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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

2014年11月のつぶやきコーナー 

<Twitter代わりのつぶやきとお知らせのコーナー>
通常の記事は、もうひとつ下から始まります
【海に落ちる雨(123)狂気の行方】更新しました(11/16)
【石紀行】17.宮城石巻・釣石神社と南三陸の震災語り部ツアー(11/15)
【ローマのセレンディピティ・前編】【中編】【後編】ローマが舞台の恋愛小説

2014/11/30
昨日は実家の用事であれこればたばた。今日はこれから法事→滋賀の三味線大会のはしごです。
昨日コメ返&コメ書きしようと思ったのに、この本(漫画)で泣きに泣いて、できなかった(>_<)
今日帰ってきたらお返事&コメ回り?に参りまする!
またね!
 
古いつぶやきは、続きを読むにあります。
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Category: つぶやき

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【雑記・小説】キャラのコンセプト 

薔薇8
先日、薔薇の花を見ながら、ふとうちの某「キャラ」ならこの薔薇かな、などと考えていた……ってなことを書きましたが。
でも、薔薇の花の似合う「キャラ」なんて、やっぱり滅多にいませんよね。
薔薇の花につけられた名前を見ても、王族・皇族の女性か往年の大スターたち。
有名漫画などでは……オスカル(『ヴェルサイユのばら』)やお蝶夫人(『エースをねらえ!』)ならば、薔薇の名前になってもよさそうですね。そう言えば、こちらはオペラですが、「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」という名前の薔薇はありました。

そんなそうそうたる人物と張り合えるキャラ(薔薇の名前になってもよさそうなキャラ)は、うちには1名しかいません。
ジョルジョ・ヴォルテラ=大和竹流です。
財力も権力も美貌も才能も持ち合わせた、うちのキャラたちの中で相当に特異な人物です。どちらかというと、ゴージャスじゃない人物のほうが多いもので……
でも、この人のコンセプトって「非の打ち所のない美形キャラ」ではないのですよ。
というわけで、今日の話題は、「キャラのコンセプト」について、です。
薔薇3
キャラを作り出すとき、明確なコンセプトがあると、はっきりとしたイメージが伝わって、いわゆる「キャラが立つ」ってことになるのかもしれませんね。でも、あっちでもこっちでも「キャラを立たせよう」として、あまりにも「尖ったコンセプト」をくっ付けてあると、物語自体がぎらぎらしすぎて、読んでいてしんどくなるようなこともあったり。
実は「キャラが立つ」という表現があまり好きではないので、コンセプト、という表現を使っているのですが、私など素人の物書きは、書き始めた時と書き終わった時ではずいぶんイメージが変わって、一貫性がなくなっていることもあったりして。それはきっと「キャラが立っていない」と批判を受けることになるのだろうな……
薔薇23
でも、これは書いているうちに思い入れが強くなっていくからなのかもしれませんね。
思い切り悪い奴を書こうと思ったのに、いつのまにか「ほろりといい奴」になっていたりして。
あるいは付き合いが長くなると、書いていて、あ、この人物はこんな人だったか、って改めて気が付いたり。
いや、これは読み手の感想ならいいけれど、書き手が自分で「改めて気が付いて」いちゃダメでしょ、って気もするのですけれど、書き手と登場人物の関係もやっぱり「人間関係」で、少しずつ変わっていくこともあるのですよね。
特に、長編の登場人物は書いているうちに、内面へのめり込みすぎて、微妙に書き手の心情が変わっていくから困りものです。
で、これがプラスの方向へ「意外性が表れる」のなら、読み手も書き手も嬉しいけれど、美しい薔薇には棘がある……
薔薇29
ジョルジョ・ヴォルテラのコンセプトは「天から二物も三物も与えられた完璧な人に見えるのに、実は結構残念な人」というものなのです。
まず、「食べ物にうるさい」。こんな男のところには絶対嫁に行かない方がいいです。
しかも本質は「相当に甘えん坊」。はっきり言って詐欺師です。
確かに、財力も権力もある生まれながら、それを全て投げ捨てて放浪して、自らの腕一本で(色仕掛けも含む)認められて、とてつもなく努力家で才能溢れる人。でも、時々、他人にもその完璧さを求めてしまうところがある。他人の弱さとか情けなさを包み込む優しさがないわけじゃなけれど、どちらかというと厳し過ぎる時がある。
そして、一番の問題は……実は「打たれ弱い」。これは少し先の話ですけれど、だからDV男になってしまったんですね。
もちろん、ただの暴力野郎だと魅力も何もないので、そこは書き手の腕が問われるのだろうなぁ、と思ってはおりますが……
薔薇と噴水
で、真のコンセプトは? 一言でいうと「自然(じねん)」。なるべくしてそうなる、というイメージ。
現代人の皮を被っているけれど、相当に野生で(野性的ではなく、野生)、感覚・感情に左右されやすいため、自分の感情の閾値をあげて何とか堪えている、というひと。

この二人を並べると、「(西洋)文明の叡智」「キリスト教的自己犠牲」の象徴としての竹流(ジョルジョ)と、「あるがまま(野生)」の象徴としての真、というコンセプトで、どこまでも相容れない。
別の表現で言えば、「問い」としての竹流と「答え」としての真。「問い」は「答え」を知らないし、「答え」は「問い」を知らない。これもまた相容れない存在。
だから、「いつまでも幸せに暮らしました」とはならないのです。思い切りくっついたら、次には思い切り反駁する。
それでも、この二人は出会えて幸せだったと思う。そう信じて書いています。

もっと分かりやすいコンセプトを作ればよかった。でも、これも、付き合いの中で紆余曲折してここに至った、という気がします。だって、竹流の出発点は、光源氏とイエス・キリストと『エロイカより愛を込めて』の伯爵だったのですから^^;
そして、こちらは「キャラのコンセプト」ではありませんが……『奇跡を売る店』シリーズ。このシリーズのコンセプトは「もう少し二人を幸せにしてやろう」なのです。いえ、くっつけようという話ではありません。蓮(真)と凌雲(竹流)と和子(にこ……この子は明確に該当する人物はいませんが、次作には少し立ち位置の似た女の子が出てきます)。全く共通項のないバラバラの3人で「家族」のような関係を築いている(あるいは、海も舟も、ついでに石屋の婆さんも)。
そして『迷探偵マコト』のコンセプトは……単なる骨休め、です^^; 

あら、話が迷走しちゃった。
腱鞘炎のせいかも……
満天星紅葉

Category: 小説・バトン

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【雑記・花】薔薇と紅葉の饗宴~須磨離宮公園~ 

薔薇12
2日間、民謡・三味線大会(in 大阪)で民謡三昧になった後、今日は須磨離宮公園に行ってきました。
来週も三味線大会(in 滋賀)なので、練習しなくちゃ、なのに、先週からの左手首腱鞘炎(多分)で、お皿を持つのも大変状態をいいことに、今日は休養。
ブログのお友だち(勝手にお友達^^;)のペチュニアさん(ペチュニア日記②)やかじぺたさん(かじぺたのもっとデンジャラス(そうかも)ゾーン)の素敵なお花記事に触発されて、そうだ!お花を見に行こう!ってことに。
須磨離宮公園4
須磨離宮公園はJRの須磨から歩いて行けるけれど、ちょっと運動、という距離にある、文字通りもと離宮。かつては武庫離宮と呼ばれた場所で、外からはこんもりとした森にしか見えませんが、中は結構広くて、噴水広場や日本庭園、植物園、子どもアスレチックなどもあり、ちょっとしたレストランもあって、入場料400円の元は取れそうな場所です。
須磨離宮公園
実は、この上を通っているのは阪神高速神戸線~第二神明道路。しばしばこの道路を通るものの、公園には行ったことがなかったのです。入ってみたら、公園は高速道路の両側にまたがっていました。
皇帝ダリア
さて、秋です。皇帝ダリアも見事に咲いていました。
そして、秋と言えば、紅葉。もみじ祭り+薔薇ガーデンという二つの見所があるこのシーズン。
薔薇の方は、春と違って、花は一気に咲くのではなく長期にわたって咲くため、見頃の花もそうでないのも入り混じってはいますが、とても綺麗でした。
今日は沢山のアマチュアカメラマンさんがいて、やっぱりいいカメラを持っている人はカッコいいなぁ、なんて思ったけれど、うちのは一眼レフとはいえ古いし、レンズも普通だし……何より、撮り手の腕が(>_<)
でも、せめて秋晴れの空の下、澄んだ空気の中の美しい花々、その雰囲気だけでもお伝えできればと思います。
須磨離宮公園3
まずは薔薇をご堪能くださいませ。
薔薇2
あ。その前に。花の名前は聞かないでくださいね^^; だって、覚えられないし……
綺麗ならいいよね、ってことで。
薔薇4
でも、これは多分チャイコフスキー。うちにもある……こんな綺麗には咲かないけれど(>_<)
薔薇11
こうして競い合って咲くのもよし。
薔薇9
孤高の存在となるのも良し。
薔薇6
秋晴れの高い空と競うのもよし。
薔薇10
はにかみながら、恋の予感に咲き初めし乙女を感じるのも良し。
薔薇22
紅一点となってみるのもよし。
薔薇7
でも、この紅一点、名前はイタリア語の「乾杯」……いえ、別に深い意味はないのですけれど。
薔薇17
黄色は何だか不思議な存在感(金持ちになれそう?)。
薔薇13
和風に決めてみせるのも良し(こちら、椿ではありません)。
薔薇14
そういえば、写真って、やっぱり光が大事ですよね。なかなかうまく撮れないのは、その光の捉え方の研究が足りないからなのかな。でも、こんなふうに、同じ時間に撮っているのに、不思議な色合いになると、ちょっとファンタジーの世界へ滑り込んでしまいそうですね。
薔薇16
でも、光の中の薔薇は、やっぱり百花の王の威厳がありますね(いや、それは牡丹でした)。薔薇に魅せられる人々がいるのは当然ですね。そう言えば、ふと思い出しました。『キャンディ☆キャンディ』のアンソニーは確か薔薇を……(私はテリィ派)。
薔薇18
ブーゲンビリアみたいに見えるものも。
薔薇24
でも、秋の薔薇のいいところは、こうして青い空に映えることでしょうか。
薔薇30
でも、人間の目ってすごいですよね。こうしてたくさん咲き揃うところを目で見たままに写真にするのは本当に難しい。いっぱい咲いてる~って感じがなかなか伝わりませんね。
薔薇19
アップも、綺麗。
薔薇21
やっぱりピンクの薔薇が可愛い(*^_^*)
そうそう、あちこちで匂いを嗅いでみたけれど、自分の庭の薔薇は花はイマイチでも結構匂うような気がするけれど、こうして広い場所で咲いているとよく分からない……温室じゃなくて、秋風が吹きぬけていくから、匂いを持って行かれるのかしら。
薔薇26
黄色い薔薇も競い咲き。
薔薇25
白は光に映えます。
リンカーン
そして、こちらは「ミスター・リンカーン」……ゴージャスな真っ赤な薔薇で、確かに、女性というよりは男性っぽい、少し黒っぽい赤なのです。これを見た時、「ジョルジョ・ヴォルテラ」と呼びたい、と思った親馬鹿な私。
じゃ、マコト(猫じゃないほう)は? うむ。
薔薇20
あまりよく撮れていませんが、この薄紫、どうかしら。真っ白とは言い難いし、かと言って高貴な紫では絶対にないし、この中途半端感がいかにも、という感じで。ま、あの人の場合、花に例えるのは無理があるかも。せいぜい野の花。いや、雑草?
などと、しょうもないことを考えながら、薔薇を楽しんだのでした。
さて、薔薇を楽しんだ後、紅葉は植物園の方に沢山あるというので、噴水広場から高速の下を潜って行くと……あれ?
桜2
桜だ!
桜1
ジュウガツザクラです。背景にちょっと紅葉。秋ならではの景色ですね。
紅葉とサクラ
そして、紅葉です。紅葉こそ、困ります。目で見た景色通りには決して写真には撮れません。そして、これがまた光の加減で、暗くなりすぎたり、枯れたみたいに写ってしまったり。やっぱり人間の目ってすごいなぁ。ひと目千本、と言われる景色がありますが(吉野の桜)、あれも、見た目と写真とではずいぶん違いますよね。
紅葉8
でも。下手なりに頑張ってみました。
紅葉5
ライトアップもしているようです。夜桜もいいですが、紅葉こそライトアップですよね。桜の季節と違って、夕方5時にはもう暗いこの頃。灯りの中に浮かぶ紅葉はまさに夜こそ映えるのでは……
京都に住んでいたころは、紅葉見物、よく夜に色んなお寺に出かけて行きました。
でも、とりあえず、今は太陽の光の元での紅葉をご堪能ください。
紅葉10
太陽の加減で、かなりゴージャスに見えますね。
紅葉2
裏から透ける光を見るのも良し。
紅葉1
面に映える光を感じるのも良し。
紅葉4
ふと思ったのですが、やっぱり紅葉は歌を詠みたくなりますね。俳句じゃなくて和歌。いえ、詠めませんけれど^^;、昔の歌人が紅葉をたくさん詠っているのが分かるわぁ、と。
そして、今まさに見頃? いえ、まだまだこれからの部分もいっぱいあります。
紅葉3
とういわけで、紅葉は写真よりも実物ですね! まだまだこれから見頃の木もたくさんありそう。
きっと皆さまも素敵な秋の景色をお楽しみのことと思います。でも、なかなか出かけられないわ、という皆様に、少し秋の空気をお裾分けできたなら、嬉しいです(*^_^*)
うちの庭の秋は少し寂しいので(ホトトギスもツワブキも地味で、紅葉はまだ紅葉には至らないし)、それはそれでいいのだけれど、今日は思わず晴れやかな秋の花を楽しむことができました(*^_^*)
おまけの薔薇。
薔薇1
薔薇15

Category: ガーデニング・花

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【お誕生日記念掌編】君のために 

お誕生日、記念掌編です。いわゆるサプライズですが、こんなことしてもらったら、結構嬉しい?
けれど……この二人の組み合わせではどうなのよ、って気がしますね。
そして、真のお仕事の一端も少し覗いてみていただけるようになっている、かも?
(いや、どんな仕事してるんだって話になるかも^^;)
そして、かなり珍しい、真の一人称です(*^_^*)(二度とないかもしれない)




 ここのところずっとすれ違っている。
 などと言うと美和ちゃんがあれこれ深読みして喜ぶので、事務所ではそんな話をすることはないが、ふとした拍子に手を止めて考えてしまう。
 もっとも、特別に勘所の働く美和ちゃんに隠し事をしていても無駄だというのは、この一年で学んだことのひとつだ。

 一応俺が所長ということになっている調査事務所は、今は刑務所に入っている俺の元上司のあることないことの宣伝と、残していってくれた情報網のお蔭で、開業以来約一年、今のところ順調にやっていけている。主として失踪人調査、特に未成年の家出やらトラブルを請け負っている関係上、年末が近くなり、人々の心の隙間に風が吹き込むようになると、下請けに使ってくれる弁護士事務所からの依頼も増えて、自然と忙しくなった。

 喧嘩した覚えはないが、もともと多いとは言い難い会話は、互いの仕事の状況によってはほとんど皆無になる。
 誰の話って、つまり、同居人のことだ。
 この季節には、俺は朝出かけて、そのまま夜通し、朝方まで家出少年に付き合うこともあるし、事務所でそのまま寝てしまうことも多い。今日は帰れないと電話をする手間を惜しまなければいいのに、あれこれと忙殺されているうちに機会を逸してしまう。ややこしくならないうちに謝ればいいのだが、こっちだって仕事なのだから、という思いがあると、どうしても素直に言葉は出てこない。

 まるで熟年夫婦のようだと言われそうだが、単にきっかけが掴めないだけなのだ。
 大体、忙しいのは向こうも同じだ。美術品の修復師で、ギャラリーのオーナー、加えて銀座でちょっと有名なイタリアンレストランのオーナーである彼は、この間からはまたどこか北陸の山奥の寺に籠っている。襖絵の修復に出かけているのだ。いつものようについでに趣味の岩登りをしてくるに違いないし、あるいはどこかにいる大切な女のところにも寄っているのかもしれない。

 同居しているとはいえ、特別な約束事があるわけでもない。いや、同居と言うよりは、俺が居候をしているだけなので、向こうの仕事に俺がとやかく言うことは何もない。飯の面倒を見てもらっているだけで、十分に感謝しなければならないのだ。

「先生、聞いてる?」
 ふと気が付くと、目の前に美和ちゃんの顔があった。まだ中学生と言っても通るような童顔だが、都内の名門女子大に通うお嬢様だ。何を間違えて、ヤクザの持ちビルを間借りしているこの事務所の「秘書」などをしているのか、いや、そもそもヤクザの「彼女」になどなってしまったのか、運命というのは彼女にも俺にもままならないものらしい。
 彼女はここ数日何となく落ち着かないようで、珍しく夜はそそくさと帰っていく。彼氏と何かあったのかもしれない。

「え、っと、なんだっけ?」
 俺は別に先生でも何でもない、ただの調査事務所の雇われ所長だ。彼女が俺のことを「先生」と呼ぶのは、そのほうがハードボイルド的にかっこいいから、というだけの理由だ。それに彼女は俺にとって共同経営者であって、「秘書」ではない。これも、ハードボイルド的にかっこいいからだそうだ。……いまひとつ、理解できないが、あえて否定することもないのでそのままにしている。

「今夜、十一時にハチ公前ですよ」
「え? あ、そうか」
 そう言えば、何日か前から「十一時、ハチ公前」と、しつこく繰り返されている。
「で、明日は八時には事務所に戻っていてくださいね」
「あぁ、わかった。で、今日は何だっけ?」
「行けば分かります」

 俺のスケジュールはほぼ百パーセント、美和ちゃんに握られているので、特に気にも留めなかったが、スケジュールの内容を教えられないのは不思議だ、と思う余裕さえなかった。見知らぬ依頼人との待ち合わせがハチ公前ということはないだろうから、見知った情報屋か誰かが待っているのだろう。

 呪文のような「十一時、ハチ公前」をお題目のように繰り返して、美和ちゃんは今日も早々に帰っていった。俺は報告書の仕上げに取り掛かり、問題の時間が近づいてきたので、少し早めに事務所を出た。
 外に出ると思った以上に寒かった。十一月と言えば、陽が落ちるのも早くなり、まだ夕方と思っていたらいつの間にか真っ暗になっている。とは言え、冬というにはまだ抵抗があり、つい薄着で出かけてはあまりの寒さに震える。真冬以上に人肌が恋しいと思う、不思議な季節だ。

 夜の十時。歌舞伎町はこれからが本番だ。この街に生活を合わせていると、二十四時間の感覚がおかしくなる。子どもの頃、北海道の浦河で育った俺は、今でも人類という種としては真っ当な体内時計を持っていると自覚しているので、この街での暮らしがかなり精神を侵しているのではないかと思わなくもないのだが、慣れとは恐ろしいものだ。今では、仕事で地方に出かけると、時々この喧騒が恋しくなる。

 そして逆に習性というものも恐ろしい。どんなに遅く眠っても、五時過ぎには目を覚ましてしまう俺は、仕方がないので居候中のマンションを早朝にこっそり抜け出して、隅田川沿いを走っている。おかげで同居前とは打って変わった健康的な暮らしになっているわけだ。

 知り合いの客引きやホステスと挨拶を交わし、寄って行かないのという声には「また」という曖昧な答えを返して、新宿駅の東口から国鉄に乗り渋谷で降りた。
 駅を三つばかり移動するだけなのに、街の風景や雰囲気はまるきり違ってくる。
 それが東京の面白い所だ。北海道は、隣町に行っても大概は同じような景色だが(少なくとも俺が育った辺りは)、江戸時代には世界有数の人口を誇った街は、それぞれの区域で、古い時代から脈々と受け継いできた独特な雰囲気を培ってきたのだろう。

 渋谷や原宿は得意先(というのも妙な言葉だが)にもあたるので、土地勘はかなりあるほうだ。それでもハチ公にお目にかかるまでに遭遇するトラブルを回避するのは難しかった。
「わ~、マコトちゃんだぁ!」
 東京の謎のひとつは、こんなに広くて、こんなに人が沢山いるというのに、時々思わぬところで思わぬ知り合いに出会うということだ。

「ね、ね、どっかいくの? あ、そうそう、この子、こないだ言ってたミカちゃん」
「ミカで~す。ナナ、このひとって、もしかして」
「ほら、こないだ言ってたタンテイさんだよ。カッコいいでしょ。あたし、カノジョ候補なんだ。あ、マコトちゃん、いまひま?」
 暇というわけではない。ただ少し早めに事務所を出たので、約束の十一時までには小一時間ばかり間があるというだけのことだ。
 それにしてもこの子たちの台詞は、どうして平仮名と片仮名ばかりに聞こえるのだろう。それなのに、妙にインパクトと強引さがある。いや、放っておけない感じ、というのか。

「あのさ、うちのガッコのともだちが、さっきへんなオトコといっしょにちょっとアヤシイお店に入ってったんだ。マコトちゃんのカオ見たら、やっぱり気になってきた。ね、ちょっとつきあってよ」
 そして、一見の印象よりも根はかなり素直で、大人が思う以上に賢明で、友達想いだ。いや、友達と言っても一度話しただけ、という場合すらある。それでも、意気投合して話をしたなら、もうトモダチというわけだ。
 ちなみに、この元家出娘ナナは、かつて依頼を受けて俺が何度も東京の街中を捜しまわったこと複数回、という高校生だ。もちろん、俺は彼女のカレシ候補でもなんでもない。
「ここでマコトちゃんに会えたってことはウンメイだね」

 いまひとつよく分からないが、怪しい店に入っていたというだけなら、相手の男を確認して話をつけるのに半時間もあれば十分だろう。俺はナナの案内でスクランブル交差点を渡り、その先の路地に入り、彼女たち曰くの「アヤシイ店」に付き合った。

