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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨30] 第4章 同居人の失踪(1) 

第3章あらすじ

 竹流の許可のもと、事務所の共同経営者で女子大生の美和は、竹流のマンションに泊まり込んでいる。実は彼女の恋人は事務所のあるビルのオーナーで、ヤクザなのだが現在タイに出張中。
 ある日、真が帰りの遅い美和を待っていると、電話が2本かかってきた。一つは竹流の無事を確認する男からの電話。そしてもうひとつは、真が付き合っている銀座のバーのママ・深雪のパトロンだという噂の代議士・澤田顕一郎の秘書からだった。澤田が真に会いたいと言っているという。
 美和の帰りが遅いので、事務所に行ってみると、事務所は荒らされていて、いくつかのどうでもいいようなフロッピーやテープ類が盗られていた。そこへ、ジャズバーの経営者・田安隆三のところに出入りしていた雑誌記者・楢崎志穂が現れる。先日、いささかけんか腰になっていたことを謝ろうと思っていたという。彼女から、『美和を見かけた、どうやら自分(志穂)と同じ男をつけていたらしい』という話を聞いて、志穂に事情を聞こうとするがはぐらかされる。一体何がどうなっているのかと思いながらマンションに帰ると、美和が戻ってきていた。
 美和は、竹流のところに面会に来ていた男のあとをつけていっていたという。そしてその男から、『下手に関わると危ないから手を引け』と言われたことを告げる。美和はその男と会ったことがあるような気がするのだが思い出せなくて気持ち悪い、と真に告げる。
 ちょっと昔話や恋愛談義(と言っても美和の一方的?)をしながらいいムードになっていた二人だったが、結局何もなく、終ってしまった。いささか美和のご機嫌を損ねてしまったようなのだが……翌日病院に行った真は、竹流に怪我の事情を問い詰めるが、結局相手にされず、何も教えてもらえない。
 事務所に訪ねてきた添島刑事からは、彼女がある筋から特別な仕事を任されていて、どうやらその件に竹流が関わっているらしいことを匂わされる。そして、そこには澤田や深雪も関係しているような気配が…もしかして、竹流の怪我と澤田が関係している? 澤田から接触があれば、知らせてくれと言う添島刑事は、最後にちらりと爆弾発言を残して去っていく。実は、彼女もまた、大和竹流の恋人の一人!
 添島刑事には澤田の秘書から連絡があったことを告げていないのだが、これが糸口かも知れないと思って、真は意を決して、澤田に会うことを決めた。
 一方の美和は、澤田の秘書らしい男が真を迎えに来たことに驚く。自分に何も教えてくれなかった真に憤慨しながらも、事務所の従業員、気の弱いヤクザ志望の宝田三郎、そして少年院上がりの高遠賢二に『真が誘拐されたからさっさと後をつけて』と言い残し、自分は竹流の病院へ。
 竹流は慌てる美和を窘めて、あっさりと受け流す。しかし、帰るふりをして見張っていた美和は、竹流が誰かと電話をしていて、『真が澤田に呼び出されたらしい』などと会話する声を聞いていた。
 やはり、竹流の怪我と、真の恋人・深雪のパトロンである澤田は何か関わっているのだろうか?


あぁ、頑張った。あらすじって大変^^;
では、お楽しみください。




 澤田顕一郎の顔をまともに見るのは初めてだった。テレビや新聞にあれほど出ているのに、できるだけ顔を見ないようにしてきたのだな、と思うと、どう言い訳してもやはり深雪の事で自分はこの男を恐れていたのだろうと思えてくる。
 真は澤田の秘書、嵜山の先導で静かな赤坂の路地の奥へ進み、一軒の料亭の暖簾をくぐって、心得たような女将と思われる上品な女性の案内で部屋に通された。
 綺麗に木々を剪定した中庭に面した縁側を歩くと、板の軋みを身体に感じる。やがて案内の女将がすっと優雅に座り、障子を開けると、六畳ほどの部屋でその男が真を待っていた。

 澤田顕一郎は座敷机の向こうに座っていて、ゆったりとした態度で真を迎えた。澤田の後ろの床の間に、掛軸の太い文字が立派な背景をつけている。
 覚悟はできていたつもりだったが、いざ本人を目の前にしてみると、一瞬にしても自分の手を握りしめていた。
 澤田が政治家としてどういうタイプの人間か、ある程度は分かっている。攻撃的、というほどではないが、尋ねられると是非をはっきりと言うタイプだったが、さすがに政治家だけあって、玉虫色の部分もきちんと使い分けていた。出世を考えていないのか、与党の中であまり派閥をはっきりさせずにグレイで通しているが、現首相のご意見番の一人と言われている。政治評論家やマスコミの一部が彼をじき将来の首相候補と言っているが、大きな派閥の後ろ盾もないので、それは無理だろうという意見が大勢だ。澤田はそういうことにはノーコメントで、聞かれない限りは自分の方から何かを強くアピールする気配はない。むしろ地域密着型、という姿勢を大事にしているのか、地元での人気は高いとも聞いている。
 だが、真にとっても、深雪の事が無ければ特に注目する政治家ではないはずだった。逆に深雪の事があって、直視するのを避けていたくらいだ。

