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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【幻の猫】エピローグ:鳥と虫の棲む教会 

真250竹流330

【幻の猫】ついに大団円です。エピローグ(そして本当の意味での最終回)『鳥と虫の棲む教会』をお送りいたします。limeさんから頂いたイラストから始まったこの物語。ついに最終回を迎えることができました。
ちょっと感無量です。ブログを始めてから書き始めた物語で、(limeさんの大好きな)Endマークを入れたのは初めてかも……
さて、まずは物語をお楽しみください。
あの人たちも出てきますよ(*^_^*)
え? トップのイラスト/絵の猫のジョルジョは追いやられたのかって?
はい。新登場の竹流が迫力ありすぎて^^;





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 その瞬間は痛みなど何も感じなかった。だが、部屋のベッドに寝かされて、一人でじっと天井を見つめていると、痛みは腕の一部から身体という器を駆け巡り、頭を上げることができなくなった。

 竹流は昨日の夜からほとんど部屋に戻ってくることはなかった。
 警察の取り調べに付き合い、ベルナデッタやグローリアの足りない言葉を補ってやっていたようだった。当たり前のことだが、女たちは警察などという威圧的な存在と向き合うことには慣れていないだろうし、竹流の存在はどうしても必要だったのだろう。

 だから、今日、真は一人でベッドの上で、このどうしようもない痛みと軽い発熱と闘っていた。
 解熱剤を飲んだ後少しだけ楽になったので、一度だけ、あの『嘆きの天使』があった場所に行ってみたが、身体が思うように動かなくてしゃがみこんでしまった。実況見分に付き合っていた竹流に気が付かれて、すぐに部屋に戻るようにと言われた。

 しゃがみこむ瞬間、ふとオリーブの木の陰に、黒い尻尾が見えた。
 追いかけたかったが、どうしても身体が動かない。
 にゃあ。
 声だけは耳元に聞こえたが、もう一度顔を上げた時には猫の影はなかった。

 竹流が仕方がないな、という顔をして、警官に何かを告げて、しゃがみこんだ真のところまでやって来た。
「歩けるか?」
 支えられて立ち上がった時、猫の尻尾が消えたあたりにあの少女の影を見つけた。

 アウローラ。
 唇の動きだけで呼びかけてみたが、竹流が真の視線を追いかけて不思議そうに振り返った時、光の加減が変わったのか、少女の影は見えなくなった。

 心の動きに身体がついて行っていないだけで、このまま心穏やかにしていられる気がしなかったが、竹流に部屋に連れ戻された後は、もう部屋を一人で出る気はしなかった。
 時々、あのいかにもイタリアのマンマ風おばさんが様子を見に来てくれて、熱を測ったり、氷枕を取り換えてくれたり、食事を持って来てくれたりした。とは言え、ベッドの上に一人座ってリゾットを眺めていても食欲がわいてくるわけではなかった。
 仕方なくベッドに横になり、目を閉じると、不意に光の中に吸い込まれたような気がした。


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 アウローラ。
 呼びかけた時、光のせいで真っ白だった世界が急に色づいた。
 ライラック色の空気が広がり、吹き抜けた風が色を集めたようになって、少女の髪の上に止まった。しっとりとした絹の手触りが伝わるように、そこだけクローズアップされて真の視界の中で重くなる。
 竹流が少女のために古い日本の着物の端切れから作ったというリボンだった。

 写真を見たからなのか、それとも真の意識が比較的鮮明に物事を捕えられるようになっていたからなのか、少女の顔はくっきりと見えた。病弱だったという痩せた少女の頬は、以前見た時よりも少しふっくらして見えていた。

「良かった。話したかったんだ」
 真が話しかけると、アウローラは首を少し傾げるようにして微笑んだ。
 ふと、少女の手を見ると、誰かの手を握っていた。
 可愛らしいもう一つの手を見つめていたら、少しずつ光がまた溶け出してゆき、そこにアウローラよりも少し小さな女の子が立っていた。

