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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨53] 第9章 若葉のころ(2) 

義母の入院するサナトリウムを訪問した真と、仕方なく付き合ってくれている竹流。
真15歳の際どいエピソードその2です。
この頃は、多分、竹流の中での真の重みって、5%くらいだったのでは……良くて10%あるかないか。
それも、妹の葉子込みの存在価値、恩人の息子・娘への義理という形。
……時は流れているのですね。






 ようやくサナトリウムを離れたが、一時間もたたないうちに竹流の車はあまりいい状況ではなくなったようだった。
「迷子になってるのか?」
 真はそう聞いたものの、別に迷子になっていることなど、どうでもよかった。
「そうらしい」
 秩父の山の中である。その上、雨が降りだしていた。
「しかも、腹も減ったな」
「いのししでも探したら?」
 興味なく真は言った。

「そりゃあ名案だ」
 淡々とした声だった。ここで言い争いはしたくないとでもいうようだった。
 そのうち、本当にボタン鍋の登り旗を挙げた一軒の食事処を見つけたが、あいにく店仕舞の用意をしているところだった。ふと時計を見ると、もう五時を回っている。そこの主人が、この道の先に一軒宿があるから、そこでなら食事も宿泊もできると教えてくれた。

 行ってみると、大きな敷地に二階建ての古い、いかにも隠れ宿といった風情の旅館が建っていた。意外にも車が五台ばかり、この季節の平日にも泊りに来る人がいるようで、玄関脇の敷地に停められている。
 開き戸を開けると、小さな受付のようなフロントの奥から年配の男性が出てきた。
「お食事ですか。お泊まりですか」
 竹流は一瞬、真の方を見た。
 真は返事をせずに視線を逸らせた。勝手にしてくれたらいいと思っていた。

「泊まれますか」
 竹流が意を決してそう言ったように見えたので、真は一瞬緊張したが、それならそれでいいと思った。
 はい、と短く返事をして、男性はフロントの奥の方へ呼びかけた。しばらくして比較的若そうな地味な女性が出てきて、彼らを部屋に案内した。
「先に風呂をお使い下さい。その間にお部屋にお食事をご用意いたします」

 彼らが廊下を歩いて奥へ向かう時も、後ろの引き戸が開いて、食事の客がやって来た。まんざら怪しい旅館でもないらしい。
 風呂は旅館の規模にしては大きすぎるくらいの造りだった。内湯から外に出ると、川の流れを見ながらの露天風呂になっている。川の向こうは切り立った崖だった。彼らが入っていくと、ひとりの老人が露天風呂の方から中に戻ってきたところだった。老人は彼らに穏やかに会釈をした。

 以前から時折、功が海外に連れていってくれていたが、その時に、風呂というものをこんなふうに裸体を他人に晒して楽しむ習慣は日本人くらいしか持たないのだと聞かされたことがあった。特定の民族を除けば、不特定多数の赤の他人に裸体を晒す時点で、彼ら外国人は抵抗があるのだと聞いていたが、竹流は一切平気そうだった。郷に入っては郷に従えが彼のモットーらしかった。

 竹流の全裸の姿を見たのはそれが初めてではなかった。
 功は、この男を随分気に入っていたようで、葉子と真と一緒に北海道に帰るときには、いつも竹流を誘った。山中の川床に作られた、功のお気に入りの天然露天風呂があって、功はよく真と竹流を連れていってくれたのだが、その時もこの男を見て、これはまさに古代の彫刻から抜け出してきたような姿だと思った。綺麗で無駄のない神の造形そのものに思えたからだった。

 その日も竹流は何のためらいもなくあっさりと全裸になり、身体を洗ってそのまま外へ出ていく。真は何となく自分自身がみすぼらしい気がして、少し間をおいてから後を追った。
 竹流は露天風呂の湯に浸かって、背中にある岩に腕を広げるように凭れかかり、まだ雨の降り止まない空を仰ぐようにしていた。それから、竹流と離れたところで膝を抱えてぼんやりと湯に浸かっていた真の方を見た。
「お前、学校に休むって連絡したのか」
 保護者然として竹流は言った。真は返事をしなかった。

 風呂から上がって部屋に戻ると、食事の用意がされていた。
 突然の泊りにしては、豪勢な料理だった。
 時々見たことのないような山菜や川魚の料理などにぶつかると、竹流はいちいち興味深そうで仲居に根掘り葉掘り聞く。仲居もさすがによくは知らないらしく、次には年配の女性を連れてきて竹流の攻撃を躱した。本当に変わったやつだな、と真は思った。何でも興味を覚えるし、周囲を簡単に巻き込み、その中へ溶け込んでしまう。

