
「もうあんまり痛くないんだ」
薬のお蔭かもしれないが、もしかするとあの猫のお蔭なのかもしれないと思っていた。
竹流が心配そうに包帯を外して真の腕の傷を確認し、思わず舌打ちするようにつぶやいた。
「あの藪医者、縫わなくても良かったんじゃないのか」
やっぱりそうなのだ。真は自分の傷の治り具合を見て確信した。
「ジョルジョのお蔭だよ。きっと」
真が思わずつぶやくと、竹流がふと顔を上げた。
「お前、どうして猫の名前を知ってたんだ?」
「え?」
しばらく竹流は不思議そうな顔をしていたが、霊感だとでも思ってくれたのか、まぁいいかと呟いた。
まさか、放っておかれて悔しかったから、適当にあんたの名前をつけといた、とは言えなかった。そしてそれから、頭がくるりと回転したような気がした。
じゃあ、本当にあの猫はジョルジョという名前だったのか。
偶然といえば驚くけれど、世の中には不思議なことがあるものだ。
竹流は疲れたな、と呟いて、そのまま服を脱ぎ捨て、タオル地のガウンを引っ掛けてそのままベッドにもぐりこんできた。彼の体臭、穏やかな木の香りにも似たエキゾチックな匂いに包み込まれて、真は目を閉じた。
それからゆっくりと、竹流は事情を説明してくれた。
一年前、行方不明になったと言われていた少女、フィオレンツァは、その母親のマリエッラが誤って死なせてしまったこと、マリエッラは夫の暴力に耐えかねて、逆に娘のフィオレンツァに手を上げるようになっていたこと、娘婿が暴力をふるい娘を苦しめていると思っていたグローリアは、娘を助けたい一心で彼女を逃がし、自分がフィオレンツァを旅行に連れて行っている間に見失ってしまったと嘘を言っていたこと、フィオレンツァを以前は墓地だったあの場所に埋めたこと、そして一年が経ち、フィオレンツァの死に苦しんでいた母親のマリエッラは自殺するつもりでグローリアに少女を埋めた場所を尋ねたこと、真があの場所にたどり着いたとき、自殺しようとしたマリエッラを止めようとしたグローリアともみ合いになっていたことなどを、ゆっくりと真に話して聞かせた。
真は最後まで聞いてから、ただ頷いた。
そして竹流の胸に頭を押し付けた。
ボタンは少し掛け違えられただけなのだ。誰も憎しみを感じてなどいなかった。だから少女たちは決して誰かを恨んだりしていたわけではなかったのだ。
「ベルナデッタは偶然、グローリアがフィオレンツァを埋めるのを見てしまったんだ。彼女は娘のアウローラを生んだことも失ったこともとても辛くて、自分を責めていて、あの写真とリボンを傍に置いておくことはできなかった。だから嘆きの天使の傍に埋めていたんだけれど、その日、やはりたまらなくなってそれを取りに行った。グローリアのしたことを見ていたベルナデッタは、きっとこれは自分に科せられた罰なのだと思ったんだそうだ。アウローラの写真もリボンも、掘り出して取り戻すことを諦めてしまった」
そして一年、俯いて暮らしていたベルナデッタのところへ、グローリアがやってきて、そして今、事実が明らかになった。
「アウローラは、ベルナデッタに写真の後ろに書いた言葉を読んで欲しかったんだな」
竹流がぎゅっと真の頭を抱き締めてきた。
「アウローラは、ベルナデッタが迎えに来るまであの場所を出ることができなかったんだ。ベルナデッタがあの場所にアウローラを、つまり写真とリボンと思い出を埋めてしまったから。だからアウローラは自分ではあの場所から出ることはできなくて、お母さんを待つしかなかった。でも、自分と同じように少女がここに取り残されたのを見て、何とかしたかったんだと思う」
真はそれだけ言って、静かに目を閉じた。
猫は『魂の使い』だという。猫のジョルジョはこの町に来て、フィオレンツァを見つけたのだろう。アウローラはそれに気が付いた。だから、猫と一緒にみんなに訴えていたのだろう。
ここに来て。違うんだよ、この子は決してお母さんを恨んだりしていないよ、と。
私たちの言葉を聞いて。誰か伝えて、と。
アウローラは、ジョルジョがいる時は猫に乗って町にも来ることができたかもしれないが、ジョルジョがいない時には精一杯で『しっぽ』だったのかもしれない。真にしっぽしか見えない時があったのは、そのためだったのだろう。
そして、ベルナデッタが写真とリボンを抱いたときから、アウローラの魂はあの場所から解き放たれたのだろう。きっと今、彼女はベルナデッタの傍に帰ったのだろう。そしてフィオレンツァも、母親と祖母の魂の傍に帰ることができたに違いない。
嘆きの天使は、もう涙を流さなくてもいい。穏やかな夜があの場所に降りて、世界を包み込んでいる。
竹流は昨夜からずっと女性たちのために動き回っていて、彼女たちの気持ちを聞いてやり、代弁したり、事務的な手続きを手伝ったりして眠れなかったのだろう。ベッドに潜り込んでようやくほっとしたのか、真を抱き締めたまま眠ってしまった。
真はしばらくどうしようもなくその胸の動きを耳で感じていたが、やがてそっと彼の身体に腕を回し、抱き締めた。
アウローラは、足長おじさんに恋をしていたと思うよ。だから病気でも、一生懸命素敵な手紙を書いたんだ。あんたに辛いこととか苦しいこととか、気が付かれないように。
真はそれだけ呟いて、自分も目を閉じた。
竹流の手がもう一度強く、真の頭を抱き締めた。

「やっぱり藪医者だったな。糸を抜くだけ無駄だ」
「違うよ、ジョルジョのお蔭だって」
朝からこの会話はもう三度目だった。
「猫をジョルジョって呼ぶな」
「何で」
「うるさい」
ついでにこれも揉めている。
シエナにはバスターミナルがある。トスカナの地方の小さな村へ行くバスがここを拠点にしてあちこちへ出ていっている。賑やかにチケットを求める人の列、アナウンスの声、そして開け放たれた窓から吹き込む早春の風。
自分たちの番が来て、バスの切符を買っている時、いきなり真は誰かに後ろから抱きつかれた。というよりも目隠しをされた。
この感触は!
「だーれだ?」
「李々子さん」
「え~、どうしてわかっちゃうの~?」
「いや、それは分かりますって。ねぇ」
シロちゃんこと稲葉さんが真にとも、傍に立っている宇佐美にともつかず言った。見れば、その後ろに例の大道芸人さんたちも一緒にいる。
竹流が窓口に支払いを済ませて振り返った。
最初に竹流と目が合ったのは、どうやら蝶子さんだったようだ。それはそうだ。こうして朝の光の中で立っていても怖いくらいに綺麗な女性だった。グローリアの娘、クラリッサのことは真の誤解だったとしても(いや、それも疑わしいのだが)、今明るい陽の中で交わされた二人の一瞬の視線に、真は思わず殴ってやろうかと思ったりもした。
蝶子さんも意味ありげにふと笑みを浮かべる。
これは断言してもいいが、もしも真がいなければ、この視線を交わした男女は間違いなく、今夜の約束をするはずだ。いや、今夜まで待つかどうかも分からない。
でも。
真はちらっと竹流を見上げた。
たまには信じようか。
「どちらへ行かれるんですか」
竹流が、背の高さの関係上、一番視線が合いやすい宇佐美さんに向かって聞いた。
「フィレンツェです。我々の探し人がどうやらフィレンツェにいるんじゃないかという情報が入ったので。駅までバスに乗ろうと思ったら、あなた方が見えたので、李々子が……」
「最初に見つけたのは諒じゃない。ねぇ」
と李々子さんが言いかけた時、急いでいるらしい数人の男たちが駆け込んできていて、真にぶつかりそうになったのを、竹流が抱き寄せた。李々子さんは、竹流の顔を見ていたようだったが、急にちょっとほっとしたような顔になった。
「あなた方もフィレンツェに?」
竹流が蝶子さんに尋ねる。
「えぇ。今夜から、フィレンツェの店でしばらく厄介になるの」
「ではまたお会いすることがあるかもしれませんね」
「あら、あなた方もフィレンツェに?」
「えぇ、この町の次に……」
と言いかけた竹流の方へいきなり李々子さんが倒れかかった。というよりも、彼の足を思い切り踏んづけたようだった。
「あ~、ごめんなさい!」
横で宇佐美さんと稲葉さんはもう笑いを噛み殺している。蝶子さんまでが何かを察したように微笑み、後ろで大道芸人仲間たちはちょっと見なかったことにしようとでも言うように目を逸らしている。
竹流はと言えば、しれっとした顔で、いいえ、シニョーラ、と微笑んでみせる。
別れ際に李々子さんが耳元に囁いてくれた。
「仲良くね」
竹流には蝶子さんが近づいた。そして明らかに真にも聞こえるように、よく通る爽やかな声で言った。
「泣かさないようにね」
そう言いながらも、じゃ、またフィレンツェで、と言って微笑んだ。
最後に稔と名乗った、ギターと三味線を弾く日本人の彼が真に近付き、何か言いかけて、上手く言葉が見つからなかったのか、結局思い切ったように手を差し出した。真はしばらくその手を見つめていたが、少しだけほわっと温かい気持ちになってその手を握り返した。
「何て言うのか、津軽の心を思い出した。腹の中に残ってるあの節を。ありがとうな」
真は強く握り返された手をしばらく見つめていたが、自分も思い切り手を握り返した。
「僕の方こそ」
本当はもっと言葉を言いたかった。だが、もともと言葉が苦手な真にはそれ以上何も言えなかった。だが多分、稔さんも同じだろう。そしてそれで十分だった。
あの時、この手から三味線を渡された瞬間、心に火が付いた。それは多分、この竿に触れ撥を握った者同士にしか分からないものだ。
「日本に帰ったら、今度は二丁で叩き合おうな」
どこに行けば会えるかと聞かれたので、祖父母が出入りしている民謡酒場の名前を言った。稔さんはぽんぽんと真の腕を叩いて、そして先に歩いて去っていく仲間を追いかけた。
向こうから李々子さんが大きく手を振ってくれ、最後に皆が振り返って、照れ臭いほど一生懸命に手を振ってくれた。

シエナから四十キロ、バスは空と地の境界をゆったりと走る。
蒼い空とベルベットのように滑らかな緑の大地、向こうに立ち並ぶ木々、風は開け放った窓から吹き込み、頬を撫で、また通り過ぎていく。乗り合わせた人々は自分の手元の仕事とおしゃべりに忙しいものの、見慣れない旅行者には敏感だった。
真にも何とかわかる言葉で、彼らは行先を尋ね、竹流はそれに答えている。それ以外の会話は真には全く分からないが、その音楽のような言葉の響きは耳の中に心地よい余韻を残す。
やがて、人々が口々に同じ言葉を叫ぶ。きょとんとしている真の腕をおばさんが掴み、窓から向こうを覗くように示し、おばさんを見上げた真ににっこりと微笑んで見せた。
サン・ガルガノ。
緑の短い草が生えそろう平地の先、並木の向こうに、他に何もない孤高の場所に立つ建物はバス道から見ると、まだ随分小さく見えていた。
バスが停まる。
竹流は真の手を引っ張って、皆に礼を言ってバスを降りる。降りてバスが走り出すと、窓から顔を出して皆が手を振っている。竹流も手を振りかえしているので、真も何となく手を振り返した。
バス停から修道院まではそれなりの距離があった。竹流はバスの中で真の手を取ったまま離そうとせず、何を思っているのか、引っ張るように一生懸命歩いている。
「手、もういいって」
真が訴えると、竹流はようやく気が付いたようだった。あ、そうか、というように手を離し、それからはゆっくりと一緒に歩いた。風が足元に吹き付け、一度舞い、それから並木を撫でていく。
坂を登ると修道院だった。
中に入って驚いた。

屋根がない。
真は蒼天を見上げた。

蒼い空、雲は白く流れゆき、風が空を渡り、鳥が漂うように行き過ぎた。天は抜けた屋根の形に切り取られ、この大地となった床から見上げている異教徒にも、神の光を降り注いだ。
ここに来るまで見上げたどの教会の天井からも直接感じることがなかった、自然という名前の芸術を越えた大いなるものの存在。それはキリスト教とは何ら縁のない真にも、直接的に何かを語りかけているようでもあった。
真は首が痛くなるのも気が付かないまま見上げ、目を閉じ、光と風を頬に感じ、そして高い空を舞う鳥の声を聴いた。それからふと足元の大地を見下ろし、短い草が風に揺れ、小さな虫が羽音を震わせている気配を感じた。


真が言葉もなくゆっくりと教会の中心を、今はもう名残の石しかない祭壇へ歩いて行くのを、竹流は黙ってついてくる。言葉は何もなくても、ここは何て暖かいのだろうと思った。
脇廊、ファザードの高い窓にもガラスの名残さえない。そこからは直接光が入り込み、向かいの壁に光の帯を映し出す。真は正面の丸い窓の痕を見つめ、壁のレンガ色が少しずつ色合いを変えているのを見た。

「十二世紀の後半に建てられたシトー派の修道院だ。シトー派は十一世紀にフランスで生まれた修道会で、清貧、貞潔、服従がモットーだった。祈りと生活の場だった修道院はこうやって俗世の喧騒から離れた山の中に建てられている。百年ばかりは栄えたが、やがて衰退して、貧しさのあまり屋根を売り払った。屋根に鉛が入っていたからだ。十七世紀にこの姿になって、後は放置されたという」
竹流が傍らで空を見上げた。
「屋根を売り払った理由は極めて現実的なのに、残された教会は随分とロマンチックだろう?」
真はしばらく神がこの世に落とした芸術の賜物のようにさえ見える男の横顔を見つめていたが、やがて一緒に空を見上げた。
神様というのは、こんなにも優しい。
鳥も虫も一緒に、神の家である教会に棲むことができるよう、屋根を外したのだ。
真はもう一度目を閉じた。
この国の小さな町で起こった小さな事件。それを覆うように天が光を降らせている。あの上から、少女たちは時々ここへ降りてきて、愛らしい声で囁く。
Mamma, Ti amo.
母のない真にも、同じ光が降り注いでいる。
そっと髪に触れる手は大きくて暖かかった。

修道院の外側へ回って、草地に座った。向こうまで果てなく広がる緑の草地から風が渡って、枠だけ残された窓を通り抜けていく。あの空と陸の境に永遠が宿っている。
持ってきたバッグから、出がけにホテルのレストランで貰ってきたワインとグラスを二つ取り出し、パンとハムとチーズ、オレンジを草のテーブルクロスに並べる。ワインオープナーを回す音がきゅっきゅっと耳に心地よく響く。グラスに注がれる音、爽やかに白と透明と琥珀を掛け合わせたような光がグラスを満たす。
真がグラスを取り上げるのを躊躇っていると、竹流が自分のグラスを取り、大地に残ったままの真のグラスに勝手に乾杯をすると、自分は先に飲み始める。真は彼が風に向かいながらワインを傾ける横顔を改めて見つめ、それから自分もグラスを取り上げた。
匂いをいっぱいに吸い込んで、それから神の手でこの世に授けられた命の水を口に含んだ。
それからナイフでパンを切り、チーズとハムを挟む。硬いパンだったのに、昨日一人で口にした暖かいリゾットよりもずっと美味しかった。多分、風も一緒に胃に入れているからなのだ。そして、傍にいる男は、自分の母親代わりだったという人に、真をこの世界で最も大事な人と紹介してくれていた。
オレンジも食べてしまうと、竹流が気持ちよさそうに草地に寝転んで目を閉じだ。
真は隣に座ったまま、少しずつワインを舐めていた。
ふと気が付くと、傍に猫がいて、ハムとチーズの匂いを嗅いでいる。キジトラの猫はちょっと真に遠慮していたようだが、あげるよという顔で見つめると納得したようにしばらく残り物を味わって、それから真の足に頭を摺り寄せた。やがてころんと寝転び、毛づくろいをしてから目を閉じる。その頭を撫でながら、ふと思う。
ジョルジョが来てくれたらいいのに。
竹流はもう完全に眠っている。何だかつまらなくなって、猫を腹の上に置いてやると、竹流は一瞬微かに動き、それから目を閉じたまま腹の上の猫を撫で、その手で真の膝に触れた。
ちょっと言いたいことがあったような気もしたが、まぁいいか、と思った。
ワイングラスを置いて、隣に寝転び、高い空を見上げる。鳥が羽を広げて漂いながら視界を横切った。
多分、今、幸せなのだ。このまま世界が壊れてしまわないように抱きしめてしまいたい。
真はこの大きな宇宙の中で目を閉じた。
今、こうして瞼の裏の星を数え、世界の音を聞き、そして果てのない命の連鎖を魂で感じている。

大きな時間の流れの中で、この今の瞬間、高い空から屋根のない教会へ吹き降ろす風は、緑の草地に寝転ぶ小さな二つの影を捕えた。
風は鳥を空へ送り上げ、虫たちを伴いながら地上へ降りて、彼らを優しく包み込む。
その傍には黒い猫が座っていた。
猫は気持ちよさそうに目を閉じ、風の匂いを嗅いでいる。
やがて猫がそっと目を開ける。
少女が二人、草の影から顔を出して、愛らしい仕草で猫に合図を送る。
猫は少し名残惜しそうに傍らに眠る男と少年を見つめ、やがて立ち上がり、少女たちの方へ歩いて行き、途中で一度振り返った。
そして風を見上げた後、黒い猫はその風を身体に取り込んだように少女たちの方へ駆けて行き、光の中へ飛び込んで、消えた。

【幻の猫】 了
以下、あとがき?は追記に。
NEWS 2013/6/29 紫陽花百面相とダースベイダーの子育て
小説ブログ「DOOR」のlimeさんが描いてくださった竹流のイラストについての記事。
続いて読んでいただけると幸いです(^^)(^^)
さて、週末の庭の花コーナーは紫陽花百面相です。


上の2枚の写真、同じ紫陽花です。
紫陽花って、本当に不思議ですね。
土がアルカリ性か酸性かによって変わる……花が咲くための土壌でこんなにも様子が変わる。
でも、実際に同じ株で同じ土に咲いているのに、色が違う。
時には、咲いた後でも色が変わる。
移り気という花言葉ですが、この変化には深いものが含まれているような気がします。
さて、その百面相、少し楽しんでいただければ。


咲き始めは白く、そして徐々に色づいていく。でも夜見ると、真っ白に浮かび上がっているのです。
さぁ、どちらが本当の姿なんでしょうか。


上も同じ株の同じ花。


移り気なのか、変化自在なのか。あるいはその顔は始めから一つではないのか。
紫陽花には想像力を掻き立てる何かがありますね。
下の2枚は別の花ですが、紫陽花の種類って3000種類以上あるとか。


さて、紫陽花の花を撮っていたら、荷物が届きました。
AMAZONさんに注文していた本です。
以前、新聞に宣伝が載っていて、いつか読もうと思っていた本ですが、本屋に行くのが面倒で。

4歳のルークを育てるダースベイダー……4歳のルークは『何で、何で?』攻撃。
「ルーク、一緒に来るがいい」「なんで」「ほかに道はないからだ」
「どうして」「どうしてもだ」「なんで? どうして?」
もう面倒くさい、どうやらシングルファーザーのダースベイダー。

「そして父と息子としてともに銀河を支配するのだ!」
「そしたらおやつくれる?」
私としては、レイア編のほうが面白いと思いました。
反抗期のティーンエイジャーのレイア、彼女の割と男前な性格もよく出ていて、面白い。
どちらかを読まれるならレイア編をお勧めいたします。
ハン・ソロの扱いが、面白すぎて……^_^;

さらに、大好きな博物館もの。
旅に出たら、特に大きな街の場合には、必ず博物館に行きます。
日本でも海外でも同じです。博物館には、その町や地球上のどこかからやってきた太古からの記憶が眠っている。
不思議な気持ちになります。

最近、ある遺跡(古墳)発掘現場付属の博物館に行ったとき、バックヤードを見せていただきました。
下は、本のページの写真ですが、まさにこんな感じ。
この中には本当に「眠っている」のですね。
いったい、日の目を見ないものがどのくらいあるのか。
考えてみたら、もったいないような。
こうやってしまわれて、いったい何になるのか。
新聞で、〇〇博物館で(〇〇美術館で)XX発見、という記事があって、最初はどうしてそんな場所で「発見」なの、と思ったのですが、この写真を見ていたらこの中から「発見」するほうが難しいかもしれない、と思いますね。
どことも知れない土の中から発見されるか、この整理された果てのない堆積のなかから発見されるか。
大切なものは、いつでも足元にあるのですよね。
拙作【清明の雪】の章題に使った言葉、座右の銘です。
『汝の足元を深く掘れ、そこに泉あり』
この写真を見ると、『Xファイル』で、『最重要機密』として木箱に入れられて、すごい倉庫に仕舞われる『謎の物体』を思い出してしまいました。

下のような絵も好きなんです。
これは絵画ではなくて記録なので、描き手の個性はなくていいはずだけれど、それでも描き手の何かがにじみ出るようなこの記録。いつも博物館でこういった絵に魅入ってしまいます。

週末。これからリアル仕事が少しだけ忙しいので、あれこれ不規則な更新になりそうですが、時々遊びに来てくださいね。
新しいテンプレートに少し慣れてきたところですが、これ、いかがでしょうか。
小説ブログとしては、時々気がついたら誤字や脱字をチェックしているので、各記事にeditボタンが欲しいのですが、どうしたらいいのか分からないので、とりあえずそのままです^^;
あれこれ話が飛びまくっているブログですが、これからも皆様に楽しんでいただけたら幸いです。
Category: ガーデニング・花
NEWS 2013/6/29 TB:(イラスト)竹流さんを描かせてもらいました♪
こんばんは。は~、やっと金曜日。今週も乗り切った^^ジメジメした天気が続いて、ちょっと憂鬱ですが、それでも恵みの雨に感謝しつつ、頑張っていきましょう(ついさっき、ツイッターで、憧れの作家さんに返信もらって、妙にテンション高めです^^)さて! またまた、よそ様の小説のキャラを描かせてもらいました。前回の真くんに引き続き、「コーヒーにスプーン一杯のミステリーを」の大海彩洋さんのところの、御曹司、大和竹...
(イラスト)竹流さんを描かせてもらいました♪

