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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠 

八少女夕さん企画【scriviamo!】参加作品です。

ブログ『scribo ergo sum』の管理人さん、八少女夕さんは、素晴らしい「物書き」さんです。
流れるような読みやすい文章の中に、奥深いものが潜んでいる。そんな豊かな物語の世界に私たちを引き込んでくださる魔法使いかもしれません。その情景描写は素晴らしく、読後しばらく目を閉じて、じっくりと物語世界を楽しみたくなります。……なんて解説はもう不要でしょうね(*^_^*)
しかも! 精力的に作品を発表される傍ら、交流を積極的に奨められる夕さん。scriviamo!は、私たちの作品に夕さんが返歌を下さるという(しかもあり得ないスピードで!)、信じられない企画です。
やはり夕さんはスーパーマン、じゃなくてスーパーウーマンですね!

小説で参加するのも何だか自分の中ではありきたりだし、ちょっとイラストでも描いてみようかと思ったけれど、見事に座礁し、岩場であっぷあっぷするお魚さんのようになりながら、何とか発表に至りました。
が! もう今回ほど「産みの苦しみ」に喘いだことはありませんでした。
絶対に『龍王様の呪い』だと思われます。
お前、そんな簡単に龍王と『龍の媾合(みとあたい)』に手を出すな、と……

ごめんなさい、龍王様。本当に反省しています。
でも、この物語は、私が初めて拝読した夕さんの作品で、深く感銘を受けたものでしたので……
官能的というので夕さんが別館に仕舞っておられるのですけれど、この『龍の媾合』のイメージはかなり強烈で、素晴らしく神秘的で、創作とは思えない迫力がありました。

イメージしりとりは以下の通り。
『樋水龍神縁起』→龍王様→樋水川→翡翠→出雲大社の翡翠の勾玉→新潟・糸魚川の翡翠→→貴石→『奇跡を売る店』

こうして、【奇跡を売る店】の蓮と凌雲が登場しました。
夕さんのところからお借りしたのは、登場人物ではなく、樋水川や龍王の池のイメージと『龍の媾合(みとあたい)』という神秘的なできごと……これについては『Dum Spiro Spero』のこの回が分かりやすいでしょうか?→こんな感じ?

そして、『古事記』に書かれた、出雲と糸魚川を結ぶ伝説(検証ではあれこれ疑わしい点もあるようですが)。
こちらの翡翠の勾玉は、奥出雲の龍王のもの、あるいは龍王に嫁いだ姫のもの。『古事記』の伝説どおりではありませんが、奥出雲の樋水川に翡翠と共に嫁いだ越の国の奴奈川姫(布川)をイメージして、へたっぴぃなイラストを描きました。
このイラストから書き起こし物語、というよりも、ワンエピソード。
よろしければ、少し『翡翠(樋水)』の世界を覗いてみてくださいませ。

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【奇跡を売る店】シリーズを初めて読まれる方にも分かりにくくないように、登場人物たちを少し説明しすぎているかもしれません。ご容赦ください。と言っても、今まで1作しか作品はありません^^; (『サンタクロース殺人事件』)
釈迦堂蓮:釈迦堂探偵事務所の留守番探偵、ゲイバー(ショウパブ)のホールをしながら、事情があって6歳の女の子を育てている。
大和凌雲:京都・大原の庵に住む仏師。蓮の元家庭教師。
玉櫛:『奇跡屋』という貴石を売る店の怪しい婆さん。玉櫛はその昔、売れっ子芸妓だったころの名前。
和子(にこ):蓮が育ていてる6歳の女の子。心臓の病気がある。蓮とはほとんど口も利かない。





 古い木枠が、冷たく荒い風に慄き、がたがたと鳴き震えている。薄く固い敷布団の下、板敷きの底からも、風の唸りが伝わってくる。土と冷たい床の間に、暗く何もない無限の宇宙空間がある。
 風の音と、地面の下に流れる水の気配。水は時に溢れだすように大きく渦巻き、時には凪いで静かに息をひそめている。

 京都の町を大きく外れた大原は、四神相の守りの外側だ。邪ならずとも、あらゆる気が、守りを失った瞬間にはあの街の内側へ襲い掛からんと待ち構えて、潜んでいる。
 それでも凌雲の庵の中だけは、清浄な空気が満ちていて、邪な気はここに入り込むことを拒まれている、はずだった。
 それなのに、今宵、部屋の隅には誰かが息をひそめて、じっと相手の隙を窺っている。

 蓮は眠っていた。そのはずだった。だが、身体がじっとりと熱を上げていくのが、眠りながらでもはっきりと分かった。
 どこまでも澄んだ霊気を漂わせる、静かな深い森。蓮は見知らぬその地を歩いている。神社らしき建物が見える。夢なのか幻なのか、それにしては足の裏には、草や木の湿気をしっとりと含んだ確かな地面を感じる。木々の奥へ引き込まれるように進んでいくと、これまでに見たことのない、光に包まれた池があった。

 池は蒼く、また碧だった。池の縁まで歩み寄って覗き込んでみると、遥かに深く透明度が高い。その底から、星のような淡い光が昇ってくる。光の中に何かが蠢いている。黄金に輝いて、ゆらゆらとゆらめいている。ゆらめくごとに、水面に届いた光は虹色となり、黄金の砂が月に吸い取られるように輝いて、空へ立ち上って行った。

 その時、蓮は水底からじっと自分を見つめる目に射抜かれた。
 激しい突風が身体を貫いた。何かが明らかに蓮の身体を通り抜けていったのだ。
 身体中の細胞が痛みに呻き始めた。脳の中身の温度は、一気に沸点に達した。細胞と細胞を繋ぐ全てのブリッジが悲鳴を上げて軋んでいる。軋みは身体を巡る神経のネットワークによって指や爪、髪の先にまでも伝播する。身体中が熱い。内側から細胞が沸騰して壊れるのではないかと思った。

 直ぐに身体が何かに縛り付けられたように硬直し、血管の内側を巡る血液までが熱を帯び始めた。血液が激流となり、内側から血管壁を痛めつけながら身体を走り抜ける。
 一体何が起こっているのか分からないまま、ふつふつと欲情が立ち上ってくる。
 蓮にとっては何よりも恐ろしいことだった。

「蓮」
 呼びかけられた時、蓮は思わず相手の腕を引き寄せていた。
 突然の激情だった。頭で拒否する行為を、身体が勝手に求めようとする。その反発する力で身体が千切れそうになった。頭の中は激烈に痛んだ。割れる、というよりも爆竹が破裂し、その破片が内側から骨に幾片も突き刺さったような痛みだった。
 身体の中心に熱が集まってくる。誰でもいい。誰かこの熱を受け止め、このまま共に狂って欲しいと願う。

「どうしたんだ」
 耳に滑り込んできた声は、身体の神経の全てを突っ走った。蓮は引き寄せた相手を、同じ頭の中の別の意志に支配され反発する強い力で突き飛ばした。
「俺に触るな!」
 自分の声で我に返った。

 凌雲は不意打ちを食らったようだが、蓮の力が思ったほどに強くなかったのか、倒れはしなかった。いや、実際には蓮の身体がまともに動いていなかったのだ。蓮の手首を掴んだままの凌雲は、しばらくの間、驚いたように蓮の顔を見つめ、それからそっと背後を振り返った。



 仏師である凌雲の庵に蓮が訪ねるのは、月に大体一度ほどだった。
 大概は凌雲への、あるいは凌雲からの頼まれものを届けに行くだけで、夕方までには帰途につく。泊まるのは正月の三日間だけと決めていたのだが、まだ正月が明けて間もない今日、やむを得ない事情で泊まることになった。

 蓮は、昼間は失踪した叔父・釈迦堂魁の探偵事務所で留守番探偵として暇を持て余しながら退屈という仕事をこなし、夜になると四条大橋の近くにあるショウパブのホール係として、昼間とは打って変わって相当に忙しく働いている。
 その間に、保育園に預けている被保護者、六歳の和子(にこ)を送って行ったり迎えに行ったりで、住まいである西陣と四条河原町を一日に二往復していた。
 交通手段は専ら自転車だ。

 大原まで行く時も、バスよりも自転車が好ましい。いつもは和子を乗せるためにママチャリなのだが、大原に行く時だけはマウンテンバイクを動かしてやる。
 その日は古本を数冊、それから何やら書簡の束のようなものを届けに来た。
 古本と書簡の持ち主は、『奇跡屋』という胡散臭い名前の貴石を売る店の婆さんだった。釈迦堂探偵事務所は『奇跡屋』の二階にあり、古い町屋の入口を共有している。

「何を調べているんだ?」
 束ねられた書簡と和綴じの古本には年号がふってある。明治、大正、昭和の百年以上をまたぐ期間のものだ。
 凌雲はいつもの作務衣姿で玄関兼用の土間に立ったまま、書簡を確認していた。
 凌雲は背の高い外国人だが、日本画や浮世絵、仏像の修復師としてその名を知られている。さらに仏師としての号を持ち、今ではすっかり日本人以上に作務衣姿が板についている。

 凌雲はふと手を止め、そのどこまでも暗く深い青灰色の瞳で蓮を見つめた。
「お前は、呪いの何とか、って話を信じるか?」
「呪い?」
「たとえば、有名な『ホープ・ダイヤモンド』。九世紀にインドで発見されて、ルイ十四世がこのダイヤを所有したことによりフランス王家は衰退への道を転がり始めたとか、その後の所有者が次々と不慮の死を遂げたり離婚したりしたのだとか。今は元の大きさよりも随分小さくなって、博物館に収蔵されている」

「ただの都市伝説だろう? 大体、そのダイヤを持っていなくても、死ぬことも離婚することもあるだろうに」
「ダイヤを売名行為に使ったという噂もあったな。シャーロック・ホームズは『ただの炭素の塊』と言ったが」
「それで、日本にも似たような話があったとでも? どうせ、婆さんが妙な噂話を振り撒いているんだろう」
「どうだろう。だが、玉櫛さんは、神のものは神に返せと言われたんだ」
「神のもの?」

 そんなやり取りの後、土間と続きの板敷の間に上がり、囲炉裏を挟んで向かい合って凌雲の淹れたお茶を飲み、和子のことや、蓮が居候している寺の人たちの近況を言葉少なに話し、帰ろうと思ったら、突然氷のように冷たい大雨に襲われた。

 この辺りは、少し日が暮れると真っ暗になる。そこに襲い来た冬の大雨は、朝の天気予報からは大きく外れていた。もちろん、蓮は大雨の中を帰る手段を用意していなかった。
 そのうちに止むだろうと二人で軒下に立ち、しばらく空を見上げていたが、空なのか、ひっくり返った川なのか、暗闇の中ではもう分からない。蓮は帰ることを諦めた。

 正月にはそれなりに準備をしている凌雲だが、普段の食事はつましいものだった。近所の老人たちから貰う野菜や米、それに干した魚、味噌汁の中には豆腐と葱。それでも蓮にとっては何よりのごちそうだった。

 板間の部屋の暗い隅に、見たことのない五十センチメートルくらいの高さの木彫りの像が置いてあることに気が付いたのは、食事を終えて、囲炉裏の火を落としている時だった。
 蓮が問いかけるように凌雲を見たのは、木彫りの背後に緑の光のようなものが立っているような気がしたからだ。
 だが、蓮は言葉を呑み込んだ。何か抗しがたい力が、その内側から湧き上がっていたからだ。触れることも、語ることもならぬという強い力が、ぞの像の内側で渦を巻いている。

 朽ちかけた像の元の形はよく分からなかった。まるでもう一度ただの枯れ木に戻ろうとしている途中のように見えた。名もなく、意味もなく、ただ自然のままに生まれ出た場所にあった時のように。
 蓮が隣の間で眠りについた時も、凌雲はまだ石屋の婆から受け取った資料を調べていた。



 凌雲は蓮の腕をしっかりと抱きとるようにしたまま、部屋の隅を見つめていた。
 もう鑿の痕もはっきりとは分からないほどに朽ちているその木彫りの像は、凌雲がある人から預かったものだった。

 その像の本当の名前を誰も知らない。何故なら、この像はもともとどんな形で何を表したものなのか、あるいは始めから実は形を成していなかったのかさえ、分からないのだ。作者も作られた時期もはっきりしない。
 その上、凌雲にこれを預けた人は、すでにこの世の人ではなかった。政財界に顔がきく人物だったが、像を手に入れて間もなく、突然自宅で亡くなっているところを発見された。

 その老人は遺言を残すつもりだっただろうか。それとも、永遠に手元に置きたいと願っていただろうか。遺族は、この像を受け取ることを拒否した。そんな薄気味悪いものを持っていたなどとは知らなかった、噂では持ち主に不運をもたらす呪いの像だというのだから、と。

 老人は凌雲に、この像を壊さずに中に入っている何かを取り出せないかと言ってきたのだ。手で触れるだけでも崩れてしまいそうな像を揺り動かすと、確かに微かな音が聞こえていた。
 老人の死に途方に暮れて、その人を紹介してくれた『奇跡屋』の玉櫛に相談した。
「あんたに預けて死んだんだ。それはもうあんたが好きにしたらいいのさ」
 ただし、と玉櫛は言った。
「扱いを間違えたら大変なことになるよ」

 実際には、その時、玉櫛も事情を知らなかったのだろう。
 後になって資料を揃えたという連絡が来て、今日、蓮が古本や書簡の束を言付かって大原まで持って来てくれたのだ。

 噂では、所有者を次々と不幸に陥れてきたという像。
 書簡や報告書らしいものには、この像にまつわる秘話が綴られていた。持ち主の多くが突然色恋や博打に狂って不慮の死を遂げたり、事業に失敗したりしているのだという。もとの形は、まるで龍が何かに、多分人に、巻きついているような姿をしていたという記述もある。また、かつて『龍の媾合(みとあたい)』と呼ばれていたこともある、と。

 宝は生まれた場所を離れ、人々の欲望を吸い上げ、この世を彷徨い歩いている。吸い上げた欲望が、所有者の心に邪な矢を放つ。衝動は時に人を死へと導く。本来ならば神が持つべきものが、間違えて人の手に渡ってしまった。人は神から宝を奪い、神の目から隠すために像の中に閉じ込めた。

 凌雲がまだその像を振り返っているうちに、するり、と蓮が凌雲の腕を離れた。まるで何かに操られたかのように、気配も少なく立ち上がり、像に近付いていく。
 凌雲は像から緑色の光が立ち上がっているのを見た。光が絡まりながら湧き出している。

 その時、蓮はいきなり像を掴み上げたかと思うと、そのまま土間に叩きつけた。
 朽ちかけていた木は、自らの運命を知っていたように、あるいはそれを始めから望んでいたかのように、ほとんど抵抗なく粉々の木屑となった。
 凌雲もまた、その像の運命を知っていたような気がした。

 朽ちた木の中で蠢いていたものが、今長い時を経てようやく光を取り戻そうとしているのだ。
 凌雲は静かに蓮の傍へ歩み寄り、足元に転がった小さな石を拾い上げた。
 蓮の目には正気が戻っていた。
「大丈夫か?」
 蓮はうなずいた。そして、凌雲が作務衣の裾で埃を拭った石を見つめた。

「翡翠?」
 微かな壁際の灯りの下でも、その内なる光は特別であることがよく分かった。勾玉の形に整えられた翡翠は、ゆらゆらと揺らめきながら、悠久の時を生きていた。
「蓮、お前、何日か仕事を休んで、俺に付き合ってくれないか?」
「なぜ?」
「この石があるべき場所、奥出雲の川の神に返したいんだ」

 いつの間にか、雨は止んでいた。



「それから?」
 和子の質問は三歳の子どものように他愛ない時もあるし、やはり六歳かと思われるような年齢相応のものであることもあり、また、まるで大人のような物わかりの良さを感じさせるときもある。
 身体も心もでこぼこに伸びている、そんな歪みと、それでも前に向かおうとする強い命の力を感じさせた。

 重い心臓の病気で、生まれて間もなく手術を受け、それからまた数か月で二度目の手術、そして一歳になる前と二歳になる前と、合計四度の命に関わるような手術を受けてきた。その度に、健常の子どもであれば坂道をまっすぐに上がるような体力や精神の発達を阻害され、何度も心の成長のやり直しを余儀なくされてきたのだ。同じ年の子どもと上手くやって行けという方がどうかしていると、いつも玉櫛は思っていた。

 玉櫛、いやそれは、昔の艶やかな時代の名前だ。今はただ石屋の婆と呼ばれることの方が多い。
 この世の中は、とにかくも、社会の仕組みや技術の発達の中でどんどん弱者を作り出す癖に、その弱者を庇う優しさを失っていっている。

 和子は今日、保育園の後、『奇跡屋』にやって来た。いつも迎えに来るはずの蓮は玉櫛の使いで大原の凌雲のところに行っているので、和子のことは、蓮と和子が居候をしている寺の奥さんが迎えに来るはずだった。

 和子には両親はいない。どちらも生きてはいるが、和子の傍にはいないのだ。捨てられた和子を、当時主治医をしていた蓮が引き取った。蓮は和子を引き取った時、医者を辞めている。だから和子にとって頼りになる大人は、今は蓮だけだ。
 だが、和子はどうしても蓮とはまともに口をきこうとしない。蓮もまた、和子にどのように接したらいいのか分からないようだ。

 和子の膝にある本は、『古事記』だ。もちろん、和子にほとんど漢字ばかりの文字が読めるわけはない。だが、和子は比較的正確に言葉を反芻することはできる。
 玉櫛は和子に『古事記』に書かれたある伝説を話してやっている。

 出雲の大国主命は、越の国に奴奈川姫(ヌナカワヒメ)という賢く美しい姫がいるという噂を聞き、求婚するために越の国に訪ねてゆく。奴奈川姫は大国主命と歌を贈答したが、すぐには求婚に応じず、一日後に受け入れ、結婚したという。
「二人の間には子どもが生まれた。諏訪の国の神・建御名方命(タケミナカタノミコト)だ」
「へんな名前」
「神様の名前だからね」

「にこもへんな名前だって言われる」
「お前の親はバカだったと思うが、娘にはいい名前をつけた。ちっとも変じゃないね。名前は『呪(しゅ)』だ。人をその人であらしめる魔法のようなものだよ」
 和子はふ~ん、という顔をして、また膝に置いた本を見る。玉櫛は和子が分かっていてもいなくても、大人に対するように話しかける。

「この結婚話は、出雲族と奴奈川族との同盟をあらわすものだと言われる。遠くにある二つの国が仲良くしたんだよ。結婚後、奴奈川姫は大国主命と能登国、つまりに全く別の場所に行って住んだが、仲が悪くなって別れてしまった。お前んちの母親と父親と同じだ」
「ふ~ん」

「夫である大国主命には嫉妬深い嫁がいた。奴奈川姫はふるさとに逃げ帰って、悲しみのあまり、皆の前から姿を消した。いなくなってしまったんだよ」
『天津神社並奴奈川神社』の伝説では、越の国に戻った姫は自殺したともいう。

「もっともこの話は別の姫さまの話をいっしょくたにして間違えているって説もある。かぐや姫がお城の舞踏会に行ってガラスの靴を落としてきました、ってなわけだ」
 石屋の婆さんは、店の中をするすると歩き、古びた棚いっぱいに並んでいる石の中から一つを持ってきた。

「ごらん。これは越の国の糸魚川という川で採れた石、翡翠だ。翡翠は今から四千年以上も前、縄文時代の宝だった。糸魚川にはその頃の翡翠工場の遺跡が見つかっている。だが、大和朝廷の時代には糸魚川も翡翠も歴史書から姿を消しているのさ。翡翠が採れなくなったのか、翡翠はもう宝ではなくなったのか定かじゃない。糸魚川の翡翠のことが再発見されて取り沙汰されたのはずっと後、昭和になってからだ。だが、出雲大社本殿の裏の真名井遺跡から、最高品質の翡翠の勾玉が、銅戈とともに見つかった。本当はどこで作られたものか、分かっていないが、今では糸魚川の翡翠だと言われている。少なくとも、出雲と糸魚川には深いつながりがあったんだろうね」

 玉櫛が光に石をかざすと、石はあらゆる種類の緑色の光を跳ね返した。
「人間はね、昔のことをどうやっても知ることはできない。だが、馬鹿な人間は、今のことだって知ろうとはしない。難しいことじゃないさ。ただ想うだけでいい。想いには光の羽根がある。この石たちと同じように。想いは知識を呼ぶ。知識は人を少しだけ賢明にする。賢明になれば、愚かなことに惑わない。だが、想いのないガラクタのような知識はだめだ」  

 和子は何のことか分かっているのかいないのか、じっと翡翠を見ている。石屋の婆はいつも和子にこうして話しかける。和子の目には疑問がない。
「翡翠は神の石だ。遠い国から出雲の神様のところへ嫁いできた。神様というのは川のことだ。奴奈川姫というのは、遠い国の川の神様だったんだよ。この翡翠は川の賜物だ。だから姫神様の石なんだよ。神のものは神に、人のものは人に返すべきなんだ」

「故郷に帰るの? それともお嫁に行ったお家に帰るの?」
「石が決めるさ。にこ、お前もだよ。蓮はできそこないの医者で、男としても最低のことをしてしまったが、ひとつだけ正しい選択をした。にこ、お前を選んだことさ。だからお前も、今はそんな切羽詰ったことにはなっていなくても、いつか、選ぶ時が来たら正しいものを選べるように、心を決めておくんだね」

 石屋の婆、いや玉櫛は、和子の胸を指差した。
 幼くして幾度も厳しい場面を乗り越えなければならない宿命を抱え、もしかするとこれからも多くの試練が待ち構えているかもしれない和子の心臓の上で、和子の石、蓮が磨いたラピスラズリの入った小さなお守り袋が、和子の鼓動を受け取るように蒼く静かに震えていた。





お粗末さまでした。
蓮は性的な衝動について、ものすごく罪悪感をもっておりますので、このような体験については半ばパニックだったと思います。本物の『龍の媾合』は9年に1度の神秘的な出来事(夕さんは怪奇現象と説明しておられました^^;)で樋水村でしか体験できません(変な解説……)。でも、姫の翡翠の勾玉には樋水川の霊力の一部が閉じ込められていたようで……
というのをイメージしました^^;

もうひとつのテーマは……「神のものは神に」という聖書の言葉。
宗教は違っても同じで、この短い言葉の中には色々なことが籠められていると思うのです。
石も、和子の命も……神のもの。あるいは蓮の重荷も神のものかも。
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Category: 奇跡を売る店・短編集

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NEWS 2014/1/26 イラストを描いてみた 


ただ今、私のPCの壁紙は、小説ブログ「DOOR」のlimeさんがリクエストで描いてくださったスリーショット(リク、真、春樹)です(*^_^*)

右の色鉛筆はドイツのもので(買ったのは日本だけど^^;)、もう30年くらい前のもの。水性で、水で伸ばすことができます。
左は今日、その色鉛筆を使って即席で描いたイラスト……頭の中のイメージを描きつけていったら、何だかゴテゴテになってしまいました。
今日たまたま交流のあるブログさんで、小説や絵って下書きの時の方が広がりがあるなぁってお言葉を拝読して、本当だわ、と思っていたのです。
(いつも鍵コメで頂くので、ここでご紹介していいのかどうか少し躊躇いましたが……取りあえずここでお断りを……)

もっというと、頭の中にある時の方が、イメージは大きい。しかも、描き慣れないイラストなので、どうしてもイメージだけは大きすぎて、描いてみたら……しょぼ~ん(T_T)
何だか、抽象画に走っていく人の気持ちが分かるわぁ、とか偉そうなことを思っていたのでした。
ま、でも、そもそもラフ画のような絵なので、ばらばらのイメージの広がりは残っていますね^^;

さて、こちらは実はscribo ergo sumの八少女夕さんの企画、scriviamo!に参加するべく描いたもの。
そうなんです、小説じゃないもので参加したかったんです。
でも、イラストを描くなんて、イラストを普段描かれる人たちの前ではお恥ずかしい。
しかも超アナログ!! しかもラフ画みたいなもの!! でも、私には精一杯でした(T_T)
あとは……これにお話がつくのですけれど。

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そう。こちらは翡翠なのです。糸魚川の稀少な翡翠。私の持っているものは、エメラルド度が低いのですけれど、上等なものは光に当てたら絵の色のように光ります。

さて、せっかくなので、数十年前に描いた絵。これは銅版画のための下書きだったのですけれど。
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こちらは左が銅版画。右は下書き。下書きの段階では、母をイメージした女性の横顔があったのですけれど……
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そんなこんなで、今日はちょっと恥を晒してみました(^^)
お粗末さまでした m(__)m

Category: 小説・バトン

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[雨104] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(5) 

【海に落ちる雨】第21章その(5)、サーシャの下りの続きです。
逞しい還暦間近のロシア人女性サーシャの言葉が、真を引き上げていきます。
少しだけ語られるサーシャの恋物語、この先、竹流がソ連から素敵なものを持ち帰り、また一つ、彼女の物語のページが増えていきます。
全編中で、私が結構好きなシーンのひとつですが、その部分は次回に。

そう、好きなシーンって、「書くぞ!」と意気込んで書く時もあるけれど、こうして自然に流れの中で出てきて、後から読み返して、好きかもって思うシーンもあります。どちらにしても自己満足なのですけれど。
【清明の雪】ではラストのキラキラシーンが前者、2人が哲学の道をお寺まで歩いて戻るシーン(『同行二人』シーンと勝手に呼んでいる(^^))が後者。
この章の、真とプラネタリウムのシーン、そしてサーシャの旦那さんの絵のシーンは、どちらも後者です。






 目を覚ましたとき、もう辺りは暗く、ぼんやりと読書灯だけが病室の気配を浮かび上がらせていた。
 少し離れたソファで、あのロシア人の婦人が、いかにも彼女らしい大胆な姿で眠っていた。

 風邪をひかないかな、と思った。
 そう思ってから、自分の身体だけではなく、他人のことを心配したのはどれほどぶりなのか、と思った。
 何とか身体を起こすと点滴台を頼りに立ち上がり、それを支えにしたまま、彼女の傍まで行って、床に落ちている毛布を拾い、彼女に掛けてやろうとした。少し屈むと、鳩尾がずん、と重く痛む。
 途端にバランスを崩して倒れかけた。何とかソファの背もたれに手をついて身体を支えたが、点滴台がひっくり返りそうになる。あわてて手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 かなり迷惑な物音を立てて、点滴台が壁にぶつかり床に倒れた。
 跳ね起きた婦人と眼が合った。
「大丈夫?」
「すみません」
 婦人は大きな身体には不釣合いな、軽い身のこなしで真を支え、点滴台を立てた。それから、真をソファに座らせて、点滴の具合を確かめた。立派な看護師か介護士のように見えた。
「毛布を掛けてくれたの? 寝相が悪くってごめんなさいね。大体、まともなところで寝た事が無いのよ」
 婦人は、真をベッドに戻らせて、自分も真のベッドの傍に来てくれた。

 物音を聞きつけて、看護婦が大丈夫ですか、と覗きに来てくれる。点滴台を倒したことを言うと、点滴台と点滴の具合を確認して、それから出て行った。
 看護婦を見送ってから、婦人が真の顔を覗き込むようにして話しかけた。
「夕方に三上さんって人が来てくれたわよ。あなたの寝顔を見て、ほっとした顔をしてた。また来るって言ってたけど、明日にでも電話してあげなさいね」
 真は頷いた。
 三上にも随分と心配をかけてきた。こうしてベッドに縛り付けられて、ようやく周囲の人たちの顔がひとつひとつ確認できるようになった気がした。

「明るい時間に寝ていたから、一度目が覚めると眠りにくいでしょうけど、今は身体を休めないとね。あなたがどう思っていても、あなたの身体は生身のものだから、こんな病気になるってのは、休ませてくれって悲鳴を上げているのよ」
 こうした当たり前のことを、これまで真は聞かないふりをしてきていた。今になってみると、当たり前の言葉には確かな説得力があると思い知らされる。
 あるいは、サーシャの声が魔法の唇から発せられているからなのかもしれない。

 その声を聞きながら、竹流はきっとこの婦人を本当に大事に思っているのだろうと感じた。それは、ただ仕事のクライアントとしてではないはずだ。
「子守唄代わりに、何かお話をしてあげたほうがいい?」
「あなたの名前もまだ伺っていません」
「そうだったわね。じゃあ、スターシャって呼んでちょうだい」
「それって、イスカンダルの女の人の名前」
 その真の反応の早さには、彼女は楽しそうに笑った。
「冗談よ。でも、その妹の名前と同じなの」
「サーシャ」
「意外に物知りね」

