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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 


あまり余裕がなくて、こんな参加の仕方をしてしまって済みません。しかも、締め切り破りになっていて済みません(。pω-。)
オリキャラオフ会の収集は、今回ではついていないので、まだ続くのですけれど、今回はひとまず、夕さんのscriviamo!参加作品ということでご容赦ください。
八少女夕さんのscriviamo! 2020

ピアニストたち共演ですが、メインキャラは初出しの女性ピアニストです。
背景ではなくて、容姿などのモデルの女性ピアニストはいます。彼女のステージ姿がかっこよすぎて、惚れ惚れしております。
でも、なんだか、豪華客船というシチュエーション、書きにくくなったなぁ。


先にちょっと近況を。
相変わらす咳喘息でステロイド吸入が続いている大海です。11月から4か月目。
最近の騒ぎを見ていて、どなたかがブログで「コロナより人間がコワい」と書いていたけれど、共感。
人前では、花粉症の人はハナもすすれないし、喘息の人(私含む)はこほんとも咳が出来ない。
そんなことしたら、なんか、刺されそうでコワい……
うちの職場では、扉ごとに置いてあった手指消毒用のアルコールが消えました。盗まれるので置いとけないと。
でも、いつもこのくらいインフルエンザに気をつけていたら、毎年3000人も死なないってことなんかもね。
改めて、冷静に、ウィルス感染症について考える機会になって欲しい。


誕生日に、いぶし銀の某ピアニストさんのリサイタル(なんと1列目!)のチケットを持っていたんだけれど、多分、中止かなぁと覚悟していたら、とりあえず今のところは開催予定であると。マスク着用、払い戻しして欲しい人は連絡を、もちろん風邪引いていたら来ないでね、などなど規制はありますが、有り難いこと。
でもピアニストさんが結構なお歳なので、心配……
5月のチョ・ソンジンウィークまでは何があっても生き延びる!


そして、今週、父が退院しました。まるまる1年入院していました。
脳梗塞、胆嚢炎から敗血症、胃瘻手術でもあれこれありましたが、そして右全麻痺ではありますが、意識はしっかりしてますし、発語に困難があるため半分くらい何言ってるか分からないけれど、まぁ、一応会話は成立するし、あの年齢でよく頑張りました。
認知症でもないし、でも麻痺のため嚥下がやっぱり厳しくて、胃瘻を選択したけれど、やっぱりあれこれ悩みますね。
今後は自宅介護で大変だと思いますが、とにかく、母が倒れないようにサポートすることにします。
まぁでも、最近、父を始め、病気を抱えながら生きている人たちをみながら、彼らからほんとに勇気をもらってるなぁと思うのです。


通勤距離が伸びたこと、父の病院、実家、お稽古、もろもろでこの1年の私の車の走行距離はびっくりすることになっており、ついこの間10万キロを越えたかと思ったら、あっという間にもう12万キロに近づいてきました。車のための預金がピアノに化けたので、買い換えを諦めていたけれど、ついに誕生日前日に、新車の納車とあいなりました。チリテレくん2号です。
通勤、三味線移動、実家に帰るあれこれで、あと最低10年は車ライフだろうから、もう1回買い替えることになるかどうかとか、逆算して、ここで買い換えを決心したのですが、なんと、初の赤い車! わはは~綺麗なお姉ちゃんが乗るべき色だわ\(//∇//)\
大事にしていた車なので乗りつぶそうかと思ったけれど、最近の車は10年経つと何より安全性が段違い。
しかも「乗りつぶすってのは、心臓移植しても乗り続ける覚悟がないと言えないことだ」と言われ、なるほど! うちの職場の人、例えが変ですが、気にしないで。車って、自分では制御できないから、やっぱりね……


というわけで、前置きが長くなりましたが、お楽しみいただけましたら幸いです。
あ、長いです
でも、締め切り破ってるので、一気にアップします☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

誰に何を弾かせるか、全部は書いてないので、そのへんのプログラムを考えるのも楽しいかも。
意外な組み合わせだったり。
実は最近、直感でこの曲好きと思ったら「ロ短調」か「ニ短調」。
ロ短調なんて、調性の性格は「不吉で悪魔的で最も暗い」だって(°_°)
まぁ、曲の中で調性はころころ変わるからね。
拓人担当ショパンのソナタ3番も、シンイチ担当のリストのソナタもロ短調^^;
どちらも難曲中の難曲。
シューベルト『さすらい人幻想曲』はこの間ソンジンくんのリサイタルで聴いて、胸に迫り来るものがあったのでした。

あ、ポールさん、あれこれ済みません(´∀`*;)ゞ
かの依頼人、とてつもない家の御曹司で、そうそうのことでは驚きもせず怒りもしませんが、唯一の弱点が……
もしや、紅女史に握られた弱みって……(=^..^=)ミャー
キグルミデカイネコトアソンデルハズカシイシャシンカモ
今回絡めなかったキャラさんたちとも次回、楽しく絡みたいと思います♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪



オリキャラオフ会2019・scriviamo ! 2020作品
【そして船は行く~方舟のピアニストたち~】


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
 実のところ、その程度のことは予想の範囲内だった。
 丁寧に報告してくれる美人探偵とその優秀な部下の顔を見ながら、俺は足元の痛みに耐えていた。何しろ、マコトのやつ、最近ツメをちゃんと切らせてくれないから、思い切り爪を立てられると、痛くて仕方が無いのだ。
 そう、マコトは今かなりご立腹だ。

 マコトにとって、この船で一番の楽しみは「高級カリカリ」なのだが、何しろ、この特別なカリカリの配給時間は午後1時から3時の2時間だけと決まっている。カリカリなのに作り置きしない、新鮮で栄養バランス抜群で、ねこまっしぐらな見事な味付けがしてある。
そして、その問題の3時まであと5分しかない。
「では、あたしたちは船の調査を続けます。遅くとも明朝には、続きのご報告もできると思います」
 ようやく話が切り上げられた。

