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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【真シリーズ・掌編】ラグタイム 

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実は、【奇跡を売る店シリーズ(2)・砂漠に咲く薔薇】の第2話を書いていたのですが、carat!主催のcanariaさんのしばらく休止します記事を拝見して、悩んだ結果、書き下ろしの読み切りに変更しました。そのためにアップが遅くなってすみません。canariaさん、待っていただいてありがとうございました! しかも、実はちょっと長い……本当に申し訳ありませんが、許してくださいませ!

読み切り、と言っても、誰でも楽しんでいただけるお話かどうかは自信がないのですが(いや、背景を知らなくても何も問題ないのですが、多少知っていると「は~そんなことに~」な部分があるというだけで)、実はこれ、八少女夕さんの主催されている?【バッカスからの招待状】にも参加希望の掌編です。
語り手の「原田佳彦」はこちらのブログではまるきりの初登場人物です。実は純粋に私のキャラではなくて、あれこれ裏設定はありますが、またいつかの機会に。とりあえず、ちょっと気のいいバーのマスターという理解でなんの問題もありません。

この「ラグタイム」というお店は、西新宿の老舗喫茶バーがモデルです(名前は違う)。リアル友人でもあるsayaさんとロケハンで見いだしたお店で、この店を舞台にした未公開のお話があるのですが、人物関係がかなり際どいので、少しマイルドに書き直していつかここにアップできたらと、こそこそ思っています。
「ラグタイム」という格好いい店名はsayaさん。彼女のタイトルのセンス、なかなかなんですよ。
そしてここに登場する「客の男」、読み始めたら、あ~あの新宿で調査事務所やってるあの人ね、とすぐ分かるのですが(タイトルに書いてあるか^^;)、最後の方に「え?」な部分もあるかも。この話は【海に落ちる雨】よりも、その続きの【雪原の星月夜】よりも後の話なのです。

canariaさんのお休みは少し寂しいですが、お帰りをお待ちしようと、頑張って久しぶりに書き下ろしました。
あ~、『マルモのおきて』の残り5話を見ちゃったせいで(またバカ泣きして頭が痛い)、アップが遅くなりました。ほんとに済みません。


【真シリーズ・クリスマスイヴ掌編】ラグタイム
~バッカスからの招待状~



「いっらしゃいませ」
 原田佳彦はグラスを磨いていた手を止めて、その日、三組目の客を迎え入れた。

 組、と言っても今度の客は一人だった。
 今日は、社会的に言うと特別な日なので、早い時間に「ラグタイム」のような店にやってくる客は少ない。開店早々に、これからパーティーに出かけようという常連のカップルがやってきて、一時間後に出勤前のホステスが数人一緒にやってきて、以後は一人きりの静かな時間が流れていた。

 通常であれば客からのリクエストがない限り、店に音楽は流さないのだが、たまに開店前や開店直後、ほとんど客のない時間帯に好きなジャズのレコードをかけている。
 でも、こんな日は世の中に逆らって、思い切り演歌でも流したい。
 そんな他愛もないことを考えていた頃合いだった。

「ラグタイム」は新宿西口から歩いて数分の飲食店街の地下にある小さなバーだった。東口とは違って、繁華街も狭く、賑やかさは広さに比例して東口の二十分の一くらいだ。
 それでもコアな客が多いのもこの辺りの店の特徴でもある。佳彦は同じ新宿でも歌舞伎町とはまた違う雰囲気が好きだった。

「雨、まだ降っていましたか」
 男のコートの肩で、雨の滴が薄暗い灯りを吸い込んでいた。
「もう雪に変わりかけていますよ」
「ホワイトイヴですか。人肌恋しくなる、見事な神の演出ですね」

「特別な日」に一人で入ってきた若い男は、マフラーを外しコートを脱いだ。預かろうとする佳彦に手で合図をして、いつものように入り口から二つ目のカウンター席の椅子を引いて、その背にコートを掛ける。
 佳彦はこの物静かな男が、一人掛けのソファーのような低い椅子を引いて、すっとその内側に収まる仕草がなんとなく気に入っていた。

「そう言えば、あなたがここに来る日は雨が多い」
「おかげでここには何度も傘を返しに来る羽目になった」
 佳彦はふと微笑んだ。雨というキーワードで緩やかに客と繋がっていることが、奇妙に心地よく感じられた。
「お仕事、終わりですか」
「今日のような日にうちに来る依頼者は滅多にいません。もっとも、普段とそんなに変わりませんけど」