 食事が終わると、仲居が布団を敷きにきた。仲居がごゆっくり、と言って部屋の扉を閉めたあと、真は窓辺の板間の椅子に座って夕刊を読んでいる竹流の前までいった。
「どうした?」
 真が黙っていると、竹流は真の方を見ようともしないまま尋ねた。
 とにかくここは躊躇っていても仕方がないと思っていた。相手がその気なのだから、下手に待つよりは自分のほうから行ったほうが気が楽だと思ったのだ。

 真が浴衣の帯を解くと、竹流がようやく新聞から顔を上げた。
「何の真似だ?」
「そういうつもりで、ここに泊まったんじゃないのか」
 竹流はしばらく真の顔を黙ったまま見ていた。
「なるほどね」

 真が十分に不安になるほどの時間を置いて、竹流はゆっくりと子どもに言い聞かせるように告げた。
「じゃあ、とにかく布団に入ろうか。だが、浴衣は着たままでいい。風邪をひくぞ」
 意を決した割にはあっけない返事に戸惑いながら、真は言われるままに浴衣の帯を結んだ。脱いでするよりも着たままのほうが扇情的で燃える、とかそういう話なのだろうと勝手に想像した。その腰を急に竹流が抱き寄せた。

 同じ布団に入ると、竹流はそのまま真の身体を抱き締めるようにした。大きな手が真の背中を撫でるようにして、僅かに開いた浴衣の裾に相手の足の温度を感じたとき、真は覚悟をして目を閉じた。実際には、この期に及んで覚悟が必要なことだったのかどうかはわからない。明らかに自分の方からこの男を誘ったのだという自覚が、真になかったわけではない。

 だが、竹流は真の耳の下、首筋にキスをして、耳元に囁いた。
「ちなみに、俺は女しか抱かない。だから、俺に対してそういう気遣いは無用だ」
 真が拍子抜けして竹流を見ると、竹流は、多分真がこれまで見たどんな人間の顔よりも綺麗に微笑んだ。
「抱かれないと不安なのか」
「どういう意味だ?」
「相手が何かを要求してこないのは、おかしいと思うのか、と聞いた」

 真は何とも答えなかった。確かに、無条件で自分に優しくするような人はいないと思っていた。世の中の人間は優しくする場合、何か見返りを求めてくるのだと考えていた。だからさっさと自分から差し出したつもりだった。
「まぁいい。じゃあ、こういうことにしようか。俺はお前の親父さんに恩義がある、だから彼がいない今、息子のお前にその恩義を返す気でいる、と」

 竹流が何を言っていて、真をどうしようとしているのか、その時の真にはまだよくわかっていなかった。第一、真自身どうしてこの男を頼ってしまったのか、自分の感情すら全く考えてみたこともなかった。だが、交通手段がないからと言っても、いつものようにバスで行けば済むのに、本当は誰かに、いや恐らくはこの男に一緒に来てもらいたかったのは事実だった。

 竹流は、黙って真を抱き締めてくれていた。
 家庭教師と生徒の関係にしてもそれほど親密でもなかったし、真はあまりいい生徒ではなく、良好な関係を築いているとは言いかねた。もちろん、優しい言葉をかけてもらったことは何度もある。しかし、それ以上に厳しい言葉を投げつけられる方が多かった。だが、嫌なことにぶつかるとヒステリー発作のようにパニックになって気を失ってしまう真に、何の遠慮もなく、本当のことをずけずけと言ったのは竹流だけだった。そういうことは、真の周囲の他の誰もしなかったことだった。
 竹流は真の置かれた事情というものを詳しくは知らなかったはずだし、知っていたとしても彼の判断基準からは情状酌量の余地はなかったようで、周りの大人が何故真をこうまで甘やかすのか、腫れ物を触るように扱うのか、見ていて苛々していたようだった。だから、真に対して腹が立っていたのだろう。

 尤も真は、それを自分でも意外なことに、真正面で受け止めた。たとえインディアンのシャーマンが運命だとか必然だとか言わなかったとしても、真は、この男が本音で自分に向かい合ってくれていることを肌身で感じていたし、嘘のない、掛け値なしに裏表のない人間であると認めていた。馬や犬の言葉はあんなにも簡単に理解できるのに、周囲の大人や周りの同世代の子供たちの言葉を全く理解できなかった真が、竹流の言葉だけは、自分にとってどんなに辛辣で嫌な言葉でもちゃんと理解できたのも、その言葉に裏表がなかったからだった。
 真は、竹流に叱られたり怒鳴られたりしてから、気を失うような事はなくなっていた。