 二人が出て行った後、俺とマコトは一瞬顔を見合わせ、高級カリカリを支給してくれるねこ食堂に向かって全速力で駆け出した。何しろ、無駄に広い船内、思い切り走ったところで間に合うかどうか、怪しいところだ。
 途中で知り合いの何人かに声をかけられたが、軽く手だけで挨拶をして、俺はマコトを追い掛ける。必死に走る仔猫と、それにもまして悲壮感の漂う飼い主。
 多分、奇妙な絵面に見えているだろう。
 でも、俺にとって最優先事項、そう、ここでマコトの信頼を失うわけにはいかないのだ。

 しかし、現実は甘くない。そうは問屋が卸さないとは、全くもって見事な言葉だ。
 無情にも、ねこ食堂にたどり着いたら、すでに高級カリカリ支給コーナーのシャッターは降りていた。
 マコトは明らかに泣きそうな顔になって、それから恨めしそうに俺を見た。
「いや、でもな、マコト、これは不可抗力というのか、なんというのか」

 そうだ、あの二人が報告に来た時に、報告書でいいからと断ったらよかったのだ。しかも、報告内容はある程度予測の範囲内だった。俺の知りたかったのは、この船がどんな装備をしているのか、というよりも何の目的かということだったのに、上手く伝えていなかった俺が悪かったのか……そう、彼らに落ち度があるわけじゃないのは分かっている。でも、俺はちょっと誰かに責任転嫁したい気分だったのだ。
 タケルのせいで、ぼくのカリカリが……
 マコトは明らかにそういう顔で俺を見ている。

「あの、もしかして、高級カリカリをもらいに来られました?」
 その時、何とも涼やかな声が後ろから聞えてきた。
 振り返ると、可愛らしいロシアンブルーの猫を抱いた、背が高い女性が立っていた。
 彼女は長いブルネットの髪をアップにまとめ、さっぱりとした黒いパンツスタイルで、敢えて女性らしさを排除しようとしているように見えた。だが、その試みは多分失敗しているのだ。彼女の知的な美しさに気がつくためには、0.1秒でも長すぎるくらいだった。

 ついつい、マッテオのように「もしかして以前どこかでお会いしましたか」から始めて口説き文句を並べてみたくなるが、その下心の火種さえ消してしまうような、何ものも寄せ付けない、凜とした高貴な雰囲気が、彼女の内側から匂い立っていた。
「実は、この子が今日の最後の客だったので、残っていた高級カリカリを2袋もらってしまったんです。よろしかったら1袋どうぞ」
 その時のマコトの顔と言ったら、漫画じゃないかというほど目がキラキラだった。

「可愛いとら猫ちゃんですね。それに、オッドアイ。うちのナターシャと一緒だわ」
「いや、うちのはそんな高級なねこじゃないので」
「でも、猫ちゃんと一緒にすごい勢いで走ってこられましたわね。本当に大事にしてもらっているのね、あなた」
 ブルネット美人は、マコトのおでこのMの模様を優しく撫でて話しかけた。
 マコトのやつ、さっきまで俺が青ざめるくらいに爪を立てていたくせに、「そうなの、ぼく、だいじにされてるの。どぶにおちてたから、こうきゅうじゃないけど」というように「にゃあ」と賢そうに返事をした。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「グランドピアノのある練習室が4つに、オケのリハーサル室、控室も豪勢だね」
「うん」
 乗船した時、案内された部屋は、真ん中にリビングを挟んで2つのベッドルームのある特別室だった。彼らはこの豪華客船のエンターテイメント演出のために招かれた音楽家だが、他にもありとあらゆる方面から芸術家たちが呼ばれていた。
 隣の部屋を使っているのも、先ほど挨拶を交わした魅力的な容姿のヴィオリストとその従兄だというイケメンピアニストだ。明日、共演することになっているので、今日はこれからウェルカムパーティに顔を出した後、打ち合わせの予定になっていた。

 ベランダに繋がっているリビングの窓は開け放たれていた。今日はまさに出航日和の素晴らしい天気のおかげで、海からの風も特別に気持ちがいい。
 その背景に似合わない表情で窓の外を見ているのは、幾分小柄な、10代と言っても通るかも知れない日本人のピアニストだった。
「何か心配事でもある?」

 もう一人の、背の高い落ち着いた風情の男性は、親元から離れるのが目的でウィーンの音楽院に入学したというドイツ人で、国籍も育った環境も異なった二人が親友になり得たのはウィーンの街、彼らが敬愛するベートーヴェンの引き合わせだったのかも知れない。
 ドイツ人の方は、どこか憂いを帯びた表情がよく似合う、それでいて意志の強そうな顔つきが、濃いブラウンの髪と見事な一対になっていた。彼のこれまでのコンクールの優勝・入賞歴を聞かなくても、この容姿でピアノの前に座るだけで聴衆は魅了されたものだった。その彼があっけなくピアニストとしてのキャリアを捨ててしまい、幾分遠回りをしたものの今や新進気鋭の若きマエストロとして売り出していることについては、その指揮者としての実力を認めた上でも、皆が心のどこかで100%納得しているわけではないのだった。

 その筆頭にいるのが、もしかすると今ここで彼と一緒にいる親友の相川慎一かも知れなかった。もっとも、当人は、自分こそが、彼が指揮者に転向した原因だということには、全く気がついていない。
「4台ピアノ饗宴の夕べ、君と僕と、結城拓人くん。それから」
 慎一は、表紙にSHOW MUST GO ONと書かれた冊子を開いて、自分たちが出演する予定のリサイタルのプログラムを見ていた。風で、ページの隅が微かに浮きあがった。

