FC2ブログ
07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【雑記・音楽】3つの『夜曲』 

今日は、音楽の話題です。
クラシックに関係した物語を書いていますが、幼少期からクラシックに親しんできました、とはとても言えません。ヤマハ音楽教室→ピアノを習ってはいたのですが、家にはクラシックのレコードもカセットも1つもありませんでした。
じゃ、なにがあったのかと言うと……当時は祖母の世代の人たちが民謡をいくらかやっていた時代で(民謡ブームだったのですね)、記憶の中にある最初に見たレコードは「黒田節」。さらに、父がフランク永井のファンだったので、自慢じゃないですが、多分、フランク永井の歌はほとんど歌えます^^; カラオケの十八番は「君恋し」ですし。
やっぱり当時の時代を映した音楽と言えば、歌謡曲というジャンルだったような気がします。
ちなみに、自分で最初に買ったレコードは西城秀樹の「傷だらけのローラ」だった……

それはともかく、幼少の頃に両親が聴いていた音楽の中で、私が今もすごく好きな歌謡曲が幾つかあるのですが、そのうち最強の2つが、偶然「夜曲」なのです。実は歌謡曲というジャンルじゃないかも知れないけれど、歌声喫茶で歌われていた、という印象からはそういう括りでいいかなぁと。
(『続きを読む』に隠してあります。ぜひBGMに)

ひとつは『蘇州夜曲』。山口淑子(李香蘭)の歌ですね。
三味線で練習しておりますが、この哀愁漂う感傷は、やっぱり同じ弦の響きでも弓で弾くような楽器でなくちゃな(ヴィオラを弾く後輩とユニット組んでレパートリーにしてます)。とにかく、この歌が好きすぎて、生涯行くことないと思っていた中国に友人が留学したのをいいことに、すぐに押しかけて行って「蘇州に行きたい!」と叫んだ記憶が。
よく中国の歌だと勘違いされていますが、由緒正しい作詞・西条八十、作曲・服部良一の日本の歌。でもこの間、同年代の人と話していて、結構「知らない」って人がいて、ちょっとしょんぼり。いい歌なのに。

もうひとつは『北上夜曲』。もともとマヒナスターズ&多摩幸子が唄っていた、という記憶さえはっきりしないのですが、しかも、この曲に関してはレコードさえ家になかったのですが、いつから好きだったんだろう(これもいつかヴィオラ&三味線ユニットのレパートリーに入れる予定)。
ところが、この曲は実は昭和16年、まさに世の中軍歌一色の時代に、わずか17歳と18歳の青年が作詞作曲し、密かに歌い継がれて昭和30年代に大流行したという経緯があるのです。
この曲、6番まであるのですが、実は流行った当時、長いので4番5番が切られていて、なんで初恋の思い出を語りつつ、いきなり6番で「僕は生きるぞ」なんだ?ってことになるんですが、5番で彼女が亡くなっていたのですね。昔ってレコードの長さに制限があったので、しばしばこういう「謎の歌詞」が。

実は、「夜曲」を話題に選んだのには理由があります。
J:COMで松本清張原作の2時間ドラマを幾つかやっていた中に『黒の回廊』がありまして、ドラマの内容としては2時間ドラマあるあるで「なんでそれで殺しちゃうかなぁ」なんだけれど(主演:賀来千香子・船越英一郎)、クライマックスのアルハンブラ宮殿がかなり美しくて、ほ~となっているところに、『夜曲』が流れたのです。
実は初めて聞く曲で、恥ずかしながら歌手の方も知らなかったのですが、ひと目で、じゃなくて、ひと耳で惚れちゃいまして、探して見つけたので、嬉しくてご紹介します。
矢野真紀『夜曲』……ドラマのエンディングに流れると、やられちゃうなぁ。「どうして人は 想いが溢れてるの」の歌詞にちょっとやられました。 

そう言えば「夜曲」って、つまり「セレナーデ」。つまり、夜、恋人の部屋の窓辺に立って(階下から)、リュートとかギターとか弾きながら唄う恋の歌。
でも、ここにご紹介した「夜曲」は「セレナーデ」とは何となくイメージが違うのはなぜだろう? と思って、考えてみたら、そうか、なんか「水っぽい」んだ、と思い至りました。「水の蘇州」「北上河原」「岸辺」「目の前の川」って歌詞が川だらけだからって単純な発想ではないのですが、やっぱり日本の歌なんだなぁ。
それにこれはやっぱり「セレナーデ」じゃなくて「夜曲」なんだ。恋の歌と言うよりも、人生の歌。

でも、私、シューベルトの夜曲……いえ、こちらは「セレナーデ」ですが、大好きなんです。しかも、ドイツ語もいいんだけれど、日本語の歌詞が結構好き。「秘めやかに 闇を縫う 我が調べ」……美しい訳詞です。
好きなので、作中でも使ってみた→【死と乙女】(4)想い・セレナーデ
(でも、次は、慎一に『蘇州夜曲』を歌わせようかな。リクエストに日本の歌を、と言われて歌う。本当はアンパンマンマーチを歌わせたいけれど、残念、実は彼が日本にいるときにはまだその世代じゃなかったんですよね。放映開始と入れ違いくらいでローマに移っちゃったので。でもいつか歌わせちゃる、あの名曲。あ、孫の真でもいいか。そうだ、うれしいんだ、い~きる喜び

でも、『夜曲』って言えば、中島みゆきだろ? って思った方。はい、私もそう思います(^^)
(続きを読む、から『夜曲』をお楽しみください(^^)/)
-- 続きを読む --
スポンサーサイト

Category: 音楽

tb 0 : cm 6   

【雪原の星月夜-4-】 第1章 月の船(4) 図書館の出逢い 

【雪原の星月夜】4回目です。
今回もまた、「物語の進行上必要だけれど、あまり面白くない回」になるような気もします。
でも、書いている時は、意外に楽しかったのです。なぜなら、このカリスマ女流作家の本のタイトルをずらっと並べてみたから。こういうの書く時って、結構楽しくありませんか。

さて、今回登場の女子高生たち、真の出身校の後輩になるわけですが、もともとこの学院は私の通っていた学校がモデルなんです。そして、ここに登場する女子高生は私の友人(たち)がモデルです。ここにアップしている作品の最初の読者でもありました。
美和ちゃんも仁も今回ちょっと辛い立場なので、清涼剤の役割を果たしてくれる人が必要だったのですね。
結構ハードな展開が多いこのシリーズ(昭和ですから)、清涼剤的立ち位置の登場人物が幾人か必要になるんです。今回は、多分、後輩女子高生たちと灯妙寺の人たちでしょうか。

今回は第1章の最終話です。でも、まだあの人は出てきませんね……夕さん曰く「ヒロインが出てこない」って……^^;
それなのに、次回はちょっと1回休憩になるかも。息子のお話が書けていたら、ですけれど。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(4) 図書館の出逢い
 

 図書館の暖房は幾らか強すぎるような気がした。
 終戦直後に建てられた古い公会堂を改築した図書館は、窓ガラスの歪みまでもがレトロなムードを醸し出している。ただでさえ遠くを見通せない古いガラスが曇って、水滴を下枠に溜めていた。
 真はコートを脱ぎ、受付の若い女性に絵本のコーナーを聞いた。

 今日は封筒から本が出てくる確率も高いが、月に遭遇する確率も高い。封筒から出てきた本のタイトル『天の海 月に帰る船』、新圧が告げた大和竹流の所有するバーは会員制で『霧の港』という意味のイタリア語だったが、竹流はそのビルの上階にあるレストランの脇に、小さなカウンターだけのバーも作らせていた。そのバーの名前は『月の船』という。

 どこか記憶の隅に、古代の歌人が作った歌が引っかかったが、よく思い出せなかった。古代の歌とは思えない宇宙を描いた壮大な内容に、真は苦手だった国語に初めて興味を覚えた記憶がある。古代から人々は天を見上げ、星を数え、星座に物語を託し、命の行く先を求めてきたのだろう。
 竹流はギャラリーには『星の林』という名前をつけていたが、それもその歌に含まれていた言葉だったはずだ。

 その上、童話作家の名は『神路月』、彼女の本に絵を添えた画家の名前、アイヌ語で記された名前は、訳すと『月の貰い子』という意味だった。朝方に灯妙寺の家に戻った時に、何かに見つめられているような気がして振り返った空に、ぼんやりと浮かんでいた白い残月もまた、今日、真の回りに漂っている月の気配だった。

 絵本・童話のコーナーに行くと、その女流童話作家の本は子ども向けというよりも、やや年長、高校生くらいの年齢をターゲットにしているコーナーに並んでいた。本の傷み方を見ると、随分と貸し出されたことがわかる。
 真は背表紙を、肝心要の部分に追いついてしまうのが恐ろしいような気がして、やたらと時間をかけて読み下していった。
『消えたプレヤード』、『南のひとつ星』、『星のささやき』、『青の妖霊』、『かささぎの橋』、『後に続くもの』、『鬼宿の契り』。

 脳外科医になる道を選ぶ前、というよりも医学部に入る前、伯父の功は理学部で天文学を学んでいた。医師になってからもマニアックなほど宇宙に纏わる勉強を続けていたし、ドラマや映画、漫画やアニメまで好んで見ていた。
 小学五年生で東京の伯父に引き取られてから、登校拒否で学校に行けなかった真は、趣味とはいえないほどの彼の情熱を直ぐ傍らで分かち合ってきた。だから、肉眼で見分けられる星の名前を、その学問的名称も愛称も含めて、今でもほとんど正確に言うことができる。

 このタイトルの全てが、星や気象に関わるものであることは直ぐに理解できた。
『消えたプレヤード』というのは牡牛座プレアデス星団、すなわち昴にまつわる物語に由来している。プレアデス星団は肉眼では六つの星の集まりに見えるが、神話では天を担ぐアトラスの七人姉妹だとされている。つまりひとり欠けているのだ。その欠けた一人が消えたプレヤードというわけだった。
 『南のひとつ星』は南魚座のフォーマルハウト、秋の夜空のただひとつの一等星だ。『星のささやき』というのは、確かシベリアのどこかで氷点下五十度にもなると、大気の中で水分が結晶となって霧氷が発生するが、この時に微かな音がするのだと聞いた。その音のことを星のささやきと呼んでいる。

『妖霊星』は文字通り妖しい星、もともとは弱法師の当て字だと言われている。弱法師の物語は観世元雅作の能で、父子の誤解と贖罪の物語だった。『かささぎの橋』とは、織姫を船に乗せてくれない意地の悪い月の船人に代わり、かささぎが羽根を広げて織姫を向こう岸へ渡してやろうとした、その羽根が連なった橋のことをいう。
『後に続くもの』というのは、牡牛座の一等星アルデバランのことだ。この星がプレアデス星団の後から空に昇るためにそう呼ばれる。
 どの背表紙からも、ある独特の孤独感が滲み出ている。題名から受ける印象なのだろう。

 最後に残った『鬼宿の契り』という本を、真は書棚から抜き出した。
 鬼宿、というのは蟹座の甲羅にあたる四つの星の中国名で、かの国では最も縁起の悪い星とされている。人間が死ぬと、心をつかさどる魂(こん)は天に昇って神になるが、形、つまり肉体をつかさどる魄(はく)は地上に残って鬼と呼ばれる精霊になるという。もっとも、インドではお釈迦様が生まれた時に月がこの星の場所にあったので、めでたい星座とされていることからも、国によっても人によっても捉え方は色々なのだということだ。
 だが、『鬼宿』という言葉は、どう考えても明るい物語につけるタイトルには思えない。

 物語の舞台は真の想像とは違って、現代だった。主人公は女子高に通う女の子、恋の相手は毎朝の通学の電車で会う男子校の高校生。女子高生にとっては身近な物語であることが人気の理由なのかもしれないが、物語は、飛ばし読みをしている真の目の中で、直ぐに現実から遠ざかっていった。
 文字が描き出す世界が現実から遠ざかっていくと、逆に真の頭の中で、物語の風景が現実に近付いていった。

