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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨39] 第6章 水死体(1)/ 昔イラスト第2弾(1) 

さて、第6章『水死体』を始めたいと思います。
第5章までのあらすじは『limeさんのイラストと…』(→click)に載せております。
いよいよ病院から完全に姿を消した大和竹流。そして浮かび上がる3年半前の雑誌記者の自殺。
竹流が関わっていたのは何? 雑誌記者の自殺の裏には何が?
ミニコラム復活しました。教えていただいた記事の畳み方を実践(*^_^*)
そして発掘された昔のイラスト(というより記事の1ページ)を公開しております(^^)
→続きを読む、からどうぞお入りください




 マンションに戻ると、美和の靴が玄関にだらしなく脱ぎ捨ててあった。真は、薄暗い照明の中に浮かび上がるヒールの低い靴をしばらくぼんやり見つめていたが、きちんと揃えようと屈んだ。そのとき、まだ自分の身体に深雪の残り香が纏わりついていることに気が付いた。麝香の香りに似ている、それは深雪の身体の匂いのようだった。それを感じた真の身体の芯は、まだ火照っている。
 今日の自分はどうかしている、と真は思った。深雪と寝るという行為が、極めて動物的で肉体的な欲望であると同時に、生命が太古の昔から宿している生殖という聖なる儀式であるということを、この身体が認めていることを感じていたのだ。

 ただ不思議だった。深雪と寝るとき、真は明らかに自分が生物学的に雄であることを強く感じている。雌を追い込み、その性器の中に己の雄を突っ込み、生殖行為をするという当たり前の生物としての営みをしていると感じている。だからこそ、そこに愛おしさや優しさが入り込む隙間がなく、ただ寝たい、やりたいと思っているのだ。それは高校生のとき美沙子としていたセックスとはどこか違っていた。あの頃も、ただやりたいという気持ちがあったのだとしても、生殖行為という感覚はなかった。ただ思春期の男の身体の欲望に過ぎなかったと思う。そう思うと、今まで自分は何か勘違いをしていたような気持ちになった。

 何故、深雪と寝るときにだけ、こういう感覚があるのだろう。他の女と寝ても、一度も雄としての本能を強く感じたことはない。自分の遺伝子を残そうとする雄の強烈な本能は、端から自分には縁の無いもののように思っていた。性行為に対して、子孫を残すという意味づけ自体を感じていなかったし、自分の遺伝子にはどこか認めてはいけない穢らわしいものがあると思っていた。だから、これまで曲がりなりにも付き合ってきた女性に、本能からこの遺伝子を残すために子どもを宿して欲しいと願ったことがない。
 深雪には子どもができないことは聞いていた。その理由までも確認したことはないし、その言葉を信じる根拠もなかったが、深雪がそれについて嘘を言う必要などないと単純に信じていた。子孫を残せない女に対してだけ、真自身の身体も心も特殊な反応をしている。

 真は美和の靴を揃えてから部屋に上がり、リビングに入った。
 リビングのソファで、美和が上着も脱がずに丸まって眠っていた。
 初めて美和を抱いたとき、子どもができたら責任を取ると言った。だが、自分の心は、そんなことはないと知っていたのではないか。今日、深雪を抱いてきて、ここに立っている自分自身は、もう以前の自分ではないような妙な感覚があった。

 だが、こうしてこの部屋の中で真の帰りを待っている美和に対して、愛しいという思いを抱いていることは、決して嘘ではなかった。それはもしかすると、女としてではなく、家族のような、あるいはお伽噺の幼い恋人のような、そういう優しい愛情なのかもしれない。こういう種類の愛情に身を委ねるのは、ある意味では心地よいことなのかもしれない。自分が人間として正しい、理性的な優しい人間であるような錯覚を感じさせてくれる。
 美和はどのくらいこうしていたのだろう。そう思うと、今更だが胸が痛んだ。