「フィオレンツァだね」
 少女たちは顔を見合わせて、微笑んだ。
「ジョルジョは大丈夫?」
 尋ねた途端、足元に絡み付く気配を感じた。黒い猫が真の足に擦り寄り、甘えている。真は少し屈んで、猫の背中を撫でてやった。温度は何も感じなかったが、滑らかで優しい手触りだった。

 もう帰らなくちゃ。
 少女たちはそう言った。真は頷いた。
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 夜遅くになって、ようやく竹流が部屋に戻ってきた。
 真は夢と現実を半分ずつ行き来しながらうとうとしていたが、ベッドの軋みが身体に響いたので、目を開けた。
 正直なところ、昼を過ぎた頃から薬のお蔭か痛みは薄らいでいて、どちらかというと身体を休めすぎてだるいほどになっていた。いや、一度あの場所に行ってから、そして夢の中でアウローラたちと話してから、傷自体の痛みは取れていたような気がする。

「起こしたな」
 頭に触れた竹流の手が髪を撫でた。
「もう済んだのか?」
 竹流は頷いた。
「ベルナデッタは大丈夫?」
 竹流はもう一度頷いてから尋ねた。

「痛みは?」
「もうあんまり痛くないんだ」
 薬のお蔭かもしれないが、もしかするとあの猫のお蔭なのかもしれないと思っていた。
 竹流が心配そうに包帯を外して真の腕の傷を確認し、思わず舌打ちするようにつぶやいた。
「あの藪医者、縫わなくても良かったんじゃないのか」
 やっぱりそうなのだ。真は自分の傷の治り具合を見て確信した。
「ジョルジョのお蔭だよ。きっと」

 真が思わずつぶやくと、竹流がふと顔を上げた。
「お前、どうして猫の名前を知ってたんだ?」
「え?」
 しばらく竹流は不思議そうな顔をしていたが、霊感だとでも思ってくれたのか、まぁいいかと呟いた。
 まさか、放っておかれて悔しかったから、適当にあんたの名前をつけといた、とは言えなかった。そしてそれから、頭がくるりと回転したような気がした。

 じゃあ、本当にあの猫はジョルジョという名前だったのか。
 偶然といえば驚くけれど、世の中には不思議なことがあるものだ。

 竹流は疲れたな、と呟いて、そのまま服を脱ぎ捨て、タオル地のガウンを引っ掛けてそのままベッドにもぐりこんできた。彼の体臭、穏やかな木の香りにも似たエキゾチックな匂いに包み込まれて、真は目を閉じた。
 それからゆっくりと、竹流は事情を説明してくれた。

 一年前、行方不明になったと言われていた少女、フィオレンツァは、その母親のマリエッラが誤って死なせてしまったこと、マリエッラは夫の暴力に耐えかねて、逆に娘のフィオレンツァに手を上げるようになっていたこと、娘婿が暴力をふるい娘を苦しめていると思っていたグローリアは、娘を助けたい一心で彼女を逃がし、自分がフィオレンツァを旅行に連れて行っている間に見失ってしまったと嘘を言っていたこと、フィオレンツァを以前は墓地だったあの場所に埋めたこと、そして一年が経ち、フィオレンツァの死に苦しんでいた母親のマリエッラは自殺するつもりでグローリアに少女を埋めた場所を尋ねたこと、真があの場所にたどり着いたとき、自殺しようとしたマリエッラを止めようとしたグローリアともみ合いになっていたことなどを、ゆっくりと真に話して聞かせた。

 真は最後まで聞いてから、ただ頷いた。
 そして竹流の胸に頭を押し付けた。
 ボタンは少し掛け違えられただけなのだ。誰も憎しみを感じてなどいなかった。だから少女たちは決して誰かを恨んだりしていたわけではなかったのだ。

