FC2ブログ
10 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

有名な崇徳院の歌です。これを聞くと、ついつい「はいからさんが通る」だと思う私は古い?
離れ離れになった恋人とまた必ず会おうと願い誓う恋の歌とも言われますし、鳥羽上皇に強引に譲位させられ後白河天皇との争いに負けて讃岐に流罪となった崇徳院の恨み節(必ず京へ戻るぞ!)とも言われますね。
恋の歌で使われる言葉としては「瀬」とか「岩」というのは強すぎる詞だとも言われています。
つまりそれだけ想いが深い(恋にしても、帝位への想いにしても)ってことなんですね。


件の「はいからさんが通る」ではじいちゃん・ばあちゃんが結ばれなかった想いを孫に託したってお話でしたよね、確か。いや、でもあれは、やっぱり鬼島さんが~(誰もついてきてない……?!)

何の話かというと。
真シリーズの本編をちゃんとアップしないままにこの最後の最後を書いちゃったので、皆様を戸惑わせているような気がしたので、このシリーズを端的に表すものはないかと思いまして、冒頭の歌を上げました。
それぞれの世代には、それぞれのドラマやテーマがあるのですが、全体を貫いているのはこの歌の世界かもしれません。


「ヴォルテラ家=シンデレラ城に住む一族、相川家=どこかの馬の骨」
(登場人物はすべて架空のものであり、実在の人物・団体とはなんら関係ありません)
この2つの家系の間に何度となく恋の花?が咲きかけたんですが、身分違いどころか、性別の問題(あはは^^;)、プライドの問題、宗教の壁、育ってきた文明・文化の違い、病気、などなど障壁が多すぎて、世代を跨いでしばしば絡むのに一向に結ばれることなく、はや1世紀^^;なんてお話なんですよ。

さて、大団円となりますやら。
最後のエンドロールまで、お席を立たれませんように、お願いいたします(*^_^*)




「いや~、惜しかったよ。でも三位入賞だからね。次はいけるよ、きっと」
 工房に行くと、主人が本当に残念そうな声で言った。
 芝居ではないと思いたかったが、どこまで信じればいいのかも分からなかった。

 ロレンツォのお蔭で自分でも最高のものが作れたと思っていた。
 イメージはロレンツォが閲覧を許可してくれた古い本を見ているうちに、天啓のように降りてきた。
 翡翠と真珠を使った東洋の神秘的な意匠のブローチ。真珠はロレンツォのイメージだった。そして翡翠はサルヴァトーレの瞳の色。

 ロレンツォの肌の色は、どちらかと言えば父親と同じで少し浅黒く見える。それでも真っ白な真珠のようだと感じていたのは、その張り詰めた輝きに通じるものがあったからだった。
 そして、サルヴァトーレの瞳は疑うことも無きこの碧だ。玉座に坐す者が身につけたという石の神聖さが、あの瞳の中に宿っていた。
 ここはキリスト教の国だけれど、彼らの姿は日本の寺院で見る観音様のようだと思った。
 この世界に留まり、静かに、皆を守り、救っている。

 イメージが降りてきたのは本のお蔭だけではなかった。
 ロレンツォの言う通り、アイディアが降りてくる場所は意外なところが多いようで、詩織の場合は、それはトイレでもベッドでもなく、台所だった。
 台所を仕切っているヴァネッサは、ヴォルテラ家の兄弟がまだ幼いころからここに勤めていた古い女中だ。噂話はあまりしない人だが、ある時何かの話の流れで昔話が出た。

「お前たち、これ以上つまらない噂話はおよしなさい。でもこれだけは言っておきますよ。昔から坊ちゃまたちは本当に仲がおよろしくてね。ロレンツォ坊ちゃまはいつでもトト坊ちゃまの悪戯を庇っておられたし、トト坊ちゃまはお兄ちゃんの後ろばかり付いて回っておられたんですよ」
 この人の目からは、彼らは何時までも、じゃれ合っている可愛らしい坊ちゃまに見えるらしい。

 今では「じゃれ合う」などとんでもないが、距離を置いていても、何か言い合いっていても、彼らはちゃんとお互いに向き合っている、詩織にはそんなふうに感じられた。彼らはお互いがなくてはならぬ一対のように、どこかもっと深い所で繋がっているのだと思った。
 デザイン画を描きながら、詩織は自分の過去や現在、そして未来までもその中に沈められていくように思い、作品を形にしていきながら、やがてその中から心や魂が浮き上がってくるように感じた。

