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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨123] 第24章 宝の地図(4)狂気の行方 

【海に落ちる雨】第4節第24章・最終話です。
竹流と最後に一緒にいたはずの男、江田島。実直な役人に見えて、実はどこかに狂気を潜ませたフェルメールの愛好家だった。だがこの男が竹流を痛めつけるほどの理由があるだろうか? 
「私の家に来て、家捜しでもなさったらどうですか。もしかすると、大和竹流を匿っているかもしれませんよ。いや、彼を座敷牢にでも閉じ込めて、夜な夜ないたぶり尽しているかもしれませんからね」
真は誘われるままに彼の家にやってきたが……

【海に落ちる雨】登場人物紹介はこちら→【登場人物紹介】





 江田島家は弥彦の町の外れにあった。古い平屋造りの家屋は、門から玄関までの距離はそれほどでもなかったが、玄関から先は全体像がつかめるような家ではなかった。
 江田島は玄関の鍵を開け、真を誘い入れた。靴の一足も置かれていない土間は大きく、三段上がった先に置かれた衝立には立派な松が描かれている。

 玄関の灯りは点っていたが、人の気配はなかった。
「お一人なのですか」
「両親は亡くなりました」
 江田島はそれだけ言って、真にどうぞと声をかけた。真は促されるままに靴を脱ぎ、奥へ上がった。腰ほどの高さの衝立の右奥は、真っ暗で見えない。

 江田島が左手の廊下を行く後ろを、真はついていった。廊下は縁側のようで、雨戸の閉められたガラス戸に、頼りない光に浮かび上がる二人の影が、移動していく。
 幾つかの部屋を通り過ぎて、不意に立ち止まると、江田島は襖を開けた。音も立たなかったのではないかと思われるほど、一瞬の動作に思えた。先に立って部屋に入った江田島の姿が闇に呑み込まれ、真の視界から、突然気配の全てまでも消えてしまったようだった。

 江田島が部屋の電気をつけたが、オレンジ色にくすんだ灯りは、闇の気配を消し去ることを躊躇しているようだった。
 部屋は六畳ほどの和室で、小さな床の間には山水の描かれた掛軸がかかっている。真ん中に座敷机が置かれていた。江田島はもうひとつ奥の部屋の押入れから座布団を持ってきて、真に勧めた。隣の部屋は明かりもつけないままだったが、さすがに家主の江田島は、闇の中でも自分の行く先が見えているようだ。

「風呂を沸かしてきます。緊張して眠れないくらいなら、敵地でも酒くらいは許されるでしょう。夢の中でなら、願いも叶うかもしれませんよ」
 江田島は真を残して、廊下を引き返していった。真はその後ろ姿が消えるのを確認してから、出された座布団に座った。

 突然、息苦しいほどの静寂が周囲から真を押し包む。
 目を閉じると、どこかから覗かれているような気配が突き上げてきた。真は思わず江田島が出て行った廊下側の襖を見たが、勿論誰もいるはずがない。隣の部屋との仕切りになる襖も、江田島が閉めていったままだった。時計が時を刻む音なのかもしれない。

 しばらくすると、江田島は五合の酒瓶と小さなグラスを持って戻ってきた。
「家捜しする気も起こらないような古い家で驚かれたでしょうね。昨年、寝た切りだった母親が亡くなって、もうそろそろこの家も寿命かと考えていたのですが、色々と事情もあってまだこのままです」
 真は勧められるままにグラスを受け取った。身体の細胞が軋んだ音を立てていて、本来なら真の特殊能力が発揮されてもいいような古い家だったが、神経が磨り減ってしまっているのか、感覚器の域値は随分高い位置に上がってしまっていた。それとも、昨日から何時になく酒を飲みすぎているからなのかもしれない。

 黙ったまま何とかグラスの半分を飲んだ時点では、まだ意識は清明だった。
 時政という若者と本当に同性愛の関係なのか確認したいような気はしたが、よく考えればそのことと竹流の行方は関係もなさそうだったし、敢えて聞くことでもない。
 しばらくすると、風呂が沸いた頃だというので、江田島は真を風呂場へ案内した。断る隙は見い出せないまま、真は風呂を借りた。

 五右衛門風呂ではなかったが、高い天井に灯る明かりは薄暗く、えんじと緑と白のタイルの色は沈んで見えた。身体を洗って湯船に身体を沈めると、不意に皮膚の神経がざわめく。入浴剤か何かの刺激なのか、身体中を愛撫されたような細胞の異様な興奮を感じる。
 逆らえような気配だったのでついてきたわけではなかった。とにかく、真の理解が及ぶ限りでは、今のところ竹流と最後に接触していたのは江田島のようだった。だが、限りなく黒に近い灰色に見える江田島には、決定的に黒と言えるものがなかった。