(ブログを開いた瞬間のトップに出てこなくなると寂しいので、載せとこうっと(*^_^*))
(またまた、他人様の力を借りて……^^;)
トラックバックって、こういうこと?というのがよく分からないまま、繋がっている感があっていい感じなので、使ってみました(^^)
limeさんのブログで竹流のイラストを見ると、何だか一段と照れちゃって……
いや、limeさんのイラストだから小説ブログ「DOOR」の中にいてもおかしくないはずなのに、なぜか照れるのですね……
竹流、あなたそこにいて大丈夫?
limeさんちの純粋で透明感あふれる、たまにちょっとコミカル系もいるけど、豊かで素敵なキャラたちがいっぱいいるブログの中に、あなたのような……(何??)
とか、親心で心配してしまったのでした^^;
彼のプロフィールはこちらをご覧ください→→これからお世話になります(大和竹流)
limeさんのイラストの不思議さは、見ているだけで、作者がどんどんその気になっていくところでは、と思います。
あぁ、そう言えば、竹流って、こんな人だったわ……
毎日自分のブログを開いて、竹流を見て、うんうん、と納得している大海でございます。
あるいはオリジナルのイラストでは、そこから物語を書きたくなるような感じでしょうか。
さて、大和竹流。
複雑な生い立ちですが、特別な家に生まれて、始めから『為政者』になるように育てられた人。
だから、時々、すごく驕った感覚も表に出てくる。
結局は自分の想い通りにならないことなどないとも思っている……と思います。
ただ、完全な『為政者』になるには、少し性質が柔らかい面もある。
これは、実は育てた男(彼こそ本当の意味でのゴッドファーザー)のせいでして、可愛くて仕方がなかったんですよね。この二人の関係は、まさに映画『ゴッドファーザー』です。
残忍なマフィアのボスなのに、息子の死に涙を流して苦しむ…(でも、復讐のやり方は残忍)
そんな世界に生きてきた人ですが、野生の生き物のようなずれた子ども=真に足元を掬われてしまいました。
彼の感覚は多分こんな感じ。
『こんな生き物がこの世にいるのか』
相川真と言えば。
幼少時のお友達はコロボックル。
犬と馬の言葉はわかるけれど、人間の言葉は理解できない(過去形)。
嫌なことがあると、気を失う。
どう見ても社会にまともに順応できるとは思えないやつ。
人との距離感は上手く計れないので、一人でいるほうが楽だと思っている。
放っておいたらずっと一人でいて、自分から打ち解ける努力は全くしない。
しかも、ある時、喧嘩になって……竹流は噛み付かれてびっくりしたんですね。
いえ、もちろん、大人になってからはそんなことをしていませんけど、中学生の時ですね。
のちに言っていました。
「まさか人類という種の生き物に、噛まれるとは思っていなかった」
それに対する真の返事「だって、言葉で返したって負けるし…」
竹流「だからって、普通噛むか?」
真「……」(噛みませんよ、真くん、普通はね)
(…これは【海に落ちる雨】の続き【雪原の星月夜】に出てくる会話です)
だから、この思い通りにならない生き物を手懐けたつもりだったんですが……
結果的にどっちが手懐けられたんでしょうね……
テーマは、西洋的なストイックな叡智と、人類としての野生・感覚で生きている世界のどこまでいっても相容れない関係…なのかな。
そして、このlimeさんのイラストを見た瞬間。
ローマを飛び出し、ニューヨークである人の世話になり、その後初めて自分の力でこの日本の地面を踏んだ。
神の視点から物事を見下ろしてきた彼が、初めて、地面を、一歩一歩を自分の足で踏みしめていたのです。
多分、浮浪者一歩手前を(いや、そのものかも)拾い上げたのが大和高顕という元華族の男。
時代から取り残され、詐欺まがいで生きている(そして、時代が動けばもう生きていくことはできない)男。
虚飾と虚栄だけで成り立っている大和家の中に取り込まれている竹流の最後の1日、ですね。
その瞬間を描いてくださったのだと、確信できてしまいました(不思議)。
翌日、彼は高顕に頼まれた(詐欺ですね)仕事で東京へ。
ついでに、以前から調べていた件で相川功の家を訪ねます。
(竹流、いえ、ジョルジョ・ヴォルテラの神学校時代の先輩のお姉さんの捜索、でした。)
そこで始めて相川の一族と邂逅する。
竹流と真の関係というよりは、相川の一族が「大和竹流」を受け入れいているからこそ、この先の物語は続くのでしょう。
たとえば、真の祖父は、竹流を多分本当の孫のように思っている(あるいは親友?)。
真の伯父・功に対しては、竹流は始めて自分を、この地面の上で光あるところに立たせてくれようとした恩人だと思っている。
真の妹・葉子に対しては、生涯この娘を姫君かつ親友だと思っている。
そして真の息子・慎一。彼は竹流にとって、まさにわが子だったと思います。葛藤もすごかったけれど。
いつかこの先へ続いていく物語の『前夜』
背景にうごめいている何か。
地球儀の上に載せられた、彼のこれまでの人生。
その地面のたった一点で、明日、運命の扉が開かれる。
外は嵐、そしてこの部屋の中に、地球の重力が重くのしかかり、まさに今、風の渦の真ん中に彼は座っている。
その緊張感と昂揚感。
limeさんのイラストにそのすべてが表されているようで……
一生懸命字を書くよりも、一枚のイラストに押し込められた濃厚感のほうが強いというのがいささか悔しくもあり、嬉しくもあり。
で、猫。
これはマコト?
何かを連れてきたのでしょうね。
猫は『使い』ですから。
さぁ、1枚のイラストの重みに負けない物語を紡いでいけるのか……
これからまた、頑張ります。
limeさん、本当にありがとうございます(*^_^*)
でも、個人的には……マコト(猫)のお尻あたりと尻尾が、かわいくて……^_^;
撫でたい……
Category: ☆登場人物紹介・断片
[雨59] 第11章 再び、若葉のころ(1)
第9章『若葉のころ』の続きになります。独立したエピソードですので、これまでの本編を読んでいなくても、読めてしまいます(^^)
よろしければ、本編を無視して読み進んでくださいませ。
でも、もしよろしければ、この章の前編になる第9章『若葉のころ』だけでも……
→第9章 若葉のころへ
真がまだ初々しい高校生の頃のお話です。多分、一生の中で真が一番可愛らしかった頃かもしれません。
さて、本編のほうは、こんなお話。
新宿の調査事務所所長・相川真の同居人・修復師の大和竹流は、大けがをして入院してた病院から失踪。
怪我の理由も、失踪の理由も分からないまま、真の手に残されたのはある新聞記事。
3年半前、雑誌記者の新津圭一は(ある雑誌記事によると)政財界の名の知られた人物を脅迫して、その後自殺してた。一方、竹流はそのころ、新潟の豪農・蓮上家から見つかったフェルメールやレンブラントの贋作に関係する仕事をしていたようだった。
一体、竹流の失踪にはどういう事情があるのか。
彼の足跡を探して、事務所の秘書・美和と新潟にやって来た真は、蓮上家を訪ねた。



高校二年生の年の終わりに、長くサナトリウムに入院していた母親が亡くなった。
母親、と言っても真自身には血の繋がりはない。
相川の家に電話がかかってきたとき、それを受けたのは葉子だった。葉子は何かを問いただすような顔で真に受話器を渡したが、真は彼女の視線を避けて、無言のまま電話の相手の言葉を聞いた。
ご危篤です、直ぐにいらしてください。
短い言葉だった。直ぐに、と言われても、その時は手段が思いつかなかった。おそらく完全にとち狂っていたのだろう。電車で一番近い駅まで行って、さすがに駅からはタクシーに乗った。タクシーといっても、駅の案内所で呼びだしてもらわなければならなかった。
本当は急ぎたくなかった。できれば死に目になど遭いたくもなかった。それでも、その女が最後の息を吐き出すのには間に合ってしまった。
真が、看護師に勧められて女の手を握ると、女はゆっくりと目を開けて真っ白な天井を見た。死にゆく女の手よりも、真の手のほうが余程冷たく乾いていた。その女の目が、ゆっくりと真のほうを見て、そして恐ろしいほどに綺麗な微笑を浮かべた。その唇が何かを呟いている。思わず耳を近づけたが、実際に言葉を聞き取れたような気はしなかった。むしろ、真の目は、女の動く唇を記憶した。
そして、目を閉じた女は、そのまま眠るように息を引き取った。
混乱して、医師や看護師たちの言葉にも答えられなかった。どういう経緯があったのか全くわからないままに、気が付くと病室の外のベンチに座っていた。あとで考えると、功は、静江が亡くなった場合の連絡先は、幾つも残していたのだろう。
遺体は明日引き取ります、という言葉に真が我に返った時、傍に竹流がいて、そのまま東京に連れて帰ってくれた。竹流はその日、相川の家に泊まり、ゆっくりと優しい声で葉子に事情を説明していた。葉子は唇を引き結び、じっと竹流の目を見つめながら話を聞いていた。葉子は、真よりもよほどしっかりと事態を受け止めているようにみえた。
遺された子供たちの母親ということになっている静江の両親は既に亡くなっていたし、他の親戚は、確かに葉子のことはたまに気にしていたようだったが、現実に何らかの働きかけをしてきた気配もなく、精神を病んでいた静江のことをどう思っていたのか、事情を理解していたのか、真にはよくわからなかった。結局、密葬という形で葬儀が済まされ、その他のあらゆる手続きは、真の傍をすり抜けるように進んでいった。
女を荼毘にふした日の記憶は、もっと混乱している。最後に花に囲まれた女の顔を見ると、まるで少女のように幼く可憐に思えたが、その唇だけは死化粧にもかかわらず、異様に紅く、まだ生きていて、最後の言葉を幾度も繰り返し囁いているような気がした。
何があったのか、よく覚えていない。目を開けたとき、一人で大きなベッドの中にいた。
女の唇が最後に動いた情景を、夢が何度も繰り返していた。苦しくて、腹の中のものを全て吐き出さなければならないと思った。
真はベッドの中でうずくまり、耳を塞いだ。塞いでも、女の声はもう耳の中に入り込んでしまっていて、煩い羽虫のようにざわめいて鼓膜を刺激していた。
たけしさん。
女の唇は、最後に真の父親の名前を呼んだ。せめて、それが彼女の夫の名前だったら、いくらか真は救われたはずだった。功の言葉が耳の奥に蘇った。妻は弟を愛していた、多分今でも、と。
たけしさん。
耳の中から頭の全ての聴覚と視覚をつかさどる部分が、真の父親の名前を繰り返した。
壊れる、と思った。
どれほどの声を出したのか、わからない。まるで、赤ん坊が初めて泣いた瞬間のように、真は、記憶にある限りでは、生まれて初めて泣き叫んだ。
長い間、赤ん坊の首を絞める細く美しい手の夢を見続けてきた。苦しくて目を覚ました時、いつも考えた。もしもあの時泣き声さえ上げなければ、あの女は赤ん坊の首に手をかけようとは思わなかったはずだ。真は声を押し殺して生きていかなければならないのだと思い続けてきた。
そしてその時、身体という限られた器の中に無理矢理押し込めてきた全てを、真は苦しさのあまりに吐き出した。頭を何度もベッドに打ち付けて、髪を引き毟るほどにつかんだ手を、誰かの暖かく大きな手が包み取り、そして真を、赤児を取り上げるような手つきで抱きとめた。その手は一晩中真を抱いてくれていた。
北海道の祖父母は、長男の功が結婚式も挙げずに一緒になっていたその女性とは離婚したと聞いていたので、彼女が亡くなったら届けられるようになっていた長男の手紙から事情を知って、大層驚いたようだった。それどころか、この時点で初めて長男が失踪していることを知って、しかもそれが二年以上も前のことだと聞いて、祖父母を始め親戚はみな半分パニックになっていた。しかし、真が状況を説明もできずに唇を噛んで俯いたままなのを、珍しく祖父は叱らなかった。
自分の父親が本当は誰だか知っている。その事が功の失踪と関係があるかもしれないとも思っている。父を恋しいなどとは思わない。けれども、祖父母があからさまに実父の非を責めるのも聞きたくはなかった。ただ、自分の中の悪い血が、彼らの手元に残された自慢の息子をもう一人までもこの世から消し去ってしまったのだ、という気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。
それを、祖父は恐らく言葉にしなくても察してくれたのだろうと思っている。それどころか、あまりにも心配した祖母の頼みで、祖父も住み慣れた北海道をしばらく離れることを決めたようだった。もちろん、夏には牧場の仕事が多いのでほとんど北海道に戻っていたが、葉子が大学に入るまで彼らが北海道との二重生活をしてくれたことは、その時期の真の心には大きな支えになった。
そういった家族の存在もあって、その時期、真は東京に来てから初めて、比較的まともな生活をしていた。部活もしていたし、勉強もしていたし、つきあっている女の子もいた。
皮肉なことに、真がこの世で最も恐れていたはずの女が、死という形で真に平穏な時間を与えてくれたのだ。もちろん、その恐怖は、女が死んでしまったからといって消えてしまうほど生易しいものではなかったが、それを庇って余りあるほどに、周囲の人間たちが、まるで真がまだ赤ん坊であることに始めて気が付いたとでもいうように、それほど露骨ではなかったが、いつも近くにいて支えてくれるようになった。
誰よりも大きく存在の意味を変えたのは竹流だった。妙に優しく気遣ってくれるようになったが、その一番大きな変化は、スキンシップの度合いだった。
もっとも、それは恋人同士のものではなく、どう考えても親が子どもに対するような類のもので、育児の本に、こうしてやれば赤ん坊は泣き止むと書いてあったのではないかと思うくらいだった。
勿論、彼の他の仕事が許す範囲のことだったが、これまで以上に相川の家にも泊まりに来るようになり、食事に連れ出した日は葉子と真をマンションに連れ帰ることも多くなった。竹流は、時には全く遠慮もなしに誘われるままに、祖父母が借りていた灯妙寺の離れに泊まりに来たりもした。
小学校五年生の真が北海道を離れる時に頑強に反対した祖父は、真が東京に馴染めずに苛めにあったり登校拒否になって、時々ヒステリー発作のように倒れていたのを知って、真を北海道に連れ戻す気で、何度か東京まで出てきたこともあった。
だが、ある時功から、実は最近真が気を失わなくなった、この私の秘書のお蔭だ、と竹流を紹介されて以来、決して人当たりがいいとは言い難い祖父にしては珍しく、赤の他人の竹流に好意を示した。
人懐こいようでいて、その実は相手を冷静に判断している竹流の方も、何故か長一郎にはあっさりと屈服したとでもいうように好意を示し、全ての事柄をゲームのように軽快にこなしてしまうこの男にしては珍しく本気で囲碁の相手を喜んでしていたし、しばしば長一郎の昔語りの相手にもなった。
民俗学的視野を持ち歴史好きの祖父が、同じく歴史を学ぶことをほとんど趣味のようにしている竹流と話が合うのも道理で、彼らは真の知らないところでもしばしば二人で飲んでは語り合っていたようだった。
竹流の興味を引いたのは、長一郎が、北海道という中央からずっと離れた場所から、日本古代からの歴史をひとつの流れとして見ていて、学校で教えている歴史は大和朝廷中心の西の歴史に過ぎないと、様々な証拠を挙げて語るところだったのだろう。
竹流が長一郎のどういった部分を気に入ったのか、言葉で表すことは難しいが、まるで前世から親友であったとでもいうようで、酒の相手としてだけでなく、人生の師の一人として大事に思っていたようだ。
長一郎の方も、年の離れたこの異国人を大層気に入って信頼していたようで、それについては、長一郎の三男の弘志がことって話していたことがある。
親父はあんたのことを、もう一人の息子か孫のように思っとる。
竹流はそう言われたことを、後で本当に嬉しそうに真に語った。
そう考えれば、竹流と相川の家の間には、真に限ったことではなく、そもそも深いつながりがあったのかもしれない。随分後になって、真は、弘志とアイヌ人の女性の間に生まれた従妹から、あの人とこの家には何か切ることのできない深い因縁があるような気がすると言われて、不思議に有難い気持ちになった。
あの頃は葉子と真も、週に何日かは灯妙寺に泊りにいっていて、週末は部活の時間を除いてほとんど欠かさずそこで過ごした。その頃には葉子は真の親友と自称する富山享志と付き合っていたが、まだ高校生の恋人同士にとっては、二人きりで週末に時間を作って出かけることなどはたまの事だった。むしろ彼女はお兄ちゃんと一緒にいたがったし、真の方も、つきあっている女の子と週末にデートをすることなど、せいぜい月に一度くらいだったので、部活に行っていなければ、灯妙寺の道場で、剣道に勤しんでいた。
祖父は相も変わらず真が可愛くて仕方がない分だけ厳しく、真が来れば直ぐに道場に連れて行っていたし、それが終われば次は三味線の稽古をつけてくれた。真自身の希望など確認もせずに、傍で見ていれば剣道や三味線を飯の種にするわけでもないのに厳しすぎるのでないか、と思われるほどだったが、孫と離れる時間を惜しんでいるように見えていた。
不器用な祖父が、孫を側に置いてただ語り合ったり励ましたりしてくれるはずはなく、彼はただ武道や音楽といった行為でのみ、孫との時間を共有する方法を見出していたのだろう。
ただ学校での勉強については、祖父母には面倒を見てくれる方法はなく、そもそも塾に通うような発想もなかったし、結局は功がいたころと同じように竹流がみてくれた。
と言っても、授業のようで授業でない彼の講義は常に中学生や高校生の枠を越えていたので、勉強といっても学校で教えられるものとは全く異なっていた。第一、竹流は恐ろしくスパルタだった。世界史などはどこまで広がる話なのか、尽きるところがなかった。いきなり教科書の初っぱなから、彼はあり得ない、と言った。
「その頃の世界に四大文明しかなかったわけがないだろう。インダス、メソポタミア、エジプト、黄河、揚子江、イラク、イスラエル、マリ、メコン……世界の至るところで、文明の萌芽があった。知られているだけでも二十は下らない。いや、萌芽などという表現は適切ではないのかもしれない。我々が追いかけることのできない遥か古い過去から、文明は自然発生的に世界中のあらゆる土地で湧き起こって、しかも我々が思っている以上に豊かで交易範囲も広かった。ある意味では、その頃の文明は今よりもはるかに高い次元にあったかもしれないんだ。因みに、文明とは何だと、お前は思う?」
そういう具合で先史時代の話だけでも延々と続いた。
時々何を思ったのか、講義は日本語ではなく英語のこともあって、真も、時々一緒につきあっている葉子も、彼の歴史の講義と一緒に英語の授業も受けているようなものだった。葉子も真も、父の留学の際にカリフォルニアで住んでいたこともあって基本的な理解はできていたはずだが、言語は話さなければ記憶から消えていくものなので、竹流は敢えてそうしたのかもしれなかった。
彼は、物語のような歴史は、つまり絵本を読み解くようなものは英語で話したし、多少複雑な歴史は日本語で語り聞かせていた。アレキサンダー大王の遠征の物語も、チンギス・ハーンやナポレオンの物語も、フランスやロシアの革命も、彼の言葉で語られると、まるで映画のスクリーンに広がるように面白かった。
あるとき真は広間の座敷机で一生懸命数学の問題を解いていて、三十分で考えられるところまで考えてみろと言った竹流は、その傍の畳の上で横になって眠っていた。
ノートの数式の上に、ふわふわと漂う影が通り過ぎていく。庭先から迷い込んだ白い蝶は、光に吸い寄せられるように竹流の金の髪の上でしばらく漂っていたが、そのうち何かに気が付いたように縁側へ戻って行った。
真は蝶を追うのを辞めて、ふと竹流に視線を戻し、そのまま彼を長い間見つめていた。縁側に蝶ではなく、確かに祖母の奏重の気配を感じたが、それはそれで構わないと思った。
それ以来、他人に自分の感情を説明しない真が、どこかでこの男のことを好きなのではないかと祖母は思っていたようだった。常識を逸しているはずの感情に対して、祖母がどういう感想を抱いているのか、真は結局確かめたことはなかったが、気風のよさで知られる芸妓の家の出身である女の腹のくくり方は、真にマイナスの感情を植え付けることはなかった。
お寺では盆踊り、隣同士になった神社では桜祭りや秋祭りがあって、奏重がいつも浴衣や着物を縫ってくれた。彼女は竹流にも必ず着物を用意して、彼がいつ来てもいいように準備をしてくれていた。
高校二年生のときだったか、隣の神社の春の祭りの日、葉子に誘われてやってきた富山享志が、まるで相川家に許されたとでもいうように嬉しそうな顔をしているのを見て、真は正直気分がよくなかった。
三人で一緒に行こうよ、という葉子の誘いは断り、真は離れの縁側にひとり残って、隣から聞こえるお囃子の音を聞いていた。恋人同士のデートにのこのことついていくのも間抜けだし、仲良くしている葉子と享志を見るのもあまり楽しそうではない気がした。
色々な感情が処理できないことが分かるのか、ここのところ和尚にも祖父にも、剣道ではこてんぱんにやられている。中学生の時のほうが余程勝てる気がしていたのに、明らかに技術が伸びているはずの今のほうが、分が悪くなっている。攻撃のタイミングが甘いのかもしれないと思うが、質問しても和尚は面白そうに笑うだけで、勝てる算段がついたらいつでもかかって来い、奇襲でもいいぞ、と言った。
遅い時間になってから、もう今年は来ないと思っていた竹流が訪ねて来て、しばらく奏重と何か話していたが、縁側で三味線の糸を張り替えていた真のところにやって来た。竹流は奏重に浴衣を着付けてもらっていて、すっかり祭りに行くつもりだったようで、真に着替えて来い、と言った。真は糸巻きを合わせながら返事をしなかった。
「お前、何を拗ねてるんだ」
拗ねてなんかいるものか、と真は思った。だが奏重に呼ばれると拒否することもできず、素直に浴衣に着替えると、結局一緒に出かけることになった。
竹流は自分が目立つということを全く意識に入れていない。一緒に歩くと時々平気で腰を抱いてくる。肩ならまだいいが、腰となると、いかにも親密であるということを示すようで、真は最初の頃随分と戸惑ったものだった。
何より他人に触れられるということ自体が苦手な真にとって、それはあり得ない形のスキンシップだったのだが、慣れというのはある意味恐ろしいものだ。いつの間にか警戒するとか嫌だとかいう意識は消えてしまっていた。
祭りの人混みで身体を引っ付け合っていてもそれほど目立つわけでもないはずだが、一緒にいるのが長身で、やはりどう見ても男前の外国人となると、目立たずにはおれない。しかもすっかり日本の風俗・習慣に慣れた竹流は、神社でのお祈りの作法まで日本人以上にさりげない仕草で、かえって目を引いている。
竹流が挨拶に行くと、神主が微笑ましい恵比寿のような顔で出てくる。
この神社の由縁は鎌倉時代に遡るため、それなりの由緒正しい宝物も持っているようで、その管理や修復を竹流は請け負っているようだった。
真を放ってしばらく神主と話をしてから、竹流は実に楽しそうに真を人混みの中に連れて行く。真には狐の面をつけさせ、自分はひょっとこの面をつける。どうやら、祭りの時に面をつけるというのが必須であると勘違いしているように思える。
金魚すくいでその器用さを見せ付けると、ギャラリーの喝采を浴びるのも楽しいようで、結局十匹ばかりの金魚をもらって、綿菓子を買い、例の如く当たり前のように真の身体を抱いてきた。真は周囲を幾らか気にしながらも、もうどうでもいいか、と思い始める。葉子が、真と竹流を見つけて嬉しそうに手を振ってくる。
葉子は屈託のない笑顔で享志を竹流に紹介し、享志もお噂はかねがね、とまるで大人のような挨拶をしている。不機嫌にしているつもりはなかったが、ぼんやりと視線を逸らしていると、何を察したのか、わざとのように竹流が真を抱き寄せた。
「あんまりひっつくなって」
神社の本殿から奥の院へ階段を上りながら真が言うと、竹流はその訴えを完全に無視して言った。
「やっぱり拗ねてるんだろう」
拗ねてなんかいない、と言って真は彼の手を振り払い、階段を上った。
奥の院にも疎らながら人影がある。賽銭をあげてお参りを済ませると、さらに点々と散らばるお稲荷、山の神にもお参りをして、何故か神社に同居している薬師堂に辿り着く。
ここまで来るとさすがにほとんど人影はなかった。大きな楠が薬師堂の裏手に覆いかぶさるように繁っていて、夕方ともなると薄暗く、お堂の中の明かりだけがふわりと浮き上がって見えている。
竹流はお参りを済ませて、楠を見上げながら裏手にまわっていく。真がいくらか後れてついてくと、竹流は薬師堂の裏の縁に腰掛けて楠を見上げていた。
「まさに神の宿る木だな」
そう言って天を覆うような楠に向かって手を合わす。真は傍に腰掛け、手を合わせて目を閉じている男の横顔を見た。ひょっとこの面を頭につけて祈っていてもおかしな風情にはみえない。そう思った途端、竹流の手が真の肩を抱き寄せ、髪に触れ、目尻に口づけ、それから唇に触れてきた。
咄嗟のことで驚いたのは一瞬だった。目を閉じると、楠から風が吹き下りてきて狐の面を被った髪に触れ、頬に接する。真の冷えた唇に触れる唇は温かく柔らかで、抱かれている身体はふわりと浮き上がるような心地がした。
性的な興奮を覚えたような記憶はない。竹流がその頃何を考えていたのかも知らない。だが、キスそのものは決して触れるだけのキスではなかった。唇を随分と長い時間確かめるように吸い、啄ばみ、やがて静かに唇を割って、更に求めてくる。真がまだ歯を合わせたままでぼんやりと竹流の顔を確かめると、竹流が少しだけ唇を離し、薄闇の中でも柔らかく光を残したままの青灰色の瞳で真を見つめている。
「目を閉じて、口を開けろ」
言葉は優しく、真は逆らうこともせず、言われるままに目を閉じる。もう一度触れた唇は真の唇を割り、舌が絡み付いてくる。さっき食べた綿菓子の味がそのまま甘く舌に残っていた。竹流の手は更に求めるように真の身体を強く抱き、首筋を撫でながら肩や背中にまで触れている。真は自分のほうからも竹流の舌を吸い、絡めて、時々息を継ぐようにする瞬間にも身体が離れないようにしがみついていた。
それでも、それはまだ性的な興奮には繋がらなかった。竹流の方は、むしろ身体を抱き締めたり、頭を撫でたりすることが大事で、そのついでにキスをしている、という感じで、単に親が子どもの面倒をみる一つの方法論としてのスキンシップを、ちょっと間違えて実行してしまった、というふうに見えていた。
真のほうも、滝沢基に男同士のセックスを教えられたことがあるにも拘らず、竹流に対しての感情はひどく透明で、まるきりセックスというものに繋がっていなかった。
時々、この男とこんなふうにキスをした。けれども更にその先をと考えたことはなかった。
竹流がキスをしてくるときは、何かしら真の方に感情の僅かな波がある時が多かったように思うが、あまり関係なく、ただ竹流のほうが気分が乗っている時だったのかもしれない。いつも一度触れると、何時間でもキスをしていたような気がする。それでも切羽詰った感情にならなかったのは、それ以上を望むべくもないと、その先はないものだと思い込んでいたからかもしれない。
「で、何を拗ねてる?」
「しつこいな。拗ねてないよ」
「でも、気にしていることがあるだろう」
真は息をついた。
「どうしても、ここんとこ一本も取れない」
「和尚さんにか」
「おじいちゃんも。攻撃に移る一瞬、全部の手の内を読まれているような感じがする。おじいちゃんは特に、『気』を完全に殺しちゃえる人だから、隙が全く見つからない」
竹流は突然、真を抱き締めた。
「何するんだ」
「お前も、人並みになったってことだな」
「どういう意味だよ」
「感情があるから乱れる。そういうことだろう。恋をしたり、腹を立てたり、色んな嫉妬心で苦しんだり、だからそれが竹刀の先に出て、相手に読まれる。お前はずっと悔しいとか、勝ちたいとかいう強い気持ちとは無縁だっただろうから、無邪気に強かったんだよ。それが欲が出てきたってことだ。悪くない」
「よくないよ」
竹流は真を少し離して、暗がりの中で真の頬を両の手で包んだ。
「キスしているとき、何を考えている?」
「何って、別に何も」
「ちゃんと言葉で言ってみな」
真はぼんやりと浮かぶ竹流の髪の光を見ていた。
「細胞に戻る感じがする。深い、宇宙みたいなところで」
「こんど和尚さんと立ち会った時に、俺とキスしている時のことを思い出してみろ」
「そんなの、絶対負けるよ」
「そりゃあわからんぞ。ものは試しだ」もう一度竹流は真を抱き寄せた。「守るものがない捨て身の人間が強いというのは嘘だ。何かを守りたいと思ったとき、本当に人間は強くなる。負けられないからこそ、最後の最後まで喰らいつく」
「俺が何であんたを守らないといけないんだ」
「そういうこともあるかもしれないだろう」
この男と話していると、時々問題の次元が急に高みに引き上げられ、あるいは逆に低いところに引き降ろされて、少しの間意味が分からなくなる。そしてずっと後になって、得心することがいくつもあった。
灯妙寺の離れに帰ると、どこ行ってたの、探したのに、という葉子の声に迎えられた。多分一時間はあの薬師堂の裏で二人きりでいたのだ。神社にも姿がなく、家にも帰っていないというので葉子は心配していたようだが、奏重は全く意に介していないように見えた。
享志は既に長一郎と夕食の席についていて、真を見てほっとしたようだった。さすがに人当たりのいい享志でも、この年齢で長一郎の相手は難しいのだろうと思える。竹流は長一郎に挨拶をすると、もう既に飲む気満々で、その一瞬に真とのキスを忘れてしまったように見えた。
ほんの少し、切ない、という感情を覚えたが、それは幼い子どもが欲しいものが手に入らないと駄々をこねるのと何ら変らないものだと思える。それに真は小さい頃から、欲しいものをねだる、ということ自体が得意ではなかったし、ほとんど自分の主張を押し通したことさえなかった。
だから、欲しいものが手に入らない切なさは、十分に考えてみたことがない。欲しいと思う前に考えないようにするというのが、真の対処の方法だった。
竹流の生活について真が知っていることはわずかだった。勉強をみてくれたり、様子を気に掛けてくれて、大概は一週間に一度くらいは真と葉子のところに来てくれたが、時には月単位で姿を見せないこともあった。
彼の仕事については、本当のところはよく分からないままだったが、祖父母は竹流の言った通り、叔父の貿易関係の仕事を手伝っているという言葉を鵜呑みにした。多分、まったくの嘘でもないのだろうし、竹流が持ってくる世界各国の土産物は祖父母をかなり喜ばせた。
それ以上のことを、真も聞かなかったし、竹流も自分から話すことはなかった。