 主人公の女子高生は、勉強はそこそこ好きではないけど嫌いでもない、絵を描くのが好きだったので何となく美術部に入っているけれどそれほど熱心な部員でもない、おしゃれには少しばかり興味があるけれど、当然のことながらお金もないので、せいぜい雑誌の中で楽しむ程度、放課後の友だちとのおしゃべりが楽しくて、というような、どこにでもいそうな女の子だった。
 恋の相手は、同じ路線にある私立の有名高校の男の子で、野球部のエース、ハンサムで友達思い、性格も明るく、いかにも少女漫画に出てきそうな相手だった。

 だが、物語が半分まで進むと、男の子の家庭環境がかなり複雑で、母親の再婚相手である義父から暴力や性的な虐待まで受けていたことが分かる。主人公とこの男の子は急速に親しくなり、二人で親たちから逃げ出そうとする。主人公の家庭環境が特に複雑である描写はないが、思春期独特の反抗心はあったのだろう。
 だが、物語が後半になり、鬼宿の意味が明らかになった。

 主人公の少女は、死者だった。魂が離れたことに気が付かないままの魄、すなわち鬼だったのだ。少女の恋は、可愛らしい初恋などではなく、この世に対する妄執だった。少年はひとつの呪縛から逃れ、別の呪縛に絡め取られる。
 真は思わず本を閉じた。思春期の多感な少年少女がこれを読んで何を思うのか。そもそもその年齢の若者はこういうオカルトやら魂の物語が大好きなのだ。真がこれまでに関わってきた未成年の失踪者にも、当人曰わく「声なき声に導かれて」彷徨っていたような者もいた。この世界、この社会との関わりを切実に苦悶し、肉体に害を及ぼすほどに思いつめるのもまた、そういう年齢独特の心のあり方なのだろう。

 だが、一方で、彼らは一様に大人たちが思うよりも誠実で真剣で、何より聡明だった。決してオカルトに溺れているだけではないのだ。それは、この世界とこの先どのように付き合っていくのかを確認していく通過儀礼のようなものに違いない。
 真自身とて、その年齢の時には、同じような心情でいたし、正直なところ今でも、まだ現実との区別がつかない幻を垣間見る瞬間さえある。記憶の混乱なのだろうと思っているが、突き詰めて考えることで自分の足元が崩れてしまうような恐怖があった。
 年齢に関係なく、心の内というものは表に出すことが困難なものだ。

 小学生の時に東京に出てきてから、何度か精神科医や心理学者の診察を受けた事があった。彼らは真に絵を描かせたり、催眠療法に近いような方法を試したが、真はどこかでその方法を警戒し、恐らく彼らは上手く真の心の内を知ることはできなかったはずだった。
 大体、どう考えても下手糞な真の絵を見て、何がわかったというのだろう。ただその子どもが、かなり複雑な内面を抱えていることだけを知ったに違いない。

 何を抱えていようとも、少なくともこうして大人になり、社会で生活をしていけるようにはなる。本当に必要なものは、その複雑さを抱えた個を、そのまま受け入れてくれる別の個の存在なのだろう。
 女子高生のカリスマ童話作家であるという神路月。
 月というのは、本来、様々の神話では陰のイメージを持たされている。その作家はどうして自分にそんな名前をつけたのだろう。

 ふと誰かの視線を感じて顔を上げると、不信そうに真を見つめる制服の女の子がいた。
 確かに、もう三十にもなろうという男が、カリスマ童話作家の本を真剣に見ているというのは怪しいだろう。

 だが、何か気の利いた言葉で会話を始めて、その女の子から情報を引き出すような器用さが真にはない。この仕事に関わって既に十年は経過しているにも拘らず、調査事務所の人間とは思えない不器用さを、未だに真は克服できないでいる。
 ところが、実際にはこの手腕の乏しさが真にとってプラスに働いていることが少なくない。初めて会った相手は、真が調査事務所の人間だとは全く思いもしないだろうし、今でもまだ大学生に見られることもある風体からも、都会に慣れずに道に迷っている若者と間違われることもある。

 女子高生はしばらく顔を上げた真と視線を合わせていたが、後ろから近付いてきた別の女の子の気配に後ろを振り返った。その瞬間にようやく網膜に映っていたその子の制服が、正確な情報になって真の脳に入ってきた。
 真が通っていた私立の聖幹学院の制服だった。いや、制服そのものは随分と垢抜けてファッショナブルになっているように思ったが、襟についた、三つ葉のクローバーをモチーフにした学校の紋章はそのままだった。

 今度は二人の女の子の視線をまともに受ける結果になって、真は逆に視線を逸らすことができなくなった。幸いだったのは女の子達の屈託のなさだった。
「その本、借りられますか?」
 真は思わず自分の手元に視線を戻した。
「いえ、どうぞ」
 真は『鬼宿の契り』を先に現れた女の子に差し出した。

 それをきっかけに図書館の隅で囁きを交わすような会話が始まった。女子高生たちは、真のような年齢の男が、その本を取り上げて読んでいたことに興味を持っていたようだった。
「幹学院ですか」
 真が尋ねると、制服に興味を持っている怪しい男に思われたのか、一瞬女子高生の顔つきが微妙になったが、それに気が付いて真が困惑気味の顔をすると、一人がくるんと表情を変えた。
 真は出会ったばかりの頃の屈託のない美和の顔を重ねていた。

「いや、俺も卒業生なので……」
 そうなんだ、と二人組の女子高生は顔を見合わせたが、まだいくらか疑いを残しているようだった。
 さりげなく、何年の卒業、その時いた先生がまだ勤めているか、など当事者しか知らない情報交換をしてから、ようやく安心したのか、笑顔を見せてくれた。

 真が通っている頃から、学院では私服にしようという運動があって、もともと学生の主張を取り入れることに積極的な院長の方針で、その意見は何度も学生集会で話題になっていた。二人の女子高生の話では、結局、毎日服を選ぶのは面倒だという学生からの現実的意見で、私服化は実現しないままだという。その代わり、スカートやズボン、ブレザーとネクタイは制服で、ブラウスやコート、ちょっとした装飾品などは自由ということになったらしく、よく見ると二人の着ているブラウスは、どちらも白ながらデザインは全く違っていた。

 何となくその子たちと歩調を合わせるような気配で図書館を出て、別に親しくというわけでもなく少しの距離を置いたままで、両脇を高い欅の木に挟まれた歩道を歩いた。
 女子高生たちは真に興味を持っているものの、知らない男への警戒はそれなりに保ちつつ、今の学校の状況について、真の質問に答えてくれる。時には彼女たちの方から、昔の学校のことを聞いてくる。それを聞くと、十年以上も経って随分変わったところもあるのかと思いきや、大筋としてはあまり変わっていないように思えた。
 毎朝の礼拝、何故かイベントの多い校風、脱線が多くてなかなか進まない授業、それでも大学入試対策などの現実的な側面は随分改善されているようだった。

 二人の女子高生は、本名は名乗らなかったが、先に真と視線の合った方は「あゆ」と呼ばれていた。小説を読んだり音楽を聴いたりするのが好きそうで、二人の話は真をそっちのけで、時には真を巻き込んで途切れる気配はなかった。
 同じ高校生と言えども、真が近年接している問題を抱えた少年少女たちとは随分違う。いや、それはあくまでも表の問題なのかもしれない。
 妻の舞、それに真と妻が子どもを失うきっかけになったあの少女もまた、複雑な表の顔の後ろに素直で屈託のない一面を持っていた。子供はこの難しい時期を乗り越えて大人になっていく。全ての道にはそれぞれの意味があり、同じ道はひとつとしてないのだろう。

「でもどうしてこの本をご覧になってたんですか」
 質問されて、真は一瞬考えてから、妹からこの作家の『月に帰る船』という作品を借りてきて欲しいと頼まれたのだと返事をした。二人の女子高生は顔を見合わせた。
「それって、次作に考えてるっていう本のタイトルだよね。この『鬼宿の契り』の続編になるって話だったけど、まだ出版されていません。私たち、今度学年末発表会で『鬼宿の契り』の寸劇をするんですけど、学校の図書室の本は貸し出されてたから、区の図書館に来たんです」
 まだ出版されていない、という言葉を真は確認した。
 女子高生たちは不思議そうに真を見つめている。

「でも本当に出版されるのかなぁ」
 一人が呟く。風がきつく吹きつけて少女たちの白いマフラーの端を巻き込んでいった。
「どうして?」
「最後の『後に続くもの』が出てから結構経ってるんです。作家さん自身、半年位前に一度雑誌に出てから、どこにも出てこないし」
 ではあの本は何なのだろう。出版元まで確認しなかったが、ちゃんと本の体裁を整えていたから、てっきり出版された本だと思っていた。

「去年の文化祭の時に講演会に来たんだよね」
「来たって、その神路月って作家が、学院に?」
「はい。だってうちの卒業生ですし」
 真は女子高生たちの顔を思わず見つめ直した。
「卒業生? 幹学院の?」
「本名は神路あきら、あきらって昴っていう字なんです」

 これから塾だという二人の女子高生とは、欅の並木道の下で別れた。話は尽きないように笑いながら去っていく二人の後姿を、真は随分長い時間見送っていた。
 物語を最後まで読まなかったので分からないが、タイトルから察するに『鬼宿の契り』は明るい話とは思いがたい。それでも彼女たちの手にかかれば、物語はハッピーエンドに書き換えられてしまうのかもしれない。

 風は冷たく、枯葉が頬に当たるほどの近くを切っていった。耳元で、枯れた葉がまだ木の枝に繋がっていたときの記憶が囁かれたような気配がする。その気配は直ぐに、並木道の傍の信号が青に変わったことで、かき消された。
 真はコートのポケットに手を突っ込んだ。
 一体、何の縁故であの本は真の事務所に送られてきたのだろう。送り主の名前は池内暁、読みようによってはやはり『あきら』と読める。女性か男性かもわからない。

 とにかく事務所に戻ってあの本を確かめようと思った。
 事務所に戻ると、留守番をしていた宝田から、美和は気分が悪いと言ってマンションに戻ったと聞かされた。ここに閉じ籠っていると気分が悪くもなるだろう。周囲への迷惑を考えると大学にも行きにくくなっているはずだった。
 後で電話をしてやろうと思いながら、真は机の上に残された本を取り上げた。