 深いグレイのスーツに臙脂のネクタイを締めており、その髪には白いものが混じっているが、目元の鋭さは若者のものと変わらない。顎はしっかりと張っていて、若い頃からさぞいい男振りだったのだろうと想像される。無駄な毛の一つも残さずに剃られた頬も、骨がしっかりと張っている。清潔で潔白な政治家を演出する外観だった。
 真は奨められるままに澤田の前に座った。
 嵜山は一礼して襖を閉め、立ち去った。澤田はそれを悠然と見送り、真に自ら杯を差し出す。
 あまり飲めないので、とも言えず、真はそれを受け取った。澤田がお銚子を傾け、真の杯に酒を注いでくれる。淡々とした気配だった。
「よく来てくれた。まずは乾杯としよう」
 いきなり日本酒というのはどうだろうと思ったが、ここは自分に選択権はなさそうだった。やけくそな気分と緊張が手伝って、真は澤田に合わせて一気に杯を空けた。

「深雪が君には随分世話になっていると聞いている。礼を言うよ」
 一気に核心に話が滑り込んできたように思ったが、同時に妙な感じに襲われる。
 澤田にとって、世間の噂どおり香野深雪が愛人なら、彼女の存在を自らに結び付けて告白すること自体、スキャンダルの根源になる。真はそう考えて、多少落ち着いた気分になった。
 この男は馬鹿ではないのだから、それを認めないだろう。そのことで真を攻撃することは、彼自身の首を絞めるようなものだ。
 とは言え、今ここで澤田が何を言い、何をしようとも証言してくれる人はいないわけだ。安心している場合ではないかもしれない。
「あれは贅沢な女だ。愛だけでなくそれ以外のものを必要としている。だが可哀相な女だ。もっともそれにほだされると、抜け出せなくなるぞ。君も気をつけたまえ」
 真は澤田が注ぐままに酒を受けた。まだ返事ができないでいる。
「だが、君が本気になってくれるのなら、あれほどに値打ちのある女もいない」

 澤田からは整髪剤のいい香りがした。身だしなみも上品で物腰は穏やかだが、威圧感がある。七三に軽く分けて後ろへ撫で付けた髪は、白いものが混じっているとは言え、艶があった。
「まあ、今日はそんなことを話すために君を呼んだのではないからね。ゆっくり食事を楽しもう」
 楽しめないだろうという真の予想を裏切って、出てくる料理はどれも一流だった。澤田は飲むと陽気になる性質らしく、真が頼みもしないのに料理の解説をしてくれる。その食材へのこだわりとほれ込みと、料理の説明に手抜きのないところは、同居人と全く同じだった。
 そう考えると急に親しみさえ感じられるように思うが、そんなことを考えている場合ではなかった。それでも、真はここに入ってきた当初よりはくつろいだ気分になっていたし、多少入った酒のせいもあって、僅かだが警戒心は薄れかかっていた。
 澤田の料理解説を聞きながら奨められるままに箸を料理に伸ばしていると、酒もいつの間にか杯が重ねられている。
「深雪が君はあまり飲めないと言っていたが、そうでもないらしいね」
 冗談じゃない、と真は思った。つられて飲んでいるのか、負けじと思って飲んでいるのかはともかく、これは立ち上がれるかどうか不安な気がしてくる。その証拠に相手の輪郭がややぼやけ気味だった。
 それでも頭の隅で、深雪と澤田が自分の事を二人の間で話題にしていたのか、と考えて妙な気がした。