「美和ちゃん」
 美和は呼び声に少しだけ反応したが、相当飲んだのか、起きる気配がなかった。
だが真が抱き上げると、彼女は目をこすった。
「先生?」
「うん」
「……もう帰ってこないかと思った」
 寝ぼけているような口調だった。

 帰ってきたとは言え、することはしてきているのだから美和に言い訳する言葉もなかった。寝室に運びベッドに寝かせると、美和は目が廻る、と言った。布団を掛けてやると、美和はもう話しかけてこなかった。
 その寝顔を暫く見つめ、額に口付けると、真はリビングに戻ってまだ美和の温もりが残るソファに座った。
 上着の内ポケットから煙草とライターを取り出し、火をつけて、上着を脱ぐこともなくそれをゆっくりと吸った。相変わらず味のない煙草だった。
 一人になると、本当は女のことなどではなく、全く別のことを考えている。その自分の中にある不可解な『何か』が、自身の底のほうから湧き出してきそうになると、慌ててそれを意識から遠ざけた。気が付くと、手のひらに爪の瘢が残るほどきつく自分の手を握りしめていた。

 身体には深雪の匂いが残っていた。不快にも思わず、何も感じず、ただそういうものだという気分だけが移り香と一緒にまとわりついていた。さっき感じた不可思議な印象を、真は考えたくないと思った。深雪との行為にあんなにも身体は悦んでいたのに、何かもっと大事なものを感じるための器官は完全に麻痺していて、全く機能している気配がなかった。
 そういう意味では美和を抱いていたときも同じだったのかもしれないと思ったとき、理性はそれを完全に否定した。美和は違うと、その理性らしいものは真自身を説得しているようだった。

 煙草が一本終わると、真は手の仕事を探すようにテーブルの上の資料を広げた。
 美和が調べてきた澤田顕一郎の略歴だった。

 澤田顕一郎。
 頭の中でその人物を思い描くのに、たっぷり十秒は時間が掛かっていた。
 澤田の出身地は大分県の国東半島で、実家は廃寺になっていた。父や伯父と同じように地方から出て、地元の期待と後押しと誇りを背中に負って東京大学で学び、東京の出版社に勤めてから直ぐに九州日報に勤めを変わっていた。
 長崎の原爆被害については随分いい仕事をしたようで、某かの賞を貰っていた。
 地元大分から衆院初当選が昭和三十年とあるから、僅かに二十代後半である。その後当選六回。三十を過ぎてから東京で結婚、相手は後に首相になったSの親戚にあたるらしい。澤田の初当選の翌年が総裁公選であり、八個師団誕生の年になる。その年から四代目でSが首相になり、澤田はSの元でそれなりに羽振りのいい時期を過ごしていたようだった。時の大蔵大臣は後に首相となるTで、澤田自身は政策に対する意見ではTとはかなりぶつかることが多かったようだが、対立するというほどではなかったように見える。その後S内閣は退陣を迎え、昭和四十七年にT内閣が誕生した。澤田はこのS派を席巻したT派にはやはり加わらなかったようで、とは言えアンチT派にも加わらず、ここから数年の二派閥対立時代には中央ではすっかりなりを潜めている。

 澤田はこの頃、地元や地方を中心に、文化芸術方面の組織の結成、コンサートホールや美術館の整備に力を注いでいたようで、近隣諸国との友好にも一枚噛んで、民間レベルの文化交流に協力をしており、その中で天皇陛下にも拝謁している。その際に、『地方の外交』と賞賛され、一部からは悪態をつかれつつ、主に中国やソ連、東欧の国々との文化交流を助けている。
 T内閣から二代目に、Tとは対立関係にあったFが首相になったのが昭和五十一年。
 新津圭一が首を吊った年である。
 相変わらず澤田の位置ははっきりしていない。しかし、地元大分県では災害対策や観光事業のために尽力し、かなりの人気であったようで、彼の代議士生命は底辺で脈々と繋がっていた。昭和五十年、新幹線が博多に到着するが、この時岡山から博多までの土地確保のために何年も前から協力していたらしい。
 美和が澤田と握手したというのは、この頃のことなのだろう。

