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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【雑記・小説】 実在もの 

明日、土曜日が公務なので、今日は代休です。でも夕方に職場に行かなければならないので、何だかイマイチな代休ですけれど。というわけで、【死と乙女】を推敲しながら、ちょっと記事を書こうかな、と。

ピックアップコラムの第2弾ですが、前回記事とは内容が変わっているので、結果的に無関係になっています。
今日の話題は小説に登場する『実在もの』。
実は前出の記事では、ラブホの話しかしていない、という残念な内容だったので、あえてリンクは入れません^^;
でもこの記事は、ちょっと関係あるかも。ご興味があれば、クリックして覗いてみてくださいね。

【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼・前篇→主にロケハンについて
【物語を遊ぼう】13.ロケハンと聖地巡礼・後篇→主に聖地巡礼について

さて、この【海に落ちる雨】第1節に竹流と真が無計画に新潟に飲みに行ったので、帰れなくなってラブホに泊まった……(何もしていません^^;…のはず?)というエピソードが出て来まして、そのラブホは(実は石川県に)実在していた(今もあるかどうかは不明)ということで……
私も同じシチュエーションで泊まったことのあるラブホ『大名屋敷』がモデル。

いえ、ラブホって予約いらないし、安いんですよね。
でもあとにも先にも、そんな理由で泊まったのは1回だけ。だって田舎では、ほかに宿泊施設がないのですもの。
そう言えば、某田舎の病院で、家族が泊まるところがなくて、近くにあるラブホテルにいつも多くの「患者さんの家族」が泊まって大繁盛。お蔭でそのラブホは増築したとか。
その後、出産ブームがあったかどうかは不明です^^;

で、『大名屋敷』。
これがまた、田舎で土地があまっているのか、平屋で別荘タイプ。車は自分の泊まる部屋に横付け。
部屋の名前にはそれぞれ、戦国時代の武将の名前が……あれ、大名じゃなかったかな?
何だか記憶が曖昧です。

『実在もの』……ファンにとってはその物語の舞台になった場所や、物語の中に出てくる物が、ものすごく大事だったりするんですよね。
そして、訪ねてみたい、買いたい、という気持ちになることもありまして。
(だから、聖地巡礼に行くのです(^^))

映画などはロケ地というものがあるので、そのロケ地にファンが行くというのは、かの『東京ラブストーリー』の四国の某駅などでもあったかと思います。あるいは韓流ドラマで、雪だるまでチュウのシーンの公園とか。
あるいは、番組で某アイドルが行ったという理由で、ある店が流行るとか。

私にとって印象深い話は、漫画の『NANA』で、2人のNANAが一緒に住んで、お揃いのマグカップを持つ、というので、そのマグカップがある雑貨屋さんに本当にあって、多くのファンが買いに行ったという話。
そうか、そんなことになるんだ、とちょっと感心したりしたものです。
この漫画では、実在のお店(バーだったかな?)も出てきていたようで、そのお店が紹介されたりもしていました。

物語が素敵であれば、その場所に行ってみたり、その物を触ってみたり、あるいは食べ物なら食べてみたい、ということになるのですよね。

よくあるのは、(今話題の?)煙草かな。
ちょっとおしゃれな外国タバコとか(NANAにも出てきますが)、真似して買った人もいるのでは、と思ったりします。(今これ言うと、禁煙学会に怒られるかしら……)
帽子やアクセサリーもそうかな。
でも、映画・ドラマ、あるいは漫画で出てくるときは、絵として登場するので、流行に繋がりやすいんだろうけれど、小説では文字なので、これを上手く描写して惹きつけて使いこなすのは難しいかもしれませんね。


逆に、実は『実在しないもの』が書かれているのに、あまりにもリアルに書かれているので、実際に存在すると思ってファンが「どこにありますか?」と聞くようなこともありますね。
私がクラシック音楽に嵌る理由となった竹宮恵子さんの【変奏曲】、舞台はヴィレンツというウィーンを下敷きにされたと思われる架空の町。
藤沢周平さんの作品で登場する架空の藩・海坂藩。
これらは古い時代の物語なので、よりいっそう「あるかも」という気持ちにさせられるのですが、現代のお話でも架空の町を舞台にしたお話は多々ありますね。
あ、横溝正史先生の作品群ももちろんですよね(そんな名前の村はイヤ~という名前ですけれど^^;)。


『実在もの』を使って、物語にリアルな感じを醸し出すアイテムにする。
『実在しないもの』をリアルに感じさせて、書き手の力量を感じさせる。
どちらも、詳細にそのものや場所を書く・描写することで、物語に厚みを感じさせられたらいいなぁと思うのです。

あ、でも、実在しないものをリアルに感じさせる、というのは、小説そのものがまさに「そういうもの」ですよね。(ちょっと話を複雑にしてしまった……(..))


ただ、ちょっとだけ『実在するもの』をこっそり交えると、何だか自分でも楽しくなることがあるのですね。
【清明の雪】では、主な舞台になったお寺は架空のものですが、彼らが訪ねる京都の北の果てのお寺(多分観光案内書には載っていません)は実在するもの。
今度また、何か『実在するもの』をこっそり使ってみたいと思ったりしています。

大好きなあの石鹸とか。
大好きなあの本とか。
大好きなあの北海道のお菓子屋さんのアラレとか(って、なぜバームクーヘンじゃないの…^^;)。
そして、誰かが気になってそれをいつか手にしてくださったら(あるいは舞台なら、その場所を訪ねてくださったら)すごく嬉しいなぁ。


あ、でも、『大名屋敷』は……探さない方がいいと思います^^;
(誰も探さないって!)


そうそう、最近、一番多い検索キーワードは、ずばり『〇〇巨石』なんです。
小説じゃないけれど、これ、すごく嬉しいんですけれど……(*^_^*)
そうか、今度『巨石探偵』が出てくる話でも書こうかな。
って、何を推理するんだろう? 歴史ミステリー? 時代が古すぎて分からないことばかり。
名前は、stoneをもじってストウ、巨石だからダイ、なんてのはどうだろう??
いや、いっそ、そのまんま、巨石と書いてオオイシ、名前はレイ(よくレイラインが絡むから…)。
いやいっそ、2人探偵で。
(全く予定はありません^^; なのになぜ真剣に考えるのか??)

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Category: 小説・バトン

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[雨73] 第14章 連絡を絶っていた男(4) 

中途半端で気持ち悪いので、続きのシーンをさっそくアップします。
寺崎昂司。真にとって有益な情報を教えてくれたのでしょうか。
彼もまた、竹流の現在の行方は知らない様子。
真は彼とは直接面識はないと思っていたのですが、実はものすごい場所で会っていたようです。




 だが、昂司はその後を続けようとはしない。一瞬目を伏せたことで、もうこの件は聞くな、と言っているように思えた。
 とは言え、もちろん真の方も、はいそうですか、と引き下がる気持ちはなかった。

 もしもその証拠が公表されれば、新津千惠子は多少なりとも苦境から救われるだろう。少なくとも、脅迫事件を起こし自殺した犯罪者の娘というレッテルを剥がしてやることはできる。
 だが、父親が生き返ってくれるわけではない。母親が生き返ってくれるわけでもない。そして、父親に愛人がいた事実が、消えてしまうわけでもない。そういう意味では、不幸な少女の行く末が大きく変わるチャンスはなさそうだった。

「寺崎さん、どうしてもよくわからない。新津圭一は、本当は誰を脅迫していたんですか。ロッキードのどさくさに紛れたとは言え、政治家を相手取った脅迫事件だったと言うのに、揉み消されるように事件は翳んでしまった」
 昂司はふっと笑ったように見えた。
「新聞に書かれていたことなど事実かどうかは誰も知らないさ」
「え?」

「新聞記事と、その後に出た雑誌記事を見てみろ。誰が誰を脅迫していたのか、誰がそう言っているのか。脅迫文の内容なんて何処にも書かれていない」そう返事をしてから、昂司はまた少し言葉を切った。「やれやれ、お前さんの誘導尋問に引っ掛かってしまったな。巻き込むわけにはいかないと思うのに、もう、しっかり巻き込まれてる、か」

「僕は」
 昂司は、今度はしっかりと真の腕を掴んだ。そして、真の言葉の先を続けた。
「竹流が戻ってくれば、それでいい」
 真は、そう願っているのは自分なのか、あるいは昂司なのか、よくわからなくなった。
 だが、昂司が竹流に負い目を感じているのは明らかだった。そして、彼の無事を確認したいと思っていることも。

 そう思った途端、昂司がここにいる理由は一体何なのか、聞いていなかったことに気が付いた。
「ここに、何をしに? 警察が張っているのに」
「警察の網の目を掻い潜るのが俺の仕事だからな、入り込むことはたやすいさ」
「何のために」

 真はもう一度繰り返した。だが、その時には寺崎昂司の目は、すっかり拒絶の色に変わっていた。
「もう首を突っ込むな。最初に言った通りだ。お前に何かあれば、俺は竹流に申し訳が立たない。さあ、俺を地下に連れて行ってくれ」

 昂司はそう言って立ち上がろうとした。真は反射的に昂司の不安定な体を支えた。
 日本人としても決して大柄な方ではない真に、昂司の体は随分大きく感じられた。竹流よりもまだ背丈があるように思う。

「せめて、新津千惠子の居場所を教えてください。彼女は危険なのでは? 預けた女というのは、竹流の恋人だった……」
 言いかけた真を昂司が遮った。その言葉の強い残響に、真は驚いた。
「その女はもういない」
「どういう意味ですか」
「俺が殺した」
「殺した?」
「いや、まだ生きているにしても同じことだ」

 真は支えている昂司の体が何かに少し震えた。
 すぐにそれが昂司が笑っているからだと気が付いた。笑っているのか、泣いているのか、よく分からなかった。あるいは、聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。その女は竹流の恋人とはいえ、寺崎昂司とも何らかの関係があったのだ。三角関係の状態だったと、葛城昇も添島刑事も話していた。

「その人を愛していたんじゃなかったのですか」
「誰が?」
「あなたが」
 昂司は真を少し見下ろすようにしていた。

「そうだ。だが、ボスを裏切り窮地に追い込んだ。それは許すことができない」
「それを聞いたら、竹流が悲しむ」
「彼女が死んだことを、か? それとも俺が彼女を殺したことを、か?」
 真は寺崎昂司が何を言っているのかよく分からなかった。
「そうじゃない。あなたが彼をボス、と呼ぶようなことだ」

 寄りかかっている昂司が、真を掴む手に力を込めたように思った。
「あいつは生まれたときから支配者になることを運命付けられた男だ。その資質も、彼自身が自分の手で培ってきたものも、ボスと呼ばれるに相応しいものだよ」
「でも皆が、あなたは特別だ、と」

 一瞬、真は昂司が息を止めたように思った。
「特別か」
 昂司は吐き出した息のままに呟いたが、やはりそれ以上、真の望む答えを寄越そうとはしなかった。やがて真の腕を支えに歩こうとする。

「ここからどうやって出るんですか」
「俺は『逃がし屋』だぞ。逃げ道はちゃんと用意している」
 昂司は茶目っ気のある口調で言った。声は低く、いくらか擦れているのは、現在の体調のせいではなく、もともとそういう声なのだろう。そう思った途端に、また不思議な既視感が降りかかってきた。
 そうだ、いつか助けてくれたのは、確かにこの声だった。

 昂司の体に包帯代わりに巻いたタオルの表に、血が僅かに滲み出ている。心配しながら見ていたが、すぐに染みが広がっていく気配はない。思ったより傷は深くないのかもしれない。
 そのまま昂司と一緒に部屋を出て、玄関脇のもうひとつの洗面所で手を洗ってもらい、それからいくら何でも、シャツが血塗れなのはまずいだろうと思った。

 少し待つように言って、寝室に戻り、クローゼットから竹流のシャツをひとつ取った。白よりも黒いほうがいいだろうと思い、それからついでに上着を一枚掴んだ。
 いくらかでも状況を隠せるほうが良いに決まっていた。
「すまないな」
「いいえ、以前あなたには助けてもらった」

 真が着替えを手伝いながら答えると、昂司は真の腕を軽く掴んだ。
「その時のことを、覚えているのか」
「いえ、薬でふらふらだったし、本当のところ人に言われるまで、あれは竹流だったんだと思っていました。記憶の中の彼はただ怒っていたような気がします」
 昂司が何も言わないので、真は顔を上げた。
「何故ですか」
「いや」昂司はかぶりを振った。

 エレベーターで地下の駐車場に降り、人がいないことを確かめてから、並ぶ車の後ろをゆっくりと進んだ。豪勢なマンションに見合っていて、並んでいるのはほとんど外国車だ。
 昂司は五台目の黒いベンツの500SELで立ち止まると、ジーンズのポケットから何やら金属の道具を出し、簡単にそのトランクを開けた。
「この中に入るんですか」
 昂司は頷いた。

「出血が酷くなる」
「心配するな」
「それに、この車の持ち主がいつ車を出すのかも分からない」
「それはもうすぐだ」
「どうして」
「この車を必要としている人間が呼んだからな」
 真が昂司の指の先を見ると、彼の耳に何かイヤホンのようなものがちらりと見えた。昂司の逃がし屋としてのネットワークなのかもしれない。
 
 そのまま、昂司は怪我をしているとは思えないほど身軽にトランクに収まった。
「なぁ、坊主」
 周囲の気配を窺った真に、昂司がトランクの中から呼びかけた。やや暗いトランクの中の昂司の表情は分からなかった。

「あの時、お前、俺に必死でしがみついてきた。お前が奴らに何をされていたのかは一目瞭然だったし、始めは薬でラリってておかしくなってるのかと思った。だが、お前は俺をあいつと間違えたんだな」
 何をどう返事していいものか考えたが、答えにはならなかった。

「俺は、あの後竹流が狂ったようにビッグ・ジョーに復讐しようとするのを見て、思った。あいつはまるで雛鳥を庇って、自分より何倍もでかい猛禽につかみ掛かる親鳥に思えた。女を庇ったり愛したりするのとは全く違う。お前を全身で守っているようだった。これは止めなけりゃヤバいな、自分がどうなろうとも、死ぬことになっても、相手を食い殺すまでやめないぞ、とそう思った。お前が俺にしがみついてきたのは、巣から迷いでた雛が天敵に襲われて必死でもがいていて、やっとのことで救いに来た親を見つけた、と思ったからだったんだな。お前は、あいつが自分にしてくれていることを、その全部で知っているわけだ」

 どうとも言えなかった。見えていないはずだったが表情を見られたくないと思い、不意に顔を上げたとき、あ、と思った。
 ここに着いたとき、涼子に出会って忘れていた違和感の理由に気が付いたのだ。
「どうしたんだ?」
 真の気配に敏感に反応して、トランクの中の昂司が呼びかけてきた。

「テスタロッサがない」
「どういうことだ」
 トランクの中から、昂司の手が僅かに視界を広げた。
「竹流のテスタロッサだ。入院している間、ずっとここに停めてあった」
「鍵は?」
「あいつが持っていた、と思うけど」

 病院から消える前、鍵や財布をどうしただろう。大体入院中にそんなものは預からなかった。第一、竹流はフェラーリの鍵を他人に預けたり、何より他人に運転させたりは絶対にしない。
 ということは、彼が自分で運転していったか、何か望ましくない状況でテスタロッサが持ち去られたか、だ。

 同じ事を昂司も思ったのだろう。暫くどちらも沈黙していたが、エレベーターが下りてくる振動が伝わってきて、真は昂司に確認してから、トランクを閉めた。直ぐに自分たちが降りてきたのとは違うエレベーターの扉が開いて、スーツ姿の運転手風の男が降りてきた。真は瞬間に隣の車の陰に身を隠した。

 寺崎昂司をトランクに乗せた車が走り出すのを見送って、真はエレベーターに戻った。
 念のため、エレベーターの中に血痕がないか確認したが、それはなさそうだった。昂司はどこで刺されて、どうやって血痕も残さず部屋まで上がってきたのだろう。他のエレベーターでは竹流の部屋に入れないはずだから、このエレベーターには違いないはずだが。

 部屋に戻ると、自分の服に血がついていることに気が付いて、とにかくシャツを脱いで手と顔を洗った。それからオーディオルームに戻り、改めて電気をつけると、思ったほど床のカーペットに血痕は残っていなかった。
 出て行ったときと同じように、誰かの車でここに来たのだろうかと思ったが、寺崎昂司が運送屋だったことを思い出した。
 荷物を届けに来たわけだ。部屋に入るには幾つか方法はありそうだった。万が一の事を考えても、真が知らないだけで、このマンションに竹流の、あるいは昂司の仲間が住んでいる可能性は十分にある。

 だが、いずれにしても、掃除に来る高瀬登紀恵を驚かせることにはなりそうだ。
 真は、昂司がわざわざここに何をしに来たのか、確認しようと思った。寺崎昂司の痕跡は僅かな血だけだったが、それはレコードとビデオの並んだ棚辺りに多いように思った。

 事務所が荒らされた時も、誰かが何かを探していた。なくなっていたのはテープ類と美和がカムフラージュと称して、ごちゃごちゃと放ってあったフロッピーだ。
 寺崎昂司はここで何かを探していたのか。
 フロッピーか、もしくはテープかビデオ?

 いずれにしても何かの記憶媒体だ。竹流はここに何かを隠していたのか。彼は寺崎昂司に何もかも話していたわけではなかったようだ。途中から、寺崎昂司を巻き込まないように、一人で何かを片付けようとしていたのか。昂司は何とか竹流を助けようとして、後を追っているのかもしれない。
 糸魚川で深雪の両親の事を調べに行ったのは、竹流が最初で、その次は寺崎昂司のようだった。二人は別々に来ていた。竹流は途中からこの件から手を引くつもりになっていた。

 それを翻意したのは、新津千惠子が危険だと知ったからだ。竹流は寺崎昂司に千惠子をそれとなく見守るように頼んだのだろうか。子供嫌いの竹流が、いくら可哀想な子供だとはいえ、自分で千惠子に対して何とかしようとは思わないはずだった。
 ぼんやりとビデオの背を見ながら、思った。

 いや、逆もあり得るな。

 寺崎昂司はここに何かを隠しに来たかもしれない。
しかし、いくら写真のように風景を覚えるのが得意な真でも、ビデオテープの背に書かれた文字が氾濫する棚の、数日前の光景を思い出すことはできない。 

 それに、わざわざ隠しに来るには危険が多すぎる。隠す場所なら他にいくらでもありそうだった。
 やはり、何かを探しに来たのだ。寺崎昂司も竹流が病院から消えたことは知っていただろうし、竹流が危険と知った時点で、彼が持っていたものも危険に晒されると思ったのだろう。

 竹流が持っていたもの? しかも、相手は、もしかしてそれが真に預けられたかもしれないと思っている。でなければ事務所が荒らされた理由が分からない。
 誰かが持っていた証拠?

 昂司はさっき、新津圭一の他殺の証拠が出た、と言わなかったか。
 一体、証拠とは何だろう。新津圭一が脅迫状を残したフロッピーは、内閣調査室から消えていた。そのフロッピーのことだろうか。しかし、ワープロで書かれたものが、新津圭一自身が書いたものであるか、ましてや真実であるかどうかをどうやって確かめるのだろう。いくらでも加筆・修正ができる。

 竹流が持っていたもの?
 まさか、絵のことだろうか。いや、寺崎昂司は絵は最も安全な場所にあると言っていた。人に見つからないような場所。この部屋とは思いがたい。それに、絵を隠すのは簡単ではないだろう。
 しかも、少なくとも竹流が怪我をしたとき、竹流は寺崎昂司と一緒に『仕事』をしていたはずだ。何か大事なものを持っていたなら、その時点で多少なりとも情報交換していてもよさそうだ。

 真はひとつ溜息をつき、リビングに戻った。
 テーブルの上の煙草を取り、一本抜いた。火をつけて、ひとつ吹かした瞬間だけほっとしたが、一瞬先には破られた。

 ドアホンの音だった。今度こそ警察かと思ったが、考えてみれば下のロビーには管理人が常在しているし、身元の確かな金離れのいい住人たちのプライバシーを守るためには、相手が警察であっても追い払うだろう。鳴ったのは、ドアそのものの呼び鈴だった。
 一瞬、寺崎昂司が戻ってきたのかとも思ったが、そんなはずはなかった。

 ドアまで行き、一瞬躊躇ってからドアアイを覗いた。
 真は思わず息をつかなければならなかった。ドアを開けるのはそれなりの覚悟が必要だった。
「まだ、何か」
 ドアを開けて最初に出た声は、自分でも分かるほどそっけないものだった。
 だが、目の前に立つ涼子の眼を見た途端、いくらか後悔した。

「頭を冷やしてみたら」
涼子は目を伏せて、それから暫く黙っていた。真は玄関口から中に入るように促したが、涼子は首を横に振った。
「ごめんなさい。言い過ぎたわ」
「いや、俺の方こそ、苛々していて」

 涼子はそこで始めて、一瞬後ろを気にしてから、ちょっと中に入ってもいいかと改めて尋ねた。真は彼女を中に入れた。ドアが閉まってから、涼子はもう一度躊躇う素振りを見せて、漸く顔を上げた。
「警察に聞かれて、腹が立つから何も言わなかったけど、竹流に預かったものがあるの」
「預かったもの?」
「正確にはここに送られてきたものなの。速達だったから、管理人が急ぎのものだろうって。あなたにはその日会えなくて、困ってたみたいだったから」

「それを、どうしたんですか」
「病院に持っていったの。そうしたら、竹流は封を切って、中を私に渡して、暫く預かっててくれないかって」
「中は何だったんですか」
「ビデオよ」
 そう言って、涼子は後手に隠し持っていた封書を真に差し出した。

 ビデオ。二年前に松下電器産業が発売したマックロードはVHS方式のビデオデッキで、ビデオの世界に革命をもたらしたと言ってもいい。このマンションの部屋にも一台置かれているが、この封書の大きさと中に入っているビデオの重さは、VHSではなくUマチックのカセットビデオのものだ。やはりこのマンションには再生用の一式が置かれている。

 寺崎昂司はこれを探していたのだろうか。そして、事務所を荒らした誰かも。
 封書の宛名は印刷で、送り主の名前はなかった。消印は都内の郵便局だった。
「他に、何か預かりませんでしたか?」
「他?」
「鍵とか、貴重品の類」
「いいえ」
 少なくとも、竹流はテスタロッサの鍵を、他人に渡してはいないのだろう。悪意を持って奪われたのでなければ。
「本当に、ごめんなさい」
 もう一度涼子は言った。真も、もう一度、自分の方こそ悪かったと答えた。






第14章、終了です。
寺崎昂司氏が出てきたらもう少し何かが分かると思ったのですが、結局分かったような分からないような。
何故かというと……(今は言えない^^;)
次回からの第15章は『ビデオと女記者の事情』です。これで第2節は終了になります。
第3節の前に登場人物紹介がありますので、お楽しみに。
第3節から出てくるあの人(そう、美和ちゃんの恋人)もついでに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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【雑記・あれこれ】 カミングアウト 

【海に落ちる雨】更新中です。
実はこれを更新している中で、きっとどなたもついてきて下さらないだろうなと思ったので、どうでもいいコラムを一緒に載せていたのですが、そんなもので人の気を惹けるわけでもなく、無駄な努力でした。
カテゴリの【海に落ちる雨】第1節とか第2節とかをクリックしていただけると、その無駄な努力の跡が…^^;
でも、順番に読んでいくときに(そんな奇特な方がおられたら…)、逆にこの無駄話のコーナーが邪魔であることに気が付きました。

しかも、埋もれて可哀そうな話題もあるので(自分でそう思っているだけ^^;)、再掲になりますが、ここにピックアップして、本編からは外すことにしました。
そこで、今日のピックアップコーナーは『カミングアウト』

『秘密の〇ンミンショー』などでもよく出てくる単語ですが……
ウィキってみると、そもそもの意味は「これまで公にしていなかった自らの出生や病状、性的指向等を表明すること」だとか。
使われ始めたきっかけは、同性愛者の方々。自分の性的立場を隠している状態(クローゼットの中にいる)から出てきて真の姿を開放することをカミングアウトと呼んだわけです。
そういう意味では、この【海に落ちる雨】の本当のカミングアウトは以下の記事にあります。
→→カミングアウトについて(記事は最後に畳んであります)

それはともかく。
今回の主役は人気アニメ、アンパンマンに登場するドキンちゃん

バイキンマンを鼻先でこき使い、好き勝手、わがまま言いっぱなし。
バイキンマンもドキンちゃんの前では、アッシーかメッシーかという感じで、いいように使われっぱなし。
ついでにホラーマンなる、新たなシンパも現れ、ますますし放題、言い放題。
でも、ショクパンマンさまの前では、完全なる乙女。

現実にいたら、まさに『嫌な感じの女』ですよね……

このドキンちゃんの歌があるのです。
それがもう、本当にすごい『カミングアウトの歌』とも言える傑作。
そのまま歌詞は書けないけれど、こんな感じ。

私はドキンちゃん、なるべく楽しく暮らしたい、美味しいものは大好き、毎日遊んで暮らしたい、みじめな暮らしはいや、朝から晩までおしゃれをしたい、私はわがままなのよ~

これを聞いて、逆にドキンちゃんがキュートに見えるのだから、面白いですよね。
(って、私だけ? この歌、すごい好きなんです)

そう言えば、これはキョンキョンの『なんてったってアイドル』と同じではないのか!
つまりカミングアウト。
あの頃、アイドルと言えば、『ぶりっこ』で、女の子からは好かれることもあったけれど、ちょっと敬遠されることも。

でも、キョンキョンのこの歌は、開き直って宣言してしまったんですよね。
アイドルを敬遠していた女の子も、あれっと思ったはず。

カミングアウトには、いいことも悪いこともあるのかもしれませんが、何だか周囲を応援する気持ちにさせる、そんなパワーがあるような気もします。潔さという意味では好感度は高いのかもしれませんね。


そうそう、余談ですが。
アンパンマン。
やなせたかしさんが御年70歳を越えられてから今の形になり、世に認められた名作。
始めは「戦場で餓えた子どもにパンを配るおじさん」(どちらかというとジャムおじさんのような)だったそうです。しかも、ラストは、戦争をする二つの国の間で、飛行機で移動中に撃ち落とされるという話。
おじさんは、戦争をしているどちらの国にも餓えた子どもはいるので、隣の国の子どもにもパンを届けようとしたところだったのです。

やなせたかしさんは、良いことをするためには多少の犠牲を覚悟しなければならない、それでも正しいと思ったことは貫かなければならない、ということを伝えたかったのだと思います。
それが今、アンパンマンが自分の身をもいで、餓えた子どもに食べさせるシーンになっているのだとか。

それにしても70を超えられてから、あれだけのものを作り出されたパワーに感動するばかりです。
ちなみに、私のまわりの子どもたちは、結構バイキンマン好き^^;


そう言えば、かの朝比奈隆さん(元大阪フィルハーモニーの指揮者、亡くなられたのは91歳。この方については語りたいことがいっぱいあるけれど、今回はやめておきます)と第13代片岡仁左衛門さん(現15代仁左衛門さんのお父さん。すごい役者さんだった)と桂米朝さんが、御年70越えで集まられて「芸は70からですなぁ」と語り合ったとか。
やっぱりすごい人たちは違うなぁ、と思ったものでした。

Category: あれこれ

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[雨72] 第14章 連絡を絶っていた男(3) 

【海に落ちる雨】第14章続きです。
どう考えても真実の一番近くにいるはずの男・寺崎昂司が登場します。
ただ、彼が竹流の居場所を知っているのかどうか?
真は彼から何を引き出すことができるのでしょうか。
寺崎昂司VS真、2回に分けてお送りします。




 背中でドアが閉まる音と空気の遮断を感じると、真はやっと息をついた。怒りとも悔しさともつかないもので、指の先が冷たくなる感じがした。

 勝手にこんなことに巻き込まれて、自分を不安と孤独に陥れている同居人に対しても、同時に腹が立ってきた。彼に複数の恋人がいることも腹立たしいが、何より、その相手が真を敵と見なしている状況が不条理だと思えた。それでも、今の竹流の置かれている状態を理解していて、自分たちの感情自体をコントロールできる相手はいい。添島刑事にしても、葛城昇にしても、だ。だが涼子は違う。

 ただ純粋に彼を想っている。
 そしてそれだけに彼女の苦しさも分かる。
 竹流の実家や仕事の事情を理解できている人間は、あそこまで感情をむき出しにはしてこない。彼が手の届かない高みを飛んでいる鳥のようなものだと知っているからだ。いつかは天に帰す日が来る。だから、少しずつ諦める準備をしている。

 だが事情を知らない涼子には、それをコントロールする術がない。
 そして、それは裏返せば、自分と同じなのだと思った。
 自分の感情がやはり女のようだと思うと、わけも分からず悔しいような気がした。
 真は冷たい扉に背中を預け、暫く突っ立っていた。短い廊下の先から、エレベーターの扉が閉まる音が振動として身体に伝わってきた。