 やがて料理の大方が出揃って、最後に小さな碗で蕎麦が出た。それを食べ終えると、澤田がさらに真の杯に酒を注ぎつつ言った。
「私が深雪の話をするために君を呼んだと思っていたかね」
 真は答えなかった。そうとも思っていたし、そうでないとも思っている。
「多分、世間的な噂を信じれば、そう思うだろうね」
「噂? 香野深雪があなたの愛人ではないかという?」
 澤田は微笑んだように見えた。
「あんな愛人を抱えていては身が持たない」
「どういう意味ですか? 彼女のために、ホテルを一室借りているほどのあなたが」
「あのホテルは私の名前で借りてはいるが、金を出しているのは別の人間だ。私が使わないので、深雪に貸している。私と彼女が会うために必要な場所ではない。君と会うためには必要なようだがね」
 真は思わず緊張した。
「あなたの、つまり愛人ではない、と」
「さあ、どうだろうね」
 澤田は言葉を明瞭にはしなかった。それが深いわけがあってのことか、真をからかってのことか、すでに真の頭では判断がつかない。
「だが、今日君を呼んだのは、別の件だよ」
 料理が一通り済んだからか、この部屋にはもう誰も近づいてこなかった。

「どうかね、私のところで働かないか」
 真はさらに緊張してその言葉を受け止めた。やはり、添島刑事は世間話をしに来たのではなく、真に警告しに来たのだ。
 もしも、澤田が本当にあの出来の悪いハードボイルド小説のような話を信じているのだとしたら、まだ深雪の事でちくちくいたぶられるほうがましに思えた。
 真が返事もしないまま澤田を見つめていると、澤田は少し笑んで先を続けた。
「君の父上の事はよく知っている。大学時代、彼は私の二年下でね、学部は違ったが彼は有名人だったし、何より同じ剣道部だったから、いわゆる同じ釜の飯も食ったというわけだ。医学部に入りなおしていた彼の兄貴はその頃もう忙しくてあまりクラブには顔を出していなかったからね、彼は実質大学一、いや関東一の猛者だったんだ。頭の切れるいい漢だったよ。唯一の欠点は、兄貴にぞっこんだったことくらいだな。以前ソ連の科学アカデミーに在籍していたこともあったようだが、今はアメリカにいるそうだね」

 戸籍上の問題、と添島刑事は言っていた。戸籍では、父親の籍に自分が入っていないことは知っている。だが親戚の誰も、真が長一郎の次男である武史の子供であることを、敢えて隠しているわけではなかった。それでも、言葉で私がお前の父親だと言ってくれたのは、伯父の功だけだった。
「それは、父ではなく、叔父のことでしょう」
「彼が、学生のうちにドイツ人女性との間に子供ができて、大学を続けられなくなったのは知っている。当時は恋愛事件としてなかなか有名な話になっていたからね。子供を兄貴が引き取ったのも知っている。尤も、子供を引き取るためだけに結婚したという噂の兄貴は、当時インターンで忙しくてほとんど家にいなかった。その兄貴が結婚した女性が育児ノイローゼになって、すぐにその子供は北海道のお祖父さんに引き取られたと聞いた」
 真は呆然と澤田を見ていた。大体、こんな展開になっているのは何故だと思った。
「調べたのですか」
「何を言う、それが私の学生時代の一番有名な恋愛事件だったんだよ。当時、文学部の学生主催の同人誌で、その事件をベースに小説を書いて発表したやつがいてね、皆その事件の事はよく知っているわけだ。相手の女性が東ドイツのある有名な人物の孫で、その女性の母親は日本人かあるいはハーフだった。本当かどうかは知らないが、その小説では東ドイツのスパイ組織の幹部の孫と書かれている。彼女は母親の故郷を旅しているうちに日本人男性と恋に落ちて駆け落ちした。そして子供が生まれてすぐにドイツに連れ戻された。筋書きだけでも下手な芝居よりもずっと劇的な物語だったんだよ」

 真自身のよく知らない話を、澤田が彼自身の生きた時代と場所で知っていることに驚いた。
「そんな下手な小説を信じる人がいたのですか」
「あの時代は、実在のスパイが普通に小説やニュースに顔を出した。マタ・ハリしかり、有名な日本の男装の麗人もね。もちろん、顔が出てしまえば、スパイとしての役割は終わるか、変わるかしたのだろうがね」
 真はしばらく澤田の顔を見つめていたが、結局開きなおるしかないと思った。
「母のことは全く記憶にありませんし、会ったこともありません。叔父、いえ、あなたのおっしゃるとおり父だとしても、彼の色々の事情は僕には全く分からないし、今も彼に会うことはほとんどありません。電話はごくたまにかかってきますけど、子供を心配して、というような感じではありません。だから、それ以上の事を聞いても無駄ですよ」
 澤田は真の顔をまっすぐに見つめていた。