 解説の欄には、「テオドール・ニーチェが、待ち焦がれたファンの前に久々にピアニストとして演奏」という言葉が、この宣伝文句を書いた人の手柄であるかのように誇らしげに綴られている。
 実際には、彼は1年に1度だけ、学友会館のホールで目の前にいる親友と一緒にピアノデュオのコンサートを続けていた。それは彼自身にとっても特別な日だった。とは言え、常連客が既得権を手放さないので、チケットは常にプレミアム状態だ。だから、この豪華客船に乗り合わせた客たちは、特別に稀少な夜を経験できるというわけだった。

 ピアノが2台でも豪勢なリサイタルなのに、4台ともなると、何が起こるか分からないと皆わくわくしていることだろう。しかも、彼らと一緒にピアノを弾くのは、若く才能あふれるコンサートピアニストで近年売り出し中の結城拓人。そして、もうひとりは、普段はR国から出ることのない神秘のヴェールに包まれた女性ピアニストだという。
「これ、彼女だと思う?」

 慎一の『心配事』は、テオドールにはお見通しだった。それは彼自身も気に掛けていたことでもあったからだ。もっとも、慎一と違ってテオドールが自分の感情を表情に浮かべることはほとんど無い。
「もしそうなら、素直に喜ぼうよ。少なくともあの後、彼女は生き延びて、こうしてピアノを弾き続けているということなんだから」
 そう、その女性ピアニストの名前は、彼らにとって忘れられないものだった。

 アナスターシャ・イワノワは、かつて彼らがN国で演奏会を開いた際に、図らずもR国からの亡命を手伝うことになった女性ピアニストだった。N国は国際的に中立の立場にあり、ここに来れば分厚い鉄のカーテンも少し向こうが見通せるわけだが、演奏家がその国でのリサイタルの際に亡命をするという可能性については、当然「当局」は警戒していたはずだった。だから、彼女とその恋人である科学者の希望が、そう簡単には叶わないことは分かっていた。もっと不意打ちのシナリオを考えるべきだったのだ。

 もっとも、プログラムに書かれた名前はアナスターシャ・パブロヴナ・メドベージェワ。
 誰もが言葉には出さなかったが、彼女があの後「当局」によって抹殺されているのじゃないかと恐れていた。しかし、国境もそれ以外のあらゆる垣根を越えて各方面に知り合いの多い妹の結依の情報網でも、はっきりとしたことは分からなかった。
 ただ、アナスターシャという名前の女性ピアニストは彼女しかいないので、この人がそうかも知れないと思うことが、儚い希望を繋いでくれていた。だが、実際には、彼女の安否も、同じ名前の女性ピアニストの詳しい情報も、高い壁の向こうからは何ひとつ伝わってこなかった。

「あの時、僕たちが上手くやっていたら、彼女を無事に出国させてあげることが出来たのに」
「それはどうかな。少なくともあの時、僕たちに課せられた仕事は、全く何事もないように振る舞うことだったんだから、それが上手くいっていなかったとは思わないよ。もちろん、僕らはまだ学生で、何の力もなかったことは確かだけれど」
 テオドールは淡々と言葉を継いでいたが、本当は彼も、あの時のことを悔しいと思っていることは、慎一にも分かっていた。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「可愛い茶トラ仔猫ちゃんだったわね。また明日会えるかも。あなたが年下好みならいいんだけど」
 青い目と黄色い目を持ったロシアンブルーの猫が、細く長い指に撫でられて目を細めた。高級カリカリは、スリムで小柄な猫には1袋で十分だったようで、すっかり平らげてしまってもう眠くなっているようだった。
 アナスータシャは形のいい唇の端を少し上げた。

「茶トラ仔猫ちゃんのご主人は、以前どこかでお会いしましたかって聞いてくれなかったわね。私はそんなに変わってしまったかしら? でも、あの時、彼はまだ小さな子どもだったもの、仕方ないわね。私だってまだ何も知らない、ピアノが大好きな幸せな少女だったのだから」
 彼女の手のひらの下で、青灰色の短い毛がふわりと向きを変えた。
「ねぇ、ナターシャ、今日は懐かしい人たちに会えるわ。素敵な年下の騎士たちにね。一人は私と同じタイプだけれど、もう一人のことはちょっと心配しているの。とても感受性が強くて、こんな世界にいながら、誰かを踏み台にしてのし上がろうなんてこれっぽっちも思っていないような優しい人。きっとあの時の私の不運を自分のせいだと思っているわ」

 今、彼女の横顔に宿っているのは、不幸な過去ではなく、克己心に満ちた強い光だった。
「じゃあ、行ってくるわね、ナターシャ」
 アナスターシャは愛猫に声をかけて、スリムな身体にぴったりと巻き付くゴールドのカクテルドレス姿を1度鏡で確認してから船室を出た。

 ウェルカムパーティの会場は、船の中心にあって、中央のホールの周囲を幅の広いらせん階段が取り囲んでいた。ドーム状の天井は開閉式になっていて、天気の良い夜にはそのまま星空を観ることができるし、雨の夜には様々な景色が周囲の壁、床、天井に映し出される仕組みになっていた。
 今日は1日中、世界の絶景が人々の目を楽しませている。ホールでは様々な国の料理や飲み物が屋台風に提供され、皆が思い思いにドレスアップして会場にやってきて、古い友人を探したり、大道芸風のショーを楽しんだり、普段見かけることのない異国の雑貨を手に取ってみたりしていた。

 アナスターシャは、長い間見ることのなかった贅沢で華やかな光景を目の前にしても、心が揺らぐことはないと確信していた。
 彼女が住んでいる北国の街は、どこまでも真っ直ぐ伸びた幅の広い道の両脇に、無機質な建物が並んでいるだけで、人々が集まるような場所でも、ざわめきが空間を支配するようなことはなかった。レストランでもお喋りの声は潜められ、人々は新聞紙で顔を隠すようにうつむいて黙々と食事をしていた。
 冬ともなれば、街路樹はどれも葉を落として、威圧するように高いところから人々を見下ろしていた。短い穏やかな気候の時期に光を集めた葉は、季節が変わればすぐに、誰かが掃除をしなくても強い風で飛ばされてしまうか、雪に埋もれて見えなくなり、やがて朽ちていってしまう。