 美和がゴッホの星月夜みたいだといった表紙を、もう一度見つめる。暗い藍の空に黄色の光を湛える星、その星に照らされ闇に浮かぶ黄金の雪原、雪原の中で鳴き交わす鶴の番。真は本の裏表紙をめくった。
 初版の日付は、未来の日付だった。そしてその下に続く発行者の名前は池内暁、この本を送ってきた人物の名前だった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

tb 0 : cm 10   

【石紀行】47.三重熊野・花の窟と獅子岩~巨石鑑賞は正しい場所から~ 

花の窟神社鳥居
今回は花の窟神社(はなのいわやじんじゃ)にご案内いたします。
前回、ご案内いたしました神倉神社からそれほど遠くないのですが、こちらは三重県。熊野参りでは東の端ということになるのでしょうか。こちらの磐座は、岩の浸蝕具合からもいかにも海辺の巨石という感じがします。
神社自体は小さいのですが、世界遺産の一部なので、かなり周辺が整えられていて、道の駅の駐車場に車を止めたら、隣が神社です。
花の窟神社参道
そう言えば、磐座・巨石の本には、アプローチの容易さを星の数で書いてあるものもあります。確かに巨石ファンにとっては重要な情報かもしれません。そういう意味では、先日御紹介したゴトビキ岩も星2つ程度、そしてここ、花の窟神社は星0かも。あ~、でも、駐車場からの距離じゃなくて、この陸の孤島にたどり着く分を含めたら、どうかな。
さて、木々に覆われた参道を進みます。参道の先に社務所が見えてきました。
社務所
社務所の脇には手水舎が。その手水舎の脇に、しめ縄つきの巨石がありました。何の説明書きもないのですけれど、これは神社の目印、つまり結界の印かしら。
手水舎
社務所を通り抜けると、小さな鳥居、そしてその先に目的の磐座が見えてきました。
花の窟みえた
木々の向こうです。正直なところ、こんなふうに直接的にそこに鎮座されているとは思っていなかったので、「わ!」と声を上げそうになりました。思えば磐座というのは、それそのものが神様(もしくはその依代)なので、拝殿なども何もなく、いきなり目に飛び込んでくるという光景は何度も体験しているのですが、大概はすごい山の中で、たとえば前回ご紹介したゴトビキ岩のように、山に登って「やっと到達した~」ということがしばしば。ところが、こちらは何の努力もなく? いきなり目の前に現れてくださったので、ちょっと度肝を抜かれたのかもしれません。
見えてきた
木々の隙間から、そのお姿が見えています。本当に、神社と言うよりも、磐座のためにちょっと周囲を整備したという感じ。つまり、始めに磐座ありきなんですよね。
こういうとき、なんとなく近づくのがもったいなく感じてしまうのですよね。もうちょっと「まだ見えない。もうすぐたどり着く」って気持ちを味わっておきたいというのか。でも、そんなことを考えている場合じゃありません。もうそこ、目の前に巨大な磐座が。
ベストアングル花の窟2
磐座と言うよりも、巨大な岩山です。この写真は、聖域に入って磐座の前を奥に進んで、やや右手から撮りました。
実は、一旦じっくり見た後で、社務所の前に謎の?撮影スポットがあったので、写真を撮っていたら、神社の方とお縄を作っている方が「二人一緒に(母と私)写真を撮ってあげよう」と話しかけてくださったのです。
で、そのお縄を作っているという方が「この岩をどこから撮ったらいいか」を伝授してくださったので、そのお教えの通りに撮影したもの。何しろ巨大すぎて全体像が入らないので、この斜めアングルしかないのですね。以前撮影に来たカメラマンがここから撮っていたとのこと。
でも、真正面に立って観た時に味わった現場の迫力が、写真では半減するのが残念。これは、巨石の写真全てに共通する悩みなのですが。
花の窟上半分
だいたい、斜めから撮っても全体像が入らないのですから、しかも上半分とした半分に分けても、一部しかお見せできないので、もうこの大きさは体感して頂くしかないですね。幸い、この磐座はものすごくアプローチが簡単。階段や山を登る必要がありませんので、熊野詣でのついでに是非とも訪れてみてください(って、熊野が遠いんだってば! という声も)。
花の窟下半分
下半分を見ると、すぱっと割れた後のように見えるのですが、割れた半分は崩れてしまったのでしょうか。所々に穴が空いていて、その一番大きく下の方に空いているのが、いわゆる「ほと」つまり女性器の象徴となり、ここがゴトビキ岩の陽石に対して陰石というふうにも考えられているようです。
正面2
その「ほと」を真正面から見てみましょう。ここには「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」と書かれており、国生みの女性神を祀っていることが分かります。
正面向かい
こちらはその真向かい。小さな小山のようになったところがあり、こちらの苔むした岩の前には、別の神さまが祀られています。
この神社の御祭神は、伊弉冉尊と軻遇突智尊(カグツチノミコト)。こちらは火の神・軻遇突智尊の磐座なのですね。伊弉冉尊は35の神を生んでいるのですが、この軻遇突智尊を生んだときにホトが焼けてしまうという神話なのですね。でも火に焼かれながらもあと4人産んでいる(ま、国生みの話ですから)。
見上げる
もう一度、伊弉冉尊の磐座を見上げてみます。上の方に、巨石が乗っかっていますが、そこから編んだ縄がぶら下がっているのが見えます。
お縄
この縄をかける「お縄かけ神事」があるのですね。その解説がこちら。
お縄かけ神事について
この縄の全体像は神社の脇の海岸沿いの道を渡って、反対から見るとよく分かります。
道路から見る
この縄の最後の括りの部分がこちら。この括り方にも意味があるのですね(伊弉諾尊と伊弉冉尊が結婚の時に柱を左回りに回ったけど上手くいかなくて、右回りに回ったというのを表している)。
縄のくくりめ
是非とも道を渡って、お縄の全体像も見てみてください。緑の中に浮かぶ磐座がまた一段と感動的です。

さて、その花の窟神社から歩いてでも行けそうな距離にあるのが獅子岩です。地図で見たら近そうだったので、海岸を散歩しながら獅子岩に近づいてみました。
獅子にみえない?
「う~ん、獅子に見えないよね~」とか言いながら、歩きにくい海岸の砂地を歩いています。
更に近づくけど
「もうちょっと近づいたら、獅子っぽく見えるんじゃない?」と言いながら、ますます近づきます。でもどんなに近づいても、あんまり獅子っぽくないんです。アップで見てみると……
だるまの横顔?
「獅子と言うより、なんか、だるまの横顔に見えない?」
「う~ん」
「ま、いいか!」
そんな会話を交わしつつ歩いていますが、帰りの長い行程を考えると、もうそろそろ帰途につかなくちゃです。と言うわけで獅子の獅子たるゆえんを吟味することもなく、車に戻って海岸縁の車道を走っていたら……
「あ! 獅子だ!」
獅子岩正しい
そうなんです。巨石鑑賞は正しい位置から。
道路から獅子が見えるのです。それに、ちゃんと獅子岩を見るための駐車場がありました。その駐車場でも、いちばん海岸に寄って獅子岩に近づくと、逆にあまり獅子っぽくないのです。むしろ道路側に寄ってちょっと斜めから見た方が獅子。「獅子岩」と書かれた表示があるので、そこから見ろってことかな。でも、道を走りながら車から見た瞬間が一番「おお~、獅子!」でしたよ。
獅子と言うより
ほんのちょっとズレただけで、口の大きさとか、顔の感じが変わるんですよね。巨石の表情って面白いですね。

この近くに「鬼ヶ城」という岩場もあるそうです。今回は行きそびれたので、また次のチャレンジに残しておきましょう。
(訪問日:2018/6/22)

Category: 石の紀行文(写真つき)

tb 0 : cm 8   

【雪原の星月夜-3-】 第1章 月の船(3) 不夜城の異変 

【雪原の星月夜】3回目です。
今回はちょっと長めです。途中で切ろうかどうか悩みつつ、アップしました。やっぱり長いかなぁ。半分に切れなくもないのですが、真ん中のきりどころが微妙で、一気にアップしちゃった。←最近、字数に悩んでいる^^;
本当のところを言うと、サブタイトルをつけるのが面倒くさいというのもあるのです。以前はつけてなかったけれど、これは目印にいいなぁと思いまして。
それに、今回は説明が多いので、まぁ、適当にすっ飛ばして読んで頂いてもいいような気がします。物語の進行上必要だけれど、余り面白くない回、っていう例の部分ですね。

さて、真の事務所、久しぶりにお目にかかる美和ちゃんと宝田の登場です。
タイトルをつけてから、不夜城=新宿っていつも異変だらけの街だから、異変って言っても「いつも通り」ってことだな、なんて思ったりしていました。

今回登場の「大東組」というのは、実は、【海に落ちる雨】に瞬間的に出てきたのです。あの時、亡くなったおやじさん=田安のおっちゃんのお葬式にこの組の組長が来ていて、真とものすごく短い会話を交わしているのですね。それきり絡んでいませんが。
[雨49]第8章 ある代議士の事情(2)
この回のコラムに、偶然「文字数」のことが書いてあった。そこにも、ひとつの記事が6000~7000文字になるって書いてある。てことは、ずっと、ワンシーンがその長さって事かぁ。でもね、もうひとつ気がついたんです。二人のシーンだけは、もっと長いんですよ^^; あれ? 
なんだ、ずっと悩んでて、成長してないのね、私。

ついに、竹流のお店も(名前だけ)出てきました。でも、なかなかあの人は出てきませんね……
わたしも、久しぶりに早く会いたい気がします(*^_^*) 

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(3) 不夜城の異変
 

 数週間前から、街に警察官が増えていた。理由は分かっている。真の調査事務所が入っているビルの前に、防弾チョッキをつけた警察官が立っている理由も明らかだった。
 こんな状況では飛び込みの依頼人もやってこないだろうし、いつも真の仕事を陰日なたで支えてくれている主婦のアルバイト達にも、しばらく事務所に近付かないほうがいいと伝えてあった。万が一、仕事が入ってくれば、事務所ではなく外で会う手筈になっている。

 このビルは、関東一円でシマを張っている寛和会の傘下である仁道組の持ち物だった。その寛和会最大の春日組の大親分、別所広太郎が急死したのは先月のことだ。
 昔気質の別所が何を考えていたのかはともかく、跡目を指名せずして亡くなったのが内部に混乱を招いた。
 確かに別所には狭心症の既往があったし、高血圧の薬も飲んでいたから、病死として問題はなかったが、殺されたというまことしやかな噂が寛和会内部に走った。折しも、関西から関東への進出を図っている広域暴力団昇龍会が、関東で寛和会と対抗する一大勢力である真厳会の筆頭、丹波組と手を組むつもりであるという噂が、もう半年以上前から流れていたところだった。大黒柱の別所を失って浮き足立った春日組が崩壊すれば、一気に真厳会が勢力を拡大する可能性があった。

 そんな時に、春日組の特攻の若者が丹波組の事務所に突っ込んで行ったのだ。その若者は返り討ちにあって、事務所の窓から投げ落とされて死んだ。もちろん、表向きには事故死ということになっている。
 緊張は一気に高まったが、今のところ、真厳会の中で丹波組の向こうを張る大東組の大親分の制止が利いているのか、全面抗争にはならずに春日と丹波はにらみ合ったままだった。もちろん、裏でなにがしかの手打ちと称するやり取りがあったのだろうが。

 だがもしも、全面抗争になれば、春日の大親分に誰よりも世話になっていた北条東吾は、黙っているわけにはいかないだろう。そしてもし、東吾に何かあれば、息子の北条仁は動かざるを得なくなる。この世界で最も大事なのは、面子と義理だ。
 今、この事務所を見張っているのは、警察官だけではない。仁道組の見知った幾人かの男の顔も、真の視界に入っていた。仁がこの事務所に一番の人員を割いていることは、その男たちの顔を見れば分かる。その男たちは皆、北条東吾と仁のためなら、つまりは仁の恋人のためなら、特攻としての仕事を躊躇いなくこなすのだろう。

 真が、事務所のある二階に上がっていくと、閉まった扉の向こうから威勢のいい声が聞こえてきた。
「うちは堅気の商売をしてんですからね、ビルの持ち主がどうのこうので、ガードをつけてくれるってならともかく、こっちが犯罪者みたいに扱われるいわれはないですけど」
「北条の跡取りの女が、堅気が聞いて呆れるな」
「だから何よ。うちなんかで怒鳴り散らしてないで、街の平和を守りなさいよ」
 真は扉を開けた。途端に真正面に仁王立ち、という言葉が相応しいように立っている柏木美和と視線がぶつかった。

「所長のお出ましだな」
 振り返ったのは警視庁捜査四課でも、若手で最も荒いと言われている古塚という男だった。厳つい顔つきは、高校生の時にはもう少しましだったような気がするから、この仕事を続けるうちに身に付いてきた特質なのだろう。
「おい、相川、この娘には口のきき方を教えといたほうがいいぞ。こんな時にそんな口をきいてたら一言で相手を刺激して、ババ引くことになるのは自分だって事をな」