 昭和五十一年一月二十日、新津圭一の自殺。同年二月四日、ロッキード社不法献金発覚。
 そして同年十二月にF内閣が発足すると、澤田はここでようやく中央の政治にも名前を出されるようになっている。新幹線のために使った手腕で成田問題を鎮めろとでも言われたのか、ご意見番の一人となって、それから二年以上、澤田顕一郎はF内閣の一員として、着実な歩みを続けているように見える。
 真はその紙の束をパサリとテーブルの上に置いた。
 新津圭一と澤田顕一郎のつながりは見えてこない。全ての出来事は澤田顕一郎だけを遠巻きにして起こっているように見えた。


 ソファでほとんど眠れないまま朝を迎えた。意識があるのかないのか自分でも分からない状態で、朝、電話の呼び出しでたたき起こされた。
「もしもし」
 電話に出ることは出たが、次の言葉が出てこないまま黙っていると、向こうからははっきりとした声が聞こえてきた。
「お早う。まだ寝ぼけてるの?」
 添島刑事だった。
「出頭命令ですか」
 頭が廻っていなくて、浮かんだ言葉をそのまま言うと、向こうで彼女は呆れたようだった。声が尖っている。
「まぁ、そんなところね。ここは横浜海上保安庁。あと半時間で来れる?」
「横浜? 無理ですよ。一体何ですか?」
「あなたに会って欲しい人がいるのよ。もっとも、既に『人』の域かどうかは不明だけど」
 真は受話器を握りなおした。

「つまり、あなたが言っているのは、水死体という事ですか」
「ご名答。早く来てもらわないと解剖ができないのよ」
 真はまだ暫く声も出せずに受話器を握りしめていた。頭の中を色々な種類のあてもない疑問や曖昧な答えが浮かんでは過ぎっていた。まさか、ということがあるのか、と自分の中で自分に問いかけている。いや、この女が冷静にしゃべっているのだから、それはないだろうと自分で答えを出している。
「まさか、とか思ってるんじゃないでしょうね。いくら何でもそれは私も困るわ」
 一瞬だけ真の頭を過ぎった最悪のシナリオは、添島刑事にさっさと否定された。
「パトカー回すから、急いで支度なさい」
 それだけ言うと電話は切れた。

 その時隣の寝室から美和が出てきて、明るい声で、寝過ごしちゃった、と言った。
「何の電話?」
「添島刑事だ。ちょっと出掛けてくる」
 いつ帰ってきたのとか、昨日はどうだったのとか聞かれる前に逃げるほうが賢明にも思えたし、タイミングは実によかった。真は洗面所に行って髭を剃って顔を洗った。気が付くと昨日の深雪の移り香がまとわりついたままだった。とりあえずシャツだけ着替えたところで、もうインターホンの呼び出しがあった。
 まるで犯人として連行されているようだと思いながら、サイレンを鳴らしたパトカーに乗せられて横浜に向かった。何故自分が呼ばれるのだろうと思ったが、やって来た警察官も何のために連れて行くのか分かっていないようで役に立たなかった。


          * * *

 その朝、いつものように早朝のジョギングをしていた伊藤健二は、去年四十年以上勤めた会社を定年退職し横浜の潮の匂いのする古い家に妻と二人移り住んだのだが、たまたま気が向いてその日に限って海のほうを覗き込んだという。沖のほうで工事のクレーンやタンカーが見えている中に、何かチラッと気になるものが視界の隅に見えたからかもしれない。
 コンクリートの低い堤防の向こうで、明け方の鉛色の海水は静まり返っていた。
 その物体は陸のほうに近づくのでもなく、沖へ逃げるのでもなく、居場所を決めかねたように静かに浮かんでいた。初めはそれが何か、はっきりとは分からなかった。しかしそのすぐ後、伊藤は腰が抜けるほど驚いて、近くの電話ボックスに飛び込んだ。

