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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後1)(18禁) 

宗輔
竜樹さま(萌えろ!不女子)から頂いた宗輔(しゅうすけ)です。
本当にありがとうです。三つ揃いのスーツを着せてくださいとか、ちょっと髪は巻き毛気味ですとか、描写らしい描写もなかったのに、どうしてこんな風だとわかっていただけたのでしょうか。
不思議です。
イラストを描かれる方の感性って不思議ですね……そして素晴らしい。
とにかく感謝です。この『炎の記憶・海の記憶』は竜樹さんに捧げる…という気持ちで書いています。

BLとはもう言えない話になってきていますが、逆に言えば、ちょっとシーンに抵抗がなければどなたでも読んでいただける(と言っても、大したシーンじゃありませんし。所詮私には色気のある描写はできないので、ただのハードボイルド系)、ただし18歳以上で、という感じです。

ということで、後篇(拓視点)をお届けいたします。
と言っても、実は長いので、多分2回…もしかして3回になるかもしれません。
一応頭の中では2回なのですが。
それではよろしくお願いします。





「おい、拓、ちょっと来い!」
 赤沢のどすの利いた罵声が、拓のもつれかかった足に絡み付いた。
 丁度3分のゴングが鳴ったところだった。拓はスパーリングの相手をしてくれていた格上のボクサーに最後のカウンターを打ち込もうとしていた。
 カウンターは相手に届く前に行先を失う。
 拓は自分の勢いの反動を食らって前のめりになり、相手の肩に身体をぶつけた。相手はグローブで軽く躱し、舌打ちしてリングを出て行った。
 目に汗が沁みて、視界が曖昧になる。
 ぶち壊したいと思った悪魔のような影が急に消えてなくなってしまい、拓自身も行き場を失ったような気がした。
 1分のインターバルの間、身体をほぐすように軽く跳ねている足音が複数、絡まり合って拓の耳元に届く。リングから出ようとロープを潜りかけて、足元がふらつくのが分かった。足元に落ちる汗の輪郭がぼやけている。

 赤沢はジムの隅にあるデスクの前の丸椅子に足を広げて座っていた。その足は床を叩くように貧乏ゆすりをしている。彼は明らかにイラついていた。
 赤沢が何を言おうとしているのか、半分は分かっていた。
「拓、おまえ、しばらくリングに上がんな」
 拓はグローブを外しながら、赤沢から目を背けていた。
「俺が何を言おうとしてんのか、分かってるだろ。お前の闘争心は買ってやってる。だが、がむしゃらなのと無茶苦茶なのは全く違うぞ」
 拓は息を吐き出した。3分間、息もしていなかったような錯覚がして、今になって必死に呼吸の仕方を思い出している、そんな気がした。
「相手を憎んでぶちのめすくらいの気概がないとだめだ、同情心は捨てろ、餓えた猛獣になれ、そういうのがないと勝ち上がれん、と昔お前に言ったのは俺だがな、この期に及んでも足元と目の前が見えていないような奴をリングに上がらせるわけにはいかん」

 必死だった。4年のブランクを埋めるために、ほとんどのものを犠牲にしていた。気が付けば拓よりもずっと若い、体力も気力も充実した新人が入ってきて、瞬く間に力をつけていった。トレーニングの量やハングリーな気持ちだけでは乗り越えられない何かがそこにはあった。分かっていただけに、焦ると結果が余計に遠くなった。
 リングに上がる時、恐怖心が全くなくなっている。そのことを赤沢に咎められたのは、つい1か月ほど前だった。
 恐怖心を克服することは大事だが、無くすことは良いことではない。最低限の危険回避のルールがある。そのために必要な恐怖心は持ってリングに上がらなければならない。ただの喧嘩になってしまうぞ。
 赤沢の言っていることはよく分かっていた。
「殺し合いをしてるんじゃないんだ。命を懸けるなんて、あしたのジョーじゃないんだからな」
 赤沢は吐き捨てるように言ってから、ふいに息をついて口調を変えた。