 伯父の功は、アニメにしても小説やドラマにしても人形劇にしても、宇宙ものは一通り押さえていた。一緒にテレビを見ていた真が、知らないわけはない。
 真は少しだけ笑みを浮かべてから、あれ、俺は笑ったかもしれないと思って自分で驚いた。
「あなたの事を」
「いいわよ。何から話そうかしら?」
「仕事は何を?」
「冒険家よ」
「冒険?」
「自称だけど。すごい辺境に行って、写真を撮っているのよ。そう、写真を撮るのは、この世界に何かを残したいからなのかしらね。カメラの向こうの世界が生きている証、そしてカメラのこっちにいる私が生きている証。私には子どもがいないでしょ。だから他の形で、何かを残さなきゃ、って思っているのね。でも、本当は、写真は生業としてやっているだけかもしれないわ。ただ世界を見たかった。見たこともないような花が咲いていて、初めて見る生きものたちが空を駆け、聞いたことのない水の音や鳥の声を聴くの」

 竹流がいない間、サーシャが話してくれた真の知らない土地や民族の物語は、真を生き返らせる魔法だった。
 物語は母の口から語られ、子どもに夢と生きる力を授けた。子どもは母親の物語に目を輝かせて聞き入り、先をせがんだ。母親のいない真には、何もかも生まれて初めてのことだった。

 サーシャは竹流と同じように、話し上手だった。
 中高校生の頃、母もなく、忙しい父の代わりに自分たち兄妹の勉強を見てくれていたのは、竹流だった。彼はいつも歴史や科学を物語のように語った。数式も、彼の言葉によって音楽になり、ストーリーが広がった。学校では少しも面白くなかった歴史の場面は、彼の言葉で語られると、まるで映画のスクリーンに広がるように面白かった。

 サーシャの話の中でも、アラスカの熊の物語は真を随分楽しませた。本当のことを言うと、熊の話なら、真のほうもいささか薀蓄を語ることができた。彼女のほうも真の子ども時代の話を聞きたがった。真が小さい頃、アイヌの老人から聞かされ教えられたこと、その世界の仕組み、歌や音楽の意味、全てが彼女には興味深いようだった。
 この時はまだ、サーシャが秘境の民族や自然の生き物を撮っている有名な写真家であるということを、真は全く知らなかった。

「結婚はされなかったのですか」
「夫はいたわよ。それも私が勝手に夫にしていたの。ね、聞きたい?」
 真はまた勢いに押されて頷いた。
 まるで女子学生が友人にのろけ話を聞いて欲しがっているような楽しげな気配だった。
 サーシャの瞳は、北国の海に気紛れに射した夏の閃光のように明るい色をしていた。そして、語る時には、星々を包むオーロラのように輝いた。

「実はね、結婚できなかったのは、彼が聖職者だったからなのよ。だから無理矢理、駆け落ちしたの。駆け落ちまでさせちゃったのに、私ったらこんなので、ひとつ処にじっとしてないじゃない? あの人はがっかりしたでしょうね」
 秘密の物語のはずだろうに、ちっとも構っていないようだった。まるでワクワクドキドキの冒険談のようにサーシャは話した。
「ロシア正教の聖職者でね、イコン画家だったのよ。それが私ったら、おかしなことに始めはあの人の絵のキリストに恋をしたのよ。恋をして通い詰めて、押しかけ女房さながらに俗世間に引き摺り下ろしちゃって、駆け落ちまでしたのに、最後の最後にあの人の傍にいてあげなかった。あの人は一人で死んじまったのよ」

 真は思わず唇を噛んでいた。だが、サーシャは自分の哀しみには構っていないようだった。真の気配を察したのか、そっと真の頬に手を当ててくれる。大きくて柔らかい手は、暖かくて平和だった。
「おチビさん、人の生き死には運命なの。運命という言葉は少し難しく考えられ過ぎちゃってるわね。そうあるべき姿に過ぎないのよ。私たちは淡々と生まれ、淡々と生き、そしてそれぞれに与えられた場所で、そうあるべき時期に死んでいくわ。人も、あらゆる動物も、花や木もみんな同じ。特別なことではないのよ」
 そしてぽんぽんと、真の頬を軽く二度、優しく叩いた。

「イコンって分かる? あら、そうね、ジョルジョの専門分野でもあるから、知ってるわね」
 サーシャが無意識に呼んだのは、竹流の日本名ではなく、本名の方だった。
 いや、サーシャが竹流のことを「真の決して呼ぶことのない名前」で呼ぶのは自然なことだ。この人は彼を子どもの頃から知っているのだから。真の知らないジョルジョ・ヴォルテラという男を知っていて、彼の仕事のことも知っていて、真が聞いたことのない彼の多くの交友関係のことも知っている。
「専門分野……」
 サーシャは、あら? という顔をした。

「あなた、絵は分かる?」
「すみません、さっぱりです」
「あら、そうなのね。でもちっとも謝ることじゃないわよ。私だって、夫がイコン画家でなかったら、きっと何の興味もなかったでしょうから」
 そう言ってにっこりと笑顔を見せてくれる。
「イコンというのは、正教における宗教画ね。正教の教会の中に入ると、聖堂全体が絵で覆われている。それは単なる偶像だけど、神が宿る聖なる絵なのよ。イコンはこのように描く、というパターンがほとんど決まっていて、それから外れないように描かなければいけなくて、そうね、日本では仏像とか写経みたいなものかしら。これを描くことは聖職者の重要な仕事のひとつなのよ。勿論、本来、お金を得るために描くものでもないしね」

 サーシャは少し遠くを懐かしむような顔をした。
「あの人が描いたイコンも、形はやっぱり決まりごとにとどまっていて、でもとても美しい絵だったの。聖女はどこまでも澄んだ心を持っていて、聖人はどこまでも清く正しかった。本当の人間はなかなかそうはいかないけどね」
 サーシャは言葉を切って、真にウィンクで目配せをした。
「でも、あの人が生きている間は、どうしてそんな決まりごとに縛られた絵を描くのが楽しいのかしら、と思っていたわ。聖人の姿はありがたいけど、これは人間の本当じゃないわよって、よく噛みついたものだった。聖職者に向かって何を言うって感じでしょ。でも、あの人はそれには答えずに、微笑みながらただ描き続けてた。その背中や横顔がとても好きだったの」

 それからサーシャはまた少し遠いところを見たようだった。
「あの人を愛していて、あの人のことを知りたくて、あの人の全てが欲しくて駆け落ちまでさせたのに、あの人を一人で死なせてしまった。結局人は一人で死んでいくもので、どんなに愛しても愛しても、そんなものじゃ埋められないものがあるのね。抱き合っても、一緒のお墓に入っても、相手とひとつに溶け合えるわけでもないから」
 真はサーシャを見つめた。力強く逞しい彼女の中にも、りぃさと同じ、不安と孤独の片鱗があることを知って、その欠片を見つめていた。

 しかし、サーシャはりぃさとはまるで違う本質を持っていた。サーシャはすぐに真にあの明るい瞳を向けた。
 この人は、決して何も苦悩していないわけではない。ただ、それを力に変える魔法を知っている。
「それで、あなたがそんな病気になってまで救ってあげたかった人は?」
 真は首を横に振った。そして、サーシャの言葉に引き出されるように、たどたどしいながらも、気持ちは言葉になった。
 誰かに気持ちを言葉にして打ち明けるなどということを、真はほとんどしたことがなかった。だから今、語りながらも、この言葉を他人が理解してくれるのかと疑問に思っていた。

「救ってあげられるわけじゃなかった。一緒に死んでもいいと思ってたのに。彼女を分かってあげられるのは、一度死んでしまったことのある自分だけだと思っていた。でも、あなたの言うように、抱き合ってもどうしても、本当にはひとつになんかなれない。彼女が泣かないで笑っていられる世界は、この世の中になかった」
 サーシャは不思議そうな顔をした。
「あなたは自分が一度死んでしまったと思っているの?」

 この女性には、真の言葉がわかるのだ。真はほっとして先を続けていた。
「子どもの頃から、時々僕には他の人には見えない変なものが見えたし、それらと話すこともできた。そういうものが本当はこの世にいないものだとは分からなかった。ある時、自分が死ぬことがはっきりと分かったんです」
 そう言ってから、真は、さすがに頭のおかしい人間だと思われたかもしれないと考えた。しかしサーシャは、真の考えていた次元とは違うところで、真の言葉を正確に理解してくれたようで、まともに返事をしてくれた。
「でも、あなたは生きてここにいるわ。ちゃんと病気になれるくらい、生身の身体としてね」

 だから、誰にも打ち明けられなかった心は、自然に言葉になってしまったのかもしれない。
「死んでしまった僕をこの世に呼び戻したのは竹流です。それなのに彼の心も気持ちも、何もわからない。彼の何も知らない。彼の母親のことも、彼の子どもの頃のことも、どうして日本に来たのかも、本当の仕事が何なのか、あなたに何を頼まれてどんな仕事をしにいったのか、イコンのことも何も。それどころか、彼の本当の名前を呼ぶこともない」

 サーシャは堰を切ったように気持ちの中の何かを吐き出した真を、少しの間黙って見つめていた。やがて、彼女は噛み砕くようにゆっくりと、しかし強い響きのある声で真に尋ねた。
「あなたは彼のことを知りたいの? それとも、彼に傍にいて欲しいの?」
 真は、ぽーんと何かに弾かれたような気がした。

「私はね、今になって、あの人に傍にいて欲しいだけだったって気が付いたのよ。ちょっと遅かったけどね。だから、今はあの人が描いた絵を探しているの。私の夫が最後まで手元に置いていたスケッチブックが日本にあったのよ。それがどういうわけか他の重要な絵と一緒にソ連政府に引き取られることになって、ジョルジョはそれをかっぱらいに行ってくれたの。シベリア鉄道に乗っている間がチャンスだからって。一度あの国の倉庫に入っちゃうと、もう二度とお日様の下には出てこないから」

 サーシャは微笑んだ。
「ジョルジョはあなたには大人でいたいのよ。今はそうさせてあげなさいな。多分、あなたを思い通りにしてしまう欲望と戦ってるのね」
 そう言いながら、彼女は楽しそうに笑った。
「変な意味じゃないわよ。親ってのは、子どもが思い通りにならないと、大概、無茶苦茶腹が立つみたいだから。それに、前にも言ったでしょ。あの子のあんな顔を見たのは初めてよ。あなたに大事な仕事の話もしない、自分の得意分野の絵の話もしない、自分の生い立ちも話さない、あなたに自分の本名を呼ばせる事もない、でもあなたをローマに連れて行った、どこに住んでもいいはずなのに東京に留まっている、子どもなんか大嫌いだと思っている人間が、あなたを子どもだって呼んでる。それは、彼が他の誰に対してもしないことよ」

 サーシャは真が横になっているベッドの上に頬杖をつくようにして、真に微笑みかけた。
「その、あなたが一緒に死んであげたいって思った女の子のこと、あなたにはやっぱり何もしてあげられないでしょうけど、でもその子が泣かないでいられる世界があったらいいって、そう思っているあなたの気持ちは捨てては駄目よ。もしかしたら、いつか彼女にも現れるかもしれないでしょ、信じられる誰か、本当に傍にいて欲しい誰かが。残念ながら彼女にとってのそれはあなたじゃないんでしょうけど、でも、あなたには本当に傍にいて欲しい人がいるでしょ。あなたは、彼がどんな名前で、どんな仕事をしていて、どんな世界に生きていようとも、もしかして顔や声が変わってしまっても、彼が分かるでしょう?」

 真は答えずに、サーシャの力強い瞳を見つめ返していた。返事をしなかったのに、彼女は言った。
「私もよ。どんなに型に嵌った絵でも、私にはきっとあの人の絵が分かるわ」


 それはもしかすると、サーシャのかけた魔法のお蔭だったのかもしれないが、真の回復は意外にも早かった。一週間後にはあまりおいしくはない食事はできるようになっていて、斎藤も、保護者が帰ってきたら自宅療養の相談をしてもいいか、と言ってくれた。ロシア人の婦人、サーシャは私が面倒を見るわよと言ってくれたが、さすがに少しばかり元気になると、理性がうるさくなった。

 彼女の勧めるままに三上に電話をすると、三上は今ちょっと忙しいから、手が空いたらまた見舞いに行くよ、と言ってくれた。自分が病欠しているからだと思って、申し訳ないと思ったが、三上は、とにかく早く良くなれと言ってくれた。
 それでも、夜になると不安は襲い掛かってくる。それを察知していたのか、やっと飲めるようになった薬の中に斎藤は入眠剤を加えてくれていた。

 サーシャの存在は精神安定剤並みの効果を発揮はしていたが、普段から他人が傍にいると眠れない真の習性を変えるまでには至らなかった。りぃさと幾夜を共にしてもそこに泊まらなかったのは、その習性のせいだった。高校生の時から五年間も付き合っていた美沙子の場合も、それほどの時間を共にしても習性は変わらなかった。

 ただ一人、その人の傍にいるときだけは、自分でも有り得ないと思うくらい心地よくて全てを忘れた。
 サーシャがつまらないことを意に介さない人でよかったと思っていた。少しばかり冷静になってみれば、変に気を使われても困るだけの状況だった。斎藤が何を思って眠れるように薬を処方してくれていたのかはわからないが、有り難いことだと思った。






サーシャの台詞、「彼がどんな名前で、どんな仕事をしていて、どんな世界に生きていようとも、もしかして顔や声が変わってしまっても、彼が分かるでしょう」というのを書いた後で、『うる星やつら』の映画版『ラム・ザ・フォーエバー』を見て、赤い糸を手繰りながらラムちゃんが、恐竜の時代とかでもあたるに出会っているみたいな走馬灯シーンがあって、この言葉とあのシーンはぴったりだわ、と思いながらニコニコしていました。
『うる星』の映画版はどれも、私のバイブルです。

次回、久しぶりの竹流視点で出てきます。
竹流視点は、この物語でも時々登場してきましたが、短いものばかり。
今回も短いのですけれど、第4節では怒涛のように出てきます。
いずれ、お楽しみに(*^_^*)

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【雑記・小説】最愛オリキャラバトン 


東京出張から戻りました。何だか東京駅周辺はすっかり小奇麗な異質な町という感じで、高い建物が苦手な私は完全におのぼりさん。
さて、その間に仕上げるつもりだったけれど、あまりにも眠くて、少し遅れた【最愛オリキャラバトン】
例のごとく、バトンの王様・TOM-Fさん(Court Cafe BLOG)が発信源の興味深いバトンで、左紀さん(Debris circus)や夕さん(Scribo ergo sum)のところでも楽しめます。
やっぱりこれは参加するよね~と自分で自分に突込んでおりました(*^_^*)

では早速始めちゃいます。




1.あなたの中で最愛のオリキャラを教えて下さい。性別と年齢、身長などもどうぞ!(複数可)

「(複数可)」というのは心に響く言葉です。
一人と言われたら一人だけれど、どうしても切り離せない人がおりまして。

一人は相川真。もう一人は大和竹流(ジョルジョ・ヴォルテラ)。
どっちか選べと言われたら……ちょっと困る。裏表のように張り付いているので、剥がしたら痛いかも、という感じです。もしかしてホモじゃないかと思っている人もいるだろうし、それは「少し」当たっているけれど、全くの見当違いでもある。ちなみにこの話はBLではありません。
表現は拙いですけれど、西洋的叡智・キリスト教的思想の具現が大和竹流であれば、自然(じねん)・野生の具現が相川真。片一方では成立しないです。「野生」というのは「野性的」という意味ではありません。
というわけで……(*^_^*)

相川真:新宿にある調査事務所の所長。男性、年齢はその時の話によってまちまちですが、大方20歳代で登場。身長は170cmをやや切るかも。

大和竹流(ジョルジョ・ヴォルテラ):修復師。イタリアンレストランのオーナーでもある。ローマ教皇庁を支える組織の後継者。男性。こちらは真より9歳年上です。身長は180cm前後。

2.そのキャラの性格的な特徴などを教えて下さい

:恐ろしく繊細な反面、恐ろしく大胆。ものすごく優しいと思えば、どこか冷淡なものの考え方をする時もある(特に自分の命に対して)。他人に対しては優しいのですけれど、表に出にくいので誤解されやすい。放っておくとずっと一人でいるような人。他人に誤解されることを何とも思っていない。

竹流:良くも悪くも「完璧な為政者になるように育てられた男」です。自分の懐にいる者に何かあれば、自分の命を厭わず助けに行くような人(というよりも、そのように教育されている)。基本的には自分にも他者にも厳しい面がある。何をするにも中途半端が嫌い。

2人を比べると、孤独に強いのは真、一人でいられないのが竹流。逆に見られがちですが……

3.そのキャラの血液型を教えて下さい

:どこから見てもAB型。ちなみに蠍座。危ない人が多いという噂も……^^;
竹流:実はB型。O型と勘違いされやすいけれど。

4.そのキャラができた過程は?

え……これは、一番答えにくい質問です。気が付いたら、そこにいた。
私が小学生の時には既に「相川真の物語」は書き始められていました。始めは下手くそな描画でしたが。当時の最も古い設定から変わっていないことは、その時から既に妹がいました。
竹流は少し遅れて出てきましたが、それでも私が中学生の時にはそこにいました。
できた過程は全く覚えていません。

5.そのキャラの妄想段階と完成段階で大きく異なった点はありますか?

真に関しては、もともともっと「かっこいい探偵」だったような気がします。でも数年の内には「探偵小説の主人公」から「大河ドラマの主人公」に化けていた。
まだ妄想段階といえば妄想段階だけれど、頭の中では4代分の話が比較的詳細に完成しています。出発地点からの大きな違いは「まさか4代分、つながるとは思っていなかった(父親の代から見たら5代分。実は父親の話も書いた)」です。息子やひ孫の話はすでに書いているのですが、この2人の生涯の終わりのほう(つまり死)が書けなくて……

6.あなたにとってそのオリキャラが最愛である理由は?

う~ん。う~ん。……唸っても出てこない。
理想というわけでもないし、自分自身の分身とも言えないし。
でも、真に関しては、ソウルメイトなのかな。魂の連れ合いです。いるだけでいい。
竹流は……常に共に考えてくれる親友。

7.そのキャラで気をつけている点はありますか?(幅広く)

かっこよすぎる人にならないように書くこと。友人が十何年ぶりかで彼らの物語を読んでくれて、「(昔と違って)2人とも生々しい」と言ってくれた時、やった!と思った。
でも、時々、2人ともかっこいい時がある(*^_^*)(自己満足)

8.そのキャラの好きな食べ物、普段の趣味は何ですか?

:味にうるさい人ではありませんが、そもそも小学生までは北海道で育っているし、東京に出て来てから彼の胃袋を握っていたのは竹流と妹(竹流に料理の指南を受けている)。マコトに代弁させると「タケルのねこまんまが一番!」
趣味かどうかは分かりませんが、剣道(祖父ちゃんが先生)、太棹三味線(祖母ちゃんが民謡歌手)。皇居ランニングは週3回(?)。

竹流:邪魔くさいくらい料理については薀蓄が多い。でも仕方ありません。レストランのオーナーでもありますから。妻ともいえる女が祇園の芸妓で、彼女の母親代わりともいえる人から京料理の手ほどきを受け、とにかく美味い飯を作る人です。でも、人が作ったものは割と文句も言わずに食べている(真の味噌汁でさえ!)。趣味……ロッククライミングをします。あとは……仕事(修復師)が趣味と切り離せません。

9.そのキャラの持つコンプレックスはありますか?(または忌まわしい過去)

:異国人の血が4分の1、混じっていること。目の色は右が碧で左は黒(オッドアイ……多いなぁ^^;)。でもコンプレックスと思っているのかどうか……? 小学生の時から苛めにあっていて、中学生の時、反撃して相手に深手を負わせたこと。切れた時、自分が何をするか分からないというのが恐怖。父親が米国某国家組織のスナイパーで自分には「人殺し」の血が流れていると思っている。19の時、崖から落ちて死にかかったことがあり、記憶の一部が飛んでいる(逆行性健忘)。コンプレックスと忌まわしい過去には、枚挙に暇がない。

竹流:人生においては、全て肯定的に捉える人なので、ある時点まではコンプレックスも忌まわしい過去もなかったのでは。両親から捨てられたこと(一部誤解あり)も、ヴォルテラという大きな組織の後継者という重いものを背負っていることも、自分の力で何とかしようとしている。最大の「忌まわしい過去」は「真を失ったこと」になります。彼の人生の後半(既にノート10冊分書かれている…・タイトルは『Eroica』)はその絶望からの脱出の物語でもあります(キーパーソンは真の息子の慎一)。

10.そのキャラの特技と必殺技は何ですか?

:裸馬に乗れる。あやかし・もののけの類が見える。子どもの時の友だちはアイヌ人のおじいちゃんとコロボックルだけ。星の名前を無茶苦茶知っている(記号まで)。宇宙が舞台のドラマ・映画については結構薀蓄が語れる。必殺技……えーっと、ツンデレ?
竹流:料理で相手の胃袋を押さえること。実は、かなりの美声、ピアノも弾ける。特技じゃないけれど、凄腕の修復師です。必殺技は……甘え上手?

11.そのキャラの寝相は良さそうですか?

:丸まって寝る。……マコトのことじゃないよ^^;
竹流:良さそうです。

12.そのキャラの好きな異性、または同性のタイプは?

:異性については、自分の好みのタイプを意識していないと思うけれど、引っ張ってくれる元気印がお似合い(調査事務所の秘書の美和)。それなのに、寂しくて自虐的で孤独な女にほだされやすい。同性については、傍にあんな強烈な男がいるので、他のタイプは考えられないかも。頑固で口数の少ない、でも「腕に覚えあり」のお祖父ちゃんを尊敬しています。

竹流:年上の、一見気がきつい、内に何かを秘めた、根の優しい女が好み。理想の女を京都に囲っているので(結婚はできなかったけれど生涯愛し続けて大事にしていた)、理想のタイプと聞かれたらためらいなく「東海林珠恵」と答えそう。同性のタイプ? そんなのあるかしら。真はタイプというわけじゃないし。男女関係なく、腕に覚えのある老人(職人)は大好き。世界中に、そういう知り合いがいます。

13.そのキャラが持つ「恋愛」に対する理想はありますか?

:自分のことを、恋愛ができる人間とは思っていない。
竹流:えーっと。理想の女を囲っているので……でも「俺の目を見ろ、何にも言うな~」のタイプ。

14.そのキャラが結婚するとしたら何歳くらいになりそうですか?

:29で結婚しました。あれ、30だったかな?
竹流:40代半ばで結婚しました。相手は20歳ほど年下の女性です。家のためでしたが、最終的にはいい夫婦になりました。でも夫婦というより連れ合いという感じ。京都に囲っていた女性とのほうが、夫婦と言えたかもしれません。

15.そのキャラの萌えポイントはどこ?または何?

:え~っと? ツンデレ?(あ、サキさんと同じ答えだ(*^_^*))「私がいなくちゃ」と思わせるのが結構得意なのかもしれません。それから、時々、可愛いねこになる?(冗談です^^;)
竹流:え~っと? やっぱりかっこいいかなぁ? 修復の仕事をしている姿を見たら、たまらない気持ちになりそう。

16.もし現実にそのキャラが現れたらお願いしたいことは何?

2人はずっとそこにいる感じなので、今さらお願いすることはないけれど……北海道の牧場で、お酒をちょびちょび飲みながら、一緒に星空を見たいです。
あ、竹流は「理想の家庭教師」と思うので、私が10代だったら先生になって欲しかったかも。

17.出てきたオリキャラがあなたを見て思った第一印象は?

もう第一印象なんてないと思う……
そう言えば、昔から、わが友人たちとも友人みたいな人たちだった。私の友人Aは、竹流にザボンの歌を教えたことがあるくらいだし。

18.オリキャラがあなたに一言!

「もう慣れてるけど、もう少しお洒落をしたら?」と竹流に言われそう。
真は多分、何も言わないと思います。

19.オリキャラにこれだけはして欲しくないことは何?

何もありません。何をしても、何があっても、構わないです。私も彼らも変わらないと思うので。

20.オリキャラに一言!

「あまりに苦しくて、掛ける言葉がありません。」というサキさんの言葉をお借りしたいです。
それから、「いつもそこにいてくれて、ありがとう」かな。

21.最愛オリキャラを持つ人にバトンを回して下さい。

これはもう、自己判断ですよね。最愛キャラがいるよ、という人はぜひどうぞ。


ひとつ言えていること。
……語り尽くせない。まだ足りない、といつも思う。


2人をもっと知りたくなったら……読んでね。
→→【海に落ちる雨】始章

Category: ☆真シリーズ・つぶやき

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[雨103] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(4) 

【海に落ちる雨】第21章の(4)、「死にたくてたまらない(でも一人では寂しいので誰かを巻き込みたい)」という病に侵されている女性・りぃさに巻き込まれていく真でしたが、身体は悲鳴を上げていたようです。
18禁で読みたくないわと思っていた方も、ここからは回復過程なので、ご安心ください。
ちょっとイケナイ女に引っかかっていた真が、病気をきっかけに、色々な人の助けで立ち直っていきます。

まずは、ロシア人女性・自称冒険家のサーシャです。
彼女の物語を絡めながら、竹流と真の同居(同棲ではなく同居)までの経緯をお楽しみください。





 久しぶりに家に戻ると、幾日か前の山のような吸殻がそのまま灰皿に残っていた。
 葉子がいなくなって、この家は真にとって、何も入っていない箱のような空間になってしまった。真はダイニングのテーブルに置いてあったプラネタリウムの玩具のスイッチを入れた。

 それは、真が小学生の時、登校拒否で学校に行けなかったときに、功が作ってくれたものの一つだった。葉子が結婚して何日かしたときに、たまたま功の書斎で見つけた。配線のどこかの接触が悪くなっていたのを直すと、今でも十分に小さな星の群れを楽しむことができた。
 真は部屋の電気を消した。部屋中の壁と天井に無数の星々が映し出された。天の川が天井を横たわり、そこに何億光年もの大宇宙を描き出した。だが、この宇宙を共に見上げ、共に星を数えた『父』はもういなかった。この星々の下で、今真は一人きりだった。

 椅子を引いて腰掛けると、テーブルの上に投げ出された煙草の箱を取った。
 星など、北海道なら降るほどにあの天に広がっていた。天の川は何時でも真をその高みへ連れて行き、星々はいつも無数の物語を真に語った。真は一人ではなく、その宇宙とひとつだった。真の身体は空へ突き抜ける筒のようなもので、細胞のすべては遺伝子や原子のレベルまであの宇宙と共有していた。星は真の内側に流れ込み、内側からまた天上へ溢れ出し、世界を包みながら真をあの高みに導いた。
 あの土地を離れたのも、葉子を嫁に出したのも、全部自分が選んできたことだ。それなのに、この恐ろしい不安と孤独はどうすればいいのだろう。

 火をつけて煙草をひとつ吹かした途端、急に吐き気がこみ上げてきた。
 思わず洗面台まで走ったが、空えづきだけで、空っぽの胃からは何も出てこなかった。唾だけを吐いて、蛇口をひねったが、水を口に含むのは気分が悪くてできなかった。
 身体が熱いし咽も痛いし、多分風邪をひいたんだろうと思った。
 何とか居間まで戻ると、ソファに横になった。酷い胸痛と腹痛が襲い掛かり、脂汗が出てきたが、動くこともできなかった。

 意識は途切れ途切れになりながら、朝まで続いた。苦しくて何かをずっと呻いていた気がしたが、一人きりの空洞に響くようで、その声はどこへも届いているようではなかった。苦しいのは呼吸なのか、腹の内側が際限なく痛むからなのか、自分自身の身体とは思えないほど熱く苦しく、どこかが辛くなるたびにその部分を切り離してしまいたいと思っていた。プラネタリウム、消さないと、と思ったが身体が動かなかった。朝方だったのか、電話の音を聞いたように思ったが、夢の中との区別がつかなかった。

 生活は無茶苦茶で、食事もいい加減だった。酒は飲んで煙草も吸うのに、ろくな栄養もとっていなかった。そんな状態で何か月過ごしたのだろう。りぃさの勧めるままに妙な薬を飲んだり吸ったりもしていた。今更、後悔をするような話でもなかったが、一気に押し寄せなくても、と思った。
 いつの間にか朝になっていたのか、あたりはほんのりと明るく感じた。プラネタリウムの星は白い壁や天井から、彼方の天へ溶けて消えてしまっていた。光と地球の生き物が奏でている微かな音が苦しかった。あまりに辛い腹痛で、何とかトイレに行くと、身体から出てきたのは褐色に鮮血の混じったタールのような便だった。

 驚いたのと、急な眩暈とで身体が立たなかった。何とか下着を上げたが、スラックスのフックを止める力はなかった。トイレのドアを開けた途端に足元が回ったように思った。
「真」
 気持ち悪い、と思った瞬間に抱き上げてくれた相手の懐に吐いていた。
「おい、大丈夫か」
 誰かが真が吐いたものをその手に受け止めて、それから冷たくなった身体を抱き上げられたような気がした。耳は鼓膜ごと中途半端な反響を繰り返していて、その誰かが何かを話している気配は分かったが、何を言っているのかは分からなかった。
 次に明らかに意識できたのは、自分の手を握りしめたその強さだった。自分の身体を血の臭いと酸い臭いが取り囲んでいた。
「俺の手を握ってろ。意識を失くしたら承知しないぞ」