 横浜海上保安庁の辻利泰は、海上保安官としては三十年目のベテランだった。その日はようやく目が覚めるか覚めないかの早朝に呼び出しを受けた。水死体と聞けば一分一秒も惜しいように飛び出していく夫の後姿を見送って妻も三十年目を迎えていた。
 巡視艇は半時間後には現場に到着した。
 伊藤健二が発見したときよりも死体はかなり沖合いのほうに移動していたが、発見は困難ではなかった。巡視艇はゆっくりと船首を死体のほうへ近づけ、数メートルのところに来ると停泊した。船のデッキから死体揚収ネットが下ろされる。

 水死体は薄いベージュの作業服のようなものを着てうつ伏せに浮いていた。髪には海のごみやらヘドロがまとわりついていて、はっきりしないが見掛けよりもがっしりした男のようだった。
 死体から二メートルの距離を置いて揚収作業が続けられた。ネットは海面下に沈められる。幸い潮流は緩やかで死体は流れていくことはなく、死体の直下にネットが入り込むと上手く縦一メートル、横二メートルの長方形のネットに向きを合わせて四角のロープを引っ張る。
 ネットは太いパイプの枠組みの底になっていて、死体はうまくそこに乗った。

 辻と一緒に巡視艇に乗っていた若い保安官は無言のまま手術用の手袋をつけて、デッキの上に乗った死体を仰向けにした。腹は例の如く割れて、血液はもう海へ流れでてしまっていた。普通の人間なら倒れてしまうような情景も、辻にとってはいつもの仕事の風景だった。
 すばやく船は基地に向かって走り始めていた。多少の揺れはものともせず観察を行う。別の若い保安官が記録を始めている。若い保安官は二人とも辻と共に巡視船に乗って、この手の死体に慣らされていた。この光景を一般人が見ても、とても水死体を検分している空気を感じることはできないだろう。それほどに、辻たちには日常の業務だった。最も、だからといって楽しい仕事とは言えない。

「身長は百七十二センチ、着衣の乱れはありませんね」
 水死体の衣服は薄いベージュの上下で建設現場の作業衣に似ている。背は高くはないが体つきはがっしりしていたと思われる。しかし、そういう生前の面影を素人の目で想像するのはかなり困難な状態だった。それでもこれらの死体を見慣れた専門家は、死後に修飾されたものを彼らの頭の中で取り去って、生前のイメージを作り始めている。
「六十は出てますよね」
 服の内に何か身分を示すものを身に付けていないか見ても、それらしいものはなかった。辻は、少なくとも自殺をするようなタイプの男ではないと思っていた。

「あれぇ」
 記録している若い保安官が声を上げた。
「この男知ってますよ」
「本当か」
「えぇ、芝浦でジャズバーを経営している老人ですよ。何年か前、芝浦の近くで身元不明の水死体が上がった時、この男が通報してきたんですよ。俺、初めての揚収だったんでびびってたんですが、この男、死体なんて見慣れてるって顔で、俺に頑張れやって声を掛けてくれたんですよ。その後何度かこの人の店に行きましたからね。今年、ハマに移ってからは久しく会ってなかったんですが、えっと、何て名前だったかなぁ」
 辻は死体を見つめていた。
「死体を見慣れている?」
「えぇ、何か戦争の地獄を山のように見てきたからだって言ってましたよ」

 こうした事情で身元は直ぐに割れた。警察に連絡すると一時間後には本庁から刑事がやって来た。異例のことだった。
「本庁臨時特捜部から来られた添島麻子警部補です」
 横浜警察署の馴染みの若い刑事が、緊張気味に本庁からのお客を辻に引き合わせた。
「特捜? なんだ、一体?」
 しかも女か、と思った。
 その上美人ときている。どうせ警察学校を優秀な成績で卒業して若い頃からトップを約束されていた経験の浅い青二才だろうと思うと、辻は幾分か敵意を露にしていた。