さて、青春時代の真です。
それにしても、多分、竹流はかなり勘違いしていますよね……
この人は、真はスキンシップの欠落によって難しい性格になっていると思っているんですね。
で、この難しい子どもを何とか育てようとして、あれこれ育児書を読んでいる。
心理の本も読んだと思うけれど、多分、育児書が一番役に立ったはず。
でも、スキンシップの方法がなんか間違っているような???
大体、この男にはちゃんと「妻とも呼ぶべき女」がいるんですよ。
これって、真はもてあそばれているだけ……?
いや、そんな彼の本音は、ずいぶん先ですが、第4節で。
受け所は、「祭りにお面は必須」^^;
カーニバルじゃないんだから、ね。
次回は、真のクラブ活動(#^.^#)
Category: ☂海に落ちる雨 第2節
【猫の事件】迷探偵マコトの事件簿(3)

limeさんのイラストお礼第2弾!!
ついでに。まだちゃんと推敲していないのに、またまた載せてしまう……^^;
やっぱり、『竹流とマコト』と指名していただいたので、ちょっとシチュエーションは違うけれど、前回の『新たな敵=ネコのぬいぐるみ』編の別バージョンを。
これは、リア友と話していて、あ、そうだ、真はもっとブラックかも、と気が付いてこうなりました^^;
ちなみに、前作(1)(2)はこちらです(^^)
迷探偵マコトの事件簿(1)
迷探偵マコトの事件簿(2)
【迷探偵マコトの事件簿その5:マコト、新たな敵に挑む・ビヨンド】
タケル、遅いなぁ。
あ、帰ってきた。
(でも、この間変なネコ持って帰ってきたから、玄関お迎えになんか行かないもん)
え?
……また新しいネコ?
(ふて寝)
いいよ。別に興味ないし。
どうせ、また、その変な奴と寝るんでしょ。
僕、一人で寝るもんね。
お休み。
…………
…タケル、寝たかな?
……ちょっと様子、見に行ってこよ。
(そーっとベッドに登って…)
げ。こいつ、目開いたまま寝てる。
つんつん。
動かないなぁ。
つんつん。
タケルも動かないなぁ。
…………
(ちょっと辺りを見回して…って、誰もいるわけないか)
がしっと首根っこを咥えて。
ずるずる。
ぼてっ(ベッドから落とす)。
ずるずる。
はぁ、結構おっきい。
……ずるずる。
やっと玄関だ。
(三和土に)ぽいっ!
ついでに!
踏んづけてやる!
えい、えい!
がたん!?
?????
何の音?
こいつ?
逃げろっ!
(必死で走ってリビングに駆け込む!)
あ、ドア、閉めなくちゃ!
仕返しに来るかも!
(ドアには体当たりだよ!)
(しーん。音はしないね)
ほっ。
とりあえず、敵は片づけた。
……
別に僕、一人で寝れるんだけど。
……
きっとタケルが寂しいから、一緒に寝てやるか。
お布団に頭から潜って、と。
向き替えて、と。
ここでいいか。
タケル、寝てる?(そっと見る)
あ、タケルと目が合っちゃった。
え? あいつ?
僕知らないよ。
僕、ここ来たとき、もういなかったもん。
僕、意地悪もしてないよ。
ほんとだよ。
にこにこして頭、撫でないでよ。
でも、ここはやっぱり僕の場所。
うん、結構しあわせ…………………………多分ね。



Category: 迷探偵マコトの事件簿(猫)
【幻の猫】号外:limeさんが竹流を描いてくださいました…!!

まさかの第2弾!?
な、なんと、なんと、真に続いて竹流です。
limeさん…(;_:)、本当にありがとうございます!!!!!!!(*^_^*)
カテゴリをどこに入れたらいいのか分からず、猫絡みでここに置きました(また整理するかもしれません)。
limeさんからのお言葉、一部。
私としてのポイントは、笑っているようで笑ってない竹流の口元と、ちょっと腰の引けてるマコトです。忍び足・・・w
竹流と真のツーショットは、恐れ多くて描けないので><茶トラのマコトくんにしました^^
さて、竹流は20歳くらいのイメージかな、と思い、考えてみたら、20歳と言えば、竹流が真と初めて会った歳。
というわけで、まさに翌日、相川家を訪ねて初めて真に会う前日の竹流を書きおろしてみました。
元華族の大和家に拾われている竹流。
【海に落ちる雨】始章のアレルヤで、竹流の生い立ちを書きましたが、ローマ→ニューヨークを出て日本に来て、大和家に拾われている間のことは書き飛ばしてしまったのです。だからちょっと一部だけでもお目にかけましょう、と……
猫は『マコト』ではなく、名無しの飼い猫さんになってしまっています。
次は(次があるのか!?)、竹流とマコトの話にしようかな。
以下、書き下ろしで、何の起承転結もありませんが、15Rくらいでお願いします。



【運命の輪:前夜】
竹流はふと顔を上げた。
今夜は風が強い。雨戸を叩く音が不規則に、薄暗い部屋全体を震わせている。スタンドの灯りは時々唸るような音を立てて、その度に微かに震えるように明度が変わる。傍らに置いてある古い地球儀がその変化に応えて、まるで遥かな歴史を語るように揺れている。
眠る前にこれだけは片づけておこうと、日誌を書いていた。
今日、パトロンであり、養父でもある大和髙顕が会わせてくれた相手は、日本でも有数の大きな寺の寺宝管理責任者だった。権力の側に立つ人間を滅多に信用しない竹流だったが、今日は珍しく気分よく話を聞き、次の約束まで交わして帰ってきた。彼が話してくれたことのいくつかを忘れたくなかった。
本来右利きだが、字を書くときには、昔からのくせで時々左手を使う。トレーニングのようなもので、万が一、右手を怪我しても、最低限のことは左でできるようにと幼少のころから教えられていたのだ。
幼い時、多感な年ごろを過ごした祖国を離れて、今、一人、遠い異国にいる。
この地球儀の上を何周したことだろう。
日本に辿り着き、この国のあらゆる美術品を見て、触れ、修復にまつわるあらゆる技術を見聞きし、実際に仕事として多くのことができるまでになっていた。各地の神社仏閣を歩き、仕事を手伝いながら、時に修復の仕事を任されながら、ほとんど着の身着のままでこの国を彷徨っていた時、竹流を拾い上げたのは大和高顕だったが、彼から引き出せるものは全て引き出した今、高顕は既に竹流にとって不要なものとなっている。
この家に何ひとつ、惜しいものはない。ただ一人の人間を除いて。
それに、あの男の下半身の事情にこれ以上付き合うのも真っ平だった。奇妙な性癖のある男で、自分の情事を誰かに見せたがった。
華族の誇りなど何も残らず、一方誇りを捨ててでも現世を渡って行こうという鋼のような精神も持たず、ただ崩れていく幻の城に幽霊のような住まっている男だ。それなのに、奇妙に悪知恵が働く。
既に布石は打ってあった。高顕が竹流の技術・才能を、竹流の知らないところで(少なくとも高顕はそう思っているところで)どんなふうに使っているのか、よく分かっていた。高顕のような男に利用されたままでいるつもりはない。あの男をこの国から追い出すつもりだった。
極めて冷淡な気持ちで、竹流は物事を進めていた。心躍るようなことは何ひとつない。後ろ暗いところはないが、色もなく光の気配もない。穏やかで、静かな心地だった。
だが、今日のこの昂揚感は何だろう。
嵐が来るからなのか。
いや、明日、都内に出る用事のついでに、ある人を訪ねようとしているからなのかもしれない。
この家の娘、そして恋人でもある青花が、ふざけてタロット占いをする。今日、運命の輪が正位置で出た。信じる気持ちはないが、それなら明日、その場所へ行ってみようと思い立った。
嵐は今日中に東京の空を行き過ぎるだろう。
やがて、雨戸を叩いていると思っていた音が、妙に規則正しいことに気が付いた。自然の音ではない。
竹流は立ち上がり、それほど広くはないが、本と資料で埋め尽くされたような部屋のドアを開けた。
「どうなさったのです?」
「何だか怖くて」
竹流はしばらくドアを開けたまま突っ立っていたが、やがて大和夫人を部屋に入れてやった。
夫人は小さな人で、大柄でどっしりとした印象の高顕と並ぶと、影に隠れて見えなくなるほどだった。病弱で、高顕の夜の相手ができない夫人は、夫の愛人たちの世話をさせられていることさえあった。肌の色は抜けるように白く、瞳は黒く、ストレートの髪は漆黒だった。
夫人は白いレースのネグリジェにガウンを引っ掛けただけの姿だった。少なくとも、義理の息子とは言え男性の部屋を深夜に訪れる格好ではない。
娘の青花が、母親を評する言葉は辛辣だった。
あの女狐は弱いふりをして兄さんを狙っているのよ。
初めて夜を共にした日、青花はそう言った。青花の情熱は、十六にして既に咲き誇り蜜を滴らせる大輪の花として開いていた。求められるままにほだされ、恋をしていると思ったが、どこかで冷めている自分がいた。
抜け出せなくなる前に、手を引くつもりだった。
夫人は青花のように言葉にはしない。だが、こうして深夜に義理の息子の部屋を訪れ、見つめた後でふと目を伏せて誘う。
応じたことはないし、応じるつもりもない。
この家の人間たちは、やはりどこかおかしい。
「嵐が来ているんですよ。夜のうちに通り過ぎます」
俯いていた夫人が顔を上げた。
「どこにもお行きにならないで」
女という生き物は、一体どういうことから何を察するのだろう。
計画が高顕に気付かれているとは思わない。青花にも知られているとは思わない。だが、この女だけは別だった。
「行きませんよ。少し強めのお酒をご用意しますから、召し上がったらお休みなさい」
竹流が背を向けた時、夫人が後ろから手を回し、竹流の身体を抱き締めてきた。その華奢な体のどこに、それだけの力があるのかと思うような強さだった。
竹流は黙っていた。
形は違えども、引き留め、何とかして竹流を跪かせようとする人間たち。
この嵐は、まさにそのすべてを持ち去ろうとしてくれているのかもしれない。
竹流は、自分の腰に回された夫人の白い手に、優しく自分の手を重ね、一度強く握りしめた後で、そっと手を添えてその手を引き離した。
そしてブランディをグラスに入れて、夫人に差し出す。
夫人は黙ったまま、濡れているような漆黒の瞳で竹流を見つめ、淡く紅を引いた唇を動かした。
「グラスから頂いたのでは咽喉が焼けてしまいます」
だからなんだと言ってしまいそうになる。だが、夫人には同情に値するところもある。あのような夫を持たなければ、もう少し幸せな人生もあっただろうに。
竹流はブランディを口に含んだ。そして、そっと夫人の柔らかな白い頬に手を触れ、軽く顎を上げさせると、僅かに屈むようにして口づけた。
震えるような唇の隙間へブランディを流し込む。
夫人の咽喉が震える。
その細い首を、いっそ絞めてやったら、この人は楽になるのかもしれない。
夫人がそのまま何かを呟いたように思った。聞きたくなくて、彼女の唇を割り、舌を絡めた。
嵐が窓を不規則に叩いていた。
やがて、竹流は夫人の肩を抱き、そっと、しかし決然と引き離した。
「部屋へお戻りください。きっと神の水のおかげで眠れますよ」
有無を言わせぬ口調に、夫人の表情が微かに揺れた。それは不安定なスタンドの灯りが見せた震えに過ぎなかったのかもしれない。
やがてそっと目を伏せ、夫人はガウンをかき寄せるようにして、ゆっくりと部屋を出て行った。
竹流はデスクに戻り、再びペンを取り上げた。
一緒に連れて行って、と震えた夫人の声帯から送り出された息が、まだ口の中に苦く残っているような気がした。だが、憐憫は愛情に繋がることはなく、今、運命が別の方向へ向かっていることを止めることは、もう誰にもできないはずだった。
夫人の残した息を吐き出して、竹流は一度目を閉じた。
そこへそっと忍び寄る影がある。
「やぁ、お前」
猫が一瞬怯んだように腰を落とした。
夫人が飼っている猫だった。一緒について入ってきて、出そこなったのだろう。茶色のトラ猫で、いつも不思議な黄金の目で竹流を見ている。
竹流はそっとその頭を撫でた。
「お前はどう思う? 運命の輪を信じるか?」
猫は首を傾げたように見えた。
窓を叩く雨と風の音が強くなった。
竹流の心は今、不思議と昂っていた。
そうか、俺は今、何かを信じているのかもしれない。
あした廻るかもしれない運命の輪を。
(廻るよ、明日ね…(*^_^*) by 彩洋)



limeさん、本当にありがとうございます!!
繊細で素敵な絵、さすがlimeさんです。
それに背景や全体のムードが、すでに物語ですよね!!
う~ん、本当に嬉しい(^^)
喜びを表すべく、お送りいたしました(^^)
Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)
【石紀行】9.中津川:星ヶ見岩(3)
ここには東屋があって、気持ちいい風が吹き抜けます。

こんなふうに、巨石が張り出していて、その上に手すりが(ガードレール?)取り付けてあります。下に見えているのは、ひょうたん池。
岩の端まで、滑らないように降りてみて、振り返ると……


この星ヶ見岩の周辺は7~10くらいの巨石が集まっています。
こうして巨石を写してみると、背景の空、雲まで何か意味があるように感じますね。

帰り道は別のルートを行ってみます。と言っても、地図を見てもよく分からないので、適当に降りて行きます。

巨石に移る葉陰。変わらずそこにどっしりとある巨石の上に、うつろいゆく季節の影が映る……
さて、星ヶ見岩の巨石たちともお別れです。
と言っても、公園を出るまで、巨石があちこちに顔をみせてくれるので、名残惜しいやら嬉しいやら。
まさに、巨石の森とはよく言ったものです……
歩道にもこんなふうに、石が。

先にも書きましたように、この星ヶ見公園の巨石たちには、人為はほとんど感じられません。
あるがままに、私たちを迎えてくれている感じです。
星が見えるという伝説の真偽については確かめられませんが、古代の人がここから北極星を眺めた…かもしれないと思うと、何千年も前から、人類は星を見つめてきているんだと不思議にありがたい気持ちになりました。


野の花たちも、ありがとう。
さて、以下は本当におまけ。
この日泊まったのが養老温泉。養老の滝って名前はよく聞くけど、それはもしかして、飲み屋の話?
これが、くだんの養老の滝。
写真からマイナスイオンが伝わったらいいなぁ。

旅館で頂いた鮎。

飲み比べの日本酒。どれも飲みやすいものばかりでした。
少しの酒と、美味しい料理。言うことはありませんね。

というわけで、次回の石紀行は?
(マルタの巨石神殿、少しお待ちください(^^))
Category: 石の紀行文(写真つき)
【石紀行】9.中津川:星ヶ見岩(2)

とにかくすごい、と見上げるばかりです。

何だか、クジラの顔みたいだと思いませんか?
この下をくぐってみます。

見上げると、こんな感じです。

反対側から見ると…やっぱり人の顔のようにも見えます。
巨石に「北辰門」と刻まれています(こっちが表側だったようで、どうやら裏から回って来ていたようですが……どっちでもいいはず)。古代中国では、北極星が北辰と呼ばれていたそうです。
この北辰と刻まれている岩の下に潜れるようになっています。

説明には「巨大な花崗岩が節理に従って割れ、長い年月の間にずれてできた空間、岩の間から仰ぐと、昼間でも星が見えると言い伝えられている。この割れ目の方角は南北、南面入口に北辰門の文字が彫られているように、この割れ目から北極星を見ることができる」
えーっと、どの割れ目?
正直よく分かりませんでした。これかな?
確かに暗いんだけど、星が見えるほどでは……

でも、もしかすると、もっと蜜に重なっていたのかもしれませんね。
実際に、巨石同士が互いにもたれかかるようにして隙間を維持しているので、年月の間に形が変わっているのかもしれません。

さて、低い石室(と言っていいのか)の奥へ進むと、また別の岩との隙間があります。そこに、妙見大菩薩の石碑があります。妙見大菩薩は北極星を神格化したもの。この石碑には1850年の年号がついているようです。


外へ戻ってみると、こうしてもう一度石の大きさを感じます。

思ったよりも写真が多いですね。
リベンジだから力が入っていたようです。
その(3)に続く…^^;
Category: 石の紀行文(写真つき)
【石紀行】9.中津川:星ヶ見岩(1)

ここは岐阜県中津川の星ヶ見公園です。
もしも興味を感じて行ってみよう!と思われたら、カーナビの設定は「中津川市民病院」です。
すぐそばに、この道を入ってもいいのかしら?と思うような小道があり、渓流があって釣りをしている人もいて…すでに星ヶ見公園の中に入っているようです。取りあえず細い道を進むと、駐車場があります。
昨年来たときは、この駐車場にも気が付きませんでしたが、今年は少し進歩。
公園といっても、ちょっとした登山道。
池沿いに周回を回って行くと実は近いようですが、ここは敢えて御嶽神社の鳥居をくぐって行きましょう。

この公園は敷地面積15.1ヘクタールあるそうで、その中に巨大な岩がゴロゴロ……
花崗岩で、どれも数メートルの高さ、直径も数メートル以上~びっくりするくらい大きいものもある。
岩というより床みたいなところも。
ちなみにこの地面、花崗岩の崩れたものなのか、妙に滑ります。
(去年滑って、大変なことに……^^;)
巨石の森に入って行ってみましょう。



あ、これはどこかで見ましたね……
思い出の岩? この斜面でこけました。ものの見事に足を捻り、動けなくなりました。
注意一秒、怪我一生ってこのことですね。
それもそのはず。もう大興奮状態だったのです。
巨石、巨石、巨石……前を見ていませんでした。

ご覧ください、この岩の肌の感じ。どうなってこうなって、こんなにごろごろしているのか……
ちなみに、ここはこれまでご紹介した巨石たちの中でも、極めて自然度が高いところです。
人為が感じられず、そのままそこにある。

頂上にあたる場所は、おそらく拝殿と考えられる大きな岩とその上に据えられた小さな祠があります。
そう言えば、鳥居を最初に潜りましたものね。
ご神体は、神社の名前から木曾御嶽山でしょうか。
この雲の不思議な流れ、まるで向こうの御嶽山から流れ込んでくるようです。

こんなところを歩いていきます。
横にゴロゴロと巨石が見えています。
そして、看板によると、そろそろ目的の『星ヶ見岩』なのですが……

階段発見。登って行ってみましょう。登った先を降りて、右に折れると……
見上げれば、木々の中に巨石。


どうなっているのか、正直分からない、それも巨大すぎて、全体像が全く不明です。
ということで、その(2)に続きます。
Category: 石の紀行文(写真つき)
NEWS 2013/6/24 織田信長が見た景色