 アヤシイ……って。怪しすぎるだろ。
 喫茶店兼パブと称して営業をしているが、中は個室ばかりで、もちろん従業員は個室で何が行われているかを知っていても何も言わないというタイプの店だ。知りませんでした、お客さんのプライバシーですから、と言えば済むが、個室使用料金はそれなりについている。ホテルに入ると目立って困る男女にとっては、有難い場所かもしれない。
「どうする? マコトちゃん」
 どうするって、学校のトモダチってことは高校生だろう。
「アイテ、ちょっとコワそうだったよ」

 選択の余地はない。俺は店長を呼び出し、「警察にばれたら困るだろう、いや、俺は君たちの味方だから、警察沙汰にはしたくないんだけど、ちょっとワケアリの女子高生がここに入っていったのを見たんだ、その子の親はある代議士の関係者らしくてね」などとあることないこと言って(こういう技は、全て元上司の受け売りだ)、ナナのトモダチと相手の男が入っていった部屋に乗り込むことになった。

 しかし、相手の男は「コワそう」どころか、ナナのトモダチの塾の教師だった。確かに一見は強面だが、話を聞くと学生運動の時に顔に傷を負ってしまって、それ故に中身は別にして怖がられてしまう、ということだった。
 何より、二人は本気の恋仲だというのだ。結果的に、薄い壁の向こうから微かに男女の営みの気配が漏れ来る狭い個室のテーブルで、ナナとミカちゃんと俺は、許されぬ恋に嘆くカップルの悩み相談を受ける羽目に……なっている場合じゃない。

 はっと気が付くと、とっくに十一時を回っていた。
 何より、高校生をこんな時間まで遊ばせておくわけにはいかない。俺は教師にとくとくと常識を説明し(一体、何故俺が常識を説かねばならないのだ)、とにかくも今日は家に高校生たちを帰すべきだという結論を突きつけた。ついでに、ナナの提案で、今度「マコトちゃんの事務所でゆっくり話し合おう」ということになった。

 一体なんで俺の事務所だ? きっと美和ちゃんが、まずは呆れてため息をつき、その後で、あの子のことだから、また親身に(あるいは興味津々で)話に首を突っ込んで来るに違いない。
 などと思いを巡らしている余裕はない。
 渋谷駅まで戻り、彼らが改札に入ってくのを確認したうえで、俺は急いでハチ公の元へ行った。冗談じゃない、すでに十一時半になろうとしている。

 ハチ公前はこんな時間でも、待ち合わせらしい人でいっぱいだ。
 だが、俺は思わず足を止め、一瞬だけパニックになった。

 待ち合わせ相手に謝らなければならない、とか、いや何より待ち合わせ相手が誰なのかも聞かされていなかったのだから、とか、そもそも相手を見分けられるのだろうか、などというあれこれは全て吹っ飛んだ。
 人混みのど真ん中にいても、決して紛れてしまうことのない男が、忠犬ハチ公の横に立っている。
 そしてこの状況で、俺の待ち合わせ相手が彼以外の他の誰かである可能性は、ほぼゼロパーセントだった。
 しかも。

 この長身で、絵から抜け出したような金髪碧眼、どこから誰が見てもその美貌で人目を惹く男を、忠犬ハチ公さながらに待たせているのはどんな女だと、周囲の視線が彼に釘付けになっているのは明らかだった。
 まずい。
 とは言え、引き返すこともできない、どうしようもない状況だった。

 すぐに彼は動けないままの突っ立っている俺に気が付いた。
 ……怒っているのではなさそうだが、その後の行動はあまりにも唐突だった。彼はいきなり突っ立っている俺の方へ歩いてきて、腕を掴んだ。
「急ごう」

 え? と思う間もなく、彼、つまり俺の同居人は俺をほとんど引きずるようにして、スクランブル交差点へ急いだ。
 いささか周囲の視線が怖い。誤解を招いてはいけないので断言しておくが、一緒に住んでいるからと言って決してそういう関係ではない。
 以前は俺の家庭教師で、父親の失踪後は俺と妹の保護者でもあり、妹が結婚して家を出てからは、一人でまともに飯を食えない俺を居候させてくれている、そういう関係だ。

 ただ、彼が俺のことを、放っておくと人間社会でまともに生きていけないと思っていることは明らかだった。
 一度は大学一年生の秋、北海道で崖から落ちて生死の境を彷徨った。事故だったのか、あるいは自殺未遂ではないかと言われているが、当の本人である俺には、ある期間の記憶が、今でも抜け落ちたままだ。微かに思い出すのは、彼との間の複雑な感情と、自分がこの世には生きていないような妙な感覚に捕らわれていたことだ。あの時、二週間ばかりも意識がなく、意識を取り戻してからも記憶が混乱していた俺を救い上げてくれたのは、彼だった。

 あと一度は、妹の結婚式で知り合った、少し変わった女と恋に落ちた時だった。彼女には自殺願望があり、俺はその願望と彼女へ憐れみと偽りの愛情に流されて死にかかっていた。あの時も、この男が助けに来てくれなかったら、今ここに俺は生きて存在していないかもしれない。そして、まるで一昔前の芸術家のようなこの恋愛事件が、同居の直接のきっかけだった。
 要するに、放っておくと危ない、ということなのだろう。

 人々が無秩序に行く先を求める交差点を渡り、説明と会話もなく早足で向かいのビル群に向かった。暗い路地に入って、あるビルの勝手口らしいドアで警備員に挨拶をし、誰かに連絡をつけてもらっているようだった。
 この時間にはほとんど営業を停止しているようなビルだ。

 わざわざハチ公前などという目立った待ち合わせ場所で、わざわざ同居している者同士が待ち合わせをしなければならない理由は何だ? そもそもどこかの山奥の寺に籠っているんじゃなかったか? いや、あるいは女のところか。
 と思う間もなく、警備員はビルの中に入れてくれて、従業員用のエレベーターの場所を教えてくれた。薄暗い灯りの中を、急ぎ足のままの彼についてゆき、エレベーターで最上階へ上る。遅れたことを怒っているのかどうか、エレベーターの中でも目を合わすことはなかったが、彼はただ時間を気にしているようで、ひとつずつ大きくなる数字を見つめている。
 やがて最上階に着くと、そこにきちんとスーツを着た男性が待っていた。

「お待ちしておりました。どうぞ」
「済みません。時間が」
「いいえ、明日までにはあと十分ありますから」
 男性は彼に微笑みかけ、そして俺の方にも爽やかな微笑をくれた。
 どう考えてもおかしなシチュエーションなのだが。

 それにここは……
 丸い廊下の内側の扉のひとつが開けられた。
 薄暗い空間だが、従業員通路を通っている間に目は慣れていた。すり鉢状の丸い空間には椅子がずらりと並んでいる。真ん中に大きく真っ暗な無骨な器械が見えている。そして天井は大きなドーム。
 プラネタリウムだ。

 説明も何もなく、二つだけ白い印のある椅子に案内された。もちろん、ドーム内には彼と俺、それに案内の男性以外の誰もいない。
 座った途端、一気に真っ暗になった。
「本日はようこそ当館へお越しくださいました。これから皆様を二十八年前、十一月十六日から十七日の空へ、ご案内いたします」

 始めはその日付けが何なのか、理解できなかった。多分たっぷり数十秒、俺は簡単な引き算を考え込んでいたはずだった。答えが出た時、俺は思わず彼を見た。
 と言っても、真っ暗でほとんど輪郭しか分からないのだが、彼はただ、人工の空を見上げていた。

 そうか。すっかり忘れていたけれど、今日、いや、あと十分ほどで俺の誕生日だったのだ。でも、これは何の演出だ? 女なら喜ぶのだろうが、男の俺にするのはどうなんだ。それにそもそも、こんな時間に一体この男はどういう裏の手を使ってこのプラネタリウムに話をつけたのか(いや、単に金を積んだだけなのかもしれないが)。
 だがそんなあれこれも、真っ暗なドームの天井に星が映し出された途端に、飛んで行ってしまった。

 頭の上を東から西へと渡る天の川。西の空には、低い位置に夏の大三角形が沈み、天頂近くにペガサスの大四辺形が見えた。天頂にはアンドロメダ、南の空にはフォーマルハウト、そして東の空には冬の星座が上がってきている。オリオン座、おうし座、ぎょしゃ座。おうし座の一等星アルデバランが輝いて、その傍らには昴。
 そして、記号しかない満天の小さな星々のひとつひとつ。そのかなりの数を、俺は子どもの頃から伯父に教えられて知っていた。

 昔、この満天の星空はいつも身近にあった。
 北海道の牧場育ちの俺は、夜空には空自体が真っ白に輝くくらいに星があることが当たり前だと思っていた。東京の空を初めて見上げた時、俺はまるきり異世界に来てしまったような感覚になった。それでもこうして長くここに住んでいると、星の少ない空がすっかり当たり前だと感じるようになっていたのかもしれない。いや、そもそも、この街では空を見上げなくなっていた。

 そう言えば、こんな空を、この男と一緒に見上げたことがあった。
 あれは俺が高校を卒業した年だった。アドリア海に浮かぶクルーザーのデッキから見上げた白く輝く星々に満たされた空。空はそのまま海に連なり、波となってクルーザーを包み込んでいた。どんな場所であっても、この男が傍にいれば、俺はこの世に命を繋ぎ止めていられる、そんな気がした。

 案内の男性は何も話さず、すでに気配さえも分からなくなっていた。
 どのくらいの時間、そうしていたのかは分からない。時はゆったりと急ぐこともなく静かに流れ、いつの間にか星座は十一月十七日へと移り変わっていた。

「浦河じゃ、天然のプラネタリウムで、もっとたくさん星が見えるのにな」
 彼が囁いた。俺が答えないままでいると、すっと、彼の手が俺の頭に触れた。
「でも、お前が生まれた日には、東京でもこのくらいの星は見えていただろう。……誕生日おめでとう」
「一体何のまねなんだ?」

 少しだけ沈黙がある。
「お前の生まれた日の空を、一緒に見たかっただけだ」
「そんなことは女に言え」
「馬鹿を言うな。女が相手なら、こんな寒い所には連れてこない。ホテルの最上階、温かい部屋でシャンパンを開けて、星の代わりにネオンの灯った夜景を見ながら乾杯をする、部屋中を薔薇で埋め尽くして、もちろんバスルームにも……」

 勝手に言ってろ。俺はわざと少し音を立てて座り直した。隣で彼は少しの間黙り込み、やがて耳元に囁くような優しい声で言った。
「いや、単に、どうしてお前が生まれた日、お前が小さな子どもだったころ、もしかしてお前が孤独で小さく震えていた頃、俺はお前の傍にいなかったんだろうな、と思って」

 俺はやっぱり答えなかった。
 ……いったいどう答えろというのだろう。

 やがて彼が立ち上がり、俺もそれに続いた。魔法が切れたようにドームの天井から星は消え、案内の男性がドームのドアを開けた時には、世界はまた外へと向かって開かれた。
 通って来た従業員通路を戻り、エレベーターで一階に降りて、警備員に礼を言って外に出る。外ははっとするくらいに寒くなっていて、思わずコートの襟を立てた。もっと暖かい恰好をしてくるんだった。

「でも、少しだけ、感動したろう?」
 自分で言ったら値打ちがないだろうが。
「お礼のキスとかないのか」
 何を間の抜けたことを。
「お礼はあんたの誕生日に考える」
「いつ生まれたかなんて、忘れたよ」
 ほら、自分の誕生日の話になると、そうやってすっとぼける。祝ってくれと言われたこともないし、そもそも四月生まれとは聞いたような気がするが、何日とも聞いたことはない。

「飲みに行こう。ビルの最上階のバーに。ホテルの部屋はとってないけれど」
 俺がほとんど飲めないのを知っているくせに。しかも、部屋もどうでもいい。
「少しくらい、付き合ってくれてもいいだろう」
 そりゃまぁ……たまには……

 彼が路地を歩きだす。
 いつもこうしてチャンスを逸してしまうのだ。たまには、言葉にしなければならないのは分かっているけれど。

 ありがとう。
 俺は聞こえないと思うぎりぎりくらいまで彼が遠ざかってから、ようやく言った。

 彼は、後ろ姿のまま、ほんの少し足を止めたように見えた。いや、それは古い映画のフィルムが一瞬から回りしたくらいの僅かな瞬間で、やはり聞こえてはいなかったかもしれない。聞こえていなくてもいいし、できればその方がありがたい。
 と思ったら、彼が本当に足を止め、半分だけ振り返った。
「早く来い」
 俺はひとつ白い息をついて、彼を追った。少し離れて後を追うくらいが丁度いい距離感なのだが、この頃は彼は並んで歩きたがった。少しは一人前だと認めてくれているのかもしれないけれど。

 路地を出ると、日付が変わった時間とは思えないくらい、通りにはまだ多くの人がいた。スクランブル交差点で交錯する人生の一瞬だ。それぞれの生活と人生を背負って、この交差点に引き寄せられ、また離れていく。小さなエネルギーが交錯し、煌めいては消える。空の星と同じように、この街にも微かな星のきらめきが灯る。
 信号が青になった時もまだその不思議な光景を見つめていたら、彼がすっと俺の肩を抱き寄せるような仕草をして、それから軽く叩いて先を促した。
 俺たちは一緒に、その年の十一月十七日の交差点を渡った。

追記:美和ちゃんがここの所そわそわしていた理由は、翌日、というよりも十一月十七日の夜、判明した。夜八時、事務所に戻ると、有無も言わさず新宿の街の中へ連れ出され、某ショウパブへ(ゲイバーなのだが、ここのチーママ・サクラは事務所のお得意さんでもある)。俺の誕生日会とやらを計画してくれていたのだ。美和ちゃんまでも出演のショウがあり、ゲームがあり、常に誰かが騒ぎまわっていて、正直なところ途中から記憶が曖昧だ。要するに、ただどんちゃん騒ぎする理由が欲しかっただけとしか思えないが……この街で一年、俺も少しだけここに馴染んできたのかもしれない。


 ある仔猫のつぶやき
「おたんじょうびのお祝い、いいなぁ。ぼく、じぶんのおたんじょうび、知らないの」
「そうか……じゃあ、俺と一緒ってのはどうだい。おなじ名前だし、これも何かの縁だから」
「ほんと?」
「あるいは、君が一番大事な人に、初めて出会った日でもいいんじゃないかな」
「う~ん。じゃ、りょうほう、おたんじょうびにする!」
……え?

* 渋谷にあった、閉館してしまった某プラネタリウムがモデルです。

Category: ☆真シリーズ・掌編

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[雨123] 第24章 宝の地図(4)狂気の行方 

【海に落ちる雨】第4節第24章・最終話です。
竹流と最後に一緒にいたはずの男、江田島。実直な役人に見えて、実はどこかに狂気を潜ませたフェルメールの愛好家だった。だがこの男が竹流を痛めつけるほどの理由があるだろうか? 
「私の家に来て、家捜しでもなさったらどうですか。もしかすると、大和竹流を匿っているかもしれませんよ。いや、彼を座敷牢にでも閉じ込めて、夜な夜ないたぶり尽しているかもしれませんからね」
真は誘われるままに彼の家にやってきたが……

【海に落ちる雨】登場人物紹介はこちら→【登場人物紹介】





 江田島家は弥彦の町の外れにあった。古い平屋造りの家屋は、門から玄関までの距離はそれほどでもなかったが、玄関から先は全体像がつかめるような家ではなかった。
 江田島は玄関の鍵を開け、真を誘い入れた。靴の一足も置かれていない土間は大きく、三段上がった先に置かれた衝立には立派な松が描かれている。

 玄関の灯りは点っていたが、人の気配はなかった。
「お一人なのですか」
「両親は亡くなりました」
 江田島はそれだけ言って、真にどうぞと声をかけた。真は促されるままに靴を脱ぎ、奥へ上がった。腰ほどの高さの衝立の右奥は、真っ暗で見えない。

 江田島が左手の廊下を行く後ろを、真はついていった。廊下は縁側のようで、雨戸の閉められたガラス戸に、頼りない光に浮かび上がる二人の影が、移動していく。
 幾つかの部屋を通り過ぎて、不意に立ち止まると、江田島は襖を開けた。音も立たなかったのではないかと思われるほど、一瞬の動作に思えた。先に立って部屋に入った江田島の姿が闇に呑み込まれ、真の視界から、突然気配の全てまでも消えてしまったようだった。

 江田島が部屋の電気をつけたが、オレンジ色にくすんだ灯りは、闇の気配を消し去ることを躊躇しているようだった。
 部屋は六畳ほどの和室で、小さな床の間には山水の描かれた掛軸がかかっている。真ん中に座敷机が置かれていた。江田島はもうひとつ奥の部屋の押入れから座布団を持ってきて、真に勧めた。隣の部屋は明かりもつけないままだったが、さすがに家主の江田島は、闇の中でも自分の行く先が見えているようだ。

「風呂を沸かしてきます。緊張して眠れないくらいなら、敵地でも酒くらいは許されるでしょう。夢の中でなら、願いも叶うかもしれませんよ」
 江田島は真を残して、廊下を引き返していった。真はその後ろ姿が消えるのを確認してから、出された座布団に座った。

 突然、息苦しいほどの静寂が周囲から真を押し包む。
 目を閉じると、どこかから覗かれているような気配が突き上げてきた。真は思わず江田島が出て行った廊下側の襖を見たが、勿論誰もいるはずがない。隣の部屋との仕切りになる襖も、江田島が閉めていったままだった。時計が時を刻む音なのかもしれない。

 しばらくすると、江田島は五合の酒瓶と小さなグラスを持って戻ってきた。
「家捜しする気も起こらないような古い家で驚かれたでしょうね。昨年、寝た切りだった母親が亡くなって、もうそろそろこの家も寿命かと考えていたのですが、色々と事情もあってまだこのままです」
 真は勧められるままにグラスを受け取った。身体の細胞が軋んだ音を立てていて、本来なら真の特殊能力が発揮されてもいいような古い家だったが、神経が磨り減ってしまっているのか、感覚器の域値は随分高い位置に上がってしまっていた。それとも、昨日から何時になく酒を飲みすぎているからなのかもしれない。

 黙ったまま何とかグラスの半分を飲んだ時点では、まだ意識は清明だった。
 時政という若者と本当に同性愛の関係なのか確認したいような気はしたが、よく考えればそのことと竹流の行方は関係もなさそうだったし、敢えて聞くことでもない。
 しばらくすると、風呂が沸いた頃だというので、江田島は真を風呂場へ案内した。断る隙は見い出せないまま、真は風呂を借りた。

 五右衛門風呂ではなかったが、高い天井に灯る明かりは薄暗く、えんじと緑と白のタイルの色は沈んで見えた。身体を洗って湯船に身体を沈めると、不意に皮膚の神経がざわめく。入浴剤か何かの刺激なのか、身体中を愛撫されたような細胞の異様な興奮を感じる。
 逆らえような気配だったのでついてきたわけではなかった。とにかく、真の理解が及ぶ限りでは、今のところ竹流と最後に接触していたのは江田島のようだった。だが、限りなく黒に近い灰色に見える江田島には、決定的に黒と言えるものがなかった。

 唐沢に言わせれば、真の嗅覚が見事に働いているということかもしれない。フェルメールの絵に関わっているとしても、竹流をあのような目に遭わせた人物としては、江田島を疑う要素がなかった。
 不意に、湯気の中に白檀のような香が湧き上がった。
 真は思わず背後を振り返った。

 背後は少しの空間を置いてすぐに壁になっていて、立ち上がって丁度頭の高さになるくらいの位置に窓があった。無論、その窓は閉められていて、外は真っ暗だ。窓を、時々雨が叩いている。風の向きが変わると静かになり、また吹き付けるようにガラス窓を叩く。庭になっているのだろうか、風が舞っているようだった。
 やはり誰かに見られているような気配がした。真の特殊能力からすれば、それがあやかしやら霊の類であってもいいはずだが、どうやらそういうものではないような気がする。

 邪悪なものを感じているわけではない。それはもっと現実的で不安な気配だった。要するに、真がその気配を恐れているのではなく、その気配のほうが真を恐れているような、そんな感じなのだ。
 江田島の持つ気配ではなかった。
 江田島という男は、決められた土俵の中からはみ出さないように、抜け目なく、望んでいることを積み上げていくようなタイプの男に見えるし、緻密に計算した彼自身の理屈は、恐怖や怯えとは関係のない次元で動いている。

 真が風呂から上がって身体を拭いているときに、もう一度、微かな白檀の香りがした。思わずタオルに鼻を近付けてみたが、ただ石鹸のような匂いがするだけだった。
 用意されていた浴衣を着てもとの和室に戻ると、白檀の香りが強くなっていた。机は端に寄せられて、布団が敷かれている。真は白檀の香りを追うように、隣の部屋との境の襖を開けた。

 隣の和室にも小さな火が灯っていて、よく見ればそれは仏壇に供えられた蝋燭の火だった。新しい線香が供えられている。そう言えば、江田島は母親が亡くなったと言っていたし、やはり例の如く、真の神経が過敏になっているだけなのだろう。真は仏壇の前に座り、線香を一本取って、蝋燭から火をもらった。そのまま手を合わせる。
 静かで、柱時計が時を刻む音をベースにして、時折戸を叩く雨の音が短い旋律を奏でていた。

 みしっと、後ろで畳がなった。すっと背筋を撫でられるような空気が澱む。真は振り返りたい衝動を抑えた。
「もう少し、おつき合い頂けますか」
 江田島の淡々とした声が、すぐ後ろから真の身体を縛るように迫った。

 真が立ち上がったとき、江田島が座敷の明かりをつけた。明かりがついてしまうと座敷は思ったほど広くはなかったが、更に左奥も襖になっていたので、開け放てば広い空間になるようだった。
 座敷の中央には一畳分はある大きな机が置かれていて、江田島はそこに酒と幾種類かの漬物が載った鉢を準備した。いつの間にか、江田島は和装になっている。

