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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【Time to Say Goodbye:3】炎の記憶・海の記憶(後2) 

炎の記憶・海の記憶(後篇-2)をお届けいたします。
今回はもう全く、18禁の欠片もない、BLでもなくなって、悩める青年の物語になっておりますが……
悩みながらもうまく飛び立ってほしい、拓も宗輔も、アラタくんも。
アトム氏はどうかって? 彼はもう、はなから自由ですから。





 さっきからお茶の水博士は納得がいかない様子で拓を見つめている。すでに日が落ちていて、車や駅の照明の加減で無精ひげが翳ったり、照らされたりしている。
 駅前のドーナツ屋の店内には、さすがに高級住宅街の近くだけあって、馬鹿みたいに走り回る行儀の悪い子どもはあまりいないようだった。その分静かで、自分の言葉に恥ずかしくもなってくる。
「だからさ、ちょっと話があって……」
 お茶の水博士、いや、さっき名前を聞いたところによると斎田アトム氏が納得がいかないのは、拓と宗輔の関係と訪問の理由のようだった。一応、宗輔が通っているスポーツジムのインストラクターという数年前の職業を言ってみたのだが、そのあたりからアトムは何かが引っかかるようで、表情が微妙になって、ただ探るように拓の顔を見ているのだ。
「つまりその、そう、えっと、サンドバッグの……手入れが……」

 この男は確かに宗輔の友人だと聞いているし、悪い人物ではないと思うのだが、宗輔が拓との関係を打ち明けているかどうかは分からない。そもそも、恋人が同性であるということについて、つまり宗輔がホモセクシュアルであるということについて、この男が知っているかどうかも分からない。だから探るような言い方をしてしまったことで、何らかの疑いを抱かれてしまったようだ。
 そもそも拓は、あの高級マンションに似合う格好ではない。それを言うと、アトムも随分よれよれの服を着ているし、似たようなものなのだが、もしかしてスクープ狙いの記者とかカメラ小僧と思われているかもしれない。
 どうしようかと思っていると、アトムが徐に口を開いた。
「宗輔はもう二年も前にジムは辞めているはずなんだが」
 え? と思ってから、改めてアトムの顔を見る。

 ロボット馬鹿とは聞いていたものの、さすがに親友のことはよく知っているらしいし、心配もしているのだろう。時が時だけに、万が一にも変な奴を宗輔に近付けるわけにはいかないと用心している気配も感じる。
 それに、宗輔が『シャングリラ』をやめたというのは初耳だった。やはり、自分は宗輔のことを何も知らないのだ。
「えっと、だから……個人的に……」
 自信を持って堂々と始めから嘘を言っていれば良かったのかもしれないが、嘘をつくとどうしても辻褄が合わなくなるし、しどろもどろになる。『シャングリラ』に勤めているときは、あんなに歯が浮くような適当な褒め言葉を並べることができたのに、そういう虚飾の世界を離れた途端、取り繕うための器用さまで失ってしまったようだ。
 本当は、宗輔の電話番号を教えてくれとか、他に行きそうなところを知らないかとか、さっさと聞いてしまいたいのに、今の状況では逆に怪しいと思われて疑いを大きくするばかりのように思える。
「で、もう一度聞くけど、何で宗輔を訪ねてきたんだっけ?」
 このおっさん、結構意地悪なんじゃないのか、と思う。いや、結局は試されているのかもしれない。
「だから、ちょっと話が……」
「あの週刊誌を読んだからか」
 拓は息をついた。宗輔に聞いておくんだった。親友にカミングアウトしているのか、と。
「そうだよ。もしかして首でも括ってたら大変だと思って」
「首を括る?」
「自殺……とか……」

 しばらくアトムは不可解なものを見るように拓を見ていたが、何か思いついたように、にやっと笑った。英語の教科書で見た、何とかいう猫みたいだった。
「あのな、宗輔はそんなタマじゃない。高校の時、横暴で暴力的な先公がいた。そいつにいつもターゲットにされていた気の弱い大人しい生徒がいてな、他の生徒はそいつがいるおかげで自分は攻撃から逃れられるってんで助けてやろうともしなかったんだが、宗輔の奴は違っていた。ある時、その先公の横暴を録画して授業中に視聴覚室で放映しやがった。怒り狂う先公に言い放ったもんだ。これをもっと公の場に出すことだってできるんだ、ここで収めた方がほうがいいんじゃないかってな。脅しだよ。で、今度は、その気の弱いやられっ放しの生徒が宗輔に子分にしてくれと言ってきた。徒党を組むのが嫌いなあいつは、そいつに言った。俺は友人は選ぶ、子分が欲しいわけじゃない、頼ってばかりいないで自分の力で何とかしようとするところを見せろってさ。ちなみに、そいつは今若くして市会議員だ。いいか、あいつは不条理とは闘う男だ。ただし、とことんまで追い込まないように計算する頭も持っている。こんなバカげたことで首を括ったりはしない」