 この客は常連というほどこの店に足繁く通ってくるわけでは無い。そのせいか、打ち解けてくれているのかどうか分からない、ぎりぎりのラインのままで丁寧な言葉遣いを崩さなかった。
 それでも、佳彦にとっては特別な客だ。

「歌舞伎町は賑やかでしょうね」
 聞かれるまでもなく、佳彦はお湯で薄く割った赤霧島を出した。酒に弱いと言っていたので、頼まれればアルコール控えめのオリジナルカクテルを作りもしたが、ある時、この芋焼酎を出したら、これなら悪酔いしそうにないと言われたので、それ以来「とりあえずビール」ならぬ「とりあえずアカキリ」にしている。
「だから早々に事務所を閉めて逃げ出してきました。あそこに遅くまで残っていると、そのうち襲撃されるので」

 男は新宿三丁目にある調査事務所の雇われ所長だった。歌舞伎町は目と鼻の先だ。
 歌舞伎町で「襲撃」というと危ないものを想像しそうだが、もちろん、そういう意味ではないだろう。
 当然、仕事のことはあまり話さないが、言葉の端々から窺われることに、事務所には事務員を含めて幾人かの従業員がいて、さらに出入りする連中のおかげでかなり賑やかな場所となっているようだった。こんな無口な所長で、よくもあの街でもっているものだと思うが、この雰囲気が逆に人を寄せ付けているのかもしれない。
 賑やかで派手な街には、外見からでは分からない、孤独で寂しい人間が多く集まり、どこかに居場所を探しているのだ。

 男は、この店のことを、歌舞伎町の仲間たちには内緒にしているようだった。
 あの街の連中には遠慮が無いから、きっとこの男が静かに過ごせる場所なんて無いのだろう。
 さっき男が言った「襲撃」というのは、今日のような日には、パーティが終わった酔客や、店を閉めた後に行き場を無くした水商売の連中が、遅い時間に無遠慮に事務所に押しかけて来るということだろう。その場所の本来の使い方を間違えていることなど、気にしない連中だ。

 男は冷えた手を温めるためだけに焼酎グラスに触れたようで、まだ飲もうともしなかった。厚い木製のカウンターの木目模様が、薄暗い照明で濃淡を浮かび上がらせている。
 グラスと言っても、土色の陶器製なので、同じ色合いのカウンターに吸い込まれそうに見えた。
 この店の前の経営者が佳彦の恩人だったこともあるが、この厚い一枚板のカウンターが店を引き受ける最大の理由だった。もちろん、きっかけは別にあったが、最後に背中を押したということだ。

 佳彦は顔を上げて、薄暗い店内に視線を向けた。七席のカウンターと三つのテーブル席だけの狭い店には、佳彦と客が一人。客のいない店の中は、恐ろしく空虚で暗く沈んで見えるものだ。とても今日がクリスマスイヴだとは思えない、何の飾りもない空間だが、明るい世界に背を向けて生きてきた自分たちのような人間には、ふさわしい隠れ家かもしれない。
 世間が浮かれているこんな日には、特にそんなことを感じる。

 この調査事務所の所長がこの店に通うようになったのは、個人的なつながりだったので、改めて聞かれたことも話したことも無いが、おそらく佳彦の前身についてもある程度は感づいているだろう。あまり大きな声で話すことのできない仕事、という意味だ。
 佳彦自身は足を洗ったつもりでも、どうしても切り離せないしがらみはついて回ってくる。誰も佳彦を今さらどうこうしようとは思わなくても、佳彦自身がふと、今自分のいる場所を疑うのだ。
 そちら側には住んでいない客が楽しそうに語る日々の出来事を聞いているときも、公園ではしゃいで走り回る娘を妻が追いかけている姿を見ているときも。

「家に帰らないんですか」
 男は左の薬指に指輪をしていたが、家族のことはほとんど話さなかった。以前に一度だけ、妻が一人目の子どもを身籠もった時に煙草をやめるつもりだったのに、と言ったことがあったが、その後、子どもの話題が出たことは無いし、少なくともこの店では今でも煙草を吸っている。もっとも、家で吸えないので、職場や飲食店で吸っている男も、世の中には多くいるだろう。

「あなたも、こんな日は店を閉めて家族サービスをしたほうがいいんじゃないのですか」
 この男には、二歳になる娘がいることを話したことがあった。
「でも、あなたのようなお客さんがやってきて、店が閉まっていたら路頭に迷ったりするでしょう。こんな日こそ、帰りたくても帰れない人もいる」
 男は顔を上げて真正面から佳彦を見た。そしてふと笑みを浮かべる。自嘲のようなこの微かな笑みは、初めて会ったときから佳彦に好印象を与えていた。