 古塚は小学生の時から剣道の全国大会入賞の常連で、そもそも剣道を続けるために警察に入ったような男だった。真とは合計四回試合をして、二勝二敗の結果だったが、その後も大学で剣道を続け、警察官にまでなった古塚からは、恐らく真は今、一本も取れないに違いない。
 高校二年の関東大会の準決勝で大将同士としてぶつかった試合が、古塚にとっては余程に印象深いものだったのだろう。新宿の街で再会したとき、古塚は真を直ぐに見分けて近づいてきた。いわく、まだ勝負はついてないぞ、と。真からすれば、結果は見えているというのに。

「小娘、悪いことは言わん。北条仁とは別れろ。俺たちも酔狂でこんな仕事してるわけじゃないからな、忠告も大事な義務だって思ってるんだよ。遠からず北条東吾は切り込むぞ。東吾が死んだら、お前の恋人は黙ってるわけにゃいくまい」
「古塚さん」
 真は美和の不満と不安と怒りが最大限に混在した目を見つめたまま、古塚に話しかけた。
「彼女には、警察に絡まれるような事情は何もないはずだ。今日は引き上げてください」

「相川、俺はな、お前のことだって心配してんだぞ。こんなくそったれの街で、ヤクザのビルで調査事務所なんかやってんのは正気の沙汰とは思えねぇ。聞きゃあ、お前、あの名瀬弁護士のお気に入りらしいじゃないか。悪いこたぁ言わねぇ。さっさと名瀬先生様に泣きついて、こんな街から出て行け。前原だって心配してたぞ。ま、向こうは俺と違って親の七光りもきらきらの、立派なキャリアだけどよ」
 前原こそは真の高校の先輩で、その父親も警視庁のキャリアだ。前原自身は捜査一課の刑事など似合わない雰囲気の男で、高校生の頃から温厚な平和主義者だった。だが頭の切れる先輩だったし、策士の一面も持ち合わせていたので、後方で分析をしたりシステムを動かしたりということなら、その才能を余すことなく発揮するだろう。

「ご忠告は有り難いと思ってます。でも、北条さんは彼女にも俺にも、被害が及ばないようにと思ってくれてる」
「すっかりヤクザに骨抜きにされやがって」古塚は吐き捨てるように言ってから、少しは心配そうな気配を滲ませて先を続けた。「北条東吾や息子がどう思ってようと、相手はそうは思わんぞ。お前だって分かってるだろうに」
 古塚は鼻で息を吐くと、もう何度も繰り返している問答の結果など分かっているかのように、結局長居を諦め、事務所を出て行きかけた。
「だが、もしも北条の息子が何かやらかして、お前らが匿ったりなんぞしたら容赦はしねぇぞ」
 美和が何かを言い返そうとしたのを真は制して、古塚のためにドアを開けた。古塚はひと睨みしてから出て行った。

「もう、むかつくったらありゃしない。始めっからこっちを犯罪者扱いよ。警察が冤罪事件を生んできたわけがよく分かるわ」
 真は美和を窘めるように軽く腕に触れ、コーヒーを頼んだ。美和は何かを言いかけて、唇を引き結び、それから奥の小さな炊事場に消えた。
 真は美和を見送ってから、デスクに置かれた手紙を確認した。名瀬弁護士事務所からの支払い証明、エアコンのダイレクトメール、ローン会社の宣伝、少し前に探し出した失踪人の調査に対する礼状、それにもう一通、やたらと大きな封筒が残されていた。
 真がその封筒を開けたとき、丁度美和がコーヒーを持って来てくれた。

 封筒から出てきたのは一冊の本だった。今日は開ける封筒に本が入っている確率が高い一日だと思った。
 不思議な本だった。大きさや装丁からすると、絵本の類なのだろうか。
「ゴッホの星月夜みたいな絵」
 美和が表紙を見て言った。濃く青い海のような空に星が渦巻くように光を放ち、樹氷の林に照り返る景色、その木々の足下に広がるのは雪原だろうか。雪原は黄金に染まり、番いの鶴が啼き交わすように嘴を高く突き上げている。

『天の海 月に帰る船』
 タイトルが黄金の涙のような色で青い空の中に書かれている。その絵を見ていると、デジャヴのような不思議な感情が湧き上がってくる心地がした。
 美和がコーヒーを机に置いて、封筒の裏を見た。どこから送られてきたのか興味を覚えたのだろう。
 池内暁。
「知ってる人?」
 真は首を横に振った。封筒には本以外の何も入っていない。差出人の住所はなかったが、消印は都内のものだった。

「あれ」美和が絵本の表紙を見て言った。「その作家さん、知ってる」
 雪原の暗い黄色の中に沈むような黒で書かれた名前は、『文 神路月』。その下に『絵 アンーチュプ コロ アフプーコロポ』と書かれている。
 アイヌ語だ。
「若くて美人の童話作家さんだよ。私も全部読んだけど、その本は知らないなぁ。新作かな」

 真がぼんやりと表紙を見つめていると、美和が何かを思い出したように、資料が山積みになっている奥の部屋に行って、一冊の雑誌を持って戻ってきた。その雑誌を真に差し出す。
 美和は大学を卒業して大学院生になっていた。ジャーナリズムを学んでいたが、その研究テーマは写真が社会に残してきたインパクトについてで、正確なテーマは真の知らない単語が並んでいるので、真面目に聞いたことがない。

 彼女は大学院の試験を受けるとき、山口に帰ってこいという実家からの催促や、生活のあり方を決定してしまうかもしれない就職に対して、猶予期間が欲しかったのだと言った。その時、彼女はあえて北条仁の名前は出さなかった。家族と完全に縁を切り、北条仁の女として生きていくということは、もう引き返せない場所に向かうということだ。美和は出来る限り平静を装っているが、常識的に考えたら、迷って当然だった。

 真が以前の同居人とローマで過ごしている間に、美和と仁が蜜月とも言える時期を過ごしていたことは聞いていた。しかし、その間にも美和にはまだ大学生としての生活や義務があり、それが美和にもう一度考え直す時間を与えてしまったのだろう。そして、北条仁も、美和の将来を安泰なものにしてやりたいと願わずにはいられなかったに違いない。
 以前より短くなった髪は、美和に似合っていた。

「十代の女の子にとってカリスマ童話作家、っていうのかな、ちょっとアイドル的存在でもあるの。童話っていうよりもティーン向けの小説、って言うほうが正しい気はするけど、内容としては大人が読んでも十分に楽しめると思う。随分前からマニアックなファンはいたけど、そもそも作家って、テレビにでも出ない限り、広く一般に知られているってこと、あんまりないでしょ。でも、彼女はこの雑誌をきっかけに結構名前を知られるようになったの」
 半年ほど前の、十代の女の子向けのファッション雑誌だった。

 表紙にはいかにもモデル、という顔立ちのすっきりした顎を持った若い女性が、ポンチョのように裾の開いた腰まである淡い桜色のブラウスに、細く黒いパンツを履いて、右肩を少し前に出して向こうから歩いてきたようなポーズで立っていた。切りそろえられた長い黒髪は、演出なのだろうが、風で広がって重力とは関係のない位置に踊っている。
 印象的なのは、濃い眉だった。その眉に比べると、目も鼻も唇も、決して地味なわけではないのに、あと付けされたもののように記憶に残らない。美人というのではないが、一度見たら忘れない、印象に残る顔だった。

 しかし、先に真の目を引いたのは、桜色のふわりとしたブラウスの裾の模様だった。
 それはアイヌの文様だった。女たちが刺繍する文様は、様々な意味合いを持つ。その衣装を身に付ける者、恋人や夫を守るためのものだった。袖口や裾、襟口に文様を施すのは、そういう場所から悪霊が入り込むことを防ぐためのものだ。だが、この文様がファッション雑誌に取り上げられるような種類のものとは思えなかった。
 真はその作家の特集記事をめくってみたが、そこにはアイヌの文様に関する記述はなかった。

 神路月、というのはペンネームなのだろうが、本名に関する記載は何もない。生い立ちに関する記載もない。ただ、彼女が書いた物語についてと、気に入っている映画や本、化粧品や装飾品、家に飾っている雑貨の紹介だけだった。
 彼女の作品は、記事によれば七作あると言うが、美和の言うとおり、そこには今目の前にある『天の海 月に帰る船』という物語は含まれていなかった。とすれば、この半年の間に出版された本なのだろうか。

 何より、真の知らない池内暁なる人物が、真の知らない童話作家の絵本を送りつけてきたことが問題だった。本をぱらぱらとめくってみたが、手紙やメモの類も入っていない。幻想的な景色が描かれた表紙を見る限り、小学生程度の子ども向けの絵本を想像していたが、中のページをめくってみると文字が予想以上に多い。
 とりあえず、ざっと本の内容だけでも読んでみようか、もしかして何かの暗号でも隠れているのかも、と思ったとき、宝田三郎が戻ってきた。

 宝田はこのところ、朝の掃除を済ませると、高円寺の北条の家に日参しているようだった。それは、この大変な時にこそ、世話になっている仁の力になりたいという単純な気持ちだったのだろう。
 もともとヤクザになるのが希望で関西からこの街にやってきた宝田だったが、生来の気弱な性格のためヤクザには向かないと言われて、真の調査事務所で働いている。だが北条の家が混乱に巻き込まれようとしている時に、黙って知らん顔をするような薄情はできない、というのが宝田の理屈だったし、それについては真もどうとも意見することができなかった。

 宝田が高円寺と調査事務所を行ったり来たりすることが、結果的にこの事務所を危険に晒している可能性について、真は宝田に何か言うべきだったのかもしれない。だが、真とて、仁に対して知らん顔をすることなどできない立場にあった。いや、立場と言うよりも、ただ仁のことが心配なだけだったし、宝田も同じなのだ。
 宝田は、相変わらず現役を退いて筋肉が贅肉に変わってしまったプロレスラーのような身体で、しょんぼりと朝の挨拶をした。今日も仁に会えなかったのだろう。ふと美和を見ると、美和も宝田の様子を見て何かを察したのか、黙ってしまっていた。

 どうせここのところ開店休業状態でもあったし、明日、名瀬弁護士の事務所に行くまでは仕事も入ってこないだろうから、今日は美和と宝田を連れてどこかにドライブにでも出掛けるのがいいのかもしれない。
 真が口を開きかけたとき、電話が鳴った。美和が何かに救われたように表情を変えて、受話器を取る。始めはやたらと丁寧な口調で電話に答えていたが、幾らか曇った顔になって真に受話器を渡した。

「お久しぶりですね」
 美和の不快な表情の理由は直ぐにわかった。電話の相手は件の大東組の若頭、新圧龍和だった。
「さぞかし騒がしいことでしょう。鬼塚があなたの事務所に入って行ったと、うちの若い者から知らせがありましたので、陣中見舞いを兼ねて電話をさせて頂いたのですよ」
 言葉も丁寧だが、新圧は見かけも上品で、一見ヤクザには見えない。それでも古塚を鬼塚と言っているあたり、警察への警戒と恨みは積り積もっていることだろう。
「何か、御用でしょうか」

 ヤクザと付き合いたくて付き合っているわけではないが、結果として絡んでしまうことはなくもない。
 仁道組と大東組は敵対する掌紋を掲げているにも関わらず、大東組の三代目の真に対する覚えは、決して嬉しくないことに、大変にいいらしい。真が大東組の若い衆の人捜しを手伝ったからでもあるが、それはあくまでも犯罪に関わっていないという確信があったからだし、その条件下でなら依頼人が大企業の社長だろうとヤクザだろうと幼稚園児だろうと、一切差別なく仕事を受けるのが真の立場に違いなかった。それに大東組の三代目は、善し悪しは別にして、昔気質の昭和任侠伝を地で行っているような男だった。

