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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨89] 第18章 その道の先に(4) 

【海に落ちる雨】第18章(4)です。今回で第18章が終了です。
イタリア旅行、そして帰国後の真が囚われた闇……この答えはまだまだ先になりますが、光に満ちた古の都で、降り積もっていく真の不安を覗いてやってください。
光が強ければ、また闇も深いのです。その狭間で、人は生きているのかもしれません






 降り立った街から見たアドリア海の光、方向も分からない海上でぽつんと二人きりだという穏やかな気分、クルーザーが後ろへ引いていた波の軌跡。
 あれほど水が怖かったのに、揺られていることが心地よく、海の匂いに安堵さえした。
 小さなデッキに寝転んで、星を数えた。天の全ての星に名前があるわけではなかったが、その名前を呼んでいくと、自分が星々のすぐ傍にいるように思えた。竹流は真が数えている星の名前をずっと何も言わずに聞いていた。
 記号のような無機質なアルファベットと数字で構成されているものまでも含めて、何かの名前がひとつずつ愛おしいと思えることは、自分が今どれほどに満たされているかということと、まさに完全な比例関係にあると思えた。
 ふと、空から星が消えたと思ったとき、唇に暖かいものが触れ、身体ごと心ごと抱き締められていた。

 パレルモに着いて、イスラム教とキリスト教の溶け合った教会に入る。
 見上げると天井は青い宇宙のような色彩だった。祭壇の前に人々が集い、その宇宙の下で赤ん坊の洗礼式が行われている。小さな子どもはこの世に生まれ出て、今、神の祝福と両親を中心とした血縁の者たちの愛情を、一身に集めていた。
 微笑ましく、辛い光景だった。俯くと、不意に頭を抱き寄せられた。大きく暖かい両の手は真の頭を包み込み、神や両親の替わりに真の額に祝福をくれる。何の抵抗もなく、真は抱き締められるのに任せていた。誰の視線も気にならなかった。

 それから辿った街で、竹流はどれもこれも愛おしくてたまらないというように真に教会を、塔を、噴水を、広場を、そして絵や彫刻を、時には街角の小さな石を指し、物語を語った。
 時折、不安になった。自分たちだけと星だけなら何も遮るものはなかったのに、街の中にはその男と関わりのある数多のものがひしめき、その命と存在を支えていた。時折竹流の左の薬指の指輪が目に入ると、恐ろしい焦燥感と孤独感に襲い掛かられた。
 指輪はこの国の光を吸い込むと、その存在を誇らしげに主張しているように見えた。
 真が黙り込むと、竹流はふと真のほうを見つめ、優しく抱き寄せ暖めてくれる。真は孤独も焦燥も心の奥深くに畳み込んだ。

 サン・マルティーノ修道院から宝石箱のようなナポリの港を見下ろしたときには、周囲に夕焼けを楽しむ幾組かのカップルがいて、その大胆な愛情表現に真は思わず視線を逸らせた。
 竹流はいつものようにからかったりはせず、真の頭を抱き寄せると、イタリア語で愛しているというのはTi Amoというのだと言った。ずっと以前に言葉を教えてくれたときのように、竹流は繰り返すように言って、真がその言葉を繰り返すと、何か真には解らない言葉を耳元に囁いて、全く周囲を気にせずに真の頭を抱き寄せた。
 その帰り道、卵城近くの港を歩きながら、竹流は恋人に囁くようなカンツォーネを歌ってくれた。
 歌は港の堤防に打ちつける波音をベースにして、身体の内に沁みこんでくる。耳に残る声は体の芯に火をつけるようでもあり、穏やかに包み込むようでもあり、半分で真をたまらなく幸福にし、また半分でたまらなく不安に陥れた。

 ピサの塔が緑の芝の中に白く輝きを放つのを見たとき、真はぼんやりと目のうちが温かくなるのを感じた。
 竹流がこの国をどれほど愛し、この国を懐かしみ、そして離れがたいものから離れて生活しているのかということを、嫌というほどに感じたのだ。
 真が触れてきた北海道の大きな空気とは全く異質の、人間が積み上げてきた軌跡を、真はただ美しいと思った。朝日の中で輝く斜塔をホテルの窓から覗いたとき、通りの建物の間から斜塔のほうもこちらを覗くように優しく傾いていた。
 ごめんね、と言われているような気がした。