「なぁ、拓、俺はお前の親父さんのことが好きだったさ。あの人はいいボクサーだった。他人への気遣いもできる、一方で闘う気力も充実していた。でもあんなことになっちまって……、俺はお前がいったんボクシングをやめた時、正直ほっとしたんだ」
 赤沢は拓の父親の後輩だった。
「しばらく試合に出んな。俺の言わんとしてることはわかるな。今のお前は怖い。お前が高校生ならまぁいいさ。けど、これからはちゃんと考えていかなきゃならん。どんな形にしても、試合に出れなくなってからの人生の方が長いぞ」

 いつもロードワークで走っている河川敷は、嫌味なほど明るく見えた。
 家賃の安さに魅かれたのと、1時間かけてでも走って行き帰りをこなすくらい自分を追い込みたくて、東京都内ではあるが郊外を選んで住んでいた。早朝から走って、ジムに練習に行き、筋トレをこなし、こんな真昼間には寝ているか、バイトをしているかのどちらかだった。夜にまた別のバイトに行くこともあるし、そうでなければハードなトレーニングをこなす。
 負けたくない、自分にも、他の誰かにも。
 そんな思いだけで突っ走っていた。
 だが、限界は自分の方が知っている。タイトルを取れるようなボクサーはほんの一握りだ。はなからタイトルを目指している奴でなければ、つまり高い目標を持っている奴でなければ、結局は潰れていってしまう。
 俺はタイトルを目指しているのか、あるいは壊れてしまいたいだけなのか。
 届かないタイトルを見ないようにして、ただ目の前の化け物にがむしゃらに挑んでいるだけなのか。

 ようやく空気の冷たさは和んできたものの、まだ春には遠い丈の短い草地にザックを放り出し、斜面に横になった。
 ボクシングが好きだった。離れているときには、たまらない思いを何度もした。
 そして再びその中に飛び込んだとき、まるきり届かない何かを目指しているような恐怖に襲いかかられた。タイトルになど永遠に届かないという宣告を今は受けたくない、お前には始めからそんな資格はないと言われるのが怖くて、誰かが口を開いて自分を批判する隙を与えないように、耳を塞いだまま、ただ無茶苦茶に走り続けた。
 空は春の霞で曖昧な白だった。高いというよりも、先が見えない、そんな色合いだった。低いのか高いのか分からない、頭上の中途半端な場所を鳥が横切った。遠くで野球の白球を追いかける声が聞こえている。鳴き交わす犬の声、水の音、子どもたちの高い笑い声。
 自分の周りに広がる世界、その中に自分が属していないような孤独と焦燥。
 宗輔……
 拓は目を閉じた。その途端に、何か懐かしいような、不安な気持ちがよみがえった。

 恋人、家族、心の還る場所、そういうものを持ちたくない。だから必要以上に入り込まないようにと思っていた。相手は十歳も年上で、拓が心配したり気にかけてやる必要もない大人で、拓の方がこの関係に義務を果たさなければならないような部分がなく、そして同性であるということで、いつかこの関係が終わってしまうことに、世間も自分たちも納得がいくに違いないという奇妙な安心感があった。少なくとも、そうだと思い込んでいた。
 ただ気が向いたときにセックスすればいい。ちょっとむしゃくしゃしている時や、欲望が吹き出しそうなときとか、そういう時に身体を触れ合わせぶつけ合い、痛みとか苦しさの中に全てを吐き出してしまう、そういう関係でいいと思っていた。
 正直なところ、セックスが気持ちいいものだとは、少しも思っていなかった。少なくとも1年ほど前まではただ苦しいだけだった。自分がマゾヒストだという自覚はなかったし、そもそも殴り合うのが当たり前の世界にいるような人間は、いささかマゾっ気がないとやっていけないのかもしれないが、今でも相手を受け入れるときはただ苦しくて仕方がない。
 それなのに、宗輔に会いに行ってしまうのは何故なんだろう。
 それでも宗輔の肌に慣れ、唇の熱さに慣れ、彼のものを受け入れることに慣れ、いつの間にかセックスの途中からとは言え、痺れるような震えが腹の奥で湧き出すようになっていた。
 それがいわゆる快感だということは、拓にも分かっている。このまま繋がっていたいと思うこともある。ただそれでも、今はまだリングの上で殴り合い、意識が吹っ飛ぶような瞬間を越えるほどの快楽にはなっていなかった。
 いや、そうではないのかもしれない。
 時々、宗輔の名前を呼びながら、意識を手放しそうになる。ただ気持ち良くて、自分の身体が自分でコントロールできなくなる。それを認めるのが怖いだけかもしれない。