 竹流の腕の中はただ暖かかった。それは、牧場の馬小屋の藁の中と同じだった。馬たちの呼吸の気配を接した身体から感じるとき、犬たちの毛の中に埋もれているときに感じるのと全く同じ温もりだった。それが一番自分を安心させ眠らせてくれる場所だと知っていた。そういう場所は、あの北の大地にしかないと思っていた。
 真はようやく目を閉じて、少し躊躇ってからさらに身体を竹流の方に寄せた。そして、本当に不思議なことに、いつも他人の傍では眠れたことなどなかったのに、この日はいつの間にか眠りに落ちていた。



 心地よいBGMのような川の流れの音で目を覚ました。尤もそれはせせらぎの音ではなく、昨日の雨で水かさを増した川のダイナミックな流れの音だった。ただ、天気は昨日と変わって晴れ渡っていて、朝の光が心地よくカーテンを通して真の眼瞼の上まで届いた。
 まだ夢の余韻があって、あたりに風が吹いているように思った。

 夢の中でずっと牧場の草原を歩いていた。他に誰もいなくて、馬たちも犬たちも姿を見せなかったが、寂しくも怖くもなく、他の誰かの気配を常に傍に感じていた。
 地平線は永遠の彼方にあって、これが真の知っているいつもの牧場なのかどうかもわからなかった。その草原に立っていると、大いなるものの意識の風が真の身体を吹き抜けていった。

 幸せ、という感覚がそういうものなのかどうかはわからない。ただ、自分の身体がこの大きな自然の中に溶け出して、周囲の全てのものと、細胞も核も分け合っていると思えるとき、真は本当に安心していられた。そのとき、真の目も耳も肌も、あらゆる自然界の神(カムイ)の目や耳、肌となり、高い空から森を見下ろして飛び、おのれの身体に光る鱗で川の水を跳ね返し、黒々とした毛の生えた足の裏で地面の息吹を踏みしめていた。
 これまでは、そういったものは、厩舎の藁の中、牧草地の土の上、大きな蕗の下、そして祖父の背中に負われて見上げる大宇宙の中だけにあったはずだった。

 ふと、何か自分を抱き締める重みを感じて、真は跳ね起きた。そして、傍に竹流が眠っているのに気がついて、自分でびっくりした。その気配に竹流が目を覚ます。
「おはよう」
 眠そうに竹流が片目だけ開けて言った。真はまだ半分記憶が混乱していて、事態を飲み込めていなかった。
「何時だ?」
 枕元の腕時計を見ると、六時前だった。
「早いな」

 そう言うと、竹流はまだぼんやりしている真を下から抱き寄せた。真はバランスを失って、竹流に倒れ込んだ。
「何だか、新婚初夜の翌朝って感じだな」
 何のこっちゃと思ったが、返事をしなかった。

 だが抱き寄せられて胸の音を聞いた時、不意にあの奇妙に穏やかな気分に包まれた。
 この腕の中は、厩舎の藁の中や、真を包み込む牧草地の上に広がる大宇宙と全く同じなのだ。真の身体の全ての細胞は、あの大自然の空気の中にいる時と同じように穏やかに呼吸し、やがて全てを周囲の光や空気やわずかな湿度と共有し、宇宙の空気を通し、太陽や星や月の放つ温度を受け入れる器のようになった。

 ふわり、と竹流の手が真の頭を抱いたように思った。真はぼんやりと、別に何をしたわけでもないのだから、何かの翌朝、とかいうのはどうなのだろうと思った。
 それから真は身体を起こして、上から竹流の綺麗な顔を見つめた。ややくすんだ金の髪に深い深い海の青、顔つきはどうやってこう配分すれば神に見紛うのかというような、南の国の意志の強そうな気配と、北の国の人間のもつ鋭い美しさを上手く組みあわせたように見えた。竹流は、その頃肩を越えるくらいに髪を伸ばしていて、時々多少伸びると自分で適当に切ったり結んだりしていた。

 真は、この男がどういう人間なのか、その頃は全然知らなかった。生まれた国も、確信のない功からイタリアだろうと聞かされただけで、はっきりとは知らない。日本に来た事情も詳しくは聞いたことが無かった。
 真が考えていると、竹流が下から真の頬に手で触れ、優しく撫でるようにした。その左手の薬指の指輪が頬に引っ掛かるように思った。
「結婚してるのか」
 何となく、気になって聞いてみた。