 不意に、宗輔のことを何でも知っているこの男に無性に嫉妬した。
 そんな宗輔の昔のことなど何も知らない。どんな学生時代を送り、どんなふうにしてパティシエの道に進み、会社を興し、そして何故あんなふうに魘されていたのか。週刊誌に書かれていたことが本当なのかどうかも知らないし、宗輔が行きそうな場所の心当たりのひとつもない。そもそも、宗輔とこれまでどれくらいの時間を共有してきたというのだろう。身体を繋げて、お互いの距離がゼロになるまで近づいた相手だからといって、そのことが何になったというのだろう。
 拓は唐突に立ち上がり、しばらく何か言おうとアトムを睨み付けていたが、何故か急に泣きそうになってしまい、慌ててザックを担いで店を出た。
「おい、君」
 ドアの閉まる音とアトムの声が被さり、ついでに店に入りかけた男にぶつかって悪態をつかれた声も重なって、しばらくの間訳がわからなかった。

 安アパートに帰ってからも、気持ちが落ち着かなかった。玄関で素っ裸になって、脱ぎ捨てた服をそのまま放置して、狭いユニットバスでシャワーを捻った。いきなり冷水を浴びて、ガスの点火をしていなかったことに気が付いた。冷たい水で濡れた頭も馬鹿みたいで情けなく、シャワーを止めると、そのままバスタブにしゃがみこんでしまった。
 声を出して泣いたのは、久しぶりだった。
 泣き方を忘れていたのでないかと思うくらい長い間、泣いたことがなかった。
 しばらくはリングにも立てない。何より立てるような気がしない。宗輔にも会えない。第一、連絡先も分からない。矢田も、もうこれからは一人の力で答えを出せと言っていたのだろう。
 でも、一体、いま俺の手に何が残っている?
 

 河川敷は今日も馬鹿みたいに明るい。
 結局、昨夜はあのまま毛布に包まって眠ってしまった。寒くて凍えそうでも、人間は意外に頑丈で、鍛えた身体は簡単に風邪などひいてくれない。風邪でも引いて熱が出て、寝込んでいたら何となくかっこいい気がしたが、上手くはいかないものだ。朝になって身体を起こしたら、妙にすっきりしていて、逆に腹が立った。それなりに腹がすいていることに、また馬鹿馬鹿しくなった。
 お茶の水博士の言う通りだ。
 宗輔は大人で、一人で何でもできる。目の前に転がっている問題を解決するなんてことは当たり前のことだ。拓が心配したり、手を貸したり、少なくとも自殺するんじゃないかと心配することなど何もないのだ。
 起き上がり、熱いシャワーを浴びて、コンビニに寄って菓子パンと牛乳を買い、ぶらぶらと歩いてここまで来た。
 今日は休日なのかもしれない。
 河川敷の向こう岸の小さなグラウンドで、少年野球の練習をしている声が、ここにまで響いてくる。犬をのんびりと散歩させている家族連れ、下手な管楽器の練習をしている数人の若者、ジョギングをする若い男女。川面には光が飛び跳ねている。
 何曜日かということも分からないなんて、本当に世間ずれしている。

「なんで、はしらないんだ」
 いきなり声を掛けられて、拓はパンを咽喉に詰まらせそうになった。咳き込みながら振り返ると、昨日声をかけてきたあのアラタと呼ばれていた少年が立っていた。
 ちょっと太めの身体を、緑のセーターと赤茶色のぼてっとしたズボンでくるんだという感じの格好で、少しぷっくりした頬は風に当たったせいなのか、赤く寒そうに見える。
 周囲を見回したが、今日はあの母親の姿がない。
 ぼんやりしていたからか、何を聞かれたのか分からなくて、しばらく頭の中でばらばらの文字を転がしていたが、ようやく何故トレーニングをしていないのかと聞かれたのだと気が付いた。
「今日はいいんだ」
 ふーん、と言いながらアラタは拓が食べかけていたパンを見ている。腹をすかしているのだろうか。
「食うか?」
 少年はびっくりしたような顔になり首を横に振った。
「じゃあ、座れよ」
 何だか横に立たれて見下ろされていると、相手が子どもでも気分のいいものではなかった。今度はアラタは素直に横に座った。
「今日はお母さんは一緒じゃないのか」
 うん、とアラタは頷く。一人で出歩いてもいい年なのかどうか、拓には判断が付かない。どの辺りに住んでいるのかもわからないが、少なくともそう遠くではないのだろう。