 ひとつの音が去ると、暫く帰れなかったマンションの中の気配が、僅かな音や空気の変化として感じられた。真は自分の感情に一瞬にけりをつけなければならなかった。

 駐車場で感じた、正体不明の違和感が急に、感覚だけ蘇った。
 何かが変わっている。
 真は思わず足元を見たが、玄関にそれを思わせるものはない。

 ゆっくりと靴を脱ぎ、部屋に上がった。
 リビングの扉を開けても、大きく変わった気配はない。
 住人が帰らなくても、ここには高瀬登紀恵が週に数度は掃除や洗濯に来ているわけだから、ものの位置が多少変わっていることはある。だが、登紀恵の家政婦としての才能は、住人にその違和感を全く覚えさせないことにあった。彼女が掃除をしていった後は、何もかも元のまま、と思わせる何かがある。

 今、真に襲い掛かってきた音、もしくは振動は、全く別の種類のものだった。
 住人にしか分からない何か。それは、異質なものが入り込んできたときに漂う空気かもしれなかった。

 真には多少、他人からは正体不明と思われる『才能』がある。あるいはそれは万人に備わった才能で、真の場合、それが少しだけ強いだけなのかもしれない。
 いるはずのないものが見える。

 もっともそれは、脳科学者に言わせると、側頭葉に人間が本来持っている機能らしく、想像と経験のカオスの中で脳が錯覚して、あるはずのないものを実体として認識してしまうということのようだ。切除したはずの腕が痛んだり、ある地域で複数の人間がUFOを見たと証言するのも同じことだ。
 精神科の医師は、小さな頃から孤独で敏感だった真の心が、お伽噺の住人たちに形を与えてしまったのだと説明した。
 半分はその通りだと思っている。

 だが、今感じているのは、そういう種類のものとは違っていた。 
 現実の気配だ。

 真はリビングを見渡し、それから左奥の明るいダイニングの方へ向かった。多少斜めになるので、リビングの入り口からは死角になる。しかし、曇っているとは言え、昼間の光の中では、ダイニングも白々しいほどに明るく見えた。

 そのまま廊下に出ると、リビングの方へ戻ることになるが、その扉も廊下も違和感はない。ベランダを左手に廊下を歩いて、奥のバスルームとトイレを見たが、これといった変化はなかった。
 廊下に戻って、今度は寝室の扉を開ける。
 暗かったので電気をつけたが、十四畳ほどの寝室は、ベッドカバーも綺麗に伸びていて、ホテルの部屋のように見えた。クローゼットの扉もきちんと閉じられ、殺風景なほどだ。

 気の所為かと思った。
 あえてその場所を最後にしたわけではなかったが、寝室の奥、玄関からは最も近い扉を持つ部屋は書庫兼書斎と、その先にプライベートな居間がある。
 もともと和室にもなるような作りで、隅にアスリート用のトレーニング器具が置かれているが、主にはオーディオルームになっている。寝室側の壁には、枚数を数えた事も無いレコードと映画のフィルムが並んでいる。

 寝室からの扉を開けると、錆びたような臭いと湿り気が鼻についた。
 部屋は西南になるので午前中の光は届かないし、今日は曇り空だった。ブラインドを開ければ多少は明るいのだろうが、薄ぼんやりとした部屋の中には一見したところは妙な影はない。
 それでも、真は中に入るのを躊躇い、電気をつけようと思って壁際を探った。

 その瞬間、背後の寝室で何かが動く気配を感じた。
 とたんに、背中からその気配が覆いかぶさってきた。
 真は自分の腕に掴みかかってきた大きな影をかわしそこない、体勢を崩した。

 そのまま、重く間延びした、どうん、という振動と一緒に床に倒れこむ。体が半分捻られたところへ、別の大きな体がのしかかってきた。

 さっきから鼻をついていた湿っぽい鉄錆の臭いが、顔と体にべったりと張り付いた感じがした。と同時に、シュ、と鋭い音が右耳の真横の空気を裂いた。痛みは感じなかったが、一瞬耳が遠くなったような気がした。

 視覚が確かなものになった時、薄暗い部屋を背景に二つの光が浮かび上がる。
 その二つの光はヒグマの目に重なった。

 自分自身がクマに襲われた記憶はない。
 だが、牧場の男たちの半数は彼らに遭遇していて、中にはクマと闘った傷を持つものもいた。
 祖父は銃を撃つ資格を持っているし、その腕前は、どこかに危険な野生動物が出没すると必ず呼び出されるというものだった。真がよく相手をしてもらっていたアイヌの老人も、左腕に大きな傷を持っていた。小指は今でも曲らないと言っていた。
 そういう話は頭の中で組み立てられて、少しずつ実体験か想像か、分からなくなっていくことがある。

 だが、そんなはずはなかった。
 真は、懐かしい故郷の空気を今自分が悠長に感じ取っている理由が、ある種の既視感の混乱だと気が付いた。

「寺崎さん」
 真はその既視感の中身を理解するより先に、自分の口が動くのを感じた。
 大きなヒグマのような影が、びくっとして動きを止めた。
「お前、糸魚川で」

 突然途切れた言葉と同時に、寺崎昂司の体が崩れた。真はどん、と載ってくる寺崎昂司の体を自分の体で受け止めなければならなかった。
 一瞬、息ができなかった。

 湿った鉄錆の臭いは、昂司の腹から出ている血だった。
 真は昂司を床に横たえて起き上がると、洗面所に走ってタオルを腕一杯摑んできた。それからリビングに行ってカウンターの後ろのカップボードに並ぶ酒を、とにかく濃度の濃そうなものを選んで摑み、戻ってくると、自分の手と昂司の傷を消毒した。酒で消毒はできないと聞いていたが、しないよりましだと思った。というよりも、正直、頭がぶっ飛んでいて、何をしたらいいのか、まともなことを考えられなかった。

 突然、目の前に真実の片端を掴んでいる男が現れた。
 今自分が何を聞けばいいのか、混乱している。

「お前、こんな上等なもの空けたら、竹流が暴れるぞ」
 ちらりとボトルのラベルを見た昂司が低いかすれた声で言った。真は構わずにタオルを包帯代わりに腹に巻いた。
 刃物で刺されたように見えるが、傷は深くはないし、致命的という感じでもなかったが、出血は比較的多そうだった。

「一体、何があったんですか」
 真は昂司の額に滲む汗を自分の掌で拭った。冷たい汗だった。
「てっきり、追っ手かと思った」
「追っ手?」

 昂司は血に塗れた手で真の腕を掴む。
「市役所の寺島に頼んで、お前をしばらく糸魚川署に足止めしたつもりだったんだがな。どうやって出てきたんだ」
 真は驚いて、寺崎昂司の惹きつけるような黒い瞳を見つめた。
「足止め? どうして」
「その方が安全だと思ったんだ。お前を新潟には近付けないようにしようと思ったら、あっさりと県庁に入り込むし、挙句、蓮生にまで近づくし。しかも江田島にまで会いやがって」

 それはまるで真のした事を小気味よく思って、楽しむような口調だった。
「江田島? 彼は、あなたの仲間なんですか」
 しかし、昂司はそれには答えなかった。
 代わりに精いっぱいというように、にやりと笑って、真の頬を指で掴むようにした。

「大したもんだよ、坊や。何年か前はやられっぱなしだったのにな」
 そう言って、昂司は苦痛に顔を歪めた。 

 ビッグ・ジョーが言っていたのも頷けた。
 寺崎昂司は確かにいい男だった。恵まれた長身とがっしりした体格、その上に釣り合いよく乗せられた精悍な顔の造り。美男子というわけでもないが、神の造った人間のうちではそのバランスの上でAクラスに入る。
 どこかにいい血筋を匂わせる上品な造りの竹流とは全く違うが、そういう意味では、ビッグ・ジョーが竹流には反感を持っても、寺崎昂司には好感を持つのもわからなくない。
 ビッグ・ジョーのような経歴の持ち主には、端から血の色が違うような人種はむかつくのだろう。

「とにかく、医者に診せましょう」
「馬鹿言え、ちょっと刺されましたってわけにはいくか」
「桐野さんなら」

 桐野というのは、某私立総合病院の院長の息子で、本人は外科医だった。その病院自体はお得意さんが警察関係とヤクザで、どういう事情でその両方が同じ病院にかかるのかは分からないが、祖父は軍医で、戦場では名医だったと聞かされたことがある。院長も弾傷、刺し傷、何でもござれという腕で、桐野敏之という名前の息子が、竹流の仲間だった。
 医者としては多少怪しく、時々日本にいない。まさに戦場に行っている。もともとは背も高く恰幅のいい男だが、外国から帰ってくると十キロ近く痩せていて、別人に見える。日本にいる間にまた十キロ太る。豪快で屈託がない。

 昂司は複雑な笑みを見せた。お前、よく桐野のことを知ってるな、という意味にも見えたし、自分は竹流の仲間から追われている、という意味にも思えた。
「どっちにしても舐めときゃ、そのうち治る程度だ。地下の駐車場まで降ろしてくれたらそれでいい」
 真は昂司をフロアソファに凭れさせて、それから改めて聞きなおした。

「知っていることを教えてください。竹流はどこにいるんですか」
 昂司は暫く考えていたようだった。
「病院から抜け出したんだろう?」
「抜け出したのか、さらわれたのかは分かりません」
 昂司は一瞬、苦痛に顔を歪めたが、直ぐに真のほうを見た。

「誰かと一緒じゃないのか」
「村野耕治の息子じゃないかと。あるいはあなたかと思っていました」
 昂司はまた考えたような顔をして、それから立ち上がろうとした。真は、思わずそれを留めた。
「竹流の居場所に心当たりがあるなら、教えてください。村野耕治の息子は竹流に何をしようとしてるんですか」

 昂司は漸く息をついて、真の顔をしみじみと見つめた。
「奴は、別に竹流の敵じゃない。そう心配するな」
 真は昂司が竹流の居場所を知っているのかどうか、もしかしてこの男が匿っているのではないかという僅かな期待を持っていた。

「竹流の居場所を知っているんですか」
「いや」
「じゃあ、絵は? 新津千惠子はどこですか」
 真は自分が今必死なのを感じていた。昂司がこれ以上は話せないと言い出す前に、畳み掛けるように聞くしかなかった。このチャンスを逃したら、また闇の中に放り込まれてしまうような、嫌な予感がしていた。

「絵は最も安全な場所にある。新津千惠子は」昂司は言葉を一旦探したように見えた。「女に預けた」
「女?」
「とにかく、お前は大人しく待っていろ。余計なことに首を突っ込むな。竹流が戻ってきて、お前に何かあったら、またあいつはとんでもないことをしでかす。誰もまたあんな、鬼神みたいになったあいつを見たくないと思っている」

「女って、フェルメールの贋作を描いた女ですか」
 昂司はまた少し笑って、真の頬を引っ張るようにした。
「全く、お前はどこまで知っているんだか」
 そう言って、昂司はいくらか開き直ったようにフロアソファに体を預けた。真は昂司がもう少し話してくれる気になったのなら、有り難いと思った。

「竹流は、僕に新津圭一が自殺した時の記事を残していました。新津圭一はIVMの件で、誰かを脅迫していた。IVMはフェルメールの署名ですね。だから、絵はフェルメールでしかあり得ない。でも、フェルメールと言われている絵は何点かあった。しかも全て贋作だと太鼓判を押された。ただ、竹流自身はどの絵が本物か知っていた。ウクライナに住む元貴族の家系、しかも皇族の末裔だといわれている人物から、直に依頼を受けたからです。それを取り戻して欲しい、と。そして、今、誰かがそのフェルメールの本物を血眼になって探している。違うんですか」

 真は寺崎昂司の反応を確かめようと言葉を切った。昂司は真を見つめていた。
「続けろよ」
「あなたと竹流と、それからフェルメールの贋作を描いた女は、三年半前、その本物と贋作をすり替えようとしてたんじゃないのですか。今、県庁の会議室にある絵は、贋作なんですか? 少なくとも額縁は竹流のところにあった額縁だった。蓮生家から出た絵が全て贋作だと鑑定されたのは、その後ですか」

「本物はないのさ」
「本物はない?」
「あるのは、沢山の贋作と、贋作の贋作と特別な贋作だ」
「特別な贋作?」
 昂司は僅かに肩を落とし、目を閉じた。それからゆっくりと口を開いた。

「絵は、二度、日本にやってきたんだ。一度目は日露戦争の時、革命前のロシア帝国から。二度目は第二次世界大戦の最中に。それぞれ、特別な事情を抱えているようだった。悪いが、俺は全てを竹流から聞いたわけではない。あいつは絵を無事すり替えて、洗浄したら事情を話す、と言っていた。別に意地悪をしたわけでもなく、あいつはいつも通り楽しそうだった。トレジャーハンターがお宝の手がかりを摑んでわくわくしている、そういう顔だったよ。だが、たかがフェルメールの本物くらいで、どこぞの国の諜報機関が動いたりすると思うか?」

 真は目を開けた昂司に、肯定するように首を横に振った。
「添島刑事も同じようなことを言っていました。随分と大物が動く割に、起こっていることが小さい、と」

「添島麻子か」昂司は懐かしそうな表情をしたように見えた。「あれは我慢強い女だ。竹流の女が全てああいう強さを持っていたら良かったんだが」
 真は昂司の言った意味はわからなかったが、それはその通りだと思った。

「まず始めに、新津圭一が絡んできた。それから、あいつがウクライナに行く度に事情が変わってきた。それと一緒にあいつの表情が険しくなっていた。ついに、あいつは、もうこの件から手を引くと言った。その後で、新津千惠子が誘拐未遂にあった」
 真は思わず内容を聞き返した。

「新津千惠子が、何かを父親から預かっていると、もしくは、何かのキーワードを知っていると、そう思っている人間がいるということだ」
「あなたは、随分前から新津千惠子に会っているのでは」

「あの娘が始めに預けられた施設は、数ヶ月もしないうちに地上げでなくなった。その時、施設には十人近い子供がいたはずだが、今行方を確認できるのは、僅かに数人だ。竹流はその時、直ぐに千惠子をある女に預けようとした。だが、女は、今はどうしても引き取れないと、そう言ったらしい。しばらくして、その女がお前と付き合いだして、あいつは偶然とは言え、びっくりしていたよ」

 真はさすがにそれには驚いた。竹流と深雪はやはり面識があったのだ。ということは、やはり深雪は知っていて、自分に近づいてきたのか。いや、それはやはり偶然だったのかもしれない。
「新津圭一の愛人に、その娘を預けようとしたんですか」
「後で、断るのも当然だな、と言っていたが、その時は別の施設に預けるよりも安全だと思ったんだろう。娘は口も利けなくなっていたし、身内は誰も彼女を引き取る気配はなかったしな。それで、別の施設に預けて、俺が時々様子を見に行っていた」

「竹流は、深雪の過去を知るために糸魚川に行ったんですね」
「そのようだな。もっともあいつが知りたかったのは、何故香野深雪が新津千惠子を引き取りたくなかったか、ではなくて、今になって香野深雪が新津圭一のために何かをしようとしていないか、つまり、香野深雪が澤田顕一郎を疑っているんじゃないかと、そう思ったからだろう」

「あなたは、ずっと竹流と行動を共にしていたわけではなかったんですね」
「俺は、あいつに会わせる顔がないからな」
「背中の火傷のことで?」
 昂司はそれには答えなかった。
「新津千惠子は何故誘拐未遂に? 実際、彼女は何かを父親から預かっているんですか?」
「いや、そういう気配はない」
「でも、あなたも竹流も、そのためにもう一度この事件に関わろうとしたのでは」
「新津圭一の事件が、他殺だという証拠が出たんだ」
「証拠?」






あまりにも中途半端なところでしか切れなかったので、引き続き明日、アップさせていただきます。
どうやら、寺崎氏、竹流の現在の居場所は分かっていないようですね……

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/8/27 近くが見えない……^^; 


数か月前から、近くが見えにくい。
そう、いわゆる『老眼』というものになった疑いが……
最初は爪を切るときに、焦点が合わなくてクラクラする、ということから始まったのですが。
確かに手元が見にくい。
始めは爪を切るときくらいだったんですが、だんだん新聞・本なども微妙になってきました。
隣の同い年の同僚が去年くらいから騒いでいたのを、私はまだまだと安心していたのですが……

人間は何歳くらいから老眼になるのか。
最近はパソコンを見ることが多くなったので、30代でもなる人がいるのだとか。
要するに水晶体の調節機能の低下だから、目を酷使すると早く症状が出るわけですね。

そう言われてみれば、ブログを始めてから進行したような気がする??
それまでも仕事上、パソコン使用率は高かったのですが……??
単にそういう歳なのかもしれませんね……

今の悩みは、遠近両用メガネを作るかどうか……
車を運転するときはしっかりと見えなきゃ困るし。
でも見えすぎると、近くを見るとき頭がふらふら。
そうそう、近視の人が老眼になりにくいとか、なるのが遅いとかいうのはまるで嘘ですね!

若いから大丈夫と思っている方も、お気を付け下さい。
30代でもなるそうですよ!

隣の同僚は、今、レーシックを考え中だそうで。
(そうしたら、遠近両用じゃなくて、遠視用の眼鏡だけで済む、という魂胆^^;)

いずれにしても、目の健康、守らねば……と思う今日この頃です。
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ブルーベリーでは無理でしょうか??
(いっぱい冷凍して置いてあります。プレーンヨーグルトに入れて食べるのです)

そうそう、以前、ネットがつながりにくくて困っていた件ですが、やはりJ:COMさんのほうに何か問題があったようで、ごめんなさいのお手紙が来ました。
今は無事に復活し、ワイヤレスでサクサク動いています。
良かったぁ。

今週の予定は。

【海に落ちる雨】第14章あと2話。
……少しずつ、以前カミングアウトしたように、ハードな話になっていきます。
書いた時のまま出さないと、ラストの重みが伝わらないと思う一方で、ブログで公開することに少し抵抗もあります。アップしながら、少し推敲(改稿)しているのですが大筋を変えないでここまで来たものの……
また少し考えながら進むことになりそうです。

【死と乙女】少し進みます。
アネットと慎一のシーン、アネットとテオドールのシーン。
青春だなぁと思いながら読んでいただけましたら(*^_^*)
確かに、後半も見事になんちゃってクラシック音楽の話かも。


雨が降って少し涼しくなったような気はしますが(暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです)、相変わらず水道から水を出すと結構ぬるま湯なのが気持ち悪い大海でした。
8月もあと少し。今日も一日頑張りましょう!

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写真は、ある日見た雲、でした。(朝なのに、夕焼け……^^;)

Category: NEWS

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[雨71] 第14章 連絡を絶っていた男(2) 

【海に落ちる雨】第14章(2)です。
ちょっとした出来事をきっかけに、過去のあれこれが探られると、ボロが出る。そうなったら大変困る人がいる。
2時間ドラマなんかでよく出てくる話ですね。
でも、それですぐ殺人ってのもね、短絡的なのですけれど。
こちらではそんなに単純ではないのですが、澤田も竹流も、そしてもうすぐ登場の寺崎氏も、あれこれ動き回って見えぬ敵に恨まれているのかもしれませんね。
けれども、あの転がり続ける玉の道は、そんなに単純ではありません。

前回から続く、内閣調査室の男『河本』と真の会話、そして、竹流の女の一人・室井涼子との対峙です。
真、相変わらず、味方がいませんね……





 車は当てもなく走り続けているようだった。外の景色はガラスの黒さで、現実味がなかった。運転手の顔も見えない。

「澤田顕一郎と田町元首相はある意味、政敵ではありますが、それは澤田が、田町とは別の派閥から出た首相の時代に運輸次官に返り咲いて羽振りが良くなった、そのために作り上げられた噂話に過ぎません。逆に、彼らが繋がっているという確信もない。しかし、彼らに共通の敵対者がいるという可能性は否定できません」

「それが、あなた方が追いかけている人物ですか」
 添島刑事は、『河本』も本当は誰だか分かっていないのでは、と疑っていた。
「その人物が田町と直接面識があるのかどうかはわかりません。会っているとは思いますが、繋がりは出てこない。しかし、当時の大きな汚職事件で十分に解明されなかった、右翼ルートで流れた金の大元締めはそこだったのではないかと考えています」

 真は、漸く落ち着いてきて、『河本』の顔を見つめた。やはりどこから見ても、善良な小市民に見えた。
「二十二年前、彼が翡翠仏を介して、政界に妙な迷信と金をばら撒いていた事は、調べがついています。その後、彼が絡んでいた可能性がある金の流れは、いくつかあります。彼は多くの情報とあちこちから搾り取った資金を持っていた。その出発点は戦時中の阿片の売買だともいわれています。他にも、何となく彼が絡んでいたと思われる事件、大きなものもあれば小さなものもありますが、それはわかっているものの、証拠が不十分で起訴に至ったものはひとつもない」

「一体、何者ですか」
 真は、『河本』が使った、彼には似つかわしくない『何となく』という言葉に引っ掛かりを覚えながら尋ねた。
「その男は、既に亡くなっているのです」
「亡くなっている?」

「ところが、金も動いている、それに関係しているのかいないのかはともかく、それらしい人の動きもある。つまり、盗難や殺人、行方不明者、という。田町の秘書やフィクサーが亡くなったのも、関わりがあるのではないかと思っています」
「誰かが、その男の仕事を『継いでいる』ということですか」

『河本』は真を見たが、相変わらず何も読み取れない表情だった。
「その男は大分の出身で、幼少の頃に新潟に移り、その後大分に戻って、九州日報で働いていたということは分かっています」

 真は驚いて、思わず唾を飲み、呟くようにその名を言った。
「澤田顕一郎の秘書だった、村野耕治」
『河本』はいくらか満足そうな顔をした。大したヒントもない中で、真がその名前に辿り着いていたことに対するものかもしれない。
 尤も、それは全て美和の直感の所以だ。

「七年前に癌で亡くなっています。しかも闘病生活も長かった」
「まさか、あなた方は、澤田がそれに関係していると思っているのですか」
「可能性があれば疑わねばならない。それが我々の仕事です。もっとも、澤田には村野の仕事を継ぐ動機がありません」
「金や権力、裏世界を牛耳る面白味、何だって動機としてはあり得る、そういうことですか」

 少なくとこの男は、そう考えるのだろう。しかし、隣の男は、まっすぐ前を見つめたまま、表情を変えなかった。
「あなたが見たところ、澤田顕一郎はそういうタイプの人間ですか?」
 逆にそう尋ねられて、真は、『河本』が澤田をどう考えているのか、わからなくなった。
「澤田は、自分の秘書がそのような男だったということを、知らないと思いますよ」

「では何故、あなたは澤田顕一郎を見張らせているのですか。しかも、大和竹流も」
『河本』は穏やかな表情を崩したわけではなかったが、真に何か興味を惹かれたような気配を見せた。

「大和竹流は、彼のほうから関わってきたのです。澤田顕一郎は、何を思ってか、二十二年前の翡翠仏事件を再調査させていた。澤田が何に問題を感じたのかはわかりませんが、あの記事をスッパ抜いたのは澤田自身ですから」
 一旦言葉を切って、『河本』はゆっくりと座席に凭れた。真は、不意にこの男は疲れているのではないかと思った。

「あなたはこんなことを考えたことはありませんか。例えば、何か事件が起こる。その事件が次の事件を引き起こす。そしてまた、別の誰かがそれに刺激されて、また別の事件が起こる。ボストンの科学博物館にそういう装置がありました。よく、あれを思い出す。ところがそのうちのワンシーンだけを見ても、全体像は全く分からない。どこからそれが繋がってきたのか、これからどうなるのか。最初の球が転がり始めたら、あとは手を加えてやる必要などない」

 真は頭の中で、『河本』の言葉を三度ばかり反芻した。
「村野耕治が亡くなっていても構わないということですか。しかし、架空の人物であれ、転がった玉であれ、私の同居人を暴行したのは明らかに手足のある人間です。私には、その一部分だって構わない。しかし、澤田顕一郎が捜している人物も、同じところに繋がっていると思えます。でなければ、澤田が私に近づいてきた理由がわからない。もっとも、あなたが関わっている大きさから比べたら、小さいところかもしれませんが」

『河本』は暫く黙っていた。相変わらず、何を考えているのか、全く掴みきれなかった。
「澤田は、愚かな男に思えます」
「どういう意味ですか」
「仕事も結婚も、立派な経歴を持ちながら、随分小さなことに足元を掬われようとしている。ジョルジョ・ヴォルテラも同じです」

「あなたのような人から見れば、随分小さなことでしょうけど」
 思わず突っかかりそうになってから、真はその感情を押し留めた。それから、『河本』が澤田と竹流を同列に感じていることに気が付いた。
 竹流はともかく、澤田顕一郎を動かしているものが、それほど小さなことなのか。政治とは関わりのない、私情という意味なのか。

「澤田は、その最初の球を捜しているのではないかと、そうおっしゃるのですか」
「相川さん、球は転がり始めているのです。恐らく、二十二年も前に。今更最初の球を捜したところで、止まることなどない。澤田もそれは知っているはずです。それに、半世紀以上、あるいは一世紀も前に、その球の核は造られていたかもしれません」

 半世紀以上前?
 一体何のことだと思い始めて、真は不意にフェルメールの額縁を思い出した。
「蓮生、という新潟の豪農と、村野耕治にも関係があるということですか」
「村野は、人の心の弱いところを握る天才だったと思っています。蓮生には、あるいは蓮生に関わっていた人々には、世間には晒されたくない歴史があったかもしれません」
「日露戦争の頃に、ソ連から略奪した絵画があった、ということですか」

『河本』は僅かな間を置いて、冷めた声で答えた。
「絵画ならまだ良いかもしれませんよ」
 真は、蓮生千草の言葉を思い出していた。
「まさか」

 蔵に女の子が閉じ込められていて、夜になるとお国が恋しくて泣いている。
 そういう内容の、奇妙な鞠つき唄があったと言っていた。伝承や民話の類は、出来事を婉曲に伝えているようでいて、実際は事実そのものを語っていることも多い。

「日露戦争に負けて、ロシアは革命への道を突き進むことになった。高貴な女性が日本に連れてこられたという噂もあります。当時のロシアから日本への入り口のひとつが新潟でした。蓮生がそういうお宝を匿う役目を引き受けた可能性は、十分にあるでしょう。しかし、蓮生にそれを命じたのが誰だったのか、今となっては分かりません。しかもその役割が、友好のためだったのか、ただ略奪だったのかも分からない。そのあとに続いた幾つかの戦争が全てを不鮮明にしてしまった。しかし、もしも公になれば、例え責任者の全てがすでにこの世の人間でなくても、誰かが国家として頭を下げなければならないこともあります」
 真はあまりの痛ましい話に、これ以上聞きたくないと思った。

「しかし、相川さん、蓮上家のことは氷山の一角です。澤田顕一郎が妙なことをつつきまわして、痛くない腹を探られるものが出てくるかもしれません。静かに時が過ぎるのを待っていれば、何ら問題にならないことを、あえて掘り出して誰が得をするというのです? あなたも、よく考えて行動していただきたいものです」
『河本』も、これ以上は真が条件を呑んでから、と思ったのか、何も話さなくなった。

 真実に蓋をする、ということなのか。
 この男に限らず、今ある秩序を守ろうとする者は、いつもそういうやり方をする。

 車はいつの間にか、竹流のマンションの地下駐車場に当たり前に滑り込んでいて、見慣れたエレベーターの前で停まった。住人以外は入ることのできない駐車場のはずだが、『河本』のような人間に、どうしてそんなことができるのかを聞くのは、あまりにも馬鹿げていると思った。

「危ないと思ったら、直ぐに連絡をください。かろうじてあなたの安全を保証できるのは、私たちだけだということを、よく覚えておいて欲しいのです。もっとも、あなたが敢えて危険に身を晒すということを繰り返さなければ、それで済む話かもしれませんが」
 真は何を言い返していいのか分らず、返事もせずに車を降りた。


 真がドアを閉めると、一瞬の隙もなく、車は走り去ってしまった。
 駐車場の出口に向かう角を曲がる時に、ブレーキランプが何かの合図のように何度か点滅した。それを見送ってから、真はエレベーターを振り返り、思わずスラックスのポケットを探った。鍵を持っているか、不安に思ったのだ。

 改めて鍵の束を見つめると、多少なりともほっとした。少なくとも、マンションに入れる状況は有り難いと思った。
 だが、エレベーターのボタンを押して待つ間に、真は背後に別の住人の高い靴音と香水の匂いを感じた。その匂いは、一瞬にして真を甘酸っぱく懐かしい気持ちに落とし込むようだった。

「真」
 背後からかけられた声に、真は一瞬の間をおいて、振り返った。
「あなた、無事だったの」
 涼子には会いたくないと思っていた。少なくとも、竹流と関わっている女たちが自分にいい感情を抱いてはいない、ということを思い知った今では、彼女たちの視線が真の中の大事なものを凍らせてしまうように感じる。