 練習室の分厚いガラスの向こうの歪んだ灰色の街を、人々が体を黒いコートに包んで足早に通り過ぎるのをしばらく見つめて、彼女は黒いピアノの前に戻る。
 彼女のためだけに5つの練習室があり、それぞれ2台のピアノが並んでいる。彼女が頼まなくても1週間に1度はそれぞれの名器の専門の調律師がやってきて、無言で作業をして帰っていく。少なくとも月に1度は、国内、同盟国、一般聴衆は入ることが許されない特別な場所でソロリサイタルが開かれている。

 彼女がピアノの前に座っている時間は、「あの日」までと何ら変わらないが、ピアノを弾くための環境は「あの日」以後、格段に良くなった。多少の自由がないことなど、何が問題だろうか。そもそも、「あの日」までだってピアノから自由だった日など、1日たりとてなかったのだから。
 今、この煌びやかなホールの中に身を置いても、彼女の中には、自由を謳歌する人々に対する羨望の気持ちなど、ほんの欠片も湧いてこなかった。
 そう、その男の後ろ姿を認めるまでは。

 これほど多くの人々が、これほど様々な衣服や身を飾る装飾品を身につけていても、どうしてその男のありふれた後ろ姿を見つけることができてしまったのだろう。体型だって変わっている。以前よりも幾分かスリムになり、以前は決して着なかったであろう洒落たスーツを身につけ、髪もきちんと切りそろえて、いい香りのするポマードで撫でつけてある。
 薄暗く狭い研究室で、ぼさぼさの灰色の髪を振り乱して、もうあまり白くはない白衣を着て、硬いパンをかじりながら本にかじり付いてた彼の名残は、一見にどこにもなかったのに、見分けてしまうことのできた自分に驚いた。

 そして、その男が、彼女が通り過ぎようとしたその一瞬、振り返って彼女をその目に映してしまった時、彼女は「あの日」以来、初めて自分のことを憐れだと思った。そして、そんな感情を持った自分に驚いた。
「ターシャ」
 男はアナスターシャを認めた数秒間に、複雑に表情を変えた。不安と後悔、それとも憐憫か、いくつもの影がその目に浮かんだが、わずか後には彼は表情を緩め、親密な優しい笑顔を見せた。

 アナスターシャは、どの顔が彼の本当の感情を表したものか、見抜けなくなっていることに気がついた。そこには厳然と10年という時間と、分かれてしまった道の先からは、もう元の場所に戻れない、長い距離が横たわっていた。
「元気そうだね」
 どういう言葉が適切なのか分からないので、何とか引き出してきたのがその言葉だったのだろう。第一、彼は、彼女の生死さえ確認できないままこの10年間を過ごしてきたはずだ。下手に探ろうとすれば、彼自身の生命すら危うかったかも知れないのだから。
「あなたも、アレクセイ」

 彼は一瞬、どこかへ視線を送った。その視線の意味は曖昧ではなく、はっきりとした目的があったようだが、視線を送られた側はその意味合いを理解できなかったようだった。
 もちろん、アナスターシャも彼の視線の行く先には気がついた。そして、彼が隠し損ねた左手の薬指にも。アナスターシャの視線を感じ取ったアレクセイは、もう隠すことを諦めたようだった。
「アンソニー、こちらは?」

 あまりにも自然にその女性は彼に歩み寄り、腕を取って隣に立った。
 赤みがかったブロンドは照明の加減で燃えるように艶やかに波打っていたが、その髪の華やかなムードとは裏腹に、彼女の表情は柔和で優しく、何の苦労や悩みも不安もこの世にはないのだというように安寧に満ちていた。おそらく、裕福な家庭で育ち、生活の苦労などしたことがない、それでいて人柄も決して悪くない、そういう人種なのだろうと、アナスターシャは彼女の手から読み取った。軽く胸の前で組まれたその指には、アレクセイと同じ銀の指輪が光っていた。

「あぁ、その、昔……」
 10年はひと昔というけれど、命がけの時を共にした彼らには昨日の出来事のように鮮やかだったはずだった。それを、昔という短い言葉にまとめられてしまったら、アナスターシャの居場所はどこにもなさそうだった。
「子どもの頃、家が近所で、同じ学校に通っていたんですのよ。懐かしくて、思わず声を掛けてしまいましたの。アナスターシャといいます」

 アナスターシャが差し出した手を、ふわりと温かい手が包み込んだ。
「サラです。でも、良かったわ。この人ったら、大学の研究室に閉じこもりっきりで、あまり人前に出るのが好きではないので、今回の旅も招待状をもらったものの、最初は行かないって随分突っぱねていて。昔のお友達に出逢えたなんて、素敵じゃない? 来てよかったでしょ」

 アレクセイが変わったように見えたのは、このサラという女性の影が纏わり付いていたからなのかもしれない。明るく、けなげに彼を支えている優しく善良な妻。
 もし「あの日」、アナスターシャが彼と新世界へ逃げ込めたとしても、この人のようにできたかどうか。それに、アレクセイ、いや、「アンソニー」は彼女に「昔のこと」をどのように伝えているのか。恋人と一緒に亡命を企てたものの、失敗して、自分一人が上手く逃げ出せたのだ、とでも?

