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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【石紀行】10. 佐賀・巨石パーク(3) 

佐賀・巨石パークの最終回です。
最後の方に、畳みかけるような巨石のドラマが待っている場所と言えるかもしれません。

第13の石:雄神石(オガミイシ)
『男子としての面目を立たせるように強きをくじき弱きを助け、仁義を重んじるように指導した神様と言われている』
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まず大きくそびえ立つのはこの「男子の面目」を立たせた岩。なるほど、男性は大変ですね。でも、かっこいいですよ、この巨石!

第14の石:天の岩門(アマノイワト)
『本来「天の」は朝廷に関係のある事柄で、ここでは高千穂の天の岩門に似て、神いることから名付けられたといわれている』
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今回、もっとも感動した巨石だったかもしれません。
やって来た時間もよかったのでしょう。本当に、あぁ、天岩戸だ、と思いました。
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遊歩道の側から見ると「?」なのですが(多分、上の写真のどこかが天の岩門と雄神石の重なったあたり)、裏に回って登って行って見ると、本当に天岩戸。
表側だけ歩いていると分からないので、少し斜面を登ってみましょう。
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ちなみにこれは真横から見たところです。
ここからはひたすら、光と巨石の共演を、しばしお楽しみください。
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向こうから差し込む陽の光、そして岩の間から覗き見る山の風景、重なり合う巨石がこの形で残されたのには、どこかに神意が感じられます。
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第15の石:神籠石(コウゴウイシ)
『本来神籠石は、山頂の広い区域を囲んだ石垣の意味であるが、ここでは神を守る石のことと言われている』
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こちらもまた不思議な形です。この庇のように突き出した岩はどうなってるの?というような、でも、またこれもそのまま祠というような巨石。
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上は、横から見たところ。下は、別の面から見たところ。
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さらに、中から見たところ。やはり祠の中は神様が宿っていそうです。
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これだけの巨石が山の中にごろごろあると、そりゃいくつかは名前をつけたくなるような形のものがあるだろうね、という気もしますが、それにしても、何か自然や神の意志が働いているとしか思えない……ただ大きいというだけでも感動するのですけれど、その形、そこに人々が祈りを込めた跡、そして何よりも岩に触れた時に思う地球という天体の歴史・息吹。
自然と手を合わせたくなるような姿をしてそこにあるこれらの石たち。
まさに石神様なのですね。

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このあたり、上のように、名前もついていない石もあれこれたくさんゴロゴロ……
ということで、私も名前を付けてみましょう。上の石は「王蟲石」、目玉がついていないけれど。
下の左は「隙間風石」……浮気により夫婦和合にヒビの入った状態の陰陽石?
下の右は……墓石みたいに見えるのですが……?

今回、何故か見落としてしまった第11の石:御座石(ゴザイシ)……神様がこの山頂から佐賀平野を眺められた時、お座りになったことから名付けられた石で、長さ33尺(約10メートル)、幅11尺(約3.3m)の長方形の石で、上部は平面で板敷のようになっていて、悟りを拓くための場所と。
う~ん、何故ぼんやりしていたのか……蚊との戦いに疲れていたのでしょうか??
それとも、悟りを拓くにはまだ早いのかな。
またいつか、この石たちにお目にかかりましょう。
全行程を乙文殊宮まで登山道を行くというのもやってみたいところですし。

他に見ていないのは(少し遠そうだったので……何しろ、熊本の天文台のある宿までたどり着かなければならなかったのです)、第12の石:天神石(天神とは本来、菅原道真公を祀った天満宮のこと。ここでは菅原道真公にあやかって学問の神様と言われているそうです)、第16の石:蛙石(形が蛙に似ている? 弘法大師を祀っていたとも言われいてる)、第17の石:たもと石(仁王門の前にあった石で、邪魔なので飛ばしたらこの場所に落ちたらしい)です。
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山を下ります。


佐賀・巨石パーク。
機会があれば、ぜひ、この巨石たちに触れに行ってくださいませ。
石に触れた時、始めて何かが理解できるのかもしれません……
私ですか? 石に触れる時、ひたすら「幸せ~」と思っています。

そうそう、比較的平易なアプローチで到達できますが、ちょっとしたトレッキングです。それなりの装備で臨んでくださいね。あと、蚊の大群に出会う季節は避けた方が良さそうです(*^_^*)
もちろん、私の石紀行で、行った気になってくださるのも、とても嬉しいです(*^_^*)


次回は、熊本の、夏目漱石の『草枕』にまつわる場所近く、拝ヶ石にご案内いたします。

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Category: 石の紀行文(写真つき)

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[雨85] 第17章 豪農の館の事情(3) 

【海に落ちる雨】第17章(3)です。
一部15Rに相当する言葉が出ておりますので、ご注意ください。

今回で第17章は終了です。
真が事件の一部を紐解いています。仁と一緒に話を聞いてみましょう。

ただ今、石紀行も並列して連載中です。佐賀の巨石パークへご案内しております。
よろしければご鑑賞ください。





「さあ、名探偵、ちょっと謎解きの一端を聞かせてくれないか?」
「なんですか、それは」
「だって、お前、推理小説なんかでは、名探偵の謎解きのコーナーがあるだろ?」
「それは大概、物語の終わりでしょう? まだ何も見えちゃいない」
「何、俺の見たところ、この件は簡単には解決しない類の事件だ。そうだろ? だから、謎解きは最後じゃなくていいのさ」

 何のことか分からないまま、真は仁から離れようとした。しかし、仁は離そうとしない。
「仁さん」
「誰も見てねぇよ。それに、お前、自力で座ってんのもしんどいんだろ」
 真は答えることもできず、結局は仁の肩に頭を預けたままだった。

「謎解きって言われても」
「何か分からんけど、ややこしい話みたいだからな。けど、どこか一か所が解れたら、全部ばらけてひとつひとつ明らかになるような場合もあるんじゃないか? ある鍵穴に鍵が入りゃあ、一気に城が崩れる」
「そんなに単純だったらいいですけど」
「後に残るのは、人の欲だけだ」
「人の欲」
 真はぼんやりとその言葉を反芻した。

「そうよ。愛でもいい、執着でもいい、そういう類のな。そういうのは単純じゃないし、ほっとくしかないからな。永遠に解決できねぇ。例えば、俺だって、一番愛してるのは美和だと言い切れるけど、それだけじゃ収まらない。そういう欲求はどうしようもないわけだ。物事を複雑に見せるのは、人間の欲だけだよ。お前が謎解きの説明をしてくれたら、俺が最後の鍵穴に突っ込む鍵を見つけてやれるかもしれないぞ」
 真はついに諦めて仁に身体を預けた。

 そうかもしれない。どれほど意地を張っても、今は身体が思い通りに動かない。こうして体重を預けてしまうのも、欲だというなら、そうかもしれない。
 仁は真が重みを預けたのを感じたのか、黙って抱く腕に力を入れてきた。

「十年前、恐らくヨーロッパのどこかの国で、誰かがフェルメールの『貴重な本物』がある絵の下に塗り込められていると聞いたんですよ。竹流の仲間は、それが『特別な贋作』と言ってたけど、それは表が贋作だからです。特別である理由は、下に何かがあるからだ」
「そりゃ、本当か?」

「僕の妄想です。竹流はいつも、絵の修復は半分以上、洗浄作業だと言っていた。絵の下から色んなものが出てくる、と。でも、美術に対する特別な思いを持っている人間、歎美家が執着するとしたら、『貴重な本物』でしかあり得ない。美和ちゃんが言ったんですよ」
「美和が、何を?」

「その人物は、わざとフェルメールを貶めて言ってるみたいだって。まるで好きな女の子を苛めるみたいだって。彼がどこでその話を聞いたのかは分かりませんが、今世紀始めのフェルメール狩りで取り残されたフェルメールの本物の噂が、ロシア帝政時代の皇族と繋がった。しかも、故郷の新潟に、ソ連から、正確には当時のロシアから、大量の贋作が持ち込まれていた。彼は、始めから贋作を捜していたんでしょう。しかし、それを預かったとされる蓮生家の主は、あなたの言うとおり、呪いを恐れていて、絵など持ち出されたくなかった。ロシアから預かった絵の存在は、ロシアからのもうひとつの預かりもの、すなわち高貴な女性の秘密を暴くヒントになるかもしれない。蓮生の主は固辞した。だから、その男はあの手この手で蓮生に揺さぶりをかけた」

「それが、あの旦那の言ってた、何年か前から色んな人間がやって来た、って話か」
「そう、旦那はともかく、若旦那のほうは現世の欲、つまり金に対する明確な意思を持っていた。だから、蔵からお宝を掘り出して、売れるものは売り、どうにもならないものは寄付したり、処分したりした。どうにもならないもの、とはつまり贋作です。絵が表に出れば、真贋は問題になります。鑑定を請け負ったのは弥彦の江田島道比古」
「さっきの、蓮生の跡目相続の話に出てきた病弱な男のイロか」

 真は頷いた。仁の手はまだ真の頭を抱いていた。
「その人は、長くパリに留学していて、こんな田舎町に帰ってくるつもりなんてなかった。それが家の事情で帰ってこなければならなくなった。帰ってからまさか、こんなところにこんな話が転がっているとは思わなかった。きっと、退屈な役所仕事の蔭で興奮したことでしょうね」
「耽美家の血が黙っちゃいないわけだな。蓮生家に取り入る手段の一つに、ホモセクシュアルの跡目候補者を利用したわけだ。ある程度絵の知識のある人間、しかも親戚から言われれば、あの主はともかく、田舎の人間はそうかな、って思うだろうな。でも、絵を鑑定したってのは? これ、本物です、って世間にばれたら困るだろ。取り上げられちまう」

「フェルメールの贋物は一点だけじゃなかったんですよ。どれが、その貴重な本物かは分からない」
「じゃあ、鑑定に関与した人間はぐるだったってわけか」
「こんな新潟の一豪農の家の蔵から見つかった絵を、本物と鑑定するわけにはいかなかった、とも言っていました。いや、絵の真贋を云々するのは本当はとても難しいことだそうですね。第一、同じ画家が生涯同じタッチで絵を描き続けるとは限らない。時には驚くほど駄作を描いている可能性もある。そうなると絵の真贋を決めるのに一番重要なことは、絵の出所だと聞きました」

「なるほどね、決め手は由緒正しいかどうか、ということか。こんなところにこんなものはあるはずがない、だから贋作だ」
「東京の偉い先生も」
言いかけて真ははた、と止まった。
「どうした?」
「東京の先生の鑑定もあった、と言っていました。こんな田舎では絵の真贋を鑑定する技術が簡単に提供されるとは思えない。とすると、絵は東京に運ばれた」

「それが何か問題なのか?」
「絵を運ぶのはそれなりに大変です。専門の運送業者が必要ですし」
 竹流も、運送にかかる手間ひま、費用、それに技術を問題にして、今は自分でそれを行っている。そして、寺崎昂司が日本での彼の仕事の手伝いをしているのは、逃がし屋としてだけではなく、運送屋としてだ。

 運送屋。もうひとつのどこかで聞いた北陸の地名は、寺崎昂司の父親のことだったのだ。
 以前は北陸の運送屋だった、と。しかも寺崎昂司に仕事のノウハウを提供したのは、好き嫌いはともかく、父親だったのだ。とすると、寺崎昂司の父親は、美術品の運搬をしているということなのか。
 関連付け過ぎなのかな、と思ったが、気になると止まらなくなった。

 それに、あのビデオ。
 寺崎昂司の父親の会社が北陸から関西に場所替えをしたのは、昔の禊だ、と昇が言っていた。まだ大人になっていない子どもを性的に苛めたりするフィルムを作っていた、と。あの新津圭一の吊り下げられたビデオ、あれは新津の自殺が本当は他殺だったという証拠として撮られたものではなく、ぶら下がった死体の、しかも父親の死体の下で犯される幼い少女、というかなり猟奇的で変態趣味の悪質な内容のビデオだったのではないか。

 もちろん、あのビデオが寺崎昂司の父親の関係のものとは限らない。しかし、あまりにも特異なものが、特異な事態と偶然に重なることは難しい。新潟と美術品の運送と、変態趣味のビデオ、三つが重なる人間が他にもいる可能性があるだろうか。
 それに、ああいうものを作っていた人間が、何年かたって更生するとは思えない。

 寺崎昂司は、「新津圭一の自殺が他殺だった証拠が見つかった」とは言わなかった。「証拠が出た」と言った。『出た』というのはかなり微妙なニュアンスを感じる。世の中に、それがどのくらいの広さの世の中かは別として、流出、もしくは晒されたというニュアンス。
 ビデオはマニアの間に流出した、ということか。撮影しておいて、表に出したかったのに、事情があって出せなかった面白いビデオ。年月がたって出したくなったもの。

 真は仁から体を離した。
「仁さん、変なビデオを作っている組織とか、人のことは分かりませんか?」
「変なビデオ? スケベビデオか?」
「もっと悪質なビデオです」
 思い出して、多少嘔気がこみ上げてきたが、何とか耐えた。
「悪質? 人が死ぬところを映してるとか、そういうやつか?」

 真は思わず仁を見つめた。
「悪質と言うと、一番はそういうやつだからな。所謂行き過ぎたサドマゾ系のビデオだ。薬でらりってるのを映したり、拷問してるとこやら、そうしながらやりまくる、それも死ぬまで、な。あとは、幼い子どもを対象にした変態ビデオだな。そりゃ、調べれば簡単に分かる。蛇の道は蛇ってな」
「東京に戻ったら、見て欲しいビデオがあるんです」

 仁が真の顔を覗き込むようにした。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
 真はただ頷いた。そのままもう一度、仁に抱き締められる形になったが、直ぐに仁は真を離し、敷物に横にさせた。
「やっぱり横になってろ」
 仁は真を横にさせると、煙草に火をつけた。それから意味もなく火箸で囲炉裏の灰をかき混ぜている。

「絵の次はビデオか。まったく、お前もあいつも何に足を突っ込んでんだか」
 仁は溜息をついた。
「絵はカムフラージュで、実際に動いていたのはビデオってことか」
「そういうわけではないと思います。つまり、絵に絡んだ事件の裏を探っていた記者が、悪質なビデオの犠牲になったというのか。絵も悪質なビデオも裏で金を動かしている連中には、大きな資金源だったんでしょうし」
 火箸の先が意味のない丸をいくつも灰の上に描いている。

「確かに、戦前からブルーフィルムってエロ映像は富裕層の間では流通していたんだがな、一般庶民には手の届かない娯楽だった。庶民には写真という静止画で楽しむのが精いっぱいってわけだ。それんな時代でも悪質な類じゃあ、本気の強姦だの輪姦だのってのがあったがな。ところがやっぱり楽しむんなら動画でなきゃ、ってんで、七十年代にはいってユーマチックやらが出だして、ついに数年前からは長時間再生用のビデオがでて、俄然活気づいたわけだ。マニアや金持ちが最初に楽しむのはもちろん、エロい映像だ。多少の金を注ぎ込んでも屁とも思わない連中が高い機材を買い込む。次に求めるのは刺激的な映像ってわけだ。世の中に出しても構わない可愛らしい作り物エロビデオは、世の中に浸透していくんだろうが、表には出せないえげつないものは闇に潜る。もちろん、映像じゃなく本番を、暗い場所で十分に楽しんでいやがるような連中だが、あまりにも残虐なものを求めたら、他人と一緒に楽しむわけにはいかない。だが、映像なら一人でだって楽しめるわけだしな。そういう連中は簡単にエスカレートする。普通にエロいだけじゃ、もうイケないんだよ。だからもっと刺激的なものを求める。そして、それを提供して儲ける連中がでてくる」

 仁は何かを確かめるように独り言のように話し続けていた。真は黙ったまま、火箸の先が描く線を、そして盛り上がっては崩れていく灰の小さな山を見つめいていた。
「俺が見た最悪の映像は、拷問しながら輪姦しまくって、更に死体を犯し続けていたやつだった」
 真は息を継いだ。その場面を頭に、文字としてだけ留めていた。画になると吐いてしまいそうだった。
 それでも、心拍数は上がり、じっとりと汗が脇を湿らせていた。

「それで、お前の相棒を苛めたのは、その弥彦の江田島ってやつなのか?」
 仁が何をどう結び付けて竹流のことを尋ねたのか、聞き返す気にはなれなかった。
「それはわかりません。第一、その人はフェルメールに固執して竹流を出し抜きたいと思ってはいても、彼をあんなふうにいたぶる動機はない」

 だが、物事をややこしくした可能性はある。もしかすると、竹流が一旦持ち出した絵を戻さなければならなかった理由がそこにあるのではないか。
「彼の手をあんなにするのには、相当の嫉妬心がなければできない」
「手?」
「あいつは修復師です。所謂職人だ。そいつは彼を普通にいたぶっただけではなくて、手を使い物にならないようにしたかった。勿論、それだけで彼の生業の全てが不可能になるわけではないし、レストランもクラブもギャラリーの経営も、十分に成功している。でもあいつの根幹を支えているのは、修復師であるという自尊心です。あいつの根幹を崩したいと思うのは、余程の憎しみか嫉妬の気持ちか、そういう得体の知れないものとしか思えない」

「嫉妬か。そりゃ、ややこしいな。で、それが江田島って男じゃないとすると、誰なんだ?」
 それだけはよく分からなかった。彼の修復師としての仕事によって利のある人物はいても、不利益になる人間はいないように思える。同業の人間がいて、彼の仕事を不可能にすれば自分に仕事が回ってくるというような単純な仕事にも思えない。
 だが、ただ彼の大事なものを奪いたいという種類の嫉妬なら、あり得る。そうなると、容疑者の数は膨れ上がってしまう。逆に、やくざのような理屈のない連中にやられた可能性もあるし、そういうことなら怪しくない人間を探すほうが難しくなる。

「それで、さしあたっては、その江田島って奴は何らかの罪に相当するのか?」
「絵を掠め取っていない限りはなりませんね」
「そうだろうな。しかし、今から蓮生を乗っ取ろうとしてるみたいだぜ?」
「蓮生にまだ絵が残っているなら、可能性はありますけど、少なくとも女性との結婚でない限り相続の権利は生まれませんよ」
「だが、贈与は可能だな。新しい当主からの好意で」
「絵が出たのは、下蓮生ですよ。上蓮生の当主を篭絡しても意味がないのでは?」
「そりゃそうか。お前の話では、下蓮生の若旦那はいやらしいおっさんで、死にそうにはないんだったな」

 そこまで露骨に言ったつもりはないが、当らずとも遠からずだ。
 丁度そのとき、吉川弥生が戻ってきた。そして、程なく上蓮生の千草から、親族会議が終わったので上蓮生に来て欲しい、との連絡があった。





次回から、第18章『その道の先に』です。
真の過去の物語に少し入り込みます。
真の告白あれこれがありますが、さらりと聞き流してやってあげてください。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【石紀行】10. 佐賀・巨石パーク(2) 

さて、引き続き、佐賀・巨石パークの石たちの顔をご紹介いたします。

第7の石:イナリ石(イナリイシ)
『五穀を司る倉稲魂(ウカノミダマ)を祀った石で、各種産業の守護神といわれ、オニギリの形をなしていることから、イナリ石といわれている』
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稲荷寿司に見えなくもないけど、どうかなぁ?という感じで、ちょっと発見しにくい石。でも、おにぎりと言われたらそうかもしれません。前回の兜石と比べてみると、先がとがっているのが違うだけ?

第8の石:誕生石(タンジョウセキ)
『この石から、すべての動物が生まれ、子孫繁栄・夫婦和合・腹ごみの神様と言われている』
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こんなふうに、少し山の斜面から飛び出た感じの石。その石の上を歩いて、明るい方へ行くと……
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この石、というのか岩の割れ目というのか、神頭石の側面のひとつと同じ、でこぼこ石(というより地面の続き?)です。ここから向こうの集落が見えます。
見晴らしも良くて、そして足元からは確かに……
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実は写真で見た時には、「ふ~ん」という感じだったのですが、行ってみて「誕生石、なるほど!」と思いました。このぼこぼこから、あるいは割れ目から何でも生まれてきそう。
そして、午後の陽射しが当たると、石が光るように見えて、その向こうの集落の景色も美しい。
ちょっとひと時、こうした山や石の来し方を想う時間となりました。
蚊、もうるさいけど。
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これは誕生石から下を覗いたところ。ちょっと怖い(私、高所恐怖症でした^^;)。

第9の石:屏風石(ビョウブイシ)
『小さな石の後ろにそびえ立ち、まるで屏風のような形を成していることから名付けられている』
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歩いていると、ものすごくでかい石がある!と思ったら……
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本当に屏風です。
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右下の方に写っている石を覆うような巨大な岩ですね。もひとつおまけ。
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さて、ここから先は巨大な石ばかり。まさに巨石パークに相応しい世界に入っていきます。

第10の石:烏帽子石(エボシイシ)
『平安時代の貴族がかぶった帽子に似ていることから名付けられた石で、烏帽子の形を成しており、高さ25尺(,約7.57m)、下部は洞窟を成している』
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誕生石から少し登って行ったところにあります。少し登っていくと、木々の間から空が……そして巨石が。
まるでこの巨石パークのシンボルのようにそそり立つ、不思議な岩。土台に当たる部分は巨大で、空を背景に烏帽子型の突端がそそり立つ、そういう形の岩です。
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これはちょっと感動します。でも、洞窟?がよく分からない。というよりも確かに小さな洞穴みたいのはあるのですが、もしかすると昔はもっと大きかったのでしょうか? それとも勘違いしているのかしら?
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上のように、洞窟の入り口っぽく見えるのですが、行ってみたら、こんな小さな空間。
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いずれにしても、この巨石パークの一押し、と言えそうです。
(一番感動したのは、この先の天の岩門だったのですけれど)

この先の3つは少し離れていますので、また山道を歩きます。
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次の巨石まで歩く間にも、こんなふうに所々で大きな石に出会います。

少し行くと、でかいものが木々の間に見えてきます。
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さあ、最後のエリアには、正直、どれがどれ?というくらい、見事な巨石が重なって見えています。
続きはまた明日。クライマックスシーンにご案内いたします。

Category: 石の紀行文(写真つき)

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【石紀行】10. 佐賀:巨石パーク(1) 

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さて、今年9月、熊本出張と夏休みをくっつけて、集中的に九州北部のいくつかの巨石を巡ってきました。
そこで、【石紀行】はしばらく集中連載となります(^^)
ラインナップは佐賀・巨石パーク→熊本・拝ヶ石→大分・佐田京石→大分・八面山

さっそく、まずは佐賀の巨石パークにご案内いたしましょう。

そうそう、こちらは前回の高千穂夜神楽紀行の際に、帰りに寄るはずだったのが、雨のため断念した経緯があります(こちら、雨天時は入れないのです。危なすぎる)。
そう言えば、その時、いじけながら阿蘇の山の中を走っていて、あの押戸の巨石に遭遇したのでした。
寒かったぁ~。でも、黒川温泉は幸せだったなぁ~

さて、巨石パーク、ってどんな楽しい所なんだろう!と名前で勘違いしそうですが、要するに巨石が山の中にごろごろある、という場所で、道程は例のごとく「ぷち登山」です。
またの名前を「世田姫石神群」。

世田姫(もしくは與止日女)と言うのは、九州北部の土地の神様のようですが、神功皇后の妹、あるいは豊玉姫命(海神の娘)と同一であるという説もあります。
いずれにしても、肥後国以外の伝説には出てこないということで、土地の神であろうと考えられているようです。

『肥前風土記』(730-740年ごろ編纂)によると、この嘉瀬川の上流にある巨石群は、肥後国一の宮として栄えた與止日女神社の御神体として祀られたものとされています。
かつて下流の魚たちは、毎年この川を遡り、世田姫に参拝する習わしがあるといい、これを捕えて食べると祟りがあると伝えられています。

さて、山の中に入るまでがこんなに分かりやすい巨石群も珍しいかもしれません。
これまでご紹介した巨石群は、まずその場所(の近く)にたどり着くまでが大変。目印がないことがほとんどで、迷子になりつつ、そして近隣の人に尋ねても「?」ということもあり、苦労して辿り着いたこともありましたが、ここはもう迷子になることなどありえない好立地。
と言っても、電車・バスで辿り着くのは大変そうです。車では佐賀大和のインターを降りて北上。道の右手にでん!と「巨石パーク」と碧の文字で書かれた巨石が立っています。

そのすぐ先に「道の駅 大和」というのがあって、地元の市場のように賑やかでした。
ところで、こちらはその道の駅で食べたソフトクリーム。干し柿味。う~ん、「ほしがき!」と言う感じではなく、極めてマイルドな味わいでした。
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さて、この巨石パークの入り口を入ると、細い道を上がって行くと、途中に受付?のような小屋があります。ここで駐車料金300円を払います。すると、下のような案内図がもらえます。
車はもう少し先の登山口まで行くことができます。
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さて、石をご案内する前に、今回の石巡りの教訓。
実はこれまで9月までに休みを取ることができなくて、石を見に行くのは大概11月ごろだったのです。というわけで、あることに気が付かなかったのです。

それはスズメバチとクマバチ、そして蚊の大群

登山やハイキングをする人には当たり前のことだとも思いますが、ちょっと迂闊でした。虫よけスプレーを持っていくことと、黒い服を着ないことと、そしてできればこの季節=夏は避けることを、お勧めします。
だって、石の上でゆっくり寛ぐことができないんですもの。

え~っと。写真を撮るのに立ち止まったら、わ~ん、わ~ん、と蚊に取り囲まれ(本当に写真に写るくらい)、立ち止まったら刺される!状態でした。おかげで、さっささっさと歩き続けることができたのですが……
スズメバチは、実はこの巨石パークに来たときには「知らぬが仏」で、まったくノーマークでした。あとで、大分の山に上がった時にネットでチェックしていて、「あ、そうか!」と。
幸い、今回は全くハチ類には会いませんでしたが……
ちなみに、この巨石パークのところでは「クマバチに注意」だそうで。

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では、気を取り直して、巨石パークに入りましょう。全行程およそ2時間ほど。少し離れたところの石を見に行くとなると、もう少しかかるようです。
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この山道の中に、名前の付いた巨石が17
本当はこのうち14の石を見るつもりだったのですが、蚊に苦しんでいる間に、肝心なひとつを見落としてしまいまして、結局13の石を見てきました。

さて、ご一緒に、山に上がりましょう。
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道はこんな感じです。ちょっと滑り落ちそうな場所などもありますので、足元注意。
色々学んで、今では杖と登山靴は必ず持って行っていますので、怖いものなしです。ちなみに、この巨石パーク、当たり前ですが、雨天時は入れません。
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石に向かって真っすぐ上る道もあるのですが、今回は少しゆったり目の迂回路(というほどゆったりではない)を辿り、滝を二つ見ていきます。
石神の滝と、烏帽子の雫
どちらもこれから巡る石を髣髴させる、素敵なネーミングですね。
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こんな風に、山から沁み出してきて、小川や滝になって流れ落ちていく水って、本当にいいですよね。

歩いている道すがらに巨石がごろごろ……名も無き石たちにも魅せられます。
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こんなふうに、石に木の根が……・
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そして、どれがそれ?とか言いながら、探していると。
ようやく17の石のうちのひとつが見えてきました。

第1の石:神頭石(ジトウセキ)
『形が神様の頭に似ていることから名付けられ、永く眺めているとご先祖の顔が見えてくる不思議な石と言われている』
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う~ん。顔が見えてくるようにも思えないし、頭にも見えないのですが、何とも不思議な石です。一周回って見ると不思議さがよく分かります。
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斜面にあるので、大きく側面となる面が3つあるのですが、それぞれ岩肌が違うのです。
いかにも山の石という面、何故かぼこぼこした面、そしてつるんとした面。
百面相とは言いませんが、確かに一つの石の中に色んな世界が見えるような気がしました。

それにしても、蚊の大群!
さて、ここから以下、造化大明神までは、斜面にそう遠くないところに点在していて、ちょっと見上げればそこにある、という位置関係。順番に見ていきましょう。

第2の石:道祖神石(サヤノカミイシ)
『本来、道往く人たちを守る神様と言われ、ここに来た人たちの交通安全の守護神。高さ23尺(約6.97m)、幅25尺(約7.75m)、上部は平面で長さ8.4m』
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二つの小さな石が手を合わせるように見える、その上に大きな石。道祖神というにはあまりにも迫力がありますが、道しるべにはもってこいの石、という気がします。
何だか、おいで、こっちだよ、と言ってくれているような石ですね。

登って行きましょう。下は名もなき石。名もなき石がすでに巨石ですものね。
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第3の石:御舟石(ミフネイシ)
『神代の昔、大海原を石神様が当地への航海に使用なされた舟と言われている』
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この石は大変わかりやすい形です。確かに舟と言われたら舟だね、という形。
この辺りには他にもごろごろ石があり、名も無き石も結構曰くありげに見えてしまいます。もちろん、石にはそれぞれストーリーがあるのでしょうね。
そう、この巨石パーク、石に物語を感じ、それを伝えてきた歴史を感じられて、興味深いのです。
ちなみに、一応石の傍には、標識みたいなのがあるのですが、ちょっと分かりにくい位置関係に置いてあるので、たまに惑います。

この御舟石の周囲にはゴロゴロと巨石が集まっています。
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第4の石:兜石(カブトイシ)
『武将が戦いのときにかぶったものに似ていることから名付けられ、武将の肉体は滅びても兜と大和魂を今も残している』
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これもまたそれと分かる形をしています。形からあれこれ想像して、それにまつわるものとして祀る。
これって、星座にも通じるものがありますよね。

第5の石:龍の石(リュウノイシ)
『龍が天に昇る姿に似ていることから名付けられた。大願成就の神様と言われている』
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これは、御舟石の後ろにあります。手前にあるのが御舟石です。
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龍の頭だけなのかなぁ?
龍というと長い姿を想像しますが、これは何ともずんぐりしている。でも、大きな石が山の斜面を這い上るように見えるので、迫力があります。

ところで、記憶が曖昧なのですが、もらったチラシにはなかったのですが、標識に『亀石』と書かれていたのを見たような??
確かに、亀の頭に見えるよね~と言っていたのですが、自分たちで勝手に名前を付けていただけかしら?
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第6の石:造化大明神(ゾウカダイミョウジン)
『天地万物をお作りになった神様と言われ、世田姫を祀られており、與止日女神社の上官として明治の中頃まで毎年11月20日祭典を執行されてきた。男神石・女神石から成り、一見屋根の形をなし、その下は洞窟にして人の通行が自由である』
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こちらは、巨石というよりも祠です。石が重なり、完全な祠の形になっています。
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下は潜れるようになっていて、まさに神社の中、神の域という気がします。
中に人がいるの、見えますでしょうか。
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反対から見ると、こんな感じです。

さて、第6の石まで来ました。クライマックスはまだまだ先です。
続きます。明日もお楽しみに!!