「ベルナデッタは偶然、グローリアがフィオレンツァを埋めるのを見てしまったんだ。彼女は娘のアウローラを生んだことも失ったこともとても辛くて、自分を責めていて、あの写真とリボンを傍に置いておくことはできなかった。だから嘆きの天使の傍に埋めていたんだけれど、その日、やはりたまらなくなってそれを取りに行った。グローリアのしたことを見ていたベルナデッタは、きっとこれは自分に科せられた罰なのだと思ったんだそうだ。アウローラの写真もリボンも、掘り出して取り戻すことを諦めてしまった」
 そして一年、俯いて暮らしていたベルナデッタのところへ、グローリアがやってきて、そして今、事実が明らかになった。

「アウローラは、ベルナデッタに写真の後ろに書いた言葉を読んで欲しかったんだな」
 竹流がぎゅっと真の頭を抱き締めてきた。
「アウローラは、ベルナデッタが迎えに来るまであの場所を出ることができなかったんだ。ベルナデッタがあの場所にアウローラを、つまり写真とリボンと思い出を埋めてしまったから。だからアウローラは自分ではあの場所から出ることはできなくて、お母さんを待つしかなかった。でも、自分と同じように少女がここに取り残されたのを見て、何とかしたかったんだと思う」
 真はそれだけ言って、静かに目を閉じた。

 猫は『魂の使い』だという。猫のジョルジョはこの町に来て、フィオレンツァを見つけたのだろう。アウローラはそれに気が付いた。だから、猫と一緒にみんなに訴えていたのだろう。
 ここに来て。違うんだよ、この子は決してお母さんを恨んだりしていないよ、と。
 私たちの言葉を聞いて。誰か伝えて、と。

 アウローラは、ジョルジョがいる時は猫に乗って町にも来ることができたかもしれないが、ジョルジョがいない時には精一杯で『しっぽ』だったのかもしれない。真にしっぽしか見えない時があったのは、そのためだったのだろう。
 そして、ベルナデッタが写真とリボンを抱いたときから、アウローラの魂はあの場所から解き放たれたのだろう。きっと今、彼女はベルナデッタの傍に帰ったのだろう。そしてフィオレンツァも、母親と祖母の魂の傍に帰ることができたに違いない。
 嘆きの天使は、もう涙を流さなくてもいい。穏やかな夜があの場所に降りて、世界を包み込んでいる。

 竹流は昨夜からずっと女性たちのために動き回っていて、彼女たちの気持ちを聞いてやり、代弁したり、事務的な手続きを手伝ったりして眠れなかったのだろう。ベッドに潜り込んでようやくほっとしたのか、真を抱き締めたまま眠ってしまった。

 真はしばらくどうしようもなくその胸の動きを耳で感じていたが、やがてそっと彼の身体に腕を回し、抱き締めた。
 アウローラは、足長おじさんに恋をしていたと思うよ。だから病気でも、一生懸命素敵な手紙を書いたんだ。あんたに辛いこととか苦しいこととか、気が付かれないように。
 真はそれだけ呟いて、自分も目を閉じた。
 竹流の手がもう一度強く、真の頭を抱き締めた。


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「やっぱり藪医者だったな。糸を抜くだけ無駄だ」
「違うよ、ジョルジョのお蔭だって」
 朝からこの会話はもう三度目だった。
「猫をジョルジョって呼ぶな」
「何で」
「うるさい」
 ついでにこれも揉めている。

 シエナにはバスターミナルがある。トスカナの地方の小さな村へ行くバスがここを拠点にしてあちこちへ出ていっている。賑やかにチケットを求める人の列、アナウンスの声、そして開け放たれた窓から吹き込む早春の風。
 自分たちの番が来て、バスの切符を買っている時、いきなり真は誰かに後ろから抱きつかれた。というよりも目隠しをされた。

 この感触は!
「だーれだ?」
「李々子さん」
「え~、どうしてわかっちゃうの~?」
「いや、それは分かりますって。ねぇ」
 シロちゃんこと稲葉さんが真にとも、傍に立っている宇佐美にともつかず言った。見れば、その後ろに例の大道芸人さんたちも一緒にいる。