「結婚?」
 竹流は始め何のことか分からないようだったが、やがて自分の手の指輪に気がついたようだった。
「これか?」
 竹流はちらりとそこに掘られたイエス・キリストの棘と十字架に目をやった。
「結婚はしていない。これは契約の証だ。結婚よりもずっとタチの悪い契約だ」

 意味がよくわからなかったが、追及はしなかった。自分は他人の過去や事情を知るには、本来の年齢も心の成熟度もまだ十分ではないと思えたからだった。
 竹流はしばらく自分の薬指の指輪を見ていたが、やがて真の方へ視線を移した。真も、その視線に絡みとられるように竹流を見つめ返した。

 長い時間ただ見つめ合っていて、そのことにお互いに耐えられなくなったとき、不意に竹流の手が真の頬に触れ、どちらからというのでもなく、ただ自然に引き寄せられるように唇が触れた。
 だが、触れているだけで安心するという気持ちの延長に過ぎなかったキスは、真が僅かに相手の唇を強く吸った瞬間に意味合いを変えた。竹流は何を考えていたのか、真の唇に噛み付くようにしながら、やがて直ぐに真と入れ替わって自分が優位に立つと、何度も確かめるように真の顔を見つめ、強く舌を絡めてきた。

 身体が興奮していたわけではなかったが、真はしがみつくように竹流の背中に腕を回し、自分のほうも夢中になって相手の息を吸っていた。
 さっきの夢の続きなのか、風が吹き抜けるような感じがした。それからその風は天空へ、宇宙へ舞い上がった。大きな意識の風の中で、DNAは物凄い勢いで螺旋を駆け戻り、真は自分が宇宙の中でまだ小さなひとつの細胞だった頃に戻っていった。今まで感じたことのない気配だった。もちろん、滝沢に抱かれたりキスをされているときにも、こんな感覚はなかったから、セックスやキスがこういう状態を導くわけではないのだと思った。
 真は確かに、自分が今この男を求めているのだと感じた。
 心が震えていた。

 気がついたとき、竹流は真を抱いて子どもをあやすように頭を撫でてくれていた。
「風呂、行こうか」
 時計を見ると七時前だった。一時間もキスをしていたのかと思って、びっくりした。
「風呂?」
「日本人は温泉に来たら、一日何回も風呂に入るんだろ」
「え、そうかな」
 真もよく分かっていなかった。

 風呂場に行きながら、竹流が小さいがいい声で民謡を歌っている。
 会津磐梯山は宝の山よ
 何歌ってるんだ? と思ったら、歌いたいのはその先のフレーズだったらしい。
 小原庄助さん、何で身上つぶした、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで……
「それ、県が違うと思うけど」

 ここは福島ではなく、埼玉県である。それよりも何だってこの男はそんな日本の民謡を知ってるんだと思った。三味線を弾く祖父母の影響で、真は子どもにしては多くの民謡を知っていたし、祖母の唄の伴奏のために自分自身もいくらか三味線で弾けるものもあったが、外国人が覚えるような歌には思えなかった。
 それに、あんなふうに求め合うようなキスを交わした後で、会津磐梯山なんかどうでもいいじゃないか、と思っていた。するりとかわされて、感情を置き去りにされたようで、真は奇妙な寂寥感に押し包まれていた。

「日本の民謡はいいなぁ」
「何で」
「何でも歌になる、朝寝、朝酒、朝湯、って歌にすることでもないように思うけど、しかも身上を潰すなんてのも歌詞にはなりそうにないけど、歌ってみるといいもんだ」
 分かったような分からないような感想だが、何れにしてもこの男は日本の風習や歴史、民族を多いに気に入っているようだった。何となく幸福そうにしている顔を見ると、腹を立てても仕方がないと思える。

 その日、家まで送ってもらって車を降りたとき、竹流が真を呼び止めた。
「真、俺は何百万や何千万の金なら右から左へ動かせる人間だ。もう二度とこういうことはするな。困ったら必ず俺に頼ってこい。いいな」
 真は何とも返事をしなかったが、ただ彼を見つめていた。竹流は軽く手を上げると、愛車のフェラーリで走り去った。






次回は、真のバイトが学校にばれて、ちょっと事件になった下り。
竹流の啖呵をお楽しみください。
1回でアップするにはやや長いので、2回に分けます。
際どい話があれこれ書いてありますが、読後感は爽やか系です(^^)