「君は、父上が恋しくないのかね」
 この男は、何が目的で情に訴えてくるのだろうと真は思った。
「恋しいと思うほど彼のことをよく知りません。あの人の生き方に干渉するつもりもありません」
「なるほど、それもそうだろう」
 澤田は納得してくれたように見えた。
「では、君の話をしよう。君は成り行きでこんな仕事をしているようだが、今の仕事が君に合っていると思っているかね。多分、君は自分が思っている以上の事ができる人間だ。私は君の才能を伸ばす術を知っているし、その方法も持っている」
「何の、話ですか」
「だから、勧誘していると言っているのだよ。君は頭がいい、しかも極めて上質の遺伝子を受け継いでいる。もしもこの話が気に入らなくても、研究に戻りたいなら、私が協力をしよう。田安の爺さんからもそう聞いてくれているだろう」
 深雪のことなど既に吹っ飛んでいた。何故この男は真の周辺事情をこんなにもよく知っているのだ。

「田安さんを、ご存知なのですか」
「あの人は、君、私の父親代わりだ。学生のときに学費を出してくれていた。私の父は終戦の三日前に亡くなっていてね、以後は彼が私の父親のようなものだ。彼が私に君を推薦したんだよ」
「推薦?」
「君のいくつかの特殊な能力を含めてね」
 この男は、田安のことを知っている。もしかして、あの地下の射撃場のことも、勿論それが違法であることも。
「一体……、僕があなたのために何ができると言うのです?」
「私のために? 君、それは誤解だ。私は君のためになると思っているのだ」
 何が何だか分からないものの、簡単に言うと、この男は真がかなり特殊なことのできる人間と勘違いしているようだと思った。確かに酔ってはいるのだが、それが判断を鈍らせているわけではなさそうだ。
「初対面のあなたが、何が僕のためになるかということをご存知だとは驚きです。残念ですが、あなたのお申し出を受けるわけにはいきません。それでも、一人二人路頭に迷うかもしれないので」
「私が言っているのは、それも含めてのことだよ」
 真は一つ、息をついた。

「あなたがヤクザや不良少年の味方をしてくれるのですか。あなたの政治生命に関わりますよ」
「私の政治生命など問題にはなっていない。君が最も安全な場所は私のところだと言っているのだよ」
「安全?」
 一体何の話だと思った。何故自分が澤田に安全を保障してもらわなければならないのだろう。真は次の言葉がでないまま、澤田を見つめていた。
「いや、性急に話をするつもりはなかったのに、申し訳ない」
 澤田は、強引な気配を急に引っ込めた。
 その瞬間、真は澤田が見せた懸命さを垣間見た気がした。一体、この男は何を言いたいのだろう。まるで何かに追われているように見え、そしてそれを初対面の若者の危機と考え、守ろうとするというのはどういうことだろう。
「田安の爺さんが言っていた。あの子は優しい人間だ、父親のようにはなれない、だがそうは思わない人間もいる、とね」
 不意に、真は田安自身が自分に言った言葉を思い出した。

 お前は優しい人間だ、そんなふうに殺気を漂わせていてはいけない。自分が許せないからか? 哀しいことは泣いてしまうのがいいのだよ。

 あれは、小松崎りぃさが自殺した後だった。竹流が同居しようと言ってくれて、気持ちは立ち直っているつもりだったが、ただひとつどうしても心の中に染み付いているものがあった。
 他人の死を願った自分だった。
 りぃさを愛したと思った。だが、同時に彼女がこの世から消えてくれることを願っていた。りぃさがこの世に適応できず可哀想だからではなかった。彼女が生きていれば、いつか真自身の中の何かが彼女に呼応してそのまま自分も死んでしまうのだろうと思っていた。それは離れがたいものから離される恐怖だった。
 自分の中に、他人の死を願う気持ちが、否定しても否定しても湧き上がってくる異様な感覚。その相手を愛しているはずなのに、想いが深くなればなるほど、わけの分からない恐怖が突き上げてきた。それは昔、育児ノイローゼで真の首を絞めた義理の母親への恐怖から、彼女の死を願っていたのと同じだった。

 その事は竹流には話せなかった。何故りぃさの死を願ったのか、その理由の根底を彼に話せるわけがなかった。自分の心の内に最も深く食い込んでいる杭を抜く方法がなく、最も信頼する人間にその話ができない。
 それを話すことは、真の心の中にある叶うはずのない、叶ったとしてもどこへ行きつくこともない唯一の願望を晒すことになった。

「深雪も、同じだ」
 真が酔いに任せて意識をどこかへ飛ばしてしまったところに、不意に澤田が言った一言は真を混乱させた。それは不思議な感じだった。澤田は深雪を愛しているのではないかと、そう思えたのだ。
 だが、澤田は一瞬でそれをどこかへ閉じ込めたように見えた。
 そして、真はそれに触れるのが怖くなった。
 人の心が抱いている、他人には理解不能な堪え難い重い感情がそこにあったように思った。それは恋愛ではないかもしれない。だが心に抱えているには重いものだった。