 唐沢に言わせれば、真の嗅覚が見事に働いているということかもしれない。フェルメールの絵に関わっているとしても、竹流をあのような目に遭わせた人物としては、江田島を疑う要素がなかった。
 不意に、湯気の中に白檀のような香が湧き上がった。
 真は思わず背後を振り返った。

 背後は少しの空間を置いてすぐに壁になっていて、立ち上がって丁度頭の高さになるくらいの位置に窓があった。無論、その窓は閉められていて、外は真っ暗だ。窓を、時々雨が叩いている。風の向きが変わると静かになり、また吹き付けるようにガラス窓を叩く。庭になっているのだろうか、風が舞っているようだった。
 やはり誰かに見られているような気配がした。真の特殊能力からすれば、それがあやかしやら霊の類であってもいいはずだが、どうやらそういうものではないような気がする。

 邪悪なものを感じているわけではない。それはもっと現実的で不安な気配だった。要するに、真がその気配を恐れているのではなく、その気配のほうが真を恐れているような、そんな感じなのだ。
 江田島の持つ気配ではなかった。
 江田島という男は、決められた土俵の中からはみ出さないように、抜け目なく、望んでいることを積み上げていくようなタイプの男に見えるし、緻密に計算した彼自身の理屈は、恐怖や怯えとは関係のない次元で動いている。

 真が風呂から上がって身体を拭いているときに、もう一度、微かな白檀の香りがした。思わずタオルに鼻を近付けてみたが、ただ石鹸のような匂いがするだけだった。
 用意されていた浴衣を着てもとの和室に戻ると、白檀の香りが強くなっていた。机は端に寄せられて、布団が敷かれている。真は白檀の香りを追うように、隣の部屋との境の襖を開けた。

 隣の和室にも小さな火が灯っていて、よく見ればそれは仏壇に供えられた蝋燭の火だった。新しい線香が供えられている。そう言えば、江田島は母親が亡くなったと言っていたし、やはり例の如く、真の神経が過敏になっているだけなのだろう。真は仏壇の前に座り、線香を一本取って、蝋燭から火をもらった。そのまま手を合わせる。
 静かで、柱時計が時を刻む音をベースにして、時折戸を叩く雨の音が短い旋律を奏でていた。

 みしっと、後ろで畳がなった。すっと背筋を撫でられるような空気が澱む。真は振り返りたい衝動を抑えた。
「もう少し、おつき合い頂けますか」
 江田島の淡々とした声が、すぐ後ろから真の身体を縛るように迫った。

 真が立ち上がったとき、江田島が座敷の明かりをつけた。明かりがついてしまうと座敷は思ったほど広くはなかったが、更に左奥も襖になっていたので、開け放てば広い空間になるようだった。
 座敷の中央には一畳分はある大きな机が置かれていて、江田島はそこに酒と幾種類かの漬物が載った鉢を準備した。いつの間にか、江田島は和装になっている。

 真は一旦、もうこれ以上は、と酒を断ったが、江田島はそれを無視した。淡々とした表情で猪口に酒を注ぎ、ひとつを真のほうに差し出した。
 観念した真が、形だけとは言え、猪口を口に運ぶのを見届けてから、江田島は話し始めた。

「私は、私が見た地図が何なのかを確認したまでです。第二次大戦の時に蓮生に持ち込まれた二枚目の絵がそれだったようです。女が貴重な地図だと言ったからには、大和竹流にも貴重な何かなのだろうと思ったのですが、彼は別にどうとも思っていないようでした。彼にとっては、フェルメールをキエフに返すことが問題だったようですね」

 唐突に話し始められて、真はしばらくどういう内容か考えなければならなかった。
「何の地図だったのですか」
「文字通り、宝の地図ですよ。大和竹流は、キエフの老人から報酬を渡されたのでしょう。老人の所有するもっとも貴重なものがそれだったのだろうと、つまり老人は地図の所有権を大和竹流に譲ることで、フェルメールへの彼自身の執着を示したかったのかもしれません。『琥珀の間』の事件をご存知ですか?」
 江田島は、真にそういう知識がないことなど十分承知だと言わんばかりに、真の返事を待たずに先を続けた。

