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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【死と乙女】(4) 想い・セレナーデ 

【死と乙女】第4話をお送りいたします。セレナーデ……恋人の窓辺で囁く愛の唄です。
あまりにも長くなったので、トップページにある間だけ畳みます。すみません。
場面も変わるので2回に分けても良かったのですが、感情が繋がっているので、一気にいってしまいました。

夕さんのおっしゃる通り、完全にのだめ風にクラシック話になっていますね。
もともとはノートに手書きで32ページの作品でしたが、今まででその3分の1程度が終わったところです。オリジナルにはなかった場面もどんどん増えて、完全に長くなっています。いつ終わるのかしら……
気長にお付き合いくださいませ。

ところで、訃報がありましたね。
やなせたかしさん(94歳)、ご冥福をお祈りいたします。
以前記事に書かせていただきましたが、御年70になってから売れ始めた「アンパンマン」
その飽くなき想像力と、子どもたちに夢と勇気を与え続けた愛情に、たくさんの子どもたちの時々ママ代わりより、心から感謝申し上げます。

何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱い心燃える だから君は行くんだ 微笑んで

今日はこの歌が頭の中でヘビーローテーションでしたが……

今回の登場曲は以下の通りです。(最後に曲もアップしています(*^_^*))
ナポリ民謡『帰れソレントへ』『オー・ソレ・ミオ』
シューベルト歌曲集『白鳥の歌』より『セレナーデ』
*『アルルの女』第二組曲のメヌエットは次回にも出てきますので今回は割愛。
(そう言えば、この曲、のだめにも出てましたね。ファランドールと一緒に)




 ヴィクトル・ベルナールが今日、音楽院にやって来たのは、慎一の教育に熱心なピアノ科担当教師、ローマイヤーに呼び出されたからだった。
 特待生試験の結果について情報があるのかと思えば、そうではなかった。その件について聞くと、ローマイヤーは肩をすくめただけだった。
「揉めてるよ。ものの見事に」
 それは予想できたことだ。

「これを君はどう解く?」
 ローマイヤーは比較的開け広げの性格だった。ピアノ科で最も若い教師だが、一時期のコンクールを総なめしたのに、そのままデビューもせずに教師になった。何かの瞬間に教師が向いていると自覚したという。彼は、学校という特殊環境を隠れ蓑にして象牙の塔をこしらえ、中からの眺めを楽しむようなことはしない。だから学生にも人気があった。
 もしも慎一の担当教師がローマイヤーでなかったら、とヴィクトルは時折考える。ローマイヤーの推薦なしには慎一は特待生試験を受けることさえ叶わなかったろうし、レッド・カーペットが敷かれた階段には一歩も近づけなかっただろう。髪の色や目の色、そして後ろ盾のないこと、全てが慎一にはマイナスになっていたからだ。

 ローマイヤーはいつものように机にちょっと尻をかけて座る。実は身長が低いのだが、そうやって机の端に座ることで、自分をちょっとばかり大きく見せたいのかもしれないが、ただの癖かもしれなかった。
「アネットの音か?」
 ローマイヤーはその通り、というように人差し指を立てた。
「確かに彼女の音は軽やかで柔らかく、妖精が跳ねているみたいだ。おっと、君に言わせると、手で触れることのできる絹のようなピアニシモ、だな。だがあの試験の日のあれは彼女の音じゃない」

 そうなのだ。ヴィクトルが驚いたのと同じように、ローマイヤーも気が付いていたのだ。
「あれはシンイチの音だ。ものの見事にコピーしているが、彼女のオリジナルの音じゃない」
 ローマイヤーはもう一度肩をすくめた。
「もっとも、コピーがオリジナルを越えそうなほど完璧なのには参ったけどね。でも、まぁ、すぐにシンイチはその先に行くだろうけれど。ところで、あの現場にいた者でそれに気が付いたのは何人だと思う?」

 ヴィクトルはローマイヤーに聞かれてすんなりと答えた。
「三人、もしくは四人。俺と、君と、それから多分、テオドール・ニーチェ。俺には分からないのはリーツマン教授」
「君とは意見が合う。四人だ。リーツマンは気が付いている」
 そう言ってから、ローマイヤーは面白そうに笑った。

