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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【死と乙女】(5) 幻想、特待生試験結果 

【死と乙女】第5話をお届けいたします。
ウィーンの某音楽院に通う3人の若き楽聖たちの物語。
相川慎一。真の息子ですが、父亡き後、ローマのヴォルテラ家に引き取られていました。しかし何か事情があって、今、ひとりでウィーンで苦学生となっています。学費の免除があるというので特待生試験を受けたものの、そこには強敵が。
アネット・ブレヴァル。パリからやって来た、絹のようなピアニシモを奏でる、まさにミューズのような女性。パリの音楽院の作曲科教授の娘である彼女が特待生試験を受けた理由はまだ明らかにはなっていませんが、慎一の強力なライバルとなっています。
テオドール・ニーチェ。音楽院のピアノ科のスーパースター。すでに楽壇にデビューもしていますが、まだまだ学ぶことが多いと考えている優等生。しかし彼のことは、この物語の後半に語りたいと思います。

これでようやく折り返しです。年内に終わらせたいと言ったけれど、かなり難しいことが判明。
どのお話を書くよりもエネルギーを消耗することが分かりました。でも、努力をするつもり。
リクエストを下さった夕さんには感謝いたします。
思ったより長くなっていることは申し訳ないと思うのですけれど、思った以上に書いていて面白く、力が入っています。
一度書き終えた作品を手直ししながら書いているのですが、エネルギーは3倍くらい注いでいるかも。
端折ったシーン、書き加えたシーンなどがあれこれありますが、大きな筋と時間運びは変わっていません。
だからあまりハッピーなお話ではないのですけれど、この真剣に魂をぶつけるように音楽と向かい合う若者たちを応援していただけたら、とても嬉しく思います。

今回の音楽は……多分もっとも重要なパートです。
ビゼー 組曲『アルルの女』より『ファランドール』
ショパン ポロネーズ第7番変イ長調Op.61『幻想』
ベートーヴェン ピアノソナタ第23番ヘ短調Op.57『熱情』

追記に『アルルの女』のあらすじと、これらの曲を畳んでいます。
よろしければ、ご一緒にBGMにしながらお楽しみください。ちょっと苦しくなるかもしれませんが……




 特待生試験の結果がなかなか公表されないことについては、一部で様々な憶測が飛び交っていた。もっとも、結果は試験後数週間以内に発表する、と明文化されているだけで、既に「数週間」という言葉自体が曖昧だった。
 この期間にどのような駆け引きや想いの交錯があるのか、最終的に発表される結果だけが全てではあるが、結果に表れない想いの重さは、時々ぶり返す真冬のような寒さによって、余計に関係者の気持ちを揺さぶっていた。
 もちろん、多くの関係者は巻き込まれいてるだけなのだ。

 皆の関心がピアノ科にあるのは確かだった。大方の評はアネット・ブレヴァルに傾いているものの、たった一人、頑強に別の候補者を推しているらしいというのが風評だった。
 結果を確定するために最も問題となるのが、そのたった一人の人物であるがゆえに、結果が公表されないのだとも。
 やきもきする周囲の関心を他所に、当事者の二人は異様に静かだった。二人の心はまるでもう別の次元にあるようだった。
 そんな中で、学校では互いに全く無関心と見える二人が、ホイリゲの片隅でピアノに向かい、小さな賭け事をしていることなど、一体誰が知っていたのだろう。

 店が跳ねた後、ホイリゲの主人はいつも苦学生のピアニストに、思い切り練習できる時間を提供してやっていた。それは主人にとっても至福の時間だった。大方の酔客は喜ばないかもしれないが、自分の耳を信じて疑わない主人にとっては、ここからが本当の音楽だった。
 その楽しみが、この数日、倍になっている。
 始めは慎一のファンだと思っていた。彼女が一方的に彼にリクエストをするだけだったからだ。だが二人は知り合いのようで、数日もすると、店の跳ねた後の観客一人きりのコンサートに、彼女が二人目の客となり、やがて彼女もその腕前を披露するようになった。