 それから救急車に乗ったことは何となく覚えていた。竹流が傍にいることもわかっていた。それでも、どこかから記憶は飛んでいた。
 目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
「傷が増えなくて良かったな」
「まだわからんよ」
 どちらも聞き覚えのある声だった。
「最低一か月は入院だな」
 それは困る、と言いかけて、竹流の怒ったような視線に、まともな意識がよみがえった。もう一人の見知っている年配の男は、溜息混じりに言った。

「大体、いい大人がヘモグロビン六台ってのはふざけてるぞ。ただでさえ無茶苦茶な脈は、いつにも増して酷いし、ちゃんと検診にもこないからだ。一日待って、まだ貧血が進むんなら、輸血して手術だ。わかったな」
 病人には優しく、という言葉は、今どうやらダブルで怒っている二人の保護者には通用しそうにはなかった。下血したことは何となく覚えていたが、その先のはっきりした記憶はなかった。竹流が傍にいてくれたことと、その自分の手を握りしめていた強い力だけは、何となく覚えていた。
「もう少し眠ってろ」

 その手が頭にそっと触れたとき、もう何も考えたくないし、考えられないと思った。
 不規則なモニターの音が、真の命のリズムだった。それを鼓膜に受け止めながら、真は目を閉じた。
 あの時、とんでもない痛みと下血と何かを吐き出した苦しさの中で、自分の身体が生きて悲鳴を上げているのを感じた。心が死へと向かうのを留めるように、これがお前の身体で、こんなふうに痛みを感じ苦しいのだから明らかにこの世に存在しているのだと、もう死んでしまっているなどという馬鹿げた考えは捨てるようにと言われている気がした。


 夢だったのかもしれないが、ずっと竹流が傍にいてくれたように思っていた。しかし、真が比較的まともな意識をもって状況を理解できたときには、彼はそこにいなかった。
「あら、目が覚めたわね。気分は?」
 威勢のいい訛った日本語に、真は遠いところから急に今のこの現場へ連れ戻された気がした。目の前にいたのは、竹流と同じ蒼い、しかし彼のものより幾分か濃い光をたたえた瞳を持った、異国人の女性だった。ヘーゼル色の髪は後ろで束ねて巻き上げられていて、彼女は少しばかり太り気味の身体をもてあます事も無く目一杯利用して、その力強い声を響かせている。

「もう幾日か絶食ですってよ。本当に、それで病気になるわね」
「あなたは」
 女性はにっこりと笑って、筋肉も脂肪も立派についた力強い腕で、真の頭を持ち上げると、氷枕を換えてくれた。五十に届くか届かないか、という年回りだろうが、北の海に突然に射した光のように、晴れやかで明るい雰囲気の女性だった。
「本当に、あの子ったら、私が頼んだ仕事の報酬はいらないから、自分が帰ってくるまで、子どもの面倒を見てくれないかって言ったのよ。病気になったから放っておけないし、そうでなければ一人で遊ばせておくんだけど、って。子どもっていうから、どんなおチビさんかと思ってたら」
「子ども?」
 自分のことか、と気が付いたのは随分間をおいてからだった。

「竹流の、知り合いですか」
「ええ、そうよ。まあ、でも、あの子が、子どもなんかを拾ったにしても間違えてどこかでできちゃったんだとしても、引き取って育ててるなんてびっくりしたけど、別に拾ってきたわけでもなさそうね」
 竹流の女にしては歳が行き過ぎている気もするが、あの男なら母親くらい年の離れた恋人がいてもおかしくはない。女と見れば誰にでも、相手がはっきりと誤解するくらい優しくするし、女性というものはそういう対象だと思っているふしがある。
「竹流は?」
「ソ連に行ったの。私が仕事を頼んだから。でも、おチビさんがこんな状態なのを放って行かせて悪かったわね」
 おチビさんって一体どういう呼び方やら、と思ったが、彼女はこの呼び方が気に入ったらしかった。

 彼が傍にいてくれると思っていたのが、ソ連などという、またもやわけの分からない所に行ってしまっていると聞いて、妙に寂しい気分に襲われた。その自分の感情に気が付いて、真は自分はどうしようもないなと思った。まるで親からはぐれまいとしているアヒルの子どものようだ。情けないのか馬鹿馬鹿しいのかわからなくなって、真は優しい手に背を向けて布団に潜り込んだ。

 斎藤医師が夕方病室にやってきて、貧血は昨日から進んでいるわけではないので、とりあえず保存的に様子を見るから、と説明した。低栄養とストレス、全てが悪いほうに働いているし、この貧血で期外収縮と心室頻拍はいつもよりも酷いし、ただし、いつものことだから薬を使わずに様子をみるから意識が遠のきそうになったり胸が苦しいというようなことがあれば言うように、それから熱があるのは軽い肺炎を起こしているからで、大体お前は脾臓も取ってるんだから免疫状態は悪いし、低栄養で免疫機能の落ち込みに手を貸すようなことをするな、等々、くどくどと説明した。
 一緒にやってきた年配の消化器内科の医師は、胃と十二指腸潰瘍の状況と見通しとをさらに詳しく話して、何を聞いたのか、仕事のことも女のことも全て暫く忘れるようにと言った。

「病気の説明を聞くと、余計具合悪くなりそうだわね」
 真は彼女の感想に、それもそうだ、と納得した。医師たちは困ったような呆れたような顔をしていた。彼女は真にそっと目配せをくれて、医者たちが去ると、鼻歌を歌いながらベッドのリクライニングの頭を上げてくれた。ポップな明るいアレンジで気が付かなかったが、聞いたことのあるロシア民謡だった。
「後で身体を拭いてあげるわね」
「いや、それは」
 言いよどんで、彼女の力強い明るい瞳を見ると、それ以上否定も拒否もできなくなった。
「何言ってんの。こんなおばあちゃん相手に恥ずかしいとか思ってるんじゃないでしょうね。若くって綺麗な看護婦さんにしてもらうほうが、余っ程恥ずかしいでしょうに。もちろん、その方が嬉しいって言うなら別だけど」
「はぁ」
 彼女の明るいウィンクと勢いに押されて、思わず相槌を打ってしまった。
「でも僕は、おチビさんと言われるほど、子どもではないですし」

 彼女は、ぽん、と勢いをつけて真の肩を叩いた。彼女の力強い手には、自分の痩せてしまった肩はどれほど頼りなく感じられるのだろうと思った。
「恥ずかしがってもらえるほどには私もまだ魅力的ってことね。ありがとう、おチビさん。でも、もうすぐ六十になろうって年だからね」
「え?」
 しっかりびっくりした。とても六十歳になるような人には思えなかった。
「竹流の、恋人じゃないんですか」
「え?」
 今度は彼女のほうが驚いて、すぐに大笑いを始めた。
 その笑いの勢いは、ここしばらくりぃさの哀しそうな曖昧な笑みしか見てこなかった真に、恐ろしく新鮮な気分を吹き込んだ。あの涼やかで綺麗な声の不安なほどの細さは、この女性には縁遠いもののようだった。

「その誤解は光栄ね。でも、さすがに私もあんな若い恋人を持つほど精力的でもないのよ。あの子の数多いる恋人たちに太刀打ちする気合もないしね。第一、あの子は私の子どもといってもおかしくない年よ。生憎私には子どもはいないけれど、ただ、あの子が自分の子どもだったら楽しかったでしょうし、きっと目一杯可愛がっていたわね」
「どっちかというと、女癖を窘めたほうがいいような」
 真の呟きに、彼女はまともに感心してくれた。
「それもそうね。でもあれは多分マザコンの裏返しよ」
「マザコン?」

 それは竹流に最も似合いそうにない言葉だったので、思わず鸚鵡返しに呟いた。婦人は真の傍に椅子を引っ張ってきて座った。
「母親の愛を知らないのよ。あの子の付き合っている女はことごとく、頭のいい、気の強い、でも本音の優しい女でしょ。しかも、ほとんど年上」
 言われてみれば、確かにそうだと思った。
「あの子の母親は、それは綺麗な人だったわよ。スエーデン貴族の出身で、私は彼女とロンドンの大学で知り合いだったの。いつも取り巻きの男性に囲まれていて、気高くて、気が強くて、どんな場所にいても女王様だったわ。でも卒業して、国に帰りたくなかったのね、ローマに行って、そこで駆け落ち同然に結婚したのよ。すぐに家出したそうだけど」
「竹流を、残して?」
「そうみたいね。あの子はあなたには何も?」
「一度ローマに連れて行かれたので、彼が叔父さんの家に引き取られてたってのは知っていますけど、それ以上はなにも。彼は、自分のことはあまり話さないし」

 自分が少しばかり拗ねたような顔に見えたのかもしれないと、真は思った。婦人は、真の寂しげな表情を見逃さなかったようだ。
「喧嘩でもしてるの?」
「喧嘩?」
 真は婦人のヘーゼルの瞳を見つめた。その瞳はゆったりと大きく真を包み込もうとでも言うように、真の碧のかかった瞳を見つめ返していた。

「あなたには異国の血が混じってるのね。ハーフ?」
「いいえ、クォーターです。多分」
「そうなの。私もクォーターなのよ。四分の三がロシア人、あとの一が日本人。でも、多分ってのは?」
「母のことは、よく知りません」
 婦人は飛び切りの、遠慮のない優しい瞳で真を見つめたままだった。
「お母さん、小さい頃に亡くなったの?」
「分かりません。誰も母のことは教えてくれないので。ドイツ人とのハーフだったみたいですけど、どうしたのか、今どうしているのかも」
「お父さんは?」
「父とも、ほとんど会うことはありません。ワシントンかロンドンか、あるいはモスクワにいることが多いみたいですけど、会いに行くこともありませんし、帰ってもきません」

「あなたを育ててくれたのは?」
「育てる?」
 その言葉の意味にいささか引っかかってしまったが、婦人は特別な意味を込めたわけでもなさそうだった。
「初めは祖父母が、それから、伯父が」
「それと、ジョルジョね」
 真は、彼女が勝手に納得したらしい断定的な声と内容に、驚いた。
「どうして?」
「だって、あの子はあなたのこと、子ども、子ども、って。あの子のああいう顔を見たのは初めてよ」

 真は恐らく、理解不能という顔で彼女を見つめていたのだろう。彼女はにっこりと笑った。
「上手く言えないけど、誰かのことを話すとき、あんな顔をしたことは今までなかったわね。どんな顔を言われたら、上手く言えないけれど。それに、あなたをローマに連れて行ったなんて、どういうつもりにしても、ものすごいことね」理解できないまま彼女を見つめると、彼女はにっこりと微笑んだ。「それは、あの叔父さんの独裁政権への宣戦布告でしょうに。日本にいるのは理由がある、ローマに帰る気はない、っていう」

 徐々に頭の中の理解の回路が回り始めていた。
「あの子の世界に、本当の意味で存在しているのは叔父さん一人だったのよ。どんなに沢山の恋人がいても、世界中にどれほどの友人がいても、彼にとっての意味はほとんどなかった。今まではね」真は、まだ彼女を見つめたままだった。「良かったわ。あの子が、一生、本心からは誰も愛さないのかと心配してたのよ」
 真は理解の回路をどう扱えばいいのか、よく分からなくなって首を横に振った。

「疲れるとまた具合悪くなるわね。少しお休みなさい」
 婦人はベッドのリクライニングをゆっくりと倒してくれた。そして、真の顔を覗き込むように話しかけた。
「あの子には世界中に恋人も、友人も、パトロンも大勢いる。それなのに、どうして日本の東京なんかに住んでるのって聞いたら、一番大事な人間がいるからだって、そう言ってたわね。冗談でも言ってるのかと思って聞き流していたけど、今日、その謎が解けたわ」

 真は婦人に言われて、目を閉じた。
 考えてみれば、さっき会ったばかりの婦人と、こんなにも会話を交わしている自分も不思議だった。それも、お天気の挨拶ではない。
 それから、婦人が何を言いたかったのか、考えようとしたが、またぼんやりと眠くなってきた。何も考えなくてもいいよというように、婦人の暖かい大きな手が、真の頭を撫でてくれた。そうされていると、昨日の夜、やはり同じように暖かい手が自分の髪に触れていたことを、思い出した。

 りぃさと一緒に死んでもいいと思っていた。彼女の手やあの赤い紐で首を絞められながら昇りつめる度に、身体からは魂も一緒に抜け出していくように思っていた。どうせ一度死んでしまった身体だと思っていた。
 それなのに、この胃の痛みと、ベッドに横たわっていると明らかに感じる脈の不整は、まるでお前は生きている、ということを示す警鐘のようだった。病気の痛みや苦しさが、自分が生きていることを教えてくれるなどとは、思ってもみなかった。
 そうなのだ。飛龍は、お前はまだここで死ぬわけにはいかないはずだと、お前が願ったロスタイムを了解したのはここで死なせるためではない、その身体の痛みをよく味わっておけと、とそう言っているのかもしれない。





りぃさのところから帰ってきた真が、功(脳外科医、育ての親で伯父)の作ってくれたプラネタリウムを灯すというエピソードは、お気に入りです。
気に入ったので、次作の『雪原の星月夜』ではこのプラネタリウムが小道具として幅をきかせています。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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NEWS 2014/1/20 クリスマスローズの庭 


クリスマスローズを今、植え替えています。
我が家の庭の主役は長年ずっとクリスマスローズだったのですが、既に10年以上の株となって、放置していたら、だんだん株が弱ってきました。特に今年は夏が暑すぎて、かなりやられちゃったのでした……(>_<)

数年前から種を取って苗を育てていたのです。下の写真は1年目。
これが大きくなってきたので、地植えに戻していっています。
このくらいの大きさで地植えにしたら、いつの間にか消えてしまうという残念なことを繰り返し、結局鉢植えで3年ほど大きく育ててから植えたらいいということに気が付きました。
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寒いので、なかなか仕事がはかどりませんが……((+_+))

さて、今年の3月、無事に昔のような花が咲き乱れてくれるかしら。
そうそう、クリスマスローズと言いますが、クリスマスには咲きません。4月がピークでしょうか。

ちなみに、昔の華やかなりしころの庭の一部。これは小さめの苗を植えてから3年目くらいの庭です。
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これがぐるりと庭周りを囲んでいます。
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うちのクリスマスローズは凝ったものはなく、こんな地味でシンプルなものばかり。
これでも原種ではないのですけれど、最近は八重とか、色も変わったものとか、変種が多く出てきています。
でもシンプルなものがいいですね。特にこの白は、薄闇の中でも浮き上がるように見えています。

花の色は色々あってそれが素敵。全ての花の名前が、そのまま色の名前にもなっているくらい、ひとうひとつすべて異なる色合いだけど、中でもこの乳白色とも言える、内側から湧き出すような白は、もっともお気に入りです。
早春のイメージは黄色なのだけれど……

また春に、素敵な報告ができたらいいなぁと思います。


そう、今日は……クラウディオ・アバド氏のご冥福をお祈り申し上げます。

Category: ガーデニング・花

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[雨102] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(3) 

【海に落ちる雨】第21章(回想の章)その(3)(18禁)です。
前回の続きで、心も体も堕ちていく真ですが……りぃさという女性の存在の意味を少し掘り下げる回になっています。
彼女の言っていることは、少しばかり胸に迫るものがあるのですが、でも真にとっては危険な誘い。
この時彼は、心中するくらいの気持ちだったと思いますが……さて。




 二度目に会ったのが、偶然だったのか、真のほうがりぃさを探したからか、彼女が真を捜したからなのか、経緯ははっきりしない。
 それは、りぃさと初めてベッドを共にしたわずかに二日後だった。覚えているのは、唐沢調査事務所のビルの前で、変わった仕事してるのねと言った、りぃさの涼しげで感情の薄い声だけだった。

 りぃさが誘ったのか、それとも自分がそうしたいと思ったのか、あるいは成り行きなのか、その日は彼女の部屋で求め合った。
 りぃさの部屋は、あまり綺麗とは言いがたい細い川の側、坂道の登り際に建つ古い一軒家だった。表札には向谷と出ていたが、かなり年季の入った板は、もう文字が消えかかっていた。真がそれを見ていると、りぃさが言った。
「その人が誰だか知らない」
 つまり、この家の持ち主が誰だか知らないという意味のようだった。

 その日は特に差し迫った仕事があるわけでもなかった。真が引き受けていた仕事に最適の時間は夜だったし、昼間は好きにしていていいぞと所長の唐沢に言われていた。
 遠くのほうで、電話の呼び出し音と、子どもたちの叫ぶような声が混乱して聞こえていた。
 引き戸を開けて狭い玄関に入ると、左手に下駄箱らしいものがあって、その側に二階への階段があった。玄関の右側は一階の廊下で、暗くてその先のことはよく見えなかった。

「一人なのか」
 りぃさは真を見つめたが、何とも答えなかった。知らないのか、興味がないのか、まるで自分までもそこに住んでいるわけではないと言いたそうに思える。その後は、真のほうからも二度と同じ質問をしなかった。後で思い出してみれば、恐らくそこは貸家で一階と二階を別々に貸しているようだったが、ついに一階の住人には会わなかった。

 しかも、りぃさは全く鍵を掛けている気配もなかった。
 表の玄関は共有だからだとしても、階段を上がった彼女の部屋に通じる押し戸にも、入ってくる他人を拒む何ものも存在しなかった。もっとも、泥棒も遠慮しそうな古い建物だ。
 半畳ほどのたたきにはパンプスや運動靴、男物の革靴、それに赤ん坊の布製の靴までが、浜辺にうち捨てられた難破船の残骸の隅に溜まった廃棄物のように折り重なり、それぞれの相方を見つけるのは難しいし、第一そのどれもが何年も誰の足とも縁がなかったように投げ出されていた。埃や土は遺跡に降り積もる年月のように重く、引き戸を閉めて息を吸い込むと、かすかに乾燥した菌類の臭いがした。

 改めてよく見ると、右手にある一階の奥へ続く廊下も、左手にある階段も、太った人なら体を斜めにしてやっと通れる幅しかない。りぃさは面白そうに、建設会社は別の惑星からやってきた小柄な宇宙人に頼まれてこのアパートを造ったのだと言った。一階の廊下の天井には魂を抜き取られた骸のように電燈の笠だけが丸く残っていて、時折、特殊な宇宙波を受けて気配なく揺れる。
 二階へ上がるというのに、いつの間にか地底に下りて、果てしなく地球の核に近付いていくような感覚だった。二階の空気は湿って重く、身体を締め付けた。

 ふと、どこかから複雑な香りがした。白檀の煙とむせ返るような花の匂いだった。何の花なのか、高級菓子と香水が混じったような重く甘い匂いが鼻からも口からも入り込んできて、気管も食道も満たした。息苦しいほどの強く芳しい香りだった。
 二階には部屋が二部屋あって、恐らくはりぃさが一人でどちらも使えるのだろうが、彼女は一方の部屋だけを利用しているようだった。廊下の左手は壁と窓だけで、低い板の天井に薄暗い電球が一つきり、灯っている。

 襖を開けると、六畳の畳の間で、低いマットだけを敷いたようなベッドが左に、頭を窓側に向けて置いてあった。正面には小さな低いテーブルに座布団がひとつ、右手には隣の部屋への襖があった。その半分をパイプのハンガー掛けが塞いでいる。服の数も女の子にしては少なかった。台所があるのかどうかさえ分からない。もっともあったところで、彼女が料理をするようには思えなかった。手洗いだけは廊下の突き当たりにあった。風呂はないようで、彼女は銭湯を利用しているらしかった。

 学生ではないようだし、働いているようでもなかったが、住んでいる環境はともかくとして、それほど金に困っているようには見えなかった。少なくとも、あの富山一族の曲がりなりにも親戚なのだから、どこからか手に入る金もあるのだろう。
 窓だけは大きめで、膝あたりから頭の少し上くらいの高さまであった。カーテンというよりも大きな布地を目隠しにしているようで、アジアのどこかの町で知り合いが買ってきた布だとりぃさは説明した。赤を基調とした薄い布地は、窓の向こうの光をステンドグラスのように赤く染めて、古い畳やベッドの上に複雑な物語を紡いでいた。

 そこはりぃさを包む繭だったのだろう。
 真が仕事に戻る時間を確認すると、りぃさは直ぐにストッキングを脱いで、そのまま躊躇いもなくパンティも脱ぎ捨てた。スカートは履いたまま、彼女はベッドの上に横になって足を開き、あの綺麗な声で真を呼んだ。
「ね、来て」
 りぃさが真を受け入れようとするその場所は、光で赤と黒の色彩をない交ぜにしていて、深い洞窟の奥に誘い込むように見える。真は簡単に自分が反応するのを感じた。  

 どこか遠くの方で、車輪が転がるような音が聞こえていた。彼女の顔の上にも、聖なる光を宿した赤い模様が揺れていた。
 りぃさと一緒にいても、食事をしたり、買物に行ったり、映画を見たり、つまり普通に恋人同士のようなデートをすることは一切なかった。ただ彼女の部屋に行って、ただ求め合うだけだった。時々、映りの悪いテレビをつけたまま抱き合っていると、彼女は呟くように言った。
「地球って、だんだん暖かくなっているんですって。そのうち、北極の氷とかも溶けちゃうのよね。人間が二酸化炭素を出しすぎてるの」
 ある時、重なり合ってもう今にも絶頂にいきそうになった瞬間に、りぃさが言った。

「南極ではペンギン達が話し合ってるかもね。人間って増えすぎてるよな、なんとかしなくちゃならないな、って。人間は少し減ったほうがいいわ。特に、いわゆる先進国っていう国の人間が。だって、生きていれば当然、車に乗っちゃうこともあるし、物も使っちゃうし、今更止められないものね。毎年、ちょっとずつ間引きするの。私とあなたが最初に間引されるんだわ。みんなが笑いながら見てる。だからその瞬間まで、私はこうやってあなたのものを銜えてるの」
 その言葉を聞きながらも、真は彼女の中で動きを止めなかった。上になっている彼女の中心に向かって何度も突き上げながら、頭の片隅でその通りだと思っていた。

 時にはりぃさが集めているという写真を見ながら畳の上で抱き合った。写真はいわゆるセックスを写したものか、地球環境や生物の出てくるもののどちらかだった。
「ガラパゴス諸島はもはや秘境ではなく、観光客を迎えるリゾート地になろうとしています。周囲から隔絶されていたために保存されてきた種は、持ち込まれる外来種によって遠からず絶滅の危機を迎えることでしょう」
 写真に添えられた説明文を、もうすっかり暗記しているのか、りぃさが天使のように朗らかな声で読み上げる。それを聞きながら、真はりぃさの腟を指で弄り、りぃさは真の性器を扱き、時には後ろの孔までほぐしてくれた。その奥をりぃさに弄られると、身体がぶるぶると震え、真は狂ったように何度も射精した。

「人類だって、いずれ絶滅種になるわ。だって地球の歴史の中で、ずっと種が存続した生命なんて、ごく稀でしょう」
 りいさが微笑みながら言う。そのうちお互いの頭と足が逆になるように向かい合い、互いの欲望を舌と唇で吸う。くしゅん、とりぃさがくしゃみをする。酔っ払うと彼女はくしゃみが止まらなくなった。地球アレルギーなのだと彼女は説明する。視界の中にぼんやりと浮かぶ写真の上では、進化の別の枝を、亀がのったりと歩いていた。

 セックスの写真は普通に男と女が絡み合うようなものではなかった。りぃさはそれを真に見るように強制などしなかった。ただ目の前に広げられるだけだったが、五感のどこかはちゃんとそれを意識に届けている。縛られ、踏まれ、吊り下げられながら蹂躙され、時には複数の男に後ろからも前からも攻められているようなものばかりだった。時々、頭の隅で、陵辱されて悶えるその女がりぃさだと認識していた。男同士が絡み合うものもあった。
「経験、ある?」
 たまに並んで見ていると、りぃさは聞いた。まともなセックスの写真はなかったので、そういう特殊なセックスをしたことがあるのか、という問いかけだったが、特別に興味があって聞いているようではなかった。彼女自身は何でもやったことがあるように見えた。

「男の人とも、経験あるの?」
 それだけは真正面から聞かれたので、真はただ頷いた。痛かったか、と聞かれたが、返事はしなかった。りぃさは重ねて、じゃあ気持ちよかったの、と聞いた。そもそもよく覚えていなかった。全く初めての時も、愛されていると思った時も、完全にぶっ飛んでいた。私は結構好き、とりぃさは言った。アナルセックスのことを言っているようだった。望まれるままに、何度か試した。

 写真の中の陵辱行為は少しずつ、現実になっていった。
 りぃさは、低いベッドの隅に手を伸ばして、長く赤い紐のようなものを手繰り寄せた。本当に赤かったのか、それとも光のせいで赤く見えているだけなのかは、よく覚えていない。真には彼女の少し上を向いた上唇だけが、より赤く見えていた。
 微笑んでいるのか、泣いているのか、あるいはそのどちらでもないのか、やはりよくわからなかった。彼女はゆっくりと真の首にその赤い紐を掛けて、今にも昇り詰めようとしていた真の首をゆっくりと締めてきた。

 そういう自殺ごっこのような、あるいはSMごっこのような遊びは、徐々にエスカレートした。
 りぃさはどこから手に入れてきたのか、真に『気持ちよくなる薬』を薦めて、自分も一緒に使った。彼女の説明では、法律に触れるぎりぎりだけどセーフ、ということだったが、本当のところはよく分からなかった。確かに、その薬を使うようになって、セックスの感じ方は明らかにたまらなく良くなり、かろうじて最後に残っていた羞恥を完全に剥がし去った。
 りぃさは下半身で真を締め付けながら、真の首をも絞めてくる。それが脳の中に麻薬を撒き散らしているのではないかと思うくらいの快感だった。酸素が不足して意識が途切れる一歩手前の状態が、脳の中に特別な物質を分泌して、快楽と繋がっているのかもしれない。

 時々、りぃさは真にマスターベーションをするように命令した。羞恥の欠片もなかった。真が昇り詰めそうになると、りぃさは自分の中をかき回して濃い粘液を絡みつかせた玩具を真の肛門に挿入した。玩具で昇り詰めることができる、というわけではなかった。りぃさがあの猫のような目で見つめていることでたまらなく興奮していた。多分、薬のせいもあったのだろうが、言い訳だったかもしれない。りぃさは長い時間真の反応を確かめた後で、彼女自身は真の勃ち上がったものを自分の中に迎え入れ、一緒に昇り詰めていくようだった。自分の後ろの粘膜が玩具を締め付ける異常な興奮が、そのままりぃさの中にいる自分自身を狂わせていた。

「入れるのと入れられるのと、どっちが気持ちいいの?」
 時々、挑戦するような目をしてりぃさは聞いた。考えたこともなかった。
「じゃあ、死ぬのと、どっちが気持ちいいの?」
 死ぬのとどっちが気持ちいいか、という問いかけは、真が絶頂に達しかけたとき、しばしば繰り返された。答えたことはないが、比べるようなものには思えなかった。

 仕事には行っていたが、どこまでが仕事の時間だったのか、どこからが彼女と過ごしている時間だったのか、少しずつ分からなくなった。家に戻るのは風呂を使う時と、着替えをするときだけだった。彼女のところに泊まってくるわけではなく、セックスと薬を楽しむと、そこから眠らないまま事務所に行くか、どこか町の中で居場所を探し出していた。
「大丈夫か?」
 ある時三上が、心配そうに声を掛けてきた。
「お前、ちゃんと飯食ってるのか? えらく痩せちまって、顔色も悪いぞ」
 ちょっと不眠症みたいで、と適当な事を言っておいた。三上や唐沢が自分のその状況に気が付いていないとは思わなかったが、彼らは敢えて干渉してくることはなかった。第一、そういう付き合い方が人の目に留まらないかどうか、真はそれを気にする余裕もなかった。

 ある日、真が出張から戻ってりぃさの部屋に行くと、彼女は全裸のままベッドに横たわって、恍惚とした表情で空を見つめていた。その彼女の身体に、波打った不思議な幾何学模様が赤くゆらゆらと揺れていた。
 それがどういう状況かは一目瞭然だった。りぃさの細い両足の間のシーツは、白く濃い液体でぐっしょりと濡れていた。真は一瞬何かにかっとなって、人形のように横たわるりぃさを揺り動かしてみようとしたが、思い直したようにベッドの傍の畳に座った。