長野県某市の某屋上から見たある日の夕方の景色。
高い建物はほとんどなく、畑や田んぼと家が平たんな土地に並び、その向こうに日本アルプス。
最近思うこと。
生まれ育った土地、今暮らしている土地で毎日見る景色、それが人を決めているんじゃないだろうかと。
世界遺産になった富士山。
あの雄大な山を毎日見て暮らしている人と、大きな都会の下町で人間同士の息遣いが近いところで育った人。
太平洋へ開かれた大きな海を見て少年時代を過ごした人と、古い寺や神社の境内を遊び場所にしていた人。
良し悪しじゃなくて、目に見える景色はその人の人となりの大きな部分を占めるんだろうなと思います。
そう言えば、太宰治は、津軽富士、つまり岩木山こそは天下随一の山と思っていた。
でも、東京に出て、富士山を見て打ちのめされる、でも認めたくない。
そういう井の中の蛙のくせに頑強なのが津軽人だと、そう書いていましたね。
このたび、リベンジで中津川の石を見に行き、関ヶ原の近くの養老温泉の旅館まで移動する間に、初めて岐阜城まで登りました。
下から見たことは何度かあるのですが、一度も登ったことはなかったのです。
で、その時、母と話していたのが景色のこと。
『織田信長の見た景色を見よう』
斎藤道三でもいいのだけれど、天下を取ろうと思うような人は、きっと何か特別な景色を見たはずだ、と。
斎藤道三は、もう少し遅く生まれていたら、自分が天下人を目指していただろうと言われていますよね。
織田信長は、どの時点で天下人を意識したのだろう…
やっぱりこんな景色を見た時かも。

丁度いいんだろうなぁ。やたらめったら高いところからではなく、見える景色は自然の雄大さばかりではなく、向こうまで続く平野の景色、川が流れて、町が広がり、眺めれば自分が一国の主であることを実感させてくれる光景。なるほど、この大きさなんだな、と。
大きすぎず、小さすぎず、この一国(美濃)を制したものが天下を制すると道三や信長に思わせた景色。

さて、残酷だったとも言われる信長氏。
でもあの時代、本当に彼のしたことがすべて残酷だったわけでもエキセントリックでもなかったかも……
敵将のしゃれこうべで黄金の盃を作って酒を飲んだのが残酷?
今の我々の基準で判断してはいけないのではと思う。
時々戦争をして、景気を取り戻していた時代なのです。
戦は景気を回復する手段だった……
人を殺すようなことが、と思われますでしょうか?
でも、あの時代、天災と病気と餓えで死ぬ人のほうが、戦で死ぬ人より遥かに遥かに多かった。
そういえば、日清・日露など戦争で景気が良くなったかの時代、太平洋戦争を始めたのは、やはり行き詰まった景気を回復したかったからだ(戦争をしたら、景気が良くなる!)とも。
のちの時代から、以前の時代を責めるのは、後出しじゃんけんですので、この件で、現代のわれわれの誰一人として、当時の人々の誰をも責める権利はない。
でも、反省材料にすること、そこから何かを学ぶことは大切なことだと思います。
さて、話は戻って。
戦をし、領土を広げる、そして民を潤す。
民が喜んで戦に参加したのは、戦の時は無礼講で、略奪や女を手籠めにするのは当たり前だったから。
そうでなくても、子どもの三分の一くらいは病気や餓えで亡くなっていたのでしょうから…
それが普通の暮らしだったのかも。
そういう戦国時代の民の暮らしを書いた本によると、武田と上杉の闘いが勝敗がつかなかったのは、つけなかったからなのだとか。
勝ちすぎても負けすぎてもいけない。適度に勝って、適度に負ける。
相手に体力を残すのは、また小競り合いをして、細く長く民を潤すためだとか。
勝ちすぎてしまったら、褒章として差し出す土地なども多く必要になるわけで……
そう、その中で、敵将のしゃれこうべは勝利の証だった。
比叡山の焼き討ちも……
あの時代の比叡山は、ひとつの大きな戦闘集団・政治的勢力だった。
つまり、宗教というよりも、信長にとっては、あるいは当時の他の人にとっても一つの別の国だったのかも。
そもそも信長は下戸だったと言います。
彼が酒を飲んで…というエピソードは全て嘘で、信長公記にはそんなシーンは一つも出てこない。
強い男=酒も強い、という後世のイメージが作り上げた「お話」なのです。
信長が茶の湯にのめり込んだのも酒が飲めなかったから。
彼の顔は、典型的な「弥生人」(この言葉の使い方にはいささか疑問があるけれど)とか。
「弥生人」はアルコール分解酵素が少ない種族で、それが現代の日本人にも繋がっている。
ちなみに全然酔わないあなたは「縄文人」(この分類もどうかと思うけれど)。
この国の王になろう(天皇になり替わろう)とした人物は歴史上に三人いると言われているけれど(平清盛、足利義満、織田信長)、そういう点では、世界を違う方向から見ることのできた人かも知れない。
平清盛も、宋との貿易をめざし、外国を意識することで、日本という「国」を意識した人。
義満はいささかイメージが違うけれど、織田信長もやはり世界を意識した人。
地球が丸いと宣教師に言われて、理屈ではなく直感で理解したというこの男。

ルーペ、望遠鏡、地球儀。伴天連たちがもたらす異国の様々なものや考え方。
摩訶不思議なものに動じず、確かめ、時に利用し、ただ役に立つものを選び取っていった。
それが時には残酷と思われるのかもしれませんが、やはり彼の人気は絶大ですね。
岐阜城には人がいっぱいいました。
ロープ―ウェイは高所恐怖症の私にはいささか辛かったですが…しかも上に上がってからも、結構歩きます。
お城は昭和31年に作られたもの。だから、何があるというわけでもないのです。
展示されているものも複製がほとんど。
でも、彼が見たであろう景色は……priceless……かな?
そしてこれ。


資料館に、彼の名前を冠した、もしくは彼が登場する本が並んでいました。
全部ではないのかもしれませんが、これを見ても、彼の人気が絶大であることが分かります。
そういう意味では、彼は天下を取ったのかも。
何しろ、子孫も繁栄しているし。家系図を見ると、ものすごいです。横にも縦にも…^^;
スケートの彼もいるけれど、そうそうたる流れが現代まで続いている。
そう言えば、実は濃姫というのは、最後まで信長についていったというのは後の創作。
公記では、16歳と15歳で結婚した……以後、信長が斎藤家を滅ぼして以降、まったく名前もでてこない。
実は、信長は、後家さん(というよりも一度は子どもを産んだことがある女性)を多く妾にしていたとか。
理由は、「産めよ増やせよ」で、一度産んだ女性は産まず女ではない、つまりまた子を作ってくれるという理由だったとか。
う~ん、興味はあるけれど、あまりお近づきにはなりたくない人かも。
さて、なぜ信長?
実は、いつか書きたいと思っている時代小説がありまして。
信長は直接出てこないのですが、おやかた様に恋していた少女の壮大なるお話。
秀吉と家康と利休は出てきそう。
そしてこちらが我が家の信長コーナー。例のごとく、二重になっています。

いつか、きっと。
そう決意した、岐阜城からの景色でした。

さて、先日の記事でもできたこの写真。
似ていますが、実は別の写真です。
先日の記事の写真は去年の9月のもの。
この写真は、一昨日のもの。
そう、ここでこけて、その先を見ることができなかった私にとって、この向こうは未知の世界でした。
次回、石紀行【ついに見た!星ヶ見岩】(リベンジ・中津川)、少し準備にお時間を下さいませ(^^)
Category: 旅(あの日、あの街で)
NEWS 2013/6/22 中津川リベンジに行ってきます(^^)
【海に落ちる雨】は更新予約されています。
その間、比較的気に入っている別のテンプレートをお試しです。
これは、
カテゴリをクリックしてもトップにリストがない(前のはあった)
各記事にもeditボタンが欲しい
コメント書き込み欄が小さい
くらいがクリアできたら、最高なんだけど。
あるいは、前のほうが見やすいかなぁ?
⇒

ひとつ前のテンプレに戻しました。
小説はカテゴリから入っていただけると、リストが出ます(^^)
editボタン、欲しいよ~

この道の先に……
あれは昨年の9月。
7月から2か月間苦しんだ眩暈から何とか立ち直り、金沢に出張しました。
帰りに岐阜県を南下してきて、金山巨石を見て、そしてこの中津川の星ケ見岩に向かって歩いていたのですが。
こけまして。
山の中で。
雨の中でこけたlimeさんと同じように、まさにスローモーション。
あ、これは本当にまずいよね。
このままこけたら、大変なことになる!
でも何もできず、予想通りの形にこけて。
そう言えば、危機に際して、人間は物事がスローモーションになる。
それなら、高所恐怖症の人がバンジージャンプとかで危機的状況を作ったら、視界の流れがゆっくりになって、落ちながら字がたくさん読めるのじゃないか?
なんてバカっぽい実験をしていたなぁ……
結果は、そんなことはないということらしく。
ゆっくりになるのは、脳の防御反応、錯覚なんだとか。
それはともかく、中津川の星ヶ見公園の山の中、今まさにこけかけている私。
こけた時には、その瞬間に、もうこれは立てない、と思った。
それから、いったいどうやって山を降りたのか、もう火事場の馬鹿力としか言いようがありません。
近くに落ちていた竹の棒を杖にして、這うように、縋るように……
捻挫した方の足はもう全く動かず。
そして中津川の病院を救急受診。
どうでもいいから、神戸まで運転して帰りたいんです。
え?
途切れる会話。
そうね、確かに無謀よね。
知っているのよ、でも明日は仕事があるのよ。
それから大雨の中、どうやって神戸にたどり着いたのやら……
数日は車いす、その後数週間は松葉杖。
何か月もリハビリ。
そして、今でも、雨の日には足がずきん、と痛みます。
でも、行くよ!
今回は長野県でお仕事。
地図を見たら通り道じゃありませんか。
中津川。
星ヶ見岩。
昼間でも岩の隙間から北極星が見えるという岩。
あの角を曲がったら、その先にあったはずなのに、もう一歩も動けなくて、山を降りるしかなかったあの日。
ザ・リベンジ・中津川。
きっとあの山は、私にもう一度来てほしかったに違いない!
というわけで、帰ったら、ほやほやの巨石紀行、入ります(*^_^*)
こけなかったらね……
Category: NEWS
[雨58] 第10章 県庁の絵(4)
しかし、彼の足跡はやはりわからないままだった。新潟のどこかに彼がいるのか、それとも。
失われた同居人とつながる何かを必死で思い出し、足跡を探す真。
豪農の館に眠っているのは、過去の亡霊たち…?



上蓮生家は下蓮生家よりもこじんまりとした造りだった。あの壮大な本家の建物を見た後なので、そう思えたのかも知れないが、入母屋造りで、明治の初期に造られた日本瓦葺の家だった。呼び鈴を押すと、凛とした冴えた表情の女が現れて、真が訪問の趣旨を告げると、あっさりと通してくれた。
応接室は洋風のインテリアで、革のソファに座って待つと、かなり年配の女性が紅茶を運んできた。それから直ぐにこの家の女主人が現れたが、それはさっき真と美和をここへ案内した女性だった。女性は髪を結い上げていて、上品なグレイのスーツ姿に着替えていた。
「東京の雑誌社の方ですのね。時政から伺っております」
真と美和は顔を見合わせた。手回しがいいように思えたからだった。
「実はたまたま蓮生邸を見に来たものですから」
それには何とも答えずに、女主人は真に灰皿を薦めて、自分も煙草を取り出した。年は四十にはなっているだろうが、肌の艶も表情の張りも、十分現役の美人と言えた。
「本当に雑誌社の方?」
真を正面から見て、彼女は問うた。真は思わず返事も忘れて彼女を見つめ返した。
「絵が盗難にあったのじゃないかとお疑いだったとか」
「いえ、それはちょっと弾みで」
女主人は余裕のある笑みを見せた。
「自己紹介が遅れましたわね。私、上蓮生の主で千草と申します。あなたも、本当の目的と身分をおっしゃってください」
真は美和ともう一度視線を合わせた。
「私、嘘をおっしゃる方は直ぐに見分けられますの」
蓮生千草は不思議な笑みを見せた。真はひとつ息をついて、名刺を差し出した。千草は真から視線を逸らさないまま、その名刺をテーブルから取り上げた。
「調査事務所って、すなわち探偵さん?」
真はとりあえず頷いた。千草はその名刺をテーブルに戻して尋ねた。
「何をお調べですの?」
「絵のことです」
「絵の、何を?」
「あの絵がどういうルートでここにあるのか、ということです」
「それは、どなたかから依頼を受けて?」
真は暫く用心深く千草を見つめていたが、今更嘘が通用するとも思わなかった。
「いいえ。実はその絵に関係して私の友人が失踪してしまったので、彼の行方を捜しています」
千草は暫くの間、真を真っ直ぐに見つめたままだった。
この女には旧家の主という誇りが感じられた。さっきの下蓮生の若旦那とは全く違う、高貴で優雅な誇りだった。
「その方があの絵とどういう関係が?」
「それは多分、あの絵の出所と関係があるのではないかと思っています」
「蔵から見つかる前はどこにあったか、つまり、下蓮生があれをどうやって手に入れたのか、ということをおっしゃっているのですね」
真は頷いた。千草はまだ真を見つめていたが、やがて煙草を一つ吹かすと、ふと天井のほうを見上げ、また真に視線を戻した。
「下蓮生の主にお会いになったかしら?」
「というと、若旦那さんではなく?」
千草は煙草の灰を落とした。
「あぁ、あれは駄目な男よ。もっとも、ああいう男だから生き延びたのかもしれませんけど」
「生き延びた?」
美和がその言葉を繰り返した。
「お聞きになりませんでしたかしら。呪われた蓮生の話」
「本家の跡継ぎが皆、亡くなられたという話ですか」
千草は何とも言えない不思議な笑みをこぼしたように見えた。それはそういう伝承が馬鹿らしいと思っているが、こういう旧家の者としては伝承も馬鹿にはできないのだ、少なくとそれを信じる人間が周りに多ければ、対応はしなくてはならないのだ、という自嘲のように真には思えた。千草はまた一つ煙草を吹かした。彼女の細い綺麗な指には血の色のようなルビーの指輪が嵌められていた。
「下蓮生のご主人は、その」
真が言いよどんだのを千草が引き取った。
「ボケたって聞いたのでしょう? あの人がボケたのは、門と蔵が焼けてからよ」
「放火だとか? 犯人は分からないのですか」
すかさず、真は問いかけた。
「犯人は分かっているのよ。何故って、状況から言って明白ですから」
「明白?」
千草は脚を組みなおした。綺麗な脚で、思わず視線がいってしまった。美和がそれに気が付いて、真をちょっと睨んだように見えた。
「灯油を撒いて火をつけたのよ。下蓮生の主人がその現場に突っ立っていて、灯油の匂いをさせていたんです。これは私の勘だけど、彼はボケた振りをしているのじゃないかと思っていますわ。本当のことを話したくないからでしょうね」
「本当のこと……」
その言葉を真はただ繰り返した。千草の視線は痛いほどに突き刺さってきた。それはまるで身体の芯を燃やされるような視線だった。内容は全く異なるのに、この蓮生の家の人間は特異な視線を持っているという共通点があるように思えた。見つめられていると、身体がそれに反応してしまうような。
思わずさっきまで受けていた、下蓮生の若旦那のねっとりとした目つきを思い出した。
「私が子供の頃には奇妙な鞠つき唄があって、子供たちがそれを歌っていました。母は本家の脇腹の子でしたが、私がこの唄を耳にすることを拒みましたから、何か蓮生に関係のあるものかもしれません。異国から女の子がやって来て蔵に閉じ込められてしまった、夜になるとお国が恋しくて泣いていると」
「女の子?」
「何かの比喩かも知れませんわね。絵が略奪されてきたことかもしれませんし」
真は、千草がそういった様々な過去からの連鎖を全て飲み込んで、この強い視線を送ってきているのだと思った。
「あなたは、その絵をご覧になりましたか」
「えぇ。弥彦の江田島さんの鑑定に立ち会いました。更に詳しい鑑定が必要だというので東京にも行きました。正直言って、本物でも贋物でもどちらでも構わないと思いましたわ」
「絵は火事の後、蔵の整理をして見つかったと聞きましたが、その後はどこに保管されていたのですか」
「見つかった当初から県に寄贈することになっていました。本物なら美術館に行くところだったんでしょうけど、偽物と分かって、それでもそれなりにはいい絵だというので、県庁にでも飾ることにしたんでしょう」
千草は興味深げに真の目を見つめている。それは悪意でも善意でもないように思える。
「あの二枚だけではありませんでしたよね。他にも、レンブラントやデューラーの作品があったと聞いています」
「そうね、専門家が科学的に分析して贋作だと鑑定した絵ばかりでしたけど」
「本物が混じっていた可能性はありませんか」
千草は面白そうに笑った。
「誰かが悪意を持って、偽の鑑定をしたということかしら? それとも偽の鑑定をするように私たちが仕組んだのかしら?」
「あなた方にその気がなくても、悪意のある人間はいるかもしれません」
「さすがに、そこまでは責任が持てませんわね」
千草は何かの合図のように、細い煙草を灰皿で揉み消した。
絵が見つかったのが偶然だとしても、利用価値を見出した人間にはいつでも必然に転じる機会があったはずだと、そう思った。だが、それ以上、何かを千草に確認するきっかけはなかった。真は礼を言って、上蓮生家を辞した。
新潟に戻ってホテルにチェックインすると、疲れきって出掛ける気もしなかったので、ホテルの中で簡単に食事を済ませた。珍しく美和が少食だったので気になったが、昼間の言い合いがまだ美和の気に障っているのかもしれないと、そう思った。
だが、聞きただすことはできなかった。
何よりも、万代橋の夜景でも見ながら言葉を尽くして美和を慰めてやるほどに、自分の感情が熟していないことを、真はよく分かっていた。それでも、責任のある立場としては何かの行動を起こすべきはずだったが、それもできないままに、美和がシャワーを浴びている間に真はさっさとベッドに潜った。
水音が止まって、美和がバスルームから出てきたのを背中で感じながらも、真は身動きもしなかった。美和の気配は背中に突き刺さるようだったが、どうしても声を掛けることができなかった。
竹流が病院から消えてまだ何日も経っていないのに、その日の事が随分昔のように感じられる。一秒一秒が彼と自分の間を引き裂いているようでたまらなかった。今日、あの額縁を見たとたんに、自分自身の感情の中の何かが否応無しに反応してしまった。それを美和にどう説明していいものか、分からなかった。
高校生の頃から、どこかでそういう自分自身の心の向かう先を自覚していたかもしれないが、何となく認められなかった。ちゃんと女の子と付き合っていたし、それについて不自然な自分を感じたこともない。自分が特別な性に対する嗜好を持っているとも思わない。大体、そういうことを公言して憚らない北条仁のような人種と一緒いても、仕事で出会うその手の連中に誘われても、特別自分の中の何かが刺激されると思ったことはない。唐沢風に言えば、相手は誰でもいいから尻を差し出して突っ込んでもらいたい、などとは全くもって思ったこともない。
そういう行為自体は女の子とするものだと思っていたし、それにちゃんと興奮している。美和のことも、心から愛おしいと思っている。それなのに、どうしてもそれだけでは満たされないでいる。美沙子と付き合っていたときもそうだった。確かに彼女を好きだったと思うのに、彼女と会って、別れ際に離れたくないと思ったことがなかった。葉子の手を握りしめることができなかったのも、ただの優柔不断と言ってしまえばそれだけのことだったが、どこかでやはり迷っていたのだ。
それが恋や愛だとは思わない。むしろ、それは生存のために絶対に必要な何かだった。
そう思うと、俺は、親を捜して彷徨っているアヒルの子と変わらないな、と感じた。それならば、やはり武史に会ったことが自分の感情を刺激したのかもしれない。
あの人が親だとはどうしても認められない。母親に至っては顔も知らないし、生きているのかどうかも知らない。
「眠れないの?」
何度も真が寝返りをうっていたので、美和が気にしたようだった。
「すまない」
美和は少しの間黙っていたが、小さな声で言った。
「大家さんのこと、心配で?」
彼女に説明してやる言葉がなかった。心配というのは頭を使ってすることだ。だが、実際は頭以外の部分であの男の不在を嘆いていた。いや、それはむしろ恐怖に近かった。彼が留守のことなど珍しいことでもなかったのに、無理矢理にもぎ取られたことが深く堪えているに違いなかった。
真には幾つかの恐怖の種があって、時々予告もなしにそれが芽吹くことがある。自分がこの世に存在しているのが、何かの間違いだったと思っているからかもしれない。
子どもをその手に抱いて間もなく引き裂かれた両親が、どういう経緯であっさりと子どもを諦め、捨てていったのか、澤田の言うように、彼らが真が生まれてくるのを本当に待ち望んでいたのだとしたら、何故簡単に捨ててしまえたのか、理屈で何を説明されても、真の頭は理解できないような気がしている。
父親に対して何の感情もないと思い続けてきたのに、実際に会えば、わけのわからない心のうちの暗い塊が増幅して渦巻いているような感じがする。
母親というものについては、全く想像さえできない。唯一想像されるものは、自分の首を絞めた人だけだった。その人を自分の母親として認識しているのではないが、心の底に女という生き物に対する恐怖があるのだろうか。
いつか、ゲイバーのチーママの桜が言っていたことは、真にもあてはまるのかもしれない。彼(彼女?)は子どもの頃母親に虐待されていて、女に対する潜在的恐怖があってホモセクシュアルになったのだと、精神科医に言われて治療に通っていた事があるらしい。女性に対する曖昧な不安や恐怖が、性の嗜好に影響しているという理論だ。しかし、桜はそういう時期を乗り越えて、今や逞しい『オカマ』に成長した、と本人が語っている。
『あたしの場合はねぇ、本当にただ男が好きなのよ。それを医者が理屈付けしたから却って悩んじゃったのよね。女と寝たこともあるけど、あんまり良くなかったのよ。認めちゃったら、何だ、それだけのこと、って、そういう感じ』
桜の場合とは違って、自分は女性との行為には身体はちゃんと感じているが、ただ感情の中では、心から彼女たちを信じていないのかもしれない。葉子の手を握りしめることができなかったのは、それでもやはり、彼女が自分の首を絞めた女の血を引いているという、恐怖の黒い塊が心の底で渦巻いていたからなのかもしれない。
だが、桜と違って、自分は父親という種類の生き物に対しても、どこかで恐怖を抱いているのだ。だから、そういう性癖に走らなかっただけかもしれない。
結局は、自分は存在の始めに、待ち望んでいたはずの両親から否定されたのだと、そう思っているのだろう。だから、足元が崩れてしまっていて、何よりも人間を恐怖している。それでも、懸命に何かを信じたいと思う気持ちが、具体的な対象を求めて彷徨っているのだろうか。子どもの頃は、それが馬や犬たちやこの世にはいないあやかしたちで、ある時からそれが別のものになっただけなのだろうか。
自分自身の中の黒い何かが咽元を締め上げるように思う時はいつでも、あの男が黙ったまま抱き締めて慰めていてくれた。そして、今ほど不安で堪らない時はないのに、彼がいないのだ。
それを頭ではなく、心と身体で感じている。



さて、次回は再びの『若葉のころ』です。
真、高校生、剣道部に入部して、ちょっと青春しています。
こちらもまた独立した回想の回ですので、本編の流れとは関係なく読むことができます。
よろしければどうぞ、お楽しみください。
Category: ☂海に落ちる雨 第2節
[雨57] 第10章 県庁の絵(3)
新津圭一は、真が付き合っている女・香野深雪の昔の男で、不倫の関係だった。
新津圭一が脅迫していた相手は、政経済界の名のある人物たちで、その内容は『IVMの件で』だったというのだが、そのIVMがフェルメールの署名であることが判明。
フェルメールが絡んでいるのなら、大和竹流とつながってくる。
竹流は三年半前、新潟の豪農の家から出たという大量の偽物の絵画と関わっていた。真と美和はその豪農の屋敷を訪れる。
2回に分けて、新潟・村上~荒川の豪農の屋敷を訪れてみます。



