【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(6)
年内に終わった!! 喜びもひとしおです。
クリスマスを過ぎているけれど、お付き合いくださってありがとうございます。
これが年内最後の記事になります。1月末にブログを始めたので、このブログの1周年はあともう少し先ですが、こんな辺境ブログに遊びに来てくださって、本当に感謝申し上げます。
さっき見たら、コメントは1776、拍手は1818……暖かいメッセージもいっぱい下さって、本当にありがとうございます。皆様のお言葉が、書いている原動力だと、改めて感謝しながら、とても嬉しくなりました。
それに、皆様のブログを巡らせていただいて、色々教えていただくことも多くて、世界がちょっと広がった気がしています。今年1年本当にありがとうございました m(__)m
ちなみに
1776年はアメリカ独立の年、平賀源内がエレキテル(発電機)を発明した年。
1818年はなんと、12月25日にオーストリアのオーベルンドルフの聖ニコラウス教会で『きよしこの夜』が初演された年だそうです。
なんという偶然。
さて、
お正月は、マコトが皆さんに新年のご挨拶をします!
ん? 何?
あのね、ぼくね、タケルと一緒に北海道にいるんだよ!
雪だるまになったり
おみかん、転がしたり
お餅のお化けと闘ったり、いっぱい忙しいの。
それでね、それでね、スケトウダラとか、鮭とか、ホタテとか、イクラとか………・



それでね、あのね、宇宙人がね……・
(ちょっと仔猫が1匹、初めて尽くしで興奮しすぎているようです。では、で~んとタイトルコール!)
【迷探偵マコトの事件簿】マコトの冬休みとX-file、お楽しみに!
あ、その前に、本当の最終回をどうぞ^^;
ちなみに今日は(5)(6)と続けてアップしています。(5)から読んで下さいね(*^_^*)



クリスマスイヴは忙しい一日になった。
もちろん、夜は『ヴィーナスの溜息』は例のごとく満員御礼、クリスマスイベントのショウも熱が入っている。
もっとも世間はただの平日の火曜日だ。にこをいつものように自転車の前に乗せて、堀川通りを南へ下る。
朝の空気が一段と冷たい。
結局、まだにこにクリスマスプレゼントを買っていない。ランドセルは正月に渡すことに決めた。クリスマスプレゼントは今日、笙子と一緒に母親が入院する病院に行く前に、付き合ってもらって買うことになっていた。
「よく考えたら、蓮さん、私から調査費を取ってませんよ」
とは言え、調査らしい調査は何もしていないし、こういう「話を聞いてあげる」「サンタクロース(結果的には白骨死体)を一緒に掘り起こす」「母親と話をするのに立会人になる」に幾ら貰えばいいのか分からない。それは魁の残した調査費用表にも載っていないのだ。
だから、その代りに、買い物に付き合ってもらうことにした。
昨日、同じ道を自転車で走りながら、サンタさんに何をお願いするんだとにこに聞いたら、「れんには言わない」と冷たく言われただけだった。こっそりとお寺の奥さんにも聞いてもらってみたが、やはり何も言わなかったらしい。
「やっぱり、教えてくれてもいいんじゃないかな」
蓮の前に座って、じっと堀川通りの車の流れを見つめたまま、にこはだんまりだ。
無駄だなと思った。にこを引き取ってから、一度も蓮はにこの笑う顔を見たことがないし、蓮が話しかけても、たまに二語文程度の簡単な答えは返ってくるが、にこから話しかけてきたことはない。
もしかしたら、いや、多分、俺はにこに嫌われているな、と思う。
保育所に送り届けて、自転車に跨ってから、去り際にふと振り返った。
その時、園庭の隅を保育士さんに手を引かれて向こうに歩きながら、にこもこちらを振り返っていた。蓮と目が合うと、びっくりしたような顔になって、すぐに、つん、と目を逸らしてしまった。
『奇跡屋』の扉を開けると、玉櫛婆さんがじろっと蓮を見た。
「お前、あの娘とできてんのかい」
笙子が朝から来て待っているという。待ち合わせは昼過ぎだったはずだ。何か予定が変わったのだろうか。
「まさか。仕事の依頼だ」
話を切り上げようとして、ふと婆さんを見る。
「ひとつ聞いてもいいか」
「ほお、お前が前置きなんかするとは、珍しいね」
「どうして親子石のひとつがこの店に残ってたんだ?」
「さあね。魁がいなくなってから覗きに行ったら、事務所の引き出しに残ってたのさ」
「勝手に事務所に入ったのか」
「私の店だよ。魁もお前もただの店子だ。偉そうに言うんじゃないね」
「魁おじさんが買ったものだろう。勝手に取り返して店に並べて置くなんて」
「馬鹿言っちゃいけないよ。引き出しの中に仕舞われたままじゃ、石は自分を持つべき相手と出会えないじゃないか」
蓮はしばらくじっと玉櫛婆さんを見ていた。持つべき相手と出会う?
魁は、誰かを待っていたのか。誰を?
事務所に上がると、笙子が接客用のソファに座って、一所懸命に何かをやっていた。
「はい、後は蓮さんがやってください」
それはラピスラズリの小さなルースだった。
ルース、すなわち裸石だ。ラピスラズリは、単一の鉱物ではなく、鉱物学的には主としてラズライト、アウィン、ソーダライト、ノーゼライトが集合したものだ。美しい群青色はウルトラマリンと言われ、様々な国で聖なる石と大事にされてきた。笙子の手にあるのは、小さいとはいえ、金色のバイライトが美しく浮かび上がった石だった。
「どうしてにこの誕生日を知ってるんだ?」
幸運の石とも言われるこの石は、九月の誕生石だった。
「お婆さんに聞きました」
「またバカ高い金額を請求されただろう」
「この間、石をもらったままになってから、こっちはタダみたいなもの?」
「天河石は君のものだ。石が決めた」
笙子は蓮の話など聞いていない。
「じゃあ、後は自分で磨いてくださいね。蓮さん、お裁縫できます?」
「裁縫?」
そんなことはしたことがない。
「ですよね」
笙子が小さなバックから取り出したのは、京友禅の着物の端切れだった。赤い生地に細かな菊の花模様が描かれている。用意のいいことに裁縫道具一式持って来てある。
「私の言う通りに縫ってください」
それから約一時間、蓮は小さなお守り袋を作るのに格闘した。もっとも、手先は比較的器用な方だと思うし、小児科医だったとはいえ、人間の皮膚や血管に糸針くらいはかけられるのだが、裁縫となると勝手が違っている。
「これ、母の古い着物の端切れなんです」
いい子だと思った。もちろん、あれこれと計算高かったり、一方では不思議な発言をしてみたり、ギャップ萌えで世間を賑わせたりしているかもしれないが、若いのだから、まとまりのない所があって当然だ。
舟の奴、今度会ったらきっちり話をしよう。ちゃんと好きな女ができたら、あいつもあんな喧嘩ばかりしているヒモ生活を辞めるかもしれない。……そう願いたい。
「何かを買ってただ渡すよりずっといいと思いませんか」
「どっちにしても、俺から何かを貰ってにこが喜ぶとは思えない」
「確かに、愛想の悪そうな子でしたね。でも、女の顔って、正直な気持ちが表れているとは限らないですよ。それに、蓮さんからじゃなくて、サンタクロースからの贈り物ですよね」
それは重々承知している。
それでも、何とか裏地もきちんとつけて、小さなお守り袋を縫い上げてみたら、もう昼前になっていた。笙子は細い革ひもを結わえて、小さなラピスラズリのビーズ玉で長さを調節できるようにしてくれた。
「これで首からかけておけるでしょ。後はしっかり石を磨いてあげてくださいね。心を籠めて、ですよ」
瑠璃の深い青。
ここに奇跡が宿るように。
実は今日、ヒューストンに向けて出発するという出雲右京と昼食を一緒にする約束をしていた。幸い、場所は蓮の事務所のすぐそばの天婦羅屋だったので、笙子も誘った。
笙子と出雲は初めまして、と挨拶を交わした。
店でも会ったことはなかったようだ。
「学会って、こんな年末にあるんですか?」
「いや、学会自体は一月なんですよ。クリスマス休暇は妻と一緒に過ごすことにしていましてね。実は今日まで授業だったのでクリスマスにはギリギリなのです。時差のお蔭で助かりますけれどね」
実は右京には事実婚となっているアメリカ人の奥さんがいる。仕事でNASAに行っていて知り合ったのだという。お互いの仕事のことを考えて、籍も入れず離れて住んでいる。それでよく続いているものだと思うが、右京にとっては丁度いい距離感らしい。定年したら、どこに住むか、二人で考えるのも楽しいようだ。目下の第一候補はマダガスカルらしい。
「さて、蓮くん、来年こそ一緒に行きましょう。ぜひともエイダに君を紹介したいんですよ」
いい人ですね、と笙子が言った。
蓮くんの恋人ですか、と右京が確認した。
笙子はいいえ、と気持ちいいほどの即答ですっぱり否定した。確かにそうなのだが、照れもなく慌てるでもなく、そんなに気持ちよく否定しなくても、と蓮は苦笑いした。
右京と別れてからはまず図書館に行き、古い新聞を確認した。
それから河原町通りを二人で自転車を押しながら歩いた。急いでいるわけでもなかったし、気持ちがまとまる時間が必要だと思った。
「舟のことが好きなのか」
今さらと思いながら聞いてみたが、笙子はしばらく前を見つめたままだった。
「蓮さんの方が優しいのにね」
「あいつが無茶苦茶なのは知っているだろう?」
「うん。でも、初めて会ったとき、危ない奴らに絡まれているところを助けてくれたの」
ありがちな出会いの話だ。
「あいつは喧嘩がしたいだけなんだ」
笙子はぼんやりとした声のまま、ちょっと蓮の弱点を突いた。
「蓮さんも、正直な気持ちを話せない人なんですね」
そう言って、笙子はしれっとした顔で、今朝のにこと同じように、通りを行く車を見つめている。
その後は蓮も黙っていた。
昼間だけは少しだけ陽が暖かい。それでも建物の陰に入ると芯から凍りつくような寒さが昇ってくる。ポケットの中に忍ばせたラピスラズリをこっそり擦ってみると、何だか少しだけ暖かいような気がした。
大学病院に入院している笙子の母親、安倍清埜、本名彩希子は、笙子によく似ていた。歳を取っても、病に伏していても、可愛らしい童女のような顔をしている。それでも、目を開けると厳しい表情を浮かべた。蓮を見たからなのかもしれない。一体、誰が娘と一緒にやって来たのかと思ったのだろう。
「見舞いになんか、いちいち来んでもええって言うたのに」
「うん。でも今日は大事な話があるん」
そう言って笙子は蓮を紹介した。
「この人は探偵さん。釈迦堂探偵事務所の釈迦堂蓮さん」
「探偵?」
彩希子は怪訝そうな顔をした。蓮もあれ、と思った。
十五年前のことを忘れてしまっているのかもしれないが、釈迦堂探偵事務所を自ら探し当ててきたのなら、この名前は記憶に引っかかってもいい、珍しい名前のはずだ。
「お父さんを見つけてくれたんよ」
彩希子はますます不可解という表情になった。それはそうだろう、彼女の夫は、自分たち親子を捨てて他の女のところに走ったことになっているのだから。
だがすぐ先に、彩希子の顔は不思議な表情になった。ほっとしたような、そんな印象だった。
「お父さん、どこにおったん?」
「神社の土の中」
はっとした顔になり、それからしばらく天井を見つめたまま、彼女は涙を流した。静かな深い涙だった。
「一緒にサンタクロースの衣装と、お酒の瓶が何本か埋まっていて、お父さんはその上にいたんや。私、お父さんがサンタクロースの衣装を埋めているところを見てしもうたんやね。小さかったし、サンタクロースの衣装のイメージだけが残ってて、だからお父さんがサンタクロースを殺しちゃったんだと思ったのかも。でもそれはもうひとつの怖い記憶を消すための混乱だったのかもしれへんと思う」
笙子の声は思ったよりもしっかりとしていた。
「警察の人がね、十五年前に幼い女の子が何人か続けて殺されるという事件があって、犯人が捕まらないままになっているんだって教えてくれた。さっき、蓮さんと一緒に図書館に行って調べてきた。お父さんはもうほとんど骨だけになってたから、死因までははっきりとは分からへんけど、肋骨に幾つか傷があって、刺されたんだろうって。お母さん、私、お父さんが『笙子、逃げろ』って言った声を覚えてる」
笙子の母親はほうと息をついた。
長い沈黙の後、ゆっくりと言葉を選ぶようにしながら話し始めた。
「お酒をやめて欲しいって、何回も言ったんよ。離婚の話も何回も出た。お父さんはその度に止めるって言ったけれど、その時だけやった。それでもいつもは優しい人だったんよ。きっと、私が演奏会や家の行事やらで家を空けているのが、お父さんには不満で、寂しかったんやって、今になったらそう思うけど、あの頃の私には分からへんかったんやね。お酒飲んでるお父さんとは喧嘩にしかならんくって。おじいちゃんはお父さんが浮気してるって何度も私に言ったけど、それだけは信じられへんかった。けど、あの年、十二月の始めにお父さんがお酒の席で仕事相手の人に怪我をさせてしまって、会社を辞めることになって、いつもより深刻な離婚話になって……」
蓮は笙子の様子を窺っていたが、笙子はピクリとも動かず、じっと話を聞いていた。そう決めていたのだろう。
「お父さん、本当にお酒を辞めるから、って、それからしばらく別々に暮らしてちゃんと仕事を見つけて、それから迎えに来るからって、そんな話になってたん」
だから笙子はあの頃、よく母親の実家の方にいることになっていたのだろう。笙子の記憶は所々笙子なりの解釈が混じっていたけれど、大筋としては合っていたようだ。
それから彩希子は少しだけ表情を和ませた。
「サンタクロースには因縁があってね。笙子が生まれた年に、クリスマスに重なってこっちの演奏会があって、お父さんはせっかくサンタクロースの衣装を借りてきたのに残念がってて。笙子はまだ赤ちゃんだったのにね。で、その衣装で私と笙子を安倍の家まで迎えに来たんよ。そうしたら、おじいちゃんが無茶苦茶に怒って。おじいちゃんは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって気持ちだったんでしょうね。うちは雅楽の伝承者の家系や、サンタクロースが何や、って。お父さんったら、意固地になって、毎年衣装を借りてきて、最後はついに買っちゃってた。笙子のためやって。本当に笙子のこと、大事やったんやって思う。いつも笙子を楽しませようと思ってたんよ。お酒には負けちゃったけど」
蓮は彩希子に、叔父の探偵事務所に依頼に来た理由を尋ねた。
「いいえ、私は行ってませんけど」
1999年12月18日、依頼者は安倍清埜。その依頼内容は書かれないまま、ノートの隅に石の絵が描いてあった。そして、その上から名前を消して、新しく安倍真伍の名前が書かれていたのだ。安倍真伍の依頼は、娘の夫の浮気を確認してほしいということだった。いや、正確には、そういう報告書を作ってくれということだった。
「そうですか、あれは父が……」
彩希子はしばらく口を閉ざした。
「夫が失踪した時、私はしばらく訳が分からなくて、鬱のような状態になっていました。失踪なのか、何か事故に巻き込まれたのか、何もわからなくて、警察にも何度も行きました。気持ちもそぞろで、ふわふわしていて、演奏中に倒れたりして、演奏活動も幾つもキャンセルして。その時に父から、夫が水商売の女性と浮気をしていて一緒に姿を消したという、その報告書を受け取りました。こういうことやから、もう忘れてしまいなさい、と言われました。笙子もいるんやから、しっかりせんと、と」
「あなたは信じたのですか?」
彩希子は少し微笑んだ。
「いいえ。信じてあげましたけれど。だって、夫にはそんな甲斐性はなかったと思います。ただ、父はそんな芝居を打つほどに、心配してくれていたんです。だから、信じたふりをしました。でも、私が信じなかった理由はそれだけではないのです」
彩希子は身体を起こそうとした。笙子が慌てて助けようとする。細くやつれた身体だが、まだ気持ちはしっかりとしているように見えた。
その引出しをあけて、と彩希子が言う。笙子は言われるままに床頭台の引き出しを開けた。
そして、中から何かを包んでいる桜色の袱紗を取り出した。
袱紗を開いて、蓮も笙子もあっと声を上げた。
三つ目の天河石だ。
「これは……」
「その年の衣替えの季節に、夫の服を仕舞ってあった箪笥から見つけました。手紙が付いていたんです。手紙というよりも、何かの下書きみたいな感じで、その石を包んだ紙に書いてあった。必ず迎えに来るから、これを持っていてほしい。そうしたら、笙子と一緒に三人で、笙子の石を迎えに行こうって。意味はよく分からなかったんですけれど、大事なものだ、これはきっとあの人の本当の気持ちだと信じたんです」
「では、最初に叔父の事務所にやって来た12月18日の安倍清埜さんは……」
「清埜はもともと夫のペンネームだったんです。それを私が貰いました」
「ペンネーム?」
「学生の頃、あの人、詩を書いていたんですよ。上手ではなかったと思いますけれど。私たちが付き合うきっかけになったのは、熱烈なラブレターでした。歌の詩みたいな」
蓮は笙子と顔を見合わせた。では、やって来たのは彩希子ではなく、笙子の父親、三澤正興のほうだったのだ。正興が三澤ではなく安倍と名乗った真意は分からない。ただ、自分と妻を結びつける名前を、魁に名乗ったのだろう。
笙子はポケットから自分の天河石を取り出した。
「それは……」
今度は彩希子が驚く番だった。
「蓮さんの事務所は、『奇跡屋』っていう石屋さんの二階にあるんよ。私、そこでこの石を貰ったん。これは私の石やって」
「三つ目の石は、お父さんが持っていました。持ったまま、土の中でじっと十五年間、眠っておられた。いや、土の中で、あなたたちに会いたいと闘っておられた。この石は親子石なんです。もとはひとつの石で、三つに割れた、もしくは割ったものだ。だから強い力で惹かれあうんです」
笙子の父親は、酒ともサンタクロースやらの世俗とも縁を切って、静かに考え、仕事も探して、もう一度家族三人でやり直したいと思っていたのだろう。
多分、その日、婆さんは何かの理由で魁に店番を頼んで留守をしていたのだ。年末で忙しい時期だ。十五年前と言えば、まだ婆さんは花街でも顔役だった。
魁は三澤正興から身の上話を聞いて、石を託したに違いない。
まず夫婦二人できちんとやり直しなさい。そして、三人で一緒にお嬢さんの石を迎えに来てください。それまで私がこのお嬢さんの石を預かりましょう。困ったらここに帰って来てもいいんですよ。私が、あるいはこの石があなたの支えになるから。
叔父が言いそうなことは想像できた。石を渡してしまって終わりにするのではなく、繋がりを感じていてもらいたかったのだ。家族だけではなく、ここにも心配している誰かがいることを伝えたかったのだろう。その印として、依頼者の名前と石の絵を調査記録に残していた。叔父にはそれだけで十分だったのだ。
だが、数か月後、笙子の祖父がやって来た。叔父は何か違和感を覚えたに違いない。だから、安倍清埜の依頼の上にわざわざ名前を書き替えた。
この男を探して欲しい、という依頼ではなかったのだ。叔父は、娘の哀しみに終止符を打ってやりたいという安倍真伍の気持ちは汲んでやりたいと思った。だが違和感は消えなかったのだろう。三澤正興が、あの石を受け取って間もなく女と逃げるなんて信じられないと。
依頼を受けたわけではないから行動を起こすことはできない。だから、その違和感を忘れないために、わざわざ消した跡を残したのだろう。
もしもあの男の行方を捜すとしたら、それは叔父のするべきことの範囲を越えている。小説によく出てくるお節介な探偵ならそうするかもしれないが、よく知りもしない家族の事情を掘り返すことにもなりかねない。叔父は、現役刑事であった頃に、真実を突き止めようと越権行為をして、何度も痛い目にあってきていたのだ。
だから、待っていたのだろう。いつか石が結び付けてくれる絆を。
「お母さん、私の知りたいことはひつとだけやねん」
笙子がぴしっとした声で言った。
「お父さんのこと、愛してたん?」
三澤彩希子はふと目を伏せた。
「嫌いやったら、とっくに別れてたよ。十五年も、三澤のままで待ってへんかった」
「そんなら、ええねん」
笙子は頷いた。それだけでええねん、ともう一度確かめるように呟いて、そしてあっさりと立ち上がる。
「ほんなら、お母さん、私もうリハーサルに行かんと」
「『華恋』のか」
「知ってたん?」
「知ってたよ。笙子のことは何でも知ってる。笙の演奏家になって伝統を守って欲しいって気持ちは今でも強いけど、だから笙子に嫌われてもと思って厳しく教えてきたけど、最後は、笙子が一所懸命になれるものを選んで欲しいって思ってる」
笙子は答えずにマフラーを巻いて、じゃあと言った。彩希子は頷いた。
蓮を促して出ていきかけてから、ふと足を止める。
「明日、警察にお父さんとお父さんの石を迎えに行ってくる。お母さん、どうする?」
「一緒に行こう。外出できるか、聞いてみるね」



「てことは、犯人はまだ捕まってへんて言うことやん」
クリスマスイブの朝の新聞には、神社の境内から掘り出された白骨化した遺体のことが載っていた。もちろん、『ヴィーナスの溜息』でもちょっとした話題になった。
笙子がわざわざライブの前に『ヴィーナスの溜息』に寄って、あの時はお騒がせしました、蓮さんのお蔭で事情が分かりました、と挨拶をして行ったのだ。
「そんで、これ、遺体の方が笙子ちゃんのお父ちゃんやったんでしょ? じゃあ、笙子ちゃんが見たサンタクロースは?」
「馬鹿ね、それは衣装だけだったのよ」
「じゃあ、笙子ちゃんのお父さん、何でサンタクロースの衣装を埋めてたわけ?」
「ただ酒を運ぶのに使ったんじゃないの。妻と子のためにもうお酒は絶つ、って決心したのよねぇ。愛よねぇ。私には絶対無理だけど」
「あんたの酒は陽気だからいいのよ。しかも、どんなに飲んでも、ざるみたいにこしてるだけじゃないのよ」
「でも、これは儀式なんじゃないの」
「儀式?」
「酒とか過去とか、あれこれ埋めて、自分を新しくする儀式よ。だから神社の境内で誓ったんだわ。なんか、分かるわぁ」
「笙子ちゃん、けなげやったわねぇ。今度うんとサービスしてあげよ」
「結局、それで犯人は? 笙子ちゃんのお父さんを殺して埋めた犯人。つまり、十五年前の幼女連続殺人事件の犯人? 笙子ちゃんのお父さんは笙子ちゃんを守ろうとして殺されちゃったんでしょ」
「こんなやつ、死刑よ、死刑。生きたまま埋めてやったらええわ」
「ちょっと、怖いこと言わんといて。クリスマスイブなんよ」
「十五年も経ってたら、もうお宮入り間違いないわよねぇ。時効がなくなったとはいえ……」
多分、父はあの日も酔ってたんですよね。だから私を逃がすのに精一杯で、自分はやられちゃって。結果的に自分の掘っていた穴に埋められて。
笙子は声の震えを押さえていたが、彼女の静かな怒りが蓮にも伝わって来た。
話題はそれ以上長くは続かなかった。看板の灯りをつけた途端から、怒涛のような忙しさになった。蓮も全く立ち止まる時間がないくらいに、カウンターとテーブルを往復した。この日ばかりは、たまに客との会話にも参加しなければならなかったし、一、二杯の酒の相手もしなければならなかった。
それでも、何となく、笙子のことは大丈夫だという気がした。彼女は結局打たれ強い、その力を秘めている気がする。
結局、空回りして前に進めないのは俺だけか。
事もあろうに、その日、舟がどうやらその手の相手の一人と『ヴィーナスの溜息』にやって来た。相手の男はきちんと上等のスーツを着ているが、目つきからは只者ではない。ヤクザの幹部といった風情だった。
蓮は丁度カウンターに入っていた。
わざとらしく身体を引っ付ける二人に、蓮は思わず水をぶっかけてやろうかと思った。それでも、海との会話のことは聞けそうになかった。
「これ、俺の兄ちゃんなんや」
へぇ、と相手の男は低い声で相槌を打っただけだった。
「そういや、笙ちゃんからの依頼、無事に完了したみたいやん。どうせ蓮、ただ働きやったんやろ」
舟はもうほとんど自力で座っているようには見えない。
「お前、ええ加減にせぇよ。どんだけ飲んでるんや」
「あら、珍しい、蓮の関西弁」
ママが煙草を燻らせながら言う。
「うんにゃ。蓮はいつも関西弁やで」
「店では標準語しか聞いたことないわねぇ。それだけ、舟には心を許してる、ってことなんね」
「俺も、蓮には心を許してるんやぁ」
ふにゃふにゃで舟が言う。いらっとして蓮は低い声で答えた。
「関係ない。従兄弟だからだ」
海には言えても、俺には言えないことがあるくせに。
あの日の朝、蓮は舟に叔父の描いた石のような三つの印を見せた。舟は直ぐにそれは天河石の親子石だと言った。
これ、魁の石や。大きいのが魁、中くらいのが蓮兄ちゃん、で、少し小さいのが俺。でも、蓮兄ちゃん、あの頃、グレてたやん。一緒に住もうって魁が言ったのに、いややって断ったんやろ。ほんであの暴力和尚のいる寺に行っちゃって。せっかく魁が石を三人のためにって、置いてたのに。
舟は父親のことを親父とかパパとか呼ばずに、魁とファーストネームで呼んでいる。魁がそう仕向けたようだ。
グレてたって、小学生の時のことだ。自分にだけ親がいないのが気に入らなかった。それならいっそ、まるで関係のない場所に住みたいと思った。……ような記憶がある。もっとも、小学校三年生の自分が、そんなに大きなことを考えていたわけはなく、恐らくただその瞬間に何かが気に入らなくて、魁にあたっただけなのだ。
しかも、その時、舟は三歳だ。何も覚えているわけがないくせに、まるで自分がその現場に言わせたように話すのが、ちょっとだけ蓮の気に障った。
「でも、石と俺のお蔭で一件落着。あとは、幼女連続殺人犯を捕まえなくちゃね~」
「石がどうした?」
渋い声のヤクザだ。こんな騒音の中でも下から響いてくる。
「俺の親父ね、石屋の二階で探偵事務所してたわけ」
あ、今はこの人が留守番探偵ね、と蓮を指す。
「探偵事務所に相談に来るやつって、ちょっとこことここがやられてるやん」
舟は胸と頭を指した。
「で、たまに切羽詰った顔してる依頼者には、石をお守りや言うて渡しとったみたい。その石がねぇ、石屋の婆さんの念力ですごいパワーを発揮するんやなぁ。ドラゴンボールみたいやろ~」
魁が本当に石の力を信じていたのかどうかは知らないが、少なくとも石の力を信じることで、人が前に向かって歩けるならば、それでいいと思っていたのだろう。
舟はヤクザの腕に絡み付きながらしゃべっている。ヤクザはしょうがない奴だと言わんばかりに舟の身体を抱き止めている。
どっちでもいいが、殴ってやりたいと蓮は思って、カウンターの内側で拳を握りしめていた。わざわざここに来て絡むな、と言いたい。
その時、ポケットで携帯が震えた。
少し時間が開いた時に裏で確認すると、海からだった。
< 昨日はごめんね。ちょっといらっとしてて。今日は急患で、朝までかかりそう。明日、会える? 和子ちゃんのことも相談しないとあかんし。
舟のことを相談してくれと思ったが、蓮はいつものように短い返信を送った。
< 了解。じゃあ、明日、うんぷで。
うんぷは、病院の近くにあって、いつも蓮と海が夕食兼飲みに行っていた店だ。運否天賦から取った店名らしい。同世代の若者がやっている。
クリスマスイブはショウが終わる十一時で開放してもらうことになっていたが、予定が変わったから最後までいると言うと、ママは抱きつかんばかりにして「助かるわ~」と言った。その代り、明日は早めに切り上げててもいいですか、と断っておく。
店内に戻ったら、舟はいなかった。あのヤクザとクリスマスイブをいちゃついて過ごしてやがるのか、と思ったら腹が立ってきた。全く、女でも男でもお構いなしだ。
だが何より、舟の言うこともやることも、ちゃんと理解できていない自分に最も苛ついていた。
いや、何となく、分かっているのだ。それを舟が自分に言ってくれないことに苛ついていた。
舟は、魁の行方を捜している。だから、危ない奴らに絡んでいっている。
舟が蓮に何も言わないのは、蓮には和子がいるからだ。和子にもしも危険が及ぶとしたら、たまらないと思っているのだろう。
店が終わって、例のごとく飲みに行く話になった。
イベントの日に店がはけた後、この店の打ち上げの場所は決まっている。人の家のような店で、実際にママの兄弟分、いや姉妹分にあたる人の家兼店だった。人の家に上がり込むような感じで、昼まで飲むのも食べるのも、踊るのも歌うのも、寝るのも自由というところだ。
誘われて、少しだけ顔を出そうと思ったが、和子に渡すラピスラズリがポケットの中に突っ込んだ手に触れた。
「済みません、今日は帰ります」
「あらぁ、誰かいい人と待ち合わせ?」
「ええ、サンタクロースの仕事があって」
本当に和子が欲しいのは、誰か、自分を一番に考えてくれる誰かが傍にいることだということくらい、蓮にも分かっている。
親に捨てられたのは、蓮も、和子も同じだった。
だから、蓮は和子と一緒にいる。
自転車を押しながら鴨川を渡ると、雪がちらついてきた。
今年も暮れていく。新しい年が来たら、和子と一緒に初詣に行こう。
どうせ和子は楽しいとか嬉しいとか言わないけれど。
携帯が震える。
コンクリートの橋の欄干に自転車を凭れかけさせて、冷たい指で確認する。
< 星が綺麗だな。
蓮は空を見上げた。雲が少しかかっているが、切れ間に星があるのだろう。街は明るくて、多くの星は見えない。もしもどんなに遠くも小さなものも見えたら、この空は暗い所がないくらい星が瞬いているのだ。
それでも、街の灯りにもかき消されずに瞬く数少ない星が、愛おしく思える。
あの男が住んでいる大原の村では、多分もっと多くの星が見えるだろう。
< 見てるよ。
< 何してる?
電話をかけようかと思った。だが、声を聞けば心配になる。顔も見たくなる。
俺は、やっぱりどこか変だな。色々なものに捕らわれている。
< 橋を渡ってる。
< 早く帰れ。風邪ひくぞ。
人はみんな不器用だ。上手く伝えられない心を持て余す。恋人でも、家族でも。
すぐにもう一度、メールが来た。
< おやすみ。
しばらくじっと白い画面に浮かぶ文字を見つめていた。何かもっと気の利いた言葉を言いたかったのに、何も出てこなかった。
< おやすみ。
蓮はしばらく橋の欄干に冷たい身体を預け、鴨川の流れを見つめていた。
粉雪がちらちらと川面へ落ちていく。
笙子の歌声がまだ心に残っていた。
あたしには分からない言葉がある
愛とか恋とか、まるで異国の言葉のよう
ただあなたを想うと
この胸は苦しくて切なくて
どうしようもないのに
心の中には真っ白な別の世界があるように
充たされている



朝起きたら、粗い木彫りの小さな仏が寺に届いていた。
円空仏のように勢いのあるノミの跡だが、どこかに優しさが沁み込んでいた。
そのノミの跡を指で触れるだけで心が落ち着いた。
お前が必要だろうって、早朝に大原から届けに来たぞ。
何が伝わるのだろうと蓮は思う。聖夜には魔法がかかっている。
蓮はそれを笙子と彩希子に届けて、十五年も土の中で石を握りしめて、家族を待っていた三澤正興へのせめてもの供養にしてもらおうと思った。
和子はいつものようにむすっとした顔のまま、首にラピスラズリの入ったお守り袋を下げて、自転車の前でヘルメットを持って蓮を待っている。
蓮は今日も和子を自転車の前に乗せて、堀川通りを下る。
年が明けて間もなく、『華恋』のメジャーデビューが報じられた。
デビュー曲は『道』、そしてそのカップリングになっている新曲に、蓮は度肝を抜かれた。
『あたしは知っている』
この曲には笙子の過去と共に、逃げ得は許さない、時効廃絶に伴い更なる捜査協力を求めるという警察からのメッセージがつけられて、話題を呼んだ。
「いやぁ、あの子、やっぱりぶっ飛んでるわねぇ」
「どこか不思議ちゃんだものねぇ」
「でも俄然、応援しちゃうわぁ」
『ヴィーナスの溜息』はまたもやその話題でもちきりだった。
蓮はどいつもこいつも、と思わず悪態をつきながらも、笙子の決意は怖いくらい清々しいと思った。舟とあの子はどこか似ているのかもしれない。
犯人が出てくるかどうか、笙子は囮になるつもりなのだ。もしかすると、その男は玉櫛婆さんのかけた石の呪いで、どこかでのたれ死んでいるかもしれないけれど。
何もかもこれからだ。あの三つ揃った親子石の力が過去を打ち砕いて行くだろう。
天河石、アマゾナイトの力、それは過去のトラウマを打ち砕き、前に進む道を示すこと。未来の希望を見せるホープストーンなのだから。
あたしは知っている
パパを殺したその男の顔を
あたしは知っている
パパがどれくらい
あたしを愛していてくれていたかを
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件・了……または、続く
もう1話、エピローグに「真実」があるかもしれません。続きは『サンタクロースの棺』で。
さて、この物語、全く新しい登場人物たちでお送りいたしました。
クリスマス企画として、もっと短いお話(前後編)でお送りする予定が、あまりにもキャラたちが濃くて、長くなってしまいましたが、お楽しみ戴けましたでしょうか。
私の中では、真を幸せにする企画ではありますが、実際は真シリーズとは独立しております。
設定の一部(寺に住んでいるとか、両親がいないとか、叔父(真シリーズでは伯父)が失踪しているとか)は被っていますが、あまり関係ないとも言えます。蓮と舟は、足して2で割ったら真に近いけれど。
書きたい石はいっぱいありますが、またいずれ、ゆっくり石を語りましょう。
巨石ではなく、こちらは小さなパワーストーン。
でも、石の力を引き出すのは、自分自身なのですね。
この設定のプロローグとして書いたものですが、本編を書く予定は今のところありません。
でも、単発で登場するかもしれません。真シリーズがだんだん苦しいお話になっていくので。
ちなみにもともと考えていたお話は、にこと蓮の話。だから次の主人公はにこ、かも。
笙子と舟も、実はいいカップルなんじゃないかと思ったりしています。
あ、笙子は、きっと笙もやると思いますよ。
ロックと雅楽、それもまたいいじゃないか、と。
さて、笙子の名前と設定は、大昔のドラマ『不良少女と呼ばれて』から取りました。
リアルタイムでは見ていなかったのですが、大筋は知っていたので、ちょっと頭に残っていて。
笙子の書いたぶっ飛びの新曲
「誰よりもあなたが知っているはず
自分がしたことを」
何て感じの歌詞をくっつけようと思ったけれど、語呂が悪いし、パパへの愛で終わりたかったので端折りました。
でも、歌のBサビくらいにはこの言葉がついているんじゃないかな。
最後に登場した、名前も出てこない、大原に住む仏師こそ、竹流が原型になっている人物なのですが、今回はチラ見だけでした。多分、設定はこの人が一番、当の竹流に近い。ヴォルテラの御曹司の予定なので。
でも、結論が違う。
蓮とどんな関係って?
えーっと