 宗輔には言えないことがひとつあった。
 今でも、時々矢田のところに行く。そして矢田の気分によっては、抱かれることもある。いや、拓の方は矢田に抱かれるために行っている。これは借金を返せと言わせないための口封じ的仕事だと割り切っているが、矢田の方は金を返せなどとは言ってこない。つまりは拓の一方的な都合で、後ろめたさをちゃらにするための義務だった。
 矢田に抱かれるのも、少しも気持ちいいとは思っていない。我慢するということ自体に意味があるような気がしていた。
 金なら稼いで返せばいいのかもしれない。そもそも借金の額など聞いたこともないし、矢田も言わない。喫茶店を営んでいた拓の祖父が残した借金、それを返せなかった母親はパチドランカーになって暴行を繰り返した父親を刺殺した。母親の裁判の結果は正当防衛として罪が軽くなったものの、その費用も全て母の愛人だった矢田が出している。庇ってくれる肉親を失った拓の面倒を全てみてくれたのも矢田だった。
 だからこれは仕方がないと、今も思っている。
 それとも、俺って、やっぱりホモなんだろうか。それを認めたくないから、仕方がないとか思いこんでいるだけなのだろうか。

 拓は目を閉じ、寝転んだまま、頭を振った。
 色々な思いが去就する中で、今日赤沢に怒鳴られる前に頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでいた不安と恐怖の種が、また頭をもたげてきた。
 頭の隅に巣食っているもの、今日リングの中で拓がずっと払いのけぶち壊したいと思っていたもの、それは魘される宗輔の姿だった。
 あの時、起こそうと思ったのに、何故か手が動かなかった。
 何してるんだ、かあさん。
 宗輔のうわ言のような声が、拓の耳や頭のどこかに突き刺さり、抜けなくなった。
 何かが宗輔を苦しめている。そしてそれは、あるいは拓自身にも通じる何かなのかもしれない。その気配が拓を締め付ける。
 宗輔と付き合ってきたのは、宗輔が拓に頼る必要のない大人だったからだ。そもそも身体の関係が一番で、お互いに深入りする必要がないからだ。途中から少しばかり恋人気分にもなっていたけれど、結果的に失っても怖くないと思っているからだ。
 それなのに息が苦しい。これまで避けてきた宗輔の本当の姿に触れるのも、深入りしていくのも。何よりも、拓の方が宗輔に頼りたくなってしまうのが怖い。
 そして失ってしまうことが。

 今日は始めから矢田に会いに行くつもりだった。何も考えず、今日の予定をこなすべきだと思い、ふと目を開けて、拓は驚いた。
 小学3年生か4年生くらいの子どもが、上から拓を覗き込んでいる。
 白くかすんだ空を背景に、子どもの顔だけが明瞭に浮かんでいる。
 少し膨れたような頬、唇は子供っぽく赤くて厚く、目は少し小さめ、髪はストレートで、その体はちょっとぽっちゃり気味だ。典型的ないじめられっこタイプに見える子どもは、急に拓が目を開けたことで、逆にびっくりしたようだった。