「総重量六トン、十万個の琥珀で飾られたロマノフ王朝の至宝ですよ。もとはプロイセン王のものだったと言いますが、ピョートル大帝が譲り受け、現在のペテルホフ大宮殿、冬宮、夏宮へと移されました。完成したのはエカテリーナ二世の時代で、彼女はこの部屋をこよなく愛して、部外者の入室を許さなかったといいます」
 江田島はふっと天井の方を仰ぎ見た。彼の目が蛍光灯の明かりで黒く深く光ったように見えた。

「想像してください。濃密な赤や蜂蜜色、乳白色、透明な赤、可能な限りの白と赤の色合いが、微妙に変化しながら四方の壁を埋め尽くしている。四方の壁には視覚、聴覚、味覚、触覚と嗅覚、という人間の五感を表したフィレンツェの工房で作られたモザイク画が嵌められていたといいます。この部屋は西側に窓があったそうですから、夕陽が当たるとその窓から赤みを帯びた光が射し込み、部屋自体が黄金に輝いたことでしょう。エカテリーナ二世には十数人の愛人がいたといいいますが、その部屋の中に白い肌と黄金の髪を持つ権力者が立っていれば、誰もが足下に跪いたことでしょうね」

 琥珀色、という表現は分かるとしても、琥珀というもの自体を真剣に見たことなどない真にはよく分からない感慨だった。それを察したのか、江田島は和服の裾から小箱を出してきた。小さな濃い茶色の木箱は手のひらに納まるかどうか、という大きさだった。
 江田島は目だけで、どうぞ、と伝えてきた。

 真は促されるままに小箱を取り上げ、開けると、そこには小さな石のようなものが入っていた。取り出すと、何ともいえない香りが立ち上ったような気がしたが、もちろんそんなはずはない。よく見ると、薔薇の花のような形に削られているが、角はかなり摩滅していた。
「元は植物の樹脂です。およそ五千万年の歳月を経て化石化したもので、ソ連には世界屈指の産地があります。地球の古代の命を閉じ込めた琥珀には、不思議な気が満ちているといいます」

 何か小さい箱のようなものを預かっていたと、竹流がそれを取りに来たと、山梨で会った農家の老人が話していた。真は手の中に古の命の残り香を抱いているような心地で、その琥珀をしばらく見つめていたが、やがてそれを小箱に戻した。

「ナチスがソ連に侵攻した時には、ヒトラーの腹心ゲーリングが、ソビエトからどのような美術品を略奪するかという計画を立てていました。ドイツにとっては、琥珀の間はもともとプロイセンのもの、自分たちのものという考えがあったようですから、当然リストには、この部屋の名前があった。エカテリーナ宮殿からはトラック六台分の美術品が運び出されたといいます。しかし何と言っても琥珀の間は部屋ひとつ分ですからね、戦火から疎開させるにも大変だったことでしょう。一九四一年十月に琥珀の間は解体されて、十一月にはケーニヒスベルグ城に運び込まれました。この城で一九四四年春までは最も重要な展示品として公開されていたといいます。しかし八月にはイギリス軍の空襲を受け、城は崩壊した。ただ、そのときには、城には琥珀の間はなかったといいます。そのまま行方は分からなくなった。戦後直ちにソ連は国家委員会を作って、消失美術品の行方を調査していますが、ケーニヒスベルグ博物館長のローデは琥珀の間は燃えてしまったと証言した。ここから世界の八番目の不思議といわれる琥珀の間の伝説が生まれたわけです」

 真は淡々と歴史的事実を語る江田島の表情を見ていた。時々、江田島の表情の中に微かに影が横切る。座敷机の真上に橙を帯びた電球があり、気配なく揺れているために影が彷徨うのかもしれない。

「ローデはナチ党員ではなく、優れた見識を持つ立派な博物館長だったといいます。彼は、イギリス軍の空襲を事前に知ることが可能な立場にあったともいいますし、琥珀の間の価値を最も深く知っていたからこそ、どこかに、もともとプロイセンで作成された最も重要な部分だけを、安全に保管したのではないかと考える人もいるようです。戦後に詰問されたとき、ローデは『コレクションのうち価値の高いものは疎開させたが、どこに送られたのかは知らない』と答えてもいるようです。もっともそのとき、ローデはアル中だったと言いますから、言葉の信憑性は薄いかもしれません」

 真は小箱の中の琥珀を見つめた。
 これはもともと、地球の持ち物だ。大地が育んだ木々が自らの命の滴を溢れさせて土に還したものだ。それを人間が扱い、別の価値を付加しようとした途端に、残酷な運命を受け入れざるを得なくなる。
 竹流は、この琥珀の運命に対してどういうことを思ったのだろう。