ついでに、ここまで竹流は多分、長髪ではありませんが、やや長めの髪だったのです。
それを、真のために?バッサリ切ってしまい、多分以後は全く伸ばしていないと思います。

もう一つついでに、民謡には決まった歌詞というものがありません。
一応型はありますが、自由に歌っていい。
この会津磐梯山の歌詞は1例です。身上をつぶしてないバージョンもあります(^^)



以下、言い訳を畳んであります。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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[雨52] 第9章 若葉のころ(1) 

少し間が空いてしまいました。
自分でも忘れそうなので更新しようと思ったら、この章は独立でも読める章なので、あまり記憶の維持には役立たないことに気が付きました。この長い物語、時々こうして独立の回想章が入っておりまして、これまでのお話をご存じない方にも読んでいただけるようになっております。
一部、かなり色っぽいorきわどい話が出てきますが、あまり具体的なシーンとは自分では思っておりませんので、18禁指定はしておりませんが、15歳未満の方はお気を付け下さい。
相川真、15の頃の出来事。
いささか引くようなエピソードがありますが、しれっと読み流してくださいませ。

なお、現在、真は竹流を探して、新潟行の夜行列車に美和と一緒に乗り込んでおります。
多分、列車の中で、あの頃のことを思い出していたのでしょう。





 あれは十年以上前の、やはり同じ季節だった。
 梅雨入り宣言はあったが、実際には雨はまだ少なく、それでも空気が少しずつ重くなり始めていた。その日は夜になって雨がぽつぽつと降り始めた。

 真は随分躊躇ってからレセプションの紳士に訪問の意を告げたが、訪問先からはロビーで待っていろと言われて、自分の格好を思わず考えた。このマンションはまるで豪華ホテルのロビーのようなエントランスを持っていて、とてもずぶ濡れで待っていられる場所ではなかった。レセプションの紳士は真の格好にもいやな顔をしなかったが、それはトレーニングの成果であって、実際には鬱陶しく思っているに違いなかった。
 どうせ竹流はいつものようにパトロンの女とベッドに入っているのだろう。

 一時間は待たされるかな、と思いながら、少しその辺りをうろうろしています、とレセプションに断って、真はもう一度雨の中に出た。小雨だと思っていた雨は、僅かの間に少し勢いを増したようだった。真は両腕を抱くように身体を震わせて、せめて歩いていればましかと雨の中に出た。とは言え、少し歩くと人とすれ違い、傘のない真を哀れむような不審がるような目を向けるので、思わずマンションの脇の茂みに隠れた。学校の制服のままだったし、その格好でずぶ濡れというのは、いかにも人目を引きそうだった。

 そのまま背中をマンションの外壁に預けて座り込んだ。
 まだ夜の雨は堪える季節だった。不意に、通りかかった車のテールランプを頼りに自分の手を見つめると、紅く染まって犯罪者の手のように冷たく穢れている気がした。

 泣いているつもりはなかったが、竹流にはそう見えたかもしれない。
「ロビーで待っていろと言ったが?」
 真は顔を上げて竹流を見た。

 後から竹流が冗談交じりに、あの時は本当にやばいなと思った、と話していた。
『お前、ほだされそうなくらい色っぽく見えたし、本当は誰かに頼りたいのに頼れないという強がりが男心をくすぐる、まさにそんな状況で、そのまま抱き締めて本気でキスしようかと思ったよ』
 いつものように戯言だと思っていた。

「何で、中で待たない?」
「ずぶ濡れだったし、中で待ちにくかっただけだ」
 そう返事をすると竹流も納得したようだった。エレベーターに乗り込むと、急に体から熱が奪われたように感じたが、竹流は自分の着ていた上着を脱いで、包むように真の身体に掛けてくれた。

「学校の帰りか」
 真は首を横に振った。竹流の手は暖かく感じたが、その声は冷めていた。
「また、あの男のところか」
 それには返事をしなかった。

 部屋に入ると竹流はタオルを取りに行ってくれて、玄関から直接風呂場に行くように言った。テラスに面した浴室の窓には、屋外の照明が映りこんでいて、ぼんやりとした丸い光の影が、雨のために幾度も辺縁の形を変えていた。
 真は馬鹿みたいに身体をこすって、それでもまだ足りない気がして、もう一度石鹸を泡立てた。

