FC2ブログ
09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【死と乙女】(3) 兆し・恋とはどんなものかしら 

さて、少し間が空いてしまいましたが、【死と乙女】の第3話をお届けします。
ウィーンの音楽院ピアノ科の学生、相川慎一。心に少し問題を抱えた彼ですが、何とかこの町で生きていくためには奨学金が欲しいというので、特待生試験を受けたところです。この音楽院ピアノ科には、スーパースターとも言うべきテオドール・ニーチェという学生がいて、さらに彼を追いかけてこの学院に入ってきた、やはり実力者であるアネット・ブレヴァルがいます。慎一の保護者となっているのは、音楽評論家のヴィクトル・ベルナール。

少し間が空いていますが……始めから読んでいただいても大して量はありません。

→→【死と乙女】 :(1)春・金の卵、(2)胎動・特待生試験

今回の舞台裏で流れている曲はオペラです。
ワーグナー『神々の黄昏』最終部分:ブリュンヒルデの自己犠牲
モーツァルト『フィガロの結婚』:ケルビーノのアリエッタ『恋とはどんなものかしら』






「ここ、座ってもいいかしら?」
 慎一は自分が話しかけられたのだということに全く気が付かなかった。目で追いかけていたスコアの上にくっきりと影が落ちているのを見て、初めてそこに人が立っていることを認識したのだ。
「……あ、え、えぇ。どうぞ」

 顔を上げてから、慎一は少しの間、彼女の明るい金の髪と緑の瞳を無遠慮に見つめていた。やがて彼女が、まるで自分に恋をしている幼い子供に対して諭すようような笑みを浮かべた時、ようやく女性をこんなにも見つめては失礼になるということに思い至った。
 慌ててスコアに視線を戻し、最終幕のラストに意識を戻そうとしてみる。

 音楽院の中庭には、木々が程よく木陰を作り、芝生の上には座って本を広げる者や友人たちとの会話に夢中な者、あるいは眠りの妖精と戯れる者が午後のひと時を楽しんでいた。遠く、あるいは近くから、ピアノやヴァイオリン、フルートの音が重なり合っては離れ、離れてはまた重なり合って、無秩序の調和を孕ませ、風に乗って運ばれてくる。
 この場所で長時間を過ごすにはまだ薄ら寒い気候だったが、穏やかで明るい光が二人の座る白いテーブルと椅子に注がれていた。

「ワーグナー? オペラのスコアを読んでいるなんて、余裕なのね」
 話しかけられて、慎一はどぎまぎしながら頷いた。
 そもそもその人が自分に声を掛けてくるとは思えなかったし、あの特待生試験の日まで、彼女は自分を知らなかったのではないかとさえ思っていた。
「人待ちで……暇つぶしなんだ」
 慎一は慌ててスコアを閉じた。

「試験の結果に自信があるということかしら」
「まさか。僕は、その……君が一番素晴らしかったと思うよ」
 何を言っていいのか分からなくて、とにかく思っていたことをそのまま口に出した。
 彼女はさらりと慎一の言葉を受け流した。

「ワーグナーって、何だかあなたには似合わないわね。反ユダヤ主義者で、社会的な思想をあれこれと書き残して、その音楽はナチスに利用された。ワーグナーが藝術によって世界を救済すると信じていたフリードリヒ・ニーチェも、彼が国王や貴族に囲まれて意気揚々としている姿を見て、やがて失望して離れて行ったのに」
「でも、フリードリヒ・ニーチェは晩年、ワーグナーを愛していたと何度も人に語っていた。それに、音楽や藝術が、その作者の生きた時代の影響を何も受けないとは思わないし、当時の権力者がその音楽をどのように使おうとも、音楽そのものの美しさや正しさまで批判されるなんてのは間違っていると思う」

 アネット・ブレヴァルはにっこりとほほ笑んだ。金の髪が光に透けて輝いた。
 慎一は、自分はどうしてこんなふうに突っかかるような言い方をしてしまったのかと後悔した。つい、ヴィクトルと音楽について話すときのように、気持ちが高まってしまったのだ。
 さらりと躱したアネットの唇に、微かに憐れむような気配が浮かんだような気がして、慎一は俯いてしまった。もちろん、アネットの心にあったのは憐れみでも侮蔑でもなかったのだが、その複雑さには慎一の理解は及んでいなかった。