 竹流が最も愛している街のひとつがシエナだった。その茶色の町並みを抜けて路地に立つと、竹流は、世界中でもっとも美しい広場にようこそ、と真を誘った。
 広場に踏み込んで初めて、それが優雅に扇を広げたような形だとわかる。
 鐘楼から見たトスカーナの緑の田園ははるか地平線まで続き、翌日には土の緑と空の蒼の間の優雅なラインをバスで走っていた。織り重ねられたタペストリーのような地平線が視界いっぱいに広がり、道や畑の境界に木が立ち並び、光は低い山と田園を翠や藍、黄金に染め分けた。バスに乗っている人々はおしゃべりと手元の作業に忙しく、真と竹流もそこへ巻き込まれていく。差し出されたりんごは酸っぱくて、甘かった。

 何度もサン・ガルガーノという言葉が真の耳を刺激した。そして、ついに乗客たちは、窓の向こう、丘の上を指し、合唱のようにサン・ガルガーノと叫んだ。竹流は礼を言って、真を連れてバスを降りる。乗客たちは、まるで旅行者をこの尊い聖なる地へ運んだのが自分たちの手柄であるかのように誇り高い満足げな顔をして、真と竹流を見送った。

 教会には壁は残っているものの、屋根がすっかりなかった。天井は蒼天で、白い雲が浮かび、鳥が横切った。
 真が不思議な光景に圧倒されながら空を見つめていると、教会は金がなくて屋根を売っぱらったのだと竹流は言った。随分現実的な理由なのに、年月を経て残る屋根を失った教会はロマンチックだろう、と竹流も青い空となった天井を見上げる。
 教会の裏手の草地には風が吹きぬけ、持って来たワインを開け、パンとハムを切って、少し固い桃をむいて食事を済ますと、竹流は気持ち良さそうに草地に寝転んだ。猫が食べかすをねだってくるので、残ったハムをやると、猫も真のすぐ傍で丸くなった。
 竹流があまりにもあっさりと眠ってしまったのでつまらなくなって、悪戯をしたくなった。眠っている竹流の腹の上にその猫を置くと、猫は伸びをしてもう一度丸くなった。
 竹流は目を開けなかったが、真の頭を撫でた。

 恐ろしく幸せな時間は、花の都の美術館の、光溢れるテラスで終わった。

 それまで真の特殊能力が発揮されたのは、唯一モンレアレのカタコンベの中だけだった。
 それがローマに入ると、ひっきりなしに襲ってくるようになった。ただでさえ、古い時代の建造物の上に、次々と新しい時代の営みを積み上げてきた街だ。その上、その歴史は半端ではなく古く、しかも目を覆うような悲劇も多々繰り返された。
 そういう一切を飲み込んで、今ふと歩いている足元でさえ、数千年の昔の水や空気を吸い込んだまま、誰かの想いや記憶が層状に積み重なっている。
 石畳の上の一歩一歩が重くなった。

 今まで傍らにいて幸せな空気しか感じなかった男の、ただ二十七年ばかりの人生にも、その数千年と同じ複雑な層が重なっていた。
 ローマの屋敷で人々が彼を呼ぶ名前は、その日までは誰かが口にしても重みをもって迫ってくるものではなかった。
 しかし、その日から、その名前は深く飛び越えられない溝を、真の前に見せるようになった。

 竹流が、別の一面を真に見せたのは、ローマの屋敷の、穏やかな風が吹き抜ける光に溢れた部屋の中だった。
 解説も理解を求めるような気配もなく、繰り返される暴行。

 一体、彼の中の何が、そこまで彼を追い詰めているのか理解できないまま、真は考える頭まで奪われてしまった。殴られることには他人以上には慣れていたと思うが、殴る人間が彼であるという事実を、あの時真自身どうやって納得したのか、あるいは納得する余裕もなく晒されていたのか、今でもよく分らない。
 大和竹流、いや、ジョルジョ・ヴォルテラという人間の中に溜め込まれていた重い鉛のような塊、それがあの街のあの屋敷で、あるいは彼に本当の意味で影響を及ぼすことのできる唯一の人物の側で、行き場を失って真の方へぶつかってきたのだ。