 真は一旦、もうこれ以上は、と酒を断ったが、江田島はそれを無視した。淡々とした表情で猪口に酒を注ぎ、ひとつを真のほうに差し出した。
 観念した真が、形だけとは言え、猪口を口に運ぶのを見届けてから、江田島は話し始めた。

「私は、私が見た地図が何なのかを確認したまでです。第二次大戦の時に蓮生に持ち込まれた二枚目の絵がそれだったようです。女が貴重な地図だと言ったからには、大和竹流にも貴重な何かなのだろうと思ったのですが、彼は別にどうとも思っていないようでした。彼にとっては、フェルメールをキエフに返すことが問題だったようですね」

 唐突に話し始められて、真はしばらくどういう内容か考えなければならなかった。
「何の地図だったのですか」
「文字通り、宝の地図ですよ。大和竹流は、キエフの老人から報酬を渡されたのでしょう。老人の所有するもっとも貴重なものがそれだったのだろうと、つまり老人は地図の所有権を大和竹流に譲ることで、フェルメールへの彼自身の執着を示したかったのかもしれません。『琥珀の間』の事件をご存知ですか?」
 江田島は、真にそういう知識がないことなど十分承知だと言わんばかりに、真の返事を待たずに先を続けた。

「総重量六トン、十万個の琥珀で飾られたロマノフ王朝の至宝ですよ。もとはプロイセン王のものだったと言いますが、ピョートル大帝が譲り受け、現在のペテルホフ大宮殿、冬宮、夏宮へと移されました。完成したのはエカテリーナ二世の時代で、彼女はこの部屋をこよなく愛して、部外者の入室を許さなかったといいます」
 江田島はふっと天井の方を仰ぎ見た。彼の目が蛍光灯の明かりで黒く深く光ったように見えた。

「想像してください。濃密な赤や蜂蜜色、乳白色、透明な赤、可能な限りの白と赤の色合いが、微妙に変化しながら四方の壁を埋め尽くしている。四方の壁には視覚、聴覚、味覚、触覚と嗅覚、という人間の五感を表したフィレンツェの工房で作られたモザイク画が嵌められていたといいます。この部屋は西側に窓があったそうですから、夕陽が当たるとその窓から赤みを帯びた光が射し込み、部屋自体が黄金に輝いたことでしょう。エカテリーナ二世には十数人の愛人がいたといいいますが、その部屋の中に白い肌と黄金の髪を持つ権力者が立っていれば、誰もが足下に跪いたことでしょうね」

 琥珀色、という表現は分かるとしても、琥珀というもの自体を真剣に見たことなどない真にはよく分からない感慨だった。それを察したのか、江田島は和服の裾から小箱を出してきた。小さな濃い茶色の木箱は手のひらに納まるかどうか、という大きさだった。
 江田島は目だけで、どうぞ、と伝えてきた。

 真は促されるままに小箱を取り上げ、開けると、そこには小さな石のようなものが入っていた。取り出すと、何ともいえない香りが立ち上ったような気がしたが、もちろんそんなはずはない。よく見ると、薔薇の花のような形に削られているが、角はかなり摩滅していた。
「元は植物の樹脂です。およそ五千万年の歳月を経て化石化したもので、ソ連には世界屈指の産地があります。地球の古代の命を閉じ込めた琥珀には、不思議な気が満ちているといいます」

 何か小さい箱のようなものを預かっていたと、竹流がそれを取りに来たと、山梨で会った農家の老人が話していた。真は手の中に古の命の残り香を抱いているような心地で、その琥珀をしばらく見つめていたが、やがてそれを小箱に戻した。

「ナチスがソ連に侵攻した時には、ヒトラーの腹心ゲーリングが、ソビエトからどのような美術品を略奪するかという計画を立てていました。ドイツにとっては、琥珀の間はもともとプロイセンのもの、自分たちのものという考えがあったようですから、当然リストには、この部屋の名前があった。エカテリーナ宮殿からはトラック六台分の美術品が運び出されたといいます。しかし何と言っても琥珀の間は部屋ひとつ分ですからね、戦火から疎開させるにも大変だったことでしょう。一九四一年十月に琥珀の間は解体されて、十一月にはケーニヒスベルグ城に運び込まれました。この城で一九四四年春までは最も重要な展示品として公開されていたといいます。しかし八月にはイギリス軍の空襲を受け、城は崩壊した。ただ、そのときには、城には琥珀の間はなかったといいます。そのまま行方は分からなくなった。戦後直ちにソ連は国家委員会を作って、消失美術品の行方を調査していますが、ケーニヒスベルグ博物館長のローデは琥珀の間は燃えてしまったと証言した。ここから世界の八番目の不思議といわれる琥珀の間の伝説が生まれたわけです」

 真は淡々と歴史的事実を語る江田島の表情を見ていた。時々、江田島の表情の中に微かに影が横切る。座敷机の真上に橙を帯びた電球があり、気配なく揺れているために影が彷徨うのかもしれない。

「ローデはナチ党員ではなく、優れた見識を持つ立派な博物館長だったといいます。彼は、イギリス軍の空襲を事前に知ることが可能な立場にあったともいいますし、琥珀の間の価値を最も深く知っていたからこそ、どこかに、もともとプロイセンで作成された最も重要な部分だけを、安全に保管したのではないかと考える人もいるようです。戦後に詰問されたとき、ローデは『コレクションのうち価値の高いものは疎開させたが、どこに送られたのかは知らない』と答えてもいるようです。もっともそのとき、ローデはアル中だったと言いますから、言葉の信憑性は薄いかもしれません」

 真は小箱の中の琥珀を見つめた。
 これはもともと、地球の持ち物だ。大地が育んだ木々が自らの命の滴を溢れさせて土に還したものだ。それを人間が扱い、別の価値を付加しようとした途端に、残酷な運命を受け入れざるを得なくなる。
 竹流は、この琥珀の運命に対してどういうことを思ったのだろう。

「歴史というものは、あるいは人為によるものであっても、多くの美術品にとって残酷な環境を強いることになる。ローデのような、あるいはヒトラーのような、美術への理解や執着を持った人物がこの事に関わらなかったら、もっと多くの美術品が戦火で焼失することになっていたかもしれません。そう考えると、あの戦争の立役者のひとりが、ヒトラーで良かったとさえ思えます」

 真は思わず自分が不快な表情をしたことを、僅かにひきつった頬の筋肉から感じた。江田島は真の表情を見たのかどうか、子どもを窘めるような、見下すような、どうとも取れる笑みを浮かべたように見えた。

「大和竹流は宝の地図を持っていて、それを担保にフェルメールの絵の真実を解き明かすチャンスを私に諦めろと言ったわけです。あるいは、せめて一目、かの老人に絵を見せてやる時間を融通してくれ、と。私のフェルメールへの愛情を知っているし、理解もしていると、そう言っていました。もちろん、一度事実を知った私の口を封じることが難しいことも知っていたでしょう。だからこそ、力ではなく言葉で私を説得しようとした。だが、あの国に戻った絵が、日本に帰ってくるチャンスはまずないでしょう。あの男は、私を騙そうとしたわけです」

「だが、それはあなたの絵ではない」
「勿論、私の絵ではありません。しかし、そのキエフの老人の絵でもない。人類の宝のひとつです。それに、私は、大和竹流自身がキエフの狡猾な老人に騙されていたのではないかと思っています。あの老人はむしろ宝の地図を取り戻したかったはずですよ。現実を考えれば、フェルメールよりは金になるし、何より象徴として極めて大事なものだったでしょうから」

 真はしばらくの間、黙って江田島の顔を見つめていた。
 確かに、過去に作られた美しいもの、善いものが改めて発見されることは、人類にとって素晴らしいことかもしれない。しかし、もしかすると、ひっそりと暗がりに眠ったまま、手を触れられないままでいるべきものも、あるのではないだろうか。

 真は、りぃさと一緒に見たガラパゴス島の写真を思い出していた。海に潜って海草を食べることによって生き延びようとしたウミイグアナと、陸に留まって落ちてくる果実を待つしかないリクイグアナ。そのリクイグアナがじっと動かずに空を見つめている姿には、胸を摑まれるような痛みを覚える。自然も、時には残酷な命題を、命に迫ろうとする。

 しかし、人間が彼らに迫る命題には、彼らに遺伝子を残すための時間を与えなかった。変化し生き延びる時間のないままに、彼らは滅びていく。人間があの島に足を踏み入れたときから、あの島は予定よりも早くに滅びゆく運命を背負わされたようなものだ。もしも保護をするというなら、人間こそその場を立ち去るしかないはずだった。だから、りぃさは人間のほうが間引きされるべきだと言った。踏み込んではいけない場所があることを、彼女は知っていたのだろう。

 竹流は、ものはあるべきところにあるべきだと思っている、とそう話していた。彼の言葉の中には、触れるべからざるものには触れないという意味が込められていた気がする。心に秘めた思いを、敢えて掘り返してはならないことだってあるのだろう。そして、もしかすると竹流はその老人の本音を知っていて、哀れに思い、騙されてやったのかもしれないとさえ思えた。

「まだ、質問に答えていただいていません。何故、一緒に佐渡へ? そこで何があったのですか」
 江田島は、相変わらず感情の薄い目で真を見つめていた。実直な役人顔という以外に特徴などなさそうに思える江田島の顔の中の、その目だけが別の意思を持っているように感じる。
「契約の手形を受け取りに行った、と話しませんでしたか?」
「契約の手形は、この琥珀ではなかったのですか?」

「琥珀の欠片と、その大元が眠っている場所の地図。確かに十分な手形に思えますが、私は琥珀の間は燃えてしまっているのではないかと思っています。不確実なものに踊らされるつもりはない。キエフの老人は上手く大和竹流の同情心を利用して、世界でも随一と言われている修復師の腕を期待もして、あわよくば蓮生家に預けて隠してあった宝を二枚とも取り戻そうとしたはずです。大和竹流のほうは、恐らく老人の言うことが幾らか辻褄の合っていないことに気が付いて、多分価値の低いと思われた地図のほうで私を諦めさそうとしたのでしょう。あの男も琥珀の間が燃えてしまっていると考えているに違いありませんから。それでも、騙されたふりをして、フェルメールの絵を一目見て死にたいといった老人の言葉だけは信じてやろうとしたんでしょうね。あの男にはそういうところがある。だが、私は価値もない、いい加減なものに踊らされるつもりはありません」

「では、一体……」
 江田島は自ら、酒を猪口に注いだ。江田島の右手の中指にはペンだこがあった。その部分が異様に膨れ上がった影を作っている。真は自分の心臓の不規則な拍動を、咽元にまで感じた。
「佐渡に行った本当の理由は何ですか」
 真は質問の仕方を変えた。心臓の鼓動が咽を締め上げている。

「大和竹流が何を言おうと、私はフェルメールを諦める気はなかった。しかし、もしもフェルメールだけのことなら、彼は命を懸けることもなかったでしょう。なぜなら、それは大事な仕事だったかもしれないが、命を賭けるほどの値打ちはないからです」
「あなたは、一体、竹流に何をしたんですか」
「何も。ただ、道案内をしただけです」

 しばらく、真は江田島の目を見返していたが、初めて得心がいった気がした。
「あなたが、契約の手形を受け取ったと言ったのは、つまりその相手が竹流ではなかったと、そういう意味ですか」
 江田島はようやく少し笑んだように見えた。
「大和竹流は、どうしても手に入れたいものがあったんですよ。そして、私はそれを持っている相手に会う算段をつけてやっただけのことです」
「手に入れたいもの……」

 出掛ける前の竹流の顔を思い出した。いつもなら、どんなにややこしい仕事でも、彼は嬉々として出掛けていっていた。それは、その仕事の向こうに、彼が求める素晴らしいものがあるからだ。だが今回だけは、彼の表情は違っていた。
「明日、佐渡に御案内いたしましょう。それで私の果たした役目はお終いです。それ以上は私には何の関わりもありませんし、どうにかするつもりもありません」

「フェルメールの絵は?」
「フェルメールは大和竹流が持っているはずです。もしくは、彼がそのありかを知っている。そのうち私の手元にやってくると思っています。あの絵と私には運命があると、信じていますから」
 もうお休みください、と江田島は言って、徳利と漬物を片付けると、そのまま姿を消した。すとん、と時間が区切られたような気がした。

 真の心臓は、居た堪れない動悸を繰り返していた。不安、と言えばそうかもしれない。だがこの動悸はただのアドレナリンの過剰分泌の結果だ。身体中の血管が収縮し、汗腺が興奮している。何も触れていないはずの手足の先で、敏感になった痛点が、狂ったような痺れを訴えている。昨夜、草薙に宥められたはずの身体の中心でも、血管が異常な膨張を起こしかけている。普段よりも視力が倍増したように感じ、歪んだ視界は頭の血管をじりじりと締めてきた。

 江田島は何を言っていたのだ。
 それは竹流の身体が、やはり生贄のように『何かに』捧げられたということなのか。あの佐渡の隠れ家の地下にある石の祭壇の上で、彼の身体は不当に傷つけられ、血を流したのだ。岩は血を吸い、艶めかしく鼓動し、あの美しい身体を冷たく凍るような空気で愛撫し、命の核のすぐ傍にまで迫っている。

 真は自分の命の核を預けたはずの男の身に迫る何かを、痛みのように感じながら、冷たい布団の上でただ天井のうねりを睨みつけていた。

(第24章『宝の地図』了)



江田島が本当に隠しているもの、それはフェルメールへの異常なほどの愛着なのか、まだ真実は述べられていないようですね。答えは25章に引き継がれます。

……いよいよ、問題の25章に突入します。
以後、18禁/Rです。苦手な方は印を入れた回はすっ飛ばして読んでいただくことをお勧めします。
多分、あまりのギャップに驚かれるかもしれませんので、かなり覚悟してお読みください。
辛くなったら、詩織ちゃんとロレンツォの不器用なまたは猫耳少年・マコトを思い出していただいて、癒されてください(>_<)

「心配しなくてもいいからね、あとでちゃんと手当てをしてあげるよ。分かるだろう、ただ一緒に楽しみたいだけなんだ。大丈夫、ちゃんとカメラは回してあるよ。もしもそのまま死んじゃっても、君の姿は永遠に残るんだ。苦痛に歪んだこの綺麗な顔をいつでも楽しめるようにね。君は私がどれほどこの時を待っていたか、知らなかっただろうね」

Category: ☂海に落ちる雨 第4節

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【石紀行】17.宮城石巻・釣石神社~大震災でも落ちなかった巨石と南三陸の震災語り部ツアー~ 

釣石2
たった1枚の写真で物語を語る巨石があるとすれば、まさにこの石ではないでしょうか。
もうこれだけで十分、何かを語りかけていますよね。
よくあることですが、この下に立ってみると、写真よりも実物は遥かに迫力があります。
「え? 本当に落ちてこないの?」

確かにこれまでご紹介してきた多くの巨石たち、あるいはまだこれからご紹介する巨石たちの中には、いったいどうしてそのバランスで止まっているの?というような石が沢山あります。有名なのは遠野の続石ですね。
続石
絶妙のバランスで止まっている、そう思える石たち。
でも、この釣石神社の巨石は少し違います。
その答えは、なんてことはないのですけれど、後に置くとして、まずはこの迫力をお楽しみください。
釣石1
見たままの脳内イメージを写真にすると、まさにこういう感じでしょうか。まるで釣り上げられたような巨石ですから、そのまま「釣り石」と呼ばれています。
で、これはどういう場所にあるかというと。
釣石4
このような姿なのです。これはつまり、陰陽の形をとっています。中腹に付き出ている落ちそうな石は男石(陽石)、その下に横たわっているのは女石(陰石)ですね。なので、この神社の御利益は縁結び・夫婦円満・子孫繁栄。祭神は天児屋根命で智慧の神様です。
昭和35年の宮城沖地震の際にも落ちなかったというので、「落ちそうで落ちない石」として合格祈願に訪れる人もたくさん。さらに、釣の字から大漁祈願、あるいは釣石が亀の頭に似ていることから萬年長寿の祈願にも多くの人が参拝しているそうです。
写真右端の階段、途中で少し色が変わっていると思いますが、その白い部分が途切れた少し上の辺りに小さな立札が見えます。
釣石神社4
この階段はものすごく急です。
釣石神社階段
階段を登って行くと、写真の一番上あたりに左手に道があります。
釣石神社からの眺め
北上川が近くに流れていて、葦原が見渡せます。川を渡ってくる風の音を聴くための場所でもあります(日本の音風景百景選にも選ばれている)。茅の輪ならぬ、葦の輪を作って、健康祈願もされているそうす。
階段を写真よりさらに上に登って行くと、小さなお社があります。
釣石神社
階段の上、向かって右手に入っていくと、もうひとつ鳥居と祠があります。古峰神社と書かれています。
釣石神社2
さて、戻っていって、もう一度石を堪能いたしましょう。
釣石!
釣石6
どうみても、確かに「落ちそうで落ちない」……
釣石5
陰石の方は、合格祈願の絵馬が沢山。

さて、落ちない理由ですが、横から見ると分かると思います。前から見ると確かに付き出ていてものすごく危ないバランスに見えるのですが、実は根はしっかりしている、というのか、さらに奥の深い、ものすごく大きな石の一部を見ている、ということのようです。
落ちないには落ちない理由がちゃんとあるのですね。
御利益ももちろんあると思いますが、しっかり勉強して「落ちない理由」をちゃんと作らなければならない、ということです(*^_^*)
釣石側面
上から見たらこんな感じ。はい、さすがに「巨石に登りたい」大海も、もちろん今回は見上げるのみです。イワクラですからね。
釣石7
境内ですが……今はほとんど何もありません。
おそらく、社務所も流されたりしたのでしょう。仮の社務所があり、広場になっていました。
釣石神社社務所
釣石上から
広場の向こうに広がる野っぱら。
実はこの神社から、南三陸の宿泊地まで、ずっとこんな景色でした。
もともとどのくらいの集落があったのかは分かりませんが、家の基礎が明らかに残っている場所もあります。あまりにも綺麗になりすぎていて、本当に切ない景色でした。
でも、今はこの石の力強さをしっかりと心に刻みつけておきたいと思います。
釣石3
次回は、山形県の山寺の隣にある垂水遺跡にご案内いたします。

さて、今回この石巻を通って、宿泊地・南三陸を選んだのは、震災を記憶に留めるというツアーに参加するためでした。南三陸の海、青くて素晴らしい景色でしたが、やはり爪痕は今も残っています。
南三陸
花は、それでも美しく咲いていました。
続きに、南三陸にあるホテル観洋さん主催の「語り部ツアー」で訪れた景色を載せています。
よろしければご覧いただいて、記憶に留めていただければと思います。
そして、この美しい三陸の海、いつかぜひ、実際に目で見て、そしてこの海の幸を味わっていただきたいと思うのです。
南三陸の海

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Category: 石の紀行文(写真つき)

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NEWS 2014/11/15 癒しを求めて…… 

ヤックル-ジジ-坊2
昨日の夜に大仕事をまたひとつ終えて出張先から職場に戻ったら、机の上に書類……あぁ、しんどいなぁと思いながら、なんとかかんとか夜中まで頑張って……なんて日が続いておりましたが、さすがにここまでくると、もともと弱い三半規管が壊れるようで、このところタクシーにも酔う始末。
もう酔わない乗り物は自分の運転する車だけ、かも……
トラベルミンが手放せなくなりました。

今日(いや、もう昨日)は月に一度の姫路出張の日。予想以上に忙しく、業務終了時には前日の疲れも影響して、もうばたんきゅ~状態。でも頼まれていたデータを送るのにUSBを買いにいかなくちゃ。
で、SATYに寄ったら、こんなものが目に入ったのでした(冒頭の写真)。

あぁ、癒されたいと思ったら、ついついまとめ買いしておりました。
え? これは何? 
じゃ、みんな、こっち向いて!
ヤックル-ジジ-坊3
『もののけ姫』のヤックル、『魔女の宅急便』のジジ、『千と千尋の神隠し』の坊ネズミ。
最初は、わ~ジジだぁ、と寄って行ったら、何だかピンクのものが目に入り、お、これは坊! ちょっと珍しいかもと嬉しくなり、さらに棚の奥を覗いたら、ヤックルが転がってた! 
3点とも即お買い上げに走っておりました。
疲れすぎてて、思考力が落ちているらしく、散財モードに。
危ないので、早々に帰りました(職場へ……)。

癒しが少ない今日この頃。こんなもので癒されている私って…・・・・
でも、改めてジブリの底力を感じました。こういう脇役の可愛い(微妙なのもいるけど)生き物たちが魅力なんだなぁ。
今この3匹?を侍らせて記事を書いています。
ヤックル-ジジ-坊
でも、このくらいで癒されるのは、ある意味安上がりかも(*^_^*)

先日書き上げた恋愛小説・『ローマのセレンディピティ』について、ちょっとばかり裏話を。
物語は純粋な恋愛もの。下敷きになっているのは、オードリー・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』。堅物アニキを演じていたのが愛するボギー、ハンフリー・ボガードでした。
思えば昔、白黒映画を3本立てでやってくれる有難い映画館が祇園にあって、頭痛で吐きそうになりながら(閉鎖空間にいるとこうなる)、よく通ったものです。こちらではマニアックな映画もよくやっていて、タルコフスキーに嵌ったのもこの頃。
で。『ローマの休日』も『カサブランカ』もいいんだけれど、この『サブリナ』には恋愛もののエッセンスがギュッと詰まっていました。そう、何より、ハッピーエンドです! 
きっと、この映画に出会わなければたどり着けなかった境地(?)かも。
「恋愛ものはハッピーエンドに限る!?」
あ、読むのは別です。自分が書くのなら。だから『桜の恋人』『天の川で恋をして』もハッピーエンド(*^_^*)
でも、ブログを始めるまで、自分が恋愛小説を書くなんて、思ってもみませんでした。

そして『血脈』ということ。
このお話は、長~い真シリーズの最終章となっていますが、初代の2人が、相反する宗教や文明の壁(?)、立場の相違、ついでに性別の問題(^^;)を超えられなかったので、「われても末に 遭はむとぞ思ふ」になりました。
初代のふたりが出会ったのは、運命というわけではなく、「出会ったから運命が拓けた」というスタンス。
そしてその後の2つの家系の絡みは、切っても切っても切れず……なぜそんなに惹かれあったのか。もう『血』としか言いようがありません。
実はこのイメージにも元ネタがあります。
それは『ドクトル・ジバゴ』……第一次世界大戦~ロシア革命時代が舞台のものすごく壮大な映画です。話せば長いことながら、なので端折りますが、歴史の渦に呑み込まれて出逢い、愛し合い、想い合いながら別れたジバゴとラーラの壮大な愛の物語。
この映画を見た時、あまりの壮大さに「この物語のラストはどこへ行きつくんだ! どう収拾する気なんだ?」と途中からドキドキしていたのです。
ラストに、1人で生きているジバゴとラーラの娘を、彼らの友人が探し当てます(ジバゴ・ラーラの死後)。
このお嬢さん、素敵なバラライカを奏でる。
「誰に習ったんだい?」
「誰に、というわけでもないんです」
「……それじゃあ、血かな」
(台詞はうろ覚えです)
この最後の言葉に、私は映画館で撃沈しました。たった一言で、この壮大な物語をまとめちゃったよ。
ジバゴもバラライカの名手だったのです。
……このイメージがいつまでも頭の中に残っていて、真シリーズが大河ドラマ化していったのかもしれません。
ちなみに、慎一(真の息子)が生涯を共にする女性、ラーラはこのラーラがモデル。

そして、『ローマ教皇』。
真と竹流という存在が生まれた時、私は毎週どころか毎日、礼拝から始まるという生活をしていました。
その頃のローマ教皇はヨハネ・パウロII世。私の中で唯一無二のパパ様でした。今でも一番大事な本棚には、パパ様とマザー・テレサの写真があります。
私はクリスチャンではありませんが、信仰というものを教えてくれた3人の中のおふたり、なのです(もう1人は身近な人です)。しかも、マルタに遺跡を見に行った帰りに、わざわざパパ様のお墓にお参りするためだけにローマに寄ったという変な奴。ちなみに、私の通っていた学校はカソリックではなくプロテスタントだったのですけれど。
その一方で、うちの家はどっぷり浄土真宗。中学生のころからお寺・仏像好きだったので、自然と京都にある大学に……多分、大学生の頃、京都中の相当数のお寺を巡り歩いた(文字通り歩いた)のでした。その頃の私の国内旅行は全てお寺関係だったかも。一番のヒット?は永平寺の宿坊に泊まった時のこと。不思議体験をした場所です。
でも、自分の感覚に一番近いのはアニミズムの世界、八百万の神様、自然崇拝かもしれません。だから今、磐座(イワクラ)、巨石に惹かれているのかも。
ローマ教皇に関しては、現実の世界では代替わりしても、物語の中のローマ教皇のイメージはいつもヨハネ・パウロII世です。実は時間軸としては竹流ことジョルジョが仕えたのが、まさにパパ様です。竹流は、幼い頃自分を愛してくれた教皇(エウジェニオ)の予言通りにこの「異国の教皇」に仕える道を選ぶのですね。

でも。
そんなすべてはどうでもよくて。
本当に、ただの恋愛小説なのです。よろしかったら読んでやってくださいね!

