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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【物語を遊ぼう】19.果てしない物語~『もののけ姫』に学ぶ解決できない謎~ 

今回のテーマは、宮崎駿監督の一言から始めます。
『もののけ姫』のメイキングの番組の中で、だったと思います。既に『もののけ姫』は公開されていたのですが、そのインタビューの中で「自分が何を作ったのか、まだ総括できていない」と仰ったのです。

その時、妙に安心したのを覚えています。そう言えば、宮崎監督はプロットも立てずに書き始めるのだとか。しかも『もののけ姫』では、書き終わっても何を書いたのか(作ったのか)よく分からんと。
宮崎駿作品(ジブリ作品)は、多かれ少なかれハッピーエンドとは言えない要素を含んでいるような気がするのですが、それでも、多くの作品は、起こった事件・出来事の解決はついて、主人公たちは新たな一歩を踏み出していく、または平和な日常を取り戻すという形にまとめられていると思うのです。

でも『もののけ姫』は作られた監督もよく分からんくらいだから、見る方も、何だかモヤモヤが残ったまま観終わった。
私の友人は「怖いから見たくない」と。(ん? 乙事主様が?)
でも、このモヤモヤ=嫌い、ではなくて、「もう1回観たい」「ものすごく気になる」「いや、ものすごく好きかも」「私もこういうことを常々感じている」「私が頭の中に描いている世界はこれと一緒だ」……だったのです。

ジブリの作品はそれぞれに世界があってかなり良いと思うのですが、以前にも書いたように私が一番好きなのは『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』。
『ナウシカ』は漫画の方もいいのだけれど(というのか、漫画の方はどこか『もののけ姫』に繋がっていく世界を感じる)、映画として切り取った部分はよくできていて、しかも映画館で宮崎アニメを観た最初の作品だったので、衝撃が強かったというのがあります。え、と、映画館で馬鹿笑いした後(犬のホームズの話と2本立てだったのです)、馬鹿泣きしていたことは以前にも書きましたっけ。多感な年頃だったので、本当にものすごく感動したのです。多分、台詞を空で言えるくらい何度も観た。最高に好きなシーンは、ナウシカが腐海のお化けカビの胞子を集めて研究している部屋。

一方の『もののけ姫』はかなりトウが立ってから観た作品。でも、先ほども書きましたが、「ものすごく好きかも」なのです。
これについては、先日アップしたミステリー・探偵ものとは真逆の「物語の造り」だなぁと思うわけです。

ミステリーは解決してなんぼです。それがお約束であり、最低限のルールです。もしも探偵自身が犯人であっても(これも実は反則技だと思うけれど……これについては、どんでん返しというよりも、何だか後味が悪い、と思うのは私だけ?)、まだ許そうと思うけれど、探偵もしくは探偵役が「この事件解決できませんでした!」って終わったら、コメントを下さった八少女夕さんの仰る通り、私も暴れます。2時間ドラマならちゃぶ台ひっくり返して、「私の2時間を返せ!」です。

でも『もののけ姫』は「解決できない」「解決には何の興味もない」物語なのです。
ただ、「救いがない」とはちょっと違う。「世界の構造とはこういうものだ」「神とは善悪でも是非でもない、そこにある」という、すごく当たり前のことを描いているように思う。これが救いがないということだ、と言われたらそれまでだけど、最近流行の「ありのまま」の世界は「救い」とかとは無縁だとも思うのです。
キリストの神様は善悪と罪に対する悔い改めを求めます。それが宗教の当たり前の命題です。悔い改めないと救われない、ということになっているようです。
でもこの世界は「自然(じねん)」なのです。日本に一神教が入ってきたとき、Godを神と訳しちゃったので混乱しているような気がしますが、西洋的「神」と原始的「カミ」は別物ですよね。
そもそも日本だけでなく多くの国々に原始からあった「世界の成り立ち」についての考えは「ただそこにある」、です。

(追記)
本居宣長いわく。
「さて凡て迦微(カミ)とは、
古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、
其(ソ)を祀(マツ)れる社に坐(ス)御(ミ)霊(タマ)をも申し、
又人はさらにも云(ハ)ず、
鳥(トリ)獣(ケモノ)木草のたぐひ海山など、
其余何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、
可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云なり」

広辞苑でも、神の定義については
「①人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることの できぬ能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖 し、また信仰の対象とするもの。
②日本の神話に登場する人格神。
③最高の支配者。天皇。
④神社などに奉祀される霊。
⑤人間に危害を及ぼし、怖れられているもの。
 イ、雷。なるかみ。
 ロ、虎・狼・蛇など。
⑥キリスト教で、宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者。上帝。」
キリスト教の「神」は⑥なのですね。
(追記終わり)

例えば、エボシの「神殺し」。何でそんな罰当たりなことをするんだ、だから腕を喰われちゃったんだ、と思うかもしれませんが、多分作り手の宮崎監督はその「神殺し」という行為を「悪」とは位置づけていないはず。
身を守る手段を持たない「人間」が、自然という大きな存在と闘う、ある意味では必死の行為だったかもしれません。観るほうがここに善悪を意味づけたら、きっとこの物語の値打ちは無くなってしまう。

シシ神の造形がまた素晴らしい。神は生であり死であり、善とか悪とは無縁だという感覚。人間にとっては(あるいはあの物語の中では他のあらゆる生き物にとっては)、ある側面からは(ある立場からは)「善きもの」であるし、また別の立場からは「悪しきもの」であるし、正直なところ、善悪や白黒はどうでもいい、という感じ。
まさに「奇しきもの」「稀なる力を持つもの」は全て「神」と呼んどこう、と。