 女学生の方は繊細で華やかな音を紡いだ。だが主人の耳は、その華やかさの後ろにある強靭な、硬くて壊すことのできない堅固さを聞きとることができた。揺るがないものがあった。不思議な強さは、時に哀しくも感じられた。何かに向かって懸命に闘っている。
 それは慎一も同じだった。
 慎一に聞いても、彼女のことはピアノ科の友人だというだけだった。若い二人の恋を邪魔する気持ちはなく、むしろ応援したいと思っている主人には、それ以上の説明がないのは不服でもあったが、シャイな東洋人の青年を追い込んでも哀れだと思い、主人はそっとその二人の様子を、店の片隅で売り上げを計算しながら窺っていた。
 主人のいる場所から見ると、今日、二人はいつもよりもずっと椅子を近付けて座っているように見えていた。

 慎一は、ピアノ代わりに軽くテーブルを叩くアネットの指を見ていた。聞きたいことが多くあるのに、一方では何もないような気もした。聞きようがなかったのもあるが、二人の間には、音楽以外の会話をすることはタブーであるような、そんなムードが始めからあった。
 アネットの髪がふわりと慎一の肩に触れるくらいに近くにある。それなのに、言葉にならない何かが、二人の間に硬い膜を張っている。

「ねぇ、シンイチ。あなたが指揮者だったらファランドールをどんなふうに奏でるのかしら。明るく、華やかな音を引き出す? それとも少し重厚に?」
 昨夜、アパートまで送っていく道で、アネットは不意に聞いた。ウィーンの街の高い建物の隙間を吹き抜けていく風が、二人の間に吹き込み、二人はまるで恋人同士のように身体を少し寄せ合った。

『アルルの女』は、芸術は庶民の生活や感情を表現するべきであるという考えが芽生えた時代に生まれた物語だ。ビゼーの曲はドーデの戯曲に管弦楽をつけたもので、全部で二十七曲あるものを、演奏会用に別の曲からの『メヌエット』を加えた八曲を組にして演奏される。
 こうして一部を切り出された物語の奥に潜む心情をあえて表すことは、聴衆にどうとらえられるのだろうか。それをアネットは確認しているのか。うわべを聞けば、祝いの席で踊る賑やかな祭りの風景が浮かぶ。その華やかな曲を背景にして主人公が自殺するシーンで終わるこの物語を、切り取られた数分の曲がどこまで伝えることができるのか、あるいは求められるのか。さらに言えば、たとえば、この曲を作った時に作曲家がどうであったかというような、作者の人生経験を共有し表現することが、演奏者にも求められるのだろうか。

「音の中に潜んでいる何かを聞きとるようにと、聴衆に強要することはできないよ。ただ、感じる人がいれば感じるだろう。それが必ずしもいいこととは思わないけれど」
 慎一はふと、特待生試験のアネットの音が出した一瞬の惑い、深い部分に潜んだ死の匂いのようなものを思い出した。何故自分がそれに反応してしまったのか、その理由を心に沈めた上で慎重に答えた。
 アネットはそうね、とだけ答えた。別れ際に彼女は慎一の傍らで言った。
「恋は人を殺すことがあるのね」
 慎一が驚いたのは、その声が不思議なほど明るく決然と聞こえたからだ。

 今、ホイリゲの片隅で、慎一はアネットの髪の匂いを感じながら考えている。
 昨夜のアネットの声は何を訴えていたのだろう。この明るく華やかな声の中に潜む心を読み取るようにと、慎一に求めていたのだろうか。
「ねぇ、シンイチ、いつでも私たちは最後の時を共にしている、そういうの日本では何て言うんだったかしら」
「最後の時って……」
「このお茶碗で飲むのは最初で最後かもしれない、この絵を見るのはこれきりかもしれない、この音を聴くのも今だけかもしれない、この人と会うのはこれが最後かもしれない、だからこそこの時を大事にしようと思う、そういうことを表す言葉」
「ごめん。僕は日本のことをよく知らないんだ」
「そうだったわね」