 アナスターシャの心の中に暗い影が横切ったとき、爽やかな声が彼らの間に割り込んできた。
「あの、お話し中、申し訳ありません。もしかして、アナスターシャ・イワノワ?」

 アナスターシャは、おそらく事情を察して声を掛けてきた彼らに、心から感謝した。そう、今更、過去の失敗をあれこれと悔いたりはしたくなかったし、そもそも、「あの日」のことは、今となっては失敗だったとは思っていなかった。
 もっとも、この二人も「あの日」、あの場所に居合わせて、あの不幸な出来事を共有した仲間なのだ。少なくともあの時は、誰もがあれは本当に不幸で不運な出来事だったと思っていた。

 正確には、この二人の男性は、あの日突然、コンサートの舞台裏で不意打ちのように主催者から協力を要請され、アレクセイと彼女の亡命にほんの少し「目くらまし」の役割を買って出てくれただけだったのだが、もしかすると、あの後、彼女の知らないところであの結果に苦しんでいたかもしれない。彼女の目はその後、厚く高い壁で隔てられ、彼らの姿は、たまに差し入れられる音源の中でしか確認することはできなかった。
 だが、少なくとも、あの日の責任を彼らが負わされなかったということだけは確かで、アナスターシャはそのことだけは誰に対してというのでもなかったが、ありがたく思っていた。

「僕たちを覚えてくれていますか?」
 話しかけてくれたのは、テオドール・ニーチェ、今や最も将来を嘱望された若手指揮者で、早くもベルリンフィルが彼を常任指揮者にと白羽の矢を立てているという。その後ろに、不安そうな顔で半分隠れるように立っているのは相川慎一。アナスターシャが心の底から懐かしく思い心配していたピアニスト仲間だった。
「もちろんよ。二人とも、いろいろあったようだけれど、立派になって」

「僕たちは、明日の共演者がもしかしてあなたじゃないかと、もしそうだったら、どんなにか嬉しいだろうと、そう話していたところだったのです。あなたが無事で、こうしてまた一緒にピアノを弾ける日が来るなんて、本当に夢のようです」
 アナスターシャは「アンソニー」とサラに向き直り、優雅にほほえんだ。
「私たち、明日の打ち合わせをしなければならないので、これで失礼しますわね」

「微妙な空気を感じて話しかけてくれたのね」
 テオドールはちらりと親友の顔を見た。それから、10年前のあの時のまま、相手を思いやった、穏やかで卒のない口調で答えた。
「それもありますけれど、本当は、あなたの姿を見てしまったら、いち早く話しかけたくなったんです」
 テオドールの言葉に慎一が小さく頷いて、それから黙ったまま、本当に安堵したように深く息をついた。アナスターシャは思わず、小柄で華奢な彼を抱きしめた。

「まぁ、シンイチ、あなたは相変わらずそんな不安そうな顔をして。私は大丈夫。今日こうして、あなたたちとピアノを弾くために、ここにやって来ることができたのだから」
「ターシャ、僕たちは、もしかしてあなたが……僕たちがもっと上手く振る舞っていたら、あなたは今頃」
「まぁ、あなたはもしかしてあのことに責任を感じてくれているの? お馬鹿さんね。私はあなたたちに感謝することはあっても、誰かの責任だなどとはこれっぽっちも思っていないわ。唯一の不満は、あなたたちと再び共演するのに10年もの時間が経ってしまったことね」

 ホールの隅には、ゆったりとくつろぐことのできるソファやテーブルセットが幾つも置かれていた。生憎ほとんど満席だったが、アナスターシャがふと見回した視線に気がついた紳士が、さっと立ち上がり、彼らに席を譲ってくれた。
「さぁ、一体どんな経緯で、あなたは長いこと、チェコの片田舎に引っ込んで三流劇場の音楽監督をしていたの? そしてテオドール、あなたも何故、ピアニストとしてのキャリアをあっけなく棄ててしまったの? いえ、明日からはあなたも一緒にピアノを弾いてくれるんだったわね。その上、明後日には、あのじゃじゃ馬揃いのオケを振るんですって?」

 彼らとはN国の音楽祭の演奏会で数度共演しただけだが、それまでにもお互いにその存在は知っていて、出逢ったときから姉と弟たちのように、言葉よりもピアノで語り合う、そんな深い1週間を共にした。だから、聞きたいことは山のようにあって、10年前にたった1週間だけの知り合いだったなどとはとても思えなかった。

 テオドールは見事なアルカイックスマイルで、自分のことは棚に上げてしまうつもりのようだった。
 彼はいつもそんなふうなのだろう。オーケストラの団員たちの意見は実によく聞くという噂だったが、彼には、この曲はこのように演奏するという信念のようなものがあって、議論を尽くした後でも、半分以上は信念を曲げなかった。一癖も二癖もある団員たちも、あれこれやり合った後で、いつの間にか彼のペースに持ち込まれてしまうらしいと聞いている。相変わらず、彼には強い虹色のオーラがあって、それはどんな場所でも変わらなかった。ステージの上でも、こうして人混みに紛れていても。

 一方の慎一は、こんなふうにソファに座ってしまうと、隠れ場所を見つけた子どものように、消えてしまうのじゃないかと思うほど小さく見える。舞台袖からステージの上に現れる時も、側に行って支えていなくて大丈夫かしらと思う。だが、一度鍵盤に指を下ろしてしまったら、その瞬間から人が変わったようになった。その瞬間に、人々は目を見張り、後はもう彼の世界に引きずり込まれるというわけだ。

「あの人が船に乗っていたのは偶然ですか?」
「そうね、招待状を送りつけてきた船のオーナーが、何か企んでいる可能性もあるけれど、あいにく私は知らないの。でも少なくとも、その人が、私の国の権力者たちに物申す事の出来る人物であることは確かね」
 慎一はアナスターシャが「私の国」と言った時、また不安な表情を浮かべた。あるいは不満の表情だ。彼女を縛り付け自由を奪ってしまう国家を、彼女が「私の国」と言ったことに対して。
 この子はどんな想いもその指先に落とし込んでゆく。純粋な魂にしか奏でることが出来ない音を紡ぎ出す。私には生み出すことの出来ない音を。