 竹流が窓口に支払いを済ませて振り返った。
 最初に竹流と目が合ったのは、どうやら蝶子さんだったようだ。それはそうだ。こうして朝の光の中で立っていても怖いくらいに綺麗な女性だった。グローリアの娘、クラリッサのことは真の誤解だったとしても(いや、それも疑わしいのだが)、今明るい陽の中で交わされた二人の一瞬の視線に、真は思わず殴ってやろうかと思ったりもした。

 蝶子さんも意味ありげにふと笑みを浮かべる。
 これは断言してもいいが、もしも真がいなければ、この視線を交わした男女は間違いなく、今夜の約束をするはずだ。いや、今夜まで待つかどうかも分からない。

 でも。
 真はちらっと竹流を見上げた。
 たまには信じようか。

「どちらへ行かれるんですか」
 竹流が、背の高さの関係上、一番視線が合いやすい宇佐美さんに向かって聞いた。
「フィレンツェです。我々の探し人がどうやらフィレンツェにいるんじゃないかという情報が入ったので。駅までバスに乗ろうと思ったら、あなた方が見えたので、李々子が……」
「最初に見つけたのは諒じゃない。ねぇ」
 と李々子さんが言いかけた時、急いでいるらしい数人の男たちが駆け込んできていて、真にぶつかりそうになったのを、竹流が抱き寄せた。李々子さんは、竹流の顔を見ていたようだったが、急にちょっとほっとしたような顔になった。

「あなた方もフィレンツェに?」
 竹流が蝶子さんに尋ねる。
「えぇ。今夜から、フィレンツェの店でしばらく厄介になるの」
「ではまたお会いすることがあるかもしれませんね」
「あら、あなた方もフィレンツェに?」
「えぇ、この町の次に……」

 と言いかけた竹流の方へいきなり李々子さんが倒れかかった。というよりも、彼の足を思い切り踏んづけたようだった。
「あ~、ごめんなさい!」
 横で宇佐美さんと稲葉さんはもう笑いを噛み殺している。蝶子さんまでが何かを察したように微笑み、後ろで大道芸人仲間たちはちょっと見なかったことにしようとでも言うように目を逸らしている。

 竹流はと言えば、しれっとした顔で、いいえ、シニョーラ、と微笑んでみせる。
 別れ際に李々子さんが耳元に囁いてくれた。
「仲良くね」
 竹流には蝶子さんが近づいた。そして明らかに真にも聞こえるように、よく通る爽やかな声で言った。
「泣かさないようにね」
 そう言いながらも、じゃ、またフィレンツェで、と言って微笑んだ。

 最後に稔と名乗った、ギターと三味線を弾く日本人の彼が真に近付き、何か言いかけて、上手く言葉が見つからなかったのか、結局思い切ったように手を差し出した。真はしばらくその手を見つめていたが、少しだけほわっと温かい気持ちになってその手を握り返した。
「何て言うのか、津軽の心を思い出した。腹の中に残ってるあの節を。ありがとうな」
 真は強く握り返された手をしばらく見つめていたが、自分も思い切り手を握り返した。
「僕の方こそ」

 本当はもっと言葉を言いたかった。だが、もともと言葉が苦手な真にはそれ以上何も言えなかった。だが多分、稔さんも同じだろう。そしてそれで十分だった。
 あの時、この手から三味線を渡された瞬間、心に火が付いた。それは多分、この竿に触れ撥を握った者同士にしか分からないものだ。
「日本に帰ったら、今度は二丁で叩き合おうな」
 どこに行けば会えるかと聞かれたので、祖父母が出入りしている民謡酒場の名前を言った。稔さんはぽんぽんと真の腕を叩いて、そして先に歩いて去っていく仲間を追いかけた。
 向こうから李々子さんが大きく手を振ってくれ、最後に皆が振り返って、照れ臭いほど一生懸命に手を振ってくれた。