 また二人の間に沈黙が流れる。賑やかだったホイリゲのホールには、今は彼らとホイリゲの主人以外の誰もいない。ホイリゲの主人は今日の売り上げの計算と、明日の仕入れの計画を立てている。
 明確な音は何もないが、建物自体が唸るような重さ、あるいは空調の音、もしくは風の音が、微かな振動として身体に直接伝わってくる。
「ねぇ、シンイチ。もしかしたらこれが最後の時かもしれないと思って、ひとつずつ曲を贈り合いましょう。自分の心の中で、これだけは、と思う曲を。そしてそれに心動かされたら、お礼に、他の人にはどうしても言えない秘密をひとつだけ打ち明けるの」
「それはゲーム?」
「そう、ゲーム。打ち明けた秘密が真実かどうかは詮索しないこと」

 どちらが先に曲を奏でるか、二人は目と目で確認し合って、先にアネットが立ち上がった。
 アネットはピアノの前に座って、少しの間目を閉じていた。慎一は彼女の横顔を見つめていた。これだけはと思う彼女の曲が何であるのか、強い好奇心が動いていた。
 その時間は何故かとても長く感じられた。どの曲を選ぼうか、惑っているようにも見えたが、最初の音が指先から零れ出した時、彼女には何の迷いもなかったことが分かった。

 その瞬間に慎一を貫いたとてつもない不安と震え、そして鳥肌の立つような感触は、言葉に表すことのできないものだった。それは、今この時、その演奏家の最高の演奏の瞬間に自分が居合わせていると知っていたからだった。
 アネットは今、その音楽の中へ全てを注ぎ込んでいた。
 ショパンの『幻想ポロネーズ』。晩年の傑作のひとつとも言われているが、とらえどころのない曲だった。今の慎一には手の届かない曲だ。

 ポロネーズとはポーランドの貴族が好んだ舞踏のための曲で、ショパンがポロネーズを作曲する心には、二十歳の時に国を捨てて以来戻ることの叶わなかった祖国への愛情があるのだという。だが、この曲はポロネーズのリズムを使った全く異色の作品だった。形式は明らかにポロネーズのものではないし、短調と長調が入り混じり、主題さえもはっきりしない。
『幻想』の名前が付けられたのはショパンの知るところではないだろうが、それ故に、ポロネーズではなく幻想曲とした方がいいのではないかとも言われる。

 慎一は咽喉元を締め上げられるような気持ちで、演奏するアネットを見つめていた。
 アネットは無表情だった。ピアニストが時に演奏しながら苦渋の表情を浮かべてみたり、大きなパフォーマンスを見せるようなことはあるが、それは一切なかった。その姿を見る限りでは、まるきり淡々と、何の感情もないというように音を紡いでいた。
 だが一旦視覚の情報を切り取ってしまったら、その渦を巻くような音の波は、聴くものを簡単に、感情のるつぼのような海の中へ突き落す。

 不安だった。恐ろしく不安だったのに、この海を共に彷徨ってやることだけが、今、自分がアネットにしてあげることができる唯一のことだと分かっていた。だから、慎一はその海を彷徨った。
 時に頭上に光が射した。水面から深い海の底まで、光が仄かに届く。遥か頭上の海面は光を躍らせている。風がある。海の底でもその風の強さが分かる。だが、すぐに闇がやって来る。音は大きくうねり、小さく返し、一定のリズムを刻むことはない。常に誰かの想いや願いを呑み込み、複雑に、時には心を刺し貫き、時には甘い夢で包み込む。

 だが、全ては幻想だ。
 ショパンを愛する人は、この曲の捉えどころのなさに惑うだろう。それどころか、ショパン自身がこの曲を、家族に宛てた手紙の中で「何と呼んだらいいのか分からない曲」と記しているし、大方はショパンの曲を絶賛していたシューマンやリストもこの曲を聞いて、どのように評していいのかわからなかったようだ。リストは「この曲はいたるところで、突然の変動に傷つけられた深い憂愁、急な驚きに乱された平安、忍びやかな嘆きで色取られている。全ての希望が失われ、かつ乱れた感情を経験する」と言った。
 長年、結核に苦しめられ、晩年という言葉が哀れなほどの若さで逝った楽聖の苦悩、死が身近にあるからこそ作り出せた葛藤、そこから迸りでる熱のようなもの、時には凪いだ湖面のように静かになり、時には燃え盛る炎ともなり、時には風のように惑い、人生や感情を切り刻んだような音楽だった。