「なんで、いつも走ってるんだ」
「え?」
 あまりにも単純な問いかけに、拓はまた意味が呑み込めずにしばらくぼんやりとアラタを見ていた。何で、などと考えたこともなかった。強いて言えば、トレーニングだから、としか言えないのだが。
「おもしろいからか」
 なるほど、そう言われてみれば、そんな気もする。
 走って身体を鍛える。時に立ち止まり、シャドウをしながら、風と闘ってみる。馬鹿みたいに単調な繰り返しだけれど、嫌だと思ったことはない。
 突然、アラタが両拳を握りしめ、しゅっしゅっと小さな声を出して左ジャブと右ストレートを打った。ちょっと太った体で、決してシャープで機敏な動きではなかったし、どちらかと言うと無様なところもあったのだが、技の特徴的なところはよく掴んでいた。
 その動きを数度繰り返し、さらにダッキングやウィービングといったディフェンスの技も真似てから、アラタが拓を見る。
「これ、なにやってるんだ」
 なるほど、アラタはいつも拓を見ていたのだ。あれだけガン見していたのだから、いつの間にかボクシングのパンチの出し方を自然に覚えてしまっていたのだろう。それにしても、何だか分からないままで、随分と正確に真似たものだ。
「ボクシングだよ」
「ボクシング?」
「うん……とまぁ、殴り合うスポーツだ」
「なぐる? 誰と?」
「だから対戦相手とだよ」
「テキ?」
「うーん、まぁ、敵かな」
 興味があるのだろうか。
「やってみるか?」

 そう言って拓が立ち上がると、頷いたアラタも立ち上がった。簡単にステップとジャブ、ストレート、フック、ダッキングとウィービングを教えた。不器用ながらに一生懸命やっているのが、ほほえましい気がした。
 へぇ、面白いものだな、と思いながら、懐かしい光景を思い出した。
 父親が現役だったころ、こんなふうによく拓にボクシングを教えてくれた。ロープを飛ぶ回数を数えたり、飛び方を色々教えてもらったり、パンチもディフェンスもあれこれ教わった。将来何になるのと人に聞かれたら、必ずお父さんと一緒、と答えていた。
 拓ちゃんはお父さんが好きなのねぇ、といつも大人たちに言われた。
 母親は、ボクシングなんてお父さんだけで十分と言いながら笑っていた。まさか自分の夫があんなふうに変わってしまうとは思っていなかった頃のことだ。
 アラタの一生懸命な顔を見ていたら、幼かった自分の影が重なって、懐かしく、くすぐったくて、そしてまたひどく切ない気持ちになった。それでも、いつの間にか拓の方が教えることに一生懸命になっていた。

 そんなふうに半時間ほどアラタと一緒に遊びながらシャドウをし、河川敷を走っていたら、向こうの方から泣き叫ぶような女の声が聞こえた。
「アラタ! 何やってるの!」
 アラタは突然、ネジが止まった人形のようにがくん、となった。それから一瞬、拓の後ろに隠れるようにしたが、無駄だと分かっていたのか、すぐに母親が走り寄ってくる方へ歩き始めた。
「勝手にいなくなって! 心配するじゃないの」
 何も言わずに出てきたということだったのだろう。母親は拓に気が付くと、すみません、と言うように頭を下げた。拓も頭を下げた。アラタがバイバイ、というように手を振った。


 そして次の日、何もすることがない拓が同じ時間に河川敷に行くと、アラタが待っていた。その次の日も同じだった。
 まる二日、ろくにトレーニングもしなかったが、アラタと遊びのような時間を過ごすことでストレスの発散になっていた。よく考えてみたら春休みなのだ。気になってアラタに宿題はないのか、とか、また母親に黙ってきたんじゃないのか、とかいろいろ聞いてみたが、アラタはうんなのかううんなのか、よく分からない首の振り方をするので、結局わからないままだった。
 あれ以来アラタの母親とは会っていないので、アラタがちゃんと母親に行先を告げてやって来るようになったからなのか、それともきっかり半時間で帰っていくところを見ると、母親がここにたどり着くまでの時間を上手く計算しているのか、拓には分からないままだった。