最後に癒しをもうひとつ。
最近、車の中で、彼らのCDをずっとかけています。
大好きで、昔、ポルトガルまでついて行った、ポルトガルギターとマンドリンのデュオ・マリオネットさん。
なかなか予定が合わなくて、長いことコンサートに行けていないなぁ。また行こうっと。
昔も、今も、とてもかっこいいお二人です。

ポルトガルギター:湯淺隆さん、マンドリュート:吉田剛士さん

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【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

有名な崇徳院の歌です。これを聞くと、ついつい「はいからさんが通る」だと思う私は古い?
離れ離れになった恋人とまた必ず会おうと願い誓う恋の歌とも言われますし、鳥羽上皇に強引に譲位させられ後白河天皇との争いに負けて讃岐に流罪となった崇徳院の恨み節(必ず京へ戻るぞ!)とも言われますね。
恋の歌で使われる言葉としては「瀬」とか「岩」というのは強すぎる詞だとも言われています。
つまりそれだけ想いが深い(恋にしても、帝位への想いにしても)ってことなんですね。


件の「はいからさんが通る」ではじいちゃん・ばあちゃんが結ばれなかった想いを孫に託したってお話でしたよね、確か。いや、でもあれは、やっぱり鬼島さんが~(誰もついてきてない……?!)

何の話かというと。
真シリーズの本編をちゃんとアップしないままにこの最後の最後を書いちゃったので、皆様を戸惑わせているような気がしたので、このシリーズを端的に表すものはないかと思いまして、冒頭の歌を上げました。
それぞれの世代には、それぞれのドラマやテーマがあるのですが、全体を貫いているのはこの歌の世界かもしれません。


「ヴォルテラ家=シンデレラ城に住む一族、相川家=どこかの馬の骨」
(登場人物はすべて架空のものであり、実在の人物・団体とはなんら関係ありません)
この2つの家系の間に何度となく恋の花?が咲きかけたんですが、身分違いどころか、性別の問題(あはは^^;)、プライドの問題、宗教の壁、育ってきた文明・文化の違い、病気、などなど障壁が多すぎて、世代を跨いでしばしば絡むのに一向に結ばれることなく、はや1世紀^^;なんてお話なんですよ。

さて、大団円となりますやら。
最後のエンドロールまで、お席を立たれませんように、お願いいたします(*^_^*)




「いや~、惜しかったよ。でも三位入賞だからね。次はいけるよ、きっと」
 工房に行くと、主人が本当に残念そうな声で言った。
 芝居ではないと思いたかったが、どこまで信じればいいのかも分からなかった。

 ロレンツォのお蔭で自分でも最高のものが作れたと思っていた。
 イメージはロレンツォが閲覧を許可してくれた古い本を見ているうちに、天啓のように降りてきた。
 翡翠と真珠を使った東洋の神秘的な意匠のブローチ。真珠はロレンツォのイメージだった。そして翡翠はサルヴァトーレの瞳の色。

 ロレンツォの肌の色は、どちらかと言えば父親と同じで少し浅黒く見える。それでも真っ白な真珠のようだと感じていたのは、その張り詰めた輝きに通じるものがあったからだった。
 そして、サルヴァトーレの瞳は疑うことも無きこの碧だ。玉座に坐す者が身につけたという石の神聖さが、あの瞳の中に宿っていた。
 ここはキリスト教の国だけれど、彼らの姿は日本の寺院で見る観音様のようだと思った。
 この世界に留まり、静かに、皆を守り、救っている。

 イメージが降りてきたのは本のお蔭だけではなかった。
 ロレンツォの言う通り、アイディアが降りてくる場所は意外なところが多いようで、詩織の場合は、それはトイレでもベッドでもなく、台所だった。
 台所を仕切っているヴァネッサは、ヴォルテラ家の兄弟がまだ幼いころからここに勤めていた古い女中だ。噂話はあまりしない人だが、ある時何かの話の流れで昔話が出た。

「お前たち、これ以上つまらない噂話はおよしなさい。でもこれだけは言っておきますよ。昔から坊ちゃまたちは本当に仲がおよろしくてね。ロレンツォ坊ちゃまはいつでもトト坊ちゃまの悪戯を庇っておられたし、トト坊ちゃまはお兄ちゃんの後ろばかり付いて回っておられたんですよ」
 この人の目からは、彼らは何時までも、じゃれ合っている可愛らしい坊ちゃまに見えるらしい。

 今では「じゃれ合う」などとんでもないが、距離を置いていても、何か言い合いっていても、彼らはちゃんとお互いに向き合っている、詩織にはそんなふうに感じられた。彼らはお互いがなくてはならぬ一対のように、どこかもっと深い所で繋がっているのだと思った。
 デザイン画を描きながら、詩織は自分の過去や現在、そして未来までもその中に沈められていくように思い、作品を形にしていきながら、やがてその中から心や魂が浮き上がってくるように感じた。

 本当のところ、他の出品作を見た時、自分の作品が一番いいかもしれないと自信を持ってもいた。だが、それは思い上がりの自己満足だったというわけだ。
 それに、以前、ちらりと誰かに言われたことがある。
 君がイタリア人だったらね。
 そうだ。私は東洋の「ちんちくりんのお嬢ちゃん」なのだ。そう簡単に幸運に手が届くわけじゃない。スタート地点がずっと後ろのほうだとうことを、今になって思い知らされた。
 
 あの日、ロレンツォとサルヴァトーレの会話を立ち聞きしてしまってから、詩織は体調が悪いからという理由で、朝の食事の世話を他の人に代わってもらっていた。一度廊下でロレンツォとすれ違った時、いつものように言葉ではなく気配で呼び止められたような気がしたが、頭を下げて視線を避けてしまった。真っ直ぐ顔を見ることなど、とてもできそうになかった。

 本当は、もしもこのコンテストで優勝したら、そして少しだけでもあの人が喜んでくれたら、もう一度ちゃんと顔を見ることができるかもしれないと思っていた。もう何も期待はしないけれど、せめてちゃんと向かい合いたいと願っていた。
 その願いがぷつん、と切れたような気がした。
 
 そんな気持ちで週末の考古学教室に行ったとき、詩織の直接の上司である助手からいきなり部屋に閉じ込められた。何だかよく分からないが、簡単に言うと、ぼくの気持ちは分かっているよね、という話だった。
 突然全くイタリア語が理解できなくなったような気がして、詩織は相手の急所を蹴りあげて教室を飛び出した。

 流され続けてきた自分を変えようと日本を飛び出した。自分なりに一生懸命に新しい街で生きてきた。言葉を覚え、仕事に生きがいを見出し、そして恋を知った。
 私は勘違いをしていた。気持ちが昂ってしまって、本当の自分よりも自分が大きいのだと勘違いしてしまった。

 狼狽えていて、せっかく直してもらった自転車を置いてきてしまった。
 奇妙なことに、いつの間にかロレンツォが直してくれたのだ。
「若旦那様は手が器用でいらっしゃるからねぇ。そういえば、古い家具だって直しちまわれるんだもの」とは使用人仲間の言だった。
 彼女はまるで詩織の心を読に取ったかのように、ふっと微笑んだ。
「あの人は立派な旦那様になられるよ。口数は少ないけれど、いつも私たちのことを見てくださってる。誰かの体調が悪い時も、さりげなく仕事の加減をしてくださるんだよ。あの仏頂面だけどね」

 そうだ。彼は私に笑ってくれたことなんてないじゃない。いつも怖い顔をしていたし、私はいつも怒られてばかりいた。
 それでも。彼は私を図書室に連れて行ってくれた。笑うことはなかったけれど、ちゃんと夜は眠るようにと言ってくれた。きっと人には知られたくなったはずの秘密の場所を見せてくれた。私が知りたがったからだけれど。
 
 詩織は停留所でバスを待ちながら、空を見上げた。すっかり日が落ちるのが早くなった。黒い影が形を変えながら空を旋回している。秋が深くなって、ムクドリが帰ってきたのだ。
 やがて暗闇が落ちて来て、あの鳥たちも木々に羽根を休める。

 詩織の前にバスが停まった。タラップに足を上げかけて、不意に止まる。
「乗らないのか?」
 太い声で聞かれて、詩織は弾かれたように首を横に振った。
 ばん、と強い音を立てて扉が閉まる。
 ……あの自転車は私にとってとても大事なものだったんだ。

 やっぱり大学へ戻ろうかと少しだけ引き返しかけた時、ふとバス停近くの歩道のワゴンを何気なく覗き込んだ。落ちてきた暗闇の中で、ワゴンに並べられた週刊誌の表紙は電灯に照らされて、アニメーションのようにくっきりと浮かび上がった。
 詩織は凍りついてしまった。

 ロレンツォ・ヴォルテラ、ついに結婚へ

 どの雑誌の表紙にも、同じような内容の赤や黄色の大きな文字が踊っていた。

 私って馬鹿だ。それでもまだ何かを期待していたのだろうか。
 そもそも相手は雲の上にいる。生きている世界も全く違う。
 確かにロレンツォは私のために図書室の扉を開けてくれた。彼と語るための言葉をくれた。そして、私に道を切り開く勇気をくれた。
 でも、それが何だというのだろう。12時は過ぎてしまった。ガラスの靴はもう砕けてしまった。それに、私は荊を切り裂く剣を取り出すための呪文を知らない。

 詩織は人に顔を見られたくなくて、とぼとぼと街を歩いた。夕刻の熱気は今日も街を包み込んでいた。窓からの明かりに惹かれて覗き込んだバールやリストランテでは、賑やかに食事や酒を楽しむ人々の笑顔が見えた。
 広場には身体を寄せ合う恋人たちが、この優しいひと時を分かち合っていた。
 酔っぱらいに声を掛けられたが、無視して歩いた。歩いても歩いてもどこにも着かないような気がしたけれど、ただ歩くしかなかった。

 遅かったと心配してくれた屋敷の人たちに、自転車も壊れて財布も忘れて行って、と言い訳をした時にはまだ平気だった。
 サルヴァトーレは屋敷に居る気配はなかった。ロレンツォの気配を少し遠くに感じたけれども、目を上げることはできなかった。
 詩織は図書室に入り、最近発見した書棚の奥の小さな机の下に潜り込んだ。
 一人になって初めて涙が零れ落ち、そのまま一晩中声を潜めて泣いた。
 机の上では、古い地球儀が世界を閉じ込めて、小さく震えていた。



「東京成田行き、アリタリア航空1122便は、間もなく皆様を機内へご案内いたします」
 イタリア語に続いて日本語のアナウンスが流れた。
 父親は、詩織を勘当すると言ったことなど百パーセント忘れているというのが、母親の感触だった。
 電話をすると、「成田に迎えに行くからってレコーディングの予定をずらしたわよ、ほんと、スタッフもよくあんな勝手な人に付き合っていられるわよね」と言っていた。
 詩織には、母親の忍耐力の方がすごいと思えた。

 間もなく、後方の席の乗客が搭乗を許された。しばらくして前方の席の乗客も並び始めた。
 この街を、この国を去る時間、夢の終わる時間だ。
 詩織は立ち上がった。


 サルヴァトーレというのは救世主という意味だ。
 幼いころ、ただ一度だけその人に会った時、お前はいつかきっと誰か大事な人を救うことになるだろうと言ってくれた。その人は、当時まだ若かったヴォルテラの現当主・ヴィットリオの手を強く握り、この子を頼むと、目に涙を浮かべて言った。
 その時、その人はまだ枢機卿という立場だったが、今は並ぶ者がいない地位に昇りつめた。その人の教皇就任を知った時、サルヴァトーレは自分の運命を感じた。

 いつか、誰にも頼ることができない状況で自分の力で答えを見つけなければならない時が、必ず来るから。
 いつか詩織に言った言葉は、そのまま自分に告げた言葉だった。
 迷いがなかったと言えば嘘になるが、今はもう全てを吹っ切った。清々しく真っ白な心境だった。

 育ての父であったヴィットリオ・ヴォルテラは、黙ってサルヴァトーレの話を聞いていた。そして、いつかこんな日が来るだろうと思っていた、と一言だけ言った。

 傍らでロレンツォは黙っている。
 兄と慕っていたロレンツォの秘かな望みをサルヴァトーレはずっと知っていた。秘められた工房に籠って夜通し魂を削るように作業をする彼を初めて見た時、サルヴァトーレは震えた。それこそが、偉大な先祖であった曽祖父、ジョルジョ・ヴォルテラの血だと思った。
 ヴォルテラを継がなければ、彼は当代一の修復師になっていただろうと言われていた。
 修復師。芸術という神と語る力を持つ者にしか、その道の極みに達することはできない。
 あれから幾度も、その神と語らう兄を見てきた。彼には歩くべき道がある。

 そして、結ばれ得なかった二つの血脈を、一世紀の時を経て結びつけるのは、心から思い合っている二人しかいない。もっとも、この際、血はただの偶然、きっかけに過ぎない。
 いや、偶然も重なれば必然へと繋がるのかもしれない。偶然はおそらくそこかしこに落ちている。要はそれを自分にとって大切なものだと気が付くかどうかだ。その偶然にさえ気が付いてしまったら、荊を切り裂く剣を得て、塔の上に眠る必然という姫君のところまで上っていくことができる。

 本人は気が付いていなかったろうけれど、詩織はいつもロレンツォを見ていた。彼に届こうとしていた。言葉を覚えたのも、自分の仕事を最高の形にしたいと願っていたのも、全て彼に認めてもらいたかったからだ。ダンスやマナーを教えている時も、恐らくは本人は全く無意識に、ロレンツォを夢想していただろう。
 詩織がサルヴァトーレの足を踏んでしまうのは、いつもロレンツォに言われた「悔しいこと」を思い出している時だった。

 そして、将来この家を継ぐことを思って、常に他人に興味を抱くまいと、人との間に線を引いてきたロレンツォが、初めて他人に惹かれる様子も見てきた。あの無表情で相当に分かりにくいから、気が付いていたのは多分、サルヴァトーレと母のエルヴィエールだけだったろう。
 いや、本当のところは、使用人たちだって、みんな気が付いていたかもしれない。何しろ、彼らはずっと自分たち兄弟を見守ってくれていたのだから。

 そう、きっと一番最後に気が付くのは、ロレンツォ本人なのだ。
 この俺が身を引いたのだから、何があってもこの縁は結ばれてくれなければ困る。

 サルヴァトーレは偉大な育ての親を見つめた。
 全ての答えへの道を握っているのはこの人だ。寡黙だが、判断力と決断力についてはこれまでの最高の当主だと言われていた。
 この人から学ぶことはまだ幾らもある。

 やがて、兄弟の父、ヴィットリオは、何もかもを覚悟したような声でロレンツォに向かって言った。
「私の祖父であるジョルジョ・ヴォルテラは、生まれた時から次期当主として教皇にまみえていたヴォルテラの歴史上唯一の人だった。彼は当時の教皇に大変愛されていたが、一度ローマを出奔してしまった。その時彼は、教皇に言われたそうだ。ジョルジョ、私はただ君に幸せでいてもらいたいのだ、と」

 ただ幸せでいてもらいたい。
 それが本当のエウジェニオ(教皇)の予言だった。
 そして、今まさに、時は満ちたのだ。
 ヴィットリオはただ一人の息子に歩み寄り、その左手を取ると、荊と十字架の紋章の指輪をそっと抜いてやった。


 突然の訪問などありえないが、ヴォルテラの次代当主から火急の用事だと聞かされれば、教皇と言えども面会を断ることはできないはずだった。
「ロレンツォ、何かあったのか」
 その人は面会のための礼拝堂に静かに入ってきて呼びかけ、振り返った相手に驚きの表情を隠さなかった。

「トト、一体これはどうしたことだ。何故君が」
 教皇のためだけの礼拝堂に入ることを許されるのは、教皇本人と、その影ともなるべきヴォルテラの当主および次期当主だけだった。
 おそらく誰もがその清貧さに驚くであろう空間には、祭壇と小さな椅子、最低限の装飾、キリストの十字架とペテロの十字架しかなかった。ペテロは、キリストと同じでは恐れ多いと言って、自ら逆さに磔られることを望んだので、その身体は逆さ十字架に磔られていた。
 もう、その覚悟はできている。

「御許可を頂きたく参りました。本来なら、現当主が同席するべきですが、諸般の事情を鑑みて、私が一人でご挨拶に参りました」
 サルヴァトーレは絹の布地を内ポケットから出し、掌の上でそっと広げた。真っ白な絹の上で、荊と十字架のヴォルテラの紋章が刻まれた指輪が、周囲の光を吸い込んで重く、しかし強く、輝いた。
「どうぞ、これを私の指に」
 サルヴァトーレは教皇にそれを差しだし、跪いた。

「一体、ロレンツォはどうしたのだ」
「彼は、エウジェニオの予言を成就するため、あるいは運命を切り拓くために行きました。今頃は空港に。間に合えばいいのですが」
 あの堅物の兄にデリカシーなど期待できない。フライト時間を聞いて初めて狼狽えたような顔をし、慌てて席を外そうとした彼を呼びとめて、小さな箱を投げてやった。
 そう、間に合えばいいが。

 何しろ全く、事はサルヴァトーレの思うようにはいっていなかったのだ。
 サルヴァトーレの予定では、彼が適当に雑誌社や新聞社にあることないことリークした記事に慌てた二人が、想いを伝えあって今頃はハッピーエンドのはずだったのだ。それを、詩織の奴、逃げ出す馬鹿があるか。
 自分の力で答えを出すのは今だというのに。

 教皇はたっぷり一分間は考えを巡らせていたようだったが、やがてサルヴァトーレに歩み寄り、指輪には手を触れることなく、そのまま彼を抱きしめた。
「これがお前の望みなのか」
「私は、あなたが下さった予言を成就するためにここに来ました。私にとって一番大切な人を守り、救うために」

 やがて教皇は指輪を取り、サルヴァトーレの手を握った。
「息子よ、窮屈で残酷で苦しい世界だ」
「えぇ、でも私はもう現世を十分に遊びつくしましたから」
 ようやく教皇は微笑み、愛しい手を取り、その左の薬指に荊と十字架の指輪を託した。サルヴァトーレは教皇の手を取り、口づけた。
「父上、私が生涯、あなたをお守りいたします」


 座席に座り、シートベルトを締めると、ほどなく機体は滑走路へ向かって動き始めた。
 今日もローマの空は高い。
 最後は何もかも失ってしまったけれど、それでも私はこの街が好きだった。

 自転車で走りにくい石畳も、道の脇に転がっている古の建物の柱の欠片も、夏に咲き乱れる夾竹桃の赤や白、人々や鳩が集まる噴水、夕刻にオレンジに染まった広場の熱気、博物館や美術館の廊下に響く靴音、教会の側廊の静かな暗がり。自分勝手でナルシストで、でも陽気でしたたかに生きる人々。
 重い運命を背負いながらも闘い抜こうとするヴォルテラ家の人たち。私を妹のように愛してくれたサルヴァトーレ。
 そして。
 もう考えちゃだめだ。
 機体は滑走路へ機首を向ける。エンジンの音が大きく唸り始める。

 その時だった。
 一旦大きくなったエンジン音が、すとん、と止まった。
 静寂の後、乗客がざわめく。
「当機は、積荷の安全確認のため、一旦ゲートに戻ります。シートベルトは締めたまま、席をお立ちになりませんよう、お願いいたします」

 なんだ、まさかテロか、というようなざわめきが機内を走り抜けた。詩織は緊張した。このところ、事故やテロのニュースも後を絶たない。
 もしそんなものに巻き込まれたとしたら……
 けれども、それもまた運命なのだろうか。

 そう思っているうちに、機体はゲートの近くにまで戻り、停止した後、前方の扉が忙しなく開かれ、如何にも警察官という複数の人間が乗り込んできた。何があったのだろうと思っていると、彼らは詩織の横で立ち止まった。
 え?