 真は澤田が差し出した酒を黙って受けた。澤田の手は震えることもなく、ただ猪口の小さな面に輪が揺らぐように重なる。
 その同心円は真の感情を、同じように静かなままで、湧き出る中心へ落とし込んでいくようだった。そして、その中心に見えていたのは、それだけが自分の存在の全てを支えている、その何かだった。
 二十歳になる前に崖から落ちた、あの時、一度はこの世からこぼれてしまった真の命をここへ引き戻したあの声と、目覚めたときに真を見つめていた哀しい深い青灰色の瞳。それだけが、今、真を生かしている。
 その自分自身の核が、急に澤田の中の何かに反応したように思った。
「無理に飲まなくても構わないよ」
 言いながら酒を奨める澤田の声は穏やかで深かった。真はむしろ、気分良くその何かに酔っている自分を感じた。
「それに、答えも、急いでいるわけではない。考えておいて欲しいのだ。そしてもし、他の誰かが君に同じようなことを言っても、それを受けないでいて欲しい。いや、君がそれを受けることは、君自身を危険にさらし、不幸へ導く可能性があるということを覚えていて欲しい」

 真は頭で少なくとも三度は澤田の言葉を反芻した。澤田は少しばかり難しい顔をして、それからひとつ息をついた。真はその澤田の様子を見つめていたが、澤田が真に対して抱いているのが、深雪を寝取った男に嫌がらせをしたいというような敵意ではないことだけは確かだと思えてきた。
 それから、黙って酒をゆっくりと飲んだ。
 真は意外にも自分は飲めるのかもしれないと過信し始めた。澤田がいかにもくつろいだ気配で昔話を繋いだ。

「お父上は、理学部の寺村教室という優秀な研究者集団の一人でね、文系の私でも名前を知っているくらいだったよ。とは言え、彼がそこで有名だったのは、上の人間だろうが偉い先生だろうが、お構いなしにその学説の是非について論争を挑むような暴れ駒だったからだ。勿論彼自身も学生でありながら研究室に出入り自由の身になっていたくらいだから、将来を嘱望されていたのだろう。彼が論争に参加すると、激昂してくると北海道弁が止まらなくてね、剣道部の同輩がよく話していたものだ。北の国でも、東北と違って北海道は標準語に近いと言うが、あれは嘘だな、とそいつがよく言っていたよ。まあ、その彼が色恋で大学を去るとは、誰も思っていなかったがね」
 真は自分の知らない父親の昔をぼんやりと聞いていた。家族の誰もが、真に話してくれない人のことだった。それを赤の他人が話している不思議に、少し胸を打たれている。
 真自身は父親の性質も、少なくとも昔の人柄は何も知らない。だが、今真が垣間見ているイメージとは違う父がそこにいたようだった。もしも今澤田が話していることが本当なら、父のその性質は祖父とよく似ている。だが、真とは随分と違っているようだった。
 東京で、北海道のイントネーションや方言の特異な語尾を他人の前で晒すことを怖がってしまった真とは、まるで違っている強さを持っていた人なのだろう。

「その同輩が、父上が大学を辞める前に、教室に来なくなったのを心配して様子を見に行ったことがあった。父上はずっと兄貴と一緒に下宿していたアパートを出てしまっていてね、その時はもう、君のお母さんと一緒に住んでいたそうだよ。優秀な科学者になるものだとばかり思っていたから本当に驚いたと、そいつが話していた。彼女と生活するために父上は働いていたようでね、大学どころではなくなっていたのだろう。子供が産まれる、と言って幸せそうだった、ともね」
 真は思わず杯を口に運んだ。
「君はお父上や母上をよく知らないと言う。だが、少なくともそいつの話では、二人とも君が生まれてくるのを本当に待ち望んでいるように見えた、とね」

 何かが心の中で光って砕けたような音がした。
「でも、僕には記憶はありません。自分を意識できる頃には北海道に住んでいたし、既に父も母もいませんでしたから。待ち望むだけでは子供に対して責任を取ることにはならないでしょう」
 澤田は真の反論に、暫く言葉なく真の顔を見つめていた。そして、大人らしい分別のある表情をした。
「それは君、彼らは若かったのだ。今の君よりも若い。生きることに、あるいは愛することに懸命だったのだろう。君は今それだけ少年事件に関わっていて、それでも君自身がご両親を許していないのかね」
「子供には選択の余地がないことです。でも、別に許していないとか、そういうのではありません。さっきも言いましたが、彼らに何らかの感情を持てるほど、彼らのことを知らない。知らないものに何かの感情を持つことは難しいことです」
 澤田は頷いた。
「もっともなことだ。だが、感情を持たないことは、あるいは知らないということが、恐ろしいことに繋がることもある」