 考えてみれば恋人になろうと約束したわけでもないのだ。誰か他に付き合っている男がいても、自分にどうという権利もないと思った。
 唐沢が一度だけ、ありゃあ娼婦だぞ、金持ちの連中相手のエロビデオにも出てる女だ、と言ったことがあったし、彼女の行為は慣れた女のものだった。写真の中の女性がやはりりぃさだとわかっても、驚くこともなかったはずだった。

 第一、自分のほうこそ卑怯でとんでもないと解っていた。
 りぃさの寂しさを愛おしく狂おしく思う半分で、真は自分のしていることが葉子や享志への、そして誰よりもあの男への当て付けではないかと思っていた。しかし、思っていても、それを自分の感情に確かめることはできなかった。
 出張で仙台にいる間中、ほとんど眠れていなかった。もっとも、これまでもよく眠れていたわけではなかったが、りぃさと離れていることはたまらなく不安だった。自分がいない間にりぃさが一人で死んでしまったりなどしないかと思うと、焦りのような感情が湧き起こった。自分がやりたいと思っていることを、誰かに先を越されてしまった時の焦りに似ていた。それが死へ向かう行為だという内容についての疑念は消え去っていた。焦りは眠りを遠ざけた。
三上が何度も、休んでいろと言ってくれたが、そんな気分にもなれなかった。

 真はゆっくりと立ち上がり、部屋を出ようとした。
「真? 帰っちゃうの?」
 りぃさの声は、異国の伝説に語られているように、舟を漕ぐ人を波の底へと誘い込む、聞いてはいけない甘い囁きだった。
「明日、また来るよ」
 振り返ってりぃさを見つめる前にそう言ってしまわなければならなかった。
「ここにいて」
 だが、りぃさの言葉を拒否できるわけはなかった。結局、真は彼女の悲しい瞳を見つめてしまった。

 彼女のベッドの中で、何か懐かしい匂いがしていたような気がした。その匂いは思わぬ錯覚を真の脳の中に引き起こした。側頭葉の記憶の引き出しの混乱なのか、不意に、髪から項に降りてきたりぃさの指が、冷たい銀色の金属の感触を持っているような気がした。りぃさが指輪をしていないことは分かっていたが、違和感を覚えなかった。
 その瞬間に、自分の心が、他の誰かの手や唇の感触を探していることを思い出したのに、手は何も掴むことはできなかった。真は大事な何かをすっかり諦めた。

「私を、愛してる?」
 身体を重ねても相手の心が解るわけでもなかった。本当にひとつになれるわけでもなかった。真はただ頷いて、りぃさをさらに強く抱いた。
「ちゃんと聞かせて」
「愛してる」
「もっと強くして。そのまま殺して。あの人がしてくれたみたいに」

 一瞬、何をりぃさが言ったのか解らなかった。解らなかったが、真の感情を混乱させて引っ掻き回したことだけは確かだった。真はりぃさの両膝を抱えるようにして、彼女の最も深いところまで何度も乱暴に突き、かき回した。りぃさがこんなに激しく声を上げて悶えたことは一度もなかった。
 ふいにりぃさの両の手が真の首に伸びてきて、細い指からは想像もできないほどの力で真の首を絞めてきた。真は、それに応えるように何度もさらに強く腰を打ちつけた。
 真がりぃさの中に自分自身を吐き出してしまっても、彼女は真を離そうとしなかった。それから真を自分の中に迎え入れたまま上になると、もう一度真のものが硬くなるのを待っているようだった。りぃさは腟を痙攣させるようにして真を締め付け、真はすぐにまた反応した。

 その途端に、りぃさは真の首に赤い紐を巻きつけてきた。そして、獲物を捕らえた後ではゆっくりといたぶるように、時間をかけて交差した紐を締めていった。下半身と首とを締め付けられて、真はゆっくりと意識をさらわれていった。
 ただ、そこには、何度彼女が彼を殺そうとしてくれても、あの岩棚から落ちたときのような懐かしい銀のイメージはなかった。そこはただ何もない、暗い闇だった。
 これは、そこに行ってはいけないという飛龍の合図なのだろう。りぃさの言うとおり、人間が生きて増殖していることが罪悪だとして、もしも間引きされる人間の候補が自分だとして、それでも、自分が本当にもう一度ちゃんと死んでしまえるチャンスがめぐってきたら、きっとあの馬は自分を迎えに来てくれると真は信じていた。

「ひりゅう」
 絞められた首で、笛のように言葉が引きつった。飛龍の名前を呼んだのか、ただの咽喉の唸りだったのか、真にもわからなかったが、その瞬間に首を締める力が緩んだ。
 途端に一気に必要以上の空気を吸い込んでしまい、むせこんだ。
 咳が治まると、真はりぃさを見つめたが、りぃさは感情のない表情で真をただ見おろしていた。あたりは静かで、遠くから子どもを叱りつけるような女の甲高い声と泣き叫ぶ子どもの声が聞こえている。
 咳き込んでいる真は、まだ生きようとしている、彼女とは別の次元にいる生き物のようにりぃさには思えただろう。

「りぃさ」呼びかけてから、初めてたまらなくこの女が愛おしいと思えた。「ごめん」
 まだ、りぃさは真より少しばかり遠いところを見ているようだった。
「ずっと一緒にいるよ」
 りぃさはやっと真に焦点を合わせた。
 それからずっと真は彼女を抱き締め、その髪を撫でていた。りぃさは眠ったのか、真の腕の中でことりとも動かなかった。

 愛しさの陰で、真は自分の言った言葉の中に、嘘を見出していた。
 どれほど愛おしいと思っても、半分は嘘だった。りぃさを抱き締めながら、真は何度も、心を病んだまま病院で死んでしまったあの女を思い出していた。
 りぃさの身体を抱きながら、ずっと意識の中では自分はあの女を犯していたのだと思った。そして真がりぃさの中に、穢らわしい欲望を吐き出してきた行為が、いつも病院の手洗いの個室や、帰ってから自分の部屋の布団の中でしていた行為と、何ら変わらないことだったのだと思った。その行為は、相手を愛おしいと思う行為ではなかった。ただ穢らわしい自分の中の血を吐き出すためだけの、排泄に近い行為だった。だからそこには相手はいなかったのだ。あの女もりぃさもそこには存在していないのと同じだった。

 そして、心ごと感じるまでに相手と向かい合い、愛し愛されたいと望み、身体も心も溶けるまでにひとつになろうとする欲望は、全く別の相手に向けられていたのだと、そういう行為はまったく別のものなのだと、嫌でも思い知らされような気がした。
 その夜真は、自分の感情がどこに向かっているのか、あまりにもはっきりと解ってしまったように思った。それが、りぃさの死への憧れとは全く違う次元で自分を生かしていることにも。

 それでも、あの夜、飛龍は真をこの世に残したのだ。
 北海道の牧場の暗い闇の中で、真を見つめていた飛龍の穏やかで哀しい濡れた漆黒の瞳。あの時真が選んだものを、飛龍は了解したのだろう。
 美しい声と命とを差し出して愛しい人を救った人魚姫の犠牲のように、お前にこれから起こる全ての悲しみと重荷に耐える勇気と覚悟があるのなら、いくらかの時間をお前に残してやろうと、あの瞳はそう語っていた。それはりぃさのために死を選ぶことを許容しているわけではなかったのだろう。

 誰かを愛するということは、その誰かの不在がたまらなく苦しいということと同義だった。りぃさをを愛おしく思っても、その不在を耐えられないということにはなっていないことを、真は叩きのめされるような気持ちの中で見出してしまった。
 それでも、そんな一方で、自分の卑怯な感情を許せない気もした。もしもりぃさが望めば、一緒に死んでやってもいいと、この今でも思っていた。何より、この女を救えないという事実を認めることが苦しかった。矛盾した感情は、混乱した真の中では、不安定な均衡を保ったまま両立していた。
 生きていたいと思ったわけではなかった。ただ、りぃさの存在で増殖してしまった真自身の不安は、行き場のない渦のようになって、どこかへ彼自身を飲み込んでつぶしてしまいそうになっていた。






さて、次回からは真がここから抜け出していく過程です。
この裏で進行していたことは、第4節の最後、竹流の独白までお預けになります。
今はただ、時間の流れの中で何が起こっていたのか、お楽しみいただければと思います。

りぃさ、という女性は、多分このお話の中でもちょっと特殊なキャラだと思います。
好き嫌いも分かれるだろうし……書いている私は、実は「無感情」です。
彼女には何の感情も湧いてこない、というべきなのか、警戒して何も思わないようにしながら書いているのか。
いずれにしても、透明というのか真っ白な気持ちで書いています。
ただ、真の心の中に「何か」を残してしまったのは確かのようですね。

崩れているマコトの心を、じゃなくて、真の心を取り戻すのは、もちろん、あの人の仕事です。
(気を許すと? 「マコト」に変換される……^^;)
あの人、「もう大人なんだから、過保護にしてちゃいけない」と突き放す方針にしていたのですけれど、あれだけ過保護にしておいて、今更突き放してもねぇ……
さて、この章には、主人公以外のキーパーソンが幾人か登場しますが、次回からは、素敵なロシア人女性・サーシャの登場です。一気に、明るい方へと物語は動きます。
……心には何かを残したままで……

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【雑記・小説】オリキャラ対談バトン 

『星たちの集うskyの星畑』のスカイさんからバトンが回ってきました。
題して、『オリキャラ対談バトン』 →→スカイさんのバトン
これも発信源は多分、『Court Cafe BLOG』のTOM-Fさんですね。→→TOM-Fさんのバトン

実はこのバトン、確か、夕さんのところで見かけたけれど、私には無理、と思っていたバトン^^;
でも直接ご指名いただいたので、奮起いたしました。

『オリキャラ対談バトン』ということで、自作の作品間でキャラが対談するというものですね。でも普通に対談したのでは、全ての作品を読んでいただいていない限り、面白くもないだろうなぁとか不安だったのですが、スカイさんのバトンを拝読して、なるほど、チームとしてなら面白いかも、と。
というわけで、私のところにはファンタジーは1作しかないのに、実は『もののけ』たちが沢山いることを思い出しました。

そこでチーム『ザ☆もののけ』によるオリキャラ対談バトン。開幕でございます。
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Category: 小説・バトン

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[雨101] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(2) 

【海に落ちる雨】第21章の(2)……久しぶりの18禁です。
大海の18禁は大したことがないのですけれど……18歳以下の方はご遠慮くださいませ。
妹(従妹)の結婚式で出会った女性、小松崎りぃさと「恋」におちる真。この恋はまがい物?
何だかムラカミハルキワールドに出てきそうな女性ですが、皆様の評価は……ちょっと気になります。
(この女性との関係は、実は第4節の竹流の「罪の告白」まで持ち越されます。)
さて、どんな女性か。ちょっと覗いてみてください。




 泣きたいのか、どうしたいのか分からないまま目を閉じると、きらびやかな結婚式場の明かりが眼瞼の中でも踊っていた。
 結婚式の全ては、まるで雲の上を踏んでいるような心持ちだった。
 後で、竹流だけではなく友人たち(と言っても真には自覚はなく、享志の友人だと思えた)からも、お前の結婚式じゃないんだから、とからかわれた。確かに、自分は葬式みたいに浮かない顔をしていたかもしれない。

 葉子のウェディングドレス姿は、兄の真から見ても眩しいほどに美しくて、彼女の友人一同にとっては結婚式第一号であったことも手伝って、さらに花婿の友人たちにとっては羨望の結果として、溜息の的になっていた。
 少なくとも、富山家の親戚にしてみても、花嫁の『素性』はともかく、若くて飛び切り愛らしい娘で、それだけのものを準備できる親戚か後ろ盾がいることだけはアピールしたようだった。

 室井涼子の名前はその頃雑誌で紹介されてもいたし、その新進気鋭のデザイナーのウェディングドレスを注文できるという人脈が、親戚中の自慢のお坊ちゃまに相応しいとはとても思えない身分の花嫁にあるということは確かだ。さらに、竹流が加賀友禅の有名作家に特別に作らせた披露宴の打掛の見事さは、式場の着付け係のベテラン女性を唸らせた。少なくともそのことは、富山家の親戚一同の満足の足しにはなったようだった。

 しかもこの日、竹流は何を思ったのか、本名のジョルジョ・ヴォルテラを名乗っていて、堂々としたヨーロッパ貴族のネームヴァリューと風格で回りを圧倒していた。その彼が花嫁の親戚のテーブルに座り、花嫁の祖父と親しげに会話している様は、その名前の意味を知っている富山の取引先会社のそうそうたる面々を、相当威圧していたようだった。
 もっとも、実際には竹流に「特別な名前」など必要がなかったかもしれない。きちんとスーツを着て立っているだけで、ただ者ではないことは誰の目にも明らかだったのだから。

 二次会に出席する気はさらさらなかったが、竹流につかまって、いかにもこの結婚に不満があるように人に思わせるな、と言われて、真は仕方なく会場に足を向けた。
 二次会は有名な作詞家の経営するレストランを貸切っていて、出席者は結婚式を上回るほどだったが、堅苦しい大人たちは一人もいなかったので、打ち解けて華やかなパーティだった。
 葉子は、やはり涼子がデザインした優しいムードの淡い桜色のドレスを着て、まるで映画から抜け出した姫君のようで、特に彼女に初めて会った享志の友人たちを目一杯羨ましがらせた。
 
 葉子がこういう場所で自分の役割をきちんと認識していて、周囲に気を使いながらも、十分にお姫様の役割を演じきっていることを、真はよくわかっていた。勿論、花嫁は今日の主役なのだから当たり前なのだが、若い娘にありがちな無知の横柄さも愛嬌で覆いながら、客を迎えるホストの立場をきちんと果たしている。
 葉子には、無邪気で愛らしい外観からは想像しがたい、どこかで冷めた計算をしているところがある。世の中から脱落してしまいそうな兄を助け、これ以上家族が失われてしまわないように闘ってきたのだ。それは多分、真の親友との結婚を決めた時も、この結婚式当日にも、変わっていない。

 ドレスに合わせた桜色の口紅は光に輝くようだ。真はただの一度もどうしてあの唇に触れなかったのだろうと、さすがに勿体なく思って、男としての単純な自分の感情に新鮮な気分にさえなった。
 ほんのたまに、葉子は伏目がちにちらりと真の方を窺っている。兄が帰ってしまわないか、本当のところ、彼女も心細いのだろう。
 小学生の時から、父を失い、家庭教師に助けられながら、時には祖父母の手も借りながらにしても、ほとんどずっと二人で生きてきたのだ。明日から別の場所で暮らすというを、今もまだ真も信じられないでいる。

 そのうち、高校の剣道部で一緒だった同級生が、真を見つけて声をかけてきた。
「ずっと可愛いとは思ってたけど、お前の妹、本当に嫁に行っちまうんだな」
 そう言って、真のグラスにビールを注いでくれた。
「お前、どうしてこんな隅っこに座ってんだ。まあ、昔っからこういう華やかな場所は苦手だったもんな」
 真は相手にもビールを注いでやった。同級生は興味津々という顔で身を乗り出してくる。
「大学、途中で辞めたんだって?」
「ああ」
「留学の話を断って、教授とやりあったんだって聞いたよ」
 そんな噂になってるのかと思った。
「しかも、えらく突拍子もない仕事してるそうじゃないか」
「そうでもないけど」

 突拍子もない仕事。
 そう言われて、享志の友人たちに限らず、ここに集まっている人間は全て、社会で真っ当に生きている人間たちだと気が付いた。
 中高時代は、真にしても登校拒否は別にして、あるいは東京に馴染めなかったことは別にして、決して社会からはみ出して生きていたわけではなかった。複雑な両親の事は別にしても、育ててくれていた伯父の職業は医者で、通っていた学校も上流の人間が通うようなところで、衣食住全般に困ったことなどない、そういう中で暮らしていた。
 だが、今は違っている。

 今、自分がもともと属していた真っ当な社会からは既にはみ出しているのだということに、突然思い至った。少なくとも、あのまま大学を続けて、研究生活を送り、もしかして高校時代からの同級生だった美沙子と結婚していたら、自分もその真っ当な社会の一員でいられたのだ。そして、その真っ当な社会との唯一の架け橋だった妹を送り出したら、後には何が残るのだろう。
 突拍子もない仕事と、まともではない心の奥の感情だけだ。

 真が何も話さなくなったので、声をかけた同級生は幾らか気まずそうな顔になっていた。そのうち、別の友人に声を掛けられると、ほっとしたように席を立った。
 そのとき、葉子がついに我慢ができないかのように、あるいは一人で飲んでいる兄を気遣ったのか、真のほうに寄ってこようとした。真は葉子のその気配を察して、目が合った瞬間に首を横に振った。
 葉子は直ぐに立ち止まる。そこへ、葉子の音大の友人が数人、彼女を取り囲み、写真を撮ろうというようにカメラを示していた。葉子は弾かれたように幸せいっぱいの笑顔を作って、享志を手招きしている。

 その今日の主役たちの笑顔を中心に置いた真の視界の隅に、不意に異質な気配が入り込んで来た。
 真は視線を動かし、自分と同じように一人で座って飲んでいる隣のテーブルの女性に気が付いた。
 つまらなそうに周囲を見ている彼女は、肩を露にした紫のドレスを着ていて、髪を何色かのマニキュアで染めていた。大人っぽい外観とは釣り合わない子どもっぽい手つきで爪を噛んでいて、その視線の先には今日の主役の二人の華やいだ姿があった。

 見つめているうちに彼女から目を離せなくなった。
 そのうち、彼女が真の無遠慮な視線に気が付いた。
 彼女は爪を噛むのをやめて、微笑んだような怒ったような、どちらともつかない曖昧な表情を真に向けた。目は猫のように光を跳ね返し、少し吊り上げ気味に描いた細い眉と綺麗なコントラストを作っている。細い鼻と、少し上を向いた上唇には、パールの混じる紫がかった色合いの口紅をつけていた。
 似合わない、と真は思った。

「あなた、花嫁のお兄さん? それとも、元彼?」
 それが彼女の第一声だった。印象に残ったのは、その一見派手な外観からは程遠い、澄んだ天女のような透明な声だった。
「そんなふうに花嫁と視線で会話すると、勘ぐっちゃうわ」
「あなたは?」
 彼女はくすくすと笑った。笑ったのかどうか、それは真の思い込みだったかもしれない。
「あなた、なんて」
 自分に似つかわしくないとでも言いたげに彼女は捨てるように言った。それからグラスに残った赤いワインを飲み干す。
「花婿の従姉。それとも元彼女だったりして」

 不思議な女だと真は思った。どう不思議なのか、ただバランスの悪さが、真自身の心に重なって気になったのかもしれない。
 気が付いた時、今日の主役である花婿が目の前に立っていた。
「りぃさ」
 花婿は彼女に呼びかけた。
「おめでとう、御曹司」
 りぃさと呼ばれた女性は、花婿の享志に他人行儀な声で挨拶をした。
「どうして結婚式に来なかったんだ」
「だって、あなたの母親の顔を見たくなかったんだもの」
「親父が心配してた」
「私が結婚式を引っ掻き回すことを?」
「馬鹿言うなって」

 りぃさはすっと立ち上がった。時々『猫のような仕草』という表現を見かけるが、まさに寸分違わず猫の動きだった。享志が慌てたような声でりぃさを呼び止める。
「何処行くんだ」
「ワインのお替り貰うだけよ」
 彼女の後姿を暫く享志は見送っていた。その横顔には、真が見たことのない表情が張り付いていたが、やがて花婿は気を取り直したように真の隣に座った。
「従姉?」
「うん、母方のね。あの通り、破天荒なところがあって、母とは折り合いが悪くて」
 享志は珍しく歯切れが悪く、それ以上は言わないまま、真にビールを注いだ。

「あっちでみんなと飲まないのか」
「勘弁してくれ。ここに来ただけでも、自分じゃ精一杯だ」
 享志も、それはそうだと思ったようだった。
「もうちょっとしたら帰るよ」
 真があっさりと言うと、享志は珍しく複雑な顔をした。
「葉子が寂しがるよ」
 夫婦になったから当たり前のことなのだが、享志が妹を呼び捨てにすることには、まだ納得がいっていない自分に気が付くと、真はたまらなく情けない気分になった。未練を感じるなど、ずうずうしいもいいところだ。

「ずっと一緒にいるわけにもいかない」
 真が時々、他人がびっくりするくらいストレートな言葉を口にするのは、婉曲とかいう表現が苦手なせいもあった。享志はそれを受け止めたのか、しばらく黙っていた。
 随分長い沈黙の後、享志が何か言おうとしたようで顔を上げたが、酔っ払った友人の集団が目の前に迫っていて、その言葉を飲み込んだようだった。
「なーに辛気臭く二人で座ってんだ。あっちで飲むぞ」
 そう言って集団は花婿を連れ去ってしまった。真は暫くそれを見送っていたが、煙草を一本だけ吸って、両のこめかみを指で押さえた。
 飲みすぎたかもしれないと思った。

 煙草を揉み消すと、真は立ち上がった。
 最後に葉子のピンクのドレス姿が目に留まったが、昨夜の彼女が自分を見つめた美しい瞳をまた思い出してしまって、視線を逸らせた。
 これは、自分が選択した結果だと知っていた。

 会場を出掛けに、手洗いの脇で煙草を吸っている女性と目が合った。
 りぃさ。
 不思議な響きの名前が耳の中に残っていた。女性というよりも女の子のように不安な気配を背負った彼女は、真の今の感情の何かに触れるようだった。
 りぃさは真と視線が合うと、体育館の裏で煙草を吸っているところを見つかった女子高生のように慌てて煙草を消した。
「帰るの? 元彼さん」
 真は否定もせずに頷いた。
「じゃあ、送って」
 りぃさは真の腕をとって、自分のほうから歩き始めた。

 明らかに多少酔っていたのだ。勿論、それは言い訳だったかもしれない。
 向かったのは彼女の家ではなく、会場から一番近いラブホテルの一室だった。
 部屋に入った途端、玄関口で狂うように彼女を求めた。
「靴、脱がなきゃ」
 りぃさの声はどこか無邪気な響きがあって、少女のような幼さが真の気持ちに火をつけた。肩紐を外すと、紫のドレスの下に彼女はブラジャーもつけていなかった。一気に感情がエスカレートした。背中のファスナーを引きちぎるように下ろして、ドレスを床に落とすと、ベッドにもつれるように倒れこむ。
「ね、先にシャワーしないの? 私、汗かいちゃったし、臭うかも」

 言っている言葉には猥褻な内容があったのに、彼女の声は鈴のように軽やかだった。真は彼女の抵抗など簡単に無視して、パンティの紐を外して彼女の茂みの中に手を突っ込み、濡れていることを確認すると、すぐに舌で這うようにかき回した。汗と尿の臭いが入り混じって篭っていた。
 自分の何もかもを、どこかに捨ててしまいたいような衝動だった。

 ちゃんと二次会に行って、その後で気が向いたらマンションに来い。
 そう言った竹流が、花嫁の着付けの手伝いも兼ねて招待されていた涼子と去っていった後姿が、自分の感情を狂わせていると知っていた。竹流が、その後涼子とどのような時間を過ごしているかという事は、まるでその現場でそれを見ているかのように明瞭な出来事として感じた。
 あの唇で涼子の身体を慈しみ、あの指で涼子の秘部に触れ、彼自身を涼子の中に埋めて優雅に優しく、時には激しく打ちつけ、時にはあの親しげで身体の芯まで震えさせるような声で、涼子の耳元に愛を囁いているのだ。
 マンションに行って、涼子と抱き合った後の彼の姿を見る勇気はなかった。今は、狂ってしまいそうだと思った。

 普段身に付けることのない真っ白のネクタイも、焦っていて結び目が解きにくくて苛ついた。葉子のためを思って自分はこの結婚に賛同していたと理性では分かっていたはずなのに、このネクタイの色の意味合いを感じて、更にたまらない気分になった。
 りぃさは少し笑ったように見えた。細い指を真の手に重ね、優しくネクタイを解き、それから真のシャツのボタンをゆっくりと外していった。

 露わになった真の身体を見て、りぃさは少なからず驚いたようだった。
「怪我したの?」
「崖から落ちて死に掛かった時の手術の痕。頭にもある」
 りぃさは少しの間、真の顔を見つめていた。怪我したの、と聞いたときとは既に違う、不思議な意味合いをもった顔つきだった。
 りぃさの指は愛おしそうに真の傷をなぞっている。それから、りぃさは真の上になって、傷をひとつひとつ舌で確かめるように舐めていった。どこか羨ましそうな、恍惚とした表情にも見えた。そしてそのままスーツのズボンのファスナーを下げると、熱く硬くなっている真のものを、あの涼やかな声を出す唇で包み込むように咥えた。

 慣れた舌の使い方だとその時は思ったが、一瞬のことだった。
 あっという間に我慢ができなくなって、りぃさを組み敷いてその中へ分け入った。彼女の方も同じだったのか、その中は熱く溢れるように湿っていて、包み込まれる気配に自分が何をしているかの判別もつかなくなった。
「ピル飲んでるし、中に出していいよ」
 もっとも、そんなことを考えている余裕はなかった。まるで初めての経験の時のように、何度か腰を動かしただけで真は簡単に昇り詰めてしまった。
 そもそも慈しむ必要はなかったのだ。ただ体と心の内に溜め込んでいた欲情を処理してしまえばよかったのだから、相手の反応を確認さえしなかった。

 真が仰向けになったまま天井を見つめているうちに、りぃさはするりとベッドを抜け出してバスルームの方に行った。しなやかで軽く、まるで人間の気配を感じさせない動きに、真は一瞬彼女の存在を忘れてしまうほどだった。りぃさは暫くすると戻ってきて、真の上に身体を重ねた。
「ね、一緒にお風呂、入ろ」
 真は少しの間、りぃさを見つめていた。結婚式に参加するにはやや薄すぎるような化粧だったが、目は大きく猫のように潤んで、見るものを惹き入れてしまうようだった。この部屋に入ってから、初めて彼女の顔をしっかりと見たような気がした。

 こうなってもまだ自分の感情がよく分からないままだった。
 真はりぃさの頬に手をやって引き寄せ、それから随分と長い間口付けを交し合った。身体はもう一度反応していた。手で彼女の中心を弄ると溢れるように湿っていて、さっき自分が彼女の中に出したものも一緒になって混沌とした感情をかき回すようで、その中に指を入れていくと濃くねっとりとした粘液が絡みついた。彼女のほうもまた自分を求めていると思った。
 りぃさは上になったまま、上手く彼女の中に真を導いた。ピルを飲んでいるということは、それなりに経験も多いのだろうと、真は漸く冷静になってきた頭の中で考えていた。りぃさの腰を強く自分の方に引き寄せ、自分も強く彼女の方へ突き上げた。

 喘ぐような声は一切出すことなく、りぃさは身体を仰け反らせていた。真は彼女の腰を強く抱いたまま上半身を起こし、今度は座ったままの姿勢で彼女を求め続けた。りぃさは深く腰を落とし、真が突き上げる度に踊り狂った。
 自分自身があまりにも猛々しく興奮しているので、このままか細いこの女を殺してしまうのではないかと思ったが、止める気はまるでなかった。目の前にある彼女の両の乳房は硬く、幼くさえ感じる。それでも、真が唇でその突起を捕まえると、つんと突き立った。たまらなくなってその乳首にむしゃぶりつき、壊すほどの強さで豊かとは言い難い乳房を揉み、りぃさの背中をベッドに押し付けると何度も腰を強く打ちつけた。
 最後は後ろから彼女の腰を抱き、身体の芯から痙攣するように彼女の中にもう一度自分自身を吐き出すと、真は誘われるままに一緒にバスルームへ行った。

 湯船に向かい合って浸かると、りぃさは真の顔をうるんだ瞳で見つめた。
「どうして崖から落ちたの?」
 りぃさは、抱き合ったことよりも、まるで真が崖から落ちたことのほうに興味があるようだった。
「覚えてないんだ。馬に乗って走ってたことしか」
「死にかかるって、どんな感じ?」
「さぁ」

 初めて会ったばかりの女性と交わす会話の内容には思えなかった。しかも、真の周りの人間はこの話題を避けていて、誰かとあの事故の話をすることなどなかった。
 誰よりも、竹流はこの話題を決して口にしなかった。それが辛い思いを引き起こすからだろうと、真は単純に考えていた。
「三途の川とか、お花畑とか?」
 真は少しの間、りぃさを見つめていた。随分子どもっぽい発想だと思えた。
 真面目に答える必要はないはずなのに、何故か嘘はつけないような気がした。
「銀、かな」
「銀?」
 りぃさは身を乗り出すようにして聞き返してきた。抱き合ったことよりも、遥かに自分の身に関係のあることだとでも言うようだった。