 ショパンコンクールで演奏した場合に、この曲の解釈は高いレベルで要求されるだろう。できれば選択したくない曲であるかもしれない。
 それを二人の若い楽聖がコンクールの第三予選で挑み、決着がつかなかったという記事を、慎一はヴィクトル・ベルナールの評論で読んだ。おそらくあの戦いのひとつのピークであったのだろう。
 結局、二人の音楽の決着は、ファイナルのピアノ協奏曲第一番でついた。オーケストラを味方につけたら、テオドール・ニーチェに勝つことはできない。それほどにテオドールの技術と音楽の解釈、豊かな表現力、周囲の音を理解する力は抜きんでいていた。

 ヴィクトルの評論は、淡々としていた。アネットの音を褒め称えながらも、『幻想ポロネーズ』については若さゆえの観念の幻想を彷徨っていた、とだけ書いていた。慎一が気になって聞いた時、ヴィクトルは答えた。
『あれは、どう書いていいか分からなかったんだ』
『観念の幻想って何?』
 慎一が尋ねた時、ヴィクトルは遠くを見た。
『死とか命とか、そういうものを、頭の中だけで理解しているっていうことだ。だが、時にそれは簡単に現実にすり替わる。若者の死は、身体の病気でなければ、幻想の中で起きる』
 これ以上はどうしても説明できないとばかりに、ヴィクトルは言葉を畳んだ。
 テオドールも? と慎一が尋ねたら、それには答えを返してきた。
『いや、テオドール・ニーチェは少なくとも我々を不安には陥れなかった。彼は音楽をコントロールしていた。もちろん、いつもというわけではないが、計算し、寸でのところで苦悩に手を差し伸べていた。そういう気がする。でも、アネットだって、ノクターンやエチュード、ソナタでは慈愛に満ちたマリアのような音を出していたんだが』

 あのショパンコンクールの後、アネットはテオドールを追いかけて、この学院に編入してきたのだ。テオドールの背中だけを見つめて。
 そして、幾らかの時を経て、アネットの中に心の核のようなものが生まれている。
 まるで分裂病のように突然変化する楽想は、聴くものの平穏を乱す。だがそれは曲の表面を追いかけるからだ。晩年のショパンが、死の病と、ジョルジョ・サンドとの関係が破綻しつつあった苦悩に翻弄され、時にかつての歓喜に満ちた時間を思い起こし、自らの心の中に飼っていた憂鬱を発散させ、幻想のように消えゆく人生を振り返るなら、そこには狂おしいまでの命の筋道が通っていたはずだった。

 この曲を奏でる時には、ばらばらになる楽想を、あるいは弾くものの感情を、まとめ上げる芯こそが要求される。そして今、アネットは何の境地に立ち、その自らを纏め上げる芯を手に入れたというのだろう。
 後半に差し掛かり、一度柔らかくなった曲想が、改めて激しく打ち出され、またやがて畳まれていく。
 僅か十二分から十三分ほどの時間、慎一は熱くなったり冷たくなったりしながら、アネットの感情の底に、揺るがない形で横たわっている沈黙したままの彼女の原型のようなものに辿り着いていた。
 どれほど呼びかけても何も答えない。全てを拒む彼女の頑なな決意。慎一は大きく扉を叩き続けている。だが、答えは何もない。

 突然、慎一の周りから何もかもが消え去った。
 静かで、何もない。
 慎一はふと我に返る。

 大きな衝撃が加わった時、頭ごとどこかへ飛ばされてしまったような気がするものだ。
 そこにあるのは自分の身体だけだった。身体は司令塔を失い、ただ腐っていくかのように漂っている。
 何もないと思っていたところに、時々光や温もりが触れる。その優しさゆえの苦痛は激烈だった。何もないなら、いっそ何もないまま、自分にとっての時間が永遠に前に進まなければいい。
 だが、生きている限り、何もない孤高の場所に居続けることはできない。頭は再び何かを感じ始める。温かさも冷たさも、苦痛も安寧も、幸福も不幸も、全てがばらばらに脈絡なく、予告も無く、慎一にまとわりつく。時に哀しく、時に穏やかに、心を揺さぶり、昂らせ、鎮め、絶望に陥れたと思えば、またそこから救い上げて愛を語る。この大きな揺れを身体に浴びて生き抜くことの難しさ。