「組長があなたにお会いしたいと言っておりましてね」
「この状態で僕が大東さんにお会いするというのは、もしも誰かが勘繰ったらとんでもないことだと思いますが」
「私も組長にそう言ったんですがね、何でも個人的に仕事を頼みたいのだと、人の命がかかっているかもしれないから、この状況下でも待てないのだということで」
「人の命?」
「今夜十時に銀座の『ポルト ネッラ ネッビア』でお待ちしております」
 真は思わず言葉にならない声を出しかけたが、新圧はあっさりと電話を切ってしまった。
 新圧が告げた会員制バーは、真が結婚前まで同居していた男の持ち物だった。

「どうして大東の新圧から電話がかかってきたりするわけ? もう、何が何だかわかんない」
 美和がこのところいらついているのはよくわかっていたし、美和の気持ちを思えば、いらいらするなとは簡単には言えなかった。
「個人的に仕事を頼みたいって」
 真が半分まで言いかけたところに、美和が言葉を被せた。
「冗談でしょ。平常ならまだしも、この開戦前夜とでもいうような状態で、仁道組の持ちビルにある調査事務所の所長が、大東組の若頭に呼び出されて会いに出掛けるなんてありえない。勘繰られたら、先生、巻き添え喰っちゃうよ。やめてよ」
 美和は混乱して半分叫んでいた。宝田の顔も険しかったが、真は二人をソファに座らせて、少し時間を置いてから、努めて冷静な声で言った。

「指定されたのは竹流の店だ。めったなことはないと思う」
 美和はしばらくの間、混乱したような顔のまま、真を睨んでいたが、そのうちに涙目になった。
「もう気が狂いそうだよ」叩きつけるように言ってから、美和は青い顔のまま息をついた。「自業自得っていうのか、ヤクザと付き合っちゃった自分が悪いんだけど、先生にもしものことがあったら爆発しちゃいそうだよ」
 美和もまた、このひと月近く仁に会えていないのだ。事情が目に見えず、説明もされず、俺を信じて北条の屋敷にいろとも言ってもらえない状況で、美和はまた混乱しているのだろう。この一週間ほど、美和のイラつきはエスカレートしていっているように見えていた。

「どうせ客も来ないだろうし、横浜にドライブにでも行って、中華街で昼ごはんにしようか」
 いつもなら食べ物の話題には食いついてくる美和と宝田だったが、今日は違っていた。
 美和は真を涙目のまま睨みつけ、宝田はとろんとした当てもない視線を向けてきただけだった。どうにも居心地が悪いのはやむを得なかったが、提案に賛成をもらえなかった真は、結局、コーヒーを飲み終えると出かけることにした。
 事務所を出掛けに、仁道組の見張りの男と視線だけで会釈を交わし、美和と宝田のことを頼んでおいた。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

tb 0 : cm 6   

【雪原の星月夜-2-】 第1章 月の船(2) 夫婦の問題 

【雪原の星月夜】2回目です。今回も長さは6200字あまり、偶然前回と同じくらいになりました。私のワンシーンに丁度いい長さなのかも? そして、今回は真の妻・舞が初登場です。今回は彼女自身の事も夫婦関係も、まだぼんやりとした輪郭しか描いていませんが、何となく雰囲気を掴んで頂けたら、と思います。
それにしても、ここから読み始めたら、真ってどんなに悪いやつ……って思われちゃうんだろうな。それでも、もう今更カッコイイ男に書き換えることはできませんし。

何というのか、壊れれば壊れるほど、深みにはまればはまるほど、そして穢れれば穢れるほど、透明になっていく。真というのはそういう人間かもなぁと、読み返してみて思っています。

ところで、舞はこう見えて結構料理は上手なんですよ。もちろんそれが理由で結婚したわけではありませんが、なぜか、真と一緒に住む相手は料理上手。竹流(料理は趣味。ついでにレストランのオーナー)、妹・葉子ちゃん(竹流が料理の先生)、そして嫁。
一方で美和ちゃん(事務所の自称・秘書)はかなり自己流(というよりも爆発系?)、ついでに珠恵(竹流の≒嫁)も自分で料理はしないなぁ(芸妓だし、料理よりも大事な事があるし、和枝さんがいるし)。

【真シリーズについて】
【雪原の星月夜】の登場人物紹介はこちら→【雪原の星月夜】(真シリーズ)登場人物紹介
万が一、前作【海に落ちる雨】に挑戦したいと考えてくださる方は→左のカラム・カテゴリから選択してくださいね。
【海に落ちる雨】部分読みも可能
【海に落ちる雨】始章:竹流と真の生い立ち
【海に落ちる雨-52-】第9章 若葉のころ:真の中学生の頃。
【海に落ちる雨-59-】第11章 再び、若葉のころ:真が高校生の頃。
『若葉のころ』には真の学生時代が登場、今回の物語で登場する母校の院長(校長)先生や灯妙寺も少し登場。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(2) 夫婦の問題
 

 車に乗ったまま灯妙寺の古い門を潜ると、高々塀一枚の力ながら、突然に外界の喧騒から切り離される。
 十メートルほども進むと、十台ばかり車が停められるようになった野晒しの砂利敷きの駐車スペースがある。その隅の、高い木々に覆われた場所に真は車を停めた。今日は若住職の車も出ているし、住職の原付もなかった。来客の車もない。年末が近いだけに、誰も彼も忙しいのだろう。

 エンジンを止めた後も、真はまだしばらく車の中に座っていた。フロントガラスに枯葉が音もなく落ちて、一度何かを確かめるように留まり、やはり音のない風に煽られて舞い上がって消えた。
 どうにも靄が晴れないまま、真は煙草に火をつけた。
 一体、どういうことだろう。『宇宙力学論』は父の本ではなく、失踪した伯父の本だった。それにまさにあれは伯父の本だ。伯父が彼の本に入れていた印、丁寧に描かれたオリオン座の印は、そのマニアックなほどに正確な星の位置関係も含めて、確かに伯父の描いたものだった。

 伯父、相川功は、真が中学生の時に失踪している。そしてあの本は、伯父と一緒に消えてしまっていたはずだった。
 恐ろしくて確かめたことはなかったが、伯父は、真の父親の仕事のことで何か事件に巻き込まれて亡くなっているのではないかと、真は思っていた。
 伯父が死んだと思うことは救いでもあった。彼がこの世にいないと想像する悲しみよりも、生きているのに自分たちのところに帰ってきてくれないのなら、その方がずっと辛いからだった。
 少なくとも、功が生きていて日本国内にいたのなら、十五年も真や葉子に気配ひとつ見せないなんてことはないはずだ。

 伯父ではないとして、あの行旅死亡人、つまり身元不明の無縁死に至った人物が、同姓同名ではなく、本当に実父の相川武史である可能性があるだのだろうか。だが、彼が帰国しているという話は聞いていないし、もし本当に「相川武史」なら、前内閣調査室長代理の『河本』には本人確認が可能だ。
 真は、フロントガラスに遮られて行き場を失う紫煙をぼんやりと見つめていた。

 それにしても、『河本』は何故こんな回りくどい方法で真にこのことを知らせる必要があったのか。つまり、『河本』はそれが彼の知っている「相川武史」ではないことを確認済みなのだろう。
 もちろん、福嶋の言うとおり、単に釘を刺されたということは十分に考えられた。
『河本』は、真が「イタリアンマフィア」の跡継ぎ息子と別れて、少なくとも真っ当に結婚したことについて、彼なりに満足しているはずだった。それなのに、何を思って、裏社会の権力者の一人と言われる福嶋鋼三郎と会っているのか、もちろんただ会っているわけではないことまでも含めて、とんでもなく気に入らないということを真に示したいだけなのかもしれない。

 伯父の本のことは気になった。だが、『河本』がぶら下げた餌にほいほいと食いつくのは我慢がならないような気がした。
 真は煙草を消した。車のドアを開けた途端、身体に冷やりと外気が纏わりつく。
 踏みしめる砂利がたてる音も、心なしか硬い。後ろめたい思いがそうさせるのか、何となく母屋には近づき難く、敷地の隅を辿りながら離れへ足を向けた。

 新婚生活は相川の家で始めたが、妻の流産をきっかけに灯妙寺の離れに移り住んだ。
 家賃は入れているが格安で、半分居候のようなものだ。住職は、時々子供たちに剣道を教える手伝いをしてくれたらそれでいいと言っている。ここに住み始めてまだ三ヶ月と経っていないが、もともと灯妙寺は、真にとって東京で心から安心して過ごすことができる数少ない場所のひとつだった。

 今、真と妻の舞が借りて住んでいる離れは、真が高校生の頃には、北海道の祖父母が借りていて、東京に来るときはここを住まいにしていた処だ。真も妹の葉子もこの離れを気に入っていたし、あの頃の真は多分、これまでの一生のうちで最も幸福な時を過ごしていたはずだった。
 だが、あれから十年以上経ってここに移り住んでから、改めて、真は自分があの時ほどには幸福ではないことを思い知った。
 自分の心にも身体にも沁みついている明らかな喪失感が何に因るのかは、真自身が最もよく分かっていた。そしてこの漠然とした不安に、妻が気が付かないでいるわけがない。

 離れの建物は木造二階建てで、L字型の内に折れ込んだ部分を、大きな楡の木に靠れ掛かるように預けていた。
 一階には玄関から続く次の間、台所とダイニング、小さな居間が玄関から庭に面して続く縁側に並び、L字に曲がった向こうに小さな座敷兼茶室があった。手洗いは離れの脇にもあったが、風呂は母屋に続く本堂の裏手で、母屋の人たちと共用だった。
 二階には和室が二つ並んでいる。まるで昔の旅籠の続き部屋のようにあっさりとした何もない部屋で、そのひとつを夫婦は寝室にしていた。
 その部屋で、妻の傍らで、真はいつも夢を見ていた。失ってしまった手がそこにあって、背中から冷たい身体を抱きしめてくれる夢を。

 小さな庭は梅の林に向かい合っている。春を告げる梅の仄かな香りは、無骨な真にとってさえ、早春の一番の楽しみで、まだ蕾さえはっきりしないのに、今からもう待ち遠しく思えた。
 そのL字に包み込まれた小さな庭に面した縁側に、六つ年下の妻が所在なさそうに座っていた。

 時々、真は自分がこの女を愛していると思い、時には疑っていると思い、そしてまた時には憎んでいるようにも思った。もし憎んでいるのだとしても、彼女に原因があるわけではなかった。理由を説明しろと言われても、明瞭に言葉で表すことはできない。それに、真以上に、彼女の方が真を憎んでいるかも知れない。

 舞はこの寒空をまるで気にするようでもなく、素足に履いたつっかけを、組んだ足の先でぶらぶらさせていた。
 足首が見える丈の履き古したジーンズに、白い長袖のTシャツ、その上にダウンジャケットを羽織っただけの格好で、膝に頬杖をついた右手に煙草を持っている。子どもを流産してから、止めていた煙草をまた吸っているようだが、それはたいてい夫への抗議のためなのだ。

 舞は真に気が付いてちらっと視線を向けたが、興味がなさそうにまた梅の木の方を見る。
 少女の頃はきつい化粧をしていたから、随分と大人に見えていたが、化粧をしていない彼女は幼く見える。長かった髪を、子どもを亡くした病院を退院した時に切ってしまったので、一見したところ、高校生に戻ったようだ。だが、その中で目だけは相変わらず強い光を宿しているのだった。
 彼女の長い髪を、真は気に入っていたような気がする。少なくとも出会った頃はそうだった。彼女が真に何も告げずにその髪を切ってしまったことについて、真はいくらか腹を立てたような気もするし、一方で自分が何か言える立場ではないという疎外感も覚えていた。

 退院し新しい住まいにやって来た舞は、亡くした子どものためだけではなく、他にも何かを弔うように、切った髪の一部を小さな白い陶器の入れ物に入れて鏡台の隅に置いていた。それは骨壺のようだった。
 そんなことをするような可愛げのある女には思えないが、それは真への抗議の手段のひとつなのか、それを見るたびに、真はこの女を哀れにも思い、一方で背中が冷たくなるような気もした。真と妻の最初の子どもは、もう性別も分かっていたのに、この世に生まれてくることはできずに、病院からの廃棄物として捨てられたのだった。