 涼子は趣味のいい淡いクリーム色のスーツを着て、今日は肩より幾分か長い髪を纏めずにそのままにしていた。耳には控えめな大きさのピアスが、微かな紫色の光をたたえている。
「警察がしつこく竹流の行方を聞きに来ていて、今朝はあなたの行方まで確かめに来たから」

 頭の中ですばやく、涼子がどれくらい状況を理解しているかと考えたが、よく分からなかった。少なくとも竹流が随分な怪我をしていたことは知っているものの、その背後の事情を了解しているとは思えなかった。
 警察が何も言っていなければ、だ。

 そう考えている間に、エレベーターの扉が開いた。
 真は先に乗り込み、涼子が乗ってくるのを待った。駐車場側に向きを変えた瞬間に、何かの違和感が襲い掛かったが、それが何かはそのとき分からなかった。
 真は何も言わずに五階と六階のボタンを押した。涼子は何かを言いかけてやめてしまった。

 しかし、五階で真が降りると、閉まりかけた扉が再度開く気配がして、涼子がエレベーターから降りてきた。結局、湿っぽい空気が充満した短い廊下で、涼子と向かい合うことになった。

「一体、何がどうなってるの? あの人は怪我の理由など一言も言わなかったけど、今度はどうして病院からいなくなったりしたの? その上、どうしてあの人を警察が捜してるの? あなた、一体何してるの?」
 矢継ぎ早にそれだけ聞くと、涼子はやっと少し息を吸い込んだ。

「警察は、何て?」
 真は涼子が多少落ち着く時間を待ってから尋ねた。
「怪我の理由だとか、彼から何か預かってないか、とか聞かれたわ。それに、寺崎という男を知っているか、って」
「預かっている?」
「フロッピーディスクか鍵か、何かそういうものを」

 真は涼子にそれを尋ねたのがどういう相手なのか考えた。本当に警察なのか、別の関係者なのか。
 だが、いずれにしても、相手は竹流が何かを持っていると思っているのだ。
 本当に警察なら、彼らが捜しているのは寺崎昂司だ。彼らは寺崎がフロッピーを持っていると思っている。新津圭一の残したフロッピーを。そして、それを竹流に預けたと思っているのか。

 多分、それぞれがそれぞれ、事情が分からないまま、与えられた仕事をしている。それも、体面のためであって、真実を見極めているからではない。事情の分からない「未解決事件」のひとつとして、ファイルに残されるだけで、後から誰も振り返らない事件になるだけなのだろう。

「お願い、一体何をしているのか教えて」
 涼子は涼子で必死なのだろう。竹流の置かれている危機的な状況を理解しているとは思えなかったが、彼が失踪している事実は彼女にも分かってるはずだった。
「よく分からないんです。とにかく、彼を捜しているから」

 涼子は真を責めるような目で見つめていた。
「何か犯罪に関わっているの?」
 そうだとして、真自身には何の非もないということは、涼子にも分かっているはずだった。
「いや、多分、巻き込まれているだけだと思います。あいつの仕事は、時々そういうことに関わったりもすると思うし。本人の意思じゃなくても」

 涼子は不安で不満そうだった。真はポケットの鍵を探り、もう部屋に入りたいような素振りを見せた。
「それで、あんな怪我を?」
 真が答えないでいると、涼子は真に更に詰め寄ってきた。
「あなた、一緒に住んでて、一体何をやっているのよ」
「何って」
「彼と同じベッドで抱いてもらってるだけなの? せめてあの人があんな状態なら、それに巻き込まれないようにするとか、何かおかしいと思ったら、病院についていてあげるとか、できたんじゃないの?」

 真は、あなたが彼についていたじゃないかと言いかけて、それは竹流が失踪する前のことだと思い直した。涼子は、竹流にもうついていなくても大丈夫だと言われて引き下がったことを、後悔しているだろう。
 だが、涼子の怒りの半分はそういうことから出ているのではない。真をいかに傷つけようかと考えているように思えた。涼子は、たとえ自分の感情を整理するためとは言え、真に一度でも身体を許したあの夜に、嫌悪を感じているのだろう。

「汚らわしい」
 涼子が思わず言った言葉よりも、その表情の方が真を傷つけた。完全な拒否、相手の存在を認めないという視線だった。
「俺は、彼のベッドの相手をしているわけじゃない。それに、彼の仕事仲間でもない。あなたの言っていることは、まったくの筋違いだ」
 これ以上話したくないと思った。真はそのままポケットから鍵を出して、もう振り返りもせずにドアを開け、中に入った。





24時間テレビに疲れました。
ARASHIのO氏ファンの私とは言え、仕事もあってずっと見ていたわけではないのですが…
今年はそれなりに結構見たかも。
ドラマのO氏に泣かされ、他にもあれこれ泣かされ……
お涙ちょうだいは嫌なんだけど、最近涙腺が緩いのかなぁ。
でも、一方ではまた大変な水害。どうしてこんな降り方になるのかなぁ……
平和に24時間テレビを見ている場合じゃないんですよね。
被災された方にお見舞い申し上げます。

第14章はあと2回です。
竹流と一緒に姿を消していた男、竹流が唯一心を許していたという男・寺崎昂司氏が次回、登場いたします。
竹流がなぜ暴行を受けたか、カギを握る人物のはずですが……
少しでも竹流のいるところに近づけるでしょうか。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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【猫の事件】迷探偵マコトの事件簿(4) 

やっと雨が降りましたね!有難いです。
今日は24時間テレビ。O氏のドラマが楽しみな大海は、久しぶりにテレビをつけっ放しで待機中です。
今週は、雨が降った記念に?【海に落ちる雨】の続きをアップしていきます。
もちろん、【死と乙女】も進めます(^^)
お楽しみに!(とか言って、待ってくださっている方がいると嬉しいけれど……)

もうすぐ? 次のキリ番2222です。
踏んだ方、近い数字だった方、リクエストがございましたら、ぜひお願いします(^^)

さて、前出の記事
(→【雑記・生き物】どこかで見たような……)で触れた、孔雀と、ヤマネコならぬ豹。
コメントで頂いた、「逆にヤマネコが孔雀に襲われるかも」……に反応して、帰ってきました。
【迷探偵マコトの事件簿】

このシリーズは、本編の真と竹流の物語のパロディ版です。
相川真27歳、新宿の調査事務所の所長です。大和竹流は、真にとっては元家庭教師で、訳ありのイタリア人修復師です。
本編で進行中の【海に落ちる雨】では、真は色々あって、竹流のマンションに転がり込んでいます。
さて、年齢も9歳も違うので、いつも竹流に小僧扱いされている真ですが……
猫のマコトになっても、その関係性は変わらないみたいで……

その猫のマコトのお話、第6話です(^^)
さっそく、どうぞ!



迷探偵マコトの事件簿(6) マコト、豹になる
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僕、さっきタケルに怒られちゃったんだ。
でも僕のせいじゃないんだ。
だって、タケルがオンナを連れてきんだんだよ。

そのオンナったら。
あら、可愛い子ネコちゃんね、って、この僕の頭を撫でるんだ。
僕、可愛い子ネコちゃんじゃないもん。
がぶっ!

……
香水の匂いとか、嫌いなんだ。
だから噛んでやったら、タケルに怒られちゃったんだ。

何だよ。僕よりオンナが大事なんだ。
ふん。
もういいんだ。

……

……寝よ。

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目が覚めたら、僕はジャガーになってた。
わ、トラ縞じゃなくて文字通り、ヒョウ柄だよ。
手もおっきいし、からだもおっきい。

わ~、僕、おっきくなってる!
わ~、もうオトナなんだ。
もうタケルに怒られないんだ!
木にも登れるし、獲物だって自分で捕れるんだよ。

あ、さっそく見つけた! 孔雀だよ!
僕、初めて見たよ~
おっきいね~
あ、僕もおっきいんだった!

きっと捕まえられるよ。捕まえて食べてやる~
狙いを定めて……ジャンプっ!

……

あ、跳んだ! 木の上に行ったよ!
すごい長い尻尾。綺麗だね~
とか言ってる場合じゃないんだった!

よ~し。
僕、軽やかに木の上に登ったよ!
そろ~ッと近づいて、っと。

えいっ! わ、尾っぽ、捕まえた!
やった! タケル! 僕、やったよ!
(って、タケルに報告することでもないや。僕、一人で頑張れるもん)

あ、孔雀と目が合った……

……え、っと……睨まれた……?

え? 何だろ、このデ・ジャヴ。
この目、知ってるような……

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あ、あ~~、尾っぽが手の下から抜けた……
あ~あ。
池の向こうに飛んで行っちゃった。
せっかく尻尾、捕まえたのに。

追いかけるぞ!
池を回って、走って行ったら……
あ、孔雀のやつ、オンナに色目使ってる。
うわ~、羽根、広げたらでっかい~。綺麗だな~。
なんて、感心している場合じゃなかった。

この隙に狙いを定めて。
ジャンプっ!
よし、羽根のはしっこ、捕まえた! やった! 食ってやる!

と思ったら!
うわっ!
孔雀、つえぇぇ~
結構、足、でかいよ~。僕もでっかくなったのに、足で押さえこまれちゃった!

な、何でだよ~
僕、強いはずなのに……ジャガーになったのに(;_:)
こ、この孔雀、つ、強い……

孔雀は僕に目もくれず、またオンナを追っかけ始めちゃった。
……しょんぼり。
僕はとぼとぼと孔雀に背を向けて歩き始めた。

せっかく、ジャガーになったのに……
獲物も捕れないんじゃ、餓えちゃうよ……

がお~っ!

何だよ、僕落ち込んでるんだから、うるさいってば。

がお~っ!!

あぁ、もう、うるさい!

と叫んだ途端、がしっと掴まれちゃった。
え~~!? なんで、なんで?
気がついたら僕、すごいでかいお化けみたいな、真っ黒のヒョウに襲い掛かられてた。

あれよあれよと首に噛みつかれて……
何するんだ! 放して!
あぁ、もうだめだ。僕……せっかくジャガーになったのに……

き~~~っツ!!

……え??
緑と青が混じったみたいな大きな羽根が僕の頭の上でバタバタ、まるで舞うみたいに、でもすごい勢いでデッカイ黒豹に襲い掛かっている。
これ孔雀? それとも、ダチョウの見間違い?

え?

DSCN1514_convert_20130824191040.jpg
僕と黒豹の間に、綺麗な大きな羽根が立ちはだかってた。
孔雀はすごい声で啼いて、黒豹を追っぱらってしまった……

あ、あの……
あ、ありがとう??

孔雀はちらっと僕を見る。
あ、やっぱりデジャヴ?
と思ったら、さっさとオンナのところへ戻っていった……

……

……

迪ォ繝槭さ繝茨シ狙convert_20130824193448
あれ?
手がちっさくなってる。
トラ縞だし。

トラ猫に戻っちゃったよ……
せっかくジャガーになったのに……
がっくり。

……もう、やめてよ。頭、撫でないで。
僕、どうせちっちゃくて、一人で何にもできない子なんだ。
でも、僕、怒ってるんだから。

……あれ、オンナは帰ったの?
もうタケルも寝るの?
いいよ、あっち行ってよ。どうせ僕なんて好きじゃないんでしょ。
結局、オンナの味方するんでしょ。


でも、あの孔雀、ちょっとだけタケルに似てたかも……

……

やっぱりココがいいや。タケルのとなり。

お休み……

次は、ライオンの夢を見よ……っと。
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【迷探偵マコトの事件簿(6)】 了


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さて、孔雀は孔雀明王として、古くから信仰の対象でもありました。
害虫を食うというところから、煩悩を食べる神聖な鳥と考えられていて、密教の明王のひとつとなりました。
竹流は菩薩のような人なんですけれどね、ちょっと厳しかったり、勝手をしていたり。
でも、いざという時は、助けに来るのだ!

ライオンの夢、ラストはちょっとだけ、ヘミングウェイをもじってみました(^^)
ライオンになったら、孔雀を取り押さえることができるのでしょうか。

【迷探偵マコト】また、不定期で登場します。……多分(*^_^*)
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limeさん、挿入画、載せさせていただきました。ありがとうございます(^^)





Category: 迷探偵マコトの事件簿(猫)

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【雑記・生き物】 どこかで見たような…… 


これ、何だかどこかで見たような、と思われた方もいらっしゃるのでは?
そう、もしかして、ココじゃありませんか?
click → パロディ漫画『NAGI』(小説ブログ「DOOR」)

実はこれ、こんなことになっています。
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これを見た時、もうしばらく笑い転げてしまいました。
limeさんに言わなくちゃ! 見せなくちゃ! と一人で大はしゃぎ。

そうなんです。これは私の大好きな大好きな番組、NHKの『ダーウィンが来た!』のワンシーンです。
この回の主役はウツボ。
ウツボと言えば、あのディズニーの『リトルマーメイド』で魔女の使いとして登場もした、いかにもあくどい剣呑なやつ。
ほら、こんな事だってできちゃう。
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これはどうなっているのかというと、でかい魚を縦に丸呑み中。
なぜこんなことができちゃうのかと言うと、口の中にもうひとつ口(顎)があるんだそうです。
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イワシを横にくわえた場合も、この口の中の口でイワシを噛んで、引き込んで二つ折り。
上のでっかい魚飲み込むときも、この口の中の口でくわえて引きずり込むそうで。

そして、もう一つの荒業が、ウツボロール、だそうです。
では、ウツボのすご技、ご覧ください。
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獲物のイワシを咥えました!(でもこのままじゃ、食べにくい!)……というわけで。
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長い身体をイワシに巻き付けるみたいにして……ぐるぐるっ!
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ご覧ください、このスピード。
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あれ、イワシが曲がってる?
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はい、あっという間に、首が折れてます……(・_・;)
手なんかなくても、この通り。見事に獲物を捌いて食べやすくしました。

ウツボ。ものすごく気性が荒いそうです。
海の底に住んでいるイメージですが、時々陸に上がって来るそうです。
大量のイワシなどが陸に打ち上げられることがあって、それを追いかけてくるそうで。
皮膚が頑丈なので、岩場をうねうねと上がってきても皮膚が傷つかないそうで、お目当ての魚をゲット。
皮膚である程度酸素化ができるので、皮膚が濡れてさえいれば、しばらくの間水から上がっていても大丈夫だそうで。

こんな剣呑であさましく、荒々しい奴らですが……
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恋をして、ラブラブなひと時……
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仲良し(*^_^*)


某アイドルグループの冠番組のほかに、私が録画してまで毎回見ている番組はこの『ダーウィンが来た!』だけ。
こうして、またまたこの番組の中で、大海ライブラリー・殿堂入りの回が増えました。
ちなみに、前回この番組について書いた記事はこちら→【物語を遊ぼう】5.ダーウィンが来た!自然界の壮大な物語
(記事と言うより、ただの実況中継。だって、もう「何も足さない、何も引かない」で面白すぎるんですもの)

おまけに、孔雀の回……
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孔雀の雄って、雌の気を引くのにこのすごい羽根を獲得していったわけですが……
「モテ度」は、この羽根の模様の目玉の数(ある程度以上ならOK)と鳴き声の健康さによって決まっているのだとか。
でも、当然ながら、こんなご立派な羽根を持っていては身動きが取りにくい。
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こんなのが、虎視眈々と狙っているわけです。ライオンは木登りができませんので、まだいいのですが、豹は木登りも得意。孔雀はこのでっかい羽根で、決死で空中飛行で逃げたりもするわけですが……羽根の短い雌に比べて飛行距離も短そうで、すぐ低空飛行になってしまう。
雌に好かれる大きくて立派な羽根を持っていればいるほど、敵から逃げるのは不利なのです。

何でそんな不条理な…なのですが、いわく、「こんなに大きく美しい羽根があっても、敵から逃げる能力が高い、だから生き延びている、それだけ健康で有能な雄であること」が雌にアピールするのだとか。
う~ん、孔雀も美しいだけではないのですね。

ちなみに、この孔雀と豹、まるで竹流と真だわと思って、ひとり笑いのツボに嵌っていた大海でした。
え? どっちがどっちって? もちろん、ヤマネコのあの人は孔雀を狙っています???

Category: 生き物

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【雑記・小説】 題材とテーマ 


まるで太陽のような、でもいささか幻想的で不穏な印象のこの写真。
昨日は綺麗な月でした。雲がちょうど横切ったのですね。
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一眼レフではないのですが、ズームが良くて購入したデジカメ。
割と綺麗に月もアップになります。

カテゴリのNEWSを雑記コーナーとしてカテゴリ別にすることにしました。
過去の記事も少しカテゴリを整理する予定。
今回は【物語を遊ぼう】ほどにはまとまった内容じゃないので雑記にしました。
【雑記・小説】というカテゴリにしてみました。


さて、ただ今連載を始めてしまった【死と乙女】
言わずと知れた、シューベルトの歌曲が題材になっています。
これはマティアス・クラウディウスという人が作詞したもので、シューベルトが曲をつけたもの。
内容はこんな感じ(内容だけです)。
(歌の前半:乙女)恐ろしい死神よ あっちにいって 私はまだ若いの 触らないで
(歌の後半:死)手をお貸し 私はお前の友 乱暴なことはしない 私の腕の中で安らかにお眠り

『魔王』のイメージする死よりも優しい印象なのですが、妙に猫なで声でふわんと巻き込んでしまう、別の意味でちょっと怖い死。
こんな不穏なものをなぜ題材にしちゃったんでしょう?
2○年前の自分に聞くしかありませんが……^^;

あの頃、ちょっとシューベルトの歌曲に嵌っていました。
『菩提樹』と『セレナーデ』が好きだったのです。
そして、その時のノートの隅に、交響曲の9番(グレート)がものすごくいい、と書いてある……^^;
あの頃の私って、誰? みたいな感じですが。

この【死と乙女】のテーマは、『死』です。
それもどちらかというと、現実的ではなく、観念の中の死。
若者が時に、自分のこれから先の人生と引き比べて、今この命を惜しくないと軽率に言ってしまう、その死の危うさ。
でも、死んだらそこまでなのよ、と思うのですけれど……
実はこの死というテーマは【死者の恋】(ちょっと中断中ですがそのうち必ず)にも一部共通しています。
(ただ、読後感は、どちらもそんなには悪くないはずです。ハッピーエンドかどうかは別にして…)

で、この死というテーマを書くために選んできたのものが、音楽家の卵たち。
これは『題材』です。
今回の場合は、音楽家の卵たちや、お話の中であれこれ使っている曲などは題材、ということになるのですが……

ちなみに私の場合、この小説群にはある二つの家系の壮大な(ということにしておこう^^;)歴史が絡んでいて、テーマより先に題材がある、という感じなのですね。
相川の一族とヴォルテラの一族……という題材。
もっともこの家系自体が、東洋的なものと西洋的なもの、野生と理性のぶつかり合い、あるいは魂の連れ合いには出会えるのか、みたいなテーマのようなものではありますが…

で、この題材を生かすテーマをそれぞれ個別のお話の中で考えているのですが。
テーマは意識しないで書き始めてしまうこともあります。
敢えて言葉で言えば『愛』とか『友情』とか『赦し』とか、言ってしまってもいいのかもしれないけれど、それはちょっと(言うのも恥ずかしいわ)……というようなテーマの場合もありますし。

ちなみに【海に落ちる雨】のテーマは……先日アップした第70話のあとがきに載せた、ボストン科学博物館のでっかいピタゴラスイッチ。
それは題材じゃないのかって?
いえ、これは私にとっては壮大なテーマなのです。

そして『題材』なのですが。


そもそもなぜこんなことを言い出したのと言いますと、クラシックの音楽家という題材が、自分にとってそんなにファミリアではないということなんですね。

題材を選ぶとき、安全なのは自分の身近なものを選ぶこと、という気もしますし、よく『小説の書き方』とかいう本にもそのように書かれています。

おっしゃる通り!
と思うのですが。

でも、多分、私は自分の職業を題材にした小説は書かないと思います。
というのか、書けないんですよね。
自分の中での職業倫理的なものもあるのですが、知りすぎていることって、自分の書いていることが「ここ、そうじゃないんだよな、そういう面もあるけどこういう面もあるんだよな」とか「具体的な誰かをイメージしているとか誤解されたくないな(その人が読むわけじゃなくても気持ち的に)」とか「こんなこと書いて、この仕事がこんな風に誤解されたらいやだな」とか、書きながら自分でダメだししちゃうんですよね。
もちろん、その職業の人が出てくることはあります。
でも、それは脇役(というより通りすがりの人?)であったり、状況的に出てこざるを得ない場合のみ。
ま、引退したら、書くかもね!とか思いつつ(多分書かない)。

それに、自分がよく知っていること、特に仕事とか実際にやっている楽器とかは、そうやって「ちょい」で出てきても、妙に説明臭くなるんですよね。
小説というより、説明。
これをやってしまうと、どうも小説の流れの中でその部分・シーンが浮いてしまう。

三味線もそう。【死者の恋】で三味線シーンを書いて思ったのですが、説明臭い!
実は、八少女夕さんの【大道芸人たち】のお一人が津軽の演奏家なのですが、夕さんは三味線をされているわけではなく調べて書いておられるということなのです。でもその演奏家さんが、楽器を持たずにイメージで弾いているシーンに、う~ん、と唸りました。
そうなんですよ。そういうことなんです(?)。
イメージで書いても、すごく「それっぽい」というのが、流れを壊さずに溶け込むシーンになっていて、いいのです。


だから……題材はむしろ、「あなた(自分)の知らない世界」のほうが多いです。
もちろん、好きだから題材にするので、調べたりして、まったく真っ白ではないのかもしれないのですけれど。

というわけで、クラシック音楽。
昔、本当に大好きで、ある指揮者さんを追っかけていたこともあり……
(ということで、夕さんにリクエストを頂いたのですが)
もう亡くなられましたが、若杉弘さんという指揮者さんで、ケルン放送交響楽団やドレスデン国立歌劇場で音楽監督も勤められたことのある、多分日本でよりもドイツでの方が知っている人が多いかもしれない人。
ものすごくきれいなドイツ語を話されたそうです。
ケルンのじゃじゃ馬たち(楽団員)を懐かせたのは、その言葉の力が大きかったとも。
常に、話し合っておられたそうで。
それに、昔仕事がなかった時に世話になったという某管弦楽団(お世辞にも上手いとは言えない)に、偉くなってからもちゃんとお礼参りみたいにしばしば指揮をしに帰って来ておられた。
びわ湖ホールの音楽監督を務めれらた時、日本初演のヴェルディのオペラをいくつも手掛けられました。
それもすべて日本人の出演者で。
合唱も(びわ湖ホールには専属の合唱団がいますし、他からもお手伝いの有名どころが来ていた)ソリストも本当に素晴らしく、あ、日本にもこんな素敵な音楽家がいたんだ、と思わせてくれた。
今でも忘れられないのは『群盗』のコーラス。鳥肌が立ちました。
(あ、長くなっちゃった)

でも私自身は、昔ピアノをやっていただけで、好きで聴きに行っても、いわゆるクラシック通ではありません。
カラヤンの最後の来日公演は、並んでチケットを買いましたけれど……(ミーハー?)
(あ、別に、特にカラヤンが好き、というわけではないのです。あの人は、ある意味でものすごい人と思いますけれど)
予備校時代にはオケ部の人たちとかなり交流があったり。
友人は某大学の音楽部ピアノ科だったり。
その程度です。

なのに書くのか、クラシック音楽や音楽家の卵たちを題材にして……
と、今自分に突っ込みながら書いています^^;
知らない方が、イメージを走らせるにはいいという面もあり。


精通しているわけではないけれど好きなこと。
そういうものを題材にするのは、自分としては楽しいし、筆も妙に進むことがあるのですが。
あくまでも「なんちゃって」なのですよね。
きっと突っ込みどころ満載なんだろうなと思うのですが、物語の中で上手く使えたら、それはそれでいいのかな、と。
もちろん、悪意のある誹謗中傷になるようなものはダメですけれど(あくまでも上品に、いきたいものです)。
だって、誰もフィクションに書かれたことを100%信用はしませんよね。本当に興味を持ったら、もっと信用できる筋から調べますよね。
(と、願いたい)

刑事ドラマも医療ドラマも弁護士ドラマも、その職業の人から見たら突っ込みどころ満載わけだけれど、あまりにもあまりなことはともかくとして(いや、あまりなこともあるのだけれど)、突っ込むのも楽しい面もあり、ただ、
それを見た人・読んだ人が冷静な判断をしてくださることを願いますよね……^^;

とは言え、何でもバーチャルな昨今。
見ている人が現実とフィクションの区別がつかないのは困りますけれど。


ということで、今回はなが~いいいわけでした。
クラシック音楽につきましては、皆様、ご自身の耳を信用されてください。
そして、この音楽院のイベントや、生徒たちのあれこれなどは、まったくのフィクションです。
あくまで題材、ということで、ご容赦ください^^;


ちなみに、皆さんは、どのように題材を選ばれますか?
身近なこと? あるいはまるで知らないことを調べる?