 自分は泣いているのかもしれないと思ったが、声を上げることもできなかった。もし泣いているのだとして、自分自身にも気付かれたくなかった。
 石鹸を絡みつかせた指を肛門の奥にまで入れて、身体の奥深くに放たれた残滓をかき出そうとしたが、かえって残り火に油を注いだようになった。真はシャワーを止めると、どうしても取れなかった穢れを感じたくなくて、そのまま湯船に身体を沈めた。
 まだ身体には這い回るような指や唇の感触が残っていた。何よりも、そういうものを自分自身が嫌だと思っているばかりではなく、受け入れてきたという現実に対して、どう始末をつければいいのかわからなかった。

 あの女に会う日にいつもしている行為には、性的な意味合いは無く、ただ排泄するための行為で、真にとっての意味合いは、自分の中の穢れを搾り出すことだった。あの女のために身を売った時も、性交渉とはそういうものだと疑ってもいなかった。
 だが、真にとって意外なことに、滝沢基という男は、ファインダーを間に挟んでいないときは極めて常識人で優しい人間だったような気がする。もっとも未成年を相手に性的な行為をすること自体が常識的とは言えないが、それは真が望んだからだと言えなくもない。滝沢基の腕の中で、あの男に教えられながら、身体は明らかにそれに応えるということを覚えていった。

 時々、もっと酷く扱われたいと願った。
 このままでは、目的を果たすことができないと感じたからだ。だが、滝沢基はベッドの中ではあくまでも真を優しく扱った。真が恐がらないように気を使い、感じることができるように彼の知っている限りのテクニックを使った。そして少しずつ、真の身体は快楽を覚えていった。滝沢基に対して愛や尊敬という概念は全く持っていない。だが、身体は別の答えを出そうとしていた。

 今日、仕事は終わったと言われたとき、真はもう会わないとだけ言った。滝沢はそのほうがいい、と答えた。テーブルの上に出された厚い茶封筒は、事件は解決ではなく迷宮入りになったことを語っているように思えた。

 真が風呂に入っている間に、竹流は濡れた服をどうにかしてくれようと思ったのだろう。真が風呂場から出てくると、竹流は脱衣所にいて、洗面台に置いてあった茶色の封筒を取り上げていた。
 半分は気が付いてくれたらいいと思っていた。意識してわざと分かりやすいように洗面台に放り出しておいたのだ。真は取り戻そうとして手を伸ばしたが、竹流は渡そうとはしなかった。

「これは何だ?」
 竹流の声は厳しかった。
「なんだっていいだろ。返せよ」
「一体、お前、何をやっているんだ」
「あんたには関係ない」
「関係ないって、高校生が持っているような金じゃないぞ」
「わかってるよ」
 真は竹流を睨んでいた目を伏せた。
「いいから、それ、しまっといて」

 意識して相手を誘うような表情をしたことを、真自身十分に自覚していた。もしも今、この未解決事件の始末をつける方法があるとすれば、その鍵を握っているのはこの男だと知っていた。
 真が風呂場からリビングに入ると、竹流はテーブルに札束を放り出して見つめていた。真を見上げると、厳しい表情で前に座るように手で示す。

「訳を話せ。これは、あの滝沢という男から受け取ったのか?」
 真は相手を見たまま返事はしなかった。
「ベッドの相手をした報酬か。それにしちゃあ、随分な金額だな」
「契約をした。仕事の報酬だ」
「仕事?」
「写真のモデルをしてた。ベッドの相手をした分も入ってるだろうけど」

 竹流はわざとらしい溜め息をついて、ソファに背を預けた。真は、一度も目を逸らそうとしない竹流にこれ以上言い訳する言葉も思いつかず、ついに目を伏せた。
「で、これをどうするつもりなんだ」
 真はうつむいたまま、今日泊めてほしいと言った。淡々とした声で、それは構わないと竹流は答えた。真は思い切って顔を上げ、聞いた。
「明日、時間ある?」
「デートの誘いか?」

 真は、相手が怒っていてこんなものの言い方をしていることを分かっていた。そして自分のほうも、相手を篭絡する気であるという自覚があった。もちろん、後から考えてみたら、余裕なんてこれっぽっちもなかったのだが。
「連れていって欲しいところがあるんだ」
「遊園地か、それともラブホテルか」
「何言ってるんだ」
「その滝沢とやらに頼めばいいだろう」
「彼とはもう会わない。今日、そう言ってきた」
「これを受け取ったからか?」

 真は返事をしなかった。竹流の青灰色の瞳は、怖いくらいに澄み渡り、その奥にある確固たる意志の存在と、精神の奥底に彼自身が培ってきた自尊心を、惜しげもなく見せ付けてくる。
 わざとらしい溜息をついて、竹流は硬い声の調子を変えることなく聞いた。
「で、どこに?」
「秩父」
「埼玉の? 何だってそんなところに」
「その」真は一瞬躊躇した。「お金を払いに」