「ねぇ、シンイチ、私は、あの時代に生きていたとして、不当で残酷な独裁者に、自分たちのために音楽を演奏しろと言われたら、そしてそれが音楽を続けるための手段ならば、喜んで正義も信念も棄てるわ。カラヤンのようにか、フルトヴェングラーのようにかは別にして、どんな権力も利用して、平気な顔でこの商売を続けるのよ。あなたもそうでしょ、テオドール?」
 テオドールは頷くのでも否定するのでもなく、ただ悠然と笑みを浮かべていた。
「でも、あなたにはきっと出来ないわ。それを、私も、テオドールも知っている」
「あなたがそんなことを言うなんて」

「まぁ、私はこう見えて結構な野心家なのよ。今、十分満たされて音楽をやっているわ。『彼ら』は私が逃げ出さないのならと、最高級の環境を私に提供してくれている。あの時、上手く国を逃げ出せていたとしても、決して今のような環境を手に入れることは出来なかったでしょう」
 窓の外をどれほど冷たい風が吹いていても、あの練習室の中で、ただ一人ピアノに向かっている時、アナスターシャは暖かく満たされていた。聴く者はただ自分と音楽の神だけだった。それが望みうる最高の演奏に繋がっていた。もうそれで十分だったのだ。
「あら、待ち人がやって来たようね」

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
 僕は子どもみたいに何を拗ねているんだろう。
 さっきから、ちょっとしたフレーズで引っかかる。
 慎一は、朝からずっと練習室に閉じこもっていた。
 昨日の4台ピアノの饗宴は大盛況だった。スタインウェイ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、ファツィオリの4台のフルコンサートモデルを四つ葉のクローバーのように並べて、誰がどのピアノを弾くかは、アナスターシャが3人の顔を見回して、あっけなく決めてしまったが、彼女らしい的確な選別だった。もっとも、お互いの呼吸が分かってしまうと、後半はピアノを替わりながら客のリクエストに応えたりもした。

 楽しんでいるのは聴衆ではなく、自分たちだった。
 何より、慎一は、アナスターシャのピアノに少しも影がないことに安堵した。理知的で、私はこのように弾きたいという強い意志が感じられる哲学的な演奏。それでいて女性らしい情感に満ちている。昨夜、彼女が最後に弾いてくれたシューベルトの『さすらい人幻想曲』は、これまでに聴いたどの演奏よりも詩的で、音のひとつひとつに迫り来るような深い情緒があった。
 お返しにリストを、彼女のために弾いた。

 学生時代にハンガリー人の先生に一度も褒めてもらえなかったリストだが、コンサートピアニストとして復帰した最初のソロリサイタルのアンコールで弾いた『リゴレット・パラフレーズ』、楽屋に届けられた古い楽譜には走り書きで「君のリストだ!」と書かれていた。その楽譜は先生が彼自身とリストの祖国から持ってきて長く使っていたもので、貧しい苦学生だった慎一に無言で貸してくれたものだった。その翌年にオールリストプログラムのリサイタルの中で弾いた『ピアノソナタロ短調』。
 彼女は、演奏と一緒にそんな想い出話を楽しげに聴いてくれた。

「あなたのリストは素敵ね。華やかで男性的。意外だわ。ベートーヴェンを弾くときは、ものすごくシンプルになるじゃない? それでいて人生の全てを刻み込むよう」
 そう言ってアナスターシャが頬に触れてくれた冷たい指が愛しくて、思わず手を重ねた。
「本当に、夢のよう。この夜が終わらなければいいのに」
 それはそのまま慎一の気持ちだった。

 昨夜、新しい仲間となった結城くんは、ショパンコンクールの覇者として、ショパンの晩年の作品、ピアノソナタ3番を聴かせてくれた。初めて聴いたが、もっと派手やか色気のある演奏をするタイプなのかと思っていたら、組み込まれた主題、バッハへ回帰したような対位法、様々に繰り返される変容が、実に細やかに丁寧に読み込んであった。
 同じコンクールの覇者であるテオドールだが、自分は正確にはもうピアニストではないと突っぱねて、ソロ演奏はしなかった。結城くんとは、明日、テオドールが飼い慣らしたじゃじゃ馬オケのメンバーがやってきたら、あまり演奏されることのないマルクスの『ロマンティック協奏曲』をやるというので、珍しく緊張しているように見えた。今、彼らは演奏の打ち合わせで別の練習室に籠もっている。

 第2夜は協奏曲プログラムが用意されている。アナスターシャはショパンのピアノ協奏曲第1番を、慎一はベートーヴェンの5番を弾くことになっている。
 昨夜の耐久レースのような演奏会では、フィナーレで、チャイコフスキーの1番、ラフマニノフの2番、プロコフィエフの3番を、4人でピアノだけで演奏した。これは慎一とテオドールの1年に1度の特別な夜のプログラムの定番でもあって、自分たちの演奏のために、オーケストラの部分、セコンドピアノの譜面を起こしたのは慎一だった。

「彼が学生時代最も得意としていた教科は、実はアレンジなんですよ。彼の作品は、ピアノ曲をオーケストラスコアに書き直したものも、逆に交響曲をピアノ曲に書き直したものも、実に素晴らしかった。即興アレンジもね」
 その言葉で、当然、ピアノ4台用に再アレンジをする羽目になり、それによくも結城くんもアナスターシャも面白がってついてきてくれたものだ。
「あの人、もしかして鬼?」
 結城くんが後でこっそり聞いてきた。思い切り頷いておいた。
 でも、テオドールは君のために、普段はほとんど演奏するこのない曲を一生懸命勉強しているんだ。そう言いかけて、やめた。

 もう何度弾いたか分からないベートーヴェンなのに、弾くたびに苦しくなる。テオドールとも何度も共演しているので、今更こっちは打ち合わせもリハも必要ないと思われているようだけれど、僕だって不安じゃないわけじゃない。
 アナスターシャは余裕があるようで、タクトの弾く曲はオケも大変そうだからそっちに時間を割いてあげてねと言って、簡単な打ち合わせをしただけだった。