隠すほどでもないので白状。
蓮は、自分がある女性と間違いを犯したので、海と自分は婚約を破棄したと思っている。
海は、蓮には好きな男がいるので、蓮と自分は婚約を破棄したと思っている。
(それに実は、海は結婚によって仕事をセーブしたくなかったんですね。今の距離が心地いいと思っています。)
で、その真実は……気持ちはものすごくあるけれど、エッチな関係ではないのです。
でも、蓮はあれこれ心配ごとが多すぎて(舟も和子もいるし、魁も探したい気持ちもある)……
天麩羅屋も実際にあります。あの頃は、ランチは500円だった……
ボリュームもあったけれど。
味噌汁が美味しかったなぁ。
では皆様、よいお年を!!
お読みくださいまして、本当にありがとうございます(*^_^*)
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(5)
わはは~

クリスマスの話を来年に持ち越したくないので、今日中に2話分ともアップしますが、ゆっくり冬休みにでもお楽しみくださいませ……^^;^^;
実は、下書き(というのか推敲前本体)を書き起こした後で、ワンシーン加えちゃったのです。
それは笙子たち『華蓮』のライブシーン。しかも、ちょっと歌詞を書いてみました。
詩は学校の授業以来書いたことがないので、ダメダメですが、笑って読んでくださいませ。
あんまりロックな曲じゃないのですけれど。まるで演歌??
こんなことをしているから、長くなってしまっているのですね。
お正月には【迷探偵マコトの事件簿】マコトの冬休み:マコト、初めての北海道~X-fileをお送りします(*^_^*)
タケルと一緒にスキーだよ\(^o^)/
こちらもお楽しみに。



どうしても決められない時
あたしはあたしの中にいる
本当のあたしに聞いてみるんだ
あたしはどうしたいの
でもあたしは答えない
答えを知らないんだ
誰も教えてはくれなかったから
それなら
あたしは答えを探しに行こう
だからあたしは
あたしだけが知っている道を行く
きぃーんと腹に食いついてくるサウンドだ。
ボーイッシュに髪を刈り上げたギタリストの絃は暴れるヴォーカルに見事に絡みつく。そのもがく様なヴォーカルとギターの闘いを支えているベースの音は、海鳴りのようにも聞こえる。ステージまで距離があるにもかかわらず、正統派美人ベーシストのくっきりとした顔立ちは人目を惹く。
そしてドラムを叩いているのが、セクシーダイナマイト系のリーダーだった。確実なリズムだが、ヴォーカルの癖を読んで揺らぐときには心地よく揺らぐ。このグループの曲を全てアレンジしているのはキーボードの優等生風美女だった。蓮も最近知ったのだが、音大のピアノ科の学生で、国内のコンクールで入賞したこともあるのだという。
そして、彼らをバックにして、まるで高校生のような幼い顔をした笙子が立っている。登場した時も、熱狂する聴衆に目を合わせまいとするかのように、視線をちょっと下に向けていた。それなのに、ドラムのスティックが鳴った瞬間、きっと目を上げた笙子に蓮はびくっとした。
彼女の咽喉から迸る声は、胸のど真ん中に飛び込んできた。音がはっきりと聞こえる。リズムやメロディーもいいが、この自己主張が強そうなサウンドの波の中で、笙子の声は明瞭に聞き取れた。
高音が確かな高さに一気に駆け上がる。その音を聴きたいと願うところに、一瞬で連れて行かれる感じだ。そして、その高みで、彼女と同じ景色を見る。
技術と言うよりも、これは天性のものだと思った。もちろん、何らかのトレーニングはしているのだろうが、人を惹きつける力は、やはり特定の誰かに与えられた天賦のものだという気がする。
それにしても、西田幾多郎か坂本龍馬みたいな歌だ。『道』というタイトルだと紹介されていた。
歌詞はすべて笙子が書いているのだと聞いた。曲はそれぞれが持ち寄るらしい。
蓮はふと、スタンディングで身体を揺らしながら熱狂する聴衆を見回した。若い男女ばかりだが、中に明らかに異質な連中が混じっている。
いかにも業界人らしい連中だ。『華恋』を吟味している。いや、あるいは既に争奪戦なのかもしれない。
オールスタンディングのライブハウスは満員だった。外の寒さなど全く入り込むすきまがないくらい、ここには熱がこもっている。
「あたしこの歌好き!」
誰かが近くで叫んだ声が聞こえた。叫ばないと聞こえない。いや、叫んでも聞こえない。
その時、一瞬、サビに移る前に、笙子が歌を止めた。
歌詞を忘れたのかと思った。
聴衆はあれ、という気配を見せた。
だが、メンバーはそのまま、まるで促すように演奏を続けている。あるいはそういうアレンジだったのかと思った途端、笙子の声がいきなり高い所から振り下ろされるように胸に飛び込んできた。
あたしだけが知っている道を行く
後で、笙子に坂本龍馬のファンかどうか、聞いてみようと思った。
それにしてもおかしなことになっている。
蓮は隣に立っている海を見る。
海の外観には特別目立つところはない。化粧気もないし、特別優れたところなどない。忙しくなってくると、私って不細工になってるよね、とよく彼女は言っているが、確かにいささか険しい顔をしていることがある。ただ、笑うと可愛らしい。
海の目は笙子に釘づけだった。この店に入った時は、周囲を見回して、自分の服が地味だ、絶対浮いてるよねと心配していた海も、今ではもう何も気にならなくなっているようだ。
海の向こうに舟が立っている。曲の合間に舟が海に何か囁いている。
周囲のざわめきで蓮には聞こえない。この二人、こんなに仲が良かったか。
確かに、蓮と海が付き合ってた頃、舟には紹介してあった。
初めて会ったとき、可愛い子だね、と海は言った。可愛いなんてとんでもない。中学生の時には既に女を経験していた。男の方はいつが初めてだったのか知らない。
笙子に連絡をして会って話したいことがあると言ったら、ライブに来て欲しいと言われた。しかも、舟を連れて来てほしいと言う。
無理な注文だと思いながらも、朝、事務所で別れた舟に連絡をしたら、普段は滅多に電話に出ないやつなのに、珍しく出た。海ちゃんと一緒ならいいよ、と妙な提案をされた。
海は忙しいから無理だろうと言ったが、一応連絡してみたら、海も珍しく二つ返事だった。
問題なのはむしろ蓮のほうだった。この年末の忙しい時期、急に休みをくれと言って休めるだろうか。と思ったら、ママはあっさりOKしてくれた。
蓮、あんたは働き過ぎよ。
確かに、普段のシフトでは蓮の休みは日曜日だ。にこと一緒にいる時間を作ってやろうと思ったのと、寺は日曜日が何かと忙しいので、手伝うためだった。日曜日は観光客は多いが、探偵事務所の依頼者は少ないし、丁度良かった。いや、にこは休みだと言っても、蓮を無視して一人遊びしているし、依頼者は日曜日でなくても少ないのが実情なのだが。
この十二月、蓮は自ら休みを返上して働いていた。
時々、うねる様な音の波の中で、海の身体が蓮に触れる。だが、こうしてすぐ側で身体が触れても、蓮はもう何とも思わなくなっている自分を感じる。学生時代はちょっと手や腕が触れるだけでドキドキしていた。海も同じなのか、婚約を解消してからの方が、現実の身体の距離はずっと近い。二人がよく通っている行きつけの飲み屋でも、皆が不思議がる。逆にベッドを共にすることがなくなってからのほうが、居心地は悪くないのだ。
三人はステージから離れた扉の近くに立っていた。客席側は暗いので、笙子が自分たちに気が付いているかどうかは分からなかった。
「みんな、調子はどうだい?」
「絶好調!」
「まだまだ行けるかい?」
「どこまでも!」
聴衆は声を揃えている。この掛け合いはお決まりらしい。
『華恋』のMCは笙子ではなく、正統派美人、ギタリストの夏菜が務めている。笙子は、歌うのはともかく、こんなところで器用に話すのは無理だということらしい。
「じゃあ次は、クリスマスにちなんで、恋の歌をお贈りするよ。と言っても、ちょっと切ない歌なんだ。だからクリスマスイヴには歌わないから、今日が今年の聞き納め。みんな、ラッキーだったね」
皆が笑っている。だが、ギター一本のイントロが始まった瞬間、聴衆は静まり返る。俯いていた笙子が顔を上げた。
その時、笙子の目は真っ直ぐに蓮たちのいる方向を見ていた気がする。
見ていたのがそこではなくても、何かがすとん、と笙子の中で腑に落ちたというのか、変わったような気配があった。笙子は、始めてステージの前方へ歩いてきた。歩いてきて、まるで目の前の誰かに語りかけるように歌い始めた。
華やかに街の灯りが揺れる夜
誰かに呼び止められた気がして
ふと足を止める
振り返っても誰もいないことは
知っているのに
氷の上に落ちる雪は
そのまま氷になる
あなたに届かないこの心と同じ
あたしには分からない言葉がある
愛とか恋とか、まるで異国の言葉のよう
ただあなたを想うと
この胸は苦しくて切なくて
どうしようもないのに
心の中には真っ白な別の世界があるように
充たされている
曲がサビに入る前に、ふいと舟が出ていった。海が気が付いて、一瞬ステージと蓮を見てから追いかけていく。
蓮は歌詞に後ろ髪を引かれるような思いで、少し遅れてから二人の後を追った。
ライブハウスのざわめきは扉一枚で非現実となる。狭くて暗い廊下には誰の影もないが、階段を上った先から街の灯りと賑わいが降ってくる。階段に二人の脚が、まるで寄り添うように見えいていた。
「後、頼むね、海ちゃん。やっぱり、あぁいうの、苦手なんや」
蓮は階段の方へ歩きかけて足を止めた。
「舟くん、私、舟くんが来るって言うから、来たんよ」
「分かってる。ねぇ、海ちゃん。俺、今誰よりも信頼してるの、海ちゃんなんや。だから、蓮にも何も言わんといて。またいつか、自分から話すから」
じゃあ、という舟の声と階段を上っていく足音が聞こえた。
思わず、蓮は冷たい壁に背中を引っ付けていた。
しばらく止まったままだった海の脚が階段を引き返してくる。
海は蓮に気が付いてぴたりと足を止めた。
「何の話や」
「知らん」
「海」
珍しく海は怒ったような顔をした。蓮もはっと言葉を呑み込んだ。
婚約を解消してからはずっと、釈迦堂君、如月さんと苗字で呼び合っていた。始めは意識していたが、今では少し慣れてきたところだった。もっとも滅多に名前で呼びかけることはないから、蓮の心の中では、まだ海は海だった。
恋人同士だった昔には戻らないよ、とでも言うように、海がはっきりと蓮に呼びかける。
「釈迦堂君はいつも、自分でいっぱいいっぱいやもんね。私も帰る」
いつの間に、海と舟が個人的に会話を交わすようになっていたのだろう。しかも、蓮にも話せないような大事なことを分かち合う間柄だということなのか。
蓮はライブハウスの中に戻る気がしなくて、そのまま冷たい廊下で立ちすくんでいた。ライブハウスの熱を持ち出していたから、身体はまだ火照っていた。それでも十二月の暮れの空気は残酷なまでに冷たい。
このまま凍りつくかと思った頃に、熱狂していた聴衆が何人か出てきた。
「今日のショウコ、いつもに増してキンキンやったね」
「スカウトがいっぱい来とったからとちゃうん?」
「ショウコ、吹っ切れたみたいやな」
「そうそう、あの子、歌はすごいけど、あんまりステージの前の方に出てこんかったのに、ラストなんて、自分でカウント取っとったやん」
「やっぱり、メジャーになること、意識したんとちゃうん?」
「メジャーになるんかなぁ」
「なるんやろねぇ」
「なんか、京都以外の人間に知られんの、悔しいわ」
「何や、それ」
「誰にも知られたくない隠れ家的ランチのお店、みたいなもん?」
いくつかの声が重なり合いながら、蓮の前を通り過ぎていった。
キンキンの意味は不明だが、その理由は分かる。彼女はスカウトではなく、舟を意識していたのだ。そして、ファンらしい彼らの耳は、ちゃんと何かを聞き分けていたのだ。彼らの言葉は結構的を射ているのかもしれない。
苦しくて切なくてどうしようもないのに、まっ白な別の世界があるように、充たされている
笙子の歌詞の言葉に、蓮はどこか心の奥が震えるのを感じていた。
「舟、やっぱり帰っちゃったんですね」
「ごめん。約束通りじゃなくて」
笙子はそんなことは分かっていたから、と言う顔をして、ポケットからあの天河石を出してきた。
笙子の掌の上で、天河石は今はもう沈黙している。
「この石をポケットに入れてたら、気持ちが少し変わった感じがしました。昨日までは何だかこの石が怖くて、持っていられなかったんですけど」
二人はライブが跳ねた後、寺町通りを四条までゆっくりと歩いていた。
明日はもうクリスマスイヴだ。街は何かの予感と期待に震えながら、この寒さの中で色とりどりの光を灯している。通り過ぎていく人々に、それぞれたくさんの想いが詰め込まれているのだと思うと、その想いが明日、すべて満たされてあの空に昇って行けばいい、とふと願う。
「……追いかけられているような気がするって……」
「え?」
「私、何かに追いかけられているような気がするって言ってたでしょ」
「そうだったね」
「あれ、比喩じゃなかったんです」
笙子は歩を緩めた蓮には気が付かずに歩いている。蓮は半歩だけ遅れながらついて行く。
「何だか思い出せそうで、思い出せなかったんです。私あの日、サンタクロースが埋められているのを見た日、何かに追いかけられているような気がしながら、早く家に着きたくて、近道しようと神社の境内を通ったんです。でも、誰かに確かに追いかけられていたと思う。今日、『道』を歌っている途中で、急に思い出したんです」
あの、歌の途中で、急に止めた時か。
笙子は立ち止まり、蓮を振り返った。
「逃げろ、笙子、って、お父さんが」
蓮はしばらく笙子の顔を見つめていた。
天河石は、一体何を笙子に見せたのだろう。
いや、ただ笙子が、ここから抜け出すことを願ったのかもしれない。
それからは無言で四条通を歩いた。風が四条河原町の角で舞っている。信号待ちの人たちも、皆が身体をゆするようにして寒さから逃れようとしている。
「警察から連絡がありました。あの遺体、父だったって」
やがて青信号に、勢いよく人が流れ出す。蓮はポケットに手を突っ込んだ。手袋を持ってこなかったので、指の先まで凍るようだった。笙子はマフラーを押さえた。
『奇跡屋』の重い木の扉を開ける。玉櫛婆さんはもう店を閉めていていなかった。蓮は笙子を促して、二階の事務所に上がった。
「寒くてごめん」
「大丈夫。慣れてるから。うちも古い家だから、隙間風がすごくて」
申し訳程度の電気ストーブをつけて、笙子を接客用のソファに座らせる。何となく気が引けたが、昨日自分と舟が寝ていたベッドから毛布を取ってきて膝掛けにしてもらった。
「歯型で分かったって。奇跡的に、お父さんがかかってた歯医者さん、もうおじいちゃん先生で、五年前に閉めた医院がカルテや写真ごとそのままだったそうです。蓮さんは、あれが父だと思っていた?」
「多分そうじゃないかと思っていた。ただ、お父さんは確かに穴を掘っていたんだよね」
「穴の中から、サンタクロースの衣装に包まれるようにしてお酒の瓶が何本か見つかったみたいです」
「お父さんはよくお酒を飲んだの?」
笙子はしっかりと蓮を見つめて、頷いた。顔つきまで変わって見えると蓮は思った。いつもおどおどと人を窺っているように見えていたのに。
「不思議ですね。何も思い出せなかったのに、ちょっとしたものを見たり聞いたりすると、記憶が繋がっていくみたい。カラオケボックスに行った時も、飲みすぎちゃって、時々従業員の人と喧嘩になってた。家では、いつも優しかったけれど、お酒を飲むとちょっとわけが分からなくなってて。暴力と言うほどのことはなかったのかもしれませんけれど、結構乱暴になって。私には手を上げませんでしたけど、母は……」
蓮は笙子の前に叔父の調査報告のページを開いて見せた。笙子はしばらくその依頼主の名前をじっと見つめていた。
「お母さんと、おじいちゃん?」
「君のお父さんがいなくなった最後のクリスマスイヴの夜、それは何年だったか分かる?」
「私が小学校に入る前の年やったから、1999年?」
「でも、ここに書かれた依頼の日付は2000年の3月になっている」
「どういうことですか?」
「もう君のお父さんが君たちの前から姿を消した後で、わざわざ依頼が来ている。そして叔父は、まるきり何も調査せずに報告書を書いている。君のお父さんが女を作って君たちを捨てたという報告書を。でも、叔父はちゃんと調べもしないで適当な報告書を作る、そんな人じゃないんだ」
それは京都府警の刑事だったころから変わらない。人に馬鹿にされるくらい、くそまじめな人だった。だから出世とは縁遠く、重傷を負って辞めた時は警部補だった。
それから、と蓮は言いながら、その報告書の前後のページを見せた。
笙子はしばらく意味が分からなかったようだった。
前のページは1999年12月18日、後ろのページは1999年12月28日。
「この依頼が初めて来たのは1999年12月18日と28日の間だ。それも多分、君のお母さんから。君のお母さんが何を依頼したのか、それを知っているのは彼女だけだよ」
笙子はじっと黙ってそのページを見たまま、返事をしない。
「どの道を選ぶにしても、君はちゃんとお母さんと話をするべきじゃないのかな」
笙子の家の事情は蓮には分からない。伝統を担う家の重みのようなもの、そしてそれを伝えようとする母親の切実な願い、道を選ぶときに惑う子どもの心も。それでも、笙子は選ばなければならないはずだった。
「君は本当は、僕に依頼に来るよりも、お母さんと話をしたかったんじゃないのかな。お母さんはきっと君よりも多くの事情を知っているはずだ。だけど君はきっかけが掴めなかった。もうずっとお母さんと話していないんだよね。昔のことだけじゃない、これからどうするのか、どうしたいのか、お母さんに言いたいし相談もしたい。そのお母さんが病気で、もしかするともう長くないかもしれない。今しかチャンスがない。だから、舟に話したんだ。違う?」
笙子は顔を上げた。
「どうやって話したらいいのか分からない。だって、母は、私に笙の稽古をしてくれるだけで、厳しくて。今だって、病院に行っても会話にならないし。どうして練習しないんだって」
「お母さんも、きっかけが掴めなかったんだろうね。僕は、君のお母さんの笙を直接は聞いたことはないけれど、日本でも数少ない雅楽の演奏家だ。その人が継いでいこうとしたものが何かは、少しは分かるつもりだ。でも、お母さんだって、自分の気持ちを貫いて、君のお父さんと一緒になったんじゃなかったかな。君の今の迷いや気持ちは分かってもらえると思うけれど」
本当は舟に頼みたかったのかもしれないが、舟は話をシャットダウンしてしまったのだろう。笙子が自分に気があることを知っていたからこそだとは思うが、それが舟の気まぐれなのか、優しさなのかは分からない。
ふと、舟と海の会話を思い出した。
二人は何か秘密を共有している。そのことが奇妙に胸をざわつかせる。
笙子はやっと顔を上げた。
「私、本当は何て依頼をしたらよかったんでしょうか」
「お母さんのところに一緒に行ってもらえませんか、かな」



参考文献?
西田幾多郎:明治~昭和の哲学者。京都の『哲学の道』に碑があります。
『人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり』
(哲学の道はあの界隈に住んでいたころ、私の散歩道でした。
というよりもあの疏水沿いを散歩道にしたくて、界隈に住みました。)
坂本龍馬の句(これは辞世の句ではありません。辞世の句を詠む暇なかったもんね)
『世の中の 人は何とも 云はばいへ わがなすことは われのみぞ知る』
(確かにあなたはアスペルガー……でも実は、私は坂本龍馬友の会の隠れメンバー^^;です。
脱藩の道(複数説あり)も何度か歩きました……四国の山奥で行き倒れるかと思いました^^;)
ついでに吉田松陰、辞世の句
『身はたとえ 武蔵の野辺に くちぬとも 留め置かまし 大和魂』
もひとつついでに高杉晋作、辞世の句
『おもしろき こともなき世を おもしろく』
(後の人が下の句を「すみなすものは 心なりけり」と詠んだけれど、無い方がいいなぁ
……この余韻がいいのですね)
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(4)
蓮の事務所を覗いてみてください。相変わらず、玉櫛ばあさん、名調子です。



その二日後、正確には一日半後、蓮が『ヴィーナスの溜息』の片づけを終え、ママに挨拶をしたのは三時を回っていた。
年末ということもあって、忘年会の二次会の予約も多く、客が帰ってくれるのは終業時間を一時間ほども越えることも多くなっていた。比較的時間はきっちりとしているママも、この季節だけは諦めているようだ。
飲みに行こうという誘いを断って、蓮は事務所に戻った。
思い出しかけていることを確認したかったのだ。
あの神社から本当に遺体が出てきた。それが誰なのか、早晩はっきりするだろう。
蓮が引っかかっていたのは、遺体の身元というよりも、一緒に出てきた天河石だった。
今日の昼間、いや正確には昨日の昼間、警察が『奇跡屋』を訪ねて来た。
石のことで話を聞く相手として適任なのは、もと玉櫛と呼ばれた石屋の女主だということになったのだろう。哀れなことに、警察はその玉櫛がどんな陰険な婆さんかということを知らない。
蓮は二階で聞き耳を立てていた。
婆さんは例のごとく意地悪な声で若い刑事たちをからかっていた。
「そりゃ、アマゾナイトだ。天河石ともいう。そうさ、奇石の一種だ。へぇ?あんたはんら、何の予備知識もなく、そんな偉そうな面して訪ねて来たんかい? あぁ石が可哀相だねぇ」
とか何とか、さんざん嫌味を言った後で、しゃあしゃあと言う。
「そりゃそうさ、あれを売ったのはうちの店だ。うちにある石のことはみぃんな分かってる。石は、人間よりも顔がはっきりしているものさ。例えばあの死体よりも、よほど来歴が明確だね。誰に売ったかって? それは石が望んだ相手にだよ」
全く、聞き込みの刑事に同情したくなる。
それでふと思い出した。
婆さんはあの石を親子石だと言わなかったか?
婆さんの言う親子石というのは、もともとひとつの石だったものを割ったか、自然に割れたかしたものだ。婆さんの場合には自然に割れた石を指すことが多い。石は持ち主を選ぶという。笙子が今持っている石は、自らの意志で笙子を選んだのだ。では、その石の親子石はどこにある?
「本当は誰に売ったか覚えているんだろう?」
刑事が帰った後で下に降りると、婆さんは大きな机の向こうに隠れるようにちんまりと座っていた。蓮が尋ねると、ぎろっと睨む。
「あぁ、覚えてるよ。私が売った相手は魁だ。その後、魁がどうしたかは知らないね」
「魁おじさんが買った?」
この釈迦堂探偵事務所の本当の探偵、蓮の叔父だ。
「あの石は親子石だ。人と人とを強力に結びつける力がある。魁は多分、お前たちにと思ったんだろうけどね」
「お前たち?」
「三つで一組の親子石だったのさ。だから言ってやったんだ。舟はともかく、蓮が殊勝に石の力を信じて持ち歩くものかって」
「三つって魁おじさんと舟と、俺? なんで?」
「知るかい。大体、あの頃からお前は可愛くなかった。親に捨てられたからってグレてるばかりで、理屈好きで、科学こそ人間のために必要なものだとか言って、わたしらの商売を笑ってたろう。けど、科学や医学がどのくらい人間を幸せにしたっていうのかね。もっとも、あんたも途中で気が付いたってわけだ。立派なお医者様になったってのに、途中で辞めちまったんだからね」
蓮は婆さんの嫌味を、頭半分で聞いていた。
三つで一組の親子石。安倍清埜。どこかで見た。
「結局、魁はあの石を他の誰か、本当に必要としている人間にやっちまったんだろう。その時から石は別の持ち主のものになったというわけだ」
「あんたの力で、あの天河石を警察から預かれないのか?」
婆さんはちろっと蓮を睨んだ。
「土から掘り出されたんだ。お前が心配しなくても、石は帰りたいところに帰るさ」
蓮は二階の事務所に上がり、キャビネットを引っ掻き回した。
探偵事務所の中は、ワンフロアの空間を幾つかに仕切ってある。階段を上って一番手前が、接客のためのテーブルと向かい合わせのソファを置いた空間。その奥が所長兼従業員のための机と本棚のある空間。そして階段からは見えない奥に、仮眠のできるベッドと流しなどの水回りがある。
キャビネットがあるのはその一番奥の空間だった。というよりも、キャビネット自体が仕切りの役割を果たしている。
この探偵事務所で過ごす時間は果てがない。もちろん、まともに働いている従業員は蓮一人という事務所なので、依頼があればそれどころではなくなるのだが、普段は暇で仕方がない。
ほとんど家にも帰らなかった研修医時代から、その後の医師としての生活では、まるで私の部分はなかった。その中で蓮は自分の生活だけではなく、精神的にも追い詰められていた。
患者はみな幼い子供だった。その死に涙する看護師や医師たち医療スタッフの中で、蓮はいつも涙を流すことができなかった。子どもを相手にするスタッフたちは皆優しかったし、子どもの不幸に涙するのに性別は関係がなかった。
もちろん悲しくなかったのではない。悲しい以上の感情だった。悲しさは、ある程度以上になると蓮の中で飽和してしまい、塊になってどこへも行き場がなくなってしまった。人の死は致し方ないことは分かっている。だがその過程が恐ろしかった。蓮の性格はその仕事に向いていなかったのかもしれない。
釈迦堂先生ってクールなんですね、とよく言われた。そう言われても、何とも返事のしようがなかった。
如月海だけはそんな蓮の支えだった。釈迦堂君は感情表現がうまくないだけだよ、と海はあっさりと言った。海にも似たような部分があるからなのかもしれない。夜の医局で二人きりになることが多く、色々な話をした。基本的には海が喋っていたのだが、蓮の一言を海が聞き逃すことはなかった。
拘束のない夜は二人で飲みに行き、いつの間にか蓮は海の一間きりの部屋に泊まりに行くことが多くなっていた。両親からはぐれて以来、叔父の魁の代から三味線と剣道の師匠であった昭光寺の和尚に引き取られた蓮には、自分の場所というものがなかったのだ。
蓮が間違いを起こさななければ、二人は予定通り結婚式を挙げていた。
あの頃とすっかり変わってしまった蓮の生活だったが、まともに眠る時間がないことは同じだった。
蓮の朝は夜の続きから始まる。四条川端のショウパブ『ヴィーナスの溜息』の閉店は夜の一時だ。その後片づけがあり、店の連中に付き合って少しだけ飲みに行くこともある。蓮が住んでいる昭光寺は堀川今出川を少し北に上がった西陣にあり、蓮が自転車でそこに帰り着くのは早くても三時、あるいは五時になる。
寺にとっては普通に朝の時間だ。少し眠り、和尚と朝食を共にする。時には逆になることもある。まるきり眠らない日もある。そして、九時半前に和子(にこ)を連れて四条河原町近くの保育園に向かう。にこはむすっとした顔で蓮の自転車の前で待っている。保育園に行きたくなくても、行くべきであると自分に科しているような気がする。
事務所はおよそ十時には開けている。開けているが、依頼者は滅多に来ない。だから、蓮は半分寝ている日もあるのだが、どうにもこの事務所にいると気持ちが昂るのか、目がさえてしまうことが多い。多分、階下の婆さんと、奇妙な気を放っている石たちのせいだ。
叔父の残した依頼の報告書は、丁寧に分類されてキャビネットに仕舞われている。叔父はコンピューターが苦手で、幾冊ものハードカバーのノートに綺麗な字で自分の関わった調査の報告書をまとめていた。
ちなみに依頼者への報告書をパソコンに打ち込んで作成するのは、『ヴィーナスの溜息』に勤めている正統派ホモセクシュアルのミッキーだった。正統派、というのは、女装をしたり性転換をすることはなく、男のままで性の嗜好がホモセクシュアルだということだ。小柄だが身体を鍛えていて、『ヴィーナスの溜息』に勤めるまでは自衛隊に入っていた。魁に気があったのだろうと思う。
あまりにも時間があるので、蓮は日長一日、叔父の調査報告書を読んでいることがある。下手な小説よりもよほどに面白い。
今、蓮が探しているのは、その中にあった報告書のひとつだった。
笙子の話を聞いている時に、笙子の母親の名前に何かが引っかかっていたのだが、思い出せなかった。というよりも、別の絵柄のパズルだと思っていたものが、実は今作っている絵柄のピースだったということだった。
叔父の残した浮気調査の報告書。
その中に安倍家からの依頼があったはずだった。
両親は離婚したのかどうか、笙子自身は分かっていないようだったが、笙子の名前は父親の名字・三澤のままだ。三澤とばかり頭にあったので意識していなかったが、笙子から母親の名前を聞いた時、あれ、と思った。
どこかで見た。それも何か記憶の鍵に引っかかるような形で。
その叔父のノートの一ページに、奇妙な印象があった。そのことが今、きっちりとパズルの絵柄に嵌った。
あった。
蓮は仮眠用のソファベッドに座った。
最初に「安倍清埜」と青いインクで書かれた依頼者の名前が、二重線で消され、その上に別の名前が書かれている。新たに書き換えられた名前は安倍真伍、清埜の父親、すなわち笙子の祖父だった。
娘の夫の浮気を調べて欲しいという依頼。
だが、何故依頼主が変わってしまったのだろう。
その報告書の記録が頭の隅に残っていた理由はそれだけではなかった。
叔父の調査報告書はかなり丁寧だった。浮気調査ひとつにしても、間違いがないようにと気を使っていたのが分かる。報告書にまとめられた以外にも、ノートには調査過程が細かく記されていた。だが、安倍真伍の依頼に関しては、その調査報告書に至る過程はあまりにもお粗末だった。
だから違和感があったのだ。
まるで調査などせずに報告書を書いたような、そんな気がする。
そして蓮の側頭葉の引き出しに残っていた絵柄。それはこのページに残された小さな三つの丸だった。少し大きい丸と中くらいの丸の上に小さな丸が乗っているような印だ。
三つ一組の親子石。
誰がこのことを知っている? もうひとつの天河石を持っていた、穴から出てきた遺体? そして、三つ一組ということは、石はもうひとつ、あるはずなのだ。
朝になったら笙子に電話をしよう。そして、もう一人のキーパーソンに会わなければならない。
蓮はノートをベッド脇のローテーブルに投げ出し、靴を脱いで布団に包まった。布団の上からさらに毛布を被る。
この季節の京都の底冷えは半端ない。特に、この昭和レトロを絵に描いたような建物では、地面の底から湧き上がった冷気が建物の柱や壁を這い上り、床からベッドの足を伝って、蓮の身体の奥の骨にまで沁み込んでくる。
今、確か平成だよな。
ここだけ昭和で残っているのか、いや、あの婆さんを見たら、明治か大正かと言われても致し方ない。最近流行の町屋をリニューアルした店のように、ここももう少し若者受けするような店構えに変えたらいい。
目を閉じて、笙子のことを考えてみる。蓮は笙子の歌も笙も聴いたことがない。もしも聴いていたら、彼女の何かが分かるのだろうか。もしかして石の言いたいことも、蓮に聞こえるかもしれない。
婆さんのように……
寒くて仕方がないのに、そのまま睡魔が襲ってくる。文字通り煎餅のような綿布団も毛布も、辺りの凍った空気を吸い込んで氷のように固まっている。せめて羽根布団でも買えたら、少しは過ごしやすいかもしれない。
でも、にこに机を買ってやりたい。座って勉強するかどうかは分からないが。
サンタクロースの贈り物として、ランドセルを買った。でも、にこの身体にランドセルは大きい。天使の羽根ってやつにしたけれど、軽いとはいえ、同年代の子どもよりも二回りも小さい身体は隠れてしまいそうだ。教科書もノートも、にこの身体には負担だろう。そもそも教科書ってなんであんなに重いんだろう。
それより、サンタクロースからランドセルってのはやっぱり駄目か。普通はランドセルはおじいちゃんとかおばあちゃんがくれるんだよな。クリスマスのプレゼントは、そんな必需品じゃなくて、もっと洒落たものにしてやらないとだめなんじゃないか。
やっぱり海に頼んで一緒に買い物に行ってもらおう。小学校に着ていく服とか、少しは女の子らしいものを。いや、海は忙しいよな。明日、笙子さんに会うんだから、その時ちょっと頼んでみようか。『華連』のメンバーの中では笙子の服装が最も地味だから、まさかロックな服を選んだりはしないだろう。
でも、あのぶすっとした膨れっ面のこましゃくれた子どもに、ひらひらの服は似合わないか……いや、馬子にも衣装とも言うし……
それより、朝起きたら、ってもう朝に近いけれど、にこを迎えに行かないと……
そうか、湯たんぽを買えばいいのか。いや、湯たんぽは湯を沸かすのが面倒臭いな。電気毛布で十分だ。
ぐるぐると思考が回る。蓮は、少しも暖まらない布団を頭まで引き被った。
ふわりと誰かの気配がする。眠りが浅いと、現実に近い夢を見ることがある。誰かがベッドの脇に立っている。
眠っているのに、神経が昂っているのだ。こんな凍えるような部屋に現実の誰かがやって来ることはあり得ない。
蓮が包まる毛布が引っ張られる。半分引き剥がして、蓮の身体に引っ付くように潜り込んでくる。ぴったりと蓮の身体の内側に絡み付く。
れん、寒い……
囁くような声が蓮の首筋に話しかける。
微かに、ミントのような香りがした。
幻であっても、この寒さの中では有難い。誰かが湯たんぽを持って来てくれたのだろうか。サンタクロースにはまだ早いけれど、暖かくて落ち着く。
蓮は幻を抱き締め、ようやく安心して短い眠りに落ちた。