「電話もかけずに済まない。昨夜は遅くなったんで、もう寝てるかと思って」
 声が傷んだ咽喉から掠れて零れた。舞は夫のいいわけが終わるのを待たずに言葉をかぶせてきた。
「ご飯は?」
 出会った頃の乱暴な言葉遣いはいくらか矯正されていたが、それでもずいぶん棘がある。もっとも、後ろめたい気持ちが、真の聴覚機能に影響しているだけかもしれない。だいたい、妻がもう寝てるかもしれないから気を遣って昨夜は家に帰らなかった、などといういいわけが通用するはずもない。

 舞が朝食のことを聞いたのは、別に朝帰りをした夫に腹を立てているからではないのだろう。もちろん、夫を気遣ったわけでもない。ただ食事を作るという手続きが必要かどうか、それを確かめただけなのだ。
「顔を見に戻っただけなんだ」
 その時、舞は少しだけ不満な顔をしたように見えた。いや、不満なのか不安なのか、それすらも区別がつかなくなっている。そもそも、もともと口数の少ない夫が、妻を思いやるような言葉をかける時、下心がないなどと言えるだろうか。

 真は、でも少しなら事務所に出るのが遅くなってもいいか、と呟くように付け加えた。そして、自分がこの女の前で時折饒舌になるのは(あくまでも自分勝手な基準で)、後ろめたさ以外の何ものでもないと思った。
 舞は無表情のまま突っかけを沓脱ぎ石に脱ぎ捨てて、家の中に入っていった。突っかけは、ひとつは表を向いていたが、ひとつは裏返しになりかけの中途で妙なバランスのまま転がった。真はそれを揃えて、縁側からそのまま家の中に上がりかけた。

 不意に、耳元に何かが触れたような気がして振り返る。
 空には残月が白く浮かんでいた。霞んでうら寂しい白みがかった朝の青の中に、輪郭を溶け込ませた月が、微かにその存在を記している。台所の奥からガスコンロが点いた音、そして水道の音が重なる。
 縁側と居間を仕切るガラス障子は開け放しになったままだった。真は炬燵に足を入れて、座卓の上の新聞を取り上げた。視線だけで記事をなぞっていきながら、文字のひとつひとつを全く理解していない自分に気が付いたが、そのまま字面を追い続けた。

 包丁を動かすリズミカルで小気味よい音が鼓膜を震わせている。
 舞はもともと新宿のある店を中心に番を張っていたような少女だったが、あの頃から意外に包丁遣いは上手かった。それを指摘したら、刃物を使い慣れてるって言いたいのかと怖い顔で反撃された。そんなつもりではなかったので、そういう考えもあるか、と思って感心していたら、ずっと男に飯を作ってやってたからだと吐き捨てるように言った。

 彼女の言う男というのは、一人目は育ての親、それから彼女を利用し孕ませて捨てたろくでもない男のことだ。どちらも彼女に性的な暴力を振るっていたと言っていい。
 真が彼女と初めて出会ったのは彼女がまだ十七の時で、実の親が彼女を探しているからだったが、その時から大人の女のような振る舞いをする一方で、非常に幼く、感情をコントロールできない面を表に出すこともあった。

 どこか自分に似ていると思ったが、その時から彼女には真に最も欠けているものが備わっていた。
 生きることへの執着だ。自分をぼろぼろにして捨てたといい気分になっている連中に、いつか復讐してやる、飄々と生き抜いている姿を見せて、必ずあいつらをみんな足下に踏みつけてやると、そう思っているのだ。

 やがて包丁の音が止む。その時、閉めずに放っていたガラス障子の向こうの高い空を、鳥が横切った。その影や羽音を認識できるほどに、あたりは清明で静かだった。
 静けさは、身体のうちに鉛のように降り積もった痛みや悲しみを増幅させる。
 つい数時間前まで、福嶋をこの身体のうちに受け入れて、一晩中喘がされていたなどとは、到底自分でも思えなかった。身体は生物とは思えない傷み方をしているはずなのに、意外にも頑丈な本質があるのか、冷静でさえいれば醜態を露呈することなく妻と同じ空間にいることができる。
 俺は多重人格の一歩手前だな、と思うが、あるいは人というのは誰しもそんな要素を持っているのかも知れない。

 味噌汁と白御飯、焼き魚と茄子の漬物、わけぎのぬた和えを並べながら、舞が尋ねた。
「風邪、引いたのか」
 真は思わず身体が強張ったような気がしたが、次の瞬間にはすでに平静だった。己の罪を隠そうとする時、人は臆病になるか、あるいは極めてずうずうしくなるのか、どちらかなのだろう。
「ひと晩中歩き回っていたからかな」
 言葉を発したときには、真自身もその言葉が事実であると思い込むほどに、声には震えがなかった。

 犯罪や調査に関わる仕事をしている男や、医療に携わっている男というのは便利な言い訳を持っている。依頼者や患者のプライバシーを守る義務がある故に、一晩帰らなくても家族に詳しい話をしなくても構わないという前提があるのだ。舞も、何も聞いてこなかったが、たぶん夫のことを信じているからではないだろう。

 再会したのは、思わぬきっかけからだったが、その時、いずれ夫婦となる二人にはそれぞれ異なった事情があった。俗っぽく言うと、夫婦の間には始めから距離があったのだ。その距離は、子どもが生まれると分かった時に、もしかしたら真の思い込みだったのかもしれないが、消えないまでも明らかに小さくなった気がした。
 傍目には、愛し合っている仲の良い夫婦に見えていたことだろう。

 舞は風邪薬を出してきて、水の入ったコップを添えて座卓に置いた。幾分乱暴に置かれたコップの中で、水が波を作った。
 真は礼を言って、風邪ではないだろうと知りつつも薬を飲んだ。座卓の上の食器を片付ける妻の手に、真と同じ結婚指輪が曖昧な光を跳ね返している。

 一体この世のどれほどの夫婦が、確かな愛情を持って結婚に踏み切るのだろう。自分自身を考えても、夫婦というものは何を礎に成り立っている関係なのか、ただ不安に思う。いや、夫婦だけではない。人と人は一体何を信じて繋がっていればいいのだろう。あれほどにまで確かだと思っていた絆でさえ、継ぎとめることができなかった。
 この女は俺と結婚して満足なんだろうか。そもそもどうして結婚を決心したのだろう。俺を愛しているわけではないのに。

 真は舞の手を摑んだ。舞は不思議そうな顔で真を見た。脳はまだアドレナリンを持て余しているのだ。真は唐突に舞の身体を抱き寄せ、床に押し倒しジーンズの上から大腿を弄った。唇を求めながらジーンズのホックを外そうとすると、舞が思い切りかぶりを振って抵抗した。
「何すんだよ」
 舞は、今でも時々、夫に対してどういう言葉で話しかけるべきか、迷っているように見えるが、こういう時は昔の素の自分が出てしまうのだろう。

 もちろんとげとげしい会話が日常というわけではない。それでも確かに愛し合っていると思える瞬間はこれまで幾つもあった。今でさえ、夫婦は時々お互いへの隠された愛情を思い出したような会話を交わすこともある。子どもができると分かった時に、真はこの女と夫婦になってよかったと確かに思っていた。
 子どもを失った夫婦は不幸であることは間違いないが、子どもの不在が夫婦の良し悪しを決めるものではない。子どもを持てなかった夫婦の縁や愛情が薄いわけでもないだろう。

 それでも、真は自分がこれまでに犯してきたとてつもない罪が、あるいは人殺しの血が、子どもの命と引き換えにされたのではないかと感じていた。己の心を押し隠してこの女を妻にしたことが審判されて、子どもの命を代償にされたのだとしたら、いや、あるいは真はあの失った記憶の断裂の間で、本当ならもうこの世から失われている存在であり、己の遺伝子を残すことなどあり得ないのかもしれない。

 全てを、失った子どものせいにするのは間違っている。だが、子どもを失ってから、舞とは夜の営みを一度としてしたことがなかった。何より、子どもを失うことで、後ろめたい思いを抱えることになった。どこかで、今なら引き返せるのではないかと思っている。その真の秘めた想いがあの子どもを殺したに違いない。
「寝不足で、ちょっと興奮気味なんだ。すまない」
 本当は謝ってしまわないほうが良かったのだろう。真が舞の身体を抱き起こすと、彼女はするりとその腕から逃れていった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

tb 0 : cm 6   

【石紀行】46.和歌山新宮・ゴトビキ岩~熊野信仰発祥の地~ 

ゴトビキ岩8
ゴトビキ、というのはヒキガエルのこと。この岩の形がカエルに見える、といわれてみればそんな気もしますが、微妙? 上に乗っかった岩が見えると、確かにそう見えなくもないかな。
ここは和歌山県新宮市、神倉神社です。
この岩が初めて記録に登場するのは『日本書紀』。イワレビコ(磐余彦、のちの神武天皇)が東征中、もともとは難波から大和国に入ろうとしたのをナガスネビコの反撃にあい、その後、熊野から大和国に入った時の記述の中に出てくるのです。
「熊野の神邑に到り、即ち天磐盾に登る」……神邑は神倉山一帯の集落、そしてこの「天磐盾」こそゴトビキ岩で、即ち神武天皇が初めて紀伊半島に入った地ということなのです。現在では熊野三山のひとつ、熊野速玉神社の摂社ですが、御由緒では熊野の神が最初に降臨した場所がこのゴトビキ岩ということになっています。
つまり熊野信仰の発祥の地といっていいのですね。

まずは熊野速玉神社の神さまにご挨拶に伺いましょう。
熊野速玉神社1
以前、熊野に来たときは、余り時間が無くて本宮にしかお参りしなかった不埒な私でしたが、ようやく不義理の半分をお詫びできました。那智は子どもの頃行ったきりだから、こちらはまだ不義理中。
熊野速玉神社2
こちらにはご神木の梛の木(ナギ)があって、お守りにもナギの葉っぱの形を模してあったり、実が使われていたりします。そのナギの木がこちら。
ナギの木
(limeさん、お庭に植えたナギの木が育たなくて良かったかも^^; そういえば昔、「この木何の木、気になる木」で有名な木の苗を通販で売ってて、注意書きに「直径30メートルになります」って書いてあった……小さい字で。)