 この子どもはいつもこの辺りで見かけていた。
 ロードワーク中に周囲のことなどほとんど目に入っていない拓がその子どもに気が付いていたのは、子どもの方が拓をいつも見ていたからだ。見ていた、というよりもほとんどガン見に近かった。これで中学生なら、喧嘩でも売ろうってのかと掴みかかりたくなるくらいだった。子どもはいつも母親に手を引かれていて、振り返りながら、走ったりシャドウをする拓を見ていたのだ。
 母親はどうしたのだろうと思った途端、高い声が子どもを呼んだようだった。
「アラタ!」
 子どもはちょっとびくっとした。それからちょっとだけ後ろを振り返り、そして直ぐにもう一度拓を見た。
 しばらく子どもは拓を見たまま動かない。もう一度母親の呼ぶ声がした。
 拓は上半身を起こした。
「お前、呼ばれてるんじゃないのか」
 子どもは名残惜しそうな顔をした。名残惜しい、というのが適当なのかどうかわからないが、まさにそういう顔だった。
 何か言いたげで言えないというようなもどかしさが伝わってきて、もしかして口がきけないのか、と拓が思った途端、小さい低い声で言った。低く聞こえたのは、子どもの不安や躊躇いのせいだったのかもしれない。
「だいじょうぶか」
 その声に母親の呼ぶ声が再度、重なった。ついに子どもは諦めたのか、拓のもとを離れていった。


 久しぶりに矢田はその気だった。
 ここ数度、矢田は拓に食事をさせるだけで、身体を求めてくることはなかった。矢田が年を取ったのか、それとも仕事が忙しくてそれどころではなかったのか、あるいは拓に飽きたのか、興味もなかったので聞かなかった。
 矢田の行きつけの店のひとつで寿司をつまんだり鍋をつついたりした後で、矢田が拓を抱くのは、いつも決まって安いビジネスホテルの一室だった。多分相手が女なら、高級なシティホテルとかを使うのだろうが、拓ならこんな程度で十分だと思っているのだろう。ナニワ出身のじじいだから、そのあたりの計算はしっかりしているに違いないと思う。
 拓は、行為の最中にはいつも、矢田の大きくて重い体の質量をそのまま感じながら、箱のような部屋の真っ白な天井を睨んでいた。押しつぶされそうな重さと強さ、挿いってくるものが拓の身体をこじ開けようとする痛み、矢田の強い体臭、そういったものに完全に取り込まれて身体を許している間中、拓はいつもこのまま壊して欲しいと思っていた。身体を割かれてもう立ち上がれないようにされてしまって、もしかして意識もはっきりしなくなってしまいたいような、そんな心持ちだった。
 矢田が入り込んでくる時の苦しさは、宗輔が挿いってくる時とは別の苦しさがあった。入ってくるものの大きさのせいだと始めは思っていた。あるいは多少なりとも愛情の有無が影響しているのかもしれないが、それについては確信がなかった。
 だが、今まさに受け入れようとした瞬間、身体が固くなって一気に冷たくなった気がして、拓は目を強く閉じた。もう十分に肌を撫で回され、その場所も解されて、受け入れる物理的な準備は整っていたのに、腹が何かを拒否して固まってしまったようだった。
 矢田はしばらく頑張っていた。
 正直なところ、拓も受け入れようと努力していた。
 だが結局、行為は成り立たなかった。