全く、こいつは何だっていつもこうなんだ。
蓮は悪態をつきながら湯を沸かしていた。短時間とは言え、深く眠ったおかげで頭ははっきりしている。
小さな流しの側にはガスが引かれていたが、少し前に止めてもらった。火事が心配なので、電気のプレートに薬缶を乗せている。高瀬川に面した窓を、白く冷たい朝日が光色に染めていく。冷えた氷色の空気を、白い湯気が震わせる。
湯気が勢いをつけて吐き出される頃、背中から罵声が飛んできた。
「蓮のくそ馬鹿! 解け! この人でなし! ションベン漏れる!」
ここ何週間も顔を見ていなかった従弟は、ぐるぐるの簀巻き状態の煎餅布団の中で足掻きながら叫んでいる。煩いから猿ぐつわもしておくんだった。
「蓮!」
蓮は沸き上がった湯でさっき豆を挽いたばかりのコーヒーを淹れて、一人でゆっくり味わいながら、小さいベッドをガタガタ言わせている従弟の顔の高さにしゃがんだ。
「寒いって言うから、巻いてやったんや」
簀巻きにして、ついでに縄跳びのロープで括ってある。そう簡単には解けない。
「わけ分からん! 蓮のアホ! ほんまに漏れる!」
「寒いんなら、なんで裸で布団に入ってくるんや」
「蓮が寂しそうに一人で寝てるからや」
「殴るぞ」
「俺は蓮と違って一人寝なんかしたことないからな。服着て寝る必要がないだけや! はよ解けって!」
「解いてやるから、その前に白状しろ。まず、その腹の傷は何や。それから、三澤笙子とはどういう関係や」
ぴたり、と安いベッドの悲鳴が止まる。
「ふ~ん、蓮、海ちゃんから笙ちゃんに乗り換えたんか。俺、海ちゃんとはやってへんから、どっちがええ味かは分からんけど」
余計なことを言いかけた舟の頭を思い切り掌で掴む。
「何すんねん!」
「さっさと答えろ。淹れたてのコーヒーぶっかけるぞ」
舟は綺麗な顔を歪ませた。
従兄の蓮が言うのも何だが、舟の顔立ちは、その辺のちょっと綺麗な女の子と比べても、ずっと人目を惹く、ある種の色気がある。小学生の時にも、四条河原町の角で、スカウトされたこともあるくらいだから、そもそも目立つ造りなのだろう。女でないのが残念だと、ノーマルな男どもに言われたことも一度や二度ではない。通った鼻筋も薄い唇も、形のいい耳も、それにいささか危なっかしい目も。
舟は唇の端を吊り上げて、にっと笑った。
「腹の傷は江道会の奴らとちょっとやりあっただけや。もう治っとる。三澤笙子は三日だけ付き合ったことがある。はい、おしまい。解いて」
「三日は付き合ったうちに入らん。少なくとも三澤笙子はそんなふうに思ってないやろ」
「だから処女はめんどくさいんや。言うとくけど、やってへんで。やったろ思てホテルに行ったけど、愛してるとか白けるようなこと言いよるし、付きまとわれるの鬱陶しいからやらんかったんや」
「それだけか」
「大事に思うとるからでけへん、って一応言ってやったで。けど、そんなん、普通ちょっと考えたら分かるやろ。男が勃たへんゆうことは、その女に気がないってことや」
「そんなことを言われたら、女の子は期待するやろ。お前の付き合っとる百戦錬磨の魔女や魔王らとは違う。舟、お前、そのうちほんまに殺されるぞ」
「どうでもええけど、はよ解け! ほんまに漏れる」
蓮はコーヒーカップをサイドテーブルに置いた。仕方なく解いてやる。とは言え、自分でも惚れ惚れするくらいしっかりと結んだので、簡単には解けない。
「三澤笙子にこの事務所のことを教えたんか」
「あの女、蓮のこと知ってたで。あぁ見えて、結構食わせもんや」
蓮が舟の従兄と知ったのか、舟が蓮の従弟と知ったのか、そんなことはどうでも良かった。
ようやく簀巻きにしていた煎餅布団から解放してやると、舟は素っ裸のまま階段をかけ降りていった。真冬だぞ。しかも、ここの手洗いときたら、極寒の北海道みたいなものだ。全く、あいつは訳が分からない。
手洗いは一階にしかない。まだ婆さんが来る前でよかったと思う。素っ裸で手洗いに走り込む舟を見たら、蓮が苛めたと考えるに違いない。
蓮がコーヒーを飲んでいると、舟がすっとした顔で戻ってきた。
「あぁ、危なかった」
「さっさと服着ろ。風邪ひくぞ」
出すものを出してほっとしたのか、舟がいつものように、妖しく芝居がかった悪魔のように綺麗な顔で素っ裸のまま蓮に近付き、猫なで声で甘えるように身体を摺り寄せてくる。
「蓮兄ちゃん、いっぺん俺と寝てみる? 忘れられんようにしたるで」
本当に、こいつはいつか誰かに刺される。その前に、俺が刺してやろうかと思うことさえある。
蓮は自分に触れようとした舟の手を思い切り捻り上げた。
「いててっ! 何すんねん。冗談に決まってるやろ。蓮、痛いって。俺、か弱いのに」
舟がか弱いなんてのは全くの嘘だ。こいつは半端なく喧嘩に強い。魁が仕込んだからだが、それだけではない。
命を投げているように見える。殺せるもんなら殺してみろという捨て身だ。だからその気迫で大概の奴らはびびってしまう。もちろん、相手によってはそれが拙いことに繋がる。ヤクザや中途半端なチンピラ相手に、命のやり取りなど平気だと息巻いて見せるのだから、それこそ痴情の縺れじゃなくても、いつか殺されるかもしれない。
中学生のころから舟は変わった子どもで、身体は小さいくせに粋がって肩をいからせて歩いていたし、世間様からはグレていると言われていたが、それでも可愛らしい面があった。高校ではのめり込むようにサッカーをしていたが、ある時、ふとしたはずみで大学生との間で喧嘩になり、傷害事件になりかけた。何とか卒業はしたものの、大学には行かずに、今は結局、複数の女や男のヒモのような暮らしをしている。
そして少し前から、舟は危ない連中とやたらと絡むようになっていた。
「蓮、なんか食うもんないの?」
うぅ、寒い、と唸りながら、舟はシャツを羽織り、ジーンズを穿く。ジーンズを穿く脚はか細く見える。あんな身体で、どうして無茶な喧嘩ばかりするのだろう。
「ない。今から昭光寺ににこを迎えに戻るから、一緒に行くか」
「げえっ。あの暴力坊主に殴られるのはごめんや」
「昔みたいに百回ほど尻叩かれたらどうや」
「あの爺さん、容赦ないんやもん。商売道具の尻が使いもんにならんくなる」
「ちょうどええやないか。使えなくしてもらえ」
「ひどいなぁ。蓮は冷たい。コーヒーでええや、淹れて」
セーター貸してと言いながら、舟は置きっぱなしの蓮のセーターを勝手に被り、首を出して甘えるような声で言った。
こうして話していると、舟は時々昔通りの可愛らしい面を見せる。時々、だが。
小さいテーブルは二人で向かい合うだけの大きさかしかない。捨てられるような古い異国のテーブルに、魁が自分で手を入れたものだった。
「三澤笙子にこの事務所のことを教えたのは何故なんや」
「蓮、あの女に気があるんか?」
「馬鹿言え。依頼があったんや。お前が仕向けたんやろう」
舟は背もたれのない丸椅子を少し後ろへ傾けた。
「だって、あれこれ昔話を聞かされて、面倒くさかったんや」
「どんな昔話や」
「うーんと、あんまり真面目に聞いてへんかったから、よく覚えてへんけど。父親がサンタクロースを殺して埋めたとか」
「殺したかどうかはわからん。埋めてただけじゃないんか」
「あれ、そうだっけ?」
「他には」
舟はテーブルに両肘をついて、身を乗り出してくる。
「やっぱり、あの女に気があるんやろ。海ちゃんに言うたろ」
「俺と海はもう関係がない」
「なんで、毎年クリスマスイヴもしくはクリスマスは会ってるくせに。今からでも遅くないから、寄り戻したらええのに」
「それはただ約束やからや」
「ふ~ん。ま、蓮兄ちゃんは他に好きな人おるんもんな。はい、どうぞ。何が聞きたいん?」
舟はどこまで何を知っているのか、全くつかめない。勝手ばかりしていて、ちょっと顔を見せたかと思ったらすぐにいなくなり、時に今にも死にそうな怪我で倒れ込んでくることもある。このにっこりと笑う顔が、舟の心をそのまま映してくれているのならいいのにと、蓮はいつも思う。



次回、最終回です。
って、前回も書いたんですけれど……筋立ての中ではもう終わっているはずだったのですが。
実際に書き起こしてみたら^^;
舟と蓮の会話が面白くて、のめり込んじゃいました^^;
愛嬌だと思って、許してやってくださいませ。
次回こそ、終わります(*^_^*)
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
NEWS 2013/12/28 もうすぐ仕事納め

我が家の玄関のメンバーも、もうすぐ仕事納め。
毎年、大阪府箕面市の勝尾寺に初詣に行きます。そこで毎年買う、干支の土鈴。
それから、ヘビの置物は、毎年母の知り合いの人が作ってくれるのです。
来年また新しい顔ぶれになります。今度はどんな馬さんがやって来るかな。
ちなみに、前に小さいスズメがいるけれど、この子は万年定位置。
奥にいるシマフクロウはアイヌの木彫り。花は匂い袋みたいなものです。
ちなみに私は、1月1日まで仕事(拘束)なので、まだまだ仕事納め気分ではありません……^^;


今年始めた健康のためのちょっとした努力。
人生初ミキサーを買って、毎日とはいきませんが野菜ジュースを作っています。
メニューは小松菜を中心に、レタス、ニンジン、パセリ、ブロッコリー、バナナ、時々スナップエンドウ、時々パイナップル、グレープフルーツ、今日はたまたま安売りのカットフルーツでイチゴとキウイつき。そこにタンパク源として豆乳を混ぜます。
年末年始のテレビのためにハードディスクを整理中。
掃除をしながら、録画してあった『北のカナリアたち』を見つつ……北海道の冬景色を堪能しています。
今、少しずつ書いている真シリーズの【雪原の星月夜】は冬の北海道が舞台。
北海道が舞台のものを何でも見たい、と思って。
画面の中の景色が綺麗で、柴田恭兵さんも、仲村トオルさんも、カッコいい~
仲村トオルさんと並んでも、キスシーンがあっても、別に歳の差を感じない、吉永小百合さんがすごい。
とても還暦をとっくに過ぎたようには見えません。美しすぎる……
私が旦那だったら(って、なぜその方向に妄想?)、家に毎日吉永小百合さんが待っていたら、ドキドキして家に帰れない……。
でも、テレビ会社の社長さんですものね。美男美女は見慣れていますよね。

枝垂れ桜の木です。こんな冬にも次の春の準備をしているのですね。
この木の皮で染めた染物の色を見ると、本当にそう思います。
ピンクの花びらで染めても桜色にならないのに、この無骨な木の皮で染めたら桜色になる。
不思議ですね。

南天も、ちょっと残念な景色になっていますが……また新しい花が咲くでしょう。
今年は、沢山の皆さんにブログ上のお友達になっていただいて、とても楽しく過ごすことができました。
ありがとうございます。
相変わらず、予告倒れの大海ですが、来年もよろしくお願いいたします(*^_^*)
さ、庭掃除しよっと!(ガンバル)
Category: NEWS
NEWS 2014/12/25 メリークリスマス
昨日と今日は、いきなり
『メリークリスマス!』
でした。
この日に顔を合わせたからと言って、メリークリスマスなんて洒落たことを言ってくれる人は、英語の先生くらいだけど、今年は車だけだなぁ。
……って、何だか、『ナイトライダー』みたいでしょ(古い??)。
でも喋るだけで、飛ばないのですよね。残念。
車は毎日『今日は○○の日です』と教えてくれる。
時々、そんな日があったの?というのがあります。
一番驚いたのが『バミューダトライアングルの日です』でした。
えーっと、何が記念されたのだろう??
なんてのは置いといて、お詫び(>_<)
毎回のことですが、やっぱり宣伝とか宣言はするのではなかった^^;
志だけは高いのですけれど……昨日は仕事から帰ったらすでに夜も更け……

マコトの事件簿は諦めました。三部作にしたかったけれど。
もともと何のイベントでも(イベントに絡めなくても)構わない話だったので、お正月バージョンに変更してお送りします。
『サンタクロース殺人事件』は何だか最後があっさりしすぎて気に入らなくなったので、シーンを書き足していたら、長くなっていて……ただ今、鋭意切り貼り中です。ちょっとだけ、お時間をくださいませ(>_<)
何にしても、寒くなりました。
クリスマスが終わったらお正月ですね。
掃除に年賀状(遅い?)、あれこれ気忙しいですが、お体お気を付け下さいませ。
では、また今夜(*^_^*)……今日がクリスマスなんだよ、うん!
Category: NEWS
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(3)
いよいよサンタクロースを掘り出しに行きましょうか(*^_^*)
と、その前に、笙子ちゃんの家の事情を少しご紹介いたします。
クリスマスイヴに、事件は解決することでしょう。



三澤笙子の母親は、楽家のうち笙を担う安倍家の出だった。府内の有名私立大学を出ていて、笙の演奏家・安倍清埜としても名前を知られていた。だが、家族に反対されながらも、普通のサラリーマンの男と結婚した。
生まれた子供は笙子一人だけで、女の子だというそのことだけで一族の失望の原因になった。
笙子の母親は、実家の希望に逆らった結婚に後ろめたさがあったのか、幼いころから笙子に雅楽を教えた。物心がついた時から笙子にとっておもちゃは笙や篳篥であり、舞楽のビデオは『おかあさんといっしょ』の代わりだった。
やがて自然に慣れ親しんだ楽器において、笙子の才能は、一族の失望を塗り替えていった。笙子はほんの三歳のころから今に至るまで、母親の前では期待に応えようと、あらゆる意味で素晴らしい娘となるための努力を惜しまなかった。
笙子の父親は製紙会社に勤めるごく普通のサラリーマンだった。よくある話で、学生時代にフォークをかじっていて、少しだけギターを弾いたが、もちろん趣味のレベルで特別に上手くもなかった。学歴も可もなく不可もなくだったが、人当たりは良かった。笙子にも優しかった。
笙子は父親の下手なギターを嫌いではなかった。母親が雅楽の行事などで帰りが遅い時、保育園の送り迎えは父親の仕事だった。帰りにこっそり二人で河原町通りのカラオケボックスに行った。ご飯をそこで食べて、一緒に歌った。父は歌が上手かった。そしていつも笙子の歌を褒めてくれた。
父親はイベントも好きだった。いつもは色々な意味で母親に遠慮しているように見えたが、誕生日やクリスマスにはコスプレをして笙子を喜ばせてくれた。母親は、クリスマスなんてクリスチャンじゃあるまいし、と言ったが、少なくともあの最後の年までは、一緒にクリスマスを祝っていた記憶がある。父親は毎年、サンタクロースの衣装を借りて来て、笙子にプレゼントを持って帰ってきた。もっとも笙子は、サンタクロースが父親だとはあの年まで気が付いていなかった。
あの最後の年。
笙子は生きたサンタクロースには会えなかった。
その年の初めから笙子の両親は少し上手くいかなくなっていた。喧嘩も多かった。母親は実家に帰っていることが多くなっていて、笙子は大概一緒に連れて行かれたが、時々は保育園から父親と一緒に三澤の家のほうに帰った。
父親と二人きりの夜には、一緒にお風呂に入り、お風呂をカラオケボックス代わりにして歌った。
「笙子は大きくなったらお母さんみたいな笙の演奏家になるのかなぁ」
父親が何となく呟いた。
「ううん。笙子は歌手になるよ」
笙の演奏家と歌手の違いもよく分かっていなかった。邦楽と、父親が歌う歌の世界は違うことも、まるで理解もしていなかった。
最後の年、クリスマスイブの夜。
笙子は母親の実家にいた。雅楽の伝承者であることを求められる母親の実家では、クリスマスのイベントなど全く考えられない環境だった。理由までは分からない子どもでも、そこではクリスマスのことを話題にしてはいけないことだけは察していた。
気になっていた。今日はサンタクロースが来る日なのだ。笙子が三澤の家にいなかったら、サンタクロースはがっかりするだろう。せっかくプレゼントを持って来てくれるのに。
その日、ご飯の後、笙子は早々に布団に入れられた。
今日はサンタクロースが来る日なのに、と思うと、目を閉じてもすぐ目を開けてしまった。
こっそりと起き上って居間を覗くと、炬燵を囲んだ笙子の母親と祖父母、伯父夫婦が難しい顔をしていた。
「正興さんがそないなこと」
「お前たちはもう長いこと、上手くいってへんかったやろ。正興くんかて男や。そうなればそういうこともあるやろ」
「そうや、彩希子、笙子のためにもきちんとしておいたほうがええ」
笙子はこっそりと母親の実家を抜け出した。
母親の実家と、両親と一緒に住んでいた三澤の家はそれほど離れていなかった。大人の足なら十五分ばかりの距離だろう。
笙子は家を抜け出してから少しだけ後悔した。
皆が街に出かけているか、家で静かに過ごしている聖夜、笙子の目に写る世界は真っ暗だった。笙子はやっぱり戻ろうと思ったが、サンタクロースからプレゼントをもらうというのが、子どもの義務だという気もした。
静かな夜の町は、見慣れたいつもの景色と随分違っていた。いつもならお父さんと手を繋いで歩く道が、どこに続いているのかどこにも辿りつかない、目的地のない道に見えた。
それでも、笙子は目を瞑って、最初の角まで走った。後ろから誰かが追いかけてくる。雅楽の怖いお面を被った人や、人の声を模していると言われる篳篥の音が耳の後ろに貼りついている気がした。
それでも、頑張って角を曲がると、急に怖くなくなった。
笙子は一生懸命夜道を歩いた。途中で犬に吠えられて慌てて走って、息が切れてしまった。明るい外灯の下を歩こうとして、ふと自分が誰かから見られている気がしたので、怖くなって逆に暗い所を歩いた。暗い場所に隠れると少し安心したが、自分の運動靴が闇の道に吸い込まれて見えないような気がして、吸い込まれないうちに足を動かさなければと、また走った。
三澤家まで二ブロックほどのところに神社があった。小さな神社だが、本殿と拝殿以外にも、いくつかの小さな社が点在していて、拝殿の脇にあたるところに小さな森があった。神社の灯篭にはいつも灯りが入っていた。
少なくとも笙子の記憶には、その灯りがちらちらと蠢いている。
神社を迂回すると時間がかかる。それに笙子にとってこの神社は遊び場所でもあった。近道はよく知っている。
笙子は神社の敷地に入り込んだ。そしてやはり暗い所を選んで歩いた。
その時、ざくっざくっという音が耳に届いた。
自分の足音が、カラオケボックスの中みたいに大きく木霊して、闇の中に響いているのだと思った。だから足を止めてみた。
一旦、静寂があった。
だが、笙子がじっとしているのに、再び、ざくっざくっという音が覆いかぶさってきた。神社の森では木々が大きく社を覆っている。少なくとも子供の笙子の目からはそう見えていた。音は、笙子の目からは天を覆うような木々に跳ね返されて、反響していた。
不思議と怖いとは思わなかった。いや、怖いのだが、それが何の音なのか見届けることが必要だと思った。静謐な儀式の気配があった。
笙子は足音に気を付けながら闇を歩いた。
だんだん目が慣れてくると、拝殿の脇の森のほうで、何かが動いているのが分かった。近付いてみると、木の脇で誰かが地面を掘っていた。
穴はもう随分と大きくなっていた。
その穴の脇の地面には、赤いものが横たわっていた。
真っ暗闇ではなかったのかもしれない。何故なら色がはっきりと分かったのだから。笙子にはその赤いものがサンタクロースだと分かった。赤い服に大きな白いボタン、それにサンタクロースの帽子とひげ。
サンタクロースは横たわっている。
その時、みしっと足元で小枝が鳴った。笙子は自分の靴が小枝を踏んだのだと思った。
ざくっという音が止まった。
「……笙子……」
地面を掘っていたのは、笙子の父親の三澤正興だった。
そしてその日を最後に、笙子は父親の顔を見ていない。
何となく察していたことでもあったので、母親にも多くを聞けなかった。
父親は家を出ていったということ、少なくとも父親が姿を消した後しばらくは母親も随分悲しんでいたこと、それだけが笙子に理解できたことだった。
だが、父親がサンタクロースを殺したことについては、笙子だけが知っている。
母親が父親を愛していたのかどうか、少なくとも親の反対を押し切って結婚したのだから、一緒になる時には愛情があったのだと思うが、徐々に二人の間が冷めていったのも事実だろう。それでも、笙子のことを思って離婚までは考えていなかったのかもしれない。
一度だけ、母親が呟いていた。
お父さんは他に女の人がいたのよ。だから笙子とお母さんを捨てて出ていったの。だからもう、お父さんのことは忘れてしまいなさい。
母親は笙子に立派な演奏家になって欲しいと言った。
「蓮さん」
笙子は淡々と話し終えると不意に声の調子を変えた。蓮は、笙子が話し始めたときから、笙子の母親の名前、安倍清埜に何かが引っかかっていた。話を聞きながら、ずっとそのことを考えていた。
「え?」
「聞いてます?」
「もちろん」
ふっと笙子が息をついた。
「私、歌っている時、何か恐ろしいものに追いかけられているような気がするんです。それで、上手く言えへんけど、ものすごく興奮してきて、自分じゃなくなるような感じ。後でふと我に返って、怖くなることがある。笙を吹いている時も、たまに同じようなことがあって」
懺悔部屋と店の連中が呼んでいるこの部屋の照明が、半分だけ笙子の顔を明るく染め、残りの半分を闇の側に残していた。
「それで、結局、サンタクロースは掘り出せたのですか?」
「いえ。三澤笙子さんと一緒にその神社には行ってみたのですが、神域ですから、勝手に掘り返すわけにもいきませんし、さすがに、死体が埋まっていると思うので掘り返していいですかとは聞けませんでした。真正面から行っても断られるだけでしょうし」
蓮が出雲右京に連絡をすると、出雲が大学まで来てくれと言った。学会前で忙しいのだろう。
学食の大きなガラス窓で冷たい風が遮られると、冬の陽射しも暖かく感じられる。右京と蓮は、学生たちに交じって、カレーライスを奇妙なほど一生懸命に食べながら話していた。
「なるほど、それで僕に相談に来てくれたわけですね。頼りにしていただけるのは嬉しいものです」
右京は察しがいい。出雲家の力なら何とかならないかと思ってみたりしたのだが、もちろん、いくら上から目線で出雲右京がその神社に何か言ってくれても、そう簡単にいくとも思っていない。
右京は綺麗にカレーライスを食べ終え、蓮が食べ終わるの黙って見つめている。考えてくれているのだろうと思って、蓮はゆっくりとカレーライスを空にする。
「何か突破口になりそうなことはありますか? その神社の御利益は?」
「不運を祓う、いわゆる厄除けのようですね。先代の宮司は厄払いの特別な力があったとかなんとか。一昨年代替わりをしていますが、近所で聞いたら、いまひとつ先代ほどの有難味がないと」
神社もあれこれと大変だ。代替わりの際には、若い後継者にあれこれ負担がかかるものなのだろう。改めて、霊験あらたかであるという宣伝も必要になるに違いない。
「それなら、私の依頼ということで玉櫛さんの力を借りるのはどうだろう」
蓮は口に含んだ水を吐き出しそうになった。
その名前を聞くのは久しぶりた。いや、名前が久しぶりだというだけで、その人物とは毎日のように顔を合わせている。
玉櫛というのは、一昔前、花柳界でその名を馳せた伝説の芸妓だった。三味線も唄も踊りも誰にも引けを取らなかった。頭もよく、誰のどんな話題にも合わせることができ、噂では関西出身の超大物財界人の愛人だったという。だが彼女の名前が今でも語り草になっているのは、その予言の力だった。
彼女のところには、進路や選択に惑う人々が集まり、彼女に占いによる宣託を求めたという。
「伝説の玉櫛さんの宣託なら聞くでしょう。この神社に何か禍々しいものが埋められているようだから、掘り出してしまわなければ神社の霊力が損なわれるとか何とか言ってもらいましょう」
実は、蓮はその役目を出雲に期待していたのだが、出雲は自分は科学者であって霊能力者ではないから、幾ら出雲家の者の言葉であっても宮司を動かすことはできないだろうと言った。
「玉櫛さんにしかできないでしょうね」
「でも……」
蓮が口ごもると、出雲はにこにこする。
「玉櫛さんには私から言いましょうか」
「あ、いえ。僕が頼んでみます」
出雲はこう見えて悪知恵も働く。
「ところで三澤笙子くんは、昨日からライブで忙しくなられたのでしょう?」
「えぇ。でもライブは夜なので、昼間の内なら動けると言っていました」
「さて、何が出てくるのでしょうねぇ」
出雲は何やら楽しそうに見える。
「出雲先生、死体が出てくるかもしれないんですよ」
「そうですねぇ」
出雲はやはり少しばかり世間ずれしている。
「笙子さんのお父さんが犯人かもしれない」
「えぇ。でも笙子くんはきっと物事をはっきりさせないままでは、一歩を踏み出せない、そんな気持ちなのでしょうね。でも、彼女はお母さんからは何か聞いていないのでしょうか」
「笙子さんのお母さんは乳癌で、もう長くはないと言われたそうです。母娘関係の中には笙の師弟関係も絡んでいて、笙子さんはお母さんとは言え、何でも話してきたわけでもない、話せないことの方が多かったのだと言っていました。笙子さんは、自分の見たものが幻だったのかもしれない、あるいは夢だったのかもしれない、できればそうあって欲しい、でも確かめないままでは、このことを忘れられずにずっとやっていかなくてはならない、それは自分の足元を見ないで生きていくことだと」
「確かに、父親に捨てられたというショックで、奇妙な夢体験を現実と思い込んでしまうこともあるでしょうからね。だから、本当のことを確かめたいのですね。お母さんが亡くなる前に」
そして『華恋』も今後を決する岐路にある。過去を振り切って、未来を想う時が来ている。
蓮は『奇跡屋』の前で突っ立っていた。
今日は風が冷たい。思わずダウンジャケットの襟を合わせる。ポケットに突っ込んだ手だけが身体のどの部分とも違った温度になっていて、そこから逆流して体中に冷たい温度が沁み込んでいく気がした。
重い木の扉に「奇跡、売ります」の木札がぶら下がっている。
それをひっくり返す。「二階 釈迦堂探偵事務所 この扉からお入りください」と書かれた文字が少しだけ掠れている。
その時、蓮のジーンズのポケットで携帯が震えた。
確認すると、「如月」と苗字だけがそっけなく表示されている。
「もしもし」
「あ、釈迦堂君。今、大丈夫?」
如月海、蓮が親となって面倒を見ている和子(にこ)の主治医からだった。もともと蓮の同僚であり、そして本当なら今頃は、釈迦堂海になっていたはずの女性だ。彼女は今、大学病院の小児科で働いている。専門は循環器だった。
「にこちゃんの先週の検診、来えへんかったでしょ」
「ごめん、忙しかったんや。お寺の奥さんに頼んだんやけど」
蓮が心置きなく関西弁で話す相手はそれほど多くない。店でも標準語を話している。海はそのうちの一人だった。結婚を取りやめた理由は、全て蓮の側の事情だった。それが今でもこうして普通に話せる関係であることは、お互いに少し不思議だと思っている。
「分かってる。でも、釈迦堂くんも分かると思うけど、おばあさんに説明しても、こっちは不安なんやけど」
「カテーテル検査入院のことやろ。来週、外来に行ってもええかな」
「冬休みやし、混んでるよ」
「あぁ、そうか。じゃあ、年明けでも。検査、急ぐんか?」
「小学校前にしとこうって、前から言うてたやん」
「あぁ、そうやった」
来年、にこは小学校に入る。そのことで教育委員会や学校ともいささか揉め事があった。結局、あれこれあって、今のところ支援学校ではなく、普通学校の支援学級ということに話が落ち着いている。
だが、きっと話はそれだけではないだろう。
海と蓮には小さな約束があった。婚約を解消した時に、海から出された提案はただそれだけだったのだ。本当なら慰謝料を請求されてもいいようなことだったのに。
「そう言えば、今年、どうする? 検査のこと、その時に相談してもいいし。公私混同で悪いけど」
蓮の方から聞かなければならないはずなのに、男というのはこういう時、自分からはっきりと言わないという卑怯な面がある。そして海も、言い出しにくくて、こうして仕事や和子のことにかこつけて電話をしてきたのだろう。
十二月二十四日の蓮の予定は毎年空けてある。
「あぁ、もちろん、時間はそっちに任せる。今年は当直逃れたんか?」
「うん、毎年やと、いかにも残念な女やん?」
「じゃあ、二十四日に。検査予定、二月ごろにでも入れといてくれ。こっちの予定は何とかする」
電話を切って、ため息をひとつ零す。蓮のほうの一方的な理由で、如月海との婚約を解消し、医師としてこれからだった未来を捨て、にこを引き取り、そして今、こうして明日どうなるのか分からない水商売と探偵業を生業としている。
だが、こうなって分かったことも幾つもある。
蓮の今の生活は、あの頃よりもはるかに多くの人たちに支えられている。いや、支えられていることに気が付いた、ということなのかもしれない。
「おい、蓮」
いきなり扉が引き開けられた。
「いつまでも店の前に突っ立てるんじゃないよ。このへっぽこ探偵。私に頼みごとがあるんだろう。さっさと入りな」
この婆さんには本当に参る。この乱暴な言葉には、昔花柳界で一番売れっ子だった時の名残など微塵も感じられない。
だが、時々、蓮は思う。これはこの婆さんの化けの皮だ。わざと祇園言葉を使わない。愛人だったという某有名財界人の一歩後ろを歩いていたあの楚々とした姿の写真を見て、感じることがある。それは、その人の傍らで誰にも恥じないように、いくつもの言葉を操ってきた女の意気地だった。
とは言え、蓮はやはりこの老女が苦手だ。そもそもどこまでが本当で、どこから人を騙しているのか、さっぱり読めない。
三澤笙子のことを話すと、石屋の老女はくっと笑った。
「いいとも。手伝ってやるよ。で、幾らくれるんだい」
「冗談。彼女に石を売りつけただろう。詐欺商法でいつか訴えられるぞ」
「売りつけた? 人聞きの悪い。あの娘に必要なものを渡してやっただけだ。それに応じた代金は到底頂かなきゃならない。それに、だいたい、お前んとこの娘が売り上げをかっぱらったんだぞ。つまり、最終的にはお前がその代金を払うべきだ」
「にこはあんたの詐欺行為を正しただけだろう」
「言っとくけど、私は詐欺なんかしてないよ。人が何かを望めば、代価が生じる。高いか安いかは買う人間次第だ」
老女はふん、と鼻で軽く憤りを示した。
「お前はケチだ。魁はいい奴だった。年末にはいつだって困ってるだろうって、金をたんまりくれた」
この老女が生活に困っているのかどうか、蓮は全く知らない。困っていてもいなくても、どうあれ生きている。
「あの娘を使って何を企んでるんだ」
「企む? わたしゃね、石の言葉を聞いただけさ。石があの娘のところに行きたがったんだ」
「あの石には何があるんだ?」
「あれは親子石なのさ」
老女は呟いて、魔女のような目を細め、しばらく考えていたが、やがて言った。
「いいとも、蓮。ただし、舟に意地悪するな」
どういうわけか、この婆さんは舟には甘い。舟を守っているのだとも言っている。確かに、舟が何度も喧嘩で死に掛けているのに生き延びてきた裏では、この老女が祈祷でもしているのではないかという気もする。
翌朝、すでに明るくなっているものの、まだ太陽の光が射す前に、蓮と笙子は先に神社に着いて待っていた。
そこへ京都の狭い道には不釣り合いなほど立派な黒塗りの車が入ってくる。その音を聞きつけたのか、慌てて社務所から宮司とその家族らしい数人が飛び出してきた。
始めに運転手が出てきて、彼が開けた後部座席からスーツを綺麗に着こなした出雲右京が出てきた。出雲は反対側の後部座席に回り、ドアを開ける。出雲の手にエスコートされて降りてきたのは、小柄で小奇麗な老いた女性だった。降り立ってすっと背を伸ばすと、小さな体が大きく見えた。
綺麗に結い上げた髪、年に見合った控えめながらも見栄えのある化粧、それに黒留袖に珍しい龍の文様。極道の女でも演出しているのか、と思うような迫力だった。
「石屋のお婆さん?」
笙子が呟いた。
玉櫛、と呼ばれていた昔、この婆さんはさぞかし綺麗だったのだろうと思う。
「では、参りましょうか。蓮くん、笙子さん」
出雲に声を掛けられて、二人は後を追いかけた。
始めから電話を入れてあったようだ。石屋の婆さん、いや、玉櫛と出雲、神社の宮司とその家族はしばらく神妙な顔をして話をしていたが、やがて宮司の手から随分と分厚い茶封筒が玉櫛に渡された。
やれやれ、どうにもあの婆さんの詐欺行為に手を貸しているようで申し訳ないが、庭に死体が埋まっているかもしれないよりもいいだろう。
玉櫛婆さんと出雲が出てきて、その後にスコップを持った宮司と若い男が続いた。
「でも、私、あんまりはっきりと場所を覚えているわけやないんやけど」
笙子が不安そうに呟く。
「心配せんでも良いえ。石に聞かはったらええんどす」
いつもと声まで違う、と蓮は思わず玉櫛婆さんを睨んでみたが、知らんふりをされた。
笙子はポシェットのように斜め掛けした小さな布のカバンからハンカチを取り出す。ハンカチを広げるとあの天河石が現れた。それを直に掌に載せて、それから蓮の顔を不安そうに見上げる。
蓮はホープ・ストーンを見つめていた。
やがて午前中の光が東山の端から光の矢のように射しこむ。笙子が驚いたように一歩後ろに下がったが、光はまるで石を追いかけてくるようだった。
宮司は拝むように手を合わせていた。傍にいた若い男はぽかんと口を開けたままだ。
一体、どんな演出だ、と蓮はもう一度玉櫛婆さんを見る。玉櫛は当然という顔で石を見つめている。いや、彼女の目は石の光の先を追い掛けているように見える。
シラー効果よりもはるかに強い光が跳ね返り、虹の乱反射が森の中で木々の葉を照り返す。赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫、そしてその間を埋める全ての色が互いに絡まりあう。まるで巨大な鏡のドームの中、万華鏡の中に閉じ込められたような心地がする。
笙子がゆっくりと歩きはじめる。玉櫛は当たり前のように、出雲の手に引かれて後に続く。
その場所に笙子が立った時、不思議なことが起こった。突然、辺りに散らばっていた虹が全て、笙子の掌に吸い込まれた。正確には、笙子の掌の上の天河石に吸い込まれた。
玉櫛に促されて、男たちがその場所を掘った。蓮も手伝った。
やがて宮司のスコップが何か固いものに当たった。宮司は畏敬の念を禁じ得ないような顔で、玉櫛に救いを求めた。玉櫛は鷹揚に頷いた。
そして。
本当に骸骨が出てきたのだ。
だが、笙子の記憶に噛み合わないことがあった。
骨となった遺体は服を着ていた。布はかなり朽ちていたが、黒い冬の装束だった。殺されたサンタクロースには見えない。
こうなっては警察に届けなければならなかった。京都府警が鑑識を連れて飛んできた。
そして、今度は笙子の記憶が正しかったことが証明された。
遺体の下にはサンタクロースのものだと思われる赤い布の残骸があった。
そしてその遺体の朽ちかけた黒いコートのポケットから、もう一つの天河石が発見された。