ゴトビキ岩を祀る神倉神社は速玉神社から少し離れています。住宅地の中を進んでいって、小さな駐車場に車を停めると、結界のような小さな橋を渡ります。橋の脇には立て看板。
「高齢の方、足腰のバランスの悪い方、飲酒している方、小さい子どもを連れた方は絶対に登らないこと。」
「階段の端は絶対に歩かないこと。バランスを崩すと大怪我をしますので、必ず真ん中を通ってください。」
などなど。え~っと、高齢の方って、うちの母も入りますかね? そう言えば鳥居の近くのベンチに近所の人っぽい人たちが座っていて、むっちゃ心配そうに声をかけてくださいました。
神倉神社鳥居
鳥居から階段を見上げます。説明によると538段。かなり変形した階段なので、何段と言っても正しいのかどうかよく分からないんですが、源頼朝が寄進したという鎌倉造りの石段です。
神倉神社階段
「鳥居から見えてる部分がしんどいけれど、あのカーブ越えたら、たいしたことないから」と言われましたが……
地元の人っぽい、毎日登ってるよ風のおじちゃん(おじいちゃん?)たちが軽装でひょいひょい登る中、母と私はゆっくり。でものぼりながら思ったのは、これ登るのは這ってでも登れるとして、降りるの怖くない?ってことでした。
神倉神社階段2
写真の撮りようで大げさに見えるかも知れませんが、まさにこんな階段なのです。
神倉神社階段4
カーブを曲がったら確かに多少ましになりますが、いや、それでも十分気合いの要る階段が続きます。距離にしたら200メートルくらいだそうですが、ヒキガエルくんに会うのは骨が折れます。
たどり着いた
それでも、最後の方は「まだあるのかも」という不安を一気に払いのけて、無事にたどり着きました。鳥居を潜ると岩の脇を細い道があって、その先が開けて見えています。
ゴトビキ岩へ
これを見ると、ゴトビキ岩だけがぽつんとあるのではなく、そもそも山自体が岩だということが分かります。
ゴトビキ岩2
足元の岩盤となっている岩の方が大きいので、このアングルから見上げるとゴトビキ岩さえ小さく見える。でも、見上げても「ヒキガエル?」と首を傾げちゃいました。
それにしても見事な陽石。磐座は陽石(男性)と陰石(女性)の対になっていることがよくあるのですが、やはり、近くにある花の窟神社(次回ご案内)を陰石と見なして、こちらを陽石と見立てる説もあるようです。
ゴトビキ岩5
どんなアングルから写真に収めたらいいのか迷いながら撮っています。
ゴトビキ岩1
この見えている岩は高さ8メートル。
熊野灘を見下ろす
社殿の前から見下ろすと、新宮市の街とその向こうに熊野灘が見えています。やはり、海からこの岩が見えるのですね。噂によると、海から見たら後ろに那智の滝が見えるんだとか。海から見てみたい。
ゴトビキ岩4
アップでもう1枚。接写すると足場の関係で近すぎて上手く撮れないので、少し望遠で。別アングルから見上げると、実はこの岩の上にもうひとつ載っているのが見えます。
ゴトビキ岩7
2段構えの岩なのですね。上の高さは3メートル。でも全体像はよく分かりません。もう少しいいアングルで見たら、確かにヒキガエルかも。
ゴトビキ岩3
階段の脇からゴトビキ岩の手前の方へ引き返します。岩の裏手に近づこうと岩盤の上を歩いてみると。
ゴトビキ岩の後ろ
真ん中辺りに写っている木の右手になにやら薄暗い場所が。近づいてみると。
神の窟
自然の岩の祠がありました。ゴトビキ岩が陽石で、こちらが陰に当たる部分ともとれるように思いましたが、社殿がなかった昔には、ここが祈りを捧げる場所だったかもしれません。
神の窟2
奥の方に小さな真っ白い石が、依代として祀られていました。まさに神さまの窟です。
ゴトビキ岩の手前
岩盤を降りてきました。こうしてみるとたいしたことが無いように見えますが、これが結構(年配者には)足場の悪い岩登りです。
神倉神社の御祭神は天照大神とタカクラジ(高倉下命)。タカクラジは神武の戦いを助けた神ですが、そもそもは神武以前の大和を治めていたニギハヤヒの弟ということになっているようなので、実は寝返り組?

さて、問題はあの階段を下ることなのですが……地元の方とおぼしき参拝客が何人か登ってきておられたのですが、高齢の母を見て「帰りは女坂のほうへ回ったらいいよ」と。
あの一番きつい部分を回避するルートがあるようです。で、行ってみたら……階段ではなく山道です。一部はなだらかなのですが、一部滑り降りるようなところもあり、それはそれで結構な斜面なのでした。

実は、あのものすごい階段を駆け下りる火祭り(2月6日の「御燈祭」)があるのだそう。松明を持った白装束の「のぼり子」さんたちが、上の鳥居=神門から一気に石段を駆け下りる……らしいけれど、聞くだけでも恐ろしい。けが人、出ないのかなぁ。

次は『花の窟神社』と『獅子岩』を訪れます。
(訪問日:2018/06/22)

Category: 石の紀行文(写真つき)

tb 0 : cm 6   

【雪原の星月夜-1-】 第1章 月の船(1) 行旅死亡人 

いよいよ連載開始です。初っぱなから18Rにするべきかもしれない内容なので、ご注意ください(中身はたいしたことはありませんが、誰と誰、という辺りにはかなり問題が^^;)。
さて、【海に落ちる雨】のあらすじをうまく書けたらいいのですが、とても書けそうにないので、事件の内容については割愛します。

【海に落ちる雨】事件後の大事なポイントは……
先の事件の際に、大和竹流は修復師として「神の手」と言われた右の手を負傷しています。それだけではなく精神的にも肉体的にもかなり痛めつけれたので、表向きは穏やかにしていますが内心では荒れ狂っているはず。
【海に落ちる雨】のラストで、相川真は竹流=ジョルジョの叔父、チェザーレ・ヴォルテラに雇われて、竹流と一緒にローマに向かうことになりました。竹流はその時点では、集中治療室から出て間もなく、退院を止められながらも、チェザーレがどうしてもローマに連れて帰るというので、真はボディガードとして雇われたわけです。
チェザーレの計画の中では、そのままジョルジョをローマに留め置いて(もちろん、彼はヴォルテラ家次期当主ですから)、真を側近に雇い続けるつもりだったのですが、あれやこれやあって、結局二人して東京に戻ってきました。その間の出来事は、また外伝などで書くかも知れませんし、本文中にもたまに出てくるかも。
【海に落ちる雨】の事件前から竹流と真は同棲していたのですが(恋愛関係ではなく、真が生活落伍者?で、当時危ない女と付き合っていて心中しかねなかったので、竹流が面倒を見ていた……そのままずるずる居候、という状態)、東京に戻ってからも一緒に住んでいました。ただ、精神的に荒れていた竹流は、ちょっと暴力的になっていて、最終的に二人は同居を解消(もっとも真は殺されてもいいと思っていた)。

さて、相川調査事務所は、浮気調査もしますが、メインは失踪人調査です。下請けに使ってくれている名瀬弁護士事務所は企業の顧問弁護士なども請け負っている中堅事務所ですが、少年事件でも有名です。
今回の事件は、まさに相川調査事務所の真骨頂? 失踪事件の調査を頼まれたのですが、きな臭い連中の姿が見え隠れし、また真自身の過去にも関わりを示すような事実が重なり、素直に受けることが出来ません。
例のごとく、おっちゃんたち、大活躍。まずは、真の伯父・失踪している相川功の過去について、真の知らない事実が明らかに。また、真にとって味方なのか敵なのか分からないおっちゃん、真の実父と若い頃先輩後輩関係だったいかにも役人という香月(真には河本という偽名を使っていた)、前回の事件で真を使って邪魔者を消そうとしていたかも知れない裏社会の住人・福嶋鋼三郎、功の親友だった循環器内科医・斉藤宗彦、などなど。

タイトルはまだ仮題なのですが、もうこのまま行くかもしれません。「星月夜」というのは、星が月夜のように明るく瞬いている夜、のこと。クライマックスの舞台は真の故郷の浦河町~襟裳岬~阿寒湖。行方不明の若い女性童話作家を探す旅の行方は?

以前にも書きましたように、この物語にはいわゆる「本歌」があります。渡辺淳一『阿寒に果つ』……多分、あの時代、私にとっての「先輩・先生」たちの世代が経験した学生運動などが吹き荒れていた熱い時代、その残り香が感じられる物語ですが、今の世代の人たちにはどう映るのでしょうか。
ちなみに、このシリーズ自体にも本歌があって、それはアンデルセンの『人魚姫』と『源氏物語』を足して2で割った感じ?(え?)

最近何かと話題の文字数について。今回は6200字あまり。もう少し短くしてもいいのですが、私の文章の性格上、ワンシーンを途中で切るとかなり間抜けな内容になるので、とりあえずこのくらいでアップしていこうかなと思います。あ、でも、ワンシーンが短いときは短めにしてみます。
ちなみに短編の時はもっと長くても一気にアップしちゃっていますが……どうなのかなぁ。代わりに栞代わりのマーク入れてみたり。コメントを毎回丁寧にくださる人もいるので、それはもうまとめてでいいよ、って気持ちもあったり。



【雪原の星月夜・第1節】 第1章 月の船
(1) 行旅死亡人
 18R

 天井は重厚な深い茶色の木材が組み合わされていて、時代がかったシャンデリアの光を吸収して震えている。
 幾つもの丸い輪が揺れながら、網膜から無防備になった脳に侵入してくるときには、これが現実なのか、それとも夢なのか、もうまるで分からなくなっていた。それでも、この部屋に入り、始めに天井を見た瞬間には、まだ前頭葉はまともに働いていたはずだ。
 狂っているな、と真は思っていた。

 この部屋に入ったのは何時だったか、何度目なのか、この身体が受け止めている重みは一体何なのか、一瞬だけ自分の存在を実存として受け止める隙があると、脳の片隅で僅かの時間、考えていた。だが、それは本当に一瞬に過ぎない。
 自分の身体が快楽に異常に素直だと理解したのは、まだ中学生の時だったように思う。こうした行為が、愛とか恋とかとは別の次元で成立するのだということを、真は自分の身体で自然に受け入れてしまっていたのだろう。それでも、どこかの時点までは、常識から外れないように上手く制御できていたはずだった。

 十代の頃、思春期独特の肥大した自分自身を持て余していたにしても、自分に関わる事象はそれほど多くはなかった。十代の始め、都会で生活しなければならないという現実とどうしても折り合えず、毎日が戦いだった時も、状況が好転した十代の半ばからも、学校、勉強、剣道、数少ない友人、少しばかり複雑だった家族、付き合っていた女の子、つまり自分の抱えきれる事象はせいぜいそれくらいだったのだ。
 だから深くその中へ没入した。生きているということがそれだけで、時には重く苦しくさえあったが、同時に、若い身体には乗り越えるための内なる力も与えられていたはずだった。

 あの頃、意志や思想や理屈を全て超えたところにある何かに、真は恐ろしいほど素直に反応する自分を持て余していた。
 それはいつも極めて身近なところにあった。多くの十代の若者にとって、時にあの世とこの世の敷居が簡単に低くなってしまう瞬間があるのだろうが、真にはひどく低い時が長く続き、それは今、もうあれから十年以上の時を経ても変わっていないような気がした。
 死も、性的に興奮する身体も、全てが単純な細胞の営みのひとつとして、真には制御できなくなる時がある。そう、快楽に溺れるとき、真の身体はあの時の恍惚を、いつもなぞっていたのだろう。

 十九の秋、浦河の崖から落ちた、あの瞬間の恍惚。
 真の記憶にある暗い溝だった。時々、真はあの日までの自分自身と、そして帯広の病院で意識を取り戻して以降の自分自身が、本当に繋がった一人の人間なのか、わからなくなる。身体にも記憶にも、確かに深い亀裂があった。
 思い出せないのだ。逆行性健忘だと説明を受けた。その言葉の本当の意味が、今もまだ理解できない。思い出せないのは、思い出してしまったら、今ここにある自分が誰かの夢の中でのみ存在する幻なのだということを、認めざるを得なくなるからかもしれない。
 この世にしがみついたのには確かに理由があった。だがそれが失われている今、この世に存在している理由が、また分からなくなっている。

 こうして身体の奥深くに他人の重みを受け入れ、自分自身を痛めつけている時だけ、この身体がこの世に留まっていることを実感できる。
 その時、真は鍵を掛けたはずの記憶の引き出しの前に立っている。そのイメージに、真は恐ろしく興奮していた。握りしめていた右手を開くと、そこに鍵がある。もう少しでその引き出しを開けることができる。あたりは真っ白で何の音もなく、ただ明るい靄に包まれている。真以外の生きているものの気配はない。いや、真自身の息遣いさえ聞こえない。真は鍵をゆっくりと鍵穴に差し込もうとする。