日本を始め、様々な国の原始的な宗教は、「(一応)善きもの」と共に、同じくらい大切に「(一応)悪しきもの」を祀っているのですよね。祟りを成すものもちゃんとお祀りするのです。
その根源には梅原猛先生が『隠された十字架』で示されたように「祟りませんように~」ってのがあるとしても、「悪しきもの、災いをもたらすもの、でも何だか分からないけれどすごい力を持つもの、自分にとっては有難くないものだけれど、でもやっぱりすごいパワーを感じるから、取りあえずお祀りしておこうっと!」
津波がやってきてもまた海に出ていく、それは海が「怖いもの」であると同時に「豊かなものをもたらしてくれるから」。そこに善悪の感覚はないですよね。恐ろしい面も恵みをもたらしてくれる面も「有難い」。この両面性、多面性、複雑な同居が「かみ」なのでしょう。
だから、解決はないのです。
どこまで行っても、ただ「あるがままにある」。

「自然(じねん)」「あるがまま」の世界ではありますが、私はエボシの最後の一言、「みんな始めからやり直しだ。ここをいい村にしよう」は微かな光明、救いだと思いました。わが敬愛するカール・セーガン博士の『Science is a candle in the dark, demon-haunted world.』という言葉と同じ。
カールセーガン本

え。救いは求めていないんじゃなかったんだっけ?
いえ、救いはやっぱり物語としては欲しいのですけれど、「救い」としてはっきりしていなくてもいいかな。いや、救われなくても仕方ないかなという気もするし、でもやっぱり最後は救われる物語を書きたいとも思うし、書き手のそういう二面性自体が「解決できない」んです。

というわけで?、私にとっての真シリーズはまさしく『もののけ姫』。
いえ、真がサンと同じように「丸まって寝る」からではありません^^;(丸まって寝るけれどね。これは自然に「身を守る」体勢をとっているから)
そもそも、何も解決しない物語なのです。東洋的自然(じねん)の権化=真と、西洋的キリスト教的良心の権化=ジョルジョ(竹流)とは、あれほどにお互いを求め合っても、最後は相容れない立ち位置であることを暴露して終わっちゃいますし(いや、求め合う心は否定していません、それどころか、一方の命が失われるだけで、彼らの想いはハッピーエンドだったのかもしれません)、わたし的にはハッピーでもアンハッピーでもない、其々の人生を精一杯生きた、というイメージしかありません。

『もののけ姫』でもサンは「アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない」と言っているし、アシタカは「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう」と言ってるし、それでいいんだか、なんだか、分かったような分からんような。結局は相容れないのね、とも取れるけれど、ただ「命ある限りそれぞれの生を、それぞれの場所で生きるしかない」ということのなのかも。

ちなみに真シリーズは『人魚姫』の焼き直しなのです。
人魚姫には一言物申したい。「お魚の王子はおらんかったんか(身の程、身の丈の恋もあったんじゃないの)」って……同じことを真にも言いたい。で、結果的に、無理しちゃって、恋にも破れて、泡になっちゃう。
彼女が幸せだったのかどうか、そこには何の答えもない。でもアンデルセンの原作の最後には「神様に召されて幸せだった」的なラストがくっついている。え~? そうなの~?
いや、でも何かにチャレンジした人生は、ある意味「確かに生きた」のかも。

もうひとつ、大和竹流=ジョルジョ・ヴォルテラの人生なんて、『源氏物語』の焼き直し。
あの物語も、華やかなりし人生の後半の落ちぶれようが(現実の権勢はあっても)何とも言えず、私のツボなんです。そんな物語をモデルにされちゃった竹流=ジョルジョが幸せだったかどうかは分からないけれど、何はともあれ、すごい人生だったと褒めてあげたい。

結局彼らの人生は、探偵物語のようには謎を解決できず、果てしない物語なのです。

ということで……【清明の雪】の和尚さんに最後は任せましょうか。
「正しいかどうかは問題にはなっておりませんでしての。そもそも正しいとは誰に決めることができるのでしょうかな。誰かにとって正しいことが、他の者にとっては正しくはない。今正しいと思われておることが、百年先には大きな間違いでありましょう。しかし、いずれにしても道を歩き出したものは、自ら責任を取るのでございます。大和どの、人は、人とも物とも、出会うべき運命というものがあるわけではございません。出会ってからこそ、運命も拓けるのでございます。この本堂の仏具たちも、あなたに出会い、あなたの手により修復という運命を得たのでございますよ。運命には善いも悪いもございません。善くもあり悪くもある、正しくもあり、間違いでもある」

あるいは、長谷川平蔵に任せましょうか。
鬼平
「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふ、ふふ・・・・・これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」
(池波先生、私、あの世に行ったあかつきには、絶対先生をお探しします。鬼平の最終話の続きを聞かせてくださいね!)

おこがましいけれど、私も【海に落ちる雨】を書き終えた時、まさしく「私って何を書いちゃったんだろ?」と思いました。だから一言。
「何を書こうとしているのか、書いても書いても総括できそうにありません」
(えっと、単に計画性がないのと、総括する能力がないだけなんじゃ……(@_@))
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Category: 物語を遊ぼう(小説談義)

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