Category: 石の紀行文(写真つき)

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[雨84] 第17節 豪農の館の事情(2) 

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さて、仁の毒舌、いよいよ全開です。
いささか色っぽい内容も、仁が言うと、なぜかスポーツみたいに聞こえてしまう、この人はそういう人なんですね。
先のことはさておき、この『海に落ちる雨』では清涼剤。時には助け励まし、時には厳しいことをずけずけ言い、時には真っ先に駆けつけて助けてくれる。そんな彼も、美和のことになると、自分をちょっとばかり見失う……というのか、自分でどうしていいのか分からないのかもしれません。
真相手なら、余裕綽々なんですけれど。

さて、余裕綽々なので、とんでもないことを言っていますね。
5年で落とす……いいのか、そんなこと言って。
あの人が化けて出るよ?(あ、まだ生きているはず……)




 お手伝いの女性が覗きに来て、お茶が入ったと告げた。
 当主は目を閉じて、今度こそ中途半端な眠りにつこうとしていた。
 真は、女性の案内で、仁と一緒に玄関近くの土間脇の囲炉裏端に座った。よく磨かれた床には、天井の梁が映ってさえいる。

「千草さんが、連絡するまでここでお待ちいただくように、と言っていましたよ」
 そう言って、女性はどこかの料亭から届られたようなお膳を並べた。
「お姉さん」仁は年配の女性に優しく呼びかけた。「お名前を教えて頂かないと、呼びにくいなぁ」
 仁の贈り物に気を良くしている女性は、まさか仁がヤクザだとは思っていないだろう。
「吉川といいますだ」
「下の名前だよ」

 何を言うの、というように手を振って照れながら、女性は弥生、という垢抜けた名前を名乗った。
「弥生さん、ちょっとこいつを横にならせてやってくれないか」
 吉川弥生という麗しい名前のお手伝いは、事情を確認して、真のために簡単な敷物と掛け布団を運んできた。
 遠慮しようとしたが、仁の強引さに負けた。仁は仁で、真を自分の側に寝かせると、やっと安心したような顔をした。

「ところで、弥生さん、蓮生家とは長い付き合いなのか」
 仁の向かいに座った、こじんまりとした姿形の女性は頷いた。
「そりゃあもう、うちは、古い時代から蓮生の本家の番頭でしたんで」
「番頭?」
「へぇ。蓮生の家が北前船を扱こうとった時代からです」
「じゃあ、親戚じゃないわけか」仁の声が、床を通して耳の骨に直接響いてくる。「今日は何やら親族会議らしいが、何か揉めてるのか」

 投げやりな言葉遣いなのに、親密さがある仁の声は、年配の女性にも警戒心を抱かせていないようだ。
「そりゃあなた、千草さんには子どもがないんで、跡継ぎを決める会議ですよ」
「蓮生千草、ってのは独り身なのか」
「旦那さんはおったですがね、結婚して直ぐに亡くなられました。その後、婿に入る者がおりませんでしたからね」
「あれだけの美人だ、引く手数多に思えるがな」
「あん人は、異人の子だ言うて、気味悪がる男が多かったですから。お可哀相ですけどね。ここの若旦那に比べたら、ずっと立派な当主だと思いますけんど、上手くいかないもんですね」
「異人の子?」

 真が横になったまま気配を窺っていると、吉川弥生は少し仁と真のほうへ膝を進めたようだった。聞き耳を立てる人などいないだろうに、秘密の話をするような、少しトーンを落とした声で話す。
「昔、蓮生の家が預かった異国の娘さんが産み落とした子どもの、そのまた子どもってわけですよ。噂ですけんどね」
「へぇ、そりゃあまあ、えらく込み入った話のようだな。で、誰がその美人の養子になるんだ?」
「時政さんとこの倅ですだ」

「時政?」
「ここの旦那さんの脇腹の子どもなんですよ。県庁に勤めてましてね、病弱なんはここの旦那さんの血ですかね、また呪いで死んでしまうんじゃないかって、ここじゃ皆心配してますよ」
 跡を継いだだけで死んでしまうのでは、割が合わない。だがいずれにしても、呪いにはやはり根拠はなさそうだった。
「それにね、ここだけの話ですけんど、女の人に興味がないんだって、噂なんですよ」

「そりゃ、つまりあっちの趣味があるってことか?」
「東京の大学で美術の勉強してたそうですけどね、芸術家っていうのはそういう人が多いそうですね」
「芸術家だけじゃない、ヤクザにも警察官にも自衛隊にも多いんだぜ。昔は寺の坊主どももそうだったって言うじゃないか」
「あら、そうなんですか」
 仁の巧みな話術にすっかり嵌まり込んだ吉川弥生は、蓮生家のあれこれを洗い浚い話してくれそうだった。恐らくこの界隈では、蓮生の家はゴシップの格好の対象なのだろう。

「寺じゃ女色は御法度だが、男色は構わなかったのよ。寺小姓ってのはその相手をするためにいたっていうからな。男ばっかりの環境じゃあ、自然師弟愛が高まるって事もある。ギリシャでもそうだ。年上の男が教育を含めて年下の男の身体を可愛がるってぇのは公認の愛の形だったんだ。それに男ってのは支配欲が強いからな、相手を組み敷くときにはそいつの身体も精神も、ものにしている満足感に浸りたいんだよ。それにあっちの方は、一度味わってしまうと、女では味わえないような気持ちよさなんだ。する方もされる方もな。女のあそこより締まりがいいし、されるほうは前立腺を刺激されるともう狂ったように気持ちがよくなる。もとから男ってのは穴があれば何でも突っ込みたいって性根なんだ、それが半端なく気持ちいいとなりゃあ、嵌っちまってもしかたがないだろう? 根っからのホモじゃなくても身体の方でたまらなくなっちまう。しかしまあ、そういうのは恥ずかしい話でも何でもないんだ。それは単なる嗜好の問題で、どういう交合いが気持ちいいかってのは、人それぞれだからな」

「いやですよ」
 吉川弥生は満更でもないように話に乗ってきていた。仁は、ちょっとした秘密を共有する印象を、弥生の頭に植え付けたのだ。
 それにしても、自分を棚に上げて、よくもそんな事を話しているものだと思った。この女性は、仁もそういう人種の端くれと知ったらどう思うだろう。もっとも、仁の場合はバイセクシュアルだが。

「で、その時政の倅には相手がいるのか」
 すっかり仁の話術に引っかかっているらしい吉川弥生は、ひと膝、仁の方へ寄った。
「そうなんですよ。それが、うちの息子が見たんだってえ。弥彦に住んでる人だそうですよ。随分年上の人みたいですけどね。何でも、フランスに留学してたことのある人だそうで。フランスにもそういう人、多いんですよねえ」
 思わず真は跳ね起きた。仁が驚いた顔をしている。

「それって、まさか」
「何だ、お前知ってるのか」
「弥彦の江田島、という人じゃ」
「名前までは知りませんけどね」
 吉川弥生は、有意義な情報を提供できないのが悔しいとでも言うように、少し残念そうに答えた。

 真は仁に布団に押し戻された。そうしながら、仁は弥生を刺激するように、わざとらしく声音を作ってみせる。
「うーん、しかし、そう聞くと、確かに呪いという気がしてきたな。うん、確かに、呪われとる。女の怨みは怖そうだ」
 真剣な表情で仁が分析する様を見ながら、吉川弥生は楽しそうに笑った。
「蓮生には女の幽霊がついてるって噂ですからねえ。私が娘の頃に、そういう地元の噂話を集めた雑誌が出てましたよ」
「弥生さんが娘の頃っていうと」
「もう二十年以上前のことです。いやですよ」
 吉川弥生は照れたように手を振る。

「地元の噂話ってのは面白そうだな。ちょっと聞かせてくれよ。他にどんな話があったんだ?」
 仁もますます身を乗り出すようにしている。仁が単純に興味を示しているのか、弥生をその気にさせて何かを聞き出そうとしてるのか、真にはさっぱり分からなかった。
 多分、どちらも本当なのだろう。
「蓮上に関係していると皆が噂していたのは、ロシアから連れてこられたお姫様の話でしたよ。足を切られて蔵に閉じ込められてるって。あとは、佐渡のどこかから古い翡翠の仏様が掘り出されて、それが家の戸口に立ったら家が繁栄するとか、どこかの祠に秘密をひとつ書いて置いておくと、その秘密と引き換えに鉄やら金やらが貰えるとか」
「傘地蔵か何かみたいな話だな」

 確かに、座敷わらしや蘇民招来伝説みたいに、よくある民話のステレオタイプの物語に聞こえる。だが、民話や噂話に紛れさせて、本当のことを残しておくというのはありがちなことだ。それはある意味では、悪質なできごとへの抑止力、もしくは脅迫に使えるからだ。
 足を切られるというのは、ある意味、恐ろしく現実的な内容だ。

「それで、弥生さんよ、本家の血筋はもう途絶えたって聞いたけど、屋敷はどこにあったんだ?」
「ご先祖はもともとは奥州藤原氏と関係があったとか、源義経の子孫だとか、言われてますけどね。鎌倉幕府の追っ手から逃れて羽黒山で山伏になったとかいう話もありましたっけねえ。江戸時代には村上に大きな屋敷を構えてて、座敷には金屏風を立てまわして、蔵も四十八、いろは蔵って言ったそうですよ。その頃には荒川の土地はほとんど蓮生の持ち物でしたからね、村上に分家を残して、いつの頃か関川に移ったそうですよ」

 そんな民謡があったな、と真は思いながら聞いていた。まさに、よくある眉唾の歴史だ。
 だが、百の嘘っぽい話の中に、ひとつだけ真実が混じっていることだってある。
 今、まさにその一つを手繰り寄せようとしている。どれが本当の話なのか、どれが贋作ではなく本物の絵なのか、あるいは全て嘘と偽物ばかりなのか、何の手がかりも与えられないままで。

 暫くすると、吉川弥生ははっと気が付いたように席を立った。
 自分の家の昼の仕度に戻らなければならないという。小一時間で戻るので、ゆっくり食事をして欲しいと言って、吉川弥生は少しの間の暇を告げた。仁と話すのが楽しかったのか、明らかに残念そうな顔だった。

 彼女が去ると、仁が伸びをして、真の顔を覗き込んだ。
「お前、何か食えるか?」
 真が首を横に振ると、仁は納得して自分は食事を始めた。
「仁さんには感心します」
「何がだ?」
 真が黙っていると、仁は刺身を口に放り込んだ後で、にやりと笑った。
「連れてきてよかったろ? 俺には絵がどうだの、戦争の歴史的背景だのはわからんからな。代わりに、人間の欲望には敏感なだけさ」

 仁の一刀両断的な話の切り取り方には、時々無茶だろうと思う面もあるが、逆にそういう割り切りが真実に近いと思う時もある。
「世の中、男と女が乳繰り合うので成り立ってるんだ。例えばな、さっきの爺さんの話もそうだ。蔵の中で男どもが綺麗な異国の女を慰み者にしてたってのも、蓮生家の呪い、って面白い話を刷り込まれた爺さんが、子どもの頃に見た僅かばかりの記憶から物語を作り上げただけかもしれないぞ。実際は、女の方も満更じゃなくて、ただ乳繰り合ってただけかもしれない。まだ子どもだった爺さんには、女が苛められて泣いたり叫んだりしていたように見えたかもしれないけどな、気持ちよくても泣いたり叫んだりするわけだ。爺さんはその後、潜在的に蔵や奥の部屋がおっかなくなって、何が起こってもそれに結び付けてしまうようになる。お前の同居人が来たときも、爺さんは『お使い』が来たんじゃないかと思ったろうよ。それでボケてるふりができなかった、って気がしないか?」

 確かに、子どもの頃に見た瞬間の場面が意識の底に残って、それを核に現実と僅かにずれただけの物語が作られてしまうことはある。それについては、真自身もそういう物語に取り込まれてしまっているのかもしれない。
 こうしてあっさりと面白そうに語る仁にも、あるいは満州での深い記憶の傷があるのかもしれない。

「それに何ですか、女じゃ味わえないような気持ちよさだとかって」
 思わず呟くと、仁がにやりと笑った。厳つい顔つきなのに、こういう笑い方をすると、この男は本当に色気がある。
「試してみるか」
「だから、遠慮しますって。俺が言っているのは、そういうことを女性に言いますか、ってことです」
「お前も本当はそう思ってるってことだな」
「何も言ってません」
「いや、あの男はノン気だからな。ちゃんとやり方を知っているとは思えん。どうせそういう場面になれば、ひたすらがっついてくるんだろう。相手の身体が女と同じだと勘違いしてやがる。俺なら大事に、痛くも苦しくもないように、ただただ気持ちよくなるように抱いてやるぞ」

 真が仁を睨んでいると、仁は面白そうに笑って、寝転がったままの真の頭を撫でた。半分はからかっているだけだと思うものの、あとの半分はそれだけではないようで、それが恐ろしい。
「お前、本当に大丈夫か」
 突然、仁が心配そうに尋ねてきた。真は頷いて、それから身体を起こそうとしたが、仁に止められた。
「悪いことは言わん。できるだけ横になってろ」

 真はそう言われて、目を閉じた。
 今いる場所が、自分自身との関わりの中で、何故かひどく不安定なものに思える。足下が覚束ないからだとはわかっていても、この土地に来るたびに感情が大きく揺れ動かされているような気がする。
 色々な出来事が、この新潟で重なっているのだ。

 何度も繰り返される地名。
 竹流が残していた唯一の手がかりは新津圭一の事件の記事だった。その事件の頃、竹流は新潟で仕事をしていた。新津圭一の残したフロッピーにはIVM、竹流の残した額縁は十七世紀のオランダのものに相応しいもので、実際には新潟県庁の会議室のフェルメールの贋作に使われていた。その絵が出たのは、蓮生家の蔵からだった。
 新津圭一は新潟の出身だ。彼自身の出身地で起こっていた事件、記者であった彼が掴んだ某かの証拠。彼は記者倫理を侵し、情報を強請りのネタに使って自殺したことになっている。
 新津圭一の愛人だった香野深雪、彼女もまた新潟の出身だ。彼女の両親は糸魚川で古い時代の収賄事件に絡んで自殺している。
 もう一人、新潟に関係のある人物がいる。村野耕治だ。

 言葉遊びのようなものだ。何から何を連想するか、赤いのはりんご、白いのは兎、そういった程度の曖昧な連想。
 他にも、この北陸の地名をどこかで聞いている。
 竹流が火傷を負ったのは佐渡だった、と聞いている。寺崎昂司を庇ったという火傷だ。だが誰も『そう聞いている』という次元の話で、現場に居合わせたわけではないので、竹流の言葉をそのまま繰り返しているという印象を受ける。竹流と寺崎昂司の間だけにある何か、それを他の仲間たちは決して面白いとは思っていない気配がある。
 佐渡にあるという竹流の隠れ家。その存在が真をある意味では傷つけている。

 何となく引っ掛かっている中に、どこかでもう一度北陸の話を聞いた気がしたが、思いだせなかった。
 キーワードになっている地名はひとつではないのかもしれない。
 もうひとつの地名、それは異国だ。

 ソ連のキエフ。ロシアの皇帝の血族の生き残り。今の体制の中では息を潜めて暮らしている。貴族という特権階級は、崩れてしまった過去の遺物でしかない。しかし、その老人が死を前に儚い夢に縋りついても罪にはならない。竹流は、死に瀕した老人に絵を返してやって欲しいと、そう蓮生の主に言ったようだった。竹流自身もまた、貴族の血統だ。イタリアの貴族、しかも以前聞いた話では、母親はスウェーデン貴族の出身だという。
 その老人からの依頼を受けた時点では、竹流の仕事はいつも通り『楽しい』仕事だったはずだった。ところが、彼がウクライナに行くたびに、事情が変わっていったという。

 でも、何故、死にかけた老人は、贋作などを返して欲しいと言ったのだろう。寺崎の言っていた、特別な贋作、とはどういう意味だったのか。
 楢崎志穂の友人、御蔵皐月は絵の勉強をしにソ連に行ったという。しかし、何故ソ連なのだろう。絵の勉強をしに行くのにメジャーな場所とは思えない。勿論、美の殿堂のひとつ、エルミタージュがあるわけで、おかしいとは思わないが、選択した理由はなんだろう。そして、彼女は『お父さん』つまり村野耕治の息子に会ったといった。
 御蔵皐月は、村野に才能を見込まれて、絵の勉強をしていた。パリに留学していた、と。
 パリに留学して絵の勉強していた人間が他にもいる。江田島道比古。フランスはフェルメールとも関わりがないわけではない。十九世紀にフェルメールを一躍有名人にしたのはトレ・ビュルガー、フランスの批評家兼美術商だ。

 だが、事件は日本国内で起こっている。竹流は、遠くへは行かないと言っていた。つまり、異国に行くわけではない、という意味だったのだろう。きっかけがソ連にあったとしても、今、事態が動いているのは日本の国の中、しかもこの新潟の地に思える。
 とすれば、竹流はここにいるのではないのか。
 それはあまりにも短絡思考だろうか。
 新潟に向かう夜行の中でも、新潟のホテルでも、ずっと彼の夢を見ていた。自分の霊感が役に立つなどと言うつもりはないが、少しばかり他人より強いという気もする。何より、彼の事に関しては、妙な勘が働くという自負もある。
 勿論、単に自分を慰めているだけなのかもしれない。少しでも彼に近づいていると思いたいだけなのだ。

 ふわりと大きな暖かい手が頭に置かれた。錯覚を捨てたくなくて、目を開けなかった。
「抱いてやろうか?」
 北条仁が、いい気分を一気に吹き飛ばす強引さを持っていることを、忘れていた。
「遠慮します」
 目を開けてそう言った瞬間、仁に抱き起こされた。そのまま抱き締められて、真は思わず抗う瞬間を逃してしまった。
「仁さん」
「心配すんな。何もしないよ」
 だが、仁の腕の力は強かった。
「だったら、放してください」
 何か言葉を継いでいないと自分自身まで流されてしまう気がする。
 仁は腕の力を緩めないまま耳元で囁く。幾分かだみ声がかった低い響きが、直接胸から伝わってきた。
「何か、急に愛しくなっただけだ」

 危ない男だ。仁がいい人間か悪い人間かは未だに判断がつきかねる。唐沢の言うように、じわじわ攻めてくる、というのはあながち間違いでもない。今日は何もしないけれど、いつかは、という根深い強引さも、仁は持っている。
「離してください」
「お前、俺に借りを作ってるはずだろ」
「分かってますけど、それとこれとは別でしょう?」
 仁は暫く黙っていた。何を考えているのだろうと思った時、真の頭を強く抱いた仁が耳元で囁いた。
「五年でお前を落とす」
「何を」

 真は漸くそれだけ言った。真剣で怖い声だった。真の身体には抗う力が残っていなかった。
「お前が今弱ってんのを知ってて、つけ込んでるんだ。恐ろしく不安で寂しい、万が一にもあいつが帰ってこなかったらどうなるか、考えたくなくても身体の奥で渦を巻く恐怖がある。それを俺にぶつけてもいいぞ?」
 そう言って、仁は真の顔を両手で包みこむように覗き込んだ。真剣で怖い目だと思った途端、仁がにやりと笑った。
「深刻に聞いてるな。いい兆候だ」
 そう言ったなり、仁は面白そうに笑った。冗談なのか、と思う反面、恐ろしい気もした。
 仁は真を抱きとめて支えたまま、頭を撫でるようにしている。
「さあ、名探偵、ちょっと謎解きの一端を聞かせてくれないか?」




あれあれ。
仁には気をつけましょう。本当に、いつか口説き落されます。
次回で第17章は終わりです。割と短かったですね……(私にしては)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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[雨83] 第17章 豪農の館の事情(1) 

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【海に落ちる雨】第17章です。
フェルメールの贋作を巡って行方が分からなくなっている同居人、大和竹流を探してたどり着いた新潟。
問題の贋作が蔵から見つかったという豪農の館には、複雑な歴史もあったようです。
さて、この章ではその歴史を紐解いていきます。
このあたりから、前半のエピソードを拾って行きます(=謎解き篇。謎というようなものはでてきていませんが)。
前半を読むのが面倒くさいときは、ここから入ってくださっても、意外にいけたりするかもしれません。
前回から、真の旅に付き合ってくれている任侠の男・北条仁の毒舌、全開です(次くらいから?)。

写真の解説。
IL DIVOと嵐の新譜と一緒に並んでいるのは、この物語を書きあげるのに力になってくれた本たち。
内容とは関係ありませんが、頑張って最後まで書こうと思わせてくれた、そんな勇気をくれた本。
『雨月物語』はたまたま並んでいるだけです^^;
この中の『菊花の契り』をテーマに【百鬼夜行に遅刻しました】第3話(秋物語:菊)を書くつもりだったのですが、結局、今、お能の『菊慈童』をテーマに書いています。Stella/11月号に間に合うはず……





 村上まで降りると、駅前で花屋と洋菓子屋を見つけて、薔薇とケーキを買った。意外にも甘党の仁は、ケーキの注文ひとつでさえうるさいほどだった。
 こういう妙なこだわり方は、確かに女がこだわるより男のほうがしつこいこともある。
 同居人の料理全般へのこだわりも同じだ。

 賢二を引き取っていた頃、晩秋にマグロがあがったと大間から連絡があって、早朝から叩き起こされて車に乗せられた。賢二は一体この男は何なんだ、と思ったようだ。
『うるせえオヤジだ』
 思わず呟いた賢二には、真も同感だと思う面もある。

 同居人に言わせれば、食材にはその時、というものがある。それを逃したら本当に旨い物は食べられない。だから、万難を排してその場所に食べに行く、というわけだ。
 うるさいオヤジだと言っていた賢二は、大間で生マグロを口に入れた瞬間から、態度を変えた。一気に尊敬の念が湧き起こった、と言う。

 いくら何でもそれは大袈裟だと思ったが、家族の愛情に恵まれなかった賢二は、本当に旨いものを、つまり心の籠もった旨いものを食べたことがなかったのかもしれない。竹流は、他人を口説くときはまず胃袋を抑えろ、という信念を賢二に対しても実行したわけだ。

 千草から連絡が入っていたらしく、お手伝いの年配の女性は、何の疑問も持たずに真と仁を下蓮生の屋敷に招き入れてくれた。
 門を入るときに改めて周囲を見渡したが、どこに元々蔵が建っていたのか、今となっては分からない。
 空を見上げると、鈍い色の空から細かな雨の粒が降り落ちる。身体が熱っぽいのは仕方がないとしても、それを冷やしてくれるほどの効果はなさそうな曖昧な温度で、ただねっとりと纏わりつく湿度に、身体が一層重くなる気がした。

 お手伝いの女性は仁の差し出したプレゼントに感激したようで、いやに愛想よく、そのまま主の眠る部屋まで案内してくれた。
「しかし、ごっつい家だな」
仁は玄関を入ってすぐの土間から天井の梁を見上げて呟いた。
「こりゃあ、ろくなことはしてねえな」

 耳元に囁かれて真は、え、と思った。仁が不思議そうに真を見る。
「どうした?」
「いや、左耳、聞こえにくくて」
「お前、だいぶ殴られたりしたんだろ。鼓膜でもやられてるんじゃないのか」
 そうかもしれない。
 さりげなく、仁が真の右側に回った。

 お手伝いの女性は、仁と真を蓮生の当主の部屋に通した。家の南の端で、サンルームのような広く明るい部屋だったが、生憎の雨では太陽の恩恵も感じられなかった。
 当主はその部屋の大きな寝椅子に横になっていた。七十と言えばそうかも知れず、八十と言われればそうかもしれない。十分に戦争は二つ、彼の生涯に起こっていただろう。

「旦那様、上の千草さんのご紹介で、お見舞いに見えられたですよ」
 主人の耳元で大きな声を出して、お手伝いの女性は言った。当主はお手伝いの女性の方に顔を向け、それから仁と真に曖昧な視線を向けた。

 真は仁につつかれるように、前に出た。
「私は向こうにいますからね。御用があったらお呼びください」
 女性は真と仁に愛想のいい笑みを見せて、出て行った。せっかく美味しいお菓子を貰ったのだ。ここに長居する理由もなかったのだろう。

 暫く、誰も何も喋らなかった。
 小雨が縁側のガラスの向こうで、穏やかな音を重ねていた。小降りだからか、雀の鳴く声も混じって聞こえてくる。軒下から滴る水音だけが、時々大きく反響した。
「千草の奴め」
 ぼそり、と当主が呟いた。真は思わず仁と顔を見合わせた。
「もっとこっちに来るだ」

 恐らく、蓮生千草は真と美和と話をしてから、この当主が本当はぼけていないことを確認しに来たのだろう。
 その時に、千草とこの当主の間でどんな会話が交わされたのだろう。
 真と仁が側に寄ると、当主は脇の椅子に座れというように、僅かに右手を上げた。取り敢えず言われるままに真は座り、仁は多少離れて真の後ろに立った。

「お前は何で首さ、突っ込むだ」
「友人を探しています。彼はこの家から見つかった絵のことで、行方不明になっています。あなたが何かご存知なら、教えて頂きたいんです」
 暫くの間、当主は視線を宙に浮かせていた。その沈黙の間に、やはりこの人はボケている、と言われたらそうかもしれないと思い始める。

「絵か。あれがみんな悪さをしとる」
「誰が絵を欲しがっているんですか。本物か、もしくはそれに近いものが?」
「本物? あれらはみんな贋物だ。そう言われてわしの親父が預かったんだ。今更、本物かどうかは知らん」
 仁が落ち着けというように、真の肩に手を置いた。

「あなたのお父上に預けたのは誰なんですか」
「わしは子どもだったし、よう知らん」
「ロシア人の女性も、ですか」
 下蓮生の当主は皺に埋もれた目を開けた。

「わしもよくは知らね。ロシアで革命が起こった時に、国から逃げ出さなければならなかった人間もおったんだろ。下にも置かない扱いだったんだ。けど、約束の日が過ぎても迎えは来んかった。蓮生には預かり物がそのまま残ったんだ」
「他にもロシア人がいたのか?」
 質問したのは仁だった。

「あぁ。戦争の後、暫くして、どういう種類かは分からんが、大層偉そうな人間が出入りするようになった。連れて行かれた人もようけおった。捕虜や処刑された者もおったかもしれん。女は残されたけんど、扱いに困ってそのうち蔵で生活するようになった。あれは座敷牢みたいなもんだった。綺麗な顔して、綺麗な服を着ておった。時々」
 当主は何かを言いかけて留まり、絡んだ痰を吐き出すような咳をした。そして一息ついて、続けた。

「その頃から、蔵にまた預かりもんが増えだした。女は時々妙な歌を歌うようになったり、急に泣き出したりするようになって、ある時から姿を見んようになった。それから、昭和になって蓮生の血筋の男子は、次々に死んでしもうた。呪いだ、皆、そう言っとるべ」
 呪い、と言われて、なるほど、とはさすがに思えなかった。