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 シエナから四十キロ、バスは空と地の境界をゆったりと走る。
 蒼い空とベルベットのように滑らかな緑の大地、向こうに立ち並ぶ木々、風は開け放った窓から吹き込み、頬を撫で、また通り過ぎていく。乗り合わせた人々は自分の手元の仕事とおしゃべりに忙しいものの、見慣れない旅行者には敏感だった。

 真にも何とかわかる言葉で、彼らは行先を尋ね、竹流はそれに答えている。それ以外の会話は真には全く分からないが、その音楽のような言葉の響きは耳の中に心地よい余韻を残す。
 やがて、人々が口々に同じ言葉を叫ぶ。きょとんとしている真の腕をおばさんが掴み、窓から向こうを覗くように示し、おばさんを見上げた真ににっこりと微笑んで見せた。

 サン・ガルガノ。
 緑の短い草が生えそろう平地の先、並木の向こうに、他に何もない孤高の場所に立つ建物はバス道から見ると、まだ随分小さく見えていた。

 バスが停まる。
 竹流は真の手を引っ張って、皆に礼を言ってバスを降りる。降りてバスが走り出すと、窓から顔を出して皆が手を振っている。竹流も手を振りかえしているので、真も何となく手を振り返した。
 バス停から修道院まではそれなりの距離があった。竹流はバスの中で真の手を取ったまま離そうとせず、何を思っているのか、引っ張るように一生懸命歩いている。
「手、もういいって」
 真が訴えると、竹流はようやく気が付いたようだった。あ、そうか、というように手を離し、それからはゆっくりと一緒に歩いた。風が足元に吹き付け、一度舞い、それから並木を撫でていく。

 坂を登ると修道院だった。
 中に入って驚いた。
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 屋根がない。
 真は蒼天を見上げた。
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 蒼い空、雲は白く流れゆき、風が空を渡り、鳥が漂うように行き過ぎた。天は抜けた屋根の形に切り取られ、この大地となった床から見上げている異教徒にも、神の光を降り注いだ。
 ここに来るまで見上げたどの教会の天井からも直接感じることがなかった、自然という名前の芸術を越えた大いなるものの存在。それはキリスト教とは何ら縁のない真にも、直接的に何かを語りかけているようでもあった。

 真は首が痛くなるのも気が付かないまま見上げ、目を閉じ、光と風を頬に感じ、そして高い空を舞う鳥の声を聴いた。それからふと足元の大地を見下ろし、短い草が風に揺れ、小さな虫が羽音を震わせている気配を感じた。

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 真が言葉もなくゆっくりと教会の中心を、今はもう名残の石しかない祭壇へ歩いて行くのを、竹流は黙ってついてくる。言葉は何もなくても、ここは何て暖かいのだろうと思った。

 脇廊、ファザードの高い窓にもガラスの名残さえない。そこからは直接光が入り込み、向かいの壁に光の帯を映し出す。真は正面の丸い窓の痕を見つめ、壁のレンガ色が少しずつ色合いを変えているのを見た。
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「十二世紀の後半に建てられたシトー派の修道院だ。シトー派は十一世紀にフランスで生まれた修道会で、清貧、貞潔、服従がモットーだった。祈りと生活の場だった修道院はこうやって俗世の喧騒から離れた山の中に建てられている。百年ばかりは栄えたが、やがて衰退して、貧しさのあまり屋根を売り払った。屋根に鉛が入っていたからだ。十七世紀にこの姿になって、後は放置されたという」

 竹流が傍らで空を見上げた。
「屋根を売り払った理由は極めて現実的なのに、残された教会は随分とロマンチックだろう?」
 真はしばらく神がこの世に落とした芸術の賜物のようにさえ見える男の横顔を見つめていたが、やがて一緒に空を見上げた。

 神様というのは、こんなにも優しい。
 鳥も虫も一緒に、神の家である教会に棲むことができるよう、屋根を外したのだ。
 真はもう一度目を閉じた。

 この国の小さな町で起こった小さな事件。それを覆うように天が光を降らせている。あの上から、少女たちは時々ここへ降りてきて、愛らしい声で囁く。

 Mamma, Ti amo.