 静かに畳まれた音、音楽の最後に打ち鳴らされる高音。
 その時には、慎一はふらりと立ち上がっていた。

 ホイリゲの主人が見た時、慎一はアネットの傍らに立っていた。そしてアネットはこの人生を畳み込んだような音楽を聞かせたばかりとは思えないほど淡々と立ち上がり、慎一に席を譲った。慎一はまるで操られた人形のようにピアノの前に座った。
 主人の場所からは慎一の横顔が見えていた。慎一はじっと鍵盤を見つめ、膝に手を載せていたが、それはほんのわずかな時間だった。不意にその手が上がったと思った時には、慎一の指先からはあの、たとえようもなく切実な音が迸り出た。

 ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』の第三楽章。
 ホイリゲの主人は鳥肌が立つのを感じた。慎一の弾くこの曲を聴くのは二度目だった。
 今日、慎一は始めから、感情を抑えることはしなかった。女学生のショパンが前奏曲だったとでも言うように、第一楽章、第二楽章を飛ばしたまま、いきなりのクライマックスを突き進んだというように見えた。

 ベートーヴェンが交響曲の主題を盛り込んだことからも、彼の目指していたものがピアノだけでどこまでの多重性とダイナミズムを表現しうるかという挑戦でもあるように思える。ここにぶつけられたエネルギーのものすごさは、確かな技術がなければ、音楽性とという部分に言及する域には達しない。もちろん、ただ弾くだけなら難曲とまでも言わないのかもしれない。だが、要求されるのは技術だけではない。
 慎一の演奏するこの曲を初めて聴いた時から、主人は技術も音楽性さえも超えてしまった何かを感じていた。慎一の指先から吹き出すようなその想いは、ただ叩きつけたのでは騒音にもなりかねないどの一音にも籠められていた。音の粒はばらばらの想いを載せながらも、ひとつに大きくまとまっていた。うねるように、呑み込むように、弾くものと聴くものの区別なく激しく揺さぶり、包み込んでは突き放し、温めては冷たく襲い来る。熱情という言葉を望んだのは作曲者自身ではなかったのだろうが、全てをぶつけるにこれほどに適切で、難しい音楽はあるまい。

 身体の内から、魂から、声にならない声を振り絞って叫んでいる。慎一の身体からオーラのように立ち上る何かは、慎一の中に巣食っている別の魂にも見える。作曲者なのか、この曲に翻弄され続けてきた幾人もの演奏家のものなのか、あるいは今ここで聴いているたった二人の聴衆のものなのか。
 それが今、慎一の身体の内から迸り出るように見える。

 憑かれている。
 主人は思わず駆け寄って演奏を止めなければならないと思った。この若い二人は一体何をやっているのだ。だが身体が硬直したように動かなかった。
 切実、と言ってしまえばそれだけの言葉だった。慎一はこの曲を奏でる時、命を削っているように見える。一音一音はただピアノに叩きつけてしまえば意味をなさないのかもしれない。だが、その一音一音に慎一は命を叩き込んでいる。

 一体どうしたらいいのだ、と主人は思った。不穏で不安だった。だが、恐ろしいものを見る時の恍惚感が主人を圧迫していた。まさに圧迫だった。恐ろしいのに、美しく、悲しく、ぎりぎりの崖の上を歩いているように恐怖と昂揚感が押し寄せて、呼吸ができない。同じような旋律が何度も押し寄せる波のように、繰り返し繰り返し魂を洗っていく。
 女学生の奏でたものが、変容の中の揺るぎなきものであるならば、慎一の奏でているものは同じ音の連鎖の中で永遠に移り変わる変容だった。
 慎一は音楽の神に取り憑かれているのだ。そして、取り殺されてしまうかもしれない。