「預かり物の中に、絵があったんですね」
 当主は暫く口の中でもそもそ言っていたが、暫くして多少はっきりした声で言った。
「絵だけではなかった。けど、十年ほど前、絵を見せてくれと言ってきた男がいた。どこで聞いてきたのかはわからんけんど、しばらく絵を調べてから、売ってくれないかと言いよった。売ると言っても、親父も亡くなっとるし、元は誰のものかも分からん、それは無理な相談だと言った。けんど、七年くらい前から県の文化教育課だの、どっかの大学の先生だのがやって来るようになった。新潟の古いものを集めて美術館を作るだの、どこかに寄付できるものはねぇかだの、煩くなった。そうしたらまた、蔵で夜になると女が泣き始めた。恐ろしいなって、火を点けることにした」

 当主は疲れたのか、一旦黙り込んだ。
「けども、全部は燃えんかった。幸い日誌やらは皆燃えてしまっていたし、もうあん頃のことを知っとるのはわしだけだ。例え何か見つかってもうちの者は知らんかったことで済む。それでええと思った」
「その、十年ほど前に絵を売って欲しいとおっしゃった方は、幾つくらいで、何を売って欲しいと言ってこられたんですか」
「若い、あんたよりももう少し年を食ったくらいの、三十になるかならんかの男だった。絵は、詳しくは分からんけど、オランダの何とか言う画家の絵が欲しいと言うとった」

「フェルメール」
 真がその名前を出しても、当主は首を横に振っただけだった。違う、というようではなく、分からないという様子だった。
 当主はうつらうつらとし始めたように見えた。ボケているというのが芝居であっても、年齢を考えれば十分に現世と夢の世界を行き来してもおかしくない。
 真は、まだ何か大事なことを聞き出せていないような気がしたものの、どう切り出していいのか分からなかった。

「ところで、爺さん、あんたわざわざボケたふりまでして隠し通そうとしたものを、何でまた急にしゃべる気になったんだ?」
 突然、仁が強い語気で言った。真は思わず振り返って仁を見上げる。
 当主は目を開け、それからまた閉じた。一瞬、笑ったようにも見えた。
「墓場に持って行くだけじゃあ、面白くないと思ったわけか?」

 仁の更なる突っ込みに、当主はもう一度目を開けた。
「千草は言いよった。もう家には継ぐものもいねえ。村から若い者は皆都会に出て行く。蓮生の家では跡継ぎの男子はもう、時政んとこの倅しかいねぇ。千草は時政んとこの倅を養子にするつもりだったけど、それはなんねぇと言いにきよった。千草はわし等に恨みを持っとる。蓮生が滅びたほうがええ、と思っとるんじゃ」

「千草さんは御結婚されていないのですか」
「千草の婿は死んでしもうたんだ」
 真はほんの少し息をついた。
 実のところは息苦しくなってきていた。身体が熱っぽく、脈が速くなっていた。仁がその気配を察知しているように、真を支えるように直ぐ後ろに移動してきた。

「お前さんが探しとる、いうのはどんな人だ」
 蓮生の当主の質問は、奇妙に優しげに聞こえた。真は思わず身体を乗り出した。
「美術品の修復師です。日本人ではありませんが、主に屏風絵や浮世絵、それに宗教画を扱っている」
 暫くの時間を置いて、当主は真の方を見た。

「半年ほど前、背の高い綺麗な青い目をした男が訪ねて来たべ。その男が来たのは二度目だった」
「二度目?」
「始めに来たのは、三年か四年ほど前だ。お前さんが今言った、なんとか言う画家の絵を元の持ち主に返したいと言ってきよった」
「元の持ち主に返したい?」
 そういうことだろうと思っていた言葉が投げ掛けられて、真は何故かほっとした。

「ソ連のどこぞかに住む爺さんが死に掛けとって、絵をもう一度見たいと言っとると、そう聞いた。けんど、火事の後で、結局うちの馬鹿息子が蔵の中のものを処分した後だった。ほとんどは上手く丸め込まれて寄付したり、二束三文でどこぞかの蒐集家に売っ払ってしもうとった」
「その絵は、県に寄付された絵だったのですか」
「何処へ行ってしもうたかはわしも知らん。そのように言ってやった」
「それで、何故もう一度、彼は訪ねて来たのですか? 何と言って?」

 当主は更に躊躇ったようだったが、漸く決心したように尋ねた。
「その人は、あんたの何だ?」
「何、とは」
「あんたは警察でもないのに、何故その男を探しとる」
 真はどう答えていいものか、考えた。だが、その返事は仁が横から掠め取るようにして、強い語気で答えた。

「その男はこいつの親兄弟も同然だ。この世のどんな絆より深い縁で結ばれてんのさ。だから、ヤクザに無謀に突っ込んでいって、身体は傷だらけ、薬で頭は朦朧としてる。爺さんが協力しないんなら、下手すると、どっかに化けて出るかもしれん。そうなったら、あんたもあの世でも寝覚めが悪いだろうよ。なんせ、こいつは霊感が強くて、小さい頃の遊び相手は伝説の小人ときてる」
「仁さん」
 何故仁がそんなことを知っているのだろうと思った。大体、竹流にもそんな話をしたことがない。その理由の一部は、竹流がオカルトや幽霊の類を嫌っているし、信じてもいないからだ。

 仁の言葉は相手をおちょくっているようで、半分は脅しに近い。だが、意外にも効果は覿面だった。
「もう一枚、同じような絵があるはずだと言ってきよった。それは、第二次大戦の前後で、蓮上が預かったはずだ、と」
「同じような絵?」
 この話は、寺崎の言っていたことと一致する。絵は、二度日本にやって来た、と。だが、もう一枚、とはどういうことだろう。同じ絵が二度、海を渡ったという意味ではなかったのか。
「同じオランダの画家の絵だと言っておった。知らんと、答えた」

 真は何となく引っ掛かっていた事に漸く自分で気が付いた。
「あなたは、その時にはもう、ボケたふりをしていたんじゃないんですか? 彼とは話をしたということですか? 何故?」
 当主は少し、引きつったような顔をしたが、答えなかった。迷っているのか、何かが引っかかったのか、目を閉じて真の質問をやり過ごしたように見えた。

 だが、真の後ろに立っていた仁が、断定的に言った。
「青い目に金の髪を持っていたからだな」
 真は思わず仁を振り返った。振り返るなどという余計な動作をすると、身体がふらつく。その真の肩に仁の手が触れた。
「俺は絵の事はよく分からんが、どうもその女の事が気になる。あんたの話を聞いてると、俺と同じで絵の事はよく分からん、けど女の話は随分具体的だ。何というか、あんたが気にしていたのが分かる。そのロシアの女は、大方金髪碧眼、つまりこいつの探している男と同じ髪と目の色をしていた。あんたは、その目の前では、ボケたふりをし通せなかった」

 当主は長い息をついた。
「呪いを解きたきゃ、事実を話すことだな」
 仁と一緒に来てよかった、と思うのは不謹慎かもしれないが、自分ではここまで威圧的にはなれないだろう。真はそう思って、仁に倣って暫く黙っていた。
 仁の手が肩に乗って、僅かに真を支えるようにしてくれている。
「女が埋められるところでも見たか?」

 真の肩の上に置かれた仁の手に力が入った。真はびくっとして、思わず老いた当主の目の奥を見つめた。
「爺さん、世の中そうそう呪いなんてあるわけがない。けど、あんたはそう思っている。理由があるはずだな。それもかなりインパクトのある理由がな」
「呪いを解く方法が分かるべ」
 当主の力のない言葉に、思わず真は彼の長年の苦悩を払ってやりたいと思った。

「蓮生さん、昭和になって男子が亡くなって、跡継ぎがいなくなったとおっしゃいましたけど、大きな戦争の時代です。呪いでなくても、多くの男性が戦争で亡くなっている。しかも残された子どもや老人も、衛生状態の悪い状況の中で、病気になることも多かったはずです。蓮生家に限ったことではありません。それにあなたの言うとおり、生活のために古い田舎の家を捨てた人もいたのでは?」
 それから下蓮生の当主は長い間黙っていた。

 再び雨足が強くなった。真の脈は、自分ではっきりと感じるほどに速くなってきた。身体が熱く、震えていた。やがて下蓮生の当主は、ゆっくりと語り始めた。

「わしは子どもだったで、その女に何が起こっとたのかは、よう分からんかった。時々、大きな見たこともねぇ車で人がやってくると、奥の部屋が騒がしくなっとった。それから急に静かになって、皆が薄暗いところで話し合っていたりもした。暫くすると声が聞こえてくるんだ。女が泣くような、叫ぶような声だ。何人もの男が女を取り囲んでいた。暗うて小さい明かりの中で、女の髪の毛がきらきら光っとった。見たのは一度きりだが、何やら恐ろしゅうて、あとは分からねぇ。何年かそんなことが続いとった。ある時、夜中に便所に起きたら、蔵の中から明かりが漏れとったんだ、覗いたら、穴を掘っとった。黒い布団みてえなものから、きらきらした髪が見えとった。次の戦争のときには、わしの親父も、上蓮生の伯父も、みんな死んでしもうた。蔵にはいつも女がいたんだ。年も取らず、いっつも娘のようだった」

 真は古い家の歴史を背負ってしまった当主の、薄く白くなった髪の毛を見ていた。子どもの頃に見た正体のはっきりしない幻影。それに縛られたまま大人になり、老人になり、常に恐れて生き、そしてこのまま亡くなっていくのだ。自分の一族が高貴なロシア人女性を慰み者にしていた羞恥に満ちた歴史を、背負ったまま。
「大方、呪いを成就する秘密の儀式でもあったんだろうな。実際、女の死体が蔵の下に埋まってる可能性はあるだろう。掘り出して供養してやったら祟らないだろうよ」

 真は思わず仁を睨んだ。言い過ぎだと思った。しかし、仁は真に意味深な視線を送っただけだった。それから、聞きたいことを聞けよ、という顔をした。
「第二次大戦の前後にもう一度絵を預かったときの事を、何か覚えていませんか。あなたは戦争へは行かなかったのですか?」
「結核を患っとって、家から離れておったから、その間のことはわからんべ。親父がもう老いて、家に残っとったから、どうにかしたかもしれねぇ」

 仁が椅子を引っ張ってきて、どん、と音を立てて座った。
「おい、爺さん、本当のことを言ってやれよ。お前さんの見た幻の話で十分だけどな」
 隣に座った仁が、さりげなく真の腕を握っていた。身体が辛いのは分かっている、というようだった。
 暫くの沈黙の間、雨の音が何かを訴えかけるように天から落ち、地面に沁み入り、深い地中で何か得体の知れないものを育てていた。真は思わず込み上げてきた嘔気を飲み込んだ。

「わしが子どもの頃までは、蓮生の家の子どもは、本家も分家も皆、本家で暮らしとった。わしは体が弱くて病気ばかりしとったんで、よう分家の離れに閉じ込められとった。昭和の戦争の時、結核で出征できんかったわしは、その時も離れに隔離されとったんじゃ。家のものはみな、わしのことを長くはもたねえと思っとったろう。寝込んでたわしのところに親父が見舞いに来て、そん時、親父が布に包まれた四角いもんを持っていたのは覚えとる」
「四角いもの? 中はご覧になったのですか?」
 当主は、宙を見ていたが答えなかった。真は、その目に一瞬、怯えのようなものが走ったのを認めた。

「その時も、蔵には女がいたのか?」
 仁が畳み掛けるように聞いた。
「いっつも女はあそこにおったんだべ」
 現実と妄想がない交ぜになっている話は、半分は差し引かねばならないだろうと思ったが、宙を見つめたままの当主の目は、彼にとっての真実だけを語っていたのだろう。

 不意に、その宙を彷徨っていた目が、真の方に向けられた。
「あんたが探しとる男は、綺麗な目をしとった。これだけの歴史を背負った家を守るのは大層なことだろうと、わしの手を握ってくれよった。だが、国も文明も家も、滅ぶべきときに滅ぶもんだと、そう言っておった。あんたはロシアから来たんかと聞いたら、そうじゃない、南の国だと。けど、自分には北の血が混じっているんだと、だからどこにいても中途半端なんだと、そう話しておった。みな誰もが、自分の居場所を求めてさまよっているんだと。わしはついぞそんなものは見たことがなかったけども、天使か綺麗な悪魔か、もしかすると神かも知れねえ、そう思ったんだ。だが、よく使われたえぇ手をしておった。昔、蓮生の家に出入りしとった大工と同じ、誇りを持った職人の手じゃった」

 真は黙ったまま、膝の上の手を握りしめた。
「何故、絵を探してるのかと聞いたら、一度目に来たときは、哀れな老人のためだとそう言っとった。二度目に来たときは、絵のためじゃと」
「絵のため?」
「どんな絵にも、そこに描かれた理由があり、魂があるんだと。この世に現れた理由がちゃんとあるんだと、だからその魂の還る先を見つけてやらにゃあならないと、そう言っとった」
 竹流らしい、と思った。
「あんたにとって大事な人だったんだべ」真はただ頷いた。「早く見つかるとええな」
 厭味ではなく出た言葉に思えた。



Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【雑記・本】セーガン博士の『はるかな記憶』/愛情と攻撃 

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さて、思い出したようにやって来る、カール・セーガン博士の本から選んできた一節をご紹介するコーナー。
今回は、愛情と攻撃は裏表?というお話です。
では、その1節を。

アオサギのメスは、オスの愛の呼びかけを待っている。たいていの場合、複数のオスが一時に愛の歌を歌っている。メスはその中から自分の好みに合ったものを選んで、オスの近くの枝に止まる。オスは、直ちにメスに迫ろうとする。
しかし、メスが自分に興味を示して近づいてこようとしたとたん、オスは変心し、不愉快そうにメスを追い払い始める。攻撃を仕掛けることさえある。落胆したメスが飛び去るやいなや、オスは必死で後を追う。その様子は、アオサギの生態研究の先駆者であるニコ・ティンバーゲンによれば「狂った」ようでさえある。
しかし、メスが戻ってきて再び恋の機会が与えられても、オスはやはりメスに攻撃を仕掛ける。メスの我慢がずっと続いて初めて、気紛れなオスの意地悪もだんだんと和らぎ、ようやくメスを受け入れる態勢をとるようになってくる。何ともややこしく、二律背反的なオスの行動である。
オスの心の中では性的行動と敵対行動がごちゃごちゃになり、しかもその混乱は極めて根が深いから、メスの忍耐強さがなければ、種を存続できないところかもしれない。もし、鳥に対する心理療法が可能なものなら、その候補として、まず第一にオスのアオサギを推薦したいところである。
程度の差こそあれ、似たような混乱は、爬虫類、鳥類、哺乳類の多くの種に認められる。脳内の攻撃に関する神経回路は、危なっかしいことには性行動の回路と密接に結びついているものらしい。だから、この両者は不思議なくらいに似てくるのである。といっても、ヒトとアオサギを一緒に論じるわけにはいかない。


生命って、どうしてこんなに複雑で謎に満ちているんでしょうか。

サメの交尾が激しいというのはよく知られていますが、こちらは、海の中で交尾をする生き物は珍しいことからも分からないでもありません。ふつうは海の生き物は、メスが産み落とした卵にオスが精子をかけるという方法、いわゆる体外受精を行いますが、サメは交尾をするのですね。
ところが流れの激しい海の中では、メスと体が離れて行ってしまうので、交尾中はあのジョーズの歯でメスの体に噛み付いているのです。そのために、ある種類のサメの皮膚は、メスはオスの3倍の分厚さがあるのだとか。それでも、メスは傷だらけの血まみれになる。

蟷螂は、交尾後にメスがオスを食べてしまう。
ちなみに50%くらいは逃げおおせるそうです。別にオスの方でも、「おれの子を産んでくれるこのオンナに食われる、これもまた人生だぜ」とか思っているわけではなく、あわよくば逃げて、次のメスに行こうと思っている。
メスの方でも、動くものは攻撃するという本能から捕まえて食ってしまうようで、交尾して卵を産むための栄養源としてオスを食べたい!と思っているわけでも無いようで。

いずれにしても、生命の不思議は尽きません。
ただし、人間に置き換えると、これはDVを正当化するものではありません。
社会を営み、知恵を選んで文明を築いている人類には、許されざることがありますので。
参考までに、交尾に関連して攻撃的になるのは霊長類でも、魚でもありますが、一方でその攻撃性を他へ転嫁する方法も持っているのです。
闘鶏用の鶏は、仲間をつついて攻撃する本能がありますが、相手を倒した途端、それ以上攻撃して殺していまわないように、近くにある石をつつき始めるのだとか。

オオカミは、仲間に会うと、自分の口を相手の鼻面に置いて挨拶をする。……(中略)……
これは親愛の情を示しているのである。しゃべることを知らない動物だが、その伝えたいところは明らかである。「歯をごらん。ほら、触ってみて。あなたを傷つけることなんて簡単。本当だよ。しかし、そんなことはしない。あなたが好きだから」。愛情と攻撃を隔てる線は、こんなにも細い。


種は保存の方向へばかり行っているのではないのでしょうか。
不思議ですね。

Category: 生き物

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NEWS 2013/10/23 和製ミュージカル/SONG WRITERS 


今日は、先日観てきたミュージカルのご報告を。
東京日帰りを2回もしてしまいました。新幹線に乗っている時間が東京滞在時間の2倍!
大阪でも公演があるのですが、たった2日で、しかも私はその日、札幌にいる予定。
(何を隠そう、愛するOHNO氏に会いに行く)

そして、東京まで通うに値する素敵なミュージカルでした。
(ちなみに、最近、新幹線の中で仕事が弾むこと。小説書きも、リアル仕事も)

以前からファンだと言っておりました屋良朝幸さんが出演。
他に、中川晃教さん、島袋寛子さん、武田真治さん、などなど。
脚本は森雪乃丞さん、演出は岸谷五朗さん。

ブロードウェーのどこかで演っていてもおかしくないような面白い脚本と音楽でした。
私は沢山ミュージカルを見てきたわけではないのですが、一緒に行った友人は結構な通で、彼女曰く、大作りではないけれど、もしかして有名どころのいくつかのミュージカルよりよほど面白いかも、と。

いかにも日本人が作ったという感じの、職人技を感じる?繊細な物語運びが光っている。
入り組んだ構造も、納得のいくように組み立てられて、細かいエピソードをちゃんと拾ってある展開も、思い切り私の好みでした。
もちろんミュージカルらしく突然脈絡なく歌いだしたりするのだけど、登場人物が作詞家と作曲家、歌手などなので、すごく自然で。

若手のデビュー前の作詞家・エディ=屋良くん、作曲家・ピーター=中川くん、2人を応援しデビューさせたい音楽出版社のディレクター・ニック(実は…)=武田くん。ようやく売り出すチャンスが巡ってくる中、彼らが作った曲を歌ってくれる歌姫・マリー=島袋さんが現れる。素晴らしく歌は上手いのにしゃべったら方言丸出しのルイジアナ娘。
1年以内にミュージカルを作り上げたら契約すると音楽会社のボスに言われて奮闘するエディとピーター。
でも、脚本作りは難航。

エディが作っている物語は、マフィアのボスに加担する刑事(実は2重スパイ)と今はボスの女になっている刑事の元恋人の恋物語。ハッピーエンドにしたいのだが、動き出した物語は悲惨な方へ、悲惨な方へ。物語の中で、2重スパイであることがばれて殺される刑事、復讐を誓う恋人。

さて、この現実と物語の二重構造が見事に絡み合って、あれこれあれこれあって、始めに出てきた細かいエピソードも上手く拾いまくり、本当に最後は大団円へ。
この「あれこれ」が本当によくできていて、ネタバラシ後ラストに向かって動いていく物語の動きもスピーディで面白い。

屋良くん自慢の踊りも、格闘シーンも、ついでに割れた腹筋も、頑張っている歌も、てんこ盛りで、私は大満足。
中川くんとはお神酒徳利みたいで、兄弟みたいに楽しそうに演じているのが印象的。

1回目は、公演開始2日目の初々しい時期。まだちょっと硬いながらも一生懸命さが伝わってきました。
岸谷五朗さんが客席に来ておられました。
2回目はちょうど東京公演の折り返し。こなれていい感じになってきた時期です。

何回も観るって、現実的には金銭的にも時間的にも続かないので、実は同じ舞台を(その年の公演期間に)2回以上見たのは久しぶり。
好きな人は、初日、中日、千秋楽と3回は行くそうです。
舞台は本当に生き物で、見るたびにその緊張感の意味合いも違っていて面白いですね。

『SONG WRITERS』
機会があればぜひ、ご覧くださいませ。
本当はネタバレでバリバリ、ストーリーを紹介したいけれど……(^^)
だって、このお話の運び、物語作りをする人にとってはとても魅力的なものです。
現実と物語が重なっていく過程、伏線の拾い方、登場人物一人一人の心の動きなども、きちんと丁寧に書かれていたと思います。
和製ミュージカル、こういう作りの細やかさが見事でした。

こういうのを見ると、自分もまた新しい物語を紡いでいきたくなります。

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屋良くんの手(^^)
手といえば、某アイドルグループのリーダーの手、ものすごくきれいです(^^)
彼、趣味は釣り、絵を描くこと、などなど。手に職がある人って、手が綺麗なのかしら。

追記に、このミュージカルの宣伝番組を畳んでいます(*^_^*)

Category: たまにはアイドル

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【猫の事件】迷探偵マコトの事件簿(7) 

【迷探偵マコトの事件簿】その9.マコト、行方不明になる

*前出・三味線記事へのコメント、ありがとうございます(*^_^*)
本日、演奏に行ってきます。帰ってきたらお返事しますね!

3333Hit記念企画、リクエスト編です。limeさんから頂いたリクエスト。
【海に落ちる雨】と逆パターンで、マコトがいなくなって慌てるタケルです。
遶ケ豬√→迪ォ・狙convert_20130629112022
(イラストは小説ブログ「DOOR」のlimeさん)

連作掌編ですが、これまでのものを読まれていなくても、なんの問題もありません。
内容はあさ~く、なにより楽しむことを前提にしてありますので、気楽にお楽しみくださいませ。
ただし今回は、それなりに力作(!)のため、やや長くなっています。
内容がないので、すぐ読めますけれど^^;

なお、これまで一貫してマコトの一人称で書いてきましたが、今回のお題の関係上、タケル視点などが初めて出てきます。お楽しみください。
また、かなり地の文を端折っております。想像力を駆使してご自由な世界でお読みください。
また、途中、マコトの思い込み、ネコの浅知恵的発言がありますが、さらりと読み流してください。

<登場人物>
マコト:一人前になりきれない、でもオトナだと言い張るツンデレ猫。大きくなったら豹になるつもり。
タケル:ちょっぴり(かなり?)Sなマコトの飼い主。趣味はマコトをおちょくって遊ぶこと。
オンナ:タケルの恋人のひとりらしい。
他、数名(お楽しみに!)



【迷探偵マコトの事件簿その9.マコト、行方不明になる】


[Scene1] ぼくにできること

タケルがびょうきなんだ。
なんかね、とおいトコロに宝さがしに行って、びょうきをもらって来ちゃったんだって。
それでね、うつったらいけないからって、ぼく、部屋から追い出されてるんだ。

ニンゲンのびょうきだから、ねこにはうつらないと思うのに……
だからイイガカリなんだ!
オンナが来て、タケルとふたりっきりでいたいから、ぼくを追い出すんだ。

でも……
いつもだったら、ちょっとくらいびょうきでも、タケルがぼくを中に入れてくれるのに……
きっととってもしんどいんだ。
ぼくは入れてもらえない部屋のドアの横で、ずっと丸まってる。

うん。ぼく、分かってるよ。
ぼくはごはんも作ってあげられないし。
おくすりの用意もしてあげられないし。
毛づくろい、じゃなくて、からだを拭いてあげることもできないし。

だから、ぼく、おとなしくまってるね。

……まってるね。

……

オンナが出てきた。
ぼくはちょっと顔を上げる。

オンナは食べ物とか飲み物とか持って部屋を出入りするとき、きっとぼくをにらむんだ。
あなたが入ったらタケルの病気がもっと悪くなるわって。
だからここでいい子にしてなさいね、って。
そう言って、ぼくの前に冷たいまんまのミルクを置いて行く。

ぼく、もうお子ちゃまじゃないから、ミルクなんていらない。
タケルのねこまんまがいいもん。
だから、タケルが元気になるの、まってる。

……

……つまんないな。

……早く元気にならないかな。

時々、部屋の中からタケルの咳とか、聞こえる。
ぼくは耳を立てて、それを聞く。
ちょっとしんどそうなんだ。
ごはんも、たくさん食べれないみたいで、オンナはため息をついて部屋から出てくる。

なかなかよくならないね。
……ぼく、何もできなくてごめんね。

……丸まって待ってるだけなんて。

あれ、オンナが部屋の中で怒ってる。
ケンカしたのかな。
あ、出てきた。
……すごい睨まれた!
帰るのかな。

そうだ!

ぼくは、帰っていくオンナの後について行って、ドアからすべり出た。

きっとおいしいもの食べたら、すぐなおっちゃうよ!
きっとオンナのごはんがおいしくないんだ。
だって、タケルのごはん、すごくおいしいんだもん。

ぼく、タケルが好きなもの知ってる!
ぼくが採ってきてあげるね。
ぼくはおさかなと海のにおいを追いかけて走った。

いつもタケルがお買いものに行くツキジは、すぐそこなんだ。

わ。
おさかな、並んでる!
一匹、ちょうだいね!

って、わ~~~~~!!
おじちゃんが追いかけてくる~~!
いつも、可愛いねこだねって言ってくれるじゃないか!

今度はあっちのお店で。
一匹、ください!

って、わ~~~~~~!!!!
今度は犬が追いかけてくる~~~!!

タケルがびょうきなんだから。
ね、おねがい! ……って言っても、通じないや……

とぼとぼ。
ぼくは海っぺりを歩く。
ぼく、釣竿持ってないし。
自分じゃおさかな、捕まえられないよ。

あ。
しっぽならどうかなぁ?
しっぽでおさかな、とれるかも。
ぼくは海の方におしりを向けて、水面へとしっぽを垂らしてみた。

……やっぱりぼくのしっぽじゃ、海には届かないや。もちろんおさかなにも。
もうちょっと伸ばしたら、届くかな。

よいしょ。
おしりをもうちょっと落として……

う~ん。
もうちょっと……かなぁ。
ぼくは振り返ってみた……

とたんに! ずりっ! ぐらりっ!

あれ!?
うわっ!?

……じゃぼん!!!!!
ぶくぶくぶく……

わ~~~~~~~~~、タケル、タケル、タケル!!!!!
あっぷ、あっぷ、あっぷ。
ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ。
ぼく、泳げないよ!

助け……て……
……ぶくぶくぶくぶく……
何か、まっ白になってきた……

タケル……

……

……待ってて。ぼく、おさかな持って帰るから……

きっと、帰る、から……


[Scene2] 捜索願い

やれやれ。すっかり怒らせてしまったな。
全く、女というのは困った生き物だ。
猫と私のどっちが大事なのって、それを聞くのは反則と言うものだ。
それは答えられるような問いではない。
まぁ、そんなことをわざわざ聞く女という生き物は、それで可愛いものなんだが。
しかも、女は時々、現実的で的を射たことを言う。
猫なんて、何の役にも立たないじゃない。
……それは確かに当たっている。
でも、ちょっとあの拗ねたような、怒ったような顔を見たいんだ。

まだ熱っぽくて体がだるいが、マコトの顔を見て、この間買ったねこじゃらしでちょっとおちょくってみたら、気分もよくなるかもしれない。
そう思って、何とか起き上がって、リビングの方を覗いて見た。

……
マコト?

呼びかけてみたが、返事がない。

マコト?
俺はまだぼんやりとした頭と、動きの鈍い身体でマンション中を探してみたが、マコトの姿がない!

何でだ。
あいつは一人で、いや一匹で出かけることなどできないはずだ。
まさか。誘拐された?

俺は慌てて彼女に電話を入れる。
何よ! 私があんな可愛くないちびねこ、さらったとでも言うの?
冗談じゃないわよ! 熱で、ついに頭がおかしくなったの??
がちゃん!!!!!