 母のない真にも、同じ光が降り注いでいる。
 そっと髪に触れる手は大きくて暖かかった。

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 修道院の外側へ回って、草地に座った。向こうまで果てなく広がる緑の草地から風が渡って、枠だけ残された窓を通り抜けていく。あの空と陸の境に永遠が宿っている。

 持ってきたバッグから、出がけにホテルのレストランで貰ってきたワインとグラスを二つ取り出し、パンとハムとチーズ、オレンジを草のテーブルクロスに並べる。ワインオープナーを回す音がきゅっきゅっと耳に心地よく響く。グラスに注がれる音、爽やかに白と透明と琥珀を掛け合わせたような光がグラスを満たす。
 真がグラスを取り上げるのを躊躇っていると、竹流が自分のグラスを取り、大地に残ったままの真のグラスに勝手に乾杯をすると、自分は先に飲み始める。真は彼が風に向かいながらワインを傾ける横顔を改めて見つめ、それから自分もグラスを取り上げた。

 匂いをいっぱいに吸い込んで、それから神の手でこの世に授けられた命の水を口に含んだ。
 それからナイフでパンを切り、チーズとハムを挟む。硬いパンだったのに、昨日一人で口にした暖かいリゾットよりもずっと美味しかった。多分、風も一緒に胃に入れているからなのだ。そして、傍にいる男は、自分の母親代わりだったという人に、真をこの世界で最も大事な人と紹介してくれていた。
 オレンジも食べてしまうと、竹流が気持ちよさそうに草地に寝転んで目を閉じだ。

 真は隣に座ったまま、少しずつワインを舐めていた。
 ふと気が付くと、傍に猫がいて、ハムとチーズの匂いを嗅いでいる。キジトラの猫はちょっと真に遠慮していたようだが、あげるよという顔で見つめると納得したようにしばらく残り物を味わって、それから真の足に頭を摺り寄せた。やがてころんと寝転び、毛づくろいをしてから目を閉じる。その頭を撫でながら、ふと思う。

 ジョルジョが来てくれたらいいのに。
 竹流はもう完全に眠っている。何だかつまらなくなって、猫を腹の上に置いてやると、竹流は一瞬微かに動き、それから目を閉じたまま腹の上の猫を撫で、その手で真の膝に触れた。

 ちょっと言いたいことがあったような気もしたが、まぁいいか、と思った。
 ワイングラスを置いて、隣に寝転び、高い空を見上げる。鳥が羽を広げて漂いながら視界を横切った。
 多分、今、幸せなのだ。このまま世界が壊れてしまわないように抱きしめてしまいたい。
 真はこの大きな宇宙の中で目を閉じた。
 今、こうして瞼の裏の星を数え、世界の音を聞き、そして果てのない命の連鎖を魂で感じている。

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 大きな時間の流れの中で、この今の瞬間、高い空から屋根のない教会へ吹き降ろす風は、緑の草地に寝転ぶ小さな二つの影を捕えた。
 風は鳥を空へ送り上げ、虫たちを伴いながら地上へ降りて、彼らを優しく包み込む。
 その傍には黒い猫が座っていた。
 猫は気持ちよさそうに目を閉じ、風の匂いを嗅いでいる。
 やがて猫がそっと目を開ける。
 少女が二人、草の影から顔を出して、愛らしい仕草で猫に合図を送る。
 猫は少し名残惜しそうに傍らに眠る男と少年を見つめ、やがて立ち上がり、少女たちの方へ歩いて行き、途中で一度振り返った。
 そして風を見上げた後、黒い猫はその風を身体に取り込んだように少女たちの方へ駆けて行き、光の中へ飛び込んで、消えた。

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 【幻の猫】 了


以下、あとがき?は追記に。
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Category: ☀幻の猫(シエナミステリー)

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