「思えば、クリスマスなんて本来は日本人には何の縁も無いイベントなのに、いつの間にか、その日に一緒に過ごす恋人も家族も居ない人間は惨めに思えるようにすり込まれてしまいましたね。あるいは、そんな日に一生懸命働いていると馬鹿らしく思えるように」
 普段は常連客ともあまり長話をしない佳彦だったが、この男に対しては話しかけずにはいられなかった。

 もっとも、佳彦は決して話し嫌いでも賑やかな会話が苦手というわけでもない。ただ、このような店でカウンターの内側で仕事をしているうちに、自分の本来の性質とは関係なく、二通りの人種に分かれていくものらしい。
 客との会話を楽しみ、時には自分のことを語り、酒の蘊蓄を語りながら客と楽しい時間を共有したいと思う者。そして、客の話に耳を傾けながらも受け流し、自分の方からはあまり話しかけず、静かに酒を提供する者。佳彦は自分は完全に前者だと思っていたのだが、気がつくとごく一部の人間を相手にする時を除いて、後者に収まっている。

「実際には、ひたすら働いている人間の方が多いのに」
「違いありません」
 佳彦が自分も焼酎を飲んでいいかというサインを送ると、男はうなずいた。客の前で飲むこともほとんどないのに、今日は少し気分が違っていた。

「イエス・キリストも驚いているでしょうね。まさか自分の誕生日が、こんな離れた極東の国で恋人同士の記念日みたいに扱われているとは」
「でも、それをきっかけに人が集まることを喜んでいるかもしれません」
「それが鬱陶しくて歌舞伎町から抜け出してきた人が言うんですからね」
 男は意外なことに、いつもよりもずっと分かりやすい笑みを浮かべた。
「決して、こんな日のあの街の雰囲気は嫌いというわけじゃないんですよ」

 男は佳彦が焼酎に口にしたのを見てから、自分の手で暖めているグラスに酒が入っていることを思い出したように、ようやくグラスに口をつけた。そしてまたしても意外なことに、半分ほども飲んでしまった。
「ただ、なんとなく、今日は一人になりたかっただけで」

 佳彦は、客が何かを語りたいというオーラを放っている時には好きなだけ語らせてやろうと思っていたが、この客が自分のことを何でも話したいと思っているようには感じなかった。
 ただ、一人になりたい時の相棒に、この店と自分が選ばれたことは嬉しかった。

「今日は演歌を流していないんですね」
 さっきそんなことをちらりと考えていたので、まるで頭の中を覗かれていたようで面映ゆい。一人の時は、時々、演歌を聴きたくなるのだと、そんなことも話したのだっけ。
「そう言えば、あなたが二度目にここにいらっしゃった時、北原ミレイをかけていたんでしたね」

『懺悔の値打ちもない』というタイトルを二人が同時に口にしたので、思わず顔を見合わせた。
「今日は街にクリスマスソングが流れていると言うのに、『懺悔の値打ちもない』はないですね。でも、たまに聞きたくなるんですよ。日本人のソウルミュージックじゃないですか。『ラグタイム』に演歌はないよって、人からは言われるんですけどね」
「いや、ズレてる、って意味からすると、ちょうど合っているかもしれませんよ」

 二度目に彼がこの店に来た時、店名の由来を聞かれた。音楽用語ですか、という問いだったので、詳しいなと思ったことを思い出した。
 ラグタイムというのは、十九世紀から二十世紀始めにアメリカで流行した音楽のジャンルで、ジャズの原型のひとつだ。メロディーラインとベースラインの拍のずれをRagged timeと呼び、その不揃いのタイミングの中から色々なニュアンスが生まれる。この店もそういう場所であったらいいと思って名付けた。
「確かに。今度言われたら、そう言い返します」

 男がショートポープの箱を上着の内ポケットから取り出したので、佳彦は灰皿を彼の前に置き、ポケットからライターを取り出した。男はちらりとライターを見て、それから佳彦の手から火をもらい、ひとつはき出して、ようやくほっと息をついたように見えた。
 何か音楽をかけましょうか、と尋ねると、男は少し考えてから、ブルースをと言った。

 佳彦は少し考えてからルイ・アームストロングのアルバムを選び、レコードに針を落とした。ざざっという微かな雑音の後、『We have all the time in the world』が流れ始める。
 酒を勧めるのにいいタイミングだと思った。
「今日はせっかくですから、少し強めのお酒をいかがですか」
 男は意味を察したようだった。
「では、あなたがいつか作ってくださったジェームズ・ボンドの酒を」
「ジェームズ・ボンド・マティーニですね」