題材が先にあるのか、テーマが先にあるのかも興味深いです。


今日の話題は、作品のテーマと題材でした。

Category: 小説・バトン

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[雨70] 第14章 連絡を絶っていた男(1) 

【海に落ちる雨】第14章です。
「妙に大物が絡む割には起こっていることが小さい」……代議士が動き、その名前が出れば世間を揺るがすような大物を「IVMの件」で脅迫していた雑誌記者(新津圭一)が自殺(殺された?)している。
「IVM」に絡んで姿を消している大和竹流にも、何か事情がある様子。
事の起こりは海の向こうにありました。ジョルジョ・ヴォルテラ=大和竹流を愛してくれた教皇が予言した、新しい教皇の就任。

同居人はその時、食い入るように新聞を読んでいた。真が傍に行ったのも気が付かずに新聞を読んでいることなど、後にも先にもあの時しか記憶にない。真が声を掛けると、同居人は慌てたように新聞を畳んだ。後で確かめた、同居人の視線の先にあった新聞記事には、つい先月に指名された教皇が急死し、新しい教皇が誕生したと書かれていた。ヴァチカン始まって以来のスラブ人教皇は1978年10月22日に、戴冠式を行わず教皇就任式を執り行っていた。(……第1章より)

これが、大和竹流にあることを決心させた理由だったのです。
この異国の教皇こそ、幼い時、いずれはジョルジョが仕えることになると予言された教皇。

さて、大和竹流を探す真の周囲にも、色んな人間の影が見え隠れしています。
まずは、内閣調査室の男『河本』が出てきたようです。
シーンが長いので、2回に切っています。
皆があのインタヴュー記事に振り回されている……ようですね。





 翌朝の目覚めは意外にも悪くはなかった。昇は、自分は朝飯を食べないので何もないと言いつつ、美味いコーヒーを淹れてくれた。十分すぎるもてなしだった。

 コーヒーを飲み終えてから、電話を借りて、三上のところに連絡を入れた。裕子、つまり三上の奥さんが電話に出て、あなた大丈夫なの、といきなり心配そうな声を上げた。
「今、三上に替わるから」

 裕子は姉さん女房だった。
 三上が唐沢調査事務所の爆破事件で下半身不随になったとき入院していた病院の看護婦で、ヘビースモーカーの三上が煙草を完全にやめてまで口説き落とした。
 三上が下半身不随であるだけならともかく、彼のこれまでの犯罪歴を知ってまでも、彼女がこの結婚に踏み切った勇気には感動さえする。勿論、三上が戦争孤児で、施設で育ったことや、彼の母親が米国人相手に売春をしていたために苛めにあっていた過去を鑑みれば、その犯罪歴も情状酌量の余地のあるところだろう。それでも、一般の家庭の女性が、敢えて選ばなければならない相手ではなかったはずだ。

 だが、裕子の選択は多分正しい。社会的・一般的な常識を重んじるのでなければ、三上は恐らく一緒に生活していて楽しい相手だろう。
 それに、彼らは傍で見る限り、似合いのカップルだった。

「お前、一体どこで何してる?」
 下半身不随になっても、三上の声の調子は変わらない。どこか剽軽で、力強くさえ感じる。この声の向こうに、どんな感情が潜んでいるのか、それとも、過去の悲惨な経験が彼を必要以上に強くして、そんなものは簡単に乗り越えてしまったのか。

「知人のところです。昨日事務所に電話をしたら、賢二が、三上さんに連絡するようにと言ったので」
「そうさ。事務所にはサツが張り込んでるって言うし、じゃあ、俺んところに連絡させろって言ったんだ。お前、一体何に首を突っ込んでるんだ?」

 三上の声を聞いていると、思わず受話器を握る手に力が入ってきた。
 大学の頃、唐沢調査事務所でバイトを始めて、右も左も分らない中で、良い兄貴分になってくれたのが三上だった。勿論仕事の上でのことだけではなかった。三上が真を随分可愛がってくれたことは、今でも感謝の気持ちと共に思い出す。

 けれども、三上の今の身体の状態を思うと、じっとりと冷や汗が出てくる。不幸を背負っているのは三上であって、真ではない。だが、あの時、あの一瞬、自分に何かができていたはずだという気持ちは、薄ら寒い記憶となって、真の頭の一部に張り付いていた。
 罪悪感といえばそうとも言えるが、何に対してなのか、よく分らなかった。

「首を突っ込んだのは、僕じゃなくて、同居人の方なんです」
「大和さんが、何だって?」
 不意に、竹流も三上と同じように、身体の一部に不自由を抱えて生きていくことになるのか、ということに思い当たった。
 あの右手。医師に動くようになるかどうか分からないと言われた手。
 いや、今となっては、右手だけの問題ではなかった。彼の生命そのものが、どうなっているのか、何もわからないのだ。

「僕もよく分からないんです」
 どう表現していいものか分からず、漸くそれだけ言った。三上は電話の向こうで少しの間黙っていたが、やがて重い声で言った。
「田安さんのこと、聞いたよ」
 真は答えなかった。
「それと何か関係があるのか? お前のところの若い衆の説明は、どうもよく分からん」

 宝田と賢二が事情を分かっているわけもないし、それでなくても特に宝田は脈絡のないことを言いそうだと思った。
「まあ、敵の多い爺さんだろうからな。唐沢は、知ってるんだろうか」
 真が何も言わないので、三上は言葉を繋いでいたのかもしれないが、三上の口から唐沢の名前があまりにもあっさりと語られることには、違和感を覚えずにはいられなかった。

 本当に三上は、自分の身体をあのようにした唐沢に、何も恨みを抱いていないのだろうか。
 三上が事故にあった後で、葛城昇が竹流に頼まれて、三上と唐沢の事情を調べてくれたことがあった。

 三上も唐沢も戦争孤児で、同じ施設の出身だった。
 三上の母親は米軍人相手に売春をしていた女で、三上は随分ひどい苛めにもあっていたという。唐沢はその頃中学生で、三上はまだ小学校にもならない年だったようだが、唐沢はよく三上の面倒を見ていたらしい。戦後の唐沢が米国の特殊部隊にいたという噂が本当なら、施設を出た後の三上には頼る相手もいなかったのだろう。

 彼らが離れ離れになっていた間、三上の生活がかなり困窮していたのは、彼の犯罪歴からも窺い知れた。
 三上は傷害事件やら窃盗やらで何度か拘置所に入っていたが、最終的に刑務所に入っていたのを迎えに行ったのは唐沢だった。
 その後、唐沢は三上と一緒に調査事務所を始めている。唐沢は三上をいいようにこき使っていたように思えた。もっとも三上は、唐沢は人使いが荒いよなあ、とよく真に零していたが、本気でぼやいていたわけではないように思える。

『三上にとって唐沢ってのは、どんなにどうしようもない人間でも、捨てられない親のようなものだ』
 葛城昇はそう言った。

「俺に何かできるか?」
 三上が優しい声で語りかけてきた。真は漸く我に返った。
「事務所の秘書が大分に行っているんです。彼女が帰ってきたら連絡を取りたいのですが」
「美和ちゃん、だっけ? 北条の御曹司の彼女だとか言ってたな。事務所には時々探りを入れとくよ。お前、せめて一日に一度はここに連絡を寄越せ。説明はよく分からなかったけど、お前の部下が深刻だったのは事実だ」
「すみません」
 何となく謝ると、三上はいつもの太い声で言った。

「何、こんな俺でも役に立つことがあるってのはいいことだ」一旦言葉を切って、三上は低い声のまま続けた。「で、大和さんの行方は、何か手がかりがあったのか?」
「何に首を突っ込んでいたのかは何となく分かってきたんですが、今どうしているのかは……」

 真はどう言葉を続けていいのか分からなくなり、そのまま黙った。三上は、真の気配をよく分かってくれているような気がした。
「あの人のことだ。どんな危ない状態でも、何とか切り抜けてるさ」
 相槌をうとうと思ったのに、何も言葉が出てこなかった。

 受話器を置いて振り返ると、昇が出掛ける準備をしていた。
 真は、街の適当なところで降ろしてもらうと、小さな喫茶店に入った。コーヒーを注文して、店の主人に断って電話を借りる。公衆電話と店の電話を兼ねているものだった。
 昇のところから電話をするのは拙いと思っていた。勿論、そんなことはお見通しかもしれないが、敢えて知らせることはない。

 連絡する相手は今は一人しか考えられなかった。その人物が協力者にはならないことは分かっていたが、どうせいつかは会わなければならない相手なら、さっさと懐に飛び込んでしまうほうが良さそうだった。
 添島刑事が言っていた『特別な番号』を回すと、一度の呼び出し音だけで向こうが受話器を取った。

「はい、株式会社東洋です」
 親切そうな声の女性が、以前と同じ会社の名前を名乗った。
「相川真と申します。河本さんと連絡が取りたいのですが」
「そのまま少しお待ちください」
 澱みのない声の後に、オルゴールの曲が流れてきた。サティのジムノペディだった。一分ばかりたって女性が再び親近感のある声で言った。
「お待たせいたしました。一度切ってお待ちください」

 そのまま電話は切れた。受話器を置いて間もなく電話が鳴る。もう一度受話器を取り上げると、久しぶりに聞く温和な低い声が伝わってきた。
「お久しぶりですね。遠からず連絡があるものと思っていました。お会いしてお話がしたいが、よろしいでしょうか」
「はい」
「では、二十分後に、その店の前でピックアップします」

 無駄話のひとつもなく、電話は切れた。彼にとって、かかってきた電話番号を知るのも一瞬なら、その番号から住所を確認するのにさえ、数十秒もかからないはずだった。
 真はテーブル席に戻り、ゆっくり煙草を一本吸って、コーヒーを飲んだ。
 ぼんやりと、次はいつこんなものを飲めるのだろう、と思った。

 二十分後きっかりに喫茶店を出た途端に、目の前に白いカローラがすっと停まった。真が後部座席に乗り込むと、直ぐに車は動き出した。
 隣の男は、数年前に会ったときと、体格も年までも、変わっていないように見えた。
 一見どこにでもいる普通の会社員といったムードの、頼りなげなおじさんにしか見えない。眼鏡をかけているが、度は入っていないように思える。顔を造るための手段なのだろう。小柄ではあるが、少し大きめのスーツを着て筋肉質の身体を隠しているのも、気配で感じる。年齢は五十歳をいくらも越えていないだろう。

「無駄話はよしましょう。あなたの要求は?」
「まず、教えてください。何故、あなたのところの誰かがフロッピーディスクを持っていたのですか。しかも、それがどこかへ移されていたというのは」
「移されていた? 盗難にあったのですが?」

 穏やかだが抜け目のない表情だ。真はそれについては追求しなかった。はぐらかされるに決まっていると思った。それで、質問を変えた。
「寺崎昂司が盗み出したというのは本当ですか」
『河本』は真正面を見つめたままだった。
「そういうことにしてあります」
「そういうことにしている?」
 真は思わず『河本』の顔を見た。

「あなたの言うとおり、移されていた、という言葉が正しいでしょう。先程の質問にお答えします。フロッピーをこちらで保管するように指示したのは私です。副室長の管理にしてありました。垂れ込みがあるまで、紛失していることには気が付かなかったと、報告を受けています」
「何故、保管するように命じたのですか」
「いずれ必要になるかもしれないと思っていたからです」
「必要になる?」
「切り札として、です」
『河本』はそう言って真のほうを見た。

 どこにでもいる会社員のような風情だが、目は笑っていない。言葉を荒げたり、泣いたり喚いたりもしたことがないように見える。このような人物は、家庭でどんな夫で、どんな父親を演じているのだろう。
「お話を続ける前に、ひとつ言っておかなければならないことがあります」
 予想していた言葉だった。
「何でしょうか」
「もしもあなたが一介の調査事務所の人間というだけなら、私が会う必要などなかった、ということは承知いただけますね」
 それはそうだろう。
「父のことですか」
「そう、あなたは察しが良いので、話が早くていい」

 真は一呼吸おいて、言った。
「あなたに父の事を頼まれても、私には協力できないと思います」
「何故そう思うのですか」
 真は目を閉じた。指先が冷たくなっていくような嫌な感じがしていた。
「私が何か言っても、彼がそれに応えてくれるとは思いません。彼があなたに協力するとも思いません」
 隣で『河本』は笑ったような気配がした。

「あなたは、拗ねているのですか?」
「拗ねる?」
『河本』が発したとは思えない不思議な響きの言葉に、真は思わず相手を見た。
「父親に捨てられたと思っている」
『河本』の唇が動くのを、真は見つめた。それは本当に不思議な感じだった。『河本』は真を哀れに思っているのだろうか。

「拗ねているわけではありません。あの人が父親であるという実感が、全く持てないだけです」
『河本』はまた前方に視線を移した。
「彼が赤ん坊のあなたを置いていった時、永久に捨てていくつもりだったとは思いません。いずれ、母親と三人で暮らすつもりだったと思いますよ。しかし、あの時、重い鉄のカーテンの向こうに連れ戻されたあなたの母親を取り戻すのに、ただ若いだけの、力も金も持たない彼に、何ができたと思いますか。そして、今となっては、むしろ巻き込まないようにするのが、あなたへの愛情と考えている」

 それは、いわゆる大人の理論だと思った。理屈ではそんなことは分かっている。けれども、何としてでも子どもを守ってくれる気なら、他にやりようがあったはずだ。
「でなければ、上に圧力をかけて、糸魚川署であなたを釈放させるようにしたりはしません。新潟県警と県庁はピリピリしているはずですから、下手をすれば妙な容疑を被せられたとも限りません。昔の事件とはいえ、香野深雪の両親が関わっていたのは、汚職事件です。誰かの罪が暴かれたとしたら、昔のことであっても、それに連なる現在の人脈に傷がつく」

 真は返事をしなかった。『河本』は構わずに先を続けた。
「私は、『朝倉武史』という男を、冷戦の混乱の中で上手く使ってきた国々から取り戻したいのですよ。勿論、彼が自分の知っていることを、私たちに話すなどとは思っていませんし、彼が何もかもを知らされていたとも思いません。しかし、彼は、持っているだけでいい武器のようなものです」
 それは、そのまま錆付かせていずれは捨てる、という意味にも聞こえた。

「それから、もうひとつ。あなたにも、私の元に来て欲しい」
 さすがに真は驚いて顔を上げた。
「私があなたに協力し、情報提供するのはそのためだと思ってください」
 ほんの僅かに、『河本』の目が笑ったような気がした。
「不思議だとお思いですか?」
「私が、『朝倉武史』の息子だからですか」
「それは一番の理由ではありません」
「では、何」

 言いかけて、真は今度こそ相手の顔を真正面から見つめた。
 もしも、あの雑誌があんなインタビューを掲載しなければ、一体誰がここまで彼と自分の関係を真剣に受け止めただろう。彼が本気であることを、つまり本気でヴォルテラの後継者が、家を捨てる気であることを、今や不特定多数の人間が知っているのだ。そして、その根元にある感情の底に、相川真がいると、文面からはそう読み取ったのだ。

「イタリア人と取引をするのは、悪いことではないと思っています。あの男は、ヴァチカンのネットワークを支え、中東の情報に通じている。冷戦が終われば、世界の目は中東に行きます。布石は打っておいてもいいでしょう」
 真は、『河本』の表情から何かを読み取ろうと思ったが、やはり無理なことだった。

「添島刑事を取り込もうと思われたのは、彼女が大和竹流の女だからですか」
「彼女は私に手の内を見られていることを知っています。その上であそこまで堂々としているのは、大した才能です」
「あなたが大和竹流をどこかに隠したのですか?」

 ようやく、真は一番聞きたかったことを尋ねた。『河本』は無表情のまま答えた。
「それは確かに考えうるシナリオです。しかし、隠しておいて、イタリア人の前に勿体ぶって差し出し、ご褒美を貰おうなどという、どこかの外国人のヤクザと同じようなことは考えていません。残念ながら彼の行方は知りません。しかも、それはあなたの仕事だ」

 真は視線を自分の手に落とした。
 これが添島刑事の言っていた、相川真につけられた値段、というわけなのだ。それは真自身ではない、大きな箱と包装紙で飾られたおかげで中身も立派な商品だと誤解されている、しかもその商品の値打ちのほとんどは、当るか当らないかもわからないおまけのほうだ。

「私を雇ったところで、イタリア人と取引ができるわけではないと思います」
「先程言いましたね。布石を打っておくのだと」
「布石? まだ大和竹流、いえ、ジョルジョ・ヴォルテラがあとを継ぐとは決まっていない。それに」

『河本』は続けようとした真の言葉を穏やかに遮った。
「チェザーレ・ヴォルテラは了見の狭い人物ではありません。それに、彼が後継者と定めたものを諦めることなどあり得ません。あなたを利用してでも、後継者を取り戻すでしょう」
「万が一、彼があとを継いだとしても、私には何の関わりもないことです」

「そうでしょうか。私には、あれはジョルジョ・ヴォルテラの覚悟に思えましたが。あの男はチェザーレ・ヴォルテラとよく似ている。冷静で用意周到に見えて、その実は激情に動かされやすい。義理や人情など、こういう世界では当てにならないことを知っているのに、そこにロマンと目標を見出すタイプの人間です。チェザーレ・ヴォルテラがそれでも上手くやっているのは、良い参謀や実戦部隊を持っていることと、彼に長い経験とカリスマ性があるからです」

『河本』は一息ついた。この男は、自分は全く違うタイプの人間であると、そう真に伝えたかったのだろうか。
「私の要求は以上の二つだけです。納得していただいた上でお話を進めたいと思いますが、いかがですか」
 二つだけとは言え、随分重い要求だ。武史が言っていた通り、高くつく。だが、今の時点では力のあるものにしがみついているしかなさそうだった。竹流が戻ってくるまでの辛抱だ。そうしたら全て踏み倒すだけのことだ。

「結構です」
『河本』は微笑んだ。この男に『微笑む』という芸当ができるとは思わなかった。
「あなたという人は正直ですね。同居人が帰ってくるまでは仕方がないと思っている。借金を踏み倒すおつもりだ。もっとも、必ずいつかお考えを変えてくださると思っています」
 真はその言葉を頭の半分だけで聞いていた。






ここに登場する三上というのは、真が唐沢調査事務所で働いていた時の兄貴分です。
事務所の爆破事故(唐沢の保険金詐欺、ということになっている)で下半身不随になりました。
真はこの事故現場の、まさに爆発するところを、そして三上が窓から落ちるところを目撃していて、実はものすごくトラウマになっています。
その事情はまた、第3節の少し長い過去物語に出てきます。

登場シーンは少ないのですが、この三上夫婦、社会的にはどう思われるか分かりませんが、真にとっては実にいい夫婦でして、短いシーンでも、彼らの人生の見えるシーン・エピソードを書くようにといつも思っています。

この物語にはこうした「チョイ役」があちこちで小さな歯車を回しています。
そう、この物語のイメージは、この装置なのです……
ボストン科学博物館にある、ピタゴラスイッチの親玉みたいな装置。
同じようなものが、神戸のハーバーランドにもあります。
他にもあちこちに見かけるかもしれません。
この物語を書いている時、いつも頭の中にあったイメージ。
皆がどこかで小さく、あるいは大きく関わり、玉は転がり続けている……

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あ、でかすぎて、何かわからない……要するにでっかいピタゴラスイッチです(^^)
それも、永遠に終わらないピタゴラスイッチ。
転がり始めたら、あちこちに影響しながら、されながら、永遠に転がり続ける玉……
人生って……みたいな?

第3節が始まったら、人物紹介を出します。それもお楽しみに(^^)
あと2章です。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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【死と乙女】(2) 胎動、特待生試験 

かなり真面目なクラシック物語になってしまっています。
のだめみたいにもっと笑いを増やしたいのですが、ついあれこれ思い入れが…^^;
モーツァルト弾いている時はまるでのだめ風に、ちょっと阿呆丸出し(いい意味で)になっていますが、音が聞こえるような物語になっていたらありがたいです。
(と言っても、のだめさん、実はあまり真面目に読んだことがなく、中途半端な知識です…すみません^^;)

今回の曲は
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番
 第2楽章の最後、ロマン・ロランが天国への階段だったか上昇だったか、と表現したトリルが……
モーツァルト ピアノソナタ第11番
 第3楽章がかの有名なトルコ行進曲です。





 特待生試験は一週間後に迫っていた。
 合格すれば一年間の学費は完全に免除、上手くすれば生活費も半分は面倒を見てもらえるという純粋な試験の一面もあったが、実際にはこれはイベントだった。試験という名前の新人発掘オーディションのようなものだ。
 職人とは違って、長い経験がキャリアとなり演奏家を一流に仕立てあげるという世界ではない。要するに売り出すことが可能な才能を発掘することが目的なのだった。

 だから、この試験は一部の部外者に対しては公開されている。つまり、プロのオーケストラやオペラ劇場、舞台のプロデューサーや音楽監督などの責任者、テレビ局や新聞社の音楽担当、署名入りの評をある基準以上の雑誌に載せることのできる評論家、つまり学校が付き合っていく中で、将来に向けてメリットのある有力者が招待されていた。
 そして、数年前から、ヴィクトル・ベルナールもその招待状を受け取る光栄に浴している。

 その頃、慎一は毎日ヴィクトルの屋敷に通ってきていた。
 彼の下宿の女主人は若い音楽家を育てることを趣味にしているようで、音楽院の学生というだけで賃貸の契約条件の半分はクリアするのだが、さすがに下宿にグランドピアノを持ち込むスペースはない。
 慎一もベーゼンドルファーのアップライトを借りていたが、大きな試験の前にタッチの違うピアノで練習することはマイナス以外の何物でもない。練習環境が整わないという時点で、この世界では既にスタート地点に立っていないのと同じだった。

 慎一が毎日来てもいいかと尋ねた時、ヴィクトルは顔には出さなかったが大いに喜んだ。幾らかはやる気になっているのだろうと思ったからだ。ヴィクトルは直ぐに信頼のおける調律師を呼んだ。調律師はこの間来たところなのにと不思議がったが、ヴィクトルは一厘の狂いも許せないので、毎日でも来させるつもりだと答えた。調律師はますます不思議そうな顔をした。

 多分慎一にとっては死活問題なのだろう。他の学生にとってはこの試験は名を挙げるためのステップだろうが、慎一にとっては授業料という大きな現実がある。だが理由などこの際どうでもいい。切羽詰っていればいるほどいい。
 もっとも、あくまでも言葉はきつく、意地悪な言い方をした。
「その代わり、拙い音を出したら蓋を閉める。俺は騒音には耐えられない」
 慎一はしばらくヴィクトルの顔を困ったように見ていたが、やがて唇を引き結んだ。
「わかったよ」

 おかげで、しばらくの間ヴィクトルは至福の時間を過ごすことができた。
 ホイリゲで弾くような曲ではなく、死活問題の絡んだ試験のための練習だけに、一曲一曲に集中しているのが分かる。

 毎年出るとは限らない合格者にはいくつかの特典が提供されるが、授業料の免除だけではなく、コネでもなければとても授業を受けることができないような名教授のレッスンが受けられるかもしれないのだった。もっとも、そういう名教授の多くは気難しく、実際にレッスンを受けることができるかどうかは、その後いかにうまく交渉するかにかかっていたりするようだ。

 ピアノ科ではリーツマン教授がその人だった。
 還暦もとっくに越えていたが、半年に一度行われる演奏会のチケットは全くとることができないという。拙い演奏を聴くと、授業でも演奏会でも椅子を蹴って席を立つという伝説があった。

 一次試験で各科の受験者は五人に絞られる。ピアノ科の課題はバッハ『ピアノ協奏曲第一番』とベートーヴェンのピアノソナタだった。ベートーヴェンは何が来るか分からないという話だったが、こういうものは大抵情報が確信犯的に漏れ出すもので、今年は後期三大ピアノソナタのどれかだという「確かな風評」が流れてきた。

 慎一からそれを聞いて、ヴィクトルは年々嫌がらせがひどくなってきていると思った。ショパンもリストもないこの試験の意味合いは容易に推し測られる。そもそも最初のバッハで大概は振り落す気なのだ。
 弾くこと自体は難しくはない、だが全くごまかしがきかない曲をメインに並べてくる。その中にこうして若さだけではどうしようもない曲を混ぜ込んでくるのだ。

「バッハはもっとタッチを揃えろ。シンプルに、できるだけシンプルに」
 慎一のバッハを初めて聞いたが、どうにも色が付きすぎていると思った。いや、もしかすると、当時のバッハの曲は教会の中であのステンドグラスから零れ落ちる光の競演を音にしたものかもしれないのだが、多分一次試験の審査をする連中はそれを求めてはいない。
 その最初の関門は、簡単そうでいてなかなか越えられないものだろう。

 慎一はむっとした顔をして、何かを言いかけたが、すぐにじっと鍵盤を睨んだかと思うと、ヴィクトルの要求通りに弾きはじめた。
 悪くない。
 基礎はきっちりとできている。教育はしっかりと受けて来ているのが分かる。練習自体の基礎だってできている。

 だがあのベートーヴェンは。
 抒情というものはテクニックの上に乗っている。だから確かなテクニックがなければ、抒情という域の話をすることはできない。だが、あの『熱情』を聞いた時、そこには音楽を聴いているという受け身の自分はいなかった。演奏家のテクニックなどどうでもよくなった。

 引きずり込まれてしまったのだ。彼の内面へ。
 慎一がいつもあの生と死の狭間で叫ぶような音を出しているわけではないことは、この数週間で納得した。何かのキィがあるかのように、瞬間にあの場所へはまり込むのだ。
 不用意に聴いていたら、足を掴まれて湖の底へ引っ張り込まれるような危うさ。

 それは一次試験の課題と噂された、ベートーヴェンの後期三大ソナタのうちでも抒情的で高度なテクニックを要求する三十二番の第二楽章を聴いている時に、不意に襲ってきた。

 目の前に地球の景色がある。天空に広がる満天の星が降り注ぐ。あるいはしんしんと降り積もる雪。日本のある評論家はこれを宇宙の星の煌めきと称した。天国の旋律だ。
 弾こうと思えば十代の学生にも弾けるだろう。だが、酸いも甘いも、死の恐怖も生の喜びも身に迫って味わったことのない若者には弾く資格のない曲だと思っている。
 それを試験でやろうというのだから、嫌がらせとしか思えない。

 まいったな。
 ヴィクトルは廊下を挟んだ向こうから聞こえてくる天国の哀しくも明るい調べに身体を締め付けられ、動けなくなっていた。
 おそらく、慎一自身も分かっているのだろう。彼自身なのか、あるいはそうではない何かが彼の指を動かし、天国への道を開く瞬間があることを。あるいは彼自身のうちにある深い湖の奥深くへの道が、通じる瞬間があることを。

 ヴィクトルは突然不安になり、廊下に飛び出し、慎一がピアノを弾く部屋に飛び込んだ。
 慎一はヴィクトルには気が付かなかった。
 十本の指がピアノの上に確かにあるのだが、すでに音楽は指先でもなく、その指先から繋がるハンマーから奏でられているのでもなかった。
 確かに彼の指が奏でているはずのトリルは、彼の内側から迸る光になっていた。光はこの部屋を埋め尽くし、どこか果てのない非現実にぶつかって、再びこの部屋に降り注いでいる。

 宇宙がそこに広がっていた。
 星が瞬くときにガラスが触れ合うような音になる。これはもうピアノの音ではなかった。孤独や恐怖や不安はないが、喜びや安堵もなかった。星々の瞬く光で宇宙が真っ白に染まっていた。あるいは雪が降り積もり、真っ白の中へ自分が埋もれていくような感触だった。

 ヴィクトルはピアノに走り寄り、思わず慎一の手を払いのけ、蓋を閉めた。
 蓋の閉まる音が突然真っ白な空間を畳み、引き裂かれたような痛みだけが残った。
 何が起こったのか分からずに慎一がびっくりした顔でヴィクトルを見ていた。
 だが、何が起こったのか分からないのはヴィクトルも同じだった。
 腕を掴み、そのまま寝室に連れ込んだ。
「ヴィクトル、どうしたの」
 何度も慎一が聞いた。
 聞きたいのはこっちだと思った。

 幼い時、シューベルトの『魔王』を聞いた。そしてそれ以降、魔王はずっと彼の身近にいた。
 既に母親は亡く、父親は死の床にいた。魔王が連れて行ったのは子どもの彼ではなく、父親だった。
 あれから、シューベルトの歌曲は警戒するようになった。無意識に予防線を張るお蔭で、聴いていても心を取り込まれることはない。
 だが、こんなふうに不意打ちで死の世界を見せられるとは。
 死は真っ白だ。そして、不安でも恐怖でも安堵でもなく、ただそこにあり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ真っ白だ。

「ヴィクトル」
 呼びかける声は少しずつ曖昧になっていく。
 ヴィクトルは慎一の頭を抱き締めた。魔王が今さらって行こうとしているのはお前なのか、それとも俺なのか。あるいは、二人が重なり迎えようとしている別の形の死なのか。


 一次試験を通過したのは四人だけだった。ベルリンから来たヘルムート・シュルツ、アメリカから留学しているヒューバート・スミス(彼は弱冠十五歳だった)、そしてアネット・ブレヴァルとシンイチ・アイカワ。多分最後の名前だけは、大方の予想のうちには入っていなかったことだろう。
 幸いというのか、ベートーヴェンは三十番の第三楽章で、慎一はそれなりに可もなく不可もなく、確かなテクニックを見せていた。

 三日後の二次試験はモーツアルトだった。
 モーツァルトについては、ヴィクトルは心配していなかった。むしろしてやったりと思っていた。いつも慎一を教えている講師のローマイヤーは、ヴィクトルとは別の形で早くから慎一の才能を認めていた一人だった。

 初めてのレッスンの時、慎一はモーツァルトのソナタで、ローマイヤーが想像していたどの音とも異なる音を聴かせてみせた。それはローマイヤーが聴いた久しぶりに面白いモーツァルトだった。

 モーツァルト以降のロマン派の作曲家たちは、良くも悪くも藝術の至高を求め、そこに哲学や人生を織り込んだ。
 だがモーツァルトは違う。彼の先駆者はハイドンしかおらず、藝術ではなく娯楽として、ひたすら音を楽しみ遊び続けた。彼はそういう時代の申し子だった。軽やかで明るい音は、ばらけたと思えば心地よい所へ収束する。その畳み込まれる一瞬の音の調和と透明度を、人々は楽しんだ。イタリアを旅すればイタリア以上に底抜けに明るい音を、ロココ調の音楽を耳にすればさらに流麗な音を披露して見せた。

 その彼が藝術に目覚めた時、モーツァルトの神髄が胸のうちから彼を食い破った。モーツァルトの娯楽の音、彼の軽やかで明るい音に魅かれ、その世界に遊んでいた信望者たちは彼を離れた。モーツァルトは支援者を失い、貧しさと絶望のうちに亡くなった。
 その彼の晩年の作品こそモーツァルトの神髄であるというものもいる。

 だが、ローマイヤーは、透明な湖のように時代を反射したモーツァルトの音楽は、底抜けに明るい天才の軽さだと思っていた。そしてモーツァルト以降何百年を経ても、まだ誰一人として彼の天才に追いつくものは現れていない。
 そして今、モーツアルトにも、彼以降の常識、つまり音楽は苦悩する人生を映し、音を哲学するものだという考え方を押し付けようとするものもある。
 だがナンセンスだ。モーツァルトの音楽は純粋に音を遊んでいる軽さなのだ。

 その音楽を慎一は肌で知っているように思えた。イタリア以上に明るいイタリアの、透明で何ひとつそこに留めることのない残酷な無邪気さが彼の音にあった。
 ローマイヤーはヴィクトルを誘った。
 人嫌いだと言われたヴィクトルも、さすがにこの頃には人に慣れ始めていた。音楽を聴き、評論を書くだけでは足りないものがあることを思い知っていたからだ。

「おい。久しぶりにモーツァルトを聴いた。あれこそモーツァルトだ。底抜けに明るい、何も考えていない、透明度の高い湖みたいな音だ。知っているか。モーツァルトの本物の音は、馬鹿にしか奏でられないんだ。国王の前で尻をめくって見せるほどの阿呆にしか出せない音だ」
 興奮してそう言ってから、ぐっとワインを飲み干し、ローマイヤーは渋い声で続けた。

「無邪気すぎて、残酷な音だ。誰も追いつけない。それは鏡だからできることだ。あるいは、透明でどこまでも底が見えない湖だ。何もかもを跳ね返す孤独な湖だよ。だが、もし一度その湖に飛び込んでしまったら、そこは本当に底なし沼だろうな」
 その阿呆もしくは馬鹿が、ヴィクトルの知っているホイリゲの少年と同一人物だと分かったのは、それから数か月後だった。

 ローマイヤーはまた、テオドール・ニーチェを育て上げたスタッフの一人でもあった。
 半世紀に一度の逸材に対する音楽院の態度は、特別に過ぎると思うこともある。だが、そのような人物がここで学び自分の道を切り開いて行ったということは、学校のステータスに関わっていた。彼のために他国からも著名な演奏家や教育者を客員講師として呼び、それがまた生徒に人気だった。