次回、最終回です。
皆様に読んでいただくのが、クリスマスを越えるような気がしますが、ちょっとお許しください。
次回はそれほど長くありません。大方の人々を上手く物語に絡めてご紹介できていたでしょうか。
この物語で私が設定した人物たちは、あとは蓮が住んでいるお寺の人たちを除くと、ただ一人になりました。
竹流の立ち位置にあたる外国人の仏師です。
でも、今回はあきらめようかな……ちらっと最後に出せるかな。
さて、次回は解決編。
サンタクロースはどうなってしまったのでしょうか。
ご期待ください。
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
【雑記・あれこれ】ロンド・カプリチオーソ:たまにはスケートの話
というのか、今回、こちらが息をするのを忘れそうな、素晴らしい、思いのこもった演技が多かった気がします。
(時々、三味線を弾いていると、1曲3分くらい息をしていないような気がするときがあるのですが、その感じ……)
まずは女子のショートプログラム。
いつも真央ちゃんの前向きな頑張りには応援をし続けているのですが(彼女の滑りは痒いところに手が届くというのか、唄で言うと、その高音にちゃんと届いているのというのか、見ているものが気持ちのいい滑りですよね……)、今回は、美姫ちゃん、佳菜子ちゃん、真央ちゃん、明子ちゃんと、皆が精いっぱい力をぶつけ合った感じがあって、ちょっと涙目で見ておりました。
上手くいかない時期があったり、今シーズンはここまで調整ができなかったり、それを乗り越えて今日という日に至った選手たち。このたった3分未満のわずかの時間に全てをかける。それが上手くいかないことだってある。
その集中と緊張がピークにある状態で、こんな形で皆が精いっぱい、いいところを出しあえるって、すごいことだなぁと思って、見ている方も気持ちが高ぶっていきました。
ライバルたちを気にせず自分の演技に集中すると言っても、きっと気にもなるはずだけど、気になる<自分のやれることに集中する、というバランスがぴったり嵌っていたのというのか。
そして男子のフリー。
個人的には織田くんのジャンプの滑らかな着氷と小塚くんの気持ちのいいスケーティングが好きなのですが……今年はなんといっても町田くんでしたね。オリンピックに出たいという真剣な思いが伝わってくる、その目つき顔つきがいいなぁと思います。
羽生くんという世界のトップで争える選手が育った土台ともなった高橋くん、織田くんの世代。そこから時代は動いていくんだなぁという移り変わりを意識せざるを得ない大会でもありましたが、最後に織田くんが踏ん張って精一杯の演技をして(笑顔も良かったし)、そして何と言っても高橋くんの、痛みをこらえ血を流しながらの奮闘。
この二人が続けて演技をしたときには、もう釘付けでうるうる……
そして、小塚くんが今シーズン、上手くいかない中で這い上がってきて、で、ロンド・カプリチオーソです。
この曲、泣けます。個人的に……(これは後で)
何より高橋くんを待つ観客の熱、実力を膝の痛みのせいとはいえ出しきれなかった悔しさで泣きそうな彼に、スタンディングオベーションで拍手を送る観客。
スタンディングオベーションって、その1回の演技が素晴らしいことに贈るのは当然として、こんな風に、その選手のこれまでの色んな頑張りや歴史に対して、敬意をもって贈るものもあるんだと、思わずうるうるし。
もうラストのインタビューの涙には、こちらも思わずテレビの前で泣きました。
そうそう、この子、あかんたれやったわ……この頃の当たり前みたいな活躍を見てたら忘れてた、とか思い出したりして。
金本アニキの引退会見・大好きな城島選手の引退会見以来のインタビュー泣きでした。
それにしても、いつかのグランプリシリーズのロシア大会で熱があるのに頑張って演技していた時にも思ったけれど……何だか悲壮感漂う中での演技がこんなに似合う大ちゃんって……
(ちょっとSな発言をしてすみません(>_<))
オリンピックのような大舞台も大事だけれど、こうした試合の中で、最高の瞬間ってのが生まれてくるんですねぇ。
みんな出れたらいいのに、と思うけれど、それは勝負の世界。
誰が選ばれるにしても、ソチでは皆の想いも背負って頑張って欲しいです。
さて、ロンド・カプリチオーソ。
以前の記事で竹宮恵子さんの作品の中で、すごく好きなものがあるって、ある短編をご紹介しました。
(→【物語を遊ぼう】7.『ジルベスターの星から』)
その時に、長編以外でもう一つ好きな作品があっていつかご紹介したいと書いていたのが『ロンド・カプリチオーソ』だったのです。
しかも、この物語、なんとスケートの物語。
視力を失った天才スケーターの弟と、やはりもともとスケーターとして名を馳せながら弟の才能に嫉妬してきた兄の、兄弟葛藤の物語。
何回読んでも泣けるんですよね。
私が作中でしばしば兄弟葛藤を書いてしまう、その大元はこの作品でした。
懐かしいなぁ。また読み返そうっと。(いつか記事にもしたい……です)
その前に、今日の女子フリーも楽しみです(*^_^*)
追記(3日目を見終わって)
高橋くん、ソチ代表、おめでとう(^^) 小塚くんの分も是非とも頑張って欲しいです。
今日のピークは明子ちゃんの演技でしたね。
でも、みんなの一生懸命や喜びや、そして悔しさが本当に伝わってきて、またうるうるしていたのでした。
上手くいかなかった悔しさ、それもまた明日へのバネ。みんな頑張れ!
Category: あれこれ
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(2)
なかなか本筋に行きつけないのは、色んな登場人物たちを楽しんでいただこうという企画でもあるからですが……
クリスマスにふさわしい大団円にあと2回ほどでなるかしら?
まずはお楽しみください(*^_^*)



「あんたねぇ、そろそろ開き直って抱かれてやんなさいよ。あのセンセ、あんたに夢中なんだから」
注文を伝えに蓮がカウンターに戻ると、クルクルの金髪に青いアイシャドウ、真っ赤な口紅のママが、わざとらしく口を尖らせた。カウンターの客の一人と、蓮とある客のことを話題にしていたのだろう。
大柄な男だが、元々肌のきれいなママは、最近、化粧のノリを気にしている。歳を取ったのよ、いやんなるわ、と手入れには余念がないが、若い子を雇うたびにため息をついている。
「いつまでもお高くとまってちゃ、この厳しい世の中、渡って行けないわよ。売れるのは若いうちだけなんだからね。てか、あんた、もう相当の年増なのよ」
ママがそんな話をしているのは、半分以上、冗談だ。そもそもこの店は男性が男性の相手を求めに来るような店ではない。
だが、たまに紛れ込んでいる本気の客を牽制する意味もある。カウンターの端に座って、黙って飲んでいる客だ。職業を聞いたこともないが、ヤクザかもしれないと言われいて、蓮を狙っているとまことしやかな噂が流れていた。
そもそも蓮はこの店のホール係だ。座って客の相手をしたり、ショウに出たり、俗にいうアフターのサービスをするようなことは、仕事の中に含まれていない。
ママは、比較的良心的な値段のついた水割りを作って、厳つい笑顔を振りまきながら、カウンターの手前に座る客に相槌を求めた。
客はゴロウちゃんと呼ばれている。国民的某アイドルグループの一人に似ているのでそう呼ばれいてる。出版社に勤めているサラリーマンで、週に三度はやって来る、明るい男だった。本物のホモセクシュアルだ。こちらも蓮にプライベートで会わないかと何度も言い寄ってきているが、どちらかというと挨拶代りに口説いているに過ぎない。
「そうや、オシャカちゃん、バージンなんてもう捨てちゃえ。下手に持ってるから、あれこれ周りが浮足立つんや。せやから、前から言うてるやろ。俺が相手したろ、て」
この店で、一部の客や従業員は蓮のことをオシャカちゃんと呼ぶ。一度聞いたら忘れられない「釈迦堂」という苗字だからだ。
釈迦堂蓮。この名前のお蔭で、もしかすると「寺に住んでいる」「お寺の家の子」というイメージが生まれたのかもしれない。
「馬鹿ね。センセに殺されるわよ」
彼らがセンセと呼んでいるのは、国立大学の理学部、地球惑星科学講座の准教授、出雲右京だった。
この店では、ぶっ飛んだ学問を研究しているということと、上品で紳士らしい立ち居振る舞いで人気だった。しかも、華族か宮家の縁戚か、かなりの上流の家系らしく、決して大仰な金の使い方はしないが、金離れは綺麗だ。花街にも政界にも顔がきくという出雲家の人間には、京都の裏でうごめく闇の顔たちも一目置いているらしいと聞いている。
蓮は出雲に、こんな店に出入りしていて大学や家で何も言われないのかと聞いたことがある。出雲は世間ずれしているのか、意味が分からなかったようだった。
出雲はしかし、店にやってきて、蓮をじっと見つめてはいるが、少なくとも蓮をベッドに誘うようなことはしない。
その理由を、蓮はもう知っている。
蓮には男と寝るつもりなどなかったが、もし誰かをどうしても選ばなければならないのなら、出雲ならば悪くはないと思っていた。ママには言っていないが、実はいささか滅入っていた日に、ままよと思ってホテルに誘われるままについて行ったことがある。
事に及ぶのかと覚悟をしたら、出雲はやっと二人きりで話ができると喜んだ。
何のことはない。蓮の母親の幼馴染で、父親と恋のさや当てをした関係だったという。だからそれを蓮に伝えたかっただけなのだ。
あれこれ思い出があるようだが、みなまでは聞いていない。出雲は酒に弱く、すぐ寝てしまうのだ。
本当は蓮のほうでも出雲に聞きたいことがあるのだが、その反面、聞きたくないことでもあった。
蓮は両親の顔を覚えていない。父親は日本にいないし、母親は亡くなっている。自分をちゃんと育ててくれなかった親を、今のところまだ親とは認めていない。
「もうすぐクリスマスなんだから、クリスマスプレゼントにバージンを差し出すとか。でないと、この変態ゴロウに食われるわよ。あら、噂をすれば何とやら。いらっしゃい」
開いた扉にママが声を掛ける。
まさに、出雲が入ってきたのだ。やや痩せ気味で背が高い、ロマンスグレーというよりは純朴な研究者という印象。眼鏡をかけているが、それほど視力が悪いわけではないらしい。顔立ちはいわゆる濃いタイプで、目鼻もはっきりしているのだが、どうやら服装には時代がかった残念さが漂っているために、街を歩いているとちょっと変な人と思われている節がある。
もちろん、出雲は気にしていない。
蓮は目だけで微かに挨拶をする。出雲はいつものようにカウンターに座って、人のよさそうな笑顔で薄い水割りを注文している。
「あれ、センセ、いつからアメリカだっけ?」
「来週ですよ」
「おぉ、自由の国、アメリカ。男同士でも結婚できる州がある。羨ましい」
ゴロウさんはもうかなり出来上がっている。
「センセ、どうせなら蓮を連れて行ったら?」
「もうプロポーズしたのですが、断られました」
だいたい出雲の言い方に問題があるから、みなが誤解するのだと蓮は思っていた。出雲のプロポーズは文字通り、申し込む、というだけの意味だ。
「あら、やだ。そうなの? 蓮」
たかがヒューストンに学会に行くだけなのだ。しかもたった二週間の旅程だ。大袈裟に過ぎる。蓮は、フロアから呼ばれたことをいいことに、カウンターを離れた。
それからショウタイムが二回、客の出入りも賑やかになる。不況なのに、いや不況だからか、この店は賑やかだ。蓮はいつものように黙々と働いた。
もともとコミュニケーションが得意な方ではなかった。だからホール係が精いっぱいだ。
テレビで紹介されたこともあるこの店は、ショウのクオリティも大衆芸能並みに高くて、不況を謳われて長いうちにも客足も途絶えなかった。会計が明瞭であること、時にタロット占いと手相を見るのが得意のママが人生相談に答えてくれること、それに何より、相手に応じた接客の質が保たれていることもあるのだろう。おかげで給料も悪くない。
生涯続けるつもりだったある仕事を辞めて途方に暮れていた時、人伝でここに雇ってもらった。ちゃんとした仕事が見つかるまでのバイト、ということだったが、いつの間にかもう一年近くになる。その間に、有難いことに、ママや店のオーナーは、蓮は戦力の一人として大事にしてくれるようになっていた。
よく気が付く、と言われる。人を観察していると様々なことがわかる。ただそれだけのことだった。
それに、蓮はもう一つ、辞めるに辞められない仕事を持っていた。辞められないのだが、こちらははっきり言って全く金を稼ぐあてのない仕事だった。だからこの店のバイトも辞められない。
元の仕事は、続けていれば生活に困らない給料をもらえるはずだったが、戻る気はない。というよりも、色んな意味で戻ることはできないだろう。その仕事のことを知っているのは、この店ではママだけだった。始めはものすごく胡散臭い顔をされた。だが、今では蓮を認めてくれて、将来を心配してくれてさえいる。
シンシアがカウンターに近付いてきたときが、「もうひとつの仕事」の依頼が舞い込んだ時だった。
「ちょっと、蓮、やっぱりあんたに話を聞いてもらった方がいいみたいよ、あの子」
「何なの、シンシア」
ママが低い声で窘めるように尋ねる。
「殺人事件を目撃したんだって。それも十五年も前に」
「それって時効じゃないの?」
「あれ、今って、凶悪犯罪は時効って無くなったんじゃないの?」
ゴロウちゃんが口を挟んでくる。後を引き取ったのは例のごとく出雲だ。
「そうですよ。2010年の4月27日に改正されたのです。それまでは、殺人罪の公訴時効、つまり犯罪が終わった時から一定期間を過ぎると検察官が公訴を提起できなくなることですが、刑事訴訟法250条1号により、25年と定められていたのですね。ですから、そもそも15年前の殺人事件は、致死罪以外であれば、どちらにしてもまだ時効ではありませんね。ちなみに、2010年4月27日までに公訴時効が完成していない罪であれば、すべて新法が適用されます」
「センセ、かたいわよ」
ママが出雲にダメ出しをする。
「いや、彼女が見たのはそもそも殺人現場ではなくて、死体遺棄現場でしょう。しかも、もし本当なら、探偵じゃなくて警察に行くべきです」
さっきの話を一部耳にしていた蓮が訂正する。
「警察が15年も前の子どもの記憶を信用して、捜査をする可能性は低いでしょうね。某テレビ番組の暇な特捜でもない限り」
右京という同じ名前の主人公が活躍している番組だ。ゴロウさんがそうやそうや、と頷いている。
「何でもいいけど、あの子、今日の昼間、あんたの事務所に行ったみたいよ」
「ええ~、じゃあ、何だかあたしがあんたの仕事の邪魔をしたみたいねぇ。本当ならあんた、事務所で寝てたはずなのに、あたしがめんどくさい飾りつけの仕事なんか押し付けちゃったから事務所、閉めてたんでしょ」
そうなのだが、ちょっと嫌な予感がした。事務所は閉まっていると言えば閉まっているが、開いていると言えば開いているのだ。一階の胡散臭い店と扉を共有しているために、一階が開いていれば、店には入ることができる。
「何にしても、ここは釈迦堂探偵の出番というわけや」
ゴロウさんがぽんと蓮の腕を叩いた。
正確には、「釈迦堂探偵」は蓮ではない。釈迦堂探偵事務所は蓮の叔父、釈迦堂魁がやっていた事務所なのだが、今は蓮だけがその事務所で働いている。
魁は失踪していて、現在行方が分からない。叔父が戻って来るまで蓮が店番をしている、そういう状況だった。いや、本来なら魁の息子が手伝ってくれたらいいのだが、彼にはそのつもりはさらさらないらしい。
その時、『華恋』のリーダー、セクシーダイナマイト系ドラマーが、困った顔でおどおどした童顔のヴォーカリストを連れてカウンターに近付いてきた。
「はい、蓮、頼むわ。うちのヴォーカル、この通り不思議お嬢ちゃんだけど、今日はちょっと真剣みたい」
そう言ってウィンクする。
このバンドの売りは、この一見おどおどしたムードの童顔ヴォーカリストのギャップなのだ。そのことがよく分かっているリーダーを始めメンバーは、なんだかんだ言いつつこの不思議お嬢ちゃんを大事にしている。
彼女のウィンクの意味はこうだ。
笙子は蓮に気があるみたいだから、話を聞いてやってよ。クリスマス前なんやし。
蓮は、こういう店の場面ではありがちな勘繰りには少しだけうんざりしたものの、笙子の気配はさっきから気になっていた。
「奥、開いてるわよ」
ママが勧めたのは、ママが真剣な人生相談の際に使っている小部屋だった。タロット占いもする。タロット占いと人生相談の代金は最低三千円、というわけだ。たまに政財界のそこそこの人物がやって来るという噂もある。
蓮も、自分の「もうひとつの仕事」の第二事務所的に、その部屋を時々使わせてもらっている。
ヴォーカリストの名前は三澤笙子といった。家は、彼女の名前の通り、雅楽の演奏者の家系だった。笙子がロックをやっていることは、今のところ家族の誰も知らないのだという。
だがグループは有名になりつつあった。メディアが目を付け始めている。笙子は二年生だが、グループの主要メンバーは四年生だ。進路を考えるのに遅すぎるくらいなのだ。そろそろ、答えを出す時が来ている。笙子自身も、自分の別の顔を選ぶか、このグループを選ぶか、選択を迫られているようだ。
雅楽の民間への普及は、一部の高名な演奏家のお蔭で幾分かは保たれている。だが、指導者は少なく、他の楽器奏者、舞楽の舞い手、さらに楽器や伝統的装束の製作者を含めた伝承が必要であるために、足並みがそろうというものでもないようだ。笙子の母親の家系が、鳳笙の楽家なのだと聞いている。そして笙子自身も、雅楽の少ない正統継承者としての将来を期待され、自身も大学に入るまでは、その期待に応えるものだと思っていた。
クリスマスライブが終わったらグループとしての進退を決める、と『華連』のリーダーが言っていたらしい。人生のひとつの岐路というわけだ。
小部屋にはエスニックな布が壁や窓、扉にデコレーションされていて、薄暗い赤っぽい照明をつけて香を焚くと、エキゾチックなムードが満点になる。三畳ほどの小部屋には、やはりアジアンテイストな布を掛けられた木のテーブルと二客の椅子、タロットや水晶などそれらしいアイテムをしまう木製の棚があるばかりで、他には何もないが、それだけでいっぱいの部屋だった。
この部屋に入ると、何となく秘密の暴露をしてしまいたくなる人間の心理もちょっと分からないでもない。
だが、蓮は例のごとく、蛍光灯をつけて部屋を明るくした。
そうしてしまうと、薄い布地で色とりどりに光のイメージを変え妖しさを演出していたムードは吹き飛んで、なんだ、この程度のものかという現実がはっきりする。
蓮と向かい合った笙子は俯いたままだった。
蓮はあまり自分の方からあれこれ話しかける方ではない。黙って相手の話し始めるのを待っている。その沈黙が圧迫にならないから不思議だと、よく人に言われる。一方で見かけは平穏で平和主義者っぽいのに、内側では激昂しやすいという部分もある。怒りの形で爆発するというのではなく、感情が高ぶるのだ。
だがこの一年、そのすべてを押し込めて暮らしてきた。
「事務所に来てくれたんだってね」
笙子はまだ俯いているが、小さな声で答えた。
「シュウに聞いて……」
思わぬ名前に蓮はしばし唖然とした。てっきり店の誰かが教えたのだと思っていた。いったい、この娘と舟にどんな関係があるというのだ。
「舟とは知り合いなのか」
「……」
あのくそ馬鹿、あり得ないことではないと蓮は思った。
釈迦堂舟。釈迦堂魁の息子で、蓮とは従兄弟同士ということになる。蓮よりも五つほど年下だ。まともな仕事をせずに、不穏な連中と付き合っている。
舟が女に絡む場合に「お友達」はあり得ない。ついでに男に絡む時だって半分はそういうことだ。残りの半分は敵、つまり喧嘩相手だ。喧嘩と言っても可愛らしいものではない。しばしば命のやり取りになりかける。
「三澤さん」
「舟を怒らんといてください」
そう言って顔を上げた童顔娘は、ほんの少しばかり女の表情を漂わせていた。
「いや、俺が舟に何かを言える立場じゃないんだ。怒ることはしないけれど……その、正直、君がつき合って幸せになれる相手とは思わないよ」
笙子は答えなかった。
「舟のことは今度ゆっくり話そう」
蓮は一度言葉を切った。笙子は黙ったままだった。
「君の殺人遺棄現場の目撃だけど、十五年も昔のことを、今になって急に調べてもらおうと思ったのには何か理由があるんじゃないの?」
笙子は少し部屋を見回した。そしてふと肩を落とした。
可愛らしい娘だと思う。世間知らずのお嬢様のイメージだ。それがマイクを持った途端に豹変するとなると、ちょっと興味深いと思う男は大勢いるだろう。
やがて笙子は、石がポケットの中で鳴っていて、と言った。
蓮はやはり嫌な予感が的中したと思った。
笙子はジーンズのポケットから石を取り出す。
「天河石」
蓮は呟いた。
「石の名前?」
「うん。アマゾナイトとも言われている。いくら請求された?」
「一万円」
あの婆さん、と蓮が思う間もなく、笙子が先を続ける。
「あ、でも、すぐに、小さい女の子が追いかけてきて、お金を返してくれて……むしろ私の方が、この石を返さないと」
にこ、また遊びに行っていたのか。あの婆さんには近づくなと言ってあるのに。
あの石売りの婆さんは、子どもからも平気で金を巻き上げる。にこだって、お小遣いというほどのものは持っていないが、小銭やがらくたとは言え大事にしているものをかっぱらわれたことは、一度や二度ではないはずだ。
やはり保育園は辞めさせようか。探偵事務所の近くということで選んだ保育園だったが、それは結局、あの石屋にも近いということだ。蓮やお寺の奥さんが迎えに行けない時には、いつの間にか婆さんのところで待つようになっていた。
寺では大人しかいないし、一人で蓮を待っていても寂しいのではないかと思って保育園に行かせたが、園でも一人で遊んでいるという。病気のせいもあるが、あまり友だちとも打ち解けていないようだし、保育園は楽しいかと聞いても返事をしない。
いや、にこはそもそも蓮にはほとんど口を利かない。
本当の親でもないのだから。
「婆さんは何て?」
「これで迷いが吹っ切れるって」
「で、一万円請求されたわけだ」
「でも結果的には払ってないです」
「いいんだ。もうこれは君の手元にやって来た。だからこれは君の石だ」
笙子は不思議そうな顔をした。何、と蓮が聞くと、石屋のお婆さんも同じことを言ったと答えた。
「どういう意味なんでしょうか」
「石が君を選んだんだ。だからこれは君の石だ。金のやり取りは終わっている。にこが君に金を返したのは彼女の勝手だから、気にしなくていい」
「石が私を選んだ?」
蓮は石を取り上げた。蒼い、空の色とも森の色とも水の色ともつかない、翡翠よりもさらに透明度の高いガラスのような質感。かなり上質の天河石だ。
あの店のどの棚にこの石があったか、蓮は思い出すことができた。
石たちの囁く声も、聞き分けることができる。それは小さな声だが、微かに震えている。もちろん、石たちはいつも語りかけてくるわけではない。
そして今、掌に載せた時、この石は何かを話しかけていた。蓮にではなく、笙子に言いたいことがあるのだ。
「別名アマゾナイト、長石族の中の微斜長石に属する天然石だ。実際にはアマゾンで川周辺では産出されていないけれど。ほら、見てごらん」
蓮は蛍光灯に石をかざした。キラキラと光が虹色に輝く。笙子はあ、と声を上げた。
「これはシラー効果という現象だ。光を反射してキラキラと輝くアマゾナイトは良質なものなんだ。まだ形を整えてないのに、少し磨いただけでこんな光を跳ね返すのは、いいものだってことだよ」
「お詳しいんですね」
それはそうだ。学生時代、蓮はあの店でバイトをしていたことがある。というよりも、叔父の魁の探偵事務所に遊びに来ていて、ついでに一階の石屋の店番を無理やりさせられていたというのが正解だ。
「石にはそれぞれ意味がある。この石は別名ホープストーンと呼ばれていて、心の曇りを吹き払って明るい希望をもたらしてくれる力がある。物事をマイナスに考えてしまうようなときには、この石が明るい方へ導いてくれるんだ。それに、心身のバランスを整えるという効果の中には、幼少期から思春期にかけてのトラウマを解決するという意味もある」
笙子は蓮を見つめた。
蓮は、この石の効果をもう一つ付け加えようとして、辞めた。
この石は、環境が変わった時に、たとえば、恋愛が始まった時に、その行先を明るく照らしてくれるとも言われる。だが、舟が相手ではうまくは行かないだろう。期待は持たせたくない。
「もちろん、石が本当にパワーを持っているというわけじゃない。持った人間がどう考えるかということだ」
蓮さんは優しい、と笙子は言った。誰と比べたのかは聞かなかった。
それに蓮だって、優しいという言葉に見合うような人間ではないかもしれない。本当に優しい人間にはもっとやりようがあるものだ。うわべを取り繕うことは誰にだってできる。
舟と蓮は表裏一体のような関係だ。切り離せない。
やがて、笙子は息を吸い込んだ。
「蓮さん、一緒に行ってくれはりますか? サンタクロースが埋められた場所に」



色んな人物を紹介するのがひとつの目的だったので、ちょっと本来の筋から離れていますが、そんなに大した話ではないので、もうしばらくお付き合いください。謎、というほどのものは出てきませんので……
全体のムードがお伝えできたらいいなぁと思っています。
そう、石の不思議なパワーをお贈りできたら、と思うのです。
もちろん、私も正味パワーストーンなるものを信じているわけではないのですが、それは連の言うとおり、持つ者の問題だと思っています。
さて、いよいよ、埋められたサンタクロースを掘り起こしに行きましょう。
次回は長めかも。終わるかな?
↑終わるわけないやん!
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
【雑記・小説】登場人物の声・妄想
その中でご紹介くださった「メディアミックス妄想バトン」、自分の小説がアニメになったら……というのが面白いなぁと思ったのですが、なかなか内容が濃くて、とても私には無理そうだったので、諦めました(^^)
でも、もう20年?ほども言い続けていたこと、ですが、うちの登場人物のメインである相川真の声は、この人の歌声だと思っている人がいて、真の設定が少し動いても、これだけは変わらなかったなぁと思います。
イメージとしては、結婚したころ…でしょうか?
まずは、お聴きください。
季節はピッタリですが、クリスマスの楽しいシーズンにちょっと物悲しい曲ですみません。
この曲、時々無性に聴きたくなるんです。この曲の、孝蔵さんの声が大好きすぎて、曲の世界と声に浸るのです。
昔(多分、中学生の頃?)まだ音楽を聞くメディアはカセットテープしかなかったころ、親に怒られないように夜中にこっそりラジカセを布団の中に持ち込んで聴いていたものです。
(イヤホンとかヘッドホンとか、普通の家庭にはなかったのです)
村下孝蔵さん。1999年に脳出血で亡くなられたのですが、今でも地味にファンがあちこちに……
私もその一人。弟も好きで(孝蔵さんはギターが上手かったんですよね…・で、ギター小僧たちの憧れだったりもした)、一緒に何回かコンサートにも行きました。
あ、体型はかなりまるっこい人だったので、その辺りは絶対痩せ型の真とは全然違いますけれど、この丸っこいイメージは孝蔵さんの優しさにはピッタリ。
ヒットしたのは『初恋』くらいだったかもしれませんが、他にもアーチストがカバーしている曲がいくつかあります。
私のイチオシは実はあまり知られていない地味な曲……『夕焼けの町』
でも、この曲の中の「美しい」という言葉を聞くと、言葉って飾らないでストレートに言っちゃっていいんだな、それだけでこんなにも伝わるんだと思えます。言霊、って本当だと。
そう、孝蔵さんの歌は、言葉を本当に大事にしている。
難しいことは何も言っていないけれど、じわっと心に沁み込んできます。
ライブの音源があったらいいのですが、他にアップされていなかった……地味すぎて^^;
そして、この曲も大好きな曲……『踊り子』
これは音もいいですね。
最後に。
今年も色んなことがあって、日本はどうなるんだろうって思いながら、1年が暮れていきます。
でもこの曲を聴くとやっぱり心が慰められる。
この曲の似合う日本に、来年は少しでもなったらいいなぁ。
『この国に生まれてよかった』
歌う声と話す声は違うかもしれないので、何とも言えませんが……
真って、そう言えば、あまり歌わないけれど、唄うのは民謡だったりするんでした……
息子はピアニスト(のち、指揮者)。彼も歌う。彼が歌うのは……オペラの曲とカンツォーネ。
そう言えば、ひ孫はロック歌手だった。
妄想するのって、楽しいですね(*^_^*)
全然関係ないけれど。
今年、一番自分でツボに嵌ったこと。
北海道をレンタカーで走っている時、そうか、北海道では「県道」じゃなくて「道道」なんだ!と気が付いた瞬間。
しょうもなくて済みません^^;
あの六角形の看板に書かれた「道道」が何だか可愛くて。

では、クリスマスの贈りもの。また明日

Category: 小説・バトン
【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件(1)
プロローグと言っても、この先、本編が始まるのいつのことやら。
そもそも、波乱万丈な相川真の人生がちょっと可哀そうだという友人の言葉もあり、じゃあ、ハッピー版を書くよ、ってな話をして早3年以上。
その時に生まれた妄想、自分の小説の二次小説を書く、みたいなかんじで設定を作ったのです。
が、設定で遊んでいるうちに、頭の中ではまるで独立した物語に……
せっかくのクリスマス企画なので、チラ見していただこうと思いまして、大したストーリーではないのですが、色んな面白い登場人物たちをお楽しみに戴く企画にしました。
さて、今回はどんな『聖夜の贈りもの』でしょうか。
さっそく、クリスマスまであと1週間の京都の町にご案内いたしましょう。