 イアン・フレミングの『カジノ・ロワイヤル』にはモロトフカクテルと書かれている。ジェームズ・ボンドが、ロワイヤル・レゾーのカジノで敵との大勝負の緊張感をほぐすためにオーダーしたカクテルだ。
 ボストンシェイカーにゴードンジンを三、ウォッカを一、あとはキナ・リレのベルモットはキニーネが入っているので日本では手に入らないため、代わりにリレ・ブランを〇・五の割合で加える。

 初めてこの男に作った時と同じように、彼が曲を楽しむのを邪魔しないかと一瞬気になったが、またあの時と同じように、男はカクテルを待ち望むように佳彦の手を見た。安心してシェイカーを振り、カクテルグラスにきりっと冷えたマティーニを注ぎ、オリーブではなくレモンの皮を薄く切ったもの沈める。
 ボンドはこのカクテルにヴェスパーという、恋に落ちた女の名前をつけた。この女は裏切り者だったが、ボンドは一度味を知ってしまうと他のものは飲めないと言った。
 愛とはそういうものなのだろう。

 佳彦はカクテルグラスを取りあげた男の右手から、カウンターの木目の上に残された左手に視線を移した。薬指に嵌められた指輪は、鈍い銀の光を不安定に揺らめかせている。
 この指輪を外さずにいるのは、自分が何かから逸脱してしまうのが恐ろしいからだと言っていた、その表情を思い出した。
「寒い冬なのに、こんな冷たいカクテルを出す店って、どうかしてますね」
「ご心配なく。かのスパイと同じように僕も味音痴なので」

 佳彦は思わず嬉しくなった。
 マティーニは本来ステアで飲むもので、シェイクするものではないが、ジェームズ・ボンドは「冷たいものはとことん冷たく、熱いものは最高に熱く」が主義で、カクテルもシェイクさせるほうが冷たくなっていいという。酒好きの理論では、シェイクして冷やし過ぎると舌がしびれて味が分からないから、ボンドは味オンチだということになる。
 そのように説明したことを覚えていてくれたのだ。

「でも、クリスマスイヴに強い酒を勧めてご主人を引き留める店は、やっぱり不味いでしょうね」
 男はそれには答えなかった。
 俺はこの人の前ではしゃべりすぎるな、と佳彦は思って、また言葉を引っ込めた。ただ、この男も以前やってきた時に、ふと漏らしたことがあったのだ。
 ここに来たら、しゃべりすぎる、と。

 不思議だった。名前を知っているのに、なぜか名前を呼ぶことはない。あなた、と今でもいかにも他人行儀に話しかける。他の客ならば数度も通ってくれたら、名前を呼ぶというのに。それでも、この男は他のどの店でよりも、この店でしゃべりすぎると言い、佳彦も、他のどの客にもそうしないのに、この男にはやたらと自分の方から話しかけている。

 それでもここから先は、というぎりぎりの部分で留まるだけの理性と職業倫理は持ち合わせているつもりだった。そのつもりなのだが、他に客も居ないこんな夜は、もっと話して欲しいと思ってしまう。客に深入りするのは良くないことだと分かっているし、そんなことをしても、客にも自分にも何の役にも立たないことも分かっているのだが、時折、無性に気になって仕方がない客がいるものだ。

 クリスマスイヴの夜。一緒に過ごすべき人がいるだろうに、その場所を避けてバーのカウンターに座っている。たゆたう紫煙の向こうの不安な表情。情人と会う時にも外さない結婚指輪。
 ふと、エディット・ピアフの歌に涙を流さずに泣いていた氷のような横顔を思い出した。あいつは最も大事なものと引き離されているんだ、と共通の知人が話していたことも。
 それでも、誰かが誰かを心配して、気にかけ、涙を流したり、黙って側に立っていたり、ただ一緒に音楽と酒を分かち合うことは、きっと悪いことじゃない。家族でもなく、恋人でもなく、ただの店の主人と客の関係であっても。

「今日は、帰っても本当に誰もいないんです」
 男はいったん言葉を切り、不思議な表情を浮かべた。最高に幸せそうな、それでいてものすごく不幸で不安そうな、どこかで道を間違えたことに気がついて後ろを振り返った時のような、複雑な表情だった。あるいは、ただ暗い照明が作り出した影が、そう見せたのかもしれない。
「妻は、今、まだ入院していて」
「病気、ですか」
「いえ」