 僅かな口答えでも殴られ、少しの説明を求めても打ち据えられ、他の男との情事を、その細部まで、そして自分がどんなふうに感じたのか、言葉にしろと強要された。今更思い出す気もなかったのに、あえて聞かれると辛くて悲しかった。
 泣きながら、滝沢は優しかったと言うと、狂ったように殴ってきた。幾夜も眠らせてもらえず、食事の合間も浴室でも、あるいは明らかに他人の気配がある時でも、逆らうことを許されなかった。
 しかも、真の身体が完全に破綻するような気配を見せると、彼は真を一人残して逃げ出してしまった。
 扁桃腺炎の高熱は例の如く三日続いた。

 意識が朦朧としていてよく分らなかったが、屋敷の住人は、料理人も世話係らしい女中も、出入りする医師も、あるいは屋敷の主人でさえ、真に対してはむしろ同情的で、追い込むような人間たちではなかった。それでも、執拗な暴力の後の放任に、真の方は、彼への信頼も生まれ始めた愛情のようなものも、完全に失ってしまってもよかったはずだった。

『あの坊主は、本当に都合が悪くなると逃げ出すからなぁ』
 頭を掻きながら、ヴォルテラのお抱え医師は呟いた。
『結局、偉そうにしてもお子ちゃんなんだな。あれは、ちっこい頃からどうにも愛くるしい子どもでなぁ、まぁ、実家の親からは見捨てられたようなものだから、余計にこっちの家の者は、親分以外はべたべたに可愛がったんだ。第一、親分のあのスパルタを見てると、可愛がってやりたくもなるわけだ。だから、あいつは、結局は自分の思い通りにならないことなんてないと思っとる。まぁ、そのための努力も人一倍、どころか十倍はする男だけどな』
 医師は自分の息子の事を話すように語り、本当は自慢の息子なのだ、と言いたげだった。  
『坊主、あいつは完璧な支配者になるように育てられた男だ。ストイックで努力家の面もあるが、同時に別の面も持っている。あんな暴力に耐えて優しくしていると、どこまでもつけあがるぞ』
 そう言って、医師は真の頭を撫でて、冷たい水で絞ったタオルを額にあててくれた。

 日本にいる間の竹流を見ている限り、卑怯な面など持たない男だと思えていた。だが、真は自分自身の身体の状態から、あの男のマイナスの側面を知っても、あまり狼狽えていないことを感じた。
 どれほどの暴行を受けていても、身体が痺れてくることも、目の前のものを見聞きするのが嫌で意識を失ってしまうこともなかったのだ。耳が聞こえなくなるようなヒステリー発作も起こらなかった。あの電車通学の人混みの中、試験会場の異様な空気に晒されたときのような吐き気も頭痛も、かけらも湧き上がってこなかった。
 熱に浮かされている間、真が唯一理解できたのは、今起こっている、傍から見れば明らかに理不尽な状況を、自分が完全に受け入れているということだけだった。

 真の熱が漸く三十八度台の前半に落ち始めた夜中、竹流は怖い顔をしたまま戻ってきて、真を連れてアッシジに逃げた。
 ここがどこで、彼がどんなふうでも、これまで彼が自分にしてくれた事をなかったことにできるほどの出来事があるはずもなかった。
 竹流が自身の二面性をそのまま抱え込んでいた内なる矛盾をさらけ出したあの国で、話してくれた街や国の歴史、ある意味では人間そのものの来し方、単に地名であっても言葉の持つ不思議なニュアンスや力。
 彼の言葉には、魂が篭っていた。小学生の頃には、特に東京に出てきてから、周りの同級生や教師の言葉が全く意味の成さない記号のようになり、理解できなくなっていた真に、その魂の篭る言葉は直接理解できる唯一の言語だった。
 だから、真は彼が語った言葉は、教会の名前でさえも、ひとつとして忘れなかったのだ。

 竹流にそのことが上手く伝わっていたとは思えないが、アッシジでの彼は、あるいはその後もう一度戻ったローマでさえも、異様なほど優しかった。
 医者に壊すなと言われたからな、しばらくは我慢することにした。
 そう言いながら、抱きしめてくれていた大きな手の感触。絵の下に眠っていたマリアを、敢えて掘り出すことはないと、真の言葉を受け取り、ただ丁寧に絵を洗浄していた手。ボケた振りをする老人から職人の手だと言われた、あの右の手。

