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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【雑記・旅】会津の旅(1)行くも帰るも別れては~飯盛山・さざえ堂~ 

磐梯山
(磐梯山……やっぱり美しい。裾野の広い山は美しいですよね→富士山とか岩木山とか)
福島の石紀行もあとひとつを残すところとなりました(でも、実は3月に続きを画策中……)。その前に、今回は福島の旅でも石紀行は1回お休みして、会津の旅をお届けいたします。
実は今回の石紀行中、1日だけかなりの雨にあたり、山の中に入って行けなかったので、旅程を少しアレンジして宿泊予定の会津(東山温泉『向瀧』さん→【石紀行】40.福島郡山・鹿島大神宮~巨大なペグマタイト岩脈~と会津の昭和なお宿『向瀧』さん )の近くを観光することにしました。
今回はその前篇。さざえ堂(円通三匝堂)にご案内いたします。
さざえ堂4
不思議な外観ですよね。さざえ堂とはよく言ったものです。どこかの解説に「さざえの神様を祀っているわけではありません」って書いてあったなぁ。そりゃそうだ。
さざえ堂の詳しい解説は会津さざえ堂公式サイトさんにお願いするとして、さっそく行ってみましょう。

会津と言えば白虎隊。
実は、私にとって、白虎隊の悲劇はいまだに直視できないもののひとつです。すごい昔に、堀内孝雄さんの『愛しき日々』がテーマソングになった年末の時代劇もので画面が見えないくらい馬鹿泣きして以来、この話はダメだ、二度と見ない、と思ったのですが……だからもちろん、記念館にも入ったことがありません(泣く……)。でもさざえ堂は二度目。
さざえ堂は白虎隊の自刃の地、飯盛山に建っています。
まず「あれ?」と思った理由は……飯盛山に登るムービングウォークがある!
ムービングウォーク
お金はかかりますが、ありがたく使わせていただきました(^^)
登って少し歩いたらさざえ堂が見えます。
さざえ堂3
とは言え、記憶を確認しても、どうやら10年以上前のことらしく、あれ、こんなとこだったか? と周囲の様子に戸惑うばかりですが(整備されたのでしょうか?)、中に入ってみたらやっぱりさざえ堂。
さざえ堂1
入口の柱に巻き付く龍がちょっと生々しく、迫力があります……(@_@)
さざえ堂入口2
拝観料400円必要ですが、これも国の重要文化財を守るため、協力させていただきましょう。やっぱり中に入って歩いてみなければいけません。
さざえ堂のぼり始め
このさざえ堂も岩角山と同じように、もともとは三十三観音参りのための御堂だったのですね。今はもう観音様は外されていますが、遠く関西の三十三観音巡りを思い描きながらこのお堂を登って、そして降りて……
さざえ堂のぼる2
階段ではなくてスロープですね。滑り止めのように横木が渡されていますが、これがなかなかの傾斜なのですよ。さざえ堂は三層構造で、いわゆる平坦な部分はありません。
そして登る人と降りる人は別々の道を通るので、基本的に出会うことはありません。要するにDNA二重螺旋の中を歩いているみたいなもの。
さざえどう
最上部に上がったら、天井はこんな感じで古い千手札がいっぱい貼られています(今はダメですよ)。
さざえ堂てっぺん
その足元は太鼓橋のようになっていて、渡ったらすぐに降りるほうのスロープになります。
さざえ堂おりる
上層の方はこんなふうにちょっと狭くて傾斜もきつめに見えます(実際には幅が狭いからそう感じるだけかな)。ぼーっとしてこけたりしたら、下まで滑って行っちゃいそう。
ちなみに全く出会わないのかというと……
リタイアは可能
心柱の方に秘密の通路があって、ショートカットができます。でもショートカットして、上まで行かずに途中で降りても仕方がないし、せっかく降りてきたのにまた登るのも変だし……これって何のためかな? 避難路でしょうか。

さざえ堂の傍には、五穀豊穣の神様・宇賀神さまを祀るお堂・宇賀神堂があります。ここに、白虎隊十九士の霊像が安置されているのです。
白虎隊を祀る
手前の方に写真がありますね。
白虎隊霊前
説明によると、この方が自刃した二十人のうち、唯一蘇生した飯沼貞吉少年の晩年(改名されて飯沼貞雄氏)のお写真だそうです。
古い大河ドラマですが、私が一番嵌ったのは『獅子の時代』でした。会津と薩摩、其々立場の違う二人の男(架空の人物)が、反駁と友情を行き来しながら、そして新政府、いや日本の行く先を憂いながらも各々の立場で戦い続ける……かっこよかったなぁ、加藤剛さんも菅原文太さんも(私は嘉顕=加藤剛さんに嵌っておりました)。
嘉顕の死に際も結構非情で、銑次の方は生死が定かではない描き方だったものの、大塩平八郎のように死を暗示して消えてしまった。彼らは時代に揉まれて、それでもその時代を駆け抜け、生き抜いたのですね。
私の中の会津のイメージは、菅原文太さんの演じる銑次。体制に媚びることなく、常に弱者の側にいながら、なにくそと闘っていた……「ならぬことはならぬ」、まさにそれが会津気質。

話は戻って。
一人生き残った貞吉少年。その日の前日、家を出る時に、母より「今日この家の門を出たならば、おめおめと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません」と言われて出陣。しかし生き延びてしまった彼は長州藩士・楢崎頼三らに引き取られたらしいと言われます(会津と長州、どちらも大っぴらに名乗れない事情あり、だからか、其々の子孫に密かに伝えられていたとのこと)。その後、自殺を図ったりしたものの、頼三に「会津だ、長州だと言っている場合ではない。外国が押し寄せてくる今、日本はひとつになって強くならなければならない」と諭され勉学に励むようになり、76年の生涯を生き抜かれました。

会津気質からすれば、あの飯盛山を生き延びてしまったことは辛い想いとの闘いだったことでしょうが、生き延びたのは、人智を超えた大いなる自然(じねん)の力によるもの、そして寿命を全うし生き抜いたこともまた、その会津気質故だったと思うのです。
会津のほうでは生き延びてしまった彼を認めないような事もあったといいますが(時代もあります)、でもここにこうして写真を置いてあるということは、その生き方も今ではまた認められたということなのでしょう。

行く道と帰る道。通る道は同じではなく、一旦行けば、次は別の道を降りるしかない。
さざえ堂を登り、降りながら、地獄を生き延びた少年の人生に思いを馳せておりました。

『すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ』
(飯沼貞雄氏の詠んだ歌)

内容もだけれど、タイトルがすごいと思った小説、角田光代さんの「八日目の蝉」……八日目の蝉は、他の蝉が見ない景色を見る、という言葉が思い出されました。
こちら、サブタイトルは「逢坂の関」ですが、何だかここにぴったりと当てはまってしまいました。
後篇はそんな「ならぬものはならぬ」会津の土地にひっそりと根付く信仰、ころり観音を巡ります。
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Category: 旅(あの日、あの街で)

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