「歴史というものは、あるいは人為によるものであっても、多くの美術品にとって残酷な環境を強いることになる。ローデのような、あるいはヒトラーのような、美術への理解や執着を持った人物がこの事に関わらなかったら、もっと多くの美術品が戦火で焼失することになっていたかもしれません。そう考えると、あの戦争の立役者のひとりが、ヒトラーで良かったとさえ思えます」

 真は思わず自分が不快な表情をしたことを、僅かにひきつった頬の筋肉から感じた。江田島は真の表情を見たのかどうか、子どもを窘めるような、見下すような、どうとも取れる笑みを浮かべたように見えた。

「大和竹流は宝の地図を持っていて、それを担保にフェルメールの絵の真実を解き明かすチャンスを私に諦めろと言ったわけです。あるいは、せめて一目、かの老人に絵を見せてやる時間を融通してくれ、と。私のフェルメールへの愛情を知っているし、理解もしていると、そう言っていました。もちろん、一度事実を知った私の口を封じることが難しいことも知っていたでしょう。だからこそ、力ではなく言葉で私を説得しようとした。だが、あの国に戻った絵が、日本に帰ってくるチャンスはまずないでしょう。あの男は、私を騙そうとしたわけです」

「だが、それはあなたの絵ではない」
「勿論、私の絵ではありません。しかし、そのキエフの老人の絵でもない。人類の宝のひとつです。それに、私は、大和竹流自身がキエフの狡猾な老人に騙されていたのではないかと思っています。あの老人はむしろ宝の地図を取り戻したかったはずですよ。現実を考えれば、フェルメールよりは金になるし、何より象徴として極めて大事なものだったでしょうから」

 真はしばらくの間、黙って江田島の顔を見つめていた。
 確かに、過去に作られた美しいもの、善いものが改めて発見されることは、人類にとって素晴らしいことかもしれない。しかし、もしかすると、ひっそりと暗がりに眠ったまま、手を触れられないままでいるべきものも、あるのではないだろうか。

 真は、りぃさと一緒に見たガラパゴス島の写真を思い出していた。海に潜って海草を食べることによって生き延びようとしたウミイグアナと、陸に留まって落ちてくる果実を待つしかないリクイグアナ。そのリクイグアナがじっと動かずに空を見つめている姿には、胸を摑まれるような痛みを覚える。自然も、時には残酷な命題を、命に迫ろうとする。

 しかし、人間が彼らに迫る命題には、彼らに遺伝子を残すための時間を与えなかった。変化し生き延びる時間のないままに、彼らは滅びていく。人間があの島に足を踏み入れたときから、あの島は予定よりも早くに滅びゆく運命を背負わされたようなものだ。もしも保護をするというなら、人間こそその場を立ち去るしかないはずだった。だから、りぃさは人間のほうが間引きされるべきだと言った。踏み込んではいけない場所があることを、彼女は知っていたのだろう。

 竹流は、ものはあるべきところにあるべきだと思っている、とそう話していた。彼の言葉の中には、触れるべからざるものには触れないという意味が込められていた気がする。心に秘めた思いを、敢えて掘り返してはならないことだってあるのだろう。そして、もしかすると竹流はその老人の本音を知っていて、哀れに思い、騙されてやったのかもしれないとさえ思えた。

「まだ、質問に答えていただいていません。何故、一緒に佐渡へ? そこで何があったのですか」
 江田島は、相変わらず感情の薄い目で真を見つめていた。実直な役人顔という以外に特徴などなさそうに思える江田島の顔の中の、その目だけが別の意思を持っているように感じる。
「契約の手形を受け取りに行った、と話しませんでしたか?」
「契約の手形は、この琥珀ではなかったのですか?」

「琥珀の欠片と、その大元が眠っている場所の地図。確かに十分な手形に思えますが、私は琥珀の間は燃えてしまっているのではないかと思っています。不確実なものに踊らされるつもりはない。キエフの老人は上手く大和竹流の同情心を利用して、世界でも随一と言われている修復師の腕を期待もして、あわよくば蓮生家に預けて隠してあった宝を二枚とも取り戻そうとしたはずです。大和竹流のほうは、恐らく老人の言うことが幾らか辻褄の合っていないことに気が付いて、多分価値の低いと思われた地図のほうで私を諦めさそうとしたのでしょう。あの男も琥珀の間が燃えてしまっていると考えているに違いありませんから。それでも、騙されたふりをして、フェルメールの絵を一目見て死にたいといった老人の言葉だけは信じてやろうとしたんでしょうね。あの男にはそういうところがある。だが、私は価値もない、いい加減なものに踊らされるつもりはありません」