 本当のところ、他の出品作を見た時、自分の作品が一番いいかもしれないと自信を持ってもいた。だが、それは思い上がりの自己満足だったというわけだ。
 それに、以前、ちらりと誰かに言われたことがある。
 君がイタリア人だったらね。
 そうだ。私は東洋の「ちんちくりんのお嬢ちゃん」なのだ。そう簡単に幸運に手が届くわけじゃない。スタート地点がずっと後ろのほうだとうことを、今になって思い知らされた。
 
 あの日、ロレンツォとサルヴァトーレの会話を立ち聞きしてしまってから、詩織は体調が悪いからという理由で、朝の食事の世話を他の人に代わってもらっていた。一度廊下でロレンツォとすれ違った時、いつものように言葉ではなく気配で呼び止められたような気がしたが、頭を下げて視線を避けてしまった。真っ直ぐ顔を見ることなど、とてもできそうになかった。

 本当は、もしもこのコンテストで優勝したら、そして少しだけでもあの人が喜んでくれたら、もう一度ちゃんと顔を見ることができるかもしれないと思っていた。もう何も期待はしないけれど、せめてちゃんと向かい合いたいと願っていた。
 その願いがぷつん、と切れたような気がした。
 
 そんな気持ちで週末の考古学教室に行ったとき、詩織の直接の上司である助手からいきなり部屋に閉じ込められた。何だかよく分からないが、簡単に言うと、ぼくの気持ちは分かっているよね、という話だった。
 突然全くイタリア語が理解できなくなったような気がして、詩織は相手の急所を蹴りあげて教室を飛び出した。

 流され続けてきた自分を変えようと日本を飛び出した。自分なりに一生懸命に新しい街で生きてきた。言葉を覚え、仕事に生きがいを見出し、そして恋を知った。
 私は勘違いをしていた。気持ちが昂ってしまって、本当の自分よりも自分が大きいのだと勘違いしてしまった。

 狼狽えていて、せっかく直してもらった自転車を置いてきてしまった。
 奇妙なことに、いつの間にかロレンツォが直してくれたのだ。
「若旦那様は手が器用でいらっしゃるからねぇ。そういえば、古い家具だって直しちまわれるんだもの」とは使用人仲間の言だった。
 彼女はまるで詩織の心を読に取ったかのように、ふっと微笑んだ。
「あの人は立派な旦那様になられるよ。口数は少ないけれど、いつも私たちのことを見てくださってる。誰かの体調が悪い時も、さりげなく仕事の加減をしてくださるんだよ。あの仏頂面だけどね」

 そうだ。彼は私に笑ってくれたことなんてないじゃない。いつも怖い顔をしていたし、私はいつも怒られてばかりいた。
 それでも。彼は私を図書室に連れて行ってくれた。笑うことはなかったけれど、ちゃんと夜は眠るようにと言ってくれた。きっと人には知られたくなったはずの秘密の場所を見せてくれた。私が知りたがったからだけれど。
 
 詩織は停留所でバスを待ちながら、空を見上げた。すっかり日が落ちるのが早くなった。黒い影が形を変えながら空を旋回している。秋が深くなって、ムクドリが帰ってきたのだ。
 やがて暗闇が落ちて来て、あの鳥たちも木々に羽根を休める。

 詩織の前にバスが停まった。タラップに足を上げかけて、不意に止まる。
「乗らないのか?」
 太い声で聞かれて、詩織は弾かれたように首を横に振った。
 ばん、と強い音を立てて扉が閉まる。
 ……あの自転車は私にとってとても大事なものだったんだ。

 やっぱり大学へ戻ろうかと少しだけ引き返しかけた時、ふとバス停近くの歩道のワゴンを何気なく覗き込んだ。落ちてきた暗闇の中で、ワゴンに並べられた週刊誌の表紙は電灯に照らされて、アニメーションのようにくっきりと浮かび上がった。
 詩織は凍りついてしまった。

 ロレンツォ・ヴォルテラ、ついに結婚へ

 どの雑誌の表紙にも、同じような内容の赤や黄色の大きな文字が踊っていた。

 私って馬鹿だ。それでもまだ何かを期待していたのだろうか。
 そもそも相手は雲の上にいる。生きている世界も全く違う。
 確かにロレンツォは私のために図書室の扉を開けてくれた。彼と語るための言葉をくれた。そして、私に道を切り開く勇気をくれた。
 でも、それが何だというのだろう。12時は過ぎてしまった。ガラスの靴はもう砕けてしまった。それに、私は荊を切り裂く剣を取り出すための呪文を知らない。