 矢田が怒るかもしれないと思った時だった。
 いきなり矢田が笑い出した。首を絞められたり殴られたり、あるいは良くて嫌味を言われるか、マイナスのことだけを考えていた拓は、呆然と矢田を見た。
「拓、お前、いい加減はっきりと、もうやめてくれとか言えや」
 相変わらずの安いビジネスホテルの窓枠は、外の騒音のせいか、風が叩きつけるのか震えていた。
「いや、頭より体は正直なもんやな」
 身体を起こしたものの、まだ拓はぼんやりと、笑う矢田を見ている。
「この1年ほど、お前がいつ別れてくれ、て言い出すんかと待っとったんや。それがいつまで経っても言い出しよらん。わしもタイミングを掴みかねてもうたわ」
「何のこと……」
 矢田は浴衣を羽織って簡単に帯を結ぶと、素っ裸のままの拓の肩に浴衣を掛けてくれた。安いホテルの浴衣は、いたずらに糊が利いていて、それでいて沁みついた幾人もの人間の体臭が完全には取れていないような、くすぶった臭いがしていた。
「まぁ、拒否しとるくせに、結局は受け入れるお前も可愛かったさかいな、わしもちょっと手放しにくうて引き延ばしてしもたけどな」
 言いながら太い指で煙草に火をつける。その手元を拓は黙って見ていた。
「そろそろ、ちゃんと考えた方がええんとちゃうんか」
「だから何のことだよ」
「篠原宗輔と付きあっとるんやろ。向こうがお前に本気なんは、あいつがわしんとこに来よったさかい、何となく分かっとったけどな、まぁ、お前がその気かどうかは分からんかったし、ほってたんや。お前を抱いとっても別に違和感なかったしな。けど、この1年は違うたで。ここがな」
 矢田はまだ笑いをかみ殺したような顔をしたまま、煙草を挟んだ手で拓の胸のあたりをつついた。
「違うことを考えとんのが見え見えやった。あそこも、篠原宗輔のことを考えて震えてとったんやろ。それでもお前がボクシングをやっていくのに、幾らかわしも助けになるんかと思うて来たさかいな、これまで通り知らん顔してやってたけど」
 拓は矢田から目を逸らした。
 いつか、拓をその太いもので貫きながら矢田が耳元で聞いてきた。苦しくて吐き戻しそうになりながらも、その息が耳の中に注ぎ込まれるとき、拓は異様に興奮するのを感じた。殴られてリングの上に倒れる時の恍惚と同じだった。
 わしに何をして欲しいんや。
 その瞬間、拓の頭は不意に冷めた。
 俺が親父みたいになったら、殺してくれよ。誰かを傷つける前に。
 矢田なら殺してくれる。疑いもなくそう思った。矢田は拓が宗輔と関係を持っていることを知っていたし、その中でなぜ矢田とも関係を続けているのか、そこに拓にとっての何のメリットがあるのか確認したのだと思った。矢田がええで、と言ったとき、拓は無意識に矢田を締め付けた。矢田と寝て、あれほどに感じたのは初めてだった。
 ボクシングが好きな反面、恐怖はいつも付きまとっていた。
 離れられないのに、怖かった。
 いつか親父のようになったらどうしようか。
 あんなに優しい父親だったのに、母親を、そして拓を殴るようになり、壊れていった。自分もいつか壊れるかもしれない。そうなったとしても、宗輔は拓を殺してくれないだろう。もしかしたら面倒を見ようなどと思ってくれるかもしれない。だが相手が誰だかわからなくなった拓は、宗輔を傷つけるかもしれない。
 矢田ならやってくれる。殺し屋でも雇って、頭がおかしくなった拓を殺してくれる。そう思っていたから、矢田との関係を切らずにここまで来た。
「ほんまにええんか」
 拓が答えないままでいると、矢田はそう言いながら狭いライティングデスクから持ち込んだ雑誌を取り上げ、拓に投げて寄越した。乱れたシーツの上で、薄い衣服で股を広げ胸の谷間をくっきりと見せつける女性の横に踊る表紙の文字に、拓の目は釘付けになる。

 クラブシノハラの青年社長が隠す衝撃の過去!
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 拓は顔を上げた。
「篠原宗輔も正念場やな。出る杭は打たれる、ゆうてな、世間様は黙って儲けさせてはくれへんのや。ここで潰れる人間もおるさかいな、せいぜい首括らんように見張っといたった方がええんとちゃうんか」
 矢田は椅子にどっしりと腰を下ろす。
「ま、お前のことかて、ばれたらスキャンダルかもしれへんけど、そっちは今時、珍しい話でもないさかいな」
 矢田は声を落とした。
「なぁ、拓、お前もそろそろ自分に優しいなったれ。どうするのが正解か、人生終ってみんことには分からんやろけどな、自分を可愛がらんでどないすんのや。わしなんぞ、自分が可愛いてしょうがないわ。お前を離しとうなかったんも、自分が可愛かったからや。安喜子を思い出してええ気分やった」
 理解ができずに矢田を見ると、矢田は、顔は厭らしいナニワのおっさんのまま、目には妙な穏やかさを湛えて笑っていた。
「わしはな、ほんまに安喜子が好きやったんや。愛人の一人やて、軽う思てたんとちゃう。まぁ、こんなことお前に言うてもしょうがないから、言わんかったけどな」
「俺を、借金の形に抱いてたんじゃ……」
「借金?」
 矢田は拓を見てしばらく呆然としていたが、やがて大きな声で笑い出した。
「あほか。お前んちの借金なんぞ、お前の親父と安喜子の保険金でチャラになっとるわ。わしはお前が可愛いて抱いとったんや。車も服も、マンションも、お前を抱く代償に出してやっとったんや。安喜子にしてやれんかったことも含めてな。もっとも、お前は車もマンションも結局突き返しよったし、服は刻んでサンドバッグに詰め込みよったらしいけどな」
 なんでそんなこと知ってるんだろう、と思ったが、それよりも他の驚きの方が大きくて、拓はまだぽかんとしたままだった。
「はよ、篠原宗輔のところに行ったれ。もっとも、マンションに入れるかどうか知らんけどな」
「え?」
「こんなもん書かれてみ、今頃あいつのマンションは記者どもに囲まれとるやろ」