「この男はブラックリストに名を連ねていますので」
 澄んだ明瞭な響きの声が、その美人の口からこぼれた。
「ブラックリスト?」
 その辻の質問を無視して添島刑事は死体安置室に入り、お世辞にも美しいとは言えない水死体を見ても顔色一つ変えなかった。しかも、その遺体の腹は割れて、内臓には半分喰いちぎられた痕がある。女ならもう少し可愛げのあるところを見せてくれ、と思う。
「検屍の結果が出るまで、何とも言えませんがね」
「でも、あなたの勘では殺し、ですね」
「私の勘など」
 辻が言いかけると、添島刑事は振り返り、親子ほども年の離れた男を真っ直ぐ見上げた。
「あなたの勘はほぼ間違いないと、父から聞かされていました」
「お父上?」

 辻が、こんな立派な娘を持つ父親の知り合いなどいないと思いを巡らせている間に、添島刑事は水死体を確認するべく手袋をはめていた。その横顔には明らかな面影はなかったが、添島という名前を思い返して、あぁと思った。
「するとあなたは、あの捜査一課の添島刑事の」
「娘です」
 添島刑事とはそれほど親しい間柄ではなかったが、デスクにつかず歩き回るのが性に合っていると言って、刑事一筋で三十年以上勤め、今時珍しい人情刑事だと噂されていたが、その情が仇となって一昨年殉職した。エリートコースとは程遠い叩き上げの男で、若い頃から随分苦労したと聞いていた。女ばかり三人の子供で苦労させなくて済むと思っていたら、長女が刑事になってしまって、某かの試験に通って国際警察機構に勤めていると笑っていた、その顔が思い出された。数回、水死体が縁で一緒に仕事をしただけだが、印象のいい男で、何度か飲んだ。
 あれは私と違って頭もいい、母親の血でしょうな、と恥ずかしげに自慢していた、これがその娘なのか。その母親は一番末の娘が小学校に上がる前に癌で亡くなったと聞いている。

「確か外国にいらっしゃったのでは」
「父が亡くなって、妹たちの面倒を見なければならなくなりましたので。まだ成人していない妹もおりますし」
 添島刑事は裸になった遺体を検屍の邪魔にならないように見ている。
「死後数日、ですか」
「そうですね。解剖を始めてもいいでしょうか」
「あと一時間ばかり、待って頂けますか」
 この死体を見ても顔色も変えないというのは、優秀ということとは関係はなさそうだった。
「身内の方がいらっしゃるのですか」
「えぇ、まぁ、そのようなものでしょうか」
 添島刑事は承諾を得て、電話を二箇所に掛けていた。

 亡くなった男の名前は田安隆三、年齢は不詳だが七十前後のようだという。身体つきは筋骨逞しく、とてもそのような年齢には思えない。身体には、古傷は別にして、生前のものらしい傷はなく、口の中に泡沫が見られ溺死はほぼ間違いがない。つまり少なくとも水中に没した時点で、意識は別にして生きていたということだ。硬直はまだ緩解しておらず、腐敗の程度も酷くはない。しかし水死体には独特の臭いがあり、こんなふうに腹を割かれた酷さには目を覆うものがある。
「この傷は、船のスクリューか何かに巻き込まれたものでしょうか」
「おっしゃる通りですね」
 添島刑事は落ち着き払っている。辻ほどのベテランならともかく、いくら刑事と言っても、水死体を見て若い女がここまで落ち着いていられるのは不思議だった。
「慣れてますね」
「一年以上、マルセイユにいましたの。水死体はもっと酷いものを随分見ましたわ。あなたが見たほどではないかもしれませんけど」
 そうなのか、と納得した。