「アイカワシオリさん?」
「え? は、はい」
「あなたの荷物を至急調べるようにと通報がありました」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「とにかく降りてください」

 一体この国は何なの。来た時も、出ていく時も、簡単には空港を出れないなんて、一体何の因果なのよ。そんなに私を嫌わなくてもいいでしょうに。せっかく青い空を眺めてセンチメンタルに泣こうと思っていたのに、何なのよ!
 とか何とか思っているうちに、周囲の乗客の「可愛い顔して何をやったのかしら」「コノチンチクリンガテロリスト?」という視線を目一杯浴びながら、詩織はタラップの階段を無理やり下ろされ、しばらくして詩織のスーツケースが機体から放り出されると、警察官は詩織を連行して空港のターミナルの方へ戻り始めた。

 正直、ムカついていた。無理やり下ろされた上に、無実の罪で周囲の人の疑惑の視線を浴び、挙句に何で自分でスーツケースを持たなくちゃならないのよ。
「ちょっと、そっちの都合なんだから、あんたたちが運びなさいよ」
 とかごちゃごちゃ言っているうちに、詩織が乗るはずだった1122便は機体のチェックも適当に、さっさと滑走路へ戻っていってしまった。

「もっとちゃんと調べなくていいの? 私は何もしてないわよ。他に怪しい荷物があるかも知れないじゃない」
 警察官たちは肩を竦めるばかりで、ろくすっぽ何もしようとしない。挙句の果てに詩織を待合に戻し、しばらくここで待つように言って、そのままどこかへ消えてしまった。

 詩織は呆然とした。
 というのか、怪しいなら取り調べをしなさいよ!
 と叫ぶ相手も目の前からいなくなっていて、混乱して座り込んだ。
 これって、何? 私はまた空港のホテル泊まるわけ? で、一体このチケット代はどうなるの?
 そう思いながら途方に暮れて、1122便が消えてしまったゲートを見やった時だった。

 どういうこと?

 見間違えるはずのない背中だった。
 男は飛び立った1122便の方角を見上げたまま、微動だにしない。
 詩織は荷物を引き摺りながら彼に近付いた。

 やがて肩を落として振り返った男は、今度は、これまで詩織が見たことのない驚きの表情を見せて、一瞬飛び下がった。
「な、なんだ、どうして」
「こっちが聞きたいわよ。あなたなのね? 私の荷物が怪しいって、どういうことよ!」
「一体何の話だ?」
「警察官に金を握らせたでしょ」
「はぁ? 何故、私がそんなことを……」
 ロレンツォは急に黙り込んだ。

 それから、息をひとつついた。まるで彼ひとり、得心がいったように見えて、詩織はむっとした。まだ混乱したままの詩織は、突然いつもの落ち着きを取り戻したロレンツォに突っかかった。
 そうよ、私だって、「あ」と「え」以外にもあなたに言いたいことがあるの!
「この期に及んで……」
 結婚するくせに!
 その先の言葉は、強い腕の力でねじ伏せられた。

 もしかすると、これはジェットコースターの最後の坂を登っているところ? 最高と最低の行き来を繰り返し、そしてこれからどこかに落ちていくのだろうか?
 それとも、私、飛行機の中で夢を見ている?
 夢ってどうやって覚ますんだっけ? えっと、ほっぺたをつねるとか原始的な方法でいいのかな?

 けれどもこの匂いは本物だった。油絵具の匂い。いいえ、ロレンツォの匂いだ。冷たい顔をしているのに、この人の胸の中はこんなにも暖かかったのだ。
 やがて大きな手が詩織の両頬を包み込んだ。
 詩織は、その違和感にすぐ気が付いた。
「何?」
「指輪……」

 ロレンツォの左の薬指には、ずっと二つの血脈の間を割いていたあの荊と十字架の指輪がなかった。
 だが、ロレンツォは何か別のことを思ったのか、あぁ、と言って、ポケットから何かを取り出してきた。その頃には、彼の表情は、いつものいささか冷静で味わいのないものに戻っていた。
 表情とは裏腹に彼の指は微かに震えているように見えた。そのロレンツォの綺麗な指が何かを躊躇い、ようやく小さな箱をそっと開ける。

 二人ともが、何となく狐につままれたような顔で相手を見た。
 小さな赤い箱の中には、荊と十字架の指輪ではなく、ピンクダイヤの指輪が光を照り返していた。
 何にしても出来過ぎだ。きっとこれはロレンツォの演出ではない。
 だが、その先の言葉は、ロレンツォの精一杯の気持ちだったに違いない。

「つまりその、君の契約期間はまだ終わっていないし、いや、と言っても、私も家を出なければならなくなったので、契約は別の形になるわけだが、つまり君には、あのナヴォーナ広場近くの工房の上に住んでもらわなければならないかもしれないが。いや、もちろん、私も一緒にということだが……いや、その前に東京に行って、君の父上に……いや、何よりも、君が、その……」
 何だか訳がわからないけれど、今のロレンツォに聞いても、お互いに半分くらいしか理解できないだろう。

 ロレンツォは結局全ての解説を呑み込み、ひとつ息をつくと、暖かいピンクの光を揺らめかせるダイヤの指輪を取り出し、最後に言った。
「これを受け取ってくれるか?」

 全く状況は分からない。でも、たったひとつだけ分かったことがあった。
 いつかサルヴァトーレが言っていた。誰にも頼ることができない状況で自分の力で答えを見つけなければならない時が、必ず来る。
 それが今なのだ。いや、本当は少しだけ遅かったのだろうけれど。
 ならば今、改めてそれを選び取ろう。

 もしもこの人があの家を背負って立つ運命にあるのだとしても、私が東洋のちんちくりんのお嬢ちゃんでも、たとえ釣り合わなくたって、厳しい運命が火を吹いていたって。
 ……私はこんなにもこんなにも、この人が大好きだったんだ。
 詩織は返事の代わりに、もう一度ロレンツォの胸の中に飛び込んだ。

 唐突に目の前で展開した愛の告白シーンの顛末に湧き立つ待合室の大勢の人々の拍手喝采、口笛の音が耳に届いたのは、随分時間が経ってからだった。
 
 今、運命はひとつ先に進んだのだろうか。
 私の血の中にも、この人の血の中にも、幾世代にもわたって近付いては反発し、共に生きることが叶わなかった魂の遺伝子がいくつも眠っている。その血は、螺旋の絡まりのようにお互いを求め合い、今、一世紀もの時を越えて、静かに重ねた手と手の中で、溶けて行こうとしている。
 でも、きっと、運命は背負って生まれてくるものではなく、出会ってから拓けるものなのだ。

(【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ 


お粗末さまでございました。
続きを読む、でぜひ、エンドロールをお楽しみください(*^_^*)
あの猫が、この物語を、別の角度から一言で言い表し、一刀両断してくれます
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Category: ローマのセレンディピティ

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【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇) 

セレンディピティ……「ふとした偶然にひらめきを得て幸運をつかみ取る能力」と定義され、失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつくという教えだと思われます。
ちょっと「偶然の幸運」みたいなイメージがあるけれど、そもそも「たまたまそこに起こっている出来事」の価値に気づく能力がなければ何にもならない、ってことですよね。
この言葉の語源(『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話)によれば……


「王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。例えば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです」
これって……要するに常に聡明であれ、ってことですよね。
(引用:WIKIPEDIA)

ということはともかく。
このお話のタイトルに「セレンディピティ」とつけてあるのは、全くの誇大広告です。
でも、私のイメージの中では、ローマという街は「セレンディピティ」が活躍するチャンスに満ちているように見えるのです。道端のその辺、あちこちに転がる遺跡を見ていると……(そんな意味じゃないけど^^;)


さて、今回はこんなお話です。
美女と野獣図書室3
大好きなこのシーンをイメージしながら書きました。
お楽しみください(*^_^*)




 一年の月日は詩織の環境も性質も大きく変えていった。いや、人間の性質など、成人してからはそう変わるものではないだろうから、ただ自分をどう表現するかということが変わっただけなのかもしれない。
 詩織はずっと自分を小さく見せて生きてきた。だが、この街で生きていくには、自分を大きく見せなければならないことに気が付いた。

 それを教えてくれたのはサルヴァトーレだった。
 そのままで君は魅力的だけれど、君のことを人に知ってもらうためには、もっと自分の気持ち、たとえば嬉しいとか、悲しいとか、好きだとか嫌いだとか、大切に思っているとか、そういうちょっとしたことでいいんだから、それを表現して見せなきゃ、と。

 彼は不特定多数の女性にそんなふうに優しい言葉をかけているのだろうが、それでも、詩織には心強い指南書が与えられたようなものだった。このことは工房での仕事に大きなプラスとなっていた。
 もっと自由に! もっと繊細に! しかし、大胆に!
 どっちなんだと思うけれど、これが工房の主人の口癖だった。

 サルヴァトーレの方も詩織の頑張りを見て、これまで以上に好意的に優しく詩織を応援してくれるようになった。言葉の発音を「上流社会風に」直し、上流社会のマナーを教え、着こなしや立ち居振る舞い、ダンスの特訓までしてくれるようになった。
 時には身分が必要ではない公的な場にも連れ出してくれ、詩織のことを皆に紹介し、世界を広げてくれた。
 彼はいつでも詩織の支えだった。

「今度は『マイ・フェア・レディ』みたい」
 初めて出会った時は『ローマの休日』だった。
 踊りながら詩織が呟くと、サルヴァトーレは詩織を抱き寄せた。
「ヒギンズ教授は自分が見出した花売り娘に恋をしてるよ」
 詩織の心臓は跳ね上がった。

 二人の気持ちが接近したのは、ある日曜日のことだった。
 日曜日は皆が教会に出かけて行く。その時間は詩織の自由時間で、給料で手に入れた自転車で博物館や美術館を回っていたが、その日曜日は出かけることができなかった。
 昨日、自転車が壊れてしまって、発掘現場に置いてきてしまったのだ。徒歩やバスで出かけてしまうと、皆が帰ってくる時間に戻って来ることができない。

 仕方なく、詩織はヴォルテラの広い庭の中を歩き回っていた。
 回遊式の素晴らしい庭園だった。小高い丘が作られ、ある方向から見ると、木々や花々はイギリスの庭園のように自由で自然に感じられるように配置され、別の方向からは日本の庭園のように見事に整備して自然を切り取ってあった。水が流れるように設計されたカスケードがあり、丘の脇からはグロットに入り込めるようになっている。

 そしてジャルディーノ・セグレト、隠れた庭。周囲からは見えないように隠された庭は、以前にサルヴァトーレが教えてくれた、文字通り小さな隠れ家だった。
 その日、二面を土塀によって遮られた小さな庭には、先客がいた。
 教会に出かけたと思っていたサルヴァトーレが、土塀に背中を預けて空を見上げていたのだ。詩織に気が付くと、彼は二人掛けの小さなベンチの隣を示した。
 詩織は言われるままに隣に座った。

「教会に行かないの?」
「あれはヴォルテラの当主と次代当主の仕事だからね。特に今日は」
「仕事?」
 サルヴァトーレにしては珍しいことに、言葉は少なかった。

 そう言えば、月に一度、ヴィットリオとロレンツォが特別な正装で教会に出かけていく日があった。その日に限って、サルヴァトーレは教会には行かず、遊びに行っては女中頭からお小言を言われていた。
 もっとも、詩織の目からは、サルヴァトーレは最も教会からは遠い場所にいるように見えた。無神論者ではないだろうけれど、神を信じているようには見えなかった。彼はきっと自分を信じているのだ。自分と、家族だけを。

「詩織は、自分がどこから来たのかってことが気になる? つまり、自分のルーツというのか」
 唐突に尋ねられて、詩織は思わず彼のエメラルド色の瞳を見つめた。いつも詩織を温かく見守ってくれている綺麗な色が、深く沈んで見えた。

 サルヴァトーレ、私はそれを確かめたくてこの街に来たの。
 そう答えかけた詩織の唇に、いきなり暖かいものが触れた。
 サルヴァトーレの手は詩織の頭を優しく抱き寄せ、次には力強く身体を抱きしめてきた。詩織の身体はすっぽりと彼の身体に納まってしまった。
 詩織はそっとサルヴァトーレの背中に腕を回して抱き締めた。

 それから昼過ぎまで、二人で何も言わずに手を握り合ってベンチに座っていた。
 いつも明るく華やかな男だった。よく喋り、よく動き回り、人を明るい方向へ巻き込んでいく。そんな男がただ黙って自分の傍にいる。
 胸の中が、暖かく不思議な気持ちで充たされていった。

 だが、二人の接近に対して、周囲の動きは恐ろしく早かった。
 何をどう聞きつけたのか、まず詩織の父親が東京からすっ飛んできた。
 父親はヴォルテラの当主に「監督がなってない」とか何とか言って食ってかかり、詩織は来た時と同じくらいにあっという間に、訳も分からないうちに東京に連れ戻された。

 東京で、生まれて初めて真正面からの父親との一悶着の後に、「もしもまたローマに行く気なら勘当だ」という言葉を背中に、覚悟を決めてローマに戻った。
 父親の非礼を詫びるため、そして一応は雇用契約を結んでいたのに勝手に破棄してしまったことを詫びるためにヴォルテラ家を訪ねた時、サルヴァトーレはもうそこにはいなかった。

 ニューヨークにいると聞かされたが、いつまで向こうにいるのか、何のために行ったのかなど、細かい事情は何も教えて貰えなかった。
 居場所は誰も隠そうとしなかったので、追いかけようと思えば追いかけることができた。だが、ニューヨークまで彼を追いかける足は意外な方法で止められた。

 ヴォルテラ家は詩織を解雇したわけではないというし、工房からも大学からもいつ再出勤するのかという連絡が相次いであった。
 まるで詩織の父親が一人で騒ぎ立てていただけとでも言うように、ローマでの生活が、以前と同じように再開された。
違っていたのは、傍にサルヴァトーレがいないことだけだった。

 囲い込んだ方が二人を見張ることができる、ということだったのか、その事情は勘繰らざるを得なかったが、その後もどこからともなく漏れ来るサルヴァトーレの噂は、詩織の心をきゅっと締め付けた。
 アメリカでハリウッド女優と浮名を流していることを知った時は、やはり自分は弄ばれただけだったのかと思い直した。つまり、詩織が勝手にプレイボーイに片想いをしただけのこと、という図式になっているのだろう。

 でも。
 彼に抱きしめられたときに感じたあの感情は何だったろう。キスと、そして何時間も手を繋いでお互いを感じ合っていたはずのあの時間は。
 初めての「恋」だったので、それが何なのか、詩織には感情の中身を分類するためのデータがなかった。

 だが冷静になって考えてみれば、この家と日本人の小娘では釣り合わない。当たり前だ。
 それでも、詩織はあの無言で手を握りしめてくれた温もりは忘れることができなかった。

 それに、嬉しいこともあった。成田を発つ前の夜、あまり接点が無くなっていた姉の皐月が、一人暮らしのアパートに泊めてくれた。
 姉妹は初めて恋について語り合った。

 姉の恋の話は、詩織も何となく知っていたが、本人から直接聞いたのは初めてだった。
 ずっと前から姉は親子ほども歳の離れた相手を恋していた。父親のバンドのメンバーで、よく家に遊びに来ている人だ。昔、苦しい恋をして、まだその相手を忘れられないでいるし、躁うつ病で苦しんでもいる。彼は今も一人身だが、皐月が恋を成就するのは、年齢差と父親という障壁がなくても難しそうだ。

「こっちには何も言わないのに、詩織には実力行使かぁ。ま、私は仕事に生きるつもりだけど。なんにしても姉妹揃って、もう少しましな相手に恋をしろってとこね」
 成田まで見送ってくれた皐月は別れ際に言った。
「あんたを見直したわ。今度、夏休みが取れたらローマに遊びに行ってもいい? 期待薄だけど」

 言葉通り、皐月がローマに来ることは今は難しそうだった。けれど、時々メールのやり取りをするようになった。
 頑張ろうと思った。姉のように、いつか父親に仕事の面で認めてもらいたいと思った。いつか娘だからではなく仕事人として、シオリにジャケットデザインを頼みたいと言ってもらいたかった。少し分野は違うけれど。

 ジュエリー工房の主人に勧められて、デザインコンテストの準備も始めた。時間があまりなかったので、眠らずにあれこれ考える日もあった。ローマ地下遺跡ツアーの企画・案内状作りも任されるようになった。
 沈んだ気持ちとは裏腹に、仕事は順調に前に進み始めていた。

 屋敷の中では、相変わらず辛辣なロレンツォに対して、少なくとも言い分がある時には口答えもできるくらいにイタリア語も達者になった。
 面白いことにこの家の使用人たちは、主人に対してでも、間違っていることは間違っていると指摘する。そういう風潮はもう何代も前からの伝統のようだった。だから詩織も、当然のようにそれに倣ったのだが、ロレンツォには意外だったようだ。
 少しずつではあるが、この男に自分の努力の成果を認めさせることができていると感じることは、何となく嬉しかった。

 改めて見つめてみると、当主のヴィットリオはもちろんだが、次代当主とされるロレンツォの生活にもまるきり「私」の部分がなかった。家にいてさえも一時も休まる時間がないように何かに追われている背中は、実際の体格からは考えられないほどに、時折驚くほどやつれて見えた。

 そんなある日、工房の帰りに意外な場所でロレンツォを見かけた。
 身をやつしていたので始めは気が付かなかったのだが、少し前を歩くその背中を見て、あ、と思った。

 他意はなかったのだが、自然に後をつけていた。そもそもサルヴァトーレ以外のヴォルテラ家の者が、共の一人もなく歩いているのは不可解だった。しかも彼は次代当主だ。
 ロレンツォは石畳の狭い路地に入っていき、少し遅れて路地を覗き込んだ詩織が見た時には、どこかの家の前に立っていた。やがてその扉が開き、中へ入っていく。
 扉が閉まってからその場所へ行ってみたが、番地のみで名前の表示はなかった。

 その他人目を忍ぶ様子から、愛人でもいるのかもしれないと思った。
 いや、彼は結婚しているわけではないのだから、恋人の一人くらいいて悪いわけでもない。だがあのお堅いロレンツォが、と思うと、意外だった。
 あんなむっつりとした顔をしていながら、本当は、「身分違いの恋」ってやつに身を焼いているのかもしれない。
 ……やっぱり意外過ぎるけれど。

 そんなものを覗き見してどうするのだと思ったが、何となく気になって、工房の帰りにはいつもその道を通るようにしていると、週に一度はロレンツォを見かけるようになった。
 相変わらず彼が入っていく家の主は分からないままだったが、ある日、彼がその家から三歳くらいの子どもと一緒に出てくるのを見た時、詩織は仰天した。
 まさか、隠し子までいるのか。

 そういうことならもう追求しない方がいいかもしれない、と冷静に考えてみたが、詩織はその時の自分の強い感情の揺れ動きにパニックになった。
 でも、そんなはずないじゃない。
 
 だが、ヴォルテラの屋敷で彼の身の回りの世話をする時には、意識をしないではいられなかった。ロレンツォは何も言わなかったが、時折怪訝な表情で詩織を見ていた。
 詩織の仕事に対するロレンツォの苦言は減っていたので、彼との間に会話は少なくなっていた。それが妙に寂しいなんて、奇妙な感情だと思った。

「君」
 ある時、部屋を出ていきかけて呼び止められた。私には詩織って名前があるんだからと思ったが、やむを得ず振り返ると、ロレンツォはいつもの怜悧で感情の薄い表情で詩織を見ていた。
 黒に近い鳶色の髪に深い青灰色の瞳。改めて見つめると、この家の人間はみな、本当に整った顔をしていた。でも、一瞬感じたこのデジャヴは何だろう? この瞳はいつかどこかで見たような気がする。……妙に懐かしい気持ちになった。
「何でしょうか」
「デザインコンテストの作品はどうだ?」
「え?」
「順調に進んでいるのかと聞いている」

 詩織がぽかんとしたままロレンツォの顔を見ていると、溜息をついて立ち上がった彼は、詩織の脇をすり抜けるように部屋を出て行った。詩織が呆然と彼を見送っていると、暗い廊下で立ち止まり、半分だけ振り返る。言葉はなかったが、無言の圧力だけを感じる。
「あ」
 小さく呟いて、詩織は彼の後ろをついて行った。

 連れて行かれたのは、詩織も入ったことのない扉の前だった。
 そもそもこの屋敷の中には詩織が入ったことのない部屋がいくつもあるのだが、大体何があるのかは分かっていた。ただ、詩織のような下っ端の使用人が不用意に入ることができない部屋がいくつもあり、ここはその一つだった。

 観音開きの重く背の高い扉を押し開け、彼が明かりを付けたとき、予想以上の広い空間と、中二階に当たる部分にぐるりと巡らされたバルコニー状の通路、そこへ登る階段の見事な造形、そして何よりも、二階分はある天井の高さまで壁いっぱいに並べられた本の宇宙が、いきなり詩織の視界を埋め尽くした。
 詩織は口を開けたまま、その宇宙に充たされ、気持ちが震えるのを感じた。