 矢田との関係、矢田とのこれまでのこと、矢田と母親のこと、あれもこれも検証する余裕はなかった。矢田は、ほなわしは寝ていくわ、と拓を箱のようなホテルの部屋から追い出した。もっと上等な部屋に泊まればいいのに、と言ったら、あほくさい、誰が東京の馬鹿高いホテルに金なんぞ落としてやるか、と答えた。もしかしたら、拓のことをいい加減に扱っていたのではなく、矢田が金を出す価値があると判断する基準によっていただけなのかもしれない。
 そして、矢田の言った通り、宗輔のマンションの周りには、それらしい人影がうろうろしていた。ちょっとでも近づこうとすると、さっと自分を見咎める視線が突き刺さる。何度か意を決して近づこうとしたが、そのたびに足が止まった。
 そのうち、うろうろする小汚いザックを担いだ若者に対する連中の興味に火をつけてしまったら大変なことになるかもしれないと思い始めた。もう一つのスキャンダルの火種に自分がならないという保証がない。
 しかも、俺、宗輔の電話番号知らないんだ。
 そのことに初めて気が付いた。携帯電話には赤沢ジムといくつかのバイト先、矢田の電話番号しか入っていない。
 さんざん遠巻きにうろうろして、強行突破を考え始めた時、誰かに腕をがっしり掴まれた。拓はしまった、と思いながら、恐る恐る振り返った。
「君、さっきからうろうろしてるけど、もしかして宗輔の知り合い?」
 そこに立っているのは、拓に負けずとも劣らぬ安っぽい古い服を着た、黒縁メガネの冴えないぼさぼさ頭の男だった。年寄かと思ったが、よく見ると肌の艶はまだまだ若々しい。となると、年は宗輔と変わらないくらいなのだろうか。
「だったら何だよ」
 いや、こんな感じの記者もいるかもしれない。そう思って言葉を飲み込んだ。
 冴えない男はしっと口に指をあてて、周囲を窺い、拓をマンションからは見えない陰に引っ張っていった。
「どうやら強行突破は難しそうだ。電話は留守電のままだし、携帯にも出んし、仕方がないのでマンションのベランダにぴぃちゃんを送り込んだが、返事がない」
「ぴぃちゃん?」
 なんだ、この変な男は……
「鳥型ロボット……まぁ、伝書鳩みたいなもんだ。ベランダで変な音を鳴らすんで、窓を開けたくなっちまうはずなんだが」
「あんた、もしかして、お茶の水博士!」
 拓の中で、宗輔の友人で変なロボットを作っている男の名前は、勝手にお茶の水博士になっていた。
 状況を忘れて大きな声を出したら、冴えない黒縁メガネ=お茶の水博士に口を塞がれた。掌は思ったよりも大きくて、焦げたような臭いがしていた。
「声がでかいぞ。ん?」そう言ってから、黒縁メガネはじっくりと拓の顔を見た。「何でおれを知っている?」
 お茶の水博士、の部分に突っ込みはないまま、黒縁メガネ男は拓をしみじみと眺めた。
「とりあえず、この囲いを突破したいと思っている仲間であることは確かのようだ。君、一緒に作戦を練ろう」
 何が何だか分からないままに、拓はお茶の水博士に引きずられて、いったんマンションを離れた。離れ際にもう一度見上げた宗輔の部屋は、厚くカーテンが引かれたまま、遠くからでも人気がないことが分かるようで、寂しく悲しく拓の目に映った。
 宗輔……
 叫びだしたいような何かが喉の奥に閊えていた。