 竹流は怪訝そうな顔をした。
「誰に?」
「病院。お金払うの、待っててもらってた」
「病院?」竹流は鸚鵡返しに言って、真をしげしげと見た。「静江さんのか」

 今度は真の方が驚いた。
「何で、知ってんだ?」
「親父さんから聞いていたんだ。彼がいなくなる前に、万が一お前が困ったら助けてやって欲しいとは言われたが、お前が何も言わなけりゃあ、放っておいて構わない、むしろ放っておいてくれ、と。で、何だって?」

 功がどれほどこの男を信用していたのかと思うと、心の奥深くに突き刺さっている棘の存在を否応なしに感じる。
「癌なんだ。もう助からないかもしれないけど、手術して、今薬を使ってる。できる限りの治療をして欲しいって言った。何だか知らないけど、認可されていない高い薬を頼んだんだ」
「入院費は功さんが残してたろう?」
 残してあったが、それはただ普通に入院していれば、という金額で、特別な時のための治療費ではなかった。それに実際は、真自身が自ら稼いだ金であの女のために何かを、それも命に関わる重大な何かをするということに意義があった。

 相川静江、すなわち真の義理の母ということになる女性は、精神を病んで秩父にある、昔の結核病院を改装したサナトリウムに長く入院していた。引き取った赤ん坊の首を絞めたり、娘を道連れに家に火を点けようとした女性は、今も精神のバランスを戻せないままだった。

 自己犠牲が必要だと思っていた。それだけが、唯一あの女を真の内側から追い出してしまう方法だと思えた。己の身体を傷つけた血で贖うことによって、あの女への恐怖も、憎しみも、そしてあの女に対して抱いてきた殺意も、帳消しにできるはずだった。

 だが、結局真は説明が面倒で、つまり竹流に何かを理解してもらえるとは思えずに、それ以上何も言わなかった。この男には陰という部分がない。だから真の中の恐ろしく穢らわしいものを分かってもらえるはずがない、少なくともその時の真はそう思っていた。
 竹流は首を何度か横に振ると、分かったからもう寝ろ、と言った。

 ベッドに真を寝かせた後、竹流はリビングに戻って行った。
 どうしても身体が疼いて眠れないまま、真は時々ソファに座って本を読む彼の様子を窺った。テーブルに広げられた分厚い本には、様々な紋章が並べられている。竹流は幾つかの本を比べながら、時々ノートに何かを書き出していた。その背中は大きく暖かく感じたが、同時に弱い心など跳ね返す厳しさを持っていた。
 真は、ぼんやりと、父親の背中というものはこういうものなのだろうと想像した。


 翌日、いつもバスを利用している真は病院の場所をよく分かっておらず、住所を頼りに人に聞きながらのドライブになったので、何とか病院にたどり着いたのは昼も回ってからだった。
 真は竹流に、ちょっと待ってて、と言ってひとりで病院の玄関に向かった。足は何とか前に進んでいたが、少しずつ重くなった。一瞬真は立ち止まり、竹流の方を振り返ったが、目を合わすことはできずに、すぐにまた玄関へ歩き始めた。

 竹流は、真が赤ん坊の時、静江に首を絞められたのを知っていたはずだった。

 それがただの育児ノイローゼだったのか、自分を捨てた恋人への復讐心からであったのか、実際にはわからなかったが、赤ん坊の記憶に残らない時期であったにも関わらず、真はしばしば首の回りに巻き付く何かの気配で目を覚ますことがあった。
 それが何なのか、子どものうちは全く分からなかったのに、彼女を初めて見たとき、明らかに記憶のパズルに何かがはまり込んだ。真にとって、彼女はどうしても克服しなければならない恐怖、あるいはどうしても消せない心の中の染みだった。

 伯父の功が失踪する前、功は初めて真に静江のことを打ち明けた。
 彼女が相川功と離婚したわけでもなく、亡くなったわけでもなく、そこに存在していて、精神の病を抱えたままもう長い時間、社会との関係を絶って病院に入院していることを。

 真は功がなぜあの時、静江のことを自分に打ち明けたのか、今でもよく分かっていなかった。
 あの頃、幾らか落ち着いたとは言え、真はやはり精神状態の不安定な子どもで、功に付き添われて月に一度は精神科医のところに通っていた。竹流は行く必要はない、と言ったが、真自身は自分の中の何かにまだ怯えていた。行っても大した話はしなかったが、眠れなくなったら来るようにといつも言われていた。薬はもらったが、飲んだことはなかった。