四条河原町から東へ百メートルも歩かないうちに、高瀬川の細く浅い流れに行き当たる。その手前を曲がり、やはり細い道を南へ下ると、両脇に小さな店が立ち並ぶ一角がある。天婦羅料理店、雑炊の店、焼き鳥屋、ペルー料理店、ブランド品を廉価で売る店、場違いなピンクサロンの賑やかなネオンもある。
平日の昼過ぎならば決して人通りが多いわけではないこの道を、細い足をぴったりのジーンズに包み、短いダウンジャケットを着て、サングラスをかけたボブカットの女性が、ひとつひとつ、店の看板を確かめるように歩いていた。
やがて、彼女は一軒の店の前で立ち止まる。
目立つ看板は上がっていない。古い木の扉の上半分に暗いオレンジ色のガラスがはめ込まれ、大きな取っ手には小さな木札がぶら下がっていた。
そこに、あまり綺麗とは言えない字で『奇跡、売ります』と書かれている。
道に面しているのはその扉と、腰高窓だけだ。窓の向こう、通りから見えるところにディスプレイされているのは、バスケットボールほどの大きな紫水晶、その周りに色合いも多彩な石が幾つか置かれている。磨かれた丸く綺麗な石ではなく、原石のようなものばかりだ。
彼女はじっとその腰高窓の中を見つめていた。それから徐にその店の上方、路に切り取られた空を見上げ、ダウンのポケットに突っ込んでいた手を出した。
手に持っているのは小さな紙切れだった。
『釈迦堂探偵事務所』
四条木屋町通りを下って細い路地、高瀬川側の二階、一階は石屋。
石屋、が何を指すのか分からなかったが、歩いてきた中で石に関係する店はここだけだ。流行のパワーストーンを売る店だろうか。それならもう少し小奇麗にして、入りやすい雰囲気にすればいいのに。
サングラスを外した女性は、格好には似合わない高校生と言ってもいい顔立ちで、化粧も薄く、口紅も淡い桜色だった。高校生ではないとしても、せいぜい二十歳を過ぎたばかりにしか見えない。
看板も出ていないのでは確認もできない。
彼女が惑っていると、いきなり店の扉が引き開けられた。
顔を出したのは、小柄な老女だった。
おとぎ話に出てくる悪い魔女のような顔つきだ。魔女にありがちな黒い頭巾の代わりに、紫の羽根がついた灰色の奇妙な帽子を被っている。唇は年甲斐もなく赤い。黒いロングドレスに、肩に纏った黒い毛糸のストールがマントのように大きく見える。
「店の前でぼーっと突っ立たれたら、営業妨害だよ」
声まで魔女みたい、と彼女は思った。営業妨害も何も、そもそも客が入るような店構えではない。
魔女は彼女を頭の先から足の先まで見る。そしてふん、と鼻で息を吐き出した。
「蓮なら留守だよ。バイトしてるオカマパブがクリスマスの飾りつけだってんで、今日は早々に出ていったのさ」
彼女はまだ惑っていた。だから魔女はまた大袈裟にため息をついた。
「あんた、わざわざここまでやって来て、まだ迷ってるのかい」
そう言って顎を動かした。彼女は突っ立ったままだ。魔女は呆れたようにもう一度顎を動かす。やっと、入れと言われているのだと気が付いて、彼女は操られるように中に入った。
店の扉が閉まった途端に、外の音が一切シャットアウトされたので、突然異空間に入り込んだようだった。
店の中は思った以上に広く感じた。照明が暗めなので、余計にそう思えたのかもしれない。肩ぐらいの高さまでの木製の棚が数列並んでいる。棚は棚板で細かく仕切られ、びっしりと、まさに隙間ないほどにびっしりと石が並んでいた。水晶は分かる。しかしほとんどは初めて見る石ばかりだった。色も形も様々だ。
奥にカウンターがある。カウンターの向こうに窓があり、幾分か明るい。窓の向こうに柳の枝が見えていた。扉の真正面に当たる部分に階段がある。
階段の上のほうで何かが動いたように見えたが、目の錯覚かもしれない。
魔女は棚の間を滑るように歩いている。足音も聞こえない。
やがて魔女は立ち止まり、棚の奥へ手を伸ばし、何かを手に掴んで彼女のところへ戻ってきた。何も話さないままの彼女の手を取り、その掌に何かを載せる。
空の青と水の緑を混ぜたような色、ガラスのような質感の五百円玉ほどの大きさの石だ。丸みを帯びたいびつな台形で、形を整えられてはいないが表面は磨かれている。白い筋が幾本か、緑と青の色合いの中を走っている。
彼女がじっと見つめていると、窓からの光によるのか、一瞬微かに、虹のような色合いが反射した。光は確かに虹色の幻影を走らせたが、すいっと闇に吸い込まれるように消えた。
吸い込んだ闇を追いかけるように、彼女はもう一度階段のほうを見た。今一度、確かに何かがちらりと動いた。確かめに行くよりも、早くここを出た方がいいのかもしれない。
もう一度石に視線を戻したが、虹はもう消えいている。元からの青と緑の狭間、そして白い筋だけだ。
「一万円だ。それで迷いが吹っ切れるなら安いもんだろう」
魔女に睨まれて、彼女は何かに憑りつかれたように財布を出していた。なけなしの一万円札が一枚、顔を出した途端に、魔女にひったくられた。
「これでも負けといてやってるんだ。そいつは強力なパワーのある石だからね。さぁ、もうそれはあんたの石だ。蓮なら『ヴィーナスの溜息』だよ。溜息っていうより、鼻息って感じの店だけどね。さっさと行きな。全く、蓮の奴はカイの店をちゃんとやる気でやってるのかね」
彼女は何だか分からないままに掌の石を握りしめ、魔女の視線に追い出されるように扉を開けた。
「お嬢さん、今日が『その日』だ。今日を逃すと、心配事は解消されずに真実は永遠に手に入らないよ」
言葉が終わると同時に扉が閉まる音。
占い師のようなことを言う、と彼女は思った。手を開いて、押し付けられた石を見る。あの一瞬の虹は何だったのだろう。今、通りに出て冬の昼下がり、明るく鋭い光の中に晒されても、石は沈黙している。
というのか、私って騙されてない? じゃなくて、これってカツアゲ?
財布が空になったのはまずい。今日はその『ヴィーナスの溜息』に仲間たちと一緒に行くつもりだったのだ。そこに行けば彼に会えることは知っていた。でも、できれば静かなところで話を聞いてもらいたかったのだ。
やっぱり石を返して、お金を返してもらおう。
そう思って振り返ると、真後ろに子どもが立っていた。
痩せた女の子だ。赤いスカートに白いタイツ、暖かそうな白いセーターはスカートが隠れそうなくらいに長い。短い髪、目が大きくて、唇の色は寒さのためか赤いというよりも青黒く見える。それでも頬はピンク色だった。三歳か四歳くらいだろうか。くたくたになったバイキンマンのぬいぐるみを左手に抱いて、右手を彼女の方に差し伸ばしていた。
その手には一万円が握られている。
彼女は反応することさえも忘れいてた。突っ立っている彼女に、子どもはさらに力を入れて一万円を差し出す。ニコリともせず、無愛想で無表情な顔のままだった。
「あ……あの、ありがとう」
代わりに石を返そうとしたら、女の子は首を強く横に振った。そのまま踵を返し、石屋の重い扉を押し開け、中に消える。勢いで扉が閉まった時、大きな木の取っ手にぶら下げられた木札がひっくり返った。
『二階 釈迦堂探偵事務所 この扉からお入りください』
何となく扉の上の方に目をあげると、そこに店の名前があった。
『鉱石・奇石研究所 奇跡屋』
今さらだが、怪しいことこの上ない。というのか、石を返さなくちゃ。
扉に手を掛けたが、中から鍵が掛けられてしまったようで開かなかった。
人通りが多くないとはいえ、あまりガチャガチャやっているのも恥ずかしくなって、彼女はすぐに諦めた。また今度、返しに来たらいいか。
もう一度、掌の上の石を見つめる。
奇石、だから奇跡なのか。だから、奇跡を売る? 何だかやっぱり騙されているみたいだ。
彼女はジーンズのポケットに石を入れた。やはり虹は戻ってこない。でも……これはもしかするとクリスマスプレゼントなのかも。
もっとも、この怪しい『奇跡を売る店』にはクリスマスらしいディスプレイもなければ、その暖かい聖なる光の気配もない。
クリスマスまで一週間。騙されてみるのも悪くないかもしれない。



「あたしは幼稚園の時にはもう分かってたわ」
「なんや、やっぱりあんた、そんな頃からませとったんや」
「私は小学生の時かなぁ。男の子らが話してんの聞いて」
「あ~ら、私なんか、ピュアだったからぁ、高校生の時に初めて気が付いたのよぉ。あれはパパだったんだって」
「嘘や~、それ、ぜったい嘘。ソノコさんがピュアなんてありえへん」
「なんやと~。信じてくれ~」
「きゃ~、おっさんに戻ってる~」
「よっしゃ。罰として、水攻めじゃ~。あ、蓮、水持って来て」
蓮は、今日は一層賑やかなテーブルを振り返った。最近よく来るようになった女子大生五人と、化粧はしているものの厳つい顔つきの大柄な『女』、それにかなり美人だけど声の低い『女』がテーブルを囲んでいる。
この店は会計が明瞭で、高い酒は置いてあるのだが、あまり押し付けることをしない。飲みかたを選べば比較的安価なのと、お笑いとダンスを取り入れたショウが人気で健康オカマパブを謳っているのと、最近のオネエブームにあやかってなのか、興味津々の女性客も少なくない。女子大生でも、毎日は無理でも、月に一、二度遊びに来るのには問題がないはずだった。
この店では、女性客は男性客とは違う意味で歓迎されている。女性はその気になれば金離れがいい。それに、特に若い女性は、化粧や洋服、アクセサリーと言ったファッション情報の発信源でもある。
いわゆるゲイバーと言われる系統の店にもいくつかの種類があり、そこで働く男性にも色々な種類の人間がいるが、この店は客の性別が問題となるような店ではなかった。つまり、真剣に男同士の付き合いを求めているのだから女は来ないで、という種類の店ではない。
「え~、蓮くん、水じゃなくて酒」
蓮はカウンターの中のママに合図をする。もちろん、持っていくのは水だ。ソノコさんの声が前半は太く、後半には高音になる。
「だ~め。あんたたち、大概にしときなさいよぉ。あたしがあんたたちのママなら、月に代わってお仕置きよ~」
「ふる~い!」
蓮がテーブルにミネラルウォーターの瓶を置くと、女性五人組のリーダーが、あーあ、何で水なの、と文句を言った。もっとも、声は怒ってなどいない。髪の毛の一部をきついピンクに染め、目の吊り上がった、いわゆるセクシーダイナマイト系である。
彼女らももう酒は潮時だと分かっている。とにかく騒ぎたいだけなのだ。
それもそのはず、この五人組は今、京都ではちょっと話題の女子大生ロックバンド『華恋』のメンバーたちだった。彼らのスケジュールは明日からクリスマスイヴまでびっしり詰まっている。だから、今日は前夜祭で何が何でも盛り上がる、ということらしい。
「蓮くんって、何でホールなん? 見栄えはいいから、モテるんとちゃうん?」
「そうや、ちょっと座っていかへん?」
「だめよ~」
大柄でどぎつい化粧をしたソノコさんが太い声で止めた。ソノコさんはこう見えてショウタイムの一番の人気者だ。お笑いもできるし、物まねのレパートリーは某ものまね芸人にも引けを取らない。それにダンスもできる。ダンスというより、格闘技だ。空手の有段者だった。
「うちの店では、あんたたちみたいな狼女から蓮を守るべし、って条例があるのよ~」
女子大生たちは『狼女』に大うけだった。
「そう言えば、蓮は何歳頃まで信じてたん?」
このバンドで最も正統派美人と言えるベーシストが聞いてきた。目元に力があり、唇は薄く、何より華やかな顔立ちだ。
「何を?」
「サンタクロースやん」
その話題だったのか、と蓮はちらりと最も目立たないメンバーを見た。
さっきから少し気になっていたのだ。賑やかなグループの中で一人だけ大人しいのはいつものことなのだが、いつもより輪をかけて静かだ。俯いて、何か堪えているようにも見える。そして、どういうわけか今日はちらちらと蓮を見ているのだ。
「さぁ、うちは始めからサンタクロースなんか来なかったけど」
蓮が答えると、ボーイッシュなギタリストが手を叩いた。
「あ、そうや。蓮くんちはお寺なんやっけ」
「あれ? 探偵事務所じゃなかったん?」
蓮は曖昧な笑みを浮かべた。
「あぁ、ほんとに、蓮くんってなんか謎なんよね~。蓮くん、お坊さんになるん? イケメンの坊さんやなぁ」
「探偵の方がかっこいいやん」
こうして話していると、普通の女子大生にも思えるが、格好は派手で、メイクも気張っている。一人を除いて。
さっきから会話の主導権をソノコさんに譲っていた、美人ニューハーフ、テレビにも出たことのあるシンシアが、低くて通る声でこの話題をストップしてくれた。
「蓮はね、ミステリアスが売りなのよ。だから、はい、蓮に絡むのはおしまい」
ありがとう、と目でシンシアに合図する。シンシアはクールな笑みを唇に浮かべる。男と分かっていても、彼女はやはり綺麗だ。
それにしても、ここでは自分のプライベートをおおっぴらに話したことはないのだが、どこかからそんな噂が飛び交うようになったのだろう。確かに蓮は寺に住んでいるが、寺の跡取り息子でもないし、坊主になる予定はない。
いや、寺の件は、苗字から勘ぐられただけかもしれない。
もう一つの仕事の方は、隠しているわけではなく、むしろこの店が宣伝のための看板の役割を果たしてもくれているのだが、それでも誰も彼もが知っているという話ではない。
「じゃあショウちゃんは?」
ソノコさんがだんまりのメンバーに気を使った。大騒ぎをしながらもソノコさんはよく周りを見ている。
「え……と、何?」
ショウちゃん、と呼ばれた大人しい子は三澤笙子といった。顔はまるで女子高生だ。童顔で、幾分かおどおどした気配がある。短くボブに切った髪は、彼女に良く似合っていた。だが、このおどおどしたムードは、メンバーをバックにしてマイクを持った途端に豹変する。蓮は実際にパフォーマンスを見たことはないが、半端なくパンチのある歌声で、そのギャップに萌える男子学生が多くいるのだと聞いている。
「聞いてへんかったん? 何歳までサンタロースを信じてたかって話」
笙子は一瞬、視線を踊らせた。そして、視線の矛先を蓮に固定すると、不意に何かを決心したかのように、はっきりとした声で答えた。
「私のサンタクロースは、私が六歳の時に殺されてんの」
一瞬、場のムードが変わったのは言うまでもない。だが、例のごとく、ソノコさんが後を引き受けた。
「な、なんやと! 犯人はトナカイ?」
とは言え、今回ばかりはあまり良いフォローではなかったようだ。馬鹿、とシンシアに肘でこつかれて、ソノコさんが頭をかく。だが笙子は真面目な顔で続けた。
「違う。知ってる人。私、殺されたサンタクロースが神社の裏に埋められるところを見たん」
「えーっと、で、その犯人は捕まったん?」
笙子が少し不思議ちゃんであることを知っているメンバーは、適当に苦笑いをしながら話の行く末を探っている。
「ううん。捕まってへん」
「死体は? サンタクロースの死体。警察には知らせたん?」
バンドのメンバーは適当に話を合わせているようにも見える。慣れているのだろう。
「ううん。死体もまだ見つかってへん。まだあそこに埋まってるん」
「笙子は犯人を見たってわけやろ? 目撃者って狙われるんとちがうん?」
「犯人は私を狙ったりせえへん。だって、私のお父さんやもの」



さて、始まりました。
と言っても、大した話ではありませんでして、内容も薄っぺらいので、気楽にお楽しみください。
謎解きも何もなく「な~んだ」ってな話なのですけれど。
クリスマスイブのマコトの掌編に被らないうちに終わります。
でも、聖夜に少し暖かくなっていただけたらいいなぁ。
Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)
NEWS 2013/12/17 クリスマス三部作!?

いよいよ秒読み段階のクリスマス……まずは神戸市内の某ホテルの玄関に飾られたツリーです。
クリスマス企画の目途が立ちましたので、しつこく宣伝。
クリスマス三部作となるかな?
その(1)
【聖夜の贈りもの】(←クリックしてね(^^))
既にアップしております。真シリーズの掌編として書かせていただきましたが、まるきり独立したお話として読んでいただいていいように思います。聖夜に猫が恩返しに??
その(2)
【奇跡を売る店】プロローグ:サンタクロース殺人事件
え? のっけから不穏でしょうか。いえ、これもハートフルな物語のはず?
真シリーズの裏番、ある意味では作者自身による二次小説みたいなものかも。設定を新たに、生まれ変わって真に少しは幸せに楽しく生きてもらおうという親心から生まれたシリーズ。
構想3年あまり。今回初めてチラ見ということになりました。
舞台は、得意の(?)京都。さて、今回はちょっとしたお話と一緒に登場人物たちを紹介しちゃおうというクリスマス企画です。プロローグの続きはいつか書くのか? そうですね、多分、そのうち。
明日から連載予定です(多分、全3回)(*^_^*)
その(3)
【迷探偵マコトの事件簿】マコトのX-file:クリスマスプレゼントは宇宙人?
ツンデレ茶トラ猫マコトが今度は宇宙人と対決?
例のごとく、しょうもない掌編です。
クリスマスイヴにお届けします。

コンビニで目が合ったチョコレート。おぉ、まさにバッカスが呼んでいる??
クリスマスですものね。「バッカスからの招待状」、喜んでお受けいたしましょう。
ちょっと宴会が続くと、逆流性食道炎がぶり返す私ですが……

ちょっとボケていた方が光が灯っているように見えるかなのルミナリエ。
今日、たまたまおでんの残り物がちょっとあるだけで、他に晩御飯になるものがありませんでした。
しかも、なぜか、職場で急にチキンラーメンが食べたくなって、ものすごく久しぶりに食べてみた。
確かに、「すぐおいしい」……
ああいう安っぽい味って、どうして時々食べたくなるんだろう。
友人は、時々「不二家のアップルパイが無性に食べたくなる。あの安っぽい味がたまらないのよね」と言っていました。
それは流行りのケーキ屋さんの上等のアップルパイとは別の食べ物だけれど……何故か、それでなければダメなんですね。
ぷっちんプリンもそう。
味が懐かしいのかな?
チキンラーメンはやっぱりベビースターの味かしら?
…・あ、そんなものを食べたから、また逆流性食道炎が悪化するんだわ……(反省)
Category: NEWS
【死と乙女】(5) 幻想、特待生試験結果
ウィーンの某音楽院に通う3人の若き楽聖たちの物語。
相川慎一。真の息子ですが、父亡き後、ローマのヴォルテラ家に引き取られていました。しかし何か事情があって、今、ひとりでウィーンで苦学生となっています。学費の免除があるというので特待生試験を受けたものの、そこには強敵が。
アネット・ブレヴァル。パリからやって来た、絹のようなピアニシモを奏でる、まさにミューズのような女性。パリの音楽院の作曲科教授の娘である彼女が特待生試験を受けた理由はまだ明らかにはなっていませんが、慎一の強力なライバルとなっています。
テオドール・ニーチェ。音楽院のピアノ科のスーパースター。すでに楽壇にデビューもしていますが、まだまだ学ぶことが多いと考えている優等生。しかし彼のことは、この物語の後半に語りたいと思います。
これでようやく折り返しです。年内に終わらせたいと言ったけれど、かなり難しいことが判明。
どのお話を書くよりもエネルギーを消耗することが分かりました。でも、努力をするつもり。
リクエストを下さった夕さんには感謝いたします。
思ったより長くなっていることは申し訳ないと思うのですけれど、思った以上に書いていて面白く、力が入っています。
一度書き終えた作品を手直ししながら書いているのですが、エネルギーは3倍くらい注いでいるかも。
端折ったシーン、書き加えたシーンなどがあれこれありますが、大きな筋と時間運びは変わっていません。
だからあまりハッピーなお話ではないのですけれど、この真剣に魂をぶつけるように音楽と向かい合う若者たちを応援していただけたら、とても嬉しく思います。
今回の音楽は……多分もっとも重要なパートです。



追記に『アルルの女』のあらすじと、これらの曲を畳んでいます。
よろしければ、ご一緒にBGMにしながらお楽しみください。ちょっと苦しくなるかもしれませんが……



特待生試験の結果がなかなか公表されないことについては、一部で様々な憶測が飛び交っていた。もっとも、結果は試験後数週間以内に発表する、と明文化されているだけで、既に「数週間」という言葉自体が曖昧だった。
この期間にどのような駆け引きや想いの交錯があるのか、最終的に発表される結果だけが全てではあるが、結果に表れない想いの重さは、時々ぶり返す真冬のような寒さによって、余計に関係者の気持ちを揺さぶっていた。
もちろん、多くの関係者は巻き込まれいてるだけなのだ。
皆の関心がピアノ科にあるのは確かだった。大方の評はアネット・ブレヴァルに傾いているものの、たった一人、頑強に別の候補者を推しているらしいというのが風評だった。
結果を確定するために最も問題となるのが、そのたった一人の人物であるがゆえに、結果が公表されないのだとも。
やきもきする周囲の関心を他所に、当事者の二人は異様に静かだった。二人の心はまるでもう別の次元にあるようだった。
そんな中で、学校では互いに全く無関心と見える二人が、ホイリゲの片隅でピアノに向かい、小さな賭け事をしていることなど、一体誰が知っていたのだろう。
店が跳ねた後、ホイリゲの主人はいつも苦学生のピアニストに、思い切り練習できる時間を提供してやっていた。それは主人にとっても至福の時間だった。大方の酔客は喜ばないかもしれないが、自分の耳を信じて疑わない主人にとっては、ここからが本当の音楽だった。
その楽しみが、この数日、倍になっている。
始めは慎一のファンだと思っていた。彼女が一方的に彼にリクエストをするだけだったからだ。だが二人は知り合いのようで、数日もすると、店の跳ねた後の観客一人きりのコンサートに、彼女が二人目の客となり、やがて彼女もその腕前を披露するようになった。
女学生の方は繊細で華やかな音を紡いだ。だが主人の耳は、その華やかさの後ろにある強靭な、硬くて壊すことのできない堅固さを聞きとることができた。揺るがないものがあった。不思議な強さは、時に哀しくも感じられた。何かに向かって懸命に闘っている。
それは慎一も同じだった。
慎一に聞いても、彼女のことはピアノ科の友人だというだけだった。若い二人の恋を邪魔する気持ちはなく、むしろ応援したいと思っている主人には、それ以上の説明がないのは不服でもあったが、シャイな東洋人の青年を追い込んでも哀れだと思い、主人はそっとその二人の様子を、店の片隅で売り上げを計算しながら窺っていた。
主人のいる場所から見ると、今日、二人はいつもよりもずっと椅子を近付けて座っているように見えていた。
慎一は、ピアノ代わりに軽くテーブルを叩くアネットの指を見ていた。聞きたいことが多くあるのに、一方では何もないような気もした。聞きようがなかったのもあるが、二人の間には、音楽以外の会話をすることはタブーであるような、そんなムードが始めからあった。
アネットの髪がふわりと慎一の肩に触れるくらいに近くにある。それなのに、言葉にならない何かが、二人の間に硬い膜を張っている。
「ねぇ、シンイチ。あなたが指揮者だったらファランドールをどんなふうに奏でるのかしら。明るく、華やかな音を引き出す? それとも少し重厚に?」
昨夜、アパートまで送っていく道で、アネットは不意に聞いた。ウィーンの街の高い建物の隙間を吹き抜けていく風が、二人の間に吹き込み、二人はまるで恋人同士のように身体を少し寄せ合った。
『アルルの女』は、芸術は庶民の生活や感情を表現するべきであるという考えが芽生えた時代に生まれた物語だ。ビゼーの曲はドーデの戯曲に管弦楽をつけたもので、全部で二十七曲あるものを、演奏会用に別の曲からの『メヌエット』を加えた八曲を組にして演奏される。
こうして一部を切り出された物語の奥に潜む心情をあえて表すことは、聴衆にどうとらえられるのだろうか。それをアネットは確認しているのか。うわべを聞けば、祝いの席で踊る賑やかな祭りの風景が浮かぶ。その華やかな曲を背景にして主人公が自殺するシーンで終わるこの物語を、切り取られた数分の曲がどこまで伝えることができるのか、あるいは求められるのか。さらに言えば、たとえば、この曲を作った時に作曲家がどうであったかというような、作者の人生経験を共有し表現することが、演奏者にも求められるのだろうか。
「音の中に潜んでいる何かを聞きとるようにと、聴衆に強要することはできないよ。ただ、感じる人がいれば感じるだろう。それが必ずしもいいこととは思わないけれど」
慎一はふと、特待生試験のアネットの音が出した一瞬の惑い、深い部分に潜んだ死の匂いのようなものを思い出した。何故自分がそれに反応してしまったのか、その理由を心に沈めた上で慎重に答えた。
アネットはそうね、とだけ答えた。別れ際に彼女は慎一の傍らで言った。
「恋は人を殺すことがあるのね」
慎一が驚いたのは、その声が不思議なほど明るく決然と聞こえたからだ。
今、ホイリゲの片隅で、慎一はアネットの髪の匂いを感じながら考えている。
昨夜のアネットの声は何を訴えていたのだろう。この明るく華やかな声の中に潜む心を読み取るようにと、慎一に求めていたのだろうか。
「ねぇ、シンイチ、いつでも私たちは最後の時を共にしている、そういうの日本では何て言うんだったかしら」
「最後の時って……」
「このお茶碗で飲むのは最初で最後かもしれない、この絵を見るのはこれきりかもしれない、この音を聴くのも今だけかもしれない、この人と会うのはこれが最後かもしれない、だからこそこの時を大事にしようと思う、そういうことを表す言葉」
「ごめん。僕は日本のことをよく知らないんだ」
「そうだったわね」
また二人の間に沈黙が流れる。賑やかだったホイリゲのホールには、今は彼らとホイリゲの主人以外の誰もいない。ホイリゲの主人は今日の売り上げの計算と、明日の仕入れの計画を立てている。
明確な音は何もないが、建物自体が唸るような重さ、あるいは空調の音、もしくは風の音が、微かな振動として身体に直接伝わってくる。
「ねぇ、シンイチ。もしかしたらこれが最後の時かもしれないと思って、ひとつずつ曲を贈り合いましょう。自分の心の中で、これだけは、と思う曲を。そしてそれに心動かされたら、お礼に、他の人にはどうしても言えない秘密をひとつだけ打ち明けるの」
「それはゲーム?」
「そう、ゲーム。打ち明けた秘密が真実かどうかは詮索しないこと」
どちらが先に曲を奏でるか、二人は目と目で確認し合って、先にアネットが立ち上がった。
アネットはピアノの前に座って、少しの間目を閉じていた。慎一は彼女の横顔を見つめていた。これだけはと思う彼女の曲が何であるのか、強い好奇心が動いていた。
その時間は何故かとても長く感じられた。どの曲を選ぼうか、惑っているようにも見えたが、最初の音が指先から零れ出した時、彼女には何の迷いもなかったことが分かった。
その瞬間に慎一を貫いたとてつもない不安と震え、そして鳥肌の立つような感触は、言葉に表すことのできないものだった。それは、今この時、その演奏家の最高の演奏の瞬間に自分が居合わせていると知っていたからだった。
アネットは今、その音楽の中へ全てを注ぎ込んでいた。
ショパンの『幻想ポロネーズ』。晩年の傑作のひとつとも言われているが、とらえどころのない曲だった。今の慎一には手の届かない曲だ。
ポロネーズとはポーランドの貴族が好んだ舞踏のための曲で、ショパンがポロネーズを作曲する心には、二十歳の時に国を捨てて以来戻ることの叶わなかった祖国への愛情があるのだという。だが、この曲はポロネーズのリズムを使った全く異色の作品だった。形式は明らかにポロネーズのものではないし、短調と長調が入り混じり、主題さえもはっきりしない。
『幻想』の名前が付けられたのはショパンの知るところではないだろうが、それ故に、ポロネーズではなく幻想曲とした方がいいのではないかとも言われる。
慎一は咽喉元を締め上げられるような気持ちで、演奏するアネットを見つめていた。
アネットは無表情だった。ピアニストが時に演奏しながら苦渋の表情を浮かべてみたり、大きなパフォーマンスを見せるようなことはあるが、それは一切なかった。その姿を見る限りでは、まるきり淡々と、何の感情もないというように音を紡いでいた。
だが一旦視覚の情報を切り取ってしまったら、その渦を巻くような音の波は、聴くものを簡単に、感情のるつぼのような海の中へ突き落す。
不安だった。恐ろしく不安だったのに、この海を共に彷徨ってやることだけが、今、自分がアネットにしてあげることができる唯一のことだと分かっていた。だから、慎一はその海を彷徨った。
時に頭上に光が射した。水面から深い海の底まで、光が仄かに届く。遥か頭上の海面は光を躍らせている。風がある。海の底でもその風の強さが分かる。だが、すぐに闇がやって来る。音は大きくうねり、小さく返し、一定のリズムを刻むことはない。常に誰かの想いや願いを呑み込み、複雑に、時には心を刺し貫き、時には甘い夢で包み込む。
だが、全ては幻想だ。
ショパンを愛する人は、この曲の捉えどころのなさに惑うだろう。それどころか、ショパン自身がこの曲を、家族に宛てた手紙の中で「何と呼んだらいいのか分からない曲」と記しているし、大方はショパンの曲を絶賛していたシューマンやリストもこの曲を聞いて、どのように評していいのかわからなかったようだ。リストは「この曲はいたるところで、突然の変動に傷つけられた深い憂愁、急な驚きに乱された平安、忍びやかな嘆きで色取られている。全ての希望が失われ、かつ乱れた感情を経験する」と言った。
長年、結核に苦しめられ、晩年という言葉が哀れなほどの若さで逝った楽聖の苦悩、死が身近にあるからこそ作り出せた葛藤、そこから迸りでる熱のようなもの、時には凪いだ湖面のように静かになり、時には燃え盛る炎ともなり、時には風のように惑い、人生や感情を切り刻んだような音楽だった。
ショパンコンクールで演奏した場合に、この曲の解釈は高いレベルで要求されるだろう。できれば選択したくない曲であるかもしれない。
それを二人の若い楽聖がコンクールの第三予選で挑み、決着がつかなかったという記事を、慎一はヴィクトル・ベルナールの評論で読んだ。おそらくあの戦いのひとつのピークであったのだろう。
結局、二人の音楽の決着は、ファイナルのピアノ協奏曲第一番でついた。オーケストラを味方につけたら、テオドール・ニーチェに勝つことはできない。それほどにテオドールの技術と音楽の解釈、豊かな表現力、周囲の音を理解する力は抜きんでいていた。
ヴィクトルの評論は、淡々としていた。アネットの音を褒め称えながらも、『幻想ポロネーズ』については若さゆえの観念の幻想を彷徨っていた、とだけ書いていた。慎一が気になって聞いた時、ヴィクトルは答えた。
『あれは、どう書いていいか分からなかったんだ』
『観念の幻想って何?』
慎一が尋ねた時、ヴィクトルは遠くを見た。
『死とか命とか、そういうものを、頭の中だけで理解しているっていうことだ。だが、時にそれは簡単に現実にすり替わる。若者の死は、身体の病気でなければ、幻想の中で起きる』
これ以上はどうしても説明できないとばかりに、ヴィクトルは言葉を畳んだ。
テオドールも? と慎一が尋ねたら、それには答えを返してきた。
『いや、テオドール・ニーチェは少なくとも我々を不安には陥れなかった。彼は音楽をコントロールしていた。もちろん、いつもというわけではないが、計算し、寸でのところで苦悩に手を差し伸べていた。そういう気がする。でも、アネットだって、ノクターンやエチュード、ソナタでは慈愛に満ちたマリアのような音を出していたんだが』
あのショパンコンクールの後、アネットはテオドールを追いかけて、この学院に編入してきたのだ。テオドールの背中だけを見つめて。
そして、幾らかの時を経て、アネットの中に心の核のようなものが生まれている。
まるで分裂病のように突然変化する楽想は、聴くものの平穏を乱す。だがそれは曲の表面を追いかけるからだ。晩年のショパンが、死の病と、ジョルジョ・サンドとの関係が破綻しつつあった苦悩に翻弄され、時にかつての歓喜に満ちた時間を思い起こし、自らの心の中に飼っていた憂鬱を発散させ、幻想のように消えゆく人生を振り返るなら、そこには狂おしいまでの命の筋道が通っていたはずだった。
この曲を奏でる時には、ばらばらになる楽想を、あるいは弾くものの感情を、まとめ上げる芯こそが要求される。そして今、アネットは何の境地に立ち、その自らを纏め上げる芯を手に入れたというのだろう。
後半に差し掛かり、一度柔らかくなった曲想が、改めて激しく打ち出され、またやがて畳まれていく。
僅か十二分から十三分ほどの時間、慎一は熱くなったり冷たくなったりしながら、アネットの感情の底に、揺るがない形で横たわっている沈黙したままの彼女の原型のようなものに辿り着いていた。
どれほど呼びかけても何も答えない。全てを拒む彼女の頑なな決意。慎一は大きく扉を叩き続けている。だが、答えは何もない。
突然、慎一の周りから何もかもが消え去った。
静かで、何もない。
慎一はふと我に返る。
大きな衝撃が加わった時、頭ごとどこかへ飛ばされてしまったような気がするものだ。
そこにあるのは自分の身体だけだった。身体は司令塔を失い、ただ腐っていくかのように漂っている。
何もないと思っていたところに、時々光や温もりが触れる。その優しさゆえの苦痛は激烈だった。何もないなら、いっそ何もないまま、自分にとっての時間が永遠に前に進まなければいい。
だが、生きている限り、何もない孤高の場所に居続けることはできない。頭は再び何かを感じ始める。温かさも冷たさも、苦痛も安寧も、幸福も不幸も、全てがばらばらに脈絡なく、予告も無く、慎一にまとわりつく。時に哀しく、時に穏やかに、心を揺さぶり、昂らせ、鎮め、絶望に陥れたと思えば、またそこから救い上げて愛を語る。この大きな揺れを身体に浴びて生き抜くことの難しさ。
静かに畳まれた音、音楽の最後に打ち鳴らされる高音。
その時には、慎一はふらりと立ち上がっていた。
ホイリゲの主人が見た時、慎一はアネットの傍らに立っていた。そしてアネットはこの人生を畳み込んだような音楽を聞かせたばかりとは思えないほど淡々と立ち上がり、慎一に席を譲った。慎一はまるで操られた人形のようにピアノの前に座った。
主人の場所からは慎一の横顔が見えていた。慎一はじっと鍵盤を見つめ、膝に手を載せていたが、それはほんのわずかな時間だった。不意にその手が上がったと思った時には、慎一の指先からはあの、たとえようもなく切実な音が迸り出た。
ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』の第三楽章。
ホイリゲの主人は鳥肌が立つのを感じた。慎一の弾くこの曲を聴くのは二度目だった。
今日、慎一は始めから、感情を抑えることはしなかった。女学生のショパンが前奏曲だったとでも言うように、第一楽章、第二楽章を飛ばしたまま、いきなりのクライマックスを突き進んだというように見えた。
ベートーヴェンが交響曲の主題を盛り込んだことからも、彼の目指していたものがピアノだけでどこまでの多重性とダイナミズムを表現しうるかという挑戦でもあるように思える。ここにぶつけられたエネルギーのものすごさは、確かな技術がなければ、音楽性とという部分に言及する域には達しない。もちろん、ただ弾くだけなら難曲とまでも言わないのかもしれない。だが、要求されるのは技術だけではない。
慎一の演奏するこの曲を初めて聴いた時から、主人は技術も音楽性さえも超えてしまった何かを感じていた。慎一の指先から吹き出すようなその想いは、ただ叩きつけたのでは騒音にもなりかねないどの一音にも籠められていた。音の粒はばらばらの想いを載せながらも、ひとつに大きくまとまっていた。うねるように、呑み込むように、弾くものと聴くものの区別なく激しく揺さぶり、包み込んでは突き放し、温めては冷たく襲い来る。熱情という言葉を望んだのは作曲者自身ではなかったのだろうが、全てをぶつけるにこれほどに適切で、難しい音楽はあるまい。
身体の内から、魂から、声にならない声を振り絞って叫んでいる。慎一の身体からオーラのように立ち上る何かは、慎一の中に巣食っている別の魂にも見える。作曲者なのか、この曲に翻弄され続けてきた幾人もの演奏家のものなのか、あるいは今ここで聴いているたった二人の聴衆のものなのか。
それが今、慎一の身体の内から迸り出るように見える。
憑かれている。
主人は思わず駆け寄って演奏を止めなければならないと思った。この若い二人は一体何をやっているのだ。だが身体が硬直したように動かなかった。
切実、と言ってしまえばそれだけの言葉だった。慎一はこの曲を奏でる時、命を削っているように見える。一音一音はただピアノに叩きつけてしまえば意味をなさないのかもしれない。だが、その一音一音に慎一は命を叩き込んでいる。
一体どうしたらいいのだ、と主人は思った。不穏で不安だった。だが、恐ろしいものを見る時の恍惚感が主人を圧迫していた。まさに圧迫だった。恐ろしいのに、美しく、悲しく、ぎりぎりの崖の上を歩いているように恐怖と昂揚感が押し寄せて、呼吸ができない。同じような旋律が何度も押し寄せる波のように、繰り返し繰り返し魂を洗っていく。
女学生の奏でたものが、変容の中の揺るぎなきものであるならば、慎一の奏でているものは同じ音の連鎖の中で永遠に移り変わる変容だった。
慎一は音楽の神に取り憑かれているのだ。そして、取り殺されてしまうかもしれない。
主人は最後の音が畳みこまれた瞬間に、身体を縛っていた拘束から解き放たれたように椅子から立ち上がった。
あの変人の評論家は、つい最近まで屋敷に電話を引いていなかった。あまりにも不自由だろうとさんざんに周囲に言われて、ようやく電話を置いたところだったが、まともに出たためしがない。もしかして受話器を上げ方が分からないのではないかと疑うほどだった。
今日、まだあの使用人夫婦が起きていたらいいのだが、年寄りであてにならない。耳だって遠いだろう。
案の定、電話のコール音は受話器の向こうで鳴り続けるばかりだった。
ヴィクトル、くそ野郎、俺の金のタマゴが、壊れちまう。
主人はついに諦めて受話器を電話に叩きつけた。
慎一は弾き終えた後、しばらくの間完全に放心していた。
わずか七分余りに、魂を取り落してしまった。またあの時のように、頭がここから飛んで行ってしまったのだ。今自分がどこにいるのか、何をしたのか、まるで分からなくなっていた。
不意に静かになった空間には、ピアノもなく、ここはホイリゲの中でもなかった。目の前に小さな箱庭がある。
あなたの思うように世界を作っていいのよ。
優しい声がする。だが慎一は何もそこに描くことはできなかった。箱庭の砂地が波打ちながら自分を呑み込んでいくような気がした。綺麗な色を付けられた家のミニチュアも、木や花壇、柵の模型も、そして小さな魂のない人形たちも、慎一にとっては形のない、意味もない、そして網膜に影さえ残さないものだった。
慎一の前に、世界はなかった。
あそこから、どうやってここにたどり着いたのだろう。今自分は一体どこにいるのだろう。
ふと肩に白い手が乗せられた。
二人とも、涙を流すということはなかった。ただお互いのことが分かっていた。手を握りしめ合い、約束通り、誰にも知らせることができない秘密を、少ない言葉で打ち明けた。
「あなたがこの世にいなければよかったのに」
「君に会わなければよかった」
二人は同時にそう言って、少しだけ微笑み合った。幸せなほほえみではなかった。だが、不幸とも言えなかった。ただ、これが互いにとって、最後の演奏だと知っていた。それを世界の中で二人だけが聴き合い、二人だけが理解し合っていることを知っていた。
「僕は、大切な人を殺してしまった」
「私は、今から大切な人を殺そうとしている」
理由も是非も問わない約束だったが、二人とも何より、問う必要がないことを知っていた。
慎一は今日、アネットを送らなかった。アネットも敢えて、送らないで、とは言わなかった。アネットが出ていった後も、慎一はピアノの前に座ったままだった。
ヴィクトルに連絡がつかないままホイリゲの主人がホールに戻ってきたとき、慎一は意外にもしっかりとした気配で、ピアノの蓋を閉じ、するりと立ち上がった。ピアノの前に座っている時には大きく見えるのだが、こうして立ち上がってみると、慎一は華奢で小柄だった。民族の由縁もあるのだろうが、何よりも頼りなげで幼い子供のように思えた。
だが、その表情には、子どもにはない影が宿っている。命を削り落とし、今、一度に十年ばかりも年を取ったように見えた。
「シンイチ、送ろうか」
慎一は表情を変えなかった。
「大丈夫です。遅くまで、ありがとうございます」
いつものように礼を言って、いつものように飾り気のない一張羅の黒い上着を着て、慎一は冷え込むウィーンの街の中へ吸い込まれていった。
ホイリゲの主人の罵声がヴィクトルの耳に届いたのは翌日の夜だった。
慎一は今まで一度も無断で欠勤したことはなかった。学校に行っていたのかどうかは主人には分からなかったが、後で聞くと、下宿の部屋を一歩も出ていなかったようだった。
心配した主人が店を従業員に任せて屋敷まで乗り込んできたので、ヴィクトルは初めて事情を知った。慌てて一緒に慎一の下宿に行くと、下宿の女将、マルグリットが慎一の部屋の前でおろおろしていた。
「あぁ、あなたたち、丁度良かった。シンイチが出てこないんだ。朝、声を掛けた時は、今日は気分が悪いから食事はいらないと言っていたんだけど、夕食にも降りてこないし、そもそも一度も顔を見ない日なんて、今までなかったんだよ」
ヴィクトルはドアを叩いた。声を掛けてみたが、まるきり音さえもしない。出ていったのを見なかったのかと尋ねたが、マルグリットは買い物に行く時間だけここを離れたが、後は家にいたのだと言った。マルグリットはここに住む下宿人達をわが子のように可愛がっていた。音楽院の学生ならなおさらだった。そして、慎一のことを誰よりも気にかけている様子が、言葉の端々にも態度にも出ていた。慎一に頼る親がいないことを知っていたからだった。
非常手段だとは思ったが、マルグリットに鍵を持ってこさせた。
「シンイチ、入るぞ」
一応声を掛けて、ヴィクトルとホイリゲの主人、マルグリットは部屋のドアを開けた。
一部屋きりの部屋には、もう夜も更けているというのに、明かりは灯っていなかった。
ドアの脇を探って灯りをつけると、慎一は借りているベーゼンドルファーのアップライトの前に座っていた。ピアノの蓋は閉じられたままだった。それどころか、慎一は、昨夜主人が最後に見た黒い上着を着たままだった。
マルグリットが悲鳴のような声を呑み込んで、慎一に駆け寄り、手を握った。
「シンイチ、どうしちまったの」
ホイリゲの主人は、お前が電話に出ないからだとヴィクトルに悪態をついた。
ヴィクトルはその通りだと頷きながらも、思わず慎一の住んでいる小さな部屋を見回していた。
ヴィクトルが慎一の部屋に入るのは初めてだった。
部屋は広くはない。ベッドとピアノ、窓際の机、それに木製のクローゼット。それだけだった。
机の上は片付いていたが、古本屋で買ったらしい古い本が積み上げられていた。本は床に置かれた手製の木の台の上にも積み上がっていた。背表紙を見たところ、大方は音楽に関するものばかりだった。それから詩集、日本語の本もいくつか。それに楽譜の束。新しいものではなく、束からはみ出た端は、いずれも破れたり変色したりしていた。
クローゼットの中に掛けられた服はわずかだった。隅に、ヴィクトルが買ってやったスーツが、それだけはカバーをかけて大事そうに吊るされていた。下には靴が数足。運動靴と、少しましな、しかし履き古した革靴、そしてやはりヴィクトルが買ってやった上等の革靴。その他にまだいくらか本が積まれていた。
僅かなお金を全て音符と活字に変えて生きているのだ。
愛おしさが込み上げて、ヴィクトルはどうしてこの想いを形にしてやればいいのか、惑った。
それから三日間、慎一は口から文字通り何も受け付けなかった。ヴィクトルが引き取った翌日の夕方からは吐き続け、医者嫌いのヴィクトルも、今回ばかりは医者を家に入れ、点滴をさせて、自分は夜もほとんど眠らずに慎一の傍に付き添っていた。
熱はなかったが、まるで魘されるように汗をかき、時折布団にもぐり込んで身体を丸めたまま冷たくなっていた。ヴィクトルがさすって温めてやると、何かに気が付いたようにその手を握り、しばらくの間じっと握ったまま離さなかった。唇に色がない時があり、そっと触れてやると驚いたように目を開け、小さな声でごめんなさいと言った。
何も謝られるようなことはないとヴィクトルは優しい声で言った。
慎一のいる場所がどんな場所なのか、ヴィクトルには想像もつかなかった。だから簡単にそこから這い上がってこいとは言えなかった。それでも夜はずっと手を握ってやっていた。
慎一はその手を煩わしそうに解こうとするときもあったが、強く握り返してくることもあった。ただ触れいてるだけの時もあった。そして、やがてヴィクトルの手を探すようになった。
その手の冷たさ、時に湿度を帯びた熱さ、あるいは真っ白な乾き、そのすべてにヴィクトルは己の人生をかけてやってもいいと思った。ヴィクトルは今更ながらに、この少年の過去を詮索しようと探偵を雇ったことを悔やんでいた。己を恥じて依頼を取り消そうとその男に連絡を入れてみたが、ローマに出かけているという男とは連絡が取れなかった。
賽は投げられた後なのだ。
「シンイチ、もしも聞こえているなら、これだけは覚えておけ。俺はお前が誰であろうとも、何も語らなくても、お前の奏でる音だけを信じている。俺はずっとお前の味方だ」
自分に言い聞かせるようにヴィクトルは慎一の耳元に話しかけた。どのような結果であろうとも、受け入れた上で、言葉通り、このミューズに愛でられた聖なる魂を守ると決めた。
三日目に連絡を受けたローマイヤーがやって来た。慎一はようやく温かい飲み物だけは口にするようになり、点滴を抜いてもらったところだった。
無断で授業を休んだことを穏やかな声で謝る慎一に、ヴィクトルもローマイヤーも何も言えなかった。どこへ行けばいいのか、慎一はまだ惑っているように見えた。返してくる言葉は謝罪だけだったのだ。
何とも言えずに黙っているヴィクトルをちらりと見て、ローマイヤーが言った。
「明日、特待生試験の結果が張り出される。私はそのことを知らせに来たんだ。どんなに辛くても、自分が闘った結果は見届けなければならない。それが今、君には大事なことだ」
慎一はあの日から初めて、まともに感情のあるような顔をした。
慎一を助けようとする手がここにもひとつ、存在していた。
翌日、慎一は何日目かでようやく風呂に入り、身支度を整えた。心配が頭から吹き出しそうになっている無愛想な老夫婦の顔を見て、困ったような顔をして、それからまた小さな声でごめんなさいと言った。
ヴィクトルの作ったサラダとソーセージ、パンのシンプルな朝食を半分ほど口に入れて、それから行ってきます、と立ち上がった。
ヴィクトルは送るとも言わなかった。一人で行くべきであると思っていた。
何日目かの外の風は、まだ強く頬に吹きつけたが、随分と暖かくなっていた。
慎一は立ち止まり、空を見上げた。高く澄みきる高い青、その中に浮かびながら空を切る鳥、風ははるか上空を舞い、彼方から吹き降ろしてくる。足元の緑の草は、溜め込んでいた芳しい土の匂いを風に乗せ、慎一の足元から吹き上がった。
何度も何度も繰り返し迫りくる罪の苦痛と、そこから這い出すときの世界の静けさ。世界はいつも静かだった。人間の営みなど意に介さぬように、ただそこにあった。いつになっても、ここから本当の意味で抜け出すことができないことは知っていた。知っていたからこそ、ここに立つ意味があることも分かっていた。
もしもこの指に与えられたものに意味があるのなら、この指は朽ちるまで全て音楽に捧げなくてはならない。それが慎一の罪への唯一の贖いだった。
音楽院の門をくぐった時、門の向こうからアネットが歩いてきた。
アネットの周りを光が取り囲んでいた。世界のどのようなものよりも、彼女は美しいと思った。鮮やかな光色の金の髪、優しく赤い唇、桜の色の頬、湖のような瞳、そしてミューズの宿る白い指。
すれ違う時、アネットは晴れやかな笑顔を浮かべた。
「おめでとう、シンイチ。あなたを越えたかったわ」
慎一は言いようのない不安を覚えた。アネットを追いかけることはできなかった。光の中を歩き去っていく彼女を見送ってから、慎一は駈け出した。
途中で、幾人かの友人に出会った。そのうちの一人、アメリカからの留学生でジャズ歌手とジャズピアニストの両親を持つボブ・マッケンジーが慎一の腕を叩いた。
「おめでとう。何より、これで食いっぱぐれなくて済むじゃないか」
掲示板の前は、人だかりだった。慎一の頭には複雑なものが行き来していた。掲示板に近付く人、結果を見て納得したように、あるいは疑問を口にしながら歩き去る人の無秩序な流れに押されながら、慎一は張り出された文字の前にたどり着いた。
その瞬間、慎一は来た道を急いで引き返した。
門まで息も継がずに走り戻ったが、もう彼女の明るい金の髪を見つけることはできなかった。
特待生試験結果 ピアノ科 合格者 二名
アネット・ブレヴァル
シンイチ・アイカワ