「海か、宇宙か、すごく懐かしいイメージ。風景とかではなくて、イメージに包まれている。気分が良くて、苦しいことから全て解放されていた」
 それは嘘ではなかった。ぽっかりと宇宙空間のようなところに浮かんでいて、寒くもなく苦痛でもなく、穏やかで安心だった。これでよかったと、心も身体も感じていたはずだった。りぃさはそれを感じたのか、不思議そうに問いかけてきた。
「じゃあ、どうしてこの世なんかに戻ってきたの?」
 確かに、あのままあの世界を漂っていたなら、こんふうに胸を締め付ける苦悶を味わうことはなかったはずだ。それなのにどうして戻って来たのか。答えは単純だった。
「呼ばれたから、かな」
「誰に?」

 だが、それには真は返事をしなかった。
「元彼女?」
「そうじゃない」
 自分でも意外なほど早く、強く返事をしていた。りぃさは不思議そうな顔で暫く真を見つめていた。そして、表情を変えないまま、鈴のように軽やかな声で続けた。
「呼んでくれる人がいていいわね。それとも、そんなものは無いほうが幸せだったと思うことはない?」
 確かに、あの時竹流の声を聞かなければ、懐かしいその銀のイメージに抱かれたまま、この世には帰って来なかっただろう。
 あの時、飛龍が迎えに来てくれていたのだ。あのイメージは暖かくて平和で、もしもあの時あそこに行ってしまっていたら、おそらく、真はこんなふうに己の腹のうちにある分類不能の感情に身を焼かれることもなく、今頃すっかり穏やかな世界に包まれていたはずだった。

 やはり、自分はあの時に死んでしまっているのかもしれない。それなのに、彼の悲しい瞳を見てしまって、この世に帰って来ざるを得なくなった。そして誰にも、誰よりも竹流自身に、もうこの世のものではない自分の本当の姿を説明できないでいる。
 りぃさは、真が本当は死んでしまっていることを知っている、この世の唯一の証人のように思えた。





さぁ、イケナイ女に捕まってしまいました。
これからちょっと、真は堕ちていきます……

少し余談ですが。
実はこの頃、竹流は一歩引いた形で真を見守っていたのですね。
高校生の時猫可愛がりしすぎて(そう、まるでマコトみたいに?)、大学受験前に道を踏み外してしまいました。
その頃、竹流には祇園に「生涯この人を不幸にしない」と誓った芸妓・珠恵がいて、気持ちを確かめ合ったばかり。
なのに、真を大事に(ちょっと違うかな)思う気持ちが暴走していたりもして。
でも、イタリア旅行中にはっと我に返って、しばらく(年単位で)放置していたら、マコトが、じゃない! 真が(どうしても「マコト」に変換される^^; マコトウィルス)ある日、北海道で崖から落ちるという事故が。
(実は自殺未遂という噂もあるけれど、それこそ「この事故の話はタブー」ムードがある。)
生死の境から戻ってきた真に、竹流はまた関係を作り直し、微妙な距離を保ちながら、つかず離れず、でも離れすぎないように、いつも見守れる距離で、ただし引っ付きすぎたらまた精神的にのめり込んで泥沼になるも不味いので、ある程度距離は保って……
という時期に、ついに葉子が結婚。物語と関係性が次の段階に行かざるを得なくなります。
そう、これは実は「葉子の策略」という声もある……私がいたら、いつまでもこの二人、収拾がつかないわ??
ある意味、最も素っ頓狂な女とも言える、不思議ちゃんの妹です。

さて、このお話、もしかして壮大なお伽噺かもしれないと思っているのです。
そう、最後の部分にあるように、「真はあの事故の時、本当はもう死んでしまっているのかもしれない」……
それを竹流があの世にまで行って奪い返してきた、という説が。

オルフェウスの物語か、イサナギ・イザナミの神話か。
もしかしたら腐って不細工かも知れない^^;
あれ、でもちゃんと生きているから、いいことにしようっと。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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[雨100] 第21章 わかって下さい(少し長い同居の経緯)(1) 

1周年を迎えたブログの再スタートは、やはりこれ。
【海に落ちる雨】もついに100話目になりました。
記念すべき第100話目に、第21章『わかって下さい』を始めることになりました。
行方不明の同居人・もと家庭教師の大和竹流を探している真。二人の間の微妙な関係を紐解く回想章第3弾。
まずは、妹(従妹)・葉子の結婚から、真がトンデモ女のりぃさと恋に堕ちる過程を3回に分けてお送りいたします。
途中、一部18禁がありますが(次回~)、さらりと流してください。

本編を読まれない方でも、ほぼ問題なく読んでいただけると思います。
よろしければお付き合いくださいませ。
1970年代の懐かしい名曲がバックに流れたら、昭和後期のあの不思議なムードが蘇るかもしれません。

なお、登場人物紹介はこちらです。
→→【真シリーズ・登場人物紹介】を読む




 今でも真は時々、三上司朗が唐沢調査事務所の窓から吹き飛ばされた光景を夢に見ることがある。
 その時の事は、今になっても誰に責任を求めるべきか分からない。事務所を吹き飛ばした唐沢の責任はあるにしても、自分もまた、三上の不自由に対して責任があるような気がしている。
 もちろん、一言でもそんなことを言えば、三上は怒るだろう。自惚れるな、と言われそうだ。
 だが、真はどうしても唐沢を憎み切れなかった。当の三上司朗が誰よりも唐沢を庇っていたということもあったが、唐沢に関してだけは、今でも複雑な感情の整理がつかない。

 あの時真は、事務所のあるビルから表通りに出たところだった。その時、二階の事務所の窓から三上が呼びかけてきたので、振り返ったのだ。三上は何かの書類の束を振りかざすようにして、口を開きかけた途端だった。
 その一瞬、爆発音が先だったのか、後方を振り返った三上がその窓から吹き飛ばされた場面を目撃したのが先だったのか、あるいは何かの閃光のようなものが視界を翳めたのが先だったのか、後から思い出しても、ただ記憶が混乱しているばかりだった。
 夢を見ているのではないかと思った。
 次の瞬間には、六本木の路地の一角は、煙と騒然とした気配に包まれた。救急車、と誰かが叫んだ声と、周囲から交錯して襲いかかってくるクラクションの音、意味をなさない複数の悲鳴が、映画の場面のように畳み掛けた。



 富山享志が妹の葉子にプロポーズしたと聞いたとき、来るべきときが来たな、と思ったのが正直なところだった。
 既に気持ちはすっかり冷静になっていたはずだったが、葉子が嫁ぐ前の日、本当はお兄ちゃんのお嫁さんになりたかった、と言ったときだけは、男としてどうともやるせない気分になった。一番幸せになって欲しい人を、しかも決して自分にも権利がなかったわけではないのに、自分の手で幸せにできないという腑甲斐無さは、その場面になってみると、思った以上に辛いものだったのだ。

 真は情けないと思う自分自身を振り切るように立ち上がった。玄関を出てポーチに座り、煙草に火をつける。星が見えたら、と思って空を見上げたが、曇っているのか、あるいは都会の空気のせいか、何も見えなかった。
 明日は晴れるといいのに、と思った。葉子の二十三歳の誕生日で、結婚式だった。

 ひとつ吹かした時、車のドアが開く音と、続いて閉まる音がして、人影が門の向こうに浮かび上がった。真はその気配をただ眺めていた。人影は門の向こうから手を伸ばし、鉄製の門扉を開ける。
 挨拶もないまま、その男は真の横に座った。
「何だよ」
「いや、お前が泣いてないかと思って心配になっただけだ」
 真は答えなかった。
「俺にも一本寄越せ」

 真は黙って煙草を差し出した。竹流が一本抜いて咥えると、真は無言のままライターの灯をともした。竹流は煙草を咥えたまま、真のつけたライターの火に顔を寄せる。
 その瞬間に、驚くほど近くに感じた相手の存在に、真は一瞬感情を突き動かされそうになった。
 竹流はひとつ煙草を吹かして、明日は天気だといいのにな、と言った。

「いつからそこに居たんだ?」
「そろそろ寝込みを襲いに入ろうかと思ってたところだった」
 それから暫くはどちらも黙ったままだった。煙草を一本ずつ吸いきると、間が持たないような気がして、真はちょっと相手に何か言いかけたが、やめた。その気配を察したのか、竹流が神妙な声で言った。
「花嫁が目が真っ赤ってのは微笑ましいが、花嫁の兄貴が目が真っ赤ってのは洒落にならんぞ。何なら一緒に寝て子守唄でも唄ってやろうか」

 声のトーンの真剣さと内容が釣り合わない。全くそんな気はないくせに、と真は思った。もう六年前になるのか、ローマから戻って以来、一度も素面で抱き締めてくれたこともキスをしてくれた事もなく、酔っ払っているときにでもどこかで一線を引いている竹流が、冗談でもそういう言葉を投げかけてくるのは多少癪に障った。
「じゃあ、そうしてくれよ」
 落ち着かない気分になったのと、何となく腹が立ったので、そう言ってみた。竹流は思わぬ反応に少し怯んだように見えた。

「本当に、これでいいのか?」
「何が?」
「今夜のうちに花嫁をかっさらわなくていいのか。今ならまだ間に合うぞ」
 真は、自分は何を苛立っているのだろうと思った。明日の朝起きられなかったら困るし、結婚式で酔いが残っているとまずいだろうと思って、夕食の時にアルコールを一滴も飲まなかったが、やはりビールの一杯くらい引っ掛けておくんだった。
 何処にもこの中途半端な感情をぶつける先がないので、仕方なく煙草をもう一本引き抜いて咥えた。
「まあ、もう十分、今更か」

 竹流はそう言って、真が咥えた煙草を取ってしまった。真が、何をするんだと言いかけたとき、唇に一瞬軽く相手の息遣いが感じられた。真は突然の事に反応もできず、呆然と竹流を見つめていた。
「子守唄は割愛する」
「何のまねだ」
「眠れるおまじない。本当に寝ないと花嫁のエスコートができないぞ。掻っ攫う気がないなら、少なくとも義務はきちんと果たすべきだ」
 言われてみれば、確かにそれは正論だと思った。真は暫く黙ったままで、竹流も何も言わずに座っていた。

 風の音だけが頭の上で舞っている。そうしているうちに少しだけ落ち着いてきた。
 もうここまで来たのだ。今更何をどうしようというのか。いつまでも、妹に面倒を見てもらっているわけにはいかないのだから。
「車に乗るか」
「何で」
「子どもは車に乗ってると寝るからな。少しドライブに行こう。鍵掛けてこい」
 いつものように真が反論する間もなく、竹流は車に戻った。真はしばらく座り込んだままだったが、結局立ち上がり、家の中に戻った。

 座敷の襖を開けると、葉子は横になったままだった。眠っているのかどうか、確かめるのは怖いような気がした。しばらく寝息を数えてから、縁側の雨戸が閉まっていることを確かめて、真は座敷を出た。居間のテーブルの上から鍵の束を取ると、それでも暫く躊躇っていたが、ひとつ息をつく。その時始めて自分が寝巻きだったことに気が付いて、ジーンズとシャツに着替えると、玄関を出て鍵を閉めた。
 真が門を出ると、竹流はテスタロッサのエンジンをスタートさせた。特別仕様のこの車は、エンジンのスタートは淋しいくらいに静かだった。

 高速に乗っている間中、二人とも口をきかなかった。真夜中にも関わらず、相当の車が走っている。前の車のテールランプの散らばりを見つめていると、現実なのか、いつか映画で見たシーンなのか、よく判らなくなってきた。
 深夜ラジオの時間帯で、一昨年レコード大賞を取った『津軽海峡冬景色』が流れていた。春なのに、どういう選曲だろうと思ったが、誰かこういう気持ちの人がリクエストしたのかもしれない。こんな時間にラジオを聴いているのだから、トラックの運転手とか、深夜に仕事をしている人たちだろう。演歌にはどうしても冬が似合う。

 この一週間、仕事も忙しかったし、気持ちもこんな状態であまり眠れていないのは事実だった。竹流がそれを知っていたのかどうか、車に乗っていたら眠れる、というのは本当かもしれない。
『津軽海峡冬景色』が『襟裳岬』に替わったときには、真は半分うとうとしていた。襟裳の春は、真の無意識の心を、北海道の牧場にまで運んでいった。

 北海道の冬。決して何もない冬でも春でもない。
 冬にはどこまでも真っ白な大地、遥かな白い地平線まで続くウサギやキタキツネ、エゾシカの足跡。その後ろに続く真自身の足跡は儚く消え行くように見えた。馬たちの嘶きが冷えた空気の中に震え、吐き出す息の白が雪の白に重なっていく。そこには呼吸をしているもの達が持つ生命の温もりがあった。
 春には少し穏やかになった海を越えてくる風、牧場の上を渡っていく雪解けの音、冬眠から覚めた動物たちの足跡、そして一度に咲き始める花たち。

 それなのに時々、自分の手には温度が無いような気がする。
 あの秋の日。牧場の先の丘まで、昴に乗って走っていた。何かに導かれるように走っていたところまでは意識はあったのに、どこからか記憶が無い。
 気が付いた時、病院のベッドの上で、今隣にいる男の哀しい瞳が真を見つめていた。
 あの目を見た時、この世に帰らなければ、と思った。

 今でも時々不安になる。もしかして目を覚ましたのは夢で、やはり自分はあの時死んでしまっていたのではないか。その証拠に、時々自分の身体が冷え切って温度がなくなってしまっているような気がする。それに、以前から必要以上に敏感で、いるはずのないものが見えたりしていたが、あの事故以来、余計にひどくなったような気がする。
 葉子の結婚は真自身が望んでいたことだった。それは、本当ならばあの時死んでしまっていて、もしかして今の自分は仮の命を生きているだけかもしれない、そういう自分の命の不確実さを思うと、誰か確実な人間に葉子を預けてしまえるからだった。

 ふと目を覚ましたときの感情は、まるであの日、帯広の病院のベッドの上で目を覚ました時の再現のようだった。
 この男のためだけにこの世に帰ってきたと思っていた。抱き締めてくれる身体の温もりは、既に体温が失われてしまっている真とは違って、確かにこの世に生きているものだった。
 ずっと心は変わっていなかった。アッシジでこの男に伝えた時のまま、何も変わっていなかった。

 竹流が耳元で何かを囁いたように思ったが、聞き取れなかった。その言葉の語尾から思うと、日本語ではなかったのかもしれない。
 誰よりも愛しているとどこかで確信し始めていた。
 それが、恋人への思いなのか、家族への思いなのか、それ自体はよく分からなかった。けれども、離れていることをこれほど不安に思わせる相手は他にいなかった。この男がこの世からもしも居なくなったら、あるいは永久に会えないほど遠くに行ってしまったら、自分はどうなるのだろうと不安でたまらなかった。初めて東京に出てきたときと同じように、人間の言葉も、生きていくために知っておかねばならないこの世界の仕組みも、何もかも分からなくなってしまうのではないかと、心細かった。真に生きるための全てを教え諭してくれたのは、この男だったからだ。

 あの頃、竹流が彼自身に科している重荷を理解するほどには、真は成熟した精神を持っていなかった。ただ、自分の感情だけで精一杯だった。
「起きたか?」
 真の気配に気が付いたのか、竹流が少しだけ身体を離した。それでも目の傍に相手の呼吸がはっきりと感じられる距離だった。
「何処?」
「横浜」
 深夜ラジオのリクエスト番組はまだ続いていて、その連続性が時間の感覚を失わせていた。カーラジオから流れる哀愁を帯びた歌声が心に突き刺さるようだった。
 なぜ抱いてくれないのかと、喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。あるいは、なぜいっそ殺してくれないのかとまで思った。それはどちらも同じことだった。

 古い物語の男女は、この世で一緒になれないのならばと、共に死ぬことを選んだ。今の世の中で、それほどまでに結ばれない身分違いの恋など珍しいかもしれないが、むしろどれほど一緒にいても、相手と完全に一体になれないことに絶望することはあるのかもしれない。いっそこの世で結ばれないほうが、幻想の中、あるいはあの世では、心で結ばれ続けると信じられたのだろうか。
 人は自由になった途端に、その場所が意外に居心地が悪いことに気が付く。
「少しは眠れたか」
 真は返事をしなかった。ふと、車のデジタル表示の時計を見ると、もうほとんど四時だった。それでも数時間は眠っていたらしい。
「帰ろうか」
 すっと身体を離して竹流がエンジンをかけた。
 真は答えないまま、突然に手をすり抜けた何かの尻尾を捕まえそこなった。ラジオの古い歌謡曲が心を締め付けるようだった。

 これから寂しい秋です 時折手紙を書きます
 涙で文字が にじんでいたなら わかって下さい





因幡晃さんの『わかって下さい』
……名曲だなぁ、やっぱり。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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NEWS 2014/1/14 ブログ1周年/ 初心に還って 

矢岳5
さて、ブログ『コーヒーにスプーン一杯のミステリーを』は、本日をもって1周年となりました。

(一応)記念記事のトップには日本最大級のドルメン、いえ、世界でも最大級のドルメン、熊本・天草の矢岳ドルメンに再登場願いました。
どの石をこの目出度い日のトップに持ってこようかと悩んだけれど、やっぱりこの石の凄さは、今でも空気感として忘れられません。ここから見た不知火の海、そしてこの石の下に潜った時、肌に触れた何とも言えない空気。
記事はこちらです→【石紀行】天草・矢岳巨石群

この頃の石紀行はあっさりでしたね。まだ写真を絞っていて……
今書きなおしたらもっと濃厚な記事になるんだろうなぁ。
あれ、小説ブログじゃないのかって思われた方もおられるかも……
はい、小説ブログです。でも、なぜか石(巨石)は巾を利かせています。
自分にとって、「小説を書くこと」と「巨石に触れること」は別の柱だけれど、どちらか一方がなくなるのは困るというもの。
だから巨石は、このブログの屋台骨(そんないいものじゃないけど^^;)の1本です。

あ、何より、まずはご挨拶ですね。
1日に訪れてくださる人もそれほど多くもない辺境ブログではありますけれど、1周年まで続いたのは、濃厚なお付き合いを下さるブログのお友達、それに足跡も密かにこっそりと見に来てくださる控えめだけど優しい方々のお蔭さまです。
重ね重ねお礼を申し上げます。
ありがとうございます
m(__)m

お付き合いいただいているブログさんは人気ブログさんが多くて、内容もアクセスも足元にも及びませんが、数よりも何よりも、ただただとってもありがたいです。

今でも、自分の書いている小説があまりブログ向きではないことを自覚しているので、もう辞めちゃうかもなぁという気持ちと行ったり来たりではあるのですけれど、何とか続けております。
ブログを始めて、色んな小説ブログの管理人さん方の書かれている素晴らしい作品を拝読するチャンスに恵まれ、拝読すればするほど、自分の小説にはこんな風に他人様に読んでいただく値打ちがあるのかしらと改めて思ってみたり……
でも、逆に、たまに褒めていただくと舞い上がってみたり……
きっと優しくておだて上手でいらっしゃるのだろうとは思うのですけれど、猿もおだてれば木に登る状態で、素直に登ってみたりもしています(*^_^*)

思えば、真たちを紹介したくて始めたブログではありますが、そもそも真シリーズが一番ブログに向いていないというジレンマに陥っているのです。それなのに、【海に落ちる雨】に拍手を下さる数少ない読者様、本当にありがとうございます!
何て我慢強い方々だろうと、日々感謝しております m(__)m m(__)m m(__)m
特に……いつも鋭い突っ込みを下さる八少女夕さん(ブログ:scribo ergo sum)とlimeさんは、この長くてややこしくて恐ろしい多重構造になっている大河ドラマのような作品を、へこたれずにアップする原動力になってくださっています。

真は、少しずつ変遷はしましたが、私の中には数十年前からいる、今やソウルメイトと言ってもいい人物。
その真のイラストを描いてくださったlimeさん(→ブログ:小説ブログ「DOOR」)、本当にありがとうございます!
逵滂シ点convert_20140113174317
limeさんの才能にもひたすら感動するばかりで、しかもこんなふうに描いてくださるにはそれだけの時間がかかるだけではなく、イメージを感じていただくためにお話を読んでくださる時間までも割いていただいたということで、申し訳ないやら有難いやら。今や私の中の真のイメージはすっかりこれに……(^^)

一方で、このブログのお蔭で、新しく生まれたキャラたちもいます。
なぜか、人間以外が多いのが困りものですが……・
それは後日、スカイさん(→ブログ:星たちの集うskyの星畑)から回していただいたバトンにて改めてご紹介を。
そう、「チーム・THE☆もののけ」と命名することにしました。
(スカイさんの「チーム・THE☆ネガティブ」からパクっています^^;)

その「もののけ」の中の代表格と言えば、やはりウゾくん。
ウゾくんはウゾさん(ブログ:百鬼夜行に遅刻しました)に小鬼になっていただいて、キョウトの町を走り回っていただいております。これはもう、ウゾさんの凄い素敵なブログ名からずるずるとひらめいちゃったお話ですので、ブログがなければ生まれてこなかったという代表格のお話であります。「勝手にコラボ」状態です。
ちなみに私、「もろファンタジーは書かない!」と決めていたのですが、ウゾさんの魅力的なブログ名にその決意を打ち砕かれてしまいました。

そこでこのたび、1周年を勝手に祝って、いっそ自作を褒めよう!という企画に走ってみました。

【清明の雪】
ブログにおける真シリーズの1作目
京都を舞台に、大学を中退したばかりの真(唐沢調査事務所勤務)と、彼のもと家庭教師の竹流(修復師、ローマ教皇庁を支える組織・ヴォルテラの御曹司)が、「消える龍」と「鈴を鳴らす不動明王」の謎に挑みます。
全ての謎が解けたとき、あるお寺に、そしてあなたにも魔法がかかります…… (なんちゃって^^;)
ファンタジー? 確かに物の怪・あやかしが出てきますけれど、そこがメインではありません(^^)
京都ミステリーのようでいて、ヒューマンドラマのようでいて、ちょっと観光案内にも見えるし、少し切ない真の青春物語とも言えるし……
でも、この物語の一番のおすすめどころは、なんと言っても「和尚さん」です。
自分で書きながら、和尚さんにはいつも励まされておりました。
かなりいい加減な和尚さん、もしかして「物の怪遣い」かもしれません^^;
不思議な和尚さんにぜひ、会いにいらしてください!
→→【清明の雪】をまとめて読む

【石紀行】
こちらは小説ではありませんが、イチオシのコーナーです(*^_^*)
こちらでは私が出会った巨石たちをご紹介しています。
石たちの素晴らしさを写真と共にご紹介するこのコーナー。
事実は小説より奇なり、というのか、いったいこの石はどういう意味があって、どういう歴史があって、そしてどういう人々の願いがあって、今ここにあるのだろう? 全然分からないけれど、分からないのに素晴らしい……と感じていただけるのではないでしょうか。
小説よりも面白い世界が待っているかもしれません(^^)
(それもちょっとどうよ、という気もしますが^^;)
石になんて興味がないわと思っているそこのあなた! もしかしたら世界観が変わるかもしれませんよ!
(大袈裟だ……^^;)
→→【石紀行】をまとめて読む・見る

【真シリーズ・登場人物紹介】
このシリーズにはどんな人物が登場するのか。
本編は読まれなくても、結構楽しいかもしれない登場人物紹介コーナー、ちょっと覗いてみませんか?
こちらのロングバージョンは、読むだけでも物語のようになっています。
いかにも大河ドラマだなぁと感じていただけるかも??
→→【真シリーズ・登場人物紹介】を読む

【掌編コーナー】
長いお話はちょっと、と思われる方にお勧めなのは、大海にしては短い掌編。
いえ、掌編は本当に難しくて、お恥ずかしいのですけれど、ちょっと覗いてみてください(*^_^*)

①【センス】→→【センス】を読む
こちらは3333キリ番ヒットのリクエストをポール・ブリッツさん(ブログ:クリスタルの断章)から頂いて書きました。
内容は……短すぎるので書けません。でもちょっと感動的?
この時、あといくつか掌編を思いついたのですが、まだ書いておりません^^;

②【月へん】→→【月へん】を読む
こちらはずいぶん昔に「月」というお題で書いた掌編。
解剖実習中の医学生たちが主人公の、ひと夏の不思議な経験?
あまりいい出来ではありませんが、ここでご紹介したかったのはある詩なのです。
私が学生の時に出会った、背中を震わせるような詩でした。

他にもたくさん、読んでもらえたら嬉しいなぁと思うものはありますが、とりあえずここまでで。
残りはトップページ【道先案内】をクリックしてくださいませ(*^_^*)
1周年を契機に、リニューアルしました(って、単に増えた小説を書き加えただけですけれど^^;)。


そして最後に、今後の予定

【海に落ちる雨】
第21章『わかって下さい』に入ります。この章は真の回想章の最後です。
この章は、本編をごらんになっていなくても読める話になっていますので、もしよろしければ覗いてみてください。
大まかに言うと、真と竹流が同居に至った過程ですが……中身はあれこれ事件?が満載。
真の妹(実際は従妹)の結婚。
真の恋愛(あるいは自殺未遂):真が付き合っていたちょっとトンデモ女のりぃさをご期待ください。
真の病気と快復:素敵なロシア人女性・サーシャをご期待ください。
青森・大間の旅:素敵なマグロ漁師の頑固爺さんをご期待ください。
あれ? まるで旅行スケジュールみたいだな^^;
第22章『死んだ男の息子』で第3節は終了です。
そして、いよいよ第4節。ここからきっと、18禁の18R……まだ迷っている大海なのでした。
でも、あのゴテゴテがないと、ラストの竹流の言葉が生きないような気もするのです……

下の3つは短いので、今からでも十分に追いつける中編と連作掌編。連載途中です
よろしければ……ちょっと覗いてみてくださいませ。

【死と乙女】
真の息子・ピアニストの慎一の青春物語の一片。
ウィーンの音楽院に通う彼の一所懸命な人生を応援してやってください。
素敵なクラシック音楽と共にお送りしております。音楽だけでも聴きに来ませんか?
ちなみに、こちらは八少女夕さんからのリクエストです。「指揮者の出てくる話」……ピアニストに化けちゃった。
いえ、将来は指揮者なのですけれど、今はピアニストの卵なのです。
→→【死と乙女】を始めから読む

【死者の恋】
少し軽めに書いている真シリーズのひとつ。
新宿の調査事務所所長の真に持ち込まれた事件は、高校生の少女が青森の岩木山で出会ったおばあさんから受け取った人骨にまつわるもの。津軽の風景、そして三味線の音色と共に……お送りする予定。
ちょっと中断しておりましたが、【死と乙女】が終わったら再開予定です。
→→【死者の恋】を始めから読む

【百鬼夜行に遅刻しました】
ウゾさんのブログ名からインスピレーションを得て、鬼の世界を書いてみました。
いつも百鬼夜行学校の試験に遅刻するウゾくんの奮闘。季節ごとの花に物語を託して書いています。
テーマは鬼だけに「死」ですけれど、その中にある「愛」を語りたい……
書き始めた時はこんなことになるとは思っていなかったのですけれど、書いているうちにどんどんイメージが膨らんできて……連作掌編ですので、ぜひ、のぞいてみてください!
→→【百鬼夜行に遅刻しました】を始めから読む


というわけで、皆様に改めて感謝しつつ、1周年記念記事、お開きといたします(*^_^*)
これからもどうぞよろしくお願いいたします!


にゃあ~~~~~~~!!!!!

あ、しまった!
見つかっちゃった!!
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(イラスト:limeさん:小説ブログ「DOOR」)

ひど~い! ぼくの紹介は~??

だって、マコト、君はこの頃、あちこちに顔を出し過ぎじゃない?
しかも、お正月のごあいさつは、君の独壇場だったじゃない。
他人様のブログにまで進出して……
それに、最近、このブログを猫ブログと間違えていらっしゃるのでは、と思われる方も来られるのよ?

え? 猫ブログだよね??
ねぇねぇ、違うの?

違います!(きっぱり)

わ~、あのね、あのね、みなしゃん、茶とら猫のマコトです!
え? 真との関係は何って? えーっと、分かんない……
あのね、えーっと~~
(AD:5、4、……)
わ~~~、待って待って!
【迷探偵マコトの事件簿】もよ……!(かちん!)
(AD:CM、入ります!)