俺は勢いよく受話器を叩きつける音に我に返った。
それはそうだ。俺としたことが、何を血迷っているのだろう。
彼女を疑うなんて。

何かの拍子にドアから出ていってしまったんだろうか。
あいつ、怖がりだし、一人で、いや一匹で遠くに行くことはないだろう。
俺はとにかく玄関のドアを開けて、廊下を覗いて見たが、やはりマコトの姿はない。

いったい、どこに行ったんだ。
この間も車に轢かれかけたし、ちゃんと前を見ていないし、危機管理がなってないし。
それに、なによりまだ仔猫だし。

俺はふらつく身体で外に出た。
だが身体がまるきり言うことを利かない。
倒れそうになって、また我に返った。
駄目だ、どうしても今、自分ではどうすることもできない。

俺は部屋に戻って、もう一度、押し入れの中までひっくり返して探してみたが、やっぱりマコトはいない。
そのうち帰ってくるだろうか。
少しだけ玄関のドアを開けて待ってみることにした。

少し動いただけでクラクラする。
俺はソファに横になり、少し休んだ。
その短い眠りの間に、奇妙な夢を見た。
マコトがどこか暗い所に沈んでいく……
俺は、自分の叫び声で目を覚ます。

駄目だ、じっと待っているなんてできない。警察だ。じゃなくて。
俺は電話帳をめくった。
ペットさがし専門探偵社。
あった。
……オフィス天道。


[Scene3] オフィス・天道

香月、お前ね。
天道さんは俺とこの子をじっと見ていたが、やがて溜息と共に言った。
いや、俺はさ、お前が趣味のひとつも持ってくれて嬉しいよ。
けどさ、釣りってのは普通、魚を釣るもんだぜ。それが猫を釣ってきてどうするよ。

ちょっと前、天道さんが、女を作るか、あるいは趣味のひとつも持ったらどうかと言った。
女はちょっと今はいいやと思うから、趣味に釣りなんかどうかな、と思ったんだ。
ぼ~っと暇つぶしもできるし、俺にぴったりだという気がする。
でも、行ったら釣れなかったんだよな。
ボウズってのも悔しいし、釣れたことにして築地の市場で魚でも買って帰ろうと思ったら。

はい、確かに猫を釣ってきました。
溺れてたんで、持っていた網で掬い上げただけなんだけど。

飼い猫かなぁ。
野良猫かなぁ。
病院、行かなくていいかなぁ。
お腹すいてないかなぁ。

ライナスとチップは、びしょぬれで怯えている猫に興味津々だ。
猫は震えながら俺にしがみ付いている。
犬が怖いんだろうか。

その時、電話が鳴った。
はい。
天道さんが電話に出る。

猫ですか。とりあえず事務所に来てくだされば……え? 来れない?
とにかく特徴と、いなくなった状況を教えてください。
え? 今いなくなったところ?
あなたね、それはもうちょっと待ってみたらどうなんです?
待てない? いや猫だってね、色々と忙しいものなんですよ。
いや、うちも商売ですからね、どうしてもというなら、すぐに探しに行きますけれどね。
いやいや、そんな高額の代金をせしめるつもりはありません。
まぁ、何か事情がおありなんですね。わかりました。
特徴をどうぞ。
茶トラ、オス、目は左が黒っぽい茶色、右が碧、いわゆるオッドアイですね。
額にマクドナルドの印みたいなМ、尻尾は長くて端までしましま。
脚も端までしましま。耳にちょっとキズあり。犬にやられた、と。
歳は1歳くらい。いなくなった場所は築地の近く?

天道さんはちらりと俺と猫を見る。

あの、お客さん、今目の前にそれとよく似た猫がいますよ。
いや、極めてそのものみたいな猫が……
うちの従業員が築地の近くで溺れそうなのを助けた……ちょっと、お客さん??

切れちゃったよ、えらく慌ててたなぁ。
そう言いながら、天道さんが猫をまじまじと見る。
確かに、耳にちょっとキズがある。

香月、お前すごいな。予知能力でもあるのか?
この依頼が来ることが分かっていて、魚の代わりに猫を釣ってきたのか?

いやいやいや、幾らなんでもそれはないでしょう。
それを言うなら、偶然にしても、うちに電話をかけてきたその飼い主の方にびっくりしてください。千里眼ですかね。
それから、さかなの代わりに猫を釣ったとか、いちいち言わないでください。

俺はそう言いながら、ずぶ濡れの猫を拭いてやり、温かいミルクを作ってやった。
けれども、猫はミルクには見向きもせずに、ライナスとチップを避けるように窓際の棚に上がってしまう。

猫は窓から外を見ている。
寂しそうに。心配そうに。……不安そうに。

その時、猫の耳がぴんと立った。
いっしょに窓の外を覗き見ると、タクシーから一人の男が慌てたように飛び出してくるところだった。
背の高い金髪の外国人だ。

猫は瞬時に棚を飛び降り、ドアに走り寄り、がりがりと引っ掻きだした。
開かないと分かると、俺の方を見て、にゃあにゃあ鳴く。
開けてやったら、転がるように飛び出していった。

車に轢かれたら大変と追いかけていったら、丁度金髪外国人が階段を上ってくるところだった。

マコト!
金髪外人が叫ぶ。

猫は転がり落ちるように階段を降り、途中でジャンプして、金髪外人の腕に飛び込んだ。
お見事。
金髪外人は猫をぎゅうっと抱き締めて、その頭をしきりに撫でている。

途端に、猫は何を思ったのか、我に返ったように、金髪外人の手にがぶっと噛みついた。
それから、いったん腕から飛び降り、そしてちょっと唸って、最後はちょっとしょんぼりして、結局金髪外人の足にくっついた。

その時。
金髪外人がぐらりと傾いて、階段に倒れ込む。
俺は慌てて駆け寄った。
猫がにゃあにゃあと悲鳴のように鳴く。

大丈夫ですか?
わ、すごい熱だ。

すみません。病み上がりで、ちょっとまだフラフラで。
金髪外人は流暢な日本語を話した。
病み上がりって、まだ十分、病の最中に見える。
そりゃ、自分で探しに行けないわけだ。
天道さんが下りてきたので、彼を助けて、とりあえず猫と彼をオフィスに誘う。
ソファに横になってもらって、それからしばらく休んでもらった。

猫は尻尾を海に垂らして、こんな感じで。
状況を説明してみると、この猫は魚を釣ろうとしていたような気がしてきた。
もしかして、病気の飼い主に美味い魚でも食わせてやりたいとか、思ったのかなぁ。
……まさかね。

やがて、如何にも時代がかった「執事」という感じのむっつりとした顔の男が、猫と金髪外人を迎えに来た。
何もしていないからと天道さんは代金を受け取らなかった。

でも、次の日、擦り切れてぼろぼろで穴も開いていたオフィス天道のソファは、素晴らしいすわり心地の新品にとって代わり、俺にはピカピカの釣竿セットが届いた。
某アイドルグループのリーダーも釣りが趣味だというし、お魚と戯れすぎてブログ更新もままならないブロガーさんもいるくらいだから、釣りってこれからちょっとトレンディかもね。

あの猫も、もう少ししたら、自分一人で、いや一匹で出かけるようになるだろうな。
そうしたら、たまに一緒に海釣りもいいかもしれない。
あるいは、もしかして、猫探しを手伝ってくれるかもしれない!
……なわけないか。
猫だし。

というわけで、しばらく「趣味」は釣りってことにしておこうと思う。


[Epilogue] When You Wish Upon a Star

……だって。
ぼくとしたことが、テンパっちゃって、タケルの胸に飛び込んじゃった……
まるで月曜日の夜9時からやっているドラマみたいだよね。
だから、ぼく、照れ隠しに、タケルの手、噛んじゃった。
……怒ってる?
……怒ってない?
タケルはまだしんどそうだけど、おうち帰ったら、ぼくのねこまんまだけは作ってくれた。
それから、一緒にお布団で眠るの。

……ぼくはタケルの横で夢を見る。
古いレコードから、音楽が聞こえる。

星に願いをかけるとき 君が誰かなんてことは関係ないんだよ
だから星に願いをかけてごらん 心から願えばきっと叶うから

うん……ぼくがねこでも、願い事をしていいんだよね。
だからぼくは星に願いをかけてみる。
タケルが早く良くなりますように。
オンナがぼくを苛めませんように。
ぼく、早くおっきくなって、いつかタケルのお手伝いができるようになるね。

……いつかきっと、豹になるぞ!






limeさん、リクエストありがとうございました。
お楽しみいただけましたでしょうか。

ペット捜し専門探偵社・オフィス天道についてはこちら→→オフィス天道
【凍える星】の物語はすごく悲しいことや苦しいことも含まれていますが、私はlimeさんの物語の中でも特別にいいなぁと思いました。構成も登場人物たちも、とても素晴らしいです。
まだ読まれていない方は是非に!

さて、どうせ変な秘境にトレジャーハンターに行っていて、熱出したんだろう。変な感染症じゃないのか、とか、それなのに、うろうろしていていいのか、とか、あれこれ思うのですけれど、自分じゃどうしようもないくらいしんどい、という設定に無理やり持って行ってしまいました。
ま、これはファンタジー(!!)ですから、細かいことは目を瞑ってくださいね!

読んでいただいて、ありがとうございます(*^_^*)

Category: 迷探偵マコトの事件簿(猫)

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NEWS 2013/10/18 たまには三味線の話でも 


結構どうでもいい話をつらつら……
たまにはそんな日があってもいいですよね。

今日、出張帰りに寄ったお菓子屋さんで見つけた和菓子。
何故か、微妙な気持ちになりつつ、ちょっと可愛いので買ってしまったです。
和菓子にまでハロウィーン? それなら、日本人としてはお盆にお化けの饅頭を売ったほうが?
といいつつ、お菓子屋の戦略に嵌ってしまったのでした。

DSCN2673_convert_20131018012625.jpg
さて、神戸の某所で毎年開催されているつがる三味線の大会です。
この大会、もともと長田神社で開かれていたのですが、雨天中止になるので、何年か前からこちらハーバーランドの某所に変わりました。

ここはホールではなくて、オープンエリア。
入場券を買わなくても、通りすがりに誰でも聴くことができます。
座るためにはお金を払わなくちゃならないけれど。

吹き抜けなので、数階分のバルコニー状のところから、色んな人が通りすがりに楽しんでいる。
これはある意味とてもいいことだなぁと思うのです。
たまたま通りかかった誰かが興味を持って、もしかして始めてみようかなぁなんて思ったりするかも。

毎年、10月の第2日曜日にハーバーランドで開催されています。
よろしければ覗きに来てみてください。(って、1年後じゃないの^^;)
えらい先生の演奏や唄も、タダ見タダ聞きができちゃいます。

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唄いながら三味線を叩き(唄ってるときは基本、アカペラですけれど)、時々、つがる弁で喋られる。
そのすべてが「つがる」なんですよねぇ。

今回は面白い人とお話をすることができて、民謡界の裏話!みたいな話題がぽんぽん……
(とてもここには書けません^^;)
さらに、うちの師匠もですが、昔、ストリートをしていたので、あれこれ色んな経験談も飛び出し……
と言うことで、一言。
音楽が素晴らしかったら、プライベートには目を瞑りましょう。

さて、明後日は師匠の関係で、ある演奏のお手伝いに行きます。
唄付け(伴奏)の演奏を聴いてちょっと憧れちゃってる先生の演奏会のお手伝い。

つがる三味線は、いわゆる曲弾き(独奏)の部分が脚光を浴びて(かなぁ?)、今では結構市民権を得たと思うのですが、そもそも三味線は唄の伴奏のためのものなのですね。
曲弾きは、唄までの前奏の部分が独立したもの。
そして、最近ある大会では、独奏だけではなく唄付けもできなければダメ、という総合得点を争うものも出てきました。

その某先生、民謡の大会(唄の大会)で、唄付けをされているのを何度か聴かせていただいているのですが、客席で思わず唄い出しそうになるんですよ。
唄えないのに……^^;
何だろう、乗せられる、というのか。
本当にすごい人が伴奏されていると、声が出そうになっちゃうんですよね~
民謡に限らないことと思いますけれど。

いつか唄付けがちゃんとできたらいいなぁ。それが夢。
ちなみに、うちの真くん、ばあちゃん(民謡歌手)の唄付けをやっています。もちろん、独奏もできますけれど。
唄付けができて始めて曲弾きができる、とも言います。
唄を知らなくちゃ、三味線の値打ちがありません。
もう少し、気分的に忙しくなくなったら、ぜひ唄のお勉強もしたいと思うのですけれど。

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つがるは、皮は犬です。だからあんな野太い音になるのです。
3本の糸は、一の糸と二の糸が絹、三の糸はナイロンかテトロン。三の糸は絹だとすぐ切れちゃうので。
つがるって、叩くので、糸は酷使状態。
最近は、二の糸もナイロンを使っている人もいるようです。曲の途中で切れないように。

撥は鼈甲。持つところは、木や象牙風や竹やあれこれ。私は今、贅沢に総鼈甲を使っています。
撥のお尻には錘が入っていて、ある程度重くしてあって、叩きつけるようにして弾きます。
でも、弱音では駒を指で押さえたり、あるいは音澄みといって、クリアかつ綺麗な触りがでるようにして弾かなければならない。
さわりが響くと、わんわんと空気が振動するみたいになって、ちょっと鳥肌ものです。
本当にすごい人は、どのツボでもさわりが鳴り続けている。
(本来そうあるべきなんですけれど……それがとても難しい)

唄と、三味線と、太鼓。これが揃って、やっぱりつがるだなぁと思う。
唄い手さんは、三味線と太鼓が下手だったら、唄えませんものね。

さて、またいつか、今度は唄の話でも。

あ、ちなみに次の大会は、大阪大会。
11月30日が民謡(唄)の大会、12月1日が三味線の大会です。
この頃、大会がものすごく増えている。
そう言えば、11月24日には滋賀でも大会があります(こそっと応援演奏に行きます)。
つがるなのに、北から南まで、あちこちで大会があるんですねぇ。ソーラン節とか、よさこいみたいな感じかしら。
でも、和ものがこうして日本全国に広まっていくのは、何だか嬉しい気はします。

追記には曲をいくつか挙げさせていただきました。よろしければお聴き下さいませ。
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Category: あれこれ

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【死と乙女】(4) 想い・セレナーデ 

【死と乙女】第4話をお送りいたします。セレナーデ……恋人の窓辺で囁く愛の唄です。
あまりにも長くなったので、トップページにある間だけ畳みます。すみません。
場面も変わるので2回に分けても良かったのですが、感情が繋がっているので、一気にいってしまいました。

夕さんのおっしゃる通り、完全にのだめ風にクラシック話になっていますね。
もともとはノートに手書きで32ページの作品でしたが、今まででその3分の1程度が終わったところです。オリジナルにはなかった場面もどんどん増えて、完全に長くなっています。いつ終わるのかしら……
気長にお付き合いくださいませ。

ところで、訃報がありましたね。
やなせたかしさん(94歳)、ご冥福をお祈りいたします。
以前記事に書かせていただきましたが、御年70になってから売れ始めた「アンパンマン」
その飽くなき想像力と、子どもたちに夢と勇気を与え続けた愛情に、たくさんの子どもたちの時々ママ代わりより、心から感謝申し上げます。

何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱い心燃える だから君は行くんだ 微笑んで

今日はこの歌が頭の中でヘビーローテーションでしたが……

今回の登場曲は以下の通りです。(最後に曲もアップしています(*^_^*))
ナポリ民謡『帰れソレントへ』『オー・ソレ・ミオ』
シューベルト歌曲集『白鳥の歌』より『セレナーデ』
*『アルルの女』第二組曲のメヌエットは次回にも出てきますので今回は割愛。
(そう言えば、この曲、のだめにも出てましたね。ファランドールと一緒に)




 ヴィクトル・ベルナールが今日、音楽院にやって来たのは、慎一の教育に熱心なピアノ科担当教師、ローマイヤーに呼び出されたからだった。
 特待生試験の結果について情報があるのかと思えば、そうではなかった。その件について聞くと、ローマイヤーは肩をすくめただけだった。
「揉めてるよ。ものの見事に」
 それは予想できたことだ。

「これを君はどう解く?」
 ローマイヤーは比較的開け広げの性格だった。ピアノ科で最も若い教師だが、一時期のコンクールを総なめしたのに、そのままデビューもせずに教師になった。何かの瞬間に教師が向いていると自覚したという。彼は、学校という特殊環境を隠れ蓑にして象牙の塔をこしらえ、中からの眺めを楽しむようなことはしない。だから学生にも人気があった。
 もしも慎一の担当教師がローマイヤーでなかったら、とヴィクトルは時折考える。ローマイヤーの推薦なしには慎一は特待生試験を受けることさえ叶わなかったろうし、レッド・カーペットが敷かれた階段には一歩も近づけなかっただろう。髪の色や目の色、そして後ろ盾のないこと、全てが慎一にはマイナスになっていたからだ。

 ローマイヤーはいつものように机にちょっと尻をかけて座る。実は身長が低いのだが、そうやって机の端に座ることで、自分をちょっとばかり大きく見せたいのかもしれないが、ただの癖かもしれなかった。
「アネットの音か?」
 ローマイヤーはその通り、というように人差し指を立てた。
「確かに彼女の音は軽やかで柔らかく、妖精が跳ねているみたいだ。おっと、君に言わせると、手で触れることのできる絹のようなピアニシモ、だな。だがあの試験の日のあれは彼女の音じゃない」

 そうなのだ。ヴィクトルが驚いたのと同じように、ローマイヤーも気が付いていたのだ。
「あれはシンイチの音だ。ものの見事にコピーしているが、彼女のオリジナルの音じゃない」
 ローマイヤーはもう一度肩をすくめた。
「もっとも、コピーがオリジナルを越えそうなほど完璧なのには参ったけどね。でも、まぁ、すぐにシンイチはその先に行くだろうけれど。ところで、あの現場にいた者でそれに気が付いたのは何人だと思う?」

 ヴィクトルはローマイヤーに聞かれてすんなりと答えた。
「三人、もしくは四人。俺と、君と、それから多分、テオドール・ニーチェ。俺には分からないのはリーツマン教授」
「君とは意見が合う。四人だ。リーツマンは気が付いている」
 そう言ってから、ローマイヤーは面白そうに笑った。

「いや、全く。それなのに、君も俺も当の本人、シンイチを数に入れていないと来ている」
「あいつはそんなことに気が付いていない。自分の音がそこに留まっていないからだ」
「同感だ。だからあのモーツァルトが弾ける。多分、次に弾いた時はまた違う音を奏でる。どこまで疾走する気かな。もっともこの自由さが、いつかデビューした時に長所になるか短所になるかは不明だが」
 その通りだ。あの時の演奏が良かったという過去で評価され、聴衆も「あの時の音」を求めてやって来る。それなのに期待通りの音でなかったら失望する聴衆もいるだろう。

 ローマイヤーはよっと机から飛び降りた。
「だが、もうこれは教授会に委ねるしかないしな。ピアノの前に座る段階で勝負がついている可能性もある。実力が同じでどちらを取るかと言われたら、実績と背景、ついでに外観からもアネットの勝ちだ。シンイチに勝ち目はない」

 ローマイヤーは穏やかな風が吹き込む窓へと視線を向けた。開け放たれた窓からは、早春のまだ冷えた温度と共に明るい光が流れ込んできている。光の中に時折、ピアノや弦楽器の音が混じる。ローマイヤーは誰もいないことを確かめるように窓の外を見た。
 窓辺で振り返り、神妙な顔をしてヴィクトルに向き合ったローマイヤーは、低い声で続けた。

「ところが、そのもう一人が何を察したのか、学長にいちゃもんをつけに来た」
「何だって?」
「いちゃもんは言い過ぎだが、テオドール・ニーチェだよ。演奏旅行にピアノ科からもう一人、出してくれと、学長に直々に申し出てきたんだ。しかも、学長ははっきりとは言わなかったが、自分のパートナーになる学生を名指ししてきたらしい」
「まさか」
「そう。シンイチを指名して来たんだ。おっと、これは学長から聞いたんじゃない。盗み聞きの天才秘書の手をちょっとばかり握って聞き出したんだが。さて、君はどう思う? テオドール・ニーチェの思惑は何だ? 確かにシンイチは魅力的な演奏家になると思うが、現時点でテオドールの敵じゃない」

「だが、テオドールにはそう見える?」
「どうだろうね。テオドールにそれとなく聞いてみたんだが、知らん顔だったよ。テオドールのプライドにかけて、自分よりはるかに格下の学生が気になっていることを知られたくないのかもしれないが」
 ヴィクトルは、それにしても今日わざわざ自分が呼び出された理由は何だろうと思っていた。
「君も知っている通り、学長はネオナチかと思うくらいのゲルマン至上主義だ。百歩譲ってヨーロッパ人種ならともかく、日本人のシンイチに易々とチャンスを与える気持ちなどないわけだ。テオドールの希望がそのまま受け入れられるとは思い難い。いくら学院一のスーパースターの頼みであっても」

「で、君が俺を呼んだ理由は」
「多分、試験がある。皆に平等に機会を与えるという大義名分だ。残念だが出来高レースにはならない。第一の関門は」
「シンイチが受ける気になるかどうか、ということか」
 慎一には階段を駆け上るための気概がないというのは確かだ。何より、特待生試験は明日の生活のためだが、その先の未来を勝ち取るために食らいつくという気持ちはまだないだろう。

 それに、スポンサーがついているとはいえ、演奏旅行の参加費用の全てを学院が出してくれるわけではない。さらに舞台に上がるための服、靴、身につけるすべてのものを人目に晒すことになる。
 そういう金銭的な問題が絡んだ時点で、慎一は試験を受けることを断念するだろう。
 それくらいの金などくれてやりたいが、そうですか、よろしく、と慎一が受け取るとは思えない。特待生試験に合格したら、学費と一緒にそれも出してもらえるのだろうか。
 だが何より、慎一にはどうしても越えられない問題がある。悔しいが、人種の問題だ。

「君の説得次第、と思ったりもするんだがな」
「説得もそんなに簡単じゃないが、受けたところで彼に勝ち目があるのか? ソリストとなればより注目されるだろうが、人種的な問題もあるだろうし、パーティやら何やら上流社会のマナーも求められる……」
 ヴィクトルは超絶技巧の必要な難題を吹っかけられたと思った。
 そもそもヴィクトルはただの評論家だ。ローマイヤーのような正当な音楽教師にできないことが、一介の評論家にできるわけがない。少なくとも、慎一は評論家としてのヴィクトル・ベルナールを頼っているわけではないのだ。

 だが、言葉にしてみてからふと思い至る。
 一度だけ事情があって高級レストランに連れて行ったことがある。服がないからと慎一は断ったが、それは高名なオペラ歌手のコンサートとセットになったディナーだった。本当は行きたいと思っているのは、ヴィクトルの目にも明らかだった。
 服を誂えてやった時、慎一はいつものように困った顔をした。
 僕には返せないと。
 出世払いだ、覚悟しておけ、と言ったら、唇を引き結んで小さく頷いた。

 不安そうで肩身の狭そうな表情をしていたのに、いざその場に立った時、慎一の立ち居振る舞いは、よく揶揄されるような「東洋の子猿」のものではなかった。その場に溶け込むように自然に人々の間を歩き、椅子を勧められれば自然に座る。イタリア人のオペラ歌手が挨拶に回ってきたとき、慎一は緊張してガチガチになっていたが、優しく笑みを浮かべて語りかける歌手に、完璧な、そうまさに完璧なイタリア語で答えた。
 それだけではない。テーブルマナーも、どこにも付け入る隙がなかった。
 一体、この子はどういう出自なんだ。ヴィクトルは人の過去を詮索する気持ちなどさらさらなかったのに、あの時から急にたまらなく知りたくなった。

 もしも、彼にチャンスを与えてやれたら。
「ま、君らの関係をどうこう言うつもりはないんだけれど、いや、これもただの噂だと思う面もあるが、もしそうなら全力で彼を説得しろよ。上流社会のマナーなんぞくそくらえだが、君なら教えてやれるだろう」
 いや、彼にはそれは必要ないんだ、とヴィクトルが言葉を挟む間もなく、ローマイヤーは続ける。

「彼が恥ずかしくない服や靴だって、揃えてやれる。この世界のこんな片隅で音楽をしている限り、彼の上には陽が当たらない。悪いが、君との関係だってマイナス要素のひとつになるだろう。君らが否定しても好奇の目がそれを許さない。誰もがリーツマンのように音だけでその音楽家の価値を判断してくれるわけではない。それでも、もし彼の本当の音を聴いたら、彼を見る目は少しは変わるだろう。もちろん、彼がその場で自分自身を上手く表現できるかどうかは分からないが、少なくともその舞台に上げてやらなければ、スタートにもならない」

 それは教師の君の仕事だろう、と言いかけたが、ヴィクトルは言葉を飲み込んだ。そんなに簡単なら自分が呼び出されるわけがない。
 ヴィクトルはやるだけはやってみるが、と言葉を濁して、ローマイヤーの部屋を辞した。
 もしも打開策があるのなら、その鍵を握っているのはテオドール・ニーチェだと思いながら。

 そして慎一と待ち合わせた場所にアネットの姿を見つけた時、さすがのヴィクトルも相当に驚いた。いささかの後ろめたさと、そして面白いことになるかもしれないという期待が同時に湧き起こる。
 アネットは演奏旅行の話を知っていた。
 まだ公には発表されていないが、噂が駆け巡るのは早い。

 だが、それにしても、早すぎないか?
 鎌をかけるつもりで「何故今年に限ってそんなことを思いついたのだろう」という問いかけをしてみた。アネットが何かを知っている可能性を考えたのだ。もしかして、アネットが本当にテオドールと繋がっているのなら、そこから話が伝わった可能性もあるかと思った。だがアネットはするりと躱してしまった。

 アネットが去った後、慎一は何も言わずに席を立ち、今ヴィクトルの前を歩き続けている。級友の一人が声を掛けてきたのにも全く気が付かなかった。
 まだ浅い春の陽が慎一の背中に冷たく白く輝いている。
 何故、アネットはあんな表情をしたのだろう。まるで慎一を憎んでいるようにも見える表情だった。あるいは、会話の端々に何かを確かめるような気配もあった。

 やはり、彼女は意図して慎一に近付いているのではないか。
 そんな疑問が湧き起こる。
 アネットのピアニシモが耳の中に残っていた。手に触れる絹の手触りがそのまま耳の中にある。
 慎一も同じことを感じているに違いない。
 門が見えてきた。守衛の初老の男が出ていく学生に挨拶を返している。石造りの門は両脇の大きな木のせいで十分に陽が当たらないのだが、木漏れ日がその煉瓦の上で小さな曲を奏でるように揺れていた。

「車を取ってくる。シンイチ、聞いているのか?」
 慎一がヴィクトルの声にも苛立っているのを感じる。
「シンイチ」
「あなた、何か隠しているんだ」
 ヴィクトルは後ろから慎一を追いかけながら、ポケットの中の車の鍵を探っていた。
 全く、どこまで鋭いのやら。


 あの二人は同棲しているんじゃないかしら。
 ユーディット・マンハイムはそう言った。もちろん、半分は根も葉もないことだろうが、ユーディットはこの二人を追いかけているのだ。あるいは半分くらいは根のあることかもしれない。
 だが、アネットはともかく、テオドールはどうなのだろう。あのテオドール・ニーチェがアネット相手にそれほど人目につくことをするだろうか。

 もちろん、「あの」テオドールとて実質は二十歳にもならぬ子どもだ。子どもとは言いがかりかも知れないが、人生経験という意味ではまだ青二才なのだ。音楽のためにでなくとも、女にだって興味を持つだろうし、それにどう対応していいのか惑っていたとしてもおかしくはないだろう。

 車に乗り込んだ後も、屋敷に帰り着いた後も、慎一は黙り込んでいた。
 下宿に帰りたいと言い出さなかったのは有難かった。少なくとも先ほど投げかけた問いかけに対する気持ちを確認するチャンスはあるかも知れない。
 と思ったのは甘い考えだった。屋敷まで黙ってついてきたものの、結局ヴィクトルが会話のきっかけをつかむ前に慎一は寝室に閉じこもってしまった。
 やむを得ないのでしばらくの間そっとしておこうと考えていたヴィクトルも、さすがに夕食の時間になっては心配になってきた。

「シンイチ、何を怒っている?」
 何かを隠しているのが気にくわないのか、それとも少しばかり興味を持った女性に仄かな恋心でも抱いてしまって、それがあっさりと躱されてしまったのがショックだったのか。それとも。
「腹が減ったろう。何か作ろう。降りて来いよ」
 ベッドに潜り込んだままの慎一の頭を撫でてやっても、反応はなかった。

 パンと野菜を温め、ワインを先に開けてテイストを済ます。ハムをフライパンに並べて焼きながら、テオドールのことを考えた。
 思い切ったことをしたものだ。それほど慎一が気になったのか。確かに特待生試験の時の慎一の演奏は上出来だった。だが、あれは慎一の一面でしかないし、学院一の逸材が演奏旅行のパートナーに彼を指名するほどの出来栄えだったとも思えない。

 そう言えば、特待生試験の後で慎一はテオドールに誘われて食事に行ったという。同級生を誘うなどテオドールらしくない行動に思える。そういう人づきあいが得意な人間ではないだろう。だが、それでも慎一には声を掛けたのだ。彼が慎一に執心する理由は何だろう。
 もしもテオドールの執心がアネットに伝わっていたら、そしてユーディットの言う通り、アネットがテオドールに夢中になってこの学院に来たのだとしたら、見事な三角関係の成立になる。

 だが慎一は何に反応したのだろう。
 不意に、会話の途中で慎一が黙り込んだ場面を思い出した。
 ミラノ、ローマ、ナポリ、……
 ヴィクトルが演奏旅行で訪問する都市の名前を並べた時、慎一は黙り込んでしまったのだ。
 少しずつ、何かの核心に触れかけている。その気配が暗い廊下の向こうから伝わってくる。