 幸いテオドールは学ぶことを喜んだ。ただピアニストとしてのテクニックを追求するだけでなく、舞台芸術や指揮法のクラスにも顔を出していた。そんなことは無駄だという教師もいた。だが、彼が目指す世界はもっと高いのだろうとローマイヤーは思っていた。ローマイヤーがそう言うと、皆は渋い顔をしながら認めた。
 ただ、学校がどうしても提供できないでいるものがひとつあった。テオドール・ニーチェは、彼の域に手が届く仲間を持たなかった。友人もなく、孤高の存在だった。ローマイヤーは彼にぜひとも友人を持たせてやりたいと思っていた。

「リーツマンは彼の音を気に入る。百二十パーセント、請け負う」
 ローマイヤーがヴィクトルに言った通りだった。
 モーツァルトピアノソナタK.331。全く嫌がらせとしか思えない王道だ。音が良く聞こえるように仕組まれている。

 ちょっとした演奏会風に仕立てられた音楽院のホールには、未来の契約者を求める各界のエージェントがひしめいていた。その中にはユーディット・マンハイムの姿もあった。ヴィクトルは何となく満足だった。
 ヴァイオリン、チェロ、フルートと進んで、次がピアノ科だった。

 演奏順はヘルムート・シュルツが一番だった。悪くないが、いささか音が重い。一次試験のベートーヴェンは悪くなかったし、堅実だが、モーツァルト向きではない。
 二番手はヒューバート・スミスだった。これも悪くない。最少年の無邪気な悪意が感じられる音だ。
 そして三番目が慎一だった。

 心配していたつもりはなかったが、ヴィクトルは何となく背筋を伸ばして座り直してしまった。
 慎一の指は、今日は一段と軽やかに鍵盤を走っているように見えた。重さが全くない。ローマイヤーが言うところの、残酷な無邪気だ。全ての音が明瞭に聞こえる。しかも、音の種類が以前よりも一段と増えているような気がした。

 慎一の音楽の特徴は、音色の豊かさだった。一音一音、色合いを変えることもできるのではないかという気がする。それがモーツァルトで生きる。花を咲かせたり、水遊びをしたり、スケートを滑ったり、時には落とし穴を掘ってみたり、おもちゃ箱から色々なものを取り出しては大人に自慢をしている、そんな音だった。まさに、おとぎの国のミッキーマウス、魔法使いの弟子みたいなものだ。

 もっと緊張するのかと思っていたら、意外にもしっかりしている。そんなことにほっとするなんて、俺は授業参観にやって来た父親か、とヴィクトルは自分自身に突っ込んでおいて、やがて目を閉じた。
 湖か。まさにそうだ。森の奥にある透明な湖の面をガラスにして、妖精がスケートをしているような、いやまさに国王に尻をめくって見せるような乱痴気騒ぎをしている明るさだ。
 こんな音で表面を飾り、そして内にあのパッションを潜めている。湖の岸辺で遊ぶ妖精を見ているうちはいい。ふと、気になって湖の底を覗き込んでしまったら、そこにはあの深い闇のような熱情があるのだ。
 その内面に気が付く者がどのくらいいるのだろう。

 ふとヴィクトルは周囲を見回す。
 すり鉢状の会場の一番下がステージだ。そのステージに向かって左端の隅に、テオドール・ニーチェが座っていた。
 へぇ、怖い顔だな。……なるほどね。天才を揺るがしたか。

 隣のローマイヤーが肘でヴィクトルをこついた。
 見ると、さっきまで真剣に聴いていたリーツマンが隣の助手に何か話しかけていた。リーツマンは全く学生の名前を憶えないことでも知られていた。多分、彼は一次試験を通過してきた四人の優秀な学生の名前を一人として知らずに、この会場にやって来たはずだ。その彼が確かめるのはただひとつ、その学生の名前だ。
 ローマイヤーが右手の親指を立てる。ヴィクトルはただ頷いた。

 さて、後はアネット・ブレヴァルだ。
 だが、彼女の演奏が始まった時、ヴィクトルはあれ、と思った。
 期待していたどの音とも違う。音は一つとして重くない。技術も確かで華やかだ。だがこの音は。
 隣でローマイヤーが身を乗り出して心配そうにステージを見ていた。
 相変わらず、手で触れることができるような絹の耳触りだ。慎一の音にも匹敵するほどの無邪気さと透明さ。多彩で明るい音の豊かさと深さ。その華やかさはさすがとしか言いようがないが、ヴィクトルにはある違和感があった。

 この娘は以前、こんな音を出していたか?
 それに、ヴィクトルはある一か所、ほんの一瞬、あることに引っかかった。気のせいかと思って瞬間に辺りを見回し、同じことを感じた者が、少なくともこのホールにあと二人、いることが了解できた。

 だが、勝敗の行方は分からなくなったな、とヴィクトルもローマイヤーも思った。花があると言えば、アネットの方に軍配が上がる。
 ヴィクトルは先に屋敷に戻りながらあれこれと考えをめぐらす。今日は土曜日で、そのまま慎一が屋敷にやって来るはずだった。

 特待生試験の先にデビューを見ている者と、とにかく学費をと思っている者と、自ずと世界は違っているという現実はある。この試験に落ちたら、慎一はいささか困窮するのだろう。生活の全ての面倒を見てやるから、下宿を引き払って屋敷に住むようにと言えば、そうするだろうか。
 毎日本が読めるし、誰にも遠慮せずに練習ができるぞ。そう提案してみるのも悪くない。

 少なくともこの数週間は良かった。慎一の食事の世話や練習の面倒も見ることで、ヴィクトルの生活は充実していた。細切れの時間に書く評論や、頼まれていた本の章節は驚くほど進んだ。夜はベッドの中で、何時間も音楽論を闘わせた。最近はドイツ語を話すことに躊躇がなくなった慎一は、不器用ながら音楽の話だけは一生懸命で喰らいついてくるようになった。時には辛口評論家のヴィクトルを論破してしまうこともある。

「語学の習得にとって一番いいのは、その言葉を話す恋人を作ることだって知ってたか?」
 言い合いに負けそうになると、ヴィクトルはそう言って慎一をからかった。
 慎一は枕を武器にして応戦するほどの余裕も出てきた。
 この手のコンクールや試験には片っ端から出させてやるのがいいのかもしれない。適度な緊張感と練習に入る熱、実戦で修正されていく音の癖、そして他人から受ける刺激。それが若い音楽家を成長させていくことだろう。
 そうすれば少しはやる気になるはずだ。醜いあひるの子に、お前の羽根は実は真っ白どころか黄金色だぞと気が付かせてやるのは、実に骨が折れる。


 慎一が屋敷に戻ってきたのは夜の八時を過ぎてからだった。
 心配していたヴィクトルはおろおろし過ぎて何ひとつ仕事が手につかなかった。本当なら、今日の特待生試験の評を仕上げてしまうつもりだったのだ。慎一の顔を見てしまって、公平さを失わないうちに。それが、一行も打ち込まれていない。

 それなのに、食事を済ませてきたと聞かされては、心中穏やかではない。思わず突っかかってしまった。
「誰と食事だって?」
 慎一はちょっと躊躇ってから答えた。
「テオドール・ニーチェ」

 あれこれ下心もあり、それに思いつめた表情の彼の姿を目にしていたヴィクトルはギクッとしたが、表情を変えずに言った。
「おぉ、憧れの君とお食事か」
 慎一はしばらく例の困ったよう顔でヴィクトルを見ていた。慎一を待っていたために遅くなったヴィクトルの食事にワイン一杯で付き合っている慎一の頬は既に赤かった。

「……妬いてるの?」
 全く、こういうことには立派に巻き返すようになった。それもこの数週間に彼が習得したことだ。
「そうだ」
「ごめんなさい」
「何で謝る?」
「だって、お腹がすいていたから、腹を立ててるんでしょ」
 それも多少はあるが、どうにも気に入らないだけだ。あの若造が、自分の音楽に実力通りの自負心を持つのは構わないが、それだけではなく、他人の音楽を聴き分ける耳を立派に備えていることに、嫉妬している。
「でも、どうして彼は僕なんかを食事に誘ったんだろう」

 だから……!
 ヴィクトルは怒鳴りそうになるのを辛うじて踏みとどまった。
「シンイチ、お前、醜いあひるの子の話を知っているか?」
「アンデルセン?」
「いや、もういい。で、何の話をしたんだ?」
「モーツァルトのオペラをどう思うかって。驚いたなぁ。ピアノのことしか考えていないと思ってたのに」
 あの天才はピアノで終わる気はないんだよ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。

「他には?」
「他?」
 慎一は首を傾げる。
「たとえば今日の試験の話とか」
 そう言われて初めて慎一は今日が試験だったことを思いだしたように見えた。こいつは、あの時その天才がどんな目で自分をを見ていたのか、全く知らないだろう。
「うん、手ごたえはどうだったかって聞かれたけど……やっぱりアネット・ブレヴァルかなぁ。音も華やかで、色が豊かで、あなたの言う通り透明感があって、音に触ることができるみたいで、それに何より厭きなかった」
「厭きない?」
「時々、他人の弾くモーツアルトを聞いていると、眠くなっちゃうんだ」
 全く、辛口評論家のヴィクトルのお株を奪うようなことを、よくもしれっと言ってくれる。

「お前、何か忘れてないか?」
「何を?」
 全く、文句を言う気も失せる。
「自分が弾いている時は何を思っているんだ?」
「え?」
 慎一はまるで何を聞かれたのか分かっていない顔をした。
「何にも考えてないけど……強いて言えば犬たちのこと」
「犬? 飼ってたのか?」
 慎一は突然顔を伏せ、何も話さなくなった。

 ある一定の思い出話になると慎一は口をつぐむ。たとえば、五歳までいたという日本の叔母の話は喜んでする。だが残念なことに、音楽が楽しかったこと以外はあまりよく覚えていないらしい。ウィーンに来てからのこともよく話すようになった。苦労話はあれこれあるのだろうが、下宿の女主人であるマルグリットや下宿仲間、ホイリゲの主人のロルフのことなどはよく話題になる。
 彼が話さない十数年には、一体何があったというのだろう。

 ヴィクトルは今日中に原稿を上げなければならないからと、先に慎一を休ませた。
 書斎に閉じこもると、ヴィクトルはまず葉巻の端をカットして、ロッキングチェアに腰かけた。
 彼はアネットのことを考えていた。

 確かにあの華やかな外見と気高さと愛らしさの同居した顔つきは、ピアニストとしてだけではなくモデルとしてだってやっていけそうだ。腕もいい。テオドールとはまた違う、女らしい繊細さと、逆に女にしか出せない大胆さと、そして常に前進しようとする克己心が表れている。

 だが今日、彼女は一瞬、第二楽章の冒頭の部分で、危険な綱渡りのような不安感をのぞかせた。あの時、ふと顔を上げて彼女を見つめたものがヴィクトル以外にも二人いた。テオドールと慎一だった。
 なぜあの二人が死に反応したのだろう。ヴィクトル自身は幼いときから魔王と道連れだった。だが、慎一とテオドールは一体どんな死を知っているというのだろう。

 少なくとも、慎一が知っている死は、観念の死ではない。
 ヴィクトルは葉巻の煙を繰り返し吐き出し、身体から魔王の痕跡を消し去ろうとしてみた。
 アネットがテオドールに恋をしているというのは大いに結構だ。だが彼女は幸せではないのか。何を思いつめているのだろう。確かに、誰かが言っていた。恋というものは、時に誰かを殺してしまうほどに恐ろしいものだと。

 ヴィクトルは原稿用紙に向かった。
 今年も音楽院に於いて新しい才能を発掘する特待生試験の日がやって来た。若さと力、古きものと新しきもの、これまで積み重ねてきた練習の一秒一秒、憧れや理想、それらが最も色濃く出る試験だ。若者にしか描き出せない音楽の魂、それが強く迸って聴くものを震わせた。だが、中に二人、生に対する仄かな諦め、生の中にある深い死の哀しみの色、どうしても越えられぬ絶望感を、その楽の魂の底に潜ませている者がいた。一人は、自身すら知らぬ心の奥底に、そしてもう一人は今やそれを取り出そうと手を触れた形で。では、何が彼らにそうさせたのか。人間が生への美しい諦めを覚える時、人や事物、小さな木の芽、一羽の蝶、夕陽の茜、せせらぎの音、空に射す一条の光に対する激しい愛情を感じているものだ。だが、今はそれが観念の死であることを願う。

 死には二通りある。観念の死と現実の死だ。アネットは、観念の死を潜ませている。だが、若者にとって、その二つの死の境界はあまりにも浅く不明瞭だ。
 死の背中に貼りついているものは愛情だろう。言葉にすると軽くなるが、実際には重くて苦しい愛情だ。
 愛情……アネットのそれはテオドール・ニーチェに向かっているとしても、慎一のそれはどこへ向かっているのか。

 寝室に入ると、慎一は『ドン・ジョバンニ』のスコアを広げたまま眠っていた。
 死。人間は誰だってそれを遺伝子の中に潜ませて生まれてくるのだ。この子も、あらゆる地上の生きものはすべからく、その運命から逃れられない。
 その短い運命の中で、シンイチ、お前は一体誰を捜している?

「ん……ヴィック?」
 そっと髪に触れると、慎一は身動ぎした。
「あぁ、起こしちまったか。悪かった」
 ベッドに潜り込むと、ごく自然に傍に擦り寄ってくる。仔猫が母親を探しているようなものだ。
「もう書けたの?」
「疲れてるんだろう。おやすみ」

 ぱらぱらとスコアをめくってみる。テオドールと話していたことを思いだしていたのか。あるいは、眠りという観念の死に向かう旅の友を求めたのか。
 額にお休みのキスをくれてやると、慎一はゆっくりと目を開けた。
「ほんの一瞬だけど、あなたは気が付いていたんでしょう?」
「……アネットのことか」

 ヴィクトルは慎一の頭にそっと手で触れた。
「他人には踏み込めない部分があるさ」ヴィクトルはそう言って、慎一の目をしっかりと見つめ返した。「お前にもな」
 慎一の目には生と死が同時に宿っていた。そこには絶対的な孤立が同居し、それらをすべて受け入れて尚、立とうとする奥底に秘められた炎に、否応なしに惹きつけられる。慎一の繊細さ、臆病さ、謙虚さ、卑下、これらはすべて自信と生命への激情の裏返しなのだということは、ヴィクトルはとっくに気が付いている。

「知りたい?」
 静かに慎一は問うた。ヴィクトルは答える代りに彼を引き寄せて抱き締めた。
 お前の音楽がすべての答えであることは知っている。お前がもし百万の言葉を並べても、何気ない一小節の方がどれほど雄弁であることか。
「知ればいいってものじゃない」
 だが、ヴィクトルは優秀な探偵を雇っていた。そのことを慎一には知られなくなかった。

 慎一はヴィクトルの胸に頭を押し当てていた。
「あなたが好きだよ、ヴィクトル」
「……二番目にな」
「ヴィック」
「分かってるさ。何も言うな」
 慎一はそっと目を伏せ、やがて静かに閉じた。

 俺がもっと大きな人間なら、お前の全未来を受け止められるのだろう。今や遥か高みへ向けて開いてゆこうとするこの儚くも尊い魂の運命を、不安と恍惚のうちに潜むすべての感情を、こうして自らをお前が飛び立つための大地にして、支えてやれたらと願う。




このお話は、いわゆる神様視点になっているのですが、ここまではほとんど三人称を借りたヴィクトル視点。
原文は慎一のつぶやきもずいぶん入っているのですが、抜きました。
何だかやっぱり気持ち悪くて……
他の人の書いている神様視点は気にならないのに、自分が書くと違和感が…
でも、次回からは視点は若者たちに移ります。
おっちゃん視点はなかなか良かったですが(実は夕さんと同じで、オッチャン好き)、そろそろ青い子供たちの面倒を見なければ……

あ、でも、いつものような三人称型視点固定ではありませんで、よく見ると、神様視点。
ローマイヤー先生のツイッター(つぶやき)も混じっていますから(^^)
う~ん、自然にやりたいけど、意識してしまう(ぶつぶつ……(..))

追記は、音楽コーナーです。






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【死と乙女】(1) 春・金の卵 

始めはカウンターを設置していなかったのですが、改めて置いた2013/6/18から訪れてくださる方がもうすぐ2000になります。ありがとうございますm(__)m
でも、これは500Hit記念に頂いたリクエスト。
Scribo ergo sumの夕さんから「指揮者が出てくるお話」としていただきました(^^)
夕さん、遅くなってしまってすみません(..)

が、指揮者ネタがあるようなないような、だったので、ある指揮者の若かりし頃、ということにしていただきました。ただ今、ウィーンの音楽院ピアノ科の学生です。
相川慎一。相川真の息子です。2歳の時に父親が亡くなり、5歳でローマのヴォルテラ家(大和竹流が戻っている)に引き取られ、14で日本にいる母親を亡くしています。

彼の音楽のルーツは、一時引き取られていた富山享志・葉子夫婦(真の従妹と親友カップル)でしょうか。
その享志が登場する短編はこちら→8月の転校生
葉子が東京音楽大学のピアノ科を卒業して、ピアノの先生をしています。
母親代わりの人の膝の上でピアノを聞いていたのがルーツですね。
ヴォルテラ家に来てからは本格的に教師がついています。結構規格外の教師ばかりですが。
ちなみに、ジョルジョ・ヴォルテラ、ピアノが弾ける人です。
そして、父親の真は津軽/三味線を弾いていました。祖母が民謡歌手なので、主に唄付け(伴奏)ですが。
慎一の中で邦楽が意味を持つのはもう少し先のようです。

ローマで育ての親と精神的葛藤がものすごく、そしてまたある事件をきっかけに精神に障害(簡単に言うとPTSD)を持つようになった彼は、しばらくイタリア北部の子どものためのサナトリウムに入所しておりました。
その後ようやく落ち着いて、ひとりで生きていくことを決め、ウィーンにやって来たというわけです。
多分、心はローマに残ったまま。

さて、18禁シーンは出てきませんが、匂わせるシーンは出てきます。
相手については、今はまだ深く突っ込まないでください。
この子、本当に頼りないんです。あの人が、かなり過保護に育てていますから……世間知らずと言うのか。

では、around 2000(millennium)の物語です。お楽しみください(*^_^*)
全何回か? 多分、7回くらい? B5ノートに31ページで、今回4ページ分です。
大幅に加筆・修正していますので、少し長くなるかも。
参考までに、友人同士で作っていたコピー誌でこの原案を連載していたのは1986年でした。びっくり。
当時のほうが、クラシック音楽のことはよく知っていたと思います。
だから加筆しているうちになんちゃってクラシック・なんちゃってウィーンになると思うのですが、見逃してやってください。じゃなくて、ご指摘・ご指導くださいm(__)m
思えば、カラヤンが最後に来日した演奏会を聞きに行ったのもあの頃……
(地球か、何もかもみな、懐かしい……の気分^^;)

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「君にとってはあれが金のタマゴだというわけだ」
 背の高い灰茶色の髪の男が、ノイブルガーのグラスを傾けながら、皮肉とはっきりと分かる口調で言った。ロッキングチェアの上にクッションを背もたれにして、深く腰掛けて静かに揺らせている。目は青みがかった濃い灰色で、どちらかというと黒くも見える。幾分かウェーヴした髪は、いつもなら手入れが行き届いていないのだが、必要な時には短く切り揃えられて整えられる。彼にとって、今日はその必要な時だった。

 人を寄せ付けない男だと言われているが、決して人嫌いではない。ただ面倒なのだ。自堕落に暮らすにはプライドが高すぎるし、仙人になるには好奇心も強く、切れる頭を持っていて聡明でもある。何かに対して才能があるというわけではなかったが、金と財産だけは彼の手に余るほどだった。

 彼が書斎に人を入れるのは珍しい。
 いや、今日の場合は彼に選択肢はなかった。何故なら目の前にいる女は、彼の習性を知っていて、始めから遠慮をする気などなかったのだから。
「タマゴですって? あれは立派な雄鶏よ」

 腰まである長いハシバミ色の髪を、今日は結いもせずに流したその女は、向かいのソファに腰かけて足を組んでいる。少し痩せ過ぎなことと、髪と同じ色の目がきついところを除けば、申し分のない美女だった。
「で、今さらテオドール・ニーチェについて何を書けというんだ? 申し分ない! 素晴らしい! 最高級のサラブレッド! 半世紀に一度の逸材! 聴けば分かる。それを否定はしない」
「気に入らないのね、そのサラブレッドが」
「気に入らない? 恥ずかしながらこの歳になって、あんな若造のピアノに泣かされたことすらある。だが、まぁ、そうかもしれん。気に入らないんだ。彼は完璧だ。人間業とは思えない」

 女はソファから身を乗り出した。
「その完璧な若造のロマンスなんていかが?」
 男は顔をしかめた。ノイブルガーの最後の一口を飲み切ると、サイドテーブルにとんとグラスを置く。
 音楽家の私生活など真っ平だ。どうせろくなものではない。音楽が良ければいい。
 ずっとそう思ってきた。

「パリのコンセルヴァトワールのブレヴァル教授の娘を知っているでしょ。去年のショパン・コンクールでニーチェと一位を争った娘よ。あら、そう言えば、いつも辛辣なあなたが珍しく感傷的な評を書いていたわね。ピアノから零れ落ちた音に指で触れることができるような、まさに絹のようなピアニシモ、だったかしら? ニーチェを追いかけてこっちの音楽院に編入してきたくらいだから、相当ご執心よ。よく父親が許したことね」

 女は昔から、彼の書いた評の言葉を覚えていた。時には一字一句暗誦し、ダメ出しをする。編集者だから当然のことかもしれないが、周囲の者は彼女がこの男に執心していると思っていたようだ。そして、それは嘘ではなかったし、二人には蜜月の時もあった。
 もっとも、男の方は今の女の気持ちには敏感であるとは言い難かった。

「君の欠点は想像力が豊かすぎることだ。アネット・ブレヴァルがテオドール・ニーチェのピアノに心奪われたとして、何が悪い? テクニックのひとつも盗み出したくなるほどに、テオドールの音が素晴らしいということだろう」
「私の想像にはいつも根拠があるのよ。あの娘の目は音楽だけじゃない、雄鶏そのものを求めている。ねぇ、しばらくニーチェを追いかけてみない? あの鉄壁の心が動くとしたら、実に興味深いわ」
「いつから三文雑誌の編集者に成り下がったんだ?」

「とんでもない言い種ね、ヴィクトル。恋愛が藝術にどれほどの効果をもたらすかということよ。伝統的な古典音楽の大作曲家や演奏家にも、今までさんざんスキャンダルがあったじゃない。それがコマーシャルになって売れる。売れて初めて多くの人間の耳に届く。もしかしたらクラシックになんか興味のない者も、レコードやCDの一枚でも手に取ってみようって気になるかもしれない。ニーチェもアネットもルックスはそんなに悪くないし、売り出し方によってはビッグなカップル、そしてビッグなビジネスになるわよ。ニーチェが実力のある演奏家だということは認めるわ。でもそれだけじゃダメ。あなただって、何だかんだと言いながら興味があるでしょう」

「そりゃあ、まぁな」
 男はまだ何か口の中に言いたいことをためていたようだが、珍しくその辛辣な口を閉じてしまった。女はそれを見て立ち上がる。
 背も高い。やや面長で鼻筋の通ったゲルマン人美女らしい顔が、立ち上がった時により映える。
「さて、そろそろ行かなくちゃ。あなたの気が進まない理由は知ってるわ。あなたの大事なもう一つの金のタマゴが黙っていないと思うからなんでしょう」
「何の話だ?」

 女がまだ帰る気がないことは、男には分かっている。男は煙草を引き抜いた。引き抜きながら、ちらりと部屋の片隅の柱時計を見る。
「また時計を気にしているわね」
「お前が俺の昼食を取り上げた」
 本当なら、今頃は彼のポンコツ車でグスタフの店に着いているはずだった。男の少ない交友関係の中で、美味いステーキを食べさせてくれるのはグスタフしかいない。

「ヴィクトル、あなたは昔はうちの新聞社の音楽欄担当者に過ぎなかったけれど、今は違うわ。署名入りの評を、どの新聞にも雑誌にも高い値で売りつけることができる身分なのよ。そのあなたが若い音楽院生を囲っている、そっちのほうがよほどスキャンダラスだと思う人間もいるのよ。ものになるかどうかわからないうちから著名な評論家に身売りしている、そういう噂もないわけじゃなくてよ。彼の将来を心配するなら少し考えた方がいいわ」

「だったら、どこかで別の評論家を雇って書かせたらいい」
 珍しく男が荒々しい言葉を吐き出したので、女が驚いたような顔をした。男は軽く舌打ちをした。
「言わせておくがいいさ。あいつはニーチェのように立派な雄鶏になるタイプじゃない。だが、お前にも少しは耳があるんだろう? 今年の特待生試験でも覗きに来るといい。今年はブレヴァルと彼の一騎打ちになるだろうからな」
「随分な入れ込みようね、ヴィクトル。まぁ、私が口出しをすることじゃないし、お好きなように。人嫌いのあなたがそんなに惚れ込むのには訳があるのでしょうけれど、感心できないわね。昼食を取り上げてごめんなさいね」

 女は気位が高く見下ろすような、それでいて優雅な態度で暇を告げた。男は女を玄関まで見送ることもしなかったし、女の方もそれに慣れていた。
 女が出ていくと、男はやっと一息ついて、剃りたての首の後ろを無造作にかいて、それからようやくロッキングチェアから降りると、煙草を消した。
「テオドール・ニーチェのロマンスねぇ」

 世間は退屈している。音楽界も同じだ。いつもチヤホヤする、もしくは叩きのめす対象を求めている。
 男は昨夜書き上げたテオドール・ニーチェのミニコンサートに対する評論の原稿を取り上げた。今見てみると、昨夜の興奮に乗じた拙い文章に思えて、破いてしまった。

 そうだ、彼女は大事な点を見過ごしいてる。
 いくら天才とは言え、簡単にはあんな音は出せない。あの表現力は天性の才能や練習だけから来るものではない。ニーチェはもうずっと前から、苦しい恋をしている。
 だが、誰に? 少なくともそれはブレヴァル教授の娘ではない。
 追求してみたいという好奇心もないわけではない。
 だが、今男の心を占めていたのはニーチェではなかった。
 男は探偵を雇っていた。こんなことはまるで初めてだった。


 ヴィクトル・ベルナールはフランス人だが、伯父がオーストリア貴族の女性と結婚したが一人息子を亡くし、紆余曲折の後、養子に迎え入れられた。従って今の正式な名前はヴィクトール・ベッケンバウアーだが、評論を書くときは元の名前を使っている。
 伯父は亡くなったが、気難しい未亡人の相手をする者は他に誰もなく、今はヴィクトルだけが夫人との会話が可能な人間だった。もっとも、夫人は普段ザルツブルグの領地に一人で住んでいて、特に寂しいわけでもないらしく、下手にご機嫌伺いにでも行こうものならかえって機嫌を損ねるので、つかず離れずで距離を保ちながら生活している。

 ベッケンバウアー家はザルツカンマーグートの湖の近くに古くからの領地を持ち、遊覧船とホテルを所有し、他にもいくつかの湖に遊覧船を浮かべていて、何もせずに遊び歩いていても、一生を数度は繰り返すに足るだけの財産があった。未亡人も、養子にあれこれと事業に口を出されるよりは、優秀な雇い人達に経営を任せることを好んだので、ヴィクトルは結婚もせず、適度に財産を食いつぶして浮世を楽しんでいる。
 おそらく堅気の世人の覚えはめでたくないのだろうが、一種の風流人の間では彼の生活は粋で当世風で気が利いていると思われているらしい。本人は何にも頓着していない。

 ヴィクトルがサンルームに降りて行ったとき、彼の『金のタマゴ』である相川慎一はまだ書庫の中でベートーヴェンにかじりついていた。
「Guten tag. ご機嫌はいかがですか?」
 サンルームから梯子の下の書庫にいる慎一に話しかけても、何の反応もない。

 朝早くからここに閉じこもって、どこかこの世ではない楽園を彷徨っているような、紅潮しふわふわと浮いたような表情で本を読みふけっていた。もう何度も読んだ本もあるだろうに、子どもが小さい頃に読んだお伽噺を大事に温めるように、繰り返し繰り返し想いを過去へ、未来へ運んでいる。
「シンイチ、三時だぞ。昼食にしては遅いが、食べに出よう。……おい、生きているのか?」
「……」

 伯父は無類の音楽好きだったが、耳が良かったというわけではない。本人も分かっていて、そのことでコンプレックスを抱いていたのか、ヴィクトルの耳を頼りに、知識だけは他人に引けを取るまいとかき集めたのがこの本の山だった。偉大な、あるいは知られていない音楽家の伝記や手記の類は、ここに見当たらないものはないほどで、音楽院の図書館にも負けていない。時には講師たちがここに本を借りに来る。古いスコアも同じだった。