→→お暇なら来てよね:【迷探偵マコトの事件簿】
(注意:きわめてしょうもないですが、(5)くらいからはちょっと物語になっているかも)

Category: 小説・バトン

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【雑記・あれこれ】たまにはテレビから刺激 

DSCN2983_convert_20140113145742.jpg
冬の寂しいお庭で、時々ひっそりと咲く花を見ると、ほっとしますね。
こちらは冬に咲く鉄線、そのままの名前で冬鉄線。
小さくて、見落としてしまいそうな花なのですが、冬のひっそりとした庭にはとてもお似合いです。

さて、東京都知事選に出馬の噂のある細川氏。
決してここで政治的なお話をするつもりはないのですけれど、この間熊本に行ってきましたので、ちょっと細川家の殿様の動向が気にもなったりして。
そうしたら、ある人がテレビで言っていました。
「殿(細川氏)と話していたら、何だか噛み合わないんですよね。で、なぜだろうと思っていたんですけれど、ある時分かったんです。我々一般人は、せいぜい10年先のことしか考えられない。でもあの人は、50年単位で考えるんですよね」
やはり室町時代(もっと?)から綿々と続いていた歴史のはっきりしているお家の方というのは違うのだなぁと感心していたら。

番組変わって、秋田杉の面倒をみている山に住むおじいちゃん。
「自分一代ではこの杉は育たない。いつも二百年、三百年先のことを考えて、今どうするかと考える」
う~む。
自分の視野の狭さを顧みるひと時となったのでした。

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冬空に美しい檸檬の実が映えます。
でもこの檸檬、皮が分厚くて、果肉があんまりない^^;
うちの土の栄養状態が悪いのだろうなぁ……

次の話題はオペラ。
今朝は「らららクラシック」でこのオペラが取り上げられていました。
プッチーニといえば壮大なるドラマ作りの名人。
そのもっとも有名なオペラといってもいいのは、かの「誰も寝てはならぬ」の「トゥーランドット」

実は私、このオペラをイタリアはヴェローナで観たことがあるのです。
そう、ロミオとジュリエットの町、ヴェローナ。そしてもう一つ有名なのが、野外劇場。
その印象は? そう、あれは野球場ですね。
というのも、貧乏旅行の私が取ったチケットは、無論、スタンドの後ろの方。舞台はもうほとんど豆粒。
休み時間には野球場みたいに売り子さんが飲み物とか売りまわっているのです。
とてもオペラを見るような感じではないのですけれど、あれはカルチャーショックでした。なぜなら、あ、オペラってこんなに自由なんだ、こんなに普通に街の中に溶け込んでいるんだ、という衝撃。
この劇場、「アイーダ」では本物の象が登場するのだとか。
一方、アリーナ席にあたる部分には、着飾った紳士淑女がいっぱい。
そこがヨーロッパですね。きちんと線が引かれている……

さて、「トゥーランドット」というのはとても心の冷たい王女で、求婚しに来た男性に謎を問いかけ、答えられなかったら首をはねるという残酷な王女様。
実は彼女は、かつてある姫君が異国の王子に騙されて亡くなったということから、心を閉ざしているのです。
それを聞きつけたある旅の王子が見事に謎を解いて王女に求婚する。
結婚はしたくないと困る王女に王子は、「もしも夜明けまでに私の名前を突き止められたなら、命を差し上げましょう」という。
王女は町中に命じる。夜明けまでに王子の名前を付きとめよ!と。

そこで王子が歌うのがかの有名なアリア、「誰も寝てはならぬ」ですね。
誰も寝てはならぬ……か、いや、私の名前は決して分からない、夜明けとともに私と私の愛は勝利する。

確かに旅の王子ですから、その町で彼の名前を知っているのは??
そう、彼の従者です。
その中に王子を愛する使用人の娘リューがいるのですが、王子の幸せのためにと拷問にも屈せず、自ら命を絶ってしまうのです。
そして夜明け。
王子はトゥーランドットに告げます。
私の名はカラフ。私の愛と命はあなたのものだと。
トゥーランドットは、使用人リューの献身と王子の愛にうたれて、ハッピーエンド……のはず……

実は、プッチーニ、この作品を最後まで仕上げる前に死んじゃっているのです。
考えてみればラストで、蝶々夫人も自殺しているし、トスカも自殺するし??
そう、このお話でも、主なる登場人物のトゥーランドットではありませんが、リューが亡くなっている。
ちょうどこのリューの死のシーンまでで、プッチーニも癌で亡くなりました。その先は別の人が曲をかいたのです。
もちろん、その先の場面のスケッチは残されていたので、物語はハッピーエンドのはずですけれど。

トゥーランドットは最後にこう言います。
「名前が分かった。彼の名前は愛」と。

番組では、プッチーニの人生のある出来事を取り上げていました。
プッチー二の愛人として物語を残している、使用人のドーリア。
不倫を疑われ、プッチーニの妻に監禁され、教会からは追い出され、18にして服毒自殺。
遺言で解剖が行われ、処女であったことが証明されたということですが……
そもそもプッチーニは他にも愛人がいるし、このドーリアの件は夫人の連れ子が母親を煽り立てた全くの誤解だったとのことですが、プッチーニの心には深い傷を残したのだとか。
もちろん、彼の作品には恋がかなえらぬまま若くして亡くなる乙女がよくでてきて、この事件と全て関わっているわけではないでしょうけれど(時代も後先がありますし)、ふむ……
実際には、プッチーニはただお涙頂戴のお話が好きだったという噂も……
世の中の人々がそれを求めていたから、彼らのために物語を作ったのだとも……?

オペラの裏にある作曲家の人生、そしてその時々の世間・大衆の好み。
ワーグナーの時代・国とは少し違って、市井の人々の想いを反映しようとしたのでしょうか。
(さらに時代が下ると、もっとその傾向がはっきりしてきますが)
ひとつ言えること、オペラって、実は結構泥臭いですよね。

そう言えば、私の好きな大河ドラマに『元禄繚乱』があります。
亡き勘三郎さん主演の赤穂浪士の物語でしたが、切り取り方が面白かった。
当時の江戸庶民が討ち入りを望み、浪士たちをかくまったり、金を融通したり、こそこそ、もしくはおおっぴらに後押しした、その時代感を描いていたのです。
一番は、討ち入りの時のお隣の屋敷(こちらはお武家さんですが)。
助太刀はしないけれど、提灯をいっぱい掲げて、明るくしてあげた……でないと、真っ暗で吉良さんを探せないですものね。
そう、そもそも面白いこと・興味深いことは、心中でも何でも現在進行形で「芝居」にしてしまった時代、元禄時代なのです。
あれは名作だったなぁ。(でも、私の大河ドラマ一番は『獅子の時代』……)
そう、芸術を盛り上げたもの、たくましきは民衆のパワー、だったのですね。

絵画も、教会のものから民衆のものになった時代がありましたね(いや、絵を買うのにお金は必要だったろうけれど)。
ルーベンスからフェルメールへ。あの時代、スポンサーは教会から市民に変わっていった……
後から見れば分かるんだろうけれど、じゃあ今、私たちはどんな時代にいるのだろう?
一億総作家時代? インターネットは明らかに世界を変えていますものね。


なんだかんだ言っても、やっぱりすごい髭のおじちゃん、ことパバロッティ。

そして、私が結構好きな日本人のテノール歌手、福井敬さん。

この勝利を確信する王子のアリアの後ろで、「あぁ、誰も名前を知らぬなら 私たちは殺される」という民衆のコーラスがあるのですよね。
これがちょっと……気になる大海なのでした。

Category: あれこれ

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[雨99] 第20章 ローマから来た男(6) 

【海に落ちる雨】第20章(6)です。今回で第20章が終わります。
チェザーレの与太話から、一転、真もようやく巻き返しに成功したようです。
と思ったら、今度はタヌキも登場。真の周りには、物事をややこしくしてけむに巻く悪い大人が沢山いるようです。

さて、今回、【海に落ちる雨】はなんと99話目なのです。
ということは次回が100話目!
栄えある100話目から第21章『わかって下さい』がスタートです。
こちら、この物語最後の回想章。本編を読んでおられなくても無関係に読めます。
でも、まずは真の巻き返し、お楽しみください。





「あなたは、彼の居場所について何か心当たりがあるのですか」
「先ほど言ったとおりです。私はあなたに教えてもらえると思って来たのです。私が知っているのは、あれの立場と知識と血を欲しがっている人間の事だけです。だがあれの値打ちはヴォルテラの跡を継いでこそ意味があるものです。今、あれをどうにかしようとしている人間が、その人物自身とは思っていません」
「では、全く心当たりもないと?」

 失望というよりも微妙な違和感を覚えながら、真は確認した。チェザーレは黙ったまま、真を見つめている。まるで、話すのは真のほうの仕事だとでも言うように。
「幾つかの国家組織が戦争の尻拭いのために、それぞれの立場を正当化するために動いているということは分かりました。そして、宝や宝の地図を埋め込んだ絵の何枚かが、新潟のどこかに埋もれてしまうことを危惧している秘密結社の亡霊がいるということも分かりました。でも」
 そんなものが今、現実に竹流をどうこうする理由は思い至らない。本気なら、その人物はチェザーレ・ヴォルテラを、もしくは教皇庁を恐喝するのが筋というものだ。

「アイカワさん、戦争には正しいものなどありません。それは起こってしまえば、誰にも正当性を裁くことなどできない化け物になってしまうのです。あの戦争に参加した全ての国に、お互いを裁くだけの正義も権利もない。兵士たちは組織に逆らうことはできません。よい兵士というものは命令に従うものです。誰も自分の道徳観念に従うことは許されない。彼らに大局は見えません。ただ目の前の作り上げられた敵と、殺せという命令があるだけです」
「大局を知っている誰かが、動かしているということですか」
 チェザーレは笑ったようだった。

「大局を知るものなど、いないでしょう。戦争に参加する軍の上層部ですか? それとも命じた政治家か。彼らの誰もが大局など分かっていません。そこにあるのは、漠然とした大きなムードなのですよ。そしてそこから生まれた残酷な環境は、人の精神を壊します。もはや、敵の兵士だけを撃つような冷静さはありません。相手が一般人であろうが、女子どもであろうが、見境などなくなる」
 真はしばらくの間、チェザーレの目を見つめていた。そしてこの男が語ったことを、始めから思い出し、確認した。
「ムラノ、という男は死んでいると」
「そうです」
「符号が一人歩きをする、と?」
 チェザーレは微かに頷いた。
「戦争が終わったことを知らずに、ジャングルの中で銃を撃っている」真は呟いて、自分の手を見つめた。「流れ弾を受けてしまう人もいる。死者にはもう命令を下すことも、辺りに飛び火した小さな燻りを消すこともできない」

 添島刑事が言っていたことを思い出した。大物が絡んでくる割には起こっていることが小さい、と。それは全く真実だったのかもしれない。つまり、起こっていることは全て小さな連鎖に過ぎないのかもしれない。
 絡まった糸に騙されてはいけない。
 そうだったのか。大きな人間が動きすぎていたので、すっかり騙されていたのだ。代議士、代議士の秘書であり戦争中に麻薬・阿片で大儲けをしていた黒幕、米国の国家組織のスナイパー、内閣調査室の人間、そして何かを知っているかもしれない元傭兵の老人。そして誰よりも、教皇庁を支える裏組織の後継者。

 大物が動く理由はそれぞれにあったのかもしれない。だが、始めから違和感があったのだ。
 大物が動く割には起こっていることが小さい。
 添島刑事は始めからこの違和感を持っていたのだ。
「あなたが、ビッグ・ジョーなどと組んだのは、つまり……ケチな日本のヤクザが絡んでいると思ったからですか。やはり、あなたは、竹流がどこに囚われているのか、見当がついているんですね。その上で、どうして僕の父がここにいることが困るのですか」
 チェザーレは小気味よく笑ったように見えた。そして、ようやく満足そうに、すっかり寛いだような顔でソファに凭れた。
「やはりあなたは私の見込み通りでした。結構です。前置きはおしまいにしましょう。これでようやく、私の打った布石も役に立ちます」

 真には何のことかさっぱり分からなかった。黙ってチェザーレの顔を見ていると、チェザーレは厳しい顔で先を続けた。
「アサクラタケシは誰かの尻拭いをしに来ただけではないのでしょう。たとえ大きな戦争の傷跡でも、当事者にとっては大問題であっても、その当事者たちはあと数十年ほど我慢すればこの世の人ではなくなってしまう。記憶は失われていくのです。そして国家としては、ただ『その時』を待っていればいい。問題を解決する気など誰にもありません。あるいは、国家間には解決しないまま宙に浮かせておくほうがいい、そんな問題が山のようにあるのです。ですから、アサクラタケシが今更、この国で尻拭いのために貴重な腕前を披露する必要などありません。彼が周囲に、大きな仕事をしに日本に来たように思わせているのは、本当の仕事をやりやすくしているだけでしょう。あるいは、偶然が重なって、周囲が彼の仕事を誤解したか」
「本当の仕事?」
「そうです」
「父は……何をしに来た、と?」
「私が、あなたを手に入れると思っている。もちろん、私はそのつもりですが」
 真はそれでも何を言われているのか分からずに、チェザーレをただ見つめていた。

「あの馬鹿者は、わざと雑誌のインタヴューに応じたんですよ。どういう意味かお分かりですね。あの雑誌はヨーロッパに姉妹社があり、日本で発売されるよりも前に同じ内容の記事がヨーロッパ中で売り出される。これは些細なことではありません。あなたを愛しているなどと馬鹿げたことを言ったことは大目に見るとしても、ヴォルテラを継ぐつもりはないと、こんな形で宣言することは許されません。あれの一言が、ヴォルテラの内にも外にもどれほどの波紋を投げ掛けたか、想像したことがありますか。もちろん、あの馬鹿者はそれを狙ったのでしょうが。そして、あなたの父上は、私が次に出る行動を読んだのです」
 真は歯が噛み合わなくなっているような感じを覚えた。
 今、この目の前の男は何を言っている?
 自分は蚊帳の外だと思っていた真に、お前こそ、事件の核心にいる人物だと告げているのか。

「でも、父は、あなたが来たら会うようにと、僕に言いました」
「えぇ。そして私があなたに、これまで話したような、まるで国家を動かすような壮大かつ馬鹿げたドラマを語り、そしてあなたがヴォルテラの置かれている状況を理解した上で、賢明に判断し、この状況から身を引くと、そう考えたのでしょう。だが、私は、どうあってもあれを取り戻すつもりで来ています。私には勝算がある。あなたは、あれの傍に居ざるを得ない。あれと離れることはできないはずです。私の勝ちですよ。あなたの父上は、あなたの気持ちを知らないが、私は私の息子の心の内をよく知っています」

 真はしばらく黙ってチェザーレの言葉を頭の中で転がしていたが、ひとつの言葉が頭の中に重く残ると、やがて顔を上げ、勤めて冷静に言った。
「よろしいのですか。僕に、ジョーカーを見せるようなことを仰って。僕は、あなた方の弱味を握ったと、そう考える人間かもしれませんよ」
「構いません。真実を知っているのは、私と、あれの母親と、ヴォルテラの医者と私のもう一人の息子だけです。そこにあなたが加わっても何の問題もない」
 だがあくまでも竹流はこの男のことを「叔父」だと言っていた。つまり彼は、自分は直系の血の繋がりのないヴォルテラ家の養子なのだと、そう信じている。

「竹流は……彼は知らないのですか」
「知りません。話すつもりもありません」
「あなたの国では、このことはスキャンダルでしょう」
「そうかもしれません。しかし、今更誰がそれを証明できますか」
 確かにその通りだ。会ったことはないが、竹流の父親、少なくとも竹流がそう思っている男と、チェザーレ・ヴォルテラは、一卵性双生児だと聞いている。
「なぜ、僕に」
 チェザーレはようやく穏やかに笑った。
「息子があなたをどう思っているか、私はよく知っています。あなたの父上はあなたを繋いでおく鎖を持っていませんが、私はあなたを繋いでおく方法を知っています。あなたは、私が打ち明けた真実を、きちんと担保として預かってくださるでしょう」

「あなたは父に会われたのですか?」
「いいえ。だが、私の協力者を既に抹殺した。それが答えだと思っています」
 真は驚いてチェザーレを見つめた。
「何の、話ですか」
「聞く勇気がありますか?」
 真は浮き上がりかけた上半身をソファに戻した。
 灰皿から葉巻の煙がゆるりと立ち上っている。その向こうでチェザーレはしばらく黙ったままだった。彼が何を言っているのか、真にはすっかり理解ができていた。
「それとも、父上から直接、聞かれますか」
 真は首を横に振った。いつの間にか視界が覚束なくなっていた。

「田安隆三は、あなたの協力者だった、と」
「そうです。あなたに銃の使い方を教えるようにタヤスに言ったのは私です。私は、あなたを私の息子の夜伽の相手に雇うつもりはない。馬鹿息子ですが、いずれあなたがあれの盾にさえなってくれることを期待して、そのように頼んだのです。あなたの父上はそれが気に入らなかったのでしょう」
「田安さんは、溺死だったと……」
 真は最後の藁にすがる気持ちで呟いた。
「アサクラタケシはこの世界でも十本の指に入る優秀なスナイパーですが、五本の指に入る立派な暗殺者です。何も銃だけが彼の武器ではない。彼は彼なりに、私に忠告をしたのでしょう」
 真は唇が震えてくるのを、チェザーレの前で隠すこともできなかった。

 だから、チェザーレ・ヴォルテラはここにやって来たのだ。息子を探し出すためだけではない。後継者を傷つけた者を二度と立ち上がれないまでに叩き潰し、自分の意にそぐわない状況を覆すために。そして、彼の言葉によれば、アサクラタケシの息子を手に入れ、後継者の忠実かつ確実な盾とするために。
 このような世界に足を踏み入れることが、本当に自分にできるのか、と思った。そして父は、それでも息子にこの世界に足を踏み入れて欲しくないと、そう願っていたのだろうと思った。だが、その親心を表すために、田安隆三を抹殺するような理屈が成立していいものではない。
「あなたから父上に、黙ってワシントンに帰るように話してください。ご自身のお気持ちも」
「僕は、竹流を取り戻したいと思っていますが、あなたに協力するとは言っていません」
「えぇ。だが、私の息子を救ってくれるのは、あなたではありませんか」

 真は初めて、このチェザーレ・ヴォルテラという男の恐ろしさを知った。
 この男は、まともなことを言っているのだ。筋を通し、ただ事実だけを正面から話している。事実を隠蔽し曲げ、騙すようなことは、この男には考えられないのだろう。そしてその直線的で直情的な事実を通すためには犠牲を厭わない。もっともなことを力を持って言われると、それが正しくても間違っていても、もう逆らう隙を見出すことができない。
 そういう一面を、折に触れて竹流もまた見せることがある。

「父に、報復をしなくてもいいのですか」
「タヤスのことで? という意味ですか」
「あなた方の世界では、それが必要なのでしょう」
「おっしゃるとおりです。ここで私が協力者のために何もしてやらないということになれば、私の協力者たちは皆不安に思うことでしょう。示しがつきません。だが、これはあなたへの契約金にしましょう。黙ってワシントンに帰ってもらえれば、私はそれで納得します。幸い、タヤスの死がアサクラタケシの仕事だと思っている者はないでしょう。まさかアサクラタケシが自分の息子を守るために個人的な仕事をするような人間であるとは、誰も思わないでしょうから」
 真はもう逆らうのは無理だろうと思っていた。
 この男の声を聞き、瞳の色を見ているうちに、ただ無性に同じ声と瞳を持つ男に会いたいと思った。それがこの世の地獄でも、あの世の闇でも構わなかった。


 ホテルのロビーから真は電話を掛けた。
 高い天井からは煌びやかな灯りが降り注ぎ、日常を抜け出した人々が優雅な時間を楽しんでいる。そのロビーの隅の電話ボックスは小さな闇に見えた。
 いつものように一旦切った電話が鳴り始めるのに、数分とかからなかった。
「父の居場所を教えてください」
 相手はしばらく黙っていた。真も、次の言葉はなかったので、黙っていた。
「どうなさるおつもりですか」
「会って確かめたいことがあるだけです」

 また、どうすることもできない間があった。やがて電話の相手はいつものように淡々とした声で言った。
「チェザーレ・ヴォルテラに会ったのですね。何を言われたか知りませんが、頭を冷やしてください。相手はあなたの弱味をよく知っているのですよ。どうせあなたを煙に巻くようなことを話して、あなたの反応を窺っていたのではありませんか」
「どういう意味ですか」
「あの男のやり方です。相手を値踏みする時に、百ほどもありそうな話を並べて、一体相手が何に反応するかを見ている。ヴォルテラが欲しがっているのは、数ばかりが売りで勢いを士気と勘違いしているような、どこぞかの国の軍隊のような有象無象の集団ではない。どんな状況下でも要となる真実だけを見抜き、敵の心臓部だけを直接に狙えるような精鋭を、そして守るべき相手のためなら、躊躇わずに自らの身体を盾として差しだし、敵の攻撃を受け止めるような忠実な僕を求めているのです。もちろん、あの男は相手を騙そうなどとは微塵も思っていない。ただ真実だけを真正面から話している。嘘偽りがないだけに、逆に本当に大事なことを見抜くのは難しい。あなたについては特に慎重に値踏みしていることでしょう。もしかすると将来、大事な跡取りの親衛隊の要になる人物かもしれないのですから」

『河本』は一旦言葉を切り、わざとらしく間を置いた。そして、子どもを諭すようにゆっくりとした口調で続けた。
「ご存知と思いますが、チェザーレ・ヴォルテラは真っ向勝負で来るタイプの人間ですが、彼の後継者のためなら、同じ理屈で卑怯にもなる男です。あなたを利用するなど、赤ん坊の手を捻るようなものですよ」
『河本』は淡々とそれだけ言うと、またしばらく間を取った。それから僅かに声のトーンを変えたようだった。
「相川さん、馬鹿なことを考えるのはおやめなさい。あなたがヴォルテラの元に身を寄せるということは、あなたの将来を決して良い形にはしません。もちろん、あの男が話したことには嘘偽りは入っていないのでしょう。しかも、あの男はもしも相手を認めたら、その相手のために自らを危険に晒すことも平気でする。彼が選んだ精鋭のためなら、彼自身の命でさえ差し出すのです。それがイタリア人の恐ろしいところだ。そして本当に手に入れたいものがあれば、一番大事な手の内を、つまり自分の弱みを簡単に見せるのですよ。それが、自分たちの懐に相手を引き込むという彼らのやり方だ。だが、理屈や感傷は差し引いて考えるべきです。結局のところ、あの男はあなたを自分の後継者の盾にしようとしているだけです」

「あなたにしても同じ事を僕に提案されましたよね」
「ヴォルテラは決して合法的な組織ではありません。たとえヴァチカンと表裏一体の関係にあっても、です」
「あなたたちの組織は合法的だというわけですか」
 次の間合いは、とてつもなく長く感じた。
「そうです。大和竹流の捜索はチェザーレ・ヴォルテラに任せて、少し休まれてはいかがですか。身体がまいっていると、ろくな考えが浮かばないものです。そのように他人の言葉に簡単に踊らされたりします。全て忘れることも、あなた次第で可能なことのはずです。あなたが決心されるのなら、あなたの立場を守ることは、私には簡単なことです。元の生活に、ただし、大和竹流のいない生活にお戻りください」

『河本』の返事は、それ以上の問いかけを全て拒んでいた。真は息を吐き出した。『河本』と父の間に何某かの取引があったことは間違いがないのだろう。
 簡単な話だった。竹流が言った通りなのだ。誰も信じてはいけない。
「では、そうさせてもらいます。ただ、ひとつお願いがあります」
「なんでしょうか」
 電話の声が幾らか遠くなった気がした。
「せめて、すぐにでも事務所に戻れるようにしてください。このままでは日常に戻るにも、仕事にならない。警察とあなたの関係が良好でないのはわかりますが、あなたの力ならそのくらいのことは簡単なはずですね」
 心は冷たく固まっているような気がした。
「わかりました。一晩、お待ちください」

「それから」真はついでだ、と思って付け加えた。「刑務所に面会に行きたいのですが、手間を省けるようにしてください」
「唐沢正顕ですか。あのろくでもない男にどのような御用が?」
 真はしばらく黙り、それから息を吸い込んだ。
「それでも、私の恩人です」
『河本』は少し間を置いて、わかりました、と答え、そのまま電話を切った。真はしばらく受話器を握ったままだった。
どこに行けば答があるのか分からないまま、突然、今、道が途絶えたような気がした。





第20章、長い章にお付き合いいただきまして、ありがとうございます(*^_^*)
さて、次回は少しお休みの回想章。
彼らが同棲に至った過程をお楽しみください。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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[雨98] 第20章 ローマから来た男(5) 

【海に落ちる雨】第20章(5)です。まだまだ続きます、チェザーレ・ヴォルテラの与太話……^^;
真はどこで巻き返すことができるでしょうか。

ちなみに、少し間が空いてしまっているので、登場人物確認は以下のページで……
→→真シリーズ・登場人物紹介





「つまり、その絵に何か特別なことが記されているというわけですか」
「さぁ。具体的にはわかりません。しかし、ロシア帝国の秘宝、本来ソ連邦が受け継ぐべきだと考えられていた宝、大戦のときに行方不明になったあらゆる貴重な財産。行方のわからないものが多すぎる。世界にはそういうものを咽から手が出るほど欲しがっている連中がいる。どれほどの金を積んでも、手に入れたいと願っている。一方では、自分たちの理念を貫くために、現実の世界でもっとも確かなものを求めている連中がいる。そういう利害は簡単に一致するのでしょう」

「現実の世界で最も確かなもの? その連中が欲しがっているものは金ですか」
「金は、彼らの理想を実現するための手段に過ぎない。しかし、勘違いしないで下さい。私が話しているのは、それが現実に進行している陰謀だという話ではありません。裏に偉大な力を持つ黒幕がいて、そいつが全ての糸を操っているというような、世界征服物語を語っているつもりもありません。どれほど偉大な力を持つ黒幕でも、不死の体を手に入れることはできていないはずですから。もしも、最初の球が転がり始めたら、あとは僅かな動力だけでいい。符号が一人歩きしていても、もう誰もそのことをわかりません。知らずに動力に油を注ぐ手伝いをしている。だが、私はそんなものに興味はない。それに対してセンチメンタルな感情を抱く気もありません。そういうcellのひとつひとつを潰していくような暇潰しをするつもりもありません。私がここに来た理由はひとつだけです。私の後継者を取り戻すために来た。彼に僅かな傷でも負わせた者には、それ以上の傷と倍以上の苦しみで贖ってもらわなければなりません」

 真はその言葉に全く同感した。その時、自分自身がどれほどの残虐な感情を抱いていたか、全く気にもならなかった。どこかで警鐘を鳴らしているはずの、親切で思い遣り深い平和主義者は、自分の中のどこにも見出せないように思った。
 そう考えてみれば、優秀な兵士やテロリストを作り上げるのは簡単なことだ。どうしても揺るぐことのない信念を、つまり復讐の確固たる意思を確認すればいいだけのことだ。美しい世界を作ろうなどという絵に描いた理想ではない。自らの命を差し出し燃やし尽くすための狂気は、理想ではなく、ただ呪いと復讐、憎しみの感情だけによって支えられる。

「絵は、二度日本にやって来た、と聞きました。つまり、同じ絵が来たのではなく、同じ意味を持つ符号としての絵がやって来たと、そういうことだったんですね。符号の裏に、何かが隠されている」
 竹流は絵を調べているうちに何かに気が付いたのだ。だから、絵をどこかに隠した。そしてすり替えるための絵を描いていた御蔵皐月も何かに気が付いたのだ。

「でも、もしもあなたのおっしゃるとおり、その秘密結社だか何だかが絵を取り戻そうとしているとして、この現実の世の中で一体何ができるというのですか。本気でスラブ民族純血種の国を作ろうとしているわけではないでしょう。すでにナチスが同じようなことで失敗したのに、もっと上手くやる算段でもあるのでしょうか」
「きっかけとなる欲望など、ほんのちょっとした事でよいはずです。あなたにも、私にもそれがあるように。物事が複雑に見えるのは、それぞれのcellが既に一人歩きしているからでしょう」

「絵の後ろには」真はしばらく注意深くチェザーレの顔を見つめていた。「宝の地図が隠されている、ということですか。そして、それを複数の人間が、それぞれの目的ゆえに求めて、探している」
 ついにチェザーレはスーツの上着のうちポケットから三枚の写真を取り出し、テーブルの上に広げた。真はその写真を見て、やはりそういうことなのか、と思った。その三枚の写真には、全て同じ絵が描かれていた。
「あなたはこれをどこで?」
「一枚はレニングラードの蒐集家の手元に、別の一枚は南アメリカの某国の革命家の遺族の手元に、もう一枚はスイスの資産家の手元にあります」

「そして、さらに二枚が日本に、しかも同じ新潟に? 竹流は、いえ、あなたの後継者は同じ絵が何枚もあることに気が付いた。そしてそのうちの一枚、もしくは複数枚の後ろに何かが隠されていることを知った。多分、御蔵皐月という贋作者もそのことに気が付いたんです。恐らく、レニングラードで。だから、絵をすり替えて仕事が終わる、という種類の話ではなくなってしまった。ただ、それでも僕にはまだ納得がいきません。その秘密があなたの言うとおり一人歩きしてしまっているのなら、竹流を捕まえて命までどうこうしようという連中の目的はなんですか」