 降りてこない慎一を迎えに寝室に上がると、彼はまださっきの姿勢のままで身じろぎもせずにベッドに潜り込んでいた。そっと肩に手をかけてこちら側を向かせると、それを拒むように小さく身体を丸める。
 泣いているのか。
「シンイチ」

 こういうことは珍しいことではない。そしてヴィクトルはそれを敢えて追及はしないという態度を貫いてきた。音楽が素晴らしければ、その音楽家の過去や生活になど興味はない。そもそも音楽家というのが清廉潔白だとは思えないし、知れば音楽の素晴らしさまで損なわれてしまうような気がして、ただ音だけから感じる世界を大事にしてきたというのに。
 今は胸が締め付けられるほどに知りたいと思う。
 慎一のことも、そしてもしかすると、アネットとテオドールのことも。
 この若い楽聖たちの行く末を心から愛しく思うからだ。

 慎一はゆっくりと目を開ける。視線は天井よりも遥か上を彷徨っている。ヴィクトルはベッドに腰かけ、そっと頭を撫でてやる。
「夢でも見ていたか」
 慎一は彷徨った視線をそのままに、涙を拭うこともせずに目を閉じた。
「同じ夢」
「うん?」

「……ローマからここに来るとき、列車の中でずっと夢を見ていた。波の向こうで灯りが揺れていて、声が聞こえるんだ。声は、五歳の僕に呼びかけている」
 ヴィクトルはそっと指で涙を拭ってやった。
「ローマに戻りたいんだろう」
 初めてその街の名前を口にした。

「行けばいい。方法は分かっているんじゃないのか。神がお前にチャンスをくれようとしている。そしてここに、お前を助けようという人間が、少なくとも二人はいるんだ」
 そう、お前と同じように、この音楽の世界の高みへ飛ぼうという友が、ただ一人で彷徨う空があまりにも広くて、今誰かの手を握りたいと思っているのだ。
 もしかすると、彼が今、お前の神なのかもしれない。
 そして俺にもできることはいくつもある。
 お前はただ、その手を握り返してくれればそれでいいのに。


 ごらん、慎一。あれがナポリの港。目を閉じれば、波が奏でる音楽が聞こえてくるだろう。この海はソレントの港へ、アマルフィの海岸へと繋がっている。そして波の向こうにシチリアの灯りが浮かぶ。慎一、お前はこの国を愛してくれるか。

 耳の中で、優しいハイバリトンの声が蘇る。幻でなく、今ここで聞きたいと願ったことが何度あっただろう。
 ホイリゲの洗い場の食器の音、笑いさざめく客たちの声、入口の重い扉が開かれると吹き込んでくる風の輪舞曲、そして慎一自身が奏でるピアノの音。
 全てが重なり合い響き合って、ひとつの音楽になる。そこにまたあの声が重なる。

 ローマに行けば、全て許されて会うことができるのだろうか。そんなことは叶わない夢だと思ってきた。
 想いは駆け巡り、毎年一度クリスマスの休暇に彼と歩いたサンタ・ルチアの港へ帰っていく。
 ナポリの港。浮かぶ卵城。光を揺らめかせながら遥か地中海の彼方へ遠ざかる波。風が運んでくる酒場の陽気な会話と音楽。
『帰れソレントへ』の調べが海の風に乗って囁きかける。

 初めてあの街を訪れた時、慎一の背丈は彼の腰にも届かなくて、手を引かれて一生懸命、海沿いの道を歩いた。それから少しずつ慎一の背は伸びていき、彼の声や気配をもっと身近に感じられるようになった。
 それと同時に、彼の苦しみを理解し、理解すればするほどに、彼の想いは慎一自身からは遠ざかっていった。

 ジョルジョの目に映っていたのは僕だったのか、それとも父だったのか。
 僕は父なのか、それとも父が僕になり代わったのか。
 記憶にないその人が、僕の中の遺伝子の奥深くで潜んでいて、少しずつ僕を侵して表へ浮かび上がってくる。そして僕を僕でなくしていく。
 僕のまん中にぽっかりと空いた穴は、この先どうしたら埋めていくことができるのだろう。いや、そうじゃない。僕はもう、そんなことを望む資格さえ失っている。

「シンイチ、リクエストだよ」
 ホイリゲの主人は陽気な声で呼びかけてくる。それから片目を瞑って、ちょっと意味深なサインを送ってきた。
 手元に渡された白い紙に、流れるような綺麗な文字が書かれている。

 シューベルト セレナーデ 私のために歌って

 ふと顔を上げると、一番隅のテーブルに黙って座っているアネットと目が合った。
 アネットはこの一週間ばかり、毎日ホイリゲに通ってきていた。そして主人が慎一の恋人だと勘違いしても仕方がないほどに、ピアノを弾く慎一を、ほとんど瞬きもせずに見つめていた。

 彼女はいつもシューベルトやリスト、シューマンの小品をリクエストした。慎一はそっと囁きかけるように答えを返した。数分の曲の間に、いつも想いは二人の間を行き交った。
 昨夜、彼女は遅い時間にホイリゲに来て、客が皆帰った後でピアノの傍にやって来た。

 ねぇ、あなたの育った国の曲を聞かせて。
 慎一は少し考えて、『'O sole mio』を歌った。綺麗なイタリア語だと彼女は言った。
 日本の歌じゃないのね。
 日本の歌はよく知らないんだ。僕のルーツは自分でもわからない。
 アネットはしばらくの間、慎一の手元を見つめていた。それから慎一の肩にそっと手を置いた。
 じゃあ、お返しに。

 彼女はビゼーの『アルルの女』第二組曲のメヌエットを弾いた。
 そもそもピアノ曲ではなく、それを管楽器ではなく打楽器であるピアノで聞くとパサパサに聞こえるのに、アネットの指先からはまるでフルートそのもののような滑らかで優しい調べが流れ出した。
 それから慎一はアネットを下宿まで送り届けた。夜になると冷え込む街の歩道を、恋人同士よりは少し離れて、友人同士よりは少し親密に、並んで歩いた。

 あなたは『アルルの女』の物語をどう思う?
 その時の会話の最中に覚えた不安を、今、不意に思い出す。

 慎一はしばらくの間、アネットの静かな表情を見つめていた。
 今日、真っ白な服を着たアネットは、この賑やかな夜のホイリゲの小さな闇の中で浮かび上がるように艶やかに見えた。誰も彼女に話しかけようとしない。酔客にさえ、彼女の張り詰めた絃のような厳しさが伝わるのだ。厳しくて、美しい。

 慎一は目を伏せた。そっと鍵盤に指を下ろす。
 いつもなら酔客たちの楽しいひと時を邪魔しない程度にピアノを弾く。たまにはじっと慎一を見つめて聞いてくれる酔狂な客もいる。だが多くの人の耳には、ピアノもこの空間を構成する音のひとつにすぎない。
 慎一はリクエストを貰った時以外はそのようにピアノを弾いてきた。リクエストを貰ったら心を籠めて、その人のために弾こうと心掛ける。それでも、他の客の楽しい会話を途切れさせないように気を使っている。

 だが、慎一は今この時の彼女からのリクエストだけは自分の力の全てをもって弾きたいと思った。彼女と自分のためにそうしたいと思っていた。心を籠めて、という言葉では足りない。心をぶつけたいと思った。何故なら、アネットの目には、全てを共有したいという強い願いが浮かんでいるような気がしたからだ。

 セレナーデ。恋人の窓辺で愛を囁く歌。切ない恋心を伝えんと想いを歌に乗せて、夜のしじまの中に語りかける。どうか私のところへ降りてきて。私の声を聞いて。私の想いに応えて。震えるような思いで待っている私のところへ。
 ピアノの脇にあるマイクスタンドが震える。その振動が微かに身体に伝わってきていた。

 めったに歌わない慎一が、昨日に続いて今日も歌い出すのを見て、ホイリゲの主人は驚いたような顔をした。
 慎一の声は賑やかなホイリゲの中に滑り出した。この声が、彼女のいる一番隅の席にまで届いて欲しいと願いながら、咽喉を震わす声は夜の闇を縫い取るように迸り出た。

 アネットもまた、誰かを想っている。
 僕も今すぐにでも、その人のところへ飛んでいきたいと願う。
 切なくて、苦しくて、窓辺で愛しい人に愛の答えを求める。その愛の形は、純粋な恋かもしれないし、家族への想いかもしれない。僕の想いは僕だけが分かっている。
 彼のためにあの国を、あの街を愛したいと願った。彼のためにピアノを弾きたいと思った。彼に、父ではなく僕を見て欲しかった。彼をあの暗い場所から救い上げたいと願った。そして、僕のこの命は彼を救うためにここにあるのだと知ってほしかった。今もなお、どんなに離れても、顔を見ることも声を聞くことも叶わなくても、彼の気配だけはずっと傍にある。

 僕がピアノを弾いてきたのは、ただ一人の人のためだった。
 彼に聴いて欲しくて、今も僕は、彼に聞こえない場所であっても、こうして彼のためだけに、彼に囁きかけるために、音を紡いでいる。
 ジョルジョ。僕はあなたをその苦しみから解き放つことができるだろうか。
 そして、アネット。もしかして僕は君の魂に触れることができないだろうか。君の魂が震えるように願う苦しい恋の想いに、せめて手を添えて慰めたいと願う。

 今、慎一は完全にホイリゲが静寂に包まれていることを知らなかった。
 誰もが手を止めていた。ビールのジョッキを掴んだ手はそのままで、テーブルから持ち上げられることはなかった。ソーセージを口にしようとしていた者も、そのままフォークを皿に戻していた。おしゃべりは完全に止まっていた。そして、仲間の従業員でさえも、客の注文を取ることもなく、飲み物や食べ物を運ぶ足さえも止めていた。

 ホイリゲの主人はご満悦だった。曲が終わったら、俺が見つけた金のタマゴだと言うつもりだった。もっとも、今慎一がしているのは、彼の技術を見せるピアノの名曲を弾くことではなく、本来なら慎一が得意というわけではない、自分で伴奏をしながら歌うことだった。
 慎一が歌を人の前で披露することは多くはないのだが、ホイリゲの主人は彼の声が好きだった。もちろん、主人の思うところでは、慎一はピアノの世界で大成するはずなのだが、もしかして象牙の塔に住んでいる偉い人々に分かってもらえなかったら、ポピュラーの世界でもいいじゃないかと思っていた。

 彼の声は洗練されているわけではないが、ここのところにぐっとくる。
 主人は確かめるように自分の胸を何度か叩いた。
 けれども曲が終わった時、主人も口を閉ざし、沈黙してしまった。

 ねぇ、シンイチ。待ち望んだ恋人は窓を開けてくれたかしら? そこから降りてきてこの愛を受け入れてくれたのかしら。
 アネット、僕にはわからない。でも、心は伝わったのだと思う。
 もしも受け入れてもらえなかったら、私たちの心は死んでしまうような気がするわ。
 そうだね。僕はずっとそんな闇の中にいた。ねぇ、アネット、もしも君が望む人が君を受け入れなくても、君の音楽を愛する人が沢山いるんだ。恋人も、もしかして窓を開けなくても、その部屋の中でそっと心を打たれて泣いているような気がする。だから泣かないで。

 畳み込んだ最後の音が、完全に静まり返ったホイリゲの闇の中に吸い込まれていった。
 慎一はその静寂に、今初めて気が付いた。何故ホイリゲが静まり返っているのか分からなかった。突然不安になり、周囲を見渡す。

 息をすることも忘れいてた人々は、その小さな楽聖の戸惑ったような表情に我に返り、はっと気が付いた主人の拍手を合図にして、突然皆が立ち上がり喝采の声を上げた。感激した老いた婦人が小さな舞台に歩み寄り、このあまりにも不安そうな若者の手を握り、早口で何か言いながらその手を何度も振った。
 貴方は間違っていないわ。
 婦人はそう言っていたようだった。

 慎一は隅のテーブルを見ようと思ったが、リクエストをくれた女性の姿はもうそこになかった。いや、人々の向こうで彼女は立ち上がり、そっとドアの方へ歩いて行く。目で追いかける慎一はかろうじて舞台を降りたが、握手や言葉を求める人々を遮ることができないままだった。

 その時。
 ドアの近くの席で誰かが立ち上がった。

 テオドール。
 突然、慎一の耳に静寂が蘇った。アネットに話しかけるテオドール。テオドールをまっすぐに見上げるアネット。二人は深刻な表情で短い言葉を交わしていたが、すぐに感情が二人を押し流し、明らかに言い争いに変わっていった。
 そして不器用な愛を持て余す若い恋人たちは、ホイリゲに慎一の不安を残し、そのままウィーンの街の闇の中へ出ていった。



追記で音楽をお楽しみください。


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Category: ♪死と乙女(連載中)

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【雑記・小説】バトン(2)自分の取扱説明書 

難しいバトンだなぁと思ってしまったのは、TOM-Fさんの回答が面白すぎて構えちゃったからかもしれません。
大阪の人間のサガで、ついつい面白いことを言わなくちゃ!という強迫観念が^^;
でも、八少女夕さんがすんなりと爽やかにお答えになっているのを読んで、ちょっとやってみよう!と思いました。

バトン「自分の取扱説明書」
→→TOM-Fさんの回答編
→→八少女夕さんの回答編


【大海彩洋の取扱い説明書】

○基本事項○

1 ユーザー名:大海彩洋

2 性別:え? 一応♀ でも時々、考え方が♂っぽいことが……
(TOM-Fさんの「なし」が気になるけど)

3 年齢:1600光年。M78星雲との距離です。
(きっと私の心を初めて宇宙に飛ばしてくれたのはオリオン座の反射星雲)

4 理想の年齢:75000光年。デルタ宇宙域との距離です。
(スタートレック・ヴォイジャーが彷徨っている宇宙空間。艦長とチャコティに会いたい。ドラマの登場人物で、あんなにも傍に行って語り合いたいと思った人たちは少ない)

5 身長:5メートル。今うちにあるジャカランダの樹高。

6 理想の身長:20メートル。南米におけるジャカランダの樹高。

7 体重:270kg。YAMAHAのアップライトピアノの重量。

8 理想の体重:330kg。ベーゼンドルファーのグランドの重量。
(グランドのイメージと比較すると、アップライトって意外に重いのね)

○小説情報(リンク貼りOK)○

1 一番プッシュしたい自作品
自分を一番端的に表している(自分らしい)と思うのは【清明の雪】でしょうか。好きなもの(お寺、京都、恋愛を越えた深い想い、あやかし、伝説、そして理想の和尚さん!巷では和尚さんが主人公とも思われているかも)をてんこ盛りにした作品。18禁ではありません(^^)
でも、今止まっていますが【死者の恋】はそれ以上になるかもと予感しています(文句なく、舞台が津軽だから)。初めての方にも読んでいただきやすい世界を書く予定なので、よろしくお願いします。
そして、18禁/18Rですが、ハードなものが大丈夫な場合は【海に落ちる雨】……・執筆期間も長くて、色んな意味で苦しくて、特に第4-5節は疾走するように書いた作品。
あ、ひとつか。うん、シリーズという意味ではいずれも真シリーズですね。

2 総合評価が一番高い自作品
良い評価をいただけるほどのものはないような気がするので、ピンときません。
あ、【石紀行】? それは違うか。
【マコトの事件簿】? それも違うか。

3 連載速度
気紛れ。【海に落ちる雨】は執筆終了しているので、適当に小出しにしています。
書くのは速くないので、新作は月に3回分程度?(旅行記は省く)

4 主な人称
三人称を借りた一人称もどき。ひとつの章で視点を入り混じらせることは少ないです。章を変えるときに変える。
一人称は何故か書けない。「オレは」とか「私は」とかが何だか照れちゃう。

5 得意ジャンル
得意なんてものはないのです。でも好きで書いているという意味で回答すると……
ジャンル分けは難しいけれど、人と人が絡んで何かが起こる、ちょっとミステリーもどき。でも密室の謎とかアリバイトリックとか本格的謎解きではなく、「出会ってしまったら事件が起こる」系。
現実世界の中で、ちょっと隣り合った世界が顔をのぞかせるようなミステリアス系は好きです。あやかし・もののけはつい、出てくる。
軽くノリノリで書きたいけれど、結果的には人の心を書くのでやや重くなりがち。逆に軽い物語は、読者としてもあまり読まない方です。もちろん、重さとか軽さの中身によりますが。

6 苦手ジャンル
恋愛小説。最後はみんながわけもなくハッピーになるというご都合主義的物語。納得いかなくて悶えそうになるので。でも、自分が書けないだけで、読むのもいやと言うわけではありません(あまり読まないけれど)。
人の心がちゃんと書いてあるもの、心を直接書かなくても行動から感じられるものが好物なので、逆にそれが書いていないものが気持ち悪いし、自分もそれをきちんと書かないでいると気持ち悪い。
魔法使いとか勇者とかが出てくる系のファンタジーも書けません。

7 得意描写
う~ん。そんなもの、あるかなぁ?
自分で自己満足するのは、主人公が苦しい時にふと見る景色・情景の描写。
例えば、イケナイことをしてしまって自己嫌悪の主人公(真)が、家出してきた幼稚園児(真が結婚後住んでいるお寺の居候娘)が庭で一人ぼっちで遊んでいる光景を見て、不意に救われた気持ちになるシーン、とか。
書いていて好きなシーンは、格闘シーン。ただし、一方的なもの以外。

8 苦手描写
苦手なものはいっぱい。中でも、「愛しているよ!」「私もよ!」みたいなラブラブシーンは絶対無理。
でも、「I love you」「I know」には萌えまくった一人ですが。
18禁シーンでも、幸せいっぱいなものを書いたことがないのです。したがって、エロチックにはならなくて、ノリ的には格闘シーンとテンションが同じ。

○他記事項○

1 好感度が上がる瞬間
「そこ、気が付いてくださったんだ!」「わ、そんな風に読み込んでくださったんだ」というような。

2 好感度が下がる瞬間
え~と。やっぱり、いじめられた時。今のところ、幸いありませんけれど(気が付いていないだけ?)。
それから、その分野・部分的な内容が嫌いだからと言うだけで、害も受けていないのに強い言葉で批判している文章を読んだとき。嫌いなら読まなければいいのにと思っちゃう。
(すみません、こういうこと書いちゃいけませんね)

3 怒った時の対処法
放っておくとすぐに忘れる。たまに蹴ってもいいゴミ箱があると、それだけで納得する。

4 懐く瞬間
心に響く三味線を聴かされた時。腹に響く民謡の唄を聴かされた時。この系統の音に本当に弱い。

5 貰うと喜ぶモノ
トチがいっぱい入った上物の三味線。ベーゼンドルファーのグランドピアノ。花が咲くジャカランダの木。いい匂いがする梅の木。いいことをしたら帰ってきたときに実が光っているモチモチの木。
でも実際には、クラブハリエのバームクーヘンとか、北菓楼のあられ、パンダの写真、トカゲの置物程度で喜ぶ。

6 貰っても嬉しくないモノ
理屈の通らないモンスター○○○の言いがかり。理屈があれば理屈で返せるけれど、理屈を通さない人は、そもそも会話にならないから。厳しくても理屈が通る話はありがたく拝聴。
霜降りの上等の肉。逆流性食道炎で食べられない。

7 自分を動物に例えると
う~ん。クロ?(ダメなオオカミ→→『狼王ロボとクロ』)

8 動物になれるなら何
私もパンダ! 結構獰猛で、結構いい加減で、遊び好き。
でも、トカゲも捨てがたい。トカゲは私のソウルメイトなので、自分がなるのはちょっと違うのだけれど。

9 今欲しいモノ
時間。もう少し仕事をこなす時間と、三味線の練習をする時間と、小説を書く時間と、石を見に行く時間と、庭の手入れをする時間。

10 好きな曲(1つ)
また難しいことを……ひとつですか。
敢えて言うなら、IL DIVOの歌った『アレルヤ』(レナード・コーエンも捨てがたいけれど)。
これは【海に落ちる雨】の始章でイメージ曲として使用。もしも自分の葬式にかけて欲しい曲と言われたら、迷わずこれだから、やっぱり好きなんですね。
迷ったのは、江差追分。本当に大好きで、1日中でも聴いていられる曲。歌詞もあれこれあって、日本の歴史を感じたり原風景的なものを感じる。
(追記に貼りました)


ほ~。頑張りました。
これは前回やったバトンと違って、ハードですね。
ぜひ皆様も続いてください。結構消耗します^^;

そして、よろしければぜひ、『アレルヤ』を追記に畳んでいますので、聴いてやってください。
お暇なら、『江差追分』も。えっと……この曲と『津軽小原節』はいつか唄いたいという野望を抱いています。野望なので、実現は難しいかも^^;

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Category: 小説・バトン

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【雑記・生き物】狼王ロボとクロ 

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久しぶりに『ダーウィンが来た!』ネタです。
その前に、私がこの夏に買った本は、ちょっと懐かしい本たち。
実家の本棚にあった本だけれど、どこに行ったか不明なので、本屋で見つけて衝動買いしてしまいました。

1冊はロバート・ハインラインの『夏への扉』……ハインラインに関しては『宇宙の戦士』がガンダムのモビルスーツのモデルだとか、また政治活動に興味があって揶揄されたりとか、色々ありますが、私は『月は無慈悲な夜の女王』が大好きで、他の作品も読み漁っていました。
……ちょっと懐かしくて買っちゃいました。

シートン動物記の『狼王ロボ』は子どもの頃、何回も読んでいた1冊です。
改めて読むと、子どもの私がどう思っていたのか、今では思い出せないのですが、ロボに対して、遊びで一晩に羊を何百頭も殺すような悪い奴だとか、でも最後はたったひとりで、捕まったブランカのために乗り込んできて殺されてしまう、しかも呼んでも仲間は誰も来なかったりで可哀そうとか、色んな複雑な感情を覚えていたことは確かだと思います。
思えば、この頃から、私のなかで「善悪」は別々にあるものではなく、裏表で複雑で、100%の善もなければ100%の悪もないという池波節の萌芽があったのかもしれません。

で、懐かしくて、文庫本化された『シートン動物記』を購入。
改めて読んで、ロボに人間と同じ善悪のこころの同居を感じました。
でも、ブランカの処刑の場面はもう怖くて読めません。
大人になって読んでも、あまり子どもの時と変わった感想が出てこない気がするけれど、ただロボにも何か言いたいことがあったんだろうな、それが自然の厳しさ、善悪を越えた無情の世界なんだろう(無情と言うのは、たしか誰かの詩にあったのです。情けがないというのは心の情けじゃなくて、自然の中には感情とは関係のない摂理がある、という感じ)、そして最後の場面、絶望による死の場面では、やはり心を動かされます。
それは感動とは少し違うのですが、ただ心が動くんですね。
いや、それを感動と言うのかもしれませんが……上手く言えないけれど、いつまでも心に残る。
気になって仕方がないものが心に残ってしまう感じです。

シートンは淡々と、事実だけを書いているので、余計にそういう余地が出てくるのかもしれません。
もちろん、そこから動物好き、特にオオカミには深い思い入れがあったというシートンの複雑な感情、オオカミへの敬愛の気持ち、ブランカにしてしまったことの後悔とか、あれこれにじみ出ているから、心にずっと残って、忘れられない物語になっているのだと思います。

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そんな時、『ダーウィンが来た!』でやっていた物語『一匹オオカミ 頂点への道!』
この番組、何度もご紹介していますが、私がARASHIくん以外の番組で録画してまで毎週見ている数少ない番組。
でも、これを見て、今回この番組で初めて泣きました。(最近涙もろいけれど……それにしても^^;)

主人公はハイイロオオカミのクロ。
一匹狼なのですが、そもそもオオカミは群れで狩りをして生活をしている動物。
一匹狼なんて全然格好良くないのです。
ワピチ(シカの仲間)を襲ったら襲い返され、自分より小さいコヨーテに追いかけられたり、熊に獲物を横取りされ。
群れならできることが1匹では全然ダメ。

丁度、『シートン動物記』の頃よりは少しあとでしょうか、オオカミは家畜を殺す悪者として殺され、あるアメリカの公園では1匹もオオカミがいなくなったと言います。今度は草食動物が増えすぎて、木々が荒らされしまい、鳥や小動物もいなくなってしまった。そこでカナダからオオカミを移入したのだとか。

さて、オオカミですが、本来はオスとパートナーのメス、その子どもたちからなる群れをつくり、オスオオカミは2-3歳になると群れを離れて1匹オオカミになり、自分の群れをつくることになります。
そこで、主人公クロの登場です。

この番組の面白いところは、時々こうやって主人公を追いかけるんですよね。
漠然と動物を紹介されるよりも、主人公がいるので気持ちを入り込ませて物語を追いかけちゃうんです。
そう言えば、某動物園の飼育員さんが言っていました。
動物園で面白く動物を見る方法は、1匹を決めて行動を追いかけることだ、と。

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1匹オオカミになりたてのクロ。ワピチに襲い返されています。
ある大きな群れのメスに恋をしていい雰囲気になったら、その群れのリーダーに追いかけられる……
逃げた先は道路。オオカミは車が怖いので道路にまで追いかけてこない。
というわけで、ダメダメなクロは道路の傍で暮らし始める。
やがて、隠れて(追いかけられたりしながら)恋を成就。

子どもを作ったのに……本当なら、群れをつくって出ていくはずのメス。
どうやらクロが頼りなく思えたらしく、クロについていかないのです。
クロは群れにも入れてもらえず、自分の群れをつくることもできず、1匹オオカミのまま。
そして、リーダーの目を盗んで、通いパパ状態……ちょっと健気。
普通は群れに入れてもらえない時点で諦めて、家族と別れるそうですけれど。
でも、子どもをそっと連れ出して、一緒に遊んで、また一人帰っていくクロの姿にはパパの優しが。
子どもの安全を考えた夫婦の決断、だったのかもしれません。

何だか、狼王ロボとは雲行きが違いますね。
流され、争いを避け、隠れてオンナと子どもに会いに行く。
メスは子どもの安全を考えて、クロにはついていけない。
野生の世界の厳しさも垣間見られます。
ちなみに野生のオオカミの寿命は5年。飼育されたオオカミは15年だそうで。

さて、その大きな群れのリーダーが死んじゃったのです。
その群れには、後を継げる大人のオスオオカミがいない。
クロ、リーダーになるチャンスです!
それなのに……クロったら戦わずして、よそからやって来た別のオスにリーダーの座を明け渡してしまうのです。

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情けないぞ、クロ。
しかも服従して、ナンバー2として群れに入れてもらっている始末。

やがてその群れは、他の大きな群れに襲われて、縄張りを奪われ、群れの半分は殺されてしまいます。
そもそも本来のリーダーを失ったばかりの群れだったので、群れとして弱っていたのですね。
クロは……道路に逃げて難を逃れていたのです。
情けないけれど……でも生きるのに必死です。

やがて、元の群れのメンバー3匹と再会。4匹で放浪の旅に出ます。
その後、4匹で力を合わせた群れは12匹にまで増え、クロは押しも押されぬナンバー2としてリーダーとともに頑張っています。

でも、リーダーはそのうちクロを邪魔扱いするようになり……クロは群れを離れたのです。
一人ぼっちのクロ。

と思ったら!
クロが群れを離れた時、5匹の若いオオカミがクロを慕ってついてきていたのです。

もうここで大海は何故かボロボロ泣き状態。
いつの間にかクロに感情移入していたんですね……

ついにリーダーとして狩りの指揮を執り、カッコいいオオカミになったクロ。9歳になっていました。
厳しい野生の世界を柔軟な態度で生き抜いたクロ。
何だか、ロボとは全然違うけれど、そしてたまにはダメダメにも見えるけれど、でも、クロ、かっこいいぞ!
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泣きすぎて、一気に2回見ちゃった。
感動のおすそ分けでした……って、私の語りではあまり伝わりませんね。
『ダーウィンが来た!』……いつもスタッフの皆さんの熱意に感動しながら、平原綾香さんのラストの歌で気持ちが盛り上がる大海なのでした。
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今日は、三味線の大会。頑張ってまいります(*^_^*)

Category: 生き物

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【雑記・小説】 バトン(1)オリジナル小説書き 

TOM-Fさんがバトンをやっておられたので、拾おうと思ったのですが、難しそうだったので、別のバトンを探してみました。TOM-Fさんのされていたのも拾いたいのですが……ちょっと難しそう。
→→TOM-Fさんのバトンへ
TOM-Fさんは、さすがにウィットに富んでおられて、ものすごく素敵なバトン回答になっています!
ぜひご訪問くださいませ(*^_^*)

あ、ちなみに私が前にやったバトンはこちらです。
→→前回のバトン(オリキャラコンビバトン:真と竹流)

では、暇つぶしにどうぞ。

オリジナル小説書きさんへバトン

Q1 小説を書き始めてどのくらいですか?
A1 20年以上(いや、もっと?)。でも、中断→再開→中断→再開、の繰り返しなので、トータルはあまり長くないかも。
Q2 処女作はどんなお話でしたか?
A2 小学生の時。『若草物語』のような乙女な話。その次は、今のメインキャラの相川真の設定が明智小五郎みたいな名探偵だったころのお話。
Q3 どんなジャンルが書きやすいですか?
A3 書きやすいのは……人間関係が複雑に絡み合った話、何かミステリー的な事件が起こるもの。書きにくいのはファンタジー。
Q4 小説を書く時に気をつけていることは?
A4 自分の文章の悪い癖が出ないように気にしながら書いています。メイン物語が昭和の終わり→その時になかったものを書かないこと。
Q5 更新のペースはどのくらいですか?
A5 気紛れ。今のところは比較的一生懸命ですが、飽きてしまう可能性もありますので…
Q6 小説のアイデアはどんな時に浮かびますか?
A6 う~ん。本を読んでいる時、ある一文とか単語から飛んでいくことが多い。他には庭仕事をしている時。
Q7 長編派ですか? 短編派ですか?
A7 長編派です。
Q8 小説を書く時に使うものはなんですか?
A8 えっと……パソコン? コーヒー。たまに落書き帳。
Q9 執筆中、音楽は聞きますか?
A9 かけるけれど、書いているうちに勝手に止まっていて、そのまま忘れています。
Q10 自分の書いた小説で気に入っているフレーズを教えてください。
A10 自分の中では1章に1回くらい、決め台詞があります。
Q11 スランプの時はどうしてますか?
A11 スランプではない時は少ないけれど……何もしていないです。普通に、リアル仕事に専念する。
Q12 小説を書く時のこだわりはありますか?
A12 起承転結。……でも、あまりないかも。目標ならあります。「3分に1度のクライマックス」(冗談です^^;)
Q13 好きな作家さん&影響を受けた作家さんはどなたですか?
A13 池波正太郎先生。小説家じゃないけれど、梅原猛先生、網野善彦先生。影響を受けた作家さんは多数。
Q14 感想、誤字脱字報告、批評……もらえると嬉しい?
A14 それはもちろん、嬉しいです! でも、優しい言葉のほうが嬉しい。軟弱なので……
Q15 最後に。あなたにとって「書くこと」はなんですか?
A15 かっこいい事を言いたいけれど……でも、仕事よりも長く続いているなぁ。人生の伴侶的な?