 少しずつ足元に春の気配が膨らみ始めていたが、まだ風は肌に冷たかった。
 あれから何度か宗輔のマンションの前を通ってみたが、数は減ったものの、相変わらずちらちらと誰かの影が見え隠れしていた。見上げると、窓には常にカーテンが引かれたままで、電話番号も知らない拓にはなす術はなかった。それに、もしかして宗輔のほうが拓を訪ねてきてくれたりしないかと、ほんの少し期待もしたのだが、そもそも宗輔が自分のアパートを知っているのかどうかもよく分からなかった。
 この二日間で、体重が必要以上に落ちた。他のことでは変わらない生活をしていたが、食事だけは極端に減っていたからだろう。腹もすくものだと思っていたが、それも朝だけで、昼からは全く食欲がなくなった。危ないと思って、意味があるのかどうかわからないが、コンビニでプロテインだけは買って飲んでいた。
 三日目には拓はトレーニングを再開した。朝、鏡を見て筋肉が落ちていることを感じたら、何となくおっかなくなったのだ。何度かジムの前までは行ってみたのだが、まだ赤沢の前に顔を出す勇気はなかった。何と言えばいいのか、心が決まっていない。

 五日目、拓は河川敷をいつものように走っていた。
 その日は曇っていて、風もきつかったし、冬のような寒さに戻っていた。開き始めていた桜の花は、いったん休むかのように風に身を縮めているように見えた。
 さすがに今日はアラタは来ないかな、と思ったら、ちょっと寂しいと感じた。そして住んでいる場所も、苗字も知らない子どもに対して、寂しいと思っている自分の感情に驚いた。気が付くと、いつの間にかちょっと太っちょのアラタの姿を探している。
 その時、ふと河川敷に立っている女性に気が付いた。
 拓は足を止め、相手が頭を下げたので、自分も頭を下げた。

 アラタの母親だった。
 傍にアラタの姿はない。
 どう反応していいのかわからないまま、拓が立ち止まっていると、アラタの母親の方から拓に近付いてきた。少なくとも、いつもアラタの遊び相手をしてくださってありがとうという言葉が期待できるような友好的なムードではないことだけは確かのようだった。
「スエナガと申します」
 硬い声だった。どう返事するものか分からず、拓はとりあえず頷いた。アラタの母親は強張った顔のまま、風で揺れるカラスノエンドウやホトケノザを見ていたが、やがて顔を上げた。
「アラタに妙なことを教えるのは辞めてください」
 精一杯、押さえた声だった。
「妙なことって……」
「あなたは、アラタのことを何もご存じないのに、余計なことをしないで欲しいんです」
 何を言われているのかよく分からなかったが、要するに、ボクシングを教えたことがよくなかったということなのか。
「僕は別に……」
 アラタの母親はまだ何か言いたいことがありそうだったが、もちろん拓に対して怒りをぶつけるのは間違っているということを知っているとでもいうようで、拓に伝えるべき最低限の言葉だけを決めてきたふうに見えていた。

 拓が事情を確認しようと口を開きかけた時、彼女は深く頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。何かを解決しようと思っていたのに、それがどうにもならないことに気が付いて、諦めたかのように見えた。
「ちょっと待ってください。何か、僕が悪かったのなら謝ります。でも……せめて、何が悪かったのか教えてください」
 しばらく、アラタの母親は拓に背を向けたまま立ち止まっていた。肩が微かに震えているように見えて、拓は思わず緊張した。
 吹き付ける強い風が、拓とアラタの母親の間を割くような気がした。
 そして拓は、ぐっと拳を握りしめた。
 風の音が拓の耳を塞いでいる。

 あの時も、そうだった。
 窓ガラスを割るかと思うほどの強い風が吹き付けていた。だが、凄まじい破壊音は現実のものだった。何かを怒鳴っている父親の声、床で砕け散っていた皿や茶碗の欠片、座り込んでいる母親の額からは血が流れて床にしたたっていた。拓は半分寝ぼけたままで台所の入り口に立っていた。ママ、と呼びかけた時、恐ろしい顔のままで父親が拓の方にやってきた。拓の目には立ち上がった母親の背中が見えていた。
 その肩が震えていた。
 振り返った母親がどんな顔をしていたのか、もしかすると拓はそれを見たのかもしれないが、記憶から追い出してしまっている。子どもながらに知りたくないことがあって、無理やり忘れてしまったのかもしれない。覚えている光景の中、拓の視線の先には、母親の手と暗い電球の光を鈍く跳ね返した刃があっただけだった。