 世間の常識も、倫理に対する後ろめたさも、全て捨てる準備はできていた。何となく気配を察知している祖母や葉子に対してはともかく、祖父にも、たとえ失望されようとも、必要があればきちんと話す気もあった。
 しかし、竹流は成田に向かう飛行機の中で、やはりあの手で真の頭を撫でるようにして言った。
「お前は研究者としていい素質を持っているから、大学に入ったら、とにかく一生懸命勉強しろ。俺も色々忙しいんであまり構ってやれないが、これからは一人でもやっていけるだろう。それから、彼女も長い間放っていたんじゃないか? 帰ったら直ぐに連絡して、デートのひとつもしないとな」

 突然に放り出されたような感覚は、暴行を受けていた時には全く感じなかった眩暈を引き起こし、意識に穴をあけたようだった。
 東京での生活の再開は、真が思い描いていたものとは全く異なっていた。時間は淡々と流れ、視力がどうかなったのではないかと思うくらい、景色は色を無くした。あの国で、何があっても失われることのなかった光の温度も、感じなくなっていた。
 真は、目と耳を塞ぎ、ただ静かに時をやり過ごさなければならなかった。

 大学に入って一月もしないうちに、真はある筋では有名な研究者である芦原教授の教室に出入りするようになった。せめて宇宙の事を考えている間は、光を感じるような気がした。
 灯妙寺にも淡々と通った。祖父は、顔にも態度にも出さなかったが、孫がいそいそと剣道や三味線の稽古に通ってくることを喜んでいたようで、土曜日の夕方になると自分で買いものに出掛けることもあったようだった。
 篁美沙子とは、週に一度は会うようにしていた。時には二週に一度のペースになることもあったが、これは義務だと思って習慣にしたほうが問題を起こさないことが分っていた。
 あまり会話をせず、ただ会ってホテルに行って抱き合うだけの日もあった。もともと無口で、自分の感情を説明しない真には、美沙子も慣れているはずだと思っていた。彼女との付き合いの中で、好きとか愛しているとかいう言葉を口にしたことは一度もなかった。どのように処理していいのか分からない感情は、他人に説明できるものでもなかったし、もしかして将来を共にするかもしれない女性に対して、敢えてくどくどと解説する気にはならなかった。
 彼女との行為に身体はちゃんと反応していた。けれども、狂うほどに相手を求めるような激情も、溶け出すほどに甘い気分も、自分の細胞の一つ一つがざわめくように興奮して太古の昔に戻るようなあの感覚も、一切戻ってくることはなかった。それでも、あの時はまだ、いつかは美沙子に結婚を求めるのだろうと、ぼんやりと思っていた。

 そんなある時、失踪した相川功の行方を確認するために、アメリカから私立探偵と思われる二人連れがやって来た。何も知らないと答えたが、気味が悪く、万が一葉子の身に何かあれば困ると思い、斎藤医師に相談した。
 斎藤は知り合いの弁護士のところに真を連れて行き、その弁護士が、海外にも伝が多いという唐沢を紹介してくれた。
 弁護士のほうは、有名企業の顧問弁護士をいくつか兼任しているし、最近は少年事件でも名を上げ始めたきちんとした男だったが、唐沢はどこからどう見ても、一歩間違えれば浮浪者かチンピラに近いムードの男だった。
 言葉も乱暴で、生活などいい加減の極みのようで、やることなすことちゃらんぽらん、常に酒臭く、博打好きで、女好きだった。呆れ果てたが、意外なことに、周囲で聞く噂では、この調査事務所の仕事は極めて優秀だった。

 初めて会った日、唐沢は真を上から下までじっくりと見て、身体を撫で回すように確認し、にたにた笑って言った。
「お前、うちでバイトしねぇか?」
 結局、アメリカからやって来た男たちは二度と現れなかった。もしかすると嵌められたのではないかと思うくらい、まんまと唐沢の術中に嵌って、真は研究室と灯妙寺以外の生活の場所を、唐沢調査事務所に置くことになった。
 唐沢は、真のこれまでの人生のどこにも存在しなかったタイプの人間だった。刑務所にいる現在でも、結局のところ悪い人間なのか良い人間なのか全く分らない。いや、多分良い人間ではないのだろう。ただ、悪い人間の範疇に入るということでもなさそうだった。