「この男はどういう男なのですか」
「長い間傭兵をしていたと聞いています。中南米、中東のいくつもの国を渡り歩いて、いつからか芝浦でジャズバーをしている男です。実は昨日この男の店で爆発事故があって、行方を捜していたのです」
「何か犯罪を?」
「さぁ、どうでしょうか」
 添島刑事の説明では、爆発事故は午後四時ごろで、周辺の倉庫を二棟巻き込んだが、負傷者はいなかった。周辺への聞き込みでは、ここ数日店を開けていないようだったという。事故の原因は明らかに仕掛けられた爆弾によるものだということが分かっている。
『身内の者』を待つ間、辻保安官と添島刑事はコーヒーを飲みながら、亡くなった父親の添島刑事の話をして次第に打ち解けた。こ憎たらしい程落ち着いていた彼女がコーヒーを口にしてほっと息をつくのを見たとき、辻保安官は妙に安心した。

 十時過ぎにパトカーのサイレンが保安庁の前で止まって、暫くすると刑事が若い男を連れてきた。
 息子、というわけではなさそうだ、と辻は思った。
「横浜海上保安庁の名探偵、辻利泰保安官よ」
 若い男は緊張した面持ちで頷いた。
「こちらは新宿の名探偵さん。失踪人調査では、かの名瀬弁護士のお気に入りの捜査官ですの。特に未成年の事件では大変な活躍ですわ」
 添島刑事の言葉に若い男が何か言いたげに彼女を見た。辻保安官は、若いくせに妙に苦労癖のついたタイプだと思った。ハーフかクォーターか、異国の血が混じっているのか、瞳に碧の色が混じって髪の色も幾分か明るい。
「名瀬弁護士はご存知でいらっしゃいますか?」
「勇名は聞こえていますね」

 若い男は添島刑事につつかれて頭を下げた。
「相川真です」
「辻利泰です。よろしく」
 相川と名乗った男は添島刑事の方に何か言いかけたが、彼女はそれを遮った。
「会って頂いてもよろしいですね」
 辻が頷いたので、添島刑事は自らその若い男を死体安置室に連れて行った。辻はその後ろからついていった。随分印象的な男だと思ったが、生きているときに田安と名乗っていた水死体との関係は窺いようもなかった。

「シャワーを浴びる間もなく来たでしょ」
 よく通る声で添島刑事が言ったので、辻保安官の耳にも聞こえた。
「え? ……あぁ、そう、その、パトカーがあっという間にやって来たし」
 確かに若者の身体からほんのりと甘い香りがしていた。女の香水の匂いなのだろう。女にはそれなりにモテそうなタイプにはみえた。近頃の女は、こういう中性的なムードを好むらしい。いや、中性的というよりも、性別や種の枠を越えて、まるで別の生き物のようにも思える。性別は確かに雄だ。顔つきも整っていはいるが、女顔などでは決してない。何より、不思議な目の色だった。見つめていると、男だろうが女だろうが強烈に引き込まれてしまうような何かを、雄としての魔力のようなものを持っているように思える。

 安置室のドアを開けるときに、添島刑事は相川真に確かめていた。
「水死体は、大丈夫?」
 辻保安官は遺体確認の現場で気を失った遺族をしばしば見てきた。腐乱した夫の遺体に取りすがって泣いた妻も見た。父の死体に気を失った三十代の逞しげな息子もいた。総じて女は泣きわめく率が高く、男は倒れてしまう率が高いように思う。
「田安さん……、なのか」
「聞いたの?」
「パトカーの中で、芝浦の爆発事故の事を」
「その通りよ」
 すでに腐敗臭は漂ってきていた。相川真は気丈な横顔をしていたが、添島刑事がドアを開けると顔をしかめた。
 手袋をはめた捜査官がシートを取り去ると、こちらに足を向けた男の裸体が必要以上に膨れ上がって見えた。若い捜査官は顔だけを見せるはずだったが、この仕事を始めて一年目の若者で、水死体と二人きりで残されて舞い上がっていたようだった。