 主人は最後の音が畳みこまれた瞬間に、身体を縛っていた拘束から解き放たれたように椅子から立ち上がった。
 あの変人の評論家は、つい最近まで屋敷に電話を引いていなかった。あまりにも不自由だろうとさんざんに周囲に言われて、ようやく電話を置いたところだったが、まともに出たためしがない。もしかして受話器を上げ方が分からないのではないかと疑うほどだった。
 今日、まだあの使用人夫婦が起きていたらいいのだが、年寄りであてにならない。耳だって遠いだろう。
 案の定、電話のコール音は受話器の向こうで鳴り続けるばかりだった。
 ヴィクトル、くそ野郎、俺の金のタマゴが、壊れちまう。
 主人はついに諦めて受話器を電話に叩きつけた。

 慎一は弾き終えた後、しばらくの間完全に放心していた。
 わずか七分余りに、魂を取り落してしまった。またあの時のように、頭がここから飛んで行ってしまったのだ。今自分がどこにいるのか、何をしたのか、まるで分からなくなっていた。

 不意に静かになった空間には、ピアノもなく、ここはホイリゲの中でもなかった。目の前に小さな箱庭がある。
 あなたの思うように世界を作っていいのよ。
 優しい声がする。だが慎一は何もそこに描くことはできなかった。箱庭の砂地が波打ちながら自分を呑み込んでいくような気がした。綺麗な色を付けられた家のミニチュアも、木や花壇、柵の模型も、そして小さな魂のない人形たちも、慎一にとっては形のない、意味もない、そして網膜に影さえ残さないものだった。
 慎一の前に、世界はなかった。
 あそこから、どうやってここにたどり着いたのだろう。今自分は一体どこにいるのだろう。

 ふと肩に白い手が乗せられた。
 二人とも、涙を流すということはなかった。ただお互いのことが分かっていた。手を握りしめ合い、約束通り、誰にも知らせることができない秘密を、少ない言葉で打ち明けた。
「あなたがこの世にいなければよかったのに」
「君に会わなければよかった」

 二人は同時にそう言って、少しだけ微笑み合った。幸せなほほえみではなかった。だが、不幸とも言えなかった。ただ、これが互いにとって、最後の演奏だと知っていた。それを世界の中で二人だけが聴き合い、二人だけが理解し合っていることを知っていた。
「僕は、大切な人を殺してしまった」
「私は、今から大切な人を殺そうとしている」
 理由も是非も問わない約束だったが、二人とも何より、問う必要がないことを知っていた。

 慎一は今日、アネットを送らなかった。アネットも敢えて、送らないで、とは言わなかった。アネットが出ていった後も、慎一はピアノの前に座ったままだった。
 ヴィクトルに連絡がつかないままホイリゲの主人がホールに戻ってきたとき、慎一は意外にもしっかりとした気配で、ピアノの蓋を閉じ、するりと立ち上がった。ピアノの前に座っている時には大きく見えるのだが、こうして立ち上がってみると、慎一は華奢で小柄だった。民族の由縁もあるのだろうが、何よりも頼りなげで幼い子供のように思えた。

 だが、その表情には、子どもにはない影が宿っている。命を削り落とし、今、一度に十年ばかりも年を取ったように見えた。
「シンイチ、送ろうか」
 慎一は表情を変えなかった。
「大丈夫です。遅くまで、ありがとうございます」
 いつものように礼を言って、いつものように飾り気のない一張羅の黒い上着を着て、慎一は冷え込むウィーンの街の中へ吸い込まれていった。


 ホイリゲの主人の罵声がヴィクトルの耳に届いたのは翌日の夜だった。
 慎一は今まで一度も無断で欠勤したことはなかった。学校に行っていたのかどうかは主人には分からなかったが、後で聞くと、下宿の部屋を一歩も出ていなかったようだった。
 心配した主人が店を従業員に任せて屋敷まで乗り込んできたので、ヴィクトルは初めて事情を知った。慌てて一緒に慎一の下宿に行くと、下宿の女将、マルグリットが慎一の部屋の前でおろおろしていた。
「あぁ、あなたたち、丁度良かった。シンイチが出てこないんだ。朝、声を掛けた時は、今日は気分が悪いから食事はいらないと言っていたんだけど、夕食にも降りてこないし、そもそも一度も顔を見ない日なんて、今までなかったんだよ」