「いや、全く。それなのに、君も俺も当の本人、シンイチを数に入れていないと来ている」
「あいつはそんなことに気が付いていない。自分の音がそこに留まっていないからだ」
「同感だ。だからあのモーツァルトが弾ける。多分、次に弾いた時はまた違う音を奏でる。どこまで疾走する気かな。もっともこの自由さが、いつかデビューした時に長所になるか短所になるかは不明だが」
 その通りだ。あの時の演奏が良かったという過去で評価され、聴衆も「あの時の音」を求めてやって来る。それなのに期待通りの音でなかったら失望する聴衆もいるだろう。

 ローマイヤーはよっと机から飛び降りた。
「だが、もうこれは教授会に委ねるしかないしな。ピアノの前に座る段階で勝負がついている可能性もある。実力が同じでどちらを取るかと言われたら、実績と背景、ついでに外観からもアネットの勝ちだ。シンイチに勝ち目はない」

 ローマイヤーは穏やかな風が吹き込む窓へと視線を向けた。開け放たれた窓からは、早春のまだ冷えた温度と共に明るい光が流れ込んできている。光の中に時折、ピアノや弦楽器の音が混じる。ローマイヤーは誰もいないことを確かめるように窓の外を見た。
 窓辺で振り返り、神妙な顔をしてヴィクトルに向き合ったローマイヤーは、低い声で続けた。

「ところが、そのもう一人が何を察したのか、学長にいちゃもんをつけに来た」
「何だって?」
「いちゃもんは言い過ぎだが、テオドール・ニーチェだよ。演奏旅行にピアノ科からもう一人、出してくれと、学長に直々に申し出てきたんだ。しかも、学長ははっきりとは言わなかったが、自分のパートナーになる学生を名指ししてきたらしい」
「まさか」
「そう。シンイチを指名して来たんだ。おっと、これは学長から聞いたんじゃない。盗み聞きの天才秘書の手をちょっとばかり握って聞き出したんだが。さて、君はどう思う? テオドール・ニーチェの思惑は何だ? 確かにシンイチは魅力的な演奏家になると思うが、現時点でテオドールの敵じゃない」

「だが、テオドールにはそう見える?」
「どうだろうね。テオドールにそれとなく聞いてみたんだが、知らん顔だったよ。テオドールのプライドにかけて、自分よりはるかに格下の学生が気になっていることを知られたくないのかもしれないが」
 ヴィクトルは、それにしても今日わざわざ自分が呼び出された理由は何だろうと思っていた。
「君も知っている通り、学長はネオナチかと思うくらいのゲルマン至上主義だ。百歩譲ってヨーロッパ人種ならともかく、日本人のシンイチに易々とチャンスを与える気持ちなどないわけだ。テオドールの希望がそのまま受け入れられるとは思い難い。いくら学院一のスーパースターの頼みであっても」

「で、君が俺を呼んだ理由は」
「多分、試験がある。皆に平等に機会を与えるという大義名分だ。残念だが出来高レースにはならない。第一の関門は」
「シンイチが受ける気になるかどうか、ということか」
 慎一には階段を駆け上るための気概がないというのは確かだ。何より、特待生試験は明日の生活のためだが、その先の未来を勝ち取るために食らいつくという気持ちはまだないだろう。

 それに、スポンサーがついているとはいえ、演奏旅行の参加費用の全てを学院が出してくれるわけではない。さらに舞台に上がるための服、靴、身につけるすべてのものを人目に晒すことになる。
 そういう金銭的な問題が絡んだ時点で、慎一は試験を受けることを断念するだろう。
 それくらいの金などくれてやりたいが、そうですか、よろしく、と慎一が受け取るとは思えない。特待生試験に合格したら、学費と一緒にそれも出してもらえるのだろうか。
 だが何より、慎一にはどうしても越えられない問題がある。悔しいが、人種の問題だ。

「君の説得次第、と思ったりもするんだがな」
「説得もそんなに簡単じゃないが、受けたところで彼に勝ち目があるのか? ソリストとなればより注目されるだろうが、人種的な問題もあるだろうし、パーティやら何やら上流社会のマナーも求められる……」
 ヴィクトルは超絶技巧の必要な難題を吹っかけられたと思った。
 そもそもヴィクトルはただの評論家だ。ローマイヤーのような正当な音楽教師にできないことが、一介の評論家にできるわけがない。少なくとも、慎一は評論家としてのヴィクトル・ベルナールを頼っているわけではないのだ。