 辻はいつの間にか相川真の後ろに立っていた。もしかして倒れたら、と思っていた。
「どう思う?」
 淡々と添島刑事は聞いた。
「殺されたんですね」
 意外にも若者の声はしっかりしていた。
「腹の傷は死後のものね。でも酔っ払って海に落ちたとは考えにくいわね」
「誰が?」
「あなたに心当たりは?」
「俺? 何故?」
「昨日、彼の店に行ったわね」
 この女刑事は、水死体の視覚的衝撃を利用して、関係者の口を開かせようとしているかのようだった。
「昼間のことですか?」
「そう、何の用だったの?」
 相川真は添島刑事の方を見た。
「あなたこそ、何故田安さんの死体に付き合っているんです?」
「上からの命令よ」
「上?」
 添島刑事は相川真の腕を摑み、辻のほうを振り返った。
「解剖を始めて頂けますか」
 辻は頷いた。辻もこの若い男を別室で休ませた方がいいと思った。添島刑事に遺族のための控え室の場所を教えると、彼女は、それより御手洗を教えてもらったほうがいいかもしれません、と言った。





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ミニコラムのコーナー復活しました。しかも、お蔭さまで記事を畳めるようになって、ちょっと自慢げな私(^^)

さて、津軽出発前に恥を忍んで?公開した噂の?昔イラスト(→旅立ちの朝と昔のノート)。
もう少し、じっくりお見せしてもいいのか?という恥晒しコーナーとなりつつあります。
夕さん(scribo ergo sum)は『黒歴史』とおっしゃっておられましたが…(→黒歴史の話)
こうなったら、夕さんと一緒に『黒歴史』公開流行をもくろむことにしようかしら、と。
しかし、黒歴史(何だかこの言葉、気に入りました、夕さん)を無茶苦茶持っている私って…
これは亀の甲より年の功?? 功じゃないけど。

これが竹流だ(ジョルジョ)とか、あんまりこだわっているわけではありませんので、あまりこの拙いイラストにイメージを固定しないでくださいね^^;
皆様のご自由に、『かなりな男前』を想像していただければと思います^^;^^;
えぇ、もちろん、お話ですから、男前でいいのです。
気が向いたら、描いていただいても…(って、また人に甘える…いえ、limeさんに光線を送っているわけでは…決して…)

えーっと、昔イラストってことは、まぁ、若気の至りってやつでして。
で、このページの出所は、大昔?例の我らが仲間内のコピー誌で連載していた【Eroica】(もちろん、ベートーヴェンのかの曲です)、真の息子・慎一を引き取って育てているジョルジョ(=竹流)、この義理の親子の葛藤がまた大変でして…というお話。それが300ページを超えた(ノートにびっしり文字が詰まった300ページですから、かなりです。それでもまだ多分物語の3分の1程度)記念のコラム。
いやぁ、この頃の情熱があれば、本当にすごいことになってますね、今の私。
(もうない、その情熱^^; 日々の現実に吸い取られて…)

これがいつか日の目を見るのかどうか…何分、すべてノートに鉛筆…の時代ですから。
eroica600
黒歴史ですから、字も何とか判読できる大きさで出してみました。
でも、恥ずかしいので、読む気のある方だけ、どうぞ^^;
次回は2ページ目です(全4ページ)…ただし、Eroicaの登場人物なので、あまり面白くないかも…
ジョルジョの嫁、とか出てきますし。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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コメント


新しいテンプレで♪

すみません><やっと、水死体です(って日本語もおかしいけど)
気になりつつ、さあ、読もう!とお邪魔するたびに、面白そうな雑記や、あの番外にふらふらっと・・・。でも、再開です!^^