 唐沢は真を気に入ったのか、どこに行くにも連れて歩いた。サービスの程度は様々だがあらゆる種類の女の子のいる店、あるいはゲイバーなどの飲み屋だけでなく、驚くような有名企業にまで出入りし、一方ではどこから見てもヤクザだろうと思える事務所にも顔を出していた。真が感心したのは、そのどこに行っても唐沢の態度や言葉遣いは全く同じだということだった。
 時には、真に目が飛び出るほど高いスーツを買ってくれて、唐沢自身も上等のスーツを着込んで、明らかに秘密めいたにおいを持つ社交場へ真を誘った。参加しているのはほとんどが外国人で、会話は英語、時々スペイン語かポルトガル語のような言葉も混じっていた。そこで感じた、自分を値踏みするような視線。唐沢はまるで真を値段を吊り上げるための商品のように見せ歩いていた。

 それが何だったのか、今でも分らない。
 三上がそのことでひどく唐沢に絡んでいるのを聞いたこともある。
 後になって、唐沢が一度だけ、お前、男と寝るか、と聞いてきたことがあるので、もしかすると、そういう場所だったのかもしれないが、明らかに性的な交流を目的にした人間の集まりには思えない空気があった。
 そういう趣味はありません、と真が答えると、唐沢は意味深に笑って、まぁ、操を立てないといけない相手もいるわな、と言った。
 それ以上何かを強要されることはなかった。

 唐沢の博打の中には、幾分か詐欺や強請りの要素が入っていたのだろう。
 もしかすると、唐沢に紹介された田安隆三が彼に何か意見してくれたのかもしれない。田安に会ってからは、唐沢が真をあの怪しい社交場に連れて行くことはなくなった。
 そう考えると、自分に向けられた視線の意味も、自ずとわかる部分もある。
 唐沢は、相川真が朝倉武史の息子であることを知っていたのだろう。三上も、唐沢は大事な詐欺の材料を他人に委ねることはない、と言っていたので、せいぜい自分の手元で真の値段を吊り上げていた可能性はある。

 しかし、唐沢は結局、真を誰かに売り渡すことも、詐欺の片棒を担がせることもなかった。調査事務所でのあらゆる仕事のノウハウを教えてくれたのは唐沢だったし、美沙子と別れた後、女に不自由しているだろうと、さんざん女の子を紹介してくれたり、こき使う割には真の健康を時々心配してくれたりと、意外なことに感謝するべき材料のほうが多く見つかるくらいだった。
 何よりも、真に、問題のある少年少女や社会のアウトローの気持ちを引き寄せる何かがあるということを見抜き、失踪人調査の才能があると煽てて、名瀬弁護士に売り込んだのも唐沢だった。

 だが、いずれにしても、何に対してもある一定線以上の感情を引き出されることのなかったあの当時の真には、興味のないことだった。
 その頃、性を商売にする幾人もの男女と知り合った。仕事がらみだったが、同性愛者たちの集まる店にも足を運んだ。彼らは性の嗜好に対して開けっ広げな一面もあれば、ひどく臆病な気配を示すこともあった。その嗜好を店で満たしながら、普通に結婚生活を営んで、家族を愛していると当然のように言う男もいた。
 そういう連中から、真は本質的にホモセクシャルの嗜好があると断言されたこともある。一度ちゃんと体験してみれば自分で納得できることだと、誘われることも一度や二度ではなかったが、一度として自分のほうからそういった連中の誰かと寝たいと思ったことはなかった。

 一方で、唐沢の勧めるままに女たちとは随分関係を持った。唐沢が真を商売の道具にしていた気配は、なんとなくわかるようになっていた。彼が真に服を買ったり食事に連れ出すのは、その代金の一部なのだということがわかっても、不快だという気持ちにはならなかった。
 唐沢の紹介する女たちは、一癖も二癖もある女が多かったが、どの女も総じていい女だった。女たちと肌を合わせているとき、美沙子と寝ているときほどに夢中になることはなかったが、身体の芯のどこかで、自分は結婚したら平気で妻を裏切るかもしれないと考えていた。