 イメージはいつもそこまでだった。咽喉が痛いのは喘いでいるからだと分かっていた。喘いでいる、という次元ではない。福嶋鋼三郎は、真が泣き叫んでいるという。真には記憶がないが、翌朝、いつもまともに声が出ないのは、福嶋の言うことが満更嘘ではないということなのだろう。
 朝、真はぼろぼろになっていた。何故殺してくれなかったのだろうといつも思っていた。その相手が福嶋なのかそうではないのかもよく分からない。呼吸はまともではなく、心臓の音も不規則であてにならなかった。天井にあるはずのシャンデリアの丸い灯りは網膜の上で揺れて、平衡感覚にまで影響し、胃が咽喉まで押し上げられたようになっていた。いや、視覚の異常ではなく、朝方になってもう一度深く沈められた福嶋の身体が、真の身体の中心を突きあがってきているからだった。

「兄さん」
 呼びかけられた時、確かに目を開けたつもりだったが、視野は僅かに明るくなっただけだった。
「ちょっと緩められんか。きつすぎるわ」
 福嶋の低い声は、その男の中心と接している深い部分から真の身体全体に伝播して、いつも真を狂わせた。緩めるどころか余計に相手を締め付ける。そして福嶋はその効果を分かっていて、わざと真を狂わせるような言葉を投げかけているのだろう。意識をすればするほど、相手を呑み込もうと締め付けてしまうのだ。

 福嶋が太い声で喘ぎ始める。そのまま身体の重みがのしかかってきた。厚い唇が真の鼻と薄めの唇を覆い尽くすようにして舌が絡み付いてくる。不快な臭いと何かとてつもない恐怖に身体を撫で回され、突き上げられ、探られていた。
 ふと、一瞬正気だと思った。正気のまま喘がされ、身体を開かれ、快楽に溺れていた。
 俺はやはり狂っている。意識がはっきりしてなお、たまらないほどの気持ちで相手にしがみついている。真は自分の手が福嶋のざらついた頬を弄っているのを視界の中に浮かべた。

 どこか頼る先を求めているのだ。その真の左手の薬指に、銀の指輪が暗い照明の中でゆらりと鈍い光を放っている。いつもなら指輪を外してこの部屋に入っていたのに、昨夜は何をとち狂っていたのかと考えていた。
 福嶋が真の手を取り、真の目を意地悪く見つめたまま、その指輪に厚い唇を押し当てた。
「二重の罪悪感やろ。わざと自分を追い込んでんのとちゃうんか」
 真は答えなかった。
 わしも年やな、と呟きながら福嶋がバスルームに消えた。一人きりで残されると、見上げる天井の焦げ茶色の板に映るシャンデリアは、いっそう異様にくっきりと輪郭を際立たせた。

 真はまだ硬いままの自分自身に手をやり、ゆっくりと扱いた。結婚指輪を見た瞬間に、恐ろしく興奮したような気がしたが、同時に急速に冷めたような気もした。だが、バスルームから水の音が伝わってくると、身体の中に燃え燻っている火がどうにも納まらなくなった。福嶋が戻ってくる前に、あともう一度だけ吐き出してしまいたかった。
 だが、一晩のうちに数え切れないほど達して疲れ果てた身体は、中途半端に快楽の行き着く先を探すだけで、昇りつめることはできなかった。

 福嶋はバスタオルを腰に巻きつけただけの姿で出てきたが、気が抜けたようになっている真を見て、呆れたような、蔑むような、あるいは哀れむような表情を一瞬浮かべた。何の意味も無い逢瀬でも、時を重ねるごとに同情や憐憫の気持ちが育っていくものなのだろうか。
 たとえば、夫婦の間でも。

 福嶋はサイドテーブルの煙草を取り上げ、銜えて火をつけると、魂が抜け出したままの真の唇に煙草を譲った。真は福嶋の指を添えられたまま煙をひとつ吸い込んで、そのまま煙草の替わりに触れた福嶋の唇を自分からも求めた。ついさっき自分自身が福嶋の口の中に放った残滓の味が絡みつく。真は福嶋の背中に腕を回してしがみつき、その背中に残る水滴の冷たさに震えた。
「嫁には仕事や、ゆうてるんか」
 真は答えなかった。福嶋がそんなことを聞いてくるとは思っていなかったので、答えを準備していなかったこともあるが、実際に、彼女に何か言い訳をしたのかどうか、思い出せなかったからだった。

 もっとも、夫が家の外で何をしているか、彼女が気にかけているのかどうかさえ、真には分からなかった。
「嫁とやるだけやったら満足でけへんのやろ。なぁ、兄さん、女は大事にしたらなあかん。せやけど、兄さんは狂いたいんや。もう今更、愛しい可愛いゆうてるような優しいセックスじゃ、何も感じんようになっとるんやろ」
 真はゆっくりと身体を起こし、福嶋の差し出した煙草を受け取った。
「いっぺん聞きたい、思てたんやけどな、なんで結婚なんてあほな真似したんや。あの男と別れたんは暴力に耐えられんかったんやとしても、あてつけに結婚したんやとしたら、相手も可哀相やろに」

 やはり真は答えなかった。別れたつもりはない、と言うべきだったのか、あるいは、ちゃんと妻を愛していると言うべきだったのか。少なくとも、福嶋は真と結婚した女がどういう夫婦関係を築いているか、知っているはずもなかった。
「まぁええわ。兄さんのプライベートに口を出すんはわしの主義に反するさかいな。ま、せやけど、そないに欲求不満なんやったら、わしがもっと適切な相手、世話したろか。安全で後腐れの無い、それでいて狂いまくっても構わん相手が必要やろ。わしもな、自分があんまりまともな人間やとは思てへんけど、セックスしながら相手を殴ったり、妙な道具使うたり縛り付けて犯すような変態ごっこは趣味とちゃうさかいな」

 福嶋の指が真の下顎を撫でた。
「今の兄さんがほんまに満足するんには、もっともっと無茶苦茶にされんとあかんのとちゃうんか。わしの言うてた通りやろ。それが兄さんの本性やて」
 真は福嶋の手から逃れて、煙草を二、三度吹かすと、直ぐに揉み消してベッドを出た。
 福嶋と寝た後はいつも起き上がれないほどになっていた。意志の力だけでどうにかできることなど多くはないということも、こうなってみて改めて思い知らされていた。それでも、真は崩れそうになる身体を何とか持ち上げていた。足の間を伝う粘液の感触に、一瞬叫びだしそうになったが、それも押さえ込んだ。意志はともかく、意地だけでも手離すまいと思っていた。

 熱めの湯温に設定したシャワーを浴びながら、真は壁に手をつき、腹の奥から込み上げてくる嘔気と闘った。身体の奥は既にとてつもなく汚らわしいはずなのに、もっと汚れなければ立っていられないような気がする時がある。何が不安なのか、不満なのかもよく分かっていない。分かりたくもなかった。
 意識が清明でいられる時間が、ある一定を超えると、あの引き出しを開けてしまうかもしれないと思っている。開けるときは終わりの時だ。だから、狂ってしまっていたい。

 真は、自分が舞の前では物分かりのいい夫を演じていることを知っていた。そしてまた、舞がそんな夫の秘密を何もかも知っているかもしれない、とも思っていた。具体的にではなくても、気配が分かっている、そういうことはあるに違いない。妻を愛おしいと思っていないわけではない。少なくともそう信じたい。
 だが、例えばゲイの男が自分の性癖を隠すために、それは他人の目からだけではなく自分の心からも隠すためかもしれないが、社会的には結婚という手続きを踏むのとは少し違っているような気がした。

 社会的になら隠すことは何もない。もう既に、周囲の人間たちは、真とあの男の間にあったことを知っていた。確かにひと時、狂うほどに求め合っていたし、ぼろぼろになって殺されてもいいと思い続けていた。他人の好奇の目など全く気にならなかった。
 真は何故自分が結婚という偽善を選んだのか、ある意味ではよく分かっていた。この結婚という事象に最も傷ついているのは真自身だった。少なくとも結婚という契約を結ぶに至る過程では、舞を愛しいと思っていたはずだが、彼女を愛しいと思うそのことで傷ついていた。その一方で、こうして時々会っては寝るような関係の相手が幾人かいる、そのことでも傷ついていた。
 だが、本当に傷ついている理由は、そのことではなかったのだ。

 もちろん偽善であり、卑怯でもあった。自分が卑怯者であることに傷つくほどには偽善者ではないからこそ、誰かに無茶苦茶にしてほしいと願っている。福嶋はそのことを知っているのだ。だが真がそう願えば願うほど、福嶋は言葉や態度とは裏腹に、優しい人間になっていく。もちろん、これは相対的な問題だった。真が傷つけて欲しいと願うほどには、福嶋は真を傷つけないというだけのことだ。決して、福嶋が本当に真に優しいというわけではない。

 部屋に戻ると、ガウンを着た福嶋が真をソファに誘った。
 真が無視をして着替えようとすると、福嶋は、もう今更急いで帰っても遅いやろ、と言った。真は結局言われるがままにソファに座り、スコッチを受け取った。福嶋は向かいのソファに大きな身体を預け、脚を組むとゆったりと煙草を吸った。
 真がスコッチをほんの少し、申し訳程度に口に含むのを見届けると、福嶋はテーブルに投げ出してあった大き目の茶封筒を、顎でさし示す。
 真は福嶋の顔を確かめ、訝しみながら茶封筒に手を伸ばした。

 定形外の茶封筒は厚みがあって、持ち上げた感触からは本だろうと思った。真は福嶋の顔を窺ったまま、封筒から本を出してみて、思わずその重みに震えた。
 ソ連の科学者が書いた『宇宙力学論』という古い本だった。
 福嶋は茶封筒の下に置かれた何かの記事のコピーも見るように促した。

 行旅死亡人。
 官報に載せられた身元不明の死亡者の欄には、ある男性の死亡報告が綴られていた。
 五十台後半、男性。自称、相川武史。職業、発見当時無職。死亡の状況、アパートの自室で餓死。所持品、作業用ズボン、作業用上衣、シャツ数枚、下着数枚、布団一式、本(訳本『宇宙力学論』)。

 わずか数行の中に押し込められた誰かの人生の終焉の報告には、明らかにあり得ない自称が貼り付けられていた。
 真は本の裏表紙をめくった。微かに震える指が支えた裏表紙の内側に、古い万年筆の青黒い跡。
 伯父は自分の本には小さな星座の印を入れていた。
「その本、見覚えあるんか」
 真は福嶋を睨んだ。
「何の真似ですか」

「兄さんがその本に見覚えがあるようやったら、連絡してきてくれ、ゆうて伝言をことづかっとるんや」
「どういう意味ですか」
「死人の名前には驚くわな。せやけど、名前ひとつなら偶然かもしれへん。けど、もしも兄さんがその本にも見覚えがある言うんやったら、偶然が二つ重なっとる。それはもう偶然ではあり得へんわな」
「伝言って……」
「せや、香月からや。兄さんの事務所に直接言うたれ、ゆうたんやけどな、香月の嫌がらせや。兄さんがわしんとこに来てることを知っとる、ゆうんを兄さんに分からせたいんやろ。香月らしい、嫌味なやり方や」

 真はしばらくの間、その本の裏表紙を見つめ、福嶋には分からないようにそっと星の印を撫でると、そのままテーブルの上に戻し、固い声で言った。
「知らない、と河本さんに伝えてください」
「なんや、興味ないんか。仮にも親父と同じ名前を自称しとった人間の死亡記事やで」
「あの人がどこかで野垂れ死にしようが、俺には関係のないことです。河本さんがうちの事務所に正式に仕事を依頼されるのであれば、受けないでもありませんが」

 福嶋は例の豪快な笑いを見せた。
「そらそうや。調査事務所にタダ仕事を押し付けるんはタチが悪いて、香月には言うといたるわ」
 真はソファから立ち上がり、脱ぎ散らかしていた服を身に付けた。その様子を福嶋が黙って見つめている、その凍りつくようで熱い視線を背中にずっと感じていた。
 震えていることを、福嶋が見咎めただろうと思いながらも、もう継ぐべき言葉はなかった。

Category: ☆雪原の星月夜 第1節

tb 0 : cm 10