 書庫は半地下になっていたが、梯子を上るとそのままサンルームに続いている。書庫へ降りる扉が床で開いたままになっているので、サンルームにあふれた余韻が梯子の下にまで零れていた。その光の中に座って梯子に凭れたまま、慎一はまだ夢の中に彷徨っている。
 この世ではない夢幻の世界を描き出しているのは、彼自身だということにも全く気が付いていない。

 そこから連れ出すのは野暮だろうが、朝食も抜いているのを知っていたので、放っても置けない。梯子を上から叩いてやると、慎一はやっと顔を上げてヴィクトルを見た。
「戻ってからまた読めばいい」
「……あ、うん。今、何時?」
「三時」
「もうお昼、食べたの?」
「まだだ。俺も客が来ていてね」

 慎一はようやく名残惜しそうに本を閉じ、ちょっとふらつきながら立ち上がり、書棚に本を戻しに行った。
 全く、梯子を上る時間も惜しいほど本にのめり込めるなんぞ、頭の構造はどうなっているんだ。ヴィクトルは一旦視界から消えた慎一が梯子の下に戻ってくると、まだ足元がふらついている彼を助けて引き上げてやった。
「お客さんって、誰?」
「ユーディット・マンハイム」
「ユング社の人?」
「あぁ。ほら、行くぞ。上着は?」
「えっと……」
 少しサンルームを見回してから、困ったような顔をする。無邪気というにはあまりに無自覚の、残酷で罪のない横顔だった。
 生活という意味においてはヴィクトル自身もかなり落伍者だという自覚はあるが、この子はそれを上回る。

 もう一つの金のタマゴだと? こいつは金のタマゴから出てきた醜いあひるの子だ。卵から孵っても誰も気が付かないだろうし、自分が黄金の白鳥になって、湖に映る自分の姿を見た後でも気が付かない可能性がある。
 だが、もう一羽の黄金の白鳥は既に仲間を嗅ぎつけただろう。テオドール・ニーチェはそういう点でも他の連中とは違っている。こ憎たらしい話だ。

「走って来たんだ。だから持ってこなかったかも」
 土曜日の朝、慎一はいつもウィーンの街中の下宿からヴィクトルの住む郊外のこの屋敷まで走ってくる。敷地に入る抜け道を教えてあるので、誰に断ることもなく入ってきて、勝手に書庫に籠っている。この屋敷に住みこんでいる古くからの使用人夫婦は、主人に言われるまま、土曜日の早朝には書庫に一番近い勝手口の扉の鍵を開けておいてくれるのだ。
 無表情で愛想の悪い老夫婦だが、慎一には奇妙に優しい。

 ヴィクトルは彼らに慎一のための上着を持ってこさせた。さすがに慎一にはかなり大きいが、ないよりはいい。春とは言え、夕方には風が冷たくなるだろう。
「この間のテオドールのミニコンサートの評の話?」
 慎一は自分には大きい上着の裾に手が半分以上隠れてしまうのをちょっとだけ気にするようなしぐさをして、すぐに諦めた。そのまま歩き始めたヴィクトルを追いかけてきて、横から見上げて問う。

 全く、この残酷な無邪気さはどうだ。頼りなく儚く見えて、つい手を差し伸ばしてしまう。だが、その内側にある強靭な竹のようなしなりは、いつもヴィクトルの胸を締め付けた。

 華奢な体で、肩も首筋も、もうすぐ十八だというのにまだ成長期の途中なのではないかと思わせる。短く切った髪は黒いが、目は微かに明るい碧のような色合いだった。しかし、本人は純粋な日本人だという。美少年という言葉はあまり適当ではないが、惹きつけられるような何かを、その目の内側に持っている。
 何かの拍子に口から出る言葉がイタリア語である理由は、まだ本人の口から直接は聞いていない。
 一体どこの誰がこんな間の抜けた子どもに育てたんだ。親の顔が見てみたい。

 そう心のうちで悪態をついてから、ヴィクトルは零れそうになった溜息を飲み込んだ。
 その謎を今、解こうとしている。何か禁断のものに手を触れようとしているような、そんな緊張感があった。
 それでも、音楽の話だけは別だ。もっと技量の劣った学生でもこの子の数倍、いやあるいは十倍、ライバル意識を持ち合わせているだろう。向上心や功名心は、この世界で生き残っていくためにはある程度必要だった。

 もっとも、本人に言わせると「ものすごく意識している」という。でも彼は本当にすごいんだから、どうしようもないよ、とこれもまた例の間の抜けた調子で言うのだから、ヴィクトルにはライバル心を煽る糸口が見当たらない。
 心酔する気持ちも分からなくはないのだが。
 だが、どうあれ、この世界で生き残らせたい。それはヴィクトルの野心でもあった。

「春だね。さっきサンルームから覗いたら、庭の奥の水仙がもう咲き始めてた」
 そう言ってから、慎一はちらっとヴィクトルを見上げる。
「ねぇ、ヴィクトル、何か怒ってる? ランチタイムに間に合わなかったから?」
「お前ね、もう少し意識したら?」
「何を?」
 玄関を出て、車庫のシャッターを開ける。ポンコツだがよく走る青いビートルが、何だか嬉しそうに見える。
「仮にも同い年でマエストロ級の扱いを受けようという奴もいるんだぞ」
「だって、器が違うよ」

 これだからな。説得しても仕方がない。
 あ~、いらいらする。
 ヴィクトルは頭をかいて、ワーゲンの扉を開けた。
 ユーディットの話も話だし、こっちはこっちで一向に功名心がない。かといって、お前には功名心がないのかと聞くと、本人はそれは僕にもあるよと言う。全く堂々巡りだ。

「せめてコンクールのひとつにも出てみないか?」
 エンジンをかけながら、ちらりと助手席を見ると、慎一はまっすぐ前を見たままだった。
 とても自分など、と思っているのか。いや、その真剣な横顔には、時々光が射す。自分の才能への自負心と恐怖心が拮抗して、一種の麻痺状態に陥っているのかもしれない。

 こいつの音楽には一種独特の響きがあるのだ。あの響きを、どこかにぶつけさせたい。
「そうだね」
 だが、帰ってきたのは、いつものように曖昧な返事だった。

 車が領地を出るまで、しばらくは若草が風に薙いでいるのが見えている。慎一は窓を開けて目を閉じ、草の匂いを嗅いでいるようだった。
「特待生試験が終わったら、そろそろ考えてみるんだな」
「……うん」
 車が石畳の道に入ってからは、時々不用意に跳ねるので、喋ると舌を噛みそうになる。二人ともその後はずっと黙っていた。街が近づくと、ヴィクトルは大きく肩で息をついた。

 初めてヴィクトルの屋敷にやって来たあの夜から、慎一はある一部分を彼に所有させながらも、その内なる光をどこへも吐き出さないまま、静かに身体の奥深くで灯し続け、ヴィクトルにもその光が見えないように背中を向けて、覆い隠しているような気がした。


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 あの日、古いホイリゲのアップライトピアノを弾いていた、まだあどけないような少年の背中を思い出すと、ヴィクトルは今でも抱きしめたくなる。

 観光客用にヨハン・シュトラウスの曲をアレンジして弾いているのを聴いた時には、酒場で聞くにしては上手いと思っただけだった。そして、いくつかポップな曲をリクエストに応じて弾いていた時、子どもがどうしてこんなところで小銭を稼がなくてはならないのだろうと思った。

 ホイリゲの主人はにやにやするばかりだった。音楽院のピアノ科の学生だというのを聞いて、感心できないと思った。こんな酒場でピアノを弾く必要がどこにある? そんな暇があるなら、家でしっかりと基礎のトレーニングをしたらいいと言ってやったが、主人は、そんな金持ちの学生ばかりじゃないさと言った。

 苦学生か。言葉の響きはいいが、この世界にはレッドカーペットがある。舞台に上がる前にそのカーペットに触れることもできない人間の方が多い。こんな酒場でピアノとホールのバイトをしているような子どもには到底届かない世界だろう。

 同じようなことを思う人間がいたらしく、どう見ても上品で気取った、そして意地悪な客がリクエストを申し込んできた。子どもに、自分の実力を思い知り、さっさと尻尾を巻いて国に帰るように促すつもりのようだった。
 主人はやはりにやにやするばかりだった。少年はちょっと困ったような顔をした。リクエストをした紳士は鷹揚に笑っていた。

 その時聴いたベートーヴェン『熱情』の第三楽章を、ヴィクトルは今でも耳の中に残している。

 彼が困ったような顔をしたのは、その曲がこの場所に相応しいとは思わなかったからなのかもしれない。リクエストをした紳士の表情がみるみる変わっていった。
 だが彼は紳士だった。少年に余るほどのチップを渡し、腕を優しく叩き、君は将来をきちんと考えるべきだ、と告げた。少年はまた困った顔をした。

 どうだい。俺が見つけた金のタマゴだ。
 ホイリゲの主人はアップライトピアノをグランドに変えるつもりなのだと言った。彼には音楽の都に住む者として、未来の音楽家を発掘し支援するという自負心があった。

 あれからヴィクトルはそのホイリゲに何度も通った。
 少年は時には子守唄のような優しい曲を奏でた。ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』、パッヘルベルの『カノン』、シューベルトの『セレナーデ』のピアノアレンジなどは女性に幾度もリクエストを受けていた。
 彼が弾くリストの『ラ・カンパネラ』はヴィクトルの好みだった。ヴィクトルは、技術を鍵盤に叩きつけるように連打する弾き方を好きではなかった。少年の指はまるで鐘は鐘でも、釣鐘草を思わせるように撫でるように優しく鍵盤の上を駆け巡り、しかし魂の底の方で確かに響き残る鐘の音を聴くものに感じさせた。

 だが、忘れられなかったのはあの『熱情』だった。
 あのベートーヴェンはどこかで聴いたことがある。苦しく辛く重く絶望的でいて、奥深くに希望と信念と、今にも迸り出ようとする、まさしくパッションが潜んでいた。こんな子どもになぜ、あの『死』と『生』の狭間のような音が出せるのだろう。

 二度目に彼があの音を聴かせたのは、店が跳ねた後、誰に聞かせるともなく弾いていた『テンペスト』のやはり第三楽章だった。ヴィクトルはたまらなくなって声を掛けた。

 少年は言葉が不自由なのかと思うほど、喋らなかった。後で、ドイツ語はちゃんと聞き取れるのだが、この国に来るまであまり喋る機会がなかったので、自分から言葉を紡ぐことに躊躇があるのだと分かった。
 その時はまだ、ヴィクトルは彼のルーツが日本だと思っていた。

 だが、何を聞いても彼は日本のことはほとんど知らなかった。日本語を話せないわけではないようだが、一度日本人観光客に話しかけられて困ったような顔をしているところを見かけた。
 反対に、自分から話しかけるのではないが、イタリア人観光客とは滑らかに、リラックスして会話を楽しんでいた。
 とは言え、いずれにしても言葉に想いを乗せるのが得意な人間ではないようだった。

 語らない分だけ、ピアノが語る。
 引き込まれた人間を決して離さない、深い湖が、彼の内側にあった。
 そしてその夜、ヴィクトルは彼を手に入れ、そしてさらに踏み込めない深みがあることを思い知らされた。





さて、夕さんの物語のようにヨーロッパの香り漂う物語になりますかどうか。
(ちょっと難しいかな……)多少は大目に見てくださいませ。

途中の写真のピアノはうちのYAMAHAです。
本当はBösendorferであるべきなんでしょうけれど。

ところで、次のキリ番は2222です。
それまでには終わりたいです^^;
無理かなぁ…(無理そう…^^;)

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NEWS 2013/8/16 喫煙シーン 

まだ観に行っていませんが宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』……
戦争に関わる題材で、戦争を肯定しているんじゃないかとか、あれこれ批判もあるようですが、監督はあらゆることに対して是も非もなく、ただそこにあるものとして描く姿勢を崩されていないようですね。

そのひとつが喫煙シーンだそうで。
観ていないので又聞きですが、肺結核を患うヒロインの傍で主人公が煙草を吸うなど、喫煙シーンがずいぶん出てきて、物議を醸しているようです。禁煙学会からはクレームもあったり、またそれに批判があったり。
肺結核は当時、死に至る病で、そんな病人の前で煙草を吸うなど…そしてそのヒロインのほうも「ここで吸ってください」などと言うなど、今の時代あり得ない、と言うわけです。
何しろハリウッド映画でも、昨今、喫煙シーンはほとんど出てこないらしいですし。
古き良き時代の映画、煙草を葉巻みたいにくわえたボギーのカッコよさなんて、今じゃもう過去の話、なのかな……
ボギー1ボギー2

『風立ちぬ』ですが、一方では、死に至る病や戦争、当時ではどうすることもできない運命を受け入れながら、夢を追いかける話だ、と言う運命論も出てきているようです。そういう時代の運命を生きていた人たちだからこそ、その下地の上に喫煙シーンがある、と。
運命論にしてしまうとちょっと大仰かなぁ…

映画の公開は今の時代ですが、中身は今の時代じゃありませんので、当時の若者の多くが煙草を吸っていたように、その時代を描くなら吸っていて自然のようにも思います。大人の仲間入りの儀式的なイメージもあったし。
煙草は、食事みたいに1日3回吸うと言うようなものでもありませんので、好きな人は四六時中吸っていた。
だから、逆にその時代の若者を書いているのに、皆が時代を先取りして禁煙しているかのように、煙草がまるきり出てこないのも不自然だったりします。

というのも…
今、更新中の【海に落ちる雨】、主人公の真が煙草を吸っているシーンが結構出てきます。
この話、around 1980年なので、喫煙シーン、自然に普通に書いています。
そう、ピンクレディが登場し、ガンダムが放映され、昴や異邦人や恋人よやらが流れ、王選手が引退した、あの頃。

もっとも彼はヘビースモーカーではありませんが、どうやら東京ではやたらと吸っている(都会の空気が不味いのをごまかしている?)。
北海道に帰るとあまり吸っていない(空気が旨いので)。
あ、竹流のマンションでもあまり吸っていない(怒られるから)。
一方、竹流は基本的に吸いません。彼はレストランのオーナーですからね、食べ物の味が分からなくなるのはあり得ないというだけのことです。修復師としても、万が一にも火事を出さないように。

物語のその時代には当たり前と思えることや物を描いても、公開されるのが現在なら、現在の考え方により批判も受けてしまうのかぁ、と『風立ちぬ』の喫煙論争でちょっとびっくりした次第です。

ちなみに、今や禁煙は大ブームですね(ブームと言ったら怒られそうですが)。
百害あって一利なし、とまでは言いませんが、それに近い。
病院はほとんど敷地内禁煙(そして敷地外に出て吸っている姿がかえって問題、いっそ喫煙コーナーをちゃんと作ったほうがいいのにとか思う)、医者(特に循環器科の医者)で喫煙者は某学会から追い出されかねない勢い。
私も、隣で吸われると苦しいし、その人の健康を考えても、禁煙・非煙は歓迎ではありますが、喫煙者の権利もちょっとは認めてあげたい気もして、周囲に迷惑をかけずに(特に子どもに)、マナーさえ守ってくれたらそれでいいと思ったりします。

喫煙シーン、書きにくくなったな……
ま、多分、書くと思いますけれど^^;

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ボギーの話題が出たので、私の宝物の、ふる~い映画のパンフレット。
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『麗しのサブリナ』(オードリー・ヘップバーン、ハンフリー・ボガード、ウィリアム・ホールデン)のパンフレットの中。
実は、真シリーズの最終話?、ヴォルテラと相川の家系がついに結ばれる世代の話は、まさにこれが下地になっています。

Category: 小説・バトン

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NEWS 2013/8/14 世界の文字 

今日は、うちの本棚から一冊の本をご紹介。
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時々、ページをめくるだけで何となく楽しくなる本ってありますよね。
これはまさにそのような1冊。絵本のようでいて、結構アカデミックで、でも眺めるだけで楽しいという。

世界には5000-6000種類の文字があると言います。
それをある程度系統づけて紹介しようという本。もちろん、それでもすべてが網羅されるわけではありませんが、その種類の多さに圧倒されます。
ここでは、絵文字(シュメール、マヤなど)、エジプト文字(ヒエログリフ)、楔形文字、エーゲ海地方の古代文字(クレタ、キプロス)、西セム文字とその系統(ヘブライ、シナイなど)、アラビア文字、アルファベット(ギリシャ、ローマなど)、インド系文字、漢字、どうしても分類できない文字、などに分類されています。ついでに音符や点字、モールス信号まで挙げてあります。
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写真が暗くてごめんなさい。
マヤの文字。これを見ると、噂のマヤのカレンダーを思い出しますね。
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言わずと知れたヒエログリフ。
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この、鳥が魚かミミズか、足元を探している図→「見つける」とか、魚を取ったところ→「捕える」とか、同じ鳥を3つ並べて→「霊魂、化身」ってのが、うーん、なるほど、なんですけれど。
分身の術?
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これはアラビア文字。そう言えば、アラビア文字って、書道があるのですよね。確かになかなか芸術的な文字ではありますものね。夜中に時々アラビア語講座を見るのですが(全然わからないけど^^;)、そこに「キターバの迷宮」というコーナーがあって、書き方(綴り方)を教えてくれるんですね。
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こちらはカンボジア文字。このあたりの国々、隣の国と似たような似ていないような、独特の文字ですね。
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そして分類できないコーナーに入れられているイヌイット文字とかヴァイ文字とか…見たことのない文字。
ごく少数の隔離された民族が使っていた文字のようですが、もう使う人が減ってきて、やはりアルファベットを使うようになったりしているのだとか。

大好きなトンパ文字がないのは残念ですが、これだけの文字の数々、本当にめくっているだけで楽しい本です。
そう言えば、トンパ文字も最近はあれこれ芸術的な用途があるようで、ハンコにしてみたり、名刺に使ってみたり。お茶の宣伝で使われていた「喜ぶ」(人が飛び上がっている図)など、実に楽しそうだけど……
書くのが大変かも。

面白いのは、これだけの数の文字を色んな民族が使う中で、文字を持たない民族/文明があった/あること。
言葉はもちろんあるのだけれど、表記する文字がない。
ケルト、アイヌ、インディアン、アフリカのいくつかの民族、などなど。
国際社会の中で生きていかなければならなくなると、何らかの形で表記文字を選んでいるようですが……
そういった民族や文明は、伝承や口承によって「教え」を伝えてきているのですね。

文字で書かれたものを扱えると、多くの知識をストックしておくことができる。
古代において、アレキサンドリアの図書館が叡智の集結する場所であったように、人間の頭の外に空間を借りて、知識を集めて置いておく。コンピューターも、携帯/スマホも、人間の脳が覚えきれないことを覚えておいてくれる。
でも、使うのは人間ですから、そのページをめくらなければ、その叡智にたどり着くことはできない。

しかも、こうして過去から伝えられてきた文字を、コンピューターで打ち込むようになって、漢字も忘れていくし、国際社会になってアルファベットが最も有力な統一された文字になっていって、特に少数民族の文字は失われていくし。

逆に文字のない文明。
口承ではそれほど多くのことは覚えていられないかもしれない。
でも、本当に大切なことは、繰り返し繰り返し、世代を超えて伝えられていく。
人として本当に守らなければならないことや、知っておかなければならないことは、案外少ないのかもしれないと思ってみたりします。

もちろん、現代社会で生きていくためには、覚えきれないルールを扱わなければならないのですけれど……

あれこれ想いを馳せながら、文字を巡る旅、皆さんも出かけてみませんか?
(夏は忙しくて休めないので、旅行に行けないから……空想の世界へGO? ^^;)

Category: 本(ご紹介・感想)

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[雨69] 第13章 街の色(4) 15R 

【海に落ちる雨】第13章最終話です。長いので、2回に分けようと思ったのですが、会話の切り処も上手くないのと、これを読んでくださっている奇特な方は、多分ブチブチ切れるよりいいと思ってくださるだろうと勝手に思って、ワンシーンですので、一気にアップしています。
特別ものすごいシーンがあるわけではありませんが、さすがに中学生はダメかな、と思うので、
15R でお願いします。

真と、竹流の仲間であるゲイバーのママ(もちろん男性)・葛城昇の対戦? 竹流の仲間のうちではまだ真に好意的な彼ですが、感情は複雑です。でもこの物語で、最後まで絡みます。ちなみに、この次作になる【雪原の星月夜】ではのっけから冷戦です。
私の話の中では、珍しく妖艶な男性。BL風なものを書いても、大体男はみんな骨太になるのですが、この人は例外だなぁ。





「お帰り。無事だったか」
 葛城昇はカウンターの客にグラスを差し出しながら、少しばかり感情のこもった声で言った。
 もちろん、真に対しての感情ではないはずだ。
 その声に刺激されたのか、カウンターの客がグラスを受け取り、そのまま昇の手を握った。昇は窘めるような笑いを浮かべて、その客の手を握り返した。

 昇の店『葵』の八つあるカウンター席には、カップルが二組と昇の手を握った男がひとりで座っていた。
 後ろのテーブル席は全ては見通せないようになっているので、奥の方は分からないが、気配からはほとんど埋まっているようだった。
 相変わらず羽振りのいい店だ。

 男と言えばそうだが、女性的なところがあるといえばそのようにも見える、中性的なムードを持つ昇は、それはそれで魅力的に見えた。
 だが、少し付き合ってみれば、この男の本当の魅力が、外見の問題ではないことが直ぐに分かる。

 ベッドの上では相手に合わせて何でも言うことをきくのだという。だが、それはビジネスだからだ。一歩そこから出れば、甘えや優しなど欠片も見せない。
 そして、そこから先に、相手が本当に葛城昇に心酔してしまう理由がある。

 どのような話題にも聡明な答えを返し、時には色仕掛けではなく協力者に橋渡しをし、相手のビジネスに花を持たせることなど、昇には朝飯前なのだ。
 だからこそ、昇の一言にほだされて動く大物が、幾らでもいるという噂だった。
 そして、そのすべてを、昇は一部は自分のビジネスとして、そしてあとの半分以上は大和竹流のためにやっている。

 真がカウンターに近づくと、昇は、店が更けるまでもう少し待つように言って、真に上の部屋の鍵を一つくれた。勧められるまま、真は鍵を受け取り、二階の部屋の一つに入った。
 小さな密室だ。窓はきっちりと閉められ、はめ込まれたような大きなベッドと、小さなテーブルと向かい合った一人掛けのソファが二つ、そしてシャワー室とトイレというシンプルな部屋だった。
 用途は言うまでもないが、ここを使えるということだけでも、客にとってはステイタスでもあるらしい。

 真は上着を脱いでソファに放り出し、そのままベッドに倒れこんだ。
 不意に、どっと疲れが湧き出したような気がした。

 添島刑事の言うとおり、葛城昇にとっても真は面白くない存在だろう。誰も、味方になんかならない。
 その通りだと思った。

 暫くするとドアがノックされて、店の男の子がソルティドッグを運んできた。
 ありがたく受けとって、真は小さなアクリルのテーブルにグラスを置き、改めてソファに座った。薄く黄金に染まる液体が、氷が乱反射する光で揺れていた。

 俺は女でもないし、竹流の女たちと同じような扱いはされたくもない。
 そう思いながらも、自分の気持ちが女のようかもしれないと思うと、嫌な気分だった。

 ソファの背にかけた上着のポケットを探ったが、煙草は入っていなかった。仕方がないので、下の店に降りていくと、不意にカウンターの一番端に座っているカップルが、キスを交わしているのが目に入った。
 濃厚なキスだった。
 昇はそれは見ぬふりをして、自分の手元の煙草に火をつけている。

 真に気が付くと、昇は目でちらりとキスを交わすカップルの様子を見て、それから真に聞いた。
「どうした」
「いや、煙草を」

 カウンターの端のカップルは、二人ともが明らかに鍛えていると分かる逞しい身体つきの男だった。
 彼らは一瞬真のほうを見たが、意に介さぬふうでそのまま互いの大腿や胸を弄りながらキスを続けていた。暗い照明の下で、男たちの厚い舌が、そのものが意思を持つ生き物のようにぬめり、お互いに吸い付きあっている。

 昇は棚からショートホープの箱をひとつ取って、真のほうに投げて寄越した。
 偶然ではなく、真が吸っている煙草を知っているのだ。

 二階の部屋に戻ると、ソファに座ってライターで煙草に火をつけ、やっとゆっくり吸い込んだ。
 男女が絡み合っている姿も、それがビデオであっても、何となく見ていられない気がする。ましてや、自分が誰かと抱き合っているところなど、本来なら他人に見られたいとは思わない。
 だが、世の中には色んな人間がいる。男同士で抱き合い、それを他人に見られても何とも思わない、どころか、それを楽しむカップルもいるわけだ。

 そんなことができたら、人生はもう少し気楽かもしれない。
 真は煙草を一本ゆっくりと吸って、ソルティドッグのグラスの縁の塩を舐め、ウォッカのアルコールの成分がはっきり分かる濃い液体を胃に流し込んだ。何も考えないように努めていた。

 アルコールもなくなると、煙草をもう一本吸う気にはなれず、ベッドに寝転んだ。
 添島刑事の声がまだ耳の奥に残っていた。彼女の声はよく通るだけに、いつまでも耳の中で反響する。

 誰かに好かれたいとか嫌われたくないとか、そういうことはできるだけ考えないようにと思ってきたが、竹流に関係のある人間から言われると、それはかなり堪えた。

 竹流が女と抱き合っているところを直接見たことはない。
 真が中学生の頃、あのマンションには竹流のパトロンと思しき複数の女性が通ってきていたし、彼が明らかにその女性たちとセックスをしている痕跡を感じたことはあった。

 あの頃、竹流は情事の後、あのリビングでよく葉巻を吸っていた。その凄絶なほどの男の色気に、ぞくっとしたことも一度や二度ではない。
 ガウンから覗く力強い鎖骨の張りにも、首筋の筋肉にも、見つめてしまったら引き込まれてしまいそうな青灰色の瞳にも、さっきまで女を楽しませていたはずの葉巻を咥えている唇にも、中学生の真は目のやり場がないような気持ちになっていた。

 それを知っていてか知らずか、竹流はたまに真をからかってはふざけてキスをした。女とキスをするときはこうしろと講義をするようだった。基本的に、真の反応を見て楽しんでいるだけだったのだろう。
 だからといって、彼が直接真に女をけしかけたりしたことは一度もない。
 賢二のことはよく連れ廻して、女の口説き方を教えていたと言っていたが、真に対しては一度としてそういうことはなかった。

 何も考えないように、と思うのに、頭の中では色んなものがぐちゃぐちゃになっていた。
 身体は簡単に想像に反応する。
 自分は厭らしい人間だと思うが、その反応を止めるのは難しかった。

 今でもたまに自慰をすることはある。勿論、マンションのベッドの上では難しいので、大概はシャワーを浴びている時か、出張で一人ホテルに泊まっているときで、とは言え実際にはほんのたまのことだ。
 だが考えてみれば、その時自分が考えているのは、たった一人の相手のことだけだ。
 正確には、その相手とのセックスを思い出していたのだ。 

 今まで、そのことを考えたことがなかった。相手のあるセックスではなく、自慰が異常に気持ちがいいと思える場合があるのは、自分にとっての最高のセックスを想像して行うからだと誰かが言っていたような気がした。

 真はベッドの上で跳ね起きて、思わずテーブルの上のホープに手を伸ばした。
 煙草を咥えたまま、ソファに移り、靴を脱いで膝を上げる。身体がすっぽりとソファに納まると、ようやく息がつけるような気がした。

 煙草に火をつけ、一つ吹かして自分の手で頭を抱える。一本吸い切ると、やっと落ち着いて目を閉じた。
 身体の反応はかろうじて踏みとどまっている。

 いくらかうとうとしたのか、人の気配で目を覚ますと、目の前に昇が立っていた。
「ノックしたのに返事がないからさ。大丈夫か?」
 真は頷いた。時計を見ると、店を閉めるには早かった。放っておくわけにはいかないと思ってくれたのかもしれない。店は他の子がやってくれるから大丈夫だ、と昇は言った。 


 昇の南青山のマンションまで、彼のカマロに乗った。
 部屋は3LDKの広々とした造りで、至る所に観葉植物が置かれ、エッチングや水彩画が壁に掛けられていた。真には分からないが、恐らく趣味のいいものなのだろう。

 アクリルのテーブルを取り囲むソファは、意外にも大人しいシナモン色だった。全体にシンプルで嫌みのない部屋で、硬質な印象ではなく柔らかい色合いにまとめられていた。
 片付いているのは、昇が自分で掃除をしているからなのだろうか。観葉植物もきちんと手入れがされている。