「あなたは、何も知らないでアラタにあんなことを教えて。あの子は、良いことと悪いことの区別もつかないような子なんです」
 振り返ったアラタの母親の目は奇妙に冷たく、悲しく見えた。
 拓には言葉の意味が呑み込めなかった。
「お前は敵だと言っていきなりクラスの子を殴って、怪我をさせたんですよ。今までは、かっとして死ねとか言うようなことはあっても、手なんか出さなかったのに。こんなことになるのを恐れてたんです。だから、嫌われたりのけ者にされたりするのは仕方がないけど、加害者だけにはならないように何回も言い聞かせて、何とかやってきていたのに……学校からはもっとちゃんと病院で診てもらわないからだと言われて……何度も普通学級ではやっていけないと言ったはずだって」
「アラタは、病気なんですか?」
 目を開けていることが苦痛なほどの強風の中で、拓の声に被せたアラタの母親の声は、叩きつけるように強く大きくなった。
「変わった子だ、ちゃんと話ができない、頭がおかしいって思われてるんです。本当にゆっくり、何度も何度も言って聞かても、周りのこと、先生や友達の言っていることがちゃんと理解できないの! それでも、何とか頑張ってみんなと同じようにやってきたのに、あなたのせいでこれまで積み上げてきたことが無茶苦茶になったのよ。ただでさえ、友だちもいないのに、こんなことになって、あんな子、もう誰も分かろうとはしてくれないわ!」
 その瞬間、拓の中の何かが切れた。
 あんな子?
思わず一歩踏み出して、握りしめていたままだった拳を突き出しかけた、その時。


「ちょーっと待て!」
 声よりも、すごい勢いで飛び込んできた肩に、拓の中途半端な右手は簡単にブロッキングされた。もっとも、本気で殴ろうとした訳ではなかったし、自分でもまずいと思って足を引きかけたので、それほどの威力はなかったはずだ。しかも、そもそもこの距離ではアラタの母親には届かないはずで、さすがに拓も頭の隅でそれは計算していたつもりだった。だから、飛び込んできた肩は、距離の分だけいささか痛い思いをしたに違いなかった。
「いいか、相手は女性で、お前よりずっと弱いんだ。それに君はそんなことに拳を使っちゃいかん、絶対にいかん」
 髪の毛が、風のせいなのか、いつも以上にぐちゃぐちゃになっているお茶の水博士、もとい斎田アトムは、拓の両腕を掴んで、必死でそう訴えている。瞬間に沸騰したものの、次の瞬間には冷めていた拓は、むしろアトムの勢いの方に驚いていた。

 一方のアトムはすぐにアラタの母親の方に向き直り、その両手を取って握りしめている。アラタの母親も、拓に殴られそうになったことよりも、アトムの唐突な行動の方に驚いているように見えた。
「お母さん、お察しします。多分、私の母親も随分悩んだと思いますが、ひとまず私もこうしてそれなりに仕事をして、多少は社会の役にも立つようになっています。ご存じとは思いますが、アインシュタインもエジソンもスピルバーグも、おそらく坂本龍馬も、大事を成す人間はどこかしら、そういう社会的には障害を持っているとみなされてきたわけですが、それはあくまでも協調性の問題でして、要するに誰かよき理解者が一人いれば良いだけのことです。それに、意外にもこんな変人を気に入ってくれる奴ってのもいるもんでして、私もこれでそれなりにいい友人にも巡り会えました。もちろん、あなたが本気でおっしゃったのではないことくらい、私にはわかりますが、それは亀の甲よりも年の功ってやつでして、この真っ直ぐで言葉の裏を深読みできない少年にはちょっと難しかったようです。いや、つまりですね、この少年はアラタ君のことを気に入ってるんですね。でもって、アラタ君もですね、きっとこの少年を気に入っているわけです。ちょっと間違った方向に行ったかもしれませんが、そんなことは我々が皆で知恵を出し合えば解決できる問題であるわけですよ」
 早口でそこまでまくしたてたアトムに、アラタの母親は完全に毒気を抜かれた状態になっていた。それから突然、彼女は草地にへたり込んだ。風が彼女の髪を掻き乱れさせ、それからいつしか慰めるように穏やかになった。
「ごめんなさい。あなたのせいじゃないのに。誰にも、わかってもらえなくて」