 一瞬、澤田の目が何か特殊なものに向けて強い怒りを表したようにも見えた。しかし、真は目に映ったものと思考の内側に結んだ像とのギャップで、そろそろ一杯になっていた。
 やはり酔っているらしい。
 澤田は、突然随分と優しい表情をした……ように見えた。
「だが、父も母も知らないと言って拗ねている君が、こうしてまともに生きてまともに社会と折り合っているのは、恐らく君を導いてくれた人がいるからだろう。良い教師に巡り合うことは、偶然や運もあるのだろうが、本当に人生で必要なことだからね」
「残念ながら学校では出会えませんでしたが。僕は登校拒否児で、特に小学校と中学の前半はほとんど学校に行っていませんでしたし。でも、別に拗ねているわけではありません」
「そうとも、それはどこで出会えるか誰にもわからない。学校とは限らない。君は中退したとは言え、それなりに立派な大学に行っていたのだから、誰かが君を教育してくれたのだろう」

 真はこの男に手の内を見られていることに、どこかで抵抗できなくなっているのを感じていた。それが、自分が誰かに父親の影を捜しているからだとしたら、情けないような笑えるような話だ。
「それは今の同居人です。半端じゃないくらいスパルタでしたから」
 真は注意深く澤田の顔を見ていた。偶然のように転がり込んできた竹流の話題に、この男がどういう反応をするか確認したかった。
 大丈夫だ、自分は酔っているわけではないと思った。
「君に同居人がいることは知っているが、それは最近のことではなかったのかね」
 澤田は言葉を選ぼうとしたのか、幾らか逡巡したように見えた。少なくとも、澤田は『大和竹流』という男を知っている、そんな気がした。
「彼は僕の父の、いえ、つまり伯父の手伝いをしていました。僕が東京に出てきた小学生の時からの知り合いです。もっとも、彼と住むようになったのは二年半前のことですが」
「それは随分長い付き合いなのだね」
「彼はとにかく中途半端が嫌いで、徹底的でした。学校の勉強とは内容も質も違っていましたが、少なくとも学校に行けなかった分を埋め合わせて余りあるくらい勉強させられましたから。あなたの言うとおり、よい教師には巡り合っていたのかもしれません」

 だが、真が淡々と話す間に、澤田のほうも表情を押さえ込んだように見えた。一度、真からお猪口のほうへ視線を落とし、再び顔を上げたときには、ただ穏やかに見えた。
 竹流を知っているのか知らないのか、真は澤田の表情から何かを読み取ろうとしたが、特別に真の同居人に興味を抱いている気配がない。あるいはそういう振りを装っているのか、少なくとも真には判断ができなかった。
 澤田は竹流をあんな目に遭わせた誰かとは関わりがないのだろうか。週刊誌の記者という楢崎志穂の思わせ振りな言い方に踊らされているだけなのか。
 澤田がその後、場所を変えて飲まないかと言ってきたが、真はこれ以上飲む自信がなかった。それを言うと、澤田はそれもそうだと笑って真の腕を取って足元が不安定なのを支えてくれさえした。
 テレビの中で見る澤田顕一郎からは想像もできない一人の男がそこにいた。
 いつの間にかあの嵜山という澤田の秘書が傍に戻ってきて、澤田に言われて真を送ってくれた。説明もしないのに、車は竹流のマンションに横付けされた。
 真は多少危ない足元で車を降りてからそのことに気が付いた。
 なぜ、ここを知っているのか、なぜこのマンションの電話を知っていたのか、そう思ったときには、車はもう走り去っていた。






さて、第4章が始まりました。
少し長めになってすみません。適当なところで切るところがなかったのです。
いよいよ、第1節の『転』にあたる部分が出てきます。
そのまえに…次回18禁です。
実は、真面目にエッチなシーンを書いてみた、初試みです。
で、これ書いて、自分にそういうシーンを書く才能がないことが分かりました。
これって、やっぱり才能がいるんだわ、と。
明日、またお目にかかりましょう(^^)
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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コメント


NoTitle

お。催促の甲斐がありました。こんなに早く続きを読めるとは。

やっぱり、痴情の縺れの話で呼び出されたわけではありませんでしたね。
竹流の関わっていることと、アサクラタケシ関係がつながっているのかいないのか、よくわからないのですが、とにかく話についていけるように頑張りますです。

明日は、エッチなシーンですか。どんなだろう。どきどき。興味津々なんだけれど(中学生か!)、帰宅が遅くなる予定なので明後日になっちゃうかな……。続きを楽しみにしています。