どなたか慎一に『一期一会』を教えてあげてください^^;
竹流もといジョルジョはちゃんと日本語を教えてあげてたはずなんですけれど……
普段使わない言語だったし、仕方ないですね。
追記で音楽をお楽しみください。と言っても、今回は苦しいかも……(>_<)
Category: ♪死と乙女(連載中)
[雨96] 第20章 ローマから来た男(3)
東京に戻った美和は仁と再会します。果たして仁は何を美和に告げるのか。
美和と仁の心は、真を挟んで少し複雑になっています。
そして、仁が美和に告げた真の現状。いったい真はどうなってしまったのでしょうか。



美和が東京に戻ったとき、マンションには既に仁が帰ってきた気配があった。
新潟から一度東京に帰ってきた時とは、仁の残していった服が違っていたし、タイに行くときに持って出た旅行鞄が玄関脇の小部屋に放り込まれていた。
美和はひとつ息をついた。
九州と山口という、ここから随分離れた場所であった色々なことが、突然遠くにすっ飛ばされた気がした。ここに美和にとっての確かな現実がある。
真が仁と決闘するとは思っていなかった。仁が怖いというよりも、仁への仁義があってできないということは、分かっていることだった。結局は美和自身がどう判断するかなのだろう。
美和は吊り下げられた仁の服を見つめた。
答えならもしかしたら出ているのかもしれないのに、声に出すことができない。
ダイニングに入り、テーブルの上を見ると、仁の癖のある字がメモに残っていた。
『ホテルニューオータニ 一一〇一号室』
それだけだったが、ここに来いというメモであることは直ぐに分かった。
仁に真との事が漏れていないなどという虫のいいことは思ってもいなかった。多少開け広げだったことは認めるし、北条の誰かに見咎められた可能性は十二分にあった。
開き直るしかない。それは始めから覚悟していたことだ、と思い、そのまま出掛けることにした。ここで座ったりすれば、二度と立ち上がる勇気が湧いてこないだろう。
帰りの電車の中で思い切り寝ようと思っていたのに、ほとんど起きていた。頭の中では、何度も仁と真の事が行ったり来たりしていた。
それは二人の男の間で揺れ動く女心というものとは少し違っている。愛している人は一人だと思うのに、飛び込めない何かがどこかで引っ掛かっているのだ。それに本当は自分の心だってよく分からない。仁とのこれまでのことを全てなかったことにして、真のところへ行くつもりはやはりないのだ。恋をしたという感覚はあるのに、簡単に崩れ落ちてしまった、その理由が納得できていないだけなのかもしれない。
マンションを出て、電車に乗る気にはなれなかったので、結局タクシーに乗った。久しぶりに見る東京の夜景は目に沁み入るようだった。
でも、言い訳はしない。
そう決めていた。
だが、ホテルに着いてフロントの側のソファに北条仁の姿を認めたとき、美和に襲い掛かってきた感情は、美和自身にも予測できなかった感情だった。
仁に会わなかったのはたったの一ヶ月足らずだ。その顔を見るまで予想もできなかった自分自身の感情に美和は少しだけ驚いた。
仁は珍しくスーツ姿だった。上背のある身体つきは、グレイのスーツの上からも威圧的で、確かに通りかかる人がちらりと仁を振り返るのも納得がいく。足を組みソファにもたれて、どこか少し先を睨みつけている目は、ヤクザとは思われないとしても、普通の職業の人間には見えないはずだ。
仁は煙草に火を点けかけて、ふと美和と目が合うとライターを閉じ、咥えていた煙草をケースに戻した。ライターが閉じた時の尾を引くような音は、美和の耳ではなく、どこか別のところに直接入り込んできた。
仁がゆっくりと立ち上がったときには、美和は音に惹かれるように、もうそのソファの向かいにまで来ていた。
暫くの間、言葉もなく見詰め合っていた。仁の目の中には、想像していたような怒りの感情は見えなかった。
ばれていないとは思っていない。強がりを言えば、半分はばれてもいいと思っていた。そして仁はそれを聞いていたとして、どう思っただろうか。怒っていたか、自分が言い出したことだから仕方ないと思っていたか。
だが、仁の目の中にあるのは、何かもっと別のもののようだ。怒りがあったのだとしてもそれを越えて静かになった男の目の中には、何かに対して強い決意が宿っているように見える。
仁に促されて、美和は向かいに座った。
「危ないことはなかったか?」
美和は頷いた。
「お前がマンションを出たと、お節介な野郎から連絡があってな、待ってたんだ」
美和の行動の全てではないだろうが、舎弟の誰かがこうして見張っているのだ。勿論、悪意ではないだろう。
「仁さん」
呼びかけた美和を、仁の大きな手が制した。
「美和」その声は、美和の想像を超えた何か特殊な響きを持っていた。「あいつは上の部屋にいる。暫く、あいつから目を離すな」
事態が飲み込めず、美和は仁の顔を見つめていた。仁はもう一度煙草を取り出して火をつけた。
「何かあったの?」
仁がひとつ吹かすのを待って、美和は尋ねた。
「化けやがった」
「え?」
何のことか分からず、美和は暫く煙草を吸っている仁の方から話し出すのを待った。
「ヤクザの俺がビビるような、おっかない目をしていやがる。あいつを人殺しにしたくなかったら、あいつを見張ってろ」
「どういう意味?」
仁の目の中に、複雑な色合いが見て取れた。
「大和竹流の足跡がほんの少しばかり見つかった。佐渡のあいつらの隠れ家だったところだ。御大層に地下の礼拝堂の祭壇の上で、生贄を捧げる儀式でもしたんだろう」
美和は自分の咽の奥で何かが鳴ったように思った。
「大家さん、どうしたの?」
「わからん。病院から失踪して、佐渡に行ったことは間違いがない。その先の事は分からないが、そこで更に痛めつけられたことだけは確かだ」
「まさか」
「生きている保証はないな。相当の出血の痕だった」
頭がぼーんと音を立てような気がした。耳に入ってこないままだった周囲の音が急に辺りに溢れ返り、まともな聴覚と平衡感覚を破壊して、息苦しくなった。
「先生は?」
「今、宝田と高遠に見張らせている。見たところ、至って平静だ。一言も口を利かない。眠りもせず、時々煙草を吸って、座っていやがる」
そう言うと、仁は立ち上がった。
「仁さん、どこ行くの?」
慌てて美和も立ち上がる。仁は低い声で言った。
「ちょっとばかり用事を片付けなきゃならない。あいつの事はお前らに任せたよ。とにかく、ここから出すな。一歩もだ」
歩き去っていく仁の後姿を見つめて、美和は暫く突っ立っていた。自分が留守の間に、何かとんでもない事態になっているのだ。それは、仁にとって、美和と真の間の事などどうでもよくなるくらいの出来事なのか。
それはそのまま、真にも言えることだろうと思った。
万が一、大和竹流が死んだら。
それは考えるも恐ろしい想像だった。
先生はきっと狂ってしまうだろう。いや、もう既にどこか常人ではない状況なのだ。それは、修羅場を潜ってきているはずの仁を怯えさせるほどなのか。
美和は、ひとつ息を急いでつくと、エレベーターまで走った。十一階のボタンを押し、扉が閉まる時間がもどかしくなった。
だが、扉が閉まって一人きりになると、突然涙が零れてきた。
さっき、仁の顔を見た瞬間、美和に襲い掛かってきた感情、それは本当に単純な思いだった。
アイタカッタ
本当は殴って、どういうつもりだと問い詰めて欲しかったのだ。
もう少し泣いてしまっておきたかったのに、そういうときに限ってエレベーターはいつもより早く目的階に着いてしまった。扉が開き、角をひとつ曲がると、直ぐに一一〇一号室だった。
もう一度息をひとつつき、ドアホンを押すと、思ったより早くにドアが開いた。立っていたのは宝田だった。
「美和さん」
宝田の情けなさそうな顔を見ていると、急にしょぼくれている場合じゃない、と思えた。
「先生は?」
「それが、さっき出てったんす」
「どうして? 見張ってたんじゃないの?」
「いや、っていうのか、大和さんのとこの執事って人が来て、連れてったというのか」
嫌な感じがした。美和は思わずエレベーターに走り戻り、フロントまで降りたが、真の姿はなかった。タクシー乗り場に走り、真らしい人を見かけなかったかと聞いたが、見かけていないという。次は駐車場に走ったが、広い駐車場で何を目標に探せばいいのか分からず、ただ闇雲に走った。駐車場の出口に行き、出ていく車を暫く見張っていたが、やはり真は見つからなかった。
事務所、マンションに電話を掛けてみたが、勿論誰も出るはずがなかった。大和邸の場所は知らなかったが、もしかして添島刑事が知っているのではないかと思い、警視庁まで連絡してみたが、出張でいないと言われた。
美和は覚悟を決めて高円寺に向かった。
宝田から聞いたことからも、確かに真を連れて行ったのは大和竹流の関係者だろう。真は相手を知っているようだったと、宝田も賢二も言っている。真の身に危険が及ぶことはないかもしれないが、大和竹流の周りにいるのは、彼のためなら命など平気で投げ出すような人間ばかりだ。真に人殺しの片棒を担がせないとは限らない。
高円寺の北条家に顔を出すのは初めてだった。
仁と同棲していることは、北条の舎弟も親分も知っているはずだが、仁がここに美和を連れてこないのには、仁なりの思いがあるからだろうと思っている。美和に覚悟がないことなど、仁には十分分かっているはずだった。いや、もしかして、覚悟をする必要などないと、そういう意味なのかもしれない。
門の隅に、これでもかというくらい高く三角錐に盛り上げられた塩を見つめながら、美和は息を大きく吸いこんで、声を上げた。
「ごめんください」
声が終わるか終わらないうちに、門が開いた。出迎えたのは、大きな身体の男だった。その背中の向こう、玄関までは随分な距離がある。美和は思わず胸を張っていた。
大男は恐ろしいというよりも、無表情だった。
「ええ度胸ですな。ついにここまで来なすった。お入りになりやすか?」
美和は男の顔を見据えて、頷いた。
広い玄関には、真夜中にも関わらず若い者たちが並んで出迎えた。
「姐さん、お待ちしとりました」
美和はとにかくまた頷いておいた。こんなことでびくついている場合ではないと思った。
「若はまだお帰りじゃありませんがね、どうぞ奥で」
美和が通された部屋は、開け放てば六十畳くらいはあるのではいかという和室の並びのひとつだった。
部屋の床の間には、金がふんだんに使われた狩野派の絵と思われる掛け軸が下がり、立派な刀が二振飾られ、壷やら香炉やらが並んでいた。もっとけばけばしているのかと思っていたが、噂に聞くほどには成金ムードではない。恐らく、北条東吾自身が多少は華族の自尊心を失っていなかったのだろう。
五メートル以上はある黒檀の座敷机の一方に、分厚い座布団を外して座り、美和は背筋を伸ばして目を閉じた。
暫くすると襖がさっと開いて、閉じる音がした。目を開けると、恰幅のよい大柄な、和服姿の紳士が立っていた。美和は暫く相手を見据えていたが、一歩下がり、頭を下げた。
「柏木美和と申します。仁さんには大変お世話になっています」
紳士は返事なく美和の前に座った。
ここまで来てうじうじ思っていても仕方がない。
美和が意を決して顔を上げると、紳士は恐ろしげな顔を急に崩して笑った。
そのギャップに美和のほうが面食らう。
「さすがに仁が惚れただけのことはある。だが無理をすることはない。その気なら、仁と一緒に堅気になってくれてもいいんだ」
美和がきょとんとしているうちに、失礼します、という声で障子が開き、行儀の良さそうな若者がお茶を運んできた。
「仁は戻ってきたか?」
「はい。先ほど」
北条東吾はそれを聞くと、野暮をしていると仁に嫌われるな、と言い残して部屋を出て行った。拍子抜けした顔で美和が座っていると、直ぐに仁が入ってきた。
スーツ姿の仁は、黙って美和の前に座った。怒っているようではなく、幾分か驚いたような表情だった。
美和はホテルのロビーで仁を見たときの自分の感情を確かめていた。
今でも、真に対して恋という感情を持っていることは確かだと思えた。しかし、仁の顔を見たときに湧き上がってきた感情は、決して真との間には持ち得ないものだ。それは何と表現すればいいものだろう。
大体、相手はヤクザだ。家族を思うような感情を持てるとも思えないのに。
「ごめんなさい。あの後、部屋に上がったときには、先生はもういなかったの。探したけど、わからない。先生を連れ出したのは、大家さんとこの人だったみたい」
それには答えず、仁は黙って美和を見つめていた。
美和も仁を見つめ返していた。やがて仁はほっと息をついた。
「マンションに送ろう」
美和はやはり答えることができなかった。仁は立ち上がり、障子の外で待つ舎弟に車を回すように伝えた。
「美和」背中を向けたまま、仁が呼びかけた。「お前が本気なら、今なら目を瞑る」
美和は仁の背中を見つめていた。この言葉が仁の口から出ることを、美和は知っていたような気がした。
大きく逞しい背中は、遠く見えた。
「今だけだ」
返事のできないまま、美和は俯いた。
やがて促されて北条の家を出た後も、その玄関口を振り返ることはできなかった。
こうして仁は北条の家に残り、美和は一人でマンションに戻った。
美和は暗い部屋の中で長い時間、つりさげられた仁の背広を見ていた。窓から漏れてくる微かな光で波打つような濃淡が浮かび上がっていた。
傍に行って抱きしめたい気がしたのに、足は一歩も動かなかった。



美和と仁、これからも二人の恋の行く末を見守ってやってください。
さて、次回からは第20章後半です。真はついにチェザーレ・ヴォルテラと対峙します。
一体、ローマから来た男は真に何を求めるでしょうか。
そして、真の知りたくなかった真実がひとつ、零れ落ちます。
Category: ☂海に落ちる雨 第3節
NEWS 2013/12/12 ルミナリエの骨
私の住んでいるところは、いわゆる神戸の町中からはかなり離れているので、忘年会というものでもない限り、なかなか街に出ることはありません。
今日の会場は、ルミナリエの近く。
神戸に住んでいながらルミナリエに行ったのは10年くらい前に一度きり。
忘年会の会場に入る前に点灯されたルミナリエの一部が見えていたので、忘年会が終わったら見に行こう!と思っていたのですが……終わったら消えていた(>_<)
そうか、平日は早く消えるのですね。月~木は21時まで。金曜日と土曜日は22時まで、日曜日は21時半までとのこと。昔はもっと長かったような?
やっぱり以前のように華やかではないのかもしれません……何となく、間引かれている気がするし。
寄付だけではなかなか難しいのですね。週末などは駅まで人が並んでいるのですけれど。
16日までだそうです。
で、ルミナリエの骨だけ見ると、こんな感じ。

何だか、妙に物寂しい。

ということで、皆様に美しいルミナリエをお見せしたかったのですが、こんな残骸状態で……仕方がないので、皆様の頭の中で脳内転換して、この骨組みに光を灯してやってください!
↓参考文献(神戸観光公式サイトより)

祭りの後のそこはかとない哀愁感漂うルミナリエの骨でした……
そう言えば、近所ではクリスマスのイルミネーションを灯すおうちがいっぱいあります。
家がほとんどクリスマスケーキになっている家もあります。
昔は夜中まで電気が灯っていましたが、最近は22時に消すおうちが多い。
うちですか? 真っ暗です^^;
夜の神戸の町を少し歩いてみます。



寒くなりましたね。LEDの青が寒さを強調しているように見えるのは私だけでしょうか。
夜の街を写真に撮る……ちょっと悪いことしているような、微妙な気持ちで写真を撮りながら歩いておりました。
何でかな?
そう言えば(2回目のそう言えば)、最近、尼崎の工場の夜景ツアーというのが大流行りなのだとか。
カメラ女子もツアーなら安心というので多く参加しているとのこと。
確かに高速から見える景色は、いつも、何かこの世とは思えない、近未来なイメージがあります。
何はともあれ、すっかり冬。
皆様、お体ご自愛くださいませ(*^_^*)
Category: NEWS
[雨95] 第20章 ローマから来た男(2)
美和は、代議士・澤田顕一郎の故郷、大分・国東半島にいます。
澤田と、その秘書・村野の過去・人間関係にはずいぶんと複雑なものがあったようで……
そんな話を聞いて、村野家の墓を見に行った美和。そこである男に会い、警告されます。
「首を突っ込むな」
さて、お楽しみください。