 だが、言葉にしてみてからふと思い至る。
 一度だけ事情があって高級レストランに連れて行ったことがある。服がないからと慎一は断ったが、それは高名なオペラ歌手のコンサートとセットになったディナーだった。本当は行きたいと思っているのは、ヴィクトルの目にも明らかだった。
 服を誂えてやった時、慎一はいつものように困った顔をした。
 僕には返せないと。
 出世払いだ、覚悟しておけ、と言ったら、唇を引き結んで小さく頷いた。

 不安そうで肩身の狭そうな表情をしていたのに、いざその場に立った時、慎一の立ち居振る舞いは、よく揶揄されるような「東洋の子猿」のものではなかった。その場に溶け込むように自然に人々の間を歩き、椅子を勧められれば自然に座る。イタリア人のオペラ歌手が挨拶に回ってきたとき、慎一は緊張してガチガチになっていたが、優しく笑みを浮かべて語りかける歌手に、完璧な、そうまさに完璧なイタリア語で答えた。
 それだけではない。テーブルマナーも、どこにも付け入る隙がなかった。
 一体、この子はどういう出自なんだ。ヴィクトルは人の過去を詮索する気持ちなどさらさらなかったのに、あの時から急にたまらなく知りたくなった。

 もしも、彼にチャンスを与えてやれたら。
「ま、君らの関係をどうこう言うつもりはないんだけれど、いや、これもただの噂だと思う面もあるが、もしそうなら全力で彼を説得しろよ。上流社会のマナーなんぞくそくらえだが、君なら教えてやれるだろう」
 いや、彼にはそれは必要ないんだ、とヴィクトルが言葉を挟む間もなく、ローマイヤーは続ける。

「彼が恥ずかしくない服や靴だって、揃えてやれる。この世界のこんな片隅で音楽をしている限り、彼の上には陽が当たらない。悪いが、君との関係だってマイナス要素のひとつになるだろう。君らが否定しても好奇の目がそれを許さない。誰もがリーツマンのように音だけでその音楽家の価値を判断してくれるわけではない。それでも、もし彼の本当の音を聴いたら、彼を見る目は少しは変わるだろう。もちろん、彼がその場で自分自身を上手く表現できるかどうかは分からないが、少なくともその舞台に上げてやらなければ、スタートにもならない」

 それは教師の君の仕事だろう、と言いかけたが、ヴィクトルは言葉を飲み込んだ。そんなに簡単なら自分が呼び出されるわけがない。
 ヴィクトルはやるだけはやってみるが、と言葉を濁して、ローマイヤーの部屋を辞した。
 もしも打開策があるのなら、その鍵を握っているのはテオドール・ニーチェだと思いながら。

 そして慎一と待ち合わせた場所にアネットの姿を見つけた時、さすがのヴィクトルも相当に驚いた。いささかの後ろめたさと、そして面白いことになるかもしれないという期待が同時に湧き起こる。
 アネットは演奏旅行の話を知っていた。
 まだ公には発表されていないが、噂が駆け巡るのは早い。

 だが、それにしても、早すぎないか?
 鎌をかけるつもりで「何故今年に限ってそんなことを思いついたのだろう」という問いかけをしてみた。アネットが何かを知っている可能性を考えたのだ。もしかして、アネットが本当にテオドールと繋がっているのなら、そこから話が伝わった可能性もあるかと思った。だがアネットはするりと躱してしまった。

 アネットが去った後、慎一は何も言わずに席を立ち、今ヴィクトルの前を歩き続けている。級友の一人が声を掛けてきたのにも全く気が付かなかった。
 まだ浅い春の陽が慎一の背中に冷たく白く輝いている。
 何故、アネットはあんな表情をしたのだろう。まるで慎一を憎んでいるようにも見える表情だった。あるいは、会話の端々に何かを確かめるような気配もあった。