村上までは国道三四五号を約六十キロ、日本海沿いに走る。内陸から国道七号を走る道もあったのだが、距離的には大差もないし、海岸沿いの景色が多少は自分たちの感情を宥めてくれるように思えた。雨が上がった後の冷めた海の色を見つめていると、重いはずの日本海の海も、光に満ちているものだと思えた。
美和はもう何も言わなかった。真も何も話さなかった。
彼女が自分の女でなくても、大事な存在であることは変わらなかった。それに、本当はむくれられているほうが辛かった。機嫌を直してくれればいいと思っているのも事実だった。
村上市が近づくと、海岸沿いにホテルや旅館がちらほら見えてきた。右手に山、左手に海を見ながら、そのうち国道は内陸に入っていった。更に旅館やホテルが続き、暫く走ると駅が見えてくる。線路を越えて、時政が書いてくれた地図を頼りに、新多久という料理屋を目指した。
村上といえば漆と鮭。どちらも歴史が古く、鮭は市内の三面川で平安時代から漁が行われていたという。残念ながらシーズンは鮭が川に戻ってくる十月中旬から十二月だが、それぞれの季節料理も美味いというので、時政が予約を入れておいてくれた店だった。
料理が運ばれてくると、美和も機嫌を直してくれたようだった。いくら何でもこんなところで放り出すわけにもいかないし、美和の方もそう思ったのだろう。相変わらず食欲だけは旺盛で、鮭が彼女を元気にしてくれるように見えた。
時政の伯父、蓮生の家は山のほうに向かった羽黒町にあった。山を背景に屋敷が建っているので、まるでその山ごと敷地に含まれているように見える。屋敷の規模は想像していたほどでもなかったが、庭園は想像よりずっと大きい。
表門は新しい木と瓦でできていた。呼び鈴を押すと、随分とたってから御手伝いと思しき四十台くらいの女性が出てきて、門の横の潜り戸から顔を出した。
「『歴史紀行』の相川と申します。時政さんに御紹介いただきまして……」
「はい、伺っております。どうぞ」
潜り戸の向こうは、家の玄関まで実に立派な枝振りの松が幾本も植えられていた。玄関までかなり歩いて辿り着くと、建物の中はそのまま土間で、囲炉裏の間がまず正面にあった。土間は入り組んで奥まで続いている。思わず天井を見上げると、その立派な梁に驚かされた。重々しく黒々とした欅の梁だった。
「どうぞ、お上がりください。今若主人が参ります」
女のイントネーションは綺麗な標準語だった。真と美和は薦められるままに上がって、囲炉裏の側に並べられた座布団に座った。
程なく『若旦那』が現れたが、既に五十歳は越えているだろう中年の男だった。背は高くなく、ガッチリした肥え方だった。身体つきのしっかりした感じとは不釣り合いにも、顔つきはどこか自信のないイヌ科の動物のようだった。
「絵の事で何か聞きてえことがあるというのは、あんたか」
幾分か横柄な態度で若旦那は切り出した。囲炉裏の向こうにどっしりと腰を下ろす。真は例の偽の名刺を差し出した。
「『歴史紀行』では今度『贋作の歴史』という内容で記事を書くことになりました。ここからフェルメールやレンブラントの絵画の贋作が見つかったとお聞きしましたので、時政さんにご紹介いただきました」
「何でああいうものがうちから見つかったか、っつうのが聞きたかったんだべ」
「えぇ、それが歴史的にどういう意味づけになるのかを考えていきたいと思っています」
若旦那は真を頭から足までとっぷりと見て、次に美和にその視線を移した。自信のないイヌ科の動物のような顔つきだったが、目だけは執拗で、見られた後まで身体に残るような視線だった。ある意味では性的な興奮に繋がるような視線で、人間の中の不可解な反応を引き起こすような何かがあった。
美和が横でほんの少し身震いしたように思った。
「あれがうちにやって来た経緯は、わしには分からん。うちのじっさんは知っとるだろうが、あいにくボケちまって話になんねぇ」
真は身体にまとわりつく若旦那の視線を受けながら、それを振り払うように尋ねた。
「色々と噂もあったようですが」
「日露戦争の頃のことだべ。そういうことがあったかもしれんし、なかったかもしれん。わしらはご先祖様が何をなさったか、よくは知らん」
若旦那はそう言って天井の梁を見上げた。
「これだけの屋敷を維持していくだけでも大変なもんだて、財産も少しばかりは食いつぶしていかねばなるめぇて、蔵の中からいくらか売ったんだ。その時にあれが見つかった。わしらにはあれがどういうものか分からんべ、時政の倅に任せたんだ。贋物かどうかはなんてぇのは、わしらにはどうでもえぇ」
「時政さんはこちらとはご親戚だそうですね」
「あれはわしの腹違ぇの弟の倅だ」
話しながらも若旦那の視線はいよいよ執拗に真に絡み付いてきた。相手を値踏みしているようだが、それは相手の中身を探るというよりも、衣服の下の身体を確認するような視線だ。居た堪れないような気分になってくる。
「こちらは昔、荒川にお住まいだったとか」
「うちは下蓮生といって、荒川の蓮生の分家になるんだ。荒川には今、上蓮生って家があるけんど、それも分家だ。本家は昭和の始めに跡を継ぐものがなくなって、途絶えてしもうた。屋敷は一般公開されとる」
「本家が途絶える? 分家から跡継ぎを出せば済んだのでは?」
「なに、あと継ぎは何人も出した。皆、一年とたたねぇうちに死んでしまったんで、誰も寄り付かなくなった。今、上蓮生を継いでるのも女だ。男は皆死んでしもうた。男で生き残ったのはわしと弟の時政だけだべ」
「皆? 何か病気でも?」
若旦那は表情を変えなかったが、笑ったような気がした。
「呪いだ、皆、そう言うとる」
「呪い?」
話の収拾がつかなくなってきたような感じだった。ちらりと美和を見ると、もう帰ろうよ、というような視線を真に向けていた。
「噂はともかく、ロシアと取引をしていたというようなことは?」
帰りたいのは山々だが、聞くことだけは聞いておかないと、と思った。
「そりゃあ、あったかも知れねぇ。じっさんはロシア語ができる。だが、日露戦争なんてぇのはじっさんの親父の頃の話だ、誰ももう知っちゃいねぇ」
「下の家と、本家や上の家は随分離れていますが」
「下蓮生がここに移ったのは、もう江戸の終わりのころだ。何故なんてぇのはわしらには分からん」
「何か海外との取引や貿易に有利だったからでは? 何かそういう記録はないのですか」
「ふん」
若旦那はまた、真を嘗めるように見た。
「門を入って来たべ」
「え?」
真は何を聞かれたのか分からなくて、聞き返した。
「門を見たべ?」
「えぇ、それがどうか?」
「門と蔵の一つが火事に遭うた。四年ほども前のことだ。だから門はまだ新しいんだ。じっさんがボケたのはその火事を見てからだ。焼けた蔵には書物があったべ、あんたの言う記録なんてぇのもそこにあったかも知れねぇが、わしは見たことがねぇて、分からん」
「それはどこから出火したのですか」
さきほどの女性がお茶と和菓子を運んできた。遅くなりまして、と彼女は上品な声で挨拶をした。
「放火かもしんねぇと言われた。蔵はその頃門の脇にあって、蔵の脇から火が出たってぇ話だったべ。それが原因で蔵を皆片付けて、あの絵も見つかったてぇわけだ」
「犯人は?」
「さぁねぇ」
自分の家の事なのに、若旦那は興味のないような返事だった。代わりにお手伝いの女性にあのねっとりした視線を向けていた。
「絵は、あの県庁に寄贈した絵だけではなかったんですね」
「あぁ、何十枚かあった。わしには何やら分からんべ、時政の倅に任せて、弥彦の何とかってぇ人に鑑定とやらを頼んである」
「弥彦、というと、江田島さんという方ですか」
「あぁ、そんな名前だったかな」
若旦那の話し方はのらりくらりとしてきた。彼が真たちを警戒しているからというよりも、無関心の故のようだった。雑誌記者というから、どんな楽しい取材が待っているのかと思えば、興味のない話だった、というような感じなのだろう。
その家を出ると、美和が思わず身震いした。
「何か気持ち悪い目つきの人だったですね。っていうか、私より先生にやたら変な視線を向けてた気がする」
真は車の鍵を開けて、助手席側に立つ美和の顔を見た。そう言われてみれば、確かに執拗な視線の気配が身体に残っているような気がしてきた。頭の中は、聞いておかねばならないことでいっぱいで、それを受け流そうとしていたのかもしれない。
美和は荒川へ行くことを提案した。真がその気なのが分かっていて、一人で行かないように釘を刺してきたのかもしれない。真はもう美和を置いていく気持ちはなかった。考え事をしていると悪い方向ばかりに考えてしまうだけで、実際に美和や真に危険が迫っているというわけでもないのだ。一人でいると、その悪い考えに足を摑まれてしまう。美和がいてくれると、少なくとも幻想に怯えなくて済むだろう。
荒川峡は村上から国道七号線を新潟方面へ戻り、荒川町で内陸へ入っていく。国道はすぐに荒川にぶつかって、その川を左手に見ながら道を辿った。
関川村役場の向かいに蓮生邸があった。周囲に堀が巡らされ、敷地は三千坪、母屋だけでも五百坪という壮大な家屋敷だった。村役場の駐車場に車を停めて、その屋敷を見学することにした。
美和は写真を撮りながら、真に感想を求めた。
「農家ってイメージじゃありませんよね。この土地の歴史そのものって気がしません?」
「うん」
真は曖昧に返事をして、先に土間に入った。梁を見上げるとどれも見事な欅で、歴史の重みが黒く染み込んでいる。土間は脇の部屋をぐるりと囲むように続いていて、板間の上がり口も総欅だった。茶の間と台所だけでも広大に過ぎる。
これが天明の頃に新潟に富を築いた豪農の館だった。歴史の中で彼らが果たしてきた役割の計り知れない部分は、恐らく日本の大きな歴史の中では十分に明らかにはされていないのだろう。
受付の女性に上蓮生家について聞くと、すぐにその家を教えてくれた。歩いても行ける距離だったので、車を村役場の駐車場に残していった。
美和は散歩を楽しむような様子で先を歩いている。村上に行く前の言い争いを忘れているわけではないのだろうが、今それを考えても仕方がないと思っているのだろう。



さて、私が新潟を訪れたのは、多分もう20年以上前。
それでもこの物語よりは未来になってしまいます。
でも日本の田舎の景色は、何十年も変わりませんね。
都会だけがものすごい勢いで変化している。
次に訪れたら、もう同じものがそこにない。
自分だけが変わらずにそこに立っている。
でも、新潟や青森、日本海側の海岸線は、太古の昔から大陸に向かって開かれていたのです。
北前船もこの日本海を通っていたのです。
その時代の大きな港町の遺跡、豪商たちの館の跡が残る町。
そう言えば、私の愛する民謡、江差追分もその時代の名残の唄です。
次回、蓮上家のもう一軒を訪れます。
この蓮上……ちょっと意味深な名前なんです。
蓮の上に生きるある一家の物語が、本編の物語と少し絡みながら進みます。
歴史の隅に生きる人々の、少し哀愁漂う物語もお楽しみください。
Category: ☂海に落ちる雨 第2節
[雨・中休み] バトン・キャラコンビについて

キャラコンビについてのバトン、拾ってきました。(【海に落ちる雨】の時代として答えています)
よく知っている2人のことだけれど、短く適切に答えるのは難しいですね。
まだ、以前にやった「小説の書き方」のバトンのほうが書きやすかったです。
少しでも、興味を持っていただければ、と思ったけれど、逆に難しくしちゃったような気が……
相川真:私のメイン小説の主人公。この小説の時点では27歳。新宿にある調査事務所の所長。もと家庭教師の大和竹流と同居中。一人で放置するとまともに飯を食べないので、周りが気を遣う……
大和竹流:36歳、修復師、ギャラリーやレストランのオーナー。実はイタリア人で、ローマ教皇に仕える家系の御曹司。美和からは『大家さん』と呼ばれています(2人の関係を疑う美和に、真が『大家のようなもの』と説明したので)。
柏木美和:真の事務所の秘書。大学生。元気娘。
では、どうぞ、お楽しみください(*^_^*)
- Q1 まずは今回質問に答えていただけるキャラ二人の名前をお願いします
- A1 美和『私がインタビューの仲介をします(^^) 2人とは、ずばり、うちの調査事務所の所長・相川真と、その同居人・修復師の大和竹流です』
- Q2 二人の関係とはズバリ!
- A2 美和『親子。え?違うの? えーっと、作者のリア友によると、クロネコヤマトの宅急便のロゴマークだそうです』
- Q3 コンビ暦はどれくらい?
- A3 竹流『16年。いや、前世からかもしれないから……』 真『しょうもないこと言うな。そもそもコンビじゃない』
- Q4 なんて呼び合ってるの?
- A4 竹流『俺、お前に名前で呼んでもらってるっけ?』 真『知らん』 美和『おい、とか? わぁ、長年連れ添った夫婦みたい~』
- Q5 このコンビにどーんとコンビ名つけちゃってください
- A5 美和『はい、子連れ狼です』 真『だからコンビじゃないって』 竹流『看板注文しとこう』 美和『漫才デビュー?』
- Q6 この二人は仲良しなのでしょうか
- A6 竹流『仲良しなんてものではありません。愛し合って…』(ごきっ←グーで殴られた)
- Q7 二人は互いのことをどう思ってるの?
- A7 竹流『え? それ、今更聞く質問?』 真『大家』
- Q8 周りからはどう思われているのでしょう?
- A8 美和『できてるとは思うけど、どこらまでできてるか謎なところが、つい追求したくなるポイントなんですよね…』 真『できてない』
- Q9 性格、似てますか?
- A9 真『まさか』 竹流『基本的にあまり似たところがないな』
- Q10 互いに何らかの影響与えてたりするんでしょうか
- A10 美和『ここだけの話、影響なんてものじゃありませんよね。多分、先生は大家さん(竹流)なしでは生きていけないはず。胃袋を握られてるから』
- Q11 この二人の間に秘密なんて、あるわけないですよね!
- A11 真『……言えないことはある。でもあいつのほうは秘密だらけだ』
- Q12 一日のどれくらいいっしょにいる?
- A12 竹流『同居はしているけれど、一緒にいるかというと、どうだろう?』
- Q13 言葉なしでどれくらいコミュニケーションとれるの?
- A13 美和『言葉より早く分かりあえる(from Calling by B'z)…』
- Q14 二人そろえば?
- A14 竹流『文殊の知恵?』 真『なに、ぼけてるんだ』 竹流『じゃあ、空も飛べるはず』 真『?』
- Q15 ここから何%シリーズ。現在の仲良し度は?
- A15 美和『仲良しというより、いないと生きていけないんだよね~』 真『飯の関係上』
- Q16 信頼度は?
- A16 美和『信頼してるの?』 真『女が絡むと100%信頼できない』 竹流『俺は信じてるけど?最後は俺を選ぶはず』
- Q17 もともとの相性は?
- A17 真『相性というよりも、出会った当初は力関係が100:0だったし』
- Q18 お互いのこと、何%くらい分かってるの?
- A18 竹流『出会った当初は0%…野生のヤマネコを理解するのは難しい』
- Q19 作者様への質問です。何を書くためにその二人を創られたのですか?
- A19 大海『え? 気がついたらいたから、考えたことがありません。強いて言うなら、生存種族を異にする者同士の魂の流通共鳴?(それはごんぎつね)』
- Q20 二人は今後、どうなっちゃうの?
- A20 大海『幸せは人の心の問題なので。ちなみに家系は4代経て結ばれるので一応ハッピーエンド』
- Q21 この二人組、好きですか?
- A21 大海『好きとか、考えたことがありませんでした……大事すぎて』
- Q22 これまでこの二人について書いた中で、お気に入りのエピソードはどれ?
- A22 大海『アッシジの丘の上で、真から竹流への極上の愛の言葉』 真『愛の言葉じゃないって』 大海『そお?』
- Q23 この二人を使って書いてみたいシーン、挙げてみてください
- A23 大海『バッカスからの招待状、ヴァルキュリアの恋人たち、ヴァルハラ炎上、……』
- Q24 (異性の場合)恋仲に発展する可能性は? 既にって方はのろけ話をどうぞ!
- A24 美和『既にって方はのろけ話をどうぞ!』 真『異性の場合、と書いてある』 美和『括弧じゃん』
- Q25 色んなシチュエーションを想定しての質問です。喧嘩したみたい。理由は?
- A25 美和『大家さんの浮気』 真『だから、そんなことで喧嘩するわけがないだろ』 美和『ふ~ん』
- Q26 結局どうやって仲直りする? どっちが謝る?
- A26 竹流『ヤマネコが折れるのを見たことがない』
- Q27 片方がピンチに陥っています。身を挺してでも助ける?
- A27 美和『野暮な質問だね~』
- Q28 どちらかの誕生日です。何か特別なことする?
- A28 真『誕生日を知らない』 竹流『言わなかったっけ?』
- Q29 どっちかが病気や怪我したら、看病してあげる?
- A29 美和『もう寝ずの看病だよね』 (ちょっと苦笑の竹流)
- Q30 片方が別の人間と仲良くしちゃってたりしたら、嫉妬したりするのかな?
- A30 真『だから、それは変な質問だろうが。嫉妬をするような理由はない』 美和『ムリシチャッテ』
- Q31 ガチ勝負。どんな勝負で、どっちが勝つ?
- A31 真『星の名前なら勝てる』 美和『それだけ?』 真『それだけ』
- Q32 どっちシリーズ。どっちが頼られ役?
- A32 美和『それは一方的だよね』 大海『ところが意外にもそうでもないかもよ?』
- Q33 つっこみ役はどっちだろう
- A33 美和『これは、リバーシブルかな』
- Q34 モテるのはどっち?
- A34 竹流『俺は広く浅く、こいつは狭く深く』
- Q35 勉強得意なのは? 運動は?
- A35 真『こいつ、俺の家庭教師だぞ。格闘技も全部教えてもらったんだから、勝てるものはひとつもない』
- Q36 よく喋るのはどっちでしょう?
- A36 真『それは決まってるだろう』
- Q37 待ち合わせで先に来るのは?
- A37 (顔を見合わせる) 美和『今のどういう意味?』 真『いや、待ち合わせってあまりしないなぁと思って』
- Q38 ズバリ、どっちが作者に愛されてるんだろうか
- A38 美和『いや、これは明らかに引き分けですね』 大海『ですね』 竹流『何となくいじめられてる気がする』 大海『真をいじめるからだよ』
- Q39 テーマ出すので、二人でちょっと語ってみてください。一、「相手」について
- A39 (竹流、真をじっと見て頭を撫でる。真、思わず後ずさり) 美和『あなたなしでは生きていけない、だね』
- Q40 二、「長所」について
- A40 竹流『短所を覆うもの』 真『自分で探すのは難しい』
- Q41 三、「短所」について
- A41 竹流『時に身を滅ぼすものだな。それを含めて愛せるなら…』 美和『(真に)愛してるって言ってあげたら?』 真『?』
- Q42 四、「仲間」について
- A42 竹流『自分の命よりも大事なもの』 真『…普段は忘れているけれど、ありがたいと思う』
- Q43 五、「恋愛」について
- A43 竹流『それがない世界は考えられないな』 真『心を求めなければ簡単だけど』
- Q44 六、「仕事or学校」について
- A44 竹流『仕事は常に掴みとっていくものだな』 真『学校も仕事も、少し離れてみて、後から大事だと思える』
- Q45 七、「家族」について
- A45 美和『(2人とも沈黙しているので)事務所のみんなも、ひっくるめて家族みたいなものだよね』
- Q46 八、「今後」について
- A46 竹流『さすがに、わからなくなってきた』 真『珍しく弱気だな』 竹流『不測の事態が多すぎる』
- Q47 九、「約束」について
- A47 竹流『お前に関していえば、必要ないな』 真『意味わからん』 竹流『いいさ、分からなくても』
- Q48 十、「作者」について
- A48 竹流『思った以上にSだった』 真『今頃気づくか?』
- Q49 この二人の作品への貢献度、どれくらい?
- A49 大海『2人足して、300%』
- Q50 質問は以上です。お付き合いくださいましてありがとうございました。これからもがんばってください
- A50 大海『代表して、はい、頑張ります』
Category: 小説・バトン
NEWS 2013/6/20 テンションが上がるデパ地下

昨日は1週間に1度の街の近くへの出張の日。
今週末、長野県に半分仕事(半分遊び?)で講演に行くのですが、その帰りに、昨年足を捻挫した中津川の『星ケ見岩』に再チャレンジの予定で、母のために新幹線などのチケットを買いに駅に行ったついでに、デパ地下に行きました。
何を隠そう、デパ地下に行くと妙にテンションが上がる人です。
普段、半田舎に住んでいて、職場も街とは無縁の場所。
こんなに人がいることろに行くこともめったにないので、人が多くて上がるテンション。
本当に色んな人がいて、ちょっと人間ウォッチングになったりする。
買っているもので、その人の生活の一端がちらりと垣間見えたり。
そして、自分もウォッチング対象になっていることもあるのだろうな、と思ったり。
しかも、ついつい買い過ぎちゃうんですよね。
そしてその帰り……
山の中を通る対面通行の有料道路を走るのですが、いつも危ない道路だなとおもっているのです。
車はよく流れているし、距離の割には早く目的地に着く(ということは比較的スピードが出ている)、でも兵庫県にありがちなカーブと坂道のオンパレード、視界は悪い、合流箇所もちらほら。
しかも昨日の夜、かなりの雨。
対面通行なので、片道一車線。
事故があると全く動きません。
案の定、止まってしまいまして。
30分で帰るところを1時間半。
いささか疲れました。結局、6台ばかり絡んだ玉突き事故だったようで。
こういうのを見ると、しばらくの間は、車間距離とかスピードとか、気にして走るのですが、咽喉元過ぎれば熱さを忘れる……気をつけなくちゃ。
さて、少し、花なども。

大好きなヒメシャラの花です。
小さくて、すぐに花ごと落ちてしまうのですが、この清楚感が好き。


うちの紫陽花、微妙に地味だなぁ……

おまけに、先日の東京出張の1枚。
築地にある高層ビルの上のホテルから。
私実は、ものすごい高所恐怖症で、事情があって今回はこのホテルに泊まりましたが、いつもは必ず予約の時に何階建てか聞いているという…^^;
でも、勇気を振り絞って、写真を撮ってみました!
というわけで、今日は意味のない、日記のようになってしまった……
先日のブログの深淵記事に、コメントをたくさんいただきありがとうございました。
試行錯誤中なので、しばらくしてまた変わったりするかもしれませんが(ちょっと微妙な不具合が…)、また色々と教えてくださいませm(__)m
これからもよろしくお願いいたします。
そして初めてさんがおられましたら、ちょっとお暇なときに、遊んでいってやってくださいませ。
NEWSは雑記みたいになっています。
気が向かれましたら、小説も読んでみてやってくださいませ。
カテゴリから入ると、古い順に並んでいますので、始めから読むことができます(*^_^*)
さぁ、長野行の講演準備です。
あ、仕事に行かなくちゃ。
Category: NEWS
NEWS 2013/6/18 ブログの深淵(2)