 まさに、与那国の海底遺跡を初めて目にしたとき、ローマの地下遺跡に初めて潜った時の感動と同じものが身体を貫いていったのだ。
 見慣れているロレンツォには詩織のその感動は伝わらなかっただろうが、彼は三百六十度を見回して唖然としたままの詩織の邪魔をしなかった。少し間を置いてから詩織を誘い、本棚の一角へ連れていく。

「この辺りが世界各国に伝わる古い意匠の本だ。参考になるだろう。これはケルトの意匠、こっちはアイヌやインディアン、アボリジニ……考古学書はこのあたり、そっちの棚にはローマ中の教会の装飾の写真、それから」
「あ、あの……」
 ロレンツォは一冊の本を取り上げた。それを手渡してくれる時、彼の指が詩織の手に触れた。

 冷たく乾いた手だった。左の薬指にはヴォルテラの紋章。荊と十字架だ。
 その時、詩織は不意に何かを理解したように思った。
 荊と十字架。これによって、この家の人間と、相川の家の間に横たわる川は深く残酷で、誰一人としてこれを越えることができなかった。
 詩織のような一般人には理解できないが、古い街や古い家、そしておそらくは古から続く秩序を保とうとするあらゆる集団・集合体は、こうして何かを頑なに固持し、自分たちの懐にある人々をあらゆる外力から守りぬく使命を負っている。そのためには自らの命も、良心さえも差し出すのだ。
 そして今度は、この人がこの家を背負って立つ、人柱になろうとしている。

 だが、ロレンツォの表情はいつものように淡々と冷たく、静かだった。この表情は、自らの運命に対して何ひとつ苦悩も苦痛も感じていないと語っているようだった。
「これは古い時代の宝石の加工技術法について書かれている。宝石の性質を実によく記してあるから、君の役に立つだろう」

 その時、本の匂いに混じって、ふと何か不思議な匂いがした。
 オイルのにおいだ。それも特殊なにおい。これ……油絵具だ。

「好きな時に入っていいが、夢中になりすぎて根を生やさないように。それから、夜は寝た方がいい。いいアイディアは眠らずに考えても生まれてくるものではない。トイレ、ベッドの中、通勤の自転車の上、中国の思想家がそう言っている」
 今のは冗談だったのだろうかと思う間もなく、詩織を置いてロレンツォは部屋に戻ってしまった。

 そもそも私がデザインコンテストの準備をしているなんて、どうやって知ったのだろう? もちろん、工房の主人からには違いないが、ロレンツォと主人の間に日常的な接点があるとは思い難かった。
 ならば、わざわざ聞き出してくれたのだろうか。
 いや、単に使用人の動向を確認するのは、屋敷を守る主人としては当たり前なのかもしれないけれど。

 それでも、詩織は嬉しかった。図書室に入れて貰えたことではない。何が、と聞かれても上手く自分の気持ちを言うことはできなかったけれど。
 本の世界は現実の世界と同じくらいに深くて広かった。ここには何でも揃っていた。それにイタリア語を理解できる今では、書かれている内容も相当に把握することができた。

 しばらくの間はあの奇妙なロレンツォの「愛人の家」のことは忘れていたが、何とかデザインの最終案を練り上げて、後は製作にかかるだけになった時、工房の帰りにまたロレンツォを見かけた。

 夕陽でオレンジに染められた石畳の上に、ロレンツォの長い影がくっきりと浮かび上がっていた。
 足元が幾らか頼りない。酔っているのかもしれない。どれほど酒を飲んでいても、屋敷の中では顔にも態度にも出ないロレンツォには珍しい姿だった。
 彼は路地から出て少し歩き、ナヴォーナ広場近くの教会に入っていった。
 何かに惹きつけられるように詩織は小さな教会の前に自転車を止め、それからロレンツォが入っていった扉をしばらく見つめていたが、やがて意を決して中に入った。

 小さなフランス人教会の中には、祭壇に向かって中心を割る通路の両側に木のベンチが並んでいた。三廊式で五つの礼拝堂を持っている。薄暗い堂内でも、天井の白と金は内に光を溜め込んでいるようで、仄かな輝きを失っていなかった。ここは、ある絵を見るために、詩織も何度も来たことがある教会だった。
 薄暗い堂内では、すぐにはロレンツォの居場所は分からなかったが、多分そこに違いないと左側廊のコンタレッリ礼拝堂の方を覗くと、礼拝堂の外の柱に凭れてロレンツォが立っていた。

 ……なんて美しい横顔なのかと思った。
 彫りの深い顔立ちには、サルヴァトーレのような華やかさはないが、無音の音楽がそこに凍りついているような静けさがあった。何かを語りたくても語れない、語るまいと決めている薄い唇も、張り詰めた感情を完全に包み込む頬も。
 その横顔は、どこからか漏れ来る光の加減で、まるで真珠のように見えた。

 暗くても遠くても、身なりを変えていても、詩織は自分が彼を見分けられることに、もうとっくに気が付いていた。冷たく、感情を全く表に出さないこの男の奥の何か。それが詩織には見えていたのかもしれない。

 そうなのだ。
 サルヴァトーレの優しさに流されている時も、いつも詩織の心はロレンツォと闘っていた。仕事を覚えたのも、言葉を覚えたのも、自分自身の仕事で成果を上げたいと思ったのも、全てロレンツォに認めさせたかったからだ。かつて、父親に認められたいと思っていたのと同じように。

 詩織には、サルヴァトーレに会えなくなって初恋の失恋の痛手に苦しむ間などなかったのだ。何故なら、恋ではなく敵対心であったとしても、気持ちは既にロレンツォにどう対処するかでいっぱいだったからだ。
 
 詩織は声を掛けることもできず、何よりも隠れることもできず、突っ立っていた。
 やがて、ロレンツォが詩織の方を見て、また正面に視線を戻したので、詩織は彼の近くまで行き、礼拝堂に視線を向けた。

 小銭を持っていないのだろうかと思ったが、彼が言い出すまで自分の方から聞くことを躊躇った。
 ここにはカラヴァッジョの作品が三点、配置されている。小銭を入れないと灯りがつかない。それで詩織は彼が小銭を持っていないのかと思ったのだが、そういうわけでもなさそうだった。

「マタイはキリストが死んだ後、エチオピアやペルシャに伝道し、ドミティアヌス帝のもとで石責め、火刑の後、斬首された。カラヴァッジョは何故、マタイを迫害する刺客の横に自分の自画像を描いたのだろうな」
 そう呟いて、ロレンツォは教会を出て行こうとした。

 詩織が付いてこないのを感じると、立ち止まり、振り返った。
「私がこんなところで何をしているのか、知りたかったのだろう」
 詩織は結局彼について行った。
 あの路地の家の扉が開けられる。ついに現実と向かい合う時が来たようだと思った。

 ここにこの男の愛人と隠し子が、などと思って覚悟を決めていたら、扉の先は小さな通路になっていて、そこを抜けると奥は広い中庭だった。
 既に夕刻の闇が建物の壁に囲まれた中庭を支配しつつあったが、その空間は不思議と温かい光に満ちていた。
 中庭の中心には井戸の跡があり、その傍から外階段が上階へ続いている。中庭を取り囲むようにして石造りの建物が並び、二階部分にはぐるりと一周、手すり付の通路が巡っていた。三階から上は、いくつもの窓が並んでいる。
 暖かいと感じたのは、窓からの光だったのだ。

 まるで、あの図書室のようだ。
 詩織は何かに充たされるような不思議な感覚を覚えた。

「ロレンツォ、大丈夫かい?」
 二階の外廊下から、いかにもイタリアのマンマという感じの女性がよく響く声で呼びかけてきた。
「あぁ、ちょっと酔ったんで、涼みに出ていただけだ」
 ロレンツォの声もまたよく響いた。石造りの建物で取り囲まれた中庭だからだろうか? いや、この人は本当はこんなに大きな声を出すのか。
「うちの馬鹿亭主なんか、毎日べろんべろんだよ。おや、誰だい?」
「親戚の娘なんだ」
「そうかい。じゃ、今度一緒にご飯を食べにおいで」

 何とも適当な誤魔化し方だと思ったが、文句を言う立場でもない。しかも、どう見ても東洋人の詩織を親戚だなどと、よくもまぁ信じたものだ。
 だが、そんな適当な言葉でも受け入れてしまう鷹揚さが心地よかった。

 やがてロレンツォは中庭に面した一階の扉をひとつ開けた。
「え?」
「君は、えとか、あとかしか言えないのか。仕事の時は随分と口答えをするくせに」
「あ、えっと……」
 これにどう反応しろというのだろう。

 油絵具の匂いが満ちていた。幾つもの畳まれたイーゼル、大きく平らな台は手作りのようだった。そして、色々な顔料や和紙を始めとした紙類、刷毛や筆、その他詩織には何だか分からない薬品の入った瓶など、修復のための材料がきちんと棚に収められ、整理されている。
 部屋の中心にひとつだけ組み立てられたイーゼルに、絵が置かれている。ラファエロだろうか。あるいは彼の工房で描かれた絵だろうか。愛らしい天使が描かれていた。
 ここは絵画修復のための工房だった。

 後に知ったが、この一階部分は全て工房になっていた。親方らしき頑固な親爺が仕切っていて、若い修復師に仕事を与えている。時には工房総出で教会や美術館にも出かける。
 二階以上には修復師やその家族、あるいは全く関係のない者たちも住んでいた。みなが大きな家族のようで、ちょっとした芸術コミュニティのようになっていた。
「どうして」
「単なる息抜きだ」
「じゃ、子どもは……」
「子ども? 君は何を言っている?」
 それもそうだ。これだけの家族が住んでいれば、子どもも幾人もいるだろう。いや、逆に彼の愛人や子供がいないという証明にもならないが。

 だが、それが単なる息抜きではないことは詩織には直感できた。
 あの日、図書室で彼の指からにおっていた油絵具の匂い。
 きっと灯りなどつけなくても目にも心にも焼き付けてあるカラヴァッジョのマタイ。それを暗がりの中で見つめていた横顔。

 汚れたキャンバスの中から艶やかな天使の姿を甦らせながら、ロレンツォはカラヴァッジョの暗い闇を求めざるを得なかったのだ。
 この人は、荊と十字架に縛られた世界に生きることを運命づけられているのだから。
 運命?
 私は、何故ここに来たんだっけ? 
 そう、過去をつかまえて、自分が進むべき道を知るために来たのだ。
 何かをしなければならないことだけは感じていた。でも、あの荊を解くための剣を、私は持ち合わせていない。

 ある朝、屋敷で聞きなれた懐かしい声が居間から聞こえて来て、詩織は思わず隣の部屋で壁に張り付いてしまった。いや、ここで身を隠しても仕方がないのだが、どうにも見つかるわけにはいかない気がした。
 その声はロレンツォと、サルヴァトーレだった。
 ……いつ戻ってきたのだろう。

「そんなことを言うために戻って来たのか」
「ねぇ、兄さん、僕はこの一年であれこれ考えた。そしてこれが一番いい答えだと確信したから戻ってきた。僕には僕に相応しい仕事があり、兄さんには兄さんにしかできないことがある。兄さんには本気で教皇の楯になることなどできない。他に守るべきものがある人間に、命も良心も全て主君のために差し出すことができるわけがない」
 詩織は心臓が口から出てきそうになっていた。
 サルヴァトーレが何を言っているのか、半分くらいはわかっていたのだ。

「お前はあの子を守りたかったのではないのか? 確かにこの家の人間は、あの子の家の人間の運命を狂わせてきたかもしれない。お前はそれを埋め合わせ、運命を成就したいと願っていたのではなかったのか。時が来たら自分から話すと言って、勝手にニューヨーク行きを決めた。私はお前が、彼女が東京から戻ってきたらここに留まらせるようにと言うから、彼女を留め置いた。そもそも、あの子の父親を呼びつけたのもお前だろう。今こそあの子に事情を話して、プロポーズするならしてやれ」
「兄さん、相変わらず鈍いね。プロポーズする主役も、相手も、取り違えている。言っとくけれど、僕はあの子を恋人として愛しているわけじゃないんだ。もちろん、最初はからかっていただけのつもりだったのが、どこかから心魅かれていたことは認める。あの子は素晴らしい娘になった。でもやはり、僕を変えるほどの力じゃなかった。僕には他に愛するもの、守るべきものがあるからだ。それに、あの子を変えたのは、僕じゃない」

 少しの間、小さな沈黙があった。詩織は自分の呼吸がとなりの部屋に聞こえやしないかと思って、息を止めた。本当は耳も塞ぎたかった。
 やがて、低く抑えた、感情のないロレンツォの声が聞こえた。
「お前は何が言いたい」
「もうそろそろ自分の気持ちに気が付いたら?」
「言っていることが分からん。私はあの子に興味を持っているわけではない。お前があの子を気に入っているなら、いくらでも協力してやろうと思っているだけだ」

 今となっては自分の気持ちに呆然とするしかない。
 詩織は訳も分からず流れてくる涙を拭うことができないまま、工房への道を自転車で走っていた。

 そうだ。あの人が、私になんか興味を持つはずがないじゃない。
 
 ……シンデレラはいい。
 継母や義理の姉たちに苛められたかもしれないが、少なくとも、お城から招待状が届くような身分の家に生まれていたのだ。国中の娘を呼んだなどと書いてあるが、舞踏会に出席するドレスも靴も買えない家の娘に招待状が来るわけがない。もし来たのだとしても、舞踏会に行くことはできない。ぼろぼろの靴と服を、ガラスの靴や素敵なドレスに変えて、かぼちゃとネズミを馬車と馭者に変えてくれるような魔法使いが、全ての女の子の元に現れるとは思えない。

 あるいはいっそ、眠り姫を助けに行く王子になれるなら、どんなにいいだろう。荊を引き裂く剣と、塔をよじ登りドラゴンと闘う勇気が私にあったのなら。

 ヴォルテラの家は何のためにあるのか。
 さすがに二年間もここに住んでいれば、主人が何のために働いているのか、気配を察することができた。民族も文化も歴史も宗教も異なる国から来た詩織には言葉にするのは難しいが、それでも敢えて言うのなら、この家は教皇庁の外堀なのだ。もう何時とも分からない昔、教皇庁を守るために作られた。たとえ自らの命と良心を悪魔に差し出しても、教皇を守るためだけに。表に示されるこの家の外見は、ただの蜃気楼だった。

 ……相川の家ってどうなってるのよ。そんな因果な家の主たちに恋するなんて、こんな因縁があるだろうか。運命に弄ばれているとしか言いようがない。
 しかも、うちの家系には神社の神主さんの娘がいる。お寺に住んでいた先祖もいるし。……笑えないけど。

 運命を交錯させながらも、逆にその運命によって共に生きることを阻止されてきた二つの血脈を、この長き時を経て結びつける力など、私にあるわけがない。
 それに、そもそも彼は、何もできないこんな小娘など眼中になかったのだ。

 でも。
 自分には何もできないことを知ってから、ようやく心を言葉にすることができるなんて。
 ……私はこんなにも、ロレンツォのことが好きだったんだ。

(後篇へ続く )




花男なら、ここでこの曲が流れるところですね(いい曲だなぁ~)
この「愛してるよよりも大好きのほうが君らしいんじゃない」を思い出して、書き換えたところがありまして……詩織の気持ち、始めは「ロレンツォを愛している」だったんだけれど、う~ん、ここは「好き」だよなぁ、と。

恋愛小説って、こんな細かいところ、大事なんですよね。
(このデリカシーがないから、恋愛小説が書けないんだな、私)

冒頭のシーンは『美女と野獣』に出てくる図書室。
実は私、『美女と野獣』のお話が大好きなんです。エロール・ル・カインの絵本は宝物。
アニメでは野獣がベルにこの図書室をプレゼントするんですよね。
こんな図書室、プレゼントされたら、もうそれでノックアウトですよね~ 
(そんなことあるわけないって!)

本当は最後まで一気に読んでいただきたいシーンですが、長いので切りました。
図書室のシーンと中庭のシーンのシンクロ、ちょっと気に入っています。


そして、ロレンツォが入って行った教会はサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会。
ナヴォーナ広場の界隈、大好きなんです。何しろ、ベルニーニの彫刻を追いかけてローマの街を歩いていたもので。
カラヴァッジョはやっぱりいつか書きたいテーマ。もちろん、修復師の「彼」に絡めてです。
カラヴァッジョマタイの殉教
ロレンツォが見ていた(いや、お金入れないと電気がつかないのです、ここ)「マタイの殉教」

では、最終話もお楽しみに(*^_^*)
もしかしたら、あの猫も登場するかも??

(作者註)→どうでもいい情報です。
*1 神社の神主の娘=初代真の嫁・舞
*2 お寺に住んでいた先祖=初代真
*3 なぜ青灰色の瞳に詩織がデジャヴを感じたか……曽祖父の家にあるんです。初代真と初代ジョルジョの写真が……(撮ったのは美和)

Category: ローマのセレンディピティ

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【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇) 

週末に【人喰い屋敷の少年】を仕上げてしまう予定でしたが、なんだか久しぶりの休みで嬉しくて、急に思い立って、恋愛ものを書いてしまいました。
1話分で終わるはずが、長くなってしまったので、前後編でお付き合いくださいませ。
→ う~ん、推敲したら後篇が長くなりすぎたので、結局3話構成になりました。


読み始めてすぐに分かるかもしれませんが、あの長い大河ドラマの本当の最終章のラストシーンです。
もっとも「あの大河ドラマ」を無視して読めるお話ですので、真シリーズ初めてさんも、途中まで読んでいるけれどいきなり最後を読んでいいの?って方も、よろしければ読んでやってくださいませ。

何しろ現在進行中の部分からは何世代か先のストーリーで、因果関係はあるようなないようなですし、ネタバレにもなっていませんし(そもそもばれて困るようなネタはないし)、普通の『玉の輿・身分違いの恋・甘々シンデレララブストーリー』としてお楽しみくださいね。


もしかして前提条件の説明が必要でしたら……
「ヴォルテラ家=シンデレラ城に住む一族、相川家=どこかの馬の骨」
これで十分!
(でもシンデレラ城にはドラゴンが居るんですよね~)


そう、このお話、かのオードリー・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』のリメイクと思っていただければ(#^.^#)
『麗しのサブリナ』はシンデレラを下敷きにしているそうで、そう考えたら、真シリーズは、「人魚姫からシンデレラへ」という構成になっているわけですね(?)。
あぁ、ボギー(#^.^#)

そしてこれはまた、scribo ergo sumの夕さんの50000Hit特別企画~タイトルで遊ぼう~への参加作品でもあります。
皆様の作品を拝読して、う~ん、わたし的にこのリストの中にローマがないのがどうにも納得いかない、って感じでして。
え? 「京都妖怪案内:大原三千子の受難」じゃなかったの? あるいは「マコトシリーズ:3つの伊予柑」じゃなかったの?
えへへ。これはもう、タイトルだけで許してください。でも伊予柑は何か捻り出したい。
ではどうぞ、お楽しみください。

そうそう、読んでみたら、何となく面白いことに気が付くかもしれません……(*^_^*)




 秋の澄んだ空気を通して、大気圏外から太陽の光が世界を包み込んでいる。
 詩織はひとり、待合の椅子に座って外を見つめていた。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ空港のゲートの窓からの景色は、今度こそ見納めになるかもしれない。
 14時50分発の成田行きアリタリア航空機の機体を、上下に分けるように真っ直ぐに引かれた緑のラインが、もう振り返るなと告げているようだった。

 ガラスの向こうに広がるのは、ありきたりの空港の景色だった。どの国のどの街の飛行場も、そんなに大きくは変わらない。機体に描かれたデザインで最も多いのがどの国の航空会社のものか、という程度のことだ。
 この景色の色合いを変えるのは、ただ見る者の気持ちだけだった。

 まわりには沢山の人が、座って本を読んだり、あるいは何か飲みながら友人と話したり、写真を撮ったり、新たに増えたDuty Freeの袋を整理したりしながら、出発までの時間を過ごしている。
 詩織の斜め前の椅子では、恋人同士が寄り添って何かを囁き合っている。時々二人は額をくっつけ合って、微笑みとキスを交わしている。

 こんなにたくさんの人がいるのに、私だけは切り離された空間にいて、浮き上がっているみたい。まるで映画かドラマのようだと思う。
 詩織は再びガラスの向こうの空を見る。
 この国を出ていく時、私は笑っているのだと思っていたのに。
 それでも、今もなお、この国の空は高くて蒼くて、本当に綺麗だと思った。

 あの空を見ると、初めてこの空港に降り立ち、その空気を吸い込んだときの解放感を思い出す。もちろん、不安は山のようにあった。逃げ帰りたいような頼りなさもあった。それでも、初めて自分の足で、自分の選んだ場所に立った昂揚感は何にも替えがたいものがあった。
 その昂揚感は一瞬で底辺へ突き落されてしまったけれど。


 あれは二年前の同じ秋のことだった。
 初めてこの空港に降り立った時、詩織は人生で初めて、自分で何かをしなければならないという状況に追い込まれた。
 待ち合わせ場所に、迎えに来るはずの男が来なかったのだ。

 ローマでの生活を成立させるためには、少しだけ祖母の援助も必要だった。それでも、できる範囲のことは自分で何とかしたかった。中途半端なイタリア語を駆使して、何とか自力で、見習いで雇ってくれる工房と語学学校を探し、ホームステイ先も見つけることができた。
 イタリア語を話せる祖母は手伝ってくれようとしたが、詩織は自分でやりたいのだと言った。

 祖母は何度もネットの情報など信用できないと言ったが、詩織は精一杯背伸びして、今はそんな時代じゃないのよと突っぱねた。向こうでの生活に慣れるまで一緒にいようかという提案も聞き流した。
 詩織が家を出る、しかも海外へ、ということに大反対して、口をきいてくれなくなった父親の手前、必死だったのだ。