 やはり、彼女は意図して慎一に近付いているのではないか。
 そんな疑問が湧き起こる。
 アネットのピアニシモが耳の中に残っていた。手に触れる絹の手触りがそのまま耳の中にある。
 慎一も同じことを感じているに違いない。
 門が見えてきた。守衛の初老の男が出ていく学生に挨拶を返している。石造りの門は両脇の大きな木のせいで十分に陽が当たらないのだが、木漏れ日がその煉瓦の上で小さな曲を奏でるように揺れていた。

「車を取ってくる。シンイチ、聞いているのか?」
 慎一がヴィクトルの声にも苛立っているのを感じる。
「シンイチ」
「あなた、何か隠しているんだ」
 ヴィクトルは後ろから慎一を追いかけながら、ポケットの中の車の鍵を探っていた。
 全く、どこまで鋭いのやら。


 あの二人は同棲しているんじゃないかしら。
 ユーディット・マンハイムはそう言った。もちろん、半分は根も葉もないことだろうが、ユーディットはこの二人を追いかけているのだ。あるいは半分くらいは根のあることかもしれない。
 だが、アネットはともかく、テオドールはどうなのだろう。あのテオドール・ニーチェがアネット相手にそれほど人目につくことをするだろうか。

 もちろん、「あの」テオドールとて実質は二十歳にもならぬ子どもだ。子どもとは言いがかりかも知れないが、人生経験という意味ではまだ青二才なのだ。音楽のためにでなくとも、女にだって興味を持つだろうし、それにどう対応していいのか惑っていたとしてもおかしくはないだろう。

 車に乗り込んだ後も、屋敷に帰り着いた後も、慎一は黙り込んでいた。
 下宿に帰りたいと言い出さなかったのは有難かった。少なくとも先ほど投げかけた問いかけに対する気持ちを確認するチャンスはあるかも知れない。
 と思ったのは甘い考えだった。屋敷まで黙ってついてきたものの、結局ヴィクトルが会話のきっかけをつかむ前に慎一は寝室に閉じこもってしまった。
 やむを得ないのでしばらくの間そっとしておこうと考えていたヴィクトルも、さすがに夕食の時間になっては心配になってきた。

「シンイチ、何を怒っている?」
 何かを隠しているのが気にくわないのか、それとも少しばかり興味を持った女性に仄かな恋心でも抱いてしまって、それがあっさりと躱されてしまったのがショックだったのか。それとも。
「腹が減ったろう。何か作ろう。降りて来いよ」
 ベッドに潜り込んだままの慎一の頭を撫でてやっても、反応はなかった。

 パンと野菜を温め、ワインを先に開けてテイストを済ます。ハムをフライパンに並べて焼きながら、テオドールのことを考えた。
 思い切ったことをしたものだ。それほど慎一が気になったのか。確かに特待生試験の時の慎一の演奏は上出来だった。だが、あれは慎一の一面でしかないし、学院一の逸材が演奏旅行のパートナーに彼を指名するほどの出来栄えだったとも思えない。

 そう言えば、特待生試験の後で慎一はテオドールに誘われて食事に行ったという。同級生を誘うなどテオドールらしくない行動に思える。そういう人づきあいが得意な人間ではないだろう。だが、それでも慎一には声を掛けたのだ。彼が慎一に執心する理由は何だろう。
 もしもテオドールの執心がアネットに伝わっていたら、そしてユーディットの言う通り、アネットがテオドールに夢中になってこの学院に来たのだとしたら、見事な三角関係の成立になる。

 だが慎一は何に反応したのだろう。
 不意に、会話の途中で慎一が黙り込んだ場面を思い出した。
 ミラノ、ローマ、ナポリ、……
 ヴィクトルが演奏旅行で訪問する都市の名前を並べた時、慎一は黙り込んでしまったのだ。
 少しずつ、何かの核心に触れかけている。その気配が暗い廊下の向こうから伝わってくる。

 降りてこない慎一を迎えに寝室に上がると、彼はまださっきの姿勢のままで身じろぎもせずにベッドに潜り込んでいた。そっと肩に手をかけてこちら側を向かせると、それを拒むように小さく身体を丸める。
 泣いているのか。
「シンイチ」