「ね、澤田先生の名前を出したら、誰も何も言わないでしょ」
確かに、地元では澤田の名前は絶対の武器みたいなものらしい。
「若い芸術家を古い温泉地に住んでもらって村興しを提案したりしてね。何しろ、若い人が出て行くようでは駄目だって、私もそう思うのよね。ほら、フランスの南西部の古い村も、誰も住まなくなった家を若いアーティストに安く貸して、芸術の村みたいにしてたりするんだけど、ああいうイメージなのかしら。確かに日本は地方の色がもっと残ってもいいはずよね。東京に偏り過ぎなのよ。まぁ、仕事もないんだけど」
家族と話しているときは、地元の言葉で話している清美も、美和と二人になるとほっとしたように方言を使わなくなった。そもそも東京で生まれ育ったのだから、むしろ方言の方が後で身につけなければならなかった言葉なのだろう。もっとも、方言と言っても、根本的なイントネーションはその土地で生まれた者と同じようにはならない。
「時々私も、ずっと村にいた人間じゃないから、お前には分からない、なんて言われることもあってむっとするのよね」
「澤田代議士も、そういう意味では若いころからずっとこっちにいた人じゃないですよね」
「そうなのよ。でもあの人はバランスのいい人だと思うの。考え方がスマートっていうのかしら。拘りがないわけじゃないし、理不尽は許せないってところもあるけど、人の話はよく聞く人だし、揉めてたら双方の言い分を聞くタイプ。さすがに元記者ってのあるわよね。情報収集の時にはプラスの話とマイナスの話をバランスよく集めてくるってのかしら」
「やっぱり昔からモテたんでしょうね」
清美は炬燵机に身を乗り出してきた。
「興味ある?」
美和も身を乗り出す。
「もちろんですよ。ご結婚は遅かったそうですし、若いころは色々あったのかなぁって。九州日報の元記者さんに昔の写真を見せてもらったんですけど、いい男だし、女性がほっとかなかったでしょうね」
「それがねぇ、意外に堅い人なのよ」
少し声を潜めるようにして清美が言った。
「こんな小さい村だから、みんな他人の家の事情もよく知ってるんだけど、多分うちの夫や姑に聞いても、地の人は言わないと思うわ。言いたくないってのでもないけど、お前には関係ないだろうって感じかしら」
清美は更に美和のお猪口に地酒をなみなみと注いでくれた。何でも、清美の母親の親戚にあたる家が地酒の杜氏だという。おいしいです、と本気で美和が褒め称えると、本当に嬉しそうに次々に純米、吟醸、大吟醸と格が上がっていった。
「澤田先生、若いころに失恋して、今の奥さんと結婚するまで仕事一筋って感じだったのね。その失恋の相手ってのが、そもそもこの村の人でね。ま、狭い村だから顔と名前くらいはお互い小さいころから知ってたんだろうけど、親しく話をする間ではなかったみたい。その女の子、村でも評判の美人で、それが隣村だかもっと町のほうだか知らないけど、どこかから噂を聞きつけて来た若者に乱暴されそうになって、助けたのが澤田先生だったんだって。澤田先生が高校生で、その女の子が中学生。淡い恋の物語よね。でも、澤田先生はやっぱり男子たるもの身を立てなければ、って人で、大学は東京に出ていったでしょ。遠距離恋愛になったけど、それでもちゃんと関係は続いていたみたいよ」
「でも、澤田先生は卒業されてからは博多にいらしたんですよね」
「そうなの。一旦東京の出版社に勤めて、しばらくしてから九州日報に入社されたのよね。それから記者としての仕事は、まさに油に乗り切ってたから、本当に日本全国飛び回ってらしたでしょ。残された恋人は寂しかったんでしょうね。で、彼女はこの村の別の男と結婚したわけ」
「澤田先生、ショックだったんでしょうね」
「自業自得なんだって、おっしゃってたわよ。彼女をほっぽり出して仕事に夢中だったって。で、私たち事務員やアルバイトの若い連中を飲みにつれて行って下さると、人生って短いんだから、この人と思ったら迷わずに飛び込んで、できる限り手を離すんじゃないって、おっしゃってらしたわね。もちろん、その若いころの失恋話を引きずってるなんて話はされなかったけど、私たちの間ではそういうことなのかなぁって。でも、もちろん、奥さんの事はちゃんと愛してらしたと思うのよ。これは私の願望だけど」
「澤田先生には愛妻家であって欲しいという?」
「そう。私たちのヒーローだからね。でも、私もだんだん歳を取ってきて、やっぱり澤田先生は奥さんよりその人を愛していたんじゃないかって思うようになってきた。自分のそれなりに人生経験を重ねて、そう言う複雑な愛の在り方が不快じゃないってのか、人生ってそういうこともあるのよね、って思えるようになったのね。ま、奥さんは元首相の親戚の人でしょ、悪いように考えたら、澤田先生の野心の表れって感じがするから、逆に奥さんとの間がちゃんと恋愛であって欲しいって思ってたのよね」
「わかります」
美和がすかさず相槌を打つと、清美は頷いて、また自分と美和のお猪口に酒を注ぎ足した。
「その女の人は今もこの村に住んでらっしゃるんですか」
ちょっと顔でも見ておこうかと思って聞いたら、清美は少しの間聞き耳を立てるかのように黙って、目だけで周囲を気遣い、また美和の方に身を寄せた。
「九州日報で何か聞かなかったの?」
「もしかして、村野さんって人の話ですか? やっぱりこの村の出身で、九州日報の大株主で、澤田先生の後援会の会長だった人」
清美は頷いた。
「余所から来た人に言う話じゃないって、うちの人たちは言うだろうなぁ。別に村の誰かが好ましい人物じゃないからって、村の責任でもないのに、って私は思うわけなの。でも村って、やっぱり閉鎖的だからね」
「わかりますよ。うちも山口県なんですけど、昔からの人はやっぱりかなり閉鎖的です。いい意味でも悪い意味でも」
お猪口を傾けながら、清美は少し遠い目をした。
「澤田先生の家と村野さんの家は元々親戚なのね。古い時代の話はお年寄りも言わないから細かいことは分からないけど、どうやら澤田先生のお父さんと村野さんのお父さんの間で、女の人を間に挟んで揉め事があったみたいで、村野さんはまだ小さい時に父親と一緒に一度村を出て行ったの。村野さんにはお姉さんがいたんだけど、まだ若かったのに自殺か事故かで亡くなって、そのすぐ後らしいわ。後から聞いた話では、村を出てから新潟にいたんだってことだけど、村野さんが高校生の時に村に戻ってきた。それも大金持ちになってね。村野さんのお父さんが戦争中からやっていた事業が大当たりしたんですって。福岡あたりの不動産も随分所有していたらしいし、大分の村の土地も、澤田家の土地も含めてあっさりと即金で買い叩いたわけなの。もちろんその時には、澤田先生の家はすっかり零落してたから、お金が手に入っただけでも良かったのかも知れないし、二束三文にもならないような土地にボランティア的にお金を出してくれたみたいだから、村にとっても有難いというわけなんだけど、何だか嫌味っぽいでしょ」
「それって、つまり、自分たちを追いだした澤田先生の家や村に復讐した気分ってことでしょうか。あ、追い出したってのは私の想像ですけど」
「多分想像通りよ。でもね、村野さんって、私が澤田先生の事務所でアルバイトし始めたころはまだ秘書をされてたんだけど、何だか不思議なムードの人だったわ。表面的にはあんまり自分の主張を押し通したりするようなことはなくて、言い方も優しいし、人をよく見ていて結構フォローが上手くて、時々自分は損をしている、って感じの人だったの。でも、なんてのか、何を考えているのか分からないところがあって、人の話はよく聞くけど、実はあんまり興味はないみたいにも見えた。それに、ちょっとややこしいことが起こると、ふと気が付いたら村野さんの思うようになってるってのか。裏で結構お金が動いているんじゃないかっていう噂もあったわね。でも、澤田先生の傍は離れなかった。だから、事務所の事務員やアルバイトの間では、村野さんはすごい澤田先生のシンパなんだってことになってたわけ。ほら、代議士と秘書って、ちょっと女には言いにくい言葉だけど酔ってるからいいことにしてね、先生のケツを拭けるくらいの間柄でないとって言うじゃない。比喩であっても、言葉通りであっても。そういう意味では、澤田先生と村野さんって、家同士の確執や愛憎を乗り越えて、傍目には恋愛関係じゃないかって思えるくらいの仲だったのよ。それが高じてなのかどうか、澤田先生の元恋人と村野さんが結婚したのかしらって」
男と女の三角関係というものは、どれも似たり寄ったりなのかもしれない。結局、最後に女が何を望むかという事なのだろうか。ふと真の顔を思い浮かべ、それから少し遠くに離れている仁を思う。
「その女の人は何を考えてたのかしら。お金に惹かれたってこと?」
「どうかしらねえ。でも、村野さんと結婚してから、その人、すぐに失踪しちゃったのよ」
「失踪?」
「でも、ここからはミステリーよ。その人のお墓はあるわけ。失踪って格好悪いからお墓だけは作ったのかしらね」
「戸籍は? もともと村の人ですよね」
「それがね、母親と二人きりで、そもそもは親子でどこかから流れて来たらしいのよ。当時は戦争直後で戸籍なんてしっちゃかめっちゃかだったらしいし、母親はどこかの金持の二号さんか長崎の花街の人だったとかで。噂だけど」
清美はふっと息を吐いた。
「でもまぁ、色々あったわね。時々、澤田先生は妙に落ち込んでらっしゃる時があったのね。そうしたらいつも村野さんが何時間も話を聞いてお酒の相手をしてあげたりしてて、で、しばらくしたら心配事の種が消えてなくなってたりするようなこともあって。なんてのか、村野さんあっての澤田先生って印象を周りの人間に植え付けてたってのか。ヤクザとの関係を詮索されたときだって、澤田先生は小松組の幹部だって知らずに少しの間付き合ってらしたと思うのよ。でもあの時は、ちょっと私たちの間で、あれって村野さんが澤田先生を嵌めたんじゃないかって噂になってた。そのうち、澤田先生を追い込んで、自分が後を継ぐつもりなんじゃないかとか。そうなってたとしても、うちの村の人は、誰も村野さんには投票しなかったと思うけどね。でも、お金がものを言ったら分からないかな」
また清美はふっと息をついた。酔いと睡魔が適当に襲ってきているらしい。
「確かに、村野さんの個人的な支援がなかったら、澤田先生は代議士になってもいなかったし、続けてもこれなかったし、って面はあるのよ。でも、澤田先生は、もし代議士じゃなくても何某かの世界でちゃんと輝く人だったと思うから、だからこそ、村野さんが亡くなった後でも、以前に増して立派に仕事をされてるわけだしね」
「村野さんって癌で亡くなられたんですよね」
「うん、秘書を辞めてこの村に戻ってきた。介護婦兼家政婦として雇った女性と、一応戸籍上は結婚したみたいだけど、でも村の人は誰もあの家に近づかなかったから最後の方の事情はよく分からないのね。他にも若い女が出入りしていたって話も聞いたけど。結局最後は村野の家は火事で焼けて、焼死したのか、病死してから焼けたのか、よく分からないみたいね。事件性はないってことで、あまり調べた気配もなかったし」
もう寝ましょうか、と言われて、美和は素直に頷いた。
翌朝、美和は敷島家の人々に何度も礼を言って、駅まで送って行こうという申し出を何度も断って、ちょっと辺りを歩いてから帰りたいのだと告げた。バスの時間を確認してから、昨夜寝る前に清美に聞いていた村の墓地に出かけた。夜のうちに雨が降っていたらしく、水を含んだ空気も、木々の葉も、照り輝いて見えている。
墓は村の山手に幾つかかたまっていて、おそらく集落の何軒か分の墓が集まっていたのだろう。美和が墓地に辿り着いたときも、山手の深い森からは雨の香りが強く匂っていた。足下の地面もたっぷりと水を含んでいる。木の葉で足を滑らせながら、美和はその墓石にに辿り着いた。
墓石に刻まれた『村野家之墓』という文字はくっきりとは浮かび上がらず、土埃を吸い込んでくぐもっているように見えた。美和は墓石の側面に回り、文字を確かめた。年齢から村野の両親と思われる人物と、幸という村野の姉らしい人の名前と、村野自身と、それに小さく花、と書かれているのが村野の妻の名前だったのだろう。村野の姉らしい人は、十四で亡くなっていた。墓にはもう訪れる人もいないのか、供えられる花の影もなく、墓石はひびが入っていた。
村野耕治の亡くなった日付は彫られていなかった。名前だけが記されている。誰も供養する人がいなくて、日付さえ彫ってもらえなかったのか。それにしては名前だけは彫り込まれている。あるいは墓に入れるべき骨がなかったのか。これがミステリーなら、あるいは実は生きているのか。
美和がその名前を見ている時、背後に湿った地面を踏む重い音が聞こえた。
美和は慌てて振り返った。
そこに立っていたのは、大和竹流の病室で見かけて跡をつけていった男だった。
つまり、村野耕治の息子だ。
これは危険な状況で大声で叫んだ方がいいのか、いや、ここはすごい田舎でもはやどうしようもないのか、とりあえず考えがまとまらないまま美和は突っ立っていた。
男は最初にわざとらしい溜息をついた。古いコートを着て、幾分か髪に白いものが混じっているが、機敏そうな身体つきは、まだ男がそれほどの年齢ではないことを物語っている。
「あんたもしつこいな。忠告したはずだぞ」
男は厳しい声で言った。しかし、ここで引き下がるわけにはいかないと思い、思わず胸を張ってしまった。
「残念でした。そうは簡単に引き下がれないのよ。私たち、大家さんが帰ってこないと困るの」
美和がそう言うと、男は小さめの頭を振った。さすがに極道の女だな、と呟いて、男は地面に唾を吐き出した。
「大家さんがどこに居るのか知ってるんでしょ。大体あなた、何でこんなところをうろうろしてるわけ?」
男は面白そうに笑った。
「あんたんところの先生も大概しつこいみたいだが、あんたも得にならないことに首を突っ込んで何が面白いわけだ? そのうち本当に危ない目に遭うぞ」
「面白くてやってんじゃないわ。大家さんを返しなさい」
美和が息巻いて言うと、男はもうひとしきり笑った後で、美和に名刺を差し出した。青い艶のある紙に、歌舞伎町『シャッフルズ』という店の名前が書かれてあった。
「相川真に渡してやれ。その気になったら来い、ってな」
え、と思って何か言いかけた時には、男はもう美和に背を向けていた。
墓地を出ると、きらきらと光っていた朝の地面も、随分艶を失っていた。時計を見て、バスの時間が近いことを確認すると、今度は早く真の顔が見たくなって、歩いても十分に間に合うはずなのに、走ってしまった。
それでも博多に戻ると、もう一泊して図書館に籠り、澤田と村野の関係が分かるような記事をできるだけ探した。だが、核心に触れるような記事はほとんど発見できなかった。
実家に寄る気分にはなれなかった。だが、電話をしてあったし、母親は料理を作って待っているだろう。弟にも約束していた時計を届けてやらなければならない。
墓地で受け取った名刺を取り出して見つめていると気持ちは焦ってくるのだが、ヤクザと暮らしていることを気取られないようにするためにも、時々は家族の顔を見てさりげない会話を交わしておく必要があるのだと思っていた。
「遅かったね」
母親の声を聞くとほっとして、手料理を食べると、急に東京が遠くなった。弟二人と馬鹿話をして、半年前の喧嘩の続きをして、それでも時計を出すと彼らの態度はコロッと変わった。下の弟が空手の県大会で二位になったというので褒めてやると、上の弟は強豪校のテニス部のレギュラーになったことを自慢した。どっちが偉いのかで揉める二人を宥めるのではなく、更に火をつけて遊ぶのが美和の楽しみだった。
やっぱりほっとする、と思う。思うのだが、何かが足りない気もする。
真と仁にこんな場所があるのだろうかと考える。そしてふと、真にとってはやはり大和竹流の傍らこそ、その場所なのだと思った。
じゃあ、私にとってすべてを満たしてくれる場所はどこなのだろう。それともそんな場所があると思うのは、幻想にすぎないのだろうか。



さて、美和は東京へ戻ります。
そして、仁と再会。そこに待っていたものは……
お楽しみに(^^)
Category: ☂海に落ちる雨 第3節
NEWS 2013/12/10 性懲りもなく予告編

昨夜の雨で庭の紅葉が半分禿げちゃいました。石段におちた紅葉です。
さて、今朝、ブログを開けてみたら……

トップ記事の拍手が3ケタに!!!! きっと、もうすぐ100とか言っていたので、どなたかがお優しい1票を投じてくださったのだと思われます。ありがとうございます(*^_^*)
絶対に3ケタになる日など来ないと思っていたので、何はともあれ、びっくりのような嬉しいような。
と思いながら、下の方を見てみたら……

おぉ、なんと切りのいい数字が……
ブログを始めたのは1月の終わりだったと思うのですが、その時はまだカウンターの置き方が分からなくて、6月からのカウンターです。ちょうど半年。
地味に、世界の片隅で愛を叫んでおりますが、小さな声でも聴き付けて訪ねてくださる方々に感謝いたします。
あれ? キリ番リクエストはないのかって?
はい。まだ500の【死と乙女】が上がっていなので、これが終了するまではリクエストはしないことにしました。
でも、嬉しいので、ちょっとクリスマスプレゼントを準備中です。
ということで、性懲りもなく(どうせその通りにならないのに)、予告編(*^_^*)
【海に落ちる雨】
さて、佳境になってきましたが、本日から第20章『ローマから来た男』に入りました。
ついにチェザーレ・ヴォルテラ登場です。いったい何をしてくれるでしょうか。
今年中に、第21章まで終わる予定。第21章は噂の回想章です。
今回の回想は、妹(従妹)の葉子と享志(あの【8月の転校生】の天然級長)の結婚~享志の従姉・りぃさと真の恋愛(と言えるかどうかは?)~竹流と同居に至る過程です。
大間のマグロ漁が出てきます(目指せ『老人と海』?)。三味線シーンも。
【死と乙女】
何があっても、今年中に終わらせる!という意気込みで頑張ります。
アネットと慎一、そしてテオドール。三角関係なのか、あるいはもう少し複雑な思いがあるのか。
音楽院のピアノ科に通う3人の若き楽聖の物語。
ついに特待生試験の結果が発表される。アネットと慎一、合格するのはどちら?
そして。
「お互いに大事な曲をひとつ、贈り合いましょう。そして、お礼には、絶対に誰にも言えない秘密をひとつ、教え合うの」
【クリスマスの贈りもの】
さて、100と5000のお礼に準備していますのは、実は以前から練っていた物語のプロローグ。
その名も【奇跡を売る店】……
実はこのお話、真シリーズの裏番・別次元ものなのです。
何故裏番があるのか。それはもう単純なことです。実は真シリーズの真世代は、あまりハッピーエンドとは言い難い(私としては、取り様だと思うのですが)ので、もしもこの主人公二人が本当にハッピーエンドになったらこんな感じか?という世界を書いてみようと思い立ったのです。
でも、結果的には全然違う人物になっていますし、別に同性で結婚する話にもなりません(^^;)
そして、舞台は、自分の身近に引き寄せて、京都。時代も現代になっています。
ちら見してみます?
主人公は、もともと医者だったという兄ちゃん。今はショウパブ(ゲイバー)のホールをしていて、ついでに四条河原町の近くの調査事務所を継いでいる。竹流に相当する人物は、大原の庵で仙人のように暮らしている仏師。
主人公が結婚するはずだったもと恋人の小児科医、主人公が引き取っている心疾患の5歳の女の子、その子を捨てて行った母親、ゲイバーの仲間たち、そして、怪しい石を売る老女。
構想3年の物語。面白いのかどうかはわかりませんが、いつか日の目を見ることを願って、プロローグだけでも書いてみようと。多分私の京都生活のあれこれがめいっぱい詰まった物語になるはず。
ただ、困ったことにまだ主人公の名前が決まっていません^^;
名前があるのは女の子だけ(和子と書いて、にこ、と言います)。
タイトルの由来は、奇跡と貴石を引っ掛けています。つまり、パワーストーンですね。
この怪しい石を売る老女が、いい味を出してくれると思います。多分、にこちゃんも。
大海が石の話をついに書くのか?
いえいえ、大きさが違います。巨石の話を書く時は、考古学者・巨石探偵で行きたいと思います(^^)
例のごとく、まったくあてにならない大海の予告編。
気長に、気長にお待ち頂ければと思います。
それにしても、書く『予定』の物語の話をするのって、なんて楽しいんだろう(^^)
無責任だから??
いずれにしても、お楽しみに(*^_^*)
12月のラストスパート、ですね。
風邪のシーズンともなりましたので、皆さま体調にはくれぐれもご留意くださいませ。

京都の町屋を使ったあるお店。この2階の障子が面白い。

*海に落ちる雨、第20章もよろしくね↓
(博多弁、間違い探ししてくださいませ)
Category: NEWS
[雨94] 第20章 ローマから来た男(1)
ついに、ローマからあの男、竹流の叔父であるヴォルテラの当主がやってきました。
竹流の身にとんでもないことが起きている、それを目の当たりにした真は、チェザーレ・ヴォルテラとどのように渡り合うのでしょうか。相手は、教皇庁の裏組織とも言うべき家の主。
でもその前に、九州にいる美和の行動を追いかけてみます。美和は大分に行って、澤田代議士と村野という亡くなった秘書のことを調べています。
少し長い章ですので、全6回でお送りします。
前半は美和の視点、後半は真の視点です。



「あぁ、それそれ、その椅子たい」
美和をその古い建物の二階に案内してくれた男は、すっかり錆びかけて傾いたキャビネットが壁際に放置されたままの廊下で、やはり投げ出されたままの木製のベンチを指した。
ベンチには、黒っぽいビニールの雨合羽かシートのようなもの、セーターのような布の塊、それに新聞紙か雑誌の束が放り投げられたままだった。
狭い廊下には窓がほとんどなく、天井を見れば、蛍光灯が外れたままの長い電気フードが所在なく吊られているだけで、昼間でも夕方のように暗い。板の床には埃が降り積もり、元の色は分からなくなっていた。
「しかし、東京の学生さんとや? なしてまた、博多っとね」
「私、実家は山口なんです。高校生の時、時々博多には遊びに来てて、憧れの町だったんですよね」
美和はいかにも田舎の中高生の行動範囲からは考えられそうなことを答えた。何のために使われていたのか分からない、足元のアルミ製の板のようなものを飛び越える。
「それに、澤田代議士のファンで」
五十は出ていると思われる男は、豪快に笑った。恰幅がいいといえば聞こえはいいが、とにかく腹がしっかり出ていて、髪の毛は大方剥げかけている。
「若い時から、女心を摑むんは上手かったけん。ばってん、こんな若い娘さんさい、たらしこむたぁ、やっぱり澤田さんは隅に置けんばい」
博多駅からまっすぐ伸びた大通りを一筋入って、九州日報が入っていた古い五階建てのビルに美和を案内してくれた男は、陸井と名乗った。
戦後のジャーナリズムを研究している学生で、博多を卒論のテーマにしているのだと言って、図書館や役所で協力を求めたら、さすがに大手の地方新聞社だっただけあって、資料だけは山のように出て来た。いちいち礼を言いながら、とにかくもともと新聞社のあった場所に行ってみたいと言ったら、地図を出してきて説明してくれた。
そのビルと隣り合った古いマンションの管理人が陸井と言って、もともと九州日報で働いていた男で、もうすぐ取り壊しになるビルの鍵も預かっているはずだという。
やけにスムーズに答えが出てくると思ったら、その辺り一帯が再開発の対象になっていて、役所でも調査中だったらしく、陸井とも何度か会っていた人がいたようだった。
「ばってん、こうして見っと、この椅子にあの子が座っていた日のこつが昨日のことように思い出さるぅばい。その先のことはともかく、あん頃は、可愛らしい、いっつも涙さい溜めたぁ目ぇして、澤田さんの帰りを待っとったけん」
美和は木製のベンチに降り積もった塵や埃を手で払った。窓から射した光が、美和の手が舞いあがらせた塵を乱反射させ、やがてまた沈んでいった。
「澤田さんは精力的に仕事をしてなさったけん。取材で飛び回ってて、恋人ばほったらかし、まぁ、あの子も寂しさに耐えられんかって、村野さんに靡いたんごたぁね。村野さんは大金持ちだったけん」
澤田顕一郎にも若いころ日々があり、恋があり、そして苦しい思いをいくつも乗り越えて来たはずだ。そしてその恋人にも、若さゆえの情熱や、我慢のならない寂しさやらがあったのだろう。
過去のどこかでは、その重さがこの木のベンチの上に載っていたのかもしれないが、今ここに降り積もるのは、払えば浮き上がる軽い塵だけだった。
今、街頭や記者の前、国会で力強く質問し演説する澤田顕一郎が、このベンチで彼を待っていた若い恋人を思い出すことがあるだろうか。
「そうそう、名簿たい」
陸井は美和を隣のビルに案内してくれた。
ビルの階段に向かって一歩足を進めた時、ふと何かが視界の隅で光ったような気がした。
美和は思わず視線を向けたが、駅に伸びる道の上にある雑多なもののうちの何に関心を向ければいいのか、結局わからなかった。陸井が促すように、階段の途中で足を止めている。
一階はコーヒー専門店とラーメン屋、薬屋が敷地を分け合っていて、特にラーメン屋は賑わっていた。三階から上が1DKの部屋が並ぶ住居で、二階には貸事務所が幾つか並んでいる。
陸井が管理人室兼事務所を構えているのはその一部屋で、隣は空いていて、その向こうには名前からだけでは何の事務所かわからない部屋が幾つか並んでいた。人の気配はない。
事務所と言っても、陸井以外の従業員はいないようだった。
陸井は、本棚に並べられることもなく段ボールの中に仕舞い込まれたままの、今は無き新聞社の遺物を探し始めた。そして、美和が思うより早くに陸井は目的の冊子を取り出してきた。もしかして陸井の中では、九州日報のことは昨日のことのように明瞭なままなのかもしれない。
美和は手渡された冊子の黄ばんだページをめくった。
名簿はあいうえお順ではなく、入社した年ごとに名前が並んでいて、住所と電話番号、生年月日、最終学歴と出身地が記されていた。
澤田顕一郎の華々しい最終学歴の下に、控えめに地方高校の名前が記されている。その行を辿っていくと、村野耕治の名前があった。
「あれ」
美和が声を上げると、陸井が覗き込んできた。
「澤田さんとこの人、同じ村の出身ですか。この人って確か澤田さんの秘書をしてらしたんじゃ」
「あぁ、村野さん」
陸井はちょっと微妙な表情をしたように見えた。美和の思い違いかもしれない。陸井は段ボールの発掘に戻り、アルバムを探し出して、そこから一枚の写真を取り出してきた。
「これがその同期の連中の入社んときの写真たい」
若く理想に燃えた男たちが八人、並んで写っている。少し黄ばんだ白黒写真のどの顔も緊張気味に見えたが、その中でも澤田顕一郎はやはり目を引いた。
もう何十年もたっているのに、今美和が見ても男ぶりがいい。しっかり七三に分けられた短い髪も、切れ長でやや大きな目も、くっきりと顔にインパクトを与えている眉も、引き結ばれた意志の強そううな唇も、どのパーツを取っても明確な印象を植え付ける。
その横に美和は、ずっと昔、子どもの頃に澤田顕一郎と握手をした時、澤田の後ろに立っていた地味な顔の男を認めた。
「こん人ばい。村野さん。澤田さんの横に立っとうと目立たんばい。ばってん、大金持ちやったい、九州日報の大株主で、澤田さんの後援会の会長で、そのまま秘書になったてぇ人たい。優しいものの言い方する人やったばってん、なんとなし何考えとうのか分からんとこがあったばい。ばってん、金の力はすごかね、女もいつの間にやら澤田さんから村野さんに乗り換えとったばい」
この写真を少し借りれないかと聞くと、陸井は気前よく了承してくれた。怪しまれないように、卒論用として他にも幾つかの資料を借りて、できるだけ早く送り返すと約束したが、陸井は別に用がないからいつでも構わないと言った。
陸井と別れてから、美和は博多駅に戻り、時刻表とにらめっこをしてみたが、どう知恵を絞っても今日中に澤田顕一郎と村野耕治の出身地である国東半島の村に辿り着くのは無理そうだった。何しろ、博多駅から列車を乗り継ぎ、ついでにバスを二本ばかり乗り継がなければ辿り着けない場所だという事が判明したわけで、その段階で美和は諦め、今日のところは駅前のシティホテルに泊まることにした。
最近ようやく、ビジネスホテルの狭いベッドとユニットバスに慣れてきたところだった。
美和の実家は博物館にでもしたくなるような古い日本家屋だったので、建物が古いことには何の抵抗もないのだが、狭い場所が苦手だった。
だが、真と一緒に仕事に出ると、いつも大概はビジネスホテルに泊まることになり、もちろん部屋は別々なのだが、窓を開けても隣の建物の壁しか見えないということに、始めのころはもの凄い圧迫感で参ってしまっていた。
北海道育ちの真も同じはずだと思って、窮屈に感じないのかと聞いたら、馬小屋の中と思えば気にならないと言われたので、変に納得した。結局、美和の方もいつの間にか慣れてしまったのだが、今日は何となく狭苦しいところに入りたくなくて、贅沢にツインの部屋を頼み、そのまま部屋にこもった。
いつもの美和なら、一人でも駅前の居酒屋に入って、若い女の子が一人でカウンターで堂々と飲んで食べるという姿を好奇の目で見る他の客たちを背に、いつの間にかカウンターの中のマスターと楽しく会話を交わしているはずだった。
真に、危なっかしいからそういうことはやめた方がいいと説教されたこともある。まったくあの人は本当に煩い兄貴だと思うが、酔っぱらった自分については確かに多少自信のないこともあって、一人の時は酒の量だけは減らすことにしていた。
それでも今日は飲む気にもなれず、鞄を隣のベッドに放り投げ、ベッドカバーを外さないままのベッドにぱたんと倒れ込んだ。後で、ルームサービスくらいは頼もうと思ったが、今は電話も億劫だった。
あれから真は糸魚川に行って、香野深雪の生まれた場所に立ったのだろうか。
嫉妬しているつもりではなかったが、何だか落ち着かなかった。大和竹流が相手では、分が悪いことは分かっている。だから諦めたつもりでいる。
しかし、真が深雪の故郷だから一人で行きたいと言ったとき、失恋を認めたはずの心がかき回されたような気がした。真はやはり、どこかで香野深雪を大事に思っているのだ。
それが悔しいと思うのは、まだ真のことを諦め切れないからなのか、それともただ、恋愛ではないと断言しておきながら、真のはっきりしない態度が許せないからなのか。
やっぱり何だか悔しい。
美和はうつ伏せになり、そのまま目を閉じた。
目が覚めたのは明け方で、結局、ベッドカバーも取らないベッドの上で意識を失って一晩が過ぎてしまった。今更だが、取り敢えず服を脱いで、チェストに入っていた浴衣をひっかけて、一度もベッドに入らないのはもったいないという理屈で、シーツの中に潜り込んだ。二度寝を試みたが、結局はよく眠れなかった。
六時にはシャワーを浴び、駅に向かった。
それでも、大きな町を出て、脇から倒れ込むような木や草の枝に車体が当たりながら進まなければならない田舎道に入り込み、目的の村に着いた時には、昼はとっくに回っていた。
集落と言っても、バス停から見回す限りでは家が並んでいるというわけではない。バス停のある場所は少し開けていて、道路脇に朽ちかけた舞台がある。奥に社が見えているのだが、どうやら廃寺のようで人の気配はなかった。
どの方向に歩くのかは賭けのようなもので、いささか冒険かもしれない。バス停の雨よけになっている木枠の屋根付きベンチに鞄を置いて、ため息をつく。
タクシーで来るなどして帰りの手段を確保しておかなかったことを美和が後悔し始めた時、目の前を自転車に乗った、中年というには申し訳ないくらいの年齢の女性が通り過ぎた。目が合ったものの、話しかける瞬間を摑み損ねてしまい、さてどうしようかと思ったとき、自転車の女性が戻ってきた。
旅行者が来るところではないのに、いかにも異邦人、という顔つきで立っている若い娘が気になったようだった。
「誰かを訪ねていらしたの?」
綺麗な標準語だった。
美和は救われたような気持になり、卒論の研究で、という嘘をここでも繰り返した。気が向いて澤田顕一郎の生家のある村を訪ねてみようと思ったんですけど、というと女性はいかにも楽しそうに笑った。
「こんな何にもないところに放り出されるとは思ってもみなかったでしょう」
女性は村役場の職員で、敷島清美と名乗った。一人暮らしの老人の様子を見に行った帰りだという。
「そう、澤田先生のファンなのね」
うふふ、と含むように笑った女性は、化粧をしていなかったが、少し飾れば都会にいても十分通用する顔立ちに見えた。
「実は私、澤田先生の選挙事務所を何年もお手伝いしてたの。あなたと同じ、澤田先生のファンで」
女というのは総じておしゃべりが好きなものだが、共通の興味や疑似恋愛対象があると会話の温度は断然高くなる。美和が、私は小さいころ澤田顕一郎と握手したことがあって、それ以来のファンなのだと言うと、敷島清美は自転車を降りて、美和と連れ立つように村役場へ歩き始めた。
お茶くらい出すわ、という言葉に、美和は素直について行った。
敷島清美は、東京生まれの東京育ちだというが、高校生の時に母親が離婚して出身地のこの村に戻ったので、一緒にここについて来たのだという。だが、田舎を嫌って東京の大学に進学し、それなりに苦学生でもあったらしく、アルバイトを幾つか掛け持ちしている中に、母親と同郷の澤田顕一郎の事務所での選挙活動手伝いがあったようだ。もちろん、大分に戻ってのアルバイトだったわけだが、その事情の中には母親の病気もあったという。
東京でも澤田の事務所の手伝いをしていた時期もあったが、結局は母親の介護のためにこの村に戻り、その後村役場の職員として勤めていた時に同僚と結婚したという。もともと政治を学ぶつもりで東京の大学に進学した時には、女性とはいえ、それなりの野心もあったのだと語った。
「理想が追い続けれらなかったことに対するちょっとした悔しさみたいなものはあるけど、何より、今はもう若い時ほど体力がないのね。こんなものかな、こんな人生も悪くないな、という気持ちかしら」
あなたはジャーナリズムの世界を目ざしてるのね、と聞かれて、美和は一応頷いた。
「仕事を続けるって、女には難しいことですか」
「うん、どうかしらね。女って興味が多いし、もしも家庭や出産・育児というものが絡んできたら時間的制約も受けるし、大変ではあるけど、続け方の問題じゃないのかしら。もちろん、金を稼ぐっていう切羽詰まった事情のある女性もいるでしょうけど、金銭的目的については男性ほど切羽詰まった人は多くない気はする。切り替えは上手だし、なにより社会的地位を強く求める人も少ないし、忍耐というのか継続力はあるし。続けていけば何とかなるって思うわよ」
私の場合はそういう問題じゃないな、とふと美和は気が付いた。
仕事における女性の権利とか義務とかいう問題以前の問題があるんです、実は恋人がヤクザの跡継ぎで、などとはさすがに言えないが、一般論としては先人の話は聞いておく意味がある。
それに、敷島清美は、美和の人生相談相手という立場が、いささか気に入ったようだった。
敷島清美の東京での住まいが、美和の女子大の近くだったこともあり、話をしながら村役場まで歩いている間に打ち解けてきた。酒好きだというところまで一緒だというので盛り上がってくると、いつの間にか敷島家に泊まる話になっていた。
清美の方も、この村のでの淡々とした暮らしの中に飛び込んできた異邦人を、多少の嘘の入った話をどこまで信用していたのかは分からないが、歓迎していたことだけは間違いがなかった。
敷島家は夫婦と中学生になる娘、来年小学生になるという息子、清美の夫の母親が一緒に住んでいた。清美は美和について、大学の後輩で澤田代議士の事務所の後輩でもあり、フィールドワークに来ていたが今日帰る足が無くなってしまったので泊めてあげたい、と皆に説明した。誰一人、異を唱える者はいなかった。
皆が寝床に入ってからも、清美と美和は酒を飲みながら居間で話し込んでいた。地酒のお蔭もあったのかもしれないが、意外にも話すことは沢山あった。年は二十以上も違うのにね、と二人は笑い合った。



酒があれば誰とでも打ち解ける美和ちゃん。
澤田と村野の関係を聞きだし、そして二人と三角関係にあった女の話を聞きだします。
ところで、いまでこそ「おひとり様」の女性は珍しくありませんが、この時代はまだまだ物珍しかったでしょう。
この元気印の美和ちゃん、発展的というよりは、何で女一人で飲んでちゃだめなの?という単純な気持ち。
本当に、いつもいつも思う。真はどうしてこの子と結婚しなかったんだろう??
Category: ☂海に落ちる雨 第3節
【雑記・あれこれ】limeさんのコメキリ番10000を踏みました!
このブログを初めて、まる4年ですが、1か月前に、コメント数が1万を超えました半分は私の返信なのですが、それでも5000です。いやもう、ものすごい貴重な時間と優しさを皆様から頂いていたのだなあと実感。小説や雑記へのコメントは本当に、ブログを続ける何よりの励みですし、宝物です。改めて皆様にお礼を!いつも温かい、そして楽しいコメント、本当にありがとうございます!今回は、1万回目にコメントをくださった、大...
(雑記)コメント1万記念。リクエスト・イラスト


まずはlimeさん、コメント数10000というすごい数に到達、おめでとうございます(*^_^*)
limeさんのセンス、小説への熱意、持続力、コメントへの丁寧なお返事、ブログの読者さんへの思いやり、全てが相まっての10000コメントという偉業、素晴らしいですね。
その10000目のコメントを踏ませていただいたのは、なんと私でした^^;
ものすごく得をした気分です。それをいいことに、我儘なリクエストをさせていただきました。
limeさんちの春樹とリク、そしてうちの真が、どことなく似ているんじゃないかというのが、limeさんと私の共通の印象だったので、ぜひともイラストで確かめていただきたいと……
3人を並べての感想。
≪もしも私が面接官で、3人から誰かひとりを採用するなら≫
リク→時間通りに仕事に来そうにないし、営業に行ったら帰って来そうにないので不採用。
真→人と合わせられそうにないし、変な仕事をさせたら保護者が怒鳴り込んでくるという噂なので不採用。
春樹→まぁ、取りあえず誠実そうだし、雇ってみる……・雇ってみたら、ウザい友人(ごめんなさい!)が押し掛けてきたので、今、再検討中。
リクと春樹はコートを着ているのに、妙に軽装のマコト、じゃなくて真(変換すると、先に『マコト』になっちゃう^^;)。
例のごとく走っているのかしら。
limeさんが書かれている通り、真は昭和の人(あ、でも、中期よりは後期かな??^^;)。この3人が出会うことは時間的にはないのですけれど。
(それ以前に、別のコラボであり得ない時間を乗り越えて会っている人たちがいますけれど^^;)
そして、コメント欄に「猫バスが来そう」というのがあったので、なるほど!と思い、その辺りにイマジネーションを刺激されて、このあまりにも素敵なイラストを物語にしてみました→→追記からどうぞ。
(あ、でも期待はしないでくださいね! 極めてつまらない掌編ですので^^;)
と、その前に、真を切り抜いたイラストを頂きましたので、それをご披露。

(このイラストの著作権はlimeさんにあります(*^_^*))
この白い猫、もしやもち姫さん??(→→ウゾさんのブログ:百鬼夜行に遅刻しました)
いや、レディか……^^;(【真シリーズ・掌編】聖夜の贈りもの)
Category: ☆真シリーズ・掌編
連作短編【百鬼夜行に遅刻しました】秋・菊(後篇)

Stella 2013/12月号 投稿作品
どうやら、タイトル通り、遅刻することが常連になっているこの作品(何の言い訳??)。
スカイさん、ご迷惑をおかけして、しかもご配慮いただき、ありがとうございました m(__)m
お待たせしました(待ってくださっていたと信じて!)、秋篇の後篇をお届けいたします。
すっかり12月号なのに、世間はクリスマス物語で溢れているのに、いまだに秋の菊。
でも、近所のお庭には菊が綺麗に咲いています^^;
……本当はクリスマスのお話も間に合わせたかったけれど、それはまたクリスマスに(できれば)。
前篇はこちらです→→【百鬼夜行に遅刻しました】秋・菊(前篇)
サクラちゃんがキブネの森に通っている。百鬼夜行学校の先生の一人・パーフェクトのっぺらぼう女子にそのことを教えられたウゾは、丑の刻参りをする女の人を見てしまいます。サクラちゃんは病に伏すその人のために、不老不死の霊水・菊の雫を運んであげているのですが……
人の生死を左右しようとすることは危険なことのはず。
そして、ウゾは、菊の雫を司る不老不死の菊慈童に会い、命を定める菊の霊水を授かります。
サクラちゃんと出会ったウゾ、果たしてどうする?