(悩みすぎて、実家の畑の玉ねぎ…!?)
しばらくの間、きっと色んなテンプレートでお目にかかると思います。
前回の『ブログの深淵』以来、あれこれ悩んでいて、そうしたら、まるでそのお返事のようなScribo ergo sumの夕さんの記事があり(夕さんのブログ記事:ブログのスタイルって)、うん、確かに考える時期なんだな、と思い始め……ますます悩んでいた大海は、この数日、テンプレートの探索に出かけておりました。
開いた途端、『コーヒーにスプーン一杯のミステリーを』だ!と思ってもらえるページにしたいなぁ、と思ったりしているのですが……なかなかどうして、それは難しいようで。
尊敬するブロガー・書き手さんのlimeさん(小説ブログ「DOOR」)みたいに、小説一本で沢山の人を惹き付けて読ませるブログに(早く)なりたいけれど(なれるかな…難しいかな)、今はまだまだヒヨコゆえ、模索するのも大事だろうと思ったりしています。
ちなみに、HPのようなブログというので、始め小説用テンプレートを選んで、あれこれいじっていたので、自分では同じノベルテンプレさんのテンプレートを使っている人のブログは読みやすかったのですが(これは多分、慣れの問題で)、確かに自分の場合、インパクトには欠けるなぁと。
小説のページについては、もう字が多いのはしょうがない!とか開き直っていたのですが、ちょっと自分勝手な感じだったなぁと反省。
実は、テンプレートは、一番初めにいじったきり、何もしておりませんでして。
もうちんぷんかんぷんだったのを、自分としては無茶苦茶頑張って、これ以上は無理!というところで放置しておりました。
今回初めて『適用』のクリックをすれば、すぐにあれこれ変えられると知って、目から鱗(おい、そのレベルか!)。
あれこれやってみて、面白がっていたのはいいけれど…
幅、写真の変形、文字の大きさ、字体……
あれが良ければ、これがイマイチ、帯に短し襷に長し、でして。
しかも、今、これがいいかな、と思って一応変えてみたら、リンクのページが下にあるし、ボタンひとつで管理画面に飛べないしオロオロ……
で、また別のにしてみたら、1行の字が多すぎて、う~ん、だし。
……帯に短し襷に長し(何回言う)
また、すぐに変えることになりそう。
でも、字の大きさは悪くないんだけど。
いったい皆さんは何を決め手で選ばれたんでしょうか?
あぁ、ブログの深淵で溺れかかっている大海でした。

(ついでに、悩みすぎて、実家の畑の隅っこに自然発生しているドクダミが、ドクダミ茶になる途中経過)
Category: NEWS
【幻の猫】(9) そして、天使が降りてくる


少し間が空いてしまってすみません。前回、崖に向かっていたのに、崖で風が強くて、なかなか声が聞こえなくて?
今日、すべての謎が解けるはずです。
ちょっとだけ前回を振り返りたい方は、こちらをどうぞ→幻の猫(8)想いを届けて
相川真:霊感坊や。高校卒業し、大学受験頑張ったご褒美旅行中。
家庭教師の大和竹流の故郷・イタリアにおります。
大和竹流(ジョルジョ・ヴォルテラ):真の家庭教師。実はローマの某組織の御曹司。
ベルナデッタ:竹流が育ったヴォルテラの家に以前勤めていた女中かつ竹流の教育係の一人。
病気に倒れ、不倫の結果、娘を生んだが、この娘を病で亡くしている。
アウローラ:その娘。
グローリア:1年前、旅行中に孫娘が突然姿を消し、探しに来たという年配の女性。
クラリッサ:グローリアの次女。母親が何かを隠していると思っている。美人なので竹流がちょっと浮気を?
フィオレンツァ:行方不明になっている少女。
黒い礼服の女性:?
ジョルジョ:真が勝手に竹流の本名をつけていた猫(実は本当にジョルジョ)。
フィオレンツァの飼い猫だったらしいが、時々尻尾だけになる?
どこまでが現実で、どこからが幻だったのか、結局線が引ける、でしょうか。
では、最終回・『そして、天使が降りてくる』、お楽しみください。



「真!」
ようやく自分の声が現実のものとして周囲に響き渡ったことを確認できた途端に、竹流が目にしたのは、そこだけ彩色されて鮮やかに明瞭となった赤い滲みだった。
他のものはすべて暗く、辺縁がぼやけていて、現実に戻った今でも、竹流にとっては幻のように感じられた。
滲みはじわじわと大きさを増している。よく見れば真の着ていた薄紫の上衣が切り裂かれて、赤い滲みが広がり、地面に滴り落ちている。
一瞬動転したが、真の顔は、多分竹流が自分で感じている彼自身よりも、ずっと落ち着いているようだった。だが、頬は白く、色を失っている。それでも唇に微かな赤みが残り、少しずつ色を取り戻していくようだった。
「違うんだ。分かってあげて」
真がそう言って、竹流の方へ助けを求めるような顔をした。

今、竹流の前には、自らの腕を犠牲にしてここで起ころうとしていた惨状を辛うじて食い止めた真と、『片羽根の天使協会』の中庭で会ったグローリアという老いた女性、そしてもう一人、黒い礼装に身を包んだ女性がいた。
さらに地面に倒れている黒い塊、それは真の危機にいち早く反応した猫、失われたフィオレンツァのジョルジョだった。ジョルジョの黄金の首輪が、赤く染まって光を失っている。
竹流が見知らぬ黒い礼服の女性は、震えるまま、暗いグリーンの瞳を真の腕から流れ落ちる血に向けている。髪の色は燃えるような赤ではなかったが、その瞳には確かに見覚えがあった。
いや、髪も、もしかしたら本当は明るい、燃えるようなレッドなのかもしれなかった。
その女性とグローリアが怯えたように見つめる視線の先で、真は自分の右腕を押さえている左手が真っ赤に染まっていることなど、まるきり気が付いていないようだった。
竹流はその腕を確認し、傷が思ったよりも浅いことを見ると、それでも少なくはない出血を放っておくことはできず、とは言え、手元にはハンカチやタオルなどの気の利いたものがなかったので、自分の上着を脱いでしまうと、袖の部分を引きちぎって真の腕に巻いた。
真はしばらくの間、ぼんやりとされるがままになっていたが、ようやく周囲を確認する余裕ができたのか、地面に倒れているジョルジョに気が付いて、息を飲み込むような小さな悲鳴を上げ、急に力が抜けたように、竹流の腕にそのまま崩れ落ちた。
慌てて抱き止めてやってから、竹流は二人の女性に順番に目を向けた。
「どうやら、我々は事情をお伺いする権利があるようですね。彼の傷の手当てもしなければならないし、猫も。向こうへ戻りましょう」
竹流が促した時、グローリアが切羽詰ったような声で訴えた。
「お願い。先にこの子を、この暗い場所から出してあげてください」
黒い礼服の女性は、その言葉を聞いて、力が抜けたようにその場所へ座り込んだ。
そこへ、ホテルの従業員の女性が、クラリッサとベルナデッタを伴って現れた。ベルナデッタはグローリアに歩み寄り、老いた女性はお互いを抱き締めあった。
「ごめんなさい。あなたを止めるのが私の仕事だったのに」
ベルナデッタの言葉に、失われた少女フィオレンツァの祖母、グローリアは今はただ涙で答えるしかなかったようだった。
燃えるような赤い髪のクラリッサは、同じ赤い髪をその辛苦によって半ば白く染められてしまった黒い礼服の女性の傍に座り、その肩を抱き寄せた。

真が、その少女の遺体を見なくても済んだことは、せめてもの救いだった。
いかにもイタリアのマンマという従業員の女性は、すぐに男手を呼んで、真を部屋に連れて行くように頼み、まるである程度このことを予想していたのかのように、落ち着いた態度で警察に任せるべきではないのかと竹流に確認した。
竹流が後のことは任せてもらっていいので、この女性たちの望むようにしてやりたいと言うと、しばらくじっと竹流の目を見つめて、納得したのか、男たちに少女の遺体を掘り出してやるように言った。
「あんたたちは、同じような目をしてるね」
「あんたたち?」
「あの優しい坊やだよ。嘆きの天使が見えると言っていた」
「嘆きの天使?」
「ここはほんの少し前まで墓地だったんだ。このホテルはもともと修道院だったし、今でも礼拝堂だけは残っているけど、墓地をどうするかは少し問題だった。ここは斜面だし、ホテルの窓からの景色が墓地ってのもね。近くの良い場所に新しい墓地ができて、ほとんどの家が墓所をそっちへ移していたし、結局残された墓も向こうへ移して、何もなくなったのが一年ほど前だった。墓地には泣き伏した天使の大きな彫刻があったんだけどね、最後の墓所が移された後で、気が付いたときには天使はひどく傷つけられていて、運ぼうとしたら崩れてしまったんだ」
嘆きの天使像ならローマの墓地にもある。同じようなものだろうと想像したが、だが曲がりなりにも石像だ。そんなにかなたんに崩れてしまうとは思えない。事情を確認しようと彼女の目を見たら、太く力強い肩をできるだけ小さくして、さぁねという顔をした。
「この場所での自分の役割を終えたと思ったんだろうかね。いや、私もここのことは誰よりもよく知っているつもりだけれど、その時のことはよく知らないんだ。どうせ、新しい墓所にはあんな古い壊れかけた像よりも、新しい綺麗なものを置こうとした連中が、壊してしまったんだよ」
「そうでしょうね。天使の欠片はどうしたんです?」
「その辺の石垣に交じってるよ。だから、あの天使はまだここにいるんだ。あの子にはそれが見えたんだね」
「あなたはさっきリボンのことを仰っておられましたね」
女性は何かを思い出すような遠い目をして、それからふぅと息をついた。
「時々ね、まだ誰かがここに残っているような気がして、祈りに来ていたんだ。そうしたら、紙の端みたいなのが地面から出ていて、あの封筒を見つけたんだよ。写真が入っていたから、誰かの大事なものだろうとは思ったんだけど」
「その通りです。あなたのおかげで、何人かの魂が救われたかもしれません」

ホテルの教会の中に彼らは座っていた。
警察よりも先に呼ばれた神父が、きっちり一年間、土の下に埋められていて、その適度な湿気に守られて完全には白骨化していない少女の遺体を小さな箱に入れてやり、祭壇の前に花を飾り、祈りの言葉を捧げた。
すっかり力が抜けたように座り込んでいる少女の祖母、グローリアは、身体を半分以上ベルナデッタに預けていた。小さなベルナデッタの身体が、高いステンドグラスから差し込む光で、オーラに包まれたように染め上げられ、浮かび上がって見えていた。
マリエッラと名乗った黒い礼服の女性は、今はもう落ち着いているようだった。フィオレンツァの母親であることを、罪を確認し、あるいは罰しあるいは赦すために現れたジョルジョに告げ、実の妹であるクラリッサに支えられて、哀れなフィオレンツァの棺の前に佇み、過ちとは言え自ら手をかけてしまった娘の変わり果てた手を握りしめた。
彼女にとっては、今もまだその手は小さく優しいふわふわの天使の手だったろう。
おそらく、ヴォルテラの力をもってすれば、世間にとって無名の少女の死、誤って娘を死なせてしまった母親の罪、そしてそれを隠匿した祖母の罪などすべてもみ消してしまえるはずだった。グローリアは罪を償うにはあまりにも衰弱した姿であったし、それはこの一年、罪の意識に苛まれてこの国の暗い場所を彷徨っていたマリエッラにしても同じだった。
竹流がそのことを考えたのは一瞬だった。だが、瞬時にその考えを打ち消した。少女は世の中の他の誰にとっても無名であったが、祖母のグローリア、母親のマリエッラ、叔母のクラリッサ、そして擦れ違いであったとは言え関わることになった竹流や真にとっても、あるいはあのホテルの従業員の女性にとっても、名も無き者ではなかった。誰よりも、罪びとたちがそのことを望まないだろう。
だが、竹流は唯、ベルナデッタのことを案じた。

竹流はベルナデッタを礼拝堂から誘い出し、二人は真の様子を見に、彼らが宿泊している部屋へ行った。
傷は思ったよりも浅かったものの出血は少なくなく、医師は四針縫って、明日もう一度様子を見に来るからといって帰って行った。真はいささか興奮していたようで、面倒に思った医師が処方した鎮静剤を飲まされて眠っていた。
彼らが部屋に入ると、真と一緒に手当を受けた猫のジョルジョが、毛を逆立てるようにして唸った。
猫の方は浅い傷ではなかった。この町には獣医師はいたが、あいにく長い旅行に出ていた。だが、獣医師でなくても、猫の傷があまりいい状態ではないことは分かっただろう。もしかして長くは持たないかもしれないと医師は告げ、一応傷は縫って、人間の赤ん坊が飲むくらいの量の抗生物質を処方したものの、興奮して噛みつことうした猫に、薬局から届けられた薬を飲ませることはできなかった。
真は苦しいのに声を出すことができないというように、額に汗を滲ませて歯を食いしばるような表情で眠っていた。ベルナデッタがその汗をタオルでそっと拭い、頬に手を触れ、ごめんなさいねとつぶやいた。真はその声が聞こえたのかどうか、いくらか身体から力を抜いたように見えた。
ベルナデッタは猫のジョルジョにも触れようとしたが、猫はうぅと唸り、動かない身体を思い切り引いて警戒したので、諦めた。竹流はベルナデッタの肩を抱き、窓際のソファに誘い、二人は隣り合って座った。竹流は彼女の手を握りしめた。
「今日は日曜日だ。あなたが教会に行かなくなったのはこのことが原因だったんだね」
ベルナデッタはほっとしたように大きな息をついた。
「人伝にあの人、エルアルドが病気になって、勤めていた病院を辞めたのだと聞いたんです。会いたくて会いたくてたまりませんでしたけど、私たちの関係は神への冒涜以外の何物でもなかった。それでも会いたいと思う自分がおぞましくて、そう考えたら、私たちの罪の結果であるアウローラまでもが疎ましい気持ちになって、机の上に飾ったアウローラの写真を見るのも辛くて、あの子のものをすべて燃やしてしまいました。でも坊ちゃま、あなたが下さったリボンと、ずっと机の上に飾っていた写真だけは燃やせなかった。だから、あの子のお墓のあったあの場所に埋めたんです」

「墓所は別の場所に移ったんだったね」
ベルナデッタは頷き、鉄格子のはまった窓の外へ視線を向け、懐かしむように答えた。
「私はあの場所が好きだったんです。あの嘆きの天使を見ると、私の代わりに苦しみ嘆いてくれているのだと思えて、私の悲しみを吸い取ってくれていると感じることができたのです。天使の傍に座っていると、いつの間にか心が穏やかになっていた。そうしたら、あの子が一緒に傍に座っているような気がして、時には、病気でずっとベッドの上だったあの子が、あのオリーブの木々の間を走り回っているような気もして、あの子の笑う声が聞こえるような気がして」
ベルナデッタは涙ぐんでいた。竹流は強く彼女の手を握りしめた。
既に猫のジョルジョは静かになっていて、その体を目一杯使って大きな精一杯の呼吸をしていた。命が永らえてくれることを願うものの、今できることは何もないように思えた。
「墓所は、母の墓があるローマに移したんです。この街の新しい墓所にはあの子は馴染めないような気がして。だから、せめてあの子の好きだったリボンと残った一枚の写真だけはここに埋めておこうと、あの嘆きの天使の傍に」
「ベルナデッタ、僕はどうしてそのことを知らずに、その時あなたの傍にいてやれなかったんだろう」
ベルナデッタは首を横に振った。
「それでも坊ちゃまのお手紙は嬉しかった」
「自分のことしか書いていなかったのに」
「いいえ、坊ちゃまが遠い異国で、どのようなものを見て、どのような暮らしをして、どのようなことを感じて、そしてどんな人を愛して、そんな手紙の中の言葉のひとつひとつが、私には宝物だったのですよ。私は嘘ばっかり書いていたのに、いつも私やアウローラのことを気遣って優しい言葉を添えてくださっていて」
「気づかないままだった自分が恨めしいよ。だけど、今はこうしてあなたを抱き締めることもできる。十年以上のあなたの苦しみを癒すことはできないけれど、せめて僕がどれほどあなたを大事に思っているか、それだけはわかって欲しいんだ」
竹流はベルナデッタを抱き締め、そして本来の年よりもすっかり老いて小さくなった身体をこのまま温めてやりたいと願った。
「そう、丁度坊ちゃまのお手紙を受け取ったんですよ。一年前の今日」
竹流はベルナデッタの腕を両手で抱くようにしながら、そっと彼女を離した。
「幸せそうなお手紙だった。恩人の子どもたちの面倒を見ているんだって。女の子の方はちょっと変わっているお姫様で、きかん気が強くて坊ちゃまに言いたいことを言う。男のこの方は野生の猫みたいで、どうにも思うようにいかないって」
「そんなことを書いていたっけ」
「えぇ。あぁ、坊ちゃまは大事な人を見つけたんだと思ったんです。神でもなく、自分自身のためでもなく。それなのに私は大事なアウローラを、私が罪の子だと言ってしまったら誰にも救われないあの子を、死んでしまってなお、見捨てようとしてしまった。もうあの子は私を許してくれないかもしれないけれど、せめて坊ちゃまのリボンとあの子の写真を傍に置いておくべきだったと、夜になって、いても立ってもいられない気持ちで、それらを埋めたあの場所へ行ったのです」
ベルナデッタは目を一度伏せ、息をついた。言葉を継ぐことを躊躇っているような気配だった。竹流は言いにくい言葉を敢えて彼の方から継いでやった。
「そこで、グローリアに会ったんだね。いや、ただ見てしまったんだね」
ベルナデッタはほっとしたようにうなずいた。
「あの人は嘆きの天使の傍に何かを埋めていました。埋めた後も、随分長くそこに留まっていて、手を合わせて泣いておられた。それから苦しさのあまり天使の像を何かで打ちのめして、急に静かになったと思ったら、そのまま町の方へ戻って行かれたのです。何か恐ろしいものを見てしまったと分かって、傍に近付くことはできませんでした。これはアウローラが私に与えた罰なのだと思いました。もうここへは来ないでくれ、私の大事な場所を汚さないでくれ、写真もリボンにももう触れないでと言っているのだと。そのまま街に戻って、翌日、旅行に来ていた女性が、孫娘の行方が分からなくなったと大騒ぎしていることを、協会の人から聞きました。あの嘆きの天使の傍で見た女性でした」
「いつ、グローリアの嘘に気が付いたの?」
「今年、あの方は丁度この日にこの街にやって来た。あの時は随分大騒ぎしておられたけれど、それから一年間、一度もここへはいらっしゃらなかった。なぜ、いなくなった孫娘を探しに何度も来られないのだろうと思っていました。
丁度先月、エドアルドが亡くなって、彼の遺品の中からアウローラの写真が、私が苦しくて手放してしまったのと同じ写真、愛するエドアルドが撮って、それからずっと自分の机の中にそっとしまっておいてくださったあの写真が、私の手元に戻ってきた。そうしたらあの方、グローリアが来られたんです。もしかしたら一年前のことで娘のアウローラが私に何か伝えたいことがあるから、写真となって私のところに戻ってきてくれたような気がしていました。
だから恐ろしかったけれどグローリアに事実を話して欲しい、力になりたいから、と言ったのです。彼女はただ、今日一日だけ黙って待ってほしいと言われました。一年前彼女が埋めていたものは何なのか、なぜ孫がいなくなったと嘘をつかなければならなかったのか、そして何故一年後の今日、ここに戻って来たのか。なぜ今日でなければならなかったのか。彼女の本当に辛そうな顔を見ていると、もうそれ以上は何も聞けませんでした。
目を瞑るべきかどうか迷っていた。でも、まさにその時、坊ちゃまが尋ねて来てくださって、あぁ、アウローラが、あるいは神が何かを私に訴えているのかもしれない、でも反面ではグローリアの思う通りにしてあげたい、でももしかして坊ちゃまが気が付いて下さったら、すべて任せてしまおう、これを神の決められたことだと思おうと」
ふと気が付くと、真が目を開けていた。真はしばらく天井をみていたが、やがてゆっくりと首を動かして彼らの方を見た。ベルナデッタがそれに気が付いて、ほっとした顔をした。竹流は一度ベルナデッタの手を強く握ってからその手を離して、ベッドの端に座って真の髪に手を触れた。
「痛くないか?」
真は頷いた。
「ジョルジョは?」
「ジョルジョ? 猫のことか?」
それが聞こえたのか、ジョルジョがうぅと唸る。真は何かに打たれたように跳ね起き、薬の影響かぐらりと身体を揺らせた。倒れそうになる身体を抱き止めた竹流を、ふらふらしながらも跳ね除けるようにして、ベッドから降りようとする。竹流は身体を支えてやって、猫の傍に屈む真を助けた。
「ジョルジョ」
真が触れるのを猫は嫌がらなかった。頭を撫で、そして腹の傷に巻かれた包帯にそっと触れた真の手を、身体を懸命に捻るようにして舐めようとする。真にも猫の状態があまり良くないことは感じられたのだろう。しばらくなす術もないように身体を震わせていたが、ふと何かに気が付いたように顔を上げ、視線を部屋の隅に固定した。
「真?」
「しっぽ!」
「え?」
真は突然ジョルジョを抱き上げ、ふらつく身体で何かを追いかけるように歩き始めた。そのままベッドの足元を回り、ふらふらと扉の方へ歩いて行く。
竹流はベルナデッタと顔を見合わせてから、慌てて真を追いかけた。部屋を出ていく前に捕まえ、ふらつく身体を支えるようにして、半分抱くように一緒に歩いてやる。猫を代わりに抱いてやろうとしたが、猫は真にしか触れさせないだろうと思ってやめた。

真はどうやらあのオリーブ畑の方へ向かっているようだった。
ベルナデッタは時々気遣うように真を見て、一緒についてきている。
やがて何度も倒れそうになりながら、あの嘆きの天使のあった場所にまで戻ってきた。
丁度夕陽がオリーブの木々の間から差し込んで、少し開けたその場所を照らしていた。そこだけ、この世とは違う場所のように光の色が異なっていた。
真は猫をその光の輪の中に置いた。
その途端にほっとしたのか、青い顔をして肩で息をしていた真が、唐突に竹流に凭れかかってきた。足元から崩れそうになっている。竹流は思わず両手で真を抱きしめた。
その時だった。
息も絶え絶えだったような猫が、突然顔を上げた。
いや、夕陽の加減でその首輪が黄金に輝いたのかもしれない。猫は突然すくっと立ち上がり、にゃあ、と誰かに呼びかけるように鳴いた。
ベルナデッタが傍で両手で口を押さえ、驚いたように声を上げた。
「アウローラ」
明らかに彼女はそう言った。
竹流には黄金の光が見えているだけだった。光は辺りを染め、いきなり周囲が真っ白に輝き、竹流の目を射た。竹流は目を伏せ、ただ腕の中の真を抱き締めていた。目を伏せた時、視界の中に、まるで怪我などなかったかのように立ち上がっていた猫のジョルジョが、一度真の足にまとわりつくように甘え、それから顔を上げて光の方へ走って行くのが見えた。
それは多分、一瞬の出来事だったのだろう。
夕陽が何かに反射して、辺りが黄金と光の色に染まっただけなのだ。だが、猫はもうそこにいなかった。
真が腕の中で微かに身動ぎする。抱き締めていた腕の力を抜くと、ようやく正気に戻ったような顔で、真は今度はベルナデッタに向き合った。
「写真を見てあげてください。写真の後ろを。そしてそのことを、あの人たちにも伝えてあげて」
竹流がそのまま、真の言葉を伝えると、ベルナデッタはポケットから、自分がかつて土に埋めてしまった封筒を取り出し、その中から写真を出した。
そして、しばらくじっと表の二人を見つめる。
痩せて疲れた顔をしているが幸福だったベルナデッタ自身と、幼くして病気を持ちながら幸せを求めて微笑む優しい少女。そしておそらく彼女の目には、その二人を罪と知りながらも愛したのであろう、ファインダーの手前にいた医師の姿も、見えていたに違いない。
ベルナデッタはそっと写真を裏返した。
彼女の手は動かなかった。
夕日が沈みゆく最後の光を、彼女の手元に惜しげもなく注いだ。
ベルナデッタの目から落ちた涙は、夕陽の光を吸い込んで、煌めきながら足元の土に落ち、静かに大地にしみ込んだ。そして、そこにかつて眠っていた魂を清め、慰め、母の無償の愛で温めた。
Mamma, ti amo. Aurora
Anche IO! Fiorenza