 こういうことは珍しいことではない。そしてヴィクトルはそれを敢えて追及はしないという態度を貫いてきた。音楽が素晴らしければ、その音楽家の過去や生活になど興味はない。そもそも音楽家というのが清廉潔白だとは思えないし、知れば音楽の素晴らしさまで損なわれてしまうような気がして、ただ音だけから感じる世界を大事にしてきたというのに。
 今は胸が締め付けられるほどに知りたいと思う。
 慎一のことも、そしてもしかすると、アネットとテオドールのことも。
 この若い楽聖たちの行く末を心から愛しく思うからだ。

 慎一はゆっくりと目を開ける。視線は天井よりも遥か上を彷徨っている。ヴィクトルはベッドに腰かけ、そっと頭を撫でてやる。
「夢でも見ていたか」
 慎一は彷徨った視線をそのままに、涙を拭うこともせずに目を閉じた。
「同じ夢」
「うん?」

「……ローマからここに来るとき、列車の中でずっと夢を見ていた。波の向こうで灯りが揺れていて、声が聞こえるんだ。声は、五歳の僕に呼びかけている」
 ヴィクトルはそっと指で涙を拭ってやった。
「ローマに戻りたいんだろう」
 初めてその街の名前を口にした。

「行けばいい。方法は分かっているんじゃないのか。神がお前にチャンスをくれようとしている。そしてここに、お前を助けようという人間が、少なくとも二人はいるんだ」
 そう、お前と同じように、この音楽の世界の高みへ飛ぼうという友が、ただ一人で彷徨う空があまりにも広くて、今誰かの手を握りたいと思っているのだ。
 もしかすると、彼が今、お前の神なのかもしれない。
 そして俺にもできることはいくつもある。
 お前はただ、その手を握り返してくれればそれでいいのに。


 ごらん、慎一。あれがナポリの港。目を閉じれば、波が奏でる音楽が聞こえてくるだろう。この海はソレントの港へ、アマルフィの海岸へと繋がっている。そして波の向こうにシチリアの灯りが浮かぶ。慎一、お前はこの国を愛してくれるか。

 耳の中で、優しいハイバリトンの声が蘇る。幻でなく、今ここで聞きたいと願ったことが何度あっただろう。
 ホイリゲの洗い場の食器の音、笑いさざめく客たちの声、入口の重い扉が開かれると吹き込んでくる風の輪舞曲、そして慎一自身が奏でるピアノの音。
 全てが重なり合い響き合って、ひとつの音楽になる。そこにまたあの声が重なる。

 ローマに行けば、全て許されて会うことができるのだろうか。そんなことは叶わない夢だと思ってきた。
 想いは駆け巡り、毎年一度クリスマスの休暇に彼と歩いたサンタ・ルチアの港へ帰っていく。
 ナポリの港。浮かぶ卵城。光を揺らめかせながら遥か地中海の彼方へ遠ざかる波。風が運んでくる酒場の陽気な会話と音楽。
『帰れソレントへ』の調べが海の風に乗って囁きかける。

 初めてあの街を訪れた時、慎一の背丈は彼の腰にも届かなくて、手を引かれて一生懸命、海沿いの道を歩いた。それから少しずつ慎一の背は伸びていき、彼の声や気配をもっと身近に感じられるようになった。
 それと同時に、彼の苦しみを理解し、理解すればするほどに、彼の想いは慎一自身からは遠ざかっていった。

 ジョルジョの目に映っていたのは僕だったのか、それとも父だったのか。
 僕は父なのか、それとも父が僕になり代わったのか。
 記憶にないその人が、僕の中の遺伝子の奥深くで潜んでいて、少しずつ僕を侵して表へ浮かび上がってくる。そして僕を僕でなくしていく。
 僕のまん中にぽっかりと空いた穴は、この先どうしたら埋めていくことができるのだろう。いや、そうじゃない。僕はもう、そんなことを望む資格さえ失っている。

「シンイチ、リクエストだよ」
 ホイリゲの主人は陽気な声で呼びかけてくる。それから片目を瞑って、ちょっと意味深なサインを送ってきた。
 手元に渡された白い紙に、流れるような綺麗な文字が書かれている。