「ウゾくん……!」
いつでもウゾよりも逞しくて、物知りで、努力家で、何だか頑張っちゃっているサクラちゃんだったけれど、その時、サクラちゃんは気持ちの糸が切れたみたいだった。ウゾに駆け寄り、抱きつくと、わっと泣き出した。
ウゾはどうしたらいいのか分からず、少しの間何も言えなかった。でも、サクラちゃんの涙の重みを受け止めているうちに、助けてあげたいと心から思った。
ちょっと恥ずかしいと思ったけれど、ウゾはサクラちゃんをぐっと抱き締めてあげた。
しばらくするとサクラちゃんはようやく泣き止んで、ぐすんと鼻をすすりあげた。
「一緒に来て」
サクラちゃんがそう言って、昨日と同じように菊の花に手を合わせた。それから葉を手折ろうとしたけれど、ウゾはそっと止めた。
「菊の葉は、もう僕が持っているから」
サクラちゃんはウゾの掌の上の菊の葉、その菊の葉の上に溜まった雫を見つめていた。雫は、鬼にしか見えない光を映して、ウゾの掌の上でキラキラと転がっているように見えた。
「これ、どうしたの?」
「菊の精、じゃなくて、菊慈童に会ったんだ」
サクラちゃんはびっくりしたような顔をした。
「……そうなの」
「彼と話した?」
「ううん。私は会ったことはないの。やっぱりウゾくんはすごいね。花たちとお話ができる」
え、そうなのか、とウゾはサクラちゃんを見た。それは誰でもできることだと思っていた。特にサクラちゃんのような優秀な鬼なら。
ウゾはサクラちゃんと一緒に川を下った。川を下って、昨日の大きな建物まで行って、それからあの女の人が眠っている部屋に壁抜け(今回の場合は正確には窓抜け)をして入っていった。
サクラちゃんはじっと女の人を見つめて、それからポロリと涙をこぼした。
「私のお母さんなの」
「うん」
ウゾは頷いた。
「病気なんだね。確か、サクラちゃんは病気のお母さんにナカラギのサクラの花びらを見せてあげたくて、それでバイクに轢かれちゃったんだよね」
サクラちゃんは頷く。
「私、もしかしてお母さんの病気が治ったらいいのにって、そう思って、ずっと菊のことを調べていたの。お母さんの病気は治らないって、もうそんなに長くは生きられないんだって、それは知っていたんだけれど……病気で苦しそうなお母さんを見ていたら、治してあげたくて、少しでも苦しくないようにしてあげたくて、病気が治って少しでも長く生きて欲しくて。そうしたらあの菊が不老不死の雫を持つ菊だって、病気も治るかも知れないって、キブネの森の精が教えてくれたの」
「それで、お母さんに菊の葉の雫を運んであげていたんだね」
ウゾはそっとサクラちゃんの手を握った。サクラちゃんもきゅっとウゾの手を握り返してきた。震えていたけれど、そして鬼の手だから決してあったかくはないはずだけれど、ウゾにはとても温かく感じられた。
「お母さんは犯人ものかもしれないっていうイリュウヒンを警察の人に見せられて、その中から何かを手に入れたみたいなの。それを使って……」
「丑の刻参りを始めたんだね」
丑の刻参りには呪う相手の一部が必要だ。イリュウヒンが何かは分からないけれど、サクラちゃんのお母さんはそれが犯人のものに違いないと思ったのだ。
「毎日、お母さんの魂が抜け出して、あの山に行くの。もしかしてお母さんが闇の鬼になってしまったら……どうしたらいいのか分からなくて。先生かもち姫に相談しようと思ったけれど、それも怖くて。お母さんがしていることはいいことじゃないよね。お母さんが罰を受けるかもしれない、鬼にもなれなくて、ジョウブツもできなくて、私たちとは違う世界に行ってしまうかもしれないことが怖くて」
「今日は何日目?」
「7日目」
「じゃあ、まだぎりぎり間に合うよ」
ウゾは掌の上の菊の葉を見つめた。
呪いが成就される前に、お母さんを清めてあげて、そして魂が抜け出すことのないようにしてあげればいい。
でも、サクラちゃんのお母さんの、サクラちゃんを殺したハンニンへの恨みは消えることはないだろう。だから、生きている限り、また恨みはどんどん降り積もっていく。
サクラちゃんは、お母さんの病気を治したくて、そして少しでも長生きをしてほしくて、呪いをかけたまま死んでしまったりしないようにと、一生懸命だったのだ。
でも、このままなら……
「サクラちゃん、お母さんの命の時間は、きっとサクラちゃんには変えられないよ」
「……分かってる」
僕が願えば、それが叶えられる。
菊慈童はそう僕に言った。
この菊の雫は霊水だ。菊の精が言いたかったのは、命を永らえるのも、命を終わらせるのも、この霊水の役割なのだということだったのだろう。
僕が命を決めるのは正しくない。運命に逆らうようなことなのであれば、僕が決めるべきじゃない。でも、この菊の雫は、その人の運命を正しく決めてくれるはずだ。サクラちゃんが生きていてほしいと願う人の命であっても。
「私のお父さんは、私が生まれてすぐに交通事故で死んじゃったの。だからお母さんは一生懸命働いて、一人で私を育ててくれたの。少しでも私と一緒にいられるようにって、保育園の先生になって、時には夜も働いていて。お母さんが忙しかったり、他の子のことで一生懸命だったりして、寂しい時もあったけど、二人きりの時は、あったかい手で私の手を握ったまま、いつもいっぱいお話をしてくれた。優しい声だったよ。一緒にカモガワをお散歩したり、お花を探しに行ったりもしたの。でも、一生懸命働いて、一生懸命私や他の子どもの面倒も見て、頑張りすぎちゃったから病気で倒れちゃったの。それからすぐに私が殺されちゃって」
サクラちゃんはさらりと言ったけれど、ウゾはちょっと背中がぞくっとした。
そうだ、サクラちゃんは殺されたんだった。そして、ウゾだって、その犯人が憎いと思うお母さんの気持ちが分かるのだ。
だって、サクラちゃんはこんなにも可愛い子なんだから。
サクラちゃんはしばらく下を向いていたけれど、やがて顔を上げた。
「お母さんは、お父さんも私もいなくなって寂しいと思うけれど、でも、やっぱり元気になって欲しかった。長生きして、私の代わりに、お母さんを頼っているたくさんの子どもに、幸せを教えてあげて欲しかった」
サクラちゃんの気持ちはとてもよく分かった。でも、お母さんの病気はあんまりよくないんだね、とウゾが聞いたら、サクラちゃんは何も言わずに涙を流して俯いてしまった。
お母さんは、残り少ない命で犯人を捜すことも叶わないなら、鬼になって呪って死のうと思ったんだろう。でも、それはサクラちゃんのお母さんの心を追い詰めてしまうだけだ。
「サクラちゃん、どうなっても、僕に任せてくれる?」
サクラちゃんは黙ってウゾを見つめていた。悲しく、辛く、とても苦しい顔に見えたけれど、やがて目を伏せ、それから顔を上げた時には、いつものサクラちゃんの目だった。強くて、頑張り屋で、泣き虫だけれど自分にとても正直で、とても優しいサクラちゃんだった。
サクラちゃんはウゾの目をしっかりと見て、それから、うんと頷いた。
「ウゾくんを信じる」
ウゾはサクラちゃんに、今日は丑の刻参りに行くお母さんを見てもついて行かないようにと言った。
サクラちゃんは少しの間考えていた。そして、俯いたままだったけれど、最後にはしっかりとした声で言った。
「ウゾくん、ごめんね。ウゾくんに任せるよ」
サクラちゃんはギュッとウゾの手を握った。そして、まるでお母さんの手を離したくないとでも言うように、いつまでもウゾの手を離さなかった。
本当だったらウゾは女の子にこんなふうに手を握られたら、照れてしまって手を離してしまうのだけど、今はサクラちゃんに、ぜったい僕が君を守ってあげるということを伝えたかった。だから、ウゾもギュッとサクラちゃんの手を握った。



偉そうに、かっこいいことを言ったものの、ウゾは困ってしまった。
もち姫の知恵を借りようと、こそこそともち姫の家まで行ってみたが、もち姫は縁側で眠っていた。ウゾは何度も声を掛けようと思ったけれど、何故か声が出なかった。
そうだよね。
もち姫は僕に一人で頑張れって、何度もそう言いたかったんだよね。
でも……
もち姫の家の竹垣の陰でウゾはふぅとため息をついて、足元を見た。
あれ?
ピンクの花びらが落ちている。この匂いは……
ナカラギのサクラの花びらだ。
どうしてこんな季節に?
その時、ふと、ウゾは思い出した。初めてサクラちゃんに会ったとき、のっぺらぼうになりかかっていたサクラちゃんの手を引っ張ってここに来て、その時サクラちゃんのスカートのポケットから、ナカラギの桜の花びらがいっぱい零れ落ちたのだった。
サクラちゃんは、病気のお母さんに桜の花びらを持って行ってあげたくて、そして事故に遭ったのだ。
この桜の花びらは、サクラちゃんの魔法なのかも。サクラちゃんの気持ちが、この空間のどこかに花びらを残している。それとも、もち姫からの応援のメッセージ?
ウゾは桜の花びらを拾い集め、ポケットにしまった。
うん、もち姫、サクラちゃん、僕、やってみるよ。



そしてその夜、丑の刻。
それでもやっぱり、ウゾはびくびくしながら一人でキブネの森にやって来た。
もちろん、学校はサボっている。パーフェクトのっぺらぼう女史が何かを察してくれているのか、学校からはこの数日の無断欠席について何も言ってこない。本当なら、使いの蛇がやってきて、サボった理由についてのレポートを108枚も提出させられるのだけれど。
そのことは後で考えよう。
ウゾはおっかなびっくり、つまり呪いを被らないようにしながら、足元の虫の鬼を踏まないようにしながら、そろそろと歩いている。
キブネの森はタダスの杜よりも奥が深い。本当の闇の世界にもつながっているような気がする。この奥に入り込んでしまったら、抜け出せなくなることもあるのかもしれない。
ウゾは木に凭れて、ふうっとため息をついた。
サクラちゃんはちゃんと学校に行ったかな。一緒に行きたいというのを止めて、今日はちゃんと学校に行くほうがいいよ、と言ったら、黙って俯いていた。
サクラちゃんは僕に任せると言ってくれた。だから、僕はそれに応えなくちゃ。何ができるかは分からないけれど、サクラちゃんのお母さんを救ってあげたい。
でも、救う、なんてことは本当は簡単には言えない。僕はちょっとはやまってしまったかもしれない。サクラちゃんにかっこいい所を見せたかったし、それにこのままじゃいけないと思ったのだ。何だか分からないけれど、人を呪うなんてのは。
その時、白い影がゆっくりとウゾの隠れる木のほうへ近づいてきた。ウゾは慌てて立ち上がる。
サクラちゃんのお母さんだ。
数日前に見た時は、もう少しニンゲンのような顔つきだった。でも今日は随分と違ってしまっている。誰かを呪うということは、そのニンゲンを人間ではなくしていくことなのかもしれない。
もちろん、呪うには呪うだけの理由があるのだ。それは分かっているけれど。
サクラちゃんのお母さんはゆっくりと大きな木に近付いて行く。木の前で立ち止まり、足元に灯りを置く。冷たい土を踏んでいる足には靴を履いていない。白くて消えてしまいそうな肌の色だった。
どうしよう。
ウゾは特別な方法があればそうしたかった。お母さんが鬼のウゾを見たら、お母さんはそれだけでも死期を早めてしまうかもしれない。サクラちゃんが、少しでも長く生きていてほしいと菊の雫に祈っていたお母さんの命を、ウゾが取り上げてしまうことになるかもしれないのだ。
でも、今回ばかりは、もち姫も何も教えてくれそうになかった。ウゾにサクラちゃんのことを知らせたパーフェクトのっぺらぼう女史だって、ウゾの欠席については配慮してくれているのかもしれないが、このことに手を貸してくれる気配などない。ましてや、タタラになんか知られたら大変なことになりそうだ。
けれど、小鬼の知恵で何ができるだろう。
風が木々の間から不穏な臭いを伴って吹き込んで、枯葉を舞い上げた。
どうしよう。
いつもなら、サクラちゃんがウゾの知恵袋だった。一緒に遅刻した時の言い訳だって、サクラちゃんの役割だった。サクラちゃんは好奇心旺盛で、何だって一生懸命勉強していた。そのサクラちゃんこそ、今一番苦しんでいるのだ。
ウゾが思いを巡らしているしばらくの間、お母さんは木の前に立ったままだったけれど、やがて懐から藁で編んだ人形を取り出した。
そして、人形を木に押し付けるようにして、藁の胸に釘を当て、手に持っていた木槌を振り上げた。
「待って!」
もう妙案など考えている場合ではなかった。
振り上げられた木槌は、お母さんの頭の上のほうでぴたりと止まった。
風の音が急に止んだ。
「サクラちゃんのお母さん、サクラちゃんが悲しむようなことなしないで」
その言葉に、お母さんはウゾを振り返った。その形相は、鬼のウゾよりもずっと鬼のようだった。
「吾を呼ぶものは誰だ」
ウゾは足が竦んでしまっていた。それはサクラちゃんのお母さんの声とは思えなかった。サクラちゃんはお母さんは優しい声をしていたと言っていた。きっとサクラちゃんによく似た綺麗な声だったのだろう。
「ぼ、僕は……」
ウゾは喉の奥に何かが引っかかってしまって、言葉を呑み込んだ。
「見られてしまったからには、お前を殺さなくてはならない」
お母さんが闇に響くような声で言って、ウゾに向かって木槌を振り上げた。口が大きく裂けたように見えた。
ウゾは咄嗟に叫んだ。
「だめだよ。僕はもう死んでるんだから、もう死なないんだ。お母さん、僕、サクラちゃんの友だちなんだ! サクラちゃんが僕にお母さんのことを頼んだんだ。だから僕は……!」
ウゾは声を振り絞った。お母さんは、ウゾの言うことなど聞こえていないようだった。そのまま木槌を振り上げる。ウゾはその木槌を見上げて驚いた。
呪いのかかった木槌は、鬼を裂き殺してしまいそうな刃に替わっていた。闇の中でもぞっとする光を吸い込んで光っている。
もしかして、鬼でもやられちゃうのかも。
そうだった。呪いがジョウブツしようと頑張っている鬼に降りかかることがあるって、そうなったらもうジョウブツできなくなってしまうんだって、この間の授業はそういうことだったじゃないか!
だから呪いを被るようなところに行っちゃいけないって!
あぁ、でも、呪いをかけた方はサイバンがあるんだって聞いたけれど、とばっちりで呪いを被っちゃった鬼はどうなるんだろう。
ジョウブツもできなくなって、学校にも行けなくなって、サクラちゃんにも会えなくなって……!
その時、ウゾの頭に大きな衝撃が加わった。
ウゾは咄嗟にサクラちゃんのお母さんの手を掴んだ。
ウゾは叫んでいた。
お母さん! サクラちゃんのお母さん! 僕、それでも、どうなっても、サクラちゃんを悲しませたくないんだ!!!
その時、ウゾは何かに吸い込まれていくような気がした。
サクラちゃん……!
もち姫……!
……それから、先生たち。
あれ、どうして、タタラの顔が真っ先に浮かぶんだろ。
意識がふわりと身体から一度抜け出しそうになった。
急に、辺りは真っ白になった。
ウゾは真っ白の中に引っ張り込まれていた。
離れそうになった意識がウゾの身体の中に戻ってきたとき、ウゾは真っ白の中に立っていた。
不思議と明るい真っ白。
闇の光とはまるで違う、どこまでも白い明るさ。
ここ、どこだろう?
『あなたはいったい誰なの?』
いつの間にか、目の前に真っ白な着物を着た女の人が立っていた。顔ははっきりと見えなかったけれど、ウゾには分かった。
サクラちゃんのお母さん。
『僕はウゾ。サクラちゃんの友だちなんだ』
『咲耶姫の友だち? なぜ、咲耶姫の友だちがこんなところに……。咲耶姫はどうしているの?』
ここは、サクラちゃんのお母さんの心の中だ。まだ心の中にこんなに綺麗なまっ白な世界があったんだ。
ウゾはくっと背を伸ばした。
『サクラちゃんに約束したんだ。お母さん、サクラちゃんは毎日、お母さんの傍にいたんだよ。毎日、お母さんを心配して、お母さんの病院に通ってたんだ。そしてキブネの森にも。呪いを被るかもしれないのに、お母さんのことが心配で』
『咲耶姫は死んでしまって、いいえ、殺されてしまって、私はもう咲耶姫に会えないのに』
『でも、お母さんが人を呪うようなことをして、呪いのために闇の鬼になってしまったら、サクラちゃんはものすごく悲しむよ。お願い、サクラちゃんを悲しませないで』
『私の命はもう長くない。毎日のように警察にも行ったけれど、咲耶姫を殺した犯人は捕まりそうにもない。ちゃんと調べてもらえているのかも分からない。私には方法も時間もないの。犯人が憎い。咲耶姫を殺したのに、その誰かは生きているなんて。だから、呪い殺してやることに決めたの!』
サクラちゃんのお母さんの白い顔が急に炎に巻かれたようになった。ウゾは慌ててお母さんの手を握った。その手も怒りのためか、赤く熱くなっていた。
『お母さん、サクラちゃんは、お母さんの病気が治って、長生きしてくれたらって。もしかして病気が治ったら、他の子どもたちに幸せを分けてあげて欲しいって、そう祈ってたんだよ。不老不死の霊水だという菊の葉から零れる水をとるために、おっかないキブネの森の奥に一人で来て、お母さんに届けてたんだ。それからこれ』
ウゾはポケットに手を入れた。そして、お母さんの怒りと悲しみで熱くなった手を取って、ポケットの中から取り出したものを、そっとその掌に載せてあげた。
お母さんの掌に、いっぱいのナカラギの桜の花びらが溢れた。花びらたちは掌からひらひらと舞い落ち、そして最後に、一番の桜色の花びらが残った。
『これがサクラちゃんの気持ちだよ』
お母さんは動かなかった。最後の桜の花びらはお母さんの怒りを吸い込んで、少し濃いピンクに染まり、そのうちお母さんの炎のような手は、再び白くなっていた。
お母さんはやはり動かないまま、掌に残ったナカラギの桜の花びらをじっと見つめていたが、やがてその上に涙をこぼし、強く握りしめた。桜の花びらはお母さんの涙を吸い込んで、元の優しい桜色に戻った。
『咲耶姫に会いたい。咲耶姫を抱き締めてあげたい』
ウゾは、自分が覚えていないお母さんのことを思った。僕のお母さんも、僕のことをこんなふうに思ってくれているんだろうか。
お母さんに会いたい。僕も、サクラちゃんも。でも。
『お母さん、サクラちゃんのことは僕に預けてください。サクラちゃんを殺してしまった犯人のことも。僕がきっと見つけ出して、訳を聞くから。もしもその人が後悔していないなら、僕が……』
ウゾは言葉を飲み込んだ。僕に、決められることじゃない。でも。
『でも、もう遅いのよ。今日はもう7日目。私はこうして闇の鬼に取り込まれて、消えていこうとしている。呪いだけがこの世に残って、キブネの森の奥で渦を巻くわ。もう私は本当の鬼になってしまったの』
『そんなことはないはずだよ。今日はまだ7日目なんだ。今日、釘を打たなかったら』
『ごめんなさい。小鬼さん。あなたの名前を聞いていなかったわね』
『僕はウゾ。サクラちゃんの友だちだ』
真っ白なお母さんは最後にウゾの手を握りしめて、ウゾの手にナカラギの最後の桜の花びらを残し、ふわりと消えた。
途端に、ウゾは目の前の悪鬼と対面することになった。
完全に鬼になってしまったサクラちゃんのお母さん、いや、サクラちゃんのお母さんだった呪いの鬼は、ウゾに刃を光らせる木槌の鉈を振り上げ、今まさにウゾの頭に振り下ろそうとしていた。
その瞬間、ウゾは鬼の肩越しに、藁人形を見てしまった。
木槌で打ち付ける前に、お母さんはもう藁人形に釘を突き立ててしまっていたのだ。藁人形は不安定な格好で、頭と足を逆さまにして、木に背中をつけたままぶら下がっていた。
うわ、どうしよう!!
サクラちゃん、もち姫、タタラ先生、……!!!!
そうだ、何か呪文を!
あぁ、思いつかない。断末魔って、鬼でもこんなふうにあれこれと走馬灯みたいにいろんな人の顔が思い浮かぶんだなぁ。それなのに、適切な呪文は思い浮かばない。
って、悠長なことを考えている場合じゃないんだ!
何かいい呪文はなかったっけ?
呪文、じゅもん、ジュモン……!!
「ジゲンジシュジョウ フクジュカイムリョウ!!!!!」
それしか覚えていない! もち姫が最後に教えてくれた呪文!
その時、ぶわっと水があふれ出した。少なくともウゾにはそう感じられた。
何が何だか分からないまま、ウゾは水に巻かれていた。水は、何とウゾのポケットの中から流れ出していた。ポケットから流れ出した水は、ウゾの周りを巡るように巻いて、大きな渦になった。そのまま目の前の呪いの鬼を巻き込んでいく。水は鬼の鼻や口の穴からものすごい勢いで入り込み、内側から鬼を膨張させた。
鬼は、いや、呪いは、大きな渦巻きとなって闇の鬼の中で暴れまわり、鬼自身を破壊した。
凄まじい力で、一瞬のことだった。
鬼を突き破った水は鬼から溢れだし、呪いを世界中に撒き散らさんとして辺りを呑み込もうとしていた。
ウゾは自分自身から迸る水に守られ、呆然とそれを見ていた。
やばいんじゃないの!
そう思ったが、全てが一瞬のことでなす術もなかった。
その時、ウゾの目の前に小さな少年が現れた。
『ジゲンジシュジョウ フクジュカイムリョウ!!!!!』
ウゾははっとした。そうだ、ぼうっとしている場合じゃない!
自分もう一度呪文を叫んだ。
「ジゲンジシュジョウ フクジュカイムリョウ!!!!!」
いや、これは呪文ではなく、この世の王だけに授けられるという法華経の八句の偈、その中の普門品の二句。周の穆王が釈尊から授かり、寵愛する童子が罪に問われて流罪となった時、哀れに思って授けた句だ。それを忘れないようにと童子が句を書きつけた菊の葉から零れる水が、霊水となり、不老不死の薬となった。
観音様はいつでも優しく思いやりの目を持って私たち衆生を見てくださる。観音様を一心に信じれば、福の集まること海の如く無量にある!
そして今。霊水はウゾのポケットの中の菊の葉から迸り出て、呪文と共に死を呑み込んでいく。
ウゾは願いを込めた。
この霊水は、ただ生を与えるだけではなく、ウゾが望めば死をもたらすことができる。菊慈童はそう言ったのだ。
何故なら、生と死は裏と表、陰と陽、張り合わされて決して離れないものなのだから! 生きている者は、みんな死を抱えて生まれてきたのだから!
お母さん、僕がきっとサクラちゃんを守るから!
あなたは生きてこのまま闇の鬼になってはいけないんだ!



ウゾは気を失っていた。
ぼんやりと辺りにオレンジ色の灯りが揺れていた。
影が見える。大きな影と、小さな影。それからより小さい影。
これは夢? それとも。
『全く、学校をサボっているから、何をしているのかと思えば』
これはタタラの声だ。
『お前は菊の精か。いや、確かその昔は慈童と言ったのではなかったか』
『さよう。吾も3000年も生きていると、あれこれと見聞きすることも多い。あなたはもしやミドロガイケに縁の者。そして、そうか、この小鬼は何やら懐かしい気を持っていると思ったが、やはりあの方に縁の者であったか』
あの方? ミドロガイケ? やっぱり、龍なの、タタラ?
『それにしても、すごい力であった、慈童。お前は生も死も司るのか』
『それはこの菊の霊水の力。もっと言えば、釈迦が残した言葉に宿る霊力、人はこれを言霊とも言う。吾自身の力ではない。菊は長寿を与えもするが、時に死を司ることもできる。この小鬼が正しい判断をしたのだ。呪う闇の力に対して、本当の意味での死の審判を下したからこそ、菊はそれに応えた』
『小鬼に死の審判を委ねるなどと……!』
『いや、ミドロガイケの主、吾は感じることができる。人も鬼も定められた場所で、成すべきことを成さねばならぬ。あなたがどれほどこの小鬼のジョウブツを願っても、叶わないことがあるようだ。それをこの小鬼自身が証明してしまったのだ。かの呪文は、誰がどのように唱えたとしても霊力を発するものでもない』
『だが、お前も手を貸したであろう』
『ミドロガイケの主よ、吾はただ手を添えただけなのだ。何故なら、吾は愛する者の死も知らずただ悪戯に命を永らえ、知らされてもなお1800年も悲しみの時を生き続ける孤独の証に過ぎぬ。吾に関して言えば、菊の霊水は、死を与えてくれようともしなかったのだ。どれほど愛する者の傍に往きたいと願っても、叶わぬ夢であった。だが、この小鬼と共に呪文を唱えた時、吾に分かったことがある。吾が、愛する者の死に添うことも許されずこちらに残されたことには、何か意味があるのであろう。哀れにも不老不死を願うヒトというもの、病を内に抱えながら、すなわち死を内に抱えながら生きねばならぬヒトというものの苦しみ、それに添わねばならぬのが、吾やその小鬼のあるべき姿なのかもしれぬ』
菊慈童の声はウゾの頭の中に香りを残している。ウゾは目を閉じたまま、その匂いを体中で嗅いでいた。
『では、ミドロガイケの主よ、また会うこともあるであろう。しかも、今日は懐かしい顔と再会した。確か、もち姫と言った、あの方の使いの君に』
より小さなもう一つの影は、もち姫だったのか。
『菊慈童さま、姫さまはいつでもあなたを頼りにしておられましたよ』
確かにもち姫の声だ。姫さまって?
『それは吾のほうだ。もしもあの方に今も会えるのなら、もち姫よ、吾の心も少しは癒されるのかもしれぬ。だが、それは今はよい。吾にはまだ仕事が残っているようだ。誰かこの仕事を継いでくれるものであれば、解放もされようが、それはまた誰かを同じ悲しみの中に取り込んでしまうことになるのであろう。愛するものを失う悲しみに寄り添うことこそが吾の仕事であるならば、吾は誰よりも長く、より深く、悲しまねばならぬのかもしれぬ。死とは何であるのか、生き永らえて3000年もの時を経た今も、吾には分からぬ。そして生とは何であるのか、それもまた分からぬ』
ふわっと菊の匂いが消えた。
同時に大きなため息が聞こえる。
『清狐は随分と余計なことをしてくれた。もち姫よ、お前は知っていたのか?』
『タタラ、清狐はウゾの力を試したかったのかもしれない。あなたがウゾの運命に逆らおうとしても、大きな力がそれを阻止しようとするわ』
タタラは答えなかった。もち姫のあったかさがウゾの頬に触れた。
『タタラ、サクラのことは……』
『母親であろうとも、人の死を操作するのは罰則に値する』
『でもサクラの気持ちは、あなたには誰よりも分かるはず』
タタラは何か言いかけたのか、大きく息を吸い込んだ。だが結局、言いかけた言葉を呑み込み、代わりにいつものように大きな声で言い放った。
『冬の間は、キョウト中の花の種、根の世話を命じよう。ウゾにもそう言っておいてくれ』
そのまま、疾風が巻き起こり、今度はタタラの気配が消えた。
もち姫がウゾの頬を舐める。ザラザラと温かい。
「ウゾ、行きましょう」
ウゾの身体は何かから解放されたように自然に起き上がった。
見回してみると、キブネの川の側だった。ウゾの側で白い菊の花が揺れ、そっと匂いを零した。
「もち姫、聞いたら答えてくれる? ……わけないね」
ウゾはとぼとぼともち姫の後を追いかけながらつぶやいた。もち姫は何だか普通の猫みたいに、てくてくと一生懸命歩いている。
「何だかますますわからなくなっちゃった。答えにはたどり着ける?」
ぴたりともち姫の足が止まる。
「ウゾ、答えがあると思う?」
ウゾも足を止める。
「分からない。でも、僕、サクラちゃんのお母さんとの約束は守らなくちゃ」
もち姫はじっとウゾを見つめていたけれど、やがて頷いた。
もち姫の家にたどり着くと、縁側でサクラちゃんが待っていた。サクラちゃんはウゾともち姫の顔を見ると、じっと座ったまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
サクラちゃんが何も言わなくても、ウゾには何が起こったのか分かっていた。
だからただサクラちゃんの側に行き、隣に座った。そして、ポケットからサクラちゃんのお母さんの憎しみも哀しみも、サクラちゃんへの愛情も、いっぱいいっぱいに閉じ込められた最後のナカラギの桜の花びらを取り出し、サクラちゃんの手を取って、その掌に載せてあげた。
サクラちゃんは少しの間、花びらを見つめていたけれど、そのまま膝の上に置いたその手をそっと握りしめた。ウゾはサクラちゃんの手に手を重ねて、強く握ってあげた。
もち姫もサクラちゃんの傍らに行って、ただじっと寄り添っていた。
竹垣に、菊の花が揺れていた。
小鬼よ、病には二通りある。一つは死に至る病、もう一つは死することのない病だ。あるいは、ひとつは心を殺す病、もうひとつは心の闇を乗り越えていくための病だ。
死とは何であるのか、生き永らえて3000年もの時を経た今も、吾には分からぬ。そして生とは何であるのか、それもまた分からぬ。
菊慈童の言葉が、匂いに乗ってウゾの身体を包み込んでいた。
連作短編【百鬼夜行に遅刻しました】秋・菊(後篇) 了
さて、もう冬ですね。秋の話を冬にようやく終わらせていて、すみません。
幸い、正月の休みがありそうなので、今度はぜひ、普通に間に合いたい!!
いよいよサクラちゃんを殺してしまった犯人と対峙するウゾくん。
そしてウゾくん自身の出生の秘密も……ウゾくんに定められた運命とは。
運命に立ち向かうウゾくんと、それを見守る人、じゃなくて、鬼と猫と花たち。
実は、サクラちゃんにも秘密があります。そう、サクラちゃんの名前の漢字が出てきたので、何かを察した方もいるかもしれませんね。
(でも、サクラちゃんって、実はキラキラネームだったのね^^;)
ちなみに、清狐というのは、パーフェクトのっぺらぼう女史の名前です(^^)
読み方は普通に「せいこさん」? 狐だったんだけど^^;
しかも、菊慈童、そんな聖闘士星矢みたいなやつだったのか!
イメージは、お能のあの静の世界の人だったのに^^;
来年の秋には、この話は一応の完結を見ているはずですが、もう1回くらい登場してもらいたい、奥の深いキャラでした。
(でも、もう一つ秋の話を書くなら、やっぱり『菊花の契り』ですね。雨月物語。ちょっとホモちっくな話なので、今回は控えましたが。でもこの菊慈童も、よく考えたら……^^;)
さて、次回は冬篇。
冬に花を咲かせる植物にするべきところですが、タイトルは『忍冬(スイカズラ)』……花が咲くのは5~7月。でも、花の名前の由来は、常緑性で冬の間も葉を落とさないからつけられたのです。
お楽しみに(*^_^*)
読んでくださいまして、本当にありがとうございます。
Category: 百鬼夜行に遅刻しました(小鬼)
NEWS 2013/12/5 訛りに悩む…/ もうすぐ100

津軽の全国大会in大阪が終わりました。
終わる度に課題しか見つからないけれど、勉強になります……
次の大会までは少し時間があるので、その間に曲弾き(独奏)を作るのと、小原節の唄をちょっと勉強。
実は先日、テレビでなまりうた大会、というものをやっていました。
世間に流通している歌を、自分たちで方言に置き換えて歌うという大会。
歌の技術がある程度以上であることはもちろん必要だけれど、それよりもいかに方言を歌詞の中に自然に組み込んでいるか、なまって歌うか、それによって訴える力があるかということに審査の重点が置かれていたようで。
秋田の青年が優勝したのですが、そもそも彼は標準語がしゃべれないとのことで……
歌も、普通にしゃべるのも、当たり前のように秋田弁。
それは言葉を方言に変える以前のことで、置き換えた言葉だけじゃなくて、歌いながらも普通の単語にまでも微妙な濁点がついていたり……確かにまさしく秋田弁の歌でした。
そう考えたら、民謡って不思議。
県にそれぞれ民謡というのがあるけれど、実はすごくなまって唄っているわけでもないんですよね。
歌詞は、これが定番というのはある程度あっても、自分流・即興で歌詞を作ったりってのもあって、別にすごく難しい言葉(他県の人にわからない方言)を使っているわけでもなくて……
昔の歌詞はわけ分からないものもあるけれど、最近作られた歌詞は特に。
でも、唄う人によっては、見事に津軽弁の唄。
大阪の歌手が唄うと……普通に民謡。
あれは何だろう?
津軽に生まれて、津軽で育って、津軽のものを食べて、津軽の空気を吸って、毎日津軽の言葉をしゃべってないと、そうならない。
リズムも、抑揚も、ちょっとした発音の方法、舌の動かし方までも、唄の中で何かが違う……
音楽は万国共通だけれど、実はやっぱり共通じゃないんですよね……(変な言い方だけれど)
血肉となった言葉・歌詞は、その唄い手によって味になるんだろうな。
でも、津軽の民謡が好き。江差追分が大好き。
津軽弁も北海道弁も話せないけれど。
三味線のリズムも、それとなく大阪弁だったりするけれど^^;
……唄や三味線のリズムが、津軽弁に訛りたくて悩む、妙な話なのでした。

素敵な民謡歌手の先生たち、伴奏の三味線の先生たち。
飲み屋ではただの酔っぱらいのオッチャンだったりしても、何でもいいと思える瞬間。

最近ちょっとワクワクしていること。
もうすぐ、【海に落ちる雨】が第100話になること。
トップ記事の拍手があとちょっとで100になること。
少数ながらも応援してくださる人がいるのは、とても嬉しいです。ありがとうございます m(__)m
【海に落ちる雨】はようやく第19章が終わりました。実は、終章を除くと、第38章(『そして、地球に銀の雫が降る』)までありますので、丁度折り返しなのですね。ある意味、感無量です(先は長いなぁという)。
こんなふうに、地味に、地味に、頑張っています(*^_^*)
埋もれちゃったけれど、【海に落ちる雨】第19章(4)もアップしています↓
よろしかったら覗いてやってください(*^_^*)
Category: NEWS