 ヴィクトルはドアを叩いた。声を掛けてみたが、まるきり音さえもしない。出ていったのを見なかったのかと尋ねたが、マルグリットは買い物に行く時間だけここを離れたが、後は家にいたのだと言った。マルグリットはここに住む下宿人達をわが子のように可愛がっていた。音楽院の学生ならなおさらだった。そして、慎一のことを誰よりも気にかけている様子が、言葉の端々にも態度にも出ていた。慎一に頼る親がいないことを知っていたからだった。
 非常手段だとは思ったが、マルグリットに鍵を持ってこさせた。
「シンイチ、入るぞ」
 一応声を掛けて、ヴィクトルとホイリゲの主人、マルグリットは部屋のドアを開けた。

 一部屋きりの部屋には、もう夜も更けているというのに、明かりは灯っていなかった。
 ドアの脇を探って灯りをつけると、慎一は借りているベーゼンドルファーのアップライトの前に座っていた。ピアノの蓋は閉じられたままだった。それどころか、慎一は、昨夜主人が最後に見た黒い上着を着たままだった。
 マルグリットが悲鳴のような声を呑み込んで、慎一に駆け寄り、手を握った。
「シンイチ、どうしちまったの」
 ホイリゲの主人は、お前が電話に出ないからだとヴィクトルに悪態をついた。
 ヴィクトルはその通りだと頷きながらも、思わず慎一の住んでいる小さな部屋を見回していた。

 ヴィクトルが慎一の部屋に入るのは初めてだった。
 部屋は広くはない。ベッドとピアノ、窓際の机、それに木製のクローゼット。それだけだった。
 机の上は片付いていたが、古本屋で買ったらしい古い本が積み上げられていた。本は床に置かれた手製の木の台の上にも積み上がっていた。背表紙を見たところ、大方は音楽に関するものばかりだった。それから詩集、日本語の本もいくつか。それに楽譜の束。新しいものではなく、束からはみ出た端は、いずれも破れたり変色したりしていた。
 クローゼットの中に掛けられた服はわずかだった。隅に、ヴィクトルが買ってやったスーツが、それだけはカバーをかけて大事そうに吊るされていた。下には靴が数足。運動靴と、少しましな、しかし履き古した革靴、そしてやはりヴィクトルが買ってやった上等の革靴。その他にまだいくらか本が積まれていた。
 僅かなお金を全て音符と活字に変えて生きているのだ。

 愛おしさが込み上げて、ヴィクトルはどうしてこの想いを形にしてやればいいのか、惑った。
 それから三日間、慎一は口から文字通り何も受け付けなかった。ヴィクトルが引き取った翌日の夕方からは吐き続け、医者嫌いのヴィクトルも、今回ばかりは医者を家に入れ、点滴をさせて、自分は夜もほとんど眠らずに慎一の傍に付き添っていた。
 熱はなかったが、まるで魘されるように汗をかき、時折布団にもぐり込んで身体を丸めたまま冷たくなっていた。ヴィクトルがさすって温めてやると、何かに気が付いたようにその手を握り、しばらくの間じっと握ったまま離さなかった。唇に色がない時があり、そっと触れてやると驚いたように目を開け、小さな声でごめんなさいと言った。
 何も謝られるようなことはないとヴィクトルは優しい声で言った。

 慎一のいる場所がどんな場所なのか、ヴィクトルには想像もつかなかった。だから簡単にそこから這い上がってこいとは言えなかった。それでも夜はずっと手を握ってやっていた。
 慎一はその手を煩わしそうに解こうとするときもあったが、強く握り返してくることもあった。ただ触れいてるだけの時もあった。そして、やがてヴィクトルの手を探すようになった。
 その手の冷たさ、時に湿度を帯びた熱さ、あるいは真っ白な乾き、そのすべてにヴィクトルは己の人生をかけてやってもいいと思った。ヴィクトルは今更ながらに、この少年の過去を詮索しようと探偵を雇ったことを悔やんでいた。己を恥じて依頼を取り消そうとその男に連絡を入れてみたが、ローマに出かけているという男とは連絡が取れなかった。
 賽は投げられた後なのだ。

「シンイチ、もしも聞こえているなら、これだけは覚えておけ。俺はお前が誰であろうとも、何も語らなくても、お前の奏でる音だけを信じている。俺はずっとお前の味方だ」
 自分に言い聞かせるようにヴィクトルは慎一の耳元に話しかけた。どのような結果であろうとも、受け入れた上で、言葉通り、このミューズに愛でられた聖なる魂を守ると決めた。