 シューベルト セレナーデ 私のために歌って

 ふと顔を上げると、一番隅のテーブルに黙って座っているアネットと目が合った。
 アネットはこの一週間ばかり、毎日ホイリゲに通ってきていた。そして主人が慎一の恋人だと勘違いしても仕方がないほどに、ピアノを弾く慎一を、ほとんど瞬きもせずに見つめていた。

 彼女はいつもシューベルトやリスト、シューマンの小品をリクエストした。慎一はそっと囁きかけるように答えを返した。数分の曲の間に、いつも想いは二人の間を行き交った。
 昨夜、彼女は遅い時間にホイリゲに来て、客が皆帰った後でピアノの傍にやって来た。

 ねぇ、あなたの育った国の曲を聞かせて。
 慎一は少し考えて、『'O sole mio』を歌った。綺麗なイタリア語だと彼女は言った。
 日本の歌じゃないのね。
 日本の歌はよく知らないんだ。僕のルーツは自分でもわからない。
 アネットはしばらくの間、慎一の手元を見つめていた。それから慎一の肩にそっと手を置いた。
 じゃあ、お返しに。

 彼女はビゼーの『アルルの女』第二組曲のメヌエットを弾いた。
 そもそもピアノ曲ではなく、それを管楽器ではなく打楽器であるピアノで聞くとパサパサに聞こえるのに、アネットの指先からはまるでフルートそのもののような滑らかで優しい調べが流れ出した。
 それから慎一はアネットを下宿まで送り届けた。夜になると冷え込む街の歩道を、恋人同士よりは少し離れて、友人同士よりは少し親密に、並んで歩いた。

 あなたは『アルルの女』の物語をどう思う?
 その時の会話の最中に覚えた不安を、今、不意に思い出す。

 慎一はしばらくの間、アネットの静かな表情を見つめていた。
 今日、真っ白な服を着たアネットは、この賑やかな夜のホイリゲの小さな闇の中で浮かび上がるように艶やかに見えた。誰も彼女に話しかけようとしない。酔客にさえ、彼女の張り詰めた絃のような厳しさが伝わるのだ。厳しくて、美しい。

 慎一は目を伏せた。そっと鍵盤に指を下ろす。
 いつもなら酔客たちの楽しいひと時を邪魔しない程度にピアノを弾く。たまにはじっと慎一を見つめて聞いてくれる酔狂な客もいる。だが多くの人の耳には、ピアノもこの空間を構成する音のひとつにすぎない。
 慎一はリクエストを貰った時以外はそのようにピアノを弾いてきた。リクエストを貰ったら心を籠めて、その人のために弾こうと心掛ける。それでも、他の客の楽しい会話を途切れさせないように気を使っている。

 だが、慎一は今この時の彼女からのリクエストだけは自分の力の全てをもって弾きたいと思った。彼女と自分のためにそうしたいと思っていた。心を籠めて、という言葉では足りない。心をぶつけたいと思った。何故なら、アネットの目には、全てを共有したいという強い願いが浮かんでいるような気がしたからだ。

 セレナーデ。恋人の窓辺で愛を囁く歌。切ない恋心を伝えんと想いを歌に乗せて、夜のしじまの中に語りかける。どうか私のところへ降りてきて。私の声を聞いて。私の想いに応えて。震えるような思いで待っている私のところへ。
 ピアノの脇にあるマイクスタンドが震える。その振動が微かに身体に伝わってきていた。

 めったに歌わない慎一が、昨日に続いて今日も歌い出すのを見て、ホイリゲの主人は驚いたような顔をした。
 慎一の声は賑やかなホイリゲの中に滑り出した。この声が、彼女のいる一番隅の席にまで届いて欲しいと願いながら、咽喉を震わす声は夜の闇を縫い取るように迸り出た。

 アネットもまた、誰かを想っている。
 僕も今すぐにでも、その人のところへ飛んでいきたいと願う。
 切なくて、苦しくて、窓辺で愛しい人に愛の答えを求める。その愛の形は、純粋な恋かもしれないし、家族への想いかもしれない。僕の想いは僕だけが分かっている。
 彼のためにあの国を、あの街を愛したいと願った。彼のためにピアノを弾きたいと思った。彼に、父ではなく僕を見て欲しかった。彼をあの暗い場所から救い上げたいと願った。そして、僕のこの命は彼を救うためにここにあるのだと知ってほしかった。今もなお、どんなに離れても、顔を見ることも声を聞くことも叶わなくても、彼の気配だけはずっと傍にある。