 暫くチェザーレ・ヴォルテラは真の目を真っ直ぐに見つめたままだった。その青灰色の目のうちに自分の姿を認め、真は更にその目のうちにチェザーレの姿を認めた。
「あれの母親はスウェーデンの王族の血を受け継いでいます。ロヴェーレ、すなわち私と兄の生まれた家は、没落していますが、ローマ皇帝の末裔の血筋だと言い伝えられています。ローマ教皇、また枢機卿も幾人も輩出している。勿論、そんなものは眉唾ものですが、貴重な血であると思う人間はいるかもしれません」

 真は理解のできない話を、どう收めるべきか、少なくともたっぷり一分は考えなければならなかった。
「命ではなく、血を欲していると、そういう意味ですか」
「絵の秘密を握った程度で殺さなければならないほどの秘密ではないと、あなたが言うのなら、他に理由を探さなくてはならない。あなたの言うとおり、敵を出し抜きたいような秘密が隠されているかもしれないが、殺す必要はないかもしれません。他にあれの価値を考えるとすると、そういうことしか思い当たりません。もっとも、今のはあなたをからかっただけです。命に値する秘密であると、相手は思っているかもしれません」

 からかったようには思えなかった。だが、チェザーレは淡々と事実を話すだけで、そこに感情をこめていなかった。
 真が黙り込んでいる間、チェザーレが辛抱強く待っているような気がした。混乱していることを、今相手に知られたくないと思っていた。真はしばらく自分の手を見つめ、皮膚の奥に隠された血の流れが見えないものかと目を凝らしていた。
 そして、もしかしてこの男が自分を試しているだけなのではないかと考え始めた。
「あなたが僕に会おうとされた本当の理由を聞かせてください。あなたが手の内を十分に尽くせば、僕の力など必要ではないはずだ」

 チェザーレを見返すことができず、真は視線を自分の手の上から動かさなかった。あれほど殴られたり蹴られたりしたのに、手だけは幸いにも無事だった。その無傷の手を見ていると、この手を切り取って彼に差し出してもいいと思えた。
「始めに言いませんでしたか。私はどうあってもあれを連れ戻す気で来ている。あれがあなたを必要と言うなら、あなたも一緒に来てもらわなければなりません」
「だが、それは彼を取り戻してからでもいいはずです」
 真は漸く少し顔を上げて、やっとチェザーレの手元を見た。
 チェザーレは組んだ脚の上に左手を載せて、右手には葉巻を持ったままだった。左手の薬指に嵌められた指輪の輪郭は、目を瞑っても浮かび上がるほど鮮明な光を纏っていた。

「なるほど、あなたは妙に勘が働くのですね。おっしゃるとおり、その秘密結社が現在も活動していてあれを傷つけたいと思っている、などと非現実的なことは考えてもいません。それはただ符号のひとつに過ぎなかったのですから。ただ、その組織の重要な人物の一人であった男が、もう死に掛けているのに、どうやらまだ世界を動かせるかもしれないと妄想を抱いているのかもしれません。だからあれに絵を取り戻して欲しいと、死ぬ前に『フェルメールのマリア』に一目会いたいとでも言ったのでしょう。あの馬鹿者はそう言われてみれば純粋にその気持ちに応えてやりたいと思うような人間です。だが、その絵は日露戦争以来、旅をする間に、色々な人間の欲望を煽り立ててしまったのでしょう。そう、同じような絵は幾つもある。この符号は、決して絵が抹消されないためのマークです。絵の下には、宝の地図が隠されているのですから」

 真は漸く顔を上げてチェザーレの顔をまっすぐに見て、もう一度、言葉を確かめるように繰り返した。
「あなたの、本当の要求を教えてください。僕に会おうとされた理由です。あなたは僕に奇妙な秘密結社の話をしたいわけでも、フェルメールの絵の話をしたいわけでもないはずだ」
 チェザーレは実に小気味いいというような顔をした。
「さすがに、くだらない『お話』にはごまかされない、ということですね。気に入りました。私があなたにお願いしたいのは一つ、あなたの父上にワシントンに帰るように説得してください。残念ながら、これ以上彼に獲物を差し上げるわけにはいかない」
「どういう、意味ですか」

 チェザーレは葉巻を灰皿へ落とした。その間、彼は真から目を逸らさなかった。
「あなたは彼が何をしに来ているのか、知っていますか?」
「いいえ。あなたがそれを知っていると?」
 チェザーレはその答えを、直接的には避けたように見えた。

「第二次大戦の直後、実に多くの美術品が闇に消えた。多くはナチス絡みですが、連合軍がそのうちどれほどのものを持ち去ったか、今となってはわかりません。だが、消えたのは美術品ばかりではない。ずさんな管理の元に置かれたままの貴重なエネルギーの原料、武器の類、さらには科学者たちまでも姿を消している。あなたの父上は戦後間もない頃に、東京で戦後処理に当っていたアメリカ軍の将校と接触している。正確には友人付き合いだったようですが、その後その将校の誘いで渡米している。だが真っ直ぐにアメリカに下ったわけではない。長い間、ソ連の科学アカデミーにも在籍していたのです。彼が優秀な科学者であったことは、誰もが認めている。そして、彼がその後米ソのどちらからも貴重な存在として扱われていた事実をどう解釈すればいいのかは分かりませんが、ある意味公認の二重スパイのようなものだったと理解しています。アメリカ側は戦後、明らかになっては困る事実を隠匿するために彼の腕を欲した。特に朝鮮戦争の時、彼が生業としてその腕前を十分に披露をした事を、この世界のものは皆知っています。ベトナム戦争の時には戦争を引き止める力を挫くような仕事もしている。はっきりしていることは、その戦争のどちらについても、米ソは自分たちの国力を完全に削ぐことのないように努力していることです。ソ連はアメリカが彼の使い方を間違えない限りは放任した。ソ連側が彼を放置したのは、彼に負い目もしくは恩義があるからでしょう。アカデミーの中での動きについては、むしろソ連側に有利になるように動いていた節もある。恐らくはそれぞれの天秤の調整をさせられていたのでしょう。更に、南米での革命・内戦の際にもかなり際どい仕事をされている。あの頃、あなたの父上は随分際どい、言葉はよくありませんが、ある意味卑怯とも言える仕事を幾つもこなしておられるのです。まるで何かに憑かれているようにね」

 真はその言葉の間、チェザーレから目を逸らさずにいた。父の生業について、自分に意見や異議があるわけもなかった。国家の事情が優先すれば、卑怯だとも際どいだとも表現されるような仕事もあるだろう。
 だが、チェザーレ・ヴォルテラという男にはそれがない。
「ある事件が、戦後間もなく起こった。アメリカから貴重な実験結果がソ連に持ち出されるという事件です。もっとも、それについて責任があるのはあなたの父上ではなく、あなたの父上のパートナーだった工作員です。だが結局その尻拭いをしたのはあなたの父上だった。正確に言えば、あなたの父上はソ連と某かの取引をして、その実験結果を公表しないという約束を取り付けたと思っています。だが、随分後になってからそこに何か横槍が入った」

 真はチェザーレを黙って見つめていた。感情をできる限り排除しようとしている目だったが、チェザーレが相川真という人間を見定めようとしていることは伝わってきた。
 真はこの事件に関わってから、全ての人間が自分を相川武史にくっついているおまけのように見なしていることを感じていた。
 だが妙なことに、チェザーレだけは真自身を値踏みしている節があった。
 もっとも、それは彼の後継者の側にいる人間として相応しいかどうかという値踏みに違いない。

「その横槍を入れたのが、あなたが先ほどおっしゃった妙な秘密結社ですか」
「そのようです。しかもその当時彼らと協力関係にあった日本人がいました」
「資金繰りに関与していたという日本人ですか? そこに日本人が関与した必然性は何ですか。いや、戦後間もなくということは、それが日本にも関係した『貴重な実験結果』ということだったのですか」
「そうでしょう。その実験はある面から見れば日本人のためにもなったのでしょうが、当時の時勢では米国に対する憎しみを煽り立てることになる可能性もあった。いえ、はっきり言えば、ナチスにも匹敵する行為だと思われたことでしょう。国際的な問題とされれば、困る事態にもなり得た」

 真は息を吸い込まなければならなかった。
「原爆ですか」
 そもそも戦争を終結さるために原爆は必要だったのかという議論はしばしばなされる。そして、米国人医師たちによる膨大な被爆者たちのカルテが物語る、ある「実験」の噂は、真実はともかく、まことしやかに語られることがある。
 だが、チェザーレは思いを巡らす真を、淡々と見つめていただけだった。
「その日本人は国家を相手に大掛かりな恐喝を思いついたわけですか。バックに奇妙な秘密結社を得て、ソ連と米国を相手に。だが一旦は片付いたかに見えていた問題が、再度浮上してきた。ソ連が絡んでいる可能性のある武器が出回るようになった。だから父は、いえ朝倉武史は事情を確認しにきたというわけですか。あるいは明確にその人物が誰であるか分かっていて、止めを刺しにきた、と」

 チェザーレはまだ黙っている。葉巻は灰皿の上であの刺激的でいて、かつ精神を宥めるような強い香りを漂わせていた。
「いや、一旦は片付いたように見えたのは、その恐喝者が亡くなったからですね。ところが、まるでその人物が生きているのではないかと思われるような事態が浮上した。恐喝者は村野耕治という男だったのですね」
 ようやくチェザーレは満足そうに笑みを浮かべた。
「ムラノ、というのは私が随分昔にその秘密結社を調べていた頃、よく耳にした名前です。秘密結社のほうは先ほども言ったように、確かに組織として存在しているのかどうかはわかりません。だがcellの構造を持っていることだけはわかった。ムラノという男は、原爆だけでなく、戦時中の麻薬使用についても、大国の軍部を恐喝していた気配があります。私が受けた報告でも、ムラノという人物は確かに癌で亡くなっています。だが今でも、ソ連は社会主義国家としての弱体化の種を内に抱えていることをあまり表には出したくないでしょう」

「妙な秘密結社や宗教団体なら、米国にもいくらでもあるのでは」
「米国は自由主義国家ですから、そういうものも含めて米国という国を支える礎のひとつです。要は自由主義・民主主義という理念が立っていればよいのです。だが、ソ連邦はそうはいかない。国家として成立するためには、異分子は潰す必要があるのです」
「では何故、その可能性のあるキエフの元貴族を消してしまわないのですか。貴族の隠匿財産など、国家の名の下に召し上げてしまうことは可能でしょうに」
「それが目の前に示すことのできるお宝、もしくは金銭であるならば、その通りでしょう。だが、そうではない」

「つまり、ソ連の国家組織は、『符号』が何かを知らない、ということですか」
「そういうことでしょう。しかもソ連邦にとって、その人物が異分子であるとは限らないのです。彼らは賢明だ。お互いに生き延びるためには、身体の半分につけた同じ色の側だけを見せながら話をする。他の場所に行けば、また別の色の面を見せる」
 真は暫くチェザーレの言葉を頭の中で確認していたが、結局そのことが竹流の居場所を知るために確かに必要な情報なのかどうか、よくわからなかった。





頑張れ、真。まだ続くのか、与太話……^^;
いえいえ、次回で終わりのようです。
字が多くて誠に申し訳ございません(>_<)

狐と狸の化かし合い。次回はタヌキも登場です。
次回で第20章は終了です。

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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【雑記・あれこれ】パワーストーン、信じる? 

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さて、先日来アップしてきた小説【奇跡を売る店】に登場する貴石。
(はい、奇跡と貴石をひっかけています^^;)
あるいは天然石、といってもいいでしょうか。
石にはひとつずつ、花言葉ならぬ石言葉みたいのなのがあるのですが……
それぞれの石に何か意味合い、ある種のパワーがあると考える人もいます。

本当に石にパワーがあるのか。
たとえば、『天空の城ラピュタ』にでてくる飛行石。
あんなすごいパワーがあったら、えらいこっちゃと思うけれど……
でも、あの物語で、最初の方、パズーとシータが地下に降りてポムじいさんに会うシーンで……
じいさんが石を割ったら、少しのあいだ石が光る。
「このあたりの石には飛行石が含まれている」
灯りを消したら天井いっぱいに、石が光っていて、一つ一つの石の力は弱いけれど、多くの石が集まって星空のように見える。
「石たちの声は小さい」
飛行石であんなふうに町ひとつ分飛んでいるのは現実には信じられなくても、あの地下のシーンは現実にもありそう。
一つ一つの石がすごい力を持っていないかもしれないけれど、見る人の心によっては力となるのかも。

さすがに私も、パワーストーンを持っていれば、何でも上手くいく、なんて話は信じません。
でも、石を見ていると、確かに不思議な気持ちになることもありますね。

私の愛する巨石たちは、動かすことも持っていることもできません。
そこに行って、触れてみなければ、そのパワーを感じることはできない。
あの石たちは「そこにあること」ですでに大地のパワーを溜め込んでいる、そんな感じ。
姿かたちも、綺麗なものではなく、思い切り無骨ですけれど、それがまた素敵。

一方で、こうした小さな貴石たちは、身近に置いておくことができますね。
磨く前は、無骨な石と区別がつかなかったり、大きな石の中にほんの少し含まれているだけだったり。
多分、玉櫛ばあさんの店『奇跡屋』に置いてあるのは、加工したり磨いたりしたものではなく、原石。
キラキラしていないと思いますが、手に取ると、何かを感じることもあるのかも。
さて、そこから何かが始まるのか、実はただの眉唾ものか。

一番上の写真、左はラピスラズリの原石を磨いたもの。
その隣、上はターコイズ、下は蛍石。
さらに隣、上は琥珀、そして物語に登場してもらった天河石ことアマゾナイト。
この中で、持った時に拍子抜けする軽さなのは琥珀。そもそも樹脂ですから……
でも、私の最も好きな石のひとつでもあります。大地の歴史の匂いがする。

アマゾナイト、小さいので、ちょっとアップにしてみます。
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蓮が舟にあげちゃった石は、こんな感じだったのかな。もう少し大きいものだと思うけれど。

【奇跡を売る店】、次はいつになるか分かりませんが、どんな石をご紹介しようかな。

Category: あれこれ

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[雨97] 第20章 ローマから来た男(4) 

【海に落ちる雨】第20章、続きです。
竹流の行方を捜して佐渡に行った真は、竹流のものと思われる血の跡と、竹流の愛車・フェラーリの爆破を目撃してしまいます。彼の身によからぬことが起こっていることだけは確かだと思い、焦りと怒りに取りつかれている真。
真の事務所のオーナーである仁道組の跡取り息子・北条仁は「(真が)危なっかしい、おっかない目をしている」と美和に告げます。
真はついに、ローマから竹流を奪還しに来た彼の叔父、チェザーレ・ヴォルテラと対峙します。
さて、チェザーレの話を注意して聞いてみてください。もしくは、話半分に聞いてください。
頭から言っていることを信じてはいけません。
多分、真面目に読むと騙されます。この男は、真を値踏みしているのです。
ただ、言葉の端々に、この事件の糸口は見え隠れしています。
「cell」はある意味、物語全体の仕組みを解くキーワードかもしれません。





 真は帝国ホテルの最上階の部屋で、黙って座っていた。
 リビングのソファには真以外の誰も居らず、さっきから遠くのほうで何かの機械音が響いているだけだった。部屋の窓は少しだけ開いていた。風が吹き込んで、時々頬に当たる。
 目を閉じると、心の中は空っぽだった。

 昨夜、高瀬がホテルニューオータニにやって来た。用件はひとつだけだった。
 ローマから、チェザーレ・ヴォルテラが来た、と。そして、相手は躊躇うことなく、真に会うことを選択した。
 とにかく、一晩は眠るようにと言われ、高瀬が差し出した薬を抵抗なく飲んだ。眠りは泥の中を這い回るようで、一晩中生と死の間の僅かな隙間を彷徨っている感覚だった。足は既に死神に掴まれているのか、それとも自分が死神を捕まえているのか。体は重く、全ての細胞が、暗い色の水を含んで重量を増している。

 本当は外の世界は随分と明るいのだろう。しかし、今真のいる場所には、色も光も上手く届かない。
 テーブルの上には、ルームサービスで運ばれてきた朝食がそのままだった。何も口に入れる気がしなかった。
 やがて、真は立ち上がった。さっきから異様な緊張感で、実際に鼓膜には何の音も届いていないのに、ドアの外の気配までも分かるほどだった。
真はドアを開けて、外に立つ男を迎え入れた。


 チェザーレ・ヴォルテラ。
 以前会ったときは熱に魘されていたからなのか、真にしては珍しく、その人の顔をはっきりと記憶していない。本心とは思えないが、竹流が会いたくないと言っていた彼の叔父は、ローマで熱を出していた真に対して、むしろ心配そうな気配さえ示してくれた。真は予想外の暖かく親密な気配に戸惑った。

 しかし、真は全く別の気配も覚えていた。
 東京に戻る前、竹流は教皇との面会に呼び出された。一緒にサン・ピエトロ寺院に行き、小さな礼拝室で竹流を待っていたとき、隣に座った男の気配は重く苦しかった。真は顔を上げることもできず、静か過ぎる礼拝堂の冷えた空気に怯えた。周囲の人々の囁くような会話、潜めるような足音は、もうすっかり別の次元のものとなり、真の周囲からは消え霞んだ。覚えているのは、あの時見つめていた自分自身の手と、左の耳に残る穏やかで是非を問わない声だけだった。
 今はあなたに預けますが、いずれはここに戻します。

 それ以上関わったわけではないので、どういう人物なのかは想像と噂話でしかない。
 時々夜中に、マンションに電話が掛かってくる。竹流はその電話を決して寝室では取らない。リビングで交わされる会話は、真には半分しか聞こえないが、しばしば熱を帯びている。そのうち相手と揉めているのがはっきりと分かる。イタリア語の言葉の勢いのせいもあるのだろうと思っていたが、電話を切った後、ほとんど煙草を吸わない竹流がいつも葉巻を吸っている。ベッドに戻ってきた彼から、葉巻の強い香りがする。

 その同じ香りが、今チェザーレから香っていた。
 頑強な身体、竹流よりは幾分か背は低く、緩やかにウェーヴのかかった髪は灰色だったが、意思の強そうな眼は、全く同じ青灰色をしていた。
 この男が彼を愛している、それは叔父が甥に向ける以上のもので、まさにわが子を思い遣るような愛情だった。

 そのことを竹流自身は知らないのだろうか。傍が見れば明らかに分かる同じ面影、惹きつけられるような整った顔立ち、そして人間的なよく使われた手。何気なく目に入った左手の薬指に、竹流と全く同じ指輪が嵌められていた。
 もし年齢が近ければ、そして見ているだけならば、真はこの手と彼の手の区別がつかないかもしれないと思った。もちろん、触れてみればきっと彼の手は分かると思いたかったが、正直自信がなかった。それほどまでに、血の繋がりは明確だ。

 だが、その手を見つめているうちに、身体の震えは収まっていた。カッとするような熱さえも、体の奥深く押し込められて冷たく固まっていた。
 リビングのソファに向かい合って座ると、チェザーレは真が全く手をつけていないテーブルの上のコーヒーのポットに手を触れ、直ぐに立ち上がった。デスクの上の受話器を上げ、綺麗なクィーンズイングリッシュでコーヒーと暖かいミルクを注文している。
 竹流が話すイントネーションと全く同じだった。

「手を引くつもりはありませんか」
 注文を終えてソファに戻ると、チェザーレは穏やかな、そして艶やかな声で真に話しかけた。血の繋がりというものは、これほどまでに残酷なものなのか、と真は思った。
 目を閉じると、聞き違えるかと思うほどの声。
「ありません」
 そして、自分の話す英語も、竹流が教えてくれたものだ。チェザーレは真の言葉の調子にそのことを感じたのか、少し頬を緩ませたように見えた。
「それならば、覚悟が必要です」
「覚悟なら、十分にしています」

 チェザーレは真を見つめている。同じ青灰色の、吸い込まれそうな瞳だった。
「これはあなたの今いる場所とは違う次元で起こっている。私が覚悟と言ったのは、あなたが場合によっては一生、こういうものと付き合っていく覚悟があるかと聞いたのです」
 真は返事をせずにチェザーレを見つめ返した。
 二度と堅気の世界には戻れませんよ、と言われているわけか、と単純に理解した。武史も、仁も、どこかでこういう一線を越えたのだ。

 チェザーレはほっと息をつき、深くソファに凭れた。
「あれの事はよく分かっています。自分の身は自分だけのものだと思って、こうして無茶をする。あれがいつまでもこんなことをして、自分の命を危険に晒すようであれば、いつまでも遊ばせておくわけにはいきません。言っている意味はお分かりですね」
 真は暫くの間を置いてから頷いた。
「あなたが覚悟していると言うなら、私に異存はありません。あれがどうしてもあなたを必要と言うなら、あなたの身は私が引き受けます」

 さすがにそれには真は驚いた。自分がこの男に受け入れられることは絶対にないと思っていた。
 この男と自分が竹流を間に挟んで、相容れることなど不可能だ。だが、それをこの男は簡単に乗り越えてくる。あの破廉恥な雑誌の記事でさえ、それをカトリックの総本山を後ろで支えている大きな組織のトップが、事も無げに受け入れるのか。
 義理や人情などというもののために命を掛ける、そういうことに目的を見出すタイプの人間。『河本』がチェザーレに対して語った言葉だ。

「どちらにしても、予言に従えばもうタイムリミットですし、私の中でもあなたのことは以前から覚悟ができていたことです。あなたのお父上はこれで完全に私の敵になってしまうでしょうが、やむを得ませんね。彼とて、愛するもののため、馬鹿げた世界に身を投げ出した。しかもその結果として、愛するものを取り戻せたわけではない。アイカワさん、ここは酷く孤独な世界です」
 真はそれには答えを返した。
「僕は、ただ彼を見つけたい。それだけです」
 暫くの間、チェザーレは何も言わなかった。

 呼び鈴の音がして、チェザーレは真を見つめたまま立ち上がった。ドアの方へ向かい、短い会話を交わしている。直ぐにホテルの従業員がミルクとコーヒー、ブランディを持って入ってきた。
 二人きりになると、チェザーレは温かいミルクにブランディを零し、真に勧めた。真が動かないでいると無理矢理手に持たせてくれる。
「食事が咽を通らないなどと、子どものようなことを仰られては困ります。あなたは戦場に行こうとしている。鉄則は、食えるときに食う、眠れるときに眠る、です」
 息をひとつついて、真はミルクを飲んだ。ブランディの香りが鼻腔を刺激した。
 穏やかに暖かい言葉なのに、有無を言わせぬ調子。真の同居人が持っているリズムと同じものだった。

 暖かいものが食道から胃に落ちていくのがわかった。竹流の最後の消息を確かめてから、初めて口にしたものだった。
 途端に、手が震え、視界が曖昧になった。身体の中では怒りと焦りが黒く重い渦を巻いていた。握り締めているカップでさえ、手の中で壊れそうなほどに突き抜けてくる感情。それを目の前の男に悟られるのは、とんでもなく拙いことだと思えた。
 しかし、気が付いたとき、真は隣に座った男に頭を抱き締められていた。その身体からやはり強い葉巻の香りがした。
「あなたが彼の姿を見たら、そんなに平静ではいられない」
「今も十分に私も平静ではありません。そいつらの体を生きたまま割くつもりです」

 残酷な言葉を男は淡々と、当然の権利というように言い切った。
 もうこの世にいないかもしれないとは、到底口にできなかった。そして、それはお互い同じ感情なのだと理解できた。あなたにもそれができますか、と問われている気がしたが、答えなど簡単だった。
 やがてチェザーレはその大きな手で真の頭を包み込み、額に口づけた。
 それはいつか、ローマの教会で穏やかな神父が、あなたには神が見えていると言って祝福してくれたのと同じ口づけだった。
 真は、今、自分が神に捕まったのだと、そう思った。

「さあ、とにかくミルクを飲んで、温まりなさい」
 真がミルクを飲みきり、チェザーレはコーヒーを飲んで、少し落ち着くと、チェザーレは懐から葉巻を取り出し、自ら端をカットして真にも一本勧めた。真は有難く受け取り、火をつけてもらった。
 チェザーレはひとつ大きく吹かし、息をつく。
「スィーニャヤ クローフィ」
 真は顔を上げた。呪文のような言葉だった。

「帝政ロシア時代の皇帝の親衛隊から生まれた秘密結社です。今でも活動を続けているのかどうかはわかりませんが、世界中に溢れている懐古趣味の秘密結社のひとつです。言葉の意味はロシア語で『青い血』、つまり高貴な血を持つ人間という意味です。こういう手の秘密結社でもっとも有名なものはナチスだ。つまり私が言いたいのは、そういう馬鹿げたことを本気で考えている連中がいるということです」
「それが、何の関係が」
「最近、中東や南米の戦争にソ連製、またはその改造品と思われる武器が大量に出回っています。彼らが本気で、高貴な血を持つ人間だけの国を作り上げようとしているのかどうかは知りませんが、世界各地の紛争に喜んで武器を提供している。勿論、世界の大国にもそうやって金儲けをしている国や組織はありますが、その秘密結社は実際、下品な血を持った人間たちが殺し合って滅ぶことを望んでいるのだとか」
 チェザーレはまた言葉を切って、暫く葉巻を吸っていた。

「そして、そういう組織には資金繰りと、異質ではあるが何らかの形で役に立つ協力者が必要です。資金繰りに日本人が一人、絡んでいるという噂がありました」
「日本人? 青い血を持っていなくても構わない、ということですか」
「金を持っているものは別です。協力者には特別な加護があるという話になります。もっとも日独同盟のとき、ナチスは随分回りくどい説明で、日本人はゲルマンの民族と血の友であると証明していたようですから、理屈などいくらでも作られるのでしょう。それにこういう組織の多くは、中東のテロ組織と同じ仕組みを持っている」
 淡々と話すチェザーレのいう言葉は、まるで異次元の物語だった。
「同じ仕組み?」

「cellという概念をご存知ですか? 少人数のグループがあり、その中の者同士はお互いを知っている。しかし、隣のグループの構成員の顔は知らない。グループのリーダー同士は両隣のリーダーのみを知っている。そういうふうに組織が層状に積み重なっていて、ある部分が露呈しても、それが上層部まで及ばない仕組みになっている。被害を最小限に留めるのです。だが、こういう組織には弱点もある。組織を長く持たせるには良い方法ですが、統制がとれない。命令が行渡るのには時間がかかるし、もしかして組織そのものが瓦解していても、下の方の構成員はそれを知らない可能性もある。戦争が終わっていることを知らずに、ジャングルの中で銃を撃ち続けているかもしれないのです。だから、こういう組織には、絶対に揺るがない理念と符号が必要だ」

「理念と符号」
 真は言葉の意味を履き違えないように、ゆっくりと繰り返した。
「つまり、それを見れば、それが組織にとって重要なものであるとわかる記号、もしくは暗号です。以前ロシア全体主義の時代に活躍した作曲家の音楽の一節が、その記号になっているという噂がありましたが」
 真はしばらくチェザーレの顔を見つめていた。頭の中に無残にばら撒かれたパズルのピースが、ところどころで上手く数ピースずつ形を作る。けれども全体像は全くわからない。目指すものがどのような完成図なのか、青写真を与えられていない。だが、部分的に合わさったパズルには、見たことのある光景が浮かび上がる。

「符号」
 もう一度真が繰り返したとき、チェザーレは葉巻の灰を落とした。
「時代を超えても価値があるとわかる符合です。もしもそれが多くの文書や情報の中に埋もれても、残されるべきであると考えられるもの」
「絵、ですか」
 真は言葉にしてから、咽がからからになるのを感じた。チェザーレはゆったりと答えた。
「その可能性があります」
「あなたは、それがどのようなものかご存知なのですか?」
 チェザーレは、おや、という顔をした。
「私は、あなたに教えてもらえると思って来たのですが。あれがどのような絵を探していたか、ご存知ですね」





さて、次回もチェザーレの話にもう少し付き合ってください。
頭にも書きましたが、そう「話半分に」聞いた方がいいと思いますが……^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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NEWS 2014/1/7 七草(人日の節句)/もうすぐ1周年 

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最近は本当に便利になりましたね。
こうして七草をパックにして売っていたので、安易に買っちゃいました。
すずしろを刻んだ後に、あ、写真とっとこ!と思いついたので、すずしろは原型をとどめていませんが……

これらを刻んでいると、「草っぽい」匂いがして、まるでおままごとをしているような気持ちになりますね。
特にハコベ(ハコベラ)が、草っぽい……
そう言えば、昔、セキセイインコを飼っていて、いつも学校の帰りにハコベを摘んで帰ったなぁ、とか思いだし。

お正月の鯛の残りを入れて、七草+鯛粥にしてしまいました。
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本当は6日の夜にこれらを叩いて、7日の朝に食べると言いますが、う~む。
7日の夜、食べました。