Category: 小説・バトン

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【掌編】センス/ 3333リクエスト 

先日、3333Hit記念にリクエストを頂戴しました。
(1)シリーズとは舞台設定も登場人物も、あらゆる意味で関係しない、1500字くらいのワン・アイデア・ショートショート by ポール・ブリッツさん
(2)【海に落ちる雨】と逆パターンで真(またはマコト)がひょっこりいなくなって焦る竹流。コミカルでもシリアスでも by limeさん

そこでまず、ポール・ブリッツさんから頂いたお題を書いてみました。
読んでいただいてわかるように、掌編って本当に苦手なんです。ポール・ブリッツさんのような、切れ味鋭いセンスあるショート・ショートは書けません^^; しかもワン・アイディアとも言えないような……
まずは、お読みいただけたら嬉しいです。





センス

 ふたりは向かい合って、赤く暗い部屋で三十七週間と三日を過ごした。
 ひとりは少し小さく、いつも不安だったので、時折誰かが部屋の外からそっと触れる音さえ聞き逃さないようにと思っていた。もうひとりは少し大きく、やはりいつも不安だったので、部屋の外からノックするような音が響くと身を縮めて耳を塞いだ。
 同じふかふかのベッドで眠っていたが、ふたりの間には少しだけ距離があった。それでも、時々互いの未完成の身体の一部が触れ合い、その時だけは不安が少し和らいだ。

 そしていよいよ、暗い部屋を出て、光の方へ進む日を迎えた。
 ふたりは初めて光を見た。
 ついにその時、光の中に投げ出されようという一瞬に、彼らに語りかける声があった。
「次の世界では、お前たちは見て、聞き、味わい、嗅ぎ、触れることによって世界を感じることになる。しかし、その感覚を受け取る脳には、そのすべてを一度に処理するだけの能力がない。そこで、望むならば何かひとつだけ特別に優れた感覚を授けることができるが、如何に」

 小さいひとりは、初めて見た光が怖かった。誰かが部屋の外から触れる音がもっともっと聞こえればと願った。そこで、優れた聴覚を望み、オレッキオと名付けられた。
 大きいひとりは、いつも部屋をノックする音が怖かった。今この先にある光は眩く、それをあまねく見ることができればと願った。そこで、優れた視覚を望み、オッキオーネと名付けられた。
「ただし、より優れたものを望めば、他のものを犠牲にしなくてはならないが、それでもよいか。ただありふれた五つの感覚を持つこともできるが、如何に」
 より優れた能力があれば、それによってより優れたものが手に入ると、ふたりとも信じて疑わなかった。

 オレッキオの優れた聴覚は、何キロメートルも離れた湖のそよぎ、吹き渡る風が揺らす花の囁き、熟した実が落ちて枯葉に触れるキスを聞き分けた。交響曲を奏でるひとつひとつの楽器の音色を聞き分け、その調和を楽しんだ。
 オッキオーネの優れた視覚は、昼間でも遥か天空の星を探し、海の底で光を跳ね返す小さな魚の鱗を見分け、暗闇の中でも生き物たちの放つ微かな光を見つけることができた。絵画の中の小さな色の違いを見分け、その共演を美しいと感じた。
 ふたりは、自分の能力こそがより優れていると信じて疑わず、また感じる世界があまりにも異なるために、同じ場所から生まれ出たにも関わらず、お互いのことをまるで理解できなくなり、離れていった。

 やがて成長したオレッキオの聴覚は研ぎ澄まされ、何キロメートルも離れたビルの中の諍いや陰謀の声を聞き、原子炉の底で大地を揺るがす不穏な音を聴き、やがて人の身体の内側で育つ醜い細胞のうごめく音さえも聞こえるようになった。音楽は調和を失い、ひとつひとつの楽器は自分自身を主張し、ただ煩い騒音が、起きても寝ても耳を震わせた。
 やはり成長したオッキオーネの視覚も研ぎ澄まされ、何キロメートルも先で起こった残酷な殺人を目撃し、空に昇って行く穢れた粒子までも網膜に写し取り、口にしようとする野菜や肉の中でうごめく細菌までも見えるようになった。絵画の中の色彩は、溶け合うことなくそれぞれが存在を主張し、寝ても起きても網膜を刺激した。

 そして、オレッキオはついに、もう何も聞きたくないと願い、優れた聴覚を誇った耳を自ら潰した。聴覚を選んだオレッキオの視覚は十分ではなく、足元の石ころさえ見分けることが難しかった。オレッキオは闇の世界に閉じ込められた。
 そして、オッキオーネも、もう何も見たくないと思い、優れた視覚を誇った目を自ら潰した。視覚を選んだオッキオーネの聴覚は十分ではなく、そばを通り抜ける車の音さえも聞き分けることが難しかった。オッキオーネもまた闇の世界に閉じ込められた。

 それでも、オレッキオの拙い視覚でも、オッキオーネの涙だけは微かに見えた。
 オッキオーネの拙い聴覚でも、オレッキオの嘆きの声だけは微かに聞こえた。
 暗闇を彷徨うふたりはやがて再び出会った。

 ふたりには鋭い聴覚も、鋭い視覚も残ってはいなかった。けれども、そっと指を伸ばせば、互いの涙に触れることができた。ふたりは手を握りしめ合い、お互いの背中を慰めるように抱きしめ合った。
 ふたりは、優れた聴覚も優れた視覚も失った今でも、そよぐ風が頬に触れる優しさを分かち合い、肌に落ちる光の温もりを確かめ合うことができることに気が付いた。
 そして不思議なことに、ふたりで触れ合っていれば、もう失ったと思っていた未来が感じられ、この世界に生れ落ちて初めて微笑み合った。





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双子ちゃんのお話、大海Versionというわけではありませんが、脳の処理能力って限界があるよなぁ、一生懸命見ている時は耳はお留守だし、目を閉じたらいろんな音がしっかり聞こえるし、というのが発想の原点。
あ、発想と言うほどの内容じゃありませんでしたね……
すみません、何しろ、書けば長編になる大海の掌編って、ほんとつまんないですよね^^;^^;
ついつい起承転結を守ってしまって、突き抜けた魅力もなく……

あ、はい。最後は触覚が残ったって感じでしょうか。そして、実は、未来を感じるシックスセンスも。
(って、解説するなって!^^;)
で、題名を考えていたら、「樅の木は残った」が頭から離れなくて「触覚は残った」にしそうになり……
(どうしてもおちょくりたい大阪人)
で、嗅覚と味覚はどうなったの?とか聞かないでくださいね^^;
(次は4つ子でチャレンジ?)

掌編って、書いてみて、毎回がっかりするのです。
本当に難しい。ポール・ブリッツさん始め、掌編を書きまくっている方々の頭の構造が羨ましいです。
さらに、最初あまりにも短くなっちゃって、少し膨らませたら1800字くらいになっちゃいました。
ポール・ブリッツさん、こんなので許していただけるでしょうか。

参考までに、
オレッキオはイタリア語の耳、オッキオーネも同じくイタリア語で大きな目、の意味です。

もうひとつ、別の赤ちゃんネタも考えていたのですが、オカルトチックになったのでやめました。
あと一つ、まったく別の話も思いついたので、それはまたいずれお目にかけたいと思います。
私の中の『ダーウィン』ネタ(例のNHKの番組)。

limeさんのリクエストも鋭意ねりねり中。
というのか、アイディアは出来上がっているので、また近日中に。
まずはマコトでチャレンジ(ってことは、真でも書くつもり??)。

Category: その他の掌編

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[雨82] 第16章 任侠の男(5) 

【海に落ちる雨】第16章最終話です。
竹流の足跡を求めて、新潟の豪農の館を再訪しようという真。
ヤクザに痛めつけられてすっかり身体はぼろぼろですが、頭のほうは冴えてきているようで……
少しは竹流に近づけるでしょうか。

最近、ちょっと真面目に小説ブログになっていますが……
たまには面白い事のひとつも書いてみたいけれど、なかなかネタもなく……
巨石紀行は今週末の三味線の大会が終わってからになるでしょうか。
あ、巨石紀行は別に面白くないのですけれど。しかも今回は、ほぼ蚊との戦い。
関係ないけれど、最近、ちょっと嬉しいこと。
トップ記事の拍手が地味に増えること……(*^_^*)





 夢の中だったのかも知れないが、『Unchained Melody』が流れていた。1955年以来何度もリバイバルヒットを飛ばしていて、映画の主題歌にも何度か使われている。竹流が珍しく歌っていた事がある曲だ。
 もっともカンツォーネなら何度か聞かされていたので、珍しいというのはアメリカの曲を歌っていたという点だが、その曲には竹流にも思い出があるようだった。詳しく聞いたことはないが、日本に来る前にニューヨークで一年ばかり世話になっていた人が、よく聞いていたのだという。
 竹流と音楽の繋がりはよく分からないが、彼が酔って陽気になると、調子のいいカンツォーネや、時には真の祖父母に教えられた日本の民謡を歌っていたのは事実だ。いい声で、女でなくても聴き惚れる。

 そうか、考えてみれば、あれは仁と一緒にあの店に行ったときだった。
 真が席を立っている間に、二人は何か賭け事をしていたようだった。何を賭けていたのかは、教えてもらえなかったので分からないが、その賭けは引き分けだったようだ。
 引き分けの結果、仁は明らかに射程範囲外の厳つい男を口説かされ、竹流は生バンドの前で歌った。ぞくっとするような唄声だった。身体に火をつけられるようなハイバリトンの声と共に、近くに座っていた年配の婦人たちのうっとりとした溜息を今も思いだす。

『負けたらどうなってたんだ?』
 返事をしたのは仁だった。
『俺が負けたら、美和を一晩貸すことにしていた。こいつが負けたら、お前を自由にしていいということになってたんだがな』
 こいつら何を賭けてたんだ、と思って竹流を見ると、ただ面白そうに笑っていただけだった。

 もっとも、仁が負けていたとして、実際美和を竹流に任せるなどあり得ないと思うし、万が一そうだとして、竹流が美和をベッドに誘うとは思わなかった。美和は葉子と同じで、可愛い妹みたいなものだ。それに、基本的に年上のやり手の女が好みの竹流の守備範囲からは、多少外れているように思う。
 もっとも、女は誰でも大事にするのが当たり前と思っている男だ。実際目の前に餌をぶら下げられたらどうなるかはわからない。
 反対の場合はどうだったのだろう。竹流は、真を仁に委ねるようなことはないと思いたいが、何とも言えない気がした。だが、仁は真が拒否すれば、無茶なことはしないだろう。
 いや、それ以前に、真も美和も、物でも猫の子どもでもないのだし、この男たちが自由にしていいわけがない。

 ナポリの港で竹流が歌っていた、恋人の窓辺で歌う甘い恋の歌。耳元で囁くような声。それが頭の中で『Unchained Melody』に重なっている。歌いながら、一瞬彼が自分を見たように思ったが、次の瞬間には一番前の席に座っていた髪の長い美人と視線を交わしていた。歌い終わった後にも、少しの間、彼女と何か話していた。女は男と来ていたが、あのカップルは多分あの日、揉めたことだろう。

 泣いているなどとは、自分でも思わなかった。
 不意に冷たい手が頬に触れて、真は驚いて跳ね起きた。
「可愛い奴だな、お前」
 車は停まっていた。ガラスの外を見ると、まだ雨は止んでいなかったが、空は幾分か明るくなっていた。駅前のロータリーのようだった。
「寝ながら泣けるってのは才能だな。かかってた曲が悪かったか」

 夢ではなかったのだ。レス・バクスターが歌っているという違いはあるけれど。
 車の時計を見ると、七時前だった。朝飯を食べることになって、駅前の喫茶店に入る。和食中心の朝定食屋で、仁はしっかり鮭定食を平らげたが、真は雑炊を何とか半分程度胃に流し込んだだけだった。
 まだ気持ちが悪くて、水分以外は胃の中で暴れまわるような気がした。
 仁がコーヒーはどうだ、と尋ねたが、さすがに限界だった。
 仁のコーヒーを待つ間、真は出された暖かいお茶の入る湯呑みを触りながら、ふと顔を上げた。

「タイ人はプロを雇ったと言いましたよね」
「あぁ」
「それは所謂、スナイパーですか?」
「そう聞いてるが」
「でも、田安さんは溺死したんですよ。少なくとも弾傷なんてのはなかった」
 仁は煙草の灰を落とした。
「じゃあ、ガセだったのか。それとも、別のプロが雇われたのかな」

 真はどこかで武史を疑っていたことに今、自分で気が付いた。だから、頭の中で田安が溺死だったことを確認して、どこかでほっとしていた。
 朝倉武史は優秀な工作員かもしれないが、所謂抜群の腕を持つスナイパーの一人だと聞いていた。もっとも、武史の仕事を本当のところはよく知らない。知りたいとも思っていなかった。

「しかしな、こういう世界じゃ、名の知れた誰かが死んだり殺されたとき、そいつを始末したのは自分だと名告りを上げることで、自分の存在を示す、所謂売名行為ってのがあるからな。そのタイのヤクザは新進気鋭、と言えば聞こえはいいが、かなりヤバい橋も渡ろうっていう連中だ。タヤスってのは、内戦なんかで雇われる傭兵の中じゃ伝説の男だからな。自分たちが殺った、しかも一流のプロを雇った、ってのは、つまり金と勢いがあるってことを示すいい宣伝だったわけだよ」
「でも、そうだとして、そのタイ人たちはどうして田安さんが死んだことを知ったんですか。かつては名の知れた傭兵だったとして、いまでは東京の片隅で暮らしている一介の老人ですよね」

「さて、そこだな。本当に、一流のプロを、誰かが動かしたのだとしたら。そして、誰かが、本当の目的を世間的にも知られたくなかったのだとしたら、誰かさんとヤクザの利害は一致する。でもな、真、お前は知らんかもしれんが、田安隆三はただの老人じゃない。さんざん人の恨みも買ってるだろうし、今でもあの人を頼る若手は多いと聞くし、傭兵の斡旋や所謂内戦国における情報の売り買いの中継地点みたいな役割は今でも十分果たしているんだよ。ただの傭兵上がりのおっさんってわけじゃないさ。お前さんに対して気の好い老人の顔を見せていたんだとしても、それは一面に過ぎんよ。お前が朝起きてマンションを出て事務所に辿り着くまでの間に、田安隆三が死んだってニュースが東京からタイの山奥に飛んだって別におかしくはないさ。なんせ、東京って街は、犯罪者にとっても安全で居心地のいいところらしいぜ。情報の中継地点になっていても、住民も政治勢力も、誰も気が付かない」

 真はしばらく、仁の指先の煙草の煙を見つめていたが、やがて息をついた。
 そうだ、誰も、信じるに値する顔だけを持って生きているわけではない。

 下の蓮生の主人に会うためには、蓮生千草に仲介をしてもらうのが一番良さそうだった。あの下蓮生の若旦那に会って頼むのは、ちょっとばかりぞっとする。
 その件を仁に告げると、既に仁は浮き浮きしているように見えた。美和ちゃんに言いつけますよ、と言うと、じゃあ口封じに襲うぞ、と巻き返された。どこまで本気でどこまで冗談なのか、時々分からないのが仁の不可思議なところだった。

 荒川に向かいながら、仁に蓮生の歴史について話した。仁は時々短い質問を挟んできた。
「何ともすさまじい話だね。その高貴なロシア人女性は、つまり遊女のようにされていたんだろう? そりゃあ、恨みも籠もって、跡継ぎもいなくなるかもなあ」
 真が『河本』が言ったことを伝える前に、仁はそう言った。やはり北条仁はただ者ではない。真には全く持てない視点だった。

「大方、その下の蓮生の当主が焼き捨てたかったのは、蓮生の負の歴史なんだろうよ。俺にはよく分からんが」
 仁はさすがに教養があるヤクザだ、などと感心している場合ではないが、視点を変えれば見えてくるものもあるのかもしれない。

「日露戦争で日本は形の上では勝利を納めましたが、賠償金は得られなかった。あの戦争はイメージ戦争という側面があります。実際の戦い以上に、メディアが大きく動いた時代だった。詩を始めとした芸術も、宣伝という意味での新聞の普及も、国際社会にイメージを売る手段も、ある意味娯楽に近いものがあった。否が応でも民族意識は高められて、次の戦争に走っていく土台を作ったわけです。しかも、あの戦争では胡散臭い美談が随分作られている。ロシア人捕虜に手を貸す日本人の話とか、処刑する前に敬意を示して握手を交わした、とか、敵味方なく援助する看護師の話とか。その陰でどんなことがなされていたのかは、誰も知らない。勿論、どういった事情で絵や女性が連れてこられたのかは分かりませんが、結果的にロシアはそのまま革命に突入してしまって、うやむやになったことも多いのだと思います」

「そりゃ、あいつの講義か?」
 北条仁は、真の中学高校時代の勉強のほとんどを見てくれていたのが、大和竹流であることを知っている。
「それと、うちの祖父さんと。あの二人は酔っ払っては一晩中歴史論議をしていますから」
「お前は、ぐれてた割にはいい教師に恵まれてたわけだ」

 仁の感想については、全くその通りだと思った。
 父と母には捨てられても、祖父は本当に大事に自分を育ててくれたと思っている。伯父の功には複雑な事情はあったかもしれないが、彼は『父親』になろうと懸命になってくれていた。叔父の弘志もそうだった。真が子どもの頃、まだ高校生だった弘志は、ぐれては家出を繰り返していたが、少し離れたところでいつも守ってくれていたのは知っていた。好奇の目で見られ、苛めにもあっていた子どもの頃、世界は神と人とあらゆる生き物との共存で成り立っていることを教えてくれたのは、アイヌの老人だった。そして、この世界で現実に生きていく方法を全て教えてくれたのは竹流だった。世界が美しく、学ぶべき事で満たされていることを教えてくれたのも、彼だった。

「さて、何が出てくるのかね」
 仁は半分楽しそうに呟いた。真としては楽しむ要素など微塵もなかったが、仁の好奇心を止めるのは無理な相談だった。
 荒川の上蓮生家に着くと、道路に何台もの車が停まっていて、客人もあるのか、仕出し屋の車らしきものまで見られた。近くにボルボを停めて見ていると、仁が口笛を吹いた。
「あれがお前の言う美人か」

 真よりも先に、仁が蓮生千草を認めたようだった。千草は青っぽい色合いの小紋を着て、仕出し屋と女中のやり取りに何やら口を挟んでいるようだった。小雨が降っているので、彼らは門の屋根の下に立って話している。
「法事か何かかな?」
「そのようですね」
 仁がボルボを降りたので、真も助手席のドアを開けた。車を出ようとして一瞬ふらついたのを、仁の手が支えてくれる。てっきり美人に見とれているのかと思えば、いつの間にか側にいる。北条仁が危ないのはこういうところなのだろう。

 車を出ると、途端に千草と目が合った。思わず会釈すると、千草は仕出し屋に声を掛けて、傘を広げると真っ直ぐボルボのほうにやって来た。
 こうしてみると、蓮生千草は背も高く、着物姿で見栄えのいい女性だが、日本人離れして颯爽として見える。仁の好みというよりも、竹流の好みに近い。
「きっともう一度いらっしゃると思っていましたわ。今日はお連れの方が違いますのね」

 その言葉を受けて、仁は千草に挨拶をした。
「関東寛和会仁道組組長代理、北条仁と申します。以後、お見知りおきを」
 さすがに真はびっくりした。いくら何でも初対面の女性に、ヤクザだと名乗る馬鹿がどこにいるのだろう。しかも、それにも増して驚くのは、千草の応対だった。
「上蓮生の主、蓮生千草と申します。こちらこそ、どうぞよろしく」
 肝が据わっているというよりも、ほとんど無謀に近い。千草は顔色ひとつ変えていない。

 口を挟むチャンスもなかった真の代わりに、仁が続けて聞いた。
「法事ですか?」
「いえ、親族会議ですわ」
 一旦、意味深な視線を屋敷に向けてから、千草は真と仁に向き直った。
「あなたは丁度良い日に来られましたわ。蓮生の家の者は、今日は皆ここに居りますから、邪魔が入らないでしょう。下蓮生の主人は、今一人です。近所の手伝いの女性が来ていますが、甘いものが好きですの。千草が言ったと伝えて下されば、問題はありません」

 どうして下蓮生の主人に会いにきたと分かったのだろうと、真は思ったが、千草は人の嘘も見分けられると言っていた。彼女なりの判断の結果なのだろうし、そう考えてみれば、仁が肩書きを偽っても直ぐに分かってしまったかもしれない。
「会議が終われば、下蓮生に連絡を入れます。こちらにいらして下さい」

 ボルボに戻ると、仁は、菓子だけじゃなくて薔薇も添えるか、と呟いた。真は仁に問いかけた。
「いくら何でも、いきなり名乗りますか」
「それもそうだな。けど、目が合っちまったんだよ。嘘言っても無駄ですよ、って目だ」
 確かに仁の外見からして、一般人とはかけ離れている。
「それに、同衾したら直ぐ分かっちまうからな」
「同衾、って」
 仁はボルボを発進させた。
「あなたって人は、懲りない人ですね」
 先を言いかけて、真は留まった。美和の名前を出すのは、多少気が引けたからだ。美和が俺の女だと言った舌の根も乾かないうちに、もう他の女に目をつけているわけだ。しかも、どう考えても口説く気でいる。





さて、竹流が辿った場所にようやく近づくことができそうです。
ボケた老人から、彼について何か聞きだすことができるのか。
次回から第17章『豪農の館の事情』です。
そして、仁の毒舌全開?
2人寄れば文殊の知恵(3人いないの……^^;)、2人の会話から出来事を整理していくと、何が起こっていたのか、見えてくるかもしれません。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【死と乙女】(3) 兆し・恋とはどんなものかしら 

さて、少し間が空いてしまいましたが、【死と乙女】の第3話をお届けします。
ウィーンの音楽院ピアノ科の学生、相川慎一。心に少し問題を抱えた彼ですが、何とかこの町で生きていくためには奨学金が欲しいというので、特待生試験を受けたところです。この音楽院ピアノ科には、スーパースターとも言うべきテオドール・ニーチェという学生がいて、さらに彼を追いかけてこの学院に入ってきた、やはり実力者であるアネット・ブレヴァルがいます。慎一の保護者となっているのは、音楽評論家のヴィクトル・ベルナール。

少し間が空いていますが……始めから読んでいただいても大して量はありません。

→→【死と乙女】 :(1)春・金の卵、(2)胎動・特待生試験

今回の舞台裏で流れている曲はオペラです。
ワーグナー『神々の黄昏』最終部分:ブリュンヒルデの自己犠牲
モーツァルト『フィガロの結婚』:ケルビーノのアリエッタ『恋とはどんなものかしら』






「ここ、座ってもいいかしら?」
 慎一は自分が話しかけられたのだということに全く気が付かなかった。目で追いかけていたスコアの上にくっきりと影が落ちているのを見て、初めてそこに人が立っていることを認識したのだ。
「……あ、え、えぇ。どうぞ」

 顔を上げてから、慎一は少しの間、彼女の明るい金の髪と緑の瞳を無遠慮に見つめていた。やがて彼女が、まるで自分に恋をしている幼い子供に対して諭すようような笑みを浮かべた時、ようやく女性をこんなにも見つめては失礼になるということに思い至った。
 慌ててスコアに視線を戻し、最終幕のラストに意識を戻そうとしてみる。

 音楽院の中庭には、木々が程よく木陰を作り、芝生の上には座って本を広げる者や友人たちとの会話に夢中な者、あるいは眠りの妖精と戯れる者が午後のひと時を楽しんでいた。遠く、あるいは近くから、ピアノやヴァイオリン、フルートの音が重なり合っては離れ、離れてはまた重なり合って、無秩序の調和を孕ませ、風に乗って運ばれてくる。
 この場所で長時間を過ごすにはまだ薄ら寒い気候だったが、穏やかで明るい光が二人の座る白いテーブルと椅子に注がれていた。

「ワーグナー? オペラのスコアを読んでいるなんて、余裕なのね」
 話しかけられて、慎一はどぎまぎしながら頷いた。
 そもそもその人が自分に声を掛けてくるとは思えなかったし、あの特待生試験の日まで、彼女は自分を知らなかったのではないかとさえ思っていた。
「人待ちで……暇つぶしなんだ」
 慎一は慌ててスコアを閉じた。

「試験の結果に自信があるということかしら」
「まさか。僕は、その……君が一番素晴らしかったと思うよ」
 何を言っていいのか分からなくて、とにかく思っていたことをそのまま口に出した。
 彼女はさらりと慎一の言葉を受け流した。

「ワーグナーって、何だかあなたには似合わないわね。反ユダヤ主義者で、社会的な思想をあれこれと書き残して、その音楽はナチスに利用された。ワーグナーが藝術によって世界を救済すると信じていたフリードリヒ・ニーチェも、彼が国王や貴族に囲まれて意気揚々としている姿を見て、やがて失望して離れて行ったのに」
「でも、フリードリヒ・ニーチェは晩年、ワーグナーを愛していたと何度も人に語っていた。それに、音楽や藝術が、その作者の生きた時代の影響を何も受けないとは思わないし、当時の権力者がその音楽をどのように使おうとも、音楽そのものの美しさや正しさまで批判されるなんてのは間違っていると思う」

 アネット・ブレヴァルはにっこりとほほ笑んだ。金の髪が光に透けて輝いた。
 慎一は、自分はどうしてこんなふうに突っかかるような言い方をしてしまったのかと後悔した。つい、ヴィクトルと音楽について話すときのように、気持ちが高まってしまったのだ。
 さらりと躱したアネットの唇に、微かに憐れむような気配が浮かんだような気がして、慎一は俯いてしまった。もちろん、アネットの心にあったのは憐れみでも侮蔑でもなかったのだが、その複雑さには慎一の理解は及んでいなかった。

「そう言うと思ったわ。こんにちは、シンイチ。ずっとあなたと話したいと思っていたの。だからかしら。お話しするの、初めてだという気がしないわ」
 差し出された手をどうしようかと慎一は戸惑った。その様子を見て、アネットは面白がるような顔をし、すっと手を伸ばして来て、閉じたスコアの上で固まったままの慎一の手を両手で包むようにして握手を遂行してしまった。慎一が、事の成り行きに気が付いて手を握ろうとしたときには、その手はするりと慎一の心を躱すように離れて行ってしまっていた。

 それから改めて、彼女の言葉の意味を考える。
 ずっと僕と話したいと思っていた? からかわれているのだろうか。
「それから、私はあなたのライバルなのだから、もう少し闘志をむき出しにしてくれたほうが有難いわ」
「え?」
 アネットはふふ、と笑った。そして瞳を伏せて、慎一が閉じたスコアの表紙を見つめる。
「『神々の黄昏』ね。暇つぶしにしても、どうしてオペラを?」
「え、その、……」