 葉子は、最近お兄ちゃん、おっさんくさくなった、と不満そうに言った。煙草が増え、銘柄もきつくなり、どこからどこまでが一日か分からないような日々だった。
 そして、だんだんと自分自身が薄くなっていっているような気がした。
 生活がいっぱいいっぱいなので、睡眠時間を削らざるを得ないのだと思っていたが、時間があっても眠れなくなった。自分で自分の首を絞めるように、時間を埋め尽くした結果だった。

 もともと眠りの浅かった真は、その秋にはほとんど起きている時間と寝ている時間の区別がつかないほど、意識が曖昧になっていた。眠っていると、ほとんど現実と区別のつかない夢を見るようになった。そしてある時から、明らかに夢の中なのに温度を感じ、触覚も臭覚も働くようになっていた。二十四時間、交感神経が活動し、アドレナリンが出ている状態だったのだろう。逆に起きている時間、確かに現実の道を歩き、階段を登り、人とすれ違ったりぶつかったりしているのに、足に感覚はなく、ぶつかった人も自分に気が付いていないのではないかと思うようになった。
 周囲の人間がどれほど心配していたかは、その時の真には分からなかった。

 ある日、薄暗い研究棟の人気のない長い廊下で、真は遥かに続く真っ直ぐな線の向こうから、風が吹いてくるのを感じた。薄暗い廊下の彼方の光の中に、自分を見つめる暖かく哀しい目があった。
 微かな嘶きと体温、生命のにおい。
 そうか、自分は死ぬのだろう、とその時理解した。恐ろしいとは思わず、むしろ安堵したような記憶がある。もう、人混みにもややこしい人間たちの感情にも心を乱されることはない、何より自分の堪えられない心の重さとも無縁になれるということは、悪いことではないような気がした。

 だが、一度だけ、彼の声を聞きたいと思った。
 廊下のみすぼらしい台の上の赤い公衆電話の受話器を取り上げたとき、指は、もう忘れてしまっていると思った番号を、滑らかに回していた。指の向こうに電話器の文字が透けて見えるほど、自分が頼りなかった。
「どうしたんだ? 久しぶりだな。お前が電話してくるなんて、これまでにあったかな」
しかし、そんな真の気配など微塵も感じないように、竹流は明るい声で電話に出た。
 気が抜けるほどあっさりとしたやり取りだった。

 成田に降り立ったあの日から、一度も会わなかった。灯妙寺に戻った際に彼の車を見かけることはあったが、逃げるようにその場を離れていた。
「女は抜きにしておくから、マンションに寄れよ」
 何を察したのか、ただ気が向いただけなのか、竹流はそう言った。
 だが、実際に顔を合わせたときの竹流の表情は、それほど状況を理解していないというものではなかった。葉子か祖父母が何か言ったとしか思えないが、ただそれほどとは思っていなかった、という顔だった。
「ちょっと不眠症気味なんだ」
 本当は、何かを説明するつもりだった。だが、結局言葉を見つけられなかった。

 自分はもう半分、この世界から消えかかっている。それが、簡単に言ってしまえば、彼と自分の間にある距離の長さに因っているということを、当の本人には説明することができなかったからだった。
 しかし、マンションの扉を開けた瞬間から、竹流は事態をどう受け止めたのか、一気にその距離を飛び越えてきた。彼なりにその理由を北海道の牧場に見出し、アイヌの老人が真の守り神だと告げた野生馬の死と関わっていると思ったようで、真を引っ張って浦河に飛んだ。

 牧場の暗い闇の中、天空に遥かに広がる大宇宙の下で、竹流はもうそこにいないはずの野生馬に告げた。
「飛龍、そいつは俺にとって大切な人間だ。頼むから、連れて行かないでくれ」
 霊魂も幽霊も信じないといっていた男が、亡くなったはずの野生馬に放った心の底から搾り出すような言葉は、真を突然の現実に突き戻し、混乱させた。
 だが、その時にはもう歯車は回り始めていたのだろう。

 止められない運命に従い、真は崖から落ちて、恐らくあの日、一度は死んでしまったはずだった。





次回から第19章 同居人の足跡 です。
真の身に迫る危機、ついに竹流の痕跡が……しかし、そこには!
(なんちゃって)

読んで下さる方々に心から感謝申し上げます m(__)m
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Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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