「そう言うと思ったわ。こんにちは、シンイチ。ずっとあなたと話したいと思っていたの。だからかしら。お話しするの、初めてだという気がしないわ」
 差し出された手をどうしようかと慎一は戸惑った。その様子を見て、アネットは面白がるような顔をし、すっと手を伸ばして来て、閉じたスコアの上で固まったままの慎一の手を両手で包むようにして握手を遂行してしまった。慎一が、事の成り行きに気が付いて手を握ろうとしたときには、その手はするりと慎一の心を躱すように離れて行ってしまっていた。

 それから改めて、彼女の言葉の意味を考える。
 ずっと僕と話したいと思っていた? からかわれているのだろうか。
「それから、私はあなたのライバルなのだから、もう少し闘志をむき出しにしてくれたほうが有難いわ」
「え?」
 アネットはふふ、と笑った。そして瞳を伏せて、慎一が閉じたスコアの表紙を見つめる。
「『神々の黄昏』ね。暇つぶしにしても、どうしてオペラを?」
「え、その、……」

 慎一の言葉はまるで上手く出てこなかった。さっき咄嗟にワーグナーを擁護した時とはすっかり違って、突然言葉を失った様子を見て、アネットがふっと息をついた。
「『ニュルンベルグの指輪』には色々な解釈があるわよね。あなたがスコアから何を読み取ったのか、興味があるわ」

 慎一がオペラのスコアを読むのは、ただそこに景色を思い描くことが楽しいからだった。ピアノのスコアにはないものが交響曲のスコアにあり、交響曲のスコアにないものがオペラのスコアの向こうにあった。耳から入る音の調和と、目から入る舞台の景色の調和。それを思い描くと、ひと時何もかもを忘れて、艶やかで優しく、甘く、時には苦しみを真正面から見つめるための、自分だけの世界を心の内側に作り上げ、その色を変え、さらに想いを深めることができた。

 それは慎一にとっては小さな箱庭だった。
『あの日』から、精神の病を克服するために続けてきた訓練は、音を加えて初めて、慎一にとって意味のあるものになった。今はもう、実際の箱庭は必要ではなかった。ただスコアがあれば世界は無限に広がった。いや、もうスコアさえ必要ではなくなっていた。

 だが、言葉で何かを説明することはとても難しいことだ。特に彼女のような、外見的な美だけでなく、あのピアニシモを指先から作り出すことができる内面的な美しさをも持ち合わせた、あらゆる意味で魅力的な女性に対して、今の慎一の言葉は何ひとつ追いつくことはできなかった。
 アネットの目は『神々の黄昏』という題名の上に注がれていた。

「これは、深い愛の物語ね。『ブリュンヒルデの自己犠牲』」
 一瞬、アネットは遠い目をした。
「忘れ薬のせいで妻を忘れてしまって、愛の証である指輪を彼女の指から奪い他の女と結婚しようとした夫、裏切られたと思って自ら死に至らしめてしまった愛する夫。その夫とあの世で結ばれるために、神々の世界をも焼き尽くすために火を放ち、自らも愛馬と共にその火に焼かれる。彼女は最後まで誇り高かったわ。ワーグナーは古い秩序や社会的・政治的規律を男性の登場人物に託し、女性の登場人物に愛に命を懸ける自由を託したのね」

 慎一はようやく顔を上げた。ブリュンヒルデが完全な愛の成就のために焼き払ったのは、古い世界の秩序の全てだったのかもしれないが、その激しさには体が震える。
 震えるのは、自分自身の内面にも同じような炎を飼っているからだ。
「でもこれは自己犠牲じゃないわ。彼女は夫の裏切りを許せなかった。夫を自分だけのものにするために、彼を敵に殺させて、自分も同じ火に焼かれることで愛を成就したのよ」

 慎一は答えることもできずに、アネットの顔を見つめていた。まだ幼さも残るような少女の面影と、激しい情念を秘めた熟成した女の影が、彼女の上で行き来していた。
 彼女の中に、自分と同じ炎がある。
 そう思ったのはもう恋の始まりだったのかもしれない。

「シンイチ」
 親しげにアネットが呼んだ。アネットの綺麗な湖のような緑色の瞳が目の前にあった。光が金の髪の上で踊っている。彼女の指先から零れるピアニシモの絹を思わせる頬が、微かに朱く染まっている。
「あなたは恋をしたことがある?」
 慎一はドキドキした。もしかすると、今恋をしているのかもしれないと思った。
「あなたは?」
 声が少しだけ上滑りする。