 こんなところでは風邪をひくからと、アトムに促されて、拓も一緒に近くの住宅街の中にある喫茶店に入った。どういう顔をしていいのか分からなくて、拓は押し黙ったままついて行った。
店内にはほかに客はなく、背の高いちょっと男前の中年男性が、客に必要以上に絡まずに静かにコーヒーを淹れてくれた。ブラジルサウダージという名前の濃いめのコーヒーの匂いと、聞いたことのない控えめな異国の音楽にほっとした。
 ぽつりぽつりとアラタの母親は言葉を綴った。
 アラタがアスペルガー症候群という発達障害だと言われていること、コミュニケーションがうまくできないことや行間を読めないことが特徴である発達障害で、感情のコントロールが難しいために他人との間にトラブルが多く、かっとして攻撃的になることもあるらしいこと、病院にちゃんと行けと言われたが自分の子どもがそういう結論を下されることが怖くて行っていないこと、夫は全く相談に乗ってくれず一人で悩んでいること、姑からはお前の育て方が悪いと言われていること、アラタはいつものけ者にされているが、本人が苛められているという意識が乏しいので学校には行っていて、それが却って可哀そうであること……

 それに対して、どうやら自分もそうだという自覚があるらしい斎田アトムは、かっとして攻撃的になるのはアスペルガーという病気のせいだと決めつけられていいものではない、むしろ子どもなんて大概そういうもので、世の中の男の半分以上はマザコンでコミュニケーションが下手で行間が読めない、病気だというならみんな病気だ、と説明していた。そして、大事なのは誰か信じてくれる人がいるということなのだ、と。
 アラタの母親が話を聞いてくださってありがとうと言って立ち上がった時、拓も思わず立ち上がっていた。
「あの、アラタとあなたが良かったら、今度はちゃんとボクシングを教えてあげてもいいですか。その……人を殴るための技ということじゃなくて、自分自身を鍛えたり励ましたり、自信を持って生きていくための技なんだってことを……」
 アラタの母親はしばらく答えずに拓を見つめていたが、少しだけ微笑んで頭を下げ、アトムにも礼を言って、店を出て行った。店の外で、彼女はもう一度頭を下げていた。拓の申し出をどのように感じたのかは分からなかった。あの人はまだこれから、目の前にある色々なことを悩み、アラタもまた、色々な問題を乗り越えていかなければならないのだろう。


「さてと、少年」
「俺は少年って歳じゃない、お茶の水博士。だいたい、あんなタイミングよく現れたってのはどういうことだよ。まさか、あんた……」
「俺も博士ってほど偉くない。君の想像通り、この何日か君をストーキングしていた。どうしても君のことが気になってね。いや、まったく、ロボットよりも面白い人間が宗輔以外にもいるとは思わなかった。葛城拓くん、赤沢ジム所属、やたらと攻撃的で野生的なフライ級のプロボクサー、このところ悩みがあるようで、俺がストーキングしていることにも気が付いていなかった。ただ少なくとも宗輔を嵌めようとしている記者でもカメラマンでもない。本人は気が付いていないらしいが、子どもは嫌いじゃないし、それに結構おせっかいで、火が付きやすい。ただ今ひとつよく分からないのは、君は宗輔とどういう知り合いかってことだ。ひょっとして宗輔のストーカーなのか」

 確かに、この斎田アトムは行間を読めないし、適切なコミュニケーションを目指して人の心を読むってことはできない人間らしい。もちろん、拓にも同じようなところがある。いや、人は多かれ少なかれ、そういうところを持っている。人と人が分かり合うために、ただ見つめ合っただけでいいというのは理想かも知れないが、本当はやはり言葉が大切だ。宗輔との間に欠けていたのは、お互いを知るための努力だったかもしれない。たとえ不器用でも、不器用なりに言葉を尽くせば、一歩ずつでも前に進むことができるはずなのに。
「あのさ、人のこと付け回してて、よく言えるよな。言っとくけど、俺はストーカーじゃないからな。宗輔にだって、親友のあんたにも言えないことがいっぱいあるんだ」
 アトムはしばらく拓の顔を見つめていたが、やがて何か勝手に納得したような顔で頷いた。
「俺は宗輔のことは結構知っているが、何もかもを知る必要はないとも思っている。けど、宗輔がいなければ俺は困るし、宗輔も俺がいなければ困る、そういう関係だ」
 俺だって、と言いかけた言葉は、咽喉元に引っかかってしまった。