 で、僕には「今日の午後、今度の音楽祭のスポンサーとのティータイム、忘れないでくれよ。君はその手のことは結依と僕がやってるからいいって逃げてばかりだけど、たまには付き合ってくれ」とだけ。
「音楽をやるためには、信念と理想だけじゃ足りないって、ターシャも言っていただろう?」
 そんなことは十分知っている。ある意味では、慎一こそ、飯の種に音楽を利用しなければならない日々を送ってきていたのだから、きれいごとを言いたいわけじゃないのだ。

 その時。何となく、防音室の扉の向こうから、カリカリとひっかくような音が聞こえてきたような気がして、ドアを開けに行くと、茶トラの仔猫が座っていて「こんにちにゃ!」というように鳴いた。
「やぁ、君か」
 そう言えば、ウェルカムパーティで「ピアノ、聴きにくる?」って話しかけたんだった。不思議な猫で、目が合ったら、何となく懐かしい気がしたのだ。お互い気になったみたいで、何だか話が通じるような気がした。
 猫だけれど。
いや、実は世が世なら? 君は猫の子?)

「来てくれたんだね」
 茶トラ仔猫はちょっと首を傾げた。「今ジャマじゃない?」と聞いてくれたみたいだった。
「ちょうど煮詰まってたんだ。その、音楽が何かに利用されることについて、つまり、僕たちは音楽を奏でるために、常に純粋な魂を持ち続けなければならないのかってことを考えてて。さぁ、入って」
 茶トラ仔猫は嬉しそうに練習室に入った。
「僕だって、ピアノのためだったら、悪魔にだって魂を売るかも知れないのに」
 みんな知らないだけだ。
 仔猫は立ち止まって、にゃあと言った。うん、君の気持ちは分かってるよ、と答えたみたいだった。

「そうだ、君のために1曲弾くよ。そこに座ってて」
 茶トラ仔猫は、慎一の言葉がすっかり理解できたかのように、ソファの前に行ってちょっと身を引いてジャンプした。いささか失敗したように見えたが、何とかよじ登ると、慎一の方を向いて行儀よく座った。
「ショパンは『子犬のワルツ』が有名だけど、『子猫のワルツ』もあるんだよ」
 仔猫は始め、大人しく座っていたが、曲が進むと楽しくなってきたのか、くるくる回り始めた。それを見ながら弾いていると、だんだん自分も重しが外れていくような気分になってきた。
 音楽ってこうでなくちゃ!
 仔猫がそう言っているようだった。

「それで、この期に及んで『子猫のワルツ』を実に楽しそうに弾いている暢気なピアニストがいると思ったら、約束の時間を忘れさせるような粋なお客さんが来ていたわけだ」
 いつの間にドアが開いたのか、気がつかなかった。
 茶トラ仔猫はいたずらしているところを見つかってしまった、というように、慌てて、ドアの処に立つテオドールの足元をすり抜けて出て行ってしまった。

「ティーパーティの約束をしなかったっけ?」
「あぁ、えっと、そうだったね」
 テオドールに連行される途中で、その茶トラ仔猫がどこかへ向かって一心に歩いているのを見かけた。
「あの、テオドール、ちょっと、知り合いを見かけたから挨拶してきてもいいかな? 後から追い掛けるから」
「猫と遊ばないように」
 やっぱりバレてるか。

 ティーパーティの会場には見慣れたオーケストラのメンバーや、招かれた歌手たち、それにスポンサーたちが集まっていて、その中に拓人と従妹の美人ヴィオリストの顔が見えた。
 不規則に並べられた色々なデザインの椅子、ソファ、テーブル、部屋の壁側にはずらりと並んだデザートやチーズ、おつまみ、アルコールやコーヒーなどのソフトドリンク。飾られた花はどれも主張しすぎずに、場に溶け込むように、それでいて明るく華やかで、一度は立ち止まって、眺めて見たくなる。
 とりあえず、紅茶を受け取ってから、拓人と目が合ったのをいいことに、テオドールに断って、彼の方へ近づいていった。知らない誰かと話すよりずっと気持ちが楽そうだし、昨日の演奏の話もしたかった。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「ターシャ」
 気乗りはしなかったが、テオドールに誘われていたので、ティーパーティに行こうか、迷いながら練習室を出たところで声を掛けられた。
 昨夜は楽しかったけれど、ピアノがあってこその幸福だと改めて思った。昨日確かめ合った友情は、懐かしいものも、新たに結ばれた絆も、心地よいものだった。

 もっとも、多くのピアニストは1日に何時間も筋肉トレーニングのように指の基礎練習をして、それから更に何時間も次のリサイタルやコンサートのための曲の準備をして、音楽のために膨大な本を読み、中には生徒を持つ者もいるからその時くらいは誰か他人と話すこともあるかも知れないが、たいていは、年がら年中、自分とピアノだけの孤独な時間を過ごしていて、それに慣れっこになっている。

 タクトは、私やシンイチとは少し違うタイプみたいだけれど、そんな彼も、表に見せている顔とは違う側面を持っているだろう。テオドールは随分と世渡り上手になった気はするけれど、それは彼が指揮者という道を選んだからだ。プロデューサー的な立場になれば、しなければならないことも変わってくるだろう。
 懐かしい再会があっても、一人、ピアノに向かっているときが一番幸福だった。
 孤独以上に私をいやしてくれるものはない。

「どうしても、君と話したかったんだ。その、昨日の演奏は素晴らしかった。僕は、あまり言葉が上手く伝えられないけれど」
 アレクセイは、彼だけが自由の世界へ逃げ出すことが叶って、後に残してきてしまったかつての恋人を棄てて、新たな世界で新しい伴侶を得ていること、何よりもそれをかつての恋人に知られてしまったことで、居心地の悪い思いをしているのだろう。自分が幸せであるから、アナスターシャにも幸せでいてもらいたいと思っている。それは、もちろん誰かの幸せを願う純粋な気持ちもあるのかもしれないが、自分の幸福が保障されるために必要な前提条件を求めているのだ。