 詩織は人に顔を見られたくなくて、とぼとぼと街を歩いた。夕刻の熱気は今日も街を包み込んでいた。窓からの明かりに惹かれて覗き込んだバールやリストランテでは、賑やかに食事や酒を楽しむ人々の笑顔が見えた。
 広場には身体を寄せ合う恋人たちが、この優しいひと時を分かち合っていた。
 酔っぱらいに声を掛けられたが、無視して歩いた。歩いても歩いてもどこにも着かないような気がしたけれど、ただ歩くしかなかった。

 遅かったと心配してくれた屋敷の人たちに、自転車も壊れて財布も忘れて行って、と言い訳をした時にはまだ平気だった。
 サルヴァトーレは屋敷に居る気配はなかった。ロレンツォの気配を少し遠くに感じたけれども、目を上げることはできなかった。
 詩織は図書室に入り、最近発見した書棚の奥の小さな机の下に潜り込んだ。
 一人になって初めて涙が零れ落ち、そのまま一晩中声を潜めて泣いた。
 机の上では、古い地球儀が世界を閉じ込めて、小さく震えていた。



「東京成田行き、アリタリア航空1122便は、間もなく皆様を機内へご案内いたします」
 イタリア語に続いて日本語のアナウンスが流れた。
 父親は、詩織を勘当すると言ったことなど百パーセント忘れているというのが、母親の感触だった。
 電話をすると、「成田に迎えに行くからってレコーディングの予定をずらしたわよ、ほんと、スタッフもよくあんな勝手な人に付き合っていられるわよね」と言っていた。
 詩織には、母親の忍耐力の方がすごいと思えた。

 間もなく、後方の席の乗客が搭乗を許された。しばらくして前方の席の乗客も並び始めた。
 この街を、この国を去る時間、夢の終わる時間だ。
 詩織は立ち上がった。


 サルヴァトーレというのは救世主という意味だ。
 幼いころ、ただ一度だけその人に会った時、お前はいつかきっと誰か大事な人を救うことになるだろうと言ってくれた。その人は、当時まだ若かったヴォルテラの現当主・ヴィットリオの手を強く握り、この子を頼むと、目に涙を浮かべて言った。
 その時、その人はまだ枢機卿という立場だったが、今は並ぶ者がいない地位に昇りつめた。その人の教皇就任を知った時、サルヴァトーレは自分の運命を感じた。

 いつか、誰にも頼ることができない状況で自分の力で答えを見つけなければならない時が、必ず来るから。
 いつか詩織に言った言葉は、そのまま自分に告げた言葉だった。
 迷いがなかったと言えば嘘になるが、今はもう全てを吹っ切った。清々しく真っ白な心境だった。

 育ての父であったヴィットリオ・ヴォルテラは、黙ってサルヴァトーレの話を聞いていた。そして、いつかこんな日が来るだろうと思っていた、と一言だけ言った。

 傍らでロレンツォは黙っている。
 兄と慕っていたロレンツォの秘かな望みをサルヴァトーレはずっと知っていた。秘められた工房に籠って夜通し魂を削るように作業をする彼を初めて見た時、サルヴァトーレは震えた。それこそが、偉大な先祖であった曽祖父、ジョルジョ・ヴォルテラの血だと思った。
 ヴォルテラを継がなければ、彼は当代一の修復師になっていただろうと言われていた。
 修復師。芸術という神と語る力を持つ者にしか、その道の極みに達することはできない。
 あれから幾度も、その神と語らう兄を見てきた。彼には歩くべき道がある。

 そして、結ばれ得なかった二つの血脈を、一世紀の時を経て結びつけるのは、心から思い合っている二人しかいない。もっとも、この際、血はただの偶然、きっかけに過ぎない。
 いや、偶然も重なれば必然へと繋がるのかもしれない。偶然はおそらくそこかしこに落ちている。要はそれを自分にとって大切なものだと気が付くかどうかだ。その偶然にさえ気が付いてしまったら、荊を切り裂く剣を得て、塔の上に眠る必然という姫君のところまで上っていくことができる。

 本人は気が付いていなかったろうけれど、詩織はいつもロレンツォを見ていた。彼に届こうとしていた。言葉を覚えたのも、自分の仕事を最高の形にしたいと願っていたのも、全て彼に認めてもらいたかったからだ。ダンスやマナーを教えている時も、恐らくは本人は全く無意識に、ロレンツォを夢想していただろう。
 詩織がサルヴァトーレの足を踏んでしまうのは、いつもロレンツォに言われた「悔しいこと」を思い出している時だった。