八少女 夕 #9yMhI49k | URL | 2013/04/25 05:26 [edit]


夕さん、ありがとうございます

はい、さっそく、嬉しいご催促にお応えしようと載せてしまいました^^;
【清明の雪】と違って、あまりの長さに目が行き届かず、文章も粗いのですが、多少目をつぶっていただきながら、楽しんでいただけると幸いです。
あまりにも複雑怪奇なので、最後のほうでご納得いただけるかどうか、とても心配ですが…
あまり謎解きをしようとか、ついて行こうとか思われずに、ぼやんと楽しんで頂ければ幸いです^^;
何しろ、書いた本人がわけが分かっていないところがいっぱいでして……まるで、もののけ姫を発表した後、ずいぶん経ってからの宮崎駿氏のようです。
「自分でも何を書いたのか、まだ分かっていない(総括していない)」…宮崎氏が言うと薀蓄のある言葉だけど、私が言うと、単にちゃんとプロット立ててないからやろ、と言われそう^^;

エッチなシーン、本当に苦手で、読むのも書くのも嫌いと言うわけでもないのですが(って、何のカミングアウト?)、どうにも色気がなくて、官能的でもなくて、いわゆる濡れ場にはなりません。
なので、本当に片目瞑って読んでくださいませ。
そもそも、こんな詳しく書く必要があるのか、このシーン、とか思ったりもするのですが、この時、この二人(真と美和)のシーンになぜか嵌っていまして。
これを書いたから、この二人の将来が見えてきたという気がしています。結婚しなくても、心の恋人的な存在。
でも、やっぱり何だかはずかしいです。(…なんて言ったら、その先はもっとひどいやろ、と言われそうですが^^;)

大海彩洋 #XbDIe7/I | URL | 2013/04/25 21:44 [edit]


第4章~^^

第4章、遅ればせながら、読ませていただきます。
この、ふたりの男の静かでありながら、ものすごく重い感じのするやり取りがいいですね。
澤田という男、危険な感じがしたんですが、ここまで読んだ感じでは、本当に真のことを思っているような印象です。
真も、少し警戒心を解き始めているし。
真といっしょに、騙されているのかな?
いやもう、真といっしょなら、騙されてもいい・(*//∇//*)・:←まだ酔ってるのか。

会話文がとってもいいですね。小説でも、会話文のうまい作家さんの作品は、必ず引き込まれます。言葉一つ一つに、人となりがにじみ出てる。
澤田さん、穏やかな人のようです。

真の心の声の部分もしっかりとってありますが、やはり、真という人間の複雑な心の内を読者にわかってもらうには、これほどの文章量がいるのです。
私の文章が短いのは、内面まで深く書く事をサボっているからなんだなと、改めて思いました。
大海さんは、まったく手を抜かない。
そのおかげで、真にちゃんと一人の人間なんだという深みが生まれてくるんですよね。

そして、その真がこのあと、作者にどう料理されていくのかも、すごく気になります。いえ、別に次回の18禁のことではなく^^←やっぱりまだ酔ってるか。

lime #GCA3nAmE | URL | 2013/05/26 19:59 [edit]


limeさん、再びありがとうございます(^^)

あぁ、もうこんなところまで。
本当にありがとうございます(^^)
実は、この話のテーマ、というよりも題材のひとつが、親子関係。次から次へと色々な親子関係が出てきます。
後半にはもっと危ない親子も出てきますし、言ってみれば、真と武史、竹流とチェザーレの親子関係も、そのひとつなんですね。もちろん、血の繋がりのある親子とは限らなくて、澤田にとっては大事な子供にあたるのが実は……なんてのも。
でも、どうやら、真って年上の男の保護者意識を煽る性質があるようで、本当に困ります。
多分、今回真は必死なので(竹流を探して…)、その気配が色んな人に伝わるらしいです^^;

澤田がいい人なのか、実は悪い奴なのか、それともどっちでもありどっちでもないのか、後半を楽しみにしてくださいませ。多分、罪な男であることは確かなようで……
誰かさんと同じで。
この話、究極の悪人も多分出てこないし(いや、とんでもない奴はいるんですが、一分の魂みたいな)、すごい善人もいない、という話で、何だかすっきりしないまま終わるのですが、もう世の中そんなもんだよな的お話で、いいことにしていただこうと書いておりました。
いえ、多分limeさんの白昼夢と同じで、ちょっとあることに怒っていて、結構天罰ってありだよな、とか思いながら書いていたのです。しかもこの物語の世界には、強大な権力と実力を持つ男がおるので、良し悪しは別にして、怒っていただこうとしてしまった……
しかもゴッドファーザーを見た後だったので、筆が踊ってしまい…あとから読むと、自分でもかなり痛いのです。でも、まぁ、こんな感じなんだろうと。