 慎一の言葉はまるで上手く出てこなかった。さっき咄嗟にワーグナーを擁護した時とはすっかり違って、突然言葉を失った様子を見て、アネットがふっと息をついた。
「『ニュルンベルグの指輪』には色々な解釈があるわよね。あなたがスコアから何を読み取ったのか、興味があるわ」

 慎一がオペラのスコアを読むのは、ただそこに景色を思い描くことが楽しいからだった。ピアノのスコアにはないものが交響曲のスコアにあり、交響曲のスコアにないものがオペラのスコアの向こうにあった。耳から入る音の調和と、目から入る舞台の景色の調和。それを思い描くと、ひと時何もかもを忘れて、艶やかで優しく、甘く、時には苦しみを真正面から見つめるための、自分だけの世界を心の内側に作り上げ、その色を変え、さらに想いを深めることができた。

 それは慎一にとっては小さな箱庭だった。
『あの日』から、精神の病を克服するために続けてきた訓練は、音を加えて初めて、慎一にとって意味のあるものになった。今はもう、実際の箱庭は必要ではなかった。ただスコアがあれば世界は無限に広がった。いや、もうスコアさえ必要ではなくなっていた。

 だが、言葉で何かを説明することはとても難しいことだ。特に彼女のような、外見的な美だけでなく、あのピアニシモを指先から作り出すことができる内面的な美しさをも持ち合わせた、あらゆる意味で魅力的な女性に対して、今の慎一の言葉は何ひとつ追いつくことはできなかった。
 アネットの目は『神々の黄昏』という題名の上に注がれていた。

「これは、深い愛の物語ね。『ブリュンヒルデの自己犠牲』」
 一瞬、アネットは遠い目をした。
「忘れ薬のせいで妻を忘れてしまって、愛の証である指輪を彼女の指から奪い他の女と結婚しようとした夫、裏切られたと思って自ら死に至らしめてしまった愛する夫。その夫とあの世で結ばれるために、神々の世界をも焼き尽くすために火を放ち、自らも愛馬と共にその火に焼かれる。彼女は最後まで誇り高かったわ。ワーグナーは古い秩序や社会的・政治的規律を男性の登場人物に託し、女性の登場人物に愛に命を懸ける自由を託したのね」

 慎一はようやく顔を上げた。ブリュンヒルデが完全な愛の成就のために焼き払ったのは、古い世界の秩序の全てだったのかもしれないが、その激しさには体が震える。
 震えるのは、自分自身の内面にも同じような炎を飼っているからだ。
「でもこれは自己犠牲じゃないわ。彼女は夫の裏切りを許せなかった。夫を自分だけのものにするために、彼を敵に殺させて、自分も同じ火に焼かれることで愛を成就したのよ」

 慎一は答えることもできずに、アネットの顔を見つめていた。まだ幼さも残るような少女の面影と、激しい情念を秘めた熟成した女の影が、彼女の上で行き来していた。
 彼女の中に、自分と同じ炎がある。
 そう思ったのはもう恋の始まりだったのかもしれない。

「シンイチ」
 親しげにアネットが呼んだ。アネットの綺麗な湖のような緑色の瞳が目の前にあった。光が金の髪の上で踊っている。彼女の指先から零れるピアニシモの絹を思わせる頬が、微かに朱く染まっている。
「あなたは恋をしたことがある?」
 慎一はドキドキした。もしかすると、今恋をしているのかもしれないと思った。
「あなたは?」
 声が少しだけ上滑りする。

 アネット・ブレヴァルがテオドール・ニーチェを追いかけてこのアカデミーに編入してきたという噂は知っていた。もっとも、慎一はそういうゴシップ的なことには、ついさっきまでまるで興味がなかった。ゴシップや世間話を楽しむ会話を交わすような友人はいなかったし、音楽以外の話をするには、彼のドイツ語はいささか心もとなかった。いや、ドイツ語の問題ではなく、言葉は話す内容が伴わなければ、スムーズには喉の奥から出てこないのだ。

 どうかしら、とアネットは言葉をはぐらかした。そして少し遠くの光の中を見つめる。
「どうしても手に入れたいのに、手に入らないと分かってしまったら、その人を殺してでも自分だけの物にしたいって、そこまで思うことができるかしら」
 そんな『恋』をしたことがなかった。だから慎一は答えられずに黙っていた。
 それはテオドールのことを言っているの?
 咽喉まで出かかった言葉は、そのまま呑み込まれてしまった。

「でも、私が恋をしているのはピアノなの。誰にも負けたくはないし、負けるとも思っていないけれど、人に勝つことはできても、芸術の神様には届かない。どうしても届かないものだと始めから知っている場合は、どうするのがいいのかしら」
 慎一は黙ったままだった。特待生試験の時のモーツァルトの第二楽章の始め、あの瞬間の不可解な不安が頭をかすめた。
 あれは確かに死の影だった。慎一自身がそれに気が付いたのは、自分の内側に同じ死の影が漂っているからだ。だが自分のそれは、まさに生々しい血の臭いが伴っているのに、彼女の影には臭いがなかった。

「今年の演奏旅行のことは聞いていて?」
 突然、アネットは遠くの光から、慎一に視線を戻して聞いた。
「演奏旅行?」
「今年はテオドール・ニーチェのお相手を探すのだとか」
 幾分かアネットの声が重くなった気がした。そして、意味が全く理解できていない慎一の顔を見て、同とも表現し難い複雑な表情を浮かべた。

「お邪魔ですか?」
 突然、上から降ってきた声に、慎一も、そしてアネットも驚いて顔を上げた。
 先に、見事な笑顔を見せたのはアネットだった。慎一は声の主が近づいてきていたことにも気が付かなかったのに、今まだ、彼女の華やかな笑顔に捕まえられていた。
「いいえ。こちらこそごめんなさい。シンイチ、あなたの待ち人でしょ」

 席を立とうとしながらアネットは答える。ふわりと、風に誘われて花のような香りが漂った。彼女の声が、慎一の耳の中であのピアニシモと同じような優しい反響を転がす。
 するりとヴィクトル・ベルナールの手が立ち上がるアネットを止めた。
「お話しする機会を窺っていたんですよ、マドモワゼル・ブレヴァル。私は……」
「存じてますわ」
 アネットは微笑んだ。その唇には、先ほど慎一が垣間見た影はどこにもなかった。

「ムッシュウ・ベルナール。この間はもったいないくらいの評を書いてくださいましたでしょう?」
「この間、といいますと」
「ショパン・コンクールの時です。テオドール・ニーチェが一位をとった……」
「あぁ。あなたが一位でも良かったはずだって。あれは難しい審査だったでしょうね。私は、審査員の好みに過ぎないと思ったのですが。あなたの抒情的なレガートは今でも耳に残っていますよ」
「それでも、負けは負けですから」
「私は本当のことしか書きません。今でもあなたが一位でも良かったと思っています」
 アネットを引き留めたヴィクトル・ベルナールの魂胆など知らない慎一は、黙って二人の会話を聞いていた。

「それはそうと、今年の演奏旅行の件はもう?」
「えぇ。聞きました。今、その話をしていたところですの」
「試験を受けられる?」
「それは評論家としてのネタ探しですか?」
「そう感じる理由は何です?」
 アネットは少し俯いた。その表情はまるで舞台の上で演技をする女優のように見えた。
「色々な人が、私とテオドール・ニーチェのことで勘ぐっていることを知っています。あなたもその一人だとは思いたくありませんけれど」
「なるほど」

 慎一は注意深くヴィクトルの唇に浮かぶ表情を見ていた。ヴィクトルの感情は時に読み取りにくいが、唇には様々な思惑が漂っていて、慎一にはそこから発される言葉の震えから色々なものが見える。
「私が興味があるのは、何故今年に限って、そんなことを考えたのかということですね」
 アネットは微かに唇を噛んだ。唇は、確かに雄弁だ。彼女の唇だけに宿った暗い影は、またあの第二楽章の始めを思い出させた。

「試験のことは、まだ考えていません。この間の試験の結果もまだ出ていないのですから」
 そろそろ行かなくちゃと立ち上がりながら、アネットが一瞬、慎一の方を見た。
 そこにあったのは、注意深くヴェールを被せられているものの、明らかに憎しみと戸惑いの入り混じったものだった。慎一は、一見ではただ可憐で美しい彼女の外観の内側に、あれこれと押し込められた複雑な色を感じ取って、しばらく呆然とし、それからふと目を伏せた。

 アネットは僕を嫌っている?
 それは同じ試験を受けたからなのだろうか。ライバルにはもっと本気でかかっていかなければならないものだと、彼女はそう言っているのだろうか。
 恋とはどんなものかしら。
 それはやはり苦しくて、時々涙もし、何かが欲しいのだけれど何かが分からず、時に凍るような想いをしたと思えば、また燃え上がり、心が落ち着かない。

 心が落ち着かない。慎一はまさにその想いを、背を向けて去っていく彼女と、その向こうにある何かに感じ始めていた。
「演奏旅行って何?」
 横でヴィクトルが大袈裟にため息をつく。
「お前ね、自分がこの世界で生き残っていくためにどんなチャンスや可能性があるのか、周囲を見回してきたことがあるか?」

 慎一はちょっとだけヴィクトルを睨んだ。今は、どうやって一人で生きていくか、それでいっぱいだった。だが、慎一とて、その先を何も感じていないわけではないのだ。
 その先を思うと、心が苦しくなる。
「特待生試験だって、お前とは違う目的でみな受けている。演奏旅行の件だって、もしかして自分にチャンスがあるならと、誰もが虎視眈々と周囲を睨んでいる。さっきまでその餌に食いついていたライオンがいなくなれば、いつでも飛びかかれるように準備しているんだ」

 それから、白いチェアに凭れるようにして、ヴィクトルはまた大袈裟にため息をついた。
「それなのに、俺の見込んだ金のタマゴ君は、呑気にオペラのスコアなど眺めている」
 そう言って頭を掻き、ヴィクトルはテーブルに両肘をついて、諭すように慎一に話して聞かせた。

「デヴューのチャンスを若い音楽家に与えるために、この音楽院の援助者たちが資金を集めて作った企画だ。毎年夏の終わりに、二週間ほどでいくつかの国を回って演奏会をする。メンバーは基本的には推薦で決まるが、オーディションをする科もある。選ばれたら、オケのメンバーももちろんだが、ソリストには特に注目が集まるし、上手くやればスポンサーがつく。そのままプロデヴューだって夢じゃないだろう。ここ数年、ピアノ科はテオドール・ニーチェがその席を譲らなかったんだが、試験でもう一人、選ぶことになったんだそうだ。この演奏会のネームバリューが上がっているのはテオドールのお蔭だ。若い演奏家に惚れ込んだスポンサーたちが、どの国でも彼が来るのを待っている。だから彼をメンバーから外すことはできないが、そろそろ別の学生にもチャンスを与えなければならないということなんだろうな」

 ヴィクトルはじっと慎一を見る。
「ただし、テオドールと張り合わなけりゃならないんだ。良くも悪くも比較される。それは重圧だろうけどな」
 慎一は黙ってヴィクトルを見つめ返していた。
「受けてみないか」
 慎一は無言のままだった。
「今年はイタリアとギリシャを回る」

 言葉は慎一の耳に深く重く届いた。頭の中に残ったものとはまるで違う言葉が、口から出てくる。
「特待生試験の結果もまだなのに……」
「そんなものは関係がない。お前は、前の結果がどうだったかで、次の結果が決まると思っているのか?」
 ヴィクトルは何を知っているのだろう。彼が口にした街の名前のひとつが慎一の心を苦しいほどに掴んだ。
「ミラノ、ローマ、ナポリ、アテネ。お前の音を届けたいとは思わないか」


 ローマ。
 そこに住む人に、届けたい言葉は溢れるほどにこの身体にあふれている。
 それでも、思い出すと苦しくて息ができない。
 ……ジョルジョ。……マルチェロ。
 慎一の魂はまだ、あの街を彷徨ったままだった。






以下に曲のYou Tubeを畳んでありますが……ワーグナーの方はかなり長い……
余程興味があればどうぞ^^;

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Category: ♪死と乙女(連載中)

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[雨81] 第16章 任侠の男(4) 

【海に落ちる雨】第16章・その4です。
前回その3と連続した場面・経緯なのですが、長いので2つに切ったところ、切り処を間違えて、前回は短め、今回は長めになっております。
でも、ここから先は一気に読んでいただいた方がよさそうなので、じっくりお楽しみください。

微妙に15禁くらい? 少しだけ色っぽいシーンが出てまいります。しかも登場人物は真と仁。
この系統が苦手な方は、素通りしてください。ただし、甘いシーンではありません。
忘れていなければ……柏木美和は北条仁の女です。真はその女と懇意にしてしまったわけですから。
本筋(澤田顕一郎と田安隆三)に関わる会話が一部含まれていますが、飛ばしたところで大筋に影響はないでしょう。





 北条の屋敷を出ると、わずかでも身体が緊張から解きほぐされたのを感じた。
 車は関越自動車道に入って、新潟へひた走った。カセットからはいい音で音楽が流れていた。ジョニー・ティロットソンの甘い声が聞こえていて、ほっとした。この名前も、仁が教えてくれたものだ。

 北条一家がヤクザではましなほうだと言われても、その屋敷が寛げる場所とは思えない。第一、今、真の身体がこの状態なのも、同じヤクザにやられたのだ。
 新宿で仕事をしていて、ヤクザに全く関わらないでいられるわけではない。知らないうちに慣れてしまっているのだが、怖くないといえば嘘になる。しかし、命にまで関わると思うことは滅多にない。それが、北条仁と大和竹流のお蔭であるということは、骨身に沁みて分かっている。

 だが、多少薬が抜けてくると、痛みが蘇ってくる。車の揺れで痛みが増幅した瞬間に、冷や汗が出ていた。思い出すと急に恐ろしくなってきた。
 奴らは殺す気だったのだ。万が一殺されなくても、奴らの言うとおり、薬漬けにされて下品な男たちの慰みものにされていただろう。本当に死ぬまで突っ込まれていたかもしれない。あるいは、耳か鼻でも削ぎ落とされていたか、あるいは睾丸を潰されていたか。

「どうしたんだ」
 真は首を横に振った。身体が震えているのを、隣の男に知られるのは拙いような気がした。
 だが、仁はあっさりと言った。
「怖かったんだろう」
 真は答えなかった。
「まあ、ヤクザとていつも殺す気があるわけじゃない。敵対する組のオヤジを殺るならともかく、特に素人を相手にすると、お勤めが長いだけじゃなく、素人に手を出す卑怯者というレッテルを貼られる。一生剥がすことのできないレッテルだ。二度とこの世界でやっていけなくなる。もちろん堅気にも戻れない。だがな、妙な嗜好を持っていると、そういう事情は吹っ飛ぶ。あるいは薬やなんかでラリっちまっている愚かな連中とかな。お前が気を付けなけりゃならないのは、まともな精神状態のヤクザじゃない。むしろ一般人だろうとヤクザだろうと、変態趣味を持った連中だ」
 仁の口から言われると、多少戸惑った。真は返事をせずに目を閉じた。

「車、停めようか」
「何故です?」
「暫く、抱いててやろうかって言ってるんだ」
 仁は運転したまま言った。どういう表情で言っているのかは分からなかった。
「遠慮します」
 仁は声に出して笑った。曲がプラターズの『ONLY YOU』に変わった。被った曲のムードにかき消されたが、どこかに冷めた湿度が残っていた。
「美和に告げ口するか」
 今、仁に美和の名前を口に出されるのは辛かった。仁が本気であの十六も年下の大学生に惚れているのは知っていた。仁が怖いというのもあるが、裏切るかと思うと恐ろしい気がした。

 サービスエリアに入ると、仁は車を停めたが、カセットの音楽はそのまま続いていた。
「田安さんのことだがな、バンコクで妙な噂を聞いたんだ。向こうのシンジケートのボスが、一流のプロを雇ったって、な」
「プロ?」
「そうだ。慌てて日本に電話をして、彼が死んだことを知った。タイのヤクザが日本のヤクザにお礼参りをしたという噂もある。お前が首を突っ込んでいることに関係があるのかどうかは知らんが、あっちの人間が日本で世話になったヤクザの代わりに、やりにくい仕事を片付けてくれるなんて話はよくある。そいつらが世話になったヤクザは、九州の小松って奴だ。小松は、澤田と関係がある」
「澤田顕一郎と?」

 澤田がヤクザを使って田安隆三を殺すわけはないので、それはどういう繋がりだろうと思った。
「正確には、あったというべきかな。だが、その辺の話は多少ガセが入っている。九州のヤクザと澤田の関係が表に出たとき、澤田は完全に否定しているし、ある方面からの情報では、澤田が嵌められたんだという話もあった。今回、タイ人は随分金をつぎ込んだと聞いている。雇われたのは『超一流』の男だともな。だが、商売勘定をしているタイ人が、いくら何でもお礼参りのためだけに大金をつぎ込むというのは不可解だ。裏で別の何かが動いているような気がする」

 真はぼんやりと聞いていた。頭の半分で、仁は何故タイから帰ってきたのだろうと考えていた。真にこの事を教えるために戻ってきたわけではないだろう。仁の出張は、数ヶ月はかかりそうだと、美和が言っていたことを思い出した。
 一旦緩やかになっていた雨は、また強くなりだした。

「コーヒーでも飲もうか?」
 この雨はいつまで続くのだろう。永遠に降り続いて、この身体も心も溶かしてしまうのではないかとさえ思えた。
 仁は動く気配はなかった。
 曲は、北条の屋敷で聞いた気がしたカスケーズの『悲しき雨音』になっていた。悲しさを、いくらかテンポのいいリズムで淡々と唄う曲は、どうすればいいのか分からない身体の苦痛を冗長させた。
 真は目を閉じた。何かをやり過ごさなくてはならないような気がしていた。

 不意に、この曲が合図だったとでもいうように、冷たい手に顎を捕まれた。目を開けたとき、予想していなかったわけではないが、強い意思を持った仁の鋭い目が真を捉えていた。
 唇が触れようとして、真は慌てて身体を引いた。仁の手が頬を撫でる。
 昨日のヤクザが首筋に当てていたナイフと同じ冷たさだった。

「誰かに操を立てないといけないのか」
 声は真剣だった。勿論、真を口説こうとして真剣なのではない。棘のある鋭い声だった。
 予想していなかったわけではない。地獄耳のこの男のことだ。この男がタイにいる間に美和と真がしていた事を、知っていながら知らせないような有難い人間は、宝田や賢二くらいだろう。開け広げと言っていいくらい、美和はあっさりと竹流のマンションに泊まりこんでいたし、夜行列車でも一緒に過ごしている。新潟でも、セックスをするかどうかはともかく、同じ部屋に泊まっている。美和を見張っている誰かにとっては、十分報告する価値のある出来事だっただろう。

 覚悟をしていたわけではないが、やむを得ないと思った。
 それでもやはり恐ろしかった。真が仁を見上げると、仁は表情のない鋭い目で真を見つめたまま、真が逃げないのを確認すると、強い力で顎を掴んだまま、上唇を音を立てて吸った。
 真の身体は感情の覚悟を超えて完全に固まっていた。逃げ所はなかったが、さすがに舌が差し込まれようとしたのは拒んだ。だが、その瞬間に、仁の手が首の後ろに回った。

「自由恋愛とやらを彼女に許したのはあなたでしょう」
「認めるのか」
「自分が嫌なら、彼女の気持ちも考えてやったらどうなんですか」
「あいつが何か言ったのか」
「あなたが他の誰かを抱きながら、自分の事を考えるかどうかって」
「いつも考えてるさ。あれは俺の女だ」
「じゃあ、他の男と寝てもいいなどと言わなければいい。彼女がそんなに好きなら、何故ちゃんと捕まえておいてやらないんですか」
「十六も年下の小娘に、北条仁が本気だなんて言えるか」
「言えば済むことです。あなたが恐れているのは、彼女が自分から離れていくことですか」

 仁は真の後ろに回した手の指にゆっくりと力を入れてきた。
 珍しく言葉は勝手に出てきたが、身体は震えていたのかもしれない。いや、美和に、決闘してでも責任を取れと言われてから、真は実際に仁と交わさなければならない会話を、少しばかりは準備していたのだ。でなければこんなにスムーズに言葉は出てこない。
「お前はあれを弄んだだけなのか」
「それは」
 だが結局、真は口をつぐんでしまった。

 美和がもしも妊娠していたらどういうことになっていたのだろう。北条仁と決闘すると言ったが、女の前で格好をつけただけだったのかもしれない。その時は、彼女と身体を合わせることに夢中で、後先を考えなかった。そう思うと、自分が随分と情けない男だと感じる。
「あいつが可愛いと思ったか?」
「そう思います」
「俺から奪おうと思ったか?」
「いいえ、それは」
「最初は酔っ払ってたのか? 次は?」真は答えなかった。「寂しかったのか? あの男がいなくて」
 真は黙って仁を見上げた。

 そうかもしれない。自分は今、どんな情けない顔をしていることだろう。親に悪戯を見つかった子どものようだ。美和も、こんな男の顔を見れば、情けなくて愛想も尽かすだろう。
 仁のほうも、視線を逸らすことなく真を見つめている。
 そのうちに、この男を怖いというよりも、裏切ったことが哀しいと思えてきた。自分のした事がただ哀しいと思った。
「口を開けろ」
 唐突に何を言われたのか、真は理解できなかった。仁はもう一度同じ命令を繰り返した。真は何か言いかけたつもりだが、声になる前に仁に口を塞がれてしまった。

 仁の手は首の後ろに回されたままで、もう真には逃げるところがなかった。仁の舌が巧みに真の口の中に入ってきて、逆らうことなど許さないという強さで絡み付いてきた。真は何とか仁を引き離そうとして肩に手を掛けたが、力は入らなかった。そのまま、仁のもう一方の手が真のスラックスのフックを外して中を弄ってきた。
 完全に力が抜けていた。その半分で硬直したようにもなっていた。肌は張り詰めたように緊張して、冷たい汗が零れた。

 そうしているうちに仁が本気ではないかと思った。本気でどうこうしようとしている、ということではなく、本気で真を慰めようとしているのではないかと思った。仁の手は、小さく強張って固まっている真を慰めるように、ゆっくりと局所を弄る。舌は時に緩やかに、時に激しく求めるように絡んでいる。やがて仁は手を真の足の間から深く後ろに差し入れて、真の身体の器官の中で、誰かを受け入れることができる場所のひとつを弄り始めた。仁の指が襞を擦ったとき、思わず真は身体を浮かした。

 身体に起こっている出来事は、単純に身体の反応を引き出す。真は、どこかで自分の身体がこの男を受け入れようとしているのではないかと怯えた。だが、心の内は恐怖と後悔と哀しさで震えていた。仁の舌はそのものが意思を持っているように、真の口の中だけではなく、その心のうちまで吸おうとしているようだった。
「美和にとって、お前が俺の代わりができるとは思えない。だが、俺にもあの男の代わりができるわけじゃない。あの男が帰ってきたら、お前は美和に泣きつく理由がなくなる」

 真は答えなかった。仁はひとつ息をついた。そして真の目を真正面から見つめた。ヤクザとは思えない、真っ直ぐで曲がったところのない目だった。
「お前はどう転んでも堅気だ。だが、俺はいつでも銃器不法所持罪が適応されるヤクザだ。連れて行って損はないぞ」
 仁が漸く真を放し、真のスラックスの中から手を出して、フックを止めた。

「美和は俺の女だ。だが、お前は俺の義兄弟だ。今の事は忘れろ。俺も、お前と美和の事は忘れる」
 真は勢いに押されて頷いた。多分、まだ真は情けない顔をしていたのだろう。仁は厳つい顔のまま微笑んだ。
「ただし、慰めて欲しいならそう言え。身体だけなら慰めてやれる。すぐにいかせてやるぞ。まあ、さすがに相愛の相手ほどには良くないだろうけどな」
 いつもの仁の顔だった。

「俺とあいつは別にそういうのでは」
「嘘をつくな。あいつの態度は、お前が、身体も心も命さえも自分のものだという自信に満ちている」
「あいつは、女しか抱きませんよ。あなたと違って」
 開放されたと思って安心したのか、ここでまた沈黙になっては気まずいと感じていたからか、真の口からはいつになく言葉が勝手に出てきた。

「一緒に住んでて何を言う。あいつのような男が、女と過ごす時間を潰してまでお前と一緒にいる。どうやって性
欲を処理するわけだ?」
「仁さんの計算はそういうのですか」
「お前だって香野深雪に会わない日の方が多いはずだ。自分で処理してるわけじゃないだろう。しかも、憎からず思う相手が同じベッドで眠っている。我慢はできんな」
「だから誤解です。あいつは俺を子どもだと思っている」
 もしくは、言うことをきかない飼い猫レベルだ。

 仁はようやく、いつものようにニヤニヤと笑った。
「あててみせようか。お前らは、お前がまだ小学生の時からの知り合いだ。いくら何でも小学生や中学生には手を出さない。だが、どこかで箍が外れる。ところがあいつはもともとノン気だからな、いざそうなってみると、どう落とし処を作ればいいのかわからないのさ。しかも、あいつは意外に素直な男だ。考えても見ろ、十代の半ばまでをカソリックの教えに縛られて過ごしている。自然、神様の罰は恐ろしいわけだ。だが、お前を心から大事に思う気持ちは止められない。何故なら、お前と一緒に」
 仁は少し言葉を止めた。カセットの曲が『Rock Around the Clock』になって、いきなり勢いづいたからかもしれない。
「真実の瞬間を見たからだ」

 真は何のことだろうと思って仁を見た。
「あいつが、何か言ったんですか」
「いや、飲んで口を割らそうと思っても、あの男、半端じゃないくらい酒に強いからな。なあ、真、人間は一生の間にそう何度も、ここぞという場面に出会わない。自分の生涯を決めるかもしれない瞬間だ。だが、何度かある。キャンディーズの歌にあるだろう。人は誰でも一度だけ全てを燃やす夜がくる、ってな。多分、お前とそういう夜を、夜とは限らんけど、過ごしている。もしかすると、瞬間かもしれないけどな」
「キャンディーズ?」
 さすがの真とてその有名な歌手のグループ名は知っていたが、どんな歌を歌っているのかまではよく知らなかった。
「お前が知るわけないか」

 仁は完全にエンジンを切った。
「だがな、男は一度突っ込むと、その相手を自分の所有物だと思ってしまう。お前も誰かに対してはそう思うだろう?」だが、美和はもう無しだぞ、という視線を仁は送ってくる。「でも、あいつはお前をそういう相手にはしたくない。お前を育てたという自負もあるからだ。あいつはかなりややこしい男だぞ。奔放で自分の欲望に敏感なくせに、ある部分では修行僧並みに禁欲的だ」
 真はほっと息をついた。
「仁さんはよく分かるんですね」
 言ってから、いつの間にか仁のことを、名字でなくファーストネームで呼んでいることに気が付いた。

 ヤクザと親しい付き合いというのも拙いだろうと思うので、他人前で不用意に下の名前で呼ばないように、普段から名字で呼ぶように気を付けていた。それにそもそも、仁とは親しい、というわけではない。事務所のオーナーと雇われ所長という間柄で、たまに飲みに誘われることはあっても、あるいは父親の北条東吾の呼び出しで碁や将棋の相手をすることはあっても、親しいという間柄とは少し違っている。
 飲みに行くと、仁はそろそろ名前で呼び合う仲になりたいねぇ、などと言うので、その時間だけ、相手の機嫌を損なわないように下の名前で呼ぶようにしていただけだ。それでも、仁の方はすっかり真をファーストネームで呼ぶようになっている。そして、いつの間にか真の方も、頭の中では下の名前に慣れてしまっていたのかもしれない。いや、美和が仁と呼ぶので、耳に馴染みが深くなっているだけなのだろう。
 この際だから、もういいかと思った。

 仁はそれに気が付いているのかどうか、呼び方については何も突っ込んでこなかった。
「まぁな。俺はああいう無理をしている男が好きなんだ」
 真は思わず仁を見た。
「聞き捨てならないだろ? もっとも守備範囲は外れてるけどな」
 そう言って、仁は何を思ったのか、真の頭を撫でるようにした。
「気分はどうだ? あちこち痛むだろう」
 真は、一度息をついてから、頷いた。
「頭ははっきりしてきましたけど」
 仁の迫力で、脳が目を覚ましてしまった、というのが本当のところだった。
「コーヒーはどうだ? 飲めそうか?」
 真は一応頷いた。ヤクザに脅されるというのは、相手がどうあれ、内容がどうであれ、おっかないということに、後になって気が付く。ほっとしたら、どっと身体が重くなった気がした。