 また少し間を置いて、男は続けた。
「今朝、子どもが生まれたんです」
 何がこの男を不安にさせているのか、佳彦は自分の経験に照らし合わせても、上手く理解はできなかった。おめでとうございます、と素直な言葉が一瞬喉につっかえてしまったのは、男のさっきの表情の故だった。

「そうでしたか。それは、おめでとうございます。男の子ですか。それとも」
「男の子です」
 男は冷たいマティーニを思い切って飲んで、カウンターにグラスを戻した。
「以前亡くした子どもは、女の子だったんですが」
 佳彦は言葉を失った。一人目の子ども、と言っていたのは、その子のことだったのか。

「もう性別も分かるほど大きくなっていたのに、この世界を見ることはなかった。不思議ですね。僕は、どこかでもう一度その子に会えるのではないかと思っていたのかもしれません。その子がまた妻と僕を選んで戻ってきてくれたらと願っていた。その子を失ったのは僕が」
 男は言いかけて、そのまま言葉を無くしたようだった。
「すみません。ちょっと混乱しているらしい」

「生まれてきたお子さんを、愛せないと心配しているのですか」
「いいえ。そんなことじゃないんです。ただ、置き忘れてきたものをどうしても振り返ってしまって、不安になるのかもしれません。それとも、ただ単に、父親というのがどういうものか、よく分かっていないからかもしれません」
「父親って、始めからこんなものという型があるわけではありませんよ」

「ただ、あんなに小さくて儚いものが、この世界に放り出されて、生きていゆけるのかと」
 あなたが守るんですよ、と言いかけて、この男の不安が突然に理解できたような気がした。
 娘が生まれて、初めて腕に抱いた時、潰してしまわないかと心配になった。自分の指一本よりも小さな手が、いつか何かを掴めるようになるとは信じられなかった。そんなことを、この男は過剰に敏感に受け止めてしまうのだろう。

「相川さん」
 佳彦は初めて、男の名前を呼んだ。
「子どもって意外に逞しいですよ。一年経ったら、三倍の重さになるんですからね」
 短い前奏の後に黒人シンガーの声が耳に届いた。
 男はふと顔を上げ、ずっと探していたのに届かなかった景色を見つけたような表情を浮かべ、それから静かに目を閉じた。

 曲が終わるまで、佳彦も男も、何も言わず、動くこともしなかった。
 佳彦は、不安を見いだしては震える彼の睫毛を、左右に異なる色合いが見える目を、唇の前で組まれた手を、そして彼を縛り付けている指輪に揺らめく光を、美しいと思った。狭い店の中に揺れる灯を、明るい光の下で見たら小さな疵も隠せないけれど、こうして誰かの不安を包み支えている椅子やカウンターを、佳彦が店を譲り受けるずっと前から壁に掛かっている古いアメリカの街の絵を、絵の中ですっかり色あせて消えかかった虹を、そして、ずいぶん前に誰かが忘れていってくれたおかげで、突然の雨の日には誰かを庇うことのできる傘を、今、愛しいと思った。

 そして、大都会のこんな暗い地下の片隅にいても、世界を美しいと感じることができることに、ふと感謝の気持ちを覚えた。
「今度は温かいホットオレンジのカクテルを、お祝いにご馳走させてください。その子はきっと、あなたの不安を踏み越えて、素晴らしい世界を見るに違いないんですから」
(2016/12/18書き下ろし)


『We have all the time in the world』:『女王陛下の007』に使われていた、ルイ・アームストロングの名曲。ジェームズボンド・マティーニを飲むきっかけにしました。
最後に彼らが聴いているのは、タイトルは出しておりませんが、お察しの通り『What a wonderful world』です。
ほんとのことを言うと、こんな順序に曲が並んでいるレコード(アルバム)があるわけじゃないのですが、お目こぼしください。時代が時代ですし。でも『What a wonderful world』って1967年の曲なんですね。そう思ったら、余計にすごさを感じる。

生まれた子どもは、慎一。クリスマスイヴ生まれなんですね。不良パパを許してやってね。
何しろ、真はほんとのパパには捨てられちゃったので、父親ってのがなんだがよく分かっていないのです。おじさん(功)やもと家庭教師(竹流)のような仮の父には恵まれていたはずなんですけど……
幸い、慎一は性質的には母親の血を受け継いだのか、中身はかなりしぶといかも知れません(長命だし、中年期以降になってものすごい年下の美人と一緒に暮らしてるし……いや、そういうことじゃないか)。
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Category: ☆真シリーズ・掌編

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