> いやもう、真といっしょなら、騙されてもいい・(*//∇//*)・:←まだ酔ってるのか。
いやいや、本当に、真は結構バカですから、すぐ釣り込まれてしまうんですけれど、後ではた、とあれこれ思い悩むという。でも、真と一緒に、は多分正解です(^^)
だって、あまりにもややこしい話なので、誰かの視点を共有しないと、本当に道に迷いそうな話でして。
limeさんのお話のようにすっきりと前に進まないんです(;_:)
結果的に読者に最も嫌われるパターンなのですが…^^;

> 会話文がとってもいいですね。小説でも、会話文のうまい作家さんの作品は、必ず引き込まれます。言葉一つ一つに、人となりがにじみ出てる。
いえ、とんでもない! もうお恥ずかしいです。会話が長すぎですよね!
私の友人が会話を書くのが上手で、するする話を進めるんですよね。
私はついつい説明しちゃうので、それが大きな欠点。
いやもう、私こそ、limeさんの会話のテンポの良さに憧れます。すごいしゃれてるし、実際にありそうな会話で。
あんなふうに書きたいなぁ、といつも思うのに、こんなだらだら会話しか書けなくて……
でもここは、真が澤田の腹を探っているところだし、澤田は、多分自分の善人ぶりを真にアピールしているんだろうなぁ…
実はこの澤田さん、ここを書いている時点では作中で死ぬはずだったんですが、結果的に生き残りました。
いやはや、運の強い男です。

> 真の心の声の部分もしっかりとってありますが、やはり、真という人間の複雑な心の内を読者にわかってもらうには、これほどの文章量がいるのです。
> 私の文章が短いのは、内面まで深く書く事をサボっているからなんだなと、改めて思いました。
> 大海さんは、まったく手を抜かない。
いえ、何度も言いますが、limeさんの文章は、行間を読ませる文章だから、とても素敵なのです。
だからあれこれ説明する必要がありません。サボっているなどと、ちっともそんな風には思えませんよ!
私の場合は、説明しなければ分からないような内容だから、書かざるを得ないだけなのです。
というよりも、真が分かりにくすぎる人なのかも……このくらい書いて、やっと多少分かる程度の人?
それに、limeさんのようにちゃんとプロットを組んで、流れるように書けば、きっとこんなにもゴテゴテにならないはずなのに……
友人に、本当にあんたはガシガシ書くよね、と言われたことがあり、うむ、まさにガシガシ書いているかも、と思いました。いい意味だけならいいんですが、結構悪い部分もあり。
やっぱりブログであるからには、limeさんのようにとっつきやすい、しかも読みやすいことが最善だし、しかも簡潔なのに深いのがlimeさんの物語の特徴なので、本当に羨ましいばっかりです。
余韻があるし、考えさせられるし、すらすらと物語の中に入り込ませるし……
紙媒体も、そういうものの方が絶対いいですよね。
(もう夏目漱石『こころ』とか『それから』みたいに字がびっしりってのはダメっぽいなぁ)

でも文章はもう個性ですよね。変えようとしてもなかなか変えられません……

> そして、その真がこのあと、作者にどう料理されていくのかも、すごく気になります。いえ、別に次回の18禁のことではなく^^←やっぱりまだ酔ってるか。
わ~、もう、どうしましょう。真に料理されているのは作者のほうなんですよ。
この人本当に、勝手に悩んで、勝手に動いて、勝手に……(;_:)
なので、多分、途中から私の視点(立ち位置)が大きく竹流に動いたのも致し方ないのかも、と。

でもでも、18/禁はお楽しみに(^^)
というより、こんなほのぼの18/禁、別に高校生が読んでもいいじゃないかと思ったりしながら書いていたのです。中学生はさすがに、微妙ですが。
ここらを読み返していると、美和と真、どうしてくっつかなかったんだろうと何度も思うのです。
柴田さんのRIKOシリーズでも解説にそんなことが書いてありましたねぇ。
どうして緑子と龍太郎がくっつかなかったんだろうって。(そりゃ龍太郎は練のものだからだよ、と心の中で思っていたけれど。でも練は龍太郎のものではないのだ^m^)
でもって、そのあとに、真と竹流の究極のラブシーン(と私が書いていて勝手に萌えたシーン)も出てきます。
いやもう、何だかな~、中学生の電話か、って思っていただけたら最高なんですけど。

とにかくお楽しみいただけると本当に嬉しいです(^^)

大海彩洋 #nLQskDKw | URL | 2013/05/26 22:15 [edit]

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