 ただ一つ片付かないものであるかのように、テーブルの上に雑誌が投げ出されていた。
 竹流のインタヴュー記事が載った、あのプレデンシャルという雑誌だ。

 表紙には、きっちりと三つ揃いのスーツを着て座っている竹流の腰から上、やや斜め方向からの写真が使われている。
 ギリシャ彫刻から抜け出してきたような均整のとれた体格は、服の上からでもその匂い立つような気配が窺われる。そして、誰一人としてこの雑誌の横を、立ち止まらずに歩き去ることはかなわなかっただろうと思える整った顔つき。
 その中で、彼の表情をただ絵に描かれた美ではなく、現実に存在し、もしかすると手の届くとこにいるのではないかと勘違いさせるほどに魅力的にさせているのは、その目だった。青灰色の語りかけるような目は、それを見るものを、彼が自分のためだけに存在しているような気持ちにさせる。

「心配するな。誰かと一緒には住んでいない」
 昇は気が付いているのかいないのか、極めて抑揚のない声で言いながら、廊下へ戻って行った。
 部屋を見回してみても、確かに他人の気配はない。恋人を部屋に上げることはあるが、一緒に住む相手はいないようだった。

「それでも、俺は、竹流みたいにあんたをベッドに入れてやるわけにはいかないからな。ソファで寝てくれ」
 昇は掛け布団と枕を運んできて、それらをリビングのソファに投げ出した。
「どういう意味です」
 何故突っかかるのか自分でもわからなかった。昇は意味ありげに笑って、ダイニングの方へ行った。

「深い意味はないよ。でも、一緒に寝てるんだろ。あのマンションにベッドが一つしかないのは知ってる」
 昇も、添島刑事と同じなのだ。本当は相川真の存在を認めたくない。
 そう思うとやはり居た堪れない気分になった。

 昇は直ぐにブランディをグラスに注いで持ってきた。突っ立ったままの真に手渡し、自分のためのグラスに口をつけながら、ソファの向かいに座った。
「あいつは、俺のことを子どもだと思っている。それだけだ」

 真は促されてソファに座った。
 昇は、真のその呟きには答えようとはせずに、言った。
「俺たちの利害について考えれば、今のところ見事に一致している。だが、どうもすんなり協力し合えない」
「俺は協力を求めた。断ったのはあんたたちです」

 真の言葉に、昇は何度か頷いた。
「みんな、いきり立ってるからな。俺たちのボスだから、俺たちが助け出す。お前の力など必要ないと思っている。悪気があるわけじゃないが、それだけに余計に始末が悪い」
「誰が助け出すとか、そういう問題じゃないはずだ」
「それはわかってるさ」

 昇はグラスの中を飲み干した。
「ついに、国の親分が出てきたよ」
 真は頷いた。
「知ってます。ビッグ・ジョーがそう言っていた」

 昇は眉を吊り上げた。
「ビッグ・ジョーに会ったのか?」
 真が緊張した顔のまま頷くと、昇はとんと背中をソファに預けた。

「どういうつもりかは知らないけど、絶対に竹流に言うなよ。下手をすると、殺されるぞ。ビッグ・ジョーか、お前かは分からないけれど。あいつの中であの件が片が付いているとは思えないからな」
「あの時」真にはほとんどその出来事の記憶がない。半分は想像で補っている。「仲裁に入ったのはチェザーレ・ヴォルテラだったのですね」

「仲裁? 竹流にとっては、逆らうことなど全く適わない命令だったろうさ。五分五分で引き分けにしてもらえたなどと思ってもいない。あいつは誰が傷つこうが、何が犠牲になろうが、ビッグ・ジョーとその組織を徹底的にぶっ潰すつもりだったんだ。それを天から伸びてきた手で、突然に阻止されたんだよ。俺たちが何を言っても全く聞く耳のなかったあいつが、急に沈黙した」

 真には返事のしようもなかった。昇は、しばらく、真にもわかるほどにはっきりと、雑誌の表紙で微笑む竹流の顔を見ていた。
 複雑な感情が昇の表情の上で揺れていた。

「お遊びは終わりだ、そう言われる日がついに来たのかもな。考えてみれば、今誰があいつをさらっていってるにしても、いつか帰ってくるかもしれないが、国の親分があいつを連れて行ったら、もう二度と返してはくれないんだろうな。そう考えると、そっちのほうがタチが悪い」
 真は返事をせずに、雑誌からは目を逸らして、グラスの中身を一気に空けた。

「お前が言ってた絵の事だが、やっぱりどこにもない。大和邸のアトリエにも、ギャラリーにも。幾つかの隠れ家の倉庫も洗いざらい見たけどな。絵を置いておくとなるとそれなりの環境だろうから、どこでもってわけにはいかないし」
 空のグラスを手の中で転がしながら、真はただ頷いた。

「それから、ウクライナの例のロシア皇帝の縁戚の爺の件だけど、あっちにいる仲間の話では、そんな依頼をした覚えはないと抜かしたらしい。確かに、イコンのことで竹流が訪ねてきて、正当な値段で取引をしたことは認めたらしいけど、日本人に略奪された絵などないと、そう言ってたそうだ」
「嘘を言っている?」
「警察かKGBと間違えられたかもしれない、と言ってたよ」
「だが、向こうは古書や古美術の類の取引は禁止されているはずですよね。イコンのことは認めたと?」
「しっかり握らされたそうだ」
「それは、どう考えればいいんだろう」

 昇は首を横に振った。
「どうかな。爺さんの言うとおり、本当にイコンの取引をしただけなのか、どうしても言えない理由があるのか」
「言えない理由? 革命の時に生き抜いた貴族の末裔が多少の隠匿財産を持っていても、大して問題にはならないのでは」
「多少の古美術品ならな」
「どういう意味です?」

 昇はテーブルの上に置いてあったマルボロを一本、引き抜いた。
「絵そのものの価値じゃなくて、他の、つまり今明らかになると自分たちの首を差し出さなければならないような何かが引っ付いていたら、どうだろうな。まあ、そのうち向こうから何か知らせがあるだろう」

 真はまた空のグラスを揺らせた。食道から胃にかけて、まだブランディの熱さが残っていた。
 俯いたままの真の耳に、確かめるような昇の言葉が続いた。
「俺たちは基本的に泥棒集団だからな。人探しはお前の専門だ」
 真は暫くその言葉の意味を考えてから、顔を上げた。
「俺に協力すると、あんたは仲間に恨まれるんじゃないんですか」

「言ったろう。国の親分が出てきた。ここであの男に先を越されたら、もうあいつは二度と俺たちのところには帰って来ない。お前、それは分かってるんだろうな」
 分かっていた。だが、自分たちの力だけで彼を探し出せるかどうか、確信もなかった。
「それに、本当のところは、そんなことを言ってられない気もしている」
 昇は呟くように、力なく言った。

「お前の言うとおり、どこかに絵があるかもしれない。ウクライナの爺は何か隠しているようだと、向こうの仲間が言っていた。それに、その爺だけじゃない。誰かが絵を欲しがっている。肝心の絵はどこにもないのにな」
 真は黙ったまま昇を見つめていた。昇はマルボロをやっと咥えて火をつけた。

「あいつがどれほどお前を大事にしているのか、俺たちはよく分かっている。だが、お前があいつを大事に思っているかどうか、それが俺たちに伝わらなかった。まあ、今やお前も警察に追われている。その辺じゃ、東道も他の連中もちょっとはお前を信用する気になっているかもしれない」
 昇は一つ、煙草を吹かした。その様子は、男にしては色気のある気配だった。

「寺崎昂司と竹流は、どこか似ているところがあった。考え方や行動の基準、自分自身に課したルールのようなものがさ。仲間内では何となく、普段の生活では極力会わないようにしていたのに、寺崎だけは違っていた。ただ、寺崎が特別な存在だということについては、皆それなりに納得していたと思う」
 昇は細い脚をソファに上げた。そして深く溜息をつく。

「竹流の奴は、誰に対しても、仲間に対しても女に対しても、自分と対等だと示したがる。だが俺たちにとってはやはり彼はボスであり、自分より高い場所にいる特別な存在だ。もっとも、俺はあいつに惚れた弱みってのがあるから、その時点でどうしたって対等というわけじゃないけどさ。その中で寺崎だけが、あいつにとって本当の意味で対等になりうる相手だったのかもしれない。あいつは寺崎には何でも相談していたような気がする。だから、寺崎はあいつの気持ちの本当のところをよく知っていたに違いない。二人はよく一緒に出掛けていたし、もちろん遊びも楽しんだろうけど、何より、竹流は寺崎に、ギャラリーの経営のことは少しずつ任せていこうとしてたんじゃないかと思う。もちろん寺崎の運送会社や裏の逃がし屋稼業も十分うまくやって行けてたんだろうけど、竹流は寺崎を、表の世界で自分の片腕だと宣言しようとしていたような、そんな感じだった。だが、女のことで事態は変わった。竹流がそのことでひどい火傷を負ってからは、皆が寺崎を警戒し始めた。東道のところに情報を落としていくようになったのも、それがきっかけだ」

 昇は、煙草を持たないほうの左手で髪を上げた。綺麗な指だった。
「竹流が消える前、お前を仲間に加えたいと言ったらどうする、と聞かれた」
 真は思わず昇から視線を逸らせた。

 仲間という意味合いは竹流にとって単純なニュアンスだ。自分の弱みを含めて、そしてヴォルテラの事情を含めて、全て竹流が信頼して打ち明ける相手ということだ。竹流の表の稼業だけではない、裏稼業までも含めて、一蓮托生であるということだ。

 一体どうしてそんなことを言いだしたのか、何となく真には思い当たる節があった。
 奈落の底まで、俺に付き合う気があるか。
 返事をし損ねたあの問いが、頭の中に浮かんでいる。

「寺崎の事が頭を翳めた。同じ事を繰り返すのか、と。竹流のやつ、相手がどういう人間でも、その時々には最大限にそいつのために尽くすような人間だ。勝手に手足が動くんだろうよ。感情の内では多分冷めたところがあるんだろうに、行動に出ると自然に熱くなるタイプの人間だからな。それでも、あいつが自分だけじゃなく周りのものを犠牲にしてもいいと思うほど、そのことでどんな罪を負うことになってもいいと思うほど、人間に惚れ込むことは滅多にあることじゃない。それがわかっているから、皆、お前を警戒している。お前に何かあれば、あいつがすることは、俺たちには止め切れない。寺崎の比ではないと分かっている」

「あんたたちのボスだって万能人間じゃない。人を見誤ることもある」
 昇は笑ったように見えた。
「あいつはいつだって人を見誤ってるさ。何だかんだと言って、結局他人を甘く見てるんだ。あれで結局いいとこのお坊ちゃんだからな、最後はみんな自分の味方だと思ってるんだろう。だからこんなことになる」
 真はまだ手の中で弄んでいた空のグラスを握りしめた。

 暫くどちらも黙ったままだった。
 その通りかもしれない。だから女たちは、結局期待しているのだ。あいつは上手くあしらっているようなことを言っていたが、女たちは期待しないわけがない。しかも始末の悪いことに、彼女たちは竹流には刃の先を向けたりはしない。結局恨まれるのはこっちのほうだということだ。

「お前を仲間に加えるのは反対だ。その意見は変わらない。だが、今度の件だけは別だ」
 真はやっと顔を上げた。
「その、寺崎さんの件だけど、彼がどうしても逃げ場が必要な場合、父親を頼ったりはしないでしょうか」

 昇は暫く、真の顔を驚いたように見ていた。
「どういう意味で言ってる?」
「つまり、八方塞りの時の逃げ場として。いくら寺崎さんでも、小さな女の子を連れて隠れ続けることは難しいのでは」
「あそこは絶縁状態のはずだ。そりゃあ、運送屋だけにネットワークはどこにでもあるだろうけど、寺崎が今更あの父親を頼ったりはしないと思うけどな。しかも、小さい女の子を連れて逃げ込むことだけは、絶対にないな。それに大体、寺崎は逃がし屋だ。いくらでも隠れるところを持っていると思うけど」

 真は頷いた。世の中には一体どれほどに父親と相容れない息子たちがいることか。どれほどの危機に直面していても、結局そこだけは頼るまいとしているのか。
 昇は真の反応が鈍すぎると思ったようで、仕方がないな、という顔をして付け足した。

「あの親父は変態だからな」
 そう言えば、ビッグ・ジョーも同じ事を言っていた。
「どういうことです」
「今は関西中心の運送屋だが、昔は北陸から関東を走ってたんだ。場所替えをしたのは昔のことを知っている人間から逃げるためだったとか」

 昇はそう言って、明らかに気分が悪くなるようなものを飲み込んでしまった顔をした。
「運送屋をしながら、いかがわしいフィルムを作ってたんだ。今その趣味はどうなってるのかは知らないけど。つまり、まだ大人にならないような子供や言うことをきかない高慢な男女を性的に苛めたり、拷問したり、死体ぬまで犯ったり、そういうフィルムだよ。警察に捕まっていないだけで、裏世界じゃ、皆、そのことを知っている。そのフィルムのお蔭でどれくらい儲けたかということもな。それに、よく知らないが、自分の子どもまで出演させてたっていうからな」

 真は暫く言葉の意味が飲み込めなかった。
「自分の子どもって」
「寺崎昂司が最初に逃げ出したのは、父親のところからだって、噂だけどな。もっとも、寺崎が仕事を始めたとき、父親はそれなりの協力をしている。いや、協力なのか、寺崎の方から脅し取ったのかは知らないけど」

 気分が悪くなった。もしかして、世の中には『良い父親』などいないのではないかとさえ思えた。
「でも、もしそうなら、その人は寺崎さんが隠れる可能性のある場所を知っているかもしれないのでは。あなたたちが本気で寺崎さんの行方を捜していることについては疑ってません。それなら尚更、あなたたちが思いもよらないようなところに隠れているかもしれない」

「馬鹿言うなって。一体どれくらい絶縁状態になってると思ってるんだ。それに、お前さん、会いに行こうなどと思わないほうがいいぞ。お前みたいなタイプは、子どもじゃなくても危ない。つまり、生意気で言うことをきかないような綺麗な顔をした子どもをお仕置きして泣かせて、最後は何だって言う事を聞くように調教するってのが、その手のビデオの筋書きと決まってる。だから、とにかく、寺崎が小さい子どもを連れて逃げ込むことは、東と西がひっくり返っても、ない」

 真は漸くグラスをテーブルに置いた。昇がそのように断言するのは、昇自身が寺崎昂司のことをよく知っているのからなのか、あるいは竹流が寺崎昂司を信じているからなのかと考えていた。
 昇は、寺崎昂司を、竹流の背中に火傷を負わせた人間として警戒していながら、それでも信頼するボスのために懸命に信じようといているような、少なくとも信じようとしてきた、そんな気がする。

 アクリルのテーブルの上に置かれた雑誌の表紙で、竹流が穏やかに微笑んでいる。
 一体、今頃、どこでどうしているのか。せめてどこかに髪の毛一本でも残していてくれたら。
 その視線の先を昇が見つめている。

「お前さ、そのインタビューを読んで、どう思った?」
 突然尋ねられて、真は上手く反応ができなかった。
「そういう形のパフォーマンスをするような男じゃないのは、お前も知っているだろう? リストランテもトラットリアも十分に成功しているし、今さら宣伝する必要はない。ギャラリーだって同じだ。修復の仕事も順調で、彼の名前はその世界の者なら誰でも知っている。そんなふうに大衆の面前に面を出す必要なんて、仕事のためだったら全くないんだ」

 じゃあ、あんたには分かるのか、と咽喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。喧嘩腰になっても仕方がない。もしかして昇には分かることでも、真には分からない。

 昇はわざとらしくため息をついて、立ち上がりながら聞いた。
「明日からどうする」
「とりあえず、心当たりを捜してみるつもりです」
「まだ心当たりがあるのか」
「あなたが言うとおり、『国の親分』が出てきたからには、悠長な話じゃなくなった。多少不利になっても、結局会わなければならない相手もいます」
 思い出したように丁寧語になる真に、昇はふん、と鼻で笑った。

 昇は仕切りのないダイニングに戻って、棚の上の方に手を伸ばし、両手で箱を下ろした。それを開けて、薬瓶を取り出している。蓋を開けて錠剤を手のひらに受けると、水と一緒に真のところに運んできた。
「お前、ちょっとぐっすり寝たほうがいい。心配するな。入眠剤だから、そんなに長くは効かないが、少しは深く眠れる。俺の言うことは聞いとくほうがいい」

 有無も言わさぬ気配で、昇は真に錠剤二つと水の入ったグラスを手渡した。
 真は暫く考えていたが、それもそうかもしれないと思って、結局飲んだ。確かに眠るのは不安で、ここのところ夢ばかり見て、よく眠れていなかったのも事実だった。
 真が薬を飲んでしまうと、昇が空のグラスを片付けてくれた。

「電気、消すぞ」
 真がソファに横になって掛け布団を引っ張ると、昇が電気を消した。
 暫く、何の気配も感じなかったが、少し眠気に襲われてきたところで、離れたところから昇の声が聞こえてきた。

「お前、何で寝てやらないんだ?」
 真は何を言われたのか分からなくて、目を何とか開けた。薄暗いばかりで、ものの輪郭はよく分からなかった。

「何が、です」
「あいつ、いつでも欲情してるんだって言ってたよ。何でやっちまわないんだと言ってやったら、相手が子どもだからな、と言う。勿論、言い訳だ。あいつはお前が拒否すると思っている。お前から誘ってやれば済む話だ」

 真はもう半分以上、相手の言葉を理解できなかった。
「今日、店でカウンターのカップルのキスを見てて感じたろ? お前、そんな顔してたよ。常識が邪魔するのか? つまり偏見があるのか?」
「女しか抱けないと言ったのは、あいつのほうだ。俺は、あいつが一緒に住もうと言った時、そういうつもりなのかと思って、覚悟してた……」
 でも、あいつは同居してから一度も、俺に手を触れたことはないよ。多分、俺は、どこかで分かってて、いつもあいつを挑発してた。

 後半は声になっていたのかどうかわからなかったし、自分でも本気で言っているのかどうか分からなかった。
「そりゃお前、あの時みたいに、女に入れ揚げて死にかかられちゃ、あいつじゃなくても面倒見なきゃ、って気にはなるさ。お前、あの時は本当に死神に取り憑かれてたよ。その上、事務所の爆破事件だって、お前は自分で自分の感情をどうすることもできないでいた。吐き出してしまえば済むことを、全て抱え込んで、内側に溜め込んでしまう。今でも、三上って男に罪悪感を持っている。お前のせいでもなく責任の取りようもないことについて、自分を追い込んでいる。竹流はお前をそんな場所から救い出したかったんだ。分かってんのか」

 俺は、女に入れ揚げていたわけじゃない。それに、分かっていないのは向こうの方だ。
 説明する義務などないと思った。添島刑事や昇に追い詰められる理由などないはずだった。だがもう頭は朦朧として、思考や言語はままならなかった。


 フロアライトがぼんやりとテーブルの上の雑誌を照らしている。

 そうだ。あれは恋文だ。
 大事な誰かに宛てた、長い別れの手紙。
 もしも個人的に送ったならば、相手は、これまでそうしてきたように、簡単にそれを破棄しただろう。
 だから、彼は手紙を公開した。たった一人の相手に向けて。今度は戯言ではなく、本気なのだと示すために。
 そして、その手紙を受け取った相手は、その意味を知っているからこそ、慌ててここへやって来るのだ。






やっぱり長いなぁ。すみません。
次回からは第14章『連絡を絶っていた男』です。
ついに寺崎昂司氏が登場です。あ、その前に、内閣調査室の男・河本との対戦があった。
真はいつも臨戦状態。彼に平安が訪れるのはいつでしょうか。

なお、この間に、【死と乙女】開始です。真の息子、慎一のお話。
夕さんリクエストにお応えして、お送りいたします。某指揮者の若かりし日。
次のぞろ目は2222……それまでには終わりたい!

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/8/12 なぜそこにお化け屋敷 

以前、どこかで書きましたが、ホラーとお化け屋敷が嫌いです。
昔、比叡山のお化け屋敷でお化けに追いかけられたことがあります。
突然出てくるのが嫌です。

昨日、名古屋からの帰り、神戸に戻って電車に乗っていたら、吊広告から視線が……
はっと見上げると、隙間から目が覗いている広告。

旧居留地 0番地 人形の館

もうそれだけで120%、怖いんですけど(/_;)
大丸百貨店神戸店の特別展示場で開催されているそうです。

キャッチコピーは『私を、おうちに連れて帰って』 (だったかな)

           ↑絶対イヤ!

どうして百貨店でお化け屋敷やるかな。
何となく、明るいイメージの百貨店に、お化け屋敷はちょっと……(;_:)
毎年、どこかの百貨店では開催されているようで、去年は大阪のどこかで、国道0号線がどうの、とかいうのがあったような。
何なのよ! 0番地とか、0号線とか!

でも、京都駅には0番線ホームが本当にある。
ホラーではありません。奈良に向かうホームが0番線。
ハリー・ポッターの9と3/4番線は別に怖くないけど、0は何だか怖いのはなぜ。


というわけで、昨日は名古屋大会、堪能しました。
(津軽@三味線です)
いや~、もう小学生の部で優勝したお子ちゃんなどは、どうして君にその弱音のさわりが出せるの、だし。
中高学生の部では、どうして君たちにそんな「枯れた音」(人生の酸いも甘いも越えてきたぜ~的な)が出せるの、だし。
上級者の部では、のっけからバトルだし。
でもこの大会は、ミニコンサートもあって、有数の演奏家さんたちの三味線弾き合いバトルもあって、唄い合いも手踊りもあって、楽しいです。
ちょっとだけミニコンサートの写真を。
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贅沢な歌姫たちの競演。
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津軽じょんから節。
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三味線4丁、津軽の手踊りつきの津軽三下がり。贅沢です。
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東北へ行くと、こんな感じで、その辺のオジサンみたいな人が、いきなりいい声で唄う。
あ、この方は、著名な演奏家さんです^^; 審査員の後のパフォーマンス、お疲れ様です。
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そして三味線曲弾き掛け合いです。4人の先生方の、ちょっと遊び心ありの楽しい掛け合い。
技も音も、素晴らしいです。

今日は【海に落ちる雨】の第13章(3)も一緒にアップしました(*^_^*)
皆様のブログにコメントを書きに行けていない……でも、仕事に行かなくちゃ……

Category: 旅(あの日、あの街で)

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[雨68] 第13章 街の色(3) 

【海に落ちる雨】第13章の3話目です。
あちこちに大和竹流と彼の親しい友人・寺崎昂司を探す者たちがいます。
彼らが関わっているのは、3年半前に自殺した雑誌記者・新津圭一の自殺。
新津はIVMすなわちフェルメールの件で誰かを脅迫していたが、自殺したとされていました。
贋作と言われた絵画には何が隠されているのか。
新津圭一は本当に自殺だったのか。
そして、大和竹流は今どこに……
(という話でしたが)
今回は、大和竹流の恋人の一人である女刑事・添島麻子と真のやり取りです。
内閣調査室の河本という男に預けられている添島刑事。自分が大和竹流への牽制に使われていることを察知していて、身の振り方をあれこれ考えてもいる。聡明な女性ですが、やはり女。でも…多分、真の味方をするつもりになってくれていると…思うのですが。





 添島刑事との約束の時間が近づいていた。送ってやろうというビッグ・ジョーの「有難い」申し出は断って、表に出ると、タクシーを拾った。
 澤田が満たしておいてくれた財布のお蔭で不自由がない。ただ有り難かった。

 タクシーを降りて、添島刑事と待ち合わせた国道の坂道をゆっくりと上っていると、後ろからすっと車が近づいてきて、真の少し前で止まった。目立たない白い車で、ナンバーからはレンタカーのようだった。
 真はガードレールを飛び越えて、その車の運転手を確かめると、助手席に納まった。
 添島刑事の顔を見て、本当にほっとした。半時間ほど前まで、もしかしてそのまま戻れないかもしれない場所にいたとは思えなかった。

「大丈夫でしたか」
 添島刑事からは珍しい印象がした。
「逃げられたって言ったら、多分信じていなかったでしょうけど、別に何も。まあ、あなたは参考人の参考人程度だから」
「それにしては、事務所に警察が張りこんでる。どういう圧力をどこからかけているのかは知りませんが」
「それは私も知らない。ただ、あなたの相棒が現れそうなところを虱潰しに見張らせているのよ。それがすなわち、寺崎昂司の現れそうな場所だと思ってるのかしらね。よほど手がかりがないんでしょう。最後にどこが手柄を手にするのかは見ものだけれど」

 添島刑事は自分の所属する組織を、屑籠に捨てるような調子で言い切った。
 女のくせにと言われ続け、本人ははっきりとは言わないが性的なものまで含めて嫌がらせをさんざん受けてきたのだろう。だから、いざとなったら、つまり男が作ってきた組織がろくなものではないと見限ったら、あっさりと裏切ることも厭わないかも知れない。
 もっとも、どの時代にも男を叩きのめすほどに鍛えた女はいるものだ。一度だけ竹流が、絶対にあの女に喧嘩をふっかけない方がいいぞ、と冗談交じりに言っていたことがあった。大和竹流相手でなかったら、もしかすると女とは見られていないのかもしれない。

 信号でゆっくりと車を停めると、添島刑事は真の顔を見て、少しだけほっとしたような顔で笑った。
「ちょっとすっきりしたじゃない。朝は随分むさくるしかったけど」
 真は頷いた。まさか、澤田顕一郎に御飯を食べさせてもらって、服まで面倒をみてもらった、とは言えなかった。

 真正面から添島刑事の顔を見て、さっき感じた珍しい印象が何なのか、わかった。
 いつもきちんと化粧をして、きつすぎるようなイメージの赤い口紅を引いている女性が、今日は薄化粧だった。口紅も薄いリップクリームのようだ。素顔に近い彼女は、真のイメージの中にあるよりは、若く純粋な気配を持っていた。
 これが、いつもベッドの中で竹流が見ている顔なのかもしれない。そう思って、感情と身体のどこかを刺激されたような気分になった。

「食事は?」
「大丈夫です」
 真は無遠慮に添島刑事を見つめていたことにようやく気が付いて、視線を逸らせた。
 添島刑事は前方に視線を戻して、一旦間を取った。何か重大なことを伝えようとする、前置きのようだった。

「私が知っていることを話すわ」
 自分自身に何かを確かめるような口調だった。彼女にしてみれば、これは職業倫理に関わることだろう。
 信号が青になる。添島刑事は車をスタートさせた。車が地面を擦る音で、言葉が誰かに聞かれるのを紛れさせようとしているようにも見えた。

「まず、ある男がひき逃げされた。新潟出身のあの大物政治家の秘書だった。それから入院していたある男が突然死亡した。肝炎で、死んでもおかしくない状態だったので、疑問はなかったみたいだけど。ただ、これがその政治家に大いに関わっていたフィクサーだった。秘書のひき逃げのほうは、実は密かに容疑者が挙がっているんだけど、手が出せない」
「それも、大物だからですか?」
 添島刑事はゆっくりと車を走らせていた。
「ひき逃げをした車を、警邏中の警官が見ていたのよ」
 真は、思わず添島刑事の横顔を見た。
「澤田顕一郎の奥さんの車だった。でも、運転していたのは男だった」
「まさか、澤田顕一郎を疑っているのですか」
「本人じゃなくても、その周辺の人物って事は間違いがないでしょ。この二つの出来事をきっかけに、河本が何やら内偵を始めたわけなの」

 真はすっかり暗くなった道の先を見つめた。前の車のテールランプがぼやけてかすんでいる。
 澤田顕一郎が何かとんでもないことを目論んでいるということなのか、あるいは逆に澤田にまつわる悪い噂が誰かの思惟であると含んでいるのか。
「澤田顕一郎の奥さんは、確か」
「山口県の某元首相の縁戚の人。今は病気で郷里に帰ってるわ」
 澤田は『心の病』と言っていた。
「その、大物政治家というのは、澤田、あるいは現首相と敵対しているのですか?」
「お互い触らぬ神に崇りなし、って感じかしらね。でも、自分たちの立場を守るのに、ひき逃げとか殺人とかいう小賢しい悪さをするような人物ではないことだけは確かね。少なくともそう願うわ」

 添島刑事は一つ、息をついた。
「ずっと疑問に思ってた。河本が絡む、政治家が絡む、あなたの父親まで出てくる。妙に大物が動く割には、起こっていることが小さい。ひき逃げにあった秘書、病死したフィクサー、恐喝を企んで自殺した記者、溺死した元傭兵、贋作だと言われる絵。あなたの同居人だって、大怪我はしたけど、国家絡みの大事件に首を突っ込んでいるような気配じゃなかった。それなのに、誰も『本当のこと』を言わない。河本も、澤田顕一郎も、朝倉武史も、それに大和竹流も」

「どういう意味ですか?」
「あなただって、そんな国家絡みの大事件に首を突っ込んでいる気はしないでしょ? でも、あなたにとってはこれは大事件には違いない。大和竹流の怪我と失踪、元気で死にそうになんかない老人の溺死。大和竹流にとっても、自分が関係している贋作を調べていただけだった。彼にとっては、当たり前の仕事だった」
 添島刑事はまた言葉を切った。