 僕がピアノを弾いてきたのは、ただ一人の人のためだった。
 彼に聴いて欲しくて、今も僕は、彼に聞こえない場所であっても、こうして彼のためだけに、彼に囁きかけるために、音を紡いでいる。
 ジョルジョ。僕はあなたをその苦しみから解き放つことができるだろうか。
 そして、アネット。もしかして僕は君の魂に触れることができないだろうか。君の魂が震えるように願う苦しい恋の想いに、せめて手を添えて慰めたいと願う。

 今、慎一は完全にホイリゲが静寂に包まれていることを知らなかった。
 誰もが手を止めていた。ビールのジョッキを掴んだ手はそのままで、テーブルから持ち上げられることはなかった。ソーセージを口にしようとしていた者も、そのままフォークを皿に戻していた。おしゃべりは完全に止まっていた。そして、仲間の従業員でさえも、客の注文を取ることもなく、飲み物や食べ物を運ぶ足さえも止めていた。

 ホイリゲの主人はご満悦だった。曲が終わったら、俺が見つけた金のタマゴだと言うつもりだった。もっとも、今慎一がしているのは、彼の技術を見せるピアノの名曲を弾くことではなく、本来なら慎一が得意というわけではない、自分で伴奏をしながら歌うことだった。
 慎一が歌を人の前で披露することは多くはないのだが、ホイリゲの主人は彼の声が好きだった。もちろん、主人の思うところでは、慎一はピアノの世界で大成するはずなのだが、もしかして象牙の塔に住んでいる偉い人々に分かってもらえなかったら、ポピュラーの世界でもいいじゃないかと思っていた。

 彼の声は洗練されているわけではないが、ここのところにぐっとくる。
 主人は確かめるように自分の胸を何度か叩いた。
 けれども曲が終わった時、主人も口を閉ざし、沈黙してしまった。

 ねぇ、シンイチ。待ち望んだ恋人は窓を開けてくれたかしら? そこから降りてきてこの愛を受け入れてくれたのかしら。
 アネット、僕にはわからない。でも、心は伝わったのだと思う。
 もしも受け入れてもらえなかったら、私たちの心は死んでしまうような気がするわ。
 そうだね。僕はずっとそんな闇の中にいた。ねぇ、アネット、もしも君が望む人が君を受け入れなくても、君の音楽を愛する人が沢山いるんだ。恋人も、もしかして窓を開けなくても、その部屋の中でそっと心を打たれて泣いているような気がする。だから泣かないで。

 畳み込んだ最後の音が、完全に静まり返ったホイリゲの闇の中に吸い込まれていった。
 慎一はその静寂に、今初めて気が付いた。何故ホイリゲが静まり返っているのか分からなかった。突然不安になり、周囲を見渡す。

 息をすることも忘れいてた人々は、その小さな楽聖の戸惑ったような表情に我に返り、はっと気が付いた主人の拍手を合図にして、突然皆が立ち上がり喝采の声を上げた。感激した老いた婦人が小さな舞台に歩み寄り、このあまりにも不安そうな若者の手を握り、早口で何か言いながらその手を何度も振った。
 貴方は間違っていないわ。
 婦人はそう言っていたようだった。

 慎一は隅のテーブルを見ようと思ったが、リクエストをくれた女性の姿はもうそこになかった。いや、人々の向こうで彼女は立ち上がり、そっとドアの方へ歩いて行く。目で追いかける慎一はかろうじて舞台を降りたが、握手や言葉を求める人々を遮ることができないままだった。

 その時。
 ドアの近くの席で誰かが立ち上がった。

 テオドール。
 突然、慎一の耳に静寂が蘇った。アネットに話しかけるテオドール。テオドールをまっすぐに見上げるアネット。二人は深刻な表情で短い言葉を交わしていたが、すぐに感情が二人を押し流し、明らかに言い争いに変わっていった。
 そして不器用な愛を持て余す若い恋人たちは、ホイリゲに慎一の不安を残し、そのままウィーンの街の闇の中へ出ていった。



追記で音楽をお楽しみください。


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Category: ♪死と乙女(連載中)

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