 アネット・ブレヴァルがテオドール・ニーチェを追いかけてこのアカデミーに編入してきたという噂は知っていた。もっとも、慎一はそういうゴシップ的なことには、ついさっきまでまるで興味がなかった。ゴシップや世間話を楽しむ会話を交わすような友人はいなかったし、音楽以外の話をするには、彼のドイツ語はいささか心もとなかった。いや、ドイツ語の問題ではなく、言葉は話す内容が伴わなければ、スムーズには喉の奥から出てこないのだ。

 どうかしら、とアネットは言葉をはぐらかした。そして少し遠くの光の中を見つめる。
「どうしても手に入れたいのに、手に入らないと分かってしまったら、その人を殺してでも自分だけの物にしたいって、そこまで思うことができるかしら」
 そんな『恋』をしたことがなかった。だから慎一は答えられずに黙っていた。
 それはテオドールのことを言っているの?
 咽喉まで出かかった言葉は、そのまま呑み込まれてしまった。

「でも、私が恋をしているのはピアノなの。誰にも負けたくはないし、負けるとも思っていないけれど、人に勝つことはできても、芸術の神様には届かない。どうしても届かないものだと始めから知っている場合は、どうするのがいいのかしら」
 慎一は黙ったままだった。特待生試験の時のモーツァルトの第二楽章の始め、あの瞬間の不可解な不安が頭をかすめた。
 あれは確かに死の影だった。慎一自身がそれに気が付いたのは、自分の内側に同じ死の影が漂っているからだ。だが自分のそれは、まさに生々しい血の臭いが伴っているのに、彼女の影には臭いがなかった。

「今年の演奏旅行のことは聞いていて?」
 突然、アネットは遠くの光から、慎一に視線を戻して聞いた。
「演奏旅行?」
「今年はテオドール・ニーチェのお相手を探すのだとか」
 幾分かアネットの声が重くなった気がした。そして、意味が全く理解できていない慎一の顔を見て、同とも表現し難い複雑な表情を浮かべた。

「お邪魔ですか?」
 突然、上から降ってきた声に、慎一も、そしてアネットも驚いて顔を上げた。
 先に、見事な笑顔を見せたのはアネットだった。慎一は声の主が近づいてきていたことにも気が付かなかったのに、今まだ、彼女の華やかな笑顔に捕まえられていた。
「いいえ。こちらこそごめんなさい。シンイチ、あなたの待ち人でしょ」

 席を立とうとしながらアネットは答える。ふわりと、風に誘われて花のような香りが漂った。彼女の声が、慎一の耳の中であのピアニシモと同じような優しい反響を転がす。
 するりとヴィクトル・ベルナールの手が立ち上がるアネットを止めた。
「お話しする機会を窺っていたんですよ、マドモワゼル・ブレヴァル。私は……」
「存じてますわ」
 アネットは微笑んだ。その唇には、先ほど慎一が垣間見た影はどこにもなかった。

「ムッシュウ・ベルナール。この間はもったいないくらいの評を書いてくださいましたでしょう?」
「この間、といいますと」
「ショパン・コンクールの時です。テオドール・ニーチェが一位をとった……」
「あぁ。あなたが一位でも良かったはずだって。あれは難しい審査だったでしょうね。私は、審査員の好みに過ぎないと思ったのですが。あなたの抒情的なレガートは今でも耳に残っていますよ」
「それでも、負けは負けですから」
「私は本当のことしか書きません。今でもあなたが一位でも良かったと思っています」
 アネットを引き留めたヴィクトル・ベルナールの魂胆など知らない慎一は、黙って二人の会話を聞いていた。

「それはそうと、今年の演奏旅行の件はもう?」
「えぇ。聞きました。今、その話をしていたところですの」
「試験を受けられる?」
「それは評論家としてのネタ探しですか?」
「そう感じる理由は何です?」
 アネットは少し俯いた。その表情はまるで舞台の上で演技をする女優のように見えた。
「色々な人が、私とテオドール・ニーチェのことで勘ぐっていることを知っています。あなたもその一人だとは思いたくありませんけれど」
「なるほど」

 慎一は注意深くヴィクトルの唇に浮かぶ表情を見ていた。ヴィクトルの感情は時に読み取りにくいが、唇には様々な思惑が漂っていて、慎一にはそこから発される言葉の震えから色々なものが見える。
「私が興味があるのは、何故今年に限って、そんなことを考えたのかということですね」
 アネットは微かに唇を噛んだ。唇は、確かに雄弁だ。彼女の唇だけに宿った暗い影は、またあの第二楽章の始めを思い出させた。