 アナスターシャは答えずに歩き始める。アレクセイが隣に並んだ。
「君が変わらずにピアノを続けてくれていることを知って、僕は本当に嬉しいよ」
「ありがとう。でももうあなたには関係が無いわ」
「僕は、君のために何か、今からでもしてあげられることがないだろうか」
 アナスターシャは足を止めた。この人は、そんなことを考えているのか。

 確かに優しい人だった。でも、自分に何かが出来るかもしれないなんて、それはあまりにも傲慢じゃないか。不意に小さな怒りのようなものがこみ上げてきたが、それを押さえ込んで、アナスターシャは小さく息をついた。
 この人は、悪気もなく、優しさからそう思っているのだろう。
「あなたはもう私のナイトじゃないのよ」

 もしあの時、この人と一緒に別の人生の扉を開けて飛び込んでいたら、私は今ほどに恵まれた環境でピアノを弾いてはいない。そして、昨日のように、仲間たちと対等の立場でピアノを楽しむことは出来なかっただろう。
 自由の世界にいても、自由な世界であるからこそ、やはり何かに縛られているのかもしれない。アレクセイも、ただただ幸せな10年を過ごしていたわけでは無かったのかも知れない。でももう、私が歩いてきた道は、彼から離れて、こんなにも遠くへ来てしまったのだ。
 
「お話し中、失礼。昨日は本当に助かりました」
 どこから見ていたのか、声を掛けてきたのは、昨日、高級カリカリを1袋譲った男だった。猫と一緒に走っていた時は乱れていた金の髪も、今日は綺麗に撫でつけてある。女性を誘うのに失礼のないようにスーツを着ているが、決して堅苦しくなく、洒落た着こなしだった。
 彼の足元にはあの可愛い茶トラ仔猫。にゃあと鳴いて、自分でも感謝を伝えたいようだった。

「まぁ、とんでもありません。お役に立てて何よりですわ」
「ティーパーティにお誘いしようとお待ちしていたんです。先約がなければ、ですが」
 アナスターシャはそのように誘われて、ほんの少しだけ、自分が決して寂しくないわけでは無いということを認めなければならなかったが、そんなふうに弱さを感じることを恥だと思わせない男のムードに感謝した。
「いいえ。こちらの方にはちゃんとエスコートする女性がいらっしゃるのよ。ですから、喜んで、ご一緒させていただきますわ」

 それからアレクセイに向かって言った。
「アレクセイ、あなたが優しい人なのは知っているわ。でも、私たちの道は、あの日、抗えない運命の力で遠くへ離れてしまったの。私はその事について、自分の身の上を恨んだり不幸に思ったことはないのよ。だから、あなたは自分のことを考えて、どうかお幸せにね」
 アナスターシャが、茶トラ仔猫の飼い主が差し出した腕に手を絡めると、二人をエスコートするように仔猫が先に歩き始めた。その姿に、アナスターシャは思わず微笑んだ。
 それを見て、男がほっとしたような顔で言った。
「以前、どこかで、お会いしましたよね」
「まぁ、忘れていらっしゃると思っていましたわ」
「叔父と一緒にR国に行った時、一緒に遊んでくれた笑顔がとても優しい年上の少女がいて、ショパンのノクターンを弾いてくれた。昨日、あなたがピアノを弾いている姿を見て、すっかり思い出したのです」
「南の国からやって来たとてもハンサムな男の子。別れの日には、大きくなったらきっとあなたのナイトになるために戻ってくる、って約束してくれたわ」
「お迎えにあがるのが遅くなりすぎましたね」
「いいえ。来てくれて嬉しいわ」

 ティーパーティ会場に着くと、茶トラ仔猫が、誰かを見つけたようで、そっちの方向へ走り出した。二人は顔を見合わせて、ゆっくりと仔猫を追い掛けた。
 走り寄ってくる仔猫を抱き上げたのは、彼女がその音を愛してやまない若いピアニストだった。
 そして、彼の側には、昨夜、最高の音楽を分かち合った友人たちが立っていて、彼女に気がついて、ひとりは手を振り、ひとりは微笑んだ。
 アナスターシャは一度、傍らの男と目を合わせ、それから悠然と、頼もしい三人のナイトたちに向かって歩を進めた。

♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪
 こねこのおにいちゃ~ん!
 ちょっと待った、マコト。その人は「こねこのお兄ちゃん」ではなくて、正確には「子猫のワルツを弾いてくれたピアニストのお兄ちゃん」なの。変なところ省略すると、おかしなことになるんだよ!
 こねこのわるつのひいたおにいちゃん……こねこ、こねこ…のおにいちゃん!
 二語以上は覚えられないのね……┐(´-`)┌
♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「どうやら、この試みには随分と穴があるようですわね」
 出資者のひとりである美しいオッドアイの女性が船のオーナーに語りかけた。
「箱を開けるまでは、生きている猫と死んでいる猫はどちらも同時的に存在する、とはいえ、過去にゆがみが生じるのは問題では」
「その過去さえ、もしも箱に閉じ込められてしまっていたら、さて、猫は生きていたのか、死んでいたのか」
「可愛いご子息がそのひずみに取り込まれないよう、気をつけられた方がいいようですね」
「ただひとつ確かなことは、今日のティーは最高の香りと味だということです」
 ティーカップから立ち上る香りが麻酔のように心と体を溶かす。
 テーブルに置かれたフラワーベースには白い薔薇。
 その横に古い異国の新聞が置かれていて、その片隅には、かつて恋人の科学者といっしょに亡命しようして、自分だけが叶わなかった、若く美しいピアニストの訃報が載せられていた。


せっかくですので、こっそり音源 
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Category: オリキャラオフ会@豪華客船

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