 そして、将来この家を継ぐことを思って、常に他人に興味を抱くまいと、人との間に線を引いてきたロレンツォが、初めて他人に惹かれる様子も見てきた。あの無表情で相当に分かりにくいから、気が付いていたのは多分、サルヴァトーレと母のエルヴィエールだけだったろう。
 いや、本当のところは、使用人たちだって、みんな気が付いていたかもしれない。何しろ、彼らはずっと自分たち兄弟を見守ってくれていたのだから。

 そう、きっと一番最後に気が付くのは、ロレンツォ本人なのだ。
 この俺が身を引いたのだから、何があってもこの縁は結ばれてくれなければ困る。

 サルヴァトーレは偉大な育ての親を見つめた。
 全ての答えへの道を握っているのはこの人だ。寡黙だが、判断力と決断力についてはこれまでの最高の当主だと言われていた。
 この人から学ぶことはまだ幾らもある。

 やがて、兄弟の父、ヴィットリオは、何もかもを覚悟したような声でロレンツォに向かって言った。
「私の祖父であるジョルジョ・ヴォルテラは、生まれた時から次期当主として教皇にまみえていたヴォルテラの歴史上唯一の人だった。彼は当時の教皇に大変愛されていたが、一度ローマを出奔してしまった。その時彼は、教皇に言われたそうだ。ジョルジョ、私はただ君に幸せでいてもらいたいのだ、と」

 ただ幸せでいてもらいたい。
 それが本当のエウジェニオ(教皇)の予言だった。
 そして、今まさに、時は満ちたのだ。
 ヴィットリオはただ一人の息子に歩み寄り、その左手を取ると、荊と十字架の紋章の指輪をそっと抜いてやった。


 突然の訪問などありえないが、ヴォルテラの次代当主から火急の用事だと聞かされれば、教皇と言えども面会を断ることはできないはずだった。
「ロレンツォ、何かあったのか」
 その人は面会のための礼拝堂に静かに入ってきて呼びかけ、振り返った相手に驚きの表情を隠さなかった。

「トト、一体これはどうしたことだ。何故君が」
 教皇のためだけの礼拝堂に入ることを許されるのは、教皇本人と、その影ともなるべきヴォルテラの当主および次期当主だけだった。
 おそらく誰もがその清貧さに驚くであろう空間には、祭壇と小さな椅子、最低限の装飾、キリストの十字架とペテロの十字架しかなかった。ペテロは、キリストと同じでは恐れ多いと言って、自ら逆さに磔られることを望んだので、その身体は逆さ十字架に磔られていた。
 もう、その覚悟はできている。

「御許可を頂きたく参りました。本来なら、現当主が同席するべきですが、諸般の事情を鑑みて、私が一人でご挨拶に参りました」
 サルヴァトーレは絹の布地を内ポケットから出し、掌の上でそっと広げた。真っ白な絹の上で、荊と十字架のヴォルテラの紋章が刻まれた指輪が、周囲の光を吸い込んで重く、しかし強く、輝いた。
「どうぞ、これを私の指に」
 サルヴァトーレは教皇にそれを差しだし、跪いた。

「一体、ロレンツォはどうしたのだ」
「彼は、エウジェニオの予言を成就するため、あるいは運命を切り拓くために行きました。今頃は空港に。間に合えばいいのですが」
 あの堅物の兄にデリカシーなど期待できない。フライト時間を聞いて初めて狼狽えたような顔をし、慌てて席を外そうとした彼を呼びとめて、小さな箱を投げてやった。
 そう、間に合えばいいが。

 何しろ全く、事はサルヴァトーレの思うようにはいっていなかったのだ。
 サルヴァトーレの予定では、彼が適当に雑誌社や新聞社にあることないことリークした記事に慌てた二人が、想いを伝えあって今頃はハッピーエンドのはずだったのだ。それを、詩織の奴、逃げ出す馬鹿があるか。
 自分の力で答えを出すのは今だというのに。

 教皇はたっぷり一分間は考えを巡らせていたようだったが、やがてサルヴァトーレに歩み寄り、指輪には手を触れることなく、そのまま彼を抱きしめた。
「これがお前の望みなのか」
「私は、あなたが下さった予言を成就するためにここに来ました。私にとって一番大切な人を守り、救うために」