 何だよ、知っているということや、信じ合っているということがそんなに大事なのかよ。いや、大事なのはわかってる。でも、ちょっとばかり宗輔のことを知ってるからって、色々悩んでる俺に対して自慢しなくてもいいだろう。
「あんたって、やっぱりやな奴。変なロボットで俺の頭にチョコレート爆弾落としたり、蹴り入れたり、指かぶったり……次から次へとしょうもないもの考えやがって」
 言いかけて、拓はしまった、と思った。案の定、アトムは少しの間、彼にとっては難しいという裏読みを試みているような顔をしていた。
「君、まさか、蘭丸くんに指をかぶられたのか? いや、つまり……」
「蘭丸くん?」
 まさか、あの変なおかっぱ頭の態度の悪いロボットの名前か?
「そう、お茶運びからくり人形改良型、チョコレート食わなきゃキックするぞプログラムを組み込んだ、人呼んで……」
 あぁ、もう面倒くさい。
「そうだよ。言っとくけど、あれはやり過ぎだ。はっきり言って、むちゃ痛かったんだ。もうちょっと力加減ってものがあるだろ。ロボット作る時は考えろよ」

 途端に、アトムが食いつくようにテーブルに載せたままの拓の手を掴みとり、息がかかるほど近くに引きよせてまじまじと見つめた。
「何だよ!」
「そうか、君か。君だったのか。いや、君、ぜひとも俺の研究に力を貸してくれ」
 えーっと、これって肝心なことが伝わってるのか、と疑問には思ったものの、アトムの中の拓への疑いはめでたく晴れたようだった。
 拓の手を放したアトムは、やがて真面目な顔になって、ふと視線を喫茶店の隅に向け、立ち上がった。そして積まれた雑誌から一冊を取り上げ、戻ってくるとテーブルの上に置いた。
 拓は表紙を黙って見つめ、それから顔を上げた。
「君が宗輔の大事な人だということが分かった。つまり、あいつが俺に特別なロボットを注文したのは初めてだった。それも、バレンタインのための、しかも二年続けて。あとは、君がどうしたいか、なのだが」
 ぼさぼさ頭の冴えない風体の男が、きわめて真面目な顔で拓を見下ろしている。拓はもう一度雑誌の表紙に目を向けた。表紙には、『クラブシノハラの青年社長、真実を語らないまま失踪か!?』という見出しと、硬い表情の宗輔の写真が、まるで悪人を断罪するようなムードで貼り付けられていた。
 何だか悔しくてたまらなかった。こいつらは宗輔の何を知っていて、こんなことを書いているのか。殴り合うボクシングよりも、よほど下品でたちが悪いと思った。

「驚かないのか?」
 馬鹿げた文字を見つめたまま、拓は尋ねた。
「何に? 宗輔の恋人が君だってことにか? いや、宗輔がそういう人種だってことにか?」
「知ってたのか?」
「いや、そんな話を宗輔から聞かされたことはない。だが、それは俺にとって大きな問題じゃない。そんなことで俺の中の宗輔の存在の意味も形も変わらないからな。今、俺にとって問題なのは、君があいつの苦しみや抱えているものを聞いて、その上であいつを支えたいと思うかどうか、なんだ」
 そう言いながら、アトムはもう一度拓の前に座った。
「俺は宗輔の友人だが、運命共同体ってわけじゃない。いつでも傍にいて宗輔を支えるという存在でもない」
「俺だって、女みたいに宗輔と一緒にいたいわけじゃない」
「そりゃそうだ。でも、宗輔だって片羽根じゃ思うところへ飛んでいけないさ。そうだろ?」
 拓はようやく顔を上げた。

(【炎の記憶・海の記憶】(後篇-2)了)


次回、最終回です。宗輔と拓、ちゃんといいところへランディングさせてあげたいです。
アラタくんのことも含めて、拓が自分の道を歩けるようにもしてあげたいです(^^)
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Category: Time to Say Goodbye(BL)

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コメント


いい作品ですね~♪

彩洋さん、こんばんは!

昨夜から今夜にかけて、こちらのTime to Say Goodbyeシリーズを読ませていただきました。

彩洋さんのお話作りのセンスが光る、実にいい作品ですね!
まずBL視点で感想を言わせていただくと、野獣系でありながらストイック性を保つ受けキャラと、セレブ系かつヘタレ傾向を併せ持つ攻めキャラという組み合わせが実にナイというスでした。

しかも、それぞれが属する世界がボクシングとお菓子業界というまったくもって異種なるものなのに、違う世界感を持って絡み合う二人の描かれ方がとても新鮮で、「わあ、こんなBLもあったんだ!」と感激することしきりでしたよ(*'▽'*)♪

また、連作を通して二人の恋愛模様だけでなく、生き方そのものにまで言及されていくストーリー展開はすごくドラマチックで面白く、非常に私好みでした。ほんとに、お話を読んでいるうちにこの作品の虜になっちゃいましたよ。そして、あれよという間に私の中では拓と宗輔が実際にいる人物のようにイメージされてきちゃいました。
ここまで読者のイメージを喚起する作品に出会えたのは久しぶりで、本当に面白い小説を読ませていただいたことにただひたすら感激でした( ;∀;) カンドーシタ