 そんな状況で功が静江の話を真に打ち明けたのは、やはり功が、自分の弟、すなわち真の実父が静江を捨てたことを許していないからだと考えた。
 もちろん、誰かが真にそう説明したわけではない。真が大人たちの気配から想像したに過ぎないが、功がいつも何かと闘っていると感じていた真は、その理由が自分の実父のせいだと思い込んだ。功は、真の存在を介して、何とか弟を許そうと葛藤しているのだろうと想像したのだ。そして一方で、静江の事については、息子である真も、実父の武史と一緒に責任を負うべきであると、功がそう考えているのだろうと感じた。

 真は、功が失踪してから、月に一度は静江に面会に行った。そうしろと言われたわけではない。そのことは竹流にも話したことはなかった。実父と功と静江との間に何があったのか、敢えて聞くこともなかった。

 静江に会いに行くと、彼女は、真を功と間違えているような言動をした。真はその女を抱き締め、求められるままに何度か功のふりをして、白い肌には不釣合いな紅い唇に口づけた。真が帰ろうとすると、静江は真にしがみつくようにして何処へも行かないで、と泣いた。この美しい義理の母親と、舌を絡めるような接吻をしたこともあった。そんな時は、静江は真を武史、つまり彼女を捨てた男と混同しているようだった。
 
 そういう日は、家に帰ると真は必ず自慰をした。いつもその女のことを考えていた。自分の体の中にとてつもなく穢らわしいものがある気がして、自分の性器を扱いて内に溜まったものを吐き出すと、後はただ虚しいばかりだった。

 静江の中では、色々なものや人、出来事が完全に混乱しているようだった。その彼女の混沌は、真を混乱させていたはずだが、一晩自慰をした後では、真は悪夢から少しだけ抜け出したような心地がして、翌日には何事もなかったように学校に行った。

 カリフォルニアから戻った後に通い始めた私立校は、校風も自由で、広々とした敷地はいつも明るい光に満ちていた。院長はすれ違うたびに笑顔で挨拶をしてくれた。お節介な級長は『相川真の親友』を自称し、いつも真のことを気に掛けてくれていて、つまらない日常の出来事を面白おかしく話す技術を持っていた。
 サナトリウムのことは、真にとって小さいが重い義務で、確かに静江に会いに行くことは恐ろしいことだったにも関わらず、会いに行かないことはもっと恐怖の原因になるように思えていた。ただ、それを浄化する場所が学校になるとは、真自身その時まで想像もしないことだった。

 その日、真が病室に入ると、静江は鎮痛剤が効いていて、よく眠っていた。白いベッドの上に、その白よりもまだ白く透き通るような肌の女が横たわっている。女は死んでしまっているかのように静かに横たわっているのに、唇だけが生きて存在を主張しているように紅く、微かに震えるように見えた。優しい看護婦が彼女にいつも紅を引いてくれていた。

 ガラスを通して降り注ぐ光は柔らかで暖かく、僅かに開いた窓からは鳥の声、木々の葉が触れ合う音、遠くに何かがはねる音が、少しずれた次元から空気の中の微粒子を僅かに震わせている。
 真は彼女の傍に座り、彼女の顔の上で透明な光の輪が踊っているのを見つめていた。自分自身が硬くなっていることに気が付いたが、何もしなかった。

 ただ静かだった。

 やがて真は立ち上がり、彼女の唇に接吻し、部屋を出た。
 一刻も早く恐怖から逃れるために、早足でその場を離れたかったのに、心とは裏腹に足はゆっくりとしか前に進まなかった。
 手洗いに入って鏡を見ると、唇が血を吸ったように赤かった。指で紅を拭い、狂ったようにその手を洗った。それから個室に入り、真は自分の性器を扱き、穢れたものを吐き出すようにしてから、紙で拭って流した。もう一度洗面台で手を洗っている時、鏡に映った自分自身は魂の抜けた紙人形のように薄っぺらで頼りがなかった。

 病院の玄関を出ると、竹流の赤いフェラーリが光の中に溶け出すように輝いていた。竹流は運転席のドアに凭れて、空を見上げていた。

 真も空を見上げた。晴れていたと思ったが、雨雲が低い空にたまり始めている。真に気が付くと、竹流は助手席のドアを開けてくれ、真が乗り込むのを見届けてからドアを閉めた。
 竹流は何も聞かなかった。






『若葉のころ』という章題には出典があります。
以下、興味のある方はどうぞ。
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Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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