 やがて教皇は指輪を取り、サルヴァトーレの手を握った。
「息子よ、窮屈で残酷で苦しい世界だ」
「えぇ、でも私はもう現世を十分に遊びつくしましたから」
 ようやく教皇は微笑み、愛しい手を取り、その左の薬指に荊と十字架の指輪を託した。サルヴァトーレは教皇の手を取り、口づけた。
「父上、私が生涯、あなたをお守りいたします」


 座席に座り、シートベルトを締めると、ほどなく機体は滑走路へ向かって動き始めた。
 今日もローマの空は高い。
 最後は何もかも失ってしまったけれど、それでも私はこの街が好きだった。

 自転車で走りにくい石畳も、道の脇に転がっている古の建物の柱の欠片も、夏に咲き乱れる夾竹桃の赤や白、人々や鳩が集まる噴水、夕刻にオレンジに染まった広場の熱気、博物館や美術館の廊下に響く靴音、教会の側廊の静かな暗がり。自分勝手でナルシストで、でも陽気でしたたかに生きる人々。
 重い運命を背負いながらも闘い抜こうとするヴォルテラ家の人たち。私を妹のように愛してくれたサルヴァトーレ。
 そして。
 もう考えちゃだめだ。
 機体は滑走路へ機首を向ける。エンジンの音が大きく唸り始める。

 その時だった。
 一旦大きくなったエンジン音が、すとん、と止まった。
 静寂の後、乗客がざわめく。
「当機は、積荷の安全確認のため、一旦ゲートに戻ります。シートベルトは締めたまま、席をお立ちになりませんよう、お願いいたします」

 なんだ、まさかテロか、というようなざわめきが機内を走り抜けた。詩織は緊張した。このところ、事故やテロのニュースも後を絶たない。
 もしそんなものに巻き込まれたとしたら……
 けれども、それもまた運命なのだろうか。

 そう思っているうちに、機体はゲートの近くにまで戻り、停止した後、前方の扉が忙しなく開かれ、如何にも警察官という複数の人間が乗り込んできた。何があったのだろうと思っていると、彼らは詩織の横で立ち止まった。
 え?

「アイカワシオリさん?」
「え? は、はい」
「あなたの荷物を至急調べるようにと通報がありました」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「とにかく降りてください」

 一体この国は何なの。来た時も、出ていく時も、簡単には空港を出れないなんて、一体何の因果なのよ。そんなに私を嫌わなくてもいいでしょうに。せっかく青い空を眺めてセンチメンタルに泣こうと思っていたのに、何なのよ!
 とか何とか思っているうちに、周囲の乗客の「可愛い顔して何をやったのかしら」「コノチンチクリンガテロリスト?」という視線を目一杯浴びながら、詩織はタラップの階段を無理やり下ろされ、しばらくして詩織のスーツケースが機体から放り出されると、警察官は詩織を連行して空港のターミナルの方へ戻り始めた。

 正直、ムカついていた。無理やり下ろされた上に、無実の罪で周囲の人の疑惑の視線を浴び、挙句に何で自分でスーツケースを持たなくちゃならないのよ。
「ちょっと、そっちの都合なんだから、あんたたちが運びなさいよ」
 とかごちゃごちゃ言っているうちに、詩織が乗るはずだった1122便は機体のチェックも適当に、さっさと滑走路へ戻っていってしまった。

「もっとちゃんと調べなくていいの? 私は何もしてないわよ。他に怪しい荷物があるかも知れないじゃない」
 警察官たちは肩を竦めるばかりで、ろくすっぽ何もしようとしない。挙句の果てに詩織を待合に戻し、しばらくここで待つように言って、そのままどこかへ消えてしまった。

 詩織は呆然とした。
 というのか、怪しいなら取り調べをしなさいよ!
 と叫ぶ相手も目の前からいなくなっていて、混乱して座り込んだ。
 これって、何? 私はまた空港のホテル泊まるわけ? で、一体このチケット代はどうなるの?
 そう思いながら途方に暮れて、1122便が消えてしまったゲートを見やった時だった。

 どういうこと?