また、アラタとアトム、矢田や二人の親といったサブキャラたちも、お話に深みを添えるいい陰影を出していますね。それに、発達性障害は私の研究分野でもあるので、アラタの今後の描かれ方には個人的に強い興味関心がありますよ。

この素晴らしい魅力に富んだシリーズがあと一話で完結と思うと寂しい気がするのですが、きっとそのラストも彼らの未来へ向かう良い契機になるものと信じて、最終話がアップされるのを楽しみに待たせていただきたいと思います。

今回も実に読み応えのある、珠玉の小説を読ませていただきありがとうございました。いつもながら彩洋さんの描かれる素晴らしい世界観に、心から感動しましたよ(*^_^*)

三宅千鶴 #- | URL | 2013/11/23 23:01 [edit]


千鶴さん、ありがとうございます(^^)

なんと、こちらを読んでいただいたのですね。しかも最終回を残して放置されている……^^;
頭の中でエンドマークをつけてしまったのが間違いですね。
このブログでBLを読んでくださろうという人はあまりいなかったし、更に私もこの分野には全く自身も経験もなく?、書いてみたものの撃沈したので、断念していました。
ただこの最終話だけは書かなくちゃと思っていたので、千鶴さんが読んでくださったのを契機に終わらせたいと思います。ありがとうございます。

それにしても、久しぶりに見てみたら、何と読みにくい文章!
BLらしいBLを書いてみようと試みて、わたしには無理ということだけが分かった、という作品でした。
何よりですね、ラブシーンが難しい……色気が全くないので、書いてみて諦めたのです。
しかもBLという分野では、ラブシーンをどうやって上品に、しかも色気たっぷりに書くかってことが大きな課題になると思うのですが、千鶴さんの書かれるように色気のあるシーンが書けなくて。

ただこれはもともとお題小説なので、シーンよりも、いかにお題を盛り込むかが大事だったので……
話が大きく展開したのは、ロボットの登場とアトム氏の存在ですね。これのせいで、まったくBLから外れてしまいましたけれど、楽しく書いておりました。
でも、読み返してみたら、「詰め込み型」が目に余るくらい発揮されていますね。
恋愛そっちのけで、親子の問題とか、発達障害の問題とか、大好きなボクシングのこととか、ガンガン詰め込んで、まさに読みにくい^^;
ただ、どんなお話でも、ついつい登場人物の背景をあれこれ書きこんじゃうのが癖で、これをもう少しシンプルにこなせるようになりたいのですけれど、説明してしまうのですね……
読みやすいものを書くように、また精進したいと思います。

> まずBL視点で感想を言わせていただくと、野獣系でありながらストイック性を保つ受けキャラと、セレブ系かつヘタレ傾向を併せ持つ攻めキャラという組み合わせが実にナイというスでした。
これは^^; そうなんですよ。もうこの組み合わせが自分では定番です。
BLという意味ではなくて、男2人が出てくると、このパターンになる……^^;
真と竹流も同じ構図なんです。(あら、言っちゃった……別に受けと攻めという構図ではないのですけれど)
ただ、同じ野獣系?でありつつも拓のほうが全然可愛いですけれど。多分、学がないというのか、ただ肉体派だからかもしれません。真は下手に竹流が理屈を教えたものだから、無邪気さはないんですよね……

そして、サブキャラたちを気に入っていただいてありがとうございました。
アトムは何だか、こんな人たち身近にいっぱいいるよな~というので書いています。
アラタは……もっと身近にいるので、具体的なモデルとかではありませんが、何か代弁してやりたくて。
> 発達性障害は私の研究分野でもあるので、アラタの今後の描かれ方には個人的に強い興味関心がありますよ。
そうなんですね。別の意味で、ゆっくりお話ししたいなぁと思いました。
これは実は、自分のリアル仕事にもかなり関わっていることでもありまして……
(これ以上はなかなか言い難いですが)

> この素晴らしい魅力に富んだシリーズがあと一話で完結と思うと寂しい気がするのですが、きっとそのラストも彼らの未来へ向かう良い契機になるものと信じて、最終話がアップされるのを楽しみに待たせていただきたいと思います。
うわ、ありがとうございます^^;
頑張ります。 千鶴さんって、乗せ上手・褒め上手で怖いわ^^;^^;
でも、とても嬉しいです。頑張りますね!

彩洋→千鶴さん #nLQskDKw | URL | 2013/11/24 09:21 [edit]

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