 詩織の家庭はあまり一般的とは言いかねたが、子ども心に両親の愛情は十分に理解していた。いや、むしろ、特に父親の方は詩織を溺愛していた。
 父親は、姉の皐月に対しては、まだ赤ん坊に毛が生えたくらいの子どもの頃から、彼女の意志を尊重しているように見えていた。まるで対等の大人に対するように接する様子は、時には冷淡とも感じられた。

 子どもの頃、皐月は「しーちゃんはいいよね、パパにあいされてて」とよく言っていたが、思春期になると、男親に構われずにのびのびと自分の道を突き進んでいく皐月のことを、詩織の方がずっと羨ましく思うようになった。皐月も、もう「しーちゃんはいいよね」と言わなくなった。
 今、皐月は救急医として都内の病院で働いている。
 忙しそうで、あまり話をする時間がなくなっていた。

 詩織の方は、子どもの頃、詩織は絵が上手いなと父親に言われたというだけのことで、何となくそっちの方向に進むのだと決めて東京のデザイン学校に通っていたが、その先仕事としてやっていけるというだけの自信があったわけでもなかった。学校には歳など関係なく、驚くほど才能のある学生がキャンパスから溢れるほど犇めいていたのだ。

 学校を卒業した後の就職の当てもなかった。父親は自分の仕事を手伝ってくれてもいい、と言っていた。
「今度のアルバムのジャケット、詩織に手伝ってもらおうかな」
 そんなことを精一杯さりげなく呟かれると、居たたまれなくなった。

 詩織の父親は、いわゆる「変装しなければ街を歩きづらい」人種だった。メンバーを変えることなく長く続けているちょっと有名なロックバンドのヴォーカリストであり、今ではロック以外の分野でも歌を歌うことが多くなっていた。
 派手な職業と外見と言動の割には、生活上は比較的常識人だったが、感情の起伏は激しく、愛情表現も過剰なら、怒りや哀しみを押さえ込むことも上手ではなかった。浮き沈みの激しい性格と人生は、時には家族を随分と翻弄したが、大袈裟かもしれないが魂をかけて仕事をしている、そんな父親のことを尊敬していたし、大好きだった。

 でも、ずっと閉塞感からは逃れられなかった。
 詩織の気分転換は、時折母親が連れて行ってくれるダイビングだった。
 父親と違ってどちらかと言えば平凡で地味なタイプの母親は、普段は大人しく父親に従っていたが、ダイビングの時だけはようやく自分ひとりの世界に浸ることができたのだろうか、生き返ったように見えた。亭主関白を絵に描いたような父親も、彼女のその息抜きだけは口出しをしようとしなかった。

 だから、年に一度のダイビング旅行は、詩織と母親と二人きりの楽しい旅だった。
 与那国の海底遺跡を見た時は、震えるほどに感動した。

 考古学そのものを勉強するほどの意欲も知識もなかったが、古代の人々が用いた意匠には心魅かれた。発掘物のスケッチや土器の修復のバイトは面白い作業だった。ジュエリーやスカーフなど小物のデザインのモチーフに古代の意匠を用いること、そしてジュエリーの世界にもあるエシックの考え方に惹かれた。

 時々、日本を出ることを夢想した。
 それは、始めはあくまでも夢想の域を出なかった。
 ある時、何気なく見ていたテレビ番組で、ローマやナポリの地下遺跡を見た。小物のデザインにはあまり関係はなさそうだが、与那国で見た海底遺跡を思い出して、突き動かされるような何かを感じた。
 その時、父親がふと暗い表情を見せて席を立ったことも気になった。

 父親に異国人の血が混じっていることは確かだが、詳しいことは聞いていない。
 大体、詩織は自分のルーツには少しばかり不明な点が多いと思っている。
 小学校の時、ファミリーツリーを書くという宿題があって、母方の家系を書くのは困らなかったのに、父方の家系には随分と抜けている情報があることに気が付いた。

「我々はどこから来たのか、我々はどこへ行くのか、我々は何者なのか、って奴?そんなの、永遠に答えは出ないよ。今を生きていることが肝心なんだから」
 皐月はそう言っていたが、詩織はどうしても過去が気になった。

 童話作家である祖母は、事実婚の男女の間にウィーンで生まれ、物心ついた時からはパリの叔母のもとで暮らしていた。決して金にはならない演奏旅行や、テレビ番組や芝居のための音楽を書いたり演奏したりすることで何とか食いつないでいた彼女の父親、つまり詩織の曽祖父は、その頃人生で最悪の時を過ごしていたからだ。
 そのおかげで祖母は、か弱い外見とは全く正反対の、人一倍独立心の強い人だった。高校生の時は日本で一人寮生活をし、大学はフランスに戻って児童文学の勉強をし、私生児を生んだ。
 それが詩織の父親だ。外野の中傷や誹謗を全くものともせずに、彼女は息子を育てた。

 今、ローマの郊外には、時にローマの音楽学校で教えたり小さな演奏旅行を続けながら、二十歳年下の運命の恋人と半隠遁生活を送っている曽祖父もいる。ローマで幼少期を過ごし、ウィーン、パリ、プラハ、ニューヨーク、東京と、居場所の定まらなかった彼が、人生の最後の場所をローマに決めたことからも、相川の家がどこかであの国のあの街と繋がっているような、そんな気がしていた。

 ローマに行ってみよう。
 いつの間にか夢想が現実味を帯び、二年前のあの日、ついに現実となったのだった。

 だが、ローマの第一印象は最悪から始まった。
 約束の時間はもう二時間も過ぎていた。
 まわりにも待ち合わせをしているらしい人間は多数いたが、その顔は何度も入れ替わった。
 詩織と、もう一人を除いて。
 詩織は父親の顔を思い出して、悲しく、心細くなった。

 詩織が自分の決心を伝えてから、父親はずっと怒っていた。いや、正確には、あれこれと準備を進める詩織の周りでおろおろしていたのかもしれない。
 父親が大反対しつつも認めざるを得なかったことには訳がある。
 意外なことに、父親に逆らったことのない母親が、詩織の好きにさせてやって欲しいと援護射撃をしてくれたのだ。
「あなたの若い時はどうだったの?」
 自分の母親にも妻にも、迷惑と心配ばかりかけてきた父親は、一言も言い返せなかったようだ。

 それにしても。
 確かにここはイタリアで、日本ほど時間に正確ではないかもしれないが、この頃は以前ほどにはいい加減ではないと聞いていた。いや、少なくとも二時間も待たされることはないはずだ。
 聞いていた電話番号にかけてみたが、呼び出し音が鳴るだけで、誰も出ない。
 到着する飛行機はもうほとんどないのだろう。待ち合わせている人の数はどんどん減っていく。

 事情はともあれ、夜中の空港に取り残されたと確信した時、頭の中が真っ白になった。真っ白にはなったが、火事場の馬鹿力という言葉は侮りがたい。
 これまで一度もそんな状況に追い込まれたことのない詩織は自分にそんな力があるとは思ってもみなかったが、少なくとも泊まるところを探さなければならないということだけは明白だった。

 もちろん、24時間動いている空港なのだから、待合の椅子で夜を過ごすこともできるだろうが、若い女の子が一人でその辺で寝ていることは危険極まりない図に思えた。途方に暮れている様子の詩織を、じっと見ている男がいたからだ。
 それは、入れ替わる待ち人たちの中で、詩織同様にずっと誰かを待っているらしい若い男だった。
 男も待ちぼうけを喰らっているだけかもしれないが、何となく目が合うような気がして、怖かった。見かけは随分と男前だと思ったが、そもそもそんなことを楽しんでいる余裕などあるわけがない。

 大きな荷物を引っ張りながらインフォーメーションデスクに駆け寄り、まだ会話の域には達していないイタリア語ではなく、少しくらいは理解しやすい英語なら何とかなるだろうと思って、事情を説明しようと思ったが、デスクの女性は怪訝な顔をしただけだった。そもそも詩織の個人的な事情は彼女の知ったことではないのだ。
 とにかく空港の近くのホテルに今夜泊まれないだろうか、と聞いた途端だった。
 いきなり腕を掴まれて、詩織はぎょっとした。

 振り返ってみると、ずっと詩織を見ていたあの男だった。
 如何にもイタリアの若き伊達男という風情のファッションに身を包んだ、二十代後半から三十くらいの背の高い優男だった。目元は涼やかで優しく、口元にはかすかに笑みを浮かべている。多分、身につけた服は上等の生地で、名のあるデザイナーのブランドものなのだろうが、それが嫌味ではなくしっくりと馴染んでいる。粗野にも見えるが、野暮ったくなく、上流階級の人間と言われてみればそうとも見える。
 それ以前に、詩織にはヨーロッパに歴然と存在する階級など、まるきりわからない。

 男はインフォーメーションデスクの女性に軽く手を上げて、イタリア語で会話を交わすと、詩織の手から荷物を奪い、そのままその手を引っ張って歩き始めた。
「ちょっと、何するんですか!」
 日本語で言っちゃった、と思った時、男は突然立ち止まり、詩織を振り返った。
「君、相川詩織ちゃんだろ」

 一瞬で力が抜けてしまった。いや、まさにパニックになったのだ。異国の地で、神経が壊れそうに緊張していく過程で、急に見知らぬ男から自分の名前を呼ばれたのだ。綱渡りの途中で足を踏み外して、もうだめだと思った時に、誰かに抱き止められたような瞬間だった。
 しかも、男は流暢な日本語を話した。

 男は空港の近くのホテルまで詩織を連れて行ってくれて、手続きを全て済ませ、部屋まで荷物を運んでくれた。部屋にまで付いて入ってきた時には、見返りに何かを求められるのかと思って覚悟したが、男は湯がちゃんと出るかどうか、窓の外の様子、ドアの鍵の掛かり具合など確認したうえで、カードキーを詩織に渡した。
「後で部屋にフルーツと飲み物を届けるように伝えておくよ。明日昼過ぎに迎えに来る。今日はゆっくり休んで」
 そう言って、詩織の頬にキスをすると、Buona notteと耳に囁いて出て行った。

 何が何だか分からない。
 男が出ていくと急に拍子抜けしてしまった。この数時間、心臓をジェットコースターに乗せられたような状態で、急に停止した途端、吐き気がしてきた。それと同時に涙がぼろぼろ出てきた。

 何かの手違いで、あの人が迎えの人と代わったのだろうか? それなら何か事情を説明してくれてもよさそうだ。逆に彼が迎えの人なら、何故二時間も詩織を観察していたのだろう。それに、日本語を話せるなら、ネットでのやり取りでそう言ってくれていたはずだ。
 でも。
 少なくとも今夜は眠れる場所ができたのだ。

 詩織は泣き顔のまま窓を見た。外は真っ暗で何も見えない。ガラスにはただ部屋の頼りない照明と自分の影が映るだけだ。
 やがて、ルームサービスのノックに我に返り、日本ではあり得ないあまり甘くない硬い桃を食べて、ミネラルウォーターを飲んで、ついでに一緒に付いてきたワインを一杯だけ飲み、そのまま着替えもせずに眠ってしまった。
 
 次の日に起きたら昼前で、鏡にうつった顔は泣きすぎて不細工なくらい腫れていたけれど、カーテンを開けると、空は詩織が求めていた完璧な色だった。
 光で染めた透明なブルー。窓を開けて吸い込んだローマの空気は、驚くほどに肺にしっくりと馴染んだ。

「姫君、お迎えに上がりました」
 そう言って現れた昨夜の男は、すっぴんのままの詩織の腫れた顔を見て、一瞬呆れたような困ったような何とも言えない顔をしたが、すぐに気を取り直したようだった。
 明るい陽の中で見ると、昨夜の怪しさはすっかり消えてしまい、粋で優しい、しかもハンサムで完璧な王子様のように見えた。いや、それどころか、彼は今まで詩織が見たことのない、並外れた美形だった。

 彼は詩織の荷物をフロントに預けて、携帯でどこかに連絡を入れ、身軽になった詩織を真っ赤なフェラーリの助手席に乗せると、意外にも安全運転でローマの街の中心部にまでやって来ると、まず美容院に詩織を放り込んで、姿を消してしまった。
 そしてまだ訳の分からないうちに、肩まであった中途半端な長さの髪をショートに切られてしまい、マッサージと化粧までしてもらった頃合いに、男は大きな包みを持って戻ってきた。

 白いワンピースにボレロのような上着、ヒールは高そうに見えたが履いてみると少しも窮屈ではない赤い靴、ルビーとダイヤモンドをあしらった派手すぎないネックレスにピアス、それに服装に見合う赤いバッグ。服も靴もいつの間に確かめたのか分からないが、サイズはぴったりだった。
 鏡にうつった自分に驚く。
 赤や白なんて、似合わないと思っていたのに。

「ジェラートでもご馳走しましょうか」
 店を出て少し歩いたら、スペイン階段だった。
 真実の口、トレビの泉、コロッセオ、カンピドリオ広場、フォロ・ロマーノ。
 もしかして、これはいわゆる古の名画、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』なのか。
午後のひと時、男は詩織を楽しませ、笑わせ、ひたすらいい気持にさせてくれた。一抹の不安は消せないままだったけれど。

 それでも、バイクの後ろに乗せられた時から既に、いや、あるいは昨日ホテルの部屋に入った時には、あるいは空港で腕を掴まれたときから、もうどうにでもなれの気持ちだったのだ。

 私はこの国に憧れて、この国に求めるものがあるような気がしてここに来た、そしてこの国は私を歓迎してくれている。きっと今から素敵なことが起こる。そう思わせてくれる空の高さ、そして男の背中だった。

 きっと九十パーセントは勘違いだったのだろう。
 もちろん、いいことは沢山あった。最悪と最高のギャップのすごさには参ったけれど、そのギャップの大きさは東京で両親のもとにいた時には味わうことのなかったものだった。

 謎の若い男の正体はその日の夜遅く、テヴェレ川の傍のレストランでの食事の席で明らかになった。
 テーブルには先客がいた。
 それは、先々代の当主からの遺言でローマ郊外のヴォルテラ家の別荘を譲り受けて住んでいる、詩織の曽祖父だった。

 つまり、飛行場の件は、偶然の出来事でも、運命の出会いでも何でもなかったということなのだ。
 何のことはない、祖母は詩織を見張らせていたのだ。祖母から連絡を受けた曽祖父は、ヴォルテラ家の次男サルヴァトーレに詩織の様子を見に行ってくれと頼んでいた。

 曽祖父がどこまでのことを頼んだのかは詩織には分からない。
 詩織がネットで探した語学学校やホームステイ先、工房などについても不明のままだった。完全に騙されたのか、それともただちょっとした行き違いだったのか、あるいは別の力が働いたのか。
 何しろ、確かめるチャンスは全くなく、その後、その必要もなくなってしまったのだから。

 生活が軌道に乗るまでは人の好意に甘えて欲しいと曽祖父に言われ、詩織はふと正体の割れた男の顔を見た。男はその日見せたうちでも極上の笑顔を詩織に向けた。
「甘えられる時には甘えてしまった方がいいよ。いつか、誰にも頼ることができない状況で自分の力で答えを見つけなければならない時が、必ず来るから」

 もちろん、この時点で、詩織はサルヴァトーレが自分に興味を持ってくれていると考えるほど、おめでたい人間ではなかった。何故なら『ローマの休日』観光の最中にも、詩織を睨み付ける女たちの視線を何度も感じたからだ。
 だが何よりも、ローマにやって来たもうひとつの目的が、向こうのほうから目の前にやって来たのだ。

 ヴォルテラ家。
 古い時代にはローマ教皇さえ出したというもと貴族の家系で、一族には銀行家、ホテル業者が名を連ね、表向きには国家レベルの警備会社を経営していた。家と言っても全くの血族ではなく、組織のようなもので、その組織形態に最も近いのはマフィアだともと言われている。
 ネットは便利で、そこまでのことは調べ得た。だが、その本質が何なのか、詩織のような異国の小娘に分かるはずもない。

 ただ、この家と相川の家の間には、何代かに跨って少なからぬ因縁があるということだけは分かっていた。
 何かを調べようというのでもない。誰かが何かの犠牲になったというのでもない。
 ただ、漠然と、何かをしなければならないような気がしていたのだ。
 過去を知るために。

 詩織はヴォルテラ家からの口利きで、小さいがいい仕事をしているデザイン工房でジュエリーの勉強をしながら、週末にはローマの地下遺跡の発掘を担当する大学の活動に参加させてもらえるようになった。
 担当助手の詩織への明らかな色目には辟易したが、詩織の後ろに見え隠れする家名に恐れをなして、せいぜい手を握るくらいで済まされた。

 語学学校に通う必要はなかった。
 果たして給料に見合うだけのことをしていたのかどうかは分からないが、住み込みのアルバイトとしてヴォルテラの屋敷で朝食の世話や朝の掃除、花を飾る手伝いをした。大勢の使用人に囲まれていて、常にコミュニケーションが必要だったし、皆気のいい人たちばかりだった。
 要するに家賃も食事代も必要はなく、勉強もさせてもらえる、破格の境遇だった。

 語学を学ぶためにはその国の恋人を持つことが近道だというが、片想いでもそれは通用するようだった。
 恋をしていた。だからこの国の言葉をもっと話せるようになりたいと願った。
 恋ゆえに気持ちは揺れ動いたが、それは決して不幸な想いではなかった。
 だが、もっと深い想いを抱くようになったとき、この街を離れざるを得なくなった。

 その人は詩織の手が届く場所にはいなかった。始めから交わるような想いではなく、何よりも立つ位置があまりにも離れていた。
 何故、幻想を抱いてしまったのだろう? 何かができるなどという気持ちになってしまったのだろう? 
 その恋を心に抱いた時、詩織ははっきりと理解した。
 これは血のせいだ。あるいは遺伝子に刻まれた運命だ。
 何世代も交錯しながら決して結ばれることのない宿縁に縛られた、最高と最悪の入り混じった恋だった。

 ヴォルテラ家の次男、サルヴァトーレは、甘いマスクによく響くテノール、それに巧妙な話術と周囲の人間の気を逸らせない独特の親密なムードを持っていた。学業もスポーツも優秀で、特に語学では特別な才能を示していたという。言いたいことははっきりと言う性質が災いして、何度も揉め事の火種になっていたが、その翌日には揉めていた相手といつの間にか和解して酒を酌み交わしていた。明るく華やかで、いつも仲間に囲まれていた。

 もちろん、女にも滅法もてた。当然のことながら身持ちが固いわけがなく、彼と親しい人間でも彼の現在の恋人が誰なのか、よく分からないという始末だった。いや、おそらく本人も分かっていないのだろう。
 そのサルヴァトーレが、近頃ちんちくりんの日本人の「女の子」を恋人にしたらしいという噂は、街中の女たちに衝撃をもたらした。美人を見飽きてゲテモノの味見をしたくなっただけだろうと誰もが思った。

 サルヴァトーレは時間さえあれば、「ちんちくりんのお嬢ちゃん」をあちこちに連れ回した。「時間さえあれば」というのは、意外なことにサルヴァトーレのほうの都合ではなく、詩織の都合がつかないことの方が多かった。
 詩織が断っても、サルヴァトーレは残念そうにも見えなかった。詩織には、彼はただ単に、詩織とデートをしている様を見せつけることで、誰から見ても美人で家柄もよく、才能にも恵まれた女たちの狼狽える様を楽しんでいるかのように思えた。あるいは、本命の女がいて、その人を振り向かせたいばかりに「ちんちくりんのお嬢ちゃん」を利用しているのだという噂もあった。

 ヴォルテラ家の現当主ヴィットリオは生真面目で気難しい男だったが、判断力と決断力に優れ人望があった。あまり笑う顔を見たことがないが、その分を彼の妻エルヴィエールが補っていた。
 彼らには二人の息子がいて、兄のロレンツォの方は父親の血を強く受け継いでいるように見えた。次男のサルヴァトーレはどちらかと言えば母親の血筋だったのかもしれないが、それにしても並外れた美形で、先々代の当主、すなわち彼らからは曽祖父に当たるジョルジョ・ヴォルテラにそっくりだという人もいた。他に二人の娘がいたが、いずれも嫁いでいて、家を出ていた。

「トト、いい加減にしろ」
 ある日、次代当主、つまり長男のロレンツォの部屋に花を届けに行こうとしていた時、二人の会話が耳に入った。
 さすがにその頃には、日常会話は聞き分けられるようになっていた。
「何を怒ってるのさ。ね、兄さん、これは運命だよ。そう思わないか? あの子の家とうちには深い因縁がある。それも狂おしい恋の因縁が。僕たちの世代はそれを成就する定めにあるのかもしれないじゃないか」

「人の気持ちを弄ぶのは良くない。お前があの子を真剣に思っているなら話は別だが、私には全くそう見えない。とにかく、あの子に住む場所と別の仕事を提供するから、できるだけ早くにここを出て行ってもらうようにしてくれ」
「異国で困っている可哀相な女の子を放り出すのか?」
「異国で困るようなら、さっさと日本に帰ればいい」

 ロレンツォは父親譲りの気難しい男だった。怜悧な雰囲気を漂わせていて、自分の部屋にいる時も着崩すことなく背中を伸ばして座っていた。少しくらい笑ったらサルヴァトーレほどではなくても女にモテるのだろうが、それでも、イタリアで、いやヨーロッパで最も価値ある独身男性といえば、今やこの男が筆頭と言ってもよかった。

 だが、少なくともこの屋敷で詩織に笑顔を見せないのは、現当主のヴィットリオとロレンツォだけで、ヴィットリオの方は誰に対しても同じような態度だったので別にしても、ロレンツォは特別に詩織に対してだけ、けじめをつけようとしているように見えた。
 掃除や料理もそうだ。使用人として雇われているのだから、完璧さを求められた。一生懸命やっていても、慣れないことなのだから抜けているところがある。そうなるとロレンツォは容赦がなかった。すぐに詩織を呼び出し、細かく指示を出した。

 しかも、詩織に気を遣ってしばしば日本語で話しかけてくれるサルヴァトーレや、イタリア語で伝えることが難しい時は英語を使いながら詩織を手伝ってくれる使用人の仲間たちと違って、ロレンツォだけはイタリア語を譲らなかった。
「可哀相な親戚の子を預かっているわけじゃない。使用人たちはその仕事のプロフェッショナルであるからこそ、我々は給料を払っている」

 言われてみれば「おっしゃる通り」だった。いや、この言われたことの内容を確認するのに、詩織は自分の耳と記憶力の限界に挑む必要さえあった。
 詩織は工房でも屋敷でもとにかく懸命に仕事を覚え、イタリア語を勉強し、せめてもの息抜きだった土曜日の発掘現場での時間さえも、自ら観光客の案内を買って出て、言葉を覚えた。
 ロレンツォに一言も文句を言わせるものか、と思った。

 自分でも不思議だった。以前の自分なら逃げ出していたはずだ。いや、以前は誰も詩織をこんな所へは追い込まなかった。父親も母親も友達も。自分でもこの屋敷に居辛くなってすぐにでも逃げ出すものだと思っていたのに、あと一日は頑張ろうと思いながら、その一日は、まさに一日ずつ先へ伸びていき、気がついてみたら歯を食いしばっていた。

 そして、来月には自らの意志でここを出て、ひとりで住む場所を見つけてこの街で生き抜いて、ロレンツォの鼻を明かしてやる、と思い続けているうちに、一年はあっという間に過ぎて行った。

(中篇へ続く )


面白いことって何なのか?
何だかデジャヴを感じませんでしたか?
そうなんですよ、夕さんちのマイアや瑠水(+拓人)のイメージに重なるところが……これは実は偶然なのですが、必然でもあるのかもしれません。
テーマは、シンクロニシティとセレンディピティ?