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さて。
当ブログ『コーヒーにスプーン一杯のミステリーを』は、1月14日をもって1歳になります。
1月末だと思っていたら、初めての記事の日付は14日でした。
最初の記事はご挨拶でも何でもなく、いきなり【清明の雪】の背景とあらすじ……
とにかくこの物語をアップしてしまおうと、勢いつけてがんがんアップしていたみたいです……^^;
今でも、とても大事に思っているお話です。

別にイベントを企画しているわけではないのですけれど、トップ記事だけは中身を整理しようかな。
でも、ご挨拶はまた14日にさせていただきます。
取りあえず、今日は七草粥を作ってみた報告でした(*^_^*)

Category: NEWS

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【奇跡を売る店】サンタクロースの棺~おけら参り 

【奇跡を売る店】サンタクロース殺人事件、もう一つの結末です。
始末篇、と言った方がいいのかもしれません。
この方が納得される方もいるかもしれませんし、こういう思わせぶりなすっきりしない結末はイヤって人もいるだろうな、と思いつつ。
せっかく皆様に「読後感が良かった」とほのぼのしていただいた後で、何をする……って気もしますが。
でも、本当は15年も前のこと。正直なところ、誰の記憶もあてになりません。
あるいは、15年間、みなが別の物語を上塗りしてきたかもしれない……

やっぱり天邪鬼な大海がお贈りする、もう一つの物語。
とはいえ、蓮の勘繰りすぎかもしれませんので、皆様が自由に結末をつけて下さればいいなぁと思います。

そして、前回はあまり出してやらなかった、もう一人の重要人物。
新年を迎えた蓮と和子と共に、彼をご紹介したいと思います。
蓮にとって、血の繋がらない、心の家族で迎える新年、かもしれません。





「あれ? 天河石? それ、どうしたん?」
 大晦日の日、蓮はぼんやりと、涙型に研磨されチェーンをつけた天河石のネックレスを見つめながら、『奇跡屋』の二階で人を待っていた。
 日中はどれほど寒くても、太陽の光とはこれほどまでに有難いものだということを思い出させてくれる。だが、いったん陽が落ちると、気温は一気に零に近付く。灯りや人の体温が作り出す温もりのないこの事務所では、尚更それが身に沁みた。

 蓮は接客用のソファに寝転がるようにして天河石を見つめていた。
 ソファの背から舟がその天河石を覗き込んで来る。
 天河石から視線を舟に移すと、そのあまりの近さに一瞬驚く。いや、驚いたのは、舟の目が魁にそっくりだということを改めて発見したからだった。親子だから当たり前なのだが、何故かそのことが心の深い所に沈みこんで広がっていく。
 連の従弟である舟は、男の連から見ても妙に色気のある顔つきをしている。美青年の範疇に入るとは思うが、口を開いたら関西弁丸出しの憎まれ口だ。だが逆にそれが人の気を惹きつける。二重の意味で、この生意気な唇を黙らせてみたいと思う連中が確かにいるのだ。栗色の目、少しだけ染めている明るい髪の色、そして細っこい身体。だがこう見えて、喧嘩には滅法強い。

「あ、分かった。海ちゃんにプレゼントや。あれ、クリスマスに会ったんじゃなかったん?」
 蓮は黙っていた。婚約を破棄してからも続いていた二人のクリスマスの逢瀬が、初めて途絶えた。喧嘩したわけではなく、海が診ている入院患者の容態が悪かったのだ。そういうことはあり得ると言えばあり得ることなのだが、たまたまこれまでは数時間程度の時間を何とか作ることができていただけのことだ。
 そういう仕事をしている、としか言えないし、そういう仕事を選び、続けている海には、彼女なりの優先順位がある。
 天河石に何か気持ちを託そうとした訳ではないのだが、たまたま一階の店で目に入ったのがこの石だった。

 この石を見ていると、ずっと引っかかっていたことが頭の隅で蠢きだす。
「何か気になるん?」
 蓮は舟の目を黙って見つめる。
 一体、こいつは何をしているのだろう。そして、一体何を俺に言えないままでいるのだろう。
「何か腑に落ちないんや」
「何が?」
「あの時……警察を呼んで、神社の裏手から笙子さんのお父さんの遺体を掘り起こした時、何てのか、妙な感じがあったんや」
「妙な感じ?」
「まるで棺を開けているような気がした」

 舟はふーん、という顔をして、少し茶化すように言った。
「棺? 考古学者の発掘みたいやな」
「あの遺体はサンタクロースの衣装の上に寝かされていたように見えた。それから一升瓶が数本。まるで棺にその人が生前に好きやったものを納めるみたいや。幼女連続殺人犯がそんな洒落たことをするとは思えへん」
「それは笙ちゃんのお父さんが自分で埋めたんとちゃうん? 大好きやったお酒の棺として」
「そうだな、そういう話に納まった」

 蓮はじっと舟を見つめたまま、そして舟も答えを知っていて回答者を試すようにじっと蓮を見つめている。
「お前、何かあの子に吹き込んだんやないのか?」
「俺が何を?」
「あの子がまだ小学生にもならない時の記憶がそれほど正確とは思えへん。十五年も前に見た出来事や人の顔なんて、普通は覚えてへん。もしかして何かを見たんやとしても、子どもの彼女がどう解釈してどう記憶したか、記憶ほどあてにならんものはない。今確かな事実は、三澤正興さんが埋められていたこと、あの頃、幼女連続殺人事件があってまだ犯人が捕まってへん、それだけなんや」

「んで、俺が何を吹き込んだって?」
「その時、誰かに追いかけられてなかった? なんて聞いたんとちゃうんか?」
「それで? 俺が誘導尋問で、真実とは全く別物の彼女の記憶をでっち上げたとか? 蓮兄ちゃんは、もしかして、笙ちゃんはもっとショックな場面を見たとか思ってる? たとえば、お父さんは穴を掘る前からもう死んでて、そのお父さんを埋めてたんは、彼女もよく知っている誰かやったとか。そう、例えばおじいちゃんとか、お母さんとかね。だから彼女はショックのあまり、記憶が混乱してる。あるいは別の物語に作り替えて、記憶の引き出しに仕舞っている。で、家族はみんなで庇い合ってるとか」
 微かに笑うような舟の口元が、窓の外からの光で揺らめいて見えていた。

「……なんちゃって」
「お前、誰かに何か頼まれたのか」
「誰に? 安倍家の誰か? あるいは気まぐれな玉櫛婆さんとか? でも、兄ちゃんは笙ちゃんのお母さんと話したんやろ。死を前にした人が嘘つくって思うんか?」
「最後まで何かを守るってこともあるやろ」
「雅楽の家の名誉とか、父親が本当はもっともっとダメな人間だったということを娘に知られたくないとか? だったらそれでもええやん。もしかしてダメ親父でも、間違いを犯した母親でも、笙ちゃんは愛されてたと思うで。そりゃ言葉や行動は伴ってなかったかもしれんけど。それやのに、蓮兄ちゃんは何かを暴きたいんか?」
 蓮にはもう答えることも聞くことも何もなかった。

 何があったのか、鍵となる人物が口をつぐんで墓場まで持っていく覚悟であるなら、もう何も表には出てこないだろう。
 それに、何よりただ蓮の思い過ごしかもしれない。
 あの場所がサンタクロースの棺に見えた、などということは。
「大体、十五年も前のことや。大人だって、正しく記憶しているとは限らへんで。その十五年を過ごす間に、少しずつ記憶が修正されてしもうたかもしれへん。あるいはこんなん勘繰る方がおかしくて、もしかして、全て蓮兄ちゃんや笙ちゃんが聞いた通りかもしれへん。俺は、これが正しい答えやと思うけど」
 こんな時、魁はどうしていたのだろう。刑事だった頃なら、どうしていただろう。そして、刑事を辞めて探偵になった後なら、どうしていたのだろう。
 そしてもしかして、笙子自身、何かを感じながら、全て内に畳み込んだかもしれない。ただ強く生きるために。前を向くために。本当のことを知っているのは、その人自身なのだ。

 舟がふいっとソファから離れた。そして呟くように言う。
「蓮兄ちゃんは、良心であろうとする」
「何やって?」
「白か黒か、自分の中で収めようとするんや。自分の良心が傷つかないように生きてる。だから医者もやめて、和子を引き取って……けど、良心にだけ従ってたら、自分を追い詰めるんとちゃうんか。自分で自分を窮屈にしてるように見える。時々他人にもそれを求める」
 蓮はソファに座り直した。
「じゃあ、お前はどうなんや。俺に何か言うてへんことがあるやろ」

 舟は答えずに蓮の前に回ってきて、手を出した。
「何や」
「それ頂戴」
「石か?」
「海ちゃんやのうて、俺に頂戴。俺に希望を分けてくれてもええやろ」
「女のするもんやぞ」
「だって、兄ちゃん、昔、魁の石を拒否したやろ。それであの親子石は俺らの手から他の人んとこに行ってしもうたんや」
 それもそうだ。

 蓮は天河石を舟の手に載せる。舟の手の上で、天河石が弱い光を返している。太陽の光を受けたなら、虹が見えるはずなのに、今はただ弱く青く揺らめいているだけだ。
「そんなええもんやないで」
「うん、構へん」
 舟は自分でネックレスを首に回す。
 和子がつけているラピスラズリのお守り袋を思い出す。あれから、有難うも嬉しいとも言わないが、和子はほとんど肌身離さずつけてくれていた。

「あ、除夜の鐘や」
 冷えた町の空気を伝わって、今年最後の鐘の音が二人の空間にも届く。小さな箱の中で、ソファも机もベッドも本棚も、小さなペンや流しのコップとスプーンも、まるでおもちゃの作り物のように儚く思える。そして、自分たちもまた、小さな人形のように静かに佇んで、鐘の音を聞いている。
「お前、どっかでひとつ、鐘つかせてもろうた方がええんとちゃうんか。煩悩まみれやろ」
「蓮兄ちゃんこそ」
 そう言って舟はふっと笑う。蓮も何となく笑みを返す。
「ほんなら、俺、もう行くわ。年の始めにハッピーニューイヤーを言う最初の相手が蓮兄ちゃんて、何や悲しいし」
 愛想なく舟は背を向け、階段を降りていく。蓮は手を挙げただけで、何を言えばいいのかも分からない。兄弟で別れる時の挨拶というのは、本当に適当なものがない。もうすぐ新年を迎えるこの時であっても、じゃあ、ああ、だたそれだけだ。

 舟の足音が階段を降りていく途中で、表の扉が開く音が重なった。二階にまで風が舞い込んで来る。
「凌雲先生、今年もおけら参りですか」
 舟の声。
「舟、お前も一緒に行かないのか?」
 穏やかでよく通るハイバリトンの声が、微かな空気の動きと共に伝わってくる。
「遠慮しときます。また大原に行きますよ。やぁ、にこ。風邪ひかないように行ってきぃや」
 待ち人が来たので、蓮もダウンをとって袖を通し、マフラーを掴んだ。階段を降りると、和子と一緒に、大原に住む長身の仏師が蓮を待っている。

 いつも作務衣姿なので、このような普通に一張羅のスーツを着ている格好は珍しい。外国人とは思えないほどに和服も作務衣も似合うのだが、それはこの男が世俗を捨てて仏像制作に、寝食の時間以外のほとんどを当てているからなのかもしれない。
 くすんだ金の髪、青灰色の瞳、見つめられると自分が彼にとっての特別な人間であると勘違いしてしまいそうになる。彼の怖いくらいに整った綺麗な顔を見ていると、神というのはどれほど素晴らしい芸術家なのかと思わずにはいられない。尤も、大方は「いまいち」の作品を作っている気がするのだが。
 どういう出自なのか、彼はまるで語らないが、その立ち姿だけでも、特別な生まれではないかと思わせる。日本に住んですでに十五年は過ぎているというし、もう故郷に帰る気持ちはないのかもしれない。
 少なくとも蓮は、そして多分、舟や和子も、そうであってほしいと願っている。

 大和凌雲という号は、蓮が中学生の時から変わっていない。本名はもう忘れたと本人は言う。
 凌雲は蓮が小学生の時から世話になっている寺の住職の知り合いで、もともと蓮の家庭教師だった。頼るべき両親を失った蓮にとっては、親でもあり兄ともいえる存在だった。魁が頼んだのかどうかは知らないが、根気よく、本当の親以上に我慢強く、蓮の面倒を見てくれた。
 ちなみに凌雲は舟の面倒を見ていてくれたこともあるし、今でも舟は時々大原に行ってこの男を頼っているようだ。そしていつの間にか、和子もこの男には懐くようになっている。

 大晦日から正月三が日を一緒に過ごすようになったのは、いつのころからだったのだろう。蓮が仕事を始めてからは、逆にその三日間以外を共に過ごすことは難しくなった。病院に勤めていた時も、辞めた後でも、蓮の生活は二十四時間何かに当てはめられているからだ。
 それでも、いつもどこかで心配している。特に寒い冬は尚更だ。彼の住む大原の庵は、心を鎮めて仏像を彫るのにはいいのかもしれないが、一人で過ごすには寒すぎる。
 仏像を彫ったまま、いつの間にか息絶えていても分からないのは困ると言って、何とか説き伏せて携帯電話を持ってもらったのは去年のことだった。始めは蓮の名前しかなかった彼の携帯にも、今ではいくつか契約相手の電話番号が登録されている。とは言え、ほとんどの契約相手は昔からの馴染みで、彼がほとんど電話に出ないことを知っているので、直接庵を訪ねてくる。

 八坂神社まで、心臓の病気を持つ和子の足では少ししんどい。それでも途中までは和子は一生懸命歩こうとする。やがて四条大橋を渡った辺りで、和子は蓮ではなく凌雲のオーバーコートの裾を引っ張る。凌雲が和子を抱っこして、そして黙ったまま八坂神社までの道をゆっくりと歩く。
 大晦日の四条通、八坂さんの鳥居の赤に滲む街灯、祇園の赤い灯、往来する人々や通りを往く車でさえもまるで現実のものではないように思える。縄の先についた小さな火を絶やさないようにと、くるくると回しながら行き過ぎる家族連れを、和子は凌雲の肩越しからじっと見つめている。後ろを歩く蓮と目が合うと、きっと唇を引き結び、凌雲の肩に顔を埋める。

 こうして歩いているうちに、いつの間にか新年を迎える。
 ただこうして今年から来年へと、昨年から今年へと当たり前に連続した時を歩いているのだ。それはただ昨日から今日への道でもある。延々と続く時間には、切れ目も区切りもない。
 ただ、道端でカウントダウンをする若者の集団の声で、新しい年になったと分かるだけなのだ。
 ものすごい人出だということは分かっているのに、あのような山の奥に住んでいて人恋しいこともあるのか、凌雲は嫌がらずにこの人混みにもまれている。和子を抱っこしようかと聞くと、まだいいと答えが返ってくる。和子は疲れたともいやだとも言わない。三人ともが、ただ共に歩き、町の人々の賑わいにより何かを共有し、想いを温める時間を必要としていた。

 本殿まで一時間。やっとたどり着いて柏手を打ち、蓮は手を合わせた。
 和子も隣で同じように小さな手を合わせている。
 和子の願いを蓮は知らない。そして蓮の願いも和子は知らない。
 隣で目を閉じる男の願いも、蓮は知らない。
 この多くの人々の願いも、どれほど小さなものも大きなものも、蓮には分からない。それでも、今ここで三人は同じ時間を過ごしている。ここに集う多くの人々もまた、同じ時間の中にいる。
 火縄を買い、そこからさらに一時間ほどもかかって、おけら灯篭から火を貰った。途中で和子が眠ってしまってから、蓮は凌雲の手から和子を受け取る。

 大晦日から元旦とは言え、大原まではもうバスもない時間なので、タクシーに乗った。通りを一本越えるたびに賑わいは遠くなり、建物の屋根も低くなり、やがて家の灯りが疎らになる。山を越えて辺りがほとんど完全に闇にのまれてしまうと、蓮は何故か少しだけ安心した。
 この闇が蓮を隠してくれる。蓮と、凌雲と、和子を。あらゆる悲しみも苦しも届かない場所に包んでくれる。

 凌雲の庵は、ある財閥の隠居が道楽に作ったものだった。凌雲は古い美術品の修復や整理も手掛けている。その財閥の所蔵する美術品の管理を手伝っていた関係で、隠居と懇意にしていたのだが、隠居が亡くなる時に遺言でどうしても凌雲にと言って譲ったのだ。
 もともと大金持ちが清貧なる生活に憧れて作ったものだから、狭くはないが、調度というものはほとんど何もない。有難いのはご隠居が風呂好きで、小さな内風呂と露天風呂、井戸があることだった。それに囲炉裏の間。これを清貧というのかどうかは分からないが。

 大きな土間があるので、凌雲はここを仕事場にしている。修復の対象のほとんどは神社仏閣の宝物で、それ以外の時間はずっと仏像を彫っている。多くは小さな仏で、円空仏にも似たその姿は、優しいようでいてどこか厳しい風情を漂わせている。一体一体彫り進めていくうちに、表情は変わっていくという。柔和になっていくというわけでもない。むしろ、静かな厳しさを漂わせたお顔になっていく。無の境地というのなら、そうかもしれない。
 凌雲が何もかも捨ててこの地に落ち着いている理由を、蓮は全て知っているわけではない。だが、感じることはできる。
 何かを諦め、何かを弔い、命を静かに燃やしている。

 土間の中心に大柄な男性ほどの背丈の阿弥陀如来が座している。半年ほど前から凌雲が手掛けているもので、注文したのはずっと北のほうの村の小さな寺だという。誰にも気が付かれずに、ひっそりと時間を過ごす場所にこそ、この阿弥陀如来は必要とされている。
 八坂さんのおけら灯篭から分けてもらい持ち帰った火縄から、小さな火を囲炉裏に移す。この火で飯を焚いたら、その年は食には困らないのだという。
 和子を囲炉裏の間と続きの小部屋に寝かせて、顔が見えるように板戸を開け放したまま、蓮と凌雲は囲炉裏を挟んで向かい合わせに座っていた。

 ぱちぱちと炭が爆ぜる音以外は何も聞こえない。揺れさざめく火が、凌雲の彫っている阿弥陀如来のお顔を一瞬一瞬変えていく。怒りや哀しみもあれば、優しさや喜びや愛もある。仏にいくつもの顔があるのか、ただ見る者の心によるものなのか。
 蓮にとって、一年でただこの数日、あるいは元旦の太陽を迎えるまでのわずか数時間ほどに充たされた時間はない。何も話さず、何も求めず、ただこうして未完成の御仏に見守られて座っている。

 もしも魂の細胞が始めはひとつで、何かの間違いで割れてしまったのだとしたら、この時だけ、魂がひとつに融け合っていると感じる。惹かれあう親子石のように、強い力で魂が触れ合っている。そこには何もいらない。言葉も、見つめ合う視線も、触れ合う手も、何もいらない。
 ただそこにこの人がいるから、この場所に帰ってこようと思う。
 何があったのだとしても、蓮が崩れてしまわずに立っていられるのは、この時間があるからだ。この時間によって、魂は洗われて、また新しい年を迎える。

 海が婚約を破棄することに同意した理由を、蓮は一度だけ聞いたことがある。
 海は理由を三つ、言った。一つは、蓮が海に対して後ろめたさを持っているからだと言った。蓮が犯した間違いは取り返しがつかないとしても、その間違い自体よりも、卑屈になる蓮を見ているのが嫌だと言ったのだ。そしてもう一つは、海は自分のわがままだと言った。海自身が、結婚して子どもが生まれて家庭に注ぐエネルギーが増えることで、失うものを考えてしまったからだと。
 最後のひとつは、海ははっきりとは言わなかった。ただ、釈迦堂君には私と一緒にいる以上に充たされる場所があるんだよね、と言った。蓮は否定しなかった。自分がいかなる時も、心の内でその時間を求め、その時間があるがゆえに生かされているということを。

 蓮は阿弥陀如来の顔を見上げる。磨かれた木の表に照りかえる囲炉裏の小さな火。火縄の先で燃えていたごく小さな火が、こうして大きくなり、御仏に映り、やがて世界を照らしていく。隣の部屋で眠る小さな和子にも、部屋の片隅に震える小さな虫にも、あまねく光が届く。

 新しい年。
 静かに何かが動き始める。嘘でも幻でも、その歩む足が確かであれば、やがてそこには道ができる。道ができたなら、また一歩を先へと進めていくことができるだろう。
 自らの内にある力を信じることでこそ、希望が生まれる。
「蓮」
「うん……」
「あけましておめでとう」
 蓮は目を閉じた。
 本当に失いたくないものは、今ここに全てある。
「……おめでとう」


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Category: (1)サンタクロース殺人事件(完結)

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【迷探偵マコトの事件簿】(8)あけましておめでとう! 


明けましておめでとうございます!
ブログを始めて1年足らず、何とか挫折せずに年を越すことができました。
地味なブログですが、訪れてくださる皆様方のお蔭さまと、ひとえに感謝申し上げます m(__)m
ありがとうございます!!!!

あと1か月ほどでブログも1歳になります。
またその時にお礼を申し上げなくちゃと思うのですけれど、ここはひとまず、目出度い寿ぎ。
馬は翔けると申しますので、今年、皆様方が心で温めておられる様々な計画が良き発展を遂げられることを、心から祈願いたします。
今年も、よろしくお願いいたします。

まだお年始のご訪問ができていませんので、また後程皆様にご挨拶にお伺いしたいと思います。
が、その前に、うちのマコトから新年のご挨拶です。
ちょっと舌足らずですが、練習したので、聴いてやってくださいませ(*^_^*)



みなしゃま、あけましておめれとーございます。
(タケル、ちゃんと言えたよ!)
(さっさと続きを言いなさい。練習したろ)
きゅうねんちゅうは、えーっと、おせわしました!
(ちがう! しましたじゃなくて、なりました!)
あ、おせわなりました!
(ちょっと一文字抜けてるけど、ま、いいか。はい、続き)
ことしも、えーっと、えーっと、いーっぱい、おせわしてください!
(よろしくおねがいします!)
よろしくおねがいします!

タケル、言えたよ! スキー、行こ!
(だめ、先に皆さんに近況報告しなさい)
スキー~~~!
(後で連れて行ってやるから)
はい。じゃ、キンチョーホウコクしましゅ!
(じゃなくて、キンキョウ! それじゃ蚊取線香だろ)
あ、キンキョウホウコク……しましゅ!……します!

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(イラスト:limeさん:小説ブログ「DOOR」)

冬休み。タケルはちょっとだけお仕事がおやすみなの。
それでね、ぼくね、タケルの大シンユウのいるホッカイドウに来てるんだよ。
えっとね、タケルの大シンユウはすごいおっかないオジーちゃん。
めつきがシュクテキそっくりなんだ。
(今のところ、マコトはびびっています……タケル談)

それでね、それでね。
ここはヒタカコンニャク、じゃなくてサンミャクが見えるボクジョウです!
ボクジュウじゃないよ! 黒じゃなくて、白だから!
(マコト、面白くないよ。てか、お前、よくボクジュウ知ってたね
 え? テレビで見た? 顔に×とか描く? お前、いつの時代のテレビ見たの?)
今日は外野がうるさいでしゅ。……です。
あ、タケルがにらんでる……

とにかくね、ぜんぶまっ白なの!
朝はね、晴れたらキラキラなんだよ。くもってる日の方が多いけど。
でね、ふわっふわなの。
だからぼくみたいにちっさくても、歩いてたら……雪の中に沈んでくの。
ずぶずぶずぶ……って。

まわりが真っ白のような、青いような、キラキラに囲まれるみたいになってく。
マコト!っていつもタケルの声がするの。
だって、ぼく、まっ白の中に埋まっちゃうから、タケルには見えないの。
だから、タケルがぼくの小さい足跡をさがしてくれる。
さがして……ちょっとだけ掘って……
ばふっ! わは、タケルだ!
タケルに抱きついたら、真っ白になったぼくの頭を払ってくれる。

でね、ボクジュウ、じゃなくてボクジョウには、おっきいキョウリュウみたいな生き物がいっぱいいるの!
でも平気! ぼく、強いもん。
(嘘つけ。誰だ、目を回したのは。しかも、いい加減に覚えなさい。馬って教えたろ)
そう、お馬、えっとね、車くらい速く走るの。

そう言えば、今年は午年なんだって。
牛みたいな字なのに、ウマ? なんで?
馬さん、おめでとう!
(チガウの? 馬さんにおめでとう言うんじゃないの?)
でもね、おウマさん、すっごく優しいんだよ。
タケルがいないときは、ウマさんの小屋で遊ぶの。
おかーさんみたいに舐めてくれるよ。

それでね、ぼくね、タケルといっしょにお背中に乗っけてもらうの。
馬さんのお背中はすっごく高いから、すっごく遠くも見えるんだよ。
でも、ずっと向こうまで真っ白なんだ。
ほんとに真っ白。不思議な景色だね~
人間もねこも、とってもちっさくなった気がするの。
……ねこははじめっからちっさいけど……

あとね、犬もいっぱいいるの。
黒くてこわい犬(オオカミ犬のことかな、タケル談)と、白と黒のハンにゃ(にゃ?)みたいな犬(ハスキー犬のことらしい、タケル談)がいっぱい。
あと、でんわのコマーシャルに出てる犬もいるよ!
(でんわのコマーシャル? ……北海道犬のことかな? タケル談)

それからね、おうちの中ではね、こたつ!
こたつに、おみかんと、ねこ!
冬のひっすアイテムなんだって!
でも、ぼく、おみかんは食べないの。
でも、おみかん、ころころ、ころころ、ころころ……前足でキック!
上からばしっ! くるん! ころころ!
あ、遠くに行っちゃった……あ、タケルのシンユウのジーちゃんだ。
食べ物をそまつにしちゃいかん! って怒られるから、逃げよ。
ね、タケル、そまつにしちゃいかん、ってどういう意味?
(大事にしなさい、ってことだよ)
うん(ぼく、大事にころがしてるよ?)。

お昼にはおもちを焼くの。
おもちって、最初はぺっちゃんこなのに、アミの上で焼いたら……
おっきなお化けになるんだよ!
うぅ~~って唸ってたら、タケルが笑うの。
ぱん! ……あ、お化け、消えたよ??

それからね……あ、もうお山に行くんだって!
ぼくはタケルのスキージャケットの中に入れてもらうの。
わ~い、あったかい~
毎日、おうちの近くのふつうのお山みたいなところに行くの。
す~ってタケルが滑って、ぼくはちょっとだけ、顔を出すの。
風が冷たい~! でも、気持ちいい~~!
それで、もう一回お山の上に登るの。
もう一回すべるよ~
わ~い!
ぼくはもうちょっとだけたくさん顔を出す。
そうしたら、自分がスキーやってるみたいなんだよ。
かお、ちべたい~~~!

あ……!
うわ~っ!!!!
お顔、出し過ぎて、タケルのジャケットから飛び出ちゃった!
どすん!
ころんころんころん………
ぐるんぐるんぐるん~~~~~????

何にも見えない~
目が回る~
まくっらなような、まっしろなような……

ごつん! ごきっ!?
おみみ、つめたい~! ちんちんする~
がしゃがしゃがしゃ……掘ってる音??

ばふっ!!
明るくなった!
お空だ!
あ、タケルだ!
わーい。……っと、う、動けない……
からだが雪に埋まってる……
ぼく、ねこだるまになってる!
タケルが笑ってる~~
は、早く出して!

は~、ちめたかった!
それでまたタケルのジャケットの中にもどるの。

今日も疲れたね~
タケルのシンユウのおうちに帰って。
そうしたら、ごちそうが待ってるんだよ!!!!!!
スケトウダラ! ホタテ! カニ! イカ!
親子どんぶり! トリとタマゴじゃないよ! しゃけとイクラの親子どんぶり!
コンブだしのお料理もすご~くおいしいの! もちろん、ぼくはカニ汁!
たくさん食べた~。
はぁ~ お疲れちゃんです! ……もう寝るね。
(こら、ちゃんとあいさつを締めくくって。自分のことばっかり言ってないで)

あ、みなしゃま、ぼくは楽しくホッカイドウで冬休みしてました。
みなしゃまはいかがお過ごしでしたか。
まだまだ寒い日が続きますが、お体、お大事にしてください!
今年もとってもとってもよろしくおねがいしましゅ。
(よくできました。……というわけで、うちのマコトを、今年もよろしくお願いいたします。
 ちなみに、人間の方も、可愛がってやってください……マコトの飼い主のタケルでした。)

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(イラスト:limeさん:小説ブログ「DOOR」)

というわけで、今年もよろしくお願いいたします。
やっぱりねこに挨拶させると、ハチャメチャでしたね^^;
ご容赦ください。
皆様にとって、良き年でありますように。

さて、みなさん。ここから先はマコトの事件簿(10)マコトのX-file……何があったんでしょう?
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Category: 迷探偵マコトの事件簿(猫)

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