ジョルジョ坊ちゃま
そちらにも春が訪れているでしょうか。
少し長い手紙になります。
あれからまた一年が経ち、今日この日に、クラリッサがグローリアと一緒に訪ねて来てくれました。フィオレンツァの眠っていた場所に花を供えるために。グローリアもマリエッラも、罪を認めるチャンスと更生の機会を与えられ、また一方で旦那様の保釈金のおかげで辛い暮らしをせずに済みました。マリエッラは修道院に入り、心穏やかに過ごしているそうです。
あの子はお元気ですか。あの日、彼が彼らの間に入ってくれなかったら、マリエッラはフィオレンツァの心の声を知らないまま自分を罰し、神のもとへ行くことができなくなっていたでしょう。自分に暴力をふるっていた夫への恐怖や憎しみから、娘のフィオレンツァを虐待するようになってしまい、誤って死なせてしまったように、今度は止めに来たグローリアを、また誤って殺めてしまっていたかもしれないと顧み、心から彼に感謝していると話していたそうです。
グローリアも祈りの日々を送っています。ようやく落ち着いたと言って、あの二年前のことを、彼女から話してくれました。娘のマリエッラが孫娘を殺してしまったと知った時、彼女は、娘を傷つけ苦しめた男の娘でもあるフィオレンツァのことよりも、哀れな娘のマリエッラを庇いたい一心で、あんな芝居を打ってしまったのだそうです。娘を逃がし、ミラノの郊外から必死に車を運転して、誰も知る人がいないあの場所まで孫娘を埋めに来たそうです。
でも、もうすぐ一年になるというとき、娘から連絡があって、花を捧げたいからフィオレンツァの遺体をどこに埋めたのか教えてほしいと聞かれ、思わず答えてしまったものの、電話を切ってからもしや自殺しようとしているのではないかと思ったそうです。
彼女の勘は正しかったのですが、足を悪くしていたグローリアは、自分の力でここまで来ることができず、結局、母親と姉のことを疑いつつも心配していたクラリッサの手を借りて、あの日この街に来られたのだそうです。フィオレンツァには寂しい想いをさせたと心から嘆き、可愛そうな孫娘にしてやれなかったことの代わりにと、孤児たちを支えるボランティアを始めたそうです。
クラリッサは相変わらず綺麗で、言い寄る男性も多いようですが、何もかも跳ね除けて、グローリアの面倒を見ながら仕事一筋に生きているようです。良い方が現れるといいのですが。
坊ちゃま、あの日、夕陽の中で、私は確かにアウローラを見ました。懐かしくて、愛おしくて、あの瞬間に全ての幸せを思い出しました。娘を愛していたことを、一度に何もかも思い出したのです。
結局、あの日から消えてしまったものが二つあります。猫のジョルジョと、確かにあの時見た写真の裏の文字の半分。アウローラの書いた文字は残っているのですが、フィオレンツァのサインの入った文字は消えてしまったのです。
でも、新しく見つかったものもあります。家のあちこちから、アウローラからの短い手紙が出てくるのです。X(キス)だけのこともありますけれど。
それも、とても面白いことに、リボンを部屋に置くようになってから、時々窓辺や部屋の隅に、猫の黒い尻尾のようなものが見えるような気がして、そんなときに限ってアウローラの手紙が見つかるのです。ソファの下とか、食器棚の隙間とか、棚の裏側、本のページの間とかに。
そしてもっと素敵なことに、同じことがグローリアの家でも起こっているようなのです。彼らのところには、もちろんフィオレンツァからの手紙が。まるで天国で、アウローラがフィオレンツァに手紙の書き方を教えてあげて、一緒に悪戯をしかけてくれているようです。そして、あの子たちは、猫の尻尾になって私たちの周りに時々様子を見に来てくれているような気がします。
私はまた教会に通うようになりました。神様の光の下で目を閉じて考えています。あの日、あなたとあの子がこの街に来られたのは、やはり神の思し召しとしか思えません。あなた方がいつも幸せでありますように。
あなた方にたくさんのキスを贈ります。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
追伸
それから、あの日、坊ちゃまがおっしゃって下さったけれど、協会の名前はあのままです。覚えておられますか? 坊ちゃまは、協会の名前は変えた方がいい、片羽根じゃ飛べないし、いっそ両羽根の天使協会にするか、さもなければ天使をやめてしまって、ただのオバサン探偵団に名前を変えて、この世界を地べたから愛したらいいって。でもね、坊ちゃま、考えたのですが、片羽根の二人が一緒に力を合わせたら、飛べるかもしれませんわ。



謎が少しだけ残っています。
物語は終わりますが、エピローグがあります。
真視点の本当の大団円、舞台をシエナからバスに揺られて一時間ほど?のあの屋根のない教会、サン・がルガノへ移して、もう少しトスカナの風に吹かれてみませんか。
あ、バス停で、あの人たちにも会うかもしれませんよ。
それから、新しい敵に挑むマコトのおまけもついています。
というわけで、もう少しだけ、お付き合いくださいませ。
次回、エピローグ 鳥と虫の棲む教会+マコト、新たな敵に挑む・ビヨンド
本当の最終回を見逃すな!(なんちゃって)
あ、子どもたちの手紙の和訳、いらないかもしれませんが、念のため。
ママ、愛してる、アウローラ
私も! フィオレンツァ
Xはイタリア語でキスの略。
こどもたちはいつだって、ママが大好きなんです。
親が、少し間違えることがあっても。

Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)
[雨56] 第10章 県庁の絵(2)
真と葛城昇(ゲイバーの妖艶な店長かつ竹流の仲間)とのやり取り(実は恋敵同士??)、美和と真の痴話喧嘩(かなり本気)をお楽しみください。



何か大きな力が介在しているのだろうか。
高瀬が言っていたことが確かなら、事は国際問題だ。
彼は『日露戦争の頃、ソ連から運び込まれた美術品のことで』竹流が三年半前何かを調べていたと言った。それが『新潟にある』、と。
運び込まれたというのは、貿易ではあるまい。略奪か、何かと交換されたのか、いずれにしても日の当たる理由ではなさそうだ。
勿論、戦争に略奪はつきもので、今、大国が美術館に所有している多くの絵画が、戦争の時代に敵国から持ち出されたものであることは周知の事実であるのに、それを敢えて責めるものはいない。
それでも、誰か個人が金を積んで絵を買うと、経済力にものを言わせた略奪だと言われる。絵画は崇高なものであり、価値の分からない者が手にするのは冒涜であるかのように。
これがたとえ最大の略奪が行われた第二次世界大戦以前の日露戦争と言えども、日本軍が『略奪』に絡んでいたとなると、何を言われるかわかったものではない。だが、一方では、金に糸目をつけなかった熱心なコレクターのおかげで、埋もれることなく今日まで永らえ、人々の目を楽しませることになった絵画もあることだろう。
「急に、びっくりするじゃないか」
電話の向こうで相手が寝起きらしい不機嫌な声で言った。その声で、彼も竹流を捜していて眠れぬ夜を過ごしているらしいことは十分わかった。
「どこで番号、聞いたのさ」
「高瀬さんです」
電話の向こうで葛城昇は口笛を鳴らした。
「あの爺さん、あんたには優しいんだな」
真はその言葉は無視した。
「絵を調べて欲しいんです」
「絵?」
「フェルメールの『レースを編む女』の習作の贋作。それは竹流の手元にあったはずです。見たことはありませんか?」
「フェルメールねぇ。贋作なんか相手にしないと思うけど」
昇はまだ寝起きの不機嫌な声のままだった。
「じゃあ、贋作じゃないのかもしれない」
「どういうことだ?」
ようやく昇の声から不機嫌の色が消えた。
「盗んだ人間にも、盗まれた人間にも、それが本物としての価値があったということです。実は贋作か本物かということはどっちでもいい、要するにそれだけ人の心が動けばいい」
電話の向こうの昇の気配は、随分と遠くに感じられた。
「知っているのか知らないのか分からんけど、あいつの専門の中に十七世紀のオランダなんてのは入っていない」
「捜してみて欲しいんです。彼が持っている筈だ」
また昇は随分と間を置いた。真がいらいらしているのを試すような気配だった。
「それが、あいつの失踪と何か関係があるのか」
「多分」
「だが、あいつが俺たちに何も言わずにやった仕事だ。俺たちに分かるところにそれがあるとは思えないけど」
昇が多少は竹流に対して腹を立てていることは想像できた。それは、彼らの大事なボスが、仲間を信頼し打ち明けてくれなかったからなのだろう。真は感情的な言葉を言いかけてやめた。
「それから、彼のために贋作を描く人間はいませんか」
「贋作? フェルメールの絵か?」
「そうです」
昇は、今度は何か考えるような気配で暫く黙った。
「贋作作家は何人もいる。皆一流だ。フェルメールを描けてもおかしくない人間はいるにはいるが」
「その人に会いたい」
今度こそ、昇の言葉に緊張があった。
「今は行方知れずだ」
「まさか、例の男?」
寺崎という男は『逃がし屋』だとは聞いたが、他にもそういう特殊能力を持っているのかもしれない。
「女だ」
「女?」真は思わず聞き返した。「あんたたちの仲間ですか?」
「いや、そういうわけではないが」
昇はまた暫く黙っていた。何か思い当たる節があるのだろうと、真は思った。辛抱強く昇の言葉を待つと、漸く昇は決心したのか、一言一言丁寧に言った。
「その女は昔、竹流の恋人だった。恋人の一人、というべきか。だが、ある時、いわゆる三角関係ってやつでごたついて、姿を消した。その三角関係のもう一つの頂点は、最後に竹流と仕事をしていたと思われる、例の消えてしまった男だ」
「寺崎昂司」
真がその名前を呟いたので、向こうで昇が緊張したように思えた。真はゆっくりと質問の言葉を投げかけた。
「それ、いつのことです?」
「確か、三年前、いや、もう少し前かな。冬だったから」
「一九七六年の一月ごろ?」
「その通りだ。お前、何を嗅ぎつけたんだ」
真は受話器を握りなおした。
「漸く少しだけ分かってきただけです。あいつの背中の火傷のことを知ってますね。それは、寺崎昂司と何か関係があるんですか」
「電話でする話じゃないぞ」
向こうで、昇が抑えた悲鳴のような声を上げた。
「時間が惜しいんです。三年半前、何があったんですか」
「俺も詳しいことはわからない。彼が仕事でウクライナに行ったときに、そこで何か仕事を請け負ったんだと思う」
「ロシア帝国時代の貴族の末裔から、過去に日本軍に『略奪』された絵画を取り戻して欲しいと頼まれた」
「多分」
「本物が混じっていた可能性は?」
「ある。大いに、ある」昇は興奮気味に繰り返した。「それがフェルメールかどうかは分からないけど」
「しかし、関わっていた人間は、それが本物である可能性が実に高いことを知っていたはずです」
「その通りだ。彼に仕事を託したのは、皇帝の血筋だったはずだ」
真はいつの間にか自分の手を握りしめていた。まさに武史が言ったとおり、『来歴がはっきりしている』のだ。
電話ボックスの中はあまりにも狭い空間だからか、湿度が篭り酸素も足りないようで、息苦しく思えた。
「彼の火傷は、その女とも関係があるんですか」
昇はもう隠し事をするのを諦めたようだった。
「女は自分が描いた絵、つまり贋作が何に利用されるのかを知っていて、多分その本物のほうを、少なくとも本物かもしれないものを手に入れようとしたんだろう。寺崎は彼女に惚れたかもしれないが、まさか彼女が竹流を裏切るとは思っていなかったと思う。女は自分が描いた贋作を持って消えた。それから佐渡の隠れ家で爆発事故があって、寺崎は死ぬところだった。竹流が彼を助けに行かなかったら。いや、なんか色々あって俺も記憶が混乱してるかもしれない。竹流が言った言葉を信じているだけなんだ」
「その女は、本当に行方不明なんですか」
「竹流は捜すなと言った。あいつは女を責めるのが嫌いだからな」
ふと電話ボックスの外に凭れる美和の気配を感じて、真は漸く彼女を見た。美和は心配そうにこっちを見つめていた。昇は、真の連絡先を確認すると、何か分かったら知らせると言った。今度こそ、協力できないという気配はなかった。
真が電話ボックスから出ると、美和は早速問い詰めてきた。
「誰ですか?」
真は答えなかった。もしかして、ここでこんなことをしていて、美和にも危険が及ぶことはないのだろうか。もしもこの一連の出来事の中で田安が殺されたのだとしたら、相手は相当狡猾な人物だと思える。
「どうするんですか」
先の予定を美和は聞いたようだった。
「レンタカーを借りて、とりあえず村上に行こう。蓮生という家を見たい」
駅前に戻ってレンタカーを借りると、彼らは村上への道を辿った。真は頭の中で色々な出来事を整理するのに懸命で、隣の美和の気配を確認しそこなっていた。
「先生、何か隠し事、してるでしょ」
この娘は何を言い出すのかと思った。だが一方で、真が今同居人の足跡を辿るのに懸命で、美和の存在を忘れているという事実に、彼女が気が付いているのだろうと感じた。
美和は、真が電話を切った後、その内容についても今後の予定についても明確なことは何も言わず黙っていることについて、気に入らないと思っているだろう。そのうち彼女が怒り出すことは十分想像できた。ここまで一緒にこの事に関わっていたのに、急に真が秘密を持ったように思えたに違いない。
だが、頭の中で整理できたことからして、話の内容は随分突飛な気がしていた。竹流は随分思い切った詐欺をしていたのではないかと、そう思えたのだ。ただの贋作なら彼は動かなかっただろう。彼の手元に『本物』がある。内容は別にしても、真はそれが特別な本物だろうと確信していた。
スタート地点。
それがどこにあるのだろう。
誰かその本物を手に入れたくて仕方がない狂信的なコレクターがいるのか。
そもそもは、ウクライナの皇帝の末裔が、竹流に『それ』を取り戻して欲しいと頼んだ。高瀬や昇の話を総合すれば、三年半ほど前、竹流はソ連から日本に渡った絵画の件で、寺崎と一緒に新潟で仕事をしていた。その時彼は決して嫌な仕事とは思っていなかったのだ。それがどこかの時点で、嫌な仕事にすり替わった。
竹流は、フェルメールの贋作を描くことができる女に仕事をさせていた。どの絵画が本物かは、その皇帝の末裔から聞いていただろう。竹流は新潟に渡ってしまった本物を贋作とすり替えて、その人に返すつもりだったのではないだろうか。
しかし、それらの絵は幾人もの人間が間違いなく贋作であると証明したと言う。その時点では既に絵画は本物から贋作にすり替わっていたのだろうか。いや、昇は『女が自分の描いた贋作を持って消えた』と言った。では、まだ本物はまだ自分たちの目には入ってこずに、どこかに隠れているのか。
だが、額縁は間違いなくあの絵だった。竹流は、真があの額縁を知っていることをわかっていたはずだ。だから、問題の絵画はあの絵なのだ。では、誰かが、本物を贋作だと言って、嘘の証明をしたのか。添島刑事は複数の人間が証明したと言っていた。しかも時政の話では、その手法も随分と科学的だったという。あるいは証明された時だけ、絵は贋作とすり替わっていたのか。
そうではないとすれば、絵は始めから贋作なのか。とすれば、竹流が必要としていたのは『本物の贋作』ではないのか。『贋作の贋作』を必要とするなどということがあるだろうか。
それに第一、誰かが竹流を捕まえて、あんなにもひどい目にあわせる理由がどこにも見あたらない。誰か極めて狂信的なコレクターがいて、どうしてもそれを手に入れたいと思っていて、竹流を捕まえて本物がどこにあるかを喋らせようとしたのか。
だが、それにしてもあんなやり方をするだろうか。
手が砕けるほどのことを?
そのコレクターは絵に執着はしていても、竹流をあんなふうにいたぶる必要はないはずだ。
しかも、この話のどの辺りから、新津圭一が絡んでくるのだろう。そんなに前の事件を今になって、竹流や寺崎が改めてカタをつけなければならなくなった理由は何だろう。しかも竹流はそのために、澤田の秘書だった男の息子と思われる人物の手を借りているようだ。政治に絡んだ金の動きだろうか。
真は赤信号で思わず急ブレーキを踏んだ。『誰か』の最終目的は絵ではないのか。
「先生」
急ブレーキに前につんのめりそうになった美和が不満の声を出した。横断歩道を渡っていた女性が、運転席を睨みつけてくる。
「明日、東京へ帰れ」
美和は不可解なものを見るように真を見つめた。
「何の話?」
真は返事をせずに暫く前方を見つめていた。町を少し離れたところで、車の通りはそれなりにあったが、歩行者はさっき真を睨みつけた女性以外にはいなかった。東京と違って建物は低く、穏やかな景色に思える。
信号が変わったので、ゆっくりと車を発進させた。美和が自分を見つめている視線が突き刺さるようだった。
「北条さんに連絡を取って、帰ってきてもらうんだ。彼と一緒にいたほうがいい」
「だから何の話よ」
美和の声が混乱を通り越して、いらつきと怒りに変わっていた。
だが、誰が何をしたにしても、竹流があんな目にあったことだけは事実だ。しかも、この件に田安も関わっていたのだとしたら。もちろん、田安が同じ事件に関わっていたという証拠は何もないし、全く偶然の出来事である可能性もあるのだが、田安も竹流も、澤田を挟んで新津圭一と関わっている。
だが、事情がどうあれ、美和に危険が及ぶことになれば、きっと真はとんでもなく後悔することになる。
「彼らが竹流をあの程度で済ませたのは、彼が切り札を握っているからだ。そうではない人間はあっさりと消されている。新津圭一も、田安隆三も。美和ちゃん、田安という人は何十年も傭兵をやっていた、戦争のプロだ。その人でさえ、あんなふうに殺されてしまった」
「でもそれは事故だったのかも知れないんでしょ。それに、もしそうなら、先生だって危ないじゃない」
美和の感想はそっちのほうへ行ってしまった。
「君の心配をしてる」
「私だって、敵の一人や二人、やっつけられると思うわ。先生一人よりずっといいはずよ」
「君を守っている余裕がない。北条さんのところなら安全だろう。もしも君に何かあったら、北条さんに顔向けできない」
美和は完全にむっとしたようだった。
「仁さんは今、関係ないでしょ」
「彼から君を預かっているんだ」
思わずこぼれだした本心だった。
「預かるって、私は物じゃないのよ。それに大体もう遅いわよ。今ならまだ顔向けできるとでも言うわけ? 決闘してでも責任取るって言ったじゃない」
真は、あの額縁が縮めた何かと自分の距離と、逆に遠ざけてしまった美和と自分の距離を、今埋め合わせることができないと感じていた。
「とにかく、今は北条さんのところにいてくれ」
強い調子で真が言ったのに対して、美和は噛み付くように答えた。
「今更仁さんのところに帰れって、酷いんじゃないの。結局責任とる気がないんでしょ。先生って最低。エッチするときだけよければいいの?」
「運転中は黙ってろ」
美和の言葉に急にイラついてしまい、真は堂々巡りの話を切り上げようとした。真が話を切ってしまおうとしたので、美和は完全に怒り出したようだった。
「じゃあ車を止めなさいよ。でなきゃ、飛び降りるわよ」
美和が本当にシートベルトを外したので、真は溜息をこぼして車を脇に寄せた。
「君は、信じられないことを言うんだな」
「先生のほうが信じられない。今更なかったことにしようって言うわけ? 仁さんが他の人と寝てもいいって言うような人だから、弄べるって思ったわけ?」
「馬鹿を言うな」
「じゃあ、仁さんのことなんて持ち出さないでよ。先生と私には関係ないでしょ」
暫く睨み合っていたが、どちらかといえば美和のほうが正論だった。真はハンドルに手を掛けて、暫く前方の真っ直ぐな道を見つめていた。美和が自分を見つめている視線が、これほどに痛いとは思っていなかった。
真は煙草を一本抜いて、火をつけた。
どこかで、今ならまだなかったことにできるかもしれないと思っている。事がこうなって、美和を守る義務感が面倒になっていることも事実かもしれなかった。自分ひとりの身さえ、感情さえ持て余しそうになっている。昨夜の夢が、自分の心も身体も、どこかへ戻してしまった。それを確かなものにするかのように、あの額縁が一気に感情を支配しようとしている。
美和が自分を見つめている視線が、怒りから失望へ変わっていくのを、身体の左半分は痛いように感じていた。
「先生は、大家さんを助けたいんでしょ。私だって」
「これは、彼と俺の問題で、君には関係がない」
「何よ、それは」
「君が巻き込まれるのは、困る」
美和は真から視線を外した。
「大家さんがいないと、夜も眠れないから?」
怒り出すかと思っていたのに、美和の声は不安と孤独の中で随分と優しく聞こえたように思った。昨夜、夜行列車の中で美和を抱き締めながら心が違う夢を追いかけていたのを、美和はその身体ごとで感じていたのかもしれない。
「彼は、大事な友人なんだ」
そんな言葉では言い表せないことを、美和も知っているはずだった。
「知ってる。でも、先生も、私や賢ちゃんやさぶちゃんにとって大事な人だわ」
そう言われて、真は思わず美和を見つめた。美和の言葉は、真の感情を覆うように大きなものに思えた。
真は煙草を灰皿に捨てた。それからゆっくりと車を車道に戻して走り始めた。暫くして美和は漸くシートベルトを締めた。



さて、もう少しだけ、絵の話、そしてその絵を持っていた豪農の家の事情にお付き合いください。
第11章は再び、『若葉のころ』です。
その前に、猫の最終回があります。それからコンビバトンをやろうかな。
Category: ☂海に落ちる雨 第2節
FC2トラックバックテーマ 第1681回「あなたに起こったホラーなできごと」
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というよりも、トラックバックが何かわからないままやっています。
ホラーというようなものではなく、スピリチュアルな話かもしれません。
思い出すと、大事にしたいと思う出来事なので。

(ナナカマド)
中学生・高校生の頃、日常茶飯事的に金縛りにあっていました。
金縛り自体は科学的に証明されるようになっているけれど、当時の私には結構恐怖。
金縛り中には、よくいろんなものが見えます。
これも科学的には当たり前、ということなんだけれど。
一番怖かったのは、黒い塊みたいな生き物が胸の上に載っていて、しわがれた声で歌を歌っていたこと。
ところが、ある出来事をきっかけに、一度も金縛りに遭わなくなりました。
それは祖父が亡くなった日のこと。
お通夜の夜、自分の部屋で寝ていたのですが、突然ドアが開いたのです。
光の中に、祖父が立っている。
祖父はいつも粋な帽子をかぶっていたのですが、その帽子とちょっと首をかしげたような立ち姿は、間違いなく祖父だった。
実は、私はドアに背を向けて寝ていたような気もするのですが、よく分かりません。
祖父は、部屋に入ってきて、布団をめくり、私の背中を撫でていきました。
翌日、亡くなった祖父に添い寝をしていた祖母が、親戚で集まって話をしている時に言い出したのが……
「夕べ、おじいさんに、背中撫でるのやめてやって頼んで寝たら、大丈夫だった」
祖母は、昔、姑さん(祖父の母親)のお通夜の日に、添い寝をしていて、布団をめくられ背中を撫でられたそうです。その時、あまりにも怖かったので、祖父にそのように頼んで眠ったのだと。
祖母の背中を撫でることができなかった祖父は、私のところに来たのでしょうか。
その日を境に一度も金縛りに遭わなくなりました。
ぴたりとやんだのです。
ただ、一度を除いて。
その後遭った『たった一度の金縛り』。
それは、福井の永平寺で起こりました。
大学生の時、友人と一緒に、永平寺の宿坊に泊まったことがあります。
だだっ広い部屋に友人と二人きりで寝ていました。
その朝方、あまりのにぎやかさに目を覚ましました。
頭の上を行列が歩いているのです。
あたりは一面真っ白な感じで、まばゆかった。
そのうちの誰かと目が合い、揺り動かされ、「一緒に行きましょう」と言われました。
ところが、その日その時だけ、金縛りになっていたのです。
「すみません、動けませんので、お先に行ってください」
明瞭に返事をした自分の声も耳に残っています。
後日、実家の村のお寺の奥様に聞いたら、お寺では朝方、よく亡くなった方々の行列を見かけるのだとか。
奥様などは慣れっこなので、特に何も思わないとおっしゃるのですが、「ついていかなくて良かったね」と言われました。
全く因果関係のない出来事とは思うのですが、その時一緒に永平寺に泊まった別の友人が、その後しばらくして事故で亡くなり、時々、その人のことを考え、手を合わせています。
占いは信じていないのですが、何かの折に一度だけ、姓名判断+手相に行った時に、あなたにはおじいさんがついていると言われました。
その言葉は多分占いの常套手段だったと思いますが、自分に関してはその通りだと思っています。
その後、やはり一度も金縛りにあっていません。
……とても真摯な気持ちで記事を書いています。
このことは心に仕舞っていて、あまり人には話さないのですが、私たちはみんな、目に見えない力によって生かされていると思いますし、私にとっては命の意味を考える出来事でしたので、伝えたいと思いました。