さて、真からは「やしゃ孫」の詩織、竹流ことジョルジョからは曾孫の兄弟の恋物語。
そう考えると、実はすごい未来の話。でも私の予想では、世界大戦か世界規模の災害が起こっていなければ、そんなにSFみたいな世界にはなっていないだろうなぁと思うので、余り時代を考えずに読んでくださいませ。
でも、何でだろ。歳とったのかなぁ。ラストを書いちゃうなんて。

え? 誰と誰が結ばれるのかって? 『麗しのサブリナ』ですからね!
続きをお楽しみに!

(註) トト=サルヴァトーレの愛称

Category: ローマのセレンディピティ

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【石紀行】16.岡山・楯築遺跡~岡山のストーンサークルと亀石~ 

今回は積み残していた吉備地方(岡山)の石です。
これまでご紹介してきた山の中の巨石とは少し違って、人為的に円を描くように並べられた石たちです。
その石たちはそう、ストーンサークルですね。
以前大分のストーンサークルをご紹介いたしましたが、今度は岡山。
いつものように、難しいお話は無視して、とりあえず石を楽しみに行ってしまいましょう。

実は吉備地方、むやみやたらと古墳や墳丘墓があります。近畿や九州にも負けていません。邪馬台国はこの辺りだったという人もあり、ロマン多き土地です。
「卑弥呼」が統治していた国がどこだったか、それを解明することにもロマンがあるだろうし、古代のあちこちに、大陸から人々がやってきて、日本古来の人々との間に交流があって、そこかしこに邪馬台国のような「国」があったと思うことにもロマンを感じますね。卑弥呼のような女性首長はいっぱいいたのだろうし……
楯築入口
この辺り、公園として整備されていて、周囲は山を切り開いた住宅地になっています。
しかも奈良と一緒で、小高い山はみんな古墳や墳丘墓に見えるので、近づけば近づくほど目的地が分からなくなるという。
ナビで出たのは「鯉喰神社」だったので、とりあえずそこに行ってみて、困ってしまって地元の人に道を尋ねました。
すると自転車で通りかかったおじいちゃんが、「この辺りでよく聞かれる」と仰って、地面にすらすらと地図を書いてくださいました。鯉喰神社とはかなり離れています。
後で確認したら、「楯築遺跡」のある「王墓の丘史跡公園」の管理は「鯉喰神社」になっていました。無人の神社に見えたけれど……
楯築入口2
道を進んでいくと、看板がありました。
楯築遺跡看板
看板説明によると、「直径約50mの主墳に北東・南西側に2つの突出部(団地造営工事のため犠牲になった)を備えており、全長は約72m」。すごく大きな墳丘墓だったのですね。ちなみにこの突出部にも石列、丹塗りの壷型土器が多数並んでいたそうです。
上部の丸のあたりが、かのストーンサークルの部分です。
行ってみましょう。
楯築全体
行ってみたら……何となく拍子抜けするくらいに明るい広場でした。
さて、残された石は、大きなものが5つ。本当はもっとたくさんあったのでしょうか。ここに残されたのは一部なんでしょうか。埴輪みたいに並んで、王の墓を取り巻いていたんでしょうか。あるいは魔除けだったのでしょうか。
温羅の伝説によると、温羅が放った矢から王を守る楯の役目をしていた、まさに「楯」のための石だったのだとも。

そう、大事なのはこの中心部の地下なのです。
楯築中心
ちょうど真ん中には、石で囲まれた祠があります。近づいて見てみましょう。
図2
看板その2によると、この祠がある場所から少し西南にずれた地下はこんなことになっていたんですって。
楯築遺跡看板2
埋葬は2つ、確認されたそうです。
そのひとつが上の写真。墳頂中央部の地下1.5mあたりに埋葬されていた木棺は長さ2m、幅70㎝、棺の底には厚く朱(30kg以上)が敷かれていたとのこと。

朱は、九州の装飾古墳にも多く使われていますし、日本だけではなく海外の同様の遺跡にも赤が使われていますね。
先日、NHKスペシャルでやっていたティオティワカンの太陽のピラミッド・月のピラミッド・ケツアァルコアトルのピラミッド、その周りの主要な建物も、やはり赤く塗られていたそうです。
マルタの地下遺跡も真っ赤に塗られていたというし。
赤は再生の色。当時は不老不死の妙薬とも考えられていた……この色、母親の子宮の色なのですね。

木棺の中には何が? 歯が2つと副葬品(鉄剣1、翡翠製の勾玉、ガラス小玉と管玉)。骨は腐って残っていません。
この木棺はさらに木槨(長さ3.5m、幅1.5m、底板は少なくとも2枚)の中に収められていて、これを取り囲む中心墓壙は南北9m、東西6.25m、底の深さは2.1m、排水設備まで設けられていたんですね。
もう1つの埋葬は、中心埋葬から約9m離れたところにあって、わずかに朱が認められるのみで副葬品は見つかっていないそうです。

さて、件の石の方を見ていきましょう。
「5つの立石」と書いてあるのですが、真中の神社の背面にあたる大きな石、周囲にあるものでは、2つの楯の形のものと、棒状のもの、で……え~っと。イスみたいなのと、もうひとつがお皿みたいな形? あれ、6つある? そうか、イスみたいなのは円形から外れていたので、違うのかもしれません。
図1
まずは楯型のもの。前からと横からを並べてみました。
もう一つの楯型の石。
楯築石4
棒状のものをを2方向から。
図3
イスのような、お皿のような不思議な形の石。 
楯築石2
中に小石が入っているからか、ちょっと洒落たお皿にも見える。
この小石は誰かのいたずら、でしょうね。
楯築神社の背面
祠の背面に立っている中心の石が一番大きくて迫力があります。
でも実は、一体、どこまでが「件の石」なのか、ちょっと分かりづらいです。地面にうずもれるような小さめの石もあります。
楯築石6楯築石5
これも立派な石に見えるけれど、5つのひとつには数えられていないようです。ベンチみたいですね。イタリアのデザインの椅子にこんなのもありそうです。
楯築石3
いや、そもそも元の形が分からないのだから、5つと決まったわけでもないんですよね。
でも、周りの4つを東西南北、あるいは背面の山々や曰くのある土地(例えば温羅の本拠地・鬼ノ城)の方角を向いているという話もあるようです。ほんと、ロマンですね(*^_^*)

こうして見ると、ストーンサークルと言っても色々ですね。
明らかに天体観測の跡? つまり暦を表していると思われるものもあるし、こんなふうに聖なるものを守るというのか結界を表しているようなものもあるし。古墳(こちらは正確には墳丘墓)の上にストーンサークルがあって、丁度棺を取り囲んでいるとなると、これはやっぱり邪気を入れないための魔除けなんでしょうか?

この大きな墳丘墓の周りにも「向山古墳群」という小さな古墳が山のように発見されているのです。
王のお墓の周りに、その種族のお墓もあったのでしょうか。
向山古墳群1
向山古墳群2
ごろごろと石が転がっています。

さて、実はまだメインが残っているのです。
楯築神社の石保管庫
何? この無骨な建物は? と思われたことでしょう。
そうなんです。私が見たかった石は、この中に保管されているのです。
実はもともとは上記の遺跡の真ん中にある神社(楯築神社)の祠の中に収められていたもの。
やはりそれでは具合が悪いということで、こちらに保管されたようです。事前に連絡しておけば、見せてもらえるのだとか。
でも今回はこの建物の側面の小さな窓から覗いちゃいましょう。
楯築神社の石
亀石。亀に似ているのかどうか? はちょっと置いておいて、左右約92cm、前後約90cm、厚さ約30cm。
この石に彫られた模様は弧帯文と呼ばれていて、縄をぐるりと回して輪っかを作ったような感じの模様です。これが全面に彫られていて、弥生時代にこれだけ全体に文様が彫られた石は他に例を見ない、そうですが。

これ、どっかで見たよなぁ。
そうなんです。世界のあちこちに見かける渦巻き模様。ケルトの渦巻、インディアンの渦巻、アイヌの渦巻、縄文の土器だって思えば渦巻。これこそシンクロニシティというものでしょうか。
渦巻の意味は、移動(インディアンの渦巻にはこの意味合いが強いと聞きました。彼らは定住ではなく移動していた)、再生(生から死へ、死から生へ、これもまた移動)。
ケルト渦巻
マルタにあるケルト文様の渦巻。

あるいは、日本の歴史がより中国や韓国に近いとすると、こっちじゃないかという説も。
玄武
京都の玄武神社の絵馬から借りました。玄武……そう言えば亀? 亀石とはそういうこと?

「渦巻」には果てしなくロマンを感じ、心惹かれるのでした。

そう言えば……この『石紀行』、最近くどくなってきました。薀蓄など無視して(いや、薀蓄は他のブログさんにお願いして)、石の魅力のみをお伝えするのが目的だったのに……
次回からは、宮城と山形の巨石です。あっさりと、しかしダイナミックにご紹介したいと思います。

と、その前に。
続きを読むから、吉備地方の魅力的な古墳を少しお見せいたしまする。
古墳に興味がある方はぜひ続きを。

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Category: 石の紀行文(写真つき)

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[雨122] 第24章 宝の地図(3)芸術家の狂気 

【海に落ちる雨】第4節第24章(3)です。
竹流の姿が最後に目撃され、彼の身に何かとんでもないことが起こっていることを確認した新潟の地。そして竹流が最後に目撃された時一緒にいた男と、再度接触した真は、竹流の居場所の情報を求めて男に近づいた。
この男は一体何を隠しているのか?

【海に落ちる雨】登場人物紹介はこちら→【登場人物紹介】





 真が刺身を何切れか口に運んでから、江田島は飲んでいたビールのグラスを置いて、店の奥に日本酒を注文した。更に勧められたが、さすがに断った。
「相川さん、このような世界では失敗は許されない。特に私のような無名の愛好家が、もしもフェルメールの本物があると言って、それが実際に出てこなかったら、私はただのほら吹きのレッテルを貼られて、後からどれほどよい仕事をしても二度と話を聞いてもらえなくなる、そういう世界です。だから、私は何よりも確認がしたかった。そしてもうひとつは、元の持ち主はともかく、あの絵を初めて目にするのは私でありたかった」

「あの絵?」
「そうです。『キリストの墓を詣でる聖女』、フェルメールの初期の絵です。フェルメールも同時代の他の多くの画家たちがそうであったように、初期には宗教画を描いていたのです。その後は、教会が絵を買うだけの権勢、つまり金銭的な余裕がなくなり、絵画はむしろ一般のコレクターのためのものになっていった。売れなくなった絵の末路は不明ですが、実際に時代を生きていた当時のフェルメールにしてみれば、全く不要な絵だったでしょう」

 目の中に狂気の片鱗がある、と真は思った。
「実際にはあなたが見たかった絵は出てこなかったのですから、あなたはパリで聞いた噂がやはりデマだったとは思わなかったのですか。何故、竹流の手元にあの絵があることを知ったのですか」
「ある女が絵を見て欲しいと言ってきたのですよ」

 真はしばらく、江田島の実直そうな外見と、そして目の中にだけ宿る強い光を見つめていた。強い光には周囲の小さな暖かい灯を消してしまう力があった。
「御蔵皐月、という女性ですか」
「そうです。私が探している絵を自分が持っている、だから取引がしたい、と言ってきたのです」
「取引?」

 真は、それぞれの関係者が演じた役割はそれぞれの欲望を満たすためだけの、極めて個人的な事情であったのだろうと思った。それに気が付いてしまえば、馬鹿馬鹿しいと言って舞台を降りた『河本』の気持ちや立場も理解できる気がする。
 だが、何よりも何故、竹流はこんなことに巻き込まれているのだろう。

「ある政治家を糾弾したいのだと。その男が過去にした事で、許せないことがあるのだと、そう言っていましたが」
「あなたはそれを信じたのですか」
「どうでもいいことです。彼女の言うことが本当であろうとなかろうと、興味はありませんでしたから」
「それで、あなたは絵を見たのですか。何よりも今、絵がどこにあるのか、知っているのですか」

「同じ絵が何枚かある、という事情はその女から聞きました。そのどの絵が、私の求める絵なのかはわかりませんでしたが、私が探している絵はただ一枚だけです。女の言うことなど、信じるに値するとは思ってもいませんでしたから。しかし、その女は赤外線をあてた絵の写真を三枚、私に見せました。不鮮明なものばかりでしたが、一枚は確かに記録に残されているフェルメールの絵の部分と同じ構図でした」
「部分?」

「宗教画というのは教会などに置かれるものですから、キャンバス自体はかなり大きい。だが、宗教画から手を引いたフェルメールが描いた市民のための絵は、どれもそれほどに大きなものではありません。考えられるのは、教会の衰退で絵が売れないと知った画家自身が、新しい絵を描くためのキャンバスとして再利用するために元の絵を切ったか、あるいは絵を手に入れた画商など何者かが、大きなままでは売れない絵を幾つかに裁断して多少安値で売ったかです。そういうことは、美術館に並んでいる貴重な絵を見ていると考えられないことでしょうけれど、実際には珍しい話ではありません。あのフェルメールの絵も、もとの形で残っている可能性は低いと思っていましたから、それについてはやむを得ないと考えます。だが、残っている部分が絵のどの部分か、ということは大事な問題です。私が見た部分には、聖女が血の涙を流して祈る姿が描かれていた」

「他の二枚には何が?」
「一枚は文字が並んでいたようでした。もう一枚は何やら地図のようなもので、女はその地図は大変貴重な地図なのだと言った」

 真は目の前の男を、まだしばらくの間見つめていた。江田島はフェルメール以外には全く興味がないという気配だった。
「相川さん、接触してきたのは大和竹流のほうからです。あの男は、美術史の貴重な瞬間を潰そうとした。あの絵を諦めて欲しいというのですよ」
「諦める?」
「あの男は全く、芸術の何たるかをわかっていないのです。貴重な発見をし、世間にその絵の存在を示し、見る目のある全ての人々の前に出してこそ、芸術は意味のあるものになる。それを、元の持ち主が余命幾何もなく、その絵を返して欲しがっているからといって、またあの国のあの闇の中に戻すなどと、あまりにも陳腐な事情でしょう」

 真は黙ったままだった。
 この男に何がわかるというのだろう。大和竹流はそういう男だ。
 真はようやく竹流がしようとしていたことの一部が見えた気がした。

 もしも、誰かただ一人の人間であっても、その人が心からその絵を美しいと感じて、傍らに置きたいと願えば、そしてもし、その人の命の最後の時間が近付いているならば、彼はその一人のために何だってしてやろうとするだろう。
 竹流は『青い血』の復活を望む秘密結社の存在などどちらでもいいと感じただろうし、その依頼者が馬鹿げた妄想を抱いていることについてもどうでもいいと思っていただろう。彼が信じるとしたら、その人間がどれほどその絵を愛しているかということだけだ。
 不意に、大和邸の和室の戸を開けた瞬間の、手の感触が蘇った。

 十二畳ほどの和室の真ん中に、大きな屏風絵を立てまわし、その絵に囲まれるようにして竹流が座っていた。
 真はその一瞬、自分が立っている空間を疑った。たった今、確かに頭の上を鳥の影が横切り、水音が鼓膜を震わせ、鼻の粘膜は梅の淡い香りに細胞を興奮させた。
 もともとは金箔もふんだんに使われていたであろう屏風絵には、所々に金の名残があったが、光輝く色が消えても、十分に作者の意図は伝わってきた。

 それが、竹流が修復を終えた絵であることは、直ぐにわかった。竹流は真が入ってきたのに気が付くと、お前も座って目を閉じてみろ、と言った。
『水の流れる音、微かな梅の香、霞の向こうから聞こえる鳥の声』
 竹流は呟いた。彼の柔らかな声の質は、魔法のように真を包み込んだ。真は改めて、自分の足元を流れる細やかな水、傍らで息づいている古木の命の気配と、そしてその枝にほころぶ梅の匂いを感じた。

『なぁ、真、俺はいつも修復を終えると、こいつを返したくなくなるよ。ずっと傍でこの空気に包まれていたい心地がする。こういうのはきっと極めて個人的で孤独な経験なんだろうな。万人が美しいと感じても、美しいと感じているのは個であって、個としてしか人はこうした作品と向かい合うことはできない。だからもし、誰か一人にとってのみ美しい作品があったとしても、もしかすると万人にとって美しいものといえるのかもしれないな。この絵は、今この瞬間は俺だけのものだと思える』

 哲学論のような命題はともかくも、竹流が言っていることは真には直感的によくわかる気がした。
 目を閉じた竹流の顔には障子を通して柔らかな陽が射し、微かな陰影を浮かび上がらせていた。彫りの深い顔立ちには、まるで命をこの瞬間に凍らせたような、音楽が一瞬無音になった沈黙の美が、漂っていた。それは、彼が今ここにある絵をまさに深く感じているからこそ、立ち上ってくる美しさなのだろう。

 そういうことは、美術史がどうだの、発見がどうだのという理論からは生まれてこない種類のものだった。勿論、江田島の言っていることは、多分正しいだろう。いや、江田島こそ正しいのかもしれない。
 いや、もしかすると、江田島も竹流も、同じ事を感じているのかもしれなかった。

「御蔵皐月が要求してきたのは、政治家の失脚だけだったのですか」
「さぁ、どうでしょうか」
「御蔵皐月とあなたが取引をした内容は、あなたが話したくないとおっしゃるのなら別に構いません。ただ、あなたと竹流が何を話したのか、あなたと彼が何故一緒に佐渡に行ったのか、そこで何があったのか教えてください」

 江田島は息をひとつつき、少しの間目を閉じていた。
「まず、食事を片付けましょう。今夜の宿はどうなさるのですか」
 真は車で寝るつもりだと答えた。江田島は、それなら自分の家に泊まるように、と勧めた。真が返事をしないままでいると、江田島は表情を変えなかったが、笑ったような気がした。
「私が同性愛者だと、どこかで聞いてこられたのでしょう」

 真はしばらく江田島の顔を見つめていた。真の考えていることを想像して面白がっているような気配はなかった。あくまでも、実直な田舎の役人に見える。
「ご安心ください。あなたを襲うようなことはしません。どういう部分でも、大和竹流と争う気はありませんから」
「どういう意味でおっしゃっておられるのですか」
「あなたは、私が大和竹流の才能や技術に嫉妬していると思っておられませんか。彼の持つ全てのものに」

 店の奥で立ち上がった若い男が、支払いを済ませて真と江田島が座るテーブルの横を通りすがりに、江田島に挨拶をしていった。狭い町のことだ。顔見知りの人間は多いのだろう。
「あの男は確かに、一生使い切ることのできないほどの黄金を抱いて生まれてきたような人種です。身分も才能も容姿も、それにどうやら人徳者でもある。私が大和竹流に嫉妬して、誰かの片棒を担いで彼をどうにかしたと、そう思っておられるのなら、私も弁明をしなくてはならない。確かに、大和竹流に会い、フェルメールの絵のことでいささか立場が異なることを知りましたが、それだからと言って、彼の身を脅かすほどの事情は私にはありません」

「だが、あなたはあなたの願いをかなえたいと、そう思っておられるでしょう。そのために竹流の存在が邪魔であっても、許容できるとおっしゃるのですか」
「邪魔? とんでもない。彼を納得させることができれば、彼ほどに強い味方はいないでしょう」
「彼が納得しなければ?」
「私は私がすべきであると信じることをするだけのことです」
 そう言うと、江田島は一旦息をついた。

「私の家に来て、家捜しでもなさったらどうですか。もしかすると、大和竹流を匿っているかもしれませんよ。いや、彼を座敷牢にでも閉じ込めて、夜な夜ないたぶり尽しているかもしれませんからね」
 役人というのは、こういう融通の利かない気配を身に付けていく人種なのだろうか。

 だが、この男の目の中には、ただ読み取れないだけではなく、真には理解できないものに対して抱く快楽を貪るような狂気が潜んでいる気がした。
 大概の芸術家とはそういうものなのだろう。彼らが好んで自殺という究極の芸術活動をするのは、その狂気の表れだ。
 もっとも、この男が芸術家という範疇に入るのかどうかは、はなはだ疑わしい。
 食事を片付けて、真は挑戦状を受け取るような気持ちで、江田島の家に向かった。

(つづく)



まだまだ続きます。真vs江田島……マコトに貞操の危機? あ、マコトじゃない^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第4節

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