 仁は運転席のドアを開けかけて、ふと止まる。それから半分背を真に向けたままで言った。
「ところで、美和には何も言うなよ。俺がお前を責めたとなると、美和に何を言われるか分かったものじゃない」
「言いませんよ」
「だが、お前が次に彼女に誘われて断ったら、あいつは理由を聞くぞ」
「あなたが帰ってきたんだから、誘いませんよ」
 一瞬、沈黙があった。
「そうだといいけどな」
 そう言い捨てて、今度こそ仁は雨の中に出て行った。
 真はふと、北条仁も意外に自信がないところもあるんだな、と思って感心した。そう考えて、思わず仁に触れられた唇に薬指を当てた。

 真実の瞬間。
 闘牛士が最後に牛に止めを刺す瞬間をそう呼ぶ。牛と闘牛士の、生きるか死ぬかの瞬間だ。それと比べるのはどうかと思うが、仁の言うことは何となく分かる気がした。
 アッシジの夜。
 もうその先はなくてもいい、と思った。

 だが、思い返してみれば、大和竹流が自分にしてくれたことについては、ほとんど全ての『瞬間』を覚えていた。驚異的なスパルタで勉強を教えてくれていた時も、怒られて怒鳴られた時も、水が苦手な真に無理矢理泳ぎを教えてくれた時も、秩父の山奥の旅館で慰めるように抱き締めて眠ってくれた夜も、大和邸で過ごしたあの夜も、何もかも。
 そして何よりも、あの崖から落ちた日、その後の意識のなかった一週間、ずっと彼が側にいたのを感じていた。眼を覚ましたとき、最初に見たのは、あの青灰色の瞳だった。記憶の失われいる時間の中で、彼の存在だけは、はっきりと感じていたのだ。

 基本的にアヒルだな、と思った。生まれて初めて目にしたものを親と思っている。
 真も、生き返って初めに目にしたものを、やはり親と思っている。
 りぃさが亡くなった後、強い風の吹く大間の海岸で、一緒に住もうと言われた。覚悟をしたが、竹流は何もしようとしなかった。それから二年半、仁の言うような性欲を処理する気配など、真に向けられたことはない。昇にもいつも欲情していると言っていたらしいが、そういう対象にされた覚えは一度もない。今、仁に舌を差し込まれるようなキスをされて、不意に考えた。あんなふうにキスをしてくることもない。

 どう考えても、飯を作ってくれることと真の健康管理に使命を燃やしているとしか思えない節もある。
 あのアッシジの夜以来。
 そして、アッシジを離れローマに戻った後で泊まった修道院の、祭壇脇の礼拝堂に掛けられた絵を思い出した。

 竹流はあの時、神父に絵の洗浄を頼まれていた。十字架から降ろされる主イエスの傍らに、祈りを捧げるマリアが描かれていたようだが、何故か晩年になって画家自身により塗りつぶされ、代わりに、岩の傍らにひっそりと野の花が描かれた。修道院とその援助者たちの話し合いの結果、是非ともマリアを光の下に蘇らせたいということになったようだった。
 竹流は何日も、礼拝堂の床に降ろされた絵の前に座り込んでいた。気分転換と称しては、真を外に連れ出して、彼の愛するローマの街、路地、噴水、教会、森や丘を見せてくれたが、真が覚えている彼の姿は、ずっとあの絵の前に座り込んでいる。

 夜中にふと、隣に彼が眠っていないことに気が付く。礼拝堂からは小さな明かりが漏れている。振り返って真の姿を認めると、竹流は少し手を差し伸ばすように真を誘う。側に行くと、抱き寄せるようにして真を座らせた。
『洗浄?』
『絵を洗うんだ。年数で降り積もった塵だけではなく、上に置かれた不要な絵具も取り除くことができる』
『何が出てくるんだ?』
『マグダラのマリアだよ。昔の記録でも赤外線でも確認されている。マリアは宗教的にはイエスの弟子だが、歴史的には妻であったとも言われている。ここにマリアが描かれているのは、信仰と愛と悲しみの表現として、極めて当然のことだ』
『でも、迷ってるのか?』
 真が聞くと、竹流は少し微笑んだようだった。
『お前はどう思う?』

 真は、ひっそりと岩の陰に咲く小さな野の花を見つめた。本当に小さな花だった。そこには風さえも吹いているのが感じられ、花弁の内側から微かに立ち昇る温度までもが伝わってくる。温かい涙のような湿度は、土や岩さえも濡らしていた。
『マリアは、ここにちゃんと見えるけど』
 真が答えると、竹流は暫く真の顔を見つめ、それから真の頭を抱き寄せるようにして、額に口づけた。

 結局、竹流は表面の埃や塵を洗浄しただけで、マリアを絵具の下から掘り出してこなかった。神父は穏やかで賢明な人物で、竹流は真の言葉をそのまま神父に伝えたようだった。神父は真を祝福し、あなたには本当に神が見えている、と言った。
 だが、真の言った本当の意味を、神父は知っていただろうか。
 本当に見えていたのだ。見えるような気がしたわけではない。竹流の目が見ていた、画家の真実の思いが、ただ真に伝わっただけだった。

 あの男は神かもしれない。あるいは激しい暴君かもしれない。
 そういう思いが、真のどこかにある。どこまでも清く気高い精神と、故郷へ帰ることもなく東へと遠征を続けた大王の荒々しい神性の、どちらも彼の内を駆け巡っている。それが直接的に真に伝わってくる。
 ヴァチカンの礼拝堂で、真は過去のローマ教皇に出会った。もうこの世の人ではない教皇は、真の傍らに立ち、教皇だけに許された礼拝室に誘った。彼は真に告げた。何を迷っているのか、と。

 おのれの信じた道を往きなさい。答えはあなた自身なのだから。
 そう言って教皇が指した先で、あの男が座って祈りを続けていた。教皇の目は、穏やかに慈しむように竹流の姿を見つめていた。彼をローマに戻すようにと言われているように思ったが、それ以上の言葉はなかった。
 ローマの街が、彼を包み込む光の全てが、彼をあの場所へ戻したがっているように思えた。
 混乱していた。彼に対する感情が、あるいは彼の感情が、あれほどに聖なるものに包まれているのに、どこかで不可解な欲望が渦巻いている。自分にも彼の中にも。

 仁にコーヒーを手渡されるまで、真はぼんやりとしていた。
「休んでいくか?」
「行きましょう。仁さんが大丈夫なら」
 仁はしばらくの間、真の顔を見ていた。真が何だろうと思って仁を見ると、にやっと笑う。そのまま、空いた手で真の頭を撫でて引き寄せ、耳元に囁いた。
「いいねぇ。飲み屋以外でそんなふうにさりげなくファーストネームで呼ばれるのは」
 真は慌てて身体を引いた。気が付いていたのかと思って狼狽えたが、過剰に反応して相手の関心を引きたくなかったので、後はただフロントガラスの向こうのサービスエリアの店の明かりを睨み付けて、コーヒーを口につけた。
 その後はお互い黙ったまま、ゆっくりとコーヒーを飲み終えてから、仁が車をスタートさせた。




昔、オールディーズに凝っていたころがあります。
と言っても、私の場合、音楽を聴く時は、民謡と三味線以外は基本「ながら族」なので、知識として詳しいわけではありません。
でも、あの時代の雰囲気、映画で言うと、ハリソン・フォードも出演していた「アメリカン・グラフティ」の時代のイメージ、好きなんですよね。

北条仁と真のデート(語弊がありますね。単に待ち合わせをして会う、という意味のデート)は、基本このオールディーズを聴かせる店だったようです。
え? 結構、竹流とよりもいい雰囲気に見える? いいのか、竹流?って気がします?
いえいえ、竹流はこれっぽっちも慌てていません。
真は自分の所有物(飼い猫?)だと思っていますから。

飼い猫と言えば、limeさんが描かれた漫画(『凍える星』パロディ漫画:NAGI)の中に、タケルとマコトがお邪魔させていただいておりますが、2人、いや1人と1匹の間の微妙な距離が可笑しい……
マコトは腰が引けていたり、ちょっとタケルにビビっている??
それに比べて、ワトスンくんを取り囲む猫たちの近いこと!
この対比、limeさんは意識されたんでしょうか??
自然にこうなっちゃった??
多分、マコトはタケルからちょっと距離を置いて待ってたり、影ふみ遊びしたり、しっぽ鬼ごっこしたり、でもいざという時にはタケルの傍に逃げ込めるようにあまり離れすぎず、魚を待っていたはず(^^)

ちなみに、キャンディーズの『アン・ドゥ・トロワ』、実はものすごく好きなんです。

次回は第16章の最終回。短いです。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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[雨80] 第16章 任侠の男(3) 

*本日は、旅行記「鏝絵劇場」も一緒にアップしています(^^)

世界体操を見ていたら朝。途中寝ていたけれど……
美しいっていいですね。難しい技ができるということも大事だけれど、実は、倒立でぴしっと伸びた足先とか、力の入った腕の筋肉の力強さとか、躍動感とか、そういう端々に光るものを感じます。
内村くん、加藤くん、金・銀、おめでとう(*^_^*)
ちなみに私は腕の筋肉が好き(って何だか変態みたい……^^;)。
関係ないけれど、三味線でも、本当に上手い人は簡単な部分で本当に上手いんです。
(って、何だか分かりにくい表現だな)
実は、根本的に差がつくのは、難しい技の部分ではなくて、シンプルな基礎的な部分での完成度なのではないかと、確かに思います。

さて、【海に落ちる雨】第16章・その3です。
ちょっと痛めつけられてふらふらの真、頼る相手もいないと思っていたところに降ってわいたのが、事務所のあるビルのオーナー、北条仁。
すごく前ふりをしてしまったけれど、ご期待通りじゃなかったらごめんなさい^^;
そもそもこの話には「ただカッコいい男」は一人もいないので(女も同じですけれど)、半分目を閉じてもらった方がいいかもしれません……
そうそう、美和といちゃついていたことを忘れてませんよね、真くん。仁はそんなに甘い男ではありません。
真と仁のちょっと際どいやり取り、2人の関係や、周囲との事情が少し見えるようになっていると思います。
2回に分けてお届けいたします。

ちなみに、このシリーズの登場人物紹介はこちら→→【真シリーズ:登場人物紹介】





「お前、ややこしいことになってるらしいな」
 左耳が聞こえにくいことに、このとき初めて気が付いた。
「北条さん、いつバンコクから戻ったんですか?」
「昨日だ。お前、今どこにいる? 会えるか?」

 一体、この車でどこまで連れて行ってもらえばいいのか悩んだが、取り敢えず大久保町一丁目の交差点に運んでもらうことにした。電話はともかく、いくら何でも、ヤクザの家に横付けは拙いような気がしたのだ。
 それに今、北条仁は屋敷のある高円寺ではなく、事務所のある新宿にいるようだった。

 雨は一段と勢いを増してきた。同時に、身体が沈んでいくような重さに潰される。目を閉じると、意識が半分飛んだようになった。
 気が付くと、車は停まっていた。運転手が大きな傘を差し掛けて、真の座る後部座席のドアを開ける。ドアの側に仁が立っていた。

 朦朧とした真の意識の直ぐ先に、仁のしっかりとした長身の体躯が、雨の中でもくっきりと浮かび上がって見えていた。相変わらずヤクザには見えない色気のある目元だ。顎の張った厳つい顔は、仁がわざと作り上げてきたものだが、さすがに睨み付けられると、誰もが竦み上がるほどの迫力がある。

 仁は真を助けて、抱き起こすように車から降ろしてくれた。そのまま、運転手の差す傘を屋根にして、すぐ後ろに駐車している仁のボルボに移る。
 ボルボのドアが閉まっても、『河本』の運転手は仁が運転席に納まるまでそこに立っていた。ボルボが走り出して直ぐに、視界は全く怪しくなり、バックミラーの中の運転手も乗ってきた車も見えなくなった。

 身体は、倒してもらった助手席のシートで、わけも分からず壊れそうになっている。
「とにかく、親父のところに行こう。大変だったな」
「どうして?」
「馬鹿たれ。俺の耳に、荒神組の奴らがお前を締め上げるって噂が、届かなかったと思うか?」

 仁のいかつく大きな手が額にあたったとき、何故かほっとした。美和の事は、この件が終わるまで目を瞑っていてもらおうと思った。
 仁がさっきの車の件を何も聞かないのは、運転手と仁が何か会話を交わしたからなのか。確認しようと思ったが、半分どうでもいい気分だった。仁のほうが気にしていなければ、どっちでもいい。

「お前、熱があるんじゃないか。一体どんなハッパを吸わされたんだか」
 外の雨のせいで、声は途切れ途切れに耳に届くばかりだった。
「北条さん」
「何だ」
「少し休んだら、車を貸してください」
「どうするんだ」
「行かなければならないところが」
「どこだ?」
「新潟」
「にいがたあ?」
 仁が素っ頓狂な声を上げた。

「その体で新潟だと? 馬鹿を言うな」次の言葉を言いかけた真を仁が遮る。「どうせ行くと言ったらきかないのは分かってるからな。俺が連れて行ってやるから、とにかくまず親父のところで休め。どうせ安もんのハッパに決まっとる。荒神組の奴ら、けちだからな。性質が悪いぞ」
 本当のところ、そう言ってもらうことを期待していた。とても一人で動けるとは思えなかったし、仁という道連れは、望み得るうちで最高に有り難い存在だ。美和の事がなければもっといいのだが、それはもう止むを得ない。

 ボルボは高円寺に向かっていた。高円寺の屋敷に戻れば、仁は未だに坊ちゃんである。本人はそう呼ばれることを嫌っていて、あまり行きたがらないが、義理の父親である叔父の北条東吾を嫌っているわけではない。
 ボルボは大雨の中、大きな門を潜り、屋敷の玄関に横付けされた。さっと車のドアが開けられ、身長が二メートルはありそうな大男が、助手席の真を抱き上げた。

「これはこれは、荒神さんに可愛がられたってぇ」
 仁が直ぐに車から降りてきて、大男に真を預けたまま、自分は先に立って屋敷に入った。
 真は大男に担ぎ上げられるような形で、屋敷の中に入る。
「おかえりなせぇ」
 複数の若い衆の声が、躾けられたコーラスのように完璧に重なって、広い玄関ホールに響く。
 仁は頷いて、それから何やら手際よく命令をしていた。大男は真を抱えたまま玄関を上がる。
「酷え目におあいなすったね」
 労わるように大男は真の背をさすっている。
 ヤクザに労わられると、どうも見栄えが良くないが、大きな男の手は安心感を伝えてくる。

 北条東吾は、今日は出掛けているらしく、真はほっとした。
 東吾は昔気質のヤクザだ。どうやら真の事を可愛がってくれているようで、もしも今の真の姿を実際に見たら、荒神組にお礼参りをしないとも限らない。
 この世界では、面子を潰されることが最も怒りを買い、潰された面子をそのままに置くことは最も恥ずかしいことと考えられている。東吾にとっては、真は堅気とはいえ、店子のようなものだ。

 庭に面した長く広い廊下を通って、真を担ぎ上げたままの男は、奥の座敷まで進んだ。
 座敷では細面の役者のような顔をした若い衆が、布団を敷いていた。大男と役者面の若い衆は真を布団に寝かせると、自分たちの仕事は終わったというように部屋を出て行った。
 二十畳はある座敷のど真ん中に敷かれた布団の上で、立派な天井に横たわる梁を見上げて、真は場違いを感じながらも、もう抵抗する力もなく、目を閉じた。

 正直、限界だった。身体はこのまま自分のものではなくなっていくような気がした。それに、漸く落ち着くと、あちこち酷い痛みが襲ってきた。どこも自分の意思ではどうにもならないような気がした。
 後はほとんど朦朧状態だった。
 何度か人の出入りがあって、医者らしい男が自分を診察しているのと、誰かが着替えさせてくれたのは感じたが、夢か現実か分からない部分もあった。途中で怒鳴り声も聞こえていた。あの太い声は東吾だろう。

 朦朧とした頭は、それでもある部分だけが忙しく働いていた。例の側頭葉に残された映像の再編成能力だったのかもしれない。
 そこには新潟県庁で見た絵だけが、細部まで明瞭に浮かび上がっているようだった。
 レースを編んでいる女性の手元。繊細で想いのこもった作業。
 絵の中の女性のレースを編む手が、いつの間にか絵筆を握る手に変わっている。

 一筆に想いのたけを籠めるように、女の手がキャンバスに向かっている。その傍らに男が立っている。女の仕事を愛しむように、称え、褒め、そして女自身をも優しく包んでいる。女は男を振り返り、ご褒美をねだるように甘える。男は暖かい青灰色の瞳で女を見つめ、その肩に手を置き、優しい言葉を耳元で囁きかけ、そして求められるままに唇を寄せる。

 レースを編む女性が描かれたキャンバスに、重なる影が揺らいでいる。
 レースはベッドの天蓋から揺れていて、その中で男と女は愛しみ合う。男は女を慈しみ可愛がり、女はその思いに応えるようにキャンバスに筆を重ねる。

 額縁。
 丁寧な細工に濃淡が浮かび上がっている。
 十七世紀のオランダのものに相応しいと彼が言っていた額縁。彼はその額縁を、ルネサンス期の天使の絵画から外し、丁寧に磨いていた。彼が作業をする大きな机の上で、いつもは彼の左手の薬指に嵌められている指輪が光っている。
 女が彼の仕事を覗いている。その向こうで、他にも誰かがその作業を見守っている。

 何故、贋作なのだろう。寺崎昂司は「本物はない」と言った。それは、一体どういう意味なのだろう。しかも、絵は二度、日本にやって来た、と。
 竹流や御蔵皐月という女、寺崎昂司、江田島。彼らが関わっていたのは贋作だ。しかし、新津圭一や澤田顕一郎、村野耕治、それに『河本』や朝倉武史が関わっているのは別の何かだ。それが何かで絵に繋がっている。結びつけているキーワードは、地名だ。

 新潟。
 新津圭一の事件は、新潟を出発した何かから発せられているのだ。絵、フェルメールの贋作、贋作としてだけの値段では計れない何か。新津は記者だ。もしも彼が本当に金銭に困って強請りを働いたのだとしても、記者として真実を掴みたいという興奮や欲望に勝てただろうか。新津が欲しかったのは、金ではない、真実なのではないか。そして、そこに澤田や村野という政治畑が介入してくる。

 誰かが何かをすると、勝手に繋がるようになっている僅かな相関関係。それが物事を複雑に見せているだけだとしたら、それぞれにはそれぞれの、小さな理由があるのだ。
 新潟に行こう。やはりそこに答えがあるのだ。竹流は、あの記事から新潟というキーワードを期待したのだろう。しかも新津圭一は新潟の出身なのだ。
 そして、蓮生家のボケたという当主。蔵を焼いた理由は何だろう。彼は何かを知っていて、口をつぐんでいるのか。蓮生千草は、彼がボケたのは蔵が焼けてからだと言っていた。

 不意に唇に生暖かいものが触れた。そのまま、苦い液体が口の中に広がる。
「飲み込め」
 聞こえにくかった左耳のほうで声がしたので、認識するのに時間がかかった。
「なん、ですか」
 喋ったのかどうか自分でも分からなかった。しかし、喋ろうとした咽や口の動きで、苦い液体は食道の方へ流れ込んでいった。朦朧としたまま苦しくて咳き込むと、また暖かいものが唇に触れた。逆らう理由は何もなかった。
 隣の部屋からか、カスケーズの『悲しき雨音』が聞こえていた。

 北条仁に初めて会ったのは、オールディーズの曲を聴かせるライブバーだった。
 仁はヤクザの倅だが、大学を出ている。東吾はもともとヤクザ家業を終わらせるつもりで、義理の息子に教育を受けさせていた。
 東吾自身も戦後の混乱でヤクザ家業に身を落としたが、豪胆で武士道を貫くような性質で、当時関東一円でシマを張っていた大手のヤクザ組織の親分に可愛がられ、盃を受けて、良くも悪くも大成してしまった。

 大学生の頃、北条仁はライブバーでアルバイトをしていた。店の飲食の裏方から、バーテン、そして時には自慢の喉を披露して、そのライブバーを彼自身の経営学で大繁盛させていたという。店に来る女の子も、そして男も彼に夢中になっていた。芸能界からの誘いもあったと聞いている。

 仁が初めての待ち合わせにその店を選んだのは、真に警戒心を抱かせないためだったのだろう。この店に来るときは、女は抜きで来るのだと言っていた。美和を連れてきたこともない、と。
 それが北条仁から自分への誘いだということは、その部分で勘の鈍い真でも理解できた。
 真がその気はないことを告げると、仁はそれ以上しつこくは絡まなかった。

 だが、仁の話術はかなり巧みだった。豪快で、頭の回転の速い男で、豪胆な割には他人の感情を敏感に汲み取る鋭さを持っていて、時には鋭過ぎて相手に突き刺さることもあるのだろうが、周囲の人間が彼と話したがっている気配や視線を、しばしば感じた。
 音楽の趣味を聞かれて、洋楽はさっぱり分からないと言うと、音楽の半分以上を知らないと諭された。
 妹がクラシックをしているので、それは多少分かると言うと、延々とロックンロールやジャズ、ブルースの解説を聞くはめになった。何か楽器をするのかと聞かれて、祖父に指導を受けていて、太棹三味線を弾くというと、それにはえらく興味を示してきた。

 そういう流れのどこで騙されたのか、いつの間にか、仁の持つビルの一室で調査事務所をすることになっていた。
 北条仁が両刀だということは、事務所の開設準備の時には周りから伝わってきた。
 実際誘われたこともあって、真は驚きもしなかったが、別に不快にも思わなかった。そういう人種を目の前に見たのは初めてではなかったし、性の嗜好の問題のうちで、悪いほうに属しているとは思わなかった。
 多少心配したのは、美和のことだった。

 美和は、知ってる、と言っただけだった。男の子に泣きつかれているのを見たことがあるとも言っていたが、もともと自由恋愛、という形をとっている美和と仁の間に、例えばSM趣味があるとか言うわけでもなければ、足枷になる性の嗜好ではないのだろう。
 美和がどう思っているのかはともかく、北条仁はいい男だった。切れ味は鋭く、厳つさを持っているが、竹を叩き割ったような性質は、厭味な部分が少ない。身体も鍛えられていて、気持ちのいい逞しさを持っている。顎の張った厳つい顔つきは、この業界でやっていっているうちに出てきた特質で、飲んで陽気になるとむしろ人懐こい部分さえある。
 
 だが、あくまでヤクザだ。彼らの基準で許せないものは許せない。そこには融通などというものはない。
 一体どのくらい熱にうなされていたのか、目が覚めると、雨音は少し穏やかになっていた。あたりは静かで、音楽はただ雨の音だけになっている。

「気分は?」
 仁に覗き込まれて、真は何とか身体を起こそうとした。仁の手が真を支え、そのまま抱き締められるのではないかと思うくらいの力を感じる。実際には、真の身体がまともに動いていないだけのことだった。
「夜ですか」
「腹は空かないか」
 真は首を横に振った。
「ずっとここに?」
「いや、そうでもない。どうかしたか?」
 聞きかけてやめた。妙な自意識過剰だと自分でも思った。熱に浮かされていたのだろう。

 いつか唐沢に面会に行ったとき、唐沢が真に言った。
『北条仁には気をつけろよ。いつかお前を口説き落とす気だぞ。口説かれてその気になって、ってのなら、まぁ仕方がないけどな。お前の『彼氏』と血塗ろの争いになったら、お前さんだって困るだろ? もっとも、あぁ見えて、あの男は強姦をするタイプじゃないからな、それに酔っ払わせて襲うという手も使わない。何故なら、ちゃんと気持ちもモノにしないと納まらないタイプだからよ。お前さんの方から足を広げて誘うように、じわじわ攻めて来るんだよ』
 そういうことを、刑務所の面会で、方向は異なるが怪しいことにかけては北条仁にも引けを取らない唐沢に言われても、どう信じればいいのか、と思う。

「さて、夜のうちに抜け出すか。明日になって親父がお前に話を聞きたがる。聞いたら最後、お前を舎弟の一人のように思っている親父は報復に出る。そうなると、ややこしいからな。今から出れば、朝には新潟に着く」
 仁に助けられて立ち上がった。ふらついたが、支えてもらっていれば、何とか身体は動いていた。

 不思議に思うのだが、例えばこうして支えられて歩くときにも、仁には完全に身体を預けてしまえるような何かがある。ヤクザにそういうものを感じるのはどうかと思うが、唐沢が北条仁に気をつけろと言った意味が、こういう部分では納得がいくのだ。そういう相手の身体の反応を、恐らく仁は感触で嗅ぎ分けている。
 自分がしっかりしているときはいいが、こうやって弱っている時には、確かに危ない。

 玄関口では、あの大男が待っていた。
「お気をつけて」
「親父には上手く言っといてくれ」
「わかっとります」
 阿吽の呼吸で会話を交わすと、大男は仁にボルボの鍵を渡した。真は大男に支えられて、再び車に乗り込むことになった。




Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【雑記・旅】大分・安心院・鏝絵劇場 


安心院と書いてあじむ。
大分の宇佐市にあります。古代には渡来人の阿曇族が住んだ国。
そして、隠れてパワースポット、古代の息吹を感じさせる霊地として松本清張氏が戦前から何度も訪れていたということです。

その町には謎のストーンサークル・佐田京石があり、古事記や日本書紀にも記されている足一騰宮を祀る妻垣神社があり、そして鏝絵があります。周囲には石橋や滝がたくさんあり、
併せて、ここのJAで買った葡萄がものすごくおいしかった!

今回はその中で鏝絵をご紹介。
とは言え、JAの葡萄に時間を取られて、鏝絵の全てを見ることは出来なかったので、一部です。
街に集まっているところもありますが、結構民家も点在しているので、見て歩くには少し時間が必要ですね。
まずは観光協会(と言っても、とても小さな平屋の建物)で情報を集め、近くの本町通り鏝絵通りへ。

鏝絵というのは、土蔵や家の戸袋などの平らな面に塗られた漆喰の壁面に、鏝を使って盛り上げた彩色漆喰で描いた絵のこと。
一般に広まったのは江戸時代、全国に見られるようですが、ここ安心院では明治時代から盛んになったようです。
ただ、もともと色々な町で見られた鏝絵も、古い建物の取り壊しなどで、実際に見られる場所は少ないようですね。
漆喰に細かくした麻や藁を混ぜ、練り上げたものを材料にして、赤・黄・青などの色は大和絵に使う岩絵の具を使うのだそうです。その他、龍などの目にはガラスの内側に金や銀の紙を貼ったり、髭には銅線、釣竿に竹、などいろいろな素材も利用しています。

というわけで、鏝絵劇場。お楽しみください。
あ、この街の案内看板。
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ここには、「うなぎえ」ではありません、「こてえ」です、と書かれていました^^;
確かに、魚偏と金偏の違いで、ぼ~っと読んでいたら間違えちゃいます。

さて、冒頭の家は重松家別邸ですが、1階にはどかんと富士山です。そして2階には虎。
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こちら、アップにしてみましょう。
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盛り上がった漆喰の上に重ねられた岩絵の具がよく見えます。製作過程が見えるので、ちょっと面白いですね。
こちらの家の脇にはこの龍が。
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全て明治時代につくられたものです。

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こちらも明治時代のもの。三番叟のパロディ?
大黒と恵比寿と鯛。

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またこんな風に、古い家の軒先に……
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まるでギャラリーみたいに古い鏝絵が並べられていました。
もしかすると、もともとどちらかの家にあったものが、家屋の取り壊しなどでこちらに置かれているのでしょうか。この招き猫などは、人間と同じくらいの大きさがあります。
文様のようなものもあるし、絵画のようなものもあります。左官さんの意気込みが感じられますね。
これらは、左官さんが家を完成させるまでにお世話になったお礼としてその家の人にプレゼントしたものから、施主さんが左官さんに招福避邪を願って依頼したものの両方があるようです。

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一富士二鷹三なずび。富士は、光の加減で見えにくいのですが、枠にあります。なすびは鷹の足元にぶら下がっている。
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竹に虎。別の方の家からもらいうけて、使っておられるものもありました。

そして、こんな風に家の職業をユーモアとともに表したものも。
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大黒様とクボタエンジン。ちなみにある農機やさんの仕事場の壁です。
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印刷屋さんの鼠とインク。干支のものは、その家の御主人の干支を表していたりするようです。
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こちらはある旅館のもの。滝と鯉とすっぽん。
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こちらは洋服屋さん。平成の作品で、若い作家さん、そしてお弟子さんの鏝絵作品も展示されています。

まだまだあちこちに点在しているようで、写真集を買いましたが、結構バラエティに富んでいて、ユーモアもあって、工夫もあって、そして何よりも古い時代のものから、最近の作品まであることが素晴らしいですね。
美術館にあるものではなくて、そこにあるもの。
それが魅力的なのかもしれません。

どこかで見かけたらぜひ、じっくりとご鑑賞ください。

さて、次からはいよいよ、石紀行に参ります。
まずは、佐賀の巨石パークをご紹介する予定です。

Category: 旅(あの日、あの街で)

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