「試験のことは、まだ考えていません。この間の試験の結果もまだ出ていないのですから」
 そろそろ行かなくちゃと立ち上がりながら、アネットが一瞬、慎一の方を見た。
 そこにあったのは、注意深くヴェールを被せられているものの、明らかに憎しみと戸惑いの入り混じったものだった。慎一は、一見ではただ可憐で美しい彼女の外観の内側に、あれこれと押し込められた複雑な色を感じ取って、しばらく呆然とし、それからふと目を伏せた。

 アネットは僕を嫌っている?
 それは同じ試験を受けたからなのだろうか。ライバルにはもっと本気でかかっていかなければならないものだと、彼女はそう言っているのだろうか。
 恋とはどんなものかしら。
 それはやはり苦しくて、時々涙もし、何かが欲しいのだけれど何かが分からず、時に凍るような想いをしたと思えば、また燃え上がり、心が落ち着かない。

 心が落ち着かない。慎一はまさにその想いを、背を向けて去っていく彼女と、その向こうにある何かに感じ始めていた。
「演奏旅行って何?」
 横でヴィクトルが大袈裟にため息をつく。
「お前ね、自分がこの世界で生き残っていくためにどんなチャンスや可能性があるのか、周囲を見回してきたことがあるか?」

 慎一はちょっとだけヴィクトルを睨んだ。今は、どうやって一人で生きていくか、それでいっぱいだった。だが、慎一とて、その先を何も感じていないわけではないのだ。
 その先を思うと、心が苦しくなる。
「特待生試験だって、お前とは違う目的でみな受けている。演奏旅行の件だって、もしかして自分にチャンスがあるならと、誰もが虎視眈々と周囲を睨んでいる。さっきまでその餌に食いついていたライオンがいなくなれば、いつでも飛びかかれるように準備しているんだ」

 それから、白いチェアに凭れるようにして、ヴィクトルはまた大袈裟にため息をついた。
「それなのに、俺の見込んだ金のタマゴ君は、呑気にオペラのスコアなど眺めている」
 そう言って頭を掻き、ヴィクトルはテーブルに両肘をついて、諭すように慎一に話して聞かせた。

「デヴューのチャンスを若い音楽家に与えるために、この音楽院の援助者たちが資金を集めて作った企画だ。毎年夏の終わりに、二週間ほどでいくつかの国を回って演奏会をする。メンバーは基本的には推薦で決まるが、オーディションをする科もある。選ばれたら、オケのメンバーももちろんだが、ソリストには特に注目が集まるし、上手くやればスポンサーがつく。そのままプロデヴューだって夢じゃないだろう。ここ数年、ピアノ科はテオドール・ニーチェがその席を譲らなかったんだが、試験でもう一人、選ぶことになったんだそうだ。この演奏会のネームバリューが上がっているのはテオドールのお蔭だ。若い演奏家に惚れ込んだスポンサーたちが、どの国でも彼が来るのを待っている。だから彼をメンバーから外すことはできないが、そろそろ別の学生にもチャンスを与えなければならないということなんだろうな」

 ヴィクトルはじっと慎一を見る。
「ただし、テオドールと張り合わなけりゃならないんだ。良くも悪くも比較される。それは重圧だろうけどな」
 慎一は黙ってヴィクトルを見つめ返していた。
「受けてみないか」
 慎一は無言のままだった。
「今年はイタリアとギリシャを回る」

 言葉は慎一の耳に深く重く届いた。頭の中に残ったものとはまるで違う言葉が、口から出てくる。
「特待生試験の結果もまだなのに……」
「そんなものは関係がない。お前は、前の結果がどうだったかで、次の結果が決まると思っているのか?」
 ヴィクトルは何を知っているのだろう。彼が口にした街の名前のひとつが慎一の心を苦しいほどに掴んだ。
「ミラノ、ローマ、ナポリ、アテネ。お前の音を届けたいとは思わないか」


 ローマ。
 そこに住む人に、届けたい言葉は溢れるほどにこの身体にあふれている。
 それでも、思い出すと苦しくて息ができない。
 ……ジョルジョ。……マルチェロ。
 慎一の魂はまだ、あの街を彷徨ったままだった。






以下に曲のYou Tubeを畳んでありますが……ワーグナーの方はかなり長い……
余程興味があればどうぞ^^;

-- 続きを読む --
スポンサーサイト



Category: ♪死と乙女(連載中)

tb 0 : cm 6