「でも、河本さんは『誰か』を追いかけている、ってあなたはおっしゃっていましたよね」
 添島刑事は真の言葉をしばらく反芻しているように見えた。それから、思い切ったように口を開く。
「確証はないけれど、私が思っていることを言うわ。聞き流しなさい。河本は」添島刑事はしばらく前方を見つめたまま、言葉を選んでいるように見えた。「本当にそれが誰だかわかってないんじゃないか、と思うの。確かに、誰かを追いかけている。でも、それが確信のある人物じゃないんじゃないかって。つまり、ものすごく取り留めのないことをしている。澤田も、大和竹流も同じよ。自分が何をしているのか、わかってないんじゃないかって」

「どういう意味だか、よく分りません」
「河本は私に、澤田と大和竹流とあなたを見張っているように、と言った。何故あなたたちなの?」
 真は思わず添島刑事の横顔を見つめた。
「河本が、自分のしていることに確信を持っているなら、もっと確信的な人物を見張れって言うんじゃないかしら。澤田は確かにそこそこ大物だけど、国家を敵に回した大事件を企んでなんかいない。あなたもそう思うでしょ」
 真は自分の手に視線を落とす。
 右手。彼の右手だ。まさに自分が動いているのは、あの右手に対する個人的な恨みだ。

「河本が何故私に目をつけたのか。それは私が大和竹流の女だから。でも、河本は別に大和竹流本人に何か疑いを持っているわけじゃない。よく分らないのよ。だけど、本当は誰も、河本自身も、よくわかってないんじゃないかって、そういう気がしてならないの」
 添島刑事の声は、最後のほうでは苛立ちを含んでいた。真は何と返事をしていいのか分らず黙っていた。
「それなのに、実際にあの人はあんなに痛めつけられて、行方もわからない。今、生きてるのか死んじゃってるのかもわからない」
 真は思わず添島刑事を見た。静かに感情を押し殺した横顔だった。

「何を、言ってるんですか」
「みんな、何だか分らないけど、それぞれにそれっぽい理由で死んでしまう。あの人も明日には東京湾に浮いているかもしれない」
 田安の水死体を見て、想像に怯えていたのは自分だけではなかったのだと思った。冷静で聡明な添島刑事の、震えるような声は、よく通る声だけに、真の胸のうちの深いところに突き刺さった。

「でも、彼を暴行したのは、手足のある人間だ。ろくなことを考えていないにしても、多分、頭だってついている」
 答えた真の声は、車のエンジン音にかき消される小さな呟きだった。
 それでも、それは添島刑事に届いたようだ。

「本当は、あなたが嫌いなのよ」
 添島刑事が車を走らせ続けている理由は分かるような気がした。停まって、じっくりと話したくはないのだろう。
「彼の恋人は、仲間も、誰一人だってあなたのことを好きじゃない。あのふざけた雑誌のインタヴューを読んで、誰がいい気分になったと思う? だけど、彼が何故あんなパフォーマンスをしたのかは、分かってる」
 真は手の平がじっとりと冷たくなってくるのを感じた。

「あの雑誌の発行社には、ヨーロッパに系列社があるのよ。同じ記事がその系列社の雑誌にも掲載される。遠いアジアの経済と芸術の情報は、一般のヨーロッパ人にとってもちょっと興味をそそられる話題なのよ」
 真は、一瞬頭が真っ白になったような気がした。
「でも、そんなことくらいでチェザーレ・ヴォルテラは動じたりしないでしょう」
 冷静に言ったつもりだったが、声は上ずっていた。

「ジョルジョが個人的にチェザーレ・ヴォルテラに逆らうだけなら、誰もそのことを知らない。せいぜい噂の程度だわ。でも、文字になって記事になった。ヴォルテラの後継者に後を継ぐつもりがないことが世間にばら撒かれたのよ。チェザーレのファミリーも敵もそのことを知った。それがどういうことだか分からないほど、あなたも馬鹿じゃないわよね。しかも、ヴォルテラはヴァチカンの裏のネットワークを支えている大きな組織よ。その後継者が、事もあろうに日本人の男性に、事実や内容はともかくも恋愛対象であることを仄めかした」
 真は呆然としたままだった。
「事実なんてどうでもいいのよ。文字になって世間に晒されたことが問題なの。それについて誰がどう思うか、その感情に歯止めは利かないわ。だから、誰もあなたの味方なんかになれない」

 手が震えだした。どう返事をしていいのか分からなかった。勿論、竹流の関係者の誰にも自分がいい感情で迎えられていないことは、分かっているつもりだった。
 父の言うとおりだ。あの時、美和に囁くようなふりをして、父が自分に警告したのは、単なる気まぐれではなかったのだろう。
「でも、あなたの気持ちも、多分みんなよくわかっている」
 添島刑事の声は、まるで彼女自身を説得しているようだった。

 真は何も言えずに黙っていた。竹流の事に関して、自分に味方がいないというのは何となく分かっていた。誰も、相川真にはいい感情を持っていない。大和竹流に対する気持ちを共有していると勝手に考えて、添島刑事に親近感を覚えていたが、それが自分の一方的な思い込みだということは了解できた。
 添島刑事は暫く黙っていたが、信号のある四つ角を曲がると、数十メートル進んでから、車を左脇に寄せて停めた。
 暗くなった道の両脇には幾つかビルが並んでいて、それなりに人通りもあったが、賑やかな通りとは言いかねた。

「内閣調査室から盗まれたフロッピーの話だけど」
 真はゆっくりと話し始めた添島刑事の言葉を、何度か頭の中で反芻しなければならなかった。
「内調から盗まれた? 検察が保管していたのではないのですか」
「色々事情があって、最終的には内調に保管されていた。たかが一記者の恐喝事件だったし、ロッキードという大事件の陰で、事実関係もろくに調査されずに放置されていた」
「でも、それがどうして寺崎昂司が盗んだと分かったんです?」
「たれ込みがあったみたいよ。寺崎昂司の恋人、と名乗る女から。彼がフロッピーを盗み女の子を誘拐する気だって」
「女の子? 新津千惠子のことですか」
 父親の新津圭一が残したフロッピー、そしてその娘が見たかもしれない父親の自殺の真相。

「そう、それで警察が確認したら、ある施設から女の子が確かに連れ出されていた。ただ、その施設では誘拐だとは思われていなかった。何でも数年前に、彼女の父親の友人という男が現れて、誕生日やクリスマスにプレゼントを持ってくるようになったそうよ。施設にも幾らかの寄付をしてくれるようになって、そこの従業員たちもすっかり彼を信頼していた。その日、外泊願いがあって、誰も何の疑問も感じずに、その男に新津千惠子を預けた」
「それが、寺崎昂司だと?」
「写真で、間違いがないって」
 寺崎を見間違えるのは難しいだろう。日本人離れした体格だし、美男子というわけではないが、人を惹きつけるいい男だ。

「寺崎昂司はその子を連れ出したのは危険だと思ったから? 千恵子という娘は、自殺した父親の、つまり第一発見者ということですよね」
「そうね。危険だと思う理由は、自殺には裏があるということになるんでしょうね」
「でもその子は口がきけないって……」
「父親の死体を見てからね。新津千恵子は大人の男を怖がっていて、最初は寺崎昂司に対しても怯えていたようだったけど、そのうち少しずつ打ち解けるようになったみたい。寺崎昂司が彼女を連れ出したのがはっきりしたので、その垂れ込みの信憑性もでてきた。それで調べたら、フロッピーは確かに保管場所から消えていた」

 添島刑事は一度息をついた。
「ただ、その保管場所はもう随分と前から開けられた形跡はなかった。つまり、既にフロッピーはもっと以前に別の場所に移されていたみたいだった。あるいは、とっくに盗まれていたのか、あるいは始めからそんなものがなかったのか。つまり、誰も何も言わなければ、いえ、もっとはっきり言えば、寺崎昂司と大和竹流が動かなければ、誰も『何かが封印されたこと』に気が付かなかったかもしれない」
 添島刑事はちらりと時計を見て、エンジンをかけた。
「その女性を特定できますか」
「寺崎昂司の恋人?」

 真は頷いた。
「糸魚川に深雪の両親の自殺について確認に来ていたのは六人。竹流と寺崎昂司と、深雪と楢崎志穂。あと二人は知らない人間だったけど、モンタージュ写真がついていた。一人は女性で、もう一人は男性だった」
「楢崎志穂を知っているの?」
「えぇ。田安さんのところに出入りしていましたから。彼女は、自分が香野深雪の妹だと言っている。確かに、糸魚川で自殺した旅館経営者夫婦には女の子が二人いた」

 サイドミラーを確認しながら、添島刑事は車を発進させた。真は続けた。
「楢崎志穂も、澤田顕一郎のもと秘書の息子らしい男をつけていた。あなたもご存知かもしれませんが、その男は大和竹流と接触していた。楢崎志穂は澤田を恨んでいると言っていた」
「楢崎志穂は、新津圭一の後輩だった。随分と彼に熱をあげていたと、当時の同輩が言ってたわ。彼女は新津圭一が亡くなった後、そのライバル社に移って、あの事件についてスッパ抜きのような記事を書いた」

 真は驚いて添島刑事を見た。
 そう言えば、井出が見せてくれた記事の最後のイニシャルは『S』だった。志穂、そうか、彼女だったのか。では、彼女はあのフロッピーを見たのだろうか。でなければ、あれほど詳しい内容は書けないはずだ。それとも、彼女は記者として、正しいと信じたことを文字にしたのだろうか。
「あなたたちは、彼女をマークしてはいなかったのですか」
「さあ、河本は彼女を見張れとは言っていなかったけど」

 車は大きな通りに戻った。
「それで、あなたは寺崎昂司の恋人が、その糸魚川に行ったもう一人の女じゃないかと言いたいの?」
「その女は、寺崎昂司の恋人だったわけじゃない」
 添島刑事が隣で息をついたのがわかった。
「そうよ。寺崎昂司の恋人じゃなくて、大和竹流の恋人だった。正確には三角関係ってやつになっていた。もっとも、大和竹流は別に積極的に三角関係に参加したいと思うような男じゃなかった。その女を心から愛していたわけじゃないでしょうから」
「あなたは、その女の顔を知っているのでは?」
「つまり、私がそのモンタージュを見れば、それが彼女かどうか分かるのではないかと言いたいの?」

 真は返事をしなかった。女同士のことだ。それなりに嫉妬の感情が絡まってもおかしくはないと思った。添島刑事は少し時間を置いてから続けた。
「見たわ。あなたの言うとおり、その女だった。彼女が大和竹流のところで仕事をしていた芸術家の一人だということは知っていた。彼の女たちにいちいち嫉妬していたら身が持たないから、見て見ぬふりをしてたけど、その女がジョルジョを、いえ、大和竹流を独占したいと思っていたことは知ってたわ」

 真はぼんやりと添島刑事の言葉を聞いていた。
 結局はあの男がやたらと女に手を出すからややこしいのだ。そう思いながらも、女たちが彼に入れ揚げる理由も分かるような気がした。あの男は、そうとも思わずに女をその気にさせてしまう。分別のある女でも、嫉妬という感情は計り知れない。
「でもそれ以上のことは知らない。大和竹流は、その女が自分のところから去っても、追うことはしなかったし、責める事もなかった。彼女は多分、追って欲しかったし責めて欲しかったんでしょうけど」

 ふと気が付くと、歌舞伎町の見慣れた交差点の近くだった。雑多な人の群れが行き交う歩道に、いつものように客引きの姿が見えていた。誰しもが華やかで、薄っぺらく見えた。
 その女への大和竹流の愛情に嘘偽りがあったわけではないのだろう。だが、竹流はその女を愛して大事にしても、執着などしなかったのだ。もちろん、女が苦しんでいれば彼は何を置いてでも助けに行くだろう。それでも、大和竹流の心を完全に支配することも繋ぎとめることもできない。
 そしてこの女刑事は、自分もまた、その女と同じような立場にあることを知っている。
 
 真は、真っ直ぐに前を見つめている添島刑事の横顔を見た。意志の強い横顔、時折見せる女らしい優しさ、そして。
 そうだ、その女と添島麻子は、何かが根本的に違っている。
 添島刑事は車を停めた。
「降りなさい」
 真は素直に助手席の扉を開けた。降りようとしたその瞬間、添島刑事の手が真の腕を捕まえた。その手は冷たく、だが力強かった。
「気をつけて」
 真は添島刑事を振り返り、頷いた。
「あなたは失踪人調査は得意よね。彼を、見つけて」
 この女は、本当に彼を愛しているのだろうと思った。真は今度は頷く代わりに黙って添島刑事を見つめ、そのまま車を降りた。






街に戻ってきました。
さて、次回は第13章の第4話:真、今度は大和竹流の仲間(そして竹流を想っている)ゲイバーのママ・葛城昇と対戦?
主人公って、もう少し周りの人間から好かれていてもいいんじゃないかと思うけれど、今のところ結構いろんな人からけちょんけちょんの真でした。これもすべて、竹流が悪いんですね、きっと。
少し色っぽいシーンも出てきますが、18禁とは言えないので、そのまま出します。
何しろ、バーの店内ですから。

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

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NEWS 2013/8/10 久しぶりに本屋に行ったら 


最近は本をAMAZONさんで買うことも多くなっていますが、やはりたまには本屋さんへ。
とはいえ、以前のように、町の中の大きな本屋さん(紀伊〇屋さんとかJUN○堂さんとか)に行くことは少なくなりましたね……
いつも送ってもらうくらい本を買い込んでいたものですが。

全然関係ないけれど、本屋さんに行くと、お腹が痛くなるんですよね。
ある時、誰かが同じことを言っていて、もしかすると印刷物のインクのにおいが…なんて話になったこともあるのですが、インクのにおいなんて、いまどきしませんものね。
冷房の具合でしょうか。ずっと立っているから?(立ち読みしてる…でも、最近、本屋さんには椅子が置いてあって、どうぞ座ってお読みください、という感じになっているところもありますね)

で、昨日の戦利品(一部)。
昭和の本は、とりあえず買い込みます。真シリーズの資料にしなければなりませんので。
自分の生きた時代なのですけれどね、細かいところが問題で。
あとは、あれこれ。読み切るのに、また時間がかかる……

ではしばらく、写真館をお楽しみください。
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昨日の夕暮れ。家の庭からの景色(の一部)。

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さるすべり。百日紅って、漢字で書くのと平仮名ではずいぶんイメージが違うなぁ。
うちの百日紅は、まだ開きません。なぜかよそ様と比べて遅いのです。
これは、出張先の姫路で撮ってきたもの。

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朝ごはん(ミキサーにかかる前)。考えてみたら、野菜ジュースにしたら、朝ごはんブログはできないですね…毎日画像が同じ^^;
今日は、少しリンゴジュース率が高めでパイナップルを入れてみました。
(小松菜、サラダほうれん草、レタス、パセリ、グレープフルーツ、バナナ、リンゴジュース、豆乳)
でも、結果的に味はほとんどいっしょ^^;
一度、セロリを入れた時だけ、においがすごかったけど(セロリ、キライじゃないけれど、あまりジュースには合わない感じなのでやめました)。

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私のバイブルをちょっとだけ紹介。
大好きな漫画家さん、花郁悠紀子さんの本。本当にお若くしてお亡くなりになられたので、本はこの8冊だけですが、宝物。
私のお話には、この珠玉の名作たちからヒントを得たものがいっぱい入っています。
いずれ、【物語を遊ぼう】で書こうかな。
妹さんの波津彬子さんが今はご活躍で、たくさんの素敵な物語を紡いでおられます。

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小さく、ちょっとだけ嬉しかったこと。
ブログ村さんの注目記事に…「小説ブログ」の注目記事などに記事が並んだことがなかったので、始め、なんじゃこれは?と思ったのですが……ちょっとだけ微妙に嬉しい気がしたので……え? つまんないことで喜びすぎ? ですよね。いえ、もう本当に辺境惑星ブログなので^^; 地味なことで喜ぶ。
はい、もっとちゃんとしたことで喜ぶようにします^^;^^;


録音機もフル充電したし、明日は、三味線の名古屋大会です。
師匠の応援に行きます。そして、たくさんのセミプロさんたちの曲を聴のが楽しみです。
って、新幹線、乗れるのかな?
(去年、前売り券まで買ったのに、前々日にめまいでぶっ倒れて、歩くことができなくなって行けなかった、くだんの大会)

では、皆様も、体調に気をつけられて、よい週末を!



Category: NEWS

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NEWS 2013/8/8 お礼とお詫びと予告 

長期休み期間は結構忙しくて、毎日仕事が終わりません(;_:)
暑いし、だるいし、眠いし、朝から蝉はうるさいし。
玄関を出た真正面の楓と桜の木がお気に入りらしく、いつも複数で合唱……(V)o¥o(V)
コメントのお返事、遅くなっていてすみません(..)
昨夜、思い切り爆睡してしまっておりまして。今夜は必ず。

ふと気がついたら、拍手が1000を超えていました。
地道~だけど、辺境のブログにお越しくださって、応援くださる方がいてくださって、とても有難いなぁと思っておりまする。
ありがとうございます。
これからも、地味に、静かに、書き続けてまいりたいと思います。

ちょっとだけ予告。
【海に落ちる雨】更新しながらですが、ようやく500Hit記念、なんて地味な企画にお応え下さったScribo ergo sumの夕さんのリクエストにお応えします。

【死と乙女】
のっけから不穏なタイトル、というわけではなく、シューベルトの歌曲です。
でも、弦楽四重奏曲ではなく、歌曲のほうをイメージして書いたので、いささか不穏かもしれません。

ウィーンの音楽学校に通っている相川慎一(真の息子です)はピアノ科の学生です。
彼を庇護している、有閑金持ち(観光船持ち、音楽評論家)のフランス人、ヴィクトル・ベルナール。
学生でありながら、すでに楽壇にデヴューしている天才ピアニスト、テリー・ニーチェ。
繊細な音を紡ぎだす一方で、激しい恋の気持ちを抑えきれない女学生、アンネット・ブレアル。
ちょっと青い、青春のお話です。

ちなみに、相川慎一くん。
2歳の時に(だったかな?)父親を亡くし、あれこれあって、5歳でローマのヴォルテラ家に引き取られていましたが、父親を挟んでの葛藤で育ての親(ジョルジョ・ヴォルテラ、すなわち大和竹流)ともあれこれあって、ローマを出て、音楽の都でひとり、頑張っています。
真と違って、かなり真面目ないい子、なんですが……どうかな。
(でも、作者が言うのもなんですが、可愛いです。父親との共通点は……やたらと走っていることだけ? ジョギングというよりもランニング好きのようで)

ざっと数えた感じでは、全5回というところでしょうか。
(どうせ長くなるでしょ、と言われると、自信がないけれど…^^;)

ということで、予告編でした。


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伝えたい想い/【百鬼夜行に遅刻しました】(夏)あとがきに代えて 

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(『風の谷のナウシカ』より)

ちょっと勢い余って書いてしまった【百鬼夜行に遅刻しました】夏物語。
気持ちが入りすぎて、文章が乱れ飛んでいて、後で微妙に恥ずかしくなったりもしていたので、あとがきを書きます。
はっきり言って、長いです。
面倒くさい方は、このあたりで引き返してくださいね^^;


実は、始めはウゾくんが、鬼になった戦国時代の誰かに会って……なんて話を考えていました。
エピソードに、千利休の朝顔の話を使うことは決めてあって、これをふくらます予定でしたので。

この朝顔エピソード、茶道を習っている時には、千利休は偉いことを言う人だと単純に感心していたのですが。
ふと、でも、大義のためとはいえ小さな命を散らすのは……、とかあれこれあらぬ方へ考えが転がってしまいまして。

秀吉って、天下人になっても感覚は所詮農民だったのですよね。泥臭い。
もちろん、あの場所まで知恵ひとつで登って行ったのはすごいことですが、私の中の秀吉像は、数年前の大河ドラマの『江』の岸谷五郎さん。
むかつくほどいやらしいおっさんなんだけど、単純で泥臭くて子供っぽい。
天下を取るような器じゃないはずなんだけど、あれよあれよと時が味方をしてしまった。
茶々=宮沢りえさんが、恨んで怨んで逆らいながらも魅かれて行ってしまう。
(その、秀吉=岸谷さんを憎んでいるぞ!と口で言いつつ目だけで誘う宮沢りえさんにドキドキしました……いやもう、この二人のためにあったと言っても過言ではないくらいの大河ドラマでした。無茶苦茶萌えました)。

で、朝顔エピソード。
農民ですからね、しかも感覚が子供ですからね、だからきっと、単純に、溢れんばかりに咲き誇る朝顔を見たかったんでしょうね。

千利休のほうがはるかに、政治家であり、武士であったと思います。
当時の茶の湯は、今のような単純に精神的なものではなかったはず。
お茶碗ひとつで国ひとつが買えるくらいだったと言います(そうしたのは実は下戸の信長、引き継いだのが利休)。
茶の湯に、国を動かす力があったのです。
だから、当時の二人(秀吉と利休)の関係を、現代の我々の視点から考えてはいけないと、つくづく思うのです。

あれこれ考えて、これこそ『是非もなし』だと思いました。
どちらが100%正しいわけでも、100%間違っているわけでもない。
秀吉も利休も、朝顔の美を認めていたことは確かなんでしょうね。
そして、朝顔の精は、そんな人間の営みなどは、もっと高い次元から見ていた、のかもしれません。

そう言えば、この『是非もなし』
信長が本能寺で、明智光秀の奇襲だと知った時に言い放った言葉として有名ですね。
是非もなし…やむを得ない…襲われて死ぬのもまた運命だ…人間五十年なんだから仕方がない、というような達観したニュアンス、と取られていることもあるようですが。
敦盛を好きで舞うくらいですからね、そういう思想が、とっさに言葉になったのでは、と?

この信長の言葉の前に、仕えていた者が「(襲ってきたけれど)どうしましょう」と聞いたのだとか。
これは信長の返事です。
『是非もなし』
信長ほどエキセントリックで、明確に日本の王になることを目指していた男が、ちょっと立ち寄っていた本能寺なんかで死んじゃうわけにはいかないのです。少なくともこの男はそう思ったはず。
「是非もないことだ、戦うにきまってるがや」
やられそうになって、火の中で敦盛なんて舞ってるものか、絶対最後まで足掻いて戦っていたはずだ。
信長にはやっぱりそんな男であって欲しい、そんな最後であってほしい大海でした。

話が逸れましたが(逸れすぎだって^^;)。
考えているうちに……
だんだんこの朝顔エピソード(武士道たるもの…的物語)が、信念を貫くためとはいえ、花は一生懸命咲いてるんだよなぁ、切っちゃうのもなぁ…という方向にずれ。
大義のために小さな命を犠牲にできるか、とかいう方向へずれ。
折しも、広島の原爆投下の日を迎え。
グンソウさんのように、戦争中のことを思い出したくない、語れない、でも今も苦しみ続けている、という人々もいるだろうと、想いを馳せ。
沖縄のひめゆりの塔記念館でお会いした、当時その一員だったおばあさんを思い出し。
淡々と語られた言葉が重くて。

私はその時、その人に言えなかったけれど、心の中で思っていた。
『その時代を生き延びて、今ここに生きていてくださって、ありがとう』って。
その時何があって、何をしたのだとしても、今、生きてここにいてくださってありがとう…と。


現実が重すぎて、小説には書けないことがいくつかあります。
戦争はそのひとつです。

でも、このたび、本当は書けない、書くまいと思っていたことを書いてしまったので、少しだけ言い訳をしたくなったのでした。


何かを書く時に、外してはならないこととして、自分の中にあるルールがあります。
それだけは守りながら、書いたつもりです。

ひとつは 100%の善もなければ、100%の悪もないということ。
ひとつは 過去の出来事について、現代の人間の感覚で判断・批判してはいけないということ。

だから、戦争については、当時を生き抜いた人々に対して、その人が何をしたのだとしても『断罪』する権利は、今の時代の自分にはないと思っています。
当時を生きていて、ただ被害者だった人にだけ、その権利があります。

自分が全く正しいと思う人間だけが石を投げろと、聖書にも書かれておりますが、私には自分が『全く正しい』という自信がありません。
ただ、そのことを深く考え、立ち向かうことは必要です。
過去をただ闇雲に批判するのではなく、そこから何を学び、これからどうするのかということだと思うのです。

戦争は、人間を被害者にもするし、加害者にもすると思うし、その両者は裏表の関係で、誰でもいつでもそのどちらにもなり得るのだ、そういう精神状態に人間を追い込むのが戦争という状態だということを覚えておかなければならないのだと思っています。
そして、犠牲になった人たちに対しては、時が遅くならないうちに、国として、あるいは人として、購ってさしあげなくてはならないのだと感じます。

だからこそ、何より、そのような状況(戦争)を作らないこと。
そこへ向かう理由を作らないこと。
そこに至ってしまったら、人間の精神はまともであり続けることはできないのですから。


卑近なことですが、車を運転する時、いつも思っています。
これは走る凶器だ。これに乗っている限りは、いつもで加害者になる可能性がある(最近は自転車も、のようですが)。被害者になることよりも、加害者になることの方が、本当は怖いのです。
でも……移動のためには、今はどうしても必要になってしまっています……(..)
事故は起こるものと考えて、障害物を前に勝手にブレーキがかかるようになってきています。
保険も、事故は起こるものだという前提で入らなければなりません。
そして何よりも、常に、自分が加害者になる可能性をちゃんと考えて、安全運転を心がけねばなりません。

車もそうなんですが、私の力では制御しきれないもの思うので、点検はしょっちゅう行っています。
でも、本当は、人間は自分の知恵で制御できないものを使ったり、持ったりしてはならないんでしょうね。
同じレベルで言うのも変ですが、原発、原爆、戦争、そして最近話題の出生前診断。
尊敬するある人が、最近元気がなくて、どうしたんですか、と尋ねたら。
「原発再稼動と出生前診断。(人類として)生きる希望が無くなって来たわ」と。

今、自己増殖し続ける科学を手にした人類は、自分たちで制御できないものを動かしている。
技術が自己増殖しているのであって、それを使う人間はそんなには賢くないのです。
もしも戦争が起こってしまったら、始まってしまったら、制御はできない……
そうならないように、知恵を絞らなければならないのだと……


そういう想いを、ちょっとウゾくんにぶつけてしまいました。


というわけで、本当はちょっと恥ずかしいのです。
心の中で、秘かに、一方では強く、思っている信念だったりするので。


そうそう……希望を無くしたと言っておられた方に、メッセージを送りました。
私がものすごく好きな『風の谷のナウシカ』の1シーン。
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戦争で人間が壊してしまった地球。巨大な菌類が森(腐海)を作り地表を覆っている。胞子には毒素があり、人はマスクなしにそこに入るとすぐに肺が腐ってしまう。海から吹く風に守られた『風の谷』でも、腐海の空気は入り込んでいて、老いた人は多かれ少なかれ肺や皮膚を病んでいる。この国の姫君・ナウシカはそんな人々の病を治せないかと、自ら腐海に入っては菌類の胞子を集めてきて、こうして研究しているのです。
そして気が付く。汚れているのは土と水だと。それが清浄であれば、菌類は毒素を吐き出さないのだと。

この物語、この先にいくらでも素晴らしいダイナミックなシーンがあるのですが、私はこのシーンが大好きです。
誰かの幸福を願い、そのために、地道に、真実に近づこうと知恵を絞る。
(これこそが科学であるべきだと、そう思いながら、日々お仕事に励んでいます)

そして、あるインディオのシャーマンの言葉を添えました。
『皆が薬草について教えてくれとやって来る。だが、誰一人として、森とともに生きる方法を教えてくれとは言ってこない』
皆、というのは我々、いわゆる文明国と言われている国に住む人間たちです。科学が行き詰まり、彼らに助けを求め、あるいは利潤を求め、薬草の知識を学ぼうと、シャーマンのところへ行くのです。
でも、我々に必要なのは、薬草の知識ではなく、この地球とどうやって生きていくか、そのことを学ぶことだと、彼はそう言っているのです。
だから、どんなに小さなことでも構わないので、一緒に森とともに生きる方法を考えましょう!と。
(明日から、森の中に住むというわけではありません^^;)



長々とお付き合いいただきありがとうございました。




最後に。
朝顔の精は、美人で気風のいい『極道の妻』をイメージしました。
サクラちゃんにはモデルがいます。『ハリー・ポッター』のハーマイオニーです。もっと子供にしてみました。
飛んでいるヒタキはフェニックス(『秘密の部屋』)のイメージです。和風ですけれど。

ちょっと重くなったけれど、『夏・朝顔』、それなりに楽しく書きました。
ウゾさん、ありがとうです。

次は『秋・菊花』です。今度はどんな花でしょうか。
また、涼しくなったらお目にかかりましょう。



Category: 百鬼夜行に遅刻しました(小鬼)

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