 三日目に連絡を受けたローマイヤーがやって来た。慎一はようやく温かい飲み物だけは口にするようになり、点滴を抜いてもらったところだった。
 無断で授業を休んだことを穏やかな声で謝る慎一に、ヴィクトルもローマイヤーも何も言えなかった。どこへ行けばいいのか、慎一はまだ惑っているように見えた。返してくる言葉は謝罪だけだったのだ。
 何とも言えずに黙っているヴィクトルをちらりと見て、ローマイヤーが言った。
「明日、特待生試験の結果が張り出される。私はそのことを知らせに来たんだ。どんなに辛くても、自分が闘った結果は見届けなければならない。それが今、君には大事なことだ」

 慎一はあの日から初めて、まともに感情のあるような顔をした。
 慎一を助けようとする手がここにもひとつ、存在していた。
 翌日、慎一は何日目かでようやく風呂に入り、身支度を整えた。心配が頭から吹き出しそうになっている無愛想な老夫婦の顔を見て、困ったような顔をして、それからまた小さな声でごめんなさいと言った。
 ヴィクトルの作ったサラダとソーセージ、パンのシンプルな朝食を半分ほど口に入れて、それから行ってきます、と立ち上がった。
 ヴィクトルは送るとも言わなかった。一人で行くべきであると思っていた。


 何日目かの外の風は、まだ強く頬に吹きつけたが、随分と暖かくなっていた。
 慎一は立ち止まり、空を見上げた。高く澄みきる高い青、その中に浮かびながら空を切る鳥、風ははるか上空を舞い、彼方から吹き降ろしてくる。足元の緑の草は、溜め込んでいた芳しい土の匂いを風に乗せ、慎一の足元から吹き上がった。
 何度も何度も繰り返し迫りくる罪の苦痛と、そこから這い出すときの世界の静けさ。世界はいつも静かだった。人間の営みなど意に介さぬように、ただそこにあった。いつになっても、ここから本当の意味で抜け出すことができないことは知っていた。知っていたからこそ、ここに立つ意味があることも分かっていた。
 もしもこの指に与えられたものに意味があるのなら、この指は朽ちるまで全て音楽に捧げなくてはならない。それが慎一の罪への唯一の贖いだった。

 音楽院の門をくぐった時、門の向こうからアネットが歩いてきた。
 アネットの周りを光が取り囲んでいた。世界のどのようなものよりも、彼女は美しいと思った。鮮やかな光色の金の髪、優しく赤い唇、桜の色の頬、湖のような瞳、そしてミューズの宿る白い指。
 すれ違う時、アネットは晴れやかな笑顔を浮かべた。
「おめでとう、シンイチ。あなたを越えたかったわ」
 慎一は言いようのない不安を覚えた。アネットを追いかけることはできなかった。光の中を歩き去っていく彼女を見送ってから、慎一は駈け出した。

 途中で、幾人かの友人に出会った。そのうちの一人、アメリカからの留学生でジャズ歌手とジャズピアニストの両親を持つボブ・マッケンジーが慎一の腕を叩いた。
「おめでとう。何より、これで食いっぱぐれなくて済むじゃないか」
 掲示板の前は、人だかりだった。慎一の頭には複雑なものが行き来していた。掲示板に近付く人、結果を見て納得したように、あるいは疑問を口にしながら歩き去る人の無秩序な流れに押されながら、慎一は張り出された文字の前にたどり着いた。
 その瞬間、慎一は来た道を急いで引き返した。
 門まで息も継がずに走り戻ったが、もう彼女の明るい金の髪を見つけることはできなかった。

 特待生試験結果 ピアノ科 合格者 二名
  アネット・ブレヴァル
  シンイチ・アイカワ




どなたか慎一に『一期一会』を教えてあげてください^^;
竹流もといジョルジョはちゃんと日本語を教えてあげてたはずなんですけれど……
普段使わない言語だったし、仕方ないですね。

追記で音楽をお楽しみください。と言っても、今回は苦しいかも……(>_<)


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Category: ♪死と乙女(連載中)

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