 見間違えるはずのない背中だった。
 男は飛び立った1122便の方角を見上げたまま、微動だにしない。
 詩織は荷物を引き摺りながら彼に近付いた。

 やがて肩を落として振り返った男は、今度は、これまで詩織が見たことのない驚きの表情を見せて、一瞬飛び下がった。
「な、なんだ、どうして」
「こっちが聞きたいわよ。あなたなのね? 私の荷物が怪しいって、どういうことよ!」
「一体何の話だ?」
「警察官に金を握らせたでしょ」
「はぁ? 何故、私がそんなことを……」
 ロレンツォは急に黙り込んだ。

 それから、息をひとつついた。まるで彼ひとり、得心がいったように見えて、詩織はむっとした。まだ混乱したままの詩織は、突然いつもの落ち着きを取り戻したロレンツォに突っかかった。
 そうよ、私だって、「あ」と「え」以外にもあなたに言いたいことがあるの!
「この期に及んで……」
 結婚するくせに!
 その先の言葉は、強い腕の力でねじ伏せられた。

 もしかすると、これはジェットコースターの最後の坂を登っているところ? 最高と最低の行き来を繰り返し、そしてこれからどこかに落ちていくのだろうか?
 それとも、私、飛行機の中で夢を見ている?
 夢ってどうやって覚ますんだっけ? えっと、ほっぺたをつねるとか原始的な方法でいいのかな?

 けれどもこの匂いは本物だった。油絵具の匂い。いいえ、ロレンツォの匂いだ。冷たい顔をしているのに、この人の胸の中はこんなにも暖かかったのだ。
 やがて大きな手が詩織の両頬を包み込んだ。
 詩織は、その違和感にすぐ気が付いた。
「何?」
「指輪……」

 ロレンツォの左の薬指には、ずっと二つの血脈の間を割いていたあの荊と十字架の指輪がなかった。
 だが、ロレンツォは何か別のことを思ったのか、あぁ、と言って、ポケットから何かを取り出してきた。その頃には、彼の表情は、いつものいささか冷静で味わいのないものに戻っていた。
 表情とは裏腹に彼の指は微かに震えているように見えた。そのロレンツォの綺麗な指が何かを躊躇い、ようやく小さな箱をそっと開ける。

 二人ともが、何となく狐につままれたような顔で相手を見た。
 小さな赤い箱の中には、荊と十字架の指輪ではなく、ピンクダイヤの指輪が光を照り返していた。
 何にしても出来過ぎだ。きっとこれはロレンツォの演出ではない。
 だが、その先の言葉は、ロレンツォの精一杯の気持ちだったに違いない。

「つまりその、君の契約期間はまだ終わっていないし、いや、と言っても、私も家を出なければならなくなったので、契約は別の形になるわけだが、つまり君には、あのナヴォーナ広場近くの工房の上に住んでもらわなければならないかもしれないが。いや、もちろん、私も一緒にということだが……いや、その前に東京に行って、君の父上に……いや、何よりも、君が、その……」
 何だか訳がわからないけれど、今のロレンツォに聞いても、お互いに半分くらいしか理解できないだろう。

 ロレンツォは結局全ての解説を呑み込み、ひとつ息をつくと、暖かいピンクの光を揺らめかせるダイヤの指輪を取り出し、最後に言った。
「これを受け取ってくれるか?」

 全く状況は分からない。でも、たったひとつだけ分かったことがあった。
 いつかサルヴァトーレが言っていた。誰にも頼ることができない状況で自分の力で答えを見つけなければならない時が、必ず来る。
 それが今なのだ。いや、本当は少しだけ遅かったのだろうけれど。
 ならば今、改めてそれを選び取ろう。

 もしもこの人があの家を背負って立つ運命にあるのだとしても、私が東洋のちんちくりんのお嬢ちゃんでも、たとえ釣り合わなくたって、厳しい運命が火を吹いていたって。
 ……私はこんなにもこんなにも、この人が大好きだったんだ。
 詩織は返事の代わりに、もう一度ロレンツォの胸の中に飛び込んだ。

 唐突に目の前で展開した愛の告白シーンの顛末に湧き立つ待合室の大勢の人々の拍手喝采、口笛の音が耳に届いたのは、随分時間が経ってからだった。
 
 今、運命はひとつ先に進んだのだろうか。
 私の血の中にも、この人の血の中にも、幾世代にもわたって近付いては反発し、共に生きることが叶わなかった魂の遺伝子がいくつも眠っている。その血は、螺旋の絡まりのようにお互いを求め合い、今、一世紀もの時を越えて、静かに重ねた手と手の中で、溶けて行こうとしている。
 でも、きっと、運命は背負って生まれてくるものではなく、出会ってから拓けるものなのだ。

(【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ 


お粗末さまでございました。
続きを読む、でぜひ、エンドロールをお楽しみください(*^_^*)
あの猫が、この物語を、別の角度から一言で言い表し、一刀両断してくれます
-- 続きを読む --
スポンサーサイト



Category: ローマのセレンディピティ

tb 0 : cm 13