「では、一体……」
 江田島は自ら、酒を猪口に注いだ。江田島の右手の中指にはペンだこがあった。その部分が異様に膨れ上がった影を作っている。真は自分の心臓の不規則な拍動を、咽元にまで感じた。
「佐渡に行った本当の理由は何ですか」
 真は質問の仕方を変えた。心臓の鼓動が咽を締め上げている。

「大和竹流が何を言おうと、私はフェルメールを諦める気はなかった。しかし、もしもフェルメールだけのことなら、彼は命を懸けることもなかったでしょう。なぜなら、それは大事な仕事だったかもしれないが、命を賭けるほどの値打ちはないからです」
「あなたは、一体、竹流に何をしたんですか」
「何も。ただ、道案内をしただけです」

 しばらく、真は江田島の目を見返していたが、初めて得心がいった気がした。
「あなたが、契約の手形を受け取ったと言ったのは、つまりその相手が竹流ではなかったと、そういう意味ですか」
 江田島はようやく少し笑んだように見えた。
「大和竹流は、どうしても手に入れたいものがあったんですよ。そして、私はそれを持っている相手に会う算段をつけてやっただけのことです」
「手に入れたいもの……」

 出掛ける前の竹流の顔を思い出した。いつもなら、どんなにややこしい仕事でも、彼は嬉々として出掛けていっていた。それは、その仕事の向こうに、彼が求める素晴らしいものがあるからだ。だが今回だけは、彼の表情は違っていた。
「明日、佐渡に御案内いたしましょう。それで私の果たした役目はお終いです。それ以上は私には何の関わりもありませんし、どうにかするつもりもありません」

「フェルメールの絵は?」
「フェルメールは大和竹流が持っているはずです。もしくは、彼がそのありかを知っている。そのうち私の手元にやってくると思っています。あの絵と私には運命があると、信じていますから」
 もうお休みください、と江田島は言って、徳利と漬物を片付けると、そのまま姿を消した。すとん、と時間が区切られたような気がした。

 真の心臓は、居た堪れない動悸を繰り返していた。不安、と言えばそうかもしれない。だがこの動悸はただのアドレナリンの過剰分泌の結果だ。身体中の血管が収縮し、汗腺が興奮している。何も触れていないはずの手足の先で、敏感になった痛点が、狂ったような痺れを訴えている。昨夜、草薙に宥められたはずの身体の中心でも、血管が異常な膨張を起こしかけている。普段よりも視力が倍増したように感じ、歪んだ視界は頭の血管をじりじりと締めてきた。

 江田島は何を言っていたのだ。
 それは竹流の身体が、やはり生贄のように『何かに』捧げられたということなのか。あの佐渡の隠れ家の地下にある石の祭壇の上で、彼の身体は不当に傷つけられ、血を流したのだ。岩は血を吸い、艶めかしく鼓動し、あの美しい身体を冷たく凍るような空気で愛撫し、命の核のすぐ傍にまで迫っている。

 真は自分の命の核を預けたはずの男の身に迫る何かを、痛みのように感じながら、冷たい布団の上でただ天井のうねりを睨みつけていた。

(第24章『宝の地図』了)



江田島が本当に隠しているもの、それはフェルメールへの異常なほどの愛着なのか、まだ真実は述べられていないようですね。答えは25章に引き継がれます。

……いよいよ、問題の25章に突入します。
以後、18禁/Rです。苦手な方は印を入れた回はすっ飛ばして読んでいただくことをお勧めします。
多分、あまりのギャップに驚かれるかもしれませんので、かなり覚悟してお読みください。
辛くなったら、詩織ちゃんとロレンツォの不器用なまたは猫耳少年・マコトを思い出していただいて、癒されてください(>_<)

「心配しなくてもいいからね、あとでちゃんと手当てをしてあげるよ。分かるだろう、ただ一緒に楽しみたいだけなんだ。大丈夫、ちゃんとカメラは回してあるよ。もしもそのまま死んじゃっても、君の姿は永遠に残るんだ。苦痛に歪んだこの綺麗な顔をいつでも楽しめるようにね。君は私がどれほどこの時を待っていたか、知らなかっただろうね」
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Category: ☂海に落ちる雨 第4節

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