別の人の視点から、真を観察できるのって、楽しいですね。ちょっとワクワクします。真の輪郭が、更にはっきりとしてきて。
この水死体と、竹流の事件と、どんなふうに絡むのか、じっくり読ませてもらいますね。
そして、たたみ記事に、竹流が^^
そうか、結構ふわふわくるくるなのですね。
色っぽい・・・♪ いいですねえ~^^ 
ガッツリ画力があったら、竹流も描いてみたいなあ・・・。少年しかかけないんじゃないかって、最近悩み中なんですが。大人な男。絵でも小説でも、書けるようになりたいです。(書けば書くほど、登場人物が低年齢化していくのを、どうすればいいのでしょう・・・)

lime #GCA3nAmE | URL | 2013/06/20 19:34 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

わーいい! limeさんありがとうございます。
テンプレ的には読みにくくなかったでしょうか?
そして、水死体にたどり着いていただいて、ありがとうございます。
久しぶりに読み返してみたら、ひどい文章ですね。すみません、長いだけに目が行き届いていないんですね。
またよくよく校正しなければ…
何回見ても、気になるところがあるのですよね……

limeさんのお話は、視点がいい感じで複数じゃないですか。
ミステリーって、基本的にはドキドキ感を出すためには複数のほうがいいんですよね…神様視点というのか。
早く助けて~~、あぁ、間に合わない~~、みたいな。
私はあまり動かさないで書こうとしているのですが、それだとドキドキ感は減るんですよね…
でも、これは長ーい話なので、一応複数になっているのですが、真、美和、たまに竹流、ってのが基本なので、あまり大きくは動かないのです。
でも、ちょっと飽きてくると、たまにこういう遊びをしてみたくなりまして。
王道あるいは教科書的書き方からは外れちゃいますけれど、ちょっと水死体を揚収するシーンなども書いてみたくて…^^;

他から見た真も……多分、この人、いっぱしの男を気取っているけれど、結構男の反感買う色気はあるかもなぁ、とか思ったり。ちょっと意地悪な視点ですけれど。
だって、この話、みんな真の味方になってくれないんですよね。

さて、色々なことが、どう絡んでいくのか……もう、物事は本当に、最後まで誰が何に絡んだのか、絡まって絡まってわけが分からない感じになっています。
最後には一応、全部に説明がついているはずなのですが…^^;
イメージは、ピタゴラスイッチの複雑な奴がボストンの博物館にあるのですが(神戸のハーバーランドにもある)、まさにあれ。何かの事件が何かを引き起こし、それがまた何かを引き起こし、そしてまた別の方向へも繋がっていき…という感じです。
楽しめる話ではないのですが、それでも楽しんでいただけると嬉しいです(^^)

竹流の髪の毛…猫毛らしいですから、こんな感じなのでしょうか。
はい、ぜひ、いつか描いてやってくださいませ。
何なら、年いってからではなく、神学校時代の竹流もといジョルジョなら、若いかも!
または、16の頃、ローマを出て、船乗りしてた頃とか……
いや、実は、この船乗っている間、結構危険な対象になっていなかったか心配してたんですが^^;
多分、最初に結構ぎゃふんと言わせていたんだろうな。この人、賭け事には強いので、そういうあたりで…と、やっぱりヴォルテラの跡継ぎのオーラとで、言い寄る???餓えた船乗りたちをかわしていたはず!!!
…ってな時代もあったので、竹流はともかく、ジョルジョなら少年……(^^)

でも、いつかlimeさんの大人の男も見てみたいなぁ。
絵もともかく、出てくる『保護者側』の人たちも、年は取っていても、少年っぽいですよね。
いえ、これは悪い意味じゃなくて。
それがlime節というのか。
永遠のいたずら小僧たちって感じなんですよね…
それはそれでlime worldなんですよね……
低年齢化していくのも、決して悪くないかも。男の人って、基本はいつまでも夢見る冒険家野郎ですから(^^)

あ、やっぱり、小説にコメントいただくのが一番うれしいです。
お蔭でお返事が長くなっちゃった。
本当にありがとうございます(^^)
私もまた、RIKUの感想書きに行こうっと。
あぁ、でも、講演の準備をしなくっちゃ……

大海彩洋 #nLQskDKw | URL | 2013/06/21 00:49 [edit]

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