(【炎の記憶・海の記憶】後篇-1 了)


 しかし…蘭丸くんにぴぃちゃん…どんな命名なんでしょうか、アトムさん…

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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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コメント


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今晩は~^^

またも紹介して下さり、ありがとうございます^^
稚拙画ですが、喜んでいただけて何よりです><///

今回は拓くん目線で、心のうちが見えて楽しかったです!
素直になれない拓くんが、もう可愛くて!
矢田さんとの関係も言えないって、やっぱり好きだからなんでしょうね~。なのに無自覚。そこがまた拓くんらしくて凄く好きです^^

確かに闘う男って、孤独じゃないと失う事が怖いというの、すんごく分ります。
でも、愛するものが出来た時に、護ろうとするから強くなれるって事、まだ知らないんですよね。
青い果実だわ、うふふ~←

そして気になって宗輔さんの所に足が向いてしまう拓くんに、思わず「素直になりなさいよ!」とツッコミを入れてしまいました(笑)

でも、これからどんな事が待ち受けているのかと思うと、ドキドキ、ハラハラです><

続きも楽しみにしてます^^
それではまた!

竜樹 #JR2FpEI6 | URL | 2013/03/22 22:53 [edit]


竜樹さん、ありがとうございます

いえいえ、もう本当に、竜樹さんのおかげでこのシリーズは生きております。
こちらこそ、ありがとうございます、です(^^)
それにイラストはもう、本当に嬉しいですヽ(^o^)丿
そう言えば、昔、高校生~大学生ころは行きがかり上、下手な絵も描いていたような気がしますが、今やすっかり、仕事であるものの模式図を描きまくったり、アンパンマンを描いたり?する程度だなぁ…と。
しみじみ絵を眺めさせていただきました。
そもそも、絵がどのような素材とかで成り立っているのかすら謎だわ、と思いながら。
一度、過程を教えてください。
ちなみに、本当に嬉しくて、拓くんを携帯のメール送受信の待ち受けにしました(#^.^#)
メールを送る度に、拓くんに睨みをきかされ、送信に時間がかかると、妙に幸せ(*^_^*)

宗輔視点よりも拓視点は書きやすいです。
多分、単純だから?
態度に出てなくても、気持ちは単純なんですね。
ただ、男としては認めるのが悔しい、って感じなんだと思います(^^)
今はまだ、自分を追い込んでるし。追い込まなくちゃならない、って思いが強すぎる。
それに、少しは過去にも関係があったりします。
でもこの子は、きっとここを抜けたら、ものすごく前に進めるんじゃないかと思う。
教師とか、向いてるんじゃないかと思っているのです。
GTO!って感じですかね。

一方、宗輔はまだ、何か隠しているような気がしてなりません……
大人である分、ずるさも、必死で乗り越えてきたプライドもあったりするんですね。
で、社会の中ではそういう『大人の』闘いに身をさらしているので、アトム氏の存在は大きいんじゃないかと。アトム氏はもう真反対な人なんだろうけど、お互い、だからこそうまくやれてるし、なくてはならない友人。

でも、私としては、実はちょっと矢田のおっちゃんが気に入っています。
まさに『ナニワな』おっさんを書きたくて、またやってしまったのです。
(実は、相川真シリーズに、もうちょっとあくどいナニワなおっさんが出ておりまして…はい、正直言って、おっちゃんキャラは好きなんです。)

楽しんでいただけて、とても嬉しいです。
多分、この第3話はろくなEROシーンはないと思いますが、竜樹さんがキスすらなかったというチャレンジャーな投稿をなさったとお聞きして、なんだか、よし!という気持ちになりました。
これでも一応BLでいいんだわ、と。

またまた次回をお楽しみに(^^)

大海彩洋 #XbDIe7/I | URL | 2013/03/24 21:11 [edit]

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