(実家の紫陽花)
Category: あれこれ
[雨55] 第10章 県庁の絵(1)
興味のない方にはいささか辛いかもしれませんが、絵の真贋について、考えてみませんか?
失踪した大和竹流が残していった新聞記事。それは真の愛人である香野深雪のかつての恋人・新津圭一の自殺を報じた記事だった。その後発売された雑誌の記事によれば、新津は、『IVMの件で』政治家などを脅迫していて逆に追い詰められて自殺したとされている。伏字が多い記事の中で、IVMと明瞭に書かれたのは、何かの企業名のもじり?
そして、竹流とこの記事の間に何の関係が?
3年半前、まだ同居する前に竹流が関わっていたという新潟の県庁にある絵画。それはある豪農の蔵から出たもので、県に寄付されていた。
今回、ひとつ謎が解ける、かな?
真が竹流に近づくための手掛かりになればいいのですが……
関係ないけど、『県庁の星』みたいだなぁ^^;



翌朝八時十四分に新潟駅に着いた。
列車を降りてから雨が降った跡に気が付いた。
夢の中の音だと思っていた。身体にも深い想いの跡が残っているように思ったのに、目が覚めてみるとそこには何もない。
雲の切れ間から日が射していて、濡れた地面を光らせている。美和がカメラケースと旅行鞄を足元に置き、光の中で伸びをした。
「先生、朝御飯を食べてから県庁に行きましょうね」
昨夜あれだけ食べておいて、美和はもう食べる話をしている。真の方はさすがに食欲がなかったが、駅前の喫茶店に入ることは問題がなさそうだった。美和がパンに野菜、目玉焼き、牛乳の豪華なモーニングセットとデザートまで注文する横で、真はコーヒーだけを頼んだ。
「先生、ちゃんと食べないと駄目ですよ」
「列車に酔ったみたいだ」
言い訳をすると、美和は察したのかどうか、それ以上は何も言わなかった。
一晩中断片的な夢を見ていて眠れなかった、とは言い辛かった。
食事が終わる頃に九時になった。昨日、井出が新潟県庁に雑誌社からの取材申し入れをしてくれていて、そのために美和は趣味のカメラを持ってきている。真にはよくわからないが、井出が言うにはかなり上等のカメラらしく、美和の腕の方も結構本格的らしい。もっとも、そもそも写真家志望なのだから、それなりに勉強もしているのだろう。
身体に残る古い想い出の気配を、まだ忘れられないでいる。そのことが気持ちを興奮させていた。それでも、コーヒーの温度が逆に気持ちを冷ますようだった。
今から問題の絵を見に行く。そのことにただ緊張していると思いたかった。絵については、同居人のテリトリーではあるが、真には知識がないことで、取材と称して乗り込むのは随分と勇気がいる。不意に遠くに感じる何かの距離が、ただ絵の知識に関係することなら有り難い。
「先生、大丈夫?」
「え?」
覗き込むように問いかけられて、真は顔を上げた。
「急に黙っちゃうんだもん」
美和が色々な気持ちをどのように処理して、今こんなふうに明るく話しているのか、真には分からなかったし、まねのできない芸当だと思えた。
その美和には何も答えず、真は行こうか、と言ってレシートを取り上げて席を立った。
駅前からタクシーに乗り、信濃川に沿うように三キロばかり南西に行くと、県庁が建っている。途中、川の向こうを見ていた美和が、川のある町っていいね、と呟いた。
県庁に入ってからもさっきから感じていた妙な距離感はずっと続いていた。まるで自分自身が、遠くからここを見つめていて、ここにいる自分の身体と一体化していないような変な感覚だった。
真は井出から借りた偽物の名刺を受付に出して、案内を頼んだ。受付の越後美人が少々お待ちくださいと言って、館内用のインターホンで来客の旨を誰かに告げた。間もなく広報課の係長という人物が現れて、真の出した名刺を受け取った。
もう定年も間近に見える係長は、広河と名乗った。
「『歴史紀行』ですか。日本の歴史を扱っておられるんですねぇ。レンブラントやフェルメールに何の関係が?」
歩きながら広河は真に尋ねた。疑っているというよりも、単なる挨拶の延長のようだった。
「新潟は鎖国時代に最初に開港した都市のひとつですよね。しかも古い時代から、日本海に面した北陸、東北、北海道の都市は常に大陸との交易が盛んであったと聞きます。鎖国時代にもその海岸は大陸に開かれていたとも。その中でここにこういう絵画があるというのも、古い交易の歴史を物語るものだと考えています。今回の特集ではそういう日本海の交易の歴史にスポットを当てていますので」
適当に祖父からの受売りを喋っていると、美和と目が合ってしまった。美和はにっこり笑ってウィンクを寄越す。
最初に井出から出された名刺は『美術界』のものだったが、真は、これは困るといって代えてもらった。まともに美術関係の雑誌の記者になりきるのは無理だと思ったし、歴史関係なら絵画の知識が浅いのも許してもらえるかと思った。
「しかしここにあるのは偽物だってぇ、聞いてますがね」
広河はやはり世間話をするかのように、のんびりとした声で言った。
「えぇ。今回の特集では、特に贋物に焦点をあてて、歴史が本物だけではなく贋物との共存関係で成立してきたということを結論付けていきたいと思っています。贋作とは言え、描かれた当初は、そのつもりでなっかったものもあったでしょうし、歴史の中で意味合いが変えられてきたのだとしたら、大変興味深いと思うのです」
広河は分かったような分からないような顔をしていたが、とにかく真と美和を二階の会議室に案内した。これ以上面倒な言い訳を続けないといけないかと思って困っていると、いきなり大きな扉の向こうの正面の壁に、目的の絵画が構えていた。
その絵画が、生きて何かを叫んでいるような錯覚を覚えて、真は一瞬、息を飲んだ。
それに応えるように、身体中の細胞がざわめき始める。総毛立つというのは、まさにこういう状況なのだろう。
「偽物とは言え、よくできているそうです。触らないように頼みます。今、こいつに詳しいものを寄越しますんで」
訛りのある響きを残して、広河は会議室を出て行った。扉が閉まると美和が笑い出した。
「先生って、詐欺師になったほうがいいんじゃない?」
「大きな声で笑うなって」
「だって」
まだ笑っている美和を放っておいて、真はまずふと惹かれたフェルメールの方へ歩み寄った。
自分を一瞬強烈に惹きつけたものが何だったのか、直ぐに了解できた。
勿論、これらの絵の写真は添島刑事が準備してくれた資料で見ていたので、どのような絵かは分かっていたのだが、写真は白黒だったので、その微妙な色合いの美しさは分からなかった。フェルメールの絵にありがちなことだが、実際の絵は想像よりも遥かに小さく、僅かに五十センチ四方程度のキャンバスに描かれたものだった。真とて一応は基礎知識を入れてきたつもりだったが、彼の作品の中では最高傑作と言われている『レースを編む女』にどこか似通った絵だった。
添島刑事の情報でも、この絵は当初その習作の一つとして、ヨーロッパ市場を流れていたことがあるという。新潟のさる旧家が手に入れたときには既に贋作の烙印が押されていたが、何しろ当の持ち主がそんなものが蔵に眠っているとは知らなかったと言っているので、どこまでが本当の話かわからない。
あの本物より荒削りな印象があるが、その針仕事をする女性の手元は随分と丹念に描かれている。女の衣装は黄色ではなく、ややぼけた青色だったが、これがあのフェルメールの名作の習作だと言われればそうかもしれないと納得する深みもあった。
しかし、更に近づいてみて、自分を惹きつけたのが、絵そのものではないことが直ぐに分かった。
それは、絵画を納めている額縁の方だった。
その時、今まで感じていた不可解な距離が、急に小さくなった。
この額縁を自分は知っている。何故知っているのだろう。
だが、その疑問を解決するのはあまりにも簡単だった。何しろ、絵画も額縁も真の生活の中ではある部分にしか存在しないものだった。
「何見てるんですか?」
美和が後ろから話しかけてきた。
「額縁?」
それを見た場所は限定されるとしても、何故こんなにも印象深く覚えているのだろう。いや、それはともかく、どうしてそれがここにあるのだろう。
真は、やはり竹流は真がここに行きつくことを期待していたのだと思った。しかし、竹流が執事の高瀬の手に残してくれたあの新津圭一の新聞記事のどこに、ここに至る要素があったのか。真がここに来たのは、添島刑事が三年前の事件のことを話してくれたからだ。しかし、竹流はあの新聞記事から真がここに来ることを信じたのだ。
あの新聞記事の日付だけでここに至るのは難しい。事件を調べるとしても、絵画と結びつく要素が分からない。新潟という地名すら入っていない。だが、新津圭一というキーワードをつつき回せば、やはり新潟につながっているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、不意にこの額縁のことをある光景と一緒に思い出した。
葉子の結婚の祝いに、彼女があの富豪の家に持っていってもいいような絵を一枚、竹流に依頼した。竹流はイタリアに戻って、ルネサンス期の美しい聖母像を手に入れてきた。それがこの額縁に収まっていたのだ。
竹流は銀座のギャラリーで真にこれを見せて、絵の値段はお前が決めろと言った。名も知られていない画家のものであろうとも、それがとんでもない価値のあるものだということだけは分かった。
それから竹流は、この額縁はルネサンス期のものには相応しくないので取り替えておくと言った。これは十七世紀のオランダの画家のものにこそ相応しいと言って。詳しい内容は忘れてしまったが、絵の代金に何を支払ったかは覚えている。
その時、お待たせしましたという、男にしては高めの声と共に扉が開いた。
現れたのは、人のよさそうな、まだ背広が身体にしっくりいかないような初々しい若者だった。広報課の一番の若手で、時政と名乗った。
「あの、私がこの絵のことをご説明するんですが、どういったことをお話すればいいんでしょうか」
取材と聞いて明らかに緊張しているようだった。何とか言葉遣いは標準語になっていたが、イントネーションは見事に訛っているので、それが却って彼の純粋な人柄を際立たせるように見えた。
「この絵がここに贈られた経緯などから」
時政は会議室の一角の椅子を、真と美和に薦めて、自分もその斜め向かいに座った。
「実は、私がこの絵に詳しいのは、これが私の親戚の家の蔵から出たからで、従兄から、おめぇ、絵に詳しいべ、ちょっくら見てくれんかって話があったんです。従兄も伯父さんも、こんなものが蔵にあるなんて知らなかった、と言っていましたし、随分昔のことだろうけれど、多分ソ連から手に入れたもんだろうて言ってました。それで、私が見たところ、手法なんかはフェルメールやレンブラントのものですが、素人目にはよく分からないので、弥彦の江田島さんに相談しました。色々調べてもらって、やっぱり贋作だってことでしたけど、こうしてなかなかいい絵でもあるんで、県庁に寄付するって話になったんです」
「弥彦の江田島さん、というのは?」
それは添島刑事が絵画に詳しい人だからとメモしてくれていた人物だった。
「新潟じゃあ、一番絵に詳しい人です。昔はパリに留学なんかもしてたそうです。苦労して金を貯めたって話です。でもお父さんが病気になってしまって、弥彦に帰ってきて、それからずっと村役場に勤めておられます。一度お会いになったらどうでしょうか。私が連絡しておきます」
時政の言葉に熱が籠もっているように感じる。絵のことになると、必死であるという風情にも見えるが、何かもっと別のものに対する情熱のようにも思える。
「ぜひお願いします。後で詳しいことを教えてください。ところで、その親戚のお家というのは」
時政はいくらか胸を張るように答えた。
「伯父さんとこは昔の豪農で新潟では一、二を争っていたそうです。昔の母屋なんかは一般公開されてます。伯父さんは今、村上に住んでいますが、昔は荒川に住んでたんです。れんじょうって、村上で聞いてもらったら直ぐに分かります。漢字は蓮に生きる、と書きます。あ、でも私が従兄に知らせておきます。行かれますか?」
真は頷いた。
豪農と言われてもピンとこなかったが、時政の話では、天明の頃には三千坪の敷地に五百坪の母屋が建っていたといい、使用人だけでも七十人を越えたというし、他にも山林や水田を合わせて二千坪の所有地があったらしい。
「フェルメールやレンブラントというのは贋作が随分出回っていると聞きますが、これらもその一つということですか」
絵の来歴や自分の親戚の事などどうでもいいのか、絵そのものの話になると、やはり時政の目が輝いた。
「少しずつニュアンスは違いますけんど、まずフェルメールは驚くほどその生涯は謎に包まれてるんで、いつどんな絵を描いていたかもよく分かっていないんです。しかも彼の絵というのはパトロンにあたるごく一部の人たちが買い占めてたんで、市場に流れなかったし、十九世紀にやっとあるフランスの共和主義者の評論家の目に留まって有名になるまで、全く知られていなかったわけで、贋作なんかも作りやすい画家だってことです。レンブラントは工房を持っていましたから、彼の弟子の作品もみんなレンブラントの署名があって、どれが本当に彼自身の真筆か、全部は解明されてないと思います。当時は絵画を工房で生産するというのは珍しいことではなかったですし。贋作ってのが時代を反映してる、歴史を作ってるって言っておられたそうですね。私もそう思います」
時政は人懐こく真に言った。
「贋作のことに詳しいんですか」
「この素晴らしい絵が贋作だって聞いて、勉強しましたです」
時政は立ち上がって、真と美和をまずフェルメールの絵のほうに誘った。
「その作品の作者を決めるには、まんず署名を見ます。画家はどこにでもサインをするので、ぱっと見たのでは分からないことも多いもんです。フェルメールは分かりやすいほうです」
そして、時政は絵の一点を指差した。
「この絵は『レースを編む女』と同じ、この後ろの壁のとこにあるので、見つけやすいです。読めますか?」
白地の壁に背景に溶け込みそうな薄い茶で、Mの真ん中から一本の棒が縦に突き出した形の文字と、小文字のeerが続いている。
「フェルメールの本名は、ヤン・フェルメールっていいます。アルファベットで言うと、JAN VER-MEER、オランダ語ではJじゃなくてIになるんで、IVMeerってサインになるんです。だからこのMの上に棒が突き出たみたいなのは、Iと、それからMのこの真ん中の谷はVに見立てて、それでIVMeer、ヤン・フェルメールってわけです」
真は声に出ないほど驚いていた。そうか、ここにIVMがあったのだ。企業の名前の省略などではない、画家の名前だったのだ。
ヤン・フェルメール、絵、額縁。それなら竹流が事件に関わっても納得がいく。新津圭一の脅迫と絵が繋がってきた。新津圭一はIVMの件で、誰かを脅迫していたというのだから。
竹流は、真が新聞記事を読んで、あのSという署名の入った雑誌の記事を見るだろうと思ったのだ。そしてその中の具体的なIVMという三文字に、その文字が意味するものにたどり着くと信じてくれたのだろう。
この額縁の意味することはひとつだ。この絵は確かに一度竹流の手元にあったのだろう。そう考えると、急にこの絵が何かを語りかけている気がした。
改めて絵を見ると、これが本当に贋作であったとしても、この作者はフェルメールという画家を、またその描かれた世界を本当に愛していたと思われた。この絵の内にある空間にも、描かれた人物にも、切り取られて止められた時間と場所にも、絵の中に入り込もうとする柔な精神を拒否する何かがあった。
ここには入り込めない、絵と見る者の間に永遠の隔絶があって、その距離感が逆に真を安心させた。不用意に心の中に入り込んでくる、場合によっては狂気を孕んだ絵を前にすると、ひどく不安になるが、この絵にはそういうものはなかった。不安な絵は、自分の中にもある同じようにゆがんだ何かを、大衆の前に露見しているように感じられて、いても立ってもいられなくなるのだ。
フェルメールの絵の中の世界は、一向にこちらに近づいて来ず、またこちらが近づくことも拒否するので、それぞれが大切にしている、他人と共有はできない何かを敢えて隠す必要もない。それは優しさではない。この針仕事をする娘の緊張感、張り詰めた空気が、他人が近づくことを拒否しているのだ。
「この絵が盗難にあったことはありませんか?」
「盗難?」
時政は、いきなりこの男は何を言うのだ、という顔をして真を見た。
この絵が『大和竹流』と関わっているなら、それしか考えられない。しかし、時政は難しい顔をしただけだった。真は話題を変えた。
「贋作の確認について、もう一度聞かせてください。最初に署名を確認するとおっしゃいましたね」
時政はいくらか真を警戒し始めたように見えた。
「署名は、まず絵の帰属を決めるのに最初に確認するものです。非常に目立つところに署名をする画家もいれば、敢えて分かりにくいところに署名をする画家もいます。例えば家具とか絵の中に描かれた絵画の中とか、探されることを敢えて意識しているんです。しかし、場合によっては全く別の人間の名前が署名されていることもあります。画家は絵を売らなくてはなりません。今は何億という値がついていても、生きているときには全く売れなかった画家もいます。だから、署名が大切といっても、画家自ら署名を偽ることもあったんです。フェルメールの場合、自分の絵を売るために、同時代のピーテル・デ・ホーホやヘラルト・テル・ボルヒ、エフロン・ファン・デル・ネール、ハブリール・メツーの名前が引っ付いていてもおかしくはないわけです」
時政は目の前のIVMeerを指した。
「これは十九世紀にトレ・ビュルガーというフランスの批評家がファン・デル・メールというデルフトの画家を論文の中で有名にしてから描かれた贋作でしょう。だからこんなふうに自然に堂々と彼本人の署名がされています」
「フェルメールの贋作というのは、当時随分描かれたのですか?」
「二十世紀の始めの数十年間でフェルメール探しに躍起になった人々が、まずは同時代のデ・ホーホやメツーらに帰属させられていた絵を彼の名前に戻し、それから今度は熱心にやりすぎて他の画家の絵までもフェルメールのものにしてしまいました。今では彼の絵と真実確認されているのは僅かに三十五点です。あと、かろうじて疑われるものを含めてもたったの四十点余りです。しかし、当時の批評家も愛好家も彼を非常に愛しましたので、これが皮肉にも多くの贋作を生む土台になったわけです。この絵が贋作と分かっても何か心が惹きつけられるのも、この作者が彼をとても愛したからだと思えます」
真は贋作者にそのような良心があるとは思わなかったが、ただこの絵が贋作を描くつもりではなく、ただ自分がフェルメールを愛する気持ちだけに忠実に描いたものだと言われればそうかもしれないと思った。これが贋作に仕立て上げられたのは、この絵に署名が入れられたその時からだ。誰の手によるものかはともかくとして。
「他に贋作を確認する手段として、絵を描いた素材があります。それがその画家が生きていた時代にあったものか、またその人が活躍していた場所で手に入るかどうかということです。こういったことは現代科学の得意分野ですから、今では何の困難もなくやり遂げます。それから、絵の描かれた時代に実際に使われていた手法、技術が使われているかどうかです。これも客観的に判断できるので簡単です。問題はこれらをクリアしても、最後にはその画家の作風が確かに本人のものであるかどうかを云々しなくてはなりません。これが大変難しくて、意見も別れるところですが、これをクリアしなくてはその作家の絵だとは世間に認めさせることができないのです」
「この絵は、どこが合格しなかったのですか」
「顔料がたった一つか二つ、その時代になかったものでした。贋作者は非常に注意深くやったと思いますよ」
真は時政の言葉がかなり標準語になっていることに気が付いた。彼が自分を疑って注意深くなっていることの結果だろうと思った。
「失礼ですが、私が当時の新聞記事で見たところでは、これは十九世紀の優秀な贋作だということでしたが、その時代には無論、今あなたがおっしゃったような素材を確認する科学技術はなかったんでしょうね」
「それは勿論です」
時政は、これまでの人懐こい顔ではなかった。不利になると明らかに激昂する人間がいるが、そういうタイプなのかもしれない。ただ若いのかもしれないが。
「では、贋作者も自分の使ったものが適切なものかどうかはわからなかったのではありませんか。それが今後科学の力で解明されるなどとも思っていなかったでしょう。その人の時代には、彼がさしあたって絵をフェルメールとして、あるいは他の誰かの絵として偽って売るために、その顔料が完璧にフェルメールの時代のものである必要はなかったし、そんなことなど思いつきもしなかったのではないでしょうか。もしこの作者が『注意深くやった』のだとしたら、その作者は極めて今日に近い時代の人間であるはずです」
時政は今度はまじまじと真を見つめていた。それは敵意というよりも驚きの表情に近かった。
「あなたは一体何を調べに来たのですか」
「一枚の絵からどれほどの歴史的真実が解明されるかということです」
真はしらっと言い切った。自分が今冷静でいられるのは、この額縁の力に支えられているからだと思った。
「あるいは、この贋作が描かれたのは二十世紀、しかも極めて最近と改める必要があるのかもしれませんね」
三年半前、竹流は新潟で仕事をしていた。この絵はそのときの彼の仕事に関わっていたことは間違いがなさそうだった。真はそのことを確信すると、いくらかは安堵した気持ちになった。
「しかし、立派な額縁です」
時政が何かを押し隠すように言った。
「十九世紀の?」
「いえ、あの十七世紀のオランダの」
時政は自分で言って、あ、と気が付いたようだった。彼が何かに動揺しているのは明らかだった。
「贋作者は額縁を選ぶ必要はあったでしょう。この額縁は大変立派なものに思えます。この作者はいずれにしても大変上手くやったのでしょうね」
美和が心配そうに自分を見ているのに気が付いたが、真は自分の中の何かかが急速に彼女から離れていっているのを感じざるを得なかった。この町に着いた瞬間に覚えた不思議な距離感を、一気にこの額縁が縮めてしまった、その距離が自分自身への距離だったのか、他の何かへの距離だったのか、今となってはそれは同じことのように思えた。



贋作騒動で最も面白い事件は、やはり一時失われた『モナ・リザ』でしょうか。
その時、世界のあちこちの闇の世界で、『本物のモナ・リザ』が出回っていたと言います。
本家本元に『モナ・リザ』がない、それならどこかにある、これかもしれない!
この理屈によって、闇の世界をうごめいた偽物と多額の金。
そもそも『モナ・リザ』の盗難は、大きな金を動かすためのショーだったという説も。
さて、ほとぼりが冷めて、金もうけをする人が十分儲けた後で、返ってきた『モナ・リザ』
本物でしょうか? それとも。
某美術館が本物と言って飾っていて、『偽物と違うん?』なんて思いませんよね。
絵画の真贋。
正直、何が決め手なのか、難しいですよね。
真作とわかったのが、キャンバスの布地が、その画家の他の作品のキャンバスの布地の目と、ぴったり繋がることから判明したというのもありましたね。
でも、両方とも、極めて近い時代の、別の作家のものだったら?
どうやって、分かるんでしょうね。
フェルメールにしても、絵を描いていたころはちっとも売れなかった。
同じ時代の売れっ子の作家の真似をして描いて、売ろうとしていたことも。
そう言えば、福岡の博物館に展示されている倭の那の国の王の印。
きんきらで美しいのですが…本物?
とか疑って何回も戻ってじろじろ見ていたら、怪しい奴と思われたのか、見張りの人に遠目で見張られてしまいました。
さて、自分の目を信じますか?
権威を信じますか?
We can't touch, but can feel.
Category: ☂海に落ちる雨 第2節